1 :
日本@名無史さん:
奉公衆を強化して中央集権を確立。
比叡山を討って宗教勢力を粉砕。
父義満ですら果たせなかった九州や関東平定を実現。
どう考えても室町幕府一の名君は足利義教です 本当にありがとうございました。
名君がなんで殺されるんだ
嗜虐性ばかり強調されたり無理やり信長の先駆者にされる気の毒な人
4 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:26:55
まぁ 評価されているよりは有能ではあったんじゃないの
5 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:46:38
方向性は間違ってなかったんだよな
義教は
おそらく政治にかける情熱は
室町幕府歴代将軍一だろ
思いがけず将軍になれて
やる気満々だったんだろうな
能力も備わっていたし
やり方が良かったとは言わんが
6 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 21:45:23
鎌倉公方の足利持氏からは還俗将軍とかくじ将軍とかいわれたらしいな
7 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 16:58:10
>>6 まぁ、そこら辺は事実だし…
持氏以外にも結構、そうやって揶揄されてたんじゃなかろうか。
8 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 00:02:29
細川政元みたいな変な人じゃなかったし、優れた政治家だったんだよ
10 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 09:14:12
>>6 持氏は自分が将軍になれると思ってたからさ
出家した奴なんかが還俗してきてその道が断たれた
怒り憤懣、今すぐにでも都に攻めのぼって将軍になりたいのを
周囲に止められていた
義教に滅ぼされたが
11 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 14:35:10
足利尊氏の三男の曾孫という超遠縁の持氏が断絶もしてないのに将軍になれる訳ないよねー。
12 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 15:56:43
室町幕府は実際は将軍の独裁権力が強いから、
将軍が隙を見せて横死するのは幕府の政治にとって最大の痛恨事
幕府の権威に傷を付けただけじゃなく、
その後に幼少の将軍が続く結果を招いた時点で、とても名君とはいえないだろ
カモの子供が生まれたからぜひ見に来てね☆
>>12 謀殺されたという不可抗力を名君の条件に入れるのはちと厳しすぎるのでは?
父親が交通事故で死んでその後の家族が路頭に迷ってもあんたはその父を「家族を路頭に迷わすひどい父だ」と言い切るかい?
まあ万民恐怖と言われただけに因果関係がないとは言い切れないが、謀殺はあくまで結果論。
15 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 17:41:42
交通事故はちょっと違うでしょう。
16 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 23:24:49
万人恐怖の言葉が一人歩きし過ぎ
「比叡山の僧24人が中堂に火を付けて焼身自殺した話をするな」って命令に背いて噂話した茶商人が逮捕され死刑にされた事を聞いて万人が恐怖したってエピソードなのに
義教に万人恐怖=恐怖政治と誤解しすぎ。
謀殺されたら名君に数えないとすると
シーザーとかも評価が変わるな
名君の定義は難しいけど、
結局、領土を増やす=国外に目を向けるだけ内政が整っている=名君
が一般的な考え方だろ
九州関東を平定している時点で義教は父義満を超えている
義教以後は応仁の乱と戦国時代でガタガタ
つまり義教は名君って事だ
18 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 13:02:03
この人って南朝復活の目も完全に潰してるような…
守護や管領の反対で何事も決められない政策や裁判も
義教は神意で選ばれたと独裁したり、湯起請による裁判も結果的に良い結果を出してる気がする。
存命して成人した義政にバトンタッチしてたら戦国時代は来なかったかも。
義政も若い時は政治に熱心だったが、管領や守護の反対をいちいち聞いていたからやる気がなくなったっぽいし。
実際、将軍権力って強いから命がけで権謀術数を使い執行すれば義満や義教みたいな強権発動も可能なんだよな。
徳川将軍家みたいな将軍が無能でも完成された官僚機構が勝手に運営するから大丈夫みたいなお飾り将軍じゃない実力勝負が足利将軍。
奉公衆や守護を動員して自ら戦場で指揮を取ったりするし。
逆に幼君が足利将軍になると有力守護らのやりたい放題になるけど。この辺は足利将軍の縁戚関係が弱すぎるから後ろ盾がない厳しさがある。
逆に婚姻養子関係で京周辺の安定は図れてるけど、公家や寺領の荘園保護すると、近江六角氏など守護と敵対しちまう…奉公衆を保護しても近江や三河で守護と敵対しちまう…
応仁大乱で斯馬氏を蔑ろにして朝倉氏を認めてからは泥沼で織田まで勃興。
で、その名君がだ、
何で懸案となってる赤松の屋敷にホイホイ出かけていったかだ。
20 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 18:01:18
そりゃあカモの親子が可愛いからだろ
21 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 00:04:58
九州征伐、叡山征伐、持氏征伐、結城合戦が成功し慢心油断していたのだろうな
22 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 10:16:31
色々と信長とかぶるな
政策のやり方は置いといて結果は出してるからもしかしたら室町将軍で一番の傑物かもな(あえて名君とは言わんが)
ただ最後がなぁ…
24 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 04:21:07
とった政策は将軍として当然だし能力もその後継者と比べれば断然
でも回りからは孤立してたんじゃないかな
本人にどのくらい自覚があったんだろうか?
25 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 06:11:17
義教はしっかりしたヴィジョンを持って、
地に落ちた幕府の権威を立て直そうとがんばり
成果を上げていたんだよね。
そこへ嘉吉くんが赤松さん連れてやってきた。
招待を受けたのも、赤松氏との関係を修復しようとしたためだって聞いた
ことがあるような気が。思い違いかな?
もっと生きていたら、歴史は大きく変わっていただろうね。
戦国時代なる世の中も様変わりしていたかも。
時には荒療治も必要だよ。信長しかり。
病巣を取り除くには皮膚を切らなければならない現代の手術を、未来の人
間に乱暴だと批判されたって困るよね。
病巣を取らなければ死んでしまうような病気だってあるのにさ。
赤松親子の動機はすぐ恐怖政治で片付けられるけれど、どうなんだろう?
利権が絡んでいたんだし。
後の応仁の乱をみれば、すでに個人レベルの利権争いしか眼中にない人間
ばかりなのは歴然。
恐怖政治を布いていない人だって暗殺されているのだから、だれかが恐怖
云々と書き残しているからというだけで義教の人間性を即断するべきでは
ないよ。
義教、当時の腐った世の中を救わなくてはいけない、という使命感がある
からこそ、還俗に応じたのだと思う。
立派な人だったと思うけどな。
静かに話しを伺いたい人の一人だな。
思慮・教養が豊かで、興味深い話を聞かせてくれるような気がする。
でも頭脳が切れすぎて、凡人としては怖く感じるかも。
26 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 09:03:15
>>25 長すぎてまた論旨が不明
なんとなく理解できるが事実関係はちょっと乱暴な認定が多すぎ
知識はあるかもしれんが出直して欲しい
27 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:33:52
25本人だけど。ファンだから独断を避けるのは難しいんだ。
28 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 20:11:41
室町幕府一の名君は足利義満
第ニの名君が足利義教
29 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:06:15
義満が奥羽を関東公方に譲り渡した為に、のちに持氏の暴挙を誘発したと言える。
30 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 19:54:56
足利義教の息子に足利義永と言うのがいるって、何かで見たような記憶があるんだが、勘違いかな。
ググれば簡単にわかるぜ
32 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 13:03:11
足利義教の息子の足利義尭はどんな人?
義教が足利義満の次代なら派閥闘争に発展するほど
取り巻きが強大化することもなく
応任の乱などは起こらず日本史も変わっていたかもな
いや、一応の安定を見せていた義満の直後の将軍に
義教ほど相応しくない男もいないと思うが
35 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 19:18:59
足利幕府にとっては関東公方が常に癌だったからな…
36 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 21:32:42
>33
義教の性格はくじによって僧侶から将軍へと大きく人生が変わったことに由来するとも思われる
出家もさせられず父義満から直接将軍を譲られていれば
くじ将軍と揶揄されることもなく父の権威に安住するおっとりとした将軍だったかもしれない
義教はくじ将軍の汚名を挽回するために一人で幕府立て直しに頑張りすぎた感じがする
俺は神に選ばれた将軍だと思ってたのかも。
38 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:38:07
39 :
関ヶ原:2008/11/14(金) 00:51:35
義教は多分、国内で貿易しようとしたんじゃないのかな?
比叡山は、京都へ行く商人にかける税を幕府が認めれば(寺社は商人に貢がせていた)
反発しないし、あそこまで地方平定にお金をかけたことにも理由がつくよ。
40 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 03:33:56
春王・安王の呪いが、
赤松入道を狂わせて、
鴨の子を可愛くしたのだろう。
41 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 11:44:14
義尭、義永もそうだが義観の事跡もよく分からないな。
>>34 どさくさにまぎれて何か変なこと口走ってない?
強大な軍事力を持つ三管四職家に対して家督介入、および庶家の厚遇による牽制など
将軍家権力集中策は見事だと思う。
細川京兆家→阿波守護家・持常を優遇(一色誅殺により三河守護職拝領)
斯波家→幼少惣領で守護代甲斐氏が実権、派閥争い多し。
畠山家→次代(義勝・義政)に権力者となる持国を廃嫡。義弟・持永が相続(義教死後、持国が持永討伐)
山名家→兄・持煕が廃嫡、弟・持豊(宗全)相続。(のち持煕反乱、持豊鎮圧)
京極家→惣領の弟たち(持清)→叔父・高数に相続
一色家→惣領で兄・義貫を誅殺、側近で弟・持信を優遇(持信早死、子・教親が相続)
残るは・・・
赤松家→惣領・満祐→庶家・春日部貞村を優遇。満祐の弟・義雅が不興を買って摂津分国を改易。
一色(伊勢土岐)の誅殺事件、弟の改易、
および庶家の厚遇(義持の時代、貞村の叔父・持貞が義持に厚遇して満祐の惣領の地位の危機、播磨帰国の抵抗。)
赤松満祐にとって、追い込まれていた・・・
一方の義教は持氏、持氏遺児も滅亡させ、大和越智の乱も鎮定、そして弟・大覚寺義昭も滅ぼせた。
まさに絶頂期だったから、満祐ごときが今さら刃向う事はないと思っていたのでは?
義教はやりすぎた。強引過ぎるくらいの強引さが災いして身に降りかかった。
もう少し相手の心を読みながら駆け引きをすれば良かったのだが僧侶上がりの潔癖症で猜疑心の塊では
そのような寝技も無理かろう。
45 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 15:52:29
やっぱ信長と同じで精神疾患があったんだろうか
46 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:33:25
義円さま
47 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 11:10:57
あげ
48 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/17(土) 12:44:42
ここでの名君の定義はなんなの?
義教の裁判のやり方はひどいよ。神盟裁判なんか採用してるんだから。
少なくとも私には名君ではないな
49 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 13:41:41
しかしその裁判結果はけっこうマトモな結果が出てるので、裁判自体が自作自演で最初から結果を決めてるような
斡旋や賄賂や癒着や外戚、親類や管領など
いろんな説得や圧力が義教にはかかるから身動きが取れないからこそ
あのようなもんを持ち出したんだと思う。
将軍と言っても後ろ盾の有力者などは裁判をねじ曲げて将軍の威を蔑ろにするからね。
50 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:51:16
従五位下征夷大将軍足利義栄!
51 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:31:50
開設から三代の将軍を除けば統制力が有ったのは義教だけだね!
大名に主たり得る者でなければ将軍の資格無し
52 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/17(土) 19:12:59
>>49 それ誰がいってるの?
あの義教の神盟裁判は最初は低い身分の商人の裁判に使われたんだよ。
あんな鳥にもうつくしい親子の情がある・・・
持氏の一番下のこどもだけはたすけておいてよかった
漫画日本の歴史で見たわ、それ^^;
55 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:44:48
この人の肖像画みたけど、神経質というか癇癖の強そうな顔してるよね
道理でという感じ
56 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 01:24:16
>>51 義持を忘れているよ。
地味な印象あるけど、彼の時代には将軍権力も安定していた。大名達もちゃんと抑え込んでいた。無理な権力の行使をして、殺された義教より、ずっと明君。
義栄こそ
58 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 01:00:47
八坂の塔も建立したりしてる
59 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 10:59:41
>>56 は?後南朝が動き始めたし
明から恫喝されたり、
朝鮮に対馬を襲撃されたり
室町時代最大の飢饉に無策で
鎌倉府に融和的に接して甘やかしたり
室町幕府を危うくしただけじゃねーか。
義持の失策で瓦解寸前の幕府を挽回する為に
義教が武断的に再統制して引き締めを図ったんだろうが。
義政の失策まで、室町幕府が将軍&鎌倉府不在の時期も含めて、うまく運営できたのは義教の遺産。
一々そんなに喧嘩腰で言うもんじゃない
室町幕府は江戸や鎌倉と違って組織で納めるというより将軍家と守護大名の
パワーバランスでかろうじて秩序をたもっている感じだからな。
だから将軍個人の力量が幕府運営に左右されがちだけど、義政以降の将軍は
ほぼ無力化したから完全なお飾り,象徴天皇制みたいなものだ
応仁の乱で室町幕府が滅びなかったのは
足利義政が何もしなかったおかげだと思う
何もしない=責任放棄
感謝する理由はどこにも無い。
さらに、現実逃避だけで飽きたらず立派な個人の別荘作って、
財政の逼迫まで招く始末。日本史上でも、一・ニを争う暗君。
足利義政は公共事業のつもりで
色々と屋敷を建てたんだよw
むしろ、1番何もしなかった将軍は足利義政の兄の
足利義勝だろう
65 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 15:24:42
>>64 足利義勝はわずか10歳で死んだから
何かができるはずもなかった
応仁の乱で都が焼け野原になりながら
自分の別荘だけは造り続けるって
ある意味自己陶酔な将軍だな>義政
何もしなかったといえば、義量も捨てがたいw
67 :
>59:2009/02/01(日) 19:57:36
義持が明から恫喝?
違うやろ
永楽帝が征伐しようとして、部下が「日本は恐ろしい国」と必死でトメタンやろ
情けないのは明
68 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:24:56
明から柵封体制内に戻らなきゃどうなるかわかってんだろうな?って
使者まで来てたじゃん
あの時、マジで攻められたら
大飢饉の真っ最中でヤバかったぜ。
69 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:28:40
>>68 中世最強のモンゴルですら制圧できなかった日本を
明ごときが制圧できるわけがない。
70 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:28:49
足利将軍は鎌倉、江戸に比べてどうもパッとしないのばかりだね
そして酒に弱く体も弱いのも多い
足利将軍
と
鎌倉、江戸
を比較するバカ発見
足利義政は意外と酒に強いんだよな
応仁の乱初期、隣の寺が焼ける煙が花の御所にまで
入ってきているのに宴会続行していたw
しかも恋愛も異常に多い
73 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 04:23:01
外人が書いた義政の本はまあ、予想通りの内容だった。
ただ義教のことはボロクソだったけど。
足利義政が辺境の地で死ななくて済んだのは
どっちの味方にも就かなかったからって
たぶん皮肉の意味だよな
他のところでは足利義政のことを批判しまくっているし
足利義教と足利義政って全く性格が違うよな
足利義政と足利義尚も親子に思えないほどに
全く性格が違うな
足利義政が少しは足利義尚みたいな性格だったら
応仁の乱を防げたかもね
77 :
>68:2009/02/02(月) 21:13:50
大飢饉でも日本は余裕。
室町時代は明が日本への銅銭輸出を渋るほど、日本は明の銅銭を吸収。
それだけ日本の経済が活性化してたってわけ。
この時期の老松堂日本行録も、日本の貨幣経済の進展ぶりを褒めている。
てか、義政時代も大飢饉が起きたが、応仁の乱をやってのけるほどの戦力はあるし。
山科の寺内町のように、突発的に人口10万以上の都市が出現するのも室町ならでは。
78 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:16:27
>>76 足利義尚は女好きの酒好き
父義政の側室までをも寝とり
25歳で死んだ原因は酒の飲みすぎと聞きましたが
違った?
>>78 足利義政は将軍なのに1度も自ら軍勢を率いて出陣したことがないのに
対して足利義尚は六角氏の居城を落とした後も六角氏を追い回した。
2年近くも遠征を続けて、管領が帰京を勧めたのに無視して遠征を続けて
ついに管領が怒って帰京したにもかかわらず、
遠征をやめなかったというのが大きな違いという意味で言った
室町時代はニートばかりで
飢饉が頻発していたらしいな
81 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 23:30:48
むしろ将軍が自ら兵を率いないのが普通なんじゃなかったっけ?
82 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:10:34
義政の頃の奉公衆の規模はどのくらいなの?
足利義政の時代でも数千人規模の奉公衆がいたはず
84 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 08:49:45
義教が奉行衆を
整備強化しておいた
おかげだな。
85 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:59:18
義政はどっちに転んでも(弟が勝っても息子が勝っても)
自分は将軍でいられるので興味もなかったかもね
その点ライバルのいた義尚は世間に自分を認めさせるためにも
功績をあげる必要があった
わが子を支援し続けた日野富子も義尚が後継もなく死ぬと
あっさり義材の子(母は富子の妹)を将軍にしてるし
結局どっちでもよかったんじゃないの
86 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:04:35
PS3
義教無双
7800円予定
一騎当千の室町アクション!いま魔王降臨。
今回はスペシャル武将として、始皇帝や関羽や菅原道真や源義経や本多忠勝や平賀源内や坂本竜馬や江藤新平や卑弥呼も登場する夢のタッグマッチをご用意。
義教の必殺技…湯起請熱湯スペシャル・鴨の子スラッシャー・くじ引きメイクドラマ
87 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 22:45:25
日本史の先生は、観阿弥世阿弥を弾圧した悪い奴みたいに謂ってたが
88 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:11:03
義円さま〜
>>85 足利義政はさっさと引退したかったから
弟の義視に将軍職を譲ろうとしたんじゃないのかな。
>>69 制圧は無理だとしても、
軍役の見返りはどうするの?>守護大名
>>87 この時代に詳しい今谷明氏が
彼らはスパイ、義満暗殺に関係していたから息子・義教に追放されたとか言ってなかったっけ?
足利義教は、父の足利義満のことも
兄の足利義持のことも嫌いだったから
世阿弥に冷たく当たったんだろう
93 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 23:28:58
本能寺みたいに火に包まれ遺体も発見されずカッコよく死ぬんじゃなくて
鴨の子を見にきて死ぬのがなぁ。
94 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 23:55:16
>>91 面白い考え方だとは思うけど・・・
でもさ、義教の性格を考えると、
本当に彼らが義満暗殺に関係してたんなら、生かしておかないと思うけどな^^;
95 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:58:53
>>93 義教の場合、暗殺に近かったからね。
逆にいえば、室町幕府にはそれだけ力のある守護大名が多くいたということ。
室町幕府は信長のようにしらみつぶしに敵を討って成立したわけじゃなく
いろんなことを言っている守護大名がなんとなく仕方ない、
足利将軍でいいや、見たいな感じで成立したものだったから。
足利義教が関東を支配下にできたというよりも
関東が早くも群雄割拠の戦国時代に突入したみたいな感じだからね
97 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:31:55
いや関東支配が完成したろ。
義政時代に足利成氏による鎌倉府再興が関東管領謀殺に発展した失策だっただけで。
98 :
足利義兼:2009/02/15(日) 21:32:57
今日は涅槃会だぞ!わかってんのか!貴様ら!
バレンタインデーにうつつを抜かし、恥ずかしいと思わんのか!!!
99 :
有徳人&僧:2009/02/16(月) 08:30:53
我らが
無職や
派遣切りの方々の
苦しみを想い
施しをしようぞ。
足利義持「我が御政道は素晴らしいと評判だな」
100 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:27:52
大覚寺義昭の反乱
101 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 18:31:13
義円さま〜
102 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 16:32:39
有力守護大名の粛清や
家督のすげ替えの際に、
有力守護大名の力を削いで、幕府の直轄領を増加させて、
幕府の経済基盤を強化させる手立てを講じておけば良かったんだが…。
>>102 >有力守護大名の力を削いで、幕府の直轄領を増加させて、
>幕府の経済基盤を強化させる手立てを講じておけば良かったんだが…。
具体的にはどうすれば良かったんですか?
そもそも足利尊氏が恩賞を各地の武将に与えすぎたのが悪いと思う
日本国臣源義教
出典はどの史料?
ご存知の方がいたらぜひ教えて欲しいです
106 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 04:49:17
>>104 恩賞ほとんど無しで結果潰れた後醍醐天皇を見てるからなぁ
恩賞やりすぎても、やらなすぎても、いけないから
意外とバランスが難しいんだな
>>102 それは結果論。
領地奪えるほどの力が幕府にあったら、最初からすげ替えなんかしないで滅ぼせばいい。
足利義教は絶対権力持ってて自分のお気に入りを当主に無理やりさせた、書き方されることが多いけど、
普通に考えれば守護大名内部の対立を利用したって感じだろ
109 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 10:41:19
ある意味信長の教科書だよね
>>104 今の政治家も権力を維持するためには金をばら撒いて影響力を保持しなければならない。
当時も設立当初の脆弱な足利政権を維持するには恩賞やら半済やらで守護の支持を得ておかなければならなかったのだろう。
111 :
赤松満祐:2009/03/05(木) 16:19:11
先日も陣中で重臣二名が殺害された。
鴨の子がかわいくなければ良かったね。
113 :
日本@名無史さん :2009/03/05(木) 17:02:59
五畿内は上知令を出してほぼ全部幕府領(御料所)にしたほうが良かった
;ヾ、,.、,、.、rツ ッッシ、:':' r':' _,、-'゙_, そういえば満祐の屋敷は
,、,、,ミッン、,._ _,、-'゙_,、-'゙. 見事な庭園と泉水があることで
、ィッ ,:、 ゙''ゞ=ミ、~.: _,、-'゙_,、-'゙ __, 有名なところだった
}; ヾ ゙' {!li;:,. _,、-'゙_,、-'゙ _,、-'゙,::|_|
ゞァ''゙ぐ _,、-'゙_,、-'゙ _,、-'゙,、-''" .|_ いい鴨の子に弱い僕は誘われるまま
,ヘ:'_,、-'゙_,、-'゙..::「┴_,エ ┴ ''"_|_| ホイホイと赤松邸に
└i'゙-ニ,ニエ,.:|ニ「 _エ ┴ ''"_|_ ついて行っちゃったのだ
|エ | ニエ, |ニ「 _エ ┴ __.|_|_
|エ | ニエ, |ニ「 _エ ┴ 「fj.||__|__| _|
|エ | ニエ, |[8] _エ ┴ └‐_|_|__l__,|⊥ |__
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''ーニ_''ー::、_ ゙┷ 工_二'‐-、,_|_|__l__,|⊥ |__
二二二`''ーニ`_''ー-、_¨''━、L|__|__| _|_|_
二二二二二二二`''ーニ_''ー 、_ |⊥ |__
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' 「 ´ {ハi′ } l 殺らないか?
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| │ 〈 !
| |/ノ二__‐──ァ ヽニニ二二二ヾ } ,'⌒ヽ
/⌒!| =彳o。ト ̄ヽ '´ !o_シ`ヾ | i/ ヽ !
! ハ!| ー─ ' i ! `' '' " ||ヽ l |
| | /ヽ! | |ヽ i !
ヽ { | ! |ノ /
ヽ | _ ,、 ! , ′
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ヽ ゙  ̄  ̄ ` /
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ヽ ____ '´
>>107 高祖劉邦は自分が不安定な時は気前良くして、権力基盤を固めた後に一斉に粛清した
光武帝劉秀はえげつない粛清をしなかったため後漢は連合政権から抜け出せず、子孫に課題を残してしまった
足利尊氏が天下を取れたのはその誠実さからくるカリスマだから、当の本人が無下にはできまい
117 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 21:42:50
始皇帝や漢武の風格の持ち主
118 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:20:33
義教は、伝家の宝刀を使いすぎた感があるよな。
普段は隠して、ここぞで見せて、目立たぬところで抜くくらいで良かった。
剥き出しの将軍権力の切れ味が、万人恐怖を招いた。
119 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 03:11:22
坊主の頃は穏やかだったのかな
120 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 08:20:08
こういう独裁者って金をかけて派手な生活や
建築物を作るもんだけど
なんか、そんな印象がない
121 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 09:44:27
万人恐怖って言葉が一人歩きし過ぎ
ある意味義教も被害者
つか有力者を次々抹殺した執権北条氏みたいなのが室町幕府に現れる前に日野氏を成敗したのかな。
>>121 やはり恐怖を感じる性格だったと思うよ
情とかなさそう
123 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 13:05:09
将軍になった経緯が経緯だけに、権威を確立するために焦りもあったんじゃないの。
124 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:17:24
正直言って、潜在的敵対勢力である守護大名の所にホイホイいった以外
目だった失策ないよ この人
125 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:18:32
カモになってしまったわけか
>>124 暗殺は権力者にはつき物
助かるやつは助かるもんだ
天に愛されなかったんじゃないか
征夷大将軍で暗殺されたと明らかなのは
源実朝、足利義教、(足利義輝)だけ?
足利義輝は暗殺というよりも、
まともに戦って敗れたという感じだけど
頼家と護良もそうだろ。
129 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 01:27:16
>>120 建物は八坂の塔ぐらいかね
>>124 ピークのときに暗殺だからなあ・・・油断もあったんだろう
暗殺が確実なのはそれ位かもしれんが、
「暗殺であってもおかしくない」将軍は、ほぼ全員なんじゃないかな。
まあ慶喜は違うだろうが。
131 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 05:16:28
>>130 それをいったらきりがないw
暗殺といえば、本能寺の変も暗殺って書かれている時があって違和感を感じるんだよな。
頼家が修善寺で消されたとき、
将軍じゃなかったろ。
実朝と義教の暗殺パターンはまるで違うね
実朝は明らかに裏の勢力にやられた感じで警備してる奴はおかしいだろw
なんかあれ、本当は実朝じゃなくて北条義時の方を狙ったんじゃないかって説もあったな
>>134 あーなるほど
そんな説もあるんだ
けど、直前に逃げた北条がやっぱおかしいと思う
義時だけなら北条家には政子とか有力な人物がいるからね
ちなみに最年少の将軍就任・病死って
足利義勝で合っているね?
137 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 11:28:14
>>135 言ったらキリがないけど、いい感じに年とって自分で判断したくなってくるだろうし
実朝は右大臣だっけ?結構朝廷側に取り込まれてる感じあるし、
北条側にとって邪魔つったら邪魔だよな
>>136 足利限定なら義勝だべ
将軍全部ありだったら徳川家継じゃない?
>>137 いい年になっても政治に無関心だったのが
足利義量と足利義政だったということだなw
(若い頃の足利義政はいくらか政治に興味があったらしいが)
義政は政治に関心があったけど部下が言うことを聞かなくて
挫折した感じ、それで文化的な方向に進んだんだろう
140 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 16:53:46
そう考えると、精神面は弱いけど知能は高いんじゃないか?>義政
鑑定眼とか玄人レベルらしいし
てか義教もそうだが、足利将軍は個性的なの多いのにマイナーなイメージつかまとうのが残念だ
>>140 教養はあるからね
理想はあったけど力や精神力がない安部総理みたいもんか
足利義政はある意味、相当精神力が強いと思うぞ
応仁の乱が始まって半年後くらいに
花の御所の隣りの寺が焼けて煙が花の御所にまで入ってきているのに
宴会を続行している
朝鮮戦争前夜の李承晩も宴会してたよね。
精神力というか、単なる危機管理意識のないバカ
日野富子でさえ、すぐ隣りで、細川と山名が戦っている時は
慌てていたというのに足利義政は無視して酒を飲み続ける
花の御所だから絶対大丈夫だと思っていたのかな?
慌てて逃げれば気が小さいと笑われるか
危機意識があると言われるか
どちらとも取れるな
そもそも足利義政に危機管理能力があったら
応仁の乱なんて起きなかっただろうな
147 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 22:03:28
>>146 義政に危機管理能力があってもそもそも足利幕府は有力守護大名に左右される
体質だから義政個人に応仁の乱の責任を押し付けるのは酷
148 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 22:21:57
>>145 為政者には気の小ささも重要なのだろう。
義政は危機回避能力に、ある意味優れている。
実力者に抵抗し、不遇な最期を迎えた義輝・義昭兄弟。
また、抵抗はしないが、操られることしか出来なかった義晴。
幕府末期に比べれば、義政というか将軍家にぼんやりしているだけの余裕があった。
149 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 03:25:20
まだ義政の頃は奉公衆も少しは居たしね
応仁の乱だって、大内氏が3万も軍勢を率いてやって来なければ
半年ぐらいで細川方の勝利で終わっていただろうな。
そもそも義教が健在なら応仁の乱なんか・・・
応仁の乱で地方が自立し実力主義になって
歴史的に必然だったと思うが
義教がもう20年生きてれば、義政も変わってたと思う。
少なくとも義政も最初はかなりやる気あったし。
そもそも義教が討たれなければ、弔い合戦で功をあげた山名が復権する事もない
地方自立は規定路線だったかもしれないけど、
戦国時代なんてのまでいったのは明らかに中央に力がないからだし、
義教の中央集権路線が引き継がれていれば変わったんでないかな
まぁ 義政にとっては側近のせいで自由にやれないのが
親父のせいで〜に変わるだけかもしれんが
足利義政の夢に足利義教が出てきて
「今、私は地獄に落ちて苦しんでいるから
飢饉で苦しんでいる人たちを救済してくれ」とか言った話があるけど
足利義政にとって、父親はただの怖いおっさんだったのか?w
足利義教は赤松邸に行く時、護衛がほとんどいなかったの?
>>155 確か10人以下だったはず
結構有名な剣の達人もいたと思うけどな
赤松邸での謀殺はまさに不意打ちだったからね。
突然の出来事だったし将軍が斬られてみな動転して応戦する者はわずかだったとか。
義教と同伴した名うての守護大名達が我先に垣根をよじ登って逃げ惑う様は当時でも嘲笑の的になったとか
善阿弥も現場に居たような
あ、音阿弥だった・・・orz
〃───、
/ _____)
/ /´ (_ _)ヽ
||-○-○-|
|(6 ゝ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ヽ θ ノ< 赤松満祐はサヨク!
ヽ|\_/ \_______
嘉吉の変の後も赤松氏の分家の有馬は普通に幕政に参加していたし
赤松家本家も20年位で復活しているんだから
当時の人もそんなには赤松満祐のことを批判はしていなかったのだろう
むしろ、感謝していたのかな?
赤松満祐は足利義持の時にも
揉め事を起こしたよな
あの時は有力守護大名たちがみんな同情して
足利義持の遠征軍編成を拒否したから何事もなく済んだけど
子孫でなく、俺は足利義清の生まれ変わりだ。
足利義政と一休さんって茶飲み友達?
日野富子の遠い親戚でもあったみたいだけど
足利義政には守護大名が付いているよ
足利義輝の時代にはほとんど言うことをきかなくなっていた
(守護代が戦国大名化して滅亡していただけかも知れないけど)
京の守護大名たちが国許での実権を失ってしまったら
室町幕府の任命する守護職は有名無実化してしまう
応仁の乱で守護大名たちが夢中になって擁立しようとしていた
次期将軍候補はいったいだれだったんだろう?
だれかが言っていた
室町幕府は守護大名の連合政権だと
公務員になれなくても
せめて室町幕府の守護職は欲しい
日野富子はうざい
今参局は足利義政の乳母でありながら
側室でもあった
足利義政との間に子供もいたっけ?
足利義政って誰だ
政務に無関心な性格は高評価されるべきだよ
嫁がでしゃばって横暴な政策とったから戦国時代が生まれた
義政がやってりゃ戦争は起きなかったのに
可哀想だよな 馬鹿女に付きまとわれるわ
後世の評価も悪いわ
戦国時代に突入した原因をつくったのは
足利義政ではなく、足利義材(室町幕府第10代将軍)の方だろう
足利義政が生きているうちは守護大名は室町幕府の命令を聞いて
六角氏討伐に出掛けたりしてくれたんだから
>>53 関東平定という懸案を成し遂げて、義教もようやくプレッシャーから開放されたのではないでしょうか。
持氏末子(のちの成氏)を助命したのは、まさに義教の心境の変化の現れでしょう。
赤松の招待を受けたのが和解のためなら余りにも哀しいですよね。
そういえば篤く仏法に帰依し仁政を敷いたアショカ王も若い頃は恐ろしい暴君だったと聞きます。
奈良の美術館で肖像画を拝しましたが、敢えて「意外にも」と言いますが
義教は優しい眼差しを、義政は凛とした表情をしていました。
こればかりは印刷では分からないものですね。
>>172 足利義教が鎌倉公方の末っ子を助けたというよりも
京への連絡を取っているうちに嘉吉の変が起きて
必然的に釈放になったにすぎないだろ
足利義政は室町幕府で1、2を争う女好きだったからなw
>>172 上杉憲実の歎願を容れて助命したのでは?
176 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 11:49:56
177 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 02:55:19
還俗将軍マンセー
足利義持も後世まで語り継がれる
伝説の男色将軍
180 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 10:19:47
赤松満祐の屋敷は本能寺と同じ通りにあった
182 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:06:35
>>178 義輝の死に様は卑怯だよなーw
何処の漫画の主人公ですかと
義政は安定系の政治家だったっぽい
今で言う福田とかそんな政治家
政務に深い関心は示さないけど国に災難をもたらすような政治家じゃない
問題はアホの正嫁だよ
息子はちゃんと母親の影響を排除したのにな
今の時代こそ必要な人物だと思う
足利義政を庭園造りに異常に熱心なおじさんとして
描く小説(?)もあるらしいな
>>187 義政が、生涯で妥協しなかったただひとつのものが、庭園造り
だそうだからな。
足利義政さんは良い人でした
義政はいい人 嫁は嫌な奴
馬鹿嫁のスレがないが
なんで立てないの?
足利尊氏はもっと良い人で
贈り物をもらってもすぐに欲しがる家来にあげていたらしい
室町幕府の直轄領が少ないのも納得だ
今日は嘉吉の変があった日でしょう?
足利義教に敬礼!
>>194
まじかー
彼こそはグダグダした日本に絶対王政を作ろうとした真の将軍
その後の日本の国家観をどう考えてたのか
ご冥福をお祈りします
義教はお父さんとは違って皇室には一定の敬意を持ってたのよね。
初めて勅書を貰った際には急いで御所にお礼しに行った位だし。
もっとも公卿に対してはムチャクチャ厳しかったらしいけど。
最近、和宮が悪女だったという歴史番組が多いけど
日野富子に比べれば、全然悪女じゃないだろ
なんで日野富子は年に1回くらいしか特集されないんだろうなぁ
お爺さんの代から続く、守護大名の家督争いに介入する政策も
義政じゃなくて富子が主導してたんか?
守護大名の家督争いへの介入は今参局がやったのもあれば
日野富子がやったのもある
あと伊勢貞親がやったケースもある
確実に足利義政が自分の意思でやったのは山名持豊への出家強制とかじゃないのかな?
赤松氏を再興させたのに対して山名持豊が面と向って足利義政をののしったらしい
201 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:50:14
介入側の主体が一貫してなかったから、
守護の力を削いで相対的に将軍権力を増すどころか、
結局応仁の乱を招いてしまうくらいに政局を混乱させただけになっちゃったってコトなのかな。
そうすると・・・やっぱりというか何と言うか、
結局幕政が混乱した一番の責任は、三魔とか富子とかの責任と言うよりは、義政にあるようにも思えるな^^;
少なくとも息子の義尚はお母さんの影響を排除出来たわけだし。
義政だってやってやれないことはなかったんじゃないの。
よし、ここは日野富子で大河をひとつ!
203 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:21:52
お兄さんの義勝が長生きしていれば、義政は平和に安穏と暮らせてたのかなぁ。
ただ、尊氏による直義殺しから始まって、
義持の弟の義嗣とか、義教の弟の大覚寺義昭とか、代々将軍による弟殺しがあったからどうなったのかは分からんが。
でもまぁ将軍になったからこそ、趣味に使える金が手に入ったとも言えるわけで、
どっちが本人にとって幸せだったのかは微妙なところかもしれないな^^;
>>202 1994年のNHK大河ドラマ「花の乱」
>>203 足利義勝がそのまま生きていたら
足利義政は出家して僧になっていただろう
207 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 00:39:52
大河に限らず、義教を主役に据えたドラマって作りにくそうだな。
まだ持氏主役のドラマの方が作れそう。
義教もラスボスとして華々しく活躍できそうだしw
まぁでも、持氏を主役にするくらいなら、上杉憲実が主役のほうがとっつきが良いか。
憲実の生涯はたしかにドラマ性があるな
幼き日の上杉禅秀の乱、要職関東管領就任、
京と鎌倉の対立、持氏との確執と破局、永享の乱、
結城合戦、嘉吉の乱、長男の惨死、遁世、享徳の乱
足利学校の復興はどのあたりだっけ
足利義政が応仁の乱だけ止めるのに必死になっていた理由って
応仁の乱なんて起きたら守護大名たちが東山山荘造りの資金を
出してくれなくなると思っていたかららしい・・・。
普通の忠臣蔵よりも仮名手本忠臣蔵のモデルになった太平記の人の方が
スケールがずっと大きい
211 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 16:08:18
義教暗殺で一番得したのは山名?
嘉吉の変で得をしたのは山名か島津か細川じゃないのかな?
>>211 嘉吉の変で1番得をしたのは畠山持国だろう
足利義教の時代には1万数千いたらしい奉公衆は
応仁の乱の頃には数千に減っていたらしいけど
1万はどこへ行ったんだ?
215 :
日本@名無史さん:2009/07/11(土) 21:26:41
徳川将軍の直轄領は関東、東海を中心に全国各地にあり計400万石
というのは教科書にも書いてあるほどよく知られたことだけど
足利将軍の直轄領って何処にあるんだ??
>>215 あるにはあるけど、ほとんどが荘園だった筈。
>>315 室町幕府の直轄地の多くは三河・丹波・近江・美濃に集中していた
218 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 19:31:13
三河守護:一色
丹波守護:細川
近江守護:六角、京極
美濃守護:土岐
こいつらに直轄領を預けて管理させていたのかな?
それとも江戸幕府のように代官を派遣して統治していたのだろうか?
>>218 奉公衆や郡守護の領地は守護大名の管轄から外される
足利義持の時代は守護・地頭と荘園が両立していた
鎌倉幕府成立が1192年とするのは皇国史観に基づいているなどと
批判する左翼学者が増えたせいで
教科書がおかしくなり始めているらしい
222 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 20:57:56
頼朝がいつから幕府のようなものを作ってようと征夷大将軍に任じられなきゃ幕府じゃないのという意見は変わっていないのだが。
普通の国は右翼こそ歴史捏造、全体主義支配の権化なのだが、
日本ではサヨクの人がこれをやるんだよね。
まぁ、日本のサヨクは思想が隣の国の右翼の太鼓持ちだから仕方ないけどね、捏造歴史大国の。
223 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 22:34:34
まだ、形式な名称にこだわる天皇中心原理主義者がいるのか?
頼朝と関東武士が東国政権を樹立して実効支配を行った段階で、
後世からみれば「鎌倉幕府」成立だろうに。
右大将の唐名を幕府というそうだけど、鎌倉室町両政権では実際に使われてたの?
226 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 23:27:10
227 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 23:44:11
>>223 >まだ、形式な名称にこだわる天皇中心原理主義者がいるのか
天皇どうのというより用語の問題じゃないか、
そういう言い方するなら1185年頼朝と関東武士による支配体制の確立といえばいいし、
それだけ教科書とかにも載せればいいのだし。
ウヨ、サヨ、天皇がどうの言う以前に用語の仕様がちゃんとしてなきゃ学問の体をなさないのに、
日本(というか東アジア)の非実験科学の人はなんか事実上とか、今で言うとかいい加減な言い方でその辺を誤魔化すから、
いつまでたっても進歩しないのだろうな。ブンケーとか言われる人が歴史科学までやってるし。
なんで義教スレで突然鎌倉幕府の話題が出てくるんだ?w
わかりません、憂国の士に聞いてください
>>227 そもそも200年以上機能していなかった征夷大将軍が頼朝時代に武家の棟梁としての権威が実際にあったかすら実は疑わしいのだが。
むしろ、平家や奥州藤原氏を倒すことで実力によって武家の棟梁として認められていた頼朝のみが任じられた役職だから、名誉職であったにも関わらず頼朝の後継者=武家の棟梁の役職として後付けされたという考えもある。
そもそも、後白河法皇らが頼朝に征夷大将軍を与えるのを拒絶したことを裏付ける史料は全く存在しない。
頼朝も「右大将家」って呼ばれてるしね。
>>228 足利義教公のスレが過疎化しすぎているからだろw
幕府の成立を統治機構の成立としたら
室町幕府なんて存在しなかったと言われかねないぞw
征夷大将軍就任を基準とするのが1番だ
233 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 12:24:26
征夷大将軍就任時を幕府成立時とする見解が
戦前からある1番最初の通説
左翼学者が何を言うと
鎌倉幕府の成立は1192年って昔から決まっている
鎌倉幕府の成立年よりも室町幕府の成立年が
1338年か1392年なのかの方が重大問題だと思う
>>235 もう遅い。学校教育はすでに変わっている。
237 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 13:31:05
>>234 一番最初の通説が正しいとは限らないんだが・・・
通説が覆されてきたことなんて過去にいくらでもあるだろ。
公立高校の日本史は明治から始まってプラザ合意あたりで終わるところも
多いから大丈夫だw
>>235 室町幕府は1336年だろ?
むろん「室町幕府」の名称は後付けだが。
>>239 広辞苑でも山川の日本史事典でも
室町幕府成立は1338年になっているぞ
>>235 そんなことを歴史学者は今や右派の学者にすらいないよ
>>241 いや、いるよ
3週間前にも会って話をしてきた
まぁ、同時代に実際に書かれた文献・記録をまともに研究すると「左翼」扱いされるらしいからな、このスレじゃ。
>>238 そりゃ日本史Aだろ。文系の一流大学が入試で課しているのは日本史B。
日本史Aを選択するような商業高校や工業高校に限って
古代から始めて明治辺りで1年が終わるんだよなw
満州がこの先どうなるかも知らない人が多い
ずいぶん前だけど、新聞で太平洋戦争はどこの国とどこの国が戦ったかという
問題に答えられた人(答えの中にアメリカが入っている)は58パーセントしか
いなかったとか書いてあって驚いたw
>>245 >日本史Aを選択するような商業高校や工業高校に限って
>古代から始めて明治辺りで1年が終わるんだよなw
これ、いつの話?
>>247 その学校、学習指導要領を無視してるな。
日本史Aは近現代史中心のはず。
249 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 05:13:56
日野富子って女の分際で家も守れないんだな
動物でも雄は縄張りをつくり雌は縄張りを守るって言う
常識の枠で生き抜いているのに 女が家を守るのは
人間も動物も同じはずですよ
250 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 18:35:37
富子が幾ら頑張っても義政がどうしようもないニートだから・・・
251 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 17:22:15
日野富子なんかと結婚したのが運のツキだな
義政かわいそうに
富子がいなけりゃいないで、結局今参(とその取り巻き)に頭が上がらない状況になったんじゃないのw
今参局って乳母にして側室で
足利義政との間に何人か女の子も産んでいるけど
「乳母」兼「側室」って他にあまりいないんじゃなにかな?
254 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 17:58:16
富子がいなければ幕府はもうちょっと長続きしたかもしれんね
戦国時代もなかったかもしれんしもうちょっと緩やかに倒幕されてた可能性が高い
鎌倉幕府が本拠地鎌倉まで攻め込まれて
死闘の末、北条氏が壊滅させられて滅亡したのと比べれば
足利義昭が京から追放だけで済んだ室町幕府は何でもないなw
256 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 02:21:43
とにかく日野見たいな奴がいると再び戦国の世になる
邪魔だからとっとと消えてもらいたい
穏やかで良妻賢母になる素質のある女だけ残していけばいい
257 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 02:45:24
日野富子は戦国の責任をとって
死罪を受けるべきだった
のうのうと生きのさばるな
義教を嫌いだからスレ違いな話題ばかりなのか?
それとも義教のことを知らないのか?
日本史上、最もおっかない人だから、口にしちゃダメ!
歌人としての評価はどうなんだ?
261 :
日本@名無史さん:2009/09/18(金) 17:56:06
日野富子は迷惑
262 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 01:40:11
>>255 惨めさという部分でも、戊辰戦争で朝敵とされた徳川慶喜ほどではなかっただろうしね。
>>253 >「乳母」兼「側室」
これって同じ大舘家出身の佐子たん(この人は正真正銘側室)と混同されてるって説も。
>>262 よく考えてみると、幕府が滅亡する時、朝敵ではなかったのって
室町幕府だけだな
将軍が准三宮だからな
266 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 01:23:50
彼の時代が幕府らしい幕府
南北朝期〜応仁の乱の間に天皇の政治的影響力がかなり失墜したところに
信長みたいな中世利権の破壊者が現れて幕府葬ったからね。
叡山焼き討ちにしろ堺から屋銭取り立てにしろ、中世に確立していた上がりの仕組みを全部破壊して
自分が手に入れるための施策だったからその元締めたる天皇権威をわざわざ持ち出すことはない。
268 :
徳川家慶:2009/11/30(月) 14:00:17
高校の教科書で確実に出てくるねこの人。
269 :
日本@名無史さん:2010/01/30(土) 15:32:56
k
>>266 何をもって幕府らしいといえるのか?
むしろ将軍独裁は足利幕府らしくない。守護大名が将軍を抑えてなんぼだろ。
征夷大将軍になれば、立派な幕府だ
そうだ
273 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 22:36:49
>>270 ある意味 応仁の乱以降のグダグダぶりこそ
室町幕府らしいとも言える。
274 :
日本@名無史さん:2010/04/01(木) 18:56:07
赤松を潰して播磨を御料国にして
播磨の武士をことごとく奉公衆に入れとけば
将軍の権力は一気に強まる
275 :
日本@名無しさん:2010/04/04(日) 00:41:48
「恐怖の魔王」
276 :
日本@名無史さん:2010/06/06(日) 03:04:53
足利幕府は尊氏が源氏の棟梁or時代が混沌だったから武士の棟梁になれただけで、決して名君ではない。
足利将軍はカスが多いから義教がマシに見えるだけ。
マシかどうかはわからんが、
名君でないことは明らか
278 :
日本@名無史さん:2010/06/07(月) 12:26:44
ていうか足利将軍は全員カスだろ
279 :
日本@名無史さん:2010/06/07(月) 13:25:42
足利将軍家は遺伝的な精神疾患があるとかなんとか研究がなかったか
280 :
日本@名無史さん:2010/06/07(月) 13:59:35
実は後小松天皇が実力者だったり。
小田氏治が義教の曾孫てマジか
282 :
日本@名無史さん:2010/06/07(月) 23:37:10
>>276 尊氏は戦は馬鹿に強い。さらに運が異常に良い。
乱世の英雄なのは間違いない。間違いないんだけども・・・。
寛大、寛容といった本来賞賛されるべき特質が、統治者としては優柔不断さとして顕れてしまった。
284 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 01:10:14
>>283 個人的には足利尊氏は本多忠勝と似てるイメージがある。
尊氏は一門を、まとめる事が出来なかったし、政治力はあまり無いよね。。
いや、なんだかんだで歴代の足利将軍の大半は政治力に優れていると思う
じゃなきゃ生きのこれないだろw
諸大名の跡継ぎ問題に尽く口をだして勢力の均衡を保つとかおかしいよ、室町幕府はw
ちゃんとした政治機構用意しとけよw
286 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 14:30:29
幕府直轄領の少なさが泣き所
287 :
日本@名無史さん:2010/06/08(火) 16:15:45
>>285 生き残れたのは家柄が良かったからだと思う。
生き残りで政治力あるなら天皇家だって政治力あることになる。
>>287 実際、天皇家も将軍家も力はあった。彼らの持ってる政治的、経済的権益を無視して中世を語るのは不可能。
で、力を上手に行使したかと言えば、足利将軍家はある意味狡猾で、ある意味愚かだった。
>>285の言うとおり、官僚機構を作れないまま戦国時代までグダグダの政局ゲームをずっとしてた。
289 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 00:28:45
狡猾の将軍なら暗殺されないだろ
天皇の権威は後醍醐が破壊しちゃった感がある
>>288 官僚組織はあったけど、守護大名の方がより権限の強い職に就ける仕組みだったから。
そしてそれを餌にお膝元で火の付け合いをさせてトップに居続けるのが足利将軍家である
293 :
日本@名無史さん:2010/06/20(日) 17:48:10
>>288 あの時代は守護大名が互いに競い合って突出した誰かがいなかったからだろ。
誰かがこの将軍をかつげば別の大名がこの将軍を担ぐといった感じで。
天皇家もそうだけどね。
はっきりいって足利将軍ほど部下であるはずの大名に殺されている将軍の例はないと思う。
結局、他の大名より頭一つ突出した大名は織田信長まで出なかった。
その織田信長が将軍追放で室町幕府は終了したがね。
担がれて殺されるってそれ応仁の乱以降のイメージじゃね?
突出のラインを信長で見れば信長だけかもしれんが
宗全、勝元、政元、大内某、信玄、謙信、氏康、元就あたりも
『他の大名より』突出しているんじゃないの
というか応仁の乱〜明応の政変までの室町幕府自体が
畿内の中では突出した軍事力だったよね
次は朝倉か土岐かってぐらい
政元がへし折ったけど
297 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 16:38:55
開設期以外、唯一、権力を行使した将軍だな。
つまり義教は全国政権を目指さずに、畿内政権で満足していろということですね。
一代で畿内を固めて他の守護大名に抜きん出た存在となり、その後2代くらいかけて
徐々に全国制覇に乗り出せば、あそこまでの反発を買い、横死することもなかったかと。
何事も急激に行えば軋轢を生ずるという、いい見本ですね。
将軍家の権威が失墜していたのは、将軍家自身に原因(酒浸り義量など)
があるのだから、失地回復もじっくりやるべきかと。
299 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 22:27:21
後釜が凡庸なら神輿に
逆戻りするだろ
>>298 戦国時代じゃないんだから、そういう国取り的な発想はやめなさい。
それと将軍は守護大名と同列の存在ではない。だからこそ、神輿になりがちなんだよ。