3 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 14:32:37
前スレが見当たらないので、こっちに移ってきました。
一つ疑問があるのですが。
蕎麦を「盛り」とか「ざる」のように、冷たいつゆに漬けて食べる形式は
いつ頃出来きて、何かモデルがあるのでしょうか?
今日、蕎麦食ってて、急に疑問がわいてきました。
蕎麦切は饂飩(麦きり)がモデルだし、掛け蕎麦も饂飩から来てるのは理解してます。
中国、朝鮮にもこの食い方は無いでしょう?
誰か知りませんか?
>>3 盛りそばは饂飩の調理法から直で来てないんじゃなかったか?
記憶が曖昧だが、盛りを蒸篭で出すことが表しているように、盛り蕎麦は
元来「蒸し蕎麦」だったと記憶しているが。
それと、つけ麺のスタイルっていうのは中国起源じゃないの?
こっちについてもよく知らないんでイメージで言ってるけど。
中華につけ麺なんてあるか?
ソースやスープにひたして味を浸ませて食うという食べ方は
そもそも外国にあるんだろうか
フォンデュはちょっと違うか
7 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 14:14:36
昔から麺を食べる地域は、日中韓、東南アジア果てはミャンマーまでで
インドから西にはないそうだ。東アジアは麺食文化。
西欧で唯一食べたのは、マルコポーロが中国からパクッタ、イタリヤだけ。
その中でも日本の付け麺文化は特殊でしょう。
8 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 20:44:21
池波正太郎を読んでるとハラ減ってくるよな
登場人物が喰ってる物が美味そうなこと美味そうなこと
>>5 ベトナムにブンチャーというつけ麺があるけど起源はわからんですね。
日本のつけ麺(中華麺のやつ)と同じスタイル。
米の麺で、スープは酸っぱしょっぱ甘くて爆ウマですた
これは面白い着眼点になってきたな
湯豆腐でもしゃぶしゃぶでもてんぷらでもそばでも
そのまま飲むんじゃ濃いタレにつけて食べる
刺身だって小皿に醤油入れてつけて食べる
中華の点心なんかは酢醤油つけたりもするけど
さてどこが起源だろうね
完全に出来上がったものを供するんじゃなくて、味付けに用意してるのはこれとこれです
お好きな食べ方でどうぞ、ていうテーブル調味があるのは、素材重視の日本料理だから?
つうか、つけダレで食べる焼き肉も日本(の在日街)発祥ときくし、dip sauceありきの
食文化って日本くらいなものなのかな?
ハワイ在住の知り合いが来たときnoodle & hot dip sauce喰わせろ、美味いよなアレってわめいてて
何のことかと思ってたら広島風つけ麺のことだった・・・ハワイのどこでそんなもん喰ったんだw
かけそば、かけうどんだと俯いて食べることになるけれど
ざるそばだと猪口を持てばもう少し顔を上げて食べられるね。
女性の食べる姿が良くなるのは付け麺系だね。
いや、それだけなんだけどw
13 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 01:44:17
広島風つけ麺なんて、この世に存在しません。
>>13 >>11ではないし、スレ違いだが、
>広島風つけ麺 の検索結果 約 58,500 件中 1 - 10 件目 (0.28 秒)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%91%E9%BA%BA >広島風つけ麺とは、つけだれに唐辛子などの香辛料を入れ一般的なつけ麺より辛く
>したつけ麺のバリエーションのひとつ。
>広島発祥で店によって辛さに段階をつけ、調節できる店舗が多い。
>叉焼、茹でキャベツなどが麺とともにトッピングされ、かなりボリュームがある。
>ただ、広島県民ですら一度も食べたことが無い人もいるほどで、県内での認知度も
>それほど高くない。
>発祥は広島八丁堀にあった新華園である。
>中国(四川省)帰りの夫婦が始めたものである。
15 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 14:12:09
>>10 なるほど、湯豆腐ですか!確かにつゆに浸けますよね。
それに料理の食べ方が成立したのも古そうだ。
天つゆにつけるのは明治以降らしい。しゃぶしゃぶは……だし。
これ読んで思い出したのが、「冷やし素麺」
蕎麦切りよりずっと昔から、今の麺の形らしい。
しかも、七夕に冷やし素麺を食べる慣わしがあった。
麺をつゆに浸けて食べるのは、
冷たい麺を冷たいまま食べるための工夫じゃないか?
他の国にはこの発想が無かった。
>他の国にはこの発想が無かった。
↑安易に書いてないか?
それとも、こんなことを言い切れるほどに、各国の事情に詳しいのか?
冷たい麺と言えば冷麺があるし
宋の時代くらいには廃れたらしいが中国でも刺身食ってた。
最初から味付けしてたのか今みたいに醤油につけてたかはわからんが
パンにバターやジャム塗る行為と同義だろ
19 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 19:37:21
>>16 >他の国にはこの発想が無かった。
↑安易に書いてないか?
自分でも書きすぎだと思ってしまう、解ったこれは取り消す。
天竺からもたらされたカレーは、丼物のいちバリエーションとしてカレーライスになり
やがてザル蕎麦系のスタイルを取り入れてスープカレーになったわけだな。
行儀が悪いといわれるが、
ドーナツをコーヒーにつけて食べる幸せ
あとはパンをシチューにつけて食べる幸せ。
給食の時、パンにつけるスプレッドが不足した時の切り札だ
>>11 ハワイは広島からの移民が多いから、案外どこかに店があるのかもしれない
イグノーベル賞にビスケットを紅茶に浸ける最適な時間を求める公式ってのがあるな。
>行儀が悪いといわれるが、
>ドーナツをコーヒーにつけて食べる幸せ
その行儀の悪い行為を店名にするほど美味いんだからダンキンドーナツ的にはOK
ああダンク・インていうことだったのか
26 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 01:18:48
>>20 日本のカレーは英国経由の遠周りしているので、
天竺風味はほとんど残ってませんぜ。
>>11 改めて考えてみたら、日本食って他の諸外国の料理に比べて
dip sauceを使う料理が多い様な気がする。
そしてこれは憶測だが、古来よりの日本食というのは実はそんなに料理技法は
発達してなくて、それをdip sauceで補うという形の食文化だったのでは?と思う。
そばぼうろとかたまごぼうろっていうときの「ボウロ」ってなんだ
要するに和クッキーかそれはせんべいと違うのか
いや食い物として違うのはわかるけどじゃあボウロってなんだ
誰か頼む
日本の料理は宮廷料理ではなく、庶民・少なくとも市井の人が食べてたものってのがいいよね。
天皇や将軍の食事は、目を剥くような贅を凝らしたものではなく、案外質素。
で、江戸の街は、料亭、蕎麦屋、一膳飯屋、煮売り屋から屋台まで、同時代のどの都市よりも
外食産業が栄えてたんでしょ。独り者の男が多いという江戸特有の事情もあったんだろうけど。
醤油使いまくり関東、そして独身男性が相手って真っ黒で味の濃い料理が容易に想像できるがな。
洗練とはかけ離れてると思うが。庶民の味では無いな。
尾張綱誠はイチゴの食べ過ぎによる食傷で死んだとなっているが
木苺だろうか?
>>27 古来よりの日本食って何だ?
歴史板にふさわしくない安易な表現だな
35 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:14:56
>>30 質素とはいっても庶民の食膳とは雲泥の差があった。
最後の将軍慶喜の食事は質素であったとされるが、
それでも精米した米を毎日4,5人が黒漆の盆に
並べ、大きく良いものを一粒づつ選んで御膳所へ
送ったという。
何気ない食膳にも、その背後では手の込んだ配慮
がなされていた。
36 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 09:36:43
蕎麦屋で軽く呑む日本酒と板ワサ、そしてもり蕎麦でしめる。
日本人の先達に感謝です。
37 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 15:35:04
うちの近所のそば屋はどこもここ数年以上に値段があがった
出前もやめたし
もりそば900円板わさ1300円とかざら
東京だから仕方がないが
えどのほうがやすかっただろう
本当にそば粉とうまい水で手打ちで
清潔な店舗でまともに市民生活を営もうとしたら
高くならざるを得ない
高くて当然
庶民は中国産うどん粉にまくら用そばがらの転用粉末混ぜたそば食ってろ
って話ですよ
39 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:48:40
でもまずいんだよなぁ
どこも個人がやってる店だし
昔はラーメンとかカレーとかだしてたのに
最近は何をもったのかどこもメニュー変えて
地元以外の人には本格そば屋に見えるように擬態してる
しってる俺らは馬鹿にしてるが
40 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:37:16
コンビニの蕎麦不味すぎ、夜中やってるそばや無いかな?
41 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:36:07
吉良邸の門前の蕎麦屋にGO!
武士だから味はイマイチだけどね
42 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 14:15:33
>>20 スープ、シチューのカレーは欧州で盛んだし、
カレー+米というのは日本の前に先例はあった。
ただ、カレーライスが日本で爆発的に発展したことは反論しないが。
43 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 14:48:16
カレーライス?
ライスカレー?
44 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 16:14:03
× ライスの上にカレーが乗ってるのがカレーライス
ライスの下にカレーが潜ってるのがライスカレー
○ ライスの上にカレーが乗ってるのがライスカレー
ライスと別にカレーが出てくるのがカレーライス
45 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 21:46:46
親子丼は、江戸時代でもありそうだよな
>>45 まず、親子丼そのものは明治に考案された料理。
今でも親子丼で有名な「玉ひで」が始めたそうな。
仮に江戸時代の状況で作るとしても、まず半生で食える程度の卵は鮮度や寄生虫などの理由でキビしいんじゃなかろうか。
あと味付けに使うとして、砂糖も江戸後期だとしても高価だろうし、それ以前なら水飴とか甘葛を使うことになる。
鶏肉は今よりも貴重品だろうが、味の平均値はブロイラーが幅を利かせる今より上かも知れん。
あと、今じゃ食えない鳥も食材として存在していたことも事実。
鶴とかツグミとか。
それと、玉ねぎの本格的栽培が始まったのは明治初頭らしいので、江戸時代にはほぼ無い。
これは結構イタいかも知れん。
味醂は江戸時代以前からの存在が確認できるようだが、調理に用いるようになったのは江戸中期以降らしいので、江戸前期だと味醂も無し。
醤油は江戸初期であればたまり醤油しか無い。
寛永年間に濃口醤油がある程度大量生産されるようになって以降であれば不自由はしないだろう。
ミツバは今のように年中取れたわけじゃないので、旬の時期限定。
塩と酒は一応不自由しないだろう。
セットに味噌汁付けるなら、当時のバカ正直に作ってた味噌だから、結果として味の平均値は今より上かも知れん。
ただし、出汁を取るブシ類は一応貴重。
上記を組み合わせれば、一応「もしも江戸時代に現在と同じような親子丼を作ろうとしたら」というifの答えは、江戸前期・中期・後期と導き出せる。
いずれにしても、玉ねぎが無くて、卵も半熟のプルプル状態じゃないのはイタ過ぎる。
玉ねぎより長葱の方が美味い。
48 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:55:05
>>3 みんな書いてるようにそばつゆで食べる文化は少なくとも室町期には
存在してる(ただし汁は垂れ味噌で作ったものらしいが)。
南宋の「東京夢華録」・・だっけ?に饂飩を冷汁で食べる料理の
存在が出ているらしいから発祥は中国で間違いはないんじゃない。
蕎麦に関しては最初は大根汁を付け汁にしてたらしいね。
尾張藩初代の義直が、中仙道経由で名古屋に向かう道中を記録した本に
信濃で大根汁で蕎麦を食うってシーンが記載されてる。
49 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:02:01
50 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 02:17:14
昔の人は鶏のレバ刺とか砂ずり刺とかも食ってたの?
食いてー
>>48 その食べ方は池波小説にもよく出てくるよね。
喰ってみたくて大根おろしの汁でやってみたけど・・・orz だった
ちゃんとしたのどっかで喰えるんだろうか?信州まで行かないとダメかな
その失敗のあと試したのが大根おろしにワサビをまぜたのを
熱いかけそばに盛ったもの。とても美味しかった。
52 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 06:04:30
>>48 現代の中華料理は元以後に出来上がったものらしい
中国の料理研究家が宋代の書物にある料理を再現したら
和食のようなものが出来たと何かで読んだことがある
53 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 06:20:30
て言うか、昔の人より現代の人の方が
よっぽどうまいもの食ってるよ。
54 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 09:07:50
>>51 信州は辛み大根が有名だから、それじゃない?
蕎麦が良ければ、辛み大根と少量の生醤油でウマーだよ。
>52
張競「中華料理の文化史」にそういう感じの話が出ていましたね。
(著者は料理研究家ではないけど。)
日本に留学して日本の大学の先生をやっていたようだけど。
本の中に、調査グループの一員として1994年に9年半ぶりに故郷
の上海に帰ったときの話が出ていたが、すっかり様子がかわtって
いて戸惑ったという話だった。
レストランに入ってメニューを見ても、なんの料理か全く見当がつ
かなかったそうな。
56 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 13:04:26
>>51 今は大根の主力になった青首じゃ、そもそもおろし汁が
余り辛くないからね。
最近はスーパーでも売ってるけど、辛味大根を買って来て
チャレンジしてみて下され。ただ堅くてあんまり汁が出ないんだよね。。
木曾の旅路と掛けて蕎麦と解く 心は辛味(空身)で召上れ
江戸期の作だってさ。
大根というと尾張の名産だったようで、いろいろ戯れ歌が伝わっているらしいね。
元禄の頃、「水戸に殿あり、紀州に家来あり、尾張に大根あり」という評が流行ったとか、
吉宗の将軍継承後の落首に、「紀ノ国のみかん立花葉はさかり 尾張大根今はきりぼし」
というのがあったとかなんとか。
うちのほうもダイコンは名物だったらしいが
連作障害だかなんとか病だかがおおはやりして
んでみんな作らなくなったって
59 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 14:56:18
有名な練馬大根は、細く白くすらっと長かった。
今主流の青首大根は太く短い。
江戸期には、「大根足」と言えば、細く白くすらっと長いふくらはぎの
褒め言葉だった。
60 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 00:12:23
ももんじ屋(江戸時代の肉食文化の店?江戸郊外の駆除した害獣の肉を食べさせる店?)というのはどんな人が利用したのですか?
例えば豚や牛や猿や犬は一人前どのくらいでいくらくらいだったのでしょうか?
薬食いといったそうですが病気になると出かけていったのでしょうか?
鍋以外に焼肉のように何かにつけて食べたんでしょうか?
61 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 04:42:44
吉原に行く前に精をつけるためだろう。
真面目な人間が食うわけない。
62 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:42:52
というか日本昔話で山犬や山姥に襲われる役として馬方とならんで
よく猟師さん出てくるしそういう職業が存在しえたんだから
獣肉の需要はあったんじゃないの?
でんでんでんでででん♪というBGMで山を垂直に上ったあとに
イノシシとか犬と一緒によく火縄銃で撃ち殺してるし
怖い話だとBGM違うけど。再放送してくれねーかなぁ
今あるアニメの万倍面白いと思うんだけどなぁ
あれなかったら歴史や伝承に興味持たなかったし
セラムンとぶつかったせいで・・・
家康世代は鷹狩り大好きだったけど
そういえばのちのちの殿様連中は鷹狩りなんてしたのかな
確か例の生類哀れみの令で鷹狩りは中断していたような・・・
でも島津重豪は鷹狩りが趣味だったとか人物叢書に書いてあった。
鹿児島に鬼のように狩り場や鷹の養成所を作って、藩政を圧迫したらすぃが
確か人生の後半はほとんど鹿児島に帰ってなかったのに・・・勿体ね。
65 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:59:21
鷹狩りは家康以降徳川家の宿命ともいえる
将軍の趣味のひとつだった
ただ生類憐みの令をだした綱吉は将軍家のお家行事である
鷹狩りをも残酷であるとして禁止させてしまった
8代将軍吉宗は鷹狩りを復活させたそうだから
それ以降はまたやってたんじゃないか
後半は壮健な将軍が少なかったから
そもそも鷹狩りなんて誰も勧めなかったかもしれないが
とりあえず家斉や家慶は鷹狩りその他をやっていたようですね。
家斉が戸山荘に遊びに行くときの言い訳が「放鷹の帰りの通り抜け」だったりするし。
後、家慶の話では、「名ごりの夢」に雁狩の話が出ていました。
桂川甫周に手を添えて飛び立った雁を一矢で射落としたとか。
で、「御手添えの雁をご拝領」ということで家に早飛脚を飛ばすとともに、葵紋のつい
た矢が刺さったままの雁を持って帰らせたそうですが、とにかく「葵紋」が付いている
んで、大名も避けて道を譲ったとかいう話です。
67 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 15:36:06
雁と言えば、上野山下の「雁鍋」
ようするに雁のすき焼を売り物にしてた店
鍋自体は今のすき焼そのもの、肉が雁か牛の違いだけ。
結構、庶民にも人気があったらしい。
もちろん、幕末のこと。だから上野戦争の話にも出てきますね。
68 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:52:01
時代劇でよく出てくるテーブルがある飯食う店やそば屋は明治まで得なかったんだろ?
店内どんなかんじだったんだ?
>>68 入れ込みの板敷きに銘々膳もしくは直置き。
土間の上に背もたれのないベンチ。脇に酒と料理。
経営は一線を退いた老夫婦が主。
しかしこのスレ、江戸期だけというのが残念。
>>69 近年、NHKの時代劇では採用するようになって来ましたね。
幕末までとっくり代わりに使われていた銅製の酒器はまだ少ないですが。
>>68 たるに腰掛けて枡に入れてもらった酒を飲む
今さらだが、根本的な指摘をさせてくれ。
>>7 >昔から麺を食べる地域は、日中韓、東南アジア果てはミャンマーまでで
>インドから西にはないそうだ。東アジアは麺食文化。
>西欧で唯一食べたのは、マルコポーロが中国からパクッタ、イタリヤだけ。
このレスに「麺」とあるが、外国、特に中華の「麺」に言及する時は注意すべき
ことがある。
それは何かっつーと「麺」の本来の意味(現在の中国の語でもほぼそう)で、
「麺とは、小麦を挽いたり潰したりして粉(に近い状態を含む)にしてから調理等
をしたものである。」
っていうこと。
>>74つづき
すなわち、十割蕎麦は麺ではなく(蕎麦だから)、二八蕎麦はまあ麺かも(一応小
麦も使うから)。
冷麺も二八蕎麦の同類で、一応、「麺」(つなぎに小麦粉を使うから)。
ビーフンやフォーも麺ではない(米だから)。
ついでに、餃子もシュウマイも「麺」であり、パンも麺類の一種である。
イタリアに於けるパスタがかも知れないが、イタリアではパンの類い(ブルスケッ
タ等)がパスタに分類されることは無いので、中華に於ける「麺」の方が幅は広い。
お好み焼きやもんじゃ焼きも、麺を使わなくても「麺料理」ということになる。
以上、日本以外の「麺」、特に中華の「麺」に言及する際には、日本の現代的な麺
の定義との差異に留意されたし。
※余談だが、本来の「麺」の定義に従うなら、「麺」の発祥は古代エジプトあたりの
石焼パンということになるかも知れずw
つまりこうですな
・小麦ペースト食品
・ひも穀物
>>76 まあそうですね。
現代の日本人的感覚だと、メロンパンが麺で、焼きビーフンが麺じゃないとか
言われても、違和感ありまくりだけどね。
付け足しでスレに絡めておくと、日本では中華の食文化を取り入れただけで
なく、言語や文字も取り入れたので、『正倉院文書』の正税帳に出てくる
「穀」とかの語と同様に、「麺」も取り入れていると思われる。
その「麺」が日本に於いて現代的定義に近づいた契機が、実は江戸期の蕎麦
にあるんじゃないかと想像してるんだよね。
何故なら、
>>3氏の言う通り、饂飩(麦切り)の存在が大きく影響して蕎麦が
生まれたから。
蕎麦が普及する過程で、日本的な麺の定義というか言語感覚というかが出来上
がったんじゃないのか?と。
80 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 03:14:51
鯛素麺とかイカソーメンとかは、現代日本的感覚でも麺かどうか微妙な感じw
81 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 04:37:54
穀物、デンプンじゃない「麺」など論外だよ。
>>74-75 ほう、そば粉オンリーの田舎そばは本来は麺じゃないのか。
知らんかった。
中国では、な
日本だと小麦粉も含む細長く形成した粉食一般のこと
ちなみにイタリアだと、スパゲティに使うロングパスタ以外にも
マカロニやピザやラザニアなどの粉食全般に使われるので
中国の麺の定義に近い>パスタ
パスタがそもそも「ペースト」のことだからねえ
86 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:22:50
>>74>>75>>78 >>7を書いた者ですが。
確かに北方中国文化圏における「麺」の認識はあなたのおっしゃるとおり。
間違いありません。
しかし、ここは江戸時代の食文化を語り合うスレです。
中国人の「麺」の認識を出しても混乱するだけではないでしょうか?
「そこで現代日本人の「麺」の認識に基ずいて」
麦、米、緑豆、蕎麦などを粉に挽いて捏ねたものを薄くのし
細く伸ばしたり、細く切ったりした食品を「麺」と定義してレスしました。
東南アジアでも発音、声調は違いますが
「日本人が認識する麺」にあたる食品名があります。
>昔から麺を食べる地域は、日中韓、東南アジア果てはミャンマーまでで
>インドから西にはないそうだ。東アジアは麺食文化。
と書きました。
古くから穀物の粉をねって、引き伸ばし細く加工し、それを茹でて食べる文化圏と
それをナンやパン状にして焼いて食べる文化圏
この食文化の違いを書いたつもりです。
逆に訊ねますが、インド、パキスタン、中東の人に
ナンやパンも「麺」だという認識があるのですか?
>86
>74じゃないけど、その反問はあまり意味が無いのではないですか?「麺」の
定義をどう伝えるかで答えが全く変わるわけですから。
そうか?無意味な知識ひけらかしにしかみえんがな。Wikipedia(笑)を元にした。
89 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:52:47
>>78 ああなるほど。
・中華由来の「麺」の語が伝わる
・饂飩(切り麦)が伝わる
これのどちらが先でどちらが後かは分からないけど、鎌倉期までには素麺の下地の上に饂飩が重なって広まったよね。
各地の鎌倉街道宿駅を中心として大ヒットした饂飩が「麺」の代名詞的な存在になった。
いつしか穀物を粉にして練って細長くしたものを「麺」と認識するようになった。
だから江戸期に蕎麦切りが広まった際には、それが「麺」であると認識された。
反面、ポルトガル経由で伝来したパンには、中国のそれとは異なって「麺」の語が用いられなかった。
↑仮説としてはアリかもね。
そういやパンって漢字で麺麭だな
92 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 04:47:33
寿司は江戸時代にはなかった
毛抜き寿司、食わせてやろうか?
94 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:37:12
ところで、巻寿司(海苔巻き)はいつ頃できたんでしょうか?
握り寿司以前は、鮒のなれ寿司や押寿司はあったということですが…
鉄火巻きが江戸時代に存在してることは、間違いないのですが?
巻寿司の起源は韓国です。朝鮮通信使が日本に教えました。
96 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 15:25:50
ありがとう、と、言うことは江戸時代。
江戸前のにぎり寿司を通信使に教えてやればよかったのに。
これこれ!ウリジナルをコリエイトした捏造話を鵜呑みにしたらダメなんだぜ?w
そもそも巻き寿司に使われる板海苔製造技術は朝鮮にはない。海苔養殖技術と乾燥板海苔
製造技術は、日韓併合後の1910年代に日本から移入されたもの。それなのにどうやって
「鶏泥棒w」朝鮮通信使が江戸時代に巻き寿司を伝えたと?
巻き寿司は、板海苔製造との係わりを無視出来ないが、こぞ製法が確立されたのは江戸時代
後期ころらしい。巻き寿司も手軽に食べられる「ファスト・フード」的感覚で生まれたのだろう。
鉄火巻きの語源として、今では具材の鮪(赤身)が「熱した鉄のように見える」ことから「鉄火巻き」
と呼ばれるようになった、とする見解が主流のようだが、鉄火場(博打場)で手軽に食べられる=
鉄火巻きと呼ばれるようになったという説もある。いずれにせよ、発生は握り寿司同様江戸後期
だろうね。
98 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 17:31:32
>>97 ご親切に、おいら釣られちゃいましたかね。
韓国海苔が美味かったんで、思わず食いつきました。
鉄火場説しか知らんかった。
サンドイッチと同じ成り立ちで面白いもんだなあと思ってた。
すーしーがファーストフードなんて羨ましす
別にハンバーガーとか美味いと思わんから
個人的になくてもいいし
だったらすしてんぷらがファーストフード感覚の時代にうまれたかったべ
かっぱ寿司行けよ
本物の寿司が食えるぜ
>>100 そのまま現代的価値観では語れない部分も数多ある。
「ファスト・フード」という表現は飽くまで「ファスト=速い」つまり「手軽」であって、
必ずしも今日のように「ファスト・フード=安い」と同感覚では語れない部分もある。
(例えば、比較対象によっては、当時の蕎麦の値段のそれに置き換えて800円〜
3.600円と幅も生じる)
まあ、今だってハンバーガーやサンドイッチも一個1000円ぐらいからのファーストフードが結構あるしな
104 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:07:34
にぎりも発明された化政頃は一貫250文だったそうだが、
屋台や担ぎ売りの寿司屋が出てきた頃には、一貫4文になりました。
器をわざわざ持ち上げて食事するのって日本独特の習慣なのでしょうか?
味噌汁などの汁物を なぜスプーンではなくて わざわざ箸で食してきたんでしょうか?
スプーンがヨーロッパで一般的になったのは17世紀過ぎてからだし
食事以外で使われるような用途でだったら日本でも匙という物がだね
107 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:42:44
>>105 箸で食すようになった経緯は詳しく知らないが、日本人が箸を一般的に使うように
なったのは奈良時代らしい。飛鳥時代とかは木のスプーンを使っていたと何かで読んだことがある。
平安貴族とかは器持ち上げずに食ってたよな
武士やなんかが野外で飯食う時に地べたにおきっぱより
手でもったほうが食いやすいし楽だべってかんじだったんかな?
>>106 フォークも11世紀ぐらいに普及だっけ?
それまで手づかみで手を吹くためにテーブルクロス発明
109 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 05:40:20
>>108 今でも韓国じゃ器は下に置いたまま食うな
箸を使うのはオカズだけで飯はスプーンだし
茶碗を持って食うのは野蛮と言われる。
ヨーロッパから朝鮮半島まで椀を持って食う習慣がなかったが、
日本に入ったとたん、低俗な食い方に変わった。
日本は犬食いのほうがだめって言われるけどね
耳付き陶器は日本では少ない。
朝鮮半島の陶器にはかなり残ってる。
つまり、椀を手で持つのではなく、とってで摘む習慣。
千利休から下品な持ち方が流行った?
日本では食べ物を突き刺して食べること(突き箸)や
すくって食べること(横箸)を下品としてますからねえ・・・
蕎麦など女性は器を床に置いたまま屈みこんで食べていたらしいよ
下品な半島民が工作しているスレはここですか?
>>114 蕎麦など女性器を床に・・・と読んだ俺は下品かもしれない
吉原や一膳飯屋じゃなく、料亭が江戸に出来たのはいつ頃なんだ?
時代劇では屋台や居酒屋がよく出るが、赤穂浪士の時代に、本当は無いのでは……?
7月の歴史に好奇心、江戸グルメ特集では
明暦の大火→火除け地できる→そこに屋台集まり大繁盛
→火を使う屋台禁止→浅草に茶飯をだす店舗型料理店できて大繁盛♪
といっていた。その店に西鶴も食いに来たとの事。
その後、
奈良茶飯の店大増殖→ほかの料理も出す→高級化し料理茶屋へ
だそうなので、赤穂浪士の時代には少なくとも「ほかの料理もだす」位には
進化していたのでは?
元禄の頃、華やかだったのは京阪でしょう。
だから大石が京で茶屋遊びにはまった。江戸はまだまだ開発途上。
その頃には、有名な料理屋って無かったんじゃないかい?
121 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 05:16:56
地方はともかく江戸町人のほうがくいものにも
職にも家賃はらえずに追い出されてホームレスになる恐怖もなくて
今の貧乏人たちより幸せだったと思うぜ
今のそれなりの金持ってる大半の日本人(全国民の7割ぐらいかな?
まぁ騒がれてる負け組の6割ぐらいはなんだかんだで家ぐらい買える収入はあるし
贅沢しなきゃ生活には困らん四季を楽しむ余裕だってあるもんね
普通にいきてりゃ特に勉強しなくても普通に大卒で誰でもこうなれるはずなんだがなぁ
なんであぶれる人がいるのかわからん)は
今のほうが断然いいというだろうけど残りの3割は
次は江戸の町人に生まれたいと思いながらむなしく餓えて孤独死してると思う
そかな、地方の方が野菜や魚が手に入るから、そういう意味では良かったとも
思うがな。
>>122 おまいさんは江戸前という言葉の本来の意味を知らんのか?w
それと江戸近郊は野菜の産地も多いし、江戸市中にも畑地や田圃は結構ある。
124 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 14:52:21
春菊の生産量日本一は東京
ここは江戸時代のスレであって、江戸地方限定のスレじゃないでしょ。
地方ってのは江戸近郊ってことじゃなくてもっと名もない田舎っていう大きな
意味で言ったんだが、そっちが江戸市中と江戸周辺の地方って意味なら
別にそれでいいのだけど。
126 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 19:45:01
ここってなんか東京に偏ってるよね
>>125 >地方の方が野菜や魚が手に入るから、そういう意味では良かったとも
と書かれていれば、豊な漁場としての江戸湾とか、江戸市中や江戸近郊の畑作、米作の実態を
全くご存じない?と判断されても仕方ない気がするが???
比較対象として単に「名もない田舎」と出されても、そんな「名もない田舎」の中には土地も痩せ、
漁場も開発されていない場所など掃いて捨てるほどある。
このスレの話題が江戸(あとは上方ぐらい)に集中するのは仕方ないことだと思うよ。
産地云々よりも消費のためのインフラ・・・ちと違うな、なんというか
自分で耕作したり漁に出たわけでもないものを対価を払って消費する環境にないと
食文化というのは発展しないんじゃない?
江戸っ子が初鰹を採るために漁船をチャーターして漕ぎ出したなんて話はあまり聞かない。
資料や江戸の食についての概要解説本の内容も
江戸地域に偏っているので、
江戸周辺の事情に話が集中するのは仕方ないかもね。
ただ、>知らんのか?w みたいな高い目線の指摘は何ともイヤだね。
もっと地方からのカキコ欲しいな!九州や四国のネタを見たことが無い。
地方のほうが文献や資料の保存が良いのではないですか?
確か、スレ1のときは福島あたりから「ぜんびん餅」の話が出て、結構盛り上がった。
皿鉢につかうのとほぼ同様の大皿は少なくとも室町末期からあるらしい
羊羹とかが入ってることがままあるのも現代人の感覚からすればやや異質だが
往時の状況を考えると一種のハレの日的なごちそうとしてまあ納得できる
125だけど、地方ってのは普通に田舎全般のことだと思ってたけどね。
いきなり江戸前とか言われても困ったもんで。
で、地方の話なんて普通にいっぱいありますよ。
ってか、昭和30年代前までは地方、田舎全般だよ、は江戸時代と大して変わりない
生活みたいなもの。
だから、江戸時代を歴史的過去、とか史料、とか考えるから、本にたよってしまう。
わしらの爺の爺あたりなんてそれこそ江戸の生まれだし、普通に、田舎の常識、みたいに
話は今だって残ってるというか聞こうと思えば聞ける。
爺たちだってそんな話に価値があるのを知らないし、あまりに常識だからわざわざ日記にも
書いたりしないだけ。
というわけで122に戻るが、江戸時代は暗黒時代、みたいなスレで何も食べるものがなかった、みたいに
みんなが言うから、田舎のは野菜や魚やとりあえずなんとかなってたよ、という話をしたんだけどどうも
信じてもらえない。
例えばこの前の戦争の時にはザリガニ食べてた、うちのとうちゃん。
大根なんて冬にとれたのとって置けば、1本で家族4人が1日生活できるってなもの。
スレチなら悪いがこういう当然の話を資料とかソースとか言われるから、なんかおかしな感じがしてね。
ちなみに、寿司で一番すきなのはエビで、エビばかり食ってたとうちゃんなんだが、ザリガニ食べて育ってれば
エビなんてちょ〜ちょ〜ごちそうだろな、としみじみ思った。
最後には親孝行してやれたかもしれん。
さらに、オオサンショウウオ食べた話もする?
今だったら、タイ~ホだもんな・・
人に読んでもらうのだから
意味のとりやすい文を書いて欲しい。
父ちゃんとかそんな最近の話ではなくてもちっと昔の江戸の頃の話をね
>>132 >>121-122の話の流れを受けての
>>123、そしてあなたの
>>125、そして
>>127の書き込みはある意味自然な
受け答えのような気がするけど。それとこのスレは「江戸時代の美味い物について」であるから、
>>132の「ある意味
時代に捉われない食文化」的な振り方はちょっと違うような気がするな。
>>130も指摘しているけど、前スレでは日記や記録を基に、地方の大名家に使える士分を先祖に持つ方は、
それらの記録・日記から「江戸時代の食」の一端を紹介されてました。
私の父方の祖父母も群馬県でして、例えば戦中の食事は都内に比べ恵まれていたようです(祖母の兄妹が
都内在住だったので比較出来たのでしょう)。
そのような意味では、地方の食と都会(江戸・東京)の食は時代により異なる部分はあると思いますが、
何も日記などの記録に基づかなくとも伝承された食があります(郷土食に関しては、それぞれ地方の研究家が
研究されてますでしょう)。ザリガニ、オオサンショウウオ云々という話になると、江戸だか古代・中世だか高度経済
成長期前後の話か判らなくなります。
漠然と
>>122の書き込みにあるような話をされても誤解を招くのは関の山ではないでしょうか?
江戸にタイムスリップして
てんぷら食いて〜。そば食いて〜。おでん食いて〜。焼き鳥食いて〜。
って俺だけ?
うん
全部今のほうがうまいのわかりきってるからね
蕎麦は手打ちなら今と作り方変わらないだろうしね
メンつゆは削り節が幕末だしな
139 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 02:00:36
江戸時代といえば、「蒸し蕎麦」だぞ?
美味いと思うか?
いわゆる本当の「蒸篭=せいろ」だね。
結構旨いよ。
結構グルメだよね、昔の人って。
縄文人もかなりグルメだしw
トチの実と鹿の血のクッキー食ってみてえ
多分まずいと思うけど
栃の実せんべいももちも好物だ
せんべいはともかくもちはそうそう味が変わってないと思うけど
比べようはないからなあ
餅の味こそ相当変わってると思うけどなあ
今の餅の味は連綿と続けられた品種改良の努力の賜物じゃないかな
145 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:22:30
146 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 15:29:52
江戸時代、焼き鳥って有ったのかい?
焼鳥が料理書に現れるのは寛永二○年(一六四三)の「料理物語」。
今日の昼は鉄鍋で鴨の肉を煎り抜いたものを飯にかけ回したもと
生卵を落としたみそ汁で済ませてから、
軽袗ふうの袴に国広の脇差だけを差して、商談に目黒まで向かいます。
経理のはるちゃんとみふゆちゃんに黒飴を買って帰ってあげる予定っす。
150 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 14:13:33
>>147 焼き鳥は焼き鳥でも、細切れ串刺しではなくて
雉焼きみたいな物ではないのですか?
152 :
茂七:2008/11/13(木) 14:31:17
よし、今晩はあのいなり寿司屋の親父に「焼鳥はねぇのかい」と聞いてみるか
153 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 15:00:52
154 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 14:26:32
>>152 宮部みゆきですね!今、「日暮し」読み始めたところ
茂七も元気にしてるみたいですよ。
155 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 23:27:51
付けタレの話。
戦争中醤油が貴重な頃を過ごした母や叔母の話です。
かけ醤油はかけすぎる、つけ醤油は少しで足りる、と言ってお葉漬物に醤油をかける私に言ってました。
ドバドバかけるな、もったいない、と言いたかったんだろうとおもいます。
翻って、醤油やタレを分け前分しか与えない文化があったんではないでしょうか。1つの鍋で何人かが共同で食べる際に、一人分をある一定に押さえる働きがあると思うんです。
味なしで煮て、取り皿に塩味がある。「わしの料理に味噌をつけるのか」は味の反抗ではなく、まだ食べるのかみたいな意味だったのかもしれません。
>>152 茂七「ねぇねぇ、なんかさあ焼き鳥とか喰いたくね?でも屋台のイナリ屋さんじゃ・・」
親父「あるよ」
茂七「ちょ…待てよw あるんだ?」
親父「…」
…
茂七「あ〜ウマ。こんな本格的な焼き鳥たべられるとは思ってなかった」
ていうシーンですね、わかります
157 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 01:07:56
今みたいなスタイルの鍋物って江戸時代にはあったんでしょうか
都市部の家には囲炉裏とかないだろうし無理?
>>157 あったんじゃまいか?
駒形どぜうは江戸時代創業だが、スタイルはさほど変わっていないような……。
焜炉に小さな鍋(鉄鍋、土鍋等)を載せ、それを囲んで呑み喰いする文化は
江戸時代からあるよ(軍鶏鍋とか兎鍋とか葱まとかね)
159 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 09:17:29
駒方どぜうスタイルの一人鍋・・・・小鍋仕立は江戸中期以降に発生
したらしいが、皆で鍋を突っつきスタイルが広く普及したのは明治になって
らしいね。
160 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 14:52:19
>皆で鍋を突っつきスタイルが広く普及したのは明治になって
らしいね。
幕末の琴声美人録に画かれている絵に、上野山下の雁鍋屋で
町人風の家族ずれと男二人が鍋をつつき合ってるのが画かれてる。
この鍋は2〜3前の鉄鍋に見えます。
また別の絵(出展不明)では、
小汚い居酒屋でごろつき風の男二人がまぐろ鍋を食べてる絵が見れます。
鍋はやや小ぶりの土鍋です。
ひょっとして料理の種類や店によって違うのでは?
そもそもマグロ鍋という料理を知らなかったのでググってみたら美味しそうですね。
東日本の食べ物なのかな。まあ瀬戸内海じゃマグロ捕れないからなあ
今でも食べ物の地域性は残ってるよね。
ウチの地方はハンペン喰わないんで、東京に住み始めた年に
7/11のおでんに巨大ナプキンが浮いてるのかと思ってびびった。
ハンペンという食べ物の存在は知ってたけど、見たことなかった。
ちくわぶという物は存在さえ知らずに喰って、コイツちくわじゃない!ぶ?ぶのせいか?と困惑した
164 :
163:2008/11/30(日) 01:14:55
しまった肝心なこと書いてない
江戸時代とかもっと地域で食べ物違っただろうから楽しかったり困ったりで
云々カンヌン....てつまらんことを書こうとしてましたw
>>161 「マグロ鍋」と言われてもピンと来ないが、「ネギマ鍋」と言われれば
分かる人も多いんじゃないかな。
つうか、「マグロ鍋」って言い方あまりしないなあ@東京下町
スレチだが、はんぺんをトーストのように表面だけ炙って、中に色々挟むと美味いぞ。
ただ、穀物であるパンよりも、相性に気を配る必要があるけど。
無論、焼きはんぺんだけでも美味い。
168 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 17:01:56
>今でも食べ物の地域性は残ってるよね。
>ウチの地方はハンペン喰わないんで
そろそろ正月も近いですが
うちの地方ではおせち料理にブリの照り焼きを入れます。鮭の代わりに
皆さんのところではどうですか?ちなみに近畿地方出身です。
そもそもおせち料理なんていうもは
いつどのような形で出来上がっていったのか
もちろん元旦食というものは昔からあったであろうことは想像できるが
重箱に詰めるようになったのは江戸時代も後半
節句といえば5つあるから、それぞれに「おせち料理」があったのかも
今残っているのは元旦のそれと3/3の蛤の吸い物+ちらし寿司ぐらいかも知れない
>>168 おせちに鮭が入ってる地域があることを今知った
あとどういう階層の人がどの程度食べていたかとかもだな
結局モチが結構な贅沢っていうクラスが多いのではないか
って考えるとこうみんなみんなお節食うのはひょっとして昭和以降かなと
>>170 1月7日七草粥、3月3日ちらしとはまぐり?、5月5日ちまきと柏餅?、7月7日なんだろ?あんころもちか?
9月9日うちの地元だけかもし入れないけど神棚に前日和菓子15個備えて当日食べる
こんなかんじかな?
マニュアルとか個性がないとかいろいろ言われるけど様式美として
行事に合わせてちゃんと食べてるよ
どうせ80回程度しか経験できないので斜に構えるより楽しんだほうがいいと思う
>>172 おせちの中に高いものが入りだしたのは最近な気がする・・・
かずのことかはなかったんじゃない?
そもそもかずのこ当時高かったかどうかもわからん
餅はまんが日本昔話のせいで高価なイメージがあるので
ひょっとしたら餅>当時のおせちかも
思い込みかもだがおせちの定番ものって
数の子、黒豆、くりきんとん、伊達巻き、かまぼこ、れんこん
小魚の甘い煮たやつ、サトイモ煮たやつ、人参と大根のすっぱいの
昆布巻き、豪華なのだと海老や鯛
ってところだと思うんだけど
江戸時代のこれらの物価ってどうだったんだろ
長屋の花見の花見の重箱(が見立ててる本物の中身)って江戸時代のもの?
つうても「かまぼこの代わりに大根」しか知らんが
いまちょっと長屋の花見の話の中身みてみたら
上野で花見だとか、アラスカがどうの、しばらく札で洟をかまないねえだの
時代設定は江戸時代じゃないぽい?
かまぼこって塩で練って蒸すから
生魚とかに比べて日持ちするけど漬け込みものほどしょっぱくない
みたいな感覚なのかな
178 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 20:08:54
>かずのことかはなかったんじゃない?
>そもそもかずのこ当時高かったかどうかもわからん
数の子は蝦夷で死ぬほど獲れた、産卵に来たニシンが浜に打ちあがるほど獲れた
それを塩蔵にして上方や江戸に運んできたので比較的安かったと思う
ニシンてあんまり食った記憶ないけど
どういう人がどういう感じに消費したものなの?
あるいは肥料?
>>178に同意
数の子が高級食品になったのはニシンが原因不明の不漁に陥った戦後以降
>>179 肥料も使い道の一つ。
料理の一例としては
京都にはニシンそばという物があるが、北回り船で持ってきた干しニシン(身欠きニシン)
を煮込んだ物が具に入っている
ほっといても浜に上がるほどいたニシンを喰いつくして数が減ったのか?>戦後
その他の魚も減ってるじゃん
たらふくの語源になったタラとか
よその国が根こそぎ持っていってるとか?
根こそぎ獲って並べて捨てて焼く
っていうわが国のスーパーマーケット経済のせいなのでは
>>182 突然不漁になったのは昭和30年頃ですから
まだスーパーマーケットが日本に広まる前ですね
>>181のいうような無計画な乱獲(明治・大正のころには北海道では網元が御殿を乱立するほど乱獲された)
も一因とは言われていますが、気候変動もあるのではないかとも言われています。
でもまだ真の理由は突き止められてないようです。
あとハタハタなんかも少し昔は大量に獲れたとかいうね。
秋田の地元では、魚屋が箱単位でそこらの家に売りに来ていたとか。
にしんといえば、イギリスとか北欧でも食べられているのもよく知られているが
あちらの漁獲量はそれ程変化はないのかな。
小樽とかニシン漁で儲けた人が建てた御殿とかいっぱいあったんでしょ。
俺もニシン蕎麦でしか喰ったことないんだけど、ニシンってそんなに売れたのかな。
誰が喰ってたんだろう...
186 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 00:31:49
江戸時代が世界的にテムズ川凍ったり
デンマークとスウェーデンの間を冬は軍が徒歩で移動できたりとかの
小氷期だったこととなんか関係があるんだろうか・・・
食い物の価値(単純にとれなくなったとかも含めて)変遷ってのは
そんな昔じゃなくても、小学校の頃、冬は通学路に普通に霜柱とかあって
サクサク踏みしめるのが好きだった。
住んでたのは広島市の海側の方、いまじゃ考えられない。
あの感触を思い出すとき、気候の激変というのを実感する。
>>173 このスレではおなじみの「下級武士の食日記」には
五節句には以下のものを食べたと記されています。
一月七日:七草粥
三月三日:草餅、菱餅、はまぐり
五月五日:柏餅、粽
七月七日:そうめん
九月九日:栗、菊酒
さらに、節句には薬食いと称して肉を食べたり、酒を飲んだりもしています。
あと、三十日(晦日)に蕎麦を食べる風習があったとか。
大晦日(12月31日)に年越し蕎麦を食べるのは、この風習が元とか。
ちょっと時期がずれてますが、11月の酉の市で鳥鍋(雁鍋)を食べたり。
季節の節目ごとに、色々楽しんでいたようです。
>>188 江戸時代は太陰太陽暦で、最長でもひと月30日までしかないから、江戸時代の大晦日
(おおみそか・おおつごもり)=師走の三十日だよん。
>>189 大晦日(12月31日)って書いたのは今の習慣の話だから。>年越し蕎麦
その元になったのは江戸の晦日蕎麦だよという話。
>>190 相済まぬ><
それがし文意を読み違え申し候w
192 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 12:19:20
>>173 その風習だと地元は京都近辺ですか?
備えて食うのは菊をアレンジした菓子ですよね?
重陽の節句に菓子が15ってのは
天皇家が16葉菊だから遠慮して一つ外したかららしいし
193 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 15:34:57
皆のところも月見にはススキに団子ですか?
元々は茹でた里芋だった て聞いたことがある
今でも里芋を供える所ってある?
元々というより代用品じゃないんですか?
にしんは塩焼き、こぶ巻き、寿司、だし汁、燻製まで非常に多用途に使う。
ただ、基本的には日干しをだし汁で戻して使うのが古いオーソドックスな使い方な気がする。
15夜、13夜とも月見団子(きび団子)といっしょにちまきも作るけど、
これは地域っていうより家庭の風習かも
@福井県南部×北海道→千葉
197 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 17:38:39
>15夜、13夜とも月見団子(きび団子)といっしょにちまきも作るけど、
ご両親に聞いてみてください。
ひょっとして、それぞれの出身地で違うのかも。
>>196 剣客商売にありがちな描写をつなげただけの文章に時代考証とか野暮いうなよw
秋山の江戸グルメ爺は肉や卵よく喰うし、田沼の娘の舅という設定です。
>>198 196ですが、剣客商売は私の愛読書でありますが、現代と江戸時代
とを混在させたような"148"と"149"のレスに多少の違和感を感じ
たものですから…。
>>199 ちなみに俺は149で池波ファンだが、まあそう堅いこと言いなさんな( ´∀`)
>>200 そうですね!仲良くやりましょ!
196&199
池波小説の飯はうまそうなのに
司馬小説の飯はまずそう・・・
池波の登場人物はちょっと目を離したスキに次の行で酒のんで蕎麦たぐってるよな
それでも弥七みたいにw酔って「憚へ」っても火箸投げられたらかわすというww
剣客商売にでてくる不二楼てのは、基本はレストランで宿泊も可能て店っぽいけど
そういうの江戸には多かったんでしょうか。
料亭とかいったことないから分からないけど、ルームサービスでの食事の提供を前提とした
デイユースプランみたいな形態なのかな
明和以前はそれこそ吉原ぐらいしか酒宴らしいもてなしを供するところはなかったともいうしな。
天明ぐらいで深川、中洲、向島あたりまで川沿いに広がる。
町人とか普通の武士が仲間内で気軽に遊ぶような感じで
料理茶屋とか居酒屋で気軽に飲み食いできるのは時代にするとやっぱ
化政期ぐらいに下ると思われる。
いわゆる料亭は基本的に風呂があって、接待の流れとしては
まず着いたらゆっくり入浴してもらって庭を軽く見ながら離れに移動、
ひとしきり食って飲んだらお姉さんでも呼ぶか、
早めのお帰りなら船で送迎(場合によっては籠)、
お泊りなら別室にお布団敷いといて…みたいな感じかと。
オーベルジュみたいなものですか
今やってる必殺仕事人の松岡は喰い道楽ってキャラ設定のはずなんで
もうちょっと江戸の美味いもん案内人的な演出がほしいなあ・・・
一応だけど池波作品が元になってるシリーズだし。
江戸時代の居酒屋メニュー
立ち飲み 一杯 八文 152円
お銚子 一本 十二文 228円
上酒 一本 二十四文 456円
極上酒 一本 三十四文 608円
おでん 一皿 四文 76円
焼き豆腐 五文 95円
煮豆腐 八文 152円
がんもどき 十文 190円
クジラ汁 十六文 304円
握り鮨 一個 八文 152円
たまご巻 十六文 304円
五目鮨 百文 1900円
鰻丼(並) 百文 1900円
もりそば 十六文 304円
天ぷらそば 三十二文 608円
肉鍋(小) 五十文 950円
納豆汁つき定食 十六文 304円
一説には一食飯三杯おかずに特大の切り身つけて
毎日銭湯行って、ちょっと寝酒飲むという生活ぐらいなら
独身なら月に7日も働けばできたという
俺なんて月に28日、日の出の前に家を出て帰宅は真夜中の朝から夜まで働いて月収12万弱ぐらいですよ?
もちろんボーナスも有給もない退職金もない。厚生年金もない。
これなら江戸に生まれたほうがよかったね
別に俺は飯がちゃんと3度食えておかずなんて漬物と納豆と味噌汁で満足だもん
魚とか週に1度付けば天国。今はこれすら無理な生活だからな。
そしておそらく一生このままだろう。現代に生まれて大損。ホームレスじゃない分マシだが。
どうせ長生きできねーんだろうけど死ぬまでに腹いっぱいそばを食うのが今の俺の夢
まぁ江戸町民ってある意味小規模の貴族階級みたいなもんなんだろうけど。
町人がローマ市民みたいな感じで農民は奴隷階級
213 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:02:29
>>211 1文=19円換算ですか?
>>212 日雇いだと1日銭200文だから7日働くと1400文
長屋の店賃を払うと900文
米1升100文ほどで1日5合消費すると、月15升、1500文
日雇いだと一食飯3杯は難しいな
長屋暮らしの大工職人だと銀五匁、7日働くと三十五匁、銭換算で三千五百文
これならまぁやっていける。
ただ、棟梁から暇を出される危険性と、冬場の仕事のない時期に備えて蓄えが出来なくなる可能性が。
現代の賃金に換算すると、日雇いは7日7万円ほど
大工は7日17.5万ほど。現在の大工さんは見習いでも一万円強もらえるから、さほどずれてないと思う。
大工さんなろうかなぁ
もう来年30だけどw
農村も流通網が発達してないせいで食材自体は単調かもしれないけど、
飢饉時や山間部の超小規模村落とか以外はそこそこ食えてたっぽいしな。
決定的に現代の方が勝ってるのは医療と服の安さと情報ネットワークとかぐらいかも。
江戸も中期以降と特に基本的には労働力不足だったっぽいから
浪人とかも仕事を選ばなければ口入屋に派遣登録すれば
その日から職にはありつけたっぽい。
深川埋め立てとかで親方にどやされながら人足デビューした夕方に
ようやくありついたあさりのぶっかけ飯とかはうまかったろうな。
基本的には朝から昼まででおしまいだったらしいから長くて6時間ぐらいか。
でも、そこそこ普通に住んだり働いたりするには身元保証とか必要だったんじゃない?
口入屋も、送り込んだ奴が勝手に欠勤したり、トラブル起こしたり、そんなんで
クラさんの信用失ったら商売できなくなっちゃうし・・・現代と大してかわらんなw
商工業者の人請は五人組とか人宿が身元保証人代理みたいな感じになってたらしい。
人請通さないで奉公することもあったみたいだけど、
この場合奉公人は雇用主に対して種種の訴権を行使できないって不文律があったらしい。
日雇いと派遣の紙一重だけど大きな差みたいなもんか。
「長屋の大家さん」は家主っていうより不動産管理会社兼なんでも屋で
口入れの窓口も実質こういう爺さんに泣きついて
じゃあああした一緒に○○屋さんに行ってみようか、
みたいな感じだったとか聞いたような気がする。
壁も薄いしトイレと生活用水、ゴミ捨て場とか兼用だし、
良くも悪くもコミュニケーションは必要だよな。
人間としてのあり方から言えば引きこもってなくても
その気になればほとんどしゃべらないで生活できる現代の方がおかしいんだろうけど。
かずのこが高価になったのは、ずっと後。
昭和50年代。原因は、商社・水産卸業者の買占め。
潤沢な北米産・大西洋産まで買い占め、供給の調整がうまくいったので、そこから
高いものというイメージ作りが成功した。
ヤブカラボーに何だね君はw
数の子は糸削り鰹節と醤油を軽くからめて食べるのが好き。
まあ、あれば食べるって感じで、好んで食うことはないし、
独身時代も自分で買い求めたことは一度もない。
あれは縁起物としてだけ食べられてたのかな・・・
数の子を使った料理って聞いたことないし。
江戸時代の料理本を現代語に訳したのを読んだ
びっくりしたのは調味料に
砂糖が使われていないこと(高かったの?)
みりんが使われてた料理はデザート扱い
油を使った料理は意外に種類が多い
(大根を5センチ厚さに切ったものを丸のまま素揚げとか)
胡椒も山椒と同じ位置でよくつかわれてて
胡椒って江戸時代にもうあったんだー!驚嘆した
砂糖は貴重品だった
平安時代は風邪薬
江戸時代初頭はさすがに薬ではないがw貴重品である現状は変わらず
お茶菓子に干し柿や白味噌餡が使われたのは「砂糖で炊いたあんこ」という物がなかったから
しかし、薩摩ルートの黒糖が次第に上方を中心として流通するようになり
江戸時代中期頃からお菓子の種類が増大する
特に徳島藩や高松藩で和三盆糖の生産に成功したことで砂糖の値段が一気に下がり
庶民にまで砂糖を使った甘いお菓子が普及する一因になった。
それでもその恩恵はなかなか江戸以東の東日本では受けられなかったらしく
「お菓子だけは上方>>>>>>>>>>>江戸、江戸が勝ってるのは団子ぐらい」
と酷評された本が書かれたくらい。
参考にしたのは『和菓子の四季』(淡交ムック)など
ムックさんて苗字あったんだ
ちがうよ、ムックはあだなっていうか通り名だから淡交が本名なんだよ
違うな、淡交は名乗りすなわち苗字だよ。
ムックが通称(仮名)というのには同意。
諱(真名)は、たしかガチャピンのはずだ。
淡交ムック吹いたww
それはともかく砂糖、とくに白砂糖が貴重品だったのは
山川菊枝の『武家の女性』にも書いてあるね
近所のお嬢さんが顔におできができたから、それにつけるために分けてほしい
と言っておちょこを持ってきたそうだ
幕末でもまだ薬扱いなあたり本当に貴重だったのだろう
おできに砂糖つけると余計に悪化しそうだけど大丈夫なのかな・・・江戸の家庭の医学?
おれ皮膚炎がちな体質なんだけど、甘いものは避けるように医者に言われてる
実際、甘いもの - スィーツwとか缶コーヒーとか、あと清酒とか - 摂取するとてきめんにカイカイ出る
>>222 ってか、食い物で東日本が勝ってきたのは、バブル期以降のことじゃないか。
昭和までに東から西に伝わったものって、握り寿司しかないだろ。
>228
たまり醤油のように手間がかからない濃口醤油は
江戸というメガ消費地の需要をまかなうために東方面で開発されました
江戸時代以前
砂糖が貴重品なんだね
日本人は砂糖が輸入されるようになるまで
甘い食べ物にまるで縁がなかった(果物除く)みたいなことを
この前テレビでいってて、なんだかなと思った
お米から出来た飴(米飴・麦芽糖)とか甘酒とかは庶民も気軽に買えたのに
まあ砂糖みたいな強烈な甘さではないけど
江戸近郊で醤油が製造されるようになったのは、徳川家光が上方風を好んで、
上洛の以降、度々、上方から漁民、農民、商工民を、或る意味、強制連行的に
多数引き連れて江戸周辺に住まわせたところから始まる。
名目は、奢侈禁止(下り物の流入の制限)だったが、要は、上方と同等の産品
を江戸で作らせるため。
当時の醤油の産地が、湯浅と小豆島だったため、温暖地の製法では江戸は寒すぎて
まずは銚子で生産が開始され、後に、畑作が盛んで水運の良い野田に中心地が移動。
保守
薩摩の焼酎ってザビエルの書簡や有名な落書きで少なくとも
戦国中期には普及してたらしいんだけど、これって麦焼酎かな?
サツマイモはまだ普及してないし、黒糖はまだ琉球からの輸入だろうし
あんま米取れるイメージないんで消去法で麦かな、とおもっただけなんだけど。
なるほど。
書き込んでから、でも大抵乙類焼酎っていや米麹だよな、と思ったんだが米ですか。
そうすると、それこそ神社の勧請先が宮大工に振る舞いケチるぐらいの高級品って感じだね
236 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 22:36:49
なるほど。
237 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:17:31
238 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:30:33
>>231 千葉の醤油は、
湯浅の漁民や海運関係者が、房総に伝えたんですよ。
味噌で江戸に直接伝わったのは、三河の八丁味噌。
愛知県の人は地元の独占特産品だと思っているが、
現在の江戸でも、八丁味噌を作っているところがある。
江戸時代の、油を使う料理って何がありましたか? 天ぷら以外で。
さつま揚げ
油揚げ
242 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 12:57:10
油は貴重品
実は江戸中期までテンプラもさつま揚げも薄底の鍋で焼いていた
(; ・`д・´) ナ、ナンダッテー!! (`・д´・ ;)
うちはてんぷらもフライもフライパン使うから江戸中期並みか。
246 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 19:58:08
247 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 21:45:44
フランス料理やイタリア料理では今でもフライパンで焼くように揚げる
というか、欧米の「フライ」を勝手に日本語で「焼く」と「揚げる」に分けてるだけであって、「フライ」は「フライ」
フライドフィッシュ(魚の揚げ物)も「フライ」
フライドエッグ(目玉焼き)も「フライ」
「フライ」のための道具がフライパン
ただそれだけ
249 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 02:29:28
欧米ってあばうとやなあ
「フライ」の指す範囲が広い代わりに、日本語で「焼く」の範囲に「グリル」と「ロースト」がある。
従って欧米が大雑把なのではなく、まさに概念の違いであり、文化の違い。
251 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 13:50:48
日本人は何でも名前付けるよな。〇〇雲とか〇〇雨の名前の多さは凄す
252 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/12(火) 14:09:20
千葉のしょうゆといえばキッコーマンの主は相当儲けてたみたいだね。
253 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 21:42:40
255 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 23:40:37
>>254 いや、浅底の鍋のことを言い間違えてるのか、本当に薄底の鍋のことなのか
どっちだ?と思ってさ
鉄か銅製の行平鍋使ってたんじゃないかねぇ>揚げる、焼く、炒る
257 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:36:52
幻の魚「せぐろ」を追え!!
1 :黄ばみ ◆uGul.DiDiU :2009/06/30(火) 21:04:03.33 ID:o3Q4/l7S0
考古学の教授が俺に「せぐろ」なる魚が何であるかを
調べてこいと課題(?)を出した。
ヒントは以下の通り
・川魚
・江戸時代後期の文献に「せぐろ」「せくろ」として表記されている
・名前の通り背中が黒い?
・この名前は正式名称ではない
・一本、二本と数える この事から体長40〜50cm以上の中・大型魚
・文献の出所は東北地方
・祝いの席に出しても恥ずかしくない贈答品になる魚
条件:“〜だと思われる”等の推測の結論は×
除外される生物
セグロイワシ セグロなまこ セグロうみへび セグロまつかさ セグロぎんぽ
セグロチョウチョウウオ あわび セグロセキレイ(鳥) オオセグロカモメ
Q なぜ専門板で聞かないのか?
A いくら調べてもわからんから、オモロイ答えで教授を笑わせてやりたい
そんな答えを導き出せるのは、VIPに集う天才達しかいないから
よろしくお願いしゃっす!!
わたしも分からない・・・悔しい!ビクンビクン
>>257 >・川魚
完全な淡水魚なんですか?溯上する鮭科の魚も含みますか?
>・江戸時代後期の文献に「せぐろ」「せくろ」として表記されている
>・名前の通り背中が黒い?
鯰、鰻、鯉なんかは背が黒くて腹が白いな。
>・この名前は正式名称ではない
>・一本、二本と数える この事から体長40〜50cm以上の中・大型魚
鮭は確か一本、二本と数えるな。
>・文献の出所は東北地方
まるで土地勘なし。関東と関西も魚の呼び名が違うぞ。
>・祝いの席に出しても恥ずかしくない贈答品になる魚
完全淡水魚なら鯉だろう。儀式にも使われる。
>条件:“〜だと思われる”等の推測の結論は×
淡水魚類図鑑なら正式の和名以外に地方名が書いてある。
図書館行け
信州じゃ鯉こくは結婚式にも出るそうだね
ウナギに一票。
信州の結婚式といえば、万歳三唱とみんなで歌う「信濃の国」
263 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 12:38:26
東北だと鮭のような気もするなー 鮭に一票
どうやら田沢湖でも獲れる魚らしいですね
ttp://www.touhoku.com/0a-03-hatimantai.htm 田沢湖は水が清く深く、水温が低いが淡水魚が棲息して観光客の食膳をにぎわし名物となっていた。
魚族をふやすため、明治35年(1902)に同湖畔の西明寺村潟尻に「田沢湖艀化場」を設け、
国鱒、鮭鱒、姫鱒、うなぎ等を艀化放流したので魚族は豊富になり、農業に次ぐ産業となった。
このほか鯉、鮒、はぜ、せぐろ、ごり、かじか、はや、鮎等もとれた。
265 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 13:55:40
>>250 バーベキューはグリルしなきゃいけないのに
日本でバーベキューしようと言うとみんな鉄板を持ってくる
266 :
日本@名無史さん:2009/08/02(日) 18:42:45
>>94 遅レスだが、姿寿司が原型の一つ
発酵を止め、酢を使うようになって姿鮨は見た目が生き生きしているほど
食べ難い。そこで頭やヒレを落す等の工夫がされるようになったが、
最終的に魚を3枚に下ろした身を漬ける棒寿司へと変わった。
これとは別に鮨を漬ける容器を省略する過程があり、スノコで飯
と魚を押す巻鮓が出現。このときスノコに飯が付くのを防ぐため
海苔や、紙やフグの皮をスノコと飯の間に敷く方法が18世紀中頃
に出来た。
この二つの流れが合体して巻きずしが生まれたのでは
というのか、下記の本に載ってましたよ。
「すしの歴史を訪ねる:岩波新書」より引用
江戸時代って家で炊く飯の保存どうしてたんでしょう?
夏なんか絶対腐るよね?
それは勿論、食べられるだけ炊くし。
江戸時代の飯は、確か晩(夕)の食事時に炊いて
朝は冷えたそれを湯漬けとか茶漬けとか、
汁ぶっかけ飯にして食べるんじゃなかったか。
後はまあ、江戸時代以前からあるような保存食として調理だよな。
朝に亭主が炊いて夜に冷や飯って話もあるよね
季節に寄るって事?
長屋なんか、かまどが有る家も稀で七輪共同で使い回してたって聞くけど?
つまりその長屋毎の決まりで「今日から夜炊きな〜」とかだったんかな
夏に朝から飯炊いてたら夜には腐ってるもんな
やぱり涼しくなる夕方に炊いてたのかな?
271 :
268:2009/08/03(月) 23:08:19
すっごくスミマセンでした。
うろ覚え記憶を頼りに、どうやら勘違いしてた事が判明。
自分のうろ覚えは、朝と夜が逆でした。ごめんなさーい。
大久保祥子著「江戸っ子は何を食べていたか」によると、
1日分のご飯を朝炊いて、あとはおひつに入れて昼、晩と食べるそうです。
ただし、これはあくまでも一般的な庶民の場合で
世帯や所得や生活様式によってはその度に炊く家もあった、という事。
お詫びとともに訂正させて下さい。
冷えたご飯は上方では茶粥にしたりお粥にしたり。
江戸では雑炊とか汁ぶっかけ飯。
深川飯なんて実はあさりの味噌汁ぶっかけ飯がルーツだよね。
>>271 江戸は朝、上方では昼に炊いていたらしいですね。
どちらも、おかずは昼が一番豪華だったそうです。
で、結局江戸の「夏」の食習慣は謎なワケか・・・
どう考えたって持たないよなぁ・・・朝炊いた飯なんて。
夜炊いたとしてもとても24時間なんて無理だし。
つまりこうか?
夏:夜炊き→朝冷や飯→昼そば
275 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 12:43:51
いやいや庶民は(農民も職人も)昼は弁当か外食でしょう。
魚河岸の兄さん達は昼に仕事が終わると、売れ残った魚をつまみに
その場で酒を飲み始めるに決まってるじゃん。
そこから考えると
江戸では朝、飯を炊いて残りは弁当にして仕事に行き、夜は買い食い。
必要があれば夕方もう一度飯を炊く。
上方では夕方飯を炊いて、晩御飯。朝は冷や飯か粥。昼は買い食い。
全部じゃ無いけどこのパターン多いんじゃないかい?
もうどうにも夏と言うか季節の事を無視して定説で固めないと気が済まないって感じだなw
>>273 >>276 人さまのレスに不足があるなら、自分で調べて疑問を解消すればいいじゃん。
江戸時代の衣食住風俗の本なんてたくさんあるんだからさ。
江戸の庶民にとっては油は高価なものだったから、夜更かしはしない。
だから(三食をとる家だとしても)夕食時間は早い。
夏の、朝に炊いた飯とて夕方までならいたまないよ。
>24時間なんて無理だし
暗くなったら油がもったいないから寝ちゃう江戸庶民の生活。
夏は日が長いけど食事は夕刻なので、
炊いた時間から24時間も経過せずに消費できるんじゃないの。
278 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 14:34:20
江戸時代の夏用の弁当箱は籐編みか竹編みが多かった。
おかずは竹皮かバランに包むだろう。
後、梅干なんかも飯を悪くしない工夫の一つといえる。
>>275 「夏:夜炊き→朝冷や飯→昼そば」
↓
「いやいや庶民は昼は弁当か外食でしょう」
ぜんぜん「いやいや」になっていないし夏特化の話なのに弁当を持ち出す件。
あと色々ダラダラ書いているが結局「夜炊くのは上方!」という資料を鵜呑みにして
思考停止してるようにしか見えない。
江戸では朝に飯を炊かなければならないお上のお達しでも有ったのか?w
つうか昼飯なんてもんは無いだろ
281 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 15:33:22
江戸の真ん中あたりから一部の人が昼飯食い始めたとかじゃなかった?
>>281 業者が色々煽ったしね
あれが粋、これが野暮っつって
「そばはサッと手繰ってすっと出るのが粋、長居大食いは無粋」なんて良く言ったもんだよな
どう考えても回転率上げるための御都合主義。
>>279 そういう書き方は絡んでるみたいな印象を受ける。
普通に書き込んだら?
ん〜
でも「夏」の話をしてんのに
「いやいや」とか言いながら被せといて的外れな事言われてもな
でな284さん、自分で調べたなりの「夏の食」についてのレスを宜しく。
甘酒って江戸時代の夏の暑気払いで良く飲まれたものなので、
俳句の世界ではいまだに「夏の季語」なんだよね。
最近ではさすがに読み込む人も減ってるみたいだけど。
なんだか現在の生活風俗と昔ながらの歳時記との違和感を強く感じるわ。
他人の説に、調べてきただけのネタを、それも全然的外れに被せておいて何を偉そうに
287 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 23:27:32
夏の飲み物といえば
柳陰って飲んだ事あるひといる?
焼酎と味醂なんて何だか悪酔いしそうだけど
ジン+ベルモットだって、よく考えたら気持ち悪いな
季節問わず飲んでるけど
289 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 00:48:26
甘酒といや神田明神前に古い店あるなぁ
290 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 12:47:35
>>286 ぐだぐだ絡み粘着止めたら?
で、お前の説の根拠は何処に載ってるの?
>>290 粘着とか言っとけば痛いヤツ扱いできると思ってる?
そもそも「夏は物が腐りやすい・回避策は何だったのか」という話が根源
難癖・粘着はどっちだろうね?ご本読んでばっかで自分で考えないおばかさん。
どっちもどっちで煽りあってりゃ世話が無い
293 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 14:25:01
>291 そもそも「夏は物が腐りやすい・回避策は何だったのか」という話が根源
自分で考えろ!と言いたいが俺も考えてみた。
そもそも釜で炊き上がったご飯はすぐに御櫃に移します。
これは竈炊きは火加減が難しく、炊き上がりが一定でないため蒸らすのだと思う。
御櫃は色々種類があってふた付きで、樽のように杉、檜で出来たもの、
塗り椀のように漆を塗ったもの、それから瀬戸物のもの、いずれもふたがある。
これは「江戸風俗絵図」の絵に載っていた。
夏場のご飯の傷みを抑える方法として杉、檜の御櫃を使った。なんせ殺菌効果がある。
さらに籐や竹編みの籠や笊を使い、風通しを良くする。
虫が入らないように布巾や布を掛けておく。
逆に塗りや瀬戸物は保温効果が高いのでは。
>>291 回避策。
飯はいたまないうちに食べられるぶんだけ炊く。
腐りやすいものは早く食べる。
または、いたまぬうちに調理などして、しかし早めに食べる。
・・・そういう普通の対処法でいいんじゃないの。
「回避策」も何も保冷や保存についての文明の利器なんいて無いわけだから、
腐りやすいものを食べるのは控えてただろうしね。
他人のレスに文句いうばかりじゃなく、少しは自論を書き込んだら?
ご本も少しは読んだほうが智恵がつくよ。
>>294 回数嵩むと薪代とかの経済的理由も入ってくるんじゃないかな
何を揉めてるんだか知らんが、みんな糒(ほしいい―「干し飯」とも書く)を知らないのかな?
出来るだけ適量を炊く、早めに消費するのはその通りだが、それでも余った分は乾燥させて保存した。
糒は正倉院文書にも登場するほど古くからある保存食で、戦国期にも重宝がられていたし、江戸期にもあった。
湯で戻して食べたりもしたが、粉末にしてから色々なものに用いたりもした。
炊いた飯のままで、特に夏季にこれを保存するのは短い時間しか無理なので、こういう保存法を用いていた。
夏ならすぐに乾燥するからね。
糒はもち米じゃないの?
>>297 もち米でもうるち米でも両方作られていたようで、例えばもち米の糒を粉にしてから作るのが”おかき”で、うるち米の糒からだと煎餅みたいな利用もされていたらしい。
どんな味か食べてみたいので
ひとつ欲しいい
300 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 09:54:22
>>296 >>299 干し飯って、炊いた飯粒が乾燥してカチコチになることがあるじゃない。
(炊飯機の周りにひっついてる)あれを食ってるような感じなのかな?
風通しのいい場所で何日もかけて干すって聞いたけど。
カリッとするらしい。
303 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 14:54:01
徳川将軍様は、肉料理をホントにお食べになられたことがないのかな?
何で?鶴とか鴨とか喰ってたろ。
家康は鳥肉好きじゃなかった?
正月は兎の雑煮だろ?将軍家
彦根藩献上の牛肉の味噌漬は将軍の口には入ってたのかな
308 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 13:56:15
将軍様は天ぷらが大好き
310 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 16:23:43
四つ足がダメなんであって鳥はOK
兎も1羽2羽と数えるから大丈夫
ああっ6日前のダジャレにマジレスがついている
干し飯って涙でふやけるくらいだからさ。
チャングムでは干し飯そのまま喰ってたぞ
チャングムを見て涙ぐむ
315 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 15:25:54
中秋の名月って、やっぱり団子なの?それとも里芋?
316 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:38:01
本来は芋名月だが団子に置き換わった
317 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 12:13:28
クサナギがテレビで糒作ってた
そのまま喰ってたの?
319 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 13:14:40
320 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 19:53:21
八百膳に代表される江戸の高級料理は何故衰退したのですか?
八百膳の現当主の方は地震と空襲が原因といっていますが
にぎり寿司、鰻、天麩羅といった庶民系料理は健在で今や日本料理の代表選手となっている以上
それが理由だとは思えません
何故、高級料理だけ関西系に取って代わられたのか疑問です
日本最大にして最先端の都市である江戸の高級料理が
何故京都の田舎料理に負けたのでしょうか?
321 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 20:41:55
当時、高級料亭に行くのは食いもん目当てじゃないからね
遊びがなくなったんだろ
323 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 22:17:14
よくわからんが単純に京料理の方が競争力があったんだろ。
基本的に文化力は京の方があったんだし。
当時のレシピなんか見ると現在じゃあ作れなくなったのとかあるんだよな
技術の継承が途絶えたって事なのかなと思う
現役の調理師としては情けない限りだけど
自分の親方の親方なんかの世代と比べると技術がはっきりと落ちてるしな
自分の腕がどうこうじゃなくて昔はやってた調理方法も
今じゃコストパフォーマンスや時間と値段が釣り合わなくなってやらなくなってたりするしな
超一流と呼ばれるところならまだやってるのかもしれんけど
しかし昔のレシピ通りに作ると大概不味いんだよな
326 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 10:27:31
江戸の高級料理は元禄の時にピークをむかえ
以後は衰退し震災と戦禍で止めさされたんだよね
成金向け料理から脱却できなかったのが敗因
八百膳の料理なんてのは簡単に言えば高級食材をドカン使い
無駄に手間かけた調理をしてどうだ凄いだろ!びびったか!
ていう料理なんだよ
まぁ元禄以降の時代の変化に対応できなかった恐竜料理なんだわ
327 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 11:08:17
お茶漬けエピソードは好きだけどなぁ
俺が侍の立場なら激怒したが。
旨さより粋を求めてたよーな気がする。
>>320 ほぼ回答が出尽くしているようだけど、『吉兆 料理花伝』という本にその辺りのことが書かれている
やはり関東大震災で料亭を支えていた文豪などの主な客層が一時関西に疎開したりしたことが大きな原因のようだ。
第2次世界大戦はその状況が数年も続いたのだから、押してしるべし
329 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 15:32:31
文化文政の頃から庶民文化が発展し、同時に庶民向けの食べ物も発展した。
つまり安くて美味いものが出来ると、やっぱりそれが人気となるはず。
330 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:30:22
>>328 そのパトロン達が戦後東京に戻ってきても
江戸料理を求めずに関西料理を求めたからな
結局、味で負けてたから淘汰されたってことだよな
江戸の料亭料理は奈良茶飯から発達した本膳形式
膳立てをして、口取りを出し、お土産もつく
このような形式が明治以降だんだんと世の中に合わなくなってきた
これに対し、関東大震災以降盛んに上方から入ってきた
関西料理は茶懐石から発達した「食い切り」の形式
一品ずつ、タイミングを見て「流れ」を演出しながら食わせる、今ではおなじみのものだが
当時は新味として珍しがった、其の上上のレスのような事情もあり
これが受けたので数年たたずに主たる料理屋はみなこの上方仕立てになってしまったらしい
フランス料理のフランス式とロシア式のサービスの交代のような話だよな
ただし其の過程で失われた料理も多く
特に「お土産仕事」といわれるようなものや「見立て料理」(寿司に残る)
などはほとんど姿を消してしまったとの事、今思えばもったいない
332 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 06:12:52
京都の料亭文化てもはや総合芸術の域だからな
八百膳の成金向けバブリー料理じゃそりゃ勝てませんて
333 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 12:53:22
>>331 よくわからなかったので調べたら
「口取り、お土産」のうち口取りはかまぼことかの折り詰めみたいだけど、
お土産はどんなものなんですか?
334 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 15:00:01
335 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 23:14:42
もしもしには読めないぜ
>>333 お土産、お土産仕事とも言う
文字通り「持ち帰る」事を主眼にした料理法
汁をすべて材料に含ませ、からりと煮上げた煮物などの類
たとえば持ち帰りの一の重に口取りのかまぼこや金団
与の膳の焼き物などを入れるとすると、二の重にこのように仕事した
料理を入れて「お土産」として持ち帰っていただくわけだ
「食い切り」の形式にはこのようなお土産はつかないので
自然とそのような仕事も廃れた、ということだな
なんかおせちみたいだな
てゆーか、おせち料理は現在に残った数少ない本膳料理の一つ
・・・残ったといっても一部だけですけどね(栗きんとん、伊達巻きはお土産仕事の名残といわれる)
339 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 15:05:16
>>336 ありがとうございやす。
成る程煮物とかですか。
塩味が効いてそうだなぁ。
握り飯と一緒に外で食えばうまそう。
御節は農村の晴れの日の料理や江戸のお土産仕事など
いろんなものの要素が混ざって残ってるみたいね
後江戸の頃の料理で消えたものというと台屋料理か、吉原あたりでの仕出し料理
すし屋の盛り付けに台屋の仕事の影響がかなり残ってはいるようだけど
見立て料理も含めて、江戸料理の名残はすし屋にあり、ってところだなあ
>>341 やけに詳しいね
レスを参考にググってみたけど、調味料や調理法も限られていた時代には、
見た目を演出というか、奇をてらう方向に進んでたわけかな?
アイディアや技巧は素晴らしいのだろうけど、生き残れないのも仕方ない気がする
>>342 どっちかというと料理史のほうを勉強しているもので
まあ、もともと日本料理は「目で食わせる」という部分があるわけだけど
それが極端な方向にまで発展したのが台屋料理だからね
花街のお座敷で大臣遊びをするにふさわしい、派手で飾り立てた料理
すし屋の「チャンチキ」や葉欄の飾り切り、寿司を斜めに少し離して盛る
こういうのは元々は台屋の仕事らしいね、今では普通にすし屋の仕事だが
昔はこういう盛り付けをした寿司は、堅気の家には持っていけなかったとか
>>343 へえーってまたググってたら川柳見つけた
台屋から虎の出そうなすしが来る
>>344 それは葉欄の飾り盛りだね、古い芸談本で記述を見たな
台屋ってところは仕出し屋で、自分のところでも料理をするが
寿司なんかは注文が入るたびに古馴染みの寿司屋ににぎって持ってこさせる
そのとき、たとえば注文が5人前だと、実は3人前しか発注しないそうで
寿司屋がもってきた寿司を、大きなオケに移し変えて
斜めに少し離して盛ったり、間に飾り切りした葉欄をたくさんにいれたりして
水増ししていかにも盛りだくさんに、派手に見せて揚屋に届けるという寸法
この差額の二人前が、そのまま台屋の儲けになるわけだね
こうして「虎の出そうな」寿司が出てくるという寸法だけど
届けられるほうも其のあたりは委細承知で、祝儀ぐらいのつもりだったから
(その位鷹揚に金払いよく見せるのもまた遊びの内だし)
問題は無かったんだが、明治に入ると野暮な田舎物が文句つけたりして
そういうこともだんだんに出来なくなっていったってことらしいね
正直ぼったくりだもんね
それにしても遊郭の川柳ってすごく沢山あるよね
江戸後期〜は結構リーズナブルな見世が多かったらしいけど、
庶民も随分遊んでたんだなーとw
おかみさん達は夜遊びしなかったんだろうか
>>346 間男をネタにした川柳も多いよ
つまり其のあたりはまあ、お互い様みたいなw
亭主が一月とか出かけてる間に、長屋の一人もんがほとんど兄弟になったとかなw
然し一つの長屋で女房持ちなんて限られたもの
もしそういう女房でも、亭主はやはり一目おかれたというね
だから亭主の方も知らん顔して見栄張ってた、なんて笑えない話もあったりしたそうな
>>347 なるほどねー
やっぱ江戸時代はかなり開放的だったんだろな
武家の奥方が一番ワリをくってた時代という感じがする
>>212 今更、なレスだが冗談抜きでそんな職場で労働してるのか?
もはや、訴えた方がいいぞ。それ。
350 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 01:14:37
ほー
351 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 02:30:39
>>348 だから今や文明開化の世であるから淫乱を廃し
日本中の女を武家の奥方のようにしようというのが
北村透谷の『処女の純潔を論ず』なわけだ
またフナズシ食いてぇ
茶漬けにして
353 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 13:00:33
この時期になると牡蠣が好きでしょっちゅう食うんだけど
江戸時代はどうだっんだろ?
大阪には牡蠣船があったそうだが、お江戸ではどうだろう
355 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 15:04:42
確か広島の牡蠣養殖って江戸時代にはやってたんじゃね?
牡蠣なんぞローマ時代からくっとるわ
357 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 15:37:04
鍋で煮たり殻ごと焼いたりしてたんだろうな
>>356 それを言い出したら、貝塚から牡蠣殻いっぱい出てるし
「片棒をかつぐゆうべの河豚仲間」 柳多留
当時の死亡率ってどのくらいだったんだろう。
360 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 17:06:41
日本橋蛎殻町って貝塚?
363 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 05:35:34
おかき揚げ
365 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 14:27:34
池波正太郎の「藤枝梅安」シリーズに書いてあった鍋なんだけど、
小説参考に再現して食ってみたら凄く美味かった。
材料は薄味の鍋だしに生姜一かけ、大根、油揚げの刻み、鶏肉、鳥皮
あと薬味に三つ葉、七味位だけ。
やっぱ池波は食通だよ。酒にも美味いし、冬場はこれに限る。
おい、そんくらいの料理で食通認定はまずいだろ
知らな過ぎだと思うぞ
池波は自他共に認める「食いしんぼう」
むしろ食通なんていうと失礼に当たる、そういうタイプ
食通のスノッブや気取りとは修正無縁だったし
だからといって決して庶民派であったわけでもない、よく勘違いされるが
むしろかなりの贅沢者でハイカラ
それはそうとして、小鍋立ては再現してみると本当に旨いな
浅利と大根の千六本を出汁でさっと煮ては食うなんていうのは、本当にたまらない
368 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 17:08:23
塩でございますよ。
369 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 17:13:16
剣客商売のとり鍋とかうまそうなんだがな
370 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 17:43:35
>367
>それはそうとして、小鍋立ては再現してみると本当に旨いな
>浅利と大根の千六本を出汁でさっと煮ては食うなんていうのは、本当にたまらない
最近は冬場だから浅利の変わりに牡蠣使ったりしてる。
これもまた美味いぞ。試してくれ。
371 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 17:50:27
鰻丼
どんぶりの起源だね
油揚げを直火で焦げ目がつくまであぶり、適当に切って
炒ったシラスときざみネギと一緒にごはんに乗せて
醤油をかけて食う
油揚げの香ばしさとシラスの香ばしさネギの香りが絶妙に合う
確かこれも池波の何かの本で読んだんだが思い出せん
うまいし簡単だからよくやってるよ
373 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 14:30:33
>372
やってみた。美味いし酒のつまみにもなるね。
ただ厚揚げと違って、油揚げのあぶり加減が難しいな。好みによるんだろうが。
「鬼平犯科帖」の猫殿がたくさん居るんだな。
まあまあここでは、長いのではなく包丁を存分に
ところで、池波が参考した文献って何だろうね
特に「柿の味醂掛け」とか「煎酒を使った膾」あたり、何か茶料理関係かなあ
鬼平のTV版キャストや料理指導には生臭くて不評だった「鯉皮の酢の物」
当たりはエッセイから参考元がわかってるんだけど
(今でもあるのか知らんが、津の有名な鯉料理屋の自慢料理らしい、食エッセイにある)
自力で探そうにも復刻されてて入手しやすい江戸の食文献ってあんま無いんだよなあ
百珍物がちょこちょこあるぐらいで
376 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 14:43:19
>池波が参考した文献って何だろうね
確かに俺も気になるな。江戸時代の料理で消えてしまったものって結構あるのかな?
いっぱいあるね
消えてなくてもたとえば百珍物の中で再現できないのとかたくさんある
378 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 17:10:10
確か八百善のレシピは子孫が管理してたような。
蕎麦とかは砂場やら藪が江戸のレシピ持ってそうだな。
>375
あすこの鯉は、湧水のいけすで一月絶食させて臭みを抜くからなあ…。
コースでは皮のから揚げが出るようだ。
380 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 14:45:14
池波健在の頃はまだ八尾膳も営業してたしなぁ
実際に料理を食べただろうし、文献に書かれてる料理を再現できたかもな。
381 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:25:15
多少臭みのある鯉(アライも鯉コクも)が好きな俺です(>_<)
砂場は地元の小倉に住んでた頃はよくお世話になりました(*^^*)
382 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:27:11
池波系の料理なら軍鶏鍋が一番手軽そうだなぁ
383 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 22:21:19
ネギと揚げの味噌汁みたいのを大次郎がくってたよーな。
>>383 揚げは入らない、いわゆる千住ネギ(白ネギ)だけをたっぷり入れた味噌汁
根深汁、というヤツだな、梅安では労働の後にゴマの油をホンの少したらす、とやっていた
まねしてみたがこれは確かに旨い、事に冬にいい
池波の料理で一番頻発&手軽なのは「葱入りの炒卵」ではなかろうか
池波本人の好みもあって、重要な場面でよく葱が出てくるよな
385 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 02:04:43
池波はそばも間違いなく好きだろう。
386 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 14:09:46
蕎麦屋で酒をちびちび飲みながら蕎麦を食う場面がよく出てくる。
小さな蕎麦屋の屋号もよく書かれてるけど、江戸時代に実在したのかね?
何で調べたんだろう?
387 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 18:20:44
>>384 そうそう、ねぶかあったあったww
貝柱のかき揚げ天ぷらそばが流行りとかそんな表現もあったな。
>>386 そのものずばりは使ってないが(一部例外あり)
参考にしたと思われるのは「江戸独買物案内」などの案内物
だと思う、今で言う名店ガイドみたいなもの、江戸の頃には各種出版されてたよ
切絵図と案内を参照しながら、町の様子や雰囲気を想像しつつ
うまくその土地に合いそうな店を創造して行ったんだろうな
>>387 その辺りは当時の評判記や世相随筆なんかだろうね、参照元は
かなりそういった市井に関するものは読み込んでると思う
俗説的なものの引用も多いけど、いい加減な思いつきで書いたような記述はないからな
389 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 15:38:24
江戸の湯豆腐はやはり京風に昆布だしで茹でて
濃い目の醤油のつゆで食べるんですか?
390 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 08:38:03
寺のお坊さん達は本当に肉を食べなかったのかな?
>>390 食べるよ。お酒も飲む
仏教には方便という便利な言葉があるんだ
今のお坊さんの話だけど、葬式や法事で出されたものは何であれ、全部食べるのが礼儀だそうで
お酒も肉も食べなきゃならんそうだ
>>390 仏教には出されたものを気付かずに
食べる分にはいいってルールがあったような。
393 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 18:56:00
浄土教だったか浄土真宗だったかの
肉食妻帯の理論があったはずだが
凡俗がいくら修行したところで成仏なんてできない
阿弥陀如来の力で成仏させてもらうほかはない
って考えだから、肉食妻帯問題なし
在家もそんな感じなんで、ほかの仏教からは
「門徒、物知らず」とか言われたりする
「門徒、物知らず」の意味が違ってる
396 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 11:00:56
将軍家は、温かい(熱い)食事をとらなかったと聞きますが本当ですか?
もし本当ならば、鍋など食したことはないのですかね?
厨房から御前に上がるまでの間に何人もの毒味役が入るから
将軍の前に来たときにはすっかり冷え切っていたという話を何かの本で読んだことがある。
だから材料は超級でも味は「…」な代物だったのではないかな>将軍の食事
御台所の食事も同じ状況なのだが、
こちらの方は控えの間にあった火鉢でお付き女中が食べる直前に温め直していた。
398 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 15:30:11
将軍の食事を調理するのは、やっぱり侍なのか?
それとも町人の調理専門の人が作ってたのでしょうか?
料理がお家ごとの家柄ってのあったよね
あれってどういう階級なんだろう
400 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 23:44:44
御膳番
401 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 11:35:42
じゃあ殿様って掛蕎麦や盛蕎麦なんか食えなかったんだ〜 かわいそー
402 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:35:01
んなことねーだろ。
武士にとってソバは隠れて食うものだったらしいし
下品な食い物らしい
404 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:43:21
大大名家は知らないが、小規模藩のお殿様なら相当財政難ただったからね。
一汁二菜なんて殿様もたくさんいたらしいから、蕎麦だの湯浸けなんか密かに食べて腹の足しにしてたかもね。
>>403 蕎麦がというより、外で食う行為がじゃないのかな?
406 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 13:53:19
屋台に顔を隠して訪れる浮世絵あったな
屋台があかんのだろ
>>405がほぼ正解
下直(げじき)の場所にて飲食するは武士の体面として恥、という意識
でも旨いものに目が無いのは上も下も一緒、だから変装するとか、笠で顔を隠すとかする
蕎麦は食っていたどころか好物だった殿様が多いぞw
といっても暖簾をくぐって、って言うんではもちろん無く、ちゃんと出入りの蕎麦屋に届けさせる
その場合御膳箱という漆塗り金蒔絵の箱を遣わし、その中に蕎麦を入れて
汁は別添えのこれも漆塗りの汁次に入れて持参させる
事に季節切、卵切、五色蕎麦といった変わりそばが好まれたらしい、かけはあまり好まれなかった模様
ちなみに本来こういう身分の高い家に出入りできる蕎麦屋が御膳蕎麦屋
この下が並蕎麦、駄蕎麦屋というランクになる
蕎麦屋確立以前は菓子司が蕎麦も扱っていて納入していた、後は坊主な
寺の振る舞いという形で蕎麦が供されて、これが楽しみで寺参りをする殿様も多かったという
より詳しく知りたければいろいろ文献を当るのもいいが、手軽なところでは小学館文庫から
大正時代の「蕎麦通」が復刻されているから読んでみるといろいろ乗ってるよ
408 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 15:05:15
ついでにもいっちょ
>>398 調理するのはお目見え以下、下手すりゃお雇いで侍ですらない
それを監督するのは侍だが、これもお目見え以下
全体の管理はお目見え以上
ちなみに包丁の流派は四条園部流だな、これが徳川家の台所を預かる宗家
そのついでに
>>399 包丁の流派は本流を四条流といってこれは公家である四条家(藤原北家)の家職
ここの分派が四条園流、これも公家
大草、進士、四条園部あたりは元々四条で学んだ包丁人が室町以降の幕府に使えた家で
武家というより茶道の家元みたいな感じでとらえるといい
410 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 16:44:00
神前で箸と包丁を使って鯛や鯉をおろすのって四条流だったような
インドは料理人の地位が高かった。自分より下のカーストが作った料理を食べると
穢れるから。それに比べると、日本は随分と野蛮な感じがする。
マハラジャが料理人に頭下げてメシ作ってもらう図には違和感あるな
414 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:48:11
将軍家は鍋物を口にしたことがないのかな
>>411 カーストの高さと地位の高さはイコールじゃないと思うんだが。
416 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 00:34:08
学の足りないカスが湧いてきたな
>>412 四条流祖、藤原山蔭の事績でも調べてみろ
そんなこと言えなくなるから
>>414 鍋物なんていうのは元々下直なもの、ゆえにそれなりの家ではまずでない
当然将軍家の普段の食事などでは出されることもない
しかし口にしてなかったわけではない
江戸も完全に安定した中期以降、それまでの仰々しい「お成り」ではなく
鷹狩のついでに近所まで来たから、的な「お立ち寄り」という形での大名家への訪問があった
まあ本当はこちらがメインなんだけどね、そこは物の言いようで
そこで立ち寄り先に選ばれた大名は、ここぞとばかりに御持て成しに勤めるんだが
普通のことをやってもすぐ飽きられるので、大名屋敷の中にいろいろな施設を作って
お立ち寄りの頻度が上がるようにした、そんな施設の一つとして「田舎の農村を丸ごと再現」
というのがあって、こういうところでは囲炉裏に鍋をかけてイモや豆腐、その他のものを煮込んで
もてなす大名が直接よそって将軍にお渡ししたりした、こういうのを将軍はことのほか喜んだらしい
いわば一種のアトラクション体験なんだけど、こういう形では鍋物を口にしていたといえるかもしれない
>>412スマン
上のは
>>411あて
天皇御自ら料理を好まれ、で始まるんだから
日本の料理道の歴史はなめたもんじゃないぜ
有職料理なんて体系、他の国じゃめったになかろう
419 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 19:03:28
インド最高位のカーストが料理人やウェイター。
揚げ物だけは低いカーストの者が作った物でも食べるらしい
421 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 15:13:55
また変なのがわいて出て空気を乱してるな
江戸に戻りましょう
422 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 18:46:30
>>420 そうなのですか。
初耳で新鮮です。
日本でカレー屋やってるインド人はみんなバラモンなのかなあ。
423 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 10:16:13
江戸時代の牢獄の食事メニュー知りたい。
ろくなものが出ないのでしょうね。
424 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 14:00:57
もりそばとざるそばの違いは海苔の有無だけですか?
425 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 15:05:54
インドではシュードラの中に調理カーストがあって
飲食店で火を扱うのは彼らの専門
結婚式でも客にふるまう料理のマサラはその家の主婦が作るが
煮炊きは調理カーストを呼んで任せる
427 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:34:03
天麩羅ソバと飯を頼んで天麩羅を飯の上に載せれば天丼とソバ
428 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:39:11
天つゆは?
まさか蕎麦つゆで代用?
むしろ丼つゆが要るかも
>>424 海苔を乗せて盛とザルを区別なんてのは幕末も終わり、下手すりゃ明治以降の新義
それも手抜きの産物、と老舗の親方の本にあったな
本来は蕎麦そのものより、汁が違う
笊蕎麦や御前蕎麦など、その店で一番高い蕎麦には
「香露がえし」という、普通のかえしより味醂の量を増やした物を使う
(出汁もそれに合わせて上物の材料を使った出汁にすればなおよい)
それがだんだんと手間のかかるかえしや出汁を二つも三つも分けてとるのは面倒だ
と海苔を載せてごまかすような仕儀になった、というお話
>>428 蕎麦屋じゃ本来天つゆは使わないよ、アレは料理屋仕事、蕎麦屋仕事じゃない
蕎麦屋は基本的に店にある出汁と返し、これですべてまかなうのが本道
かえしを二番だし(バカ出汁とも言うね)で割って丼つゆ作るのが本筋
(上等な店では前述の香露返しを使う)
そもそも天ざる自体が明治末だか大正だかの新義、江戸の頃はない(種物の天ぷらそばはある)
確か一番最初にやったのは、本家の更科(今の更科堀井)じゃなかったかな?
室町だったかもしれん、この辺ウロですまない
ちなみに蕎麦屋の天麩羅、アレは本来天麩羅屋や料理屋のように花を咲かせないのが基本
衣を厚くつけてまっすぐに揚げる、これを坊主揚げと呼ぶ
この方が衣が汁を吸ってうまいからやるんだけど、これは蕎麦屋の特殊技能だったそうな
そしてこういう仕事は往々にして一流の店より場末の馬方蕎麦の職人なんかがうまくて
「芝海老を巻き海老の太さに揚げる」なんて悪口を客からいわれたそうな
今でもあるよね、中の海老は小さくて衣だけやたら分厚いやつ、アレがもう江戸からあったというのが面白いよね
衣つけすぎはダサいですよと思ってたがこれは特殊技能だったのか
親方からはそういう仕事するなと怒られたもんだが
432 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 12:59:49
もともと文化文政期から明治後期までの天麩羅って衣に味が付いてた
それに金麩羅と銀麩羅の2種類があった
だから天蕎麦用の天麩羅は衣を薄く揚げるように改良したのか
>>431 薄すぎてもいけず、厚すぎてもいけない
そういうことを言うってことはあんた筋のいい店の人だね
江戸のころから「衣でごまかすなんて駄蕎麦屋か馬方の仕事だ」とも言われてたよ
昔から馬方の職人は腕はある、腕はあるが仕事が綺麗じゃない
だからいい店の親方はそういう職人は使わなかった
>>432 花を咲かせた天麩羅なんてのは、明治になってだんだん屋台から内店になって
料理屋のようになってきてからだろうね
屋台で天つゆなんてこしらえてられないし
いやぁ
こういう話は楽しいな
もっとしてくれ。
頭の中でへーボタン連打中だ。
金麩羅 そば粉の衣で揚げたてんぷら。
また、卵黄を入れた衣で揚げたてんぷらや、
榧(かや)の油で揚げたものもいう
銀麩羅 卵の白身だけを衣に使ったもの
うーん、これであってるかな?
おもしろいね〜
>卵の白身だけを衣に使ったもの
歴史的な真偽はわからんけどこれ、エビでやってみたんだが実にうまいな。
うまいぐあいに何かがコーティングされるみたいで
噛んだ瞬間エビの香りと味が口の中に広がる。
殻を噛み破ると肉汁に押されて身のほうから飛び出してくるような感じさえする。
衣に閉じ込められたエビ自身の水分が逃げ切らず蒸し焼きっぽいのを通り越して
水っぽくふにゃっとしちゃってるてんぷらがたまにあるけど
ちょうどその対極にある感じでカリっとしてるのにエビの肉汁と中の身の弾力が生きてる。
シャクシャクの厚い衣もうまいけど、どうしても油の香りに負けちゃって
本来の魚介っぽさは打ち消されちゃうんだよな。
素材好きにはお勧めかも。
437 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 16:08:47
まあ江戸の天麩羅のほうが手が込んでたと言うことで・・・
今でもちゃんと素材によって揚げ衣を変えてるよまともなとこなら
揚げ油もちゃんと素材ごとに使い分けるし
寿司も天麩羅も「仕事」をしてたよね、江戸は
今は天麩羅も寿司もシンプルに素材勝負になったけど
料理屋の「揚げ物」は天麩羅屋と趣を変えるために今でもかなり仕事をするね
「ただ揚げて出すだけじゃ天麩羅屋とかわらない」なんて
はっきり言い切る板前も居るしね、その辺りは在り方の差かな
蕎麦屋の厚ぼったい天ぷらが好きです
441 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 13:21:07
たぬき蕎麦が妙に好きだ。
大名もたぬき蕎麦を食べただろうか?
442 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 17:42:18
天麩羅は作り置きしてある衣の厚いのがいい
つゆにたっぷり漬けてご飯と一緒に口に含むべし
注文されてから揚げるなんて論外だと知れ
ファーストフードなんだぞ
たぬき蕎麦はどうだか知らんが
蕎麦が大好きで大好きで、
お忍びで江戸市中の蕎麦屋に出没していた大名は実在するらしい
>>441 どうなんだろうねぇ。
天かすの「たぬき蕎麦」が登場したのは、江戸も幕末期辺りからじゃないかと思われるし、ねぇ。
うなぎ
446 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:30:37
うなぎっていつから今の食べ方で食べてるの?
江戸中期までは魚田にしてたみたい
蒲に焼いて醤油味にするのは中期からじゃなかったか
味醂の普及と、関東での醤油生産が関係してるからね
タレが現在のように甘くなったのはもっと後では?
もともとブツ切りしただけのものに山椒味噌やたまり醤油を塗って
串焼きにして食べていたとなにかで読んだな。
その形がガマの穂に似てるので蒲焼と呼ばれるようになったとか
449 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 18:10:28
age
どぜうをツマミにぬる燗で一杯
ウマー
落語とかで出てくる田楽って豆腐だよね。
でもいま田楽というと、大抵こんにゃく。
なんでいま豆腐田楽ってないんだろ?あれば絶対美味しいと思うのに。
今はこんにゃくが主流ってのははじめて聞いた
俺の勤めてる店だと豆腐とか麩は田楽に使うけどこんにゃくは使わんねえ
へえー麩の田楽って食べた事ないな
生麩なの?
へー豆腐の田楽ってちゃんとあるんだ!
生麩の田楽は食べたことあるけどもちもちして美味しかった。
豆腐田楽食べてみたいな。
こんにゃくが主流かどうか知らないけど、自分が住んでるとこは
田楽といったらこんにゃくなんだ。
むかしの豆腐は固かったみたいだね
だから直接串に刺してすぐ田楽にできた。
そうなんだ!なんで昔の豆腐は固かったんだろ?
昔と現代じゃ豆腐の製法が異なるのかな。
固めるのににがり使うと硬い
居酒屋とかで、目の前であっためた豆乳ににがり打って
温豆腐作ってるくれたりするけど柔らかいよ?
にがり打つ量が違うのか時間経つと固くなるのか。
真面目な話、現在の豆腐みたいなみずみずしい食べ物は足が速いから、冷蔵庫がない時代には結構貴重品だった。
昔の豆腐が本来のにがりを使っているので現在の豆腐よりも固かったというのもあるが、
それとは別に堅豆腐や高野豆腐などの保存が効くように固く加工された豆腐しか食べられなかった地域が、戦後のある時期まで存在した。
豆乳が薄いと柔らかい
あと人工のにがりでも柔らかい
そうなんだ、教えてくれてありがとう。
そういやアメリカの豆腐は固くて賞味期限が1〜2ヶ月とか昔聞いたことある。
昔風の豆腐田楽を再現するならアメリカの豆腐使えばいいのかな。
wikipedia先生によると昔は直火で豆乳を温めていたので
濃い豆乳を使うとコゲついてしまうため、薄い豆乳で作っていたらしい。
そのため固める際に水分を捕まえておけずに、固い豆腐になったと。
463 :
日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:09:58
soba
慶喜って豚一と言われるぐらい豚肉好きだけど
どんな風に食べてたんだっけ?
465 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:02:54
>>464 当時の料理法だと、鍋か汁物の具にするぐらいじゃないかな。
豚汁大好き将軍っていうと一気に親近感がわいてくる。
466 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:06:56
そういえば、薬食いでは牛肉の味噌漬けみたいなのがあったらしい。
豚の味噌漬けをそのまま炒めたら旨かろうなぁ。
肉の臭みを消すために生姜を混ぜたら、豚のしょうが焼きになるな。これはうまい。
慶喜のフランス被れっぷりから洋風の調理をしてたかもしれない
親父の斉昭も豚肉が好きだったな
西郷も豚肉の食べ過ぎで太ったらしいな
470 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 22:42:29
>>468 それでやたら精がついて40人も50人も子どもが…。
471 :
日本@名無史さん:2010/06/24(木) 23:58:17
昔TVでやってたけど、塩漬けの豚肉だったらしいよ。慶喜は薩摩からの献上品であるそれをいつも心待ちにしてたらしい。
沖縄料理のスーチカーだったかな?あんな感じで焼いて食べてたんじゃないかな?
472 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 00:49:07
>>471 ぐぐったが、肉厚でボリュームがあってうまそうだな。ベーコンみたいだ。
脂肪分があんまりない当時の食卓じゃ味わえないだろう。
473 :
トニー ◆TbjlUtTwCg :2010/06/25(金) 01:00:28
江戸時代の人って豚や牛を食べていたけど
当時の人たちには肉食禁令の仏教精神はもはや霧散していたのだろうか?
小説だが「おろしあ国酔夢譚」で遭難した人たちがロシア人がくれた干し肉を
祟られるからって食うの拒否して死にそうになる場面があったが、あれは井上靖の空想だったのか?
寧ろ、肉なら喜んで食うのが江戸時代の常識だったのか?
>>473 牛豚は上流階級や金に余裕がある人が隠れて食うもの(ただし公然の秘密)
下級武士に過ぎなかった西郷が豚肉を食ってるのは…まあ薩摩がそういうお国柄としか。
あるいは尊王運動で出世してから口にしたのか。
477 :
日本@名無史さん:2010/06/25(金) 01:12:45
>>472 471です。
私は沖縄に行った時に食べましたが、塩気がちょっと強めで、焼酎や泡盛などの強めの酒のつまみにはいい感じでしたよ。シークワサーをちょっとしぼるとまた変わっていい感じでしたよ。
そのTVでは慶喜が食べていたであろう「塩豚」の再現もやっていて、塩・布・豚肉(確かバラのブロック)・布・塩の順で重ねて、2・3日置く、と言う方法だったと思います。うろ覚えですが…
ももんじ屋は、どういうポジションだったんだろう
何となくだが、ソープランドっぽい気がする
売春はタブーだがそういう店は存在する
肉食はタブーだが……
違うかなあ
ももんじ屋でメシ食ってくるわ
って気軽に言えたんだろうか
>>478 まあ、風俗店みたいなもんではないかと。
行っていることをおおっぴらには言えない、って感じではないかと。
両国には江戸時代から続いているももんじ屋があるんだねえ・・・。
あと、Wikipediaの「日本の獣肉食の歴史」の項は結構面白かった。
480 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 18:00:50
上げ
481 :
杉浦日向守:2010/08/13(金) 23:28:48
ももんじだけではなく、肉類は「薬」扱いされたみたい。それにより、タブー視をされないように工夫をしたとか?
482 :
日本@名無史さん:
大石内蔵助は近江牛が好物