いわゆる幕臣について語り合おう
2 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 23:40:18
御家人と旗本の違いは?
3 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 23:55:34
勝海舟
4 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 00:01:18
塙保次郎
中村主水
6 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 00:16:07
小栗上野介
7 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 00:36:44
松平斬九朗
8 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 00:29:01
9 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 12:29:55
小普請て普段江戸城では何してたの?
小普請金
江戸時代、旗本の就職率は大体60%。この救済を兼ねて小普請を設置。旗本は役職に就いて人足を出すわけだがこれが出来ない連中は代わりに小普請金を納めた。
因みに旗本と御家人の違いだが要するに将軍様に直接会えるか会えないか。とはいっても旗本全員が毎回会えるわけでもない。
旗本は諸大夫役、布衣役、御目見え以上の役に別れるが、役職就任の度に会えるのは布衣役以上。それ以下は家督相続の時だけ。
御家人も譜代席、譜代準席、抱席、その他に別れるが家督相続できるのは譜代準席から。それ以下は相続できないことになっていて株が売り買いされた。
布衣以上は役職に就くと官位(陸奥守など)が名乗れる。大名は役職に就いてなくても名乗れる。
稀なケースだが旗本の家臣から抱席株を買い諸大夫まで二十年くらいで上り詰めた人も何人かいる。
株は与力が千両、徒士が五百両、同心二百両が相場とされた。
収入だが領地から得る地方知行取り(〜石と数える)、幕府の米倉から得る蔵米取り(〜俵と数える)に別れた。
小普請の説明が足りなかったようだからもう少し、小普請は簡単に言えば就職難の旗本を救うための役職。任務はしょっちゅう行われてる江戸城内の修繕改築作業の指揮監督。
作業に必要な人足は小普請に任命された旗本が出すが中にはそれを拒む人もいて代わりに金納で許して貰った。これが小普請金。
以上長々と失礼しました。
小普請ってなんか助けてもらってんだか負担かけられてるんだかわからん
14 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 00:12:20
age
15 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 03:14:13
与力は御家人で、同心は御家人じゃなく1本差しの足軽身分で合ってますか?
「足軽」と書くと如何にも軽輩のように感じるだろうが、足軽は二本差しした譜代奉公の立派な武士だ。
さて「与力」や「同心」は役務の名前であって身分のことでは無いが、与力は二百石以上の旗本、同心は御家人に相当する。
どちらも一代限りの勤めで世襲では無いので、相続するにせよ新任するにせよ、推薦と承認を必要とする。
……意外に偉いんで驚くだろ?
17 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 12:13:31
与力は筆頭あたりなら旗本末席あたりがかぶるが、大多数は御家人だろう。
大阪町与力の大塩平八郎も御家人。
18 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 13:04:38
>>16 いつの時代と地域の足軽の話してるわけ?嘘と思いこみはやめようよ
足軽が二本ざししてたのは誰ですか?足軽を立派な武士として城下で扱っていた藩はどこですか?ましてや幕府が?
頭が悪くないなら、そういうデタラメで誤解されるような書き込みやめようよwいつの時代から足軽風情の奉公人ごときが、武士として扱われた事例ある?武士の意味分かってます?
江戸時代の足軽は武士身分だよ
20 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 09:03:11
21 :
ほらよ:2008/09/20(土) 10:32:36
そもそもどこからどこまでが「武士」という決まりは無いので曖昧だが、戦国時代から足軽の重要性が増し、江戸時代に入ってそのまま召し抱えられたのは武士扱いだろう。
23 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:30:43
八王子千人同心って武士じゃないよね?
幕府の御家人でもないよね?
24 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 18:16:33
日田の代官手代の内藤吉兵衛は御家人株を購入し、川路と井上に養子を送った
八王子千人同心は「郷士」身分だな、ただし一応は幕臣だ。
うちは江戸時代中期に千人同心の株売って元手で商売始めて失敗して没落したという
たいそうな家系伝説があるがたぶん嘘なんだろうが
嘘の割にスケール小さくていやorz
28 :
あ:2008/09/21(日) 15:28:38
おいおい 奉公人をどこの藩が武士扱いしていたか聞いてるんだよ
召し抱えられただ?なんでうそつくのかな
藩主大名家が直々に召し抱えてるわけでもないケースが大半なのに。
幕末くらいになし崩し的に卒系は武士扱いになってるようななってないような程度
それ以外で 卒系の足軽風情が、奉公人ではなく武士と扱われてる実例だしてみろよ
早く
いいか 奉公人は武士じゃない いい加減なこというなよ 足軽は奉公人
いいか 適当に自分の価値観できめんな
本来武士とは武家のことだ
しかし近世では 本来の朗等身分であるのが今でいう中級武士
武士とは武家的権限権威権利が多少なりとも継承されてなければ武士とはいわない
今でいう下級武士やら卒系徒 足軽系中間 小物等の身分は 明らかにこれらから逸脱した地位
ようは何一つ 江戸期の役すら武士的要素や立場がない
実際藩主 藩 幕府等の公儀はこれらの身分を保証してないどころか範疇外の存在
要は非公認でありながらいつしか存在だけは容認されていた程度で、別に必要とされていたわけではない
身分の流動性も認容済みであり 役としての立場も確立していない
いいか 俺のように 学術的に語れ
まー最近論破王の俺には勝てないだろうが努力しろ
ソースにしっかり書いてあるじゃん
足軽=下級武士
中間・小物=武家奉公人
徒は武家奉公人じゃなくて直臣だろうに。
31 :
あ:2008/09/21(日) 17:12:09
ソース書いたバカをうのみにしてんじゃないよ
早く足軽を武士として 直臣としてあつかってた藩いってくれよ
腸ごく少数存在するだろうからあげてみろあげられるなら
まー徒はいちを直臣というより 末端の治安維持の最前線の現業を徒に投げやりにしてたというのが正解
中級武士以上は 現業職を嫌う傾向があるため、やくざモンや火消し盗賊や 犯罪者 浪人 職なし 無法者 精神障害者など、
こういう類を最前線で取り締まる事を 徒等に押しつけていただけ
まー直臣とはおおげさだか直臣でいいよ
だが足軽を直臣なんてみとめた役の藩はどこかいえはよ
幕末のチョン州藩とかは無しだぞ
興奮するなよ、何を主張したいのか良く分からない。
それと“正しい”ソースも上げてくれ。
33 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 18:41:07
足軽を士分としていた藩
加賀藩
34 :
あ:2008/09/21(日) 19:13:16
いやべつに興奮はしてないぜよW
加賀藩一藩か? 仮に加賀藩が足軽を武士身分として取り扱ってたという根拠を事例として揚げてもらいたい
御家人である徒が直臣でなく、陪臣である「奉公人」だという珍説は
初めて聞いたな。
それに、御徒が「末端の治安維持の最前線の現業云々」とは、意味
不明もいいところだね。
少しは勉強してから書いたらどうなんだね?
>34「あ」へ
まず自分が持論の根拠を示すのが筋、そもそも際限なくハードルを上げてるし。
そしたら
「ソース書いた馬鹿を鵜呑みにするな!」
と書き込んでやろう
38 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 21:45:11
おまいら、脳内自宅警備員庄屋厨「あ」を相手するな。
それとあ厨、本業の自宅警備だけに専念汁。
40 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 01:56:22
>>27
わざわざそんな何の得にもならないような伝承作る意味がわからないから
本当に真実そのままでそうなんじゃないか?
御家人の上層って200石(俵)くらい?
1万石程度の大名なら,上・中級家臣だな。
足軽が武士扱いされるようになったのは明治以降だろ。
江戸時代を通して武士とみなされる階層が広がっていったのは事実だが、
さすがに、少なくとも江戸時代の内は、足軽が武士とはみなされることはなかった。
「徒」も武士と言えるか非常に怪しい。江戸時代前半は間違いなく武士ではないし。
(馬の乗らない連中を武「士」とは言わない)
そもそも,江戸幕府で足軽って身分はあったのか?
御家人扱いの与力(町奉行所以外の)も2本差しの侍じゃないの。
>44
五番方の一つである小十人は徒士なんだから、「馬に乗らなければ武士でない」は
間違いでしょう。
もちろん、元々足軽だった「徒」とは身分が全く違うけど。
47 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 00:27:36
厳密に言うと幕府の御徒士・歩行は足軽ではない
おりんは御庭番の娘だから一応は旗本の出なんだなw
>48
おりんというのは知らないが、御庭番にも旗本役と御家人役があるんで、
「旗本の出」かどうかはわからないよ。
元々は全員お目見え以下だったし。その後ほとんどの家が旗本に昇格して
いるとういのは確かだけど。
小十人組士は御役は徒歩だけど騎馬で登城できる
四の森蒼紫は旗本ですか?w
52 :
あ:2008/10/05(日) 21:52:41
下げさんへ
俺に陪臣論争バトルに勝てないからと、論破されたからと逃げるのは構わないが、きちんと私に、
【あなたには論破されました】
と謝ってから逃走しなさいW
悪いがわたくし伊達じゃないですよW脳細胞は
53 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 23:36:20
どこにでも現れる馬鹿だな
54 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 08:14:42
あ庄屋は討論に強いというよりは、自分の間違いを認めないだけだからなあ。
相手に根本的な間違いを指摘されて主張を無闇に修正しつつも偏執狂的に
自分の家柄を誇ろうとする様は、滅多打ちにされてどんどん原型を無くしてゆく
ゾンビのようで気持ちが悪い。
そもそも「sageさん」って誰?
57 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 23:10:17
漸九郎
58 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 23:25:49
59 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 11:38:49
正月時代劇のおんな太閤記に大沢とかいう人物が出てきたけど、あれって高家大沢家の
先祖なんですか?
61 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 08:32:40
>>48 >>49 お目見え以上(旗本)
◇両番格御庭番(二百俵高)
◇小十人格御庭番(百俵高)
お目見え以下(御家人)
◇添番御庭番(百俵高)
◇添番並御庭番(五十俵高)
◇伊賀御庭番(三十五俵高)
御庭番は紀州藩主であった吉宗に直属して隠密御用を勤めていた「薬込役」16名
が幕府直参いた。
御庭番家筋の者でもっとも有名な者は、箱館奉行を務めた村垣淡路守範正でしょうか
彼等は幕臣になると「広敷伊賀者」に任命されて
62 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 16:28:44
面白いスレだなー
63 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 11:56:03
時代劇などで出てくる江戸城内の「茶坊主」は、
御家人だってね!
意外でした。
64 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 14:41:00
浅草の弾左右衛門は駕籠に乗り家来も召し抱え格式のある邸宅に居住するがご家人か?旗本か?
どちらでもないが?
甲斐浪人内藤吉兵衛は日田群代の手代の婿養子に入り、産まれた子供を御家人川路家、井上家に養子に入れ、兄は川路聖獏、弟は井上清直となのり、それぞれ勘定奉行、町奉行となった
勘定奉行の小野一吉は農民の出身だし、根岸鎮衛の父はやはり町民出身
御家人株を買えば幕臣になれます
67 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 17:25:34
群大?群馬大学?
68 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:39:24
>>66 公式に売っていた、というわけではないので、
買うルートに至る過程、
仲介した側の責任とかもあるので、
ある程度の審査というか壁がある。
つまり誰でも、というわけではない。
69 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:43:50
旗本職の格式の高い順から誰かランク付けしてくれ
大判頭、大目付、江戸町奉行、勘定奉行、このあたりが3000石以上の旗本がなる顕職だが。
旗本で一番高いのは御側御用お取次、ついで留守居格清水卿支配
71 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 03:49:31
>>66 小野一吉は低ランクだけど武士。
親も武士。
72 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:23:26
北町奉行遠山の金さんは3000石もあったの?
>>72 足高の制
遠山の金さんの父は,昌平黌で旗本部門で首席をとったほどの秀才で,長崎奉行や勘定奉行などを歴任した人。
家柄は良かったんだよな。
ちなみに御家人部門の首席は,大田南畝(蜀山人)
足高の制って中学で習うよなw
76 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 06:35:46
>>70 大概順(序列表)では
1高家
2御側衆
3駿府御城代
4伏見奉行
5御留守居
6大御番頭
7御書院番頭
8御小姓組番頭
9林大学頭
10田安殿家老
11一橋殿家老
12清水殿家老
13大目付
14町奉行
15御勘定奉行
・
・
・
・
77 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 01:14:30
駿府城代って旗本なんだ。
78 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 01:34:59
万石以下だからね
79 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 20:25:02
>>77 少なくとも、4伏見奉行と6大御番頭は、万石以上の諸侯も役として
ついている。御側衆も何人かはそう・・
80 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 20:37:40
どっちにしても非高家の一般旗本にとって、
御側衆と御留守居が出世の最高峰なのは間違いない。
寺社奉行も格式が高いはずだけど・・・
>>81 そりゃあ,大名役だからなあ。
しかも,譜代大名の登竜門である奏者番に選ばれた者の内からさらに選ばれたんだし・・・・
83 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 22:51:06
ここ旗本御家人スレなんすけど・・・
84 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 23:59:48
>>76 右側に相当石高付けてくれると有り難い
江戸町奉行3000 大番頭5000 勘定奉行3000 位は解るんだが
ただし幕末の要職はいらんww
85 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 00:41:43
西ノ丸御小姓→
86 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 06:56:07
>>84 但し職禄で、諸太夫(従5位下)叙任者
1高家 1500石高
2御側衆 5000石高
3駿府御城代 持高・役知2000石
4伏見奉行 持高・役料3000俵
5御留守居 5000石高
6大御番頭 5000石高
7御書院番頭 4000石高
8御小姓組番頭 4000石高
9林大学頭 3500石高
10田安殿家老 持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
11一橋殿家老 持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
12清水殿家老 持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
13大目付 3000石高
14町奉行 3000石高
15御勘定奉行 3000石高
87 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 09:41:09
駿府城代は田中藩主が何人かいたような。
88 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 02:13:31
中野石翁はなんで権力者になれたの?
89 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 02:18:04
>>86じゃないけど、16番以降を。
16 御旗奉行
17 御作事奉行
18 御普請奉行
19 小普請奉行
20 甲府勤番支配
21 長崎奉行
22 京都町奉行
23 大阪町奉行
24 駿府御定番
25 禁裏附
26 仙洞附
90 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 02:18:39
27 山田奉行
28 日光奉行
29 奈良奉行
30 堺奉行
31 駿府町奉行
32 佐渡奉行
33 浦賀奉行
34 西丸御留守居
35 百人組之頭
36 御鑓奉行
37 小普請組支配
38 新御番頭
39 御持弓之頭
御持筒之頭
40 火消役
41 御小姓
42 中奥御小姓
43 林左近将監
44 御台様御用人
45 御簾中様御用人
46 今大路中務大輔
47 半井刑部大輔
48 意安法印
49 竹田芭丸
50 法印・法眼奥医師
91 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 02:19:13
51 狩野晴川院
52 北村季文
53 大阪御船手
54 御留守居番
55 御先手弓之頭
御先手筒之頭
(火付け盗賊改め方)
56 御目付
57 御使番
58 御書院番組頭
59 御小姓組与頭
60 駿府勤番組頭
61 御鉄砲方
62 西丸御裏御門番頭
63 御徒頭
64 小十人頭
65 御小納戸
66 御船手
67 二丸御留守居
68 御納戸頭
69 御腰物奉行
70 御鷹匠頭
92 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 02:20:52
71 御勘定吟味役
72 奥御右筆組頭
73 姫様方御用人
74 木村又助
75 河合次郎右衛門
76 成島邦之助
77 小堀主税
78 美濃郡代
79 西国郡代
80 飛騨郡代
81 中野又兵衛
82 石原清左衛門
83 布衣御代官
84 姫君様方御用人並
85 新御番組頭
86 大御番組頭
87 表御右筆組頭
88 御膳奉行
89 小普請組支配組頭
90 甲府勤番支配組頭
91 御裏御門切手番之頭
92 西丸切手御門番之頭
93 二条御城御門番之頭
94 二条御殿番之頭
95 御台様御広敷番之頭
96 御簾中様御広敷番之頭
97 中奥御番
98 御小姓組
99 御書院番
100 駿府勤番
93 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 02:23:08
役高はちょっと勘弁。あと、これ幕末のなんで意味不明な人名が
あるけど気にしないで下さい。詳細知っている人がいたらプリーズ。
94 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 04:02:53
西国郡代、えらい低いな、、、
西国筋郡代 です
96 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 07:04:41
>>86〜
うち諸大夫(従5位下)叙任役は
1高家〜30堺奉行(除く16御旗奉行・24駿府御定番)
34西丸御留守居
41御小姓
42中奥御小姓
43林左近将監
46今大路中務大輔
なお、83布衣御代官までは、布衣役(従6位相当)
97 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 07:34:32
人名は世襲の役職だな。
木村は浜御殿の管理人、成島と林は儒者、今大路は医師。
98 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 07:37:01
半井、竹田も医師、狩野は絵師、北村は歌学者。
小堀は小堀遠州の子孫だろうが、伏見奉行だった本家は断絶してるから、何だろう?
御勘定格寺社奉行吟味物調役川路弥吉ってどういう意味?
100 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 18:18:29
格式は「御勘定」(勘定奉行の下僚、いまでいう財務省の事務官)
実際の職務は寺社奉行配下の「吟味物調役」(寺社関係の訴訟の検事か予審判事)
101 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 20:56:03
102 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:11:46
要するに寺社方の吟味物調役より勘定方の御勘定の方が格上で、
吟味物調役に身分上、格上の待遇を与えてるってことだな。
103 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:19:46
ちがうよ
御勘定からの出役だからだろ
川路の経歴確認してみ
104 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 21:34:51
御勘定から寺社奉行所吟味物調役に補されたのが川路の大出世の糸口だったわけだ
旗本,御家人の御役で,役得が一番多かったのは何ですか。
御側衆?奥右筆?それともやっぱり高家?
106 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:04:46
長崎奉行
107 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:17:19
>>105 長崎奉行、表坊主、奥祐筆、広敷用人、姫君用人など
長崎奉行:抜け荷
表坊主,奥祐筆:大名からの付け届け
広敷用人:?
姫君用人:?
109 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:32:26
圧倒的に長崎奉行
110 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:34:14
代官所手付手代
111 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:41:23
長崎奉行:抜け荷
表坊主,奥祐筆:大名からの付け届け
広敷用人:大奥への出入り商人からの付け届け
姫君用人:姫君からの物品払い下げ
112 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:42:26
町奉行所同心
113 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:48:32
金持ってる所を監督してる役所が一番おいしいよ
許認可権あれば最高
114 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:49:51
町同心の付け届けや袖の下はかわいいもんだよ
町奉行所与力の実入りもバカにならないものがあった。仁杉何とかいう与力の場合、江戸府内の諸大名からの付け届けでウハウハなる暮らしを
町奉行所の与力,同心への付け届けなどの役得はよく聞くが,御奉行様は役得がなかったの?
117 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:08:44
>>115 その与力仁杉のせいで町奉行矢部駿河守は改易され他家預けで絶食死
118 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:13:47
仁杉家って南にも北にもあるね
119 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 02:11:11
120 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 03:30:28
伏見奉行だった小堀遠州家なら、
改易されたあと、親戚筋が旗本存続。
その家が茶道遠州流を伝えている。
121 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 06:37:13
■公儀御様御用
代々、山田浅右衛門家が世襲
幕府や大名家などで罪人を処刑する際の処刑執行官
幕府の役人ではなかったらしい。(穢れを嫌ったためか?)
また、その際には刀剣の試し切りが行われ、その死体を
独占して得られたため、人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を
原料とした丸薬を製造・売却したため、莫大な財産を得た。
加えて、試し斬りの経験を生かし、刀剣の鑑定も行ない、鑑定
時の手数料・礼金も大きな収入であったらしい。
122 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 06:44:38
京都に役宅がある代官は、小堀家、木村家、角倉家2家など。石原家は近江大津などの代官。
しかし、同じ世襲代官でも多羅尾代官所の多羅尾氏はその他の代官扱いなんだな。
123 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 07:00:31
>幕府や大名家などで罪人を処刑する際の処刑執行官
>幕府の役人ではなかったらしい。(穢れを嫌ったためか?)
人殺しの戦闘集団のくせに、一体何の穢れなんだろうな。
124 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 07:45:20
本来牢屋敷同心や町奉行所同心が太刀取りを勤める
太刀取りを嫌った同心が、在任中仕置きの役料として公儀より給された刀の研ぎ料を山田浅右衛門への依頼料として納め代役になってもらった
125 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 08:39:36
無役、小普請の研究
126 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 21:38:04
旗本、御家人とはちとズレるかもしれんが、
高家の所領ってどこだったんだろう?
大沢本家は遠江堀江領だが、他の高家の所領を「○○領」と書くなら
それぞれどうなるんだろうか?
127 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 23:49:13
領分?
たとえば吉良上野介様御領分。それでいいわけだが?
彼らは幕下士だから複雑に考えなくてもいいよ
吉良上野介は三河国額田郡の内
130 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 15:30:47
遠山の金さんは実在したらしいけど、遠山家とはどの程度のお家柄?
131 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 16:07:23
中世には美濃の三遠山と言って岩村・苗木・明知の3家があった
江戸時代には苗木遠山が1万石の大名として続くが
金さんを出す旗本の遠山家は明知遠山の分家で関ヶ原で戦功があり
美濃国の恵那・土岐2郡に6531石を与えられた大身旗本
従五位下に叙せられ大隅守から左衛門尉に進む家柄
つまり潔く市井に身を引いて江戸の民衆に愛された遠山帰雲の親子
133 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 10:36:08
金さんは大身のお旗本だったんだな。しかも名門なんだー。
134 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 14:14:01
遠山親子は役人の鏡と称賛された
135 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 16:51:35
遠山景元は大岡忠相以来の名奉行という評価が定まってきているが、
しかし遠山景普を演じた小林稔侍はウンコをガマンしたような喋り方で演技下手稔侍下手
136 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 17:06:40
遠山景元は鳥居甲斐と相役で大目付に左遷されたりしたから人気があった
137 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:11:34
景元は明知遠山氏の分家だけどね。
明知遠山氏の本家は高家武田氏に養子を出したりしてる。
苗木遠山家は将軍の子、将軍の弟、明石藩主松平斉詔の通行を傍観しました
成績優秀
直次郎と遠山パパ
140 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:47:24
太田くんか?狂歌詠みの
141 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 16:35:49
太田君は中年以降面白みのない堅物役人に徹した
142 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 17:28:59
>>123 一応武家政権だが、実質は文官による統治。
幕府の武士は武士の中で武官に当たる番方と文官に当たる役方とに役割分担
されていて、初期は番方勢力が大きかったが、中期以降は役方が主流になる。
結果、当然の要素としてそういうのを嫌う流れになる。
144 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 20:53:50
火盗の鬼平は900石取りだっけ?
家禄400石
職録1,500石+御役扶持61人扶持だと思います
長谷川分家 400石
400石前後が,出世に繋がる御役に一番就きやすいクラスだったかな?
1.000石って年収1千万円ぐらいの間隔?
>>148 1石=1俵=米60kg=24000円(10kgの米4千円で試算)
1石で現在のお金に無理無理試算すれば24000円
よって、1000石であれば、24,000,000円
でも、半分は領民の持分なんで やはり試算的には1千万円くらいの感覚かも
151 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 06:47:36
=役得のあった職=
長崎奉行:抜け荷?
表坊主,奥祐筆:大名からの付け届け
広敷用人:大奥への出入り商人からの付け届け
姫君用人:姫君からの物品払い下げ
以外には?
御徒歩や御小人目付けなんかも諸大名や大身旗本からの付け届けはあったと理解
している。あと、奥祐筆も官位叙任や御役普請の実質的な決定者として相当な賄賂
があったらしい。
有名なところで
大工の年収が20両
153 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 10:51:59
平の御徒士にたいした役得なんてないよ
154 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 11:00:32
>>151 最高なのは浜御殿奉行
薬草栽培で大儲け
咸臨丸は木村摂津守のポケットマネーで渡米したようなもの
155 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 11:14:06
御徒士って将軍から拝領する黒羽織を売ってねずみ色になった古い羽織をずっと着てたんだろ
私どもは勝手方の組頭をいたしまして
それから吟味役を言い付かったのであります。
勝手方の組頭は好き役でございます。
それが吟味役人になると、五百石三百俵を戴きますが
組頭で儲た金を皆なくしてしまうというので
吟味役はつまり三文にもなりませぬ。
↑
吟味役人…吟味役
158 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 11:28:33
>>151 その昔に勝新主演の「痛快!河内山宗俊」というのがありましたなあー
奥坊主の彼が弱い庶民の味方になって大活躍
千石だと足軽数人、中間数人、馬数頭揃えておかないといけないから、結構厳しいよね。
>>150 その場合、所得税とか源泉でどれだけ引かれるの? 実質の手取りはどれぐらい?
>>148 1石=1俵=米60kg=24000円(10kgの米4千円で試算)→ これ間違い1石から年貢として取り立てられる米が1俵。
1石で現在のお金に無理無理試算すれば24000円
よって、1000石であれば、24,000,000円
でも、半分は領民の持分なんで やはり試算的には1千万円くらいの感覚かも→よってこれも間違い
162 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:07:14
収支のバランスは悪かっただろうね
163 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:13:31
直接知行した旗本なんてそうはいないだろう。
大体は代官から金でもらったっじゃね?
164 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:16:05
三百石の旗本と三百俵の旗本では、収入同じで知行費用いらない分、三百俵の方が実入り良さそうだけど
三百石の旗本の方が上?
165 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:19:30
知行地持ってると人件費が抑えられるんだよね
166 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:19:38
500石程度の旗本も、わざわざ自前の代官派遣していたの?
費用かさみそうだね
167 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:33:38
168 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:34:24
派遣ではなく地代官だね。
169 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:35:07
自分の家来じゃなくて二百石程度の軽輩の時代劇に出てくる幕府の代官って事?
170 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:36:54
年貢取り立てて大阪に米運んで金に換えて・・・・
旗本家業も楽じゃ無い?
豊作凶作に関係なく自動的にお金くれる蔵米取りの方が良い?
知行地はステータスシンボルだね
でも同じ石高なら、蔵米取りのほうがよかったんじゃない?
農民だって「ハイハイ御領主様」と言って素直に年貢を満額納めたわけではないし。
ま、蔵米取りも強制的に借り上げとかされるけどね
173 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:33:45
一所懸命ってわけだよ
174 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:14:38
>>148 >>161 1石=150kgくらい、そのうち年貢で取れるのが1俵=60kgくらいだね。
10kg=4000円とすると、1石取り=1俵=60kg=24000円で
1000石取りだったら2400万円。
でも今よりもずっと米が大事なものだった時代だから、
きっと感覚的に、その数倍程度の価値はあっただろう。
実際上の計算だと100石取りは240万円になるが、
今は240万円じゃ生活できないが、
昔の100石は苦しいながらも使用人を使って生活できたわけで。
175 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:27:40
何度も飢饉があったからな
千石以上の一部の上級旗本はなんとかなったかもだが概ね苦しかったのだろう
176 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:32:59
飢饉の時は一時金みたいなの、出たでしょ
177 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:53:32
旗本は借金苦だからね
178 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 01:56:29
現在の石川県、富山県の予算を足すと1兆円程度の規模になるみたいだから、
仮に100万石=1兆円とすると、1石は100万円になるね。
1000石だと10億円。ちょっと大きすぎるか?
でも庶民との格差を考えると、貧民からみて1000石の旗本様って
それ位雲の上の人かも、って気もするが。
179 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:04:46
>>178 そのたとえはいきなり時空を超えちゃってるので間違っているとおもいます
同じ幕臣でも倉米取りや扶持米取りからしたら千石知行してる旗本は雲の上の人だよ
それが5000石とかとなると信じられないよな
何だかんだ言ってもいつの世も金持ちは強いよ、羨ましい
181 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 02:06:50
>>179 いや、必ずしも正確でないっていうのは認めるが
いきなり10kg=4000円とか言って計算し出すのだって、
「時空を超えてる」っていう点では同じだと思うぞ?
貧乏旗本や御家人なんざどーだっていんだよ
おれっちみてぇな貧乏人はかえって数千石の旗本に興味あるぜ。
指扇山内家か
突然割り込んじまったもんでおいら独り浮いちまってるが、
7000石ぐれぇの知行持ちより三井や弾左衛門の方が金持ちだったんけぇ?
あんたが来ると土佐の話しかできなくなるww
188 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 05:01:06
旗本より多数いた御家人の方に興味ありなんだけど
189 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 05:02:37
山内つながりで松下嘉兵って旗本の話しでも可
>>189 調子こいて頭小突くもんだから思いっきり殴ってやったわい
191 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 05:18:36
松下嘉兵衞って太閤殿下の主筋だよね
>>191 こっちとら備後山内氏支流末裔、長宗我部重臣末裔よっ
雑談馴れ合い系以外の板でコテつけてる奴って何なんだろうね
194 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 19:06:06
長宗我部家遺臣で幕臣になったやつっている?
山内や藤堂とか浅野に仕官したやつはけっこういたみたいだけど
195 :
FUSIANASAN:2009/02/01(日) 19:06:59
test
198 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:15:15
本家が旗本で分家・末家が大名ってのはあるのかな?
本家の威光は絶対な封建社会においてあるとすればどのような関係にあった
のでしょうか?
年始や参勤交代時には、分家・末家は本家にあいさつに伺っていただろう。
また、幕府への書き付けにおいても、分家・末家の書状には本家の添え書き
が必要であった。
さてさて・・・
中山
中山
黒田
200 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:25:58
>>198 朽木とか京極。
朽木は本家が交代寄合、京極は本家が高家。
201 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:29:29
土屋相模守
202 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:55:52
御家人の話題が少ないのはやっぱり難しいからですか?
安藤広重
>>202 ぜひご自分で御家人について語ってください
205 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 01:07:46
江戸町奉行所の同心は御家人?
町奉行柳生主膳正
無役(小普請)の御家人で,抱席っていたの?
小普請の御家人だと役がないから,抱席だと代替わりできないですよね。
209 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 06:58:52
>>208 だと思います。
家禄のある御家人は「譜代席」「二半場」と言われていて「抱席」は確かに
家禄のない御家人なんで、小普請(=無役)には抱席の者は存在しないかと
間違っていたらごめんなさい。
210 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 09:05:59
萩原伯耆守美雅
211 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 08:21:37
御家人は馬に乗ってもよいのだろうか?
212 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 11:50:16
いいんじゃないの?
213 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 13:05:14
実戦では役立たずで、その癖洋式軍制への改変とか嫌って自領の農民に肩代わりさせた無駄飯くらいだろ、大半が。
214 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 13:24:47
御家人は徒じゃないの
旗本でも小十人組は徒だし
御家人は馬に乗れない。家に玄関も作れない。
与力等の役職についた時だけ、馬が許される程度。
216 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 14:48:17
登城に馬は使えないけど
代官所手付手代からなる関東取締出役は馬に乗るよ
南北中の町奉行所の与力は馬に乗らない
出典は? 違うこといってるレスがあるんだけども。
それとも時期によって違った、というオチ?
関東取締役出役が?マジか?
219 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:08:01
>>216 関東取締出役は多分乗れなかったと思うよ
与力は登城以外で乗れた
220 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:26:28
たぶん?
八州様は馬に乗ってるよ
乗ってはいけないという触れでもでてるの?
221 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:28:06
>>220 御家人は基本的に馬に乗れない決まりだった
基本的に「徒士の武士」だからね
>>221 どこのって?
与力って本当は寄騎で,数えるときは一騎,二騎じゃないの?
224 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:32:48
>>222 ウィキ出典には
関東取締出役は1805年に設置された江戸幕府の勘定奉行配下の役職。
小領主や飛び地などが多く広域的な警察活動が難しかった関八州を私領
(諸大名旗本寺社領等)・御領(天領)の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪
の取り締まりに当たった。但し御三家である水戸家領などは管轄外とされた。
俗に八州廻りともいう。代官所の吏員である手代手付から任命した。彼ら
を支援するための現地スタッフとして目明しが主要な町村毎に任命された。
八州廻りはかなりな権勢を誇り身分上は足軽格という比較的下層な身分で
あるにも関わらず本来は上級武士にしか許されない駕籠を乗り廻し大勢の
従者を引き連れて廻村するなど弊害も大きかった。
馬はもちろんのこと、駕籠にも乗っていたらしい。ただし、幕末でもあ
り公式に認められたことなのかは不明
225 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:38:57
>>222 登城は別として御家人が騎乗を許されないなんて決まりがあったの?
226 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:41:06
どこの組の与力が騎乗役なんですかね
227 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:45:24
>>224 ウィキ出典っなんだ?
意味がわからないよ
228 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 23:51:17
>>224 関東取締出役が足軽格?
代官所には手附・手代のずっと下の書役のさらに下に足軽がいるけどそれと同格?
230 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 01:28:51
御目見以下が御家人
はい
将軍に直属するかどうか、が違うだけで実際は下っ端も下っ端だからな。御家人は。
233 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:40:20
関東取締出役は200石取り。足軽とはちがうでしょう。
234 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:15:46
関東取締出役は200石取りではないよ
足軽でもないけど
235 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:38:24
じゃー何石取り?
北大路欣也の時代劇でナレーションは200石取りと言ってたが・・・。
真実が知りたい。
236 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:49:28
石取りではない
237 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:52:19
手附よりもと農民とかの手代から関東取締出役に出役するほうが多いからな
238 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 23:24:46
所得は石取りでなく、農民出身が関東取締出役なのか!
勉強になったよ。
それでも八州様は足軽2人小者2人率いて廻村する公儀のお役人
しかも重刑でなければ現地で独断で決済できる
>>194 斎藤氏の他、多数いたよ。
ただし、沢山はいないね。
山内、藤堂、井伊に仕官したのが多かったから。
徳川直参になった人の次三男で山内忠義にスカウトされたのもいたらしい。
確か直参ではなく譜代大名に仕えていた本山氏もそれ。
旗本と大名家(特に外様)は中悪いよね。
有名な鍵屋の辻のあだ討ちだって、旗本が脱藩者庇ったりしたから騒ぎが大きくなったんでしょ。
それ以前の逆(旗本の脱走者を池田が庇った)のいきさつもるらしいし。
安部四郎五郎みたいな旗本が外様大名のお家問題に干渉したりすりしな
243 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 14:08:37
大久保の皆中稲荷の祭りで鉄砲撃ってる武者は百人組の子孫なの?それとも単なる有志?
>>241 まして江戸時代初期には喧嘩旗本と暴れ大名との喧嘩がw
はたまた徒格、足軽格の御家人は他大名の上士を敵視。
245 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 14:37:20
旗本は御目見以上で御家人は御目見以下とよくいうけど、徳川禁令考の旗本御家人令条之一では
旗本の定義は万石以下の御番衆までで御目見は両者の区分の原則にはならないとしているんだよね
大番とか書院番とかの番方の各組には,与力,同心が配置されますよね。
またそれとは別に,組頭の下に番衆として旗本も配置されてますよね。
番衆の旗本と,与力や同心との関係はどうなっていたのでしょう?
格の上下以外に,上命下服とかの関係はあったのでしょうか。
247 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 16:12:02
斬り捨て御免って無罪放免になったケースは実際はほどんと無かったんだろう?
248 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 16:25:26
249 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 16:56:48
与力は番衆ではないからな
番方の組織は
番頭(大名,旗本)→組頭(旗本)→番衆(旗本)→与力(御家人)→同心(御家人)
という構成ですか?
>>251 では,番衆は,組頭の下の小頭のような立場なんですね。
貧乏御家人のべらんめぇっぷりも好きだねぇ
254 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 21:39:54
>>245 幕府のややこしい一面ですね。旗本の定義も難しい。
しかし、旗本とは次の定義が無難でしょう・・
◇家禄万石以下で代々、家として将軍家への御目見を許される家格を持つ家
この定義が無難です。たとえば、家禄の大きさでは定義はできません。家禄30俵以下の
御目見以上(旗本)の家は寛政期には20家もあったようです。
また、御目見以下(御家人)の最高では知行200石高の者もいたようでした。
石高の大小では定義できない所以です。
また、属人的に御目見以上(旗本)の役についていても、幕府より『代々御目見以上』の認定
を貰わない限り、子孫はまた御目見以下(御家人)に戻ってしまいます。
255 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:59:08
代々とは三代でしたっけ?
>>255 “代々御目見以上の認定”とは,正に文字通りでしょう。
三代続けてお目見えとかの事実の積み重ねではなく,あなたの家はこれからは子々孫々御目見得以上の家格ですよというお許しを頂くのですから。
それと旗本と御家人を石高で区切るのは,難しいでしょう。
交代寄合の岩松新田家なんて120石しかないし,それも当初は20石でしたっけ?
257 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 02:33:45
特殊な例を排除すれば、
おおよそ、の区切りはあるんじゃね?
258 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 07:13:31
>>257 慶安2年の軍役規定には、200石から掲載されているので、あえて言うなら
200石以上が凡その基準かと・・
しかし、約5200家ある御目見以上(旗本)の25%にあたる約1300家
は200石以下であるので、この定義もすっきりしませんが。
259 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 10:38:04
旗本が将軍家の寄生虫と化して、役立たずの無駄飯食いになったから、幕府は滅んだのでしょう。
御家人でも三代続けて御目見になれば旗本だよ
261 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 12:55:29
旗本は腰抜け、譜代大名は非力、では力を付けた薩長に勝てなくて当然か…
262 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 13:06:18
井伊大老のよって有能な直参がかなりいなくなったからな
263 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 14:10:10
現代でも同じだが、稼ぎのない扶養家族ばかりならば収支が逆転し赤字になるわなあ
264 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 14:25:06
265 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 15:22:10
いや、真理じゃないかな。
まあ、これ以上はスレチになるから止めるが。
266 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 15:30:20
武士はもともと稼ぎませんから
267 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 15:34:06
旗本は将軍家からのお裾分けみたいなもんだろう。
無職無役で労力を還元せずにいれば、幕府は支出がかさむだけで生産性は減退する一方になる。
例えば、ニートが家に1人いるより5人いる方が家計が破綻するのと同じ理屈だ。
269 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 16:19:10
ハイハイ抽象的なご指摘をありがとう。
専門的な表現じゃニートにはわからないと判断して書いたつもりだったが、返す言葉を奪ってすまん。
ご両親を大切にニート君。
270 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 16:25:58
専門的な表現w
いや、旗本は小なりとはいえど領地をもち、そこを治めないといけない領主でもあったんだよ。
だから幕末に洋式軍隊用に旗本領地から農民出させる、なんてこともあったわけで。
幕府直轄の領地からリン米貰ってる連中がそれじゃないの?
まぁそれも今で言う役職手当みたいな意味もあったから、ただ飯ぐらいとは違うだろうし。
272 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 16:30:42
旗本御家人の生産性が減退ってw
勝海舟のような旗本出がいたから、徳川宗家自体はソフトランディングできたんじゃないかね?
無駄飯かはともかく、余剰人員ってのはどこの藩も悩まされたことだしな。
実働ポストに対して抱える人数が多すぎる戦国時代の名残。
もっとも人手が欲しくて消耗激しかった軍役はほぼゼロになったし。
275 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 17:20:55
軍役ゼロってどうゆうこと?
276 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 19:38:05
旗本と御家人の区分についてはこれで充分なんじゃね?
幕士将軍二謁見スル以上ヲ旗本ト称シ、以下ヲ御家人ト称シタルコトハ
当事見聞セシ所ナレトモ、古記ヲ按スル二、文化十酋年八月大目付へ
阿部飛騨守ヨリ問合ノ附札二、御旗本ハ万石以下御番衆迄ノ通称、
御家人トハ御目見以上以下二而差別ノ儀ニハ無之、トアリ、此二拠レハ
幕士ヲ御旗本御家人ト分称セシハ習慣二由レル者ニテ、公称ニハ非ラサリシナリ、
然レトモ当時ノ公文、御旗本御家人ト連称シタル者亦之在リ
277 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 20:24:25
278 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 20:30:22
>>276 御旗本ハ万石以下御番衆迄ノ通称
とあるが、非役の旗本は小普請(支配)であり番衆でないので、この定義も
すっきりしませんが
279 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 20:48:43
>>278 御家人トハ御目見以上以下二而差別ノ儀ニハ無之
280 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 20:58:17
>>276は幕府の公式見解だけど当時から曖昧だったってこよだね
松平太郎の江戸時代制度の研究だと旗本とは万石以下の家格拝謁以上
元来拝謁以下の出であれば永く拝謁以上たるべき申し渡しあることを要件となす
となっている
281 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 21:40:13
>>280 「永く」とは子孫に至るまでということですかね
282 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 22:05:11
一口に旗本といっても、うえは『従四位上左近衛権少将」の高家肝煎から下は
20俵の蔵米取りの下役に至るまでその巾は大きい
大名にあっても、従二位大納言から無官大名までその巾は大きい
同じことか
旗本八万騎。実数は軍役で動員する郎党等合わせても四万いかない。
284 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 20:07:12
四万に御家人を含んでますか?
285 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:11:57
>>283 旗本とは元は将軍家を守る番衆たちを指していたが、いざ戦さともなれば
万石以下の直参、いわゆる旗本・御家人以外にも、譜代大名や家門大名
も将軍家のために馳せ参じたろう。
よって、旗本・御家人の4万に加え、大名家の家臣衆を入れて最大で8万
と呼称したのだろう。(それでもまだまだ鯖の読みすぎかな)
八万騎だから,騎上の武士だけで8万人。
徒侍・足軽を含めると総勢で何人?100万人くらい?
もしかして旗本八万騎というのは
大江戸八百八町
大阪八百八橋
嘘八百
八百万の神
とかの,単に数え切れないくらい多いという意味の“八万騎”なのか?
4万ではなくて六万じゃないの?
旗本5千家、明治時代に旧幕が新政府に提出した旗本御家人及び陪臣並びにその家族の総数は40万
天領、旗本知行地合わせて700万石で8満期って少なくない?
加賀100万石でさえ、3万位兵力無い?
291 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 01:29:22
戦国の余波を残す江戸時代初期と、
太平な中期、
洋式軍制の後期は分けて考えないと。
292 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 03:07:07
>>291 分けて考えてないやつなんていないだろ?
>>290 加賀も3万人はいても3万騎はいないだろう。
勝海舟の回想だと、幕末での旗本の実数は三万四千程度だったらしい。
295 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:21:27
>勝の回想
駿河に徳川宗家が追い払われる時の調査だっけか?
正確には三万四千「家」だから、動員数はその数倍に上っただろうけどね。
296 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:05:07
>>1 「横須賀組田辺与力」をご存知でしょうか?
本来なら直参(旗本)になれたにも関わらず倍々臣となってしまった三河以来
の武勇の36家。
松平(徳川)家の重臣に「大須賀康高」という兵がいたが、徳川家の勢力拡大
に軍団組織が追いつかず、結果、家康直参の90名が附属与力として、大須賀
に附けられた。
のち安藤直次に附属換えとなり、結果としてその36家(家禄200石)が安藤家
の附属与力となってしまう。
しかし、その安藤家も紀州徳川家の附家老として、大名とは認められない
陪臣扱いとなり、その又家臣の「横須賀組田辺与力」は陪々臣の身分となって
しまう。
そして、幕末の1855年に20家の「横須賀組田辺与力」は紀州徳川家への勤
仕替えの騒動を起こし、幕府にもこの騒動がつたわり、結果、家禄半減で松坂城
城番士(紀州藩士)となり陪々臣から陪臣への復帰が悲願280年で達成した。
本来は陪臣ではなく直参への復帰が本懐であったろうに・・・
>>296 田辺与力は,紀州家直臣の威光を笠に着て安藤家家臣に傍若無人の振舞いをして恨みを買っていたと何かで読んだ。
因果応報なんだろうけど,こんな例はいっぱいあったのでは?
徳川譜代に限らず,豊臣恩顧の大名でも,急速に取り立てられていった大名家では,与力衆から家臣団に吸収された例があるのでは・・・
曲淵甲斐守、萩原伯耆守、杉岡佐渡守、松平河内守、土岐信濃守、安藤弾正少弼、牧野大隅守、鍋島内匠頭、
299 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:32:13
>>296 大久保彦左衛門忠教も複雑な状況であった。彼も純粋な直参旗本では
なく、兄貴筋の本家であった大久保忠隣の家臣団に附属され、本家より
俸禄(3000石)を得ている状況にあった。
幸い?にも、大久保長安事件の連座で本家(忠隣)が改易となり、彦左衛門
は将軍家から改めて1000石の拝領を受けて、この時点で正式な直参旗本と
して確定する。
多くの大名家に存在する一門の家老職にあっても、幕初からの附属の臣が
多数含まれているのだろう。
>>296 幕初では,徳川直臣と,本家家中との境界は曖昧だったのではないでしょうか。
特に当主の庶子の場合は,当主の家臣か,徳川直臣かどうかの?
301 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:52:52
>>290 大名の軍役と言うのは義務的な動員兵数ってことで、物理的な最大動員兵数
とは違うと思う。
1万石の領地というのは1万人養える土地だからな。
人口さえ多ければ、1万石でも2000人くらい動員可能だろ。
302 :
300:2009/02/12(木) 22:52:54
>>296ではなく
>>299だった
でも,一門の惣領職はどの程度の権限があって,主君の徳川家はどの程度干渉できたのだろう?
303 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:14:24
>>302 封建社会では主従の関係がとりわけ大切
大名の本家・分家の裁定についても、将軍家は強く干渉はできなかったと
聞いたことがある。
毛利本家と吉川家、仙台伊達家と宇和島伊達家など
将軍家も尾張・紀伊・水戸に分家たる御三家があり、越前松平家は家康の血筋
では本家筋といっても間違いではない家もある。
強い干渉はできなかったのだろう。
@御用取次
A留守居、御側衆
B大番組頭、小姓番組頭、新番組頭
C大目付
D町奉行
E勘定奉行
F下三奉行(作事奉行、普請奉行、小普請奉行)
G日光奉行
H田安卿家老
305 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:11:51
>>296 田辺与力は陪々臣ではないよ
少なくとも本人たちはそう思っていたからこそ騒動が起きた
身分的には安藤家の支配を受ける紀州藩士だろう
それにしても何の仕事もなく250年続いたのはスゴイ
306 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 06:12:37
>>304 これは何の順ですか?
大概順ではなさそうだし
307 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 11:35:23
>>301 普通一万石あたり250人程と言われてるよね。
308 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 11:48:26
曾祖母の実家が、大貫という苗字の旗本・代官だったそうだが、
代官って高級な旗本から選ばれるものですか?だったらいいなぁ
309 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:21:26
310 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:28:43
>>308 代官は150俵の身分だから旗本の中では下層。ただし袖の下たんまりだから裕福。
311 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 13:07:42
312 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 13:51:09
御代官は袖の下はあまり貰いません
下僚の手付手代は直接百姓に接するだけにかなり貰っていた
山岡鉄舟のオヤジ(高橋何某)って結構身分高かったと聞くけど。
314 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:34:39
旗本奴みたいな不良どもが出るぐらいだから、鬱屈していた連中も多かったんだろうな。
ついには町奴と喧嘩になって、家康に連なる名門旗本の水野家が潰れたり。
315 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:10:07
>>310 現代の国家公務員と比較してみよう
霞ヶ関と出先機関の非現業職には1府11省庁で計30万人が働いている
人口は約12000万人
これに対し江戸期の人口は約2600万人であって、現在の約20%程度
そして、現在の国家公務員に相当する人数を強引に比較してみると
・大名260名
・旗本(御目見以上) 約 5200名
・御家人(御目見以下)約17000名
となり御家人であっても、相当に現在の感覚からでは下級とはいえないと思う。
ましてや、旗本は5200名しかいないので、旗本の下層ではあっても、超
エリート(貧乏?)サラリーマンだったかもしれない。
316 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 00:21:40
全く別なものを対比させて数で論じるのは愚の骨頂
317 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 03:39:31
>>313 山岡鉄舟の実父は小野氏だよ。美濃郡代でもともとは700石だったかな。
高橋氏は山岡氏の養子先の義兄(鉄舟の妻の兄)泥舟が養子にいった家。
318 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 07:10:57
>>315 江戸時代は町内自治、村内自治が基本だよ
役人は簡単に言えば上前を撥ねるだけの存在
今に例えれば細かな作業は全部町内会に任せて
区役所は上と下との連絡機関に過ぎないような形
319 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 10:37:19
そりゃ極論だ。細切れになった村同士の争いが大事に発展すればお上の出番。
320 :
320:2009/02/15(日) 11:25:13
>>316 でも
>>315は強引だが今の感覚で言っている
別に目くじら立てる必要もないんじゃまいか
江戸町奉行も現在の警視総監と都知事と地裁長官などを兼務する
膨大な権限を有していたとも聞く
強引でも現在の機関と比較しないと、その役職の権能が理解しにくいのは確か
321 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:10:49
役目のない下級武士は行政にかかわらないから自衛隊員だな。
地方公務員は名主とか大家とかがそれにあたりそうだな。
発動されないだけで軍役は健在だったから、むしろ自衛隊員が一般行政職を兼ねる、みたいな状態だろうなぁ。
323 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 17:59:30
法務職も兼ねます
324 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 18:13:41
税務署員も外交官も兼ねます。
郵政外務職も兼ねます
326 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:49:23
このなかで万石以上の大名も就任があった御役は
2御側衆、4伏見奉行、6大御番頭の3職でよろしいか?
1高家 1500石高
2御側衆 5000石高
3駿府御城代 持高・役知2000石
4伏見奉行 持高・役料3000俵
5御留守居 5000石高
6大御番頭 5000石高
7御書院番頭 4000石高
8御小姓組番頭 4000石高
9林大学頭 3500石高
10田安殿家老 持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
11一橋殿家老 持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
12清水殿家老 持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
13大目付 3000石高
14町奉行 3000石高
15御勘定奉行 3000石高
>>325 民営化してただの宅配業者になりましたが
何か?
328 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:07:35
駿府城って、城代は大身旗本なのに加番には大名も加わってるんだな。
なんだかちぐはぐだし、老中への出世コースの大坂城代とは随分扱いが
違うな。
329 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:26:03
330 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:32:14
>>328 将軍家の「城代」なんだから大名より上だよ
331 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 22:49:21
>>328 駿府加番や中川加番は持高勤めで役料はなかった。
これに対し、大坂加番は1〜4万石の小大名の任で役高の一倍物成の合力米が与え
られたので藩財政に苦しむ藩は願ってその任を勤めていた。
役料のない駿府加番や中川加番などを勤め一定の評価が得られれば、良い御役
に付けることが期待されていたのだろう。
332 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 23:29:32
>>331 中川加番ではなく中川御番ですね。
中川御番は「中川御番所」「中川御関所」などと言われ、小名木川の
中川口に設けた川の関所を守衛する御番です。
この御番所の守衛役人には、旗本(寄合)の3〜5名が任命され、
5日交代で勤めていた。
この御役を上手く勤めれば、非役の寄合から、諸大夫役の重職が
期待されたのでしょう。
333 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 15:58:07
>>330 駿府城城代は将軍家の城代だから大名より格上なのか?
もっと詳しく説明してください。
334 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 18:19:08
城代は、戦国時代の感覚で言えば城主である武将(のちの大名)と比べればかなり格下。
領主の代理だから大名よりも格上というのはただの言葉遊び。大名も将軍の家臣という
扱いだし、徴税業務を行う代官も本来は領主の代理だから、大名より上なんて論理まで
出てきかねない。
335 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 18:32:07
↑城代も城の規模によってピンキリだけど。一般論として、城代イコール領主なみの権威とは
いかないという意味。
336 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 19:38:46
抽象的だね。
結局、言葉遊びが回答なのかな?
学問板に相応しいレスを望みます。
337 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 19:56:26
物を知らない奴が上から目線というのもいかがなものか。
338 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:55:16
>>330 将軍家の城代とは、天領地にある城郭の守衛者かとも思われるが
天領のなかで城郭がある地は、「大坂城」「駿府城」「二条城」
「甲府城」でしょうか。その長官相当にあたる者は・・
・大坂城は大坂城代(5-6万石以上の譜代大名:四品叙任)
・駿府城は駿府城代(高禄旗本で持高・役知2000石)
・二条城は二条在番(2組の大番頭:5000石)
・甲府勤番支配(高禄旗本で持高・役知1000石)
大概順では、大坂城代は別格として、駿府城代>大番頭(二条在番)>甲府
勤番支配だったかもしれません。
339 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:06:02
>>1 将軍家は大名に対し領地を安堵する証として、将軍の代替わり・藩主の代替わり
毎に、10万石以上には「領知判物」を、また、それ以下には「領知朱印状」
を出していた。
では、旗本にはこのような「領知朱印状」又はこれに代わるものが交付されて
いたのだろうか。
最低でも、交代寄合クラスだと「領知朱印状」くらいは貰っていただろうけど。
340 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:18:13
旗本は代替わりごとの朱印状を出されないとはよく聞くけどね。
341 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:57:58
>>340 旗本には朱印状や宛行状はなく家督相続を認めるのみとの情報も
あるが、特に功績ある場合は、加増もあったろうが、その場合は
何らかの承認書的なものがあったのでは?
俺の母方の祖母方の曾祖母方の高祖父の父親は
内藤氏って旗本で、自称は高遠内藤氏の親類なのだけど、
高遠内藤氏の支流で旗本がいたのかな?
胡散臭い話だよね
それと、維新後も何で金持ちだったのかが不可解
悪さでもしたのかな
344 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:19:46
345 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:22:48
>>341 幕初の安堵状なり加増の通達文書は当然あっただろうね。辞令のようなものか、
進物の目録のごときものか、具体的には知らないけど。
346 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:32:15
おまいら無知すぎるw
347 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:35:10
>>346 知っていても書かなくていいからね。チラシの裏にでも書いてなさい。
特にアイラ系に限る。
350 :
350:2009/02/18(水) 21:16:35
>>331 旗本寄合(非役)の者が、出役・加番として、「中川御番」「駿府加番」
を無事に勤めた際には寄合肝煎を通じて、三番頭や大目付、駿府城代
への就任が期待されていた。
「中川御番」「駿府加番」の他にも、「江戸城門番」「火事場見廻」が出役
としてあったらしい。
酒有り 呑むべし 吾酔ふべし
353 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 23:21:29
354 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 03:12:42
スレ潰しのコテハン、無視できない奴は同罪。
交代寄合には,久能山総門番を世襲で勤める榊原氏がありますよね。
で,交代寄合は老中支配のはずなのに,この久能山総門番は駿府城代支配なっています。
もしかして,久能山総門番になって以降の榊原氏は交代寄合から外れたのですか?
356 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:22:36
老中支配の大名も大坂定番や加番になれば大坂城代支配になるんじゃないの?
>>356 大名の大坂城番や加番と違って,榊原はずっと久能山総門番ですよ・・・
358 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:37:48
大名が必ずしも老中支配でないなら、交代寄合が老中支配でなければならない理由もなかろ。
でもさ,ずっと子々孫々,老中支配ではない大名っていないじゃない
360 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:47:52
子々孫々主君に伺候しない家来がいてたまるか。
361 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:50:25
久能榊原は大名じゃない
362 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:21:21
>>355 交代寄合はご指摘のとおり老中支配であるのに正に、榊原家(久能1800石)は
駿府城代支配です。江戸幕府特有の「例にあらず(例外)」でしょう・・
しかし、この榊原家は姫路藩榊原家の本家筋にあたる由緒ある譜代の臣で
あって、旗本には例が無い、惣領の家督で諸大夫(従5位下)に叙任される
特格の家でした。
363 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 22:30:27
神君自らのご指名で神職になったんだろ
旗本の支配を受け,尚かつ諸大夫に叙任されるされるのは,久能榊原だけですね。
365 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:06:29
喜連川家(5000石)は果たして大名に属していたのか、寄合(旗本)に属して
いたのか。
大名は1万石以上であり、最低でも当主の家督相続時に従五位下 以上を叙任
されていたが、喜連川家の当主は左兵衛督・右兵衛督を私称(幕府了解)していた
に過ぎない。
366 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:20:49
>>356 >>358 旗本は江戸幕府の官僚組織の一員であるため、老中以下特定者の支配となっているけれど、
大名は将軍家に直接支配されている。
老中に支配されていない。各種の手続き上で、老中以下旗本の命令に応じなければならない
場合があるが、それはあくまで将軍家からの言動を上意として伝達しているだけ。
>>366 確かに,旗本以下を差配する幕府の職制に,肝煎,支配,頭等ある。
しかし,大名衆を統制する肝煎,支配,頭はないな。
強いて言えば,老中,若年寄なんだろうけど,大名の頭とは違うような・・・・
368 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:37:48
御上意である!
369 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 00:38:58
ここは評定所であるぞ
370 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 05:30:15
久能榊原氏が交代寄合であることは、江戸から離れた地に屋敷があり、
江戸城に詰間があることで一目瞭然だよな。
371 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 06:39:18
>>370 帝鑑間詰ですね。大名の当主・嫡子に続いて控えたらしい
久能榊原氏は,久能山総門番の役目があるから江戸に参勤できないよな。
せっかく,帝鑑間に詰席もらっても詰めることはないかも。
それとも交代寄合の参勤は,大名の1年毎とか,半年とかとは違っていたんですか。
373 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 23:17:03
>>372 駿河久能榊原家は20家あった「交代寄合表御礼衆」の一つであり
関東のそれは半年交代で他は一年交代で参勤していたのでしょう。
在国には責任者が残されていただろうし。
久能山総門番のお役があっても,留守にして出府参勤はできるか。
長崎見廻役の唐津藩主でも,出府参勤していたのだから。
375 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 00:15:12
戒名は院殿号つかない御家人や旗本もそこそこいてたんかな?
376 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 00:27:01
ほとんどついてないよ
377 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 06:59:13
>>375 大名の場合の法名は四字戒名
旗本や附家老の法名は二字戒名
旗本の場合は「院居士」が多く高禄旗本には「院殿」号が付く場合もあり
院殿大居士などをつける場合もあり、幕府も葬送、葬儀に関しては身分以上
の取り扱いを認めていました。
378 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 07:14:44
>>377 旗本当主が死去した場合などは家督相続の問題が発生しますので
支配先に、跡目願書とともに「死亡届」を出す必要がありまた。
また忌服(喪に服すること)に関しても指示をうけるなど
戒名に関しても、一定の要件はあったのでしょう。
旗本でも当主で諸大夫(従五位下)を勤めたものもいるので
379 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 07:19:37
>>377 いつもどこかのサイトからネタ引っ張って知ったかしてるけどさ
戒名と法名の違いくらい知ってんでしょ
380 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:16:17
>>377 墓碑や菩提寺の位牌や活字になった記録を見たかぎりでは、寄合以上であればたいてい院殿大居士、
知行取りなら院殿居士だったな。それから外れるのはむしろ違和感を感じるくらいだった。
381 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 12:06:23
旗本から大名に昇格した、柳沢吉保、間部詮房、水野忠友、稲葉正明、林忠英
383 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 13:46:14
立花や田沼や大岡が抜けてるぞ
諸大夫になれる旗本の役は何?
385 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:52:22
側近からの昇格なら本郷泰固と平岡道弘もな。
幕末の高直し組も入れたら、蒔田とか本多とか牧野とか。
386 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 16:25:12
吉宗側近で、旗本取りたてを経て大名になった加納と有馬も。
387 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:52:30
若年寄田沼意知、加納久周、太田資愛、米倉昌晴
388 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 21:56:10
若年寄の山城守意知は大名じゃないよ
389 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:08:22
とすると旗本か?
390 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:19:38
大名世子だろ
391 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:21:27
交代寄合で代々諸大夫の家筋って久能の榊原家だけ?
wikiで村岡藩で検索すると、山名家も叙任されてる様に書かれてるけど
どうなのかな…
392 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:25:39
万石以下で若年寄になったのは永井玄蕃頭が初めて
若年寄に役高の制はないが部屋住や隠居が若年寄に任じられた場合は役料が給せられた
慶応三年以降役金四千両、月番には六千両の割りをもって給付
393 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:14:31
御新番組の佐野善左衞門って偉かったの?
394 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 00:33:49
395 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:03:59
蜷川相模守のほうが偉い
396 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:46:01
時代劇なんかでよく言う「30俵三人扶持」ってワーキングプアなんですか?
397 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 02:16:47
低所得
>>396 正社員(武士)の底辺
中級農民よりも貧しい
399 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 07:24:38
>>391 大名や御三家附家老と久能榊原家は最低でも嫡子・惣領の家督時には
諸大夫の叙任を受けている。
しかし、交代寄合いは原則お役に付かない家だから、普通には○○守などの
肩書きはもらえないはず。
例外で個人として
>>96のお役にでも付けば、その身一代に限り名乗ることもでき
ただろうが。
但馬村岡の山名氏がなぜ代々叙任された者がいたのか、やはり不明
だれか詳細おしえてください。
400 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 10:30:58
>>396 家禄が30俵3人扶持(約45俵)である下級旗本が御勘定に拝命されると
御勘定の職禄150俵との差額約105俵は足高で補填されていた。
無役の小普請なら生活も苦しかったろうに。
町奉行所の同心なら付け届けで生活には困らなかっただろう。
30俵3人扶持の全てがまずしかったわけではない。
いかに役得のある御番に付けれたかどうか。
サンピンというのは三両一人扶持と三両一分のどっち何ですか?
402 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 11:50:22
>>399 但馬村岡の山名主水助家(参府六月賜暇當年十分月)は代々叙任されてないよ
小納戸頭取、新番組頭格を歴任した中野清茂の子孫はいないのか?
404 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 12:21:16
町奉行与力同心の一部が御先手組に編入してるけどラッキーだよな
405 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 12:40:15
不浄役人がいちやく名誉の武職だから
406 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 15:29:35
町奉行所与力同心から御先手組に編入されたら付け届けなくなってかえってアンラッキーじゃないの?
407 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 15:51:17
与力は一財産築けたらしいからな
408 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 16:06:53
町奉行所の与力なんて江戸近郊の田畑買いまくりだからな
409 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 17:45:28
410 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 18:07:25
そりゃスゲーな
蔵が建つわけだ
田畑も買うわけだ
仁杉なんとかいう与力の場合、各藩や商家からの付け届けや「自由に使って下さい」と別荘を貸与されるなど、かなり豪華な暮らしをおくれていたのだ
412 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 18:48:15
>>411 表坊主も付け届けが多かった御役です。
与力同心は町方から
表坊主は大名や高級旗本から
413 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 18:52:51
町奉行の与力も一つじゃないが…
414 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:15:42
一つ?はぁ?
415 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:26:23
南の与力仁杉五朗左衞門は市中御救米取扱掛を勤めてていた時に町方御用達仙波太郎兵衞ほか二人から反物などを受け取った。
金子入りの菓子箱も受け取ったが後に返却した。たださ上役には報告しなかった。
仁杉は深川佐賀町の又兵衞に一万両の為替を作らせ二百両を受け取った。
416 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 20:39:18
しかも仁杉五朗左衞門の息子で与力見習の鹿之助は放蕩三昧で無断で府内を出て女の家に長期滞在していた。
五朗左衞門は部下の同心佐久間伝蔵を遣わして連れ戻した。
当人は病死していたが死罪同様の旨言い渡しが評定所よりあった。
とばっちりを食った仁杉の上役の後任の矢部駿河守は改役他家預け
417 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:20:13
江戸での大名・旗本の当主は自邸以外の外泊は出来ません。
もし、幕府よりの急使があって当主不在が露見すれば無事にはすみません。
日帰りで郊外の下屋敷に行って夕立にあって帰れなくなれば一大事。
また、御番の無断欠勤(4-5日間)は家禄減封のうえ閉門の事例があるなど
現代社会では考えられない厳しい掟がありました。
>416の場合は、与力見習の鹿之助が「無断の長期欠勤」と「届出の自邸を
長期不在」にした重い罪が指摘されたのでしょう。
矢部駿河守が罷免されたのは鳥居耀蔵の策謀によるものかもしれません。
真相は不明かと
418 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:29:12
鳥居耀蔵の陰謀というより水野忠邦の意を受けた目付の鳥居が絵を描いたというべきか
町奉行の重職にあったものが家名断絶その身他家預けの重罰を課せられた例は珍しいかな
のちに鳥居も同じ目にあうんだけど
419 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:32:46
仁杉って家は幕末まで町奉行与力として何家か残ってるね
420 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 07:06:26
>>412 表坊主になぜ「付届け」があったのか。
江戸城内では大名や高級旗本は自身の家臣の援助なしで将軍家への儀礼を行う
必要があった。
儀礼社会の江戸城内で非礼やしくじりは取り返しのつかないこととなります。
服装や詰間などにも神経を使わなければならず、ゆっくりと休憩する場所も
ありません。
各大名たちは懇意の表坊主を数名おいておいて、盆暮れに付け届けを行い
迷子にならないよう、しくじりがないよう、気を使いました。
表坊主たちは江戸城の慣習、儀礼に精通していたため表坊主の世話を受け
ないとなにもできない状態でした。
421 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 08:37:26
中奥番はどうよ?
422 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 19:32:31
中奥番は将軍側近のエリート家臣たち
毎日登城しているため、奥坊主の世話になるほど
まいごやしくじりはなかったのではないでしょうか。
信濃国中央藩の松平河内守長行の場合は、隣国の上州高崎松平右京大夫輝高が老中を辞退した後、
424 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 12:24:43
静かに目を閉じた。そして大きく息を吸って、
425 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:44:39
吐いて、
426 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:46:28
また酒をあおった。
,、 _ _ `ヽ∠⌒ , ..-;:;´:;:;:;:;:;:;ヽ
i:;:;:;:;:;:;:;:;`,.、,. - ´ ̄_ __ ̄ <:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:; /
i:;:;:;:;:;:;:;:;:/ /ム、`ヽ ヾ:;:;:;:;:;:;:;:;:/
i:;:;:;:;:;:/ " ´~ ベ、 _ヽ_ ヽ :;:;:;:;/
. !;:;:/ ,ヘr、 \ く::::::ヘ ヽ:;:;/
V ./ ,./ ! {シムヽ \ ヽ::::::ヽ Y
. / / / l ! ハ ヽヽ._Lゝ- ._ヾ ̄ヽ ! /
/ / | | l ! l __ Yヽ! \jヽ! ト、 ! ─‐
l !| | | ヽ Xヘ __ | レ' | \
lハ l l i ∧.ハ ィ" ̄`´| j リ ☆
{ ヽ、ハ ヽヽ_ハ ,,ィ== _ ::::::: 才 / ,,,/,,ャ≠┐ にゃーん♪
ヾ /゙ ヽ.ヾ′:::: ` < ヽ ,イレツ' / ☆
/、 ヽ ',ヘ.>,,, __-'/y ⌒ヾ、=‐ ヘ
( ヽ\ ヽr'`/ぐ__ ィr= j .,イ / , \,,_,,_j
ヘ_>ァ´(_∧ |//´ ゝ=〈 {_/ / / ∧
/ / `! / / .小、 `(ヌ)´ >,ノヽ ィ __ノヽヽ、__
| ! // !>≧gニオ { ヽ`´!、 | } `ヽ= 、
<二二/ | 〃从》ヽ| ∧ ヽj ハ ! /ミヽ \ヽ
|ヽ / i|《彳k〃゙│ ヽ `┴ノイ ヽヽ ヘヽ
| 〉〃 / `ー<!' | ハ ヽハ !
| / ヽ ノ ヽ / ! ノノヽノ リ
\ / ノ ,ハ イ /
`ー‐-イ \ ∧/
/ `ー<_/ヽ
428 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 06:39:58
>>391 因幡村岡の交代寄合の山名氏には、『従五位上』という妙な官位を得ている
ものが数名みられます。
幕府の武家においては、通例では「従五位下」が基準
他サイトの情報が混乱しているのか、真実なのか。
ご存知の方お教えください。
429 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 19:38:37
最上氏も従五位上や従四位の例がある
山名氏、最上氏とも屋形号を許されていることと関係するんじゃね
喜連川氏が諸公とされるのも御所号と関係するように思う
長宗我部氏じゃ高家は無理でもせめて大身旗本として残して欲しかった。
盛親は隠居で当たり前だから、その息子に家督を継がせて。
それより何より大内氏。あれは改易されたんじゃないけど、
高家の資格は十分にある。男系は大友氏系か山口重政のそれでいいのだし。
維新時の薩長もだが、徳川にも血も涙も無い。
徳川といい薩長といい、こういった連中がいつの世でも・・・
正直者が馬鹿を見ず、弱い者が泣かされない世を俺が人類史上初めて創る!
431 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 14:26:38
長宗我部が旗本として残ったら?
バカにしているのか?
右大臣家に召されて大坂入城して討ち滅んだからかっこいいんじゃないか!
>>431 かっこいいとかの問題じゃなくて・・・
春日局(お福)に泣き付いてでもどうにかすべきだった。
長宗我部家は盛親だけのもんじゃないのだから。
433 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 15:24:31
>>431 おまえさー、言葉の使い方が悪いよ。
出来の悪い少年みたいじゃないか。
ネットでネタをコピペして他に博識ぶるのもいいが、おまえだけのスレじゃないことは肝に命じてくれ。
念のために言っておくが、おまえが貼り付けてるものなんて何年も前に他レスで終わってるよ。
434 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:48:43
435 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 18:10:11
ファビョるのは舞踊だけでお腹いっぱい
436 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 18:54:26
病身舞は世界遺産に登録すべき
437 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 21:41:34
438 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 10:58:59
439 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 19:33:41
御勘定が一番かっこいい
>>430 公爵家として残してやったのに血も涙も無いって・・・
441 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 20:59:56
>>440 通常なら駿府夏の陣みたいに攻め滅ぼされても文句言えない立場だったのにね>徳川
442 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:30:36
静岡のトクセン家に新政府に逆らう意思がないからあり得ないし事実そうならなかったわけで
443 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 21:41:00
>>439 御庭番もかっこいいです
◇旗本(御目見以上)
・両番格御庭番(二百俵高)
・小十人格御庭番(百俵高)
◇御家人(御目見以下)
・添番御庭番(百俵高)
・添番並御庭番(五十俵高)
・伊賀御庭番
御庭番家筋の最大のお勤めである「遠国御用」は将軍→(御用取次)→御庭番
で命じられた。
>>442 実際足利義昭だって殺されはしなかったしな。
秀頼も別に殺すつもりではなかった。刃向ったからころされた。
445 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 00:08:01
>>396 今で言えば公務員の一番平である係員といったとこだと思われ。
446 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:02:57
100石の旗本と400石の御家人どっちが上?
447 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:13:20
拝謁できる旗本が上
ヤマザキ、バカ殿盛親を撃て!
ヤマザキ、バカ殿容保を撃て!
と長宗我部盛親と松平容保にパチンコ玉を発射してきたよ。
バカ殿のせいで俺たちはとんでもない苦労させられたからな。
>>440、
>>441 眠てぇこと言ってんじゃねぇw
おめぇさんたち文盲けぇ?w
レスすんなら人のレスちゃんと読んでからしろってんでぇ。
薩長がトクセン宗家に対して、と書いてあっかよ?
450 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 04:12:04
スレ潰しのコテハンはスルー。
駿府城と70万石があるんなら、
大奥廃止しなくても、規模を縮小して移転できたんじゃない?
亀之助様のためのミニ大奥を駿府城に作るべきだったろ。
さすがに元旗本が切れるだろ
453 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 13:23:14
書物奉行
454 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 06:57:33
最強の旗本
↓
御側御用取次
>>438 山口重政(後の牛久山口氏、子孫は山口子爵家)とその親父さんが
尾張出身ってことは事実だけど、領地のあった尾張に周防から移住したって
ことになってるよね?
実は尾張の山口さんに過ぎず、大内支流の山口氏とは無縁だったのかな?
スレ違い、スマソ
456 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 21:35:42
知行取りの御家人って領民からなんて呼ばれてたの?
殿様?
「御前」
458 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 22:47:18
御前様
殿様
旦那様
時代劇での悪役大身旗本は「御前」が多いね
御家人は旦那様で旗本は殿様じゃないの?
川路聖謨・井上清直あたりは兄弟で養子に行って、下級吏僚から諸大夫まで上り詰めてるけど、
稀有な例だよなぁ。
根岸鎮衛も150俵から累進して1000石の堂々たる旗本に出世、しかも79で亡くなるまで町奉行に
長期在職してるし幸運な人物だな。
462 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 16:13:35
川路の場合
支配勘定出役→支配勘定→御勘定→勘定組頭→(兼)寺社奉行吟味物調役→勘定吟味役→佐渡奉行→小普請奉行→普請奉行→奈良奉行→大坂東町奉行→勘定奉行→西丸留守居→免職、差控→隠居→外国奉行
463 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 16:44:43
>>462 > 川路の場合
>
> 支配勘定出役→支配勘定→御勘定→勘定組頭→(兼)寺社奉行吟味物調役→勘定吟味役→佐渡奉行→小普請奉行→普請奉行→奈良奉行→大坂東町奉行→勘定奉行→西丸留守居→免職、差控→隠居→外国奉行→自殺
464 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 17:34:20
自殺の前に「脳卒中で半身不随」を入れなきゃダメだよ。それも、計三回起こって
リハビリで回復したのを台無しどころかより悪い状態になってる。それで幕府が
無くなれば、死にたくもなるだろう
465 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:06:31
氷川清話 「川路は取立者だから人が悪くてね。こすくてね」
466 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:25:56
連続
467 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:11:33
>>465 多分近親憎悪の類だなw
川路は賄賂や金かけたもてなしを嫌うので有名だったが、勝も似たようなキャラか?
468 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:21:49
川路は勝のようなホラ吹きではない
469 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 19:57:14
がっかり
470 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 20:01:47
勝は幼少時に金玉を犬にかじられた。
川路は毎日荒塩で金玉を揉むのを健康法としていた。それが周囲にも知れ渡り、
出張の際も風呂場には塩が山盛りにされていたりして辟易した。
金玉エピソードが共通だから、似た者同士。
471 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 20:14:22
>>462 川路の場合
支配勘定出役(兼)評定所書物方出役→支配勘定(兼)評定所留役助→評定所留役【御目見以上】
→寺社奉行吟味物調役→勘定留役→寺社奉行吟味物調役→勘定組頭→勘定吟味役【布衣】
→佐渡奉行→小普請奉行【従五位下叙任】→普請奉行→奈良奉行→大坂町奉行→公事方勘定奉行
→同海防掛→ロシア全権大使(兼)勘定奉行勝手掛→同蕃所翻訳用掛
→同関東川筋定掛(兼)諸国川普請取締→同外国貿易取調掛→西丸留守居役→御役御免隠居差控
→外国奉行(兼)勘定奉行
根岸の例じゃないが、働けるうちは70、80代でも顕職に抜擢する江戸時代はすごかったな。
473 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:24:54
それだけ人が居なかったんだろ
元気なうちは無理に隠居を強いなかったってことだろ。定年もないし。
70〜90代の当主で御役に就いてた者も中にはいたようだし。主に閑職で。
いつまでも家督を継げない嫡子はたまったもんじゃないだろうけどw
475 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:46:39
部屋住や隠居でも御役には就けるけどね
476 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:05:46
海防掛の岩瀬忠震がそうだね
477 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:10:26
>>475 部屋住惣領が当主の父親とともに御役に付くことは多々あったろう思うけど
当主の息子とともに、隠居の親父が御役ってのも事例あったの?
教えて
江戸城で5〜6人を殺傷した松平なんとかいう旗本の場合は父親が右大将付きの立場を活用して息子を番方入りさせたケースだった気がする
岩瀬の部屋からの登用は親の引きではなくて昌平黌での本人の実力だな
>461にある根岸肥前守は、子どころか孫までが役についたとかいう話ですね。
大層うらやまれたようですが。
481 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 05:33:03
>>478 西丸小納戸の松平頼母(家禄300俵,尼崎松平候末流)の惣領で
西丸書院番士の松平外記が殿中刃傷事件を起した件ですね。
普通に代々大番筋の家柄である者であっても、優秀な当主が布衣(目付、使番など)
に抜擢されれば惣領も両番(書院番、小姓組)に引き上げられるのはよくあるケース
で、松平外記のそれがレアケースであったということではないでしょう。
482 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 05:40:09
>>481 訂正
481は番筋が親の蔭で変更されるということを言っているのではなく、番入りを多くの
小普請の者が待命しているのに、重役者の惣領を横からするっと番入りさせるという
ことを言っているのですね。
神尾さんかわいそうです(´;ω;`)
484 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:28:51
番方は暇だから新人いじめがひどかったんだよな
弁当に糞詰められりゃ外記だって頭に来るわ
だからといって殿中で人を殺せば自分はともかく
一族にまで類が及ぶことくらいわかりそうなものだが
485 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 15:39:32
名を上げてこそ武士だから、恥辱をそそぐか家を保つか、いずれを優先させるべきかは
本人が決めること。どうせ松平で小旗本なら一蓮托生といえるような家臣もいないし。
486 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:12:06
大岡政談「首」の世界だね
487 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:56:01
>>483 神尾五郎三郎 30歳 家禄1500石
外記に後ろから帯下を切り下げらり、二階より落ちて無刀で御殿内に逃げ込み
武士としてあるまじき無様であった。そのため、改易絶家
>>484 この刃傷事件の判決は、本人外記が既に切腹自裁したため、当主である父頼母
の家名等が争点となりましたが、西丸小納戸を御役御免で寄合入りで済まされ
ました。しかも差し控えには及ばずという寛大な処分でした。
普通の発想なら小普請入りでしょうが、部屋住み惣領の起した事件なので寄合入
りとされたのでしょう。そして、家名も存続され外記の長男が家督を相続したようです。
488 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 20:26:09
恥辱を雪げば称讃されるのがチョンマゲ集団の美意識。さもありなん。
新参者が同役の先任に饗応するときに出す、鈴木越後とか法外な値だったらしいね。
いくら江戸時代といっても、たかが菓子がなんでそんなに高かったのか理解できんなw
490 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 21:46:49
>>471 佐々木顕発の場合
中級旗本の奉公人→御徒(御家人株購入で養子入り)→支配勘定→勘定評定所留役
(御目見以上)→勘定組頭→勘定吟味役(布衣)→奈良奉行(従五位下)→
大坂町奉行→小普請奉行→勘定奉行→御咎差控(井伊直弼に反抗)→復職:徒頭→
作事奉行→町奉行→西丸留守居→町奉行→外国奉行→御役御免寄合
491 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 01:09:43
庶民から直参になった人には武家奉公人あがりが多いね
492 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 01:31:22
跡部の場合
目付→駿府町奉行→堺奉行→大坂東町奉行→大目付→勘定奉行→南町奉行→大目玉→北町奉行→一番組大番→小普請支配→留守居→側衆→清水支配→側衆上座→若年寄→菊間縁詰
その神尾三郎兵衛(1500石、30歳)はやはり、元文・寛保期の勘定奉行神尾若州春央の分家とかなんでしょうか?
494 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 06:51:22
>>493 勘定奉行の神尾若州春央の通称も五郎三郎なので
外記の刃傷事件で絶家になった、神尾家は分家ではなく、その家かと・・
495 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 07:01:10
>>492 勘定奉行の跡部が参勤交代途上の仙台候を本陣から追い出したのは有名な話
これも水野忠邦の実弟であったおごりからか
496 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:00:46
佐々木顕発や川路聖謨は、御家人(御目見以下)から従五位下の諸大夫に叙任され
幕末動乱期ではあったが政局に参加した逸材であった
対する跡部良弼もそれならの資質はあったのかもしれないが、水野忠邦の実弟で
あり高級旗本への養子入りで兄の七光り的な振る舞いや態度もあった
497 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:13:19
跡部さんも、大塩平八砲に頭を砕かれていればもっと有名になっただろうに。
498 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 10:26:30
いや、もう十分有名だから
499 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 19:30:39
そうかなあ。司馬遼をたまに読む程度の歴史ファンなら知らなさそうだけど。
>>499 司馬遷を原語で読めるなんて相当な歴史マニアだろう!
501 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 06:24:26
他にも一杯いる有名な旗本たち
大久保彦左衛門、石谷貞清、水野十郎左衛門、吉良上野介、浅野長広、大岡忠相(後に諸候に)、
青木昆陽、新井白石、室 鳩巣、長谷川平蔵、林述斉、佐野政言、鳥居耀蔵、遠山左衛門尉、
大田南畝、根岸肥前守、岩瀬忠震、川路聖謨、小栗忠順、ジョン万次郎、栗本鋤雲、榎本武揚、
勝海舟、山岡鉄舟 などなど
502 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 08:03:03
大田南畝は御家人だよ
江川英龍をお忘れですぞ
曲渕甲斐守
矢部駿河守
初鹿野河内守
榊原主計頭
あと大久保一翁も有名かな
505 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:29:43
関東郡代の伊奈忠治も・・
506 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:41:34
地方系旗本となれば田中休丘、笠蓑之介、羽倉外記、西垣蔵太、塩屋大四郎、林鶴稜など
羽倉が抜きん出てるけどね
通名 蒲池さんは?
508 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 23:12:18
509 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 00:22:01
加賀爪民部!
510 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 06:39:25
≪異例の出世を遂げた者≫
最終は諸候となった者もその過程では旗本となっているため掲載しました。
■将軍側近(小姓)からの成り上がり者
◇柳沢吉保
甲府藩小姓(530石)→幕府小納戸→幕府側用人→大老格(15万石)→甲府藩主(15万石)
◇田沼意次
将軍家重小姓(600石)→御側御用御取次→側用人→老中(5万7千石)→
罷免減封家財没収(孫が1万石で家督)
◇間部詮房
猿楽師→甲府藩用人・小姓(150俵10人扶持)→西丸奥番頭(1500石)→
西丸側衆→(3000石)→若年寄格→老中格→側用人(5万石)→越後村上藩(5万石)
■将軍側近(小姓)でなかった者
◇大岡忠相
書院番士(1920石)→徒頭→使番→目付→山田奉行→普請奉行→町奉行→寺社奉行→
兼奏者番→三河西大平藩主(1万石)
◇川路聖謨
支配勘定出役(兼)評定所書物方出役→ → →外国奉行(兼)勘定奉行
>>471関係
◇佐々木顕発
中級旗本の奉公人→ → → →外国奉行
>>490関係
511 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 07:34:46
福知山の朽木とか会津・飯野の保科とかもかなりのもの。
御家人から出世する場合、3、40代で勘定吟味役(布衣)に抜擢されるかが登竜門だったのかな。
513 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 20:30:21
夢酔独言を読むと小吉は10歳で乗馬の稽古を始めたとあるから
勝家は騎馬が許されていたと思われるが、息子の海舟は小普請組
から小十人組に移ってる。小十人って徒だよな。不思議だ。
514 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:24:55
徒ではない
うん
516 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:45:59
五番方最階位の小十人は、将軍に最も近い歩兵隊として位置づけられていた。
御目見得以下の御徒とは異なり、ある意味地位の高い歩兵ということでしょうか。
517 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:53:23
徒は抱え席の御家人だよ
518 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 22:54:31
雇従人
519 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 06:40:00
とある中下級旗本の者が一代で出世し、重職を勤め、足高をもって布衣から
諸大夫になれば、○○守を職任期中は名乗れていただろうが、隠居後はどのよう
な名乗りになったのだろうか。
役に対しての叙任なので隠居後、はずされてしまうのか
それとも死ぬまで当人に限り名乗れたのだろうか。
先手組・百人組・御徒・天守番・富士見宝蔵番あたりは番方とは言わない?役方じゃないだろうけど
五番方じゃないだけで番方は番方なのかな。愚問だったかも。
番方
523 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:01:55
番方…武役
役方…文官
五番方…小姓組、書院番、新番、大番、小十人組
番入り…特に非役の小普請の者(御目見以上)が五番方に入り就職すること
524 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:05:37
ちょいと話が変わるが会津戦争では新政府軍の侵攻が早く、多くの武家の婦女子が自殺したけど
当時の武士なら同じ状況に追い込まれたら他の藩士でも自殺するようなものです?
うん
526 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:36:46
高級旗本(3000石以上)以下の旗本は必ず家としての番筋があり、五番方の
いずれかに番入りすることとなる。
しかし、番入りせずに直に役方としての代官や小納戸に何代か続けて着任する
というレアケースもある。
吉宗が紀州藩より家臣を連れてきて幕臣になった者で、当初から小納戸に入り
本来は両番格(小姓組、書院番)であることを見失ってしまうこともあった。
寄合クラスは最後は番頭・駿府城代等に就くんだろうけど、どういうコースで出世したんだろう?
寄合3千石を超える大身旗本は番方入りしない?
528 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 05:58:47
寄合3000石以上の大身にあっては、「江戸城門番」「火事場見廻」「駿府加番」
「中川御番」などの無報酬の御役を務めて、実績がみとめられれば寄合肝煎等の
推挙により、最後には「小普請組支配」「三番頭」「留守居」「御側衆」
「駿府城代」など重職への就任が見込まれていたらしい。
>>523 番入り…特に非役の小普請の者(御目見以上)が五番方に入り就職すること
いまの時代でも、当番・非番などは この 番 という言葉は意味を変えてではあるが使われ続けている。
深いぃ〜話かも
寄合は格が高すぎて番方入りでは役不足ってことなのか・・・
531 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:45:33
寄合は武鑑にも載ってるからね
その他の幕臣は御役に就かなければ載らない
120石の交代寄合,岩松家って,諸侯・旗本の中でどういう扱いだったんだろ?
先祖のように,喜連川氏に対し,一方的なライバル真を燃やしていたのだろうか?
それとも,猫絵の売れっ子画伯として忙しかったのだろうか・・・・
並みの旗本であれば、一旦は家筋の御番に数年間の待機の後に就職し、実績を得た後に、相当の御役(文官等)につくことができた
岩松の120石って知行地も相当狭いよね。
仮に1村の収穫量が500〜1000石として、その4〜8分の1か・・・
交代寄合だから知行地に陣屋を構えて住んだのだろうけど、殿様が
全領民の顔と名前を知っていてもおかしくないレベルかもしれない?
アットホームな雰囲気でいいじゃん
536 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:44:08
岩松様は自分で描いた猫の絵を売って副収入を稼いだんだよ
537 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:17:41
岩松って経済的には庄屋以下、中級自作農くらいじゃね?
>>536 阿波藩の平島公方(100石)も、蛇避けの札を売りさばいて副業してたものね
岩松新田が,元祖「猫男爵」だな。
小普請御家人クラスだと、ろくに供も雇えないから組頭の元へも
なかなか顔を出せず、悪循環で役に就けなかったとか読んだ気がするけど
下層の御家人でも一人で出歩くわけにはいかなかったんだろうか?
旗本三浦按針(ウィリアム・アダムス)家って,幕末まで続いたのでしょうか?
紅毛碧眼の旗本の子孫は,どんな御役に就いたのだろう・・・・・
542 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:37:59
>>540 外出時は中間1人くらいは伴うのが普通だな
外出するための供がない
544 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:48:00
供揃いもなければお忍びで外出しかできないわけだ
545 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 00:36:42
喜連川だの由良は秀吉が取り立てた。
江戸時代、世良田(得川)遺臣、正田隼人家の方が優遇されてた。
岩松は関東入部で20石、新田姓名乗ら無くなって100石加増。
偽新田徳川将軍なんぞ何の価値も無いが新田宗家岩松は養蚕地域
では神格化されていた。カイコのサナギ鼠が好んで喰うから。
それが猫絵。
546 :
【^▽^】福留退助 ◆.5DV4fMpf6 :2009/03/15(日) 01:25:07
おいら旗本・御家人なんざ興味ねぇやなぁ。
ここは土佐の武士を語るスレに変わったぜ。
長宗我部時代のも山内時代のも大歓迎でぇ!
547 :
世界@名無史さん:2009/03/15(日) 01:30:36
英国貴族なんか落ちぶれると下宿住まい
来客時はアルバイトの執事を雇う
闇奉行のおいらにゃ執事なんざいらねぇよっ
大番頭格の代貸と用心棒のセンセイはいるがねぇ
ちけぇうちに浅草の旦那(弾左衛門さん)に挨拶に行かねぇとな
550 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 02:13:05
551 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 02:14:29
まちがえた
>>545 正田隼人は御目見以下だけど
>>546 土佐の田舎侍は別スレ行けや。
>>549 神田の江戸っ子なら浅草じゃ無くてエンコって呼べやw
>>552 言い忘れちまったが、公園もねぇじでぇに「えんこ」って言うけぇ?
おいら御一新めぇのもんだからなぁ
555 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 14:54:47
>>554 明治時代のごろつきかと思ったぜ山谷堀でいいよw
次がないなら他のスレ、お薦め、山谷とか野被差別部落好きなら一昨日来やがれw
いい忘れたけれど乾の旦那にはお世話になったよw
557 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 16:58:36
+*/// 女性監禁事件/女子高生コンクリート詰め殺人事件 //**+++/
横山祐史(宮野裕史)と湊伸治(現在は改姓?)の2人の少年は、夜8時、工場の
アルバイト帰りの女子高生を誘拐、40日間監禁し暴行殺害した。湊の家族も監禁を
知っており、兄=湊恒治(S47年1月21日生)は彼女に時たま食パン1枚を与えた。
リンチには神作譲(旧姓は小倉)、渡邊恭史、相田孝一(旧姓は垣東)、岩井哲夫らが
加わり、陰毛を剃り、音楽に合わせ踊りながら服を脱がせ、その後に暴行した。
逃げようとしたり反抗すれば、手足に揮発油を塗り火を着け焼いた。
彼女は「いっそのこと殺してよ」と泣いて頼んでいた。東京高裁のHPでは、性器を灰皿
代わりにしたことが掲載されている。遺体は栄養失調で、性器と肛門にドリンク瓶が
挿入されていた。主犯以外は6年半以下服役し仮出所し、このほか20件以上の婦女暴行
で起訴された主犯も2年前仮出所した。
ttp://wwww8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm 横山祐史(宮野裕史):S45年4月30日生 身長160cm
湊 伸治:S47年12月16日生 H18年ヨーロッパ女性と結婚、娘1人?
神作 譲(旧姓は小倉):S46年5月11日生 身長189cm
渡邊恭史:S46年12月18日生 母=渡邊ヤス
相田孝一(旧姓は垣東):S46年生 娘2人、長女は妻の連れ子(今年3月中学卒業
おいら土佐様(容堂公)たぁ親子の杯交わした仲だぜ
土佐様はおれっちの親分
乾の旦那たぁきょうでぇ分よっ
あの旦那の盛組てーのは威勢のいいのが揃っててねぇ
片岡の旦那って所かなぁ、まぁ俺にも勤皇党の血が流れてるけど。
幕臣の血の方が濃いし江戸の町とこのスレ荒らすのはやめようぜw
560 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:20:11
土佐山内にも分家の旗本がいるが官軍が江戸に迫っているときどうしていたのか動向が気になるな
>>560 そうだな,薩長土肥の各大名家,特に薩摩,長州には公儀旗本になった分家はいなかったのかな?
親戚筋の旗本は大勢いただだろうね
夫妻で自決したよ、旗本の山内家。
ただ、俺は記憶は曖昧だが、別のもう一家なのかどうか、
土佐藩下士崩れの用人に説得されて抵抗や自決をやめたとの話も聞いた憶えがある。
近々調べなおしてみる。
土佐だけじゃなくて、他の討幕諸藩も旗本の分家があったから、それらの家は複雑だったろうなぁ。
訂正
○>俺の記憶
×>俺は記憶
スコッチボトル3本と清酒二升空けちまってね(苦笑)
あっしゃ容堂公の享年よりわけぇが、この分じゃあの方より早く逝くだろうな。
565 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:04:03
抱席の新規番代わりには何か絶対的な要件とかあるの?
意思
567 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 00:55:08
旗本出身で一番出世したのは誰? 勝海舟?
568 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:08:15
勝は若年寄になってないので幕藩体制下では一番と言えないが
明治政府になってから江戸時代なら老中に当たる参議に任じた
そういう意味では一番出世したと言える
569 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 01:19:54
立花宗茂
柳沢吉保
喜多見若狭守
大岡越前守忠相
大岡出雲守忠光
田沼主殿頭意次
勝とか最幕末の出世は非常時だから、平時の出世と同列に比べるのは、あまりそぐわないんじゃね?
書院番頭時代の立花も旗本だったのかな・・・
柳沢や田沼もまあすごいけど、能吏としての実績によって、最晩年にようやっと大名に達した
大岡越前はいぶし銀って感じがするw
571 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 12:27:01
官位からすれば勝だろうな
従二位伯爵くらいじゃなかったっけ
573 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:06:36
この分だと、旗本から大名に昇進する為には、
将軍の側近役として登用・重用されるのが一番の早道かな?
574 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:16:18
足高の制の採用で、
これ以降の、大目付・町奉行・勘定奉行の
役方のトップに、500石クラスの旗本が就任する割合が、多数を占めるようになったな。
ところで、足高の制が適用されている間の
軍役や供揃え等は、どういう扱いになってたんかな?
自身の本来の石高相当の軍役や供揃えだったんかな?
575 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:17:25
早道というより、それ以外の例があまりない。
町・勘定・普請奉行とかより長崎奉行の方が部下も多いし、蓄財も出来るし、仕事も楽しそうw
578 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:42:22
いや榎本武揚だろ。
579 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 17:02:47
維新後に出世した人限定か?
580 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 17:31:07
>576 長崎奉行を2,3年もやれば、
一生遊んで暮らせる程の財産を築く事が出来るらしいからな。
長崎奉行に就任した旗本のその後の当主達は、
余裕たっぷりの生活を堪能していたのだろうか?
581 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 19:14:36
蓄財なら木村摂津守だよ
咸臨丸は木村のポケットマネーで渡航したようなもの
木村家は三百石だが浜御殿奉行を世襲したので
薬草栽培や養魚で巨万の富を築いた
582 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 20:37:20
御家人の役職で、美味しい役職って、町与力や町同心?の他にどんな役職があるん?
>581
父親の代までで蓄えた金を使っただけで、摂津守本人は見入りのいい
役目にはついていないね。
584 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 22:17:41
蔵書は半端なかったらしいね
諸大夫(従五位下)は朝廷による正式の官位だけど、布衣っていうのはどんな位置づけ?
よく布衣は6位相当とか書かれてるけど正式な位階ではないようだし、布衣の御役につくと、
服の布衣を着られる以外に何か特権特典があったんだろうか?
586 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 02:33:42
代官などが布衣を着た肖像画を残すほど名誉なこと
なるほど。布衣を着れること自体一種のステータスだったってことか・・・
でも代官は布衣じゃなくない?郡代は布衣だけど。
旗本は諸大夫の御役になると、叙位・守名乗りの他にも何かそれまでと違いはあったのかな?
589 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:14:54
武家に6位以下の叙任はないから朝廷の6位相当の格式を幕府が勝手に与えただけだろ?
590 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:20:31
>>551 >正田隼人は御目見以下だけど
正田隼人は徳川郷の支配者(満徳寺の寺領抜いても旗本並の石高)で
将軍にも謁見できた。
だから優遇されてるんだろ。
御代官でも功労のあった者は布衣の格になってる
592 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:44:31
代官で布意姿の肖像画って寺西蔵太しか思いつかないな
田沼意次とか松平定信や新井白石の肖像画は布意じゃなくて狩衣だよね?
593 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:09:27
新井白石のは無紋ぽいから布衣かも?
594 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:41:25
新井白石が着てるのは水干では?
595 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 13:30:13
平田篤胤が着てるのと同じだな
596 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 00:36:47
勝と榎本は過小評価
597 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 01:39:01
寺西修だったらビバリーヒルズに住んでるよ。
綿シャツに革パンをよく合わせてる。
598 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:35:51
599 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:11:20
600 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 22:43:58
布衣って神主さんみたいなかっこだね
601 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 00:16:29
でも布衣は無紋だからな
602 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 21:17:17
上級御家人の盛装は素襖ですか?
603 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 22:04:21
六尺褌
熨斗目麻裃じゃねーの?
605 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 20:44:16
国立公文書館で旗本御家人展やってるぞ!!
606 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 23:30:44
家臣を抱えている旗本・後家人は何石取りぐらいから?
家臣ってどの程度?
下男?中間?足軽?
下男なら同心で養ってるし
200石旗本の若党
610 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 07:41:56
布衣なんて官位に直したら無位無官の雑夫の衣服だろ。
611 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 09:21:52
禁裏と柳営は別世界
612 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:34:14
布衣役は今の感覚でいうと、省庁の部課長級ってところかな?
指定職(諸大夫)には届かないまでも、現場の要職って感じで…
通常はキャリアのポストだけど、たまに能吏なノンキャリが就くところ
なんかも似てるようなw
幕臣も公務員みたいなもんだから、当たらずとも遠からずじゃね?w
全然ちがう
>>614 否定するならするで、どういう点が全然違うのか書けよw
○×寺で賭場を仕切らせていただいている胴元の武蔵屋傳蔵でござんす。
あっしのもとにゃ同心格の御家人の四男や徒格の陪臣崩れの先生がおりやすぜ。
それと、大番頭格の代頭ゃ八王子千人同心の三男で、元はあっしの先生でやした。
先生方とその代貸のおかげで異人からスミス&ウェッソンとかいう短筒を50丁手にいれやして、
こいつぁすげの何のべらぼうでさぁ。長ドスの時代じゃありやぁせんぜ。
浅草の旦那(弾左衛門さん)にも一丁進呈しやした。
あっしゃ駿府のお貸元(安東文吉)と同じ二足の草鞋でさぁ。
江戸の岡っ引きゃ全員あっしの手下(てか)で、日本一首繋ぎ親分とかと世間サマにゃ言われておりやすが、
二人の浅草の旦那(を組の旦那と弾左衛門さん)にゃ頭上がんねぇ。
>>615 誰が書くかボケ!テメエで調べろ
全然違う
否定する奴の方に挙証論証の責任があるだろうよwwwww
論理立てて説明せず見解だけ言うのは小学生の算数と一緒。
以後、相手にしません。
>>608 同心というのは町同心?
役得のない番方の同心でも下男雇えたのかな・・・
無役の同心じゃ下男は雇えないんジャマイカ?
足軽だから禄が少な過ぎて。
622 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 11:53:39
無役の同心ってなんだよ?
中間で年2両の給金だから,小物ならもっと安く雇えるでしょう。
でも,武士身分の同心もいたかもしれん。
が,同心は基本的に武士身分じゃなく足軽だから,中間,小物はいなくても構わないんじゃないか。
足軽は武士ではないが、中間はその足軽よりも下だよ。
625 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 19:50:54
御先手組の同心は下男雇ってるよ
626 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 20:18:46
同心は格式上、下男1人を従えないと出勤できない。与力なら4-5人かな
>>620 雇わないと格好つかないんじゃ
外出できない
お役を務められない
628 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:09:06
誤解している人が多いが
諸組同心=足軽ではない
>>628 え,諸組同心は,御家人役ではなく旗本役ってことですか?
それとも,諸組同心は中間,小物クラスの役ってことですか?
630 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:04:15
足軽は足軽で同心とは別に存在している
631 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:10:17
戦国時代の同心と同じだってこと?
632 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:19:24
幕府に足軽という名称の武士はいないんじゃない?
同心、御徒と言われていた気がする
633 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:24:03
徒士は士分、同心は足軽身分なのかね?
それとも幕府には士分を持たない足軽はいなかったのかね?
634 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:37:21
足軽はいるだろ
直雇じゃないだけ
旗本御家人の軍役で出す足軽は勿論幕府の兵力だが
635 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:40:42
そもそも小牧長久手の昔から徳川家直雇の足軽なんていたのか?
家臣たちがそれぞれ雇い入れた者のはずだが?
636 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:45:33
たしかに諸大名や旗本たちが抱える足軽と幕府直参の同心は違うね
住んでる家の規模も違う
番方各組の番頭配下の同心が足軽ではないのか?
例えば先手組筒組の同心が鉄砲足軽ではないの?
639 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:55:49
諸大名と違い幕府に直参の足軽はいないという事で良いんですか?
幕臣の最下層は足軽では無く士分持っているという結論は絶対なんですか?
640 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:58:52
幕府の軍役における足軽は陪臣です
641 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 23:59:59
642 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 00:02:01
旗本の足軽に鉄砲足軽がいるから先手組筒同心や百人組同心は足軽ではない
643 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 00:03:44
有事に際しての臨時召集や臨時雇いを足軽というのでは?
>>643 幕府は知らないが諸藩には世襲の足軽もいるよ
>>642 何故,旗本の足軽と,徳川家直雇の足軽は,併存しえないのですか。
併存しえないとすれば,徳川家だけでなく,どの大名家でも同じく大名家直雇の足軽は存在しえないのでは。
大名家の家臣も足軽を引き連れているでしょうから・・・
>>643 有事に臨時招集するといっても,鉄砲や弓を扱える者をどこから集めるの?
有事になって人を集めてから訓練しても遅いのではないか。
647 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 00:34:43
旗本の足軽は鉄砲の練習もする
旗本の足軽がこれにあたる
648 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 01:05:36
将軍家に足軽はいないんだ?
八王子千人同心は士分でないという話もあるが、足軽では無いのかな?
郷士と足軽はまた違ったりする?
649 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 01:17:42
八王子千人同心は御家人ではない
八王子千人同心は八王子千人同心以外の何者でもない
650 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 01:28:30
幕府御家人の中に足軽はいないみたいだね
651 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 14:20:45
御家人でも抱入の家格の場合は名目上世襲じゃ無いよ。
上の方で大概順が出てるけど、関東郡代(伊奈家)はどの辺の位置づけかな?
勘定吟味役を兼務するケースも多かったようだけど・・・
653 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:15:57
伊奈は勘定奉行支配座順奥右筆与頭之次から老中支配になりさらに御小姓組番頭格になる
後に伊奈家は御書院番から代官になるのが慣習となる
654 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 00:33:06
韮山の江川は小十人からだよね
655 :
日本@名無史さん:2009/04/01(水) 04:43:12
黒鍬も御家人なのか?
>>653 並みの郡代ではないとはいえ、小姓組番頭格ってすごいね。勘定奉行より格上だったのか…
伊奈は家来も多かった
「八王子千人同心」は足軽よりしたの中間クラスのはず。
江戸時代でいう中間クラスなので、戦国時代では足軽かも。
江戸時代、足軽の格が戦国時代より微妙に上がっているので。
武士とは言えないとしても。
長崎奉行って多い時期は定員4人もいたんだね。
>>659 そりゃおいしいポストはみんなで分け合わなきゃw
661 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:11:01
八王子千人同心は、千人頭は旗本、組頭は御家人、同心は士分ではなく中間
662 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 00:57:25
中間でもないけどね
中間ではない
664 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 01:13:51
八王子千人同心は百姓兼武家奉公人
665 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 01:21:24
八王子千人同心は百姓人別だからな
御中間は幕府の人別
高家の実際の財政状況ってどうだったの?
石高は小さいし、格式を守るためにそこそこ経費もかかっただろうけど、
大名からの謝礼があったわけだし。
裕福だった
仕事がない=謝礼のない御所さまはとても貧乏だったけどw
通称だけど、陪臣は国名を名乗れた(原田甲斐・福原越後など)ようだけど、
幕臣は采女とか右京はOKだけど国司の百官名を通称として名乗るのはダメだった?
大岡越前とかは本物の越前守だしね
671 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 19:49:10
御家人の継裃姿はかっこいいね
672 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 20:22:57
>>669 原田甲斐や伊達安芸、国司信濃、福原越後、立花壱岐、国名の名乗りは外様大名のかなりの重臣限定みたいだね
陪臣とは言っても大藩の家老クラスだと、要職にある旗本と内談なんかも多かったし
箔付けのための受領名乗りかな?
674 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 21:36:23
国名は外様家来限定?
譜代大名の家来でもいるんじゃない?
親藩・譜代でもいるね。
越前:狛山城・狛讃岐
彦根:西郷伊予
川越:小河原近江・好田筑後
忍 :山田大隅・山田備後
高松:大久保飛騨
桑名:松平対馬
など
676 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 01:40:08
御家人って何人いたの?
「八王子千人同心」は元は武田の槍中間だからなぁ・・。
678 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 02:29:46
千人同心は御家人じゃないから
679 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 11:09:55
旗本も含めて御家人って言う場合もあるからな
680 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 18:52:39
国立公文書館でやってる春の特別展『旗本御家人』見に行ってきた
御家人関係がなかなか充実していて良かったよ
681 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 21:02:13
682 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 12:36:20
旗本は5000人
683 :
日本@名無史さん:2009/04/07(火) 20:51:58
684 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 00:44:19
過疎化が始まったか……
685 :
教えて!:2009/04/09(木) 06:29:34
低家禄の佐藤さん(仮名)が、重職に付き足高が適用され諸大夫(従五位下)に
なったとしよう。
この場合は、役職に付いている間は当然に、佐藤○○守など「守」名乗り
はできたろうが、役を退いたあとの名乗りはどうなったのだろう。
686 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 06:51:42
役付きが引退したら小身でも寄合入り。
荒木貞夫は一橋家の家臣だったらしいけど
一橋家の家臣は旗本?
688 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 12:33:34
このスレ足軽がいなかったという事実がわかっただけでも収穫だった。
689 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 16:23:38
>>687 家臣団の上層は旗本を含む幕臣、代官手代とか下のほうなら
領知で現地採用の家付きの家臣。
690 :
教えて!:2009/04/10(金) 06:22:36
>>686 役寄合は了解
じゃあ、寄合の者は全て守名乗りでオケ?
691 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 08:07:44
守名乗り?
正も介も頭もあるだろうし、実際に官にあるかないかだろ
>>685は
…当然に、佐藤○○守など「守」名乗りは…
としていることから、守名乗りが『正も介も頭もあるだろうし…』と書き込み
しているが、そのことを教示願っているのではないな。
で、「実際に官にあるかないかだろ」←この意味がまた分からない
693 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 02:02:31
中野石翁って、なにが偉かったの?
小和田のように偉かった
「天皇制は、国民をダマスための一つの手段」
「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!
「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)
諭吉は、こう書いています.
「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.
なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.
◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)
◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる
◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる
◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!
◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.
◆だから、国民をだまさなければならない.
◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.
◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)
◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.
◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.
◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)
これが、福沢諭吉の真実です.
いくら大もうけをしたかは、文献上明らかになるはずです.
いくらかな?
http://koheina-hoso.blogspot.com
696 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 06:15:34
教えて!:2009/04/09(木) 06:29:34
低家禄の佐藤さん(仮名)が、重職に付き足高が適用され諸大夫(従五位下)に
なったとしよう。
この場合は、役職に付いている間は当然に、佐藤○○守など「守」名乗り
はできたろうが、役を退いたあとの名乗りはどうなったのだろう。
↓
結局誰も知らんと言うこっちゃ
697 :
sage:2009/04/11(土) 10:58:50
698 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 11:41:37
御徒町行ったら茶坊主の屋敷跡みたいな史跡由来の表示があったが茶坊主の身分はどう言う扱いですか?
699 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 13:22:56
官にある間は〜守などオッケーだよ
ちなみに「名乗り」という表現は適切ではないよ
700 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 16:04:47
茶坊主は20俵2人扶持の最下級の御家人
将軍と顔を合わせることがあるが御目見ではない
御目見は家臣として謁見できる権利のこと
茶坊主は奥坊主100人、表坊主200人に分かれ
奥坊主には23両、表坊主のうち御用部屋付きには20両の御役金が付いた
表坊主には御役金がなかったが各藩からそれ以上に多額の付け届けがあった
若年寄>同朋頭の支配を受けた
この他に茶道の指南や茶道具の管理をする数寄屋坊主があり
若年寄>数寄屋坊主頭の支配を受けた
701 :
日本@名無史さん:2009/04/11(土) 21:34:20
>>699が言ってるようにその官にあれば官名を名乗るだけ
702 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 07:35:55
703 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 12:07:00
そもそも江戸幕府では、伊勢守とか越前守とかいう受領名は正式の官職ではない。
武家の官位で正式なのは参議、中将、少将、侍従、諸大夫といった格付け用のもので、
あとは各自が適当に好きな官職名を通称(名前)として使ってるだけ。
もちろん、幕閣とだぶったりしたら改名するとか、名前使用の優先権とかはあったが。
だから、小身者が出世して諸大夫(五位)の位に進めば、ナントカ守を名乗れる。
そして位階は家ではなく個人に与えられる者だから、お役を退こうが隠居しようが、
本人が死ぬか剃髪でもしない限り、隠居していても守名乗りは続けられる。
704 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 12:12:46
水野忠邦の弟の跡部良弼のように、めまぐるしく通称(官名)を変えてる人の場合は、
上司となる幕閣と同じ官名を避けるため。
逆に言うと、従五位下などの位階は朝廷に申請して口宣案をもらってくる必要があったけど、
五位に相当する官職名は幕府では単なる通称・名前の扱いだから、手軽に改名できる。
また、大名でも旗本でも剃髪でもしない限り、隠居後も受領名をずっと名乗ってる。
705 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 12:45:35
>あとは各自が適当に好きな官職名を通称(名前)として使ってるだけ。
本当ですか?
706 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 13:28:53
位階は隠居大名やら隠居公家やらは剥奪されるのか? 源氏物語の光源氏は
須磨に住んでいたころは無位無官だったそうだけど。
>>700 【ラ・カイテル】ならフューラーの側近だったけど?
武家官位では、大納言>中納言>参議(宰相)>中将>少将>侍従>四品(従四位下無官)
>諸大夫(従五位下無官)が正式の官職で、佐渡守や采女正といった通称は通名みたいなもの
だから、例外は多いけど原則は伺いを立てた上で何を名乗ろうと自由。
一部大名の独占、幕閣への遠慮、忌避されたもの、同名・同役の先任者と同じ場合などが例外。
確証はないが、おそらく五位・諸大夫の旗本では四位相当以上のもの(民部卿とか左京大夫)は
通称として名乗れなかったはず。
武家官位の優劣はまず官職順、次に位階順、最後に先任順で、正四位下参議>従三位中将、
従四位上中将>正四位下少将と、位階より官職による。
官職が位階に優先だから、従五位下侍従の高家の方が従四位下無官の準国主よりも上席になる。
ただし高家は正四位下少将とか位階が高くても 従四位下少将の国持大名よりは諸席打込の拝謁順が劣る。
たぶんこれで合ってると思う。
旗本も位記のほか口宣案ももらっているから、○○守等の名乗りも
正式のものと言っていいはずだけど。
もっとも、将軍の許可を得た時点で、位記・口宣案なしで名乗っては
いるが、それは大・中納言以下、武家官位全てに共通の事。
まあ、公家もわざわざ位記だの口宣案だのをもらったりはしなかっ
た(礼金がかかるから)らしく、事後とはいえ律儀に発行してもらう
武士は、位記等を作成する側にはありがたい客だったらしい。
「正式」って書き方が悪かったかな。
○○守は武家官位の序列・体系においての意味はなさず、通称にすぎないって意味ね。
四位以上は各自個別にやって、五位は高家がまとめて扱うんだっけ。
711 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:20:05
受領名は通称ではないよ
>>711 手元の本が「通称」としてたからそれに習ったんだけど、そうなんだね。
従五位下大和守も従四位下修理大夫も、大和守・修理大夫を官職とせず通称としている、
四品や諸大夫の官職は無官(公家の散位に相当?)、みたいな記述。
大和守や隼人正みたいなのは何て言うべきなんだろう?
713 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:55:29
だから一−五位の位階大臣、大中納言、参議、中少将、侍従の官職は朝廷から貰う。
越後守、隼人正、内匠頭、弾正大弼等の受領名は幕府から許可を貰う。
受領名は優先権、独占権もありだが、複数の越前守がいることもある。
少しは頭の中を整理すれよ。
>>713 それは分かりますよ。だから
>>708でも幕府に伺い立てる、と書いてますよね。
それで、なぜ「通称」と呼んでまずいのでしょうか?
こんなこと言うまでもないけど、もちろん百官名や東百官のような私称と同列に
「通称」と書いてるわけじゃないですよ。
716 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:31:35
受領名や官途名は朝廷からもらう正式の官位ではなく、
幕府の許可があれば任意の受領名を名乗ったり変更できるし、
実際には名前として使ってるだけだから「通称」でよい。
>713
大中納言も宰相も、みな将軍が与え朝廷が追認するものであり、諸大夫と違いは
ありませんよ。どれも幕府の許可が出た時点で正式に名乗ることができる。
朝廷に使いを出して位記、口宣案を受けるのは、公称し始めた後の事だという点も、
大納言〜対馬守までみな同じだし。
>716
> 受領名や官途名は朝廷からもらう正式の官位ではなく、
正式に口宣案を受けているわけだから、「正式の官位ではない」
というのは語弊がありますね。
719 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 21:18:19
アホがいるw
721 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 22:01:21
白熱してるところ恐縮ですが、
とりあえず、
>>708、710の文脈で、佐渡守や隼人正など武家官位の序列・体系に
おいては意味をなさない受領名・官途名の名乗りを「通称」と呼ぶことに、別段
差し支えはない、と考えていいでしょうか?
723 :
sage:2009/04/12(日) 22:03:01
大和守を先に名乗っていても、老中・若年寄に大和守が出来た場合
遠慮して、和泉守に変更したりする。その場合、もはや宣旨等はもらわないよ。
ふつうに改名するだけ。微妙だけども、そういう取扱をするという意味では
通称と言えなくもない。微妙なのよwww
まあ正式じゃあない
>721
「将軍の座」からの孫引きだが、
「武家の官位は、三家大中納言といえども、将軍家よりおおせつけられる。その後、京都
所司代へ位記口宣のことを頼み、頂戴する例である。だから、位記口宣を待たずに、それ
ぞれの官位を名乗ることになる。御三家の官位は、上意にて任ぜられ、諸侯のそれは、
老中列座、官位上意の趣を通達することになる。」
とあるように、原則としての取り扱いは変わらない。無論、幕府の統制上の扱いは違うが、
それは建前としての「正式さ」とは別のもの。
そもそも、公家の官位ですら形骸化していて、わざわざ口宣なんて求めないような状況下
で、「一部は正式だが他は違う」と区分する意味は無いよ。
>720
江戸後期でも、武士は同じように発行してもらっていたようですね。公家は謝礼がもった
いないということで、わざわざ作ってもらったりはしなかったという話ですが。
726 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:08:11
通称ではなく公称
727 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 01:20:18
おれっちの先祖の1人に旗本(後北条氏の江戸衆末裔)の他に、
御家人株を買って武士になった八王子千人同心兼名主がいた。
そこの長男らしくて、その家は次弟が継いだらしい
俺は土佐、会津、周防、武蔵、越中の雑種。
土佐藩士のそれも津野遺臣、香宗我部旧臣、伊予出身の【大坂衆】←これが婿養子で血筋は直系、
さらに遠江出身のリアル掛川衆もいて雑種もいいとこ。
両祖父母、両親、俺と首都圏の生まれ育ちだから、おいらは根っからの東男だがね
728 :
727:2009/04/18(土) 01:32:59
おっといけねぇ、長宗我部遺臣末裔もいた
729 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 02:01:51
千葉氏族の俺がら言えば、ただの雑種かつ他所者。
国立公文書館でやってる展示見た人いる?
今、旗本や御家人の企画展をやっているけど
731 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 02:13:46
732 :
雑種ながらも筋金入りの江戸っ子・東男:2009/04/18(土) 02:18:26
>>729 おめぇさん気持ちわりぃ標準語使ってんだろ?それでも江戸っ子けぇ?
733 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 12:27:45
>>729 千葉氏って村岡良文の後裔を自称した山賊だろ
734 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:04:43
原さんは旗本に取立てられたのに切支丹
735 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 01:52:46
>>731-733 泣いても泣いても、雑種は雑種だぞ?
江戸弁とかwww笑わせてもらった。
これまでのレスを読むと,結局,徳川将軍家の御家人には足軽はいなかったみたいですね。
だとすると,その御家人の下限はどの御役だったのでしょうか?
737 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:45:12
黒鍬だろうな
仕事は土木作業でたったの10俵1人扶持
役高も黒鍬組頭で30俵、黒鍬頭でも100俵しかない
三河譜代のみ世襲の最下層の御家人で
他は一代抱えの中間扱い
738 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:49:19
黒鍬で一番出世した人物って誰?
黒鍬って役得あったの?
黒鍬って,そもそも武士・侍にカテゴライズされるのかなあ?
現代の戦闘工兵に相当する技術者なんだろうけど。
足軽よりも武士から遠い気がするが・・・
741 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 21:57:28
黒鍬者は武士でありながら金儲けもできる技術屋集団
技術屋だから主家が滅んでも技術屋だからってんで次の領主にも
意外と重宝される。(天下の裏切り御免ドコ)
金属一般の知識もハンパじゃない(鍛冶屋は鉄かどうかがわかるだけ)。
自分で稼げるから役高なんて屁みたいなもんと思ってたんではないかい?
742 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:09:44
黒鍬で出世した者はいないでしょ
出世できるポジションでもないし
黒鍬の組屋敷は今の赤坂4丁目あたりにあって
末広稲荷大明神が彼らの信仰対象だったらしい
5人目の徳川家康
1605年、狩りの最中に馬に蹴られて4人目の徳川家康が急死した。
いまだ幕府の基礎が固まっていないのに家康が頓死したことに衝撃を受けた幕閣は秀忠と相談の上、新しい家康を擁立した。4人目の家康と容貌が似通っていた黒鍬衆浜田三四郎に白羽の矢が立ち、5人目家康として擁立される。
744 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:09:48
士分の家臣って、どれ位の石高から持てるの?
家老や奉行など藩に準じた役職も旗本家にあった?
>>738 瑞春院の父(徳松,鶴姫の外祖父)かな〜
746 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/04/20(月) 01:15:20
>>742 幕末動乱期だからだけど、
洋学・洋式兵学を身に付けた江原なんちゃらが幕府陸軍で出世しているよ
鳥羽・伏見敗北後、恭順を支持したために仲間たちから非難されて自殺を考えたが、
坊さんに止められたらしく、麻生中学校(今の麻布中学・高校)を創った。
747 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/04/20(月) 01:20:21
>>735 田舎者発見
おのぼりさん一世以外、首都圏で雑種でない者はいない
748 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 01:31:44
お呼びでないゴミムシコテハンは
以降このスレでレスしないように。
749 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/04/20(月) 01:39:44
>744
士分を騎乗の武士とすると千石からかな。
根拠は,慶長10年の軍役規定。
千石の軍役で,鉄砲2丁,弓1張,鑓5本,騎乗1騎。
753 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 21:05:31
百石でも切米三十俵でも騎乗の士はいるぞ!
旗本の家来にも騎乗の士はいるし・・・
一人扶持っておおむね4−5俵だよね
一石が1年間の米消費量というのとは年貢率を勘案してもずいぶん差があるよね
年間一石じゃ腹持たんよ
日に5合
年間180升
1石は100升で2、5俵にしたって持ちませんね
まして四公六民とかだったら1石は1俵だんr
うーん、やはり扶持のほうがあってるな
米の消費量だけだと1年食えるという話はどこからだろう
鬼平は600石くらいだっけ
400
759 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 23:58:47
俺は9999石
昔は現代と違って副食は少ないだろうから,栄養はほぼ米食からかな。
それが現代だと副食の充実やパン食等で,米の消費量は一人一年で1石くらいか,もっと少ないかな。
おかずは漬物数きれでもご飯美味しくてたくさん食べられる俺は江戸時代の食事でも平気かもw
死にたい人にお薦めの危険な時代江戸時代
・「おかずは漬物数きれでもご飯美味しくてたくさん食べられる俺は江戸時代の食事でも平気かもw」
といって出て行った
>>761が5分後栄養障害で死んでた
例えば、萩藩毛利氏の
松平長門侍従とか
毛利修理大夫
なんていうのは、
通称官途なんでしょうか?
あと、松平光長を
松平越後守と言ったり、
越後中将と言ったりするのは
どうなんでしょうか?
便乗して、
越前松平氏で、
越前少将と
福井少将という呼称が
存在するのはなぜでしょうか?
766 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 19:27:02
玄米は圧力釜で炊かないと食えたもんじゃない
だから昔から一生懸命精白したわけで
それが脚気の原因とも知らず
>>763-764 呼び名は便宜的なものとは思うが、大名は領地が1カ国未満が普通で
1カ国以上は稀な存在。
従って国名より城府の存在地で呼ぶほうが混乱しない。
また当時松平姓を与えられることは栄誉だから、公式には松平姓の
ほうを用いる。
官名は将軍の許しを得て名乗るわけだが、とうぜん昇進もある。
昇進後に下位の官名で呼ぶのは非礼
768 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/04/22(水) 04:26:55
脚気ごときでくたばるような軟弱もんなんざしゃーねーやなぁ
おいらの曾祖父母も脚気(しかも心臓脚気)になったが死にゃしなかったぜっ!
まっ、明治〜昭和と江戸時代とじゃおかずがちげぇからな
前に名古屋城で殿様の正月料理を再現したもんを見たが、何だありゃ?喰いたりねぇー!
>>766 だから白米食って江戸患いに罹ったら,蕎麦だよね。
772 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:53:15
大岡能登守忠相
773 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 20:54:39
大岡出雲守忠光
774 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 23:33:37
大岡って二家も旗本から大名に成り上がってんだな
775 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 10:47:00
岡村寧次の家は旗本?
776 :
品川の長兵衛:2009/05/01(金) 18:06:44
いたみいりやす、神田の貸元(日の本一の大親分 武蔵屋傳蔵)。
777 :
豚松 ◆.5DV4fMpf6 :2009/05/05(火) 02:47:11
御家人には黒桑以外に足軽身分はなかったわけ?
奉行所の同心も足軽身分ではなかったの?
どーも徳川直参の身分制度は複雑だなぁ
土佐藩の身分制度が単純で分かり易いだけかもしれんが、
会津、彦根、加賀も分かり易いもんなぁ
ちなみに土佐では大庄屋や庄屋まで藩士でしたw
幕府の公人朝夕人とか陸尺なんかは,奉公人ですか,それとも御家人ですか?
780 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 13:20:10
竹の筒で将軍の小便とる卑職?
781 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 15:40:07
御台所のケツの穴拭く女中の身分も賤職?
782 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 19:34:36
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
783 :
神田の貸元 武蔵屋傳蔵 ◆.5DV4fMpf6 :2009/05/07(木) 17:16:44
武陽陰士の旦那は世界史板にもたまにいらっしゃいますぜ
生意気な厨房は消えたのか?
ときどき田舎住まいの旗本がいるけど何で?
所領がそっちにあるから隠居もしくは許可を得て
勤務先がそっちにあるから
787 :
幕府:2009/05/12(火) 06:41:35
細けぇこたぁいんだよっ
788 :
日本@名無史さん:2009/05/12(火) 12:09:18
幕府って大雑把なんですね
789 :
やる大矢:2009/05/16(土) 12:27:23
このままじゃベイス解体だお?
名将の俺は引く手数多だし、
孫の代まで遊んで暮らせる大富豪だからいいけど、
ベイスの選手たち拾ってくれるところないお?
少しは頑張んなきゃ駄目お
790 :
やる大矢:2009/05/17(日) 04:04:34
今や1億円プレイヤーなんて山ほどいるけど、
5億円の敗戦処理ピッチャーがいるのはうちだけだお
791 :
やる大矢:2009/05/18(月) 10:33:29
阪神がウッズ獲得を検討中だってお
巨人、阪神、中日は自前で優良外人見つけられんのかお?
792 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 20:03:30
小豆食えば脚気にはならんよ。
793 :
やるオバQ:2009/05/19(火) 04:11:09
俺が生え抜きだからって選手どもは言うこときかないお
コーチどもも俺の言うこときいてくれないお
こんな戦力じゃ勝てないお
答え:横浜ベイスターズ解散
焼き豚さんたちの話しの続きは?
795 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 16:01:43
>>441 そんなことない
帰順してるのに攻め滅ぼすってどこの野蛮人だよ
796 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 13:47:30
関ヶ原のときに生かしてやったのに攻め滅ぼすなんてチョン州人は恩知らずだな
毛利なんて改易どころか斬首にされても文句言えない立場だったのに
家康は優しいな
798 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:29:00
優しいんじゃなくてギリギリのお互いに譲歩
799 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:28:54
毛利や島津に属してから旗本や御家人になった家とかないの?
>>799 島津は減封にもなっていないからいないと思うけれど、
毛利旧臣ならばいたかもね。
何せ大減封だったし、本人や親父さんの代になってから
毛利の家来になった人(家)も結構あったから。
ただし、私は知りません。
長宗我部旧臣(特に旧重臣)では多くいたけどね。
恋女房お蝶を死に追いやり、
さらに義人 品川の長兵衛を死においやった
悪漢 川崎の久六を討ち取り、
神田の武蔵屋傳蔵「(長兵衛の位牌に向かって)品川の貸元、仇は討ちましたぜ」
「神田一家をありがとうごぜえやした」
子分たちも位牌とそれを持つ未亡人に同じことを言い土下座。
長兵衛の未亡人は傳蔵たちの義理堅さに落涙。
また、傳蔵は長兵衛の未亡人に千両もの大金を渡した。
>>801 やれ新門辰五郎だ大前田英五郎だっていわれているけど、
神田の武蔵屋傳蔵は日の本一の大親分だったらしいね。
確か親父さんは祖父の代に御家人株を買った八王子千人同心出身の
貧乏御家人で、お袋さんは陪臣の娘だったとか。
傳蔵はその三男坊で本名は田邊傳蔵。
いくら下級武士の三男でも博徒になっちゃね。
>>800 大内遺臣なんて重臣が中級武士に更には下級武士に落されたり、
下級武士や郷士は毛利領外に追い出されるか、帰農するかだった。
毛利氏の大内氏滅亡後の防長武士への扱いって山内氏の長宗我部旧臣への
扱いや水戸徳川氏の佐竹旧臣への扱いに似て過酷。
吉田松陰の生家の杉氏も元は大内家臣団重臣の家系だけど、
貧乏下級武士に・・・
804 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:29:32
>>800 長宗我部の旧重臣で徳川直参になった家というと
W斎藤家、近藤家、蜷川家ぐらいじゃないの?
こういった旧重臣以外は知らないけど
井伊氏ら譜代大名、山内氏、藤堂氏、細川氏、W加藤氏、
紀州徳川氏の家来になった家ならかなりあるよ
805 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:26:28
ねぇ、御三卿家臣って旗本、御家人だったのかな?
806 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:48:07
>>803 杉氏は裕福だよ
松陰の吉田家も叔父の文之進の玉木家も
要するに杉家が金で買って事実上の分家をさせたもの
松下村塾も杉家の敷地内だし
807 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:12:27
>>805 将軍家直参とそうでない者の二種類ある
御三卿の番士や中間足軽、奥女中らは将軍家直参ではない
808 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 19:39:01
会計が別ってこと?
>808
親会社からの出向とプロパーの違い。
>806
乃木伯爵家も?
811 :
803:2009/06/04(木) 01:52:18
>>806 金持ちだったんだ!俺の勘違いだわ。
没落したのは内藤氏か。
何せ子供の頃、吉田松陰は貧しい杉家で苦労し、
な〜んていう日本人好みの話を聞かされたもんで。
確か松陰神社敷地内にある記念館にも
貧しく家の野良仕事に励む杉氏時代の
松陰少年と家族(杉家)の姿とみすぼらしい家屋が小さく再現?されてあった。
>>810 乃木家が富裕だっかは知らんけど、先祖は防長じゃないよ。
高杉家の先祖は備後、周布家の先祖は山陰(確か石見)だったかな?
乃木家の先祖は備後か安芸だったような・・・
土佐の掛川衆(遠江・駿河の浪人と上方浪人)、大坂衆(主に関ヶ原浪人)
の末裔もだけど、関ヶ原後から幕末まで先祖代々、
土佐なり防長で暮らしていれば文句なしの土地もんだけどねw
>>800 島津は、佐土原島津家だが旗本になった島津久武というのがいる。
814 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 03:01:52
幕末に活躍した勝や榎本て生粋の旗本ではないんだね
父や曽祖父の時代に御家人株買っただけで
逆に三河いらいの旗本の家はもっとがんばれよと思うんだけど
>>813 サンクス!島津氏の旗本もいたんだ!
考えてみれば、分家のまた分家が旗本になる大名家ってあるよね。
>>814 だよね。勝は曾祖父の代にって知ってたけど、
榎本は親父さんの代に御家人株を買ったんだ。
家康の関東移封後に召し抱えられた後北条氏重臣(特に江戸衆)や
関東豪族(太田氏・豊島氏・江戸氏など)の末裔
あるいは関ヶ原後に召し抱えられた家(堀田氏や稲葉氏はそうだよね?)もそうだし、
三河以来や彼らのような古参の旗本の
家系の出身者で幕末に活躍した人って小栗ぐらいしか聞かないなぁ。
大久保忠寛の家系はどうなんだろう?
確か勝のおやっさん小吉が男谷家の三男だがで、
その爺さん(海舟のひい爺さん)が越後の百姓上がりでめくらだったんだよね。
男谷家は新興ながらも御家人から下級旗本に、
勝家は関東移封前からの御家人で18世紀に旗本に昇格したような。
小吉さんは勝家の婿養子か。
どちらにしても下級だよなぁ。
榎本の先祖は備後か芸州の人(身分は忘れた)で御家人株を買って
榎本姓になったとは前に聞いたことがあったが、
まさか武揚の親父さんの代だとはこれまた新興もいいところ。
貶してるわけじゃなくて、川路にしてもだけど、
江戸時代後期当たりからこうした低い身分の人の出席が
少なくとも幕府では目立つようになってきたね。
もっと前には田沼意次とその親父さん(確か足軽)がいたけど。
古い旗本の出身者に木偶が多くなったからでもあるだろうが、
大村益次郎を母国に先駆けて召し抱えたり、
大鳥圭介を召し抱えたり、幕末の幕府は
因循姑息どころか開放的。開明さ故か余裕の無さ故かは知らんが。
817 :
taka:2009/06/05(金) 10:17:09
勝伯爵が出てきたのでついでに質問があります。豚松さん を始め皆さんは、
所謂三河以来の旗本とか武士の血脈をひいてる御家人とかはどれくらい居る
と思われますか?
勝伯 曽祖父は 豚松さん が言われている様に越後出身の当道座の検校で、
御家人株の 男谷家 の株を買って孫の代で旗本にのし上りました。確か絵師
の 河鍋暁斎 も父親が火消同心の株を買った武士とも言われています。
当道座の惣検校ともなると、朝廷から従五位相当で朝廷から任命され旗本・
大名と並ぶ格式があったとか。とすると、元禄以降貸金業が認められてから
の長い年数、相当記録にも出てこない様な旗本株・御家人株の売買がおこな
われていたように思うのですが。
>>817 勝の曾祖父は検校にのぼりつめ、高利貸で儲けた
カネで男谷家の株を買ったそうですね。
榎本武揚の父親も榎本家の御家人株を買って榎本姓になり、
樋口一葉の父親か祖父は甲州の農民で
これまた樋口家の御家人株を買い御家人 樋口氏になりました。
私も疑問に思っていたのですが、
御家人株の売買はかなり盛んだったようで、
「家名」とは別に御家人の多くの血統は江戸時代中期以降、
大きく入れ替わっているのではないか?と。
あと、御家人株を売った後も御家人は苗字帯刀を許されたのでしょうか?
旗本なり他大名なりの家来になっていない、
浪人の状態の場合です。
土佐では郷士株を売った郷士とその末裔は
藩士最下位とはいえ地下浪人として苗字帯刀御免でした。
土佐の話に脱線してしまい申し訳ございませんが、
坂本龍馬の坂本家も元は才谷村の大濱氏なる
豪農で、酒造りと金貸しも行い富商才谷屋となり旧慣郷士の
坂本家の郷士株を買い、家名も坂本になりました。
才谷屋(既に分家)が藩にカネを貸していたこともあって
坂本家は郷士御用人に昇格。龍馬の父親は旧慣郷士末裔で白札の
山本家の次男(三男だったかな?)で坂本家の婿養子です。
ちなみに、武市瑞山(旧慣郷士で郷士御用人→白札)は
この山本家の親戚だったような気がします。
坂本龍馬の先祖に限らず、18世紀になると郷士株売買や藩の
郷士株発行で豪農が旧慣郷士(開墾抜きの慶長郷士、開墾しての
百人衆郷士・百人衆並郷士)を数の上で遥かに凌ぎ、
両者の対立、また、新興の他譲郷士と大庄屋・庄屋との対立は
深刻だったそうです(旧慣郷士は身分は大庄屋・庄屋より上では
あっても村内の決まりごとは大庄屋・庄屋の言うことに従ったのに
対して、新興の他譲郷士は大庄屋・庄屋を無視したため摩擦が
起こりました)。
と大脱線してしまい済みませんが、私もtataさん同様に御家人株・旗本株
がどれだけ行われていたかに関心があります。
三河・遠江・駿河以来とは言わずとも、家康の関東入封以降に
旗本・御家人に召抱えられた家を含め、古くからの御家人・旗本の
家が、どのぐらいの比率(おおよその)で
御家人株・旗本株売買により「血」が入れ替わったのか、
あくまで推測になるでしょうが、ご意見お聞かせ下さい。
もちろん、当時はごく普通に行われていた武家同士の養子縁組(婿養子を
含みます)は別です。
失礼、takaさんの誤植でした。
ちなみに、私自身は想像もつきません(根拠のない想像では御家人に
限っては半分は株売買により別の「血」に入れ替わったと)。
連チャン、済みません。
821 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 16:21:03
>>818 樋口家の株?
樋口一葉女史の父樋口則義が大枚をはたいて買ったのは浅井竹蔵の同心跡式の株だが?
822 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 16:27:12
樋口則義は同心株取得以前から樋口を名乗ってる
>>821、
>>822 サンクス。
俺の無知だった。
株を買ってその身分になっても旧姓のままの人もいた(家もあった)
から樋口家はそれなんだ。
824 :
taka:2009/06/05(金) 18:22:30
豚松様
これは確証があるという訳ではありませんが、所謂武士の株というのはそういう株があっ
てそれを売買する訳では無いと思います。武士の株の売買というのは貧窮した武家に資金
援助をする代わりに養子縁組を幕府に届出て、その上で御用御免・隠居をしてその養子に
家督を継がすという前提で成り立つ物と思います。
ですから、樋口氏 が 浅井氏 の名跡を継がないまま同心株を買えたというのは、同心株を
買ったその年に大政奉還が行われた混乱期にあった為と私自身は思います。
豚松さん の解説で新しい発見がありました。土佐藩の事に詳しい様ですね^^ 例えば旧
慣郷士でも村内の決まり事は大庄屋・庄屋の意見に従うという暗黙のルールがあったんで
すね〜 太閣時代から江戸初期に掛けて入封した大名は功臣閥と地元閥の混乱があり(巌流
島の戦いも一説にはそれであると言われている)、その混乱の言わばクッションとして上士
格の白札という制度があったんですね。
地方の制度にはあまり詳しく無いのですが、才谷屋と言った豪商ではなく、大庄屋や庄屋
がその土地を領地としてそのまま郷士に取り立てられる例とかは無いのでしょうか? 例え
ば近江源氏佐々木氏の血を引く河内の 吉村家 は、十七ヶ村の大庄屋で代官も兼ねる士分
であったし、紀州の 川嶋家 もそうですよね? そう考えると、新興郷士と村落のイザコザ
というのは豪農出身ではなく商人出身の郷士に多かったのでは? しかし、出身の豪農の家
が大庄屋よりも羽振りが良い家であった場合があれば話は別かも。
825 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:01:45
>>824 一代抱席の目見以下なら苗字継がなくても番替わりできるんだよ
826 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:03:14
>>824 大政奉還は関係ないよ
一代抱席の目見以下なら苗字継がなくても番替わりできるんだよ
>>824=takaさん
なるほど。合点いきました。
土佐の大庄屋・庄屋は下級ながらも正式な藩士の代りに他藩と違い、
異動も割合と多く、必ずしも富農ではありませんでしたから、
江戸時代中期以降に郷士株の売買が盛んになってからも
大庄屋・庄屋以外の豪農の方が財力がある場合が多く、
自然と郷士株は豪農の方へと流れたようです。
また、安芸郡の大庄屋 北川氏のように慶長年間から郷士と大庄屋を
兼ねている家もありましたが、
藩政初期の土佐の郷士制度は基本的には反抗的でもないのに
困窮している旧一領具足を救済するものでしたので、
既に用人・徒や陪臣に召抱えられていたり、
大庄屋・庄屋に任命されている旧一領具足は基本的には
対象外だったようです。
大庄屋は郷士身分をも得た場合も、長男が郷士身分を、
次男が大庄屋身分を継ぐというようにわけることが多かったようです。
慶長郷士・百人衆郷士・同並郷士ら旧慣郷士は大庄屋・庄屋と
近い時期に取り立てられた家でしたから、藩及び村の
「村では大庄屋や庄屋の言うことを聞くように」という方針を
慣習として自然と守る家が多かったようです。
それに対して財力で郷士株を買った他譲郷士は成り上がり者
ですし、旧慣郷士(郷士御用人や白札に昇格した家を含みます)や
大庄屋・庄屋よりもお金持ちでしたから、
それなりに経済の発展や緩やかながらも社会の変動もあって、
郷士(身分は大庄屋・庄屋よりずっと上)になったことを
良いことに大庄屋・庄屋の言うことを
聞かなくなった家が多かったのだと思います。
>takaさん
土佐では原則上or建前は商人に郷士株を売ってはならないことに
なっていたそうですが、実際は結構あったと思います。
豪農は農村で商人の役割も果たしている場合が少なくなく、
龍馬の先祖が商人の才谷屋としてではなく、農民の大濱氏として
郷士株を買うことは問題にならなかったでしょうし(実際に才谷屋と
坂本家=旧大濱家とは別の家になっています)。
829 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:02:43
土佐山内家の話しはもう終わりましたか?
830 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:28:44
抱え席御家人は元来世襲を前提としていないからね
>>829 終わった。
カリラか無けりゃラフロイグ持ってこい。
832 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 22:22:51
小栗上野介や大久保一翁・岩瀬忠震なんかは三河以来の旗本の子孫だったはず
旗本じゃないけど阿部正弘の阿部家も最も古い古参の家だったはず
>>832 今日調べたら大久保一翁、岩瀬忠震は三河以来の末裔だった。
阿部正弘は家系は調べてなかったし、サンクス。
調べた云々言ってもググった程度だけど。
ただ、忠震は設楽家(これまた三河以来)からの養子なんだよな。
伊達政宗の末裔とも書いてあったが、母方か祖母方か曾祖母方か
知らんが伊達政宗の血を引いているのかも。
当時、同階級の養子だ婿養子だとかはごく普通で問題じゃないから。
阿部正弘の家系についてググってみっか。
伊達政宗ー忠宗ー綱宗ー宗贄ー村年ー青木一貫ー設楽貞喬ー貞丈ー
ー岩瀬忠震
系図スレにあったけどこれじゃない?
あと同じ系図スレによると水野忠邦は浅野長政の子孫らしい
譜代大名や旗本でも外様大名の血を引いてる結構奴もいるんだな
>>829 土佐山内家にも旗本になった分家いたよな?
山内忠義の弟だったと思うけど
>>835 サンクスです。直系(男系)から伊達政宗の血をひいていたのですね。
>>836 確か土佐中村藩(忠義の弟か忠義の次男かが初代)が幕府の怒りを買い、
何とか旗本になったのが麻生山内家かと。
全くの間違いかもしれませんのでので、あしからず<(_ _)>
男谷家は御家人株購入じゃなくて西ノ丸鉄砲与力の空き跡に新規召し抱えだと聞いた記憶があるけど・・・。
839 :
taka:2009/06/06(土) 12:28:55
豚松さん
士農工商の士の部分もある意味そうでしょうが、割と曖昧で以外と商業とかもやっていた
でしょうね。上州の豪農もシルク関連の商業をやっていた記録がありますから。これ以上
はスレチになるので控えさせていただきます^^ ありがとうございました。
さて、私にスレを下さった方に質問したいのですが、抱え席御家人は確かに世襲を原則と
してはいません。ですが与力同心といったいわば幕府の役の世界では、世襲が暗黙の了解
となっていた事実があるのですが? 元服の儀には上役を招いて前髪を剃り落として貰い、
その後親について見習いとして仕事につく場合が多いです。つまり建前としては一代限り
が原則の抱席ですが実質は世襲が暗黙の了解となっており、さらにその実質の世襲も建前
になって実質は売買による養子が多かったのも事実です。
それを理解した上で、樋口一葉 の父親の様な例は頻繁だというのでしょうか?
>>836 837
土佐中村藩は二つの時期があって、山内一豊公 の弟で二代藩主 忠義公 の父である 康豊
公(幕府未公認) 時代と、忠義公 の次男 忠直公 の時代とありますね。確か格下げを潔し
としないため将軍 綱吉公 により改易されて旗本として存続はしてなかったような。
旗本山内家と言えば、康豊公 の四男で子孫が土佐藩五代藩主となった 山内一唯公 の家が
ありましたね。
840 :
taka:2009/06/06(土) 12:57:09
>>838 仰る通りの説もあって、男谷姓 を与えられて持組与力になったという説もあれば、
従来通り御家人株を買って持組与力になったという説もあります。男谷平蔵公 は
一代で旗本になる程の人物(つまり勤め始めて一代で将軍に拝謁出来た)ですから、
前者の方がうなずけるとは思いますが。
841 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 13:04:55
川路は奈良奉行を拝命して家族5人で赴任したんだけど
それが川路自身以外は養父・養母・妻・妾の産んだ男児なんだよね
血の繋がりは川路と男児にしかないっつーか妻もよく我慢したものだし
現代の感覚では昔の人の家族感は測れないね
842 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 15:49:54
一葉の父は同心になる前は蕃書調所の小使や大坂城番与力の家来を経て大目付菊池伊予守の公用人を勤め、
その時は樋口八十之進を名乗ってる
同心になる時は保証人として陸軍奉行並真下専之丞、提出した親類書には幕府撒兵組西村熊太郎や旗本稲葉家(2500石)
の家来森良之進らを実兄実弟として書いているが勿論血のつながりはない偽装の親類書きであった。
浅井竹蔵から同心株を譲り受けたが浅井家を継ぐわけではないので樋口のままだった。
843 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 16:08:28
岩瀬忠震には伊達政宗のような大昔の人よりもっと近親者にすごいのがいるよな
>>839 下級の御家人に養子縁組で家を継いだら家族の扶養など負担が半端ないから
845 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 17:23:12
>>843 林述斎の孫だね
伯父に鳥居耀蔵、林復斎
従兄弟に堀利煕がいる
846 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:03:55
同心クラスの下級御家人の跡式に指名してもらう代金と借財を継ぐあるいは清算する。
推挙人、保証人、組頭などへの礼金
いくら必要だったんだろう?
847 :
taka:2009/06/06(土) 20:57:05
現代で御家人株に一番近いイメージは,相撲の親方株かな?
親方株の価格の中身は,先代家族の扶養料一括と名跡代。
御家人株の代金を払い込んだら,養父母の扶養義務はなくなるのではないですか?
849 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 23:18:03
養子に入って跡を継ぐ場合は養父母などを扶養しなきゃいけませんよ
850 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 00:30:40
851 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 01:13:31
川路の場合は養父母が長生きしたから俸禄も養父母がずっと受け取り続けて
川路の取り分は無かったし、しかも養父母の面倒も見ていたから、
収入を得るために出世を急がなくてはならなかったという側面もある。
そんなに大金を払ってもお目見え以下かよ。
やっぱり江戸時代の身分制度は厳しいな。
853 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 07:22:35
川路は元服前に養子に入ってるから当たり前だろ
854 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 07:32:38
謎なのは勝小吉
親がいなければ養子にはなれないはずだが
7歳で養子になった時養父母は没していたとも言われている
後に妻になる5歳の娘と鬼のような祖母との3人暮らし
855 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 08:11:53
喪を発して無かっただけでは?
856 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 10:57:07
857 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 11:06:02
川路って金で御家人株買ったの?
858 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 11:10:05
悪いことだよね
大鳥もそうだっけ?
862 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 12:30:17
川路の言葉
武士とは「人殺し奉公、死に役」
863 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 13:43:11
川路家は代々の小普請で養父も就職に失敗
子供がなかったので御役に就ける利発な子を捜していた
元服すると家督を譲り好きな茶を絶ち養母は毎日水ごりを取って
本人は毎朝槍を200本突き小普請支配宅に日参し午後は勉学に励んだ
旗本御家人の数に比して役が少ないので小普請から抜け出すのは
難事だが役に就いてからは抜擢人事のスピードは速い
ピストル魔の川路さんにも槍を振り回してた時期があったんだね
俺も川路が御家人株を買ったんじゃないことは知ってたよ
ただ、豊後日田の代官所の木っ端役人の倅に生まれ、
小普請組の川路家の養子になって、勘定奉行所の木っ端役人から
スタートしてあそこまで上り詰める奴なんざ、
江戸中期じゃありえんだろうと思って書いたわけ
田沼意次の親父さんは吉宗が一時藩主をしていた藩の
足軽だったけど・・・
866 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:10:18
川路は文武両道を志していた。幕府崩壊でピストルで自決したのも、度重なる脳溢血の発作で
ほとんど動けない状態になってたからだ。なにしろ文字を書くにもよだれが紙に垂れてくるから
布で口を覆って書かなければならないほどだったというし。
リハビリの内容も呆れるほど根を詰めるもので、あれはリハビリそのものが重症化の
原因になっていたんじゃないかとも思える。
867 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:11:27
黒人スレ荒らすなよ
ん?意次のおやっさんは紀州本藩(和歌山藩)の
足軽だったっけ?
>>866 発作の再発後自殺したのは知ってたがそこまで動けない状態だったのか。
それじゃあ本当に刀使ったら確実か分からないね。
870 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:17:10
川路の父親が代官所の木っ端役人って正確にはなんというお役を勤めてたの?
>>866 短銃じゃなきゃ自決できない酷い状態だったようだね。
>>867 おめぇさん、黒ちゃんなのけぇ?
>>870 日田の代官所の下級役人の内藤さんってことしか知りません。
873 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:49:42
小普請だったということは川路家は譜代だね
874 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 14:51:14
流感撒き散らかすなよ>豚松=黒豚
川路家に養子に言った頃は内藤吉兵衛は幕府の御徒士だろ
876 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:25:04
877 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:33:27
御家人だろ
878 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:37:06
後家人ってなんかすごいね
879 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:39:52
御家殺し奉公、竿役
880 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 15:49:55
先代の殿様のお手つきになった後家人。
881 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 19:52:14
川路は4人の妻を娶ってるよね(一人は死別だけど2人は離縁)
妾は二人だし・・ウラヤマシいよ
882 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:16:17
川路の人気に嫉妬
>>881昔なら当たり前、うちは庄屋の家系だが先祖調査すると平均5、6人は奥さんいるね。子供出来なきゃ離縁
女の子しか産めなきゃ離縁。亡くなることもしばしば・・・
ただ、お江戸は旗本の奥さんなら、それなりに美形ぞろいだろうな。この辺は田舎もんには羨ましいとこだろ。
884 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 01:35:16
妻の第一の仕事は男児を産むことだからね
妻を取り替えるのも妾を持つのもある意味義務
885 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 01:39:48
ていうか川路は妻に男児が生まれてから離縁してるんだが?
886 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 01:50:09
鬼畜だね
妾の子だろ
888 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 02:37:24
家督は孫の川路太郎ちゃんが継いで家茂様の上洛に立派に供を勤めました
慶應元年だったかな?
幕府は第二次征長に自腹で最新の武器弾薬を
大量購入し幕府に献上したりとその功績を
認めて弾左衛門とその配下の長吏頭数十名を
平人(平民)に昇格させたが、せめて弾左衛門は徒格の士分に、
配下の数十名とやらのことは足軽格の卒分にしてやれよ。
ケチくせぇよな。ただ、賤民制度撤廃自体は
弾左衛門も己の特権・利益喪失に繋がり
かねないから反対だったかもw
矢野弾左衛門の特権・利益を維持した上で、
その配下の一般賤民を形だけ平人(平民)にする。
彼らは弾左衛門に搾取されるには変わりないが、
形だけでも賤民から平民になり、
かつ一方では賤民の職業を旧賤民に独占させ続ければ、
彼らも満足だったかな?でもこれじゃ撤廃も糞もないなぁ。
うん
>>883 うちにも庄屋・大庄屋だった先祖がいたけど、
同時に豪農(金持ち)だったこともあって、
何人も妾を囲ってたり、何回も結婚・離婚していたらしい。
現代人の俺からすると嫌だなぁと思うけど昔はね。
旗本で何故か維新後も(悪さでもしたのか)裕福だった先祖も
横柄な好き者だったそうな(詳細は省きます)。
そんな昔じゃなくたって堤大二郎なんつったら
そりゃもう・・・
コテとトリップ入れ忘れた。
ケータイだといちいち書かなきゃならんのが面倒。
>>890 やはり意味がないか。
結論:弾左衛門を徒格に、その配下の有力な長吏頭たちや
矢野分家を足軽格に、他の長吏頭は平人にそれぞれ昇格させ、
一般の穢多らは賤民のまま。
それが(・∀・)イイ!!
小田原太郎左衛門の家も足軽格の卒分にしてやろう。
寝食を忘れて王政復古・維新回天に奔走し、
鳥羽・伏見に戦並びに東征でも多大な功をあげ、
前半生は正に皇に尽くした忠臣、元勲。
その後は【身分解放令】建議をはじめ身分制度撤廃と
法治国家化など近代化に尽力する参議。
さらに民選議院設立建白を手始めに自由民権運動の指導者となり、
最期は暴漢に襲われ「吾死すとも自由は死せじ!」と叫び
斃れるという、後半生は民に尽くした日本のリンカーン。
これが幕末〜明治の俺だろうな。
子供向けの偉人伝に不可欠な存在だぜ。
下野してんだから日本の在野版リンカーンってとこか。
897 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 08:11:17
朝から意味不明な自演だね
>>897 意味不明てーなぁまちげぇねぇが(苦笑)、自演てーのは聞き捨て
ならねぇやなw
おいらはコテとトリップ付けてカキコしてんだからよっ
ただ、スレちげぇのレスが多いからそろそろ消えるぜ。
今朝はなw
899 :
taka:2009/06/08(月) 10:33:52
>>889 関係の無いスレが続いているのでついでにw 現代の同和でも己の利権に繋げようとして、
ワザワザ部落差別という概念すら無かった地域まで(←私の実家の地域では部落民との婚姻は、
普通でむしろ犬神憑きが所謂村八分の対象になっていた)部落民宣言させて自ら卑しいと言
う連中だから、士分だろうと平民だろうと格上げは迷惑な話しだったでしょう。
江戸の旗本・御家人スレと部落民の話しのついでに、山田浅右衛門 って身分はあくまで
浪人だけど大名に匹敵する財力を持っているから、浅右衛門 の一族も株で旗本・御家人に
なっている可能性はあるね。なにせ「お目見え以上は旗本」という現代式の区分で言うと、
浪人にも関わらず将軍から直々に刀の性能云々を下問されている身分らしいし、大名とで
も対面出来たらしいから、売るほうとしても資格としては商人や成金出身よりも「あそこ
はどうも」という意識無く売れるだろうからね。
900 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 10:50:14
>>899 将軍に直接会えるかどうかは関係ない
茶坊主は毎日将軍に会ってるわけだが御目見以下
御目見とは将軍に拝謁できること
901 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 10:58:51
ちなみに旗本株なるものは存在しない
売ってないの?
903 :
taka:2009/06/08(月) 12:10:45
>>901 900 と一緒? ならサンクス。ちなみに、旗本株は存在している。事実、勝家
は 男谷 の分家扱いだが実際は 男谷 より格上の旗本の家柄。御家人株だけで
なく旗本株も売買の対象。
904 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 12:41:29
でも旗本株なんてない
905 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 12:45:07
ないね
>>899=takaさん
普通の穢多(長吏小頭を含め)はどうだったか知らないけど、
弾左衛門は平人(平民)に、出来れば卒分に
なりたがっていたらしいよ。
そのために幕末にあれだけ私財叩いて幕府に協力して、
ついに平人(平民)身分を手にしたわけ。
弾左衛門としてみれば、自分と他の長吏(穢多)ら賤民とは
違うのに(実際、矢野家の財力と屋敷は凄かった)自分が賤民
なのは我慢ならなかったらしい。
武士で言えば、足軽頭が足軽ではないのと同じ
ように長吏頭たる自分は賤民ではないのが当たり前だと。
また、明治初期に矢野家(弾家)は今までの自分たちの
専業だった革産業を靴製造など欧化に合わせた近代的な
産業に利用、転換しようとして私財を叩いて、
今や失業した穢多も多く雇い入れて靴製造業に乗り出したが、
大資本の進出によって敗北。ただ、破産はしなかったらしく、
矢野家(弾家)は大正時代以降も水平社運動には一切関わらず、
戦後も解同など「解放運動」に一切関与していないよ。
ちなみに、現在の矢野家の当主(←古い言い方かな?)は東大教授。
木下川に住んでるって人?
>takaさん
私も旗本株は聞いたことがありません。
諸藩でも郷士株や徒株など下士の株はあっても、
上士の株はなかったでしょ?
少なくとも土佐と会津には上士や中士(会津は普通の藩での下っ端上士が中士)
の株を売買したり藩が発行したりの話は聞いたことがありません。
それをしたら家中に不満が噴出するからでしょう。
故早乙女貢(鐘ヶ崎秀吉)氏の先祖は蘆名家臣の末裔で、
蘆名氏滅亡から郷頭(大庄屋)で豪農だったようですが、
徒株を買って本家は藩士になったそうです。
鐘ヶ崎姓は加藤氏旧臣末裔だった徒の苗字
のようで、早乙女さんの遠祖は徒身分と共にその苗字も引き継いだようです。
郷頭身分は次男だかが引き継ぎ、こちらも幕末まで
続いたそうですが、私はその苗字は知りません。
910 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 15:38:18
渋沢栄一も農家出身なんだよな
古くからの旗本からすると勝とか成り上がり旗本は嫌われたんだろうか?
豚松さんていう方はずっと弾左衛門にこだわってるけど
スレ違いなんだけどねぇ
912 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:01:38
益田孝の家は佐渡奉行の手代で
孝が英語を学んで外国奉行の出役に採用されたのが
きっかけで御家人に取り立てられたんだっけ
913 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:08:09
914 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:42:33
百姓から採用された代官所などの手代は功があったり長く勤めたりすると新規召し出しとして幕府の御家人になり分限小札を得ます。
その際は親類書き等を提出し江戸の町人が請け人となり幕府に身元を保証します。
915 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:01:56
御家人株の取得による身分上昇は基本的に抱席御家人の話しであり
諸条件を満たしていれば金で得ようと問題ない
抱席御家人は御役付きであり(つまり役によって最低俸禄が決まっている)数も多く相場が立ち得るので株とされ、売買の対象となった
たしかに抱え席御家人は家禄ってものが無いから御役を離れたら無職だよな
917 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:39:51
918 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:10:16
旗本に養子に入るのと御家人株を混同するなんて考えられないな
919 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 01:49:01
旗本はお目見えが出来ると言うが200石クラスの下級旗本は一生に何回位公方様に会えるの?
外様大名でも数人一緒にお目見えするけど土下座したままで顔も見れないと聞いたけど旗本は100人単位か?
安価で買ったキャラは1戦くらいは使ってくれw
924 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 02:39:30
>>919 正月3日に大広間で集団拝謁
豆粒のようにしか見えない将軍を顔を上げて見ることもなく平伏
それでも将軍に拝謁したという事実が勲章になる
925 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 02:45:08
嫡子拝謁の時は係りの老中や若年寄から名前を読み上げられます
なにそれすごい
928 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 03:06:41
御家人は家督の時に誰に拝謁するの?
929 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 08:03:02
抱え席御家人には家督はないだろ
930 :
taka:2009/06/09(火) 10:35:57
>>911 スレチなのはまさしくその通りだが、それを言うならスレチにレスしている俺も同罪。
その点については正直にあやまる。すまん。
>>906 つまり、弾家 は特権はそのままに平民に格上げしたかった、って言いたいのですね。
ちなみに、弾家(矢野家)がそういう運動に関わってない事は知っています。私が言い
たいのはいつの世にも楽な生活や特権は手放したがらず、それを維持する為には馬鹿
にされる様な事でも維持をしようとする、って言いたかっただけ。現代と昔は違うけ
ど、今の様に出来ない事が解かってて自分の態度を良く見せようと色々な要望や運動
をしてる人が居るから、弾家の動きもそうじゃなかったか? と思っただけです。
上士の株売買の話しも実際は解かりません。実際に株の売買で権利を得るわけではな
くて、あくまで養子縁組ないし婿養子にして自分の一族に入れるという方法なんです
から。それに実際に旗本というのもピンキリであり、数千石の高家・大身旗本から組
頭等の徳利門番しか置けない旗本も居るでしょう。
そういう人は売買の対象になっていない可能性がありますか? 事実、勝家 の様に一
度御家人になって士分となれば、旗本へ養子に行くにもスムーズにいけると思います
が?
931 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:31:19
旗本株なんぞないよ
932 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:33:28
持参金付きの養子は株ではない
933 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:48:48
上にも書いてあるけど養子だと養父母や家族を扶養しないといけないし結婚していたりすると支障を来すし転売もできない
934 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 12:53:51
養子だと複数の株を持つこともできないね
なんか負債肩代わりとか多額の持参金付きの養子縁組と御家人株を混同しているようだな
>一族に迎え入れる
御家人株の場合そんな必要はないんだよ
936 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:27:52
御家人とは認められなかった八王子千人同心株も盛んに売買されてたってことは幕府が担保する禄米は魅力だったってこと?
937 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:40:34
十年に一回は廻ってくる日光火の番の負担考えたらペイできないのでは?
しまいには長州との戦いに九州まで遠征だし
>936
あそこらへんの豪農や地主の道楽やん。
>>938 よく知られている話だが多摩地方の豪農層は意外に千人同心になってない
御家人株は確かに養子にならなくてもオッケーだが、手続きをスムーズに
すすめるために形式的に兄弟や養子になることが多かった
樋口一葉の父の話があったけど、彼も番替わりと同時に樋口姓への改姓を条件に御家人株の代金を払った
御家人株譲渡の代金支払いは分割が基本で半額を前金とし約定後に残金を支払うのが一般的だった
レス番忘れたが、俺も〜〜株が発行されていた
なんて思っちゃいねぇよ。株券じゃあるめぇし。
ただし、土佐など一部の藩では財政難の際に
郷士や徒の身分を藩がカネと引き換えに与えることがあった。
さすがに土佐も、カネさえ出せば無差別に
与えるってわけじゃなく、先祖が郷士だったが、
豪農に郷士身分を売って地下浪人になり、
何世代か経て豪農になった家など元は武士だった
家が主に買い手だったらしい。
優れた技術を持つ職人(主に棟梁)にも
郷士さらには一つ上の郷士御用人の身分を
与えることがあって、山内容堂の生母の実家は
郷士身分の大工だった。
そういったことを「発行」なんて書いちまったわけ。
943 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 13:03:54
同心株の売買というが、「株」はどんな形で流通していたのかな?
944 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 13:58:10
口コミ情報。
945 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 16:26:07
支配与力 江
五番組 仁杉八右衛門支配
平同心
浅井 竹蔵
撤兵
西村熊次郎厄介弟
樋口為之輔
右竹蔵儀病気に付願之通御暇申渡候
同人跡江為之輔御抱入申渡竹蔵取米
三拾俵弐人扶持町屋敷共被下候間其段可
被申候
卯七月
946 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:08:39
直家督御対談相整持参金百両内五拾両
古谷銹助殿江御預ケ申置候尤家督願相済
候ハヾ残金五拾両御渡可申候且万一故障之義
出来御願相済不申候節者今日御渡申候
金五拾両無相違御返却可被成候
一 浅井家之義退転無之様永続為致可申事
一 家督願相済候上者改性(姓)為致可申事
一 御菩提所浅草正安寺之義者永代相営御年
回等懈怠急度為相守可申事
一 御母人御事御引受申候上者衣類其外共
御差支無之様為致可申事
右之通取極候上者外より違乱申候もの決而
無御座候御互ニ実意を以永く相親ミ可申候
為後證為取替證文仍如件
慶応三年卯年五月十六日
真下専之丞(印)
西村熊次郎(印)
樋口為之輔(印)
飯田一蔵殿
古谷銹助殿
947 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 17:16:50
>>943は株仲間の鑑札のようなものをイメージしているんじゃないかなあ。
祐天仙之助は勘違い仇討ちに遭わなければ、
用心棒の浪人内山や代貸たちと共に御家人になっていた。
次郎長物では祐天、黒駒の勝蔵、吃安と
甲州博徒は何かと必要以上に悪党に描かれ過ぎ。
ヤクザなんだから悪党に違いはないたが、
かたや次郎長は維新前から有徳の人にされてしまっている。
吃安は次郎長と何の関係も無かったし。
949 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 20:55:53
950 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:00:12
>>946 この場合平同心株は百両だったんだね
前任者の母上の扶養とか支配与力や組頭への礼金とかかなり面倒だったろうね
951 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 23:29:15
一番偉い旗本って勝海舟?
有名と、重大な仕事を任されているかどうかと、偉いは別
自分は有能なのに、家格の関係で
あまり偉くしてもらえなかったことで
勝は江戸幕府を恨んでいたという説もある
彦根藩では足軽は世襲で永代苗字帯刀御免の身分。
若党・中間・小者ら武家奉公人とははっきり区別され、
最下位とはいえ武士身分が保障されていた。
逆に考えれば、武家奉公人や農民・町人の出身者は
(幕末までは)足軽になることさえ困難だった。
幕府は単なる大名とその家臣団ではなく政府だったからか、
特に江戸時代後期になると色んな出自の者を御家人や旗本に
召抱えてるね。
高橋是清なんかは絵師の息子に生まれて足軽の養子になったりしてるね
勝や榎本の先祖もそうなんだけど、
江戸時代っていわれるほど、武士とかガチガチの身分制度あったと思えないんだよね
大金積んでも武士の最下層にしかなれないんだから、ガチガチだろ。
貧農から天下人になれた戦国時代とは違う。
956 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 01:52:17
>>952 それは咸臨丸の話だよ
木村摂津守が勝は船に弱かったという話は本当かと問われ
いやあれは不貞腐れてたんです、あの頃はまだ切羽詰まって
ませんからと。能力に見合った待遇を得てなかったからだと
それでも大番に取り立てられてたんだけどね
抜擢人事がさかんに行われるようになってからはとんとん拍子
最後は陸軍総裁で若年寄の次座で小栗よりも上に立った
958 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 20:55:46
それは島津孫四郎?
959 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 23:03:32
御家人株とは別に庶民出の地方功者抜擢などの新規召し抱えの場合はどんな手続きを踏んだの?
960 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:38:45
江戸期以後の足軽;群夫・夫丸などの戦闘補助員は、もともと徴用された百姓
身分であったからスムーズに帰農するケースが多かったが、問題は純戦闘員であり
鉄砲・長柄・弓といった専門職の足軽だった。
徳川家では彼らを「御先手」などと称し、各種の役職の下に付属させた。平時の
行政機関に組み入れて、その雑用をまかせたのである。
彼らは組頭・小頭・組下という名称から、与力・同心といった役名に変化した。
… … …
幕府が長州征伐に出陣した折り、町奉行所にも動員がかかった。ある女性が、
顔馴染みの同心も出陣すると聞き、見送りに出たが、行列の中に一向にその
姿が見つからない。
よく観察していると、同心はみすぼらしい足軽の姿で従っている。
その時になって彼女は、日頃、旦那と呼ばれ羽織に着流し、粋でかためた
御役人の本当の身分を知って、がっかりしたという。
雑兵・足軽たちの戦い 東郷隆 講談社 文庫
>>960 長州征伐で思い出したけど萩藩では足軽は
先手組に組織されていた(つーか足軽たちの正式名称)。
幕府陸軍は第二次征長の役の頃には洋式歩兵隊が
充実していたが、それはあくまで近代化された一部であって、
まだその頃も幕府ですら洋装でもない足軽姿で
町奉行所の同心まで駆り出していたんだ。
捕り方をはじめ町奉行所の同心が足軽身分だった
と以前に聞いたことがあったがやはりね。
でも、確か与力は徒身分じゃなかったっけ?
それはともかく、普段は着流しできめてる粋な「旦那」が
足軽や徒のみすぼらしい旧式軍装で出陣する姿は哀れだよなぁ。
杉良がやってた右門(八丁堀の捕り方同心)みたいな人も
普段は粋な着流し姿なのに戦となると足軽兵装で出陣か・・・
もっとも、右門は同心というより与力みたいな感じで、
「八丁堀の旦那」にピッタリだったけどね。
963 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:11:08
八丁堀は基本的に戦に動員されないよ
964 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:16:01
鉢巻きに黒筒袖脚絆一本刀という時代劇の右門の捕物時のスタイルはどの時代劇より当時の姿を忠実に再現している
965 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 13:19:45
長州攻めに参加した八王子千人同心の写真が残ってるけどみすぼらしい姿でもないよ
966 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 15:43:10
〜 軍陣に揃いの軍装で出陣する。それらは自弁ではなく、普段は
武具専門の奉行が保管している。
御徒士は派手な金箔押軍配団扇の合印をつけた緋羅紗陣羽織に朱の具足。
御小十人組も金の輪貫の前立をつけた兜に、朱の胴をつけ、袖と脛当だけ
装着しない。
合戦が始まると、将軍の近辺を警護し、時には命じられて物見にも出るから、
腕自慢の者も多く、前者は七十俵五人扶持、後者は平均百俵の切米を貰って
いた。
士分としてはぎりぎりの収入で、しかも、御小十人組の場合、この下に
足軽である与力・同心が附属する。
前掲 雑兵足軽たちの戦い
長州征伐って天領の農民を根こそぎ動員したんじゃないの?
それが実行出来る力があれば
江戸幕府はもう少し続いていたかも
969 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:07:53
970 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 01:19:37
足軽って言葉か一人歩きした弊害だね
同心は足軽相当だろうが、与力は流石に士分と考えるべきだろう。
小学館まんが日本の歴史で描写された
大塩平八郎の家に門は描かれていなかったぞ。
バリケード作るのに使ったんだよ
974 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 18:15:26
佐賀藩だと武士の次男三男が足軽代わりに兵力にされてたって本当か?
975 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 19:38:32
与力は騎馬を許されていたし
組頭には2百石以上の者もおり下級旗本より裕福
御目見ではないので御家人だが当然士分
同心も御家人だが譜代ではなく一代抱
後任に息子を推挙して隠居すれば実質世襲とはいえ
あくまでも抱席だから足軽と言えるだろう
976 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:20:52
>>975 与力ってどこの組の与力?町奉行?
町奉行の与力も一代抱え席だが?
977 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 21:02:56
>>974 相続する家が無い藩士庶子でも希望すれば一律に採用する制度がある藩も複数あったから鍋島も何かしらあったろうね。
覚えてる事例で柳沢か間部かそのあたりの江戸時代に成り上がった中〜大藩が五俵、酷いのだと田中藩の一両なんてのもあった。
田中藩なんて元は交代寄合とはいえ郡奉行が50石、下士最低辺は三両二人扶持とかだから、
それに比べたら幕府の与力同心は断然恵まれてるよ。
978 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:13:11
町方与力は一代抱えで実質世襲。200石高で軍務は当人の他に騎乗1人を含む5人で、
当初は知行地が宛がわれていたがのち蔵米支給。幕初には町奉行支配下の鉄砲足軽など
だったのが与力として定着したもの。
979 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:00:49
町奉行与力といえば那須の者が多数召抱えられてる
980 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:05:38
仁杉という与力は三河あがりなの?
981 :
日本@名無史さん:
仁杉は元北条の家臣だろうね