1 :
日本@名無史さん:
もし、文室浄三あるいは文室大市が皇位に即位していたら?
を考察してみましょう。
つか百川をぶっ殺しといたほうが歴史が変わってたかも
3 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:19:49
まず、長岡京遷都及び平安京遷都が無かっただろうな。
綿麻呂あたりが桓武の役回りか?
秋津くらいが嵯峨の役回り?
5 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:24:47
6 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 22:25:59
7 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 22:43:36
>>4 藤原北家じゃなく、大伴氏が摂関家の役回りになったりするかも。
吉岡平だったかの小説で大伴家が摂関家って言うのがあったな。
確かタイムスリップかタイムパトロールもんだったけど。
9 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 07:46:01
文室真人系の公家って、あるのかな?
10 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 17:42:02
>>6 , イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii / Λ
,イ// ^ヽj(二フ'"´ ̄`ヾ、ノイ{
ノ/,/ミ三ニヲ´ ゙、ノi!
{V /ミ三二,イ , /, ,\ Yソ
レ'/三二彡イ .:ィこラ ;:こラ j{
V;;;::. ;ヲヾ!V ー '′ i ー ' ソ
Vニミ( 入 、 r j ,′
ヾミ、`ゝ ` ー--‐'ゞニ<‐-イ
ヽ ヽ -''ニニ‐ /
| `、 ⌒ ,/
| >┻━┻'r‐'´
ヽ_ |
ヽ _ _ 」
ググレカス [ Gugurecus ]
( 2006 〜 没年不明 )
11 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:41:36
12 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 20:19:05
天武
13 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 19:47:11
臣籍降下していたんだな。
14 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 21:41:49
真人?
奥さんも皇族だったよな
16 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 17:50:16
茨田郡王だっけ? もちろん系譜不詳
18 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 22:14:22
天武系の氏族でも、清原真人の系統は江戸期でも公家で堂上家として存続しているよな。
文室真人の系統は存続しなかったのか?
江戸期の清原氏は元海氏(宿禰だったかな)のなんちゃって清原。
一応猶子関係かなにか系譜が結んであるみたいだけど、
少なくとも天武系じゃあないですね。
20 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 08:57:41
>>19 舟橋家は一応天武系を称していたんじゃないのかな?
もちろん仮冒。明経の清原氏はもと海宿禰姓で、天武系の清原とは別系。
22 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 21:43:49
23 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 21:49:42
文室綿麻呂ってカッコイイよね。
24 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:11:53
25 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:13:24
綿麻呂って、何かマシュマロマンみたいなイメージある
26 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:30:52
>>24 坂上田村麻呂との師弟関係というか友情。
薬子の変での恩を忘れずに義を貫いた。
そして征夷大将軍となり武功を揚げた しかも貴種。
27 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:32:35
確か清少納言の父親は本当の天武系清原真人だよね。
この系統は結局どうなったんだ。
あと女系では一番正当な氷上真人、男系でも文室や清原と同格でしょう。
29 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:50:52
30 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:52:11
>>21 婿入りの養子で、女系では天武系じゃないの?
31 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:55:34
吉備真備がんばれ!
頼通の時代になると文室氏は完全に下級官人止まりの問題外、
高階氏はまだ貴族(中流だけど)で頑張ってるな。
33 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 23:59:33
高階氏は一時期、藤原道隆の外戚として栄えていたが、伊周が失脚して没落した。
34 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 09:05:20
35 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 13:26:54
この時期から平安前期は臣籍に降下した人物が皇籍復帰して皇位継承するのは、
問題なしと考えられてたんだな。
だが、称徳女帝が死んだ時点で浄三も大市もけっこうトシだったんじゃないのか?
結構年だが光仁天皇だって大して若いわけではない。
高階氏
成忠系は没落したけど弟の系統が受領系中流貴族としてそこそこ繁栄。
非参議だが公卿となり欲大弐などと称される人物も。
この状況で摂関期を乗り切り、院政期にはいると近臣として活躍。
南北長期までは公卿を出せる中流貴族として存続。
その後は貴族とは言い難いかな?
38 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 14:04:17
百川の祟りじゃ。
39 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 16:57:22
高階真人系は、武家としては江戸時代でも存続しているんだっけ?
40 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 08:50:09
>>33 高階氏は平安末期ごろには院近臣として活躍していたよ。
後白河法皇の寵妃で政治を牛耳り、北条政子を翻弄した
丹後局は高階氏の出身(高階栄子)。
高階氏の血は女系で現在の天皇家にもつながる。
もっとも、公家の高階氏は南北朝時代を最後に公卿から没落。
武家では、足利尊氏の執事高師直は高階氏の末裔。
770年当時
文室真人浄三、78歳、この年死亡。
文室真人大市、67歳(780年77歳で死亡)
白壁王(光仁天皇)、62歳(781年73歳で死亡)
文室氏は、文室真人から三諸朝臣、三山朝臣、また文室復帰と改姓が多いな。
文室真人と文室朝臣があるようだし。ややこしい。
三諸朝臣への改姓は光仁系の対抗馬だったことからの遠慮?
ほとぼりが冷めた孫の頃に本姓復帰?
穿ちすぎだろうか?
43 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 08:54:46
高階真人は、長州藩の家老として、幕末まで存続している。
聖武の兄弟らしい石川広成の系統はその後どうなったんだろう?
血統だけなら一番正当性が有りそうだけど。
良峯朝臣みたいなもので論外なのか?
45 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 20:26:06
姓も、「真人」が残って居ればなあ。
「源朝臣」じゃなく「源真人」となっていたかもしれないのに。
(もともと「真人」は皇族が臣籍降下した時のものじゃなかったのかな?)
清原真人氏
致信(?〜1017:元輔の子、清少納言の兄弟)、1017年殺害、当時前太宰少監
為成(946〜1025、80歳:元輔の子、清少納言の兄)、雅楽頭(1011時点)→五位(1018時点)
順成(生没年不明:元輔の孫、為成の子、清少納言の甥)、帯刀(1016)
11世紀初め頃まではどうにか存続。
47 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 19:36:42
>>40 >高階氏の血は女系で現在の天皇家にもつながる。
どのように繋がるのですか?
>>47 高階氏系の地下の鳥居小路家が、香淳皇后の実家の母系にいるんじゃなかった?
49 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 08:55:05
>>48 それ以前で清原真人系や高階真人系や文室真人系で繋がっている可能性は無いの?
平安人名辞典1060年版の方だともう本来の清原真人だって確認できる人は居ないようだ。
はっきりと海宿禰系だってわかる人や、経歴的におそらくそっちって言う人はいるけど。
文室は下級官人とか相撲人とかばっかりだし。
少なくとも主流は受領級でたまには公卿も出す高階とは完全に差が付いてるな。
楽人の豊原は本当に天武系?
51 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 14:15:12
>>50 海宿禰系でも、養子などで女系で清原真人とつながっている場合もあるのでは?
52 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 18:02:06
53 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 18:11:08
>>47 これだと思うよ。
紫式部ー大弐三位ー高階為家ー高階為章ー高階宗章ー女ー藤原隆季ー藤原隆房ー
四条隆衡ー四条貞子ー西園寺姞子ー後深草・亀山天皇→現在の天皇家
紫式部の娘大弐三位が高階成章と結婚、40歳近くで高階為家を産んでいる。
この系統が後深草・亀山両天皇につながっている。
54 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 20:38:56
>>53 乙。
天武帝の系統が南朝・北朝両方に繋がっているのか。
55 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 14:13:49
文室真人
56 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 20:53:51
海宿禰系清原氏は一般に詐称とか言われるけど、
系図には本姓海宿禰ってちゃんと書いてあるし、
むしろ正統に養子になったんじゃないのかねえ。
57 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 21:05:44
58 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 13:44:19
清原氏は室町時代になると今度は卜部系の吉田氏からの養子に変わっている
江戸時代の公家舟橋氏(半家)などはこの系統だよね
59 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 08:33:05
吉備真備が粘っていたら、文室大市が天皇になっていただろう。
藤原氏でも式家と南家とでは、推している次期天皇候補が違っているよな。
式家は白壁王(光仁天皇)、南家は他戸親王(女系では天武系)。
貴族達の思惑としては、他戸親王が落としどころだったような気もするが。
60 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 21:19:47
>>53 現在の皇室に女系で天武系の皇統が繋がっているのか。
そういや、藤原北家に女系で蘇我氏と繋がっているよな。
(北家だけじゃなく、南家や式家にも繋がってよな。)
61 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 21:20:03
>>53 現在の皇室に女系で天武系の皇統が繋がっているのか。
そういや、藤原北家に女系で蘇我氏と繋がっているよな。
(北家だけじゃなく、南家や式家にも繋がってよな。)
62 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 08:43:48
藤原南家、北家、式家の祖である武智麻呂、房前、宇合の母は
蘇我連子の娘。
藤原道長の母方の祖母は橘氏出身だし、
貴族同士はだいたい女系で他氏と混血している。
63 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 12:24:23
坂上田村麻呂と文室綿麻呂の大河ドラマやらないかな。
薬子の変や蝦夷との戦いなどネタ満載で藤原氏の覇権への野望との暗闘などなど
ダイナミックに古代王朝の最後の輝きを描いて欲しい。
64 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 07:46:42
65 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:14:25
66 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 10:24:21
文屋浄三、文室大市兄弟は聖武太政天皇の存命中に臣籍降下させられている。
聖武太政天皇の意向もあったことだろう。
聖武は遺言として道祖王を皇太子に立てるよう命じているが、
道祖王の父は新田部親王、新田部親王の母は鎌足の娘五百重娘であり、
自らの外戚藤原姓になるだけ近い人間をと選抜したのだろう。
結局、藤原仲麻呂や光明皇太后によって裏切られたが。
67 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 17:04:30
>>66 白壁王父子が先に臣籍降下していたら、
どうなっていたのだろうな。
(その場合、姓はやはり真人?)
皇族の臣籍降下の場合字は「真人」の原則
これが破られるのは平安時代以降だったか。
例外として長屋王の子藤原朝臣弟貞は奈良時代のうちの賜姓だな。
橘宿禰とかこのあたりは母方の関係かな。
しかし弟貞の場合、恩典として藤原朝臣になったわけで、
二世王より藤原朝臣の方が上?
あと聖武の兄弟が石川朝臣になっているらしい。
これは賜姓とはちょっと違うのかもしれないけどね。
弟貞は父親が謀反人とされたために皇籍を離脱して母方の姓を名乗ったもの、
聖武の異母弟2人も皇籍を剝脱されたために母方の石川姓を名乗ったものだから
皇族が臣籍降下しての賜姓とは異なる。
いずれも父方の籍を失って(はく奪されて)母方の姓を名乗ったもの。
御方大野はやはり無姓の扱いなんだろうか?
>>47 亀レスだが、53のほかにももう一つ高階氏が女系で現在の天皇家に繋がる系統があった。
紹介しておくね。
高階成忠ー高階貴子ー藤原隆家ー藤原経輔ー(3代略)−坊門信隆ー坊門殖子ー後鳥羽天皇→現在の天皇家
74 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 22:35:09
75 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 22:59:51
この頃はまだ臣籍降下した者の即位は認められていたの?
76 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 16:55:49
認められていたから、吉備真備が擁立しようとしたんだろう?
坊主の道鏡よりは正統性もある。
77 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 20:16:54
age
78 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 20:28:56
79 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 20:35:37
臣籍降下した者の即位が認められなくなったのはいつから?
実際に即位した例は、源定省→宇多天皇の一例しかないが。
80 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 21:17:27
醍醐天皇は?
81 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 21:43:55
親父の宇多とセットで考えるべきだな。
82 :
細川徳生アドバックス:2008/08/17(日) 22:14:19
実際、人相の悪い威圧的な男たちを出入りさせ、「お経のテープ」を流すなど、
その手口は古典的だが、報道されるのは光誉実業ばかりで、同じようにアドバックス
社長の 風間勇二元社長が逮捕された共同都心住販の方は、あまり問題視されていない。
「企業舎弟」という認定ではないのかも知れないが、実はスルガとの関係は共
同都心のほうが古く、しかも現在、同社の経営に関与する細川徳生氏は、上場
企業数社の大株主という実力者なのである。
83 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:26:28
>>80 醍醐の諱「維城」は将来的な即位を意識した命名じゃないか、という指摘がある。
でも、「維城」って何と訓むんだろ? これき? これざね?
85 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:48:29
86 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:09:40
87 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:23:15
>>84 醍醐天皇は親父が即位すると直ちに改名、
「敦仁親王」の名で立太子している
維城にそんな意味があるなら改名しないだろ
ちなみに醍醐天皇の兄弟も宇多天皇即位後一斉に改名している
88 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:04:26
天皇に即位した場合ではなくて、
臣籍降下していた一族が
皇族に復帰した例はどのくらいあるのだろう?
惟康親王くらいかな?
89 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:18:36
源兼明(醍醐天皇皇子)
臣籍降下し左大臣にまで昇進していたが
親王に復され兼明親王となった
源昭平(村上天皇皇子)
村上天皇皇子の中で唯一臣籍降下
しかし25歳の時叔父源兼明が親王に復されるのと同日
昭平もまた親王に復され昭平親王と称した
宇多天皇の同母兄弟姉妹
源忠子、源是忠、源是貞、源定省、
源簡子、 源綏子、源為子
宇多天皇の即位後親王、内親王宣下
90 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:20:38
>>88-89 皇族復帰したからには、
序列はどうであれ、皇位継承権は一応あるわけだな。
91 :
日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:40:43
>>90 源兼明が皇族復帰したのは
関白藤原兼通が従兄弟である藤原頼忠を昇進させるためだと言われている
つまり兼明を皇族に戻すことで左大臣のポストが空くわけ
実際、兼明はこの処分に不服だったらしいし
92 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 00:03:04
>>88 奈良時代には数例あるよ。「復属籍」というやつ。
93 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 20:03:30
age
舎人親王系は臣籍降下って言うより、皇籍剥奪からの復帰?
皇統が動いたとき新天皇の近親が皇族復帰っていうのは和気王とか。
96 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 14:15:14
97 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 22:04:15
age
98 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 20:27:51
文室大市
99 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 11:45:54
昔は皇族と臣籍降下組は行ったりきたりできて、いまより柔軟性があったな。
100 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 16:13:56
100get!
101 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 04:12:59
この時点の吉備真備と藤原氏との覇権(?)争いは興味が有る
主体的に動いた皇族は無いのかなと思ってしまう
もしかしてすごいチャンスなのに
102 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 15:19:00
103 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 23:40:57
>>101 この時代、藤原氏の悋気に触れた皇族は殺されてるからな。
文屋浄三も藤原良継や百川が押してくれるならともかく、
あくどいことのできない橘諸兄程度の後押しでは受けなかっただろう。
逆に、政界を裏で牛耳っていた藤原氏が後押ししてくれ、
自分の後宮に娘でも差し出してくれるのならば、
たいがいの貴族は天皇になることを受けたのでは?
104 :
日本@名無史さん:2008/11/28(金) 23:50:22
もし【ヒキ一族】がヒバゴンより格下だったら。
105 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 21:43:32
106 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:08:37
age
107 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 01:38:51
108 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 20:35:20
文室大市が天皇に即位していればなあ。
109 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 21:06:30
>>35 白壁王が擁立されたのは、
{皇族の中で高齢だったから]と、
続日本紀に記述されていたと思うが。
>>41にもあるが、文室真人大市とあまり年齢変わらないし。
110 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 16:58:24
110
111 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:57:46
>>101 北家・式家藤原氏に対抗して、右大臣吉備真備が文室真人兄弟を称徳後継帝位に
推した理由は何だったっけ?姻戚関係でもあったのかな?
112 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 15:25:26
>>111 単に天武系で適任者は、
その兄弟しかなかったのでは?
113 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 08:08:42
age
114 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 04:28:38
父長親王は母が天智の娘
文室兄弟の母が卑母だとしても有力な後継者
対して白壁王は父施基皇子は卑母とはいえ天智の直子
結局は政治力学で決まったのか・・・
115 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 20:58:50
116 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 17:25:26
文室浄三
117 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:49:09
>>直子
競馬みたいな表現だが、双方とも「血統」がものをいう
大市の妻は坂合部女王(白壁王の異母姉)だよね。
でも、式家は最初から山部王を擁立するつもりだったようなので、
たとえ白壁王が井上内親王を娶っていなくても、白壁王だったのだろうか?
それとも、井上内親王の存在なしには即位できなかっただろうか。
山部王(後の桓武)は聖武天皇の系統にはつながらないし
パパの白壁王(後の光仁)の擁立自体が奥さんが井上内親王(聖武の娘)だった上、既に息子(他戸親王)もいたから
井上内親王の存在無しでは白壁王を擁立するには他の貴族を説得するのがかなり難しいのでは
しかし、他戸王(のちの親王)の母って本当に井上内親王なのかな
122 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:20:15
だまてんか
天武の謎はオモロー
124 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 01:06:55
臣籍降下してる上に老齢では即位は厳しい
125 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 08:01:52
>>124 文室浄三が天皇に推されて候補に挙がった理由が、
天皇家の血筋の中で年配だからという点もあるのだが。
また、文室大市と光仁天皇は年齢にさほど差は無く、
実際亡くなった年も一年しか変わらない。
世数だけで見れば、
称徳天皇の後継候補としての白壁王(皇親)と文室大市(臣籍)って、
徳川家継の後継候補としての徳川吉宗(御三家)と会津松平正容(家門)の関係と
おんなじなんだな。
正容が将軍候補になったことは無いだろうけど、ちょっと面白い。
細かいことは覚えないんだけど、この時期で、
磯城皇子とか忍壁親王の孫か曾孫あたりでまだ王のままな人が複数いる。
だから本当は天武系皇裔どころか、天武系皇族は立派に存続してるんだよね。
その人達がなぜ問題にもされてないかって言う問題があるな。
三世以下だから二世王より継承権が落ちるってことなのか、
そもそもその系統自体が問題外とされていたのか?
それにしても臣列に降りた人より下なのかねえ?
皇族と臣下の違いってなんなんだろう?
ちなみに母方で言えば光仁天皇より血筋の良い天智系皇族も多い。
たぶん既に死亡しちゃってたんだろうけど。
128 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 18:49:22
文室大市
129 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 18:52:56
天武系の嫡流の称徳女帝がやりたい放題やった直後だったから、
もう天武系はまっぴらって気分が朝廷の貴族たちの間にあったのかも。
取り急ぎ調べたから遺漏があるかもしれないが、称徳天皇が亡くなる神護景雲4年(770)の時点で、
従二位の文室浄三は致仕、白壁王が正三位大納言、文室大市が従三位中務卿。
で、その下の男子皇族となると、なんと従五位上にまでランクが下がる。
正親正奈癸王、刑部大輔船井王、少納言菅生王、大学頭山部王(のちの桓武)といった面々。
系譜が分かっている天武系では、広川王(長親王の孫)や礒部王(高市皇子の曾孫)が従五位下でこれに次ぐ。
まあこの頃の天武系は、3世ともなると臣籍降下していたり、
皇族身分であっても、奈良麻呂の乱や仲麻呂の乱等に関係して処分中だったりする人がかなりいる。
無位無官から即位した淳仁天皇のような例もあるから、ある程度の血筋の天武系皇族を選んで位に即けるってことも、
考えられなくはなかったろうけど、上記のような廟堂のヒエラルキー人事を目の当たりにすると、
称徳天皇の後継に白壁王や文室大市の名前がまず上がるってのは、まあ当然といった気もするね。
淳仁天皇はついては皇位に擬せられる可能性があったからこそ、
あえて25歳まで無位のままにされた可能性はあると思う。
位階を与えることにより格付けされることを避けたのかもしれない。
まあ舎人親王没後かなり経ち、母の出自も良くない末子でもあるから、
単純に放置されていた可能性もあるだろうけど。
>>127 磯城皇子は臣籍降下した子孫はいるけど二世、三世あたりの詳細はわからないね。
忍壁皇子は子供自体少なかったようだし、孫の葦原王は761年に人殺しで流罪になっている。
133 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 20:41:03
文室大市
スレ違いなんだろうけど、三原朝臣の祖って誰?
三代実録の高原の改姓記事に新田部親王の後裔って明記されてるから、
先行する弟平系統も新田部親王系なのはたぶん間違いないんだろうけど、
やっぱり道祖王系かな?
氷上真人塩焼系は、本人の段階で賜姓されてるから氷上真人姓なんだろうし?
ただ道祖王の子孫って不明だし、橘奈良麻呂の変の時を生き延びられたか疑問?
道祖王は没時40代以上なのはほぼ間違いないので、
体に問題がなければ子供がいたとは思うんだけどね。
新田部親王系
男子として間違いないのは塩焼王(後氷上真人)と道祖王。
二人とも皇位に擬せられたりもしたが、それ故に非業の死を遂げ、塩焼王の子供達も事件
に巻き込まれるなど悲惨な一族。
子孫とされる氏族には氷上真人(塩焼王子孫)と三原朝臣(系譜不明)がいる。
氷上真人井作(生没年不詳:系譜不明):正六位上(833時点)→従五位下(833)
以後氷上真人氏は正史に見えず。
道祖王(?〜757:新田部親王の子、二男?)
従四位下(737)→散位頭(738)→従四位上(740)→大膳大夫(753時点)→従四位上中務卿
(756時点)→皇太子(756)→廃太子(757)→獄死(757)
中務卿は749年に三原王が就任しておりそれ以後、753・4年頃か?
初叙の737時点でほぼ確実に21歳以上であり、717以前の生れだろう。
他の二世王の例から初叙時年齢は20代後半程度かも?すると誕生は710年前後か?
新田部親王は680年頃誕生と思われるので、次男だとすると妥当な年齢?
子孫は不詳だが、一応は死刑ではないので、子がいた場合は賜姓・流罪程度か?というこ
とで三原真人の祖の可能性あり。
長野王(生没年不詳:系譜不明):経歴なども不明
倉本一宏氏の「奈良朝の政変劇」によると磯城皇子の子で乙枚王の父とされているが、理
由不詳?
757年の道祖王廃太子後、皇太子候補に挙げられた、舎人・新田部両親王の子の中に名前
が出ていない。官位関係の記事が見えないこともあり、これ以前に死亡か?
新田部親王の子でかつ三原朝臣弟平の父だとすれば、730年代生まれ、親王晩年の子では
ないだろうか?
三原朝臣弟平(元弟平(乙枚・乙平)王:生没年不詳:系譜不明:春上の父か)
無位→従五位下(791:799同)→造酒正(791)→三原朝臣(799時点)→内蔵助(799)→
従五位上(813時点)→尾張守(813)
日本後紀の欠落の為賜姓記事は見えないが、三原朝臣弟平と弟平王は同一人物と思われる。
春上の父であれば、春上の生年からみて、760年頃以前の誕生だろう。
815年までは生存しているし、813年時点で現役国司なので、当時80歳程度以下として730
年代後半以後の誕生だろう。740年代から750年代前半あたりがありそう?
新田部親王の後裔とされるが、孫か曾孫くらいだろう。
塩焼王の子であれば既に氷上真人になっていると思われるし、764年の藤原仲麻呂の乱に
おいて氷上真人塩焼が処刑された際に、氷上真人志計志麻呂は不破内親王所生をもって特
に許されていることから考え、それ以外の子が許されたとは思いにくい。
よって塩焼王以外の新田部親王の子の子孫だろう。
と言って道祖王の子(どう考えても没時40歳以上なのでいる方が自然だが)が、757年の
橘奈良麻呂の変以後もあのまま王でいられたとも思いがたいが、光仁朝で皇族に復籍した
可能性はあるか?塩焼王・道祖王以外の兄弟がいた可能性もなくはない。
三原朝臣春上(元王?:774〜845、72歳:従五位上尾張守弟平の子?(長男?))
弾正大忠(809、36歳)→民部大丞(811、38歳)→式部大丞(811)→蔵人(817、44歳)→
式部少丞(818、45歳)→正六位上(820時点)→従五位下(820、47歳)→伊賀守
(820、47歳)→中務少輔(823、50歳)→右少弁(823)→主殿頭(823)→従五位上
(823、50歳)→下総(上総?)守(824、51歳)→正五位下(824、51歳)→従四位下
(825、52歳:2階昇進)→兵部大輔(825、52歳)→蔵人頭(825)→弾正少弼(825)→
弾正大弼(826、53歳)→参議(828、55歳)→右大弁(829、56歳)→相模守(830、57歳)→
式部大輔(830)→従四位上(831、58歳)→参議・式部大輔(831時点、58歳)→弾正大弼
(831:再任)→治部卿(832、59歳)→正四位下(833、60歳)→弾正大弼(834、61歳)→
伊勢守(839、66歳)→弾正大弼(840、67歳)→致仕(843、70歳)→正四位下参議(没時)
父は系図纂要によれば乙枚王又は乙平王。誕生時点ないし数年後(父が皇籍復帰の場合)の
時点では王だと思われる。
日本後紀の欠落のため、公卿補任以外では叙位を除く官歴はほとんど確認できない。
790年代中に叙位されているとは思われるのだが、任官は809年の弾正大忠が初見。五位
昇進も47歳と中年以後に活躍。
式部大丞→少丞の順で任官したことになっているが、逆ではないだろうか?
致仕したはずだが、続後紀の死亡記事では参議の肩書きあり。
官歴では、式部省・弾正台・弁官・蔵人等が目立ち、有能な官僚だったようだ。
三原朝臣数子(生没年不詳:系譜不明):従五位下(836時点)→従五位上(836)
春上の娘か姪あたりか、妹かも?おそらく女官だろう。
780年頃から800年頃までの生まれではないだろうか?
三原朝臣朝主(生没年不詳:系譜不明)
正六位上(842時点)→従五位下(842)→能登守(851)
春上の子か甥あたりか?経歴的に春上よりはかなり年少、永道よりはいくらか年長だろう。
790年頃から810年頃までの誕生ではないだろうか?
三原朝臣永道(生没年不詳:系譜不明)
従五位下(851時点)→伯耆守(851)→散位(859時点)→伯耆守(859:再任)→出雲守(859)
→散位(865時点)→播磨守(865)→摂津権守(877時点)→従五位上(877)
正史に見える最期の三原朝臣姓の人物。春上の子か孫程度か?子の可能性の方が高いか?
経歴から見て800年頃から820年頃までの誕生だと思われる。おそらく810年±5年程度。
三原朝臣高原(元高原王:生没年不詳:一品新田部親王の後裔)
正六位上(838時点)→従五位下(838)→伊豆守(840)→散位(850時点)→従五位上
(851:859同)→伊豆守(852)→散位(859時点)→三原朝臣(859)
三代実録の賜姓記事に一品新田部親王の後と明記されているが、父祖は不明。
おそらく弟平に賜姓されなかった兄弟か従兄弟あたりがいて、その子か孫あたりだろう。
経歴的に春上よりは若そうで、790年頃から805年頃の誕生だろうか?
穂積親王系
上道王・坂合部王以外の子については不詳。孫も広河女王・酒人女王以外不明。
子孫とされる氏族はないようだ。男系男子の孫はいなかった可能性もある。
上道王(?〜727:穂積親王の子)
無位→従四位下(712)→従四位下散位(没時)
万葉集で広河女王が、穂積親王の孫で上道王の娘とされるているので、これを信じると必
然的に穂積親王の子だと言うことになる。
初叙が712年であり、その時21歳以上として、692年以前の誕生と言うことになる。
父である穂積親王は670年頃の誕生と思われるので、685年頃よりは後の誕生だろう。
父穂積親王は当時現役の知太政官事であり、上道王は規定通りの21歳で叙位を受けた可
能性は高いのではないだろうか?とすると692年誕生と言うことになる。
弟と思われる坂合部王は、父没後に21歳で叙位を受けたと考えられているので、やはり
上道王も21歳での叙位なのではないだろうか?
広河女王(生没年不詳:上道王の娘)
無位→従五位下(763)
父上道王が727年4月没であり、728年以前の誕生なのは確実。
そうすると少なくとも30代後半までは無位だったことになる。
上限としては上道王が685年頃誕生として700年頃になるが、もっと若いと思う。
710年頃以後の誕生ではないだろうか?それでもかなり叙位が遅いが。
坂合部王(境部王:697?〜721?、25歳?:穂積親王の子)
無位→従四位下(717、21歳?)→治部卿(721、25歳?)
初叙は717年で、この時21歳以上として、697以前の誕生ということになる。
懐風藻に従四位上治部卿:年25とあり、これに従えば721年以後のいつかの時点で25歳
だったことになる。697年誕生だとすると、治部卿就任の721年にちょうど25歳となる。
よって697年誕生だと推定される。
なお25歳が享年であれば、721年中の没と言うことになる。
なお、続紀に従四位下からの昇叙の記事は見えず、治部卿就任時の位階も従四位下。年齢
的にもこの時期の昇叙は考えにくい。
と言うことで、懐風藻の従四位上は従四位下の誤りかとも思われるが不詳。
酒人女王(生没年不詳:父不明の穂積親王の孫)
経歴など不明。8世紀に入ってからの誕生だとは思われるし、8世紀前半のうちの誕生だ
とは思われるが、不詳?穂積親王の男子が上道王と坂合部王だけだとすれば、705年頃か
ら727年頃までの誕生だろう。
磯城皇子系
子孫とされる氏姓として下記の清春真人・三園(御園)真人ほか、詳細不明の笠原真人があ
る。このように子孫がいるので男子がいたことは間違いないと思われるが、子や孫だと断
定できる男系男子はいないようだ。
そもそも皇子本人が、年齢不詳、官職も明確にはわからない、正史にほとんど登場しない
と言う影の薄い人物故仕方がないか。子孫にも目立つ人物はいないようだ。
また9世紀まで皇族だったはずなのだが、一度も皇位継承の候補に挙がっていないような
のはなぜだろう?そこまで影の薄い一族だったのか?
逆になぜ9世紀半ばまで特に危険視されることもなく皇族でいることができたのか?
いろいろと謎の一族である。
倭王(生没年不詳:磯城皇子の子?)
無位→従四位下(704)
704年に従四位下への初叙を受けた諸王の一人。四位直叙なので二世王だとは思われる。
倉本一宏氏の「奈良朝の政変劇」や、ウィキペディアによると、磯城皇子の子とされてい
るが、理由不詳?
704年時点で21歳以上として、684年以前の誕生だろう。
磯城皇子は670年頃以後の誕生だと思われるので、ぎりぎりあり得るか?
712年にも従四位下直叙を受けた系譜不明の倭王がいる。こちらは692年以前誕生となる。
こちらも二世王だとは思われ、あるいはこちらの方が磯城皇子の子ではないだろうか?
酒部王(?〜730:磯城皇子の子?)
無位→従四位下(717)→従四位下弾正尹(没時)
薬師寺縁起に磯城皇子の子とする系図があるようだが真偽不明。
四位直叙なので二世王なのは間違いないと思われる。
717年に21歳以上として、697年以前の誕生だろう。
磯城皇子の子だとすれば685年頃より後の誕生だとは思われる。
ちなみに磯城皇子の没年は不詳だが700年前後より前だと思われる。
広瀬王(生没年不詳:磯城皇子の子?)
従四位上(718時点)→正四位下(718)
倉本一宏氏の「奈良朝の政変劇」によると磯城皇子の子とされているが、理由不詳?
680年代前半に活動の見える浄広四の広瀬王と同一人物であると考えた場合は、660年代以前の誕生と思われ、年代的に磯城皇子の子と言うことはまずあり得ないだろう。
一応7世紀半ばの誕生と考えれば、同一人物としてもあり得ない経歴ではない。
別人であり、これ以前に四位直叙を受けたのだと考えれば二世王と言うことになる。
ただしこの当時の二世王の多くはさほど位階が昇進しておらず、広瀬王が二世王がであれ
ば718年時点でそれなり年齢に達していたのではないかと思われる。
40歳程度とすると、680年前後の誕生となる。磯城皇子の子にはやや苦しいか?
板井王(後清春真人:磯城皇子の五世孫)
正六位上→清春真人(862又は865:三代実録に二度記事があり)
これ以外一切不明のようだ。
多王&登美王等17人(詳細不明):三園真人(805)
当時無位か?姓氏録によると磯城親王の子孫で、笠原真人も同祖とされる。
御園真人藤子(女性):無位→従五位下(864)
おそらくは上記三園真人の誰かの子孫ではあろうが、862年に無位から従五位下に叙され
た藤子女王との関係が少し気になる?まあ別人なんだろうが。
氷上真人川継の年齢
氷上真人川継(生没年不詳、812までは生存)
(一品新田部親王(735没)の孫、従三位参議氷上真人塩焼(764没)の子)
無位→従五位下(779)→因幡守(782)→流罪(782)→帰京(806)→典薬頭(809)→伊豆守(812)
氷上真人志計志麻呂(生没年不詳、769までは生存、771以前に死亡か?)
(一品新田部親王(735没)の孫、従三位参議氷上真人塩焼(764没)の子)
無位?→流罪(769:以後不明、母不破内親王の連座だが、母帰京の771年に言及なし)
以上2名は兄弟か同一人物か不明。
不破内親王(?〜795頃?:聖武天皇第3皇女:氷上真人塩焼の夫)
無位→四品(763)→厨真人厨女改名・京外追放(769)→流罪(769)→帰京(771)→複内親王
(772)→四品(773:復位)→三品(773)→二品(781)→流罪(782)
他に756年以前(先朝=聖武天皇生存中?)に内親王号剥奪がある。
同母兄弟に、井上内親王(717〜775、59歳)、安積親王(728〜744、17歳)があり、
その間の生まれらしい。称徳天皇(718〜770、53歳)は異母姉になるようだ。
以上から718年以後727年以前の生まれだと推定される。
塩焼王(当時)とは、王の追放の742年以前、739年頃にには結婚していたらしいので、
その頃15〜20歳として720〜725年頃の誕生だろう。同母兄弟との年齢差も自然。
なお最近は723年頃誕生説が有力らしい。
なお姉の井上内親王は30歳前後以上での結婚となるが、これは28歳まで斎宮を勤めた為
であり、参考には成らないだろう。
795年までの生存は確認できるが、805年に息子川継が赦免された気には見えないので、
おそらくその頃までには死亡していたのだろう。推定される生年からはいつ死亡しても不
思議はない年齢(795年時点で71〜76歳)でもあることだし。
氷上真人塩焼(元塩焼王:?〜764:天武天皇の孫、一品新田部親王の子)
無位→従四位下(733,19歳?)→従四位上(740、26歳?)→正四位下(740)→流罪
(742、28歳?)→帰京(745,31歳?)→複位(746、32歳?)→正四位上(757,43歳?)→
氷上真人(757)→従三位(758,44歳?)→礼部卿(759、44歳?)→鎮国ギョウ(馬+堯)騎将軍
(中衛中将相当)・美濃飛騨信濃按察使(762、48歳)→参議(762)→中納言(762)→美作守(762)
→文部(式部)卿(764、50歳?)→偽帝(764)→誅殺(764)
公卿補任によると没時50歳で715年生まれとなる。
しかしそれでは叙位の733年時点で19歳となり、やや若すぎるのではないか?
ちなみに同じ天武系二世王である文室真人浄三は717年25歳(当時王)で従四位下。
その弟文室真人大市は、739年36歳(当時王)で従四位下。
天智系二世王光仁天皇は、737年29歳(当時)王で従四位下。
これらの例から5〜10歳程度年長とみて、705〜710年程度の生れか?
不和内親王の夫ととしての年齢差から言うと、710年頃が妥当か?
とは言え一品親王の子(嫡子?)なので、規定通りの21歳ないし、それに近い年齢もあり得
るかもしれない、その場合は710〜713年頃生まれか?
新田部親王(?〜735:天武天皇第10皇子(末子)、序列上は第7皇子らしい)
浄広二(700:三品相当か?)→三品(701切り替え?)→二品(707時点)→
知五衛及授刀舎人事(720)→一品(724)
この後、728年に三品大将軍から明一品にとあるが、何かの間違いか?
700年時点で21歳とすれば680年生まれとなる。
異母兄舎人親王の例から叙位は20歳かもしれないが概ねそのあたりだろう。
川継年齢の考察
@ 父塩焼の没年から765年以前生れは確実。
A 叙位779年時に21歳以上はほぼ確実で、759年以前生れはほぼ間違いなし。
B 父塩焼が742年に流罪となり、帰京が745年、復位が746年。
現地妻の子ならまだしも、常識的に流罪中の誕生ということはないだろう。
743年以前の生れだと叙位が遅いような気がする為、746年以後の生れだろう。
743年以前だと769年に27歳以上で、母に連座して追放ないし流罪にされそう。
志計志麻呂と同一人物ならまさに流罪にされているわけだが。
C 母不破内親王は孝謙(称徳)天皇(718生れ)の異母妹、718年以後生れは確実。
同母姉井上内親王は717年生れで、719年以後の生れか?
となると、母の年からせいぜい755年以前程度の生れか?
もっとも、姉井上内親王は37歳で酒人内親王を生んだのは確実。
45歳で他戸親王を生んだ(35歳とも)とも言われている。
となると、759年というのも絶対にありないとまではいえない。
D 志計志麻呂と同一人物なら740年代、別人なら50年代前半の生れか?
その程度しか絞りようがないような。
氷上真人井作(生没年不詳:系譜不明)
正六位上(833時点)→従五位下(833)→大監物(833)
年代的に川継の子か孫だろう?その程度しかわからない。
生誕も760年くらいから805年くらいまでのいつでもあり得る。
なお、以後氷上真人氏は正史に見えないようだ。
ついでにもう一人の氷上真人姓の人物陽侯
女性ではあるようだ。おそらく塩焼の姉妹か娘以外にはありえないだろう。
わずかに塩焼に無名の兄弟がいてその娘ということはあり得るかも?
道祖王の娘がいた可能性もあるが、それだともっと待遇悪そうだ。
最大の問題は入れ替わるように続紀から姿を消す陽侯女王との関係。
同一人物ならほぼ必然的に年齢上塩焼の姉妹ということになるだろう。
別人だとすると塩焼の娘、または姪の可能性も出てくる。
氷上真人陽侯(生没年不明)
従四位上(762時点:初見)→正四位下(762)→正四位上(763)→従三位(764)
762年時点命婦と記載されており、女官だろう。
758〜761年は女性の叙位記事があるが彼女の名は見えない。従四位上は757年以前か?
758〜761の叙位記事から漏れるより、女性の叙位記事自体が見えない757以前の方が、
可能性として高そうだと、個人的には思う。
陽侯女王(生没年不明:761年時点生存)
無位→従四位下(739:初見)→稲を賜う(761:時に正三位か?)
739年時点で21歳以上と思われ、719年以前の生れとなる。
塩焼の推定年齢から言って娘ということはほぼないだろう。
新田部親王の孫としてはぎりぎりあり得る年齢だが、塩焼の姪の可能性は低いだろう。
761年の記事は、直接女王に位階が付されているわけではないが、通常並んで記載されてい
る場合は、先頭の人物と同一位階らしく、県犬養夫人と同じ正三位か?
761年に正三位であれば、762年に従四位上へ降格とは考え難く別人だろう。
そのような降位はあり得なくはないが、それだとそれ以後の急速な昇進が不審?
別人の場合、従四位下直叙から親王の娘であることはほぼ確かだが、必ずしも新田部親王
の娘とも限らない、天智孫王の可能性さえもあり、正体不明の二世女王となる。
さて氷上真人陽侯だが、女王と別人の場合は塩焼の娘の可能性もある。
730年代前半あたりまでに生れれば、上記の昇進は不可能でもなさそうである。
その場合不破内親王との間の娘とすればやや年長すぎる気もする。
塩焼は内親王よりかなり年長だったようであり、内親王との結婚以前に女性関係皆無とも
考えにくく、他の妻との間にできた娘の可能性はある。
あるいは継母に反発し継母と仲が悪かったらしい異母姉孝謙天皇に仕えたとも思える。
これは単なる個人的想像で、何ら根拠はないが。
ただ仲麻呂の乱後の消息が不明なのは、上の想像の反証になるかも?
もっとも父である塩焼が偽帝として立てられ殺されたんだから、どのみち娘もただでは済
まない気もする。
忠実であれば命は助かるかもしれないが、少なくとも形式的には処分されるだろう。
普通父の意思で送り込んだだろうから、なおさらのこと。
もちろん女王と別人の場合でも、塩焼の姉妹、多分妹の可能性は高い。
兄弟二人とも奈良麻呂の変に関わったことから臣籍降下を願った可能性あり。
結局色々想像はできるけど、塩焼の近親ということ以外謎の女性と言うのが結論。
天智天皇の孫達他
葛野王(669?〜705、37歳:弘文天皇の長子、母は天武皇女十市皇女)
浄大四(696時点、28歳)→正四位?(696?、28歳?:浄広三のことか?)→式部卿
(696?、28歳?)→正四位上式部卿(没時)
文武天皇を皇太子に定める際の功績で、特に正四位を与えられ、式部卿に任ぜられたある
が、当時は正四位の位階は存在しない、あるいは叙位任官は大宝以後か?
それとも正四位に相当する位階になったということか?正四位に上下が付されていないの
も当時は区分がなかったからかもしれない?単なる脱漏かもしれないが?
当時皇子が授けられる最低の位階であった浄大参は後の四品・四位相当だと思う。すると
特に皇子並みのその位を叙位されたということかも?
661年ないし、665年誕生説もあるが、少なくとも661年の方は、父の生年648年からみると
無理があるだろう。14歳で父となるとは普通考えがたい。
春日王(?〜699:川島皇子の子?)
浄大四(699時点=没時:正五位相当?)
川島皇子の子らしく、やはり天智系二世王のようだ。春原朝臣氏の祖にあたるらしい。た
だし春原朝臣の祖は、川島皇子の異母弟志貴親王の子の方の春日王だと言う説もある。
657年誕生の川島皇子の子なら、どう若く見ても670年代以後の誕生だろう。
死没の699年に冠位をもっていることから、この時20歳程度以上、680年以前の誕生だ
ろうと思われる。つまり670年代中の誕生なのはほぼ間違いないだろう。
三室王(御室王:?〜745:川島皇子の子?:母は天武皇女泊瀬部内親王?)
無位→従四位下(743)→従四位下散位(没時)
川島皇子の子だとすると692年以前誕生と言うことになるが、それだと初叙時に50歳以
上となってしまい、あまりに高齢まで放置されすぎではないだろうか?
四位直叙なので二世王とは思われ、少なくとも700年頃まで生きていた皇子の子なのだろ
うか?該当者は天智系では志貴親王のみ?あるいは天武系か?
高丘王(?〜749:川島皇子の子?:母は天武皇女泊瀬部内親王?)
無位→従五位下(743)→右大舎人頭?(743:左大舎人頭か?)→従四位下
(746:4階昇進)→従四位下左大舎人頭(没時)
745年時の左大舎人寮解の従五位下守頭王は高丘王ではないかと思われ、743年の右大舎
人頭は左の間違いではないだろうか?
746年の従四位下への昇進は不可解、なんらかの理由で二世王待遇になった?
初叙が五位なので三世以下の王ではないか?あるいは川島皇子の孫?
川島皇子の子だとすると692年以前誕生と言うことになるが、それだと初叙の年50歳以
上となってしまい、あまりに高齢ではないだろうか?
※邪推:もしかして泊瀬部内親王が川島皇子没後に、だれか比較的年長の二世王あたりと
密通してできた子だったりして。
※志貴親王の妻と子孫
妃:託基内親王(多紀・当耆:?〜751:天武皇女:母は宍人臣大麻呂の女穀媛娘)
(同母兄姉:忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、母の第4子)
斎宮(698)→退下(701)→四品(737時点)→三品(737)→二品(737時点)→一品(749)
志貴皇子とは斎宮退下後に結婚したものと思われる。出自から当然志貴親王の正室だろう
が、年次的に最初の妻ではないのではないか?
奈良時代、一品昇進の内親王は彼女と氷高皇女(元正天皇)の2人だけ(以後877年の儀
子内親王まで内親王の一品叙位の例なし)。これは当時既に天武皇子女中で最後の生存者
になっていた為、格別な敬意が払われたものとされている。
長兄と思われる忍壁親王が662又は663年頃の誕生と思われるので、せいぜい680年頃ま
での誕生だろうか?母の末子らしく、同母兄弟磯城皇子は670年頃の誕生と思われるので、
670年代前半の誕生と言ったところか?
夫である志貴親王の生年が667年頃あたりと推定されることからもこの程度が妥当か?
また、686年父天皇の病平癒祈願のため伊勢神宮に遣わされており、この時5歳程度には
なっていたのではないだろうか?少なくとも当歳と言うことはないと思われる。
男子:春日王(?〜745):子孫は春原氏?(川島皇子の子の春日王の方の子孫か?)
無位→従四位下(723)→従四位上(731)→正四位下(741)→正四位下散位(没時)
母の身分が尊貴な為か、位階は比較的順調に昇進したようだが、官職は不明。
723年に叙位を受けていることから、この時21歳以上として、703年以前誕生なのは確実。
母託基内親王の斎宮退下は701年2月、婚姻は当然その後として702年以後の誕生だろう。
つまり702年ないし703年の誕生となる。父母の身分の尊貴さ故に規定通りの21歳で叙
位されたと見て、703年の誕生ではないだろうか?
男子:湯原王 - 光仁天皇即位前に薨去、子孫は美海氏
729頃〜736頃に歌人として活動。叙位任官については不詳。
この直後あたりに叙位を受けないまま比較的若年で死亡したものか?
ちなみに子とされる壱志濃王(次男?)は733年誕生。
729年当時15歳程度にはなっていただろうから、715年頃以前誕生か?
父である志貴親王は716年8月没であることからも、これはほぼ間違いないだろう。
叙位受けた形跡が見えないことから、没時あまり高齢だったとは思えない、740年頃没と
して、その頃40歳程度までだろうか?となると700年頃以後の誕生だと思われる。
壱志濃王の年齢からも見てもその程度が妥当か?
託基内親王の子だとすれば、春日王の項で考えたとおり、702年以後の誕生だろう。
年子ではないとすれば、705年以後の誕生だろうか?
ただし皇女の子だとすれば、春日王の例から見ても、高齢まで無位で放置されたとは考え
にくい、710年代以後の誕生だろうか?とは言えそれだと皇女が30代後半以上だと思わ
れやや高齢出産気味のような?皇女の子ではないと言う推定も可能。
贈皇太后:紀橡姫 -従五位上(贈正一位太政大臣)紀朝臣諸人の娘
女子:難波内親王(元難波女王:?〜-773:光仁天皇の同母姉)
無位→従四位下(747)→従四位上(750)→四品内親王(770)→三品(772)→二品(没時)
光仁天皇(709誕生)の同母姉であり、707年以前の誕生か?
父の推定年齢から一応685年頃程度が上限と考えられるが、光仁天皇との年齢差から考え
て705年頃以後と考える方が自然だろう。それでも初叙の747年に40歳前後以上となっ
てしまうが。このあたりまでの無位での放置はあり得たのだろう。
男子:白壁王(光仁天皇)
母不詳の王・女王
男子:海上王 - 光仁天皇即位前に薨去
不詳、あるいは下記の海上女王と混同したもので実在しない人物か?
男子:榎井王 - 光仁天皇即位前に薨去、子孫は長井氏・岡原氏
737年歌を詠む。これ以外の事跡不明?
生涯無位だったようで、湯原王同様に740年頃に40歳程度で没したとして、700年頃以
後の誕生だろうか?父の没年から717年以前誕生は確実。
根拠はないが光仁天皇の兄ではないかと思われ、700年頃から708年頃までの誕生か?
男子:壱志王 - 光仁天皇即位前に薨去
無位→従五位下(712)
712年に21歳以上だったとすると682年以前の誕生と言うことになる。
志貴親王の推定生年667年頃から考え、これ以上生年を遡るのは困難だろう。
ただし、親王の子なら、従四位下に叙されるはずなので、五位なのが不審だ。
あるいは712年叙位を受けたのは別人の三世以下の王なのではないか?
そうなると、こちらの壱志王の生年は685年頃から717年までのいつでもあり得る。
根拠はないが光仁天皇の兄と思われるので、708年頃までの誕生か?
女子:坂合部内親王(元坂合部女王:?〜778) - 文室大市室か?
無位→従四位下(739)→四品内親王(770)→三品(774)
光仁天皇の姉と明記されており、708年頃以前の誕生。
没年や初叙の年から見て、700年頃には誕生していたのではないか?
これ、どこかからのコピペなのですか?
>>154 >男子:春日王(?〜745):子孫は春原氏?(川島皇子の子の春日王の方の子孫か?)
この春日王の子孫は仁和元年に臣籍降下したとある惟原朝臣で、
春原氏は推測されている通り、川島皇子の子孫でしょう。
市原王や五百枝王(春原五百枝)という子孫のおよその年齢からみて、
723年に従四位下の春日王では合わないから。
春日王→安貴王→市原王→五百枝王という系図のうち、
春日王→安貴王という部分は紹運録以外にソースがないのであやしいが、
もし699年に没した春日王なら、市原王の祖父でも年齢的には成り立つと思われる。
まったくの趣味で個人的に興味のある古代史の人物・氏族について、
こういうメモを作ってるだけで、一部をのぞきコピペではないです。
ウィキペディアとかよそ様のサイトは参考にさせてもらってますが。
以前にこの板のどこかに貼ったことがあるかもしれないけど覚えてないです。
人間ってわかりきってることは省略する傾向がある、一面合理的だけど、
長い時間が経って、そのわかりきったことがわからなくなると、
いろいろ問題が出てくるわけで。
曾孫とか玄孫とか程度なら、先祖の春日王がどの春日王なのかは、
わかりきってるわけだけど、後世に史料を編纂したりする頃には、
子孫が没落したりしてもうわけがわからなくなってたんだろうな。
おまけに元号制度だから、ぱっと見ただけじゃ世代が変だとか、
そう言うのわからないし。西暦式だと見ただけでわかったりするけどね。
元号は似た元号との勘違いや転記ミスも多いようで、
計算してみたら系図上の親の方が年少とかって、
そう言うミスの場合も多いんだろうな。
>>158 そうだったんですね。ずいぶん量が多いのでどこかのサイトかなと思いました。
>>159 確かに・・・。
その点、新撰姓氏録はまだそれほど時代が下っていないので、
この系図に関しても、河島皇子の後という方が信用できると思います。
なぜか万葉集研究では長いこと、志
途中で送信してしまいました。
万葉集研究では、長いこと志貴皇子の子孫という扱いになってましたが・・・
(これを否定する論文が出始めて、今は、訂正されてることが多いかも)
wikiにも書いてありますが、
新田部の子である長野王、磯城の子である倭王・酒部王・広瀬王の根拠については、
澤田浩「『薬師寺縁起』所引天武系皇親系図について」(『國史学』第142号、1990年)
を参照してください。『薬師寺縁起』そのものは群書類従にも収められていますが、
これは内容が不十分な薬師寺本で、大方の系図は醍醐寺本に拠っているようです。
同論では、上記以外にも、高市の子に門部王、忍壁の子に大野王・石田王、長の子に
河内王・石川王・奈良王・安都王、舎人の子に三浦王がいたことを明らかにしており、
これで『続紀』に見える天武の二世男王はほぼ網羅されたものと思います。
(個人的には、六人部王も高市皇子の子の可能性があると考えていますが)
あと、三室王・高丘王を川島皇子の子とするのは、史料性に疑問の多い鈴木真年の
「天智天皇御流」系図に拠るもので、あまり参考にされないほうがよいかと思います。
参考:
ttp://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/zatu/zt010529.html
>>162 やはり六人部王って高市皇子の子でしょうか
164 :
日本@名無史さん:2010/04/03(土) 00:06:47
ほー
三室王や高丘王が川嶋皇子の後裔であるという伝承に、幾許かの根拠があったのだとすれば、
私は、六人部王が川嶋皇子の子で、三室王・高丘王は王と田形内親王との間の子なのではないかと思っている。
純粋な「親王の子」ではない者への従四位下直叙(もしくは特進)の例として、
傍系から即位した淳仁・光仁の甥・姪に対するものや、母が内親王であることによるものなどが知られるが、
三室王・高丘王の叙位年代(743年頃)は「天武皇孫」として従四位下に直叙された者たちの中では最後期に位置し、
天智や天武の三世王と考えられる諸王が多く従五位下に直叙されていく時期とも重なるため、
男系では三世王である両王が、田形内親王の子として女系での皇孫待遇(従四位下直叙・特進)を受けたのではないか、
というのが私の考えの要旨である。
また、六人部王が高市皇子の子ではないのでは、と思う根拠としては、
彼が710年に高市の子である鈴鹿王と同時に従四位下に直叙されていること、その時の序列は鈴鹿が上(先)であったにもかかわらず、
元正朝以降六人部の方が早く昇進し、位階の上下関係は729年に六人部王が死ぬまで変わらなかったこと、
天智系の皇子である志貴親王が716年に亡くなった時、その喪事に与っていること、などを挙げておきたい。
ところで、六人部王が高市皇子の子ではないかという説は、どこから出たものなのだろう。
Webで見られる京大附属図書館の電子版「本朝皇胤紹運録」には、高市皇子の子として「交通王」(=六人辺王か)が見えるのだが、
私は、これは723年に従四位下に直叙される六人部女王のことであり、同書に多く見られる錯誤の一つであろうと考えている。
166 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 04:01:51
スレの主題に戻したい
文室淨三/文室大市 vs 白壁王の継承争い
・血統からは甲乙つけ難い
・台閣上の施政官の実績では淨三の方が上か?(但し道鏡失脚が必須となるとかえってマイナスか)
・白壁王の方が聖武との密接度は高い(妃が井上内親王)
・吉備真備対藤原諸流連合では後者に相当分がある
結果は歴史に記されたとおり
井上内親王の結婚相手こそ、他に適任者がいたんじゃないか。
もともと、いずれ白壁王を擁立するための結婚だったのかね。
擁立云々はともかく、聖武天皇が個人的に評価していたのかもしれない。
169 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 22:43:43
文室大市
170 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 21:06:39
170
171 :
日本@名無史さん:2010/06/04(金) 01:43:47
文室淨三の子孫は平安時代の初期には結構活躍してたな
宮田麻呂以降は凋落したが
>>111 54 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 12:18:29
吉備真備の文室兄弟擁立は
ほとんど鎌倉時代といっていい時期の水鏡に出てくる話で
なんでそんな安直に史実扱いできるのか、そっちの方が疑問なんだがな。
称徳女帝が山芋でオナニーしていたら抜けなくなっちゃって
それがもとで死んじゃったとか書いてある文献だし。
173 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 20:34:04
藤原永手は前にも塩焼王(不破内親王の配偶者)を擁立しようとしたことがあるんだし
白壁王(井上内親王の配偶者)の擁立は
奇策でもなんでもない正攻法だよなあ……
174 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 14:01:00
>>172 吉備真備の文室兄弟擁立は、
日本紀略にも載っている記述ですが?
日本紀略は11世紀後半から12世紀頃です。
175 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 18:59:59
文室浄三
文武天皇皇子かもしれない高円朝臣広世は770年時点生存。
賜姓が問題にならないとすると、本来は傍系二世王より継承権が高いはずなんだが。
全く皇族扱いもされてないから考慮の外なんだな。
それだからこそ生き延びられたのかもしれないけど。
高円朝臣広成(元石川朝臣:生没年不詳:文武皇子?、母は石川刀子娘?)
内舎人(743頃時点)→従六位上(758時点)→従五位下(758:3階昇進)→高円朝臣(760)→
文部少輔(760)→但馬介(761時点?)
高円朝臣広世(生没年不詳:文武皇子?、母は石川刀子娘?)
従五位下(761時点)→摂津亮(761)→尾張守(761)→山背守(762)→従五位上(764)→播磨守
(764)→周防守(768)→伊勢守(769)→正五位下(770)
広成と丁度入れ替わるように登場、広成と兄弟ないし、同一人物か?
父母が文武天皇と石川刀子娘であるという推定が正しい場合とすれば、母の入内時期、父
の没年から、698〜708年の間に誕生したのは間違いないだろう。
文武天皇の年齢から入内直後の妊娠とは考えにくく、700年以後の生れではなかろうか?
更に言うと聖武天皇より年少ではないかと思われるので702年以後の生れか?
また文武天皇は706年末頃から病床にあったようで、708年の誕生とは考えにくい。
702〜707年の生れだろう。
となると叙爵の758年は50代と言うことになり、いくら公認されたものでないとはいえ、
本当に皇子であるならとてつもない冷遇といえよう。
しかも30代後半から40過ぎの段階でも内舎人に過ぎないし。
もしこの二人が兄弟であるなら、兄と思われる広成が702〜705頃、弟と思われる広世が
704〜707頃の誕生だろうか?
石川朝臣刀子娘 (生没年不詳:父母の詳細不明)
文武天皇嬪(697:妃とあるが当時の妃は皇女限定で後に嬪とあるので嬪の間違いだろう)→
嬪号剥奪(713:文武天皇は707年25歳で没)
嬪となったことからそれなりの身分、つまり父は石川朝臣の嫡流に近いとは思われる。
文武天皇との年齢の釣り合いから言って、入内時に18〜13歳程度と思われる。
つまり680〜685年頃の生れだろう。
178 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 00:25:18
広成、広世は母親の身分の問題で対象外だったんじゃないの?
わざわざ嬪の身分をはく奪とかするくらいだからね
何があったのかわからんけど。