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日本@名無史さん:
司馬さんは小説としては面白いけど、所詮小説だよねw
そこを理解して娯楽として読んでいるなら良し。
洗脳されちゃって本気に信じ込んでしまう人(とくに若手)が結構多いので、罪作りな人でもある。
司馬遼太郎、沈寿官、NHK合議の詐術
欺瞞満艦飾の「故郷忘じがたく候」
当代切っての名士・司馬の吹き込んだ嘘で膨らんだ沈寿官(薩摩焼陶工)、
マスコミは今や巨(虚)大広告飛行船となって遊泳している。
「司馬史観」で文化功労者に選出
十月二五日、平成三年度の文化勲章受章者と文化功労者が発表されたが、
そのなかには、「龍馬が行く」「坂の上の雲」「空海の風景」など独特な歴史小説で
人気をはくしている司馬遼太郎も選出されている。
司馬遼太郎は筆名。司馬遷に及ぼずの意味の筆名とか。
司馬遷は、言うまでもなく「史記」を著した歴史家。
司馬自身も、目標としている司馬遷には及ぼずとはいえども、現在では
「独自に資料や文献にあたり、歴史や人物を展開する手法は『司馬史観』と称される」
(朝日新聞、十月二五日タ刊)ほど、小説家としてだけでなく、
歴史家としても一目も二目も置かれた存在となっている。
しかし、これほどの人物の著作物の中だが、歴史家としての名声に疑問をもたされるものがある。
「故郷忘じがたく侯」(文芸春秋社、昭和四三年刊)がそれである。
同書は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本に強制連行された(私はこの説に異議ありだが)
陶工家たちが、故国の事が忘れられないまま鹿児島・苗代川(現・美山)に住みつき、
日本人の差別に耐えて、薩摩焼を陶芸品として定着させたという歴史もの。
日・韓の「する」「される」歴史の側面を、沈寿官という陶工を通して描いた秀作というのが
一股的な評価となっている。 この書を読んで感激しわざわざ苗代川を訪れる者もあるようだ。
この司馬作で脚光を浴びたのが、この書のモデルとなった「薩摩焼宗家十四代沈寿官」。
それまでは無名であった者が、この書の出現でこの書が作りあげた虚像のままに生きることになる。
そのお手伝いはマス・メディア。
問題は司馬のこの書の大半が嘘で固められていることである。
先ず十四代・沈寿官(以下十四代と記す)の経歴に詐称がある。
その点から「司馬史観」の実態の一端を検証してみたい。
十四代は韓国人?日本人?
「鹿児島県旧士族沈寿官家はその韓国ふうの姓名が世襲であり、戸籍名であり、
むろんいまの第十四代の当主もその名なのである」(同書八ぺージ)
「薩摩に連れて来られて以来、江戸時代からこんにちにいたるまで
ついにその姓名をかえようとしていない」(同書九ぺージ)とあるがこれが全くの嘘なのである。
十四代の戸籍名は大迫(吉本)恵吉。大正十五年十二月三日に誕生すると、
既に日本姓を名乗っていた吉本祐康、その妻テイの実子として届けられる。テイは十三代の実妹。
そのあと、昭和三一年二月二二日に大迫エダ(実母・ハマノの母)と養子縁組をする。
この十四代が沈姓になったことがある。それは実父十三代の死(昭和三九年三月三一日)の前日、
妻と共に実父・実母の養子となるが、それから半年も経たないうちに大迫姓に戻っている。
従って、旧制二中入学時は吉本恵吉。ところが、司馬の書では本名は伏せられ、沈姓で終始する。
そこから次のような捏造がまかり通る。
入学早々、教室にすぐ上級の者が数人はいってきて、「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。
手をあげい」と わめいた。(同書四十ぺージ)。
上級生たちは「新人生名簿によって韓姓の少年がいることを知っただけであるし(同書四一ぺージ)。
その後、上級生たちは「沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。
精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、
十人ほどが寄ってたかって殴った」(同書四二ぺージ)となる。
この暴行の場面は朝鮮人迫害の恰好の例として、在日朝鮮人作家・金達寿、金一勉が
それぞれの著作で踏襲する。秋山ちえ子も「哀しい町」で同行同曲のことを書く。
そして、NHKで増幅される。
十四代は昭和四一年に、韓国民を震え上がらせていたKCIA(韓国情報局)の招きで渡韓し、
朴大統領に会い、ソウル大学で講演している。その時十四代はどういう肩書で渡韓しているのか。
司馬の筆によると「ソウル、釜山、高麗の三大学の美術史関係の研究者にまねかれて渡韓した。」
(同書五九ぺージ)とある。ここでは陶工家の肩書は出てこない。
薩摩焼きの第一人者でもないのだ。
それはそのはずである。
十四代が東京から帰鹿したのは昭和三五年以降のはずである。
昭和三一年出生の長女の届けは東京都。長男のそれは昭和三四年、横浜で届け出。
次女の出生(昭和三六年三月三一日)の届げ出が初めて鹿児島でなされている。
この間の十四代の経歴はどうなっていたのか。
昭和二〇年十四代は旧制中学を卒業すると鹿児島医専(現鹿大医学部)に入学、中退。
その後、早稲田大学政経学部卒のあと、鹿児島選出の自民党代議士床次の秘書となっている。
その秘書稼業をやめ、帰鹿し窯場の苗代川に落ち着いても十四代が作陶に精出している姿を
地元の陶工家で見た者はない。十四代は政治向きのことで奔走しているのだ。
昭和四六年、四七年には大迫恵吉の名で鹿児島県PTA連合会会長となっている。
そういう下地を作ったあと十四代は参議院選挙に打って出る準備もしている。
こういう経歴の持ち主が、昭和四三年刊行の司馬の書では早くも名工扱いになっている。
ここでも司馬の筆が踊る。十四代は十三代に「少年のころから作陶の技術を教わった。」と。
これなど全くのインチキである。
十四代はNHKの放映でもそのように喋っているのだが、十三代は京都帝大法科を卒業したあと
朝鮮総督府の役人をやり、戦後は郷里で村会議員をしていたのだ。
十四代が名工などということが飛んでもないことは別の面からも証明出来る。
鹿児島県では最大の評価を得ている鹿児島陶芸展がある。
昭和四八年から始まり、審査員は東京芸大の人間国宝の藤本能道らである。
この陶芸展には十四代と同じ運命を辿ってきた鮫島佐太郎、荒木幹二郎の名は頻繁に出てくるが、
十四代の名は受賞者欄にも、賛助出品者欄にも一度も出てこない。
これが司馬の筆にかかると手品のように名工となる。
「黒薩摩は民間需要に、白薩摩は島津家御用のみ、と規定されてきたが、
ただ黒にも、例外があり、 御前黒という、肌質に、黄金の梨地が沈んだような玄妙な黒ものだけは
かたく御用とされ、その秘法も一子相伝の口伝とされてきた。
十二代は十三代に口伝をあたえることなしに死んだためにこの技法は絶えた」(同書四八ぺージ)が、
十四代は御前黒に適した釉薬を家伝書から推測し、見事、御前黒を再現したと、司馬は記す。
ここにもまた幾重にもウソがある。十三代が焼き物など出来なかったことと併せて、
この記述は苗代川焼きの伝統、歴史を無視している。
明治になるまで苗代川の陶工家たちは島津藩の指示のもと、共同で雑器類を焼いていたのである。
従って宗家などというものがあったわけがない。
御前黒などという呼称も、鹿児島の人間が降る雨を島津雨などという類のものである。
また「御前黒」なる代物など他の窯でも焼けるし、焼いているものである。
十四代は昭和五二年に東京で個展を開き、販売し、売れ残りは朝鮮系のパチンコ屋さんが
買い上げたようだが、その個展にまたも司馬が駆けつけ、作品の一つに井光黒(いかりぐろ)と命名してやり、
十四代を「五〇歳を迎えた今、新しい自分の領域を広めて世に向かうことになった」と絶賛する。
当代切っての名土が後楯となれぽ怖いものなしである。黙っていてもマスコミが太鼓を叩いてくれる。
その頂点に立つのがNHKである。
NHKはこの十月十日、BSカルチャースペシャル「沈寿官の世界」を八時間にわたり放映するに至る。
すっかり十四代に乗せられたとは言え、あまりにもひどいインチキものなのである。
同放送でも、十四代を「韓国姓を名乗る唯一の陶士」と紹介しているが、
番組構成は司馬の書の著作権が心配になるほど類似したものとなっている。
NHKも、十四代の経歴、陶工家としての力量、韓国との関係など
すべてを司馬の描いた虚像に基づいた制作をやらかしているのだ。
不思議なのは司馬のありかたである。単に十四代の虚像を作りあげただけではない。
十四代の孫の命名も司馬であったと放映していたが、司馬は自分が作り上げた虚像と現実的に
付き合いを続けてきており、嘘の膨らましに加担し、なんら臆するところはないようである。
嘘も百回つくと本物となるというが、嘘も知名士がついた嘘となると、これほど他愛なく知識集団である
マスコミ人が追随するものなのであろうか。滑稽で空恐ろLくなる話しである。
多少の良識があったら、少なくとも日・朝間の関係は豊臣秀吉以後、明治までは友好的であったことは
是非書き込んでおくべきではなかったのか。
ところが司馬は沈寿官の口を通じて、渡来後の三百七十年間日本人の迫害を受け続けてきたと喋らせている。
苗代川の住民は明治になるまで島津藩の保護を受け、曲がりなりにも士分格の扱いを受けていたのである。
その点、明治になっても苛酷な扱いを受げた奄美の島民よりは優遇されている。
また苗代川出身者は明治になり、日本名に変えたあと、政界、教育界、軍関係で人材を多く輩出している。
その頂点に立っのが、戦時中の東郷茂徳外相である。彼の父・朴の作陶品が美山に残されている。
その点、出自が分かると、就職、結婚などで希望を打ち砕かれてきた被差別部落出身者ほどの
酷い差別を苗代川の者は受けていないのだ。
明治になり朝鮮差別が酷くなった理由として、心理学者の岸田秀が「ものぐさ精神分析」の中で
次のように書いている。「欧米諸国に屈従する外的自己は、その存在を否認しなけれぼならない。
それは、いやが上にも純化された内的自已の自尊心に突き刺さった棟である。
外的自己は非自已化され、投影される。その投影の対象に選ぼれた不運な国が朝鮮であった。」
分かり易く言えぼ、外圧に屈した分だけ、捌け口を朝鮮に向けたという事であろうか。
更に、韓国人である呉善花が「スカートの風」で、韓国の陶器伝統が駄目になったのは、
韓国人は豊臣秀吉が韓国から陶工家をごっそり日本に連行したからだと、反日的なことを言っているが、
実際は韓国人が技術を軽視するところにあったと言っている。
NHKの「沈寿官の世界」はひたすらに十四代のインチキな誇大言辞を唯々諾々と流し、
十四代の個人的宣伝に終始するものであったが、相当莫大な公共料金をこういう
馬鹿げたものに使う無神経さには恐れいる他はない。
司馬は文化功労者に選出されたおり、「日本人とは何かという問いかけによって歴史に目を向けた」と
語っていたようだが、日本人とは何かを問う前に、自分自身の良識はどうなっているかを
問わねぼならないのではないか。
十四代にしても同様である。十四代はNHKに出た際、在日韓国人と誤報されたことがあったが一、
抜群の演出力、宣伝力を発揮すればするほど、彼は一体韓国人なのか、日本人なのか、
その進退が問われねばならないところにきている事に気付いているのだろうか。
私が恐れるのは、「やっぱり朝鮮人は嘘がうまい」という、隠徴で不健康な陰の声が強まっている事である。
十四代は韓国名誉総領事代理を勤めているが、韓国の名誉の為にも嘘はいい加減にして欲しい
という事である。司馬も同様である。
酒井学(種子島・佐倉)
鹿児鳥大学を卒業後、県内で高校の英語教師をしていたが、八八年、妻の死. 亡で定年を待たずに退職。
全国紙系の記者をしている息子とともに千葉県佐倉市に居を移した。
社会に対する批判精神はおう盛で、沈寿官氏をモデルとした故司馬遼太郎の小説
「故郷忘じがたく候」にも問題点を見つけ、冊子にまとめたほか月刊誌でも論を張った。
佐倉市では私立高校の非常勤講師もしていたが、このほど、息子のアメリカ異動に伴い、
一家とともに酒井も同行」新たな生活に好奇心を燃やしている。