1 :
日本@名無史さん:
第一条 責任をもってレスできる方の参加歓迎!
第二条 お互い思いやりで、対応しましょう。
第三条 無責任なレスは無視しましょう。
第四条 邪馬壹国九州論是非! 九州王朝是非! 参加してください!
第五条 畿内説畿内王朝説等の方の参加は禁止しませんが、九州諸説を阻害しないで下さい。
第六条 考古学の方は一般論を阻害しないよう、気を付け参加下さい。
第七条 証拠主義にてレスしてください。妄想論禁止!注意啓発!
第八条 下げ進行奨励 !
第九条 太国・九州王朝大好き・一応九州王朝説等の荒らしコテは参加禁止!
第十条 誘導や警告の方はキャップを貼ってください 荒らしと間違えます。
祝!
やっぱ古代は九州が都だよね
4 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:00:31
大宰府だな
平安時代のサイコロ出土 太宰府天満宮に遊具奉納? 西日本新聞2008年4月30日
福岡県太宰府市の奥園遺跡で、平安時代後期(11−12世紀)の石製サイコロ1個のほか、
すごろくの駒や碁石、おはじきなどに使われたとみられる小石の加工品約50個が30日
までに見つかった。
遺跡は太宰府天満宮の南西約500メートルで、参道に続くとみられる幅約3メートルの道
があり、掘っ立て小屋の跡や加工前の水晶の塊も出土。同市教育委員会は「遺跡は遊具職人の
作業場だった可能性がある。天満宮に奉納したか、参詣する有力者に販売していたのではない
か」とみている。
市教委によると、サイコロは1辺約1・1センチの立方体で滑石製。現代のサイコロは表裏
両面の数の和が7だが、出土品は「6」の裏が「4」となるなど、数字の並び方が今とは違っ
ていた。約50個の加工された小石は約0・8−2センチの大きさで、長石や緑色片岩、チャ
ートなど素材も色もさまざまだった。
サイコロや小石は6月20日から7月21日まで、太宰府市文化ふれあい館で展示される。
これがニュースになるなんてね
この国の年代測定の怪しさを差し引いても、貴重な趣深い出土品ですね。
歴研のホムペの年代測定みた?
だから不正確と言い訳に必死
測定の幅なんて出て当然でそれなりの対応とればいいだけでしょ
古代あたりだけ何故か14c使わない
不思議な国だね日本w
地質学では14c当たり前だけど
そこに土器混じってたら
とりあえず無視だってさ
古代の歴史からみは避けるのが戦前からの伝統
触らぬ神に祟り無し
これは口語だから割と最近の言葉でね
神様を皮肉って風刺してる訳
裏返せば出来た当時も神の本質を知ってるって訳
本当かどうかは知らないけど天皇のご先祖が神様だよね
それが嘘だと困る人って実は天皇じゃなくて取り巻きだよね
歴代の取り巻きに都合よく利用されて活躍の時代を変えられたり祟ったり神様も何かとたいへんだ
そろそろきちんとした史実で鎮めてやんないとホントに神様祟るよw
起源前から神様がいらっしゃったなんて無理あるよね
しかも奈良に坐たなんてもっと無理あるよ
土器編年のように過去に何度も基準が大きくかわったなら信用に値する訳がない
17 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 06:55:35
そんな基準なんて冷静な人程眉唾だって知っている
飛鳥歴史公園のように捏造史書により既得権益得ている団体は保身に必死だよね
19 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 10:25:03
余談ですが
明日香の歴史公園の説明には一切証拠や理由を省いてあり「〜と考えられる」の連発です
同じようにこの時代のニュースにも記紀に添ったと云うものの証拠が無い事が多々目に付きます
ですから皆さんはこれに気付いたら嘘をつくと挙動不審になる文章のシグナルなんだと思って下さい
書き手は嘘と知っていながら書いているんだな〜と読み取るべきなのです
善良な市民を騙し続け罪の意識は無いのかね?
明日香村は記紀様様だなw
シール位で人気になるの?
絵のセンス無いし最近多発の役所系勘違いキャラだなw
yahooや全国誌に流すネタじゃ無い
お役所枠みたいなもんだなw
最近お役所の権限が強まってこんな宣伝も税金だよなw
シールが売れた?
きっとキャラ関連の開発費を大幅に下回るごく僅かな売り上げだろうけど
鼻から原価意識があれば危なっかしいからこんなに派手に出さんわな
飛鳥歴史公園の贈収賄なんて、役人とその取り巻きが潤ってるだけで、贈賄側の一般社員は減給に次ぐ減給だってさ。結局役人にとっては税金も歴史も食い物にしか見えない訳だな。
28 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 10:27:54
環境ゴレンジャーとか自治体マスコットとかで、ほんの僅かに子供にチヤホヤされるだけで、年間数千万消えとりますが、それが必要な理由もまたきちんと聞いたことがありませんな。天下り供与金とバックマージンが主な内訳らしいけど。
金満役人エゴイズム「子供に優しいみんなと着服」
自分達が悪いことして相手にはするなと云う厚かましさは役人から始まったな
シールが人気
掘立柱が都
どっちもおんなじにほひがするw
素直に受け取る人もままいるけど
大概は素直に受け取る事で利益得る人
子供ですら疑問や理由を尋ねるからな
子供に尋ねられて返事が出来ない歴研のおじさんにわろたw
理由無きまま通説膨らますからそうなんだよ
将来息子や身内にお父さんは嘘の片棒肩付いてたって云われるのやだね
死んでからでも家族に経歴抹消されるパターンだなw
「宗像」の平安期の意味に直すと「中心」と言う意味になるよね
あの地域が「中心」なんてちょっと想像が付かないが
神郡として一目置かれて来た事は確かだし考えちゃうね
修正
「宗像」を平安期の意味に直すと「中心」と言う意味になるよね
あの地域が「中心」なんてちょっと想像が付かないが
神郡として一目置かれて来た事は確かだし考えちゃうね
宗像は福岡の中心にあったんです
いまの宗像大社は移設です
確か博多周辺は宗像郡の飛び地だよね
那珂と宗像は意味も全く同じだし
今の宗像郡が移設先だね
そうですね何気に「宗」って中心なんね
中心神社で何事も無い亜流の神社の訳がないな
那珂に沢山あった筈の神社は全国散りじりに移転した
うち宗像は比較的近接地にて移設を許された
ただそれだけの事
全国数ある那珂郡もここから移設された分派
そう‐しゃ【宗社】
宗廟(そうびょう)と社稷(しゃしょく)。転じて、国家
宗像大社を短縮しました
神宮よりも何だか格上
神宮とは漢字な意味合いから今上天皇に使われてもいいからね
神宮って元々都のように使われていた言葉だね
伊勢神宮のように移設されて三重に来ると
都のみの字もないから悲しいね
50 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 09:44:01
神宮=新勢力 天武+藤原系設立
大社=旧勢力 それ以前設立
神宮も大社も神様は似てるもの多く区別できないけど、
結局どのように作られたかどのように使われたの違いです。
神宮を格上としたのは後の都合
しかも宇佐伊勢両神宮の神名のように
本当に応神や天照なのか確証が無い
神仏習合本地垂迹がいい例で
持統あたりが祭られてても不自然はない
52 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 10:53:07
そうだよね
八幡大菩薩が応神なんて
言い伝えだけだし
54 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 15:26:35
八幡神は在来の神とは違うんだろう
応神も八幡以外となると
とんと目立たなくなる
神宮とはその区別とも考えられる
大菩薩は尊称としても八幡が別称なのはチト説明に困るな
誉田別尊 去来紗別尊 大鞆和気命
記紀においても色んな別名があるけど
何故その名前から八幡大菩薩と別称されるようになるのか
確かに理解に苦しむな
伊勢神宮のほうはもっと酷くて名前も無いし祭神数も違う
胡散臭いよなw
神宮は社に変わる新たな祭司施設と考えられるわけね
だいたい茨城千葉に神宮あるのよwww
記紀によればあんな所に、天皇も行幸してないし、祭神が天皇であった訳でもない。
だから結局、移設元に祭神が天皇として居なきゃありえない名前なの、神宮つう名前は。
移設元は九州で都だね
延喜式にもちゃんと鹿島神宮香取神宮と書かれてある
移設した先がまた一段と説得力を感じないよな
私は大神宮と書かれてる伊勢神宮の祭神も
延喜式の時点では天照を祭っては居なかったと考えます
なぜなら天照は元ノマ有力社に殆ど祭られていない不人気な神だから
記紀に権威付けられた伊勢神宮の後、有名な宇佐神宮御神託事件から、神宮と言う格付けを特別視した記録が、見当たらなくなります。
これは天武朝が終わった事により、神宮は神社の最高位から落ち、新たに加茂神社・松尾大社・平野大社(延喜式では共に神社)の地位が、上昇したと考えられるからです。
ちょうど真人という姓の権威が失墜したように、神宮も新たな政権に冷遇されて、形式上の最高位を保つのみとなったようです。
平安期盛んに行なわれた伊勢神宮に対する斎王制度
天皇の近親である処女が天皇の身代わりとなり神につかえるとの事
基本的に天皇が死ぬ迄は任は解かれません
これさぞ神聖で重要な役職のようですが
斎王を都から送り出す際の天皇から儀礼句に内実が表れます
「都の方におもむきたもうな」
訳すとしたなら(伊勢で)都の事を考えるな
これではまるで斎王は捨て石であり
天皇の身代わりとして祟り神を鎮めるかのよう
伊勢神の捉え方はどうやら現代とは違っているようです
>>64 お察しの通り、伊勢の斎王は、負け神で儀礼的に鎮めるだけの神なんです。
斎王制度は実は二つ有、伊勢神宮へは斎宮、賀茂神社へは斎院と呼ばれいました。
伊勢の方が歴史は古かったのですが、嵯峨天皇(京都)が兄平城上皇(奈良)と対立し勝利した事により、
加茂神社へも斎王が始まったり、斎院と呼ぶようになったそうです。
この二人の戦争は京都VS奈良とも謂われ、旧勢力奈良や天武系や伊勢神宮の衰退をあらわしています。
以後両者の斎王は、賀茂神社の斎院が重んじられ、都での人気や支持率も高く、斎院は退下した後も結婚迄出来たそうです。
参考なればいいのですが。
完全に神宮斎宮から神社斎院にパワーバランスが移ってますなw
延喜式に記されし神宮は大神宮(伊勢)鹿島神宮に香取神宮のみ、同じく宮は八幡大菩薩宇佐宮と八幡大菩薩筥崎宮。
残り総て神社にて宮(神宮)甚だ少なき。此処に於いて考察されたし神宮の権威低下を鑑みれば、
神宮が最高神格とは先ず以て考えられず。
伊勢神宮もどんどんボロが出る
徳川さんにとって記紀は都合がよかった
ただそれだけで伊勢は最高権威になれた
記紀捏造について肯定する勢力もかなり減ったよね
秀吉も家康も馬の骨だから後ろ盾の御権威に縋りたかった訳か
わざわざ他とは違う神名を使うのは
差別化や不透明さで神秘性を醸してるだけ
徳川さんが専属の奉行まで置いて保護したからね
記紀よりも古い五部書なら記紀と同じ捏造確定箇所まで真似しないけどね
枕草子紫式部日記源氏物語と、多彩な平安文学が斎院を描いています。
伊勢斎宮とは雲泥の差、同じ待遇として考える事は間違いです。
現代感覚では伊勢斎宮ばかり露出して、きちんとした史実が伝わって無いよね。
出雲が鎮魂とか言われるけど
やっぱ伊勢も鎮魂なんだね
モトモトの天照は男性らしいよね
神社の祭神がコロコロ変わったなんてよく話だよね
それも江戸以降にコロコロ変わるなんでかは簡単だろ
天照って人気ないのにね
全国一宮にはほんの僅か祭られるのみ
太宰とは総理大臣の事ですが何故遠く九州に太宰を置いたのか説明がつかない
この太宰府との地名は九州王朝時代に付けられた可能性が高いよな
九州王朝末期
解るだけで幾つか太宰府以外を都としているが
何処も至近距離にあるようだから
その際大臣は政治都市として太宰府に置いたんだろう
これだけ施設も充実しているし
鎌倉京都のような関係だったなら合点がいく
奈良時代以降も西海道だけは独立国家(従属国家)扱いだから
臣下と云う意味を地名にしたのかな
いずれにしても九州時代に高い文化があった事間違いないが
他と道の作りが違うし税収があるもんね
大宰府に向かい道が出来てるよね
郡の順番も豊後などは大宰府側から始まってる
郡の順番は大きな神社がある場合や
海航路から近い順番もあるが
何れも現人神(天皇)から近い順番だといえる
しかし豊前豊後はあたかも太宰府を中心に郡を並べている
東国の例をみれば
海が畿内に向いていれば
そこから郡は始まってる
確かに豊の国の順番は異常だ
順一つとってもきちんとした理由に基づき
作られた事は疑う余地が無い
88 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 21:45:34
日田郡になんかあったんじゃね
あの辺に大きな寺社は無い
だがあの辺には筑紫と訛りが一緒で水系も一緒
意図的な国別けがあった事は確実
北九州の国別けは何処も不自然だけに
日田は天領だったけど
解せない事が多過ぎる
日田の遺蹟には意味深なものもあるけどこれといって無いんだよな
安房上総下総
この順番は何故出来たのか
当時陸路を何故つかわなかったのか
日田の悩みと一緒だね
当時陸から進んでいなかったのかもね
陸路はかなり遅れて出来たと読めるな
伊豆 出雲 出羽
これら半島を表すどれも「いず」地名
海路から進まないとこんな地名はつかないね
紀州熊野に神を移設した理由も海路偏重の名残だろうな
やたら不便で住める人も限られるからな
97 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 12:25:47
熊野市の狭さに神様いたら住民みんな飢え死にだろうよ
>>97 はもっとわかり易く書くべきだ。
「稲作は中国から直接日本に伝わった」とする説があるが、根拠薄弱だ。
「RM1-b遺伝子の稲」がその根拠だが、最初の稲作が(九州・西日本を経て)
伝わった北陸や東北に「RM1-b遺伝子の稲」が無いので、根拠薄弱だと言える。
>>98 後の時代に熊野水軍と呼ばれるように
熊野は航海集団として紀州に根を下ろし
東国の中継地として存在意義を主張した
熊野も元は福岡湾岸だから
当時より航海力を保持してたのかもね
世界的に経済と歴史は一緒に語られるが、残念ながら日本では、別々に語られる事が多い。
紀州熊野が独立して経済基盤を維持するなど、全くの夢物語でり、ましてそこから全国に広がる事は尚更ありえない。
移動運搬するだけで疲弊するような場所には、大集団の根拠とは成りえないのである。
しかもあの地から道も無い時代に、神武が軍を率い山越えしたと神話があるが、姿形も無い高安城同様、絵空事なのは言うまでもない。
日本人が荒唐無稽な事を信じられるのは、経済を蔑ろしているからに他ならない。
曲学阿世な学者なんていらんよね
古代人が好む場所って基本だけど衣食住が安定してる場所で
不便な些少地場所にわざわざ住むのならば
軍事目的として防柵等の遺構を持ってするべきだし
食料も安全な他の場所で作らなければならない
残念ながら少人数では恐れ多い神になれないだろう
海に頼るべき土地だから山幸彦の子孫には辛かろう
野とは呼ばないほど狭いはな
熊野本宮旧社地 「大斎原」
太古より熊野牟婁郡音無里(本宮町本宮)ここ大斎原に鎮まり、
第十代崇神天皇の御代に至り、社殿が創建されたとあります。
河川敷のこんな貧困な僻地に崇られた天皇は逃げて来たんじゃねw
移設も結局逃げたうちだよな
崇神は古すぎて眉唾だけど
東北にはクマ地名が多いんだよ
経由地には持って来いだよね
阿武隈
熊野川って最近やっと呼ばれた
どれだけ熊野が浸透しているか解るね
?熊野本宮大社に伝わる由緒話(=移設話)?
昔インドの摩訶陀国の王、善財王には1000人の后がいた。
一番の醜女、善法女御は王の訪問がなく嘆いていたが、
千手観音のご利益で絶世の美女になった。
その後、王は善法女御のもとにいりびたることになる。
999人の后は、これを憎く思い、色々と画策するが失敗。
ついに妊娠している善法女御を山中で暗殺する。
死の直前産まれた王子は、十二頭の虎に守護される。
喜見上人は、十羅刹女の告げにより、山中で王子を発見し、
善財王のもとへ連れ帰る。王は、これを嘆かれ、
国を離れる決意をし、五本の剣を投げて行き先を占うと、
第一の剣は紀伊国牟婁郡(神蔵)に、
第二の剣は筑紫国英彦山に、第三の剣は陸奥国中宮山に、
第四の剣は淡路国和に、第五の剣は伯耆国大山に留まった。
王、王子、上人の三人を乗せた飛び車も剣について
飛んできて、最初は英彦山へ、そして五箇所を転々とし、
紀伊の国に落ち着いた。熊野権現である。
ちなみに、後を追ってきた999人の后は赤虫になった。
『神道集』では、本殿は喜見上人、西の御前は善法女御、
若一王子は善財王の御子、中の御前が善財王となっており、
喜見上人が最上位にある。
善財王に善法女御
善○ってあったじゃん
九州からでいいみたいね
九州が移設元としか読めない。
インドから投げた剣が、総て日本に投げられるなんて、偶然にも程がある。
万更、真実を隠したいだけでもないな。
神仏習合した後の由緒だね
結局分離移設されてそれぞれが本家と主張するが衰退したところが淘汰されて現在に至る訳だ
彦山って熊野だったのね
彦山はスレスレ筑紫国境から外れる
豊前豊後の国境に鎮座するが
筑紫からわずか3キロしか外れていない
どうやらここも意図的な国境を感じます
>>113 「熊野権現縁起絵巻」「熊野の本地」「五衰殿縁起」などとも呼ばれる。
史実をぼかして伝えてます。
この散らばり方山岳信仰に関係あるね
散らばった先の熊野は機内には入れず、旧勢力の移設地としてなら今の紀州熊野は納得がいく。
剣を投げたのか
124 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 11:50:20
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
125 :
サガミハラハラ:2008/06/03(火) 12:01:32
あのですね、プラントオパールというのは極めてちいさいので、雨がふると地面にしみ込み、土粒の間を通って
下へ下へと降りて行き、粘土などのオパールを通さない層に達すると、そこにたまるのです。
つまり、現代地表でできたオパールが雨が降るごとに、江戸時代室町時代平安時代としみこんでいき、とまったところが
弥生時代ですと、現代産のオパールが弥生時代の層で発見されるわけです。
だからプラントオパールについては、土器中のものとかで調べるようになっていたとおもっていましたが。
「倭人伝」に「女王国の東、海を渡る千余里、皆倭種なり。」
とあるので、魏志倭人伝を読むかぎり、
邪馬台国=大和、という読みは無謀と言わざるをえない。
「隋書」の「戸」は、@「郷戸」の意味なのか、
A成人男子(戸主)を指すのか、の選択肢がある。
「郷戸」(や房戸)は律令政府が設定した擬制的な形態。
西暦600年に令制下にあったのは九州(イワイ)なので、
戸=郷戸(20〜40人)と解釈するためには、
(A)ヤマタイは九州、または、(B)「日本書紀」は近江令を遡る
令制を隠している、の(A)(B)いずれかを選択する必要がある。
(A)で、かつ、10万戸=数百万人だとすると → 紀元600年ころ、
タリシホコのタイ国は、都を九州に置き、関東までを支配していた。
(B)で、かつ、10万戸=数百万人だとすると → 紀元600年ころ、
タリシホコのタイ国は、都を近畿大和に置き、関東まで支配していた。
750年の人口構成(推計値)(『在野史論』から抜粋)。
近畿120万、九州70万、近畿・中国・四国・九州合計300万。
関東・北陸・中部・東海(東北を除く)合計200万。
(A)10万戸=数百万人だとすると → 紀元600年ころ、タリシホコ
のタイ国は、都を九州に置き、関東までを支配していた。→その場合、
80戸に1伊尼翼(里長)ゆえ、1伊尼翼は4000人に1人。
後の令制では、1稲置は1000人に1人くらい。
(A')(「戸=郷戸」の仮定を捨てて)10万戸=数十万〜百万程度
→ 紀元600年ころ、タリシホコのタイ国は、都を九州に置き、九州
島内(全域ではない)を支配していた。1伊尼翼は600人に1人くらい。
「倭人伝」と「隋書」の間に「梁書」があり、550年ころまでは、
日本列島が複数の国家から成っていたことが確実。
よって(A案)はほぼ不可能。(A)=×。(B)=×。(A')=○。
127 :
サガミハラハラ:2008/06/03(火) 12:50:48
文献史学のうえからは、290年代(垂仁天皇)には大和中心に加羅から九州まで連衡している
ことになっています。連衡ですので、九州各地に半独立状態の国があったのですが。
タリシホコは聖徳太子か蘇我馬子等の大和の人ではないかと考えられます。
タイとは倭(もともとはイと発音していた)に偉大であるの大をつけ大倭(ダイまたはタイ)このタイを中国ではタイ国伝のタイの字であらわし、
日本では倭(このころはワと発音するようになった)を和という漢字を使うようになり、
大和と表記するようになった。
本来は九州の呼称であった大倭をヤマトが日本の中心になったことから、九州に引き続いて大和が大倭を称するようになった。
大和をヤマトとよぶのは、新東京国際空港とかいてナリタ空港というが如しです。
ところが、生目古墳群は、西都原よりも遥かに重要で、大きな謎を秘めた古墳群なのだ。
生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。
それどころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。
しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳の、ほとんどすべてのタイプがそろっている。
---------------------------------------------------------------------------------
ちなみに、上記の会話を交わした研究者に、笠置山墳丘墓の事を尋ねてみた。
答えは「向こうは、生目より更に古い。確実に3世紀にさかのぼる。
もし日高氏が何か見つけたのなら、それは弥生の遺跡だから古墳ではなく、ただの山だ。」と言い切った。
古墳ではない理由は、時代だけなのである。
----------------------------------------------------------------------------------
卑弥呼が死んだ時、卑弥呼と共に100人余りが殉死したとされる。
・・とすると当然、卑弥呼の墓の周辺には、100人の殉死者の墓がなければおかしい。
笠置山古墳には、これがあるのだ!鳥型の羽の部分には、穴を掘っただけの土壙墓が、整然と並んでおり、
推定でその数は100基ほどなのだ。今まで、卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳は数多く有るが、
殉死者の墓を伴っていたと言う話は聞いた事が無い。しかし、死後の卑弥呼を守り、お世話をする為の殉死者が、
墓も無く粗末に扱われる事は考えられない。卑弥呼の墓の周辺には、必ず彼等の墓があるはずなのだ。
http://www.gondo.com/g-files/miya/miya1.htm
剣神とは元祖神である雷神と同神にて、それが別れたとも読み解く事も出来る。
その分神とされる剣が、何故畿内に入らず畿外にだけ投げられたのか、その時代の歴史を象徴する伝承です。
奈良時代に奈良に入れなかった神社の多くは
京都平安でリベンジを果たしたが
熊野は結局入れず仕舞
日本最多の鈴木はこんな事情で実権から退いた訳ね
元々は主流に居て下りたから
最多姓なのにどの時代にも所縁が無い事になっちゃうのね
あんまり無理やりの歴史作ると説明に破綻するよね
中国の李や朝鮮の金は、ちゃんと理由があっての最多姓。
日本の最多姓の理由も当然あるし、同様の理由以外に考えられない。
それを隠すから矛盾頻出したまま誤魔化し史学になる。
子供騙しだよな。
ホントだね畿内に入れない人達が
理由も無しに一番たくさんいるなんて
おかしな国だね日本はw
佐藤斎藤は大まかな理由付けをされた姓だ
世の中知っていながら混乱誘導する確信犯がいるからね
それを真に受け広めてくれるウンチク自慢はもっと多い
歴史は何の為ある学問なのか問い直さないからこうなる
虚実はともかく記紀のように現天皇家に関連させた伝承じゃないと残す事自体が罪なんです わざとらしくなりますがインドの話ように残す事で精一杯なんですね
熊野が守旧勢力だった事は容易に想像がつく
熊野坐だからね
高橋さんも同様に意味不明
渡辺さんは大阪発と言うけれど
博多発の九州人なんだよ
由緒のはっきりしない氏姓はそれぞれ隠された由緒なのね
上位を見回しても理由が無い物ばかり
こんなんで好いわけ無いだろ
146 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 11:25:01
そんな時代に理由が無いなんてある訳無いよな
高橋さんの多い理由は地名が多かったから???
コヤツちっとも調べないで嘘妄想を並べてるw
迷惑だよな嘘ウンチク自慢野郎は!
倭名抄をみてもそんなに無いねw
もっと他の郷名が有数の姓とならないと説明つかないだろう
私も高橋さんが宮司家元祖でそこから全国に勝手に広まったなんて説明じゃ到底納得出来ない
広まるにしても歴史にはきちんとした理由が必ずあるのですが
朝鮮の三大姓氏は総て過去の王族に由来してる。
新羅王族と同じ金が22%と飛びぬけて、それに続く李氏朝鮮の李も15%、
第三位の朴は古代新羅初代王朴赫居から、これを合わせると45%にもなる。
キチンとした由来をもった姓氏をもつ人が人口の半分近く居る。
日本とは比べ物にならない。
江戸時代に姓は名乗れなかったけど
その前の時代は百姓と武士の隔ても無いのだから
当たり前の事ながら総ての人に姓はあったのさ
だから姓が無かった事にしたかったのも
記紀の改竄を肯定したのも
どちらも同じ江戸幕府なのは解ったかな
トリックに騙されてる人多いよねw
同感だねw
江戸時代って道路を麻痺させたり尋常じゃないもんね
苗字は元からあったと見るべきですね
ある田舎の集落の江戸時代の墓石を見てみると
殆どの家に姓が書かれている
しかも先祖代々と書かれいるからね
家康が馬の骨から伸し上がり自家の既得権益を守る為の身分制度が300年も続いた
その間日本では姓を名乗る事ができない人が沢山居た為に姓が無い人も沢山いたと誤認されている
ですが本当は身元の定まらず姓の無いのは捨て子同然の出自を持つ家康の方で
むしろ末端の民百姓の方が姓も刀も持つ身元の確かな人だったから始まっている
なんだか家康の心の内まで読み取れますな
結局鈴木さんも高橋さんも適当に名乗った人なんて僅かしか居ないって事だよねw
室町迄は天皇家と云う御権威に縋ったのでは無くて
身内の本家筋である天皇家を高く祭り上げて来たのであって
秀吉や家康のような成り上がりとれば本来なら全く関係無い人たちで
中国まで攻め込む位だから当然天皇家のお取り潰しだって出来た話だね
だけど後見を持たない彼らにとってみれば昔の御権威を立てる事で
庶民の服従を得て従順になった所で刀と姓を自由を奪った
要は飴と鞭でね戦後のアメリカもそれを真似した訳
歴史は繋がってるよな
足利政権では記紀は明らかな偽書扱いであり、当時天皇家は記紀を作った天武系では無く、
天智の末裔を自称している事からも、偽書扱いとする理由がよく解かる。
さてそこで鈴木・高橋はこれら等のどの立場かを考えれば、日本の古代の構造も見えてくる。
苗字ランキングから考えれば、記紀に絡まない人達の方が多いって事が分かる。こんな歴史でいいのかな。
ほんとだね区別が無かったなら
姓が無い人達居るわけ無いのに
子供騙しだよねw
鈴木さんたちに教えて上げないとね
鈴木さんは最初から鈴木さん
坊主や有力者の姓を貰うなんて家康じゃあるまいしw
これだけ広範囲に鈴木さんが広がるのだから、熊野神社が最多でないって事は、移設の際に○○→熊野とかわった証明だな。
同じ祭神でありながら幾つもの神社に別れている
考えてみたら「熊野」も「神の」と読んだだけのようだし
紀州熊野に行って、どれだけ些少地で、どれだけ険しいかを、身を以て経験すれば、熊野発の妄想なんて書けるわけが無い。どれ位の土地でどれ位の人が住めるのか、意見するなら知ってて当然でしょう。
妄想ありきは歴史じゃない
九州での彦山の知名度から言って延喜式にも選ばれていないなんて不思議だったんだ
熊野の考察でその辺の事情がおぼろげながら解ったよ
彦山の山伏が全国ネットワークを組む意味も何だかわかるよね
山伏に鈴木さんがおおかったりして
誰か調査しないかな?
山伏=天狗
同じ扱いにされて差別されてるな
山伏は僧とはいえ奈良以降の仏教とは全く違う待遇を受けてきた
天狗のあの独特の風貌である高い鼻と赤ら顔はどう見ても白人に近く
元は中国江南地方が天狗の元祖であり
現在の中国人よりも日本人の方が顔の形態が白人に近いと言われている
なんか大野晋さんを思い出した
まずね日本元祖の天皇家なんてね記紀しか主張してないのよ
他の科学的史料的どれをとってもそんな結論は一つも無いわけ
熊野はね残党なんだろうけどそれをサポートするのも残念だけど記紀派なんだよね
天皇家は大陸の血がかなり入っているし庶民も同じ
隠し通そうと必死なあたりは現中国の隠蔽主義となんら変わらない
確かに天狗が九州王朝とすると非常に解りやすい
177 :
日本@名無史さん:2008/06/11(水) 08:40:58
修験道の霊山は都の近くには無いね
九州の都の方は竈門山が一大聖地であったが
明治廃仏で取り壊されたらしいね
やっぱり九州に近いんだろうね
あのような修験道の出で立ちは後の時代には無いな
出羽三山のような聖地があんな僻地にあるのは
奈良側から最も化外地として充てがわれた形跡が高いよな
世に語り伝ふるこ、まことにあいなきにや、多くは皆空言なり。
徒然草73
出羽三山は祟峻天皇の蜂子皇子が開かれたそうです。
真意はともかく時代はまさに九州時代、
マイナーな皇子が逆に真実を語っているようです。
幾ら何でも皇子がこんな僻地に居るなんて何らかの革命敗走確実だな
祟峻天皇は追贈天皇だよねw
南都仏教(平城京時代における奈良の仏教界)においては、山岳修行という習慣はありませんでした。
むしろ、山内呪術は「異端」とみなされていました。これは、729年(続日本紀)に出された禁勅の中にも大略
「山内における呪法の習得などは異端である」といった項目があることからも分かります。
しかし逆言すれば、こうした禁勅が出たのには、当時、山中へ入り呪術を身につけ、
人々の吉凶占いや祈祷を行なっていた仏僧が相当数いたという史的背景があったのだと思われます。
これは天台宗真言宗以前から、山岳宗教は行われていた証明であり、独立した亜流の宗教と位置付けられています。
現在云われてる修験道=天台真言は後付けの変貌であり後に取り込まれたと云える
天台宗とか真言宗には山寺よりも平場の寺が圧倒的に多いから山岳宗教の寺はおまけ
奈良仏教のような絢爛豪華な大仏さんとは
はっきりと違う仏教が存在していた事は事実だね
天台真言の場合は身分の高い人の仏教であり
鎌倉以降の仏教とは違い道徳教養的な要素が非常に強い
密教と修験道と山岳仏教は最初は別物
こちゃまぜで解釈するのも隠蔽工作
山岳宗教は道教だよな
中国にて一部仏教が山化したとも云えるけど
奈良仏教にはそれらの影響は少なく
京都仏教も当初は山に建てられただけ
神仏習合が一段とややこしくしてるな
都の近所にも熊野と同じ真言天台の寺なんて沢山あるのに、なんでまたわざわざ行く必要があるのかね。
謂われがある
それぞれある
それをまとめてみたけれど
総合宗教? 空海も最澄もそんな事言ってないべな
天狗になっていたからやられたんだろ
結局熊野神社に新しい肩書きを加えたから矛盾が出る。
やっぱ昔の人の完全犯罪はどっか抜けてる。
記紀もバレバレだしね
『是害坊絵巻』を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、
無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。
天狗=山伏と呼ばれた人達は、やはり天台宗とは対立していました。
後にそれらを天台宗側が取り込んだと見るべきです。
日本全国に八天狗と呼ばれる大天狗がいるとされています。
愛宕山太郎坊 京都の愛宕山に住み、いざなぎの神を祀る愛宕神社を守護す
る。3000年前に仏の命によりこの任についたとされる。
鞍馬山僧正坊 牛若丸と鞍馬天狗で有名な天狗ですが、和気清麻呂の子孫で
真如上人の弟壱演僧正ではないかとされる。但しこの僧正坊
は鞍馬山の主ではなく、主は鞍馬山魔王尊と呼ばれる天狗で
その本地は毘沙門天であるとのこと。
比良山次郎坊 本来は比叡山の天狗であったが比叡山が法力の強い僧たちに
占領されてしまったため、比良山に移ったもの。しかし元々
は愛宕山太郎坊と並び称される大天狗である。
飯綱三郎 長野県飯綱山に住む天狗。いわゆる「飯綱の法」の行者たち
がこの天狗の本拠地で修行を積んだ。
大山伯耆坊 元々は伯耆大山(ほうきだいせん)の天狗であったが、相模
大山の相模坊が四国の白峯に行ってしまった為、その後任と
して移って来た。富士講の人たちに信仰された。
彦山豊前坊 九州の英彦山(ひこさん)に住む天狗。天津日子忍骨命が天
下ったもので役行者がこの山で修行した時それを祝福して出
現したとされる。
大峯前鬼坊 役行者に従って夫婦の後鬼とともに山を歩き回り、その身の
回りの警護その他を務めた。
白峯相模坊 崇徳上皇が讃岐の国で憤死した時、その怨みをなぐさめる為
に相模大山から白峯に移って来た天狗。
202 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 20:31:06
比叡山は天狗が追い出されたのかw
剣を投げられたヵ所と重ななりまくる
天狗と仲良しだけが本当の山伏
日本書紀の舒明天皇の9年に大きな星が東から西に流れ、
雷に似た音がしたのを僧旻が「あれは流星ではなく天狗だ」
と言ったという記録が残っている。
京都愛宕山愛宕神社、この神社は全国1000末社の総本社らしいけど、
平安時代からの京都に総本社がある訳無い。移設は確実です。
修験道の世界では、愛宕山太郎坊と呼ばれる天狗が住むとの伝説で、
天狗の総本山とも考えられています。
しかしこんなにマイナーな天狗で山神社である愛宕神社が、
こんなに末社が多いとは驚きです。
愛宕神社の元社もご多分に漏れず福岡
この神社の系列は天台宗が乗っ取り京都に移設した
それが平安末期には完了していないから延喜式に無い
愛宕は神社の他にも地名として広く分布しているが、今まで理由がよく解らなかったよ。
愛宕白山
「愛宕と白山の権現よ、御覧あれ」と云う誓いの言葉。
同じ山岳系の神社であり、並立か同じ存在に誓いを述べています。
山城には愛宕郡はあるのに愛宕神社なかった
こんなところに移設後の混乱が垣間見える
しかし福岡の愛宕とは似てないね
山伏の元祖役行者は続日本紀文武三年699年に
「役君小角を伊豆の嶋に配流した。初め小角は葛城山に住む呪術者として知られていたが、
弟子の外従五位下韓国連広足はその呪術をねたみ、妖しい言葉で人々を惑わしていると、巉言したので、
遠流に処せられたのであった。世間では、小角は鬼神を使役するのが得意で、
水を汲ませ薪を取らせ、命令に従わない場合には呪縛したという。」
その話は、後に書かれた日本霊異記では、
巉言したのは葛城の一言主となる。
なーんだやっぱり天武系と九州残党の、
イザコザですよと書いてある。
「本朝神仙伝」「今昔物語集」「扶桑略記」「水鏡」などにも役行者が伝説化を増し載ってるよん
天台宗以前の密教は雑密と呼ばれていて存在は認められている
役の行者はまるで仙人だな
>>113 インドの摩可陀国と
雑密はインドの原始仏教
繋がるんだよなw
217 :
日本@名無史さん:2008/06/15(日) 20:51:23
異民族王朝である唐の支配に浴する事で、ごちゃ混ぜ宗教が常識になったんですよ。元は交ざっている訳がありません。
そうね 熊野は熊野 天台宗は天台宗
混ざってよく解からんよねw
役行者はちと偶像化が激しいが、名前から体制に従わない、異端の仏教徒なのは確実。
勝手に天台真言は祭り上げて、本人迷惑だろうよ。
鬼天狗河童は服従した九州王朝の一派を蔑む蔑称
プラス思考の伝承も根強く残るが特徴
悪意に紛れた好意的な伝承はどうすれば出来るんだろうね
愛宕信仰は東北に根強い
彼らがどのように移転させられたかわかるよ
愛宕山って無数にあるよね
山神社ってみんなこの手だな
神の社は墓が御所の名残
神社を山に置く意味が無いんだよな
山神社は道教仏教等の要素が含まれたものだな
習合は九州時代から進んでいたから奈良京都に持ってきた物も外れ物もごちゃ混ぜ
愛宕どうゆう意味なのよ
愛しい宕(岩屋)、元祖愛宕の地形から名付けられてます。
音はあた(暖かい)ご(籠)で旅籠のような使われ方です。
音と漢字の意味も良く合います。
熊野=愛宕
神社で山頂に上宮を置くのは山神社の名残
なんたら王子も山神社
何故、山に神社が必要で、平場だけの神社もあったのか。違う理由はどうしてなのか。
愛宕の社とマンドロ
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/atago.htm 【愛宕の神】
京都の北西の愛宕山の愛宕神社は、単に迦具土(火之迦具土神)と云う火の神を祀っていると云うだけのことではなく、複雑な性格を持っている。
@塞の神(道祖神)
塞の神(道祖神)は村落の境界にあって、村の中へ外敵や悪疫が侵入することを防ぐ神である。愛宕は京の都に北西から侵入するものを防ぐ塞の神の性格を持つ。
A地蔵菩薩
本地垂迹説では、塞の神の本地仏は地蔵菩薩とされる。愛宕の神は地蔵菩薩の姿で表されることもある。愛宕も地蔵も縁日は同じ24日である。
B勝軍地蔵
外部からの侵入者を防ぐと云う塞の神の性格は、都城を守護する大将軍のイメージと重なる。このため、修験道では、愛宕の神の本地仏を将軍地蔵とし、音通によって「勝軍地蔵」と書き、戦の神とする。この地蔵は、甲冑を帯び騎馬に跨った姿である。
C太郎坊天狗
愛宕は修験道の山である。天狗は修験道の行者である山伏のイメージから生まれたものであるので、愛宕はまた、愛宕太郎坊と名乗る大天狗に率いられた天狗たちの住む所とされる。
習合してごちゃ混ぜだけど基本は山と地蔵さんでいいよね
根強く信仰される地蔵もちゃんと説明されてるの聞いた事無い
仏教だけど寺には入らず庶民信仰だもんね
地蔵や塞の神も山信仰に含まれると話が早いよな
現在の寺に含まれないような仏はまず九州時代の仏としないと説明が付かない
鈴木さん高橋さん以上に地蔵や塞の神は広く世間に普及している
これはこれを流行らせた政権があった証です
捏造されし歴史を学ぶにつれ、哀れに悲しいとも世の常なりと思ふ、
されども、それを読み説く事もまた、世の常なり。
ごもっとも
ボロボロ真実出てくるからね
塞の神の置かれる位置が元祖を補強するよな
役病払いで村落の入り口に置かれた塞の神の名前は塞ぐと云うだけに防衛拠点
村落単位で防衛を行なった名残でありそれぞれの村落ごとに性格がある
村落名や古よりの村落同士の相性もそれぞれの立場を表すものです
愛宕神って異端の神仏の寄せ集めだな
遅れて移設されたのも理由は決まりなのかな
愛宕が京都の北西の護り神なのは日本流
中国流ならば北東鬼門を護るからね
九州時代の位置関係に基づいている
これで仏の地蔵は後付けだと解る
仏教色の強い神社に見られたいみたいだけど
人気の無い神様とはいえ、庶民には今も昔も根強い人気で、
政権の人気取りの為にも、京都に参上願った訳だな。
第一平安初期にしても、福岡の方が都会だったらしいからね。
246 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 17:41:17
承和三年(836)、七高山が定められた。官符を以て鎮護国家を祈るのである。比叡、比良、伊吹、神峯、愛宕、金峯、葛木である。修験の山々である。
247 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 18:28:36
>>1 大和・奈良・平安と時代が進むにつれて支配地が北上している。7世紀末まで
には陸奥も間接支配下(アテルイ・安倍氏)だ。
古代の都は北九州の大宰府付近で大和地方は古代政権の最前線だったのでは?
(ちょうど京都朝廷に対する鎌倉府みたいな)
少なくても奈良時代(平城京)までは九州から支配権が北東上する過程では?
どこかの時代で九州から大和へ都が移動したと思うが・・・・・
248 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:30:33
愛宕の祈りは今も続きますね
まさに和を持って尊し
敵対政権の神も内包して行く様がよくわかる
太宰府は都でもないのに城坊が敷かれてる
竈門神社の由緒には四神相応の地と都の風水の形跡まである
その竈門神社は江戸末期迄九州山岳信仰の本拠だった話は有名
竈門神社が九州じゃ一番の神社だね
愛宕は本来なら観音さまで女神様
祭神なんて変わりまくって大概は最近の都合が多い
彦山の祭神なんて記紀の妄想だしね
神社の祭神は江戸以降、記紀に辻褄が合うようにあてがわれたが、
別の所で矛盾噴出なんだよね。同じ神社名で祭神が違ったり、
神社名と祭神があわなかったり、記紀に沿ってたら捏造だと思うべきだね。
塞の神が江戸時代に入ると、庚申塚に切り替えさせられた話は有名だよね。
この後、庚申講の内容は「見ざる、言わざる、聞かざる」が原則で、表向きの布教は禁止された。
変わって各集落には、平安以降成立の宗派の寺を宛がわれ、並立する形が取られた。
だから各寺の過去帳って古くても室町時代で大概が江戸時代から、こんな事でも仏教の歴史は遡れる。
確かに宗教からきちんと史実探るべきだ
宗教も江戸以降の捏造が目立ちます
江戸時代に浄土真宗を認めた事は徳川にとって危険分子を抱えるような不本意な事だと考えられるが
農民の暴挙を集落内で未然に抑える自制機能が想像以上に働いた事は明らかな事
ただ坊主のような当時の学者が集落に居て寺子屋や御講で庶民の知識学習レベルを上げた為
江戸末期には農村でも禁止された姓を墓に掘り込む等徳川の政策矛盾への批判も広がった
一時は禁止されていた地蔵講や庚申講も末期には盛んに行われ明治以降の住民運動の糧となる
明治政府の極端な皇国史観は江戸時代を上回る偏向宗教の為九州時代からの庶民宗教である
地蔵や塞の神とっては一段と虐げられる皮肉となる
江戸明治時代は天皇の名を借りた思想宗教弾圧を抜きに歴史を語るべからず
天武系王統は独自の伝承が無いため服従勢力だが母系から血脈を残す旧九州王朝の歴史を拝借した
創作が過ぎれば尚一層信憑性を失うから苦渋の選択とも云える
記紀は荒唐無稽過ぎて室町迄放置されてきたのに、徳川からの400年間で、100才を越える天皇達や、掘っても出てこない奈良盆地まで、真実のように扱われている。頭冷やして考えて欲しい。
天武系は結局中国系の豪族で、日本に駐在や駐屯して、機会に恵まれ政権を奪ったんだろ。
律令等の中国式制度を導入して、以前の天皇と血が繋がってる筈が無いからな。
負けた日本人を将棋の駒の様に使い、歴史までも拝借したんだろ。
愛宕を最初に淘汰したのも天武やろ
愛宕が東北ばっかに多いのも負けたから
茨城に元からあったなんて云う鹿嶋は東北には殆ど広がらないのにね
相当遅れて移設されたか
よほど人気が無かったのか
どちらにしても通説が間違ってる
地蔵と天狗から概念から検討すると、
地蔵が六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩で、
天狗が六道のほかに、邪法を扱い極楽にも行けない無間(むげん)地獄である天狗道を司る。
この2者でセットで、仏教の道を網羅すると考えられた。
しかしその後の天台宗と真言宗では、
人間道における解釈が異なり、六観音や七観音の輪廻と考えられたので、
明らかに六道輪廻はそれ以前で、しかも天狗を肯定しない奈良仏教に含まれないと解釈できる。
要は六道輪廻は通説だけでは含まれる時期が無いって事になり、九州時代以外に考えられないとなる。
ますます既存の仏教との違いが際立つ
どうしてもそれ以前の仏教に行き着くからね
それをちゃんと保存している寺が殆ど無いにもかかわらず
愛宕が古い神で信仰厚く広がり大きい事からしてなんで記紀に載らなかったか不思議だね
平安の仏教を見てると別に奈良以前の事隠してないね
全国区各地で見られる六地蔵は、九州仏教の輪廻を表していて、
村寺以前の集落内仏教の拠り所として、九州王朝崩壊後そのまま全国に広がり根付きました。
六と言う数字は、中国の好数字であり、元々は中国南朝を六国、初期中国史書を六史と言うように、
隋唐以前の南朝迄は、さかんに南朝仏教へ取り入れられました。
当然その南朝六朝仏教の影響は九州王朝に色濃く、山寺遺跡が多い事でも窺い知る事が出来ます。
何れにしても、室町迄の農山村庶民は、兵農兼務の政治色の強い土壌で、
九州仏教である六地蔵を信仰し、庶民化した鎌倉仏教の影響を徐々に受けたと見るべきでしょう。
273 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 17:43:03
隋唐以後は実は漢民族じゃないから、中国でも好きな数字が変わった訳だな。
天武はなんだか八角形の墓に八色の姓に占星術は八方向だし
中国の真似っ子なのに八好き民族ご出身みたいだね
天武王統で作られた記紀の神代は、彼らの創作で作られた証拠として、八ばかりが使われてるって指摘する人が居たよな。
九州同様新羅も南朝に朝貢したから6が大好きだってさ
天武も家康も馬の骨
そうだよね捏造が好きな人達は、馬の骨だね。
記紀以前の先行史書国記には荒唐無稽な神代も現実味を帯びて書かれていただろうに
あそこまで脚色捏造したら誰も記紀を史書と読まない事位解らなかったのかね
天照や大国主は実在だろうけど、神格化が激しすぎて嘘臭い。
空海さんは総合宗教をめざしただけで
総てを取り込むつもりは無かった
ところが徳川さんが九州仏教を虐げたので
元の山岳宗教の多くは宗派を変えたり神道化した
それで結果的に九州仏教を内包するようになった
中国の聖数は一般に奇数と呼ばれるけど確かに6なんて古くは天子絡みに目立つよね
百済高句麗の所謂扶餘族が5が好きなんです
日本も五十猛とか五十鈴川と5が好きです
親戚みたいですね
百済観音だよ
六軍ー天子の軍隊
六卿ー天子の軍の司令官
六府ー中央官庁
六龍ー天子の馬車を引く馬
南朝崩壊後相当数日本朝鮮渡与影響
中国皇帝絡みの数字は6と9が抜けていて
奇数が聖数とは後付けの辻褄合わせ観が強い
九州とは天子の領域を示す
家康にとれば地蔵や塞の神のような庶民宗教は、
一向宗の狂信的で破壊的な宗教以上に、怖い存在だと考えた節が強い。
何しろ九州政権崩壊から長らく続き、秘密結社のように勢力が衰えず、
神道や他宗派とも習合しつつ、村社会の礎になってきたものだから。
当然一向宗のバックグランドも、この地蔵様なんだよね。
この辺の事やるとなんで家康が狂心的に記紀を擁護したか解るな
後ろめたい事が多かったのかもね
静岡の名も無き尼に買われた高貴な血筋の人なんてなかなかいないよね
高貴なら親戚なんかもそれなりにあるしわざわざ静岡迄来て売るなんてね
まるで記紀の近世版だな
293 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 07:31:24
庶民には姓すらも名乗らせず
低い家康の身分よりも尚一層低く下げ
それまでの血筋や伝統は軽んじて
虚構と放置されてた伊勢や記紀を権威付けた
よく見りゃ家康はコンプレックスの塊
よくある通説の江戸時代には文化技術で進化したとするのは甚だ勘違いで、
むしろ詳細に比較すれば停滞退化していると考えるべきなのである。
広重の浮世絵よりも、それを遡る草紙や屏風絵等の評価が高いし、
歌舞伎は能の真似で、土木建築は明らかな退化がみられる。
北回り船どころか海外出兵海外貿易、移動などは馬から徒歩に退化。
実は江戸で進化したのは、人口増加に伴う物に限定されている事に気が付くはず。
家康の目指したものは、愚民化政策であり、それが内圧で抑えられなくなった。
すべては彼の出自の引け目からなんでしょうね。
家康や秀吉が天下を取れる自体が庶民レベルの高さを伺えるな
百姓の子秀吉も人売りされた家康も教育を受けていた
あれ?江戸時代の二宮尊徳は独学だったなw
徳川の政治の道具として、それまでの権威を無視するために、記紀という虚構の史書は利用されたのね。
記紀の勉強は家康ですると解かりやすいや
天武・家康・明治天皇
三人の共通点も馬の骨
愚民化政策の最たるものは眠れる獅子中国
漢の頃は明らかに世界一の先進国で高いモラルがあった
異民族王朝隋唐以降徐々に愚民政策が進み
1000年以上の長きに渡り行なわれた
モラル無き住民を更正するに100年かかると言われてる
上に立つ権力者にとって庶民は愚かな方が御し易いに決まっているが、
それにより国の将来に負の遺産を残す事は確実だから、
そんな権力者を歴史の上では反面教師として扱わないと、
何時になってもそんな権力者の登場が続く。
例えば、小泉さんは貧富を際立たせて、金が無くて活躍出来ない人を沢山作った。
これ今後の日本に多分に影響出る筈だよ。
ゆとり教育も小泉さんじゃねw
今日本が愚民化して喜ぶのはアメリカ皇帝だけ
いつも小泉が官邸に籠もって聴いていたのはクラッシックじゃなくて皇帝からの指示書
中国は未だ小泉だけを非難する訳も日本の愚民化は中国の国益にならないため
愚民化リーダーの政策は日本の将来を売り渡しているようなもの
江戸時代に産業が発達してたら今頃世界中日本語で話していたらしいね
天武の八色の姓は士農工商と同様に身分制度を強め愚民を色分けた
これで下に虐げられた人達からの革命は抑制できる
家康は真似したんだろうね
きちんとした歴史評価をできないからきちんとしたリーダーを選べない
平安時代に真人と云う姓は淘汰された
天武の血筋が評価された証である
舒明天皇と皇極天皇の皇子が親と真逆の事すると思うか?
しかも記紀に実子が両親の批判を書くのかね?
家康は結構勉強家で、信玄や頼朝に詳しく、広い選択肢をもっていたそうですが、
あの武家諸法度等という突飛な法律の下敷きには、謎も多く創作では納得がいかなかったのですが、
天武の強引な政策も含まれていたとすれば、幾らか合点がいきます。
家康は狸って云われるだけに化ける術も備えた訳ですか
家康の孫家光が武家諸法度=愚民化法を完成させた。
天武の孫元正が日本書紀=愚民化史書を完成させた。
成り上がりの孫も引け目を感じなさり尚一層愚民強化に勤しみなさり
気違いのように成り上がりの祭られる始祖廟を崇めなさる
よく似た状況が重なるものだ
実際伊勢に祭られてるのはこの人以外に無い
表向きは天照だけどね
伊勢を再興したのも徳川で足利は見向きもせず放置していた
馬の骨告白!
林羅山著 駿府政事録
御雑談の内、昔年御幼少のとき、又右衛門某と云う者あり。
銭五貫にて御所(家康)を売り奉るの時、9歳より18、9歳に至るまで、
駿府に御座の由、談られ給う。諸人伺候、衆皆これを聞く
殿様の子が五貫じゃね
古今東西成り上がり者は必ず経歴先祖詐称をする。
少しでもボロが出たなら、間違いなく嘘で塗り固めてるはず。
天武じゃボロが出すぎだな
本当に個性のはっきりした天皇だな
天武と家康が似てるなんて目から鱗
日本書紀は天武の指示により作られた
天武からの立場が如実に反映されている
天武の子孫はちっとも居ない
もしかしたら家康かもねw
律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、
すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。
また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」
とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。
士農工商と同じ理念だなw
強力な支配体制を作らないと満足出来ないのは馬の骨の特徴
自分に重ね庶民に怯える
九州は旧勢力の残党が沢山居る上に
今でも地名等に新羅の影響が強いから
結局下々に怯えた王権が奈良とか云う
天然の城に遷都した訳だね
>>316の続き
家康を銭五貫にて買った、願人坊主酒井常光坊について、家康語る。
林羅山著 駿府政事録
「願人は加持祈祷を施し、札守・秘符を勧むるを本職と為すといえども、
官府の隠密を承り、諸国俳諧の砌は、その動静を偵察する務を帯べり。
所謂隠目付なり。・・・猿廻しその他、陰陽師・説教者等も皆その顆伴
なりけむ。」
徳川以前の願人坊主(修験者)が忍者として、
足利政権に取り込まれていた事が解かる上に、
その後、忍者を家康が積極的に使った理由が良く解かります。
家康が本当に三河出身で駿府で人質になってたならね
先祖の眠る三河を綺麗さっぱり捨てた上で
わざわざ人質になってた駿府で晩年を過ごす訳が無い
どう考えても駿府の御出身としか見えないねw
江戸と奈良への移設も似てるね
考えてみればこの時奈良へ遷都してから政権交替の時必ず大きな遷都をするようになったね
330 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 17:49:15
奈良天武系→京都藤原氏→鎌倉源氏→京都足利氏→東京徳川氏
なるほど残党の残ってる都でビクビクするよりも移動すべきなんだね
天武系の作った移設と云う慣例が続いた訳か
歴史は繰り返しその繰り返しには理由がある
もしかしたら天武もなりすましの元祖かも
日本後紀
平安初期の激動の時代、桓武、平城、嵯峨、淳和天皇の治世を記す。
天武王統から光仁桓武王統への、政権交代の時期にあたる。
室町時代までは40巻揃っていたが、その後江戸時代にかけて散逸し、
江戸中期に10巻見つかる。残り日本紀略等である程度の復元が出来るが、
かなり抜け落ちている。
誰が焚書したかは時期的に明快ですね。
徳川がやった焚書や捏造も多いんだろうね
日本後紀と書記の立場の違いははっきりしている
矛盾山積だから焚書された事は確実だな
和気清麻呂が失脚して、宇佐八幡神託事件で称徳天皇の逆鱗に触れ大隅国へ遠島。
ところが桓武天皇では高級官僚へ逆戻り。
この辺日本後紀と続日本紀の書き方が全然違う。
当然危なっかしい事は紀略でも抜粋しないだろうから
復元できない部分が是非見たいよね
天武に反目する立場も消せるけど、源平の謎も多分に隠匿した焚書だな。
久しぶりに日本後紀を見た
平安初期には四天王寺は太宰府にある
これ連発だから間違いないよなw
聖徳太子も太宰府に居た事確定なんだよな
340 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:09:30
逸文ながらポロポロと漏れてくんね
徳川さんが大阪の四天王寺もお作りになったのよ
平氏は血脈から桓武天皇の血を守る保険
天武王系と同じ目に合わないように
源氏よりも血が遠くとも格上扱いだからね
桓武嵯峨あたりは疑問の宝庫で古代史をとく鍵
嵯峨兄弟の事はもっと知りたい
桓武の時代周辺は生臭い話ばかり
桓武平氏しか平氏扱いされてない
如何に桓武が古代の重要人物か解るな
新撰姓氏録みりゃ古代の天皇の大まかな出自が解るよ
皇別には明らかな傾向が見られるねw
天武の御親戚なんか面白い
なんだか継体以降は天武の先祖に、他人の実績をはめ込んだから、記紀の相続はおかしいのかな。
日本に居なかったご先祖じゃね
姓氏録と記紀全然ちがうw
桓武天皇が新撰姓氏録の修正を指示したそうだ
記紀と新撰姓氏録の内容は全く違う
これは桓武が記紀を全く否定してるからこそした事だ
平安では表向き天武の後継だから記紀は完全否定してないけれど
記紀と食い違う事を書く事はタブーじゃ無くなった
対記紀に対しての各時代態度については思い込みが強すぎて困るよ
平安時代には記紀と違う伝承の方が目に付くもんね
天武の先祖は応神の頃から日本に来ていたとも読み取れるな
実態の無い先祖をはめ込んだ訳ね
wiki 新撰姓氏録 から抜粋
『新撰』と頭につくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、
『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』が存在していたわけではない。
日本後紀も読んでない奴がwikiに投稿するのもなんだねw
360 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:18:55
冷静に読めば記紀の系図は明らかに可笑しい。そしてそれを直さなければならないと言う天皇がいた。さて何でそんな風な立場の違いが生まれたのか、此処んとこ説明ほしいよな。
本音と建前
今時小学生でも相手の立場が読めるのにな
読めない振りしてる大人の問題は、結局甘い汁吸って私利私欲に走ってる。これが果たして世の中にどう影響してるかなんて、考える事すらしていない。こんな大人ばっかでいいのかよ。
桓武が言わんとする事は
真人は桓武の先祖じゃないとの事
日本において表向き桓武の血筋以外で繁栄したのは藤原氏だけ
先手玉将天武
後手王将天智
どちらの金将も藤原
どちらの銀将も橘
どちらの飛車も坂上
どちらの角行も百済王
取って取られて主君を変えて
日本将棋の駒(高麗)には歴史が刻まれています
天武の子孫は王権どころか残ってもいないのに扱いが妙に詳しく丁重だね
長いこと天智系天皇と藤原氏の時代が続いたから
将棋の意味合いを汲み取れなくなったんだな
いつの間にか成金(藤原)ばかり
鎌足って金兼足という新羅人かな
日本書記に中大兄皇子(天智天皇)は韓人(朝鮮人)と書いてあるぞ
何度も見送られる皇太子天智
舎人親王も嘘書きたくなかったのかもね
日本史Bの古代って妄想多いよね
勝手な解釈ばかりで先生に聞いても埒があかない
解釈の出典も無くどう納得するべきか?
ある教授の妄想がどんどんどんどん膨らんで行って
なんだか解らんものも多いねw
まともに証拠挙げられないようじゃ
教科書に載せるべきじゃ無いのに
もう戦争は終わって
歴史の矛盾はどうするのか
間違いなく歴史も将来の為変えるべき
戦前の歴史と戦後の歴史が似たようなものだから
矛盾が気持ち悪いほど出てくる
矛盾が常識な学問は日本史だけで、世界史はそこそこ解消してる。
377 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 21:53:45
教訓とすべき歴史を守るんじゃ無くて、手前の財布守ってるようじゃ、ご先祖様に申し訳無え。歴史は将来の為、如何に必要なのか、ちっと考えれば、自ずとやるべき事は見えてくる。これからいったい教訓を、誰が教えるんだ。
どんどん日本の国際的地位が下がる理由もなんか解かるよな
天武は馬の骨の王様連中が神と崇めた
その事実は歴史の一部分としてきちんと認めるべき
これで江戸も明治も全てを否定される訳じゃないんだから
これから戦前のように天皇制に戻すならまだしも
記紀のような古代の古い時期をどうして守り続ける必要があるのか
既得権益に群がる公務員という名のハイエナ
生きてる間楽しければいのかな?
すべてに於いて隠すべき歴史など無く、それを隠したが為に、人は同じ過ちを繰り返す。
隠せば隠す程傷は深く、屈辱的な凄惨な結末が待ち受ける。
よく昔から日本は外国を真似続けたように勘違いしている先生がいるが
律令のように直ぐ機能不全を起こして再び日本流に戻すなんてよくある話だよね
最近の学説でも戦国時代は世界一の軍事大国で中国とは目指すものがはっきりと違ってるし
中国の制度導入が日本に与えた影響を誇張するのはどうかと思うな
江戸時代は世界最初の社会主義互助制度があったと確認されてるけど、
その原型は九州時代から連綿と続く、集落単位の地蔵講という互助会が発達したもの。
それは太宰府周辺には今も俗明院と云う地名が残るように、遠く九州時代に置かれた住民救護所兼待機所から来ている。
元は続命院と充てられた。日本には高い住民モラルがあり、かえって中国の低俗な制度が煩わしく感じた事でしょうね。
条里制も中国のような平原なら勝手がいいが日本には全く合わなかっただろうねw
良い制度なら、政権が変わり時代が経っても必ず残るのに、天武さんの律令とかの、淘汰され方は尋常じゃ無い。そろそろきちんと時代評価しないと、学者さんも笑われるだろうね。
そういえば役に立ってる天武の時代の代物って無いね
総てその前からあるものか後のものばかりだ
相当の田舎者が王様になって必死に記紀書いたみたいね
確かに律令って有名無実
厳しいだけで総スカン食ったみたい
能楽砧をみれば九州王朝の訴訟の様子が垣間見れます。更に詳しく見れば都が九州だとも書いてある優れものの謡です。
390 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 06:43:16
江戸時代の五人組なんて律令みたいなもので殆ど名前だけだったそうですね
元からの村社会単位で秩序は守られて村社会単位で一揆は起きていた
実は日本の村組織を作ったのは天武の国司郡司里長でも無く藤原の荘園でも無く
何処にもそんな法律も無いのに是だけの組織が出来ていた訳ですから不思議で面白いものです
江戸時代迄の御上は搾取した税で住民サービスなんて皆無なのに
勝手に自治組織で火消しなんかもするし寺子屋作ったり住民同士の協力関係は素晴らしいね
今時のぶつ切りでトンチンカンな歴史を習ってもちっとも理由が解らないよな
江戸中期より隠語で家康は狸親父と呼ばれる
騙されたと思った人がわんさと居たのでしょうねw
理由も無く日本中住民自治が発達するなんてどうも都合が良すぎる
確かに江戸期のシステムが好結果だとするなら五人組を超える広がりには至らない
地蔵さんのひたすら中途半端な説明によく似てる
日本史の矛盾はなんで放置ばかりするのかね
大宝律令は現存せず、令集解古記などの逸文や養老律令で復元が行われてるそうです。
謂わば内容は解かっていないのですが、歴史で実しやかに習う大宝律令って、いったい何なんでしょうか。
天武の事跡で継続された事って天皇って称号を作った位で
殆どが平安時代以降に無効となったものばかり
三種の神器は邪馬台国の頃からあったし
その前からの史書をまとめて天武のお手柄にしたものが多いよね
律令の最も愚かな点は、一般庶民の殆どを五色の賤、所謂奴隷階級とした。
これは江戸時代をも上回る愚行であり、農民すら全て奴隷に落とされた。
これを遡る川辺里戸籍等が、農民でありながら奴隷とされてない事からも、
如何に律令が愚かで、反発を招き早々に効力を失ったかが解る。
条里制も半端に終わってるし、奈良時代平城京は公地公民なのに市が開かれていた、全てに於いて絵に書いた餅、真面目にやろうよ。
総てにおいて中途半端な律令 最初だからなんて止めてほしい
律令はね強力な抑圧をして強固な支配を求めて作ったけれど
そんな事しなくても予想以上に住民のモラルが高かったって話
周りが見えてなくて大仏に出雲大社も作ったら非難ゴウゴウですな
出雲大社の移設は雲太と呼ばれた時期から
僅か前にしないと掘建柱が腐って倒壊する
大林組も出雲大社を造る事は可能だと証明できても
維持管理や寿命については極力触れないようにしている
それが50年保たないとしたら歴史に影響が出るから
こんなしょうもない建物何度もつくらんやろうし
出雲の名前だけ移設は完了してただろうね
現在でもかなり過疎で僻地である島根に
疑問も無く神様が集まったと思えるだけ
かなり愛でたい頭だよなw
昔は都でございましただよな
701年に出来た大宝律令
723年に三世一身の法
舌の根も乾かぬうちにとはこの事
舌先三寸まやかし役人と映った事でしょう
20年で揺れ揺れw
墾田永年私財の法
大宝律令って覚える意味あるのかな?
律令は理解されず昔に直ぐ戻ったね
平城京ですら福岡に全ての面で劣っていた
正倉院や興福寺は大量の宝物を九州から略奪し保管した場所
何故正倉院が奈良にあるのかそれ以前の正倉や三宅が奈良県内に何故無いのか
辻褄があわない
慈円の愚管抄にはね時代も下り危機の間違いを暴露しているよ
確かに記紀に添いながらも
記紀に無い記述が散見できますね
逸年号はなど大変興味深い
奈良時代はナンバーツーの政権交替も以上に多い
日本将棋縮図って天武朝の駆け引きの事
天武朝の時代は、藤原が実権を握っているように見えて、実は駆け引きが激しい。
この駆け引きに勝った事により、名実ともに実権を握り、平安時代へと続く。
昔の上司に花を手向けて、律令は形だけ残った訳ね。
日本人の多くは肩書きが幾つもある
役所なんて典型的で管理職がわんさといる
これ古代の名残だなんてあんまし知らないけど
悪しき伝統を長い事続けているな
天武に義理立ててね
教科書には
平安の初め班田収受の実施が困難になり税収が集まらなくなったと書いてあるけどその直ぐ後流行った荘園は班田だよね
無理矢理律令を肯定したいみたいだけど班田と口分田の間違いだろうね
先生方の律令人気って過激だね
高安城のように実態の無い律令
藤原京ですら殆ど出来ていないからねw
記紀の記述で概ね間違いが無い時代って無いよね
425 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:12:36
間違いばっかりなのかな?
歴史はちゃんと伝えてこそなんぼ
加茂県って福岡にある
大和の国も福岡にある
紀伊の国は佐賀にある
山背は福岡にあるなw
津の国は福岡にあるぞ
河内なんて福岡中にある、地形地名だよな。
河内とは水系の事
○○水系と使うのに
大和川水系は奈良も含まれるから
河内が割れてちゃ話にならない
単独で水系とも普通は使わないし
何かと御粗末な移設地名だねw
近江と津の国も福岡から分裂移設
丹の国も福岡にあるな
伊勢の国も伊勢神宮も福岡にありました
尾張の国と熱田神宮も福岡にある
越の国もあるよ福岡に
飛騨も大分にある
信濃も福岡にあり
上野下野は大分にあんね
大変だ記紀の有名どころ全部あるじゃん
美濃も福岡にあるな
美濃は記紀の場所柄おかしいっすよ
南宮大社が一宮の国だもん
何処か南か教えてくれ
446 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 21:07:59
南宮大社が南?
平安時代に決められた一宮?
世の中南という定義が間違っているのかもね
説明つかないから笑う
吉備の国も福岡だね
イザナギイザナミの淡路も福岡です
諏訪長野に幽閉された武南方は
実は海を隔てた周防山口に幽閉されただけ
長野へは道すら無かったし
信濃川を船で諏訪迄遡ったとかいう人がいるけど
常識と知識不足故に恥ずかしげも無く言える事
日本の川で遡上の容易な川なんて一つも無い、信濃川にしても途中幾つも浅瀬があり、
とても正常な思考のもと、夢物語に同意する人がいるとは信じられない。
神武の熊野川遡上なんて、河口から僅かの地点に浅瀬があり、地勢を知らずに書かれた事は明らかだし。
相模は大分らしいです
総の国も大分らしいで
武蔵もあるな
常陸は福岡にあります
安芸も福岡だね
土佐も思いがけないところにある
記紀の地名って結局九州ばかりなんだよな
考古学のみなさんは表向き無知なふりをなさっても、
真実はちゃんと知ってなさる。
記紀の天皇は嫌に移動が激しいが、続日本紀以降の天皇方は移動が徹底的に少ない。
だから記紀の天皇も移動は少ない事が真実で、頻繁に九州を往復するなんて、妄想が激しいすぎる。
少なくても玄界灘等は危険な海域であり、奈良時代を遡る道路の発掘が無い事もそれを補足する。
本当はご近所に全国各地があり、危険も無く移動なさっていた訳なんです。
遣唐使はあれだけ失敗してる訳だから国内も時々は難破して当然だよな
現代慣れの交通音痴に熊野を道路以外で歩かせてみろ!
隊列組んで歩き続け休憩する場所も無く雨曝しに耐えて寝る。
ジョーク言ってるなら許してやるけどなw
土佐に海があったのは紀貫之からだもん
官船で土佐迄の海域にも海賊がいて恐れおののいた
それじゃ九州行きにも海賊が当然いて数も半端じゃない筈
貫之は難破以上に治安の悪さをはっきりと指摘してる
当時色んな要因から船旅は気楽らじゃ無い事だけは解る
だから記紀の旅程についても絵に書いた餅
舟にリスクは付き物 気楽に移動出来ると思うだけ無知を晒してますね
古代の輸送日数が何故に多いのか、理解してから記紀を読めば、不自然な移動が矛盾が際立ちます。
畿内と福岡の間を航行したにせよ
風待ちで停泊する事は当たり前ですから
その間に幾らでも天皇の痕跡が残る筈です
それどころか奈良に天皇の伝承が一つも無いのですから
その間に残る筈もありませんが
奈良に移設した天皇はそれ以前の天皇とは血脈が違うので誰も何も伝えなかったんだ
筑前の国に租調で30日かかった
播磨も福岡だね
福岡周辺に全部揃ってる訳だから
道もあるんだか無いんだかの時代に
全国行脚出来た訳
九州とはそういう意味ですしね
474 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 08:53:03
九州を九つの国とか言う珍説に頷く学者達が滑稽w
九つも合わないじゃん
王の居所を一つ
方位八方で八つ
王の威光が広がる様子を九つとした
数なら国の増減に伴い変えるべき
埴輪や古墳を作った王達と
古瓦や古寺を作った王達とが
同じ古墳時代後期に重複する事おかしい
この二つが重なるから他にも矛盾だらけ
明らかに別々の時代を飾った王統で
古墳の王統は青森に迄古墳があるんだから
時代の推定が簡単w
青森迄古墳時代に進出してたとか言いだすぜw
無理でしょw
そうね寺作って古墳作るなんて都合が良すぎるな
精巧な寺瓦作って
粗雑な埴輪を作る王様w
粗雑な物しか作れない王家が、精巧な法隆寺等の寺をまるごと運んできましたとさ。
484 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 11:40:57
古墳時代の定義は明らかに全て間違い
いづれ塗り替えられる事なのにw
奈良じゃ瓦の窯が殆ど発見されてないねw
古墳時代に寺作ったって確かに可笑しいな
銅鐸よりも粗末な埴輪もどっちが先なのかな?
銅鐸が神代に出来たなんて想像だけで決まってます
銅鐸は鐸なのに
なんで用途がはっきりしないなんて言うのか不思議だね
不思議不思議で誤魔化せるだけ誤魔化すんだよ
だってどんな事よりお金が全てだからw
普通の世間じゃ解らない奴はしゃべらない
どれだけ異常な世界かそれだけで解るな
要は突き詰めればボロがでる
ボロが出ないようにけむに巻く
解らないと教えるなんて有りかな?
荒神谷の測定から
銅鐸も銅剣も6世紀後半
この辺で私も妥当だなと思う
銅鐸が一世紀だと言う化学的根拠でも持って来て欲しいよなw
妄想的想像を幾ら並べても説明になっていないのにね
同じ時期に同じ場所で銅鐸銅戈は作っていたわけだから
どうして出土範囲が別なのかも容易に判断が付くよな
何で謎にするのかは当初の思い込みと違うからの誤魔化しに過ぎない
新興宗教と同じ手口
ミステリアスな学問か
考古学の人達は荒神谷もやっぱり無視したいらしいね
都合の悪いデータは無視ばかり
小学生に笑われる訳だ
銅鐸とね古墳はなかなか一緒に出てこない
荒神谷の測定値は古墳時代とか云う妖しい時代設定だから一緒の筈なのにねw
近い将来古墳時代は無くなるだろうね
502 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 08:12:55
誰が血迷って言ったのか、記紀を信じた学者が、体制に媚を売った。
その根拠が妄想かどうかなんて、今時小学生でも解る程低レベル。
証拠が無いのに自信満々のトロイ奴迄いるよなw
記紀擁護の知識人も大概は記紀の間違いは承知してるけど
一部のトンチンカンが一段と妄想を膨らまし手におえない
ちゃんと学校行って勉強してれば、先生が中央集権の事ちゃんと教えてくれたろうに、例えば各地に勤務する先生と同じ位、県庁や文部省に詰める教育関係者が必要だって。各地同じルールで教えるならそれ位中央の管理をする必要がある。平安官僚でも全く同じ傾向だ。
1979年に朝日新聞社から出版された、古田武彦著”ここに古代王朝ありき”で
九州大学冶金学科の坂田武彦氏の、放射性同位元素による太宰府の古代製銅遺跡の
調査結果から、従来の説よりも大きく年代を遡る(BC190年±50年)ことな
どを報告されています。
これだと古墳時代に銅矛銅剣を作ってるんだよね
時代設定がおかしいね
都合が悪いから遡らせた訳だ
古墳時代を九州時代
奈良時代を奈良古墳時代
こんな感じで如何でしょう?
古墳は奈良以前も作られただろうが大筋それに同意
景初何年の鏡がいったいどれだけ信用に値するのか
古墳の鏡なんて単なる流行の大量生産の模造品だ
511 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 08:57:45
ここは学問・文系の日本史板です
学究の為に使いましょう
茶番の自作自演スレはほっといて下さい
荒神谷とは九州王朝の出先で、
東国教化するための銅鐸と、
九州防衛の為に銅矛銅剣を、
銅の産地で生産拠点を置い作っていた所。
名前が当時の名残でしょうね
荒ぶる神の谷
所謂偉い人が何らかの為に支配した谷って事だね
あらぶると聞くと物部アラカイを思い出しますな
その辺の神の事をあらぶると悪く形容したんだろうね
銅鐸が弥生だってさw
妄想だけが頼りの説にどうして同調するのかな
妄想以外に証拠がないんだもんw
519 :
日本@名無史さん:2008/08/22(金) 15:33:24
学習院大学の年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、太宰府遺跡の竹内焼土層は1600年前との事。
未だ記紀の年代に沿う証拠は全く無いもんね
記紀の言う奈良に一つとして都の痕跡が確認出来ていませんよね
今んとこ妄想以外に証拠がないんだよね奈良は
マキムク遺跡も都だと云う理由は当然ながら全く無い
科学データを覆すならそれなりの証拠が無いと検討すら出来ないよなw
歴史にまで精神論をもちこんでるからね
526 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 20:47:00
記紀ではね奈良県が大和とは一言も書いてない
何処が大和だとかは何処にも書いていない
あくまでも後の人の勝手な解釈で奈良県が大和だとしてるだけ
だから記紀が証拠なんて言うだけで笑われるだけ
記紀が危機だよ
だって記紀よんでても畿内地名に矛盾があるからね
別に畿内があったと考えないと説明つかないよな
結局古代奈良に都があったとするなら、妄想以外のきちんとした証拠を提示しないと、突き詰めた議論の土俵にすら載らないって訳。
530 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 09:41:19
江戸の国学者達は、幕府の歴史捏造方針に沿うばかりで無く、自ら主義主張や既得権益増強の為、
夫夫都合のいい解釈をしたまでで、この時代も妄想主体で、別に証拠に基づいている訳ではない。
例えば賀茂真淵は浜松の神官の子で、京都賀茂の末裔であり、
職業選択のない時代にはこれ以上の出世策は無く、動機がはっきりしている。
本居宣長は伊勢と云う神道色の強い生まれな上に、言わば王朝オタクで、
現代の妄想先行の歴史は彼により出来たとも言える。
この流れに載った明治以降の歴史が、未だ証拠も無く奈良を大和と解釈させているだけ。
読んで戴ければ、宣長の著作も思う思うの連発である事が解る筈。
伊勢松坂に集う神道系歴史オタクのリーダーが書いた妄想同人書が
たまたま後の世のお偉いさんに取り上げられて評価を得たって話だな
伊勢神宮なんて家康が突然新設の山田奉行を置いてから整備された。
天武系が信奉したらしいが、その遺跡は全く何もない。
平安始に斎宮があるが、中後期には賀茂に取って替わられ放棄された。
鎌倉は断然八幡宮が最上位となり。
室町頃には格の低い地方神社と扱かわれ、足利は臨西宗に傾倒。
家康が今主流の歴史を作ったとも言える。
ちなみに神道五部書も江戸始めに作られた作品。あまりに都合が良すぎる史書。w
天武ー南朝ー江戸ー明治政府ー現在
此等が伊勢神道を守り高めた系譜で言わば記紀擁護派
よく解らない記紀を最近になって都合よく使った事が解る筈
今の時代だから、
南北朝の北畠親房や室町の吉田神道が注目されるけど、
当時は全く大勢に影響が無く、
ただ記録が残っていて注目されたに過ぎない。
大日本は神国なり 神皇正統記北畠親房
御醍醐の意志は、明治の王政復古として成就したまではいいが、
さてこれを史実とするが為に、無理矢理伊勢神宮や神武・仁徳天皇陵等を、体裁付けた事は何に繋がったのか。
また歴史改竄を維持ような政治姿勢では、また今後将来に遺恨を残すだけではないだろうか。
同じ過ちを犯さない為に、歴史は記憶されるべきだと思うのが。
地元じゃ有名な話だけど仁徳の墓は江戸時代迄大阪じゃなかった明治のお役人が突然言いだした
北畠親房の魂胆は御権威御縋りナンバー2狙い
これ出自の低い徳川や維新の輩にはぴったり填まるよな
奴等都合の好いマイナー書物引っ張りだして大義名分とした迄の話よ
建武の新政はたった三年
どれほど当時天皇親政が世間とのづれがあったか解る
南朝方は新田以外それまで無名な奴ばかりだし
539 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 12:13:45
伊勢神道に絡む記紀や五部書は、どれを取っても虚構が含まれて怪しすぎんだよ。
歴史上世界の殆どの権力者達が、僅かではあっても歴史の改竄をしている。
特に多いのが自身の出自で、系図の改竄は常識ともいえる。家康や明治天皇なんかがそれ。
残す記録にしても大義名分は権力者にあるのが当たり前だから、
読み取る側も注意が必要だ。まず話半分に聞き、相半する資料も確認するのが学問の態度。
だけどこの国の歴史ときたら、未だ改竄の過ちを全く読み取ろうとしない。
きれいな歴史を幾ら勉強しても何も伝わらないように、どろどろとした過ち多き歴史伝える事により、
教訓となるような、本来歴史のあるべき姿になればいいですね。
541 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 14:37:43
>>1 大分に京都郡があるので都があったんだろう。
>>540 その研究態度に改めて欲しいですね、未だ戦時下の歴史を扱っているようです。
学者先生が証拠も上げられない体たらくが何時まで続くのやら
歴史上改竄は常識であって、歴史学者自ら必死に隠すからややこしくなる。イギリスの王家は御出身を隠してない。
伊勢神宮は存在から歴史まで全て改竄
戦前の罪迄問い難いけど
戦後の騙しは国家賠償もあんじゃね?
戦時体制の国家戦略ならいざ知らず
今の歴史は既得権益にはびこる輩が得するだけでしょ
暴露しても天皇家の存在は必ず容認されるから障壁とは言わないのに必死だよな
飛鳥歴史公園の贈収賄のように悪化の一途を辿るから悩ましい
歴史は現代の教訓
上辺だけの歴史に期待するものは無い
南朝が素晴らしいと教わってもなんでたった3年で終ったか教えないんだよなw
南朝はなんで必死に天武達の作った記紀に沿う行動を取ったのかも教えるべきだよね
御醍醐の頃は史実がかなり薄まったから
記紀を信じる人が出てきた訳か
平安や鎌倉時代には殆どの史料が記紀との違いが見られる
南北朝室町でも傾向は一緒だけど記紀による史書も散見されるようになる
本音と建前の使い分けが出来なくなったのでしょうね
神皇正統記の北畠親房って
二条河原落書にトンチンカンで笑われた
後醍醐天皇に付いて行けるだけの
珍妙な逸材だったらしいよw
江戸時代以降南朝を正統と主張する人達が増えましたが、
理由なんて至って単純で、北朝天皇じゃ余りにも取り巻きが多いですから、
そうそう言う事を聞く訳がないですよね。
だから盲目で貧弱な南朝天皇にすり替え祭り上げただけなんです。
その証拠に、明治維新時それまでの北朝の取り巻きや宮家の殆どが、
お役御免で政権からは蚊帳の外となっています。
神輿に乗る人は操り人形のような貧弱な人が理想なんです。
それに沿うように南朝優位論や記紀が真実だとしただけなんです。
明治の元勲達は庶民を騙したけれどもう時効で罪に問えないし
今の天皇家だって何れにしても馬の骨じゃないんだから隠す必要があるのかな?
心配する程大事じゃないね
計算弱い奴が歴史つくってるよね
1200年前一人の皇子が野に下れば今の日本人はすべて天皇の子孫だと言っても過言はないw
明治天皇の疑惑が正しいとしても国の大切な王家に変わりはない
象徴天皇が必ず生まれが良くなければならない理由なんて何処にもないからね
こうあるべきだと言う人程自分の事を棚に上げてるに違いない
正統を殊更強調する人は、現代法との矛盾を消化してから言えばいい。出来ない奴は黙っていたほうが身の為。w
558 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 10:05:21
記紀を守ると金になるなんてねw
学術としての歴史研究に一方的な議論はありえないよ
奈良を幾ら掘っても都が出てこない事もそろそろ考えて欲しいよね
象徴天皇制堅持の為に、歴史の捏造が必要だと思うじたいが、
視野の狭い一般常識に欠けた考えだといえる。
この頓珍漢な考えに沿う為に、無駄使いな税金は年間数百億。
まず堀立柱が都じゃないとはっきりした方がいいな
記紀には明らかな嘘が沢山書かれているから
記紀だけじゃ証拠にならんしね
今の天皇家が明治からだとしても昔の王家に変わりない
何時までこんな嘘だらけの記紀を守れるのかな?
何の為の歴史?
着服する為?
庶民の為の歴史なら教訓と生かしてほしいね
いくら古代の事だとしても無理無理堀立柱を都にしてたら矛盾だらけだな
観世音寺の遺跡が発見されてる太宰府の条坊と角度も配置も一致しているって事は
記紀の言う天智の時代に作られたものじゃ無い事を示す
天智は博多の大津京に居たから此処に作る動機も無いからね
観世音寺の遺跡には礎石以外のものが少ない、これ即ち移設された証拠である。
何故なら木材・瓦・炭等が出てきて始めて、寺の最期は此処だと解るからである。
北九州の廃寺は揃ってこの傾向を示す。ひどい時は礎石迄無い。
移設という事実は確実である。
似たような時代の寺だから山田寺のように何らかしら残らないとねw
呉音は隋唐以前の南朝迄が保存していた本当の漢民族の音
日本にばかり保存されているのも面白いし
南朝以前の影響が非常に多い事も面白い
呉音が残るもの総て南朝以前の輸入なら
大きく歴史が変わってしまいますね
573 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 19:40:24
隋以前の伝来がハッキリしているものは、
下記のように多くは呉音です。
仏 呉音ブツ 漢音フツ
教 呉音キョウ 漢音コウ
しかし記紀では隋以降の伝来と書かれているにも関わらず、
呉音なのは説明がつかないですね。(笑)
条 呉音ジョウ 漢音チョウ
坊 呉音ボウ 漢音ボッ
古くから条坊制は伝来していたのかもしれませんね。(笑)
太宰府の14Cと同様の漢字データだな
記紀の言うことを盲目に信じるだけなら学者も研究機関も要らない
記紀の殆ど総てと言われる矛盾を調べてくれないと税金無駄使いが甚だしい
理由も説明出来ない先生にウンザリ
呉音と漢音の歴史認識があやふやにされるのは大変残念です。
本来、その言葉の到達時期とは、その音で判断できる筈なのです。
例えば西洋語の到達時期や国の違いは、カルタとカルテとカードのように時代分類出来ます。
カルタが先に入って来たからと言って、後発の言葉迄カルタにはなりません。
もし時代それぞれに輸入されたなら、重複と重体のように音が違うのです。
だから阿弥陀なども浄土宗本尊だから、後の到来のように思いますが、呉音で早くに日本に来てた事が解る訳です。
御粗末。
国衛って天武系白鳳期の出先機関だけあって、漢音で唐の影響が強い事が解るが。
しかしどの国衛遺跡を見ても「衛」になっていないから悲しい。塀すら無いんだよ。w
気持ちだけ「衛」にしたかったのか、有名無実な高安城を思いだしますな。
579 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 17:19:59
>>578 なんだか調べて見ると仏教関係の言葉は殆ど呉音
「会釈」と云う言葉を辞書で引きますと、仏教用語の「和会通釈」から出来た造語と有ります。
意味は相互矛盾を解消する事で、どうも現在の意味とは遠い為、この説は素直に納得仕兼ねます。
多分に後からの仏教用語に、故事付けたとも考えられるからです。
何れにしてもこの「会釈」、少なくとも和製造語で呉音の言葉だと解るんですから、
日本のかなり古い時代の。仏教造語と考えられるんですね。
しかも「釈」の字が「釈迦」に通じる事も、「釈迦に会う」が「挨拶」に変わったとすれば、
非常に解釈も楽なんだけどな?と空想も働きます。
残念ながら現在の通説とされる時代には、なかなか当て嵌め難いのが難点ですが。(笑)
奈良に移設されたのは殆どが寺
仏教語は殆ど呉音
聖徳太子は中国に知れ渡る程の菩薩天子
九州王朝が仏教大国であった事は確実ですね
班田収授の法 口分田 条里制
なんだか殆ど呉音だね
本当に大宝律令の後から始めたのかなw
礎石迄そっくり移設する人達ならお手柄ごっそり頂く位朝飯前だよ
天武の手柄の殆どが九州の手柄だろうね
堀立柱の都で何が出来るのやら
なんかさ九州王朝って祇園祭りのように庶民に人気のあるスゲー王朝に見えてきた
和を以って貴しの国が、
いきなり残忍な律令に変われば、
昔を理想化し懐かしむだろうな。
十七条憲法では君は国王の事だけど、大宝律令だと外様大名扱い。
この間に何が起こったのか直ぐ解るよね。
記紀の中の矛盾も多いきっと継ぎ接ぎだらけで確認不足なんだよ
推古天皇とかの創作は御粗末
中国史は違うと言ってるのに
参照漏れなのかね?
下手な創作はバレバレだよね
女性の王を大量に挿入したかった訳ね
十七条憲法が記紀製作当時に作られたとか言う学者がいるけど
何処見てるんだろうねw
百万町歩の開墾計画ー
何でこんなに広大な開墾を必要としたのかな?
まるで未開拓地に移動したみたいだねw
百万町歩の収穫量を概略にて計算すると
1,000,000町*10反*5俵=50,000,000俵
それを一人当たりの米俵に直すと
50,000,000俵/4,500,000人=11.111俵
幾ら大食いの人でもいいとこ年間3俵(60kg/俵)
ありえないねw
これだと100万町歩で約1500万人以上の人口増と考えられる
人口推定が間違っている可能性は高い
時代背景から百済高句麗難民が予想以上の勢いで来ていたとして推定すれば
日本2:百済1:高句麗1の人口だとしても
1500万人から3000万人へと人口増したとも考えられる
元々の日本の耕作田の倍以上に増やすとしたら
ちょっとやそっとの周辺開墾じゃ無理だし
やっぱり九州周辺から本州に範囲を増やしたとしか考えられないね
「百万町歩開墾計画」 『続日本紀』
「養老六年(722年)閏四月乙丑条太政官奏して日く。(中略)食の本たる、これ民の天とするところ、
時に随いて策をを設くるは、治国の要政なり。望み請うらくは、農を勧め、穀を積みて、以て水旱に備えん。
仍て所司に委ねて人夫を差発し、膏腴の地良田一百万町を開墾せん。其の役を限ること十日、便ち糧食を給す。
須いんところの調度は、官物もて之を借し、秋収して後に即ち造り備えしめん。若し国郡司詐って逗留をなし、
開墾を肯ぜざることあらば、並びに即ち解却せよ。恩赦を経ると雖も免す限りにあらず。如し部内の百姓、
荒野閑地に、能く功力を加えて、雑穀三千石巳上を収穫せば、勲六等を賜う」
人口倍増なら妥当な線だな
都は平城京の奈良時代でも開墾が進んでいない証なる
無策無謀で不人気な軍事政権が陥った危機的状況
この時代はお上自ら出挙などと言う高利貸しを半ば強制的にしてるから血の通う王権じゃないだよ
後のマルクス主義しゃが社会主義のお手本のように扱うけど
マルクスは古代中国の律令を強化し、総て庶民を奴隷並にしたのに、あたかも最新のイデオロギーのように宣伝した訳。
権利を剥奪され続けて、気が付いた頃は後の祭り。未だ皇帝気取りがご出演の、どっかオリンピックを礼賛する気にはなれないよな。
日本が世界一の社会主義国と呼ばれたのも、良い頃の中国律令の名残があるからなんだけど、
それは大宝律令のようなマルクス絶対王政版じゃなくて、九州時代の地蔵講のような庶民に優しい律令があった筈なんだよ。
未だにマルクスがやったこと革命だと思ってる人がいるよね
そんな人に取っちゃ受け入れがたい事実だね
全ての財産を国が奪い自由を奪ったら封建制をはっきりと上回っているのにね
歴史はそんな鶏鳴狗盗(人を騙して悪事をする人)をさせない教訓としないとね
ソ連も中国も孫子の兵法書をバイブルにしていた
味方が敵に利用されるのなら自らの手で殺せ!
それが南京大虐殺の総てだった
これと同様に残虐政権だった天武系
福岡市周辺は歴史に残らない人骨が今も大量に散乱してる
現代日本に通じる平安以降と、天武系の時代とは同じ王家とは思えない。
マルクス基地外の居るうちは歴史の探求も難しいよ
マルクスの唯物史観
資本主義から社会主義に発展する法則だってさw
どう考えても退化だよw
騙された奴等は歴史を語る資格は無いね
607 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 08:43:18
だいたい社会主義革命で特権階級が出来るじたい馬鹿げてる
小学生が言っていた「みんな平等なのに偉い人が居るなんて可笑しい!」
何時の時代から持って来たのかそろそろ解らないとねw
社会主義国のやり方と大宝律令の当時がくりそつ!
理想理想といういいつつ権利剥奪して
時間とともに総スカン喰うあたりもね
そうか、大化の改新=文化大革命というのか。
参考)大化の改新は50年引き下げるべしという主張が九州王朝説の派生仮説。
革命騒ぎに、のぼせ上がったタイミングに成立したのが、日本書紀というわけか。
645年の大化改新の方が唐が建国し外圧を掛け始めた頃で妥当だよ
その九州王朝説仮説とやらに証拠はどうせ無いんだろ?
トンチンカンな仮説は勘弁してくれよw
当時の日本の歴史ははっきりと大陸とリンクしてるもんね
612 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 15:18:16
太子ごときが国家改革出来るわけないでしょ。
大化に改新があったとするほうが妄想。
>>611 当時の法隆寺は殆ど全て舶来品や舶来様式。
仏教の経典、仏像、建築様式。
どれ一つ取っても大陸で特に南朝の影響が強いね。
日本独自に何が出来たんだろうね。
>>610 良い点に気付いてます。
>>609派生仮説とは;
改新は二回あった。
白村江戦・壬申前(640年代)・・・・@九州王朝による、評 の制度・副都難波京建設(白雉改元)・七色13階
白村江戦・壬申後(690年代)・・・・A近畿主導の、大化の改新(評→郡)&大宝令 そして政権奪取
日本書紀は、@の年代に、Aの事跡を年号ごと記載している。 そうゆう派生仮説だ。
九州王朝説者がいよいよ、九州王朝の滅亡事情を解明し説明を始めた。
>>614補足
>日本書紀は、@の年代に、Aの事跡を年号ごと記載している。
日本書紀は、@の年代に、Aの事跡をAの年号:大化ごと記載している。
既存説学者(非九州王朝説)たちが、論争していること:大化の改新の不思議にも解答する内容だろう。
@なんらかの改新(天下立評)があったことは解明できている。それなのに、Aビミョーに意味の違う詔があることに戸惑った。
ここで、気をつけねばならぬことは、九州王朝説者といえども、記述年代の移動を主張することには慎重であらねばならぬ ということだ。
>>609補足して再掲します。
>そうか、A大化の改新=文化大革命というのか。
>革命騒ぎに、のぼせ上がったタイミングに成立したのが、日本書紀というわけか。
諸君!続けてくれたまえ
617 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 19:20:56
>>616 天武〜持統〜文武で安定した政権の由来・樹立譚は、中国側に旧唐書時代には認められなかったが、
新唐書のときには認められた。
つまり「九州倭国は、小国たる畿内日本国を併合したが、その国名だけ生かして日本国と改名した」
という大義名分が、中国側に公式に認められたのである。
>>618そうです。
中国側の対日本列島、国交正常化。(30年ぶりの遣唐使)
日本列島側:推古上皇、使者粟田真人・・・わが日本は、もはや倭国のような朝鮮半島への干渉・武力行使はしない。
中国側:武則天女帝・・・我が方も、統一新羅(朝鮮半島)の自主独立を尊重したい。(できれば、そう伝えて欲しい。このとき、まだ唐羅は国交異常中。)
以来、1300年余。極東の国家間関係は、このとき出来上がった。基本的に
日本列島に一国、朝鮮半島に一国。中国も手出ししないで互いに自立し保境安民するのが良い。
↑この基本が守られないとき(守り難いとき)に、不幸が起きたが、他のレスの題目。
参考)ヨーロッパでの、英仏百年戦争決着に相当する大きな事件だった。
>>607 >小学生が言っていた「みんな平等なのに偉い人が居るなんて可笑しい!」
今時馬鹿な大人が多いから古代九州も肯定出来ないんだねw
白村江戦以降唐にとって、極東より吐蕃問題のほうが大きかったので、
新羅や日本が安定し、恭順してくれていさえすればよかった。
>>621そうなのです。大国でも、それなりの考慮すべき問題がある。背後に敵がいたら正面と戦えない。
モンゴル帝国も三度目の対日遠征どころでなくなったのは、ヴェトナム反乱があったから。
>>622 この認識は、いかがなものかな。
倭国と唐とは、ともに朝鮮半島をねらう敵対関係だったが、むしろ高句麗が強かった。
日本と唐との関係は、不臣友好と評言すべきと考える。
日中両国間に存在する朝鮮半島には統一新羅が健在した。新羅は唐の征服軍を追い返していた。
752年、奈良の大仏開眼から3年後の755年が唐・安禄山の乱だが、遠い異国内の大混乱。
中国内の混乱に乗じて、朝鮮半島出兵なんて話題にならなかった事に気づいて欲しい。倭国時代とは大きく変化したのだ。
(もう一つちなみに、740年 左遷され大宰府流しの藤原広嗣は在地の旧倭国残党にそそのかされたらしくて新羅出兵目的で反乱。
満州事変ならぬ新羅事変ねらい。朝廷は対外基本方針に反するから鎮圧した。)
白村江(663)のあと、百済鎮将の劉仁願は、高句麗戦を長引かせすぎたため
姚州(雲南省)に配流されています(668)。薩夜麻の帰国(671)の時には
すでに劉仁願は左遷されたあとでした。
劉仁願左遷のときには、吐蕃の西域侵略が始まっていたのです。
その吐蕃だか不臣とかで、漢音=唐の漢字音がなんで日本に入って来たんだ。?
何で漢詩とか漢文ばっか書き始めたんだ。
物好きな国だな日本は。
大事な条件無視して頭わるすぎるよ君。?
もう来るな。!
>>625 >>623 701粟田真人(年表で第7次遣唐使)は武則天女帝が麟徳殿で歓迎してくもらえた(おそらくは日本使だけのための宴会)と伝わる。
→九州王朝説(注目)者としては、新生した統一日本が承認された事跡と考える。
劇的なのは
718第8次遣唐使で吉備真備、阿部仲麻呂、僧玄ぼう(日+方)ら随行者が有名のほか、入唐使が帰国した箇所だ。
719正月10日 入唐使が(天皇に復命するに)皆、唐国から授与された朝服を着て出てきた
2月3日 初めて天下の百姓(=国民)に(唐風の)右襟にさせ、公務員に(唐風の)杓を持たせた。
ひねくれが少なくなる続日本紀の記述で、唐風の浸透がこの頃と考えて良かろう。
漢音のことは、詳しくないので、懐風藻だか初期の漢詩集のうちの
端緒期の漢詩は、唐以前の音でないと平仄が合わないケースがあるそうだ とするに留める。
>>623紛らわしい表記を補正したい。
>倭国と唐とは、ともに朝鮮半島をねらう敵対関係だったが、むしろ高句麗が強かった。
>日本と唐との関係は、不臣友好と評言すべきと考える。
↓
九州王朝倭国と唐とは、朝鮮半島をねらう敵対関係だったが、・・・・
近畿王朝日本と唐との関係は、不臣友好と・・・
注)倭と日本とを書き分けしているのか否か微妙な著書があったりする。
白村江前後の書物の原文表記は
・中国・朝鮮半島:倭
・日本書紀:日本 となっている。
↓
原文通り倭と日本をそのまま表記していると思われるのが
井上秀雄さんの 古代朝鮮 (講談社学術文庫)で、九州王朝を考慮しつつ読む小生には不思議に読みやすい。
古い書物は、平気で倭→日本という書き換えしてます。
のんびりひまじんは日本人なのか?通訳いるんだよ君w
そうとう長いこと社会と隔絶してるだろ
別のスレでしこしこやっててくれないか
邪魔なんだよ
630 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 11:16:00
>>629 > 邪魔なんだよ
同意。2ちゃんから出ていってくれ。オナピ君。
妄想畿内君は、のんびりひまじん氏に歯が立たないからね。
わかります。
ちゃんと説明して第三者に意図を伝えられる人が来てね
ちゃんと説明して第三者に意図を伝えられる人が来てねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ちゃんと説明して第三者に意図を伝えられる人が来てねwww
悪いけど君の説明なら一生理解出来ないだろうからもう二度と来ないでくれ
おねがいだからもう絶対来ないでくれ
無駄な時間がやたら過ぎるだけ
いつもたくさん居る友達に聞いてもらえよ
ちゃんと説明して第三者に意図を伝えられる人が来てねwww
矛盾ばかりの畿内説信者は、理解力無いでしょw → 無駄
>>623誤認識をつつしんで訂正します。
>752年、奈良の大仏開眼から3年後の755年が唐・安禄山の乱だが、遠い異国内の大混乱。
>中国内の混乱に乗じて、朝鮮半島出兵なんて話題にならなかった事に気づいて欲しい。倭国時代とは大きく変化したのだ。
↓
混乱に乗じて、藤原仲麻呂(恵美押勝)が新羅出兵を企てたが採用されず、
のちに反乱したところで一族ほとんど皆殺し。
(いや、お恥ずかしい限りです。)
>>613
>当時の法隆寺は殆ど全て舶来品や舶来様式。
>仏教の経典、仏像、建築様式。
>どれ一つ取っても大陸で特に南朝の影響が強いね。
>日本独自に何が出来たんだろうね。
同感だね
元々は古き良き中国の伝統が伝わったと思うね
本来の中国から伝わった律令には百姓と雖も訴訟権は認められているのだけど
奈良の律令だと庶民の殆どは五色の賤状態でこれは律令なのかなって思うよね
共産主義の恐怖政治を見てるようだよ
中国の奴隷制も、日本の天武系にちょうど先行するように唐から強まりました。
漢の高祖は重農政策をとり、それまでの債務奴隷の一部を解放して平民とし、
農業従事者を増加させたほどで、漢期の奴隷制は割合に秩序正しく、
曰く付きの奴隷が大部分を占めました。
官奴婢は重罪犯の家族や戦争捕虜で、公営作業に従事。
私奴婢は、破産農民が多いのですが、債務奴隷や誘拐売却された人なども含み、
農作業が中心です。
法律上主人は奴隷を恣に殺すことは許されていなかったように、
ある程度の奴隷の人権も認められていたようです。
後漢の光武帝は「天地の性、人を貴となす。其れ奴婢を殺す、
罪を減ずるを得ず。(天地の間に人間より尊いのもはない。
殺した相手が奴婢であるからといって罪が減ぜられる訳ではない。)」
と詔したそうです。
その後隋唐となると、奴婢を蓄える風潮が盛んになり、奴隷の割合が格段に増し、
奴隷の訴訟権のは無くなりました。奴隷は人間とは扱われなくなったのです。
日本の大宝律令からしばらくは、この唐律令を見習った事は言うまでもありません。
唐の過激な律令は古来からの律令とは、別としなければならないな。
だって唐の律令を日本は真似たにも係わらず、尾張国郡司百姓等解という、
平安時代の百姓の訴状が残っている。ここで朝廷は律令の決まりどおり下級役所に訴えろと返事する。
唐の律令無い条文があるって事になる。やっぱり漢の律令の輸入が、
早くにあったことをほのめかす事になるな。
関西の大古墳は、九州王の墓だ という ひそひそ話を知ってる?
沢宮優さんの 1000キロの海を渡った「大王の棺(ひつぎ)」 九州から大阪へ考古学実験航海
関西の(小さなのは別として)大古墳に限っては、発掘された半分以上が、10台以上が、九州産の石棺なのです。
まさか!? と思うけど、
九州から、ご遺体ごと運んでいたなんてネ
九州から埋葬クルージングは温泉(道後、有馬、白浜)とセット旅行・・・
(若き2ちゃんれらーなら知っていてもよさそうなのに話題にしない不思議)
危うくなるかも知れない 九州王朝VS近畿王朝の対決 という従来の主張・・・近畿王朝の方こそ実在が危ういって?
隋書イ妥国伝にあるとおり、阿蘇山の国家儀礼に参列したんでしょうなあ。
>>645 ここでも唐以前の輸入が確定的ですね
中国からの律令も一波じゃないんですね
五色の賤は大鳳律令で総て田畑を官田とした為
それに見合うだけの大量の強制労働者が必要になった訳
人民公社のように生産性が悪いから古くからの制度とはとても思えないね
人民公社もコルホーズソルホーズも短い寿命だね
大宝律令並みだよな
出入り禁止らしいが。
>>646 阿蘇凝灰岩製石棺と横穴式石室は九州の埋葬形式。
阿蘇ピンク石も阿蘇凝灰岩の一種。
石棺以外にも大阪に阿蘇ピンク石がころがっているのは何故?
>>650 平安時代は表向き律令だけど
大宝律令とは中身が違うよね
強制労働のような抑圧的な事をすれば
反発を食って長くは続かない
歴史が教えてくれるね
>マルクスの唯物史観
>資本主義から社会主義に発展する法則だってさw
>どう考えても退化だよw
>騙された奴等は歴史を語る資格は無いね
少しでも多くの収穫を上げる!
人類の進化に欠かせない意欲を無視した集団農業
非効率な生産性の低さは時代を逆行し
大量の餓死者を年々出した
革命とは名ばかりの奴隷制に過ぎない
701年の大宝律令
723年三世一身の法
743年墾田永年私財の法
何だったんだいったい?
人民公社30年を下回る短い寿命だこと
毛沢東と天武は
抑圧的な制度を作ったが
後継者達はそれを引き継がなかった
あまりに抑圧過ぎる為人心の掌握が出来なかった訳
歴史は同じ過ちを繰り返すね
租庸調雑徭に兵役に歳役
これ真面目に納めて勤める事出来るのかな?
雑徭するなら租庸調はかなり苦しい
官に捉われた働き詰めの奴隷だな
矛盾だらけだね大宝律令
律令って全てが天皇の土地だろ
じゃなんで税金あんのよ?
矛盾してね?
学校の時は覚えるのに必死で矛盾に気付かなかったな
成人してからそんな歴史してたら始まらないなw
王土王民は当初から全く出来なかったから税金取ったに決まってるジャン
歴史は教訓
先祖の失敗を再び犯さないこと
日本は奈良時代
中国は唐の時代
これが歴史上理想とされ教えられている
よくよく見ればそんなことは全く無い
今誰がこの時代を理想と教えたいのか
この時代を理想としたら何が起こるのか
もう繰り返えしてはならない歴史として教えるべきだ
平城京といいつつ外郭の土塀も省略された
この時代は理想に燃えていた事だけは名前から読み取れます
しかし何処まで信用出来るのでしょうか
>>651 こうゆう考古学現象について、特徴を十分検討する必要がある。下記@Aどっちが正解?
@重いのに、棺の材料(その他建築材料)をわざわざ九州から運んだ。
A重いのに、石の棺そのものを九州から運んだ。(ご遺体を収めたか否は別)
阿蘇ピンク石なるものをよく知りません。
よほど良いものなのか?
例えば、石仏の大分臼杵、国東方面の石ではないのか?
大王クラスに限って、九州産の石棺となれば、重大である。
大王クラスに限られるということの説明が必要。
>>656いい話題してますね・・・落ち着いた話題にこのスレ参加しました。
667 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/09/21(日) 12:48:21
>>666 正解は@重いのに、棺の材料(その他建築材料)をわざわざ九州から運んだ。
石棺の形式からみて畿内で加工されたと考えられる。
「阿蘇ピンク石」はググってください。研究者がおられます。
阿蘇ピンク石は阿蘇凝灰岩の一種です。
灰色とピンク色があります。
凝灰岩は軟らかく加工しやすいので石棺に使われたのでしょう。
畿内の石棺には畿内産の凝灰岩も使われています。
九州王朝大好き=のんびりひまじん
邪魔だからもう来るな!
>>668 熊本宇土産の凝灰岩だけが、濡れると鮮やかなピンク色をします。
全国各地の凝灰岩の違いは灰色の濃淡の違い程度です。
強度の無い凝灰岩が使われるのは、強度が必要でないものにたいしては、
加工しやすいからだと思います。
畿内の石棺に阿蘇ピンク石が使われるのは、ベンガラに換わる装飾と考えられます。
畿内には赤色装飾をする鉱物顔料による着色技術がなかったからでしょう。
畿内で鉱物顔料による着色技術を持ったのは7世紀からです。
関東東北には赤色装飾技術があったので、九州から装飾古墳がそのまま広まったと思われます。
じゃまなようなので失礼します。
第九条 太国・九州王朝大好き・一応九州王朝説・のんびりひまじん等の荒らしコテは参加禁止!
訂正。
第九条 夏祭・ローガン・改めドツボ・プラム=河童虫等の荒らしコテは参加禁止!
675 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:42:57
九州王朝〜=のんびりひまじんの話が聞きたければ、
とっくに来てますよ。
あはは、「=」と思った675は、相当にズレてるね。
678 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:51:30
↑何処の学校出てきてそれなんだw
679 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:04:57
↑↑何処の学校出てきてそれなんだwwwwwwwwwww
680 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:52:33
当初、高安城は、昭和53年(1978年)4月、高安山の東方、生駒郡平群町の山腹で、
八尾市の市民グループ「高安城を探る会(棚橋利光会長)」らのグループが倉庫跡と
思われる礎石群を発見し高安城跡ではないかと大きな話題になった。しかし、
奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査の結果、発見された礎石建物は廃城後の奈良時代
初期(730年頃)の建物跡であることが判明した。そのため、一部では高安城は日本書紀
の創作で実際は存在しなかったという論説が広まった。
www
しかし、そこに奈良県立橿原考古学研究所の研究員で地元八尾市の小学校教諭
の奥田尚氏が遺構らしきものを発見。平成11年(1999年)3月18日、八尾市教育
委員会の米田敏幸文化財課係長と確認した。その内容は、高安山頂の北西300m
(標高約380m)で、方形の大きな花崗岩を二段積みした石垣が100m程にわたって
続いているのを発見したというものであった。その後の調査などから城壁の高さ
は10mを越えるものであり、高安山の西側斜面の6箇所には方形に張り出した尾根
の先端を平坦に整地してあり、その平坦地の周囲には石垣が構築されていた。
この平坦地には他の古代城のように高い櫓を建てていたものと推測されている。
城域は南北2.1km、東西1.2kmに及ぶ広大なもので、建設年代は特定されていない
がヤマト王権が最後の防衛線として国家事業として取り組んだものではないか
とも考えられている。
あまりにも規模が大きい為に検証が進んでおらず、667年以降の築城の可能性も
残されている。
これ以上の調査は絶対出来ないそうですよwww
>>681ー682
この内容だけでも矛盾だらけで、
かなり不審な写真しか公表されて無い訳で、
これで信用に値するものとは到底言えない訳だな。
典型的な捏造パターン、証拠もキチンと公表せずに、虚報を繰り返す。死ぬまで必死に頑張れって感じ。w
685 :
のんびりひまじん:2008/09/27(土) 12:21:16
>>682 >あまりにも規模が大きい為に検証が進んでおらず、667年以降の築城の可能性も
残されている。
例えば南北朝室町戦国時代かも知れないということですか?
(楠正成の赤坂城、千早城から、そう遠くでもないからですか?)
>これ以上の調査は絶対出来ないそうですよwww
絶対?なぜ絶対ですか?
(地方政府の予算の都合上、半永久的に出来そうにないというなら、そういう表現してくだされ)
→古代に高安城なるもの、存在したらしいが詳細不明と判断しておきます。
そんないい加減な情報は流すな!と普通の人は思うと思うけどね
のんびりひまじんのコテ使ってる人の意見は、このスレに絶対に書き込まないで下さい。みんな迷惑しますから、お願いします。
× のんびりひまじんのコテ使ってる人の意見は、このスレに絶対に書き込まないで下さい。みんな迷惑しますから、お願いします。
○ のんびりひまじんのコテ使ってる人の意見は、畿内説信者に圧倒的なダメージを与えています。畿内説が崩壊しますから、お手柔らかにお願いします。
689 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:33:57
↑なんで書いてて解んないかな?
こんなことかけるのはのんびりひまじん本人以外ありえないだろ
頭悪過ぎて付き合いきれないよ
690 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:46:45
689は夏祭
691 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 16:50:09
273年の皆既日食は本州中部地方を北西から南東に斜めに横切り、近畿地方は部分食であったようであるが、
これは神功皇后の日食とは無関係の日食ではなかったのではないだろうか?唐松山さん如何。
692 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 16:57:17
スレを間違えてしまいました。
693 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 14:01:44
694 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 09:40:11
孤独に千まで書き込む気分はどうなんだろうね
695 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 00:46:32
続日本紀によると、高安城は九州勢力の畿内拠点になっていたね。
696 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 06:43:14
九州に都はあった。しかし、それは日本国の都じゃなくて九州国の都。
同じ意味で各地に都があった。出雲には出雲国の都が、吉備には吉備
国の都が。当たり前のことであって、言っても意味がない。
698 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 11:54:57
孤独に千迄書き込む人にこのスレ荒らされました いわゆる馬鹿荒らしです
699 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 19:38:23
孤独に千迄書き込む人にこのスレ荒らされました いわゆる馬鹿荒らしです
700 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 14:55:29
孤独に千迄書き込む人にこのスレ荒らされました いわゆる馬鹿荒らしです
701 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 10:59:00
「大宰府」で検索を
頼朝は鎌倉の中心に、先祖からの祖廟である鶴岡八幡宮を自ら据え、他の神社は殆ど移設していない。
頼朝自身の墓は八幡宮から500m程離れてはいるが、八幡宮の神域内だと判断できる。
子孫達は頼朝も鶴岡八幡宮に併せ祭ったのだから、鶴岡八幡宮は頼朝の墓=神社と考えて間違いは無いだろう。
このように神社が祖廟+最寄の先祖の墓となるパターンは、古くから畿内等にも多々見られる。
寺域に墓を作った場合も神仏習合の影響神社が祖廟というケースもある。神社と葬祭は切っても切れないもの。
※現代の仏式葬祭となってからも、檀家が寺境内に墓を作るのはその名残。
創建以来江戸時代まで頼朝の墓(法華堂)は鶴岡八幡宮で祭祀してました
これは紛れもない事実です
御成敗式目第一条『神社を修理し、祭祀を専らにすべき事』
この祭祀の「祭」は冠婚葬祭の「祭」。 祖先の祭礼をする事。
だから鎌倉幕府では「神社で祖先の祭礼をしなさい」と法で定めた訳。
古神社は千年をはるかに超えた祖廟、場所を変えた墓。永らく語り継がれました。
宗像大社って明らかな墓w
住吉も石上も大神も九州の元祖は墓w
廟とは、墓所もしくは、その墓所から分離移設された崇拝所として、神に対峙する所。
仏教で言えば舎利殿で、そこには仏陀の骨は無いが、骨の代用品に参拝する事と同様。
延喜式神名帳 西海道 豊前國
宇佐郡 三座 並大
八幡大菩薩宇佐宮 名神大
比賣神社 名神大
大帯姫廟神社 名神大
ご覧のように延喜式にもはっきりと廟と書かれ、古来より天皇家の宗廟とも語り継がれる。
当然この宗廟は墓所に対する崇拝所の意味。全国第二位の神社は墓所に対する廟なのです。
706 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 21:01:25
ちゃんと読みたいねw
707 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 21:18:52
廟はもがり用の仮宮で、墓ではない。
708 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 23:34:03
吾妻鏡等にも○○社は○○氏族の祖廟と頻繁に出てきます
廟は神社の一面なのは間違いありません
義に生きた上杉謙信。
縁戚の上杉姓藤原氏の家督を譲り受けた事により、
居城春日山は、藤原氏の霊廟春日大社の分霊を受け祭祀を引き継いだ事により名付けられた。
米沢には上杉家廟があり、謙信含め歴代藩主は神社様式にて祭られている。
皇極紀二年二月抜粋読み下し
〜冬のまつりごとを行なった。国内の巫女達は榊などの枝を折り取って木綿をかけ、蝦夷大臣が祖廟に詣でる橋を渡る時をうかがい、競って神霊に言葉をのべた。〜
色々と面白い事が書かれています。蘇我氏の頃から祖廟が神社だった事は確実のようですね。
橋を渡るのは正しく神社、室町以前の神仏習合の寺にもまま見られるが、それも創始が神社か、古くは神社が勝っていた所。
何故神社が橋を渡るのかといえば、陵は島の意があり、古い神社の形態が、その陵=島を表しているから。
今でも墓所を奥津城奥津島と呼ぶのはそのため。
祭り事とは祖霊を拝礼する事
書紀にもちゃんと書いてある
たしか蘇我氏は仏教擁護派でもあった筈だか、未だこの時代には、寺にて祖先祭礼は行なわれていない。
蘇我氏の祖廟は島であり神社であり、葛城にあったとあるが、奈良の葛城に思い当たる場所が無いのも面白い。
よく見かける大和の豪族分布図とも全く合わない。どうやら想像のみで作られた分布図だな。教科書にも載ってるけど。
大和の豪族分布図を作った 岸俊男
京都に生まれ、京都帝国大学国史学科卒、京大文学部国史学科助教授から、1969年教授、1985年定年退官。
1967年『日本古代政治史研究』により京大文学博士。奈良県立橿原考古学研究所所長を務めた。
古代宮都、金石文、木簡などを調査し、藤原京の都市構造や稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘の研究で知られる。
なんだやっぱり京大の妄想学者
室町以前の神社は単純に墓や祖廟であった
基本的に藤原氏は春日系の神社にしか祭祀しないし
源氏は八幡宮で平家は厳島といったように
それぞれ分派した氏族がそれぞれの神社のみを祭祀していくことになる
だから本拠移転すればそれを分祀して行く事になり
各地の八幡宮は源氏の末裔が居た事あらわす事になる
後に身分の高い者は徐々に寺を祖廟とする事になるが
足利氏等も寺と同時に八幡宮を奉っていたことは言うまでもない
ただこれには多少例外があり伊勢神宮は天武系の祖廟だが
天武系が死絶え建前後継の光仁天皇以下が祭祀を続けたけれども
末裔がいないだけに平安後期以降徐々に衰退し
室町期の伊勢神宮ともなると祭祀が滞っていたらしい
家康の肝煎りで祭祀は復活するが本来の祖廟の機能からは変化している
あと過渡期の豊国神社は秀吉の墓として祭られてその分祀した廟が各地にあるのだが
子孫により祭祀が続けられている訳ではない
その他元来寺から始まった神社や亜流の神社も多いのでその都度検討を要すが
神社の本来の機能は氏族として祭り事を行う墓や祖廟なのである
>>711 まるで今の神社と作法が一緒。史実は調べりゃいくらでも証拠がでてくる。
718 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:48:30
「祖霊」や、「祖霊信仰」で検索すれば?
沖ノ島の祭祀は縄文からだね。
>>717 捏造記紀と言えども、妄想年代基準とは全く違い、少なくても千年以上前に書かれたもの。それが今と同じ神社と同じ作法なのには驚いた。やっぱり証拠は大事だね。
720 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 22:25:30
源頼朝は白山神社を信仰してたな。
721 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 22:45:22
宇治市 白山神社
>>711 間違いなく榊は神ノ木。神社用語で神社以外には使わない。蘇我氏は祖廟である神社にお参りしていたのか。
>>711 なんだか蘇我蝦夷大臣
ここだけ妙に人気者
本当に悪者だったのかな?
何処かの寺社には蘇我氏の祖廟の記録は残ってたのかもね
大教宣布の詔が最大の歴史捏造の主犯だな
書紀によれば、仏教公伝以前には既に神が居て、仏が神の怒りを買うと書かれています。
帝は百八十神を春夏秋冬にお祀りされる事が仕事〜とも書かれ、仏教伝来以前より、
古来神だけを祭ってきたとも書かれています。書紀を通じて一貫して神=人神なのも徹底しています。
仏教公伝から平城京あたりまでの仏教宗派って何にも無いよな
この辺は明らかに消された仏教宗派だな
ほんとだねその排他された宗派が神社や寺になってるようだね
稲荷とか結構ある
729 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 09:03:51
>書紀を通じて一貫して神=人神なのも徹底しています。
皇極元年の雨乞いの記述を読もうね。
神=あやしきもの
731 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 11:34:33
推古十五年二月九日の詔
敏達十年春閏二月 蝦夷たちが泊瀬川で禊をして、三輪山に向かって天皇への忠誠を誓う。
書紀を通じて一貫して神=人神(天皇含む)なのも徹底していますね
三輪山も天皇を祀っていらっしゃた訳ですか なるほど
733 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 22:03:16
推古天皇は、皇祖の昔から山川を祀ってきたと詔で言ってるんだけど?
推古十五二月戊子
詔曰 朕 聞之 曩者 我皇祖天皇等 宰世也 跼天 蹐地 敦禮神祗 周祠山川 幽通乾坤
是以 陽 開 和 造化 共調 今當朕世 祭祠神祗 豈有怠乎 故 羣臣 共爲竭心 宜拜神祗
要は天皇は山川へ行って、宜拜神祗=神に会い事がよいでしょう)と指示してます。
参考 祗=うやまう 祇=氏を示す神
山川に何の祠があるのかな?
神を恐れ慰め祈る
祝詞は神に宛てたもの
この時代の祠が神社であった事が解かる。貴重な史料だよな。
皇極天皇三年(六四四)七月◆秋七月。東國不盡河邊人大生部多。勸祭虫於村里之人曰。
此者常世神也。祭此神者。到富與壽。巫覡等遂詐託於神語曰。祭常世神者。貧人到富。
老人還少。由是加勸捨民家財寶陳酒陳菜六畜於路側。而使呼曰。新富入來。都鄙之人取常世虫置於清座。
歌舞求福。棄捨珍財。都無所益損費極甚。於是。葛野秦造河勝惡民所惑。打大生部多。
其巫覡等恐休其勸祭。時人便作歌曰。
「禹都麻佐波。柯微騰母柯微騰。枳擧曳倶屡。騰擧預能柯微乎。宇智岐多麻須母。」
此虫者常生於橘樹或生於曼椒。〈曼椒。此云衰曾紀。〉其長四寸餘。其大如頭指許。
其色緑而有黒點。其貌全似養蠶。
(要約)秦河勝は、虫の神で庶民をだましていた大生部多を打ちこわし、神の中の神と賛美された。
無くなった人だけが神で無く、天皇を含め現人神とされていた事がよくわかる記述です。
現人神最高位の皇極天皇が雨乞いすれば雨が降って当然
四方八方天も地も畏れおののき従うに決まっていますな
>>738 秦氏に蚕=蠶で思いました。秦氏の養蚕機織り伝承が山城賀茂神社や摂津呉服神社に残っていますが、
布目順朗著「養蚕の起源と古代絹」の正倉院文書調査によると、山城摂津はどちらも養蚕の記事が全く無い地域だそうです。
ですからこの二つの神社とも養蚕地域からの移設が確実で、その養蚕地域には筑前筑後が含まれているのは言う迄もありません。
下手に由緒を残すとボロがでるようです。
太秦の蚕の社と呼ばれる木島神社も神武天皇陵と同じ匂いがしてきました
あの三柱鳥居もやっぱりねって感じ
孝徳紀 「〜明神御宇日本天皇詔旨〜」
推古紀 「〜天上有神。地有天皇。除是二神〜」
有名な憲法十七条第一条
以和爲貴は和を以てとうとしと解釈されていますが、これを含め条文をよく読むと、貴や宗や祖に逆らうなとしか読めません。
第二条は三宝(仏教)ですから、最初にくるのは自ずと権威としての神を暗にほのめかしたもの。
解釈の難しさもあるのでしょうが、意図的な読み替えは否めません。
第三条 〜君を天とすれば臣は地〜
間違ってないでしょ
蚕も畿内の発祥は薄いようですね
747 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 09:01:09
自分に尊とつける馬鹿の相手する奴がいるじたい不思議 自作自演確定だってw
>>746 古事記上巻や書紀神代紀、仁徳紀に蚕の記述が見られます。
この辺の時代は信憑性が低いにしても、古くから蚕が日本にて飼育されていたことは読取れます。
大和山城摂津和泉と、畿内では殆ど養蚕は行われて居なかった。
気候地勢的には、寧ろ適しているともえますが、これは畿内が後進地域だったこと証明です。
本当に奈良が都なら桑畑やらなかった訳ないよ
他の作物にはあんま向いてないし
推古紀
「はじめて四天王寺を難波の荒陵に作りはじめた」
この荒陵の字に注目すると、
大阪市内に荒のつく地名は、過去現在とも一つもありません。
しかし福岡市は、古くは大荒・小荒郷と和名抄にも書かれ、
現在の大字でも荒江・荒戸・荒津と沢山見られます。
荒と言う地名は博多湾周辺の地名とも考えられます。
すくなくても大阪には延喜式まで何も無かった証拠
記紀書いてある畿内は違う場所だよね
753 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:58:27
九州の都って占いでわかるのか?大爆笑!ああ腹痛いww
太国様に占ってもらえ!
>>750 大阪住吉大社含め全国各地にて水位の高い伝承が残る
都なんてとんでもない古くはかなり小さな大阪島だった筈
>>750 難波の荒陵と使うように難波は広域的な名称
現在の大阪の難波は妙に小さな地域名称で
ホントに海の中を疑いたくなるような低湿地
756 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 21:14:49
大阪には国境が二つもある上に、大河と云う地峡がある。
本当に古代の大阪に都があり栄えた時期があるのなら、あんなに近距離に国境は無いわな。
757 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 00:22:27
しょうがつにあったんですか?
そんなことはないね
江戸の町だって国境をまたいでいる
760 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/01(木) 22:24:45
>>754 >古くはかなり小さな大阪島だった筈
この部分は間違い。
大阪は、百舌から北へ伸びる上町台地の半島。
北へ行くほど標高が高くなる。
最高標高の南北ラインは、
上町断層の東側、
大阪城と住吉神社を結ぶ南北の線である。
百舌から北へ伸びる断層台地の西側は茅の海、
東側は河内湾(河内湖)、
北側は南方水道(淀川大和川共通排水水路)。
大阪の古名は、上町台地の西側にある大坂。
難波宮大極殿〜JR・南海三国ヶ丘駅(摂津・河内・和泉国境付近) 13.1キロ
平城京大極殿〜近鉄高の原駅(大和・山城国境付近) 3.6キロ
長岡京大極殿〜JR山崎駅(山城・摂津国境付近) 6.1キロ
大津宮(錦織遺跡)〜京阪四宮駅(近江・山城国境付近) 4.9キロ
平安京大極殿〜国道9号老ノ坂トンネル(山城・丹波国境付近) 10.2キロ
恭仁京大極殿〜JR平城山駅(山城・大和国境付近) 7.7キロ
いずれも直線距離。
結論:都は(特に平城京)は国境なんか気にせず造営されている。
762 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 01:18:53
徹底的に馬鹿だなコイツ↑
国境が出来た後から出来た町との距離測っていったい何になるんだピントのずれた人?
誰もそんなネタで話ししてないし間違ったネタ振りしてそれ自体も間違ってるから笑われてるんじゃないのか?
もう来るな馬鹿!
763 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2009/01/03(土) 11:27:03
>>761の追加参考事項
「大坂」の東方、上町台地半島を挟んで、河内湾(河内湖)に面した海岸(湖岸)が「小坂」。
「小坂」の東は河内湾(河内湖)。
「小坂」の東には、海(汽水湖)を示す地名が残っている。
「若江」、その北に「水走(みずはい)」、有名な「蓼津」。
蓼津の東岸が「日下」、ここには河内湾に接面して石切神社がある。
大阪湾岸にはその時代に則して海に接面して神社が並んでいる。
住吉神社(大阪)、今宮神社、天神社、西宮神社、広田神社、住吉神社(神戸)、湊川神社、蛭子神社。
(大阪南部にも神社があるが詳しくはない。)
第九条 太国・九州王朝大好き・一応九州王朝説等の荒らしコテは参加禁止!
765 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 13:48:23
>>1 あったでしょ。
伊都国(イツ国=威つ国)は都でしょ。五瀬命(威つ兄命)と神武天皇は、
一時期、この国に住んでいたんじゃない?
>大阪には国境が二つもある上に、大河と云う地峡がある。
本当に古代の大阪に都があり栄えた時期があるのなら、あんなに近距離に国境は無いわな。
まあ古代にはない大阪なんて地名を使ってるのはご愛敬として
大川は河内湖の排水路としての人工河川で自然地形の地峡ではないよ。
「大阪に都があり栄えた時期が・・・」ってのはどの時期のことかな?
仁徳・孝徳期だったら「宮」はあっても「京」はないし
天武・聖武期だったら「京」としての整備がどこまで行われたのかは疑問視されてるよ。
767 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 08:15:06
↑問題外馬鹿過ぎるw
>>766 第一条 責任をもってレスできる方の参加歓迎!
第二条 お互い思いやりで、対応しましょう。
第三条 無責任なレスは無視しましょう。
第七条 証拠主義にてレスしてください。妄想論禁止!注意啓発!
誰でもわかる様な明らかな間違いや、証拠も無い想像で書き込まないで下さい。
首都や疆域の概念を古代から勉強直した方がいい
大陸から文字までも導入して日本だけ小さな都城で済む訳無い
記紀だって難波は今の大阪だとは一言も書いてないからね
氾濫原に人工河川を作る技術って並じゃない。
豊臣徳川の堤防は、掘ってみれば当時の技術が高度だと直ぐ解る。
だかそれ以上に高度な堤防なのが、なんと古代の福岡で作られた水城。
調査を重ねる程、古代九州人の数ある遺跡の技術の高さには敬服する。
幾ら古代であってもキチンと作られたものはキチンと残る。
ただ畿内の古代遺跡では高度な土木の痕跡すら見当たらないんですが。
通説って本当なんでしょうかね。
白村江の後に水城が作られたなんておかしいね
門だけでも何度も作り替えられたんだからね
平城京などは外郭の城壁すら造られなかったのに、水城をそれと同時代に設定したら無理がある。子供騙しを真に受けちゃいかんね。
より高度なものが九州の出先にあれば
どちらかの時代設定の間違い以外に考えられないな
都のあったと言われている畿内には、ろくに軍事施設も土木施設もない。
大宰府を堅固に守る城壁があっても、畿内を守る軍事施設は何も無い。
大宰府の周辺には土木施設の跡があっても、畿内には全く土木施痕跡すら無い。
どっちが都なんだろうね。
水城は通説の都を守っていなかった箏は間違いない
よく調べてみれば福岡周辺に畿内の地名が沢山残ってる。
多少変えられたものもあるが、書紀は九州を舞台に作られた史書を、
関西の政権のように見せ掛けられたもの。
778 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 09:31:08
何も出てこない関西にあったわけない
掘り立て柱で都なのに、水城のような軍事施設に礎石があるね。
無理矢理定義に当てはめて、混乱しかまねいていない。中臣なのに連だってさ。
臣が権威が高いのなら連の氏族に使わせ無いだろうな
臣は大臣の家柄でいんじゃないのかね
氏姓の定義ってナンセンスw
伴造が職能集団?大伴氏は大臣までなってるよな?
偉い奴の妄想には矛盾が一杯
ナンバー2に迄なって格下の姓を使うなんて世界中何処にもないわな
藤原豊臣徳川と伴が同格としないと説明がつかない事位気が付かないのかねw
こう言う矛盾だらけの通説を守り続ける事が日本の歴史学。
未だ選挙も無しに代表を決めるどっかの政党のようなもの。
矛盾に疑問すら持たないような奴等もかなり含まれてるから、ちっとも進歩しない。
鈍感のふりしてる奴は救えるけど
鈍感は放置に限るよ
「お供する」
そのまま謙譲語になるような有力氏族
彼らがナンバー2の基礎を作ったのに妄想史学じゃ格下げですか
「ともあれ」「ともすると」
これらもそれものだな
ともすれば〜
これだと大伴氏の仕事は低評価に見られてる気がするね
こんなんばっかりじゃないけど
貴人に伴が同伴すると堅苦しいとでも言いたげ
兎も角と当てたんじゃちっとも意味が伝わらないからな
伴う
労災隠しこわい労災隠しこわい隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺されるパワハラこわいパワハラこわいパワハラこわい殺される殺される殺される殺される死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいごめんねごめんねごめんねごめんね死にたい
日本書紀以前の言葉の由緒はタブーとしておかしコジツケが目立つ
もののけ扱いされてる物部よりはだいぶ増し
798 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 12:31:18
「物部」と書いてモノノフと読み、「武士」とも当てて書かれる。
これはモノノフの意味が「者の武」で、引っ繰り返して「武者」になる事による。
だから過去の勇猛で高貴な怨霊を恐れたのが「者の怪(モノノケ)」。ここは「物」でなく「者」で再度納得。
「者」とは身分の高い人に使われた漢字で、「物の怪」じゃ何の事やら何時までたっても解る訳無い。
語源は殆ど歴史に眠っている。平安の前史も言葉で理解できる。
物部は訓意からも漢字からも書紀の作った蔑称だと解るね
武者とされた物部氏の全盛期は、丁度倭の五王の外征期に重なる。
別物と言う言葉も、きっとコレで出来たんだろ。
べつもの【別物】 by大辞泉
[1] 異なる品物。別の物。
[2] 特別な物や人。例外。
やっぱりね 物って漢字で人=者とはこれ如何に? 間違い無いわw
物部も別物も元は者部と別者
物を者に当てて理解出来ない用法は多々ある
堅物などは人の事にしか言わない
平安貴族が面白可笑しく例えた隠語も、かえって真の歴史を紐解く端緒となる。
物々しい
それも人に対しての形容詞
武者ぶりが伺える
平城京平安京周辺には、軍事施設すらない無いのだから、厳重な警備は物々しく感じる訳だ。
如何に過疎地へ遷都し、敵対勢力の少ない都だったのかが解るな。
難波の都には掘っ立て柱しか無いけど
これが本当に都なのかな?
何処にでもある都じゃない遺跡と
何か区別がつくのだろうか?
これじゃ脳味噌がチープになっちゃうよねw
ものもの‐し・い【物物しい】
[形][文]ものもの・し[シク]
1 重々しくきびしい。いかにもいかめしい。また、大げさである。「―・い警備」「―・いいでたち」
2 容姿・態度などが、堂々としている。威厳がある。
「大納言殿は―・しう清げに」〈枕・一〇四〉
枕草子の平安時代には明らかに人に対しての形容詞ですか わざと漢字と取り違えていますね。
物々しい出立ち
なんだろうな
物語は者語り
今昔物語等畿内の話は不自然な記述も多いしね
ある意味良いエッセンスも含まれている
「物申す」
これはかつて謙譲語として使われていた。自分を物とし、へり下って「物が申し上げる」と言ったもの。
「物」が服従した側の自称となるのは、まるで史実そのものを映し興味深い。
この後日本は代々「物」が申し上げる事になった訳だ。
高良玉垂宮古社記の神職の系図には、古代より幾代にも渡り物部を名乗っている。
この高良玉垂宮こと高良大社は、神護石に囲まれたそのもの山城の中にある神社。
今も残る言葉「物々しい」山城そのまま。
九州には古代山城だけでも幾つあるのやら
関西には存在の確認がされてない高安城と云う虚構の城のみ
物々しいのもの字も無い
三笠の宮は水城山城迄備えた日本史上稀に見る都。
白村江大戦の相手唐も万里長城を四方に張り巡らす。
国際戦争はある程度匹敵する軍備の、防護された都同士が戦わないと矛盾する。
鬼は外〜
この鬼っていったいなんだろうね。
なんだか虚構の亡霊の類に充てる説が、実しやかに出回っているけど、そんな訳無いね。
隠蔽された歴史にその答えはあるんだけど、誤魔化しばかりで邪魔だよね。
鬼は実際外に追い出された人達なんだろうな。
鬼は内〜
こんな鬼を味方とする節分はかなり多いよな
鬼を擁護するのはそれなりの理由がある
同じ行事で追い出された鬼と守られてる鬼が居る。
これだけで鬼とはどういう人達なのか察しが付く。
奈良から平安にかけての正史では、
鬼扱いされる程の人や集団を思い付かない事からしても、
隠された歴史から来ている事としか考えられない。
寺社にも色々歴史的立場があるんだろうな
成田山新勝寺は平安中期平将門の乱を鎮定する為、都から東国へと派遣された僧が作ったらしいが、
節分では福は内としか唱えず、鬼は外とは絶対言わないらしい。
これじゃなんだか鬼は外と追い出された側の僧じゃ無いのかと疑いたくもなる。
鎮定したあと居つくのも不自然だし、
山岳系仏教で本尊が不動明王だから一段と怪しすぎる。
節分でも悪鬼善鬼色々あり、性格を決める事はできないが、鬼とは追い出された者と定義出来るのかな。
これも古代中国の風習が日本に残ったもの
日本なりの鬼に変貌したのだけれど
鬼を敬愛迄するのは日本だけ
日本の鬼は単なる淘汰された旧勢力
妥当な線だな
桃太郎が日本の歴史を風刺し伝えるもの
鬼は鬼ケ島に居て財宝を持っていた
たいそうお金持ちの鬼だ事
桃(中国)から生まれた桃太郎が鬼をやっつけた
都落ちした人も鬼扱いされただろうが
それだと鬼ヶ島と財宝の意味が解らない
古代九州の方が先進地であった事を認めない学者はいない
ところが後進地奈良に精巧な仏像やら宝物殿やら宝物が沢山ある
桃太郎は室町以降に作られた物語とされているが、同じ室町以降作の能楽には、
奈良以降の記録に残る時代設定には、そぐわない話ばかりで、
明らかに九州時代としか考えられない話も多い。
桃太郎の話も隠された日本の歴史が、モチーフとして存在した疑いが強い。
中国の歴史をモチーフとしたなら、島に渡り攻め勝った等の設定が、
史書記録類に皆無な上に、中華思想で成功譚となるかはいささか疑問だ。
既出の奈良に残る奈良時代を遡る数多くの宝物類は、
桃太郎の持ち帰った宝を連想させずにはいられない。
836 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 16:45:32
校倉造も大陸からの建築様式ですが、それがその後日本にて使われなくなったことからも、前政権時に輸入された建築様式と考えられます。
木材で作るこの様式は日本に適した様式です。しかし土壁を多用する建築様式が流行したのですから、習俗の違う人達への政権交替だったのでしょうね。
簡易的で合理的な建築に流れ事も理由だろうけど
校倉造は細々と残って然るべき様式だけどね
日本のような湿度の多い地域には校倉造が有効
ただ奈良のような比較的少雨地域だけに残った事が解せない
まず砂漠に高床式は要らんよねw
正倉院の3棟のうち新しい中棟は構造が違う
校倉造の古い方は奈良以外からの建物ごと移設の可能性が高い
正倉院宝物の木画紫檀双六局。
これと全く同じ物が、中国トルファンから出たそうで、唐皇帝から、
日本の天皇とトルファンの王様に贈呈されたと、日本では言われています。
しかしこれ全くのでたらめで、トルファンは640年唐により滅ぼされており、
その後長らく唐の辺境の地で、王様も居ませんし、貴族が住むような所ではありませんから、
豪華な宝物が送られたとしたなら、王国の存在した640年以前と考えるべきなのです。
すると日本なら、遅くとも聖徳太子の頃迄遡る事となります。
ですからこれも正倉院本体同様、奈良の天皇の物だとは言えないようなのです。
鳥毛立女屏風もたしかトルファンから同系図出てる
また敦煌の洞窟壁画も同系でここまで遡れば五胡十六国の頃となる
調べる程唐代では治まりがつかん
辻褄合わせで無理矢理偏向していることバレバレ
何でもかんでも唐の影響としないと記紀や続紀の建前が崩れて古代の通説が総崩れ
上辺だけの通説はほじればボロがでるから取り繕うのも一苦労
法隆寺の仏像群なんて如何にも寄せ集め
四天王寺にも無い同時代の四天王があったりする
移設を進めたのは奈良天武政権だけでは無くて
その後継で平安後天智政権も同立場をとった
何しろ天智は白村江で負けてから政権をとった
これはモトモト純粋な九州王朝王族とは考えにくい
実際殆どの古社は平安に移設されているし
四天王寺もその疑いは拭えない
先行して移設された所には桃太郎の宝物があるってさ
唐よりも唐以前の影響の方が圧倒的に強いよな
唐はから 漢はあや
この訓の振り方に違い歴然
違う人種だって言ってるな
漢字の読み方変わったからね
違う人達みたいね
唐の王族は北方系の民族で漢民族はではなかったそうだ
本当の意味で漢の民族は中国には居ないらしい
日本の方が漢の風習を保存している
中国南朝の漢民族の逃場は日本しか無かっただろうからね
漢音を保存してる唯一の国日本
失礼
×漢音
○漢の音
857 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 11:33:26
漢字つかってるのが台湾入れても3ヶ国しかないからなw
あと日本語の変遷を考えると、さほど音を保存しているとも言えない。
>>856 朝鮮民主主義人民共和国
大韓民国
越南(ベトナム)
これらの国も漢当時の音は殆ど残ってませんね
今でも漢字は沢山使われてますけど
859 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 17:01:38
>>857 の使用漢字を調べてみましたw
「変遷」はどちらも呉音漢音同発音(漢でも唐でも使われていた音)
「保存」はどちらも呉音(漢で使われていたが唐では使われなかった音)
「漢字」は「漢」が呉音漢音同発音「字」が呉音
「音」は呉音
「国」も呉音漢音同発音
何言ってんだ?w 全部「漢の音」が「保存」されてるじゃんwwwww
紛らわしいので説明すれば
「漢(六朝迄)の音」=「呉音」 「唐(唐以降)の音」=「漢音」
大丈夫か?
860 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 16:32:06
「音を保存」という日本語の意味がわからない方のようですね。
日本語の音(おん)と呼ばれる音(おと)の殆どは、
呉音と言って漢の時代の音なんですよ。
ターヘルアナトミア
日本には江戸以降オランダ語の記録が殆ど無いので、
当時のオランダ語の音を知るために貴重な本となる。
それ同様に漢の音を保存するタイムカプセルも、本国ではなく外国に出来て当然。
しかも日本では漢字が殆どこの呉音により使われているのだし。
中国漢字音史料広韻の底本切韻も
隋唐の北方民族音が混じった音
それ以上古い純粋な漢民族音の研究は手付かずと同じ
なら日本の呉音のように隋唐の音に残らない漢字音が
どの時代なのかは自ずと決まる
唐の時代に秦漢の漢字音を呉音と呼んでいた事も
ちゃんと記録に残っているようだし
古事記の万葉仮名は全て呉音だってさ
古事記は奈良時代に作られたものじゃない
単なる書き写された時期が奈良時代なだけ
唐の律令コテコテの時代に、ワザワザ呉音で正史を作る訳無いわな。
奈良から平安にかけて呉音は消し去ろうとされたのに結局呉音が根強く残った
まるで当時の政治状況を写しているようだ
奈良平安で輸入や創作されたものも呉音ばかり
平安に出来た筈の百人一首も呉音だってさ
おっかしいね 条坊制も呉音だわ 藤原京以前に条坊制の都があったみたいね
奈良の飛鳥には条坊制どころか都の痕跡すらないからな
呉音の条坊が入って来た当時の都は九州にしか無かった訳
古事記の作成年代を漢字音で考察することは避けられている
古事記の結末の時期と漢字音の時期が重なるのだから避けたくもなるのか
御粗末な歴史通説だ
平安時代にられた和名抄地理志における地名について考察すると、多くは訓で漢字をあててあるのが、残りの音の多くは、二字好字等の措置による、平安時代の当て字にもかかわらず、多くは呉音で表記される。これも多分に元資料の焼直しの感が否めない。
万葉集も古今和歌集も九州時代としか判断できない詩も多いからね
万葉仮名とは九州で出来た仮名なんだよ
876 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 09:06:47
九州は、近畿に比べて、(廃棄された)竹簡・木簡の発掘が少ないのはなぜ?
矛や鏡などはあんなに沢山出てくるのに。
877 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 23:02:00
>>876 >九州は、近畿に比べて、(廃棄された)竹簡・木簡の発掘が少ないのはなぜ?
字を書いたのは、竹簡・木簡ではなく、扶桑の木の皮だったからじゃない?
竹簡・木簡を使うのは畿内の新しい習慣だったんだろうね。
878 :
九州王朝大好き:2009/05/14(木) 15:54:39
>>876 >九州は、近畿に比べて、(廃棄された)竹簡・木簡の発掘が少ないのはなぜ?
倭では、字を書いたのは、竹簡・木簡ではなく、扶桑(青桐)表皮の短冊だった。
竹簡・木簡を使うのは、近畿が唐から導入した新しい方式であったから。
879 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 17:50:01
で、扶桑の表皮は全部、腐って残ってない というわけかい?
そりゃまた、九州王朝説にご都合の良い見解だね。
で、扶桑の表皮を使ったって証拠はあるのかい?
問題外w
881 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 13:41:24
>>879 扶桑(青桐)皮は木簡の様には残れない。
腐ると繊維がバラバラになり布の様にも残れない。
梁書諸夷伝扶桑國条を読め。『有文字以扶桑皮爲紙』
882 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 22:37:29
ねぇーよw
883 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 02:20:26
扶桑に書くのは遅れた文明でしょ。
都はやはり大和だったんでしょう。
どうしても、防人のイメージが付きまとう!
885 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:12:07
古事記の舞台は出雲が中心だよな
最近馬鹿しか書き込んでないねw
887 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 23:14:48
挙げ