1 :
サガミハラハラ:
畿内説九州説、他にも数多くの説が飛び交いながら決定的な候補地が定まらず次第に下火になっていきそうな邪馬台国論争であるが、
ここに最有力ながら一向に 受け入れられない候補地がある。
それがこの小城甘木説である。
ここでこの説が有力な節なのかトンデモ説なのか徹底して
論じようではないか。
2get!
3 :
改め:2008/04/11(金) 20:46:33
>>1 乙!
さてさて、楽しみです♪
邪馬台国=小城甘木説、いかなるものか!
拝見させて頂きます。
4 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:47:12
5 :
サガミハラハラ:2008/04/12(土) 08:13:33
ここでは帯方郡から邪馬台国まで、行程に沿って説明をいたします。
「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し」
郡とは帯方郡の郡庁のあるところ、ソウル近郊(漢江南岸か?)とみてそこ
から陸路、港のある仁川へ、33.5kmである。
仁川から船で南下、錦江河口の郡山に上陸、水行は210.4kmである。
「韓国を歴て、乍は南し、乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」
韓国内を南へ行き、そして東へ行く。そして倭の北岸である狗邪韓国に到る。狗邪韓国の位置についてであるが、
この場合出港地という意味でとらえた。
所は固城(コソン)である。つまりわたしは韓国内陸行説をとる。郡山から南東の参礼まで34.5km、参礼
から南下して求礼まで113.5km、求礼から東へ河東まで33.7km、河東から東へ泗川まで49.3km、
泗川から東へ固城へ28,7km。郡山から固城まで259.7kmとなる。
帯方郡治から固城まで半島部は合計503.6kmとなる。
6 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 08:45:28
邪馬台国論争はもういいよ…。
だいたい、真実はわかってるよ…。
北九州にあった邪馬台国が大和盆地に東遷した、
おそらくこれでビンゴだよ…。
吸収王朝説とか、奇説はもうごめんだよ。
7 :
唐松山:2008/04/12(土) 13:13:00
火燎肥前國風土記 小城郡
昔者,此村有土蜘蛛,造堡隱之,不從皇命.日本武尊,巡幸之日,皆悉誅之.因號-小城郡.
松浦郡.
賀周里.在郡西北昔者,此里有土蜘蛛,名曰-海松橿媛.
纏向日代宮御宇天皇景行.巡國之時,遣陪從大屋田子,日下部君等祖也.誅滅.
時霞四含,不見物色.因曰-霞里.今謂-賀周里,霞,此云かすみ.賀周,此云かす.訛之也.
松浦から小城郡にかけて 景行の時代 叛いています、
この辺の 整合性は?
後は サガミさんの編年をどう暦として読めるようにするか? です。
8 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 15:36:15
長崎県人の盲目のおじさんが、今の西鉄が走ってるあたりは運河で、邪馬台国は長崎(島原あたり?)にあったっていう説を支持します。
9 :
サガミハラハラ:2008/04/12(土) 23:15:19
続いて海峡部であるが、各間が1000余里と一定であるが、地図でみるととても一定とはみえない。しかも
間にある対馬島はざっと1000里ぐらいあるのである。が、今までは皆さん気にせずすんなりと横断しているようである。
考えてみると、金海から対馬北端の鰐浦まで1000余里、ついで厳原から勝本まで1000余里、そして石田から唐津まで1000余里
合計3000余里という計算が成り立つ。つまり海峡部は3000余里である、というわけである。
これで間違いないと納得するかたは杜撰なかたである。
これでは鰐浦から厳原までと勝本から石田までの距離がぬけているです。それらを加えたら4000余里となる。
ところで、倭人伝には総里数は万二千余里と明記されているのであるが、行路記事の距離を全て加えると1万500から一万600里となり
1400から1500里たりなくなる。従来悩みの種であったのはこの1500里であった。
これはフミ国移行の日数に必要な距離であると解釈されてきたが、たかが1500里に水行20日+水行10日陸行1月ではかかりすぎである。
10 :
サガミハラハラ:2008/04/13(日) 10:26:39
小城説での出港地は固城である。金海が出港地とされているが対馬に渡るのにわざわざ金海までいく必要はない。
狗邪韓国の都との説もあるが、なんらの根拠がない。豊富な遺跡があるだけである。
元寇のときは馬山を中心に出港している。
しかし固城から対馬小茂田浜まではざっと2千里はある。距離がありすぎるという弱点があった。
ところが倭人伝では次のようにある。
「始めて一海をわたる千余里、対海国に至る。」
始めてとあるが、既に水行したところがあったはずである。小城説では仁川から群山まで、従来説でもソウルから金海まで海を航行してきたはずである。
しかるに、始めてという語を使ったのは、沿岸航行ではなく本格的な渡海であることをさす。
それでは、本格的渡海とはどこからを指しているのであろうか。
固城は湾奥にあり、出港してからしばらくは内海を航行する。そうして、湾内の島々を抜けて、外海に
のりだす地点は、固城から68km離れた鴻島である。
11 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 10:50:28
12 :
サガミハラハラ:2008/04/13(日) 16:47:20
ここから小茂田浜へ54.4kmであり、これが千余里である。
それでは、固城から鴻島までの68kmはどうなるのかというと、これは省略されているのである。
陳寿の著作はハイ松之によると、「叙述が簡略すぎて脱漏さえみられること、記事が錯綜してみ順が多いこと、
あきらかに誤っていて論理的記述があること」とのべている。(ウドンゲ花咲く邪馬台国 原田実 批評社)
となると不足の1400里は、省略等されているとみられるのである。この68kmが千余里であるから残りは400里である。
13 :
サガミハラハラ:2008/04/13(日) 17:16:32
次に倭人伝での1里は何mなのがを算出してみよう。
使うのは壱岐島と対馬南島である。壱岐島は方300里ばかりで17.1kmである。
対馬南島は方400余里で26.1kmである。
壱岐の17.1kmの3分の1を1とすると、対馬南島の26.1kmは4と少しということになり、壱岐対馬南島は3:4となり、比率が一致する。
但し壱岐は余がつかず可三百里となっていることから、300里には少したりないとみて、1里は60mぐらいとみてよいであろう。
14 :
サガミハラハラ:2008/04/13(日) 18:56:00
小茂田浜を出て南下し豆酸崎まで17.5kmで、1里60mとするとざっと291里となる。
豆酸崎から壱岐勝本まで55.4kmで千余里とある。
勝本から島の東北端の赤瀬鼻まで9.5kmで、ざっと160里である。
赤瀬鼻から西唐津八幡町まで49.1kmで千余里とある。
上陸地は西唐津八幡町川浪商会の前の浜である。東唐津は松浦川河口で風も吹きぬけ、港としては西唐津が適している。
現代でも唐津港といったら西唐津である。
ところで狗や韓国とマツロ国は官名がないが、これは両国の都が行路上にはなかったからである。
それを区別するために官名を記述しなかったのである。
マツロ国の都はもっと東の鑑山方面であったと思われる。
サガミさんがひたすら自演するスレはここですか?
16 :
サガミハラハラ:2008/04/13(日) 23:02:27
次に「草木茂盛し行くに前人を見ず(中略)東南陸行五百里にして、伊都国に到る。」とある。
東南方向に陸を行くとあるから、松浦川の川筋を東南にむかって進む。川の流域は葦や柳などの草木がおいしげり、前を歩く人がみえないくらいだという。
葦の生い茂った川原などに行ったことのある人はわかるであろうが、人の背丈以上の草丈でそれがしなだれかかるので、すぐ前を歩く人の姿が見えないことがある。
原生林を想定する人もいるようですが、原生林のなかは下まで光がとどかないため、羊歯等の背丈の低いくさや低木がまばらにはえているだけで、
意外と見通しがよい。
ここは記述どおり南東へ進むのでよい。
500里であるからざっと30kmである。到着地点は多久市南多久町下多久の延寿寺の北方である。(延寿寺と記述してきたが、その後の調査の結果都の中心はもう少し2〜300m北であるらしい。
延寿寺は都の環濠の南端のようである。)
17 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 00:03:28
過疎?
18 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 18:05:07
邪馬台国は大阪にあった
19 :
サガミハラハラ:2008/04/14(月) 19:13:40
次は奴国である。「東南至奴国百里}とある。
定説では奴はナと発音するとなっているが、それは間違いでトと発音するのが正しい。
奴(ト)は二種の意味があり、ひとつは戸の意味でもうひとつは国の意味である。狗奴国(クト国)
は狗の国となる。宇土半島の宇土が残存地名である。
この場合は奴国とは戸口の国となる。
多久市の伊都国の都から東南に6kmぐらいのところ、肥前山口の土元付近であろう。
奴国はここを拠点に西に勢力を広げ戸万の大国となった。
しかし、この奴国へは「行」字がないのでいかない。つまり行路上にないのである。
フミ国へは「東行至フミ国百里」である。「行」があるのでいきます。
多久から東へ6kmぐらいで小城市小城町不二町に到着する。
ここは現在は平野のまんなかであるが、五万分一の地図をみると大江等海や港にかんした地名が川に沿って
ならんでいる。昔はかなり内陸まで海が入り込んでいたらしい。
となると、この大江がフミの港であったのであろう。ここから南へ20日で投馬国にいたるという。
このフミ国までの里数を合計してみよう。
合計は11897里となり12000里まで残り103里となる。1里60mとすると7kmぐらいである。
20 :
サガミハラハラ:2008/04/14(月) 19:18:11
訂正、上記の合計は12051里となり、邪馬台国到着の里数となる。と訂正いたします。
21 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 19:28:51
22 :
サガミハラハラ:2008/04/14(月) 22:52:55
フミ国で1万2千余里が消化できるとすれば、邪馬台国はそのフミ国に接して存在することになる。
この説は30数年も前に当時の古代史界に新風を吹き込み、センセーションを巻き起こし一世を風靡した古田武彦氏が提唱したものである。
邪馬台国はフミ国に南接し、水行十日陸行一月は総日数であるとの解釈である。
私も彼と同意見である。
ここでもう一度倭人伝の1里が何mであるのか検討してみよう。
邪馬台国の都が小城市甘木であると確信してからもう一度里数を計算していくと、どうも1里は66〜68mで、68に
ちかい値であるとおもったが、それが何に由来するのか不明であった。
ところがこれは、周尺によるものであることがわかった。東京の高校の教師である福永晋三氏は、周代の諺である
「五十歩百歩」から
周代の1里は50歩であったとして、1里67.5mとの値をだした。
これは私の予想した1里は68mに少し足りないと合致するものであることから倭人伝には周尺がつかわれていると
結論づけられるのである。
半島は周の時代から箕子朝鮮の支配下にあり、以来周尺が使用されていたのである。
23 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 23:05:24
1万2千里を邪馬台国までの距離と解釈しているようでは無理でしょう。
24 :
サガミハラハラ:2008/04/15(火) 21:24:59
ここまでで、1里67.5mで里数を出してみよう。(余里は除く)(#は倭人伝では省略されている里数)
京城〜固城 7000里
固城〜鴻島 #1000里
鴻島〜小茂田浜 1000里
小茂田浜〜豆酸崎 #259里
豆酸崎〜勝本 1000里
勝本〜赤瀬鼻 # 140里
赤瀬鼻〜八幡町 1000里
八幡町から多久市下多久500里
多久市下多久〜不二町 100里
不二町〜小城甘木 #15里
合計 12014里
以上12000余里にぴたりと一致する。
25 :
サガミハラハラ:2008/04/15(火) 21:41:46
次にmによる距離をだしてみよう。
京城から固城までは503.6kmである。
固城から鴻島までは68.0kmである。
鴻島から小城甘木までは227.0kmである。
京城から小城甘木までの総キロ数は798.6kmである。
しかし、海峡間は全て1000里で記されているところから、各間は67.5kmとした。結果
総キロ数は842.2kmと修正される。
これを1里67.5mでわると12477里となり12000余里となる。
ちなみに京城固城間503.6kmを67.5で割ると7460里となり7000余里にあてはまる。
26 :
サガミハラハラ:2008/04/15(火) 21:46:47
訂正 24の「1里67.5mで里数を」は「省略されたと考える箇所の里数を1里67.5mでだして全体の里数を出してみると」と訂正します。
27 :
サガミハラハラ:2008/04/15(火) 22:31:49
九州上陸後の各国間の距離(m)はつぎのとおりである。
八幡町〜多久市南多久町下多久 33.3km
下多久〜肥前山口土元 6.8km
下多久〜不二町 6.8km
不二町〜甘木 1.0km
です。
28 :
サガミハラハラ:2008/04/16(水) 11:53:07
かくして小城甘木をもって12000余里が消化されるならば、次に記述される日数記事は別物であるとの結論にたっするものなのである。
今までは、ここで終わりにせず、さらに突き進もうというのが常識であった。
それは日数記事が距離記事の続きであるようによみとれること、つまり陳寿の記述があいまいであったことによる。
しかし日数記事には行程記事として難点がある。それはかなりの日数を進むのに到着地点寄港地が全く表示されていないことである。
となればこれは行程記事の総日数であるとよむべきなのであるが誰もみなさらにその先に進もうとしたのである。
そのために、おいおいといいたくなるような珍にして奇妙奇天烈な解釈がなされることとなった。
29 :
サガミハラハラ:2008/04/16(水) 13:00:27
それでは小城甘木の地に邪馬台国の都であったようなものがなにかあるのか?ということになる。
一つは地名の甘木である。甘木とは天子の住むところという意味である。
一つには倭人伝の記述どおりの丘がある。桜ケ岡と言い、高さ16m東西110歩(154m) 南北137歩(192m)
である。この丘は娑婆岡とよばれ、天正のころの古文書に「人骨が発見されたことからなづけられた」とある。
また大正時代に丘の上に記念碑をたてる工事の際多くの土器と鉄刀が発見されたという。
残念ながら岡は公園の敷地内となっており、神社やさまざまな記念碑や像がたてられております。
以上が邪馬台国小城甘木説の行程説明である。
30 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 18:51:02
ピタリ合いすぎるというのもおかしいじゃないですか。
まして、1700年も前にですよ。
魏使はそんなに正確に距離をはかって行ったのですか?
31 :
唐松山:2008/04/16(水) 19:14:46
合わなければ、間違いと言い 合えばピタリはおかしいと言う。
1歩
1歩の長さ
広大な中国で兵を動かすとき 距離を測らねば成らない、測り方
鼓笛隊の太鼓に歩調を合わせて、進軍
そうすると、1曲で何歩、何キロメートル、進んだか判る
この時の 1歩が単位となる 1歩=1メートル以上では 誰も進軍出来ない。
32 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/16(水) 19:21:19
>>31 >この時の1歩が単位になる
ならない
長さの単位は度量衡で定められています。
軍隊だけのローカルルールなら別ですが
33 :
唐松山:2008/04/16(水) 21:33:37
度量衝の元は軍隊でしょ
軍隊=国家の大事 ローカルですか
何日も行軍しても殆ど景色の変わらない広大な土地、紐を張って測量なんかしていられない。
鼓笛に合わせた歩測が 元
多少の変動は有っても あまりかけ離れたら別の単位を作る。
34 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/16(水) 22:16:06
>>33 それって
みんな唐松山の頭の中で描いたものでしょ
紐を張って測量なんて
何処にて仕入れた材料ですか?
度量衡は、それに従うから意味をなすのです。
>度量衡の元は軍隊
軍隊が出来るまで
モノの長さや、区間距離を測ることをしなかったんですか?
35 :
サガミハラハラ:2008/04/16(水) 22:23:52
以上説明いたしましたが、ここまでのところで、よろしかったら鴫沢遊児氏の古代推理
「邪馬台国への道」の邪馬台国はどこ?のアンケートにお答えください。
36 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 22:25:55
37 :
唐松山:2008/04/16(水) 22:39:07
軍隊の移動は、大事 ”歩”を最低単位とする距離に対応する単位が出来た。
倭国では 区間距離を測る単位が無い
よって 日にちで表した。
ヤタ鏡のヤタは 長さの単位と取れるが、せいぜい建物の大きさ寸法までで
それ以上の長い物に対応する単位は無かったと思っています。
古墳時代には、これらの単位も入ってきた。
”歩”の寸法も各自、自説にあわせて主張しているから 基本的考え方を 書きました。
紐を張って測量でなければ、三角測量? その前に 歩 でしょう。
中国4千年の歴史で 軍隊がない時代?在りました?
>>37 唐松山さん
>軍隊の移動は、大事 ”歩”を最低単位とする距離に対応する単位が出来た。
倭国では 区間距離を測る単位が無い
よって 日にちで表した。
ヤタ鏡のヤタは 長さの単位と取れるが、せいぜい建物の大きさ寸法までで
それ以上の長い物に対応する単位は無かったと思っています。
古墳時代には、これらの単位も入ってきた。
これは『夷人不知里數但計以日』この一文で説明が付きます。
「里」という距離単位(三百歩為里)とするものは倭地には存在しなく、度量衡の度の存在は否定できないと
>”歩”の寸法も各自、自説にあわせて主張しているから 基本的考え方を 書きました。
おのおの好き勝手に書いていては、何時までたっても同じことの繰り返し
長さや距離については
古漢籍がありますので、そこから導くべきでしょう
ま、そもそも「歩」に寸法を求めること自体矛盾なんですがね
正しい歩とは、歩幅をモノサシに合わせることで、モノサシの代用となり
長さとして初めて活用できる
それ以外の「歩」は
単純に(あるく、あゆむ)=歩進 ですよ 軍隊の「歩」も歩進で、度量衡とは全く別物です。
魏晋時に書かれる、長さとしての単位「歩」とは
当時の曲尺(約24cm)に歩幅を合わせ計測したものです。
モノサシは直線の長さを計測する道具、しかし、長さを計測する対象物は決して
直線的なものとばかりは限りません。
モノサシで計測できないものの代わりが、「歩」のような身体の一部を活用した
代用モノサシ
長さはモノサシをあてないと数値化できませんから
当然モノサシの代用ですから、歩幅でも、モノサシと同じ長さにて計測しなければ
全く意味がありません。
これが 長さ代用単位「歩」です(つまり、尺の代用ですね)
因みに
「六尺為歩」の(歩)とは
長さの代用単位の「歩」ではなく
距離の単位「里」に活用される、距離換算単位「歩」(車輪の直径)です。
ここの扱いを間違えると、トンデモになります。
41 :
サガミハラハラ:2008/04/17(木) 16:26:18
はかりかたの起源は、中国では人体によります。
ものさしやはかりのなかった時代には、人間の身体を基準にしてものを測った。
刊代の書「大タイ礼」や「孔子家語」などには、「指を布いて寸を知り、手を布いて尺を知り、
肘をノべて尋を知った。と述べて、古代の尺度が指や手の長さに由来することを明らかにしている。(以上角川漢和中辞典付録1307)
ただ、人体には差異があるため、時代により少しの変化があります。
秦の始皇帝のときに大幅な改正が行われ、それまでの度量衡が6倍されたといわれ、
周尺の1里67.5mも6倍され405mとなったとのことです。
42 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 16:40:09
>>41 里は度量衡では有りませんよ。
だいじょうぶですか?
43 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 16:54:06
>>41 >周尺の一里67.5m
その周尺を確認したいので、曲尺は何処にありますか?或は
その写真を掲載するサイトを教えてください。
まさか?
千里一寸の方じゃないですよね?
で、始皇帝で6倍されたはずの周尺が、何で倭人伝では突然先祖返りしたんだ?
45 :
サガミハラハラ:2008/04/17(木) 17:23:33
>>42 だいじょうぶです。もののはかりかたという意味で使いました。
始皇帝のとき、ものをはかる時に使う器具を統一しましたが、間違って使ったりした人を万里の長城をつくるのに
こきつかったため、人々はそれまでの器具をすべて捨ててしまいました。
だからありません。
がしかし、角川漢和中辞典のふろくのp1311 に周代の尺は22.5cmであったとのっています。
これを見ますと、始皇帝が6倍したとは、すべてではない気がします。
今度会ったら(始皇帝に、ではありません)詳しく聞いてみます。
46 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 18:43:12
>>42 >だいじょうぶです。もののはかりかたという意味で使いました。
もののはかりかたでは『長さ』ですね
そうすると
度量衡の領域です。
なのに何故、度量衡の外にある『里』を一緒に論じるのですか?
>角川漢和中辞典のふろくのp1311 に周代の尺は22.5cmであったとのっています。
それは周時の曲尺の長さですね
それがなにゆえ『里=67.5m』に変身するのです?
さきほども言ったように、里は度量衡(度)ではありませんよ
47 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 19:13:46
48 :
サガミハラハラ:2008/04/17(木) 20:50:03
>>46角川を読むと、里は度量衡の中に入るようによめるのは私だけでしょうか?
p1311の度量衡の表には里がのってますよ。
49 :
唐松山:2008/04/17(木) 21:43:37
2ヶ月くらい前のテレビ番組で山城マニアが出演していた。
その方は 地図にコンパスを当て 距離を算出、自分の歩幅で歩いた距離を測定。
その様な方法で道の無い古城へ行き、古城のサイズも歩測、
訓練すれば、歩測も使い物になる。
里は度量衡の中に入るでしょう
中国の地図、戦国時代には在りますから 誤差は、大きくとも”里”が無くては出来ない。
倭人伝の距離と方向は 当時の地図より割り出した? 又は 書き換えられた。
この辺も考慮中。
50 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:04:35
>>48-49 せめて
漢書律暦志ぐらいは目を通して下さい。
度者(分、寸、尺、丈、引)
と、書いてありますから
何処にも『歩や里』は登場しませんから
51 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:10:28
>>48 >角川を読むと
つまり
文字を見ただけですね
貴方の小城説も、基礎のあやふやな積み木で組み立てられているのです。
>>49 推測は、永久に推測でしかありませんよ
52 :
aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 22:11:45
ばんわ!
サガミハラハラさん〜書き込み終わったみたいだね!
当分はこっちのが人気でるかな。
53 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:32:26
54 :
唐松山:2008/04/17(木) 22:37:57
8タ鏡の ”タ”が出ていない
寸法ではない?
何時から ”里”は使われた?
別の 尺度が有った?
55 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:39:05
56 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:44:12
>>54 >何時から ”里”は使われた?
別の 尺度が有った?
『里』は距離の単位
『分、寸、尺、丈、引』は長さの単位
全然性質の違うものなんです。
だから 距離にはモノサシは存在せず、モノサシは直線的な長さを測る時につかいます。
57 :
aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 22:45:12
あら?みなさんこっちですかい?
58 :
aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 22:48:33
サガミハラハラさんと話してるとき、
「小城甘木説」の話になって、その流れでここのスレを作成したっぽい。
わたしも早くここへ参加したいが、まだ全部読んでないので、それからにしたい。
調べないといけないこともあるので。
59 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 22:59:52
>>58 >わたしも早くここへ参加したいが、まだ全部読んでないので、それからにしたい。
調べないといけないこともあるので。
既に距離でドボンしているけど、それでもいいの?
60 :
aratame_himiko♪:2008/04/17(木) 23:01:48
おやおや みつけるの早いねw
たぶん、河童さんと同じ突込みになるような・・・。
61 :
サガミハラハラ:2008/04/17(木) 23:19:17
河童虫さん、ありがとう。熱望していた漢書、ありがたいです。
感謝感激です。
急に河童虫さんが好きになりました。
>>58 歓迎されているかどうか冷静に判断してみな
63 :
ローガン:2008/04/17(木) 23:38:25
既にドボンですか!
まあ、九州説ですから。
逃亡!
64 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/17(木) 23:41:22
>>63 >まあ、九州説ですから。
聞き捨てなりませんな〜
ここにもバリバリ九州説が居るんですが
65 :
ローガン:2008/04/18(金) 00:12:50
オット!逃亡したつもりが… レスはや!
まあ、サガミ先生のお説の講演が終わってから、追い追いと…
え?もしかして、もう終わり?
66 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 00:22:35
>>62 ここは荒らすな
それにそれっておまえのことじゃん?w
67 :
唐松山:2008/04/18(金) 18:43:23
戦国時代には、地図が作られた。とすると
距離の単位”里”を 紙?の上の長さ 尺や寸に直したことになります
度量衡に入らない 実際の里は信用おけないが 地図上の寸法は、信頼できるとか?
やはり 当時の地図上で邪馬台国を探さないと間違い。なのか?
漢書卷三 高后紀第三より
○此說非也。黃圖云長陵城周七里百八十步,因為殿垣,
○齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。
漢書卷四 文帝紀第四より
○昌至渭橋,蘇林曰:「在長安北三里。」丞相已下皆迎。昌還報
○圻亦畿字。王畿千里。不處者,不獲安居。
漢書卷六 武帝紀第六より
○初作便門橋。蘇林曰:「去長安四十里。」
○有滇池,方三百里
○作昆明池象之,以習水戰,在長安西南,周回四十里
○「脽者,河之東岸特堆掘,長四五里,廣一 二里餘, 景祐、殿、局本都作「二」
漢書より 書き出しました
長陵城周七里百八十 卑弥呼の稜も 歩測1周? 四角なら 方
丸い物を径で表した? 有るかな?
68 :
サガミハラハラ:2008/04/18(金) 20:24:59
倭人伝の記事についてであるが、まず陳寿は倭国にいっていないのであり、晋の図書館の資料を読んで倭人伝の記事をかいたのです。
晋の図書館には漢以来の書物があり、その中からかれは選んで記事をかいたのです。
よく、倭人伝は魏使の報告書であると考える人もいるようであるが、それもあるが(私は魏使の報告書はなかったのではと思う)どちらかというと、私は
漢のときの文書を中心に書いたと思う次第であります。
69 :
サガミハラハラ:2008/04/18(金) 20:34:35
そうすると、行路記事は漢の時代の書物から抜きがきしたのではと考えられます。
その証拠は倭人伝行路記事の里単位が魏代の長さではなく周代の長さを基準にして測量しているらしいということです。
つまり魏の人間の測量ではないということです。
70 :
唐松山:2008/04/18(金) 20:43:38
ならばなおさら 当時の 地図で 読まなくちゃ
71 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 20:45:13
>>69 漢時も魏時も度量衡は変わらないし、曲尺も1pほどの違いしかない
魏王朝は後漢王朝からの禅譲引き継ぎ
だから制度も引き継ぎ、余り変化はみられない
単純な基礎を把握していないから、変な想像しちゃうんですよ
72 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 20:49:46
>>68 邪馬台國の資料は、紀元前108年以降の資料。
『自武帝滅朝鮮』
73 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 20:53:36
>>70 魏志倭人伝自体が既に地図だよ
何も絵だけが地図じゃない、文章も立派な地図になる。
74 :
唐松山:2008/04/18(金) 21:17:19
河童虫さん 得意な 漢字で ”図”の意味を説明して下さい。
75 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 21:40:28
>>74 >河童虫さん 得意な 漢字で ”図”の意味を説明して下さい。
漢字は得意じゃないよ
得意どころか、嫌い。 嫌いだから丹念に調べているだけ
ところで
肝心の『図』の意味ですが 名詞的に使われたとき意外は『図』自体に意味は無いよ
76 :
nanashi:2008/04/18(金) 21:56:43
なんかサガミハラ、分が悪いねえ。
がんばれ!!
でも自慰行為みたいな、意味の分かりにくい言葉を延々と羅列するんじゃなくて
唐松山氏や河童虫氏みたいに平易でわかりやすく書いてくれなきゃ、読んでるもんにはわけがわからん。
だから応援しにくい。
ま、このままでは、サガミハラ討ち死にしそうだし、それじゃ面白くないんで応援するよ。
77 :
唐松山:2008/04/18(金) 22:04:26
こっちだって 死なれちゃ困るから お手柔らかに やっていますよ。
78 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 22:27:09
>>77 >こっちだって 死なれちゃ困るから お手柔らかに やっていますよ。
それって ある意味『生殺し』
潰すときは徹底的に
79 :
サガミハラハラ:2008/04/18(金) 23:02:50
阿 沙
80 :
サガミハラハラ:2008/04/18(金) 23:04:14
81 :
サガミハラハラ:2008/04/18(金) 23:06:56
82 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 23:23:24
>>75 >漢字は得意じゃないよ
>得意どころか、嫌い。 嫌いだから丹念に調べているだけ
好きだったら、諸橋を持っているよね?
83 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 23:28:20
「魏史東夷伝地図」をどうぞ。
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵弱水∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜海
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜海
∵鮮卑∵∵∵∵∵∵∵∵夫餘∵∵∵挹婁∵∵┏┛〜〜〜〜〜海
∵∵∵∵∵∵(方可二千里 戸八萬)∵北沃沮┏┛〜〜〜〜〜〜海
∵∵遼東∵∵∵∵高句麗∵∵∵∵東沃沮┏(戸五千 東北狹西南長可千里)
∵∵∵∵∵(方可二千里 戸三萬) (沃沮)┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
━━━┳──────┐∵∵∵∵∵┏┛〜南沃沮位置不明〜海
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵│∵濊(貊) ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┠──────┴┐2万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┌┃◎帯方郡∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┠─────┬┴───┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)│(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸│∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵│◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┠──────┘……………┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ↑
海〜↓┃∵倭人地域┏━━━┛〜〜〜〜〜〜倭韓地〜〜〜〜海 │
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 使譯所通三十國
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
84 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 23:30:16
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜一大國┃◎┃壱岐〜方可三百里〜〜〜┏━━━┓ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜┏━━┓〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │
現長崎佐賀県境┐┏━┓↓┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜┏━┿┛∵┗━┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國
海〜〜〜〜┃∵│末盧國◎→→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜┗┓└┐∵∵五百里↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜┗┓└┐∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┗┓└──┐百里│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │ ●印:女王國構成国
海〜〜狗奴國領域┗━┓∵│奴國●┃┃●●邪馬壹国 7万餘戸 │伊都國:肥前国庁跡周辺
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵│┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵│┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ ↓
海〜〜〜〜〜〜┃倭┃┗┓└┻┓〜〜┃國∵┌─────── ┿現福岡熊本県境ライン
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ ↑
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵◎狗奴國∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國領域
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵倭∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
85 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:34:30
サガミ先生がレスしないでスルーされてるのはだーれだ?
86 :
aratame_himiko:2008/04/18(金) 23:52:12
ン?こっちかな?
サガミハラハラさんはいるんですか?
「nanasi」が言ってるように確かに分かりにくいですよ。
奴国は何町にあたるのでしようか?
九州王朝大好きさんとその図で議論するのも新鮮で面白い。
しかし、ここでは無理かな?
87 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 00:25:00
>>82 >諸橋
諸橋買えるほど裕福じゃないし、近くの図書館に有るから必要ない。
それに、余り歴史に興味無いし、そこまで投資してイレ込む気もない
88 :
サガミハラハラ:2008/04/19(土) 07:47:50
>>86体調不良につきうまく文章がかけず読みづらいでしょぅ。
89 :
唐松山:2008/04/19(土) 11:07:43
>84 すごい 是が 文字のみで出来た地図というやつか
90 :
nanashi:2008/04/19(土) 15:26:25
91 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 15:43:06
>>84 そんな狭い所に邪馬壹國7万餘戸や投馬國五万餘戸は入らないよ。
邪馬壹國7万餘戸だけでも北中部九州は必要。
92 :
サガミハラハラ:2008/04/19(土) 16:22:30
朝鮮には周の始まるころから、箕子というのがあり、周の文化をもって国をおさめていました。
この朝鮮国は秦漢の時代も周制を維持し、里の単位も周尺のままだったようです。
この朝鮮の長い時代に倭国までの距離が計測されたのです。
その記録を入手した漢が自国の図書館に収蔵し、それが晋につたわり、陳寿の目にふれたわけです。
倭国にいったことのない陳寿は万2千余里をはじめとする距離が課題であるとは思いもせずに、そのままのせてしまったというわけです。
93 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/19(土) 16:25:39
>>91 狭い所に邪馬壹國7万餘戸や投馬國五万餘戸が入る入らないの問題ではありません。
魏史東夷伝に間違がえた記述がないとして、
又、隋書東夷伝との整合性も合わせ、
文を図化すればこのようになったのです。
議論を続けるなら、
『♪邪馬台国 ドンと来い♪』スレか、
『※九州王朝はなかったのか?※』スレで。
94 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 16:32:04
なかなかの労作ですが、本スレの目的にそぐなわないと思います。新たなスレをたてて説を説明論争してははかがでしょうか?
95 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 16:34:42
96 :
サガミハラハラ:2008/04/19(土) 16:50:31
戸数の問題であるが、はたしてそれらが実数であったのか疑わしい。
江戸時代の話になるが、薩摩藩は最高石高が90万石ぐらいであったが、
実石高は35万石ぐらいであったという。
となると、35万石ぐらいしか収穫のないところに90万石の国があるというのはおかしい。薩摩藩は二波九州ではなく
薩摩藩はもっと豊かなところにあったのでは?ということになる。
97 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 17:52:07
>>92 >里の単位も周尺のままだったようです。
こんなこと言ってるようじゃ、永遠に理解できませんよ
『里』と『尺』はそもそも違う概念
尺は度量衡の(度)、里は度量衡ではありません。
98 :
日本@名無史さん:2008/04/19(土) 17:52:34
99 :
サガミハラハラ:2008/04/19(土) 18:58:32
ここは小城甘木が邪馬台国の都であったのかどうかを論じているスレです。
倭人伝の里が周の時代のものでしるされているという話であって里が度量衡なのかどうかの論は別なのです。
里が度量衡の中にはいらないからといって小城甘木説がどうなるわけでありません。
100 :
唐松山:2008/04/19(土) 19:12:23
里が度量衡の中にはいらなくても
距離を表す 尺度では有った事は認めないわけに行きませんから
倭人伝の 1里と同じ距離を1里とした 書籍を見つければよい