【馬のことなら】馬の日本史【何でもOK】

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357日本@名無史さん:2009/05/30(土) 18:03:42
なんか、ひつこい負けず嫌いが涌いてるな
358日本@名無史さん:2009/05/31(日) 08:58:26
>>354
笹針でぐぐるといい
359日本@名無史さん:2009/05/31(日) 16:08:39
変な流れをぶった切る意味を込めて・・・。
おまいら、池月にまつわる物悲しい話でも見て心を少し潤せよ。

日本昔ばなし「池月」
http://www.youtube.com/watch?v=Rdh0zFNpzKY
360日本@名無史さん:2009/05/31(日) 17:00:48
>>358
競馬新聞に「休養笹針」とか書かれてるあれだな
361日本@名無史さん:2009/05/31(日) 20:43:30
>>359
ちょっと悲しい話だが
ググってみたら池月の出生地多すぎてフイタw

ttp://www.news.janjan.jp/area/0502/0502143597/1.php
先陣の池月に限ってみても、私の知り得た地域は次のとおりです。

(1)青森県七戸町 (2)宮城県鹿島台町 (3)栃木県田沼町 (4)群馬県桐生市 (5)千葉県柏市 
(6)千葉県丸山町 (7)東京都洗足池 (8)神奈川県横須賀市 (9)静岡県函南町 (10)三重県伊賀市 
(11)島根県雲南市 (12)島根県隠岐島 (13)鳥取県岩美町 (14)徳島県美馬町 (15)大分県別府市 
(16)長崎県対馬 (17)鹿児島県池田湖周辺

頼朝が平家との戦いに備え全国から軍馬を集めていた折に、これに応えて駿馬を献上した地域の人達が、
後に宇治川の先陣争いでヒーローとなった黒栗毛の池月こそ、わが郷土にて産した黒栗毛に相違ないと思い込んだとしても無理は無いでしょう。
362日本@名無史さん:2009/06/01(月) 01:29:37
wikipediaの「磨墨塚」を見てみ。
ま、それだけ有名な馬、ってことなんだろうけど。
それと、馬、
特に馬頭信仰っての、関東には多いし、
それに伝説の名馬をこじつけたんだろうな。
他に名前が残っている馬って、どんなのいるんだろ。
敵に捕まって、斬られるところで、
イヤイヤイヤイヤ死にたくない!と言って駄々こねてたのに、
「ところで、あれが例の名馬ですよ」
って言われて、思わず振り向いた瞬間に切られたヘタレ、いたよね。
363日本@名無史さん:2009/06/01(月) 22:28:38
ん?なんか話がかなり違っているような・・・。
捕まっていたのではなくなかなか捕まらないから馬の話で
誘き出して、あの馬がそうですよと言って相手に隙ができたところを
斬ったんだろ。そしてこういう場合ヘタレでなくマヌケな。

それから名前が残っている池月(生喰以外)の馬達
(毛色にも捉えられるものは毛色部分は省略。()括りは馬主)
あと近世以降や世界史範疇のも省略

○戦国時代以前
・黒駒(聖徳太子)
・磨墨(源頼朝→佐々木高綱)・木下(源仲綱)・青海波(源義経)
・望月(平清盛)・南鐐(平宗盛)・鬼(木曽義仲)・白波(和田義盛)
・秩父(畠山重忠)

○戦国時代
・放生×二頭(※1)(上杉謙信)・黒雲(武田信玄)・鬼(武田信虎)
・連銭、小×二頭(※2)、遠江、星、(以上織田信長)・百段(森長可)
・鏡(山内一豊)・大(明智左馬介)・松風(前田慶次)=谷風(前田利家※3)
・帝釈(加藤清正)・内記黒(長宗我部元親)・三国黒(本多平八郎)
・百里黒(本多忠朝)・膝突_長寿院(島津義弘※4)・太平楽号(豊臣秀吉)
・戸次黒(立花道雪)・白石(徳川家康)・汗血馬、太刀風(以上伊達政宗)

江戸に少しかぶるけど・桜野号(徳川秀忠)

※1:謙信所有の放生という名の馬には特徴別に駆毛、栓の二頭がいた。
※2:信長所有の馬で小が付く馬は小雲雀と小鹿毛の二頭がいた。
   多分毛色を含んで呼ばれていた模様。
※3:元は利家の馬だったのを慶次がかっぱらって(w)松風に変更。
※4:長寿院→膝突きに変更
364日本@名無史さん:2009/06/02(火) 02:39:52
いや確か、武田の武将にそのヘタレいたような、、、
365日本@名無史さん:2009/06/02(火) 04:14:36
いなかったと言っているのではなく内容が違うという意味だったんだが・・・。
366日本@名無史さん:2009/06/03(水) 02:22:34
364が正解
367日本@名無史さん:2009/06/03(水) 03:52:42
不毛地帯化防止の為にも甲斐武田の戦後処理話なら
他所でやってくんなまし。

>>363
小鹿毛の鹿毛は毛色だから省略するのはわかるけど
なんで小雲雀まで?雲雀なんていう毛色あったの?
368日本@名無史さん:2009/06/26(金) 19:59:56
                                    ¶       ∧彡
                                    ( `Д)  彡 ・ \
書き込んでよぅ                           /丑/つヽ,)彡  人.ヽ.)
 ̄∨ ̄ ̄ ̄                            //丑/(三"'''--/'''" ̄
  ∧_∧                           =≡=( (**)─┘   ヽ
 ( ´Д⊂ヽ                        /   /  ⊇       )
⊂    ノ                       /    / ノ ノ ̄丶  ソ \
  人  Y                       /   /// /    \ ヽ\ .\
 し (_)                 [ 保守 ]    《_/ 《_/      ヽ/ラ丶/ラ


369日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:47:37
 遠馳(エンチ)という競技も行なわれた。
 これは、朝6時に七日町四谷の木戸から馬に乗って駆け出し、
7里離れた熱塩まで行って午前10時までに再び戻って来るというものであるが、
人馬共に秀でていないと、とても乗り切り得ないものであった。
ために、無事に時間内完走を果たした者には、特に賞品が与えられたという。
ttp://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/nissinkan/bajutsu.htm


エンデュランス競技みたい
370日本@名無史さん:2009/08/02(日) 00:21:02
保守
371日本@名無史さん:2009/08/02(日) 01:12:39
馬刺はいつ頃からたべてたんだろう?
372日本@名無史さん:2009/08/02(日) 01:32:30
>>369
7×4km×2=56km ÷4時間=16km・h

 人間だけでマラソンしている方が速いくらいだな。
373日本@名無史さん:2009/08/02(日) 01:41:07
当時の道路状況とかね
374日本@名無史さん:2009/08/02(日) 02:13:21
>>372
でも人の行軍スピードは
4km/hだから
それに比べると早いともいえる。
375374:2009/08/02(日) 03:33:32
マラソンのほうが速いといっても、それはトップクラスのいわば超人的な
選手の記録であって、一般人がマラソン大会に出場しても完走に8時間以上
かかったとか、或いは完走できなかったりとかが普通だったりする。

実際に人間が一日に進む行軍距離は32kmという
(4km/h×8時間 旧日本陸軍の試算) 
(行軍途中食事や休息を取るため、日中の実質行軍時間は8時間となる。夜は就寝)
それに比べると4時間で56kmは相当速いともいえ
むしろこの速さに注目すべきではないかな。
376日本@名無史さん:2009/08/02(日) 13:46:46
機械化以前の速度としちゃ驚異的だろ
現代戦ならエアボーンみたいな感じなんでね
377日本@名無史さん:2009/08/03(月) 00:02:51
まてまて

>人馬共に秀でていないと、とても乗り切り得ないものであった。
>ために、無事に時間内完走を果たした者には、特に賞品が与えられたという。
とあるように

その速度で部隊が機動できるわけじゃないということも忘れずに
むしろ、電話や無線の無い時代
その距離を、その速度で、情報伝達できることに価値があったんでしょ
378日本@名無史さん:2009/08/03(月) 02:22:17
なにを待つんだよ。
数レス前からその流れだろ?
379日本@名無史さん:2009/08/04(火) 00:45:07
>>378
明らかに>>374以降は、戦闘でも偵察でもいいが部隊の機動速度のノリで語ってると思うが
伝令の伝達速度の話などだれもしとらんよ
380日本@名無史さん:2009/08/04(火) 03:11:23
要は、377様の発言を待てよ愚民、と。
381日本@名無史さん:2009/08/04(火) 03:37:32
前近代では、行軍速度20km/日以上でも、すごく速い。
速さに定評有ったナポレオンでも、通常行軍は20km/日未満。
街道を舗装整備してたローマ軍では、25km/日が規定値らしかったけど。

輜重とか使用する道路事情とか考えると、歩行速度のみでは決まらない。
382日本@名無史さん:2009/08/06(木) 04:42:57
八戸南部藩の人間としてはこういうスレがあるとなんか嬉しい
383日本@名無史さん:2009/08/06(木) 11:29:31
>>379
伝達速度について語るなら、古代の駅馬制度では30里(約16km)おきに駅馬が置かれて、最速で一日160km以上進んだらしい

>>381
戦国時代一日30km以上とか普通に行軍してるよ。
強行軍の場合一日50km以上の行軍もある。

この前NHK番組で「名将の采配」って番組放送してたけど
そこではナポレオン軍が2日で120km行軍したと言ってた。

北朝鮮の特殊部隊は一日で80km進むらしい。(ソースはなんかのニュース番組)
384日本@名無史さん:2009/10/15(木) 12:16:42
保守ついでに貼り


享保中、蘭人ケイズルの上る馬書に、馬にかけを追とき、初めての乗もの舌打ちをすれば
かけ出、留まるとき口笛を吹けば留まるとあり、其国武事是の如し。
其取締なきは児戯にひとし。
西洋の商にて世渡りをする国にはこれにても済べけれども、
武をもって国を立る吾東方に於ては決して用いられぬ事は是にて悟るべし。

『海防問答』
385日本@名無史さん:2009/10/15(木) 17:49:49
お馬さん大活躍
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

386日本@名無史さん:2009/11/03(火) 23:55:43
日本刀の拵師、高山一之の作品集を見た
江戸時代以前の刀の鞘には塗りの下地に馬の生皮を貼るのだが
現代ではこれがなかなか手に入らないと嘆いていた。

甲冑の小札に使うネリ皮も容易に手に入らないと聞いた事があるし
古来からの脳漿鞣しも現代ではほとんど廃れてしまっているようだ
古来からの家畜文化を失った日本では
それに付随する皮革文化も失われていくのだろうか。
387日本@名無史さん:2009/11/14(土) 12:28:52
革加工は部○の仕事ってことになってたせいもあるんじゃない?
388日本@名無史さん:2009/11/14(土) 14:16:49
鹿皮も太刀や腰刀の鞘の下地によく使う
現代の打刀拵だと砥粉で代用してるケースが多い
389日本@名無史さん:2009/11/14(土) 14:19:18
陸軍の軍刀拵だと鞘の表に馬革だね
390日本@名無史さん:2009/11/14(土) 15:37:10
柄巻きも馬革だったりもする
391日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:35:10
柄巻きには脳漿鞣しの革を使いたいね
392日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:59:52
よく木曽馬が日本の乗用馬のスタンダードみたいに言われるけど
いま残ってる木曽馬って生粋の駄用・農耕馬の系統だよね。
元来が乗用馬だった御崎馬と比べたら姿が全然違う
日本に唯一残る乗用種である御崎馬はもっと注目されてもいいと思う
393日本@名無史さん:2009/12/26(土) 00:43:43
>>386
予後不良になったお馬さんは…マズいんだろうなぁ
394日本@名無史さん:2010/01/17(日) 11:54:39
ここで和種馬とサラブレッドの違いについて比較してるね
http://yoroikatchu.jugem.jp/?eid=300#trackback
395日本@名無史さん:2010/02/21(日) 21:26:24
保守
396日本@名無史さん:2010/02/21(日) 23:10:43
http://www.yakitori-jp.com/encyclopedia/histry/hhtml/edo14.html
江戸時代の辞書にみる牛
江戸時代の辞書にみる馬

◇和漢三才図会
大抵関東には、馬多く牛少し。
関西には牛多く馬少し。
京師には天子・皇后・三公の御車を牽き、市中の車牛は米穀・薪木等を運送す。
皆特牛(ことひ)を用う。農牛は田を耕して人力を助すく。
関東にてはすなわち馬をもってこれに代う。

◇本朝食鑑
大抵参州・遠州以東から奥州・夷にかけては、馬が多く牛は少ない。
それで、耕耘運転には皆馬を用いる。
尾州・濃州以西より海辺の国にかけては、牛が多く馬は少ない。
それで、耕耘運転には皆牛を用いる。
就中、播州・備州は最も牛を産出するところで、盛んに蕃息(はんしょく)する。

馬は関東の産が上い。
したがって奥州・常州の産が第一で、信州・甲州・上野・下野・上総・下総の産がそれに次ぐ。
関西の産は劣弱であって関東産に及ばない。
397日本@名無史さん:2010/02/22(月) 02:47:08
乗馬とは違う農耕馬の歴史っていいですね
398日本@名無史さん:2010/03/05(金) 18:55:26
大阪で国内最古・馬の乳歯出土 5世紀、飼育を裏付け

 大阪府四条畷市の蔀屋北遺跡で、5世紀中ごろ(古墳時代中期)とみられる国内最古の馬の乳歯が出土していた
ことが5日、分かった。当時から馬が飼育されていたことを裏付ける史料。
 府教育委員会文化財保護課の宮崎泰史主査は「乳歯は非常にもろく、残るのは珍しい。当時の馬は貴重で
高級車のような存在だったため、丁寧に葬られたのだろう」と話している。
 府教委によると、見つかったのは臼歯部分で、最も長い歯は約8センチ。乳歯はすり減るなどして、短くなって
いたが、ほかの歯もほぼそろっていた。新しい歯も形成されていることから、歯が生え替わる前の2〜3歳の若い馬
とみられる。骨や前歯は見つからなかった。
 遺跡一帯は日本書紀が河内馬飼と記す朝廷の牧場があったとされ、これまでに馬の全身骨格やくらなどの馬具
も出土。百済系の土器が出土していることから朝鮮半島から来た渡来人が飼育していたとみられる。

2010/03/05 17:06 【共同通信】
ttp://www.47news.jp/CN/201003/CN2010030501000619.html
399日本@名無史さん:2010/03/06(土) 16:01:51
国内最古、馬の乳歯「河内馬飼」の実態示す

 大阪府四條畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡で、国内最古となる5世紀中頃の馬の乳歯が2頭分、
府教委の調査で出土した。
 2〜2歳半とみられ、同時期の遺跡で、若い馬の存在が確認されたのは初めて。同遺跡は
「日本書紀」に「河内馬飼(かわちのうまかい)」と記された集団が、国内で初めて馬を本格的に
飼った牧場とされ、府教委は「朝鮮半島から子馬を船に乗せて連れてきたか、生まれた子馬を
飼育し、軍馬として増産したとみられ、国内最初期の馬生産の実態がわかる」としている。
 出土した1頭分には歯が24本残り、このうち、乳歯は12本で、最大で幅2センチ、長さ1センチ。
永久歯の長さ(8センチ)から推定した年齢などから、ハミ(馬具)をつけて乗馬訓練を始める
直前だったとみられる。
 同遺跡と周辺では、これまでに馬の骨や歯計約500点や馬具などが出土したが、
若い馬は確認されていなかった。
 3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に、日本に馬はいないと記されており、5世紀頃、
朝鮮半島から馬と乗馬の風習が伝わったとされる。日本での本格的な馬の飼育は、
府東部で始まり、各地に広まったとみられ、松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長
(動物考古学)は「乳歯はもろく、遺跡からの出土は珍しい。河内馬飼が、大規模に馬を
生産していた様子がうかがえる」と話している。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100306-OYT1T00205.htm
400日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:37:55
日本にも大昔には馬が生息していたらしいけど
それは絶滅してしまったそうですね。
やっぱり当時の日本人が食べてしまったのかな
401日本@名無史さん:2010/03/27(土) 12:08:19
そうやろ
402日本@名無史さん:2010/04/02(金) 23:20:38
古墳時代、牧場に大型番犬いた?…大阪で骨出土

 古墳時代に馬を飼育した「河内の牧(まき)」があったとされる大阪府四條畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡で、
5世紀中頃の「渡来犬」とみられる犬の骨が、府教委の調査で出土した。
 体高は推定52センチで現在の土佐犬(四国犬)ほどの大きさ。弥生時代(紀元前4世紀〜後3世紀)の
犬よりも一回り大きく、国内で出土した古墳時代(3〜7世紀)以前の犬では最大という。府教委は
「牧場の番犬として、朝鮮半島・百済から持ち込んだ大型の犬を飼育していたのではないか」とみている。
 下あごの骨(残存の長さ13・4センチ、高さ3センチ)、肩甲骨の一部(長さ9センチ、幅3センチ)、
腰椎(ようつい)(長さ4センチ、幅3・5センチ)の3点あり、犬1〜3頭分とみられる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100401-OYT1T00008.htm
403日本@名無史さん:2010/06/10(木) 21:14:31
イザベラ・バードの日本奥地紀行を読んだけど
結構馬の記述が多くて楽しいね
特に北関東と北海道の馬の蹄についての記述が興味深かった

「馬はいつも藁沓をはくから、足は柔らかく、ふわふわとなっている。だから藁沓なしでは歩けなくなっている。」

「馬の脚には何もつけていないが、蹄は非常に堅い。おかげで私は、本土でよく馬の世話を焼き、
 絶えず藁沓の紐を結んでやったり新しい靴と取り替えてやったりしていたことから解放されて、ほっとしている。」


山地で放牧されてる馬と厩で飼われている馬の差なのかもしれない
404日本@名無史さん:2010/06/12(土) 06:17:22
405日本@名無史さん:2010/06/12(土) 06:18:08
「馬飼部」 は最初の諜報機関
  蔀屋北遺跡の馬をめぐって

金谷信之
2004年2月21日 産経新聞 夕刊 第4面

 日本列島には、もともと馬はいなかった。魏志倭人伝も「その地、牛馬虎豹なし」と記している。
馬の初出は、日本書紀の神巧皇后紀に、降伏した新羅王が「今より以降、長く馬飼となり、
春秋には馬を梳る櫛と馬の鞭を奉らむ」と言ったと記されたくだり、あるいは、古事記の神功皇后
の段の「新羅国を御馬甘と定め」と書いたものである。
 神宮皇后の物語は、後年、斉明天皇の朝倉宮の後宮で創作されたお伽噺であるといわれて
いるから、これらの話は、もとより事実ではないが、少なくとも、馬が半島からもたらされたもの
であることだけは示している。
 
 馬飼のことが実際に述べられているのは、応神天皇十五年のきに、百済王から良馬二頭が
贈られたので、馬を牽いてきた阿直伎に、軽の坂上で飼わせたと記しているもので、
これによって、馬は五世紀の初めごろにわが国に伝えられ、当初は渡来系の人たちによって
飼育されていたことが知られている。
 その後、五世紀を通じて、乗馬の風習は急速に広まっていった。雄略天皇九年の条に、
田辺史伯孫という人が、応神天皇陵の埴輪の馬と自分の馬とを取り替えた話さえ見える
のが、乗馬の一般化を端的に示している。
 そのころ畿内では、馬の飼育は主に淀川の河畔や河内潟の湖畔、そこに浮かぶ大小の
島々などで行われていたようである。豊富な牧草と水に恵まれていたからであろう。
昨年、四条畷市に蔀屋北遺跡で、埋葬された馬一頭の完全な全身骨格が発掘されて注目
を集めているが、これもその一端である。
 しかし、馬飼たちは社会的には身分の低い者として差別されていた。履中天皇五年の条
には、馬飼たちが入墨をされていたことが述べられている。継体天皇元年の条には、
その即位に当たって大きな功績があった河内馬飼首荒篭を厚く遇したとある。河内馬飼首荒篭
というのは、淀川の畔の樟葉で馬を飼うことを生業とした馬飼たちの首長である。

(以下略)
ttp://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/img/sankei040221.gif
406日本@名無史さん
其関東の侍たちに、馬の目ききをとふたれば、
当歳にて母に離ぬもよき馬になる。
離て草を食は猶よき馬に成。
つきつ離つする馬は、後夫馬に成ても、おもき荷を持事ならず、
遠き路もならず、やす馬と是をいふ。
此クノ如キ畜生さえ、機の展転するはあしきに、

わたしは良馬の見分けかたを関東の侍たちに尋ねたことがある。
すると、一歳になって母馬から離れようとしない馬は良馬になる。
母馬から離れて草を食べる馬は一層良い馬になる。
母馬についたり離れたりする馬は、その後荷を運ぶ馬になっても重い荷を運べず、
遠路に耐えられない駄馬である、とのことであった。
馬でさえ、気の移りやすい馬は駄馬である。

『甲陽軍鑑』(日本の思想9)