戦国日本軍 vs スペイン・ポルトガル軍

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446日本@名無史さん:2009/12/15(火) 11:17:59
アルマグロクロマグロ
447日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:15:41
>>428-429-430-433
ID出ないからって自演バレないとでも思ってるの?

>>443
インカの皇帝と違って、将軍や天皇に関しては利用価値が無くなれば
わざわざ助ける事はないと思われるから効果はないんじゃない?
日本側に銃が無くたって、たかだか数百人レベルの軍隊で日本の一大名と
勝負になるとも思えないな。

もちろん、当時のスペインは世界最強だし、総力戦になればさすがにスペインが
勝っただろうが、南米やアジアの数ヶ国を相手にした数百〜多くても数千レベルの兵力で
日本を侵略するのはさすがに無理ありすぎ。
448日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:24:38
>>447
>当時のスペインは世界最強

冬厨か?
もう少し過去レス遡ってからレスしな。
449日本@名無史さん:2009/12/27(日) 20:21:45
>>447
で?
日本兵がどうやって海を渡るか説明しろよw
450日本@名無史さん:2009/12/28(月) 01:40:30
>>449
海ならちゃーんと渡って朝鮮、中国相手に連戦連勝ですが何か?
>>433と同じ意味なら>>434がとっくに答えてるわw
しかし「海を渡る」事にこだわるなwそれしかないのか?w
第一、日本側は元々海外に攻め込む気なんかない国だったから、外海用の
軍船が発達しなかったのは当たり前。恥じる事もなければ悔しがる必要もないね。
逆にその気になればあっさり日本に攻め込めるはずのスペインが何もしてないって事の
方が情けねえわなw
451日本@名無史さん:2009/12/28(月) 04:20:50
しかし、日本の異常な動員能力っていうのは戦国時代だからなのかね?比較的安定の時期だとどんなもん?
452日本@名無史さん:2009/12/28(月) 09:13:07
鎌倉時代にはかなりのレベルだとおもうけどねー

比較的安定した時代ってのが難しい概念だな
平安末期から江戸時代までで長らく特に戦がない時期ってないと思う
室町の最初のほうぐらいでしょ。それも一瞬といってもいいんじゃないかという程度だし。

453日本@名無史さん:2009/12/28(月) 10:33:26
少なくともモンゴルと戦った時には
既に最低でも10万は動員出来てたよ。
454日本@名無史さん:2009/12/28(月) 12:45:49
>>450
嘘言っちゃいけない。
朝鮮相手に敗退した事実くらい知ってるだろう。

ここのスレタイは相手が南蛮を想定してるから海を渡るのにこだわるのは当たり前。
海峡をこえて半島にいくのと、大海を渡ってルソンに行くのでは違いすぎる。
事実日本では何もできなかった。

あと、あんたが言うように恥じることはないが、
そこは多くの信長ヲタ相手に説教したほうがいいよ。
455日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:25:47
文禄の役って日本軍が朝鮮半島南部を征服したまま講和になってるんだから、日本の勝利だよね。
456日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:30:06
まあ少なくとも朝鮮を制圧していた当時の日本に対して
海がどうのこうのというのは愚問だね
------------------------------------------
434 :日本@名無史さん:2009/11/20(金) 15:27:28
ん?フィリピン攻略の話って基本的に
明攻略に関連して「うまくいったらやるかもよ?」レベルの話だろ

つまり日本からどうやって行くのっていう質問自体が愚問
明朝鮮に拠点を築いたうえでの話だから、聞くなら
明からどうやっていくの?と聞かねばおかしい
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457日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:31:16
文禄2年1594年の、マニラ総督宛ての秀吉の書状が残っている。
スペイン国王に開城するように申し渡している手紙である。

(前略)
予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラの攻略許可を求めている。
これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川)法眼は予に、
『彼我の地の間には諸船の往来があり、それによって(マニラが)敵であるとは思えない』と
言った。
この道理によって予は(マニラへ)軍勢を派遣することを思い留まったのである。
(中略)
もし彼ら(シナ人)がその言葉を守らぬならば、
彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。
こうしてシナに到ればルソンはすぐ近く予の指下にある。
予は我ら(日本とフィリピン)が永久に友好を保つことを希望する。
これを(カスティリャ王に)書き送られよ。
遠隔の地を理由にカスティリャ国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ。

パステルス「日本・スペイン交渉史」
458日本@名無史さん:2009/12/28(月) 14:32:13
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

パステルス「日本スペイン交渉史」
459日本@名無史さん:2009/12/28(月) 18:03:59
慶長の時は敗退してるんだが。文禄も拠点もつくれず終わったんだから何もならんよ。

朝鮮に渡るのとルソンに渡るのでは雲泥の差。
朝鮮ならピストン輸送も可能だが、遠いルソンはそうもいかない。

スペインの書簡など話にならないね。
日本は攻める力もないからスペインの杞憂というもの。
460日本@名無史さん:2009/12/28(月) 23:05:14
犬と電信柱に止まってる小鳥で、
「だからどうやって犬が電柱に上がるんだよwww」
って言ってるのと同じだな、スペイン厨の言い分はw
461日本@名無史さん:2009/12/29(火) 00:20:58
>>459

蔚山でも、泗川でも、順天でも明軍は敗退していますが?w
それ以前にも明軍は南原城の戦いで敗退、稷山の戦いで敗退、第一次蔚山城の戦いでも惨敗。
慶長の役では、明軍は一度も勝利できなかったんですけどw

360 名無しさん (2009/12/21(月) 19:09:45 ID:ja5ZKbCM)
明軍は投降した日本人捕虜など数十人を北京へ連れて行って全員処刑し、
そのうち数人は宗義智や島津義弘といった「倭将」として凌遅刑に処した。
凌遅刑とは歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑であり、
本来は反乱の首謀者などが対象となる。明は面子を保つために、
単なる一兵卒に過ぎない捕虜を「宗義智」や「島津義弘」といった将軍クラスであると
でっちあげて凌遅刑に処したのである。

日本軍が討ち取った明の将軍
載朝弁、史儒、 張国忠、馬世隆、廬継忠、楊万金、李寧、廬徳功、ケ子龍、陶明宰

明軍が討ち取った日本の将軍
中川秀政
462日本@名無史さん:2009/12/29(火) 01:29:05
>スペインの書簡など話にならないね。

あのな、対日本人向けの社交辞令やお世辞ならともかく、自国王に向けた報告での評価だぞ。
それを話にならないってお前・・・w
463日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:24:35
>拠点もつくれず終わったんだから
釜山だけで20以上もの城を築いてますがなにか?
464日本@名無史さん:2009/12/30(水) 02:35:45
 「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
 「我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった」
465日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:09:42
13 :世界@名無史さん:2009/06/03(水) 01:00:51 0
>>8
実戦で朝鮮水軍に日本水軍は負けてたじゃん。

14 :世界@名無史さん:2009/06/03(水) 11:18:10 0
>>13
朝鮮水軍は、文禄の役前半の輸送船に警護船が数隻ついただけのような日本船団にこそ
勝ってたが、日本側が海岸の要所を押さえて防御網を整えると、熊川−南海島ライン以東には
進入することもできなくなり、そして日本が軍船を整えて臨んだ慶長の役では、緒戦で
朝鮮水軍はあっけなく壊滅、件の李舜臣は残兵を収容しての撤退戦こそ成功させたものの、
その後は明水軍が到着するまで単独では攻勢に出ることすら全く出来なかったワケだが。
で、最後には急造の上に戦力的にも劣る島津水軍に返り討ちにあってるし。

史実はこんなモンだよ。



>>15
閑山島海戦は陸から再び船手に戻された脇坂が功を焦って先走っただけでしょ。動員定数1500で
実数は1000に満たなかったと思われる脇坂勢が朝鮮水軍全力(5000〜7000ほどか)に包囲されて
袋叩きだから勝てるわけがない。

当初計画通り、加藤・九鬼と合流して当たっていればまた違ったと思うよ。




466日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:20:37
戦争は戦闘行為だけじゃなく、戦場に行く手段や平坦を確保するのも含みます。
どこかに戦場を設定して白兵戦をすれば、日本軍はスペインポルトガルくらい撃破するでしょう。
しかし実際に戦うためにはルソンに行く手段がない日本は戦えなかったというのが事実。
スペインのほうでも日本に攻めてきたって勝てやしないんだから戦争にはならないんですね。
ちなみに朝鮮の話だけど、拠点を作っても維持できなかった時点で日本は負けも同然ですよ。

結論:
日本は守ることはできても攻めることはできなかった
467日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:23:58
追記。
スペイン書簡の仮定法ですが、ヨーロッパ言語の仮定法の使い方で、
この文は「ありえないことだが」という条件付の仮定法と思われます。
「朝青龍にぶん殴られたら俺死ぬわ」みたいなもので、
実際に心配しているわけではありません。
本当に心配したものであれば、スペインは日本の高校技術力のなさを知らなかっただけで、
ここに書いてあるから日本が勝てるというものではないと私は考えます。
468日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:36:06
163 :世界@名無史さん:2009/08/22(土) 08:06:18 0
スペインなんぞは、実際には原始時代みたいなところしか占領できなかったけどな。
スペイン人の半島人特有の誇大妄想と他者の過大評価が大きすぎ。

345 :世界@名無史さん:2009/12/23(水) 19:29:17 0
日本軍と明軍の主要な戦闘

1.祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲   
  →小西行長の配下一万によって撃退される

2.李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃  
  →小西行長とその配下一万五千はたまらず敗走、明軍は平壌城を奪還 
  
3.李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍二万と激突   
  →日本軍が数に劣る明軍を大破(碧蹄館の戦い)。

4.晋州城攻防戦(第二次)において、
明将劉テイ指揮下四万が普州城の救援に向かったとの
報を受け、立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃   
  →日本軍が撃退に成功

5.明・朝鮮連合軍が守る黄石山城を日本軍が襲撃   
  →陥落

6.明・朝鮮連合軍が守る南原城を日本軍が襲撃   
  →陥落


469日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:37:15
346 :世界@名無史さん:2009/12/23(水) 19:30:11 0
7.稷山で解生率いる明軍先遣隊八千と黒田長政率いる五千の部隊が遭遇戦   
→一進一退の攻防の末、明軍は戦意を喪失。日本側に援軍が現れたのを機に撤退

8.楊鎬、麻貴率いる明軍四万四千と、朝鮮軍一万二千の連合軍が完成前の蔚山城を急襲(蔚山城の戦い)   
→加藤清正を指揮官とする篭城側一万が防戦、
その後日本軍一万二千が駆けつけ連合軍を大破
日本軍は敗走する連合軍を30里に渡って激しく追撃し、壊滅的な打撃を与えた

9.麻貴率いる明軍二万四千、 金応瑞率いる朝鮮軍五千五百の連合軍が再び蔚山城を襲撃(第二次蔚山城の戦い)    
→日本軍は防戦に徹し、これを退ける

10.董一元率いる明・朝鮮連合軍およそ三万七千(諸説あり)が泗川城を襲撃(泗川の戦い)
→島津義弘配下七千が城外へ打って出て連合軍壊滅(すげえ)

11.劉テイ率いる明軍二万二千、権慄率いる朝鮮軍六千、
陳リン率いる明水軍二万、李舜臣率いる朝鮮水軍七千からなる連合軍が順天城を襲撃(順天城の戦い)
→小西行長配下一万三千が防戦し、これを撃退

12.明・朝鮮連合水軍五百隻が島津水軍五百隻と激突(露梁海戦)
→双方に甚大な被害。しかし島津水軍は小西行長らを撤退させるという作戦目標を達成し、連合軍は明水軍副将のケ子龍、朝鮮水軍大将の李舜臣が戦死した

日本圧勝だな


470日本@名無史さん:2009/12/30(水) 21:46:04
>どこかに戦場を設定して白兵戦をすれば、日本軍はスペインポルトガルくらい撃破するでしょう。

別にこれさえ認めるならいいんだけどね。しかし、

>しかし実際に戦うためにはルソンに行く手段がない日本は戦えなかったというのが事実。

スペイン厨がここに拘るから話がこじれるw

>ちなみに朝鮮の話だけど、拠点を作っても維持できなかった時点で日本は負けも同然ですよ。

うん、それをもって日本の負けだと主張するなら別に日本の負けでいいんだよ。
実際の戦闘では朝鮮側の連戦連敗だという事実さえ認めるならね。
明和の歴史板でこれを言ったら朝鮮厨が何故かWWUの日本vs米を持ち出して煽る馬鹿がいたけどw
471470:2009/12/30(水) 21:48:24
あ、考えてみたらほとんど日本vs明で、朝鮮はかやの外同然だったw
472日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:37:29
>実際の戦闘では朝鮮側の連戦連敗だという事実さえ認めるならね。

それは事実だから認めますが。私とだれかと勘違いしているのでは?


ちょっと自分の前の書き込みで変換ミスが多かった。
戦争ってのはゲームじゃない、勝つだけでは意味ないんですよ。
なんのために戦うのか、ここ重要ね。
このスレの仮定であればルソンを占領しに行く話はしていないから、
「ルソンを取れれば日本の勝ち、できなかったら負け」という話にもならないはずですが、
しかし白兵戦でスペインを倒すことだけが目的なら、
「戦闘行為からはじめる」という条件があれば日本が勝つと主張するものです。

書簡の書き込みが少し話をこじらせているようですが、
「日本がルソンをとりにいくなら」という話をすれば、
残念ながら移動手段も兵站も確保できない日本は勝てない(ルソン占領は無理)ということです。
実際にルソンをとっても維持する意味がありませんから、それを恥じる必要などないはず。
473日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:46:46
前のほうの書き込みを見てみたら、船の話で

「慶長遣欧使節(キリッ」

なんてありますね、これは失笑モノ。
サンファンバウチスタ号なんてせいぜい100人乗れればいいほうで、
とても海外に派兵する力なんかありません。
もし100人送っても、またとんぼ返りして迎えにいく、なんて繰り返していたら、
個別撃破されるか出兵先で全軍餓死するのが関の山です。
船を造ればいいってものじゃない、簡単に造れるほど技術がないし、
だいいち、いきなり100人が乗れるほどの船を造ったんではないのですよ。
段階的に大きな船を造っていき、ようやくその時にサンファン号が造れるようになったんです。

ゲーム感覚で話をすれば、最初から船があり、兵は飯も食わずに生きていけるし病気にもならない、
しかも故郷を離れルソンに島流し同然でもなんら望郷の感情も持たないという、
サイボーグみたいな足軽しかいないと思っているのでは。
474日本@名無史さん:2009/12/30(水) 23:21:35
スペインってまともな文明持たない国を征服しただけで、それ以外には目と鼻の先の
アルジェすら征服できなかった国だろ。
ザコじゃん。
475日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:19:17
例えば朱印船だと1604年新造の加藤清正船が800d、1610年の島津忠恒船が700d。
両方とも300人以上乗船できるし、ルソンはもちろんアユタヤやパタニまで航海できる。
ルソンまでの移動手段がないとか幻想だよね。
476日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:56:03
ぼはま?
477日本@名無史さん:2010/01/03(日) 21:34:22
>>473
>もし100人送っても、またとんぼ返りして迎えにいく、なんて繰り返していたら、
>個別撃破されるか出兵先で全軍餓死するのが関の山です。

クソワロタwww
こいつの頭には同じ船を何十何百も作るって発想はないらしいwww
せめてそっちの発想で「それだけの数の船を作るのにどれだけの時間がかかるか?」
で攻めればいいのにw

>ゲーム感覚で話をすれば、最初から船があり、兵は飯も食わずに生きていけるし病気にもならない、

だから日本側がそういう点を考えないとでも思ってるのか? って話なんだがw

478日本@名無史さん:2010/01/11(月) 12:06:23
>>445
細川自らは会わないでしょ
幾ら運が良くても、武装解除した状態で香川氏とか安富氏とかの細川四天王が接見する程度

それに和歌山に漂流した所で
傭兵と見間違うような異教徒集団に囲まれてガクブルするのがオチ

479日本@名無史さん:2010/01/11(月) 12:41:23
日本とスペインが交戦する可能性があったとすれば、
琉球諸島を占拠された場合等だろうから日本側の補給はさほど問題ないと思う。
480日本@名無史さん:2010/01/11(月) 13:05:07
>>478
時代は違うけどこれを思い出したよ

 「伏見で我々が会ったのは土佐藩の護衛のサムライたちだったが、
 彼らは悪夢に出てくる怪物そっくりの格好で、見た目も荒々しく、
 鎧を着て、恐ろしい形相の仮面を被り、兜から両肩にかけて、
 黒と白の馬の毛で作った長い乱れ髪が垂れていた。
 この恐ろしい無言の悪魔に護衛されて、我々は京都へと進んだ。」
 
                 Algernon B. Mitford回想録1871 
481日本@名無史さん:2010/01/12(火) 20:11:03
>>474
>スペインってまともな文明持たない国を征服しただけで

インカ、アステカは武器が原始時代レベルから発達しなかっただけで、
それ以外の文化は欧州や中華&日本と比べても特に劣ってなかったと思う。
アタワルパ以後の新・インカ勢力は、スペイン軍から奪った銃や馬も使い
こなしてるし。
482日本@名無史さん:2010/01/13(水) 03:08:51
>>481
銃や馬ぐらいなら、インディアンでも使いこなしてる。
冶金技術どころか、まともな文字体系すらない時点で、
日本でいう縄文時代程度の文化レベルでしかない。
483日本@名無史さん:2010/01/14(木) 10:22:14
オーパーツスキーは歴史板よりもオカ板の方がお似合いですよ
484日本@名無史さん:2010/02/13(土) 05:54:29
満州やモンゴル諸国から見ても、大陸の明朝と半島の李朝は兄弟国であった。
明は白蓮教徒の明主が建てた国だったので明という。
元朝に宗教反乱で立ち向かい、モンゴル人の放漫な紙幣濫発政策に対する反省から、
当初は反商業的な国家として誕生した。
同時期成立の李朝はこれを真似し、明がそれを捨てて発展していたころ、なおも反商業的であった。

商店も筆屋と鍮器屋くらいしかなく、人々は市場と行商人に頼っていた。
曲げ物の技術がなく、車輪も樽もない。
物は背負子に担いで人が運んだ。
染料も顔料もないので、民間人は白衣、陶磁器は白磁だった。
李朝は、いわば世界が中世期の頃に、古代国家として発生したインカ帝国に近い存在として特筆される。
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091229/kor0912290245000-n1.htm
485日本@名無史さん:2010/02/18(木) 10:32:59
>>482
インディアンに対する偏見丸出し
486日本@名無史さん:2010/02/20(土) 08:32:11
インディアンは土地の所有に関する概念が希薄だったのはまずかった
ガラス瓶とかボタンとかどうでもいいがらくたと交換で簡単に土地を譲ってたと聞いたことがある
事実なのかアメリカンジョークなのか知らんけど
487日本@名無史さん:2010/03/09(火) 11:55:02
どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。
ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。

ノエル・ペリン
488日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:33:29
ほほー
489日本@名無史さん:2010/04/11(日) 15:33:07
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

パステルス「日本スペイン交渉史」
490日本@名無史さん:2010/06/08(火) 05:19:43
文禄2年1594年の、マニラ総督宛ての秀吉の書状が残っている。


(前略)
予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラの攻略許可を求めている。
これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川)法眼は予に、
『彼我の地の間には諸船の往来があり、それによって(マニラが)敵であるとは思えない』と
言った。
この道理によって予は(マニラへ)軍勢を派遣することを思い留まったのである。
(中略)
もし彼ら(シナ人)がその言葉を守らぬならば、
彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。
こうしてシナに到ればルソンはすぐ近く予の指下にある。
予は我ら(日本とフィリピン)が永久に友好を保つことを希望する。
これを(カスティリャ王に)書き送られよ。
遠隔の地を理由にカスティリャ国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ。

パステルス「日本・スペイン交渉史」
491日本@名無史さん:2010/06/10(木) 10:26:35
柳成竜『懲録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)

・日が暮れ、賊は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。

・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。

・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
 (金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。

・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。

・水際を行ったり来たりしている者は、あるいは一、二名、あるいは三、四名ずつ、
大剣を肩にしていて、それに日光が反射してきらきらと電のように閃いていた。

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
492日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:27:36
日本は秀吉の天下統一まで一枚岩じゃないし、
朝鮮はともかく台湾に派兵する能力はないから。
493日本@名無史さん:2010/06/10(木) 12:34:24
攻め込むことは無理だけど日本が制圧されることもない。

戦場を決めて戦うなら日本は強いが戦場まで行く能力はない。
494日本@名無史さん:2010/06/10(木) 15:55:34
>>2
ジグムント3世のポーランド=リトアニア共和国が対ロシア戦争を成功させ、
ポーランド=リトアニア=ロシア共和国を成立させていたら、
あの時代で既に日本と戦争になってたな
495日本@名無史さん
そんなもんヌルハチ様が退治してくれる