【推古】 歴代の女性天皇について 【後桜町】

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1日本@名無史さん
今まで女性天皇は男系皇女の六人いる。
このうち2名は2回重祚しているので八代となる。

推古天皇から後桜町天皇まで女性天皇について語りましょう。
2日本@名無史さん:2008/09/06(土) 19:13:24
推古天皇(名前は額田部皇女 - ぬかたべ の ひめみこ)
33代。聖徳太子の叔母。父は欽明天皇(29代)。夫は敏達天皇(30代)。
夫との間に子供が5人いる(即位せず)。天皇という名称を初めて使う。

皇極天皇=斉明天皇(名前は寶女王 - たから の ひめみこ)
35代および37代。夫は舒明天皇(34代)。
息子は天智天皇(38代)と天武天皇(39代)。
弟の孝徳天皇(36代)に位を譲るが彼の病死後、再び即位。
大化の改新に遭遇する。

持統天皇(名前は鸕野讚良 - うの の さらら)
41代。天武天皇(38代)の娘。夫は叔父に当たる天武天皇(40代)。
即位後、息子である草壁皇子が病死。後に孫の文武天皇(42代)に譲位し
上皇として政治を支える。

元明天皇(名前は阿陪皇女 - あべ の ひめみこ)
43代。38代天智天皇の娘。持統天皇の妹。
夫は甥(姉の子)に当たる草壁皇子。
娘は元正天皇(44代)。息子は文武天皇(42代)。
文武天皇の死後に即位し、その後に娘に位を譲る。
3日本@名無史さん:2008/09/06(土) 19:16:00
>>2
訂正:天武天皇は39代。
4日本@名無史さん:2008/09/06(土) 19:24:46
元正天皇(名前は氷高皇女 - ひたか の ひめみこ)
44代。元明天皇(43代)の娘。生涯独身を貫く。平城京への遷都を実行。
元明天皇(43代)より譲位。後に甥である聖武天皇(44代)に位を譲る。
聖武が病気となると彼のことを「我子」と呼び擁護し
上皇として藤原仲麻呂らと政治を補佐。

孝謙天皇=称徳天皇(名前は阿倍内親王 - あべ)
46代及び48代。父は聖武天皇(45代)。生涯独身。
有力貴族、藤原仲麻呂(後に恵美押勝と改名)と対立。
後に淳仁天皇(47代)・恵美押勝側と対立し、淳仁天皇を追放し再び即位。
自身の病気を治した僧侶、道鏡を次期天皇にする考えを持っていたが
和気清麻呂が受けた宇佐神宮の神託により回避(後に大隈へと左遷されるが復帰)。

明正天皇(名前は女一宮興子内親王 - おんないちのみや おきこ)
109代。父は後水尾天皇(108代)。徳川秀忠の孫に当たる。
生涯独身。父の幕府への反発による譲位で7歳で即位。
称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇。後に異母弟の後光明天皇(109代)に譲位。
実権は父である後水尾上皇が持っていた。

後桜町天皇(名前は緋宮智子内親王 - あけのみや としこ)
117代。父は桜町天皇(115代)。現在まで最後の女性天皇。生涯独身。
弟の桃園天皇(116代)の死後、即位。束帯(通常の正装)には十二単を使用。
後に甥の後桃園天皇(118代)へ譲位。
5日本@名無史さん:2008/09/06(土) 19:25:35
>>4
訂正:阿倍内親王=あべ の ないしんのう
6日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:13:29
女性天皇の中で一番有名なのって推古天皇かな。
7日本@名無史さん:2008/09/06(土) 21:06:49
>>4
元正女帝が上皇時代に支援したのは橘諸兄かと。
8日本@名無史さん:2008/09/07(日) 07:58:50
>>2
天皇という称号をはじめてつかったのは天武天皇だが?
同時に皇后という称号をはじめてつかったのは
天武天皇の正后だった鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)ね。
9日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:01:20
>>4
おいおい・・・
平城京への遷都を行ったのは元明天皇。
もうテンプレ書き直したほうがよくね?
スレ主よ
10日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:02:46
>>7-9
すまない。訂正しとくか。
11日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:09:59
>>2
持統天皇が即位したのは息子草壁皇子の死去後。
天武天皇が死亡してから持統天皇が即位するまで
4年間の帝位の空白がある。
(草壁皇子が皇太子のまま称制したということになっている。
実権は母親にあっただろうが)
付け加えとく。
12日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:16:41
<訂正>

推古天皇(名前は額田部皇女 - ぬかたべ の ひめみこ)
33代。聖徳太子の叔母。兄の用明天皇(31代)の死後に即位。
父は欽明天皇(29代)。夫は敏達天皇(30代)。
夫との間に子供が5人いる(即位せず)。

皇極天皇=斉明天皇(名前は寶女王 - たから の ひめみこ)
35代および37代。夫は舒明天皇(34代)。夫の死後に即位。
息子は天智天皇(38代)と天武天皇(39代)。
弟の孝徳天皇(36代)に位を譲るが彼の病死後、再び即位。
大化の改新に遭遇する。

持統天皇(名前は鸕野讚良 皇女 - うののさらら の ひめみこ)
41代。天武天皇(39代)の娘。夫は叔父に当たる天武天皇(40代)。
即位後、息子である草壁皇子が病死。後に孫の文武天皇(42代)に譲位し
上皇として政治を支える。 「皇后」という呼称をはじめて使う。

元明天皇(名前は阿陪皇女 - あべ の ひめみこ)
43代。天智天皇(38代)の娘。持統天皇(41代)の妹。
夫は甥(姉の子)に当たる草壁皇子。後に平城京への遷都を実行する。
娘は元正天皇(44代)。息子は文武天皇(42代)。
文武天皇の死後に即位し、その後、娘に位を譲る。
13日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:25:59
>>11
サンクス。自分の知識あてにならねぇ・・・orz

<訂正>

推古天皇(名前は額田部皇女 - ぬかたべ の ひめみこ)
33代。聖徳太子の叔母。兄の用明天皇(31代)の死後に即位。
父は欽明天皇(29代)。夫は敏達天皇(30代)。
夫との間に子供が5人いる(即位せず)。

皇極天皇=斉明天皇(名前は寶女王 - たから の ひめみこ)
35代および37代。夫は舒明天皇(34代)。夫の死後に即位。
息子は天智天皇(38代)と天武天皇(39代)。
弟の孝徳天皇(36代)に位を譲るが彼の病死後、再び即位。
大化の改新に遭遇する。

持統天皇(名前は鸕野讚良 皇女 - うののさらら の ひめみこ)
41代。天武天皇(39代)の娘。夫は叔父に当たる天武天皇(40代)。
夫の死後の4年間、皇位空白期間があり息子の草壁皇子が皇太子として称制。
彼女は実権を握っていたのだと思われる。
だが後継者、草壁皇子(息子)が病死。彼の死後、即位。
後に孫の文武天皇(42代)に譲位し
上皇として政治を支える。 「皇后」という呼称をはじめて使う。

元明天皇(名前は阿陪皇女 - あべ の ひめみこ)
43代。天智天皇(38代)の娘。持統天皇(41代)の妹。
夫は甥(姉の子)に当たる草壁皇子。後に平城京への遷都を実行する。
娘は元正天皇(44代)。息子は文武天皇(42代)。
文武天皇の死後に即位し、その後、娘に位を譲る。
14日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:29:34
沖永ちゃんも入れようぜ!
15日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:47:54
<訂正2>

元正天皇(名前は氷高皇女 - ひたか の ひめみこ)
44代。元明天皇(43代)の娘。生涯独身を貫く。平城京への遷都を実行。
元明天皇(43代)より譲位。後に甥である聖武天皇(44代)に位を譲る。
聖武が病気となると彼のことを「我子」と呼び擁護し
上皇として橘諸兄らと政治を補佐。

孝謙天皇=称徳天皇(名前は阿倍内親王 - あべ の ないしんのう)
46代及び48代。父は聖武天皇(45代)。生涯独身。
有力貴族、藤原仲麻呂(後に恵美押勝と改名)と対立。
後に淳仁天皇(47代)・恵美押勝側と対立し、
押勝を処刑し、淳仁天皇を淡路島に追放し再び即位。
自身の病気を治した僧侶、道鏡を次期天皇にする考えを持っていたが
和気清麻呂が受けた宇佐神宮の神託により回避(後に大隈へと左遷されるが彼女の死後、復帰)。

明正天皇(名前は女一宮興子内親王 - おんないちのみや おきこ ないしんのう)
109代。父は後水尾天皇(108代)。徳川秀忠の孫に当たる。
生涯独身。父の幕府への反発による譲位で7歳で即位。
称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇。後に異母弟の後光明天皇(109代)に譲位。
実権は父である後水尾上皇が持っていた。

後桜町天皇(名前は緋宮智子内親王 - あけのみや としこ ないしんのう)
117代。父は桜町天皇(115代)。現在まで最後の女性天皇。生涯独身。
異母弟の桃園天皇(116代)の死後、即位。束帯(通常の正装)には十二単を使用。
後に甥の後桃園天皇(118代)へ譲位するが長くは続かず。
彼の死後、後桜町上皇のはとこに当たる閑院宮兼仁親王が9歳で即位。
光格天皇(119代)となる。(彼女は伏見宮貞敬親王を望んだが叶わず。)
光格帝の即位後も彼を良く指導したことから「国母」(天皇の母)とも呼ばれた。
16日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:53:56
これで間違ってたらよければ誰か直してくれ。

いままでの女帝は独身or夫が天皇or皇太子ってことでいいのかな。
まぁ女性天皇の娘、孫が天皇になった例はあるけど
この場合は父系を考えればいいんだよな。
17日本@名無史さん:2008/09/07(日) 11:02:23
>>16
元正女帝に関しては「女帝の娘」だからという見方も出来る。
父方なら天皇位についたのは祖父(天武天皇)まで遡るけれども、
母は元明女帝なので。
元明女帝は娘婿の長屋王の子達の扱いも、天皇の曾孫から皇孫に格上げした実績がある。
(娘・吉備内親王の所生の子は、元明女帝から見ると皇孫になる)

強いて言えば、独身女帝は父が天皇(または皇太子)で、
母が正妃(皇后/皇太后/皇太子妃)というのが共通点かな>独身女帝達
18日本@名無史さん:2008/09/07(日) 11:03:31
元正天皇からは女帝は生涯独身。
ところで元正天皇はなんで35歳で即位するまで独身だったのだろうか?
この時代、皇女の結婚は普通に行われており、相手はいくらでもいたはず。
それに中継ぎとして即位した時も、首皇太子はすでに15歳になっており
元正がわざわざ天皇に即位する必要はなかったと思うが。
19日本@名無史さん:2008/09/07(日) 11:18:49
>>18
15歳の首皇子が即位できなかったのは、元明女帝を始めとした皇族達が
首皇子への影響が大き過ぎる不比等の死を待っていたから?という説があったような。
面白いのは、大宝律令以降、天皇の子女は親王・内親王と称されるようになったのに
続日本紀でも「首親王」ではなく「首皇子」と表記されている点。

何故元正女帝が即位前も独身だったのかは永遠の謎。
20日本@名無史さん:2008/09/07(日) 15:57:53
即位当時の年齢

推古→39歳
皇極→48歳(斉明→61歳)
持統→45歳
元明→46歳
元正→35歳
孝謙→31歳(称徳→46歳)
明正→7歳
後桜町→22歳

重祚の2代を除くと…即位時の平均年齢33歳か。
推古〜称徳までは高齢者が多いな。
まぁ中継ぎだから適任者なら誰でもよかったのかもしれないが。
21日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:10:18
>>17
まぁ確かに父親が結局、即位できないまま死んだから
そうともいえるかな。

ところで持統、元明、元正らへんの家系図はちょっと複雑なんだが。
これであってるかな。

天智天皇の娘が「持統天皇」、「元明天皇」で
持統天皇は叔父の天武天皇に嫁ぎ草壁皇子をもうける。
元明天皇は甥、草壁皇子に嫁ぐ。
草壁と元明の子が「元正天皇」。草壁はまもなく病死。
・・・ってことでいいのかな。

天武と持統(夫婦、伯父と姪)は14歳差、草壁と元明(夫婦、叔母と甥)は1歳差、
持統と元明(姉妹)は16歳差。
22日本@名無史さん:2008/09/07(日) 16:22:38
飯豊も即位してたよ、たぶん
23日本@名無史さん:2008/09/07(日) 17:04:25
16 :いままでの女帝は独身or夫が天皇or皇太子ってことでいいのかな。
まぁ女性天皇の娘、孫が天皇になった例はあるけど
この場合は父系を考えればいいんだよな。

正解です。簡潔にまとめると下記の通りです。
@推古天皇
  欽明天皇の皇女で敏達天皇の皇后
  敏達天皇との間に3皇子があるが即位せず
A皇極(斉明)天皇
 茅渟王の王女で舒明天皇の皇后
舒明天皇との間に天智天皇、天武天皇あり
B持統天皇
  天智天皇の皇女で天武天皇の皇后
天武天皇との間に草壁皇子あり
C元明天皇
  天智天皇の皇女で草壁皇子の妃
草壁皇子との間に文武天皇、元正天皇あり
D元正天皇
  草壁皇子&元明天皇の皇女で生涯独身
E孝謙(称徳)天皇
  聖武天皇の皇女で生涯独身
F明正天皇
  後水尾天皇の皇女で生涯独身
G後桜町天皇
  桜町天皇の皇女で生涯独身


24日本@名無史さん:2008/09/07(日) 17:59:48
>>23
こう見ると独身か、子持ちかのどちらかなんだな。

あとこの中の女性天皇の知名度だと順番にすれば
推古>>皇極(斉明)≧持統>>>元正>>>(越えられない壁)>>元明>明正≧後桜町
みたいなもんか。
25日本@名無史さん:2008/09/07(日) 19:34:43
>>21
父方から見た家系図はそれでおk。
母方から見ると、持統天皇の母と、元明天皇の母は父親を同じくする姉妹
(二人の母が同じかどうかまでは不明。同母とみなす説の方が多いかな)
なので、草壁皇子と元明天皇はかなり血が濃い従姉弟同士になる。

天武天皇の生年が不明のため、持統天皇との年齢差も正確な所は不明。
没した時の年齢には幾つか説があるけれども、おそらく今後も検証出来ないと
思われるので、あまり気にしなくても良いかも。
26日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:27:18
>>18
元正天皇は元明天皇と草壁皇子の第一皇女で、文武天皇の同母姉。
文武天皇が病弱であったことで即位の可能性を鑑み、
独身を貫いていたと思われる。
同母妹の吉備内親王(左大臣長屋王正室)は結婚していること、
続日本紀は元正天皇を大変な美人だと書いていることから
(「貌端正」という美人の表現があるのは元正天皇だけ)
結婚できなかったのではなく文武天皇のことが不安であったために
わざと元明天皇が結婚させなかったのだと思われる
文武天皇に同母弟が2,3人あれば元正天皇も結婚していたのかも
27日本@名無史さん:2008/09/07(日) 20:34:14
>>25
持統天皇の母遠智娘と元明天皇の母姪娘はともに蘇我山田石川麻呂を父とする姉妹
(蘇我山田石川麻呂は蘇我馬子の孫、蘇我蝦夷の甥ね)
ただ持統天皇と元明天皇の異母姉妹が16歳年齢が離れているところを見ると
遠智娘と姪娘も異母姉妹だったと考えたほうがいいんじゃ?
父が夫に殺されたことで狂い死にしたと伝えられる遠智娘だが
妹の姪娘は父の死後天智の妃になっている
28日本@名無史さん:2008/09/09(火) 18:36:53
見たところ最初から候補に入っていたわけでもないのが
後桜町天皇なわけなんだが…当時の皇女って大体何歳ぐらいで結婚したり
出家したりしてたんだ?
29日本@名無史さん:2008/09/09(火) 20:24:33
>>28 尊王思想に桃園天皇がハマって(宝暦事件)摂関家が幕府との関係悪化を懸念していた。
その頃、後桜町帝は10代中頃で、政治的中立のために後桜町帝即位を摂関家が画策していたのではないか?(幼い後桃園帝が即位すると宝暦事件を起こした桃園帝の取り巻きが復活するから)
ある意味、結婚適齢期に丁度天皇として必要とされたのかも
30日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:06:47
>>28 
後桜町天皇の生きた江戸時代の例では、
出家する親王、内親王はだいたい4〜5歳までに寺に預けられる。
出家する時期は10代前半。
逆に天皇になる親王、結婚する内親王はこの頃までに決められる。
内親王の場合、4〜5歳で婚約者を決められることが少なくない。
ごく稀な例として、結婚も出家もせず独身のまま内親王としてある例がある。
非常に高貴な母親を持つ皇女に限られ、
例えば東福門院徳川和子の皇女顕子内親王などがこの例。
平安時代などには皇女は独身で俗世に置かれ内親王として生涯を送る例が多かったけれども
江戸時代にはよほど恵まれた環境に置かれなければこういう待遇は受けられなかった。

後桜町天皇はこの「余程恵まれた」例。
母は桜町天皇の女御で摂家出身の二条舎子(のち皇太后、青綺門院)。
後桜町天皇には同母姉があったがこの姉は夭折している。
他に兄弟姉妹は母二条舎子の養子となっていた
異母弟桃園天皇がただ一人あるのみだった。
後桜町天皇は11歳で内親王宣下(名は智子)、20歳で一品に叙されている。
また、この時代の一般的な皇女は4〜5歳までに結婚するか出家するかを決められてしまうために
後桜町が未婚の内親王となることは10代半ばに決まったわけではなく、29は当たらない。
31日本@名無史さん:2008/09/09(火) 21:19:39
江戸時代の皇女の結婚は10代から20代前半(ほとんどが10代)、
入寺は一桁で得度が10代前半だとおもった

一覧表にした論文があったはずだが手元にない

後桜町とつりあう摂関の子息は九条道前(6歳年下)、
宮家は伏見宮邦忠親王(8歳年上)閑院宮典仁親王(7歳年上)くらい。

ただ閑院宮は後桜町が9歳のときに結婚してるし、邦忠親王は29歳で薨去しているから病がちだったかもしれん。
候補はいなかったかもね。
32日本@名無史さん:2008/09/10(水) 02:31:43
>>1
推古は、本当に天皇だったのか?
遣随使の国書記載の名前は男の名前だろ!
当時の実権は蘇我が握っていたしな。
33日本@名無史さん:2008/09/10(水) 20:28:21
>>31
皇女の婚約はかなり早い時期だぞ
一桁の頃に婚約か入寺か決められてしまう
結婚する皇女には内親王宣下がなされるが
結婚まで1年以内に行われることが多く
まさに結婚のための箔付けといった感じ
結婚秒読みでもないのに内親王宣下を受け
その後も一品として独身を貫いていた後桜町は
明らかに特別待遇だろ
34日本@名無史さん:2008/09/10(水) 20:30:51
>>32
遣隋使のときの天皇は用明天皇らしいよ
記紀が聖徳太子をほめたたえるために
用明天皇を早死にさせ
なんでも聖徳太子の手柄にしたらしい
宋書?だったかなんだかに
この時の天皇は用明天皇だとあるんだよね
35日本@名無史さん:2008/09/10(水) 20:44:02
後桜町天皇は下手すると御台所になったかもしれない
36日本@名無史さん:2008/09/10(水) 20:53:08
>>34 
そりゃ誤読だ。
37日本@名無史さん:2008/09/10(水) 23:18:31
後桜町天皇ってそんなに恵まれていたのか。
未婚のまま一生を過ごせるというのは幸というべきか不幸というべきか。

後桜町は今の天皇の8代前か。そんなに昔じゃないな。
ていうか女性天皇の肖像画…特に明正、後桜町を見ないんだけど
後桜町天皇の肖像画ってあるのかな?
38日本@名無史さん:2008/09/12(金) 21:43:34
>>35
後桜町天皇が降嫁するとなれば、3歳違いの10代将軍徳川家治辺りが妥当か
しかし御台所の線はなかっただろう
幕府が内親王を欲したのは
前代未聞の幼将軍だった6代徳川家綱と
幕府の首が回らなくなった幕末14代徳川家茂のみ
それもいずれも降嫁(婚約)の候補となったのは女官腹の姫宮で
女御腹の嫡女じゃないんだよね
39日本@名無史さん:2008/09/12(金) 23:28:38
7歳の幼女の帝ハアハア
40日本@名無史さん:2008/09/13(土) 10:09:17
後桜町天皇は珠姫と大姫の子孫
41日本@名無史さん:2008/09/13(土) 19:08:24
明正天皇は7歳の即位前に結婚する相手とか決まってたのだろうか?
それにしても後桜町天皇はすばらしい女性天皇だったようだな。
42日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:11:30
>>37
明正・後桜町は、明治になって描かれたものしか見たことないね。

推古は叡福寺、孝謙は西大寺にある。と言っても、江戸時代の作品だが・・・
43日本@名無史さん:2008/09/13(土) 21:26:11
>>42
東福門院和子の長女である明正天皇は
東福門院に男子が産まれ即位していなければ
一品内親王として生涯結婚もせず独身でいただろ
徳川家の財力がそれを許したし
44日本@名無史さん:2008/09/14(日) 18:18:58
和子に「男子が産まれ即位しなかった」から興子が即位したんだろ?
和子は男子産んでるんだよ。成長しなかっただけで。
45日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:47:23
>>42
つまりほとんどの肖像画は後世の創作なのか。
神功皇后もそうだったけどな。

>>43
明正天皇はそこまで権威があったのか。
46日本@名無史さん:2008/09/15(月) 01:11:47
>>45
東福門院が産んだ皇女たちはだれ一人寺にやられなかったからね。
明正天皇の同母妹たちは摂家へ嫁ぐか独身で内親王として終わった。

ちなみに東福門院が産んだ7人の子のうち成人したのは明正天皇の他は
昭子内親王(近衛尚嗣室)、顕子内親王、賀子内親王(二条光平室)。
このうち明正天皇と顕子内親王は生涯独身、昭子内親王には子供がなかった。
徳川綱重(家光の子)の正室となった隆崇院は昭子内親王の娘であったらしい。
昭子内親王の子は他には知られず、隆崇院も嫁いで間もなく子もなく没したために
東福門院の血はここでついえたとみられる。
47日本@名無史さん:2008/09/15(月) 04:18:07
八条院ワ子内親王が即位していたら
日本の女帝史はかなり違ったものになっていただろうな
48日本@名無史さん:2008/09/15(月) 08:22:44
昭子内親王には伏見宮に嫁いだ娘がいるよ
でもその娘は子供はいるんだろうか?
49日本@名無史さん:2008/09/15(月) 08:25:06
あと隆崇院は二条光平の娘
50日本@名無史さん:2008/09/15(月) 10:16:42
>>47
あき子の「日章」の文字が表示できなかった
彼女が先例になれば、院上皇の家父長権を背景に女帝が増えていたかも
51日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:54:46
女帝からずれますが
>>46>>48
東福門院腹の女二宮は、近衛尚嗣との間に一男一女をもうけている。
女子が伏見宮貞致親王室好君(1641〜1676)。
男子(1644〜1646)は尚嗣にとっては次男にあたるが夭折してしまった。
好君も実子はなく邦永親王の養母になっている。
なお尚嗣には妾腹の長男(夭折)と三男がいて、三男が近衛基熙。
52日本@名無史さん:2008/09/19(金) 18:06:23
称徳天皇死亡から明正天皇即位まで859年間、女帝がいなかったのは
それまでの天皇家は男に恵まれていたってことか?
53日本@名無史さん:2008/09/20(土) 15:11:03
>>17
元正天皇(氷高皇女)は弟の文武天皇が即位した時に天皇の兄弟として「皇女」になっているから、
男系天皇だね。

それから元正・文武の妹の吉備内親王とその子供たちにも即位の可能性があったと言われている。
もともと血筋は父親の長屋王より母親の吉備内親王の方が格上だったので、膳夫王・桑田王・葛木王
・鉤取王は男系の皇位継承資格(3世王)を破棄し、母方の女系の皇位継承資格(2世王)が適用された。
54日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:33:36
>>53
そうならば孝徳天皇が茅淳王所生でありながら
軽「皇子」とされたのは女帝の弟だからといえる。
彼の皇位継承資格は(当時制度化されてたものではないけど)
姉が即位したから発生したと理解できる。
55日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:40:10
女帝になる話もあった内親王は実際になった人以外では八条院だけ?
愛子内親王とかはなしで。
56日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:58:24
>>54
「親王」「皇子・皇女」の身位は、天皇の兄弟(父親は茅渟王、草壁皇子)として獲得したものだと思う。
皇位継承資格は継嗣令の規定で、4世王(一時期5世王)まで。

>>55
安閑天皇の皇后、春日山田皇女(手白香皇女の異母妹)。
欽明天皇が「自分は若すぎる」と言う理由で、即位を要請した。
57日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:13:27
今、いろいろ言われてるけどさ女系はともかく
女性天皇即位のメリットって何がある?
58日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:39:29
中継ぎとしてなら女帝は最適じゃないかな
男帝の中継ぎだと自分の子に継がせたいって思うから、皇位継承争いになりやすいからね
59日本@名無史さん:2008/09/21(日) 22:42:29
まあ、お后の負担が減ることだろうな。
数年前の皇室のように40年も女子しか生まれないとキツイもんがあるよ。
国民にとっちゃ天皇が男だろうが、女だろうが
もっと言えば天皇がいてもいなくてもメリットなんて個人の価値観しだいだろ。
60日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:22:02
ていうか女性天皇を認めた場合、その夫はなんていうんだ?
まず「后」ではないし。・・・王配だっけか?
61日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:32:44
王配というのは日本語としてこなれてないし、なんかぎこちない。
そういう言葉がなかったのは女帝の旦那という概念が存在しなかった証拠だな。

まあ、男でも「准后」になった例もあるから、准后か准三宮でいいんじゃない?
62日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:40:12
前にテレビで「例えば皇婿殿下(こうせいでんか)といった呼び方を・・・」って言ってた。
耳慣れないね。

>>61
良かったら、男で「准后」についてkwsk
63日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:40:13
●成文法典に見る皇位継承資格
古代〜江戸時代    「日本律令 継嗣令」・・・・双系継承・世数限定制
明治時代〜現在    「旧・現皇室典範」・・・・男系男子継承・永世皇族制

皇位継承資格は、旧皇室典範制定時に変更されている。
女系容認で、伝統復活。
64日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:59:17
>>62
中世には男性でも、摂関家や足利将軍や偉い坊さんが准后宣下を受けている。
有名なところでは足利義満や義昭など。

准后というのは、三后(皇后、皇太后、太皇太后)なみの待遇を与えるための称号だから、
性別に関係なく与えられ、准三宮ともいう。

三后なみの待遇を与える称号なら、皇后の男性版である皇婿の称号にはピッタリな気がする。

>>63
律令が制定された飛鳥〜奈良時代、皇女の夫は天皇や男子皇族だった。
だから双系といっても、その実、男系女系ともに天皇家であることに変わりない。
紀宮の旦那のような皇室に全く無縁な庶民の男性が女帝の婿になることなど
はじめから想定していないので、あまり参考にならない。
65日本@名無史さん:2008/09/22(月) 00:59:46
>古代〜江戸時代    「日本律令 継嗣令」・・・・双系継承・世数限定制

これが正しいなら伏見宮系の旧宮家は存在出来んはずだが

親王宣下や臣籍降下(嫁)等により継嗣令は死文化してた
66日本@名無史さん:2008/09/22(月) 01:07:19
日本律令の双系主義は、男系が臣下の血統になることを許容していたのではなく、
単に皇族同士の近親婚がさかんだった事実を前提にしているだけだろう。

たまたま、史実では唯一の女性皇太子(孝謙・称徳天皇)が独身だったけれども、
もし女性皇太子が適当な男性皇族と結婚していれば、その男性皇族がスンナリと
皇太子の夫や女帝の夫という位置に納まっただろう。
たとえば、史実の孝謙女帝の代わりに井上内親王が即位していたと想像すればいい。
その場合、白壁王が女帝の夫に収まっていたというだけのこと。
67日本@名無史さん:2008/09/22(月) 01:34:10
>たまたま、史実では唯一の女性皇太子(孝謙・称徳天皇)が独身だったけれども

阿倍内親王が立太子した時は既に21歳
この当時、21歳で独身というのは「たまたま」とはいえない
持統も元明もこの歳までには結婚して第一子を産んでる

元正の場合は即位したのが36歳でしかも独身

明らかに即位前から結婚を制限されていた
68日本@名無史さん:2008/09/22(月) 19:12:58
そりゃ、光明子に男子が生まれるかどうか分からなかったからな。
藤原氏的に安積親王に継がせる気はゼロだから光明子あるいは武智麻呂女に男子が生まれなければ女帝擁立は規定路線だったんだろう。
69日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:07:02
阿倍内親王は結婚を制限されていただろうね
帝位につくのにふさわしい男性皇族が見当たらないがための女性皇太子なのだし
阿倍内親王の夫にふさわしい地位にある男性皇族がいるならば
そちらが即位して阿倍内親王は皇后として政治を補佐し
夫の死後帝位につく程度だったろうしね
70日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:18:40
>>64
>律令が制定された飛鳥〜奈良時代、皇女の夫は天皇や男子皇族だった。
>だから双系といっても、その実、男系女系ともに天皇家であることに変わりない。

今の天皇は母親も皇族の出身だけど、皇位継承資格を男系の血筋で受け継いでいるので「男系天皇」。
膳夫王のように女系の血筋で皇位継承資格を得ていれば、「女系皇族」だよ。

そもそも「皇女の夫」が「天皇や男子皇族」だったのは、[継嗣令王娶親王条]で女性皇族と氏族の結婚が
制限されていたから。
土着の双系原理の皇統が存在した所へ中国から男系原理の「氏姓制度」を導入したので、女系の血筋
を通じて氏族に皇位継承資格が生じることのないように、婚姻に制限を設けたわけ。

>紀宮の旦那のような皇室に全く無縁な庶民の男性が女帝の婿になることなど
>はじめから想定していないので、あまり参考にならない。

「氏姓制度」は明治3年に正式に廃止された。
現在は女帝が皇族以外の男性と結婚することも可能。
71日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:25:53
>>65
>>古代〜江戸時代    「日本律令 継嗣令」・・・・双系継承・世数限定制

>これが正しいなら伏見宮系の旧宮家は存在出来んはずだが

>親王宣下や臣籍降下(嫁)等により継嗣令は死文化してた

「継嗣令」は奈良時代までは厳格に実系での運用がなされていたけれど、平安時代以降親王宣下や
臣籍降下、世襲親王(養子・猶子制度を活用)と言った制度が導入され、身位が生得的なものでは
なくなっていた(「皇位は男系継承」と言う誤解が生じるようになった一因)。

実系の永世皇族として認められていたわけではないので、これらはあくまでも世数限定制の下での
変更に留まる。
実際旧皇室典範で「永世皇族制」を導入した時には、「伝統に反する」と言う理由で反対の声が起きた。
皮肉なことに、その永世皇族制の導入によって実系主義が復活。
72日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:47:49
>>70
「土着の双系原理」といっても、律令制定前の6〜7世紀の大王家の婚姻関係を見る限り、
大王の娘はほとんど大王や王族と婚姻している。

もともとの大王家の婚姻形態において、王女と臣下(他氏族)の男性との婚姻がみられない以上、
いわゆる「双系原理」も実態としては大王家という氏族内での話にすぎない。
後で言えば天智系と天武系みたいな、大王家というコップの中の「双系」だ。

大王=天皇家は、現皇室=ヤマト大王家が確立した継体朝以降は男系継承が貫徹されている。
73日本@名無史さん:2008/09/23(火) 10:56:46
要するに、律令制定時に中国の男系主義に合わせて女性皇族の結婚相手を制限したのではなく、
もともと大王家の娘の婚姻相手が王族内部に限られていた現実を、そのまま法文化したと見るべきだろう。
74日本@名無史さん:2008/09/23(火) 13:46:46
近衛に嫁いだ内親王の実子が後の徳川の御台所の父とされているが
母親は違ったみたいね。
75日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:33:55
>>72
飛鳥・奈良朝の天皇の即位系体としては
男系でも女系でも天皇の血を引いているものが一番理想的
ただ男は自分の子だという保証がない代わり多くの子孫を残しやすいのに対し
女は自分の子だという確証はあるが大量の子孫は残せない
必然的に子孫を残しやすい男の血筋だけが残り
皇族女子に子がない場合は臣下の女子が産んだ天皇が即位するようになっただけ

尚、一族の結束を高めるための血族結婚は天皇家に限った話ではなく
藤原氏など他氏族にも見られる
身近な近親との間には恋愛感情も芽生えやすかったのか
万葉集を見ると必ずしも血を重んじる政略結婚ばかりであったわけでもなく
同族同士で恋愛をしていたと思われる夫婦や恋人も多い
76日本@名無史さん:2008/09/23(火) 19:16:06
>>75
史実としては「女系のみ」で天皇の血をひく天皇は男帝も女帝も存在していない。
父親が蘇我氏や藤原氏の天皇は存在しないのだから、双系主義の強調は意味がない。

やはり、素直に天皇家内部での通婚=男系主義が大前提と考えるべきだろう。
双系主義といっても、史実に示されている事実は男系女系ともに皇族なのだから。
77日本@名無史さん:2008/09/24(水) 01:30:05
>>76
>史実としては「女系のみ」で天皇の血をひく天皇は男帝も女帝も存在していない。
>父親が蘇我氏や藤原氏の天皇は存在しないのだから、双系主義の強調は意味がない。

氏姓制度は明治3年に廃止され、現在「姓」を継承している人は存在しない。
従って女帝が民間人と結婚しても、子供は「蘇我氏や藤原氏の天皇」にはならない。
「蘇我氏や藤原氏の天皇」が存在しなかったことを強調しても、それこそ意味は無いよ。

>双系主義といっても、史実に示されている事実は男系女系ともに皇族なのだから。

だから、それは氏姓制度が齎した制約だったわけ。
氏姓制度が廃止され、制約そのものも必要なくなった。


男系原理の国・中国では同姓不娶、同属婚は「禽獣の沙汰」として毛嫌いされている。
もちろん「皇帝の尊貴性」を受け継ぐのは男系のみ

日本で同属婚が尊ばれたのは、「天皇の尊貴性」が父母両方を通じて子孫に受け継がれる
からで、こちらは双系的価値観。
78日本@名無史さん:2008/09/24(水) 01:41:55
>>77
○同族婚
×同属婚
79日本@名無史さん:2008/09/24(水) 02:49:00
>>72-73
>要するに、律令制定時に中国の男系主義に合わせて女性皇族の結婚相手を制限したのではなく、

「律令制定時」じゃなくて、「氏姓制度を導入した時」に派生した制約だよ。
律令制定以前から、「氏姓」は用いられていたでしょ。

日本律令は、制定以前の慣習を引き継いでいる。
考古学の知見では、日本に父系血族の墳墓が見られるようになるのは6世紀前半で、5世紀までは双系社会
(5世紀後半は過渡期)。

>もともと大王家の娘の婚姻相手が王族内部に限られていた現実を、そのまま法文化したと見るべきだろう。

なんで女性王族が同族婚でなくちゃいけなかったのか、その理由が分からない。
80日本@名無史さん:2008/09/24(水) 23:15:52
なるほど男性が皇族(天皇の夫)になると「准后」と呼ばれるのか。

ところで後桜町は一生、独身の皇族のままにさせる予定だったって聞いたけど
こういうケースって他にも結構あるものなのかな。
81日本@名無史さん:2008/09/25(木) 01:56:32
いや、准后のイメージはどちらかというと「外戚」だから
現代に改めて天皇の夫に限定して使う用語として異論があるだろう。
82日本@名無史さん:2008/09/26(金) 21:35:23
>>77
氏姓制度が公式にあろうがなかろうが、男系女系の違いは厳然としてあるわけで、
皇族や旧皇族以外の一般人が女帝の夫になったら、非天皇家の男系になることにかわりない。

なんか氏姓制度云々で屁理屈こねて論点ずらして女系容認にもっていきたいような論調だが、
古代天皇制では皇女の結婚相手は天皇(大王)家内部の男性に限られていたことは事実であり、
皇女が天皇か皇族としか結婚してない以上、やはり男系が大前提としか言いようがない。
83日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:11:58
旧五摂家で天皇の男系子孫はいないの?
84日本@名無史さん:2008/09/26(金) 23:18:05
律令制定前の皇女の結婚相手は文献で確認できる限り、すべて天皇か皇族。
大宝律令以前の飛鳥時代の女帝は、すべて自身も皇族の生まれの皇后か皇太子妃。
継体以降のヤマト王朝の王位継承は男系が基本としか言いようがない。
蘇我氏や藤原氏の男性が女帝の夫になった例も天皇の実父になった例も存在しない。

近代に氏姓制度が廃止されたのは、形骸化した本姓を公的に使用しなくなっただけで、
皇統に属する男系の一族のみが生まれながらの皇族であることに変わりはない。
仮に皇女が天皇の男系子孫でもなんでもない農民や町人の子孫と結婚すれば、
それはもはや天皇家の男系子孫ではない。
85日本@名無史さん:2008/09/27(土) 00:22:58
皇女はどこの誰と結婚しようが男系子孫に変わりはないだろ
黒田清子が皇籍離脱して女系になったという議論は聞いたことがない
86日本@名無史さん:2008/09/30(火) 01:05:29
>>82
>氏姓制度が公式にあろうがなかろうが、男系女系の違いは厳然としてあるわけで、
>皇族や旧皇族以外の一般人が女帝の夫になったら、非天皇家の男系になることにかわりない。

女系で皇位継承資格を受け継ぐから、別に「非天皇家の男系」でもかまわない。
女系の正統性は「継嗣令」に明記されているし、「何も受け継いでいない男系の血筋」は、
「何も受け継いでいない女系の血筋」と同じ。

>古代天皇制では皇女の結婚相手は天皇(大王)家内部の男性に限られていたことは事実であり、

なぜ女性皇族と氏族の結婚に制限を必要としたのか、その「理由」が問題なんでしょ。
あなたは「氏族に女系の皇位継承資格を与えないため」という説を否定するばかりで、男系説に基づいた
「理由」は提示できていない。
「皇位=男系継承」を前提にすると、説得力のある仮説を立てることができないからだよ。
「男系説」は破綻してる。
87日本@名無史さん:2008/09/30(火) 13:48:08
皇女の制限は、継体が履中系皇女との婚姻で権力の正統性を確保したから
自分と同じことするやつが現れないように制限したのじゃないw
88日本@名無史さん:2008/09/30(火) 14:48:43
女帝の話になると男系女系のことばかり話す奴どうにかならないかね?
毎回同じ話ばかりで飽きたよ。
89日本@名無史さん:2008/09/30(火) 16:04:56
>>88
自分で興味を引かれた話を書けばいいんじゃないの?
90日本@名無史さん:2008/09/30(火) 18:05:55
継嗣令が皇位継承権に措いて女系を認める双系主義とか嘘800も甚だしいなwwwwwww
91日本@名無史さん:2008/09/30(火) 18:16:42
女系派の屁理屈は黒を白と言い張る解釈改憲の御都合主義者と同じだな
92日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:14:48
継嗣令が女系容認だと言いだした高森明勅は、これを伝統だと主張することで保守層を取り込むつもりだったんだろう

だけど、有識者会議で同じ女系容認派の所功(法制史)に、女性皇族の婚姻が男性皇族のみに制限されていたことを指摘され、結局、有識者会議では女系容認という結論には至ったが高森の見解は無視されたんだよね

吉備内親王の子を皇孫扱いにしたのも、首皇子が夭折するような最悪の事態を想定して、天武系の諸王間でいらぬ争いが起きないよう特定の血筋を優遇させただけなんじゃね?

長屋王の子という時点で皇親としての資格は得ている以上、皇位継承権があることは明らか
ただ、母親の血筋で優先順位が上がったってことでしょ
「長屋親王」と書かれた木簡が出土しているから、皇親の世数とその待遇については、律令に反しても天皇の意思で優遇出来たんじゃないかな
93日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:19:10
あぁ只、所は所で終わってるけどなw
94日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:26:30
高森って、そこまで事実を歪曲して何がしたかったんだろう?
高森も所も女系移行を容認して何かトクすることでもあるのか?

かえってウヨや神社界の信用を失っただけだろ。
95日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:33:43
諸君や読売に出入りしてた保守系と見されていた学者は、黒を白に捻じ曲げた嘘吐きだらけ
嘘で塗り固めた学説を流布して、世論形成をする為の舞台俳優だよコイツラは

女系推進派のメディアとその裏に居る筈の特定の勢力から金も廻ってるんだろ
コイツラはゴミだよゴミ
96日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:35:15
「見」じゃなくて「目」な
97日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:36:24
>>88
このスレの継嗣令厨や高森某みたいに、双系主義だの女系容認だのをふりまわして、
史実を歪曲してまで自分に都合のいい方向に誘導しようとするアフォがいるからだろ。
98日本@名無史さん:2008/09/30(火) 20:44:43
>>92
長屋王と吉備内親王の子のケースを現代に置き換えたら、東久邇宮家に相当するな。

男系でも伏見宮一門として皇親であり、母系から明治・昭和両天皇の血を受け継いでいる。
戦後、東久邇一家だけでも皇族に残しておけば、よかったのにな。
99日本@名無史さん:2008/09/30(火) 21:09:15
>戦後、東久邇一家だけでも皇族に残しておけば、よかったのにな。

戦後、皇室が残っただけでも奇跡だと思うが。
100日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:43:51
どうかな。
天皇を残しておいて占領政策に利用するというのは、既定の方針だろ。
新憲法制定のとき、マッカーサーがGHQ草案を強引に押し付けたのも、
日本政府が旧態依然とした天皇主権の草案のままでグズグズしていたら、
その他の連合国とかから横槍が入る恐れがあったからというし。
101日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:51:33
少なくとも昭和生まれの世代がまだ人口の多数を占めているうちは、
昭和天皇の血をひく東久邇家の男系子孫が国民から反発されることはないだろう。
旧皇族中、東久邇の知名度はダントツだし、現当主は昭和天皇の初孫だし。

そして何よりも昭和世代なら、「天皇陛下」「今上天皇」といえば昭和天皇。
現天皇や皇太子の血をひいてなくても、旧宮家で昭和天皇の孫なら納得するだろう。
102日本@名無史さん:2008/09/30(火) 23:11:01
知名度ダントツなのは有栖川だなw
103日本@名無史さん:2008/10/01(水) 00:04:51
女帝は無理でも女性摂政は見てみたい
104日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:55:47
>>92
「長屋親王」については、「膳夫王が2世王になったことによる特別待遇」「正式な身位ではなく通称」と言った説がある。
どっちにしろ異母兄弟の安宿王(母は藤原長娥子)らは3世王のままなので、膳夫王が吉備内親王から皇位継承資格
を受け継いだのは明らか(「長屋親王」から受け継いだものなら安宿王も2世王になっていたはずだし、元明天皇が
詔を出す必要もない)。
105日本@名無史さん:2008/10/02(木) 21:01:11
>膳夫王が吉備内親王から皇位継承資格
を受け継いだのは明らか

この「皇位継承資格」ってのはどういう意味で使ってんの?

続日本紀には
「勅以三品吉備内親王男女。皆入皇孫之例焉。」
とあるが、まさか皇孫=皇位継承資格じゃないよね?

これだど、継体即位の正統性が損なわれる
継体が応神五世となってることと、継嗣令で皇親が五世までになってることとは関係しているはずだし
また、文武即位の詔や宇佐八幡宮の神託など、前後の記事を読むと、皇位を継承する資格のある者は皇統に属する皇親(臣籍でない)の者だとわかると思うが

そもそも、母系で女帝の孫でも自動的に皇孫となるルールがあったなら、はじめからこんな勅を出す必要はない
つまりは、天皇による特例あつかい

つか、オイラもいい加減にこの話題飽きたから、これで最後にするよ
106日本@名無史さん:2008/10/02(木) 21:59:04
女帝とはちがうが、南北朝時代に北朝天子が南朝方に拉致されたので、
藤原氏出身の女院が急遽、治天の君になって新帝を即位させた例があったな。

女の治天なんてあとにも先にもこのときだけだろ。
107日本@名無史さん:2008/10/02(木) 23:06:25
>>106
広義門院のことか。足利義詮が泣き付いて無理矢理治天の君に就かせた。
藤原氏の人間が王氏の家長なんてほんとありえない話だな。
108日本@名無史さん:2008/10/03(金) 05:14:12
なぜ、元明天皇は文武天皇の息子二人を皇族から追いやったのだろう。
首皇子がいても広也、広世の二人の皇子は蘇我氏系の石川氏の所生なのに。
藤原不比等と橘三千代の権力に抵抗できなかったんだろうか。
109日本@名無史さん:2008/10/03(金) 17:10:25
阿倍内親王が立太子してから、現在のスウェーデン皇太子ヴィクトリア王女まで
女性の立太子はなかったって本当か?
推定相続人じゃなくて正式な皇太子になることね。
110日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:00:02
>>105
>まさか皇孫=皇位継承資格じゃないよね?

違うよ、「皇親=皇位継承資格者」。

>そもそも、母系で女帝の孫でも自動的に皇孫となるルールがあったなら、はじめからこんな勅を出す必要はない

漢皇子(皇極天皇・高向王の子)……母の即位で「自動的」に皇子になった。

膳夫王・葛木王・鉤取王・桑田王(吉備内親王・長屋王の子) 、五百枝王、五百井女王(能登内親王・市原王の子)
……選択的に、男系の皇位継承資格を破棄して女系の皇位継承資格を適用した。
111日本@名無史さん:2008/10/04(土) 01:31:19
軽皇子(孝徳)=姉の即位で皇子になった

つうか天武朝以前の日本書紀の記述は、
後世の意識の反映でもあるから比較の対象にならん気が…
舒明が田村皇子だし、大派皇子が大俣王になってたり
112日本@名無史さん:2008/10/04(土) 05:18:36
>大派皇子が大俣王

そりゃ天皇号成立以前は皇子も「〜王」だろ。
113日本@名無史さん:2008/10/04(土) 13:59:40
>>111
>軽皇子(孝徳)=姉の即位で皇子になった

大事な人が抜けてた。
孝徳天皇は父ではなく姉から皇位継承資格を受け継いで皇子になったので、
今のところ唯一の女系天皇だね。
114日本@名無史さん:2008/10/05(日) 11:21:02
孝徳天皇の即位は、直接には姉皇極女帝からの譲位だけど、
皇極も孝徳も敏達大王の曾孫で、押坂彦人大兄王子の孫であり、
ヤマト大王の王統に属していることが大前提なのだから、
普通に男系での継承だろう。
115日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:13:36
>>114
「男系天皇・女系天皇」の「男系・女系」は、血族じゃなくて皇位継承資格が受け継がれてきたルートのこと。
たとえば今の天皇は血族的には男系男子かつ女系男子だけど、男系ルートで皇位継承資格を受け継いだ
ので「男系天皇」。

 [養老律令継嗣令皇兄弟条]天平宝字元年(757年)
 「凡皇兄弟皇子。皆為親王。{女帝子亦同。}以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」

天皇の兄弟は親王。
即位に伴って、皇位継承資格の兄弟間継承が行われた。

孝徳天皇(軽皇子)の皇位継承資格の継承経路は、
…敏達天皇(男)→押坂彦人大兄皇子(男)→茅渟王(男)→皇極天皇(女)→孝徳天皇
孝徳天皇は「女系天皇」だよ。
116日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:18:40
茅渟王じゃなくて舒明だろ。
117日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:37:15
なんかこのスレ、政治板にあった男系スレぽくなったなぁ

あのスレにいた「破廉恥」みたいな奴も涌いてるし

案外「破廉恥」本人かもな
あの独特な内容の俺様定義を使う奴が複数いるとは考え難いし
118日本@名無史さん:2008/10/05(日) 16:21:46
破廉恥って、いつも継嗣令とか双系原理とか言ってる長文女系厨のことか。
119日本@名無史さん:2008/10/05(日) 17:44:47
母方の祖父や伯父や従兄弟から相続したなら女系相続だろうが、
同じ父親から生まれた実姉の後を継いだのなら、普通に男系相続だろ。
120日本@名無史さん:2008/10/05(日) 19:08:37
>>116
舒明天皇は、皇極天皇の夫だよ。
孝徳天皇(軽皇子)の「皇位継承資格」とは関係ない。

>>119
>同じ父親から生まれた実姉の後を継いだのなら、普通に男系相続だろ。

「皇位の継承」と「皇位継承資格の継承」を混同してるね。
仮に即位しなかったとしても、皇位継承資格を姉の皇極天皇より受け継いだ時点で、軽皇子は
「女系皇族」。

元正天皇(氷高皇女)は母親の元明天皇の後を継いで即位したけど、皇位継承資格を母親
ではなく弟の文武天皇から受け継いでいるので、「男系天皇」。
121日本@名無史さん:2008/10/05(日) 19:38:05
皇極の皇位継承資格はあきらかに舒明天皇から。正妃(皇后)なったと同時に資格が発生した。
彼女の場合、資格の源泉はこれがすべてだと思う。他の歴代女帝はみんな天皇の子ども。
宝姫王は、敏達の曾孫で母方から見ても欽明の曾孫。
122日本@名無史さん:2008/10/05(日) 19:48:02
女帝はあくまで中継ぎ。それ以外の意味はない。男系継承が絶対原則。
女帝についてはもう語るな。
123日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:00:20
しかも宝姫王はバツイチ子持ちだったという過去をもち、田村と再婚できたことがラッキーだった。
血筋だけでいえば敏達の子どもの田眼皇女のほうが上。
124日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:43:21
>>121
>皇極の皇位継承資格はあきらかに舒明天皇から。正妃(皇后)なったと同時に資格が発生した。
>彼女の場合、資格の源泉はこれがすべてだと思う。他の歴代女帝はみんな天皇の子ども。

皇極天皇は舒明天皇と結婚する前から、皇位継承資格を持っていたよ。
舒明天皇と結婚したことで親王並の扱いを受けたけど、諱は「宝女王」だし。

「継嗣令」に明記されているように、皇位継承資格者は双系で4世王(一時期5世王)まで。
その中で誰が天皇になるかは、政治状況次第。
125日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:19:32
実際に皇位継承候補に挙がるのは、田村や山背大兄といった有力皇子のみ。
資格があっても、他から抜きん出るには経済力(皇后は私部)の裏づけも必要。
126日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:45:06
不常改典以前と以後を同列に論じるのはよくない。
皇極朝に「継嗣令」など存在しないし親王もいない。
127日本@名無史さん:2008/10/05(日) 23:37:06
>>126
律令制定以前から、日本は中国律令の影響を受けていた。
「継嗣令」で女系の皇位継承資格を認めているのは、漢皇子や軽皇子の存在を反映していると思う。
128日本@名無史さん:2008/10/06(月) 14:52:50
わかってないなあ。書紀編纂の時代の反映が「軽皇子」「漢皇子」の表記。
天皇の兄弟が自動的に皇子になるなら皇極父も「茅渟皇子」でないといけない。
天武朝以前に明確な皇位継承原則は確立されていない。
129日本@名無史さん:2008/10/06(月) 18:43:24
前から双系、双系って力説してる人がいるけど、まず男系で大王家ってくくりがあって、
その中で宝王女みたいな王族女子と舒明天皇みたいな王族男子が結婚してるわけだから、
現代人が考えるような意味での双系でも女系でもない。

大王家内部で王族男子と結婚した王族女子の子孫に継承権があるのは男系主義であって、
双系でも女系でもない。
どっちみち、継体天皇の男系子孫のみによる王位継承に変わりはないのだから。
130日本@名無史さん:2008/10/06(月) 19:44:56
>>121-124
河内祥輔が20年前に仮説として出した「宝女王の在位は斉明のみで、舒明皇后・皇極在位は天智・天武の正統性のために付けられた作為に過ぎず、実際は舒明の死後、天智が軍事力で孝徳・斉明を担ぎ上げるまで空位時代だった」という説はどうなん?
131日本@名無史さん:2008/10/06(月) 20:21:49
>天智が軍事力で孝徳・斉明を担ぎ上げる

仮に斉明を担ぎ上げたとして、皇極を作為する必要性あるか?
132日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:07:30
もし舒明没後に空位だったら、上宮王家滅亡後に古人がすぐに即位していたはず
133日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:34:50
称光天皇が危篤になった時、足利義教は生まれてまもない皇女を天皇にしようとしたって本当?
134日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:40:17
>>129
卑母の男子は即位できなかったのだから
女系無視でもないよね?

女系が無視されてきたのならば
蘇我氏や藤原氏があんなに長期間政権をとることもなかったし。
また、天皇は自分の母方の先祖の祭祀も行わなければならなかった。
一条天皇は母方藤原氏の氏神である春日大社へ詣でているし。
135日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:13:55
女系重視の男系継承

でも女系のみでの継承は不可能
136日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:59:01
>>641
舒明が死んだとき天智は16歳
それほどの力があったとは思えない
しかし蘇我氏の意向が蘇我氏を外戚とする古人大兄皇子即位にあったとして
蘇我氏と親戚関係を持たない天智の母皇極の登位は不可思議でもある
古人大兄皇子の継母にすぎない皇極の即位は
天智の即位に優位に働くことはあっても
異母兄古人大兄皇子即位に必ずしも優位にはならないため
137日本@名無史さん:2008/10/13(月) 20:16:28
一夫多妻が当たり前の社会で、異母兄弟が母親の身分や外戚の権勢等によって序列化されるのは当然

女系容認論は極力血筋による男女の性差を無くす方向なので、過去に母親の血筋が後継選びに影響を与えたことが女系容認論の補強にはならない

皇族男子の子供は母親の身分にかかわらず皇族になれるが、皇族女子の子供は父親が皇族でなければ皇族になれない
過去に臣下に嫁いだ内親王の子供はみな非皇族

この血筋による男女の性差は歴然としている
138日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:27:00
>>136
あれ? 皇極天皇は蘇我の血を引く皇族じゃなかったでしたっけ。
139日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:31:12
敏      達┐
          ├押坂彦人┐
息長  広姫┘        ├茅渟王─┐
              大俣王┘        │
欽      明┐                  ├皇極
          ├桜井皇子─吉備姫王┘
蘇我堅塩媛┘
   ↑
引いてないわけじゃないが・・・
140日本@名無史さん:2008/10/14(火) 02:56:35

推古は本当に天皇だったの?

141日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:24:29
いいえ、治天下大王です。
142日本@名無史さん:2008/11/02(日) 00:01:43
age
143日本@名無史さん:2008/11/13(木) 21:46:09
>>139
大俣王って女性?
144日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:58:02
男性の大派皇子とは別人
145日本@名無史さん:2008/11/14(金) 16:26:34
政治能力は、持統天皇が最高で群を抜いている。
146日本@名無史さん:2008/11/16(日) 03:22:25
俺の私見
大宝令以前の女帝は大化前代の慣行に基づく前大后執政
進展する中国的法治制度と有力豪族の推挙が必要だった慣行との妥協
元明以降はその先例を利用した藤原氏の権力の獲得維持の手段として出現
147日本@名無史さん:2008/11/17(月) 20:52:19
>>143
古事記の系譜(欽明以降)では女性でも王
例外はあるが(例:豊御気炊屋比売命)
148日本@名無史さん:2008/11/17(月) 22:58:11
だって、豊御気炊屋比売は和風諡号じゃん
149日本@名無史さん:2008/11/18(火) 02:38:49
>>148
その通りだけど古事記の系譜にはこれのみ
150日本@名無史さん:2008/11/18(火) 18:37:49
スイコミ天皇
151日本@名無史さん:2008/11/18(火) 20:03:59
明正即位は朝廷と幕府、というよりは後水尾と秀忠との行き違いのような気がする
尊厳だけは守ろうと必死の後水尾に対し逃げ道まで塞ぐような対応
切れた天皇が開き直って女一宮に譲位(前にも打診してる)
秀忠は激怒したらしいが幕閣としては問題の収拾を第一に
まず非公式に細川三斎を上洛させ情報の収集と内々の解決に当たらせ
それに基づいて既成事実の追認という形で秀忠を説得したと思われる

後桜町の場合はそれに比べはるかにノーマル(天皇家内部の問題として済んでる)
弟桃園の死後幼少でかつ病弱だった甥に替わって中継ぎとして即位
女子ではあるが桜町のいわば嫡妻の子だったので切り札としてリザーブされてたかも
その後甥のみならず血統が移った光格、仁孝までも後見してる
152日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:51:22
後水尾は若いころから譲位、譲位、という天皇だったんだよ
最初はお四津事件での幕府の処置に激怒
徳川の嫁を娶るくらいなら譲位だったか
譲位、譲位、と言っては実際には譲位しないから
幕府もその手には乗らんぞという感じだったんだろう
結果的に後水尾は譲位後、4人の子が天皇に即位して院政を敷き、
徳川和子の計らいで幕府の出費により広大な離宮も完成、
譲位後のほうが楽しんでいた感じがするが。

後桜町が嫡女として天皇になったのがノーマルなら
明正天皇もまた後水尾の嫡女
(和子の男子は育たず和子の産んだ育った子の中では一番年上の皇女だった)
いずれも男子が育たなかったためという紆余曲折はあるにしろ
明正の即位がそれほど予期できないものだったとも思えない
たとえば後水尾が早死になどした場合
幕府はとりあえずその正妃である中宮和子の女子を即位させること
ありえたと思うから。
153日本@名無史さん:2008/11/22(土) 02:26:05
>>152
そこまでいえるかな?
後水尾が何度も譲位をいいだしたのは事実だが
個人的な理由でなくすべて政治的に幕府が自己の朝廷政策を強要した時
いわゆる紫衣問題の後病気を口実に譲位(女一宮=明正へ)の打診も幕府に拒否されてる

当時は家康死後の幕府の制度的確立期で対外的に強行策が目立つ
(些細なことで改易された大名も多い)
事実この後京都所司代などを通じ譲位撤回の工作をしている
追認した後も上皇に御料を献じず翌年になって問い合わせが合ってから実行してる
ぎくしゃくした関係が修復されたのは秀忠死後
その頃には後水尾も明正の後に即位した後光明に幕府との協調を説いたそうな
154日本@名無史さん:2008/11/22(土) 08:02:20
後水尾の譲位の理由は病気治療(鍼灸)のためだと、小槻官務の日記にある。
個人的理由が最も大きな動機だと見る研究者もいるよ。
155日本@名無史さん:2008/11/22(土) 20:27:58
>>153
政治的理由からの退位ならば一切の政務から手を引くべきなのに
後水尾は政治から手を引かず院政を行っていたよね?
そもそもこの時代天皇が退位したからって政治が動くわけがない。
ましてや徳川家の外孫の天皇誕生なら
むしろ幕府にとっては後水尾以上にやりやすいだろう。
後水尾は幕府とは上手くやっていたし、それを裏付けるように
東福門院とも晩年までともに行幸するなどして夫婦円満だった。
幕府の権限が強くなって娘に譲位なら
ますます幕府にとっては願ったりかなったりなのだが。
156日本@名無史さん:2008/11/23(日) 18:44:46
>>155
それだけ書くんだから根拠は有るんだろうな?
反対の史料だらけだけど
157日本@名無史さん:2008/11/25(火) 21:13:44
>>156
史料にないことを書いているのはお前だろ?
お前の言っていることと反対の史料はあるんだが。
お前の書き込みには史料の引用が全くないだろ。
天皇と幕府が対立するのは何も後水尾に限ったことではない。
それで、後水尾が退位して何が変わったのかね?
158日本@名無史さん:2008/11/25(火) 23:09:55
>>157
東山御文庫所蔵記録、大内日記、資勝卿記、本源自性院記、細川三斎の忠利宛書簡他多数
・・・
顔を真っ赤にしてまでデタラメを書き込む理由がわからん
159日本@名無史さん:2008/11/26(水) 21:28:45
>>158
その史料のどこにもお前の主張する内容は載ってないのだが?
顔真っ赤にしてるのはお前だろう。
それとも史料を読むことができないのか。
160日本@名無史さん:2008/11/26(水) 22:33:51
政仁、淋病だったんだろ。
お灸したいから譲位したって聞いたけど。
161日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:53:50
>>159
どうやら真性の粘着き○○いにあたったようだ
気持ち悪いから以降スルー
162日本@名無史さん:2008/11/26(水) 23:59:16
興子は女帝だから、後に徳川の血の入った天皇に繋がらないから、就けたんだろ。
興子の異母弟に伊達の従兄がいて、中継ぎで天皇になったけどな。
興子と智子では、同じ江戸時代の女帝でも、背景がかなり違うな。
163日本@名無史さん:2008/11/27(木) 14:36:22

推古は蘇我だろ!

164日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:24:05
興子の同母妹は結婚したっけ?
165日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:49:59
明正天皇の同母妹

昭子内親王(1625-1651)
 13歳で近衛尚嗣に降嫁。 好君(伏見宮貞致親王室)を産む。27歳で没。

顕子内親王(1629-1675)
 生涯未婚。母東福門院の離宮であった岩倉御所に住み、47歳で死去。

賀子内親王(1632-1696)
 13歳で二条光平に降嫁。隆崇院(甲府藩主徳川綱重室)を産む。65歳で没。

菊宮(1633−1634)
 2歳で夭折。
166日本@名無史さん:2008/12/12(金) 22:33:26
後桜町も明正も嫁がせる気は無かったってことでいいのか?
167日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:31:43
というか、皇族か摂関家、徳川将軍しか選択肢がないとすれば、条件にあう男性がいない可能性がある。
168日本@名無史さん:2008/12/17(水) 23:07:18
>>162
和子の産んだ男子が夭折せずに育てば当然天皇になっていた。
徳川家を外祖父とする男性天皇が立っていたわけだ。
明正天皇は女帝だから帝位につけたというのは正しくない。
幕府は本来和子の産んだ皇子への譲位を求めていたからね。
169日本@名無史さん:2008/12/24(水) 08:54:03
後桜町天皇(智子)は政治的に有能だった気する。
後継者をよく指導していたみたいだし。

ただ明正天皇は完璧中継ぎの名前だけだったけどな。

摂関家以外にも嫁いだ皇女はいなかったっけ?
170日本@名無史さん:2008/12/27(土) 07:58:42
江戸時代の女帝に関しては此迄の書き込みに尽きてると思う・・・
古代の話を聞きたい(出来たら神功、飯豊を含めて)
171日本@名無史さん:2008/12/28(日) 19:11:12
なぜ飯豊のマソコ初体験をわざわざ記述しなければならなかったのか?
172日本@名無史さん:2008/12/28(日) 19:44:30
173日本@名無史さん:2008/12/28(日) 20:54:11
推古〜皇極〜持統〜元明〜元正の時代までは、天皇になる為には母親が皇族の女で尚且つ曽我氏の血筋を引くことが条件だった。
ところが文武の妻が曽我氏出身ではなく藤原氏出身であったため、聖武の即位が遅れたのである。
聖武の母親が曽我氏の血筋を引く皇族出身者であったならば、元正即位は無かったであろう。
174日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:04:32
それが絶対条件だったら有間事件も壬申の乱もおこらなかったのに
175日本@名無史さん:2008/12/28(日) 23:02:59
有間はクーデターを未然に阻止するために屠られた牲であっても
有力な皇位継承者とは言い難い。
孝徳天皇在位中に立太子すらされなかったのは、孝徳天皇自身が権力を掌握しきれなかった
ことが大きいから、もし気狂いのフリを続けられたら、殺されずに一生を終えたと思われるよ。

壬申の乱が天下を二分した戦いに発展したのは、天智路線VS反天智路線だったからであって、
大友が仮に蘇我氏縁の皇族であったとしても、止める事は難しいのでは?と思う。
176日本@名無史さん:2008/12/29(月) 19:53:35
>>173
皇極は蘇我の血からかなり遠かったはずだが。
息子の中大兄皇子が蘇我氏を討ったくらいだし。
中大兄皇子は続いて蘇我氏を外戚とする異母兄古人大兄皇子も討っている。
天智による度重なる蘇我氏弾圧のために、
蘇我氏出身の天皇妃は天智天皇の後宮を最後に絶えてしまった。
これでは蘇我氏を母方とする天皇は誕生しようがない。
それほどまでに蘇我氏の血を尊んだのならば、なぜ蘇我氏を失脚させたのか。
文武天皇の後宮では蘇我氏の末裔石川氏出身の嬪が、
身分をはく奪され、その息子は皇族から末梢されている。
177日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:01:40
>>175
孝徳天皇と大后間人皇女の子ならば、明かに最有力な皇位継承者だったと思うよ。
全権を掌握していたと思われる天智天皇ですら、
卑母の息子は帝位を全うできなかった。
天武天皇が彼らと違ったのは皇族出身の皇后との子を後継に据えたこと。
子供が母方の親族に囲まれて育つ当時、
卑母であるということはそれだけで最大の汚点だった。
178日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:20:29
>>176
> 天智による度重なる蘇我氏弾圧のために

蘇我氏が弾圧されたわけではない。
ある意味、蘇我氏内部での主導権争いであったとも言える。
蘇我氏が全員やられたわけではないからな。
その後陰謀好きな藤原氏にしてやられたのは、「その後の話」。
179日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:24:56
>>178
蘇我蝦夷ー入鹿が滅ぼされたときには
その地位を狙う傍系の蘇我石川麻呂の裏切りがあった
しかし石川麻呂が滅ぼされたときほかの蘇我氏が裏から糸を引いてたっけ?
蘇我氏の失脚をもくろんだのはあくまでも蘇我氏と血縁の薄い中大兄皇子であって、
蘇我氏の内部争いだけで滅びるはずもない
180日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:30:53
だから〜
それはその後の話だと言ってるだろうが。
181日本@名無史さん:2008/12/29(月) 22:47:43
>>180
173は推古〜元正までを蘇我氏外戚の天皇だと規定している。
だけど、実際には違うよね。
君はどこまでが蘇我の息のかかった天皇だと思ってるの?
女帝では推古ぐらいだよね?
その推古も夫の没後天皇の任命権を一手に持つなど
けして蘇我氏の操り人形ではなかった。
182日本@名無史さん:2008/12/30(火) 00:38:56
>>179
蘇我日向が石川麻呂と乙巳変以前から対立していたね。

>>181
蘇我腹の女帝
推古、持統、元明
藤原不比等が台頭したのは蘇我氏の影響力という説もあるが
そのわりには石川氏が振るわず終わっているな。
183日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:37:47
>>182
推古はともかく、持統、元明は外祖父やおじが自害した後で即位している。
母方が蘇我氏であることでどういう得をしたのか正確に書こう。
持統天皇は夫天武天皇の後宮に蘇我系の妃が入ることを許さず、
自ら皇后として全権力を手中に収めていた。
母方が蘇我氏であることが絶対条件なら草壁皇子は立太子できず、
ましてや舒明、皇極、天智、天武、文武らの各天皇が即位できないのだが。
184日本@名無史さん:2008/12/30(火) 17:40:43
推古、持統、元明はいずれも生まれながらの天皇だったわけではない。
両者に共通するのは天皇たる夫を亡くしたあと未亡人としての即位であるということ。
父方が天皇であること、そして夫が天皇であること、その大后(皇后)であったことが
3女帝が即位した絶対条件であって、必ずしも母方が蘇我氏であったためではない。
絶対条件はどれが欠けても3人は女帝になれなかっただろうが、
母方は大した条件ではない。
185日本@名無史さん:2008/12/30(火) 19:52:51
>>183
天武後宮で大人しく過ごした蘇我大蕤娘のことも思い出してやって下さい。
ちなみに文武の後宮にも、石川麻呂系の石川刀子娘がいましたので、
持統が蘇我氏を冷遇しているどころか、「後宮に蘇我氏の女性有り」と
いう不文律は、この時点では踏襲されています。

>>184
その説でいくと、天智崩御後、倭姫皇后が次期天皇になっても良いと
思うのだけど。
父が天皇で無いのに即位できた皇極のような前例があるのだから
おかしいと思わない?
186日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:21:55
>>185
兄に追い詰められた大海人皇子は
倭姫に後継を求めたと伝わっているよね。
倭姫が中継ぎで即位することは十分可能だったけれども
倭姫はこれを固辞したために卑母の大友皇子の出番となった。
そもそも倭姫が中継ぎで即位したところで
倭姫と天智天皇の間には子はなかったから、いずれ必ず皇位継承問題は起こる。
逆に天智天皇とその大后倭姫との間に正統な皇子があったのならば、
諸豪族もみすみす大海人皇子につかなかっただろう。
187日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:25:20
>>185
>文武の後宮にいた石川刀子娘

藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人だったのに対し、
石川刀子娘はそれより格下の嬪。
これでは藤原氏出身の宮子の男子が蘇我系よりも優先的に即位するのは自明。
蘇我系を母方に持つことが絶対条件ならば
なぜ石川刀子娘が夫人にすらなれなかったのかを説明してくれないと。
188日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:26:10
>>185
>母方が蘇我氏であることが絶対条件なら草壁皇子は立太子できず、
>ましてや舒明、皇極、天智、天武、文武らの各天皇が即位できないのだが。

母方が蘇我氏ではないこれらの天皇が即位できたのはなぜ?
189日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:47:16
>>187
大宝律令によって、後宮にいる女性達の地位は
父親の地位によって定められた。
これは石川刀子娘の父が大納言・藤原不比等よりも
下風であったことを示すから。
その時、「嬪」という身分を新設し、不比等よりも身分が低い
父親を持つ石川刀子娘と紀竃門娘に宛がわれた。

けれども、文武元年8月から9月に石川刀子娘が妃、
宮子が夫人とされたのは、
前者が名門貴族出身で、後者が新興貴族出身だからとも
言われているからですが。

つまり、二人は不比等も編纂にかかわった大宝律令によって
身分を格下げられたという訳。
190日本@名無史さん:2008/12/30(火) 20:53:13
>>186
たらればは好まないけれども、
・大友皇子が倭姫皇后の子であった
・二人ともに有能だった
・白村江の戦いで大敗しなかった←これが反天智勢力を生んだ最大の原因かと

これらの諸条件が揃えば「もしかすると」という推測で遊べるかも。
191日本@名無史さん:2008/12/30(火) 21:08:13
>>188
何故私にレスするのかな?
私は「後宮に蘇我氏の女性有り」とは書いたけれども、
母方が蘇我氏だからとは一度も書いたことが無い。

舒明天皇→蘇我本家のバックを得て即位。後宮には蘇我法提郎女がいた(子は古人大兄皇子)
皇極天皇→同上。息子が起こした乙巳の変に驚愕して、即退位した。

この時点で最有力皇位継承者と目されたのが古人大兄皇子だが、
蘇我本家滅亡直後に出家するも、謀反をでっち上げられ殺害され、
しばらくの間有力な皇位継承者が不在となる。

天智天皇→敗戦処理責任者として即位。後宮には持統生母(死去)、
     元明生母が蘇我氏出身者としていた。

天武と文武の後宮については>185参照
192日本@名無史さん:2008/12/30(火) 21:31:57
倭姫皇后は、壬申の乱で大海人方に誅殺されたと考えてOK?
193日本@名無史さん:2008/12/31(水) 01:25:10
倭姫の動向は全く不明。万葉集の「中皇命」に比定して即位していたとする説もあるがかなり無理あり。
ただ中継ぎでも即位していたなら、葛野王に皇位継承されていた可能性も(全くの個人的意見です)。
古代の女帝史を語る上で、「即位しなかった皇后」間人と倭姫はその微妙な時期もあって気になる存在。
194日本@名無史さん:2008/12/31(水) 08:00:08
俺が >>173 を書いたのだが・・・
「蘇我氏の血筋を引く者」ということが重要であって、母方が蘇我氏と言った訳ではない。

>>192
壬申の乱の後、大津宮廷の女性たちは皆無事。
例外は大友の生母(伊賀出身)など、大友の血縁者だけに限定。

なぜならば、ほとんど皆大海人皇子の血縁者だから。
195日本@名無史さん:2008/12/31(水) 09:14:41
動向が全く不明ということは誅札の可能性も高いんでは?

もともと倭姫は大化改新の「戦犯」古人大兄皇子の娘だし、
壬申の乱でも「戦犯」近江朝廷の中枢にいたわけだし。
大海人にとっては憎んでも憎み足りない兄天智の嫁さんだし。
196日本@名無史さん:2008/12/31(水) 09:32:22
もし倭姫に有力な後見者がいれば、天武にとって生かしておけない存在になった
だっただろうけれど、立后する前から倭姫は弧女に等しい存在だったから、
戦犯として殺す価値がないと解釈されたのかな?と思った。

それと、皇后を殺すことは当時前代未聞の話だから、バランス感覚に優れた天武が
断行するとは思えない。これが天智ならやりかねないけれども。
また、生き残った近江方の大臣達への処罰の際、倭姫が連座した形跡が無いということは、
歴史書からその後の人生を抹殺されたことを持って、倭姫への処罰が終了したのかも?と思う。

個人的には、大津皇子が「天智の元で養育された時期がある」という記録から、
一時、大津と大伯が何らかの形で倭姫と接触があったかも?という説に惹かれる。
倭姫の挽歌と大伯の挽歌が似ていて、大伯は倭姫の影響を受けている?という説を
読んだからだけど、それがもし事実なら、
一時でも大津姉弟の養育に携わった倭姫を天武は殺せないだろうな、と思う。
197日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:04:12
>>189
石川氏が藤原不比等より下位に置かれたこと自体、
石川氏が後宮に娘を送り込むことに支障をきたす事態。
不比等の外孫が石川氏の外孫よりも優先するから。
そもそも蘇我宗家が滅んだ時点で天皇が蘇我氏の血を引く必要性はなくなっている。
持統天皇、元明天皇は母方で蘇我氏傍系石川麻呂の血を引くが
外戚の一族である蘇我氏の政治介入を認めなければ
蘇我氏の官位を引き上げることもなかったから。
198日本@名無史さん:2008/12/31(水) 11:40:15
>>196
天武は女性を処罰していない
大友皇子の正妃でその間に嫡男すら産み
大友皇子の没後は近江朝廷側に擁立されることもあり得た
わが娘十市皇女すら殺していない
倭姫王はもともと異母兄古人大兄皇子を殺した天智が罪滅ぼしも兼ねて
大后に迎えた女性
父の恨みで天智を殺すどころか天智を支えた大后
天武が殺す必要などどこにもない
そもそも倭姫王を殺すなら倭姫王に一番即位の可能性があった天智没の直前だろう
天智の没後時間のたった壬申の乱のころには全権はすでに天智の子である大友皇子が掌握していた
政権を運営していたのは大友皇子とその正妃である十市皇女
政界を引退をしていた倭姫王には何の責任もない
199日本@名無史さん:2008/12/31(水) 13:34:23
>>197
>不比等の外孫が石川氏の外孫よりも優先するから。

意味不明で根拠に乏しい。
聖武朝まで藤原家出身の正后がいないどころか、藤原氏所生の皇子がかつて皇位に就いた事はない。
光明立后の詔に神話を用いなければならないほどの異常事態だったのは、何故だろうか?
つまりその前の時代は、藤原氏の娘が後宮に入って皇子を産むまでは許容範囲であったが、
それ以上の判断は天皇家の歴代の家長に委ねられていたからである。

藤原氏は不比等の時代では盤石な地位を得た貴族では無く、不比等の努力が花を開いたのは
むしろ彼の子女の時代であると見なされているから、宮子が皇子を産んだ時点では
ようやくその足がかりを得た新興貴族であるという見方が有力だと思われる。
それは大宝律令施行後も、持統・文武は首に親王宣下を認めていないこと、
=続日本紀において「首親王」という表記をされていないことからも伺える。

※後に皇位を継承した氷高内親王のように、天皇の子・兄弟には「親王・内親王」の称号が
既に使用されていた。

元明女帝の時代に、突然理由なく文武帝の後宮にいた石川氏と紀氏を廃して
文武帝の遺児は首皇子だけになったが、彼女達の密通説は正史には記されず、推測に過ぎない。
けれど二人が廃されたために、首皇子が皇位継承者として認知されるようになっていったが、
元明がトラップ(元明の孫である吉備内親王の子が皇孫であるという詔を発した)を用意したため、
首が元明・元正にとって唯一の継承者であるという見方をするのは難しいという見解が、
長屋王家発掘調査後に増えたと思われます。

長文を書いたけれど、つまり197は藤原氏の力を過剰評価しているということで。
200日本@名無史さん:2008/12/31(水) 13:38:27
>>198
倭姫皇后と、大友皇子の生母の死没年が不明で、判明する事はこの先もないであろう。
なので彼女達への処罰と、その後の人生については永遠の謎であるという見方で良いのでは?
201日本@名無史さん:2008/12/31(水) 18:57:07
>>199
文武天皇に皇后がたてられなかったのはなぜ?
だらだらと意味のない長文は結構。
藤原氏を過大評価しているというのならば、
なぜ文武天皇に皇后が存在せず
最も上位である夫人が藤原宮子だったのか。
誰を皇位につけるかは天皇の判断だったとはいえ
皇族を母にも持つ皇子を豪族の娘を母に持つ皇子が押さえて即位したり
中央豪族を母に持つ皇子が地方豪族を母とする皇子に超えられたことがないように
天皇家の意向以上に母親の身分が大宝律令のはるか以前から重視されていたのは明らか。
その上でまだ、文武天皇の後宮で最上位にあった藤原宮子が
石川氏よりも軽んじられていたという理論は通らない。

>大宝律令施行後も、持統・文武は首に親王宣下を認めていないこと

長々と駄文をかく割に間違いの多い人だ。
親王・内親王の称号を使うようにという勅命がいつ発せられたのか、
まずは「続日本紀」を読んでみることから始めよう。
202日本@名無史さん:2009/01/05(月) 19:57:25
>>199
そもそも、石川氏に皇子がいたというのも続日本紀と新撰姓氏録の合成研究じゃなかったっけ?
203日本@名無史さん:2009/01/19(月) 17:38:24
>>199
>聖武朝まで藤原家出身の正后がいないどころか、藤原氏所生の皇子がかつて皇位に就いた事はない。

あの〜藤原氏が出来たのって実質的には不比等からなんですが。
それ以前に「藤原氏所生の皇子がかつて皇位についたことがない」のは当然じゃ。

中臣氏が天皇の嫁さんをほとんど出さなかったのはカバネが連だったからでしょ。大伴・物部も同様。
何でかは知りません。誰かおせーて。神別氏族だから?
204日本@名無史さん:2009/01/21(水) 04:14:04
>>203
あまり自信は無いが・・・
大化前代に於いては大王家は祭は別にして政は絶対権力者では無かった
同族、臣姓豪族(君姓を含む)との通婚が多いのは慣習と政治力学の所産
政治的には匹敵してる連姓との通婚がほとんど無いのは彼らの政治基盤が軍事豪族ということに有ったのじゃないか?
たぶんもともとは神の言葉を伝える役割から神と一体化していった者とすれば、婚姻はなじまない(慣習も大いに影響してる)

壬申の乱以降はそういう制約はない
新たな姓を作り出し絶対権力者にまで昇りつめた天皇家にとって何の制約も無い
とはいえ慣習の伝統は根強い
藤原氏の台頭まで変化は無かった

答えにならなくてもカンベン
205日本@名無史さん:2009/01/21(水) 06:02:43
臣姓豪族=五摂家
連姓豪族=将軍家 みたいなもんか。
206日本@名無史さん:2009/01/21(水) 06:21:14
>>204です
読み返しても単なる主観に過ぎません
勿論記紀等を精読した結果の積もりですが・・・
ご意見頂ければ
207日本@名無史さん:2009/01/21(水) 07:25:12
連姓の連中は大王の家来が由来、臣姓の連中は機内の同盟者由来

徳川将軍家が家来の旗本から嫁を貰うより、大名から嫁を貰う感じになるのかな
208日本@名無史さん:2009/01/21(水) 07:29:55
>>206
卓見だと思います。
壬申の乱を経ることによって、天武天皇が絶対的な権力(もしくは権威)を獲得したと考えられます。
「天皇」を称したのは、天武天皇が最初だったはず。
それまでの部族連合のかしらであった“おおきみ”から天皇への変化に注目すべきでしょうね。
209日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:07:08
>>203
「連」を名乗っていたのって、大和王権のもとからの家臣なんじゃなかったっけ?
自分の家来と政略結婚をしなくとも家来が裏切ることはないと思っていたので
連から妃は出なかった。
一方、「臣」は大和王権に匹敵する豪族の一族であり、
大和王権はこれを取り込むために盛んに政略結婚する必要があった。
よって、大王一族内の血族を深めるための大王一族内での婚姻か
「臣」との婚姻が重要だった。
鎌足がこれまでの既成概念をすべて打ち破ったんだろうね。
娘を大海人皇子と大友皇子の両方の妃にし、どっちが勝ってもよいようにした。
でもこの時点ではまだ藤原氏の娘は地方豪族の娘と同程度の扱いしか受けなかったけどね。

210日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:45:17
鎌足じゃあないでしょうな。
やったとすれば不比等。
211日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:04:05
「臣」と「君」の違いがわからん。
吉備氏、出雲氏が「臣」だし、弱そうな氏族が「君」だったりする。
独立性の強さの違いだろうか。しかし、三輪氏は崇神朝の子孫なんじゃないか?
212日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:20:56
>>210
大友皇子は壬申の乱で死亡。
藤原耳面刀自は妃になったのはそれ以前。
耳面刀自の弟にあたる不比等は壬申の乱のときにはまだ14歳。
鎌足が入内させたんじゃないの?
213日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:46:10
基本的かつ大雑把にいうと、
「臣」は崇神以前に分かれたとされる皇別氏族。
「君」は崇神以降に分かれた皇別氏族。
これらは八色の姓で「朝臣」を与えられた(継体系以降の皇別は「真人」)。

三輪君は同族とされる鴨君・胸形君と並んで、神別氏族ながら君姓、朝臣姓を与えられた例外。
私の保守的史観からすれば、三輪君は天皇家がヤマトの中心となる前の磯城地方の邑長。
神武の皇后はこの氏族から出ている。ある意味、天皇家以前のこの地域における一番の有力者(王)。
余談ながら、纏向石塚やホケノ、茅原大墓などのホタテ風の墳墓は、三輪君に帰属するものと私は考えている。
出雲の「臣」はたぶん八色の姓以降の姓。それまでは(与えられていたとすれば)出雲「国造」。
214日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:53:40
>>209
それが通説だと思いますが・・・

私の主観では雄略の死後後継者難から大和政権内部で首長の地位が低下し、一種の空位時代があったと考えます
(紀のこの辺の説話は前後に比べて特異な点がある)
収拾されたのは継体擁立時で
大きな役割を果たした大伴、物部両氏は従来のいわば譜代の立場を越えて臣姓豪族に並ぶ地位を獲得したと考えます
証明は出来ませんが・・・
215日本@名無史さん:2009/01/22(木) 03:22:38
>>213
>三輪君は天皇家がヤマトの中心となる前の磯城地方の邑長
三輪氏が磯城の地に土着したのは6世紀半ばらしい(和田萃)。
これ以前の磯城地方は、磯城県主の拠点と考えたほうがいい。

>>214
>譜代の立場を越えて臣姓豪族に並ぶ地位
連が譜代なら、臣は外様だろ。
臣姓豪族の台頭≒蘇我稲目の台頭と考えて差し支えないと思うよ。
216日本@名無史さん:2009/01/22(木) 10:06:10
蘇我以前の葛城、平群、巨勢は台頭とは言わないのですか
217日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:33:00
平群、巨勢は6世紀後半以降の新興氏族という説が有力。考古学的に見てもそう。
218日本@名無史さん:2009/01/26(月) 04:24:19
>>217
寡聞にしてそんな話は聞いた事も無いが・・・
ソースが有るのなら宜しく
219日本@名無史さん:2009/01/26(月) 05:32:37
直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』
辰巳和弘『地域王権の古代学』
加藤謙吉『大和政権と古代氏族』 etc.

激しくスレ違いだなsage
220日本@名無史さん:2009/01/26(月) 19:37:44
>>216
大和王権のごく初期から婚姻関係を結んでいる葛城氏は
大和王権成立時から勢力を二分するほどの大豪族だったのだろう。
平群氏は応神のあたりから活躍が見えるからやはり
大和王権成立時からの有力氏族じゃないか。
雄略朝に大豪族葛城氏が滅ぼされたことで目の上のたんこぶがなくなり、
大臣として目立った活躍をするようになったが。
巨勢氏は継体朝に突如として現れる氏族。
欽明朝に忽然と現れる蘇我氏同様、この辺りの勢力関係は
継体天皇の出自も含めて不明な点も多い。
武内宿禰とか、存在が曖昧な人物を出してくるのはやめてねw
221日本@名無史さん:2009/01/26(月) 20:48:45
>>219
直木先生の90年以降の論文は尊重はするがお年のせいか実証を欠いてる感じ(蓋然性ばかりが目立つ)
後の二書はいわゆるデムパでは?
222日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:00:00
これがデムパって、普段は古田や小林でも読んでる人か。
223日本@名無史さん:2009/01/26(月) 21:34:40
推古天皇て36年も在位したのかよ昭和明治に次ぐ年数じゃね?これしかも古代でこんな長期なんて
しかも39歳〜75歳死ぬまでなんてスゲーなおい
蘇我馬子とか厩戸皇子とかいたのにしかも死んだのそいつらより後だし
224日本@名無史さん:2009/01/26(月) 22:15:47
>推古天皇て36年も在位したのかよ

継体以降では、歴代第6位の在位日数(もちろん1位は昭和天皇な)。
225日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:35:19
推古って新羅の女王をモデルに創作された女帝だろ?
226日本@名無史さん:2009/01/27(火) 00:57:38
持統は天武を殺して自分が天皇になったのかな
227日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:43:57
推古天皇の豊御食炊屋比売命って名前はちょっとあんまりじゃね?
228日本@名無史さん:2009/01/29(木) 13:52:29
諡号にしては異例かもね
229日本@名無史さん:2009/01/30(金) 07:41:13
推古天皇の諡号豊御食炊屋比売命はいつつけられたの?
死後すぐ?それともずいぶん後?
230日本@名無史さん:2009/01/31(土) 01:13:10
天寿国繍帳銘に既に「等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等」と
見えているんだが、この銘文の成立時期が問題になるな。
231日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:24:57
>>226
天武が死んでから持統が即位するまで何年空位があると
232日本@名無史さん:2009/02/16(月) 22:44:23
推古天皇の名前かしきやひめっておいしいごはんつくるお姫さまっておいしそうな名前。
最近白い炊き立てのごはんがおいしいよ。
233日本@名無史さん:2009/02/17(火) 14:39:33
命乞いする天武を冷たく見下ろし
「殺っておしまい」 と命じる持統

萌えるね
234日本@名無史さん:2009/02/19(木) 10:33:17
>>232
素朴な名前は諡号とうより本人が生きている間の実名っぽいけどね。
厩戸(馬小屋)なんて名前を皇族につける時代だから。
豊御食はそれに合わせた尊号なのかも。
235日本@名無史さん:2009/02/19(木) 10:39:25
推古天皇の存命中のお名前は「額田部皇女」じゃなかったっけ
236日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:34:21
書紀に「橘豊日皇子」「開別皇子」とあるのも生前の名前とは思えないしね
237日本@名無史さん:2009/02/20(金) 01:21:23
額田部が本名。
氏姓制度が整ってから平安に入るまでは特に皇族は苗字みたいな名前が多い。
臣下でも蘇我倉山田石川麻呂なんてドコまでが苗字だ?とか言いたくなる。

嵯峨天皇の子供から、正良・秀良・基良・・・とか、アキラ・トオル・ヒロシ・ツトム・・・とか急に名前っぽくなる。
238日本@名無史さん:2009/02/20(金) 03:22:26
>皇族は苗字みたいな名前が多い

そりゃそうだ。当時は扶養氏族のウジ名から名付けるのが慣例だもの。
239日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:22:07
age
240日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:41:45
>236

「橘豊日皇子」は「橘」が本名?で豊日は尊称みたいなもの?
「開別」の意味は何だろう
241日本@名無史さん:2009/06/20(土) 21:22:20
持統天皇って性格が親父にそっっくりだな。
ヤだな・・・
242日本@名無史さん:2009/06/29(月) 20:29:12
政治家としては親父以上の切れ者ではないかと>持統

日本で初めて律令の編纂を命じて、自分が生きている間に
完成させて、孫・文武天皇の名で全国に頒布させたのだから。
その前にあった浄御原令は律が無いんだよね。

親父や旦那ですら成し得なかった偉業だから、
良くも悪くも天皇家における女傑だろうね。
243日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:19:18
神功天皇
244日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:03:35
>>242
そして、持統天皇の母方は蘇我氏なんだよな。
夫の天武天皇が記紀編纂を命じた際、
自分の母方をあれほど悪く書かれるって
抗議しなかったんだろうか・・・
245日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:55:36
>>244
持統天皇の気持ちは誰にも推し量れないかと。

でも、母方一族の鎮魂の為の山田寺は、当時規模が大きかったらしいよ。
奈良遷都の時に移転の対象にならなかったことと、妙楽寺の台頭により衰退したけれど、
文武天皇の時代になっても封三百戸を施入したという記録が残っていることから、
「石川麻呂は謀叛の意思は無く、無罪だったよ」という記録はしっかり載せて。
死者への追悼は山田寺で、だったのかも。
246日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:58:29
>>244
石川麻呂は高潔の人に描かれていると思うが?

>>242
しかも「院政」の事実上の始祖だしな。
247日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:08:10

欽明朝と天智朝がほとんどだろ!

248日本@名無史さん:2009/07/01(水) 09:43:47
たしかに
249日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:37:49
>>246
でも石川麻呂の祖父は蘇我馬子だよ?
持統天皇の曾祖父に当たる。
曾祖父の蘇我馬子を悪く書かれるってどうよ?
しかも石川麻呂の父倉麻呂ってあまりにも扱いが低すぎで
ほとんど史書に登場しない。
馬子の嫡子だった蝦夷とは大違い。
250日本@名無史さん:2009/07/03(金) 21:53:46
創作料理
251日本@名無史さん:2009/07/04(土) 01:19:24
>>249
持統天皇の曽祖父が蘇我倉麻呂(雄当)でしょ。
舒明即位前紀に登場している。
252日本@名無史さん:2009/07/04(土) 16:40:33
>>249
母方の蘇我氏を悪くも何も、蘇我氏を悪人にした張本人は実の親父でしょう。
しかも壬申の乱では氏上の赤兄が付いた近江朝廷を見限り、旦那一筋でしょ。
そんなシオらしい玉じゃないですよ。

同母姉の忘れ形見すら、親父譲りの策略で始末しちゃう人ですから。
253日本@名無史さん:2009/07/11(土) 20:20:55
>>252
草壁を皇太子と決めたのは天武天皇。
その意思に逆らう者あらば殺したでしょうね、持統でなくとも。
同母姉の忘れ形見といっても大伯皇女のほうが生き残っているから
別段草壁の帝位を阻まない人間ならば殺さなかったでしょ。
天武のほかの皇子たちともそれなりにやってるし
高市は太政大臣にまでしてあげてるし。
254日本@名無史さん:2009/07/12(日) 00:33:44
<3本目>
ν速+【皇室】天皇陛下の級友が進言「皇太子さまの選択肢は別居治療 離婚 廃太子」★3
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1247317278/
255日本@名無史さん:2009/11/03(火) 20:05:02
アゲ
256日本@名無史さん:2009/11/03(火) 23:31:57
>>253
大津は自由奔放な性格で好かれてたみたいだけど、これから法の基に国家を運営していく天武・持統からみたら、
厄介な人間だから消されたってのも有るみたいよ?
飛鳥時代初期に生まれてたら合ったかもね大津。
皇位は力と武力で奪う時代に・・・。
257日本@名無史さん:2009/12/18(金) 20:46:25
鬼女フェミがこのスレを監視してます
258日本@名無史さん:2010/02/12(金) 23:49:45
なんで
259日本@名無史さん:2010/03/08(月) 22:58:11
a
260日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:10:39
愛子様。
261日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:28:29
>>260
敬宮様と呼べ
262日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:49:07
様なんていらん
263日本@名無史さん:2010/03/09(火) 09:26:23
>>227
ごはん大盛りサービスが売りの定食屋みたいな諡号だな
264日本@名無史さん:2010/03/10(水) 13:53:47
後桜町天皇以降の女帝となる愛子天皇の御世に立ち会えるなんて
なんて幸せなんだろう!!
女皇太子としての活躍も見れるんだなw





265日本@名無史さん:2010/03/10(水) 19:45:17
>>264

ないない、それはないww
都庁あたりのショボイ役人に降嫁して平民になるw
266日本@名無史さん:2010/03/10(水) 20:28:54
飯盛女命
267日本@名無史さん:2010/03/10(水) 21:02:30
>>264
女皇太子じゃなくて皇太女ね。
268日本@名無史さん:2010/03/10(水) 22:24:16
太女 ふとおんな
269日本@名無史さん:2010/03/12(金) 21:45:24
>>267
聖武天皇は娘の安倍内親王を「皇太子」に立てているので(続日本紀等)、
女性であっても皇太子が正しい。
皇太女という言葉が使われた記録はない。
270日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:26:24
安楽公主が皇太女を自称したことはあるな
271日本@名無史さん:2010/03/13(土) 18:43:57
古代社会で女を天皇にするというのは別に
特に抵抗感って言うのはなかったのでしょうか?

古代の皇族の女の位置づけがよくわかりませんが
男から見てもただの子供を産むための道具、男を盛りたてるための存在以上の存在なんでしょうか?

少なくとも政治をする人、指導者たるものは男でなければいけない
っていうある種の雰囲気はありましたよね?
272日本@名無史さん:2010/03/13(土) 19:57:15
>>271
それは武家ルールだからね>男の庇護下にある女達

まず卑弥呼、推古天皇あたりをググってみる事を勧めてみる。
273日本@名無史さん:2010/03/13(土) 20:02:08
>>272
たしかに卑弥呼はともかく
蘇我氏、物部氏、藤原氏で政治の中心になっていたのはほとんど男じゃん


それに卑弥呼は支配者というよりもある種の魔法使い的な位置づけだし
そして推古天皇を天皇にする事に、
これまでの天皇が全員男、今現在政治をやってる人間も全員男だらけの
そういう状況で他の人間は抵抗がなかったのかと
274日本@名無史さん:2010/03/13(土) 21:11:48
>>273の中で答えが出ているじゃないの。
本気で知りたくて質問しているのではなく、
自分の考えに同意が欲しくてレスを求めるんでしょうね。

大学に行って、古代史でも専攻すれば教えてもらえるよ。
275日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:47:13
>>273 皇后や皇女はへたな男性皇族よりも格が上なんだよ。
皇子や皇女だって后腹や皇女腹は一格上とされた。
皇后は天皇を補佐し、若い天皇なら摂政みたいなこともする権限があるから
推古天皇が天皇になることにさほど抵抗は無いと思うよ、蘇我氏にとっては
むしろラッキー。推古天皇は馬子の姪だから、男帝より扱いやすいでしょ、
皇太子の厩戸皇子も蘇我氏は外戚だからなおさら。

推古天皇の時代は生前譲位する慣習はなかったから、
中継ぎでもなんでもなく、ピンポイントで推古天皇の即位が求められたと思ってる。
だって在位36年、皇太子の厩戸に先立たれ、その後も皇太子をたてず、
後継者を指名せずに亡くなってるし、どこが中継ぎなのか理解に苦しむ。
厩戸皇子だってとっくに成人して政治を担うほど立派な大人だったし
中継ぎなんていらんでしょ。
276日本@名無史さん:2010/03/15(月) 10:08:04
女帝が中継ぎだったとしちゃったのは伊藤博文。
『皇室典範義解』で女帝は中継ぎ、摂政みたいなもんで天皇家の伝統ではないと
男系男子のみの皇位継承を正当化した。
その代わり女皇族の摂政は古来の慣習にのっとったと条文化した。
この時伝統を捻じ曲げたわけだな、伊藤が。
男性だけを統率する軍の大元帥に女帝はまずいと判断したんだろう。
古来から摂政は男性皇族もしくは臣籍男子の仕事、
女帝は女帝として男帝と同等の権利と権勢を持ったわけだからとんでもない歪曲。
推古天皇の時代に日本初の憲法が制定され、斉明天皇は自らも出陣して指揮をとり
持統天皇は「倭」から「日本」に国号を変えたり遷都したり大嘗祭を制度化したりと
女帝たちだって天皇としての業績がたくさんある、男帝のそれとなんら変らず。
伊藤博文があんな最期になったのは畏れ多くも女帝の存在そのものを否定した神罰。
277日本@名無史さん:2010/03/15(月) 16:50:23
>>273 欽明天皇は宣化天皇が崩御したあとに、群臣から即位を求められたが
宣化天皇の皇后だった山田皇后が次の天皇に相応しい、といったん辞退してる。
でも山田皇后が辞退し、欽明天皇こそ次の天皇に相応しいと群臣に説いたため
欽明天皇の即位が実現した。この時代だって皇后が天皇になっても
そんなに違和感のないことだったと思う。(でなきゃ推薦しないはず)
278日本@名無史さん:2010/03/15(月) 23:41:14
女帝は天皇家の古来からの伝統で数が少ないにせよ江戸時代まであったわけだし、
ぜひ復活させるべきだと思うがな。どう考えても民間人の元皇族の子孫なんかより
正統性があんだろ。
279日本@名無史さん:2010/03/16(火) 14:22:26
900 :名無しかましてよかですか?:2010/03/14(日) 02:10:40 ID:CaIuDpCU
>>872
ttp://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai2/2siryou3-1.pdf
「我國ノ女帝ニ皇夫ヲ迎へ其皇夫ハ一タヒ臣籍ニ入リ譬ヘハ源ノ某ト称フル人ナランニ(起草第十三条ニ依ル) 其
皇夫ト女帝トノ間ニ皇子アラハ即チ正統ノ皇太子トシテ御位ヲ継キ玉フヘシ(起草第七条ニ依ル) 然ルニ此ノ皇太
子ハ女系ノ血統コソオハシマセ氏ハ全ク源姓ニシテ源家ノ御方ナルコト即チ我カ国ノ慣習ニ於テモ又欧羅巴ノ風俗
ニテモ同一ナルコトナリ但シ欧羅巴ナラハ源姓ト称ヘナカラ源姓ノ人モ女系ノ縁ニテ皇位ヲ嗣クコト当然ナリト明ラム
ルナリ欧羅巴ノ女系ノ説ヲ採用シテ我カ典憲トセントナラハ序テニ姓ヲ易フルコトヲモ採用アルヘキカ最モ恐キコトニ
思ハルヽナリ (井上毅) 「謹具意見」

「然ルニ此ノ皇太子ハ女系ノ血統コソオハシマセ」

井上毅は、父親が臣籍でも女帝の子に皇位継承資格が生じることについては異議を唱えていない。
「源姓ノ人」が皇位を継ぐのを問題視している。
280日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:54:26
だからなんなんだよ?
281日本@名無史さん:2010/03/26(金) 22:09:17



韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ。
趙現鐘・国立済州博物館長と佐藤洋一郎・静岡大学助教授が
大阪府和泉市のシンポジウムで発表。[共同通信]
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/2001xc.html
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ
韓国の遺跡で出土した炭化米にも熱帯ジャポニカ


282日本@名無史さん:2010/03/28(日) 13:06:59
>>280 わからんのか?
旧典範草案において皇室に男子が絶えた時に容認された女帝・女系案だったが、
井上毅によって女帝と皇統に近い臣籍男子との間に生まれた子供は
皇太子として認められん!と臣籍男系男子の血統が否定されたってことだ。
283名無し:2010/04/03(土) 22:39:52
推古天皇について教えちぇ
284日本@名無しさん:2010/04/06(火) 00:41:59
推古天皇で男系皇統は終わった、シナ男系主義の縛りが徐々にとれていき、女系容認の御世となった。
高森氏、小林よしのり氏は、愛子天皇を望んでいる。典範を改正して愛子天皇が実現するだろう。
285日本@名無史さん:2010/04/06(火) 04:08:12
小林よしのりのダメなところは
天皇制と現皇室をイコールで結んじゃってること
天皇が機関だということを理解してない
286日本@名無史さん:2010/04/06(火) 06:33:10
シナ男系主義とか笑うとこですか?
同姓娶らずの大陸流儀なら皇族の推古が天皇に嫁ぐわけがない

特定の氏族が外戚を独占することもない

日本の婚姻制度と根本的に違うのが解っていない
287日本@名無史さん:2010/04/11(日) 12:29:43
愛子天皇万歳!
288日本@名無史さん:2010/04/14(水) 11:23:55
>>286
「推古天皇で男系皇統は終わった」にも突っ込んでやれよw

推古天皇の父は欽明天皇。
仮に推古天皇の子供の竹田皇子が即位したとしても、その父は敏達天皇。
男系どこで終わるんだ?
289美人は氷高皇女:2010/04/19(月) 09:05:38
政治的に「初めて〜をした」,国民のファッションリ-ダ-元正で,女系蘇我系譜おわってる(妹の吉備内親王,旦那長屋王一家が滅んだ為)
福井の小浜の木造観音菩薩11面立像で,美人になる様拝むとよい
村上天皇の后,藤原芳子(ホウシ)も美人だけど
古今1000首暗記する学女でもある
290美人は氷高皇女:2010/04/19(月) 12:17:43
蘇我一族の倉山田石川麻呂は天智に娘2人入れてます
その1人の后の子が持統天皇で,もう1人の后の子が元正の母,元明天皇です
藤原系譜の元服したはずの聖武に譲位させたくなく,元正天皇に譲位させる
しかも,遺宣に「皇位は子孫で行く」と
だから藤4子の狙いは長屋王で無く長屋王の蘇我系の吉備姫王と3子だったのです
蘇我系で1人になった元正太上天皇は泣かず誇り高く生き続けます
聖武天皇の方が祟りにビビッタ人生を送った
氷高皇女は美しく,強い女,しかも民の事を思う女帝です
291美人は氷高皇女:2010/04/23(金) 04:04:46
吉備姫王でなく吉備内親王だったm(_ _)m
292日本@名無史さん:2010/04/23(金) 17:40:42
皇后腹の皇女が女帝につくならまったく違和感ないがな。
だから愛子様が皇位に就かれるべきだろう。
実子がいるのに弟だの甥に皇位がいくほうが違和感ある。
男系じゃなくなったら天皇への畏敬の念がなくなるというやつらなら
もともと皇室への畏敬の念なんてないのさ。
293日本@名無史さん:2010/04/24(土) 13:03:05
女帝を排除した旧典範は伝統無視もいいところだよな。
男子優先はいいとして、草案通りに女帝容認してその子に皇位継承を認めるよう
定めたら現行もそう定められていたと思う。
男尊女卑の時代だから女帝が軍のトップに君臨することの違和感はあったろうが、
あれだけ宮家にも男子がいたわけで非現実的な最終手段としての女帝・女系容認は
あっても構わんことだったと思う。
女帝をただの中継ぎだと断定したことが、今日の女帝否定につながってるのだろうが
女帝は祭祀もしたし、政権もとったし、皇太子を後見し、上皇として実権も
もっていたし、これをただの緊急時の中継ぎにすぎず、
天皇家の常套ではないするとは不敬にもほどがある。
294日本@名無史さん:2010/04/25(日) 00:37:06
旧男系皇族を女帝の皇配にしたら、その間に産まれた皇子(皇女)は男系?
295日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:17:20
>>294 血統は男系。

ただし、明治期はその場合の皇子や皇女は皇位継承資格はなしと判断されて
草案から女帝・女系案が削除された経緯がある。
男系なら皇統に属する、旧宮家の子孫ならOKなんていう安易な発想は
平成に入ってから皇族なり隊の某宮家の男が言い出したデタラメ説。
296日本@名無史さん:2010/04/30(金) 12:44:57
>>294
基本的に子供は男系皇族だから天皇に即してもOKと思う。
が、そのためには歴史的に言ってその旧皇族氏は天皇の4世孫以内でなければならないだろう。

今まで王系が傍系にシフトした際、天皇から最も遠い血筋だったのが継体天皇(5世孫)。
継体天皇はその後、王系がシフトする度に先例として引っ張り出された。
今まで(男の)天皇の5世孫を越える遠縁が即位した試しはない。

旧宮家は男系の血筋では何百年も前に分かれたほとんど他人同然の家。
その作戦は無理だなw
297日本@名無史さん:2010/05/01(土) 12:12:52
神国。日本の恥だ!。ρ。ある趣味@JBBS掲示板の管理人は天皇を侮辱した罪は重いぞ!!!!               
         ρ    ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     
 シコシコ→        mドピュッ
シコ        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ ←日本一の変態最悪おもらしマニア。豚の糞以下の人間だwww
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  ) ←こいつのHPに書き込むな。実名やIPを公開する犯罪者。
     ./  _  ゝ___)(9     (` ´) )←◆5u2YhSgQ★ 女の小便漏らしでしか、せんずりできない重症の馬鹿www
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