1 :
日本@名無史さん:
石高の割りに立派過ぎる城を持っていた藩
石高の割りにみすぼらしい城だった藩
水戸は天主代用櫓がなんとなく貧弱に見えるね。
後、明石は三層櫓が四つというだけでも不相応なのに、天主台まであるという
不相応ぶり。(建てる気はなかったろうけど。)城の規模は、相応だろうけど。
3 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 00:15:56
鶴丸城だろ
松本城も6、7万石の大名の城としては立派すぎだろ。
同じ信濃だと、真田家の松代城は10万石の大名にしては小さい城だったらしい。
5 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 08:16:33
>>4 鶴丸城ってあれだろ
イギリスが近くの寺を鶴丸城だと思い込んで大砲ブチ込んだほど
外様の雄・島津の本城にしては相応しくない城だったんだろ
6 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 08:42:47
そもそも表側に申し訳程度の堀と石垣があるだけだしな。
7 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 08:51:05
熊本
8 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 09:10:51
山形城
総構えを合わせると、日本でも指折りの広さを持つという。
50数万石の最上は維持できたが、解易後に入ってきた20万石クラスの大名家には広すぎ、三の丸の半分は空き地であった。
幕末に転封させられた水野は全く駄目で、本丸も空き地となり、二の丸のみが武家地、三の丸半分が町人町、残り半分は農地だった。
徳川に恭順の意思を示す為、反抗の意思がない事を示す為に、
わざと貧相な城にしたところもあったんだろ?
福岡城とかw
10 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 10:07:43
>>三の丸半分が町人町、残り半分は農地だった。
家定だったら自分でイモ作ってたかもな。
11 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 12:12:39
福岡城は天守こそなかったが、縄張りや櫓の数などを考えると立派な城だと思う。
現在は建造物の大半が失われ、堀もほとんど埋め立てられて、かつての面影はないが。
12 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 12:46:05
加賀
13 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 20:00:01
丸亀の三段石垣
宇和島の貧相な天守
14 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 20:52:52
丸亀城や宇和島城が天守で通用するなら、江戸城の富士見櫓は十分、天守で通用するな。
実際、明暦の大火で天守が焼失した後は代用天守の役割を果たしていたし。
15 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 00:39:01
「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」
というのだが、今や完全に破壊されまくってどんな凄い城だったのか
皆目見当もつかん。
16 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 01:20:51
石垣の石材や建物の建材は殆ど彦根城に持って行ったそうだから同じくらいと考えてもいいんじゃない?
17 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 08:48:11
姫路城 50万石の池田の城が15万石の譜代の城に。保存状態良いのは奇跡としか言いようがない。
青葉城 伊達の本城としてはみすぼらしくないか?どこに城あるのかもよくわからんw
犬山城は一家老の城にしては不相応かも
19 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 12:18:00
日本昔話の殿さまの城はたいてい天守があるが
わりと簡単に百姓町人が殿さまに謁見している
どの程度の規模の城なんだろう?
20 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 12:38:08
古河城
代々大老家の居城だが、小さく、今では渡良瀬川の土手を作るため、綺麗に跡形もなく取り壊され、
汚い小さい木札に古河城跡とかかれ、土手の雑草の中に誰も見られることなく立っている
野犬の縄張りらしく、いつも土手に散歩に行くと犬コロがその札に小便している
21 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 12:56:41
白石城
陪臣なのに彦根城に匹敵する天守。
22 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 13:12:11
浦戸城
現地に行ってみると汚水が沸いてて泣ける
福山城 譜代の城としては不相応にでかい
24 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 16:57:09
萩城
チョン血統の藩のくせに生意気なデカさ
25 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 17:29:48
毛利は輝元の代まで安芸人で、しかも先祖は大江広元。
毛利家臣の桂とか井上も安芸の国人だろ。
チョンなのは大内や陶だろうが、ボケ。
26 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 18:59:28
長州の中流以下武士や町民の大半がチョン系列といっただけで毛利がチョンといったわけではない
それに大内や陶はチョンじゃないでしょ。
27 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 19:24:38
28 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 20:09:28
不相応と言えば、石高に対して城大きすぎの山形城と島原城とか、
一点豪華主義の伊賀上野城とか、「殿様だからと言ってイバってんじゃ
ねーぞ」の佐賀城とかありますが。
29 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 20:32:27
旗本能勢氏の地黄陣屋は三層の櫓があったそうな。
30 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 20:40:34
沼田城も真田信之がいた頃は5層の天守があったんだろ?
>>30 そんな立派だったんかい?沼田って3万石くらいだろ?
そりゃ、平八郎じゃなくても沼田に立て篭もって
家康と一戦交えてみたくなるわな
32 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 00:01:59
>>20 せっかく残った堀の遺構も半分コンクリで埋めて遊歩道にされてたりとか
色々と酷いよなぁ。
33 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 00:49:24
洪水で流された城よりマシ
34 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 00:49:59
前橋城
利根川の洪水で度々流され、川に削られているものだから段々狭くなってる
35 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 08:01:01
>>33 洪水は自然災害。仕方がないこと
人の意図的な意思によりとりこわされ、それが
>>32のようにたいした意味のないものに作り替えられるほどむなしいものはない
そんなこというなら雷で天守が燃え落ちた城全てとなってしまうだろ
36 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 11:58:46
無意味だよなぁ
工事と関係ないんだから余計な事するなと
37 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 12:15:08
その古河城に興味わいてきたなー
38 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 12:58:37
この前、皇居周辺を見学したけど
半端ないデカさに腰を抜かしたよ。
よく あんな昔にあれ程の城を造ったな徳川は・・・・
今は桜田門の所に見張り台があるだけだったけど
本丸があった頃の写真て残ってないの?
>>38 同意。東京みたいに地価がクソ高いところによくあんなバカ広い土地を用意できたなあ。
土地買収だけで何億円かかかったんだか。
ネタスレですか?
41 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 13:29:55
>>39 確かに。江戸は当時かなりの地価だからそうとう徳川は苦労したとおも
土地とか買い占めるにもたいへんだったろうよな
地方の城見慣れていたら江戸城は確かに桁違いだよね。
でも超大大名で諸侯の君主たる天下人だから分相応の城でしょ?
普通の城は藩政だけやれば良いけど江戸城の場合は藩政、国政両方だし。
43 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 13:50:22
江戸城の石垣って当時のままなの?
それとも何十年に一度か修理してるのかね?
当時のままだったら関東大震災で崩れなかったって事だよね?
すごい建設の技術じゃね?
仮に修理するとしたら、あの深い堀に足場とか組めるの?
すごく気になるんだが
堀の中に石垣の廻りを囲むように木の板をずらりと並べる。
↓
石垣と木の板の間の水をかき出す
↓
急いで工事
こんな風にやったかどうかは知らん
>>39 億じゃない兆かかるだろw
千代田区のど真ん中だぞw
あそこ皇居じゃなかったらどうなったんだろうね?
遺構で文化財だからぶちこわしてオフィスビルにするわけにも行かないだろうし。
地方なら公園とか観光施設、希に福井みたいに公共機関入っているが・・・・
46 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 19:10:18
ところで津城の堀跡が発掘されたらしいんだが
47 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 00:57:08
島原城はかなり石高と合ってない。
48 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 01:47:36
49 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 02:10:32
松山城も15万石にしては立派すぎないか
西日本の譜代はたいがい分不相応じゃね?
東日本基準だけど
51 :
日本@名無史さん:2008/08/15(金) 21:58:39
久留米城より立派な柳川城。
あと日出城も立派だったらしいね
52 :
日本@名無史さん:2008/08/15(金) 22:29:33
城は大公儀より預りし物
53 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 02:16:23
本土の東の、北の果て、
弘前城も石高5万石とはとても思えない。
ま、
実高は軽く二十万石超えてたらしいけど。
>>53 今の天守閣は無茶小さいじゃないか。
最初の天守閣は結構でかかったみたいだけど…。
(藩主が平安を祈祷するために、北部の寺に出かけていたときに、天守閣に雷が落ちて
天守閣炎上!その上、火災が下部の爆薬倉庫にまで達し、天守閣大爆発!)
56 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 10:38:37
今の弘前城って元は櫓の代用天守でしょ?
西日本の城は石垣がしっかりしていて立派なのが多いよね。
東日本のは正門前だけ石垣あって後は土塁って感じで中世の要害とあまり変わらない気がする。
58 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 22:27:13
徳島城の天守閣ってどんなだったの?
59 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 22:29:48
60 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 00:30:00
竜岡城
構想はある意味分不相応。
でも規模は「分相応」になってしまいました。
とりあえず要塞作ってみたと言いたかっただけじゃないかと小一時間(略
砲弾数発着弾したら多分跡形もなくなるぞ。
61 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 00:50:13
>>54 つまり「藩主は天災から無事に守られた」ので。
>>57 土塁は石垣より時と場合によっては強い。
>>60 つーか大砲の弾は、
城を横切って城の向こうの友軍にwww
天守台が土塁の米沢城とか、天守台すら無くて、
一階のナマコ壁でお茶を濁してる水戸城なんか泣けてくる
63 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 16:16:06
棚倉城 10万石の老中も経験するような資格を満たした譜代名門の城としては見窄らしい。他の5万石並み以下の城郭じゃないか?
でも老中の城って総じてショボくないか?
>>62 米沢城って結局「城」でなくて「館」なんだよな。
上杉氏の本城は越後の御館、会津の神指城、米沢城とも「管領館」なんだよ。
66 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 02:02:20
天守閣不要論からすれば、あるだけ無駄だし、、、
形だけあればそれでよかったんじゃね?
そんなものにご立派な石垣組んでられねーよ。
>>65 よくしらんけど、御館は上杉憲政の隠居館だし、神指城は航空写真見るかぎりは
バカでかい城郭だし、米沢城も館には見えん。
神指城と米沢城は方形の城郭だが、方形=館という主張かな?
68 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:39:06
高取城も藩の石高から考えて、分不相応では?
高取城はでかいけど、家臣の屋敷も一緒に山の上にあるからなあ。
維持費は見た目ほどかからないんじゃまいか。
70 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:41:44
>>69 藩の政庁は、高取城の山のふもとの寺の辺りにあったのでは?
家老の屋敷も平野部にあったような。
71 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 20:51:34
高取藩の御殿は、はじめは山の中腹の寺になっている場所だったが、
のちに平野部の土佐町に上級家臣とともに移り住んだ。
中下級家臣は山の上のままだけどねw
72 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 22:51:35
登城はくだりだからまだしも
帰宅は登山か・・・大変だな・・・
でも江戸の中下級家臣って仕事なさそうだし「別にいいのか
>>63 棚倉は実高が少ないし、懲罰で飛ばされた譜代藩が来るので、
城の改修まで手が回らない。そのうち、転封が来るので、
それまで我慢。
74 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 01:12:12
竹田城
75 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 19:26:45
むしろ水戸城はなぜイカツイ城郭を必要としなかったのか
76 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:03:51
水戸なんて中途半端な家は屠られても痛くもかゆくもないから、幕府が許さなかった。
つーか参勤交代すら許されない、格の低い定府大名だしw
77 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:33:58
>>68-71 高取藩は、天誅組の変で実戦経験あるんだよな。
そのときの高取藩側の兵力は、その石高から200程度だったらしい。
天誅組側の兵力は、1000くらいはあったらしいが、
寄せ集めの兵だとはいえ、ゲベールなど比較的良好な武器を所有していたが、
天誅組を壊滅させている。
それも、高取城の攻城戦に至る前に、
平野部で待ち伏せして銃撃して壊滅させたらしいが。
高取藩も小藩ながらミニエーなど良好な武器を投入していたのかな。
っで、即応とはいえ戦時に動員できたのは
200程度の兵力しかないのだから、
高取城の縄張りを有効に生かせるほど篭城戦を展開できるほどの兵力があるとは思えないのだが。
78 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:38:47
水戸の仮想敵、
つまり「水戸城を突破して江戸に侵攻するルートの外様」って、
相馬しかいないのです。
相馬5万石くらい、あの程度でおk
その手前に磐城平の譜代と水戸家老の松岡城があるし。
79 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:41:15
>>77 江戸初期の兵員の動員方法と、幕末の動員方法を比較したらあかん。
80 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:37:35
>>79 といっても、実際に実働していた動員規模で比較しないと意味無いし。
81 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:44:49
高取城の城壁は、切岸に石垣を施したものだけじゃなく、
石塁のように完全に塀のような城壁のことろもあるからなあ。
山城にしては珍しい。
82 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:25:00
和歌山城
御三家にしては小さくない?しかも尾張と違って将軍様も出てるのに。
83 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 23:36:18
>>82 堀とか総構えにしてもの凄い立派な城にしようとしたが幕府に謀反疑惑かけられる程
大掛かりな計画だったので色々悶着あって結局工事は行われなかったそうな。
84 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 23:47:16
どんなにでかくしても高野あたりに駐留されたら紀州藩領では抵抗できないもん
85 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 01:55:14
>>82 名古屋は「江戸への通過点」として、
防塁としての役目があった。
片や和歌山城は、
「和歌山城を通過しないと江戸に到達できない」
ような、そんな外様はいないから。
紀州vs江戸侵攻を企てる外様、の戦いが起こるとしたら、
大阪城を利用するか、畿内どこかで遊撃戦になるはず。
紀州が敗北したとしても、江戸を目指す敵軍は、
和歌山城にわざわざ寄り道はしない。
尾張の場合は、最終的には城を拠点に防衛戦。
名古屋城をおとさないと、江戸には到達できない。
なので、徳川全体としては、和歌山城にはあまり力を入れる必然性がない。
87 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:21:49
>>83 >>85 岸和田城は?
縄張りを見る限り、紀州への抑えよりも、
大阪方を警戒するような構造になっているが。
88 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:41:18
岸和田と尼崎は本来大坂城の支城だから、大坂城包囲の動きを牽制するのが
戦略目的じゃね?
89 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:44:31
岸和田藩は平時でも紀州を中心とした南近畿諸藩や町の巡見使の役目を担っていたから、
紀州への抑えという位置づけは正しいけど。
親藩の城の中では、和歌山城は立派な方じゃないかな。
案外、親藩の居城って大した事ないのが殆どなような。
名古屋城にしても、二の丸以下は敷地は大きくても、すかすかな印象がある。
和歌山は海路上重要だが
93 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 21:30:39
長州からの侵攻に備える浜田藩の天守は石垣がありません
94 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 01:46:08
松本城はいつでもかなり不相応じゃね?
まあ、秀吉臣下時代の石川数正が気合い入れて改築した城だからな
96 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 21:34:14
苗木藩てたった一万石なのに城持ち
97 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 01:41:09
維持費大丈夫だったのかよ
>>91 名古屋城の二の丸には藩主が住まい、政務を執る御殿があったんだよん
幕末江戸城の本丸御殿が消失して後は、日本最大の御殿建築だったのよん
加えて広大な庭園もあった
本丸御殿は御成り用ね
紀伊徳川家連枝の伊予西条は3万石だけど堀のある立派な陣屋
100 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 17:38:20
100get!
高取城
101 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 19:20:39
小さい城と大きな陣屋の違いって何?
陣屋っていうからでかい屋敷みたいなものかと思ってたけど
塁も堀も櫓もある陣屋もあるし
逆にそれらが欠けてる城もあるし
結局与えられた格式だけか
実質的には城と大差ないし陣屋のほうが便利ってこともあったのだろうか?
102 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 19:37:10
陣屋の防御能力は、
一揆勢等の暴徒からの防御と
間者対策に関する防御くらいなものだろう。
所謂護身レベルのものだろうな。
尤も、二条城なども基本的にその範疇に入ってしまうだろうが。
104 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 22:26:28
”逆”分不相応と言えば、77万石の鹿児島(島津)、32万石の
鳥取(池田)、20万石の秋田(佐竹)って感じけ?
105 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 00:13:44
池田なんて、出自は小作なんだから、生意気だろ
106 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 01:35:07
>>101 基本的にはなにも差はない。
「フツーに城だろ」というような立派な陣屋もある。
じゃ、なにが違うかといえば、制度上、書類手続き的なこと。
「国主」「城主」つまり、
「城持ちが許可されている」クラスの大名が住んでいれば「城」、
そうじゃない大名なら「陣屋」。
城の規模や大名自身の石高とは関係なし。
理屈だけなら天守もどきのある陣屋もありえるわけですね。
108 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 17:39:01
鳥取・岡山も、池田はほぼ同じ石高だったけど、江戸時代の
街の発展ぶりは、今みたく差が有ったのかな。因みに、昭和
12年の人口では鳥取4.5万、岡山16.6万との由。
109 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 18:16:08
鳥取は地図見ただけでも交通の便が悪そうなだもんなぁ。
中国山脈の山々に囲まれてて沿岸部以外からの侵入を拒んでるかのような地形。
47の県庁所在地の中で唯一、高速道路が開通してないシティー…鳥取!
未だに交通の便は最悪です。
>>106 伊達の家臣には実質城なのに名称は「要害」とか結構あるモンな
112 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 14:15:22
十万石国主待遇の対馬藩の城は?
113 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 14:33:09
114 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 11:52:03
松山城
作った時でさえ20万石なのにデカ杉
115 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 13:46:03
鹿島神宮惣大行事家の居城鹿島城(常陸)。
200石なのに国主並のでかさ。
116 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 03:09:56
>>111 あれは一国一城令を逃れる、例外みたいな方策。
幕府としても「黙認するための理由」が必要だから。
島津のとこにも似たようなのあるよな。
よそにもあるのかな?
伊達のは中央集権的な家臣化に失敗した名残。
結局、伊達は最後まで封権制度のままだったんだよ。
伊達は劣等なの?
119 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:45:51
御三家の付家老とかは普通に城主として、大藩の万石以上の家老とかは
藩内の自領に陣屋を置いていたんだろうか。岡山藩は万石以上の六人は
岡山城下の屋敷以外に、それぞれの所領内に御茶屋と呼ばれる陣屋を
置いていたようだが。
120 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 12:52:22
>>117 伊達騒動で集権派が失脚したからね。政宗が開発を進めるために大身家臣に大盤振る舞いしたのが仇になった。
石高は多くないけど、鎌倉以来同じ地域にいる相馬藩も家臣たちは農村に館を構えて村を支配し続けてる。
121 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 13:40:22
最上改易も大身家臣が大量にいて最上後継者争いが拡大したのが原因だしね。
>>121 最上氏などは領国内に万石級の重臣が割拠してたからな。
そこへきて若年の、しかもそれほど聡明ともいえない当主がきてしまったから
さあ大変
123 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 02:13:12
桃山生き残りで江戸初期から大大名なら、
どこだって似たようなもんだよ。
伊達や最上に限ったことじゃない。
で、
それを反面教師として成立したのが会津。
佐竹のように一度転封したら、集権的になりやすいのだが、
室町以来の伝統のある家は難しい。
島津や相馬は鎌倉時代からずっと動かずにあそこにいるもんね
126 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 13:49:43
大名権力の変化という点では、むしろ減封して飛ばされたクチの方が顕著だよね。
もちろん、佐竹や毛利のように血なまぐさい事件がおきてはいるが
127 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 13:53:41
皇居。
天守閣再建してよ。
まぁ俺が見たいだけなんだけど…
128 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 15:04:24
明の時代の中国の城は日本の城と似ている
ただ要害の呼称からわかるように
伊達のはかなり後進的な体勢ではある。
ほとんど独立大名を領内に抱えてるようなもん。
幕末の仙台藩の弱さもこれに関係するんだろうな。
130 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 20:22:45
仙台藩の場合は内高100万石のうち直轄地が4割、知行地が6割。
久保田の場合、40万石のうち直轄地3割、知行地7割。
>>124は必ずしも正しくない。
131 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 20:29:53
伊達も国替えしてるし
伊達は政宗の時に本領から一揆で荒廃した地区に転封されてる。最も自分で一揆を煽ったのだから自業自得だが。
荒廃した領地の開発を進めるために、政宗は上級家臣に領地を与えて開発に当たらせた。
平野部が多かった事もあり、表高62万石だが実高200万石の収入があるほど開発が進む。
逆に上級家臣団が領地に固執するようになる。
扶持米への切り替えを進めようとしていた改革派は伊達騒動で一掃される。
実高収入が多くて経済的余裕があったので歴代藩主も「ま、いっか」。
近代的な体制を築けずに幕末はアボ〜ン。
伊達の実高200万石自体が大嘘なんだが・・・
佐竹の場合は大減封されたのに
連れていった家臣団がまだまだ多すぎた。
134 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 03:16:28
美人もいっぱい連れていったという伝説が
135 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 07:27:02
戻せといわれてブスを選んで送り付けたから、秋田は美人、水戸は・・・
136 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 13:00:02
138 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 21:53:18
福知山城も三万石にしては立派じゃないか
139 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 01:22:27
大坂、京都への牽制じゃない?
江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、
江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」
東潜夫論は、佐渡12万石(1.7万石)、隠岐6万石(0.5万石)と、
太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。
佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも
含んだ指標として石高が使用されている。
伊達250万石=捏造=仙台七夕200万人+伊達政宗以来の七夕。
141 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 05:29:12
日本語で頼む
142 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 20:26:33
>>139 福知山って朽木じゃん
京への備えは丹波亀山の松平氏じゃない?
亀山城も破却前は立派な天守だったし
143 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 20:44:36
>>138 そりゃ最後の頃だ。
最盛期の有馬氏は12万石だ。
福知山の朽木氏は、交代寄合の分家旗本が大名に取り立てられたケースだから譜代。
有馬が久留米に移ってからは歴代大名はいずれも譜代。
145 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 03:27:31
>>142 篠山も含めて、全部大坂京都対策。
つか途中じゃなく、初代は誰よ、と。
146 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 09:50:09
大名が城主格になったときに二重櫓でも建ててOO城と改称する事はできなかった
のだろうか
谷干城?
148 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 10:13:18
>>146 二重櫓どころか五層天守閣だって可能だ。
しかし、幕府がどんな処置を下すかは別問題の話しとしてだが。
149 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 10:58:52
>>144 朽木元綱の嫡男の家系が交代寄合、三男が家光に仕えて大名に取り立てられたんじゃなかった?
5層天守なんかより5重の塔を建てればよい。
幕府も文句つけれんだろ?
152 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:28:13
>>148 五層はともかく、どっかのの寺に移された会津若松城の
三階櫓のような二〜三層の物見の塔が御殿の一角に
あった可能性はあると思う。
153 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 13:28:28
>>150
小藩が陣屋の裏に神社を建てて、いざというときに城代わりにしたのは有名。
『城なんか飾りです。現状で100パーセントの力が出せます。』
154 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 00:53:18
藩公の別邸とか別荘とか先代の隠居所なんてのもそういう感じだな
水戸の快楽園はじめいろいろ
155 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 00:55:58
「天守閣不要論」が当たり前だったからなあ。
「あるとかっこいいけど、無駄だしカネかかるって聞くし。」
ってのが当時の共通見解じゃね?
幕末に間部五万石が、新規で城&天守閣建てようとしてたらしいけど。
それもその時期に和風城郭。
西洋軍装備でも揃えろ、っつーの、、、
日本には避雷技術がなかったから木造の高層建築物はかなりのリスクだよね。
157 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 03:01:20
大砲の的になる、と大坂城が証明し、
カネがかかってしょうがない、と江戸城が証明。
幕府が慶応で滅びずに持続したら
各地の城はみんな五稜郭みたいなのになっていったんだろうか?
西洋のいわゆるキャッスルにはならないだろうけど
そういう城にすむ地方貴族がいたんかね?
高山陣屋の御三階のようなものは、結構あったんじゃないかな。
160 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:14:15
>>158 中央政府直轄の、地方重要拠点の要塞つてのはできるかも
しれないけれど、
領地ごとにある領主の館、という目的の城ってものがなくなってたと思う。
>>146 ちょっと事情は違うが福江・松前・平戸は居館から
本当に城にしちゃったもんな。
それに比べて、陣屋→築城→破城→旧城の二の丸に陣屋で復活
した相良は哀れとしか言いようがない。おまけに町村合併で
旧本丸にあった町役場は無用の長物に・・・
162 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 03:52:50
信州岩村田は幕末に、陣屋から城主格になって、
ウキウキと縄張り拡張工事始めたけれど、
江戸時代が終わってしまいましたw
163 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 01:35:21
カワイソ
鯖江もやっと許可がおりたと思ったら江戸時代が終わって・・・
しかも井伊のごたごたに巻きこまれて減封
で、神屋や城作ってる間は殿さまや家臣はどこに住んでたんだ?
そのへんの村の住人の家に間借りしてたのか?
>>164 地主のとこやお寺(大きな寺だと客殿がある)に居住することもあったらしい。
166 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 03:38:47
>>164 鯖江はそもそも嫌がらせ転居。
ロクな準備期間もなく、家臣団が着いたら、
越前福井と越前家老家の府中の間の狭い狭いその土地には、
はたして「町」と呼べるものすらなかった。
しょうがなく近郊農家などに三々五々宿泊しつつ、
武士用の仮住宅を建てて、街割りから屋敷建設、
北国街道少し曲げ、
近隣からの商業誘致など、一から立ち上げた。
一応陣屋も建てて、かつ、幕府で仕事頑張って、
ねんがんの城けんせつのきょかをもらったぞ!
さらに建設補助金として五万両。
ウキウキと、街を見下ろせる小高い山「西山」に、
時代錯誤にも和風城を建てる気になり、
当代一流の軍学者に縄張りを依頼し、
時代錯誤にも天守閣まで建てるつもりでいた、のに維新www
現在、仮だった陣屋も当然ながら、西山には幻の城の痕跡はなにもない。
動物園になり、レッサーパンダが住んでいる。
悔しくて悔しくて数年前、
西山公園つつじ祭でハリボテの天守閣が建った。
後悔はしていない。
ごめん、五万じゃなくて多分五千両。
あくまで補助金。
明治になってから静岡県から千葉県等に移封された
諸藩が作ろうとした陣屋や城郭なんて、もっとカワイソ。
いっそ取りつぶして切腹を命じとけば良かったのに
>>169 誰が誰を?
コミュニケーション能力がないのか?
171 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 20:43:07
>>171 幕末に陣屋から城に格上げ。
切込ハギを多用したおそろしく立派な城が残っている。
石高は1万5千石だから日本一分不相応な城かもしれん。
173 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:28:40
174 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:13:49
石高と格式勝負なら、
無高ないしは一万石、の松前城がある。
175 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:20:30
厳原はどないだす?
田代領もありまっさ
176 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:25:33
その大名家ってもしかして田代まさし?
177 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 04:03:56
保科家の陣屋は不相応にでかいぞ。
なんたって、古墳丸ごと内包しているw
鳥取藩家老荒木氏の米子城は?
陪臣なのに国持大名級の城を持っているw
179 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 20:26:19
>>178 確か堀尾とかが造ったんだよね?
天守はあったの?
>>179 大天守、小天守ともに明治維新時まで存続していた。
でも維新後に取り壊されて風呂屋の薪に…
城の維持の為に高税かけてたから地元民には嫌われてたらしい。
181 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 21:13:05
>>180 そりゃすごいなー
古写真とかないかなー
鳥取城より立派だったんだろうな
ごめん荒木じゃなくて荒尾氏だったw
吉川広家が築城を開始し、中村一忠が完成させたらしい。
古写真はぼやけた写真が一枚だけ残っているそうだ。
詳しくは「古写真で見る失われた城」や「よみがえる日本の城6巻」
なんかを参照してみて。
183 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 21:49:54
新政府の旧物破壊がなかったら今頃はさらに多くの城を見ることができたであろう
184 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 02:31:25
八代とか白石とか岩国とか
割とあるもんで
九七峠を越えてくる島津の大軍を3万石で一手に引き受けなきゃいけない
人吉城主は泣きたい気分だったろうな、まず援軍もあんなとこまで来ないし。
で、その分頑張って城を立派にしましたってとこか。
186 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 07:38:57
>>184 岩国は山上の城郭部分は一国一城令で廃止されたのでは?
でも造った時には、
裏切り者の分際で調子ぶっこいて天守までつくってんじゃねえぞゴルァ!
とか本藩からは思われていただろうなぁw
188 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 09:37:24
チョンの居城なんてシラネ
189 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 14:30:38
古処山城
190 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 20:36:07
日出三万石の日出城
義理の兄の助力もあって三万石に不相応な見事な石垣を持つ城を築いた。
木下延俊という人自体、何の功績もなく不相応な大名に取り立てられた人物ではあるが。
192 :
日本@名無史さん :2008/09/15(月) 03:09:26
そんなこと言ったら、
徳川系譜代親藩の初代ほとんどが
不相応ということにならないか?
193 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 07:59:37
>>190 でも、木下一族で唯一東軍についたし状況判断はできた人なんじゃないか?
日出の隣の杵築だって能見松平だぞ!
暇だから色々調べてみたが、
大名権力が確立された江戸中期以降で
陪臣という大名より一段格下な存在であるにもかかわらず(御三家の付家老は除く)
城持大名以上の近世城郭に幕末まで住み続けた家老家には、
仙台藩家老片倉氏の白石城
鳥取藩家老荒尾氏の米子城
広島藩家老浅野氏の三原城
熊本藩家老松井氏の八代城
があった。
どの城も総石垣造りで三原以外は天守すらあったから
このあたりが最も分不相応な人たちなのではと思う。
196 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 01:15:35
乙。
石垣と天守がありゃあいいってもんでもないが、、、
197 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 08:22:33
松阪城と田丸城もなかなかのもの。
198 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 08:24:04
付家老の城でもないのに、なぜ伊勢国内に2つも紀州藩の城があるんだろう。
199 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 11:11:38
>>198 田丸城は付家老のもので、実際には一族が城代で
行っていたらしいぞ。
200 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 11:42:43
田丸城代の久野氏は付家老ではなく家老では?
和歌山城下にいた久野氏本家ですら城主でなくあくまで城代だし。
>>193 西軍の負けが決まってから義兄の細川忠興のつてで
田辺城奪還に参加したみたいな
とりあえず
>>1-から全部読んだ
鯖江カワイソス(´;ω;`)と思いつつ、不覚にもあまりのツイて無さ杉に吹いてしまったw
>197
松坂は天守が風で倒壊したとかいう話が無かったかな?
正保絵図では「古城」となっていたとかいう話もあったけど。
204 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 01:34:12
>>202 おまけに平成合併で、
北の福井藩福井市、南の福井藩家老領武生市と
「どっちと合併しようかな」とフラフラしてたら、
「じゃ、いらねぇ」と両者に言われ、
周辺町村も全部取られ、
二つの福井藩領の間で細眉毛のような領地で
しょんぼりしてますw
205 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 06:08:12
松坂は城代を派遣しているから紀州藩内では城扱いだろうけど、二の丸御殿を指して陣屋と
呼んでいたのか。
幕府をはばかって大規模改修には手をつけず。御三家の威光で、派手な動きをしないことで
黙認されていただけということかな。
206 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 06:58:07
>>191 何だこりゃこれでも櫓か?
普通の二階家屋が朽ち果てたにしか見えないが
207 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 08:14:08
石垣があるとないでは印象が随分変わってくる。
>>203 松坂は大名が去った後は陣屋扱い。
一時期は天守のある陣屋だったと他スレで言ってたよ。
209 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 01:07:24
古墳を内包している保科の陣屋をなめんな。
210 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 05:43:43
大坂城の丘陵も大きな古墳という説があるな。陣屋ごときが何をえらそうに。
>>208 松阪は城でしょ。
今に残るのは城番長屋。
212 :
日本@名無史さん:2008/09/18(木) 10:40:01
城番長屋と二ノ丸陣屋は別。
また、古城の縄張内にに陣屋を作った陣屋大名の例は多い。
別冊歴史読本「図説 正保城絵図」を見ると、他の城と違って松坂城は表題自体が「伊勢国松坂古城絵図」
となっているようですね。
隅櫓はいくつかは残っているものの、本丸の門も無く塀もほとんどない状態で、屋敷も大部分が「古屋敷」
となっているなど、解説のとおり城としてはほとんど打ち捨てられた状態にみえます。
214 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 01:23:03
>>210 保科の陣屋は特別なんだよw
詳しくは縄張り図でも見てください。
まさに「内包」www
215 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 06:26:31
平城ならぬ平陣屋では、威圧程度の役にしかたたんだろ。内包した古墳は
敵に攻められたときに逃げ込んでプルプルふるえてるための場所か?
なお、飯野藩の領知の大半を占める上方の中心の浜村陣屋は、今では
高速道路の敷地に大変身。現地は拙い文章の案内板一枚があるのみ。
216 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 20:42:32
>>206 廃城後に個人に払い下げられ民家として利用されて現存
・・・って物の本に書いてあるのは知っていたけど、すんごいあばら屋でワラタ
217 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:21:43
漆喰がはがれたら櫓はこうなるよ。
>>214 古墳と言えば、大和柳本陣屋も古墳の周濠を堀の一部にしてるね。
こっちは陣屋よりも古墳の方がはるかに有名だけど。
でも何故そこまで古墳にこだわってるの?
スレタイにはあまり関係ないと思うけど。
219 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 01:02:17
大事だから保存内包したんだよ、きっと。
>>216 そうかこの櫓は民家として余生を送って来たのか
まあ明治に解体されるよりは良かったのかもしれない
しかしついに寿命が尽きたようだ・・・・・・
221 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:01:43
大多喜城が狭いとか文句垂れて転封した大名がいたが、あのくらいの石高じゃ相応だろうに
222 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:21:53
鳥取城は32万石のわりに、天守閣が可愛い
支城の米子城は立派なのに
無駄にでかくて天守遠慮してとかより
コンパクトに纏まっててひととおり全部そろってる小城のほうが素敵
伊予大洲城とかぴったりだな。
そっちのほうが殿的にだれのものでもない俺の城って感じだっただろうな
大多喜城天守は水戸城に似た海鼠壁だったらしいな
天守は存在しなかった説もあるようだが
227 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 04:43:37
石の上に乗っけてある天守閣
↑馬鹿乙、速やかに死ね
229 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 05:07:16
230 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:38:18
現在だと天草の富岡城は?
田舎の小さな町なのに、本丸二の丸完全発掘&石垣復元整備。
本丸は全ての建物を復元!
十億単位の金がかかったと思うが、どこから持ってきたのだろう?
熊本、長崎、宮崎は模擬天守、復元天守の宝庫
ヒントは公共事業と土建屋
>>222 池田長吉六万石の城として改修されてたものが、
次いでいきなり二ヶ国の国主の居城になっとるもんね
233 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 02:01:50
234 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 07:37:45
>>222 天守台の大きさは米子より大きい。
2層にする前は三重八棟だったというから
結構見事なものではなかったろうか。
235 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 07:19:46
236 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 08:42:03
向こうの城は石そのものじゃないか?
なぜ石の上の天守ってフレーズが向こうの人間の皮肉の類という解釈になるのか。
237 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 09:59:01
↑どのレスが向こうの城の話しをしてるか
キチガイ文盲死ね!今すぐ死ね!
つうか、誰も吉田(愛知県豊橋)の話をしていないんだな。
どっかの藩がどうの、家臣がどうのというミクロな視点じゃなくて、
日本史の大きな流れの上で、「分不相応な城が未完で取り残された」
面白いところだと思うんだが。
尾張を徳川方が得る前に、対豊臣対策の大城郭として縄張りが作られたが、
結局名古屋城を作ることになって、不相応な未完の縄張りが残された。
結局譜代小藩では、使いこなせていないし、整備も行き届かなかった。
240 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:15:56
>>237 ここは城の話題のスレで、向こうの人間を持ち出してるじゃないか。
パラノイアか??
241 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:30:14
で、向こうの城の話しはどこだ?
逃げるのか文盲www
244 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:43:51
よその国の城を馬鹿にするなら、おのずと自国の城と対比する必要がある。
そんなことすら分からないような、まともに頭が働いてない馬鹿が二人も
いるはずがないよなあ。
三人もいるはずがない、かよ。なんだこりゃw
>>244 >おのずと自国の城と対比する必要がある。
だから比較してるレスはどれだっていつてんだろ知恵遅れ
↓これのどこが比較してんだ?あん?
227 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2008/09/21(日) 04:43:37
石の上に乗っけてある天守閣
247 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 10:53:40
248 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:07:53
>>239 それ以前に対徳川方の拠点として整備されようとしたのが
最初じゃなかったか?
中途半端さは伊賀上野城もだが。
249 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 17:12:30
城は潰すのさえ金がかかるからな。姫路城も備中松山城も、潰す金がもったいないからと
自然に残った城は結構多いし。
250 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 01:34:56
甲府城もかなり「不相応」だぞ。
徳川一族がいる時はまだしも。
幕末を乗り切ったら甲府100万石近藤家の居城になってたのに・・・
252 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 10:17:21
>>250 甲府城って立派な天守台があるが、天守はあったの?
253 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 10:32:04
天使はいたけど、天守はどうかなあ。
254 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 12:52:14
255 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:04:56
256 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:08:30
甲府城天守閣は、近年「あった」説が出ていて、
裏付け史料を捜索中なんだよ。
「天領の城」かつその扱いを考えると、
かなり不相応な大きさだとは思う。
大阪や駿府はそれなりの扱いされてるのに。
257 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 19:24:36
>>256 つまり小さすぎってこと?
現存してる堀とか櫓はほんの一部で、甲府駅を飲み込むくらいでかかったんだぞ!
258 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 00:22:02
不要にデカいってことだろ。
大阪城代や駿府城代の格や扱いに比べると。
259 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 00:42:39
甲府は最後まで直轄領にしなければよかった
260 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 05:29:16
そんな馬鹿なことをいう奴ぁ、コウフに頭ぶつけて死んじめぇ
261 :
日本@名無史さん:2008/09/30(火) 04:46:11
諏訪高島城も、石高の割に立派だと思う。
蚊が凄い出るらしいぞ>高島城
そこにお預けになった連中が随分苦しんで結構死んでる
263 :
日本@名無史さん:2008/09/30(火) 19:42:33
>>262 高島城に幽閉された吉良義央の孫も蚊が原因の風土病で死んだらしいね。
マラリアかな?
264 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:48:46
>>263 蚊が多い南丸に幽閉されたらしい
蚊帳が支給されたみたいだが元々虚弱体質だったみたいだし不運だったな
265 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 07:39:04
松本城
266 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 07:57:05
上田城、ついでに善光寺
267 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 20:14:35
マツモチョンが湧いてるな
268 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:32:22
高遠も陣屋で十分だろ
269 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 20:15:05
埼玉三名城
川越城
岩槻城
忍城
270 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 21:39:04
兵庫三名城
姫路城(世界遺産)
竹田城(天空の城)
三つ目は知名度から、赤穂城、三木城、篠山城あたりから選ぶということで。
名城の定義すらできないバカども
272 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 07:23:12
273 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 08:30:24
岡山三名城
・岡山城
・津山城
・鼻柱松山城
274 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 09:30:24
京都三名城
聚楽第
淀城
二条城
三大城郭心霊スポット
八王子城
後思いつかん
帰雲城とかには怨念たまってそうだが場所すら不明だし
江戸城の跡地が皇居であるということを知らない若者は結構多い
そんなやつおらんやろー
278 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 13:24:37
>>276 今の皇居って千代田城跡だろ。
江戸城じゃないよ。
279 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:19:28
信濃三名城
小諸城
高遠城
高島城
280 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:26:11
風雲たけし城知ってる?
281 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 16:47:03
あれほど堅固な要塞が陥落したときは、諸行無常を感じたよ。
282 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 19:45:02
オダギリジョー
あき竹城
>>278 あほですか?
千代田城はだれが築城したんですか?
285 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 12:16:40
大工!
286 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:00:06
江戸だから「でぇく」。
287 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 14:17:56
伊豆の下田に海水浴いった時に
「お、なんか城あるじゃん」と入場料払って入った場所のがっかりかんといったら・・・
あれ分不相応だと思う
まだ山頂の水のない水族館のほうがよかった
(どっちも15年以上前の話なのでいまもあるかどうかはしらんけど)
288 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 15:38:10
>>287 下田城
「怪しい城」の類の観光城です。
本当の北条水軍の下田城は、下田水族館の裏側の山にあります。
289 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 15:43:00
温泉地に秘宝館はつきものだからな。
熱海城もあるお
291 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 05:08:10
292 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 07:48:34
やれやれ
293 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 12:53:44
墨俣一夜城を忘れるな。
「不相応な復元」の極みw
294 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:06:36
エバン・エマール要塞(ベルギー)
295 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 13:36:54
>>293 元々無い天守を造ったのであるから「不相応な復元」どころか
元に復するという意味の「復元」に値しない。
そういう場合は「捏造」という。
296 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 20:09:20
復元天守までは分かるが模擬天守なんて観光目的の地元のエゴだよね。
残っていないなら堀や石垣だけでも十分雰囲気味わえるのに
297 :
日本@名無史さん:2008/10/10(金) 20:31:09
一般人的にお城=天守閣だし
俺も小学校の頃は城にはみんな
マンガ日本昔話のやつみたいな天守閣があって
むしろそれ以外は無くて殿さまは天守閣で生活してると思ってたし
自治体からすれば天守は安上がりなランドマーク
本丸なり二の丸を整備しようと思えば莫大な金がかかる
299 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 17:59:24
岸和田や唐津や平戸が模擬天守なのにはがっかりだよ
300 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 20:03:13
城好きで天守にばかり着目する奴はモグリだ。
301 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 20:33:18
>>296 城好き:「○○城はどう行けばいいんで?」
地元民:「城ったって何もないよ?」
立派な石垣と堀が残ってるじゃないの・・・
こんなのがまぁ一般的反応ッスよ。
302 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 20:36:39
303 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 01:43:10
土壁こそが関東平野流!
なのに石垣使っている小田原城は不相応!
江戸の門番だからしょうがないか、、、
304 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 04:51:36
平野部じゃなくて山に近いから石が入手できるってだけじゃないのか。
昔の田舎のガキが、都会の子供を見て、自分達のように青っ洟を
垂らしていないのを馬鹿にしていたようなものだな。
江戸城の石垣の石材も伊豆から運んだくらいだからね。
306 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 07:35:55
今は消失しているところが多いけれど、
城外の「○○御殿」とかはどうかな?
307 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 07:44:17
本丸御殿は城内にありますが
308 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 08:15:06
移築御殿玄関とかは、近隣の寺院にけっこう残されていたりする。
二の丸御殿も城内にありますが
310 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 09:45:27
藩主下屋敷は城外にあってもおかしくない。
311 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 10:46:57
藩主下屋敷は城外にあるのが常識
313 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 18:06:26
×藩主下屋敷は城外にあってもおかしくない。
○藩主下屋敷が城外にあってもおかしくない。
>>312 なんでそんなに必死なんだ?
314 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:05:33
松代城の真田屋敷とか。
315 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/15(水) 20:02:40
既出ですが、やはり片倉家の白石城と三原浅野家の三原城ですね。
後者は小早川隆景の居城が三万石の家老のものになっている。
近年まで一部が広島市内に現存していたものの、2001年に破壊された同
家の庭園「萬象園」といい、この城といい今は無残な姿をさらしていますが。
316 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:05:44
じゃあ、平福の利神城。山城の頂上にそびえる天守。でも五万石の陪臣の城。
317 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 20:12:41
天守復元しようとしたら建築の法律に引っかかって
建てたはいいけど人が入れなくなったのって白石城だっけ?
318 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:11:35
白河城だよ。
白河城に天守はないよ
320 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 16:18:43
>>318 白河城は今は人数制限して中に入れるようになったね
321 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:44:33
加藤嘉明 伊予松山城 二十万石には過ぎたる城。
322 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:03:51
>>321 松山城はいい城だね。「春や昔15万石の城下かな」
323 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:09:28 BE:291562144-2BP(171)
高知城はとても綺麗ですばらしい!
324 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 23:47:34
そうそう、高知城もいい城だな。
四国の城はさほど大きくはないがそれぞれ味がある。
宇和島、丸亀城なんかも良かった。大洲は天守閣なんか作ったので幻滅した。
325 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 05:08:29
>>324 でも大洲は模擬天守じゃなくて、昔あれがあったんだよね?
なんで興醒めしたの?
現存と再建じゃあ、違うだろうよ。
四国の天守は現存が多い。
今治はダメだ。
再建でもきちんとした再建ならアリだと思うんだけどなぁ
328 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:05:41
>>325 登城の意図(目的)と違ってただけです。
過去に登城した時の記憶が残っていたのでギャップが大きかったです。
329 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/23(木) 22:30:42
四国で幻滅と言えば、確認もされていない天守を、無いと格好がつかないと
いい理由で作った四国中央市の川之江城でしょう。
徳島の日和佐城、同県の岡崎城もそう。鳥取の羽衣石城も。
岐阜の墨俣城(天守がある訳がなく、秀吉が城を築いたことすら今では怪し
い)、広島の尾道城(元々城自体無かった)も、見栄えのするものをとりあ
えず作って外面を取り繕った例です。
330 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/23(木) 22:31:26
×がつかないといい理由
○がつかないという理由
ないと格好がつかないという理由だとなんか不都合なのか
332 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:44:12
おおいに不都合だ。
江戸城をバカにするのか?
いや江戸城は城主が在住してるし
ランドマークとしては東京タワーもあるし
別にいいよ
大洲城の真新しさに違和感があるのだとしたら、それはちょっと見当違いじゃないのかなぁ。
例えば、松本城とか彦根城の天井や梁を見て「やっぱ現存天守は違うわ〜」と思うのは仕方ないが、
あれは経年変化によって古き良き味わいが出てきたってこと。
国宝や重文クラスの現存天守も、建造された当初は大洲城のように「無垢」な感じだったに違いない。
大洲城天守は、出来た直後の天守閣はこんなんだったのか〜っていう雰囲気を噛みしめる場所なのだ。
要するに、史実に則した復元は、学際的にも意義ある仕事だということだ。
熊本城復元御殿とか津山城備中櫓に対して「リニューアルした温泉旅館みたいだ」といった感想を洩らす輩もいるようだが、
建物が存在していた頃は実際そういう佇まいだったということに思いを巡らせるべきだな。
335 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:24:28
>>329 尾道城いまどうなってるの?
20年ぐらい前に閉鎖しますってニュースが流れてたけど
336 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:31:43
>>334 見当違いとはどう云う意味?
人それぞれ感じることは違うと思うけど
尾道城はまだ建ってますよ
中には人は入れてないんじゃないかな
338 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:51:57
>>33 ならば江戸城の敷地を墓地の脇にある東京タワーまで広げよう!
倍の高さの新天守閣も近年中に備わるらしい。
東京最強w
>尾道城
すでに回答が出ていますが、立っているだけですがまだあります。
隣の三原市にはないまともな資料館もあるので、そちらに力を入れればいい。
340 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:43:57
クソコテ馴れ合いスレはどうしたの?
341 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 06:47:00
最近重文の建築でも、真言宗の寺院の建物などは原色の塗装に復元したりしている。
長い間保存してきて、それゆえの古び方を愛でるのが日本人の美的感性だというのに。
ほっとくと壊れるというのなら仕方ないが、なんでわざわざこぎれいに直しちまうのかね。
342 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 06:55:26
尾道はありもしなかった城なんかじゃなくて
ラベンダーの香りをかぎながら校舎の屋上で書道をして
階下に降りるときに階段で異性の転校生とぶつかり合い中身が入れ替わって
ついでに神様になって髪が伸びて眠くなったら
おっぱいもんで「豊年だ!豊年だ!」と叫ぶイベントとかやって町おこしすりゃいいのに
これだけネタがあるこのレベルの地方都市も珍しいのにもったいない
再建した建物にわびさびを感じられるような風格がでてくまで
生きていられるわけねえよ。
復元はカネがかかるんだぜ。
現存している天守や櫓や門を良好な状態で保存してればいいよ。
そもそも天守よりも寺のほうが学術的価値は高い。
344 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 09:33:56
観光面での価値は天守の方が上。さすがに大寺を誘致したり新興宗教から
立ち上げたりは出来ないからなw
学問日本史で観光の話を持ち出されてもねえw
346 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 15:52:27
>>342 よりによってほぼすべてアニメや漫画ネタの中で一番あれな
>おっぱいもんで「豊年だ!豊年だ!」と叫ぶ
これだけが純文学ネタだとは・・・w
347 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:07:52
>>345 観光の視点なしに城郭復元の実際は語れんよ。
うむ、同感
雑芸員こと学芸員の博物館経営を語るスレでなら、それもありでしょうが。
経営と歴史そのものは博物館及びそれに類する空間において関連するもので
あっても、その手の思惑と歴史的価値や妥当性とは、本来別のものです。
345氏に同意致します。
350 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 07:25:48
山野さんは流れ分かってる?
復元する建物として、人気のあるものを選ぶのは当然という話だけど、反論には
言外に考証度外視への反論というニュアンスが入ってるような気がしてならない。
奈良薬師寺やら西国三十三所などの大寺院で伽藍が整備されているのは、
あくまで観光客が見込めるから。バブル期には都市部の寺院は見苦しいほど
境内整備に金をかけてたけど、アレは論外だなあ。
田舎の寺院で伽藍を本格的に復元するようなモチベーションがあるとしたら、
観光の収益を読み違えて、あるいは土建屋との癒着によって自治体の財政を
致命的なものにするDQNか新興宗教かといった所だと思う。そういう話。
今時、文化目的のみでは大掛かりな建造物を作る予算は確保できない。それが
現実。理想を語っても先立つものがなければ建物は建たないよ。
351 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 07:30:26
現存建築の保存・修復なら歴史的文化的価値優先、再建なら観光の要素が不可欠、
そういう話。
352 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 07:35:36
あ、寺は寺自身が資金を確保するんでしたな。
>>350を修正。
×田舎の寺院で伽藍を本格的に復元するようなモチベーションがあるとしたら、
○観光客の来ない田舎で大建造物を本格的に復元するようなモチベーションがあるとしたら、
353 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 08:02:27
地元の城の門や櫓などの建造物が寺や民家などに移築現存しているのは珍しくないけど、
そういうものに保存資金を出すどころか、所有者が建替えの際に交渉するなどして旧材を
解体保存するという手続きさえとらない自治体も多い。
354 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:18:44
九州の小大名の城はえてして禄高不相応に大きい
355 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:51:24
小倉、唐津、島原などそうだな。
ただ外様の横目役でも在ったし、中津もそうかな
人吉2.2万石
岡7万石
357 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 01:23:42
九州の身分不相応城キングは
>>190-191、これだ。
到底3万石の財力で築ける城ではない
361 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:57:49
ネネちゃんのおかげかな?
>>355 城の地割り縄張りした時点だと
小倉→細川44余万石
中津→細川家隠居城
唐津→寺沢12余万石(天草含む)だから妥当だと思うな
島原は表高と実高の落差激しいw
>>362 松倉重政親子の狂気の象徴だもんな>島原城
あんな痩せた地域であんなもんこさえたら
そりゃあ一揆も起きる罠
>>359 縄張りも石垣を築いたのも義兄の細川家の援助・・・なのか
ほとんど細川領の出城みたいなもんだな
365 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 21:48:08
10年ぐらい前の雲仙噴火の時に自衛隊駐屯地としてお役に立ったではないか>島原城
数百年後を想定した松倉氏の長期展望によって・・・w
松倉親子はどっちも偉く評判が悪いのに
寺沢広高さんは実は評判いいんだよね
息子はあれだが。なぜか俺が小学校のころ学校の図書室にあった本では
領主の松倉重昌と寺沢広高の悪政のせいでと書かれていたので飛んだ濡れ衣だ
どっちも息子の代じゃねーか。嘘書きやがって
おかげで富岡城はクジラ一匹うめといたおかげで飢えがしのげて落城しなかったというのも
どこまで信じていいかわからん。富岡城は攻めにくい立地だなぁとはおもうけど
366 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 01:04:33
島鉄は不相応なので没収されました。
367 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:48:03
松前城
なんのために天守つくったのか
368 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 20:10:24
日出藩といえば城もそうだが家老の帆足万里が藩の規模に不相応なほど名高い英才
369 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 01:18:52
佐久間象山だって、小藩出身だ。
天才は偶然出ちゃうもんだ。
370 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 07:35:17
天才が出る環境というのはあるけどね。
日本のノーベル賞受賞者は全員西日本出身。
371 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 08:47:56
作家とか芸術家とか創作的なものをやる人間もほとんど西
目立ちたがり屋が多いのか俳優や芸人もほぼ西
生まれも育ちもミルウォーキー→東京の俺には悔しいかぎりだわ
だって小説ないとかで西日本限定のものが当然のように
全国区のものとして扱われてるんですもの
気候とかりんご飴とか
東はあんず飴だ。気温が蒸れる西はあんずがすぐ痛むからリンゴになった
作家がそういうことしらんから作中のお祭りシーンであんず飴が出ることは稀
まぁスレ違いだが
372 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 08:53:51
ノーベル賞受賞者が増えもんで急に愛知を西日本に組み込もうとしている関西人
373 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 08:56:40
じゃあ中京以西でいいや。
374 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 18:52:02
鳥羽藩三万石の壮大な鳥羽城。
なんてったって大手門が海に突き出ていて、背後は山の難攻不落の城だ
375 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 02:29:58
>>370 ノーベル賞は政治的右往左往の末に転がりこむもの。
佐久間も帆足もノーベル賞関係ないしね
377 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 03:48:55
>>375 平和賞や文学賞はともかく、理系学問の賞は業績が最優先に来るし、日本人が
欧米人に政治的にコミットしようとしても限界がある。東日本と西日本の区別が
つかない欧米人が選んだ結果でもあるから、偏りが出たとすれば作為でなく
文化的ポテンシャルの問題だろう。
そもそも、政治家やら政治センスのある軍人という話なら、東日本からも多く
人材が出ているしな。
>>376 いくらなんでもその主張は程度が低すぎだろ。
学者にしろ政治家にしろ人材が出るにはそれなりの土壌が必要だと言ってるんだ。
日本人がこの前もらった時に
押しかけた国民やマスコミの皆さんが馬鹿騒ぎしまくって
現地で大変迷惑をかけて以降
理系は特に日本はなるだけ避けようとしてると聞いた
図らずもいわば逆ロビー活動になってしまったわけだ
とはいえ実績は実績文系と違って感性関係ないしだれがどうやったか明白だから
そんなことあるわきゃないわけで
まぁ2ちゃんじょうほうだしたぶん根も葉もない嘘だろう
2ちゃんにいる人は日本嫌いが極端に多いしな
でも今貰ってる人は数十年前の成果が評価されてるので
80年代以降が社会の中枢になってる今後は日本もう貰えないぜたぶん
379 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 08:17:18
人材育成の面で機能不全に陥ってるのは確かだけど、先進国すべてで
同じことが起こっているからな。
BRICsその他も後知恵で延びている部分はあるから、それに代わる
力があるかどうか。向上心は格段に上だろうけどね。
スレタイ読めないバカばっかり
381 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:06:22
明石城も石高の割りには立派。
姫路と共に山陽道の守りを任されていたからか?
382 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:12:15
譜代はどこも石高に似合わずご立派だ
383 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:12:17
元は西国将軍を抑えるための小笠原の居城。
384 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 21:18:48
高松城も
日本三水城のひとつ
385 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:28:53
高松城は海水だったな。
386 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:29:28
南部陽一郎先生を日本人受賞者から排除する文部科学省は不要
387 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:31:16
海水です。
12万石にしては立派な縄張り
388 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:52:26
そりゃー親藩だもん。立派だよ
>381
>2に書いたけど、あの石高と大きさの城で三層の櫓が四つというのは
あまりにも不相応だと思う。
せいぜいが天守の代わりに一つというのが相場だと思うけどね。
香川だと丸亀のほうが好きだな
石高のわりにrっぱじゃね?
高松(東讃岐)と丸亀(西讃岐)の藩境決めるときに担当の幕府役人が
「丸亀は位置的には高松良でもよいが
大志を抱く者が藩主となった場合西にはそれに相応の城を築くにふさわし地形は
丸亀しかないからこちらにれて置いてやろう」とされたという
嘘か誠か微妙な逸話もある
豆腐屋幽霊とか石垣職人殺しよりはマイナーだけど
築城した家が転封になれば不相応な城になることもあるだろう。
御三家でありながら和歌山城は普通すぎで豪華じゃない。
天下普請の名古屋城とは比較にならない。
前の城主が浅野だから仕方ないのかね。
393 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 19:48:41
表高15万石以上のクラスでは不相応に大きいのは姫路、小さいのは高知
394 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:13:08
松前城
>>392 だいたいわかるぞ。ちょっと読解力足りなくない?
まぁ本当に理解できないんじゃなくて皮肉で言ってるんだろうけど
高松(生駒)の支城があった丸亀
(一国一城令からも樹をいっぱいはやして城ごと隠匿することによって
破却を逃れた)の位置が東讃岐の高松(松平)領でもいいような場所だったが
藩境決めるとに
>>391のサービスが幕府役人からあって一応西讃岐
に入れておいたってことでしょ?
有名な話だからわざわざ挙げるのは無粋だが豆腐屋は人柱に
その辺歩いてた豆腐屋捕まえて埋めたから雨の時の夕暮れには
城と城下にその豆腐屋の「とーふー、とーふー」という豆腐を売る声が鳴り響くという
ただそれだけの良くある話
石垣職人殺しは見事な勾配の石垣を作った重三衛門の前で城主が
「この見事な石垣は誰も登ることはできまい」といったら空気読めなかった重三衛門が
「わたしに棒をくれれば登って見せます」とするする登ってしまったので
「この男が敵に回ったら・・・」と思った城主が「ちょっと2の丸の井戸の調子を見てきてくれ」と頼んで
重三衛門が井戸に潜ったところ上からどかどか石を落として殺したという話
井戸は二本松城とか熊本城とか城の霊スポットだからこれもよくある話だね
396 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:21:08
南九州には天守がないという定説を覆した佐土原藩二万七千石。
397 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:41:29
熊本は南九州じゃないのか
中部九州とか?w
399 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 23:26:08
紫禁城
400 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 01:49:35
>>391 紀州藩は、
海上封鎖ないしは大阪城の存在を前提にしているので、
居城はどうでもいい。
尾張名古屋城は防御拠点なので、壮大である必要がある。
401 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 22:44:07
島原城
402 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 23:42:16
↑終わったよ
403 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 00:37:04
長崎原城の敷地売ってくれないかな
404 :
アーイェオーイェオレ金子フロムLA:2008/11/16(日) 02:04:56
首里城
シマンチュのくせにお城なんて生意気
405 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 10:23:40
朝鮮人も日本人に対して同じようなこと考えてんじゃねーの?
406 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 10:39:20
407 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 11:24:23
根城
408 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 19:55:38
熊本城。
姫路城の三倍もある。
予定とは違ったとはいえ、薩軍を食い止めたからね。
あれはあれでいいんじゃないでしょうか。
410 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 20:35:42
DQNは止めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱〜」
とか言って聞き入れなかったわ
411 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 20:38:24
首里城
あの程度で世界遺産とは。
承久の変じゃねーの
最近の教科書だと乱なの?
>>412 あんたいくつ?
戦後の教科書はふつう承久の乱だよ。
414 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 23:37:38
実は、後鳥羽上皇は隠岐には行かなかった
415 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 20:36:44
首里城って太平洋戦争で破壊されてるから、石塁も含めて今見えるもののほとんどが復元なんだよなぁ。
そんなのが世界遺産だなんて分不相応だよね。
まあ基地問題がらみの政治的決定なんだろうが。
しかも正殿は木造だが他の御殿はコンクリに板貼っただけだろ
20万石の松山城は分不相応な気も
当初五重天守じゃなかったっけ
418 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 20:55:12
郡山城
天下人の居城に匹敵するくらい立派。
419 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 04:47:49
田内城
420 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 05:04:26
沼田城。
三万石にも満たないのに金箔を使った五層の天守。
422 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 23:44:45
大洲城はちっこい城ではあるけれど櫓をぎっしり建てて立派なもんじゃの
城を整備したのは脇坂?それとも藤堂?
423 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 01:39:28
現代首里城は、
永平寺の大工が伝統と技術の粋を凝らして建てたもの。
だから世界遺産。
424 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:23:05
津山城 森忠政18万石が建てた城。デザイン重視の天守は最上階の下に屋根がない南蛮造りで、実質5重を4重と偽る。
あまり無理するなよ、と言いたくなる。遅すぎるけど。
425 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 23:44:00
>>389 地元民だが明石城は正面南の海側からみるとすごいが
他はスゲーショボい。
>425
北側の二つは取り壊されちゃってるからね。
427 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 23:50:21
どうでもよいが名古屋城は大阪城に豊臣が存在した頃に天下普請で造り始め
豊臣滅びた後工事やめたて話をふまえた上で
二の丸の話とかでかい城である理由を話てんだろうか
なんと言っても,日本で一番分不相応だったのは、夕張メロン城だな
>>428 _
|
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|ヽ\・∀・ / ::::::::| え〜〜〜? なんで〜〜〜?
ヽ /\/\ :::::::/
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430 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 02:58:10
スレチついでに
ロックハート城とかゆーのも田舎にしては…
431 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 03:04:33
それ関連を言い出したらきりがない。
432 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 07:29:57
土塁に血が沸き立つ
434 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 07:54:53
俺はたとえ宅地化されて跡形も無くなっていようと、城や陣屋のあった
場所そのものに惹かれる
松風さわぐ丘の上 と。
436 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:42:03
>>424 あれだけの大城郭を一家の財力で築く大変さよ・・・
二十年かかって結局未完成のまま工事中断したもんよ。
大手枡形に門が無く櫓も無く塀すら無いという。
キリがないので諦めたって感じ
438 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 20:55:55
風雲たけし城
面白いけどさあ
439 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 11:15:45
成り上がり国持ち大名の城は分不相応な気がする。
加藤の熊本、加藤の若松城、池田の姫路、それに西国で10万石クラスの大名の居城は不相応なの多い。
戦国時代から続く国持が建築した居城って意外と地味じゃない?
伊達とか島津、毛利とか。
440 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 13:18:51
>>439 姫路城は播磨備前淡路、三国を支配した池田家の財力あっての城
・・・だが、たぶん苛烈な収奪だったろうな
441 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 13:46:19
5万石の平福に利神城建てた池田の本家筋も無茶。
442 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 15:15:33
>>432 残念ながら石垣もショボい
門の辺りはまともだが、なんか堀も浅く狭かったりする。
姫路城と比べるからかもしれんが。
443 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 15:18:01
西隣と比べるな。比べるなら東の尼崎城だ。
>>439 仙台は若松よりも遙かに規模がでかい。
しかも石高は仙台伊達が62万石、若松蒲生が92万石
120万石の毛利の広島城も派手ででかい。
>>439 伊達の仙台は十二分にデカイぞw
設計段階の城の縄張り構想を見ても、城下町まで含めた大きさを見ても、
幕府を開いた頃の江戸より巨大な城を作る設計で縄張りを引いたのは、
おそらく全国で伊達政宗だけだよ。
今ではただの山林になっているからよく見えないが、
あれはバケモノみたいな設計上の拡張可能領域を持っている。
城を見る限り、17世紀初頭の一時期に
伊達政宗が、「家康の次は俺」と本気で妄想していたのは
間違いないだろうと思われる。
西国から九州北中部の城が巨大に見えるのは、端麗な石垣の整備の影響もあるだろう。
この地域は良質な石の産地で、近江坂本を起源とする石工集団の活躍も大きく、
端麗な石垣を持つ城が本当に多い。
446 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 11:17:33
石はどこにでもあるだろう。必要なのは石の細工に必要な鉄の工具とそれをつくる技術、
それに運搬できるインフラのほうじゃないのか。
石は滅多に無いものである
大坂城は総石垣造りだが、江戸城はかなり土塁があるな
449 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 12:42:03
450 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 12:42:09
うん
江戸城の普請は大部分は伊豆から石を切り出した。
>>445 仙台城は見ごたえあるよな。
あの山の上に、本丸御殿があったのかと思うと、巨城ぶりを実感する。
現在、山林になっている部分と市街地になってる部分を合わせると本当に広大。
弘前城も見ごたえある。
なんといっても保存状態が良すぎる。本丸以外は石垣があまりないけど、それは仕様です。
でも、戦災をあまり受けていない城下町は、よく街割りが残っている。
仙台城はただの山。本丸は展望台。
初めて行ったときは鹿児島の城山の展望台に通じるものを感じた。
454 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:16:38
仙台城ってちっちゃいよね。
縄張りもショボイし。
でかいだろ。
縄張りがショボイのは当然だろ。後進地域でろくに人材が居ないのだから。
456 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:33:29
土人が築いた土盛りの城。
近世城郭の特徴である求心性のある縄張りとはいいがたいよな仙台。
伊達家ってまともな近世城郭を造ってないよね。白石城も蒲生が造ったし…
そもそも城だけでなくあらゆる面で近世化に失敗してるよね。
しょせん田舎大名ですから
459 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 22:47:46
>>457 俺などは、芽を伸ばさなかった「別の近世の選択肢」を見るようで、面白いけどな。
結局全国を席捲することになった「東海地方式近世社会」というのは、
おそらく一つの選択肢でしかない。
島津や黒田などもそうなんだが、「名古屋祭りの郷土三英傑(笑)」に出て来ない、
別の社会構造や領国思想を持っていた大名の居城は、
城の縄張りにしても城下町にしても、設計からして実に面白い。
たしかに仙台城は後進的。仙台城が好きだけどそれは認める。
でも、仙台藩の中世を感じさせる土臭い藩制度はすごく魅力的だ。それを具現化したのが仙台城。
辺境の大大名が持つ、田舎の巨城。実に分相応。
>>446 石垣に適した石というのは限られるし、それを切り出せる場所というのは更に限られる。
人は石垣
人は城
464 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 10:58:19
465 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 12:38:08
仙台城に石垣がないわけではない。
むしろ、江戸時代を通してなんども普請をしているくらいで、石垣にはこだわりをもっていたようだ。
それでも石垣が少ないのは事実。仙台城に天守閣がないのと同じで、将軍家に対する遠慮からとも言われるが、
466 :
日本@名無史さん:2009/03/11(水) 17:13:25
伊達の居城だった米沢城の再現図みたが
石垣あるんだな
土を盛ったうえに建てたのかと思ってた
伊達時代の再現図?
>>464 一般論としての「どこにでもある」という結論につながるものではない。
>>465 決定的なのは、それだね。
近くになければ遠くから買えばいい。
確かに仙台城の本丸北面の高石垣も大手門もかなり立派なものだけど、
一般的に城の弱点である尾根続きの部分がかなりいい加減じゃない?
復元図みても碌に堀切も曲輪も無いみたいだけど…
なんか「前面だけ立派にしました」って感じがするよなw
471 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 16:06:38
>>470 朝倉氏の一乗谷城も似た形をしている。
敵が攻めてくると予想される城下町方向には郭・堀を配して防御を強化しているが、、それ以外の方向はあっさりしている。
尾根づたいにつながる支城を含めて防衛線を形作る構造になっていたから
472 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:08:29
>>468 例えば珊瑚礁では石は珍しいだろうよ。しかし日本で、しかも伊達の仙台城について話を
しているときに「石はどこにでもある」と書いたとして、「必要ならさほど苦労せず入手可能」
くらいの意味に取らないとすれば、単なる屁理屈の類じゃないのか。城は家の存非に
かかわるものだから、必要なら万難を排してでも確保するはずだし、実際に簡単に入手
しているわけだからな。
カチンと来たから書かせてもらったが、別に議論になる話でもない。「いちいち揚げ足取りの
下らんレスつけるな」と言いたかっただけだ。関東のように露岩の少ない場所の話ならともかく、
まるで東北も含めた東日本全体が西日本と対照的に石不足であるかのように勘違いするなって
こった。
473 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:51:33
白石城は
土を盛らずに平らな上に
ぼんと建っている
474 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 17:59:46
>>467 古写真で民家の屋根越しに写ってるやつだな
学研の歴史群像シリーズとかにも載ってる
仙台城に天守がないのは将軍家に対する遠慮からってのはどうだろうね。
家臣の白石城には天守相当の大櫓があるし、
分家の宇和島には天守があることの説明がつかないと思うんだが。
476 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:28:58
政宗時代の仙台城には石垣はなかった
477 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 18:37:04
大手門は名護屋城から貰って来ただろ
城=天守なんて考えは当時の人間にはない。
天守は織豊系城郭の特徴の一つにすぎない。
当時の技術では、地震での倒壊、落雷や火事での焼失の危険性が非常に高い建物。
ことさら権威を誇示する必要がなければ、無くても全く困らないものにすぎない。
>>476 本丸北の石垣は発掘調査されていて、現在の石垣の裏に
慶長期、元和期の2期の石垣が確認されているぞ。
「ん。天守がないな」
「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ。」
「ん。石垣がないな」
「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ。」
「ん。城がないな」
「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ。」
「ん。殿がいないな」
「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ。」
482 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:15:48
>>480 実際、大阪城天守は大筒の標的に過ぎなかったし。
石垣だってそんなに丈夫じゃないからね。
地震で崩れたなんて話はゴロゴロ。
484 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 21:40:47
金堀衆が石垣や堀の下を掘り進んだ
>470
江戸城も目立たないところは土塁が多いよ。
>>472 ボードの書き込みは別々の人がランダムにやってるんだから、どの話を受けてるのか、レスアンカー付けないと駄目。
何か知らんが、仙台にケチを付けられて切れて、その話にしか目が向かなくなったのか?
>>468 「決定的」な「それ」とは何を指しているんだ?
「遠慮」だったら間違いだと思う。
>>470 >>471 仙台城の場合、石垣は純粋に美観のためのものと考えていいと思う。
「江戸に対する」南側は、天然の断崖絶壁の渓谷をそのまま使っている。
西側が問題なんだが、これこそ上のレスにある「拡張可能領域」だろう。
戦争の実践というよりは、居城の拡張可能領域確保に意を注いだ、
あんな山の上にあるにもかかわらず、ある意味では「政庁機能重視の城」
つまり、形を変えた近世型のハッタリ城のように見える。
まあ、伊達が最上を実は思いっきり舐めていたということかもしれない。
489 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 07:13:22
>>486 ドンゴリのプライドなんか興味ないよ。文明後進地域は石が確保できてもまともに
石垣を築く技術すらないんじゃねーのってのが一貫した主張なんでね。
くだらねー重箱の隅つつきのようなツッコミする割にはこっちの主張と大して代わらん
ことを書いてる奴がいるから、カチンと来ただけ。
”カチンと来た”という幼稚な言い回しを使うのは
自分が偉くて賢くて、自分以外は皆馬鹿だと思い込んでいる阿呆
って本人に言っちゃダメだよ、また暴れるから^^
491 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 14:48:32
おいらのナニがカチンと来た場合はどうなりますか?
>>491 どうせカチンと来ないんだろw
なにも心配いらない。
494 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/03/16(月) 16:15:37
カチンの森行き
カモメカモメかちんかちん
496 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:08:14
大坂の陣での同士討ちといい、幕末のドンゴリといい、伊達って単なる見掛け倒しの
チンピラとしか思えないんだけど。未開人同士の戦いには強くても、文明人相手に
勝ったためしがないし、蒲生の領内を引っ掻き回したりと姑息な行動は平然と行うし。
チンピラが精一杯背伸びしてつくったのが土盛りのアジトってことじゃねえの?
幕府公認でせっせと拡張工事をしてたってことは、幕府が何の脅威も感じて
なかったってことの何よりの証拠じゃん。
497 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 18:11:11
>>470 手持ちの本とかによると本丸西側には
「大規模な堀切」「3本の堀切」があったらしい。
でも俺も縄張図や復元図みたけどそれらしい物は見当たらないんだよね。
実際に見学したときの記憶にも残ってないし…
詳しい人がいたら教えてください。
499 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:41:26
「伊達男」って言葉は本来「派手な男」というくらいの意味だからな。
見掛け倒しの薄っぺらなものをミーハーに称讃する輩が多いことから
「粋な男」というような肯定的な意味合いが加わることもあるが。
何をやっても派手な見かけだけ、というのが伊達の本質だよ。幕府の
対応自体がすべてを物語っている。
ニューガンダムは伊達じゃ無い!
501 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:39:32
>>496 さあ 土が盛り上がってきました(棒読み
503 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 06:15:02
>>501 多面的に伊達や伊達の城を語ってみてよ。
漏れには、辺境にしては鉄砲装備時期が早いことに関しては、「後知恵を誇るのは独自性の
プライオリティを理解できないドンゴリ特有の思考」としか思えないし、騎馬鉄砲隊に至っては
相撲でいう猫騙し程度のことに無駄金使うイタい田舎者にしか見えないんだけどさ。
>>502 登るべき石垣もなくては、忍者もさぞや寂しかろう。
つーか、西日本では自作農屋敷程度でも石垣を組んでいたことを考えると、金やマンパワーが
有り余ってたはずの江戸初期で城に石垣を組まなかったのが逆に不思議でならんな。やっぱ
辺境では使える技術がいびつってことか。あるいは、攻城戦技術が未熟な地域だから石垣は
過剰な贅沢とかな。
504 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 06:58:09
>>503 中世的な知行制度を残していたり、後進的なところが多々あったのは事実。
その点であんたの言ってることはそう間違っていないよ。
江戸初期の大土木事業で、それまで鷹・馬・金などの特産品交易がメインだった東北を穀倉地帯に変えた。
それが、江戸のような大都市の人口を支えた。都市民の伊達な生活を支えていたのが仙台藩の農政だと思うが。
それよりも、騎馬鉄砲とか忍者とかよく口にだせるな。
なんかこっちが恥ずかしくなる。
505 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 07:20:44
ネタにマジレスを平然とつけるユーモアのセンスのなさが東国人の致命的な弱点かな。
ローマ帝国を発祥とする欧米社会でも、日本文化の発祥の上方でも、ユーモアは精神的
余裕を示す大きな指標とされているのに、軽くボケるとすぐに素で返すんだから。
なんかこっちが恥ずかしくなる。
それはともかく、江戸期の東北の稲作は苛酷だったようだね。あまりに収穫量の差が
年毎に大きすぎるために、資本が一極集中して巨大地主が発生する必然的条件が
揃っていたようだし。
西日本でも似た状況はあるけどね。商品作物をつくって少しでも生活を楽にしようと
木綿や菜種に手を出すけど、作柄次第では金肥確保のための資金が回収できずに
干鰯屋や銀貸などに土地が集積する傾向があった。土地集積規模としては東日本が
西日本を圧倒しているけど、あれは西日本では商品経済が発達して特に都市近傍で
人件費が高騰し、小作という商売が西日本では経済的にペイしないという背景が
元になっている。
農業以外で食べていけるのは労働者側には有利な条件だけど、住友のような大資本が
近代張りの原始資本主義に基づく搾取を始めるのは天保期あたりからなんだよな。
506 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 07:27:57
>>505 普通に語れるんじゃん。
ユーモアとか、ローマとか寒いこと言うなよ。
それはともかく、真面目に質問。
大土地所有型の経済が仙台城や藩政に及ぼした影響は?
507 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 07:53:09
>>506 >ユーモアとか、ローマとか寒いこと言うなよ
本当にイタい奴だな。
>大土地所有型の経済が仙台城や藩政に及ぼした影響は?
米作中心経済では、元禄以降の米価下落の極端な影響を受け、巨額の負債を
抱えることになった。だからこそ仙台藩は山片蟠桃の仕法などを必要としたし、
他の大藩と同様に根本解決までは至らなかった。
資本の集中自体は地主の小作人保護という形で百姓の最低限の社会保障の
一面もあったが、為政者の側としては、御用金上納させる相手として利用でき、
逆に相手の発言力を高めることになって無茶な搾取がしにくくなっただろう。
いわば、江戸後期の冷害による長期の飢饉下でも細く長く年貢徴収できる下地が
できたといえなくもない。
しかし、単なる見栄のために困窮する領内の状況を無視して城の拡張普請をやってると
したら、DQN的感性のなせる技だろう。戊辰戦争でドンゴリな醜態を見せたことでも
明らかだけどな。飽食に慣れた無教養な田舎者ほどたちの悪いものはないってこった。
508 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:00:35
>>507 ご教示どうも。
なんで悪態をつくわけ?それって面白いユーモアだったりするわけ?
509 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:05:31
郷に入りては郷に従えっていうじゃん。
すぐにヒエラルキーを作りたがる東国人を相手に教育するなら、上から押さえつけて
やらねば、内容の是非などとは関係なくすぐに反抗するかと思ってね。
米軍や旧日本軍の朝鮮兵扱いマニュアルにもそんなこと書いてるしさ。893とかも
だけど、階級意識の強いやつらって、似たような行動パターンになるだろ。
510 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:21:09
お前らさあ
スレタイ読めよ
512 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 09:54:03
広島人はこれだから
どの板でも嫌われる。
513 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 10:52:55
>>510 東国人の扱いって難しいな。やっぱ頭叩くと根に持って復讐するんだろうか。
ちなみに、HLA分析とかでは、朝鮮半島と近い遺伝子もってるのは関西よりも
むしろ関東らしいよ。東北はアイヌに近いと言われるけど。
>>511 だから、伊達は分不相応な城を作ってるって話じゃん。
>>512 なぜに広島?
根拠のねえ言葉言うちょるけえ馬鹿にされるんじゃろおが。シゴウしてやろうか。
広島弁なんて使えねえよ。
514 :
↑:2009/03/17(火) 13:07:10
底なしのバカ
↑可哀想過ぎて何も言えねwww
>>515 ミラクルバカ?
HLA分析と分不相応な城の相関関係も論理的に説明してみろw
おまえらくだらねぇw
519 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 23:32:19
春休み(ウンザリ
520 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 05:13:39
>>513 別に復讐する気はないよ。でも、分不相応と断定するにはまだ知らないこと、整理されていないことが多すぎると思う。
まず、仙台城は時代に逆行する城だったのかと。
伊達家が巨大な山城を築いてるのと同時代に、最上は巨大な平城を築いてるんだよね。
これはなんでだろう?
仙台城のすぐ側を流れる広瀬川。
これまでのスレの流れでは、天然の要害としてのみ言及されてるんだけれど、仙台城の水運に利用されてたりはしていなかったのだろうか?
521 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 05:33:55
連レス。
もうひとつ。岩出山城について。
なぜ、秀吉は岩出山城を伊達家の居城に指定したのか?
徳川家康には水運に優れた江戸を指定したのに、なぜあの奥まったところにある岩出山なのか。
そして、岩出山を引き払い、仙台城を築いたのはなぜなのか。
江戸城
徳川の石高にはでかすぎて防備不可能
将軍家で他の大名の援軍があてに出来る場合はよいが、政権を返上してしまった時は。
523 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 07:29:13
>徳川家康には水運に優れた江戸を指定したのに
旧織田勢力で無視できない政治的軍事的存在の徳川が、もし難攻不落の小田原を
更に拡張させて籠もってしまったら、その後の成り行き次第では手が付けられなくなると
考えたんじゃないか。
秀吉は、豊臣家の君臨には日本の枠を超えた領土の確保が必要と思いつめて唐入りを
実行し、失敗が誰の目にも明らかになった段階では、家康か誰かを執権として豊臣は
権威として残すことさえ想定していたのではないか。正妻はそれができる器量もあった
だろうが、馬鹿なメカケがすべてをぶち壊した。
ゆえに、秀吉が家康に江戸城構築を勧めたのは、次の段階にまで移行するための
時間稼ぎだったのではないか。そうでなければ、家康への譲歩が過剰すぎる。
524 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 07:36:08
家康の唐入りを秀吉が無理強いしなかったのは、成功すれば最大軍事力を持つ家康が
大手柄を立てて領土を与えなければならなくなるため。子飼いの武将達の勢力を伸ばして
相対的に家康の力を抑えるのが大きな目的の一つだっただろう。
525 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 08:48:12
伊達は豊臣の下でも周囲にちょっかいを出すやんちゃ坊主だから、
懲らしめる必要があっただろうね。
526 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 13:37:11
政宗が名門大崎氏に憧れていたから。
江戸・・・湿地で病気になっちまえという嫌がらせ
岩出山・・・田舎なのでどうでもよかった
>>520 仙台城が時代に逆行している(近世的でない)理由。
近世城郭は本丸を中心に二の丸三の丸が従属しているのに対して
仙台城は本丸と二の丸の間に三の丸があり、本丸二の丸が互いに独立している。
これは1つの城に中心となる郭が複数あるという中世的様相である。
近世城郭の主要な城門は土塁・石垣等で明瞭に枡形を形成しているのに対して
仙台城の城門はこれが不明瞭である。
近世城郭は天守や高石垣で城主の権威や城の堅固さを主張しているのに対して
仙台城では、断崖絶壁の上にあるということでそれらを主張している。
これも実に中世的である。
529 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:10:30
>>528 明瞭な答えだと思います。
・郭のあり方
・枡形
・天守、高石垣
この三点のどれをとっても仙台城に比べて山形城はずっと近世的です。
それは何故?
530 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 18:29:10
領主の価値観だろ。技術でなく大きさで圧倒するってのはより動物的な部分に
訴えかけるからな。
家臣を海外に出す先進性はあった、と言いたいところだが、当時の伊達の
世界観では、京も欧州も同じ外国でしかなかったんじゃないだろうか。
531 :
528:2009/03/18(水) 20:22:16
伊達氏や最上氏のことに詳しいわけではないので
何故と聞かれても理由はわからない。
中央政権と一定の距離を置きたかったのか
勉強不足で満足な城が造れなかったのかどちらかじゃないの?
ただ、弘前や盛岡には立派な近世城郭があるから
中央から見て僻地にあるというのは理由にならないと思う。
>>529 畿内中心文化に浴するという意味での「文明度」は、弥生時代以来一貫して
出羽(日本海側)>>>>陸奥(太平洋側)だから。
東北は、航路が繋がる日本海側のほうがよほど「上方的」なんだよ。
畿内が首都の時代、日本で「最も中央文化から縁遠い僻地」は、
東北の北端ではなく、北海道ですらなく、東北南部の太平洋側となる。
福島浜通りから宮城にかけては、江戸が文化の中心の地位を得るまで、
日本で最もひどい文化果つる僻地、「日本の裏側」だった。
これは戦国時代でも例外ではなく、豊臣秀吉が天下統一を進めていたときに、
東北日本海側の大名は状況を敏感に察知して帰順し安堵される者が多かったが、
太平洋側の大名は状況すら分からず、取り潰される者が多かったことが指摘される。
伊達政宗は一応米沢育ちだが、もともと福島側の一族でもあり、
岩出山の時代に、僻地大名体質が染み付いたのかもしれない。
>>528 ただ、それらの要素はしばしば「近世要素」とされるが、
江戸時代の状況をよく考えてみれば、別に天下泰平の時代には不要なもの、
動乱の時代であっても、別の戦い方をすれば、また不要なもので、
16世紀末に確立した織田・豊臣・徳川
つまり「名古屋祭り仮装行列三英傑」が持つ一つの様式文化だとも言えるわけで。
そういう意味では、「赤味噌味がしない」という、
別の近世城郭オプションの一つの形と見てもいいんじゃないかと思う。
政庁としては枡形門も、平城の天守閣も不要ならば、
本丸に集中する配置も不要だ。
なかんずく、本丸を「将軍来訪時」「天皇来訪時」のために空けておくという
奇妙な慣習が全国的にできてからは、
全国のあちこちの東海式城郭は、求心どころか中空構造になってしまった。
オマエラの説に従うと、徳川御三家の水戸藩だけは中世的な後進藩ということになる。
>>533 仙台城だって高石垣に3重櫓と織豊系の要素を一部取り入れているから
伊達氏が独自の近世化プランを持っていたというのはどうかと思う…
主観的ではあるけど、中世と近世の折衷型、悪く言えば
理解不足で消化不良の近世城郭って感じがする。
536 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 21:45:30
単に
「山城に高石垣あったらカッコいい」
と思ったんじゃないの
石垣なんて見栄えを良くするのも目的の内だし
>>533 中世城郭にも上方版近世城郭にもない要素が仙台城にあるなら
あんたの説も成り立つがそんなものがあるのか?
それに門や天守もいらずただ政庁だけでいいなら
それは単なる陣屋じゃないのか?
538 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:57:34
最上は関ヶ原後に調子に乗って山形城を拡張して改易
伊達はマヌケな縄張りをして幕府の失笑を買い改易を免れた。
>>537 実際、江戸時代の政庁は「巨大な陣屋」で問題なかったはずなんだよ。
17世紀中葉には、枡形門も高石垣も本丸も天守閣も、
藩政にとっては無用の長物になっていた。
有事への備えと言うかも知れないが、
枡形門が、現実の「有事」となった戊辰戦争で何か役に立ったか?
なぜこんなことを言うのかと言えば、仙台城の場合、
二の丸は政宗死後の築造で、純然たる政庁として作られたものだからなんだ。
あの二の丸の位置をみて「中世的」というのは、そりゃ間違いだよ。
門と言う点では、あの大手門は、東海式近世城郭の常識からすれば奇妙奇天烈だが、
もはや「唐入りの『凱旋門(笑)』」的要素すら含み得るあの門は、
中世というより、世界史的というか近代的wwですらある。
(現実には田舎大名への参加賞だがなw)
「内町と外町を分けて、町人を外町に追い出す」という織豊式城下町と正反対で、
都市の中心を町人町とし、武家町を外で囲む構造も独特だが、
町人を外町に追い出すというのも、赤味噌的には常識だが、世界史的には非常識。
東北でも、沿革は様々だが、日本海側の若松や秋田は完璧な外町追放式城下町だ。
>>539 二の丸が後から造られたことは知ってるが、
本丸とは一体化してない場所を「二の丸」と名づけたことが
伊達氏の近世城郭に対する認識不足を示しているのではないか?
他にも御殿や政庁を移してる城はあるが、
普通本丸を中心とする防衛網から外れてる場所を二の丸とは呼んでないぞ。
門については、建築物ではなく虎口について言ってるのではないか?
普通馬出・外枡形・内枡形と厳重に防備するのに
仙台のはあっさりしていると。
城下町についてはよくは知らんが、町人町の外を武家町で囲むという方式は
仙台だけのものではないと思うが…他所でも見た気もする。
541 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 06:04:08
>都市の中心を町人町とし、武家町を外で囲む構造も独特だが、
>町人を外町に追い出すというのも、赤味噌的には常識だが、世界史的には非常識。
>東北でも、沿革は様々だが、日本海側の若松や秋田は完璧な外町追放式城下町だ。
戦闘集団の政治的・身分格式上の位置づけが日本と中国と欧州などとでは全く異なる。
日本では特権階級に位置し、伊達の武士団も庶民的でフレンドリーで町民を守ることを
目的とした市民軍的(あるいは17世紀はじめあたりなら欧州も中国も封建社会で、その
基準ならむしろ開発領主っぽい中世的スタンス)という評価がついているわけでもないにも
かかわらず、支倉の見聞をもとに単なるミーハーな感性からまともな理念もなく武家町
町人町の配置を決めたとしたら、単なるDQNだ。
繰り返すが、封建社会で武家町が町人町を囲んで町人町を守るといったら、そりゃ
むしろ中世的な感性だ。つーか、仙台近辺には大大名の城下町を荒らすような山賊が
頻繁に出没していたとでもいうのか? 外周を武家町が囲んでしまったら、町人町の発展
拡張が阻害されるから、商業の発展に念頭を置いた西日本的価値観からすれば馬鹿の
極みだよ。
542 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 07:43:08
いわゆる「分不相応な城」ってやつは、縁もゆかりもない無い土地に入府した大名が多い。
543 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:35:58
>>542 城の建設は、現代でいえば公共事業。地元に、高速道路や益体もない○○ホールや××センターを誘致できるのが評価の高い政治家であるのと同じで、地元民の支持を得るために建てた。
民百姓に苦役を強いて建てた、というのは俗説で、当然対価は支払っている。給金でなかったとしても、作業期間中の食糧だけでも地元民にとってはありがたかったはず。
徳川大坂城のように新しく来た人が自分たちが凄いことをわかりやすくアピールするには
前の人にはできなかったことや前の人よりも大きなものをつくる必要があったってことだろう。
>>543 で、その対価は百姓が支払うことになる、と。
546 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:22:00
>>545 結果的に富の再配分になるんでしょ。
都市は農村に寄生して発展するんだよ。
547 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:52:02
>>541 事実を整理してみよう。
支倉常長の見聞をもとに、仙台城城下町は設計されたのか?
武家町が町人町を囲んで守ると町の構造は、中世的なのか?
例を示していただきたい。
武家町が囲んでしまったがために、町人町の発展拡張が阻害されるようなことがあったのか?
>>540 それは「同一の城だ」というための、意図的な偽装の可能性もある。
理解不足の天然ボケかもしれないが。
加藤清正でさえ石の上に乗り奇声を発して必死で馬鹿を演じたあの時代に、
天然ボケで幕府の失笑を「得られた」としたら、
これは逆に「おまえらwwww天才wwww」ということだな。
>>541 世界史的というのは、誇張に過ぎたかな。
俺は、「『赤味噌の常識』の色メガネを外してみると」ということを大げさに言っただけで、
具体的に支倉云々の話ではないよ。第一時期があわない。
本当に世界史的にみるなら、むしろ武家町が郭で囲まれていないことのほうが問題だ。
ここが面白いところで、おそらく「武家町に無制限の拡張可能領域を確保する」
という設計だったのだと思われる。
これは何を意味するか?これはつまり、本気で天下取りを妄想した設計のようなのだww
実際、家康時代から見た場合、江戸の拡張領域の大半は武家地の拡張であり、
家康時代には「外町」だった日本橋や神田は、江戸後期には武家町で包囲されてしまい、
まるで仙台城下町の巨大版のような構造になってしまっている。
この、大馬鹿なのか先見の明なのか分からん、なんとも不思議な設計こそが、
仙台城・城下町設計の魅力ではある。
仙台藩は、確かに江戸後期以降は絶望的な糞藩に成り果てるわけだが、
幕末のどうしようもない糞歴史ばかりを見て「ドンゴリ」を連発するだけでは面白くない。
付け足すと、言わずもがなだが、
こんな「来もしない全国諸侯(笑)のための武家町拡張可能領域確保」なんて設計こそ、
仙台城下町の都市設計としては、正真正銘の「分不相応」だと言えるわけでw
550 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:14:07
>>548 「遅れてきた戦国大名」といえる伊達政宗は、「遅れた近世大名」でもあるわけで。
仙台城は、進化のミッシングリングの化石だったりする。
551 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:19:38
>>548 狂気じみた誇大妄想の夢想家を賞賛するのは、葦原将軍を賞賛するのと
同じ心性だろう。精々楽しむといい。
552 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:24:51
>>550 >「遅れてきた戦国大名」といえる伊達政宗は
こういう言説を見ると、「俺は若くしてニュートン力学を理解できる。ゆえに自分は天才であり、
ニュートンよりも先に生まれていればその名誉は自分のものであった」などと主張する馬鹿な
高校生を連想するんだよな。
多分、政宗も後知恵であることを自覚できずに自分は天才だと思っていたことだろう。
553 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:41:57
伊達と島津は対照的だな。近世初期にはいずれも僻地で中央の情報から隔離された
状況だったのが、近世末期には呆れるほど差がついた。
家臣団構成の先進性を言うならいずれも時代遅れもいいところだったが、薩摩の
首脳部の頭は全く別物だったろう。
554 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:51:58
>>551は、
伊達政宗の野望や夢想によってだけ仙台城が築かれたわけじゃないだろ。
他藩と同じように、幕府や家臣、領民との関わり方、またその経緯から仙台城の形は決まった。
だから、伊達政宗の夢想家的一面だけを強調、または賞賛するなと言いたいのだと思う。
>>552 そういう考え方もあるだろうな。
ただ、伊達家の場合は周辺諸侯との結びつきが非常に強く、本格的に戦国大名化するのに時間がかかった。
伊達政宗の急速な成長も、その結びつきを切ることから始まった。
また、結びつきを切られた周辺諸侯は独力で立ちえず、伊達・佐竹・最上などに整理・統合されてしまった。
その結びつきはなぜ生まれ、強固になったのか?それは、守護職不在の奥州・羽州の政治にあると思う。
探題という鈍い権力にしかなかったため、諸侯は互いに保障しあうことで勢力を維持したのではないかと。
555 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 20:57:41
>>553 別物であったことには賛成。
なぜ別物となってしまったのかが問題。
また、城郭の違いをみても、近世初期で大きく違う。
薩摩は近世初期の時点で、
>>533のいうようなことに気付いていたのでは?
>>そういう意味では、「赤味噌味がしない」という、
>>別の近世城郭オプションの一つの形と見てもいいんじゃないかと思う。
>>政庁としては枡形門も、平城の天守閣も不要
>>555 仙台も鹿児島も築城開始は関が原直後だぞ。
さすがにその時点で恒久平和の到来を確信するのは無理があるだろ。
それに両城とも城から軍事性を排除してたわけでは無いよ。
それらが中世山城的なものであることが問題なわけで…
その理由として
辺境に位置してたので時代についていけなかった(造ろうとしてもできなかった)
独自の近世化を目指していた(あえて造らなかった)
のどちらかってことだろ。
557 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 22:12:02
>>556 もちろん、島津が天下泰平→明治維新を予測していたとは思わない。
薩摩は、独自の近世化を目指す中で、偶然に近代化への道を選択したのではないか、と言いたいわけです。
つまり、薩摩の近代化を、島津斉彬と調所以外で考えられないものかと。
巨大な天守を持たずに、膨大な下級武士を抱えていた薩摩。
その下級武士にさえ、まがりなりにも教育制度を備えていた。
土佐藩が在地武士を上手に吸収できなかったがために、幕末期に多数の尊王志士を輩出した。
仙台藩は中央集権化に失敗したが、土着的な家臣団が領内すみずみまで開発した。
弱点や失敗が、のちの躍進につながった例はたくさんあると思う。
>>556 島津の場合は、関ヶ原敗戦のガクブル状態の中で、
徳川侵攻の半ばパラノイアに苛まれた結果として説明はつくだろう。
まあその割には、鶴丸城は不徹底だがw
島津は基本的にそれほど大きく根拠地を動いていないので、
中世来の在地性の強さと、正面切って対峙・妥協する必要があったとみてよいだろう。
だが問題はやっぱり伊達なんだよ。
別に関ヶ原は東軍でガクブル状態でもないし、
完全な異国への転封で、家臣団も一度在地性の根を完全にひっこぬかれている。
仙台城の設計にしても家臣団の編成にしても、
中世的だという説明では、よく出来ない要素も多すぎる。
俺が思うに、やはりこれは伊達政宗の夢想による要素が、
あまりにも大きいように思う。
つまり、薩摩藩の必要に迫られた分散型とはかなり趣を異にするもので、
ちょうど、1590年に徳川家康が、関東の南半分に譜代諸侯を配置したように、
仙台平野に「諸侯を配置してみた」ということではないか。
前に述べた、町人町を囲む伊達家臣団の武家町にしても、
「天下取りを前提」にすれば、これは全部拡張されて生きてくる「構想」になる。
その意味で、仙台城下と伊達藩の構造は、結局芽を伸ばさなかった
「近世のもう一つの、ある意味江戸より先をいくミニ完成形」なんだと思う。
実際、武家の都として用地が必要だったのは武家地のほうで、
近世城下町というのは、町人地の拡張を現実にはさほど必要とはしなかった。
江戸は大火毎に市街地再編を余儀なくされるが、
その最終形は、織豊城下町というより、むしろ仙台の巨大版と似通った物にさえなった。
この、まさに分不相応な「ミニ幕府性」の副作用に、仙台藩は江戸中期以降完全に蝕まれ、
幕末には全国最悪のDQN藩となり果ててしまう。
島津は後進的ではあったが、ミニ幕府性などは微塵も持たなかった。
560 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 23:39:11
>>558 完全な異国ではないと思う。
伊達藩領は、三つの領域から構成される。
1.南の白石・角田など。奥州仕置きで安堵された伊達領。仙台城はここに含まれる。
2.北西部の旧大崎領。水沢・岩出山など。大崎氏は伊達家から養子を貰っているため、半ば従属する関係にあった。大崎一揆鎮圧の後、豊臣秀吉から賜る。
3.北東部の旧葛西領。石巻など。大崎一揆鎮圧の後、豊臣秀吉から賜る。
以上から、本当の意味で新領といえるのは、旧葛西領のみであることがわかる。
旧葛西領は石巻港を始め、近世に開発が最も進んだ地域である。
名古屋城
六十万石の大名の城としてはデカすぎる
563 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:02:55
>>559 >>ちょうど、1590年に徳川家康が、関東の南半分に譜代諸侯を配置したように、
>>仙台平野に「諸侯を配置してみた」ということではないか。
なぜ、天下取りを目指す政宗が、徳川家康の江戸城を “小さく” 模倣する意味があったのかわからない。
家康の関東入部と、岩出山転封は経緯はたしかに似通っているが、共通するのは天下への野心だけではない。
しかも、徳川・伊達に限らず、越前朝倉家を初め全国の戦国大名が似たようなことをしている。
家康・政宗ともに辺境の広大な地域を支配するために、有力な家臣を配置する必要があった。
さらに、領土がかつての敵地であり、実際に進軍したこともあり、かなり用心する必要があった。(この点が、鉢植え大名とは決定的に違う)
また、有力家臣への求心力を維持するために、城下町に屋敷を持たせる必要があった。
>>563 それは明暦大火後の江戸を基準に見ているからだよ。
1610年頃までは、むしろ仙台城下町のほうが江戸城下町より大きい。
(これは城郭も城下も同じとみてよい)
仙台の縄張り設定は1601年で、いきなり巨大な城下町の縄張りを引いているから
設計の段階では、江戸より仙台のほうが大きかったことになる。
江戸は、関ヶ原の後、元和年間くらいまでの間に
何度も何度も集中的に大拡張を重ねており、その過程で仙台など楽々追い抜いていく。
その最後の仕上げが明暦大火後の大改変となる。
他方、仙台のほうは、政宗の設計が全部埋まるのも相当後になってからで、
明治維新後、政宗設計の城下町領域が、ほぼ全部市街地で埋まるのは、
戦後になってからということになる。
>>553 スタッフは関係ない。地理的な条件が全然違ったせい。
ちょっと考えれば分かりそうなものだが?
566 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:19:00
>>564 なるほど。地方知行制だけでは、仙台城とその城下町の縄張りの巨大さを説明できないということか。
やはり天下を意識してたのかもしれない。
島津の必要に迫られた分散型と、伊達の地方知行制の違いは?
それぞれ成立の経緯と、特徴を説明してほしい。
地方知行制の成立の経緯は、
>>560にあるように、完全な転封を経験しなかったため、家臣の在地性が抜けなかった。
>>563にあるように、かつての敵地を支配するため、地方に拠点を配置する必要があった。
そして、特徴は、
一門・有力家臣に城・要害・所が与えられ、それぞれ所領を支配した。
これらの領主たちが、新田開発を進めた。
567 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 06:21:37
地方拠点配置について色々とこじ付けいているようだけど、国主クラスの
大名なら、珍しくないことだろう。岡山藩池田家、鳥取藩池田家の
ような比較的先進地域に入った織豊政権生え抜き勢力でもやってる。
568 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 06:38:02
>>567 >>地方拠点配置について色々とこじ付けいているようだけど、国主クラスの
>>大名なら、珍しくないことだろう。
仙台藩の地方知行制は、1千石くらいの家臣でも地方に屋敷を持ち、所領を支配する非常に濃密なものです。
他藩でも、そのような例があったのでしょうか?
569 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 06:44:22
地方知行制=僻地の旧体制ではなく、
地方知行制=大勢力であるにすぎず、外様大大名が僻地に多いことで
判断を狂わされているだけ。元禄あたりまでの初期当主の価値観が
地方知行か実質的給米かのいずれにするか反映されているだけだろう。
570 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 06:50:01
>>569 他の大大名でも地方知行が行われていたが、
元禄あたりからそれが克服され給米に切り替わったということですか?
他藩では、どのように地方知行制が克服されたのですか?
また、仙台藩が克服できなかった理由はなんだとおもいますか?
571 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:01:05
>>568 岡山藩は万石以上の家臣6人がそれぞれ御茶屋と呼称された陣屋を構え、
陪臣を抱えて常駐させ、自身は岡山城下との間を往復した。
鳥取藩は大禄家臣が少ないため、数千石程度の家臣数人が一つの
陣屋を守る体制だったようだ。
藩内の中央集権の程度をどの程度にするかは藩主の価値観と政治的
力量の問題。池田は要所を家臣に守らせることを強く志向していた。
幕初ならともかく、元禄あたりになればどの藩でも締め付けようと思えば
できたはずだけどね。大名が簡単に改易される時代だ。
伊達は知らんが、島津にしろ鍋島にしろ、中央集権による飼いならしで士風が
低下することを恐れる価値観が強かったのは事実だろう。
572 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:06:06
>>570 別に伊達が中世的価値観から抜けられなかったことにしてもいいよ。それだけで
地方知行制のすべてを語ろうとするのはおかしいと言ってるだけだから。
仙台藩は大坂に蔵屋敷、京に藩邸、近江に飛地領、江戸に藩邸を持って近世の
価値観を入れることはできた。それを活用しようとしなかったのは、できなかったのか
したくなかったのか。片方だけで語るのはナンセンスだろうけどね。
573 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:12:16
>>571 上方近辺でもそのような地方分権的な藩はあったのですね。
>>藩内の中央集権の程度をどの程度にするかは藩主の価値観と政治的
>>力量の問題。池田は要所を家臣に守らせることを強く志向していた。
>>幕初ならともかく、元禄あたりになればどの藩でも締め付けようと思えば
>>できたはずだけどね。大名が簡単に改易される時代だ。
ただ、これは納得がいかない。
伊達騒動はよく言われるとおり、中央集権派と地方分権派の対立が原因であったといいます。
仙台藩は締め付けを強化しようとし、失敗したのです。
大名が簡単に改易される時代だからこそ、有力家臣との対立を避けなければいけなかった事例もあると思います。
574 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:16:45
575 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 07:35:45
>>574 >>572を読み、思ったこと。
仙台藩には地方知行制があり、それが藩政の負荷となった。
藩政指導部が、その特殊な事情を受け入れ、改革をあきらめたとき仙台藩の没落は決定した。
576 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:23:23
東北でも陸奥は後進地域であるということだな。
幕末に会津の松平容保が京都守護職になるよう命じられた際にも、
容保は「東北の田舎者が京で粗相をしてはお上にも迷惑をかけるから」
という理由をつけて断ろうとした。決して謙遜ばかりではなかっただろう。
組織も大きくなれば、藩の命運よりも自身の意地を優先させるやつが
でてくるしな。
577 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:32:46
当時の価値観でも、武士は田舎ほど強いという漠然としたイメージはあっただろう。
武士の価値観では質素倹約は美徳で、田舎はそれを是非もなく受け入れなくては
ならない場所だから。
国元と江戸表などが対立しがちなのは忠臣蔵でも語られるが、世間知らずの田舎者の
多分に勘違いに基づく頑迷さが原因となっていることも多い。一度江戸にでるだけで
全く価値観は変わっただろうにな。
578 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:33:29
>>576 陸奥が後進地域であることと、「組織も大きくなれば、藩の命運よりも自身の意地を優先させるやつが
でてくるしな。」という一文ののつながりがわからないのですが。
会津藩松平容保が都落ちした理由は、
藩内部にが「藩の命運よりも自身の意地を優先させるやつ」がいたからということ?
誰なのか具体的に教えてくれ。
また、その藩士の性格は、陸奥の後進性に起因すると?
579 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:46:16
>陸奥が後進地域であることと、「組織も大きくなれば、藩の命運よりも自身の意地を優先させるやつが
>でてくるしな。」という一文ののつながりがわからないのですが。
世間の常識を知っていれば、頑迷さにも限度がある。日本人は世間を気にする民族だからな。
大きな組織にいると、その外側を認識できずに藩内の空気のみが世論としか捉えられない
井の中の蛙が増える。ゆえに組織全体が世間の常識から外れていくわけだ。否定的
ニュアンスを省いて、他集団との差異が生じると表現してもいいけど。
JR西日本の事故で運転士に対する懲罰教育のナンセンスさが明らかになったり、官僚や
公務員が民間では考えられないような慣習を持っていたりするのと同じだろうが、当時は
情報伝達速度の遅さが地域的な発展性の遅れの原因となった。ネット普及前、あるいは
テレビ普及前の日本でさえ、都会と田舎で相当な意識格差があったんだけどね。
580 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 08:59:19
>会津藩松平容保が都落ちした理由は、
>藩内部にが「藩の命運よりも自身の意地を優先させるやつ」がいたからということ?
>誰なのか具体的に教えてくれ。
流れとは別の問題として提示されているものとしてレスつけるよ。
会津関係は忠臣蔵と同じでカルト的信者がいるから、学問的な議論は無理。
ただ、会津よりのスタンスで本を書いてるマスコミ出身の人(会津関係では
有名人らしいね)も、家臣の政治を嫌う頑迷さが都落ちの原因と見ていた
ようだけど。
会津の潔癖性は儒学思想が原因。同じ陸奥の大藩の伊達や南部などと
比較すれば、地域性として語るべきことと語るべきでないことはおのずと
見えてくるだろう。
581 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 09:03:54
>>576 >決して謙遜ばかりではなかっただろう。
謙遜したんじゃなくて、厄介事を断る口実にしたんだと思うが。
議論するつもりは無いです。(AA略)
>>498 遅レス。
大昔に出た人物往来社『日本の古城』(全3巻)には本丸背後の堀切と平坦地の図が掲載されていた。
東国編か補遺編のどっちかに掲載されていたと記憶しているが、あいにく火事で喪失しちゃったので確認できない。
あれは御留山とした場所にある隠し防備なんで幕府に提出する系統の図面には当然載せられない。
まあ、あれに似ているのは備中松山とか鳥取の近世城郭から切り離されたせいで縄張り図には表れてこない中世城郭部分とか、鹿児島
城(あれも近世部分は陣屋レベル)の背後の城山とかだと思う。
あと、東北だと二本松城なんかもそんな感じだな。中世時代の城域(鎌倉みたいに町を馬蹄形に囲んでいた)の一部だけが近世城郭と
して使用されている。
>>540 中世の根小屋式山城に近いと考えれば、程度の差こそあれ鳥取だの伊予松山だの萩だのとも近いだろう。
それから、元々あの場所を選ぶというのは工数を減らすためと考えることもできる。「国分氏時代の城を復興しました」みたいな言い方をして
いるので実際よりもさらにちゃちく見せようという作為も感じる。豊臣以降の様式でやるなら、俗説のように榴岡(今、楽天のホームグラウンド
があるあたり)に平城を作っていたはずだろう。
伊達にとっての近世城郭(時間と金に拘束されない)は政宗が築城総裁やった越後高田じゃなかろうか。あれも急造なんで総石垣では
ないが、あれはどう見ても近世城郭以外の何者でもない。
まあ、「求心力がない」という点では南九州型群郭式城郭最強だな。鹿屋城の模型の写真見たことがあるがどれが主郭だかわからん。
これを近世的に手直しした例としては伊東氏の飫肥城があるけど、本丸が外の方にある。
584 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:25:10
>>582 その口実に謙遜があるかどうかが問題なのに、反論になってないじゃん。
585 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 13:32:42
要塞部分が近世的だろうと中世的だろうと、そもそも陣屋的な建造物以外を
平時に有効利用していた城がそうそうあるわけでもないからな。
城と呼称された施設と陣屋と呼称された施設に明確な線引きもない。単に
城主/無城の家格の違いかと言えばそうでもないようで、城主格などという
中途半端なものまである。
園部藩が新政府の許可を得て園部陣屋を園部城にしたときには、近くの
山の上に大きめの櫓をでっち上げて天守だと強弁することによって城と
周囲に認識させようとしたんじゃなかっただろうか。
伊達政宗に関しては、平城を知らなかったわけはないんだよなあ。
なにしろ、政宗自身の出生と成長が、平鍋の底のような地形の米沢城だったわけで、
政宗と係わり合いが深い、置賜の最重要寺院だった資福寺などは、
さらにまっ平らな鍋底の底にある。
仙台に関しては、トレンドなどは知った上で、意図して設計したとしか思えない。
俗説に従い、榴ヶ岡や石巻に築城された場合をシミュレーションしてみても、
榴ヶ岡の場合、断層撓曲を最大限に使った平山城に近い物を作りそうだし、
石巻だったとしても、中心にそびえる日和山に、姫路城のような平山城を作りそうだ。
つまりこの2つの候補地、実はいずれもそれなりの山があるんだよ。
越後高田の例が出ていたが、むしろ、政宗の隠居城「若林城」を考えたほうがいいと思う。
これはどうも、本心では帰りたくてたまらなかった米沢城の代替っぽいが、
明確な四角い「平城」だったりする。
587 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 17:21:43
伊予松山も萩も独立した山だが仙台は尾根続きの山って所が中世的に感じるんだよね。石垣も一面のみだし。
それに関ヶ原後に東軍諸将がじゃんじゃん近世城郭を造ってる時に伊達がそこまで遠慮する必要があったんだろうか?
上杉の本拠地は方形居館志向だな。
神指城もそうだったし、米沢城もそうだ。
あれは関東管領屋敷をイメージしているのかな?
>>588 昔ながらの鎌倉武士の館とか守護所をイメージしてるんじゃなかろうか。宇都宮とか駿府とか山形の本丸だけ取り出すとそんな感じ。
>>587 毛利以外はほとんどが関ヶ原後の「進駐軍」だから新領主の威容を見せ付ける必要があったからじゃね?
信長が始めて秀吉が極めた「見せるための城」の要素が必要な理由がそれだろう。
萩も人工部分はその前に作った広島城に比べたら後ろを日本海と指月山に託した分少ない工数で作られている。
仙台は本領に入ったのは天正年間だけど、それ以前から留守・国分と言った配下戦国大名の領地だったから「進駐軍」と言うよりは子会
社の工場が親会社の傘下に入ったという感じなので縁も所縁もないわけじゃない。
伊達正宗が丹羽長重が作った近世城郭の白河小峰城を見て
こんなの城じゃねぇ朝飯前には落とせるなんて言ったらしいね
でもこのスレ読んだら青葉城は中世なショボイ(?)城なんだな
なんだか分からんくなってきた
でも青葉城恋歌は好きだ
>>590 城の構成には縄張りと普請(土塁・石垣)と作事(櫓・建物)の三要素があって、白河小峰の場合は縄張りが10万石の身上相応なため
その辺を指してのことだろうと思う。規模が小さければ中に込められる人数はおのずと少なくなるし。
いわゆる名城でも、このどれかが残念なケースはざらにある。
たとえば、北条氏時代の小田原城は作事面では中世的な建物が建っていて上方の城には激しく劣っていたと思うが、それが必ずしもショ
ボイ評価にはつながるものではないだろう。
>>590の引用の仕方には「自分の城はもっとショボなのに何言ってるんだ」って気持ちが感じ取れる。
しかし、秀吉・家康の城を見、助役が石垣に不慣れな東国大名中心だったせいか土塁作りの高田城築城の総裁を務めた後では、縄張
りの規模が小さい城に対してはそういう感想が出てきてもおかしくはない。
逆に、弘前城などは最も外郭の線で防衛するには10万石の身上では兵力不足なのだそうな。
また、江戸、伊賀上野、名古屋などは主要部は小兵力でも守れるよう小さめに、外郭は大兵力を入れるに足るよう大きく作られている。
この辺は前二城の縄張りが藤堂高虎だと言われているので高虎流なのかもしれない。
スレタイに沿った言い方をすれば白河小峰は分相応な城で、弘前は分不相応な城なんだろう。
んなこたーない。
そだ |------、`⌒ー--、
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| |、 \
あ ここは日本史板だ・・・
どの板と間違ったんだよおまいらwww
601 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 07:53:03
?
602 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 09:05:57
伊達家か。
あれはファシスト党ヘタリアのようなものだ。
前近代装備のエチオピアを難なく植民地化したのを、「戦闘国家エチオピアを屈服させた欧州随一の強国」と
持ち上げられて、ヒトラーは同盟結ぶわ英仏は脅威に感じるわでえらいことになった。
結果は口先だけのドンゴリだったけどな。
>>602 それはイタリアに対し奉り、ずいぶん残酷な例えだな。
少なくとも、ムッソリーニの方が伊達政宗よりは優秀な人材だぞ。
今全部読んだので激遅レスになるけど、
明石城があの石高で三層櫓4つが分不相応だとあるが
広島県の福山城は石高同じで5層の天守閣+三層櫓が7つだよ。
>>604 うむ。福山城は特別な城だ。
天下普請ではないが、幕府から石垣奉行が派遣されておるし。
伏見城の用材を大量に貰ったし。
あの地に西国の押さえを作る必要があったわけだ。
肥後二十五万石の領主加藤清正が築城した熊本城
同時期の会津九十二万石の領主蒲生氏郷が築城した若松城の三倍の大きさ
>>606 最初からその広さだったの?
関ヶ原後に拡張したのだと思っていたが
608 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 22:51:57
609 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 23:53:45
津山城。あんな山に石運ぶだけで金かかるだろ。櫓もたくさんあったみたいだし
>>602 ネタをネタと見抜けない(以下略
エチオピアは当時の最新装備でベルギー以下複数国からの軍事顧問を招聘していましたよ
611 :
日本@名無史さん:2009/09/17(木) 08:04:34
>>610 それじゃあまるでヘタリアにまともな戦闘能力があったかのような話になるじゃないか。
ヘタリアの対エチオピア戦争は2回あって、一回目は返り討ち、二回目は兵器の優位性で
あっさり占領だろ。
五万三千石で立派過ぎる城をこしらえた浅野氏
その後に入場した森氏は二万石でこの城がゲット出来て儲けものである。
613 :
日本@名無史さん:2009/10/24(土) 20:49:04
>>609 たしかに津山の石垣群は凄すぎだね。
どこから切り出したんだろ?
614 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 02:15:48
>>612 維持費用が大変だ。
まさにスレタイ通り。
615 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 17:57:35
コスト面もだけど、デカイ城を小さな大名が引き継ぐとイザ実戦で困る。
小倉城を40万石の細川家から15万石の小笠原家が引き継いだのはいいけど、
幕末に長州軍に攻められると、城が広すぎて守るに自藩の兵だけでは人手不足。
結局自焼して山間部に撤退。
姫路を与えられた譜代の連中だって十五万石だし、どうするつもりだったのかね。
戦力になりそうなのは4千人がせいぜいだろうし、外濠を捨てて内濠まで退却して守るつもりだったのか?
>>616 姫路城なら作戦計画は練られている
詳しくは「戦国の堅城2」を参照
618 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 21:17:41
幕末に戦わずして開城するやつら多かった理由はそれかw
高杉らの武略を大いに褒めるが実際、小倉藩じゃ財政難や旧式武装以前に石高からくる動員力で城域を守るのは無理だな。
619 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 01:00:48
幕府か軍事行動起こす際に、地域拠点になる予定の城は、
「幕府本隊が駐屯できる規模」
「近隣の幕府側の大名が集結できる規模」
だったんだよ。
名古屋、大阪、姫路、福山、小倉、唐津とか。
そういう予定がない城は、
江戸初期に早々に規模縮小している。
>>618 城のスケール以前に、とっくに借金だらけ=マイナスに沈んでいて、戦のための金どころか、
借金をキッチリ返したりしたら食う金さえもないほうが普通だったみたいじゃない。
踏み倒しや苛斂誅求などの強引な手法で無理やり黒字にした薩摩とか、例外的に
辛うじてプラスだった藩が、幕末に活躍できただけで。
廃藩置県なんかがすんなり行ったのも、借金で首が回らなくなってたから喜んだほうが普通だったとか。
>>619 >近隣の幕府側の大名が集結できる規模
結果的にはその見込みを前提に戦略を立てたのが徳川の失敗だった。
実際には集まらなかったり帰っちゃったり。
城はない方がむしろ攻めに徹しきれたんじゃないかな。
小倉に小笠原が移封された当時は、その他の細川旧領に小笠原の一族が配されていたもんです。
幕末の頃にはバラバラになったのが敗因か
623 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 22:43:08
唐津も幕府軍大駐留可能な城だったんか〜つか名護屋の木材とか流用してたもんな。
あちらは島原の乱とかあったしね。
篠山城なんかも大駐留できたんかな?
篠山はどちらかというと現地勢力で持ち堪えることが前提の城
625 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 01:49:23
>>620 廃藩置県の第一号、
つかゼロ号はかの愉快な盛岡南部藩。
廃藩置県の政令以前に、勝手に藩の廃止を申し出てきた。
理由は「お金ないから、藩の運営もう無理です」
そして南部藩、華麗に解散。
626 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 01:55:52
篠山とか越後高田や越前福井、会津あたりはそうじゃないかな。
現地勢力でなんとかする、防衛陣地。
唐津は「海の向こうに対する示威」もあると思う。
海から見える日本の玄関に、華麗なの建てておいて自慢アンド威嚇。
当初は海外公益も盛んだったし。
627 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 20:02:09
篠山城の、どういうところが堅城なの? 出丸のある城なんか他にもあるし。 城がコンパクトで守り易かっただけ?
規模の割には大きい高石垣、ラヴェランの様な馬出
本丸二の丸は多門櫓で囲まれ、門は全て枡形
名古屋城の小型版といってよい
629 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 22:55:18
どの城も、三ノ丸を落とされたら落城したも同然と思うのだが… 最後の悪あがきにどんな意味があるんだろう? 時間稼ぎ等いろいろあるかも知れんが
例えば、長篠城は最後まで粘ったから後詰が間に合った
城単体では悪あがきになるが
632 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:26:41
>>631 いつでも俺達の想像の遥か上をすっ飛んでいくのが南部藩。
幕末、
お金はないけど製鉄技術を持つ南部藩は、アホのごつ大砲を製造しまくった。
実は旧式でクォリティも低く、かなり役立たずだったという噂もあるその大砲、
一説には三百門!も製造したらしい。
ただし、
「砲撃技術を持った人間」と「打つ弾」がほとんどなかったらしい。
ちなみに盛岡城は壮麗で、案の定、江戸時代を通してお荷物、、、
なのに、
幕末の藩主が洋式装備とかそっちのけで、華麗な三階櫓を増設。
旅行中の吉田松蔭に「このご時世に、、、こいつら、マジでダメだ、、、」と言われているwww
633 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:29:31
>>629 丹後宮津城と大津城がなかったら、
関ヶ原ってどうなってただろうか?
634 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 02:12:58
宮津城と大津城を攻める意味もわからない。攻めないと背後を突かれるとかあったの?
高次が背後突いても宗茂と秀包のに返り討ちにあうのが山なのに
大軍に寡兵でなにができるのか?って。
暴論で言えば、今川義元が討ち取られた時も、おんなじ状況だよ。
なにがあるかわからない。簡単に放置はできない。少なくとも「抑え」は置いて、常に警戒しないといけない。
だからって攻めるとなるとしんどい。
落ち着かないよ、これ。
街道沿いの大津はもとより、完全に背後に相当する丹後も。
″丹後落としに行く″必要はなかったかも知れないけどね。
伊勢のほうだってなんだかんだで攻めないと厳しかったろうし、
最終的には伊勢に「抑え」の人数を割いて、城攻めと行軍に疲れた軍隊が、やっとこ関ヶ原に辿り着いている。
城を攻める労力、費用、損害、疲弊もバカにならない。
背後の安心って意味では、
家康側だって岐阜も大垣も、美濃の細かい城も落としている。
上田だって「放置しろ」命令は、実際一発も殴らずに通過してたら結構厳しいものだったはず。
抑えを誰か置いてこないと。
つか関東に秀康をどーんと置いてきているよね。
田丸忠昌の家臣しかいない小城ですら、別作戦で攻めているくらいだし。
そう考えると、
豊臣大坂城から感じる篠山城って、相当イヤな目障りな感じだったと思うよ。
637 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 03:27:15
>>635 大津は迂回できないからなあ。
ホタルちゃんには力攻めしないで、大砲でもどかどか打ち込んでやればよかったんだろうけど。
でもさ、
史実では関ヶ原一発で終わったけど、
負けペースだとしても
佐和山、大津、京都、大坂と後退転戦する可能性あったわけで。
たまたま関ヶ原という「点」で終わったけど、
街道や防衛ラインという「線」や、支配地域という「面」で考えたら放置はできんだろ。
638 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 03:53:02
>>629 >>630 大田原城ってのがある。
外様の小藩なんだけど、
なぜか幕府の奥州方面軍事行動用の備蓄基地になっていた。
幕末、
新政府方となっていた大田原を、会津軍率いるあの鬼の佐川官兵衛が攻めた。
当然、備蓄物資狙い。
守るは大田原藩主から下っ端まで、合わせて200もいたかどうか、、、
小城でも200人では無理です。
一日中の戦闘で、あっという間に攻めたてられて、
三の丸二の丸陥落、残るは本丸のみ、で日が暮れた。
残った本丸では藩主を囲み、明日の討ち死にを覚悟した主従の悲壮な宴が開かれ、
外では会津軍が、勝ったも同然で楽勝ムードでリラックス。
そんなそれぞれの夜も更けた頃、
事件は起こった。
城方の兵が誤って、
″大切だから本丸にあった、大量備蓄の火薬庫″に、鉄砲の火縄を落としてしまった!
大田原の四方に轟音は谺して、宵闇に立ち昇る紅竜のごとき火柱、
黒竜のごとき煙は城の上空高くへ吹き上がり、
驚きパニクった会津軍、四散。
鬼の官兵衛が指揮し、どうにか軍を建て直したけれど、
会津軍戦意喪失、狙いの備蓄火薬喪失炎上w
新政府方の援軍も急行しているらしいと聞き、
会津軍は撤退していったとさ。
大田原城、
本丸のみから逆転防衛に成功。自爆でw
639 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 03:54:54
結局は、相手の軍勢を割く捨駒の城という訳かな。城攻めの方も、監視程度の軍勢で十分だと思うけど。どっちにしても、関ヶ原の勝敗待ちと思うから
640 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 04:17:46
>>637 ああ、意味わかった。後退していけば、大津城、宮津城が目の上のコブどころか、おおいに脅かされる城になる訳なんだな。早いうちに摘み取るための攻城か。
641 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 06:16:28
>>638 なぜ過失という話にするのか。松永久秀なみの壮絶な自爆死という話にはならんのか。
藩主や重役は知らないが、火縄を落とした当事者は間違いなく爆死しているだろうに。
642 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 22:13:31
>>632 愉快な南部の永遠の友達であるおかしな津軽藩も財政崩壊してたのかな?
スレチガイだが財政崩壊してない藩の方が少ないんじゃなかったけ?
どこの藩も借金で苦しんでたような
>>642 知らんけど、大同小異でねえの?
薩摩にしたって、借金踏み倒しと苛斂誅求で何とか持っただけにすぎないわけだし。
>>643 分不相応といったら、どこも、金がないどころかマイナスに沈みきってるくせに、
不相応な城を抱えて持てあましてたことになっちゃいそうですな。
646 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 01:40:13
>>642 津軽は時代の時々に、藩政改革やリストラ、
殖産興業を行って、なんとかやってる。
あと、
南部の一方的なストーカー行為ですから。津軽は迷惑だろw
647 :
日本@名無史さん:2009/10/29(木) 01:41:42
649 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 02:41:26
一万五千石の外様には勿体ないなこれ。
一応関東圏内で江戸に近いし。
参勤ラクだったろうな。
650 :
日本@名無史さん:2009/10/30(金) 03:07:21
待て待て、一万五千もないぞ。
一万一千石のギリギリ大名だ。
>>648 那須氏の一族なのね。さすが地生えの領主
新出来の小名とは違うぜ
652 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 01:23:20
一族ってより、家臣筋、な。
名家コレクター家康の趣味で生き残った。
653 :
日本@名無史さん:2009/10/31(土) 02:05:40
wikiの大田原氏の項を読んだら、やけに悪意があるな
書いたのは那須氏の末裔か?(w
655 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 01:11:22
主従逆転、みたいな感じが、
日本人の″江戸以降のファッション武士道″からすると気に食わないんだろ。
656 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 08:40:19
最上改易後の山形城もかなりお荷物
姫路城かな。
姫路藩の防備の図面を見たが、外郭を防御するとき内郭の守備兵がいない。
外郭の守備兵が内郭へ後退して守備することになっている。一隊でも戻るのが
遅くなると完全に無防備なところが出来てしまう。
658 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 13:00:41
防衛だけを考えたら
やはり山城の方が守り易いね。
城郭は兵数とそれに伴う糞尿処理が面倒だしな
幕末の江戸城で籠城戦をしたら2年ぐらい耐えられる?
後詰めも十分あるし。
660 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 16:15:24
南部人に津軽氏の項を書かせるべき
上平寺城
ライバルの六角氏の観音寺城や家臣の浅井氏の小谷城に比べて
あまりにもしょぼ過ぎる。
664 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 01:38:19
>>661 津軽がどうなっても別にいいけど、
南部は本当に性質悪いからやめれ。
665 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 03:00:57
>>664 南部がどうなっても別にいいけど、
津軽は本当に性質悪いからやめれ。
666 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 09:48:41
青森岩手宮城福島の捏造史観による観光誘致手法を真似し始めた山形。
いま我々がその純潔を守らなければならないのは美人の国秋田。
秋田美人というのが一番最初の捏造観光誘致だと思うが
668 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 12:56:30
>>609 桜が綺麗な頃、墓参がてら津山城に行った
あの石垣には驚いた
>>609 大手枡形に櫓が無く塀が無く、そもそも門が無い。
山の上から建築していって、麓の方はついに手が回らなかったらしい。
671 :
日本@名無史さん:2009/11/02(月) 23:03:33
672 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 18:13:50
安土城。信長が気合い入れてつくった割には規模はちっちゃいよな
ここに湧いてるのか南部史厨wwwwwww
みんなの迷惑だから北朝鮮に帰れ。
>>672 不相応ではあるかな。
まあ、まだ全国は統一できてなかったわけだから、秀吉や家康が全国から搾り取って作ったのよりは
小さくても不思議はないかな。
>>672 山城だから各郭の面積は小さい
とはいえ安土山は結構大きな山で、それを全然削平して主要部は石垣造り
土木量は大きいぞ
678 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 11:35:14
津山城や岡城
なんで昔の人は雷落ちるのわかってて5層とかの天守つくったんだろ。
マゾすぎるし金もったいない。避雷針みたいな雷避けとか作れなかったのかな。
めちゃくちゃ長い鉄の棒を近くに立てるとか。
屋根に乗っけた鯱鉾が雷を追い返すんだよ
681 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 14:12:32
まあ、九州人なら人吉や島原が頭に浮かぶな
既出だろうけど
682 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 15:36:46
>>679 避雷針の知識は一応18世紀でないと公式には知られてないからなぁ。
高いものに落ちるくらいはなんとなくわかってただろうが。
>>679 だな。
その当時の手間隙と資金を考えたらもっと回避策を考えられたかもしれんな。
けどそう考えると法隆寺の五重塔はすごいな。
法隆寺は一回、落雷で全焼してるが、今の五重塔はかなり長持ちしてるもんな。
1300年くらいだっけ。奇跡的だ。
684 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 17:09:25
>なんで昔の人は雷落ちるのわかってて5層とかの天守つくったんだろ。
軍事施設の建造物に数十年数百年単位の永続性なんて本来は求めていない。落雷の確率なんて、
軍事上の有用性に比べれば些細なものと判断しただろう。
>>684 天守が軍事上有用性に足る建造物?
居住施設や迎賓施設としてくらいにしか使われてない上に
基本的には象徴って感じでしょ。だから屏風など意匠にこだわってるわけで。
戦国以前の高見櫓なんかは軍事施設だからそんな立派には作ってないぶん
基本的に豪華な意匠などほどこしてない。
>>685 伏見城とか北ノ庄城とか実戦で役立った天守もある。
多勢に無勢落城はしたが。
>>686 だからさ、天守は実践運用が本来の目的じゃないの。
そもそも北ノ庄なんて「役立った」って言えるのか?
天守まで攻め上られたらもう無抵抗に近いんだ。
そのために縄張や櫓を張り巡らしてるんだろ。
688 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 19:56:17
天守の軍事的位置づけは、物見台で達成できる以上の高所からの周囲監視と、
広範囲から目視できることを利用した周囲への威圧の二点。
ハッタリがいくさの帰趨を決める重要な要素だった時代だからな。
689 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 21:34:34
>>679 燃えない構造だからだろ!
元々安土城も北の庄城も天主と天守は瓦ではない。石な青っぽい石。
越前で取れる石だよ。鯱は土だしね。だから燃えない。
690 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 15:02:54
安土城って清水寺みたいな感じで周りが街みたいなんじゃなかったっけ
家来屋敷も坂道とかにあるよね?
観音寺城の真似みたいな感じだな
692 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 17:47:18
サルと織田家中は高いところが好き。
空に聳える黒がねの城が好きなのか?
>>679 長年の経験則で、雷は常に必ず高いところに落ちるわけではないから、
高い建物を造っても必ず落雷に遭うわけではない、という物理的な
事実が周知だったからじゃない。
避雷針なんてのは、今では当たり前に知られてるけど、誰も知らないときに、
理屈まで究明した人がいたら大発見、大発明だからね。
熊本城。。
何する気だったんだ作ったヤツ
>>696 徹頭徹尾、薩摩とやる気だったんじゃなかった?
あれは大坂、というか豊臣政権の「詰の城」だったから。
辺境の戦い方は、大きな拠点を作らず、山野に潜伏してゲリラ戦に持ち込む方が
有効だろう。辺境に巨大城郭作るのは基本的に中央政権が支配の拠点として、
周囲からの集中攻撃に対処するため。
会津や熊本は明らかに中央政権の出先機関としての特徴が強い。
700 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 22:50:53
確かに、肥後一国にはでかすぎるかもね熊本城。
701 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 23:34:29
西郷倒すために貢献したんだから良いじゃん
702 :
日本@名無史さん:2010/01/09(土) 01:15:53
倒しちゃいないけどね
熊本城はがっぷり組み合って負けなかっただけ。
それも、時間切れ勝利ってだけ。
城ってものは、敵を倒すためじゃなくて、敵に倒されないためのものだから。
存在感を示すのも城の機能のひとつだからな。
熊本城を完全無視で先に進めるような器量の指揮官はそういないだろう。
落としておかないと安心できない。
706 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 11:54:05
島原城が最強
ほう
>>702 攻める側に消耗を強いて、援軍なり補給の枯渇なりを待つのが城の使命で、
「倒すために貢献」した度合いが非常に高いのは動かしがたい事実じゃない。
小田原城なんかも、信玄や謙信を撃退した実績があるのは、何らかの意味での
時間切れが勝負を決めたわけで、時間さえあれば落とせたのになんてのは
負け惜しみにすぎない。できるものならやってみろという問題。
709 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 18:14:50
ほー
710 :
日本@名無史さん:
小田原城については、農民兵徴収に伴う耕作期の到来がリミットだろうな。織田はその点では無敵。