邪馬台国はどこだ・小城甘木説

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379サガミハラハラ:2009/02/10(火) 21:06:06
その件初耳です。よろしくご教授ください。
380日本@名無史さん:2009/02/11(水) 12:44:48
>>379
佐波氏 で調べればいろいろと出てきますが。
381サガミハラハラ:2009/04/17(金) 07:30:05
周尺1里67.5mで伊都国の位置を検討しているのであるが、唐津から東南500里の多久市中小路には該当するような遺跡がない。
田に本茂氏によると、周ヒ算経を研究して周里76〜77mを出したというが、これだと多久盆地の巨大遺跡である
牟田部遺跡になるのであるがどうであろう。検討してみる価値がありそうである。
382日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:12:05
>>374
おまえ、そんなのも知らなくてよくも参加してるな。
383サガミハラハラ:2009/05/19(火) 20:21:50
さる5月17日に宇佐神宮で開かれた「第5回全日本邪馬台国論争大会」ですが、参加されたかたおられましたら
様子を教えてください。できましたら詳しくお願いします。
384日本@名無史さん:2009/06/02(火) 11:43:43
385日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:33:07
× 田に本茂氏

○ 谷本茂氏
386サガミハラハラ:2009/06/14(日) 13:26:35
夏が来ると思い出す。
抜けるように青い空、強い日差しの中、一面の青田の中に
それはあった。
農道にはまるでしきつめたように弥生土器が散乱していた。ここには巨大遺跡が存在したのだ。

私が邪馬台国の都の一端にたっしたのは平成12年の8月12日のことであった。
今年もまたあの暑い夏の日が来る。
387サガミハラハラ:2009/06/14(日) 13:28:54
上記の平成12年は平成3年の間違いです。
失礼いたしました。
388日本@名無史さん:2009/07/12(日) 23:28:33
こんなの見つけたhttp://www.catv296.ne.jp/~sensyo/yamataikoku-yasumotosetu.htm
参考になるぞ
389サガミハラハラ:2009/07/13(月) 07:28:34
安本先生は、甘木・朝倉説と称しているが、朝倉市甘木であるから朝倉甘木とするのがよいとおもうのであるが。
私の説は小城市甘木であるから、小城甘木説と称しているのであるが。
どちらにしろ、邪馬台国の都は天城という地名のところにありそうですね。倭人伝の旁国も含めて、
九州では王の住むところを甘木(アマは天子のことキはおられる所の意)といっていたようです。
390サガミハラハラ:2009/10/14(水) 23:41:42
11月8日 九周国立博物館開館4周年記念特別展でアマチュアの発表会(邪馬台国の)があるらしい。
またつまんないところが邪馬台国だと篤くかたるんだろうな。
もう決着がでているというのに。
しかも邪馬台国小城甘木説を知っている人が二人もでるようだ。どこを邪馬台国と主張する気だろう。
391日本@名無史さん:2009/11/14(土) 07:16:25
あっそう
392日本@名無史さん:2009/11/15(日) 18:38:06
九州説って九州でしか発表の場が無いのかなwww
393日本@名無史さん:2009/11/15(日) 18:58:46
俺は佐賀だけど位置的に小城が邪馬台国はありえないと思う。
394日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:07:00
邪馬台国「四国・徳島」説
http://www.youtube.com/watch?v=O3fHE7Kn4Qc
395日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:18:30
>>392はいそうです。他は纏向邪馬台国一色です。
396日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:53:41
文献中心の小城甘木説、考古中心の纏向説の2極化となっています。
しかし、纏向の方は大型建物とはいっても、邪馬台国とか卑弥呼とかをあらわすものはなにもないですね。
397日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:28:51
>>395
それは事実誤認。
四国説も有力だよ。
398日本@名無史さん:2009/12/26(土) 18:26:52
まあ、見てると、無罪がわかりきった事件を先輩の面子を保つために、
証拠を捏造までする検察、警察と同じように見えるw

80年前ぐらいだったのか、出土が乏しく、分析科学も未発達だった当時、
直木とか言う京大の先生が三角縁・・・説を出しちゃった(w)

直木の弟子が直木を守り、直木の弟子の弟子はその師を守る・・・
うそにうそを重ねて
これが80年近くくりかえされてきた

考古学教室は京大にしかない
大手新聞の記者も含めて日本の考古学関係のポストは
全て京大の考古学教室が握っている
「茶色の巨塔」とでもいうべきか

考古学教室が東大にもなかったのが日本の不幸をもたらした
東大も、昔、法医学教室が同じワルさをしたが
京大考古学教室、厚生省、検察、東大法医学教室・・官僚という意味で何の変わりはありはしない

まあ、当分は、このまま世の中をだまし続け、
あと何10年たってホトボリがさめるころ
九州説がいつのまにか当然になってるんだろう

NHK教育なんかで、今やっと昔の三鷹事件の無罪の証拠が少しづつひっそりと語られ始めている

399日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:53:06
九州説論者は大嘘つきだという良い見本だな

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E5%AD%9D%E6%AC%A1%E9%83%8E
400日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:55:28
ついでにこっちも貼っておくか

ttp://www.l.u-tokyo.ac.jp/archaeology/
401日本@名無史さん:2009/12/31(木) 11:42:34
  
402日本@名無史さん:2010/01/09(土) 23:48:55
純度99・3%の象嵌太刀が造れる 先進国ヤマタイの技術? まさか魏王様のプレゼントだったとは

403日本@名無史さん:2010/01/10(日) 01:16:44
あけましてヤマタイ
404日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:13:50
純金もみけしサヨクあげ
405日本@名無史さん:2010/01/10(日) 18:38:59
【爆笑ニュース】 爆笑!小麦作、6000年前には、もうあった!(爆


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった
406銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:34:17
  【▲矛圏】
『魏志倭人伝(通称)』に記載は、明帝と司馬懿(→晋・中国南朝)が支持した、
(▲傍流)太伯後の、共立された女王・卑弥呼(物部系)の「邪馬壹(連合国)」
西暦247年3月24日の「日の入り時の日食」=【卑弥呼=壹与の死を揶揄】
⇒《筑紫平野・久留米高良山(天武が築いた、神籠石あり)》

西暦247年崩壊【西暦247年3月24日の日の入り時の日蝕(卑弥呼=壹与の死を揶揄)】
「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町》、東行百里の「不彌国」=【魏の城塞都市(木柵)・吉野ヶ里】
「其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。」=『魏志倭人伝(通称)』
 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
=【ガラス管と剣が副葬の「1002号墳」が卑弥呼(難升米)の墓・径百歩】


  ▲卑弥呼の都・直接統治国「壹国(薩摩)★倭国は極南界」
http://photos.yahoo.co.jp/ph/zan23647/vwp?.dir=/761d&.dnm=ac0e.jpg&.src=ph&.view=t&.hires=t

407銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:35:14
【▲矛(→▲剣)圏・倭国(九州筑紫王朝)・物部氏】、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、一旦滅亡。
「日出處天子(南朝の後継を名乗った、泉蓋蘇文=天武)致書日没處天子(北朝・隋の煬帝)無恙〜」
「倭王・多利思比孤」=【『万葉集』の「軍王」、のちに、天武天皇】は、こちら側。
天武は、(復活)倭国王。

以下・卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都は、現鹿児島県姶良郡隼人町姫城。
  《加治木 義博説》を支持。
「55m/倭人里」を使用。

  七〇〇〇里 帯方郡治〜狗邪韓国
  一〇〇〇里 狗邪韓国〜対海国《対馬》
  一〇〇〇里 対海国〜一大国【壱岐・魏の直接支配地】
  一〇〇〇里 一大国〜末盧国《唐津湾界隈》
   五〇〇里 末盧国《唐津湾》(東南陸行)〜★伊都国(いづら)《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使常駐》
《計・万五百里》=「伊都国(いづら)」。
《不彌国、奴国、投馬(国)、卑弥呼の都などは、伊都国(牛津)からの★放射状説を採る》
  一五〇〇里 伊都国(牛津)〜水行十日《有明海を倭人が小舟で南下・「接女王国(女王国の国境)」の現八代市まで
《計・万二千里》……【八代市以北(「奴国・なら」の南・玉名市か熊本市以南)は、……
…… …… …… ……通行不可の、不仲の卑弥弓呼の狗奴国(旧奴国→百済)ゆえの「水行十日」】
   「余(国内)」……「接女王国(国境)」の八代市から球磨川沿いを遡り、山越えして南下、
        卑弥呼の直接統治国「壹国(薩摩)」の都、隼人町姫城までが「余=陸行一ヶ月」=倭人の歩み。
408銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:39:34
邪馬台国・【銀河秋彩説】

 【大倭(臺倭)国・九州近江(&)豊国王朝・蘇我系〔秋〕
=(臺倭=大倭国→日本国)大和朝廷】側

  【●鏡圏】
『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
 (●本流)季歴後の、臺与(=台与・蘇我系)の「邪馬臺(連合国)」
=【台与(→豊)国・大分県(&福岡県)】こちらが【のちの大和朝廷(いわゆる天皇家)】
西暦248年成立【西暦248年9月5日の、日の出時の日蝕(天照大神=台与→豊の出現を揶揄)】

  ●当時の臺与の邪馬臺国の都は、京都(みやこ)郡香春(河内王陵の辺り)
  ≒現京都郡みやこ町御所ケ谷(台与以後の、推古天皇代に神籠石を築く)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm

幻の邪馬台国」と言われる所以は、三国時代の魏の第3代皇帝・曹芳(斉王 芳の在位:239年 −254年)の
在位が短く、晋側の(邪馬壹→)倭国(山の井)に再び覇権が戻った為、邪馬台国の覇権も短かった。

以後東晋末期西晋265年司馬炎に朝貢する。
以降、「白村江(はくすきのえ)の戦い」が終わるまで、「邪馬壹」の後身・倭国側に覇権。
409銀河 秋彩:2010/02/01(月) 19:41:08
  【邪馬台国の後身・大和朝廷】

【鏡圏・イ妥国(臺国・九州台与(→豊)国&九州近江王朝)→大倭(臺倭)国・蘇我系】
『隋書』「イ妥国(臺国)伝」の、「小野妹子」=「蘇我卑弥呼」。
「小野妹子」は「蘇因高」=【蘇(我)の卑弥呼(「ピぃもこ」のピ音が欠落して「ぃもこ」)】
「東の天皇敬みて西の皇帝に白す、〜」・推古天皇(額田王・太田皇女=小野妹子)
こちらが、皇祖神が天照大(御)神=(天照近江神)の【大和朝廷】側。
九州近江王朝、斉明太上天皇の都は、不知火海(近江)の「御所ケ浦島」。
  大后(おほきさき)=【斉明太上天皇(安見児・鏡王女・吹黄刀自)】の御歌一首
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 〜(巻2・153)

  【(裏は)大倭国・九州近江(&豊国)王朝・蘇我大王家(秋)聖武天皇の勅撰史書】=『万葉集』より
☆ 大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
☆ 豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
☆ 岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
☆ 豊国の香春(かわら)は我家【(わぎへ)わが皇統家】
  紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771)
なお、『万葉集』の巻五には、【斉王 芳(魏の少帝、・中国北朝)】の、
☆「芳命を奉(うけたま)はらむ」、☆芳音(ほういん)、☆芳旨(ほうし)、☆芳藻(ほうそう)、
☆芳席(ほうせき)等々が記載されている。
これらの「芳〜」は、【(斉王)芳・魏の少帝(曹芳)・中国北朝】を下に曳いている。

曹芳(そう ほう、ピン音;Cao F?ng、232年 - 274年)は、字は蘭卿。
三国時代の魏の第3代皇帝(在位:239年 - 254年)で、通常は「斉王芳」と呼ばれる。
410河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/02/01(月) 21:16:08
ZANさん み〜つけた。
411サガミハラハラ:2010/05/07(金) 13:46:34
邪馬台国小城甘木説のレスです。
412日本@名無史さん:2010/05/07(金) 14:36:34
何で日野市に?下九沢のほうが税金安いでしょ。
413サガミハラハラ:2010/08/27(金) 16:48:53
>>412
なにね、いろいろありましてね。
ここが終の住みかとなりそうです。
414日本@名無史さん:2010/08/30(月) 00:48:21
日野市って年金を全く納めていない在日に
全額支給してるんだっけか
415サガミハラハラ:2010/08/30(月) 08:44:35
きたばかりでそのこと知りませんでした。
違法ならさっそく抗議したいと思いますので、抗議に行ったり訴訟になってもかてるだけの証拠情報を教えてください。
416コラム2:2010/08/30(月) 14:51:01
邪馬台国は宮崎平野にあったと思います。
魏志倭人伝が正しいとすれば、そうなります。一度にその理由を書き込めないので
ので、佐賀平野には伊都国があったと言うことから書き込みます。
伊都国は一般に「糸島」と言われていますが。間違っているとしか思えません
奴国も福岡市と言われていますが、これも間違っている事になります。
その理由@
一大国(壱岐)から末盧国(松浦)に着いて、更に末盧から東南へ陸を行く事500里
で伊都国に着くとなっています。
伊都国を糸島とすると、なぜ陸行で500里も歩かなければいけないのか?
一大国(壱岐)から船で直接、糸島にいけます。さらに一大国(壱岐)から博多湾に入れば
奴国(福岡市)にも行けます。なのにわざわざ陸行する必要があったのか?
これはやはり、魏志倭人伝を信じて末盧国(松浦)から東南に500里(1里=100メートル前後として)
いくと佐賀平野になります。
理由そのA
福岡の志賀島から「漢委奴国王印」が発見されました。後漢の時代のものですが。
時代は「魏」の前時代ですから国名は同じとしますと。
一般に「漢に親しむワ(倭)のナ(奴)の国王印」と読まれています。が
これは「漢に親しむ委奴(イドorイト)の国王印」と読むのではないでしょうか。
とすると、糸島〜福岡市あたりはイト国(委奴国)があったのではないでしょうか。
そして、倭国連合に属さない国と考えます。朝鮮系?狗邪韓国系?
伊都国を糸島にしたのは誤りで、糸島は委奴国(イドorイト)だったのではないでしょうか。
同じ読みかををする国は他にもあります。倭人伝にソナ国(姐奴国・蘇奴国)
理由そのB
日本書紀(第8巻仲哀天皇)には、伊覩県(イトノアガタ)についての記載があります。
AD400年頃、神功皇后が五十迹手(イソテ=人)の働きをほめて、その国を
伊蘇国(イソ国)と呼んだが、今は(日本書紀の発刊時720頃)誤って
伊覩と呼んでいる。・・・とあります。
その後756年〜768年にかけて糸志摩に怡土城(イト城)が中国式山城として
きずかれています。
よって、伊都国は今の糸島に比定してしまう事に疑問があります。
417コラム2:2010/08/30(月) 22:28:39
サガミハラハラさん何か言って。
勝手に先に進みます。甘木説について。
甘木付近は、魏志倭人伝に出てきます。「女王国より北の国は記載できる。」の中の
巴利国(ハリ)じゃないでしょうか?今の地名では「杷木」あたりではないでしょうか。
なお、甘木付近には大和郷(奈良)とよく似た地名が数多くあります。
また、地理的位置関係のよく似ています。
具体的には、甘木付近名(大和名)の順で似た地名をランダムに記載します。
筑前高田(大和高田)朝倉(朝倉)香山(天の香山)池田(池田)三井(三井)
鷹取山(高取山)笠置山(笠置山)御笠山(三笠山)長谷山(長谷山)山田(山田)
田原(田原)久留米(久米)玖珠(国樔)加美(賀美)雲堤(雲梯)三輪(三輪)
春日(春日)野方(額田)平群(平群)などなど。90箇所ほどあると言われています。
九州説だと甘木付近が邪馬台国だと言いたいくらいです。
しかし、魏志倭人伝に従うと地理的に合わなくなってしまします。
418コラム2:2010/08/30(月) 22:29:19
そこで、神武天皇の東征を「記紀」に読みます。
古事記=日向を出発し筑紫に行く。途中、豊国の宇佐により、その地より移りて
    筑紫の岡田宮に1年、それから安芸の国のたぎりの宮に7年、それから吉備の国の
    高島宮に8年。・・・となっている。
日本書紀=日向を出発し速吸の門(豊後水道?)筑紫国(?)の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。
     その次に安芸国の埃の宮に到る。それから吉備国の高嶋宮に到り3年暮らす。・・・とあります。

神武東征が有ったとすれば、東征の為の兵士を募ったと思います。邪馬台国より北の国21カ国。
投馬国、奴国(2度でてきますが)、伊都国、不弥国、一大卒。九州の軍勢を整えるの筑紫に滞在して。1年くらい
かかったのではないでしょうか。モチベーションを高め、連帯感を高め。意義深い滞在だったのではないでしょうか。
畿内に政権を樹立したときに、この筑紫滞在の人材を政治高官にしたはずです。権力中枢で畿内(大和)の
地名選定をするとき、その共通認識を筑紫時代(朝倉、甘木、杷木、久留米)に置いて、地名にしたのではないでしょうか?
勿論、想像に基ずくものです。
吉備、安芸も支配下にして(出雲の支配下には少してこずっています)畿内に東征したのだと思います。
畿内の方が人口も多く、今となれば文化遺産(3世紀後半〜4世紀前半)も多く。九州より都会(?)だったかも
しれません。しかし、戦は戦慣れした兵士(倭大乱)と武器によってするものです。3世紀後半〜4世紀前半の武器が九州で多く
畿内で少く発見される事実はどうしようもありません。
これは、明朝(漢民族が数億人)を清朝(満州にいた女真族60万人)が征服したことにも伺えます。
419サガミハラハラ:2010/08/30(月) 23:43:17
朝倉周辺の畿内と似た地名については、畿内の地名を九州の朝倉あたりに移植したものだと思います。
後世でも、地方豪族のなかには、京になぞらえて、地元の地名をつけたりということがよくみられます。
420コラム2:2010/08/31(火) 00:51:39
書き込み拝見。
畿内(大和郷)=奈良盆地は関西の航空地図を見ると良く分かりますが。
東西20km南北に30km程でしょうか?そして一国なのです。
その一国の地名が、九州ではもっと広範囲になります。
筑紫(杷木、甘木、朝倉、久留米)と特定しましたが。地名としてはこの範囲に
収まりません。
筑後川沿いの平野を見てみますと、東西30km南北35km程(佐賀平野は含まず)
あります。この範囲を一国の地方豪族が収めたとは言い難い。
伊都国から東南100里(約10km)で奴国。東へ100里で不弥国と100里を
隔てて国があることがわかります。
少なくとも、6国は考えられます。
あくまで、魏志倭人伝からですが。
躬臣国(クシ国)=玖珠。巴利国(ハリ)=杷木。不弥国=久留米。奴国=八女、柳川、大川あたり
支惟国(キイ)=基肄(きい)城付近(筑紫野市、大宰府)。鳥奴国(ウナ)=鳥栖市
これらの国から選定地名なのです。
421コラム2:2010/09/01(水) 20:08:32
神武東征の事は主旨と異なりますね。邪馬台国の比定に限定しましょう。
魏志倭人伝より、行程表を漢文のまま記載します。
@至倭循海岸水行歴韓国乍南東到其北岸狗邪韓国七千餘里
A始度一海千餘里至對馬国
B又南渡一海千餘里名日瀚海至一大国
C又渡一海千餘里至末盧国
D東南陸行五百里到伊都国
E東南至奴国百里
F東行至不弥国百里
G南至投馬国水行二十日
H南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月

畿内説は@〜Hを連続読み(方角がでたらめ、距離も疑問あり)
九州説は放射読みをしなければ、東シナ海上に出てしまいます。
放射読みの根拠は「到」と「至」の使い分けです。
狗邪韓国と伊都国に行くには、到るになっています。
422コラム2:2010/09/01(水) 20:10:10
そして、A〜Cまでは始度や又で文をつないでいます。D・・到伊都国
は「到」で締めくくる。連続読みで良いと思う。
E〜Hは始度や又で文をつないでない。
更に、Eを読むと。東南に奴国があるよ、100里かかるよ。
と言うふうになります。表現の仕方が@〜Dまでと異なる。
更に、E〜Gまでは、距離と戸数、長官と副官だけの情報になります。
伊都国に居る、帯方郡の常駐使者か一大率にでも聞けば分かるような
簡素な情報である。A〜Cでは草深いとか、良く潜るとか、田は少ない
など風俗が記載されている。E〜Gは行っていないと推測できる。
Hの邪馬台国になると、やたらと詳しくなります。特に、
「キョウ、橘、山椒、茗荷はあるが食べて美味しいのを知らない。」は、
行かないと分からない情報になっている。そもそも橘など冬が寒い
奈良盆地に自生していたか疑問。楠木もしかり。蛇足。
さらに蛇足。投馬国は薩摩半島にあった国。蘇の付く国が3箇所出てきますが、阿蘇山の麓の国と思っています。すると桜島や阿蘇をみて
珍しいから、火を噴く山があるとか記載するでしょう。
行程としては伊都国から邪馬台国に直行している。E〜Gは国々ありを
放射的に説明しているだけ。クライマックスは邪馬台国だが。
そもそも魏志倭人伝の正式な呼称は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」で
ある。「魏国の本で、国より東にある夷な所の(儒教に組しない野蛮な、
朝鮮も含む所の)倭人編」と言う程の意味。倭の紀行編であり、
邪馬台国の紹介編じゃない。倭・倭人と表記しても倭国とは一度
も表記されていない。30国が朝見にくる倭人が住む所の総称が
倭である。曹操の後の皇帝にヒネモス暇話として語った事であろう。
詳細は邪馬台国の風俗に(これは現代でも面白い紀行文ですね。)
なんとも、わが国は文字も知らず、草深い鄙なる島国だったことか。
三度、蛇足。
423コラム2:2010/09/01(水) 21:53:25
伊都国からそれぞれ放射読みすると。

●伊都国 ➝ 東行100里 ●不弥国(久留米ro朝倉夜須町あたり)
↓   ↘ 東南行100里 ●奴国(八女 柳川 大川 筑後あたり)

南へ水行10日(後で述べますが、熊本平野を遠ざけて沖乗りした。)
↓     (島原半島から天草諸島を手漕ぎの舟でどんぶらこっと)        
(八代or水俣or出水か?)
↓  ↘
↓  陸行一ヶ月(末盧国で言う「草木多く前行く人も見えない」獣道
↓    ↘   を霧島山系(えびの高原=標高1200m)を縫う
↓     ↘  ようにして。)
↓      ●邪馬台国(宮崎平野のどこかに) 

南へ水行10日
●投馬国(薩摩半島のどこかに)

ここで、伊都国の情報を記載します。
千戸余りが住んでいて、代々王がいるが、皆女王国に統属しいている。
魏の地方官で帯方郡(今のソウル付近)の使者が常駐している所
女王に属する国々を検察するために、常に一大率をおいて統率している。
諸国はこれを畏れている。
一大率は女王が魏都や帯方郡、諸韓国へ見朝に使わす時
帯方郡の使者が倭を訪問した時、大勢で港に出迎え文書や
贈り物を調べて届けさせる。
424コラム2:2010/09/04(土) 00:55:15
相模原腹さんへ。
邪馬台国を宮崎と比定して、小城甘木説を否定しょうと思ったのですが、
あまりのも狭義過ぎてあほくさくなりました。
もう少し、大らに読めませんか。
あきらかに距離の表示はいい加減ですよ。狗邪韓国から対馬、壱岐末廬を全て
1000余里で終わらせる倭条ですよ。あきらかに違うと言うことぐらい
どんなに素人でも解ることです。
狗邪韓国をどこだと比定しているのか?北岸をどう処理しているのか?
北岸でしょう。巨済島(朝鮮国)とか馬韓海峡(下関)とか言ってほしかった。
せめて「『三国志』魏書東夷伝・韓伝」も読んでほしかった。
尺度はどうでもいいのです。里=68mでも、67.5mでも4kでも。
参考までに、「『三国志』魏書東夷伝・韓伝」から韓国を説明した文章を紹介
して、このスレから撤退します。
韓国は帯方郡の南にあって、東西は海に限られ、南は倭と接し。その広さは
縦横4000余里とありますよ。対馬の船越は舟を担いで渡ったので船越。
古文をもう少し読み込んでくれ。記紀もふくめて。
神武なんて、BC600年の人とされて居る。時代が合うはずがない。
考古学は想像力。畿内説のように地面を掘りくりかえして、親魏倭王印でも
探せばええねん。そんなもん持ち運べるやろ。魏が滅んだときに価値が無くなる。
本当に価値があるのは、
邪馬台国の使者(率善中郎将)がもらった印綬に価値があるんちゃいまっか?
さよなら。
425日本@名無史さん:2010/09/04(土) 01:44:24
八代に国が明記されてないってちょっと考えられんな
426日本@名無史さん:2010/09/04(土) 06:34:36
神武東征にこだわる奴ほど、神武東征がなんなのか理解していない。
神武東征にあたって、ワカミケヌ(神武天皇)の大義名分が何なのか?
それを理解しないといけない。
かれは、私の先祖は、大阪湾からみて東の
葛城地方(高天地方)にあると告白している。
427日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:59:34
神武東征は植民の歴史
葦原中つ国平定ののち、しばらくの平和が訪れ、増えすぎた人口が北九州から
東へ流入しはじめた。神武の家系はまず南九州へ移住し、熊襲と交わったのちに
ヤマト(山門)へ移住したため、天孫降臨と神武東征を区別して描いている。
植民としては後期に当たり、初期植民者と入植について争った。

428日本@名無史さん
>あきらかに距離の表示はいい加減ですよ。狗邪韓国から対馬、壱岐末廬を全て
>1000余里で終わらせる倭条ですよ。あきらかに違うと言うことぐらい
>どんなに素人でも解ることです。
何を言いたいのか、はっきりせんな。何が明らかに違うというんだ?