2 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 11:42:28
2ゲト
3 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 11:46:34
イ三三三三 \
/イニニニニ\ヽ\ゝ_
/イニニニニニ\\V/彡\、
|三ニ>───、\V//彡\ヽヽ
|三ニ|  ̄ \\ヽ|
ハ三シ∠ミヽ, \ミ l
{!レ/ ミゝ.,_ ∠三ゝ |ミ l
| レ 彡ヽ`'ゝ f=・xミ; |ミ/
'┤ ノ i `'' /}
l ーイ⌒(、 ':i / / サァン!
| 《三ヲ`7≦ 〃
ト、 斤  ̄`''キ≧ /´
<| 丶 ヽニ--ソ'" /
ノ| \ \  ̄ /\
/ l / ヽ、ヽミ _彡'´.〉 /\
__/ .ト、ヽ i | / |. \_
スレ立て感謝です
5 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 12:47:13
>>1 に賛同します。
奴のせいで貴重なカキコミが全て流れてしまいました。
6 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:51:42
頼道の子は道長。
7 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/23(月) 21:18:07
>ロムってる方々へ
倉庫に行った前スレをごらん下さい。
私の書き込みに対する反論に私が逐一反駁して結局私の論の前に黙らざるを得ない名無したちの恨みだけが残った
という流れが分かるでしょうから。
8 :
日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:37:52
虫。
>黙らざるを得ない
だって
チンピラやくざのやり方をだれが恨むんだよw、低学歴厨w
だからおまいら放置しとけって
基地外相手にしてもスレの無駄使いだろ
11 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/24(火) 00:27:54
>>9 最初にアヤつけてきたのはおまえらだろ
ていうか法制史の基本的な事柄も踏まえずにバカじゃねえか
ありゃ論破されて黙るしかなかったとしか見るほかないぜ
物理的な手なんか使ってないし使えなし
武陽一人の書き込みにバカじゃねえか
変な言いがかりよせよクズ
例え「武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s」のレスがまともなものに見えたとしても、完全無視・絶対放置でお願いします。
13 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/24(火) 00:48:25
>ロムってる方々
とりあえず倉庫のぞいて前スレご覧ください。
私の論破で多数の名無したちが消えました
まあ寝ますか
私は口は悪いですが
日本史板では最高の書き込みしています。
口の悪さは気にしないでね
自分を正当化しようと頑張るとかwww
だからヌルーしろよ
武陽隠士をいじめないで
少同意だな
18 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:46:37
すべてブヨーのせい
19 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:02:27
エリート意識が痛いコテ
そろそろ本題に入りませんか?
ではネタふりでも
前スレではやり手No1が源通親、No2が藤原百川みたいな感じだったが
おいらとしては百川をNo1に推したい
源通親のいわゆる「悪辣さ」は、通親の政敵兼実による誇張の部分(特に玉葉)が多分にあると思われるが如何かな?
同意だな、前スレの結論はちょっと納得いかなかった
なんか兼実が一方的に通親を敵視してる気がするんだよね
けど通親はあんまり兼実を相手にしてないような
兼実の息子の良経もちゃんと大臣に昇進させてるし
橋本義彦氏の『源通親』吉川弘文館<人物叢書>がすごく分かりやすい。
最初のページにある通親のメタボリックな姿を拝めるだけでも、買うだけの
価値はあります。
26 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 15:47:45
あげ
メタボな通親がどうやって範子たんを口説き落としたのか知りたいね
28 :
必殺保守人:2008/07/04(金) 11:17:10
一週間レスなしワロタ
29 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 22:00:21
30 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 13:39:48
マジレスします。
やり手っていったら良房じゃないでしょうか
承和の変や応天門の変での活躍は以上
31 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:31:19
源経房age
彼女の身に何があったのだ
34 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 19:04:19
後ろ向いて舌でも出してるでしょう。
ぶよーさん別れたんじゃね?もしくは妊娠したか。
ってことで山桃大納言顕雅age
阿部比羅夫って評価どうなの?
田村麻呂が金持ちってのもねえ
坂上家って田村麻呂のあとはだめ
37 :
日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:33:47
田村麻呂の後は
軍人が活躍する時代じゃなくなっちゃったからね
38 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:22:45
>>24 通親が兼実を全く相手にしていなかったという意見だが
それも違うと思うんだよね
兼実の娘九条任子が後鳥羽天皇の中宮であったのに対し
通親の養女在子は後鳥羽天皇付きの女官兼愛人にすぎなかった
在子の生んだ土御門天皇を即位させるには
中宮任子の存在は脅威であった
在子が第一皇子を産んでいても中宮である九条任子が男子を産めば
兄弟順に関係なく兼実を外祖父とする天皇が即位することになる
兼実が失脚したとき中宮任子は後鳥羽天皇の後宮を退出
失意のあまり出家した
このことは通親の台頭に不可欠な事項であった
通親が兼実をライバルだとすら思わず
兼実の失脚など一切望んでいなかったと言えば嘘になる
土御門天皇の即位が危ぶまれるところであった
軍人が活躍しなくなった。
それ以前は蝦夷が大敵だから軍人を重要視していた
では、どうして蝦夷は重要視されて大陸は重要視されないんだ?
大宰府が外的を防衛する機関としてもっと重要視され、
その役人も、英雄たるべき人物がなるのではないのか?
40 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 18:47:17
>>39 日本は白村江の戦いで敗れて以来
海外へ攻め込むことを永らくやめた
そのために武功を立てる者もなく重視もされなかった
太宰府を置いてはいても
海を渡って攻め込まれることも滅多になかったし
逆に任那などの日本の植民地を朝鮮に持っていた時代には
朝鮮へ攻め込んだ武将が英雄として登場しているよね
それは否定されてるけど、2ちゃん的には敵が多くなるので
まあいいか
源通親は古今随一の男
平安末から鎌倉にかけての公卿で歌人。村上源氏。累進して
内大臣となり土御門内大臣と称した。後白河の死後、丹後局とはかり
一大勢力を築き上げ頼朝信者であった九条兼実を廟堂から追放、放逐、駆逐
そして、後鳥羽を袖のしたにいれ朝廷の実権を完全掌握し、鎌倉幕府に対抗するが
志半ばで倒れちゃった。あの有名な思想家道元は彼の子。
通親はやっぱすげーーーーーーーーーー
43 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 08:16:20
まあ、彼が居た無かったら久我家は清華家にはなれんかったろうな。
44 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:59:01
>42
鎌倉幕府に対抗するどころか幕府を完全に馬鹿にしていたのは
源通親というよりむしろ通親と組んだ丹後局である気が。
あの女傑、東鑑が尼将軍と呼んで歴代将軍と全く同様に章を割いている
北条政子を袖にしているからね。
通親は丹後局と組んだのではなく彼女を利用しただけ。
本当のパートナーだったのは高倉兼子だと思う。
丹後局を上手く使って旧後白河勢力を字勢力化に上手く組み込んだ。
キンシ内親王の件だって通親のはからいだし、
かれは政治家として有能なことこの上ないね
46 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 22:57:27
その割に兼子は全く通親の思い通りにならなかったね
後鳥羽天皇は通親を外祖父とする土御門天皇をあっさり廃して
皇統からすら外してしまったし
兼子は後鳥羽天皇の別の皇子を養子にもらって
天皇にしようとすらしてたよね?
兼子に通親と組む気はなかった模様
47 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:09:51
土御門天皇が廃されたのは通親が死んで8年も後のこと
48 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:24:23
兼子がのびのび活躍しだすのも通親が死んだあと
通親が生きている間はほとんど兼子の活躍は見られない
49 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:44:43
兼子が「権門女房」と呼ばれて権力を握ったのが1203年頃。
すでに姉の夫である通親は没している。
この翌年、将軍源実朝と坊門信清の娘(後鳥羽天皇のいとこ)が結婚、
北条政子に依頼されてこの縁組を決めたのが兼子。
自分が養子にしていた後鳥羽天皇の皇子を天皇に押したり、
こっそり北条政子に頼まれて将軍として鎌倉に送ろうと企てたり、
承久の乱のあたりまで権力を握り続けた。
兼子はたいへん口がうまく、短気な後鳥羽上皇をけして怒らせない話術を持っていた。
兼子は40代後半になってから結婚を2度しているが、
「権門女房」を手中におさめようとかなりの高倍率であったらしい。
(結婚した相手も若い男ではなくおじいさんだけどね)。
だが通親が生きていた当時でも後鳥羽と通親をつないでいたのは
兼子や範子のような乳母。
見た目では通親が死んで活躍しだしたように見えるが
実際は隠然たる力を持っていた。
でも承久の乱はとめられなかったね。
51 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 20:56:45
>>50 石清水八幡宮へ行幸した8歳の後鳥羽天皇は
道中の輿の中でお漏らしをしてしまった。
その際、通親が内裏まで後鳥羽天皇の衣装を取りに帰り、
祭事においては事なきを得た。
九条兼実の「玉葉」にある話である。
通親が天皇のお漏らしの後始末までしたのは、
通親が後鳥羽天皇の乳父(乳母の夫)として身近で世話をしていたためである。
乳母を介してしか通親が後鳥羽天皇に接近できなかったわけではない。
通親が後鳥羽天皇幼少のころから身の回りの世話を事細かにこなしていたことは事実。
通親の地位は一朝一旦に出来上がったものでなければ
範子や兼子を介してしか接近できなかったわけでもない。
だが、後鳥羽への接近を可能にしたのは乳母の範子や兼子の力。
それと乳母とは単なる養育係ではない。
乳を全く与えないのもいるくらいだし、
乳母の最も重要な役目はいかに養い君を守るか。これが最重要。
まあ通親なら後鳥羽を抱き込むためにそのくらいのことはするだろうよ。
院政期の乳母の占める重要性を忘れてはいけない。
53 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 21:57:29
通親が範子と結婚したのは明らかに
範子に抱かれた幼い皇子(後鳥羽天皇)を
自分の思い通りにお育てしたいという思いからだろうね
範子は大変おとなしい女だったというから
夫である通親の言いなりにもなっただろうし
乳母とはいっても本当に世話役で終わる乳母もいる
範子などは全く政治的活動をしていない
妹の兼子は幕府にも聞こえたやり手だった
兼子が通親の言いなりになったとは思えないけどね
通親の言いなりにする理由もないし
すいません、すれ違いですが教えてください。
八幡宮は源氏の守り神といいますが、この源氏とは清和源氏だけを
さしているのでしょうか?村上源氏などは氏神はべつなのでしょうか?
で通親はやり手だと思いますか?
個人的には93点ぐらいあげたいと思ってますが
56 :
日本@名無史さん:2008/08/09(土) 00:51:49
ガチでタイマン張れるほどの度胸は無い
「殴りあう貴族たち」でもよんでなさい
1月8日:右大臣藤原顕光の家人が催封物使藤原能通の家を襲撃
7月1日:大隅守菅野重忠、大宰府において大蔵満高により射殺される
10月29日:因幡守橘行平による介因幡千里殺害事件を審議
このように貴族は戦っていました。
手下にやらせてるやん
60 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 19:31:32
今の政治家が暴力団使ってやりたい放題やるのと一緒だろ
清和源氏なども平安中期には摂関家の暴力団要員だったし
61 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 18:17:38
>>60 死刑の停止?復活?を論ずるよりも『穢れ』を論ずる方が遥かに重要である。
令外の官として中央と地方に検非違使、地方に押領使を置いた目的は警察機能の
強化だけではなく『穢れ』のアウトソーシングであった。
衛門府の官と兼帯して実務者の最高位は大尉判官で従六位でしかなかったのだ。
しかし承平・天慶の乱後、鎮圧勲功者に対する論功行賞として異例の従四位の叙勲が行われた(昇殿資格である)。
だがそれは『穢れ』を引き受ける(封じ込める)特定の家(兵の家)の成立であったのだ。
「軍事貴族」とは聞こえはいいが「穢れた貴族」と位置付けられとのである。
紛争事の解決手段として、また暴力装置として朝廷から公認されていたと言える。
公には死刑廃止であっても死刑は行われていた。
源満仲を例に上げれば、源氏重代の宝刀「膝切丸」「髭切丸」の命名は罪人を試し斬りしたことに由来する。
朝廷の機関で罪人を死刑執行するのでは無く、摂津の源氏居館へ送られたと伝う。
どのように執行処理されたか定かではないがその門塀には生首が沢山転がっていたとの記述もある。
鬼退治や土蜘蛛・酒天童子の逸話は殺生を『穢れ』として忌避した仮託の物語であることは言うまでも無い。
「軍事貴族」が「穢れた貴族」であると看做されていたのは満仲出家時の『小右記』の「殺生非道の者
仏心を起して云々」の記述を見て明らかである。
62 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 21:10:59
>>61 アンカーのつけ間違いじゃないの?
文章の流れと全く合ってない
長文書いてワロス
63 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/13(水) 00:18:25
>>61 小右記の引用文が誤っているぜw
「満中、殺生放逸の者なり。
しかるに忽ち菩提心をおこし、出家するところなり。」
ちなみに引用文中の“満中”は誤字じゃない。いわゆる“ママ ”という奴だ。
それからケガレだが、確かに平安の死刑停止ないし廃止においては、
怨霊とともに重要なファクターだが、
小右記の記述はそれとは違うだろう。
軍事貴族へのケガレ視というよりも、
小右記がいいたいのは
残忍な満仲が出家することへの批判だろう。
どうでもいいがウィキだか何だかのくだらない敷き写しは止めろ。
うぜー
64 :
武陽隠ポ:2008/08/13(水) 13:07:33
再び信西上げ
女性だってのに
江戸時代の貴族についての質問なんだが
貴族の生活が苦しいとは言うものの大名のように
政治をしなくて良いからそこまで辛くはないと思ってるんだが
実際どうなの?
67 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 16:09:47
摂家は千石級の所領と縁戚の大名家からの経済的援助もあったから、
けっして窮迫はしてなかっただろう。
しかし、下級公家の多くは中下級武士くらいの収入しかなかったので、
京都のような都市で消費生活を送るのは、苦しかったのではないだろうか?
68 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:19:27
大名のように多くの家臣を従えたり
参勤交代の義務などを持っていないので
摂家クラスで千石を超える石高があれば
家族や使用人は何不自由暮らせる
下級公家は苦しかったと思うが
それは下級武士でも同じことだよね
娘を宮仕えにでも出してしのいでたんじゃないの
ちょっと違うけど
一石二人扶持の同心は苦しかっただろうね
まあ賄賂だらけだから生活は大丈夫だったんだろうケドね
70 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 03:01:27
71 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/21(木) 23:42:38
>>70 ネット上から貼り付けたデータではない。
勝手に決めつけるなバーカ
それは私が反駁を加えた相手にいえることだから
そいつにいえ
バーカ
72 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 00:56:12
まぁ舞踊にどんな日本語言っても読解する脳細胞無いからムダムダ
狂人は放置放置
73 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 02:51:17
公爵伊藤博文。
そのへんのおっちゃんになるはずのやつが
1000円札に、これはやり手。
75 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 17:47:59
76 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 12:58:33
77 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 16:13:08
ブヨが調子こいて連投しだしたスレは必ず過疎化します。
78 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 02:33:40
武陽とやら、此処にはもう二度と来ないでいいからな。
79 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 11:52:36
ブヨウ、ここでも嫌われてるのぅ
80 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 12:06:10
裏管理人さんに土下座したリアルを知ってるよ。
このスレは、「武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s」というコテハンのスレ違いレスにより、住人が大変な迷惑を被っております。
このスレに来たばかりの人や、コテハン「武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s」を良く知らない人は
例え「武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s」のレスがまともなものに見えたとしても、完全無視・絶対放置でお願いします。
とあるがむしろかまってちゃんじゃないの。
82 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 16:14:04
83 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 16:28:31
>>82 まだ「平将門 第二首」スレが格納されてないならロムれば顛末がわかるよ。
84 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 00:57:03
>>83 鬼神光誕ブヨ超土下座、戦慄の展開…
あれから一月、しかし結局今日もブヨは愚かで傲慢な罪深い人間でしたwww
85 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 02:33:50
>>83 さんくす!
覗いたけど凄い展開だね、特に裏管理人が出て来る辺りドキドキした。
平時忠
「平将門 第二首」
詳しく実況頼む。
88 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 09:28:14
>>87 釣り?
ブヨは油断できないから自力で閲覧汁!
外国の貴族についてのスレってある?
90 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:07:15
世界史板で聞け
外国ならまあボルジアかな。
伸びてねーな
このスレも終わったな
勝手に終わらせるなよ
源俊明。あの専制君主・白河法皇に意見できたというのが凄い。
彼がいなければ、摂関家(御堂流)は消えていたかもしれない。
95 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:46:51
藤原忠通
何だかんだで父と兄を退けて摂関を地位を守り抜いた
97 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 07:33:35
あげ
98 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 20:58:46
>>94 源俊明は白河法皇の意を汲んで発言したに過ぎないだろ。
白河法皇は摂関家の養女賢子を寵愛して摂関家を外戚とする堀河天皇に譲位、
堀河天皇の中宮にも摂関家の養女を迎えるなど、
もともと摂関家のことが嫌いではない。
白河法皇自体、閑院流を外戚としていたのに閑院家を摂関にしなかったのだから、
孫の鳥羽天皇の代に閑院家を摂関にする気など始めからなし。
摂関家との良好な関係も賢子あればこそ。師通とは仲が悪かったようだし、
忠実は内覧を停止されて失脚。苡子・璋子を堀河・鳥羽の女御に送り込むなど
賢子の死後は、閑院流>摂関家という姿勢が目立つ。
101 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:26:15
>>100 負けちゃいないだろ。信頼は平治の乱で失脚してるけど、
忠通の子孫は五摂家として繁栄してるし。
102 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:38:25
>>99 白河天皇は中宮賢子の没後、遺児堀河天皇に妹の篤子内親王を入内させるにあたって、
わざわざ篤子内親王を関白藤原師実の養女にしたことを忘れてないかい?
篤子内親王の入内には師実の正室源麗子が母代わりに付き添っている。
中宮篤子内親王に子がなかったために自身のいとこの苡子を送り込んだのは事実だが、
苡子は女御に過ぎず、篤子内親王を超える待遇は受けさせなかった。
鳥羽天皇の中宮にも当初は藤原忠実の長女泰子を充てる予定でおり、
親摂関家の立場は揺るがなかった。
それが養女璋子と忠通の結婚話の破断により泰子の入内話も揉めることとなり、
結果、忠通の正室になる予定をしていた璋子を当てつけのように
鳥羽天皇の中宮に立てるという行動に出た。
閑院流の中宮が立てられたのはまさにこのときが初めてで、
ここまで話がこじれなければ鳥羽天皇の中宮ははじめから摂関家の藤原泰子だっただろう。
賢子の死によって白河天皇が急遽摂関家より閑院流をとるようになったということではないよ。
篤子内親王の入内については、栗山圭子氏が 「篤子内親王論」(服藤早苗編
『女と子どもの王朝史-後宮・儀礼・縁-』所収)で、主導したのは摂関家であり
師実による養女入内作戦第二弾だったという説を提唱されてます。
藤原師通が白河上皇の政治介入に批判的だったのは、『今鏡』で有名な話ですし
忠実失脚直前まで、院・摂関家が良好な関係だったというのは腑に落ちません。
「苡子は女御に過ぎず」と言いますが、院政期の女御は後に格上げされる
ケースが多く、鳥羽即位まで存命だったら皇太后になっていたと思います。
そもそも師通が実権を握っていた時期は白河院は娘の死で出家して丁度政治への関心が一時的に低下していた時期。
師通は天皇が成人したのにいつまでも上皇は出しゃばるなと批判したが、当の上皇もその気をなくしつつあったから結局ガチにはならなかった。
師通と堀河帝が早死にしなければ、白河院が前面に出る必要性もなかったし、政務への関与は相当限定的に止まったのでは?
白河院政確立は鳥羽即位以降なので、堀河存命なら状況は違っていたでしょう。
鳥羽即位の時、藤原公実が「天皇の伯父だから摂政になりたい」と言い出し
白河も悩んだ。ここで源俊明が院の寝所まで押しかけて、決断を迫ったため
忠実に決定したと『愚管抄』にあります。
慈円は俊明を「イミジカリケル人(優れた人)」としています。
>>101 保元3年(1158年)4月20日の賀茂祭で行列を見物していた忠通の前を、信頼が
車で横切る行為に出たため、忠通の下人が信頼の車を破壊。翌21日、信頼の訴えを
聞いた後白河が激怒して、藤原邦綱・平信範(忠通の家司)を除籍・謹慎処分とした
事件(『兵範記』)を言っているのでは?
この屈辱にも関わらず、忠通は嫡子・基実と信頼の妹の婚姻を認めている。
「保元の乱」の勝者でありながら、忠通は周囲から軽んじられていたらしい。
『兵範記』保元3年(1158年)4月21日条に「東三條殿被閉東西御門等了」と
あるので、忠通も閉門蟄居になったようですね。ただし、4月26日条には
「東三條被開御門了」とあるので、すぐに解除された模様。
109 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 11:53:59
>106
とはいえ、その翌年に信頼も失脚してるから信頼が勝者とも言い難い。
110 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 18:47:56
なある
111 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 09:13:09
あなる
112 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:18:39
西園寺はん、儲けてまっせ。
有馬温泉の湯を、毎日桶で吹田の別荘へ運ばせてたそうだな
恐るべし西園寺公経
114 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 18:13:53
源通親
貴族って言うか華族というか、農民の子せがれだが
山県有朋大先生
116 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 18:14:55
>>106 信頼が落ち目になった途端、
平清盛の娘盛子が基通の正室に納まり、
基通は信頼の血縁であることを忌んで
盛子の養子となって盛子を実母と公称して
育てられたけどねw
>>106 そりゃ、親を罪人にするのは明治以前の社会では許されない事でしたから。
結果論とは言え、父親の忠通を罪人にすることに加担したことで忠通の社会的な信用は失墜した。
ちょうど、今クスリで話題になっている酒井某さんの状況に近いかもしてない。
118 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:16:37
というか頼長は摂関家の嫡流だったんだよな
忠通は40過ぎるまで男子がなく頼長は公的にも名実ともに摂関家の跡取りだった
それを忠通が覆して摂関家の傍流にすぎなかったわが子を跡とりに据えた
武家が台頭していなければ涙をのむのは忠通のほうだったし
摂関家嫡流が敗れたことで摂関家は弱体化した
そのためにむざむざと清盛の太政大臣就任を許し
挙句の果てには清盛の娘の入内・立后まで許しちゃうわけだけど
嫡男の地位なんて平安時代にはまだ絶対的じゃない。
殿下乗合事件のことを記した「玉葉」には平重盛の嫡男が重衡であると書かれている。
まさか、九条兼実が平清盛の次の次の後継者を間違えるとは思われない。
我々が現在知る維盛が嫡男と確定するのは事件以後のこと。
120 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 20:13:12
>>119 摂関家に関しては頼長らが生きた院政期にすでに嫡男という概念があった。
娘を入内させ孫を天皇にして摂関になるなんてのは道長・頼通の時代まで。
摂関家に関してはすでに天皇との血縁関係にかかわらず世襲となっており、
家長である父親が次の摂関を決めていた。
血まみれの死闘を繰り返して嫡男の座を奪い取る武家とは違う。
摂関家に生まれた兼実自身、摂関家にはすでに嫡男の概念があったからこそ
嫡男という言葉を日記に記したに他ならない。
>>120 伊勢平氏はあくまでも軍事貴族じゃないか
122 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 22:27:47
>>121 父親に嫡男決定権がなかったという意味では伊勢平氏は摂関家とは違う。
この時代の摂関家の継承方法を見てごらん。
父親から藤氏長者を継承された頼長は嫡流だと言えるから。
123 :
日本@名無史さん:2009/11/03(火) 02:06:24
スレ落ち回避age
124 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 21:36:40
自分の子孫で朝廷を独占した藤原不比等
確かに村上源氏も不比等の子孫だし。
江戸時代あたりになると、不比等の子孫じゃない堂上公家なんて、
たぶん一人もいないんだろうな。
126 :
日本@名無史さん:2010/01/17(日) 11:17:53
藤原信西
女系まで含む場合には、平安時代以前の上級貴族のかなりの部分が
「江戸時代の堂上公家は全て○○の子孫である」
に該当するのでは?と思うが
129 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 02:33:06
ウホッホ
130 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/03/07(日) 03:44:58
>>119 重衡(そもそも重盛の息子ではない)じゃなくて資盛でしょ。玉葉の当該箇所ちゃんと読んでいないんじゃない?
「三日辛巳。今日法勝寺の御八講の初めなり。御行あり。
摂政(基房)法勝寺に参らるる間。途中に於て、越前守資盛(重盛卿嫡男)
女車に乗りて相逢う。而して摂政の舎人居飼等かの車を打ち破り、(…以下略…)」
(高橋貞一氏による『訓読玉葉』。嘉応二年七月の項)
あと重盛の子息のなかでは、維盛はぜんぜん嫡男じゃない。
官位をみればそれは瞭然なんだ。
131 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/03/07(日) 03:47:16
>>130における訂正
【誤】御行あり→【正】御幸あり
連投ごめん
例え「武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s」のレスがまともなものに見えたとしても、完全無視・絶対放置でお願いします。
133 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 21:56:00
はい
って言うか、どう見ても単に名前を勘違いしているだけにしか見えないのだが。
135 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:03:47
そうなの?
136 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 17:13:37
藤原百川
137 :
日本@名無史さん:2010/06/14(月) 00:51:45
一条三位、城崎三位、六条三位、菊亭左大臣、梅小路大納言
138 :
日本@名無史さん:2010/06/14(月) 04:11:43
心しておじゃれ!
139 :
日本@名無史さん:2010/06/14(月) 12:50:16
やりまんの貴族について語るスレ
日嗣の御璽をおあずかりして、内国の富を藤原一族に配分した なかまろ様最強。織田もとくがわもあしかがもたいらキヨモリも かなわない夢プ
141 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 16:12:22
源通親じゃない?
政敵九条兼実を追い落とし、土壇場で頼朝の征夷大将軍就任に賛成し貸しをつくり、
外孫を土御門天皇として即位させる。更には院庁別当にも任じられる。
禁裏・仙洞・幕府のいずれも掌中に収めたので、もう怖いものなし。
142 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 09:09:37
>>141 源通親は後鳥羽が幼いうちは後鳥羽の乳母藤原範子を後妻として
後鳥羽天皇の養父としてやりたい放題だった。
しかし、後鳥羽上皇は20歳ごろから養父通親を無視して勝手な行動をとるように。
かつて通親が罷免した九条兼実の子息九条良経を左大臣に取り立て、
寵愛の藤原殖子に産ませた守成親王(のちの順徳天皇)を強引に土御門天皇の皇太弟に立てた。
通親は将来を憂いながら亡くなったはず。
143 :
日本@名無史さん:
藤原永手