中期古墳の建造時に日本と半島の間に活発な交流があったことは認められても、
別にそれが、半島南部での軍事行動と連動している様には見えない。
弥生中期〜末まで、倭が半島南部への労働力の供給源であったと思われる事実(生活土器の搬入等)がある。
弥生終末〜古墳時代初頭になると、この人的移動に相互性が生じる(韓式生活土器の出土が西日本全体に広がる)。
古墳前期後葉になると畿内の古墳が大型化定型化する。
しかし、半島南部での倭人の活動には変化はない(人的移動は続く)、逆に半島南部の伽耶地方では王権の強大化が認められる。
古墳中期に至り、河内平野に巨大古墳群が出現する。
同じころ半島では高句麗、新羅、百済が強大化し、伽耶の勢力は相対的に低下したかのように見える。
ただし、このころ旧馬韓南部領域に前方後円型墳丘墓が出現することは事実。
こんな感じなんだけど、上記二点をもって倭による支配があったと認めるのは根拠としては弱い。
まあ、強いて言えば、倭王権が半島に対して継続的に人的供給(主として交易品としての生口ですね)を行った結果、
現地での倭人密度が高まり、倭人独自の自治的組織が成立したのかもしれない。