naruresu
202 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 06:32:34
人口(当時世界三位)、経済力(世界屈指の金銀産出)軍事力(世界最多の鉄砲、百年鍛えぬかれた練度)などからみて、実はこの頃が日本のピークだったりして…
国民生活レベルは最低だけどな。
海のはて、極東の不思議な国だね。
フロイスらもそう記述していた。
不思議なまで礼儀正しく学問好き、清潔好き、好奇心旺盛。
で、残忍で冷酷。腹の底、本心を絶対に見せない。
国土は地味乏しく貧しい。飯まずい。
極度に重罰、治安が良好。が戦乱ばかりで王侯の命運といえど
定かでない。
治安が良好だったのか。
これが一番意外。
206 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 19:53:09
良いといっても戦乱がない時期、領主の権威が
強固な時期だけど。
フロイスやオルガンティーノは、秀吉以前は各地で
強盗の被害にあっていた。
それと西洋人の国情に比べれば、あるいは
他の東洋諸国と比較して、という意味もあるだろう。
過去の栄光だね。もう今の日本に未来は全くない。
208 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 09:21:00
いやいや、紅毛どものかの国々が、贅沢三昧、
民から搾取の限りを尽くしておるうちに、台所がままならぬ
有様であるからして、直に良くなるじゃろう、日ノ本は。
209 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 08:15:52
結局、明治維新ってたいしたことじゃなかったのでは?
世界経済の成長史という本によると1820年代で日本のGDPは世界6位。
明治から急に日本が成長したというわけではない。
明治維新の意義は、政権が変わったことと西洋化したことだけだろ。
210 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 10:17:39
明治維新論をここで、となると大変つかれる話だ。
が、あのまま鎖国続けようとしていたら清のようになってたぽい。
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである
(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
パステルス「日本スペイン交渉史」
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
215 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 21:56:53
陸戦なら日本の戦国大名の軍のほうが強いだろ。フィリピンやタイで日本の浪人の傭兵が
10倍以上のスペイン、ポルトガルの軍をボコっているし。
>>215 その話よく聞くんだけど何年のどこの話なのかkwsk
217 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:25:55
1613年オランダ平戸商館開設間もない時期に、
最初の集団契約移住者がローデレーウメット・パイレン号で
バタヴィアに向かったが、同時期に艦隊司令官として着任したクーンが、
13隻690人の兵員でのテイドール島遠征には40名の日本人一隊が
参加しているのはモルッカ遠征の為の募集に相異なかろう。
同年9月9日イスパニア人の拠る旧ポルトガル城塞に
一番乗りの旗を翻したのは日本傭兵で、あまりに大胆剽悍なため
多数の戦傷者をだしたと戦況報告をしたためている。
218 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:27:45
有能な知事フレデリック・ハウトマン(1621年)の名簿にも、
オランダ人40名マルダイケル25名、日本人20名の名簿があり、
カラマタ城塞篭城戦では、イスパニア側戦死11、負傷40、
オランダはオランダ人7名、日本人3名戦死、20名が負傷している。
アドリヤーン・ファンデス・デユッセンの総勢九百人の兵力での
バンダ遠征には、日本船一隻が随伴してプロウ・アピ攻略に向かい、
隊旗を掲げて進撃したことをクーン自らが報告している。
翌年のヤン・デイックゾーン・ラムは陸兵7隊、水兵3隊、
日本兵23名でプロワイ攻略に向かっている。
この事から日本人傭兵は直接参加、バタヴィア遠征隊
(旗艦ニューホランデイアに42名)と相当数と想像出来る。
1621年3月14日、旗艦上で作成の決議録には
オランダ志願兵34名、日本兵15名に論功行賞60レアル30レアルを授与している。
219 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:28:44
東インド会社使用人ドイツ人ヨハン・シグムント・ウルフバインの
1634年1月24日の日記には‘刑吏トマス・茂助Moschは、
シナ人料理店から裸足で歩いてきて、斬罪宣告の罪人を
片手で一刀で斬首して役目を果たした’と書き残し、
絞首罪や鞭打ちは奴隷に任せたとも書いている。
脱走した兵卒ヨハン・ヘルマンも死刑を宣告され同様に斬首されたとも。
220 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:07:42
短パン
パステルス「日本スペイン交渉史」
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙・・・コーチシナ、
ここは1000人で征服できます。カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の
生活の面倒をみてくれています。シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。
文禄の役
釜山に上陸した日本軍に対し、朝鮮軍はあっという間に敗北。
釜山鎮の戦い(鄭撥戦死)、東莱城の戦い(宋象賢戦死)、尚州の戦い(李鎰敗走)、弾琴台の戦い(申立戦死)
などで日本軍は勝利を重ねた。
日本軍は第1軍(小西行長、他)、第2軍(加藤清正、他)、第3軍(黒田長政、他)を先鋒に
三路に分かれて急進し、翌5月には首都漢城(現在のソウル)を占領。
朝鮮国王の宣祖は平壌へ遷都して避難、
さらに日本の進撃が迫ると遼東との国境である北端の平安道義州へと逃亡し、
冊封に基づいて明に救援を要請するが、
その間にさらに北上した日本の第1軍と第2軍は平壌を占領して進撃を停止した。
あまりに容易に李氏朝鮮の王都である漢城が陥落したため、
日本の諸将は5月に漢城にて軍議を行い、
各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた
平安道 第1軍小西行長他、
咸鏡道 第2軍加藤清正他、
黄海道 第3軍黒田長政他、
江原道 第4軍毛利吉成他、
忠清道 第5軍福島正則他、
全羅道 第6軍小早川隆景他、
慶尚道 第7軍毛利輝元他、
京畿道 第8軍宇喜多秀家他、
日本軍は北西部の平安道と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、
加藤清正の一隊は国境を越えてオランカイへ攻め入った。
223 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:32:27
ほー
224 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 21:15:49
海軍力では、スペイン・ポルトガル連合軍には勝てないが
地上戦に持ち込めば、勝機も生まれる。
だが、地上戦でも鎧で身を固めた豊臣軍は南方の暑さに大変苦労するだろう。
>だが、地上戦でも鎧で身を固めた豊臣軍は南方の暑さに大変苦労するだろう。
は?南方ってどこのこと?
スレタイに東南亜細亜と書いてありますよ
>ポルトガル軍と東南アジア近辺で衝突した場合
どうなっていたか
一例として東南亜細亜とは、フィリピンやマレーシアなどなど
南方とも表現します
東南亜細亜=南方亜細亜
南方だけでは言葉足らずだったかな…
743 名前:とてた ◆0Ot7ihccMU 投稿日:2009/05/05(火) 10:01:42 0
オフ会絡みで。
明治期には「東南アジア」という地域区分はなかったこと。
僕が入手した明治時代の尋常小学校用教科書では、
インドシナ・シャム・ビルマは前印度、印度・バルチスタンは後印度となっていました。
フィリピン・ボルネオ・蘭領印度はオセアニアの区分でした。
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである
(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
南方で勝ってるな
正規の日本軍ではなく日本人傭兵団だが
229 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 02:58:55
>>228 最初は飛び道具の打ち合いでも相手の陣地を崩すには結局接近戦になるが、接近戦は武士
の方が強いからな。
武士が強いのは確かだが
それだけの例じゃな
ヨーロッパでも鎧をつけず、短剣と投槍だけで
オスマン相手に連戦連勝して
重装騎兵も恐れさせた
アルモガバルスって気違いみたいな傭兵集団がいたからな
本国から本格的な戦闘員連れてきたらどうだろうね
(中略)
陸戦では日本は強かった。スペインも日本を恐れていた。
実際、秀吉がルソンに朝貢を促した時、スペインのあわてぶりに驚く。
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」
パステルス「日本スペイン交渉史」
実際やったらどうかというより
スペインのほうはもうやりたくなかったみたいだな
ちなみにパステルスはルソンに朝貢をうんぬん言ってるが
朝貢じゃなくて開城だった気がするんだが…
結局
>>1についてはifの定義によるんじゃないの?
史実では朝鮮出兵すら失敗しているわけで、東南アジアまでいってポルトガルスペインと戦うのは不可能
でも、不可能だから敗北というんではifの意味がない
とはいえそれを可能にするifの条件(日本の補給は万端で現地の協力あり、とかね)によっては日本の勝利が確定してしまうと
「明史」の記述
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
「我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった」
プロシア「最近アジア方面での貿易で日本に押されてるらしいけど貴国の軍事力ならさっさとあんな小国黙らせられるんじゃないの?なんなら俺が変わりにやってやろうか?」
スペイン「いややめといたほうがいいっすよ。たしかにウチらの海軍力なら日本には圧勝だと思いますよ艦砲射撃の段階までなら。でも制圧するには上陸しないといけないじゃないすか、これがきついっす。」
プロシア「なんで?楽勝だって」
スペイン「あいつら平民はおとなしいし楽勝なんですが貴族がやばい。サムライって言うんですがあいつらは侮辱されたりしてキレると手がつけられない。
どこまでも追いかけてきて自分を侮辱した相手が死ぬまで諦めないんです。こっちが鉄砲撃とうが何人いようがあとで自分が死刑になろうがお構い無しですよ。知ってます?あいつらの死刑って自殺するんすよ。自分で腹を切るんです。どっかおかしいんすよあいつら」
プロシア「グロいなそれ」
スペイン「しかもキレてるだけじゃなく実際ケンカも強いッす。カターナっていう刃物もたれたら俺らじゃどうしようもないッす。他国の海兵隊で以前奴らともめたのがいたんですが、毎晩のようにゲリラ戦をされ
ライフルごと斬られたりカターナを受け止めきれずに頭にライフルがめり込んだりした乗組員の死体の山が出来たそうですよ」
プロシア「マジかよあり得ねー」
スペイン「結局示談になったらしいっすが生き残った乗組員のほとんどもノイローゼになったって話すよ」
プロシア「うわ悲惨」
スペイン「おだてておけばおとなしいし銀とかいっぱい持ってますからね。信仰においては野蛮人ですし攻め滅ぼしたいのは山々なんですがここは仲良くやっとくほうが利口だと思いましたよ俺」
プロシア「大変だなお前も」
235 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 20:01:56
ポルトガル人が日本に鉄砲を持ち込んだのはヨーロッパ史上最大のミステイク
236 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 20:25:43
シャムの日本人傭兵部隊がイスパーニャ艦隊と交戦して勝ったらしいな
237 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 09:22:16
>>1 日本が勝ったに決まってるでしょ。
遠路はるばる数年かけてやって来る本国と意志疎通も途絶え々々の集団に
なぜ負けることがある。そんなに日本は弱小国じゃねえって。
圧倒的な地の利があるのに。
ちなみにスペインは対明攻撃に秀吉の援護を要請していたようだが。
対外戦なら、向こうの航海技術と日本の戦闘力が組めば無敵だったかもな。
歴史のifでした
238 :
日本@名無史さん:2009/08/10(月) 06:45:10
地の利とかの前に日本がヨーロッパにあったとしてもヨーロッパごとき雑魚に負けるかよw
白人なんて所詮食いっぱぐれて産業革命起こしてからでかい顔してるから参っちゃうね
239 :
jyonniru:2009/08/10(月) 22:54:04
いい加減ネット右翼も現実を理解しろ!
別に戦国時代の日本を特別弱いとは思ってない!
200年間の平和を貪っていた正規軍7・8千人の朝鮮
を16万からの大軍であっという間踏み潰すぐらいは強いと思うよ!
240 :
jyonniru:2009/08/10(月) 23:03:36
いくら石器の武器のみでも、たったの480人や180人の兵力で
何万人、何十万人の大軍を相手にして殲滅戦に勝利したスペイン人
よりは弱いっていってるだけだよ!
241 :
日本@名無史さん:2009/08/10(月) 23:16:15
いい加減ネット右翼も現実を理解しろ!
別に戦国時代の日本を特別弱いとは思ってない!
200年間の平和を貪っていた正規軍7・8千人の朝鮮
を16万からの大軍であっという間踏み潰すぐらいは強いと思うよ!
いくら石器の武器のみでも、たったの480人や180人の兵力で
何万人、何十万人の大軍を相手にして殲滅戦に勝利したスペイン人
よりは弱いっていってるだけだよ!
スペイン人がなんぼのもんじゃい!
インカの仇討ちじゃ
243 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 01:20:39
騎馬と鉄砲に腰を抜かして戦意喪失したインカ軍と安土桃山時代の日本軍を並べて何の意味があんの?
244 :
jyonniru:2009/08/11(火) 01:32:04
16万もの大軍を動員しながら、朝鮮ひとつ手入れられなかった
日本軍と480人や180人でアステカやインカを征服したスペイン
軍をくらべているんだよ!
245 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 02:11:15
ヒント:疫病
いらなくなったから捨てられただけなのにw
七年間も占拠され続けていたのにw
講和がなったから引き上げてあげただけなのにw
「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」
「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである
(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
248 :
jyonniru:2009/08/11(火) 23:12:30
漢城退却
3月。漢城に立て籠もる秀吉軍に一大事が起こります。
明軍の経略(←参謀の意味)・宋応昌(そうおうしょう)が、
漢城郊外の龍山にあった兵糧貯蔵庫を襲撃して焼き払うという
戦果を挙げました。この兵糧庫には、漢城駐留軍約5万人の
二か月分の兵糧:1万4000石が貯蔵されていたため、
漢城駐留軍は明軍と講和することを余儀なくされました。
ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。
250 :
jyonniru:2009/08/12(水) 11:03:21
>>249 確かに『明史』においては正直に
明・朝鮮軍は勝算がなかったって
言っているが、じゃあ日本側には勝算
があったって思っているのか!
あの派手好きの太閤秀吉が死んだのに
葬式もせず、密葬で済ませている事態
からも日本こそ明・朝鮮以上に勝算が
まったくなかったことを証明しているのに!
わしの死を三年伏せよ
by武田信玄
252 :
jyonniru:2009/08/12(水) 11:31:31
>>251 て言うか、その後すぐに秀吉の遺言にないのに
撤退をはじめているんですが!
日本らしくその場の空気で撤退しているよね
254 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 22:06:27
ぶっちゃけあのままシナ本国の主要都市占拠しても日中戦争の
合わせ鏡になってたと思うよ。
255 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 23:02:58
日中戦争は中国は這々の体でにげまわりましたが
アメリカが日本をボコったおかげで中国は助かりました。
唐入りの場合だと、ヌルハチ率いる後金軍がアメリカの役割を果たすのかな?
支倉常長の船がスペインの無敵艦隊の中に混じって
アルマダの海戦沈没してるはず
257 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 00:12:23
ネタだろうけど時系列合わねえよw
偉大な英雄 李舜臣物語
朝鮮軍を徹底的に壊滅させた日本軍は明に攻め入る勢いで北上していました
しかし朝鮮は宗主国の明国様に援軍を乞いました
明は属国の朝鮮を助けるために日本軍を上回る大軍を派遣してくれました
しかし、それでも日本軍は優勢です
打つ手を失った朝鮮は日本軍の兵糧を断とうとして朝鮮全土を焼き払い焦土作戦に出ました
と同時に、戦前は無実の罪で犯罪者扱いされていた李舜臣を再登用して
日本軍の兵糧ばかりを狙うゲリラ作戦に出ました
ちなみに李舜臣が罪人扱いされた率右は他の朝鮮人よりは優秀であったことに対しての妬みだったようです
李舜臣は軍船とは戦わず、徹底して輸送船を狙いました
が、現地で多くの城を築いた日本は和城からの砲撃との連携によりすぐに巻き返します
やがて秀吉が病死し、大陸の戦争より国内の政争へ動き出す日本は講和へと路線が変更になります。
講和が成立し日本軍は撤退を開始します。
さて、明軍と朝鮮軍の連合軍(連合軍といっても朝鮮軍は数も少なく士気も無く全く役に立たなかった)は
撤退を見るやすぐに約束を忘れ、勢いづいて、追撃してきます
しかし日本軍は巧みな撤退によって無事に退却していきました
そして朝鮮南部の海岸線に築かれた和城での籠城戦では20万の明朝連合軍に対して日本軍は1万。
それでも日本側籠城軍の大将、加藤清正の奮闘によって20万の明朝連合軍は大敗し、
明の将軍も討ち取られてしまいました
李舜臣も同様に日本に退却していく日本の船団に追撃をかけましたが、残念ながらそれは正規の戦闘軍。
あっけなく返り討ちにあって島津義弘の軍勢に捕縛され、邪魔だということで海に捨てられて溺死してしまいました
捕縛ではなく戦闘による戦死と言う説もあるようですが当時の人間の間では(明朝鮮にとっても、日本にとっても)どの道大した人物ではないので、その死に際についてはあいまいなようです。
李舜臣の評価としては、勝ち易きに勝つ典型的な良将といったところだが、
それすら冷遇する朝鮮の糞っぷりが見事だったなw
生き残っても、どうせ朝鮮の糞文官どもに濡れ衣着せられて殺されるのがオチだったろうし、
最後の最後に武人として死ねて良かったろうな。
まあそうは言っても、李舜臣程度では欧州勢を蹴散らし恐怖させた鄭成功の足下にも及ばんと思うがw
260 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 03:30:32
> …浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
> 1620年代、シャムにおいてだ。
> どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
これは、有名な山田長政ね。
261 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 13:56:38
>>260 タイのサムイ島の沖合にはスペインの船がまだ沈んでいるそうです。
そしてその船の積み荷は本国との決済用の銀です。
数多くのダイバーがお宝ハンティングに挑戦しましたが、ことごとく失敗しています。
沈めたのはシャム王国リゴール海軍。山田長政が知事を務めた地域の艦隊です。
ツュンベリー
その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、
これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。
刃は比類ないほどに良質で、特に古いものは値打ちがある。
それはヨーロッパで有名なスペインの刃を、遙かに凌ぐものである。
>>259 海音寺潮五郎だったかが「生まれる国を間違えた男」と評してたな>李舜臣
264 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 23:11:59
世界最強の陸軍国家だった戦国時代の日本
1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えていたのだが、
スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、鉱山開発で過酷な労働を強いられ、天然痘などの流行もあって人口が激減した。
さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を占有した。
人種の混合政策がとられ、スペイン人の血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。
こうした過程で、アステカ文明は根絶やしにされたのである。
実はこれは日本人にとっても他人事ではない。
戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の宣教師がやってきたときに、
日本が信長や秀吉や家康のようなすぐれた人物に恵まれず、
また民族的なエネルギーも不足していたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。
現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。
イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、
武士の戦闘能力とその動員数、そして鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているのに驚き、
本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。
そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使って、
九州の神社仏閣を破壊し、日本の中にキリスト教区を作ろうとした。
さらに明の侵略にも使おうとしたのである。
豊臣秀吉は、明がスペイン人に征服されては、いずれは日本にも魔手が伸びると考え、
バテレン追放令を出し、さらにスペインの明への侵攻を牽制すべく先手を取って明に向かったのである。
それは文禄の役のときフィリピン総督府あてに脅迫的な手紙を出していることでも明らかだ。
歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を伏せている。
これではキリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂気の沙汰としてしか描けない。
インカやアステカは青銅器文明の段階に過ぎなかったし、
軍隊が来る前に既にヨーロッパ由来の疫病が流行して混乱のさなかにあった。
アジアで16世紀に欧州諸国が占領できたのはマラッカのような弱小の都市国家程度のものと、
国家以前の部族社会に過ぎなかった東南アジアの島嶼部の一部のみ、
しかも台湾に至っては、明末の一軍閥である鄭成功によって追い出されている。
要するに当時の欧州諸国が送り込める程度の兵力は、日本や明に対して軍事的脅威にはなりえない。
そして、いわゆるキリシタン大名も、そのほとんどは南蛮貿易の振興等の面で、
自分達にとって有利になると考えて改宗したに過ぎず、別に欧州諸国の走狗になる必然性は何もない。
たしかに
戦国時代の日本は世界一の銃保有国家だったからな。
地上戦だったら絶対勝つな。
宣教師フロンソ・サンチェス (スペイン国王への手紙より)
シナ人は自国のおびただしい人口に自信を持っているものの、
スペインのわずかな鉄砲隊で、
何百万人ものシナ人を滅ぼせるという事が理解できていない。
先年僅か13人の日本人の搭乗した小舟が一艘渡来し、
3000人以上のシナ人に包囲され、洞窟に閉じ込められたが、
彼らはそこから脱出するや、
直ちに多数のシナ人を殺してしまった。
シナ人は彼らを一昼夜に渡り包囲しながらも攻撃を加えることができず、
脱出した日本人は近くの海岸に行って舟を奪い、
それに乗って逃げてしまった。
シナの征服は日本人の軍事力を利用してすべきである。
270 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 12:40:20
秀吉のルソン遠征計画ばかり言うけど、
松倉重政のルソン遠征計画も忘れてはいけない。
キリシタンの根拠地を滅ぼす目的で、ルソン(フィリピン)を攻略しようと考え、幕府に意見を献上。
家光はじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどし、
遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課した。
出兵実施の矢先、寛永7年(1630年)に小浜温泉で急死。
あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺ともいわれる。
1609年(慶長14年)に、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて当時琉球の領土だった奄美大島に進軍。
沖縄本島も攻略し、奄美諸島を薩摩藩領にした。
この後に島津家は、ルソン攻略計画の意見を幕府に献上している事から松倉重政のルソン遠征計画に参加していた可能性も有る。
また、島津家と松倉重政のルソン遠征計画は別なのか?
271 :
日本@名無史さん:2009/10/06(火) 12:54:17
確かに松倉はルソン遠征を目論で、家臣を商人に変装させてルソンに送り地理風俗を研究する一方、
三千挺の鉄砲弾薬を用意したので、小藩ながら類例のない鉄砲を貯蔵していた。
この口之津の鉄砲庫を一揆軍に占領されてしまったので、大変な事になってしまった。
272 :
日本@名無史さん:2009/10/07(水) 08:00:06
東シナ海の交易ルートをイスパニアが牛耳っているから
この海を巡って西国大名も含め周辺が集結した可能性はある。
北京には宣教師が在留し、朝鮮の布教のみまだ。
朝鮮出兵に向かったのはキリシタン大名が多数を占める。
もし朝鮮出兵が成功していたら、
東シナ海を中心とする覇権が生まれて政権は九州に移動したかもしれないね。
朝鮮まで3日。明まで一週間。
名古屋から上方東国を臨むのと大差ない。
ウチの国は島国なのに陸戦が得意という本当にアホな国だなあ
273 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 02:01:01
そもそも大軍を乗せて大海原を渡る船がない時点で日本はどうにもならんよ
南蛮軍が上陸して本土防衛戦なら日本軍の勝利は明らかだろうが
日本から南方に攻めていくことは無理
274 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 02:20:47
信長だったら船がなくても海を泳いで渡るか、海に橋を架けていただろう。
無い物は作ればよいだけよ
276 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:18:38
当時の日本の技術ではできません
川舟で海渡れってかw
278 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:17:42
バカだね
戦国よりずっとあとの話じゃん
しかもあちらの技術がなければ建造は無理
279 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 13:38:08
>>277 サンフアンが何人乗りだったか知ってる?
どこで建造するの?技術的にどこでも出来る船じゃないんだよ?
材料は?財源は?技術は?
なにも解決しないのに実行?
まるで幸福実現党だな信長はw
なあにスペインも大西洋の大波に耐えられない地中海仕様の艦隊でイギリスへ向かって
大量の船と兵士失っとる
似たようなもんだ
キャラック船一隻捕獲して竜骨構造と大型マストの立て方さえ習得できればどうって事無い
問題は操船技術のほうだが東南アジアと往復してた商人が結構いるようだし何とかなるさ
281 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 14:15:43
実際出来なかったんだからなんとかならない件
必要がなかったんよ。
あんなスポ人みたいにギャンブル航海してなかったから。
いざとなれば現地の船奪って帰れるレベルの範囲しか
移動してなかったから。
283 :
日本@名無史さん:2009/10/08(木) 17:03:22
やるときはやるとか、中二病だな。
本当はガレオン船造る能力がないだけ
日本国民は勇敢で絶えず軍事訓練をしている。
したがって日本を征服しても益はないが、スペインが中国に進出するときのよい足場になるので、日本を重視する必要がある。
私が、ここで陛下に断言できることは、迅速に遠征するならば、シナを簡単に征服できるということである。
そして、このことを一層容易に運ぶには、シナの近くにいる日本人が、すすんでこれに加わると思えるのである。
日本人は、シナ人に対して非常に効果的である。
スペインの宣教師バリニャーノ
スペイン領フィリピン総督あて
だからやるときはやるとかじゃなくて
必要ないから無いんだよ
なに言ってんだ
バカなのか
日本にはキリシタンがいっぱいいたから
評価が高かったのは当り前だろ
本当に布教したい先は大量人口を抱える明だったわけだし
宣教師もいい足場作ったと自画自賛しとるわけだよ
東洋で最初にキリスト教諸候の立ち並んだ国
でも鉄砲は覚えたけど船は覚えなかった
286 :
日本@名無史さん:2009/10/09(金) 19:03:28
そんなの理由にならん
いずれにしても当時の日本に海外に出る船も造船技術もないことには変わりなし
基礎研究を甘くみてるのがゆとり馬鹿の典型です
造ろうと思えば航洋ジャンクは造れるだろうし、それがあれはガレオンはそれ程必要でない
重要なのは、造船技術よりも外洋航海術なのにな
290 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 04:35:39
>>289 そうだな。外洋航行術では日本に勝ち目ないのに、ゆとりは理解出来ないw
基礎というかなんというか
読みもしないで全てに突っかかってる造船バカがうっとうしい
お前が一番ゆとりだよ
書き込みはママに読んでもらえ。お前じゃ無理だ
292 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 13:32:20
技術もなにも日本が持たなかったのは事実なんだから。
そんなに歴史が嫌いならこんな板見ない方がいいぞ
どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗り出すには日本は強国過ぎたのである。
ポルトガル人には日本征服どころか、その考えすら起こらなかった。
スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちまち一蹴された経緯がある。
1609年、太平洋方面総督に対して勅令が送られ、日本軍を前にして
「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
との厳命が下っているのである(フィリピン当局者であったスペイン人、Antonio de Morgaの記録にある)。
ただ一度だけ、日本の不正規軍…
…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある。
1620年代、シャムにおいてだ。
どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である。
支那について言えば、朝鮮での戦いのいくつかの小競り合いで支那が勝ったことはある。
だが、戦争それ自体に支那が勝利を収めたわけではない。
そのことは支那自身が明言している。
(中略)
1644年に滅ぶ明朝の最後に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、
「日本人と言うだけで、人民は神経をとがらせ、警戒し、息を殺した」と付言されている。
ノエル・ペリン
294 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 16:53:04
日本はどこも征服してないけどな
273のとおり本土防衛なら日本は勝つさ
でも日本から外国に遠征する力がなかったのも事実
歴史の好き嫌いの話なんてどこにも書いてねえけど
架空の書き込みで話作るなよ。
造船技術はなくても捏造技術は長けている造船バカ。
そうだ、日本が海外に進出なんて捏造するやつはバカ
297 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 18:18:42
東南アジアくらいには進出しているけどね
298 :
日本@名無史さん:2009/10/10(土) 23:11:23
日本軍がかなうわけないだろ アホか
299 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:23:58
日本は海外に進出しまくりだろ
倭寇も知らんとは
造船バカが船のこと知らなかったらバカしか残らないぞ
300 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:38:42
おいおいせいぜい朝鮮半島近辺をあらしてただけだろ
東南アジアから中央アジアからアフリカの奥地まで交易していた
イスラム商人とは比較にならんし
新大陸に到達した西欧人とも比較にならん
日本人がカイロやローマやイスタンブールやサマルカンドや
フィレンチェやヴェネティアまで交易で訪れたことあったのかね?