◆徳川御三家・親藩スレ◆

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891日本@名無史さん
尾張家を御三家筆頭とする学説もあるらしいね。
892日本@名無史さん:2008/06/21(土) 13:53:09
>>890
前スレ>>787あたりを参照
>>891
尾張筆頭は「学説もある」ではなく、ほぼ定説ですが
まあ幕府の文書に明記されている訳ではないので
「尾張は筆頭ではない」
という説もありますが
・尾紀は同等である
とするのが殆どで、主に紀州家が主張していました
893892:2008/06/21(土) 14:01:59
稀に
・紀州は将軍のおさとであるから、江戸中期以降は筆頭
とみるむきもありますが(例えば司馬さん)、権勢は増したものの、家格が上がったわけではありません
吉宗がそんな配慮の足りないことをするわけがないでしょ

・義直は三家の年長
・石高も一番上であるばかりでなく、石高に計上されないが木曾の山林を有し、実質百万石に近い
以上から尾張筆頭が称えられているのです
894日本@名無史さん:2008/06/21(土) 15:03:07
同意封地も尾張と紀州じゃ尾張の方が上だと思うし官位は全く同格、石高は尾張が上。
紀州>尾張を証明する物は無いよね。
和歌山は今よりは重要度高い地であった事を考慮してもね。
895日本@名無史さん:2008/06/21(土) 15:40:52
尾張はそう主張しているけど、そもそも「筆頭」という格自体が存
在していない以上無意味ですね。
単に三家を並べて書くときに「尾紀水」と書く事が多いというだけ。
896武陽隠士:2008/06/21(土) 15:56:45
>>吉宗は御三卿なんかつくらずに、将軍になるときに紀伊家に宗武を残し、
>>後に生まれる宗尹を尾張宗春の後継者にしとけば、盤石だったのに。

あのさぁ、逆に訊くけど、どうして紀伊家や、
まして血脈の異なる尾張家に実子を送り込む必要があるの?
吉宗は将軍位に就いた時点で、すでに嫡子・家重を得ていた。
つまり吉宗を将軍家を相続させた時点で、その子が
将軍家を継承していくことは暗黙の了解だったのだぞ。

吉宗は将軍家の家督を相続させるうえで自身の分家を立てるのは当然であり、
紀州や尾張の当主に実子を送り込まねばならない理由などどこにもない。

それに紀伊家や、まして尾張に吉宗の実子を送り込む、などというのは
少し幼稚過ぎる発想だぞ。
大名家の独立性を無視しているというか、知らなさ過ぎる。

不愉快だ。
897日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:24:28
>>895
それは承知してますよ
ただ無意味と切って捨てるは乱暴でしょう
幕府はともかく、世間一般にそう見られていたし
尾のアイデンティティもそこにあったから
故に尾紀の争いや
尾藩及び士民の思考行動に影響をおよぼし
ひいては現在の名古屋人の気質にも僅かながらに響いているのですから、
決して無意味ではありません
少なくとも水戸の「副将軍」とは異なり、三家筆頭の家柄というのは
括弧付きの「事実」です
898日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:31:43
尾張の御三家筆頭という家格は公的に認められてたのかなあ。
序列が明確になる殿中席次も,同一官位であれば先任順だったのに。
もし,尾張に筆頭の家格があれば,常に水戸や紀伊よりも上席を占めるはずでしょ。
899日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:44:19
>898
認められていないでしょう。根拠はまさにそこにあるとおりで、
公的には「御三家」という同列の格式しかありませんから。

で、紀伊は紀伊で「官位は初叙から納言まで同官、旗は尾張
と違って『将軍家と同じ旗』を与えられた」ということを以って
「尾紀両家は互角」と主張していましたね。
公言はできないものの、家康から家康自身の居城と、それに
付随する所領を与えられたという自負もあったでしょうね。
900日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:53:01
つまり三家それぞれに
「我が家は格別」
というプライドがあったんです
ただ石高や居城、長幼の順から尾が筆頭と見なされていた訳です
901日本@名無史さん:2008/06/21(土) 17:00:45
大きく身分や所領が上下することのない時代には,城地,旗など細々した違
いで上下を認識したつもりになっていたのでしょうね。
ま,そうやって御三家で競い合ってくれた方が,将軍家や幕府には都合が良
かったと思います。
私は,幕閣くらいがこっそり,「やっぱり,お宅が御三家の筆頭ですよ。」
などと尾張の家臣に囁いていたかもしれないなどと想像しています。
902日本@名無史さん:2008/06/21(土) 18:39:11
吉宗が将軍になったとき、紀伊徳川家はなんでなくならなかったんだろう?
館林・甲府の御両典は、将軍になってから、なくなってるよね?
すくなくとも、徳川家ではなくなってる。
903日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:06:34
>>902
吉宗が家継の後見人(事実上の次期将軍就任)になる条件として
紀伊家存続を出したからでは。
904日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:12:06
まあ水戸以外は家斉の代に全て吉宗の男系子孫に養子を送られて結果紀州の血筋で固められてしまったんだが。
905武陽隠士:2008/06/21(土) 19:40:28
尾張の三家筆頭の格式というものは
極めて空気のような漠然としたものだったろうが
確実にあっただろうね
三家三兄弟の一番上だったのだから

ただ、母親を同じくする紀伊・水戸に比べて
同母兄弟を持たない尾張を家康が危うんだ、という話を聞いたことはある。
906武陽隠士:2008/06/21(土) 19:48:23
スレの中盤で老中どもが
幕府の所在地を紀伊に移動されてしまうのではないかと恐れた、と
書いていた奴がいるが、結構おもしろい発想だと感心した。

余談になるが、日本最大の広域指定暴力団・山口組が本部を
神戸から名古屋に移したことを知っているか?
初代以来、山口組は本部をずっと神戸に置いていたが、
名古屋に本拠地を置く弘道会会長が六代目に就任する際、
自身の地盤である名古屋に移してしまったんだ。

現在では武士が暴力団と似通った気質であったことは
『武家の棟梁』などで指摘されるとおりだ。
同じような器具を老中どもが抱いたとしても何の不思議もない。
907日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:51:12
御三家筆頭といのは,五摂家筆頭というのと同じ種類の重さ?なんですかね。
908日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:24:41
紀伊への遷都・・・あり得ないね。
つか、老中が危惧したってこと自体、あり得ないね。

吉宗はあくまで養子入りの体裁。
しかも江戸に開幕した権現様の絶対の崇拝者だ。
その上将軍就任後も、先代からの老中や、天英院、月光院にずいぶん遠慮した。
和歌山遷都・・・地政学的にも、経済的にもバカバカしくて話にならない。
909日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:34:49
紀州血統嫌で水戸系の高須から養子迎えたの?女系では繋がっているけど。
910日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:34:59
>>908
綱吉も家宣も養子だが。
御三家の連枝が本家相続した場合も分家は廃絶というのもあった
(吉宗と兄、宗春)
911日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:37:08
惣領の庶子を考えた家康の話。
将軍家の万一に備えて同腹の兄弟を持っていた方が良い、っていう。
だから秀康や義直ではダメで、
秀忠か頼宣でなくてないけない・・・っていうんだろうが、
一見説得力ありそうだが、年譜的に振り返って、後付けの話としか思えないな。
912日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:37:39
幕末に3卿からでは無く血縁の近い紀州から養子迎えたように尾張藩主が将軍の超近親だったら尾張から将軍出たかもね。
913日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:41:27
館林家は徳松に継がせて存続させるはずだった。
綱吉養子入りは一代限りの約束。
綱吉が将軍就任4ヶ月後に西ノ丸入りを強行しちゃった。
914日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:46:06
だから・・・
御三卿は「家」としては不安定だった。
明和年間に、制度として固まったというのは、御両典のように一代で
潰えることなく、世代交代を果たせたからだろうね。
915日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:51:23
>902
「将軍の座」によると、吉宗が宗家を継いだあとで尾水両家に対して、「こうなった
以上紀伊のことは取り上げるのが筋道でしょうが、何分にも権現様お取立ての国
ですから、そうもなりません」と述べたということらしいですね。
で、「松平左京大夫頼致がご登城のところ、紀州御相続を仰せ付けられ、徳川の
称号を進ぜられた」(同書より。元は鸚鵡籠中記。)ということになったと。
916日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:24:50
>914
甲府家は一代限りではなかった
ゴメン
917日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:35:37
>>915
上の方レスにも似たような話題があったが
>>紀州御相続を仰せ付けられ、徳川の称号を進ぜられた
って紀州家の相続と,徳川姓の授与は別になるのか。
918830です:2008/06/21(土) 23:03:26
>>902
吉宗が、紀伊家から宗家を継いで8代将軍になったとき。
紀伊徳川家は、領地を持つ大名なので、その連枝たる分家(西条藩頼純系)がある以上、
そこの当主が、本家である紀州藩主に昇格する 
ということではないでしょうか!

徳川三家・三卿の話題は、江戸時代を語るのに欠かせないので、
次スレッドもよろしくお願いします。
919日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:29:35
何かで読んだ記憶があるけど。
吉宗は,将軍を継ぐと権現様手作りの紀伊家が無くなると言って,将軍になる
ことを躊躇すると(野心を露骨にしない芝居),水戸が,西条松平に紀伊家を
継がせるので絶えることはないと言って吉宗の手を引いて上座に導いた
ってゆうのは,後世の創作?
920日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:30:07
次スレッドは>>950を踏んだ椰子でいいだろう。
921日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:05:32
俺は疑問だな。
紀伊家が将軍家になり替わるわけじゃないだろ。
あくまでその時の当主が、将軍家に養子入りするだけだからな。
家は存続する。当たり前のことではないか。
甲府は宝永元年、綱豊が養子入りする際に、嗣子がいなかったし、
館林は徳松一人しかいなくて、綱吉が一緒に連れて行ってしまったから
無嗣絶家になっただけじゃないか。

御三家は将軍を継ぐ可能性のある家柄だから、
子のない当主が宗家に養子入りし際、無嗣にならないよう連枝を設け、
その所領は本家の分知ではなく、特別に幕府から新知されていたのだろ。
922日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:20:26
まあ、「鸚鵡籠中記」の作者のような下級武士が、
御三家当主の枢機な会話など預かり知ろうはずもなく・・・

吉宗の念頭に、後釜には初めから西条松平頼致だけしかなかった?
というのは疑わしい。
宗武っていう選択肢もあった。幼少といっても、付家老もいれば、まさに
頼致に頼純の役回りを期待することだってできる。
家重に万一があっても、紀伊家当主たる宗武は将軍家の最も近親者なわけだから、
紀州から迎え入れるという算段も立つだろう。

923日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:36:53
宗武登城停止の件、やはり氏家幹人さんの『江戸人の老い』(PHP新書)に
ありました

かいつまんで引用をお許しいただければ、
まず理由として、宗武が将軍家重を批判するような言動をしたらしい
(だから「傲岸不遜のゆえ」というのもあながちまちがいではない)
そして実紀その他史料に見えず、「俗説」とされていた登城停止の件を、
事実に近いとしたのが辻達也さんの「田安宗武の籠居と松平乗邑の失脚」と
いう論文
ソースは松平春嶽の『閑窓秉筆(かんそうへいひつ)』と一橋宗尹の編年記録
である『覚了院実録』で、
春嶽は宗武が「公儀の御不興を蒙らせられ」三年間の謹慎を命じられたとし
同時代史料として信頼度のかなり高い『実録』には、延享4年(1747)10月以降
は宗武登城記録が途絶え、謹慎が始まったことが伺える、というものです
924日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:38:57
宗武はまだ幼少だったから,手許から離すのが怖かったんじゃない。
毒殺とか恐ろしいし,宗武がいなくなるとまだ自分の血筋は家重だけだから。
925日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:49:55
>>923
非常に嬉しい。
延享4年といえば、一橋重昌の越前家放出が決まった年ではないか!

指摘の文中に吉宗の介在を匂わせるネタはあるんだろうか?
あるはずないとは思うが念のため、教えてほしいなあ。

と、「覚了院実録」に、この件に関する宗尹の言及はあるのだろうか?
ぜひ教えてほしい。
926923:2008/06/22(日) 00:52:47
さらにこの処分は誰の意思によるものか、という点ですが、氏家さんは
前スレにあったようにこの当時の吉宗は健康状態が思わしくなく、その処分
をまったく知らされていなかった、としています
ソースは吉宗の紀州からの近臣で、大御所様付御側衆を努めた小笠原政登の
日日の記録、『吉宗公一代記』
そこには引退して西の丸にいた大御所吉宗が中風に倒れ、リハビリに励んだ
様子が記載され、
宗武の件も穏便に済まし、大御所の耳には入れないよう老中と申し合わせた
とあります
更に宗武がかつて小笠原に語ったこととして
病弱な兄家重では心もとないから、三家や前田重煕を毎度登城させて、老中と
相談で政務を執るべきだ
更には
あるいは自分や一橋がその役を仰せ付けられてもいい
と、野心満々の相談をもちかけられたとしています。

氏家さんの述べていることは以上です

これが事実なら、宗武の謹慎処分の理由は公にできないものの、やはり将軍批判
であり、その決定を下したのは将軍あるいは本丸首脳であることになります

また『公伝』によれば吉宗は延享3年(1746)に中風で倒れ、翌年までは寝たきり
であったとありますから、重昌の件も(事後報告はされたでしょうが)、吉宗
のあずかり知らぬところ、となります

しかしながら乗邑の罷免時はまだ病に倒れてはいないのですから、やはり定説通り
吉宗の意思であり、罷免の理由も、これまた定説の通り、宗武将軍擁立というのは
俗説で(両者の処分のタイムラグがある)、
行き詰った改革の責を負わせた、人心の一新を図った、というところでしょう
927923:2008/06/22(日) 00:54:49
>>923
すみません
氏家さんの本にはその件について「覚了院実録」にどう記載されているのか
(あるいはいないのか)はまったく触れておりません
こんど辻さんの論文を読んでみます
928日本@名無史さん:2008/06/22(日) 01:22:54
>>926
やはりね。政治は冷徹なもんなんだよなあ。
大御所時代の吉宗が急に影が薄くなったことを前から疑問に思ってた。

吉宗の将軍就任から世子決定まで9年も待たされた挙げ句、
小菅御殿への幽閉説まででるぐらい、弟たちに地位を脅かされ続けた家重と
田沼らその側近たちの鬱屈した思い・・・さもありなん、と思うな。

ただ、乗邑の失脚については、どうかな?
逡巡の果てとはいえ、家重の治世の劈頭に、後顧の憂いを断つために、
吉宗が「泣いて馬謖を斬る」思いで、乗邑を罷免したと見ることもできるんじゃあ。
改革の行き詰まりは、むしろ勝手方老中水野忠之や神尾春央の主導によるもので、
神尾はその後も勘定奉行に居座っている。
そもそも批判へシッポ切りいっても、吉宗の改革の批判勢力は、すでに元文4年に
尾張宗春を粛清して以降、取るに足らなくっていよう。
929923:2008/06/22(日) 01:28:05
そうか、神尾を忘れていました(水野もだけど)
うっかり
彼のセリフとされる「百勝とゴマの油は云々」は
アントワネットのセリフとされる(実際は違う)「パンが無ければお菓子を食べれば
いいじゃない」
とともに当時の支配階級の意識を象徴するものとして、僕のお気に入りなのですが
忘れていた自分が悔しい
930日本@名無史さん:2008/06/22(日) 08:28:43
まあ象徴と言っても、両方ともデフォルメされた
意識なのですが
共に傑作な台詞と思います
931日本@名無史さん:2008/06/22(日) 20:43:02
>>4
932日本@名無史さん:2008/06/22(日) 20:56:31
待ちきれずに二代目スレを立ててしまったが
>>920氏がレス番踏む数を指定していたのだな
931で立ててしまった...スマソm(__)m
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1214135631/
933日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:35:45
吉宗は将軍となった後に継室を迎えなかったけど、
天英院や月光院に遠慮してのことかな?
934日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:45:48
後世の時代劇や漫談ネタを作るため。
935日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:09:17
単に気ままにしたかっただけでしょう
なにせ幕府をしょって、八面六臂の働きをしているわけですからね
今更気を使う正妻など持ちたくも無かったでしょう

天英院や月光院に遠慮していたなら、逆に正妻を迎えたと思いますよ
御台所のいない大奥は寂しいものですからね
936878:2008/06/22(日) 22:18:13
>>926
へぇぇぇ。
これがほんとなら>>878の仮説は夏の雪だるまのように崩壊するなあ。

つーか家重・家治政権(安全運転)や田沼意次のキャラ(気配りと調整の政治家)
に対する一般的なイメージもだいぶ変わってしまうと思われ。

別に漏れもこのあたりの政治史を専門に研究しているわけではないので
気安く>>878を書いてしまったんだけど、こんなに真面目な議論になって
勉強になりました。



937日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:32:18
>>935
男子をすでに二人得ている以上
いざこざのもとになりそうな正室の子が生まれたら困るからじゃね?
938日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:25:30
age
939日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:44:17
家重を寺に放り込んで宗武を将軍にしようと考えなかったのだろうか?
940日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:16:26
>>939
悪しき前例になってしまいます
941日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:12:43
大切なのは将軍個人の資質よりも、多少のことでは揺らがないシステムで
能力本位で選んでしまうと、禍根を残してしまう
家康が家光を三代に指定したのと同じ理屈です

これは形を変えて現代にも通じることです
君主制より民主制というのがそうですね
少数の個人の資質に左右される不安定な体制よりも、傑出した存在がなくても
機能麻痺を起こさない体制の方が平和時にはよいのです
942日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:16:14
田中芳樹の『銀英伝』は、それを承知であえてその逆を描いていますよね
でも作者の(思想的)分身といえるヤンという人物に、繰り返し語らせて
います
有能な君主が治める体制と
衆愚と化した共和制と、どちらがよいか

田中さんが語らずとも、古代ギリシアから繰り返し論じられたことですけれど
943日本@名無史さん:2008/06/23(月) 01:24:12
ちなみに家重は病弱であったのであって、無能であったわけじゃないぞ
944日本@名無史さん:2008/06/23(月) 11:31:01
何喋ってるかわからない時点で問題外だろ
945日本@名無史さん:2008/06/23(月) 11:58:55
余談だが
独裁を発明しておきながら採用しなかったギリシアは
独裁を輸入採用したローマ帝国に合併されてしまったんだよな
やっぱり優れた指導者がいれば、効率的な組織は強いんだよな

日本でも織田信長の機能的な政権に
他の地域の衆愚政権はまったく歯が立たなかったものな
946日本@名無史さん:2008/06/23(月) 12:34:03
問題外なら早い段階ではずされてますよ
現に彼が将軍になっても、幕政は滞ることはありませんでした
大岡の専横を示すものもないし
947日本@名無史さん:2008/06/23(月) 18:41:47
大岡忠光は吉宗の次男吉晴を暗殺し、配下の椎名組を駆使して政敵を排除している
948日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:54:18
>>947
そりゃテレビドラマの話だろ!
ここは難民板ではない、知らない人を惑わす書き込みはやめてね

大岡忠光は、このドラマでもわかるように、その気になれば
絶大な権力を行使できるポジションにいながら、何もしなかった
酒井忠清や田沼意次(かれらも娯楽時代劇のような悪漢では決してないのだが)とは
異なるキャラクタだ
949日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:56:12
だいたい吉宗の「吉」は綱吉からの偏諱であり、長男の家重が生まれた時点で綱吉は死去している。
息子に「吉晴」などという諱を与えることはありえない。
950日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:57:16
準親藩ってのはどこまで実際に扱いとしてあったのだろう?

ただの自慢としての表現であったかも知れないし
951日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:00:15
宗家の藩屏となるべくして創設されたのに、平時はおろか、有事まで反抗&日和見った親藩ども。

あの世で会津中将に土下座しろ。
952日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:09:43
「三代すぎれば別の家」
953日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:20:15
尾の慶勝、越の春嶽は慶喜や容保助命の為、また徳川の社稷を守る為
紛身の働きをしたことを知らないか
954日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:26:53
準親藩の定義って何?将軍家と婚姻関係を結ぶだけでいいなら、浅野家も準親藩になるけど。
955日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:32:49
>>954

・称松平&葵紋
・将軍家との婚姻

この二つをクリアしているところは準親藩と一応見られているみたいですね。
956日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:53:54
江戸時代の大名は、将軍家との親疎を基準に厳格
厳格付けがなされましたからね
松平の称を与えて、擬似的血縁に組み込む、これ
は秀吉もやったことなんです(この場合羽柴を与えた)
現代でも権力者の姻戚になると、やたら権勢を振
るう人がいるくらいです
ましてや血統が今より数段重かった前近代では
松平を与えられることは非常な名誉とされました
本当は松平より由緒ある氏を持つ者にとっては、
その心中複雑であったでしようけれども
家ではなく個人的に与えられるケースもあり、柳
沢吉保などもそうです
957日本@名無史さん:2008/06/23(月) 20:56:25
江戸時代の準親藩は、豊臣の羽柴性よりは上だと思うが
どうなんだろう?
958日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:01:57
秀吉もやったというより
秀吉がやったから有効性を家康が認めて取り入れたんだろう
959日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:04:03
そういう意味で書いたつもりです
960日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:10:54
秀吉のはあくまで擬似的なものだったが
徳川のは実際の婚礼を重視している感はある。

池田・前田あたりは何重も婚姻関係を結んでいるし
961日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:18:58
江戸時代の準親藩の場合は将軍家との婚姻関係が必要だが、豊臣の羽柴姓はそうでもない。
秀吉には娘もいないし、親族も少ないから仕方ないけど。
962日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:20:06
秀吉の場合は短期政権だったし、
婚姻しようにも手持ちの駒も少なかったしね
松平だって、最初は(上にも書いてある通り)、有難迷惑だったでしょうよ
ただ徳川は長期政権になったから、それゆえの重みが加わったんですね

家紋を与えるのも、偏諱を与えるのも、いずれも擬似的血縁に取り込むもので
あり、家康が今川からの独立にあたって、それまでの元康を捨てたのは、それ
を顕著にあらわしていますね
963日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:23:19
親藩、譜代、外様といっても、厳格な区別があったわけでなく、「準親藩」と
いうものも含め、大まかな概念としてあったわけです
研究者によっても違ってくる
厳密な意味での「准家門」というのは、家康の異母弟たちの久松家でしょうね
964日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:24:36
つまり織田と津田、今川と品川みたいなものなの?
965日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:25:47
松平と徳川の二段構えってのはあれうまい手だったな
966日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:31:11
柳沢は吉保個人ではなく、嫡男吉里はもとより、その弟たちの家にも
松平姓を与えられ、以後続いていますよ。
967日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:34:46
>>966
すみません、言葉が足りませんでした
家柄に対して与えられたのではなく、個人の功績に報いる形で与えた
といういみです
968日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:40:35
ああそういや今川って当主限定苗字だっけな
あっこから思いついたのかな家康
969日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:44:48
柳沢、一介の中堅家臣から準親藩諸侯に出世って
江戸時代最大の出世ですな。
970日本@名無史さん:2008/06/23(月) 21:47:40
柳沢の場合は綱吉の特別な恩寵ですな
普通は国持ち(並み)の外様大名に与えました
他の方の仰るとおり、秀吉を真似たもので、中には細川忠興のように、羽柴の
称は受けながら、松平は固辞した例もあります
まあ、細川の方が羽柴や松平より歴史がありますけどね

織田―津田、今川―品川の指摘は興味深いです
他の戦国大名でもあったのでしょうか?
971日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:44:20
藤原氏も不比等以外の子は中臣姓だったって聞いたことある。
972日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:44:35
同じく側用人の間部家は一瞬で没落したね。
柳沢家はその分有能だったんだろう
973日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:48:49
エビの串カツだって一代で没落したけど
あれはあれでそいつだけの苗字もらったんだよな
974日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:54:02
足利将軍の庶子は分家を作れずに殆どが出家させられたな。
一応、鎌倉公方や堀越公方が分家と言えなくもないが、将軍家のスペアには決してなりえない。
975日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:08:30
スペアってより敵対勢力
976日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:13:55
エビの串カツって誰?
977日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:17:36
>974
本家を継いで当主になった人が追放された後を、堀越から継いでるけどね。
978日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:23:57
恵美押勝
979日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:24:30
この時代は総領制が崩壊して、庶子の対立が目立った
庶子が独立して力を持つのを防ぐために出家させたりもした
(同時に宗門対策にもなった)
幕府(義満や義教)なども守護大名の相続争いに積極的に介入して、その勢力
を弱めた
だから戦乱もたえなかったんだよね
北条氏康や信長、秀吉、家康など戦国大名は自分の生きている間に家督を譲った
けれど、やはり前時代の轍を踏まないためだろうね
そして家康や吉宗が長幼の順にこだわった相続にしたのも
(上の方にも書いてあるけれど)
それが無駄な争いを避けたという点でその時代で一番適していたからだろうね
980日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:26:21
>>978
ありがとん
逆の例は別部穢麻呂だね
981日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:38:54
別部穢麻呂って誰?
ああ、清麻呂かあ
てか、時代がどんどん離れてゆくんだが
982日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:41:24
藤堂は準譜代になれても準親藩にはなれなかったんだね。
大大名でも格の差か?
983日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:49:25
山内も偏諱もらえなくなったのも格の差かな…
984日本@名無史さん:2008/06/23(月) 23:51:34
準親藩と呼ばれる大名は江戸幕府開府以前から大大名だった
一方で藤堂と山内は江戸幕府によって大大名にしてもらった所

格の違いが出てくるのは自明かと
985日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:10:13
御両典は、三家、駿河家より三卿に性質が近い
綱重綱吉は甲府館林の城主になったけれど、その領分に行くことも無く、
はじめは江戸城内に居住し、明暦大火後に綱重は桜田、綱吉は神田に屋敷を賜
り、徳川を名乗った
藩の組織とか家臣団もそれほど大規模でなく、ゆえに宗家を継いだ時に吸収さ
れてしまった(吸収することができた)
結局1、2代で途絶えてしまったけれど、この形でそのまま続いていたら、三
家ではなく、三卿に近い存在であり、形態である
986日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:12:55
一応領地で家臣団が徴税くらいはして江戸の綱吉の生活費見ていたんじゃないの?
987日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:43:35
そうなんだけれど、三家の初期、藩主が家康の膝元にいて、家老らが藩の組織を
整えながら統治していたのとは大きく異なるんです
これはそれぞれの家の成立が江戸初期と中期、という違いにもよるのでしょうが、
両典の場合、領地は「お手当て」というイメージが強いのでは
彼らは自分の領地経営に力を尽くしてはいないのですし

同じようなことが頼方(吉宗)にも言えまして、彼は直接領地に赴いて統治した
わけではない。彼の領地は本藩の出先機関みたいなものだった
家臣たちも少なく、そしてココが重要なのだけれど、本藩から分離したのが
つい先ごろだったから、元に戻るのもたやすかった
これは両典の家臣にも言えることですね

その点通春(宗春)が継いだ大久保松平家は、
奥州梁川藩として三代五十年の積み重ねがあったにも関わらず、消滅してしま
った(尾張藩から分立した領土ではないので、収公)
それは一つに適当な後継者がいなかったからですね
当時の尾張には適した成人男子があまり残っていなかったのです
988日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:19:09
本来は分家であるはずの忠雄系池田氏が、準親藩になったために、
本家の利隆系の石高を上回り、分裂状態になってしまったり
準親藩というのもいいことばかりではない。
989日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:05:39
播磨、備前、淡路89万石だった池田氏が備前32万石、因幡34万石に分封されたが差の約20万石はどうなったの?
990日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:08:33
別家取立てなんていう大名家の勢力を分散させるための方便にひっかかるほうが悪い罠
991日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:15:41
ひっかからなければ池田家が無事に続いたかどうか微妙だし・・・
二家が大大名として生き残れたんだから立派なもんじゃないか。
992日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:17:32
>>989
岡山から分知された10万石近くは無嗣やら発狂で改易されて消えてたはず
993日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:25:44
>>988
それは逆だと思う
外様で播磨の80万石余を幕府がそのままにしておく訳が無い
家康の女婿であったから、次男(忠継、忠雄は兄忠継の養子になり、淡路6万石から
格上げ)にも長男(利隆40万石)に匹敵する領土を分割された
そうでなければ、あの要地にでんと構えられていて、目ざわりこの上ない外様だ
利隆以下はもっと低く抑えられていただろう(差分は収公)
光政も千姫の女婿ということで、何万両もの借金をちゃらにしてもらっている
し、鳥取から岡山に移っている
時の将軍の親疎によって、浮かんだり沈んだりしているが、いい目にはあっている

>>898
まず利隆に淡路42万石、その子光政が鳥取32万石になり、10万石は収公
これは光政が幼少であったことと、播磨が要地であったためでしょう
忠継が38万石、これを忠雄が継いでいるが、光仲の代に、やはり幼少である
ということで、(また光政が千姫の女婿であるため)、光政と国を入れ替え
忠雄ははじめ淡路6万石だったが、兄の後を継いだ
4男以下にも所領が分割相続された
994日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:34:05
そもそも80万石のうち、岡山と淡路は家康の孫の新規取立て分
で、別家でなければ貰えていないのでは?
995日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:47:45
池田輝政 播磨姫路 52万石
次男 池田忠継 備前国岡山 28万石
三男 池田忠雄 淡路国洲本 6万石
弟 池田長吉 因幡国鳥取 6万石
で計92万石だった。

播磨姫路藩は輝政の跡を利隆が継ぐ際に、忠継の死後岡山藩を継ぐ忠雄に
播磨国内西部の10万石を譲り42万石。さらに1617年、利隆が死ぬと、
嫡男の光政が幼かったため幼君には要衝姫路を任せられないという理由で
鳥取藩32万石5千石に転封。さらに1632年に今度は光正が鳥取から岡山に
31万5千石で転封。

岡山藩は28万石から38万石に加増されていたけど、忠継の死後に
輝澄、政綱、輝興らに分与して忠雄が31万5千石で継ぐ。
忠雄の死後に光仲が継ぐけど、光仲が幼いという理由で前述のように
鳥取に光正と入れ替わりで鳥取32万5千石で転封。

そして分与されて成立した赤穂藩、山崎藩などは2代もしないうちに廃藩。

淡路国洲本藩は前述のように忠継の死後に忠雄が岡山に転じたので廃藩。
その後、淡路は徳島藩領になる。

池田長吉の鳥取藩6万石は池田長幸に継がれ、6万5000石で備中松山に転封。
さらにその子の池田長常の代で断絶。

分与しまくって成立した支藩が廃藩になりまくったせいで、一族が92万石を
収めていたのがいつのまにやら30万石ほど目減りしてしまった。
996日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:18:03
細川忠興は羽柴は受けて松平は固辞したと誰か書
いてたけど、その後の細川家もそうなの?
997日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:46:27
>972

しかし、柳沢家は下手に格が上がってしまったために
その後幕政には参与できていない。

一方、間部家は老中を幕末に出している。

ちなみに田沼家は若年寄を出している。
998日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:49:18
>966

分家(黒川、三日市)の松平姓は一代限りだ。

三日市は二代続いているけど、それは初代時睦と二代保経が
いずれも吉保の息子だったから。
999日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:51:40
>>996
松平は受けていないはず。
1000日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:57:33
いやあ良スレだったよ
荒らしもなかったし
次スレにも期待だな
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。