1 :
日本@名無史さん:
◆東軍
細川勝元
足利義政
畠山政長
斯波義敏
京極持清
赤松政則
富樫政親
◆西軍
山名持豊(宗全)
足利義視
畠山義就
斯波義廉
六角高頼
大内政弘
土岐成頼
一色義直
3 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 19:19:19
4 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 20:12:41
乙!
スレ立てありがとう。
今日の夕方楽しみにスレを見ようとしたら1000を超えてて私はスレッドのたて方分からないし、だからこのままなくなるのかな、と思ってた。
昨日のその時歴史は動いた、は応仁の乱が話題だったけどイマイチだったな。
引き続き語っていきましょう!
5 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 20:21:51
結局前スレの政元の母についての話は、政元の母は宗全の養女ではないってことでいいのかな?
6 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:23:32
畠山義就は「はたけやま・よしなり」って読むと思ったんですが、変わったのかね?
7 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 21:35:45
>>6 前スレのやりとりによると、
306 :日本@名無史さん:02/11/25 00:47
畠山義就の名前の読み方って、本当は「よしひろ」ではないかと言われはじめている。
307 :日本@名無史さん:02/11/25 13:08
>306
なんで?
308 :日本@名無史さん:02/11/25 14:30
>>307 昔の人名の読み方は、たいていは史料上に現れる誤字(書き間違え)から判断される。例えば、護良親王はかつては「もりなが」と読むとされていたが、「護義」と書き間違えられている例が複数あることから、「もりよし」が正しいと言われるようになった。
309 :日本@名無史さん:02/11/25 14:32
よしなりの方がカコイイけどな
310 :日本@名無史さん:02/11/25 16:46
>>308 そんな一般論は知ってるよ。
何で「よしひろ」らしいの?と聞いています。
311 :日本@名無史さん:02/11/25 17:16
足利義材って殆どの本は「よしき」って読んでるけど本当に材=き?一字もらった北畠材親などはどう読むんだろう
312 :日本@名無史さん:02/11/25 17:31
>>311 材親の読みは「きちか」で間違いないらしいです。
313 :日本@名無史さん:02/11/25 17:35
>>310 うちの大学の教授から酒席で聞いただけだから詳しいことは知らないけど、「義寛」とか「義弘」などと書き間違えたものがあるらしい。
>>5 いや、結論は出てない。
俺は疑わしいように思うけど、まだ決定打が無い感じ…
9 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 02:05:05
足利義視が東軍から西軍に鞍替えしたのが細川勝元の陰謀であるかのような説明だったが…
10 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 11:47:12
義政がもっとしっかりしてれば応仁の乱は起こらなかったとよく言われるが、
逆に言えばそんな将軍でも体制を維持できるような政権基盤を作れなかったことに問題があると思う。
11 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 11:54:20
義政ってホントに定見の無い男だな
12 :
名無しさん:2008/07/18(金) 14:21:59
コーエーからでないかな
応仁の乱戦記
13 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 15:36:42
>>8、
>>5 確か、竜安寺にある墓は、勝元と春林寺殿だった気がする…。その斜め後ろあたりに政元の墓だった気が…。
応仁の乱の時、公家達は疎開(?)して地方に下ったりしているが、春林寺殿とかってどうだったんだろう?
春林寺ってなんだ?竜安寺にあった建物か何かの名前なのかと推測してるんだけど。
誰か京都在住の人、墓碑チェック等お願いします。
14 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 15:38:29
15 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 16:40:36
し゛んほ゛さまはんけ゛きをくらった
16 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 18:07:41
わか゛た゛い1ふ゛たいはせ゛んめつて゛すそ゛。
し゛んほ゛さまかんは゜いて゛す。へいはひとりのこらす゛せんししました!
1560ねんはる、し゛んほ゛はしほ゛うしました
>15-16
信長の野望か。懐かしーな。
敵の配置範囲がマップ西側になる地形の時に、配置可能範囲に自軍を分散配置して、
敵がどこに第一部隊を置いても集中攻撃できるようにしたら、
逆撃で敵兵を分捕る勝ち方ができるだろ。
17国モードなら完璧。南側に配置する敵国はいないから、
必ず西からしか攻め込まれない。
この方法で敵軍をとれば、攻め込まれるたびに兵士を増やすことさえ可能だ。
運が悪くなければ、序盤戦を生き延びれることが多い。
18 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 03:17:36
朝倉最強
19 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 03:47:06
この時代はすごく好きだ
昨日までの力関係が今日には通用しない、だけど権威にすがる者、それを押し倒そうとする者
いろいろ入り乱れてまさに混沌とした時代
結局共倒れになったが・・・
この時代の施政者、特に義政について論じてくれる人はいないかな?
20 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 18:44:27
信長の野望だが、第一部隊を倒したときとか、敵が退却した場合に残った兵が戦場国のものになるとか、入札制度とか、いろいろツッコミ所満載なゲームでした
入札制度はともかくな。
第一部隊を倒したら、他の部隊は逃げ散るのが普通だろ?
残った兵が、逃亡するか降伏するかは時と場合によるだろうけど。
つか、細部のルールでツッコミ対象とならないものが、何かあったっけ?
22 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 01:09:36
>>19 政治を顧みず、意見をコロコロ変えるダメ将軍、ってのが一般的見解だと思うけど、いや、実は良かった的な新しい見方はあるのかな?
側近たちに説得されやすすぎたのが欠陥。
複数の側近たちの意見の相違に扇動され、
側近Aの意見を採用した後で側近Bに説得されて意見を覆す、
そういうことの繰り返し。
そんななかで、側近の一部は派閥抗争に負けて引退。
で、世間の意見からだんだんと浮いたあげく、
反対派のクーデタで側近連中が全滅し、それからますます無軌道になっていったんだよな。
ただ。
飢饉のまっただ中に建築工事を催したのは、
前近代における普遍的風習「飢饉の時には人を雇って建築工事をしろ」
ってやつであって、義政の失政に含めるべきではない。
同時代の一部反対派が誹謗してるのは事実だが。
24 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 18:29:36
日本では室町時代にすでにニューディール政策とか、公共事業みたいなことをやっていたんだ。
面白いね。エジプトのピラミッドも実は公共事業だったっていうし(吉村作治の説)時代や国は関係なく、みんな考えることは似てるのかな。
25 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 19:58:03
公共事業?嘘くさい説だな。
>24
「政策」なんてレベルじゃなく、むしろ宗教の一種ではあるがな。
飢饉の時、金持ちの人は蔵を開いて造営工事をすべし、
みたいな原始宗教(?) ひょっとしたら仏教の受容から派生したものかもしれんが、
そういう信仰があった。
その風習から派生して、金持ちのことを「有徳人」と呼んだ。
ってか、飢饉の時に造営工事ってのは、三国志にも(そういう説明があるわけではないが)描かれるシーンだろ。
27 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 01:33:07
毎度参考になる。ありがとう。良スレあげ。
義政が義教や義満ほど専制にならなくても
有力守護を抑える政治を摂れるようにするにはどうゆう手があっただろうか?
最終的には実力者の山名宗全をいかに失脚させる事ができるか・・・あとは富子の存在も。
明応の乱のように喧嘩を仕掛けさせて山名家を討伐、勢力を弱体化させて、
側近衆に山名没収地を与えて力を付けさせるか・・・
守護の紛争を抑えられなかった義詮に似てない?
道誉対細川清氏(将軍屋敷に立て篭もられる始末)対仁木義長・・・
本人的には、義政が専制政治を行ったって事はないけど、
諸大名の立場から見たら専制君主だったんだよ。
それに反発した諸大名が連合して、クーデタを起こしてるぐらいだ。
30 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 03:12:30
落ちちゃうよ~あげ。
春林寺殿でぐぐってみると、鹿苑日録にかなり記事が出てるみたい。私はケータイでぐぐったので、いざ読もうと思うと、肝心なところは読めない。
何となく、春林寺殿の何回忌、みたいな話っぽい。そこから逆算して、いつ亡くなったか遡れないだろうか?
1497年であれば政元母と春林寺殿は同一人物ということになると思うんだが。
PCさんたち頼みます。
31 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 05:01:18
32 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 18:04:38
守護在京って言うけど実際はどうなん?
細川・斯波・畠山は当然として
山名・赤松・一色・今川・大内・越後上杉あたりくらいしか在京してなかったんでないかい?
土岐、京極、小笠原、朝倉、六角とか京に常勤出仕してないだろ。
大友や島津は大宰府か西国探題にちゃんと出仕してたん?
33 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 18:11:14
朝倉は守護代だった…
保守
35 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 00:43:14
あげ
36 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 00:46:28
37 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 09:23:52
あげ
38 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 11:23:21
足利義政、実は頭よかったんじゃないの?
京都の街はたまに街ごと焼き尽くさないとどうにもならない膿がたまる。
煮ても焼いても食えない陰湿な貴族だらけ。
「細川に山名、どんどんやれ~!!!!」
銀閣寺の美学は、頭の悪い人間には無理だべ。
39 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 17:50:11
40 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 19:58:27
>>38 江戸時代に生まれていれば名君になれたかもね
>>39 出たのは7月だよ。あまりおすすめできません。
項目の整理がよく出来てないし、出典不明の話とかも載ってるし。
何よりもふりがなの間違い・齟齬・無駄・不足(必要な漢字になく、不要な漢字についてたりする)が多すぎる。
まあ応仁の乱の概説書自体は意外に少ないから参考程度にはなるかもしれんけど
42 :
正義VS法:2008/11/08(土) 18:24:47
将軍家に権威はあったが、あまりにも直轄領、直属の軍がすくなすぎた。
このため、室町幕府は、のちの時代の徳川幕府とは比べ物にならないくらい
高度な政治力を必要とする政府であったわけです。
今でいうなら無所属の知事が、自民、民主で埋め尽くされている議会と
なかよくやっていかなければならない状態です。
そんな中、無能な将軍がトップに立ち御家騒動になれば、大乱がおきたのも
必然と言える。まあ、義政の場合、政治力がなかったのであって江戸時代の
1大名ぐらいに生まれてれば跡取りも幕府の裁定に従い、文化を育てた名君
と評価されていたかもしれない。
問題が起きた際の事態収集という点で、
義政は大きく失敗しているね
重臣の意見に従って追放と赦免を繰り返しすぎた
44 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 22:24:25
あげ
45 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 03:21:35
義政の政治家としての評価は結果論でいえば無定見
あくまでも結果論だ
親政をするようになってから
側近や有力大名に引きずられて朝礼改暮(?)の連続
それでも乱の発端の時には畠山の私戦に介入禁止を命令してる(今更ながら、数少ない自己の意思が現れた例)
回りとの協調を無視して横死した父義教のトラウマに嵌っていたんじゃないか?
施政者としての一番大事な問題認識の希薄さは覆うべくもない
一つ疑問だけど、応仁の乱に参加した大名の配置が、西軍は日本海側+瀬戸内(中国)中心で
東軍は瀬戸内(四国と近畿)+太平洋側だろ? 京極持清や武田信賢や赤松政則の東軍や、西軍の
河野通直などは、両軍の牽制だとして、やはりあの勢力配置は偶然じゃないように思える。西日本と
西中部にしか火種が広がってないことも疑わしい。
もっといえば「家督争いによる大戦」っていうのは少し時代遅れかな? この大戦の影にある、もっと
大きな原因があるに違いない。
室町初期~中期ごろの派閥抗争での敵味方陣営の分かれ方と、
かなりの程度で似通ってるってのはあるよ。
斯波氏の管領としての初代となった義将と細川管領家初代の頼之が争ってた頃から、
似たような構図で争ってる感じ。
京極氏とか武田氏は細川シンパで大内とかと仲が悪かったよな。
しかし、応仁の乱の初期には、若干ながら、パターンから外れた位置にいる大名もいる。
すぐ、お決まりのパターンに変わってるけど。
ちなみに。
甲斐や越後などは関東(鎌倉公方の管轄範囲)だから、応仁の乱ではなく、関東の争乱に動員されてる。
信濃(小笠原、東軍)は知らんが、駿河の今川は東軍の一員として、隣国の斯波義廉と熱心に戦ってるぞ。
熱心すぎて、遠州への遠征中に戦死してしまったほどだ。
ただ、京都での活動が少ないから目立ってない。
それと、九州の大名も、九州探題の指揮下にあって幕府直属じゃないから、
関東と同様に、応仁の乱には関与する機会がなかった。
48 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 03:08:11
あげ
49 :
日本@名無史さん:2008/12/01(月) 07:58:56
一番貧弱な政権だと 思っているけど
西軍は南朝の後裔を招いてるんだよな。
◆東軍
後花園上皇
後土御門天皇
◆西軍
小倉宮
保守
52 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 23:25:23
西陣南帝とやらも随分と軽く扱われたもんだな。
乱後の消息すら不明とは。
53 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 01:04:08
>>50,
>>52 招いてるけどまったくたいした意味はないよ。
しいているなら
南朝をかつぐことがいかに無意味かということが
最終的に確定した事件。
はじめ東軍に足利義視、西軍に足利義政、足利義尚、日野富子がついていたが、やがて東軍に足利義政、足利義尚、日野富子が、西軍に足利義視がついた
55 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:09:39
>>53 義視と富子、義尚の立場が東西逆転したりするくらいだから、
西陣南帝なんて皆すっかり忘れてたんだろう。
応仁の乱について詳しく調べたいのですが、おすすめの本があれば教えていただけないでしょうか?
57 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 21:30:28
59 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 03:42:16
構図というなら、
室町幕府 対 鎌倉公方
北朝 対 南朝
みたいな惣領対分家の対立構図と、
公方 対 管領(守護大名)
守護 対 守護代(国人・被官)
みたいな、階級間の闘争みたいな対立構図もよくあるね
公方VS大名の構図ではないだろう
別に足利義政を具体的にどうこうしようとは思ってないし
>>60 いや、応仁の乱だけでなく室町期全体として
62 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:43:14
赤入道の死因は?
63 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:51:12
京都に出張したとき、タクシーの運転手さんが「山名は悪いやっちゃ」と
盛んに言うのでおかしかった。私の姓が山名なので。
64 :
日本@名無史さん:2009/03/31(火) 11:37:50
戦国大名的な価値観の原型とも言えるものを、
戦国時代よりも前に発したという、記念すべき人物なのに。
義満の杭打ちが甘かったんじゃないのか
67 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:32:44
,,彡彡彡ミミミ彡彡彡彡彡彡
ミミ彡彡゙゙゙゙゙""""""""ヾ彡彡彡
r‐-、 ,...,, ミミ彡゙ ミミ彡彡
:i! i! |: : i! ミミ彡゙ _ _ ミミミ彡
! i!. | ;|. ミミ彡 '´ ̄ヽ '´ ̄` ,|ミミ彡
i! ヽ | | ミミ彡  ゚̄ ̄' 〈 ゚̄ ̄ .|ミミ彡
ゝ `-! :| 彡| | |ミ彡
r'"~`ヾ、 i .彡| ´-し`) /|ミ|ミ
!、 `ヽ、ー、 ヽ ゞ| トェェェェェイ .|ソ 「天下ハ破レバ破レヨ、世間ハ滅ババ滅バヨ、人ハトモアレ我身サヘ富貴ナラバ(応仁記)」
| \ i:" ) |. ヽ |ュコココュ| /:\_
ヽ `'" ノ /:\ヽニニニソ/|:::::::::::::
68 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 19:18:36
あげ
69 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 15:18:32
>>65 それはよしなり君のことだろ。
単なる推測だけど、応仁記書いたのって、実は義政なんじゃないのか。
あれだけ乱の経緯を詳しく知ってて、最後に
>>67の言葉が出る人間
って俺は義政以外に思いつかない。
70 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 17:44:24
去年出た吉川弘文館の「応仁の乱」では、
(著者は忘れたけど) 細川高国の側近の誰か と言ってたな。
>69
山名宗全も、いちおう、戦国的価値 のはしりではある。
「これからは、例 ということばを 時 と置き換えて考えられよ。」
「世が世なら、この宗全が、あなた方と同席で酒を飲むなど考えられなかったことだ」って言ってるじゃん。
まあ、もっと古くにも、婆娑羅大名とか高師直とか、戦国的価値観のはしりみたいなのは複数いるが。
72 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:32:49
hoshu
74 :
日本@名無史さん:2009/07/12(日) 01:43:32
保守あげ
人物叢書の「山名宗全」が出たんで買ってみた。
宗全の養女=春林院が政元生母と書いてあったが、やっぱり典拠が無い…
76 :
日本@名無史さん:2009/09/30(水) 20:30:03
保守
hos
78 :
日本@名無史さん:2010/02/11(木) 23:30:01
応仁
80 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 18:01:03
81 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:25:57
>>32 よく「守護在京義務」といいますけど、義務というより権利という感じがします。
室町幕府は、有力守護の連合政権だといいます。
近畿を中心に東国・九州を除く守護は、在京して幕政に参画していました。
しかし、応仁文明の乱を経て、幕府に統治能力がなくなると、
守護(特に在京守護)は、守護代や国人に下克上されるという構図だと思います。
遠国の在京していない守護は、そのまま戦国大名に移行した。
15世紀末までは、勝手に領国に赴くと軍令違反とか謀反とか何とかで
討伐される危険が高かったが、
幕府が大名領を討伐しなくなっていくことで在京原則が完全に終結した
応仁の乱直後くらいの時期には、あくまでも、「幕府の許可を得た上で在国」だったはず。
83 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 12:45:14
一般的には、守護の在京は「義務」だと言われています。
幕府の権威のあった6代義教から8代義政の前期のころまでは、
それが当てはまっていると思います。
そのころは、荘園制も各国に残っていて「職の体系」で守護や各権門は、
在京のまま地方を遠隔操作できたのだと思います。
しかし、「応仁の乱」で各地の旧秩序(荘園制・職の体系)が崩壊し、
在京守護は、領国を把握している守護代や国人に下克上され、実力主義・群雄割拠の戦国時代に突入した。
斯波、畠山、一色、京極など。
遠国の在国守護は、皮肉にも「戦国大名」への移行に成功した。
武田、今川、島津、大友など。
と理解しています。
84 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 20:56:39
>>39 >>41 石田晴男『応仁・文明の乱』は、確かに誤植が多いことは指摘されています。
ただ内容的には、問題ありません。
6代義教の「嘉吉の変」の前後から書き起こしており、
登場人物が多彩で複雑、かなり整理して読み込む必要があると思います。
「応仁の乱」を扱った近著は珍しいです。
85 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 00:50:18
応仁の乱の終息に当たっては、
諸軍を京から出て行かせる目的で、西軍に属していた守護たちへ在国を命じた、
もしくは許可したのでしょ。
あのときの、守護たちの下向、下国は幕府の許可の元で行われたもので、軍令違反ではありませんよ。
ただ、それ以後の幕府が守護立ちに在京、京への出仕を命じたことはなかったようには思いますが。
まあ、在京を命じなくなったこと自体が、在京原則が崩壊した事を意味するわけですが。
在京守護の中で戦国大名化したのは、早期に滅んだ大内と、大逆転を食らった今川ぐらいかな?
とはいえ、在京守護たちが戦国大名になれなかった原因は在京そのものにあったわけじゃなくて、
領内の武士たちに、守護の頭越しに管領やら有力者からの働きかけがあって、
それが準・守護代のように台頭する契機となったからでは? という疑いも捨てきれません。
毛利とか松平とかにも管領細川勝本から書状が行ってますし。
86 :
日本@名無史さん:2010/03/23(火) 10:19:44
東軍総帥管領の細川勝元による敵軍に勝つためにの目的で、
西軍守護大名領国かく乱作戦はありましたね。
西軍守護は、領国経営を在地で専念せざるを得なくなり下向した側面もあります。
結局は、このかく乱作戦が全国を混乱に落とし入れ、
勝元の意図しない幕府そのものの統治能力・権威の低下ももたらし、
下克上・群雄割拠の戦国時代へ突入した側面もあると思います。
87 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 03:56:10
難しい話してんなー
88 :
伊勢伊勢守:2010/03/27(土) 04:14:20
まったく。他の追随を許さない高レベルな議論だと感心した
89 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 07:27:55
>>81~
>>86 「守護在京原則」は、
この時代、応仁の乱前後のキーワードでもあると思います。
90 :
日本@名無史さん:2010/04/03(土) 13:37:33
在京して監視してないと
他の奴が(将軍とかに)賄賂贈って
守護職を奪われてしまうから
ってのはネタ(珍説)だったのですか?
91 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 06:13:19
92 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 23:14:46
ボクなんか、応仁の乱というとなぜか東洋史学者の内藤湖南を、
思い浮かべてしまう。
94 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 22:08:54
内藤湖南は、ネタだろ!!
95 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 22:42:37
応仁のランジェリーパブ
96 :
日本@名無史さん:2010/04/21(水) 13:39:51
97 :
日本@名無史さん:2010/06/18(金) 10:14:33
>>89 応仁の乱後に在京している大名は、
細川政元、畠山政長、武田国信、一色義直、赤松政則ぐらいですよ。
赤松は在国と在京を繰り返していますし、武田と一色は1486年に国に帰ってしまいます。
でも、赤松、武田、一色などは近国じゃん