5 :
これまでのまとめ 1 :
2008/10/18(土) 17:48:29
6 :
これまでのまとめ 2 :2008/10/18(土) 17:49:39
1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺) 「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」 「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」 昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たがここに墓参していない 2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言 「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない 匡利(道蔵)の墓だけがあります …30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」 3 ご成婚前の小和田家の墓参り 両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり「小和田家の墓」ではない (昭和55年(1980)に小和田毅夫(恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果異様なツギハギの墓) 墓の場所は撮影前前日墓地の中央に移動させた(それまでは墓地の端っこにひっそりと置かれていた) 4 金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫の幼い頃別居し金吉死亡後、竹野再婚説としてない説があるが、してないならば竹野のお墓は所在不明 よって毅夫は両親の墓参りをしたことがあるのかないのか不明 金吉と竹野の間には毅夫と妹ミヨシがいる(結婚後は星野姓、子供は二人) 5 専門家の意見 「 一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」 金吉が匡利の子なら匡利12〜13歳の時に生まれた三男となり有り得ない 一言でいえば「この小和田家ではない」と言っている 6 新潟県村上市小和田本家の証言 TVでのインタビューにて老当主が「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」と答えた
7 :
これまでのまとめ 3 :2008/10/18(土) 17:50:15
以上の事実から表面化した謎 a 「金吉の墓」または「小和田家の墓」の所在地が不明なのはなぜ?(再婚してない場合毅夫母の竹野の墓の所在も不明) b 毅夫は西真寺から泉性寺に父金吉の墓を移すと寺に言いながら泉性寺にお墓を作っていないのはなぜ? c 泉性寺の小和田家の墓が「金吉の墓」又は「小和田家の墓」ではなく「匡利(道蔵)の墓」なのはなぜ? d 仮に金吉が小和田兵五郎の三男なら西真寺に兵五郎の墓を残したままで恒、毅夫が当地に来ても墓参りしないのはなぜ? e 毅夫氏自身はどの小和田のお墓に入ったのだろうか? f 村上市にある西真寺は浄土真宗本願寺派、新潟市にある泉性寺は浄土真宗大谷派 普通先祖の墓を映す時は同じ宗派にするはずなのになぜ違う宗派に? g 墓参撮影直前に墓の場所を中央に急遽移動したのはなぜ? 本来の場所(端っこ)では都合が悪い事情があった? < 2ちゃんの書き込みより > ・江戸時代、犯罪者予備軍の無宿者は新潟の佐渡ヶ島の金山に送り人足として使役 明治維新で解放されたこの人らの戸籍や墓は?(ご先祖流れ者説) ・戸籍を誰かから入手した?戸籍売買?(ご先祖は日本人ではない説) ・金吉は認知されていない子だった?(私生児説)→母方から先祖はたどれるはず ・宮内庁が先祖調査をしようとしたらカイドウから抗議されたという噂(同和説) ・同じ姓の墓をどっかから入手した?(捨て墓置き場から…説)(墓が個人名でツギハギな点と欠けている点がポイント) ・先祖の墓参りをしない家なら先祖を敬うしつけや教育を受けていないので祭祀を無意味としか思えないのでは(先祖崇拝無意味説) ・雅子妃は祭祀がただ単にメンドクサイだけ説(数日前からの酒断ち肉断ちが耐えられない) ・雅子妃が祭祀を拒否しているというより皇祖霊の方が雅子妃を拒否しているのでは?理由は…(皇祖霊憤怒説)