932 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:33:28
持参金付きの養子は株ではない
933 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:48:48
上にも書いてあるけど養子だと養父母や家族を扶養しないといけないし結婚していたりすると支障を来すし転売もできない
934 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:53:51
養子だと複数の株を持つこともできないね
なんか負債肩代わりとか多額の持参金付きの養子縁組と御家人株を混同しているようだな
>一族に迎え入れる
御家人株の場合そんな必要はないんだよ
936 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:27:52
御家人とは認められなかった八王子千人同心株も盛んに売買されてたってことは幕府が担保する禄米は魅力だったってこと?
937 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:40:34
十年に一回は廻ってくる日光火の番の負担考えたらペイできないのでは?
しまいには長州との戦いに九州まで遠征だし
>936
あそこらへんの豪農や地主の道楽やん。
>>938 よく知られている話だが多摩地方の豪農層は意外に千人同心になってない
御家人株は確かに養子にならなくてもオッケーだが、手続きをスムーズに
すすめるために形式的に兄弟や養子になることが多かった
樋口一葉の父の話があったけど、彼も番替わりと同時に樋口姓への改姓を条件に御家人株の代金を払った
御家人株譲渡の代金支払いは分割が基本で半額を前金とし約定後に残金を支払うのが一般的だった
レス番忘れたが、俺も〜〜株が発行されていた
なんて思っちゃいねぇよ。株券じゃあるめぇし。
ただし、土佐など一部の藩では財政難の際に
郷士や徒の身分を藩がカネと引き換えに与えることがあった。
さすがに土佐も、カネさえ出せば無差別に
与えるってわけじゃなく、先祖が郷士だったが、
豪農に郷士身分を売って地下浪人になり、
何世代か経て豪農になった家など元は武士だった
家が主に買い手だったらしい。
優れた技術を持つ職人(主に棟梁)にも
郷士さらには一つ上の郷士御用人の身分を
与えることがあって、山内容堂の生母の実家は
郷士身分の大工だった。
そういったことを「発行」なんて書いちまったわけ。
943 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 13:03:54
同心株の売買というが、「株」はどんな形で流通していたのかな?
944 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 13:58:10
口コミ情報。
945 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:26:07
支配与力 江
五番組 仁杉八右衛門支配
平同心
浅井 竹蔵
撤兵
西村熊次郎厄介弟
樋口為之輔
右竹蔵儀病気に付願之通御暇申渡候
同人跡江為之輔御抱入申渡竹蔵取米
三拾俵弐人扶持町屋敷共被下候間其段可
被申候
卯七月
946 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:08:39
直家督御対談相整持参金百両内五拾両
古谷銹助殿江御預ケ申置候尤家督願相済
候ハヾ残金五拾両御渡可申候且万一故障之義
出来御願相済不申候節者今日御渡申候
金五拾両無相違御返却可被成候
一 浅井家之義退転無之様永続為致可申事
一 家督願相済候上者改性(姓)為致可申事
一 御菩提所浅草正安寺之義者永代相営御年
回等懈怠急度為相守可申事
一 御母人御事御引受申候上者衣類其外共
御差支無之様為致可申事
右之通取極候上者外より違乱申候もの決而
無御座候御互ニ実意を以永く相親ミ可申候
為後證為取替證文仍如件
慶応三年卯年五月十六日
真下専之丞(印)
西村熊次郎(印)
樋口為之輔(印)
飯田一蔵殿
古谷銹助殿
947 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:16:50
>>943は株仲間の鑑札のようなものをイメージしているんじゃないかなあ。
祐天仙之助は勘違い仇討ちに遭わなければ、
用心棒の浪人内山や代貸たちと共に御家人になっていた。
次郎長物では祐天、黒駒の勝蔵、吃安と
甲州博徒は何かと必要以上に悪党に描かれ過ぎ。
ヤクザなんだから悪党に違いはないたが、
かたや次郎長は維新前から有徳の人にされてしまっている。
吃安は次郎長と何の関係も無かったし。
949 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 20:55:53
950 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:00:12
>>946 この場合平同心株は百両だったんだね
前任者の母上の扶養とか支配与力や組頭への礼金とかかなり面倒だったろうね
951 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 23:29:15
一番偉い旗本って勝海舟?
有名と、重大な仕事を任されているかどうかと、偉いは別
自分は有能なのに、家格の関係で
あまり偉くしてもらえなかったことで
勝は江戸幕府を恨んでいたという説もある
彦根藩では足軽は世襲で永代苗字帯刀御免の身分。
若党・中間・小者ら武家奉公人とははっきり区別され、
最下位とはいえ武士身分が保障されていた。
逆に考えれば、武家奉公人や農民・町人の出身者は
(幕末までは)足軽になることさえ困難だった。
幕府は単なる大名とその家臣団ではなく政府だったからか、
特に江戸時代後期になると色んな出自の者を御家人や旗本に
召抱えてるね。
高橋是清なんかは絵師の息子に生まれて足軽の養子になったりしてるね
勝や榎本の先祖もそうなんだけど、
江戸時代っていわれるほど、武士とかガチガチの身分制度あったと思えないんだよね
大金積んでも武士の最下層にしかなれないんだから、ガチガチだろ。
貧農から天下人になれた戦国時代とは違う。
956 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 01:52:17
>>952 それは咸臨丸の話だよ
木村摂津守が勝は船に弱かったという話は本当かと問われ
いやあれは不貞腐れてたんです、あの頃はまだ切羽詰まって
ませんからと。能力に見合った待遇を得てなかったからだと
それでも大番に取り立てられてたんだけどね
抜擢人事がさかんに行われるようになってからはとんとん拍子
最後は陸軍総裁で若年寄の次座で小栗よりも上に立った
958 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 20:55:46
それは島津孫四郎?
959 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:03:32
御家人株とは別に庶民出の地方功者抜擢などの新規召し抱えの場合はどんな手続きを踏んだの?
960 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:38:45
江戸期以後の足軽;群夫・夫丸などの戦闘補助員は、もともと徴用された百姓
身分であったからスムーズに帰農するケースが多かったが、問題は純戦闘員であり
鉄砲・長柄・弓といった専門職の足軽だった。
徳川家では彼らを「御先手」などと称し、各種の役職の下に付属させた。平時の
行政機関に組み入れて、その雑用をまかせたのである。
彼らは組頭・小頭・組下という名称から、与力・同心といった役名に変化した。
… … …
幕府が長州征伐に出陣した折り、町奉行所にも動員がかかった。ある女性が、
顔馴染みの同心も出陣すると聞き、見送りに出たが、行列の中に一向にその
姿が見つからない。
よく観察していると、同心はみすぼらしい足軽の姿で従っている。
その時になって彼女は、日頃、旦那と呼ばれ羽織に着流し、粋でかためた
御役人の本当の身分を知って、がっかりしたという。
雑兵・足軽たちの戦い 東郷隆 講談社 文庫
>>960 長州征伐で思い出したけど萩藩では足軽は
先手組に組織されていた(つーか足軽たちの正式名称)。
幕府陸軍は第二次征長の役の頃には洋式歩兵隊が
充実していたが、それはあくまで近代化された一部であって、
まだその頃も幕府ですら洋装でもない足軽姿で
町奉行所の同心まで駆り出していたんだ。
捕り方をはじめ町奉行所の同心が足軽身分だった
と以前に聞いたことがあったがやはりね。
でも、確か与力は徒身分じゃなかったっけ?
それはともかく、普段は着流しできめてる粋な「旦那」が
足軽や徒のみすぼらしい旧式軍装で出陣する姿は哀れだよなぁ。
杉良がやってた右門(八丁堀の捕り方同心)みたいな人も
普段は粋な着流し姿なのに戦となると足軽兵装で出陣か・・・
もっとも、右門は同心というより与力みたいな感じで、
「八丁堀の旦那」にピッタリだったけどね。
963 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:11:08
八丁堀は基本的に戦に動員されないよ
964 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:16:01
鉢巻きに黒筒袖脚絆一本刀という時代劇の右門の捕物時のスタイルはどの時代劇より当時の姿を忠実に再現している
965 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:19:45
長州攻めに参加した八王子千人同心の写真が残ってるけどみすぼらしい姿でもないよ
966 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:43:10
〜 軍陣に揃いの軍装で出陣する。それらは自弁ではなく、普段は
武具専門の奉行が保管している。
御徒士は派手な金箔押軍配団扇の合印をつけた緋羅紗陣羽織に朱の具足。
御小十人組も金の輪貫の前立をつけた兜に、朱の胴をつけ、袖と脛当だけ
装着しない。
合戦が始まると、将軍の近辺を警護し、時には命じられて物見にも出るから、
腕自慢の者も多く、前者は七十俵五人扶持、後者は平均百俵の切米を貰って
いた。
士分としてはぎりぎりの収入で、しかも、御小十人組の場合、この下に
足軽である与力・同心が附属する。
前掲 雑兵足軽たちの戦い
長州征伐って天領の農民を根こそぎ動員したんじゃないの?
それが実行出来る力があれば
江戸幕府はもう少し続いていたかも
969 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:07:53
970 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 01:19:37
足軽って言葉か一人歩きした弊害だね
同心は足軽相当だろうが、与力は流石に士分と考えるべきだろう。
小学館まんが日本の歴史で描写された
大塩平八郎の家に門は描かれていなかったぞ。
バリケード作るのに使ったんだよ
974 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 18:15:26
佐賀藩だと武士の次男三男が足軽代わりに兵力にされてたって本当か?
975 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 19:38:32
与力は騎馬を許されていたし
組頭には2百石以上の者もおり下級旗本より裕福
御目見ではないので御家人だが当然士分
同心も御家人だが譜代ではなく一代抱
後任に息子を推挙して隠居すれば実質世襲とはいえ
あくまでも抱席だから足軽と言えるだろう
976 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:20:52
>>975 与力ってどこの組の与力?町奉行?
町奉行の与力も一代抱え席だが?
977 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:02:56
>>974 相続する家が無い藩士庶子でも希望すれば一律に採用する制度がある藩も複数あったから鍋島も何かしらあったろうね。
覚えてる事例で柳沢か間部かそのあたりの江戸時代に成り上がった中〜大藩が五俵、酷いのだと田中藩の一両なんてのもあった。
田中藩なんて元は交代寄合とはいえ郡奉行が50石、下士最低辺は三両二人扶持とかだから、
それに比べたら幕府の与力同心は断然恵まれてるよ。
978 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:13:11
町方与力は一代抱えで実質世襲。200石高で軍務は当人の他に騎乗1人を含む5人で、
当初は知行地が宛がわれていたがのち蔵米支給。幕初には町奉行支配下の鉄砲足軽など
だったのが与力として定着したもの。
979 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:00:49
町奉行与力といえば那須の者が多数召抱えられてる
980 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:05:38
仁杉という与力は三河あがりなの?
981 :
日本@名無史さん:
仁杉は元北条の家臣だろうね