1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:16:09
3 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:51:42
つかマキムクを邪馬台国と思ってる信者はもういないだろw
4 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 17:06:25
>>3 ものみの塔にはカトリックがカルト宗教に見える。
こいつも同じようなもんだね。
5 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 17:58:49
毎日文化センター大阪 カルチャースクール講座
纏向遺跡とおおやまと古墳群
【講師】石野博信
【開講】10月24日〜2月5日(金)10:30〜12:00
【受講料】5回13,125円
徳島文理大学教授、二上山博物館館長、兵庫県立考古博物館長、石野博信
2世紀末、大和の三輪山麓で突然、銅鐸の破壊が始まった。弥生のカミの否定である。
そして同時に、纏向(まきむく)の地で新たなマチ造りが進行し、3、4世紀にかけて周辺のオオヤマトの地域には続々と大王墓が造営された。
そこには前方後円墳派と前方後方墳派の協業があったが、やがて、葛藤が始まった。
これらの動きを最新の資料に即して考えてみたい。
<日程とテーマ>
○10月24日 破壊銅鐸と纏向
○11月14日 箸中山古墳(箸墓)の年代
○12月 5日 おおやまとの特殊器台と古墳
○ 1月 9日 おおやまとの宝鏡と辟邪鏡(へきじゃきょう)
○ 2月 6日 おおやまとの前方後円墳派と前方後方墳派
http://www.maibun.co.jp/wp/?p=676 入会金も要るし、高いので行かないけど(笑)、2月6日の課題は石野さんにしては珍しい。興味をそそる。
>「・・・・そこには前方後円墳派と前方後方墳派の協業があったが、やがて、葛藤が始まった」
葛藤が、それでどうなったの? と質問してみたいが。
6 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 20:45:42
7 :
6:2008/09/26(金) 20:47:18
8 :
6:2008/09/26(金) 20:48:40
9 :
6:2008/09/26(金) 20:49:52
10 :
6:2008/09/26(金) 20:50:51
11 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:23:05
マキムクは4世紀じゃん。どうやっても。
すっげーな。2世紀とか言ってるやつ。
朝鮮人みたいに捏造は平気らしいねwwwwwwwww
12 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 22:31:20
都市遺構を発見してから騒げよ。
水路なら田舎の農村にいくらでもあるぞ。
竪穴式住居が1,2個発見されているから、10人くらいは住んでいた。
これはもう立派な「都市」じゃないかwww
15 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:04:53
邪馬台国畿内説の皆様へ
邪馬台国九州説の人たちはウィキペディアを見てレスしているみたいだ。
少し専門的なことだと理屈こねてスルーして無視、そして火病をおこす。
九州説は考古学ではなく売れない安物の文学だ。
安本サイト丸写しだろ。
他の考古学の本も読んだ上で、自分で比較考量、
その上で書き込んでくれ。
17 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:49:59
>>15 >売れない安物の文学だ
一瞬「売れない安本の文学だ」に見えますたw
まあ邪馬台国関連の本の中じゃあ安本センセイの本って売れている部類だよねw
ゴメンナサイwwwwwww
18 :
夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/27(土) 21:07:37
>>16 今の九州説の人間にとって、
安本美典は教祖みたいな存在だからね。
推薦本
中国の研究者のみた邪馬台国 (単行本)
http://www.amazon.co.jp/dp/4886214096/ 1980年に書かれた原著の翻訳なのでいささか古い点、
事実誤認と思われる点もあるが、行程論にこだわらない
邪馬台国論として一読の価値あり。
第一編、ニ編は研究史ののまとめとして有用。
結論的には畿内説を支持。
著者は日中通行史の専門家。2006年、北京にて他界。
誤りは誤りとして正すとして、このような議論を望みたい。
掘れども掘れども何も出ない貧しさにじっと手を見る・・・神の手を
21 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 14:51:16
22 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 00:06:32
次は興味深い点なので橿考研の附属博物館サイトからちょこっとだけ引用させてもらおう。(^^;
>遺跡の推移
> 纒向遺跡の歴史は、中心部の推移から前・後半期の二時期に区分される。
>前半期の中心部は、遺跡西半の太田周辺に推定される。大規模水路網はこ
>の時期のものであり、遺跡の西辺部を北東―南西方向に延び、初瀬川に続く
>と推定される基幹水路と、それから分岐して南東に延び、箸中山古墳の方向
>へ続く基幹水路を中心としている。>基幹水路は、遺存幅5〜6b・深さ約1.5b
>を測り、矢板によって丁寧に護岸さていた。
>
>後半期には、遺跡東半の巻野内に中心部が推定される。珠城山古墳群の北
>の平坦地には、断面V字形の溝に囲まれた建物敷地と思われる大規模な区
>画が造営されている。そこから西に下った場所からは、樋・槽を連ねた祭祀場
>が検出されていることからみて、先の区画の内部には、居館あるいは神殿のよ
>うな建物群があると推定される。
>
>当研究所総括研究員 豊岡卓之
http://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/yamatonoiseki.html 後半の「西に下った場所からは、樋・槽を連ねた祭祀場が検出」のところが、
レス
>>9に出ている「家ツラ地区の導水施設」だね。
http://remains.anmae.net/?detail=1168018161
23 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 03:21:31
>>22 庄内期の水路が矢板によって丁寧に護岸さていたということか。
この意味がわかる人がそれだけいるか。
24 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 06:19:38
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。
遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。
「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)
この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。
日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が正しく認識で
きていなかったことは事実である。
これをもって、九州説諸氏はこの条項に反論しているが、ヤマト側に
よる中国(隋や唐)の認識よりも、要は隋国の使者が正しくヤマト側の
ことを伝えていればそれでよいのである。
608年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
同6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
同8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
同9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行
この行程からも、裴(世)清ら一行のヤマト入りは、九州であった
はずはない。当時の実力者(王)は推古天皇ではなく、実質的には、
嶋大臣の蘇我馬子(天武系の人々に後に卑しい命名がなされた)であった。
26 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/03(金) 07:14:18
>>24 裴世清の調査失敗。当時は日本人でさえもわからん状態でスグにヤマト国と考え
たくなることからの、殆どの日本人の回答に依処した誤認。
かように拙者は2ちゃんの皆に報告。
27 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 12:31:45
他の邪馬台国スレが、倭人伝の一字一字の解釈で不毛な議論に陥ってる以上、
考古学に軸足を置いての邪馬台国の議論が出来るのはこのスレだけか。
28 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:39:59
143 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 09:33:39
>>135 むしろ周辺部に巨大古墳が多いのは、古墳の意義を考える意味で重要。
つまり、鉄を入手するために地域の首長たちが連合。共同して遠隔地交易の旗頭となる
オウを推戴したということ。
オウは鉄や中国鏡などを配布することで更に権力を強める。
前文字文化でオウの偉大さを民衆に示すには、目で見て分かる巨大な古墳を
造ることが重要であった。
筑紫などは既に鉄が潤沢に行き渡っており、鉄の有難みが薄れ、窓口であった
オウの権威は低下していったということ。
29 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:42:25
194 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:17:35
>>193 188ではありませんが。
そもそもの造墓集団を固定化することに問題があるのでは?
つまり、地方王権って言っても内実は首長層の連合政権であって、
古墳造りも非常に政治的意味合いが強かったものだと。
必要があれば造ったし、必要がなければ造らなかった。
例えば吉備で古墳の嚆矢として楯築墳丘墓が造られるが、
多数葬されているとは言え、その後は吉備地域で王墓造りが一旦途絶える。
何らかの政治的混乱があったためでは?
担がれたオウ権も一つの氏族が世襲したのではなく持ち回りで、
同一地域に連続しないのもそのため。
30 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:44:13
195 :194:2008/09/29(月) 19:26:42
更に言えば、箸墓以降は、畿内王権より何らかの古墳造りに対する規制が
かかった可能性もある。
箸墓と相似形の古墳が地方に多数見られることや、
弥生終末期に勢力があった筈の河内地域や越で初期古墳が見られないことなど。
河内は畿内王権直轄領(ていうか畿内王権そのものであった可能性が高い)、
越は、瀬戸内海航路安定に伴い、相対的に地位が低下。古墳造りを認められなかった?
31 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:44:45
196 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:40:29
古墳築造開始=王朝の誕生(同一氏族による王権世襲)としているところに無理があるんだよ。
結局のところ「鉄欲しさ」に、遠隔地交易を保障し得るリーダーが、
弥生以来の環濠集落の首長たちによって強引に祀り上げられ、
無理矢理権威を付与するために古墳が造られた。
前方後円墳が各地の葬祭儀礼のパッチワークなのも、新しくオウを創造しようと
手っ取り早く周辺の権威=儀礼を寄せ集めた結果。
先文字文化の民衆にオウの威厳を知らしめる為には、目に見える巨大なモニュメントが必要であったと。
197 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 19:45:25
実際に大王権力が世襲され、一氏族による世襲が行なわれるようになったのは、
4世紀末以降。高句麗南下に挙国一致で向かう必要に迫られたため。
それまでの連合政権では立ち行かなくなったんだろう。
雄略もかなり中央集権を目指し地方王権を圧迫、大悪天皇と呼ばれたが、
最終的に中央集権がなるのは聖徳太子を経て天智・天武政権まで待たなくてはならないだろう。
その意味では九州王朝説も捨てたものではない。
32 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:49:50
200 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 20:42:17
>>198 いやむしろ、庄内初めに突然列島に巨大王権が誕生したという考えこそ剣呑でしょう。
神武東征のような戦乱時代ではなかったことが考古学では分かってきてます。
高地性集落などの軍事技術の向上が、軍事的解決よりも政治的解決を求めたのではないでしょうか?
それが倭人伝にも見える女王共立なのであって。
天皇位は比較的後代まで、有力氏族たちから推戴されるという形式を取っています。
それは天皇権力は元々連合政権の色彩が強かったことの証左ではないでしょうか?
202 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:04:18
>>199 吉備の造山とか巨大古墳をどう見るかだと思いますよ。
私は大王墓だったと思ってますが。
大王家は複数系列あったという考えが自然でしょう。
桜井茶臼山やメスリ山は、同時代の柳本古墳群と並立した王権だった
という説もありますし。
203 :日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:30:49
ローマ皇帝も持ち回りだったしね。
古代での大王位の持ち回りは、歴史上、比較的よく見られる事象。
珍しくはない。
複数のクランが連合して大王を擁立。
連合にあたり、始祖王伝承や神話を同一化する必要に迫られた。
その結果が神武以降、開化までの欠史八代が創作されたわけで。
33 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 18:06:02
コピペ乙。
>複数のクランが連合して大王を擁立。
>連合にあたり、始祖王伝承や神話を同一化する必要に迫られた。
>その結果が神武以降、開化までの欠史八代が創作されたわけで。
これは確定でしょう。
崇神以前は、奈良盆地も複数の首長国にわかれてたはず。
神武紀にも、倭国造と葛城国造その他が別々に書かれてる。
34 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:02:49
>>33 >これは確定でしょう。
3つのセンテンスすべてに肯定意見なのか?
>複数のクランが連合して大王を擁立。
これは私も賛成したい。
そのクランの一つに「吉備」が係わっていることもほぼ確定しているだろう。
だが、
>連合にあたり、始祖王伝承や神話を同一化する必要に迫られた。
>その結果が神武以降、開化までの欠史八代が創作されたわけで。
これらも連合時において早くに行われたと考えるのはどうか。
始祖王伝承や神話を同一化する必要に迫られたのは、6〜7世紀とみることも可能だろう。
35 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:40:31
>>34 仁徳陵が作られた時代に、始祖伝説がばらばらだったというのはどうか?
36 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 20:07:43
>>34 6〜7世紀の時期に、帝記旧辞やら天皇記国記が作られて、後の記紀に繋がるていうことでしょう。
特に継体は歪な皇位継承をしており、自らの正当性を主張する必要があったのだろう。
それは記紀を編纂させた天武朝と同じだが。
ただ直木孝次郎はカムヤマトイワレヒコの名から、イワレの地に宮があった雄略の頃に、
始祖王伝承が形作られたとする。
後に蘇我氏が権力を握り、即位の地を自らの勢力圏・橿原に持っていったと。
37 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 20:50:52
仁徳陵にしても、実際は履中陵の方が古かったり、履中陵と吉備の造山が相似形だったりなど。
果たして記紀の記述がどこまで正しいかは疑問符がつく。
ただ、仁徳以降、皇位が兄弟相続されるなど、皇統の記述がリアルになるのも事実。
また外部から婿入りした形の継体が、あえて応神の裔であることを称したことや(本当にそうなだけかもしれないが)、
記紀成立以降、応神が八幡神として尊崇を集めたことなど(応神の直接の祖先として神格化したとも考えられるが)、
応神が特別な大王という認識があったのではないかと思う。
大王墓も大和から河内に移る時期。突如古墳が巨大化。葛城や吉備での古墳築造開始など。
何らかの政変が応神の時期にあったとも考えられる。
後世、応神こそが直接の始祖王という認識があったのではないか?
38 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:05:00
継体以降、皇后が皇族から選ばれるようになったのも、継体の天皇一族としての血の薄さが原因なんだろう。
光明子立后の時、記紀からの故事の引用で、藤原氏は強引に事を進めた。
また梅原が言うように、祖母・持統→孫・文武への継承の不自然さを、
アマテラス→ニニギつまり天孫降臨神話を挿入することで誤魔化したのかもしれない。
記紀はそういった政治的思惑でいろいろ改変されたと考えるべきなんだろう。
39 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:42:18
蘇我馬子なんか推古擁立の時、飯豊女王なんかを持ち出してるしなあ。
昔の政治には故事を持ち出すことが重要なんだろう。
40 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 22:40:35
逆に言えば、どの氏族も故事が正しいと認識してたってことだろ?
>>36 直木孝次郎の『神話と歴史』を読んだが、この人は極左だね。
記紀の解釈の基点はぜんぶ王権の正当化から始まる。
明治時代は『絶対主義王政』とか繰り返して正気とは思えない。
これが学説として認知された時代が本当にあったのかしらん。
>>34>>37 でも、吉備が絡んでいたとすると、ある疑問が生じる。
なぜ、吉備勢力が大きく絡んでいながら(大王を出した?)、
「大王の本拠地」が、ずっと畿内から出ないのか??
これはまさに
>>1に繋がる、素朴だが重大な疑問だと思うが。
西南日本に君臨する勢力の根拠地が、
近畿中央低地帯である必要は、実は全く無いわけで。
畿内は、西からの文物の到着も、西南日本で最も遅れる辺境の地であり、
弥生期から古墳期においては、
今の盆地や平野の大半は潟湖か湖で、可耕地すら少ない。
吉備(岡山)平野のほうが、よほど恵まれていたはずなのだ。
なのに、どうして「畿内にわざわざ『出張』する」かね?
もう、天皇も中央政府機能も畿内には無いのだから、
そろそろこのことを正面切って疑問にしてもいい希ガス。
>>40 だから記紀編纂前に持統が十八の有力氏族に墓記を提出させたわけで。
>>42 今の流行で言えば、東海勢力の影響が初期大和王権では大きかった、
となるのでしょうか?
当時の日本列島の交易の中心地が大和であって、そこに人や物資が集まり、
王権が誕生したと唱える人が多いように思います。
私はむしろ、大和や河内が後進地域だったからこそ、多くの移住者やら今来の渡来人が
集住し易かったためでは、と思うのですが。
ヤマト王権とは、大和湖とか河内潟の跡地である低湿地帯を
農耕地に変える一大プロジェクトだったのではないかと。
45 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 01:47:59
46 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:18:19
東海勢力と言うと、何か東海全体を統べる大王みたいなのがいて、
交易拠点としてマキムクに進出した、みたいなイメージを持ってしまう。
実際のところ、当時の日本にまともな戸籍はなかっただろうし、
ヒトやモノは、クニに縛られることなく、かなり自由に往来していたのでは。
たまたまそのヒトやモノが最も集まる地点がその当時はマキムクであって、
物々交換を仲立ちする神聖な場として、三輪山山麓が選ばれた。
瀬戸内海航路が整備されると、交易センターは河内に移ることになる。
47 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:57:23
東海からのモノを交易するために奈良が選ばれたわけだろ?
48 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 11:36:12
福井の日本海ルートの交易路の関係も有るのでは?
49 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:10:43
なぜ、淀川水系でなく、奈良なのか?ってことでしょ。
京都のほうが地の利がよくない?
>>46 まあ、「大東海王国」をイメージしているのは狗奴国尾張説ヲタだけだろう。
実際の「東海勢力」の特徴は、これとは正反対で、
例えば濃尾平野に求心的な「王朝」が出来る方向ではなく、
比較的均一のエスニシティーを持った集団が、
中部山岳へ分け入り、関東平野へ流れ下り、東北南部へ谷沿いに北上しと
ものすごい勢いで東へ東へ拡散しているように見える。
だが、それでも仙台平野南端まで「東国」に組み入れられたのは
律令時代直前(多賀城の前身と言われる南小泉遺跡の時代)であって、
巻向の時代には、とてもじゃないが「畿内」は集散の中央たり得る地理的位置ではない。
うら若い「東海勢力」をどんなに重視したとしても、
やはりまだどうみても「東の辺境」なんだよ。
西南日本は、少なくとも九州まで600km確実に伸びているわけだから。
これがどうしても謎なんだ。
51 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 02:58:21
>>50 >西南日本は、少なくとも九州まで600km確実に伸びているわけだから。
ちょっとまて。
何が伸びてるの?
吉備あたりで、九州と畿内は分断されてるように見えるが。
>>51 >何が伸びてるの?
西南日本の「弥生文化圏」だよ。
少なくとも九州北部から畿内まで。
東は、巻向の時代には確実に入るのは東海まで。日本海側はもう少し伸びるようだ。
>>1は、つまるところ、
この「『西南日本弥生文化圏世界』における、覇権争奪戦」の話だろ?
この最終勝者が、畿内の一首長(後の皇室・天皇家)になる。
どうして、筑前でも豊前でも安芸でも吉備でも出雲でもなく、
大和(畿内)の首長が、最終勝者になったのか。
そのきっかけの鍵が、巻向にあることは確実であるわけで。
53 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 11:02:13
>>52 そのマキムクに搬入される土器の大半が東海土器なんだけど。
なぜ東海を無視するの?
>>53 >
>>52 > そのマキムクに搬入される土器の大半が東海土器なんだけど。
> なぜ東海を無視するの?
西南日本じゃないからでないの。
>>53 東海まで入れたって100kmしか東に伸びないだろ。
でも西には九州まで600kmがデフォなんだ。
金日成の縮地法wwでも使わない限り、これが縮むことは無い。
依然として、弥生文化圏の中で巻向はかなり東に寄る。辺境と言ってもいい。
56 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:02:27
3世紀の神門古墳とかあるしな。
単純に勢力圏拡大とかいう問題ではないらしい。
57 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:25:04
記紀神話を持ち出して申し訳ないが、
西郷信綱が言っていたように、西=穢=出雲、東=聖=伊勢とした
世界軸が東西に大きく引かれたのだろう。
記紀神話成立当時の世界観を表している。
三輪山の同緯度地域に聖地が密集するなど、いわゆる「太陽の道」だが、興味深い事象。
58 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:29:24
>>55 だからね、距離的にじゃなくて、量的に東海地方のほうが比重が大きいって言ってるの。
九州とマキムクってほとんど交流ないよ。
吉備で分断されてるでしょ?
59 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 12:35:18
筑紫で庄内甕生産されてるし、畿内を中心に中国由来の画文帯や三角縁が
見つかってるし、マキムクとツクシが分断されていたとは思えないのだが。
単に、九州系土器の流入がマキムクにないだけ
>>58 だからさ、巻向に東海勢が大きく関わっていたというローカルな話と、
畿内の西南日本における位置付けという「全国レベル」の問題では、大きく異なるだろ。
そりゃ畿内から見れば東海はお隣さんなんだから、交流があって当然。
だが、それは福岡の遺跡から大分の遺物が見つかったり、
福島の遺跡から栃木の遺物が見つかったりするのと同じだ。
これはローカルな話なんだよ。
俺が問題としているのは、どうして巻向→紆余曲折→最終的には畿内政権
が、蝦夷地域と沖縄を除く日本列島の支配権を握り、
畿内が古代から少なくとも平安末までの「中央」になったのかという話。
61 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:01:59
>>59 >単に、九州系土器の流入がマキムクにないだけ
これこそが大問題だろ。
どうして九州系土器がマキムクに流入してないのに、
>>60は問題視しないのか不思議なんだが。
62 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:17:25
九州系の土器が出土しないことがそれほど重要なのか?
単にマキムクに移住した人の中に、九州系の人が殆どいなかったということだけでは?
当時西高東低であって、わざわざ先進の九州からド田舎の大和へ移住する必要がなかった
というだけだろ?
>>61 それを、そのまま素直に考えるなら、
「巻向は『弥生文化圏』の後進的な奥地=東部のローカル政権だった」
というだけの話になる。これはこれでよい。
だが、問題はその次なんだ。これを是認すると、
「じゃあ、どうしてローカル政権が、後に西南日本の覇権を握ることになる?」
という問題が生じる。これが否定されたら、巻向はローカル政権止まりで終了となって、
>>1の「王権の礎の地」であることが否定されてしまう。
64 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:31:48
>>63 28 :日本@名無史さん:2008/10/15(水) 16:39:59
143 :日本@名無史さん:2008/09/28(日) 09:33:39
>>135 むしろ周辺部に巨大古墳が多いのは、古墳の意義を考える意味で重要。
つまり、鉄を入手するために地域の首長たちが連合。共同して遠隔地交易の旗頭となる
オウを推戴したということ。
オウは鉄や中国鏡などを配布することで更に権力を強める。
前文字文化でオウの偉大さを民衆に示すには、目で見て分かる巨大な古墳を
造ることが重要であった。
筑紫などは既に鉄が潤沢に行き渡っており、鉄の有難みが薄れ、窓口であった
オウの権威は低下していったということ。
65 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 15:00:32
>>63 >「じゃあ、どうしてローカル政権が、後に西南日本の覇権を握ることになる?」
つまり、そういうことでしょ?
問題の本質は、君が言う「ローカル政権」が西南日本の覇権を握ったのはなぜかってことだよ。
この問題がハッキリ解決してないから、邪馬台国九州説だの東遷説だのが沸いてくるんだ。
>>64 だが、俺はマキムクが「ローカル政権」とは思わない。
鉄が流入していないだけで、「ローカル政権」と決め付ける理由がわからないね。
鉄が無くても、マキムク中心の近畿の交易規模は九州をはるかに凌駕してるわけだが?
66 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 15:09:52
マキムクは鉄が無いから後進国だとか思うのは、あまりに現代的な考え方すぎると思うね。
九州とマキムクは交易で断絶してたことは事実。だから、マキムクには鉄が無い。
しかし、マキムクは、九州を除く近畿の交易拠点だったことは間違い無い。
マキムクの交易規模は、九州一島をはるかに凌駕する。
だから、九州は、いくら鉄があったとしても、畿内の交易連合に参画せざるをえなくなった。
この認識に間違いがあるか?
>>64 その説はおかしいよ。対内的には説明できても対外的には説明不能。
大体、必死で古墳を建造し、大首長を祭り上げて神輿に乗せて
必死でアピールしないと鉄を入手できない畿内(または西南日本東部)と、
「鉄?下々の者も普通に持ってますが何か」という西南日本西部があったとして、
生産力でも軍事力でも、勝負になると思うか?
文化が爛熟した先進的過ぎる地域で、社会構造が複雑に発達し過ぎた結果、
領域権力が拡散してしまい、後進地の統一権力より軍事的に弱小になる例は、
世界史上よくあることだが、(近世のフランスとイタリアなど)
この時期の九州が「先進地」だったと言っても、そんなレベルにはとても達していない。
>>65 生産力も低く、技術も後進的で、繋がりが対外交易ルートと正反対の方向(東海方面)で、
特出すべき価値を持つ産品が移入されるわけでもない地域の交易ルートを
見かけ上広く持っていても、そりゃ「ただのローカル」だよ。
アフリカ人には申し訳ないが、そりゃ「アフリカ諸国連合(AU)」みたいなものだ。
もうちょっと別の書き方をすると、
熊しか出ないような高速道路網の「広域結節点」であったとしても、
それにはほとんど意味が無い。ただのローカルだ。
熊しか出ない高速道路延べ1000kmを束ねているよりも、
東京23区内の首都高速を束ねるほうが、よほど「重要な交通網の結節点」になる。
縄文時代ならいざしらず、現代ならいざしらず、
この時代、「東から得る物」は本当に何も無いんだよ。
生産力も低く、交易ルートとしてはどうみても行き止まり。
まさか東国太平洋側の弥生人がアメリカと交易していたと言う訳でもあるまいに。
69 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 18:23:25
東から得るものは、当時最も重要だった労働力だろう。
マキムクから出土する東海系土器は、東海の住民が大量に移住してきたことを
意味してると思うが。
70 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 18:28:39
>>67 しかしまあ、弥生後期あれほど栄えた筑紫地域で古墳造りが盛んでないこと。
巨大古墳が周辺地域に多いことを鑑みるとそういう結論になるのでは?
ていうか俺の意見というより、松木武彦の意見なんだけど。
71 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 18:35:44
「大和・纏向の位置は東に寄り過ぎている」
…まあこれはこのスレじゃあ度々出ている話だが
それは一気に九州から東海に至る範疇で考えるからそうなるのではないかな?
纏向の勃興当初、その連合体の範囲は瀬戸内東部・阿讃・畿内の大和川水系で
北部九州や山陰の参画、連合体の拡充は後の時代になるのではないか?
…その2地域は大陸・半島の文物を自前のルートで入手できたろうし。
72 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 19:31:37
>>71 そう考えた場合、倭人伝の女王共立の記述との整合性がとれなくなる。
三世紀初頭(=庄内開始時期?)に女王共立したと読めるし、
その時期に西日本にある程度の政治的まとまりがあったのではないか?
73 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 19:51:37
考古学と倭人伝の整合性を求めるなら、
庄内開始を2世紀半ばに遡らせるしかないだろう。
卑弥呼の前の男王の時代を庄内の時期に比定する。
74 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 21:51:51
>>68 >この時代、「東から得る物」は本当に何も無いんだよ。
>生産力も低く、交易ルートとしてはどうみても行き止まり。
「東から得る物」が何も無いと思うのは、どういう根拠があってのことなの?
東海系土器というのは、伊勢湾を中心に西日本(九州含む)〜関東まで拡散してる。
その土器はただの入れ物だけでなく、綺麗な彩色土器も含まれる。
人が移動していったというだけでなく、東海で産出されて土器に収められたモノが、
日本各地にで必要とされたということだろ?
古代人の価値観は、鉄だけを求めていたと考えるのは単純すぎる。
鉄以上の価値を持った何かが東海から産出されていたという考察はどうして出来ないの?
75 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 21:59:10
もうひとつ、東海から土器が拡散してることを、「人の移動」というだけで考えるにしても、
それは、東海に人口があふれて出稼ぎ労働者、あるいは地方へ向かう開拓者が多かったことを意味する。
東海に人口があふれていたということは、平和のうちに食料が潤沢に生産されていたということ。
東海式土器の中身はよくわからないが、おそらく穀物や保存食料だろう。
それらを輸出、あるいは手弁当に東海の人は日本各地に散っていったのは事実だろう。
東海に生産力が何もなければ、土器は拡散しない。
本当に生産力の無い北陸の土器が西日本に拡散していないようにね。
76 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:00:38
>>67 >「鉄?下々の者も普通に持ってますが何か」という西南日本西部があったとして、
>生産力でも軍事力でも、勝負になると思うか?
そもそも鉄器の保有数が農業生産力や軍事力に直結するか?…と言う話で
弥生末期の北部九州の環濠集落の規模や数が九州以東のそれに比して格段に大きいと言う訳でもないし
また推定される人口・人口密度のデータも他地域を圧倒する物ではない。
77 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:02:39
************************
このスレの使用上の注意
このスレはスレ主の自問自答のためのスレです。
これは自演ではなく自問自答です。
生暖かい目で自問自答を見守りましょう。
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78 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:46:04
マキムクが、鉄欲しさに王権を生んだというなら、
畿内〜九州の間にある吉備や出雲がもっと優位な立場に立てるはず。
ところが、阿讃は吉備にすりよるかわりにマキムクを選んだ。
マキムクに物流が収束する様子は、近畿諸国が鉄を欲しがってるとはとても思えないんだけど。
古墳時代に鉄器が増えるのは、鉄器を求めたというより、
九州が畿内に鉄器を献上して交易連合に参画させてもらったと考えたほうが整合性がある。
でなければ、日本の首都は北九州になっていたはずだ。
79 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:02:10
主張連合体の結成の動機を鉄資源の入手の為
…とする説は根強い物があると思うけど
古墳時代の初期ならまだまだ九州が保有数で圧倒的だし
纏向にも皆無ではないにしろ鉄器が豊富に出土すると言う訳でもない。
求心力を鉄に求めるのは無理がある希ガスw
80 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 00:16:48
>>79 交易についてなら輸入するものだけ考えてもダメだよ。
輸出するものについても考察しなけりゃ。
>>78>>79>>81 移入品としての鉄だけではなく、移出品まで考えれば、
尚のこと「東へ行けば行くほど謎が深まる」だろうよ。
一体、畿内以東が「何を産出していた」のか。
いわゆる「文明レベル」に関係なく、何か価値をもつ特産品があって
双方向で価値の交換が出来れば、交易網は成立する。
古代西ヨーロッパの場合は、琥珀だったわけだし。
だが、「東側」が産出する何かがなければ、話にならない。
東国は金産出で有名だが、これはもちろん後世の話。
ということで、
>>75の壷をちょっと考えてみたいと思う。
「東海勢力のパワー仮説」を採用し、かつ
仮に壷(東海式土器)が東→西の移出品主力であったと考えて、
1、壷に穀物が入っていた(濃尾平野穀倉地帯説)
2、壷の品質・意匠がすばらしかった(濃尾陶器特産説)
3、壷自体に呪術的価値をつけて広めた(新興宗教説(笑))
2、
こう考えると、どれもこれもありそうで難しい。
1については、確かに海進分を考慮しても、
濃尾平野+伊勢平野は西日本のどの平野より広いが、
例えば吉備や播磨あたりの平野を凌駕する穀倉地帯だったというのは
ちょっと疑問だ。瀬戸内沿岸より雨は多いので、旱魃の危険は少ないが
大雨が降りやすく、治水が大変だ。
2についても、あの朱塗りが一世を風靡したと考えることは可能だが、
特に西国の壷と比べて飛びぬけた何かを持っているわけではない。
3は、唐突だが、あの有名な「雲出川の砂混入」から考えられる。
だが、もしこれが事実なら、壷の扱われ方にもっと特色が出るはず。
「東の強み」とは、一体何なんだろうね?
>>83 東にだけあって西にはないもの。
絶対的な特産品は、翡翠とか、その他いろいろと有ったとは思いますが、
常時供給されていたものは「人」だと思いますよ。
西も東も出生率自体に大きな違いは無かったと思います。
ただ、米作農耕の技術、生産性が西高東低状態であれば、
社会的剰余の蓄積も西高東低、人口の維持能力も西高東低に。
貯まった剰余を生産手段の拡大に投資するのなら、
その多くは、新たな労働力の獲得のために費やされるはずです。
結果として西は労働力不足、東は労働力過剰の状態かなと。
労働力の獲得方法にもいろいろ有るのですが、
例えば、移民を募る、武力による奴隷狩り、そして人身売買。
鉄や舶載銅器、陶器などと「人」の交換ですね。
これが弥生後期から古墳前期の東西の関係かなと思う次第です。
85 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 13:50:40
>>84 なにを根拠に「米作農耕の技術、生産性が西高東低状態」だと決め付けてるの?
鉄器が無いからといって、農業が不振という根拠にはならないよ?
肥沃な土地があれば、作物は勝手に育つ。
弥生時代の作物は野生種と違わない。
濃尾平野は、氾濫が多いかわりに肥沃な土地で農業が盛んだったことは歴史が証明してる。
86 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 18:21:38
まあこの板では少数派(と言うか俺一人?w)かもしれんが
纏向の性格を「交易都市」より「宗教都市」としたい。
各地の土器が多く出てくるのも纏向で行われた「祭り」に
各地から特産品・貢物を携えた使いがやって来た結果なのではないか?
東から西への交易品目は置いといても
東から西への交易品目に「鉄」が無かったとは思えず
纏向が交易都市ならもっと鉄器が多く出土しても良さそうではある。
87 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 21:27:35
宗教都市オンリーとする場合、突如マキムクに巨大な宗教的権威が生まれた理由が分からないのであって。
交易都市であり宗教都市でもあるというのが無難な解釈では?
88 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 22:23:29
門前町の事を考えると、宗教権威に人が集まって、やがて市が立つようになったのでは?
東海地方は、古代から現代まで焼き物の産地であり続けてるんだね。
89 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 22:31:52
>>86 なんにしても、マキムクに鉄器が無い&九州の土器も無いのは、
九州勢力がマキムクに対して宗教的権威を感じてなかったということは認めるわけね?
当然、九州とマキムクが直接交易していた形跡も無い。
吉備が中間に入ってたかも知れないが、吉備もまた、畿内に鉄器を流したわけじゃなかった。
さらに、阿讃は、鉄器を入手していた吉備ではなく、鉄の無い奈良と同盟した。
以上のことから、マキムクは宗教的にも経済的にも鉄器を欲していたとは考えられない。
鉄器を必要としたから王権が生まれたという小林理論からそろそろ脱却すべきではないかと思う。
>>87 マキムクが、最初に宗教的権威を持ち、その後、集まった人々の交流から交易が発展したという考えには賛成。
マキムクで発生した三輪山信仰に、近畿の人々がおいすがったのだろう。
九州はマキムクをほとんど無視していたはず。
マキムクが宗教的に求めていたものは鉄以外の何か。
東海式土器が多いのは、東海の産物を献上していたかもしれないし、
あるいはマキムクの祭祀が東海勢力の信仰心を基盤としたものかもしれない。
東海勢力を念頭におかずにマキムクは考えられないはず。
90 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:35:29
マキムクが宗教的権威で発展していったとすれば、鉄器が無くても不自然ではない。
鉄器より銅鏡の方が宗教的権威付けアイテムに最適だったのではないか?
九州では鉄器も鏡もありふれていたゆえに信仰の対象にはならなかったのだろう。
弥生時代末、北九州と近畿の勢力は並立的に存在し、どちらかがどちらかに従属するような様子は無かっただろう。
しかし、弥生時代終末期に北九州は近畿勢力に取り込まれた。
マキムクの宗教を受け入れたということだろう。
北九州は古墳時代に独自性のある王墓を作れなかったことから、北九州は畿内に隷属されたと考えられる。
北九州の王が独自性を持っていたなら、近畿にある前方後方墳のようなオリジナルの墳墓も作れたはず。
91 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:37:07
畿内では鉄が希少だからこそ、マキムクでは鉄が余り出てこず、
鉄の有難みが大きいからこそ、鉄を遠隔地交易で取ってきてくれるオウが交易の窓口として
権威足り得たということ。
鉄が少ないからマキムクが交易センターでなかったというのはどうだろうか?
92 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:42:17
土器の流れを考えると3パターンになる。
畿内のように土器の出入りとも盛んな地域。
九州のように来るけれども出て行かない地域。
東海のように出て行くけれど来ない地域。
九州系土器が出ないからと言って、マキムクと筑紫が無関係というような
単純な問題じゃあない。
>>89 >吉備もまた、畿内に鉄器を流したわけじゃなかった。
ホケノの鉄鏃はどこから来たんだよと
94 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:58:39
>>91 >鉄が少ないからマキムクが交易センターでなかったというのはどうだろうか?
鉄が少ない=鉄を備蓄してないってことだから、鉄を求めての交易センターでは無いでしょ?
他の物品などを扱う交易はあっただろうけど。
鉄が交易の主流になったのは古墳時代に入ってすこし後からと考えるべきではないですか?
「鉄を求めて、交易の窓口として強い王を立てた」という考え方は、具体性が乏しいと思います。
どのような王が立てば、九州に対して強い口調で鉄をよこせと言えるのですか?
畿内に鉄を渡さなかった九州が、畿内に王が立ったという政治的理由によって
九州が鉄の献上に応じたというなら、それなりに九州が恐れるような政治基盤が
畿内にあったということになる。
鉄器が無い頃に、九州が一目置くような政治基盤を畿内に考えるほうが難しいように思えますが?
>>92 面白いな。でも案外単純かもしれない。
つまり、大雑把に言えば、筑紫−濃尾間においては、
「土器は西へ西へ一方通行」となる。
互酬性原理からは、何か「東へ東へ一方通行」のものがある可能性がある。
おそらくそれが鉄なんじゃないか?
仮に、土器に穀物が詰められていたとすれば、
「穀物は西へ、鉄は東へ」
こうなれば、畿内は「中継貿易地」となるだろう。
となると、畿内のライバルは吉備となる。ここは平野がある。
(当時の畿内には平野は乏しい)鉄は西から入手できる。
吉備にとって、畿内は「要らない子」。これは考古学的状況に反する。
四国が奈良を向いたことと共に、ここが問題となるな。
96 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 00:30:29
吉備は、九州と畿内とどちらを向いていた?
鉄をもたらす九州か?
97 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 00:59:54
>>92 面白いな。
とあるシンポジウムで考古学者も同じ事を言っていたな。
ネタとして以下に抜粋wwwwww
『邪馬台国時代のツクシとヤマト』収録「シンポジウム邪馬台国時代のツクシとヤマト」より
寺澤 : これは考古学的にきちんと追求している話ではないのですが
近畿の土器は久住さんの説明のように、九州にたくさん行っている。
しかし北部九州の土器はほとんど入ってこない。
まったく逆の現象が東海なんですね。
東海の土器は纏向にもたくさん入ってくるんですけども、
近畿の土器は逆に東海にほとんどいってないですよね。
これまったく逆の現象です。
98 :
97:2008/10/20(月) 01:06:28
>>97に続けて寺澤が言っているのは
北部九州・イト国と言うのはヤマト王権の中でも外交交易において、かなりの自負・独立心があり
逆に東海と言うのは本当は入りたくなかったけど入らざるをえなかった地域ではないかと言ってたなwww
99 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 01:14:55
>>98 >逆に東海と言うのは本当は入りたくなかったけど入らざるをえなかった地域ではないかと言ってたなwww
どうしてかな?
入りたくてしょうがなかったように見えるけど?
100 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 02:44:41
寺はときどきおかしなことを言う。
101 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 08:35:40
弥生後期以降、なぜ首長権力が拡大していったかの説明として、
鉄というファクターヲ使うのが一番分かり易いんだよな、結局。
それまでは弥生の拠点集落いくつかのローカルなネットワークで自給自足出来ていたのが、
鉄という遠隔地交易でしか入手出来ないモノのため、広範囲に権威を行使出来る権威が求められたと。
鉄が希求されたのは寒冷化でそれまでのやり方では上手くいかなくなったから。鉄は実際求められていたと思うよ。
102 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 08:41:49
そもそも玄界灘グループが力を持ったのも、半島との交易によってだし。
王権を、遠隔地交易のリーダーから誕生した、と考えるのは一つの説明としてアリかと。
103 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:06:44
マキムクから鉄が余り出ないのは希少だったからと説明するしかないが。
また後世の石上神宮のような倉庫に公的に一括管理されていたと考えれば、
鉄の備蓄が無かったなどと考える必要はない。
路傍やたんぼの真ん中から鉄が出てこないことも説明可。そもそも土中では鉄は殆ど残らないだろうが。
むしろ鉄器の副葬が爆発的に増えること。巨大古墳やら運河など多数土木工事をやったマキムク王権は、
ある程度の鉄器を押さえていたと考えるべきだろう。
104 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 12:15:40
鉄が要求されていたという話は結構だが、
東海地方では古墳時代初頭に弥生時代よりも鉄が減少していたはずだが。
105 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 18:38:15
106 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 23:50:23
>>104 東海地方で古墳時代初頭に鉄が減少した事実はない。
愛知県犬山市にある古墳時代前期の東之宮古墳から
鉄剣、鉄刀、鉄斧が多数出土している。
東之宮古墳は「初頭」では無いな。
108 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 02:58:41
>>107 では、あなたが「初頭」と考えている東海地方の古墳を、いくつか挙げてみてください。
109 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 04:11:54
古墳時代初頭に東海の鉄器が減少することは村上の本に書いてあった気がする。
110 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 04:54:32
>>109 村上って、「邪馬台国と金印」の村上義男のことか?
こいつは九州論者で自説を補強する為に推測で書いただけだ。
111 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 08:28:50
村上恭通だと思う。
ただ本当に東海が、古墳初期に鉄器が減少するのだとすれば、
マキムク=鉄交易の元締め説は崩れる訳で。
まあ、東海と畿内が一時的に対立してたとかも考えられるが。
112 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 09:29:41
というか東海とかヤマタイ国と全然関係ないしw
蝦夷だよw
113 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 13:39:18
>古墳時代初頭に東海の鉄器が減少することは
確かに減少しているな…。
今手元で見ているのは関悠二のムック本中のグラフだがwww
元ネタは寺沢薫「王権誕生」広島大学・川越哲志「弥生時代鉄器総覧」とあるんで
それらを持っている人がいたら確認していただけるとありがたい。
全体的に弥生時代後期に北部九州をピークに西高東低の分布が
古墳時代初頭に東にも流れ込んでいると言うか
まあ減少したと言っても北部九州の出土数は圧倒的だが
中国地方は山陰・山陽とも減少(山口でやや増えている)
大きく伸びているのは高知、奈良、石川、長野、千葉…あたりか。
愛知のそれは減ったと言っても元々弥生時代の数が少なく
古墳時代のものが出土すれば減から増に転じるかもしれない。
がどっちにせよ微増微減であまり変化が無いと言ったところかな?
114 :
113:2008/10/21(火) 14:02:46
気になるのは纏向型古墳との関係で
例えば、関東において著しく伸びている千葉だと神門三・四・五号墳とかがあって
石川県だと分校一号墳とかがあるらしい。
大和から見れば近くの東海より遠くの石川、長野、千葉を重視したのか?
果たして大和の政治的意向によるものかどうか…
鉄の西から東への動き自体は時代の
115 :
114:2008/10/21(火) 14:07:17
途中で切れちまったw
以下に追加訂正
鉄の西から東への動き自体は時代の
↓
鉄の西から東への動き自体は時代の趨勢とも思えるが…
>>113-115 それはごく簡単な理由じゃないか?
「(人的にも物的にも)稲作農業社会を開く開拓行為に、鉄器が集中的に必要だった」
これでFAだろう。
水田稲作というのはかなり特殊な農業で、連作を厭わないばかりか、
連作を重ねて土地を水田システムに適合させて行くほど、必要な人的・物的資源がむしろ減る。
だから、本当に下々まで鉄器が普及した筑紫を除いては、
開拓期に、木を切り根を掘り畦を作り土を耕すために大量の鉄器が要るが、
一段落して軌道に乗ると、それほどの鉄器は不要になったと考えられる。
(弥生から古墳期は、今で言う不耕起農法のようなものをやっていたという説もある)
もちろん、開拓期に一番武器が必要であることはいうまでもない。
これで、
>>113の集中地域の説明は全部できるだろう。
>>114的に何でも「大和との結びつきだ」を単細胞的に考えるのは、
このスレの趣旨じゃないと思う。その裏返しとしての筑紫中心主義も痛いが、
大和中心主義はもっと痛い。
117 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:00:15
特に鉄の出土数に関しては、その出土状況を加味しないといけないのでは?
土中に放置されたものは錆びて無くなっただろうし
(当時貴金属だった鉄が放置されたとは考えにくいが)、
出てくる鉄は副葬品だったりが多いだろう。
つまり、畿内や東海など比較的階層化が遅れた、縄文以来の族長社会では、墓に鉄が副葬される機会自体が少ないと
118 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:25:53
ヤマト王権の成立を2段階で説明するなら、
庄内期には地方王権だったのが、布留期に全国王権に飛躍したと。
奈良盆地は、もともと大和湖跡の湿地帯など開拓出来る余剰地が多く、
また交易でも要衝であったため、多くの人・物が流れ込み、
それを差配する三輪山の神官が最初のオウになった。
布留期に飛躍出来た理由とはかなり政治的な理由。つまりは諸国のオウたちによって、
ヤマトの巫女が女王として共立されたためではないか。
>>118 それじゃあ
>>1に戻ってしまうだろw
その中に、「再検討しなければならないマジックワードが山ほど含まれている」
というのが、このスレの議論の原点なんだから。
まず、前段も怪しい。そして特に、前段と後段を結びつける実質的理由が何も無い。
120 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:25:57
を繋ぐ理由は要るのでしょうか?
そもそも
>>1で問題にしてるのは庄内初め、マキムクの開始時であって、
ある程度実力があったであろうマキムクのオウが、
庄内終わりに共立王として諸国に担がれたとしても違和感はないのでは?
121 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:14:37
>>118 どうして、奈良が交易の要衝なの?
どことどこが交易するのに、奈良のような山奥が有利になの?
交易より、宗教的な理由のほうが大きいと思うのだが。
>>121 > どことどこが交易するのに、奈良のような山奥が有利になの?
瀬戸内と東海
>>122 だからそんな単純な話じゃないだろ。
繰り返し繰り返し言っているが、
これまでの交易モデルだと、どうしても
「吉備以西は、畿内以東から特に欲しいものが何も無い」
という致命的弱点から抜け出せない。
労働力(生口)仮説は否定される。実際、そんな東→西の人口移動の形跡は無いし
もしそんな移動が行われたのなら、遺伝的・エスニシティー的に
この時点で「西国が東国化して」しまい、形質人類学に反する結果となってしまう。
もっと不思議な問題としては、
「東海には『穀物と壷』という切り札」があるにしても、
肝心の畿内に、付加価値をつける産品も技術も何も無いんだよ。
ここをクリアしないと、
ただの「東海相手の交易中心」だった畿内が、どうして「西に」勢力を伸ばせたのか、
謎は深まるばかり。
124 :
113:2008/10/22(水) 00:06:25
>>116 それは正直考えたが弥生末期・古墳時代初期、稲作自体とうに東北辺りまで達しているだろうに
無論、鉄器と言う新しいツールの入手によりそれまで手が出せなかった地域の開墾開拓に乗り出した
…なんてことも考えられるが、それでも”偏り”がありすぎるように思う。
(関東なら千葉が突出して伸長している等)
それを大和主導の流通の統制とするにはチト早計かもしれんが
単純に開墾開拓の需要云々だけでは釈然としない。
まあ出土した鉄器が威信財・祭器なのか?農機具・武器の実用品なのか?
詳細なデータがあれば良いんだが…。
どなたか御持ちではないかな?
>>121 奈良盆地は大和川で瀬戸内海に繋がり、東に峠を抜けば伊勢・東海地方へ。
南に山越えすれば紀ノ川水系。北は山背を経由し琵琶湖水運・北陸に通じる。
永らくヤマト王権が奈良盆地から離れられなかったのも頷ける。
>>120の気持ち悪さは、
「ある程度以上大きくなった政治権力は、水戸黄門の印籠よろしく
まわりの勢力をバタバタとひれ伏させることが出来る」
ということを、暗黙の前提にしていることにある。
これは、畿内王権説すべてが、多かれ少なかれ内包している問題なんだけどね。
後世(記紀の神話整理以降)の畿内皇権のイメージを過去に引っ張りすぎなんだ。
「困った時の宗教頼み」というのはあるが、
「布教成功の後でなければ、そもそも教祖は崇められ得ない」という、
当たり前の事実に戻る必要がある。
実は、神武東征説はこの点を解決してしまう仮説という面があったんだよ。
「西から来た宗教的権威」なら、その権威は西国の人々も知っているのだから、
西をひれ伏させることはそんなに難しくない。
だから、これが否定され、畿内権力が、東海との交流で生じた自生権力という説を採るなら
西国への勢力伸張を、きちんと説明する必要が生じる。
>>123 >労働力(生口)仮説は否定される。
西から行われる鉄製品等の供給量に限りが有るのだから、
東から西に渡る対価(生口)だって限定的なもの。
アメリカ大陸におけるアフリカ系奴隷のようなものを想像してダメ。
形質人類学的にどうのこうのと言う話じゃないでしょう。
倭人伝の記述では「生口」は財産として扱われており、
実際、朝貢に際しても献上物は生口だったんだから、
生口が「対価」でないと否定する理由の方が無い。
>肝心の畿内に、付加価値をつける産品
交易の『拠点』に産物は必要ないだろう。
九州と韓半島との交易拠点の一つは壱岐(原の辻)だが、
別に特産物があるから拠点化したわけではない。
地政学的要因による。これは前原や博多湾だって同じです。
>畿内が、どうして「西に」勢力を伸ばせたのか、
それは謎だね。
>>123 >「吉備以西は、畿内以東から特に欲しいものが何も無い」
これはどうなんでしょう?
当時の倭国は、人はクニに縛られることなく、自由に行き来していたという前提で。
3世紀に入ってにわかに活発になる搬入土器やら外来土器の存在は、
人や物が列島内でそれまでにない程の大規模移動を開始したことの証左であって。
その民族大移動をもたらしたのが、弥生後期以降の寒冷化。
それまでの政治構造が立ち行かなくなったのが3世紀であって、
西ローマ帝国や後漢が滅び、倭国も他人事ではなかったということ。
松木さんの意見の流用ですが。
>>124 一気に北上したのは日本海側の話。確かに弥生時代のうちに津軽まで達し、
一部はなんと奥羽山系を越えて、やませ吹く岩手にすら入っている。
だがこれは途絶するんだな。
特に太平洋側に関しては、古墳時代一杯かけて、
東海から甲信、甲信から関東、関東から福島、福島から宮城と
技術伝播というより、人間集団まるごとの移動として進んでいる。
東海系の土器が関東でみつかり、しばらくすると関東系土器が福島で、
さらに古墳末期に宮城で多く発見される。しかも明らかに「開拓村」の形態を取る。
宮城まで来て、南下する続縄文文化集団と出合ったところから、
律令国家の対蝦夷戦争の前線が形成されることになる。
この動きを考えれば、まだ古墳時代の関東平野は開拓の最前線と考えて良い。
民族集団としては、大和王権ではなく、東海勢の色彩が濃い。
130 :
128:2008/10/22(水) 00:28:23
で、列島全体を包摂するような超巨大ネットワークの結節点として、
にわかに畿内が注目されたということ。
畿内に多くの人々が集住した結果、マキムク王権に繋がる。
131 :
113:2008/10/22(水) 00:36:40
>>129 その説を酌んで考えれば、例えば関東なら
開拓集団が関東一円に均等に散らばったのではなく
千葉にその拠点を気付いたとすれば一応の説明はつくな。
あとは出土した鉄器が開拓に必要な農機具だったかどうかだな。
ただ”残り”が良いと言うか出土し易いのは当然副葬品の威信財・祭器だとは思うのだが…
>>126 >「ある程度以上大きくなった政治権力は、水戸黄門の印籠よろしく
>まわりの勢力をバタバタとひれ伏させることが出来る」
>ということを、暗黙の前提にしていることにある。
いや実際のところ、マキムク王権にそこまでの権力はないでしょう。
大王権力は諸国のオウたちに共立、推戴されたことによる権威であって、
永らく地方の首長たちは政治的に独立していたと見るべきでは?
畿内の中央集権化は、記紀にも記載されている通り、地方豪族の跡目争いに介入するなどして
弱体化させるなど、姑息な手法で少しずつ強めていったもの。
3世紀から7世紀ころまで、非常に長いスパンで行なわれたものではないでしょうか。
133 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 00:41:20
>>129 ちょっとまて。
東海系の土器が関東に拡散するのは事実だが、
鉄器の場合を見れば、東海の鉄器は増えてない(むしろ減少)のに、
関東の鉄器が爆発的に増えるという整合性はどうする?
東海の水田が開発済みだからもう鉄器はいらない、というレベルじゃないと思うが。
この点は俺も謎なんだが。
134 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 00:43:29
1〜3世紀の鉄器出土数の推移は、「王権誕生」の213ページにあります。
>>畿内が、どうして「西に」勢力を伸ばせたのか、
>それは謎だね。
古墳時代以降の倭国は、中国を盟主とした東アジアの権力構造と無関係ではいられなくなった
ということ。
九州は早くからその政治構造の中だったが、九州以西は入っていなかった。
というか入る意味はなかった。
しかし気候の寒冷化など環境の激変により、新たな土地への移住、開拓の必要性が高まり、
鉄の需要が飛躍的に高まった。
いやもうはっきり言ってしまえば、鉄を入手するには東アジアの政治構造に参画する
必要があり、畿内が筑紫に取って替わって倭国王として承認された結果、
九州→畿内への権力移動があったのだろうと。
九州から畿内への転換点は、公孫氏の権力勃興と同時期で、
それまでの後漢に朝貢していた筑紫王は疎まれ、新興国の大和王を厚遇する
政策が行なわれたのではないか?
>>135 > 九州から畿内への転換点は、公孫氏の権力勃興と同時期で、
> それまでの後漢に朝貢していた筑紫王は疎まれ、新興国の大和王を厚遇する
> 政策が行なわれたのではないか?
かもね。
137 :
113:2008/10/22(水) 01:19:44
>>133 まあ考えてみりゃ鉄器の需要は当然開墾用の農機具だけじゃなし
古墳時代初期減ったとはいえ、九州をはじめ西国はまだ大量の鉄器を保有していた。
威信財、祭器、武器…等々、それらの需要が東海に無かったと考えるのは
まあ無理だろうな。
東海に鉄器を入手するに何らかの阻害要因があったと見るべきかな?
138 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 01:31:48
>>137 東海の巨大銅鐸のマツリは、古墳時代初頭まで残ってなかったけ?
年代がはっきりわかる銅鐸はなかったような気がするが。
140 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 16:35:58
141 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 19:16:57
1年前に、纒向遺跡で大量のベニバナ花粉が見つかったことが、新聞等で報じられました。
マスコミは相変わらず邪馬台国や卑弥呼とからめての報道です(笑)。
でも、とても面白い発見で、「マキムクはいろんなものが出てくるなあ」と(笑)。
この纒向スレでは、まだほとんど話題になってませんが、いちおう当時の記事からいくつか、引用しておきますね。
_______________________________
卑弥呼の献上品?邪馬台国時代のベニバナ花粉みつかる
2007.10.2 産経
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071002/acd0710021810004-n1.htm 女王卑弥呼(ひみこ)で知られる邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の溝跡にたまった土から大量のベニバナ花粉が見つかり、市教育委員会が2日、発表した。
織物の染料とみられ、国内で確認された最古の例。
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、243年、卑弥呼が魏に赤や青の織物を献じたと伝えている。当時の大陸との交流を考える貴重な資料になりそうだ。
エジプトや西アジアが原産のベニバナは、中国などから日本に伝わったとされ、これまで6世紀後半の藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の石棺から花粉が見つかっていたのが最古だった。
市教委は「中国との直接的な行き来の中で、最新技術だった染織が持ち込まれたのだろう。指導役の工人が来て栽培までしていたかもしれない」としている。
市教委が依頼した奈良教育大の金原正明准教授(環境考古学)が分析。
溝跡(長さ6メートル以上、幅1・5メートル、深さ1メートル)の土に、1立方センチ当たり270−560個の「自然では驚異的な数」(同准教授)のベニバナ花粉が検出された。
金原准教授によると、当時、国内の他の地域ではベニバナの花粉は見つかっていないという。
ベニバナの染織は、水溶性の黄色の色素を水で洗い流し、残った赤い色素で染めるが、花粉はこの廃液に含まれていたと推定した。
溝の約150メートル上流は神殿建物跡などが出土した纒向遺跡の中枢で市教委は組織的な工房があったとみている。
纒向遺跡は箸墓古墳などの前方後円墳が点在する巨大集落跡で、初期大和王権につながるとされる。
142 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 19:20:45
奈良・纒向遺跡
最古ベニバナ花粉 邪馬台国映す「紅」
初期大和王権の地 裏付け
(2007年10月03日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is71003b.htm 女王・卑弥呼の時代を彩った「赤」が鮮やかによみがえった。
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀中ごろ)で大量に見つかったベニバナの花粉。
外交や交易を通じて大陸とのつながりを持った邪馬台国の姿をほうふつとさせるとともに、生命力や熱情、美を象徴する赤色に魅せられた、いにしえの人々の表情もうかがわせる。
魏志倭人伝には、卑弥呼が鬼道という呪術(じゅじゅつ)を操り、民衆を導いたとの記述がある。
243年に中国・魏に献上したと記されているのが赤と青の絹織物「絳青■(こうせいけん)」。
ベニバナが使われた可能性がある衣装を、卑弥呼自身が実際に身にまとったかも知れない。ベニバナで作った紅で、口や目元を化粧した可能性もある。
石上七鞘・東京女学館大教授(民俗学)は
「紅は晴れの舞台に使う特別な色。魔よけにもなり、普通の人ではないということを誇示するシンボル。卑弥呼が祭事に使うことは十分考えられる」
と語る。
纒向遺跡は初期大和王権に発展したと考えられている集落跡。
卑弥呼の墓説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳が点在し、過去に祭殿状の建物跡や全国各地の土器が出土。9月には最古の木製仮面も近くで見つかった。
高度な交易機能を備えた最初の都市とされる。
ベニバナの花粉は、平城宮や藤原宮の宮殿などからも出土しており、桜井市教委文化財課の橋本輝彦主任は
「纒向遺跡で見つかったことは、初期大和王権成立の地を裏付けるうえで、非常に大きな材料」
と話す。
(つづく)
143 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 19:22:59
(読売新聞つづき)
卑弥呼の時代から1800年を経た現代でも、ベニバナは染色の原料として使われる。
染色家の吉岡幸雄さんによると、花を天日干しし、冷水で洗い流す作業を繰り返し、黄色の色素を抜いて染料にする。この際、花粉が大量に流れ出す。
さえた赤を引き出すため、アルカリ性の「灰汁(あく)」、酢を混ぜる。布1メートルを染めるのに、約1キロの花が必要という。
吉岡さんは
「一般的に、4世紀後半から5世紀にかけてベニバナが渡来したと言われていた。色を出す技術が3世紀からあったとしたら驚きだ」
と話す。
また、ベニバナは万葉集で「末摘花(すえつむはな)」「くれなゐ」の名で29首が詠まれ、上野誠・奈良大教授(万葉文化論)は
「華やかだが色あせしやすく、若い愛人の例えに使われた。邪馬台国の時代に、すでに万葉びとの細やかな機微を感じていたとしたら、すてきな話だ」
と思いをはせる。
144 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:04:47
>>135 >>135は随分穏健な書き方だから、腐すのは悪い気がするけれど、
前スレにもあったが、畿内王権の初期の発展過程で、
「卑弥呼」「倭人伝」は、もはやNGワードに近いと思う。
「考慮してはいけない」「無視せよ」といったほうがいい。
戦後の古代史そのものが、魏志倭人伝に振り回されすぎなんだよ。
皇国史観の記紀の位置を、そのまま魏志に置き換えているだけにすらみえる。
冷静に考えればすぐわかると思うんだが、
中国史書が、日本列島において自生的に生じた権力構造について、
正しく、地理的条件を捨象して鳥瞰して書く能力を持っているとはとても思えない。
中国に地理的に近いほど「記述は厚く、濃く、精密になる」に決まっている。
記紀とは違った意味で、明らかな地理的バイアスがかかっている。
これは、実際に中国人が日本列島に足を踏み入れていても同じだ。
結論を言えば、西南日本の実際の権力構造如何にかかわらず、
倭人伝は、中国からアクセスできる直接の正面に存在する
九州の「地方政権」を記述した可能性が高いと俺は考えている。
その意味で、俺は「邪馬台国九州説」を採る。だが、どうでもいいと考えている。
あんなものは、ヘロドトスに出てくるアマゾネス国と同じだ。
中国史書について、もう少しだけ書くと、
中国歴代王朝は、日本列島に関しては「申告待ち」というのが、一貫した基本姿勢。
呼ばれてもいないのに積極的に関与する姿勢を見せているのは、
歴史上、白村江の戦い直後と、戦後の共産党政府だけだろう。
あとはすべて朝貢なり通信をまって、その申告に来た者を軸として
「倭」なり「日本」の政権を中華世界で位置づけるという立場を取る。
つまり、中国にとって、日本列島は「どうでもいい」のだ。
特に、東日本は、中国から見れば「遠い島の、無関係な奥地の情勢」に過ぎない。
ちょっと主体が違うが、
李氏朝鮮が、室町時代に室町幕府との交渉を行う際に、京都人と意思疎通するため
必要となった(九州弁ではなく)畿内語を「奥処之倭語」と言った、この感覚だ。
彼らにとって「倭語」とは、当然九州弁のことだった。
九州弁が、室町幕府中央の役人や僧侶に通じないものだから、
あわてて「奥処之倭語」を勉強させたと、朝鮮王朝実録にある。
そういえばどうでもいい話ばかりで、「寒冷化」の話を書いていなかった。
寒冷化に関しては、日本の古墳文化に関しては、
不思議なほど「影響を与えていない」と考えたほうがいいと思う。
ヨーロッパでも西アジアでも東アジアでも、
紀元前の文明を滅ぼして、強烈な人間集団の南方への移動をもたらした寒冷化は
稲作を携えたはずの古墳文化には、ほとんど影響を与えていないように見える。
寒冷化の中でも、稲作には最も条件の悪い(やませで冷害になる)東日本太平洋側を
古墳文化は人間集団まるごとジリジリと北上している。
まして、やませの吹かない西日本(中部山岳以西)ではほとんど影響無しと考えて良い。
(ただし、高句麗や百済の南下はこの一端だし、直撃する筑紫の影響は考慮が必要)
逆に、明らかに寒冷化の影響だと考えられるのは、
北日本における続縄文文化の南下だ。
(俺は、ここで北海道というより「東北を中心に成立」したのが蝦夷文化で、
今のアイヌ文化に繋がる直系の先祖と考えている。
>>1からは離れるけどね。)
>>145-146 首肯できる部分も多いんだけど
じゃあ当時の倭国と半島・大陸との関係を考えれば邪馬台国の問題は避けて通れないんじゃないのかな?
それに邪馬台国が九州なら、その邪馬台国と畿内大和との関係は?
それは今このスレで問題になっている鉄資源の入手にも関係してこないかな?
まあ九州で卑弥呼の墓か親魏倭王印でも出て、邪馬台国が九州で確定してくれりゃ
日本の古代史は前進すんのかもwwwwww
149 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:30:15
>>148 べつに、邪馬台国は九州でもいいんだよ。
同時に、もっと勢力の大きい畿内王権が登場し、
九州の邪馬台国と畿内王権は穏便に鉄交易をしていた。
魏が滅んでからは、九州は衰退し、畿内が日本の覇者となった。これで問題ない。
もちろん、畿内が邪馬台国でもなんら問題ないけどな。九州説が煩いだけで。
倭人伝での邪馬台国探しが不毛なのは同意。
冷静に考えて、径百余歩の大塚は古墳と考えるべきとは思うが。
結局のところ、考古学で邪馬台国の所在地を確定するのは不可能に近い。
新興の畿内マキムクに圧迫され、筑紫ヒラバルが魏に救い求めたという考えは、
完全には否定できないだろう。
しかし古墳時代初頭に、筑紫から大和への中心地の移動は確かな現象であって、
最早倭人伝邪馬台国を俎上に載せないでも、ヤマト王権の成立プロセスは
ある程度分かるようになっている。
そもそもの邪馬台国論争は、ヤマト王権の成立過程の説明として語られていたものが、
いつのまにか古代ロマン、オラが村的、自分の地元に邪馬台国を、という町おこし、
客寄せパンダとなっているんだよな。
151 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:57:07
このスレ的に考えれば、
邪馬台国時代に、マキムクが北九州を掌握してたか、
九州とはゆるやかな外交関係にあった別々のクニだったか、
どう考えるかということになるだろう。
前者なら、一大率は畿内王権が置いた大宰府的なものとなるし、
後者なら、九州の卑弥呼という巫女が、畿内とは無関係に魏に通じてたというだけ。
3世紀に、どの程度畿内が九州に影響力を持ちえたかを検証すればいい。
そう考えれば「鉄器が欲しくて畿内連合が出来た」という説に立つなら、
邪馬台国時代は、まだまだ九州と畿内は別のクニとみなすべきではないか?
俺は、畿内連合が鉄器を求めていたという説には懐疑的だから、
宗教的に畿内が優位にあったとすれば、
いくら、九州が鉄器を持っていようが、畿内王権が九州を掌握してた可能性は十分あると思ってる。
152 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:58:38
153 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 07:30:51
>>151 もう普通に
伊都国王=末盧国・奴国・不弥国を従える北九州の王
邪馬台国王=投馬国などを従える近畿・中国西部の王
昔は伊都国王が倭の代表だったが、2世紀後半には邪馬台国王が倭の代表となった
でいいんじゃない?
>>151 3世紀初頭の北部九州が連合下にあったことを積極的に示すものは無いね。
ただ、「一大率」的な拠点は在っても不自然じゃないですね。
155 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 08:28:04
連合下というより連合の一部だったということでしょう。
少なくとも前方後円墳の祭りに参加してるわけだし。
156 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 09:31:17
バチカンにペコペコするヨーロッパ諸侯のようなものでは。
バチカン=マキムク
ヨーロッパ=西日本
157 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 09:35:44
>>141 >卑弥呼が魏に、、
書いてないっつーの
158 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 10:05:27
巻向って柏原にあるんでしょ?
天武天皇が遷都した橿原宮の事じゃないの?
巻向遺跡は大和王朝が置かれた遺跡だとは思うよ
九州は九州で神巧皇后が乾国を統治しに行くために九州に宮を構えてた訳でしょ?
だから九州にも王権の遺跡はあるよ
どっちが発祥もクソも無いよ
あと朝鮮半島に日本と同じ古墳や鉄器があるのは当たり前
神巧皇后の時代に朝鮮半島は大和が統治して水田などを作ったり開拓したりした訳だから
百済や新羅の建国神話にも東の海から来た三人の神によって五穀がもたらされたとちゃんと書いてあるよ
ちなみに漢字もあれは作ったのは古代漢人だけど、東アジアに普及させたのは日本だよ
正解に言うと朝鮮半島を統治した日本が、それまで朝鮮半島を統治してた漢人の文化を取り入れて、儒教と共に大陸にあった晋や陏などに伝えて東アジアに普及させたんだよ
こういった事もちゃんと古い文献に書いてあるよ
古代漢人ってのは漢城に宮を置く少数民族で、シナ人や唐人とは別の民族だよ
159 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:40:26
>>155 前方後円墳どころか、九州には前方後方墳まであるしね。
これだけで九州が王朝として独立してたっつーのは、完全に破綻してる。
160 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/10/23(木) 17:25:19
九州にあった独立した王朝って大和に滅ぼされたクマソ王朝しか思い当たらない
161 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:05:06
結局、九州から関東まで、同じ文化圏、ゆるやかな連合体制であったと。
クニといっても文化的対立がある訳ではなく、人や物の動きは比較的自由。
人や物がより多く集まったヤマトに初代天皇が生まれたということだろうか?
>>155 前方後円墳を造ったと言うだけでは、十分じゃないよ。
例えば、今の皇室は正装の一つとして、ヨーロッパ風を採り入れてはいるが、
日本はEUの一員と言うわけではない。
文化的支配と政治的支配関係の成立は別ものでしょう。
纏向での古墳祭祀(サイシw)と絡めて言っても九州だけが、
参加していないかのように見えるのは、何故なのだろうか?
163 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 19:15:39
上の方で書かれた、弥生後期〜古墳時代初頭の寒冷化の軽視はどうだろう?
それまでとは大きく違う庄内土器の広範囲な流通は、やはり寒冷化が原因では、と思うのだが。
寒冷化の帰結は必ずしも民族の南下だけではなく、農耕を捨てて狩猟採集に戻るという選択肢もアリ
164 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:50:28
>>163 所謂「古墳寒冷期」は実際に古墳時代から始まり
(大陸より開始時期がやや遅れたらしい)
7・8世紀頃まで続いていると言う事だが
確かにあまり被害が出たような感じじゃないよな。
薄葬化が進む東アジア地域にあって巨大古墳の造営に向かったりしてるんだから…
まあ大陸の場合、鉄の為に大量に樹木を伐採したと言う人災的な部分もあったらしいが…
温暖化すれば人は定住し、寒冷化が進めば、
人はダイナミックに動き出す。
環濠を取り払い、外に開かれたマキムクへと。
巨大古墳築造は朝鮮半島でも見られること。
環境の激動で社会が変化、新たな権威が求められたということ。
不安定な社会ほど、人間は宗教やら権威などに縋りたくなる
166 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:15:06
スレ違いなのは分かるが
出雲に箱式石棺が入ってきだしたのは何時頃のことだったっけ?
167 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:29:05
>>151 >俺は、畿内連合が鉄器を求めていたという説には懐疑的だから、
自分もだが…
だから纏向は交易都市の性格ではなく宗教・祭礼都市の性格だと言っているw
(無論プラスαな部分に交易の要素があった可能性は否定しない)
理由として当時の東から西への交易品目で目玉であったろう鉄の出土が少ないと言う事に加え
首長連合結成の動機を鉄資源の入手に求める説と言うのは
その前提に北部九州が鉄の西への流通を止め
瀬戸内ルートを半ば死滅させたと言う想定がある。
(自分が知るのでは阪大の福永伸哉とか関悠二とかw)
仮にこれを 『 北部九州悪者説 』とでも言っておこうか?wwwwww
…しかしそれは多いに疑問で
例えば勝山から出てきた鍛冶遺構はツクシからの技術の伝播が想定できたり
(ただし機能的にはイマイチで工人が直接やって来たと言うほど親密でも無さそう)
少なくとも北部九州と対立していたと言う傍証に欠くと思う。
それより単純に考えて半島から仕入れて来た鉄を加工して売りさばくのに
瀬戸内ルートがあったほうが北部九州にとっても都合が良いのではないかとwwww
168 :
167訂正:2008/10/23(木) 23:35:55
誤)その前提に北部九州が鉄の西への流通を止め
↓
正)その前提に北部九州が鉄の東への流通を止め
169 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:43:48
北九州と畿内の間には吉備がある。
瀬戸内ルートは吉備が掌握してたはず。
その吉備までには、ゆるやかに鉄が入ってきてるよね?
だから、北九州が鉄を輸出しなかったというより、吉備が鉄を輸入しても、
積極的に畿内に売り込まなかったようにみえる。
畿内が鉄を欲してたら、鉄貿易で吉備は大儲けできるはずなんだが、
逆に吉備は畿内に政権を渡してしまった。
これを鑑みても、畿内が鉄を欲していたという説には疑問がある。
170 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:47:25
だからむしろ、吉備阿讃がマキムクを開拓して東遷した、という話なら、
辻褄があうような気もするのだが、どうだろう?
吉備東遷説なら、比較的まとも?だよね?
171 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:06:38
鉄の交易ルートは日本海ルートだった。
瀬戸内海ルートだと方向が変わる潮流を読んで航行しなければならない。
日本海ルートだと西から東へ流れる対馬海流にのれば楽に航行できる。
もちろん魏の使節が邪馬台国へ行くのも日本海ルートが有力です。
172 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:16:19
それもあるだろうな。
九州、吉備は所詮銅矛文化圏を共有してるし。
173 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 02:20:16
九州、吉備が銅矛文化を共有してたのは紀元前で、
次第に吉備にも近畿の銅鐸文化が浸透してくる。
そして、吉備の円筒埴輪は銅鐸から変化したものと言われている。
吉備は九州の鉄を求めていたというより、近畿の祭祀をより受け入れようとしているように見える。
174 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 03:53:46
>>172-173 吉備に銅矛の影は薄い。中期も後期もだ。
吉備を含む瀬戸内の中期末〜後期は、平形銅剣のマツリ圏。
ただし平形銅剣の生産地は、たぶん北四国。
で、山陰出雲も瀬戸内も、青銅器のマツリは長続きせず、
サッサとやめてしまう。銅矛に未練たらしい九州は、後れをとる。
>吉備の円筒埴輪は銅鐸から変化したものと言われている。
ウソだろう。そんな珍説、初耳だ。w
円筒埴輪(特殊器台のつもりか?)と銅鐸は、まるで別のもの。
いい加減な妄想、書くなよ。ww
175 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 04:21:36
>>174 いや、王権誕生(寺沢薫)に書いてあることを書いただけだよ?
出典は、青銅のマツリ1〜3段階。
p102
p177
p223
銅鐸から特殊器台はp242
(円筒埴輪じゃなかった。すまん。)
176 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 04:27:16
妄想ですまんが、吉備は巨大銅鐸を生産する技術が無くて、
土器(特殊器台)で銅鐸を模したんじゃなかろうか?
177 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 08:32:08
そもそもムラの祭りの道具である銅鐸は、特定首長墓に供えられることは稀。
銅鐸、特殊器台はやはり別物だろう。
鉄ルートは日本海側の方が優勢。むしろ鉄ルートの後背位置にあった吉備が、
出雲と結び付くことで、鉄の流通者として一時代を築いたのでは?と
>>177 俺としては弥生後期だけみれば出雲と吉備はあまり仲良くなかったように思える。
どちらかといえば阿讃との協力により瀬戸内ルートの確立せせさらに半島と直接、
交易を行うようになった事が大きかったのではないかと思う
しかし西谷と楯築の関係は前から言われてることだしな。
>>179 西谷3号墓と楯築との関係は一時的なものではないかといわれてるよ
その後吉備では山陰系の土器はあまりでない
181 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 20:23:43
おまいら鉄中毒だな
182 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:03:41
>>180 楯築以降、吉備地方の王墓はしばらく断絶してますし、
その後吉備は大和に寝返ったのかもしれませんね。
つ 鯉喰神社墳丘墓
>>183 確かに鯉喰神社は向木見段階での首長墓だとされているね
しかし,楯築と鯉喰神社では規模がダンチ
吉備地方全域に影響を持つ王墓は楯築でいったん断絶したとの考えも
あながち間違いではないのではないか
>>182 吉備が大和とつながるのは宮山段階ではなかろうか
宮山は吉備と大和の双方で出土してるし
ダンチ〜〜〜
って、坊や哲かよ。
ま、それはともかく、ダンチというほどには違わんぞ。
楯突きは前後に余計なものが付いてるから数字だけは大きいが。
ただ実際の見た目は楯突きは小山のてっぺんにあるから、
地山の部分も加わって馬鹿でかく感じるけどな。
墳丘部分だけならそうでもない。
規模がどうこうというよりも丸と四角の違いとか、
山の上と平地という立地の違いとかのほうが重大だと思うが。
186 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 01:46:19
吉備東遷説って、どうして支持されないの?
187 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 02:09:27
>>186 吉備の影響を思わせる一番古い物と言うと石塚の「弧文円板」かな?
参画した勢力でかなり古参だとしても纏向自体が吉備の東遷した勢力によって建てられた
…なんてことは考え難いからではないかな?
まあホンネ部分では「東遷」と言う言葉自体に皆 荒れるぎー を持っているんジャマイカ?wwwwwwwww
188 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 08:04:41
でも、奈良盆地の原住民が主体的に奈良を開発したわけじゃないよね?
他から王が来たと言うより、
吉備とか東海とかの人が集まってきて、奈良盆地のムラが徐々に力を持ってきたって感じ?
私は河内勢力東遷説
190 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 10:43:43
河内勢力の前に、阿波(徳島)勢力があるんでない?
阿波が河内に東遷つーこと?
192 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 13:51:15
というか、阿讃と河内はもともと同一だろ。
「もともと」って何時頃?
194 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 15:33:45
弥生前期
河内と阿讃は畿内T様式を共有するのか?
196 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:17:30
大阪湾型銅戈
唐古鍵遺跡に住んでた人達はどこ行ったんだろう
信州にはあるけどな
200 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:35:32
徳島には無いの?
201 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 04:53:48
こういうのは?
http://luna555.blog19.fc2.com/blog-category-13.html 1、190〜247年の卑弥呼実在時期の国内最大墳墓、交易制海権は吉備にあった。
青めのう、真珠。初期最大古墳のタテツキ遺跡の木管跡には、重量30キロの大量の
朱・水銀を使用(他の国内総使用量の数倍) =卑弥呼は朱好き。
2、倭人、秦氏コロニーも古く(鮮卑秦ハダ河西王=前秦、後秦末裔説、一族も健在)
紀元8年の王蒙の貸せんも大量出土で大陸交易の拠点。遺跡のご神体「亀石」の
「弧帯模様」は後の埴輪、朝廷模様に。 亀石には、中央アジア風のライオンの紋章レリーフ。
3、266年に後継の台与が晋に使い、その後、邪馬台国畿内説最大の根拠である マキムク・箸墓古墳に
吉備の第三期の特殊器台(後の埴輪)が登場し、出雲やほかの土器、古墳様式が合流していく。
後漢鏡の集中、秦氏系吉備工人も移動。始皇帝風の巨大土木、後円墳建造時代に。
202 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 04:55:39
4、倭迹迹日百襲姫は箸墓古墳の主で崇神の叔母、吉備津彦命の姉。=最後の吉備女王台与説
「吉備大和連合説」という、学会の公式見解からいけば、大和に吸収され遷都(その逆もあり)
5、その後、造山古墳(天皇家以外では日本最大規模第四位)全長350メートル等、
当時の吉備で墳墓は巨大化していく。瀬戸内制海権を握る吉備が大和連合の中心か?
6、吉備・任那同盟、朝廷との外戚関係(吉備から兄媛、黒媛を。応神・仁徳親子の
吉備訪問日本書紀記述は里帰りでは?)数度の半島を巻き込んだ反乱抗争(内戦か?)
7、アメノヒボコ伝承、桃太郎伝説、鬼城のウラ伝説、吉備津彦神社のお釜神託(卑弥呼神事)
8、古い墳墓、遺跡絵画の船は、先が反り返っているゴンドラ。靴とか服装も北方騎馬系だし、
3世紀以降も、鮮卑、突厥(いまのトルコ、ウイグル、チベット族系?)支配の五湖十六国時代の
中国大陸から多様な民族が渡来説。
203 :
思いつきでGo!wwwwww:2008/10/26(日) 06:06:43
首長連合の萌芽、その時の構図について以下の如く想像するがどうでせう?
弥生時代中期から後期にかけ瀬戸内一帯に高地性集落が造られた事は周知の通り。
で、その集落に恐らくは近辺の集落に緊急事態を告げる狼煙台があったのも確認されている。
交易ルートの確保より何より、先ず最初は生き延びる為に連合体を結成する必要があったのではないか?
無論、大小のグループがまた争い、合従連衡離合集散を繰り返し徐々に大きな連合体になったと。
で、問題は高地性集落の無い奈良盆地がそこにどう関るか?だが仮説として
(1)高地性集落は認められないものの大和もその争乱の渦中にあり初期から連合体に参加していた。
(2)河内にできた連合体の祭礼都市として大和川上流の纏向が選ばれた。
特に(2)については、穏やかな瀬戸内海が海上運輸に有利とされるが
湖(河内湖)なら輪をかけて有利なはず、連合体の結成も何処よりも早かったのではないかと推測。
204 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 07:18:32
しかしだね、
吉備は、もともと北九州よりだったわけだよ。
鉄器も少なからず入っていたわけだし。
吉備の発展のためには、九州と連合したほうが近道のはずなのに、
なぜ、九州と決別するように畿内連合に参画したのか?
ということなんだが。
結果的に、畿内は経済的に上位に立つが、
弥生時代は、畿内はへんぴな田舎だった。
吉備は畿内が九州より発展することを見越して畿内と組んだのか?
>>204 鉄に限って考えれば、生産者、卸し、消費者の問題でしょう。
弥生期の生産者は、韓しか存在しえないとして、元卸しの位置には北部九州がいる。
豊とか吉備とか出雲は、消費者兼中卸しで、阿讃・畿内・東海なんかにはオコボレが廻ってくるくらい。
最終消費者の畿内としては、中卸しを跳ばして直接元卸しから仕入れた方が中間マージンの無い分安くつく。
九州から見ても、これは買い手の数が多い方が、売り手市場となり、高値が付け易いので好ましい。
しかし、吉備から見れば、これは好ましい事態では無いので、
勝手に自分の軒先を通って鉄が流通するのは阻止したいが争いは好ましくない。
そこで、消費者側が一致団結して購入することで買い手市場が形成される環境をつった。
消費者連合の盟主は、当初吉備が担っていたが、エリアが東海などに広がることで、
三世紀には畿内が代表の地位についた、そんなところが三世紀の西日本の状況ではないでしょうかね。
>>205 それ論理矛盾だよ。
一言で言えば、
「コープもスーパー」
(コープ=消費生活協同組合、スーパー=スーパーマーケット)
これに尽きる。つまり、物資の集散機能を持ったらそれは「最終消費者」ではないんだ。
しかも、最終消費者は畿内だけではない。東海も北陸も四国も、
「最終消費者」であることに変わりは無い。
なぜ、畿内だけが「最終消費者」の中で特殊な地位を占めるに至ったのか?
結局話はもとに戻ってしまうw
>>206 > それ論理矛盾だよ。
全然矛盾しないよ。
三世紀の時点での状況だから。
二世紀の状況でも四世紀の状況でもない。
> 一言で言えば、 「コープもスーパー」
生協と言う組織の原初的理念は「共同購入」だよ。
仕入れ、配送等をどのような仕組み(物資の集散機能)をどのようするかは、運営上の問題。
当然、集約化、分業化(労役と資金の負担)した方が効率的であるので、
大規模組合ほど「スーパー」的「コープ」になるが。
つまり、コープ(卸兼消費者)がスーパー(元卸し)と購入者(最終消費者)に転換するのは四世紀だということ。
> なぜ、畿内だけが「最終消費者」の中で特殊な地位を占めるに至ったのか?
> 結局話はもとに戻ってしまうw
そう。
思うに、役得の多い物流拠点を押えて、強かに私服を肥やしたからじゃないかなw
208 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 14:39:10
話は変わるんだが…
「纏向型前方後円墳」って纏向遺跡以外に奈良にあったっけ?
勿論時代も一致するもので(庄内以前)
所謂「欠史八代」の陵墓に幾つか前方後円墳が指定されているが
その中にある可能性ってどんなもんだろう?
無いね
210 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 02:20:43
>>205 古墳時代初頭は、東海の鉄器は減少してるわけだから、
共同購入説は成り立たないよ。
「古墳時代初頭は、東海の鉄器は減少してる」は事実であって、
考察として、東海は弥生時代に開発済みで、鉄器を必要としてなかったという話。
で、いきなり関東に鉄器が増える。
では、関東を開発したのは誰かと言えば、土器だけみれば東海。
これはどういうことなんだろう?
211 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 02:47:15
>>210 先にも書いたが鉄器の需要は何も開墾だけではないだろう?
212 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 08:27:39
ただ単に、東海の人々が鉄器を携えて関東に行った、ということでは?
あと、鉄器出土の絶対数が少ないなかでの、増えた減ったって考察は、
余り意味がないと思う。
213 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 08:53:49
鉄が希少なこの時代、鉄器は磨耗するまで使われ、
その後もリサイクルされていただろうから、そもそも残りにくい、という前提が必要。
また東海、畿内とも弥生後期には特定首長墓の展開が見られず、
薄葬文化だったことも加味されるべき。
214 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 09:32:05
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興さ
れたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸には
四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。
当時は、西谷と安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかが
ヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったり
もします。
神話を絡めて考えても西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記された
伊邪那美神の神陵地がある魅力的な場所です。
215 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 09:46:54
>鉄が希少なこの時代、鉄器は磨耗するまで使われ、
>その後もリサイクルされていただろうから、そもそも残りにくい、という前提が必要。
磨り減った鉄器をリサイクルするには高温の炉が必要では?
東海からリサイクル用の炉は出土してるの?
216 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 10:50:36
リサイクルするためには炉が必要だから、6世紀までまたないと。
それまで、クズ鉄を大事に先祖代々持ってたというのか?
217 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 12:23:00
いや、リサイクルといっても、斧や鍬を刀子に打ち直す程度の意味
218 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 14:03:41
『魏志』「弁辰の条」には「もろもろの市買にはみな鉄を用い、
中国の銭を用いるが如し」とあります。当時、鉄ていは通貨の様なものだった。
219 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:10:02
ここの議論では、どうしてもクニ単位の議論になるんだよな。
吉備にしても出雲、筑紫も当然大和も、一まとまりのクニとして明確に存在したかは疑問。
少なくとも戸籍の存在や租税が徴収されていた形跡はない。それはマキムクも同じ。
人々は土地に縛られず自由に動いていた。
つまりは弥生以来の拠点集落の首長たちが行政単位であって、彼らが祭り上げたのが各地のオウ。
220 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:00:49
マキムクが内陸部の田舎とか言ってる人がいるが、
大和川水運を利用して、積み荷・荷揚げされる交通の要衝という認識がないんだな。
マキムクは内陸部というより、瀬戸内海と畿内以西陸路との結節点。奈良盆地の躍進は地形的に必然なんだよ。
>>219 隣のムラと言語も通じないような原始農村社会から、
いきなりペルシア帝国かアレキサンダー大王が出てくる勢いだなあ、おいww
クニができる前のムラ単位の部族社会から、いきなり王なんて出てくるかよw
変な「地球を股に掛けた大交易ロマンを語るファンタジー小説」の読みすぎだw
>>220 つ【亀の背】
何が悲しくて、保津峡『登り』まがいのことをやって大和盆地に必死で物資を運ぶかね?
「そこに権力がある」ほうが、明らかに先だよ。
この巨大バージョンとして、中国の関中盆地があるが、
やはり水運交通より権力(と内陸交通)が先。
秦や西周の勃興の例は、少しだけ参考になるかもしれない。
だけど、当時の大和がそんなに武力で押していた雰囲気もないんだよなあ。
>>221 >クニができる前のムラ単位の部族社会から、いきなり王なんて出てくるかよw
しかし畿内や東海は、縄文以来の部族社会が根強く残っていて、
弥生後期に突然オウが誕生しているんだよ。
東遷とかが考古学的に否定されている現実を見なきゃ
>>221 >何が悲しくて、保津峡『登り』まがいのことをやって大和盆地に必死で物資を運ぶかね?
>「そこに権力がある」ほうが、明らかに先だよ。
唐古鍵もマキムクと殆ど同じ立地。
で、唐古鍵が畿内経済ブロックの中心地であったことは異論がないところ。
唐古鍵に王権の誕生を思わせるような特定首長墓の発展が見られないことも
異論がないだろ?
つまりは交易が先なんだよ。
なぜ畿内で王権の誕生が遅れたのかは、半島や大陸からの影響を直接受けず、
縄文以来の部族社会が残っていたから。特定個人に権威が集中することはなかった。
王権の誕生は、あくまでその時代の政治的状況が要因になったのであって、
別に経済的発展が必然的に王権誕生を導く訳ではない。
ローマやギリシアとかを見ても分かる。
>>222 >縄文以来
そりゃないないw
畿内と東海西部(濃尾平野)は、考古学的なあらゆる証拠が示すことに、
日本で最も「縄文と弥生の部族的断絶」の激しいところといってもいいんだけど。
畿内と濃尾では、縄文人と弥生人は完全な異民族。
つうか、もともと畿内低地には縄文人はあまりいなかったわけだしw
東日本はもとより、むしろ北部九州のほうが、
縄文と弥生が文化的・人種的に複雑な交雑を示す。
縄文と弥生の対立っていつの時代の説ですか?
弥生人はみんな渡来人とか思ってる?
227 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 00:36:45
縄文から弥生への変化は「対立」でも「異民族」でもなくて「移行」だろ?
228 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 02:34:56
宗教的聖地(三輪山)に人が集まる
↓
集まった人同士で交易が始まる
↓
交易の元締めとしてオウが生まれる
・・・で、何か問題あるの?
>>227 縄文も弥生も一つの文化として捉えたら
緩やかながらも縄文文化を持った人達が弥生文化に移行したとなると
統一国家の出現があったとしか考えられなくなりますよ
縄文文化を持った縄文人が自分達の文化を捨て新しい文化を創造して行ったとは考えにくいのでは?
自然の流れの中で自分達の文化を捨て新しい文化に移行して行ったなんて考えられない
なぜなら今だに縄文的狩猟採集文化を持った民族はいるからです
縄文文化から弥生文化へは進歩ではなく
縄文文化持った人達なら縄文の狩猟採集的進歩をすると思いますが
230 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 03:56:11
>>229 縄文文化と弥生文化が違うものだと思ってるの?
何十年前の教科書読んで育った人?
>>230 後の世でも大和民族の蝦夷征伐など
確実な形で日本列島には同時期に違う民族、文化を持った集団がいたんですから
むしろ古代から同じ人種、民族(倭人、大和民族)が縄文文化を経て
弥生文化に移行したと、あくまで単一民族的に考える方が無理があるのでは?
233 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 05:08:56
>>231 おまえが勝手にわけてるだけだろ。
何を帰順に別けてるのか言ってみ。
>>232 少し前の教科書には、そんなことが書いてあったかもね。
でも間違いですから。
234 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 05:39:33
>>222 >>225 人種とか生物学的な違い(新旧モンゴロイド)ではなく、社会構造とか文化の点において
近畿の弥生時代は縄文的伝統を色濃く残していると言う話はあるw
確か高島忠平だったかな?
なんでも近畿のほうが縄文的長老制的機構が強く
それは北部九州の首長制と異なるとか何とか・・・
正直イマイチ分からないんだがwww
氏族部族単位を超えた政治体制の構築を成したのが
北部九州の方が早かったと言う事なんだろうか?
軍事力を象徴した武器形青銅祭器の九州と
豊穣を祈る銅鐸の近畿の違い…まで話を引っ張ったらややこしいかな?wwwwwwww
>>233 それなら弥生時代の始まりを早くするなどの話題の必要がなくなるだろ
日本には縄文時代から古墳時代になったのか?
それとも石器時代の次が弥生時代になるのか?
同じ時代の同じ地域で異なる文化を持った集団が雑居していたのと
同じ集団の文化が変移したってのは大きく違うぞ
ちなみに古事記、日本書記にも明確に大和民族とは異なる集団か列島には存在し
雑居していたことが書かれてるぞ
君の意見は縄文文化より弥生文化がより進歩的で優れているから
自発的に縄文集団が弥生文化に移行したと言う事になるが
文化の優劣自体間違いではないのか?
第一違いがない同じものなら時代区分が必要ないだろう
237 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 06:43:01
>>235 だから、おまえは古い歴史教科書の読みすぎで頭が固くなってるんだよ。
そもそも、縄文時代と弥生時代の違いって何?
採集と農作?
定住か否か?
土器の変化?
人骨の変異?
どれもある時期に劇的な変化なんてありはしないんだよ。
「縄文人」なる人が暮らす土地に先進文化を携えた「弥生人」なる人がやってきて、
縄文人を駆逐し、古い習慣を捨てさせて、弥生人が西日本を支配したなんてことをいまだに思ってるの?
>>237 誰が渡来人が来て劇的な変化があったなんて書き込んだんだよ
しっかりレス読めよ
同じ物なら移行と言わずに継続って言うんだよ
日本列島にには縄文時代から縄文人って言う単一民族だった
は違うんじゃないか?って言ってるんだよ
少なからずも例え神話でも古事記や日本書記には異なる集団同士が雑居していた事が書かれているんだ
縄文人が単一民族として弥生文化に移行したんじゃなく
縄文時代から多種多様な集団が日本列島にいて時間をかけて融合して行って
弥生文化の担い手のような集団が出来て行って
その後も集団の融合の中で大和民族が形成されて行ったんだろ
240 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 07:23:46
何が移行したと思ってるの?
江戸時代にチョンマゲしてた日本人が明治時代に洋装したとき、何か移行したの?
なんつうかトートロジーつうか言葉遊びつうか・・・
もう「移行」でも「継続」でもなくて『 融合 』でええやんwww
ハイ終わりwwwwwwww
243 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 07:38:15
>>238 >日本列島にには縄文時代から縄文人って言う単一民族だった
>は違うんじゃないか?って言ってるんだよ
「縄文時代」に「縄文人」という単一民族がいたなら、
ずっと日本人は単一民族ですよ?
紀元前数百年頃に、「縄文人」が「弥生式土器」を作りだしたので、
「弥生式土器」を作った「縄文人」を「弥生人」と呼称しただけ。
何か?
244 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 07:45:10
「弥生式土器」を作りだしたっつうのも違うな。
土器に装飾をつけるが面倒になったので手抜きしたら普通の土器=弥生式土器になったというだけで。
第三者ですが。
ご両人とも頭の中にある「弥生人」のイメージのは、ほぼ同じかと。
なんか、言葉尻をとらえてうんぬんの状態ですかね。
246 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 08:29:04
装飾性の無い縄文土器も有るし、意匠に凝った弥生土器もあるが。
貯蔵用や祭祀用、煮炊きに使う炊事用と土器の用途によってデザインが違うのは当たり前。
247 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 08:33:00
要は弥生文化の受け入れ方は各地によって様々で、温度差があったというだけ。
西日本全体が一律同じ弥生文化になったとか、そんな単純なものじゃない。
弥生時代の始まりは、寒冷化により人の動きが活発化、水稲を携えた人々の移住が西日本にあったということ。
環境の変化でそれまでの社会が成り立たなくなり、各地で脱縄文の動きが起こっている。
248 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 08:51:31
そろそろ三足コピペが来るぞ↓
縄文と弥生に関する今の「新移行説」は、昔の「旧移行説」とは全く違うぞ。
>>230>>237だとか、混同している奴が大杉。
旧渡来説→旧移行説→渡来説→新移行説というのが大雑把な流れだが、
渡来説(二重構造論)を踏まえた上で、新しい移行説が出てきているから
昔の鈴木尚が言ったような移行説とは全然違う。
新移行説の主戦場は、専ら九州北部。これは何を意味しているのかというと、
数百年かけて九州北部で弥生文化のプロトタイプが成立する際に、
在来縄文系との人種的・文化的混交が相当程度あったのではないかということ。
このプロトタイプができて「遠賀川式土器文化」が成立した後は、
一気に名古屋くらいまで、ほとんど混交なしに東へ「突撃」する。
瀬戸内は東進ルート上ながらスルーっぽいところがあるようだが、
畿内や東海西部では、遠賀川式の担い手と在地の縄文系はスパッと分かれる。
それより東になると、また事情が異なるが。
だから、畿内に関して、二重構造論をひっくり返す必要は今でも全く無いといってよい。
>>1に関しての議論は、渡来説前提で何も問題はないよ。
250 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:48:39
で、結局、纏向は縄文的なのか?弥生的なのか?w
纏向の文化宗教を大雑把に俯瞰するのなら
先ず誰もが分かる前方後円墳に見られる「首長霊信仰」
次にホケノの画文から「神仙思想」…まあこれは信仰まで至らなかったかもだが
でもう一つ祭祀土坑から出てきた大量の籾殻や炊飯に使ったと思われる土器等から
今日の新嘗祭のような豊穣を祈願したような祭祀を想定する説があるが
それが本当なら銅鐸祭祀にも繋がる「穀霊信仰」ってところか?
まあ、それは纏向に大陸のカラーが薄いとする九州説には畿内説のマイナス材料に数えるかもしれんし
逆に畿内説にとってはだからこそ中国人から見て奇異に映り「鬼道」なる表現になった…という事になるんだろうなwwwww
251 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:49:15
>>249 えらく偏った考え方の人だなあ。
九州発弥生文化が急速に東進したのはそうだろうけど、その後は混交したと考えるのが普通では?
まだら状になった後に混交が進んだってことなんじゃないの
>>249 急速に東進て。
最近の研究成果では弥生時代の開始時期が遡上していて。
弥生時代を稲作農耕の時代と定義するなら、九州ではBC10世紀から弥生時代が開始。
それ以降の弥生文化の東進は思っていたよりも緩やかに進行したらしい。
BC500年に近畿、BC400年頃に東海、そして南関東の沿岸部ではBC200年といった感じ。
従来いわれていたような西日本が縄文型生活に不適応であったという考えは不穏当で、
西日本の縄文遺跡における遺物からは、縄文人の生活は定住ではなく、
夏季の海洋漁労と春秋季の採取生活に応じて集落ごと移動していた形跡があるという。
西日本全体が縄文不適応で短時間に一律同じ弥生文化になったとか
そんなことあるわけないじゃない。
254 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:39:07
>>249 >専ら九州北部。
九州西北部(佐賀・長崎あたり)で在来系弥生人(=縄文人の子孫)
九州北部で渡来系弥生人
…と言う分布に見る事ができるかな?
が、
>一気に名古屋くらいまで、ほとんど混交なしに東へ「突撃」する。
「混交なし」と言うのは事実上「駆逐」に近いのではないかな?
ちなみに・・・
神戸市の新方遺跡では在来系・渡来系、双方の人骨が出ている。
255 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:41:00
長白山のスサノオ = 檀君
>>249 実際のところ遠賀川系土器が瀬戸内海を通って伊勢湾に到着するまで
2〜300年かかってるみたいで、北部九州の人が大挙押し寄せたなんて
事実はないみたいだ。
畿内で弥生前期、弥生と縄文の集落が並存したのは事実だが、両者間で
活発な交流があったことが分かっている。
つまりは畿内で混交が進んだ後、東海東部にも伝播していくということ。
間違いだらけというか、今の考古学から言えば異端だよ。
257 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 00:07:19
>>250 >で、結局、纏向は縄文的なのか?弥生的なのか?w
そんな所に論点はないよ。
要はマキムクの王権誕生について、交易が先か「まつりごと」が先かの話。
258 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 01:07:53
>>257 東国へぬける為大和川を遡上する必要があり
纏向がその途中と言うか舟運の最終地点と言う位置にあったのは認めたとしても
交易地点として栄えるなら大和川下流の河口付近、河内湖の湖岸ではないかと思う。
で纏向はその後背地と言う事で。
大和川遡上で船やクルーを変えた方が効率良いのではないか?
・・・と言う気がするんだがwwwwww
259 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 01:19:07
>>258 河内湖々岸が第一河口、マキムクが第二河口として栄えたということでは?
内陸部の河川交通の要衝(陸路と水路の結節点)が栄えた例は多いし。
>大和川遡上で船やクルーを変えた方が効率良いのではないか?
>・・・と言う気がするんだがwwwwww
当然、クルーを変えていたと思う。
で、河川両岸から綱で引っ張ったと。
両岸の治安を守る必要性から、大和中河内連合が生まれる。
261 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 03:34:46
マキムクの頃は、水運用に自然河川だけ利用してた?
運河とかつくってた?
纒向には運河があるじゃないっすか
263 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:17:17
マキムクの運河って舟も渡れるの?
264 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 14:25:16
スサノオ降臨前の朝鮮のことか。
265 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 15:18:58
266 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 15:22:22
↑訂正
深さ1.2m → 深さ約1.2m
267 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 15:38:12
268 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 15:45:28
知に偏れば嘘をつく。
克服できないのか、もはやこいつら。
負け犬の遠吠え
270 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 17:56:02
奈良で3世紀の運河って、マキムクだけしか見つかってないの?
271 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 18:34:06
九州涙目w
272 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 18:37:15
269 おまえそうなのか、 さすがにキャン言うだけある。
論破されて腹が立つのは分かるが
274 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:24:59
あの大溝は運河として利用するには勾配がきつく
船を繋留しておくのも難しい…んじゃなかったっけ?
船着場のような遺構がでればはっきりするんだろうが…
それに
>>267の言うように他の遺跡でも規模の大小はあれ
溝は出ているし…
あと時代はずっと下るが斉明が造らせた「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」
なんてものもあった(あれは運河で確定かな?)w
機能としてなんだったんだろうな?
上水道?下水道?それとも両方兼用か?
あるいは川の水量コントロール治水の為?
まあ見た目の風雅さとかでないことは間違いないだろうがwwwwwwww
275 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 19:30:30
もうちょっとまともなことを書いて。
277 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:29:25
纏向は大溝もあるし邪馬台国の城だと思うよ
278 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 21:37:20
邪馬台国どうでもいい
279 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 22:05:46
邪馬台国が東遷して纏向になったんだろ
>>279 東遷して纏向に邪馬台国を作ったのかも知れない。
281 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 00:00:30
大溝なんて飾りですよ。
畿内説の人にはそれが分からんとです。
邪馬台国なんて飾りですよ。
文献史学の人にはそれが分からんのです。
283 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 04:44:54
284 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 08:32:13
東遷説は早い段階で否定されてるだろ。今だに根強いんだなあ。
思うに、マキムクに突然王権が誕生することに違和感があるためなんだろう。
しかし実際のところ、楯築にしても突然だしな。
古墳の巨大さに目を奪われ、大きなクニが確立していたかのように錯覚しているだけ。
285 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 11:14:45
マキムクが突然とかいうが、もともと数キロ範囲に人は住んでたわけで。
数キロはなれたところに、振興施設つくっても不思議じゃない。
286 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:04:01
>>284 東遷説が邪馬台国論争の本流。
畿内説はアンチ東遷説に過ぎない。
287 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:06:45
邪馬台国論争とかどうでもいい
288 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:40:08
東遷説ってなに?
昭和ロマン小説?
289 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:41:49
「古代に九州の勝利あり!」の負け犬根性>>東遷説
290 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 16:43:39
ほー反日ども、負けが込んでるみたいだなあ。
>>284 「3世紀後半に北九州の邪馬台国が東遷して大和王権を作った」
と言う東遷説は既に否定されてるわな。
考古学的に、その時期の東遷は裏付けられない。
ただ、2世紀中ごろから3世紀初頭ぐらいなら、
高地性集落の分布と竪穴式石室(南九州の板石積石室に源流あり)の存在から
東遷(ことに拠っちゃ「東征」でも良いかもしれない)は考えられるが。
・邪馬台国以前に畿内の勝利あり!…梅原末治・小林行雄・田辺昭三等
・倭面土国以後に九州の勝利あり!…古田武彦とその信者
292 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 18:48:22
東遷説などオカルトだ。
古墳時代の歴代皇后に九州出身者は1人もいない。
日本民族大移動など歴史上存在しない。
293 :
日本@名無史さん:2008/10/31(金) 20:24:28
>>291 地下式板石積石室墓が東遷して竪穴式石室とか
大電波だろw
上の方で巻向の東には欲しいものがないと書いてあったが、
宇陀(長谷寺裏から山越えてすぐ)、
丹生鉱山(伊勢本街道の伊勢神宮手前)の辰砂があるよ。
丹生は少なくとも弥生時代から、古墳時代の宇陀は不明。
ちなみに分布は↓感じなんで、
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45700769.html 西日本東部では徳島、奈良、三重で出る。
それから昆布も東北以北しか取れず、重要な特産物だった可能性がある。
これは「続日本紀」に献上の記録(最古)がある。
もっと古くから流通があったことが分かっているが量は不明。
>>274 幅5m深さ1.2mの下水道ってふざけてるのか?w
上水道にしても平安京ですらそんな立派なものは…
江戸初期の玉川上水なみだわ。
一番想定しやすいのが、治水と舟運だと思うよ。
それなりの労力がかかってるんだから。
治水は農業用水を含めてね。
>>114 > 例えば、関東において著しく伸びている千葉だと神門三・四・五号墳とかがあって
神門って市原市ですよね。
市原市はちょっと巻向と似ています。
関東平野の南東の端にあって、
低い山をちょっと越えれば、九十九里に到達して、東国に水で繋がります。
南房総は海が荒れるので、江戸時代に江戸湾に流れていた利根川を
霞ヶ浦へ繋ぎ変えて、江戸から東北への舟運交通網を確保しようとした位なので、
古くも有望な交通路だったと思います。南房総を海で回り込むよりは。
だから関東から東北への拠点となりうる場所です。
九十九里側と違って内海なのも好都合です。
荒れているね。荒れついでにw、巻向自生説に戻った時の
議論の前提の設定をしてみたいんだが。
>>256あたりにからむんだけど。
これは考古学的に昔からの当然の前提なんだが、
遠賀川式土器文化の担い手たる弥生人の人種形質において
「弥生色」は、九州北部から東海西部の所謂「伊勢湾若狭湾第一次進出線」まで
ほとんどまったく薄まっていないという厳然たる事実がある。
つまり、少なくとも人種的「混交」という点では、
>>256は確実に否定される。
もし、西日本を進むうちに混交があったとするなら、
人骨を計測しても東へ行くほど弥生色は薄まるはずなのだ。
だが、一次進出東端の愛知の朝日遺跡で、
混血皆無の完璧な弥生人骨が出てくる。
こんな一見無関係そうな話が何に関連するのかというと、
巻向に大きく関わったことが確実な「東国勢」もまた、
完全な弥生人部族だったということ。意外に見落としがちだが、重要な話だと思う。
>>297 弥生人が縄文人を駆逐って、いったいいつの時代の説だよ
縄文から弥生の過渡期でしょ。
300 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 16:32:52
縄文時代の遺跡の分布を見れば西日本が東日本に比して密度が下がるのは見られる訳で。
(太平洋側で言えば箱根越えた辺りからにぎやかになるかな?)
つまり東進した弥生人にとってニッチ(隙間)が十分にあったんだろう。
縄文系の生活領域を侵し駆逐せずとも住み分けができたんだろう。
何より漁労中心であったろう九州の西北部で在来系(=縄文系)の骨が出てくるのがその証左。
記紀の「土蜘蛛」の特徴も言われれば縄文系のそれっぽいwww
背が低く、手足が長く、山野をすばしっこく駆ける・・・etc
このスレで記紀を出すのはアレな人達が来ちゃうんでアレなんだろうがw
まあ俺自信がアレなアレなんだけどwwwwwwwwwww
>>298 何度も何度も繰り返すが、
少なくとも北九州−畿内または東海間では、駆逐かどうかじゃなくて、混交しない「非混交」。
これは、明治以来の発掘でこれだけ人骨の証拠がそろえばほぼ確実。
混交していれば、九州>>瀬戸内>>畿内という、
遺伝上のグラデーションが生じるはずだが、
畿内における「弥生時代開始」以降現在に至るまで、
畿内人が九州人より、形質上「縄文的」であったことはただの一度も無いんだよ。
たいてい、畿内が「弥生度最強」になる。
指標によっては、東海西部が畿内を抜くことさえある。
残った縄文人は奥地で細々と暮らし、極度の人口勾配が出来てから吸収されたんだろう。
ただし、東国と九州の広い範囲でははっきり混交が見られる。
その証拠に、明確な遺伝勾配がいまでもある。だが、どんな調査を行っても、
最も大陸に近い数字が出てくるのは畿内人であって九州人じゃないんだ。
まさか、濃尾が弥生の一派であることどころか、
畿内中央低地民の120%弥生性さえコンセンサスが取れないとは思わなかった。
弥生人と縄文人は他の地域(ユーラシア大陸やサフル大陸など)での混合よりもその度合いが高いことから比較的穏やかに交わっていったと推定されている
(むろん部族間戦争は多数あったと推定される:時代は下るが例えば倭国大乱など)。
303 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:35:20
>>301 >指標によっては、東海西部が畿内を抜くことさえある。
それは縄文遺跡の分布からも首肯できる話ではあるw
ぶっちゃけ愛知県あたりだと本当に縄文遺跡の真空状態って感じだしw
ただこのお話はあまり纏向に直接には関ってこない希ガス
むしろ前方後方墳なんかの分布は、その縄文文化圏?にも広がっている%8
304 :
専ブラ マジ調子おかしいorz:2008/11/02(日) 00:36:38
>>301 >指標によっては、東海西部が畿内を抜くことさえある。
それは縄文遺跡の分布からも首肯できる話ではあるw
ぶっちゃけ愛知県あたりだと本当に縄文遺跡の真空状態って感じだしw
ただこのお話はあまり纏向に直接には関ってこない希ガス
むしろ前方後方墳なんかの分布は、その縄文文化圏?にも広がっているし
(まあひょっこり九州とかにもあるんだけど…)
そもそも搬入土器の半分を東海系が占めると言う事について
スンナリ納得できるような仮説すら聞いた事が無いしぃ〜wwwwww
305 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 01:28:20
>>292 記紀のどこに民族大移動と書いてあるんだ?
小集団が移って来たとしか書いてないんだが。
で、機内に移ってから何でわざわざ九州から皇后をもらう必要があるんだ?
現地の有力者と政略結婚が先だろ。
>人骨を計測しても東へ行くほど弥生色は薄まるはずなのだ。
人口過密地域の九州を避けて、畿内や東海に移住した渡来人が多いということでしょ。
>一次進出東海の愛知の朝日遺跡で、混血皆無の完璧な弥生人骨が出てくる
混血皆無とか頭悪過ぎ。
そもそも混血してないかどうかを、どうやって判別しているんだよ
307 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 02:15:58
>>305 小集団???東遷説などなかったと言ってるのだが・・・
あなたが神武東遷説を信じているなら兵站補給線のことを学んだほうがいい。
孫子の兵法を読みなさい。
外様である降伏した有力部族の女性を皇后にすることはありません。
譜代である仲間の有力部族の女性なら皇后にします。
そうしないと組織が成り立たなくなり、謀反がおきるからです。
>>306 混血すれば形質に必ず影響する。
こんなことは、テレビでハーフのタレントを見れば一目瞭然だ。
それは人骨の計測ですぐに分かる。
ウエンツの頭蓋骨を計測すれば、
たとえウエンツの親について具体的情報を知らなくても
白人との混血であることはすぐわかるだろう。
そして、実際の弥生人の東進は300年前後かかっているようだから、
10世代近くかけている。もし混交しながら進んだのなら、
混血し、世代を重ねながら東進するわけで、
東へ行くほど「縄文度」の強い「弥生人骨」になるはずだ。
だが、北九州−名古屋間に東進した弥生人骨を追いかけても、
グラデーション状の縄文化は全くない。つまり混血は皆無ということだ。
>>308 >10世代近くかけている。もし混交しながら進んだのなら、
>混血し、世代を重ねながら東進するわけで、
>東へ行くほど「縄文度」の強い「弥生人骨」になるはずだ。
根拠が頭骨の形だけってw DNAとか出すならまだしも。
310 :
306:2008/11/02(日) 02:48:47
直接、瀬戸内海を通って畿内や東海に入植した渡来人の可能性とか
検討しないと。
>そもそも搬入土器の半分を東海系が占めると言う事について
>スンナリ納得できるような仮説すら聞いた事が無いしぃ〜wwwwww
東海勢力の交易商品が、壺に入れて運ぶものが多かったというだけでは?
米やら発酵食品、海産物など。
鉄とかは当然壺に入れないので、マキムクからは九州系土器が少ない。
312 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 04:38:39
>>311 正直海産物と言うのは考えた事があるw
ちなみに伊勢志摩辺りは古来「御食国(みけつくに)」(今風に言えばグルメランド?w)と言われ
皇室に食いもん供給してた場所だし
伊勢神宮の外宮のトヨウケと言う神様はアマテラスに食事を給する役目
…と兎に角食べ物に関する事柄が多い。
(もっとも例の ♪伊勢の名物 でその地位も随分ケチがついたがwww)
でもね祭祀土坑から籾殻や桃、フクベ等々が出てきても
干しアワビの貝殻だの魚の骨だの出て来たって話も聞かないんだよねw
何れにせよそれでも搬入土器の半分と言うのは幾らなんでも多すぎると思うんだが・・・
313 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 06:24:01
>>305 記紀を出したなら、君の間違いはハッキリと正すよ。
>で、機内に移ってから何でわざわざ九州から皇后をもらう必要があるんだ?
畿内の天皇が九州から皇后を迎えたことはない。
むしろ、神武天皇が九州で娶ったアヒラヒメの子のタギシミミは、
反乱の罪で殺されたと「わざわざ」明記されている。
この件で、九州生粋の王家は畿内に存在しなくなった、と暗に記紀は明記してます。
王家が九州出身ならこんな記述は削除するでしょう。
搬入というより、外来系土器。
東海からやってきた人々が、マキムクで作ったとも考えられる。
全部がそうではないだろうが。
どちらにしろ、畿内と東海は利害が一致していて、共同歩調を
とってたんだろう
317 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 11:14:15
>>315-316 近畿東海の弥生人は大陸と関係が深かったみたいね。
なおかつ九州説を唱える気が知れないが。
318 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 12:12:53
日本書紀では筑紫の日向の高祖山
この場所って伊都国そのものなんだよね
319 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 12:19:30
東海西部の大部分を占める三重県は、
西に鈴鹿山脈があって、山に近づけば扇状地(例えば能褒野)、
濃尾平野の南端であることもあって、
海に近づいても台地が点在する(例えば大谷遺跡、永井遺跡)、
初期の稲作には絶好の地形だね。
しかも三重県北部全域にこの地形が南北に展開されている。
奈良西部の東西を裏返した地形になってる。
上津道にあたるのが巡見街道。
名古屋周辺ともなると、河川がでかすぎて、治水にだいぶ苦労したはず。
鈴鹿山脈はその辺コンパクトで治水が楽だったはず。三輪山はもっと。
322 :
大和島根:2008/11/02(日) 23:46:04
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
323 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:59:36
>>313 >むしろ、神武天皇が九州で娶ったアヒラヒメの子のタギシミミは、
>反乱の罪で殺されたと「わざわざ」明記されている。
知ってるよそんなこと。畿内に移ってからの話じゃなかったのか?
>この件で、九州生粋の王家は畿内に存在しなくなった、と暗に記紀は明記してます。
>王家が九州出身ならこんな記述は削除するでしょう。
何で? 逆に九州出身でなければ「わざわざ」そんなことは書かないんじゃない?
「わざわざ」九州を切り捨てる必要があるのはむしろ九州出身者だろ。
324 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 00:59:37
記紀談義はよそでやれ
>>322 考古学的には無理がありすぎる。
吉備や阿讃に比べて影響が少ないし、時期も遅い。
大和から東国の経路が
纏向から行くより、近江から行く方がいいという意見があったが、
近江は古墳時代の、どんなに遅く見積もっても初期までは前方後方墳の国だろ。
昔は神郷亀塚古墳は前方後円墳とされていたけれど。
纏向からでいいだろ。
古墳の違いがどの程度経済的、政治的緊張に繋がるかは分かってないから、
纏向からじゃないと危険だとは言わないが。
>>294にある丹生鉱山には圧倒的に近いしな。
327 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 09:45:24
奈良から伊勢まで、今でも伊勢街道があるよ。
大和は丹が大好きだからな。
>>321 だから最初から読めよ。その資料なんて、もろに
>>297そのものじゃないかw
九州で弥生文化が形成される段階で、かなりの縄文系との混血があった。(第一段階)
それがそのまま東へ進んだ。(第二段階)
第一段階では相当混血した。
だが、第二段階ではほとんど混血は無い。
そう考えないと、まさに
>>321の説明が付かない。
その2つの資料、いずれも近畿または東海西部が「弥生度最強」の典型例。
少なくとも、東海以西では
西に行くほど弥生度が高まると言うグラデーションが全くないだろ?
>>329 何百年もかけて東進。
初期には内陸部と海岸部に棲み分けしてるものの、活発な交流が見られ、
なおかつ時代とともに集落の差が無くなる傾向。
これを混交と言わずして何と言うんだ?
で、完璧な弥生人とかねえ。
その根拠は頭骨の形のみか
>>329 縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、
母方のルーツでみた数字であり、「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性
との間に子孫を残した」と考える説と矛盾しない。
mtDNAによる日本人のルーツ研究では、現代人に加えて縄文、弥生人骨からの抽出・分析も行われているが、双方に共通する型が多く、縄文系と弥生系の構成比は不明だった。
>だが、第二段階ではほとんど混血は無い。
いい加減にしろよw
>>329 せっかくなので
>>321が示したシリーズにいろいろ資料があるみたいなんで見てみた。
・グラデーションが全くない
・混血皆無の完璧な弥生人骨
ってところはちょっとちがうんじゃない?
ttp://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/080602/acd0806020826004-p1.htm ↑
この図のA,B,Cなんかは東進するほど形質が減少してるみたいだし、
もちろん近畿地方を中心に古墳時代に渡来した人の影響もデータに含まれてしまっている。
>山陰や近畿地方は、豊後(大分地方)や南九州と比べて筑前から遠いわりには渡来系の形質が色濃く、
>渡来人の遺伝的形質は北部九州から東(本州)へと偏って拡散したことが分かる。
>結婚などによって形質が自然に広がったのではなく、集団が移住した可能性が強い。
>渡来系弥生集団やその子孫の古墳時代人の形質が、近畿地方などを除き、大陸からの窓口になった北部九州(筑前)から遠方へと拡散するにつれて
>渡来人的特徴が弱まる傾向も読み取れる。在来縄文系の人たちとの混血が影響していると思われる。
>近畿地方で渡来系の特徴が上昇するのは、もう一つの拡散の中心地だった可能性を示唆しているほか、
>北部九州以上に渡来的特徴が色濃い古浦(島根県)には、北部九州系とは異なる集団が渡来していたとも考えられるという。
>兄弟姉妹でも母親似、父親似と分かれるように、実際には縄文的特徴が濃い人もいれば、渡来人的特徴が濃い人もいたと考えられる。
>ただ全体としてみると、渡来系集団の形質は在来人との混血によって特徴を弱めながら拡散したといえる
つまり
-----
(1)九州で弥生文化が形成される段階で、かなりの縄文系との混血があった。(渡来系骨解析)
(2)それがある程度均質な遺伝形態をもった”集団的移動”と”混血”とを繰り返しながら東へ進んだ。(渡来系骨解析、mtDNAとYAP遺伝子解析)
(3)その後九州を介さず畿内や東海に入植した渡来人集団がいた。(ALDH2遺伝子解析)
----
こんなことじゃない?
>>333 弥生人、縄文人の話はこれで決着でいい。
もともとスレ違いの議論だったしな。
>>332 どうしてここまで証拠を出されて、まだ認めない?グラフや地図も脳内変換するのか?
「東に『移動中』に混血があった」とすると、こんな結果は決して出ないんだ。
どこをどう脳内変換すると、第二段階での混血が認められるんだ?
>>333がさらに例を出しているが、
博多から見て、西や南へは遺伝勾配があるのに、
東へだけは、畿内東海まで、遺伝勾配がいつの時代を見てもなぜか皆無。
(瀬戸内沿岸の不思議なスルーはすでに言及した)
実際には
>>1にとって大した意味はないが、
畿内は筑紫と違って「縄文以来の部族社会」だなんて電波説を発せられると困るので、
一応言及しておいたんだよ。
巻向に対する「東国や西国の影響」は、
「純然たる弥生文化圏の中での西と東の問題」であって、
日本史の「東西対立」に必ず纏わりつく、
「縄文要素の濃淡」は一切無関係ということの確認だけ。
336 :
大和島根:2008/11/05(水) 00:02:27
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
337 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 04:43:55
縄文時代の橿原には、亀ヶ岡系の遺物が出てるみたいね。
縄文時代から、橿原は西の聖地だったことが伺える。
橿原に何も物産がなければ北陸まで何を交易していたのやら。
338 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 11:16:53
>>335 >遺伝勾配がいつの時代を見てもなぜか皆無。
出来ればソースほしい。
>>333も言ってるようにこの資料は畿内地方の古墳時代の
渡来人や半島からの奴隷捕虜の類まで含めたもので弥生人の比率が増えるのは
当たり前だと思うし。
339 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 14:08:09
縄文人が軟らかい米を食ったら顔の骨格、体の骨格が変化するのは
あたりまえの話しだ。弥生人は縄文人と同じ人種だ。
341 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 19:14:49
>>335 お前がそう思うのは勝手だが、誰もそうは思っていない。
少なくとも根拠薄弱だわな。
342 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 20:06:08
大和・纏向遺跡という本を本屋で見た。税込み1万円以上だって。タマゲタ!
迷わず買っとけ。
344 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:29:29
>>342 石野著の本だね。
歴史関係関係の本でもばら売り無しの「○○大全」とかン十万の本とかもあるし
上見りゃ切りが無いわなw
まあ後でプレミア付くって事もあるけど纏向の場合
今後の発掘で内容がガラリと変わる可能性あるしなあ・・・w
変わるわけねぇだろ。これまでの報告を集めた本だ。
今後の調査内容は前の報告を否定するものであっても、それに追加されるだけだ。
改定される前のを持っているけど、どこが変わったの?
347 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 00:49:48
>>1 纏向遺跡から人の住んでた形跡発見されてるの?
高床式の建物が円を描くように配置されていたのは巻向ですか?
あれはどういう意味だったんでしょう。
349 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:23:38
実際のところ、高床式住居とかたて穴住居しか痕跡が残らない、っていうだけ。
マキムクにまったく人が住んでないとかは極端な話
350 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 08:47:29
弥生時代のマキムクに人が住んでないって、
いったいどこの資料に書いてあるの?
普通に縄文時代から人は住んでるが。
>>347 主として高床に棲んでいても、生活するには煮炊きのための炉や竈が必要。
そういった痕跡は、まだ「纏向」遺跡では発見できていない。
ただ、隣接する芝・大福遺跡などでは、水田跡や「纏向」と同時代の住居跡が見つかっている。
「纏向」も「大福」も発掘済み面積が少ないため、別々の遺跡名で括られているが、
実質的には同じ地域だったと言えると思うが。
そうね。
ただ発見されてないことは、なかったことと等価じゃないから、
早急な結論をしないようにしないとね。
古代史の人は、勝手な憶測を前提に議論を進めちゃう人が多いので。
353 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:19:00
やっぱり発見されてないのか
>>351 >「纏向」も「大福」も発掘済み面積が少ないため、別々の遺跡名で括られているが、
むちゃを言うな。大福は庄内式が出ない非主流の村だぞ。
355 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:37:10
穴を掘らないで家を建ててたという仮定も考えられるな。
357 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:25:30
358 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:41:26
359 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:10:20
>>359 黒井峯遺跡では遺構として残らない平地式建物が49棟も見つかってるし。
363 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:02:32
関東と大和じゃ文化圏が異なるだろ
黒井峯遺跡は降った軽石に封じ込められた村だから、第一級の一時史料だよ。
古墳時代としてはかなり後期ではあるけれど。
ああいうものがあったと断定するのも考えものだが、
あれは関東だからと切り捨てるのはまずい。
365 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 23:44:07
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
366 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 13:29:04
>>350 纏向は当時の田舎にあたる場所。大阪から奈良にまたがる共同体がすでにあった
367 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:29:43
中河内大和の首長連合、要は大和川水系の豪族たちが連合して、
初期大和王権を樹立した。これが第一段階。
その後、吉備王族の巫女を共立することで、大和、尾張、越、丹波、吉備やらが連合、
広域倭国連合が成立。
首都をマキムクに定めた
368 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:32:53
369 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:42:18
>>368 確定は出来ないが、邪馬台国の可能性は高い。
学者は邪馬台国問題を避けてるけど、はっきり言ったらいいのに。
370 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/11/12(水) 21:45:06
マキムクは可能性は全く無い。
371 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:03:35
九州説や九州王朝説は、考古学的には完全に否定出来ない。
ただし、邪馬台国東遷説は完全に否定されている。この違いは大きい。
372 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:25:12
東遷があったかなかったか、考古学でどうやったらわかるんだろう。
完全に否定できるほど考古学は万能かな。
三角縁神獣鏡の問題、箸墓の問題などを見ればわかるように、考古学は解釈の
学問。悪く言えばどんな解釈でも可能。
現に、どんどん変わっていく。今あることも変わらないと考えるほうが無理が
あるくらいだ。
>>372 違う違う。
東遷の痕跡が全く無いということ。
むしろ、西から東ではなくて、東から西なんだよな。
庄内甕にしても、マキムク型や前方後円墳にしても。
マキムクで発生して九州に伝播している。
古墳時代前期でも全国規模の大王権力はまだ誕生していない。
比較的後代まで地方の首長たちは政治的独立性を維持している。
こういったことも、東遷説にはマイナス。
>>369 断定はできないっしょ
「邪馬台国へようこそ」みたいな看板が出土しない限り
でも纒向政権が邪馬台国であろうがなかろうがどうでもよくって、
そこを拠点とした全国規模の政権があったってことで十分だと思うんすよ
376 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 23:56:01
纏向は大和朝廷
377 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 00:04:30
東海に前方後方墳が作られるのは、東遷説と矛盾する。
安本はいっさい合理的説明を避けている。
378 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 01:20:22
纏向は王族の墓地
>>371 いや、九州王朝説と比べたらまだ邪馬台国東遷説の方がまともだw
筑紫が先進地域だったのは早くて2世紀初頭、遅くても4世紀前半までだw
380 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:26:38
東遷説より、四国説のほうがはるかにマシだけどな。
381 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:45:55
四国説
↓
東遷説
↓
↓
↓
↓
沖縄説
↓
(中略)
↓
↓
お笑い九州王朝説w
382 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 00:19:39
>>380-381 善通寺の旧練兵場跡遺跡の新発見、新知見で、
一概にあなたを嗤って叩くこともできなくなったようだ。w
今週土曜に現地説明会がある
ただ同じ15日(土)、大垣市の荒尾南遺跡でも現地説明会がある。
>>377は気づいているかな。水辺の祭祀跡だそうだ。
「水辺の祭祀」
これはヤマトにかぎらず、近畿〜東海における王権祭祀のキーワードになったと考えていいね。
荒尾南の土器は膨大な量が出たようだから、
これから細かな土器編年が進み、
マキムクの庄内式とどう併行しているか、詳しく解明されていくだろう
383 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 00:26:39
>>382 >善通寺の旧練兵場跡遺跡の新発見、
適当にググったがこれかな?
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0d4526b0139cfe8d47b520326d6862b9 >香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
>県が発掘調査を進める旧練兵場遺跡(仙遊町、善通寺病院敷地内)で、8日午後1時半から現地説明会が開かれる。
>新たに見つかった弥生時代後期の竪穴住居跡の構造から、九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。
>同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。
>同センターによると、同遺跡ではこれまで、7本程度の柱で支える円形の竪穴住居跡が見つかっていた。
>本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
>九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたことを示しているという。
384 :
382:2008/11/14(金) 00:28:06
385 :
382:2008/11/14(金) 00:54:50
386 :
382:2008/11/14(金) 00:59:51
>>382 荒尾って巴形銅器出ているところでしょ。
東海でもちょこちょこと出てるところあるんだよね。
南の方の丹と違って、ここはベンガラだね、赤が。
美旗古墳群を持つ名張を東国と断定するのは微妙。
宇陀川を上流に持つ木津川水系。
改心の詔では名張川の北が東国。
壬申の乱で地位低下。
伊賀はともかく、名張(那婆里)の古事記(安寧天皇)等の記述を、
壬申の乱の見返りによる挿入と考えるのは無理がある。
美旗古墳群には前方後方噴は見つかってない。
消失した方噴があって断定するのは危険だが。
遺物が散逸してしまったのが残念。
389 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 17:42:49
■「水辺の祭祀」跡出土 大垣、荒尾南遺跡
11月15日(土)に現地説明会
朝日新聞(岐阜)2008年11月12日
http://mytown.asahi.com/gifu/news.php?k_id=22000000811120001 県文化財保護センターは11日、東海環状道建設に伴う荒尾南遺跡(大垣市荒尾町、桧町)の今年度発掘調査で、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて「水辺の祭祀(さい・し)」が営まれたと推定される場所と、
古墳時代前期の墳丘墓を発見したと発表した。現地説明会は15日午後1時半〜3時半。
同遺跡は06年度に本格発掘が始まり、これまで銅鐸(どう・たく)破片や銅鏡、巴型銅器などが出土。
今年度は5月〜12月中旬の予定で約1・1ヘクタールを調べ、確認した弥生中期の方形周溝墓は過去2年分と合わせ88基、弥生後期〜古墳前期の竪穴住居跡は175軒になる。
「水辺の祭祀」跡と見られるのは、かつて流れていた河川跡の岸辺沿い約100メートル。
約3万3千点の土器が集中して出土し、中にさらに線刻を施した土器やミニチュア土器が入った土器や、土器自体に穴の開いた穿孔(せん・こう)土器などが見つかった。
2千〜1800年前、集落で祭祀に使われていたと推定している。
洪水で埋まり、うまく保存されてきたらしい。計測によると、川幅は当時20メートル、深さは地表から2メートルぐらいだったという。
「水辺の祭祀」跡は県内で4、5カ所見つかっているが、いずれも溝の際で、今回のように大きな川の岸辺での発見は初という。
遺跡南部から発見された墳丘墓(1基)は、一辺が約10メートルの四角い墓。
約1800年前の古墳前期に築造されたと考えられ、墳丘部から木製祭祀具(長さ25センチ、幅3センチ、厚さ5ミリ)が9枚見つかった。地に突き刺して神聖な場所を区切る用具らしい。
発掘の指導調査員である八賀晋・三重大名誉教授は
「この遺跡は弥生時代末から古墳時代初めに大集落に姿を変えている。祭祀儀礼の萌芽(ほう・が)を考える上で興味深い資料だ」
としている。
現地説明会の問い合わせは、文化財保護センター調査部(058・237・8553)へ。(高岡喜良)
>>380 個人的主観だと
1位・東遷畿内説
2位・一般的九州説
3位・阿波説・吉備説
4位・邪馬台国東遷説・沖縄説
5位・九州王朝説・畿内優勢自立説
391 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 19:11:44
>>389 おなじ内容の記事 岐阜新聞から
---
県内最大「水辺の祭祀」跡 荒尾南遺跡で大量土器
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20081112/200811120853_6368.shtml 県教育文化財団文化財保護センターは11日、大垣市荒尾町と桧町にまたがる「荒尾南遺跡」で、
河川跡沿いから3万点を超す大量の土器が出土し、弥生時代後期(約1900年前)から
古墳時代前期(約1800年前)にかけての「水辺の祭祀(さいし)」跡を発見した、と発表した。
人工的に造られた小規模な溝での祭祀跡は県内で数カ所確認されているが、
自然の川辺での大規模な祭祀跡が見つかったのは初めて。
弥生中期(約2000年前)から古墳前期にまたがる同遺跡は、
弥生時代は墓域として、古墳時代は大集落へと姿を変えたことが、これまでの調査で分かっている。
「水辺の祭祀」は農耕が一般化した弥生時代以降、豊作を願い川辺や大溝周辺で行われた儀礼とされる。
---
>豊作を願い川辺や大溝周辺で行われた儀礼
なんて書かれると纏向大溝の意味も
運河説ではなく祭礼説というのも考慮しないといけないような希ガス
ほとんど想像なんだから、あんまり左右されないほうがいいぞ。
そもそも大集落と水田の密集は相関関係高いんだからさ。
水路を祭祀のために作ったとか、祭祀集落だとか、
因果関係は想像だから。
祭祀遺構、遺物のたくさん遺跡、
それ以上のことを言うには相応な根拠がないと。
祭礼用なら集落の廃絶まで続いてないとウソだろ。
実際は庄内のうちにほとんど埋まってるのに。
394 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 21:53:26
筑紫が鉄を畿内との交渉カードに利用したのは事実であろう。
で、対する畿内は何をもって対抗したのか?
そして畿内マキムクで、箸墓以降突如古墳が巨大化する理由は?
事実ではない。単なる憶測。
396 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 23:33:21
>>394 >そして畿内マキムクで、箸墓以降突如古墳が巨大化する理由は?
それはね、近畿が交易で力を増して、
筑紫が孤立して衰退したからだよ。
>そして畿内マキムクで、箸墓以降突如古墳が巨大化する理由は?
それはね、魏が滅んで薄葬令が終わったことを知ったからだよ
という妄想をしてみました
398 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 09:58:15
畿内勢力の支配地域の拡張に伴う動員労働力の増加が原因じゃないか。河内王朝
時代の巨大古墳群は明らかに朝鮮半島南部の支配と連動しているだろ
中期古墳の建造時に日本と半島の間に活発な交流があったことは認められても、
別にそれが、半島南部での軍事行動と連動している様には見えない。
弥生中期〜末まで、倭が半島南部への労働力の供給源であったと思われる事実(生活土器の搬入等)がある。
弥生終末〜古墳時代初頭になると、この人的移動に相互性が生じる(韓式生活土器の出土が西日本全体に広がる)。
古墳前期後葉になると畿内の古墳が大型化定型化する。
しかし、半島南部での倭人の活動には変化はない(人的移動は続く)、逆に半島南部の伽耶地方では王権の強大化が認められる。
古墳中期に至り、河内平野に巨大古墳群が出現する。
同じころ半島では高句麗、新羅、百済が強大化し、伽耶の勢力は相対的に低下したかのように見える。
ただし、このころ旧馬韓南部領域に前方後円型墳丘墓が出現することは事実。
こんな感じなんだけど、上記二点をもって倭による支配があったと認めるのは根拠としては弱い。
まあ、強いて言えば、倭王権が半島に対して継続的に人的供給(主として交易品としての生口ですね)を行った結果、
現地での倭人密度が高まり、倭人独自の自治的組織が成立したのかもしれない。
400 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 15:27:36
>交易品としての生口
こう考えれば、庄内式土器の畿内から九州への移動と、
畿内へ鉄が持ち込まれる相互関係が交易と理解できるな。
401 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 17:57:15
>>391 >水辺の祭祀
確か群馬県の豪族居館・三ツ寺遺跡では導水施設が確認されていて
水に関する祭祀が行われていたとか言う説があったっけ?
銅鐸にも水に関系するモチーフが刻まれているけど
やっぱ銅鐸以来(関東なら三遠式?)の豊穣祈願に関する祭りごとなんだろうか?
纏向でも太田で導水施設は確認されてるよ。
聖水に関する祭祀って言う人もいるけど、
木樋に寄生虫の卵が大量に見つかってるんだよな。
普通に考えて便所の下水路だろw
糞尿を扱った神話にまつわる祭祀とか言い出す奴もいて笑える。
纏向を神域、王域とする結論から考えてるからそうなるんだろうけど。
周りの建物が祭祀施設だとしても、
聖域だから下水道も完備していたと考えるのが妥当だろう。
今でも天皇は何かあると篭もってるからな。下水がないと困る。
ミニチュア土器が出てきて祭祀用施設じゃないか、
ここまではいいんだけど、そこの遺構、遺物を何でも祭祀に結びつけるのは危険だよ。
正体不明のものはみんな祭祀用になってしまうから。
あれ?
木樋導水施設+ミニチュア土器は大柳生で、
太田高地のミニチュアは舟だけだったかな?
404 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 10:02:42
祭祀施設じゃなければなんだと思ってるんだ?
100円ショップで子供用まままごとセットが売られてたとでも言うのか?
405 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 11:00:47
406 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 11:39:01
>>405 ケツに尻尾の生えた野蛮な九州人が朝鮮半島でゴキブリ朝鮮人と住んでいたの?
407 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 12:23:24
その当時の九州北部と半島南部の人々は、自分が九州人だとか半島人だとかは考えなかっただろう。
あえて言うなら倭族
408 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 19:51:02
>>394 箸墓以降突然巨大化するし、定型化の方向に進む。
つまりは、庄内の頃はまだマキムクは地方王権の段階で、
その後、布留の初めに画期があって、マキムクは全国王権に飛躍する。
要するに大和女王が魏から倭王として承認された結果。
409 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 20:26:48
庄内の初め、マキムク開始=運河掘削を画期的とする議論は、よく俎上に載る。
寺沢は庄内開始を2世紀末から3世紀初頭に卑弥呼共立があったとして、
「マキムク型」前方後円墳を提唱。
しかし形がまちまちで、また数が少ないことから、
庄内期の畿内に全国的に影響を与えるような大王権力が誕生していたことには懐疑的。
410 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 20:31:20
マキムク型は前方部の突出が小さいことから、従来は円墳と思われていたものが、
実はマキムク型だとかいう議論もあるが、かなり希望的観測であるように思う。
411 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 20:34:20
マキムク大溝が庄内期に役割を終えているのが本当だとすれば、なぜなのかと思う。
大規模古墳の造営はむしろ布留以降に活発化するし、必要物資の流入はより増大した筈。
大和川水運を利用しない手はない筈なのだが。
本当なのかじゃなくて本当だよ。
布留0式段階が出土する土層はもう残骸みたいなもん。
水辺の祭祀はどっちかというと東国の特徴だからな。
滋賀、岐阜、長野、埼玉、群馬。
中世まで残っているのもあって、根拠がしっかりしている。
東国は古くから流水信仰があったのかも知れない。
纏向は土抗祭祀、今のところ確認されているのは。
湧水が確認されているものが多いから、たぶん人工の井戸。
水屋神社→春日大社のお水送りの源泉も井戸(赤桶の井)、
東大寺のお水取りも井戸(若狭井)。
酒船石遺跡の亀形石造物も湧水だしね。
お水取りでは若狭井の屋根に紙に包んだご飯を投げあげる。
纏向の井戸にも延喜式に出てくるものと共通するものが投げ込まれてる。
炭化したものも多く出てくるが、お水取りにもお松明があるわな。
いずれも時代がかなり下るが、共通点が多い。
>>412>>414 いや別に、その話を疑っている訳じゃないよw
ただ、大きな土木建設をするのに、大和川に繋がる運河を利用しなかった理由とは?
という疑問提起。
考古学者たちはどう考えてるのかなあ?と。
お前たちはどう考えてるの?
>>415 箸墓の築造伝承に、手越しに石を運んだ、というのがある。
また、昼は人が造り、夜は鬼が造ったという伝承も。
箸墓以降の被葬者は自らの偉大さを知らしめるために、
あえて民衆に過酷な労役を課したのではないか?
丁度「子供の手で造られたからこその」聖帝十字陵と同じ理屈。
蒼天の董卓が言っていたように、
「およそ天下の悉くを自らの手に有し、天下の悉くを意のままにふるまい、
欲望・快楽を極め尽くす!贅の限りを尽くし、善悪さだかならぬ果てに届いてこそ
尊重な王となれるのだ!」
と同じ理屈なんだよ。
箸墓のわりと近くを川が通ってたしな。洪水の跡も見つかってるし。
箸墓までの短い水路はあったんじゃないか?出土してないだけで。
418 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 07:57:38
>>413 唐古からは龍刻土器とか出ているが、これが外来の水神信仰に由来するものだとすると、水祭祀の一種だね。
水稲耕作にとって水祭祀は普遍の文化でしょう。
>>418 水屋神社も祭神が龍神姫だよ。
昔はここが大和と伊勢の堺だったといわれてるんだけど。
今のところ考古資料としては「井」に繋がるものばかりだね。
もちろん「井戸」は遺物が残りやすいという特徴からの可能性もあるけれど、
導水設備が信仰に結び付いていると積極的に考える理由はないね。
かなり時代が下る亀形石造物くらいだね。
そもそも井戸の三輪山側によく作られている
祭祀施設だと考えられている建物に、
導水設備が見つかっているわけではないし。
木樋に便の痕跡が発見されたのが決定打でしょうか。
飛鳥はそもそもスレ違いなんだけど、伝飛鳥板蓋宮跡は実際に飛鳥板蓋宮かど
うかわからないし、考古学的には平安くらいまで使われていた跡があるのに、
文献資料も民俗資料も全くと言っていいほどないので、ほとんど参考にならないね。
飛鳥時代の人は石が好きだなあって程度で。
>>416 箸中山は纏向大溝の時期とずれないよ。
渋谷向山、行燈山あたりは時期だけでなく場所もずれてるから、
使われてなくて当然。
>>415の疑問の方が疑問なんだが。
渋谷向山はそもそも大きな河川跡が確認されてる。
纏向大溝は、箸中微高地、太田微高地、太田北微高地の
古墳群と密接な関係があるのは間違いないんじゃないの?
この辺は竪穴式住居は皆無に近いけど、柱穴はかなりの数が見つかっていて、
弥生末期から既に平地式あるいは高床式住居だった可能性もあるから、
灌漑用の可能性もあるしね。そもそも高床式は、
河川の氾濫と関連の強い住居形式だし。
422 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 12:23:05
>>421 マキムク廃都の時期は布留1終わりくらいだっけ?
王墓域が柳本に移るのはそうなんだろうけど、
布留式土器やらのマキムクからの搬送、他国からの物資の流入とかは、
普通に大和川水運を使ったと考えてしまうが。
マキムクを交易拠点と考える限り
>>421 >箸中山は纏向大溝の時期とずれないよ。
だから、ずれてるんだってばよ。
最近の発掘調査の結果では、箸墓はフル0のうちに築造が始まり、
フル0のうちに完成している。
一方の大溝はフル0には廃絶してる。
>>414とリンク先の資料を見て現実を把握するんだ。
庄内3の後半でさえ、廃絶はしてないらしいが
使ってたかどうか疑いたくなる深さだ。
もっとも、分かっているのは巻向小学校のそばの一部だけだが
424 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 20:41:21
なるほど
425 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 21:08:50
つまりはマキムクは、初めは運河を利用した交易拠点として始まったが、
庄内の終わりにはその役目を終え、単なる墓域になったということか
東国との交通拠点ねえ
427 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 22:56:06
大和朝廷成立時は奈良盆地には古奈良湖、大阪平野には河内湖がありこの周辺に遺跡を
作った集団は共通の共同体を形成していた。奈良盆地に先に王朝が置かれたのはそのころは
船でそのまま入っていけたからじゃないか。干上がっていくに伴って河内に移っていった。交易の拠
点説は賛同できない
大和朝廷成立時っていつ頃だと思ってるんだ?
まさか紀元前660年とかを信じてるんじゃないだろうな。
唐古・鍵は水中都市だったんですね わかります
大阪湾と古奈良湖がつながっていた時代って、
琵琶湖がまだ甲賀あたりにあったころのはなしだろ。
大和は超時空王朝かよ。
431 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 14:05:16
大和の歴史は古いよ。
縄文時代から人が住んでる。
432 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 16:28:53
古代の文献を調べたら、高天原=葛城(現在の奈良県御所市周辺)ということになっている。
ニニギ命(神武天皇の曽祖父)は、
この高天原(大和の葛城)から、高千穂(九州南部)に派遣された
というふうに記紀には書かれている。
ちなみに、古事記には、出雲国譲りは、これよりも前になっている。
つまり、大和が出雲を降伏させ、日本の大半を統一させたあと、
大和が全国統治の過程で、各地に将軍を派遣した。
その中の一人に、九州南部に派遣されたニニギ命がいたということだろう?
この一族は、日向三代といって、その後、三代にわたって
日向の知事のようなことをしていたことが分かる。
433 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 16:32:34
大和王朝の起源の地は、葛城(高天原)だろう?
忍穂耳命(神武天皇の4代前)は、このへんの豪族。
で、その子の火明命の時に、出雲王朝を降伏させ
全国統一を成し遂げる。
で、その火明命の弟のニニギ命(神武天皇の曽祖父)が
九州南部へ派遣されたと。
で、王国が強大化するにつれて、
葛城から、やや川下の三輪のほうに
首都を移したことは、およそ見当がつく。
434 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 17:46:05
高天原が葛城なのは自明だよ。
高天という高台の土地もあるし、高天彦神社もある。
高天原神話は、葛城が発祥ということで間違いない。
ただ、邪馬台国九州説+東遷説の人々は、それを絶対認めないために話がややこしくなってる。
435 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 18:35:08
葛城も古代史上、重要な地域だとは思うが、
このスレで葛城に言及するときは、纏向とどう関わるかみたいな視点を入れて論じて欲しいと思う。
例えば、
葛城の南郷大東で導水施設(浄水祭祀?)の跡が見つかっているが
時代は1世紀以上離れていても
>>9の巻野内家ツラ地区の導水施設と関連するのか、
或いは、
南郷より高所に位置する極楽寺ヒビキ豪族居館(政庁?)の立地からみて
巻野内尾崎花地区の区画溝内側に居館や神殿のような建物を推定している豊岡の意見
>>22は
妥当なのか、等々。
436 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 19:25:51
葛城と纏向の接点はあまり無いと思うな。
神武東征後でも、葛城は独立国として認定されてたし。
437 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 20:51:45
葛城とマキムクは無関係とされることが多いけど、その理由は何なんでしょうか?
庄内土器を受け入れていないから?
438 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:31:24
今まで散々言われてきたことだが、土器が出ないから無関係ということはない。
要は、その土器の使われ方の考察がまずあってしかるべきで、
次はその土器がどうして運ばれる必要があったのか、という考察。
たとえば唐古鍵がマキムクと一線を置いていたとかは、まさに土器だけを中心に捉えた近視的思考。
土器が単に残り易いので目立つだけという大前提を再認識してもらわないと
>>431 しかし、縄文の遺跡は山すそに近い縁辺部にしかないから、
真ん中には古奈良湖そのものか、その残骸の湿地帯が広がっていたとおもわれる。
弥生前期になるともっと低い唐古あたりに人が住み始める。
古墳時代になると島の山古墳みたいに最低地部に古墳が作られたりするから、
古奈良湖はほぼなくなっているとみていい。出口辺りにちょっとあるかもしれないけど。
440 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:30:00
庄内土器の用途って炊事?
新型の炊飯器を輸出してたの?
441 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:31:30
唐古もマキムクも元をたどれば九州なんだよ
>>440 庄内土器の主な用途は祭祀だよ。
それも王権が行なう大々的なものから、庶民が古墳の前で
願いを込めて贄を捧げる小規模のものまで。
そんなことないだろ。
庄内亀が煮炊き用じゃなかったらなんだというんだ。
444 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 23:20:26
いちおう、煮炊きには使ってたんだよね?>庄内土器
>>439 島の山古墳って
湖の上に古墳が浮いてたってことはないの?
名前が示す通りに
>>442-444 庄内甕は庄内式を代表する器種で、これは煮炊き用生活土器。
子の他、庄内式の構成上、特徴的な器種としては小型器台がある。
これは祭祀(サイシ)用。
448 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 15:43:31
煮炊き用生活土器の庄内土器が畿内から北九州に拡散してるということは、
大和朝廷の北九州征服を意味するものですね。
>>445 島の山古墳がある川西町は大小の古墳が集まった古墳群になってる。
その西にある川合町には、やはり川合大塚古墳をはじめとした古墳群がになってるし
古墳時代の集落もある。
だいたい湖の中の島に作った古墳に周濠を掘るかね。
今日世界不思議発見で巻向扱うらしいぞ
オワタ。
一応録画したけど保存しないかもしれないなぁ・・・
453 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 21:57:41
なんで?
海部氏系図は永久保存だろ。
454 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:18:30
455 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:22:30
世界不思議発見!ですら、
完全無視される九州説(笑)
>>454 エイプリルフール用のネタスレ引っ張ってなにがしたいんだ、おめぇは。
457 :
日本@名無史さん:2008/11/22(土) 22:44:11
>世界不思議発見!
でも何だかんだ言っても邪馬台国がらみで無いと番組にならないんかねえ…?
本来、纏向の重要性は邪馬台国論争とはまた別次元で
むしろ邪馬台国なんて単なる通過点に過ぎないと思うんだがwww
>>457 邪馬台国絡ませないと一般の視聴者がついてけないからだろ
459 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 10:25:12
実況見てたけど、一般人は邪馬台国や卑弥呼に興味ないみたいね。
一部の九州説派がファビョってたみたいだけど。wwwwwwwwwww
邪馬台国や卑弥呼とかって聞いても、フーンってな感じじゃないの?
460 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 11:11:51
昔に比べて邪馬台国ブームみたいなのもないしな。
わけのわからない邪馬台国より、実物がある7世紀の壁画のカビ問題とか、
奈良の薬師寺の復元工事とかの方が見ててわかりやすいし。
結局「邪馬台国ブーム」は即ち「邪馬台国九州説ブーム」だったんだろうなw
人はどうしてもエキセントリックな物に憧れる。
日本史で言えば信長であったり竜馬であったり
憧れが昂じて実像から離れてしまう事も度々なんだろうが
古代史においてはそれが女王卑弥呼であり邪馬台国なんだろう。
今日にまで繋がる(血統%
結局「邪馬台国ブーム」は即ち「邪馬台国九州説ブーム」だったんだろうなw
人はどうしてもエキセントリックな物に憧れる。
日本史で言えば信長であったり竜馬であったり
憧れが昂じて実像から離れてしまう事も度々なんだろうが
古代史においてはそれが女王卑弥呼であり邪馬台国なんだろう。
今日にまで繋がる(血統は別かもしれんがw)ヤマト王権と別の存在と言うところにロマンを感じるんじゃないかな?w
恐らく畿内説が優勢になるに連れて一般人の邪馬台国に関する興味は反比例してダウンするのではないか?www
最近の若手研究者は、マスコミへのサービストークが少ない。
これは少しくらい話題になった程度では、予算が付くような御時世じゃなくなったから。
お金に成らなければコメントなんか求められても露骨に嫌な顔する、
わざと控えめに言って見だしになるようなネタは提供しない。
また、高松塚の様に騒ぎになって、中途半端な予算だけが付いても、
「観光」と「保存」を両立させろ、後は知らんが失敗したら責任は取れ、とか言われたらたまらん。
464 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 15:18:30
奈良も、もうすこし史跡公園で観光開発すればいいのにと思うが。
マキムクの価値って、吉野ヶ里以上じゃないの?
世界不思議発見でも微妙に避けてたよ
大和朝廷はマキムクでFAだとはおもうがね
ヤマタイコク系の話はは下手に言及すると中華国とキムチ国が騒ぐからダメポ
ヤマタイコクが
・九州→倭の朝鮮支配が事実
・近畿→倭の朝鮮支配は妄想
上記に結びつくので現在の学会は近畿説をとらざるをえない
466 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 17:54:23
邪馬台国の謎が解けた!
↓
マキムクには全国から首長が集まっていた。
↓
三輪山の神は出雲の神だった。
↓
出雲は鉄器の多い先進国だった。
↓
籠神社には、卑弥呼とトヨを思わせる家系図が残されていた。
↓
伊勢神宮には、二人の女神が祭られていた。
↓
卑弥呼とトヨは、アマテラスとトヨウケ大神だ。
あれ?九州は?
467 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 17:59:52
神社から謎を解くなら、宇佐神宮も入れてあげればよかったのに・・・
ぶわはははっは。
書いてから思い出したが、確か桜井市だかが巻向を調査するための
寄付金を集めてた(これからだったかな?)から、早く掘ってほしい人はお金出そうね。
470 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 01:59:28
>>467 宇佐は謎がありすぎて話にならないし下手に調べると
亀山は神武天皇のひ孫なんて郷土資料に書かれてるから手がだせない。
一般市民は比売大神の話だけで卑弥呼決定してしまうに違いないからなあ。
471 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:00:47
大体、神輿が宇佐神宮発祥っつーだけで(ry
472 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/24(月) 02:23:28
扶桑略紀に記述のある「宇佐宮」って、今の愛知県の春日井周辺にあった宮の事だよ
なんで九州が宇佐を名乗るのか良くわからんけど
473 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:32:03
へえ。じゃ、山国川は?wwww
474 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 02:40:56
>>472 九州の宇佐は地名。
なんで11世紀終わりに書かれた本の宮の名前が関係あるんだ?
475 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/11/24(月) 03:02:47
>>474 地名だよ
宇佐に置かれた宮だから宇佐宮なだけだから
扶桑にあった地名の事で、弥勒山の麓の地名の事だぞ?
弥勒寺があった場所の事だよ?
記紀や扶桑略記に書かれてる宇佐ってのは九州の事じゃないよ
あ、そうw
この基地害在日は天罰に触れているから離れたほうが良さそうだな
477 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 12:50:09
結局のところ、マキムク誕生のプロセスは、
A大和川水系豪族が連合
B複数の外部勢力が大和に集合して王権化、明治維新のように
C筑紫東遷
の三つの仮説のうちのどれかでいいのでしょうか?
Cは除外出来るとして、現在どっちが優勢なんでしょう?
不思議発見ではBが取り上げられてたんですよね。
478 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/24(月) 13:55:58
>>477 マキムク誕生のプロセスは、193年崇神6年秋の「国譲り」からと成ります。
この時大物主は、近江に居を構えて居たが、以後出雲に本拠地を移す。
崇神10年4道将軍を使わして大物主の治めていた国々を崇神が治める。
異族多帰とは、5,6年の疫病(凶作)で半減した農奴の補充。
崇神60年出雲の宝の献上のいざこざで大物主(振根)を殺す。
479 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 14:02:16
とりあえず、記紀の記述から離れて、考古学的な論拠だけでいいです。
記紀の紀年や細かい出来事なんて、その辺は信用してないから。
480 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 14:12:53
まずAでしょう。
で、大和川水系豪族連合が交易で力をつけた後でBに移行。
大和王権の誕生となる。
481 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/24(月) 14:13:19
諏訪タケミナカタの話は、神武崩御時タギシミミ(天照大御神系)と
神八井耳(大物主系)このどちらが世を継ぐかの争い
神武は神八井耳を世継ぎと決めたが収まらないのは、天照大御神系
手研耳を立てて対峙するが、手研耳が討たれる、手研耳に付いたタケミナカタや伊勢津彦は、都落ち
タケミナカタは諏訪、伊勢津彦は、思兼の阿智で蟄居となる。
482 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 14:19:12
記紀論議はよそでやれ
483 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/24(月) 14:34:06
>>480 異族多帰とは、考古学の言う巻向から急に地方の土器が出土する。
二世紀末葉ですよ。
任那の地を手に入れたのも崇神時代、任那から朝貢(鉄)は、崇神末215年。
垂仁が鉄剣を大量生産石上神宮に保存する事も可能。垂仁崩御238年
翌年田島守が帰国、そして殉職 葬られたのは、考古学で言う240年頃造られた
ホケノ山古墳の一郭、半島式墳墓に持ち帰った土産の入った壷と共に葬られる。
484 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 15:03:59
唐松山、他でやれ。
>>480 大和川水系の勢力といっても大和と河内がありますね。
庄内式の展開から、私は河内主導説ですね。
>>480 寺沢薫はBなんだよな。
マキムク型前方後円墳が全国で広範囲に見つかっていること。
庄内初めに、それまで王墓も無く、階層化が遅れていた畿内で、
突如マキムクが勃興していること。
以上から、全国各地の有力者がマキムクに集って、
西日本全体を包括するような勢力圏を持つ、初期ヤマト連合が生まれたと。
で、庄内開始=2世紀末〜3世紀初めとし、卑弥呼共立によりそのような
大同団結が成立し得たのだと。
487 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 22:40:18
全国の首長がマキムクに集まる理由は?
卑弥呼がそこにいたから?
交易の利便性?
全国の首長がマキムクに集まったという寺沢の説はどうかな?と思う。
当時、弥生以来の拠点集落の首長が、自らの地盤を捨ててまで、
マキムクに移住する意味はない。
そもそもマキムク型が全国で見られるという説も眉唾、
マキムク型とされる古墳の絶対数が少なく、また定型化しているとも
思えない。定型化する前の過渡期に、各地で思い思いに造られたと見る
べきでは?
結局、寺沢も、マキムク開始=卑弥呼共立という思い込みに引き摺られてるのか?
庄内開始段階で、西日本である程度の政治的統合がなされていたと思っているように感じる。
>>488 > 庄内開始段階で、西日本である程度の政治的統合
ちょっと意味が違うかもしれませんが、弥生終末期以降になると防御的高地性集落の分布が、
北部九州、吉備、大阪湾岸のビッグ3からは消滅しますよね。
このころの三者には軍事的緊張感が無くなっているかのように思えます。
>>489 高地性集落の分布について、北部九州、吉備、大阪湾岸がいつからビッグ3になったんだ?
>>490 >
>>489 > 高地性集落の分布について、北部九州、吉備、大阪湾岸がいつからビッグ3になったんだ?
すんまへん。
そう言う意味ではありません。
弥生終末期の三大勢力くらいの意味です。
492 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 22:54:41
高地性集落はすぐに倭国大乱と結び付けて考えられる向きもあるが、倭国大乱がどの程度の規模であったか不明であり、安易に結び付けるのは危険では、と思う。
特に筑紫や吉備の攻勢を避けるために東瀬戸内で高地性集落が多数造られたという言説はよく見る。
で、神武東征の根拠だと極端なことを言う人も。
私見だが、高地性集落は戦国時代の国人領主レベルの首長の逃げ城というのが妥当な評価ではないだろうか?
広域のクニ対クニの戦乱を推測するような痕跡は見つかっていないし、また高地性のピークは何度かあるものの、その時期に広域権力の存在を伺わせるような事象もない。
では倭国大乱とは何か?
493 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:32:41
>倭国大乱
この言葉が使われるということは、それ以前の倭国は安定していた時期があったということ。
高地性集落は、弥生時代中期以後に作られはじめるので、
安定から不安定に転じたと見ていい。
高地性集落は倭国大乱の根拠に十分なりえる。
>>493 実年代観によると思う。
倭国大乱があったとする2世紀を、土器編年でいつの時代とするのか?
ということ。
倭国大乱=高地性集落のピークだと考えているのなら、余りにも性急過ぎないかと思う。
弥生後期以降、後漢の権威を借りた漢委奴国王を倭王として、緩やかな倭国連合が
あったのだろう。
その後、2世紀半ば、世界中を襲った寒冷化により政治的混乱が起きる。
後漢の衰退によりツクシ王は権威を失い、出雲、吉備が勃興。
最終的に畿内がツクシ王体制を離脱、魏から倭王に承認される。
496 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 01:20:22
議論の参考になると思うので、下記鳥取県教委発行のパンフレットから、一部引用させていただいた。
■青谷上寺地遺跡のひとびと
編集・執筆 鳥取大学医学部教授 井上 貴央
発行者 鳥取県教育委員会
平成19年3月発行
(全文が読めるPDFファイルのダウンロードはここ↓から。頭蓋骨写真あり!要注意)
http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=69171 鳥取県にある青谷上寺地遺跡は、弥生時代前期〜後期(紀元前3 世紀〜紀元後2世紀)に栄えた遺跡です。
保存状態の良い多数の遺物が出土したことから、「地下の弥生博物館」とも呼ばれています。
遺物の中には、5千点を超える人骨があります。この人骨は、当時の青谷に暮らした人々に関する多くの情報をもたらしてくれました。
溝に散乱する殺傷人骨
001 人骨が出土した溝の発掘の様子
002 前頭部の殺傷痕
003 胸椎についた鋭い殺傷痕
004 3 ヶ所も傷ついた肋骨
005 銅鏃の刺さった寛骨(ほぼ前方から見たもの)
006 刺さっていた銅鏃のX 線写真と銅鏃の大きさ
007 銅鏃の進入方向 正面観(上) 上面観(下)
497 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 01:22:42
つづき
【溝に散乱する人骨】
遺跡内で、もっとも多くの人骨が出土したのは、遺跡の中心部を区画していると考えられる溝でした。骨を調べてみると、少なくとも109体分の人骨がありました。
溝から発見された人骨は、きちんと埋葬された状態ではなく、バラバラになって散乱した状態で発見されました。この人骨を調べてみると、骨に達する傷がついていました。
はたして、どのようなことが起きていたのでしょうか?
・傷ついた人骨■002 ■003 ■004
ひたいや頭の頂部に孔が開いた頭蓋骨や、するどい刃物で切られたような骨が110点もみつかりました。
このような殺傷痕を伴う人骨は、北九州を中心に西日本から発見されていますが、これほど多量の傷ついた人骨が出土した遺跡は全国でも例がありません。
傷ついた骨の年齢や性別を調べてみると、男性ばかりでなく女性の骨もありました。
さらに、10 歳程度の子供まで犠牲になっていることがわかりました。
また、1 本の骨に数ヶ所におよぶ傷を受けたものがありました。
凄惨な場面が目に浮かんできそうです。
これらの人骨は、弥生時代後期後葉(約1800年前)のものと考えられます。
この時期は、『魏志倭人伝』や『後漢書』という中国の書物に記されている「倭国大いに乱る」という時期に相当します。
この遺跡の骨は、「倭国大乱」の情景を示す骨なのでしょうか。
・武器の刺さった骨■005 ■006 ■007
金属製の武器が刺さった骨が3 点見つかっています。骨盤の寛骨に刺さった銅鏃は、X 線写真で見ると、その形がはっきりみえます 。
銅鏃は、骨盤のほぼ真横から打ち込まれていることがわかりました 。
この骨には、切りつけられた痕もあり、凄惨な戦いの一端がうかがえます。
青谷上寺地の殺傷痕のある人骨については、集落内での内部抗争説もあり、
俺はこれを支持してる。少なくともそれら人骨の後も集落は継続してる訳で、
それらの戦乱を契機に集落が廃絶した訳ではない。
酷いのになると、殺傷人骨を記紀神話の国譲りになぞらえる説あったが、
全く的外れだと思う。
戦乱の跡=倭国大乱に結び付けたくなる気持ちは分かるが、もうちょっと慎重な態度で
あるべきだろうと。安易に実年代を確定してしまうのは問題。
俺個人的には、倭国大乱というのはツクシ王体制のタガが外れ、
各地のオウたいが自立傾向を見せた状況を指しており、
必ずしも倭国全体を覆うような戦乱状況ではなかったのでは?という推測。
少なくとも、高地性集落のピークである弥生中期末から弥生後期初めを
倭国大乱の時期に当て嵌めるのは間違いだろう。
499 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 02:15:49
>>498 いや、筑紫の王体制が混乱で戦争なら中国から見て十分に
倭国大乱だろ。
魏志倭人伝では記述からみて「倭国」というのは九州だけだろうし
本州は別の国を匂わせている。後の隋書などを読んでもそう。
500 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 04:38:43
倭国大乱は全国規模の内乱で奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した
中平年間(184〜189年)に作られた中平年銘環頭大刀で証明される。
501 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 09:36:33
九州説がまぎれこんでるぞ(笑)
502 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 10:14:33
出雲の国譲りに付いて。日本書紀によると。
高天原の高皇産霊尊は、葦原の中国を平定しようとして、天穂日命を派遣したが、
三年たっても復命しなかった。そこで、その子を派遣したが、やはり
音沙汰無しとなった。
次に、天稚彦を派遣したが、これも、帰ってこなかった。
次に、経津主神と武甕槌神の二柱の神を派遣した。
二柱の神は、出雲の大己貴神に国を譲る気があるのかないのかと問い質した。
大己貴神もその子も、ついに国を譲り、身を隠すことを約束した。
>>477 都市遺跡が発見されないと、Bは無理なのでは?
「明治維新のように」と言っていいような
中央集権的な王権は全く出来てないと思います。
各地豪族間、つまり支配階級の交流は激しかったようですが。
乙巳の変あたりまでは後の戦国時代のような状況と考えるのが、
考古学的には順当だと思います。
近畿における中心地変遷の頻度は、
支配層の権力推移とでも考えない限り、
マキムクのことを理解することが不可能に思えます。
というのもこの土地を支配していた豪族は
三輪山信仰に密着しており、そう簡単に
マキムクの地を捨てることはないはずだからです。
ただ一つ良く分からないのが、天皇一族が支配的になり、
文献資料がある程度信頼できる時代になっても、
遷都癖があることです。中華化で済ませていいものかどうか。
504 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 21:43:42
マキムクにいろいろ外来的要素があるのは、いろんな地域と手広くお付き合いがあったからに過ぎない。
明治維新とか飛躍し過ぎだよ。
むしろ鎌倉幕府のような関東有力御家人による連合政権のように見た方がいい。
で、大和=北条が有力となったと。
505 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:58:29
>>504 >いろんな地域と手広くお付き合いがあったからに過ぎない。
誰が?
考古学的には上から下までほぼ全階層でしょ?
生活土器から古墳の特殊器台に至るまでだから。
507 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 01:45:16
お伊勢参りのような、三輪参りがあったんだな。
マキムクは古代の神社だろ。
マキムクはコストコ
経営者は?
510 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 12:52:20
卑弥呼。
511 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/11/27(木) 20:38:33
>>497 193年崇神6年民散る。飢餓により飢え死にと農民の離散
秋、大国魂の宮移し←国譲り。
流動化し南下する離農者を食い止めるために、大彦を「越」に派遣。
崇神10年 減少した農奴の補充の為、四道将軍の派遣
翌春 異族多帰=197年
倭人伝登場人物
都市牛利=タジマモリ
伊支馬=イクメ=垂仁 238年崩御
倭王=タリヒコ =景行 260年崩御
伊聲耆掖邪狗=イワカ=六雁
難升米=倭女王の部下で大夫
狗奴國=狗古智卑狗
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
イヨ=五百野姫
512 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 20:53:36
記紀の記述はあてにならない。まして書紀の年代やら出来事は述作された説話。
考古学だけで語ったほうが確実。
>>512 しかしまあ、マキムクの記述とか割と信憑性のある記述もあるわけで。
特に箸墓は、偉大な女性呪術者を葬ったとわざわざ記述するなど
興味深い。昼は人、夜は鬼が造ったなど、他の歴代天皇でも、
陵造りの記述がある天皇はまれ。それだけ特別な墓という認識があった。
箸墓がエポックメーキングなのは考古学的にも正しいこと。
514 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 22:11:49
考古学は解釈の余地が大きすぎる。
いろんな解釈が可能で、悪く言えば、どんな解釈でも可能になる。
>>512 まづおまえは板違いなんだよwwwww
何?考古学板じゃにわか扱いされて不愉快なの?
それとも追い出されたんか?
記紀というのは各地の伝承を集めているわけで、もちろん登場人物は
当時の「神」豪族w ほとんど現在も子孫が残って確かめられるもので
十分参考になる。大体、地名の由来なども書かれていて、それが本当に
地名なんだからそれだけでも興味深いわけで。
いっとくが、考古学だけじゃ名前はつけられないよw マキムクって何を
参考にしたの?誰かから聞いたとか?www
そこまで煽らなくてもいいんじゃないの
だいたい考古学板って追い出すほど人はいない
>>514 いやいや全く逆。
そもそも前文字時代の古代を語るのに考古学は有効だよ。
同時代の文献が倭人伝ひとつという状況である以上、
考古学に軸足を置かざるを得ないのは仕方がない。
その前提をまず理解しないと。
以降はその上での話。
まともな考古学者は倭人伝やら記紀神話を学問的ではないと意識的に無視してるし、
学問として成立させるために、そういった不確定要素は排除する傾向にある。
解釈の余地が多いんじゃなくて、悪く言えば考古学の中でしか解釈しようとしない。
邪馬台国は無視する。
518 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:24:23
少なくともコテハンが語ってるような、古い時代の年代は完全に創作されたデタラメの年代なんだから、
それを西暦におきかえて云々しても無意味きわまる。
記紀の記述でも信頼できる部分、ある程度は利用できる部分と全くデタラメな部分は峻別しないとな。
519 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:32:24
>>515 この、いかにも頭悪そうなカキコ、サイキバテイストだなwwwwwww
まあ考古学的アプローチによる邪馬台国畿内説はぶっちゃけ
当時の最大勢力が魏と交渉を持った・・・と言う言わば『オッカムの剃刀』的な発想ではあるw
無論『オッカムの剃刀』が構成要素の少ないシンプルな方が常に正しい事を保証する物ではないがw
500年前、しかも文字の無い時代のことを書いてるのが記紀だから、
訳がわからなくなっていたとしても不思議ではない。
現在から戦国時代のことを手探りで書いているようなもの。
当時の記憶は口承されていたとは思うが、口承は年を経て改変されていくからな。
カーゴ・カルトを見ても分かるように。
で、紀の編纂者は卑弥呼=神功皇后と考え(最初の畿内説)、
紀の実年代比定の定点のひとつとした。もうひとつの定点が神武即位年。
記紀を鵜呑みにする奴は、比較神話学とか読んだことがあるのか。
余りにも勉強不足。
>>519 wwwwwwwwが多くて必死だね 頭悪いのそんなにごまかしたい?w
522 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:45:10
523 :
ローガン:2008/11/27(木) 23:46:59
>>513 >昼は人、夜は鬼が造ったなど、他の歴代天皇でも、
> 陵造りの記述がある天皇はまれ。それだけ特別な墓という認識があった。
箸墓の後円部はほぼ正円です。新しい土木技術が伝わった…
驚くほど速く完成した意味ではないでしょうか? 「夜也神作」って。
524 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:53:38
あくまで 箸墓=卑弥呼の墓 説に拘れば親魏倭王に冊封されたんでそれに相応しい墓を突貫工事で造った
…なんてお話になるのかな?www
まあ仮に宮内庁が箸墓の内部の調査許可しても卑弥呼の墓であると言う決定的な物は出ないんじゃない?
それより個人的には崇神陵を調査してもらいたい。
この板の九州説の連中がしがみ付いている年代観が崩壊するのが見られるかもしれんしwwwwww
525 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 00:14:02
>>517 考古学者の中には、倭人伝に頼り切っている人もいる。
たとえば、卑弥呼が百枚の鏡をもらったとか、卑弥呼は2世紀の終わり頃
女王になったとか。卑弥呼の墓の大きさとか。
こんなのは、魏志倭人伝など中国の書物がないとわからないこと。
その上で、都合の悪いことはアテにならないと言っているから奇妙な
感じを受けるのだが。
>>525 >考古学者の中には、倭人伝に頼り切っている人もいる。
具体的には誰?白石のことかな?倭人伝に頼りきりではないとは思うが。
確かに白石は少し先走り過ぎな印象ではある。
個人的に概ね正しいとは思うが、決定打に欠けるのに、多くを喋り過ぎ。
学者としてもう少し慎重な態度であるべきではと思うが、本人が問題提起を
意図してあえてやってるフシもあるので。
どちらにしろ、c14や年輪年代の精度が上がってくれば邪馬台国問題は解決するだろう。
その日まで適当に議論するのも一興かとw
奈良の頭悪い大学なの?やっぱり?
ぶっちゃけ邪馬台国には興味がない。
邪馬台国の名前を出している考古学論文は馬鹿論文ばっかり。
たとえ序や結に名前が出てくるだけでも、
幼稚な憶測を書いて恥ずかしくないのか?
529 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 10:01:47
邪馬台国書かない学者は逃げてる。
いい加減なことを書きたくない気持ちは分かるが、思考停止と言われても仕方がないよ
530 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 18:44:24
>>529 いや、まともな「考古学」者だから触れないんだろw
むしろ触れたがるほうが考古学としては異端。
531 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 21:01:17
そうそう。
だから考古学板には「邪馬台国畿内説」が行く場所がないんだよ。
まともに相手にされないし.......
いや、相手されないというより、考古学板はどこ行っても人がいないだけだから。
533 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 21:23:37
神武は居なかった。なぜならお墓がないから。
やっぱ神武=崇神、ついでに =応神
ここでは纏向遺跡を議論しようよ
535 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 22:02:07
つうか
>>531はサイキバのアホだろ?w
第一、考古学板のローカルルールに
『●邪馬台国など歴史書・古文書(記録)を中心とする話題は ⇒日本史 世界史』
とはっきり書いているんだがwww
サイキバのアホはLRなんか読んでないんだろうなwwwwwww
巻向スレは考古学板にもあるよ。
見ている感じ考古学板の人たちは学究というより技術端の人たちがほとんどみたい。
だから、もともとああだこうだと議論する人たちではないみたい。
537 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 09:13:42
ふと思ったのだが、纏向の古墳からは内行花文鏡とか方格規矩鏡は出て
いない。画文帯や三角縁神獣鏡は出ているが。
ところが、九州の初期の前方後円墳からは内行花文鏡などが出ている。
纏向の古墳を古いとすれば、画文帯などの方が古く、内行花文鏡などの方が
新しいということにしなくてはならない。
本当にそうなのだろうか。
それに画文帯や三角縁神獣鏡は明らかに呉の系統の鏡。
これは何を意味するのだろうか。
なにやら真実が隠されているような気がしないでもない。
538 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 10:19:41
>>537 方格規矩鏡と内行花文鏡なら奈良県天理市にある天神山古墳から
たくさん出土しています。本州では年号の入った銘文鏡がたくさん出土して
います。しかし九州には年号の入った銘文鏡が1枚も出土していないが
この事のほうが九州には重要な問題です。京都府天橋立にある籠神社には
前漢の内行花文昭明鏡と後漢の長宜子孫内行花文鏡がが伝世されています。
最近TBSの番組にめでたくテレビ出演した鏡です。九州に鏡が伝世している
話しは聞きません。九州には鏡を大切にする習慣がないのでしょう。
>>537 巻向の古墳と言ってもホケノ山しか主体部が開いてないしなぁ。
しかも内行花文鏡の破片は出てるし。
540 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 14:54:45
●大阪府立近つ飛鳥博物館 平成20年度 秋季特別展
『考古学からみた古代の女性』−巫女王卑弥呼の残影−
■11月30日(日) 秋季特別展会期中の催し
【講演会】 「考古学からみたヒメ・ヒコ制」 白石太一郎(館長)
午後2時〜3時30分 地階ホール
定 員: 200名
※講演会参加には、今季特別展入館券の半券または年間パスポートが必要です。
12時より1階ロビーにて入場整理券を配布します。
大阪府立近つ飛鳥博物館 大阪府南河内郡河南町大字東山299番地
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2008_autumn/index.html ■秋季特別展 『考古学からみた古代の女性』
近年の女性史研究の進展によって、我が国の歴史における女性の実像も少しずつ明らかになっているが、本展では出土品からイメージされる古代の女性像を展示。
女性にまつわる造形物から古代の女性がの存在感を、古墳における埋葬位置やその副葬品から、女性の役割を考え、当時の王権の実態に迫り、女性の人物埴輪の表現している世界や意味についても探る。
・期間: 平成20年10月11日(土) 〜 平成20年12月7日(日) 休館日は毎週月曜日
・入館料: 一般 600 円/65 歳以上・高大生 400 円/中学生以下・障がい者は無料
・開館時間: 午前10時〜午後5時 (入館は午後4時30分まで)
・主な展示品:
長野県下比良遺跡 お産する土偶
山梨県御所前遺跡 顔面把手付深鉢 【山梨県指定文化財】
兵庫県桜ヶ丘出土 桜ヶ丘5号銅鐸 【国宝】
大分県吹上遺跡出土 4号・5号甕棺出土品
奈良県島の山古墳前方部粘土槨出土品 【重要文化財】
大阪府和泉黄金塚古墳中央槨出土品 【重要文化財】
岐阜県矢道長塚古墳西槨出土品
大分県免ヶ平古墳2号主体部出土品
栃木県鶏塚古墳出土 裸の女子埴輪
>>537さんは、柳本に属する黒塚古墳のイメージが強いみたいですね。
黒塚の年代を「マキムク型」の年代に含めるかどうか微妙ですね。
542 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 23:33:23
熊本県に向野田古墳というのがある。女王の眠る古墳として有名なのだが。
竪穴式石室の100mほどの前方後円墳。舟形石棺。鏡は内行花文鏡、方格規矩鏡
など。
以前、この古墳は、この地方で最も古く3世紀の終わり頃にできたとされて
いた。ところが、最近では、4世紀後半となっている。
はて?
そう思って調べてみると、近くの三角縁神獣鏡を副葬した古墳の方が
古いことになっていて、それに押し出される格好で年代が繰り下げられていた。
最近、古墳などの年代が変わりすぎるように思う。
543 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 23:50:18
>>542 そうそうw
そんなことで百年も繰り下げられたり、かと思うと
都合により百年繰り上げたり、
そんな年代だけに頼って詭弁で固められた説ってあるよね。
その詭弁説の金持ちに言い寄られて嘘で固めた家系図公表したりする家もあるし
544 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 00:10:27
九州説が必死(笑)
まず、自分らの証拠を固めろよ。
545 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 00:14:18
>>542 >以前、この古墳は、この地方で最も古く3世紀の終わり頃にできたとされていた。
出典をあげてくれ。
くりぬきの舟形石棺がある古墳をつかまえて3世紀などとする専門家はいないはずだから
きっと考古学不勉強のアマチュアの本ではないのか。
546 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 01:00:44
>>537 >ふと思ったのだが、纏向の古墳からは内行花文鏡とか方格規矩鏡は出て
>いない。画文帯や三角縁神獣鏡は出ているが。
上で
>>539と
>>541が疑問を呈しているがきみの勘違いではないのか。
纏向の古墳で三角縁神獣鏡が出土しているなどという話は聞いた事がない。
勘違いを事実のように書かれると困るのだが嘘でないと主張するのなら
三角縁神獣鏡が出たという纏向の古墳名とその出典をあげてくれ。
547 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 02:15:49
>>545 出展というか、単にインターネットのサイトで見かけただけ。
そのインターネットのサイトの記述が変わっていた。
それに、鏡としては、内行花文鏡や方格規矩鏡の方が古いと思うが。
仮に、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だとしても。
ちなみに、椿井大塚山古墳の場合は3世紀後半となっているらしい。
これは言わずと知れた三角縁神獣鏡の本家。
盗掘されていて詳しい副葬品はわからないらしいが。
黒塚古墳と非常に良く似た古墳だろう。どちらも割竹型木棺だったはず。
割竹型木棺と三角縁神獣鏡は相性がいいのかな。
舟形石棺と割竹型木棺、どっちが古いのやら。
舟形石棺の方を古いという研究者などいないね
舟形石棺が出て3世紀はないわw
自分でいいかげんなソースで与太話こいてましたと認めてるんだから、
もう許してやれ。
551 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 22:32:07
>>549 理由は?
しかし、古墳の年代はころころ変わってきている。
田辺昭三氏が、以前、古墳について次のように述べている。
古墳の変遷として、古いものはまず丘陵の上に築かれる。
形からすると、柄鏡式のもの。それが徐々に前方部が発達して外開きになる。
高さも前方部と後円部が同じくらいになってくる。
後期になると、全体的に小さくなり、前方部が後円部より大きくなる。
それで、箸墓はどうなるかというと、これは中期頃の古墳ということになる。
これが今までの常識だった。しかし、箸墓から特殊器台形の埴輪という
弥生時代に通じるものが出てきた。だから、箸墓はごく初期の古墳の可能性も
出てきた。
これが昭和50年頃の話。
最近の古墳編年では、箸墓のタイプを初期としているらしい。
ただ、田辺氏は、多分、土器編年からだろうが、晩年、箸墓の築造年代を
4世紀中頃としているらしい。
552 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 08:35:25
実年と編年をごっちゃにしているような。
実年代は動くことがあるが、編年はそうは動かないでしょう
553 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 19:58:49
箸墓はただの円墳ではなくて特徴的な前方が付いてる
それも世界初で史上初の前方を持つ特徴的な巨大古墳「箸墓」
人類史上初の前方を何故付けたのかそこから考察しようではないか?
554 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:01:08
秦氏
555 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:34:04
556 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 22:07:13
>>555 553ではないですが、あまりに愛想のないレスでは?
正しいのは正しいのですが。
前方部の始まりは被葬者を仰ぎ見る地点であった筈で、
日継=王位継承の首長霊祭祀が盛大化するにつれて、
その祭りスペースである方形突出部が巨大化した
という風に説明できるのではないでしょうか?
箸墓古墳の周りに100人埋まっている?まずそこから
始めようよ。
埴輪とかだったらもうアウトだぞ
前方部なんて石塚にも勝山にもほけの山にも付いてるんだけど。
そもそも、もともと通路だったものが祭祀の場に変質し、
徐々に肥大化していったものだという成立過程までほぼわかってるんだけどな。
560 :
ローガン:2008/12/02(火) 00:12:39
私も通路説支持です。加古川西条52号弥生墳丘墓なんて見たら通路として理解しやすいように思います。
後円部が高い箸墓では資材の搬入通路として撥形前方部が必要だったのでしょう。
「前方後円墳に学ぶ」近藤義郎2001年 山川出版社から抜粋します
「前方後円墳の後円部の勾配は後世壊されていない限りほとんどにおいて強い傾斜を持っています。…ほとんどが22〜23度以上で平均的には25〜26度、とくに強い例では30度前後もあります。…
括れ部や前方部正面の勾配も測ってみました。後円部に優るとも劣らぬ傾斜をもっている…一つだけ頂きに達する道があります。前方部左右どちらかの角の部分です。…勾配が20度以下で15度前後が多いようです。」
561 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 01:44:04
前方部がなぜ発達したのか?の議論は、ほとんどコンセンサスが得られたみたいなので。
終了でいいでしょうか?
反論のある方はどうぞ
562 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 10:11:03
前方部が資材搬入の通路のためきずかれたということですか。ばかばかしい。
後円部は丘です。そして前方部も岡ですよ。搬入のためなら、丘にしたら運びにくいでしょう。
前方部の丘まで運びあげて勢いをつけて後円部に運び込むとでも。ばかばかしい。
前方部に運びあげるくらいならはじめから後円部にはこびあげたほうが半分くらい楽ですよ。
563 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 11:40:31
564 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 13:57:14
>>5 前方部は通路のため
巻向をこんなお馬鹿コンセンサスで進めているのにも驚き。
あは
565 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 14:07:23
点在する円墳はオール通路w
566 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 22:06:56
まあ実際推測でしかないからなw
ただ、徐々に前方部が発達していくのも事実で、
本来は通路だったのが、意味を持ち始めた。
つまりは王位継承祭祀のスペースとして、と考えるのも無理はないかと
この場合の通路は、当然祭祀的意味合い、堀で囲まれた墓域=聖域に入る橋的役割。
567 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 00:11:19
何が言いたいのやら。
そのページの先頭でも一番古く位置づけれれてるのに。
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/llllllli' 」 .l|
/ノllllllll!, -== !l| < 古墳の変遷は二十年前からこうだ!
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イzilllllll!゙ヽ ノ }llliiiv,,_
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!llllllllllllll!'vマillllタヘ. illlllllllllllllllllli
. |llllllllllllll! .illllll{ .:illllllllllllllllllllllll
..|lllliillllllllll .iilllllll{ .illllllllllll:llllllllllli
.|llllll;illllllllli「lllllllllll{;illlllllllllllll;illllllllll|
569 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 03:30:07
570 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 05:34:22
>>569 >僕たちは、その両者(吉島・養久山1号)とも最古の古墳の一つであろうと
>いう見通しの下に発掘を始めた…
どういう理由で最古の古墳と考えたのかがわからないとちょっと疑問。
自分たちは、この古墳が最古と考えた。この古墳は撥形だった。
だから、最古の古墳は撥形だ、というのでは独りよがりでは?
これらの古墳からは、三角縁神獣鏡が出てくるから、それを根拠に最古の古墳と
考えたのではないだろうか。つまり、三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった
鏡であることを前提にして年代を考えているのではないのかな。
とすれば、三角縁神獣鏡が魏鏡でない場合はその前提が崩れることになる。
571 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 08:27:55
三角縁が出る時点で最古ではないだろう。
まあ箸墓も掘れば三角縁が出てくるだろうけど。
>>570 掘る前に最古と予想して掘ったのだから三角縁神獣鏡は関係ないのでは?
てか、養久山1号墳は小型の四獣鏡ってなってるし
573 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 12:14:27
古墳の形で編年することは難しい、ということでは?
特に古墳作りは地域色があるし、造墓集団によって違うのだろうし
574 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 12:40:35
>>571 箸墓は微妙だな。
柳本天神山の時点が製造開始前とすると箸墓にもない可能性もある。
575 :
ローガン:2008/12/03(水) 16:36:39
>>570 > >いう見通しの下に発掘を始めた…
> どういう理由で最古の古墳と考えたのかがわからないとちょっと疑問。 自分たちは、この古墳が最古と考えた。この古墳は撥形だった。
> だから、最古の古墳は撥形だ、というのでは独りよがりでは?
吉島、養久山の前方部はまっすぐ伸びる形態だとされていた。当時は「後円部に較べ低く幅狭くほぼまっすぐ長く伸びる前方部が最古式である。」(p.88)と言うのが主流。
よってまっすぐ伸びる前方部とされていた吉島、養久山が最古式だとの『見通し』をされ?%
576 :
ローガン:2008/12/03(水) 16:44:48
>>575ごめんなさい、続き
よってまっすぐ伸びる前方部とされていた吉島、養久山が最古式だとの『見通し』をされたという事です。
一読を勧めます。
577 :
ローガン:2008/12/03(水) 16:47:49
その『見通し』のもとに調査したら、まっすぐではなく撥形だったという事です。
ローガンていうと死の方程式の副社長を思い出すな。
どうでもいいけど。
>>577 > その『見通し』のもとに調査したら、まっすぐではなく撥形だったという事です。
すいません。
せっかく「一読を」と薦められている文献を読まずに尋ねますが、
「まっすぐ伸びる前方部」より「撥形]の方が古形であると判断し直された根拠は書かれているのですか?
と言う疑問が・・・スレの流れでございます。
>>569氏の引用文からは、同じバチ型の「車塚」が「古い」から、というのが「根拠」のようにもとれますが。
昔は、新しいものほど前方部が後円部に比して大きくなるという理解だった。
実際にも崇神稜の前方部は後円部の半分(5割)の長さしかなかった。
前方部の長さが後円部の7割程度の古墳のなかに前方部がバチ形に開くものがあり、
これは前方部長の比率が同じ古墳よりも古い要素が多かった。
それでバチ形は同じ程度前方部が発達している古墳より古いとされた。
しかし、寺澤のいう纒向型前方後円墳(前方部長5割)の方が古いということは、
今ではほぼ争いがないと思われる。
581 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/03(水) 22:47:59
登場人物
238 都市牛利=タジマモリ
238 伊支馬=イクメ=垂仁
240 倭王=タリヒコ =景行
240 伊聲耆掖邪狗=イワカ=六雁
240 難升米=倭女王の部下で大夫
240 狗奴國=狗古智卑狗
ついでに書紀より
248? 倭女王卑弥呼=巾3尺の石
249? 男王=筑紫の大木
250? イヨ=五百野姫
前後省略。
この程度の数字で、纒向は説明出来る。
http://www.asuka-tobira.com/kofun/kofun.html#shinwa こちらに「書かれた年代は正しい」と見た場合だけど。
582 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/03(水) 23:15:29
伊支馬≠垂仁(イクメ)
マキムク型は後円部:前方部が2:1と記憶しているが
584 :
ローガン:2008/12/04(木) 00:15:06
>>579 > 「まっすぐ伸びる前方部」より「撥形]の方が古形であると判断し直された根拠は書かれているのですか?
柄鏡式が最古だとする当時の考え方に対する疑問…あくまで回顧ですから。
椿井大塚山は撥形、桜井茶臼山や紫金山はまっすぐ伸びる前方部。小林先生の言う鏡式の古相、新相。又、碧玉製腕飾等の比較により、撥形の方が古いと当時近藤先生は考えたようです。
そして前方部祭壇説支持、「祭壇説は無敵なのであります。と述べたほどでした。」(p.90)
しかし…「このようにして1968年の僕の拙い前方部起源論が展開されたわけですが、理論的にも実際の資料の点でも、数年のうちに立ちいかなくなってしまいました。」(p.91)
というところから楯築や、西谷3号に戻って前方部起源…つまり通路説を論ぜられています。読んで貰わないと伝わらない部分が当然多いのですが…
特殊器台出土が撥形前方部を最古式とする理由の一つに挙げています。あとは、是非ご一読を
585 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 06:03:46
>>583 >マキムク型は後円部:前方部が2:1と記憶しているが
それも一昔前の説で、東田大塚と勝山は2:1比に当て嵌らない事が
一昨年から今年春にかけての調査で次第に判明しつつある。
両墳とも前方部長はもっと伸びているようだ。
上の柄鏡形とバチ形の議論もそうだが考古学は発掘調査等で新たな事実が判れば、
旧説は新説に取って代わられる・・・・・そんな宿命を持つ学問であると心得たほうがよかろう。
ネットのおかげで考古学の最新情報が入手し易くなったのはその点、有難い。
586 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 07:17:50
撥形の方が、柄鏡形よりも古いんだという気持ちの方が先にあったように
感じる。
一時、箸墓を卑弥呼の墓に比定する動きがあった。
箸墓は撥形。一方で箸墓よりも古いとされた崇神天皇陵は柄鏡形。
箸墓を卑弥呼の墓とすると、それよりも古い崇神天皇陵は誰の墓かと
いうことになる。
こういう考えは偏った考えかな。
587 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 08:43:10
行燈山が箸墓より古いとかあるのか?特殊器台とか出てるのでしょうか?
マキムクから少し離れてるし、造墓集団的にも違うような気がする。
まずマキムク→箸墓かあって、その後、柳本と鳥見山の2系統に分岐している感じに思っていたが、
これも古い考え?
>>586 >崇神天皇陵は柄鏡形
違うぞ。おまえの誤認なのに、事実のように書くなよ。
行燈山古墳(崇神陵)は、柄鏡の形じゃない。
589 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 09:47:22
柄鏡形古墳については、もとは撥形であったが、周辺の耕作等により削られ
長方形のようになったともいわれています。
591 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 17:07:06
マキムク型の前方部はかなりなだらかで、箸墓以降の前方後円墳と違い、
前方部を際立たせるような思考はないように思うが。
592 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/04(木) 19:37:40
手白香皇后陵(衾田墓)は、『延喜式』諸陵寮によると、大和国山辺郡にあり、
城上郡にあった崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)の陵戸に兼ね守らしめたことになっている。
今城塚古墳を継体天皇陵と見なし継体の后 手白髪郎女命/仁賢女の御陵は
“西山塚古墳が衾田墓である蓋然性はきわめて大きい。
崇神天皇陵は、西山塚古墳の近く。
墳形で言うと、前方部は年代が下がると幅が広がると同時に高さも高くなって、
後半は前方部のほうが後円部より高くなってたりするんだけどな。
でも箸墓ぐらいだと前方部の高さはさほどでもない。
こういうのは徹底的に無視するんだよな。ご本尊のあんぽんたんが知らん振りだから。
エピゴーネンて悲しいね。
>>584 御説明ありがとうございます。
>鏡式の古相、新相。又、碧玉製腕飾等の比較
何はともあれ、当時の知見で古式と思われる副葬物があって判断したもので、
結果として、墳型デザイン的にはシンプルな直線型が、複雑なタイプの撥型より新しと思える。
と言うことですか。
私は撥型の方が古いと言うのは感覚的に受け入れがたいところがありまして、
まあ、いろいろと穿った見方をしてしまいます。
>あとは、是非ご一読を
機会がありました拝見させていただきます。
595 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 08:32:37
>>593 何が言いたいのかよく分からない。
前方部が後世になる程大きくなるのは、このスレのみんなが言ってることでは?
596 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/05(金) 21:27:38
わからないなら黙っとけばいいのに。
598 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 09:27:19
橿原市観音寺町で、土偶発見。
ジンジャーブレッドみたいだ。
橿原といいつつほとんど御所なんだよな
このあたりは京奈和自動車道の事前調査で、
道路の予定地に沿って次から次へと遺跡が見つかっているんだが、
全部つぶされるっぽいね。
武市郡というやつですか
601 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:46:50
602 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 02:49:36
>>601 へえ、あのシリーズに纏向が出たんだ(箸墓は出ていたが)
http://item.rakuten.co.jp/book/5927623/ 【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 三世紀の都市・纒向(三輪山の麓に広がる遺跡/邪馬台国の時代)/
第2章 交通の要衝の地・纒向(特殊器台の発見/最初につくられた大溝/纒
向へやって来た人びと/ヤマトから東国、西国へ向かう人びと/鍛冶−ツクシ
型送風管の動き/物流センターとしての纒向)/第3章 纒向の祭祀(新しい
カミ/カミと王の共食儀礼/祭殿と導水施設/ヤマトの神山と王権)/第4章
纒向から広がってゆく墳墓(纒向型古墳から箸中山(箸墓)型古墳へ/纒向
型古墳/箸中山(箸墓)型古墳/新王権による旧王権への祭祀)/第5章 纒
向は邪馬台国か(纒向が邪馬台国でなければなにか/邪馬台国東遷説と纒向/
邪馬台国であることの証とはなにか)
【著者情報】(「BOOK」データベースより)
石野博信(イシノヒロノブ)
1933年、宮城県生まれ。関西大学大学院修了。兵庫県教育委員会、奈良県
立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長を経て、徳島文理大学文学部教授、
香芝市二上山博物館館長、兵庫県立考古博物館館長(本データはこの書籍が刊
行された当時に掲載されていたものです)
604 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 22:28:55
アゲ
箸墓が250年だった場合に(卑弥呼墓説)、次の西殿塚がトヨ(イヨ)墓で280年とか290年とか言う人が何人かいるけど、
特殊器台型埴輪の文様変遷の型式差から言ってそんなに差があるんかいな?
あくまで感覚的だが
また、崇神稜イコール行灯山は型式的に箸墓とはかなり離れるけど、いいんかいな?
仮に箸墓が卑弥呼の墓でも、記紀の記述のように、行灯山=崇神陵も含めて全てが崇神代の出来事というのは無理なんジャマイカ?
箸墓と西殿はまあ1型式差弱、西殿と崇神陵は2型式かそれ以上の差という感覚だけど
実年代差は分からんからなんとでも言えるが
漏れ自身は箸墓はトヨの墓で、270〜280年頃ではと思っているけど
605 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 23:47:06
箸墓はトヨの墓ですよ。
トヨ=トヨスキイリヒメ=アマテラスを祭ったといわれる皇女
606 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:46:17
飛鳥で「蘇」と言う食品を売っているらしい。北海道でタレントが作っている
生キャラメルと同じ品物なのかなぁ。
トヨは豊玉姫だろ。
箸墓は普通に考えてモモだろ。偽る理由がない。
偽るというか、伝承が変質した可能性を考えるべきだろ。
そもそも腿・・・が存在したかどうかわからないし、
存在したとしても、記紀に書かれている『箸墓』が箸中にある
全長280mほどの古墳をさしているかどうかもわからない。
611 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 09:39:33
纏向が邪馬台国とすれば、少なくとも卑弥呼の住む宮殿の跡くらいは
出てこないと。倭人伝に書かれている城柵や樓觀もあったほうがいい。
612 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 18:07:58
>>611 卑弥呼の宮殿は唐古・鍵じゃだめなの?
マキムク時代に消滅したわけでもないし。
613 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 18:12:12
240年ごろだと古奈良湖の水引切れてないはずだからかなりぐずぐずな場所だったんじゃないか。
祭事場としては機能しても住居としては不適切な場所だったと思うんだけど
遺構があるあたりは微高地だしねぇ
古墳があるあたりから西側は湿地帯みたいだけど。
616 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 19:51:35
古奈良湖なんてのは安本の妄想。
卑弥呼の宮殿は唐古・鍵。
>>614 >箸墓古墳と似ており、築造時期が3世紀末〜4世紀初めとみられると、
>また、これまでに出土した埴輪(はにわ)から4世紀代の築造とされてきた。
こういうのはむしろ埴輪の年代に基づいて年代を出しておき、
墳形のみで年代を出すことはできないとするべきだと思うのよね。
最終的には主体部の情報とか墳丘内、周濠内(あれば)の土器など、
もう少しデータが集まってから判断して決めなきゃいけないけど。
618 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:20:51
>>614 しかし、朝日、読売、毎日の記事がそろって「卑弥呼の墓との説がある箸墓…」
と書いているのは、発表した人がそう言ったからだろうなあ。
619 :
ローガン:2008/12/18(木) 23:33:36
>>614 情報どうもです。しかし都出先生が名誉教授に…
知りませんでした。
邪馬台国が北九州で収まっていたというのは考えにくいな。
中国地方や近畿地方には九州に劣らない勢力があったはず。
それをタイホウ郡の役人達が感知していなかったはずがないもんね。
にもかかわらず、北九州の支配者に倭人の王の称号を送るはずないと思うんだ。
621 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 05:20:33
沖縄だったらそういう心配要らないよね
>>616 > 古奈良湖なんてのは安本の妄想。
弥生時代の出土品が全くない地域は、湿地帯だったんじゃなくて、
安本が全部出土品を隠してしまったとでもいうのか?
623 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 19:12:42
>>617 3世紀の古墳の祭祀に4世紀の埴輪を使ったんだろ。
畿内ではよくあること。
墳形の編年なんて存在しないも同然なのに…
625 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:12:39
形が似ているものは同時期の可能性が高いと言われていたが・・・
626 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 20:58:30
>>623 何があっても、古墳の三世紀だけは動かせないという風に取れる。
627 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:17:34
昔から箸墓は3世紀というのが定説ですが?
古墳時代を4世紀からとしてたのは、
箸墓を古墳時代に含めなかった(墳丘墓扱いだった)からであって。
古墳時代を3世紀からにしたのは、
箸墓を古墳時代に含めることにしたから。
箸墓の年代自体は、昔から3世紀だよ。
628 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:33:04
>>627 箸墓は、以前は中期の古墳といわれた。
今までも出てきたが、以前は柄鏡式の古墳の方が古いとされた。
箸墓のように前方部が開いているのは、新しいといわれていた。
しかも、箸墓は平野部に作られている。以前は、初期の古墳は山のふもとに
作られるとされた。
629 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:13:59
箸墓より古い古墳が大和にはいっぱいあるので、
古墳時代は3世紀からでかまわない。
吉備や播磨、阿讃の弥生墳丘墓>石塚>ホケノ山>黒塚
私の墳丘墓の築造順はこんなイメージですが、
撥型グループがほぼ同時期の築造だと仮定すると
黒塚と同時期か、その少し後のように思えます。
黒塚がバチ型というのは修正されたはずだよ。
後世の改変がひどすぎて墳形確定できず、ではなかったかな。
>>630 出土する鏡の傾向からは、あきらかに纒向型→バチ型だね。
しかし崇神稜も纒向型だから、形態だけで古くするにも限界がある。
箸墓が特殊器台で崇神稜が円筒埴輪だから、埋葬の祭祀の時点では
箸墓の方が先にくることは、ほぼ間違いない。
>しかし崇神稜も纒向型だから、
どこからこんなデマを仕入れて来るんだよぉ〜
634 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 00:34:22
>>633 『日本古墳大辞典』によると、墳丘全長242m、後円部径160mだから、
3:2:1で纒向型そのものなんだが・・・
635 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 00:44:47
>纒向型
かつて「前方部が小さく、前方部長が後円部径の半分ぐらい」、
などと言われていたが、勝山、東田大塚の調査で、そうは言えなくなった。
寺沢氏も認めて、旧説は引っ込めている。
今は「纒向型」とは、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山の
5古墳の総称、というほどの意味しかない。
が、まああえて共通点を探すなら、
@ くびれ部幅が後円部径に対して相当短い。つまりくびれ部が細い。
A 前方部はだらだらと前下がりで、箸墓以後の前方後円墳のようなダブルマウンドではない。
ということぐらいか。
石塚の前方部は著しいバチ形。ホケノ山もちょこっとバチ形。
あとはまだ精確な前方部の形状が不明だが、どうも統一規格ではなくバラバラの公算大。
でAとあわせて考えるなら
>>560ローガン氏「箸墓前方部バチ形=搬入通路説」は疑問の余地あり。
古墳の年代(編年)だが、埴輪・墳形・石室・棺・副葬品・土器・・・・、
いろんな要素が年代を探る手がかりになる。
わかっている事実があればすべて参考にして、総合的に考えないと駄目だ。
636 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 01:02:23
>>635 >今は「纒向型」とは、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、ホケノ山の
>5古墳の総称、というほどの意味しかない。
とって付けたような、学説変更だわな。
前方部が未発達というあいまいな指標で纒向型を設定できるわけもなかろう。
たしかに、測量の結果、正確には3:2:1にはならないものも出たが、基本的には
3:2:1が数値ではっきり分かる最大の指標だわな。
地方で「纒向型」というときは、やはり数値化できる3:2:1は無視できない。
崇神稜があるから、これを無理して除外するっていう意図が見え透いている。
学者としてのプライドを捨てた連中の議論なんてこんなものだろうけど。
637 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 03:00:01
>>636 後円部径:前方部長=2:1だけが古墳の編年のための手がかりではない。
いろんな手がかりを自分の知識の中に加え、総合的して考えないと駄目だ。
崇神陵は、以下は行燈山古墳と言い換えるが、墳丘に二つの明確なピークがある。
一つはもちろん後円部の頂上、もう一つは前方部の前側の端っこに近いところだ。
これは箸中山(箸墓)も、桜井茶臼山も、ほとんど同様である。
正確に言うと箸中山の前方部のピークは帯状になっているようなのだが
ともかく前方部のくびれ部からだいぶ離れて前方部端に近いところに
前方部自身のピーク(=高まり)がある。
ところが纒向石塚、矢塚、纒向勝山、東田大塚、ホケノ山という纒向遺跡の5古墳には
前方部に明確なピーク、高まりといったものが、今のところ認められていない。
比較的墳丘がよく残っていたホケノ山へ行って、前方部端から前方部を縦に歩いて後円部まで
登ればわかると思うが、一度も別のピークを踏むことなく後円部頂上に登りつめることになる。
が、行燈山ではそうはいかず、もし立ち入れたらの話だが、前方部のピークを踏んだあと
いったん少し緩斜面を下りつつ歩み、それから改めて後円部頂上めざして登り直すことになる。
たいていの前方後円墳がこうしたダブルマウンドであり、それだけに纒向遺跡5古墳の、
ダラダラ下がりとして造られたらしい前方部の特異性が際立つのだ。
(勝山は後世に溜池堤防として大きく改変された可能性があり、発掘調査が待たれる)
したがって行燈山古墳と、いわゆる“纒向型”の5古墳は、墳丘規格が一致しない。 つまり、
前方後円墳の規格も色々あるわけで、側面図を省いて平面図だけ、それも輪郭しか考えないようでは、、
いや、輪郭もそっちのけでその中からたった2〜3の長さだけとって数値化、これをまるで金科玉条かの
ごとく主張するような短絡さ加減では、行燈山古墳を「纒向型」などと捉えてしまい、
通説の編年との間に大きな齟齬をきたしてしまうだろう。
638 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 03:55:37
>>637 3行目訂正
総合的して考えないと駄目だ。 ×
↓
総合して考えないと駄目だ。 〇
>>637 その5古墳は築造時の状況が確定できるのかな?
640 :
ローガン:2008/12/20(土) 16:46:15
前方部のピークの事で少々…
時代は下りますが河内大塚山、見瀬丸山、今城塚の比較です。剣菱形前方部と謂われる古墳ですね。
見瀬丸山は後円部高さ21m 前方部高さ15m 今城塚は後円部高さ11m 前方部高さ12m なんですが、河内大塚山は後円部高さ20m に対して、前方部高さは4mしかありません。
河内大塚山は前方部に土盛りをしなかった…
元々、主体部工事に絡まない前方部頂の土盛りは古墳築造の最終工程だったのではないでしょうか?
ピークの土盛りが最終なら作業中には未だ存在せず、通路の邪魔にはならない。 とか考えます。
どう詭弁をつかおうが箸墓は4世紀でしょ。
4世紀のものは全部「それは4世紀になった後で埋めたから」
すげー詭弁
642 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 21:50:46
まあ三角縁神獣鏡が舶載で紀年銘が正しいというカルト宗教じみたことが
いまだに言える環境ってのが前提にあるからな。
学者のプライドより学派の利益と自己防衛っていう世界だよなあ。
643 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:33:05
>>641 >箸墓は4世紀でしょ。
箸墓の年代を4世紀とする理由も、レスしてください
>>342 そもそも中国で確実に魏の墓と呼べるものが一つしか発掘されてなくて
これだけで中国に無かったとは断定できない上に、
三角縁神獣鏡と酷似して、元になったと思われる鏡は出土。
景初四年については、景初三年の内から翌年用に作られていたと考えれば矛盾は起きない。
まだ「三角縁神獣鏡=オール国産」と断定する事が出来ない状況なのに、
そう決め付ける方がカルト的だと思うが。
645 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:57:22
>>644 倭人伝には、卑弥呼が帯方郡に使者を送ったのは景初二年とあるが、
これは景初三年の間違い。というのは、それまで公孫氏の支配下にあった
帯方郡は、景初二年に魏に攻められて戦争状態にあった。
帯方郡が魏の支配下に入ったのを知り、使者を出すとなれば、景初三年と
考えるのが普通で、これが通説となっている。
実際、他の書物では景初三年の六月となっている。
ところで、魏の明帝が死んだのは、景初三年の一月。
つまり、卑弥呼が使者を送ったときには皇帝は死んでいる。
だから、景初四年がないことはわかっており、翌年用に作るというのは
ありえない。
>>645 > 倭人伝には、卑弥呼が帯方郡に使者を送ったのは景初二年とあるが、
> これは景初三年の間違い。というのは、それまで公孫氏の支配下にあった
> 帯方郡は、景初二年に魏に攻められて戦争状態にあった。
> 帯方郡が魏の支配下に入ったのを知り、使者を出すとなれば、景初三年と
> 考えるのが普通で、これが通説となっている。
景初二年に帯方郡を支配していたのは「魏」じゃないですか?
遼東は三年中まで公孫氏の支配化にあったのでしょうけれど、
楽浪・帯方の方はそれ以前に奪回されていたと思いますよ。
景初中、明帝密遣帶方太守劉斤、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、
諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。(魏志韓伝)
647 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:40:06
>>645 景初四年を持ち出すとまた暦の話になるぞ。「三国志」魏書の巻三明帝本紀の
景初三年十二月の条に「永く忌日の哀をおもい、そこで復夏正を用いる。」
とある。暦が混乱状態なので景初四年があっても不思議ではない。
648 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 00:48:56
実際問題として、景初四年は存在しない。
梯儁は、正始元年に鏡を持ってきたのであり、景初四年なんて年号の刻まれた
鏡を持ってきたら、魏の恥になる。
>>646 ケイショ中としか書いてないのに、なんで3年より前だとわかるのか。
常識的に考えれば、3年に芝居がジョウヘイを攻めている間の別働隊による攻撃だろ。
650 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 01:02:32
>>648 暦の変更で景初四年が実際に存在しても不思議ではない。これを否定することは
昭和六十四年がなかったと言っているようなものだ。
651 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 01:06:16
>>650 ぜんぜん違うな。昭和64年は存在するが、景初四年は存在しない。
652 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 01:17:55
>>644 とオカルトさんは言いますが、
日本で500面以上出土して、中国では1面も出土していないという事実で
すでに完膚なきまでに完全に決着がついております。
あれは全部国産です。
決着が付いていることにしたいという願望はよくわかります。
>>649 >
>>646 > ケイショ中としか書いてないのに、なんで3年より前だとわかるのか。
> 常識的に考えれば、3年に芝居がジョウヘイを攻めている間の別働隊による攻撃だろ。
太守劉斤が派遣されたのは明帝時代の話なんですよ。
それに難升米が郡についた時(景初2or3年)の太守は劉夏、正始元年の太守は弓遵。
劉斤が景初3年まで在勤していると劉夏の任期がほとんど無くなる。
655 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 01:35:33
>>651 景初三年に暦の正朔が夏正(夏の正月)に改められたことを理解できますか?
656 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 02:17:38
景初三年の銘の入った三角縁神獣鏡の出た神原神社古墳は、一辺が30mの
小さな方墳。由緒ある鏡が、こんな古墳に納められている。
しかも、この古墳の築造は4世紀中頃とされる。
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kanbara%20jinja.htm だいたい、年号の入った三角縁神獣鏡は、小さな古墳から出る。
黒塚古墳の場合も、画文帯は棺の中にたった一枚、三角縁神獣鏡は棺の外に
大量にある。とても、由緒ある大切な鏡とは言えない。
しかも、黒塚古墳の三角縁神獣鏡は、バリが付いたままの未完成品だったとか。
河上邦彦氏は葬具と断じ、石野博信氏も三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない
と言い切っている。
いまさら、三角縁神獣鏡でもないと思うが。
>>655 横から失礼します。
> 景初三年に暦の正朔が夏正(夏の正月)に改められたことを理解できますか?
そして「景初4年」と言う年号が存在しないと言う事実も皆さん認知されています。
この例外は
>>650さんの発言だけだと思います。
>>650では昭和から平成への改元を例に「景初4年」の存在を主張しておられるようですが、
平成の場合は年の途中で行う立年改元の例ですよね。
崩御の翌日から新元号に切り替えるので、昭和64年1月8日は存在しなくなりましたが、
昭和64年自体は存在しました。
この事例と景初3年12月の夏暦復帰の詔がどう結びつくのでしょうか?
正始は踰年改元ですが、景初3年1月の明帝崩御を認知していない人物であれば、
景初4年銘鏡を作ることは有りえるのですが、貴方の主張はこれとは違うのですよね。
ちなみに改元に係る事項を時系列で示すとこんな感じですね。
景初3年(殷暦) 1月1日 明帝崩御
景初3年(殷暦) 12月1日 夏暦復帰
景初3年(夏暦)後12月1日 明帝祭祀
正始元年(夏暦) 1月1日 正始改元
658 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 13:49:44
中国では3C末以降道教が隆盛を極めて、4C半ば過ぎに最盛期となる。
4C初めに書かれた『抱朴子』に9寸以上の鏡に魔除け効果があるとされて、
それを受けて日本でも大型の鏡が大量に作られるようになった。
三角縁は画文帯の内区に方格規矩の外区をつけて、鏡を大型化したもので
棺の周囲に配置された状況から、明らかに『抱朴子』の影響を受けた魔除けであり、
製作開始時期は4C初め頃以降であると断言できる。
>>654 >太守劉斤が派遣されたのは明帝時代の話なんですよ。
ケイショ中は最後まで明帝の治世ですが。
芝居がジョウヘイを攻めたのも明帝との軍議の上です。
660 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 15:49:06
>>657 鏡職人は景初三年十二月の時点で一月になったら新年号に変わると思っていたら
なぜか新年号の連絡がなかったのでしょう。だから一月に景初四年の年号を使用
してしまった。しかし一月は景初三年後の十二月と言う奇妙な年号だった。
鋳造してしまった景初四年の斜縁龍虎鏡は破壊するわけにもいかず出荷して
しまい日本に贈られた。鏡には商品ロスが存在し歩留100%ではないのです。
>>659 > >太守劉斤が派遣されたのは明帝時代の話なんですよ。
> ケイショ中は最後まで明帝の治世ですが。
ハァ?そうですか。
これはもう見解の相違ですね。
そうまで仰るならこれ以上御説明することもございません。
では。
>>660 > 鏡職人は景初三年十二月の時点で一月になったら新年号に変わると思っていたら
> なぜか新年号の連絡がなかったのでしょう。だから一月に景初四年の年号を使用
> してしまった。しかし一月は景初三年後の十二月と言う奇妙な年号だった。
>>650はそう意味でございますか。
つまり「景初4年銘」が刻まれる環境があったということであって、
実際に「景初4年○月」と言うものが存在したと言う意味ではなかったのですね。
了解しました。
景初4年鏡が存在している以上、その紀年が刻まれるべく理由があったのは確かで、
貴方の
>>660説も一つの可能性ではありますね。
そして、その説に従えば、景初4年鏡は、同時代の舶載鏡だということですね。
そちらの方の結論には、ちょっと同意しかねますが。
>>648 三角縁が全部日本製と確定した以上、2つの可能性があります。
1、後世の日本に景初4年が存在したとする内容の文献がきて、その年号を書いた。
2、景初3年と書かれた文献が来ていたが、その翌年に鏡をもらったということで
景初4年と書いた。
正始元年の鏡が、正始元年と書かれた文献に基づいたものであろうことからは、
景初4年と誤記された文献を見た可能性よりも、2の可能性の方が高い。
664 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 21:06:43
「文献」って何だよ(笑)
その文献を読んで持ち運べるほどの知識人なら、
景初4年が存在しないことくらい知ってるはずだろ。
665 :
日本文尊 ◆m0yPyqc5MQ :2008/12/21(日) 21:14:16
おい若い女いねーか?おっぱい揉ませろよ!
お願〜い、勝手に箸墓発掘してぇ
>>661 >これはもう見解の相違ですね。
見解じゃなくて史料上の事実ですが。
ジョウヘイで雨に振られて膠着状態になった時に、
呼び戻せと言う群臣の意見に対して
芝居は臨機応変に対応できるから大丈夫だと明帝が言った
という事まで史料として残ってるんで、どうしようもないわな。
668 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 22:34:05
マキムク遺跡について誰か話題を振ってくれないかな
669 :
ニワカ:2008/12/21(日) 22:45:00
マクムクの時代がいつか、なんてまだはっきり決まってないんでしょ。
畿内説の人が、なんとか、卑弥呼と古墳の時代をくっつけたいと
いう衝動から、ハシハカやマキムクを無理やり古くみつもってると、
とくにハシハカなんかは4世紀半ばまで考えられると、安本美典の本に
書いてありましたが、どうなんでしょ。
670 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 23:00:18
安本美典の本(笑)
671 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 00:59:02
>658
五斗米道って知ってる?
あと、神獣鏡自体は2世紀からあるのだけど
672 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 07:08:00
>>640 ローガン氏へ参考まで
>河内大塚山は後円部高さ20m に対して、前方部高さは4mしかありません。
>河内大塚山は前方部に土盛りをしなかった…
河内大塚山古墳は南北朝から戦国期、土豪丹下氏の居城である丹下城があった。
戦国末、丹下城破却後も大塚山古墳には人が住み、村落が前方部に形成されておった。
西大塚村は堀の西側外に屋敷地があったが、前方部を縦に村境が貫いており
これより東は東大塚村の村領で、屋敷地も古墳前方部の墳丘の上であった。
このまま江戸期を過ぎ、明治に入って両村はそれぞれ松原村西大塚と
高鷲村東大塚とに行政区分された。松原村が現松原市、高鷲村は現羽曳野市であり
現在も両市の市境が河内大塚山古墳を二分する形で残る。
なお明治9年時の東大塚村の人口は395人。
大正10年、同古墳は史跡保存地に指定、続いて同14年に陵墓参考地として
宮内省管理となったため、墳丘上の旧東大塚村は全戸が古墳外に立ち退いた。
>>667 「見解」の相違と申したのは、景初3年を明帝の治世に含めるかどうかということです。
そして、私の振ったネタは、初代帯方太守劉斤の着任がいつ頃かと言うことです。
お間違えの無いように。
話が全くかみ合いませんようなので、私の方はこれにて終了とさせていただきます。
ご呈示頂いたお話は今後の参考とさせていただきます。
ありがとうございました。
674 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 08:33:10
畿内説は、仮定というか希望を現実にしようとする説だと思う。
三角縁神獣鏡にしても、卑弥呼の鏡であるかどうかを検証するよりも先に、
卑弥呼の鏡だという仮定が事実として広まってしまう。
箸墓にしても同じで、内部の調査もされていないのに、卑弥呼の墓であるか
のような報道をしてしまう。
纏向遺跡も、邪馬台国である証拠は何一つ見つかっていない。合わない年代を
合わせ、年代が合うから邪馬台国だみたいな宣伝をしてしまう。
その結果、三角縁神獣鏡の出てくる古墳は卑弥呼の時代に近く、箸墓タイプの
古墳は最も古いタイプということになってしまう。
なんか違うような気がする。
纏向も果たして卑弥呼時代に重なるのかどうか…。
>>402 寄生虫はもう一カ所発見されているはず。
クソマキの関わる祭祀との関係を言っていたのは石野博信だと思う。
いずれにせよ、あの導水設備は巨大すぎる。
あの巨大な祭祀設備場の祭祀設備は並列して使われたのか、
それとも時を経て徐々に使われたのか。
>>419に井戸の話が書いてあるが、
導水施設の遺跡の東200mには径4mの井泉がある。
井戸を神聖化するのはごく自然な行為だと思うが、規模がでかすぎる。
併設された井戸の中のミニチュア遺物で祭祀設備なのは確定だろうし。
祭祀設備があちこちに立って、別途祭祀を行っているなんてことがあるんだろうか。
676 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 14:22:02
>>666 馬鹿?箸墓なんか江戸時代まで周りで人が暮らすわ商売はあるは
荒されっぱなしだよ。
しかも近年周りで発掘されたものはどれも4世紀以降のもので
「後で埋めたから」なんてお粗末な言い訳を付け足すことになるだけの
発掘作業をしたいわけ?www
>>669 安本美典自体が古い年代間にしがみついてる人だからねえ。
679 :
ローガン:2008/12/22(月) 16:30:08
>>672 ご教授をどうも。削平の可能性と云うことでしょうか?未調査なのでなんともですが…
同様の「古墳城」が津堂城山古墳にもあったようですね。見る限り、築城、廃城の際の大幅な改変は無いように思います。
削平が行われたとすれば、帰農後の開墾でしょうかね。 ただ農地に適さない旨の文書があったような気が。
スレタイから離れてすみません。
布留式でも3C前半とか、正気とは思えん。
もはやあれは宗教だろ。
マキムク教。
それは確かに宗教だな。2ちゃんねるでは時々見かけるが。
682 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 22:49:20
東遷説は宗教じゃないとでも?w
683 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:11:31
東遷説は宗教だな。2ちゃんねるでは時々見かけるが。
684 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:12:17
674の意見に同意します。
685 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:42:33
安本美典の妄想のせいで考古学の発展は20年遅れてしまった。
相手にされてないから考古学の発展とは何の関係もないよ。
激論「卑弥呼の鏡」
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081219bk01.htm?from=yoltop 日本古代史全般を取り扱う「季刊 邪馬台国」(福岡市・梓書院)の第100号記念号が刊行された。1979年の創刊以来、九州説の立場で、「邪馬台国論争」を一貫して取り上げてきた。
記念号では、6月に行われた安本美典・編集長と、石野博信・二上山博物館館長による「激論 邪馬台国対決第2弾」を掲載。卑弥呼が中国三国時代の魏から贈られたという鏡の出土状況などを焦点に論争を繰り広げた。
さらに、特集では、今年5月に日本考古学協会の総会で、国立歴史民俗博物館の研究グループが発表した箸墓古墳の年代に対する反論も取り上げている。
三輪嘉六・九州国立博物館館長ら27人が、記念エッセーを寄稿している。
(2008年12月19日 読売新聞)
689 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:26:19
>>688 >安本美典・編集長と、石野博信・二上山博物館館長による「激論
こういうのは、安本にとっては、売名であり、
石野にとっては仕事の邪魔、時間の無駄でしかない。
おかげで、考古学研究の時間が無駄になってるんだよ。
石野の「邪馬台国の候補地」という本をみてみたが、
どうでもいいはずの九州説をとりあげてわざわざ「九州説が否定される理由」を書いてたりしてる。
残り少ない人生の研究を在野のバカどもに阻害されて忸怩たる思いを抱いてるんだろう。
安本は早く誌んでくれ。
石野さんはそこら辺の邪馬台国馬鹿と違って、
謙虚に九州の古墳も調べて、
卑弥呼の墓の可能性を論じているぞ。
全体としては畿内説なんだろうが。
> どうでもいいはずの九州説
こういう態度では研究してないと思われる。
691 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:45:27
なるほど、九州説にとっては組み易い相手というわけか。
安本の売名に利用されてることには変わらないがな。
692 :
ローガン:2008/12/23(火) 00:50:04
>>687 > 俺こういうの好きだ。歴史の勉強になってとっても面白い
> つか邪馬台国のスレたくさんあるけど、最近あんまし面白くない。><
私も邪馬台国厨ですが、同感。さておき…
前方後円墳の「前方部」 皆さんはどのように考えますか?色々ご教授いただけたら助かります。
693 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 01:59:45
>>682 ***** 東 遷 説 ***********
大和朝廷及び天皇の勅撰による国書の検証
妄想とかと違うわけ。そりゃ宗教だよ、神道という宗教だよね。
それを妄信するわけでなく、例えていうなら聖書の検証と一緒だよな。
「ワインを水に変えた」とか「海を真っ二つ」とか信じないが、検証には値するだろ。
694 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 02:01:19
例えばエルサレムで発掘された一世紀の裕福な家の墓。
これをキリストの墓か、とみて考えても妄信とはいわんやろ
卑弥呼の墓は円墳じゃないの?
697 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 02:10:49
記紀神話を検証すれば、東遷説は完全に否定されますよ?
神武東征は紀元前ですから。
698 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 02:32:29
>>693 記紀の天皇家(神武)東遷伝承が史実かどうかを検証したいと?
この纏向スレの趣旨は
>>1に明記してある通りだ。
天皇家東遷検証が目的でないことぐらいオマエにも解かる筈だ。
ここでやるのはスレ違いと心得るべきだ。
どうしても東遷検証をやりたかったら、自分でそういう趣旨の専用スレを立てれば済む話ではないか。
まあ正直な話、東遷説と纏向遺跡って相性良くないわなw
今日、東遷説が廃れ気味なのも纏向遺跡によるところが大きいんじゃね?www
700 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 03:44:12
纏向遺跡には九州の痕跡は皆無だからねえ。
むしろ、東海の痕跡が多い。
伊勢からの西征のほうが検討の余地がある。
継体の謎解きは?
推古も聖徳太子も、天智、天武も継体の系譜だろ!
聖徳太子は神道では無いからな…
703 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 07:58:49
>>695 前方後円墳は中国人使節から見たら特殊な形状なので前方部は祭壇だと理解
されたかも知れません。また卑弥呼の古墳である箸墓は前方部に葺石が皆無
なので後から増築された可能性があります。
>>700 土器の移動をみると一方的だからね。
しかも祭祀に使われたと見られる土抗からS字甕が見つかってる。
S字甕は伊勢を支配した勢力を象徴する土器。
705 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 08:23:40
マキムクは伊勢街道の出口にあるしな。
>>689 >石野にとっては仕事の邪魔、時間の無駄でしかない。
>おかげで、考古学研究の時間が無駄になってるんだよ。
いや、石野はもう現役退いてるし、
博物館の館長って、こういう一般へのアピールも仕事のひとつだから。
707 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 09:21:09
>>703 箸墓が卑弥呼の墓かどうかは何も確定していない。調査もほとんど手付かずだ。
白石さんは肯定してるが石野さんは否定する。
専門家でも意見が分かれるのだから、素人の君が「卑弥呼の古墳」と確定的に書くのは可笑しい。
だがまあ、それは素人の愛嬌として見過ごしてもいい。
しかし見過ごせないこともある。
>箸墓は前方部に葺石が皆無なので
恥を知れ!
おのれの無知さ加減を棚に置いて、よくもまあヌケヌケと大嘘を事実の如く書けるものだ!
箸墓の前方部に葺石はある。
「皆無」と言い張るのならソースを出してみろ!
皆無外伝
俺は邪馬台国なんて興味ないんだけど、
唯一興味を惹かれるのが、
東海を狗奴国に比定する場合、
濃尾系土器、特に
>>704のS字甕の影響を、
後のヤマト政権の発祥の地と見做されるマキムクが
他の地域に比べて突出して受けているのは何故かってこと。
倭人伝が存在しなくて、畿内論でもなければ、
単なる近隣地域の影響って事でいいんだけども。
後の伊勢神宮、熱田神宮はS字甕の濃いところだし。
それから近江湖北は東海系の文化の濃いところだけど、
畿内型土器も顕著であること。
畿内説を取るのであれば、
東海(狗奴国?)との関係はかなり穏やかなものを想定しないといけない。
文化が違ったのは確かだけど、完全敵対していたわけではない。
それが考古学的事実。
710 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 10:30:48
>>709 あのね、東海はクナ国でもおかしくないんだよ。
奈良のヤマタイコクを、東海のクナ国が占領して大和朝廷(箸墓)を作ったんだから。
711 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:03:22
>>707 昭和43年の宮内庁の箸墓前方部上部最先端での平面発掘調査で小石1個さえも
出土しなかった事実から箸墓前方部には葺石が皆無であることがわかる。
「海部氏勘注系図」によると日女命と卑弥呼は同一人物である可能性が非常に
高い。日女命の別名は中津姫命、千々速日女命、日神、神大市姫命、
倭迹迹日百襲姫命である。箸墓の別名は大市墓だから神大市姫命と同じである。
したがって箸墓は卑弥呼の古墳と言うことになる。
712 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/12/23(火) 12:06:08
日女命≠卑弥呼
713 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:27:44
>>711 >昭和43年の宮内庁の箸墓前方部上部最先端での平面発掘調査で
ほー、宮内庁が発掘調査してたんだね、でも上部最先端だけだね、斜面はやってないんだね
>小石1個さえも出土しなかった事実から
へー、そうなの、それでなによ?
>箸墓前方部には葺石が皆無であることがわかる
わけない!アホ!ヴォケ!
前方部の全部を発掘しないと、「皆無」なんて言えるものか!
小学生だってオマエがデタラメ人間とわかる
>>710 占領されたんじゃなくて、
東海の勢力を背景に畿内で力を延ばしたのなら、
考古学的にも納得がいくんだけどな。
飛鳥以後の伊勢の地位の低さを考えるとね。
外来土器の分布偏差の激しさをみても、
当時の畿内は群雄割拠の時代だったんだろうし。
>>703 方形部周辺、周濠の調査が1995年に行われて、
北西端に基盤整備の後、周濠で纏向四類が出ているから、
時代を下っての増築はない。
715 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:53:17
>>713 あんたは、アホですか?馬鹿ですか?間抜けですか?それとも愚か者ですか?
かなり日本語が不自由のようですね。九州の地面に穴堀って住んでる朝鮮人の
薄汚い土蜘蛛さんですね。日本人から「馬鹿!」と言われて・・・ワカリマス。
716 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:13:15
何はともあれ、箸墓の前方部と後円部が同時に作られたというのは解決済み
なのだが。
717 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:23:05
718 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:28:25
>>716 釣りなら釣られてあげる。箸墓の前方部と後円部とでは出土遺物が違うらしい。
箸墓後円部では特殊器台形埴輪、特殊壷形埴輪、特殊器台形土器などが出土
しているが箸墓前方部では土師器の壷のみしか出土していない。したがって
箸墓の前方部と後円部の同時築造には疑問ありとなります。
719 :
717訂正:2008/12/23(火) 14:39:15
11984→1984
スマソ
方形部に埴輪、特殊器台が少ないのは珍しいことじゃない。
時代のズレを言いたいなら編年をもとにしないと。
721 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:45:27
722 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:49:04
もう一つ抜粋しておくと、
「製造年代は、卑弥呼の没年(248年ごろ)に近い3世紀半ばと見る研究者も
いるが、桜井市教委は「土器が作られた時期に、古墳全体がまとめて築造された
のは間違いないが、土器の年代自体が未確定」とし、古墳の築造年代について
具体的な言及はしなかった。」
と書かれている。
> 卑弥呼以死 大作冢 径百余歩
の「径」のために箸墓を円墳としたいということ?
724 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:02:11
>>723 そういうことらしい。
実にくだらない。
725 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 22:41:05
まあ、大きさもあるわけだが。
倭人伝に書かれている卑弥呼の墓の径百余歩は145m程度だったかな。
箸墓は墳長280m。後円部だけなら155m。
狗奴国を東海と考えるから見誤る。
実際東海と畿内は利益共同体。銅鐸時代から仲が良く、
前方後円墳も前方後方墳も同じ思想で造られている。
東海vs畿内は無かったと。
では狗奴国はどこか?
大和川水系と利害が対立する紀ノ川水系、熊野こそが狗奴国だと思う。
>>724 実際のところ径百余歩の円墳は見つかってないし、前方後円墳と考えるのが妥当かと。
728 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 23:37:55
>>726 俺もそう思う。
木の国=クナ国
ククノチ=クコチヒク
熊野大社て、今でも神道の体系から外れてるしな。
紀国造家は、出雲国造家と同じくらい大和から警戒されてたしな。
木の国=クナコク
>>726 紀ノ川水系って、例えば太田黒田遺跡、
どうしてあんなに古墳時代は寂れてるんだろうね。
南九州→土佐→紀と太平洋ルートが提唱されるくらい、
弥生時代は栄えていたのに。最古の溶炉遺構が見つかったり。
732 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 02:00:56
奈良にBや百済村が多いから朝鮮人村落が多いってわかるんだけど、
飛鳥京の人間ってほとんど朝鮮人?奴隷の子孫?なんかやだねえ
奈良県の旧百済村の点在は、奈良県民ってのは神功とスクネが
朝鮮半島から奴隷を運び、奈良に定住させて、その人材で
古墳を造った、ってことだと考えたほうがいいな。
>>718 それにしても付け足すとはおかしな行動と解釈だなwwwwwwwwwwwww
というか、「卑弥呼の墓」=円墳 という概念に無理やり合わせようとしているだけだろ。
だからここの畿内説の奴らも卑弥呼は直径155mもあった円墳に仕立て上げようとしてるわけwwwww
ないないww 心配すんな、朝鮮奴隷の子孫どもがww
735 :
日本@名無史さん:2008/12/24(水) 02:18:41
九州人は朝鮮直系の子孫だけどな。
>>727 まあ、径○○を半径○○の円に近い形を表してるとしたら、
形か半径か、どちらかを犠牲にしないとしょうがないのは確かだね。
ただし、倭人の都に来た中国人が巨大な古墳を横から見て、
丸いか四角いか前方後円形かを判断できたかというといささか怪しい。
実際に古墳めぐりをしたことがあればわかるはず。
が、大きさは間違えないだろ。
周りをぐるぐる回ってじっくりと観察させてもらえれば、
縦長か横長かはわかると思うが、
大事な首長祭祀の場でそんなことを許可するかな?
まあ、当時タケコプターを持っていて空中から形を見極めた
と主張するならもう何も言わんが・・・・・
737 :
ローガン:2008/12/24(水) 14:19:20
>>736 > ただし、倭人の都に来た中国人が巨大な古墳を横から見て、
> 丸いか四角いか前方後円形かを判断できたかというといささか怪しい。
> 実際に古墳めぐりをしたことがあればわかるはず。
分かりにくいのは木が鬱蒼と生えているからでは?樹木のない復元された古墳では下から見上げても円形だと判りますが
>>737 近づければ、、、、ですけどね。
祖霊何ぞを本気で信じていた時代。
簡単に異邦人を侵入させてくれるものか?
500mも離れれば分からないんじゃないかな。
仮に魏使たちのいた場所が巻の内の集落あたりだとすると
後円部側から見ることになるので、円にしか見えなくても
不思議はない気がしますけどねぇ。
739 :
ローガン:2008/12/24(水) 15:26:53
>>738 > 後円部側から見ることになるので、円にしか見えなくても 不思議はない気がしますけどねぇ。
はい。円い巨大な墓だと認識したと思います。
なぜそう思うの?
>>718 >箸墓の前方部と後円部の同時築造には疑問ありとなります。
前方後円墳を当時どのように造っていたか、見ていたわけじゃない無いので分りませんが、
箸墓のような双峰型の築山の場合、先ず円型の方を先に完成させ、それから前方部を築く、
そういった順序になる工法だったと言う意味でしょうか?
それとも、後世の改造と言う意味ですか?
>>735 九州は典型的な縄文人、つまり手足が長く、目鼻立ちのはっきりしているタイプ。
朝鮮人=関西人ってのは目が細くエラが張った短足タイプ。弥生人ね。
やはり関西ってのは百済奴隷の子孫が集合した場所ってことだよね。
土蜘蛛っていうのは、大和葛城山に住んでいた山の民のことも指す。
神武天皇に殺されたけどな。
やはり葛城氏も土蜘蛛という言われ方からして、元は九州の土着の民だったのではないだろうか。
744 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 07:14:24
>>742 つまり、東遷説は完全否定されるわけですね。
745 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 08:42:08
>>741 後円部だけの円墳だった所に前方部を増築した。または前方部が貧弱だったので
見映えが良くなるように改築した。のどちらかと思います。
また「思います」か。
747 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 09:24:01
>>746 あんたの背中にバキュームカーのホースを突っ込んで逆噴射させて
クソ漬けにしてやる!クサ〜〜〜っ!
箸中山を卑弥呼の墓に比定している人は、
台与の生活していた場所、墓はどこだと考えているのですか?
またその根拠は?
>>748 大和古墳群最大の西殿塚古墳(墳丘の全長は234m)を比定する考古学者がいてた
3世紀終末築造なのと規模的に大王かそれに準ずる規模がおもだった理由
>>748 西殿塚でしょ。JK。
>>745 最近の調査結果では、前方部、後円部ともに周豪底から布留0が出土していて、
布留0のうちに前方部も後円部も完成していたことが分かっています。
後円部だけもっと古い・・・ということは特殊器台を出土しているほかの古墳との
時系列を考えるとありそうもないけど、どうだろう?
西殿塚とした場合、中山大塚はどう解釈するの?
大和、柳本、纏向の関係はどう位置づけるの?
祭祀遺跡が濃いのは纏向だけだけど。
1999年箸墓から特殊器台が見つかった時のニュースで明治大学の教授のコメントに「後円部から宮山型、
前方部から都月型が見つかったことから前方部と後円部との築造に少なくとも10年位の開きがあるのでは
ないか」ってのが数ヶ月前まで見れたのに今検索しても見つからない
それから西殿塚は、前方部にも後円部にも壇が見つかっているのがよくわからない。
いわゆる通説は前方部と後円部の役割を固定しすぎているんじゃないか。
>>752 宮山と都月は混じっていたのでは?
どっちにしても、ヤマトでは少数の出土しかない特殊器台の期間は
1〜2年程度で両者並行とするのが穏当でしょう。
>>751 >西殿塚とした場合、中山大塚はどう解釈するの?
中山大塚は小さすぎる。むしろ茶臼山。
>大和、柳本、纏向の関係はどう位置づけるの?
衾田当たりに政治の中心はあったかもという人もいるし、
発掘が進んで見ないと何とも。
>>752 布留0は全部で40年とか言われる昨今、10年ぐらいだと築造期間に入ってしまうかも。
本当に40年かいな?という気はするけれども。
>>755 中山大塚は男王のものだと解釈するわけ?
西殿塚よりすこし時代が上るみたいなんだけど。
>>755 布留0が40年?さすがにそれは無いだろ。
庄内でさえ、当初は古墳時代に移行するまでの短期間とされていて、
「細分化はすべきではないし、できない」とされてきた。
布留0はその短期間とされた庄内が布留に移行するさらに短期間の
ものとして提唱されたのが始まり。
実際、庄内は出土地域が限定され、地方では変遷がほとんど確認できず、
布留0はさらに一段と狭い地域での使用しか認められていない。
両方を足して30年というのもありうるってのが、現実だろ。
>>745 > 後円部だけの円墳だった所に前方部を増築
>>752 > 前方部と後円部との築造に少なくとも10年位の開きがあるのではないか
先ず後円部築造、その後に前方部が完成。
あれだけの大規模土木工事ですから、後世の改造とか考えなくても
築造開始から完成までの間に連続した工期で(といっても農繁期は進捗が悪い)10年近い年月を要したと
考えれば土器様式のズレは説明できませんかね
>>757 いや、最近はそういってるらしいのよね。ほんまかいな。
>>756 何で130mぽっちの中山大塚にそんなにこだわるの?
そのくらいなら110mの馬口山古墳とかもあるんだけど。
特殊器台が採取されてて古いかもといわれてる。
ちょっと前の報道だと名前忘れたけどあのあたりのそのくらいの古墳が
最古級だっていうのもあったと思うけど。(ノベラだったかなぁ・・思い出せない)
760 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 00:50:37
>>601-603 >新泉社「遺跡を学ぶ」シリーズ
>邪馬台国の候補地・纒向遺跡
>
http://item.rakuten.co.jp/book/5927623/ >【著者情報】(「BOOK」データベースより)
>石野博信(イシノヒロノブ)
紹介乙。買いましたで。
ほんで、これ大疑問ですのや。85ページ「鏡・剣・玉の副葬」のところ。
引用させてもらいまっせ。
>たしかに、三世紀の大型古墳ではじめて副葬品の内容が
>わかったホケノ山古墳でも、鏡と剣と玉は副葬されていた。
げげッ!
ホケノ山の発掘調査で、玉なんか、出てましたやろか???
・・・石野先生、ときどき講演なんかでも勘違いしはることあるさかいな・・・・(^^;>
どなたか石野先生にコンタクトとれる方、確認してくれまへんやろか。
三種の神器、しかも纒向ではなんとも影の薄い玉を間違うとは…
ホケノはとにかく鉄鉄してる
762 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 07:28:28
纒向って玉は出ないの?
縄文時代からどこの遺跡でも玉は出ると思ってたけど違うんですか。
>>758 おそらくその通りでしょう
堅田直先生の墳丘に関する優れた考察によれば、土盛りをした墳丘は土を押し固める
だけでは不十分で、墳丘築造後数年放置をして、墳丘を固めないと、墓壙が掘削でき
ず、崩壊してしまうという指摘があります。
某blogより抜粋
放置するくらいなら突き固めるかと…
>>764 「土盛りをした墳丘は土を押し固めるだけでは不十分で・・」って書いてあるんだけど
で、放置するというよりは
>>758が言ってるように後円部を先に築造して前方部の築造
に取り掛かれば完成するまでに後円部が固まっているということ
当然突き固めながら増築していったんじゃないですか?
古代の人の技術を低く見做しすぎているから、
放置して固まるのを待つなんて考えるんじゃないでしょうか?
初期の小さな墳丘墓ならいざ知らず100mを越える墳丘を作る時代なんだから。
というか突き固めずに土を盛っていくって、海岸の砂遊びかよw
押し固める=突き固めるで読んでください
土木建築でも何年も寝かせるなんて事はやってないですよ。
あるかどうかもわからない築造のズレを無理に説明するための、
ためにする議論という奴でしょう。馬鹿げてます。
769 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 13:36:38
>>758 10年は長すぎ。
箸墓レベルなら、1日1000人で5年位、5万人で1か月位、1万人で数ヶ月、
5千人でも伝承のように昼も夜もやったなら3か月位か。
770 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:15:33
箸墓など巨大古墳は寿陵だったと思われる。
何年もお棺の中に放置していたら遺体は腐っちゃうし、臭くて葬式どころじゃない。
三ヶ月でも夏場などはウジが湧いてたまらんだろう。
モガリなど夏場なら10日がいい所。
>>769 初期古墳は墓室の構造が単純だから、
農業と共通した主に土を相手にする土木建築技術を使っていて、
田畑整備と人手が共通だったと思いますよ。
横穴式石室で巨岩を使うことになると、かなり特殊だから
巨岩専門の工人が従事していたと思うけれど。
>>770 >モガリなど夏場なら10日がいい所。
いやそこで前期古墳の特徴でもある割竹形木棺が問題になってくる
巨木をくり抜いて身と蓋をピッタリあわせると…
別に寿陵を否定するのではないが棺形式の変遷もなんか理由があるわけで…
773 :
770:2008/12/26(金) 14:44:41
それと弥生からあるが朱のことも考えないと…
774 :
772:2008/12/26(金) 14:47:57
775 :
ローガン:2008/12/26(金) 15:29:07
>>740 > なぜそう思うの?
倭人伝ネタで失礼… 「大作冢」ですから使者は築造の現場を見たように読みとれます。
最も勾配の緩い撥形の隅角から登り、後円部に到る…
作業員達の往来を見た時、墓の主体は円い部分で、そこに繋がる前方部は墓に到る通路だと認識したように思います。
776 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 17:35:55
墳丘の作り方は、吉野ヶ里の墳丘墓のときに出てきていたが、版築工法とか
言うのがあったなあ。あまり良く覚えていないが、まず、地面を掘り、
そこに土を突き固めていく方法とか。
777 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 19:01:40
径百余歩と言ってるんだから、魏使は円形部分を測定してるんだろうし、
箸墓以降の巨大前方後円墳のことだろうと類推できる。実際そんな大きさの円墳はない訳だし。
ただそういう話は推測できると言うだけで、決定打に欠ける。堂々巡りになる予感が。
舛添もついに、社保庁ヤミ専従職員の刑事告発に踏み切った。
公務員改革への大きな第一歩だ。これをきっかけに
各省庁、自治体の、溜まりに溜まった積年の膿を、司直のメスで出しきろう。
オオヤマト古墳群にも、まだメスが入れられていない4基の大王墓がある。
西殿塚、行燈山、渋谷向山、そして箸墓の、各古墳だ。
宮内庁が管理するこれら大前方後円墳4基の中身が判らないことが、
どれだけわが日本古代史の解明を妨げるネックとなっていることか!
諸君、舛添を応援し、もし改革の足を引っ張る政治家が出てきたらぶちのめそう!
加えて、4基大王墓の発掘調査へ向け、さらなる前進を通津k続けようではないか!
>>769 > 10年は長すぎ。
まあ、お墓は早く作り上げた方がよいに決まってますよね。
完成までにあまりに時間がかかり過ぎると祭祀を行う方のお墓も必要になっちまうから。
> 箸墓レベルなら、1日1000人で5年位、5万人で1か月位、1万人で数ヶ月、
> 5千人でも伝承のように昼も夜もやったなら3か月位か。
いや、可能性ですよ、可能性の話。
土器の編年が遷ってしまうくらい長大な時間がかかったこともあるのではと言うことです。
実際のところ、築造に何人の作業員が従事したのかもわからないじゃないですか。
貴方の挙げた1日1000人で5年と言う数値を使って、1日500人で10年とか、
動員は農閑期だけで、年180日掛ける10シーズンとかも有りでしょう。
そう言う可能性を挙げてみただけです。
可能性は可能性で、自分の胸にだけしまっておいてくれないかなぁ。
議論しても無駄だから。
>>780 じゃ、
>>752氏が挙げた事例のような事象を説明するための「仮説」ということで・・・
誰も言ってないかもしれないけどw同じ古墳からニ様式の土器が出土する、
だから、その様式間の年代差は少ない、とかは言えないでしょうということ。
>>775 最初の前方後円墳じゃないよ?
他にも見てるはずなのに?
戯言に「仮説」なんて言うのは「説」の字がもったいないよ。
785 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:33:53
魏の塞曹掾史の張政が九州で邪馬台国と狗奴国との停戦調停をしている時に
卑弥呼が崩御して男王派と反男王派の戦闘があった。驚愕した張政は急いで
纏向へ向かった。到着したら台与が女王に即位していて卑弥呼の古墳も築造が
始まっていた。台与に告げ諭してしばらく滞在後に掖邪狗の使節団と一緒に
帯方郡へ帰った。したがって張政の纏向滞在は長期間ではない。卑弥呼の古墳の
築造は大変な突貫工事だったと推定される。
786 :
ローガン:2008/12/26(金) 23:42:34
>>782 > 最初の前方後円墳じゃないよ?
> 他にも見てるはずなのに?
? 良く解らない。「他にも見てるはず」ってどういう意味ですか?
788 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 09:39:59
789 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:00:44
初期の前方後円墳(3世紀前半-中期)は「造り出し付き円墳」という認識だったはず
弥生後期の墳丘墓から円墳→帆立貝式円墳→前方後円墳
そもそも現在の「前方後円墳」という概念はずっと時代が下った
江戸期 蒲生君平以降の話し
もういい加減にしたら?
>>789 > 初期の前方後円墳(3世紀前半-中期)は「造り出し付き円墳」という認識だったはず
> 弥生後期の墳丘墓から円墳→帆立貝式円墳→前方後円墳
当然のご意見だと思います。
また、「造り出し」は基本的に祭祀の場として設けられるところだと思います。
後世の肥大化した前方後円墳の場合は別ですが、
草創期の古墳では後円部建設時の作業用通路を転用して、
後円部完成後に前方部を築いた方が効率的ですよね。
帆立貝とタイプは違いますが、柄鏡型も同じような感じですね。
例えば西條52号墓みたいな弥生墳丘墓がプロトタイプかと。
判らないのは、バチ型です。
後円部と前方部が陸橋で繋がれたような形状で、前方自体の自己主張が強いので、
二つの墳丘を別々に造るのと同じこと。
築造にかかるエネルギーも莫大で、このタイプが古墳草創期の代表というわれることに
私はかなり違和感を持ちます。
>>791 > 後円部と前方部が陸橋で繋がれたような形状で
そこまで別々になってないでしょ。
「陸橋で繋がれたような形状」というのはひとつの見解で
そのような捉え方も出来るということじゃない?
箸中山古墳が出来る前後(3世紀中盤)かその少し前に
機内を中心とした西日本から東海地方で
宗教的および政治的に大きな転換期があったことは確かだろう
絶対年代はともかく、古墳の編年(というか出土土器の編年)上は、
箸中山よりもっと前だよ、大きな転換があったのは。
795 :
ローガン:2008/12/27(土) 20:39:11
>>781 > じゃ、
>>752氏が挙げた事例のような事象を説明するための「仮説」ということで・・・ 誰も言ってないかもしれないけどw同じ古墳からニ様式の土器が出土する、
> だから、その様式間の年代差は少ない、とかは言えないでしょうということ。
お話の流れからすると、その「二様式の土器」とは、宮山型特殊器台と都月型円筒埴輪ですね?
箸墓からは確かにどちらも見つかってるようですが、西殿塚と中山大塚でも出ています。
さらに西殿塚と中山大塚からは器台型埴輪も見つかっています。祭祀に纏わる土器ですから、祭祀の行われた回数や時間差を想像出来たとしても、同一古墳における築造時期のズレは考えにくいでしょう。
>>792 > そこまで別々になってないでしょ。
文章力が無いのですいません。
バチ型の前方部は後円部とは独立した墳丘に見えると言うことを言いたかっただけです。
>>793 > 宗教的および政治的に大きな転換期が
フォローありがとうございます。
私は瀬戸内以東では、吉備の墳丘墓出現あたりを一つの転換期かと思います。
前方後円墳の定型化は二つ目の転換期でもありますね。
>>795 > 祭祀に纏わる土器ですから 〜 同一古墳における築造時期のズレは考えにくいでしょう。
うーん、でも箸墓クラスの規模の土木工事です。
それなりの期間を想定することは必要だと思いますよ。
例えば、先ず後円部を完成させて埋葬し、祭祀施設でもある前方部は埋葬後に完成させる。
そう言うことも考えています。
797 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 21:27:40
季刊「邪馬台国」100号を読んでみた。
麻生総理が巻頭でコメント書いてるあたりで「えげつない本」ということが理解できた。
>>796 前方部を完成させるまで慰霊も出来ないのか?
799 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:13:18
>>789 >帆立貝式円墳
グーグルでぐぐったがこういう用語はヒットしなかった。
まあ自前の用語でも何を言いたいのかはわかるのだが、
一応「帆立貝形古墳」と、きちんとした学術用語を使った方がよいと思う。
大事な点は纏向型古墳を帆立貝形古墳と考えてはいけないことだろう。
過去そんな説明もあったようだが、両者は別物と思う。
帆立貝形古墳は、数は少ないが、古墳時代の前期、中期、後期すべてに築造されているし、
・纏向型なんかより突部の長さがはるかに短い。
・突部は広がりを見せない。(台形やバチ形ではない)
・突部上面は平坦で、傾斜がない。
等々の特徴があるようだ。
>円墳
円墳は、古墳の形状で分ければ最も数が多く、ありふれている。
だから多くの人が誤解してると思うのだが、
円墳は古墳時代の開幕から数多くあった、とか、
いや古墳時代に入る前の弥生時代後期からたくさん円墳は造られている、とか、思い込んでいやしないか。
俺が言いたいのは、突部や張り出しを持たない“完全円墳”のことだが、(学術用語に非ず、スマソ)
箸墓古墳ごろの古墳時代の開幕期には、そんな円墳はほとんどと言ってよいほど見当たらないと思う。
もし“完全円墳”で古いのがあったら、教えてほしい。
円形周溝墓(墳丘墓)じゃなくてということだよね?
円形周溝墓なら山ほどあるはずだが。
>>800 円形周溝墓が山ほどあるか?
上でも言ったが、突部や張り出しを持たない“完全円形”という点を気にしてくれないか。
ともかく山ほどあるのだったら、いくつか挙げてみてくれ。
それと古墳時代前期前半の、首長墓に匹敵するぐらいの円墳(“完全円墳”)も。
方形の方が圧倒的に多いね。
そして円形が見られるのは東部瀬戸内海沿岸だね。
それも楕円とか適当な形が多い。
纏向の後円部も結構いい加減。
803 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 23:23:25
>>791 バチ型前方部はパースペクティブ(遠近法)を応用した
後円部を壮大に見せるための演出とも思える
それと「後円部と前方部が陸橋で繋がれたような形状」というのは私自身初めて聞く見解だけど
意外と箸中山古墳の「箸」の語源は「橋」につながってるのかも知れない
完成当初の箸中山古墳(樹木の無い)状態だと特に。
804 :
ローガン:2008/12/27(土) 23:27:23
>>796 > うーん、でも箸墓クラスの規模の土木工事です。 それなりの期間を想定することは必要だと思いますよ。
当然だと思います。ただ仰るところの「それなりの期間」を考えた時にその話の中で宮山型特殊器台と都月型円筒埴輪が出てくるのはちょっと違うのではないか?って言いたかったのです。
円形周溝墓なんていちいち覚えていないが、さっと見て平面形状がわかる分だと
平原の3号墓4号墓
滋賀県西円寺1号墓
岸和田下池田SD001
宮崎県東平下周溝墓群
>それと古墳時代前期前半の、首長墓に匹敵するぐらいの円墳(“完全円墳”)も。
言ってないことでからまれても知らん。
>>798 > 前方部を完成させるまで慰霊も出来ないのか?
前方部が無くても出来るでしょう。
ただ、完成するまでとした後では祭祀上の演出は違ってしまいますね。
>>803 > バチ型前方部はパースペクティブ(遠近法)を応用した
> 後円部を壮大に見せるための演出とも思える
それも面白い考えですね。
とにかくあー言うデザインでなければ為らない理由があるはずなんですよね。
>>804 > 当然だと思います。ただ仰るところの「それなりの期間」を考えた時にその話の中で宮山型特殊器台と都月型円筒埴輪が出てくるのはちょっと違うのではないか?って言いたかったのです。
いや、深く考えて書いたわけではないので・・・
話の流れで「宮山」と「都月」が2〜3年とか、はたまた同時期とか、言うものが有ったので、
築造期間が長ければ、仮に10年としましたが、器種の変化にそれだけ時間がかかっていても
同じ古墳に使用されておかしくは無いでしょうと言うこと。
特に今の編年だと、畿内と同じ時年代を充てられる吉備のそれはやけに細かい区分を
強いられているように感じます。
畿内が1世代進む間に吉備は3世代くらい変遷してしまうように思えます。
808 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 01:22:08
>>807 >畿内が1世代進む間に吉備は3世代くらい変遷してしまうように思えます。
特殊器台は畿内の膨大な古墳のうちのほんの数箇所でしか使われていないことや、
箸墓で2種併用ということからは、畿内では1,2年というのは自然な考えでしょう。
対して、吉備では特殊器台を持つ墳墓が多く、数種類あることから、数世代もの
期間が想定できるという人もいるようです。
しかし、吉備でも特殊器台が同一地域で数回の変遷があったということは確認できて
おらず、古墳ごとに特殊器台の作り手が違うだけでともいえます。
せいぜい変遷しながら並行したという程度の状況です。
とすると、吉備での特殊器台の期間も1世代ほどで、特殊器台埴輪への移行直前期に
畿内で1、2年ほど使われて、特殊器台埴輪の数年ほどの期間を経て、円筒埴輪に
移行したと考えるのが、合理的ですね。
大和の古墳ではごく初期の吉備の影響が強かった時だけ使われいて、
(ホノケでは東海系の壷「も」見つかっています)
特殊器台の用途も考えると、そこから編年を考えるのは難しいと思います。
埋葬者と吉備との関係を考えるべきでしょう。
大和の古墳はなんでもてんこ盛り気味なのが面白いですね。
ホノケの石囲い+木槨+刳り抜き式木棺とか。
>>808 > 古墳ごとに特殊器台の作り手が違うだけでともいえます。
> せいぜい変遷しながら並行したという程度の状況です。
理解力が無いので、少しだけなのですが疑問点が解消しました。
ご丁寧な説明ありがとうございます。
811 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 04:17:21
>>808へ質問
>特殊器台は畿内の膨大な古墳のうちのほんの数箇所でしか使われていないことや、
>箸墓で2種併用ということからは、畿内では1,2年というのは自然な考えでしょう。
[質問1] ここの「2種」とは何と何のことだ? 箸墓の特殊器台は宮山型しかない筈だが。
>とすると、吉備での特殊器台の期間も1世代ほどで、特殊器台埴輪への移行直前期に
>畿内で1、2年ほど使われて、特殊器台埴輪の数年ほどの期間を経て、円筒埴輪に
>移行したと考えるのが、合理的ですね。
[質問2] 君の言う「特殊器台埴輪」とは何か。特殊器台型円筒埴輪のことか。
ふつう特殊器台型円筒埴輪には、都月型円筒埴輪に加え、元稲荷古墳など沈線文様を省略した同タイプの円筒埴輪も
含ませるのが考古学界の常だが、「特殊器台埴輪」なるものもそれでいいのだな。
[質問3] ここの「1世代」とは親が子を生んで世代が交代する二十数年程度という意味?
それとも人が人生を終えるまで(当時は四、五十年かな?)という意味?
[質問4] 「畿内で1、2年ほど使われて」のところ。
吉備での期間を1世代ほどとするなら、畿内はどうしてそこまで期間を縮めないといけない?
「1、2年」と限定する根拠がまるで不明なので返レスしてほしい。
「1世代」に満たない年数であればいいわけだから、畿内はたとえば「十数年ぐらい」でも構わない筈だが。
[質問5] 特殊器台(宮山型)が見つかった大和の古墳に、西殿塚、箸墓という当時最も巨大な二古墳があるが
これらに特殊器台が置かれた時、当然両古墳の主の埋葬は終わっていたと思うが、どうか。
もし墳丘完成→埋葬→特殊器台設置が一連の流れだとしたら、「畿内で1、2年ほど使われ」と言う君の主張では、
西殿塚と箸墓の墳丘造りは時期が重なって、同時併行で両方の大土木工事をやっていたようにも受け取れるが、
それでいいのか。
[質問6] 最後のところに「円筒埴輪に移行した」とあるが、川西宏幸氏が示した円筒埴輪5期区分編年の
「T期に入った」という意味で言っているのだな。
具体的には寺戸大塚の埴輪が川西編年T期だが。
T期の特徴は同じ段に穿たれた透孔数が3以上であることで、行燈山などU期以降は透孔数2となりそのままX期まで一定する。
812 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 06:22:17
>>811 自分の答えも書いた方が良いのでは?
質問1について
箸墓では宮山型と都月型が出ているけど、都月型は特殊器台型埴輪だから、
厳密には特殊器台は宮山型だけですね。異論はあるようですが。
宮山型は全て古墳出土でその数が少ないことや、都月型の大半は確実に
古墳時代のものであることなんかが、ポイントですね。
要するに、箸墓で特殊器台が出たからといって、箸墓を特別に古くする理由には
ならないですね。
質問3について
1世代を20年程度としています。古代では15歳までに成人して子作りを始めるので、
15年とも言えますが、キリがいいのでまあ20年位。それでもちょっと長いか?
質問4について
畿内では、出土数が少ないので、1、2年というのは、当然かつ自然な結論でしょう。
質問5について
質問の意図が分かりにくいですが、古墳を寿陵とすれば、埋葬祭祀が同時だとしても
築造工事は並行とはなりません。埋葬祭祀のときに特殊器台と作ったとすれば、
その期間はせいぜい数ヶ月でしょう。
>>812 特殊器台形土器、特殊壺形土器
特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪
円筒埴輪、壷形埴輪
この辺りは名前の違いよりも性質の違いに注目した方がいいね。
それから違うところがあるからと言って、大袈裟に取り上げるのはどうかと思う。
特に初期古墳の場合。編年の一次資料ではあるんだけど、
古墳の性質を断定できるほどは理解が深まってない。
吉備の影響の捉え方が学者によってまちまちだし。
それから「特殊」とか「埴輪」とか学史的には意味のある名前だけど、
もっと機能的な命名の方がいいように思う。
狐塚氏は「特殊」と書かずに「吉備型」と書いていたと思う。
吉備型器台形土器、吉備型台形埴輪、円筒埴輪
凄く分かりやすい。
二重口縁壷も入れるべきだったか?
815 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:28:42
一つの意見として。
神武東征のとき、神武天皇(神倭伊波礼毘古命)は、吉備に高嶋宮を起こし、
古事記によると八年、日本書紀によると三年滞在し、船を整備し、兵や食を
蓄えた、とある。
吉備の人々を連れて行ったということも考えられるのでは?
816 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 12:59:10
吉備の人を連れて行ったというより、吉備の人が自主的に行ったと考えるべきだろう。
神武東征伝承に引きずられるのは、あまり感心しない。
神武はともかく、墓制の移動なんてのは、
連合、侵略、血縁などの強い関係がないと理解できないね。
連合ではちょっと弱いかも知れないが、
後の時代の祭り事まで残る隼人の風習を考えると、
連合で墓制に影響を受けることもあり得そうな気はする。
818 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 13:30:14
納得出来ないとか言うのは学問的ではない。
ちゃんと理由を書かないと。
819 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 16:03:18
前方後円墳の前方部は、その墓の方向を明確にするために造られたんだろう。
祭りを執り行う人々が、どちらの方向から墳丘を見上げるかの視線の固定。
被葬者とそれを祭祀する人々との関係性をはっきりさせるために、古墳の向き、中心線をはっきりさせる必要があったと。
墳丘がひとつの巨大な宗教装置だと考えればそうなる。
また箸墓の中心線が穴師山、兵主神社を向いてること。二上山と三輪山、檜原神社と同緯度地点に造られたことなども、
宗教的意味合いがあるのだろう。
前方後円墳の祭りがどういったものだったかは今となっては推測するしか仕方がないが、
けだし、太陽信仰の影響が強かったのではないだろうか。
>>817 ハヤトがDNAレベルでどう云う集団か知ってて言ってんの?
方角は一部を除いて適当としか思えないんだが…
822 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 22:00:53
823 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 00:07:10
>>820 知ってるよ。隼人は地面に穴掘って住んでいる人食い人種の土蜘蛛だ。
いろいろな意味で違うw
825 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 03:02:56
宮崎というと、古墳が有名だが、これは太平洋沿岸地方。
一方で、地下式横穴墓という独特の墓制が共存している。
また、西側の地域では、地下式石板積石室墓という墓制があり、この地域では
古墳はほとんど見られない。
地面に穴を掘ってというのは墓のことだろう。
考えてみれば、地面に穴を掘って墓にするのは世界共通ではある。
その意味じゃあ、高塚式の方が珍しいのかもしれない。
826 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 05:44:18
>>808 >しかし、吉備でも特殊器台が同一地域で数回の変遷があったということは確認できて
>おらず、古墳ごとに特殊器台の作り手が違うだけでともいえます。
変遷はあったことが確認されておりこれは考古学の常識。
立坂型(古)→立坂型(新)/向木見型→矢藤治山型/宮山型→(円筒埴輪)都月型
と変遷した。
文様と器形の型式学的研究また伴出土器の研究で明らか。
真庭市中山遺跡の土壙墓群出土物から同じ地で特殊器台型式に変遷があったことも明らか。
加えて楯築・八神9号墓・柳坪・矢藤治山・宮山・矢部B42号墳…と挙げるなら、
半径5キロ程度円内におさまる備中の小地域の中で狐塚省蔵氏言うU段階(立坂型〜宮山型)と
V段階(都月型円筒埴輪)のもの全てが出土していることが判る。
同一地域で変遷があった証左。
(※狐塚氏の分類ではT段階は立坂型以前の器高の低いタイプ(芋岡山など)、
U段階は第1型式(立坂型)→第2型式(あたご山型)→第3型式(向木見型)→第4型式(宮山型))
なお矢谷古墳(四隅突出前方後方型墳丘墓)のは向木見型に含めず独立型式と見た方がよかろう。
827 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 05:46:42
>>813 >狐塚氏は「特殊」と書かずに「吉備型」と書いていたと思う。
>吉備型器台形土器、吉備型台形埴輪、円筒埴輪
>凄く分かりやすい。
「吉備型台形埴輪」は吉備型器台形埴輪のつもりの書き損じかな?
都月型円筒埴輪を吉備型器台形埴輪と名称変更してはいけない。
なぜなら都月型円筒埴輪の初出現地が吉備だという先入観を与えてしまうから。
今の段階では吉備か大和かは判明・確定していない。
分布地も吉備・大和のほか播磨・摂津・山城・近江に及ぶ。
狐塚氏も「吉備型」用法はあくまで特殊器台(形土器)・特殊壺(形土器)に限っていたろう。
828 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 05:48:32
>>814 >二重口縁壷も入れるべきだったか?
二重口縁壺の研究こそが大切。
弥生後期→纏向期→古墳前期の解明の上で二重口縁壺はよほど重要な遺物。
また全国に多数出土があり資料収集の面で事欠かない利点もある。
纏向ではホケノ山に二重口縁壺の出土を見た。
桜井茶臼山では特殊器台形土器や円筒埴輪を欠き
二重口縁壺だけが埴輪的意義を持って供された。
壺供献の墓上祭祀は東海に強く現れ東国にも九州にも及ぶ。
見通しを言うなら布留1になって形成する朝顔形埴輪が
果たして吉備系の特殊器台+吉備系の特殊壺の組合せを模したものだったか?
子ども向け博物館解説にも取り上げられがちのこの通説へ厳しい再吟味が必要。
小生としては吉備系特殊器台形埴輪+東海系二重口縁壺の合体を……。
829 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 06:38:25
>>858 吉備では吉備器台+吉備壷だったのに、
マキムクでは、わざわざ吉備器台+東海壷の組み合わせにしたというの?
>>829 ホケノではその組み合わせで出たし、
朝顔と二重口では共通する製作技法があるという研究もある。
ホケノから吉備系の土器って出てたっけ?
器台は出てない。壷は俺には良くわからん話。
833 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 13:20:54
834 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:15:53
>>826 どうだろう?
ほとんどが古墳時代に入る特殊器台型埴輪を除くと、全体の出土量はかなり減る。
特殊器台でも宮山型は、吉備で1、畿内で3くらいで、しかも全て古墳なので、
出土数の少なさと、出土分布からは、吉備での変遷に組み込むのは無理。
そうなると、残りで変遷を考えることになるが、葬祭儀式に使い捨てのモノである
にしては、数世代もの年代を与えるだけの出土数には遠く及ばない。
せいぜい1世代(20年)ほどの年代幅というのは、自然だと思う。
実際、変遷といっても、(定型の)古墳時代より以前で見れば、1回だけになる。
これに数世代もの期間を与える人もいるが、正直なところ「本気か?」という感じだなあ。
>>835 この問題でそれを言い出すと循環論法になる。
土器は古い→ゆえに特殊器台も古い→ゆえに土器も古い
特殊器台は古い→ゆえに土器も古い→ゆえに特殊器台は古い
特殊器台は古くない→ゆえに土器も古くない→ゆえに特殊器台も古くない
>>836 縄文土器は弥生土器より古い・・・・これはちゃんと証明できるんだよ
考古学を知らない君には、まあまるっきり証明できないだろうけどさww
838 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 08:32:38
つ 層位
840 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 13:10:30
土器の古い、新しいを判断するとき、どの地層から出たかというのは信頼が
おけるといわれる。しかし、模様や形で古い、新しいを決めるのは難しいらしい。
土器の編年は、説明のためのものという人もいる。
つまり、多くの人が納得できるような説得力のある理屈をつければ、それが
定説になるということだろう。
841 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 16:01:02
古墳でのみ出土する宮山型と並行する土器は、やはり古墳時代の土器になる。
大半が古墳から出土する特殊器台埴輪と並行する土器も同じ。
しかし、その直前期のはずの土器になったとたんに、いきなり特別に古いとして
しまうのは、ちょっと苦しい。
彼らの論理は、
特殊器台の変遷は長期間に及ぶ → だから初期と並行する土器は古い
→その古い土器と並行するからこの特殊器台は古い
っていう素朴な循環論の域を出ていない。
842 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 00:18:47
>>841 もっと具体的に批判してくれないと説得力ゼロ。
西進式の時期はいつだと思ってるの?
>素朴な循環論の域を出ていない
A遺跡に特殊器台Aと土器a(共伴)、B遺跡に特殊器台Bと土器b(共伴)、として
別の遺跡で土器a、bとそれぞれ酷似する土器a’、土器b’が出て
しかも土層や切り合い等の関係から、a’=古い、b’=新しいと分かれば
a、bの関係も、a=古い、b=新しい、となって
よって共伴関係から、特殊器台A=古い、特殊器台B=新しい
と決めていいだろ?
層位学をベースに置く考古学ではみんなそうやって新古を決めてる
循環論に陥るわけがない。いったい誰の何を批判してんだ?
>模様や形で古い、新しいを決めるのは難しいらしい
たとえ層位学的な対応がつけられなくったって、
ルジメントで型式変化は判断できるし。
特殊器台は模様や形で観察のしどころが満載の土器
無紋の単純なお皿やお椀とは違うよww
>>843 土器なんて所詮相対年代だから、「相対的に古い」ということしか言えない。
しかも1回だけの祭祀で使い捨ての特殊器台と一定期間使用される土器とは、
並行関係には立たないという基本的なことを無視する人が多いよね。
特殊器台の変遷に土器のような長さを想定するのは致命的な誤りです。
845 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 04:09:30
特殊器台は王墓を飾る物だから、そんな短期間に次々と作られることはないでしょう。
王の代替りのスパンを考えれば、型式変化が十年二十年はざらでは?
846 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 10:02:09
>>834 特殊器台の期間が20年では短過ぎ。
庄内期の全期間よりも長い筈。50年以上は続いてるよ
847 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 21:05:11
>>846 特殊器台は、「埴輪」を除くと畿内では布留0とのみ並行で数箇所だけ。
ほんの一時期の使用なので1年から2年の期間ですよ。
事実だけを端的に言えば、吉備でも20年前後でしょう。
器台型土器を除けば、さらに期間は短くなります。
近藤さん自身ははっきり期間を言わないのに、年代遡上の人たちが
暴走して無理に長期間の編年をしているという感じですね。
848 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:18:54
>>847 で?
西進式の時期はいつだと思ってるの?
849 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:30:02
>>847 >特殊器台は、「埴輪」を除くと
>器台型土器を除けば、
まったく意味不明。
特殊器台はまだ埴輪じゃないのに、どうして「「埴輪」を除くと」なんて書くの?
「器台型土器」とは何のこと?「除けば」と書いてるから、特殊器台の一部?
除いた残りはいったい何?
きちんと説明してください。
850 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:48:48
>>849 特殊器台型埴輪を除くってこと。
分けて考えると、残りのものでは年代はせいぜい20年。
それを100年以上の期間にするのも、暴論も度が過ぎるという感じだなあ。
しかも、楯築を150年頃とかいうのは、デンパ系のかなたの人だよなあ。
>>848 西新のこと?何故吉備で?
このスレのどこで特殊器台が100年以上とか楯築が150年頃とか言ってるんだよ?
f´'´ ノ ヽ l 、 \!
l / / // ,.ィ´ !', ト、 ヽ. ヽ
. レ′, / //_,..イ// ,| l |lλぃ い. ',
} / { ‐7Ζ_∠!イ 〃 /リ,}/┤!」l 小 !
ノ i| 八//'゛ -`l 〃 /ノ'´ j ! |l/| iイ/
ヽ|l//イ ャ''Tェ歹''`y゙/ 'ヾ歹¨リ`イ!ノ//
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Y/ !トヘ. /.ィi| ;| < 年が明けたわよ。
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{い ヾLr┤:.:.:.:.`:、__,,..イ;:.::.:./勹_」!
``ァ;=<´ ̄``ヽ:ヽ;‐-/;/``Tr-.、
〃::::::::`ヽ;:.:.:.:.:.:.:.:.`幵:.:.:.:.:.: i|:::::::〉
>>851 世の中にはそんなデムパもいるってことだろ。
タテツキから箸墓までなら100年近くはあってもおかしくないが。
855 :
【凶】 【1997円】 :2009/01/01(木) 00:26:14
初詣は三輪明神へ
近くに卑弥呼様のお墓もあるでえw
>>854 ほぼ同時期で、離れていてもせいぜい10年だろ。
櫛山と楯築が同規格とすれば、なおさらだ罠。
櫛山と楯築が同規格(゚Д゚)ハァ?
ま、どうせ古墳企画の人だろうけどwwww
>>856 はぁ?なんですか、このトンデモさんは。
楯築と櫛山が離れていても10年?
電波ゆんゆん
860 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 01:54:22
楯築と櫛山ならマジ200年離れてる。
一瞬きょうは4月1日かと思ったぜ。ん?元日じゃないかwww
新年早々酷いレスがあったもんだ。寝よ。
双方中円墳・・・櫛山、猫塚(香川県)、鏡塚(香川)、楯築(香川)
櫛山は位置(崇神稜のとなり)、形状、埴輪等から、前期初めの古墳。
猫塚も、三角縁神獣鏡、蝙蝠鈕座内向花文鏡を出土した前期初めの古墳
鏡塚は、円筒埴輪を出土、これも前期初めの古墳
楯築は、古墳と同規模の巨大墳丘墓。
形から見ても時期から見てもこれらが無関係とは、言えないよね。
特殊器台は吉備以外ではほとんどが古墳時代に属する。
吉備では、定型古墳への移行期から出土。初期の壷型ならまだしも
楯築のモノを100年古いとするのは、異常だよ。
年代遡上にスパークしている連中は、恥も外聞も無く楯築が2C後半とかの
暴論をぶっているが、本気で信じて主張している人なんて一人も居ないだろ。
政治的な振る舞いと割り切っているんじゃないかな。
>>861 とりあえず楯築の報告書を読んで共伴土器を確認しろ
話はそれからだ
ほんと、年代遡上否定に躍起になってる連中は
恥も外聞もなく楯築が前期古墳だとかの暴論をぶっているが
本気で信じているのはただ一人しかいないだろ。
学問的じゃなく宗教的な振る舞いと割り切れてないところがイタイ。
>>862 そんなに重要なことなら、ココに書けば良いのでは?
土器の循環論法なんて底が割れた議論だろ。むしろ、悪循環論法だな。
だいたい楯築は特殊器台の変遷の初期でさえもないだろ。
巨大墳丘墓が孤立して古くなる異常さに違和感ありまくり。
いいかげんに政治的な振る舞いで学問を破壊するのはやめてもらいたい。
まあ、彼らから政治を取ったら何も残らないのかな。
864 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 05:42:22
>>863 で?
西進式の時期はいつだと思ってるの?
>>863 >だいたい楯築は特殊器台の変遷の初期でさえもないだろ。
こんなこといってるけど、どうする?
>>863 > だいたい楯築は特殊器台の変遷の初期でさえもないだろ。
> 巨大墳丘墓が孤立して古くなる異常さに違和感ありまくり。
宮山、柳坪、矢藤治山等々他にも大き目な墳丘墓は有るのだから「孤立」はしていないのでは?
「乱立」と言うなら言えるかもしれませんが・・・
>>865 スルーする方が良さそうだよな
知識不足、勉強不足からくる発想っぽい
868 :
ローガン:2009/01/01(木) 13:32:23
>>847 > 近藤さん自身ははっきり期間を言わないのに、
近藤先生は立坂型と向木見型を合わせて「弥生時代の後期後半」だと言及している。
更にその「後期後半」とは良く解らないとしながらも、「長く見て百数十年、短く見て百年前後…」とはっきり述べている。
>年代遡上の人たちが 暴走して無理に長期間の編年をしているという感じですね。
何も知らずにただ暴走しているのは貴方ですね。
>>864 西進式??西新式じゃなくて?
>>865 じゃあ初期なのかい。違うよね。
初期は実用可能な土器を並べて、それが祭祀用に変わったというのが、
普通の理解じゃないかな。
祭祀用になってから、埴輪まで期間は短く見れば10年ほど、長く見ても
せいぜい20年くらいだろ。
出土状況を受け入れろ。
三角縁が日本で500面で中国で0でも受け入れないカルトの連中と同じ精神構造だな。
それが学問として主張されること自体が日本の学会の恥なんだよ!
>>866 その大きな墳丘墓が10年から20年に1個だけ作られたという長期編年自体がトンデモなんだよ。
その後の時代に比べて個々の期間が長すぎる。無理をした長期編年が透けて見える。
>>868 近藤さんは、年代論につながる具体的なことは言わない。
但し、あの人はバチ型遡上論にしてもそうだが、周りをあおる種を蒔いているね。
まあ祭祀のときに1回限りの使い捨ての土器を実用の土器を
同視している時点で終わっている罠。
祭祀用に発達した特殊器台だけを見ればせいぜい10年〜20年というのは、
当然のことだ罠。
特殊器台じゃあすぐ倒れることが明らかだから、短期間で埴輪に変わったという
のも、箸墓で両者併用ってことからも明らかだ罠。
871 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 23:42:36
>>869 いや、楯築は特殊器台の初期だ。
>初期は実用可能な土器を並べて、それが祭祀用に変わったというのが、
普通の理解じゃないかな。
それは特殊器台とは呼ばない。あくまでも大型の器台だ。
>出土状況を受け入れろ。
そちらも楯築での共伴土器との出土状況を受け入れてね。
>三角縁が日本で500面で中国で0でも受け入れないカルトの連中と同じ精神構造だな。
考古学は技術的な考察を基本にしますから。
国産説を主張する人々は三角縁の技術的な位置付けを
歴史的に評価できてませんから説得力が低いと見なされてます。
>その後の時代に比べて個々の期間が長すぎる。無理をした長期編年が透けて見える。
近藤義郎が楯築を弥生後期後半の首長墓に位置付けたのは70年代末から80年代初頭。
そのころは君が信仰してやまない「古墳時代4世紀開始説」が主流で
楯築自身の位置付けと古墳時代年代遡上の議論は全く無関係なのだが。
>バチ型遡上論にしてもそうだが、
近藤氏は最古級の前方後円墳にバチ型前方部を持つ一群が存在することを指摘したが
遡上なんか主張していないが?何のことをいっている?
872 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 23:51:47
>>870 >まあ祭祀のときに1回限りの使い捨ての土器を実用の土器を
同視している時点で終わっている罠。
だからこそ研究者は共伴土器を重視しているし、君もそうするように再三指摘されてるだろう?
>特殊器台じゃあすぐ倒れることが明らかだから、短期間で埴輪に変わったという
のも、箸墓で両者併用ってことからも明らかだ罠。
別に倒れるから埴輪に取って代わられたとは考えられていない。
箸墓で両者が共伴しているのは、それぞれ別の集団が製作供献したものと考えられているが?
そもそも特殊器台は脚部があって安定しているのでちょっとやそっとじゃこけたりしない。
立ったままでの強度なら特殊器台も埴輪も野焼き焼成の素焼きの土器なんでそんなにかわりはしない。
>祭祀用に発達した特殊器台だけを見ればせいぜい10年〜20年というのは、
当然のことだ罠。
君は何度もそのような主張をしているが、「10年〜20年」となる根拠は一切述べていないようだが?
ああ、いつもの東遷説の人ですね、わかります。
神武ちゃんの東征のスケジュール調整のためとは言え新年早々ご苦労産ですw
>>871 三角縁神獣鏡の舶載説だけは擁護のしようも無いだろ。
あれはちょっと学問と呼べないよ。
目の前に500羽のカラスがいても、「カラスは白い、純白なのが汚れただけ」
と言うようなもんだろ。現実から目を背けるのも限界を超えすぎている。
はっきり言って、中国の学者からはトンデモ以下の扱いだろ。
「あれが中国製?アホかいなwww 中国で1面も出ていないよwww」って感じだわな。
学界のなかでもあの集団は、受験直前の3浪生なみの腫れ物扱いだろ。
支持しない学者も表立って批判するのもバカらしいという扱いになっている。
>>874 悪いことは言わない、恥かくだけだからこのスレじゃあ止めておきなさいw
876 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 00:55:15
>>869 で?
西新式の時期はいつだと思ってるの?
>>875 そうかい、未だにあれを舶載とかいう連中の方が恥だろ。
汚辱にまみれてまで恥を貫く意図が見えない。
頭のおかしい危なそうな人が前から歩いて来たら、周りは道を譲る。
それで道の中央を歩く。それが学問の王道、ていう考えか?
>>876 やっぱり西新なのか。
人に聞く前にまず自分の意見とその理由から言うのが礼儀だな。
878 :
ローガン:2009/01/02(金) 01:08:06
>>869 おや?
>>847では
「 近藤さん自身ははっきり期間を言わないのに」と書いたでしょう。
期間と言ったのは貴方ですよ。その「期間」について著作の中に言及があるので、書いたまでの事。
貴方がどう考えるかは自由。だが嘘はいけない。
879 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 01:21:29
>>877 西進式と言われて、すぐに反応できなかったおまえの負け。
土器を語るならもっと勉強しろよ。
880 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 01:21:47
>>878 近藤が型式ごとの期間を書いているならそのソースを出せば。
近藤はあいまいに時期を書いているだけ。
彼は具体的年代は言わない、この点は評価できる。
弥生後期後半という当たり障りのない枠に特殊器台を入れただけ。
弥生後期後半の具体的実年代やそのなかでの位置づけも不明。
型式ごとの具体的実年代はなおさら言っていない。
弥生後期の具体的年代に対する態度表明があるなら、ソースが欲しいね。
まあ、彼は弥生時代の古墳として、楯築を古墳時代よりかなり前の時期と
するニュアンスを出していることは否定しないよ。
この点は、ぜんぜん支持しない。
881 :
ローガン:2009/01/02(金) 01:35:57
> まあ、彼は弥生時代の古墳として、楯築を古墳時代よりかなり前の時期と
> するニュアンスを出していることは否定しないよ。
ほう、そのニュアンスとやらをどこで知ったのかね?
まあスレ違いの話を続けるのもアレだが
『シンポジウム三角縁神獣鏡』に書いてあったが
徐苹芳によれば従来日本製と言われたものの中にも中国製のものもあると言ったり
>>874は王仲殊をもって「中国の学者」全てと短絡(ショートw)してしまったんだろうがwww
(そもそも王の説って亡命呉人の手によるものと言うことなのだから
製作地と言うより製作工人を探ったものと言ったほうがいい気がするが・・・)
個人的に三角の製作地が日本か中国かについては未だ断じかねるが
少なくとも>874のような単純なお話ではないと言うことは分かっているつもりだwwwwwwwwwwwww
884 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 02:56:40
畿内考古学は、邪馬台国畿内説を前提に組み立てられるから。
三角縁神獣鏡にしても、畿内を中心に出るから卑弥呼の鏡となった。
当初は、年代も合わなかったが、大事な鏡は伝世されるとかすごい理論を
組み立てた。
椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡も、黒塚古墳と同じで、明らかに魔よけ扱い
だったが、省みられなかった。
箸墓も同じで、想定する場所に有るから卑弥呼の墓になった。
年代や編年が合わなくてもかまわない。合わせりゃいい。
大きさが合わなくてもかまわない。別々に作ったことにすればいい。
根拠よりも、想定の方が先にある。
纏向遺跡も同じ。邪馬台国であるような証拠は出ていない。
>>882 学者がどんどん幼稚になっていくよね。
騎馬民族の方がまだマシだわな。
野球の試合で 「500以上 対 0 」で9回の裏が終わったのに、
「5回裏の初球はストライクじゃなくてボールだ。これがボールなら
試合はひっくり返る。」とわめいているオヤジが居たら、どう思う?
「自分が不幸なのは全部社会が悪い」って言ってるのですね
こけたw
>>885 で・・・
結局、中国側で墓誌を伴う等して確実に魏代の物と分かる鏡は一体何枚出て
どんな様式の鏡なのかな?
きちんと出典を明らかにして述べてくれ。
アホの何とかの如く「500対0」と言っても
比較対照である中国側での出土が0かそれに近いような数字じゃあ
幼稚すぎて話にならないw
・・・まあこのスレの人間ならその程度の事は百も承知で
「ああいつもの奴が私怨丸出しで喚いている」
としか思ってないんだろうがw
その私怨の元が何かは知る由も無いが
今年もその芸風続けるつもりですか?
ごくろうさんですwwwwww
>>879 > 西進式と言われて、すぐに反応できなかったおまえの負け。
「西進式」
行き成りそんなこと書かれたら、ふつーは引くわなw
ま、負けって・・・ナゾナゾか何かのつもりだったのか?
> 土器を語るならもっと勉強しろよ。
何を?
サイキバ語なら土器を語るのに学ぶ必要はない。
2chでオモチャを弄くるのには必要だがw
890 :
ローガン:2009/01/02(金) 10:33:43
>>880もう一度訊ねてみよう。
> まあ、彼は弥生時代の古墳として、楯築を古墳時代よりかなり前の時期とするニュアンスを出していることは否定しないよ。
ほう、そのニュアンスとやらをどこで知ったのかね?
891 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 11:05:32
>>884 間違いをすぐ認める所は、九州のほうが偉いよね。
吉野ヶ里が発掘されたときは、邪馬台国発見!と騒がれたものだが、
その後の調査で邪馬台国時代とは違っていたことがわかった。
いまじゃ、吉野ヶ里を邪馬台国と言ってるやつは、このスレに一人しかいるまい。
892 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/02(金) 11:12:48
>>874 ほぼ同意。
卑弥呼の鏡でないからだよ。カラスのたとえも適切!
893 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 11:36:54
纏向遺跡の調査は全体の5%程度しか行われておらず、
発掘されたものは水路や高床式の倉庫などで、
都城の存在を示すような住居の跡や道路などは発掘されていない。
また集落があったとしても後の平城京でさえ数万人の人口しかなかったことから
纏向遺跡の人口が奴国(博多)のように2万戸(10万人以上)もあった可能性は皆無である。
スレタイも読まないスレ自体も最初から読まないしかも調べもしない馬鹿ばっかりだな
九州説の人間は
もう、うんざり・・・
895 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 13:44:23
>>888 墓碑の有無にかかわらず、中国では三角縁が1面も出ていないんだが・・・
三角縁舶載説を学界から切り離さないと、ほかまで同視されて迷惑。
896 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 14:22:20
纏向遺跡のスレなのになんでこうも搬入土器が大暴れするのかね
897 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 18:01:31
特殊器台から話を逸らすために三角を持ち出したのが見え見えなのがな。
土器編年も確かに絶対ではないが、あそこまで無茶苦茶書かれると興醒め。
いつも最後は「畿内説が年代遡上のために捏造してる」だから議論の仕様もない。
つまらない奴だ。
>>893 まあ5%とは言え考古学者も出鱈目にトレンチ入れている訳じゃないんだろうが・・・
でも今後何処まで調査進むのかな?
まさか最終的に100%に達するわけも無いだろうしw
地権者との絡みや予算の都合もあるだろうし・・・
もう、ン十年単位で気長に待つしかないような気がw
>>895 サイキバ君ですか?
学会って何処の学会?
ひょっとして「ト学会」の事ですか?w
>>898 >まあ5%とは言え考古学者も出鱈目にトレンチ入れている訳じゃないんだろうが・・・
古墳の発掘を除けば住宅の建て替えなどに伴う行政発掘なので、
ほぼ出鱈目といっていい状況ですが何か?
900 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:19:38
>>897 だったら特殊器台について具体的に反論すればいいじゃん。
あれを長期編年する場合に、何型がいつ頃になるのか知りたいね。
1カ所で5年とか10年の期間を使い捨ての祭祀具に割り当てるから
カルトとか言われているんじゃないかな。
周りの声に耳を貸さない遡上狂乱もいい加減に止めて欲しい。
>>899 マジッすか?
じゃあ逆に言えば今後に期待がかなり持てるって事だよね。
>三角縁神獣鏡にしても、畿内を中心に出るから卑弥呼の鏡となった。
違いますよ。
△縁は富岡謙蔵による銘文の分析によって明治時代の末から大正のはじめくらいに魏晋鏡と位置付けられました。
魏晋鏡であるとの評価が確立したことから△縁=卑弥呼の鏡とする説が注目されはじめたのです。
>当初は、年代も合わなかったが、大事な鏡は伝世されるとかすごい理論を
組み立てた。
上記のごとく早くから魏晋鏡として研究されてきました。
伝世鏡の概念は元々は漢鏡が古墳から出土する事実から導き出されたもので、古墳の実年代観を引き下げるものであって遡らせるものではありません。
そもそも△縁の研究で名を馳せた小林行雄は、魏晋鏡である△縁を副葬する古墳の時期をストレートに3世紀とはせず、
わざわざ訳のわからない論理を導入してまで4世紀のものと位置付けてます。
つまり、考古学者が△縁出土古墳を無理して古くしたなんてことはなく、事実はその逆なんです。
古墳時代開始4世紀説は、学史的には△縁魏晋鏡説から導き出されたものなんですよ〜。
904 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 00:55:42
>>903 しかし、それでは王仲殊氏が候補に上げた鏡、方格規矩四神鏡や内行花文鏡が
候補に上がらず、もっぱら三角縁神獣鏡が取り上げられた理由が説明できない。
方格規矩鏡などは明らかに中国の鏡であり、年代も合うはずなのに。
905 :
ローガン:2009/01/03(土) 01:39:37
>>900 > だったら特殊器台について具体的に反論すればいいじゃん。
> あれを長期編年する場合に、何型がいつ頃になるのか知りたいね。
結局
>>890には回答なしかね?
楯築の高坏や長頚壺等は[‐dですよ。貴方の云うような短い期間で考えたら宮山型が畿内第X様式に入ってしまう(笑)。
立坂、楯築、中山墓地等「立坂型」を持った墓からは高坏、鉢等10種程度数十個体の土器が伴います。
しかし、向木見型以降の墓からはそれら中小の土器は極端に減ります。宮山古墳では0です。
そして特殊壺ですが、向木見型以降が焼成前穿孔…
つまり立坂型の頃は墳丘上で実際の相嘗祭祀が行われた。向木見型以降では 祭祀の形骸化が進んだ事が十分考えられますね。
具体的に何年間で祭祀の形骸化が考えられるのか迄はわかりませんが、貴方の云うような極短期間は考えにくい。
それに、底抜け壺の登場と中小土器の減少はリンクしており、共伴である事を疑いにくいでしょう。
906 :
ローガン:2009/01/03(土) 01:48:06
>>893 > 纏向遺跡の人口が奴国(博多)のように2万戸(10万人以上)もあった可能性は皆無である。
なんか比較の仕方が可笑しくはないですか?
907 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 02:01:02
>>905 出土事実として、宮山型は全て布留0以降なのだが・・・・
年代遡上説のように庄内式を80〜100年位とすると吉備の土器編年は
どうなることやら・・・吉備だけにキビシ〜(笑)
それはさておき、具体的年代は出ないの?
>>893 マキムクでも居住遺跡は2,3個は、発掘されているから、イナバ物置みたく
考えて、出土していない居住跡も考慮すれば、2万位になる(わけないww)
出土した竪穴式住居の年代も不確実な上に、もがり屋の可能性もあるから、
あの時代の確実な居住後が本当に出ているかといえば、出ていない。
>>904 方格規矩鏡や内行花文鏡は基本的には漢鏡。
どれが魏晋代のものなのか区別つく?
910 :
ローガン:2009/01/03(土) 02:46:48
>>907 > それはさておき、具体的年代は出ないの?
私は立坂型が2C末から。宮山型が3C後半の早い段階。
又いずれzzzz…
911 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 08:52:32
>>893 誰も纏向遺跡だけに7万戸もあったとは言っとらんのだが…
そこを中心に、奴国や伊都国より広い範囲に邪馬台国が広がっていた、
と言うことだよ。
三角縁が重要視されるのは、大和王権の成立プロセスにとって重要な鏡だからであって。
別に邪馬台国に絡めるためではない。
完全に勘違いしとるな。
オオヤマト古墳群の中で、マキムクの西部だけ、
少し標高が低いのは何故かねえ。
山の辺の道よりちょっと低いよねえ。
914 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 12:36:55
三角縁に関しては、まあ国産か舶載かの議論はあると思う。
しかし「復古的に製作。昔の年号をメモリアル・イアーとして用いた」
とかは無理矢理だろ。
そんな鏡もあるかもしれないが、全てをそういう風に考えるのは流石に無理。
無理矢理年代を降らせるためとしか思えないな。伝世鏡説と五十歩百歩。
915 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 18:01:38
>>914 議論も糞もない。
出土状況から全部日本製で完全かつ最終的に決着済み。
年号も日本で入れられた。
916 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/01/05(月) 18:06:54
まぁそういうことだ。△は卑弥呼の鏡に非ず。
917 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 18:48:46
>>915 三角縁神獣鏡が日本で造られたことは議論の余地が無いが
わざわざ中国の年号まで入れて三角縁神獣鏡は何のために誰が造ったんだろう?
918 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 18:53:22
919 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 19:01:41
>>917 ( ´д )ヒソ(´д`)ヒソ( д` )やだーまた変態よ〜。
920 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 21:03:20
>>917 三角縁と画文帯について。本当にヤマト王権が4世紀以降に自作したのだと仮定してみる。
ヤマト王権はなぜ、長江流域に起源をもつ神獣鏡をわざわざ選んだのか?
偽作するなら、卑弥呼が貰った鏡にするだろう。
なぜ、魏の年号+呉の鏡にしたのか?
わざわざ魏の年号、それも景初が選ばれていることからも、卑弥呼の鏡であることを意識しているのは明らかだし。
921 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 21:04:28
また、黒塚では明らかに画文帯>三角縁に扱われている。
後世、同時期に偽作されたとするなら、三角縁こそ珍重される筈。なぜなら三角縁こそが魏の年号を持つ「卑弥呼の鏡」として偽作されたのだから。
少なくとも画文帯国産はないと思うな。
922 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 21:05:58
私自身は、福永の三角縁魏鏡説信者wだが、余り拘っていない。まあ、そうとも考えられるということ。
なかなか決定打に欠けるのは事実。
三角縁神獣鏡は、ほぼ国産なんだろうが、
舶載が全くないのか、それとも若干なりともあるのか、
これはまだ議論の余地があると思う。
全部国産の可能性が高いとは思うのだが、
議論の余地がまったくないわけでもない。
ただ、卑弥呼の鏡うんぬんってことなら、
三角縁神獣鏡との比較において、画文帯神獣鏡の方が可能性が高く、(
>>921)
三角縁神獣鏡はかなり可能性が低いのでは。
ヤマト政権にとっては重要な鏡ではあるんだけども。
>>920 画文帯→三角縁と内区を借りて外区は独自。
具象はそのまま、抽象的文様、外形は自由に改変ということかなと。
画文帯国産とか言ってるのはごく少数だろ。
925 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 22:09:48
画文帯は国内での踏み返し鏡が多数あることは、誰も否定しないだろ。
まさか踏み返しゼロで全部が舶載なんてトンデモは居るまい。
>>922 三角縁神獣鏡の生い立ちについては、
「中国、楽浪等で製造されたと言う確証は無い、現時点では全部国産の可能性が強い」
ということでよろしいのでは無いでしょうか。
製作地とは別に、ある程度の結論めいた仮説が必要なのは、
いつ頃から製作が始まり、いつ頃まで配付されたのか、と言うことでしょう。
国産と言うことであっても、楽浪系の製造技術が見受けられます。
私は、初期の鏡は、製作地が国内であろうと、外国技術者が関与したものと考えていますが、
ある時期以降は国内技術だけで踏み返し等による複製が行われたとも思いますが、
長期の配付と関東から九州にかけて広範囲の分有が認められるわけですから、
そこに広域な王権の存在を認めるべきものと思います。
私は都月型円筒埴輪を伴う権現山51号墳からも出土することから、
その時代には、既に大量生産期を迎えていたものと考えます。
>>926 しかし、なぜ普通に国内生産出来ていたものが、
後世「踏み返し」という技術劣化に陥るのかが
なかなか理解出来ないところではある。
3世紀末以降の中国との関係断絶により、鏡の流入ストップ、
踏み返しという流れがしっくりするのだがな。
逆に踏み返されなかった鏡を検討するってのもある。
例えば、位至三公鏡などは、小さくて人気が無くて、踏み返しもない。
中国では出土量が多いこの鏡の日本での出土状況をみると、
3C〜6Cまでの遺跡、古墳から約30枚しか出ていない。
画文帯なんかも、日本側が意図をもって集めたのでなければ、本来の舶載は
20〜30枚で残りの百数十枚は踏み返しではなかろうか。
929 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:45:23
あのね、
中国でも踏み返しは多いのだが
三国六朝期に多い
踏み返し、だから列島産とする新井宏説は根本的におかしい
例えば、確実な倣製鏡と、中国鏡の踏み返し鏡とされるものは紐孔の作りが異なる。それらは、ほとんどが確実な中国鏡と同じ作りだ。
また後漢鏡をマイナーチェンジまたは粗略化した復古鏡あるいは倣古鏡も多い。それらは中国に実在している。
これらが「倣製鏡」側のデータになっていたり、基礎データの分類がおかしいものが少なくない。
そもそも、中国出土鏡ね鉛同位体比のデータと対照していない(データ自体がほとんどない)。したがって、新井説で三角縁国産説が決まりというのは、新井氏自身が批判するスプリング8の話と同じくらい怪しい話なのだが。
>>929 確かに鏡を大量生産する時には、国内外を問わず、踏み返しは有効な手段ですね。
勉強になりました。
>>929 踏み返し鏡の出土分布を見てみると、国内でのみ出土するものが多いのも事実。
キズの発生の前後関係から、確実に国内での踏み返しと考えられるものも多い。
踏み返しの過程で外区を付けて大型化したりすると、なおさら国産との推測が強くなる。
一方で中国で同型が出土していても、日本での出土の方が多かったりするので、ある程度は
日本で踏み返したと想定する必要もある。
新井は、踏み返し云々よりも同位体比から日本か朝鮮の原料で作っているとする。
まあ、中国出土鏡の同位体比データがほとんど無いというのは事実だけど。
国産の銅に国内の鉛を添加して三角縁を作った可能性を検討しても良い頃だとは思うが、
中国、朝鮮のデータが出ないことには如何ともしがたい。
932 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 00:41:37
三角を後世日本にとって由緒のある年号をとって国内で造られたなんてのは
呉の年号を持つ鏡の説明が付かない。
森浩一も自著『おさらい帳』の中の説明でかなり歯切れが悪いwww
そもそも国産・舶載どちらの説にしても「景初」の年号が見えるからと言って邪馬台国に短絡してしまっている。
その年号に続き「卑弥呼」だの「邪馬台国」だのの文字が見られる訳でもなんでもないのにw
福永センセイが挙げる三角に見られる魏晋領域の鏡の特徴とか
なかなかにどうして舶載説もそれなりの材料を出している。
>>915のように「もはや決着済み」などと先走り
未だ舶載説がある現状はまるで何かの陰謀の如くいう馬鹿がいるが
そうそう簡単に決着付くようなもんじゃないだろうにw
大体、製作地と制作年代を恣意的にパッケージにして国産=4世紀以降とし
自説(邪馬台国九州説、東遷説・・・)に有利に持っていこうとするのがあからさま杉花粉wwwwwwwwwwww
933 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 01:00:40
中国で、下賜用に踏み返して大量生産された鏡が古墳から集中的に出土するからに過ぎない
外区を拡大とかも中国の倣古鏡にもあるパターン
中国にも確実に同じ型式のある日本出土の三国鏡(倣古鏡)と三角縁は、実は鉛同位体比はかなり近い領域にある
したがって、新井の方法でも、現状では中国鏡説でも説明できる状況にある。
鉛が非中国産だった場合でも中国産鏡ではない、とは言えない。
まず推定「朝鮮」領域の鉛は、実際は北朝鮮、つまり楽浪・帯方郡のことで、当時の状況は実質的に「中国」だ。
また、仮に三韓地域内としても、楽浪土器や中国銭貨の分布から楽浪あたりが交易で得た可能性は十分あり得る。
日本の鉛でも、対州鉱山(対馬)とされるものが間違いないなら、やはり楽浪側が、鉄などの交易で得た可能性がある。対馬には楽浪土器が多い。
問題は神岡鉱山(飛騨)とされるものだが、これは疑問が多い。神岡がそこまで古くから開発されていたというのは怪しい。
で、紐孔の件はどういうことか分からんみたいね
>>927 > しかし、なぜ普通に国内生産出来ていたものが、
> 後世「踏み返し」という技術劣化に陥るのかが
> なかなか理解出来ないところではある。
「普通」にでは無いと思いますが。
内区と外区の合成等も含めてですが、「コピー」だけで対応できるものなら外来技術は不要でしょう。
内区の意匠や銘文をオリジナルで作るとかであれば、外来技術者の手が必要ではないでしょうか?
逆に外来技術者が居なくなれば、コピータイプの製品だけが流通するようになるとも言えます。
> 3世紀末以降の中国との関係断絶により、鏡の流入ストップ、
> 踏み返しという流れがしっくりするのだがな。
人が来ないで、物だけが来た、そういう可能性を否定しきることも出来無いと思いますが、
「物は来ないで、人だけが来た」と仮定しておいても大勢に影響が無いとも思います。
ちなみに、国産説に則って考える場合ですが、初期鏡の製作地は北部九州では無いかなと?
九州には、藤崎遺跡や那珂八幡古墳など埋納時期の早い出土鏡が有りますが、
畿内ではホケノ山からは出土がしなかったように布留早期にまで遡れるケースが認められません。
前方後円墳の祭祀は畿内から九州へ伝わりましたが、逆に三角縁神獣鏡は九州から畿内へ、
こんな流れがあってもよろしくは無いですか?
インゴットの話はなんとでも言い訳がつくから。
中国から原材料を輸入して、日本で造ったとかさ。
実際、質の悪い倣製鏡とかを見ると、当時の日本と中国の技術差は歴然。
王さんの説にしても、鏡職人たちがなぜはるばる倭国まで移住したのかは謎でしょ。
景初4年の紀年鏡が出たから三角縁神獣鏡の国産偽造説が沸騰したが、
要は魏の明帝が元日とかややこしい日に死んだのが悪い。
三国鼎立の軍事的緊張の時には、皇帝の死はしばらく秘匿されただろうし、
華北の鏡職人たちも暫くは知らなかったのだろう。
後世に偽作されたのなら景初4年なんて間違いは起こらない。同時代だからこその
混乱だろうと。
>>934 うーん、どうなんだろ?
私的には、「外来技術者がいないと出来ない」という想定自体に問題があるような。
例えば、秀吉の文禄慶長の役で多数の朝鮮の陶工が連行され、各地で陶磁器を生産、
その技術は現在まで続いてます。当時の茶の湯ブームで陶磁器が有難がられたからでしょう。
それを古代の倭国と銅鏡に置き換えることは可能かと思います。
わざわざ大陸から鏡職人が来てくれたのなら、その技術は尊ばれ、
師から弟子に受け継がれていったでしょう。
>>934 >初期鏡の製作地は北部九州では無いかなと?
三角縁の存在をどう定義するかですね。
少なくともレガリアとして機能したように見える三角が、
筑紫生産だとすると、筑紫>大和となりませんか?
大和は三角縁を各地のオウに配布し、その権威を承認することで全国王権へと
飛躍したように見える訳で、それが「筑紫で偽造された三角」というのでは違和感があります。
魏皇帝の後ろ盾をちらつかせて、国内での自己の権威を高揚させたというのが実態では?
938 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 02:10:19
呉は、西暦280年に滅亡している。これが何か関係しているのかも。
南九州で呉系統の貴重な鏡が出ているのも呉の滅亡が関係しているのかも
しれない。逃れてやってきた人がいたのではないだろうか。
宮崎県串間市から出たとされる穀璧。
熊本県南部、球磨盆地の黄金鏡(古墳は6世紀頃だが、古代鏡研究の大家である
中国浙江省文物考古研究所長の王士倫氏によると、後漢後半から三国時代
にかけて、中国の会稽付近で鋳造されたものと位置づけられている)。
画文帯神獣鏡もその一環で、三角縁神獣鏡はその亜流ではないかな。
939 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 08:33:17
呉の滅亡後では、魏の年号の有り難みがないように思いますが。
>>934 > 内区の意匠や銘文をオリジナルで作るとかであれば、
> 外来技術者の手が必要ではないでしょうか?
何故?内区だろうと外区だろうと、
踏み返しを作る技術があれば、オリジナルの鏡は作れるよ。
踏み返し技法を考えれば当たり前の話だけれど。
むしろ踏み返しの方が難しいくらい。
踏み返しはオリジナルのデザインを尊ぶゆえの行いであって、
劣化した技術とは違うよ。
ブランド品のコピー商品と同じだよ。同じであることに意味がある。
踏み返しによって多少シェイプは劣化していても。
踏み返しによるシェイプの劣化と、製造技術の優劣を取り違えている。
もちろん踏み返し鏡に製造技術の劣ったものはある。別の問題だから。
941 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 10:34:18
神人車馬画像鏡はスゴイ。
張氏車騎神獣画像鏡のほうがすごい
943 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 20:55:25
今までのレスを読んできて思ったが、三角縁神獣鏡の「舶載か倣製か」の議論は、余り意味がないということか。
大和王権が各地の首長に三角を配布し、無くなったので踏み返しでコピーするようになると。
それだけ中国皇帝に倭王として承認されたという事実は、国内統治に有効だったんだろう。
944 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 22:23:03
>三角縁神獣鏡の「舶載か倣製か」の議論
こんなのに拘ってるのはきちがい
20年前ならいざしらず
946 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 23:35:01
>>944 同意というより50年前だな。
森浩一が「王様は裸だ。」と言った瞬間にパンツぐらいはくべきだった。
その後の集団ストリーキングは本当に時間の無駄。
口汚いレスを読むと、この人はなんでこんなにムキになるのかなあと笑ってしまうw
>>936 > 私的には、「外来技術者がいないと出来ない」という想定自体に問題があるような。
外来技術とはオリジナルの神獣像や銘文の作製をイメージしています。
踏み返しなどは、在来技術として確立していたと想定しており、
神獣像の創作などは新規の技術ではと考えています。
>>937 > 三角縁の存在をどう定義するかですね。
> 少なくともレガリアとして機能したように見える三角が、
> 筑紫生産だとすると、筑紫>大和となりませんか?
三角大量生産時代には生存集団は畿内に移動していないと配付・分有関係の説明はできないですね。
ただ、私の言う「初期の三角縁神獣鏡」とは、3世紀ごろに製作されたもので、
その時点では全国的な配布は行われていないものと思います。
初期の三角が舶載であれ、外来の鏡職人が製作したのであれ、
一時的に畿内に先駆けて北部九州で埋納が行われいたと考えた方が藤崎遺跡や那珂八幡古墳の
実年代の設定に矛盾が無いのではと思います
>>940 > 何故?内区だろうと外区だろうと、
> 踏み返しを作る技術があれば、オリジナルの鏡は作れるよ。
> 踏み返し技法を考えれば当たり前の話だけれど。
例えば、銘文の創作なら漢文の知識が必要ですが、
踏み返しには漢文の知識は必要ないでしょう。
神獣像の創作であれば、製作者にそれなりの宗教的基盤が必要かと思います。
これも踏み返しとは次元の違う「技術」であり、
内行花紋鏡などのコピーが出来るというだけでは、神獣鏡のオリジナルは作れないと思います。
ただ、画文帯の内区+鋸歯紋の外区の接合により三角縁神獣のオリジナル
が出来たというような仮説であれば鏡職人の渡来が無くても製造は可能だと思いますが。
951 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 01:27:04
三角縁が国産とすると、志向された大型化傾向からは、『抱朴子』で9寸以上の
鏡に魔除け効果があるとされた影響は否定できない。抱朴子の成立は317年。
実際にも黒塚などで棺外への配置は魔除けの意図が鮮明に出ている。
三角縁は、文様の抽象化からも、デザインの変遷からも、国産とすると2世代くらいの
期間で変遷が生じていることが、椿井大塚山や黒塚などの出土状況から確認できる。
故に、三角縁を国産とすると、4C半ば頃から2世代位の期間での集中生産と帰結される。
それが分かっているから、年代遡上説の支持者も舶載説を批判しにくいってのがあるね。
>>951 いつもの大型化=『抱朴子』ね、青銅器の大型化なんて別段そんなもの持ち出す必要もないし。
じゃあ銅鐸が大型化したのも中国から何らかの文献の影響なのか?
てか・・・
>舶載説を批判しにくいってのがあるね。
舶載説で短期編年をとる人間も普通にいますが何か?
953 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 02:18:16
安満宮山や権現山51なんかは那珂八幡第2主体や藤崎石棺とほぼ同時期だと思うが
954 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 02:28:30
>928
位至三公鏡(双頭竜文鏡3式)は後漢末に出現して三国代で型式変遷がおわる。
が、六朝期にも多いのは何度も踏み返しされたから
文様が曖昧、銘の字画の一部が欠けてるとかがある。
何度も言うが、確実な中国鏡と倣製鏡は紐孔の作りが異なるが、古墳出土の漢鏡三国鏡の踏み返し鏡になりそうなのはほぼ中国鏡の作りだ
また、なるほど古墳前期の倣製鏡は小型鏡を除き技術レベルが高いが、実はほとんど同型鏡や踏み返しをしない。また、それら倣製鏡と推定踏み返し鏡を含む中国銭は研磨技術も異なる
955 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 02:54:37
>>951 つうか中国の場合普通は墓一基につき銅鏡一枚が基本で
大型墓でも精々2〜3枚って話だったと思うんだが・・・
大型は漢籍の影響で副葬の枚数は倭人独特のものと言うご都合主義?w
銅鐸が破壊されたのが神武が支配した時期と述べてる研究者がいるね
958 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 08:33:54
出雲王朝(笑)
>>951 「魔除け」と書かれることも多いけど、
鏡面は内側を向いているのだから、外へ逃がさないようにしていて、
魂を含めた一種の防腐効果を狙っているんじゃないかな。
ただ、鏡面の処理がおろそかなのはちょっと不思議なんだけど。
象徴的な葬具になっていたとしても、あの巨大な古墳を作る労力を考えると、
鏡面処理の労力を惜しむ意味が分からない。
バリを取ってないことも含めて、急死で急いで埋葬したという人がいるが、
特異な一例ならともかく、鏡面の処理がおろそかなケースが多すぎる。
>>954 銅鏡は銅鐸に比べれば形が単純だから、
銅鐸製造技術があれば難しくないからね。
ただ技術があるからどこでも作ったと言うわけじゃないね。
実用の鏡は各地で作られただろうけども。
>>960 >銅鐸製造技術があれば難しくないからね。
割れやすい白銅鏡は銅鐸の技術では出来ないよ。
銅鐸の線刻からは判肉彫りの意匠も無理だな。
962 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 11:17:49
家屋文鏡は、銅鐸を作ってた人間が作ったんじゃないかと思うようなデザインだけど、
銅鐸よりも肉厚になってる。
963 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 13:00:27
>>957 ムラの祭りの銅鐸から、首長霊崇拝の古墳に変わったってことだろ。
銅鐸が銅鏡に代わり、青銅祭器崇拝は継続しているとも言える。
964 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 16:20:56
>>949 大和で生産しなくても、輸入を独占出来れば、
三角を中心とした権威体制を構築することは可能。
倭王として承認を受けたヤマト王でなければ、魏の鏡工房で作られた三角を貰えなかったということ。
>>961 スズの含有率を高めると、
固く脆くなりますが、融点もぐっと下がるので、
いいところも悪いところも両方あります。平板な鏡の場合、
固く脆いのはそれほど扱いづらい特徴ではありません。
966 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 19:32:11
>>954 位至三公鏡のうち、日本で出土が多いのは、晋の時代に流行したもの。
そのデザインは魏の時代にさかのぼるかどうかさえも、不確定では?
>確実な中国鏡
それは思いっきり循環論法ですよ。
中国鏡かどうかを判断するための出発点で「確実な中国鏡」なんて決め事は無理。
中国出土鏡と日本出土鏡で比較するなら別だけど。
出土地で比較すると、紐孔のつくりで区別できないですよ。
日本でのみ踏み返しが出土する鏡を紐孔で無理やり中国製とする感じがしますね。
日本でしか出土せず、ほぼ全部同型である画文帯同向式などは、全部が日本製と
考えるのが、常識に適っていると思います。
967 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 19:37:27
>>959 三角縁の場合は、その大きさに指向性があることが顕著ですね。
一定以上の大きさを指向して、必要以上に大きくなっていない。
その大きさは、まさに「9寸以上」という条件です。
棺外に立てかけるというのも、魔除けとしての意識がはっきり出ています。
舶載説の人は、魔除けとすると確実に4C以降に下ることから、この議論を
意図的に避けてきたという面が強いですね。
970 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 21:59:19
巻向は突然すぎるよ。やはり人が突然やってきていることから
土着ではなく移民系だと考えたほうが自然。
>>969 山行く時の話は「魔除け」に読めるけど、
鏡で囲ってる黒塚なんかの出土例をみると、
七月七日の夕方の方の神仙を喚ぶ話の方が自然なんじゃないの?
>>960 近畿系銅鐸の分布は、
マキムクの外来系土器の分布と重なってるよね。
東瀬戸内海+若狭+伊勢湾で。
地理的には当たり前だけども。
973 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 00:45:29
>966
位至三公鏡が晋に型式に限定とか、難しいですね。三国鏡にすでにあるから。
晋代に踏み返しされた鏡が多く輸入されたという想定は認めますが。
確実な中国鏡=中国出土の中国鏡
さらにそれと同型式の日本出土の中国型式鏡は紐孔の作りが同じ
日本にしか出土しない倣製鏡の紐孔の作りが異なる
どう違うか分かっていないのですね
横からよく見てください
宿題です
また、古墳時代前期の中型以上の確実な倣製鏡は(議論のある三角は除き)、仕上げ研磨が非常に丁寧で、漢鏡と異なる。
原則一鏡一範で、踏み返しや同型技法を駆使する中国鏡と作鏡姿勢が異なる。
「確実な」中国鏡は循環論法と言われるが、それは違う
議論の少ないより「確実な」中国鏡と倣製鏡にまず分けて、グレーゾーンの鏡と比較し、それらがどちらにより近いか考察するのは当然だ
また中国鏡工人が渡来したら、という意見もあるが、その可能性は全く排除はしないが、
もし中国鏡工人が来たら、そいつらが作った「倣製鏡」型式の、中国鏡技法の鏡を見いだせない。
また、倣製鏡の作鏡姿勢が異なり、技法の影響が見えない。
唯一例外は平原の大鏡だが、これは逆に実は中国鏡の可能性も排除できない。後につ
974 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 00:45:30
今鏡の話が出てるんで
ここの東遷説論者とか他の恐らくは邪馬台国九州説論者に聞いておきたいんだがwwwwwwwww
岡村の編年で漢鏡Z期第一段階で共和国(楽浪)で著しく数が伸びている現象をどう解釈しているのかな?
― 同時期で日本でも九州と九州以東でも伸び(伸び方は九州以東の方が著しい)
その後九州は低落、九州以東はその勢いをキープ・・・と言う状態だが
国内だけで考えれば
「その逆転時期は4世紀以降のヤマトが勢力を伸張させた時」
だけで済むかもしれんが、楽浪での飛躍的伸びはどう言う解釈で整合性を持たせているのかな?
975 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 01:04:37
三角縁が、紐孔の仕上げがいい加減で、また鋳放しさえあり、それ故に三角縁が葬儀用かつ国産という説がある。
しかしこれはどうか?
まず、三角縁以外の古墳前期倣製鏡の紐孔は、半円形紐孔で、三角縁の長方形と異なり、また倣製鏡は仕上げ研磨が非常に丁寧で、三角縁とは全く異なる。
長方形紐孔や、外区の外周突線、銘文から三角縁とは親縁関係が指摘される河北遼寧省周辺に分布する三国代の倣古方格規矩鏡群がある。(同型式は日本でも多数出土。)
これらの紐孔って、写真で見る限り、その仕上げ研磨が中国鏡の中ではかなり粗い(鋳放しまであるのかは知らない)。これら鏡群は、チュウの頭に「鳥目」(小突起)が残されることがあるように(三角縁にはよくある)、全体の仕上げ研磨の姿勢も三角縁に通じる。
その工人らが、集中して短期間に三角縁を大量生産したら、元から粗い作りの作鏡姿勢がさらに粗くなったと考えることもできるので、初めから葬儀用として作られたかどうかはわからない
あと、中国鏡工人渡来説の場合、倣製鏡側に技法影響が認められない、あるいは中国鏡的な作鏡姿勢、技法の「倣製鏡」型式が無いのが疑問。
さらに、上記の倣古方格規矩鏡などの関連鏡群の、中国出土鏡での唐草文(雲文)の変遷と三角縁での変遷が全く一致するというのも、国産だと説明し難い。
もちろん、中国鏡に無い、異様な突出の乳や、粗雑な魚文など、まだ謎が多くあるが
>紐孔形状
あれって工人の系譜を探るに何処まで有用なんだろう?
細かい話”中子”の断面形状によって”湯の回り”がどうのこうのって話も無いだろうし
そもそも紐を通す穴の内面なんて通常外からは見えないわけで・・・
ぶっちゃけ、それこそ工人がその日の気分で
「今日は丸型、明日は四角・・・」
なんて事は無かったかのかな?wwww
977 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 01:12:54
>>973 位至三公が後漢の時代からあることは誰も否定しないんじゃないかな。
ただ、当初は縦ラベル四文字じゃなくて、四箇所に文字を入れるデザイン。
それを双頭竜文鏡と言ってしまうと、デザインが全く違うことが伝わりにくいね。
縦ラベル型の中でもデザインは色々あって、それらが全部三国に遡るかというと
そんなことは無くて、むしろ「魏晋」というくくりのなかでしか三国時代に遡れない。
単純に見れば晋代に大流行した鏡が日本に来ているということになる。
中国鏡といっても、埼玉稲荷山の画文帯のように5Cに渡来した原鏡を国内で
踏み返したと想定されるものもある。
同様に内向花文や方格規矩のように、中国での流通時期とは明らかにずれて
日本で大量に出ているものは、伝世よりも日本での製造を想定するのが合理的。
まさか、それを「確実な中国鏡」とすることもできまい。
家屋文鏡、だ龍鏡のように国産と確定しているものと、「漢式鏡」が一緒に出てきたときに
一方のみを舶載とすることもできない。
ことに獣帯鏡や画文帯までもが踏み返し同型が多いとなれば、その全部を舶載として
「確実な中国鏡」とする出発点は危ういと言わざるを得ない。
978 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 01:54:53
>977
位至三公鏡=双頭竜文鏡3式が三国からあります。後漢末にすでにあるという見解もあります。晋代に流行したのは否定しませんが。
前期古墳で「倣製鏡」と一緒に出土した漢式鏡も、単純に一緒に出土したから国産だとか、話が乱暴過ぎて納得できない人が大半でしょうね。
紐孔の宿題を考えてからにしてください。
5世紀の画文帯などの踏み返し鏡群も、ふつうは中国での踏み返しとされていますがね。古墳中期には日本列島側も青銅器鋳造が衰退しています。
新井宏氏の説で、鉛同位体から古墳出土の漢式鏡が、弥生後期出土の同位体比と異なる傾向にあるから大半は後世の踏み返しではないか、というのは同意します。
しかし、その踏み返しが日本でされたというのは根拠がありません。新井氏の論理なら、弥生後期の小型倣製鏡や銅鐸と同じ傾向の同位体比の弥生後期出土の漢式鏡も国産になってしまい、また逆の論理で小型倣製鏡も中国産だとか言い出しのもアリになります。
実際は、時期によって(漢末三国は中国の地域によっても違う)、主に流通使用されていた鉛の同位体比の傾向が変遷するというだけです。
古墳前期の倣製鏡と楽浪や中国華北から東北部の使われていた鉛が同じ傾向というだけです。
弥生中期後期がそうであるように、中国と日本列島で同じ青銅原料が使われていたというだけに過ぎません。
979 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 02:01:40
>977
よく引用されていますが、洛陽晋墓や顎城の呉墓に、踏み返しの漢式鏡や一見は後漢鏡と同じ倣古鏡が出土しています。
三国六朝期も内行花文や方格規矩鏡も含む「漢式鏡」が出土することがよくあることは、徐平芳氏などがすでに述べていますが。
(森浩一や安本美典なんかもその徐氏の論文をよく引用しています。)
980 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 02:06:40
>976
それは無い
鏡式や時代と強い相関関係がある。
例外が全く無い、とは言わないが
むしろ工人のあまり意識していないクセや流儀の可能性が高い。
981 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 02:37:09
>>970 >土着ではなく移民系だと考えたほうが自然。
もちろん、マキムクを作ったのは、移民だよ。
東海地方からね。
三角国産説の人みたいに九州からの移民なんてことはそれこそ考えられないよ。
チュウ孔について
中国鏡と倭鏡(ボウ製鏡)の違いですが、孔自体の形態ではなくて、その孔の「位置」に注目すべき
983 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 08:00:29
>981
まきむくの初めの頃は東海系はあまりないね
984 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 08:14:28
中国と日本では鏡の持つ意味が違うんじゃないかな。
中国は文字どうりの化粧道具。
日本では、宗教的な意味合いのほうが強かった、とか。
985 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 09:46:10
986 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 11:51:52
>>978 踏み返しについては、日本での同型踏み返しが出土していて、傷の増加による
系列化もできるという状況で、それが中国で生じたと考えるのは、無理では?
987 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 14:18:00
初心者だが、銅鏡の製作方法を考えれば、大量生産する場合は
中国でも踏み返しをするしかなかったということだろ。
土製鋳型をまず作って銅を流し込んで一枚作る。
土製鋳型の耐久性の問題もあり、同じ鋳型ではせいぜい2〜3枚が限界か。
もう一回鋳型を手彫りするのは手間。
踏み返しをした方が安易だが彫りがシャープでなくなると。
988 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 16:24:38
舶来品が珍重されてた時代に、規格外の鏡を作って威信財になるか?
確かに倭人が作ったとするなら変なところ(縁形状)にオリジナリティ出しているのが頂けないなw
>987
そういうこと
>986
5世紀の画文帯神獣鏡?
倭国内に5世紀製作のまともな倣製鏡があまり無いからな。古墳前期ならともかく、中期は技術的にどうだか怪しい。
中国に原鏡と踏み返し二次原鏡があり、一部を除き多量生産した踏み返したものが全て来たとしたならら問題ない
もともと下賜輸出用に昔の鏡を引っ張り出して踏み返し多量生産したなら、手元にあまり残す必要はない。
当時の中国では、三国までと違い小型鏡しかあまり需要は無かった
ちなみに、5世紀の画文帯などの「同型鏡群」のうち、一つについては中国に原鏡が存在することが指摘されている(川西ひろゆき氏)
神獣鏡同型鏡群を模倣倣製した鏡がいくつかあるが(隅田八幡鏡など)、鏡胎の暑さや研磨、紐孔など、同型鏡群とは異なる。
倭鏡工人が倭国でもと中国鏡の画文帯を踏み返したなら、文様は踏み返しされるが、それらの技術は倭鏡と同じになるはずだが、異なる。
>985
マキムクの報告、報告補遺編とか
マキムク1式は外来系土器比率が1割くらい
そのうち、東海系は2、3割(以前に東海系とされたものの一部は北近畿系や近江系がある)
マキムク1式段階は吉備がむしろ以降に比べて多い
マキムク3式に外来系土器比率が3割近くになる。その時点で東海系がその半分近くになる
東海の人が多く来ているのは事実だが、マキムクを「作った」というのはどうだか。箸墓はじめ土木工事にかり出された可能性はあるので、ある意味「作った」人たちかもだが
また北部九州の土器はごくわずかだ。しかし、博多で確立された鍛冶技術の伝播や(工人の移動は確か)、鏡の祭祀(ホケノの破砕鏡など)とか大陸系文物や思想の流入を見ると、九州から全く人が来ていないというのは疑問だと思う。
マキムクに大陸系土器がごくわずかだから、九州の人を介して大陸の情報や文物、技術が持ち込まれたのではないか。
土器を持ち込まないような人の移動のあり方もありうる。
もちろん、大挙して来たというのはないだろうが。だからいわゆる東遷説は成り立たないだろうが。
>>990 つまり、日本でのみ多数出土するのは、特鋳ってこと?
993 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 19:10:56
>>991 九州から技術が伝播したというより、
吉備から伝播したというほうが近いのでは?
994 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 19:38:04
呉滅亡以降しか、神獣鏡が日本流入し得ないというのはウソ。
倭国は昔は公孫氏に属し、公孫氏と呉は海上交通で行き来があった。
そのルートで流れ込む可能性は十分にある。それが画文帯であろう。
また孫権が魏に外交上臣従していた時期があり、その時期には呉で魏年号の鏡が多数作られている。その時に伝播した可能性も強い。
995 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 19:39:02
画文帯は朝鮮経由だろ。
996 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 19:41:05
そもそも、神獣鏡は長江流域のショク地域で誕生したと言われており、
呉領域限定で生産されていたものではない。
戦乱で華北の鏡工房が衰退したことで、呉が目立っているだけとも言える。
神仙思想の流行で、中国全体で神獣鏡が流行していたのだろう。
>993
いや、蒲鉾形断面のフイゴとか、博多から直結
吉備には今のところ博多のような古墳初めの卓越した技術と量の鍛冶遺構はない村上恭通氏の著作読むべし
画文帯については、日本に入っている様式群はいわゆる江南の呉鏡は意外に少なく、山東省や徐州、楽浪に出土する様式群が多く来ている
だから、上で指摘されるように、神獣鏡の日本への流入は呉滅亡を待つ必要はない
ところで次スレは?
老教授か誰か立ててください
梅
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