1 :
日本@名無史さん :
2008/04/11(金) 16:38:08 "※九州王朝※12"タイトルスレが4回連続したので更新します。 ※九州王朝はあったか?※の復活です。 九州王朝を肯定する人も否定する人も、立場の違いを超えて、思う存分語りましょう。 九州王朝に関心がある人は、おおいに語りましょう。 九州王朝に関心のない人や、九州王朝に関りの無い主張は、書き込まないでね。
2 :
日本@名無史さん :2008/04/11(金) 16:43:22
※九州王朝※12 スレが終了してから始めましょう。
3 :
日本@名無史さん :2008/04/12(土) 11:46:48
あげ
4 :
日本@名無史さん :2008/04/14(月) 14:45:26
「大和朝廷一元史観」がとんでもない誤りである点 1:漢籍が否定している 旧唐書には倭国と日本国は別な国だとしている(ただし新唐書では日本国の言い分を追認) 隋書イ妥国伝には名所として激しく噴火する阿蘇山を挙げ、そこでイ妥国が祷祭を行うさまを載せている 2:大嘗祭の主催者が天皇ではなかった問題 持統天皇までは、大嘗祭を主催したことはないが、大嘗祭に部下を参加させているので、別な首長が大嘗祭を主催している 3:6世紀末に、播磨国は大和国の外国だった(大和国は小国だった) 大和国の仏教初伝は、播磨国からの伝来だった。 4:大和国は九州元号を使用していた 大和国は「大宝」の前までは九州王朝の元号を使用していた。 継体やら白鳳といった九州元号は、大和の天皇が制定したことのない九州元号である。 5:金印出土は志賀島 畿内でなく福岡県の志賀島で金印が出ており、大和朝廷一元史観では合理的な説明がつかない。 6:「評」を隠蔽し「郡」に置き換えた事実 律令制の行政単位として、大和国は700年ごろ「評」「郡」に置き換え、旧来からある「評」の存在を抹殺・隠蔽した。 7:白村江の敗戦後処理は九州のみ 唐に敗北した倭の戦後処理が九州でしか行われおらず、畿内からは物資援助のみ。 九州には筑紫都督府が置かれたが、大和都督府は置かれなかった。
5 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/14(月) 16:02:46
>>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1187544522/985 にんとく さん
>タイ国の説明の中にこうあります。
その通りです。
しかし、『開皇二十年・・・・・其王朝會必陳設儀杖奏其國樂戸可十萬』は、
「俀國」ではなく「都於邪靡堆」についての説明だと僕は見なしているのです。
『開皇二十年・・・・戸可十萬』は俀より狭い地域である邪靡堆についての説明として読んでも、何の矛盾もありません。
7万戸邪馬壹國が350年後の10万戸邪靡堆である、とすることが妥当だと思います。
総計20万(15万9千+α)戸以上の倭人の國々が350年後の10万戸俀國になったと考えることは不適切だと思います。
九州王朝はなかった
7 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/14(月) 19:57:19
年号がうんと出ている。もう否定しても無理よ。あとは自説防備の ため必死に証拠の信用度を落して一見理に見せかけの反論で撹乱させ てるだけ。
年号が出てるってだけじゃなあ
9 :
日本@名無史さん :2008/04/14(月) 21:39:03
>>4 その疑問への答えは、九州王朝ではなくて、
三河や諏訪に王朝があったと仮定した場合でも成立しそうです。
10 :
魏使 :2008/04/14(月) 21:48:49
>>9 >三河や諏訪に王朝があったと仮定した場合でも成立しそうです。
つまらんジョ−ク。
11 :
にんとく :2008/04/14(月) 22:03:09
>>5 九州王朝大好きさん。まず情報源・資料の確認から。
(1)古代の人口、島貫「在野史論」(澤田「復元日本古代国家」)
AD100年 近畿20万 九州19万 近畿・中国・四国・九州計54万
AD750年 近畿122万 九州71万 近畿・中国・四国・九州計309万
*ただし、この数値の根拠と妥当性については追認しておりません。
(2)「魏志」邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸、伊都国1万戸
(3)「隋書タイ国伝」10万戸ーーこれは邪靡堆(国)か、タイ国全体か。
タイ国は、竹斯国、秦王国、十余国(10余でなく「トヨ=豊」説あり)
を附庸しており、タリシホコはタイ王ですので、そのタイ王が、邪靡堆(国)
以外の国に、軍尼を配置してもおかしくないと取りました。
確かに、邪馬台国の後身である邪靡堆(国)が10万戸と考えた方が、
数字の面では、直観的にすっきりします。九州王朝大好きの指摘に
よって見解を改める心づもりがありますが、それまでに次のケースを
考える必要があります。
・「魏志」の数値については、松本清張等の誇張説がある。
・半島侵略、クナ国との戦争、いわい戦争等。戦乱に明け暮れて
近畿のように大古墳を作るゆとりがなかった。
・実際、中国では、後漢の初期には、前漢の最盛期に比して、
人口が一桁少なかった、と書いた本を読んだことがあります。
・上記の、日本の古代の人口の推定値は、10万戸=タイ国全体
を支持しているように見える。
以上、更に検討してみます。
幻の九州王朝説なんて、早く忘れたほうがいい。 ちょっと掘れば火山灰だらけで農業にも不敵。 九州は今も昔も大陸との交易の拠点でしかなかったのです。
13 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/14(月) 22:06:23
>>8 氷山の一角が多々出現したものだ。通常年号は王朝以外に使う必要は
ない。古代史論で刑事裁判的証拠まで要求していたら、どんな正説
でも葬れる。窮地に立たされた反論者側が自説の間違いをまだ覚醒
しようとせずに、自説防御のために徹底要求して誤説を保全する抗弁
に使うものが古代史論における「証拠」と言って来る言葉。
14 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/14(月) 22:10:11
>>12 忘れる必要はない。古史古伝にもウガヤ朝70数代の記述がある。
年号が多々あるいうことは絶対看過できない重要なもの。つまり
お前の理屈には説得力がまるで無い。
15 :
日本@名無史さん :2008/04/14(月) 22:54:56
ウガヤ朝は本当に九州にあったのでしょうか? もっと検討を加えたほうがいい。
16 :
日本@名無史さん :2008/04/14(月) 23:31:50
>>9 >三河や諏訪に王朝があったと仮定した場合でも成立しそうです。
金印と阿蘇山だけで三河や諏訪は100%完全瓦解しますので、
いかなる天変地異があっても成立しません。
「三河や」さんは、何の論拠も提示できずに邪馬台国「三河」を主張し、 富士山はその昔阿蘇山と呼ばれていたと主張し、 まるで放火魔のように、このスレッドに燃えクズを撒き散らして、 その反応を見ることにのみ生きがいを感じておいでの方です。 >>金印と阿蘇山だけで三河や諏訪は100%完全瓦解しますので、 >>いかなる天変地異があっても成立しません。 というような正論は、この方には、通用しません。 「三河や」さんが出てきたら、無視なさるのがいいでしょう。 問い詰めても、とうふにかすがい、ばふんにくぎ、です。
18 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 02:21:09
九州王朝説 > 大和朝廷一元説 >>>>越えられない壁>>>>>三河諏訪電波説
19 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 02:33:38
私年号をかき集めて 「これが九州王朝による九州年号」 って言われてもねえ・・・。 その年号に対応する王の存在とかを証明しない限り意味が無いだろうなw
20 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 02:39:09
九州元号を大和の天皇が制定した記録も事実もないのに、 存在を抹殺された九州王朝の王の存在証明出せって、そりゃ無理だろ。
21 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 02:50:07
なかったです。
22 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 03:00:52
畿内にはなかったと何回言ったら・・・ 九州王朝は九州にはあったんだが。
23 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 03:04:51
装飾古墳の分布は、九州王朝の存在なくして、説明がつかないだろ。
24 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 03:24:20
>>19 『二中歴』も『如是院年代記』も『海東諸国記』も
『襲国偽僣考』もかき集めたわけじゃなかろう
どこかに一連のものとしてあった
でなけりゃきっちり繋がるわけがないし
法隆寺釈迦三尊光背というピカイチのものに刻まれた
法興年号を無視するわけもない
>金印 で、それが何か? 一言で言えば過去の栄光w それが後々(飛鳥時代?奈良時代?)まで王朝が続く保証になるはずも無い。 因みに今の日本の首都は東京ですw >阿蘇 隋書には「壽祭を行う」としか出てませんが? 阿蘇の近くに倭国の首都があったとでも書いてありますか? その「壽祭」が国家行事で国王以下が列席するとでも書いてますか? ___ ____ /彡三彡三ヾヾヾヾ\ (ヾヾヾヾヾヾヾヾヾヾヾヾヽ / 》ヾヾヾヾヾヽ / 《ヾヾヾヾヾ| ∠;ヾ ∠;ミ;ミミ、 ヾヾヾヾヾ;| ( ノ )--( \ )---- ヾヾヾ;| | ./ リ⌒ヽ | / ''б) | \ | ( __、j ゝ ゝ__,ノ あっそう | ;;iiiiiミミ; \ / ./ ヽヽ二二ソ / | / ヽ ー / /\ |`ー---一''"_/ /\ /| >< ̄ ̄ / / \
26 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 04:09:57
>隋書には「壽祭を行う」としか出てませんが? はあ?イ妥国が祷祭をしていることがハッキリ書かれてますが何か? 金印の出土地が畿内だったとでもいうのかい? 悔しかったら、金印と阿蘇山を畿内で発見しろよwww
27 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 05:01:59
>>26 すまん。
悪いが全然悔しくないわw
まあ良いんじゃないか?
阿蘇と金印でお国自慢できてwww
>はあ?イ妥国が祷祭をしていることがハッキリ書かれてますが何か?
嘘を言っちゃあいかんな。
国家行事と言うような記述は何処にも無い。
それに続けて如意宝珠とかの珍物の記述があり
新羅・百済が倭を珍物の多い国とし・・・と続く。
前後の文脈を見れば名物名所案内と見るのが普通www
28 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 05:33:40
残念だが、お国自慢なら東京を自慢するしかないんだが。それでもいいの? イ妥国伝の行事として書かれている祷祭であり、イ妥国の記事で唯一書かれている祭が祷祭だ。 無数の祭りが列挙してあるなら、九州王朝下で行われた畿内の祭りがいっぱい書いてあったはずだがねwww
29 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 05:39:07
地方ローカルの祭だけ記述して、国家祭を一切書きませんでした、という××国伝ってあるのかよ。 中国の歴史書はお前の100倍優れてると思うが>27
30 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 05:45:25
イ妥国伝のとおり、阿蘇山を取り巻く地域に装飾古墳が集中的に分布し、東北地方にまで広域に広がっている。 一方、畿内の古墳にはそんな広がりがない。この状況は、隋書イ妥国伝のとおりで、まったく一致しているな。 これで畿内説が成り立たないことがハッキリする。
金印も三角縁神獣鏡と同じ、大和で作られ諸国の王に賜ったものかもしれない。 他に発掘例がないのは、金という高価な材料だけに数も少なく、盗掘されてし まったのかもしれない。
32 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/15(火) 07:08:53
>>19 そうらまたやってるよ。信用度を落すための陰謀が「私年号」の語ってやつさ。
だが、まだこいつはかわいいよ。出ている年号を否定してるんでないからね。w
うっちゃりたいための格好の糊塗がこの『私』の字なわけだ。
私年号にしちゃぁ、出てる年号が多すぎる。だからこの言い訳も棄却する。
33 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/15(火) 07:28:13
畿内説が誤であり九州王朝の存在が厳然と浮上していたことから、この女王国 畿内説を日本から早急に消却させ、九州王朝の実態をさらに掘り下げて、反論 するマイナス因子群をとことん追撃すべきであろう。私年号などと頑張って るから、一気に押し出ししてこういう愚の反論を徹底滅却すべき。
34 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 08:24:48
8世紀に創られた建国神話の書である記紀で1〜7世紀の歴史を語るのは無理。 神話の研究と歴史の研究を混同してはダメダメ。 畿内説なんて何の根拠もない電波。
35 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 09:30:23
36 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 14:23:20
大和の天皇が、九州元号(継体とか白鳳とか)をバンバン使ってるのに、 大和の天皇が、九州元号を一度も制定したことがない。 だから、九州元号は大和元号ではないし、 大和が九州を支配していたのではなく、 九州が大和を支配していたという結論以外はありえない。
37 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/15(火) 14:35:31
>>11 にんとくさん
情報源・資料の確認
(1)古代の人口:
現在までの諸氏の研究は、気候の変化とそれに伴う食料への影響についての考察がほとんどなされていない為、
ほとんど無価値なものと思います。
人口減は戦乱・気候変動・疫病により1/3〜1/10になった例は世界的に発生しています。
(2)「魏志倭人伝」による倭人の人口
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸、他5国合計5千戸、計14万5千5百戸。(3千家≒千5百戸)
餘旁國21ヶ国2万戸〜数万戸、狗奴國連合数万戸〜10万戸。倭総合計20〜30万戸。
(3)「隋書俀国伝」による倭人の人口
邪靡堆10万戸、邪靡堆以外の九州全体個数不明。
(4)倭の範囲
魏史倭人伝:九州島北西部・中部、東部・南部は含まれない。
隋書俀伝:九州島全体。
『其(百濟)南海行三月有[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里』隋書百濟傳
チュジュ島の形は、東西長千里、南北長数百里の横長四辺形。
であるから、
『其(俀)國境東西五月行南北三月行各至於海』隋書俀國傳
俀國の形は、南北長五月行、東西長三月行の縦長四辺形。
38 :
風神 :2008/04/15(火) 16:32:06
>魏史倭人伝:九州島北西部・中部、東部・南部は含まれない。隋書俀伝:九州島全体。 魏志倭人伝が伝える邪馬台国も北九州から「水行十日、陸行一月」、倭国は九州全体と考えた方がよいのでは?
39 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 18:21:05
>>11 >AD100年 近畿20万 九州19万 近畿・中国・四国・九州計54万
>AD750年 近畿122万 九州71万 近畿・中国・四国・九州計309万
AD750年の推定人口は略妥当だと言えるがAD100年の54万は異常に少なすぎる。
古代において僅か650年で6倍もの人口増加は特殊な場合以外は通常ありえない増加率。
1000年でも殆ど変わらない場合も多い、この推計は信憑性が低い。
40 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 20:36:49
AD100年の人口が九州19万、西日本で54万しかいなかったとすると、 漢に使者を送った国が日本内に100ヶ国あったから、 西日本全体としても1国平均の人口57,000人、 九州だけとすると1国平均の人口19,000人、 金印を貰った奴国はこんな小さな村? >AD100年 近畿20万 九州19万 近畿・中国・四国・九州計54万・・・根本的に可笑しい。
41 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 21:33:53
そもそも九州王朝という言い方自体が誤解のもとではないのだろうか? 当時、本州・四国・九州という呼称があったわけでもないし、九州に王朝 が実在していたとしても日本全体を支配していたわけではない。 大和にも大王がいて、関東にも大王がいて・・・それで何の問題もない。 律令制といった支配制度ができて初めて、遠方の国を支配する手段が できた。そのことに気がつけば、もっと、納得のいく説明ができると思う。 邪馬台国が当時の日本を代表する唯一の国ではない。
42 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 21:56:51
装飾古墳の分布は、北部〜西部九州を中心にして東北地方にまで及んでいる。 これが九州王朝の支配領域だ。 一方6世紀末に、大和国はまだ播磨国を領有できていなかったことがわかっている。 大和国の、これが現実だ。
43 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 22:27:06
そういう頑なな態度では、いつになっても世間には受け入れられない。
44 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 22:35:26
>>40 訂正
AD100年の人口が九州19万、西日本で54万しかいなかったとすると、
漢に使者を送った国が日本内に100ヶ国あったから、
西日本全体としても1国平均の人口5,400人、
九州だけとすると1国平均の人口1,900人、
金印を貰った奴国はこんな小さな村?
>AD100年 近畿20万 九州19万 近畿・中国・四国・九州計54万・・・根本的に可笑しい。
45 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 22:36:19
世間に受け入れられない頑なな態度 = 大和朝廷一元史観
46 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 22:43:55
どっちもどっち
47 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 22:45:11
っていうか、大和朝廷一元史観は、モロ誤りだろ。
48 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 22:50:32
しかし、このスレに大和朝廷一元史観なんて唱えてる人はいないじゃないか。 どこ見て発言しているのか疑問だらけ。
49 :
日本@名無史さん :2008/04/15(火) 22:54:10
大和朝廷一元史観で現在の教科書などが書かれているのは、単に昔からあったから。 別に大和朝廷一元史観が正しいと認められていたからではない。 他に適当なものがなかったから。 そろそろ見直す時期だろう。
50 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/15(火) 22:55:15
>>48 あなたは面食いか? それもいいが中身も大事。表見的だけ眺めて
いるんじゃ読みが甘いよ。うんと隠れているはずだよ。畿内説者は
例外はあろうがだいたい九州王朝否定論者だと思うぜ。
51 :
にんとく :2008/04/16(水) 01:12:50
>>37 九州王朝大好きさん
貴殿(あなた)のご指摘により、拙論を訂正いたします。つまり、
タイ国の「戸数10万」は、邪馬台(壹)国の後身、邪靡堆(国?)の戸数であって、
竹斯国・秦王国・十余国の戸数は含まれない、ということに同意します。
(1)古代の人口についての研究は、たぶん信憑性はかなり低いでしょう。○
(2)「魏志倭人伝」による倭人の人口 倭総合計20〜30万戸。○
(3)「隋書俀国伝」による倭人の人口 邪靡堆10万戸。九州全体個数不明。○
(4)倭の範囲 魏史倭人伝:九州島北西部・中部、東部・南部は含まれない。?
隋書俀伝:九州島全体。←東西五月行、南北三月行なのでその通りですが、
邪馬台(壹)(7万戸)の後身が邪靡堆(10万戸)だとすると、
「魏志」のクナ国はどうなったのか、という疑問が生じます。
また、 竹斯国・秦王国・十余国が近畿勢にどう加担したのかも気になります。
おそらく「市民の会」などの会報にはあれこれ試案が出ているのでしょうが、
まあ、気長に考えることにします。ご指摘ありがとうございました。
52 :
日本@名無史さん :2008/04/16(水) 05:29:53
九州王国と言うのは不適切だ 百済帝国植民地である九州島政府と呼ぶのが正確だ
53 :
にんとく :2008/04/16(水) 10:38:08
倭人から王として擁立され、さらに、中国から**倭王の称号を 貰い受けているから「王国」でよい。 卑弥呼、五王、タリシホコが血統でつながっておれば「王朝」でよい。
54 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 11:13:18
「九州王朝」って言い方したり、邪馬台国と結び付けようとするからおかしいんだよ 「筑紫王朝」があったかどうかを考えるべきと思うな
55 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 11:31:04
ちなみに「九州」ってのは、元々は日本から見た大陸の國の呼び名だよ 中国産の米を「九州米」って呼ぶのもその為だよ 逆に昔は「中国」って言えば「中つ国原」の事で、後に吉備氏が治めて「中つ国」を名乗った今の日本の中国地方の事だよ 例えば「秀吉の中国遠征」って言えば秀吉が中国の毛利氏へ進軍した事を言うんだし
56 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 11:33:44
これを踏まえて、戦前より古い書物に もし「中国」や「中国の皇帝」や「中国朝廷」なんて表記があれば それは中国地方の吉備氏の氏族の事か もしくは「中つ国(自分達)の朝廷」とか、そういう意味だよ
57 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 12:36:32
ちなみに「九州王朝」ってのは存在してるよ ただ場所が今の日本の九州の事じゃない 昔、大陸に九つの州からなる王朝があったから、日本は大陸の事を「九州」って呼んでた訳だから その当時に大陸に「九州王朝」ってのは存在してるよ もしかしたら日本の九州もその王朝に属してた可能性もあるよ 朝鮮半島が九州に属してたようにさ
釣りはスルーで。
59 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 12:51:13
釣りじゃねーw 見解ってやつすよ とにかく九州王朝ってより「筑紫王朝」をまず探した方が良いよ どの氏族が筑紫に渡って行ったかとか追えば多少解ると思うよ 例えば島根には吉備氏が渡って中つ国を名乗ったりしてた訳だし
60 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 12:54:36
俺、九州の氏族で1つ知ってるのが「阿蘇氏」だよ これ信濃の阿蘇氏と同族で、かなり力のある氏族だよ
61 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 13:03:58
>>4 〉倭國と日本國は別の国
おれ、この可能性はあると思うな
昔の日本は封神演義の中でも「扶桑」って呼ばれてて、大陸は扶桑や東海や蓬莱って呼んでたみたいだし
「倭」ってのは九州かもだよ
スルー推奨
63 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 13:18:39
あと日本府が置かれた任那や加那とか、今のサイシュウ島とかも当時の筑紫じゃないの? 日本書記にもある日向三代の神話とかは、九州じゃなくサイシュウ島に伝わる神話が元になってるよ んで彼らはサイシュウ島から漢城のあった素誉里(ソウル)を統治して遼東付近まで統治してたらしいよ
64 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 13:25:30
釣りでも何でも無いっての 最終的には日向三代とかの九州に縁のある氏族達が蘇我氏を倒して、平城京や平安京を築いたんじゃないの? 漢城を統治して遼東まで統治してたなら九州の氏族は相当な勢力だよ
65 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 13:39:18
九州王朝とかって、結局は邪馬台国と結び付けたいって事かな? 仮に邪馬台国が九州にあったとしても、邪馬台国なんて日本の朝廷と何ら関係無い氏族だよ だから紀記にも出て来ない訳だし 邪馬台国の卑弥呼が後に大和朝廷になった訳じゃ無いでしょ? 沖縄には琉球王朝があったけど、それだけの事だよ
66 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 13:55:45
>>51 にんとくさん
>>38 風神さん
(4)倭の範囲 魏史倭人伝:九州島北西部・中部、東部・南部は含まれない。
上記については、情報源・資料の説明が長くなるので省略しました。
@邪馬壹國は弥生後期である。この後、肥後の横穴装飾古墳形式(非平面古墳形態)が筑紫方面に北進している。
A女王國の南接して狗奴國がある。『此女王境界所盡其南有狗奴國』
B狗奴國には、官(狗古智卑狗)以外に卑弥呼と対等な男王(卑彌弓呼)がいるので『倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和』、
狗奴國は女王國に匹敵する様な連合国家である。
C十数万戸の女王國を収容できる平野は福岡・筑後平野(特に筑後)しかないから、
数万戸以上の狗奴國連合は菊池川流域から緑川流域に至る熊本の盆地平野にあることとなる。
D横穴装飾古墳形式の北進は、壹與以降に肥勢力が筑紫の中心勢力となったことを示している。
E垂仁紀の九州行幸の話は、九州東部(豊)九州東南部(日向)の征服と、
肥・筑紫の行幸と、浮羽が終着地点であることを示している。
これは筑紫肥統一勢力の王の九州統一話(大隈・薩摩を除く)を日本書紀に転載したものである。(古田説と同じ)
Fつまり、筑紫肥統一前の魏志の時代では、倭人は筑紫・肥の倭人を指しており、九州島の北西部(筑紫・肥前)と中部(肥後)の地域になるのです。
G狗奴國については、肥後の勢力(狗奴國連合は肥全体?)で、筑紫(女王國地域)を統一し、その後その統一勢力は九州全体を統一したのです。
H竹斯国・秦王国・十余国(及びそれらの前身国)が近畿勢とどの様に関わったかは、仲哀、継体及び天武・天智時代のことになるので、ここでは省略します。
「市民の会」などの会報? 僕は古代史関連の会とは全く関わったことがないので何のことかわかりません。
67 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 14:05:02
邪馬台国って単に、同じ時代にあった弥烏邪馬国の事じゃないの? こっちの邪馬国も倭人が治めてた国だよ 隣接して狗邪国や楽奴国とかもあるしさ
68 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 14:09:31
あと「秦王国」ってローマ王の国の事だよ 大秦ったらローマ帝国の事で、秦人ったらシルクロードを渡って来たローマや中東の方の氏族の事だよ 彼らが蚕を日本に伝えた氏族だし
69 :
日本@名無史さん :2008/04/16(水) 14:15:08
邪馬壹國と邪馬臺國と邪馬台國が同じって言うなら 邪馬國も同じだと思うけどな 弥烏邪馬國と邪馬台国は違う國なんかな? どっちも倭人が治めてる國なんだけどなあ
>>66 貴説に依存はないですが、、。
狗奴國が倭の五王の本拠だとする説はどうみますか?
71 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 14:21:18
あと
>>4 にあるように、仮に倭と日本は別とした場合には、
今度は漢字の意味合いから考えて「倭」と「魏」は共に同じ國の可能性もあると思うけどな
「人+委」と「委+鬼」
魏が「倭」って呼んでた國や人は
唐や栄は「倭と日本とは別」って言ってるらしいしさ
72 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 14:25:05
倭と日本が別って前提で考えた場合だけど 記紀の中の「クマソ族」が倭人なんじゃ無いの? 邪馬台国や卑弥呼はクマソの人達の事かもね
73 :
にんとく :2008/04/16(水) 14:38:45
九州王朝大好きさん、ご説明ありがとうございます。 (別のスレッドで見た、倭人伝の「投馬国」の解釈に同意します。) 「G狗奴國については、肥後の勢力(狗奴國連合は肥全体?)で、 筑紫(女王國地域)を統一し、その後その統一勢力は九州全体を統一した」 ・・・・これだと、狗奴國が(邪馬台国の後身として)邪靡堆を名のった と取れますが、大筋はそう解釈してよろしいのですね?
74 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 14:48:16
>>70 狗奴國が倭の五王(四王)の出身母体。
武については讃珍済興と様相が異なるようだ。
75 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 14:49:50
基本的な事として 「王朝」ってのは血統が途絶えたら、その王朝は終わりですよ 邪馬台国が卑弥呼王朝だったのなら、子供を儲けなかった卑弥呼王朝はそこで無くなってる王朝だよ 違う血統の人が王となり実権を握ったのなら、それは卑弥呼王朝とは別の新しい王朝だよ
76 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 15:06:01
>>73 倭5王では、興から特に武から王統が変わっているようだし、
磐井の乱後又王統が変わり、復古兄弟政治になっている。
そして、多利思北孤は筑紫北部(宗形君)出身になっている。
邪靡堆は多利思北孤時代の名称です。
又、「邪靡堆」は単に隋側の呼称であるだけかもしれません。
77 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 15:11:05
>>75 「九州王朝」とは九州に都(中心権力者居住地)を置く複数の王統全部を指す。
78 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 15:15:14
九州は神武天皇の先祖でもあるウガヤやニニギなどの日向三代らの氏族でもある、阿曽氏がいた地でしょ? まず九州を治めてた氏族をきちんと調べて足取りを追ってみた方が良いと思うよ この九州の氏族達が後に蘇我氏らを倒して、畿内に都を作ったんだと思うよ ちなみに九州の阿曽氏は信濃の阿曽氏と同族で、関東の方にも流れて行ってる 信濃には阿曽氏の氏神をちゃんと祭ってる神社もあるよ
79 :
日本@名無史さん :2008/04/16(水) 15:16:58
>>11 のAD100年推定には大いに疑問があるが
AD750年 近畿122万 九州71万 近畿・中国・四国・九州計309万
の推定は他の研究者も似たように数字を出していてある程度信憑性はあり、人口の増減があったとしてもAD300年の九州人口は70〜80万を超えることはないであろう。
>>66 の
>C十数万戸の女王國を収容できる平野は福岡・筑後平野(特に筑後)しかないから、
は一戸五人としても五十数万人となり、福岡・筑後平野(特に筑後)だけでは狭すぎるのではないか?
九州北部、中部までぐらい?
80 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 15:22:49
>>77 俺は九州で一番の氏族は阿曽氏と思うよ
日向三代や神武天皇らも阿曽氏を氏神にもつ氏族なんだよ
阿曽氏族は同族に半島に渡って新羅を治めた新羅三朗なんかもいるし
他には海幸彦や山幸彦らも阿曽氏族だし
他にも沢山有名な神様がいる氏族
けどこれらの阿曽氏族は信濃の阿曽氏族と同族で、信濃から九州へ渡ったって人と、九州から信濃に来たって人がいるよ
熊本平野は? 地図で見ると筑後平野を越えるように見える。 筑後みたいに湿潤地ばかりではなく、少し標高が高いようだが、 生産には向いている土地でしょうか? >熊本の方々
82 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 15:33:32
>>77 この時代は日本も世界も血統社会だから、王統って言うならそれこそどの氏族の血統なのかってのが大事になるよ
特に日本の場合は明治時代以前までは氏神制度で、日本の戸籍を持つものは全て氏神が誰かってのまで戸籍に乗ってるほどだった訳だから
83 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 15:36:31
>>79 間違えました。
筑後平野ではありません。筑紫平野です。
筑後平野、佐賀平野も含む、筑後川、矢部川、嘉瀬川及び六角川流域の平野のことです。
84 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 15:46:46
>>81 熊本出身ではありませんが、何度も車で走っています。
菊池川流域から緑川流域まで、白川流域の一部を除いて、大農業地帯です。
現在の市街地も古代には農地であったから。
85 :
日本@名無史さん :2008/04/16(水) 15:47:34
>>83 それでも十数万戸が実数ならせまいのでは?
どう頑張っても十四〜五万戸で九州は一杯。
十数万戸は邪馬壹國と他の国々を合計したものを女王國としているのですか?
邪馬壹國=女王國ではないの?
86 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 16:07:33
九州王朝を調べるなら、まず九州を治めた氏族が誰か調べるべきだよ たぶん阿曽氏だと思うよ あと「日本府」が置かれたのも九州(当時は任那?)だから日本府があったのも九州なんだよ 調べりゃ解るかもだけど阿曽氏族の日向三代達は、日本府からソウルに渡って、漢城から中国の遼東付近まで統治してた豪族だよ 百済や新羅も、彼らが治めてた国で日本の領地だったんだし 九州ってのは当時はそれらの大陸の領地を含めた総称だよ
87 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 16:09:50
>>85 女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國+α α=餘旁21ヶ國の一部
邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國=14万1千余戸≒50万〜100万人
88 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 16:14:05
ちなみに弥烏邪馬国ってのも、日本から国造りで半島に渡った阿曽氏族が治めてた土地にある國だよ 「九州の氏族が治めてた領土」 の中から邪馬壹國連合国を探したら、邪馬国や曹馬国や楽奴国や、倭人伝に出てくる十余国もちゃんとあったよ 九州から渡って来た日向三代の神様の神話の話もサイシュウ島にちゃんと残ってたし
89 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 16:19:06
魏志倭人伝をもっかいちゃんと読めば? 倭人が治めてた領土は海を跨いでるって事が書いてあるんじゃないの? あと別の中国の書物にも倭人が半島や遼東付近まで治めてた様子が書いてあったりするよ
スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew 自分だけの世界でオナニーカキコ→論点に共通基盤ナシ
91 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 16:22:17
あと紀記の中にも神巧皇后が半島に国造りで氏族を送った様子とかも書かれてるよ 彼女が鬼道で民衆を惑わし、兄弟に邪馬國とかの地を治めさせた女王かどうかは知らないけど
スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew スルー推奨 > 美濃もん太 ◆hF.jG29Cew 自分だけの世界でオナニーカキコ→論点に共通基盤ナシ
93 :
日本@名無史さん :2008/04/16(水) 16:31:32
>>87 女王國だけで九州が一杯ですね・・・(^^;
94 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 16:34:10
>>92 九州の阿蘇氏や日向三代は凄いって言ってるんだよ
日向三代のウガヤやニニギの子孫がイワレビコの神武天皇とかなんだしさ
95 :
魏使 :2008/04/16(水) 16:39:21
女王國≒邪馬壹國 投馬國は邪馬壹國とは別のくに 邪馬壹國は不彌國、奴國他24ヶ国の連合国。 王都が伊都國、中心都市が奴國(狭義の女王國)
96 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 16:51:11
>>95 俺も邪馬台国は女王が治める国家の名前じゃなくて、女王がいて、邪馬台國や他の沢山の「國」を治めてた
見たいな意味と思う
ちなみに「國」って「地域」って意味で国家や王国って意味じゃ無いし
そもそも「国家」なんて観念は共和国とかが出来た近年になって出来た観念でしかないし
当時に王朝や都はあっても「国家」って観念自体が無いわけだしね
97 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 16:58:31
ちなみに伊都って昔の信濃の名前だよ 九州の阿曽氏と同族の阿曽氏が治めてた國 昔の信濃は伊都國とか伊那郡とか呼ばれてた
98 :
唐松山 :2008/04/16(水) 19:41:19
もん太君 今の調子で !15 を 埋めてくれ。 その後は、妄信で… 皆様に 迷惑を掛けない様。
九州王朝はなかった
100 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/16(水) 20:00:57
年号多出ででいくらほざいても無駄。w
伊都国は伊東国 句奴国は気怒国=鬼怒国 出雲は伊豆毛 筑紫は横浜市筑紫区あたり これでなぞはすべて解けた。邪馬台国は関東にあった!
九州に複数の王がいたことは確実ですが、 邪馬台国から邪靡堆まで連綿と王を輩出した「王家」が存在しないなら、 王朝という命名はあるいは誇大であるのかもしれません。 しかし、このスレッドに何度も「九州王朝はなかった」を書き込んでいる 人は、「王朝」の概念に疑義を唱えているのではなく、古田が以前に提唱 した九州王朝説とまともに取り組み始めると、自我が崩壊するほど、通説 を何の疑いもなく信じ込んでいる、単純素朴な、出る杭は必ず打たないで はすまない、典型的なおひとよしの、硫黄島で人肉を食うなり食われるな りすることのありえた日本人であると思われます。
>>98 唐松山君
前スレは15でなく12で、ちゃんと1000まで使い切ってるよ
>硫黄島で・・・ こんな話題で戦没者の方々を愚弄するなんて、どういう神経をしているんですか?!
105 :
日本@名無史さん :2008/04/16(水) 22:27:28
防人の歌を読めば、九州が東国の支配下にあったことが分かる。
106 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 23:00:15
中国地方に豪族の吉備氏族がいたように、九州にも豪族氏族(王朝)はあったとは思うよ この氏族が後の大和朝廷の氏族の可能性も高いとは思う そうした場合、九州を治めてた氏族(王朝)はウガヤやニニギ達の血統氏族と思うんだけどな
107 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/16(水) 23:09:20
どっちの九州なんだ??
108 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/16(水) 23:28:52
3世紀の北部中部九州と畿内の地図を描き比較してみた。 畿内平野より北部九州平野のほうが広いことがわかった。 畿内平野とは、大阪平野(摂津・河内・和泉)、山科盆地(山城)と奈良盆地(大和)であるが、 それぞれ平野の真ん中に大きな海・大きな湖沼があった。 それらは河内湾、巨椋池(湖沼)、古奈良池(湖沼)である。 一方、北部九州では、筑紫平野で有明海が吉野ヶ里の近くまで大きく入り込んでいる。 中九州では、菊池平野・熊本平野(肥後)は現在とさほど変わってはいない。 3世紀の平野面積を改めて比較してみると、 菊池平野・熊本平野 > 筑紫平野・福岡平野 >> 大阪平野・山科盆地・奈良盆地、 であった。 これを単純に食料生産量、即ち経済力軍事力とみると、 肥後(狗奴國勢力) > 筑紫(女王國勢力) >> 大和(畿内勢力)となる。 これが6世紀になると、ほとんど海湖沼の水面が陸上化し、 勢力は逆転し、 大和(畿内勢力) > 筑紫(女王國勢力) > 肥後(狗奴國勢力) となる。 唯一残っている水面がある。 巨椋池だ。 京都競馬場に行くとその痕跡が見られるよ。
109 :
日本@名無史さん :2008/04/16(水) 23:29:43
中国に王朝があった。てことだったんですね?それなら納得です。
「倭の五王が九州王朝のものだったとしても、それは地方政権のもの に過ぎず、過大評価すべきとは考えない。むしろ決定的に重要なのは、 5〜6世紀の九州全体の「筑紫」「豊」「肥」の相互関係や大和方面 および朝鮮半島の三国とのかかわりがどうであったか、ということの はずである。」(澤田洋太郎)
111 :
魏使 :2008/04/17(木) 00:20:08
地方政権? 倭の五王が九州王朝のものだったらそれが中央政権では?
>>111 >>110 の澤田氏は、倭の五王やタリシホコについては、通説に準ずる
考え方をしている人である。私が思うに、中国と交渉のあった倭国が
九州の政権であり、中国が本州倭国を認識していなかったとしても、
古代日本全体(九州倭国と本州倭国さらにそれ以外)を考えれば、
九州は一地方である、という認識を澤田氏は持っていると推測する。
本州、特に近畿の政権も一地方政権であるが、倭国全体の複数の
政権の中では、近畿政権が最大の人口を擁していただろう。だから
強いて言うなら近畿が中央政権なのではないか?
113 :
日本@名無史さん :2008/04/17(木) 06:47:19
日本を代表する政権が中央政権とするならば、人口より文化的側面を忘れてはならない。 そうすると、西暦紀元前前後、最も進んだ文化を要していたのは諏訪や三河であったと推 測される。 畿内の勢力は、九州から東遷したのではなく、実は、三河から西遷した勢力ではない だろうか。つまり、古墳時代以前には日本の中心は諏訪や三河にあった!
「三河や」さんは、何の論拠も提示できずに邪馬台国「三河」を主張し、 富士山はその昔阿蘇山と呼ばれていたと主張し、 まるで放火魔のように、このスレッドに燃えクズを撒き散らして、 その反応を見ることにのみ生きがいを感じておいでの方です。 「三河や」さんが出てきたら、無視なさるのがいいでしょう。 問い詰めても、とうふにかすがい、ばふんにくぎ、です。
115 :
魏使 :2008/04/17(木) 10:04:11
>政権の中では、近畿政権が最大の人口を擁していただろう。だから 強いて言うなら近畿が中央政権なのではないか? 近畿政権が最大の人口を擁するようになったは何時ごろからだろうか? 河内湾、巨椋池(湖沼)、古奈良池(湖沼)が陸化して耕作可能地となったのは何時なんですかね。 陸化してしばらくは低湿地帯で耕作は出来ないだろうから、本格的にこれらの土地で農業が始まった時期が近畿政権が勃興した時期だろう。 それまでは近畿政権は地方政権であったと言うことになるが、4〜5世紀以後だろう。 近畿では巨大古墳が造られるようになったころ、農業土木も発達し低湿地帯を開墾して耕地が広がり人口も急速に増えたのだろう。
大局的見地として、こう言えると思われる。 倭国は九州(倭人伝の頃は韓半島南部クヤカンコクを含む)。 西暦600年台ないし701年まで九州に存続した。 隋末か唐初に近畿倭国も中国から認知された。 倭人伝以前から600年台にかけて、半島から移民が押し寄せたが、 九州はほとんど移民を受け入れず、ほとんどが瀬戸内海沿岸から 大阪湾周辺にかけて流れ込み、いつの間にか、九州よりも人口が 多くなった。「中央政権」ができたのは日本が統一された天智の 時。天武が王制を築こうとしたが、没後、不比等(一派)に骨抜き されて天皇制(中宮を入れる)が成立した。「古事記」の殆どは フィクション(荒唐無稽ではなく朝廷の者かくあるべきとした話) であり、書紀はそれに肉づけしたもの。古代日本の真相は、記紀 という大冊があるにもかかわらず、闇の中だ!
117 :
日本@名無史さん :2008/04/17(木) 19:16:03
118 :
日本@名無史さん :2008/04/17(木) 20:49:13
>>114 九州勢力は、三河勢力を目の敵にして打とうとした。
それが磐井の乱。返り討ちにあったのは言うまでもない。
後の世に徳川家康が日本を支配することになるけれど、 徳川御三家の支配する紀州、尾張、水戸は、縄文時代から日本の文化の中心でした。 九州のような不毛の地と違って、文化的な素養にあふれた三河のちに、邪馬台国が 存在したと考えたほうが自然。 そして徳川家康の風貌を見て気がつくのは福耳だということ。 それは、大国主こと徐福の子孫だということです。
120 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/17(木) 23:04:46
>>115 >河内湾、巨椋池(湖沼)、古奈良池(湖沼)が陸化して耕作可能地となったのは何時なんですかね。
水面が完全になくなったのは、4世紀(古奈良池)〜20世紀(巨椋池)。
3世紀の水面面積の過半以上をを農地化できたのは4〜5世紀。
考古学でどう言われているか知りませんが、 ひょっとすると、開墾と巨大古墳の造成を並行して行えば、 労働力の有効活用になるのではないでしょうか?
122 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/17(木) 23:18:43
>>119 徳川のときはそうだろう。だからといって古代もそうだとは言え
ない。福耳? そうなると如来、菩薩も大国主こと?徐福の子孫なの
か??ww デンパ的傾向になって来てるぞ。 大丈夫か?
123 :
魏使 :2008/04/17(木) 23:23:23
>3世紀の水面面積の過半以上をを農地化できたのは4〜5世紀。
やはり4〜5世紀。
大きな古墳を造れたり農地化できるようになったのは土木技術のおかげで、
西方から畿内に技術を持った人々が殖民して来たのでしょうね。
>>116 直接大陸からは距離がありすぎ、九州から倭人の移民(東征)でしょう。
124 :
116 :2008/04/17(木) 23:33:13
>>123 >>116 直接大陸からは距離がありすぎ、九州から倭人の移民でしょう。
大陸→九州・・・倭国の時代
九州→畿内・・・倭乱の時代
大陸→九州(*竹斯国・秦王国・トヨ国経由)→畿内・・4〜5世紀
という勝手な想像でした。自説を立てているわけではありません。
125 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 00:37:47
>>123 >西方から畿内に技術を持った人々が殖民して来たのでしょうね。
そうだと思う。
古奈良池(湖沼)を農地化したのは崇神9年。大和川の河床掘り下げ約200m。
河内湾(湖)の大治水工事をした仁徳の難波堀江開削と茨田堤。
気候的背景もある。
古墳低温期には西日本では、田植え時期の降雨が増え、夏の旱魃が解消され、
水稲の大増産が可能となった。西日本では冷夏の方が米の安定的増産をしやすい。
東・北日本はやませが吹くけれど。寒さの夏はおろおろしてしまう。
『神皇正統記』から再度。北畠にとっては九州王朝など思慮外で あって、倭国すなわち日本は書記の記す日本であった。 異朝の一書の中に@「日本は呉の太伯が後なりと云」といへり。 返す返すあたらぬことなり。昔A「日本は三韓と同種也」と云事 のありし、かの書をば桓武の御代にやきすてられしなり。 @は今では採用する人が多い。日本でなく九州倭国である。 Aの日本を畿内にあった倭国と解釈してみよう。 三韓からの渡来人と現地人が築いた畿内倭国が、 太伯の後裔と現地人が築いた九州倭国を合併したのが 日本国であったことになる。
>>125 その通り、それが三河が畿内に西遷した要因の一つ。
三河の可能性なんて、南極とほとんど同じだろ。
「三河」ウジは、何の論拠も提示せずに、邪馬台国「三河」を主張し、 富士山が阿蘇山と呼ばれていたと主張し、このスレッドにフンを撒き 散らしておられるウジです。南極と同じといわれて、体をよじらせて 喜んでおられます。
130 :
日本@名無史さん :2008/04/18(金) 22:08:52
歴史は裁判ではありません。 証拠がないから真実でないというものではないのです。 しかし、歴史は延々と継続するものであり、 6500年前に一旦滅びた九州と、旧石器時代から 延々と古日本人が住み続けた三河や諏訪と、どちらが 固有の文化を要するかは言うまでもありません。
131 :
日本@名無史さん :2008/04/18(金) 22:32:36
>6500年前に一旦滅びた九州 元気な縄文杉が6500年以前から繁茂してますが何か?
132 :
日本@名無史さん :2008/04/18(金) 22:33:54
いったん滅んだあとに生えた杉が今も生えているとは・・素晴らしい生命力です。
133 :
日本@名無史さん :2008/04/18(金) 23:10:07
噴火に近い地で、6500年以前から今日まで生い茂っている縄文杉。 その寿命は6500年をはるかに超えています。 江戸時代に大量の伐採をされましたが、今日も生えてます。 九州の全滅どころか、6500年前も縄文杉がバンバン生長し、 茂っていたことがよくわかります。 金印と阿蘇山の北部中部九州こそが、日本列島の中心地だったのも、 当然といえましょう。
6500年前に一旦滅びた九州・・・大陸から亡命文化人が大量に渡来 旧石器時代から延々と古日本人が住み続けた三河や諏訪・・・原住民 どちらが高度の文化を擁するかは言うまでもありません。 どちらが文化の啓蒙を要したかは言うまでもありません。
136 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 00:34:02
富士山の噴火で何度も全滅した三河に、国も文化もありません。
137 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 10:10:38
>>124 >大陸→九州・・・倭国の時代
大陸→九州はもっと古い時代でしょう、国が成立する以前。
紀元前9世紀以前に、中国南部から稲作技術を持って九州に渡って来た人がいた。
更に稲作可能な朝鮮半島南部や東北地方まで移民して行った。
稲作が開始された地域では次々に邑落が生まれた。
紀元前2世紀、中国で前漢が成立し朝鮮半島北部まで進出すると朝鮮半島南部の地域では対抗するため邑落が連合し三韓が成立。
北部九州でも邑落が連合して倭奴国へ。
中国で後漢が滅びた3世紀には北部九州が統一され邪馬壹國が成立。
朝鮮から難民が来たとしたら、紀元前2世紀の前漢が朝鮮半島を圧迫した時代かな。
138 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 10:14:24
4世紀には朝鮮半島南部でも地域的に統一され百済、新羅が成立。
それは違います。日本には長い歴史があります。 日本には、先土器時代から人が住んでいました。先土器時代とは、今からおよそ1万2000年 前まで続きました。 先土器時代の遺跡として、群馬県桐生市の岩宿遺跡や長野県野尻湖遺跡などがあります。 そのほかにも愛知県豊橋市や静岡県浜北町などでも先土器時代の人骨が発見されています。 このあと氷河期が終わり気候が温暖化すると食料としていたナウマンゾウや大角鹿が絶滅し、 生きるために木の実採取や農耕生活を発明したのです。そして食料を貯蔵するために考え出 されたのが縄文式土器。縄文時代はそれから1万年続きました。 縄文時代は、新しい民族が移り住んだわけではなく、先土器時代からの住民が気候の変化に 対応して生きるために新しい文化を生み出したということです。 もちろん、大陸や朝鮮からの影響は受けていますが、人が入れ替わってしまったわけではな いのです。 富士山(浅間山)の噴火に見られるような災害のため、越の国や北関東へ移り住んだことは あっても縄文人の集団は一つの独立した民族集団としての一体性を保っていて、その集団が 日本の礎を築いたことは間違えありません。 そこが6500年前に一度滅びた九州との大きな違いといえましょう。もちろん、本州に渡って、 本州の集団と同化したり、九州へ戻ってきた部族もあるかもしれませんが、多くは、半島から 渡ってきた集団だと考えられます。
結論としては、九州は旧王国、近畿ヤマトは新王国、 中国に朝貢していた旧王国が、分家である新王国に併合されたという古田の 見取り図は容認されますが、旧王国が王朝と言えるかどうかは問題です。 また、近畿天皇家は、継体で断絶していると言われますが、応神の 5世の子孫とされており、異論もあります。が、天智天武非兄弟説など、 天皇家が万世一系でないなら、こちらをこそ近畿王朝と呼べばよろしい。
縄文人の集団は @一つの独立した民族集団としての一体性を保っていて その集団が A日本の礎を築いたことは間違えありません。 >139は、特に@が違っているな。 「アメリカインディアンが独立した民族集団としての一体性を 保っていて」というのと同じくらい。 Aの「日本の礎」は別におかしくもなんともないが、天皇制の 構築は縄文人の仕業ではないので、正しくは「日本の礎に 使われちゃった」というのが正確な表現だな。生口というのが あったからな。
142 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 11:44:48
>>141 短期的に見ればその通りかもしれませんが、
少数民族が多数民族集団を支配しようとしても、結局は、多数集団と
同化してしまうという法則があります。
アメノヒボコやニニギの集団が進んだ文化や圧倒的武力によって
旧住民を制圧したとしても、結局は、制圧された旧住民がその文化や
殺傷力のある弓矢、騎馬による戦法を取り入れることで、貴族化した
支配者集団を圧倒することになるのです。それが「・・の乱」という形で
具現化しています。
143 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 14:01:01
>旧王国が王朝と言えるかどうかは問題です。 間違いなく「九州王朝」と呼べます。 連続して制定された元号、波乱を伴わない王座の継承、極東最大級の国力、 東北地方にまで及ぶ版図、王朝の定義を満たすに十分でしょう。 一方、畿内王朝は天武以前にはなかったでしょう。敏達天皇時代に、大和国は 播磨国すら領有していないほど、矮小国です。また、九州元号である白鳳やら 大化を畿内の天皇が拝受して使用していたことからも、九州王朝に対する 畿内王権の従属性があきらかです。
144 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 14:22:05
>>142 「少数民族が多数民族集団を支配しようとしても、結局は、
多数集団と同化してしまうという法則があります。」
一般的にはその通りだが、近畿王家の場合、渡来人系:原住民
の比率が、4:1だからねえ。渡来人が複数回押し寄せたので、
その1回ごとの評価をすれば、法則通りの自体があったかもしれない
が、そこのところは闇のままだろうね。
145 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 15:36:01
>近畿王家の場合、渡来人系:原住民 の比率が、4:1だからねえ。 初耳の説です。これは何を根拠に述べているのでしょう?
九州王朝はなかった
6500年前に一度滅んだはずの九州に、2000年前に九州王朝が存在した という説に納得できず、このスレでいろいろ質問をしたのですが、まとも な答えをもらえなかったので、私なりに一つの仮説を立ててみました。 喜界島カルデラの噴火によって、九州に住んでいた縄文人はどうなって しまったのでしょうか?もちろん全滅したわけではありません。しかし、 火山灰による直接の被害だけではなく、食料となる動植物への被害が 長期間続いたため新天地を求めて旅立ったことは間違えありません。 本州に渡った集団が出雲や吉備に住み着き、一部は、三河や東国、遠く 津軽にも渡ったかもしれません。そして朝鮮半島や中国に渡った集団も いたのではないでしょうか? だとすれば、突然、揚子江文明が栄えた理由も説明できますし、また、 秦が滅んだあと、秦の始皇帝の子孫を名乗る集団が九州にやってきた のは故郷に戻ってきたのだと考えれば納得がいきます。 出雲の国譲りも、もともと九州を支配していた大王に国を返したのだと考 えれば自然なことです。 つまり、6500年前に九州に古代文明が存在したことが証明できれば、全て が解決するのです。 さあ、みんなで火山灰の下まで掘り下げましょう。(笑)
>147 A「かもしれません。」・・・そして朝鮮半島や中国に渡った集団も いたのではないでしょうか?・・・B「だとすれば、」 AからBまでの道は通じていない。Aが妄想だから(笑)。
>145 埴原和郎さんが書いていました。 小学館の創造選書だったと思います。
150 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 16:40:16
>>147 鬼界カルデラは、最近では今から約6300年前に大噴火をおこしました。
大噴火の際に海面を四方へ飛散した火砕流は、鹿児島県本土南部や種子島、屋久島を覆い、九州南部の先進的な縄文文化を壊滅させたといわれています。
鬼界カルデラの大噴火の被害は九州南部の限定された範囲の話。
九州王朝は北中部、場所が違う。
>>143 「間違いなく「九州王朝」と呼べます。
@連続して制定された元号、A波乱を伴わない王座の継承、
B極東最大級の国力、C東北地方にまで及ぶ版図、」
←@元号は522年から。卑弥呼・宗女台世、五王、タリシホコは
同一宗家か疑問。元号はタリシホコを代表とする王家のものだろう。
すると、タリシホコ王朝は容認できるが、九州王朝はむり。
ブルボン王朝をフランス王朝と言うようなものだから。
Cも無理。版図はせいぜい西日本どまり。ただし日本国各地と
交流はあったかもしれない。
「一方、畿内王朝は天武以前にはなかったでしょう。敏達天皇時代に、
大和国は播磨国すら領有していないほど、矮小国です。」
←人は葛城王朝とか三輪王朝とか河内王朝とか勝手に名づけているが、
矮小でも王朝でありうる。モナコみたいなもの。
「九州元号である白鳳やら大化を畿内の天皇が拝受して使用していた
ことからも、九州王朝に対する畿内王権の従属性があきらかです。」
孝徳天皇の難波朝廷は曲者だという気がします。イギリスとアメリカ
の関係を想起しますが、即従属かどうかについては見当が必要です。
152 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/19(土) 16:54:58
>>147 じゃぁ九州各地に所在する、多々現存する古墳群は何なのか? 江戸時代あたり
にでもできたと云うのか??w 噴火があった。全部死んだ。王朝は無いなどと
考えるのは、風が吹けば桶屋が儲かる話のような短絡的な結論だな。
>>152 ある専門家は、鬼界アカホヤ火山の噴火で九州全体が人の住めない
不毛地帯になり、植生が回復するまで最低でも500年はかかったであ
ろうと推測しています。
つまり、5800年前には、また住めるようになったということです。
そのあと九州に住み着いた部族が、九州王朝を興したという推測は
可能ではありますが、しかし、いったいどこからやってきた部族なの
でしょう?
私は、元の住民が戻ってきたのではないかと推測しているのです。
154 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 17:51:38
155 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 18:18:37
>>153 三韓も百済も喜界カルデラ噴火の被害を逃れて半島に移り住んだ
九州の縄文人が作った国だとすれば、筑紫とのつながりが深いことが
自然に理解できます。また、百済が滅んだ後、棄民を東国に移住させ
たのも、毛野国も同族だったからではないでしょうか?
156 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 18:23:24
157 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 18:26:30
九州王朝が存在しただけではなく、九州に古代文明が存在した! これが結論だと思います。
158 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 18:31:10
>>153 >5800年前には、また住めるようになったということです。
元の住民の縄文人がどうなったか分からんが
3000年前の九州で稲作が始まるまで1800年間も有れば、その間に本州から新たな縄文人来て元通りになる。
意味の無い論議は止めましょう。
159 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 19:16:00
>>147-157 すばらしい、ついに古田氏を超える神降臨。
神キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
160 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 19:26:20
>151 継体元年から大化6年まで連綿と続いていますから 堂々と九州王朝と呼ぶことができます。 邪馬壱国の時代は王朝以前なのは当然で、旧石器時代から 九州王朝だなどと主張する人はいないでしょう。
>160 九州王朝が単数形かどうかを問題にしていましたから (dynasty or dynasties ? )単数であれば納得します。 単数形か複数形か曖昧なまま、近畿王家の万世一系(多分フィクション) を連想させるのが気に入りませんでした。 (この話題は私自身としてはもう蒸し返しません。)
162 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 20:15:21
旧石器時代どころか先土器時代から続く伝統ある 文明の担い手こそ九州王朝にふさわしいと思います。 大陸の文化や遺伝子を取り込んだ古代九州文明の 子孫が蓬莱・方丈・瀛洲という祖先がかつて住んで いた三神山を求めて帰ってきたと見るのが自然。
163 :
九州王 :2008/04/19(土) 20:28:13
@「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國・・・方可四百餘里・・・又南渡一海千餘里・・・方可三百里・・・又渡一海千餘里至末盧國・・・東南陸行五百里到伊都國・・・東南至奴國百里」 A「南至投馬國水行二十日・・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」 B「自郡至女王國萬二千餘里」 この三つの文章は同じ事を3回繰り返して説明している。 @の郡から奴國までを合計すると二千里になりBと一致する。 Aの日数は二千里を旅するのに掛かる日数。
164 :
九州王 :2008/04/19(土) 20:36:41
女王國は奴國のこと。 ただし「伊都國・・・世有王、皆統屬女王國」とあり王は伊都國に居た。 奴國は女王の治める邪馬壹國の中心都市だっので女王國と呼ばれた。
165 :
九州王 :2008/04/19(土) 20:47:08
「伊都國・・・世有王、皆統屬女王國」の意訳は 「ある世、伊都國には王が居た。女王國は(倭の国々を)全て統属していた。 伊都國の王は女王であり、伊都國に居ながら女王國を通じて倭の国々を支配していた。
166 :
九州王 :2008/04/19(土) 20:56:46
「邪馬壹國・・・可七萬餘戸」とは伊都國⇒女王國(奴國)⇒その他倭の24ヶ国の合計26ヶ国の事。 奴國(二萬餘戸)に25國の戸数(平均二千戸×25=五萬戸)を足して七萬戸と出たもの。
>>160 >継体元年から大化6年まで連綿と続いていますから
>堂々と九州王朝と呼ぶことができます。
たかが数百年続いた小国を九州王朝と呼ぶのはいかがなものでしょうか?
私は納得できません。
168 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 21:32:16
>167 ではあなただけ、王国と呼び続けてください。
>>168 私一人になってもそうします。ただし、王国ではなく九州文明です。
今、世界ふしぎ発見を見て気がついたのだけれど、
インダス文明が起こったのは今から4000年前、
九州文明の子孫が移り住んで起こした文明かもしれません。
170 :
日本@名無史さん :2008/04/19(土) 21:41:34
フランス・ルイ文明 日本・畿内文明 いつまでも一人で叫んでいてくださいw>169
>>170 あなたは古代九州文明を愚弄するつもりですか?
だったら、もういこのスレにくる資格はないのではありませんか?
言葉は慎んだほうがいいですよ。
172 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/19(土) 22:01:58
>>169 倭人伝は女王国とハッキリ書いています。畿内ではありません、
どう考えても、九州文明のハイライトは、九州王朝時代でしょ
隋の煬帝に対して、対等な「天子同士」を自称した、 九州の王権は当然九州王朝といえます。
175 :
九州王 :2008/04/19(土) 22:28:47
┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┗━┓▲帯方郡庁∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┏┓┣━━━━┓∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┃┗┛∵∵∵∵┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┃∵∵∵∵∵∵∵┣━━━┫〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┃∵馬韓55国∵┏┛∵∵∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┗┓10万余戸∵┃辰韓12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┃∵∵∵∵∵┃弁辰12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┃∵∵┏━━┛4〜5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓海 海〜┏┛∵∵┃(投馬國) ┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┗━ 海〜┣━━━┛∵┏━○┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵ 海〜┃∵∵┏━━┛〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵ 海〜┗━━┛〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵┏━ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━┛海 海〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜┏━━┓━━━━━┛〜┏━┓ 海〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛∵┗ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵○◎∵∵∵∵┃〜〜〜┏┛侏儒國 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵邪馬壹國┗┓〜〜┗┓∵∵┏ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵26国∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┛7万余戸┏┛〜〜〜〜┗┛海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┣━━━━┳┛〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
古田は、近畿から「筑紫の君」と呼ばれたイワイをはじめとする ヒミコからタリシホコ、サチヤマに至る王たちは、 ツクシ王家が輩出させたとみているようだが、 隋書で竹斯国はタイに附庸しているわけだし、 どうも納得できない。
古田説の見直しは、確かに必要だと思う。 大宰府の地が一貫して都だったわけではないだろう。
178 :
日本@名無史さん :2008/04/20(日) 02:07:14
前スレでは随分書き込んだが・・・ 非合理性を論証したつもりだが 古田説の焼き直しばかりと証拠のない話ばかりなので遠ざかった まあこの手の話好きなのでまた来てしまった フトクニさんお久しぶりです
装飾古墳は九州王朝の残滓
引用:
「高松塚が発見された時代、学者の定説は、高松塚などの壁画を、辺境の地方豪族たちが
ものまねしたのだと、まことしやかに言われていた。しかし古墳の編年があきらかになるにつれ、
それはまったく大和偏重の見解ということがわかった。
(中略)
装飾古墳の隆盛期が大和の壁画よりずいぶんと早い時期のものだとわかったためである。
その後、大和の学者は極力九州などの装飾古墳研究にさわらなくなった。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/41442854.html
ところで、一度滅んだ九州に誰が最初に住みつくようになったかという 問題ですが、やはり、漁労の民だったのではないでしょうか? 瀬戸内海から日本海へ抜けるには、どうしても九州、特に鳴門海峡を 押さえる必要があります。噴火から間もない時期から拠点を築いていた 勢力があった。それは瀬戸内海の海族を抑えていた勢力、つまり吉備が 筑紫だったと考えられます。
181 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/20(日) 10:35:34
>>163-166 >>175 魏史倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜┌┃◎帯方郡∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜↓┠─[百濟] ─┬┴───┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜↓┃∵∵∵∵∵│(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜↓┃(馬韓55国)│(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜↓┃∵10万余戸│∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜〜〜〜
〜〜〜┌┘┃∵∵∵∵∵│∵[新羅] ∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜↓┏┛∵∵∵∵∵│∵瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜↓┠──────┘…◎………┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ┯
〜〜〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ↑
〜〜〜↓┃∵倭人地域┏━━━┛〜〜〜〜倭人居住韓地〜〜〜〜〜 │
〜〜〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜┏━━┓七千餘里〜┏━┓[都斯麻國] 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 使譯所通三十國
〜┃∵◎┃〜〜對馬國┃◎↓対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜┗━━┛〜〜〜〜〜┗←┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
[[身冉]牟羅國] 〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
182 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/20(日) 10:36:36
魏史倭人傳 [隋書俀國傳] 地図 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │ 〜〜〜〜〜〜 [一支國]┏→┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │ 〜〜〜〜〜〜〜一大國┃◎↓壱岐〜方可三百里〜〜〜〜┏━━━┓ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │ 〜〜現長崎佐賀県境┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │ 〜〜〜〜〜〜〜┏┿┛∵┗━┛[秦王國] ∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國 〜〜〜〜〜〜〜┃└末盧國◎→◎→┐五百里∵∵∵∵倭[俀國] ∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜┗┓[竹斯國] ∵∵∵↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓└┐∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國構成国 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓└──┐百里│┏┓├┐[邪靡堆 十万戸]∵ │ 不彌國:吉野ヶ里 〜〜〜〜〜狗奴國領域┗━┓∵│奴國●┃┃●●邪馬壹國 7万餘戸 │伊都國:佐賀市大和 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵│┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │邪馬壹國:久留米 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵│┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ ↓ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓└┻┓〜〜┃國∵┌─────── ┿現福岡熊本県境ライン 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ ↑ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵◎狗奴國∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國領域 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵倭[俀國] ∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
箸墓は卑弥呼の墓だとする説が有力です。 しかし、それだけでは邪馬台国が畿内にあったことの証拠にはならない。 台与の本拠地が畿内で、卑弥呼を祭ることによって権力の移譲を印象づ けたのだろう。三輪山の旧勢力を退け、卑弥呼を祭り上げることで畿内を 支配しようとしたのかもしれない。 卑弥呼には子供はおらず、最も血縁が近い人物は兄弟の子供ということ になる。つまり、卑弥呼の弟の大吉備津彦の娘か孫が台与と考えられる。 ではなぜ、吉備と邪馬台国がつながっているかと言えば、先にふれたよう に、鬼界カルデラの噴火で本州に移住した古代九州文明の末裔が吉備で あり、瀬戸内海の海族を制圧することで、筑紫から大和にかけて大きな勢 力となったと推測できる。
九州王朝の根拠の一つが元号制定ですが、これは西暦522年から。 今、王朝を、国名+元号のセットと考えると、 タイ国の王タリシホコをその一人とするアメ氏が王家でしょう。 倭国をタイ国と名称変更したのと元号制定は時期的に近いでしょう。 アメを名の頭にもつ近畿天皇家の者に、欽明、皇極、孝徳、天智、天武 がいます。欽明が九州の王家から大和入りしたとすると、 天皇家は九州王朝の分家であって、年号等は本家から借用し、国力が九州 より勝っていたため、本家と分家の本末転倒(本分転倒)が生じ、 最終的に日本に名称変更し(670年)て現在の日本書紀の体系が成立した。 ・・・・このようなシナリオがありえるのではないか、と思いつきました。 そうすると、「九州王朝」は、実際は近畿天皇家の本家であるのに、 名目は近畿天皇家の分家であって、中国との交渉はこの九州の分家が 行っていた、という理屈が成立してしまうのではないでしょうか。
>184 大筋、同意します。 九州王朝が半島における四百年戦争で疲弊しているあいだ、 九州王家の血統伝承をもつ神武を筆頭とする畿内天皇家は、 国力を上げていき、ついに九州王朝は畿内大和が引き継いだ のだとするストーリーを考案します(天武)。 引き継いだストーリーは古事記に結実させました。 このストーリーは中国側が旧唐書では否認しましたが、新唐書 では容認されました。
鹿児島県国分町川内に9500年前の縄文初期と見られる上野台遺跡の大規模集落や 鹿児島県加世田市の志風頭遺跡からは、世界最大級の縄文式土器が出土しており、 当時、南九州は世界の最先端を行く文化があったと考えられています。 この南九州の文明はたぶん、鬼界カルデラの噴火により滅亡したものと考えられます。 しかし、高度な文化をもった九州の縄文人全てが死に絶えたかというとそうではなかっ たはずです。 歴史とは連続しているものです。なにもなかった九州に、突然、文化が起こったはずが ありません。九州王朝があったとすれば、縄文初期の古代南九州、いや九州全域に栄 えていたであろう古代九州文明という下地があったからこそ生まれたものだと解釈すべ きではないでしょうか?
海洋民族は行動エリアが広いから、問題なし
188 :
日本@名無史さん :2008/04/20(日) 22:16:33
189 :
日本@名無史さん :2008/04/20(日) 23:57:11
>>184 九州王朝は存在したのに、記紀はそれを書いていない。ということは、記紀は信用できないということ。
ならば、思い切って、記紀が描く大和朝廷は存在しなかったと考えてみては?
九州にあった倭国朝廷が本物で、大和は記紀の出先に過ぎなかった。だから中国史書に出てこない。
この考え方が成立する可能性も十分にあると思いますがねえ。
190 :
日本@名無史さん :2008/04/21(月) 00:01:00
↑訂正 記紀の出先→九州の出先
191 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/21(月) 00:02:30
思い切りはやりすぎ。 ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・
>>189 >九州王朝は存在したのに、記紀はそれを書いていない。
>ということは、「記紀は信用できない」ということ。
←これはそのとおりです。九州王朝の業績(?)と存在自体を、
大和朝廷のものとして書き換えました。
>ならば、思い切って、記紀が描く大和朝廷は存在しなかった
>と考えてみては?
←記紀だけならばそのようなやりすぎを試みてもよいのですが、
「万葉集」や「日本霊異記」に抵触すると思います。
>九州にあった倭国朝廷が本物で、大和は九州の出先に過ぎなかった。
>だから中国史書に出てこない。この考え方が成立する可能性・・・
←出先というのではなく、単純に、九州の王家の者が移り住んだだけ
と考えてよいと思います。倭の五王の時代に、半島へ兵を投入するに
際して、九州王権から近畿の王権に動員がかけられたかどうか、が
判明すればよいのですが、動員は無理ではないでしょうか。
(527年の近江毛野臣6万の兵を率いて任那へ、の記事は、数は誇張
でしょうが、九州王朝でなく、大和朝廷の作戦でしょう。任那は、
豊の国・宇佐経由で、大和朝廷につながりがあるのでは?)
という推論により、「九州にあった倭国朝廷が本物」であることに
同意はしますが、大和は、九州の分家であると同時に、独自の発展
をとげた王朝で、出先というのとは違う、と思います。
193 :
日本@名無史さん :2008/04/21(月) 02:19:24
>>179 >引用:
>「高松塚が発見された時代、学者の定説は、高松塚などの壁画を、辺境の地方豪族たちが
>ものまねしたのだと、まことしやかに言われていた。(以下略)
(引用だから、本当はそのブログの作者に、文句言わんといかんのだが、とりあえずここで・・・・)
んなこたあ、絶対ない!
こいつ(=ブログ作者)は、アホ!
こいつは最近になって古代史に興味をもち、テキトーに関係書をついばんで
思いつきでデタラメの考古学史を捏造するとんでもないヤシ!
昭和47年、高松塚壁画発見時の雰囲気や新聞報道などは、全く知らないか、まるで無関心だったヤシ!
ブログの別の考古学記事もちらちらっと見てみたが、捏造大杉!
こんなものが「正しい」と思って引用しているのか?
>>179 は。wwwwwww
>>192 に追加
上記の推論が正しいとすると、「梁書」の扶桑国は、
関西(いき一郎説)でなく、古田の言うように関東であろう。
(「法隆寺の中の九州王朝」135ページ以下)
>>194 申し訳ない。194は取り消し。
扶桑国は「オケ」王(仁賢天皇だろう)、
高句麗の官制を取り入れた近畿の国だと思うので、
いき説に与する。
すると、527年の近江毛野臣6万(誇張)の出兵は
継体の時なので、継体が王位に就いた時に大異変を想定する。
196 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/21(月) 14:44:56
>>195 梁書のオケは顯宗天皇。倍暦計算により
顯宗即位元年=499年=永元元年
慧深報告年時はまだ仁賢は天皇になっていない。
あなたは倍暦計算での、当時の時点で14年ズレがあることを看過して、間違って
しまっている。
>>196 太国様
オケ または ヲケ のいずれか、という選択から、
仁賢をあてていますが、古代の8母音説が適用できるか
不明なので、固執はしません。
「倍暦計算」は太国さんの得意分野であられるようですが、
詳細について存じませんので、当面は判断保留です。
一般論として、系譜は記紀で共通なのに天皇の在位没年が
不一致なのが(確かそうでしたよね?)気になります。
198 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/21(月) 17:55:14
そんなに気にすることはないとしたい。 紀を編纂するにあたって、舎人親王らは必ず記を調べているだろう。だから記の 崩年干支も検討しただろう。それをあえて記に違えて紀年を記述したのだから、 よっぽど自信があったということになる。しっかりした紀の原書があったという ことであり、そちらのほうを強力に信用したということである。 ただ、天皇には百数十歳の超長寿の方が多く、この点は不審に持っていたで あろうが、天皇が現人神的思想が根付いていただろうから、天皇は超人的に 寿命が長くても、まぁこんなものかと素直に信仰解釈をしてたんだろう。
199 :
日本@名無史さん :2008/04/21(月) 20:25:57
6300年前の鬼界カルデラの噴火で住み慣れた土地を追われた 古代九州文明を起こした縄文人たちは、一体どこにいったのか? それが重要な問題です。 1.長江文明 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生して いた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア 文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千 年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕 る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」で あった。 この辺から調べてみると面白いと思います。 しかし、わたしは、九州文明を築いた縄文人が移住して作った 最大の勢力はやはり吉備だと見ています。なんだか忙しくなり そうです。
>>200 さらに付け加えれば、
2.三内丸山遺跡の関係・・成立時期やその文化的背景から古代九州文明
との関係が伺えます。
3.諏訪の御柱祭との関係・・善光寺如来と聖徳太子の往復書簡のなかの
九州元号など、九州とのかかわりは、縄文時代までさかのぼるらしい。
4.アイヌ人との関係・・阿蘇≒浅間≒aso(アイヌ語)、アイヌ語は九州説。
つまり、私は縄文文化九州起源説を考えています。
>>202 九州は縄文時代初期に火山噴火の影響で人口を減っています。
それに、このサイトの人口推計の根拠がはっきりしません。
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205 :
日本@名無史さん :2008/04/22(火) 02:22:25
>>192 丁寧なご意見、感謝します。若干私見を述べておきます。
>「万葉集」や「日本霊異記」に抵触すると思います。
日本書紀以後は全てその設定に影響されていると考えるべきでは?
>大和は、九州の分家であると同時に、独自の発展をとげた王朝
九州に倭国、大和に大和朝廷、二つがあったとすると理解しがたい点がいくつかあります。
その1は、ワカタケル大王。埼玉と熊本の刀剣にあった名前は同一人物でしょう。関東から九州まで同じ国家だったと考えるべきでは?
私は雄略ではなく、倭国大王の名前とみます。
その2は、九州年号。九州年号は九州にあった倭国王朝の年号。大和王朝が存在したならばなぜ年号を立てなかったのか?
その3は、外国史書に大和がまったく見えないこと。中国のみならず三国史記にも出てこない。新羅本紀等に倭国との記事はあるにかかわらずね。
4、5、6世紀に大和があったにしては不自然にすぎる。白村江の戦いについても、倭国と戦ったとあるだけで、大和とか日本とは書かれていない。
206 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/22(火) 08:08:16
九州王朝の記述が記紀にないから記紀は信用できないとの主張はおかしい。だい たい当時は九州と畿内は別国の気配が濃厚であるから、畿内朝廷は外国扱いの 九州王朝を書く必要性が薄い。まだ九州王朝が北九州沿岸にドンとあったんなら、 半島からの朝貢が畿内に来るついでに朝廷の影響下にいささか入るから、ついで で書いてもいいだろうが、それでも畿内からは遠隔である。 畿内朝廷と奥九州に位置する九州王朝が相互にえらくかけ離れた地理的場所に あるため、朝廷に九州王朝の情報が入ってきずらいため、記紀に記載すべきネタ がなかったというべきである。記紀に九州王朝が書かれてないことで記紀が信用 できないというのは早計であり、書かれてないことは両者が遠隔にあるため朝廷 が情報量がなく外国扱いで関心が薄かった意味に捉えるべきである。 埼玉と熊本は畿内から地図を一見すればなんだか等距離的にある感じが見え見え であり、これは雄略の全国支配のさきがけ的象徴品であろう。鉄剣の銘文の 辛亥年は倍暦計算から 雄略元年=471年 になる。 これは 雄略即位=470年 により、即位の紀念か、それを知らしめるため、遠隔 の関東、熊本に贈ったものであろう。しかし九州王朝は奥九州あたりに位置し、 しかも小さい王朝であった隔絶性の高い地域にあったことで、まだまだ朝廷とは 無関係的であったと想える。
関東にも王朝があったらしい
208 :
日本@名無史さん :2008/04/22(火) 21:47:28
関東に大王あり! 筑紫王の弟王だったのではないでしょうか?
209 :
日本@名無史さん :2008/04/22(火) 22:28:56
九州王朝の記述が記紀にないという主張自体がおかしいですよ。 だいたい、継体以前の王朝は、九州、大和、出雲、吉備、三河、 関東といったポリスの連合体だったわけだし、国を代表するポリス がどこだったかということは、さしたる問題ではなかったものと思わ れます。記紀は、大和の話だけをしているのではないと考えれば 特に違和感はありません。まあ、ほとんどは出雲神話なのですが。 九州にも王朝と呼べるだけの勢力はドンとあったわけだし、天武 天皇が九州に住んでいたか大和に住んでいたかということは、 さほど意味がないことです。
210 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/22(火) 22:38:15
九州王朝は奥九州のいささか北九州から隔離されてる地域にあっ たと考えられる。卑弥呼の女王国も同様。隔離的ということは畿内 朝廷から感知しにくい位置にあったということが正解。そんな所 じゃぁ畿内に女王国の情報は得られにくい。記紀の原書にそういう 隔絶地の情報が入手できなかったから記述が皆無同然で記紀に書く ネタが無い。
211 :
日本@名無史さん :2008/04/22(火) 22:46:35
記紀に記録がなくても、風土記にはありそうですね。風土記は、全国の 歴史を集めるわけだし、支配が緩やかだった地域でも歴史を集めるこ とは可能だったはずです。
>>205 「大和は、九州の分家であると同時に独自の発展をとげた王朝」
という仮説が成立するかどうか、205氏への対論を提出してみます。
(1)ワカタケル大王。埼玉と熊本の刀剣の名前は同一人物でしょう。
←これには、九州王朝論者間にも異論があります。ワカタケルの剣が
出てから、「蝮」(たじひ)でなく「獲」になったのでしたね。
(1')関東から九州まで同じ国家だったのでは? ×雄略、○倭国大王
←関東と九州とが遠交国家で、近畿は別の王朝、とも仮定できます。
九州の倭国大王が熊本と埼玉に剣を下賜したとみます。装飾古墳の分布。
あと、防人の起源はこの仮定を支持するのではないでしょうか?
梁書の、倭国、文身国、大漢国、扶桑国をそれぞれ、九州、北陸、関東、
近畿にあてはめるなら、6世紀に関東から九州までというのは無理です。
(2)九州年号。大和王朝が存在したならなぜ年号を立てなかったか?
←九州も522年からですね。(以下は更なる仮定の重複ですが)梁書
扶桑国が近畿王朝(河内王朝)だとすると、継体で別王朝になり、
更に欽明が九州から近畿入りして九州王朝の分国を樹立し、九州年号
を使ったとします。扶桑国や継体朝に年号があったとしても、万世一系
の建前上、その年号は国名と共々、抹殺する必要があったでしょう。
(3)外国史書に大和がまったく見えない。中国、三国史記にも。
←ヤマトの名称は、九州から移住した人々が、今の奈良県あたりに
持ち込んだと仮定できます。(地名については、甘木市の周りの地名と
大和の周りの地名が一致することを、安本氏が指摘していますね。)
国名は、扶桑国以外は、倭国、タイ国分国、などが考えられますが、
近畿王朝は倭国か大倭国(やまと)だったのではないでしょうか。
(3')4、5、6世紀に大和があったにしては不自然にすぎる。
白村江の戦いについても、倭国と戦ったとあるだけ。
←ヤマダイかヤマタイの国は九州ですが、倭国は九州+近畿ですから
大和朝廷は存在せずとも、近畿倭国はあったでしょう。で、近畿倭国
の日本への名称変更は670年ですから、白村江は倭との戦争です。
以上、九州分家の大和の独自展開は、まだ成立すると考えます。
記紀は信頼できる国史です。 わが国唯一の正統な王朝は大和朝廷のみ。 九州にあったのは国家とは呼べない「くに」。 その事実を覆すだけの確固たる証拠もないのに、 なぜその事実を素直に受け入れようとしないのか 不思議です。
214 :
日本@名無史さん :2008/04/23(水) 08:02:06
神武東征譚とは、日向、豊、吉備、阿讃、河内、紀伊など、 西日本の海上ネットワークに基盤を置く勢力であった遠祖が、 内陸大和に進出して東日本との交易権を獲得したと言う伝承でしょう。 この説話こそは、まさしく大和の地においてしか成立しえない話ですね。
>213 その事実を覆すだけの確固たる証拠もないのに ←隋書の阿蘇山のある国に大和朝廷はありませんですた(笑) >214 西日本の海上ネットワークに基盤を置く勢力であった遠祖が、 内陸大和に進出して東日本との交易権を獲得したと言う伝承 ←交易権でなくて銅鐸を破砕する権利でしょ(笑)
216 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/23(水) 11:01:46
>>208 貴方も兄王弟王論ですね。ぼく以外では初めてみました。
兄王:筑紫で点々と居住場所(都)を変えていた。九州年号を制定
筑紫弟王:讃、珍、済、興、武、磐井、多利思北孤、薩夜麻、等
浪速弟王:応神〜天武の畿内歴代天皇(継体〜宣化は除く)
出雲弟王:島根、鳥取
加賀弟王:北陸
尾張弟王:愛知、岐阜
夷弟王:関東
蝦夷弟王:宮城、福島、岩手。7世紀〜8世紀母禮(モレ)・阿弖流爲(アテルイ)迄。
217 :
日本@名無史さん :2008/04/23(水) 12:25:57
218 :
日本@名無史さん :2008/04/23(水) 19:00:12
>>215 言わんとするところが、よく読み取れないのだが、
一つだけ気をつけた方がよいことを指摘しておく。
「破砕する権利」
ものを破砕するのだから、それは処分権の実行であり、
そのものの所有権を保持していること示している。
そして、所有権の行使には使役・貸付・譲渡・所蔵・
変造・遺棄・破却等いろいろな形態がある。
単に破砕しただけであれば、この中の変造に該当すると思うが、
その後にそれを鋳直して別の製品にしたり、
破砕祭祠の葬具としたり、
極稀にそのまま捨ててしまったりすることになる。
要は「破砕する」だけでは所有権行使としては中途半端なので、
わざわざ題目にあげて書くのはどうかと思う。
単に銅鐸を奪ったと言いたいなら所有権と書けばいいこと。
破砕する権利なんて言うすっとんきょうな表現が
なぜ出てきたのか、おじさんはとても興味がある。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。 || ○重複スレには誘導リンクを貼って放置。ウザイと思ったらそのまま放置。 || ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを || 与えないで下さい。 .Λ_Λ || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。 || ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
220 :
日本@名無史さん :2008/04/23(水) 21:18:03
あげあげ
九州妄朝
九州王朝はなかった
>212 「(1)ワカタケル大王。埼玉と熊本の刀剣の名前は同一人物でしょう。 ←これには、九州王朝論者間にも異論があります。」の部分にコメント。 仮に井上光貞氏の言うように、稲荷山鉄剣と江田船山太刀の銘の大王が ワカタケルで、これが近畿王家の雄略であり、(江田船山は下賜かどうか 確定しないが、一仮説として)共に雄略が下賜したとする。その場合、 九州王朝説は破綻したことになるだろうか? 否。応神(河内王朝)を出した九州の一豪族に縁故があったにすぎず、 九州の王者は(磐井の先祖?)別にいたと考えることができる。
九州王朝はなかった ですませておれる幸福なお人よしになれれば 古代史に深入りしないですむのになあ・・・
「戦前の国史」をそのまま信じて 「大和朝廷一元史観」を100%信仰して 「九州王朝はなかった」と喚くだけの人って、 まだいるんだね。 きっとこう言うんだろうな。 「だって教科書に書いてなかったから・・・」
たとえばアインシュタインが相対性理論を提唱しても、 ニュートン力学は近似的に正しいわけで、日常生活 では何の支障もなく使われ続けられている。 ましてや、大和朝廷一元説を包括的に解釈し、しかも 歴史観そのものを覆すだけの学説が提唱されていな い現状では、教科書が正しいと考えるのがむしろ当 然です。 やはり、大和朝廷と筑紫、熊襲、出雲、吉備、紀伊、 三河、越、諏訪、関東、蝦夷、津軽など各地の小王 が、すべて鬼界カルデラの噴火で消滅した古代九州 文明を起源とする兄弟王だとする「九州文明起源説」 こそ、縄文時代から続く日本の成り立ちを包括的に 説明しうる説だと思う。 そうでないと、日本列島に住む日本人が地域差や少数 民族も混じっているものの全国的に均一な民族的同一 性を保っていることを説明できない。
・ニュートン力学は日常生活では何の支障もなく使われ続けられている ・歴史観そのものを覆すだけの学説が提唱されていない現状 ・日本人が全国的に均一な民族的同一保っている 事実誤認と私一人の仮説をミックスした荒らしの常連さんです。 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。 || ○重複スレには誘導リンクを貼って放置。ウザイと思ったらそのまま放置。 || ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを || 与えないで下さい。 .Λ_Λ || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。 || ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
228 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 14:15:54
>>225 何でもかんでも大和ではないとすることが
「皇国史観」からの解脱だと信じて
「九州王朝!」と喚くだけの人って、
まだいるんだね。
きっとこう言うんだろうな。
「だって、年号があるから…」
「だって、大和論者は皇国史観信者だから…」
229 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/24(木) 14:36:33
とにかく当時の日本は九州と畿内と二国あったのさ。大陸も半島も国が分立して いたのと同様、日本も例外ではなく、畿内一国ではなかったということだ。 これが古代史の真。
230 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/24(木) 17:11:32
とにかく当時の日本は、九州と畿内と二国あっただけでなく、数多くの小国大国があったのさ。 大陸も半島も国が分立して、それらが集合離散と変化していたのと同様に、 日本も例外ではなく多数の国々が集合離散し変遷していたと考えなくてはならない。 1世紀から8世紀までの日本を一律に論じるのはどうかと思う。
231 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/24(木) 17:17:04
なおも正確に云えばそういうことになる。いまのは大きい意味で の話。
232 :
にんとく :2008/04/24(木) 18:56:19
私見によれば、『梁書』の記述も日本の複数の国の根拠になる。 即ち、@倭国、A文身国、B大漢国、C扶桑国、がそれだ。 古代日本について「魏志倭人伝」にのみ興味が集中している 感があるが、岩波文庫の旧版にはABCの部分がカットされ、 岩波文庫新版でもBCがカットされている。 Cの読み下し文は古田『法隆寺の中の九州王朝』135頁以下に 紹介されているが、原文の漢文を持っている人は少なかろう。 ここに、岩波新版で参考として挙げられていないという事実が 無意識の皇国史観がいかに強力であるかを示している。
233 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 21:26:15
>>230 二国あったというのは適切ではないと思います。
正確には、二国が朝貢していたとすべきではないでしょうか?
234 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 22:01:51
>>227 自説に反する書き込みは全て荒らしなのでしょうか?
多様な意見を受け入れないのはおかしいと思います。
235 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 22:15:21
>>229 そんな単純馬鹿な発想ができるっておめでたいね。
少なくとも神功皇后の時代から宇佐・日向・阿蘇の王族は
畿内政権と皇祖神関連で繋がりがあったのは間違いなく、それに
反発する勢力があったのも確かでちゃんと書かれてるじゃん。
女王征伐とか熊襲とかな。
「自説に反する書き込みは」は言いがかりです。 デマかそれに近いトンデモ説を書き込むのが荒らしです。 自覚していないでしょうが、デマは意見ではありません。 このスレに書き込むのを止めてご自分のスレを立ててくだせえ。
ここで議論すべきか別スレがふさわしいか、九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y の意見を尊重したい。
238 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 22:46:37
どこがトンデモ説だというのでしょう? 筑紫と毛野国は兄弟国。 白村江の戦でも、ともに戦ったのに、 同族ではないとおっしゃるのでしょうか? 毛野国は筑紫に支配されていて、 いやいや出兵させられただけなのでしょうか? その起源を古代九州文明に求めるのが それほどおかしな説でしょうか?
239 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 22:51:06
>>232 扶桑国は濃尾平野の国の事だっての
犬山(桃山)
飛鳥朝廷
蘇我氏
聖徳太子
奈良には居ないよ
蘇我入鹿は奈良の藤原京に、蘇我馬子の身代わりとして連れてかれた可能性はあるけどさ
240 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/24(木) 22:53:12
>>235 皇祖皇宗のほうは神道であり、卑弥呼の鬼道ではない。紀に九州のことが書かれ
てあるからといって、それが九州王朝の記述だとは必ずしも云い難い。
女王国は沿岸の人里離れた九州奥地にあったと想える。そういう所の情報は簡単
に畿内に流れてこない。半島から畿内では対馬、北九州、中国地方を経由し、
うんとではないが、わりかし流入していたようだ。
女王国は地理的に到達が結構困難な大陸半島人にとって未知な領域に小さい規模
で存在していたということである。それがたまたま北九州に来ていた大陸半島の
者に発見されて、大陸まで希少な情報が届いたということなのだ。到達困難なの
は、拓けてない準密林の地理的状況に加え、山賊等もいたろうし、薮蛇的地帯だ
ったためと観てよい。
つまり、おめでたいのはお前のほうだ。ww
241 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 22:53:31
昔の日本の呼び名として、中国の魏志倭人伝より古い書物とかに ・扶桑 ・東海 ・蓬莱 ってのがある 全部、濃尾平野にあった國(朝廷)の呼び名だよ
242 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 22:54:16
起源て言い方も変だよね。 九州も畿内もその途中もたくさん 大きな国があって王族がいるわけだから。それを起源とか王朝とか 呼んでいく理由がわからない。大体歴代の天皇の嫁の出身地みりゃ 支配区域が一目両全じゃね? 祟神以前は畿内周辺以外から居ないのに、それからいきなり全国区。 つまり何がいつあったか(ry
243 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 22:57:59
九州王朝は有ったとして、それは日本の古来の氏族のどの氏族って言いたい訳ですか? 沖縄には琉球王朝 他にアイヌ王朝 日本には別にこういった王朝も存在してた訳だから別に九州王朝が有ったとしてもなんら不思議は無いよ ただあったとしても、琉球やアイヌより早く滅んだ沢山あった王朝の内の1つなだけでしょ?
244 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 22:58:35
>>240 >>女王国は沿岸の人里離れた九州奥地
これに当てはまるのは九州じゃ西臼杵郡をはじめとする大分南部と
宮崎北部が一番有力ですな。
海に近いのに人が入るのも険しい山奥。
245 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 23:01:16
>>242 「日本の日本民族の起源」
見たいな言い方はおかしいよね?
日本民族は明治時代まであった氏神制度で、どの氏族なのかとかまで戸籍に乗ってた国なんだし
仮に今の天皇や朝廷の起源と言いたいとしても、彼らの氏族は天照を起源とした氏族だから九州とは関係無いよ
246 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 23:04:42
まさか九州北部を邪馬台国なんていってる馬鹿は居ないでしょ。 あそこは平野ばかりで船を使う理由がまったくなく 古代でも徒歩で十分回れるし。 中国からみて非常に近く、影響も十分見える西側の鹿児島・熊本・長崎を 無視するか?本当に30数国全部、福岡県に詰め込もうとする基地外ぶりには 非常に恐れ入るよ。 大体、あんな筑紫以南は山ばかりで非常にアクセス困難。 あんな場所から九州統一の王朝など成立できようもないうえ 鉄器では熊本が圧倒してるわな。阿蘇家は熊本から塩の技術とともに 本土に東遷してるのになにが九州王朝だよ。
247 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/24(木) 23:08:13
>>246 なにがもクソもないよ。もう年号が多々出てるんだ。だからお前の
考えがどこか狂ってるんだよ。
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・
248 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 23:11:26
>>247 美濃太国の基地外年号ですな。美濃と妄想年号ばかりでおめでた過ぎる。
249 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 23:18:07
俺は九州王朝の存在自体は否定してないよ 琉球王朝もあったし、関東王朝や東北王朝があったとしても不思議じゃない ただ九州王朝があったとして日本の発祥だとか起源だとか言い出すのは違うと思うよ ちなみに邪馬台国やら卑弥呼やらを、日本の発祥だとか起源だとかするのもまた違うと思ってる
250 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 23:22:56
美濃もん太は現在の皇族の伝承する書物をすべてデタラメという んだからどうしようもないな。天孫降臨の地を足蹴にすると 本当に天罰が下るぞ、といっても在日だからどうでもいいのかw
251 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 23:33:21
>>250 おれそんな事、一言でもいったかあ?
記期も風土記も古史古伝も、全て歴史的資料で、偽書扱いしてきた明治以降の先人はアホ
とは言った覚えはあるけど
つか天孫光臨って日向三代達でしょ?
その神話の残る昔、日本府が置かれて日本が統治してた場所もどこか特定出来てるし
イザナミイザナキが降り立った天地光臨の場所がどこかも特定出来てるよ
>246 まさか九州北部を邪馬台国なんていってる馬鹿は居ないでしょ あそこは平野ばかりで船を使う理由がまったくなく古代でも徒歩で 郡を起点として、船と徒歩を合わせて邪馬台国に着く という解釈が成立する。こう解釈する者が馬鹿とは いちがいに言えない。
253 :
日本@名無史さん :2008/04/24(木) 23:36:43
そもそもイザナミが天照を産んだ場所や話も、きちんと現在まで伝えられてる事だし、場所も特定出来るよ そもそもイザナミ達以前に大地に降臨した、国之常立神の降り立った地とかもちゃんと伝えられてるよ
254 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 23:42:37
日本の書物の記期の神や伝承がどの場所の話かぐらいちゃんと調べれば解るよ 記期では大まかに 1 国之常立神が降臨 2 イザナミイザナキが降臨 3 天照が産まれる 4 スサノオ追放 5 天孫降臨 地名を当てはめりゃ 1 国之常立神が降臨(飛騨、位山) 2 イザナミイザナキが降臨(岐阜、中津川市) 3 天照が産まれる(岐阜、中津川市阿木) 4 スサノオ追放(長野、諏訪) 5 天孫降臨(筑紫國、斉州島) だよ
蓑悶太は電波だろ そもそも、少数の氏族が多くに分かれ、今に至るような見方は誤りだ。 結婚の形態も、女の村に男が通い、結婚して居つくようなことがかなり多い。 簡単に今日の「氏族」という概念を振りかざしてもダメ。 それから、扶桑・蓬莱の候補地でマイナーなのは濃尾平野だ。 ましてや濃尾王朝など旧石器時代から今日まで存在しない。
>254の全部 おおハズレ
濃尾王朝よりは、日本海溝王朝のほうがまだマシだ。
258 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 23:48:59
>>255 蘇我氏の飛鳥朝廷があった場所は奈良じゃなく岐阜だって事を知らないからでしょ?
蘇我朝廷が王任の乱で負けて滅んだから、藤原京、平城京、平安京とかの畿内へ宗教施設とかが全部移設されたんだよ
そもそもなぜ関ヶ原で王任の乱を戦ったのか解るでしょ?
あと扶桑略記などに書かれてる飛鳥宮の様子は犬山から飛鳥宮を見た様子と完全に一致する理由も、奈良じゃなく岐阜にあったからだよ
そもそも奈良の大和川じゃ船で物資なんか運べ無いし、河口の海なんか見えないだろ?
>258 そんなこと、どうでもよいことですが何か?
260 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/24(木) 23:50:58
>>256 否定するまえに自分で調べりゃいいのに
きちんと伝承してるし古代書物の記述とも一致するよ
そのうち、俺は濃尾平野の天皇だとさわぎだす美濃もん太
262 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/25(金) 00:13:08
信じるとか信じないとかの話じゃないよ 嘘だと思うなら自分で調べて見ろって話だよ だいたい記期にも神坂峠や恵那山が何度も出てきてるだろっての
263 :
日本@名無史さん :2008/04/25(金) 00:28:00
>>258 >蘇我朝廷が王任の乱で負けて滅んだ
王任の乱て?
264 :
日本@名無史さん :2008/04/25(金) 00:54:05
応仁の乱か。 随分噛み合わない話だなw
おらが村こそ古代王朝=美濃馬鹿
266 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/25(金) 01:44:28
美濃王朝なんて言ってないよ 濃尾にあった蘇我氏らの飛鳥朝廷は戦いに負けて滅んだってだけの話 んでその後、勝った勢力が作ったのが平城京であり平安京だよ そんだけの話だよ 日本は沢山の氏族がいる氏族国家だよ
「九州王朝説 - Wikipedia」壬申の乱の項目の説明ーー 以下のことから壬申の乱の舞台は、九州であると考えられる。 ・この記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ 「京」と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は 持たない)、これは当時日本に存在していた唯一の都市である大宰府 のことと考えられる。 ・この乱では、大分恵尺(えさか)・大分稚臣(わかみ)等の九州の 豪族が活躍している。 ・ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、 佐賀県鹿島である。 ーーこれだけの理由で、舞台が近畿でなく九州である、と推論する のは強引過ぎるのではないか? 九州王朝説の論者の中に、日本書紀を疑うのは当然としても、 その度合の過ぎた者がいるのではないか?
壬申の乱は、ちゃんばらの舞台としては畿内でしょ。
古典の地名はすべて美濃にあると言い出す美濃馬鹿
>>267 乱当時の都は、飛鳥じゃなくて大津京だよ。
271 :
日本@名無史さん :2008/04/25(金) 10:39:16
関東に大王あり! それ筑紫の兄王なり。 以て、百済に出兵せり。 兵6万。 敗北と見せかけて撤退。 弟王を倒し、倭国を統一したり。
「王朝」とか言うと中国の皇帝制度をある程度模倣したものでしょうね。 単に独立的な権力ということなら、大小雑多に存在していたと思うから。
274 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/26(土) 11:57:33
6世紀の倭(俀)國の都は何処か? @『此地帝都。近気於今。在一百餘歳。一百年竟。遷京北方。在三百年之後。』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年) 上記記事は倭京(大宰府)遷都618年の前年である。 多利思北孤上宮法皇のいた都の地は、100年余り続き、都として100年を期して、北方の大宰府に遷都する。 この都は継体元年517年から丁度100年になるのである。 多利思北孤上宮法皇は大宰府の南方の都にいたのである。 A邪馬臺(壹)國と邪靡堆は同じ場所である。「隋書俀國傳」 ゆえに魏使と隋使の行路は同じである。 B「隋書俀國傳」と「魏使倭人傳」の行路記述と地形記述は満足しなければならない。 此処だ 6世紀の倭國(九州王朝・大倭・俀)の都は久留米であった。517年〜617年の100年間 なお久留米は倭國九州王朝となる前の数年間(元号がない期間)510年頃から権力の中枢地であったようだ。
>>274 九州王朝大好きさん
「6世紀の倭(俀)國の都は何処か?
@『此地帝都。近気於今。在一百餘歳。一百年竟。
遷京北方。在三百年之後。』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)」
←聖徳太子の伝記としては信頼度が低いとみなされる「伝暦」が、
実は多利思北孤の伝であった、という理解でよろしいですね?
漢文の読みが今一つ定かでないのですが、邪馬台に300年都を置いた後に
北方に遷都し、その後100年経った。(次は大宰府に移る。)
と解釈できるのではないでしょうか? また「継体元年」が(507年でなく)
517年というのは、何か根拠はあるのでしょうか?
いずれにせよ、多利思北孤の都、大宰府の南方の都、久留米、説は、
十分に傾聴させていただきます。
中津に一票。
北キツネの都と着たら北海道 オホーツク・アイヌ文化との関係が推測されます。
278 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/26(土) 20:14:30
>>275 にんとく さん
(a)聖徳太子は、多利思北孤をモデルにした架空の人物として、
推古紀に挿入されたものですから。
(b)継体元年は二中歴によると丁酉ですから517年になります。
もし丁丑なら507年ですけれど?
継体元年は継体天皇が即位した年ではないでしょう。
元号「継体」を借用したのが男大迹尊であって、
武烈から継体に移行したのと同じ様な政治情勢が九州の倭武の時にあり、
それで元号継体が男大迹尊に使われたのだと思えます。
(僕は未だこれを詰めることが出来ていません。倭武は何者かが今のところ判っていないので。)
(3)「在三百年之後」については、未だ理解できていません。(読めていません)
279 :
日本@名無史さん :2008/04/26(土) 21:26:13
厩の皇子とキリストの出生は似ています。 処女受胎、厩で生まれた、受難などの話は、中国雲南省をルーツとする 倭族に共通しているようです。父親がわからないというのは、通い婚の 風習に合致します。つまり、九州文明の子孫が長江文明を起こし、そし て秦が滅びると九州に戻ってきたことがわかります。 「世界ふしぎ発見」で安田先生もカンボジア、日本同根説を唱えています。
280 :
日本@名無史さん :2008/04/26(土) 23:39:11
>>267 九州に何時まで王朝が在ったか?
@始めから畿内中心に日本は発展し、九州には王朝など存在しなかた。
A邪馬台国は九州に在ったが、別に在った畿内の勢力が中心に日本は発展した。
B邪馬台国は九州に在ったが畿内に東征し、その後畿内中心に日本は発展した。
C邪馬台国は九州に在り、白村江の戦いで破れて滅亡するまで九州に在った。
D邪馬台国は九州に在り、白村江の戦いで破れてもなお存続し、畿内に遷都した。
E邪馬台国は九州に在り、白村江の戦いで破れてもなお存続し、九州の内乱、壬申の乱で自滅状態になった。
どれが正しいでしょう。
Eが近いと思う。 壬申の乱の中心舞台が九州かどうかは疑問だが、郭務ソウ上陸後は「九州王朝の体面」は完全剥奪され、 筑紫都督府政権に成り下がり、天武即位後に至っては九州王権は崩壊するばかりだったろう。
Bを修正、邪馬台国の勢力の一部が東征 Cを修正、敗れたが残存勢力があった(と考えた方が九州年号が 説明しやすい) 多分、私の現時点での仮説は以上のとおりです。 wikipediaの説を初め、比較的柔軟で幅広い澤田説などを参照しつつ より真相に肉薄できればと思います。
百済は日本固有の領土だったわけだし、早く返してほしいものですね。 朝鮮人は侵略者。という説なんですか?
284 :
日本@名無史さん :2008/04/27(日) 09:42:09
F邪馬台国は九州に在り、白村江の戦いで敗れても滅亡することなく、実は今も存在し続けている。
日本は百済固有の領土だったわけだし、早く返してほしいものですね。 日本人は侵略者。という説なんですわ。
286 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/27(日) 11:28:29
>>267 >>280 G邪馬台国は九州に在り、白村江の戦いで破れてもなお存続し、九州の内乱、壬申の乱で分裂状態になった。
分裂後、一方は大和朝廷として発展し、もう一方は九州王朝として消滅する。
684年に九州王朝は再興を図るが巧くいかず、695年に九州王朝の天皇は暗殺される。
699年大和朝廷は軍事的にも薩摩を除いて九州王朝制圧を完了した。
九州王朝の天皇(女帝)は薩摩で肥軍と共に抵抗するが、700年6月捕らえられ処刑され、九州王朝は消滅することとなった。
九州王朝残存勢力の組織的抵抗は続くが717年には終わった。
しかし、九州王朝支持残存勢力は肥前には残り続け、大和朝廷の対唐外交を妨害し続けた。
(遣唐使の成功率が2割程度なのも、肥前九州王朝残存勢力による海上妨害活動(捕捉されれば全員虐殺)によるものであった。)
別府と言えば、鬼界カルデラの噴火で滅んだ上野原遺跡のあった所です。 この九州文明発祥の地が九州王朝最後の都となったことに宿命みたいな ものを感じます。
常識的とは言えない命題・主張については 論拠をあげてもらえればありがたい。 そうすれば、ありうべき推論か、脳内の妄想かの区別ができます。
289 :
日本@名無史さん :2008/04/27(日) 15:48:14
>>288 皆さんが九州王朝の存在を証明しようとして書いていること
それらは全て、古代九州文明の存在を証明することになります。
なぜなら、九州王朝のルーツが古代九州文明なのですから。
九州王朝を打ち立てた人々には祖先がいなかったとでもお思いですか?
>>289 >九州王朝のルーツが古代九州文明なのですから
この個所について論拠をあげてもらいたい
291 :
日本@名無史さん :2008/04/27(日) 21:12:34
>>289 >九州王朝のルーツが古代九州文明なのですから
この個所について論拠をあげてもらいたい
293 :
日本@名無史さん :2008/04/27(日) 22:15:32
>>292 その質問は、そのまま、あなたにお返ししましょう。
九州王朝はどこから来たと思っているのですか?
まさか、御神木に舞い降りたと思っているわけではないですよね?
>>293 を書き込んだ者には、
>九州王朝のルーツが古代九州文明なのですから
の論拠があげられないことが判明した。
よって「九州王朝はどこから来たか」という問いが
現時点では成立しないことも同時に判明したのである。
>>294 まあ熱くなるな。九州王朝説て結局のトコ
「どっこの文献にも載ってない」王朝を元に架空歴史を作り上げ、自分達だけで楽しんでるわけだろ?
この先教科書に載る事も絶っっっ対にあるわけないし人畜無害じゃん。
東北王朝でも北海道王朝でも樺太王朝でも好きにさせたら?
>>294 まあ熱くなるな。九州文明説て結局のトコ
「どっこの文献にも載ってない」文明を元に架空歴史をでっち上げ、
自分だけで楽しんでるわけだろ?
この先教科書に載る事も絶っっっ対にあるわけないし人畜無害じゃん。
東北文明でも北海道文明でも樺太文明でも好きにさせたら?
>>297 人畜無害じゃん。は事実誤認。
そうではなくて、人畜有害。悪質な荒らしだからね。
悪質な荒らしへの対処方法としては、完全な無視がベストだが、
わが同国人にはこんな卑劣な奴もいたのか、
というファーブル流の観察も得るところがあるかもしれないね。
299 :
日本@名無史さん :2008/04/28(月) 17:22:06
>>297 東日流外三郡誌の東北王朝は
その3つとも支配してたと伝えられてるよ。
あと千島も。
300 :
日本@名無史さん :2008/04/28(月) 17:25:15
>299 東日流外三郡誌では、そもそも倭の五王がツガルのアラハバキ王朝ということになっているのだが。
倭の五王は鬼界カルデラの噴火で失われた古代九州文明の末裔。 兄弟王です。いわゆる縄文人の王。
倭の五王はエリア火山の噴火で失われた古代地球文明の末裔。 癌細胞です。いわゆる三河人の王。
303 :
日本@名無史さん :2008/04/29(火) 04:43:34
鹿児島県史はなかなかいいよ。九州王朝には触れてないが、鹿児島県史を書いた方々は大和朝廷の記録が不可思議であり、何事かに気付いていたようですよ。
304 :
日本@名無史さん :2008/04/29(火) 07:31:08
九州王朝ではなく この日本国そのものが九州なのです。 本州(近畿地方まで)四国が正式な領域で 中部・東海・北陸が属領 関東以北・東北は植民地。 北海道は未開の原野なのです。
一種のファンタジー世界として 楽しんでるわけか。 なら別にいいな。
306 :
日本@名無史さん :2008/04/29(火) 07:49:06
同時期に東西で民族大移動は起こっていた! ヨーロッパの西進したフン族の圧迫された東ゴート族に起因するゲルマン民族の 大移動が有名ではあるが 実は同じことが東アジアでも起こっていたのである。 バイカル湖周辺に住んでいた人種が満州地方に南下、 それを騎馬民族が圧迫して朝鮮半島に流入してくる。 半島南部および九州にあった倭国はトコロテン方式で日本列島を東遷することになる。
307 :
日本@名無史さん :2008/04/29(火) 11:21:23
「陛下、隋書によれば、阿蘇山の近辺に九州王朝がござりました。」 「あっ、そう。」 「あ、溶岩が・・・」 「熱そう。」
309 :
日本@名無史さん :2008/04/29(火) 17:36:18
>>280 >>286 @Aは0%、突如として何も無い畿内から日本が発展したとは歴史の常識では考えられない。
Bは5%、畿内に東征した理由が無い。九州邪馬台国の一部の勢力が東方へ殖民し、その後発展した可能性はある。
Cは5%、外征の白村江の戦いで破れたぐらいでは、直ちに滅亡する事はないであろう。
Dは10%、遷都するには勢力圏から遠すぎる。
Eは20%、壬申の乱が九州の内乱である証拠が乏しい。
Fは0%、「実は今も存在し続けている。」・・・意味不明。
Gは10%、壬申の乱が九州の内乱である証拠が乏しい上に、「分裂後、一方は大和朝廷として発展し」・・・この説明が難しい。
残り50%はそれ以外の可能性。
>>309 Fではないのですか?
九州王朝の末裔は今もどこかで生き続け、
密かに王権復活をねらっれいるのかもしれませんよ。
>>310 Fではないのでないのであるのです。
三河王朝の末裔が今もパソコンの前で生き続け、
密かに王権奪取をねらっれいるのです。
京都郡と(旧)仲津郡。 どちらも元豊前国で、京都郡は国府があったような 場所ですが。宇佐・中津・日田そして 山間部に抜ければ甘木だろ。あの辺り一体の旧豊前国ですな。
「旧豊前国」は、隋書の「十余国」であって、 「竹斯国」「秦王国」がその西に位置し、 ヤマタイはその南側、阿蘇山寄りではないでしょうか。
314 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/30(水) 13:31:31
古事記では 「仲哀天皇はクマソ王征伐を目論み、筑紫国の加志比に宮を構えてそこに住んでた」 って書いてあるよ 仲哀が死んだ後に神功皇后は朝鮮半島に兵と氏族を送って、百済と新羅を作らせて統治してるよ この時代は仲哀天皇が九州北部辺りに宮を気付いて住んでた訳だね 神功天皇と縁があるのはその為だと思うよ あと南部にはクマソ王朝があったみたい
315 :
日本@名無史さん :2008/04/30(水) 21:33:29
女に政治をさせると感情に走って碌な事がないということに気づいたのがタリシホコ。
「類聚三代格」に、出雲国造、筑前宗像国造が、采女と称して、国の女を召 して自由にしてゐたのを、不都合だとして、禁止されたことが見えてゐる。 ・・・これは折口信夫が、宮廷の生活を国造が模倣していたことの例証に 挙げているのであるが、出雲、筑紫が、近畿大和の朝廷に服することが 最も遅く、謂わば国内国家を形成していたから、という解釈ができるのでは ないか、と読んでいて思った。が、この格の本文にも、又通説にもうとく、 恣意的な解釈かもしれない。
なんか、「謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!16」 に九州王朝支持派の勢力が移ったみたいですね。
そうやって、覇権を争うものは、その時々一番流行っている地域に 勢力を拡大しようとするものです。 それが大和だったわけですね。
319 :
日本@名無史さん :2008/05/02(金) 04:34:58
>>314 北薩出水に加紫久利神社ってあるそうですよ。隼人の首領加志公島麻呂(かしのきみしままろ)いう人が居たらしいです。
320 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 11:41:35
今までに九州王朝スレに書いてきた事の極一部を簡単にまとめてみました。 @『其南海行三月、有タン[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』隋書百濟伝 斉州島(タン[身冉]牟羅國)は、東西方向長さ千余里、南北方向長さ数百里。 斉州島の形は横長四辺形であると書かれている。 A『俀國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』隋書俀国伝 俀國は、百濟と新羅の東南方向で、水陸三千里離れた大海中の島国である。 B『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』隋書俀国伝 俀國は、南北方向長さは五月行、東西方向長さは三月行で、 俀國の形は縦長四辺形であり、周りは海である。 即ち俀國は大海中の島である九州島であると述べているのである。 C『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝 俀國の地勢は、海に取り囲まれているが、東が高く西が低い傾斜地である。 邪靡堆に都があり、その邪靡堆は魏志の邪馬臺である。 九州島において、そのような東が高く西が低い傾斜地は、 有明海東岸の筑紫平野と熊本平野である。 即ち、多利思北孤の都と卑弥呼の都は、筑紫平野か熊本平野の同じ場所にある。
321 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 11:44:19
D『從郡至倭・・・・・・・自郡至女王國萬二千餘里』魏志倭人伝 まず、Cの結論により、邪馬壹國は筑紫平野か熊本平野に存在しなければならない。 女王國の南には女王國に匹敵する狗奴國が存在する。 女王國内の邪馬壹國と狗奴國を九州島内に置くには、 邪馬壹國を筑紫平野に狗奴國を熊本平野に置くしかない。 邪馬壹國を熊本平野に置くと狗奴國を置く平野がなくなるからである。 E『魏志倭人伝』と『隋書俀國』の地理的整合性 以下とすれば整合する。説明は長くなるので省略。 *魏使と隋使の九州上陸地点「末羅國」と「竹斯國」は唐津である。 *魏志伊都國は佐賀市大和であり、隋書秦王國は唐津市浜玉であり、 隋書十餘國は嘉瀬川中流域から三養基郡に並ぶミニ国家群である。 *邪馬壹國と邪靡堆は久留米である。 F『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年) 多利思北孤上宮法皇のいる都のこの地は、都が建設されてから100年余り続き、 元号をも持つ正都として丁度100年目であり、北方への遷都が近づいている。 これは、この地が最初に都となってから300年後のことになる。 *上記記事は倭京(大宰府)へ遷都618年の前年である。 *多利思北孤上宮法皇は大宰府の南方の都(帝都)にいることになる。 *この都(此地帝都)は九州元号継体元年517年から丁度100年になる。 *多利思北孤と卑弥呼は同じ場所(邪靡堆と邪馬臺)の都にいたことから、 300年前から続くこの都(此地帝都)は久留米となる。
322 :
唐松山 :2008/05/02(金) 12:19:51
日本書記と古事記 を合わせた 編年が出来ました。 詳しくは 古伝妄信 を見て下さい。
323 :
日本@名無史さん :2008/05/02(金) 12:25:26
魏志倭人伝の邪馬壹國の300年以上も後の隋書俀国伝の邪靡堆は同じではないでしょう。 300年間には王朝が交代したり遷都があったりもしたでしょう。 魏志倭人伝の邪馬壹國は七萬餘戸もあり領域国家で北部九州一帯の国、都市ではない。 隋書俀国伝の邪靡堆は俀国の首都。
324 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 14:14:09
>>323 >魏志倭人伝の邪馬壹國の300年以上も後の隋書俀国伝の邪靡堆は同じではないでしょう。
読みましょう。
C『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝
『南至邪馬臺國、女王之所都』魏志倭人伝
325 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 14:51:31
>>323 >300年間には王朝が交代したり遷都があったりもしたでしょう。
交代はありました。でも、
F『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)
です。
326 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 17:16:58
隋書と魏志 更に聖徳太子伝暦や二中歴を合わせた 編年が出来ました。
詳しくは 古伝盲信(
>>320-321 ) を見て下さい。
327 :
日本@名無史さん :2008/05/02(金) 17:17:39
>>324 隋書俀国伝の曖昧な認識が正しいとは限らない。
魏志倭人伝の『南至邪馬臺國、女王之所都』は「南は女王の都がある邪馬臺國に至る」
邪馬臺國は女王の都ではない、国です。
328 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 17:48:33
329 :
日本@名無史さん :2008/05/02(金) 19:04:26
邪馬壹國は七萬餘戸もあり領域国家で北中部九州一帯の国だったので久留米も当然含まれるが、 大和とか山門の地名は北中部九州に多くあり、久留米に限定するのはどうでしょう? 久留米から阿蘇山の噴煙とか見えるの?
330 :
にんとく :2008/05/02(金) 20:54:09
>>328 九州王朝大好き、さま
これが「魏志」や「隋書」の唯一の可能な正しい解釈かどうかは
私には現時点で判断ができませんが、一解釈=仮説として、十分
に成立する、との印象を得ました。
あとは、九州王朝の消滅について、続編が拝見できれば、ありが
たいと思います。
331 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 22:05:43
>>329 あなたの言われるとおりです。
邪馬臺國の都が久留米だと言うことです。
邪馬臺國の国域はまだよくわかりませんが、
東は筑後川流域から、南は八女市まで、
場合によれば、現在の福岡県南限まで広がっていたと考えられます。
大川市・柳川市を中心地域とする投馬國と邪馬臺國の境界がはっきりしません。
阿蘇の活動がいかに活発であろうとも、
噴煙を見るには熊本県に入らないと無理です。
魏使は少なくとも菊池までは足を運ばないと。
332 :
日本@名無史さん :2008/05/02(金) 22:25:51
邪馬壹國の王都は伊都國、中心都市は奴國です、久留米は 斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國 の中のどれかでしょう。 邪馬壹國は七萬餘戸ですから国域は福岡県、佐賀県、長崎県、大分県、熊本県くらいはあったでしょう。 魏使じゃなくて隋の使者?
>>332 >久留米は・・・斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、
>不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、
>鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、の中のどれか・・・
これが確かだとすると、音宛てはよろしくないことを承知の上で、
k*r** または k*n** でしょうから、鬼奴國しか考えられないと思う。
久留米の地名は筑後川の物流により、米の集積地としてつけられたという 説があります。そのため久留米の名前は古代とはあまり関係がないのでは ないでしょうか。久留米周辺なら、御井とか三潴とかの名前のほうが古いと思います。 久留米中心地なら櫛原とか
335 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/03(土) 14:55:10
×魏使 ◎隋使
三潴を、「斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、 不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、 鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、」から強いて選ぶ なら、彌奴國しか考えられないね。
337 :
日本@名無史さん :2008/05/03(土) 23:29:34
久留米あたりは縄文時代には海の中。 津古って駅があるだろう?あのあたりが海岸線だった。 縄文初期は灌漑技術も貧弱だったし、一雨降れば水につか る湿地帯というか沼では稲作はしていなかった。
この連休は現地調査に行きべきですよ。 箸墓すら見たこともない人が卑弥呼を語れますか? 大宰府と水城もその規模を自分の目で確かめてくる とよいです。 それと、九州の縄文文化も見てきたほうが良いです。
立ち入れる古墳は須恵器を表採できる事もある
340 :
日本@名無史さん :2008/05/04(日) 01:36:35
>箸墓すら見たこともない人が卑弥呼を語れますか? 卑弥呼の墓ではないことは明確ですから、大いに語れます。
341 :
日本@名無史さん :2008/05/04(日) 02:49:06
邪馬國、これは今の中津市あたりでは? あのあたりの「山国」という地名は日本書紀にも 出てくる。
342 :
日本@名無史さん :2008/05/04(日) 02:55:53
とりあえず、魏志倭人伝に長崎・熊本・鹿児島県がまったく触れられないとは思えない。 大体、あそこらは一番中国と交流が深いうえ、九州の西側は中国に 一番近い。 つまり熊本や長崎などを倭人伝が無視している訳がなく、 魏志倭人伝のどこのルートに来てるのが、というのがポイントであろう。
343 :
日本@名無史さん :2008/05/04(日) 03:27:09
単純に大宰府ってなんぞやって話じゃないの? だから女王国とやらもその近辺にあったんだろう
344 :
日本@名無史さん :2008/05/04(日) 05:45:54
345 :
日本@名無史さん :2008/05/04(日) 06:50:15
>>340 何をもって未開の地?
碧玉や鉄量の優位とか?
ギリシャ文明も青銅器だったってこと
メソポタミア文明を起こしたシュメール人も青銅器文化を持っていました。 シュメールとは黒い髪の人の意、つまりモンゴロイド。彼らは、失われた 九州文明を起こした縄文人たちだったのかも知れない。
>>347 メソポタミア文明を起こしたシュメール人が、失われた
三河文明を起こした縄文人たちだったって、常識じゃん。
シュメールの命=すめらみこと
>>349 シュメール人は自称ではなくて、アッカド人がつけた呼称だとい
われています。むしろ、アッカドのほうが、「帝(ミカド)」の語源に近い
かと思われます。そしてそれが失われたユダヤ10支族の1つガド族
に繋がるのかもしれません。
そしてそれが失われたユダヤ10支族の1つガド族に繋がるのかもしれません。 そしてそれが失われたユダヤ10支族の1つガド族に繋がらないのかもしれません。 そしてそれが失われた九州文明に繋がるのかもしれません。 そしてそれが失われた九州文明に繋がらないのかもしれません。 そしてそれが失われた三河文明に繋がるのかもしれません。 そしてそれが失われた三河文明に繋がらないのかもしれません。 三河ウジの糞のかもしれませんが荒らしと繋がるか繋がらないか ツヌガアラシトにきけば教えてくれるかもしれません。
帝(ミカド)=御門
>>299 それはスゴイ!
しかし東北はマアいいとして、んなトコまで支配して思いっきり赤字なりそー
フツーに交易じゃダメなん?松前藩だって北海道全域支配してたわけじゃないだろ。
ねー四国王朝って無いの?四国の人可哀想じゃん。
>>354 残念ながらありません。
四国は死国、黄泉の国。
死んだ人がいくところですから。
>>354 >350を書いた人は四国王朝の末裔です。
「九州王朝」よりも「阿毎王朝」の方が学問的検証に耐えるだろうな。 阿毎王朝=多利思北孤がその王の一人であるところの王朝、ということ。
358 :
日本@名無史さん :2008/05/12(月) 16:54:33
>>355 そう、四国は黄泉の国、天上の国。
即ち高天原。
359 :
日本@名無史さん :2008/05/12(月) 19:36:42
高天原は壱岐だよ。
360 :
日本@名無史さん :2008/05/13(火) 20:38:03
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┏┛∵∵帯方郡∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┗━┓▲帯方郡庁∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┏┓┣━━━━┓∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┃┗┛∵∵∵∵┗┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┃∵∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┃∵馬韓55国∵┏┛∵∵∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┗┓10万余戸∵┃辰韓12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┃∵∵∵∵┏┛弁辰12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┃∵∵┏━┛∵4〜5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━ 海〜┏┛∵∵┃(投馬國) ┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵ 海〜┃∵∵∵狗邪韓國○┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵ 海〜┃∵∵┏┻━┛〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵ 海〜┗━━┛〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗ 海〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜┏━━┓━━━━━┛〜 海〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜伊都國○◎奴國(女王国)〜〜┏┛ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵邪馬壹國┗┓〜〜┗┓ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵26国∵∵┃〜〜〜┗ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┛7万余戸┏┛〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┣━━━━┳┛〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜海
高天原は、先ずアメノミナカヌシの神が生成したのであるから、 具体的な地域名を指しているわけではない。
362 :
日本@名無史さん :2008/05/14(水) 01:25:06
壱岐の北端が「たか天の原」であるなら 362の言い分を認めてもいいよ。
365 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/14(水) 16:40:10
〜〜〜〜┗━┓高句麗┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 →→→→→┐┗━┳━┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜↓┃∵∵百済∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜↓┗┓居抜城∵┃∵新羅∵◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜┳〜〜〜↓←┃◎∵∵┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜↑〜〜〜↓┏┛∵∵┏┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜三〜〜〜↓┗┳━━┛∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━ 〜月〜竹島↓┏╋━━━━┛〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵ 〜行〜〜〜↓┗┛〜〜隋使進路〜〜┏╋┛都斯麻國〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵ 〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵ 〜│〜南望タムラ國 〜〜〜〜〜〜└→→→→┐〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓ 〜┻──┏━┓済州島〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓↓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃┗ 〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜一支國┗┛↓〜┏━━╋━━━┯━┛〜 〜東西千里×南北数百里〜〜〜〜〜〜〜〜┏○━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓ タムラ國: [身冉]羅國〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃│〜〜┗ 〜〜〜 : [身冉]牟羅國〜〜〜〜〜〜〜〜│┗┛┏┛∵俀國∵┏┛五〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┏┓┃∵∵∵∵┏┛│月〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←──三月行──→┨〜〜〜〜
366 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/14(水) 16:45:01
上図の根拠 @『其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』隋書百濟伝 A『俀國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』隋書俀国伝 B『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』隋書俀国伝 C『度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國』隋書俀國伝 九州内記事 D『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝 E『又東至秦王國・・・・又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於俀』隋書俀國伝 F『倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞、既至彼都。』隋書俀國伝 G『從郡至倭・・・・・・・自郡至女王國萬二千餘里』魏志倭人伝 H『魏志倭人伝』と『隋書俀國伝』の地理的整合性 I『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)
367 :
日本@名無史さん :2008/05/14(水) 19:00:12
『牟羅國、南北千餘里、東西數百里』は短里(76m)でしょうね。 百済は『東西四百五十里、南北九百餘里』は長里ですね。
368 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/14(水) 23:09:46
タムラ國は短里ですね。 百済は長里ですね。 上の地図を描いていて、薩夜麻毛野連合軍が、白村江で大敗した大きな理由に気がついた。 壱岐を出発した倭軍船団は、途中寄港できる場所もなく、 そのまま態勢を整えることも出来ず、白村江に突っ込んでしまったのだ。
ほとんど八切化してきたな。
370 :
日本@名無史さん :2008/05/15(木) 11:14:01
371 :
日本@名無史さん :2008/05/15(木) 19:26:01
372 :
日本@名無史さん :2008/05/15(木) 19:51:08
>@『其南海行三月・・・ 三月は三日の誤まりか?
373 :
日本@名無史さん :2008/05/15(木) 19:55:25
>B『其國境東西五月行、南北三月行・・・。 この月行も怪しい。
太国氏の倍歴3倍歴と同じですね。 里を好きなように換算すれば、邪馬台国の場所なんて 好きなように解釈できる。 これも歴史とは呼べない。妄想の世界に近い。
375 :
日本@名無史さん :2008/05/15(木) 22:54:08
>>374 は
『牟羅國、南北千餘里、東西數百里』をどのように解釈するの?
376 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/15(木) 23:21:12
>>374 同じじゃない。こっちは紀の文からの論だ。恣意的にはやって
ないんだよ。それは欠史とかあるから、肉付けはある程度して考え
ねばならない。
377 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/16(金) 04:38:58
>>371 >木浦、巨文島、麗水と一杯有りそう。
竹島を出て、南望した後、都斯麻國に行き着ける島は、済州島以外にない。
木浦、麗水は島でないので失格。巨文島は群島にしかすぎない小島の集まり。
竹島は、最後まで元軍に抵抗した、海上交通の要衝である珍島。
>>372 >>@『其南海行三月・・・
>三月は三日の誤まりか?
>>373 >>B『其國境東西五月行、南北三月行・・・。
>この月行も怪しい。
低次な論議はもういい加減にやめようね?
>>374 距離の換算は後から付随してきたもの。
場所の決定が先。
あれ?[身冉]牟羅國(タムラ)國は短里表記だったんだと、後で認識。
378 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/16(金) 06:17:23
参考資料 済州島の国名と読み方 耽羅::タムナ・タムラ・タンラ 耽牟羅::タムモラ・タムラ [身冉]羅::タムラ・タンラ [身冉]牟羅::タムラ・タムモラ
379 :
日本@名無史さん :2008/05/16(金) 07:52:40
>>>@『其南海行三月・・・ >>三月は三日の誤まりか? >低次な論議はもういい加減にやめようね? 南へ海を三月も行ったらオーストラリアに着いちまう。 朝鮮半島から済州島までは三日ほど。
380 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/16(金) 09:24:52
>>379 「行三月」は、百済と済州島の距離約250km表わす。
「行一月」≒80km
「行一月」はおよそ「千里(短里)」か?
381 :
日本@名無史さん :2008/05/16(金) 23:31:59
伊都国は伊予。そこから四国を吉野川沿いに陸行一月。 鳴門(撫養)こそ邪馬台国だったと思われます。
伊都国は三河。そこから空中を天の川沿いに陸行一月。 381の空虚な脳内こそ邪馬台国だったと思われます。
383 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 08:31:55
>>380 「行一月」≒80km ⇒ 一日2〜3kmは絶対にない。(1日に1時間しか旅しないのか?)
ゆっくり進んでも一日20〜30kmは行く。
ここで思い出してほしい。 このころ大委国では、倍歴が使われていたことを。
倍里4倍里・・もしかして10倍里を使い分けていたのかもしれない。 10倍里を使えば、ぴったり計算が合う。
386 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 10:51:19
倍里4倍里、10倍里の冗談はさて置き、 『其南海行三月』は三日の誤まりと考えられる。 漢籍では月と日の誤りが結構ある。 月と日は見誤り安いようだ。 『其國境東西五月行、南北三月行』も 漢籍で一般的な1日30kmで計算すると4500km、2700kmとなり巨大大陸だ。 これも日を月と見誤まったものだと考えられる。 一般的な1日30kmで計算すると東西五日行、南北三日行なら150km、90kmで北部九州くらい。 ただし、『夷人不知里數、但計以日』と書いてあり、1日の行程は30kmとは多少違うかもしれないが、人間が測る1日の行程なので倍とか半分は無い。
都合が悪くなると月を日と読んでみたり、自分勝手な解釈は信用できない。
388 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 16:14:18
今のように道が整備されてるわけじゃなく、道なき道を行くわけだから 1日30qは無理だろ。精々1日5qぐらいじゃない
389 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 17:38:54
390 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 19:07:55
>>387 月では現実と合わない。
>>388 ジャングルを進むのではない。
整備された道がなくとも邑落の発達した社会だから、各邑落を結ぶ道のネットワ−クは有らねばならない。
進むべき方向が判り、そこに道があれば1日30qは十分可能だ。
391 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 19:28:20
草の中を分け入るような「踏み固めただけの道」だろ? ローマ街道と同じように考えたら間違いだと思う。
392 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 20:22:08
統一国家が造ったローマ街道やインカ道ほどの整備された道は無くとも、 マヤのように邑落間では物流があり人が通るので「踏み固めただけの道」でもでき、 邑落の近くは邑落が自主的に整備するさ。( ´H`)y-~~
393 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 20:30:12
ローマ街道のようにはいかないが、各邑落が近所は自主的に整備する。 道が無ければ昔の人でも困るさ。 ( ´H`)y-~~
394 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 20:39:16
卑弥呼が呪術政治を行っていた時代だろう。 中国の基準では 「A地点からB地点まで軍の移動に何日かかるか」 が判定基準だと思う。80km=1ヶ月と判定されても仕方がない。
395 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 20:44:46
歩く道もなければ、丈夫な靴もないわけだろ 1日30qも歩けるわけないだろ。足の裏の皮ボロボロになるわ どんなにがんばっても1日5キロが限界だろ
396 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/17(土) 21:33:43
>>386 >『其國境東西五月行、南北三月行』も
誤解しているよ。
その国境の東西の長さが五月行、国境の南北の長さが三月行です。
即ち現代の地図上では、南北に長い長方形(平行四辺形)となる。
現代流に言えば、南北間の距離が五月行、東西間の距離が三月行。
九州島に当てはめれば、南北の長さが五月行、東西の長さが三月行になる。
この場合も、一月行≒80kmとなる。
上記を理解し難いたい人の為の説明を以下に書く。
済州島【[身冉]牟羅(タムラ)國】では『南北千里東西数百里』と隋書百済伝に書かれているが、
現代の地図では、東西の長さが約70km、南北の長さが約35kmで、
これは、それぞれ短里で千里と数百里である。
隋書の『南北千里東西数百里』は、
現代風に書くと、「東西千里南北数百里」となる。
397 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 21:57:37
1日か1月かではなくて、実際の距離に合わせて倍里、4倍歴、10倍里と 使い分けをするしかない。これなら全てうまく説明できる。 三輪王朝のやることはすべてこれですよ。
398 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 22:09:48
>どんなにがんばっても1日5キロが限界だろ >この場合も、一月行≒80kmとなる。 余りにヘナチョコ杉。1日に1〜2時間しか行動しないのか? 6世紀の日本の旅だぞ、冗談じゃない。
399 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 22:20:17
数百人の軍の移動なんて、獣道レベルじゃそんなもの。
400 :
日本@名無史さん :2008/05/17(土) 23:00:51
古代人は、夜明けから正午までしか行動しなかった。 暗くなれば食糧の調達も安全な寝場所の確保も不可能。 野獣や蛇の餌食になる。
天の鳥船(帆かけ船)だと速いよ 猿田彦の水先案内ですいすいと
筑紫から水行1月、陸行3月かかると言ったら、本州最北端までいける。 つまり、邪馬台国は津軽にあった。東北北部に大きな国があったことは ほぼ間違いない。
403 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 06:59:33
>>399 >獣道レベル
認識に重大な誤りがある。
>>400 >古代人は、夜明けから正午までしか行動しなかった。
奈良の役人と普通の人は違うが、夜明けから正午まででも5〜6時間はある。
>>402 >筑紫から水行1月、陸行3月かかると言ったら、本州最北端までいける。
本州最北端どころか北アメリカまで行けます。
>402は荒らしの常連。人生の失敗者なもんで、 荒らしだけが生きがいの男ある。
405 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/18(日) 11:36:30
隋書東夷伝には、 1月行≒80km 月行:距離単位 "月行"は"km"の約80倍の長さ と書いてあるのだよ。 1ヶ月にどれだけ歩けるかどうかとは関係ないのだよ。
406 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/18(日) 11:43:53
>>405 >1月行≒80km 月行:距離単位 "月行"は"km"の約80倍の長さ
これはどこから仕入れた情報でしょうか?
407 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/18(日) 14:57:28
>>406 >1月行≒80km 月行:距離単位 "月行"は"km"の約80倍の長さ
>これはどこから仕入れた情報でしょうか?
仕入先は隋書百済伝のラストと俀國伝の冒頭と裴清行路。
半島南部九州地図(
>>365 等)を座右に置き、これらを読み解けば良い。
参考数値 百済−済州島:250km、九州島:250km×400km
@其南海行三月有[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里
A俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居
B夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海
C裴清使於倭國度百濟行至竹島南望[身冉]羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國
408 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/18(日) 15:28:31
僕は九州王朝の祖が卑弥呼で、即ち甕依姫であるとの結論に至ったのですが、 古田武彦氏はどの様な論証を経て同様の結論に至ったのかを、僕は全く忘れたのか、知ることがなかったのかも覚えていません。 古田武彦氏のその論証内容を教えて下さい。 何処を見ればわかりますか? 僕の論証は古田武彦氏と多分違うと思います。同じかもしれない?
409 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/18(日) 15:40:01
>>408 卑弥呼が九州王朝の祖。ほぼ正解。甕依姫かどうかはまだ僕はわからんが・・・?
古田先生の書は家の奥に入りこんで出てこないので、論拠はわからん?
410 :
にんとく :2008/05/18(日) 15:43:42
>408 手近なところでは、 朝日文庫『よみがえる卑弥呼』「第4編 卑弥呼の比定」にあります。 「筑後風土記(逸文)」に原文改定が施されていたことに気づいた 古田氏は、@卑弥呼(ひみか)と甕依姫の「みか」の共通性、 A筑紫君等の祖先である甕依姫を「祝(はふり)」として祭らせた という風土記の記述、を根拠としています。風土記の読みなおし (従来の読みの誤認の指摘)がきわめて重要です。
411 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/18(日) 15:56:46
ありがとう。 ダンボール箱を引っ繰り返して探し出します。 ちと重労働になるな。
412 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/18(日) 16:01:33
昔 此堺上 有二鹿猛神一 往来之人 半生半死 其数極多 因曰二人命尽神一 干レ時 筑紫君肥君等占之 8令二筑紫君等之祖甕依姫 為レ祝祭一之 自レ爾以降 行レ路之人 不レ被二神害一 是以曰二筑紫神一 卑弥呼、甕依姫は同世代何ですか?
413 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/18(日) 16:06:05
>>407 1月行≒80km は面白そう。
その文書少し調べてみますね。どうもありがとう
414 :
にんとく :2008/05/18(日) 16:15:49
>412 引用された問題の箇所。「8令」は、底本には「今」とあるのを 編者が「令」に改めたという注記です。底本通りにして読むと、 卑弥呼と甕依姫は同世代・同一人物という解釈も可能です。 が、「令」に改めるとそうは読めません(厳格なフォローはして はおりませんので、とりあえずは受け売りですが)。
415 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 17:15:20
>>411 古代は輝いていた第一部「『風土記』にいた卑弥呼」にもあったような。
416 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 17:29:39
>>413 8世紀の奈良時代、関東から奈良まで租税を運ぶのに要した日数が30日余り。
6世紀に大量の荷物を運ぶのでもないのに1月行≒80kmは遅すぎ。
417 :
にんとく :2008/05/18(日) 18:07:56
>415 そのとおりです。 『よみがえる卑弥呼』「第4編 卑弥呼の比定」は さらに追究を加えた新論考で、「『風土記』にいた卑弥呼」 での論についても再度言及しています。
卑弥呼(ひみか)は筑後国風土記に出てくる「甕依姫」という説ですね。 しかし、風土記は全てが残っているわけではなく、現存する風土記の 記述の中では、「甕依姫」が外国文献の中の卑弥呼像に最も類似する 点が多いといっているにすぎない。 もしかしたら、失われた風土記の中にそのままずばり卑弥呼が存在して、 大和の勢力がそれを隠ぺいした可能性が考えられます。 いや、その可能性のほうが高いのではないでしょうか?
419 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 19:12:53
『卑弥呼が九州王朝の祖』に異論は無いでしょう。
420 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 19:21:00
でも王朝が始まったのは継体元年(512年)からだから、 卑弥呼は九州王朝の初代ではない。「祖」というなら 卑弥呼以前にニニギがいる以上、九州王朝の祖はニニギでしょう。
421 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 19:30:07
卑弥呼以前にニニギはいません。
422 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 20:26:43
ニニギが福岡県北岸に上陸したのが紀元前50年頃。 その子孫であろう卑弥呼の在位は3世紀前半。
やっぱ鹿児島だな。間違いない。
424 :
にんとく :2008/05/18(日) 20:49:27
>420 「王朝が始まったのは継体元年(512年)から」 という理解が、共通認識ではないと思います。 年号制定、すなわち王朝開闢、ではなく、それ以前に連綿と 王家が継続していた、という考えも成立します。 中国の年号の開始も、漢の途中からだったはずです。
425 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 20:57:27
それは、王朝じゃなくて王国でしょ。 九州王国が九州王朝になったのは継体元年から。 なお、近畿で王朝が始まったのは、 早めに考えても大宝元年(701年)から。
>>425 > それは、王朝じゃなくて王国でしょ。
> 九州王国が九州王朝になったのは継体元年から。
> なお、近畿で王朝が始まったのは、
> 早めに考えても大宝元年(701年)から。
じゃ、それ以前の巨大古墳群の存在は何なのさw
各地の王がおのおの自分の勢力を誇示するかのように 巨大古墳を作っていたこと自体、倭国が小国の集合体に すぎなかったことの証明になる。
428 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 21:07:26
>426 中国では薄葬が一般的となった時代に、 野蛮な部族国家が背伸びして造った土木工事でしょ。 邪馬台国では卑弥呼の墓ですら、超巨大古墳にはしなかったよ。 ちなみにジンギスカンの墓は、いまだに見つかっていないほど小さいよ。
古墳造営と言う大型土木工事を大和と河内には連綿と数百年に渡って営む政権がありました。 ただし、それは「王朝」とは呼びません。 何故なら、「王朝」とは九州になければならないからです。 そういうことですか?
現代の日本人に繋がるアイデンティティとして 巨大古墳の造作行為は相容れない 稲作民族ならば水路や溜池など生産に繋がるものに労力を使うと思うんだ
日本人の根源は素朴な山岳信仰、自然神信仰です。 平野に移り住んで、身近に信仰の対象となる山がな くなったので、自分たちで作ったのが古墳。 前方後円墳は、三輪山のミニチュア版といえます。
432 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 21:48:31
>>429 >古墳造営と言う大型土木工事を大和と河内には連綿と数百年に渡って営む政権がありました。
ただし、それは「王朝」とは呼びません。
畿内は文字の使用開始が遅く中国とも交流した形跡が無いから政権の実態が不明。
九州は比較的文字の使用開始が早く中国とも交流し記録が多く残っていて、倭王にも任命されているから一応「王朝」と呼んでいる。
記紀の記録の内容が問題。
433 :
日本@名無史さん :2008/05/18(日) 22:23:18
×「土木工事の規模が大きいから、その政権は王朝出なければならない」 ・・・そんなことはないのです。近畿説の妄想です。 王位交代のたびに国家が揺れることなく、官僚機構や行政機構、政治体制が連続し、 安定した国家体制が連続した状態を王朝と呼んでよいでしょう。 土木工事が盛んでも、単なる部族国家などは王朝とはいえません。
>>430 古墳の周濠は、灌漑設備としても使えますよ。
実際に近代までそういう使われ方をしていたところが殆ど。
築山も水路の開削残土を転用したのだと言う説もあります。
稲作社会とは密接に繋がっているのでは?
>>431 日本人の根源は素朴な山岳信仰、自然神信仰です。
平野に移り住んだ渡来人は、日本人と違う信仰をもって
いたので、そのために自分たちで作ったのが古墳。
前方後円墳は、ヒョウタンの拡大版といえます。
いや主体は濠ではなく丘にあります 大和の青垣から派生する尾根末端を利用して形成しているくらいです
437 :
日本@名無史さん :2008/05/19(月) 02:22:55
山岳信仰は、海から見た山頂信仰が基本。 大和三山などは、はるかに後の姿。
大和三山の周囲は湖または潟ではなかったのかな
439 :
日本@名無史さん :2008/05/19(月) 07:40:32
古代大和湖の想定地域とされる盆地地形は、もう少し北側です。
440 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/19(月) 09:17:49
>>420 >でも王朝が始まったのは継体元年(512年)からだから
継体元年は517年(二中歴、他)のはずだけれど、
512年とするソースは何?
512年は磐井政権の都が設置された年だと思う。
441 :
日本@名無史さん :2008/05/19(月) 11:12:03
442 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/19(月) 16:32:49
>>438 >大和三山の周囲は湖または潟ではなかったのかな
大和三山の周囲が湖沼であったのは少なくとも縄文後期の頃迄のことではないかな。
弥生中期には大和三山の北部はまだ湖沼地帯であったようだ。
その湖沼は南部から順次陸化縮小し、4世紀初頭には干拓により消えてしまう。
最後まで湖沼が残っていた場所は広瀬神社のある川合。
最後に湖沼を干拓したのは、三室山と舟戸山間の大和川河床の開削。
水稲=公権力決定史観に引きずられすぎだろう。 素盞嗚尊やその子孫は何をもって当時の権力=神社を掌握したのか。
大和王朝=日本国 九州王朝=倭国 日本国:蘇我氏やら聖徳太子やらの国を中大兄皇子・中臣鎌足が乗っ取った 倭国:日出処の天子の人とかの国、白村江で惨敗の後、日本国に吸収 という認識でよいのか?
445 :
日本@名無史さん :2008/05/20(火) 21:36:48
>大和王朝=日本国 >九州王朝=倭国 もう合言葉になってるw
落ち着くところに落ち着いたかな
447 :
日本@名無史さん :2008/05/20(火) 21:52:28
>>444 細かい事は不明だが、その様な処でしょ。
>442 地図でだったか現地で見たのか、あやふやだが ○○津っていう地名が香具山ふきんにあったと思
449 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/21(水) 12:12:31
>>448 ○○津の地名は旧字地名でもわかりませんでしたが、在っても良い場所柄です。
○○津を見たのは地図ではなく現地だったのではないかと思います。
たとえばバス停名とか?
理由は2つあります。
@香具山は南浦町にあり、香具山より北は、
>>439 の書かれているように、湖沼地帯であったところです。
神武はこの湖沼の南岸に定着したものとも考えられます。
Aこの地域は、筑紫平野から持ち込まれたと思われる地名が散在しているところです。
○○津等の海岸地名は、天武の頃、筑後から移動してきた集団が持ち込んだ地名とも考えられます。
@又はA、若しくは@A双方の理由から海岸(湖岸)地名があるものと思われます。
奈良盆地湖沼の水出口にあたるところが「舟戸」と云う地名であることに留意すべきです。
450 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/21(水) 12:30:07
>奈良盆地湖沼の水出口にあたるところが「舟戸」と云う地名であることに留意すべきです。 追加。 湖沼の水出口の湖岸側の地名が「大輪田」です。
451 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/21(水) 18:29:25
〜〜〜〜└→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜東至一支國 〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜 〜〜〜〜一支國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜 〜〜〜〜〜〜〜┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜 〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜 〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓ 〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃↓〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗ 〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━┛秦王國∵∵∵∵∵大宰府∵∵∵∵∵∵東至秦王國 〜〜〜〜┏━━┛唐津◎→◎→┐∵∵∵∵∵∵◇倭京∵∵∵∵∵∵此地帝都・・・遷京北方 〜〜〜〜┗┓∵∵竹斯國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵↓十餘國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵伊都國◇→→┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵經十餘國達於海岸 〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵佐賀市大和∵∵◇→→→◎邪靡堆(久留米)∵其地勢東高西下都於邪靡堆 〜〜〜〜┏┓┗━┓∵∵∵∵∵∵∵海岸┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪靡堆則魏志所謂邪馬臺 〜〜〜┏┛┗┓〜┃∵∵∵∵┏━━━┛┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜┃∵∵┃〜┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜┗┓∵┗━┛┗━━┓〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜┃∵∵┏━━┓∵┗┓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜┃∵┏┛〜〜┃∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜┃┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜┗┛〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
452 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/21(水) 18:31:03
上記地図作成論拠 C『經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國』隋書俀國伝 D『其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝 E『又東至秦王國・・・・又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀』隋書俀國伝 F『倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎。後十日又遣大禮哥多毘従二百余騎郊勞既至彼都。』隋書俀國伝 G『從郡至倭・・・・・・・自郡至女王國萬二千餘里』魏志倭人伝 H『魏志倭人伝』と『隋書俀國伝』の地理的整合性 I『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条
453 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/21(水) 18:34:57
隋使も魏使とほぼ同じルートです。
無知な素人の妄想をひとつ 昔、朝鮮半島と交流を持ち中国に使役していた国家・倭が九州にあった 朝鮮南部に拠点を持ったが以北に進出するには海を隔てていたため勢力拡大は困難 そのため東へ東へと勢力を拡大していく 対抗国家出雲を併合したが、より以東への進出には九州からは連絡が悪い そこで目を付けたのが畿内の文明国家、この国家からは東海・北陸への便も良い どうにかこの国家に取り入り軍事拠点を置く しかし年を追う毎にこの畿内軍事拠点の勢力は拡大し独自の国家を形成していく 倭は朝鮮半島情勢の混乱に巻き込まれ弱体化、内乱やら畿内勢力の介入により消滅 そして畿内国家による日本国が誕生
>454「倭が九州にあった。朝鮮南部に拠点を持ったが、以北に進出するには海 を隔てていたため勢力拡大困難。そのため東へ東へと勢力を拡大していく。」 →倭は最初から朝鮮南部と九州を領土としていた。朝鮮南部の倭人等の勢力は 多くは九州を経て東へ。移住・亡命を受け入れる余裕は、近畿にあった。
456 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/22(木) 11:20:39
>>454 「文明国家」とか「軍事拠点」、「畿内勢力の介入」以外は妄想ではないよ。
魏に朝貢したということは、魏の礼儀をわきまえていたということです。 つまり、秦や漢の時代から大陸との接触がなければ一朝一夕に儀礼 を身につけることはできません。 卑弥呼は大陸と繋がりを持つ勢力、要するに徐福集団の末裔。そして 大陸と行き来するための船を調達したのが海部氏。磐井とはそういう 勢力だったと考えられます。
卑弥呼は大陸と繋がりを持つ勢力、要するに徐福集団の末裔。 ↓ 卑弥呼は、大陸と繋がりを持つ勢力であるところの徐福集団の末裔 を政権のブレインに抱えていたかもしれません。抱えていなかった かもしれません。駄弁で人の時間を無駄遣いさせるのは、荒らしの 常套手段です。
>>459 が荒らしです。人の粗を探し回るハイエナのような人種。
>>457 が荒らしです。
>>459 は457が荒らしであることを強調するため
あえてスルーしないでハイエナの役目を演じています。
この先、457の書き込みについては徹底して荒らしまくります。
それが嫌なら457は荒らしをやめなさい。
462 :
(´・ω・`) :2008/05/23(金) 09:25:19
漢籍による倭の1〜3世紀 建武中元二年(57年)倭奴国が金印を授与され倭国王となる。 ↑ 永初元年(107年)倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。 男性を王とした七、八十年 ↓ 桓帝と霊帝の間(146−189年)倭国は大乱。 光和中(178−184年)卑彌呼が共立される。 景初三年(239年)卑彌呼が初めて朝貢、大夫の難升米を派遣し仮の金印を授与さる。 正始元年(240年)帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。 正始四年(243年)倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 正始六年(245年)難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。 正始八年(247年)倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援軍を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。 正始中(247−249年)卑彌呼死亡。
463 :
日本@名無史さん :2008/05/23(金) 10:53:34
・「RM1-b遺伝子の稲」は、「稲作が中国から直接日本に伝来した」事の根拠 とされている。しかし、これは誤りである。 ・なぜなら、北陸や東北には、(九州・西日本に伝わった)最初の稲作が 早くも弥生前期末に伝わっていたのであるが、その北陸や東北の地には 「RM1-b遺伝子の稲」が無いから、である。 ・つまり、「RM1-b遺伝子の稲が朝鮮半島にはない」という事実をもって、 「稲作が中国から直接日本に伝来した」と推論する事はできないのである。 「RM1-b遺伝子の稲」は中国起源であるが、これが、日本の稲作の起源に 直結するわけではない。・・・ということだね(笑)
>463は何度も、別のスレでも見かけるが、判り易い文章にすべきだ。 ==日本の稲作の起源(大陸から伝わったもの)== (1)最初の稲作が、早くも弥生前期末に、九州・西日本に伝わった。 それがやがて、北陸や東北にも伝わった。 中国から来たか、朝鮮半島から来たか、沖縄経由で来たか、不明。 (2)第2派の稲(RM1-b遺伝子の稲)は中国から来た。 つまり、中国から直接日本に伝来した稲作は確かにあるが、これが即 日本の稲作の起源であるわけではない。
466 :
ローガン :2008/05/23(金) 23:54:01
九州王朝大好きさん。いまさら、そもそも論で恐縮ですが… 旧唐書の「倭国」と「日本国」を九州王朝説ではどのように考えているのでしょう? 既出でしたらNO.なりともご教示ください。 あ!急ぎませんので…
ここもスレ立てしていいですか? 悪く思うなよ
468 :
日本@名無史さん :2008/05/24(土) 07:25:14
荒らしが来て話の腰を折られると人が減るのです。 それ以上に、荒らしを罵倒するコテハンの人、これも感じが悪い。 今まで見識のある偉い人だと思われていたのに、こんな人だったのかと呆れてしまいます。 荒らしには一切コメントしない 荒らしはスルー 2ちゃんの鉄則を守ってください。
まあ、王朝と言うとなんだけど、 継体大王の頃まで、北部九州に 「あなたどりがたい勢力」があったのは確かだと思う。 それが邪馬台国後継勢力であってもおかしくない。 それを神話は九州王朝のものだ、とか 白江の戦いもそうだとか言い出すから トンデモ扱いされてしまう。
>469 >それを神話は九州王朝のものだ、とか >白江の戦いもそうだ、とか言い出すから、トンデモ扱いされてしまう。 ここの部分、469さんもトンデモ扱いしておいでのように取れますが、 トンデモ説であると言える根拠はあるのですか?
>>467 別に悪く思わないし誰がスレたてしてもいいけど、950越えてからにしてね。
でないと重複スレで削除されるよ。
>>468 荒らしには一切コメントしない、荒らしはスルー、が2ちゃんの鉄則
とありますが、荒らしにマジレスするのが荒らしの思うつぼですので、
マジレスする代わりに、荒らしを徹底的に荒らして腰を折ってあげる
のは、社会衛生上精神衛生上、極めて有益だと考えます。他人の喧嘩
を見るより荒らしを傍観する方がよい、という意見もありえますが。
さて、どちらをとるべきでしょうか。
473 :
ローガン :2008/05/24(土) 14:33:54
>>469 いえ、まあたいした事ではないのです。
九州王朝説なるものでは、旧唐書や唐會要に書かれた「開元初」の朝貢記事について、その主体が九州王朝と考えているのかどうか?って事です。
まあ、王朝と言うとなんだけど、 継体大王の頃まで、北部九州に 「あなたどりがたい勢力」があったのは確かだと思う。 それが邪馬台国後継勢力であってもおかしくない。 それを神話は九州王朝のものだ、とか 白江の戦いもそうだとか言い出すから 画期的真説扱いされてしまう。
>474 >それを神話は九州王朝のものだ、とか >白江の戦いもそうだ、とか言い出すから、画期的真説扱いされてしまう。 ここの部分、474さんも画期的真説扱いしておいでのように取れますが、 画期的真説であると言える根拠はあるのですか?
476 :
日本@名無史さん :2008/05/24(土) 16:37:03
>>472 >荒らしを徹底的に荒らして腰を折ってあげる
>のは、社会衛生上精神衛生上、極めて有益だと考えます。他人の喧嘩
>を見るより荒らしを傍観する方がよい、という意見もありえますが。
>さて、どちらをとるべきでしょうか。
とことん潰すべき!
しかし、最近の荒らしは手口が巧妙化してきて、結構勉強しているから、 話を合わせて盛り上げておいて、すきを見て突き落とすとか、姑息な手 を使うようになった。うっかりしていると乗せられてしまう。 そうかといって、名無しを全て警戒していたら被害妄想といわれかねな い。諸刃の剣。自説のぶれやすい素人の古代史通にはお勧めできない。
478 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/24(土) 21:38:00
>>466 :ローガンさん
質問の意味があまり理解できません。
僕の九州王朝説としてなら説明できますが。
『日本國者・・・・故中國疑焉』の僕の解釈は以前書いたことがありますがもう一度書いてみます。
旧唐書倭國伝は九州の隋書に云う俀國を指して書かれています。
それは倭國の領域も九州島に限定していることを意味します。
唐と倭國の交流も631年に打ち切られています。(貞觀五年の記事)
そして663年に唐と倭は交戦し、倭は敗戦しました。
その8年後、671年に唐は倭國に軍を駐留しました。
672年唐の前に現れたのが日本です。
その日本についての説明が、『日本國者倭國之別種也・・・・・山外即毛人之國』の部分なのです。
唐は九州島の倭國の存在があるので、700年倭國の滅亡後、
701年に日本を正式の国と認めたのです。(長安三年の記事)
『日本國者倭國之別種也』 日本國と倭國は別の国である。
『以其國在日邊故以日本爲名』 日本國は日の上がるところにあるので日本とした。
『或曰倭國自悪其名不雅改爲日本』 この様ににも聞く、倭と名は悪いので日本と改めたと。
『或云日本舊小國併倭國之地』 又次の様にも聞く、日本はもと小国で倭國を併合したと。
『其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉』 中国に来る日本人はあまりにも矜大で實對が無いので、信用できない。
『又云其國界東酉南北各數千里』 日本人はこんな事も云う、日本は数千里×数千里の大きさだとか。
>>477 自説のぶれやすい素人の古代史通にはお勧めできない。
とおっしゃいますが、これはちょっと怪しいという書き込みには、
その判断の根拠を問えばいいのです。例えば、470みたいに
根拠が言えないのは荒らしです。ただし、常連かどうかは不明。
480 :
ローガン :2008/05/24(土) 23:22:49
>>478 丁寧な返信痛み入ります。
私とは見解が異なりますが、さておき。…
質問自体は大した事では無いのです。朝臣仲滿なる人物の派遣主体が九州か近畿か?と言う意味です。
以前、古田某と言う人が「春日なる三笠山」を福岡だと言っていた記憶があり、713年頃の遣使来朝についての見解が聴ければ…と思ったものですから。
細かい事かもしれませんが、貞観22年の上表を唐は受け取ってますよ。
「トンデモ説に一喝!神話の99%は畿内に由来」 は、誤解を与える。中身に即して、 「高天原は九州 安本説」くらいにすればよい。
483 :
日本@名無史さん :2008/05/25(日) 13:20:26
山外即毛人之國 は日本書紀の情報に基づいてるな。 「日本」と言う国号が出来ていこう、 関東平野を「毛人国」と呼ぶことは少なくなったはず。
485 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/25(日) 16:07:24
>>480 質問の意味がやはり理解できません。
朝臣仲滿なる人物の派遣主体は近畿です。
仲滿は唐から帰国しませんでしたから、旧九州王朝関連者ではないでしょうか?
仲滿が旧九州王朝関連者であったからこそ北部九州から唐に渡れた。
さもなければ九州王朝残存勢力に海上で全員惨殺されるので、
薩摩西海岸からの出発とせざるを得ないでしょう。
>貞観22年(648年)の上表を唐は受け取ってますよ。
貞観22年の上表は何処に書いてあるのですか?
貞観十五年(641年)の国交回復の失敗に続き、
倭國側からの国交回復の動きに応じただけではないのでしょうか?
やはりその交渉も失敗に終わった?
倭と唐の国交は、顕慶四年(659年)にもありましたね。
486 :
ローガン :2008/05/26(月) 16:28:27
>>485 忙しくて、遅くなりました。
なんの事はない、「至二十二年又附新羅奉表」の事でした。
又後程…
487 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/26(月) 19:36:01
>>486 旧唐書と唐会要をごちゃ混ぜにして書いてしまいました。
すみません。
488 :
ローガン :2008/05/26(月) 23:16:02
いえいえ、ノープロムレムです。 そのあたりの史書、類書ややこしいから。 私のような畿内説支持者は確かに旧唐書は向かい風です。 まあ、自分なりの解釈はありますが。ともあれ、ご教示どうも有難う。
489 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/26(月) 23:52:25
>>488 旧唐書と唐会要に続日本紀を重ね合わせると、
続日本紀も向かい風になりませんか?
>>484 >山外即毛人之國は日本書紀の情報に基づいてるな。
>「日本」と言う国号が出来て以降、
>関東平野を「毛人国」と呼ぶことは少なくなったはず。
「唐会要」の蝦夷は陸奥(仙台・郡山遺蹟・日高見国=多賀城・阿弖流爲の国・北上)ですね。
490 :
ローガン :2008/05/27(火) 00:42:31
>>489 いいえ、唐會要と旧唐書の引用関係を考えると逆に追い風になります。ではお休みなさい。
491 :
日本@名無史さん :2008/05/27(火) 12:14:39
>491は何度も見かけるが、次のように、判り易い文章にすべきだ。 ●●日本の稲作の起源●● (1)最初の稲作は、早くも弥生前期末に、九州・西日本に伝わった。 それがやがて、北陸や東北にも伝わった。(中国から来たか、 朝鮮半島から来たか、沖縄経由で来たかは不明である。) (2)第2派(?)の稲(RM1-b遺伝子の稲)は中国から来た。 要するに、稲作が中国から直接日本に伝来したのは確かだが、 これが即「日本の稲作の起源」だとは言えない。
稲作の起源は、6500年前の鬼界カルデラの噴火で消滅した 九州文明。わずかな種モミを持って以て揚子江沿いを遡上。 稲作を中心とする揚子江文明を起こしました。 そして、4000年ののち、何ものかに引き寄せられるように、 再び九州の地に舞い戻ってきた。
おお、すんばらしい。 すきを見て、だぼらを書いて、議論の邪魔をしようぜ。 さあ、荒らし諸君、カス説を唱える諸君、脳タリンの諸君、 それに、>493、クズの同志よ、 じゃんじゃん荒らしまくろうぜ。
495 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 00:22:56
マルチな474が唯一絶対カスだなw
>495の「マルチな474」は「494」のミス。 >494はカスを自覚したカス。 >493は唯一絶対カスでないカス。 カスどうし仲良くやっとくれ、このカスめが!
497 :
↑ :2008/05/28(水) 01:46:06
無意味な、カス以下
法興六年十月、歳在丙辰。 我法王大王、与恵総法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験。欲叙意、聊作碑文一首。 端正五年,己酉,自唐法華経始渡 我法王大王とは、タリシホコのこと。 法隆寺の釈迦三尊像は九州から移設された。 伊予国風土記逸文の中の法興年号、 善光寺如来と聖徳太子の往復書簡などから 九州年号の存在が確認できる。
499 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 08:57:13
500 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 09:49:41
同意見 初めに中国から直接、稲作を持った農民がやって来たのが紀元前10世紀頃。 半島から武装集団がやって来たのが紀元前3世紀頃。 稲作が日本列島に伝わり人口が急増。 半島から鉄器を持った武装集団がやって来て、国家形成が始まる。
501 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/28(水) 10:59:57
>>498 >法興
「法興」は、「多利思北孤上宮法皇大王弟王」の為の特別年号であって、
九州年号は別に存在し、「○○○天皇大王兄王」が制定したものです。
法興元年〜32年(591年〜622年)に対応する九州元号
端政3年〜5年(591年〜593年)
告貴1年〜7年(594年〜600年)
願転1年〜4年(601年〜604年)
光元1年〜6年(605年〜610年)
定居1年〜7年(611年〜617年)
倭京1年〜5年(618年〜622年)
以上二中歴資料による編年
>>499 の、稲作が中国から直接到来の説と、
>>491 の、日本の稲作開始が中国から来たという説と、
あい矛盾する二通りの説が併存しているとみなすべきか、
両方とも正しい(時期的な相違)と受け取ればよいのか、
迷いますね。
503 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 12:42:56
熱帯ジャポニカは朝鮮半島からも出てるし、遺伝子というのは 場所によってどんどん頻度が変わってしまう。 MR1b遺伝子は日本でも全体の7%しかない。 やはり朝鮮半島にもかつてMR1b遺伝子はあったが、頻度が どんどん減って、ついには消滅してしまったと見るべきだろう。
504 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 12:51:49
>>500 では、何で稲作と同時に伝わった新型土器は中国土器ではない?
505 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 13:05:43
それに何でその伝えた米を炊飯器の三足土器で炊かなかった?
伝わったの?
何で米が伝わると それも使わないといけないの
508 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 14:31:51
稲作を伝えた渡来人はわざわざ新型器種の甕を伝えて米を炊いたのだよ。 便利な三足土器は一度も作りもせずに。
509 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 15:54:52
列島で米をどんな調理器で調理しようと自由。 煮て食おうと、炒って食おうと、炊いて食おうと、 揚げて食おうと、蒸して食おうと、干して食おうと、 団子にして食おうと、つみれにして食おうと、 餅にして食おうと、粥にして食おうと自由。 土器は、従来から持っていた土器を使おうと自由。
昔々、朝鮮半島から渡ってきた、または、渡って行ってたのは、 漁師さんがメインだよ。 農業をやってた人なんて、 海に漁に出れなくなった高齢者や、女子供がほとんど。 つまり、 当時の倭人にとって、農業は副業ってことを見落としちゃ駄目だよ。 でも、 漁師の一家で、副業として、水田や田畑を耕していても、 じつはうまく行かないんだよね。 そこから、農業と漁業、戦闘集団の分化が発生し、 身分制度が誕生していくことになるんだ。
511 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 16:05:53
大勢の人が見落としたり、勘違いしていることだから、 いちおう書いておこう。 近代の農業は迷信だらけ。 弥生時代の人々は、そういう間違った農業をやってなかったという点を もう少し注意して観察すると、意外な事実が見えてくる。 1.耕す農業は迷信。 耕さない土地では、根がしっかり張って強く育つけど、 耕された土地では、根張りが弱くなり、貧弱なものしか育たない。 雑草に負けるようになるから、 草取りに追われて、田んぼや畑の管理が大変なことになる。 最近は、意図的にトラクターで耕さない水田で 米作りをする農家が出てきているのは、この問題に気付いたから。
2.肥料をやる農業は迷信。 肥料をやらなければ、 生きるのに必要な栄養を体内に蓄えることに必死になるから 栄養価が高く、病害虫にも強い、丈夫な作物が得れる。 肥料をやると、 生きるのに必要な栄養を体内に蓄える努力を怠り、 栄養価が低く、病害虫に弱い、軟弱な作物になってしまう。 昔は人糞肥料が使われていたが、 肉や魚を食べた人の糞を醗酵させて得られる堆肥だと、 特にこの問題が顕著に出てしまう。 岡山県牛窓町黄島には、 20年ほどの歳月を費やしてこの研究に取り組み、 『肥毒』という概念を構築するに至った、 自然農法の研究グループがある。
大国主の命を筆頭に、弥生時代に農業指導にあたっていた人々は、 病害虫が発生して飢饉が起こることを理由に、 農民が4つ足の肉を食べることを禁じていたことが、 一部の神社に伝わっているが、 実際に、肥料をやりすぎる害というものがある。 雑草は、肥料も農薬も必要とせずに丈夫に育つが、 農作物は肥料と農薬が必要とになるのは、 現代人が迷信だらけの農業をやっているから。 もちろん、農業が発達していった弥生時代には、 このような科学知識に基づく迷信などはびこる余地はなかったから、 漁業をやっている家庭の、 魚肉カス成分だらけの人糞から肥料を作ってばら撒いて、 病害虫の大発生を招いて、作物を全滅させて飢饉を招くような、 間抜けなことはありえなかった。 そういうことをする農家があれば、 糾弾されてもうその土地では農業を営めなくなる。
514 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 16:14:30
家の仕事の中で、漁業と農業が対立していたことなどない。 芋や菜、穀類と貝、魚、海草は家族みんなで一緒に食う。 今でも日本海海岸の家は農魚兼業が多いわけで、 兼業は対立の原因どころか、健康と豊かな食生活の原因だ。 農業が大好きな漁師と漁の大好きな農家ばかりだ。 何で農業と漁業の対立などあろうか?
身分制度とまではいかなくても、 肉を食う武力集団と、魚を食う漁師と、米を食う農民は、 棲み分けがしっかりしていないと、 農薬もない弥生時代では、早々にまともな農業が成り立たなくなる。 20世紀の人々の間に蔓延っていた科学的な迷信に囚われたまま、 弥生時代の稲作文化を語っていては、 現実からの乖離を招いて、 絵空事の空論を並べ立てる状況に陥る危険性がある。 21世紀になって、科学知識万能神話が揺らぎはじめ、 生得的真理という、人類が生まれながらに持っている 科学知識よりもはるかに膨大な、遺伝子情報系に由来するデータの存在が 重視される方向に、世界観が大きく移り変わってきつつあるのに、 いつまでも20世紀の未成熟な科学的発想に基づく くだらない迷信に囚われていてはいけない。 正しい知識に基づいて観察することが何よりも重要。
516 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/28(水) 18:08:06
スレタイに関連のあることに絞って書き込んでよね。
517 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 21:14:05
>>504 稲作が伝わった時はまだ中国に新型土器が無かった。
518 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 21:18:33
>>505 稲作は揚子江流域から日本に伝来したのにもかかわらず、三足土器が
日本に伝わらなかったのはなぜか?そう疑問に思うのはもっともなことです。
しかし、当時、つまり縄文末期は日本の縄文式土器が世界の最先端の土器
で揚子江文明で使われていた土器より格段に優れていたからなのです。
稲作という優れた文化は取り入れても、劣った文化は取り入れいのは、当然
の成り行きです。
519 :
サガミハラハラ :2008/05/28(水) 22:44:50
三足土器なら青森県で三個ほど出土していますよ。北朝鮮の日本海岸から伝来したものを もとに製作されたようです。
>>519 それが九州王朝があったかと、どう関係あるかを詳しく
521 :
サガミハラハラ :2008/05/28(水) 23:30:02
青森の三足土器(の技術)は、朝鮮北部からダイレクトでつたわったもののようです。 当時すでに、縄文人は日本海を横断していたようなのです。 よって九州を経由したものではありません。
522 :
サガミハラハラ :2008/05/28(水) 23:35:39
あ、スレのタイトルといかがということですか。
>>518 の三足土器が伝わっていない
ということへの指摘です。
スレ違いですね。 わかります。
スレ違いじゃないよ。 推論が完全に間違って、絵空言になっているいる問題点が どこにあるかが見えないから、スレ違い発言に見えているだけ。 明らかに不勉強が原因で、間違った推理が進められ、 稚拙な勘違いのレスが付けられている。 もともと、朝鮮半島と九州を行き来していたのは漁民、 これについては、ほぼ異論はないと思う。 鬼界カルデラの噴火が縄文時代にあって、 日本から朝鮮半島に移民があったので、 日の出る方角の祖先の土地に帰ろうとした人々がいた。 神武天皇の東進神話などは、 この民族移動が土台になっている可能性も、かなりある。
普通の漁民達の交流とは異なる、農民や武装集団の移動が、 朝鮮半島から日本に向けて起こったことは、 ほぼ異論がないと思うが、 専業農家による大規模農業の成立、 武家による王朝の成立などをシミュレーションして考えるとき、 当時の農業が抱えていた問題が、 現代の間違った常識とは、まるで違うことを、 しっかり認識しておく必要がある。 農業が発達すると、なぜ専業農家が必然的に生まれるのか、 身分制度がなぜ発生して、 戦闘に特化した集団とは区別されていく必要に迫られるのか。 武装集団が王朝を形成するまでに至る、生活環境の変化を 歴史的な出来事と照らし合わせながらシミュレーションするうえで、 上に挙げた理由が分かっているのとまるで念頭にないのでは、 歴史の理解度や歴史観に雲泥の差が生じてくる。 見えてないまま議論しても、まともなものにはなりようがない。
526 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 09:45:22
縄文末のBC10C頃、世界最先端の土器文化を持っていたのは間違いなく長江江南。 すでに釉(うわぐすり)を使った原始青磁の時代。 ただ主流は登り窯で焼成した灰色の土器である灰陶。 またはそれにスタンプで幾何学文様の装飾を施した印文陶。 炊飯器は三足土器の鼎、鬲のほか、竈+釜のセットもあった。 なーんにも伝わってないがなw
527 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 11:20:14
単純に縄文末のBC10C頃に長江江南から日本に渡ってきた人達は稲作農民。 陶工は来なかった。 稲作農民は稲作に適した新しい土地を見つければ余剰人員が移住する。 陶工は稲作に適した新しい土地が見つかっても関係ない。 陶工は原料の良い土と釉等が確保されないと簡単には移住できない。
528 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 11:28:04
>陶工は来なかった。 じゃあ何で新しい焼成法と器形を持つ新型土器が水田稲作と 同時に伝わっているんだ馬鹿wwww
529 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 12:14:52
中国から見て、3〜5世紀の倭は九州王朝を示していると、中丸氏は自著で述べています。また、倭の五王は九州五王で、当時の倭は伽耶でもあったと述べています。伽耶は、製鉄の為に半島の木材を使い果たし、それで自然と九州に目を付けたんではないかと思われます。
530 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 13:18:57
>525が指摘する「漁民」の概念自体が今日的な概念すぎる。 古代の沿海民は「狩猟業・採集業・農業・漁業すべての兼業」が普通。 だから半島に行った人々は「狩猟業・採集業・農業・漁業兼業民」であって 「漁業専業民」ではない。
531 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 13:28:31
>>526 >なーんにも伝わってないがなw
>>528 >同時に伝わっているんだ馬鹿wwww
陶工は来なかった。稲作農民は来た。
陶工は伝えず、稲作農民は伝える。
532 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 14:48:22
ジャポニカ米は琉球の島伝いに九州に来たとされているが、紀元前3〜4世紀、既に朝鮮半島から直接、九州にもたらされていた。つまり、稲は江南、琉球経由と、朝鮮半島経由で日本にもたらされた。数百年に渡る大陸からの各集団の渡来ルートと同一だと考えるべきである。
533 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 15:41:58
>稲作農民は伝える 稲作農民が伝えると新型土器に三足土器を伝えんのかウルトラ馬鹿wwwwwww
534 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 16:23:04
琉球で稲作が始まったのは11Cの平安期だろが馬鹿w
535 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 17:19:50
御偉い大学教授とかの犬ばかりだな。定説が間違ってたと後で大々的に認められる風潮になったら、尻尾振ってこっちくるんだろ、どうせ?
536 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 21:04:25
BC1000年頃と日本の稲作開始時期が朝鮮半島と同じころである。 弥生文化は稲作だけでなくさまざまな文化要素の複合体である。日本にあって朝鮮半島に存在にない南方的な要素が数多くある。 鵜飼、割竹型木棺、げた、納豆、生魚を食べる習慣、みそ等、江南の照葉樹林地域と同じような文化要素が存在する。 日本の弓は朝鮮半島とは異なり、南方に同種の弓が分布している。 日本語は、確率論的に、インドネシアやカンボジアなどの言語と偶然とはいえない近い関係にある。しかし、朝鮮語とは疎遠であり、朝鮮半島から人々が来たとは考えにくい。
537 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 21:26:54
>>536 うん
日本民族は大陸や朝鮮半島からの移民じゃなく日本列島が発祥だよ
国之常立やイザナキイザナミが降り立った地が日本だった訳だから
半島や大陸に日本文化の痕跡があるのも、日本人が日本から半島や大陸に渡ったり、統治してた過去があるからだよ
一方で大陸にいた民族や氏族は例えば聖書の出エジプト記にあるように、権力に追われ他の土地に移民したりとか様々だよ
大陸の歴史に関しては、どの民族がいつからその土地に移民して来たのかとかを追わないと良くわからないよ
例えば古代イスラエル帝国と、現在のイスラエル国は、それぞれまるで違う民族なんだし
大陸で言えば古代漢民族と、現在の漢人は違う民族だよ
現代の漢人って呼ばれてる民族は、シナ民族や満州民族や、上海民族とかの「総称」を漢人としてるだけだから
ストーンサークルの分布、高床式の倉の分布を見れば、 バスク人=ケルト人=縄文人だということが分かる。
539 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 21:41:45
古代日本列島では、ポリネシア基層言語の上に、伽耶諸語、高句麗語、百済語、新羅語、アイヌ語等が重なって混合し、平安時代の大和言葉になった。 倭人とは、朝鮮半島南部の住民、それと同族の日本列島住民、半島から日本に移住したワイ族の事を言う。
540 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 22:08:37
>>539 たしかに大陸から移民して来た氏族もいるよ
遥か大陸の西側からシルクロードを辿って蚕を日本に伝えた秦民族(後の波多氏)や、魏志倭人伝を書いた氏族で古代漢民族と言われてる司馬氏(後の鞍作氏)とか
まあ他民族の混入は確かに無くは無いけど、日本民族は大陸から渡って来た移民じゃないぞ?
ちなみにモンゴル人と日本人は民族や語源の接点が良く言われるけど、モンゴル人ってのもモンゴル帝国以前には大陸に居なかった民族だよ
日本民族が大陸に渡ってモンゴル帝国を築いたって考えた方が日本人とモンゴル人との類似点の説明は着くんだよ
それが義経だとは言わないけど
541 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 22:18:43
>>539 高句麗は知らないけど、加那も百済も新羅も、日本の朝廷の命を受けた日本民族が建国統治してた国だから、語源は日本語だよ
日本が納める以前の現地人がどんな語源だったのかは知らん。既に滅んでる語源かも知れないし
それにアイヌ語はアイヌ民族の言葉で、日本語とは別の言葉だよ
つかなんで日本民族が大陸からの移民って前提なのかが解らん
仮に大陸からのなら、日本民族は何処から移民して来た民族って言いたいんだあ?
実はシュメール帝国は日本民族の築いた帝国で、そのシュメール民族が日本列島に移民して来たのが日本民族
だから日本民族とはシュメール民族の事だ
見たいな話でもあるんすか?
542 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 22:56:58
日本列島の人間は、日本の地で猿からヒトになったのではなく、 アフリカで猿からヒトになったあとで、日本の地(大陸と陸続きだっただろうが)に やって来たのだから、前提はおかしくない。 南方からやってきた列島人と、北方からやってきた列島人が混ざって いまの列島人が形成されていることは、髭や体毛の濃淡のバラエティーでわかる。
543 :
日本@名無史さん :2008/05/29(木) 23:13:06
>>541 古モンゴロイドの縄文人が大陸から日本へ来る。
BC1000年頃長江下流域から古モンゴロイドの稲作民が朝鮮半島南部や九州に渡って弥生文化がおき、
三韓時代以前の朝鮮半島南部と九州には原日本人が弥生文化を持って居た。
BC3世紀、満州、朝鮮半島北部から新モンゴロイドの原朝鮮人が南下し、朝鮮半島南部に三韓が成立。
朝鮮半島南部の原日本人は日本へ追いやられ、倭国が成立。一部の新モンゴロイドの原朝鮮人も日本へ。
544 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 02:58:29
>>542 だからそれも単なる「説」でしか無いっての
進化論じたいいまだに何一つ誰も証明出来ない「説」でしか無いんだし
だいたい猿が今の文明人になった時点で、その時代に既に文明が築かれてるっての
四大文明が文明の発祥だとしたら、文明発祥からたったの4000年程で世界中に巨大なコンクリの建造物が建ち並ぶ程の文明を築いてるのが今の人類だってば
ピラミッドも万里の長城も自由の女神も東京タワーも含め、現在ある世界中の建造物は「人類の築いた遺跡」だよ
文明発祥からたった数千年で、これだけの建造物や巨大都市を築いてるよ
10万年前に大陸に既に今の人類が居たなら
10万年前から既に文明を築いてるよ
それともこの10万年の間に、人類の知能が突然進化したと言うなら、ダーウィンですら言ってたように、進化論では説明出来ない変化だよ
545 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 03:08:57
飛騨で猿からヒトに進化したって説も聞いたことあるよ。ホントかぁ?!
546 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 03:20:31
>>543 だから縄文人って何?
弥生時代より昔にいた、弥生人とは違う人類って意味?
滅んだ人類って事?
それとも縄文人が弥生人へ進化したって言いたいの?
つか縄文時代だの弥生時代だのって
「一方でその頃の日本はまだ縄文時代。日本人はアホだから大陸の人が教えてくれるまでまだそんな暮らしをしてた」
見たいな意味で「縄文時代」とか「弥生時代」って言い方してるでしょ?
縄文時代とかなんとか言うのを辞めて、むしろ「日本文明」って言い方しなよ
そもそも稲作は大陸じゃなく日本文明が発祥だってば
大陸は稲作じゃなく小麦作ってたんだから
中国大陸は米文化じゃなく小麦文化の土地なんだし
稲作って水路作ったり農地開拓したり、古代日本では山幸彦の時代に既に上流に人口のダムとか作ってたよ
日本人は農作技術と、木造建造技術に優れた文明をもち、発展して来たんだってば
エジプトや黄河文明を築いた民族は滅びたけど、日本文明は世界で唯一現存してる古代文明だってば
しかも木造建築っても、単に木を切る訳じゃなく、木を植えて木を育ててって所から日本はしてるよ
547 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 03:29:12
日本じゃ文明の発祥を「四大文明」って言い方するけど 古代のヨーロッパやメソポタミアでは文明開花の事を「オリエント」って呼んでたんだよ ちなみにオリエントってのは「日の昇る地」「極東の地」「東方の地」って意味 シルクロードってのも日本からヨーロッパまで繋がってる道の事だよ
アイヌとは、.I am つまり、自分自身。 イヌイットとは、 In it つまり、内にあるもの。 フィンランド人は suomi と自称する。つまり、Show me。 なにをいいたいのかというと、これらの言語はウラルアルタイ語と呼ばれる諸言語。 そのもっとも基本的な自称語は英語の元となったといわえているケルト語≒縄文 語に繋がる。 フィンファンド人は、匈奴(=フン族)≒縄文人だという説もある。 旅する民族、縄文人、これが面白い。
549 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 07:44:22
>>546 >そもそも稲作は大陸じゃなく日本文明が発祥だってば
(;´Д`)ハァ〜
>大陸は稲作じゃなく小麦作ってたんだから
中国大陸は米文化じゃなく小麦文化の土地なんだし
( `∇′)∠))) ハハハハ
美濃もん太は恥さらし。
550 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 09:15:39
>>549 百済から漢字や儒教などの漢民族の文化が伝えられたのが平安時代頃でしょ?
蚕は大秦帝国(ローマ帝国)の秦民族から伝えられた
この辺りは伝わった時期とかがきちんと解ってる
けど稲作に限らず何でもかんでも大陸から伝わって来た見たいな固定観念があるじゃん
稲作が大陸から日本に伝わったとするなら、その根拠を知りたいわ
ちなみにサイシュウ島では稲作初め五穀豊穣の神や農作技術は日本の神が伝えてくれたって伝えられてるよ
551 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 09:54:19
日本には稲の原種がない。 済州島に日本から伝わったとしても、日本が稲作の発祥地ではない。 1世紀頃には既に漢字や儒教が日本に伝わっている。 倭奴国が漢に使者を送り、漢民族の文化を取り入れている。
552 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 10:01:08
約2万年前頃まで日本列島は朝鮮半島・華北・サハリンとつながっていたが 台湾とはつながってはいない。 約5〜6万年前頃に中央アジアに入った北周りのオーストラロイドがゴビ砂漠を 通ってモンゴロイドに変化しながら約3万年前頃に日本湖周辺に拡散。 その頃に地続きの朝鮮半島とサハリンから日本列島に古モンゴロイドが流入。 約18000年前頃に日本列島が華北・朝鮮半島と分岐。 華北・朝鮮半島では古モンゴロイドから発展した中央モンゴロイドに 変化していくが、日本列島では古モンゴロイドを維持。 約3000年前頃に北方モンゴロイドの弥生人が沿海州沿岸から船で 朝鮮半島東岸を通過してくる最中に知った水田稲作を持って 九州北部に定着して西日本に拡散。 古モンゴロイドの縄文人と混成して現在の日本人種に至る。
553 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 10:08:19
誤り⇒約3000年前頃に北方モンゴロイドの弥生人が沿海州沿岸から船で 朝鮮半島東岸を通過してくる最中に知った水田稲作を持って 九州北部に定着して西日本に拡散。 約3000年前頃に古モンゴロイドの@弥生人が長江下流域から船で水田稲作を持って九州北部に定着して西日本に拡散。
554 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 10:13:31
↑慌てて飛び出す長江江南ベトナム顔タイワン工作ゴリラwwww
555 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 10:30:44
>>552 それはどの国に、いつ頃から伝わってる伝承なんですか?
そんな神話や伝承は今まで聞いた事無いですよ
556 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 10:43:01
>>554 新モンゴロイドが大陸北方から来たのはBC.300年頃、金属器を持って来た。
557 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 10:55:03
なんでもかんでも大陸から伝来とかって固定観念はおかしいとは言ったけど だからと言って日本を発祥にしろって意味じゃないよ 大陸から伝わったものは伝わったもので良いし、漢民族や秦民族とかの渡来人も過去には入って来てるし 根拠もなくなんでもかんでも大陸からって発想はおかしいってだけだよ あと縄文人だの弥生人だのって呼び方もおかしい これ日本民族の事を言ってるの? だとしたら俺らは縄文人でも弥生人でもなく日本人なんだから、日本人って呼ばないとダメだよ それとも日本人とは違う人種って意味で縄文人とか弥生人って呼び方してるの? だとしたら日本には日本民族以外に弥生人っていう人種がいたって事?
558 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 11:03:10
邪馬台国や卑弥呼もそうだけど、日本のどの歴史書にも「弥生人がいて」とか「縄文人がいて」なんて書いて無いよ 邪馬台国みたいに大陸の民族が「日本は縄文人の国で」って伝えてる訳でも無い 縄文人だの弥生人だのって、日本の歴史上のどの民族の事を言ってるの? 日本民族の事を言ってるなら縄文人やら弥生人なんて言わずに、日本人って呼ぶのが普通だよ なんか弥生人や縄文人呼ばわりされると日本人をバカにされてる気がするよ
559 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 11:05:59
>あと縄文人だの弥生人だのって呼び方もおかしい 縄文時代の日本人、弥生時代の日本人ていどの意味だな。 縄文人、弥生人にしても時代や場所により一様ではない。
560 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 11:14:55
>>559 そもそも縄文時代や弥生時代ってのが、どの日本の歴史書に書かれてるの?
イザナミから天照までが縄文時代で、天照からイワレビコまでが弥生時代とか?
奈良時代とか平安時代って言い方はまだわかるよ
日本の歴史上、奈良に都が置かれた期間をそう呼んでるだけで、日本人の歴史であって奈良人なんて呼び方もしないしさ
561 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 11:25:27
石器時代だの縄文時代だの縄文人だの こんなのは日本や日本民族の歴史じゃないよ まるで日本人はバカで文明も持たない縄文人や弥生人だった見たいなさ 後から勝手に付けられた呼び方で、こんなの日本や日本人の歴史じゃないよ 天照って人がいて、イワレビコって人がいて、源の頼朝がああしてこうして、、 ってのが日本の歴史であり、日本民族の歴史だよ 日本の歴史教育ってやっぱオカシイね 何かアホ見たいな歴史を教えられてた事に腹立ってきた ちゃんと先代の日本人達が伝えて来てくれた日本人の歴史を教えろよなあ
562 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 11:35:55
縄文人は世界最古の1万6500年前に土器を造った。 バカではない。 美濃もん太はお子様?
563 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 11:40:21
>>562 だから縄文人って誰の事ですか?
俺ら日本民族の事?
それともアイヌ人や土蜘蛛族見たいに日本に住んでた別の人種の事?
564 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 11:46:08
縄文人が土器を作ったかなんかしらんけど 現代人は文明発祥から僅か4000年ぐらいで、世界中にこれだけの都市や建造物を作ったよ 縄文人は16500年も掛けて土器しか作れなかった人種なら、俺ら文明人類とは別の類人サルすよ 少し頭の良いサルていどの俺らとは違う人種だよ
565 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 11:49:02
ちなみに弥生人ってのは縄文人より少し複雑な土器を作った程度だっけ? したら俺ら人類とは違う人種だよ
566 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 11:54:16
>>556 朝鮮細型青銅器が伝わったのは弥生前期末頃。
ただ半島から渡来人がやって来て伝わったものではなく、
九州北部の弥生人との交流や交易を通じて伝わっただけの話。
なぜなら半島人の定着を示す朝鮮無文土器を生産する集落遺跡が
無いからである。
567 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 12:13:12
竹内文書上古25代の皇朝とは、超古代ムー文明のことを示しています。で、不合72代の王朝とは、シュメール、スキタイ、契丹古伝の東大国、伽耶、新羅、高句麗等々の、王朝興亡移動史を伝えています。最終的に、神倭朝の成立をもって日本列島に定着したようです…。
568 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 12:25:36
…しかし、日本には既に富士山麓、東北十和田、日高見仙台、飛騨乗鞍、山陰等々に多くの国が存在していたようです。その後は皆さんも知っての通り。
569 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 12:29:32
BC300頃から半島系のノッペリした人骨が九州北部から畿内に架けて出現する。
570 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 12:30:19
BC300頃から半島系のノッペリした顔の人骨が九州北部から畿内に架けて出現する。
571 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 12:40:31
半島人よりもさらにノッペリした顔の人骨な。 BC8C頃のものが最古だよ。
縄文人は旅する民族。 はるかアフリカ西海岸から、紅海をわたり、アラビア半島を越え、中央アジアからシベリアを横断して ユーラシア大陸の東海岸に着いた。さらに東海を渡り、たどり着いたのが日本列島だった。 縄文人の祖先は、数千年をかけて太陽の昇る方向、つまり東へ東へと移動していったのです。 神武東遷も縄文人の長い歴史から見れば、ほんの小さな一歩にすぎません。
なんか混乱してきた
574 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 10:48:06
東海とか言ってる貴公は朝鮮人?日本海だよ。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。 || ○重複スレには誘導リンクを貼って放置。ウザイと思ったらそのまま放置。 || ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを || 与えないで下さい。 .Λ_Λ || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。 || ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
スレの破壊を狙って意図的に流れとは関係のない話を書く工作員 がいるっぽいです。うかつにレスすると混乱します。
>>575 大陸の東にあるから東海
日本という呼称も天武以降にできたのだし、
ニニギの祖先が九州に渡ってきた頃は東海です
578 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 11:42:31
日本人だけど九州王朝は伽耶だと思うよ。同じく倭も伽耶だと思う。ウガヤフキアエズはユーラシア大陸を西〜東に移動興亡を繰り返した騎馬遊牧民連合王朝だと思ってる。ウガヤは伽耶であり、神倭朝が倭。つまり倭は、ウガヤ伽耶を継承したって事。
579 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 11:59:36
…ただ、騎馬遊牧民連合王朝が日本列島に辿り着いたら既にそこには、正統ムー皇朝を始祖とする多くの国々が存在していたから、日本のルーツが朝鮮にあったとは言えないよ。日本の総本家はムーで、後から来た騎馬遊牧民が全てを改竄破壊して王権を押し付けたって訳。
失われたユダヤ11支族のひとつガド 帝(みかど)=ガド族の王 ガドの長男= ニイェポン=日本の由来となった 約束の地カナン=ヘブライ語で葦の原 東方の日いずる国=ヘブライ語でミズホラ=みずほの国 やまと=や、うまと=ヘブライ語で神の民
581 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 12:13:01
日本の総本家はムー。朝鮮支那では断じて無い!朝鮮、支那中国の人は勘違いしないでね♪
家というものは、のれん分けした時点でダメになるんだよ。 それは吉兆の例を持ち出すまでもない。 尾張、紀伊、水戸の徳川御三家が長く繁栄したのは、本家 徳川幕府の力が強大で確固たる組織を維持してきたからで す。 日本がムー帝国の総本家を主張するのなら、大東亜共栄圏 を確立しべきであった。しかし、その野望も、大英帝国の分家 に過ぎなかったアメリカの前に脆くも打ち砕かれてしまった。 しかし、まだまだ復活の機会はあるかもしれませんね。
583 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 16:04:13
美濃もん太は猿人。
584 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 16:13:42
縄文末のBC10C頃、世界最先端の土器文化を持っていたのは間違いなく長江江南。 すでに釉(うわぐすり)を使った原始青磁の時代。 ただ主流は登り窯で焼成した灰色の土器である灰陶。 またはそれにスタンプで幾何学文様の装飾を施した印文陶。 炊飯器は三足土器の鼎、鬲のほか、竈+釜のセットもあった。 なーーーーーーーーーーーーーーーんにも伝わってないがなw
585 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 16:28:38
倭人は「火食せざる」民であり、火は主に汁ものの煮炊きが中心だと思う。 アサリの干物スープに穀物・豆・芋を入れれば雑穀粥だ。 食生活・食習慣がちがうから、不要なものは取り入れないね。
586 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 17:38:23
>>585 弥生時代から鍋物が好きだったようだよ。
鍋物の時に使う木の葉型の食器は今と同じデザインだよね。
587 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 18:06:01
588 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 18:07:07
>幾何印紋陶(幾何学模様を施した陶器)、原始青磁器を中心に 印紋陶?????原始青磁????? いやあ、長江江南の弥生時代開始頃の遺跡からは弥生遺跡からは さーっぱり出土しない摩訶不思議なものが出土するんですねえ(嘲笑)
589 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 18:39:29
590 :
にんとく :2008/06/01(日) 16:53:56
別のスレッド・・・【古田史学】真実の寛政原本!!【東日流】
で見かけたのですが、(
ttp://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/ 2008/06/post_aa52.html#comment-31733146)によりますと、古田氏は、
「蘇我入鹿暗殺の年次と場所:年次は白村江の前年、場所は筑紫の飛鳥
にあった朝倉の宮。原因は、唐と戦うか否かで、斉明と蘇我氏は戦う派、
中大兄や鎌足らは唐と戦わず、唐に従う派であった」という発見を、最近
なさったそうです。Wikipediaの説は、古田氏以外のどなたかの推論かな、
と私は勝手に想像していたのですが、この想像は誤りだったようです。
(Wikipediaの説の真偽に関しては保留します。壬申の乱は、万葉集の、
人麻呂と黒人の歌を根拠に、近畿で起きたと理解していますので。)
591 :
日本@名無史さん :2008/06/01(日) 18:48:40
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
これが発掘されれば、九州長の存在が確定、みたいなものはないの?
親魏倭王の金印が九州で出れば、九州王朝確定。 金印が近畿大和で出た場合は、 九州から持ち込んだものでないことが確認された時点で 邪馬台国近畿説が確定する。
594 :
日本@名無史さん :2008/06/02(月) 22:14:00
志賀島の金印に対して、畿内説からは 「畿内で盗難され、泥棒が逃亡中に埋められた」 「あの金印は偽物」 と、一蹴されているので、話になっていない。
595 :
日本@名無史さん :2008/06/03(火) 08:26:34
>>594 畿内説の現実逃避ですね。
都合の悪い証拠は見えない、聞こえない。
>594 金印偽造説は発掘後からあったが、「偽物」と一蹴されるほど有力では なかった。東アジア(テン?)で同類が見つかって、偽造説は影を潜めた。 現今の偽造説は、大和説の悪あがきか?
597 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/03(火) 19:42:49
>>596 >東アジア(テン?)で同類が見つかって
ベトナム(滇國)で前漢武帝の時のものが見つかって
598 :
日本@名無史さん :2008/06/03(火) 21:29:07
しかし、金メッキならともかく、純金の印を偽造して畑に埋めるバカな金持ちはいないだろう? そう考えると、本物じゃないかと思ってしまうんだよな。それが貧乏人の性。orz
599 :
にんとく :2008/06/04(水) 17:36:11
天武天皇は、686年9月に崩御し、688年11月に大内陵に葬られた。 周知のように(?)『隋書』には「貴人は三年モガリし」と記されてる。 私は、欽明、皇極、孝徳、天智、天武は、姓が「アメまたはアマ」ゆえ、 九州のタイ王「アメ・タリシホコ」と同系の王かと思っていたが、 姓「阿毎」の読みを「アマ」に限定するなら、天武すなわち 「アマのヌナハラオキノマヒト」のみが九州の直系である可能性もある、 というように、考えを改めた。モガリが三年も続いたのは天武だけ。 私は、天武なきあとの国家戦略を固めるために、持統=不比等が仕組んだ 時間稼ぎと見ていたが、これは九州の貴人の制度、と解釈すべきだった。
600 :
にんとく :2008/06/04(水) 20:45:18
>599に追加。 『隋書』の「戸十万あり」の記述をもって九州王朝説の根拠としうるか否か の論争(?)を、別のスレで行った。タイ国を近畿大和とするには、戸=郷戸、 1戸=20ないし40人、を想定せねば成り立たないことが判明した。 さて、「貴人は三年モガリし」の『隋書』の記述は、天武には当てはまるが 「日本書紀」で三年モガリした貴人の記事はあるのだろうか? これがなければ、「三年モガリ」の記述は、九州王朝の根拠の一になる。
601 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/04(水) 21:15:06
>>599 その通りと思います。
天武自身は、直系でも、薩耶麻から見ると傍系とみなされる、
畿内地域政権の傍流弟王(大王)ではないかとかと。
天武が薩耶麻帰国直後に畿内にシフトしたのは何故なのかを説明できる必要があります。
天武の死後、持統・不比等は九州からの離脱を仕組んだのでしょう。
そして、文武が軍事的にも697〜699年に九州を制圧し、700年に九州主流王家を滅ぼした。
602 :
日本@名無史さん :2008/06/04(水) 22:01:47
>>599 モガリといえば、「日本書紀」によると、イザナミノミコトが亡くなった時に、
イザナギノミコトがモガリのところに入っていったら、醜い姿を見られ辱め
られたといって追いかけられる神話が有名です。
では、モガリとはどこに死体を置いたのかが問題になります。実はそれが
わかっていません。orz
603 :
日本@名無史さん :2008/06/04(水) 22:12:09
ずっと後の時代(平安時代など)、一般人は亡骸を丘や山に運んでいき、 いわば風葬をした。自然の狼や野犬の餌食にもなった。 モロ見えの風葬ではナンなので、時代とともに青垣で囲ったり、 しまいには土に埋めるなどをした。 古代九州などは屈葬の状態で甕棺に入れて埋めているが、高度なことだ。
604 :
にんとく :2008/06/06(金) 23:07:49
『隋書』の「五弦の琴」について。以下のエピソードを確認する。 古代の琴の源をたどると、五弦の琴か六弦の琴に行き着くという。 ところが、正倉院には(16,13弦のほか)六弦の琴しかない。 五弦の琴は、宗像神社の宝物館にもなかった。結局のところ、 沖の島で出土したことが判明。これは九州王朝の物的証拠である。 (出典:古田『ここに古代王朝ありき』1979年刊行) 「阿蘇山」以外にも、「戸十万」「貴人の三年のモガリ」「五弦の琴」 に記事は、『隋書』のタイ国が九州であることを明示している。 これを読み誤ること自体、到底想像できない。(私が、最初、隋書のタイ国が 九州であると聞いて、ウソだろ〜と思ったのは、「日出づる国の天子= 聖徳太子」の教科書の記事が先入観としてあったためだと反省している。)
今も「倭人伝」は信用できずと称し「タイ国」を近畿大和とし「梁書」を無視 しつつ、都合のよい一部の記述だけを取り入れて、記紀との整合性を図る、 古代史学者・アマチュアは、記紀編纂時の「大本営発表」に忠誠を誓う人 たちだ。日本人の鏡といえる。なぜなら、日本古代の真相を、歴史の授業で 教えるにあたって、日本の国は記紀という作りごとの歴史書から開始した、 などと口火を切るのは、生徒の無意識に悪影響を及ぼすのではなかろうか。 宣長のように判断停止を合理化しつつ、延々と無駄口を継続させるのが 日本人の鏡の行動指針だと言える。
606 :
日本@名無史さん :2008/06/07(土) 12:06:22
最近のスレ作成者て「日本@名無史さん 」が流行ってる?w
タイ国とは現在のタイ王国。 鳥越先生の本を読めば、 中国とタイの国境山岳地帯に 倭人が今も住んでいることがわかります。
倭人が今も住んでいる 「タイ人」が今も住んでいるなら、鳥越説は有力だろうW
鳥越説は多くの人あ認める通説ですよ。
古事記偽書説の後ろ盾でもある。が、これは虚説だろう。 出雲神話論は正解かもしれない。
鳥越がなんと言おうと、確かなのは
「タイ国とは現在のタイ王国」
とぬかす
>>607 が荒らしの常連
ってこと。
612 :
日本@名無史さん :2008/06/07(土) 15:45:54
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
ここでは、異説を唱える者はみんな荒らしなのですか? そういえば、魏志倭人伝では、儒教以外の宗教はすべて鬼道、 という言葉で一括りにし、中国以外は、全て東夷西戎北狄南蛮 と・・自己中心で物事を一元的にしか見ないそうですね。 まあ、中華思想になぞえて、九州思想とでも呼びましょうか。
異説を唱える者は荒らしではありません。 愚説を唱えるのが荒らしなのです。 愚人には異説と愚説の区別がつかないのです。
>>614 その言葉はそっくりそのままあなたにお返しできるかと思います。
あなたの理解の範囲を超えていることは愚説だと思ってしまう。
それがあなたの限界なのです。
>>615 その言葉はそっくりそのままあなたにお返しできるかと思います。
あなたの理解の範囲を超えていることは愚説だと思ってしまう。
それがあなたの限界なのです。
>>616 その言葉はそっくりそのままあなたにお返しできるかと思います。
あなたの理解の範囲を超えていることは愚説だと思ってしまう。
それがあなたの限界なのです。
618 :
日本@名無史さん :2008/06/08(日) 12:21:06
>>617 その言葉はそっくりそのままあなたにお返しできるかと思います。
あなたの理解の範囲を超えていることは愚説だと思ってしまう。
それがあなたの限界なのです。
まあともかく、荒らしはあなただということがはっきりしました。 実は、あなた自身、良識派を装ったスレ荒らしに過ぎないと いうことを自覚すべきですね。 でも、無理か。それがあなたの限界ですから。悪く思わない でください。
620 :
にんとく :2008/06/08(日) 16:22:54
>>600 に追加。
『隋書』の「戸十万」の記述をもって九州王朝説の根拠としうるか否か。
750年の推定人口。九州70万。近畿120万。西日本310万。東日本200万。
俀国を近畿大和とするには、戸=郷戸、1戸=20ないし40人、を想定せねば
ならない。しかるに、『日本書紀』652年に「50戸を里とする。戸主には皆
家長を以てす。」とある。戸=郷戸とすると、家長を以てす、という規定は
おかしい。(646年の大化の令制の存在しない)『隋書』600年の時点で、
@後の令制につながる制度が存在した、A ただし戸は郷戸の意味である、
というような、途方もない(と私には思われる)仮定を設けなければ、
「俀国」を「近畿大和を都とする古代日本」と同一視できないのである。
以上、『隋書』の「戸十万」の記述は九州王朝説の根拠としうると考える。
621 :
にんとく :2008/06/08(日) 23:56:15
『隋書』俀国伝の「戸十万」「五弦の琴」「貴人の3年モガリ」「阿蘇山」 が九州王朝説の根拠としうることはすでに述べた。「鵜飼」については、 神武歌謡に見られるので(「島つ鳥鵜飼が伴」)九州限定は無理なようだ。 それでは、刑に関する記述「置小石於沸騰中、令所競者探之」つまり 「明神探湯(クカダチ)」はどうだろう。大林『邪馬台国』によると、 「クカダチ」は魏志以降に江南から入ってきたのではないかという。 『古事記』允恭記に「玖訶瓮(ヘ)」とあり、『日本書紀』には明神探湯の 読みの分注がある。(他に、応神紀「探湯」、継体紀「誓湯」がある。) 允恭紀4年(415)の記事は、氏姓を定めるためにクカダチを用いたとあるが、 氏姓制度は415年には確立していないので、ここのクカダチは創作だろう。 また、継体24年の「誓湯」は近江毛野が任那で楽しんで行ったもの。 つまり、『隋書』が語る600年時点のクカダチは、九州王朝説の根拠には ならないが、さりとて、『書紀』の記するクカダチは、『隋書』の記事を 裏付ける事例とは到底言えないものなのである。
622 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/09(月) 00:32:19
>>620 俀國では、
@ 後の畿内令制につながる戸制度が存在した。
A 戸数は96000戸、ただし戸は郷戸でない。
B 戸は戸主以下15〜30人構成である。
C 隋書による俀國の範囲は九州島全域のみである。
D したがって俀國(九州)の人口は150万〜300万の範囲となる。
623 :
にんとく :2008/06/09(月) 14:19:26
『隋書』の固有名詞若干について。 (1)「筑紫」の読みが、九州では「ちくし」、近畿では「つくし」 だとすると、「竹斯」は、俀国が九州であることを示していること になる。 (2)阿毎多利思北孤。底本の活字が「北」としか読めないので、 古田の読みに従うが、「北」を「ホ」と読むのはやや強引であり、 「比」の可能性も大ありだと思う。その方が、一字一音表記を 貫徹したと解釈できる。なお、毎=「メ」とする万葉仮名はないが、 梅を「メ」と読ませる万葉仮名はある。 問題は、「アメタリシヒコ」とした場合、近畿の「足彦(タラシ ヒコ)」との異動であるが、九州のタリシヒコ=近畿のタラシ ヒコ、という解釈が成り立つと思う。 (3)阿輩鶏弥・鶏弥。鶏弥は「ケミ」としか読めない。九州のケミ =近畿のキミ、と捉えるべきだろう。なお、阿輩の部分は、 「アハイ」かもしれないが、吾輩のように和語の「吾が」を漢訳 した可能性もある(古田説)。 (4)利歌弥多弗利。和語はラ行を語頭に持たないので、これは 『翰苑』に従って「利」を「和」に改めねばならない。古田の 「利(固有名詞)、上塔の利」という解釈は悪い冗談である。 「ワカミタフリ」とは皇子のことをいう。 (1)〜(4)のどれを取っても、記紀の記述と一致しないのに、 それでも俀国を統一日本国と解釈したがる人がいるのは、 なぜだろう。■■
九州王朝説って、 ひょっとしたら 「邪馬台国九州説」を貶めるための 畿内論者の陰謀?
625 :
にんとく :2008/06/10(火) 11:40:23
九州王朝説は「邪馬台国九州説」を貶めるための畿内論者の陰謀か? @魏志の「邪馬一(台)国」は九州である・・・邪馬台国九州説 A魏志の「邪馬一(台)国」は畿内である・・・邪馬台国畿内説 B隋書の「邪靡堆」は九州である・・・九州王朝説 C隋書の「邪靡堆」は畿内である・・・Aから当然のこととして導かれる。 @Bの組み合わせが九州王朝説。 @Cを組み合わせるためには邪馬台国東遷説(又は隋書の誤記)が不可欠。 Aの中には、魏志も隋書も信用できない、という立場の者もいる。 日本書紀は邪馬台国大和説だ、と多くの者が思っているだろうが、 仲哀天皇が九州で天下を治めていた時に神功皇后が新羅征伐を行っており 日本書紀は邪馬台国九州説ではないか。一方で、紀は隋書を無視している。 九州王朝説は「邪馬台国九州説」を前提とするわけだから、畿内論者が 「邪馬台国九州説」を貶めるのは、九州王朝説抹殺のための陰謀といえる。
626 :
にんとく :2008/06/10(火) 16:00:58
>625 追加訂正 仲哀天皇が九州で天下を治めていた時に神功皇后が新羅征伐を行って →仲哀の都は九州。仲哀没後すぐに神功が新羅征伐を行っており、 古事記と日本書紀で活動拠点が異なるように取れる。これは、 景行記と景行紀の構想の違いと並行するもので、邪馬台国=大和 であれば、この構想はおかしい。成務天皇の国造設置(135年)、 允恭天皇の氏姓制定(415年)は、誰もが造作と受け取っている だろうが、九州の邪馬台国を取り入れるために、景行、成務の 業績をこの年代に設定せざるを得なかったのである。
やっばり、 「邪馬台国九州説とか言う人外は、 九州王朝論者=東日流真理教のキ●ガイ」と思わせるための謀略の 希ガス。 ヤマタイ九州論者に 九州王朝・古田・外三郡史は禁句な。
628 :
日本@名無史さん :2008/06/10(火) 22:19:49
ていうか、近畿説もただの九州説も、今日日、劣勢でしょ。 金がらみの業界では、飯食うために涙目で近畿説w
629 :
日本@名無史さん :2008/06/10(火) 22:46:26
当時、玄界灘を渡る船を造るには、高度な造船・航海術と膨大な費用 が必要だったわけだし、筑紫の一部しか支配していなかった小国が 魏王朝に朝貢できたはずがない。 やはり、邪馬台国は、九州から四国、畿内までまたがる広大な地域を 支配していた大国であったとすべきではないでしょうか?
630 :
ローガン :2008/06/11(水) 01:20:47
>>629 > 当時、玄界灘を渡る船を造るには、高度な造船・航海術と膨大な費用
> が必要だったわけだし、筑紫の一部しか支配していなかった小国が
> 魏王朝に朝貢できたはずがない。
んー、どうでしょうね。後漢書の永初元年の記事を信用すると、かなり大掛かりな朝貢がうかがいしれます。
それに、この時点ではまだ、広域倭国は考えにくいと思います。
よって可能性という事のみを考えれば、「できた」 と思います。
631 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/11(水) 13:32:35
>>630 >この時点ではまだ、広域倭国は考えにくいと思います。
倭奴國は九州説だと思いますが、
邪馬臺國はどちらの説ですか?
俀國は奈良説でしたね。
632 :
ローガン :2008/06/11(水) 16:19:08
633 :
日本@名無史さん :2008/06/11(水) 20:40:45
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
634 :
日本@名無史さん :2008/06/11(水) 22:57:01
>>628 畿内説は完全に論理破綻し行き詰っている。
畿内説宣伝省の街宣活動で劣勢の挽回を図るしかないのが現状。
635 :
ローガン :2008/06/11(水) 23:31:40
>>634 > 畿内説は完全に論理破綻し行き詰っている。
> 畿内説宣伝省の街宣活動で劣勢の挽回を図るしかないのが現状。
↑具体的な根拠も明示せず、声高に罵倒するのみ。これこそ街宣活動ではありませんか?
記紀を鵜呑みにすれば宮崎から畿内に進出したってことになる。 確かに宮崎は多くの人口を養える豊かな土地で、遺跡も多い。 防衛上有利な場所でもあり、人の往来が多く不安定な筑紫での小競り合い を横目に、密かに実力を蓄えるには最適な場所ではある。 人口が宮崎平野でオーバーフローしたところで新天地を求めて一気に 東征っていうのも、あながち嘘じゃないかもよ。
637 :
日本@名無史さん :2008/06/12(木) 04:10:10
× 宮崎から畿内に進出 ○ 筑紫のヒナタから畿内に漂着
大和朝廷自身が 当時の辺境たる日向にルーツを求めてる。 ここ重要だと思う。
639 :
サガミハラハラ :2008/06/12(木) 10:22:47
天孫降臨の地や神武の出立した日向の地を宮崎県に比定したのは記紀の編者の誤謬でした。 本当は北部九州の海岸沿いの地域のことでした。 この誤謬の原因は、宮崎の地が日向という同一名であったことと、宮崎自体にも天神降臨の伝承が存在したことでした。 記紀には天神降臨はニニギノ命(天孫)だけとなっていますが、実際は天神降臨であり、倭各地に天神が降臨したのです。 葦原中つ国にはニニギノ命、出雲にはアメノホヒノ命、奈良にはニギハヤヒノ命、任那にはキンスロ王をはじめとする人たち、という具合に 高天原から降臨したのですが、宮崎にも同じように誰かが降臨しその様子が記紀編纂のときに残っていたようなのです。 それを、記紀の編者はニニギのことだと誤解したのです。
640 :
日本@名無史さん :2008/06/12(木) 10:38:22
倭人伝が伝える邪馬台国は、少なくとも、北九州から水行十日、陸行一月。これを否定するようではまともな読み方とは言えない。
隋書が伝えるヤマタイの都も筑紫から十か国、更に十日。
どうみても北九州の話ではない。
>>638 私も重要だと思う。
>>640 倭人伝の読み方が根本的に間違ってる。
邪馬台国は對海から既に始まっている。
642 :
にんとく :2008/06/12(木) 12:14:50
>>640 >邪馬台国は、少なくとも、北九州から水行十日、陸行一月。
>これを否定するようではまともな読み方とは言えない。
←「水行十日陸行一月」の起点はどこか。投馬国、伊都国のほか、
帯方郡とする解釈がある。意表をつく解釈であるが、「12000里」と
「女王国以北」の部分を矛盾なく解釈できる利点がある。
>隋書が伝えるヤマタイの都も筑紫から十か国、更に十日。
>どうみても北九州の話ではない
←「更に十日」というのは原文でどう書かれている部分ですか?
643 :
日本@名無史さん :2008/06/12(木) 13:34:13
>638 無理やり貴種伝承をほじくった結果、ニニギの子孫たる 居座り強盗集団=退役久米軍を持ち出しただけ。
644 :
サガミハラハラ :2008/06/12(木) 14:24:43
水行10日陸行1月は総日数である。 陳寿は種々の資料を組み合わせた結果、木に竹をついだような文章にしてしまったのである。 倭人伝の文章はその中心となる分に重きをおいて解読するひつようがある。 皆平等にのっぺりとした読み方をしてはフィリピンの東方海上とやらにいってしまう。
645 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/12(木) 15:45:22
>>644 陳壽が史料を組合せたという記述は何処にあるのです?
646 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/12(木) 17:13:49
下記疑問@Aについて議論しませんか? 疑問@ 『其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝 上記は何を意味するのかを、魏書倭人伝を踏まえて説明できる方書き込んでください。 疑問A 『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条 上記は何を意味するのかを、魏書倭人伝と隋書俀國伝を踏まえて説明できる方書き込んでください。
647 :
サガミハラハラ :2008/06/12(木) 20:32:52
今も昔も、ノンフィクションをかくときはさまざまの資料からまとめてかくものでしょう。 それとも魏略のまるうつしだとでも。
>>646 王朝さん
魏志倭人伝や後漢書倭伝を完璧に理解できなければ、隋書は理解できませんよ
隋書書はそれらを踏まえているわけですから
>>647 >今も昔も、ノンフィクションをかくときはさまざまの資料からまとめてかくものでしょう。
それとも魏略のまるうつしだとでも。
魏志倭人伝を編纂するにおいて、このように編纂したと言う説明はなかったはず
つまり、全てサガミさんの想像でのお話
想像を根底に組み立てた理論を構築したところで、所詮想像と言う名のピラミッドにすぎませんよ
魏志倭人伝を信じるくらいなら、ホツマツタエか竹内文書でも 研究してたほうがためになる。
そうだ、そのとおりでやんす。 日本の古代を護るためには、客観的な中国史書を 科学的に研究してちゃだめずら。 人間、時には馬鹿にならんといかんばい。
652 :
日本@名無史さん :2008/06/12(木) 22:07:32
信じる信じないという次元で語っている時点でアウト。
653 :
日本@名無史さん :2008/06/12(木) 22:17:36
ずらずらと語尾に付けるのは、葛城王朝の末裔。
654 :
サガミハラハラ :2008/06/12(木) 23:01:09
想像は可能性を含むものです。 想像の精度により創造と現実が同じということもあります。
655 :
にんとく :2008/06/13(金) 01:14:56
>>646 九州王朝大好き様
疑問Aについては、以前に解釈を伺い、私案がないので省略します。
疑問@『其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』について。
「魏志の邪馬台(壹)国を嘗て卑弥呼が都としていたが、その国の中心
地名である邪靡堆が(引き続き)現在の俀国の都である。俀の国は
島国であるが(国の土地の様子は)東が高度が高く、西が高度が低い。
(ということは、川が西に流れる土地であると言えます。)」
九州なら、佐賀平野など有明海寄り>福岡>宇佐、でしょう。
近畿なら、大阪平野>奈良盆地、でしょうね。
ときに、九州王朝大好きさん、『隋書』冒頭近くの「水陸三千里」は
クヤ韓国から九州本土までの1000+1000+1000=3000と考えてよい
でしょうか? そうすると、対海国方400、一大国方300がカウント
されなくなりますが。
上記は何を意味するのかを、魏書倭人伝を踏まえて説明できる方
656 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/13(金) 11:56:38
>>655 >『隋書』冒頭近くの「水陸三千里」
魏書倭人伝では、狗耶韓國から九州まで、
島々を経由した、くねくねとした道程が4400里であると表現しています。
隋書俀國伝では、半島(≠狗耶韓國)から九州まで、
島々の点在する海の直線距離が3000里であると表現しています。
隋書は、短里表現で3000里としているので、
魏書の1000+1000+1000=3000里を参考にしているとみなせます。
>>to all
>>646 について、突っ込んでください。
657 :
ローガン :2008/06/13(金) 16:35:05
>>646 > 『其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』隋書Oタ国伝
あんまり練れていないので中途半端になるかも知れませんが…
旧唐書日本伝の異伝として「西界南界咸至大海東界北界有大山為限山外毛人之國」と有ります。
「其地勢東高西下」とよく似た内容ですね。
「毛人」については七世紀中頃、使者が連れていった蝦夷人だと考えられます。
よって「山外」は蝦夷との境の山、中部地方以東の山地(長野県等)であり、隋書の記述も同様に考えて良いと思います。
658 :
サガミハラハラ :2008/06/13(金) 16:57:47
賛成です。
659 :
にんとく :2008/06/13(金) 17:28:16
>>657 ローガン様、お見かけしたので一つ、質問です。
九州王朝大好きさんの話題以前の話になるのですが、『隋書』の記述
邪馬臺=邪靡堆を前提として、「臺」と「堆」の読みは
「ト」とお考えになりますか? 私は「タイ」だと思っています。
もし「ト」だとすると、邪、馬が万葉仮名で「ヤ」「マ」なのに
臺も、堆も、万葉仮名の「ト」として出てこないのは、ちょっと
納得がいかないように思います。もともと、臺にも、堆にも、
「ト」の読みは無いようですし。
660 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/13(金) 17:49:13
>>657 倭國
『其國界東酉南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國』旧唐書
倭國の範囲は、南北と東西の比が1対1で、西と南は海で、東と北では大山である。
すなわち、倭國は島又は半島の南西部の一部である。大山の向こうは毛人の国である。
俀國
『其國境東西五月行南北三月行各至於海』隋書
俀國の範囲は、南北と東西の比が5対3で、周りは海の島国である。
両者は、置かれている地理的状況が全くちがうので、同様に考えるべきではないでしょう。
>「毛人」については七世紀中頃、使者が連れていった蝦夷人だと考えられます。
僕もその様に思っています。
なお、蝦夷國は日高見國(仙台)とも思っています。
661 :
ローガン :2008/06/13(金) 18:55:54
>>659 > 邪馬臺=邪靡堆を前提として、「臺」と「堆」の読みは
> 「ト」とお考えになりますか? 私は「タイ」だと思っています。
後漢書の7世紀の注に「音が訛ったのだろう」と有りますね。
似た音ではあるが同一ではない、という事だと思います。
臺はタイで良いように思います。
662 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/13(金) 19:01:22
>>661 ちょっと横
>臺はタイで良いように思います。
んでどうして邪馬台国=畿内説になるのでしょうか?
663 :
ローガン :2008/06/13(金) 19:13:44
>>660 > 倭國
> 『其國界東酉南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國』旧唐書
> 倭國の範囲は、南北と東西の比が1対1で、西と南は海で、東と北では大山である。
> すなわち、倭國は島又は半島の南西部の一部である。大山の向こうは毛人の国である。
「東西南北各數千里」が、1:1の対応になるのかどうか、私にはわかりません。
何か根拠があるのでしょうか?
細かい事かも知れませんが、此の記述は「日本國者」に続くものです。
664 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/13(金) 19:36:03
間違い修正
>>660 タイトル修正
×倭國→○日本國
引用文
×旧唐書→旧唐書日本國伝
補足
倭國
『依山島而居東西五月行南北三月行』旧唐書倭國伝
倭國は島国で、南北と東西の比は5対3のかたちである。
『四面小島五十餘國』旧唐書倭國伝
倭國の島の周りは小島で五十餘國ある。
(旧唐書倭國伝はほとんどが隋書俀國伝の引用と同一内容の表現方法の変更になっている)
665 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/13(金) 19:46:16
>>663 >「東西南北各數千里」が、1:1の対応になるのかどうか、私にはわかりません。
>何か根拠があるのでしょうか?
各數千里となっているので、各々は凡そ數千里と同じでなので、1対1とみなせます。
正確な比は、1よりさほど大きくはずれていません。
666 :
日本@名無史さん :2008/06/13(金) 20:28:37
>>660 上毛町は福岡県築上郡に、
大分県には、下毛郡本耶馬溪町があります。
毛野氏はもともと九州の豪族であり、邪馬台国でもあった
のではないでしょうか?
667 :
にんとく :2008/06/13(金) 22:22:48
>>646 九州王朝大好き様(あと閲読者全員に)
私は
>>655 において、『其地勢東高西下』の解釈を書き込みました。
つまり、東が高く西が低いのは、(中国と異なり)川が西に流れて
いることを特記したのである、と。しかし、先ほど思いつきました。
これは、魏志の「山島に依りて国邑をなす」、後漢書の「山島に
依りて居をなす」の言い換えだったのです。つまり、漢字の熟語
として、東奔西走と同様の成語法です。東西+高下=東高西下、です。
岩波文庫新版の日本語訳は「東が高く西が低く」となっていますから
これは誤訳です。
668 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/13(金) 23:14:54
>>667 地形を表現しているので熟語の法則には従いません。
「(中国と異なり)川が西に流れていることを特記したのである」
は的確な解釈です。
「東が高く西が低く」も正しい訳です。
余談
『東西五月行南北三月行』は熟語的に「東」「西」「南」「北」の順で書きます。
「西東五月行北南三月行」「南北三月行東西五月行」とは書きません。
東南、東北、西南、西北は正しく、
南東、北東、南西、北西は間違いです。
669 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/13(金) 23:22:35
>>667 東西南北の順番はヨーロッパの言語と逆ですね。
>>669 フォロー、ありがとうございます。
A案を修正して、B案を出したところ、
修正前のA案の方が正しかったようですね。
九州説を大和説に鞍替えした和辻哲郎みたいなミスだ
と思って慰めることにします。おやすみなさい。
671 :
日本@名無史さん :2008/06/14(土) 01:05:47
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
672 :
にんとく :2008/06/14(土) 12:19:00
九州王朝説を論じるにあたって、資料面での重要な観点を、
>>625 に敷衍・
追加しておきます。
(1)『魏志倭人伝』による邪馬臺国論争は、井上光貞『日本の歴史1』の
記述で要点が尽くされています。井上自身が九州説だったので、邪馬臺国の
所在は佐賀から熊本にかけた有明海寄りの一帯、という推定は現在も通用
します。井上以降の重要な論者は、もちろん古田で、「水行十日陸行一月」
の基点を帯方郡としたこと、邪馬臺国を博多湾岸としたこと、が独創的です。
(2)古田の衝撃は、『隋書』のタイ国を『倭人伝』の邪馬臺国と同一という
記述を、記述通り解釈したことです。これが衝撃的であったことに、日本の
古代研究の前近代性(もしくは古代性)が現れています。
@魏志の「邪馬一(台)国」は九州である・・・邪馬台国九州説
A魏志の「邪馬一(台)国」は畿内である・・・邪馬台国畿内説
B隋書の「邪靡堆」は九州である・・・九州王朝説
C隋書の「邪靡堆」は畿内である・・・Aから当然のこととして導かれる。
@Bの組み合わせが九州王朝説。
@Cを組み合わせるためには邪馬台国東遷説(又は隋書の誤記)が不可欠。
(3)(再説しますが)私は、「梁書」を踏まえることを必須とみます。
岩波文庫(新版)には、『梁書』「倭国」「文身国」の記述が載っています
が、これに続く「大漢国」「扶桑国」の記述が省かれています。
古田『法隆寺の中の九州王朝』(文庫135頁以下)に読み下し分が載っている
ので、かなり知られていると思いまが、岩波文庫がこの部分を切り捨てたこと
に、古代史学会の無意識の作為を感じざるをえません。
『後漢書』『魏志倭人伝』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『隋書』を、
成立年代を考慮しつつ、順次読み通してみましょう。
『魏志倭人伝』『梁書』『隋書』のうち、上記(2)Cを成り立たせるため
には『梁書』を無視する必要があるのです。なぜなら、『梁書』を読む限り、
梁の時代(6世紀前半を覆う)九州の倭国以外に、日本列島に複数の国
(文身国、大漢国、扶桑国)が併存していたことは明白なのですから。
「扶桑国」および『梁書』全般の記述を荒唐無稽とすることによってのみ、
邪馬臺国近畿説は辛うじて成立しているのです。■■
673 :
ローガン :2008/06/14(土) 16:41:06
>>672 にんとくさん。
梁書の信憑性…という事ですね。
梁書倭者、冒頭の道程では「又〜又〜」で繋いでいますね。
つまり、梁書を信用すると、「倭王所居」は「不彌國から、南水行二十日+南水行十日、陸行一月日」の距離にある事になりますが、九州王朝説としては問題ないのでしょうか?
又、扶桑國が仮に日本だとして、458年に仏法が広まったという記述、慧深いう所の「女国」等どう見ても、おかしな記述だとは思われませんか?
674 :
にんとく :2008/06/14(土) 17:37:43
『梁書』を信用する、というのは、記事の中身を魏志より優先する という意味ではありません。魏志等をどのように曲解しているのか、 誤字の可能性はどの程度か、というような史料批判が前提です。 『梁書』の信憑性皆無、という見方に、異議を唱えているわけです。 梁の時代の「時代精神」は梁書全体の読解が不可欠ですが、今、 『文選』の文雅から推し量ると、ロマン的荒唐無稽の背後に、 ある程度の真相がある、と考えます。元来数値化は不可能である ことを前提に、2割ないし8割はまっとうな新情報を与えている と考えます。慧深の話の内容、それこそ「扶桑の木」自体が不明 ですが、おかしな記述だとはいえ、文身国、大漢国、扶桑国の 存在までをも否定するのは(邪馬台国畿内説にとって致命的ゆえ ローガンさんの意向は理解はいたしますが)無理だと思います。
675 :
にんとく :2008/06/14(土) 17:54:25
>674 に加えますと、『梁書』倭国伝、慧深いう所の「オケ」王は、 その名前と時代が、中国史書と記紀とで一致する、最初の例なのです。
676 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/14(土) 20:11:32
>>675 『梁書』扶桑國伝「慧深」は、なぜ意祁王なの?
どこで調べればわかる?
677 :
ローガン :2008/06/14(土) 21:16:20
>>674 理解しました。私も梁書の撰者が姚思廉… 立場を考えると梁書という史書がそう荒唐無稽では無いようにも思います。
私が云いたいのは、元ネタとなった慧深の話、これには信憑性がないという事です。
隋当時の1里が何mかは、ご承知かと思います。
扶桑國まで合計30000里ですね。当然、日本ではないでしょう。
又、5世紀半ばに日本の僧侶が中国に渡ったとすれば、仏教史が変わりますね。
まあ、その根拠どころか、傍証も皆無でしょう。(私は知りません)
よって慧深なる人物の弁が荒唐無稽であると考えます。
678 :
日本@名無史さん :2008/06/14(土) 21:41:22
「其婚姻、婿往女家門外作屋」て 畿内の通い婚の事でしょ? 荒唐無稽とは思えない。 何よりも、自分を扶桑国であると言う認識があったように見える。 後世には扶桑日記とか扶桑略記などの史書が作られている。
679 :
唐松山 :2008/06/14(土) 21:45:26
すごいな〜 ここのお二人さん 書記を読み替えるのは お得意?なのに 魏志を 一言一句 合わせようとする 態度。 態度だけですよ〜
680 :
日本@名無史さん :2008/06/14(土) 21:53:00
原典批判ってそういうものでしょ。
681 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/14(土) 22:04:15
>>677 実際の温度と体感温度とは相違することが多い、距離があわぬから
即間違いだは早計。倍暦計算で
齋の永元元年=499年=顯宗(乙祁)即位元年
に相当しているから、あながち間違いではないね。倍暦計算で14年の
ズレがあるのだ。
682 :
にんとく :2008/06/14(土) 22:15:07
>>676 九州王朝大好きさま
『梁書』扶桑國伝「慧深」がもたらした情報の中に、「名国王為
乙祁」という一文があります。この「乙祁」を王名と取るわけです。
原文を入手するのは手間がかかりますが、読み下し文は、古田
『法隆寺の中の九州王朝』朝日文庫版135〜137頁で読めます。
(ただし、古田の解釈は、誤解です。)(また、私は、突っ込まれ
れば、さらに原文を引用するつもりがあります。)
>>677 ローガンさま
「元ネタとなった慧深の話、これには信憑性がないという事です。
隋当時の1里が何mかは、ご承知かと思います。
扶桑國まで合計30000里ですね。当然、日本ではないでしょう。」
←古田著に壱岐一郎氏の説が紹介されていますが、扶桑国の里程は
文身国、大漢国の里程と異なり、慧深の会話文の中にあります。
よって、慧深が、大漢国(関東か?)と中国本土とを混同した、
つまり扶桑国の里程の起点が中国本土である、という理屈が成り立つ
わけです。これは、かなり恣意的な解釈ではありますが、荒唐無稽
とまでは言えません。私は、とりあえずは、壱岐説に与します。
「5世紀半ばに日本の僧侶が中国に渡ったとすれば、仏教史が
変わりますね。」
←まさに、その可能性を考えねばなりません。
683 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/14(土) 22:17:31
684 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/14(土) 22:22:04
685 :
ローガン :2008/06/15(日) 00:58:26
>>682 ありがとう。了解しました。
きっと見解は正反対でしょうが、貴説の更なる強化を楽しみに拝見致します。
時々お邪魔しますがよろしく…
686 :
日本@名無史さん :2008/06/15(日) 02:47:07
フトクニいなくなってさみしいwww
687 :
日本@名無史さん :2008/06/15(日) 03:04:58
>686 >681
太国さん、骨は拾ってやるよ。
689 :
にんとく :2008/06/15(日) 21:28:18
『梁書』の「扶桑国」について、原文を持たない人もいるはずなので再説します。
・『梁書』列伝48「諸夷」に、高句麗、百済、新羅、倭(国)、文身国、大漢国、
扶桑国、の記述がある。
・岩波文庫旧版は、倭、のみ記載。岩波文庫新版は、倭、文身国、を記載。
・文身国は、倭国の東北七千里。
・大漢国は、文身国の東五千里。
・扶桑国は、僧の慧深の説くところを転載するという形式になっている。
それによると、大漢国の東二万里に位置する。(さらに、慧深の説として、
女国が扶桑(国)の東千里にある。)
>>678 さんが、(扶桑国の説明にある)「其婚姻、婿往女家門外作屋」という
記述は、畿内の通い婚の事でしょう?
とおっしゃるように、ここの記述は荒唐無稽とは思えません。
さらに加えれば、・国王の名「乙祁」、・国人が鹿を養っていること、
・土地に鉄が無く銅があること、などは、近畿圏であることを窺わせます。
また、貴人第一を「大対盧」と為す、という記述がありますが、この
「だいたいろ」は高句麗の官名であり、扶桑国では500年頃に高句麗の制度が
一部取り入れられていた、という解釈が可能です。
つまり、文身国=北陸の国、大漢国=関東の国、扶桑国=近畿の国、という
対応を想定することが十分に可能なのです。
考えてもみましょう。辞書も、教育制度もなく、仏教を学んだあと何らかの
理由で中国に渡った一僧侶が、筆談でもって、当時の近畿の国の片鱗を伝えて
いる資料なのです。私は、扶桑の木は何の木だろう、という疑問から出発した
のですが、これは木の名称について(言語学で言うところの)「分節化」が
充分に行われていない場合の、筆談による問答がもたらした記述、
と考えれば、納得できる事態なのです。
この慧深の、奇跡のような、貴重な証言を、荒唐無稽として退けることに
よって(内藤湖南がその先蹤なのですが)、邪馬臺国近畿大和説は、
辛うじて命脈を保っているのです。
■■
690 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/15(日) 22:15:00
691 :
日本@名無史さん :2008/06/15(日) 23:03:24
>688 拾う 前に 合掌 拾ったら 供養 出来もしないことを…
692 :
日本@名無史さん :2008/06/15(日) 23:17:22
693 :
にんとく :2008/06/15(日) 23:30:19
>>690 ご紹介、ありがとうございます。ネット社会の何たる利便!
>>692 間違いの指摘、ありがとうございます。
>689の×(内藤湖南がその先蹤なのですが)
を、○(白鳥庫吉がその先蹤なのですが)、に改めます。
>689に、私は、
「だいたいろ」は高句麗の官名であり、扶桑国では500年頃に
高句麗の制度が一部取り入れられていた、という解釈が可能です。
と書きましたが、高句麗語(余り残っていない)の「7」について、
日本語の「七、ナナツ」の語源ではないか、という説のあることを
思い出しました。
694 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/16(月) 01:01:05
扶桑は青桐のようだ。 『扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之。實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。』 子供の頃、成長が早く戦後の焼け野原のそこらに生えてきた。現代生活では何の役にもたたない臭い木の記憶。 @葉似桐 A初生如笋 B國人食之 Aはやわらかく食べられる。 C實如梨而赤 小粒 昔の梨はこんなものだったのかなあ。 D績其皮爲布以爲衣 表皮繊維は麻よりごわごわしてる。 ロープも作れる。 E以爲綿 杵でよく叩くと表皮繊維が綿の様になる。 F作板屋 幹は良質の板材OK ヤニがない。硬い。
695 :
にんとく :2008/06/16(月) 08:52:40
「扶桑は青桐のようだ」との指摘、初めて聞きますが、ありえると思います。 辞書の説明は、扶桑:@東海の島の神木Aりゅうきゅうむくげ、ですが、 神木とは何であるか問われて、慧深が具体的に青桐をイメージした可能性。 原田実氏のHPに、扶桑国近畿説への評価があるので、一部引用します。「 しかし、5世紀といえば、日本列島ではすでに九州から東北まで前方後円墳 が普及していた時代である。その時期の九州と近畿でそれぞれ個別に中国に 遣使しうる王権が存在していたというのは無理があるのではないか。」 ←この見解について可能な反論を考えてみました。 九州倭国から中国に遣使。北陸(文身国)、関東(大漢国)は、九州の同盟 国であり、同時に情報を伝えることができた。近畿は、未だ派遣に至らず、 たまたま慧深がたどり着いた。・・・これは、近畿圏は九州・関東圏とは異 なる政権ではないか(装飾古墳の分布)という見解を支持するものです。
696 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/16(月) 10:40:20
倍暦計算から5世紀は仁徳〜顯宗の時代だから倭の五王権の時代にかなり重な ってる。五王は九州小国の王であるから当然5世紀は九州に王権があったことに なる。倍暦計上で 仁徳即位11年=401年 顯宗即位2年=500年
697 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/16(月) 11:46:16
乙祁王のことはすっかり忘れていたが、ひとつの仮説がある。 オケ・ヲケが畿内から播磨に逃亡したように、 5世紀には播磨は畿内政権外であった。 慧深はその播磨の留学僧であったから、乙祁王の情報をもっていた。 オケ・ヲケ播磨逃亡中には、慧深はオケ・ヲケと会っていたのかもしれない。 その後、慧深は梁から帰国し播磨に仏教を伝えた。 6世紀になると、畿内政権は、仏教先進地播磨から仏教を取り入れたのである。 また、畿内では九州年号が残っていないのに、 畿内でない播磨は近畿で九州年号が残っているところでもある。
698 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/16(月) 11:59:58
青桐は生長の速い生活財であることから、神木としてふさわしい。 神木としてふさわしい木は、楠、銀杏もあるが、 成長が早く栽培のできる青桐は、最も生活に密着している点が神木としてふさわしい。
699 :
にんとく :2008/06/16(月) 14:15:06
>>689 に追加して。
(1)
文身国=北陸(越)、大漢国=関東、扶桑国=近畿、の場合。
大漢国「無兵戈、不攻戰」。扶桑国「無兵甲、不攻戦」。ですので、
この2国は軍隊を持ちません。倭国は、韓半島で戦争を遂行しており、
文身国からは、しばらく後に、継体が近畿へと入ります。
当時の情勢を反映している、と解釈できます。
(2)
最大の反論になりそうな、慧深の情報について。
「扶桑東千餘里有女國」以下の記述はこう考えます。
倭国の記述の中に「有獸如牛、名山鼠。又有大蛇呑此獸、蛇皮堅
不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射之中、蛇則死矣。」
という最も不可思議な個所があって、まだ見当がつかないのですが、
梁の史官、あるいは時代そのものに、六朝小説のような夢幻性が
あって、「山鼠」等の記述を受け入れたと仮定します。この精神的
背景でもって、慧深が語る「女国」の部分を書き留めた、と。
試案を述べれば、女国は通常の暦を使っていた(扶桑国は倍歴)、
例えば、伊勢湾あたりの海女の多くいる国で、多民族(らしい)の
扶桑国と比べても、異民族と言える人たちだった・・・
(類例:常陸国風土記に、異民族が動物の蛇扱いされている記事)
以上を念頭に置いて、扶桑国の記事を読むなら、これは荒唐無稽
どころでないことが判って(感じて)、驚くでしょう。■■
700 :
ローガン :2008/06/16(月) 15:15:49
>>678 畿内の通い婚?
畿内独特の習俗であるとする根拠をご教示ください。
701 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/16(月) 15:33:45
>>699 >(扶桑国は倍歴)
何か文献にありますか?
702 :
にんとく :2008/06/16(月) 16:37:09
>700,>701 ・「通い婚」が畿内独自である(>678は思いつきでしょうか?) ・「扶桑国は倍歴」 は、現在の私にとっては、こうも考えられる、というだけで、根拠は 特にありません。そもそも6世紀には文献自体がありませんし、 民俗学は応仁の乱以前は難しい、と聞いております。 しかし、一連の解釈は、中国歴史書の記述を適当に取捨選択せずに、 整合的に解釈できているように思います。 昔、古田の邪馬台国博多湾岸説を知ったとき、考古学は年代観の 見直しが必要との説に説得力を感じたのですが、今回、『日本の 歴史1』を読みなおし、熊本出身の知人が、「遺跡なんてどこを 掘ってもザクザク出てくる」と言っていたのを思い出しました。
703 :
にんとく :2008/06/16(月) 16:54:46
追加。 以上、1970年代に評判になった、古田古代学、梅原=上山説、岡田 英弘説(「倭国の時代」)の総合が可能になったことを祝したい と思います。 思えば20年ほど昔、古田氏に、梅原説をどう考えるか、と問うた時、 津田説の亜流なのでだめだ、とはねつけられました。ようやく判明。 津田説の「6世紀以降創作」を「8世紀の創作」と読み替えること により、上記の3つの説を総合することができたのです。
704 :
ローガン :2008/06/16(月) 17:57:35
扶桑國で盛り上がっているようなので… 「又□代史倭國一名日本在中国直東扶桑國復在倭國之東約去中国三萬里蓋近於日出處」(通典) □には「歴」が入りように思います。 倭國(一名日本)と扶桑國を区別しています。
705 :
日本@名無史さん :2008/06/16(月) 19:17:19
>>700 畿内独特かどうかは判らないけど、九州にはなかったと思います。
魏志東夷伝には婚姻風俗が書いてあるけど、倭国にそう言う風俗は書いてないし、
通い婚が魏志に書いてあるのは高句麗。
通い婚は中国少数民族にも見られるけど、通い婚のために「離れ」を作るのは珍しい。
扶桑国「女家門外作屋」
高句麗伝「女家作小屋於大屋後 名壻屋」
もし畿内が扶桑国でなかったら高句麗が扶桑国と言う事になるけど、高句麗は別に書いてあるから。
確実にこの風俗が有ったのは畿内の貴族だけ。
706 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/16(月) 19:43:38
>>704 通典「倭國一名日本在中国直東」の日本は、
旧唐書「或曰倭國自悪其名不雅改爲日本」の日本とも考えられる。
707 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/16(月) 19:54:57
>>705 畿内では、通い婚がなくなっても、新婚の若夫婦の為の離れを作る風習が、戦前にはまだ残っていた。
708 :
にんとく :2008/06/16(月) 19:57:37
>>704 ローガンさま、資料紹介ありがとうございます。
>>705 こういう根拠とは想像していませんでした。ありがとう。
以前にも引用した『神皇正統記』の一節(岩波文庫60頁)から。
「異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後なりと云。」といへり。
返返あたらぬことなり。昔「日本は三韓と同種也。」と云事のあり
し、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。」
ここの「日本」、上は倭の置き換えですが、下の日本も倭でよいか、
倭だとすると、九州の倭国でなく近畿の倭人の国ではないか、また、
三韓は馬韓辰韓弁辰、以外に、高句麗新羅百済の可能性はないか、
という疑問が生じて来ました。
いずれにせよ、継体が大和に入る前の近畿の政権は高句麗系である
との仮説が成り立つ、と考えます。
709 :
ローガン :2008/06/16(月) 20:51:10
>>705 さん、返信どうもありがとう。
> 畿内独特かどうかは判らないけど、九州にはなかったと思います。
> もし畿内が扶桑国でなかったら高句麗が扶桑国と言う事になるけど、高句麗は別に書いてあるから。
仰る意味が良く理解出来ません。 何故「畿内」だけの習俗なのか…
710 :
日本@名無史さん :2008/06/16(月) 20:56:28
伊豆は今でもかつて通い婚で結ばれたひとたちがいますが、 >678氏がなぜ通い婚は畿内だけの習慣だと思ったのかさっぱりわかりません。
711 :
日本@名無史さん :2008/06/16(月) 21:07:41
712 :
日本@名無史さん :2008/06/16(月) 22:18:24
伊豆半島の加茂郡は、畿内から移り住んだ人が住んでいたからです。
713 :
日本@名無史さん :2008/06/16(月) 23:35:36
嘘の上塗り、乙>712
714 :
ローガン :2008/06/16(月) 23:43:20
>>706 >
>>704 > 通典「倭國一名日本在中国直東」の日本は、
> 旧唐書「或曰倭國自悪其名不雅改爲日本」の日本とも考えられる。
そうかも知れませんね。まあいずれにしても、倭と日本は同じだと云う事でしょうね。
715 :
判定 :2008/06/17(火) 00:03:12
良スレ認定
716 :
にんとく :2008/06/17(火) 00:26:34
倭と日本の関係については、「倭国、更めて日本と号す。」(『三国 史記』文武王10年=西暦670年)の記事を目安としています。 私にとって、謎は、4世紀でなく、7世紀です。 仮に扶桑国が近畿の政権であって、その後消滅したとするなら、 欽明朝に倭国(九州倭国と同名の分国?)になったと考えられます。
717 :
にんとく :2008/06/17(火) 01:05:42
さて、『梁書』の最も信じがたい女国について、思いつきを披露します。 (原文) 慧深又曰。「扶桑東千餘里有女國。容貌端正、身體有毛、髪長委地。 至二、三月、競入水則任娠、六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、 根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行。三四年則成人矣。見人驚避、 扁畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿、而氣香味鹹。」 女国の位置は、伊勢・志摩あたりか。海人の生活を営んでいる。 体質は、貧乳で毛深い。暦の進行は、通常の3倍程度。10歳位で海女の 仕事を始める。男子禁制で、結婚制度は不明。10歳の女児が赤子の 子守りをすることがあり、代替乳(植物か?)を含ませる。 階層を準主食にしている。参考、万24「うつせみの命を惜しみ波に ぬれ伊良胡の島の玉藻刈りをす」 このようなジプシー風の生活を背景に想定すれば、この話は必ずしも 荒唐無稽とは言えません。
718 :
にんとく :2008/06/17(火) 01:08:14
>717 ×階層 → ○海藻
719 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/17(火) 07:04:43
>倍歴 の件ですが、ある程度根拠が薄弱とかで肉付けをやるのは、古代史には証拠の 取れないことが多々ある関係上やむを得ません。氷山の一角と思えるものが 所々出てくればそういうことをやっても咎めるのは酷でしょう。まぁそれで正解 とも当選確実かと考えれば、これもはっきりそうだとも結論まで至らぬのも しようがないと言えばそのとおりです。それがしも倍暦の考察でそんなやり方を やってますから・・・。 参考になるということです。運よく真そのままの場合もありえますが・・・? 場合場合にもよるでしょうし・・・? アマゾネスなども女族ですし、存在の可能性はあるでしょうね。
720 :
にんとく :2008/06/17(火) 07:20:14
『梁書』の「倭」の記述中にある、「有獸如牛、名山鼠。又有大蛇呑此獸、 蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射之中、蛇則死矣。」 の解釈について。『梁書』の作者が、倭人伝等、前史の記述を繰り返すにあ たって、新情報を追加すべく、倭に関する記述で、前史に採用されなかった ものを、物産記述のところに書き加えた・・・と推定されます。 意味不明なので、梁書の編者の目に適ったのだろう、と言うしかありません。 アオダイショウは最大3メートルほどです。「牛の如き」は、大きさでなく 形である、と考えれば、何かが誇張されて伝わったと想像できます。
721 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/17(火) 07:25:31
西遊記には「西梁女人国」、と「駝羅荘」での大蛇の話があります。
722 :
日本@名無史さん :2008/06/17(火) 08:23:11
太国さん、何か心もとないですね。 サガミハラハラさんみたいに、間違い無い、確定です、とのたまわってみては。
723 :
にんとく :2008/06/17(火) 10:17:59
>722 いや、『梁書』の
>>717 、と、
>>720 、に引用した部分は、
確定的なことは何も言えません。が、私としては、
文身国、大漢国、扶桑国、の対比は、かなり合っていそうだ、
との印象を得ました。「扶桑国」の原文の入手が容易でなかった
という事実、今もほとんど無視されているという事実は、
九州王朝説が一部の人から蛇蠍視されていることと裏腹です。
扶桑国が6世紀近畿日本の国であれば、現今の日本古代史は崩壊します。
724 :
日本@名無史さん :2008/06/17(火) 10:29:40
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
725 :
にんとく :2008/06/17(火) 10:40:10
726 :
にんとく :2008/06/17(火) 13:40:16
『梁書』文身国を、北陸・越の国、に同定した場合、書紀に関連記事 はあるでしょうか。その痕跡と解釈できる記述が、欽明紀31年(570年) にあります。森浩一『古代史津々浦々』から引用すると…… 道の君、すなわち比楽湊の近くの豪族が、天皇といつわって、高句麗 の使節と応対した。それを見咎めたエヌノオミモシロという越人が朝廷に密告 した。…… という事件がありました。道の君が処罰を受けた記事はありません。 これは、欽明朝の近畿国家の権力の強さが、高句麗の使者が地方政権 から騙される程度であった。よって、継体が大和入りしてからも、 本州統一どころでなかったことを示している、と解釈できます。 森浩一の同書には、井上光貞が(酒の席でですが)「継体は、新羅か どこか外から来た人とも考えられるね」とおっしゃって、森氏が驚い た、というエピソードも載っています。 ■■
727 :
日本@名無史さん :2008/06/17(火) 14:16:38
>>709 >仰る意味が良く理解出来ません。 何故「畿内」だけの習俗なのか…
通い婚は倭人伝に書いてないから、倭国の風俗ではないのです。
倭国は梁の時代までも通い婚は無かった。梁書に書いてありませんから。
王朝交替でもなければ簡単に新しい風俗が始まるわけが無い。
日本でドラスティックに風俗が変わったのは天皇制から武家が政権をとったときと、明治維新のときです。
通い婚のような風俗は天皇制を維持したまま、新しく出来たり、無くなったりしないでしょう。
中国の史書に、倭国で何か風俗が大きく変わるような大きな政変があったとは書いてありませんから、
倭国には三世紀と同じように通い婚は無かったと考えます。
対して扶桑国の通い婚は飛鳥時代、奈良時代、平安時代と続いているわけです。
扶桑国が飛鳥、奈良王朝の前身であったと考えると納得いくのではないでしょうか?
728 :
日本@名無史さん :2008/06/17(火) 14:38:54
>通い婚は倭人伝に書いてないから、倭国の風俗ではないのです。 >倭国は梁の時代までも通い婚は無かった。梁書に書いてありませんから。 あったという証拠がないだけです。ないことの証明にはなりません。 ましてや「畿内だけに通い婚があった」という証拠にも、まったくなりません。
729 :
にんとく :2008/06/17(火) 15:06:47
>>699 (1) に追加。
文身国=北陸(越)は認めるとして、大漢国=関東、扶桑国=近畿、ではなく、
大漢国=東北(日高見の国?)、扶桑国=関東、という仮説は可能か。
大漢国「無兵戈、不攻戰」。扶桑国「無兵甲、不攻戦」。
ですので、関東に兵なし、という点は変わりません。
これも森浩一『古代史津々浦々』からの引用ですが、関東には城柵がない
のですね。何だか、無抵抗で後の日本国に加わり、防人を供出した感じです。
東北は、大和政権に反抗し、城柵がいくつかあります。ただし、梁の時代から
1世紀後ですので、里程記事と違って、否定の根拠にはなりませんが。
730 :
ローガン :2008/06/17(火) 15:50:20
>>727 丁寧な返信どうもありがとう。理解出来ました。
通い婚の前提として母系相続があると思います。
確かに史料に妻問い婚は散見しますが、母系相続社会であったかどうかは疑問です。
稲荷山鉄剣銘文でも、父系相続があった事は明らかであり、
雄略紀にも母系相続を否定する記述が見えます。
双系相続社会であったと考えて良いと思います。
そのなかで(離れへの)通い婚は、娘を持つ家の経済基盤や家柄、血統等の事情に起因するものだと考えます。
よってそれがごく一般的な近畿の習俗であったとは言えない。
故に3世紀の中国史書に記述がない事にさほど違和感はありません。
まあ、「屋室父母兄弟臥息異處」とあり、他にも、想像できるかもわかりませんが。
731 :
日本@名無史さん :2008/06/17(火) 18:15:54
>>728 >あったという証拠がないだけです。ないことの証明にはなりません。
同じ東夷伝に高句麗の通い婚が記述されているのですよ。
同じものだったら高句麗と同じとか、その差異についての記述があって然るべき。
>>730 >通い婚の前提として母系相続があると思います。
確かに史料に妻問い婚は散見しますが、母系相続社会であったかどうかは疑問です。
高句麗は妻問い婚ですが父系相続ですよ。
母系相続社会と通い婚が必ずしもセットではないでしょう。
それに、高句麗伝に「絶奴部世與王婚」とあり、
日本の息長氏のように皇室と婚姻して次の世継ぎを作る家系があったのです。
「至生子已長大、乃將婦歸家」大きくなるまで女性の家で育てさせ
大きくなると本家につれて来て跡継ぎにする。
まるで日本の皇室は高句麗そのままの制度だったように見えます。
これは倭国の風俗ではないですね。
畿内王朝がいつこのような風習を持つに至ったかわかりませんが、
それが垣間見えたのが梁書扶桑国伝ではないでしょうか?
732 :
日本@名無史さん :2008/06/17(火) 20:01:42
中国・四国・北陸・中部・関東・東北・北海道に通い婚がなかった証拠は?
733 :
ローガン :2008/06/17(火) 20:58:28
>>731 あ〜ごめんなさい。とんちんかんな事書きました。
>>730 の前半を撤回します。
通い婚が、当時の倭(=西日本)の恒常の婚姻形態とは言い切れない。
よって魏志に記述がない事にさほど違和感はない。に訂正します。
前にも書きましたが、通典(邊防典序文)では倭國一名日本であり、扶桑國は倭國之東と有りますね。
日本と扶桑國を同一視していません。
734 :
日本@名無史さん :2008/06/17(火) 22:56:04
畿内は自分が扶桑国であったと言う自覚があったのでは? 扶桑日記とか扶桑略記なんて本を残しているし。
735 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/17(火) 23:00:34
倭国が九州のことなら、東は本州とかとしてそれを扶桑国だと 言いうる。
736 :
にんとく :2008/06/17(火) 23:05:51
『古事記』の、系譜が推古天皇まである一方、説話が顕宗記で途切れている という事実は事実として、これをどう説明するか。 津田は、説話は造作であって、説話の途切れた「その時から程遠からぬ後に (つまり6世紀ころ、旧辞・本辞は)一通りまとめられていた」と論じ、 戦後の定説となりました。 これに対して、古田氏は、津田の「造作」説に矛先を向け、説話は次の天皇 の代に前代の事績が語られていた、顕宗記で途切れたのは、仁賢記を語るべ き武烈が、継体に滅ぼされたからである。という論を展開しています。 扶桑国には、文字があり、紙(扶桑の皮)があったわけですから、古事記の 歴代天皇の説話は、扶桑国の説話だった、と言ってしまえば話は簡単です。 ただし、自分で述べておきながら、私はこの説には与しません。どちらか というと、古事記については川副説がヒット率が高いと見ています。
737 :
ローガン :2008/06/17(火) 23:22:07
>>734 もしそうならば新唐書の記述に反映したと思います。
738 :
にんとく :2008/06/18(水) 00:07:51
『釈日本紀』から参考までに。九州王朝などという発想は誰も持って いませんでした。日本国・倭国についての記載のごく一部です。 (1)弘仁私記序曰。日本国。自大唐東去万余里。日出東方。 昇于扶桑。故云日本。 (2)問。倭国之中有南北二倭。其意如何。 答。延喜説云。北倭可為此国。南倭女国。云々。■ 「扶桑略記」の扶桑は『梁書』が前提でなくてもよいでしょう。 (ローガン様) 倭国と日本の関係は、未だ完全には解けていないと思います。 『釈日本紀』には、小野妹子が隋帝に、倭を日本に改めたいと申し 出て認められず、唐武徳中(618-26)初めて日本と号す。という 説が載っています。九州王朝説でこれを採用すると、大雑把に、 俀国・近畿倭国→(618)俀国・日本→(670)日本、になるでしょう。 『梁書』の「扶桑国」は、慧深の詐称でなく、継体の進出により 消滅したと考えるのが単純明快です。 通典の「倭國一名日本」「扶桑國は倭國之東」の記事は、『梁書』 『旧唐書』『新唐書』等正史に比して、時間的な混乱があるのでは ないでしょうか?
739 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/18(水) 00:29:43
>>733 >日本と扶桑國を同一視していません。
>>737 >もしそうならば新唐書の記述に反映したと思います。
『倭國一名日本』は、倭國=日本を示す。
「一名日本」は、旧唐書の『倭國自悪其名不雅改爲日本』の段階の説に従う。
梁書の書かれた7世紀中頃には、「倭國自悪其名不雅改爲日本」であったのであろう。
扶桑國は武烈迄の国名。
以降、継体〜宣化、欽明〜弘文、天武以降と6世紀から7世紀にかけて、政治体制が3回変わっている。
旧唐書は日本國成立までのことが書かれたもの。
新唐書は8世紀以降の日本の政治体制(唐承認後)にそって書かれたもの。
740 :
にんとく :2008/06/18(水) 06:10:00
『梁書』扶桑国の王「乙祁」と記紀の「オケ」(顕宗ヲケ又は仁賢オケ)の 名称の一致が、扶桑国を近畿の国(後の日本)と解釈する最大の理由です。 逆に、古事記の書き手が、天皇の系譜を確定するにあたって、中国の史書を 参考にし、そこから名前を頂戴した、というケースも考えられなくはありま せんが、その場合は、近畿の史官が扶桑国の存在を荒唐無稽とは考えていな かったことの証拠になります。
741 :
にんとく :2008/06/18(水) 12:04:21
>>704 「又歴代史倭國一名日本、在中国直東、
扶桑國復在倭國之東、約去中国三萬里蓋近於日出處」(通典)
の解釈。
梁代:(九州)倭国・文身国・大漢国・扶桑国(右3国は倭種の国)
隋代:俀国(倭国の後身)・(近畿)倭国(文身国・大漢国・扶桑国の後身)
*この部分は仮説ですが、九州倭国が俀国に国名変更し、(兄弟国である)
近畿倭国は日本に国名変更しようとした。後に、日本が俀国を吸収する形で
統一日本が成立。(余談だが、吸収が九州と語呂合わせになっている。)
唐代:日本(唐代初めは、俀国と日本)
これを、例えば、インカ帝国はペルーの後身でメキシコの南にあります、
のような流儀でまとめれば、「通典」のような記述が発生すると思います。
742 :
にんとく :2008/06/18(水) 14:08:40
「邪馬台国どんと来い」のスレに、次のような発言がありました。 >425 :日本@名無史さん:2008/06/18(水) 10:12:05 >九州より、畿内のほうが遥かに勢力が巨大なのに、 >邪馬台国は九州の小連合国だったってことでいいんだろ。 >それならそれでいいんじゃないの? 九州王朝説は、日本=万世一系の天皇国、に楔を打ち込み、 記紀の作為性を暴露する点で、日本人に(無意識レベルでも) 拒否感を与えると思われます。 桓武天皇が「日本と三韓が同一」というかの書物を焼き捨てたのを、 ゆえなしとはいたしません。 しかし、『梁書』の切り捨てを初め、「倭人伝」「隋書」の恣意的な 読みを革めることにより、また、扶桑国=旧(モト)近畿の倭人の国 という同定を仮説として取り入れることにより、 白鳥庫吉以降不明であった、正しい古代史像が得られるのです。 ここに、梅原古代学・古田古代学の弁証法的統一が達成されるのです。
743 :
ローガン :2008/06/18(水) 15:58:13
>>739 > 扶桑國は武烈迄の国名。
> 以降、継体〜宣化、欽明〜弘文、天武以降と6世紀から7世紀にかけて、政治体制が3回変わっている。
九州王朝大好きさん。
さあそれはどうでしょうね。宋史に「其國王一姓傳繼臣下皆世官…」と有ります。
此の記述を信用するなら、王朝の交替が過去にあったようには思えません。
744 :
にんとく :2008/06/18(水) 16:53:58
古事記序文の、天武の仰せられたお言葉、について。 「私が聞くところによれば、諸家で持ち伝えている帝記と本辞が 既に真実と違い、多くの偽りを加えている、ということだ。」 645年、蘇我氏滅亡の際に天皇記は焼失したはずです。 一体、どの家が「帝記」を持ち伝えていたのでしょうか。 王家が一元的(一系)であれば、帝王が誰であるかについて 混乱が生じることはありえません。南北朝でもあるまいし。 しかし、複数の王家が共存していたとすれば、一元化するためには 「とうかく」することが必要です。例えば、兄弟の契りを結んだので 実際の兄弟であるかのように系譜を設定する、というようなことです。 天智・天武非兄弟説というトンデモ説があって私は余り好きではない のですが、実の兄弟の複数の娘と婚姻関係にあるという事態は 世界史に他に例がないそうですので、可能性は考えなければ ならないと思います。いずれにせよ、万世一系の天才的発想は、 天武天皇のブレインであった無名の道士ではないかと想像できます。
745 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/18(水) 17:54:02
>>743 1世紀〜7世紀の王権変遷
九州:2回変わっています。
(倭奴国王)→(帥升−倭面土[イメタ]國王−伊都國王)→(卑弥呼−倭五王−磐井−多利思北孤−薩摩夜−薩摩姫)
畿内:5回変わっています。
(神武−開化)→(崇神−仲哀)→(応神−武烈)→(継体−宣化)→(欽明−弘文)→(天武以降)
扶桑國は武烈まで。
(応神[九州出身]−武烈)は九州系。(継体−宣化)は北陸系。
(欽明[九州出身]−弘文)は九州系。天武[九州出身]以降は九州からの独立派。
宋史のそれは、九州のことについての記述です。
「其國王一姓傳繼臣下皆世官…」の出典書名は何ですか?
746 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/18(水) 19:40:02
747 :
ローガン :2008/06/18(水) 21:01:28
>>745 > 宋史のそれは、九州のことについての記述です。
それは100%ないと思います。
> 「其國王一姓傳繼臣下皆世官…」の出典書名は何ですか?
宋史日本伝です。
王年代紀を持っていったチョウ然に対する皇帝の言です。
また、後程…
748 :
にんとく :2008/06/18(水) 23:07:41
>>743 ローガン様
>宋史に「其國王一姓傳繼臣下皆世官…」と有ります。
>此の記述を信用するなら、王朝の交替が過去にあったようには思えません。
『旧唐書』の「倭国」「日本」の併記を不服とした統一後の日本が
中国に抗議し、『新唐書』がこの抗議を受諾して記述を改めました。
『宋史日本伝』は『新唐書』を引き継いだ日本像であって、日本の王制は
日本の主張どおり万世一系になっています。
ローガンさんは、『隋書』の「戸」についても、時代を下ってからの
制度を遡及して解釈しておられましたが、『宋史』のここの個所についても
同様の「勇み足」があると考えます。例えば、私が、城柵は、関東になく
東北にある、だからの『梁書』の大漢国は関東である、と断言するような
ものです。
『宋史日本伝』で興味深いのは、中に引用されている『王年代紀』の内容が
書記と若干異なることです。すなわち、「初めの主は天御中主」という
設定は『書記』の「国の常立」と異なります。わたしは、書紀と異なるので
『王年代記』の内容・強いては存在・を疑うつもりは毛頭ありません。
749 :
にんとく :2008/06/18(水) 23:21:30
>748に追加 あと『王年代記』で問題となるのは、 神武天皇の即位の元年が「甲寅」になっていること、でしょう。
750 :
日本@名無史さん :2008/06/18(水) 23:33:51
>>748 >『旧唐書』の「倭国」「日本」の併記を不服とした統一後の日本が
中国に抗議し、『新唐書』がこの抗議を受諾して記述を改めました。
日本が中国に抗議したという証拠は何ですか?何もないはずですが。
それに新唐書も、「日本乃ち小国、倭の併す所となる」という説を書いています。
これは倭国と日本国が別の国だという考え方ですよ。
751 :
日本@名無史さん :2008/06/18(水) 23:56:36
>これは倭国と日本国が別の国だという考え方ですよ。 新唐書が採っている基本的立場は、にんとくさんの通りでしょ。 旧唐書に見える、列島側で見解が割れている複数の立場から、 大和政権の意見=万世一系説だけ採用したという意味でしょ。
752 :
ローガン :2008/06/18(水) 23:59:17
>>748 >ローガンさんは、『隋書』の「戸」についても、時代を下ってからの
> 制度を遡及して解釈しておられましたが、『宋史』のここの個所についても
> 同様の「勇み足」があると考えます。
少し酔ってますので失礼の弁はご容赦を…
九州王朝説は何に立脚しますか?
文献史学?考古学?民俗学?どこの何と云う史料に「九州王朝」が登場しますか?
何処にもありません。
また、邪馬台国が畿内か九州かとは違う次元のお話ですよね。
つまり九州王朝説を指し示す資料が存在しない以上、様々な文献の中から、可能性の糸を紡ぎ合わせて
「(通説とは違うが)ひょっとしたら日本の古代はこうだったのではないか?」を考える説であると思います。支持は出来ませんが支持される方をトンデモ扱いするつもりもありません。
ただ、可能性の糸に立脚した説であるにもかかわらず、
国守(国造)、稲置と思われる中国史書の記述から類推可能な
国造→稲置→郷戸のシステムが、律令で成文化される以前に、存在した可能性を排斥する事。
これが自己矛盾である事に気づいてください。
753 :
にんとく :2008/06/19(木) 00:04:16
>>750 早とちりの可能性があるので、この2行はとりあえず削除します。
(目下評判ガタ落ちの、古田の論文を読んだ後の感想から、
記憶で書いたもので、思いつきではありません。手元にないので
今は削除します。論文名は「新唐書日本伝の史料批判--旧唐書
との対照--」だったと思います。)
754 :
ローガン :2008/06/19(木) 00:27:39
>>751 旧唐書倭國者は古の倭奴國と有ります。
「旧唐書倭國者」は隋書を襲っていますね。
其の隋書はテキストの後漢書の安帝時朝貢者を倭國ではなく、倭奴國と誤引用しています。
旧唐書の書かれた10世紀半ば日本列島は毛人之國を除き、「日本」です。
つまり旧唐書がいう倭國とは隋書が倭國と混同した倭奴國…後漢代の倭國です。
付け加えると、旧唐書が隋書を襲って「倭國者」と記述したのですから、隋書に書かれた国名は「イ妥國」は筆写間違いであると思います。
755 :
にんとく :2008/06/19(木) 00:51:40
>>752 ローガン様
>九州王朝説は何に立脚しますか? 何処にもありません。
←これは誤解です。『隋書』の「ヤマタイ」と『倭人伝』の邪馬台国
を、『隋書』の記述どおり受け入れ、「ヤマタイ」が九州にあった
と解釈するのが、「九州王朝説」です。・・・ただし、私の捉え方で
あって、私は九州王朝説の信奉者ではないかも知れません。よって、
>邪馬台国が畿内か九州かとは違う次元のお話ですよね。
←いいえ。邪馬台国が九州であるのを自明とする、というお話です。
>つまり、様々な文献の中から、可能性の糸を紡ぎ合わせて「(通説
>とは違うが)古代はこうだったのではないか?」を考える説である
←私の理解においても、「九州王朝説」は一つの仮説であります。
これが、通説に比して、日本の古代の不分明さ(私にとっては記紀と
とりわけ「日本神話」と呼ばれる一連の説話)を解消する潜在力を
持っている、と(私には)判断されたわけです。
>ただ、可能性の糸に立脚した説であるにもかかわらず、
>国守(国造)、稲置と思われる中国史書の記述から類推可能な
>国造→稲置→郷戸のシステムが、律令で成文化される以前に、
>存在した可能性を排斥する事。これが自己矛盾である事
←上の方で、ローガンさんのこの推論を排斥するかのように、
断定調で書いてしまった(かもしれない)点は反省します。
しかし、私は『隋書』に関しては、「戸十万」以外に、
「東高西下」「五弦の琴」「三年のモガリ」「阿蘇山」について、
九州の地に設定する方が蓋然性が高いのではないか、と書きました。
「戸十万」については、近畿だとすると、「システムが、律令で成文
化される以前に、存在した可能性」であり、九州だとすると、イワイ
が律令を持っていたことは、(A)古墳の石人石馬(B)唐の律令を
まねた我が国の律令に南朝の律令が混入していること、から、大いに
推定されますので、「すでに律令が存在していた可能性」が大です。
つまり、同じ推定であっても、その根拠の質に開きがあるのです。
ですから、「通説」と「九州王朝説」が並立しているとしても、
当然ながら、同じ重みで存在しているのではありません。
今後とも、推測に関してはその根拠を提示しましょう。
756 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/19(木) 01:09:48
>>743 >>747 にんとく氏が全部書いてくれている。
でも一応、僕の言葉で意見を書いておきます。
宋は、「王年代紀」等、8世紀以降の畿内朝廷の情報に基づいて日本を理解していますから、
日本では王朝の交代は無かったとの認識になります。
757 :
にんとく :2008/06/19(木) 02:49:01
繰り返しになりますが、重要なので再掲します。
「後漢書」倭の奴国(倭国の極南界)
「倭人伝」倭人 邪馬台国等30ヵ国
「宋書」倭国(倭の五王)
「梁書」倭(国)、文身国、大漢国、扶桑国(&女国)
*岩波文庫(新版)では、大漢国、扶桑国の原文が略されている。
・『梁書』諸夷傳(東夷条)(
>>690 再掲、以下のサイト)
・
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/ryo-syoi.html 「隋書」俀国
「旧唐書」倭国、日本
隋書の俀国を、九州ではありえない、と断定するには、
扶桑国が近畿の国であってはならないのです。だからほとんど
無視されてきました。岩波文庫の同書をお持ちの方には、
上記のサイトから原文をダウンロードすることをお勧めします。
*ローガンさま、お相手していただいてありがとうございます。
九州王朝大好きさま、7世紀の実態が理解できていません。
今後ともご教示よろしくお願いします。青桐はよかった。
758 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 06:45:49
>>752 古史古伝にはウガヤ朝70数代の記事がある。これは九州だろう。もう年号で
決まりだよ。
759 :
にんとく :2008/06/19(木) 08:19:07
>>736 で、私は、『古事記』の、系譜が推古天皇まである一方、
説話が顕宗記で途切れている事実に関連して、
古事記の歴代天皇の説話は、扶桑国の説話だった、と言ってしまえば話は
簡単です。ただし、自分で述べておきながら、私はこの説には与しません。
と書きましたが、「古事記下巻」の説話の有る部分は、いわゆる河内王朝の
諸王の記事になっています(応神が中巻の末尾で下巻につながる)。
いわゆる河内王朝=扶桑国、という可能性もあると思いなおしました。
雄略は、(近畿説では)倭の五王に否定されていますが、古事記では
一切海外派兵の話はありません。これは、扶桑国の「無兵甲、不攻戦」
にあてはまります。
760 :
にんとく :2008/06/19(木) 08:22:25
>759の訂正 ×倭の五王に否定 ↓ ○倭の五王の武に比定
>753 新唐書にも、一説として二国存在したことを述べています。 或云日本乃小國、爲倭所并 倭日本二国説は、旧唐書だけではないのです。
762 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 09:41:55
まだこんなスレあるの? 日本国は、白村江の戦いで負けた倭国が、敗戦責任から逃れるため、天武のもとで新しく掛け替えた看板。 新唐書でも、日本国の使者が倭国との関係を聞かれてなんだかんだゴマかしてはっきりしなかったていう記述があるだろ。 ありゃ、粟田真人だろ。当時、もう日本は歴史時代。古田の寝言が入る余地はないよ。 壬申の変だって、責任とらされて処分された重臣は一人だけ。その子供は、確か大納言まで行ってるはずだ。 当時の大納言は、上から2か3段階の高位。親父が反乱者なら、与えられるような地位ではない。 ありゃ、国ぐるみでうった責任逃れのお芝居。敗戦をいかに誤魔化すかって方策だよ。 それにいつまで振り回されてるの?
763 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 10:25:50
>>730 ローガン・・・
亀だけど。雄略紀で母系相続を否定。 って何処にあるの?
764 :
のんびりひまじん :2008/06/19(木) 10:29:15
古田説そのものは、日本による倭国併合の前後の実態を説得できてません。 九州王朝説の弱点というか、補説が必要な部分なのです。(古田仮説=九州王朝説)は 歴史文書上の点々の不可解をズームイン方式で説明しました。 ですが、まだまだ、展開不十分な、いわば発展途上にあるのです。 ところで、実態は例えば、近畿王朝なるものは、倭国内では、後世の事例ですが、 鎌倉幕府のような半端な独立状態だったのかも知れないのです。 倭国が白村江で大敗北したことは、先の大東亜戦争の敗戦同様に、倭国人たちは のちのち思い出したくないし、失敗と汚辱の敗戦責任をめぐって動揺したことでしょう。 その敗戦記憶のさなかにクーデターにより権力を奪取した勢力が、 歴史を偽装したに違いない というのが、九州王朝(は抹殺された仮)説の重要な一部なのです。 実は、白村江への出征将軍たちは系譜が不明です。 さらに、継体の時期の任那4郡喪失の責任者・近江毛野臣という人物は、6万軍の司令官で 死んで帰国して葬儀も壮大だったというのに、系譜不明です。 比較考慮してみますと・・・・ 山本五十六は山形鶴岡、東條英機は陸軍中将英教の子、 寺内寿一(南方総軍司令官)は元帥正毅の子、 ということが分かっています。 こういうことが日本書紀からも、その後の新選姓氏録からも不詳というのです。 異常でしょう。 >762 >ありゃ、国ぐるみでうった責任逃れのお芝居。敗戦をいかに誤魔化すかって方策だよ。 ☆歴史偽装の目的動機はそう考えます。事情と誤魔化し方についての仮説が違うようです。
765 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 10:41:27
じゃどのように大東亜戦争は誤魔化したんだ? まぁ敗戦を終戦っていう言い方 はしているが、そのくらいじゃ負けは偽装で隠せまいが? 当時だって口づてで 伝わって負けは朝廷でも隠匿できまい?
767 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 11:32:44
>>765 白村江の敗戦は九州王朝のこと。
ヤマト朝廷は直接関与していない。
したがって、白村江の敗戦をヤマト朝廷は隠匿する必要はない。
当時の日本では白村江の敗戦は衆知の事。
隠匿する必要が有ったのは、九州王朝のこと。
768 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 12:32:26
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
769 :
にんとく :2008/06/19(木) 12:40:42
>>764 多数が一斉に長文で書き出すと収拾がつきませんので、
「のんびりひまじん」さんの次の箇所にコメント。
>古田説そのものは、日本による倭国併合の前後の実態を説得できない
>実態は例えば、近畿王朝なるものは、倭国内では、後世の事例ですが
>鎌倉幕府のような半端な独立状態だったのかも知れないのです。
ここの「倭国内」の倭国の都が九州であれば、まさしくその通りだと
思います。ここでの倭国が近畿大和ですと、私の現在の見解とは
異なります。『隋書』『旧唐書』までの史書を解読する立場ですから。
770 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 13:15:45
>日本国は、白村江の戦いで負けた倭国が、敗戦責任から逃れるため、天武のもとで新しく掛け替えた看板。 この考え方は秀逸。しかし、責任逃れならば、なぜ、日本書紀で、日本が朝鮮半島へ大軍を送ったことを強調したのかという問題が残ります。 >その敗戦記憶のさなかにクーデターにより権力を奪取した勢力が、歴史を偽装したに違いない というのが、九州王朝説の重要な一部なのです。 こんな思考に陥ったところが九州王朝説のまちがいでしょうね。
771 :
にんとく :2008/06/19(木) 13:50:15
>>738 に書いたように、「日本」の名称変更は、
(1)『釈日本紀』唐武徳中(618-26)初めて日本と号す。
(2)『三国史記』670年、日本
が文献的根拠となる資料です。、
>>762 の「日本国は、倭国が、天武のもとで新しく掛け替えた看板。」
と書かれた根拠は何ですか? 単なる想像でしょうか?
772 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 13:58:10
>762氏自身が誤魔化していることがある。 >ありゃ、国ぐるみでうった責任逃れのお芝居。敗戦をいかに誤魔化すかって方策だよ。 誰が誰に対して何をどういう目的でおこなった芝居=誤魔化しなのかを明らかにしていない。
773 :
にんとく :2008/06/19(木) 14:08:22
白村江の戦いに関して、極めて重要な資料、 『風土記逸文 備中国』の記事・・・ 勝れた兵士二万人を得た。が、天皇は筑紫で崩御して 「終に此の軍を遣らざりき」 これを重要視する立場と、無視する立場があり得ますが、 少なくともこの記事の存在は知っておいてください。
774 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 14:08:45
>>693 数詞の3,5,7,10が似ている
古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語
1 Φi1to2 −− hっtっn hっtっn hΛnah hana
(一等) (河屯)
2 Φuta −− tu¨pっ¨l tuβっr tulh tu:l
(二尸) (途孛)
3 mi1 mil siet sei s∂ih se:s
(密) (悉) (洒)
4 'jo2 −− −− nei n∂ih ne:s
(廼)
5 'itu 'utsu −− ta∫us tasΛs tasっs
(于次) (打戍)
6 mu −− −− 'jul∫us 'jっsΛs 'jっsっs
(逸戍)
7 nana nanun −− 'ilkup nilgub 'ilgob
(難隠) (一急)
8 'ja −− −− 'jultap 'jっdщlp 'jっdっl
(逸答)
9 ko2ko2no2 −− −− 'ahop 'ahob 'ahob
(鴉好)
10 to2'wo t∂k −− 'jっl 'jっlh 'jっ:l
(徳) (噎)
※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[ɔ]の代用。
高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、李基文や板橋義三は
再構語形を[uc]としている。
775 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/19(木) 14:11:40
>>767 だからそれを含んで言ってるわけ。九州王朝側だって隠し通せまいが?
畿内側であろうと九州側であろうと隠せるものかね? 漏れるに決まっている。
そんなことをやるなら、日本側が辛くも勝ったことにし大陸から都合で帰っ
たことにする偽造のほうが、イカサマなら日本側に都合がいいだろう?
大東亜戦争も隠せまいが? 一国で完全絶対主義ならやレることもあろうがね?
そんな雰囲気は当時はないだろう? 九州は小国にうんとあったんだろうから、
敵対国からばらされるのがオチ。ww
776 :
ローガン :2008/06/19(木) 14:19:57
>>763 雄略紀九年七月。埴輪馬の話の所です。
田邊史伯孫は娘が男の子を産んだと聞き、婿の家に御祝いに行きます。
結婚した娘が自宅や離れには居ない。娘は嫁ぎ先で出産しています。
777 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 14:23:27
[白村江の戦いを含めて九州王朝の対唐戦争に関して, 畿内政権が釈明しまたは隠しておくべきこと]・・はたぶんこういうことでしょう。 1:新羅や唐に対して畿内政権は敵意を持っていなかったこと 2:いわゆる邪馬台国・九州王朝の国体は畿内政権が引き継いだこと 3:この矛盾した二つの主張は、畿内政権に立場では矛盾していないこと
778 :
にんとく :2008/06/19(木) 15:35:43
>>773 の逸文や、
>>777 さんの推理は、
近畿一元史観に基づくのではなく、「九州王朝」説を取り入れる
ことによってのみ、合理的に説明できる、と考えます。
779 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 16:11:39
魏志から隋書までの中国史書が伝えるのは九州にあった倭国王朝のこと。 だから、九州王朝を隠すなどという考え方は成立の余地がない。 倭国が白村江で敗れたことは、我が国の中では当然、周知のこと。 だから、敗戦を隠すなどという考え方も成立の余地なし。 問題は日本書紀が半島に大軍を送り白村江で敗れたと主張しているところ。 767さんの言うように、普通ならば九州王朝が敗れたといっていればよいはず。 なぜ、日本は白村江の敗戦を認めたのか? 九州を守り、近畿で徹底抗戦をするつもりだったから。 以上、「解読・邪馬台国の暗号」(安田哲也)の論旨。
780 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 16:37:16
四世紀、新羅の存在は中華に知られていなかった。 高句麗or百済の属国だったから。 いや、自前で中華に遣使できるような立場になかったからなのだろう。 中華に新羅の存在が知られるようになったのは、倭や百済が新羅を自分の 支配下にあると主張したからだ。 畿内王朝も九州王朝の属国だったから、中華には畿内の事は判らなかった。 九州王朝は東のバルカンと言われた朝鮮半島のことは領有権があると主張 したが、それは権益争いが常態化していたからだ。 畿内は九州王朝の支配下にあり、争いが無かったからあえて中国に支配権 を主張する必用もなかった。 それで、中国は畿内王朝が九州王朝の東にある事は言わなかったのだろう。
781 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 19:30:06
>>764 どちらがカルト史観なのか?・・・・・新しい発見がないと難しい?
782 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 19:39:37
>>781 カルト皇国史観のバイブル・・・血統・歴史改竄「日本書紀」のインチキ
を証明することが・・・九州王朝説?
783 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 19:52:40
>>779 >問題は日本書紀が半島に大軍を送り白村江で敗れたと主張しているところ。
767さんの言うように、普通ならば九州王朝が敗れたといっていればよいはず。
唐には言っていたと思うよ。
「わしゃ、唐と戦って敗れた倭じゃなく日本だ。元は小さな国で倭が唐に敗れた後、倭を乗っ取った。」
ちゃんと旧唐書に書いてあるじゃないか。
だから、唐は畿内に進駐しなかった。
畿内王朝が戦争の張本人なら、唐が畿内に軍隊を進駐させない訳が無い。
784 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 21:37:51
天武以降(すなわち壬申の乱以降)の畿内政権と国際情勢 1:畿内政権には遠洋航海も海上戦もノウハウがないので、 列島外戦争は嫌いだし無理 2:唐は対チベット戦争に翻弄され、極東どころではなく、 高句麗再反撃などの波乱がない限り、極東の安定を画策するのみ 3:新羅と唐に対して畿内政権の恭順姿勢を示すには、畿内政権自ら 九州王朝残党勢力(特に対唐徹底抗戦派)を征伐する必要があった 4:新羅もこれ以上唐と争うのは不利で、唐に対し恭順姿勢に移行 5:天武の次の持統天皇は、九州王朝の残党狩りと内政に専念した
785 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/19(木) 23:23:37
>>784 >5:天武の次の持統天皇は、九州王朝の残党狩りと内政に専念した
九州王朝の残党狩りをしたのは、二中歴大化の改新後で、
696年から、すなわち文武からですよ。
続日本紀に書いてある。
786 :
日本@名無史さん :2008/06/19(木) 23:45:47
>>785 どのように書かれているのですか?概略だけでも話していただけませんでしょうか?すごく気になります。
787 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/20(金) 00:34:12
>>786 @畿内・九州の城の修理 697〜699年 計6or7城(記憶があいまい)
A薩摩姫他の処刑 700年 九州王朝最後の女帝
B太宰府の軍備(弓)増強。70?年
788 :
にんとく :2008/06/20(金) 01:16:26
(疑問その1) 近畿一元説では理解困難な、単純きわまる事実。 それは「日本」の国号です。いつ、どこで、誰が決めたのでしょう。 もし、白村江の戦が(日本+百済残党)VS(唐+新羅)だったなら なぜ「唐書」に日本の名前が出てこないのでしょう? (疑問その2) 百済滅亡は660年、白江の戦は662年、書紀にいう白村江の戦が663年。 (以下は思いつきなのですが)661年は辛酉革命説でいうところの 辛酉の年にあたります。660年、近畿倭国(多分「日本」)は、 百済を助けるために駿河の国に船を造らせたようですが、 ひょっとして、661年の革命の年に、九州倭国(俀?)と近畿倭国との 合併合意ができたのではないでしょうか。
789 :
世界@名無史さん :2008/06/20(金) 01:22:33
>762続き 先の大戦でイタリヤは戦況の悪化にともない、ムッソリーニ政権をクーデターで倒し、 革めて連合国側として参戦した(ふざけやがって)。したがって現在でも枢軸国の戦争責任から逃れている。 これと全く同じことを、天武政権がやったと考えていただければいい。 >771に 明史日本編を入れてくれ。倭がかんこう(フォントが出ない)の初め日本と改めたって記事がある。 直後にはかけないが、時代が下ると書けることもある。
790 :
にんとく :2008/06/20(金) 04:32:46
>789
倭がかんこう(フォントが出ない)の初め日本と改めたって記事
→咸享=唐の年号670-673
>>771 、に書いたように、倭国が日本と改めたのは670年
(これには史料批判が必要で、別の説もあるようだが)
670年は、天智天皇の時代なので、762=789氏の推論は成立しないことが
判明しました。
791 :
にんとく :2008/06/20(金) 04:39:28
それとも、762=789氏は、天智と天武を混同しているだけ? とんでもない混同ではありますが。
792 :
にんとく :2008/06/20(金) 05:53:29
(疑問その3) このように、理屈の上では殆ど疑うことのできない九州王朝の存在を 『日本書紀』が抹殺したのは、そもそも何の必要に駆られてだろう? 答1:日本列島の国々を一々記述すると、記述が錯綜するから。 答2:倭国、文身国、大漢国、扶桑国、など、複数の国を一つの国 として取り扱いたかったから。 答3:異なる王統を、例えそれがフィクションであったとしても、 一つの王統であると(情報源に)記録したかったから。そうすれば、 中国のような革命思想に基づく国とは異なる、島国にふさわしい国が できるであろう。つまり、万世一系の皇国を確立したかったから。 この思惑は、1300年後の日本人にも、多大の効果をもたらした。 これが天武の意向であれば、それはそれで偉大だが、もし不比等(と その周辺)の発案で天武は口実に使われただけであるとするならば、 不比等は超のつく天才である。
793 :
日本@名無史さん :2008/06/20(金) 09:55:03
>>792 >理屈の上では殆ど疑うことのできない九州王朝の存在を『日本書紀』が抹殺したのは、そもそも何の必要に駆られてだろう?
見方を180度転換してみることも必要かと。九州に倭国王朝が存在したことは明々白々のこと。となれば、日本書紀がその倭国王朝を明記しなくても、唐は倭国王朝と対立する国として日本(近畿大和)をみる。
日本書紀は一見したところ近畿大和が我が国全体を支配していると書いているように見えますが、実は九州王朝が存在することを当然の前提として自らの存在を主張しているにすぎない、対立王朝のことはあえて触れなかっただけというスタイルなのですよ。
794 :
にんとく :2008/06/20(金) 10:38:05
>>793 「九州に倭国王朝が存在したことは明々白々のこと。」
←現在の我々(の一部)にとってはそうですが、中国にとっては
自明ではありません。だからこそ、『旧唐書』には、倭と日本の
関係について、異説が書いてあるわけです。
古事記と日本書紀の相違を分析しますと、
「対立王朝のことはあえて触れなかっただけ」という外面の一方、
景行天皇の九州巡回説話があって、内容的には、九州倭国は早くから
日本(近畿大和)の一部であった、と主張しています。
>793氏の見解「実は九州王朝が存在することを当然の前提として
自らの存在を主張しているにすぎない」・・・ではなくて、
「実は九州王朝の存在を無視することを当然の前提として
自らの存在を主張している」・・・という方が実情に即した見方ではな
いでしょうか。
そもそもどこが「180度転換」だかよく判りませんが。
>>784 >1:畿内政権には遠洋航海も海上戦もノウハウがないので、
列島外戦争は嫌いだし無理
九州王朝派はこれをもっと強調すべきだと思う。
796 :
日本@名無史さん :2008/06/20(金) 11:35:27
>中国にとっては自明ではありません。だからこそ、『旧唐書』には、倭と日本の関係について、異説が書いてあるわけです。 この考え方をするにんとくさんは、中国は前から大和の存在を認識していたという意識が抜けていませんね。中国は九州の倭国王朝の存在しか知らなかった、だから、急に出てきた日本という国が倭国とどうゆう関係にあるのか迷ったのです。 このような考え方が記紀信仰から180度転換した考え方だと申し上げたわけで。
797 :
にんとく :2008/06/20(金) 12:19:50
>>796 「にんとくさんは、中国は前から大和の存在を認識していた
という意識が抜けていませんね。」
←私の見解は「中国は前から大和の存在を認識していなかった」
です。
「中国は九州の倭国王朝の存在しか知らなかった、だから、急に
出てきた日本という国が倭国とどうゆう関係にあるのか迷った」
←これも私は全面的に同意です。
「このような考え方が記紀信仰から180度転換した考え方」
←ですから、何が180度転換なのか、不明です。
798 :
にんとく :2008/06/20(金) 14:06:32
>>793 氏の意図「見方を180度転換」が理解できなかったのですが、
「日本書紀がその倭国王朝を明記しなくても、
唐は倭国王朝と対立する国として日本(近畿大和)をみる。」
>>793 「対立王朝のことはあえて触れなかっただけというスタイル」
>>793 ここの前提が説得的・自明的でない(私にんとくにとって)
にもかかわらず、この自説を自明のこととして発言している
ために、話の道筋がつかなくなっていることに気づきました。
799 :
にんとく :2008/06/20(金) 14:18:32
>>793 、
>>796 、氏の前提は、私は採用できませんので、
固定ハンドルを用いて持論を展開するよう、お願いします。
800 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/20(金) 14:48:51
>>792 九州王朝を朝廷が抹殺などしてないだろう。だって卑弥呼の女王国も九州王朝の
先駆けであり、神功39年等に関係記事を入れてるんだから、こんなのを挿入すれ
ば九州王朝の存在を消極的ながら遠回しに分かるようにしているわけであり、
抹殺などは考えにくい。紀に九州王朝の記事が非常に少ないんだろうが、これ
は抹殺したんではなく、九州王朝は畿内のとって当時は外国とみなしていただ
ろうし、九州は畿内からえらく遠方で九州の情報が畿内に流入できにくい地理的
状態にあったために記紀へ記載するタネが殆ど無かったためである。
801 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/20(金) 15:00:18
>>789 >明史日本編を入れてくれ。倭がかんこう(フォントが出ない)の初め日本と改めたって記事がある。
>>790 >→咸享=唐の年号670-673
>>771 、に書いたように、倭国が日本と改めたのは670年
新唐書日本伝も入れてくれ。『咸亨元年(670)遣使賀平高麗後稍習夏音惡倭名更號日本』
薩野馬が帰国したのは671年。
倭國が日本と言い始めたのは671年。
夏音(上記):倭[ワ]、矮小で醜いの意、隋以降の北朝の言葉。
従来音:倭[ヰ]、委の人の意、後漢以前から陳までの南朝の言葉。
隋以降、倭は中国と没交流のため、上記夏音を最初に学べたのは、薩野馬等唐捕虜が最初である。
薩野馬は帰国後すぐに、唐に対して、国名「大倭」を「日本」に換えたと見るべき。
802 :
日本@名無史さん :2008/06/20(金) 15:29:39
>私の見解は「中国は前から大和の存在を認識していなかった」です。 それならば結構なことです。しかし、その言われ方と794で「 現在の我々(の一部)にとってはそうですが、中国にとっては自明ではありません。」と言われたのは整合しないように思うのですが。 そして、中国が九州の倭国王朝を唯一の王朝と考えていた状況において、記紀が描いた世界は何かとなれば、「倭国のほかに日本もあったのだ」という主張以外にないということなのです。
803 :
にんとく :2008/06/20(金) 15:33:37
>>800 太国さま
九州王朝を(大和)朝廷が、抹殺したかどうか
「抹殺」の言葉使いがどぎつすぎるのかもしれません。
「唐に対して、あたかも別の国でなかったかのような扱い」
ならよいでしょうか?
折角の機会ですから、判り易い質問を出しますが、
書紀の作者は、@邪馬台国九州説、A邪馬台国近畿説、
のどちらだと思われますか? (私は@かと思っていますが、
納得のゆく根拠が示されれば、もちろんすぐに改めます。)
804 :
にんとく :2008/06/20(金) 15:44:39
>>801 九州王朝大好きさん
私は7世紀の古代史像を確立していません。
「薩野馬は帰国後すぐに、唐に対して、国名「大倭」を「日本」に
換えたと見るべき。」は徐々に考えます。
私は、
>>771 に引用したように、
(1)『釈日本紀』唐武徳中(618-26)初めて日本と号す。
の記事を生かすため、近畿倭国が、俀国に伴って隋に趣き、
唐代初めに、近畿倭国=日本、が成立した(のかな)、
と思っているのです。が、これも、根拠があれば正します。
『釈日本紀』のここの箇所の信頼度如何だとは思いますが。
タリシホコがどうなったかも考えていません。
805 :
にんとく :2008/06/20(金) 15:49:17
>>802 おそらく「前から」の時期に行き違いがあります。
私は、『釈日本紀』唐武徳中(618-26)初めて日本と号す、
の記事により、ですので、これ(618)より「前から」です。
九州王朝論者は、671年より「前から」だとただ今理解しました。
その妥当性については、まだ私には決められません。
806 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/20(金) 16:04:20
>>804 僕もまだ7世紀の古代史像を確立していません。
断片的です。
807 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/20(金) 16:44:22
>>803 前半 意味不明?
後半 舎人親王の取り巻きは迷っていて双方の意見が対立し、困惑していたんで
しょう? 卑弥呼の時代を合わせるのにえらく苦労して幾度も会議を
開いて検討したのでしょうね? その議題の前段階か、大陸半島と日本側
の年代に大幅な断層があってこれにさらに困惑して、いろいろ調整し
たが、これだという正解が望めなかった。そこで小康状態で年代合わせ
を行ったということです。その典型が神功39年の文で、畿内説的に
卑弥呼の記事の挿入をしたということです。しかしそれは正解ではなか
った。こう考えますがね・・・。
808 :
にんとく :2008/06/20(金) 20:19:52
『国史大系』の『釈日本紀』9頁 唐が我が国を「倭」としている(注:白村江の記事ではそうです)のに、 今「日本」と呼ぶのは、唐が名付けたのか・我が国の自称か? との問いにたいする答えの部分を書き写しておきましょう。 「延喜講記曰。自唐所号也。隋文帝開皇中。入唐使小野妹子。 改倭号為日本。然而依隋皇暗物理。遂不許。至唐武徳中。初号日本之号。」 私は、この記事を取り入れた上で、670年または671年(頃?)の国名変更を 解釈したいと考えています。670年だとすると、法隆寺の火災でしょうか。
809 :
にんとく :2008/06/20(金) 21:43:59
>>805 に書いた行き違えの件ですが、
『旧唐書』「倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす」
の解釈の相違であるらしいことに気付きました。
「日本国は倭国の別種なり。」倭国、日本国(倭国の別種)。
或は云う「倭国その名の・・」倭国(元の俀国)、近畿倭国(日本国に改名)
或は云う「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」日本、九州倭国を併せる
↑以上のような解釈です。ここの所で、近畿日本の欽明朝以降の国名を、
(扶桑国ではなく、倭種の国の意味で)「倭国」と称し、一方九州倭国は
これと区別する意味で「俀国」と称した、という解釈になります。
「倭国改め日本」の倭国を九州倭国と取ると、壬申の乱は実は九州の事件だ
という結論が出るのかも知れませんが、私は書記の記載通り近畿だと思って
おります。
810 :
世界@名無史さん :2008/06/20(金) 22:30:42
手塚治虫の「火の鳥・大和編」に、壬申の乱に勝利を収めた天武が、「今日からこの国は日本、余は天皇だ」 って叫ぶシーンが有ったが、あの発想は何処から得たもんだろうか。
国号が変わったということは、支配者が変更したとみなしていいと思います。 渡来王朝、下克上、国の併合、などいくつかの要因が、可能性としてあげられます。 しかし記紀は万世一系を主張しております。 つまり嘘をついています。 なぜ嘘をつく必要があったか、ここが重要です。 それが解明できれば、古代史の真相究明に近づける。 私自身は九州王朝説を確信しているわけではありませんが、それをうまく説明できていると考えます。
萬世一系皇統護持!
813 :
日本@名無史さん :2008/06/20(金) 23:54:46
>>805 >>809 行き違えというのが何のことなのか、何を言われようとしているのか理解できません。
809の倭国と日本国の話も、あなたがどのように理解されているのか、もう一つ伝わってこないのですが。すみませんね。
814 :
にんとく :2008/06/21(土) 01:15:04
>>811 >記紀は万世一系を主張しております。つまり嘘をついています。
>なぜ嘘をつく必要があったか、ここが重要です。
これが共通認識であれば、資料の誤読など、あとで変更・修正の効く
誤謬は最重要ではありません。私は、戦乱を逃れて倭国へ流れ着いた
大陸出身の知識人が、天武天皇から藤原不比等に至るまでの権力者
またはその黒子に、国家形成のための一つの考え方を入れ知恵した
のであろう、と推測します。が、このような推測は、第二次大戦後に
日本国家のデザインを提供した、アメリカ合衆国の一部の理想主義者
たちの存在を、過去に投影しているだけかもしれません。
誰も手をつけたことのない中国の当時の国家思想の書物を解読する
しか、証明の手段はないと思います。ずっと上の方に、天武の周辺の
道士(道教の指導者)に言及したのは、このような予想(妄想では
ないと思いたい)に基づくものです。
天智が近畿王家、天武が九州王家の王(または王統の有力者)である
と仮定して、天武後の成立の可能性も視野に入れて考察したいと
思います。万世一系は、藤原氏が天皇家に妃を差し出し続けるために
好都合な制度でもあったわけですね。
815 :
にんとく :2008/06/21(土) 01:51:38
>>801 九州王朝大好きさん
>新唐書日本伝も入れてくれ。『咸亨元年(670)遣使賀平高麗
>後稍習夏音惡倭名更號日本』薩野馬が帰国したのは671年。
>倭國が日本と言い始めたのは671年。
次のようなケースも考えられます。
白江の戦は、中国史書などで、662年。書紀では、663年です。
662年が九州倭国、663年が中国史書で確認できない小規模の戦い、
というほかに、「書紀の記述が1年ずれている」という可能性です。
その場合、672年壬申の乱の事件は、671年に起きたことになるので
(671年は辛未ですが)、天武が日本統一を果たし、国名を日本に
改めた、ということになります。(私は、ついこれを書くまでは、
天智:日本統一、天武:天皇の地位を簒奪。とばかり思い込んで
いましたが、天武が日本統一、もありえるようです。)
816 :
日本@名無史さん :2008/06/21(土) 02:46:56
>書紀の作者は、@邪馬台国九州説、A邪馬台国近畿説、のどちらだと思われますか? 一般には近畿説と言われますが、そうではなく南九州説ですね。神功皇后紀に倭人伝が引用されているのは、神功(すなわち卑弥呼)が夫の仇討ちで熊襲征伐のため南九州に滞在していたというふざけた設定ですね。
817 :
日本@名無史さん :2008/06/21(土) 08:22:37
記紀には、九州のことだけではなく東国のことも書かれていません。 その時代の大和は、畿内限定王朝だったことが伺えます。 外国のことは、別冊の東夷西戎伝にまとめる予定だったけれど、 都合により取りやめになったか、失われたのではないでしょうか?
818 :
にんとく :2008/06/21(土) 10:11:04
>>790 に書いた、
倭が咸享(=唐の年号670-673)の初め日本と改めたって記事、について。
→『三国史記』がこれをもとに、倭国が日本と改めたのは670年、
と書いたとすると、資料を強引に読めば、671年、672年もありえる
と仮定します。672年の壬申の乱は動かせませんから、この時に
新国家誕生(
>>810 )と取るのが最も単純明快な解釈になります。
*大局観はこうなります。扶桑国:所謂河内王朝。継体がこれを襲う。
九州倭国の欽明が、さらにこれを襲い、扶桑国の後身は九州倭国の分国
となる。推古の時、俀国と近畿倭国(日本)が併存。白村江の戦いで、
九州倭国(俀国の後身)は積極参戦、近畿倭国(日本)は消極参戦。
半島経営を完全に放棄すると同時に、東西の倭国の統一を企てる。
667年近江遷都。九州倭国出身の(天智の遠縁の)天武が日本国を旗揚げ。
白村江の戦後処理で来日(来倭?)した唐の郭務悰(ソウ)を大宰府で対応
させたということは、天智の時に近畿大和に統一日本の都を置き、
旧俀国の首都を格下げしたのでしょう。国名は日本ですが、白村江の
敗戦国は「元の九州倭国」です。国名の「日本」は壬申の乱後に天武が
発した(外国に伝達した)。・・・以上のストーリーでいかがでしょう。
819 :
のんびりひまじん :2008/06/21(土) 10:30:52
>817列伝の代用として、風土記がある。 ただし、私のようなシロウトは内容のお粗末さを感じ取る能力が足りない。 日本書紀の酷さについて、古田さんは表現力に優れて明らかにした。 >818 日本書紀そのものに、国号を代える記載がない。ないことそれ自体が深刻に異常。
820 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/21(土) 10:40:51
>>818 じゃぁ、紀のこれはどう思いますか?
↓
大日本根子彦國牽天皇(孝元天皇)
↑
821 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/21(土) 10:42:30
「日本」「國」の名が入ってますが?
>>820 質問の意図がいま一つ理解できませんが、
孝元天皇は『古事記では』大倭根子日子國玖琉命ですね。
書紀は、別伝ではなく、表記を改めたものだと思います。
823 :
にんとく :2008/06/21(土) 13:00:56
すべての人向きでなく、同じ関心の持主の方に、資料だけを提示します。 ・「筑紫太宰」初見、609年。 ・645年、天皇記焼失、国記が中大兄皇子に献ぜられる。皇子20歳。 ・『旧唐書』倭国の最後の記事、648年。 ・白雉に改元、650年。 ・高麗の沙門道顕の「日本世記」の記事、660,661,668年に引用 (『日本書紀』6,7年間隔の記事重出以外に2,3年間隔のものあり。) (天智称制・即位は、神武の即位前記と即位の間隔7年に対応か?) ・栗前王、筑紫率、668.7 ・蘇我赤兄、筑紫率、669.1 ・栗前王、筑紫率、670.6 ・郭むそう来九州、669、及び671.11(一方は重複か?) ・壬申の乱、672年 これらの資料をうまく解釈して、客観性は低いですが、一つのストーリーが できあがります。
824 :
にんとく :2008/06/21(土) 13:11:43
>823 に補足。 ・645年、天皇記焼失、国記が中大兄皇子に献ぜられる。皇子20歳。 ←これは、なぜ、孝徳天皇でなく、弱冠20歳の皇子に、わざわざ そのような重要文書を献じた(と「書紀」作者か作文した?)か、 が疑問なのですね。
>>822 欠史八代のころに日本国という名称が出来上がっていたんではありますまいか?
ただ表沙汰にしてないだけで、天皇とその取り巻きの心奥にいずれ、かような国名
を名づけようとかする企画があったんではないでしょうか?
>>825 「欠史八代のころに日本国という名称が出来上がっていた」
「天皇とその取り巻きの心奥にいずれ、かような国名
を名づけようとかする企画があった」
仮説として、このように想定することは、今のところ、
別に差し支えないと思います。
「日本」は「ひのもと」の当て字で、地名「草香」が起源らしい
「ひのもとの日下」と、あい通じる名称だと思いますので。
827 :
にんとく :2008/06/21(土) 16:28:21
先ほど、wikipediaの「九州王朝」の説明の一部を拝見しましたが、その中の 「記録が語る王朝交代」の説明・・・ヤマト王権が確立したのは7世紀末・・・ 中国の正史『旧唐書』『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」 に国号が変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定される[21]。 ←「7世紀末」は誤読です。「648年以降701年までの間」に訂正すべきです。 *以上の推論により、邪馬台国近畿説論者に提出すべき簡単な質問は、 @国号「日本」は、いつ成立したか、つまり、誰が、どこで提出し、いつ (外国から)認定されたか。A『日本書紀』は、邪馬台国九州説か、それ とも、近畿説か。・・・この2つに絞れます。
828 :
日本@名無史さん :2008/06/21(土) 16:39:27
>824 答えになっていませんが、ちょっとコメント。 645年に孝徳天皇は49歳で、当時としては目もダメ歯も足腰もダメだったでしょう。 645年前半まで政治を握っていた蘇我入鹿を殺し、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだ クーデターの当人=中大兄皇子その人に献じたことに意味があるのでしょう。
829 :
にんとく :2008/06/21(土) 18:17:21
*補助線と言うべき問題点若干 (1)九州年号 対 日本書紀の年号 652 白雉 650 白雉1〜5まで 661 白鳳 684 朱雀 686 朱鳥 686 朱鳥1(万葉左注『日本紀』は朱鳥8まで) ・白雉は年期に2年のズレがありうる。 ・661は辛酉の年。中大兄の称制の年でもある。 ・655〜685年の書紀の年号が不明。壬申の乱で年号が変わらなかった とは考えられない。 ・『日本書紀』は『日本紀』を改修したものと考えられる。 ・「原古事記(=天武古事記)」成立後、景行紀の構想に変更があった とすれば、九州王朝史書からの盗用の発案は、持統朝以降になる。 (ただし、「九州王朝史書からの盗用」は古田の発案であって、可能性 大であるが、どの程度受け入れられているかは不明。)
830 :
世界@名無史さん :2008/06/22(日) 01:47:46
>826 九州論者はすぐくさかくさかー、と騒ぐんだが(よほど臭いらしい)、かって大阪平野は海の底で、 上町台地だけが半島として突出していた。その東側の陸封湖を、草香の江って呼んだ。 考古学の言うところの、河内湖だが。この、草香の江、実はかって福岡平野にも存在した。 那珂川の沖積作用で、現在は福岡平野の一部になっている。草香は1箇所じゃないんだよ。 おいら自身は、海人族の関係した名前じゃないかと思っている。
831 :
日本@名無史さん :2008/06/22(日) 02:04:53
>九州論者はすぐくさかくさかー、と騒ぐんだが それは近畿説論者ね。
この河内だけれど、一般名詞。 特定の地名というより、川が大きく迂回してその中に できた肥沃な土地という意味。全国各地に河内の 地名がみられます。
833 :
にんとく :2008/06/22(日) 08:15:06
九州倭国の消滅について、次のように考えます。 ・同じ倭種の国であり、王家の血統を同じくすることから、 近畿倭国(7世紀前半に日本国と改称)との併合が企てられる。 具体的には、九州倭国の王統である天武天皇が、近畿天皇家に 婿入りし、天智の娘を入室させる(政略結婚)。 ・白村江の戦いは、近畿倭国は消極的。 ・それまで九州倭国の都であった大宰府を、地方政庁に格下げする ことで、形式上は日本国が統一される。九州倭国の残党や熊襲は、 日本国には服さない。 ・天智紀には年次の錯簡があって(例えば、万葉左注と現行の書紀 とでさえ1年のズレがある)、近江遷都=即位は667か666年。 筑紫率を置いたのが668乃至670年。 ・壬申の乱による天武の皇位剥奪は、いわば武力革命ではあるが、 革命思想を嫌う日本の指導層が、兄弟国の併合という事実を、 万世一系のイデオロギーによって、曖昧化した。・・・このような 推理ですから、私案の結論としては、天智・天武非兄弟説に与する ことになります。 ・『隋書』に「竹斯国は俀に附庸」という記述があります。 国の統一は、地域国家の中央国家への附庸関係のことでしょうから、 日本国の実質的な統一は、ドラスチックなものではなく、徐々に行わ れたもの、と推定します。明治維新の際の全国諸藩の動向のような ものです。650年の白雉改元などはこのケースではないでしょうか。
834 :
日本@名無史さん :2008/06/22(日) 09:01:42
私の誓い 今日から真夜中の12時以降はネットはやらないことにします。
835 :
にんとく :2008/06/22(日) 09:32:33
>>833 を書き入れたあとで、古田の論文「日本国の創建」(朝日
文庫版『よみがえる卑弥呼』所収)をざっと再読してみましたが、
一つの説ではありますが、正解でないように感じました。
『日本(書)紀』は、対中国関係では後発の日本国が、九州倭国の存
在を自国のものとして日本列島を単一国とすること、当時の近畿天皇
家にとって異朝の王というべき天武を自国の系譜に組み入れること。
これが新興国家日本を主張する歴史書の眼目であったと愚考します。
836 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/22(日) 15:05:26
>>830 草香の江は、地名「日下」に面した江であることからその様に呼ばれたのだよ。
日下の地名が草香の江に先行する。
又、神武の頃の河内湾は大きな湾で、大和川河口から淀川河口に広がる海で、
江と呼ばれる様な小さなものではない。
日下はその東側霊山生駒山から太陽が上がる時、日の下に当たることからついた地名。
又、日下の地は摂津(淀川水系)と河内(大和川水系)を結ぶ交通軍事上の要衝でもあった。
又、生駒山中には宗教施設とみなせる現在も正体不明の遺蹟が散在する。
生駒山西山麓の日下は宗教上重要地点である。
神武が日下に上陸を仕掛けたのも、畿内勢力の要となる地点あるからと理解している。
後世の崇神も継体もこの地域を抑えてから勢力を拡大している。
837 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/22(日) 15:37:23
>>にんとく さん 天武は九州からの独立を図ろうとしましたが、 天皇になったのではなく、九州大倭(俀)の一員である国の大王です。 それは、日本書紀の大嘗祭についての記述から判断できます。 天智弘文においては大嘗祭をせず、大嘗祭への参加を促しています。 これは、畿内(倭國)が九州大倭(俀)傘下の一大王國に過ぎなかったことを意味します。 (大倭=九州倭國、倭=畿内倭國、です。隋唐から見れば、大の字は抜け落ち、どちらも卑字の俀・倭となる。) 畿内大王で、大嘗祭をしたと初めて記述されているのは持統です。 天武紀に大嘗祭についての記述がないことは、天武は天皇にはならずに畿内の大王に留まっていたことを意味します。
838 :
にんとく :2008/06/22(日) 16:08:56
>>837 九州王朝大好きさん
そういえば大嘗祭については熟考していません(天武が創始したとの
説もあったように記憶しますが、あとで確認します)。
>>804 に再掲した記事の資料批判が仮説の分岐点になると思います。
○『釈日本紀』:唐武徳中(618-26)初めて日本と号す。
これが事実か、虚偽か。
私は、631年から632年にかけての、高表仁の記事、
@倭国とは礼を争い朝命を述べず(『旧唐書』)
A朝命が伝わったと取れる内容(『日本書紀』舒明紀4年)
これら二つは、唐が、倭国と日本の違いを知り始めた2度目の機会
と解釈できるので、上述(この3日ほどの一連の書き込み)のよう
になりました。
「日本」の起源の問題になりそうですね。
839 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/22(日) 16:30:31
>>838 薩耶麻派の年号白鳳は後世に伝わっていきますが、
年号朱雀・朱鳥は続日本紀で既に無視されているのは何故でしょうか。
日本書紀の推古紀の記事内容のほとんどが、持統のものを挿入したと考えています。
>>804 >>383 の問題については今簡潔に説明できるまでにまとまっていません。
ただ、唐の年号は正しく、日本書紀の年号には作為があると見ています。
840 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/22(日) 17:34:14
>>839 の前半が抜け落ちています。又後で書きます。
841 :
にんとく :2008/06/22(日) 18:00:12
>>839 九州王朝大好き様
「日本書紀の推古紀の記事内容のほとんどが、持統のものを挿入した」
←これは、推古の実在性が薄いことを考えればあり得る話です。
「天皇」「日本」の創設主体は誰か、という、聖徳太子論にもなる
わけですね。拙論でも、大筋のところ、史料の無理な切り捨てはしな
いで、組み立てられるような気がしたのですが、ここが本番と捉えて、
年号「白鳳」についても、じっくり考えます。
842 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 00:54:59
にんとくさんは>834を守ります。
843 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 01:11:45
>>841 >推古の実在性が薄いことを考えればあり得る話です。
隋使は九州にあった倭国王朝を訪ねた。推古の実在性が薄い。にもかかわらず、日本書紀は隋使が推古を訪ねた旨書いている。これは虚偽記載を疑うべきであろう。大和王朝は本当に存在したのであろうか?
844 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 02:34:29
小野妹子は隋の国書を紛失したのに、お咎めなし。 これもでっち上げ遣隋使だった疑いが濃い。
845 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 06:59:19
大和王朝の出先機関が九州王朝管理下の筑紫にあったのではないでしょうか。江戸の大名屋敷や大坂の蔵屋敷のような。
846 :
にんとく :2008/06/23(月) 08:02:58
>843-844 推古については、古事記に記載があり(古事記による創作
の可能性も皆無ではないが)とりあえずは、傀儡的な方だとみます。
遣隋使について、古田は、表記通り唐への遣使で、年を12年ずら
せる、という解釈をしていたと思います。
>>829 の再掲、若干の訂正・加筆。
(1)九州年号 対 日本書紀の年号
647 常色 645 大化1〜5まで
652 白雉 650 白雉1〜5まで
661 白鳳
684 朱雀
686 朱鳥 686 朱鳥1(万葉左注『日本紀』は朱鳥8
まであり、おまけに、朱鳥1=687年の計算になる。)
・白雉が2年、朱鳥が1年ずれている。
・近畿王家(天皇家)に年号制定の習慣がなかったとすれば、白雉
から、九州年号を借用するようになった、とも解釈できる。
その場合、「大化」は造作の可能性大であるが、「法興」が九州
年号とは断定できない(と思う)ので、これも可能性にとどまる。
しかし、655〜685の間の年号の欠如は、斉明以降、天武没年
まで、独自の年号を持たなかったであろうことを憶測させる。
壬申の乱は「白鳳」中に起きているので、天武は、自ら年号を制定
する立場になかったか、あるいは、制定した年号を抹殺されたか、
のいずれかだろう。
(2)郭務ソウが、天智3年(664)と天智没年の前後(671-672)に
来九州しており、太宰府対応になっている。白村江の敗戦処理の
過程で、九州倭国と近畿倭国の合併が立案され、新国家「日本」
成立がありうる(近畿倭国の名が日本であったと仮定)。
天武が天智の娘(後の持統)を娶ったのがそのころ。663年の時点で
持統は18歳。(未完)
847 :
にんとく :2008/06/23(月) 12:07:42
>>846 のつづき。「日本」の起源について。
(3)『旧唐書』の解釈で、定点をどこに取るか。
「倭」は、九州倭国、近畿倭国、統一倭国のいずれであるか考えましょう。
「日本国は倭国の別種なり」日本=倭かそれとも日本≠倭か。
「日辺にあるを以て故に日本を以て名となす」
「(一説)倭国自悪其名不雅改為日本」←ここの倭国は、九州か、近畿か。
「(一説)日本旧小国併倭国地」←日本が元九州倭国であれば、ここの
「倭国」は近畿。日本が元近畿倭国であれば、ここの「倭国」は九州倭国。
*これを組み合わすにあたって、日本が「九州倭国の後身」「近畿倭国の
後身」「統一倭国」のいずれかになるように思います。
(未完)
848 :
にんとく :2008/06/23(月) 13:08:42
>>847 のつづき。
・九州倭国(600年の俀国)が「日本」に改名したとすると、
「(一説)倭国自悪其名不雅改為日本」は敗戦を機に(あるいは
近畿倭国との合併が確定した時に)改名したことになりましょうが、
「日本国は倭国の別種なり」は少し変で、「(一説)日本旧小国
併倭国地」もかなり変です。
・近畿倭国が日本に改名したとすると、「日本国は倭国の別種なり」
は実態に即し、「(一説)日本旧小国併倭国地」も納得できます。
(未完)
849 :
にんとく :2008/06/23(月) 13:43:01
>>848 の続き。
近江遷都は、現行の『日本書紀』では、天智6丁卯(667)ですが、
万葉18左注が引く『日本書紀』では、天智6丙寅、とあります。
年次が信用できません。壬申の乱672年を定点とするなら、
近畿の天智と九州の天武の合意の上で、670年ころ、日本国建国。
壬申の乱後690年まで、任官が不明ですので、かなり思い切った
改革を断行したと考えられます。天皇や万世一系は天武からで
しょうか。倭国統一の発案者の一人が藤原鎌足だったでしょう。
(以上は単なる想像ですが、妄想ではないと思います。)
850 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 14:48:30
>>846 >古田は、表記通り唐への遣使で、年を12年ずらせる、という解釈をしていたと思います。
そのとおり、古田は書紀の編者が唐時代と隋時代を混同したと解しておりますね。しかし、我が国最高クラスの史家がそろって時代を間違えるはずはないでしょう。843〜845の考え方は無視できないと思いますが。
851 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 14:58:32
>>848 にんとくさん
「隋書における倭国比定論」について、ややこしい問題を感じています。
漢籍各書に「倭」「倭人」「倭国」という語が出てきますが、隋書などは
これらの語の定義をあいまいに使っているのではないか、という疑いです。
我々としては、部族名・民族名・国家名をしっかり区別して表記してもらい
たかったところですが、いまから質問も出来ません。
隋書の「倭国」が指している対象が、実は漠然と「民族ないし国家」という
可能性を捨て切れません。
にんとくさんのレスを援用して私権を書きます。
>「倭」は、九州倭国、近畿倭国、統一倭国のいずれであるか考えましょう。
→この「倭」は民族名
>「日本国は倭国の別種なり」日本=倭かそれとも日本≠倭か。
→この「倭国」も民族名
>「日辺にあるを以て故に日本を以て名となす」
>「(一説)倭国自悪其名不雅改為日本」←ここの倭国は、九州か、近畿か。
→この「倭国」は、隋の煬帝に従属しなかった九州王朝の可能性が高い
>「(一説)日本旧小国併倭国地」←日本が元九州倭国であれば、ここの
>「倭国」は近畿。日本が元近畿倭国であれば、ここの「倭国」は九州倭国。
→この「倭国」も民族名
852 :
にんとく :2008/06/23(月) 15:09:58
>>849 の続き。
『日本書紀』最大の眼目は、国外的国内的に「日本」の歴史を示すに
あたって、倭国の歴史を自国の歴史として取り入れる、という発案に
あったように思います(景行紀)。記紀の作者は、邪馬台国が近畿倭
国の歴史に出て来ないことを知っていますから、九州であることを
想定して系譜を作成したでしょう(神功)。『宋書』の倭の五王を
参考に近畿王家の系譜に手を加えたこともありえます。しかし、
『梁書』の文身国・大漢国・扶桑国は実質上取り入れられませんし、
九州倭国の直接の典拠である『隋書』も無視せざるを得ません。
邪馬台国が九州にあることを知りつつ、日本は神武以来橿原のある
大倭(ヤマト)か難波を都にしており(成務は志賀、仲哀は九州ですが)
どうしても中国史書とは矛盾をきたします。ですから、日本書紀の
確立した日本像(古代日本の歴史)を信奉する人々は、『梁書』を
切り捨て、『隋書』のタリシホ(ヒ)コを蘇我馬子か聖徳太子に宛てる
ことによってのみ、辛うじて自説を保持することができますが、
『書紀』自体が邪馬台国九州説ですから、『書紀』の判らなさの解明
は、永久に不可能であると思われます。これこそ、書紀の編纂者が
望んだ事態である、というのは、アイロニーとして愉快ですが、
実質は、万世一系の天皇制の確立だという気がします。
853 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 16:26:13
>倭国の歴史を自国の歴史として取り入れる、という発案にあったように思います(景行紀)。 これは古田説かと思いますが、北九州に倭国王朝があったのならば、「仲哀の都・九州」はおかしいと思いませんか?近畿地方を留守にして天皇がのこのこ対立王朝の鼻先へ行くはずはありません。
854 :
名無しさん :2008/06/23(月) 16:39:09
確か、応神の二男・三男が近畿に居たような? それで、仲哀亡きあと畿内に行こうとして抵抗 されましたよね。
855 :
にんとく :2008/06/23(月) 17:28:30
>>847 (その他を含め一連の発言)の続き。
(4)一つ大事な記事を見逃していることに気付きました。これで
ほぼ解けたような気もします。
『旧唐書』倭国「衣服の制は頗る新羅に類す」「646新羅に付し表を
奉じて起居を通ず」ということは、倭国は新新羅国家です。
白村江は唐・新羅VS倭国ですので、ここの倭国は、親高麗、親百済
である(はずの)近畿倭国の可能性もあります。すると、九州倭国は
参戦に消極的、近畿倭国は参戦に積極的で大敗北、ということもあり
えます。古田は、敗戦(663)の翌年に冠位26階制定はありえない、と
の理由で、九州倭国の衰亡を断定していますが、天智紀の重出を考慮
すれば、((天智10年の671年が、冠位・法度の施行、日本国の成立))
という結論になります。■■万歳!を叫びたい気持ちです。
856 :
にんとく :2008/06/23(月) 17:41:18
>>855 に追加。
私は万葉の年期を採りたいので、そうすると、近江遷都は666年、
日本国成立は670年になります。
857 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 17:41:59
九州側が「親新羅国」だったことはないでしょう。 近畿側はずっと「親新羅国」だったと思います。
858 :
にんとく :2008/06/23(月) 18:22:10
>>856 以上を補強する資料的根拠。
・『三国史記』670年、倭国更めて日本と号す。
・『同』690年、倭国が終わり変更して日本の国号が始まった。
(岩波文庫版になし。古田「日本国の創建」から孫引き)
これは、673年から690年までの任官が不明であること、持統が
測位した(690)ことに対応しています。
>>853 神功皇后新羅征伐のストーリー設定のためでしょう。
>>857 最も簡潔な資料を引用してください。
860 :
857 :2008/06/23(月) 19:38:57
>859 近畿政権と新羅国は近距離かつ国境を接るような位置関係ですが、 近畿政権と新羅とが交戦した歴史など一切ありません。 資料を失念しましたが半島側の記録では、白村江の海戦で 近畿側の軍船は出撃せず、新羅側からお前たちとは昔から 仲良くしていたではないかとたしなめられて退却しています。 百済と新羅はいつも対立関係にあり、倭国側は常に百済側に 加担していますので、その倭国は近畿政権ではありえません。
>>860 判りました。
>>855 の、
>『旧唐書』倭国「衣服の制は頗る新羅に類す」「646新羅に付し
>表を奉じて起居を通ず」ということは、倭国は親新羅国家です。
・・という解釈は放棄し、上述の、風土記からの引用、「近畿倭国
軍は、兵を募ったが、参戦しなかった」を優先します。
「日本」の起源の謎が残ってしまった、という(自らの)印象です。
862 :
860 :2008/06/23(月) 21:16:12
>861 6世紀から、九州倭国も新羅国も隋を軽視し、独自の元号を制定して 独立を謳歌しました。この間、倭と新羅の対立関係がやや緩みます。 しかし、唐になってから新羅国は独自元号を咎められて元号を廃止、 唐に恭順します。九州倭国は唐の言うことに従わず、白村江まで まっしぐらに進みます。このころ九州倭国が「日本」国名をぶち上げます。 九州倭国と新羅国は唐の敵味方同士に戻ります。近畿倭国は親新羅 でしたから、九州倭国の近畿倭国軍召集にいやいやながら付き合います。 しかし近畿軍は新羅軍と戦う気持ちなどありませんでした。
863 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 21:58:01
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
864 :
日本@名無史さん :2008/06/23(月) 22:08:29
>「近畿倭国軍は、兵を募ったが、参戦しなかった」を優先します。 日本書紀天智2年の条には、大日本国の救将廬原臣が万余の兵を率いて参戦した旨ありますが、これはどう読むのですか?
>>862 さんの主張
「九州倭国は唐の言うことに従わず、白村江までまっしぐらに進みます。
このころ九州倭国が「日本」国名をぶち上げます。」
>>823 から再掲
(1)高麗の沙門道顕の「日本世記」の記事、660,661,668年に引用
>>838 から再々掲
(2)『釈日本紀』:唐武徳中(618-26)初めて日本と号す。←事実か、虚偽か。
>862さんの見解では、(2)(「延喜講記」の説)は、事実誤認になります。
(1)の道顕の書名が正しければ、九州倭国が「日本」国名をぶち上げた
「このころ」は、660年以前になりますが、敗戦(663だが662ではないか)
後の国名変更であれば、唐が戦った相手国は「日本」になります。これを
避ける選択肢としては、A案:(1)の署名は誤り、B案:唐は国名変更を
知らなかった、他に考えられるでしょうか?
867 :
にんとく :2008/06/23(月) 22:47:36
多くの人にとっては、現在の日本列島の「日本」は、実は、 九州倭国(天武)と近畿倭国が合体して670年にできた国であった、 という事実(推論により推定される事実)は、それもありえる、 程度の受け取り方になるという気がします。 このことで解けそうないくつかの疑問を挙げてみますと、 ・「古事記」は、初め天武の意向に沿って編まれ、「現古事記」は 不比等により、特に上巻が改変された。 ・1年ないし2年ずれた暦の使用は、友田吉之助の少数説だが、 古事記=和銅国史、の説は成立しうる。 ・「古事記」を原案として、702年の遣唐使が図書を買いまくって、 日本の情報を徹底的に収集してから構想を固めたのが「日本紀」 である。 ・武力による壬申の乱(天武系)を、知力で巻き返したのが天智系の 政策立案者であった。・・・などが、言えるような気がします。 青木和夫氏は、権力とは情報力のことだ、とおっしゃられたそうです が、上山=梅原説を認めることができず、ましてや、九州王朝説など は邪説の最たるものと思われたことでしょう。古代の隠れた情報の 解明に至らなかったようです。 私は、古事記専門なので、今回の大局観を得たことで、目的は達せ られました。おまけとして、古事記下巻(説話)は扶桑国史か、 という問いが生じました。
868 :
862 :2008/06/23(月) 23:00:26
>864 ご指摘のとおり、近畿政権は九州政権から要請されて、多数の軍隊を派遣しています。 九州政権の命令ないし強い要請を拒否できなかったのです。しかし戦闘をサボタージュした。 喪に服していますなどといろいろ理由をつけては、実質的に非協力的でした。 >865 九州倭国の「日本」という国名が正式に決定したのは、何時なのか考え中です。 正式な呼称でないけれども、「日本」呼称を使い始めるということはありえます。 白村江の戦以前から、唐は「日本」呼称も認可していませんし、九州倭国の元号も 認可していませんから、戦後も「日本と戦争しました」なんて言わないわけです。 あくまで「イ妥国と戦争しました」となるわけです。ごめんなさい、答えになっていますかどうか?
なーんだ、名前がそうなっているじゃありませんか。 天「智」 天「武」 って。
感情を露わにしたにんとくさんは、初めてです。
871 :
にんとく :2008/06/24(火) 07:09:30
問題が解けてしまえば、なーんだ、そんなに簡単なことだったのか、ですみ
ます。統一新羅の動きに連動して、日本列島も、九州倭国と近畿倭国が統一
し、統一倭国=日本となったわけです。ただ、島国で、近畿倭国の存在が
知られていなかったため、すっかり衣装替えした、といった趣でしょう。
古田の「日本国の創建」は、天智天武非兄弟説に考えが及ばなかったため、
正解を逃したことになります。
この際、ついでに「日本」と「年号」についても考えることにしました。
>>855 (にんとく)
>『旧唐書』倭国「衣服の制は頗る新羅に類す」「646新羅に付し表を
>奉じて起居を通ず」ということは、倭国は親新羅国家です。
>>857 (無名氏)
>九州側が「親新羅国」だったことはないでしょう。
>近畿側はずっと「親新羅国」だったと思います。
857,60,62,68氏が正しければ(正しそうですが)『旧唐書』の唐が、646年
の新羅に付した倭について、近畿倭国と九州倭国を混同した、という結論
になるのではないでしょうか。もしそうだとすると、白江の戦いの相手も
近畿倭国だったということになる可能性もでてくるのではないでしょうか。
私は、『釈日本紀』:唐武徳中(618-26)初めて日本と号す。の記事に、
もう少しこだわってみようと思います。
872 :
にんとく :2008/06/24(火) 09:39:01
>>871 の続き。次々と問題が出てきて大変です。
(1)
白村江について。できれば固定ハンドルで対応を期待します。
出典@:岩波文庫『三国史記』。
出典A:古田『法隆寺の中の九州王朝』。
@58頁A290頁、によれば、白江の戦は、662年。
A62頁、の戦は663年。これが白村江の戦。
前者(主戦)が、九州倭国(が主体)の戦、
後者(いわば余燼の戦)が、近畿倭国(が主体)の戦。
・・・・という解釈ができることに気付きました。
(2)
@63頁(88)番の記事の「倭国」は、九州倭国か、近畿倭国か。
(3)
@83頁、A290頁の、「百済は・・西は海を渡りて越州」の「越州」
とは何でしょう。越の国ではないでしょうか。もし、そうだとすると
「大王の遠のみかど」である越の国であり、おそらくは『梁書』の
文身国の後身になるはずです。
873 :
にんとく :2008/06/24(火) 10:04:14
>>872 の続き。
(1)
662年の白江の戦(大戦)いで、九州倭国は大敗。
663年の白村江の戦い(小競り合い)で、近畿倭国は敗れた。
両国とも唐の進出を恐れて、国を統合することになった。
統合後の国名は「日本」。
(2)の答えは近畿倭国。
(3)は多分これでよいと思います。
874 :
にんとく :2008/06/24(火) 11:09:55
>>873 の続き。
(1)
662年の九州倭国の大敗:@(76)番 船400隻を焼く
663年の近畿倭人国の負け:@(57)番 船1000隻停まる
『日本書紀』「天智紀」にあっては、両者を同一の事件のごとく見せ
かけるために、故意に年期を一年ずらすなど、判りにくくしている
箇所がありそうに思えます。ズレの具体例をあげると、@(74)の
人質の王子の件。
『書紀』本文の記事は、年度途中の出来事を翌年初頭に持ってくる
など、7年のズレ以外に、錯簡が多いようです。
(2)
@(55)の、670年「倭国更めて日本と号す」の「倭国」は、絶対に
九州倭国である、とは断言できないように思いますが
如何でしょう?
875 :
にんとく :2008/06/24(火) 11:41:16
>>874 の続き
簡単に図式化すれば、新羅・高句麗・百済→統一新羅、と並行して
倭国・近畿倭人国→統一倭人国=日本、なのですね。
ところが、任那つまり半島支配の放棄と引き換えに、日本が列島の
単一国として存在していた、という(いわば)架空の観念によって
歴史を構想したために、古代史の真相が不明だったわけです。
近畿倭人国は、九州倭国の附庸国の立場だったかとも思いますが、
さらに独立性をもっていたと仮定するなら、言い換えれば、欽明朝の
大和国家、推古朝の大和国家は、どういう名前だったのでしょう。
それが、扶桑国や日本であった可能性、つまりは、
○『釈日本紀』:唐武徳中(618-26)初めて日本と号す。
の記事がでっちあげでない可能性も考えてみたいと思います。
(おそらく、九州年号の扱いで、結果は否定的かもしれませんが。)
876 :
にんとく :2008/06/24(火) 13:39:15
>>875 の続き
年号の扱いについて。私案です。
九州年号を最優先して九州王朝の存在を認める人にとっては、
白雉・白鳳・朱雀・大和・大長・大宝の、特に中間4個が、九州王朝
残存の証拠と見るでしょう。しかし、それにしても、壬申の乱の
勃発が白鳳期間中であること、白鳳が23年間と異様に長いことには
釈然としないものを感じるでしょう。
ここで、九州王朝と接触した近畿倭人国が、白雉(652、書紀は650)
から九州王朝の年号を拝借した(傘下に入った)と仮定します。
(となると書紀の大化は後の創作でしょう。)
九州王朝と近畿倭人国の統一が画策されてからは、共通の年号を
用いることになります。天智・天武の共同発議でないと、変えられ
ません。これが、661年から683年まで。684朱雀、686朱鳥、695大和、
698大長、は、統一倭人国=日本、の年号です。684は「八色姓」、
686は天武の没年(『日本紀』では朱鳥8年まで残っていました)、
695は(例えば)舎人皇子への授位、698は(例えば)不比等藤原姓、
で改元されましたが、朱鳥元年以外は、書紀からは抹殺されました。
それでは、改元を一時凍結した白鳳、661年から683(OR4)年まで、を
傍証する記事はあるでしょうか。書記でなく風土記を見てください。
私の推測では、661播磨国司宝剣を献ず(風土記)、684宝剣を返す、
がこれに該当します。
以上で、年号と日本国号の謎はほぼ解けた、と考えます。「日本」と
「天皇」、特に前者は推古まで遡るかもしれませんし、そうでないか
もしれません。((今度こそは万歳ではないでしょうか))
中小路駿逸氏からのききかじりですが「全唐詩」には「扶桑の東」やら 「扶桑の東のさらに東」が出てきます。 ・「始知更有扶桑東」(劉長卿「同崔載華贈日本聘使」) ・「郷樹扶桑外 主人孤島中」(王維「送秘書晁監還日本国并序」) ・「絶国将無外 扶桑更東有」(徐凝「送日本使還」) ・「扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東」(韋荘「送日本国僧敬竜帰」) どうも全唐詩では、関東地方出身の僧に対して、扶桑の東のさらに東 から来たと言っているようです。(ただし中小路氏によれば、時代や人に よって扶桑の指す地域がまちまちだから注意、だそうです) 全唐詩に限って言えば、 扶桑=九州 扶桑の東=近畿 扶桑の東のさらに東=関東 と考えざるを得ないということです。
878 :
にんとく :2008/06/24(火) 14:21:31
以上の謎解きが正しいとしますと(私は基本的には正しいと思います) 記紀と初期万葉は書き変えねばなりません。 例えば、万16前書きの藤原「朝臣」は、天智から授けられたもの、 『日本書紀』は『日書紀』の再編集本というように。 わたしは、以前は持統天皇が気に入らなかったのですが、今回の 見直しで、考えを改めました。 天智625-671、天武621-686、とすれば、持統(645-702)は、660年 前半、20歳ころ、24歳年長の天武に政略結婚させられたことに なります。その後の彼女の生涯を想像した時、その苛烈さの必然性に 嘆息せざるを得ませんでした。近畿説の直木孝次郎先生の思い至る ところではないでしょうが。 この古代の国家思想は驚くべきもので、恐らく、藤原鎌足・不比等 とその周辺に、途轍もない智慧者がいたのだと想像されます。 この「途轍もない智慧」は、果たして世界に誇るべきものでしょうか。 ともあれ、人麻呂刑死(一説ですが、私は事実、少し引いて、事実 たるべき演技、と考えます)の708年からちょうど1300年後に、 このような場(!)で、古代史の不明の一部が解読できたことを、 閲読の方々と、喜びをともにしたいと思います。
持統が苦労していた時代、唐の実質的首長も女性でした。 武則天(則天武后)です。
日本書紀の苦しい主張 1:天照大神の孫、ニニギが始めたいわゆる倭国、ないし邪馬台国は近畿政権が引き継いだ 2:近畿政権の「天基を草創」したのは神武天皇であり、ニニギの血統を引いている (しかし王統は引いていないので唐や新羅の敵=白村江の戦犯ではないから堪忍してね) 3:よって、現近畿政権は神代からの由来があり、王の血統も由緒正しく、唐や新羅に友好的な国です
唐建国の苦しい主張 「唐は隋の煬帝の孫が初代皇帝であり、煬帝が公認した国で、 代々禅譲してますから、隋に反逆して乗っ取った国じゃありません」 (実際は皇帝を引き摺り下ろした乗っ取り傀儡政権)
882 :
にんとく :2008/06/24(火) 16:39:44
>>878 つづき。興奮冷めやらぬうちに、若干の整理。
(*)九州年号 対 日本書紀の年号
@647常色 @’645大化1〜5まで
A652白雉 A’650白雉1〜5まで
B661白鳳
C684朱雀、686朱鳥、695大和、698大長
九州年号は@以前とAまで。Bは統一倭国年号。Cは日本年号。
これらを全て九州年号と捉えたのが、古田氏らの失敗の原因です。
Aの時に、九州倭国の年号を拝借した(ということは、実質的に
合体した)が、近畿倭人国の内部で対立があって、2年ずらさざるを
えなかったのがA’だと思います。孝徳朝の実態は把握していません。
A’が654年で切れているのは、斉明天皇即位のため。661年、辛酉革命
の年に、合体年号の白鳳に入りました。天智は称制に入りますが、
後に、天智1年を、661年でなく(現行の)662年に書き換えます。
今の年表では、近江遷都は667年、即位は668年、冠位は671年ですが、
すべて1年前になります。称制から即位までの7年、二通りの天智
1年、それに白村江のカモフラージュが入り乱れていますから、
天智紀の解読は大変です。二通りの天智1年が生じたのは、天武が
(恐らくですが)弘文天皇の在位を短くするためだったと思います。
『旧唐書』の「倭国新羅に付し」648年の記事は、俀国の最後の記事
でしょうから、これ以降の倭国と近畿倭人国の動向が、解明すべき
問題になります。(が、この、釣り上げた魚がとてつもなく大きく、
一生かかっても古代史の書き換えは一人ではできませんので、
一体どうしようか、と悩んでしまいます。)
883 :
にんとく :2008/06/24(火) 17:11:17
>>874 を修正します。大問題の訂正ですが、指摘を受ける前に。
(1)
×662年の九州倭国の大敗:@(76)番 船400隻を焼く
×663年の近畿倭人国の負け:@(57)番 船1000隻停まる
「天智紀」の1年のずれを考慮に入れると、戦闘主体は、
@(76)は、近畿倭人国 船400隻を焼く
@(57)は、九州倭国 船1000隻停まる
になります。
そうすると、かなり上の方で指摘を受けた、「文武王倭人に曰く、
我と汝の国は未だ嘗て交構せず」(@63頁(88)番)の倭国は、
指摘した人の見解と異なり、九州倭国になります。このことは、
『旧唐書』の648年の記事に合致します。すなわち、
近畿倭人国は662年に大敗、九州倭国は663年に敗北。
以上で、完全に、懸案を解決した、と考えます。
質問と回答で詰めていく場合は、極力資料の提示と、固定ハンドル
の表示をお願いしたいと思います。
>>882 はじめまして。九州王朝大好き氏他とのレベル高いやりとり、いつも拝読しております。
さて
>(が、この、釣り上げた魚がとてつもなく大きく、
>一生かかっても古代史の書き換えは一人ではできませんので、
>一体どうしようか、と悩んでしまいます。)
大発見の可能性があるのならば、
念のために以後トリップを付けられたい。
では、
応援しております。
レス、ありがとうございます。大発見の可能性があります。 梅原=上山の不比等や、古田の九州王朝クラスかもしれません。 できることなら、トリップの付け方をお教えください。 付け方のマニュアルのあるところをお教えいただくとか。 自分でも2チャンの最初のページから調べてみて、 なんとか明日中位にはトリップの付け方を試行錯誤してみます。
886 :
応援 :2008/06/24(火) 19:29:05
【トリップって何?】 名前の後ろに付く、個人を識別できる記号です。 【トリップの付け方】 名前記入欄に名前の後ろに続けて「#」、それに続けて貴方だけにわかるパスワードを記入します。 (記入例) 固定ハンドル名が「花子」、パスワードが「hanako」の場合、 名前記入欄に「花子#hanako」と記入する。 パスワード部分が自動で変換され、このように表示されます。 「花子 ◆RWwEbHEhig」
887 :
応援 :2008/06/24(火) 19:32:57
889 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/24(火) 20:25:15
>>にんとく さん しばらく見ないうちに思わぬ展開になっている。 抜け落ち部分を書き込めなくてごめんなさい。 僕の見方との岐路になる点がひとつあります。 多利思北孤、薩耶麻、天智、天武及び九州諸王は九州王朝弟王(各地方大王)であり、 卑弥呼、持統、薩末比売は兄王であり、 文武は九州王朝風に言うなら兄王になることです。 以上の点において、元号白鳳、朱雀、朱鳥、大化、大長の意味が、にんとくさんと異なってしまったようです。
890 :
にんとく ◆4Cv.swzS.Y :2008/06/24(火) 21:38:23
橿原一派さん、応援さん、トリップについてさっそくお教えいただき ありがとうございました。何人かの方に読んでいただいたことが確認 できましたし、おかげ様でトリップの付け方もすぐ理解できました。 九州王朝大好きさん、この事態をどう思われるでしょう。 私は基本的に、古代史の闇のある部分が、拙論で全て解決できそうに 思うのですが。上山=梅原説は、記紀の制作主体=不比等の発見、 古田説は九州王朝説の提唱ですが、両巨匠の上にちょこんと腰を かけてみたら、両説を統合止揚できた、という感じです。 が、これで漸く(生きているうちに)正解に達した、しかし、なぜ この自分が、こんなところで、達成したしまったのだろう、と、 呆然としている状態です。 私は、人麻呂と古事記から古代文学に興味を持ち、それの理解の ために、記紀の関係など、次いで、やむなく邪馬台国にも関心を 持った、という来歴も持ち主です。7世紀の実際が知りたかった だけなのですが、記紀が隠していたのがこういうことだったとは。 いずれにせよ、これから7世紀以前の歴史の記述が変わるわけです から、どういう形でそれを進めるか。このまま、闇に埋もれる ことはないと思うのですが、いかがでしょう。
891 :
にんとく ◆4Cv.swzS.Y :2008/06/24(火) 22:06:09
これが大発見であることは確実です。その証拠1。
>>876 の一部を再掲
それでは、改元を一時凍結した白鳳、661年から683(OR4)年まで、を
傍証する記事はあるでしょうか。書記でなく風土記を見てください。
私の推測では、661播磨国司宝剣を献ず(風土記)、684宝剣を返す、
がこれに該当します。
←なぜ「播磨」の宝剣が、とお思いになるでしょう。これの答えは
万葉14番です。
香具山と耳成山とあひしとき立ちて見に来し印南国原
原文にあたってみることをお勧めします。
892 :
日本@名無史さん :2008/06/24(火) 23:39:53
非同意
893 :
にんとく ◆4Cv.swzS.Y :2008/06/25(水) 06:33:05
>>891 の続き
あまり先走らないで、少しずつ詰めていくことにしましょう。
「改元を一時凍結した白鳳、661年から684年まで」という考え方自体が
あるいは、突拍子もないとの印象を与えるものと思われます。
私は「661播磨国司宝剣を献ず、684宝剣を返す」がこれに該当するのでは
ないかと推理しましたが、これだけでは、たまたまそれが白鳳の初めと
終わりにあたっている、というにすぎません。従って、「伸び縮みする
蛇のような剣」を朝廷に奉った、というこの記事が、風土記に追加された
ものであることだけを、確認しておきましょう。また、中大兄の三山の歌
の解釈も省きます。(この歌の題詞は異例だそうです。)いずれにせよ、
播磨の地が相当に重要そうである、ということだけは確かですね。
そこで、年号の問題を詰めるにあたって、いわゆる九州年号に関して、
「白鳳」が当時の年号の中で異例に長期であること、しかもその間に、
白村江、近江遷都、壬申の乱、というような大事件が起きていること
について、皆さんがどう解釈しておられるのか、この場で語り合えること
を期待します。
894 :
にんとく ◆4Cv.swzS.Y :2008/06/25(水) 08:27:04
>>893 の補足。
古田の前期3部作で最も評価する『失われた九州王朝』の年号の章を
再読して、以下の点に気付きました。
朱鳥、大和、大長、まで記紀にない(大宝以前の)年号すべてを
九州年号であることを、古田は確信していたようです。
これが「九仞の功を一キにカいた」理由だと思われます。
本文中に、『冊府元亀』からの引用があります。(単行本414頁)
○670年、倭国王、使を遣わし、高麗を平らぐるを賀す。
これを資料として採用するなら、
670年、倭国が国号を日本と改め(『三国史記』)たその年、
唐からは倭国(の王)と呼ばれていたことになります。
天智は670年に倭国王でした。ですから、(日本)天皇の称号は
天武の創世になるものと推測できます。
895 :
にんとく ◆4Cv.swzS.Y :2008/06/25(水) 11:07:26
>>893 の続き 白鳳以降の年号
いわゆる九州年号「白鳳」に続く年号について考えます。
Wikipediaには、
△「大化の改新」は、695年に畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を
殺害し皇権を簒奪した下克上のクーデターであり
△壬申の乱の舞台は、九州であると考えられる。
という記述があり、九州王朝説がトンデモ説と化しているとの印象
があるのですが、これは年号の解釈を誤ったものだったのですね。
それでは、私が仮に提示した「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」
の解釈が成り立つかどうか、考えてみましょう。
朱雀:八色の姓、朱鳥:皇后臨朝称制、はよいですね。
大和695:舎人皇子授位、大長698:藤原の姓を不比等、はどうか。
文武即位の697年でなく、698年に改元するのは、常識では考えられ
ませんね。しかし、上山=梅原説にも同調できる人であれば、
文武と不比等の関係はご存じですね。となると、ここで、『日本紀』
の撰者が舎人親王であることが納得できるのです。
(大化、白雉の2年のズレ、については考えていません。)
このことから、九州年号は白雉以前も正しいことを示しますから、
逆に、古田がしているように(僧聴をあげていました)年号から
推して九州倭国を論じることができます。
>893 >「白鳳」が当時の年号の中で異例に長期であること、しかもその間に、 >白村江、近江遷都、壬申の乱、というような大事件が起きていること >について、皆さんがどう解釈しておられるのか、 大好きさんの説だったと記憶しますが、「白鳳」が異常に長期なのは、 半島戦の波乱がありすぎて改元の体制が整わなかったため、というのが 説得力ある見方だったと思います。半島での大戦争と敗戦、首長の捕虜化 というさなかに改元できるはずがありません。にんとくさんのおっしゃるような、 風土記の播磨国記事が大発見だという印象を持てないのですが、そこは どうでしょうか?
>>896 改元の体制が整わなかったため
←常識的には、国号を改めた670年に変えるはずだと思います。
ですから、これだけを理由に持ってくるのは、なにか足りないと感じます。
もし本当に倭国と近畿倭人国家が統一されたなら、その過程はどうだったか
というのが、今回の新見解の提示につながりました。
新国家の形態と国号の扱いについても智慧者がいて、改元の凍結を立案
したのだという仮説を立てます。それでうまく説明できるかどうか、ですが。
書紀の「目くらまし」をあえて記録するために、かろうじて風土記に挿入
したと見ます。実は初期万葉は判らないことだらけなのですが、この
判らなさは、記紀の判らなさに通じています。そこで、トンデモ説が跋扈
するのですが、私も半信半疑ながら、国家草創期に播磨の演じた役割を
考えることで、白鳳期の意味が解けそうに思います。
上の方に、次の書き込みがあります。 834 :日本@名無史さん:2008/06/22(日) 09:01:42 私の誓い 今日から真夜中の12時以降はネットはやらないことにします。 842 :日本@名無史さん:2008/06/23(月) 00:54:59 にんとくさんは>834を守ります。 これを解説できる方はおられますか?
>897 「白鳳を制定した同じ政権が、670年に国号を正規に日本と定めた」という仮説が 誤っている可能性を考えるのが自然で、例えば「日本」を雅号として使い始めた だけということもあり得ると思いますし、それ以前から日本という呼称を使っていた 可能性もあるのは、ご案内のとおりです。
901 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/25(水) 14:01:05
播磨の宝剣 播磨の宝剣の件が661年から684年のことであることには気がつきませんでした。 これは、播磨国が敗戦後も九州側に軸を置いていたものを、畿内天武側に寝返ったことを示していると思えます。 万葉14番の件は、僕にとってまだ想像しすぎになりますが、あくまで万葉時代の歌として解釈すれば、 香具山と耳成山は、天武派と奈良の九州派をなぞって歌ったと解釈できます。 彼らの歴史以前の奈良の伝説に7世紀を重ね合わせたとみるのは考えすぎですかね? 九州元号 日本古代では、元号を持つことができるのは、宗教上の最高指導者の場合だと思います。 政治の現場第一線にいる者のものではありません。 その者とは、兄王であり天皇です。 多利思北孤も弟王であり法皇であり法興元号をもっていましたが、これは一代限りの特別元号です。 多利思北孤が死んでも九州年号は変わりませんでしたから。 白鳳も薩耶麻の元号ではなく、九州兄王の持つ元号です。 白村江で敗戦しても、薩耶麻が捕虜にになっても、薩耶麻が帰国しても、元号の変更はありませんでした。 九州には白鳳(兄王)を支える弟王(達)がいたのです。又、天智も天武もその一人です。 九州は多数の弟王の集団指導体制だったのかもしれません。 其の中に肥君も筑紫君もいたようです。(宗形君も?) その混乱態勢が壊れたことを示すのが朱雀684年です。 以降、朱鳥、大化、大長と変化になる事件(出来事)があったのです。 なお、大長は薩末比売の元号ではなかったかと。 以上、穴だらけでまとまってはいませんが、要点だけ書きました。
902 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/25(水) 14:13:58
白鳳の時に何があったのか? 日本書紀等その他文献と考古学的資料から読み解いていかなければなりません。 白鳳の時に九州王朝が畿内へ移転したのではないか?と考えたり。 わからない。不明事項。
903 :
にんとく ◆4Cv.swzS.Y :2008/06/25(水) 15:13:03
年号について少しずつ詰めてゆくのが第一歩だと思いました。 「播磨の宝剣」については1,2年の誤差が出そうなので、今反省中ですが、 大筋では間違いないと踏んでいます。天智の紀年は、現行の書紀でなく、 万葉の左注を最優先します。(書紀万葉は抵抗の書だったのですね。) 九州王朝さんとの大きな相違は、白鳳以降以下ですので、これを論じれば よいという気がします。私の関心は記紀万葉でしたので、 「白鳳」について、白鳳元年は辛酉年の661年で、これを起点に、神武即位 の年が設定された、と解釈します。後に(1年ずらされ更に)、郡評論争の 「評」のように、爾後抹殺された、と捉えます(今思案中です)。 上記、大和:舎人、は勇み足臭いですが、この年から改名した日本を大和 と呼ぶ、という命令があったと見ます。王朝さんの「大長は薩末比売の元号」 とどっこいどっこいの空想ですが、近畿大和国家の創始にふさわしいのでは ないでしょうか。
670年ごろ、極東では奇妙な国際関係になっていたと思います。 半島では、唐軍が同盟国だったはずの新羅を攻めようとしたため、 高句麗遺民と新羅国の利害が一致して同盟し、670年から唐軍と 戦います(〜676年半島統一)。 このとき、高句麗遺民・新羅同盟軍から見て、敗戦倭・百済同盟軍が どう映っていたでしょうか?「お前たちも手を組んで唐と戦わないか?」 と呼びかけたかったのではないでしょうか? 白村江敗戦後、この時代はきな臭い動きが多数あります。 唐高宗の泰山での封禅式(666年)に新羅・百済・耽羅・倭の酋長が参加 郭務そうが九州倭国に来たのが669年 壬申の乱が672年 これらはもちろんすべて白鳳時代のできごとです。 「日本」国号が670年?新羅の半島統一が670年 またこのころ九州倭国と畿内倭国で どういう変化があったのか、672年の
905 :
↑ :2008/06/25(水) 15:28:09
最後の2行を誤って混入しました。抹消してください。
907 :
にんとく ◆FbwDK8jSqk :2008/06/25(水) 16:34:28
>>903 提起した年号の解釈の問題について。
私の発案に沿って、万葉左注で紀年の訂正を行いつつ、
「九州年号」と称されるもののうち、白鳳以降を、補正後の書紀の
紀年と対比させてください。(ここに書くのは簡単ですが、大事な
所なので、話に付いて行って下さる方はご自分で確かめて下さい。)
なぜ、白雉5から朱鳥1まで飛んでいるのか、が判ると同時に、
「播磨の宝剣」についての直観が当たっていたことを確認しました。
まずは、「播磨の宝剣」から始めましょうか。
とにかく、記紀万葉の不明分のところは、これですべて解けます。
上山=梅原による不比等発見(及び人麻呂刑死)と、古田の九州王朝
説を受けて、(結果的には)鎌足発見につながりました。
私は古事記成立論と比呂麻呂論が専門なので、研究対象をそちらに
シフトさせます。ご自分で確かめた方は、梅原説、古田説よりも
いっそう強い真実性を感じるでしょう。みなさん、ありがとう。
908 :
にんとく ◆FbwDK8jSqk :2008/06/25(水) 16:54:52
これからは、人に口頭でお話しになる際には、 「パズルを解いた人、にんとく」と呼んでください。 にんとく、は、「任篤」であると同時に「忍匿」、だったのです。
天武天皇は大嘗祭を主催したことはないですが、大嘗祭に出席した者に 褒美を与えたことがありますね。 持統天皇はこの世で初めて大嘗祭を主催した天皇です。 このことと、にんとくさんのいままでの話とを、どのように整合性をとったら よいのかわかりません。
トリップが違ってるが、偽物なのか
911 :
日本@名無史さん :2008/06/25(水) 18:39:22
とすれば・・・ 本物:にんとく ◆4Cv.swzS.Y 偽者:にんとく ◆FbwDK8jSqk
ああ、判りました。 にんとく ◆4Cv.swzS.Y にんとく ◆FbwDK8jSqk 2ちゃんねるのシステムの常識を悪用して、言論圧殺を図る手合いが いた、ということです。 内容から推測すると判るように、この2つのトリップは、 同一人物=現在のこの文章の書き手、つまり にんとく ◆4Cv.swzS.Y = にんとく ◆FbwDK8jSqk、なのです。 ですから、トリップを付けるように勧めた方は、善意からおっしゃ られたのでしょうが、結果的には言論妨害になりました。 (一旦、ウイルス感染したのですね。) 以下は、内容で判断するしかないと思います。 あるいは、二台のパソコンを駆使している、と理解して下さっても 結構です。 ネット社会は、オーウェルの「1984年」実現であることを理解 しました。
913 :
にんとく :2008/06/25(水) 19:44:25
>>904 (今回はトリップをつけません)
郭務そうが九州倭国に来たのが669年
←これは、紀の年の錯乱個所であって、
669.701、以外に、668,670.の可能性を視野に入れる
必要があります。670年が正しいような気がします。
>>912 よく分かりません。2台のパソコンであろうが、#以下が同じ文字列であれば、同じトリップが出るはずです。
私は貴兄の「大発見」に敬意を表し、それが他人に盗用されることのないよう、トリップを勧めました。
トリップの間違いトラブルを解決するのは簡単です。
にんとく ◆4Cv.swzS.Yの発言として、
「にんとく ◆4Cv.swzS.Y=にんとく ◆FbwDK8jSqk」である旨、宣言されればいい。
賢明な貴兄ならお気づきのように、その逆は成立しません。
915 :
日本@名無史さん :2008/06/25(水) 20:25:27
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
>>914 私は貴兄の「大発見」に敬意を表し
とおっしゃるその「敬意」の中身について、
万人向きに説明希望!(スルーかどうか注目)
にんとくさんの発言が読めなくなるのは残念ですけど、 解答はいただきました。あとは自分でまとめす。
>913 もしも、高句麗遺民・新羅連合軍の唐軍攻撃が始まったために、 郭務そうが九州に逃げるようにやってきたのなら、郭ら2千人は、 敗戦国九州政権に戦勝国として「凱旋」できる状態ではなく、 むしろ、「高句麗遺民・新羅連合軍と連合しないで欲しい」こと、 「劣勢の唐軍を助けてもらいたいこと」をお願いする立場に近く、 このころ、九州政権が日本と名乗った可能性も、近畿政権が 日本と名乗った可能性もありえるでしょう。 しかし日本書紀に「筑紫都督府」が出てくる以上、一時的にも、 安東都護府の配下で九州の地に筑紫都督となる列島代表者が いたはずで、日本の呼称開始やら、近畿への政権移行などを 矛盾なく考える必要があると思います。
にんとくさんは、極力他人に盗用してもらうよ う、トリップを付けない方がよかった。
にんとくさんを陥れようなんて人は、どこにも見当たりませんよ。 そうお感じでしたら、それは誤解です。 それにしても、ローガンさん、太国さん、のんびりひまじんさんたちは どこに行ってしまったんでしょう? 九州王朝大好きさんや橿原一派さんも、レスが控えめでお忙しそうですね。
921 :
日本@名無史さん :2008/06/26(木) 03:35:21
みなさん、アク禁中でしょうか?
不比等の時も大変だったんじゃないかな。 歴史の真相究明というのは困難。
923 :
日本@名無史さん :2008/06/27(金) 00:04:45
何が大発見なのかさっぱりわからないのですが、 消防にもわかるように説明をお願いします。
924 :
日本@名無史さん :2008/06/27(金) 04:44:46
コテハンどもに言いたい VIPでやれ
925 :
日本@名無史さん :2008/06/27(金) 20:45:12
VIPとは何ぞや? 古代史しか頭にないコテハンにもわかるように説明をお願いします。
926 :
日本@名無史さん :2008/06/27(金) 23:55:21
要するに、客観性がなかったということだな。
927 :
日本@名無史さん :2008/06/28(土) 00:23:52
手元に各種漢籍和籍と漢和辞典を置いて 首っ引きでレス読まないとわからないレベルだった。
ググれカスども
929 :
のんびりひまじん :2008/06/29(日) 12:52:05
>920 お呼びいただき恐縮です。歴史は上古代から、現代までダボハゼ好みします。 天智紀の年錯乱は、白鳳年号によっていて、すべての記事を一年前にすべきだと、斉藤忠著 秘められた日本古代史100の謎(P103) にあります。 670年(補正済み)の、近江令・庚午年籍は、九州王朝(=私・のんびり流表現は朝廷)の事跡で、 近畿王朝(私・のんびり流表現で幕府)は施行を記すのみで、制定経過に関与していない。(P120) ここに、(県から)評制度、日本国号への変更もあったというのを、近頃の九州王朝説者たちが論ずる。 どうやら、朝幕合体が実現し始めたらしい。 その合体王朝内で、九州王朝を抹殺することとなった。→701年大宝律令実施のときだ。 30年むかしの、初説のころに比べ、九州王朝説が進化した。 (その背後でのIT進歩もすばらしい。PC設定、まずくて、最近レスできてませんでした。)
930 :
のんびりひまじん :2008/06/29(日) 13:47:40
>929補足します。つまり、現代の 大日本帝国←明治憲法 日本国←昭和憲法 という関係のことです。 日本←近江令 だというのです。 令とは、天皇はじめ行政組織・徴税の政府規定です。 にんとくさんへ 近頃の古田一派の主要な論調に、 九州年号の異説整理 の進展とともに、 大宝以後にも九州年号が存続した というものがあります。 九州王朝皇子を擁した、残党たちの亡命政権を(まるで後南朝みたいに) 想定するものです。 九州年号は大宝制定とともに直ちに消滅したと思い込んでいるため判断が つかないことがありはしないか。さりとて、想像が酷過ぎないか配慮をめ ぐらせてつつの成果をご期待申し上げます。 なお、隼人族反乱鎮圧が残党(後九州朝)狩りの進展と見るのですが、 その鎮圧と、もしかして察知される後九州年号との相関は、播磨の宝剣と 同様かも知れません。
931 :
日本@名無史さん :2008/06/29(日) 15:44:28
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
良スレage
万世1系が崩れるから、歴史学会は認めてくれないんじゃないかな。 それに、宮内庁も延々と幾多の古墳の発掘許可しないでしょ。 文書の解析だけでは、あまりにも無理があるんで考古学的な発見が またれると思うな。
考古学界で、おまんま食っていくためには、 1:邪馬台国近畿説を墨守すること 2:天皇家一元史観を墨守すること 3:学閥の主義主張を墨守すること 餓死したいなら、 1:九州王朝説を研究すること 2:あらゆる一元史観を疑うこと 3:学閥に縛られないこと ・・・これであなたも四面楚歌かつ村八分間違いなし
935 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 01:50:27
それだから、社会に歪みがくるんやろな。悲しいかな。
>>934 おれはアマチュアだから・・^^。
小学校6年生の時に社会が得意だった、担任の先生に
『なぜ仁徳天皇稜は発掘されないんでしょ?』
って聞いた時、 うーん・・・・って悩んで。結局口篭もって・・・何言ってたかは
憶えてないが、その時、相当困った顔をしていた。
>>934 アホだろw
九州説側から畿内説で年代遡上の急先鋒とも言われている(w)白石太一郎は自著の中で
「記・紀の王統譜は信じられるか」なんて題を章に付けているんだがw
神武東征を鵜呑みにしている九州王朝論者が何を言ってんの?www
津田説での偽装は学会承認済み。
「翼賛体制の古代史学」は、敗戦後、飛びつくように「津田の洗礼」を受け、 「戦後の似非科学」として再出発。しかし中身は>934のまま、なんら 変わっていない。 二言目には「欠史八代」とわめき散らし、記紀神話を得意満面に 嘲笑してみせるだけの、皮相な似非科学になった。 チャンコロの書として漢籍を無視し、「同じ様式の土器が出たら、 全国どこでも同一年代」という爆笑ものの「土器編年」を死守して、 諸外国では通用しないデタラメ考古学をベースに、「先進地は畿内」 というドグマを断固として崩さない似非科学が、戦後古代史学だ。 石器を自作して発掘してみせるセンセーもいるし、素人の作家が 学者の研究を超えちゃったりと、似非科学の世界はなんでもアリだ。 よって、学問としてのスタンスは、相変わらず>934のとおりだ。
940 :
にんとく ◆4Cv.swzS.Y :2008/06/30(月) 14:42:19
>>930 のんびりひまじん様
事情があって、少し端末から離れていました。上述の仮説を思いついてから、
俄然意欲が湧いてきました。簡潔なレジュメを早期に提示できればと思います。
その際に、「九州年号は大宝制定とともに直ちに消滅したと思い込んでいるため
判断がつかないことがありはしないか。」「なお、隼人族反乱鎮圧が残党(後
九州朝)狩りの進展と見るのですが、その鎮圧と、もしかして察知される後九州
年号との相関は、播磨の宝剣と同様かも知れません。」との教唆を尊重させて
頂きます。(にんとく復帰宣言)
さて、
>>940 に関連して。
大日本帝国←明治憲法、日本国←昭和憲法、日本←近江令、である。
これは、非常にわかりやすい対応ですね。
あと、追加いたしますと、「大宝制定とともに直ちに消滅したと思い込んで
いる」とのご判断は、私が「壬申の乱」が九州を主戦場としたことはあり
えない」との直観を抱いていることと、連動しているように直観いたします。
>>891 に
「播磨」の宝剣が、新説の証拠。これの答えは、万葉14番。
香具山と耳成山とあひしとき立ちて見に来し印南国原、である。
何やら禅問答風の趣があって、近畿九州の合併の証拠がこれだ、と云うと、
とても学問ではないと憤りを覚える方がおいでかもしれません。
以下は、一種のおとぎ話風の寓話とお取りください。日本紀とは直接には
ほとんど無関係です。
私はごく最近2度の復活を果たし、これの整理を図らねばなりません。手帳に
書ききれないほど多くのことが起こって、整理がつかず、驚異的ではあります
が、物証も少ないので歴史記録にはなりえないものです。第三の復活第一、第二
のものと性質を異にし、これが物証を求めるとすると、私は2つほど、するべ
からざる行動をとってしまいました。今、心ではなく、素手の方々に傷が生じ
てしまったのですが、この傷を派生され肉体を衰弱させることになったある
事件の折に、最初に合図のあった場所で、左手の手の届く石の下に、今年の
手帳を埋めてしまうという愚行を演じてしまったのです。これは再入手は実質
的に不可能と考えます。私自身は、今年前半が全部、記憶喪失状態です。
二つ目は、確か東京の余り聞いたことのないホテルに行き、部屋のキーを持ち
続けたという愚行です。まあ、私は第一第二の奇跡は今までよんであらゆる
文学にもまして驚異的であり、忘れないうちにメモを取らねばならないのですが、
第三の愚行の後始末について、処理しがたい問題・大変さを感じています。
いずれもが最後には夢のように思えてしまうのでしょうか?
とにかく部屋の中が熱くて、久々にエアコンを作動させました。 以前は、邪馬台国の真相は天皇陵発掘まで判らない、と考えていましたが、 説論が正しければ、九州の王都を発掘すれば判ります。
邪馬台国の時代はもちろん、徳川時代の大奥にさえクーラーはなかった。 それを考えれば、真夏の大奥がどういう状況だったかは察しが付くであろう。
944 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/30(月) 22:04:03
>>942 ところが九州の王都を発掘できないのだよね。
ひとつは、大宰府政庁跡の下。
もうひとつは、30万都市の市街地の下。
>>944 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
>ひとつは、大宰府政庁跡の下。
>もうひとつは、30万都市の市街地の下。
九州王朝大好きさん〜昔のわたしをみてるようですw
それと早くスレ立てないと又、立てられマスょww
946 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 22:28:01
鬼界カルデラの火山灰の下まで掘れば、古代史を覆すほどの大発見があるかもしれないのに。 九州は、比較的災害も少ないし、市街地の大規模な再開発にも及び腰だから、 地下の遺跡は埋もれたままなんですよ。
947 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/30(月) 22:30:16
災害多いだろう。毎回台風が来て大雨が降る。火山爆発もあろう。 阿蘇と桜島。
948 :
四國酋長赴會高宗甚悦 ◆TO665k935I :2008/06/30(月) 23:23:32
発掘まえに、根本思想に錯誤のある土器編年をやめ、 抜本的に放射性炭素年代測定をしていただきたいものです。
949 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 02:36:49
>>945 改め ◆PWTcGEfp1s
>九州王朝大好きさん〜昔のわたしをみてるようですw
>それと早くスレ立てないと又、立てられマスょww
え?
このスレも 九州王朝大好きさん の私物スレなん?w
他の人がスレ立てたら 改めドツボ みたいに怒っちゃうの?www
950 :
四國酋長赴會高宗甚悦 ◆TO665k935I :2008/07/01(火) 03:45:57
いつだったか、九州王朝大好きさんが、新スレ立ててくださいと、 懸命に頼んでおられましたよ。 なんでもそのとき、大好きさんのプロバイダーからは、新スレを 立てる制限がかかっていたとか。
951 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/01(火) 13:40:59
プロバイダーを切り替えることにより、 いつでも新スレを立てられるようになりました。 プロバイダー全部に同時規制が入ったらお手上げですが。 マザーボードIDで規制があってもOKです。
952 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 13:47:34
>944 何処のことだ? ちなみに福岡平野は、当時ほとんど海の底。確か、水城の近くまで入り江が入り込んでいたはずだが。
953 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/01(火) 14:21:40
>>952 6世紀から7世紀のことです。
あなたの言うのは縄文前期から後期の一時期。
954 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 16:09:03
>>934 九州王朝説で一元史観というのはどうなるのでしょうか?
955 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/01(火) 16:34:41
>>952 書き忘れた。
>何処のことだ?
筑紫平野
>>951 それだ!\(^o^)/
これでID制になっても、安心して自作自演ができますね。
957 :
のんびりひまじん :2008/07/02(水) 00:01:48
>944 >945 古い本ですが、1989年いき一郎 新説・日中古代交流を探る には、 藤原宮の発掘は1934年に始められ、半世紀になるが、まだ、5・6%といい、 西の大宰府より遅れている。藤原京という広域となると、1・2%の程度・・・ とあります。(P191) 別の記憶ですが、平城宮跡の発掘ばかり重点とされているという考古学界事情を 覚えています。
958 :
日本@名無史さん :2008/07/02(水) 00:19:50
「十字路」は一日で読んだ。「壬申」の方を今読んでる、おもろい、はまる。
959 :
世界@名無史さん :2008/07/02(水) 00:57:48
>953 福岡の住吉神社の、有名な鎌倉時代の絵馬に、神社周辺が入り江になっている絵が描かれていた。 あれは、何時ごろのこと? 縄文時代のこと?
>>954 進研模試の偏差値でいうと2ちゃんねるのニュース速報がおよそ45、民放地上波の報道ステーションが約40、
ニュース速報+は35程度の読者を想定しています。
961 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/02(水) 11:22:02
>>959 >福岡平野は、当時ほとんど海の底。確か、水城の近くまで入り江が入り込んでいた
>福岡の住吉神社の、有名な鎌倉時代の絵馬に、神社周辺が入り江になっている絵が描かれていた。
水城:標高26m
住吉神社:標高3m
縄文温暖期の海水位:現代海水位+4〜8m
962 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/02(水) 19:32:20
963 :
四國酋長赴會高宗甚悦 ◆TO665k935I :2008/07/02(水) 23:18:05
とりあえず、新スレたて、お疲れ様でした。 にんとくさん、 のんびりひまじんさん、 九州王朝大好きさん ほか皆さんのレスを楽しみにしています。
名も無き、いち考古学おやじの俺のレスでは不満? どうせそうでしょうよ。
965 :
日本@名無史さん :2008/07/03(木) 01:58:50
「甘木の大王」と「明日香皇子(筑紫君薩夜麻?)」は、兄弟という可能性はないのだろうか?
966 :
日本@名無史さん :2008/07/04(金) 00:22:28
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
967 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/04(金) 09:56:50
>>965 >「甘木の大王」と「明日香皇子(筑紫君薩夜麻?)」は、兄弟という可能性はないのだろうか?
明日香皇子が筑紫君薩夜麻かもしれないと云うのはどこから出てきたのですか?
どの様な古文献のどの部分から導かれたものでしょうか?
僕は万葉集については勉強不足なんですが。
968 :
日本@名無史さん :2008/07/05(土) 05:56:30
>>967 明日香皇子=薩夜麻は柿本人麿作歌分析から導き出された古田武彦氏の仮説のようです。
969 :
日本@名無史さん :2008/07/05(土) 09:40:54
>>969 1990(平成2)年 (64歳)真実の東北王朝 以後、古田さんは、おかしくなってゆく。
ただし、
1992(平成4)年 (66歳)神武歌謡は生きかえった では、周囲の意見を取り入れている。
天孫降臨地=筑紫の日向≒神武出発地=福岡海岸・久米付近(←宮崎:古田氏自身も含めて、旧説)
ほぼ、このころまでは、周囲の意見を受容した。
賢人千慮一失
愚人千慮一得 とゆう。
われわれ(愚人)も、真実の歴史めざそう。
そのために意見の根拠を交換しよう。
老人性痴呆症は良くなったり悪くなったりしながら徐々に進行してゆくものです。 ある時は人格が変わったのかと思うようなことを言い出したと思えば、しばらくすると 普通に戻ったりします。そういう目で観察すれば、あの頃から・・と分かるものです。 早期発見、早期治療が大切ですね。
972 :
日本@名無史さん :2008/07/06(日) 00:17:01
『明日香皇子=薩夜麻』は、俺はええと思うで。
973 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/06(日) 00:32:06
『明日香皇子=薩夜麻』については、今は未だ判断できません。 もし『明日香皇子=薩夜麻』なら、楽しいのですけれど。 柿本人麿の歌から検討してみます。 『明日香皇子=薩夜麻』が間違いでないのなら、 『卑弥呼=甕依姫』の様に全く異なる観点から同じ結論に行き着けるでしょう。
イコール・ノットイコールいずれも決め手が無いですよね… 柿本人麿ぐらいの人なら何処かに決め手となるヒントを遺してくれているように思います。
975 :
四國酋長赴會高宗甚悦 ◆TO665k935I :2008/07/06(日) 02:18:34
古田氏は、学説になる前段階で(いわば思いつきの段階で)発表するので、 ずいぶん危ない橋を渡っていると思います。舞台裏を全然隠す気配がない。 でもそれは、彼の愛される点かもしれません。
976 :
日本@名無史さん :2008/07/07(月) 23:27:02
>968 明日香皇子=内田康夫製じゃなかったか
977 :
日本@名無史さん :2008/07/08(火) 00:07:04
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
ご提案します。
(みなが硬まるのは本意ではありませんがスレ上がり間近なので提出)
「○○王朝」とはマスコミが大衆受けをねらって古代政権を美化して使う用語
(だそうです:指摘したのは、いき一郎さん)。
九州王朝だけは違う とかいうことが、2ちゃんらしい表現して出てくると
面白いと思うのです。
>>964 民間の考古学者「原田大六氏が福岡県前原市平原遺跡を卑弥呼の墓だと
唱えたことがある。」というのはウソですよね?
(出典:たけみつ教授のトコトン面白い日本古代史 文庫版P116)
原田さんは「卑弥呼の墓」でヤマトトトイモモソ姫の箸墓を推したのですよね?
「王朝」という語は扱いが難しいので、少々悩みます。 王朝の定義をかっちりと行うか漠然と使うか、定義するならどう定義するか、 異説の人から受ける不必要な攻撃の問題をどうするかなど、皆さんの意見が 分かれることでしょう。 まず王朝と呼べる条件ですか、 私見では、中国に冊封されていないことや、政治体制が備わっていることの 反映として、連続元号を「王朝と呼べる必要条件」だと思っています。 ということは、「九州王朝」はざっと6世紀初頭から7世紀末に限定されます。 古田氏のいう九州王朝は、時代の限定においても、政治体制の定義においても、 もっと漠然とした呼称だと思います。 卑弥呼の時代や、漢委奴国王印の時代までも含めて九州王朝と呼んでいる人も おられるでしょう。
では、私たちが九州王朝という語を使わないとなかなか呼称できない「あるもの」とは何か? その属性は 1:中国側から一貫して古代日本列島の主たる国として見えていた国 (何時から始まったのかは確定せず、諸説に任せる) 2:旧唐書にでてくる日本国ではないほうの倭国 3:記紀の天孫降臨や神武東遷のゆかりを多少なりとも持つ国 4:白村江の戦いで倭と呼ばれている百済と連合した国 5:ある時代に装飾古墳を特徴とする国 6:隋の煬帝に「日出処天子致書日没処天子無恙」という国書を送った国 7:九州元号を制定したと思われる国 8:地方行政に「評」という単位を使っていた国 「王朝」の語は、「国名」の呼称というより、ある国の「国体」の呼称に聞こえます。 近畿説の人からすれば、九州の田舎国家に王朝とは何事か、という議論になります。 古田九州王朝説からすれば、単なる国ではなくて王朝なのだというアピールになります。 しかし、反対意見の人と口を利かないのが嬉しいのではなく、対話をしたいのですから、 これらを考えると、むしろ「九州王国」のほうが自然でしょうし、隋唐と対等外交 をしていた時代は「九州帝国」と呼称してもよいでしょう。もちろん、畿内王国や 畿内帝国が同時期にあってもいっこうに構わないわけです。 議論の際、小うるさい定義は面倒ですから、「九州王国」でもかまわないと思います。 倭・邪馬壱国・邪馬台国・イ妥国と呼ばれていた九州王国が優勢だったが、700年ごろに 畿内王国と合併して、後世の大和朝廷になっていく、そして「九州王国」はある時期 「王朝」だった、ということで私は違和感がありません。
981 :
日本@名無史さん :2008/07/09(水) 00:06:55
いや、ことの複雑さの要因は、九州王朝もしくはそれらの神代紀からの子孫である天皇家皇族を中心として歴史があり国家が形成されてきたことにある。
982 :
日本@名無史さん :2008/07/09(水) 13:00:32
>「九州王国」のほうが自然でしょうし、隋唐と対等外交をしていた時代は「九州帝国」と呼称してもよいでしょう。 そうか。皆さんは中途半端なものを考えているのですね。私は九州に倭国王朝があった、その倭国王朝は我が国の唯一の王朝だったと考えますがね。
しばしば「大和朝廷」という語を安易に使う人がいます。 白鳳時代の大和朝廷だとか、卑弥呼時代の九州王朝などは 存在しない(立派な王権はあったが)、というのが私の考えです。 私は文武時代ですら、畿内に朝廷があったとは考えていません。 同じように、連続した九州元号のない時代に、王朝と呼べる王権が 九州にあったとは思いません。 九州王朝の語が指すものは、ニニギから始まり、少なくとも7世紀末 まで存在する一連の政体でしょうから、その一部しか王朝ではない のです。一方、王朝は王国でもありますから、王朝を王国と呼んでも 差し支えありません。 ×ニニギの九州王朝 ×漢委奴國王の九州王朝 ×卑弥呼の九州王朝 ○阿毎多利思比孤の九州王朝 ○薩夜麻の九州王朝
984 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/09(水) 18:27:12
ウガヤ朝が抜けか〜?
みなさん、歴史を考えるのに4次元的な発想が欠如しているのではないでしょうか? 九州には、先土器時代の遺跡があることでもわかるように、縄文時代、弥生時代を通じて 一貫して人々が住み続けてきました。その間、ずっと1つの王朝が存続し続けたと考える ほうが不自然です。江戸幕府ですら、300年しか持たなかったわけだし、九州各地にも さまざまな王が誕生しは消えていったとするのが正しい。卑弥呼が支配していた地域に 卑弥呼の勢力が途絶えた後、時間を隔てて別の王が君臨し、過去の遺物は破壊されて しまったとも考えられます。 時間軸のずれを考慮したほうがいいのではないでしょうか?
楳
ume
988 :
日本@名無史さん :2008/07/12(土) 01:48:13
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
989 :
日本@名無史さん :2008/07/12(土) 04:57:48
王朝でしょうが、王朝。古事記日本書紀萬葉集の成立は、王朝と天皇の正統性と連続性を主張するための書物群なんですから。
990
995 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/12(土) 13:01:36
996 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/07/12(土) 13:04:36
年号存在の確実さは、やはり重要なことと皆さんが判断していると思います。 (次の言い伝えだけなら捏造された伝説と言い済ましておるのかも知れません。) 「昔、呉の流れをひく者たちが、わが国の西辺に逃げて来て、その子孫が強大になり、 錦のぬいとりのある絹織物を身につけ、城郭を築き、古くから漢字を用い、みずから 王を称し、国号をたて、中国と通じ、あるいは新羅と通婚し、もし、意に会わぬときは ふれ文をまわして侵略を行ない、暦をつくり、年ごとの歴史を記し、寺を建て、銭貨を 鋳造し、すべて中国のまねをして異ならなかった。」(暫らく引用元を明かさない。)
1001 :
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