1 :
日本@名無史さん:
南北朝時代、南朝に使えた武将、楠正成。
忠臣の鑑であり悪党と言う説もある、彼について考察してみましょう。
個人的には大好きな武将ですが皆様はどうですか?
あ、やっちゃったね…
ドンマイ
>>1 素人さんが勝手にスレ立てちゃうのは良くある事だから。
以後放置でヨロ >>ALL
#業務連絡:次スレよろ >>トピマス殿
>>1 マジレスすると、あの時代の「悪党」には、
「新興勢力」という程度の意味合いしかなかったんだよ。
まだ君にはこの板はちょっと早すぎるようだね。
悪党なら円心
と菊門を語ろう
6 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 21:44:10
正成の父の諱は諸説あって不明
7 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 00:12:16
今、南朝があれば一発逆転で味方について、日雇いから公務員になりたい
8 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 16:02:03
新田義貞に並ぶ名将
9 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 19:59:03
>>7 税金を食い物にするエリートどもをブチ殺せるなw
10 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 19:59:26
だけど公卿には成れなかった。
11 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 20:09:27
登場が早過ぎた。
個人的には日本史上最大のパラダイムシフトが起こったのは
室町中期(応仁の乱前後)だと思う。
それ以前と以後では全く別の国と思えるくらい身分間の縦の流動性が
起こった。
12 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 20:53:04
スレタイの意味がわからない。
Let's talk about 楠正成 なのか?
Let's talk with 楠正成 なのか?
13 :
1:2008/04/05(土) 21:22:35
14 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 21:49:41
楠木が忠臣なら
足利も忠臣だろ
15 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:11:47
赤坂城・千早城での戦術の天才楠正成が湊川ではまるで別人。
新田軍との連携が成功していたとしても迎え撃つ謂わば防御の布陣としては
おかしい。
水軍が無力であれば上陸部隊の奇襲を想定して宇治ぐらいの内陸に誘い込んで
お得意のゲリラ戦で長く伸びた兵站を絶つとか
大和方面の北畠軍に時間稼ぎをさせるとかあったと思うが
まるでミッドウェーで空母四隻を失ったような致命的な負け方だ。
16 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:37:37
楠正成は湊川では勝つつもりは無かったのだろう。
すでに南朝側の敗北は決定的なことを知り玉砕による
武士としての気概を示したうえで死んでいったと思われる。
17 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/05(土) 22:58:06
>>11 なんで個人的な見解なのそれが?
ないとうこなん先生以来ずっと言われきた「説」じゃない?
個人的でもなんでもないよ。
18 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 23:10:45
>>17 俺は史学は素人で専門は仏文学なもんで
全くの素人の独学なんだよ。
19 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 00:48:53
南朝建武政府の軍事的弱点は総司令官の不在であった。
新田・名和・北畠・千種・楠は軍管区長もしくは親衛隊長でしかない。
大搭宮を足利に売った時点で命運は尽きている。
悲劇は後醍醐天皇の権力への執着心の強さ(保身とも言えるが)が招いた
のである。
20 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 01:11:53
湊川の布陣は水軍戦力が拮抗していることが前提条件である。
後年語られている死を覚悟しての正行との別れ、玉砕して武人の誇りを
全うしたというのは信じ難い。
誤算があったのではないか?
可能性としては瀬戸内・熊野水軍の切り崩し裏切り。
足利軍は源平合戦を参考にしていたのだと思う。
21 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/06(日) 01:36:18
>>18 仏文学じゃ他人の研究業績を自分独自の見解としても許されるわけ?
違うでしょ。
おそらくネット上のデータか、書物の知見を私(わたくし)したんだろうけど、君だけじゃなく
既存の学説なんかを自説みたいにレスするチャネラーは少し多すぎると私は思う。
22 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 01:39:17
23 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 13:59:15
25 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 02:27:20
>>24 可能性はあるね。
それと兵員の性質と装備。
尊氏側は戦上手の斯波と高兄弟それに細川の水軍・強襲部隊の存在。
26 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 22:36:03
何で三木一草なんだろう?
菊池を加えて三木二草にすればよかったのに。
27 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 10:48:07
楠正成と足と戦術は正成、政治力と戦略は尊氏か。
28 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 18:17:57
29 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 20:38:27
楠正成は兵法を知っていたのか?
吉備真備と縁がありそうだが本当はどうだったのやら。
30 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 21:09:58
楠正成は忍者集団を使っていた。
31 :
求道心:2008/04/26(土) 21:24:48
>>30 魚屋八兵衛
楠木忍者衆であったといわれる狭山衆と繋がりをもったとされる江戸初期の天皇家御用達魚屋。
楠木郎党 奥十兵衛の子孫ともいわれる。
天皇家の火葬→土葬への変更に尽力した。
32 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 23:45:32
楠流軍学というのを聞いたことがあるけど
孫子なんかに比べてどうなのかな?
33 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 01:05:56
織田信長と豊臣秀吉は仲が悪かった
34 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 12:27:21
光市母子殺人事件
モーゼの十戒に殺す事なかれ、姦淫する事なかれ等がある。この殺す事なか
れは人だけではなく動物も含める。本村氏は肉食しているから間接的に殺して
いると同じで同罪である。神が悪人の存在を許しているのは、悪人を通して裁
いているのだ。人を騙したり、悪法(税法等)を作って暴利を得ている輩が多い。
生活出来ない弱者が犯罪に走るのは悪社会のせいであり、悪社会を野放しにし
て犯罪者を裁くのは間違いである。狂牛病は肉食の警告、エイズは姦淫の警告
である。人間が悪社会を制御出来ないのが世の終りの現象である。神の裁きは
目前である。
近未来図
日月神示、メーソン研究、歴史は繰り返されると言う事から近未来図を描く
と次の様になる。
1936年、独がベルリン五輪を開催→2008年、中国が北京五輪を開催
1937年、支那事変勃発→2009年、4月朝鮮戦争、6月中台戦争が勃発
金正日が朝鮮統一を掲げて動く。中国は中華思想を掲げて、台湾侵攻。中国
経済がバブル崩壊して、各地で大暴動が起きる。共産党が国民から搾取してい
るのを、米国等帝国主義国が搾取していると国民を洗脳して戦争に駆り立てる。
1938年、中国が日本軍阻止の為、黄河決壊事件を起こす→2010年、
中国の核ミサイルが日本の主要都市に落ちる。
1939年、ナチス、ポーランド侵攻→2011年、ロシアが日本を侵攻。
2012年、日本は世界中から総攻撃を受けて滅亡寸前に陥る。神一厘の秘策
が発動して富士山が大噴火を起こし、上陸した悪魔が滅びる。世界中が核戦争
で滅びていく。
神を信じない獣は、悪の共食いで滅びる。改心出来た子羊達は死んでも神に
よって救い上げられ、弥勒の世の住人となれる。獣たちは魂まで滅ぼされる者
は滅び、草木に替えられる。
こうして、喧嘩も殺し合いもない、お金も要らない平和の中で、人は神の恵
みに幸福に暮らすのである。
楠木正成が目立たないなんて寂しいね
と俺は思うけどな
一歩道を踏み外せば正成は浅間山荘やオウムの
立てこもり事件の犯罪者と同等になっていた
英雄と犯罪者は紙一重
義経のような英雄ばかりが注目されているのはおかしい
戦国武将の注目に値するやつなんてみんな義経の
コピーでしかない
この勢いで天皇がバックにいる戦争はみんな
プロパガンダの対象になるんだ
37 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 18:10:29
別に正成は明治から忠臣になった訳じゃないよ。
江戸時代からスーパースター。
徳川は新田の後裔を称してるから、南朝びいきは徳川にとっても好都合。
大楠公は神格化されていて英雄とはちょっと違う気がする
40 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 19:51:49
>>38 そうだったら良かったけど、「俺たちも大楠公みたいに幕府倒そうぜ!」に
なった。
41 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:21:25
大楠公を語るのだけは止めてくれ
武神の真実を検証するなど人間に許される行為では無い
42 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:44:08
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
2、正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて 父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん いましはここ迄来れども とくとく帰れ故郷へ
3、父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん 此正行は年こそは 未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅
4、此一刀は往し年 君の賜いし物なるぞ 此世の別れの形見にと いましにこれを贈りてん 行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん
43 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:56:19
同感だな。
楠正成は大忠臣で諸葛亮孔明など問題にならん程の天才作戦家であり一騎当千の活躍した後美しく散った。
我々はそれだけ知っていれば充分だと思う。
44 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 02:05:28
ウヨは日本史板出入り禁止
もう少し汚い人間であれば、後醍醐になんて殉じなくて済んだだろうに。
中下級武士の欠点だな。天皇にはかない夢を抱いている。
もう少し政治の駆け引きや、尊氏くらいの非情さがあれば‥‥
ゲリラ戦やらせたら、世界でも指折りだね。ゲバラと双璧。
「忠臣」「楠公」という言葉を使い、あの銅像を見て桜井の別れを聞いてしまうと
我々はつい武士言葉を使った江戸時代的な武士を思ってしまうけど、
たぶん本人はゲリラ戦とか食料調達とか荷物運びとかが楽しくてしょうがなくて
話すと面白い気さくなにいちゃんだったんだろうな
そりゃ河内弁バリバリでしょうよ
48 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:20:02
楠木正成の軍略の師匠は誰かいるのかな?
49 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:30:29
>>1 楠正成を忠臣(天皇に対して)とすることがカルト史観だよな!!
混乱を長引かせた馬鹿者だよ!
この時代の中心は足利尊氏と時代錯誤の後醍醐天皇だろう。
楠正成は後醍醐天皇の我侭に振り回された悲劇(喜劇?)の人だよ!
最後に正成は現実に気がついたから単純カルト信者ではないだろう。
50 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:34:18
51 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:38:38
>>41 この妄想カルト史観は現在でも靖国カルト神社に受け継がれているか?
52 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 12:33:26
軍略の天才楠正成。神の如くいわれるけど、でもやっぱり人間だよね。
高潔の見本の人と思えば良いでしょう。
53 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 20:27:33
高潔だったってソースは?
54 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 23:54:28
戦前、忠臣中の忠臣と言われていた楠正成だが
戦後の正しい歴史研究によって悪党中の悪党だと判明した。っと俺の教授は言ってた。
まあ専門は日本兵制史だけど。
55 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 22:36:37
>>55 正成が本当に作って、そのように名付けたという史料があるの?
その程度の根拠不明の言い伝えだと後世に捏造されたものという可能性も全く否定できない。
57 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 14:13:09
楠木正成が本当にそれを作ったのならスゴい。
仏教的な慈悲のこころが有ったのだろうか?
58 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 21:26:36
>>57 資料等も何も残っていないが、寄手塚は鎌倉末期に、そして、見方塚は
その25-50年後の作らしい。
少なくとも寄手塚は正成の意向が反映されて作成されたにほぼ間違い
ないらしいが、見方塚は正成が湊川で戦死して以降の作のようなので
子の正行などの意向で設置されたかもしれない。
しかし、敵方の塚を「寄せ手」と刻んで五輪を設置したこと自体
人間味のある出来事と感じてしまう。
だから、その鎌倉末に作られたと断言する根拠を教えてくれって
それから正成が命名したという根拠も
61 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 23:55:46
大楠公を讃えよう。
62 :
日本@名無史さん:2008/09/10(水) 17:11:06
楠正成を西郷隆盛が尊敬していたのだっけ?
63 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 01:08:50
『七生報国』の人だっけ?
64 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 05:44:49
>>62 西郷隆盛は菊地氏の後裔を称してるからな。
65 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 05:50:38
菊池の末裔が足軽奉公人風情まで落ちるのかよW出自捏造見え見えだな
菊池は菊池でも性犯罪起こしてドイツに逃げた方の
菊池というと、中島商工相辞任問題や国体明徴問題で暗躍した菊池武夫が有名。
68 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 09:52:43
それにしても、楠正成は謎の部分が多すぎるな。歴史家の怠慢か。あるいは並みの歴史家には楠正成のような人物をイメージすることは難しいのか。
幼名は多門丸といわれているが、多聞天といえば仏教の守護神の四天王の一人。イメージとしては楠正成に適当という感じがする。
たしかに究極の存在ではないかもしれないが、究極の存在の周辺にいて究極の存在に誠を尽くすというイメージがある。
正成は足利方にも人望があったし、並みの人物ではあるまい。
>正成は足利方にも人望があったし
ソースキボンヌ。他の南朝武将と比べたの?
>並みの人物ではあるまい。
確かに。のるかそるかの決戦の援軍で、少数の軍勢しか連れてこなかったんだからね。
正成は梅竹論で足利方からの視点でも同情的に描かれているから
敵からもそれなりに敬意を持たれていたのは事実だろう。
(新田義貞を悪く言う分持ち上げられた面はあるにしても)
湊川で少数の軍勢しか連れて来れなかったのは正成の限界とも言えるのでは?
新興武士層の出、悪く言えば成り上がりの正成には大きな家臣団があったわけでもないし。
討幕の時に正成を支持した畿内の人々も建武政府の政治に愛想を尽かしていく中では
彼の呼びかけに応じるものは少なかったろうし、むしろ後醍醐の覚え目出たい事は
逆効果にさえなっていたかもしれない。
なら、一目も置かれていないし、凄い武将でもないということね
現代で言うと成り上がり系人物。
ホリエモンみたいな感じ。
一時は、もてはやされて時代の寵児であったがブームが過ぎると・・・・
湊川の頃にはブームが過ぎ、メッキも剥げて、戦で人を招集したが集まらなかった。
人望も無くなっていたのだろう。
それが実態だと思う。
楠木礼賛が本格化したのは江戸時代以降
室町時代は悪知恵が働く逆賊
75 :
;:2008/09/27(土) 15:45:14
>>71 700余騎は河内の楠一党の留守部隊を除いた数くらいだろう。 和泉の和田党はほとんど参加してなかったのかな?
足利尊氏は正成の遺体を丁重に親族に送り届けているからな。
新田義貞なんて野ざらしだろ。
太平記読んだことあるか?
叩頭の内死に届けている
78 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 18:56:55
楠正成は、大河ドラマ等、時代劇の主役では、放送がないな。
やってくれないのかな(´・ω・`)。
79 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:23:36
信頼の置ける史料は5年ほどしかないからね
武田鉄矢の正成は良かった
湊川の戦いを前に熱弁を奮って献策するシーンは圧巻
あれは武田鉄矢だからこそだね
82 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:04:33
・あの武富士が悪質業者の紹介をしています。
・この武富士の手口こそ悪質業者の使う手口です。
・熊田曜子風の美女が体ごと押し貸しして来たらどうしますか・・・
090金融
「ブラック融資確実」「多重債務の方、即日融資可」など、派手な文言と「090」
で始まる携帯電話の番号しか記載せず、正体を明かさない新手の業者。
摘発が非常に難しい。
厳しい取立てで、顧客を追い込む。本当に悪質です。
あと、紹介屋や整理屋などの悪質業者がいますので本当に注意してください。
http://blog.zaq.ne.jp/abcdefghi/
83 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:50:23
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ〜また食いたくなってきた〜。
明日も食うけん!!
84 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:32:03
大楠公正行 と 小楠公正成
南北朝争乱
85 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:41:23
私は南北朝争乱を南北朝鮮の戦いと勘違いし
話が通じず戸惑ったことがあった(´・ω・`)
86 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:38:02
>>80 それ以前は楠木正成は英雄だからイケメン俳優が演じることが多かった
武田鉄也の登用はかなりの冒険だった
「太平記」のときの武田鉄也の登用は
従来の戦闘士としての楠木正成ではなく
あの時代に妻一人を守る家庭人のイメージでの登用だったらしい
87 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 20:54:17
まあ、所詮は河内のオッサンだからな>正成
88 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 01:09:08
>>86 武田鉄也氏以前に楠正成を演じたには誰?
映画、テレビドラマ、舞台?
どれで、楠正成が登場することが多いのかな?
あの時代をとりあげること自体少ないかと
90 :
日本@名無史さん:2008/11/03(月) 07:53:55
現在、北朝系の皇室だが楠正成は南朝に仕えた。
そこが楠正成をドラマ化しにくい最大の要因と推定。
南朝が正統であることは明治政府も認めています
天皇の代数も南朝が正統
93 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 18:14:46
北朝は、なぜだめなの?
94 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 18:47:26
征西大将軍懐良親王 カッケー!
95 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 21:04:51
楠木正成を武田鉄也が演じたことに右翼が抗議したことがあったらしい。
96 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:07:59
懐良親王も日本国王なんて名乗らなきゃなかなかのものだったが
自分が日本国王になっちゃったら吉野の天皇はどうなるんだよ
>>93 無謬の存在であらせれる
明治大帝が、北朝は逆賊に擁立された似非朝廷で簒奪者と認定したから。
98 :
関ヶ原:2008/11/14(金) 19:22:24
そもそも何故鎌倉末期に、朝廷が追討令を出せるほど発言力が増したかというと、
吉野などの畿内の寺社勢力と畿内周辺の豪族の結託によるものだと推測する。当時は
貴族や寺社の荘園と幕府の地頭という二重支配だったが、幕府の国内ネットワークや
納税管理が廃れてしまい、畿内周辺は物資の流通などを荘園を中心に行うようになった。
自然に貴族や寺社は力をつけるが、六波羅探題は依然健在で貴族の数名は(日野とか)
殺されている。 荘園側の豪族も、「悪党」と呼ばれて流通活動を牽制されることになったのだ!
鎌倉幕府は全盛期に滅びたというのが学界の定説だが。
朝廷は分裂し、皇位を巡る争いの仲裁を幕府に依頼する体たらく。
有力御家人は没落し、幕府は完全に北条氏の得宗家に牛耳られる。
各国の守護職も北条一族占められ、軍事警察権も掌握。
没落した御家人は争うように得宗被官である御内人になって甘い汁を吸おうとする。
北条一族以外は皆没落という風潮に保身をはかりながらも不満を鬱積させていた武士の心に火を点けたのが後醍醐。
だから武士は「鎌倉幕府を倒した」という意識はなく、「北条政権を倒した」という認識だった。
100 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 00:50:05
>>99 北条政権を倒したけど征夷大将軍はどうなっていたの?
倒した武士は征夷大将軍というものをどう、認識していたの?
鎌倉時代の将軍は木偶。
自立しようとした将軍、将軍を担ごうとした御家人は北条氏に粛清された。
もっとも、御家人にとって主君は将軍であるから、将軍に近侍することが憧れではあったが。
102 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 19:45:03
オー良う来たのワレ まあ上って行かんかい
ビールでも飲んで行かんかいワレ
久しぶりやんけワレ 何しとったんとワレ
早よ上らんけオンドレ 何さらしとんど
河内のオッサンの唄 河内のオッサンの唄
103 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 00:55:44
楠の一族は皆、南朝に味方をして死んでいった。
源氏3代のうち
2代頼家、3代実朝にも実権はまったくありませんでしたし
そもそも頼朝も御家人にかつがれた”神輿”に過ぎなかったとも考えられています
お飾りの将軍が、お飾りの存在で満足できず、自らが権力を持とうとすると
逆に危ないんです。
源氏将軍、室町将軍のなかで実権を持とうとした将軍の多くが
暗殺されたり、暗殺されたのではないかと推測されています。
あるいは、追い出されたり。
北条氏のなかで権力闘争が起きたのに乗じて
摂家将軍が実権を持とうと画策したことがきっかけです。
105 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 12:38:55
戦前は日本史上最大の偉人。
戦後は・・・
106 :
日本@名無史さん:2008/12/05(金) 06:46:19
戦後は楠正成を知らない人も多いね。
嫌いと言う人は、あまり聞かないけど。
107 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 16:11:27
楠正成の銅像があるのは靖国神社の中でしたっけ。
皇居前広場
109 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 11:01:09
神戸育ちだけど楠神社はこの人を祭っているの ?
神戸市中央区に楠町ってありますよ 図書館があるとこです
時代は名和長年
111 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 01:04:26
ただのゲリラ野郎だったの?
ゲバラと同じ
114 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 13:26:52
ゲリラ野郎と言う表現はよいかどうか分からないけど
ゲリラ戦は得意だったようです。
115 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 18:31:34
116 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 15:59:22
正成は男の中の男だと
思います。
ただの節操のないゴロツキならば
湊川に行くわけがない。
117 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 18:10:47
楠正成は、じつは足利尊氏とも仲が悪くなかった。
だから新田に全責任をおっかぶせて、適当なところで手打ちをしようとした形跡がある。
だが後醍醐天皇の頑迷固陋に阻まれて、勝ち目の無い戦に出る羽目になった。
子の正儀は、そうした正成の考えを受け継いで、後に南北朝和解に大きな役割を果たした。
ゴールデンバウム王朝に殉じたオフレッサー上級大将みたいなもんやね。
新田義貞は……シュターデン中将といったところか。
119 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 20:04:47
正嫡正行は四條畷に父の
如く散ったが
120 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:33:00
ゲリラだから彼の持ち味が出せた訳で、南朝の正規軍になった事で勝ち目の無い正規戦を戦う羽目になってしまった。
彼の運命は南朝の忠臣になった時点で尽きたね。
121 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 17:24:02
>>120 その通りやで。
戦争の素人の公家どもが、戦争のプロの武士たちに指図する時点でアウトなんや。
122 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:49:35
楠木正成は明治〜戦後までちやほやされてたから好きじゃない。足利の方が好き。逆賊??かんけーねぇ〜!尊氏最高☆
123 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 01:07:47
さすがにタイガーの主役は無料かな
因みに去年地元までいってきたよ
大阪に近いのに田舎なのはびっくりした
大阪で数少ないタダで車止められるところなのはいい「道の駅だけど」
sage
125 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 02:24:01
日本の歴史の中で楠一族だけが一族全員が忠のために命を捧げたそうです。
真田一族にしても豊臣方と徳川方に分かれていたし。
正儀は一時、北朝に寝返ったが。
127 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 00:06:30
太平記ブームは20年くらい前だよね?
当時は、原文の太平記が角川文庫で買えたし、山崎正和の
現代語訳が河出?の文庫本で読む事ができた。
今ではどちらも絶版のようだけれど、太平記を絶版にしてはいけないよね。
復活させるべき。
128 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 04:03:02
尊氏は神輿に担ぎやすかったんだろうな
129 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 08:48:20
>>121 この時代の公家はたくましい軍人が多いぞ
130 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:08:55
131 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:11:51
敗れても何度も立ち上がった
正成公の不屈の精神を
見習いたい。
132 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:35:50
オマイら、湊川神社もいいが大阪の「建水分神社」にも参拝しろよな!!
133 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:54:32
懐良親王>>>絶対に越えられない壁>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>北畠親房>>>>>>>新田義貞>>>>>>>楠木正成
135 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 22:16:26
湊川公園にも彼の銅像あるよ
>>135 「彼」とは何だ!この国賊め!
「大楠公」と書け!
今CSで太平記やってるんだけど、武田の楠木意外な人選でいいんだけど
土豪とは言えもう少しサムライ臭くてもいいと思うんだが
138 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 23:46:56
>>136 俺の高校時代のクラスの女子「なあなあ、前から思ってたんやけど、このお馬に乗っとう人誰なん?」
>>138 そんなアマ、延髄蹴り喰らわせ、這い蹲ったその空っぽの頭を踏みつけて
「オラ、この低脳アマ、頭が高い。このお方こそあの大楠公様なるぞ、ホラホラ、土下座して這いつくばれ。」
と温かい言葉をかけてやることだ。
140 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 12:36:50
「建水分神社」のことは誰も語らないのか?
141 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 15:17:06
昭和30年ころだったか、テレビで大楠公という番組があった。ネットで検索しても映像は見つからない。誰か持ってないかな?
142 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 16:03:11
141です。昭和35〜36年頃でした。
143 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:01:13
神戸じゃ湊川神社を楠公さんって言うよ。
144 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 14:19:06
それぐらい知ってるよ
145 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 21:39:03
日本史上、最強の武将は足利尊氏ですね。人望がハンパじゃないけど、戦略眼
もえぐいね。謙信が信玄が戦に負けたことがないとかよくいうけど、所詮田舎大名。
勝ちっぷりもすごいけど、負けっぷりも見事で天下をとった足利殿はすごい。
大塔宮を正成、義貞、顕家などライバルをみんな殺し、最後は、台頭して
きた身内の師直と直義を争わせて、殺させちゃうからな。
正成の首を返還するような、律儀なところが器の大きさかな。
146 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 13:49:49
まあスケールで言えば戦国期より南北朝のがデカいからな。
太平記は誇張入ってるがそれでも数万規模で合戦やってたのは事実らしい
147 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 12:40:53
尊氏は偉大でもその後の将軍は義満以降はダメジャン!!
148 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 23:08:26
正成は赤坂、千早での少人数でのろう城線は見事だけどスケールが小さいな。
尊氏の戦のいくさぶりをみてると、一時の勝敗なんてなんの意味もないって
のがよくわかる。九州に落ち延びた後、西国の武士団をまとめて京都反抗
なんて見事だよ。負けた時の潔さなど、戦ぶりは信長とすごい似てるんだよ。
太平記はスケールが大きい
尊氏や直義、義貞、顕家が日本を縦横無尽に行きかって大合戦をしている
鎌倉幕府崩壊以後の混乱期だったから
御家人たちも誰についていけば良いのか迷っただろうね
150 :
日本@名無史さん:2009/04/04(土) 19:23:59
北方の「武王の門」読んだけど面白いな。
151 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 17:25:55
南北朝がテーマ?
152 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 18:14:10
>>151 うん、南北朝時代の九州が舞台だよ。
主役は西征大将軍の懐良親王と臣下の菊池武光で主従関係を超えた熱い友情を見せてくれる
ライバルは今川了俊だったかな。
153 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 18:16:27
あと、「破軍の星」も面白いよ。
陸奥守で鎮守府大将軍の北畠顕家が主人公。
最後の壮絶な討ち死には泣けた
154 :
日本@名無史さん:2009/04/05(日) 18:30:42
主人公は正成がよかったなあ。
155 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 12:07:52
しかし、戦前は愛国教育の原因もあったが大英雄だったのに・・・
戦後のこのマイナーさは異常だな・・・
156 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 22:51:42
新田と示し合わせて、六破羅と鎌倉を同時に攻めるなんてすごいぜ。
ていっても、鎌倉に御曹司を残し、関東の足利の旗頭としたおかげで
軍勢があつまったんだけどな。戦後の新田へくさびになるし。
このおかげで新田は鎌倉を捨て、帝の臣として京で生きなければならなくなる。
六破羅ぜめで畿内の北条が瓦解し、千早の正成は九死に一生を得るわけだ。
157 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 02:06:53
>>145 そうだね。
応仁の乱(正確には結城合戦)以降、日本の合戦は局地戦化した。
南北朝期の軍事行動は奥州から畿内までとか箱根から博多そして摂津とか
日本列島を激走爆走している。
158 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 03:30:03
明治期の教育の忠臣注入は問題はあるだろうが
その死以降室町江戸時代を通じて立派な英雄的武将という評価は確立していた
戦後戦前の教育の反動かその事跡が余り知られていないのが残念
159 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 10:47:36
『忠臣』とか言う概念が入ってきちゃうと、なんかある種のイデオロギーも一緒についてくる感じで取り上げづらいんだろうなぁ。
正成だって、忠・不忠の概念じゃなくて、基本的には実利を求めて行動してたんだと思うんだけど。
160 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 18:56:38
国人・地侍層の台頭の先駆けだね。
百年後に先ず関東(関東公方と関東管領の争いで統治機能が空洞化した)で現実のものとなった。
楠木正成は官位的には中級貴族待遇として建武政権に取り込まれて彼本来の経済・軍事基盤から
浮き上がってしまったことは悲劇だったと言える。
161 :
國學院大學卒:2009/04/12(日) 18:22:34
はっきり言って
今の正成評価の主流である「ただの悪党」論では
なぜ何度も後醍醐天皇に
味方したのか、
なぜ必ず負けるとわかっていた戦に赴いたのか
まったく説明できない。
>>161 おまえいつの時代の人間だ?
今どきそんなこと言ってるのは馬鹿で不勉強な右翼売文屋だけだよ。www
多分湊川でも、負けるとは思ってなかったんじゃないの。
164 :
國學院大學卒:2009/04/12(日) 21:05:13
ふざけるな。桜井の別れは
嘘かよ。
ああ、アレは有名な太平記の創作与太話だよ
166 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 07:38:39
つーか主君の為だの忠義だのって元々は江戸時代に朱子学が盛んになってからの話
167 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 16:32:25
夢をぶち壊すとはまさにこの事だな
現実とはそういうものだ。
夢を見たければ、大河ドラマの絶対善人上杉景勝と聖人直江兼続の美しい作り話や、徳川光圀の心温まるお花畑ほら話でも見て涙を流していればいい。
169 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 21:52:08
>>163 >>20 が既に軍事面で説明してるよ。
>>15 が言うように用兵的に楠木正成も含めて南朝方は破綻している。
楠木正成を大楠公・忠義の皇臣と祭り上げようが嘘臭くて虚しいだけだ。
後世から見れば湊川には死にに行ったとしか思えないからこそ
桜井の別れというものが創作されたんだろうね
171 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:54:40
>>170 後世から見ればだね。
当の本人達は死の直前まで誤算に苛まれていたことだろう。
明治の世に軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐は湊川における両軍の布陣図をみて、即座に南朝方の勝利を断言したという。
173 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 01:41:19
>>172 そうだね。陸上部隊の布陣ではね。
実際には細川指揮下の瀬戸内水軍の活躍が既に勝敗を決していた。
湊川の布陣は水軍の拮抗を前提条件としたものであり、情報伝達の硬直化若しくは
南朝方に味方するはずの水軍の不意の裏切り、切り崩しを意味しているものと言える。
174 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 04:16:33
だ が こ の 通 説 に は 疑 問 が 残 る
175 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 11:46:58
銅像はガンダムみたいでかっこいいね(^-^)/
176 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 12:30:05
湊川公園にある像はカッコいいよ
楠公の像はカッコいいよね
皇居外苑のも湊川公園のもどっちも良い出来
崇拝の対象として、無から捏造したものだからかっこいいのは当然
179 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:47:59
誰か詳しい人
教えて
家のおかんの家系図に
楠正成の妹 まさこという人が嫁いできたと記してある
正成には 姉もいて 妹まさこと共に朝廷に仕える舞姫だったとか
ちなみに おかんの旧姓は和田
ほんまかいな
時流だろ?
全国の御家人の不満に火がついたから、強大な鎌倉幕府が倒れた
楠木正成の千早赤阪籠城があれほどもったのも、地域の不満を糾合したからだろう
しかし足利がたったときはその不満は南朝側に向けられてた
だから一敗地にまみれてもすぐに不満を糾合し巨大な戦力が持てた
地域密着型で、時流に乗って戦った正成が気付かないわけがないよ
まぁ、どんな人物でどんな戦略眼があったかわからないが
やはり、天皇への温厚に報いるために戦ったんだろう
尊氏が強かったのは常に時流に乗っており、源氏の嫡流という期待感を武家にもたれていたからだろ?
181 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 19:15:49
というより正成得意のゲリラ戦法って
地元民の協力があって初めてできるもんだからね。
千早赤坂ではかねてから親交があった住民の協力が得られたが
全くのアウェイだった湊川はね・・・
>>181 圧倒的な兵力差だし、平地で騎馬戦の得意な関東武者にかなうわけないわな
地の利、人心もなしじゃ勝てるわけがない
素人の俺でもわかるわ
183 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 20:04:15
179です 追加です
姉の名前は解りませんが世阿弥に嫁いだとあります
>>183 マジレスすると、まず99.9999999999%は後世の創作。
いつの頃創作されたのかで多少価値が上がる。
明治以降ならケツ拭いて捨てろ。
江戸後期以降なら鼻かんで捨てろ。
186 :
國學院大學卒:2009/04/17(金) 21:31:29
愚かな。人の美しい行いを
全て創作と断じるとは。
人の霊性、精神を否定し、人類をおとしめる行いだ。
人に美しき霊性、精神なければ
小勢で大勢に当たる必要なぞ
そもそもないだろう。
187 :
國學院大學卒:2009/04/17(金) 21:41:25
人の霊性、精神を否定するならば、
美しい物語や歌はいかにして
生まれきたるのか?!
単に戦前憎しや己のイデオロギーだけで
過去の歴史や言い伝えを
否定するのは傲慢としか
言いようがない。
でも、俺も昔はいさぎよし!清々し!と思ったが
歳くって、生きあがく人間の方が好きになったかな・・・
玉砕の美と言うのは好かなくなったな
189 :
國學院大學卒:2009/04/17(金) 22:13:45
生きあがくもよし、玉砕もよし。
しかし、いずれにしろ私欲のためだけになすのなら
どちらにしろ後世の嘲りを受けることになるだけであろう。
いや、それよりそんな生き様を晒して何になるであろうか?
190 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 22:45:16
別にそういう心構えをムリヤリ楠正成に付託する必要なんてないじゃん。
後世に都合よく創作された物語なんて抜きにしたって、正成は興味惹かれる武将なんだから
191 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 22:51:31
正成を美化しすぎ
本当に立派な人は戦争なんかしない。
ガンジーとかナイチンゲールとかマザーテレサの方がよっぽど人格的に優れている。
だが、非暴力では何も成し遂げられない
ガンジーも英政府にいいようにされただけ
193 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:39:05
それを言えば正成だってただの敗軍の将じゃん。
オレは別に正成を貶したいワケじゃない。
ただ武将を聖人君子扱いするなって言いたいだけ。
倫理や道徳の規範になる人物は他を探した方が良い。
194 :
國學院大學卒:2009/04/17(金) 23:55:58
馬鹿者。鎌倉時代末〜南北朝の
現実に世が乱れている
世界に生まれたならば
戦う方が正しい。
今の法や制度が調った世に
生まれならば、
いたずらに世を乱すのは
間違い。
195 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:02:57
アホか…
お前らみたいな連中が勝手に神格化しただけじゃん。
太平記だって誉めてるけど死後は修羅道に落ちて怨霊になっている。
まだ太平記の作者のバランス感覚の方が健全
敵に屈するを潔よしとせず自決するのは武人としては天晴れだろうが、別に正成だけじゃない。
お前らが正成をわけわからん人物にしたんだよ。
196 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:04:47
人の書き込みに自分の
被害妄想を足して読むな。
>>193 正成擁護したいわけじゃないけど勝って目的を遂げた戦いだってあるだろ。
ただの敗軍の将って言い方が許されるなら世の名将はほとんどそうだろ。
198 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:23:34
ガンジーに対する反論だよ。
ガンジーだって別に政治的に全く目的を達成出来なかったわけじゃない。
ガンジーが単なる政治的失敗者だとしたら正成も単なる敗軍の将
199 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:26:42
病院からの書き込みは
やめなさい。
正成の話題に何の前触れも
なくガンジーを登場させるなぞ
正常ではない。
200 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:33:11
ちゃんとレス読めアホ
国学院なんたらが霊性とかわけわからん事を言うからだよ。
武将を聖人にするなって言う話をしてるだけだ。
お前が病院に行け
ただの河内のおっさん。
たまたま時の人になっただけで現代でいうとホリエモン。
飽きられるのも早く、人は離れていった。
湊川の頃には以前のような周囲の協力もなく、
正確な情報収集が出来ないようになっていたんだろう。
すべてを察していたとか討ち死に覚悟の出陣とかは、
後世の創作だろう。
本人は勝つ気 満々で出陣してたと思うよ。
202 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:54:22
話題転換。湊川って当時は今と川の流れが違うんだよね。
今の経路になったのは明治時代に神戸の街作りの為に
川の流れを強引にねじ曲げたから。だから今でも洪水で湊川が氾濫すると
荒田や新開地の辺りが水浸しになっちゃう
>>201 息子を帰してるぞ
まぁ河内のオッサンが時流に乗って時の人になったのはわかるが
千早赤坂の篭城とか、けっこうの覚悟がないとできなかっただろうし
湊川の合戦前には人心が帝方から離れてしまっているのは感じてただろう
南北朝動乱の際、関東武士は有利な方にゴロゴロ寝返りまくりだった時代だ
近畿の田舎武士は初心だったんだろう
楠木、新田、名和
後醍醐天皇の親衛隊は全員裏切らず死んでいったからなぁ〜
赤松はムカついて去ったけどね
篤く遇された人は死ぬまで戦ったな
まぁ後醍醐帝を離れると力なくすからだろうけどな
たぶん、バカではなかっただろう
ただ忠義心だけでもなかっただろう
自分を引き立ててくれた人を見捨てるなんて
武家としてのメンツや名誉が許さなかったというのが大きいんじゃないか?
楠木、名和なんて特にただの土豪だったんだから
後醍醐帝を見捨てたら、立場がなかっただろう
新田はもぉ足利の下にはつきたくなかっただろうし
205 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 17:15:44
赤松も弱小土豪に過ぎなかったし、しかも元々護良親王シンパだったのにも拘わらず、
足利側について活躍したお陰で地位を築いたわけだから、
もし正成が南朝を見限ってたら、楠木氏は室町幕府で赤松氏レベルの遇され方をしたのかねぇ。
まぁ赤松も嘉吉の乱以降尻すぼみになっちゃったけどさ。
もし室町幕府内で、楠木氏が河内を握ってたら、相当な有力守護大名になってんじゃないかと妄想は膨らむw
正成も護良親王シンパ。
正成が反乱鎮圧のために京を出ている時に護良親王は失脚。
正成もそれと共に失脚している。
207 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:19:05
>>203 その息子を返したというのも疑問。
いつのまにやら後世に有名な「桜井の別れ」が
ねつ造されたのではないか?
古典文学『太平記』に登場する代表的なエピソードのひとつでもあるが
史実であるかどうかは別。
正行の当時の年齢は既に青年というべき20歳前後だったいう見解もあり、
桜井の別れそのものを疑問視する向きもある。
>208
少なくとも連れて行かなかったのは事実なんじゃないかな。
息子たちが討ち死にしたのはかなり後のことなんだから。
210 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 00:29:42
まあ最初から特攻作戦をやるつもりじゃなかっただろうけど万が一の事も考えただろう。
息子を連れていける簡単な戦ではないのは正成もわかりきってはいただろう。
>>128 戦は上手いは、気前はいいは、情け深いは、権力への執着はいまひとつだは、
最高の神輿だよな。
ただ大河ドラマの太平記で一番魅力的なのは柄本の師直だよな
いや尊氏ほど残忍で無道な人間は他にはいないぞ
まぁ悪役に書くとスゲー悪役だわな
鎌倉幕府を裏切り義兄を死なせ
後醍醐政権を裏切り
南北朝の原因をつくり
弟を殺し
息子と戦い
まぁスゲーわな
足利がこうだったから楠木が余計に良く見えるんだろうな
新田は最後がしまらないし・・・
北畠は公家だからなぁ・・・面白いけど
主君を二度までも裏切った上で根絶やしにする念の入れよう
敵を根絶やしにするのは当たり前だし
まぁ尊氏には尊氏の言い分はあっただろうけどな
北条氏 ←恨み連なる敵
後醍醐天皇 ←失望した&不平武家が収まらない
216 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 09:49:21
むしろ逆。尊氏は上に立つ人間としてはお人好し過ぎたぐらい。
217 :
;:2009/04/19(日) 10:04:35
>>201 勝つきなら 桜井で正行に半分も手勢をつけて返させなかった。和泉の和田氏にも出兵を押し留めたという説もある。
218 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 10:11:13
>>205 そうだろう。が、建武の新政に余りにも深く関わってしまったために後醍醐天皇から
離れられなくなってしまった。
これは忠義云々の話ではない。
それと赤松円心は、基本的に楠木とは「商売敵」。同じ側には互いにいられないのではないか?
逆に言えば、赤松が足利側につくという選択が出来たのも、また九州へ落ちて行く状況の際にも
その選択肢を変えなかった(これは、一見先見の明があるように見える)のは、楠木と同じ側に
いても自分の為にならないという計算があったからだろう。
朝廷内の信任は赤松と楠木では比べものにならない。それに天皇親政はうまくいっていない。
だったらどうなろうが足利についた方がいいというのが、ビジネスとしての赤松の選択だった。
>>217 あのー その桜井での出来事自体が史実ではないという説もあるのですが????
>219
少なくとも正行達を参戦させていないということが重要なんで、「桜井の別れ」の描写が
史実のままかどうかというのは、本質ではないでしょう。
>>220 だったら、「桜井で息子を帰らせている」という表現は間違いだな。
「理由は不明だが息子を湊川に出陣させなかったのは事実」と書くべき。
人を損得勘定だけでしか
計れね馬鹿者には
楠公の心はその片鱗すら
解すことできぬであらう。
223 :
國學院大學卒:2009/04/19(日) 21:07:38
正成公が正行公に残された
教養高き庭訓という歴史的資料が太平記に
残されている。
他にこれを否定できる資料もない。
224 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 21:16:21
「太平記」にしか書いてないから眉唾なんだよ(笑)
誰が聞いて書き残したのかもわからない話なんてアテになるか
225 :
國學院大學卒:2009/04/19(日) 21:18:55
歴史に対して謙虚であれ。
己の小さな主観によって
先人を否定するような
傲慢をすることなかれ。
226 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 21:27:41
國学院関係者らしい詭弁だね。
國学園院のパターンはいつもそう
本居宣長の「やまとごごろ」を盾にして、歴史に対する実証を「漢才」として否定して自分たちに都合の良い話を歴史扱いする。
國学院にかかれば神話も歴史になる。
単なる原理主義
キリスト教ファンダメンタルズなんかと変わらない。
國學院なんて自分の名前を書ければ誰でも入れる4流だからなwww
就職先はウヨク団体www
独裁者北条一族を倒した楠木は英雄
229 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 21:43:51
後醍醐の方がよっぽど独裁者だ。
230 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:45:15
>>227 アルファベットすらマトモにわからない元暴走族のDQNニートが
たった3ヶ月勉強しただけで入れる大学だしなw
231 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:45:59
232 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:56:10
渋谷の一等地にそびえ立つ
文系名門國學院大學を
馬鹿にできるとは、
一体どこの大学の方かな?
自分は出先の軍を裏切った上背後から襲いながら幼い息子を最前線に投入する尊氏は鬼畜
234 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:58:51
単なる神主専門学校やん
235 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:10:46
正成が北条氏から領地まで貰って裏切った事については?
>>232 文系名門www
日本語もマトモに読み書きできない香具師の集団が?wwww
237 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:33:38
根抵当設定されてんじゃねーの?
238 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 23:35:05
1360年4月大塔若宮興良が、かねてから2代足利将軍の内通の末に南朝反乱の南朝
皇統と明治天皇裏面史をふく線に置いて〜正平一統も赤松宮称し若宮の父の仇打ちから
楠儀も寝返る。多くの楠系は南朝の征夷大将軍の大塔や若宮が率いる熊野水軍に参加する
東海の海運の南朝の要の四日市の諏訪氏に楠の娘が嫁ぎ 楠町の楠城ある=伊賀の服部
能のゼアミ系
俺が工房のときのせんせ(早稲田卒)がいうには、国学院って早稲田を落ちた人間
が行く大学なんだってさ。
神主学校としても、皇學館の方が格上でしょ。太平記に例えると
尊氏・・・皇學館
義貞・・・国学院
文系大学には全く詳しくないので、異論は認める
240 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:10:05
>>239 おいおい早稲田だけど国学院受けてねえよ。
普通にマーチのどっかだろ
243 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:13:46
國學院は神主養成所というより神主の職安であり失業対策事業として非常勤も含め
教員採用をしている慈善共済団体w
244 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:15:20
しかし正成と世阿弥が近い親類ってのは本当かなぁ
嶋野家文書が唯一の記録だからね。
世阿弥のパトロンだった二条良基あたりが日記に書きそうな気がするが…
245 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:17:27
卒業したら→無職だろ?
漏れが学生の時、國學院出身の若い講師の先生がいた。
彼が学生の時、東大の先生が講師で来ていたけど、「君たちに言っても解らないだろうけど」が口癖で態度も露骨に馬鹿にした様子だったそうだ。
悔しかった彼は一念発起して勉強し、東大の院に編入したそうだ。
247 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:33:10
國學院は確かに歴史学は優れた学者を輩出してるんだよ。
高柳光寿や桑田忠親や…或いは作家の海音寺潮五郎など…
みんな実証を重んじた大家だ。
その海音寺も「桜井の別れ」は創作である事は認めている。(武将列伝)
この「國學院大卒」とかいうヤツはそういう立派な先輩を汚してるんだな。
だいたい自分の出身校をわざわざ自慢気にコテハンにするのが頭悪い
本当に國學院を出てるかどうかも妖しいね。
剥き出しのコンプレックスに付き合うなよ。
249 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 13:53:24
>>230 元代ゼミ講師の吉野(?)とかいう人のこと?
250 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 16:10:57
神職はいい給料らしい、結婚式のバイト入るし、名のある社のトップは月
100万。知り合いが寄付1億円募集したが6000万しか集まらいてー
考えていただきたい。
正成に忠義の心がなければ、
「六十余州の兵を集めても
武蔵、相模の両国には勝てない」(正成談)
と言われた
百万以上の坂東武者を擁する
鎌倉幕府になどて
立ち向かう必要があるだろうか。
252 :
國學院大學卒:2009/04/21(火) 21:11:12
建武中興の論功の際、正成公は
自分の手柄の前に
「一番の手柄は戦死した菊地武時です。」
と言われたと謂う。
己の利益のためで動く
ものにできることでは
ないと思います。
253 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 21:45:15
正成がイタリアのガルバリディみたいに建武新政の後に全ての褒賞を辞退して野に下ったら本当の賢者だっただろうな。
254 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 00:25:10
スターリンのような尊氏が暗殺者を送ってくるよ
255 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 07:17:55
下野は中立でなく、敵対行為と看做される
256 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 13:35:20
正成が摂津 兵庫 福厳寺に後醍醐天皇を迎えに行ったのは捏造だった?本当は薬仙寺にて帝をお迎えしていた!
257 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 09:25:37
>>208 正行が20前後の青年だったら有力な武将としてなおさら連れて行くだろうに
258 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 10:34:13
後醍醐天皇は真言宗立川流の変体セックスがお好き!
>>257 必ずしもそうとは限らんよ。
事実は「何らかの理由があって息子とは別行動を取った」というだけであり、
桜井の別れがあったかどうかは解らない。
桜井の別れは、後世創られた物語の太平記に書いてるだけであり100%史実とは言えない。
>>208>>259 後世って言ってもほぼ同時代でしょ太平記は。
義経記なんかとはわけが違う。
関係者が大勢生きている時代に書かれているんだから
あからさまな捏造はなかなか載せられないよ。
ところで正行が湊川のときにすでに二十歳前後だったというのは
どの史料にある話なの?
>関係者が大勢生きている時代に書かれているんだから あからさまな捏造はなかなか載せられないよ。
願望で語るな。関係者が生きていたって話に尾ひれがつくことは掃いて捨てるほどある。現在と違って、関係者が弁明する機会などないから、一度尾ひれがつくと止めどなくなる。
時代は下るが、荒木又衛門だってたちまち尾ひれがついて一人で数十人斬ったとされた。
太平記は史書ではなくてあくまでも物語。潤色、誇張が多いことも昔から知られている。
>正行が湊川のときにすでに二十歳前後だったというのはどの史料にある話なの?
年齢がわかる史料は存在しない。ただし、湊川合戦の時に、正行が左衛門少尉であったので成年に達してただろうといわれるんだよ。
太平記は軍記物語として書かれてる。
今で言うと、歴史小説みたいなもんだ。
史実を書いたものではない。
当時は新聞もTVもない。
何が真実かなんて当時の人にはわからない。
当時生きてた人すべてが同じ情報を持ってた訳ではない。
現代とは違うんだよ。
人の噂とかで伝播してゆく中で史実かどうかよりも
大衆受けするかどうかで話が変質してゆくのが当たり前。
太平記も物語として面白可笑しくなるように作られている。
そこにあるエピソードも創られたものも多くある。
軍記物が創作であるという事実を忘れていないか?
軍記物に書かれた事が全て誤りだと主張する奴もアレだが、
日記とか古文書とかの他の記録との照合なくして無批判に軍記物の内容を
信じることは少なくても現在の歴史学じゃ歓迎されていない
265 :
國學院大學卒:2009/04/26(日) 10:46:15
軍記物は歴史的事実に基づいた作品で
完全な創作ではありません。
とくに太平記については
その歴史資料的価値は
広く知られているものです。
個々のエピソードについては
太平記の史料価値の高さからすると
詳細な検討は別にして
当時語られていたエピソードと見てほぼ間違いないと
思われます。
266 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:51:04
楠木正成に関する記述は創作が多い
京都での武家方との戦いでも、泣き男を使って尊氏を油断させた話は明らかに創作
そもそも日本には従軍史家が存在しない。
伝聞だけで、軍記は書けないから創作は当たり前
267 :
國學院大學卒:2009/04/26(日) 12:12:31
無から創作はできない
んなぁこたぁない。
269 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 12:49:59
ある程度の事実が元になっているにしても創作という手が加えられた時点で史実ではない。
270 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:05:05
やっぱりカタリの國學院大卒さんは一味違うねぇ
前にも書いたが史実考証を徹底するのは國學院歴史学の美風
太平記を鵜呑みにしろなんて偉大な先輩諸氏は何と思うだろうね。
271 :
國學院大學卒:2009/04/26(日) 17:33:20
272 :
國學院大學卒:2009/04/26(日) 17:42:20
正成公が語った
「正成一人いまだ生きてありと
聞こしめし候はば、聖運はつひに開くべしと
思し召し候へ」
は日本史上最大の頼もしき言葉だろう。
273
274 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 17:48:26
偉そうに仰るからには、だいたい何歳で成人か
ご存知ですよね。いくつですか?
それから、かりに父親が早く死んで成人に達してないのに
たとえば従者に意志を伝達しなくてはならないとき、
成人とどんな違いがあるか、ご存知ですか?
275 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 17:50:09
>>272 正成公というのは学問的には変な呼称なのですが、
どこがどうへんか説明してみ。
276 :
國學院大學卒:2009/04/26(日) 17:55:34
馬鹿者。
細かい所で揚げ足を
とろうとするな。
まずは成人を現代感覚で
捉えた己の不明こそを恥よ。
277 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:01:40
結局分からないんだね。揚げ足ではなく、大事なことなのだが。
あのさ、國學院大學卒さん。あなた本当に國學院でてるの?
それから、日本史のこのあたり勉強しているの?そうすると
あなたが誰の授業に出ていたか、特定できちゃうよ。
あなたがあんまり変なこというと、その先生の恥になるよ。
まあ、それがあなたの芸風だと言うことで
みんなはほほえましく見てるのだとすれば
それで良いのだろうけどね
278 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:03:49
あのさ、國學院大學卒さん。あなた本当に國學院でてるの?
それから、日本史のこのあたり勉強しているの?そうすると
あなたが誰の授業に出ていたか、特定できちゃうよ。
あなたがあんまり変なこというと、その先生の恥になるよ。
まあ、それがあなたの芸風だと言うことで
みんなはほほえましく見てるのだとすれば
それで良いのだろうけどね
279 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:04:52
すまん、私のPCがボケで重複したようだ。
PCのボケは私のボケ。
お詫びする。
まあ、まともな思考回路の持ち主なら「七生報国」のエピソードにしろ、その場に居合わせたものは全員死んでいるのに誰が伝えたのだとという素朴な疑問が湧いてくるものだ。
また、新田義貞と絡んでくる勾当内侍も太平記の創作というのは有名な話で、自分たちに心地よいところだけ無批判に信仰するのは馬鹿なカルト信者と同じ。
281 :
國學院大學卒:2009/04/26(日) 18:27:09
違うな。
付け加えられのなら、
付け加えられた理由がある。
そのエピソードを付け加えた理由を知り、
その精神を知ることこそ
歴史を学ぶ意義。
カルトだとか断じて切り捨てるなぞは
現代人の傲慢も甚だしい。
282 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:31:55
11歳の元服も早すぎるから年齢がもう少し上だったって説もあるんだよ。
國學院は本当にバカ
まず、これらの諸説は楠木正成の伝記では必ず触れられる内容なんだよ。
國學院よ
今まで誰が書いた正成伝を読んだのかね?
283 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 18:40:12
國學院
最初の話と全く違うぞ
都合が悪くなると揚げ足か
284 :
國學院大學卒:2009/04/26(日) 18:51:45
誰が書いた正成か?
強いて言えば
小嶋法師。
285 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 19:08:43
呆れて物が言えん
要するにまともな研究者には目を通した事はないんだね。
>>281 >付け加えられのなら、 付け加えられた理由がある。
>そのエピソードを付け加えた理由を知り、 その精神を知ることこそ 歴史を学ぶ意義。
馬鹿なカルト信者がよくいう詭弁だなwwww
せいぜい和田某が「東日流外三郡誌」を捏造した意義でも研究することだなwwww
>>261 > 関係者が生きていたって話に尾ひれがつくことは掃いて捨てるほどある。現在と違って、関係者が弁明する機会などないから、一度尾ひれがつくと止めどなくなる。
そりゃそうだ。でもだからといって全否定するのは違うだろう。
それと、下に従軍記者がいないからとかいう人がいたけれど
当時はどちらの軍にも時宗の僧侶が従軍しているよ。
> 時代は下るが、荒木又衛門だってたちまち尾ひれがついて一人で数十人斬ったとされた。
それは明確に否定出来る材料が別にあるだろ?
でも桜井の別れは否定する材料自体が乏しいわけで‥‥
美談は全部創作にしたい、というのもあんたの願望じゃないの?
> 太平記は史書ではなくてあくまでも物語。潤色、誇張が多いことも昔から知られている。
全部信じろなどとは俺は言ってないつもりだが‥‥
ちなみにおれは國學院卒じゃないよ。
> 年齢がわかる史料は存在しない。ただし、湊川合戦の時に、正行が左衛門少尉であったので成年に達してただろうといわれるんだよ。
1336年時点で正行が左衛門少尉だったというのは確実な史料にあるの?
それに國學院のいう「当時の成年は二十歳ではない」というのは
その通りだろうし。
288 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 10:04:50
お〜い
187
誰も太平記は全て虚構とは書いていないぞ。
ただ資料として扱うには慎重を要するから鵜呑みにするなって事だ。
それだとただの応酬論法
それから時宗の僧侶は従軍記者じゃないんだよ。
太平記の作者は時宗の僧侶かね?
太平記の成立過程が曖昧過ぎるんだよ。
じゃあ湊川の戦いを目撃した時宗の僧侶はいるのかね?
その僧侶の名前は?
その人物が太平記の作者にきちんと取材を受けた記録があるのかね?
オレが言ってるのはそういう事なんだよ。
それから太平記で湊川の戦いに参加した楠木軍の軍勢の実際の総数も分からないのに正成と正行の親子の会話だけはやけに詳しく書いているんだよ。
この当たりが小説なんだよ。
289 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 12:32:22
名を残し 忠を残し 日の本に 輪寺の桜 千代に八千に。 続増鏡より 大塔若宮興良〜
290 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 12:36:22
軍記物の記述は、史料の裏付けが取れない部分については慎重に扱うのが史学の常道
291 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 15:16:16
後醍醐ー母は日野の護良親王ー母北畠の親王宣下の征夷大将軍の大塔若宮興良親王ー1男帝釈 2男僧籍の大釈3男伊勢神宮伊雑宮渡来系譜秦長官の度会神主の秦道三郎。
292 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 15:31:03
護良の吉野落ちに同行の十津川の娘が、後の俗に後南朝武田信広の娘の王子が住む熊野光福寺の奥地の、十津川屋敷で生まれ皇統は護良の期待外し王女で、 帝釈小仏持ち伊雑宮の法楽舎に出家
293 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 15:50:15
後鳥羽 順徳以来の怨みを順徳四辻宮親王系譜の足利義満は果たす。 男山の姉妹生母同じくする後円融帝と公武合体し 大塔若宮は一貫し二代足利将軍と内通し、1360年4月南朝にクーデターお越し皆殺しにするが 後村上帝は楠公の観心寺行宮にいて難逃れる。
>>288 >お〜い 187
だから俺は187じゃないってば。
國學院氏のいかにも戦前臭いコメントとは一線を画している
つもりなんだがなぁ。
> ただ資料として扱うには慎重を要するから鵜呑みにするなって事だ。
そんな基本的なことを言ってるんじゃなくてさ‥‥
どうも日本語が通じない人だね。
> それから時宗の僧侶は従軍記者じゃないんだよ。
> 太平記の作者は時宗の僧侶かね?
従軍した僧侶から戦争の模様を聞き出す、
或いは僧侶が誰かに語ったものを取り上げていくくらいのことは
やっている、という頭は無いの?
それも「たかが伝聞」でデタラメ扱いするのなら、
現代の戦争だって従軍記者が取材出来る範囲なんて限られるんだから
限りなくデタラメというしかなくなるよ。
太平記は全くの臆測や想像だけで書いたわけじゃなくて
当時の様々な史料と照合して誤りを訂正していく過程まで
それなりに明らかになっている。
太平記の成立過程についての研究論文でも一度読んでみてよ。
>>288 > 太平記の成立過程が曖昧過ぎるんだよ。
> じゃあ湊川の戦いを目撃した時宗の僧侶はいるのかね?
> その僧侶の名前は?
それこそ近現代じゃないんだから、
いちいちそんなものが記録されるわけないだろ。
そりゃ記録されていれば一番良かっただろうけどさ。
これは誰それの談による、とか、見聞による、とか。
でも当時はそういう風習が無かったんだから
しょうがないとしか言い様が無いよw
> オレが言ってるのはそういう事なんだよ。
どういうことなんだよw
歴史を叙述した書物は軍記ものに限らず「物語」という形式を
とるのが普通だった時代だぞ。
それを100%確実な古文書で裏がとれないものは全部虚構、
と決め付ける態度は単なる否定史学でしかないだろ。
俺は何も桜井の別れが100%史実だった、と言っているわけではない。
そうかといって虚構だったとまでは言いきれない、と言っているだけだ。
だからそれを明確に虚構だとする確実な史料
(たとえば正行の実年齢や当時の官位に関するものは
その根拠の1つにはなりうる)ので教えてくれ、と書いたわけ。
わかったら教えてよ。
>>288 > それから太平記で湊川の戦いに参加した楠木軍の軍勢の実際の総数も分からないのに正成と正行の親子の会話だけはやけに詳しく書いているんだよ。
> この当たりが小説なんだよ。
兵数が曖昧で会話が詳しいからデタラメだ、というのは如何なものか?
これは当時は兵数云々よりも戦に際しての親子の心情の方に人々の関心があったと見るべきでしょ。
太平記には親子が戦場に臨んでの会話が他にも山のように出て来るし
楠木親子の会話だけが突出して詳しいわけじゃない。
ついでにいえば湊川合戦自体も
分量からいえば鎌倉陥落とか四条畷の合戦よりも少ないよ。
はっきりいって楠木親子のシーンが太平記のハイライトに
祭り上げられるのははるか後になって水戸学や頼山陽、太平記読み
などの影響であって、太平記自体にそこまでの意図は無いでしょ。
297 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 19:39:14
だから「親子の心情」に関心があるから物語を創るんだよ。
だから今で言う歴史小説なんだよ。
創作が基本なの。
司馬遼太郎の小説に書いてあることはすべて史実なのか?
という事だ。
國學院は太平記に児島高徳、勾当内侍みたいな架空の人物が出てくることを無視するのかね
後醍醐が南に枝を張った木の下で居眠りした話などの荒唐無稽な絵空事も史実だと信じているのかね
300 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:17:44
楠木正成が湊川出陣の時に子の正行を河内に戻らせたのが事実だとしても桜井の別れはやはりフィクションなんだよ。
なぜなら國學院が言うとおり、書いた人間の意識を投影された話なのだ。
あれは親子の愛情の話ではないんだよ。
正成は正行に、「君に忠義を尽くし足利には絶対に従うな。」と命じるのだ。
そして、12年後に正行は四条畷で戦死するのだ。
正行のその後の運命を暗示すると共に悲劇性を濃くする為の創作だと考えた方が自然だろう。
桜井の別れは有ったとも言えないが、無いとも言えないというのは「悪魔の論理」に近いね
301 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 22:53:52
それから296は全く議論の内容を理解していない。
なぜ國學院が批判されているかと言えば、彼は太平記の記述だけで正成の人物像を想定して、それを啓蒙的に語っているからだよ。
それは戦前の皇國史観と全く変わらないからだ。
ナンセンスだと思わないかね?
日本語が分かってないのは君の方だよ。
302 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 23:09:00
それから、「近現代じゃないんだから」と言うが、夢想疏石は同時代の足利尊氏に会って人物評を書いている。
花園天皇は後醍醐天皇とも会って、花園院寝記に後醍醐の人物像を書いている。
正成は会った人が記録を残した形跡はないんだよ。
まして桜井の別れにあんたが言う時宗の坊主が立ち会った事も立証出来ないのに、桜井の別れが事実と認定出来るかよ
太平記は信長公記とは違うんだよ。
小島法師自体が今川了俊の難太平記に名前が出てくるだけで、どこの何者かもわからないんだよ。
抹殺史観結構
疑わしきは事実ではないのが史学だ。
桜井の別れが事実なら裏付けを出す方が筋である。
太平記によれば「桜井の別れ」の時、正行はもうすでに正行となっており、元服後と見られる。
また、後醍醐が義貞を見捨てて尊氏に投稿した後、吉野に脱出した時「楠帯刀正行」が後醍醐を出迎えたとなっている。太平記では以降正行のことを、「帯刀正行」、「帯刀左衛門正行」のどちらかで記している。
さらに巻第二十五「藤井寺合戦事」では「光陰過安ければ、年積て正行已に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌に当りしかば、」とある。
しかし、巻第二十六「正行参吉野事」では「父正成(中略)遂に摂州湊河にして討死仕候了。其時正行十三歳に罷成候しを、合戦の場へは伴はで河内へ帰し死残候はんずる一族を扶持し、朝敵を亡し君を御代に即進せよと申置て死て候」とあり、太平記の中でも年齢記述はバラバラ。
千坂赤坂村の建水分神社に正行の自筆と見られる扁額が残っているが、
『延元貮年丁丑四月廿七日被奉授御位記 同五年庚辰卯月八日題額草創之 左衛門少尉橘正行』
と記されている。これが正行初出の史料といわれている。延元2年は1337年、延元5年は1340年。
以上から、
*倒幕時にはまだ正行は元服前だった。
*1336年、湊川合戦以前に元服か
*1337年、後醍醐吉野脱出時には帯刀左衛門少尉に任ぜられた
おそらく帯刀左衛門少尉に任ぜられたのは、正成の死後、後醍醐が比叡山に籠もっていた時に、宮方結集のために各地の武士に乱発したであろう恩賞の一つであろう。
やはり正行は湊川合戦時には元服をすませた13〜18くらいの年齢が妥当だろう。いくらなんでも常識的に元服前の子供を軍に加える事は考えにくい。「桜井の別れ」に類似する事象があったとすると、正行は元服後の従軍で途中で返したのであろう。
「太平記は潤色として正行の年齢を詐称した」
桜井の別れはあったかもしれないがあったと断定するにはあまりにも根拠が薄弱
が結論。
304 :
足利尊氏:2009/04/28(火) 01:07:05
楠正成ってVシネマのヤクザ俳優さん?
305 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 01:09:08
河内十人斬り事件の主犯だったっけ?
菊水の家紋は後醍醐帝から賜ったもんなんだろ?
それだけで楠木正成の人柄がわかろうもん
307 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 14:35:41
秀吉も足利義満も天皇から桐紋を貰ってるが?
地位が上の人から物を貰うだけで人柄が分かるのかね?
>>307 権力を極めた人と、パッと出の土豪ではえらい違いだわな?
あと、菊水は遠慮して菊の御紋の半分だけもらったんだよ
309 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 15:34:18
足利尊氏も名乗りの一部を貰ってるぞ。
後醍醐はそういう事をよくするんだよ。
それから菊紋が後醍醐から賜ったというのもハッキリしないんだよ。
菊水は中国の伝説にちなんだという説もある。
菊=天皇という考え方はこの時代そこまで浸透してない。
310 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 15:50:48
ちなみに聞くが楠木正成が後醍醐から菊水を賜ったというのはどの文献に書いてあるのかね?
あと、知りたいんだが、菊の御紋をあれだけ公的につかってるヤツいるかね?
313 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 16:14:18
菊は公家も武家もかなりの家が使ってる。
規制されたのは明治になってから
>>313 そんなもんか
兄貴に聞いたときはえらく良い話だと思ったもんじゃ
315 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 16:37:49
まあオレもなんだかんだで、正成は好きだね。
だから色々と読んだよ。
やっぱりあの怒涛の五年間の活躍は見事だと思う。
だからこそ、國學院みたいなヤツらに利用されたくないね。
正成が立派な武将だったのは歴史が証明している。
尾鰭をつけてまでエラくする必要はない。
菊の御紋は特別というほどではなく
山の民とか漂泊民系の人たちも使っている。
317 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 07:51:02
菊以外で皇室の御紋の候補はあったのかな。
318 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 11:18:30
後鳥羽上皇が刀を打たせたとき、菊のマークを入れさせた。
それが皇室と菊印のつながりの始まり、と聞いたが。
>>300-305 色々とお疲れさん。
> 桜井の別れはあったかもしれないがあったと断定するにはあまりにも根拠が薄弱
だから最初から俺はその意見なんだって。
太平記に記述されているような「桜井の別れ」が
史実としてあったかどうかは「わからない」。
これが結論だと俺は思ってるよ。
でもそれを「太平記の捏造」とか「史実でない」と「断定」まで
してしまう人(きみもそうだろう?300でもそう言ってるし)
がいるのはいかがなもんか、といいたいだけだよ。
これが断定でなく臆測ならいっこうにかまわん。
>>302 > それから、「近現代じゃないんだから」と言うが、
たぶん自分では気付いていないだろうけど
あんたは相当現代の感覚で当時の歴史を見ていると思う。
>夢想疏石は同時代の足利尊氏に会って人物評を書いている。
夢窓疎石自身の書いた尊氏評が存在するのか?
俺は不勉強でその史料を知らないので、ぜひ教えてくれ。
一応「梅松論」にあるやつなら知ってるが
いうまでもなくあれは太平記と同レベルの「伝聞」情報でしかなく
花園院宸記と同列にはできない。
> まして桜井の別れにあんたが言う時宗の坊主が立ち会った事も立証出来ないのに、桜井の別れが事実と認定出来るかよ
こういう態度がいかにも現代人の感覚なんだっての。
> 抹殺史観結構
> 疑わしきは事実ではないのが史学だ。
太平記が一次史料はおろか二次史料ですらないことは
いうまでもない。
しかし、だからといってあんたのような太平記に対する過小評価には
物凄く違和感がある。
もし太平記が無かったら南北朝時代に対して抱く我々の様々な印象とか
知識はもの凄く散漫で、明確な形をとることすら困難だったはずだ。
残されている史料が豊富な近現代史ならまだしも
そうでない時代を扱う人間が「抹殺史観」を信奉するのは傲慢に過ぎる。
前にも書いたけれど、太平記の成立についての論文とか、
太平記と陣僧の関係についての論文を一度読んでみるべき。
なお國學院が不愉快だから、とか皇国史観がイヤだから、とか
そんなあんた個人の感情を俺との対話に持ち出されても困るので。
そこんとこよろしく。
國學院、あんたの言ってる事はね、「上杉謙信を男と断定できる史料がないから女だった」、「明治天皇と大室寅之助が入れ替わったことを否定できる史料がないから明治天皇は大室寅之助だ」と言ってるのと同じだよ。
そんなに「桜井の別れ」が実在したと主張するなら、何でもいいからその傍証となるようなもの出せよ。
明治以降、児島高徳、勾当内侍、桜井の別れは太平記の創作だという説が有力なんだよ。
それを否定するんだから、それなりの説得力のある史料を出さないと。
「あったかもしれない」なんてものは大河ドラマでは通用するが、学問では全く無意味。
学術論文でも、軍記物にしか記述がないようなことは、「『太平記』によると・・・・であったという」などと「参考程度だよ」ということを強調して記述するもの。
>>321 桜井の別れは創作だとされる根拠を並べただけで
>しかし、だからといってあんたのような太平記に対する過小評価には
>物凄く違和感がある。
ってのはどうなのよ?
國學院は太平記は不磨の大典であって
資料批判は一切を認めないなんて教えてるのか?
324 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 03:36:36
楠公の血をひくものはこのスレに居るだろうか?
自分がそうだというおかたはレスしてくだされ
325 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 06:54:54
319から321が何を言いたいのかさっぱり分からない。
オレは再三言ってるはずだ。
極めて創作の可能性が高いエピソードで歴史上の人物を啓蒙的に語るのが問題だと言ってるのだよ。
いつ太平記を過小評価してる?
素晴らしい文学作品であり時代の匂いを感じる良書だと思う。
現代人の感覚の意味が分からない。
作品の成立過程が不明な点が多いから扱いには慎重になる必要があると認識しているだけだ。
時宗の僧侶が関与してる事が太平記の虚実の問題とどう関係あるのかね?
太平記の描く誇張や怪異も時宗の僧侶が関与してたら事実なのかね?
私は桜井の別れはフィクションだと思うよ。
だけど信じたい連中がいたら信じれば良い。
しかし、それは一種の宗教だよ。
そこから正成の人物論が語られるのは明らかに間違いだ。
オレは分からない事を無理に想像だけで語るなと言っているだけだ。
それが現代人の感覚なら別に構わないよ。
私は中世の人間ではないから、中世の感覚は分からない。
だから太平記を慎重に扱いたい
それだけの話だ。
楠公の血をひくものは、基本的に女系子孫である甲斐荘氏のみだろう。
それ以外の自称子孫は、残念ながら捏造。
327 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 09:58:39
326のsageよ!もっと歴史勉強しとけよ。足 金 時間 人間関係使って。頭もなあ!伊勢アナウンサー楠○伊勢志摩の南姓 みんな木を取った南になった。男爵楠田など 伊賀の服部、お勉強ね。
328 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 10:13:45
セイジ、南朝皇統や大室のスレなら 浮き世ばなれ過ぎて関係者も表出ない裏だが。 南朝の楠あたりだと子孫に現役右翼多いから ほどほどがいいでえー神戸本部の神社だろ!
読みにくい事この上ない
>>327 こいつ 後南朝スレで暴れてるニセ子孫だよ(笑)
日本語もまともに書けない奴が子孫のわけないだろ。
本人は親とかから聞いて思い込んでいるのかもしれんが、ほとんどはニセ子孫だよ。
だいたいが明治維新の新姓の時に、箔をつけたくて名家の子孫を自称。
系図も捏造。
そんなのでも3代もすると立派に「家はxxの子孫で」などと語りだす。
331 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 12:32:37
それより楠正成と楠木正成
どちらが正しいんだろ?
191
ムハンマドは戦争で1000人単位で虐殺してるぞ
とにかく北条を滅ぼした楠木は好きだ
あれは130年にもわたる独裁政権
333 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 11:53:24
>>331 楠木正成と表記する方が多いようですね。
楠で検索して楠木に訂正される。
334 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 15:52:05
戦後は「楠木」説が圧倒的に有利ですが「「太平記(読み)の可能性」の著者の兵藤裕巳氏は当時の記録から見て「楠」説を取っていますね。
>>322>>323 >國學院、あんたの言ってる事はね
もうめんどくさいなぁ。いい加減にしてくれ。
俺は國學院じゃないんだよ。
意図的に曲解しているのか何なのか、とにかく話にならんね。
> そんなに「桜井の別れ」が実在したと主張するなら、何でもいいからその傍証となるようなもの出せよ。
桜井の別れは実際にあったか無かったかは
「わからない」というのが結論だと俺ははっきり言ってるだろ。
あなた外国の方ですか?日本語、わかりますよね?
>>325 >>322>>323に比べればずっとまともな内容だが、ひょっとして別人なのかな?
まぁどっちでもいいけど。
>極めて創作の可能性が高いエピソードで歴史上の人物を啓蒙的に語るのが問題だと言ってるのだよ。
相変わらず見当違いな反応だなぁ。
いい加減、俺が國學院だという思い込みをはずしてくれよ。
俺がここに書き込んだのは260以降。
太平記はほとんどが創作だの捏造だのという決めつけがいかにも短絡的に思えたから一言注意を喚起したいと思って書いたのが最初。
>いつ太平記を過小評価してる?
太平記なんて司馬遼太郎の小説みたいなもんだ、とか
軍記物なんて創作に決まってる、とか、その手の発言が正当な評価とは言えまい。
>現代人の感覚の意味が分からない。
一番の理由は「抹殺史観万歳!!」などと平気で言えてしまえる感覚。
337 :
336:2009/05/08(金) 22:38:19
>>325 >時宗の僧侶が関与してる事が太平記の虚実の問題とどう関係あるのかね?
>太平記の描く誇張や怪異も時宗の僧侶が関与してたら事実なのかね?
時衆僧を持ち出したのは「正成が七生報国の発言をしたなんて、全員が死んでいるんだから聞いている人間がいたはずがない。だからこの話は創作だ」という意味の書き込みがあったので、
その当時は時衆の僧侶が戦場で戦死者の供養をしたり最期を看取ったりするのが当たり前のように行なわれていたのだから、
正成自刃の際だって誰一人何も聞いていないという決めつけは出来ないよってことを言っただけであって、
時衆僧が絡めば全部事実だ!などと言ったつもりは毛頭ない。
だいたい従軍僧の見聞や体験が太平記の記事に反映しているであろう、というのは、
何も俺が一人で勝手に唱えているんじゃなくて、ちゃんと学者センセイも言ってる説だ。
例えば新田義貞の鎌倉攻めの様子を記した、信濃の寺に伝わる元弘3年5月28日付の書状には、戦場での様子や死んで行く武士たちに念仏を回向した話などが記されている。
この内容を見ると「東勝寺の北条一門の自決の様子なんて一体誰が見ていたんだ?全部太平記の想像だろ!」なんてことは、
とてもじゃないが言いきれない。
同様に他の戦場だって全てが全て想像や推測だけで書いているとは言いきれないってことだ。
以前「陣僧が正成の自刃に立ち会っていたという証拠を出せよ!」
なんてこと言われて閉口したけれど、そんなものは無い。
ただ留意すべきは、当たり前のように行なわれていた習慣の類いなんてのはいちいち記録なんかしない、ということ。
もちろん記録に無い以上、それが史実だと強弁するつもりはない。
ただ、だからといって完全に捏造だと決めつけることも出来ない、と言っているに過ぎないんだよ。
338 :
336:2009/05/08(金) 22:41:41
>>325 > 私は桜井の別れはフィクションだと思うよ。
思うのは自由。俺だってそう思う部分はあるよ。
ただしきみが99%そうだと断定しているのに対し、俺の方は
断定までは出来ないって言っているだけだ。
>だけど信じたい連中がいたら信じれば良い。
>しかし、それは一種の宗教だよ。
可能性があることを推測することがどうして宗教になるのかね?
頭ごなしに否定するだけの抹殺史観の方がよっぽど狂信的だろ。
> そこから正成の人物論が語られるのは明らかに間違いだ。
明らかに間違いだの宗教だのと、ほんと決めつける言い方が好きだね。
しかし、それじゃどんな人物論ならOKなのかな?
確実な史料、史実のみに沿って歴史を再構成する作業は勿論それが出来れば一番いい。
ただ果たしてそんなことが可能かね?特に古代・中世史で。
339 :
336:2009/05/08(金) 22:50:02
>>325 たとえば海津一朗の『楠木正成と悪党-南北朝時代を読み直す』という本がある。
この著書で海津は皇国史観を嫌悪し、太平記における正成の忠君愛国的な挿話を史実だという確証がないからと全否定してみせた。
つまりきみのスタンスと非常に近い。
しかし忠君愛国的な部分は否定しながら、そうでないところでは太平記から引用しまくり、
しかも史実という確実な裏付けのない挿話から平気で正成やその時代の人物の心までも臆測したりしている。
つまり、太平記で自分の気に入らない部分は削り、そうでない部分はピックアップしてその人物像を形成するというような、まるでつまみ食いにも似た、非常に恣意的でおよそ実証主義とはいい難い姿勢でこの本は書かれているのだ。
要するにこの本は、あくまで海津個人の願望、思いを勝手に反映させた正成像を書いたに過ぎない。
この程度の正成像なら、同時代人が叙述した太平記の正成像の方が
はるかに信頼できると俺は思ってしまうんだな。
無論それは100%正しい正成の実像ではあるまい。
でもそんなこと言い出したら史伝とか伝記なんてものは程度の差はあれ
みんな書いた人間の色眼鏡を通しているもんだ。
いずれにしても、太平記から完全に自由な正成伝というものが
果たして成立するのかはきわめて難しいと思うよ。
340 :
336:2009/05/08(金) 22:55:57
>>325 > 私は中世の人間ではないから、中世の感覚は分からない。
当たり前じゃないか。だからこそ歴史を学ぶのではないのか?
せめて分ろうと努力する姿勢くらい持てよ。
> だから太平記を慎重に扱いたい
大賛成だよ。
しかし「慎重に扱う」というのは、
すべてを頭ごなしに「捏造だ!」「創作だ!」と決めつけることではないと思う。
きみは「抹殺史観」マンセーだと言った。
100%史実だという裏のとれない事柄は全て否定し、無かったとするのがきみの態度。
生憎俺はそうじゃない。
史実かそうでないか、曖昧なところも実際どうだったのか、
闇雲に否定しまくるのではなく様々な可能性を考えてみたい。
それだけの話だ。
「北海道に邪馬台国があったかもしれない。なぜなら、否定する材料がないから。」
思うのは勝手だが、世間ではトンデモという。
「桜井の別れはあったかもしれない。なぜなら、否定する材料がないから。」
こういう香具師は何て呼ぶ?
>>341 まぁ、お前さん見たいのは極論と言われるな。
336しつこい!!!
344 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 06:28:53
>>341のような態度が科学的なんだと思ってる人は案外多いよ。
345 :
日本@名無史さん:2009/05/09(土) 10:48:37
史実を辿る為のヒントはあくまでヒントであって、史実そのものじゃない。
それでいいじゃん、もう。
>341
> 思うのは勝手だが、世間ではトンデモという。
頭の悪い奴だな。
> あったかもしれない。なぜなら、否定する材料がないから。
これは、科学的考察の基本中の基本であって、トンでもどころか正統な考察。
「邪馬台国北海道説云々」が否定的な扱いを受けているのは、否定的な材料
があるからだよ。
否定する材料がないのに頭から否定するというのは、非科学的態度の典型
だよ。
>>346 馬鹿発見!!!www
科学のかの字も理解していない。小学校から勉強し直してこいよ。
>>347 イヤお前の方こそ「常識 = 真実」だと思い込んでいて、科学的な態度とは呼べない。どんな
常識も疑い、どんなオカシな説も一応は検討した上で(否定すべき材料を確認して)否定す
るのが科学的な態度。
>347
邪馬台国北海道説云々は、「邪馬台国」に関する大元の記述をはじめ、
種種の材料と整合しないから、否定的な扱いを受けている。
「なんとなく違うと思うから」なんてのは根拠にならないし、それを「根拠」
と称して話をすすめる態度は科学的考察とは正反対のものだよ。
350 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 21:32:27
351 :
336:2009/05/10(日) 22:51:59
>>341 いやはや、本当に日本語が理解できない人だったとは‥‥
そこまで自信たっぷりに「桜井の別れは絶対に無かったんだ!!太平記の捏造だ!!」
と言い切れるのなら、まずは根拠を示してくれよ。
それとも、まさかこんなので説得出来ているつもりじゃないだろうな?
↓
> 明治以降、児島高徳、勾当内侍、桜井の別れは太平記の創作だという説が有力なんだよ。
要するに「学界では、えらい先生方が何人もそうおっしゃってるんだぞ!!オレはそれを盲信してるんだ!!」ってことね。
いやーすばらしい。見上げた奴隷根性‥‥もとい、信仰心だ。
しかし、そのえらい先生方は、あんたのように「絶対に太平記の創作だ!!」なんて言い方をしているのかな?
「‥‥創作であろう」とか「‥‥創作と思われる」とか、そんな風に書いてるんじゃないの?
よほどの確証が無い限り留保をつけるのが学問の世界。
そして「有力とされる説」なんてのは時代が変われば覆るのも学問の世界。
教科書や先生の言葉を鵜呑みにするのではなく、もう少し自分の頭で考える習慣つけたらどうよ?
多分あんたのような頭コチコチ人間が、戦前には有無を言わさず「桜井の別れは絶対にあったんだ!!これに反対する奴は売国奴だ!!」みたいな主張をしていたんだと思えてしょうがない。
352 :
336:2009/05/10(日) 22:53:07
>>343 まぁ長文が苦手な小学生にまで読んでくれとは思ってないので適当にすっ飛ばしてくれ。
しかし子供はいいな、早起きで。
>>347 ではひとつ、きみの科学の定義とやらを聞かせてくれないか?
ご高説、さぞや素晴らしいものであろう。
日本人の鑑、大楠公の美しい美談を否定する朝鮮人が出没するスレはここですか?
354 :
336:2009/05/10(日) 23:17:47
>>346>>348 いやーシンプルかつ分りやすい説明だ。
某小学生も言うように俺の書き込みはちょっと回りくどくて
理解されにくいが、これなら341でも分る(と思う)。感心した。
ただ老婆心ながらちょこっと言っておきたいのは、所詮、歴史学と科学とは別物ってことね。
もちろん文書や遺物の年代特定に科学的手法や科学的論証は欠かせないけれど、それはあくまで論証の過程での話。
科学が誰もが納得するような実験や計算式によって仮説の証明が可能なのに対し、
歴史学はどんなに正解らしい正解もあくまで「有力」以上ではなく、100%の正解が知りたければタイムマシンで見に行くしか無いという、その意味では何とも厄介な分野。
特にその時代の「精神」とか「信仰」とかいう問題は科学では
まずカバーしきれないことだからね。
>>349 そもそも
>>341みたいな人間に欠けているのは
科学的考察なんて大袈裟なものではなく、ごく初歩的な論理の構築力ではないかな?
科学はおろかどんな分野でも、あんな粗雑な思考じゃ通用しないでしょ。これ以上相手にする価値は無いよ。
355 :
336:2009/05/10(日) 23:19:21
>>353 うわ、とうとう出ちゃったか。
南北朝スレはすぐにこの手のう○こ人間が出て来るから困る。
こんなのと一緒にされるのは御免蒙りたいからそろそろ退散。
356 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 00:27:37
正成は千早城の籠城戦で
モヤシを食糧にしたとか。
大豆からモヤシを作る事を知らず壊血病で自滅した、旅順のロシア軍より凄い!
357 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 01:04:28
バカバカしい
「悪魔の証明」に意味はない。
「櫻井の別れ」肯定派が存在を証明しないといかんだろう。
安易に「伝説」と「史実」を混同してはいけないのは当たり前だ。
358 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 04:53:05
だからある派には一応同時代に書かれた太平記がある。
それに対して、ない派はそこに書かれてあることを否定するに足るだけの
合理的な根拠を出せば良いというだけのこと。
ある派とない派で、より合理的だと思われる方が通説になっていく。
359 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 12:40:51
無いと言っているのは網野とか石井、永原、石母田といった反日コミンテル工作員だけ。
平泉博士がすでに実証的に証明している。
だから、太平記は軍記物語だと何度書いたら理解するんだ?
361 :
日本@名無史さん:2009/05/11(月) 20:37:36
反日コミンテルン工作員の詭弁はとっくに論破されているよ
それにしても大楠公の偉業には頭が下がるね。
俺の血の何割かは大楠公の血統だよ
軍記物=史書ではない。
これが結論。
365 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 17:45:16
日本人なら大楠公と小楠公は畏敬と崇拝の対象。
歴史上稀に見る逆賊で極悪人の足利高氏でさえ称賛し敬意をはらっている。
ここで、日本人なら見習わなければならない大楠公の美談にケチを付けておとしめているのは、半島人だけだ。
>>365 IDが出ないのを良いことに、なんというマッチポンプw
367 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 12:21:18
まだいたのかチョン。
太平記の記述を否定するものが何もないから日本史上最も感動的な美談、桜井の別れは実在したことはもう決着がついている。
368 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 12:26:49
韓国の李舜臣崇拝と同レベルの客観性の無い話やな(笑)
お前らこそバカチョンと同レベルや
369 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 14:44:58
なぜ福厳寺に入った事で後醍醐は頭痛になったのか?また福厳寺にも仏像・井戸はあったにもかかわらず、なぜ薬仙寺のご利益のある水でないといけなかったのか?深い謎に包まれた歴史の闇があります。ご存じの方教えてください。
370 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 14:47:34
北条家・鎌倉系住職による、呪咀、施毒。
371 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 14:50:23
とりあえず、きづかれた帝は福厳寺以外の水、食料を欲しがり、薬仙寺からとりよせた。というのが真実。
372 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 19:37:52
桜井の別れは史実とか言うヤツは、一見ネトウヨに見えるが、本当は日本人の知的レベルを落とす為に暗躍する北の工作員
373 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 23:26:27
反日チョン工作員必死だな
楠公をけなすのは第三国人だよ
375 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 23:53:09
天皇がピンチの時に
予知夢により忽然と
現れ、天皇を救った
楠正成。
やはり彼はただものではない。
376 :
國學院大學卒:2009/05/16(土) 23:59:37
おそらく楠の本荘なぞ
そもそも存在しないだろう。
楠は本当に木の楠から取った名字に違いない。
あえて劇的に言うならば、
彼は天が天皇を救うために
地上に遣わした使者だったのかもしれない。
377 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 13:20:45
楠公父子をけなす奴は日本人では無い
378 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 15:13:51
妄想系の書き込みが増えてきましたね。
379 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 16:58:12
朝鮮人必死だな
北条は130年も日本の権力を独裁
していた金正日顔負けの政権
381 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 00:09:29
鎌倉幕府の執権にも悪いのもいたかもしれないが良いのもいたよ
泰時とか時宗とか
382 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 12:14:57
康時は逆賊
383 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 12:15:57
泰時は逆賊
384 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 14:14:51
何か知らないうちに変なスレになってる^^;
まぁ、それはともかく・・・w
最近、昔の大河ドラマの太平記を見てるけど結構面白いね。
武田鉄也の正成も案外良い味出してる。
昔の大河は面白かったんだなぁ
385 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 07:37:22
嗚呼、大楠公。
その名を聞いて、感涙にむせばない日本人はいない。大楠公と同じ日本人に生まれた幸せ。
あの場違いの素人ですが、もしよかったら詳しい人教えてください。
後醍醐天皇はどうやって楠木正成の存在を知ったのですか?
>>375 予知夢なんですか?
いや、それをいうなら尊氏も同じ日本人だが
388 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 23:34:22
尊氏も実は楠正成を尊敬していた…かもしれない。
正直、尊氏が一目置かなきゃ今の正成の名声はないよね
國學院は進行が止まるとたまに名前消して自演するから気をつけろ。
>>385なんかは改行の仕方や文章の暑苦しさからしてまず間違いなく國學院の自演だ。
391 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 23:50:27
義詮が正行を尊敬していたのは有名だが・・・
392 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 10:55:25
國學院の空理空論はなんのためにもならないと思う
393 :
國學院大學卒:2009/06/13(土) 20:59:54
いや近年の精神なき歴史観の方が
まるで意味がない。
もちろん、ある特定イデオロギーにより
歴史を捩曲げて見るのは
絶対に間違いではあるが、
当時の歴史の中に生きた
人々の生き様や精神を
学ばなければなんのための
歴史であらうか。
394 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 03:49:18
大楠公の末裔を称する人は神国日本にある程度いるが
共通点は目鼻立ちがはっきりしてて色白である
395 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 18:08:13
一村まるごと楠姓
396 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:53:21
楠木正成は子孫は残ってないよね。
義のために一族みな、命を捧げたよね。
誰か、生き残った人が血族三親等内にいたっけ?
いなかったと記憶するが。
397 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 07:32:13
自ら身も心も国家に捧げた日本人の鑑だね。
398 :
國學院大學卒:2009/06/18(木) 08:42:17
日東有聖人 其名いわく楠公
誤生干戈世 提剣作英雄
(「いわく」の漢字が
変換で出ない)
子孫が残らなかったといえば四条隆資もじゃないかな。
400 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:02:22
>>396 子孫ではなくても楠と名乗る人はいるからw
>>400 楠木一族は御国に殉じて全員戦死した。
こんな美しい話はあるだろうか?
まさに日本人の鑑。
日本人なら御国のために命を捧げなければならない。
それをしないのは反日チョンブサヨだけ。
402 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:52:48
403 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:23:31
楠公を敬うものは皆同志。
楠公の前では在日差別なぞない。
>>396 菅公学生服があって
軟膏学生服がないのは
お前のせいだと気付いたw
↑
酔っ払って書いたことだから気にしないでくれw
407 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 06:31:06
戦国時代に近畿地方に子孫いたはずだが
408 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 01:06:54
>>401 口で言うな
実際にオマエが国の為に死んだ時にその理念が証明される。
それまではつまんないこと書き込むな!
だな。平時は昼行灯で良い。
410 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:12:31
昼行灯でもよくないだろ
411 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 03:12:41
忠臣も君側の奸も紙一重
412 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 03:44:06
413 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 11:17:12
昔{大楠公」と行った学生服があった気がするが。
414 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 19:30:05
足利高氏、義詮父子は逆賊ではあったが、日本人であったから、楠公父子を敬っていた。
楠公を罵倒するなどという、大逆を上回る悪逆は日本人にはできない。
415 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:41:24
楠の末裔を称する家はあるよな。
野口雨情の家とかw
416 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 20:36:07
ぶよう印紙
417 :
皇學館大學中退:2009/06/24(水) 21:52:49
418 :
右翼団体バックレ:2009/06/24(水) 22:42:31
420 :
日本@名無史さん:2009/06/28(日) 03:44:01
戦国時代に朝廷から楠木氏の子孫として認められた
楠木正虎ってのもいる。
一説によるとこの人の子が由比正雪の養父だとか
楠木正虎は、楠木の血を引いているかあやしいよ。
学会とかでもそういう見方が主流だと思ったけど。
朝敵から解除した功績は認めるけど、彼は楠木氏ではなく大饗(おあい)氏。
室町後期から戦国時代にかけて、武士の間で「太平記」が多く読まれるようになり、人気を博したため、
楠木正成の人気・崇拝の念が高まった。
そこで自分は正成の子孫であると自称する者が続々と現れてきた。
その一人で、最も自己演出が巧みだった人物がこの正虎だった。
正虎は河内国大饗(おあい)の出身で、文化的教養があったため、天文十五年(1546)に上洛して時の将軍、足利義輝に仕えたという。
その頃、正虎は大和国の信貴山多聞天に参り、自筆の願文を捧げたが、その書に「我こそは、楠木正成朝臣十一代の嫡系、大饗左衛門正虎」と署名して、武運長久の祈願をし、自分が楠木家系の後裔であると宣言した。
たまたまこの頃、大和信貴山を本拠に勢力を伸ばしていた松永久秀に近づき、彼を介して正虎は宮中に入り込み、正親町天皇やその親王に筆跡を授けている。
この時、楠木正成はまだ朝敵の汚名を着たままだったが、正虎はその名誉回復を申し出て、天皇から朝敵恩免の綸旨をもらうことに成功している。さらに自分も正成の子孫として、河内守の地位につくことができた。
正虎はその後も政界をうまく飛び回り、織田信長の右筆になり、さらに豊臣秀吉の右筆にもなって、多くの文書記録を残して七十七歳で亡くなっている。
さて、この正虎についてだが、血縁的には彼が正成の子孫であるという確証は少ない。
正虎はたまたま自分が正成と同じ河内国の出身であることに着目して、正成が英雄視されている時流を見て、楠木の家系を最大限に利用して政界での自分の地位を確保したと見ることができる。
こうして見ると、正虎という人物は楠木の名を騙るペテン師のようにも見えてしまうが、彼の尽力のお陰で、それまで朝敵とされていた楠木正成とその一族も赦免されたのであるから、彼が果たした歴史的意義は大きいと言える。
時の権力者達や天皇まで認めたんだから
ただの騙りじゃなく、納得させるだけの何かが有ったと思う
>>422 自称平氏子孫信長
自称藤原氏子孫秀吉
自称新田氏子孫家康
こんな騙りもいますが何か?
そいつらは天下人だから「納得させるだけの何か」が有っただろう。
同様に正虎にも「何か」が有った、と推測されるだろう。
という話ですが何か?
ゆいしょーせつ
>>423 自称菅原子孫の前田
自称斯波氏子孫蜂須賀
自称道長子孫の加藤清正
自称越智氏子孫の伊藤博文
自称美濃源氏の山県有朋
自称九条氏子孫の松方正義
そんなものをいちいちマトモに受け取っている恥ずかしい白痴なんてこの世に存在するのか?
「先祖は?」と聞かれて「今、林大学に作らせているから」と答えた池田光政
これが真相だ
>>424 代弁してくれてありがとう。
>>426 正虎が天下人や有力大名なら武力や財力で
自称子孫を認めてもらえても不思議じゃないけど
正虎程度の小勢力が自称子孫を公言して更に
公認されるには、少なからず納得させるだけの
材料が少なからず有ったのではないだろうか・・・
428 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 06:19:37
愛知県に天皇の子孫が何人もいたんだからいいじゃんw
430 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 06:27:08
南朝系はキチガイか被差別w
431 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 09:20:39
今の天皇は北朝系なのに、何故か南朝系忠義の大楠公の銅像が皇居の前に建てられてる不思議
432 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 12:13:00
逆賊足利高氏でさえ大楠公を敬っていた。
大楠公を讃えるのは、日本人なら当然の感情。
433 :
日本@名無史さん:2009/06/29(月) 19:00:05
>>422 確かに
なんなんだろうな
単に橘正虎ですが官位下さいってのと、橘正成の子孫の橘正虎ですが朝敵解除の綸旨と先祖縁故の官位下さいってのはレベルが違い過ぎる
幕末から戦前にかけての人物が
突如、大楠公の子孫を勝手に称していたなら
時流に乗ろうとして詐称してるんじゃないのか?と
疑念も沸くが、室町末期にあえて地侍が
大楠公の子孫を称してもメリットが無い割には
それを認めさせる為の労力だけ大きく
詐称するメリットが無いような気がする
正虎は、単に世渡り上手な小者でしょ。
楠木の名声が高まったのを自身の箔付けに利用しただけ。
この時代は金さえあれば何とでもなる時代だし。
436 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 12:41:18
他スレで書いたが、ウチの先祖は地侍だったが、戦国時代に新田義貞子孫を自称した。
思い当たる理由は、主家が足利一門だったが、滅亡時に他の地侍と同じく、傍観していたからだろう。
正虎もなんらかの理由で正成子孫を自称しなければならない理由があったんだろ。
437 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 18:25:16
>>434 大楠公という信仰は在日右翼か?w
普通に楠公でいいのだが大菅公てあるの?w
438 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 18:26:33
南朝の道と被差別は被るからな
439 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 18:37:28
>>437 ネトウヨさんは興奮すると何故
脈絡も無く在日認定するんでしょうか?
在日右翼なんていない幕末明治初期の
日本の右翼創生期から愛国者は
大楠公と敬います。
>大菅公てあるの?w
菅原道真公の事でしょうか?
道真公は広く庶民に神として扱われておりますが、何か?
440 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:37:43
>>439 それで廃仏毀釈とかした日本文化破壊者になったの?
在日右翼の先駆けですね?w
441 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:38:57
442 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:39:37
在日認定にネトウヨ認定で返したため両者引き分けっ!!
443 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:41:29
天皇が北丁とか南丁と拘わるのは日本文化や日本史の否定だねw
444 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:42:58
北方謙三は楠木正成を山の民出身で芸能集団に影響力を持つ男として描いていたな。
445 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:44:03
大楠公とは自称の楠家子孫?w
何で大なのか?わからんw
446 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:45:31
大菅公学生服w
447 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:46:03
楠木正成=テキ屋の大将
関東の北条が横暴を極めなければ、テキ屋のおっさんで終わるのでは
ないでしょうか?
448 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:46:32
管公は普通に朝敵だよw
449 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:49:36
>>447 そのイフなら足利尊氏公もいち公務員で終わったわな
450 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:52:31
>>448 死後、官位を与えられ天神様として奉られていますよ。
451 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 19:55:16
大軟膏w
被差別部落に伝承した
秘伝の薬か?
452 :
日本@名無史さん:2009/06/30(火) 20:00:43
大楠公て普通にわからんw
カンコー学生服て現在?w
453 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 01:36:03
>>440>>441 ネトウヨ君は言ってる事が
興奮してるせいか脈絡も無く支離滅裂ですね。
毎日在日の事で頭がいっぱいなのは
伝わってきましたが。
454 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 06:14:45
>>437 バカかお前
小楠公正行と区別するために決まってるだろ
外国にも大カトー小カトー、大ピット小ピットなど例は多いぞ
「大」云々言うなら大韓民国はどうなんだよ
Republic of koreaの何処に「大」があるんだよww
456 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 07:55:28
>>454 小楠公?馬鹿?w
歴史の敗者にそこまでする必要はないよカス
国家神道か?w
じゃあ、大アテルイや小アテルイもあるんだなw
>>455 朝鮮人や在日によく見られる傾向という指摘か?w
459 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 08:40:37
国家神道って何のこと?
区別のためと言ってるじゃない、基地害さん
460 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 09:48:14
>>455 韓国はただの自尊だろ
普通は周囲から功績や勇敢さを称えられて名づけられるケースがデフォだが、韓国の場合、周りから称えてもらえないから自ら開き直った
461 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 12:38:08
>450
天皇や取り巻きを地獄に落として責立てたからね。
463 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 01:13:10
では敗軍の将は平等に大中小公を付けるか?
きっとあの犠牲者の中には、道真の祟りを隠れ蓑に、暗殺された人も居たはず
465 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 04:20:26
大楠公の功績を明治以来天皇家の人々も
認めてきたのに大楠公を非難する輩は
左翼勢力もしくは左翼気分の強い者だろうな
466 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 04:54:58
>>465 今は北朝なんだから単なる滅んだ一族だよw
467 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 06:41:36
>>440 仏教は外来種だから今でも要らないと思う。
特に日蓮宗系のカルトを野放しにしてることが日本を崩壊に向かわせてるし。
468 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 13:21:30
>324
自分の実家の本家が子孫…らしい
根拠は名・菩提寺(後醍醐天皇勅令総本山)・身分(武家)
近所の真言宗の寺に、楠木正成の甥か弟が落ちてきたらしい
本家跡敷地内に楠の大木あり
らしい…どまりの根拠は家紋が菊水でないこと
名前自体江戸中期に家臣の勧めによって今のものにしたこと
なぜか江戸中期に周りの南朝方の人間が一斉に苗字を変えたらしい
楠木でなくとも南朝方で間違いないという話だ。
ちなみに禅宗だけど真言を唱えたりする
陰陽道の知識わずかながらあり
ひっそりと地味に生きてきた。
一揆の際に藩からあずかる倉を開けたことがある。
明治時代ちょっと中央政治に関わったり治水事業に携わる 治水公園に小さな胸像がある。
個人的に…
どうしても周囲から浮きやすい(秦氏由来か?)
勉強はできる
原理を理解すればあとは早い
損をするとわかっていても、心の許すほうしか選べない
恨み深い
根は陽気
心の理想郷は、親族の大人たちに見守られながら広い空の楠の並木のもと血縁の子供らで遊びまわれる地。
そんな場所ないけれど^^
469 :
日本@名無史さん:2009/07/06(月) 13:34:37
>179さんへ
自分は468だがあなたのお家の話、あながち嘘ではないと思う
まず最初から疑う根拠がわからない。
どの家にも言い伝えなどあるのならまず受け入れてそれから疑問をひとつずつ検証していくべきだと思う
研究者にはわからないだろうが自分の家の言い伝えや大事にしているものを下足で踏み荒らされることほどムカつくことはないのだ
こういうものは持たざる者にはわからぬことか?
どうも研究者の側はいかに偉いかしらないが土足であがってふんずけ引きずりおろすような扱いをしたがるように見える
そうやってひきずりおろして 自分が納得する間に本当に価値のあるものが消えかかっていないか?
たとえば民謡のこきりこ節などは研究者ではなく詩人が記録し消える寸前で残すことができたように
世の中には帰農した家がいっぱいあると思う というか戦乱の世や疫病に賦役などを乗り越え今生き残っているというだけでかつては名のある家の末裔ではないだろうか?
子孫であることの意義があるとすれば名や名誉ではなくその血をひいたということ
つまり世に出るだけの気質や気性を引き継いだということだと思う
もし家に伝わる話などがある人はそれを大切にしてほしいと思う
楠木四郎について詳しいやつおる?
>>468 悪いがとても子孫とは思えない。
楠木家は捏造子孫が異常に多い。
直系が滅亡した家でネームバリューがあるから家系捏造の
格好のターゲットにされた感がある。
472 :
468:2009/07/07(火) 09:14:41
>>471 その根拠を正確にお願いします
自分もうちが直系とは思っていません
傍系じゃないかと思っている。
と、いうか子孫とはその家系の血が入っている入ってないが問題なんではないのですか?
直系しか認められないものなのですか?(そのへん詳しくないので)
楠木を捏造する理由もわからない
もともと清和源氏などのようなネームバリューある家とも思えない
足利時代には逆賊として残党狩りが凄惨をきわめたわけだし
改名の前は楠木の宗家と同じ苗字だった
自分では菩提寺が後醍醐天皇より号が下賜されている寺というのが根拠として強いと思っている
土地柄でいえば禅宗は決して強くない
最近同族会の方々とネットで知り合ったがおそらく楠木の家系だろうと言ってくれている。
寺と江戸までの身分が決め手らしい
今度菩提寺の過去帳を見るつもり。
473 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 09:17:51
もうひとつ
改名したときだがなぜそんなことをしたかというと
南朝をにおわすその名を名乗っているとどうやら危ないという気運だったらしい
一族の中には真逆のニュアンスに変えた者もあったということだ。
>>468 最低限子孫を名乗るからには以下のものが必要
・菩提寺の過去帳(キチンと年代が証明できるもの)
・系図(キチンと年代が証明できるもの)
・武具や書物などの先祖の遺物(キチンと年代が証明できるもの)
これらはありますか?客観的に証明出来ないとダメですよ。
後、楠木家の子孫が怪しいと言われるのは理由がある。
昔から系図屋という商売があり、先祖を名家にくっつけて家系図を捏造する商売があった。
特に滅亡大名は直系の子孫がいない事もありクレームがつかないのでターゲットにされた。
楠木家は正成のネームバリューがあったが為に格好のターゲットにされた。
多いのは、江戸時代に武士が先祖を捏造したパターンと明治新姓の時に庶民が姓を名乗るときに
家系を捏造したパターン。
また、楠木家の子孫を明治政府が探した事があったが、自称子孫は多く名乗り出たが調査して
子孫であると認定された家は1件もなかった。
つまり客観的な証拠がなく思い込みとか先祖の言い伝えとかで子孫であると思い込んでるのが多い。
特に家系捏造した家は、捏造した時の当主はニセ子孫を自覚しているが、3代もすると捏造を忘れて
ニセ系図を元にして、正当な子孫であると言いだすのが多い。
>楠木を捏造する理由もわからない
>もともと清和源氏などのようなネームバリューある家とも思えない
>足利時代には逆賊として残党狩りが凄惨をきわめたわけだし
これは間違いです。
戦国時代末期とか江戸の初期とかになると太平記が広く読まれ、
悲運の名将・忠臣として、楠木正成を崇拝する機運がありました。
だから、楠木の子孫を名乗る輩も多く現れたのです。
楠木正虎なんかもその1人ですね。
本当に楠木家の子孫というならば、どの家系かくらいは説明できますよね?
歴史的には、戦国末期に北伊勢の楠木家が滅亡してから傍系とはいえ子孫はいないはず。
女系子孫は、河内国の甲斐荘氏がいますけどね。
自称子孫は一杯いますけど。
>最近同族会の方々とネットで知り合ったが
失礼ながらこれらの会の人も自称子孫が多く、本当の子孫か疑問が残る。
特に楠木家の子孫を名乗る人々は。
崎門学 山崎闇斎 拘幽操
http://www.youtube.com/watch?v=n16zgmFu9zs http://www.nicovideo.jp/watch/sm7538203 山崎闇斎は江戸時代の儒者、神道家であり、朱子学では「崎門学」、神道では「垂加神道」
を開き、後世の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えました。
寛文五年(一六六五年)、幕閣・会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、殉死の禁止など
幕藩政治にも影響を及ぼしました。弟子では浅見絅斎が著名であり、更にその弟子の若林
強斎や、土佐南学の谷秦山らがその継承者として知られています。更に幕末では、橋本景岳、
梅田雲浜、横井小楠ら、明治時代では西南戦争の谷干城将軍(谷秦山の子孫)が知られて
います。闇斎は心神(人の心)は天神からの賜物であると考え祀りました。現在は下御霊神社
内の猿田彦社に配祀されています。「拘幽操」は周の文王の幽閉を題材にした韓退之の詩で
すが、これを闇斎は考察し、忠義のあるべき姿としました。
>>477 若林強斎、山口春水より楠木正成の言葉として伝え聞く
「仮にも君を怨み奉るの心発らば、天照大神の御名を唱ふべし」
強斎曰く
「我が國士臣の目当ては、彼の楠氏の一語の外、是無き事也。」
形態が違うが土師部の例もあり殉死とは実質的に新王朝の誕生を意味するかw
480 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 03:45:38
K1のムサシだってシンエモンさんの子孫なんだから
楠木氏の子孫が居たっておかしくないな
絶対に居ないと断言してる奴はバカだな
絶対に居ないと断言してるのではない。
客観的に証明出来る子孫はいないと言っている。
自称子孫だらけって事。
明治政府の調査でも、子孫はいなかったという歴史的事実がある。
482 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 10:24:31
>474
丁寧な回答ありがとうございます。
菩提寺の過去帳は、戦国時代に寺が焼き討ちされているので、ちゃんとあるかはわかりませんが、
焼き討ち以降のものはあると思います。自家系図は見たことありません
家に私が知る現存するものは、日本刀と分家初代の木像、搦め手、代官帽
本家については詳しくないですが、芭蕉の弟子が泊まった時のお礼状(古文書)ぐらいですね
誰の家系?ですが、本家跡から徒歩三分の密教寺院に正成の甥だか弟だかが落ち延び武具を奉納したという記事を
近年新聞で読みましたのでその家系ではないかと想像しています(ま、主観ですねw)
子孫であることを証明するには菩提寺の過去帳と家系図と武具馬具がきちんとないといけないということですね?
ひとつでも欠けていたら自称子孫ということですね。
その響き、一般的にどうしても捏造のニュアンスがあるので今度から名乗る場合は末裔と言いますw(ま、自分から名乗ることなどまずしませんよ
時々武家の末裔の方で自分は元武家だといいまくり威張る人がいますね そういう方に自分も元武家だと名乗ることはあります)
私は今も自分の先祖が楠木一族だと信じていますよ、ウェブ上で数日前にお会いしたばかりの貴方を信じ先祖を貶めるわけにはいきませんから(苦笑)
それと、楠木同族会は湊川神社に付随しています
会員になるには、菩提寺の過去帳と、古文書。家系図(自家系図などではなくきちんとしたもの)が必要で、現会員の審査によって決まります
まず出願にあたっても会員の推薦などいるようです
少なくとも私の知り合った同族会の方のうちお一人は、もともと他の大名家の子孫で、
家格を選んだ上で楠木の人間と婚姻した家の方だそうです
あまりお疑いになるのも如何なものかと思います(苦笑)
貴方様は学者さんですか?アマチュア歴史研究家さんですか?
明治時代の政府の調査など、それこそ信じるに値しないレベルだと思いますが。
483 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 11:15:10
ネット資料を読んだ限りですが、明治時代の名乗り上げの際に、南朝方の新田などは名乗り上げたが楠木は名乗り上げなかったと記すものがあったと思います
私の家の感覚ですが、みな「生きてるだけで丸儲け」的なところがあります だから財産を失ってもなんとか持ちこたえます
第二次大戦中は女は子供をひっかついで5キロ先の集団防空壕まで全速力で走ったといいます(しかも3日に一度がデフォ)
じっと耐え生きる感じです
名乗り上げなかったのは、北朝側による再度の根絶やしを恐れたのではないかという思いがあります
484 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 12:23:07
隠坊さんも古文書や家系図を手に入れただろうなw
486 :
482:2009/07/08(水) 12:51:19
>>484 いいえ 江戸時代は武家です
袖がらみは自宅の護衛に使ったようです
江戸時代から藩の家老のお宅と交流がありますし
菩提寺はおもに武家対象とされる宗派です
他の大名家の子孫の方とも数年に一度会う機会があります
というか 今回の書き込みで元百姓の方々が元武家の者に対して如何なる感情を持っているかよくわかりました
リアル社会で活かすのみですね。
>485
ちなみにあなたはどういうご出自で?
488 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 13:11:53
>>486 普通、使いませんw
捕り物用具を護身になんか使いませんw
大小と槍があるはずw
489 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 13:14:07
ヘタな卒や士より番太や長吏の方が腕は立つだろう。
490 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 13:15:34
普通、触りもしないよw
楠木正虎の世渡りのうまさは一族と無関係だからだと思われるw
492 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 13:29:27
>>486 ふーんそうなんですか。
大小はありますよ。前にも言ってますけど
槍はこれまでに見てません。
貴方は武家の末裔の方ですか?ただの研究者ですか?
私の家の交流関係などに対する解説はできますか?
493 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 13:35:40
では実名でどうぞw
>時々武家の末裔の方で自分は元武家だといいまくり威張る人がいますね
495 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 14:02:31
>>493 貴方は私の質問に答えていませんね。よくわかりましたw
私は今も以下のように考えているだけです↓
世の中には帰農した家がいっぱいあると思う 子孫であることの意義があるとすれば名や名誉ではなくその血をひいたということ
つまり世に出るだけの気質や気性を引き継いだということだと思う
もし家に伝わる話などがある人はそれを大切にしてほしいと思う
496 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 14:53:44
>>495 つまり長吏だったのですね?
よくわかりました。
497 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 15:39:36
>>496 は?オメーのことじゃねぇの?w
消えろよ童帝www
498 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 15:41:49
あっごめん素人童貞だったんだよね?www
なんか1からえらい離れたな
500 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 16:54:35
ネット楠木の搦め手には笑ったwwww
501 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 16:58:40
自称武家がオロナイン楠公を塗って指す股の手習いw
502 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 17:18:27
武芸十八般にもじり術(袖がらみ)ってあるけど?
鼻捻り棒なんか伝承している武術もあるが
護身で搦め手なんかやる武士なんかいないよw
もう本性を現してネット楠木だとバレたからw
戦中、戦後に刀を取られているし
それを抜きにしても武具馬具なんか全く関係ないなw
やはり自称子孫に過ぎないようだね。
どうも楠木家の子孫と思い込み、それを心の拠り所にし、否定されると
罵声を浴びせる高潔な人柄なわけだ(笑)
いやいや恐れいったよ。
楠木同族会=楠木家の子孫の集まりと信じているのがおかしい。
自称子孫の同好会みたいなもんだよ。
508 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 03:17:40
今日も全て偽者だと言い張る
歪んだ劣等感の持ち主が張り付いてますな(笑)
509 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 03:23:52
たぶん日本人だという事が唯一の誇りなのに
自らの出自は明治頃にすらも遡ることが出来ない
反動の裏返しで偽者認定に躍起になってる
と推察できますね。
このニセ子孫は困ったちゃんだよ。
自分に都合の悪い事はすべてスルーだよ。
・明治政府の調査が嘘(笑)
・明治新姓の時に名乗り出なかったのは北朝による根絶やしを恐れた(笑)
・過去帳はないし、系図もあやふや、文書もない
どれもこれもニセ子孫である事を示しているよ。
正直マトモじゃないね。
先祖の話を信じて、思い込むのも良いけれどこんなとこで「子孫です」って
書いたら「本当かよ。証明するものあるのかよ。」って突っ込み入るの当然でしょうが。
で、案の定 証明できる物証はなくて逆ギレ。
みっともない。
512 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 06:43:06
康暦の政変で細川頼之が失脚しなければ、正儀系の子孫が栄えてたのかねぇ
509,508は私ではありませんよ
>509…?w
昨夜はネットでいろいろ調べて、私にとって嬉しい資料をいくつか見つけました。
以後なんとでも言ってくださいw
あ、間違えたw
>512 …?w
516 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 11:07:49
517 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 12:44:17
>>515 尾鷲に和田さんと楠さんがいるのは何でかね?w
>>517 その町ではありません。悪しからず。
私はこれでROMります。
519 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 17:49:26
>>510 >>511 今日も早朝から全て偽者だと言い張る
歪んだ劣等感の持ち主が張り付いてますな(笑)
代々頑張ってお米育てたり出稼ぎして
やっと残した子孫がニートに成ってしまったら
ご先祖様も無念でしょうね。
ここの自称末裔のカキコミ読んだら、大楠公も情けなくて涙するだろう。
「こんなのおいらの子孫じゃない」ってな(笑)
しきりに武士武士言ってるし、そんなことでプライド保ってるなんて恥ずかしくないのかねえ?
523 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 18:46:06
お百姓さんの子孫だからって恥じることないのに
嫉妬は見苦しいね
ロードオブザリングに例えるなら足利はエルフ楠木はドワーフだな
魔法使いは天皇と公家で指輪は三種の神器
525 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 19:53:06
お百姓さんの子孫=ニセ末裔。
どこかで系図捏造したんだよ。
先祖は武士なんて言っても幕末あたりに株買って、なんちゃって武士も一杯いたし。
崎門学 山崎闇斎 拘幽操
http://www.youtube.com/watch?v=n16zgmFu9zs http://www.nicovideo.jp/watch/sm7538203 山崎闇斎は江戸時代の儒者、神道家であり、朱子学では「崎門学」、神道では「垂加神道」
を開き、後世の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えました。
寛文五年(一六六五年)、幕閣・会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、殉死の禁止など
幕藩政治にも影響を及ぼしました。弟子では浅見絅斎が著名であり、更にその弟子の若林
強斎や、土佐南学の谷秦山らがその継承者として知られています。更に幕末では、橋本景岳、
梅田雲浜、横井小楠ら、明治時代では西南戦争の谷干城将軍(谷秦山の子孫)が知られて
います。闇斎は心神(人の心)は天神からの賜物であると考え祀りました。現在は下御霊神社
内の猿田彦社に配祀されています。「拘幽操」は周の文王の幽閉を題材にした韓退之の詩で
すが、これを闇斎は考察し、忠義のあるべき姿としました。
529 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 02:03:44
ここにおる奴ら全員歴史知らん。勉強したら?
530 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 07:33:59
勉強すればするほど、楠公の偉大さには畏敬の念を強くする。
楠公は日本人の鑑。
531 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 00:53:22
>>530 君はよく勉強してる。勉強するとはそういうこと。
鎌倉初期の楠家の系図ってあるんですかね。どこかネットで拾えませんか?
533 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 02:31:30
苦境の天皇の呼びかけに応え
劣勢ながら
挙兵するなんて英雄だな
鎌倉最低
534 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 09:50:46
桜井駅の別れを日本史教科書に載せるべき
正成・正行の直系ならともかく
楠木「系」の末裔なんて何の自慢にもならんだろ
ただの山賊。
537 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 18:14:23
>>535 ぷぷぷっw
そんな人に愛される馬鹿にもなれない人間のくずw
一度自分の人生を振り返ろう。
538 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 02:41:54
異議なし
楠正成には近いものを感じるニダ
ネトウヨは何でこのスレ荒らしてるんだろうか
実質非国民だからかな〜
541 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 00:52:16
先月から堺に出張にきてます。(ケーズデンキの隣のSSコンビナート)
今日は休みだったので、大阪からJRで三ノ宮まで行き、阪神電車で高速神戸駅でおりて、
湊川神社へ大楠公をお参りしました。
その後は、お隣の福原のソープランドで、総額5万円で嬢の膣内に射精してきました。
542 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 03:41:03
最後の一文を書きたかったの?と釣られてみる。
543 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 20:42:24
何で大楠公が祀られている神社の側に、風俗街があるんだ?
不忠にもほどがある。
544 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 21:30:19
仁徳陵の裏がラブホ街なのと同じ
湊川神社へお参りして
「今日は良い娘に当たりますように」
ってお願いする。
その後、徒歩10分の福原ソープ街へ行き、生中出し。
これが正しい大楠公オタの生き様だと思うのですが。
546 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 01:14:01
山岡荘八の新太平記を読んで、楠木正成公を尊敬するようになりました。
547 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 13:27:35
俺、楠木正成の家臣の子孫だよ
548 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 19:29:07
スケールがちっちぇー先祖だな。
どうせ嘘つくならもっとスケールのでかい嘘つけよ。松平みたいに。
549 :
日本@名無史さん:2009/07/27(月) 20:46:30
山岡の歴史小説ほど主人公の美化が極端なものはない
徳川家康が平和主義者で豊臣家を最後まで守ろうと描かれてるしな
550 :
日本@名無史さん:2009/07/30(木) 00:36:47
お話はお話
だけど真実が混ざることがある。
太平記はどこまで史実だろうか。
>>549 >> 徳川家康が平和主義者で豊臣家を最後まで守ろうと
「影武者〜」と同じじゃんw
552 :
國學院大學卒:2009/08/05(水) 09:27:26
楠公を祭る 眞木保臣
千窟(ちはや)の山は何を以ってか高き
是れ楠公の因りて起る所
兵庫の海は何を以ってか深き
是れ楠公の戦死する所
全功当年成らずといえども
忠義千歳綱常を掲ぐ
君見ずや千窟の北兵庫の東
紫雲動かず九重崇し(たっとし)
再造の功直ちに帰する所
嗚呼石はコツたり青松の中(うち)
553 :
;:2009/08/06(木) 12:35:44
>>548 松平も 頼光とか源三位あたりから引けば良かったのに それから正成の家臣の子孫の方 恩地左近ならしぶいね。
554 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 02:06:12
誰か田中俊資って人が書いた「楠正行」って本知らん?
他には「南朝盛衰記」っていうのも書いとんねん。この本めちゃくちゃ
入手困難やねんけど誰か情報持ってたらプリーズ。
81年刊かあ。古書店をまめに探すしかなさそうだ。
556 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 23:00:54
やっぱそうかな〜。一応Amazonに5巻セットであんねんけど、自分で手に取らんと
怖いねよな〜。阪神あたりで見かけたっていう人いれば教えてね!
557 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 09:36:21
>>552 忙しい平日の朝っぱらから書き込みか(笑)
穀潰しの分際で御託ならべるなよ。ゴミ野郎
正成がああだこうだとか、日本史は修身の教科書じゃねえんだ。
さっさと食い扶持稼げよ。この粗大ゴミめ
558 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 08:41:02
559 :
日本@名無史さん:2009/08/15(土) 16:28:07
たいして責められるカキコでもないのに
粗大ゴミだのカスだの言われているいるの見ると
余りいい気持ちはしないね。
人間性が見えると言うものだ。
560 :
スレっがー中尉:2009/08/15(土) 23:55:22
561 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:25:05
559の言うとおり。
560のような言い訳は
聞き飽きた。
むしろ、匿名だからこそ、その人の
本性があきらかになる。
クレクレ厨ウゼ
563 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 12:21:24
>>561 自演乙
つか戦前の修身みてーなタワゴトぬかす野郎が平日の昼間からカキコってのは、
マズいんでないの?粗大ゴミでいいだろw
564 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 07:33:59
大楠公は日本人の鑑
565 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 19:34:28
高師直は男の鑑
566 :
日本@名無史さん:2009/08/17(月) 21:29:17
>>556 アマゾンにあるなら早よ買えカス
金が無いなら愚痴を書くなカス
567 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 13:43:10
>>559 立ち読みしないと買えないならカスで当然ではないかw
何が大楠公なのかね?オロナイン軟膏かw
568 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 17:05:40
569 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:45:39
なんか、ここにカキコする人は民度が低くありませんか(`・ω・´)。
570 :
日本@名無史さん:2009/08/20(木) 22:59:01
>>569 民度だってw
戦前の皇国史観丸出しスレで言うセリフかよw馬鹿まるだし〜(笑)
571 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:55:59
572 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 00:44:40
消えろ
愚民ども
∩(・ω・)∩大楠公様ばんじゃーい
574 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:38:25
在日でも右翼に成れる差別をしない国家神道w
575 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 09:41:27
>>556 早よ買えやカス
男ならば借金してでも買えやカス
買って読んで後悔しるならば
初めから書くなカス
∩(・ω・)∩大楠公様ばんじゃーい
578 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 01:39:28
軍略家としては楠木正成は戦国の上杉謙信、武田信玄にも負けないかな?
政治家としてはどうだろう?
579 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 04:19:14
>>575 日本語もろくにしゃべれない愚民が。
滅せよ。
>>578 政治には関われなかった(南朝の朝臣からは山賊扱い)ので、何とも言えないが
大局眼があるから謙信よりは上なのでは?
新田義貞を切って、足利尊氏と和睦しろと主張していたことからも、南朝の誰よりも
状況判断は優れていただろ。
582 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 22:42:57
そんな後醍醐が到底呑めない意見をすること自体が・・・・・
583 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 01:11:52
正成は主君がバカでも誠実に尽くしたから忠臣として名を残した。
と言う意味のことを井沢元彦氏が言っていたな。
素晴らしい構想を持っていて、それを主君が受け入れない。
それでも、忠を尽くす。それが忠臣、名将の名を残したのかも。
楠木正成は、このことからも無私の人と言えると思う。
ただの河内のオッサンだと思うけどね。
後世の創作により祭り上げられてしまった。
585 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 16:49:00
>後世の創作
左翼はよくこう主張するよね
実際戦後教育では大楠公の名前が日本史から抹消されたし
戦前は武士の鑑と崇拝されてたのに
586 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:54:29
あの日本史上最悪の大逆賊である足利高氏でさえ大楠公には最大限の敬意をはらっている。
それは何故か?高氏は日本人だからである。
大楠公をけなすのはチョンである何よりの証拠。
587 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:54:10
偉大なる大楠公にケチつける奴って武士道精神否定の文弱の徒に間違いなし
あれかねえ
どうなんだろうか
正成の行動原理って後醍醐への単純な「忠義」なのかねえ?
いや悪い意味じゃなくて
なんなんだろうねえ
589 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 18:33:16
日本人なら生まれながら天皇陛下への無垢な忠誠心が備わっている。
それを疑うのはチョンである証。
阿呆かw
591 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 20:23:02
チョン必死だなw
國學院乙
∩(・ω・)∩大楠公様ばんじゃーい
594 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 23:22:33
正行もよく偉大な父親の信念を受け継いだ
595 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 23:27:27
國學院大學卒のカキコは日本史じゃないよなw
596 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 01:19:10
楠木正成を語るには正行・正儀を知らなくてはならない。
特に正儀を知れば楠木氏というものが見えてくる。
597 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 07:03:15
598 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 11:47:06
おれの霊視によると楠正成は甲冑姿の天照大神みたいな感じでした。
とにかくすごい人だったんだなあと思った。
599 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 11:49:19
後醍醐天皇はオカルト大王みたいでした。脳みそが迷宮入りしてました。
600 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:55:06
>>599 意味不明、もっと、解り易く書いて・・・と言うほどの価値あるカキコではないか。
601 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 18:15:25
>598 霊視できるんだ すごいね!!
今は神様やってんの?湊川神社で
後南朝?だかで天皇を賀名生まで送るために北朝に背後から全身ハリネズミのように射抜かれても仕えた楠木なんとかって人がいるんだよね?
どうして楠正成の末裔を名乗る大名はいないんだろう。
それは室町幕府健在のころはやばいだろうけど。
徳川は自称新田だから問題ないと思うんだけど。
やっぱりあれ「義貞を切って尊氏と結べ」って言う提言がまずかった?
江戸時代は幕末に成るまで天皇陛下の権威が
弱まってたからじゃない。
605 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:42:02
>>598 天照は女性やで?
正成のイメージかあ。秋山好古と少し重なるような…
606 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 18:28:52
楠木正成が日本人の鑑っていうのは分かったけどこの人は実際は強かったの?
>>603 たしか摂津池田家は、南北朝期の当主が、楠木正成の嫡男・正行の未亡人を
後妻としたが、正行が四条畷で戦死した直後に未亡人が生んだ男子
(正行の遺児美勝丸)を跡取りとしたという伝承がある。
この摂津池田氏の、正行の遺児美勝丸が教正として家を継いでいる
というのは、後世創作した嘘だとは思うけどね。
充分有りえる
609 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 17:19:03
楠木正成の子孫が残っているかどうかは証明できないだろう、多分。
でも、残っていないだろうと思う。
これは、ロマン。
610 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 22:52:10
関が原の合戦で、楠の一族の誰某が西軍で出陣、ってどこかで読んだような気
が…。
原作版のナウシカが大楠公っぽいと思う。
トトロにも楠がトトロの宿る木として描かれている。
612 :
sage:2009/10/05(月) 18:42:13
秦氏?
613 :
日本@名無史さん:2009/10/16(金) 02:15:59
マジレスです。楠と楠木と二つの書き方があるけど、どう違うのか教えてください。
∩(・ω・)∩大楠公様ばんじゃーい
615 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 11:41:51
嗚呼、大楠公
616 :
日本@名無史さん:2009/11/01(日) 12:14:25
正行は四條畷から密かに大陸に渡り明を建国した
617 :
日本@名無史さん:2009/11/05(木) 05:35:40
大楠公の血筋は確かに日本各地に存在する
618 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 23:22:46
傍流しか残っていないが、大楠公の子孫なら自衛隊にいるよ。
代々、軍人の家系。直系を名乗ってるのは全部偽物。
620 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 08:15:42
由比正雪?
621 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 00:46:07
由比正雪は楠木流軍学に精通していただけではないのかな?
622 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 07:36:10
○×流軍学なんて、後世の関係ない人間が詐称したものだからな
623 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 07:45:42
内容がよければ名前はどうでもいい
624 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:23:34
軍学なんて机上の空論だよ
625 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:54:25
でも、現代でも孫子を学ぶ参謀は多いのでは?
626 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 01:50:31
楠木正成が何か著書を残したのか?
楠木流なんて言っても、太平記から正成の「軍略」を読み取って講釈たれてるだけだろ。
三国志演技を読んで、孔明の軍略を読み取り、「諸葛流軍学」とかいって妄想しているのと同じ輩だよ。
だいたい、軍学なんて江戸中期以降に盛んになったものだし。軍学者が作戦立案した戦なんてあったか?由井正雪の乱ぐらいだろ。
627 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 02:26:04
しかも由比正雪一党はあえなく捕縛
628 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/12/01(火) 11:43:07
山本周五郎著<髪かざり>の中の「菊の系図」
重田主税は鶴岡藩の藩校の助教を勤め、藩勢を尊皇の大義の一途に導こうと
努めていた。藩の佐幕派が彼の家を襲った。「貴様が鶴岡藩士ならご主君の外
に身命を捧ぐべき御方はない筈だ」「それに間違いはないが、それが武士の道
の究極ではない。主君に忠節を尽くすべきだが、日本人である限り、根本とし
て朝廷の御為に身命を捧ぐるのが道だ。大義とはそれを指すのだ」「問答は要
らぬ斬ってしまえ」「人間を斬るだけでは道は亡びない。貴公達が誠に君家を
想うならば時勢をよく見ろ。大義に生きぬ限り鶴岡城の運命も長くはないぞ」主
税は一人に斬られて倒れた。「断じて道は亡びぬ、断じて」声と共にこと切れた。
主税の妻・お琴は倅の保太郎を隠して事の成行を窺っていた。「御家の為に重
田は斬った。保太郎と申す倅をこれへ出せ」「保太郎は私の実家に泊まってお
ります」彼らは家中を捜索したが見つからなかった。お琴は主税の亡骸に近づ
いて、震え出すのを堪えながら、そこへ両手を突いて「貴方、お見事でござい
ました」と言った。涙が堪え切れず溢れて来た。「私すぐに退国致します。ご
遺骸の弔いを致しませんのは辛うございますが、保太郎の身が危のうございま
すからお赦し下さいませ。仰せ通り、保太郎はご遺志を継ぐ立派な武士に育て
ます。どうか心安くご往生あそばせ」と亡き夫の魂に語り掛けた。納戸の中か
ら噎び声がした。「泣いてはいけません。父上は亡くなっても、心は貴方の中
に生きておいでです。これからは貴方がそのご遺志を継いでゆくのです。苦し
くても父上のご最後を思い出して、御国の為に役立つ武士になるのですよ」は
いと言う声がした。お琴は夫が大切にしていた菊の株を持って、葛塚に潜んだ。
時勢は大きく変わり、北陸鎮撫総督軍が近くまで来た。保太郎は官軍に加わる
と言ったが、母は許さなかった。「父の仇を取るのは私怨です。過去の恩怨憎
愛を棄てて、身も心も清浄にならねば天皇の御心に反します。正しい兵となる
覚悟があるのなら、母は喜んで送ります」菊は保太郎の心にも根付いていた。
629 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 01:24:49
楠木正成を主人公にした小説で優れたものは無いのかな。
大河ドラマの主役は難しいかな。
楠木正成って可哀想でつね 御醍醐のために命がけで戦ったのに
泣かされて、捨てられて…
でもやっぱ名門の源氏の新田義貞が大将でなきゃ他の武士が納得しないんでしょ
河内のどこの馬の骨かわからん楠木の命令なんかに従いたくないんだろう
御醍醐もそのことを知ってるから…
631 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 22:26:10
当時は血筋も実力のうちだからね。
632 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:39:32
御醍醐w
>>629 活動期間が短いから一年通しは苦しいだろ
このスレに来られるかたには常識だと思いますが、私には分からないので教えてください。
1.正成は南朝方の武将ですね。また現在の皇室は北朝の子孫。
となると、正成は現皇室の先祖に盾突いた極悪人、と常識的にはなりそうに思うのですが?
2.新田義貞は南朝方の武将として鎌倉を攻略、その後も南朝方として戦い続け、戦死してますが、正成のよいな扱いにはなっていないように思います。これは何故?
分かり易くお教えください。
635 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 23:05:00
南朝遺臣は室町時代を通じて逆賊として討伐の対象になっていた。
松永久秀に使えていた正成の子孫を自称する楠木正虎が、朝廷に金積んで、直々に勅免を受けた。それ以降逆賊から外れるようになる。
太平記は昔から人気の物語だったので、結構楠木正成は人気があった。
新田義貞の場合は、徳川氏が新田氏分家を自称したことから、江戸時代には下手に評価できない状態であったのが原因では?
そもそも小太郎くんに人気・人望があれば...。
正成人気は滅びの美学。
637 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 01:01:23
義貞は常に尊氏と比べられるのが悲劇だよな。
南朝方で尊氏と匹敵できる血統は義貞だけだし。
鎌倉時代のハンデがモロかぶさってきている。
正成は建武政権が出来るまでは忠臣だったかもしれないが
建武政権が出来た後は忠臣といえるかな?
639 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 12:00:03
白虎隊や楠木正成など
明治時代に脚色されて美化された人多すぎ
正成は江戸時代には既に
神格化されていましたが?
大楠公は忠臣の鑑ですな
642 :
日本@名無史さん:2009/12/15(火) 19:18:15
明治政府は何故南朝の武将を賞賛したのか?
南朝を正統化したら北朝系明治天皇に不利になるのにな。
自ら論理を破綻させてるようなもの。
馬鹿みたい。
水戸史学のせいじゃね
薩長は水戸の思想に乗っかって倒幕したわけだし
その水戸が南朝正統を強硬に主張しているのだから
644 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 09:28:36
634です。
皆様、いろいろご説明いただき感謝しておりますが、どうもピンと来ません。
635さんの説明で、逆賊の対象から外れたことは分かりましたが、642さんと同
様の疑問を持ったままです。
646 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 19:25:04
楠木流戦法
第一段
悪口攻撃
敵に対してありとあらゆる罵詈雑言を、汚い河内弁を使って浴びせかける
第二段
うんち攻撃
激怒して崖をよじ登って殺到してくる敵の大集団ににうんちを投げる
煌びやかな甲冑や錦の直垂を汚したくない敵は慌てふためいて将棋倒しの大惨事になる
第三段
壁攻撃
丸太を積み上げてロープで縛って作っていた城の城壁を、ロープを一斉に切断して
将棋倒しになっている敵の上に突き落とす
これで坂東武者は一網打尽
647 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 13:30:46
「南北朝」ではないだろ
「南北武士」だろ
648 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 01:42:52
幕末を扱ったドラマや映画で
大楠公に触れた場面を観た事ないがなんでかな?
尊王攘夷の原動力なんだし
多くの志士が大楠公になりたいとかいって
無駄死にして行ったのに。
649 :
日本@名無史さん:2010/01/11(月) 08:30:07
本当に楠木正成は敗者なのだろうか?
源義経や真田幸村(信繁)は今でもヒーロー。
人気の点では勝者だろう。
正成も勝者なのかもしれない。
3人に共通するのは宣伝媒体があったこと。
平家物語、立川文庫、太平記。
正成が人気あったのは戦前までじゃねーの
今では正しく再評価された尊氏の方が人気ありそう
そもそもこの時代自体人気ねーけど
戦前の軍国主義の時代に戦に勝った尊氏が人気が無く、戦に負けた正成が人気があったとはなw
そりゃあ、大東亜戦争に負けるわけだわなwww
勝ち負けだけで語るならな。
653 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 10:25:08
軍国主義者が負犬を賛美している時点で敗北主義に陥っている。
軍国主義は戦争の勝利が至上命令なのにな。
で、日本が戦争に負けたら、同じく戦いに敗れた正成に同情するかと思ったら
戦いに勝った尊氏を賛美し始めた。
日本人って狂ってる。
654 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 12:50:37
南北朝時代の話しろよカス
655 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 17:56:18
南北朝時代の日本人も狂っていた
今の政治によく似てるよ。
自分の利益のための離合集散。
鳩山=尊氏
小沢=師直
岡田=直義
みたいな?
他人の事を考えていた可能性があるのが
楠木正成くらいと云う。
それだけ人間味があるとも云えるけど。
実際は正成も自分の利益の事を第一に考えていただろう
>>648 漫画だったら「おーい龍馬」で
大楠公に思いを巡らす志士のシーンあるよ
>>651 >>653 天皇陛下に対する忠誠心を水戸学が評価して
その思想の影響下にある幕末〜昭和の
精神性が反映されているんだろ。
イクサに強いか弱いかは別問題。
美化されすぎ
661 :
日本@名無史さん:2010/01/24(日) 16:42:46
黒鉄ヒロシの千思万考で楠木正成を紹介したが、
イラストの右側にナントカ無用と書いてあったが
何無用と書いてあったのでしょう?
正成も本質は、あの時代で言う悪党、利害で動いて湊川を迎えザろうえなかったんじゃねーの。
明治以降、うんまいこと利用され日本人好みに味付けされたよーな感じ。
因みに、赤松円心と正成は縁者、出家した円心の弟の嫁が、正成の姉貴ちゅう事で
二人は義理の兄弟。お互いリスペクトしとったんじゃねェの
利害優先で動いとったら湊川になんか
行かなかったんじゃねーの?
まったくなかったなんてお花畑思想はないけど、
損得利害を押し殺す、それこそ忠義思想の萌芽
みたいなものがあったんじゃないかと思う。
だからこそ太平記の作者が気に入って
より日本人好みにデフォルメされた...と。
そういう意味じゃ利に聡く変り身の早い円心は正に悪党中の悪党だな。
664 :
日本@名無史さん:2010/01/31(日) 04:32:59
悪党ちゅうのは現在の悪党とは意味合いが違って
鎌倉幕府にまつろわぬ武力勢力を言うんじゃねーの?
悪党は集団強盗のこと
666 :
日本@名無史さん:2010/02/01(月) 01:42:29
楠木氏は北条氏の御内人だったと本に書いてあったがホントですか?
667 :
日本@名無史さん:2010/02/01(月) 05:15:35
>>666 なんで御内人があんなところでウロウロしとらにゃならんのだ。
669 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:05:09
楠木正成なんて教科書にも出てこない。
この人、なにか偉いんですか。
670 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:16:31
偉い・・・?
歴史上の人物を「偉い」とか「偉くない」とか
判断するのはちょっと。。。
671 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 21:30:38
偉くもなく偉くなくもなくということでいいんですね。
だったらわかります。
よくしらないんですけどこの人を忠臣とか何とか持ち上げてる人がいるものですから。
そういう人たちって穢いでしょ。徳川中納言を筆頭に。
>>649 宣伝媒体の存在は一番大きいからなあ
竜馬や新撰組だって司馬遼太郎が持ち上げなければどうなっていたことやら
673 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 17:42:08
第二次世界大戦終了までは楠木正成は、
かなり持ち上げられていたのではないかな?
戦後は、皇室との関係もあり、封印されたのに近い形になり
忘れられたようになったのかもしれない。
局地戦の戦術に力を発揮しただけなので、戦略や政略、政治などまで
含めた評価となると未知数な部分が多いので、総合的能力で比較されると、
多くの英雄たちに比べて、忘れ去られた存在になるのは仕方ないだろう。
675 :
日本@名無史さん:2010/02/22(月) 23:20:46
イザナギーーーイザナミ
l
l
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
l l l
l l l
アマテラス スサノオ ツクヨミ
l
l
アメノオシホミミ
l
lーーーーーーーーーl
l l
ニギハヤヒ ニニギ
l
l
熊野国造
l
l
和田国造
l
l
楠
これで会ってる? とすれば天皇に忠義を尽くすのはよく分かる
676 :
日本@名無史さん:2010/02/26(金) 23:24:27
特殊部落には南朝は大人気だったな
677 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 01:43:07
天皇家は南朝と北朝
21世紀の歴史家はどちらを正統としているのかな?
678 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 19:35:21
>>666 最近出版される鎌倉末・南北朝期の本は「楠木氏は北条氏の御内人」説が多いな。
駿河国楠木庄の出身だとさ。
梅津一朗「楠木正成と悪党」
筧雅博「蒙古襲来と徳政令」
村井章介「分裂する王権」
679 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 17:39:08
>>646 うんち攻撃ワロタw
忠臣っていうと少し頑固な感じがするけど楠木正成はすごく柔軟だよね。
一度でいいから汚い河内弁っていうのも聞いてみたいなあ・・・
680 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 10:57:39
いろいろな戦術を考えることができたみたいね。
戦国時代に生まれたら、名だたる武将、あるいは軍師になっていただろう。
681 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 11:13:10
戦国時代に生まれたら足利将軍を助けるほうに回ったかもしれない。
682 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:27:15
そんなはずないだろ。
生まれながらの忠臣である大楠公が逆賊の足利を助ける?
ふざけるのはお前の面だけにしておけ、反日ブサヨ
683 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 03:29:06
楠木氏に関するこの世の最高傑作ともいえる小説を俺は知ってる。
でも教えない。
684 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 06:11:58
685 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 06:41:31
楠木正成=北条政子が嫌い
織田信長=日野富子が嫌い
意味不明
687 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:10:15
糞尿攻撃を駆使して幕府の大軍を相手に糞戦・・・もとい、奮戦する正成軍であった(´艸`)フ゛ハッ
688 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 21:49:15
太平記は司馬遼太郎の小説のようなフィクション?
689 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 07:58:44
神戸市兵庫区門口町の福厳寺〔臨済宗 南禅寺派 別格地〕は後
醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。
690 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 22:02:11
国内の戦闘の規模でいえばこの時期が日本史上最もスケールが大きい。
千早城、赤坂城攻めの北条軍はなんと総勢100万。
他の時代、源平時代でも戦国時代でも幕末でも最多動員は30万程度(大阪夏の陣の徳川側とか)。
もちろん北条100万は誇張があるとは思うが、
それだったら他の時代だって同じ。
691 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 13:52:30
隠岐から逃げた後醍醐は神戸の福厳寺に入ったために頭痛に悩まされます。
なぜ頭痛に悩まされたのでしょうか?その後近くの薬仙寺の井戸水がご利益
があり、それを飲む事で頭痛は完治します。なぜ福厳寺の井戸水を帝は飲ま
なかったのか?それは福厳寺は鎌倉幕府ゆかりの鎌倉の巨福山建長寺の直系の親幕府
派だったのです。巨亀山 福厳寺は山号と寺号の頭文字を合わせると巨福となり、
鎌倉建長寺を表しています。帝は毒殺もしくは、毒を盛られたことを警戒したに違いあ
りません。その後楠木正成が福厳寺に帝を迎えにはせ参じました。
692 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 18:24:25
後醍醐天皇が、聡明な天皇なら日本の歴史は変わった。
693 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 18:07:23
いまの皇室は北朝の流れなのに南朝の皇室が人気なのはなぜ?
694 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 04:59:15
北朝も南朝もちょっと遡ればルーツは一緒だから問題ない
695 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 18:03:40
山田風太郎先生の解釈では
「『正成は、たとえみかどが天魔鬼神でおわそうと、
必ずお護りして死ぬものと覚悟を決めておるものです。
……私は決してマトモな男ではありませんぞ』
――あなたとは違うといっていたが、あれこそ婆沙羅だ。
それも、狂気めいているという点において、とほうもしれない大婆沙羅だ!」
これはどうなんだろうね?
>>672 なんでもかんでも司馬遼太郎起源と決めるのは如何な物ですかね?
坂本龍馬の宣伝は明治時代の「汗血千里駒」が最初ですし、
新撰組の方は有名な「新撰組始末記」が在るじゃないですか、と……
696 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 01:30:51
毛利とのつながりは倒幕として?
697 :
月孔雀:2010/08/14(土) 10:17:38
昔、東京駅から皇居周辺をふらついていた時に、偶然、
楠正成の銅像を見つけました。格好良かった。
けど、見物人も誰もいなかった。
人気ないのかな?
上野の西郷さんは、ホームレスでいっぱいだけど。
関西の下品で不潔なおっさんに人気が出るわけないだろ
699 :
無双立花宗茂:2010/08/21(土) 06:33:05
鉄砲が無い時代だから石や糞尿は飛道具としてかなり威力
しかし、学生運動で石に当たった隊員はあまりいない無駄弾丸で、楠木のも疑問だ
藁人形だって鎌倉プロ軍が本気で間違えるか?
たぶん、千早城の地のりを知り尽した楠木の天王寺での敗戦ゲリラ戦だと思う
700 :
無双立花宗茂:2010/08/21(土) 06:52:57
隠れ水源の知識もあった事
南北朝黒幕、醍醐寺の文観と後醍醐の仲は良く、寺勢トップとして武家政治を批判
挙兵失敗の後醍醐を助けた文観系の真言寺院は修験道と一体化していた
千早の後ろ金剛山は転法輪寺は大和と河内に塔頭・子院があり、大和側の寺下は五条から吉野・大塔宮拠点で後醍醐の本拠
だからあそこはゲリラ地でベトコンバリの戦いが出来た
ここの皆、知ってる事だったと思うけど
楠木のスレ見つけたんでつい
最後に藁人形の正体は黒幕に操られた楠木自信なのかな?
それに
太平記に「この山の水源は山伏の知識を知った」と書いてある
山伏とは金剛山主峰にある転法輪寺に行く修行者
まあ、ラスプ-チンは文観は小沢
ノロノロ踏ん切りの悪く、矛盾してるが現実な的はついている尊氏は管総理か?その尊氏が「没収地返付令」で武士の支持率を上げると、光厳上皇をかつぎだし「正義の軍」院宣を貰う
尊氏は醍醐寺の報恩院・文観のライバル三宝院・賢俊を抱き込み醍醐寺勢力を分裂、怒濤の勢いで都に押す
見事に北朝・足利ラインを形成
後醍醐またもや叡山に逃げるが頼りは新田だけだが巨人尊氏はイケイケドンドン
703 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 22:40:57
もうすぐ、名称の采配(2010年8月23日22時55分、NHK総合)で、
楠正成登場するそうです。
時間のある方は御覧になるのも良いと思います。
見た
楠木正成って酷いな
京都で市街戦をしようとした
足利軍を京都へ誘い込んで兵糧攻めにしようとした
京都の民衆悲惨な目にあうぞ
やはり楠木は所詮悪党
それは皮相なものの見方だな
もうそれしか手がなかったんだから
さすがに後醍醐天皇もその戦略は飲まないだろうことは半分わかった上での提言して
覚悟を問うて予想通りはねつけられたから従容として次善の策として自ら玉砕したんでしょ
そうして後醍醐天皇が護った京都も百年後に応仁の乱で燃えてしまったことを思えば歴史の
皮肉と言うほかない
当然仮冒
708 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 09:52:32
楠一族は滅亡したと聞いたが。
本物の子孫が残っているのかな?
709 :
日本@名無史さん:2010/08/29(日) 09:42:00
全国の楠木末裔と称する人々によって楠木同族会が結成されたらしいよ。
正式な史料に基づく楠木一族の末裔というものは確認されていないらしい。
明治時代に楠木正成の子孫を表彰しようと国家権力を用いて調査してすら
確かな史料が確認できなかったらしい。
ということで現在の楠木氏末裔の方々はそういう「言い伝え」があるという
ことにとどまります。
後醍醐天皇は既に何度か京都脱出やってるのに、なんで湊川の戦いの前だけは楠木の
献策をいれなかったんだろうね。
京都が戦場になるのがいやだった?それとも建武新政でせっかく手に入れた権力が
京都から脱出してしまえば、またなくなってしまうことを恐れた? あるいは近親たちに
反対されたか。
711 :
日本@名無史さん:2010/08/29(日) 19:32:36
>>704 あんた小学生かw
>>710 後醍醐に限らず、天皇とその周辺の公家は世間知らずの能天気。そのくせ、プライドだけは無意味に高い。
すべてをそこから発想すれば答が出てくるんじゃないの。いずれにせよロクな根拠じゃないよ。
いろんな歴史書を読んできた人はみんなそう感じてるだろうけど・・・。
天皇さんは好きだけど、いまみたいな象徴制、公家特権は認めない、のがいちばん。
>>711 大企業に採用されて子会社に片道切符で出向させられた人みたいなもの。
エリート社員の自覚は強いが、本体で生き残れなかった鬱屈した気持ちが、
全部子会社のプロパーに対するいじめに向かう。
本体で生き残れなかったのは、自分の能力が無かったからなのに。
同様に天皇家が政権を失ったのも、自らの失政に起因するだけ。
なんてことは無い。今の時代にもミニ後醍醐はいくらでもいるよ。
そんな人に最後まで命を預けたことに、後世の人は感銘を受けたんじゃない?
だから楠木正成は忠臣と謳われている。
でもそれは、『私たちにはそんな馬鹿な真似できませんよ』という、皮肉が込められているのかも。
713 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 22:07:50
>>711 「太平記」は南朝方武家側から書かれたものだからなあ。
女車で内裏を脱出して笠置へ逃れたり、
隠岐から再起する後醍醐天皇の行動力は見事なもの。
能天気でプライドが高いだけなら笠置の山奥をさまよい歩いたり
隠岐の小舟に乗ったりしないだろう。
結局、後醍醐の周辺にいた新田などが後醍醐を足利に渡すべからずと
戦況を正しく伝えず勝ち戦のようなことを言っていたからでは?
後醍醐は公家の意見を取り入れたのではなく新田の意見を取り入れたのであって
楠木は新田の下で働くように後醍醐に命じられて討ち死にした。
この責任の第一は新田義貞にある。
714 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 00:34:21
井沢元彦氏は逆説の日本史の中で後醍醐天皇のような無能な方に
忠節を尽くしたから忠義の武将として楠木正成は賞賛されたと
書かれていたように思う。
なるほど、井沢先生お得意の『怨霊鎮魂』というわけですね。
死んでまでクソミソでは立つ瀬が無いですからね。
さすがに用兵の下手な新田は、その最期について太平記だか梅松論だかに、
『サシタル功もナカリセバ』と書かれている。要は犬死ということ。こちらは手厳しい。
それだけ楠木の用兵が巧みだったのでしょうね。判官びいきの南北朝版でしょう。
井沢のは小説
参考にもならない
>>715 かき集めても数百の軍勢しか集まらない正成。
一声かければ数千の軍勢が集まる義貞。
何もしなくても数万の軍勢が集まる尊氏。
これが武将としての器の違い。
718 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 09:03:08
>>718 それは家柄の違いだろ。
武将としての器は太平記をみるかぎりでは
正茂>義貞>>>>>>>>>>>>尊氏
といった感じ。
最期が犬死にだったにしても「用兵の下手な新田」というイメージは当時の資料にはない。
719 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 09:04:56
失礼、718→717、正茂→正成の間違い。
720 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 10:26:16
正成の家臣の末裔は結構いるだろうね
721 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 11:58:40
>>718 新田が戦下手なことは尊氏が後醍醐天皇に上表した文章(太平記)にもある。
結局、義貞は錦の御旗があっても尊氏相手に一勝もできなかった。
奥州から引き返し尊氏を追った公家出身の北畠顕家・親房親子の善戦のほうが目立つ。
722 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 14:59:35
>>715 >『サシタル功もナカリセバ』
それ、太平記(梅松論でもいいが)のどこに書かれてるんだ?
>>718 「武将の器」が「戦上手」という意味ならその並びであってるかもしれん。
しかし、そもそも太平記の中で「武将」という単語を冠せられているのは尊氏と義貞だけ。
太平記における「武将」とは武家を統べる格の高い存在の意味として使われた。
よって太平記での武将の器は
尊氏>義貞>>>>>>>>>>>>>>>>>>>(超えられない壁)>>>>正成
ということになる。
一応断わっとくけど別にこれは正成を貶めているわけではない。
723 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 15:03:52
>>721 尊氏の上奏文=政敵(義貞)を政治的に誹謗し貶めるプロパガンダの類い。
そんなもの戦下手の根拠になどならん。
てか、あんた太平記ほんとに読んだことあるの?
太平記を普通に読めば、そこでの新田はとても戦下手とはいえないし
北畠なんて殆ど目立たない扱いしかされてないのに。
724 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 15:28:45
>>723 読んだ上で言っているんだが?
太平記以外のものも読んでいるがね。
太平記では新田もののお涙頂戴話が多いので
感情移入してしまうかもしれないが
通史などを読めば戦況が客観的に分かるよ。
ここは楠木スレだが、君は楠木が死んだ責任は新田にはないと思ってるの?
725 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 21:45:59
正成戦死の責任は75%は後醍醐、20%は正成自身、義貞5%だろ。
そもそも、南朝にとって
義貞>>>>>>>>>>>>>>>>>>永遠に越えられない壁>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>正成
くらい、価値の差があったんだから、正成が義貞のために命を捨てるのはあたりまえだ。
義貞は南朝麾下で唯一尊氏に対抗できる武士であり、唯一全国の武士をまとめる資格がある武士だったんだから。
正成程度の土豪などいくらでもスペアがある。
726 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 21:56:09
正成は戦術も去ることながら天皇への揺ぎ無い忠誠心を評価される人物
>>725 現代の世に現れた後醍醐帝と取り巻きのお公家衆みたいだね。
>>726 仮名手本忠臣蔵の書き出しに、『佳肴ありと雖も食せざればその味わいを知らず』というのがある。
忠臣というものがどういうものかを知るには、正成を見ればいいのでしょう。
最期まで自らを駒としか思っていない人のために、命を捨てたのだから。
忠臣と呼ばれる人は多いけれど、実際に食された人はそうはいない。
728 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:23:39
>>727 史実を無視した妄想水戸学に脳を汚染されたお花畑皇国史観マンセー主義者みたいだね。
義貞亡き後、南朝方で総括的に軍事を指導できる人物がいたか?
正成は、どう頑張っても義貞の足元に及ばないんだよ。
義貞でさえ苦心した、守護クラスの有力武士がどこの馬の骨だかわからん某正成とかいう卑しい出自の男の言うこと聞くとでも思っているのか?
南朝にとって、正成の戦死はちょっとしたアクシデントに過ぎなかったが、義貞の死は軍事的敗北が決定した死亡宣告だったんだよ。これは現実だ。
どうでもいい妄想に生きる人間にとっては目を背けるべき暗黒史だろうが。
この時代は、既存の価値観が根底から揺らいでいた時代という認識だけど、
やっぱり家柄ということなの?
だとしたら新田に縋らざるを得ない南方は、その時点でthe endだね。
家柄に実力が伴っていなかったから。
730 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 23:45:36
家柄に実力が伴っていなかったのは足利のほう
足利政権のしまりのなさ、滅茶苦茶さはまるで現在の民主党みたい
731 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 00:14:00
>>729 平安後期〜鎌倉前期に比べるとだいぶ緩んでは来たが、家柄も実力のうちだよ。
当時、鎌倉殿の後継者としては、尊氏が自他共に認める最有力候補だった。
後醍醐は尊氏を懐柔しつつ、尊氏が最も欲しいものは与えなかった。そして、その対抗馬として同族である義貞をとりたてて牽制した。
尊氏もそれを意識していたから、挙兵時に義貞を逆賊だとして討つことを宣言している。正成などアウトオブ眼中。
>>730 きちんと歴史勉強していないな。
鎌倉幕府に比べると室町幕府はかなり強力だ。武家全体が実力アップして朝廷が幕府の愛玩犬に成り下がっている。守護大名の雄飛にばかり目が行きがちだが、全国の武士を指揮する権限も持っているし、政権としては鎌倉幕府と比較しても完成度が高い。
>尊氏が最も欲しいものは与えなかった
征夷大将軍ですね。征東将軍の位なら贈って来たけど。
>正成などアウトオブ眼中
河内守に任じている。確かに他の武士への命令権のようなものでは無いですね。
自身の勢力圏を支配する根拠を後付けで認めてあげたようなもの。
733 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 07:12:47
>全国の武士を指揮する権限も持っているし、政権としては鎌倉幕府と比較しても完成度が高い。
法体制としては鎌倉幕府よりも権限が強化されていた。→実態は慢性的内戦・地域紛争状態。
ということは歴代足利将軍家の無能・異常ぶりがますます際立つんじゃね?
鎌倉幕府全体が室町幕府より脆弱で、そのなかで執権職などという立場にすぎなかった北条氏が、朝廷・幕府、御家人間の複雑な利害関係をなんとかまとめていたというのは凄いね。
家柄的には無理だったけど、楠木一族や新田一族が足利のポジションにいたら、「あの時代」、もう少しまともになっていたかもな、わからんけど。
734 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 15:01:53
>>725 ずいぶん高く評価する割りにあっさり滅んだね>新田。
そんなに力があるなら子や孫の代まで室町幕府を脅かすだろうに。
楠木や北畠の子孫のほうがしぶとかった。
まあいつの時代も結果が全てですからね。
当時の2枚看板の1枚が、あまりにも弱くて自滅しちゃったような感じですね。
新田のだらしなさのおかげで、楠木が引き立っている部分も無視できない。
736 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 21:45:15
>>733 鎌倉時代も幕府内の武力抗争が激しいんですけど?
鎌倉幕府で執権が強大な権限を持った反省から、室町幕府では管領を複数の家での持ち回りにするなど権限を抑制したわけだな。おかげで将軍の権限が強力で、そのパーソナリティーに政治が左右されることとなったな。
>>734 義貞のことは高くなんか評価していないよ。現実を述べただけ。楠木正成の評価が過大なだけだ。
義貞の息子や孫は関東で度々兵をあげて、一時期鎌倉も占領しているが?
室町時代を通じて目の敵にされた新田義貞の子孫は問答無用で討伐対象だったからな。「朝敵」が投げ捨てた残飯目当てに尻尾振った楠木某とかいう裏切り者とは大違いだよ。
>>735 足利と新田では、同族とはいえ鎌倉時代に差が開きすぎており、建武政権成立後の数年でその差を埋めるにはどだい無理がありすぎた。
まあ、どこの馬の骨かわからん楠木某とかいう出自の卑しいのなんかは問題外だけどな。まだ結城とかの方がマシだろ。
737 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 22:42:04
>>736 「太平記」で愛妾匂当内侍との別れがつらくて出だしが遅れて
負けたと書かれる義貞、カワイソウ
どうも勇敢で獰猛な武士、という感じがしないんだよな
尊氏に一勝もできなかったのも弱すぎだ
奥州からの北畠の援軍なしに新田が尊氏を京から追ったとでも
いうのか
>>733 そのくせ最後は、管領は細川氏に独占されてしまった。
室町幕府は豪族連立政権の色合いが濃いようです。
それもこれも、草創期に南北朝の争いがあったから。
人生も政治も何もかも最初が肝心のようです。
739 :
日本@名無史さん:2010/09/01(水) 23:36:20
>>737 そもそも勾当内侍は太平記の創作ファンタジーというのは歴史好きなら小学生でも知っていることだろ。
100歩譲っても、それほど後醍醐が義貞を頼りにし、気をつかっていたということが浮き上がるだけ。全く無視されて何一つ貰えなかった護良親王の元郎党の楠木某との扱いの差が際立つだけだ。
>奥州からの北畠の援軍なしに新田が尊氏を京から追ったとでもいうのか
これを言い出したら、「一人で義貞に一勝も出来なかった尊氏」とも言える。
ましてやこのスレの主人公である楠木某については・・・論外だね。
太平記の主題は『欠徳の君主は滅ぶ』であり、その欠徳の君主に最後まで
仕えた楠木という人物を美化することで、後醍醐のワガママをあぶり出す
意図があると思います。
忠臣というものは、君主がどんなに腐っていてもその命に従う者を言うのです
というワケ。
そう考えると、新田のだらしなさも楠木の組織内での孤軍奮闘を印象付ける筆致でしょう。
そもそも読み物ですから、全部を信じるのはいかがなものかと。
なんで後醍醐は正成を冷遇したのかね。
まあ、正成の出身身分からすれば破格の出世ではあったけどね。
護良親王失脚とともに失脚しているから、護良親王の配下とみられていたんだろうね。
742 :
日本@名無史さん:2010/09/02(木) 10:39:14
小楠公は結局父親を越えることはできなかった
743 :
日本@名無史さん:2010/09/02(木) 18:22:28
楠正成は日本史史上有数の武将、
超える人はそうそういない。
何を根拠に?
>>741 プロ野球に例えると、球団職員ですらなかった選手を一軍の試合に抜擢したら連日の大活躍。
楠公とはそういう人物。
こういった扱いは、もともと監督(護良親王)がやること。
オーナー(後醍醐帝)にしてみれば「スタメン入り」以上の待遇はあり得ない。
もともと家柄(権威のある家門)が悪いのだから、動員力なども知れている。
キャプテンをさせるわけにもいかないだろ。みんな言うこと聞かんわ。
逆に言えば、南朝軍の選手会長である新田が、プライドを捨てて戦略の立案から実行
采配に至るまでを任せるしか南朝勝利の方法は無かった。
正成は選手会長の名前で指示が出せるし、新田もそれを是とすればいい。
でもみんなそういうことは認めないですよね。近くはあさま山荘事件の時の、
キャリアと長野県警の対立みたいなものなわけで。
でも、足らないところは能力ある人に任せるのが、最高の指揮官なのかも知れません。
薩摩に暗君無しという言葉もあるしね。
>>724 なに、責任?????
一体どういう歴史感覚持ってるとそんな言葉が出てくるのかね?
楠は武士だぞ。
武士が戦場に臨むからには死は覚悟の上だろうよ。
そもそも戦争をする以上、
正成だってこれまで相当多数の家の子郎党を死なせているんじゃないのか?
あんたは正成にその「責任」は問わないのか?
馬鹿馬鹿しい。
「歴史法廷」の裁判官にでもなったつもりなんだろうけど
いかにも小市民的な現代の価値観で
歴史上の人物を断罪してみせようだなんて、ほんとうにくだらない。
>>724 政治的なデマでしかない尊氏の上奏文ごときをまっ先に「戦下手」の論拠にしてしまうような
人間が「客観的」判断?
そもそも「太平記」が主観だらけで、現代の通史は客観的だなんてことがどうして言える?
通史だって現代の歴史家が書いているんだぜ。
書いている歴史家の主観とか先入観から自由でいられるはずがないんだよ。
特に新田義貞については戦後の学者は共通して特定の先入観と主観の下に
決めつけるような記述が多過ぎる。
それに通史を読んだくらいで用兵の上手下手なんてわかるわけがないんだよ。
実際の戦場はゲームなんかと違って、
個々の戦場でそれぞれが異なった条件下で、異なる立場で、異なる相手との戦いを強いられているわけで、
それらを全部一律に比較なんか出来るわけがない。
つまり、異なった戦場での働きを比較して
北畠のほうが新田よりも用兵が優れている、
なんて言い出すのは安直以外のなにものでもない。
それこそ特定の印象だけでものを言っている類い、完全な「主観」だな。
個々の戦いを詳細に検証もせず、
ただ通史読んだ印象だけで「客観的」だと自分を過大評価し、
用兵の上手下手まで言い出すなんて滑稽だよ。
>>724 ところで太平記以外にも色々読んでいるあなた。
>>715についての見解を聞かせてくれないか?
引用元についても教えてくれれば有難い。
>>734 「あっさり」滅んでるか?関東と越後では1370年くらいまで活動していたけどな。
九州に渡って菊池一族と組んだのもいた。
ここで「あっけなく」とか「だらしがない」とか、
非常に主観的なこと言う人は、何か基準となるものがあって言ってるのかね?
普通に考えて、建武2年から延元3年までの4年間、
「新田・足利の国争い」とまで言われた時代があり、
そりゃ南北朝争乱60年というスパンでみればその中のごく短い歳月かもしれないが
でも実際問題、日本の歴史において4年もの間、特定の両者が覇を競った関係というのは、そうは無いんじゃないのか?
関ヶ原の戦いは伏見攻めから換算したって3ヶ月に過ぎない。
保元平治の乱、いずれも短期で終了。
承久の乱にしても承平天慶の乱もそんなに長くは続いていない。
例外的に長いのは前九年の役だが、
あれとて天下を震撼させたというよりは局地における平定戦で
天下をまっぷたつに割っての戦いとはいえない。
そうなるとあとは源平争乱(治承寿永の内乱)がおおよそ4年間ということになるが、
「たった4年で負けた平家はだらしがない」なんていう話はあまりきかない。
それなのにどうして新田だけだらしがないだの、あっさり滅んだとかいう話に
ここではなっているんだか、正直よくわからんね。
まぁ確かに義貞・義助、兄弟共に最期があまりに唐突であっけなかった、
というのにひきかえ、
楠木は父子揃って散り際が花々しいから、
そのあたりの印象の違いは大きいんだろうけど。
でも誰かさんお得意の論調でいえば、それは「太平記」が思いっきり盛り上げただけで、
そんなものに「感情移入」しちゃいけない、
実際には楠なんて僅か数時間の局地戦であっけなく決着をつけられたんだ、という言い方だって可能だろ?(笑
まあいずれにしても楠北畠にくらべて新田がだらしがないとか言うのは
大衆は実質よりもイメージだけで物事を全て分かったように語るっていう典型例でしかないと
オレは思ってるけどね。
>>737 >尊氏に一勝もできなかったのも弱すぎだ
おいおい。京都から一度は追い落としているんだが?
これを一勝にカウントできないというのなら
その後の北畠の上洛戦も「ただの一敗」以外のなにものでもなくなるぞ。
結局は都を奪回できなかったんだから。
>奥州からの北畠の援軍なしに新田が尊氏を京から追ったとでもいうのか
そんなことまで言ってない。
ただ、数的に劣っていればどんな名将でも苦戦するのは当り前だし
「太平記」の記す兵数は誇張が多いというのが定説にしても、
新田軍が常に足利軍よりも少ない数で戦っていたのは間違いない。
つまり北畠が奥州から兵を連れて来てくれたので両軍の兵力が拮抗し、
義貞の指揮によって足利軍を都から一掃できた、ということ。
ちなみに足利軍が奥州勢上洛の報を耳にしたとき、
「義貞に勢のつかぬうちに早く討ち取ってしまわなければ大変なことになる」
といって比叡山を遮二無二攻めはじめる下りが太平記にあるが、
要するに尊氏が脅威に感じていたのは義貞が第一であって、
要は義貞さえ討ち取ってしまえば、その後で北畠が来たって何とでもなる、
と考えていたということでもある。
そして事実その通りになった。
北畠の2度めの上洛戦にしても、破竹の勢いにまかせて進んできたはいいが、
結局は都を奪回できなかったし
これを「1度めは新田軍と合流したからこそ都を奪還できた」という見方だって
出来るわけだな。
↑
あ、「義貞に勢のつかぬうちに」の「勢」は「いきおい」の意味じゃなくて、軍勢のことね。兵の数。
要は「義貞に大軍を持たせたる前に叩け」ってことだね。
>>746 >逆に言えば、南朝軍の選手会長である新田が、プライドを捨てて戦略の立案から実行
采配に至るまでを任せるしか南朝勝利の方法は無かった。
正成は選手会長の名前で指示が出せるし、新田もそれを是とすればいい。
だから、そういうのは「太平記」以降の講談とか水戸史観とか小説ドラマなんかから来る
先入観でしかないんだってば。
楠木正成といえば諸葛亮孔明のような神算鬼謀の神将、というのは
後年になって大衆心理が増幅させた幻影なんだよ。
実際には、正成には大軍を率いて大軍を打ち破ったという「実績」は全く無い。
地の利を生かし、ゲリラ戦を巧みに展開した、という事実はあっても、
それがイコールあらゆる作戦においても素晴らしいという保証にはならないんだよ。
誰か野球にたとえた人がいたからオレもたとえると、
バントの名手・守備の名手が、イコール破壊力満点のホームランバッターである保証はない、ということだ。
だから「新田ではなく楠(北畠でもいい)が作戦を差配したら勝てた」なんていうのは、
三方原の戦いは家康ではなく戦上手といわれる本多忠勝の采配で戦ったなら勝てた、
とか言い出すようなもので何の根拠もない駄説とか思い込みでしかないの。
どうしても楠木殿がお嫌いな方がおるようで...。
いや、むしろ新田殿の評価が低すぎるのが気に入らないのか?
諸葛亮も大群を操るより寡兵を持って大軍にあたる印象がある。
馬鹿殿はすっこんでて
どうしても敗者の評価が低くなるのは仕方が無いよ。
ましてや尊氏と並ぶ巨頭だったのだから。
土豪勢力の楠木と新田の政治的立場は異なるわけでしょうし。
つまり『絶対に落命してはいけない』ことが自分の使命ということに、
新田は気付いてなかったということです。戦場で一兵卒と同じように
命を落とす大将を高く評価できますか?
評価とかどうでもいいんです
能力に関係なく、それぞれの置かれた立場によっても戦い方も違ってくる
楠木が「うんち」を投げても問題無いが、新田が「うんち」を投げたら
離反する武士が続出するだろう
当時の日本で、『勝ちさえすれば、戦の内容はどうでもいい』という概念が
どれだけ浸透していたかでしょうね。おそらく新しい考え方だったのでしょう。
だから太平記にも記載がある。珍しくなければ書く必要もない。
>>757 歴史に興味ない一般人なら単純に「勝者=礼賛、敗者=ダメ」で も仕方ないが
曲がりなりにも歴史板だろ?
表層だけ見て短絡的に決めつけるような行為は歴史好きなら自戒すべきじゃないか?
まあそれはともかく、最後のところは太平記の義貞の最期についての評価と一致するものだね。
ただ、それでも太平記は、その最期は別として義貞を高く買っていた。
それと「絶対に落命してはいけない」などという考えは当時の武士には無い。
>>755 スレ違いを承知で書くけど
諸葛亮も多分に後年のイメージで過大評価になっているんじゃね?
司馬懿との対陣がよく名人戦のように言われるけれど
あれでは蜀としては時間の経過とともにジリ貧になるだけ。
三国志では糞味噌に書かれているがギエンの献策はそれほどひどいものだったのか?と思う。
リスクを冒さずして蜀が突破口を開くのは無理だったんだし。
>>761 >歴史に興味ない一般人なら単純に「勝者=礼賛、敗者=ダメ」で も仕方ないが
曲がりなりにも歴史板だろ?
歴史は勝者の手によって作られ、記録は勝者によってなされる。これは基本中の基本。
それと「絶対に落命してはいけない」などという考えは当時の武士には無い
思考の有無ではなく、『南方の武士に自分の代わりがいない』という現実に
気付かないのが将としてどうかという話。大局観に乏しい。
>>755 オレは何も正成が嫌いで言ってるんじゃない。
ただ世間からの評価が著しくバランスを欠いているといっているだけだ。
正成が名将というのに少しも異論はない。
だが多くの武士を束ねて敵の大将と堂々の布陣をはって勝ったという実績が無いのは事実だし
ましてや彼が采配をふるえば南朝は勝てたなどとはとてもいえないってことだ。
そもそもどんなに優れた用兵術を持っていようと、
大将の思い描いた絵図通りに手足のように動いてくれる兵隊がいなければ意味はない。
当時の軍編成の特質を考えれば、一人の大将の采配に一糸乱れず統率されて
戦うなんてことがいかに至難であったかは容易に想像がつく。
おそらく正成の意図通りに動ける兵隊というのは正成子飼いの家の子郎党だけだったろう。
正成の手足のように動く手兵だけで戦っていたからこそ神出鬼没のゲリラ戦も上手くいっていたわけで
もしそうでない多くの寄せ集め軍隊を指揮しなければならなくなったとすれば
正成も相当な苦労をした筈だ。
まあ一般庶民としては、家柄の低い正成が、
高い門地の義貞に頭を押さえつけられていたから負けたんだ、というような、わりとわかりやすい図式に
自身のルサンチマンを投影して考えたいのもわからんでもないが、
現実は、もし正成が南朝の総大将だったなら
義貞よりもっとひどい事態になっていたとオレは思う。
>>763 気付いていなかったかどうかなんて誰にもわからんだろ。
どれだけ頭でそう思っていても、戦場に出る以上はそんなこと言ってられない局面に陥ることもあるんだから。
そのくらい想像しろよ。
>>763 >歴史は勝者の手によって作られ、記録は勝者によってなされる。これは基本中の基本。
何を居直っているのかわからんが、
それが表層なぞっただけの短絡的な評価を下していい根拠になるのか?
あんた自身は歴史の勝者でもなんでもないんだから、
どんな形であれ残された歴史を多角的に検証しなきゃダメだろ。
>>765 だから、結果なんだよ何事も。
特に何万もの兵の命を預かり、政権の興亡をかけて戦う大将はね。
この不景気と円高は想定外だから、現政権に責任は無いと思う人がいたら、
それは余程のバカというもの。不測の事態を想定し、自身の持つ権限を
駆使して対処するのが将の役割。古今東西、文武いずれの面でもね。
どうしてこの板の住人は、結果を出さない人物に甘いのだろうか?
>>767 歴史を勉強するのにいちいち被害者加害者だの結果責任の有無だのというサヨクチックな
見方しかしようとしないなんてどうかしているよ。
オレに言わせりゃ直接被害にあっているわけでもない歴史上の人物に対して
現政権に求めるような辛辣な見方しかしようとしないあんたの考えの方が不思議でしょうがない。
前にも書いたが、あんた「歴史法廷」の検察官みたいな立場に自分を置くことに快感覚えてるだろ?
くだらないね。
とにかく現政権の責任と歴史の検証とは全く次元の違う話。
もしあんたが現政権の被害者だという意識が強いなら
こんなところでゴチャゴチャ言ってないで積極的にそういう活動すればいいだけの話。
曲がりなりにもミンシュシュギ社会なんだから道は開かれているし
文句や批判だけ言って自分では何の行動も起こさないようじゃ
えらそうに歴史上の人物の批判なんかする資格は無いと言われてもしょうがあるめえよ。
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