奥州藤原氏について語ろう第参話

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1日本@名無史さん
前スレ
奥州藤原氏について語ろう第弐話
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1112288852/
がdat落ちしたので
2日本@名無史さん:2008/03/17(月) 04:14:04
源家に臣下の礼をとるは頼義、義家公以来の習い
3日本@名無史さん:2008/03/20(木) 12:49:28
本当に魚名の子孫なのか
4日本@名無史さん :2008/03/20(木) 13:30:27
奥州藤原氏はどう見ても金で藤原姓を名乗るのを許されたに過ぎない。
インチキ藤原氏だね。




5日本@名無史さん:2008/03/20(木) 16:11:11
経清の素性は一切不明
6日本@名無史さん:2008/03/20(木) 17:35:26
頼遠の子だろ
7日本@名無史さん:2008/03/20(木) 22:36:25
家系図なんて簡単に作れるからね
8日本@名無史さん:2008/03/21(金) 13:14:37
義経と共に鎌倉政権と戦うべきだった
9日本@名無史さん:2008/03/21(金) 14:32:43
>>4
それもアリなんじゃないか?
ほんの一瞬でも地方が輝いたなら。
10日本@名無史さん:2008/03/21(金) 15:11:05
>>6
頼遠の実家が坂上氏で藤原家に養子に入った説の真偽は?
11日本@名無史さん:2008/03/21(金) 15:17:52
伊達氏もどう見ても金で藤原姓を名乗るのを許されたに過ぎない。
インチキ藤原氏だね。
12日本@名無史さん:2008/03/21(金) 16:51:19
徳川氏もインチキ源氏だね。
13日本@名無史さん:2008/03/21(金) 18:29:21
鎮守府将軍。陸奥守兼任。
うーんかっこいい
14日本@名無史さん:2008/03/21(金) 19:28:22
まさに奥六郡の王者
15日本@名無史さん:2008/03/21(金) 20:29:36
奥州藤原氏は奥六郡の他に、山北三郡を支配してたのでは?

それはそれとして、奥六郡の長は藤原経清の舅にあたる安部頼良だ。
16日本@名無史さん:2008/03/21(金) 21:48:57
>>12
伊達家のインチキ具合には、遥かに及びません。
インチキのスケールにおいては徳川ショボイw
17日本@名無史さん:2008/03/27(木) 13:47:19
>>10
それ言ってんのって、こちらも系図ぐだぐだの田村氏系図だろ、確か?
18日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:41:18
奥州藤原氏、平泉研究に新たな1ページ!
しばらくぶりに更新しました。皆さま、ぜひのぞいて見てください。

http://www.asahi-net.or.jp/~ac6i-kryu/
19日本@名無史さん:2008/03/28(金) 18:57:56
欧州藤原氏あげ
20日本@名無史さん:2008/04/16(水) 02:53:29
俺は利仁様の芋粥が食べたい。
21日本@名無史さん:2008/04/16(水) 15:26:12
>>20
甘葛が今は入手不可なので再現は難しいらしいよ
22日本@名無史さん:2008/04/16(水) 17:42:21
>>21
そうなんですか?
てっきり、自然薯とばっかり思ってました。
23日本@名無史さん:2008/04/17(木) 05:26:29
伊達は結局平氏なのか下毛野氏なのか
24日本@名無史さん:2008/04/19(土) 00:15:37
それにしても通衡の存在感の無さは異常
25日本@名無史さん:2008/04/24(木) 21:53:30
>>22
自然薯を甘葛で煮たのが芋粥
26日本@名無史さん:2008/04/25(金) 03:14:00
>>15
もう清原氏の時代から山北三郡と奥六郡の両方を支配し、
現在の青森・盛岡・秋田の3県ぐらいを支配地域としている。

3代目の清原真衡が蝦夷の血を引くのに鎮守府将軍に任官し、陸奥国司とともに
東北遠征し現在の青森県全域や盛岡県の北部と沿岸部を日本の版図に組み入れた。

あまり有名な遠征じゃないけど、これで本土はようやく統一され
東北地方全体が日本の領土になった記念すべき合戦。

制圧されたのは、奥エビスと言われる、いまだに朝廷に帰属しない蝦夷で
朝廷は、同じ蝦夷である清原氏の力を借り東北北部を制圧した事になる。

蝦夷同士を分裂させ、味方につけた蝦夷を使い征服するのが朝廷のやり方。

前九年の役もそうだし、安倍氏自体が完全な蝦夷である。
朝廷が鎮守府の機能を放棄し、安倍氏にその業務を委託したため
朝廷が手におえない位デカクなってしまった。

それを更に清原氏に攻撃させた為、清原氏が更に強大化、
東北北部全体を支配するまでになり、陸奥国司も大弱り。

上手く清原氏を分裂させたのは、源氏だけの要望ではなく
朝廷の意向もあるんだろうね。
27日本@名無史さん:2008/04/25(金) 06:34:40
清原氏の正体の方が気になる
28日本@名無史さん:2008/04/25(金) 08:51:46
議論のあるところだな。

学界では清原氏は勿論、最近では安倍氏も中央氏族の一派が奥羽に土着したものというという意見も出てきている。
29日本@名無史さん:2008/04/25(金) 16:30:29
これって藤原北家の傍流の傍流よね 東北に根を張ろうとしたのね、安倍(安部、阿倍、阿部)氏みたいに、蝦夷えぞ対策かしら?
30日本@名無史さん:2008/04/26(土) 12:05:20
先祖は鎮守府将軍になってるから、それ繋がりかね?
31日本@名無史さん:2008/04/26(土) 12:42:17
コピペ

前スレでは不明とした安倍氏の出自も最近の研究では中央官人系の可能性が高くなってきています。
例えば、ttp://www.jomon.com/~emisi/semi/13semi/emisi-mega.htmによると
「近年、安倍氏の出自について、平範国の日記『範国記』長元9年(1036)12月22日には、
その日の小除目として、陸奥権守に安倍忠好が見え、それが『陸奥話記』などの
安倍頼良の父忠良である可能性が高く、奥六郡安倍氏の出自を中央貴族安倍氏とする
指摘がある(戸川1999)。 」だそうです。
これはたぶん、『中世成立期の政治文化』「前九年合戦と安倍氏」が参考文献だろうと思われます。

これで決まりじゃね?安倍氏の出自。
32日本@名無史さん:2008/04/27(日) 00:24:05
安倍忠好が陸奥で在地の豪族の婿になったって事か?

でも1036年て、安部貞任が生まれた後じゃん。
33日本@名無史さん:2008/04/28(月) 04:12:08
仮に、安倍忠良=陸奥権守忠好、とする
貞任の享年を34歳程として考えた場合、貞任の生年は1029年頃ということになる

<ケース1>中央貴族であった忠好(=忠良)が1036年に京から下向した場合
頼時や貞任も京生まれの京育ちである可能性が高い
安倍氏滅亡まで20数年しか残されておらず、
前九年の役で善戦できるような強固な地盤を築くことができただろうか?
安倍氏の力の源泉は金山の利権であり、
これを巡って朝廷をはじめ源氏や清原氏が食指を動かしたものと考えられるが、はたして…

<ケース2>在地の有力豪族であった忠好(=忠良)が任官された場合
金山の利権をバックに奥六郡は勿論、国府や鎮守府に大きな影響力を持っていたのではないか
安倍姓が仮冒なのか、もしくは本当に中央貴族の安倍氏の系譜に連なるのか
先祖は蝦夷討伐の際に参陣した者の内の誰かという可能性もある
34日本@名無史さん:2008/04/28(月) 04:25:37
今昔物語に安倍頼時は朝廷に従う「熟夷」だが、反乱し易い「奥夷」と同調を
疑われ、外国(北海道?樺太?沿海州?)に行く説話がある。

頼時の外国行きはともかく、学会ではこの説話はまったくのウソではなく、
安倍氏は外国との貿易や外交を担っていた事を表している文章とされ、
陸奥国司もこれらの外交・貿易業務を安倍氏に委託していた事は事実とされている。

今昔物語は、ウソついていないと思うよ。

平維茂というウルトラ馬鹿な鎮守府将軍が、上司の陸奥国司の分の税金まで
徴収し猫ババしたから当時の陸奥国司の藤原諸任が朝廷に将軍職の停止と
平維茂の追討を申請し戦争になったという信じられない事態があった。

こんな奴を鎮守府将軍にするぐらいなら、異民族でも陸奥国司の事を
よく言うことを聞く安倍頼時の祖父の安倍忠頼に鎮守府業務を委託した方が
いいと思うのは人情。

今流行のアウトソーシングだよ。イラクでもアメリカ軍がスンニ派旧バーズ党員の
公職追放を解きシーア派民兵と戦わせている。これでアメリカ軍の被害が減った。

しかし、これじゃ〜何の為のサダム フセイン政権打倒かどうか解らんけどねw
35日本@名無史さん:2008/04/28(月) 12:11:53
>>33
ああ別に安倍忠好なる人物は、中央貴族ってはっきり決まってるわけじゃないんだな。
もっとも
義家・衣の縦はほころびにけり
貞任・年を経し糸の乱れの苦しさに
などと即座に上の句を返せるのは、やはり都育ちだなんて言うヤツいるかもしれん(笑)。
36日本@名無史さん:2008/04/29(火) 00:35:57
安倍氏蝦夷説が言われる理由の1つに、安倍氏の本拠地が衣川や胆沢城周辺
ではなく、もっと奥の岩手郡の嫗戸城や厨川城周辺ではないかと言われて
いるからでもある。

奥六郡総郡司が安倍頼良の公式の肩書きだが、初代忠頼の代からいきなり
六郡全体の総郡司になったわけではなく、まずは一番奥の岩手郡郡司から
始まったのではないか、と言う説が学界では言われている。
>>33で言われる2代目の忠良(忠好)が1036年に陸奥権守に就任した事が
安倍氏の奥六郡総郡司体制確立のひとつの契機になったであろう。

おそらく陸奥権守権限により忠良(忠好)の奥六郡総郡司体制が固まり
3代目の頼時にそれが引き継がれたと考えられる。
むしろ3代目頼時の時代には、奥六郡支配体制をより深化させ、支配領域を
さらに南下(拡大)させる事が課題となっていたのだろう。
実は奥六郡のすぐ南隣の岩井郡は、既に安倍氏に丸ごと押領されていた
可能性が大きく、さらに気仙郡にも安倍氏の勢力が浸透し始めていたと
も言える。
このような北方の奥六郡からの異民族系の政治勢力の南下という事態は、
多賀城の陸奥国司や在庁官人を神経質にさせ、今昔物語のいう安倍氏の
「奥夷同心」を妄想する過剰反応を引き起こしたとも言える。

おそらく安倍氏は、胆沢城鎮守府の機能を接収する時には、比較的簡単に
しかも朝廷や陸奥国府の抵抗もない状態で実現できたため、陸奥国府の
多賀城に接近する事がどんな自体を引き起こすかが、よく想定できなかった
のではないか?
また、安倍氏も血統的なルーツは蝦夷であるが、王朝国家の辺境支配を
任される同盟部族になって久しく、軍事的にも経済的にも巨大化し、さらに
陸奥南部の藤原氏や平氏との婚姻関係も重複的に結ぶ事態になっていたため
自分たちが、既に大和民族に同化していると思い込んでいたのかもしれない。
あくまでも陸奥国司や朝廷は、夷を以って夷を征すを実行しているだけなのだが、
安倍氏は、あまりにも巨大化したためその辺の理解が、疎かになっていたのかも
しれない。
37日本@名無史さん:2008/04/29(火) 00:43:52
アテルイとの関係は無いのだろうか?
38日本@名無史さん:2008/05/01(木) 03:33:45
吉彦秀武のその後が気になる
39日本@名無史さん:2008/05/03(土) 02:44:46
本来の鎮守将軍は国司の上に立って北方の鎮めにつく役職であったが、
「征夷」の停滞後は陸奥国の一部を管轄することになり、陸奥国司よりやや
格が下がり、行政官化した将軍の職権が国司の職権と重複する部分もあり、
将軍と国司の激しい対立がしばしば起きた。

その代表的な事例が、1018年の陸奥国司 藤原貞仲と鎮守府将軍 平維良
の間で起きた合戦である。両者は、税金の徴収や蝦夷との貿易を巡り利害が
対立し陸奥国内で戦闘となった。平維良は、多額の賄賂を朝廷の高官に贈り
鎮守府将軍に任官したと言うのがもっぱらの噂であり、当初からこの人事は
陸奥でも中央でも問題視されていた。

しかしさすがの朝廷も本来業務の「征夷」を放り出して合戦までした平維良
許すわけに行かず、合戦直後に解任された。
このため、鎮守府将軍は早期に事実上名誉職化し、鎮守府に居ることも少な
く、鎮守府は国府より早く廃絶した。
ちょうどこの時期に安倍頼良の祖父忠頼が台頭し始めた時期と重なり、
鎮守府将軍の業務である奥六郡の治安維持や徴税・貿易を安倍忠頼が
引き継き始めたと考えられる。

朝廷も陸奥国府もいきなり、奥六郡を全部放棄したのではなく、まずは
北4郡(和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡)を放棄し、その後に南2郡(胆沢郡、
江刺郡)も放棄したと考えられる。
40日本@名無史さん:2008/05/03(土) 03:20:14
大和系住民の入植が進み、胆沢城鎮守府が存在した南2郡は、直ぐには陸奥
国府も放棄するわけには行かず、まずは、1018年に鎮守府将軍 平維良
を解任した時期に蝦夷系住民が多い北4郡を放棄したと思われる。

その時期に、安倍忠頼が最北端の岩手郡の郡司に任命されたか、実力で
岩井郡を手中に押さえたと考えられ、次第に南下し北4郡全体を支配下に
押えたと思われる。

その後1027年に鎮守府将軍職が正式に廃止される時期に南2郡が陸奥
国府や朝廷の判断で放棄された。
既にこの時期は、安倍氏は2代目の安倍忠良の時代に入り始めていたと
思われる。おそらく南2郡の郡司に任命されたか実力で抑えたのは、
安倍忠良と思われ、ここにいわゆる“奥六郡総郡司体制”が開始された。

約10年後の1036年に陸奥権守に忠良(忠好)が任命されたのは、
奥六郡総郡司の実力を買われた為と思われ、この事も“奥六郡総郡司体制”
の強化に役立ったであろう。

このように安倍忠良の代に奥六郡支配体制が始まり、3代目の安倍頼良に
引き継がれていく。

41日本@名無史さん:2008/05/03(土) 03:45:42
安倍頼良は、奥六郡総郡司として、当然奥六郡を押えていただろうが、
この時期の安倍氏は陸奥中部の亘理郡を押える藤原経清や伊具郡の平永衡と
姻戚関係を結ぶなど、露骨に陸奥国府後背地の豪族と政治的に結ぶ事をしている。

他にも、安倍氏は奥六郡のすぐ南隣の岩井郡や玉造郡や気仙郡を支配下に押
えようとしきりに活動している。
この事を国府側は、危機感を持って対応した。特に北の奥六郡と国府南部の
亘理郡や伊具郡と挟み撃ちにされる事に危機感を持ったと思われる。

また、安倍氏はここまで南下に拘ったのは、単なる支配地拡大の要求だけで
はなく奥六郡の金山や交易と同時に稲作に注目し荘園収入の確保も考え
ていたと思われる。
42日本@名無史さん:2008/05/03(土) 03:52:23
どうでもいいけど朝廷がなんで奥六郡を放棄することに決定したのか
その理由は何よ
43日本@名無史さん:2008/05/03(土) 15:11:57
>>42
以下のことが続いたので、陸奥国司が、鎮守府将軍職廃止を朝廷に申請したんだよ。
蝦夷も大人しくなったし。

ただ、出羽北部の蝦夷対策本部の秋田城介は、1051年の鬼首部の合戦の時
まで存続します。

>>39
>行政官化した将軍の職権が国司の職権と重複する部分もあり、
>将軍と国司の激しい対立がしばしば起きた。

>その代表的な事例が、1018年の陸奥国司 藤原貞仲と鎮守府将軍 平維良
>の間で起きた合戦である。両者は、税金の徴収や蝦夷との貿易を巡り利害が
>対立し陸奥国内で戦闘となった。

>鎮守府将軍は早期に事実上名誉職化し、鎮守府に居ることも少な
>く、鎮守府は国府より早く廃絶した。
44日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:15:47
それで、安倍&清原氏は和人・蝦夷のどっちなのさ
45日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:23:49
>>44
      , イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
      ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii /  Λ
    ,イ// ^ヽj(二フ'"´ ̄`ヾ、ノイ{
   ノ/,/ミ三ニヲ´        ゙、ノi!
  {V /ミ三二,イ ,  /,   ,\  Yソ
  レ'/三二彡イ  .:ィこラ   ;:こラ  j{
  V;;;::. ;ヲヾ!V    ー '′ i ー ' ソ
   Vニミ( 入 、      r  j  ,′
   ヾミ、`ゝ  ` ー--‐'ゞニ<‐-イ
     ヽ ヽ     -''ニニ‐  /
        |  `、     ⌒  ,/
       |    >┻━┻'r‐'´
      ヽ_         |
         ヽ _ _ 」    

  ググレカス [ Gugurecus ]
  ( 2006 〜 没年不明 )
46日本@名無史さん:2008/05/04(日) 00:08:59
↑(゚Д゚)ハァ? ヴァカ?
47日本@名無史さん:2008/05/04(日) 01:26:19
1018年の陸奥国司の藤原貞仲は、朝廷に対して鎮守府将軍である平維良
の解任と鎮守府将軍を廃止を申請する。

平維良は即解任されたが、鎮守府将軍の廃止は、許可されていない。
しかし、歴代の陸奥国司は、鎮守府将軍の廃止を求め続けたようで、
朝廷としては、懸案事項としてくすぶり続けた。
陸奥国司と鎮守府将軍の対立は、その後も継続した可能性が大きい。

平維良の解任後は、平永盛が鎮守府将軍に任命され、さらにその次は、
藤原頼行が任命された。

このような状況下では、鎮守府も積極的に機能せず、次第に奥六郡での
活動も低下して行ったと思われる。その政治的な過程で安倍氏が台頭した
と見るべきで、安倍氏が蝦夷系の自生的な豪族と見ることは出来ない。
学会でも王朝国家の辺境支配を委託された存在と見なされている。

1027年に正式に鎮守府将軍は廃止され、朝廷も陸奥国司も奥六郡は、
完全放棄とされた。
この時期に朝廷から安倍氏に求められた機能は、後世に“東夷成敗権”や
“蝦夷管領”と呼ばれるもので、北方交易権や俘囚統轄権を示す。

また“東夷”とは蝦夷でも朝廷に帰属しない蝦夷の賎称で、安倍氏は、
鎮守府なきあとに東北北部向けての朝廷の先兵としての役割を求めれらた
事を示すものだと言える。

また、安倍忠頼は記録には“東夷酋長”記されている為、朝廷や陸奥国府の
構成員と認められていない事を示している。しかし忠良の代には1036年に陸
奥権守に任命されている事を見ると、完全に王朝国家に帰属した存在である
と見なす事ができる。
48日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:26:58
「忠衡は義経派だった」
泰衡の描き方がまるで正反対の「炎立つ」と「義経」両方でそうなってますが、
実際のところ「忠衡は義経派だった」というのを明確に示す資料ってあるんですか?
49日本@名無史さん:2008/05/18(日) 00:47:22
980年代には、奥六郡のうち北部の3郡ないし4郡は放棄されているよ。
記録にある。
50日本@名無史さん:2008/05/18(日) 22:48:37
>>46
泰衡が義経を倒したあとで忠衡を倒しているから、
そのように思われたのではないか。
51日本@名無史さん:2008/05/18(日) 23:34:40
たしかに
52日本@名無史さん:2008/05/19(月) 03:50:27
そこらへんは、むしろ御家騒動的なものじゃないの
53日本@名無史さん:2008/05/19(月) 18:07:44
んな事してるから幕府軍にやっつけられるんだ。
もっとも、んな事して無くてもやっつけられたろうがな。兵力差有りすぎ。
54日本@名無史さん:2008/05/20(火) 05:19:19
幕府軍?

日本史勉強し直してからまた来てね。
55日本@名無史さん:2008/05/20(火) 10:33:27
「1185年に設置されたのは守護じゃない。」「白村長で戦ったのは日本軍じゃない。」
とかも、一々言ってまわってるのか?
56日本@名無史さん:2008/05/20(火) 10:36:44
訂正・白村長→白村江
57日本@名無史さん:2008/05/20(火) 13:30:00
       ↑
こういうのってすげー無様
58日本@名無史さん:2008/05/20(火) 14:38:41
内容に反論出来ないで、記述ミスの事しか言えない方が「すげー無様」だと思うがな。
2ch的には記述ミスなんてスルーがデフォだろ。
59日本@名無史さん:2008/05/20(火) 20:41:50
       ↑
こういうのってすげー無様
60日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:51:08
>>53
wikiには「上記のように頼朝の圧力に屈して父秀衡の命を破り義経を死に追いやっただけでなく、
奥州藤原氏そのものを終焉に導いた事などから、父に比べて能力に欠け暗愚な印象が強く、評価は高くない。」とあるが、
秀衡が存命でも結局は頼朝に滅ぼされたろう。平家が滅び鎌倉の支配体制も固まった後では誰が当主でも同じ。

逆にそのような状況で無いなら、泰衡だとてそれなりに奥州を繁栄させたと思われる。
外部の状況が全く異なっているのに秀衡と泰衡を単純に比べ、後者を暗愚とする考えには同意しない。
61日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:05:58
>>60
なんか顔を真っ赤にした厨房が一人わいてるようだが

義経が戦いを指揮しても奥州は負けたと?
62日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:20:53
<丶`∀´> 白(ペック)村長ニダ ウェーハッハッハ!
63日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:39:54
>>61
やはり勝てる可能性はかなり低いんじゃないか。
奥州17万騎とはいえ、実戦経験が無い。
対する頼朝軍は、平家との戦で経験も豊富。
正面からぶつかったら、いくら義経が大将軍でも勝つのは困難だろう。

勝機を見出すとすれば、義経が地の利を生かしてゲリラ戦で頼朝軍を翻弄し、
その間に藤原基成あたりが後白河に調停工作をする。

というような、トンデモ説くらいしか方法はないんじゃないか。
64日本@名無史さん:2008/05/21(水) 03:21:22
>>61
上と同じく義経がいても奥州軍は負けたろう。

そもそも平家軍に対し鎌倉軍が有利に戦いを進めることが出来たのは
この時代の主力はある程度以上の身分のある武士でありその武器は弓で、雑兵は運搬や各武士の護衛、首取りなどのサポート役だったのが、
東国では雑兵まで弓を持たせ矢数で平家軍に圧倒したというのがある。
(後進地域の東国では分化があまり進んでいなかったからだろうか?)
義経の戦功もその上での話。その東国の兵(西国もいるが)相手に義経がどこまで活躍できたか。

さらに奥州軍と鎌倉軍ではその兵力差も大きい。当時の人口は東北60万人、それ以外620万人。
鎌倉軍は東国主体だからもっと比率は下がるが、関東だけで160万人だから
動員力としては奥州軍と鎌倉軍では5倍程度の差はあったと思う。
義経が参戦した頃は既に平家軍と鎌倉軍は同程度になっていた。
65日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:08:14
キターー!!
66日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:47:53
「炎立つ」からの映像転用が多かったようか希ガス
67武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/21(水) 23:32:59
>>58
同感。
初めてのぞいたスレだが
我が意を得たり、だな。
まあ私なんかそんな反論にもならない反論(表記のケアレスミスとか)
ばっかされてる。
68日本@名無史さん:2008/05/22(木) 02:12:18
雪が降るまで粘れってれば奥羽軍も勝てる!
69日本@名無史さん:2008/05/22(木) 02:26:52
>>67
傷を舐め合うんじゃないぞw
70日本@名無史さん:2008/05/22(木) 03:34:04
鎌倉府に対する伊達政宗って例もあるな。
なんだかんだで畿内方面が内乱状態になり生き延びてるみたいなw
71日本@名無史さん:2008/05/22(木) 09:09:05
逆に中央がまとまり大兵力を動員できる政権の時は、独自の道を行くのは無理と言うことだな。

もっとも前九年の時は、中央政府には何万もの兵力を派遣できるような仕組みはなかったと思うが
奥州も一つにまとまってるわけでなかったので、お隣さんに頼んでやっつけてもらった(笑)。
72日本@名無史さん:2008/05/22(木) 12:42:17
秀衡が急死しなければ、頼朝といい勝負できた?
73日本@名無史さん:2008/05/22(木) 19:53:36
秀衝が健在なら多少善戦できたかもしれないが最終的には絶対負けたよ。
承久の乱で朝廷でさえ鎌倉に負けたじゃん。
つまり時代の流れは鎌倉にきてたんだし、それを止めるのはどの勢力でもできん。
歴史上どの時代でも一緒。
74日本@名無史さん:2008/05/22(木) 21:09:30
海道の岩城氏なんかはちゃっかり鎌倉側に寝返っているしな。
もう一つの南奥を代表する勢力である、仙道の佐藤氏の方は最後まで平泉側に付いたようだが。
75武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/22(木) 21:54:09
>>69
傷ではなく
ケアレスミスしか指摘出来ないお前のようなクズの多さを
嘆いているだけでだーよw
悔しかったらちゃんと論破してみろや
出来ないくせにw
76日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:33:19
平家の天下の時に平清盛と秀衡がガチで戦ったらどうなってた?
77日本@名無史さん:2008/05/23(金) 02:05:14
義経に呼応して新田や佐竹が鎌倉を攻め滅ぼすよ。
78日本@名無史さん:2008/05/23(金) 14:53:36
北海道も版図に入れて西国の不満分子を煽り反源氏の抗争できなかったんかね。
79日本@名無史さん:2008/05/23(金) 17:33:32
梶原景時が「いたぞ!ここだ!!」って言うだけで源氏は滅んだのに・・・
80日本@名無史さん:2008/05/23(金) 18:57:14
仮に奥州が鎌倉に戦いで勝ったとしてもその後どうなる?
鎌倉陥落させたとしても、関東を統治するだけの行政力もなく、
結局奥州の独立は保たれ朝廷中心の公家政権に舞い戻り
結局また武家が立ち上がり関東に独立政権を立てただろ。
歴史とはそういうもんだ
81日本@名無史さん:2008/05/23(金) 20:28:05
奥州は義経を代表に
関東では新田と佐竹が今度は争い出すんじゃないか?さて足利がどっちに付くかな?
後白河大活躍w
82日本@名無史さん:2008/05/24(土) 16:18:14
>>64
分化??
後進地域って…?

逆だよ逆。
83日本@名無史さん:2008/05/24(土) 17:13:47
奥州藤原氏って鎌足の子孫の藤原氏の傍系って本当?
84日本@名無史さん:2008/05/24(土) 18:01:08
>>83
どうだろう。一応藤原秀郷は藤原北家の出とされてるから鎌足の子孫だろうけど、秀郷自身が藤原姓を仮冒したとする説もあるよね。
85日本@名無史さん:2008/05/24(土) 18:46:19
安倍とか清原じゃカッコつかねーもんな
86日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:01:26
>>83
永承2年(1047)二月藤氏長者の藤原頼通が興福寺修造のため、
全国の藤氏諸大夫に寄進を要請。その名簿の「造興福寺記」に
経清、六奥(むつ=陸奥)とあることから藤原氏メンバーは確定している。
87日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:08:20
>>86
それが本当なら公家や天皇家的には傍系とは言え頼朝なんぞよりよっぽど
奥州藤原氏が栄えてたほうがよかったと思うんだが、よく討伐許可出したな。
もう身内意識なんてなかったのかな。
88日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:30:56
>>87
事前に「討伐許可」なんか出してないよ。
頼朝は後白河が反対するのを無視して出兵。頼朝が阿津樫山で勝ったのを見て、後白河は事後承諾。
89日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:58:06
>>87
秀衡が陸奥守に任じられた時の玉葉の記事は「奥州夷狄秀平」だからね。
兼実はボロクソ書いてるよ。貴族なんてそんなもん。
90日本@名無史さん:2008/05/25(日) 04:28:25
母方で安倍氏だから、実質は俘囚安倍氏とみなされたのでは?
91日本@名無史さん:2008/05/25(日) 09:09:05
>>82
武士の発生についての事なら在地領主論はもう古い。
自分は高橋説支持なのでそう書いた。なお「後進地域」というのは「騎射の技術の」という狭い意味でだ。
ちょっと誤解される書き方だった。
92日本@名無史さん:2008/05/25(日) 13:58:58
>>91
武士論の事は関係ないから置いとくとして、
武芸についての高橋氏は論外。
実戦の訓練となるのは狩猟。都合の悪くなる狩猟への言及を避けた。
更に最も重要なのは武具を身に着け生死を賭けた実戦の機会。
実戦&日常狩猟の頻度、さらに馬産地(東北、関東、甲信)の有利さなど諸々の関係もあるわけで。

例えば吾妻鏡に出てくる篠山丹三。
千葉氏郎党である篠山丹三は身分のある武士ではないが、弓馬の達者。
こういう例は華麗にスルーだもんなあ…

それと雑兵まで弓を持たせ云々は愚管抄の木曽軍を指してるよ。
93日本@名無史さん:2008/05/25(日) 17:18:48
近畿の武士が狩りをしてなかったとでも?貴族だって狩りはしてたが。
実戦とか日常狩猟の頻度とか東西での高低表すような話は知らんが。第一実戦って何を指してるんだ?
笠懸・流鏑馬・追物射、古い記録は京都の辺りのだが。

弓の名手については個人名出したってあまり意味はない。男より背が高い女はなんぼでもいる。
源頼政・源為朝は大阪生まれの京育ちだが、那須与一とどっちが弓上手いか論じても意味ない。

まあ弓の技量云々は推測の部分がかなりあるんで、気に入らなければ対奥州戦の話からは忘れてくれ。
義経指揮でも鎌倉軍には敵わん理由の本質は他にあるんで(そっち書けば良かったな)。
94日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:50:25
義経が大将軍などと言っても所詮それは戦術上の問題。
秀衡亡き後、朝廷とパイプを保てなかった奥州藤原氏は鎌倉に敗北決定。
戦以前に政治的に頼朝には負けてたの。
95日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:10:23
>>93
狩猟の伝統は縄文以来東国。
『大山寺縁起』、殺生を繰り返した相模からの東遷御家人・葦名氏。
『とはずがたり』、武蔵からの東遷御家人・和智氏。
貴族の狩りというと鷹狩は多いが、時代が下るにつれ狩猟から遠ざかる。
殺生観ともからむ事だが。
狩りはしてたといっても、武芸狂いの後鳥羽院だって日頃狩りは出来ない。

馬場での笠懸・流鏑馬は静止的騎射、優美で故実に則ったものでなくてはならない。儀礼的。
むしろ京といえば競馬なんだけど、これは実戦とは別物。馬具からして旧式。
追物射は武士。
京の流鏑馬は、弓射に優れた地方出身武者の射手と京文化のコラボだろ。相撲もそんな感じだし。

大阪府は関係ない。(中央)軍事貴族である彼らの生活の基盤は京。
為朝は京生まれ、九州育ち。
鎮西為朝は桁外れの強弓だが、馬上での弓射は馴れてなかった。とは、『吾妻鏡』の大庭景能。
そもそも9C蝦夷の北東北が先進地だった騎馬戦術を、対蝦夷戦以来の自力救済(=実戦)の中で練り上げたのが関東の兵。
96日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:35:09
戦術上でもそれほど大きな問題にはならなかったと思う。

一ノ谷のとき平家軍と鎌倉軍の兵力はほぼ同じくらいと思われる。
鎌倉軍本隊が平家軍と対峙してたからこそ側面を突く義経の奇兵も生きた。
決して義経の寡兵のみで平家軍が敗退したわけではない(屋島も同じ様なモン)。

ここら辺思い違いしてる人が結構いると思う(ひょっとしたら義経自身も・・・)。

奥州が動員できる兵力は大体2万〜3万ぐらいだろう(1,5倍の開きがあるがチトこれ以上は絞れん)。
人口比からして鎌倉方はこの数倍の動員は出来ると思う(派兵はそれより減るが)。
この兵力差の前に義経の戦術が冴え渡るとは考え難い。
97名無し象は鼻がウナギだ!:2008/05/25(日) 21:38:50
安部、清原の出自の話はどうなったんだ?

この前の『その時歴史は〜』では両方とも”蝦夷”扱いだったが。
漏自身は、この頃の奥羽は蝦夷系・和人系が入り混じってるから折衷説でいいじゃんと思ってる。
98日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:50:21
>そもそも9C蝦夷の北東北が先進地だった騎馬戦術を・・・

証明されていない。これに対し都での騎射の記述は文献にある。追物射も10Cの文献にある。
笠懸・流鏑馬とかが実戦で無意味なら何で頼朝は熱心に鎌倉に導入しようとしたんだ。
君ブルーインパルスがただの客寄せパンダだと思ってるだろ。
99日本@名無史さん:2008/05/25(日) 22:17:58
>>95
>狩猟の伝統は縄文以来東国。
おいおい、西日本の縄文人は狩猟してなかったのか?
だいたい伝統云々だったら、馬は最初に弥生人が九州に連れてきたばってん。
100日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:50:58
藤原組長なら頼朝をボコボコにするけどな
101日本@名無史さん:2008/05/26(月) 02:02:27
みんな
巻き狩りなんて古代(飛鳥・奈良)からあるよ。万葉集にも出てくるしな。
武士団の戦力とはあまり関係なし。

平安中期を想定すれば、武士団の構成員に注目すべきである。
軍事貴族とその一族を核として「従類」(郎党も含む)こそが戦力を担っている。
「伴類」は国衙召集の公民歩兵を起源とするが、「従類」とは一体何者達だったのか?
「従類」は武士(軍事貴族)の隷属的家人であり、律令上の身分は私奴婢である。
律令制外の民、非合法の輩を出自とし殺人技術を生業とする穢れの者供が武士団の主力であったのだ。

朝廷が穢れを特定の「兵の家」(軍事貴族)に封じ込める政策をとった所以であると言える。
102日本@名無史さん:2008/05/26(月) 02:16:18
>>98>>99>>101
文献にもある。
中型馬の流入は4〜5世紀、北からのルートも想定。
ごちゃまぜだなw

続けるならこっち
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1138247458/
103日本@名無史さん:2008/05/26(月) 02:18:00
分り易く言うと
不良少年、札付き問題児を一ヶ所の学校に転校させてそこに封じ込めた訳だ。
「臭いものには蓋をする」のが日本古来の伝統手法。

しかし誤算があって、その学校自体が周囲に喧嘩を売りまくるようになったとさ。
104日本@名無史さん:2008/05/26(月) 10:43:44
>>102
馬が「最初」に来たのは3世紀後半辺り(もっとも今では古墳時代区分か)。だれも「普及」だなんて言ってない。
その後の馬具・飼育技術の伝来も半島(もしくは南方)ルートが定説だ。北方ルートという「想定」で「事実」をチャラにされてもね。

もっとも自分は武士の発生云々について論じる気はないので(学会でも決着ついてないから)続ける気はない。
鎌倉vs奥州についての話をしている。でも本質でない部分(ちょっと筆が滑ったw)の指摘に対しやりとりし過ぎた。反省する。ゴメンナサイ。
105日本@名無史さん:2008/05/26(月) 11:36:20
苦しゅうない。許して使わす
106日本@名無史さん:2008/05/26(月) 12:44:36
え、あ、そりゃどーも。恐悦至極に存じ上げ奉りまする〜。
107日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:15:23
>>105
おいこら、勝手にw


許して使わす
108日本@名無史さん:2008/05/27(火) 03:33:07
後3年の役が終わった時には、奥六郡と仙北3郡だけが初代藤原清衡の支配地域だったはずだが、
その後どうやって奥羽全体が奥州藤原氏の支配下に入ったのか分からないな。

かなり急速に奥州南部に奥州藤原氏の勢力が及んだ事になるのだろうか?
109日本@名無史さん:2008/05/27(火) 21:52:47
>>87
それを言ったら頼朝だって一応天皇家の傍系って事になるんじゃね?
それとも臣籍降下した家は皇室の傍系にはカウントされないのか?
もっとも俺は清和源氏は二代満仲以降は皇胤ではないと思っているが。
110日本@名無史さん:2008/05/28(水) 15:56:05
じゃ民間人になった皇孫≒ニートはドーやって生活していたんだ?やっぱり出家して坊主が殆どか?
111日本@名無史さん:2008/05/29(木) 04:10:00
>>109
kwsk
112日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:02:55
>>111
史料(尊卑分脈など)によると、「息子」満仲の方が「父」経基よりも2〜5才年上になっちゃうんだよ。
満仲の出自は実際は不明。
113日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:14:40
その時歴史が動いた面白かった
114日本@名無史さん:2008/05/31(土) 16:22:09
「その歴」
経清から泰衡までおよそ130年。放送時間はわずか45分だからね。
前九年・後三年合戦の経緯は藤原氏の成立に欠かせないとしても
もう少し清衡以降の内容を掘り下げてほしい気はしたね。
115日本@名無史さん:2008/05/31(土) 20:11:01
>>114
>もう少し清衡以降の内容を掘り下げてほしい気はしたね。

禿同だけど、資料が無いのでは?
>>108の質問にダレも答えられないし、解っていないのが現実かも。

本当に奥州藤原氏が、奥羽2国全体を支配していたのか判らない。
陸奥南部には海道平氏が居るんだし。
116日本@名無史さん:2008/05/31(土) 20:29:37
117日本@名無史さん:2008/05/31(土) 23:24:00
藤氏四代きもひやす
118日本@名無史さん:2008/06/01(日) 10:41:03
>海道平氏

つ姻戚関係
119日本@名無史さん:2008/06/01(日) 14:17:06
>>118
ないよ、あるのは清原真衡だけだろ。おまけに一族猛反対で後3年の役開始。
120日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:49:58
>>119
118ではないが、過去数回に渡り婚姻関係にあったことを記す証拠はあった。
ずっと前に図書館で借りた本のことだから題名も詳細も記憶にないんで、
見つけたら後日書き込みする。
121日本@名無史さん:2008/06/01(日) 23:03:45
>>112
満仲の出自は 経基が天慶二年に讒言の罪で半年以上衛門府に拘禁されているときに
接触を持ち利害の一致をもって養子としたと考えるのが妥当であろう。
満仲の前身は地下止まりの衛門府の武官であったと考えられるが、皇胤との縁組によって
出世の足掛かりを狙ったのであろう。

122世界@名無史さん:2008/06/01(日) 23:09:47
安部氏は、藤原氏と何代かに渡って婚姻してるから、黄金の氏族だって思うんだけど、
清原氏ってのがよくわかんないんだよね。誰か知らない?
123日本@名無史さん:2008/06/02(月) 17:53:12
>>120
藤原清衡と海道平氏に姻戚関係があったとは、知らなかった。

後3年の役以後も陸奥国司と清衡は戦争になりそうになる。
清衡の南下政策を国司が阻止したかったのか、
出羽に残る旧清原勢力(吉彦秀武など)が清衡排除を狙ったか、
その両方か、
良く分からん。

後に清衡は、陸奥に関しては陸奥押領使の公的資格を獲得し陸奥南部の荘園の獲得に乗り出す、
奥六郡総郡司や鎮守府将軍だけでは、東北北部を押えるだけの権限しかない。
陸奥押領使なら陸奥国内全部に影響を与える事ができる。
124視点論点:2008/06/02(月) 17:59:52
視点論点
125日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:01:07
>>121
満仲が養子だとすると、満政・満季以下の実子を押しのけて後継たり得たのは何故でしょうか?
126日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:14:37
満仲流が嫡流となったのは結果論じゃないか?
その頃は、親父がアボ〜ンしたら子どもたちは財産分け合ってそれぞれ自立というパターンが多いと思うが。
127日本@名無史さん:2008/06/03(火) 00:08:18
出羽は一部しか支配できなかった?
128日本@名無史さん:2008/06/03(火) 02:34:12
3人は同母兄弟とされているが、満仲が養子だとすると満政・満季も怪しいものだな。
129日本@名無史さん:2008/06/03(火) 04:07:39
>>127
かもね。
清原氏の旧領の山本郡・平鹿郡・雄勝郡の3郡には後3年の役後も
清原氏係累の吉彦氏や橘氏などがいた可能性あり。
彼らを完全に押さえ込めたかどうかは不明。

1093年に清衡の母方の親戚の平師妙・師季親子が出羽守源信明の館を攻め、
翌年、陸奥守源義綱の郎党により鎮圧されたが、『中右記』によると、
前年の寛治6年(1092年)6月には陸奥守藤原基家の解文により、
藤原清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられていることから
両者を関連づけて清衡の陸奥・出羽両国での強引な南下政策とも考えられる。

おまけにこの合戦に吉彦氏や橘氏も参加していたかも不明。
陸奥では何とかなった清衡だが、出羽では清衡方の平師妙・師季親子は鎮圧されている。
出羽での清衡の強引な南下政策は大失敗。

130日本@名無史さん:2008/06/03(火) 06:30:53
>>128
経基が満仲・満政・満季の三兄弟に取り込まれたと考えるのが自然だろう。

ちょうど天慶二年に衛門府に拘禁されてた時は清和源氏株が大暴落してたからなw
131日本@名無史さん:2008/06/03(火) 11:29:12
鎌倉期までの奥州の歴史は基本的に戦争の歴史である
132日本@名無史さん:2008/06/03(火) 12:04:00
>>131
豊臣秀吉の奥州仕置きまでじゃね?
133日本@名無史さん:2008/06/03(火) 13:25:48
奥羽越列藩同盟までじゃね?
134日本@名無史さん:2008/06/05(木) 02:32:45
清原氏は全滅させられたの?
135日本@名無史さん:2008/06/05(木) 02:39:17
>>26
盛岡県って何
136日本@名無史さん:2008/06/05(木) 08:10:41
>>135

「岩手県」となる前には「盛岡県」だったことがあるよ
137日本@名無史さん:2008/06/05(木) 14:49:34
しっ知ってるんだからね!!
138日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:49:47
>>134
主流の家がね、本家の真衡は病死という暗殺、
清原氏のなかで1番人望があった家衡は後3年の役で殺され、武衡も同じ。

でも家臣や分家筋の吉彦氏や橘氏は滅びていない。
彼らが、後3年の役以後にすんなり藤原清衡に従ったのかどうかは論争になっている。

139日本@名無史さん:2008/06/09(月) 01:35:55
平泉の史跡は復元するべき。
140日本@名無史さん:2008/06/09(月) 16:50:23
奥州藤原氏は、直轄地は奥六郡を始めとする東北北部で、
東北南部は、何重にわたる姻戚関係と押領史や荘園領主の職務権限で
押えているだけ。

陸奥や出羽の南部は直接の自分領土とはいえないんだよ。
141日本@名無史さん:2008/06/09(月) 22:16:19
>>139
大賛成。毛通寺、無量光院跡地は綺麗に残ってるし模型で復元できるくらい
外観も分かってるみたいだし復元してほしい。
142日本@名無史さん:2008/06/10(火) 13:46:12
清原分家筋の橘氏と、秋田に入部した橘氏は何か接点あったの?
143日本@名無史さん:2008/06/10(火) 13:49:59
小鹿島氏か?
144日本@名無史さん:2008/06/10(火) 15:25:35
うん
145日本@名無史さん:2008/06/10(火) 15:29:26
今井兼平兄弟、中原一族と木曽義仲との関係と同じで、
義経も佐藤兄弟、信夫庄司佐藤一族の娘婿だったんじゃないかなあ?
146日本@名無史さん:2008/06/10(火) 15:31:01
>>140
山北三郡は?
147日本@名無史さん:2008/06/11(水) 04:08:12
判んないじゃね?記録もないし

吉彦氏や橘氏は、元々家衡支持していたといわれる。
でも義家が来ちゃたから、清衡らと一緒に対家衡への軍事行動したらしい。

清原氏の元々の本家は、光頼なんだけど、任務遂行のために陸奥に移った
武則が前九年の役に勝利し鎮守府将軍に任官した為、武則系統に本家が移行した。

光頼はそのまま出羽に留まったものと思われる。本拠地は平鹿郡大鳥山
(現在の秋田県横手市)であったといわれる。
光頼の子には大鳥山太郎頼遠がいたが、この後は武則の子が清原氏の本流に
なるなど、光頼、頼遠親子と武則、武貞、真衡との間の力関係や主従関係に
ついては解明されていない点が多い。

おそらく頼遠は、真衡とは対立し家衡・清衡サイドに付いただろうし、
家衡vs清衡の時は、家衡サイドに付いている。

後に頼遠は後三年の役の折に源義家により滅ぼされたのはその為らしい。

だから義家が帰った後はどうか判んないんだよね。
148日本@名無史さん:2008/06/11(水) 10:16:53
記録無いのか・・・中央に関わる事でないと記録されないんだな。

清衡は清原氏を受け継いだわけだから、仙北三郡も藤原氏の本拠地と考えていいんじゃね。
参考までに。藤原苗字の分布。http://kissho.xii.jp/1/src/1jyou37826.gif

自分は仙北三郡の出身だけど藤原さん多いよ。ちなみに清原は秋田には無い。
149日本@名無史さん:2008/06/11(水) 17:30:14
>>145
佐藤一族の女性と義朝が恋仲だったっちゅう話を何処かで読んだことがあるが、
家にある書籍のどこを見直しても見つからん。

貴殿は知らないか?
150日本@名無史さん:2008/06/12(木) 00:47:09
本来頼朝(義朝だっけか?)に嫁ぐ予定だった女性が、何の手違いか信夫荘司佐藤元治に嫁いでしまい、その二人の間に出来た子が継信・忠信兄弟である、という話なら奥州藤原氏か源義経を題材にした本で読んだ事がある。
但し、>>149氏に同じく俺もその本(ムック本だったかも)どうしても見つけられんでいる。
今の家に引っ越して以来見つからんのじゃ〜(つд`)
膨大な数の段ボールの中のどこかに眠っている…
151日本@名無史さん:2008/06/12(木) 00:57:51
150だけど
更に思い出した事。

信夫佐藤氏に嫁いだその女性ってのは確か、「上野国・大窪氏女」だったと思う(うる覚え)…
152日本@名無史さん:2008/06/12(木) 17:48:44
>>142
興味深い事だよね。
橘定頼の字は「島太郎」。
で、この時代出羽北部で「島」と言えば、小鹿島(現男鹿地方)のことなんだそうだ。

その小鹿島に後年、平泉攻めの功により「橘」公業が入ると。
153日本@名無史さん:2008/06/12(木) 20:20:56
>>150
サンクス。やっぱり同じような本(というか同じ本?)読んでたんですね。
その本はもとよりその話の元ネタがわかればなぁ。
154日本@名無史さん:2008/06/13(金) 15:56:26
一時は奥羽の覇者だったのに安倍氏ばりによく分かってないな>清原

安倍富忠と頼時の血縁関係はどんなもんだったんだろう
富忠はその後どうなったんだ?
155150、151:2008/06/13(金) 18:42:35
>>145

先月亡くなられた角田文衛氏が全く同じ説を唱えておられたよ。

>>153

あっ、因みに私は>>150-151ですけど>>145氏とは別人です。
156日本@名無史さん:2008/06/14(土) 03:07:13
>>154
>一時は奥羽の覇者だったのに安倍氏ばりによく分かってないな>清原

一応清原氏は、中央貴族の血はひいてるらしい。
安倍氏はほぼ俘囚のボス、鎮守府になびいた俘囚の部族長だね。

>安倍富忠と頼時の血縁関係はどんなもんだったんだろう

これも良くわからん。血縁関係ありという説と無いという説が両方あり。
陸奥北部の俘囚の長に片っ端から「安倍」の姓を授けた可能性もある。

出羽の俘囚の長の場合は、吉彦氏や橘氏ね。

>富忠はその後どうなったんだ?

どうも利用されただけらしい。恩賞も何も無く忘れられた存在に。
157日本@名無史さん:2008/06/14(土) 05:10:19
清原氏については記録に「真人」と冠してある事から、以前から中央貴族説は多かったはず。

最近では安倍氏についても、このスレの上の方にあるように国司任官の事実から中央安倍氏説がとなえられ始め、しかも年々その説は強まってきている。

橘氏については何とも言えん。記録、史料の類がほとんど無いから。
ただ個人的に何故「橘」姓を名乗っいるのかとはおもうけどね。
武家橘氏には大まかにいって二つの系統があって、一つは承平・天慶の乱で活躍した伊予越知一族の橘氏(橘遠保)の系統。
もう一つは橘広相の子、公頼(筑後橘氏)と公材(肥前橘氏)の系統。
公頼はやはり承平天慶の乱で太宰権帥として純友征伐に活躍している。
そして公材の子孫公成が上にもあるように、鎌倉時代に入って出羽小鹿島に入部して小鹿島氏を名乗るようになる。

承平天慶の乱における勲功者の子孫は軍事貴族として各地で優遇されたそうだから、想像が許されるなら上記いずれかの橘氏の一族の者が出羽地方に所領を得ていたとしても、おかしくは無いと思う。

以上、長文スマソ
158日本@名無史さん:2008/06/14(土) 09:25:28
義経の呪いで地震発生、平泉倒壊か
159日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:57:19
【速報】
藤原三代のミイラが眠りから覚めて平泉町内を徘徊中との情報あり
160日本@名無史さん:2008/06/14(土) 14:45:07
>>157
>最近では安倍氏についても、このスレの上の方にあるように国司任官の事実から中央安倍氏説がとなえられ始め、しかも年々その説は強まってきている。

うそ!
最近では、むしろ俘囚説のほうが学説としては強くなっている。
アイヌであるかどうかは、分からないが、朝廷や近畿出身者ではないし、
その近親者でもなく、地元陸奥の奥六郡地元出身者である事は確定的。

おそらく頼時の祖父の安倍忠頼が9世紀に公弥候や丈部などの俘囚の姓から
阿部もしくは安倍に改姓し、鎮守府か陸奥国府に帰属した、と言うのがほぼ
決まりの学説。
おそらく忠頼は、岩手郡郡司にまずは任命された可能性が大きい。
その後、鎮守府の弱体化と供に安倍氏の支配領域の南下が始まったとされる。

9世紀には鎮守府や陸奥国府の指導により、俘囚の首長がいっせいに改姓した時期。
161日本@名無史さん:2008/06/14(土) 20:30:25
>>155
人違い、失礼。
ともあれその説は俺の思い違いでなかったことが判明したのでお二人に改めて感謝。
んで、何故義経が九郎を名乗ったかをこれで考えると、
実際の7人の兄達に加え、継信も兄貴だったとすれば九男、と勝手に思ったことがある。
162日本@名無史さん:2008/06/15(日) 14:18:37
吉彦は毛野の部民(君子部)で北関東からの柵戸じゃねの?
163日本@名無史さん:2008/06/15(日) 20:35:52
↑初めて聞いたけど、そんな話・・・
164日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:22:18
↑ちったあググれよ
165日本@名無史さん:2008/06/17(火) 04:36:43
吉弥侯部のうち、一部の者は中央に貢進され、朝廷や貴族などに仕えて
雑役に従事した。
吉美侯部(吉弥侯部)が東北地方以外にも各地に広く分布するのは、
律令国家が俘囚を全国に配して内民化をはかったためだと考えられる
        ↑
東北に居た俘囚を内地に隔離しただけ。北関東にもともと居た訳ではない。
166日本@名無史さん:2008/06/17(火) 05:17:56
藤原三代に限らず、
「奥方」または母親の出自がわからんの多いよな。
わざわざ京から嫁連れてきたのでなければ、現地で
美女を選んだろうて。
167日本@名無史さん:2008/06/17(火) 07:21:04
>>166
つ 招婿婚制度



北関東と奥羽ってのは古くなればなるほど密接な繋がりがあるよ。
毛人と蝦夷だろ。
言葉でみても栃木弁なんてあれは東北弁だよ。
南関東とは明らかに違う。
んで、その北関東と言えば毛野氏だ。
小山だろうが宇都宮だろうが那須だろうが足利(藤姓・源姓ともに)だろうが新田だろうが、その実体(母体集団)は毛野一族だろう。
招婿婚制度によって藤原氏なり源氏なりから婿をとって中央氏族化させ、家の安泰を図ったのものだ。
奥州にもその影響を及ぼさない訳がない。
特に北関東の延長線上にある仙道(中通り)地方なんてね。
信夫の佐藤氏や石川氏だって俺は元々の母体は毛野氏の一族でそれぞれ藤原氏、源氏から婿をとったものだと思っているよ。
佐藤氏は代々北関東の豪族と婚姻を重ねてきているんだろ?
伊達氏だって毛野氏説が根強くあるだろ?
羽州についてはそれほど詳しくはないが似たようなものなんでないか?



恐るべし「毛野一族」だよ。
168日本@名無史さん:2008/06/18(水) 01:32:55
何でかは知らんけど、北関東から朝廷に参加した。
南関東は後からの参加(征服)ですよ。

それと毛野一族は、古代から北関東から東北に分布していたのなら、
完全に蝦夷でしょうね。朝廷の姓に改姓しただけでね。

>>165
毛野一族の話を見ると、陸奥の安倍氏も地元出身者だな、
中央の貴族ではありえない。出羽の清原氏は中央貴族だろうけど。
169日本@名無史さん:2008/06/18(水) 03:26:10
白鳥冠者宗任
170日本@名無史さん:2008/06/18(水) 16:28:51
安部宗任が伊予国に流罪、その子孫が安部首相?
171日本@名無史さん:2008/06/18(水) 17:37:59
そういわれているね
172日本@名無史さん:2008/06/18(水) 20:15:46
宗任さまもあんな子孫を持って泣いていらっしゃることじゃろう
173日本@名無史さん:2008/06/18(水) 20:28:13
我が国の梅の花とは見たれども
大宮人は何と言ふうらむ
174日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:52:26
本当に返す返すも残念でならない。

戦の天才義経を総大将に、奥州藤原氏の全軍を上げて
悪の頼朝軍を迎え撃つべきだったのに。

間違いなく勝てたでしょ。
戦の神様vsなーんの戦の素養もない頼朝なんだしね。
175日本@名無史さん:2008/06/19(木) 19:44:23
蝦夷藤原氏
北陸藤原氏
関東藤原氏
甲信藤原氏
東海藤原氏
近畿藤原氏
中国藤原氏
四国藤原氏
九州藤原氏
琉球藤原氏
伊豆小笠郡藤原氏
176日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:25:17
金色堂に入れられている「伝・忠衡の首」について。
定説では泰衡だということになってますが、経清説を唱えた方がいますね。
みなさんはどっち?
俺は経清のほうが可能性高いかなと思えてきた。
177日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:28:50
>>176

泰衡の首が経清の可能性もあるの?それはロマンだ!

研究進めば良いね!
178泰衡くん:2008/06/24(火) 18:33:30
またかよ・・・。
ありえねえっつーの。
自分が言うんだから間違いない。
179日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:42:30
>>7

この時代は家系や血統は命と同じだろう?戦闘の時に態々長い家系と氏名を

名乗り上げるのだから・・・・・血統改ざんは考えられない!!

土地と血統が最大の時代では血統改ざんは周囲が許すはずがない!

藤原経清は従五位下の官位で、これは地方の最高官位か京の藤原摂関家に

連なる家系だろう。嘘の官位はは考えられない!

鎌倉幕府の3代将軍、源実朝は従五位下の征夷大将軍だから地方で従五位下

は相当な官位だろう?(京の公家さんは従五位は腐るほどいると思うが)

貴種である経清の嫡流で地元の明主、安倍氏の血流を受け継いでいるからこそ

清衡は奥州の覇者として朝廷にも地元にも認められたのだと思うね!!
180日本@名無史さん:2008/06/24(火) 19:08:22
>>166

河内源氏も坂東平氏も在地の有力豪族の娘(通い婚)との間にできた子を貴種として

母系豪族を従えることで系流を拡大しているよ。

奥州藤原氏も同様だろう。
181日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:26:20
>>178
そういう話の腰を折る反論は自らの負けを暴露するようなものですよ。
182日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:44:05
トンデモ説を妄信する馬鹿に言われてもねw
183日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:47:17
首級がほんとうに経清なら、なんで秀衡の棺に納められていたんだ?
息子の清衡の棺に納められるはずだろう。
184日本@名無史さん:2008/06/25(水) 20:12:53
秀衡の棺に?  どこのトンデモ本だよw

というか、どちらの説にしても罵りあってるんでは面白くないな。
否定するなら否定するなりに、妄想だと決め付けただけではダメだ。
肯定する方もそれそうとうの根拠が必要と言うこと。
185日本@名無史さん:2008/06/26(木) 15:12:20
関東の農業に東北の砂金が負けたって話し
186日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:42:25
経清と泰衡の区別がつかないワケはよく理解できる。
あの2人は同一人物のように顔も姿形も似すぎていたんだ。
NHKの番組で見たから間違いない。
187日本@名無史さん:2008/06/26(木) 23:22:49
>>186
あ〜!先に書き込まれた〜(泣)
188日本@名無史さん:2008/06/26(木) 23:44:09
でもさ、経清の首級はたしか京で晒されたはずだろ?
どうやって平泉に戻ったん?
189日本@名無史さん:2008/06/27(金) 20:46:37
家来が首を盗む
家来に下げ渡される
藤原一族の手で返される

あたりが考えられるところかな。
泰衡の首だとすれば、あの多数の傷跡が解せないと言う、
高井ふみや氏の意見は一理あるかもしれん。
それに「忠衡の首」と書いてあるのも変だ。

あくまでも想像の話だが、経清の首だと言う仮定で。
(ここからは高井さんは書いてないこと)
平泉が破れた後で金色堂の中を僧侶が見た時、もし身元不明の首があったら。
僧侶は泰衡の首ではないと言う確信があったから、
勝手に忠衡のものだと決め付けた、とは考えられまいか。

否定するのは自由だが、>>178みたいなのは勘弁してくれ。
俺は高井さんを盲信するものではない。
190日本@名無史さん:2008/06/27(金) 21:13:09
藤原支配時代に奥羽にいた先住「武士」も、
なにも奥羽限定ではなく、一族が奥羽以外に居たとみるのが正解なのでは?
191日本@名無史さん:2008/06/27(金) 21:14:38
藤原支配時代に奥羽にいた先住の「武士」も、
なにも奥羽限定ではなく、一族が奥羽以外にも居たとみるのが正解なのでは?
生粋のアイヌ系ではなく、古代に北上した倭人のさまざまな氏族の末裔(混血はしたろうが)

192日本@名無史さん:2008/06/27(金) 21:23:30
由利八郎は「中八」=中原一族ということらしい。
信州の中原一族と関係がある可能性も。


鎌倉時代の由利郡
http://www.town.yashima.akita.jp/kinenkan/kodai04.htm
193日本@名無史さん:2008/06/27(金) 21:50:11
2006年03月24日
東北の歴史のミステリーその2〜「泰衡の首」は泰衡の首じゃない?@
http://blog.livedoor.jp/anagma5/archives/2006-03.html

2006年09月04日
東北の歴史のミステリーその11〜泰衡は死んでいなかった?A
http://blog.livedoor.jp/anagma5/archives/2006-09.html
194日本@名無史さん:2008/06/28(土) 17:11:29
>>189
なるほど。というとは、京から平泉まで経清の首級が帰ってきたことを示す史料があるわけではないんだね。

高井ふみや氏というのはこれだね。
http://www.bensey.co.jp/book/1523.html

高井氏は首級の傷について、経清と泰衡を比べ、合戦経験のほとんど無い泰衡よりも、前九年合戦を戦ってきた経清のほうが
傷を負う可能性がはるかに高いというスタンスなんだね。
そして、

「縫合されている傷もあれば、顔面の中央を割る大きな傷もある」とし、「おなじ日、おなじ時間に受けた傷だけでなく、斬首される何日もまえ、あるいあ10日以上もまえ、あるいは一か月もまえ、あるいは数ヶ月もまえというような刀傷が重複しているのかもしれないのである。
それなら、ある傷口は軟部組織に覆われて治癒し、または治癒しつつあり、『ある傷口は縫合され、ある傷には包帯がなされ、』ある傷口は離開したままの状態にある、ということの説明がつく。」(『』はわたし)

とする。
でもね、高井氏は書いていないけれど、学術報告書の東京大学助教授:鈴木尚医学博士の報告には、『』の縫合跡を
「<受傷当時は僅かな部分であごの皮膚と連続していただけで、殆ど顔面の皮膚から離れた状態>だったようで、それが糸で縫いつけられたらしく<創の側縁に針孔が残って>おり、<その縫方は「くけ縫」で、糸の痕もよく認められた。>」
195194:2008/06/28(土) 17:13:48
つまり、縫われた傷というのは「くけ縫」という『まつり縫い』で縫われていたということ。
このような縫い方を生きている人間に施すこと自体ありえないことで<受傷当時は僅かな部分であごの皮膚と連続していただけで、殆ど顔面の皮膚から離れた状態>がどうゆう状態かということを、もう一度吟味してほしい。
なんせ、頭蓋骨の頬骨の一部まで削れていたんだからね(これは高井氏の本には書いていないが、学術報告書には記載がある)。

高井氏は、まず死後につけられた傷ならば、「まず顔の正面の傷を縫おうとするのが人情だ」というが、
わたしは顔面から離れるほどの傷ならば、そちらから縫おうとするのも人情だと思う。

鈴木尚医学博士の報告の続きには、「頚椎 第一より第四頚椎まで頭骨から遊離して発見されたが、総計五箇所の切創があった。第一頚椎:異常はない。第二頚椎:三箇所の切創がある。
この切創の位置から判断すると、加害者は「忠衡」の首を切るべく、後方から二回太刀を加えたが、両回とも成功はしなかった。しかもそのうちの一回は太刀先が外れて、骨の左側面に第三の深い傷を与えた。
この創の位置から考えると、左頚動脈は確実に切断され、同時に頭部の大血管をも切断したであろうから、仮にその時まで「忠衡」が生きていても、この創は正に致命傷であったろう。
第三頚椎:異常はない。第四頚椎:「忠衡」の首は実に第四頚椎推体の上面すれすれに切断されたのである。但しこの場合も一回で成功したのではなく、「忠衡」の首の右側と左側とからそれぞれ一回ずつ太刀を加えて、遂に首が落ちた。」
196194:2008/06/28(土) 17:14:35
これからみると、陸奥話記にあるように鈍刀で苦しみを長引かせるような処刑とは様相が異なるようだね。
岩手医科大学教授:足澤三之介医学博士(レントゲン調査)の報告には、

「第四頚椎は斜に『鮮鋭』に切られている。以上頭部における外傷から想像すると奮戦の末捕らえられ斬首されて釘付けにされたものと推定される。」
と、『鮮鋭に切られた』とあるからね。これも高井氏は言及なし。

高井氏はもちろん、中尊寺の首級を実見したわけじゃない。それに高井氏の医学的知識がどれほどのものかしらないけれど、昭和25年の調査に異論を唱えるのはいいが、その異論の裏付けが無い。
康平6年(1063)経清の首が晒され、そして中尊寺建立の長治2年(1105)までのおよそ40年間。経清の首級ははたして金色堂に納められる可能性はいかほどのものか。

ま、こんなもんか。
197日本@名無史さん:2008/06/28(土) 20:42:42
丁寧な反論THNX。
高井氏の本では、確かに、「これこれと思う」みたいな書き方が目立つわな。

一方で、傷については「軟部組織」を「傷が治癒しかけている」とあるけど、
これは泰衡だと無理というのも高井説。

傷についてはまだ検証の余地があるでしょう。
あと、わざわざ忠衡と書かれた理由も曖昧なのは確か。
これは高井氏も推理できなかった。俺は上のように考えたけどね。

疑問に思うことは、金色堂を普通の葬堂とするか逆善と見るか、の宗教的な問題。
逆善だとして、問題点は基衡のこと。
清衡は自分の葬堂を造ったが、基衡は造っていない(だから金色堂に入れられた)。
しかし秀衡は逆善を行なっている。
というのは、金色堂左右の塔は同時に造られなければ不自然であるから。
秀衡は父基衡の塔と自分の塔を金色堂に設置し、三人でこの中に収まることにしたことになる。
これって藤原が三代で潰えることの暗示を自分からしているのか、
それとも四代目は新しい葬堂を建てろ、といっているのか。
198194:2008/06/28(土) 22:35:18
>>197さんには悪いが、わたしは高井氏の主張は首肯できないんだ。

>傷については「軟部組織」を「傷が治癒しかけている」とあるけど、
これは泰衡だと無理というのも高井説

泰衡は河田次郎に裏切られて急襲され、奮戦の後ついに力尽きて首を刎ねられた。とするのが、調査団の見解。
それに対し高井氏は、泰衡は河田次郎に即効で殺され、「刀を抜いて抵抗するひまなどあたえなかったにちがいない」
と決めつけている。つまり、首級に多くの傷があるのは歴戦の勇士経清だからで、戦の経験の無い泰衡には
傷がある可能性はほとんどない、という主張。
つまり単なる『だと思う』でしかなく、泰衡ががんばって戦ったという可能性を否定する材料も無い。
疑問を持つだけならばかまわないけど、法医学的所見を批判するのならば、高井氏も医学的根拠をもって反論すべき。

首級の調査報告書の中には「治癒しかけた傷」を示すものは一切出てこない。
さっきも書いたけど、高井氏の医学知識がどれほどかは知らない。けれど、高井氏は自説に都合の悪いことはことごとく
無視しており、牽強付会も目立つ。こういった傾向が認められる以上、いかに高井氏の医学的見地が優れていても、
その主張には眉につばを付けざるを得ない。

こう言えるのは、わたしは実際に朝日新聞社“中尊寺と藤原四代”という中間報告書を
読んだことがあるから。これは調査から5カ月後に刊行されたものだけど、最終報告書とはそう違いは無い。

まあ、昭和の調査からは60年近く
経っているので、今一度中尊寺の遺体が再調査されることがあれば、医学の進歩、調査方法の進歩もあるから
新知見が出てくるかもしれない。

経清の首が京の西獄門から平泉に帰ってきたことを示す史料が無い以上、泰衡の首と考えるのが、少なくとも現時点では
まっとうな歴史学だと思う。
199197:2008/06/29(日) 21:56:15
>>198
悪いも悪くないもないでしょう、間違ってたら正論で叩くのが当然の世界ですから。
178みたいなのは勘弁と言ってるだけで、反論しないでくれとは言わん。

俺は高井氏の説とは別に、金色堂の姿で前々から疑問を持っていたんです。

傷はともかく、金色堂の左右の塔について検証すると、
従来の説では納得行かないこともあるんですよ。だが経清だと理解できたりする。
鎌倉に金色堂の存在が知られた時には、清と基が葬られていた。
だが塔は左右両方に付いていない筈がない。
だから秀の時代には3人が納められていたと考えられたわけです。

それと、>183の人のは「秀の棺のそば」の間違いだと思うけど、
のちの調査で二代目と三代目が逆になっていることが発覚したんですね。
つまり「忠」の首は、実際には基の棺の横にあったのです。
もし首が忠でも泰でも、秀の息子だったら秀の棺の側に置かれるのが自然、
でも実際にはそうじゃなかったのが変だ。変と言えば二代目と三代目が逆になっているのも不自然。
200日本@名無史さん:2008/06/30(月) 11:08:36
藤原経清って実在したの?
201日本@名無史さん:2008/06/30(月) 11:46:23
忠衛の頸なんじゃね?
202日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:00:30
>>200
>>86
203日本@名無史さん:2008/07/02(水) 16:35:54
>>193
24日の方のリンク先が30日になってるけど、その中で清衡自身の葬堂とは思えない
という部分が唐突に思われる。
204日本@名無史さん:2008/07/02(水) 18:09:41
>>203
下にスクロール
205日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:07:37
>>204
いや203の主旨はそこではない。
206日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:14:40
このスレの住人は大河の炎立つは見た?
207日本@名無史さん:2008/07/04(金) 20:23:57
最初だけ。つまらなくてやめた。
208日本@名無史さん:2008/07/05(土) 14:14:30
大きな声じゃ言えないが、DVD−BOX買っちまったort
1部と2部はおもしろいんだけどな。3部はry
209日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:23:21
家衡の「ぶっ殺す」のセリフが印象に残ってるな
210日本@名無史さん:2008/07/06(日) 12:38:12
>>206
軟派な義経が出たのでやめた
211日本@名無史さん:2008/07/06(日) 16:36:45
京=14万人
平泉=10万人

当時日本第二の大都市だった平泉。
今はあんな見るも無惨な感じだが…。
212日本@名無史さん:2008/07/06(日) 16:42:42
つまり夢のあと
213日本@名無史さん:2008/07/07(月) 11:40:09
平泉の世界遺産登録、見送りになったなぁ。
214日本@名無史さん:2008/07/07(月) 11:46:28
首のミイラの写真って
どっかのサイトにありますか?
215日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:39:12
奥州藤原氏は元々京の出身でアイヌの血が流れてないのに、何で「蝦夷」って呼ばれるんだろう?
216日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:59:15
『方民』論だったかな?
要するにそこの民族出身ではなくても、そこに居住・土着した時点でそうみなすってやつ。
奥羽だけじゃなくて関東人も中央から東戎(あずまえびす)と書かれていたりもする。
又、今の北海道の人もアイヌでも何でもなくとも(つまり和人なのに)、スポーツの全国大会なんかで自分達のことを『蝦夷(エゾ)』と垂れ幕なんかに書いて応援してるのを最近たびたび見かけるしね。
217日本@名無史さん:2008/07/07(月) 21:11:35
>>216
「蝦夷」って元々は「蝦(えび)のように長いヒゲを生やした野蛮人」という都人からの蔑称じゃないのか?
それを北海道の人が自称するのもおかしな話だと思うぞ。
奥羽は征服された地域なのに、あたかも罪人のように「俘囚」って言い方も変。
安倍氏の「俘囚長」とか清原氏の「俘囚主」というのも良い呼称でもないよな。
218日本@名無史さん:2008/07/07(月) 21:20:25
平泉世界遺産落選オメ
219日本@名無史さん:2008/07/08(火) 00:53:46
秀衡の肖像画を見ると、アイヌの血が混じってるように見える。
義経や頼朝の肖像画とはまったく違うもの。顔のつくりが。

220日本@名無史さん:2008/07/08(火) 07:32:47
後世の人が妄想豊かに描いたモノをネタに断言する君って・・・
頼朝に至っては他人の肖像画説が有力。
221日本@名無史さん:2008/07/08(火) 08:05:51
>>217
〉「蝦夷」って元々は「蝦(えび)のように長いヒゲを生やした野蛮人」という都人からの蔑称じゃないのか?
それを北海道の人が自称するのもおかしな話だと思うぞ


〉おかしな話だと思うぞ

と言われても
それが『方民』論なんだよ。
元々その地方に住んでいた民族のみならず、あとから入植した人間をも、その先住民の民族呼称で呼ぶようになるという現象のこと。
自他ともにね。
他にも、例えば薩摩の人間だって民族としては隼人民族ではなくとも、自他ともに「薩摩隼人」と呼称するだろう。

222日本@名無史さん:2008/07/08(火) 09:38:14
>>220
あの一般的に源頼朝像と言われてるのは足利直義像だっけ?
間違えたらスマソ
223日本@名無史さん:2008/07/08(火) 18:36:31
作者が藤原隆信らしいから時代が合わない
224日本@名無史さん:2008/07/09(水) 10:36:33
となると平重盛以外には考えられないのだが
225日本@名無史さん:2008/07/09(水) 15:33:38
とりあえず奥州藤原は4代目のせいで滅んで平泉を劣化させたという事でおk?
226日本@名無史さん:2008/07/09(水) 17:24:16
誰が継いでも同じだったような気もするが。
227日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:17:13
>>225
奥州藤原氏は3代までと俺は思うけどな。
泰衡は国を滅亡に導いた安君だし、清衡・基衡・秀衡の3代と比べるまでもない。
228日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:36:42
きもひやす

四代ですっ!
229日本@名無史さん:2008/07/09(水) 22:51:53
しかし秀衛の頃に奥州10万騎がいたというけど、鎌倉を攻め落とすことも出来たんじゃね?
奥州藤原氏にとって最大の脅威は頼朝という神輿を担いだ南関東だったわけで。
230日本@名無史さん:2008/07/10(木) 06:21:46
鎌倉政権だってけっして磐石さが保障されていたわけではなかった。
実戦経験が無かったから負けたというが、大河兼任がけっこう抗戦している。
泰衡だって河田二郎が裏切らなかったら勝てたのかもしれない。
231日本@名無史さん:2008/07/10(木) 06:23:15
平家が敗北した要因は西国が飢饉だったからだよ。
232日本@名無史さん:2008/07/10(木) 13:32:56
>>229
平家に取って代わった頼朝が朝廷と距離を置いた独立政権を目指している事にどの時点で気が
ついたかにもよるんじゃね。前例のない事だから気がつくのが遅れて、これまで通りの朝廷工作で
十分と思ってたかも。

いずれにしても義経を切れば済むと思ってた泰衡の判断ミスは重い。
233日本@名無史さん:2008/07/11(金) 05:48:26
はやいうちに佐竹、城との同盟関係を打ち固めておけばよかった。
234eemmww33:2008/07/11(金) 17:48:25

gooddoggoods76


235日本@名無史さん:2008/07/11(金) 18:44:19
>>231
飢饉のせいだけにしてりゃ世話ないっすよ
236日本@名無史さん:2008/07/12(土) 06:46:16
後白河法皇は、武家による鎌倉新政府の全国支配を阻止するために奥州藤原氏と手を結ぼうと考えなかったのかな。
台頭してきたら厄介で朝廷の権威も脅かされて何も良いことはない。
平家が煩わしいから南関東の平氏を動かして滅ぼしたように、奥州藤原氏に鎌倉を襲わせる算段も出来たと思う。
しかし鎌倉新政府が滅べばかえって奥州藤原氏が中央に進出してくる恐れがあるが。
237日本@名無史さん:2008/07/12(土) 13:22:03
>>236
なんで秀衡が鎮守府将軍に任命されたかしらんのか?
238日本@名無史さん:2008/07/12(土) 15:12:02
>>237
所謂、中央と奥州の同盟でしょ?
後白河院が奥州の金を欲しがった為に、清盛が秀衡に朝廷の官職を与えて奥州支配権を容認。
1177年にでも10万騎がいる奥州に命令を下して鎌倉を攻略・壊滅させることも出来たんじゃないかと思う。
そもそも義朝の遺児を生かしておいたことが失敗だったわけで、平治の乱で逃走した頼朝を尾張で殺しておけばこのような平家打倒の動きは無かったと思う。
秀衡の不明なところは中央の平家との結びつきを強めながら、一方では義経を匿ったりしてる点だな。
それが災いして奥州が後に鎌倉から目をつけられてるし、義経は厄介者でしかなかったんだろ。
239日本@名無史さん:2008/07/12(土) 19:34:29
頼朝は異母兄弟を沢山殺して、命を助けてくれた清盛の遺児全員を根絶やしにして、そして功臣・平広常も謀反の疑いをかけて殺害。
そして奥州藤原氏も悉く滅ぼしてるから、俺は決して好きになれんわ。
清盛は政敵の子供を許し、兄弟や子供・孫にいたるまで大切にしたというのに、頼朝は最低最悪。
240日本@名無史さん:2008/07/13(日) 15:29:14
>>238
頼朝がいなくても平家は打倒されただろう。でも頼朝がいなければその後の天下情勢は全く
違ってただろう。藤原氏も無事だったかも。ってか義経の動向によっては勢力を増してたかも。
241日本@名無史さん:2008/07/13(日) 19:28:59
>>240
弟といっても義経や範頼は母親は違うしね。
それよりも頼朝が板東平氏らの思惑に見事はまった気もするんだけどね
平家滅亡後は源家の間で殺し合いになり、公暁も殺されてついに滅亡だもんな・・・
242日本@名無史さん:2008/07/13(日) 21:39:46
源平合戦の時に源氏の血統全滅まで考えるほど板東平氏らが将来を見通せていたとは思わんが。
自分たちの領土を保証してくれる親分として源氏を選び、
その親分が当てにならなくなってきたから神輿を放り出したんだろう。
243式腸陰土 ◇DQN4v乙orz:2008/07/13(日) 21:57:49
>>238
秀衡が義経をそもそも匿ったのは、義経の母の新しい夫である一条長成が、秀衡の政治顧問であった藤原基成の従兄弟だったからだよ。
長成から基成に働きかけがあったのではないかと言われている
244日本@名無史さん:2008/07/14(月) 08:31:19
「同じく源氏と申せども」と世間に知られていたサイヤ人みたいな奥羽略奪を代々渇望している清和源氏を奥羽の地に入れたことからして誤りだった。
義経をあぼーんしたこと自体は正しい。義経が乗っ取っていただろうから。むしろ遅きに失した。
245日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:21:49
乗っ取るつもりだったら、とっくにそうしてたのでは。
義経の悲劇は、坂東と奥州の板挟みになってしまったとこにあると。
清和源氏といっても、義経は鬼子だと思うね。
頼義・義家はかつて奥州を弾圧し、祖父・為義、父・義朝は朝敵として死に、
骨肉の争いは繰り返され、それを一人でひっくり返そうとしたというか、
源氏が背負ってる業を必死で濯ごうとしたように見えてね。
246日本@名無史さん:2008/07/28(月) 18:38:41
>>245
>>241を読むと業を背負ったのはむしろ頼朝のように思われる。弟たちを滅ぼして源氏滅亡への
道を進んでる。清盛みたいに一族結束して繁栄の道もあったんじゃないのかなぁ。
247日本@名無史さん:2008/08/02(土) 20:22:51
あー、前にも書いたが当時の東北の人口は60万人くらい。
死んでも10万騎は無理。兵力は3万がイイトコだろ。
248日本@名無史さん:2008/08/04(月) 03:00:52
10万騎なんてだれが言ったんだよ
249日本@名無史さん:2008/08/04(月) 03:01:40
東北の人間はほとんどが牧畜民だったとか?
250日本@名無史さん:2008/08/08(金) 15:28:24
>>248
10程度前のレスも読まんのか?
251日本@名無史さん:2008/08/14(木) 21:59:19
中央公論社版「日本の歴史」第6巻を酒を飲みながらつらつらと読んでいると、
「元来、清原氏は天武天皇の皇子で『日本書紀』編修の総裁として名高い舎人親王の子孫である。
清原武則がその子孫であるという確証はないが、元慶の出羽の乱鎮圧のため藤原保則が出羽権守
にに任じられた際、左兵衛権少尉
252日本@名無史さん:2008/08/14(木) 22:10:13
中央公論社版「日本の歴史」第6巻を酒を飲みながらつらつらと読んでいると、
「元来、清原氏は天武天皇の皇子で『日本書紀』編修の総裁として名高い舎人親王の子孫である。
清原武則がその子孫であるという確証はないが、元慶の出羽の乱鎮圧のため藤原保則が出羽権守
にに任じられた際、左兵衛権少尉正六位上清原真人令望なる人物が出羽権掾に任ぜられて、そのまま
下向した(以下略)」

この記述を信じるなら、清原氏は土着の豪族ではない。
253日本@名無史さん:2008/08/14(木) 22:20:31
最大動員をかけて2万が関の山。
後は人足までを兵の数に入れるかどうか。
254日本@名無史さん:2008/08/15(金) 12:21:46
奥州十万騎

旗本八万騎

似たようなもんだ
255日本@名無史さん:2008/08/15(金) 17:23:33
>>254
徳川の天領は400万石、
旗本は大きな意味での旗本とすれば8万はまんざら嘘でもないよ。

奥州藤原の石高は100万ぐらいかな?
10万は無理だろ
256日本@名無史さん:2008/08/15(金) 17:53:41
お聞きしたい
今東北にいる藤原家はこの末裔なんですか?
知り合いの藤原家は確かに屋敷はでかいし、親戚は名門佐藤家らしいのですが、どうなんですか?
ただの郷農が明治期藤原姓なのったとかありえないのかな。
別に江戸期庄屋でもないらしいし、信憑性のほどはどんな感じですか?秋田県雄勝町在住だと思います
257日本@名無史さん:2008/08/16(土) 22:38:09
マジレスすんのもアホくせーわ

藤原は姓であって苗字ではありません
それすら分かっていない家だからこそ藤原という苗字を名乗っているのであって
そこは推して知るべしです
258日本@名無史さん:2008/08/18(月) 00:38:11
>>256
岩手出身の漏れが答えよう。
ウチの親戚には藤原氏の子孫とか安倍氏の子孫を名乗る家は多い。かく言う我が家も義家の子孫を自称している。
まあ、ウチも含めてこれら親戚の家は戦国時代まで遡れる地侍の家だという共通点はある。
しかし、確証もないし、家系図なんて読む時には眉に唾を付けないといけないからね。
結局、旧家がさらに家格を上げようとする時に捏造するのが「源氏」「藤原氏」「安倍氏」なんだよな。岩手ではこれは三大ブランド。なぜか清原は不人気だね。多くの旧家が子孫を名乗ってるがまず100%信じない方が良い。
259256:2008/08/18(月) 01:20:22
ありがとうございます
藤原は姓ではないということは、藤原をなのっている家はろくでもない家という解釈でオケということでしょうか?
屋敷は確かにでかいです
また東北には佐藤姓おおいですが、その方がいうにはかの源朝臣佐藤家の家らしいのですが、平泉から近いので信じてました
また 近隣の人も名家だといちをいってるらしいですが、どうにもしんじられません
東北の佐藤姓の方と話すと十中八九源朝臣佐藤家の末裔と語るし、
またタクシーの運転手もみんな佐藤家姓は名門だといいます
しかし、東北佐藤家がすべてそうだなんてありえないと思いますし。
ただ 藤原でも近衛や九条といった藤原家は確かに藤原姓をなのりはずないですが、 欧州藤原家は末裔なら藤原姓なのってることはありえるのではないですか?

教えてください
260日本@名無史さん:2008/08/18(月) 01:55:03
源朝臣佐藤家?なにそれ?
261日本@名無史さん:2008/08/18(月) 07:24:40
余談だが、加藤ってどう考えても弥生系だよな?
蝦夷という顔ではないな。
262日本@名無史さん:2008/08/18(月) 07:32:55
今の日本人は縄文と弥生の混血。
また大和、熊襲、蝦夷は日本人。
同じ島に住む者同士、仲良くしよう。
263日本@名無史さん:2008/08/18(月) 07:55:01
あ庄屋
264日本@名無史さん:2008/08/18(月) 21:13:41
>>259
激バカ発見!
265日本@名無史さん:2008/08/19(火) 18:16:31
岩手出身で苗字が藤原の人が、他県の人に冗談で
「私で秀衡から数えて二十一代目なんですよー」
と言うと一瞬マジで信用されちゃう現状w

日本人なんてそんなものです
266日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:04:46
信夫庄司佐藤一族?
267日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:42:34
>>260
結城や大友(両家とも本姓藤原氏)も源姓を名乗っているし、島津(本姓惟宗氏)も源姓を称しているので、そんな家もあるんでしょ。
ちなみにもちろん上3家とも詐称ね。
268日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:43:02
でも、東北はなぜかあれだけいる佐藤家を、みんな家柄いいというよ確かに。ただの無知なだけなの?
269日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:53:58
源朝臣?佐藤なんているか?ここ奥州藤原氏スレだよ?秀郷流以外にあるかっての!
270日本@名無史さん:2008/08/19(火) 21:56:16
だから詐称・仮冒の類いならあり得るんじゃねのって話だろ
271日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:04:23
「かの源朝臣佐藤家」なんて聞いたこと無いんだけどな
「かの」っていうほど有名な源朝臣佐藤家なんて本当に聞いたことないよ
272日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:11:15
有名では無いと思うが、
源義経の子孫を標榜している家ならあったはず。
佐藤元清って言ったかなあ。
273日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:24:09
>>259をよく見ると
>東北の佐藤姓の方と話すと十中八九源朝臣佐藤家の末裔と語るし、
なんて書いてあるぞ?
これによれば詐称とか仮冒とか義経の子孫を自称したとかいう話ではないことは明らかなんだが・・・
274日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:48:54
義経は信夫に逗留してるのか?
275日本@名無史さん:2008/08/19(火) 23:07:58
>東北の佐藤姓の方と話すと十中八九源朝臣佐藤家の末裔と語るし

うそつくな!
276日本@名無史さん:2008/08/20(水) 00:08:35
>>270恥ずかしいよ
277日本@名無史さん:2008/08/20(水) 00:42:57
>>276
は?
なにが恥ずかしいの?
278日本@名無史さん:2008/08/21(木) 16:02:11
藤原姓や佐藤姓は東北ではなぜか名門視されてるのは事実。横浜でタクシー乗ったとき、運ちゃんも東北佐藤は名門だといってた。かの佐藤栄作も勝手に結びつけてるし。
佐藤という名で東北出身というと、名門扱いうけるのは少なからぬ事実だよ。水呑佐藤も多いだろうが。実際学校の友達の東北出身佐藤に軽く聞くと、やはり名門を自称する
なんかむかつくんだが。
279日本@名無史さん:2008/08/21(木) 20:58:28
>>255
「八万『騎』」と
総兵力「八万」とじゃ全然ちがうだろ
280日本@名無史さん:2008/08/21(木) 22:36:38
そもそも時代が違うね
281日本@名無史さん:2008/08/21(木) 23:22:15
>>278
長州の朝鮮人は奥州の名門安倍氏や佐藤氏の威光にあやかろうと必死に先祖を詐称してるよね。
282日本@名無史さん:2008/08/21(木) 23:53:18
東北は佐藤だらけ
283日本@名無史さん:2008/08/22(金) 15:24:32
>>282
「佐藤、斎藤、犬の糞」と言われてるな。あとは遠藤とか加藤とか。
284日本@名無史さん:2008/08/22(金) 15:35:33
実際ほとんどは明治新姓
285日本@名無史さん:2008/08/22(金) 18:01:11
>>283
初めて聞いた。詳しく教えてくれ。
>>282
朝州は、半島出自を捏造するのに必死だからな。腐りきってるから根性がw
286日本@名無史さん:2008/08/23(土) 01:36:26
青森は他県より若干少なめだが
山形、宮城などは圧倒的に佐藤姓が多い
287日本@名無史さん:2008/08/23(土) 02:03:25
留守氏の家老にいたな、確か
288日本@名無史さん:2008/08/23(土) 04:08:52
>>279
確かに違うが同じなんだな
騎は単に兵を表してる場合が多いんよ
289日本@名無史さん:2008/08/23(土) 10:19:46
>>285
詳しくって言われても東北出身の母が普通に使ってたからなぁ。クラス会名簿見せてもらったが確かに旧姓・現姓のどっちかに佐藤・斎藤は
異様に多かった。
ちなみに、この手の姓を持ってる従妹がいるが、結婚相手も同じ姓だったので旧姓・現姓ともに一緒だw
290日本@名無史さん:2008/08/23(土) 10:34:03
そーそー、騎乗身分は全兵力の何分の一かだけど、実際は全兵力を「騎」で現してる場合も多いな。

幕府が奥州征伐に動員したという28万騎という数字は、
全くの絵空事でなく、おそらくは当時の日本の全兵力を表していると思う。

つまり、日本中の兵士が頼朝の命令で動員されたって事を言いたかったんだと思われ。
「太平記」みたく100万騎なんて書いたら一発でウソだと解る。
291日本@名無史さん:2008/08/24(日) 22:46:10
28万が集まって動く(何手に分かれても)だけで蝗が押し寄せたようになるよ。
大混乱となる。
まともな道はなく、さっと動ける訳でなし、個所滞在が長引く。

かなり非現実的な数字だろう。
292日本@名無史さん:2008/08/25(月) 00:21:25
そーかー?
最大動員2万数千程度の奥州が17万騎なんて言われてたんだぞ(当時の人間がどれほど信じてた知らんが)、
当時の東北とそれ以外の人口比は約3:31。
実際に存在しただろう28万の兵をフル動員したって方がまだ信憑性はあるだろ。
(もちろん当時の幕府にそんだけ動員できる力は無いし、また必要性も無かったわけだが)
293日本@名無史さん:2008/08/25(月) 13:26:29
そのまま東北に住み着いた(関東以南の)28万の人間の末裔が、現在の東北人。
294日本@名無史さん:2008/08/27(水) 09:42:08
295日本@名無史さん:2008/08/27(水) 12:23:34
296日本@名無史さん:2008/08/27(水) 12:38:48
297日本@名無史さん:2008/08/27(水) 15:47:46
298日本@名無史さん:2008/08/28(木) 21:54:04
延久蝦夷合戦は実在したのか?
299日本@名無史さん:2008/08/28(木) 22:45:35
>>293
・・・関東以南wって伊豆・小笠原諸島ってこと?
300日本@名無史さん:2008/09/02(火) 00:09:21
岩城氏、佐藤一族だけが生き残り、残りの奥羽武士は全員あぼーんか農奴化、蝦夷地亡命
301日本@名無史さん:2008/09/02(火) 11:36:29
結論は 現在藤原名乗ってる名字の家は、藤原家とは縁もゆかりもない小作の明治期成り上がりもくろみ名字家ということで異論はないという事ですか?
302日本@名無史さん:2008/09/02(火) 15:01:56
しつけーぞカス
303日本@名無史さん:2008/09/02(火) 17:00:37
江戸時代以前は庶民には苗字は無かったと思っているヤツってまだいるんだな・・・
304日本@名無史さん:2008/09/02(火) 21:07:02
名字がなかったわけではないが 実際ここぞとばかりに由緒あるなにつけかえたり、庄屋に命名してもらったりといろいろあったのでは?
305日本@名無史さん:2008/09/02(火) 21:09:33
スレ違いだからよそでやれカス
306日本@名無史さん:2008/09/03(水) 23:01:19
苗字は姓は違うのにね
307日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:15:37
日本語で
308日本@名無史さん:2008/09/04(木) 13:03:02
藤原残党は岩城氏、佐藤一族のような南奥武士は、早々と鎌倉に降参して南北朝まで生き残っていたけど、
日本海側は全部ポアされたの。
309日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:25:15
炎立つで義経が提案した策で鎌倉に勝てただろうか?
本軍の秀衡は十万で那須野に陣を張り、方や国衡が弥彦の僧兵を加えて十万余りにして北陸道に圧力をかける。
義経が船で数百の兵をもって鎌倉を急襲。
310日本@名無史さん:2008/09/09(火) 01:37:42
当時の東北の人口とそれから類推される動員力は・・・あー何度も言うの秋田。
炎立つは第3部の初め数話あたりで見るのを止めたんだが、義経んなムチャクチャ言ってたの!?
311日本@名無史さん:2008/09/09(火) 01:53:35
まぁ奥州十七万騎なんて無理な話ですよ
312日本@名無史さん:2008/09/09(火) 07:36:31
越後で城氏が決起、岩城氏と佐竹残党が蜂起し、新田などの反頼朝勢との連携がうまくいけば、関東平野になだれ込んで決戦を挑めるが。
たぶんその合戦でも負けるだろうな。
武田などの頼朝に弾圧受けた御家人の動向もあるが。
313日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:36:15
そんな空想は歴史の前では意味ない
314日本@名無史さん:2008/09/09(火) 14:46:28
伊達政宗の対徳川防衛戦略が義経と藤原氏に可能かどうかだな。
山岳地帯から敵の本隊を強襲する遊撃部隊の指揮官には義経が最適だが、
問題は奥州勢の本隊を誰が率いるか、なのだ。
ともあれ一時的な勝ちはあっても、究極的な勝利はありえない。
どこまで有利な条件で和睦に持ち込むか。といったところか。
315日本@名無史さん:2008/09/09(火) 15:08:45
遅滞防御で冬季戦にもちこんでそこで和睦あたりか
清衡が義家に従った故事もあるので落としどころさえ間違えなければよい

なんだかんだで3代100年安部の代からみればもっと長期間において陸奥の頂点に
いた家系だし源氏だの平氏だの寄子もほぼいない
家中を纏められれば早々に崩れないと思う
頼朝軍はやたらと大軍動員しただけに年単位の出兵は金も兵糧も維持できたの
かも疑問だしね
316日本@名無史さん:2008/09/09(火) 19:33:45
>>310
奥州全軍で20万余という前提で話していたからね。

義経が平氏を滅ぼし、自身も追捕されていて、鎌倉の力が圧倒的になってしまった。
そうしてパワーバランスが既に崩れてしまっており、そのままではジリ貧で、やるなら打って出ようという話。
三手軍を編成し、大胆不敵に関東を攻め崩そうという話。
国衡は「凄まじき軍略じゃ!」と唸っていた。
秀衡もやる気まんまんだったが直ぐ死んで、話は頓挫。
317日本@名無史さん:2008/09/10(水) 02:06:12
ええーっ、17万どころか20万!!推定人口の1/3じゃん!!!確かに凄まじいわ(笑)。
太平洋戦争の根こそぎ動員なんて微笑ましいもんだ。
318日本@名無史さん:2008/09/10(水) 07:09:32
軍勢の数ってのは、(こちらのほうが多い)非戦闘要員の数も含めての話でしょ?
坂東武者は女子供は同伴でなかった?
319日本@名無史さん:2008/09/21(日) 03:43:56
全軍三万弱をうまくつかい、頼朝先陣を遅滞戦術にはめられなかったものか。
義経の本領だろうし。
出鼻を泥沼にいれれば、城氏や甲斐源氏もあるいは。
320日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:18:15
アツカシ山の城塞に万余を入れ、鎌倉本体を引受け、なるべく長く持たせる。下がりながら柵をうまく使い、冬を待つ。
別動隊数百〜数千が常陸を南下。さらに船も送る。
同時に甲信越に檄を飛ばす。

なんとかならんものか。
321日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:35:31
平氏の衰退を対岸の火事と思っていたのが敗因
322日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:50:34
>>321
ある意味、言えてると思う。義経を庇護するとかそんな小さなことだけでなく、もっと何か手を打っておくべきだった。
323日本@名無しさん:2008/09/28(日) 19:06:37
「吾妻鑑」で幕府軍の総数を28万4千騎と書いてるが、こっちも計算方法
知りたいね。

佐藤さん分布図↓

http://www5a.biglobe.ne.jp/~myouji/zukan/frame/f000001.htm
324日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:23:31
佐藤さん分布図の計算方法を知りたいってこと?
325日本@名無しさん:2008/09/28(日) 22:46:00
>>324
「「吾妻鏡」では「奥州勢17万騎」のほかに奥州征伐した幕府軍を「28万4千騎」
と書いてる。17万騎の兵数は疑問だが、28万4千騎も首をかしげる。どうやって
計算したのか?」ということです。

佐藤さん分布図は、別のはなしです。
326日本@名無史さん:2008/09/29(月) 00:35:48
なにか数の根拠はあったんだろうね。
おそらく提出させた「名簿」(一族郎党すべて)を全部合計した数じゃないか。ーー全部が従軍できるはずがない。
327日本@名無しさん:2008/09/30(火) 22:55:07
兵隊は毎日飯食って、水飲んで、排泄しなきゃならぬ。
284,000人が一度に東北行ったら、それこそイナゴの大群だ。
一人500gの大便が毎日284,000人分。毎日142トン。げっそり。
328日本@名無史さん:2008/10/01(水) 11:15:14
284,000人が一度に東北行ってそのまま住み着いて現在の東北人の先祖になったンだお。
そのときの奥州人170,000人は早々と降伏した者の他は蝦夷地に追放されてアイヌ民族の先祖になったんだお。
329日本@名無史さん:2008/10/02(木) 03:44:07
>>325
兵数の割合は合ってるだろ
2:3
これで片方の実数がでればもう片方も分かるよな
330日本@名無史さん:2008/10/02(木) 17:59:57
おいおい吾妻鏡の17万騎ってのは、頼朝が捕虜の武将に憎まれ口を叩いた時のだ。
彼自身は多分信じてはいなかったと思う。

吾妻鏡では戦闘に参加した奥州軍は、厚樫山に2万、宮城北部に数千、仙台辺りに泰衡本陣、出羽に分遣隊。
3万ぐらいだろ。
331日本@名無史さん:2008/10/02(木) 19:12:42
白河関でなく厚樫山を守ったのはなぜ?
332日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:45:50
地図見ればわかると思うが厚樫山を放置して以北には進軍不可能
ましてや少数どころか万単位で篭っている
対して、3軍に分派しつつ進軍する頼朝軍にとっては白河関を奥州軍が2万で
死守していたとしてもぶっちゃけ1軍貼り付けて放置していても特に困らない
333日本@名無史さん:2008/10/03(金) 23:42:45
昔、募兵率を計算したことがある。人口60人に対して1人の割合だった。
284,000人の兵を出すには17,040,000人の人口がいることになる。
ムリだ。
社会工学研究所の推計では1150年ころの人口は6,920,000人。全人口から
募兵できたとして、合計115,000人だ。
実数は、記述の4分の1くらいじゃないかな。
334日本@名無史さん:2008/10/04(土) 03:23:20
白河関は全然、軍事的に要害の地じゃないみたい。
335日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:59:51
>>332
一軍が総崩れになれば、他の二軍に与える影響はでかいし、それ以上の進軍が不可能になるかも。
御家人によっては離脱が相次ぐだろう。
336日本@名無史さん:2008/10/05(日) 00:01:14
もし白河に奥州側が大軍集めてたとすれば相手にせずに進むだけなんじゃない
要所ではあるけどここを確保しないとこれより先に進めないという場所でもないし
ここを守らなければ奥州藤原氏に未来はないという場所でもない
平泉を中心とした防衛ラインからすると、ここから北は陸奥ですよーって境界線に過ぎない
337日本@名無史さん:2008/10/05(日) 12:59:26
>>328
じゃあなんでアイヌは仏教じゃなかったの?
338日本@名無史さん:2008/10/05(日) 18:53:45
当時は畿内だって貴族と上級武士だけ仏を拝んでいただけ。
肉食禁止だから。
坊主を養う費用がかかるから。
漢字読むのめんどくさい。
339日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:26:46
>>328
女性のことを考慮に入れてるの?
340日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:18:17
義経をうまく使って、平氏の残党をうまく使って、
宋に応援頼んだりしたら良かったかもね。
ど素人のたわごとですが。
341日本@名無史さん:2008/10/09(木) 23:29:15
奥州藤原氏は、男系では藤原氏につながっていないと見る学説もあるんだよね。
個人的には、安倍氏あるいは清原氏じゃないかと思ってるんだけど。
342日本@名無史さん:2008/10/10(金) 22:34:02
>>332
今でも厚樫山周辺、つまり桑折・国見にかけての福島宮城県境地帯は、
交通の難所だからねえ。東北本線の時代も強風不通の名所だったし、
東北道も大雪になるとまずここが止まる。
もともと奥州往還(国道4号、東北新幹線ルート)は
関東から青森県までほぼ一直線の構造谷で、北上する勢力を食い止めるのは難しい。
だが、その中で、相対的にだが食い止めるのに適したポイントがあって、
その一つが厚樫山。もう一つは一関あたりなんだが、
ここはもはや平泉にあまりに近すぎる。
後世の伊達政宗が、この周辺をどうしても欲しがったのは、
父祖の地であることもさることながら、江戸と対峙することを考えるなら、
仙台平野を防衛し、さらに南下する上で最重要の地だったということなんだろう。
事実上、ここが奥州の入り口「東北版のミニ箱根」なのかもしれないね。
343日本@名無史さん:2008/10/11(土) 16:53:35
仙台の人が「東北の歴史ミステリー」ってブログで
やはり何で白河関でなく厚樫山かって考察してるよ。

それによれば、既出の地形的要因(白河関は交通検問所みたいなモン。要害の地ではない)の他に、
人為的要因も上げている。抜粋。

南は早くから荘園開発が進んだこともあって、在地武士団とも言うべき集団が割拠しており、
奥州藤原氏はそれらのうちの有力者とは乳母関係、あるいは婚姻関係を通じて関係を深めていたという側面があるのである。
鎌倉側と対峙する局面となった際、陸奥の南、領域で言うとほぼ今の福島県地域であろうが、
その地域にはこれまでどおり奥州藤原氏との関係を続けようとする武士団と、
鎌倉側につこうとする武士団とが、それぞれの領域争いも絡んで分かれて存在し、一枚岩ではなかったのである。

結局、福島を捨て、宮城・山形で防衛線を張ったってコトだな。
地図的に言っても福島って新潟より南だしさ。
344日本@名無史さん:2008/10/11(土) 21:10:28
阿津賀志山防塁に切れ目 激戦区特定へ 
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=2539948&newsMode=article
 
先月から発掘調査が行われている国見町の国指定史跡・阿津賀志山防塁に切れ目(木戸口)が発見された。
奥州合戦で人や騎馬が出入りするためにつくられたとみられ、合戦の激戦区が特定される貴重なものと分かった。
11日に郡山市で開幕する全国生涯学習フェスティバルの国見町ブースで調査結果を見ることができる。
今回分かったのは町森山東国見・西国見地内の発掘現場。
幅4メートル程の切れ目で、人が3、4人通れる。
これまで防塁の切れ目らしいものは発見されていたが、合戦で壊されたものか、初めからつくられたものかは特定できなかった。
今回の調査で下草刈りや外堀跡の調査をしたところ、切れ目は初めからつくられていたことが分かった。
源頼朝が率いる鎌倉軍を効率良く迎撃するため、藤原軍がつくった防御施設の役割を果たしていたことが分かる。
町教委は16日に現地で報道関係者に発表し、18日には一般向けの現地説明会を開く。

(2008/10/11 10:09)
345日本@名無史さん:2008/10/15(水) 23:34:34
石那坂の位置がよくわからない

現地形図見ると
http://watchizu.gsi.go.jp/
鎌倉方の進行に対し防御側が低い位置取りになるのはありえるのか?
346日本@名無史さん:2008/11/11(火) 01:53:59
奥州藤原氏って都の親類の佐藤氏とは仲いいよね。西行とか。
でも関東の同族とは仲良くないみたい。関東の小山氏とか山内首藤氏は
自分達のほうが本家と思ってるのかも。
俺は、奥州藤原氏は秀郷流故実を佐藤氏から教わったと想像してる。
347日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:09:37
マジで秀衡があと7年長生きしてたら、
義経率いる奥州軍が鎌倉をやっちまってたかもしれないのにな。
返す返すも残念だ。
348日本@名無史さん:2008/11/16(日) 21:43:02
>>347
そんな兵力も資金もないだろ。

固関して半ばモンロー主義していくレベルがやっとだろ。
義経を抱えたままだと、中が分裂するか、秀衡が殺されるか。
349日本@名無史さん:2008/11/20(木) 02:26:14
俺が泰衡なら宋に助けを求めるな〜。
鎌倉倒した暁には西日本をどうぞあげますみたいな約束して。
別に奥州でのんびりできればそれでよいし。
350日本@名無史さん:2008/11/20(木) 07:04:04
>>349
北方遊牧民族に苦しんでいる宋がわざわざ海の向こうまで遠征軍送ると思っているのか?
351日本@名無史さん:2008/11/20(木) 22:53:42
泰衡の首画像がコンビニで売ってた日本史ミステリー本に載ってたが、ひっでぇな…
 
たぶん首実験した奴も、あれじゃ泰衡本人と確認するのに苦労したろうよ
352日本@名無史さん:2008/11/20(木) 23:28:18
昔から不思議に思ってたんだけど500年後の江戸時代の石高さえ
弘前藩4.5万石、盛岡藩10万石、秋田藩20万石で
青森、岩手、秋田3県の石高はたったの35万石しかない。
仙台と山形を加えたら大幅に増えるけど奥州藤原氏の支配が確実に及んでるのは
上の3県だけだろ?ショボくない?
353日本@名無史さん:2008/11/20(木) 23:30:42
特に安倍氏の奥六郡は確実に盛岡藩10万石より狭い
354日本@名無史さん:2008/11/20(木) 23:45:20
うつくしまふくしま
355日本@名無史さん:2008/11/21(金) 00:04:21
>>352
まあ、米の生産高以外の何かがあったと考えるのが自然だ罠。
一番は交易だろうな。
あと、奥州藤原氏は南奥の佐藤氏、石川氏、岩城氏なんかもその勢力下に置いていたから、その“上がり”も相当なものになってたんじゃまいか?
356日本@名無史さん:2008/11/21(金) 00:26:53
>>355
なるほどね

そもそも平安時代の岩手・秋田・青森でどの程度米が取れてたのかが気になる
また江戸時代の話になるけど、
稲作の北限ギリギリの地域だから一揆頻発みたいに言われてるしね
357日本@名無史さん:2008/11/21(金) 01:15:59
長秋記の大治五年六月八日の記事がすごく気になっている。
あの記事だと、次男に襲撃されて、長男と父清衡が共に首を取られたとある。
何があって、その後、どうなったんだろう?
358日本@名無史さん:2008/11/21(金) 02:23:11
おまいら。東北の石高のことだったら「何で陸奥と出羽はあんなに広いの」嫁。
事の起こりは明治6年の人口が、秋田58万人、宮城56万人ってトコから始まった・・・
359日本@名無史さん:2008/11/21(金) 04:05:37
>>358
全部読んだよ
面白かった
360日本@名無史さん:2008/11/21(金) 11:19:13
石高で国力を計算するとろくな事にはならない
奥州藤原
南北朝期の北畠顕家、菊地
室町期の大内
戦国期の毛利

石高をみれば大したことはない
361日本@名無史さん:2008/11/30(日) 16:58:40
藤原氏のミイラについて写真付きで詳しく書かれている本があったら教えてください。
362日本@名無史さん:2008/11/30(日) 17:17:43
ていうか藤原時代の奥州の石高がなんで算出できるんだよw
363日本@名無史さん:2008/11/30(日) 23:56:14
今日の新日曜美術館見たか?
364日本@名無史さん:2008/12/01(月) 01:13:42
みたみた。

はるばる車を運転して、平泉を旅した時を思い出したわ。
夏の良い天気。運動してたからか、汗もかかずに金色堂まで歩いて行けた。
毛越寺跡が整いすぎてびっくりした。
高館にまで行く時間がなく残念だったよ。
365日本@名無史さん:2008/12/01(月) 13:14:58
藤原=百済人(一人)+日本人(無数)
366日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:30:50
奥州藤原が滅んだA級戦犯は三代目でok?
367日本@名無史さん:2008/12/01(月) 21:36:24
というか、時代の流れで
368日本@名無史さん:2008/12/02(火) 01:23:36
義経に加担するなら本気でせい!
369日本@名無史さん:2008/12/03(水) 01:28:04
それはあるな。
義経をかくまうなら最後まで貫いた方が良かった。
ある程度戦い有利な状況で和義を申し込めば奥州藤原は滅びなかった
370日本@名無史さん:2008/12/03(水) 02:12:07
果たして戦いになるのか、どうか…
371日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:07:37
全軍挙げて二万余。
まともなのは一万位か。

貢馬と都市開発で資金も払底しかけていただろうし。
372日本@名無史さん:2008/12/04(木) 00:39:23
2万も動員できるということは、石高換算にして80万石程度の国力を有してたということか。
当時の人口からするとこれはすごいことだな。
373日本@名無史さん:2008/12/05(金) 01:32:54
根こそぎ動員で二万余がギリギリでしょう。
石高に直せば60万石弱か。
374日本@名無史さん:2008/12/06(土) 00:18:54
375日本@名無史さん:2008/12/11(木) 00:04:18
源平合戦の虚像を剥ぐって本に泰衡の首写真があってびっくりしたよ。
こんなに生々しいとは。カラカラにひからびてる感じでもなく、
肉付きよくて目を閉じてるようにも見える・・。ミイラでこんなに
肉があるって事は生前は太ってた事だろう。秀衡国衡基衡も肥満だし。

額に大きな穴、頭にもくっきり刺し傷。ちらっと見える
首の切られた感じが生々しい・・。

義経や頼朝でさえも、墓や建物とか伝承ばかりで
はっきりと確かな形で存在を伝えるような史跡ってないんだが、
こうして両者の間に挟まれた哀れな男の肉体が八百年後に
現存してるのになんか感動。
376日本@名無史さん:2008/12/11(木) 03:47:17
↑へぇー
俺もその本もってるから今度みてみよ。
もっとも泰衡の額に穴の開いた生首写真ならあっちこっちに載っているよ。
因みに上記の「虚像〜」の本は日本馬のことがテーマで、その内容により著者は学界の内外で散々ミソをつけたらしい。
377日本@名無史さん:2008/12/11(木) 21:18:50
>376
375の本は絶版になってて古本で買ったんだけど、中身駄目だしされたって事すか?

他のミイラ写真が見られる本はないですかねえ。他三代のお顔も拝見したい。
378374:2008/12/11(木) 22:42:58
どの本にしても、モトネタは昭和25年の学術調査のときの写真だからな。
その意味じゃ、どれも一緒だよ。

調査報告書は公立図書館なら置いてあるはずだよ。
市町村立は当たりはずれがあるけど、県立クラスならOKじゃね?
379日本@名無史さん:2008/12/13(土) 04:32:34
≫「平家物語」に騙されるな!

>義経の「鵯越(ひよどりごえ)の坂落し」。
そんなことはありえない!
>ポニーのような小馬に乗った坂東武者…。
これが本当だ!
>「技術」の視点から、源平合戦の通念をくつがえす。



>『源平合戦の虚像を剥ぐ』(川合康著、講談社選書メチエ帯より)

380379:2008/12/13(土) 05:03:45
>>377
著者の川合氏(都立大教授)は 現代サラブレッド(もちろん戦闘用でないw)と日本の在来馬を比較したり、その日本在来馬にしても今現存しているものは江戸期に小型化されたものであることを知らないらしいこと等々各方面からの批判にさらされる。
その他にも、古来の日本の操馬法への無知さ加減を指摘される等、
いわばあっちこっちからフルボッコにされた。

そうか、絶版になってたかw?
出版する時あれだけセンセーショナルな売り出し方した以上、恥のかきかたも尋常じゃなかっただろうしな・・・

さもありなん てところだなw。
381日本@名無史さん:2008/12/13(土) 14:39:11
>>380
マジでww道理でそんな大昔の出版でもないのに入手困難だったはずだ・・。
良い本なら2005年の大河の時再販してただろうし、訳ありだったんですね。
まあ泰衡の首写真見られたからよいw
382374:2008/12/14(日) 21:58:17
>>381
おれが買ったのがちょうど大河「義経」放送直後だったんだ。
手元の本を見たら、「2005年1月25日第11刷発行」となってる。
その後、「絶版」になったってこと?
講談社のHPは「在庫切れ」になってたけど・・・。
383日本@名無史さん:2008/12/14(日) 23:03:39
>>382
第何刷まで出荷したのかは知らんけれど、各方面から批判の集中砲火を浴びたんで、その後
追加で刷らなかったんでしょ。在庫が捌ければ絶版扱いってヤツ。
384374:2008/12/14(日) 23:56:07
そうか、じゃあ滑り込みセーフか(笑)
その集中砲火は馬のことだけだったのかな?

自分は軍制のこととか奥州攻めのこととか、野口実説や元木泰雄説の参考のために
この本を買ったんだ。
そのあたりは結構参考にしていたんだけどねえ。
385日本@名無史さん:2008/12/15(月) 02:11:23
大河で注目あびたもんだから逆に突っ込まれてしまったという事かw
386日本@名無史さん:2008/12/15(月) 02:49:16
まあ、あの大河もね……
髻を落とした御髪が、兜の吹き返しの脇からちらり、と。
で、天辺の孔から烏帽子の生地っぽい「ひらひら」がちょろっとorz
ニ孔しかない当時の兜、どうやって安定的に被ったんだろーね(棒
387日本@名無史さん:2008/12/26(金) 05:39:58
国司基家に、清衡に合戦の企てありと報告されたり、清衡の死後、基衡と惟常の兄弟間で合戦があって、惟常
が殺されたりと、後三年の役後も奥州の政情は不穏だったんですね。

藤原頼俊が行った延久の征討で閉伊七村が出てくるけど、今で言うと八戸とか二戸とかX戸の地名が多い所
辺りが、それに該当するのかな?
388日本@名無史さん:2008/12/28(日) 20:00:07
平泉陥落後、蝦夷とか俘囚とかの語が史料から消えるのはなぜだろう?
彼らの子孫は、鎌倉軍の侵攻後、どうなっていったのか。
389日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:21:59
えさし藤原の郷
390389:2009/01/03(土) 23:26:09
途中送信しちまった…orz

えさし藤原の郷ってまだあるのかなと思ってググってたら、おもいっきり『天地人』のロケ地だったのね。
391日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:56:05
>>390
っていうか毎年のようにロケ地のような気が・・・。
392日本@名無史さん:2009/01/04(日) 00:55:42
去年行ってみたけど、平安時代の建物をほぼ原寸大で再現しているところは、あそこくらいだから、
結構、面白かった。
狩衣が試着できるところがあるけど、着てみたら神主になったのはおかしかった。

でも、あそこ、ガイドブックには掲載されていないことが多い。交通の便が悪いからなのかな。

393日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:25:38
奥州の砂金っていつまで獲れていたのかな?
394日本@名無史さん:2009/04/05(日) 01:09:40
突然すみません。単発質問。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E8%A1%A1

ここで今の版にはこういう記述があります。
 ・・・『尊卑分脈』の記述によると、この年の12月に泰衡が自分の祖母
 (秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。真偽は不明だが、
 親族間の相克が激しくあった事を伺わせる。

これはどういう記述が書かれているんですか?
395日本@名無史さん:2009/04/05(日) 08:55:43
>>393
宮城県側の歴史では昭和初期まで金が取れていたみたいだよ。
396日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:07:21
詳しい人にちょいと質問。

前九年の役→安倍vs清原で清原win
後三年の役→清原vs藤原で藤原win

だったっけ?
397日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:32:25
ちょっと違う。

十二年合戦(前九年の役):
安倍氏を鎮守府将軍兼陸奥守源頼義が討伐、出羽の清原氏の援軍を得てかろうじて勝利。
実質的な勝利者は清原氏。
清原氏は後に鎮守府将軍を歴任。延久の蝦夷征討でも活躍。

後三年の役:
清原氏の内紛に陸奥守源義家が介入、義家側が勝利し、清原氏はほぼ壊滅。
実質的勝利者は、清原氏で唯一と言っていい生存者、清原清衡(後に藤原清衡と改姓)
398396:2009/04/12(日) 20:14:14
>>397
thx
盛岡に来て三年経ってこの辺の歴史に興味が出てきたんだ
399日本@名無史さん:2009/04/13(月) 20:41:02
>>398
ようこそ盛岡へ

と言ってもこっちはふるさと盛岡を離れて久しいけど
盛岡帰りてえ
400399:2009/04/13(月) 20:43:22
大河ドラマ「炎立つ」をおすすめします
経清を泰衡との二役で渡辺謙さんが、
清衡を岩手出身の村上弘明さんが演じてます
401日本@名無史さん:2009/04/14(火) 02:50:14
>>400
全然関係無いのだが、「炎立つ」の中で渡辺謙さんが2役やるっていうのは、どんな意味があったんだろうね。
まあ、スレ違いか。
402日本@名無史さん:2009/04/14(火) 19:05:49
>>401
一応ラストシーンで語られていて、泰衡は最後には経清になって、
かつて滅ぼされた安部氏とともにアテルイに帰って行ったという
いわば泰衡=チンギスハン説に配慮した演出らしい。

でも肝心のドラマ制作がトラブル続きだったらしいしやっぱイミフ。
403日本@名無史さん:2009/04/15(水) 15:26:45
>>402
これこれ、アテルイは場所でなく人名ぞよ
404日本@名無史さん:2009/04/15(水) 18:28:54
みんなそんなに炎立つ見てんの?
ググッたけどめっちゃ昔のだった.
幼稚園児には理解不能だ.
405日本@名無史さん:2009/04/15(水) 20:04:25
炎立つなんて割りと最近だろ?
おれ「女太閤記」とか「徳川家康」、「山河燃ゆ」あたりから全部リアルタイムで見てますから(@_@)
あるいは大河で現代劇やってた頃の水曜時代劇「真田太平記」「武蔵坊弁慶」もバッチリ(>_<)
その前になると記憶が曖昧

406日本@名無史さん:2009/04/15(水) 20:36:32
(@_@!!!!)
407日本@名無史さん:2009/04/17(金) 00:11:00
「黄金の日々」から記憶にある俺はどうなる?w
408日本@名無史さん:2009/04/17(金) 01:25:09
奥州藤原氏の先祖は藤原秀郷。でも、清衡は願文では東夷の遠酋と言っている。
清原真人光頼は真人の姓を持っているのに、俘囚の主と陸奥話記では書かれている。
安倍氏の出自はなんだろ?
409日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:03:43
奥羽を束ねる方便でしょ
410日本@名無史さん:2009/04/17(金) 12:13:33
清衡も光頼も別に矛盾しないだろ。
「方民論」だっけか。
関東の頼朝も京から東夷扱いを受けている。
411日本@名無史さん:2009/04/17(金) 13:21:58
「草燃える」で、北條時政が京で吾妻えびすと馬鹿にされるシーンがあった。
412日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:07:50
六国史を読むと、蝦夷、俘囚、夷俘、狄とかの語は、結構、厳密に
区別されている。
和人を蝦夷とか俘囚とかは呼ばない。

多分、10世紀辺りから、単なる東国人に対する蔑称になったってことなのかな。
その変化の背景には、北東北の大部分から純粋な蝦夷がいなくなっていったという
のもあるのか。
413日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:53:41
地域首長なんてのは絶えず中央貴族の血を取り入れながら勢力を維持していったもの。
よってどこどこの系統(源平藤橘、安倍、清原、在原、etc)なんて風に、ルーツをどこか一系統に絞ってそれに拘ること自体がそもそもナンセンスなんだよ。
414日本@名無史さん:2009/04/19(日) 03:41:52
三十八年戦争直前までは、今の宮城県が陸奥の北限で、それより北は蝦夷の領域。蝦夷は部族制社会で
稲作農耕を生業とした田夷、狩猟・採集を生業とした山夷、漁業を生業とした海道の蝦夷とか、いろいろあって
倭人達とは異なる文化を有した人たち。
それが三十八年戦争、とくに三回目の副将軍田村麻呂による征夷で胆沢を中心とした北上川流域の蝦夷は
絶滅寸前というところまで焦土作戦を受けて、蝦夷がほとんどいなくなったんじゃないかなと思う。その空白地域
に陸奥の他の地域から倭人系豪族が入ってきて、現地に根を張った。その一つが安倍氏かなと思う。
神護景雲三年に白河郡、加美郡などの住人に安倍陸奥臣、安積郡の住人に安倍安積臣、信夫郡の住人に安倍
信夫臣など、大量に安倍姓を与えている記事があるけど、これを見ると、奥六郡の安倍氏は中央貴族の安倍とは
関係ない出自という可能性もある。ただ、俘囚だったかどうかはわからない。俘囚も朝廷に服属した期間が長く、
征夷などで大きな功績があったりすると、公民として姓を賜ると言うことがあったようだから、それで安倍という
姓をもらった可能性もある。

清原光頼の場合は、恐らく、出羽に国司などの地方官僚として下向した清原一族の誰かの子孫が土着して
豪族化し現地の俘囚系住民を支配したので、俘囚主と書かれたのでは。光頼や武則自身が俘囚ということでない
でしょう。
ただ、親類に吉彦秀武という人物がいたから、この吉彦(きみこ)は俘囚に多い姓なので、この秀武は恐らく俘囚系
の人物。それと親族関係があったってことは、現地の俘囚系豪族達と養子や婚姻などもあったってことでしょうね。
415日本@名無史さん:2009/04/19(日) 09:52:03
>現地の俘囚系豪族達と養子や婚姻などもあったってことでしょうね。

いやそれがフツーだろ。
中央貴族が土着化するって、早い話が地元の有力豪族の婿養子になるって事だろ。
でなきゃ自身の従者だけで2〜3代程度の期間で根を張れるわけがない。
416日本@名無史さん:2009/04/19(日) 17:29:48
宝亀十一年三月に起きた伊治公呰麻呂の乱の原因について続日本紀では
「又牡鹿郡大領道嶋大楯。毎凌侮呰麻呂。以夷俘遇焉。呰麻呂深銜之。」
と書いてある。夷俘や俘囚に対する差別意識は、この当時は、絶対的なものが
あったみたい。
こう考えると、真人の姓を有する清原の人間が、俘囚と姻戚関係を作るって、
とんでもないことのようにも思えてくるけど。つまり、姻戚関係ができた時点で、
夷狄の仲間になるようなものでしょ。
でも実際に吉彦秀武は陸奥話記では「武則甥。亦婿也。」とある。それを考えると
俘囚に対する意識が、十二年合戦が起きる頃までに大分変化していたということ
なんだろうね。
417日本@名無史さん:2009/04/19(日) 21:20:14
つ 俘囚同志

伊治公呰麻呂&道嶋大楯

同族嫌悪や嫉妬は
弱小勢力が、より強大な権力に組み込まれる過程ではよく起こること。


418日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:54:40
>>414
>安倍陸奥臣、安積郡の住人に安倍安積臣、信夫郡の住人に安倍
>信夫臣など、大量に安倍姓を与えている記事があるけど、これを見ると、奥六郡の安倍氏は中央貴族の安倍とは
>関係ない出自という可能性もある。

みんな前身は丈部氏でおもいっくそ安倍繋がりじゃん。
他にも安倍会津臣、安倍柴田臣などもあるけど、やはり前身は丈部氏。
それと俘囚出身の可能性が高い君子(吉彦)部と違って、丈部氏の方は最初から体制側の警護者としての性格が強い。
だから各地の国造に任じられたりしている。
一例を挙げれば、あの平将門の乱で有名な武蔵氏(旧武蔵国造)も丈部氏。
419日本@名無史さん:2009/04/24(金) 00:30:46
清原武貞は、経清の妻を自分の妻に迎えたわけだけど、
なんで敵の妻を迎えたんでしょうか。

俘囚の風習とかですかね。
420日本@名無史さん:2009/04/24(金) 02:13:18
俘囚というより地方豪族の婚姻ネットワークの一環として妻にむかえたんだろ
421日本@名無史さん:2009/04/24(金) 03:17:47
安部氏の族長の女だから、それを娶ることで
それまで安部氏についていた集団を取り込もうとしたんでしょう。
422日本@名無史さん:2009/04/24(金) 03:36:00
清原氏はこのあと、海道平氏を婿に取ろうとするよな。
思うにこれは古くなった衣装の“衣替え”をしようとした時期だったんじゃないかと思っている。
奥羽以外の地域の豪族たちを見ても、この頃にはみな源・平・藤・橘を名乗りはじめている。
前九年・後三年の一世紀前に起こった承平天慶の乱。
これを平らげた側の藤原氏秀郷流、平貞盛流、源経基流といった家々が中央で「兵の家」(軍事貴族)と認定され、各地の国司や鎮守府将軍などに任じられるようになる。
当然、これら「兵の家」たちは各任地で有力豪族の招婿婚を受けることになるからね。
安倍氏だって藤原経清や平永衡を婿に取ってるから、その気配がある。
423日本@名無史さん:2009/04/25(土) 17:16:13
>>418
しかし、安倍氏は「東夷酋長。」と陸奥話記で書かれているけど、これはどういうこと?
丈部氏で古くからの朝廷側の人間なら、蝦夷ではないはずだが、東夷と呼ばれるのはなぜ?
そもそも、「夷」は何を意味しているのか?

少なくとも六国史中の用例では夷は蝦夷や俘囚を指す語で、和人に対しては使用しない。
俘囚は朝廷側についてある程度の期間を経た蝦夷に対して使う呼称で、これも和人系の豪族や現地
住民に対しては使わない。

424日本@名無史さん:2009/04/25(土) 17:19:31
>>417
道嶋宿禰氏を六国史で追っていくと、

丸子××

牡鹿連××

道嶋宿禰××

という経過を辿っているが、この中で、一度も夷俘、夷、蝦夷、俘囚といった言葉は出てこない。
道嶋大楯を俘囚とする根拠は何?
単に牡鹿郡が当時の蝦夷地との境に近いからというだけ?
425日本@名無史さん:2009/04/25(土) 17:47:24
>>419
陸奥話記では清原真人と真人の姓(かばね)をつけて書かれているが、俘囚に真人の姓が
つくのはありえないと思うが。
清原武貞が俘囚という根拠は?

清原氏は鎮守府将軍にもなってるし、俘囚の一族から鎮守府将軍が出るというのは、考えにくい
ことなのでは?
そもそも、鎮守府は蝦夷に対する軍事官庁であって、蝦夷を出自とする俘囚は、やはり、一定の
警戒感を以て遇されていたから、その鎮守府のトップに迎えるのはあり得ないことだし、もし、そう
したとしても公卿の間で相当の反対が出たものと思われるが、それらしい事実はみられない。
藤原秀郷の子孫で、先祖の経清が藤原一族(造興福寺記)と認められている秀衡でさえ
「奥州夷狄秀平任鎮守府将軍、乱世基也」(嘉応2年 5/27)と書かれているのだから、
俘囚では、やはり、あり得ない話。
426日本@名無史さん:2009/04/25(土) 19:04:17
>>422
海道平氏と関係を持とうとした理由は、一つには海道平氏の拠点が重要な意味を持っているからだろうと思う。

過去には安倍氏が平永衡を婿に迎えて関係を持っている。
また、中尊寺金色堂棟木墨書銘には清衡の名前の下に「女壇」として清原氏、安倍氏、平氏とある。これは清衡の
親族の女性の姓と考えられるし、中尊寺経の中には奥書に「北方平氏」と書かれたものもあり、清衡の正妻が平氏
だった可能性がある。
このように海道平氏と親族関係を持とうとしたのは清原氏に限ったことではない。

平永衡は伊具十郎と呼ばれていたが、伊具郡は今の宮城県南部、阿武隈川河口地域にある。
陸奥の産品は北上川を経由して桃生の辺りで、太平洋に出る。そして、南下して、阿武隈川から陸奥南部の内陸
に入るという水運もあるし、あるいは、そのまま太平洋を南下して常陸、上総、更には東海地方までの海運もある。
そのいずれも、海道平氏の拠点とする地域は、経由地として重要。
更に、東海道で陸奥に向かうときは常陸から陸奥南部の太平洋沿岸を通る。
どちらにしても海道平氏の拠点とした地域は、水陸の要衝であり、そこを抑えていた海道平氏は、そこから生じる
利潤も大きかったのではと思う。

陸奥の豪族としては、海道平氏と関係を持っておくと言うことは、この点で主に重要とされたのでは。

また、一説には、こういう話もある。
桓武平氏諸流系図というものがあり、そこでは、清原武則は平繁盛の系統に属する人物で、清原氏に入って
清原武則を名乗ったという。それを踏まえると、清原真衡(武則の孫)が海道平氏から養子を取るというのは
おかしい話ではなく、それが他の清原一族の危機感を煽り、反発を招いた理由も納得がいく。



427日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:22:32
>>426
≫清原武則は平繁盛の系統に属する人物で、清原氏に入って
清原武則を名乗ったという。それを踏まえると、清原真衡(武則の孫)が海道平氏から養子を取るというのは
おかしい話ではなく

あー言われてみればその話、俺も聞いたことあるわ。
とすると、清原氏は既に累代に渡って平氏から婿取りをしているということになるな。
又、海道平氏は繁盛流で、その繁盛流はこぞって貞盛の養子になっているから、やはり清原氏は中央軍事貴族の系譜に自家を連ねようとした流れで良いと思う。
またその海道平氏自体も、恐らく平氏という衣をはがせば石城国造というのが実体で、上記の常陸平氏からの婿取りによって平氏化したものなのだろう。


428日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:29:24
>>418
「後三年の役」の絵巻物で、阿倍氏側の武将たちは、
大きな目、毛深い、といった、
朝廷方の武将たちとは明らかに異なった形相で
描かれてあると解説書で読んだ。
朝廷からみると阿倍氏はまさに異民族だったんだろうね。
実際に、阿倍氏はアイヌ民族だったと考えている人も多いよね。
429日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:21:43
>>428
その絵巻物は一次試料とされている代物なのですか?
430429:2009/04/25(土) 22:23:22
一次試料×

一次資料○
431日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:29:50
保立道久氏は安部氏や清原氏をアイヌの族長と断じていたな。
しかし、アイヌが成立するのはもっと後代だろうし、
「蝦夷」のルーツじたい多元的だろうし、ちょっとやっつけっぽい。
432日本@名無史さん:2009/04/26(日) 04:01:09
後三年合戦絵巻(絵詞)は承安元(1171)年成立のものと、南北朝時代の貞和三(1347)年成立のものの2つがあるが、前者は紛失してしまい、我々が目にすることができるのは後者の方。
だがこれは後三年の役から270年も経ってから作られたものなので、一級史料と呼ぶには程遠い代物ということになる。
しかも、この貞和版の絵詞の作者は太平記の作者(の一人)と目される玄慧。
ごく直近に起こったことを記したはずの太平記ですら、学界ではフィクションとされているのだから、3世紀も前の出来事を記した合戦絵詞の方も、到底そのまま信じるわけには行かないというのが学界のスタンスらしい。
また、例え承安版が現存していたとしても、こちらも後三年役当時から約一世紀も後になって作られたものなので、こちらも一級(同時代)史料とは呼べない。
433日本@名無史さん:2009/04/28(火) 01:37:17
> やはり清原氏は中央軍事貴族の系譜に自家を連ねようとした流れで良いと思う。
ならば、清原姓を捨てて、平姓になろうとするんじゃないのか?
しかし、清原一族の養子として迎えて、清原姓を名乗らせている。
海道平氏という有力豪族との関係強化の一環てことでしょ。
「中央軍事貴族の系譜に自家を連ねようとした流れ」というのは、少なくとも北奥羽では、あまり
見ない気がするが。

434日本@名無史さん:2009/04/28(火) 06:10:13
>>433
≫ しかし、清原一族の養子として迎えて、清原姓を名乗らせている。

それが全国で行われた招婿婚だよ。
姓を変える変えないということではなく。

≫ 海道平氏という有力豪族との関係強化の一環てことでしょ。

いや、だからそれが招婿(ry)
中央軍事貴族の家々はこの頃には全国に招婿婚により「土着」して各種利権を得ている。清原氏の場合は、陸奥海道地域との繋がりが己れの勢力拡大にとって重要な事だったと判断したのだろう。

ついでにいえば、清原氏自体が、最初は中央清原氏による出羽への派遣だったとしても、土着化に際しては現地豪族に招婿されたものと考えるのが自然なこと。
その辺はまさに>>415で言われてる通り。
そして繰り返しになるけど、この頃には日本全国の豪族達が家の系譜を前時代の中央貴族などのものから、中央軍事貴族の家々の系譜に様変わりさせていた頃だから、清原氏もそうしたと考えるのは至極当然なことだと思う。
435434追加:2009/04/28(火) 06:43:22
また家系を中央貴族化させるというのは、この時代の地方豪族にとっては無茶苦茶重要なことだったと思う。
例えば、中央に出て天皇や権勢門家に奉仕する際に有利になるし、そうやって中央での覚えがめでたくなると、今度は国司などに任命されて、自領以外の地に利権を得るチャンスも巡ってくるかもしれない。
そして前にも書いたようにこの時代は兵の家=中央軍事貴族が国司や鎮守府将軍に任命される時代だから、清原氏としても自家が中央軍事貴族となれば堂々と鎮守府将軍職に就くことができる。他家に同職を奪われる心配がそれだけ減ると表現してもいいね。
もしかすると同職の独占化、世襲化を狙っていたかもしれない。
そういったことをすべて加味して、中央軍事貴族諸家の中で清原氏にとって物流、交易面でメリットの高い海道平氏を招婿し、家を中央軍事貴族化させることを図ったと考えるととても納得がいく。
436435一部訂正:2009/04/28(火) 07:09:36
>>435
≫また家系を中央貴族化させるというのは、この時代の地方豪族にとっては無茶苦茶重要なことだったと思う(×)

≫また家系を中央軍事貴族化させるというのは、この時代の地方豪族にとっては無茶苦茶重要なことだったと思う(○)


家系を中央貴族化させることはいつの時代の地方豪族にとっても大事なことだったわw。
この時代の場合は中央軍事貴族の家に連なることが大事だったということね。
地方豪族っていうのは常にその時代その時代における中央政権当事者と渡りをつけていないとならない。
この時代においてはその「中央当事者」が国司などとして任命・派遣される軍事貴族の諸家だったわけだから当然それらの家と結んだり、自分の家自体がそうなることは重要なことだったってわけ。
437日本@名無史さん:2009/04/30(木) 21:31:25
>>426>>427
「海道平氏」の何が魅力だったのか、
ちょっと離れて考えると、地理的にみて本当に謎なんだよなあ。
畿内を中心となった大和朝廷以降、江戸が強大化する18世紀までの日本では、
現在の福島県浜通りというのは、令制国66か国で、都(畿内)の文明から最も遠い
「あづまぢの果ての果て」、「究極の僻地」、「もっともひどい『裏』日本」
になってしまうところ。
今の東京中心の交通網を見ると忘れがちだが、
畿内から見ると、日本海側のほうがよほど交通至便で、
これは古代から明治までの歴史を通じて、東北史を語る上で非常に重要な視点となる。

なぜ、そんな僻地中の僻地の豪族の血筋が意味を持ったのか。
とても奇妙な話なんだ。
438日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:42:44
近年は北方フォーラムだかなんだかで、陸奥側の海運、陸運ルートについても見直しの必要性が唱えられるようになってきてるんじゃなかったっけ?
439日本@名無史さん:2009/05/01(金) 01:44:39
古代過ぎるって言われるかもしれないけど
福島県の浜通り北部の相馬地域、中通り南部の白河地域、
猪苗代西岸の会津などはそれそれ古墳群があつまってる
場所で、ヤマトとの交流が活発だったと思うよ。
平安期でもそのへんはあまり変化がないのでは。
440日本@名無史さん:2009/05/01(金) 17:21:53
古墳はロマンだよなあ
441日本@名無史さん:2009/05/07(木) 03:38:55
頼義に臣下の礼をとらせた清原氏って最強じゃね?
442日本@名無史さん:2009/05/07(木) 04:24:15
奥州藤原は源家に臣下の礼をとったの?
443日本@名無史さん:2009/05/11(月) 11:15:56
千任が惨い目にあった原因か
444日本@名無史さん:2009/05/11(月) 22:43:32
>>443
義家が異常なまでに奥羽の清原氏の政争に執着したのも、
前九年合戦の時に、父・源頼義が清原氏に屈辱的に頭を下げたからってことはあるだろうね。
「臣下の礼」をとった時の証拠文書や証拠物品を奪取して、それを破却することも狙いにあったかも。
千任へのあの残虐な仕打ちも、痛いところをズバリ突かれて逆上した結果だろうな。
445日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:47:51
まさに朝廷の走狗だな
海賊や加賀白山を躍起になって攻めた平氏もだけど
446日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:40:51
>>445
中央(朝廷)も頼義-義家の親子のことは、結構要注意人物としてマークしているよ。

この父子の場合は、国や朝廷のためというよりも、
それを大義名分にしての露骨な自勢力拡大主義からやったことで、
その程度があまりにも過ぎたので、朝廷からは返って反発食らった。
だから実際恩賞もそんなに与えられていないし、義家は公家なんかからは鼻つまみ者みたいな書かれ方してる。
447日本@名無史さん:2009/05/12(火) 02:24:22
源家が先鞭をつけたっていうか
そのへん平氏はうまくやったよね
448日本@名無史さん:2009/05/12(火) 02:30:51
そうした積み重ねで明治維新まで続く武士の世が到来しました
449日本@名無史さん:2009/05/18(月) 00:49:00
「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」
450日本@名無史さん:2009/05/20(水) 22:18:23
質問なんですが、安倍家の末裔に豊間根家ってあるのですか?
詳しい方がいらっしゃったら、詳細を希望
451日本@名無史さん:2009/05/28(木) 16:33:59
↑ネットで検索するだけでいろいろ出てきますよ。
安倍晋三元首相の家との関連なんかも。

ご自分で検索するよろし。
452日本@名無史さん:2009/05/29(金) 03:11:32
奥州藤原氏の交易路って十三湊が有名だけど、太平洋岸の海上交易については
どうだったんでしょうかね。
453日本@名無史さん:2009/05/29(金) 03:33:00
特に根拠があって言うわけじゃないけど、太平洋側はあっても精々常陸北端あたりまでじゃない?海道平氏との繋がりで。
房総半島や三浦半島の豪族なんかと交流があったとも聞かないし。
やっぱり日本海側の方が主になるかと。
日本海側は越後の大族である城氏とも誼を通じていたしね。
陸奥側は仙道の佐藤氏が平泉側に与していたから、佐藤氏を通じての陸路での交易はあったのかなぁ。
454日本@名無史さん:2009/05/29(金) 18:34:23
>>417
>>424
道嶋氏は蝦夷系と書かれたものもよく散見されるが、実際は渡来(おそらくは百済)系氏族だったと思われる。
道嶋嶋足は正四位下まで栄達しているが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A1%E9%B9%BF%E5%B6%8B%E8%B6%B3
たとえば上のウィキにはその出世ぶりは異例なことのように書かれてある。
だがそれも道嶋氏を蝦夷系氏族とした場合の見方であるのだろう。
455日本@名無史さん:2009/05/30(土) 16:50:03
>>438>>439
別に、いくら常磐地域だと言っても、「西国人前人未踏の隔離地域」ではないよ。
ただ、これは弥生文化の伝播以来、2009年まで一貫しているんだが、
太平洋側を、西日本文化が常磐・南東北太平洋側まで何とか伝播する時は、
かならず関東・東海勢による、かなり大きな文化的変容と、時間差を挟んでいるんだよ。
このルートでの直通は、地理的に絶対に無理なんだ。
今の愛知県付近(最広義の「東国」の西端)から、常磐・宮城沿岸まで続くルート自体は
かなり強固なものとして存在している。
弥生式土器から、中世の陶器や瓦なども、このルートで仙台平野まで見つかる。
だが、東海西部→東海東部→関東西部→関東北東部→常磐地方
と、何重にも文化圏・交通圏のクッションがあって、伝播が常に大きく遅れて干渉・変容する。

このルートに頼る限り、東北勢は常に関東(&東海)の風下に置かれ続けることになる。
奥州藤原氏にとって、このルートに乗ってくる何かに、価値があるとは思えない。
456日本@名無史さん:2009/05/30(土) 21:39:19
仙台郡山遺跡は多賀城以前の陸奥国衙として、遅くとも7世紀中頃には成立していたというし、同じ郡山遺跡からは弥生式土器も出土するというから、和人集落としては更に数百年さかのぼる可能性もある。
何気に思ったよりも早くそこそこ北の方まで和人領域に入っていたんだな。
457日本@名無史さん:2009/05/31(日) 00:17:33
>>455
浜通り北部には野馬追で有名な相馬もあるし、馬産地として有望だったのでは?
武家にとって馬の確保は最重要だったろうし。
清原氏や奥州藤原氏が目をつけたのもその辺じゃないかな。
458日本@名無史さん:2009/05/31(日) 00:58:30
>>457
>浜通り北部には野馬追で有名な相馬もあるし、馬産地として有望だったのでは?

奥州藤原氏やそれ以前の時代から浜通りは馬の名産地だったの?
459日本@名無史さん:2009/05/31(日) 13:58:45
>>457
俺は、もし、奥州藤原氏などにとって、海道平氏の取りこみに意義があるとするなら、
逆に「関東の文化的風下」であることによるのかと思うんだよ。
関東武士の一翼を担う常陸平氏の血筋とカリスマを、
海道平氏との結びつきで得ようとした。しかも海道平氏自身勿来以北の勢力だから、
奥州勢力自身のカリスマとして得ることが出来る。
ある種、常磐が僻地であるが故に、得られるものがあるということ。
逆に言えば、「武士としての血統カリスマの一端」を、関東に求める必要が、
清原氏や奥州藤原氏にもあったということ。
東北だけで、カリスマ性を「自給」できなかった。
(まあこれは関東の武士にしても、畿内カリスマを大々的に借りているわけで
関東での自給は無理だったんだが)

そう考えれば、少なくとも平安末の段階で、
岩城氏と常陸平氏の関係は、明確に認識されていたということになる。
土着説と反対の話になるね。
460日本@名無史さん:2009/05/31(日) 21:52:20
>>453
清衡の娘が常陸佐竹氏の室に入っているから、常陸方面は海道・常陸平氏だけでなく常陸源氏とも結んでいたことがわかるね。
ただ、あくまでも日本海側の交易路がメインだったとの見方には賛成。
461日本@名無史さん:2009/06/01(月) 18:20:02
阿倍氏の末裔を称する家ってのはよく聞くけど、
清原氏の末裔称する家って聞かないよな。
462日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:09:38
>>460
十三湊にしても酒田湊にしても、確かに日本海側との繋がりはあるんだが、
そうだとすると、今度は「なぜ拠点が平泉?」という話になるんだよなあ。
平泉から、日本海側への移動を渇望した跡は全く見られない。
例えば、後世の伊達氏などは、
戦国武将にとって、日本海側がいろんな意味で有利であることを知ると
(やませ遮断による農業生産の安定と早期収穫、畿内からの情報・文物流通など)
奥羽山脈を越えて、米沢に本拠を移してしまったが。

平泉の立地が、奥大道(奥州往還)を意識していることはまちがいない。
そして、これは今の高速道路や鉄道にも言えることだが、
奥羽山脈越え・日本海側内陸部横断は、冬場には大雪でどうにもならなくなる。
今でも、機械文明の力で無理矢理開通させている。
463日本@名無史さん:2009/06/02(火) 01:03:15
>>462
>そうだとすると、今度は「なぜ拠点が平泉?」という話になるんだよなあ。

周辺が最大の交易品である黄金の産地だからじゃない?

464日本@名無史さん:2009/06/07(日) 17:37:49
後三年の役後、清原氏残党による反乱とか無かったの?
465日本@名無史さん:2009/06/07(日) 18:55:03
>例えば、後世の伊達氏などは、
戦国武将にとって、日本海側がいろんな意味で有利であることを知ると
(やませ遮断による農業生産の安定と早期収穫、畿内からの情報・文物流通など)
奥羽山脈を越えて、米沢に本拠を移してしまったが。

ちがうんじゃないか?
466日本@名無史さん:2009/06/10(水) 23:38:31
確かに港もない米沢だと隔絶してる。
467日本@名無史さん:2009/06/11(木) 04:12:23
てか米沢(置賜郡)だと出羽国とはいっても、伊達郡や信夫郡からはすぐお隣だからね。
例えば信夫佐藤氏の場合、今の飯坂温泉のあたりが本拠地だけど、その一族は実際には隣の出羽国置賜郡の地にも所領を持っていた。
いまの米沢市にある佐氏泉公園が出羽置賜郡における佐藤氏の館跡。
ついでに言うと、継信・忠信兄弟は実は信夫飯坂の佐藤惣領家の生まれではなく、庶流であるこの米沢佐藤氏の生まれとの説も根強くある。
実際、佐氏泉公園から程近い常信庵は継信・忠信兄弟の母・梅唇尼の菩提寺で、明治期にはこのお寺からなんとこの梅唇尼その人のミイラが発見されていて、継信・忠信兄弟米沢出生説をより裏付ける結果となっている。
468日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:05:48
炎立つを見直した時に思ったんだけど、
安倍一族着ている衣装と、国府(朝廷)側のそれが違うんだよね。
清原氏の代になると、清原一族は国府側と同じ衣装を着ていて、
武貞に嫁した結有に、衣装を着替えさせる場面もある。

実際にも安倍氏と清原氏は文化的な違いがあったんだろうか?
469日本@名無史さん:2009/06/24(水) 00:58:38
>>468
放映当時にNHK出版から出た本には、
エキゾチックさを醸し出すために、渡辺謙と村田雄浩の2人で考えてあの衣装にしたと書いてあった。
470日本@名無史さん:2009/06/25(木) 15:04:14
これいったら叩かれると思うけど
藤原泰衡と昭和天皇が被る

泰衡は優柔不断、無能とか言われるけど、
ちょっとカワイソウだなーと思う所もあるんだよな
471日本@名無史さん:2009/06/25(木) 18:21:39
泰衡は母が京下りの国司・基成の娘だからな。
身分では他の兄弟たちに比べて一歩も二歩も抜きん出てはいるものの、如何せん地元豪族たちからは不人気だった。
だから国を挙げて戦かわなければならないような事態に陥った時には、母系集団による軍事的後押しが無い点で著しく不利な訳で、そういう意味では確かに可哀想ではあるな。

母が地元豪族の娘なら、もっと鎌倉に対して一丸となった抗戦ぶりを発揮していたことだろう。
それと泰衡の兄弟たちの中で唯一、父・秀衡の遺言通り、義経を押し立てて戦うことに賛成だった者がいたと思うが、その彼が家督を継いでいれば、鎌倉側にとっては相当面倒で厄介な戦いになったことと思われる。
472日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:21:15
秀衡の遺言どおり義経立てて戦っても
最終的にはやっぱり負けたと思うな
473日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:26:36
兵力の不足と末端から幹部までの実戦経験の無さが痛い。
義経という稀代の軍事的天才がいても、動きの鈍い手足では辛い。

遅滞戦術で引き込み、柵でどれだけ保たせられるか。
474日本@名無史さん:2009/06/25(木) 22:31:07
そういや故角田文衛氏が義経を大将に立てての対鎌倉作戦
というのを大真面目に論じてたな
475日本@名無史さん:2009/06/25(木) 23:31:05
>>472
戦争というものは、スポーツの試合で勝負を決するのなんかとは大分違うわけで、
勝てないまでも膠着状態に陥るだけで、政治的にどうなるかなんて分かったものではないよ。
例えば常陸の反頼朝勢力である佐竹氏や、元々平泉方に親しみを寄せる城氏を初めとする北陸の勢力や、南関東でも容易に頼朝方に与しない相模の大族・波多野氏一族なんかの動向が、どのようなものになるかなんて全然分からない。
後白河が健在な内ならばなおさらのこと。
どんな権謀術数を使ってくることやら。
476日本@名無史さん:2009/06/27(土) 16:42:49
その手の話は去年も出た。

当時の奥州とそれ以外の人口比は3:31。
で平泉は奥州の8割。鎌倉は非奥州の3割ぐらいから動員をかけれるとする。
動員率は5%とすると、兵力は奥州2万4千。鎌倉9万3千。

日本を二分した平氏でさえ勝てなかったのに奥州が勝てるわけがない。
477日本@名無史さん:2009/06/27(土) 19:43:54
秀ヒラでも鎌倉に勝てないと思う
478日本@名無史さん:2009/06/27(土) 21:49:19
二万余りいたら、白河から縦深防御で何とかならなかったものかなあ。
攻め方は大量の軍費と食糧がいるし、地の利もない。
479日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:00:50
義経は攻めるのは得意そうだが守るのはどうだったんだろう。それにも依るな。

あと、上の方にも有ったと思うけど白河は守るに適さない。
480日本@名無史さん:2009/06/27(土) 22:38:46
鎌倉は対奥州戦では苦戦することすら許されない。
関東もその周辺のブロックも決して一枚岩ではないから。
中央政権である平家に対してはどこまでも一丸となって戦っただろうが、対奥州戦ではつまずいたら綻びが出る可能性が大きい。
平家と違って、奥州は所詮1つのブロック政権にすぎないから。
義経の用兵によってつまずきが目立つような展開になりはじめたら、関東勢はモチベーションの点で続かなくなる可能性が高いんじゃないか?
なんで奥州相手にここまでしなきゃなんないんだ って感じで。
481日本@名無史さん:2009/06/27(土) 23:08:14
>>479
守りは奥州本隊、義経は寡兵の遊軍を率いて横合いを突き、攪乱ってのがいいような。
で、関東勢の瓦解を待つ。
もともと大義名分がなく、意気も高くは無さそうだし、寒くなれば引かざるを得ない筈。
482日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:08:43
しかし鎌倉勢は三手に分かれて進軍してるから、海道筋と出羽方面で破られれば持たないな。
483日本@名無史さん:2009/06/28(日) 00:24:01
>>476
まだこの時点では、鎌倉は(広義の)関東の地方勢力でしかないよ。
たとえ控えめな比率を使っていても、3:31という数字を使うのはそもそも誤謬。
それに、この時代、東国と西国との生産力格差は、
武蔵国などを大国認定した奈良時代より
むしろ広がっていると思われる。
京都の朝廷の地方官が、ひたすら西国任国を望んだ(方丈記)のも、
東国の治安だけの問題ではあるまい。


それに、本来の封建制というのは、人的な主従関係をむすんでなんぼであって、
土地を面上に支配したという国取りゲームの世界ではない。
484日本@名無史さん:2009/06/28(日) 01:23:02
>>483
東国御家人の西遷により、西国の農法に発展するのが鎌倉時代だから、東国は国司にとって上がりを得るのに困難だったのかもね。
485日本@名無史さん:2009/06/28(日) 02:48:33
>>481
あと、関東勢に対して離間の策を仕掛けることもな。
佐竹、波多野、藤姓足利氏などは勿論のことだが、場合によっては上総、武田氏あたりに対しても寝返りを誘って相手方の動揺を狙うと。
当然、鎌倉方もおなじ事をしてくるだろうが、互いに揺さぶりをかけ合っても不利になるのは攻める側の鎌倉方。
奥州側は領土的野心なんてないわけだから、自領を守れればそれで良い。
攻める鎌倉方は攻めあぐねれば厭戦気分に陥りやすい。
486日本@名無史さん:2009/06/28(日) 04:06:20
1150年の地方別の人口(もちろん推計)
東北:60.7万  関東:160.2万   中部:146.8万
近畿:125万   中国・四国:112万 九州:78.8万

奥州:東国:西国=3:15:16
鎌倉軍が奥州軍の3〜4倍ってのは固いな。
487日本@名無史さん:2009/06/28(日) 04:26:48
それに>>482の言うとおり鎌倉軍は出羽方面と海沿いにも十分な兵力を割ける。
一箇所で防御に成功したって結局は負けるだろ。
488日本@名無史さん:2009/06/28(日) 05:27:06
>>483-484
戦線が膠着すれば西国の平家残党もある程度は息を吹き返してくるだろうな。少なくとも奥羽に呼応してゲリラ戦なんかは展開してきそう。
そんな展開を見て、後白河法王がどのような宣旨を出してくるかというところ。
489日本@名無史さん:2009/06/28(日) 11:02:51
>>486
その推計値、異様に関東が多くないか?逆に言えば畿内西国が異様に少ない。

関東(関八州):近畿(五畿内ではなく近畿地方)が、160:125というのは
俄かには信じ難い。
この時代は、人糞肥料を片手に1年三毛作(米と麦と蕎麦を1年で作る)を行うという
驚異的な集約農耕を実現した、室町時代の「畿内農業革命」の前なので、
そんなに畿内一極集中が起きているわけでもないはずだが、
それでも、近江や播磨を足しても、
関東のほうが40万近くも多いというのは、俄かには信じ難い。

まだこの時代、関東は沖積平野の開発も出来ておらず、
谷地は、関東独特の事情で、黒土のリン酸欠乏のため稲作不適地だった。
これらがそれなりに解決するのは、実に江戸中後期の話になる。
文献や地層の分析をするかぎり、古代の粗放農耕の後遺症で
草原や疎林が広がっていて、それが馬の飼育に適したことが
関東武士の揺籃の地の理由の一つになったわけで。
490日本@名無史さん:2009/06/28(日) 11:57:36
17世紀以前の人口は直接の統計が残ってないので、ホントに正しい値は誰も知らない。
だが>>486の値は当時の田積数から、歴史人口学者の鬼頭宏氏が推計した値。

頭の中だったらいくらでも批判の余地はあるが、
史料に基づく限りは、それ以上の信頼性のある値を出すのはまず無理って事。

出挙稲数に基づくAD800頃の人口推計で既に、関東:97万、近畿:118万まで迫っている。
491日本@名無史さん:2009/06/28(日) 12:31:47
圧倒的な兵力差があったらら、大きい方が勝つと見るのがフツーの考え。
不確定要素はどちらの側にもあるんだから。

「こうすれば奥州は鎌倉に勝てた」というのは、
「こうすれば日本は米国に勝てた」というのとほとんど同じレベル。
492日本@名無史さん:2009/06/28(日) 13:19:37
>>490
まあ鬼頭説では仕方ないところがあって、
俺にもひっくり返すだけの立論は、どう考えても無理だが、
それにしても、情況証拠と合わないんだよなあ。
田地の生産性の考慮が、あまりにも粗雑なんじゃなかろうか。
平野の多い地方は、草地に毛が生えた程度の農耕地も田地として含めると、
異様に高い数字を叩きだすからな。

ただ、ひとつ気を付けるべきなのは、
>既に…迫っている
という考え方は誤りだよ。東日本の歴史研究の一つの癖で、
「弥生時代以来、東が西に追いつき(追い抜く)歴史である」
ことを暗黙の前提にしているところがあるが、実はそんなに単純ではない。
律令時代には、関東各国は、律令政府に非常に高く評価されている地域だった。
その後は、むしろ東西格差は拡大する傾向で、
「畿内一極集中」が極限に達するのは、白鳳時代でも奈良時代でも平安時代でもなく、
豊臣政権末期の16世紀末だったりする。
1600年推計で、「全人口の約30%が近畿地方居住」という、
今の首都圏一極集中に匹敵する、恐るべき数字を叩きだす。
徳川家康が、候補地を伏見と江戸に絞りながら、結局江戸に幕府を開いたのは、
この極限まで進んだ畿内過密の弊害を考えた、
まさに最近の「首都移転構想」と同じ発想だったという説もある。
493日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:01:48
>>487
出羽方面は大軍が移動するにはキツいと思う。
関東から会津若松、米沢と出て、胎内に抜けて庄内抜いていくか。

山岳地帯や笹川流れでみんな厭になって帰ったりして。
494日本@名無史さん:2009/06/28(日) 19:14:01
>>493
あんたムチャクチャ。若松から胎内行くのに何で米沢経由?米沢まで行ったら
そのまま北上で良いやん。(既に出羽なんだから越後に戻んなよ。)
外から奥羽地方に侵入するんだから会津経由の訳無いでしょ。(それだと本隊
とかぶるから行軍しにくい。)
実際は上野から越後経由で出羽に侵入した様だ。
495日本@名無史さん:2009/06/28(日) 21:16:51
>>494
そんなにめちゃくちゃかね?

上野から越後経由なら、越後に抜けるまでがかなりの難所高所続きで、しかもだらだら長い。非常に消耗するであろう。

なら、那須野を突っ切り(その時点では本隊と同じ)、郡山辺りで磐梯山に向かい比較的平坦な若松を北上し、米沢に向かうか。
そこからなら小国街道に沿って、短距離で日本海側(胎内、村上)に出られる。
で、庄内を北上し、酒田、本荘へ。で、横手、湯沢に転じ金ヶ崎から平泉背後を突く。
まぁ、米沢から更に北上し山形に向かい尾花沢、更に横手にでてもいいが。
496日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:13:22
>>495
大軍勢なんだから本隊と同じルートを使っては行軍に支障がある。単純に動くだけ
でもそうだし、兵糧も確保出来ない。
それから白河より阿津樫山の方が守りやすいからそこが決戦地になったけど、白河か
ら先は敵地なんだから自由に行軍出来る保証は無い。白河ー郡山間の何処かで
足止めされたら部隊を分けた意味が無くなる。これは下策。

確かに上野から越後に抜けるのは大変そうとは思うけどね。てっきり北陸とかの軍勢
なのかと思ったら上野だって言うんだからしょうがない。
497日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:51:39
京=14万都市
平泉=10万都市
鎌倉=3万都市
498日本@名無史さん:2009/06/29(月) 01:30:10
てか義経が総大将になってたらその辺を分かってある程度は奥羽の外にも防衛線を張るだろう。
越後方面は既に衰えてたとはいえ、越後城氏にテコ入れして迎撃体制を整える。
その手前の北関東では藤姓足利氏が連携して鎌倉の進軍を出来るだけ食い止めさせる。
場合によっては新田も誘う。見方にできなくても中立くらいは維持させるなど、敵の進軍経路やその周囲の豪族にも(鎌倉への忠誠の度合い、その温度差を見極めて)手を打っておくのは当たり前にしておかないと国土防衛だっておぼつかない。
499日本@名無史さん:2009/06/29(月) 01:56:36
山道方面は那須氏を抱き込む。那須氏は信夫佐藤氏とも関係が深い一族だし、また義経ゆかりの武将でもあるからこれはなんとしても見方に引き入れないとな。そうじゃないといかに義経でも、天然の要害もない仙道方面では楽に相手の侵攻を許してしまう。
問題は史実では鎌倉方に寝返っている岩城氏がいる海道方面だが、
これは常陸佐竹氏に牽制させる。
加えて、北関東方面における新田氏にしたのと同様に、こちらでは上総氏を上手くいけば見方にさせ、そうでなければ中立を保ってもらうと。
あとは出来るだけ粘って戦を長期化させ、連合体である鎌倉軍の厭戦気分化を誘う。
以上でok!
500追加:2009/06/29(月) 02:03:28
同時に西国方面でも平家残党に蜂起させるのは言うまでもない。
501さらに追加:2009/06/29(月) 02:19:32
同時に後白河法皇から義経に、頼朝追討の宣旨を出させるのを忘れてた。
それと頃合いを見計らって義経を征夷大将軍に任じて貰うと。
502日本@名無史さん:2009/06/29(月) 22:30:03
簡単に言うなぁ。そんなの関ヶ原で破れた上杉とかが大坂の陣では家康に良いとこ
見せるべく頑張ったのを見ても判るように、無理。失敗したらせっかく安堵してもらっ
た所領が無くなっちゃうんだから余程見込みが無いと乗ってこない。

仮に義経が勝ったとしても防衛戦である以上、恩賞として与えるべき領地は無いんだよ。
頼朝が頓死すれば別だけど、それを期待して味方しないよ。
503日本@名無史さん:2009/06/29(月) 23:31:08
下野か常陸位は分捕りするとか。
504日本@名無史さん:2009/06/30(火) 00:24:21
そんな空手形では誰も付いてこないよ。
505日本@名無史さん:2009/06/30(火) 21:24:03
>>502
>仮に義経が勝ったとしても防衛戦である以上、恩賞として与えるべき領地は無いんだよ
恩賞地なんてそれほどいらないんじゃね?
関東諸将の内で露骨に領土的野心剥き出しなのって上総氏ぐらいで、基本、本領安堵だけで十分なんじゃね?
大方の関東諸将は平家政権打倒がその目的なんであって、
後の戦国時代的な領土の切り取りあいを持ち出しているが、この時代はそれとは少し位相が違うだろう。
506日本@名無史さん:2009/06/30(火) 22:21:14
あのタイミングで奥州に勝って本領安堵つまり恩賞無しじゃ求心力失うよ
事実関東御家人は奥州に地頭職を与えられてるしね
507日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:02:47
>>506は=>>502
>あのタイミングで奥州に勝って本領安堵つまり恩賞無しじゃ求心力失うよ
事実関東御家人は奥州に地頭職を与えられてるしね

>>502とは恩賞を与える必要性のある側の主体が、義経・奥州側から鎌倉側と逆になっているが?
わざと?

508日本@名無史さん:2009/06/30(火) 23:10:55
>>505
であればなおのこと本領安堵を約束してる頼朝に弓引くリスクは採らんでしょ。
509日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:53:17
>>508:
>であれば

>>505
のどこを受けての順接仮定接続?

それと
>>507での質問に対する答もまだ?
510日本@名無史さん:2009/07/01(水) 00:59:50
それと見落としていたが>>506をよく見ると
>あのタイミングで奥州に勝って本領安堵つまり恩賞無しじゃ求心力失うよ

と「本領安堵」=「恩賞」となっているな。
恩賞が新領地の意味でないなら、尚更のこと義経・奥州側にはより付け入る余地はあることになるな。
511日本@名無史さん:2009/07/01(水) 02:30:28
本領安堵つまり恩賞無しじゃ
512502=508:2009/07/01(水) 20:19:40
>>509
>どこを受けての順接仮定接続?
越後の城氏や常陸の佐竹氏が新しい領地を求めてはいないなら、という事。
それなら義経は何をエサに味方に引き込むのか?

>それと
>>>507での質問に対する答もまだ?
それは俺じゃない。

>と「本領安堵」=「恩賞」となっているな。
それも俺じゃないが、「本領安堵だけ」=「恩賞無し」じゃ誰も付いて来な
いって事でしょ。
513日本@名無史さん:2009/07/02(木) 02:22:07
当時の武士は恩賞に対しては超貪欲だからね
514日本@名無史さん:2009/07/24(金) 05:20:01
いきなりすいません

新説日本史ミステリーで紹介されていたんですが

東北のどこかに不思議な岩があり

いつの天皇かも忘れましたが

天皇も訪れたことがあるみたいです

どなたかご存知ではないでしょうか?
515日本@名無史さん:2009/07/29(水) 01:11:09
>>514
つぼのいしぶみ?
あれって、東北にあるのに、なんで日本中央なんだっけか?
516日本@名無史さん:2009/07/29(水) 02:53:53
>>515
まずは敬語を覚えろよwwカスww
517日本@名無史さん:2009/08/16(日) 17:27:21
源平争乱のさなか、中央に討って出なかったのは
奥州藤原氏の痛恨事

518日本@名無史さん:2009/08/16(日) 17:45:10
>>517
まさか義経が排斥されるとは思わなかったからしょうがない。

>>515
「日本中央と書かれている」とされているだけで理由も、誰が作ったのかも判らない。
519日本@名無史さん:2009/08/16(日) 19:56:48
>>517
むしろ義経を通じて源氏にコネでもできると考えていたのかもね
アテが外れたと
520日本@名無史さん:2009/08/18(火) 01:05:01
>>517
打って出られるほどの兵力の見込みはなく、財力にも陰りが見えてきたころだし、固関して趨勢を見ようとしたのは分かる。
貢馬を怠らない以上、さしたる影響もなく、奥州一円の支配は認められうるとの考えに落ち着き、源平双方が泥沼に嵌って、消極的にはあるが漁夫の利を得ようとしたのは肯定すべき。
ただ、義経はじめ鎌倉が予想以上に平家を追いやって、比較劣位に追いやられてしまった。
こうなると、院は当てにはならん。
521日本@名無史さん:2009/08/19(水) 09:44:23
>>517
>むしろ義経を通じて源氏にコネでもできると考えていたのかもね
>アテが外れたと

義経と繋がったこと自体が「源氏にコネ」ができたことじゃん。
522日本@名無史さん:2009/08/28(金) 01:45:06
義経を庇護していたのだからな、普通は源氏に対して
大きな貸しを作ったと考えるんだろうが、
頼朝がそんなことを一顧だにしない人間だったからな。

義経に、騎馬兵1千でも付けてやれば
頼朝も認めてくれたのかな。
523日本@名無史さん:2009/08/28(金) 04:20:48
秀衡の当初の目論見では、義経を頼朝の元に送る予定はなかったでしょう。
鎌倉に頼朝、信州に義仲、そして奥州に義経と東国に源氏を三分させておく腹積もりだったのでは?
そういう秀衡自身、
西国に平家、関東に頼朝、そして奥州に藤原と、国内権力鼎立状態の一端を担っているとみなされていたわけだし、本人にもその自覚はあったと思われます。
秀衡(奥州藤原氏)に、日本全体の権力構造の頂点に君臨しようという野心があったとは思われないので、
秀衡は、いわばそうした権力の分散構造を幾重にも重層化させることで、自家が生き延びる道を模索したのだと思われます。
524日本@名無史さん:2009/08/29(土) 02:47:22
秀衡自身は、国内戦国状態を現出させたかったのだろうけど、
平家の没落が早すぎたのが最大の誤算か…

というか、義仲が弱すぎたのが痛すぎ。

距離的にも、平家じゃなくて義仲と
積極的に連携すべきだったか。
525日本@名無史さん:2009/08/29(土) 03:44:26
526日本@名無史さん:2009/08/30(日) 00:11:40
義経が挙兵以前に奥州で過ごしていたという根拠は実際のところないよね。
吾妻鏡は史書といいがたい
527日本@名無史さん:2009/08/30(日) 01:20:34
>>492
面白いね。
俺は秘かに近畿中心の日本国家は
天下統一の時に本当に初めて統一したのだと思ってるから。

日本の古代−中世の歴史は近畿の国内侵略ロード。
平安鎌倉時代などまだ全然途上に過ぎない。
528名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 08:59:00
>>526
佐藤兄弟が付き従っていたことで十分根拠になるだろ(しかも佐藤兄弟は後の任官等の点で他の義経従者と比べて別格扱い)
529528:2009/08/30(日) 09:01:56
選挙なら朝一で行ってきたよっと(^o^)ノ
530日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:44:59
>>527
北東北から見ると、何もかもが「大和」の侵略の魔の手に見えるかもしれないが、
よくみるとちょっと状況が違う。
どうも、関ヶ原を挟んで、日本は東西に分かれる。
そして、奥州往還(国道4号)ルートで東北に押し寄せてくるのは、
畿内勢が直接やってくるのではなく、
関東勢がやってくる。そして、関東勢は東海と繋がりが深いことが多い。
そしてこの東海(中京地方)勢は、畿内以西とは常に一線を画する。

弥生文化本流=西日本人の流れは、
(高天原?→)九州(筑紫)→瀬戸内海沿岸→畿内(大和)というルート。
畿内は「終点」であって、終点であるからこそ、巻向遺跡以来の覇権地域となった。

同様に、東日本弥生人の流れは、
(古近畿?出雲?→)東海(中京)→関東→東北南部(仙台平野南半)
となる。
これは、神話の頃(神社の分布)以来、奥州藤原氏の時代もまた、
徳川幕府でさえ、一貫したものだ。
531日本@名無史さん:2009/09/13(日) 13:08:16
>>435>>436>>437
安倍氏も清原氏も奥州藤原氏もこれらの皆さんは
奥六郡を押さえたら南下する事を目指すんだな
一応、衣川以南は朝廷の領土なんだけども

奥六郡以北の経済は狩猟や金鉱山、貿易がメインなので
稲作メインの奥羽南部とは社会構造が全然違うんだけど
532日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:37:32
>>531
奥州藤原氏は東北全体を抑えたと思われがちだが・・・・・
実際は、直轄地として奥六郡や仙北三郡を押さえ、そのほか東北南部などは、
姻戚関係や陸奥と出羽の押領史の権限、それに東北南部の摂関家荘園の荘官
や開発領主に任じられた事により次第に奥州藤原氏の支配が浸透して行った
ようだ。
だから1087年に後3年の役が終了した時点では、清衡の支配地はおそらく
奥六郡と仙北三郡、それに延久蝦夷合戦で新たに支配下に入った津軽半島、
下北半島を押えた程度で、東北南部には清衡の支配権は及んでいなかった
と思われる。
また、安倍氏血を引く清衡であれば奥六郡の支配はともかく、後3年の役後
でも仙北三郡には橘氏や吉彦氏など清原氏傘下の蝦夷系豪族が居た事から
清衡は彼らを支配するにあたり一定の時間が必要だったはず、との意見がある。

これは清衡は陸奥押領史には任じられたが、出羽に関しては特に公的な肩書き
は無く、出羽の豪族を傘下に収めるには清衡に対し豪族や出羽国府からの抵抗
が強かったのではないかとの説がある。

1093年に平師妙・師季親子が出羽守源信明の館を攻め、1094年に陸奥守
源義綱の郎党により鎮圧された。前年の1092年6月には陸奥守藤原基家
により、藤原清衡に合戦の企ての報告がなされていることから、両者を
関連づけ、この師妙親子を清衡の大伯叔父である国妙の子及び孫ではな
いかとする説がある。そしてこの2つの合戦は、清衡の奥羽での支配地
拡大(南下)を押さえ込もうという陸奥と出羽両国の国司の努力の現れで
あり、清衡を中心とする同族集団つまり奥州藤原氏は、東北全体の支配
権確立には、相当の時間が費やされているのではないかとされている。
533日本@名無史さん:2009/09/19(土) 16:23:31
藤原は糞
534日本@名無史さん:2009/09/20(日) 02:29:35
1018年 陸奥国司 藤原貞仲と鎮守府将軍 平維良が、税金の徴収や蝦夷との貿易を巡り合戦

   同年 陸奥国司 藤原貞仲の要請により平維良は、鎮守府将軍職を解任される(陸奥国司 藤原貞仲は、鎮守府将軍職廃止を要請)

   同年 平永盛が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を要請)

102?年 藤原頼行が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を要請)

1027年 陸奥国司の度重なる要請により鎮守府将軍が正式に廃止、朝廷は奥六郡を放棄を決定

1036年 陸奥権守に安倍頼良の父 忠良(忠好)が任命される

1051年 陸奥国司藤原登任と秋田城介平重成の数千の兵が、鬼切部で安倍頼良の部隊と衝突、藤原登任と平重成は大敗する。
       (鬼切部の戦い)
535日本@名無史さん:2009/09/20(日) 04:40:30
奥州安倍氏を1036年に陸奥権守に安倍頼良の父 忠良(忠好)が任命される
事をさして中央官人説を言う人がいるけど、それは違うだろ。

今昔物語で安倍頼良が同族である、北方蝦夷との連係での謀反を疑われ、
外国へ船で逃げる話がある。これを見るととても安倍氏は倭人とは思えない。

既に安倍氏は、磐井郡に三つの柵を造っており、磐井郡は安倍氏の支配下
に入っていた可能性が大きい。それだけでなく、磐井郡の南隣の栗原郡に
も未知の柵が設けられていて安倍氏の支配地に入っていた可能性が大きい。

栗原郡の南隣の玉造郡と磐井郡の東隣の気仙郡に今だ判明されていない
柵が設けてあった可能性があり、そうなると玉造郡と気仙郡は安倍氏の
支配下として侵食中だった可能性がある。

このように安倍氏は、頼良の代になり、奥六郡からはるかに南に支配地を
拡大させており、この事が陸奥国司と陸奥の在庁官人を刺激した。

また安倍氏も陸奥南部の中央官人系の在庁官人との婚約を進めており、
この事も陸奥の在庁官人層の安倍氏シンパと反安倍派の分裂を促進した。

安倍氏と姻戚関係を持った藤原経清と平永衡は、安倍氏が陸奥中部から南部
に何進するための足場であった。
536日本@名無史さん:2009/09/20(日) 04:42:16

1018年 陸奥国司 藤原貞仲と鎮守府将軍 平維良が、税金の徴収や蝦夷との貿易を巡り合戦

   同年 陸奥国司 藤原貞仲の要請により平維良は、鎮守府将軍職を解任される(陸奥国司 藤原貞仲は、鎮守府将軍職廃止も要請)

1019年 平永盛が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を再要請)

1025年 藤原頼行が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を再々要請)

1027年 陸奥国司の度重なる要請により鎮守府将軍が正式に廃止、朝廷は奥六郡を放棄を決定

1036年 陸奥権守に安倍頼良の父 忠良(忠好)が任命される

1051年 陸奥国司藤原登任と秋田城介平重成の数千の兵が、鬼切部で安倍頼良の部隊と衝突、藤原登任と平重成は大敗する。
       (鬼切部の戦い)
537日本@名無史さん:2009/09/20(日) 04:45:19
1051年←×
1050年←○
538日本@名無史さん:2009/09/20(日) 04:51:09
>>535
『今昔物語集』は所詮説話集だし、当時の都の人間の視点で
描かれたものに過ぎないのでは?安倍氏が蝦夷として描かれるのは
当然のような。
539日本@名無史さん:2009/09/20(日) 11:42:53
まあ、畿内人が東日本に住む人のことをやたら蛮族扱いにして書きたがる傾向があった頃だからな(サントリー佐治発言とか見ると現代でも多分にそうか?)。
関東のことは「東夷」、
奥羽のことは「蝦夷」
といった風に。
これは実際の民族が倭人なのか毛人・蝦夷なのかということとは別に、
(関東・東北地方などに住む人々への)地域人名称として「東夷、蝦夷」等の言葉を使っている(これを辺民論という)節があるからな。
540日本@名無史さん:2009/09/20(日) 13:22:24
>>535
書いているのは畿内の人間だろうが、現地での噂話や情報を収集して
記述している可能性もある。

まったくのウソともいえない。

それに安倍氏には、無姓なのに対し、清原氏は真人の姓があるし、
前九年の役の時に、北方三郡の蝦夷が安倍富忠に率いられ、頼時と
同族とされている事をみても、奥州安倍氏が、和人系の中央官人血統
とは言えない。
541日本@名無史さん:2009/09/20(日) 13:31:52
「可能性」の話でいいんなら、地獄の黙示録のような話の可能性だってあるよ。
蝦夷集団の中に入ってその頭目になったという「可能性」だって十分に考えられる。
国の内外問わずこんな話はいっぱいある。
542日本@名無史さん:2009/09/20(日) 21:02:53
清原令望は、事実上のカーツ大佐(トニー・ポー大佐ことアンソニー・ポシュニー)状態だろ、
本人は北九州に転勤になっちゃってるけど、
現地有力者の娘に産ませた子供が仙北三郡の俘囚主を継いでいる。
清原光頼、武則兄弟は、何代目か知らんけど。

だが、奥州安倍氏は、中央官人系統ではない。
どの記録を見ても、また奥六郡の現地情勢を見ても俘囚による自治組織の首長。

もっとも陸奥国司と鎮守府将軍の対立や鎮守府の廃止により奥六郡の郡司を
王朝国家から委任されただけで、蝦夷独自の政権とはいえない。

トニー・ポー大佐は、国境を越えてラオスの麻薬地帯に侵入し少数民族の
モン族を反共ゲリラとして訓練しベトコンと戦わせていた。
たしかにトニー・ポー大佐は、CIAや南ベトナム軍事援助司令部(MACV)
のいう事をあまり聞かなかったらしい。
南ベトナムからの米軍撤退にも応じず、モン族と一緒に現地に残り
ベトナム軍への抗戦を続ける

1980年代にモン族はタイに大脱出しアメリカに亡命、トニーポーも
その中にいたが1990年代にカルフォルニアで死亡している。

彼らの子供や孫達が、“グラントリノ”に出てくるモン族のギャングである。
543日本@名無史さん:2009/09/20(日) 23:44:02
奥州安倍氏は確かにカバネを有した記録は今のところ発見されてはいないらしい。
だが、「陸奥話記」には安倍氏は五位の通称である大夫(安大夫)と記されてもいる。
更に「範国記」に頼良の父、忠好の陸奥権守任官の記録があることも併せもってくると、
安倍氏が中央官人系であるという傍証には充分なってくるだろ。
少なくともその可能性が全く無いなんてことは言えなくなる。
544日本@名無史さん:2009/09/21(月) 02:26:41
なんで任官記録=中央官人なのよ?
蝦夷出身者でも鎮守府に帰属し成果を上げたら任官させているジャね?

それと秋田城介は、1051年まで存続しているのに、鎮守府は1027年に
廃止され、実質奥六郡を領土として放棄している事も合わせて考えると、
状況証拠として奥州安倍氏が中央官人系である可能性はかなり低いよ。

清原氏という中央官人血統者が、仙北三郡の俘囚主に任命された理由の一つは、
秋田城介がチャント機能しており、中央官人でないと俘囚の管理を認めない
方針だったからだろ。

安倍氏の奥六郡支配とその強大化は、陸奥国司が安倍氏を領土外という事で
放置していたからという背景がある。だから安倍氏が衣川を越えて磐井郡に
柵を造ってしまい、陸奥国司が慌てているわけだろ。

北方三郡の蝦夷を率いている安倍富忠は、頼時と同族だし。
545日本@名無史さん:2009/09/21(月) 02:57:38
>>544
>蝦夷出身者でも鎮守府に帰属し成果を上げたら任官させているジャね?

具体例を頼む。
546日本@名無史さん:2009/09/21(月) 03:03:25
>>544
>なんで任官記録=中央官人なのよ?

四の五の述べるより、
素直にそう考える方が蓋然性が高いと思うから。

可能性で言えば少なくとも「蝦夷」であるという可能性よりはぐっと高くなってくるだろう。
547日本@名無史さん:2009/09/21(月) 05:21:48
>>545

■道嶋嶋足
陸奥国(後の陸前国)牡鹿郡の出身で陸奥在地の蝦夷系豪族で中央官僚として立身した。
藤原仲麻呂の乱鎮圧に活躍した。そして766年に正四位上に進み、その後、
内廐頭、下総国、播磨国などの国守を歴任した。

■伊治呰麻呂
日本の奈良時代の陸奥国(後の陸前国)の蝦夷の指導者である。
伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)とも言われる。
国府に仕え上治郡大領となり律令政府より外従五位下に叙されていたが、
780年に伊治城で宝亀の乱を起こした。
伊治(現在の宮城県栗原市)の有力者とされる。

■道嶋大盾
同じ俘囚出身である牡鹿郡大領で、呰麻呂を見下して夷俘として侮ったため、
呰麻呂は内心深く恨んでいたともある。
548日本@名無史さん:2009/09/21(月) 05:24:10
>>546
反論になっていない。

この論争はお前の負け! 奥州安倍氏は、蝦夷に決定。
549日本@名無史さん:2009/09/21(月) 06:04:08
>>547
>日本の奈良時代の陸奥国
わざわざ「日本の」と付けるあなたはどこの国の人?とおもったらwikipediaのコピペかよ。
550日本@名無史さん:2009/09/21(月) 06:19:09
>>547
同じくwikipediaの道嶋嶋足の項目から
「陸奥在地のいわゆる蝦夷系豪族で中央官僚として立身できたのは嶋足だけである。」
特別扱いだな。
551日本@名無史さん:2009/09/21(月) 09:33:55
>>547=>>548=>>550
道嶋氏?
ウィキ以外で同氏が蝦夷であるとのソースを頼むよ。
(>>416-417>>424>>454
552日本@名無史さん:2009/09/21(月) 09:52:57
>>546
同時代資料(『範国記』)に受領任官の記録があるのに、それを根拠と考えることは
「反論になってない」?
それでいて資料でもなんでもないウィキの記述を見つけたら勝ち誇ったように狂喜乱舞か?

ぶっ壊れるのはまだ早いぞ!
下卑た文体のレスする前に少なくとも範国記に匹敵する資料の提示を頼むよ。
553552:2009/09/21(月) 09:54:57
>>546×
>>548
554>>5491-550:2009/09/21(月) 12:16:40
>>551
>>547=>>548>>550=>>549
>>550は「特別扱いだから参考にならない」ってつもりだったんだが。

たいてい道嶋氏は蝦夷って事になっていて、むしろ渡来系のソースを頼むよ。
555日本@名無史さん:2009/09/21(月) 12:51:36
>>554
いや別人の可能性も考えていたのだがやはりそうだったのなら大変失礼した。

確かに道嶋氏は蝦夷系と書かれたものは多いが、
>>424氏の指摘の通り確実な資料に蝦夷と記されたものは散見されないようだ。
それは渡来系でも同様なのだが、牡鹿郡及びその周辺地域が以前より百済系渡来豪族による利権の地だったことを考えてあわせると、蝦夷系よりは渡来系豪族とした方が確度が高いと俺はみている
(系図・諸家研究家の宝賀氏の見解などを見て)。


先に質問したのはこちらなので、本来ならば返答レスがくる前にこちらが答えるのは筋ではないのだが、人違いしたわびの印に一応こちらの見解を先に示しておきました。
556555:2009/09/21(月) 13:07:58
>>555だけど

俺は宝賀氏を全面的に信頼しているわけじゃないよ。
彼の氏族研究には招婿婚(=婿入り婚、妻問婚)という観点が決定的にぬけているので。
557日本@名無史さん:2009/09/21(月) 14:45:16
奥州安倍氏を攻撃する国府サイドの理由は以下の通り3つに分けられる。

@衣川を越えて安倍氏の支配地を拡大(南下)させた。

A安倍氏が税金を納めなかった。

B北方の蝦夷と連係して反乱を企てた。
558日本@名無史さん:2009/09/21(月) 15:29:22
>>557
国司と現地有力豪族との対立という観点で見れば、
10〜11世紀にかけては日本各地で同様の事態を招いていて、別に奥州に特有のことでも何でも無いんだよね。
関東では平将門と国衙の争い、武蔵武芝と興世王・源経基との諍い、さらにその両者が絡みあっての承平・天慶の乱の勃発。
また、将門を倒す側にまわる藤原秀郷だが、これも若い頃に何度も国司とは衝突している。
尾張では有名な尾張国郡司百姓等解文事件などetc・・・。
ただ、奥州の場合はそれにどうしても「蝦夷」というキーワードが絡んでくるので実際以上に特有の事情があるように見えてしまう。

559日本@名無史さん:2009/09/21(月) 18:05:45
日本人同士の利害の対立ならいくらでもある話。
結局、奥州安倍氏が、蝦夷つまり外国人であるために内乱ではなくなってしまう。

日本人同士の戦闘なら〜の乱だが、奥州安倍氏の場合は外国人との対外戦争
だから〜の役と記録される。

〜の乱と〜の役では、同じ戦争でも対象者が全然違う。
560日本@名無史さん:2009/09/21(月) 18:29:55
この時代の外国人って概念がよく解らないのだが、安倍氏は、言葉も日本語だし、稲作もしてたのだろうし、仏教も受け入れていたんでしょう?
もしかして中央と決定的に違う、軋轢の元になる文化の違いがあったのかな?
561日本@名無史さん:2009/09/21(月) 18:36:44
また、奥羽北部の場合には、蝦夷同士の利害の対立もある。
前九年の役も最終的には、出羽清原氏が奥州安倍氏を攻め落として終了したし、
それ以前の宝亀の乱では、伊治呰麻呂と道嶋大盾と言う蝦夷同士の対立から
反乱が始まった。
939年の出羽の俘囚反乱(天慶の乱)や1328年の蝦夷大乱も蝦夷同士の対立が始まりらしい。
562日本@名無史さん:2009/09/21(月) 18:56:20
>>560
血統も違うし、稲作もこの時代どれほどやっていたか判らない。
仏教はともかく、食べ物は、畿内とたいぶ違うと思う。

1062年に源頼義の軍勢と出羽清原氏の軍勢が合流した時の記録に
清原氏の軍勢の人相はホリが深くて毛深い人が多いみたいな記録があったような。
563日本@名無史さん:2009/09/21(月) 19:02:37
>>559
>日本人同士の戦闘なら〜の乱だが、奥州安倍氏の場合は外国人との対外戦争
だから〜の役と記録される

嘘を言うのもいい加減しとけよ。

「大坂の役」「西南の役」は対外戦争か?
564日本@名無史さん:2009/09/21(月) 19:07:58
>>559
>結局、奥州安倍氏が、蝦夷つまり外国人であるために

お前、まじパラノイアだな
565日本@名無史さん:2009/09/21(月) 20:13:09
>「大坂の役」「西南の役」

大阪夏の陣、冬の陣だろ、西南戦争じゃね?

>お前、まじパラノイアだな

 お前、まじウソツキだなw
566日本@名無史さん:2009/09/21(月) 20:25:51
>>565
名称が複数あることもしらん池沼乙!
お前はどうせ道嶋氏は蝦夷と言ってるヤツと同一人物なんだろ?

道嶋氏が蝦夷であるとの資料の提示はどうしたんだ? あん!
567日本@名無史さん:2009/09/21(月) 21:16:08
奥州安倍氏は、俘囚で決定。
568日本@名無史さん:2009/09/21(月) 21:56:05
>>560
>もしかして中央と決定的に違う、軋轢の元になる文化の違いがあったのかな?

どういう意味でこういう質問しているの?
569日本@名無史さん:2009/09/21(月) 22:17:15
>>568
だって、征伐される回数多くね?
関東とか、南九州とか奥州ほどの
回数は征伐されていないように思う
のだけど。
570日本@名無史さん:2009/09/21(月) 22:34:06
>>569
単に奥羽征伐が、南九州の熊襲征伐や隼人征伐よりもあとの時代になってから行われたから記録として多く残っているということかもよ。
571日本@名無史さん:2009/09/21(月) 23:24:17
>>559
>日本人同士の戦闘なら〜の乱だが、奥州安倍氏の場合は外国人との対外戦争
だから〜の役と記録される

ならば、
明白な対蝦夷戦であるはずの宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)、元慶の乱、天慶の乱はどうして「〜の役」ではなく
「〜の乱」と称するの?
572日本@名無史さん:2009/09/22(火) 01:52:04
>>561
>前九年の役も最終的には、出羽清原氏が奥州安倍氏を攻め落として終了したし、
それ以前の宝亀の乱では、伊治呰麻呂と道嶋大盾と言う蝦夷同士の対立から
反乱が始まった。

直近のレスのやり取りは華麗にスルーですか?

四人の中で確実に「蝦夷」と言えるのは伊治公呰麻呂の一人だけなんだが。
573572:2009/09/22(火) 01:55:16
四人→×

四者→○
574日本@名無史さん:2009/09/22(火) 03:59:31
荒れているなこのスレw

アメリカのテレビドラマのマッドマンでも見ようよ
575日本@名無史さん:2009/09/22(火) 04:51:05
大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)って蝦夷だけど
公が就いているから、どこかの郡の大領だったのかもね〜
576日本@名無史さん:2009/09/22(火) 12:15:38
>>574
荒らしているのは約一名だけどね。
577日本@名無史さん:2009/09/22(火) 18:25:09
>>575
>大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)って蝦夷だけど
>公が就いているから、どこかの郡の大領だったのかもね〜

そうなんですよ。
7c後半以降の蝦夷の名前は
宇漢迷公宇屈波宇
伊治公呰麻呂
胆沢公阿奴志己
大墓公阿弖流為
磐具公母禮
と、みな「公」の姓ないしは尊称がつくんです。
これは隼人でも事情は同じで、
前公乎佐
薩摩公鷹白
薩摩公宇志
といった具合になるんです。

名前は
地名/公/個人名
の形を取るようです。
578577つづき:2009/09/22(火) 18:43:14
これが7c前半になると、
蝦夷なら、
邑良志別君宇蘇弥奈、
須賀君古麻比留、

隼人なら、
曾君細麻呂、
加志君和多理、
曾乃君多理志佐、
前君乎佐 

といった具合に「君」の姓ないしは尊称がつくんですよね。

従って、上で挙がっている道嶋氏ですが、
道嶋氏は「君」や「公」姓ではなく、
「連」姓や「宿禰」姓で史料に登場しますので、これだけでも同氏が蝦夷であるという可能性はぐんと薄まってきます。
579577・578訂正:2009/09/22(火) 18:53:56
>>577
7c後半以降の(×)
8c後半以降の(○)

>>578
これが7c前半になると(×)
これが8c前半になると(○)
580日本@名無史さん:2009/09/22(火) 23:17:37
>道嶋氏は「君」や「公」姓ではなく、
>「連」姓や「宿禰」姓で史料に登場しますので、これだけでも同氏が蝦夷であるという可能性はぐんと薄まってきます。


581日本@名無史さん:2009/09/23(水) 00:17:35
582日本@名無史さん:2009/09/23(水) 03:53:13
8世紀前半は、東北地方の征服があまり進んでいないので“公”が名前につかないんでそ。
8席後半には、今の宮城県、山形県くらいは征服して、住民は蝦夷だけど、
そいつ等のボスや族長クラスを郡の大領や郡司に任命して、朝廷の領地としたんだろ。

アテルイやモレなんて名前は、日本人じゃないだろ、
アムロレイみたいじゃないか。

アムロって名前は、沖縄しかないだろ。
日本人に氷室なら居るけど。
583日本@名無史さん:2009/09/23(水) 04:49:01
>>582
よく分からんな。
つまり大和の王化にあまり服していない時期には蝦夷や隼人の族長クラスには「君」姓を与えて、王化が大分進んだ頃になると文字を変えて「公」姓を与えるようになったということか?
つまり、「君」には大和に征服される前の異民族の族長クラスに与えられる姓という意味合いがあり、「公」には征服された後の族長クラスに与えられる姓という意味合いがあるということなのか?
でも一度は朝廷に帰順してから裏切った伊治公アザマロはともかく、アテルイやモレはそもそも最終的に降伏するまで帰順なんかしてないじゃん。2人は「征服」以前から「公」姓を有してたんだろ?
584日本@名無史さん:2009/09/23(水) 05:49:01
どの名前が日本人っぽいかは、
実際に存在すりゃ日本人っぽいイメージに聞こえるだろ。
"アベ"だってたくさんいるけど日本ぽくない。
585日本@名無史さん:2009/09/23(水) 14:13:59
>"アベ"だってたくさんいるけど日本ぽくない。

安倍は普通に日本人ぽいだろw

>アテルイやモレはそもそも最終的に降伏するまで帰順なんかしてないじゃん

坂上田村麻呂に降伏した時に“公”をもらった可能性
586日本@名無史さん:2009/09/23(水) 16:07:38
>>582
>8席後半には、今の宮城県、山形県くらいは征服して、住民は蝦夷だけど

宮城県に関しては、すでに東北屈指の和人地帯になっていたよ。
多賀城造営が724年で、その2年前の722年には既に柵戸1000戸を多賀城周辺に配している。
また、国衙が多賀城に移る前にも、7世紀半ば頃から郡山遺跡(仙台市)が官衙として存在していたし、
その周囲は南小泉遺跡や遠見塚遺跡などの大古墳群地帯。
さらにその以前には弥生集落も存在していた。
仙台や多賀城に国府が置かれたのは
弥生→古墳→古代
とちゃんと自然な経過を辿った上で行われていて、決して人工的にポツンと当該地域に大和側の拠点を設けたわけではない。

587日本@名無史さん:2009/09/23(水) 16:17:59
>>585
だからそれは日常耳にしてるからだろ。アホなのか。
そもそも「日本人ぽい」ってなんだよ。お前の聞いたことの有る無しだけが基準なのか。
タムラマロなんて奴も日本にいねえよ。
588日本@名無史さん:2009/09/23(水) 16:30:58
>>587
>そもそも「日本人ぽい」ってなんだよ

お前が自分で振った言葉じゃないか
589>>5491-550:2009/09/23(水) 19:39:35
>>587
じゃぁ、お前は「ヤマトトトヒモモソヒメ」は日本人ぽいと思うのかよ。
590日本@名無史さん:2009/09/23(水) 20:01:49
>>588>>589
死ね!ゴミw
591日本@名無史さん:2009/09/23(水) 20:05:45
>>586
蝦夷=アイヌではなかろう
蝦夷=非大和朝廷系の弥生人の可能性も
592日本@名無史さん:2009/09/23(水) 20:15:51
>>588
お前でしょ。俺はその表現がそもそも気に入らないだけなんだから。

>>589
和人ぽいけどな。
でも接頭接尾の"ヤマト"と"ヒメ"を取るとトヒモモソ。
土肥百蘇さんならギリギリか。
アテルイだって中(あたる)塁さんだったら日本語化出来る。
千年前の名前なんて全部、語感変化して今に至るんだから。
593588:2009/09/23(水) 20:26:13
>>592
俺じゃないよ。
お前が主題と外れたどうでもよいことにあーだこーだとこだわっているんで皮肉のつもりで書いたんだが。
594日本@名無史さん:2009/09/23(水) 23:38:28
>>592
>でも接頭接尾の"ヤマト"と"ヒメ"を取るとトヒモモソ。
トが一つ足りない。正しくはトトヒモモソ。倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)
しかし古事記では夜麻登登母母曾毘売命。トが一つ足りない。どっちがホント?
595日本@名無史さん:2009/09/24(木) 00:36:19
どっちも正しいんだろ。
んなのいっぱいあんじゃん。「紀」と「記」では微妙に違うのとか。
スサノオとスサナルみたいに。

596日本@名無史さん:2009/09/24(木) 00:51:55
>>593
お前の名前は呂比須に決定
597日本@名無史さん:2009/09/24(木) 01:56:51
なぜドイツでは財閥解体しなかったの?
598日本@名無史さん:2009/09/24(木) 03:04:46
>>591
>蝦夷=アイヌではなかろう

いや本来的な意味合いでの蝦夷は、=アイヌで良いだろう。
ただし
陸奥側なら衣川以北津軽以南、出羽側なら雄物川以北でやはり津軽以南の地は、
つまり後の奥六郡と仙北三郡の地は、
その住人は蝦夷や俘囚などと呼称されてはいるものの、(アイヌ以外にも)実際には和人の数もかなり多く、また一部ツングース系の住人などももいたことだろう。

>蝦夷=非大和朝廷系の弥生人の可能性

そのような言い方が通るなら、東北地方に限らず、大和地方以外に弥生式集落のあった日本中全ての土地に言えてしまう。
599日本@名無史さん:2009/09/24(木) 03:21:21
倭人化しつつあったアイヌ?
今で例えるなら在日朝鮮人みたいな感じかな。
倭人に帰化する過程にあったとか。
600日本@名無史さん:2009/09/24(木) 03:27:38
在日朝鮮人のことはとりあえず忘れろ
2chに在日ファンが多いのはわかるが
601日本@名無史さん:2009/09/24(木) 04:08:46
チョンはマジで嫌い。
気化爆弾かクラスター爆弾か小型戦術核使用OK!

アイヌ差別は反対だけど、
チョンは国外追放か、ゲットーに封じ込め。
602日本@名無史さん:2009/09/24(木) 04:17:40
>倭人化しつつあったアイヌ?

弥生時代かな?どこかの遺跡で弥生人と縄文人の骨が一緒に出土したとか、
どこかの村で一緒に暮らしていたらしい。
当然混血もあるだろう。

現在のアイヌの人は、名前も人相も和人化して、言われないと判らないらしい。
アイヌの血が入っているのに自覚すらしていない人も沢山いるとか。

北海道出身の政財界人で実は片方の親がアイヌらしい人がいるとか、
ムネオじゃなくて。

別にチョンの血が入っていなければ全然良いと思う。
チョンは、トレブレンカに連れて行け。
603日本@名無史さん:2009/09/24(木) 04:32:12
【論説】辛淑玉氏「日本人が北朝鮮拉致事件に飛びついたのは、加害者としての糾弾に疲れ、被害者になるチャンスだったからだ」[9/24]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1253718218/

1 :諸君、帰ってきたで?φ ★:2009/09/24(木) 00:03:38 ID:???
 日韓・日朝交流について人材コンサルタントの辛淑玉さんから、その問題点と展望を寄稿してもらった。

 日韓・日朝の歴史の中で、直接的な被害者にも加害者にもならずに済んだ人たちが大人になって果たすべき責任とは、「国家の代理人
にならないこと」に尽きると思います。国家を背負わず、一緒に被害者を救済し、加害者を特定して処罰し、再発防止を図ることです。

 多くの日本人が北朝鮮による拉致事件に政治的に飛びついたのは、長年、国家と一体となった加害者として糾弾されてきたことに疲れた
からだと私は見ています。初めて堂々と「被害者になれる」チャンスがめぐってきたのがあの拉致事件でした。そして、被害者に感情移入する
ことで心のバランスを保っているようにも見えました。

 それが、足元の在日を徹底的に叩き、強硬な経済制裁を主張するという行動となって現れ、ほそぼそと進められてきた日朝の民間交流
をも停滞させる結果になりました。もしこれが、拉致も強制連行も共に解決しようというスタンスであったなら、歴史は大きく動いたことでしょう。

 韓国の人も、北朝鮮の人も、日本の人も、「国家」を背負っている限りその病気からは抜け出せず、足元の被害者を救うことはおろか、
他者と手を取り合うこともできないと思います。

 「日本」の人がこの呪縛から自らを解放するには、まず「国家によって歴史における加害者にさせられた者(被害者)」として日本国家と
向き合うことから始めるべきではないでしょうか。

 あえてキーワードはと問われたら、「在日」への差別問題の解決だと思います。両国の歴史ののど元に刺さったトゲがここにあるからです。
 辛淑玉(シン・スゴ)さん

 東京都生まれ。在日コリアン三世。人材育成コンサルタント会社・香料舎(こうがしゃ)代表。神奈川県人権啓発推進会議委員。
著書は「差別と日本人」(野中広務氏と共著)など多数。50歳。
ソース(東京新聞 9/20付 24面)
604日本@名無史さん:2009/09/24(木) 04:33:00
チョン以上にアイヌもキモいよ
605日本@名無史さん:2009/09/24(木) 04:43:24
>>603
このクソババアの以下の日本語も理解不能。

>>日本の植民地支配下に置かれた朝鮮人、アイヌ、琉球民族などとは異なる、被差別部落民などの社会的弱者も、「日本人」を定義して来たものから排除され差別の構造下におかれた被害者であるから、
被差別日系に入る。
http://www.shinsugok.com/research/index.htm
606日本@名無史さん:2009/09/24(木) 11:18:15
>>604
とチョソが申しております。
607日本@名無史さん:2009/09/24(木) 12:04:02
アイヌキモい
アイヌいらね
608日本@名無史さん:2009/09/24(木) 12:23:41
<丶`Д´>
609日本@名無史さん:2009/09/24(木) 20:28:47
っていうか、蝦夷とアイヌは明確に区別するべきだろ。
アイヌは渡島蝦夷が道東や、道北、樺太や千島列島、それに奥尻島なんかで
暮らしてたオホーツク文化、トビニタイ文化を担った人達、
日本書紀では粛慎と呼ばれてる渡来人と混血、文化の影響を受けて成立した民族だ。
東北の蝦夷をアイヌと呼ぶのはどうかと思うぞ。
610日本@名無史さん:2009/09/24(木) 20:48:49
というより、エミシとエゾは、まあ区別すべき。でも民族が重なりあわない訳じゃなし、
>明確に
とまで言えるとは思えないな。
611日本@名無史さん:2009/09/24(木) 20:59:23
ま、奥州安倍氏も、調子に乗り杉、って事だろう。
税金は納めないわ、奥六郡から勝手に領土広げる(南下)わ、
陸奥南部の権守たちと勝手に姻戚関係結ぶわ、
色々やり杉。

で、陸奥国司の藤原登任にいらぬ不信感を買った。

頼良の時には、奥六郡の南隣の磐井郡も安倍氏が3つの柵を造り
押さえていたらしいから、本当ならもっと早く陸奥国司は安倍氏の
南下を問題視すべきだった。

鬼切部の戦いや黄海の戦いに国司が負けて、逆に栗原郡、気仙郡、玉造郡、
登米郡、新田郡、長岡郡、遠田郡までにも安倍氏の支配力が及んでしまった
可能性がある。

藤原登任と源頼義がダラシナさ過ぎる。

栗原郡なんてまだ蝦夷が大勢いて、和人と混住してたかもしれない。
200年以上前だけど、伊治公呰麻呂なんてのがいたし。
612日本@名無史さん:2009/09/24(木) 23:03:05
>>586
仙台平野の南半分(松島丘陵以南)は、古代史を通じて、弥生系勢力の最前線。
ただ、>>530にも書いたけれど、
北上してきて仙台平野をターミナルとしたのは、
弥生時代以来、西南日本の「大和直系」というより、
東日本勢、直接には関東からの北上勢力となる。
これは、仙南地域の遺物が一貫して示すこと。
そのさらに故郷はと言えば、これも繰り返しになるが、
おそらく今の中京地方あたりではないかと思われる。
宮城南部は、「東日本の終点」というのが正しい。
畿内王朝の直接支配が及ぶのは、仙南でも意外に後になってから。

他方、古墳時代には、続縄文文化を携えた、蝦夷の祖先は明らかに南下傾向にある。
南下する北日本蝦夷と、北上する東日本倭人が出会ったのが、
松島丘陵から大崎平野あたりとなる。
胆沢地域というのは、大崎平野の遷移地帯を挟んで、
南の多賀城的な「東日本弥生系」と対峙する地理的意味があったようだ。
果たしてこれが、奥州藤原氏の時代まで通用するのかどうかは別だが。
613日本@名無史さん:2009/09/25(金) 13:53:15
奥州藤原氏は蝦夷の子孫を自認してたんでしょ?
そのせいかは知らないけど、結局、経清の官位を越えた子孫はいないんだよね
614日本@名無史さん:2009/09/25(金) 18:00:39
全然わからんがアイヌとか在日とか部落とかをかっこいいと思う俺には
もはや全く理解できない、に尽きる。

大体これらを差別する奴は当人も総じてヒガミっぽい。
おぼっちゃん育ちを指差して「アイツは挫折知らずだからダメだ」のようなことをすぐ言ったりする。
俺のような『王道』の偉大さも知る男ほど弱者差別も行わない。

差別主義者というのは、中間の中途半端な存在が
上へ下へと飛ばす逆切れ者。
615日本@名無史さん:2009/09/25(金) 18:08:32
614は、チョンだ。
616日本@名無史さん:2009/09/25(金) 20:21:04
>>613
秀衡は、鎮守府将軍と陸奥国司になっているし、清衡は陸奥(奥六郡)押領史、基衡は出羽陸奥押領史だよ。
617日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:22:23
それに清衡の父経清は南奥の亘理郡を本拠地とする豪族だしね。
618日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:43:08
豪族って言ったて、どこぞの受領にくっついて来て、職権乱用で横領したところに居座っていた新参者だろ。
619日本@名無史さん:2009/09/26(土) 14:16:54
>>618
>豪族って言ったて、どこぞの受領にくっついて来て、職権乱用で横領したところに居座っていた新参者だろ

だから蝦夷ではあり得ないって話だろ。
レスの流れ嫁
620日本@名無史さん:2009/09/26(土) 20:18:42
経清は、藤原秀郷血統のはず、意外と名家。
ただし清衡の母親は、蝦夷だな。

>>613
奥州藤原氏が蝦夷(奥州安倍氏)の子孫を自認したのは、
事実清衡の母親が、安倍氏の血統である事

また、衣川以北の奥六郡や仙北三郡それ以外の日本の北端の津軽海峡まで
の地域支配の正統性を主張する為に、朝廷にそう主張した。

奥州藤原氏の奥羽中部や南部の支配の根拠は、陸奥出羽押領史の職権と
摂関家を代表とする公家衆の荘園の荘官になる事で認められている。

陸奥南部の太平洋岸の海道平氏は、成衡が真衡の養子になり清原氏の跡継ぎになるある
はずだったが、後に清衡か基衡の代に奥州藤原氏に付属している。

奥州藤原氏が年代ごとにどの程度支配地を南下させたのかまでは判らないが、
清衡の代では、それほど陸奥や出羽の南部にまでは支配力を及ぼせなかったらしい。
621日本@名無史さん:2009/09/27(日) 00:23:08
そもそも平泉の藤原氏と十三氏、海道平氏、佐藤氏、大河などの諸氏との関係ってどういう関係なんですか。

鎌倉殿に滅ぼされるころには、藤原氏の臣下という理解でいいのでしょうか。
622日本@名無史さん:2009/09/27(日) 01:36:18
>>621
おおざっぱに言って、奥羽北部の豪族は藤原氏の家臣的存在、
南部の豪族は同氏の同盟者的存在と聞くけどね。
623日本@名無史さん:2009/09/27(日) 03:34:03
>>620
>ただし清衡の母親は、蝦夷だな。

既に何度も言っているが、
奥六郡安倍氏については、
陸奥権守任官の事実と、五位貴族への称号である「大夫」の記述があることから、蝦夷ではなく大和系である可能性が高まってきた。

>奥州藤原氏が蝦夷(奥州安倍氏)の子孫を自認したのは、
>事実清衡の母親が、安倍氏の血統である事

>また、衣川以北の奥六郡や仙北三郡それ以外の日本の北端の津軽海峡まで
>の地域支配の正統性を主張する為に、朝廷にそう主張した。

↑のくだりは

>>奥六郡安倍氏が蝦夷の子孫を自認したのは、
>>事実安倍氏の母系先祖が、蝦夷の血統である事

>>また、衣川以北の奥六郡やそれ以外の日本の北端の津軽海峡まで
>>の地域支配の正統性を主張する為に、朝廷にそう主張した。

とほぼ入れ換えてしまうことも出来ると思うが、そうは考えてみたことはない?
624日本@名無史さん:2009/09/27(日) 03:52:43
>615
お前は一位になったことがない。
お前のようなヒガみ馬鹿のせいで
俺は己の能力を自慢したことが無い。

そのバカで低いお前が、
さらに下を探してチョソだの低学歴だのとほざいてるのを見ると、
本当に不要な存在だと思う。
チョソや低学歴にはムカついたことは一度も無い。
625日本@名無史さん:2009/09/27(日) 04:03:35
横だが、この国における在日(しかも彼らは強制連行されてきた等といっているが、実は密航者)の犯罪率の異常な高さには正直ムカつきを覚えるのが普通だと思うぞ。
626日本@名無史さん:2009/09/27(日) 04:29:33
思わない。
犯罪の記事ばっか見るほど鬱病じゃないから。
日常生活が存在しない奴にはわからないことかもしれんが。
627日本@名無史さん:2009/09/27(日) 04:35:31
>日常生活が存在しない奴にはわからないことかもしれんが

自分が普段言われていること?
628日本@名無史さん:2009/09/27(日) 05:02:15
はぁ、うるせえ。
とにかく食い下がるのはこいつらの特徴だな
口で既得権を確保しようとする
だからチョソよりも嫌いなんだよ
迷惑度がお前らの方が上

頭がいい奴とか逆境で生きる奴とかは人として上なんだよ
どっちもない半端なお前らはダメ人間なの
629日本@名無史さん:2009/09/27(日) 05:09:18
 ((⌒⌒))
((((( )))))
  | | ファビョーン
  ∧_∧
∩#`Д´>")
ヽ   ノ
 (_つ ノ
  し"

630日本@名無史さん:2009/09/27(日) 05:21:39
↑低レベル
631日本@名無史さん:2009/09/27(日) 08:03:10
朝廷の官位や任官の事実があっても、
安倍氏や奥州藤原氏としては、東北地方の住民に
支配の正統性を納得させるには、蝦夷の子孫であると宣伝せねばならず、
それも何年かすると朝廷にもその宣伝が聞こえて、
いざ乱が起きると、任官の事実も忘れて、「役」として征伐する。
という感じ?
632日本@名無史さん:2009/09/27(日) 08:41:12
だって地元民と結婚してんでしょ
じゃあ子孫なんじゃね。
で何年も地元で暮らすと情がうつり中央と意識が離れて叛乱が起こる。
でもそれって支配権が確立されてない、ってことなんだと思うんだけど。
その動きは原始以来のデタラメなクニ社会と同じ。

大和支配の確立は一般歴史認識よりずっと後なんだと思う。
地図配置を決めるのは支配が完成してなくても出来ることだから。
633日本@名無史さん:2009/09/27(日) 14:51:18
>>630
がスレタイの主旨に沿った
「高レベル」な内容のレスをしてくるのを期待して待ってみようじゃないかw
634日本@名無史さん:2009/09/27(日) 20:50:09
YAP+ YAP−

ヤコブのアニキは葦原の醜男 エサウの子孫エドム人がアイヌの祖

倭人は委 ユダヤ人南ユダ 族

朝鮮人の支流は穢人
アンモン人の末裔

チベット人はダン氏族の末裔 だから遺伝子が日本人と類似している

ここまでは分かった
問題はヨセフ族 扶〇族がそうだとしたら
朝鮮の歴史は古代日本人の歴史になる
635日本@名無史さん:2009/09/28(月) 00:14:57
>>633
 ((⌒⌒))
((((( )))))
  | | ファビョーン
  ∧_∧
∩#`Д´>")
ヽ   ノ
 (_つ ノ
  し"
636日本@名無史さん:2009/09/28(月) 00:46:10
>>631
>安倍氏や奥州藤原氏としては、東北地方の住民に
>支配の正統性を納得させるには、蝦夷の子孫であると宣伝せねばならず

奥六郡と仙北三郡の住民全てが厳密な意味での蝦夷というわけではないけれど、
まあそういう部分はあっただろうね。
ただ、「蝦夷」の呼称については、奥羽の民たちが自分たちのことを積極的にそう呼称したというよりは、
やはり、畿内中央政権側が、奥羽の民たちのことを侮蔑の意味を込めたこの名称でいつまでも呼び続けることに偏狭にこだわったというのが本当のところだと思うが。


>>635
それでスレタイの主旨に合致した「高レベル」内容のレス投下はどうしたんだ?うんw?
637日本@名無史さん:2009/09/28(月) 01:09:47
>>636
単に非支配地域をそう呼んだだけでは?
主旨は東北平定というより畿内方面へ侵攻させないこと。
638日本@名無史さん:2009/09/28(月) 01:16:22
                 ((⌒⌒))
                 ((((( )))))
                   | | ファビョーン
>>636               ∧_∧
お前の言うハイレベル→  ∩#`Д´>")
                 ヽ   ノ
                  (_つ ノ
                   し"
639日本@名無史さん:2009/09/28(月) 01:41:15
しかしコピペを馬鹿にされたからっていつまでもこだわる奴が
普通の発言者ってのも面白い。
640日本@名無史さん:2009/09/28(月) 01:57:28
もはや
荒らしと他人のレスをそっくり真似ることでしか返せなくなってる池沼のレスよりは

>面白い

だろうw!確かに
641日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:14:10
>>639
斜に構えて悦に入っているらしいが、
何かマトモなレスできるの?
お前w
642日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:22:39
うん、面白い
だってただコピペだぜ?
そんなに心血注いだコピペなのかな
魂のコピペ
643日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:37:45
>>637
>単に非支配地域をそう呼んだだけでは?

安倍氏の陸奥権守任官から130年以上も後の藤原三代秀衡の時代ですら、
彼が鎮守府将軍に任命された時、九条兼実は玉葉に「奥州夷狄秀平」とクソミソに書いてるよ。
その間、(安倍忠好以外にも)たとえば清原武則が朝廷から鎮守府将軍に任命されたりしているのにも関わらずだよ。
644日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:46:44
>>643
だから大和と陸奥の部族対立なんでしょ単に。
任官云々は強弱関係を表してるだけで
絶対支配が確立してなかったんだよ。
645日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:49:22
>>642
ぜんぜん面白くないんだが。
やけにコピペにこだわってるようだが、もはやそこにしか攻めどころが見い出せなくなってレス内容に煮詰まってんだろw?お前w
646日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:53:05
他にどんな攻めどころがあるんだ
コピペしかしてないクセに
困った奴だな。なんてワガママなんだろう
647日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:53:31
>>644
>だから大和と陸奥の部族対立なんでしょ単に

奥六郡安倍氏も出羽仙北三郡清原氏も平泉藤原氏も蝦夷「部族」ってこと?
違うよ、それ。
648しょうがないな:2009/09/28(月) 02:56:11
変な耳→  ∧_∧
      ∩#`Д´>")
649日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:57:07
>>646
>他にどんな攻めどころがあるんだ
>コピペしかしてないクセに
>困った奴だな。なんてワガママなんだろう

変わった自己紹介の仕方だなw
以後無視するよ。
言葉遊びがしたいだけの構ってちゃんw
650日本@名無史さん:2009/09/28(月) 02:59:02
>>647
蝦夷は蛮族の総称。
三氏は部族。
土地と集団を分けるようになるのは近代以降。
651日本@名無史さん:2009/09/28(月) 03:03:02
>>650
>蝦夷は蛮族の総称。
三氏は部族

三氏(奥六郡安倍氏、仙北三郡清原氏、平泉藤原氏)が
>部族
であるとの論拠は?
652日本@名無史さん:2009/09/28(月) 03:03:51
何を言っとるんだろうコピペ魂は
俺は一度も返答した記憶はないのに
謎の自己満足。まあおめでとうと言っておこう
653日本@名無史さん:2009/09/28(月) 03:12:54
しかし、「部族」とは乱暴な意見だなw
それを言ったら奥州に限らず、他地方の土着貴族・豪族もみな「部族」だろうにw
654日本@名無史さん:2009/09/28(月) 08:33:40
鎌倉に攻められて、奥州藤原氏が敗れた後は、蝦夷って言われることが無くなってるよね
これは支配階級が蝦夷の血筋を引かない者達に、代わったからだよね
例えば南部氏とか。
655日本@名無史さん:2009/09/28(月) 09:02:53
だって夷津の頭領が日本の棟梁になったのにそんな呼称使うわけねえだろ
656日本@名無史さん:2009/09/28(月) 19:02:26
吾妻鑑で奥州藤原氏のことを夷狄的な表現で記してる箇所は無いをだよな
657日本@名無史さん:2009/09/28(月) 19:14:41
>>621-622
藤原泰衡の郎党で大河兼任の乱を起こした大河兼任の高祖父は、安倍家任といわれている。

奥州藤原氏は、衣川以北の東北北部には同族集団を配置し、
東北南部は、異姓の武士団を何とか押領史の権限で押さえ込んだんだろうな。

そういう意味では、奥州藤原氏の東北支配は、
戦国大名的な一円支配とは比べ物にならないくらい、弱い支配体制。
658日本@名無史さん:2009/09/28(月) 23:23:10
奥州藤原氏は中華の皇帝から冊封でも受ければ、朝廷と対抗できたのにね
659日本@名無史さん:2009/09/28(月) 23:28:25
なんで朝廷と対抗しなければならないの?
660日本@名無史さん:2009/09/28(月) 23:41:13
>658
それ北条にもいってやって
661日本@名無史さん:2009/09/28(月) 23:43:05
義光はそれをやったな。挫折したけど。
662日本@名無史さん:2009/09/29(火) 00:04:46
新羅三郎か出羽侍従か
663日本@名無史さん:2009/09/29(火) 00:14:09
義満だた、ゴメソ
664日本@名無史さん:2009/09/29(火) 00:48:24
>>659
征伐されるから仕方なく服属しているだけなんだから。
中華皇帝から冊封されれば、逆に征倭大将軍の称号でも貰って、朝廷を征伐できるかもね
665日本@名無史さん:2009/09/29(火) 01:00:47
>664
それ民主党にもいってやって
666日本@名無史さん:2009/09/29(火) 01:21:45
あの中国に併呑されるくらいなら日本の一地域首長でいる方がずっとまし
667日本@名無史さん:2009/09/29(火) 01:59:39
>>664
当時、中華皇帝とやらの権威は、日本にはほとんど及ばず、何のたしにもならん。
まあ、奥羽越列藩同盟が北白川宮能久親王をかついだように、
不平をもつ皇族でも味方にしたほうが、まだましだろう。
668日本@名無史さん:2009/09/29(火) 02:18:39
奥州藤原氏が現在の福島県の太平洋岸から茨城県の北部が勢力圏である海道平氏を
どうやって傘下におさめたのか知りたいのだが、クグっても判らない。

清衡とは海道平氏は、敵対関係のはずで、成衡は、真衡の養子になったんだから、
清衡の代に海道平氏が、傘下に収まったとは思えない。

後三年の役終了から5年後の1092年に陸奥国司が、清衡が合戦の準備をしていると報告している。
それに合わせて清衡は、豊田館から平泉館に移ったらしい。
1094年に経清の母方の親戚の平師紗が、清衡の要請で出羽国司と戦争し、撃退されている事実を
考えると、清衡の奥羽南部進出の意欲は見えるが、あまり成功していないように見える。

基衡の代に合戦になり海道平氏が奥州藤原氏の家臣になったのか?

清衡の死亡直後の基衡と惟常の戦闘で惟常が負けて出羽南部の国府に
逃げ込んでいる事実を見ると、やはり清衡の代には奥羽の南部には、
それほど進出出来なかった可能性が大きい。

国衙の存在が、奥州藤原氏の南下の阻害要因だった可能性がある。
669日本@名無史さん:2009/09/29(火) 02:56:36
>当時、中華皇帝とやらの権威は、日本にはほとんど及ばず、何のたしにもならん。

大和朝廷はこれを盾に取って日本支配を推し進めたんですが。「京」は中国語。
670日本@名無史さん:2009/09/29(火) 03:11:25
日本支配つうか当の朝廷そのものが日本という王朝でしょ
671日本@名無史さん:2009/09/29(火) 03:11:47
>>668
>経清の母方の親戚の平師紗が、清衡の要請で出羽国司と戦争し、撃退されている事実

「清衡の要請」によるものかどうかは、
推論としては成り立つかもしれないが、判明はしていないだろ。
672日本@名無史さん:2009/09/29(火) 03:23:58
てか中華の冊封とかわけわからん。
673日本@名無史さん:2009/09/29(火) 03:31:33
日本という地名自体は中国でいう中華に相当するから、
ここは倭朝とでもしておこうか。 和朝第125代明仁帝
674日本@名無史さん:2009/09/29(火) 03:34:03
また湧いてきたなw
675日本@名無史さん:2009/09/29(火) 03:37:01
なにがだよ
KY
676日本@名無史さん:2009/09/29(火) 03:39:42
>>675
どんなくうきなの?
677日本@名無史さん:2009/09/29(火) 04:42:49
中右記

寛治元年
十二月廿六日
今日進陸奥國解也、守義家朝臣追討俘囚了、

寛治二年
正月廿五日
入眼式民部丞、女院分被止、若是依無國歟、又未功課藤基家任陸奥國守、若有故歟、

寛治六年
六月三日
夜夢當時右大臣、召乗車後横行天下清談、定知吉夢、近日自陸奥國進國解、守藤基家朝臣、是清平企合戰云々、
雖加制止不被拘歟、欲有陣定處、參議中無執筆人、是左大辨被籠院御精進、右大辨俄所勞不可參内之故也、此外
近代八座之中全無屬文也、仍頭辨、季仲朝臣、依殿下仰、各向公卿之家、随申?被書覧也、

寛治七年
十月十八日
除目之終也、顯季朝臣舊國丹波功課定文書了、件定文、去春除目有難不被書也、依任人員少早々書了、聞書大略、
 近江守正四位上橘俊綱、陸奥守從四位下源義綱、阿波守從五位下高階爲遠、左兵衞佐雅兼、彈正忠藤盛仲、文章
生、内御書所、宮内丞橘元助、中宮御給、監物源清經、一院御給、此外有兩三人京官云々、
678日本@名無史さん:2009/09/29(火) 04:45:49
寛治六年 六月三日
「随申?被書覧也、 」→「随申状被書覧也、」
679日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:02:27
中右記

嘉保元年
三月八日己卯
天晴、今日凶會也、早旦依無女房陪膳参内、源中将、國信、藏人兵部大輔、輔通、治部少輔懐季、參會、共議云、
今日陸奥守源義綱朝臣、随身降人并頭入洛、必可見物者、供御膳後、四人同乘、向二絛末河原邊見物、上下車馬
已如盛、予依命立石大將御車邊、申時許入洛、先頭二、散位平師妙、同男師季、高刺長戟末、付赤小幡、注其姓
名、左右捧長釼、歩兵卅人許相挾、次義綱朝臣着麹塵襖、々々袴、欸冬衣、乘黒馬額白、郎等二百人許、玄甲與雲
連、白刃向日耀、此中降人二人、貞宗、貞房、騎馬相具、行向四絛末、検非違使等請取了、又降人等随申請免給了
由下知云々、請取之後、令持頭於着[金太]者、自四絛烏丸、五絛大宮等大路、梟頭於西獄門前樹上、検非違使大夫尉藤
經仲、衣冠、平貞弘、以下布衣、同爲俊、同貞慶、志宗綱、信良、府生清原忠重、丈部保成等也、先看督長等二行
前行、次頭、次検非違使、以下臈爲先、人々走車馬遮道路、又以見物、或折車軸、或飛烏帽、已多及恥辱者、是雖
不勝感興、還表至愚歟、歸參之後、供内外御膳宿仕、已及深更、頭辨自鳥羽殿、爲御使參入、依可有叙位也者、
夜半許民部卿被參仗座、有臨時叙位、從四位上源朝臣義綱、從四位下藤原朝臣爲房、抑義綱朝臣者、今日搦進
犯人等賞、尤理也、爲房朝臣已未功課者、加級之絛、甚無其謂歟、辨時春日行幸行事賞云々、去年出羽守信明、
欲上洛間、件犯人等、已焼其館、悉盗財寶、守信明爲免其命、逃散山中、不知在處、謀反之甚、何事過之哉、仍可
追討由、下知義綱朝臣了、而彼朝臣不趣任國之前、先爲相尋、遣郎等字別當之處、已切頭了、自餘黨類請降參來、
武勇之威、自滿四海之所致歟、
裏書云
後聞、故頼義朝臣、去康平五年、自陸奥國所斬進貞任頭、請取之時、先召?非違使於陣、頭可請取之由、職事仰下、
仍検非違使等束帯云々、今日儀不然、去夕頭辨以書宣旨下上卿、左府云々、上卿下辨、辨被仰下検非違使也、仍不
束帯歟、其書宣旨詞、至犯人頭者、令検非違使等請取、至降人二人、某、隋義綱朝臣申請、可從原免者、右少辨有
信被談也、

*[金太]→金へんに太
680日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:06:18
中右記

永長元年
十二月十五日
未時許參殿下、付有信内覧文、行事所請奏二文、ョ仲法師庄司季正召進事、以詞申事、
砂金從藏人所先例下給、而近日金不候云々如何、仰云、前陸奥守義家朝臣砂金有未進
云々、早相尋可申者、行事所榮爵事、二三人間可随仰也、早申大殿可左右者、次行向江
中納言亭、沙汰件事、次参内、奏件文則下辨給了、供御膳入夜退出、

承徳元年
閏正月廿七日
今日陸奥臨時交易御馬被相分、給馬寮使右近將曹下毛野近末去年向彼國、令上洛時父
左近將監敦末卒、依遭喪以代官進上云々、解文、左大辨申關白殿、則殿下付藏人辨時
範被奏聞也、・・・
681日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:12:12
>>677-678
有難いが、読めないw

>>671
経清の母親が平国妙の妹で前九年の役で安倍氏の捕虜となり、経清に助けられている。

平師妙・師季親子は平国妙の子と孫と言われているので、まあ清衡与党だろう。

清衡は、陸奥に関しては奥六郡の郡司職や押領史の職務権限があるが、
出羽については何の官職に就いていない。
つまり清衡自身が直接行動できないので、平師妙・師季親子に要請した可能性がある。
682日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:16:33
中右記

承徳二年
正月廿日
朝大盤以後退出、
新藏人縫殿助實光申吉書、予申下内御装束給之、兼被下禁色宣旨、今日有吉書官奏、左大臣被參云々、
是前陸奥守源義家朝臣、依院御気色除目以前濟舊國公事云々、抑除目以前有如此官奏例相尋之處、
藏人時範談云、後冷泉院御時、故美濃守基貞朝臣濟公事時、春除目以前行吉書奏文、一度不堪八通
奏云々、是依上東門院作也、法印良意申慶、是御時僧也、
後聞、先有官奏、權右少辨重賢朝臣候之、吉書三通、
去年國々、
次新藏人申吉書、後下左衞門督、

廿三日
從午時許從内退出、白雪紛々、未時許五絛西洞院小屋焼亡、
今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依濟舊國公事、除目以前被怱行也、件事依有院御気色也、
左大史廣親候奏、

廿六日
今夜前陸奥守義家朝臣被下勘出?解由、今夕宿侍、

廿七日
早旦退出、除目終、依不出仕不能委記、後聞、二ヶ國功課被定、義家朝臣前陸奥、正盛隠岐、

四月二日
有小除目、
中宮亮源高實、權亮源顯通、右馬助兼信、正四位下源義家、

683日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:24:17
嘉保元年  三月八日己卯
「欸冬衣」→「款冬衣」
684日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:33:31
中右記

康和五年
十一月朔日丙子
〈省略:除目が行われる〉、藤基ョ任陸奥守、神社功、〈省略〉

長治元年五月二日
〈省略〉
今夕被行小除目、上卿民部卿、宰相、左大辨、大膳進紀行俊、搦放火者賞、中宮侍、右京進宮道兼政、
齊院侍、搦齊院中竊盗賞、右兵衞佐源顯親、去春除目右佐闕、而誤被任左、今夜被渡右也、同少尉藤
原親兼、齊院侍與兼政功同、但被疵云々、仍被怱任歟、鎭守府將軍藤原基ョ、兼、去春除目任陸奥守也、
大外記師遠後日談云、先例臨時小除目無尻付、今度有尻付、頗違例也、雖有兼字至尻付者不可被付也、
鎭守府將軍者入武官方者、

五月三日
朝間雨下、午時許右衞門督宗、被參衙、下官、右中辨長忠、少納言懐季、時俊參入、上卿被着聽、少
納言時俊外記請印官符、是陸奥守基ョ今日所下向也、件絛事官符怱請印也、事了渡參陣、南所依物
忌不着也、於床子座辨侍直申如例、
上卿着陣奥座、令藏人行盛内文可行之由奏聞、〈省略〉今日内文是陸奥守基ョ兼將軍任符、任符所
史生則元作上、左中辨加判内印
685日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:37:18
承徳二年 廿六日
「被下勘出?解由」→「被下勘出并解由」
686日本@名無史さん:2009/09/29(火) 05:41:46
中右記

天仁元年
十一月十日
入夜参内、是依悠紀主基國司除目也、參殿下御直廬、聊有被仰下旨、頭爲房爲御使往反、民部卿、右衞門督、
皇后宮權大夫、予、別當、左大辨、藤宰相參集、此間有定、是陸奥國司基ョ申請絛事等也、一々可有裁許之由
僉議、左大辨書定文、

十二月卅日
陸奥守基ョ蒙重任宣旨也、殊近代不見、但橘爲仲延任云々、此外不見歟、就中基ョ去年秋上道了、近有此恩、
可謂不次之賞歟、

天永二年
正月廿一日
除目中夜也、仍酉刻許参内、〈中略〉有僉議、史巡第一者正基逢季仲帥事、而法家勘文未切事如何、第二者良
俊行向陸奥國清平許如何、人人定申云、正基猶本罪不被決、忽難賞歟、此中別當一人被申云、逢度々恩赦免
給、何事之有乎、史第二者、左宰相中將被申云、五位以上出畿外有制事也、何況行向遠國哉、仍三四者可被
成歟、予申云、件良俊背國家從清平者、尤可有其咎也、但白地下向、則馳上之由有風聞、凡外記史敍爵之後、
爲受領執鞭趣遠國、巡年之時參上關其賞、近代之作法也、良俊早被參上者、何不成哉、人々多同予定、〈略〉

687日本@名無史さん:2009/09/29(火) 17:45:04
>>677-686
全部現代語訳してくれ!
読めん!
688日本@名無史さん:2009/09/29(火) 17:57:24
>>681
清衡は出羽横領使も兼ねている
鎌倉軍が平泉に入って押収した中には出羽の田文があったという

689日本@名無史さん:2009/09/29(火) 18:47:36
>清衡は出羽横領使も兼ねている

そんな記録は無いですよ。

>鎌倉軍が平泉に入って押収した中には出羽の田文があったという

それって清衡が勝手に権限も無いのに出羽で王地押領した証拠じゃね?
そんなんだから、親戚の平師妙・師季親子に頼んで出羽国司と戦争する羽目になる。
690日本@名無史さん:2009/09/30(水) 02:46:56
>>668
>清衡とは海道平氏は、敵対関係のはずで、成衡は、真衡の養子になったんだから、
>清衡の代に海道平氏が、傘下に収まったとは思えない。


海道小太郎成衡が清原氏の婿養子になったからといって、(成衡の)実家である海道平氏と清衡が、敵対関係にあるとは必ずしもならないのでは?
海道平氏の中にもいろいろな立場の者がいた可能性だってありうるわけだし。
その清原氏は後三年役で滅んだわけだが、
真衡と清衡・家衡連合軍が戦った時、成衡実家の海道平氏が真衡側について戦ったという記録でもあるの?

俺は、豪族なんていうのは常にリアリズムの世界に生きているわけで、周辺豪族の力関係が変わったら、柔軟にそれに合わせて自分の家が生きる道を決めるものだと思う。
だから、清原氏滅亡後、比較的早い時期に海道平氏が清衡についた(同盟関係になった)ということがあったとしてもそれほど不思議には感じないな。
691日本@名無史さん:2009/09/30(水) 04:45:53
問題はさ、後三年の役が終わったからと言っても清衡がそんなにあっさり成衡を信じるかって事。

奥六郡と仙北三郡は良いとして、それ以外は清衡が手出ししたら陸奥や出羽の国司と
戦争だし、そうなれば海道平氏だってそれに乗じて清衡を攻撃するかもしれないジャン。

清衡も成衡も双方良くは思っていないんだから。

それに後三年の役が終わり、義家が都に召喚されても奥羽には火種が残っているんじゃね?
旧清原系の豪族達、特に吉岡秀武が、すんなり清衡に従ったのか?
新国司の藤原基家と清衡の関係は?出羽国司との関係は?課題山積み。

>成衡実家の海道平氏が真衡側について戦ったという記録でもあるの?

成衡の嫁は頼義の娘だヨw マジで。
成衡の清原宗家養子話は、真衡だけでなく清和源氏の意向でもある。
692日本@名無史さん:2009/09/30(水) 05:09:47
>特に吉岡秀武×
>特に吉彦秀武○
693日本@名無史さん:2009/09/30(水) 06:22:40
>>691
>問題はさ、後三年の役が終わったからと言っても清衡がそんなにあっさり成衡を信じるかって事

いや、>>668で言っているのは成衡なんかじゃなくて、成衡の実家の海道平氏と清衡との関係だろ?
成衡は他家(清原家)に養子に行っちゃったんだからさ。
それとは別に陸奥海道地方に海道平氏自体はあい変わらず一大勢力とした存在してるわけだから。
その海道平氏と奥州藤原初代となった清衡との関係はどうなったのかってことだっただろ?
成衡なんて最悪、海道平氏にとって一門の存続に都合が悪くなった時点でトカゲの尻尾切り状態にでもあわすんじゃないの?。
だから清原氏内紛の最終的勝者となった時点で、清衡にとっても成衡なんてどうでもいい存在だと思うよ。

>成衡の嫁は頼義の娘だヨw マジで。
>成衡の清原宗家養子話は、真衡だけでなく清和源氏の意向でもある

清和源氏全体の意向を酌んでるなら、何故その代表者である義家は成衡を見捨てて清衡に与しちゃうの?
694日本@名無史さん:2009/09/30(水) 08:47:26
そもそも、義家が成衡や家衡でなく、清衡に奥州を任せることになった経緯が理解出来ないのだけど。
後三年の役の5年後に出羽に手を出すような奴に任せて良いのかと思うが。
695日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:03:41
決まってるじゃん。義家は負い目のある清原氏が嫌いなんだよ。
696日本@名無史さん:2009/09/30(水) 21:32:25
>成衡なんて最悪、海道平氏にとって一門の存続に都合が悪くなった時点で
>トカゲの尻尾切り状態にでもあわすんじゃないの?。

そんなにコロコロ立場を変える現金な連中を信用するほど、清衡は馬鹿じゃないと思う。

>だから清原氏内紛の最終的勝者となった時点で、清衡にとっても成衡なんてどうでもいい存在だと思うよ。

義家が身柄を引き取り、下野で暮らしているよ、最後は誰かに打たれた見たいだけど。
それに清衡は、最終的勝利者というよりは、他の兄弟が自滅してタナから牡丹餅的に
奥六郡や仙北三郡を手中に収めた感じ。勝ち取ったというより生き残ったのでは?

>清和源氏全体の意向を酌んでるなら、何故その代表者である義家は成衡を見捨てて清衡に与しちゃうの?

義家は、成衡見捨てていないけど、清原氏の跡継ぎにするのは失敗したって事。
後三年の役終了の時点で、義家は白河法皇に目をつけられて京へ召喚されている。
義家は、陸奥国司でもなくなり、権限が無くて奥六郡や仙北三郡をどうする事も出来ない状態。

もともと成衡は、真衡の養子なので、真衡が死んでしまうと成衡の立場は宙ぶらりん、
それに後三年の役を見ると家衡が先に清衡の親族を皆殺しにして、義家を怒らしている。
それで家衡攻撃の軍を義家が起こしている事を見ると、清衡を特別支持していると言うよりは、
家衡が先に手を出したので、義家が反撃しただけのような感じがする。

>後三年の役の5年後に出羽に手を出すような奴に任せて良いのかと思うが。

逆に清衡は5年間も何していたのかな?と思う。
安倍氏の血を引く清衡なら奥六郡の施政権を引継ぐのは問題ないと思うけど、
仙北三郡は、清原系の豪族が居て吉彦氏や橘氏、吉美侯部氏などがすんなり
清衡に従ったのか?彼らの動向の為に清衡は、直ぐに南下政策を取れなかった
可能性も考えてみた方が良いのかも知れない。
697日本@名無史さん:2009/10/01(木) 07:20:17
>>696
>そんなにコロコロ立場を変える現金な連中を信用するほど、清衡は馬鹿じゃないと思う
周囲のパラダイムの変化によって立場を変えることを「現金」というのなら、
豪族ってものは古今東西「現金」なものだよ。
>>690の繰り返しになるが、
成衡は海道平氏出身者の一人にすぎず、しかもその家を出て行ってしまってるわけで、海道平氏にしてみたらその成衡が駄目になったからといって御家もろとも成衡と心中する気なんてさらさらないだろ。
どこの家にとっても御家を守るということが一番大事なわけだから。

>義家が身柄を引き取り、下野で暮らしているよ、最後は誰かに打たれた見たいだけど。

義家の命によって中郡頼経に討たせているんでしょ。
もっとも成衡下野逃亡説は数ある説の一つに過ぎないわけだが。

698697つづき:2009/10/01(木) 07:48:55
>>696
>それに清衡は、最終的勝利者というよりは、他の兄弟が自滅してタナから牡丹餅的に
>奥六郡や仙北三郡を手中に収めた感じ。勝ち取ったというより生き残ったのでは?

どんな形態であれ清原一門での「最終的勝者」であることに違いはないだろ。
それに清衡は自軍を率いて戦っているわけだから、決して「棚ぼた」というわけではないだろう。

>義家は、成衡見捨てていないけど、清原氏の跡継ぎにするのは失敗したって事。
>後三年の役終了の時点で、義家は白河法皇に目をつけられて京へ召喚されている。
>義家は、陸奥国司でもなくなり、権限が無くて奥六郡や仙北三郡をどうする事も出来ない状態。
>もともと成衡は、真衡の養子なので、真衡が死んでしまうと成衡の立場は宙ぶらりん

おいおい、時系列を無視するなよ。
義家が陸奥守を解任されるのは1088年正月のことで、
1083年に真衡が急死した時点では義家はまだ陸奥守になって間もない状態。
>>691でのあなたの主張によると、成衡を清原氏当主にするのは
「清和源氏の意向」
でもあるんでしょ?
だったら義家にはそのための時間はまだたっぷり残っている状態になるわけだが?
699698つづき:2009/10/01(木) 08:01:55
>それに後三年の役を見ると家衡が先に清衡の親族を皆殺しにして、義家を怒らしている。
>それで家衡攻撃の軍を義家が起こしている事を見ると、清衡を特別支持していると言うよりは、
>家衡が先に手を出したので、義家が反撃しただけのような感じがする。


それは話がアベコベだよ。
一般的な見解として、奥六郡分割相続の時に義家が家衡に不利な裁定をして、それで家衡がブチ切れたというのがあるでしょ。
そして、それが義家の狙いでもあったと。
つまり義家による清原氏の弱体化工作の一環。
700日本@名無史さん:2009/10/01(木) 08:29:44
結論を言うと義家は元々清原氏を滅亡させる算段を持っていたと思う。
成衡がどうたらとかではなくて。
義家のやり方を見ると、古来以来支配の方法として言われている
「分割して統治せよ」
を清原氏一族に対して実行している。
そして分割したあとは各個撃破。
最終的には清衡までをもブチ殺す予定だったがそれは“時間切れ“で失敗したと。

701日本@名無史さん:2009/10/01(木) 17:47:51
>おいおい、時系列を無視するなよ。
>義家が陸奥守を解任されるのは1088年正月のことで、
>1083年に真衡が急死した時点では義家はまだ陸奥守になって間もない状態。

83年から87年12月まではズーット戦闘中だろ、跡継ぎを決める状態ではない。
さて跡継ぎを誰にするか、清衡をどうやって始末するかの算段をし始めた途端に、
正月に解任されてしまい、義家は何も出来なかった。

>一般的な見解として、奥六郡分割相続の時に義家が家衡に不利な裁定をして、
>それで家衡がブチ切れたというのがあるでしょ。

家衡は、仙北三郡と奥六郡の北三郡を貰っているので、特別不利でもないんだけど、
戦争になったのだから、家衡は不満だったんだろう、
家衡は、仙北三郡と奥六郡全部を貰うつもりだったんだろう。

>そして分割したあとは各個撃破。
>最終的には清衡までをもブチ殺す予定だったがそれは“時間切れ“で失敗したと。

それは古来の蝦夷政策だけど、それが朝廷からの命令と言うよりも清和源氏の計画だろ、
それをやられると奥羽が源氏の勢力下に入り白河法皇としてはシビリアンコントロールが効かなくなると言う事だろ。
皇室もそこまでドジではないという事、後三年の役以後は、平氏の方が都では活躍しているし。

延久蝦夷合戦では、事実上、鎮守府将軍の清原真衡がやったようなもの、
陸奥国司の源頼俊は、何もしていないし、朝廷は清原氏を完全には蝦夷扱いはしていない。
血統的には蝦夷系の安倍氏と違い、清原氏は和人系。
702日本@名無史さん:2009/10/02(金) 06:46:47
>>701
>83年から87年12月まではズーット戦闘中だろ、跡継ぎを決める状態ではない。
>さて跡継ぎを誰にするか、清衡をどうやって始末するかの算段をし始めた途端に、
>正月に解任されてしまい、義家は何も出来なかった


・養子成衡の「頼義娘」との婚礼、
・真衡の吉彦秀武攻め、
・秀武に同心した清衡・家衡連合による真衡攻撃、
・義家の陸奥守赴任、
・真衡急死、
・清衡・家衡連合軍の真衡方攻め、
・義家の故真衡方に見方しての参戦、
・清衡・家衡の降伏、
・義家による奥六郡分割措置

これぜ〜んぶ1083年の夏〜秋のごく短期間に起こったことだよ。
つぎに戦闘が起こるのは1086年9月の家衡による清衡館襲撃。
つまり、義家には丸3年間も成衡擁立のための時間があることになるんだが?

自身の「妹」を妻に持つ成衡を清原家当主の座に据えることが「清和源氏(義家)の意向」(>>691)なんだろ?
だったら真衡突然死という願ってもない事態が義家には転がり込んできたことになるわけで、まさに義家にとっては「棚ぼた」状態ではないか!
なのに何故義家は成衡擁立工作を強く推し進めないの?
代わりに義家がしたことはといえば、家衡に不利な裁定を下して清原一門の内部分裂を誘うという工作だ。
こんなことをやらなきゃ家衡も3年後に挙兵なんてことは無かったかもしれないのにだ。
703702つづき:2009/10/02(金) 07:26:36
>>701
>家衡は、仙北三郡と奥六郡の北三郡を貰っているので、特別不利でもないんだけど、
>戦争になったのだから、家衡は不満だったんだろう、

家衡が仙北三郡全体を領してた?まさか!
常識で考えて家衡が有してたのは、沼の柵とその周辺地域だけだろう。
仙北三郡は清原氏にとってはいわばその墳墓の地、
自分以外の清原一門の家臣化を進めていた当主・真衡がそんな三郡全てを家衡一人に与えるわけがない。


>それは古来の蝦夷政策だけど、それが朝廷からの命令と言うよりも清和源氏の計画だ

「朝廷からの命令」なんて俺は一言も言っていないが?
ちゃんと
>義家による清原氏の弱体化工作の一環(>>699)と述べている。
義家はこの戦いで、朝廷からの追討官符を得ないまま戦かって、あとで事後承認を求めているが失敗している。
その上朝廷からは「私戦」とみなされて、昇進はできないわ、次の赴任先は得られないわ、さらに追い打ちをかけるように、陸奥守在任中の未納だった官物の支払いはず〜っと催促されつづけられるはで散々な目に合っている(自業自得だが)。

それと

>古来の蝦夷政策

というのもちょっと微妙、というか大雑把すぎる言い分だ。
この時代になってくると
704703尻切れつづき:2009/10/02(金) 07:32:09
この時代になってくると、
朝廷にとって大事なことは、相手が「蝦夷」であろうがなかろうが、奥羽の特産品などの貢物が滞りなく都に届けられるかどうかということに重点がシフトしている。
705704つづき:2009/10/02(金) 08:01:28
>>701
> 延久蝦夷合戦では、事実上、鎮守府将軍の清原真衡がやったようなもの、

真衡(貞衡)が鎮守府将軍に任命されるのは合戦終結後のことだろ。

>朝廷は清原氏を完全には蝦夷扱いはしていない。

ココ詳細に!


>血統的には蝦夷系の安倍氏と違い、清原氏は和人系

俺はこれまでにも再三述べてきているが、
奥六郡安倍氏には、陸奥権守就任の記録があること、
五位貴族につけられる尊称である「大夫」との記述があることなどから、清原氏同様に中央官人系である可能性が十分あるとみている。
また奥州藤原氏は、
初代清衡の母が安倍氏、
三代秀衡に至っては、曾祖母と母の二代にも渡って安倍氏の血が入っているにも関わらず、藤原四代の遺体調査では藤原氏の身体に蝦夷(アイヌ)の特徴を有するものは認められなかったという事実は、上の安倍氏中央官人説=非蝦夷説を更に補強する。
706日本@名無史さん:2009/10/02(金) 12:36:20
安倍と言う姓は、和人系の姓だが、だからと言って血統まで中央官人かね、
蝦夷でも権守に任命されるし、「大夫」の尊称貰えるんじゃないの?
>>704のように仕事さえすれば蝦夷でも良いなら、公職に就かせるんじゃね?

「今昔物語」で外国に逃げたとか、北方蝦夷と同族で連係した反乱を疑われたとか、どうみても安倍氏は蝦夷。
前九年の時に北方三郡の蝦夷の首領の安倍富忠は、安倍頼時と近い同族関係を推察されている。
この安倍富忠はどうみても蝦夷で、これらの関係を考えれば奥州安倍氏は、中央官人血統とはとてもいえない。

奥州藤原氏には、アイヌの特徴は無いだろ、当然。
清衡だって母方が蝦夷と言うだけで、それ以降はドンドン蝦夷の血が薄くなる。
基衡は、宗任の娘と結婚するわけだが、その娘の母が蝦夷とは限らない。

奥州安倍氏自体が、アイヌかどうかも不明、蝦夷=アイヌとは言えない。
707日本@名無史さん:2009/10/02(金) 13:04:31
1018年 陸奥国司 藤原貞仲と鎮守府将軍 平維良が、税金の徴収や蝦夷との貿易を巡り合戦

   同年 陸奥国司 藤原貞仲の要請により平維良は、鎮守府将軍職を解任される(陸奥国司 藤原貞仲は、鎮守府将軍職廃止も要請)

1019年 平永盛が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を再要請)

1025年 藤原頼行が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を再々要請)

1027年 陸奥国司の度重なる要請により鎮守府将軍が正式に廃止、朝廷は奥六郡を放棄を決定

1036年 陸奥権守に安倍頼良の父 忠良(忠好)が任命される

1051年 陸奥国司 藤原登任と秋田城介 平重成の数千の兵が、鬼切部で安倍頼良の部隊と衝突、藤原登任と平重成は大敗する。
      (鬼切部の戦い)
708日本@名無史さん:2009/10/03(土) 02:49:28
>>706
>蝦夷でも権守に任命されるし、「大夫」の尊称貰えるんじゃないの?

だから「じゃないの?」じゃなくて具体例を頼むよ。

>仕事さえすれば蝦夷でも良いなら、公職に就かせるんじゃね?

その「公職」がどの程度の地位の「公職」なのかが問題なんだろう。
陸奥権守という地位にまで蝦夷をつかせた例が他にあるのか?


>今昔物語」で外国に逃げたとか、北方蝦夷と同族で連係した反乱を疑われたとか、どうみても安倍氏は蝦夷

いやだから
「どうみても」
とか、
(同じ今昔物語集の同じ箇所を引き合いにして)「とても安倍氏は倭人とは思えない」(>>535
とかの主観はいいから。
所詮はお伽噺の類いに過ぎない説話集をすぐに引き合いに持ち出してくるが、説話集は良くて、同時代史料は駄目との根拠は何なのよ?
709708つづき:2009/10/03(土) 03:07:06
>>706
それにしても議論が>>705程度のところまで進むと、決まって次には
説話集に過ぎない『今昔〜』が出てきて、
「どうみても」とか「とても思えない」など感情論全開のレスがつくがw、
どうしても『今昔物語集』を引き合いに出したいなら、
同説話集には
「今昔、陸奥の国に、安部の頼時と云うつわものありけり。其の国の奥に夷と云うものありて」

安部氏と俘囚とが別物として描かれている箇所が存在することも指摘しないと不公平になるよ。

710709つづき:2009/10/03(土) 03:24:15
>>706
>前九年の時に北方三郡の蝦夷の首領の安倍富忠は、安倍頼時と近い同族関係を推察されている。
>この安倍富忠はどうみても蝦夷で、これらの関係を考えれば奥州安倍氏は、中央官人血統とはとてもいえない

また、「どうみても〜」と「とてもいえない」かーw
富忠がどう蝦夷に決まってて中央官人系ではあり得ないのかの具体的論拠を頼むよ。主観じゃなくね。

711710つづき:2009/10/03(土) 04:04:20
>>706
>奥州藤原氏には、アイヌの特徴は無いだろ、当然。
>清衡だって母方が蝦夷と言うだけで、それ以降はドンドン蝦夷の血が薄くなる。
>基衡は、宗任の娘と結婚するわけだが、その娘の母が蝦夷とは限らない。

>奥州安倍氏自体が、アイヌかどうかも不明、蝦夷=アイヌとは言えない。


これまで、さんざん奥六郡安倍氏は蝦夷だと主張してきているのに(否、決めつけてきているのにと言うべきかw)、
その安倍氏の血を濃く受け継いでいる藤原氏にアイヌの特徴は認められなかったという調査結果の話が出ると
こんどは蝦夷≠アイヌ説できましたかw

ではあなたに尋ねたいのだけど、そもそもあなたの考える「蝦夷」とは何なの?
「和人」との身体的特徴の違いも認められず、受領任官の経歴が有り、「大夫」の称号を有し・・・
そんな安倍氏なのにも関わらず、
清原氏や藤原氏と違い、
頑なに
「それでも安倍氏は蝦夷ったら蝦夷なの〜」と安倍氏蝦夷説に固執する理由と併せて是非おしえてよ。

「『今昔物語』にそう書いてあるから」ですか?
712日本@名無史さん:2009/10/03(土) 20:25:35
つうか、一体どのメルクマールを使っているのかワケワカランから、
話が混乱するんだよ。

1、人種形質
2、言語
3、文化形態(1と2以外の)

実は、12世紀の段階では、すでに奥六郡において、
1と2では、すでに現在の宮城と岩手程度の差になっていていたと見て良い。
奥州藤原氏が、全く通じない「夷語」を話すという話も無ければ、
ミイラの人類学的分析では、現在の東北人とほとんど違わないという結果も出ている。
問題は3だけなんだ。

ここで重要なのは、アテルイやモレの段階では、
明らかな首長制の部族社会を示していた東北北部が、
奥州藤原氏のころはもちろん、安倍氏・清原氏のあたりになると、
すでに、関東あたりと同じような、再構成された封建社会の萌芽の状態になっていて、
坂上田村麻呂の遠征と、前九年合戦の間に、
蝦夷社会は、完全に組み変わったように見える。
組み変わった後の社会で、安倍氏は蝦夷だの大和だの言っても、
すでにムラビト全員の血統が部族で測れる様な部族制ではなく、
単なる由緒の問題なのだから、議論しても無駄のような気がするけどね。
713日本@名無史さん:2009/10/03(土) 21:02:32
昔、“かい しのぶ”っていうモデル?女優?がいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%B6

誕生日:1972(昭和47)年09月01日
出身地:青森県三沢市  
血液型:O型  
本 名:阿部 綾子    
学 歴:    
所 属:クリエイト・エッセ→ウイント
備 考:1993年、テイジン水着キャンペーンガール 同年、大磯ロングビーチキャンペーンガール  
T171.B84.W59.H87.50K(1993)

だけど、顔見るとマジで外人顔なんだな、ラテン人というか何と言うか。
苗字も阿部氏だし、出身地も青森県三沢市だし、安倍富忠と関係あるのかね?
http://005.harikonotora.net/90/read/97/
714日本@名無史さん:2009/10/03(土) 21:15:19
715日本@名無史さん:2009/10/03(土) 21:40:48
>>708
アテルイもモレもアザ麻呂も〜〜公の称号があるだろ。
蝦夷だが朝廷に帰属し、称号を貰っている。

>>710
>富忠がどう蝦夷に決まってて中央官人系ではあり得ないのかの具体的論拠を頼むよ。主観じゃなくね。

そんなら安倍富忠が中央官人血統である論拠出せば?

>>711
>「『今昔物語』にそう書いてあるから」ですか?
今昔物語を否定する論拠出してよ。

出羽清原氏は、俘囚主
奥州安倍氏は、俘囚之長 酋長
716日本@名無史さん:2009/10/03(土) 22:18:38
昔、"あべ しんたろう"っていう政治家がいた。
誕生日:1924(大正13)年04月29日
出身地:東京市四谷区  
血液型:A型  
本 名:安倍 晋太郎    
学 歴:東京帝国大学法学部卒    
所 属:自由民主党
備 考:第112-113代外務大臣
第42代通商産業大臣
第41代内閣官房長官他
衆議院議員 当選回数 11期
任期 1958年-1991年  
T180.B?.W?.H?

だけど、顔見るとマジで朝鮮顔なんだな、ツングース人というか何と言うか。
苗字も安倍氏だし、遠祖の出身地は奥六郡というし、安倍宗任と関係あるのかね?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E
717日本@名無史さん:2009/10/04(日) 01:21:10
>>713
三陸の方には日焼けしてない時ヨーロッパ人で
日焼けすると中東人みたいなの今現在いっぱいいるよ
岩手県気仙郡から宮城県雄勝郡まではケセンという国だった
そこの人たちは海道夷とよばれアテルイが負けて内陸部が征服された後も朝廷に反抗し続けた
最後に征服されたのが気仙郡であるから名前が残ってる
気仙郡の隣の本吉郡には気仙沼市があるしね
オレ自身イタリア人並みに掘りの深い顔してるよ
アイヌは小柄だそうだけど蝦夷系は、いはゆる和人より比較的大柄で力は強い
街中では見かけること少ないかもしれないけど船乗りとか漁師には蝦夷系いっぱいいる

>>716
現代日本人は縄文人(日本先住民)と弥生人(朝鮮半島からの渡来人)の混血と言われているから
そういう意味での朝鮮だと思うよ
在日朝鮮とは違う意味だと思う
蝦夷系は縄文人の血が濃いはず
蝦夷だろうと和人だろうと少なからず混血していて純粋は居ないと思う
だから「和」という言葉が使われたんじゃないの
九州にも掘りの深い人いるじゃん
逆に関東とか近畿とか四国は、あきらかに朝鮮人(弥生人)の血が濃い人が多いわな
718日本@名無史さん:2009/10/04(日) 02:48:51
>>716>>717
安倍晋三は、ちょっとホリが深いけどね、
安倍首相のや米内光政は、安倍氏の血縁と言われてるね。
特に安倍首相は、安倍宗任の子孫だと言われている。

ウィキ見ると
「2006年9月には、『週刊朝日』(10月6日付)で晋太郎の家の元家政婦が
晋太郎が生前、 自ら「私は朝鮮(人)だ。朝鮮」と言っており・・・・・」
って有るけど何これ?

統一教会がらみ?
719日本@名無史さん:2009/10/04(日) 03:30:57
藤原三代は彫り深くないね
720日本@名無史さん:2009/10/04(日) 03:41:25
>>718
安倍晋三に至るまでに、1/2^nに血が薄まっていると思っているんだ?
安倍氏が蝦夷起源だなんて言ったって、何十代も前の話なんだぞ。
しかも、長州(山口県)という、土井が浜弥生人以来、
弥生系の血が全国でも最強という、「純粋弥生系の土地」に土着していたわけでw
(実際に、山口県に顔の濃い人はほとんどいない。九州と比べて際立つ。
長州藩士の顔の薄さは、ドイツ人医師のベルツも気づいていた)

ぶっちゃけ、人種形質は、現在とあまり変わらん可能性がきわめて高いよ。
ただ、実際に奥六郡ではなく平泉付近を見ると思うんだが、
坂上田村麻呂は、本当に殲滅戦を行ったように見える。
伊達・南部藩境で、住民の顔立ちが変わる(伊達側はあの仙台と同じく○スの産地)
と言われるが、この起源はもっと古いのかもしれない。
721日本@名無史さん:2009/10/04(日) 04:52:07
山口には中世以降の大陸人が結構来ていたのではないか。
大内が直接冊封交易してた国だし

確か長州藩には江戸帰化系の藩御家人とかもいたと思うけど。
722日本@名無史さん:2009/10/04(日) 09:11:57
源頼朝は、朝廷が蝦夷と認識していた奥州藤原氏を征伐したから、
征夷大将軍になったんでしょ?


723日本@名無史さん:2009/10/04(日) 10:34:52
源義仲は、畿内人が東夷と認識していた関東武士の首領頼朝を征伐しようと思ったから、
征夷大将軍になったんだよ。
724日本@名無史さん:2009/10/04(日) 12:34:32
>>715
>アテルイもモレもアザ麻呂も〜〜公の称号があるだろ。
>蝦夷だが朝廷に帰属し、称号を貰っている。

前九年の役の時代よりも3世紀も前の事例だねぇ。
なるほど例に上げている3人は「公」のカバネを有しているし、伊治公呰麻呂に至っては外従五位下に叙されてもいる。
しかしそれ、いわゆる「蝦夷爵」と呼ばれるものだよ。
ただの「従五位下」ではなくて「外従五位下」みたいに最初に「外」の字が付くのを蝦夷爵と言うの。
しかも「公」のカバネは8c後半〜9c初頭の蝦夷や隼人の族長クラスに付与されたカバネだ(8c前半以前だと「君」姓が蝦夷や隼人の族長クラスに付与された)。
つまり、見ればちゃんと「蝦夷」と分かるようにカバネも位階もあたえているの。

それで陸奥守クラスほどの地位に蝦夷の者を任命した例は?

725724つづき:2009/10/04(日) 12:52:35
>>715
>そんなら安倍富忠が中央官人血統である論拠出せば?


俺が先に訊いてんだよ。
まずはそれに答えろよ。
俺への質問はそのあとにするのが礼儀ってもんだろ?

>今昔物語を否定する論拠出してよ。


お前学問板で本気でお伽噺の類いを『範国記』等の記録よりも歴史史料として上位に置いているの?


>出羽清原氏は、俘囚主
奥州安倍氏は、俘囚之長 酋長


なんだ?
お前は安倍氏に限らず清原氏も(そしてたぶん奥州藤原氏も全部まとめて)蝦夷扱いにしているヤツだったのか?
それとも旗色が変わる度に立ち位置をコロコロ変えでもしている輩なのか?
726日本@名無史さん:2009/10/04(日) 15:27:17
まあ、そう熱くなるな
727日本@名無史さん:2009/10/04(日) 17:58:54
>>725
>俺が先に訊いてんだよ。
>まずはそれに答えろよ。
>俺への質問はそのあとにするのが礼儀ってもんだろ?

は?朝鮮なまりが邪魔で聞こえないんです。
もう一度お願い致します。

何時までも一人でいないで早く誰かと結婚してください。
邪魔で仕方ありませんw

俘囚主=俘囚之長&酋長 ×

中央官人→俘囚主
蝦夷富豪→俘囚之長&酋長

俘囚主<俘囚之長&酋長?

俘囚主>俘囚之長&酋長?
728日本@名無史さん:2009/10/04(日) 18:06:13
蝦夷って言葉は侮辱的な意味合いも強いからなぁ。
東北に住んでる人間を見下したり、侮辱する時には
例え完全に和人であっても蝦夷と呼ぶ事もあっただろうなぁ。
東北は熊襲の産地、文化的程度も極めて低いとか。
729日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:00:38
おいおい
東北に和人じゃないやつが住んでかのかよ?
730日本@名無史さん:2009/10/04(日) 21:21:15
>>728
「東北は熊襲の産地」は東北人はもとより、熊襲の産地(九州)の方々にも失礼です。
っていうか、無知をさらけ出し過ぎ。
731日本@名無史さん:2009/10/04(日) 22:02:09
>>730
無知はお前だ。
サントリーの東北熊襲発言も知らないのか。
732日本@名無史さん:2009/10/04(日) 22:45:50
>>731
もちろん知ってて書いてるんだが?
733日本@名無史さん:2009/10/04(日) 22:51:45
>>732
ああ、そりゃすまんかった。
734日本@名無史さん:2009/10/04(日) 23:13:13
>>731=>>733

コイツ(>>727=>>730=>>732他)は、
いつも『今昔〜』を持ち出しては

「(安倍氏は蝦夷としか)おもえない」、「安倍氏はどうみても(蝦夷)」との決めつけレス

→何が「どう」なのかの説明は一切無し

→つづいて「蝦夷年表」のレス投下(笑)→

突っ込まれて答えられなくなると荒し逃げ

→ほとぼりがさめた(と本人が判断した)頃に再び湧いてきて、
「今昔〜」、「どうみても」、「蝦夷年表」の繰り返し。


キチガイだから相手すんな。
735日本@名無史さん:2009/10/05(月) 00:53:57
↑お前も安倍氏中央官人説を説明してみろバ〜カ!
736日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:37:31
>>735
とっくに何度も述べてますよ〜んw( ^ω^)

なんならレスでも抽出してやろうか?

ま、それをやったらやったでまた

「朝鮮語なのでわっかりませ〜ん!」(笑)

とでも返してくるんだろうが。



にしても、いいブッ壊れぶりだなw
737日本@名無史さん:2009/10/05(月) 01:44:10
清原氏に関しては、もし成衡の家督継承が成功していたなら、
血統的には蝦夷と呼ばれることは無くなっていたはずなんだよね。

後は、奥州藤原氏がやったように神社仏閣建てて、
都の坊主でも連れてくれば、蔑まれることもなかったんだろうな。
738日本@名無史さん:2009/10/05(月) 02:34:05
藤氏諸大夫の一員の奥州藤原氏であっても摂関家から見た蝦夷あつかい
739日本@名無史さん:2009/10/05(月) 02:40:13
関西のサルに蝦夷とよばれるのが何だ
そんなに大和朝廷が好きなの?
740日本@名無史さん:2009/10/05(月) 03:19:51
二品頼朝だって夷狄
741日本@名無史さん:2009/10/05(月) 08:39:29
>>736
奥州阿部氏が、蝦夷として扱われているのは、戦争の名前を見ればわかる話。

「戦い」や「合戦」は一つの場所で短期間行った争いのこと
「乱」は国内で行われた内戦に当たる争い
「変」は主に政治における争い(政変)
「役」は対外戦争
「寇」は海外からの侵略と取られた場合に付けられる。
「事件」は暴動やテロなどの武力を伴った武力衝突。

前九年の役や後三年の役は、立派な対外戦争。

こんな事もわからんのが、アホ、ゴミ、死ね!
742日本@名無史さん:2009/10/05(月) 08:42:34
>>725
>俺への質問はそのあとにするのが礼儀ってもんだろ?

お前みたいなゴミに礼儀は必要ない
今すぐ死ね!ゴミなんだから、お前の死体はそのままで焼却処分、

葬式もやる必要はない、ゴミなんだからw
743日本@名無史さん:2009/10/05(月) 12:43:25
>>741
別に外国との戦争だけを役と呼ぶわけじゃないぞ。
関ヶ原の戦いだって、昔は関ヶ原の役って呼んでたし
大坂冬の陣と大坂夏の陣を合わせて大阪の役と呼ぶしな。
近代になって合戦とか、戦いとか、陣とかに置き換えられていっただけだ。
西南戦争だって西南の役とも呼ぶじゃん。
744日本@名無史さん:2009/10/05(月) 14:05:03
でも役といったら討伐の意味合いふがああるのではにか

大阪の役は徳川による大坂方の討伐だし
関ヶ原の役は微妙だが、豊臣側による徳川征伐を失敗したとみなすのが妥当だろう

なお視聴者の皆様には一部読みづらい箇所のあった点をお詫びいたしします。
745日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:40:31
視聴者ワロタw
746日本@名無史さん:2009/10/05(月) 22:47:19
役は遠征じゃねーか
747日本@名無史さん:2009/10/06(火) 06:43:02
>>741
>奥州阿部氏が、蝦夷として扱われているのは、戦争の名前を見ればわかる話

あとでその理由について述べていくけど
名称ではわからないよ。

>「戦い」や「合戦」は一つの場所で短期間行った争いのこと

短期間?
「前九年の役」は元来は「奥州十二年合戦」と呼称されていたのだが・・・
「十二年」とはやけに長〜い「短期間」だなw

>「乱」は国内で行われた内戦に当たる争い
(※中略※)
>「役」は対外戦争

また>>559のループ?

これについては>>743氏の述べている通り。
それに加えて、
明白な対蝦夷戦争であるはずの
宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)、元慶の乱、天慶の乱は、
お前の主張(=独断と偏見)の通りなら、「〜乱」ではなく、それぞれ
「宝亀の役」「元慶の役」「天慶の役」と呼称されるはずだが何故そうはなっていない?
これだと、
安倍氏・清原氏は蝦夷扱いで、伊治呰麻呂以下の蝦夷は和人扱いということなるが?
さらに、上で述べたように前九年の役は、
その本来の名称は「奥州十二年合戦」なのだが、
「対外戦争」を「役」と表現するのだとしたら、なぜ最初から「奥州十二年の『役』」とは呼称されないのだ?
「蝦夷」である安倍氏は「外国人扱い」なんだろ?
748日本@名無史さん:2009/10/06(火) 06:44:30
>>741
>こんな事もわからんのが、アホ、ゴミ、死ね!





何才?
749日本@名無史さん:2009/10/06(火) 06:48:13
>>742
お前のその手の“キレ逃げ”にはもう飽きた。
750日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:00:54
>>747
で述べた
「ループ」については
(>>559>>563>>571を参照)
751日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:02:10
マジレスするなら、
その時々の歴史解釈者のプロパガンダが
言葉を作ってるんじゃないかな

俺は太平洋戦争も昭和戦争海の役と陸の役でいいと思うんだが。
752日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:04:31
中右記

保安元年
六月十七日
検非違使有貞爲別當使來、一日兼元丸加申状勘問記被送也、件子細付有貞示了、是去七日
殿下御厩舎人兼友相具清衡使來申也、大驚付使廳所尋搦兼元丸也、件兼元先年爲小泉庄定
使之間、取清衡金馬檀紙等者也、所爲之宗已爲大盗也、

廿四日
巳時訪參院并一絛殿、午後歸家、於院對面別當之次、彼兼元去年冬竊下向小泉庄、推取種々
物之由所傳承也、仍遣尋了、然者爲赦後犯歟、但尋實否之間暫不可有優免之由、相示之處、
被答云、承了、件男所爲甚不便也、仍暫不可放免者、

十月九日
少將歸來云、殿下仰云、小泉庄相博相尋可遂也、又盛實訴申法性寺田可遣使者、夕方入日野、

753日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:05:50
中右記

大治二年
十二月十五日
民部卿參杖座、被定申明日最勝寺灌頂僧名、行事右少辨宗成云々、
今夕女院御佛名也、相具宰相中將參入、於三絛殿寢殿被行散花之間也、參仕加其座、暫辨來
云、於新院殿上可有議定、人々可被着殿上者、仍起座參着新院殿上、西侍廊也、兩三位令候
佛名座也、藤大納言、予、民部卿、源中納言、別當、左兵衞督、宰相中將、皇后宮權大夫、
右兵衞督、着殿上之後、頭辨被下文書、一々被見之處、日吉社訴申爲陸奥守良兼、宮主法師
二人一人被?害了、一人ハ被疵也、下使廳被實検、其疵雖癒、其跡顯然也、但國解云、住人
清衡爲山千僧供立、保籠七百町也、是從有宗朝臣任雖立始、其後國司之時彌廣田數也、依爲
新立庄加制止間、日吉社使成濫行也、右兵衞督伊通讀上之、又發語云、件事尤可被沙汰歟、
但去年十二月被行非常赦也、可會赦哉絛可在敕定、皇后宮權大夫師時申云、被濫行庭於相逢
國司郎從并官使等召上、慥被對決、可被沙汰歟、是實否暗難知之故也、但會赦之絛可依敕定
者、人々同此定、予申云、召證人等可被沙汰趣、同皇后宮權大夫定申、但可會赦哉否絛可被
問法家也、如此事先々或會赦、或又不然、仍被問明法、随申可被左右歟、藤大納言同□申文
書卜、頭辨人々申趣付頭辨被奏、不及書、只以詞被申、人々歸着佛名座、錫杖之間也、〈略〉

大治三年
五月廿九日
止雨奉幣、
 去十三日、陸奥住人清平卒去云々、七十三、

754日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:10:46
延久合戦関連史料1

平安遺文 4652

前陸奥守從五位上源朝臣ョ俊誠惶誠恐謹言
 請特蒙 天恩、任先朝綸旨、依衣曾別嶋荒夷并閉伊七村山徒討随、拝任讃岐國闕状
右、ョ俊去治暦三年任彼國守、著任之後、廻治略期興複、挾野心俗不憚朝憲、然而王威有
限、即討随三方之大□□其間無國之費、注子細言上之日、被 宣下、云旁勒知有勒邊鎭、
事不可黙止者、捧件宣旨文參洛之處、清原貞衡申請拝任鎭守府將軍、爲大將軍ョ俊、于今
不蒙朝□□公文之輩依勲功勧賞之例、古今是多、近則源ョ義朝□越二階任伊豫守、加之子
息等及從類蒙 恩賞之者廿□也、又參上之後、依 綸旨召進武蔵國任人平常家・伊豆國□
□・散位惟房朝臣、條條之勤不恥先蹤者也、望請天恩、依□□勤節、被拝任彼國守闕状、
彌守勤王之節、將令勵後輩矣、ョ□誠恐謹言、
 應徳三年正月廿三日前陸奥守從五位上源朝臣ョ□□

755日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:21:55
>>751
>マジレスするなら、
> その時々の歴史解釈者のプロパガンダが
> 言葉を作ってるんじゃないかな


そうだね。
「前九年の役」なんかはその典型的な例。
時代が下ってから
時の権力者の意向に沿わせるという形で、元々あった名称を変えるという「プロパガンダ」が行われたわけだから。
756日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:26:31
延久合戦関連史料2

朝野群載巻第十一廷尉

追討人随後仰可參上宣旨
 應随後仰參上守源朝臣ョ俊事
右得彼國去十二月廿六日解状[?]。謹検案内。當國多年之間。諸公事之輩。雖有其數。始自
散位基通。至于其次々。尋訪梟惡之者。悉令追討既了。又荒夷發兵。黎民騒擾。然而或追
籠本所。或斬取其首。或乍生搦得。於今者當國無為無事也。加之筆端有限。存略之間。朝
城雲隔。非無疑殆。件荒夷等首。并生獲者。以使令參。定爲後代之謗哉。然則守ョ俊随身
件首并生獲輩。早可參上也。而當國爲躰。十月以後。寒氣殊甚。風雪無隙。無往還之者。
動失前途。難企早參。因茲遲怠。於今者。相待明春。可參洛也。凡於近都。可言上事。寔
繁區分止時不奏達者。定有不忠之咎哉。隠愧神道。顯畏王化。就中七旬慈父。旦暮難知。
毎思此事。長大息耳。然則且仰堯日之新光。且拝嚴親之頽齢。望請。官裁早被裁許者。左
大臣宣。奉 勅。言上之旨。知有勤節。邊鎖之事。不可黙止。宜仰彼國。生虜之輩。討伐
之符。須待後仰。随身參上者。國宜承知依宣行之。
   延久三年五月五日  大史小槻宿祢
權中辨藤原朝臣

[?]→稱の禾偏が人偏
757日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:35:36
延久合戦関連史料3

扶桑略記

延久二年庚戌
八月一日
宣旨。散位藤原基通面縛歸降之由。下野守源義家所言上也。然則陸奥守源ョ俊不可向陸奥
國追討者。義家朝臣依有所申請也。抑ョ俊合戰時。基通奪取彼印鎰者也。

十二月卅日
下野守源義家申降人藤原基通随身將參状。

758日本@名無史さん:2009/10/06(火) 07:48:30
長秋記

大治四年

八月廿一日
例時後還御、關白參給、頭辨談陸奥國清平二子合戰間、公事多闕怠多、兄弟基衡惟常云々、

大治五年
六月八日戊寅
晴、治部來談云、先比陸奥清衡長男字小館、爲弟字御曹司、被責籠國館、而其責依難堪、
率子從廿余人、乘小舟迯越後國、弟聞其由、發軍兵、自陸地追之雖浮海上、遇風波難、還
着本地之間、弟兵等襲來、父子共切首去云々、是清衡妻所奏申也、件清衡妻上洛、嫁検非
違使義成、其後所々追從、捧珍寶、検非違使別當引力尤甚、所被追貢物手、自被持參院御
前、時人致謗難云々、

759日本@名無史さん:2009/10/06(火) 08:05:03
源頼義が安倍貞任、藤原経清等の首を持参して上洛したのを源俊房が見物に
行った日の記事

水左記

康平六年二月十六日
戊子。天晴。早朝參殿下。前鎭守府將軍源ョ義朝臣所進俘囚貞任。重任。經C等首。
并降人交名。解文。右大辨令進覧之。
(中略)
實長召大夫尉源ョ俊於右衛門陣。口宣可請取件首等之由。ョ俊引率検非違使。奉
宣退出了。餘又退出。
抑件俘囚首。本所随騎兵二人一人傀杖季俊一人軍曹。歩兵廿餘人許也。各被介冑。
殊耀武威。先於粟田山大谷北丘上踟[足厨]徘徊。三首各挿鋒植之。餘偸行見之。漸
及[日甫]刻。指洛持入。検非違使於四条京極間請取。其儀。抜本鋒。以検非違使鋒
挿之。即以着駄持之。先貞任。次重任。經C也。但鉾緋銘其姓名。又各傍看督長二
人。免十余人相從。三絶相別渡行。覩者或車。或馬。亦緇亦素。始自粟田之下。迄
于華洛之中。駱驛雑錯。人不得顧。奔車之声。晴空聞雷。飛塵之色。春天払霧。希
代之観。何比之有乎。於戯皇威之在今。更不耻於古者歟。但從四絛西行朱雀大路。
至于西獄□梟之云々。

[足厨]→足偏に厨
[日甫]→日偏に甫
760日本@名無史さん:2009/10/06(火) 08:16:21
延久合戦関連史料4

百錬抄

延久三年
八月廿七日
有陣定。吉祥院水危事。義家朝臣勘陸奥犯人基通罪問事也。

761日本@名無史さん:2009/10/06(火) 08:29:03
藤原師通が後三年の役の義家の行動に不審を抱く記事と、藤原清衡が解文・申文(内容不明)を添えて馬を献上する記事

後二条師通記

應徳三年
九月廿八日、癸未、 厭對、
天晴、巳刻許少納言知家、維摩會布施事申、承候了、白河行堂念佛初也、殿下・藤大納言、召左衞門督、
陸奥兵起事、義綱出羽可使歟如何、一定無候、何等事不侍、

十月七日、辛卯、
〈略〉
入夜陸奥義家申公卿定申、追可尋、

十月二十九日、癸丑、伐、滅、復、下食時酉、
天晴、伊勢臨時奉幣使公卿右衞門督依障留了、他人使承給了、入日程民部卿里第二条家參入、左大弁匡
房候、不定一定之由承之、陸奥間事如何、不審也、民部卿與匡房覧義綱申文、所教陸奥守可成日也、如聞書了、

十一月二日、丙辰、 忌夜行、
天晴、未刻許時雨降、
殿何事候、時範申指事不候、語召義綱之由承了、世間義家合戰依事問給也、爲房召令問給也、

寛治五年

十一月十五日、乙亥、晴、
亥剋許盛長朝臣來云、關白殿御使也、清衡陸奥住人也、馬二疋進上之由所仰也、承畢、文筥開見之處、二通解文・申文等入於筥云々、


762日本@名無史さん:2009/10/07(水) 02:23:46
奥州安倍氏の中央官人説に固執する馬鹿チョンへ

奥州安倍氏の中央官人説の根拠でも見せて?状況証拠では、蝦夷出身説の方が多いけど何か?

1027年の早い段階で鎮守府将軍が廃止されているのも理由の一つ、
秋田城介は1055年まで存続している。

おまけに前九年の役で勝利した暁には、25年ぶりに鎮守府将軍が復活し
出羽清原氏の武則系統が任官している。

光頼ー頼遠系統が、清原氏宗家のはずだが鎮守府将軍に任官していない為
武則系統との対立が推察される。後三年の役での対立構造は、ここからか?

それ以前に、清原氏が源氏と合流した時点で清原氏諸将が押領史に任命されている。
763日本@名無史さん:2009/10/07(水) 07:24:30
>>762
お前には前から思っていたんだが、
何故

>1027年の早い段階で鎮守府将軍が廃止され



>秋田城介は1055年まで存続

したことが、
安倍氏が「蝦夷」であるという推論結果(=独断)に繋がるのだ?
同じ事実から
よって安倍氏は大和系である
という逆の推論結果だって導き出せるではないか!


764763つづき:2009/10/07(水) 08:17:09
>>762
>奥州安倍氏の中央官人説に固執する馬鹿チョンへ

反論につまったり、質問に答えられなくなったりする度に
>>548>>567>>727>>735>>741>>742
のような下卑たレスで返してくることの方が
余程
“馬鹿チョン”
気質に近いのだろうと思うが?

>奥州安倍氏の中央官人説の根拠でも見せて?

こちらからの度重なる質問にはまるで答えずに逃げまくっておきながら、
いけしゃあしゃあと逆質問とはどういう神経してんだとは思うがw

俺が再三に渡って述べてきた「根拠」は
もはや
(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーい
状態にでもしないと身が持たないか?

>状況証拠では、蝦夷出身説の方が多いけど何か?

威勢よく言う割には
>>762でお前は
「鎮守府廃絶」という、たった1つの
>状況証拠
しか述べていないわけだが。

しかもそれは
>>763で述べたように
厳密には「状況証拠」にすらなっていない。
765764つづき:2009/10/07(水) 08:20:50
>>762
>光頼ー頼遠系統が、清原氏宗家のはずだが鎮守府将軍に任官していない為
>武則系統との対立が推察される。後三年の役での対立構造は、ここからか?

以降に至っては「状況証拠」とやらの説明とは違い、
お前の
「独白」
を述べる展開になってきているぞ?





動揺してる?
766日本@名無史さん:2009/10/07(水) 13:47:05
>厳密には「状況証拠」にすらなっていない。

単なる負けず嫌いかな?

>お前の 「独白」 を述べる展開になってきているぞ?
>動揺してる?

以前からモレが色々言っているのをケチつけているだけ、

>(∩ ゚д゚)アーアーきこえなーい

奥州安倍氏の中央官人説なんてwwww
まだ説明聞いていないけど?
確かにお前は嫌だ、鬱陶しいので巣に帰れ!

>1027年の早い段階で鎮守府将軍が廃止されて
>秋田城介は1055年まで存続したことが、安倍氏が「蝦夷」であるという推論結果(=独断)に繋がるのだ?

そっちは安倍氏が中央官人系だという証明をしないの?

安倍ノ頼時ト云ウ“兵”有ケリ
「兵」(つわもの)=辺境軍事貴族(傭兵隊長)=下級中央官人×
京より遠い東国・奥羽においては、朝廷や上級貴族による調停などは期待出来ない西部劇状態。

平安時代後期に群盗海賊が横行し治安の悪化に悩まされた国司は、臨時発兵規定で“兵”を採用する事になった。

臨時発兵規定で想定されていた兵とは、古代軍団兵士(防人)や健児ではなく、
百姓のうち弓馬に通じた者であった。
弓馬に通じた百姓とはすなわち、郡司・富豪層であり、帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる俘囚であった。
臨時発兵規定の適用により、郡司や富豪層と俘囚が国内の軍事力として新たに編成された。

特に俘囚が有していた高い戦闘技術は、新たに形成された平安後期の軍制に強い影響を与えた。
767日本@名無史さん:2009/10/07(水) 19:29:13
中央官人だとしたら安倍というマイナーな名の者が強大な力を持ったのは何故か
面積と経済力から奥州は大国という位置づけであり陸奥守は儲かる役職なのに
陸奥守が許すのか  藤原氏全盛の時代に
768日本@名無史さん:2009/10/07(水) 20:03:32
中央官人なら多賀城や朝廷に刃向かえるわけないでしょ
解任されて終わり
頼義も義家も朝廷の命令であっけなく奥州を去ってるが
769日本@名無史さん:2009/10/07(水) 20:21:18
清原氏は最高だね
770日本@名無史さん:2009/10/08(木) 01:23:16
>>766
>単なる負けず嫌いかな?

池乃めだか乙!


>以前からモレが色々言っているのをケチつけているだけ

どこか辺境の言葉?

>>735
>お前も安倍氏中央官人説を説明してみろバ〜カ!
>>762
>奥州安倍氏の中央官人説に固執する馬鹿チョンへ
>奥州安倍氏の中央官人説の根拠でも見せて?
766
>奥州安倍氏の中央官人説なんてwwww
まだ説明聞いていないけど?


「根拠」については
>>543>>623>>705>>711
で、安倍氏の
陸奥権守任官の記録(『範国記』)、
「大夫」の称号を有する記述(『陸奥話記』)、
そして、安倍氏の血を累代に渡って受け継いでいるはずの藤原四代の遺体の身体的特徴にアイヌのものは認められなかったという学術調査結果
等のことを、とっくに何度も
「説明」しているが?


お前が過去ログを振り返って見てみるという勇気が無いだけの話だろう。
771770つづき:2009/10/08(木) 01:39:24
>>766
一方のお前は
>>551>>552>>563>>566>>571>>708>>724>>725
での俺の質問にスルーを決め込んでいるようだが?

どうして答えない?


否、答えられないのか?
772771つづき:2009/10/08(木) 02:27:24
>>766

>>559>>741
でのお前の出鱈目な戦争名称説明、は>>563>>571>>747でその矛盾点を突かれ、

お前の唯一の拠り所である
『今昔物語集』は所詮お伽噺(説話集)に過ぎず、歴史学においては記録日記である『範国記』等よりも論拠としては甚だ弱いという点を指摘され(>>535>>706>>708>>725)、

蝦夷の者の受領クラスの地位への任官例も挙げることができず(>>544>>545>>552-553>>708>>724)、

得意満面で伊治呰麻呂が「公」のカバネを授けられ、「外従五位下」の位階にも叙せられていると言えば、
それはそれぞれ蝦夷に与えられる種類の「カバネ」と「蝦夷爵」に過ぎない・・・
と、
お前にとっては一々返答に窮する反論をされ続ければ(>>715>>724)、

そりゃあ、お前にとって俺のことは

>確かに
>鬱陶しい(>>766

だろうし

>邪魔で仕方

なくも(>>727)あるだろうよ。


773日本@名無史さん:2009/10/08(木) 02:48:41
>>772
>藤原四代の遺体の身体的特徴にアイヌのものは認められなかったという

これが奥州安倍氏の中央官人説の理由?
ドッwwwwwwwwwwwwwww

もうズーット勝手に奥州安倍氏の中央官人説言ってれば?

君はどこかの大学院生か、助手クラスだろうが、馬鹿だなw
774日本@名無史さん:2009/10/08(木) 03:41:34
全国に移住させられた、俘囚たちは、集団で移住させられたモノだから
一部は盗賊に、一部は「僦馬」(武装運送業者)に参加、自分達で農地を開墾し
農民になろうとはしていない。

移住先は、一応全国だが、人数としては関東が一番多い。しかも俘囚は、
定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で、
国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。

しかし実際に移配俘囚が定住先で自活(農民化)することはなく、
俘囚料の給付を受け続けた為に国司の俘囚料の負担は重かった。

これは俘囚が、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、
狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった為である。
俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、
俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に
与える旨の命令を発出している。

しかし国司は、定住先で自活しない俘囚に業を煮やし、俘囚料の支給を減額したり
打ち切ったりした。しかし、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、
883年の「上総俘囚の乱」などのように、俘囚による騒乱が次第に発生するようになった。

これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられているが、
こうした事態に頭を悩ませた朝廷は、897年(寛平9)、移配俘囚を奥羽へ
強制送還する政策を打ち出した。

これにより全国へ移配されていた俘囚のほとんどは奥羽へ戻される事となってしまった。
775日本@名無史さん:2009/10/08(木) 11:48:09
いつから蝦夷=アイヌになったんだよw
776日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:16:11
は?

私の安倍氏中央官人説は、間違いです。

まで読んだ。
777日本@名無史さん:2009/10/08(木) 12:59:20
>>775
アイヌじゃないとしたら何なの?
778日本@名無史さん:2009/10/09(金) 01:58:46
>>768
10〜11世紀には中央官人系で朝廷や国に反発したり、対決したりしたものなんて数多くいるよ。
平将門、藤原秀郷、藤原玄明、興世王、藤原純友・・・

実際朝廷はこれら中央官人系地方土着豪族の跳梁にはかなり甘いところがあって、
最後のもうこれ以上は駄目だというところまでは本腰を入れて討伐などしてはいない。
779日本@名無史さん:2009/10/09(金) 02:20:35
>>775>>777
蝦夷の定義には、蝦夷=アイヌ説(既に江戸時代から唱えられていた)と蝦夷辺民説とがあります。
蝦夷辺民説は
古くは東北地方に住んでいた和人のことと定義するものが多かったのですが、
最近では
民族に関係なく東北地方に住んでいた住人すべてを十把一絡げに「蝦夷」とみなしていたのだとする意見が優勢なものになっています。

でも、俺は本来的な意味での蝦夷はアイヌで良いと思っているんですけどね。
780778訂正:2009/10/09(金) 02:27:50
(×)朝廷や国に反発したり、

(○)朝廷や国司に反発したり、
781日本@名無史さん:2009/10/09(金) 06:18:09
>>778
中央官人系地方土着豪族は、皇室や摂関家とコネがある。
平将門は藤氏長者の藤原忠平に仕えていた関係で、彼が一時仲裁に入っている。

奥州安倍氏には、それが無い。
奥州安倍氏は、和人系の蝦夷でしょう。ただし中央官人血統ではないと思います
782日本@名無史さん:2009/10/09(金) 08:12:50
>>781
では清原氏はどうなんでしょうか?
783日本@名無史さん:2009/10/09(金) 12:02:43
ここの議論では真人が付いているから、中央官人系統ということだったかと。
784日本@名無史さん:2009/10/09(金) 13:08:52
ここでは「真人」などの姓の有無ではなく、
「中央とのコネクション」の有無について訪ねているんですよ。

>>781では
>中央官人系地方土着豪族は、皇室や摂関家とコネがある

>奥州安倍氏には、それが無い

と述べているから。

では清原氏はどうなのかと?

安倍・清原両氏とも、記録などでは中央の権門との繋がりは見い出せませんよね?
785784:2009/10/09(金) 13:11:14
ここでは→×

ここでの議論では→○
786日本@名無史さん:2009/10/11(日) 20:11:34
>>677 (抄訳)

寛治元年 (1087) 12月26日
陸奥から国解が届き、国守義家朝臣が俘囚を追討したという報告が届いた。

寛治2年 (1088) 1月25日
除目の最終日。欠国がなかったからか、女院分は止められた。また、未だに功過定が終わっていない
藤原基家が陸奥守に任ぜられた。何か訳があるのだろうか。

寛治6年 (1092) 6月3日
夜、右大臣と同車し天下のことを語らう夢を見た。吉夢であろう。
先日、陸奥国から国解が届き、(陸奥守藤原基家朝臣)、清衡が合戦を企てていると報告してきた。制止をしたが
聞き耳を持たなかったということか。
そこで、陣定を開こうとしたが、参議の中に書記ができる者がいなかった。左大弁は精進のため参籠しており、
右大弁は所労のため参内できなかったのだ。この他の近代八座(参議)の中にも文章を作れる者はいなかった
ので、頭弁藤原季仲朝臣(47)が、関白の仰せにより、各々、公卿の屋敷に出向いて申状に従い書覧されたということだ。
※左大弁:参議正三位大江匡房(52)、右大弁:参議正三位藤原通俊(46)

寛治7年 (1093) 10月18日
除目の最終日。藤原顕季朝臣(38)の旧国丹波の功過定めを終えた。(この定文は去年の春の除目で事情があって書か
れなかったものだ)、人員が少ないので早々に書き終えた。
除目の概要>
近江守: 正四位上橘俊綱(66)、陸奥守: 從四位下源義綱(51?)
阿波守: 從五位下高階為遠、左兵衞佐: 源雅兼(15)
彈正忠: 藤原盛仲(文章生、内御書所)、宮内丞: 橘元助(中宮の御給分)
監物: 源清經(一院の御給分)
この他に、三人の京官が任命されたとか。
※公卿補任では、源雅兼は右兵衞佐。源義綱は義家の同母弟。
787日本@名無史さん:2009/10/12(月) 00:27:32
>>679 (抄訳)

嘉保元年 (1094) 3月8日 

晴れ。今日は凶会日(くえび)である。早朝、女房の陪膳がないということで参内した。源中将(国信)、蔵人兵
部大輔(通輔)、治部少輔(懐季)が集まり、話していたが、「今日、陸奥守源義綱朝臣が、降人と首を携えて上洛
するから見物に行かないか。」ということになり、御膳を供した後、四人で同じ車に乗り、二条通の末の河原の辺り
に見物に出かけたが、既に、上下の者たちが車や馬で乗り付けごった返していた。私は、命により、大将の車の
辺りに石を立てた(?)。
申の刻(15〜17時)になった頃、一行が現れた。まず、首二つ(散位平師妙とその息子、師季の首である)を、
長戟の先に差して高く掲げ、そこには赤い小幡がつけられ、各々の首の姓名が記されていた。
左右に長剣を捧げて、歩兵30人ほどが、両側から夾んでいた。次に義綱朝臣が麹塵襖、麹塵袴、款冬衣を
着し、白い額の黒い馬に跨り、郎等200人ほどを引き連れ、雲のように連なる甲冑と白刃が陽光に燦めく中、
二人の降人、貞宗、貞房が騎馬で連なる。一行は四条通の末に向かい、検非違使らに降人と首を引き渡した。
また、降人らは、申請に従い赦免されることが下知されたとか。
検非違使等は受け取った後、首を着駄に持たせて、四条烏丸から五条大宮らの大路を通って西の獄門の
樹上に首を曝した。受け取りに来たのは、検非違使大夫尉藤原経仲(衣冠)、平貞弘(以下はすべて布衣)、
同爲俊、同貞慶、志宗綱、信良、府生清原忠重、丈部保成等である。先に看督長等、次に首、次に検非違使
で、一行は下臈を先頭に立てている。
人々は車馬を走らせ道路を遮って見物し、車軸を折る者、烏帽子を飛ばされる者など、既に多くの者が恥辱
の憂き目に遭っているとか。興奮を治める事ができなかったとは言え、愚かな様を曝したものか。
≪続く≫

源中将: 蔵人頭正四位下左近衛中将源国信(26)
蔵人兵部大輔: 五位蔵人正五位下兵部権大輔藤原通輔(35)
治部少輔: 藤原懐季
788日本@名無史さん:2009/10/12(月) 01:22:07
>>679

≪続き≫

帰参してから、内外の御膳を供し宿仕するが、既に時は深夜に及んでいた。
頭弁が使者として鳥羽殿より参入し、叙位が行われると伝えてきた。
夜半になる頃、民部卿が仗座に参上され、臨時の叙位があった。
源朝臣義綱を従四位上、藤原朝臣為房を従四位下に叙した。
そもそも、義綱朝臣は、今日、犯人らを捕縛・討伐した恩賞ということで、叙位を受けるのももっともなことで
あるが、為房朝臣は、まだ功課も終わっていない身であるのに叙位を受けるというのは、どうにも納得のいか
ないものではないか。春日大社行幸の供奉への褒賞ということらしい。
去年、出羽守信明が上洛しようとしたとき、件の犯人らは、国守の館を襲撃して焼き、悉く財宝を略奪した。
国守信明は、命からがら、山中に逃れ、未だに、行方はわかっていない。これほどの謀反の行いは他にある
だろうか。
よって追討の命が義綱朝臣に下ったが、義綱が任国に赴く前に、現地の状況を調べるために、字を藤別当
という郎等を遣わしたところ、その郎等が謀反人の首を取ってしまい、残党も降参した。武勇の誉れ、四海に
満つるというところか。
[裏書き]
後で聞いたが、故頼義朝臣が、去る康平5年、陸奥国より討伐した貞任の首を進上したのを受け取ったとき、
先に検非違使を陣に召し、首を受け取る由を職事が仰せ下したので、検非違使らは束帯であったとか。
今日の儀はそうではなかった。去る夕べ、頭弁が文書で宣旨を上卿、左大臣に下したとか。上卿は弁官に下し
、弁官は検非違使に仰せ下したのだ。よって、束帯ではなかった。
宣旨の言葉には、犯人の首は検非違使らに受け取らせ、降人2人と某は、義綱朝臣の申請に従い赦免せよ
と書かれていたという。右少弁有信の語るところである。

頭弁: 正四位下左中弁藤原季仲(49)?
民部卿: 正二位大納言源経信(79)

789日本@名無史さん:2009/10/12(月) 01:25:10
>>786
「功過」→「功課」

>>679
「藏人兵部大輔、輔通」→「藏人兵部大輔、通輔」
790日本@名無史さん:2009/10/12(月) 19:40:32
現代語訳の日記文章の掲載感謝いたします。
臨場感あふれる日記です。

この文章だと平師妙・師季親子の乱は、かなり大規模かつ電撃戦的な反乱だったようですね。
不意打ちで国衙に攻め込み、完全に破壊するつもりだった感じがします。
国府側は全然防戦出来ずに逃げ出した感があります。

また、平師妙・師季親子は、出羽国司の源信明を完全に殺害するつもりだった感じがします。
源信明の上洛を狙い、不意打ちにするつもりだったのかなと。

やはりここまで大規模な平師妙・師季親子の軍事攻勢は、清衡の後援がないと不可能かなとも思えます。

ところところで源信明は山中に逃げ込み行方不明と有りますが、どうなってしまうのですか?

結局、源信明が出羽に関して清衡に何の官職を与えず、南下政策を押さえ込もうとした結果かなと思えます。
791日本@名無史さん:2009/10/13(火) 00:14:15
後二条師通記

寛治七年
六月十八日、甲子、下食時辰、九坎、
雨降、東山道相撲使秦正重、爲出羽守信明合戰之申文二通、注文、申文、獻之、付年預中將仰云、
可附奏者云々、去十七日自左大弁許送申文二通、相撲使宛非法之事所愁申也、

九月十七日、辛卯、凶會、
天晴、雨降、左大弁来臨、後漢書傳第五十一、一日之内讀了、陸奥守基家卒去了、顯仲逗留罷登
之絛、如只今者、無爲術由、自母許所申也、殿下申下御教書、相副舎人二人可遣者也、必可不擇
日次之由、左大弁所令申也、來廿三日可遣者也、

九月十九日、癸巳、凶會、
天晴、陸奥在廳官人許、下文等所遣之例云々、

792日本@名無史さん:2009/10/13(火) 01:19:38
> ところところで源信明は山中に逃げ込み行方不明と有りますが、どうなってしまうのですか?
その後の信明のことは書いてないのですが、国府襲撃が去年の寛治七年で、翌年になっても
行方不明だとすると、殺されたんでしょうね。

> また、平師妙・師季親子は、出羽国司の源信明を完全に殺害するつもりだった感じがします。
国の館を略奪して放火し、国守を殺害しているところから見て、師妙・師季親子は、出羽守信明に
対して、強烈な怨恨を抱いていた感はありますね。
国府を襲撃して国守を殺害したとあれば、朝敵として討伐されるのは分かり切ったことですから、
その危険を冒しても実行に移したことからも、並大抵のことではないでしょう。
793日本@名無史さん:2009/10/13(火) 01:46:45
> やはりここまで大規模な平師妙・師季親子の軍事攻勢は、清衡の後援がないと不可能かなとも思えます。
清衡が関与していたかどうかは、推測の域を出ないでしょうが、この事件までの経過を整理すると
寛治六年
 六月 清衡が陸奥で合戦を企てる
寛治七年
 六月 出羽守信明が東山道相撲使秦正重と合戦
 九月 陸奥守基家死去
 ?月 出羽守信明、平師妙・師季親子に襲撃され殺害
 十月 源義綱、陸奥守就任(但し、任国には下向せず)、追討の命を受ける
嘉保元年(寛治八年)
 三月 義綱の郎等が出羽に下向し、平師妙・師季らを討ち取り、義綱が凱旋

気になる点としては、
@清衡が企てた合戦は、誰が相手だったのか。
A出羽守信明と相撲使秦正重の間の合戦との関連
B追討命令が下っても義綱は下向せず、現地に派遣した郎等が、平師妙・師季らを討ち取ったこと

794日本@名無史さん:2009/10/13(火) 01:49:25
≪続き≫

@清衡が企てた合戦は、誰が相手だったのか。
中右記では「雖加制止不被拘歟」とあり「制止を加えた」とあります。この語感からすると、どうも
清衡の相手は陸奥守基家ではなく、地元有力豪族だったような気がします。もし、相手が国守であれば
「制止を加えようとした」というような言葉遣いはしないような気がします。

A出羽守信明と相撲使秦正重の間の合戦との関連
後二条師通記の記述では相撲使秦正重が、出羽守信明から非法な仕打ちを受け合戦に及んだと言うように
読めそうですが、これ以上の記述がないため、詳しいことはわかりません。ただ、襲撃事件と同じ年の事件
なので、気になります。この信明という人物は、素行不良な受領だったのかもしれません。

B追討命令が下っても義綱は下向せず、現地に派遣した郎等が、平師妙・師季らを討ち取ったこと
追討命令を受けた義綱本人は現地に下向せず、家来が朝敵を討ち取ってしまったという、実に奇妙な朝敵討伐
です。十二年合戦では頼義・義家親子が東国の子飼いの郎等を多数連れて行ったにもかかわらず、相当な苦戦
の末にやっと貞任らを討ち取っています。それに比べて、こちらは義綱本人は行かずに、郎等だけで討ち取って
います。この経過から感じるのは、現地がかなり協力的に接したのではないかということです。つまり、義綱の
郎等に、現地の豪族達が援軍を出した、あるいは現地の豪族達も別個に平師妙・師季らを攻撃したのではないかと
いうことです。もし、そうだとすると、後三年の役が終わって7年後、まだ、地盤が盤石でない清衡も、義綱の
郎等に加勢したのではとも思います。
795日本@名無史さん:2009/10/13(火) 10:06:59
@清衡が企てた合戦は、誰が相手だったのか。

もし清衡の対戦相手が、陸奥国司の藤原基家ではないとすると、誰だと思いますか?
87年に後三年の役終了後に清衡と対戦出来る力がある人物は、そんなにいません。

吉彦秀武などの清原系豪族くらいかな?とも思えます。

確かに清衡は、安倍氏血縁者ですから陸奥の奥六郡の郡司は継ぐ資格あるでしょう。
義家も南側の奥三郡に関しては、清衡領と確定しています。

しかし、仙北三郡に関しては、清原氏の血縁ではない清衡が継ぐ事に現地では
かなりの抵抗が有ったでしょう。ですから、仙北三郡の支配権を確立する為に
清衡は奥六郡で軍勢を整え、仙北三郡の清原系豪族と戦闘状態になった可能性はあります。

そうなると藤原基家は、清衡の勢力が、仙北三群には及んで欲しくないと考えたのかもしれません。
また、この時期に、清衡は、自分の館を豊田館から平泉館に移しています。

A出羽守信明と相撲使秦正重の間の合戦との関連

相撲使は、天覧相撲の為に全国から相撲人をかなり強引にかき集める職務です。
源信明と何があったのでしょう?自分の管国から貴重な労働力を引き抜いて欲しくない
と言った所でしょうか?それとも秦正重に賄賂を請求したか・・・・・

清衡の南下政策と直接関係ないですけど、源信明の所業は判ります。
796日本@名無史さん:2009/10/13(火) 10:19:49
B追討命令が下っても義綱は下向せず、現地に派遣した郎等が、平師妙・師季らを討ち取ったこと
>義綱の 朗等に、現地の豪族達が援軍を出した、あるいは現地の豪族達も別個に平師妙・師季らを攻撃したのではないかということです。
>地盤が盤石でない清衡も、義綱の郎等に加勢したのではとも思います。

この理屈だと、清衡は、マッチポンプ的に平師妙・師季親子を見捨てた事になります。

陸奥国司の源義綱が、陸奥や出羽まで来てしまい、平師妙・師季の反乱の鎮圧過程で清衡の関与が露見すると
祖父である安倍頼良と同じ立場に立たされるので、平師妙・師季親子に責任を押し付けて逃げた事になります。

基衡の治世下でも部下の信夫郡司の佐藤季春が、陸奥国司の藤原師綱の軍勢と衝突し、
基衡は賄賂を陸奥国司に支払い佐藤季春を助けようとしたが、結局ダメで首を差し出しました。
平師妙・師季の反乱は、これと似たケースという事になります。

また、出羽の国司が逃亡、国府はおそらく完全に破壊され、行政機能が果せないのなら
新任の出羽国司を任命しその人に平師妙・師季を討たせれば良いと思います。
なぜ、隣国の陸奥国司の源義綱が反乱鎮圧に出て来るんでしょうか?
797日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:37:22
そもそも、吉彦秀武は、どういう勝算があって後三年の役の口火を切ったんでしょうか。
歴史的には勝者側ですが、結果的には宗家を滅ぼした訳で、旧清原一族とは絶縁してたんでしょうし、成衡を担ぐわけにもいかない。
彼はただ、成り行きに任せて清原を滅ぼしたのでしょうか
798日本@名無史さん:2009/10/13(火) 18:32:58
清原宗家(真衡)が、同族連合体制を破壊し宗家当主独裁を目指し権力の集中を図ったので、それに対する反撃でしょう。
それに秀武が、兵を挙げる以前から、前の清原宗家である光頼−頼遠親子と
新宗家の武則−武貞ー真衡のラインで、対立があったであろう事は推測できます。

現に頼遠は、義家に滅ぼされており、また、当初家衡が立て篭もった沼柵辺りが、光頼−頼遠親子の勢力圏でもあります。

ただ吉彦秀武がトップに立つつもりはないでしょう。
かれは、この時点でもかなりの歳のようですし、当初、真衡打倒後に家衡擁立を考えていたようです。

秀武の勝算は、狂ったのではないでしょうか?
秀武の軍勢に参加するのは6000名しかおらず、真衡は8000名も動員しまい、
当初の秀武の目算は崩れてしまいます。

>>786
>先日、陸奥国から国解が届き、(陸奥守藤原基家朝臣)、清衡が合戦を企てていると報告してきた。制止をしたが
>聞き耳を持たなかったということか。

この文章だと、結局、陸奥国司の藤原基家の勧告を無視して清衡は、誰かと合戦したことになります。

私の予想は三つです。
@陸奥国司の藤原基家(清衡の南進策)
A吉彦秀武等の仙北三郡の清原系豪族と清衡の戦闘
B第二次延久蝦夷合戦(奥六郡や仙北三郡以外の東北北部の蝦夷系豪族の制圧)
799日本@名無史さん:2009/10/13(火) 18:35:51
(修正します)
真衡は8000名も動員しまい×
真衡は8000名も動員してしまい○
800日本@名無史さん:2009/10/15(木) 00:21:54
> @清衡が企てた合戦は、誰が相手だったのか。
>
> もし清衡の対戦相手が、陸奥国司の藤原基家ではないとすると、誰だと思いますか?
史料では、合戦を企てた以上のことは書いてないし、その後のことも記述がないので、わからないとしか言えないですね。
ただ、陸奥守基家が相手だとすると、「制止に従わなかった」と言う報告ですから、つまり、清衡が国守を攻撃すると
いうことなので、もっと大騒ぎになっていそうな気がします。けれども、実際は、陣定が参議大弁がいないことであっさ
り流会になって終わりというのんきな対応を見ると、そうではない気がしました。恐らく、陸奥或いは隣国の有力豪族と
大規模な合戦に発展しそうな雰囲気なので、これを放っておくと、租税徴収に影響がでる恐れがあり、武門でない基家
には手に余る問題なので中央に報告して善処を求めた、こんな経過なのかなと思った次第です。
また、清衡の対立相手が、清衡と血縁関係にあったり、近しい人物である可能性もあるんじゃないかとも思います。

> そうなると藤原基家は、清衡の勢力が、仙北三群には及んで欲しくないと考えたのかもしれません。
これもあるかもしれませんね。基家が清衡の勢力が強くなりすぎるのを警戒したという可能性もありうると思います。
801日本@名無史さん:2009/10/15(木) 02:06:26
> 陸奥国司の源義綱が、陸奥や出羽まで来てしまい、平師妙・師季の反乱の鎮圧過程で清衡の関与が露見すると
> 祖父である安倍頼良と同じ立場に立たされるので、平師妙・師季親子に責任を押し付けて逃げた事になります。
私は、大体、それに近いことを考えました。
清衡が叛乱に関与していたのであれば、義家の同母弟の義綱が登場することによって、清衡は、これはやばいと
思ったのではないかと思いました。蝦夷の時代から朝廷の討伐軍に勝った試しはなく、しかも相手は頼義の子息で
義家の弟という人物であれば、正面切って対決すれば、かなりの損害が見込まれるわけですし、今の時期は、官軍
との戦争よりも地盤固めや勢力拡大の方が優先事項だと判断してもおかしくないと思います。反乱軍に荷担した場合、
最悪、滅亡という結末もあり得るわけですし。
また、清衡と平師妙・師季親子の間の関係は、実は、微妙な関係、利害対立があったのかもしれないとも思いました。

802日本@名無史さん:2009/10/15(木) 02:09:08
> また、出羽の国司が逃亡、国府はおそらく完全に破壊され、行政機能が果せないのなら
> 新任の出羽国司を任命しその人に平師妙・師季を討たせれば良いと思います。
> なぜ、隣国の陸奥国司の源義綱が反乱鎮圧に出て来るんでしょうか?
これは、出羽国司襲撃がいつなのか、記述がないのが鍵になるかも知れません。
陸奥守基家死去→源義綱陸奥守就任→出羽守信明襲撃→義綱に追討令
この順番だと、ありうることかもしれません。
そもそも、陸奥では清衡に合戦の準備有りという報告があって、情勢不穏なので、武門の義綱に陸奥守をさせて事態
の収拾を図ろうとしたところ、出羽で叛乱が起きたので、次の出羽守を選んでから追討させるよりも、隣国の義綱
に追討させた方が手っ取り早いと判断して、義綱に追討令を下した、こんな経過なら、どうでしょうか?
ただ、気になるのは、義綱が、陸奥に下向しようとしなかったということですね。しかも、中右記寛治七年十二月二十七日
の記事で、この日は大将を任ずる除目があり、その儀式が行われたのですが、この時
次家主机、陸奥守義綱朝臣以綱舁之立了
とあって、この行事に参加しているわけです。この行事には多くの公卿が参加しているので、義綱の参加は公認のこと
ということですね。このことを、どう理解すればよいか。この時点では、まだ、追討令が義綱に下っていないのか。或いは
追討準備段階で在京していたので、この行事に召されただけなのか。陸奥守就任から二ヶ月ちょっとの時点なので微妙な所
ですね。
803日本@名無史さん:2009/10/15(木) 08:28:00
昔から出羽で大規模な事件が起こったら陸奥からも国富軍が出動するもんじゃなかったか?
反対に陸奥で事件が起こったらその逆もあるし。

804日本@名無史さん:2009/10/15(木) 19:58:38
国司って基本的に行政長官で
税を徴収するのがメインの仕事ではないの?
805日本@名無史さん:2009/10/15(木) 22:08:33
1088年に義家が都に召還されてしまい、陸奥北部では、清衡が清原三兄弟の
中で単独で残ってしまい、非常に立場が強くなったと思います。

そこで奥六郡と仙北三郡双方を勢力下に治めようしているとすれば、
清衡は、清原真衡と同じ事をしていると言えるでしょう。

清衡は、鎮守府将軍には任官していませんが、陸奥押領史に任命され(1089年?)
国司の徴税業務と治安維持活動を代行する事を公認されます。

しかし、陸奥国司からすれば、ある意味清原真衡よりも質が悪いといえます。

それは、真衡の権力集中が東北北部に限られていたのに対し
清衡は、東北北部に留まらず、露骨な南下政策を取り、出羽国司と武力衝突を
起こしている可能性すらあります。
歴代の出羽清原氏当主ここまでの事はしていません。

中右記には、清衡は、「千僧供養の費用調達を名目として田地押領を開始した」
という記述があり、さらに時期については「源有宗が陸奥国司に任官した時から(1095年)始まった」
とあります。

おそらく源義綱が陸奥国司の任から外れるタイミングを見計らいながら、
南下政策を本格化させており、清衡の南下政策は大変作為的に思えます。

清衡は、東北北部では、安倍氏血統を示して権力の正当化を図り
東北南部では、父経清が藤原摂関家との繋がりがある事を理由に
王地押領を正当化したのでしょう。

東北南部での清衡の活動は、陸奥押領史の肩書きと摂関家の荘園管理者の
立場で行ったと考えられます。
806^−^:2009/10/15(木) 23:24:02
平城京ってどんなの>>??
807日本@名無史さん:2009/10/16(金) 08:37:36
清原氏の正統な後継者なら、出羽での権利を主張もできようが、清原を捨てて、藤原に改名している訳なのだから、それもできない。
奥州、出羽の騒乱が長引いて成衡が復活することがないように強引なやり方を進めたのだろうか
808日本@名無史さん:2009/10/16(金) 11:00:21
やっぱり清衡は、出羽清原家では嫌な思いしか無いんですかね?

海道平氏と歴代陸奥国司は、結託して清衡の南下政策に抵抗したのかどうか・・・・・
記録が無いので、想像するしかないんですが。

清衡の正室が北方平氏の女とされていますが、海道平氏出身の女性なのか、
(平国妙)平師妙・師季に近い女性なのか、よく判っていません。
809日本@名無史さん:2009/10/17(土) 11:27:28
> 中右記には、清衡は、「千僧供養の費用調達を名目として田地押領を開始した」
> という記述があり、さらに時期については「源有宗が陸奥国司に任官した時から(1095年)始まった」
> とあります。
>
これ、中右記のいつの記事?
810日本@名無史さん:2009/10/17(土) 14:56:33
多分、大治二年十二月十五日の記事のことと思う。
田地を横領したとは書いてないが、有宗の陸奥守時代に比叡山の千僧供養のため清衡が七百町の保を立てたとある。
「從有宗朝臣任雖立始」とあるので、当初は、陸奥守有宗の仲介で延暦寺(=日吉社)の荘園として立庄されたようだが、
その後、庄域を拡大していったと書かれている。それが、良兼の陸奥守時代に、新立荘園の廃止の動きにあって、トラ
ブルが起こり、日吉社使が乱行(暴力沙汰?)を起こし、その過程で、人が殺害され日吉社が陸奥守良兼を訴えている
という記事。
多分、良兼が荘園没収をちらつかせたので、清衡が延暦寺に助けを求め、それで下向した日吉社使と国司の郎等と
の間に乱闘騒ぎが起こったのでしょう。


本文はここ
>>753

811日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:04:57
清衡は、東北南部のアチコチで寺社領を確保している。
812日本@名無史さん:2009/10/18(日) 10:51:32
>>810
たいした権限無いんだな清衡は、国司に振り回されている。
813日本@名無史さん:2009/10/18(日) 11:02:27
奥州藤原氏って半独立政権のイメージがあったけど、
実際には朝廷から派遣された国司がいたんだな。

その辺の上下関係とか役割の分担とかどうなってたんだろう?
814日本@名無史さん:2009/10/18(日) 11:16:37
息子の基衡だと“在国司”と言われているけど、清衡の場合は、東北南部支配に取り掛かり始めたばかりで、
歴代陸奥国司の政策次第で、どうひっくり返されるかわからないというのが現実っぽいです。

何とか“半独立の奥州藤原氏”という政治的イメージが定着するのは、基衡の代からかと。

基衡になってようやく陸奥と出羽両国の押領史に任官しています。
815日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:42:14
>>814
国司と土着王臣貴族(この場合は奥州藤原氏)との間にははっきりとした上下関係はないね。
上下ではなく、ほぼ横の関係。

816日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:23:52
アンカ間違えた
↑は>>813
へのレスね。
817日本@名無史さん:2009/10/18(日) 14:16:06
清原一族の中でも端の方にいた清衡が偶然、生き残って、奥羽両国に跨る清原の遺領
を手に入れた。そんな経過だから、当初の清衡の権力基盤は脆弱で、国司の意向もそ
うだが、他の在地豪族や同族の動き次第では、簡単に没落するような状況だったと思う。
その中で、清衡は、摂関家や寺社などの中央権門の荘園を現地経営することで、後ろ盾
を得て、国司の権限に対抗できる力を蓄積していき、そうやって、奥羽での権力基盤を
築いていったと。
だから、清衡も最初のうちは国司には従順だったろうし、国司の方も、奥羽の大半を抑え
ている清衡を取り込んでおくのは都合がいいから、清衡にいろいろ、餌を与えて利用して
いたかもしれないね。で、気づいたときには、国守でも容易に手が出せない力を持ってし
まった。

日吉社と良兼の件では、恐らく、当初の700町は、有宗の陸奥守時代の国免荘園だっ
たんじゃないかな。国司の権力を背景に700町の土地を延暦寺に寄進し、普通なら、
国司が変わった時点で収公されるところを、多分、延暦寺の威光を利用したんだろうと
思うけど、返すどころか、逆に周辺の土地を取り込んで、荘園を勝手に拡大していった。
歴代国司は、バックの延暦寺を恐れて、見て見ぬふりをしていたが、良兼が、この問題に
手をつけた。そこで、バックの延暦寺が登場して、刃傷沙汰。このトラブルでは清衡は
前面に出てきていない。トラブルはあくまでも延暦寺(日吉社)と陸奥守良兼の間のこと
になっている。清衡は、うまく立ち回っていると思う。
818日本@名無史さん:2009/10/18(日) 21:53:24
やはり清衡は、外祖父安倍頼良と叔父貞任、正任が、陸奥国司である源頼義
に潰されているわけで、正面切って国司権力と衝突する事を避けるべく肝に銘
じていたのでしょう。
それゆえ父経清以来の摂関家や寺社とのコネをフル活用し、国司vs清衡の構図
にならぬ様にしていたのかも知れません。
平師妙・師季の乱とやり方が似てますね。

また、源有宗が不用意に清衡に荘園の立庄を依頼している感は否めません。
源有宗は、奥州安倍氏が、源頼義に潰されている事を清衡に強調し押さえ込ん
だつもりだったのでしょうか?

清衡は陸奥に関しては、押領史の権限を行使できるわけで、取り合えずどこかの
陸奥南部の荘園の荘官になってしまえば何だかんだ理由をつけて荘園の拡大は可
能だったのでしょう。
また、奥六郡や仙北三郡が清衡直轄領であり、この為に多数の軍勢を動員する
のが可能である事も清衡に有利に働いたのでしょうか?

日吉社と良兼の件では、清衡が延暦寺に泣き付いている事が特徴です。
清衡は陸奥北部ならともかく、南部ではあまり表に出ないつもりなんでしょうか?

ところで出羽清原氏には、奥羽南部で国司が立庄を以来していないのでしょうか?
出羽清原氏が何か奥羽南部で活動している記録は無いのでしょうか?
819日本@名無史さん:2009/10/19(月) 00:43:23
京(17万都市)に次ぐ大都市だった平泉(10万都市)が
奥州藤原氏滅亡で衰退し、今や寒村に成ってしまった訳だが。
源頼朝が行った行為は果たして正しかったのか?

東北地方が全国的大地位を得ていた時代はあの時を除いて無い。
820日本@名無史さん:2009/10/19(月) 01:30:41
清衡が正室に迎えたという北方平氏が、実は清原氏のことだったとしたら、清衡が狙う仙北三郡の統治と絡めてしっくり来るな。
821日本@名無史さん:2009/10/19(月) 19:18:28
北方平氏=海道平氏=出羽清原氏
って事ですか?
822日本@名無史さん:2009/10/20(火) 10:05:56
しかし出羽清原氏は、何故南下しないのかね?北進はしたけど。

奥州安倍氏と藤原氏は、南下姿勢がモロに出ている。

もっとも安倍氏の場合は、国司の制止を無視して強引に南下して戦争になり、
奥州藤原氏の場合は、国司が南下を認めている違いはあるけど。
823日本@名無史さん:2009/10/20(火) 13:55:51
出羽は陸奥より狭いし、京からのアクセスも陸奥よりずっと容易だしで、
その分朝廷からの睨みが効かせやすい。
だから陸奥よりもずっと南進がやりにくいんだろ。
824日本@名無史さん:2009/10/20(火) 20:43:55
>>680 ≪試訳≫

永長元年(1096) 12月15日

未の刻(13時〜15時)くらいに関白邸に参上し、有信を介して内覧に供する文を進上した。
(行事所の請奏二通。頼仲法師、庄司季正を召し進む件)。
口頭で申し上げた。
砂金を蔵人所の先例に従い下されたが、最近、金の蓄えが底をついているとかでどうしたものでしょうかと申し上げると、
前陸奥守義家朝臣に砂金の未進分があると聞いている。早々に、調査し報告せよと。行事所の栄爵の件は、二三人の
中で(?)、仰せに従うべきであろう。早く大殿に申し上げて判断を仰ぎなさいということであった。
次に江中納言邸に向かい、これらの件を相談し、次に参内して、請奏文を奏上すると、すぐに弁官に下された。
御膳を供して夜になってから退出した。

有信:左少弁藤原有信(56)
頼仲法師:源頼仲。出家しているので法師と書かれている。大垣修造を申しつけられ辞退するも、入道が請け負った前例も
あるということで関白が辞退を却下している。
庄司季正:摂津国六車庄司季正?。翌年の記事で、乱行を成した神民を陵礫したと書かれている。六車荘は春日社領のため、
荘民は神民と呼ばれる。
関白:関白内大臣従一位藤原師通(35)
大殿:前太政大臣従一位藤原師実(55)
江中納言:権中納言従二位大江匡房(56)
※この時期、宗忠は行事所の仕事で東奔西走している。
825日本@名無史さん:2009/10/20(火) 20:47:45
>>680 ≪試訳≫

承徳元年(1097) 閏1月27日

今日、陸奥の臨時交易の御馬が分配された。給馬寮使の右近将曹下毛野近末が去年、陸奥に下向して上洛するとき、父の左近将
監敦末が死去し、その喪に服すため、代官を立てて進上させたとか。解文は左大弁が関白殿下に読み上げ、すぐに関白は蔵人弁
時範に渡して奏聞させた。・・・<この後、儀式が続く>

左大弁:参議左大弁従三位藤原季仲
関白:関白内大臣従一位藤原師通(36)
蔵人弁時範:正五位下右少弁平時範(44)
826日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:27:37
中右記

承徳元年
二月廿五日
早旦參殿下、付景實申殿下事、紀伊國行幸道作事已相叶之由、聞食了者、又從藏人所沙金不下給、其直法爲行事所不定也、
可被賜榮爵一人事早可申大殿者、則參京極殿、付尾張守令申、仰云、前陸奥守義家合戰之間不貢金、彼年有行幸者、尋件年
例可申者、次參左大將殿申件事、便參左府御方、一日殿下被仰事、六車庄事、攝津國所澁庄事令申、御返事在別紙、次參殿
下、付惟輔申大殿御返事、着行事所、與左少辨沙汰萬事、次参内供御膳、牛一之後退出之次、行向治部卿亭、殿下被仰旨六
車庄事、攝津國庄事、傳兩絛事、被申旨在別紙、暫言談之後及深更歸家、
827日本@名無史さん:2009/10/20(火) 21:33:38
>>826 ≪試訳≫

承徳元年(1097) 2月25日

早朝、関白邸に参上する。景実を介して関白殿下に申し上げた。
行幸の際に使用する紀伊国内の道路の工事は既に完了との報告を受けていると言うことであった。
また、蔵人所から砂金が下されないのは、相場で見ると行事所側が不足である(?)。1人に栄爵を賜るべきことを早く大殿に
申し上げよとのことであった。
そこで京極殿に参上し、尾張守を介して申し上げた。大殿が仰るには、前陸奥守義家朝臣は、合戦をしている間、金を貢納しなかっ
たが、その年にも行幸があったと言うことなので、この年の例を調査し報告せよとのことだった。
次に左大将邸に参上し、このことを申し上げた。すぐに左大臣のもとに参上し、一日、殿下が仰ったこと、六車荘の件、摂津国の
所渋の荘園の件を申しあげた。(御返事は別紙にあり)。次に関白邸に参上し、惟輔を介して大殿の御返事を申し上げた。行事所に
着いて、左少弁と万事を沙汰した。次に参内して御膳を供した。退出のついでに、治部卿の屋敷に向かった。関白殿下の仰った
話、六車荘の件、摂津国の荘園の件の両方を伝えた。(申し上げた内容は別紙にある)。暫く、雑談し、深更に及んだ頃、帰宅した。

関白:関白内大臣従一位藤原師通(36)
京極殿:前太政大臣藤原師実の邸宅
大殿:前太政大臣従一位藤原師実(56)
景実:藤原景実
惟輔:前上総介藤原惟輔
尾張守:藤原忠教(22)。大殿師実の五男。
左大将:権中納言正二位藤原忠実(20)。関白師通の嫡男。
左大臣:左大臣従一位源俊房(63)
左少弁:左少弁藤原有信(57)
治部卿:権中納言従二位藤原通俊(51)
六車荘(むぐるまのしょう):大阪府豊中市。摂津国原田郷辺り。春日社領。
「其直法爲行事所不定也」(史料大成)→「其直法爲行事所不足也」(大日本古記録)
828日本@名無史さん:2009/10/20(火) 23:17:23
>>682 ≪試訳≫

承徳二年(1098) 1月20日

朝、大盤の後、退出した。
新蔵人縫殿助実光が吉書を申した。(私が、内に申し下し、実光は御裝束を賜った。同時に禁色の宣旨も下された。)
今日、吉書の官奏があった。左大臣が参上されたとか。
これは、前陸奥守源義家朝臣が、院の御意向により除目以前に旧国の公事を完済したとか。そもそも、除目以前にこのような官奏が
行われた前例があるのか調べたところ、蔵人時範が語って言うには、後冷泉院の時代に故美濃守基貞朝臣が公事を完済したとき、
春の除目以前に吉書奏文が行われ、一度に不堪八通が奏上されたとか。これは上東門院により作られ、法印良意が慶賀を申した。
法印良意は御持僧である。
後で聞いたが、先に官奏があり、権右少弁重資朝臣がそばで仕えた。吉書三通(去年の国々)、次に新蔵人が吉書を申し上げた後、
左衛門督に下した。

新蔵人縫殿助実光:正六位上藤原実光(30)
左大臣:従一位源俊房(64)
蔵人時範:正五位下右少弁平時範(45)
故美濃守基貞朝臣:藤原基貞
権右少弁重資朝臣:源重資
左衛門督:権中納言正二位藤原公実(46)
※権右少弁重賢朝臣→権右少弁重資朝臣
※御時僧→御持僧
829日本@名無史さん:2009/10/21(水) 00:29:54
>>682 ≪試訳≫

承徳二年(1098) 1月23日
午の刻くらいに内裏より退出した。白雪が紛々と舞っていた。未の刻くらいに五条西洞院の小屋が焼亡した。
今日、左大臣がいらっしゃって官奏を行われたとか。これは、前陸奥守義家朝臣が、旧国の公事完済により
除目以前に急いで、行われたものだ。このことは院の御意向によるものである。
左大史広親がそばで仕え奏上した。

左大臣:従一位源俊房(64)
左大史広親:伴広親

承徳二年(1098) 1月26日
今夜、前陸奥守義家朝臣に勘出ならびに解由状が下された。今夜は宿侍である。

勘出:前司が提出した正税帳などを各種帳簿と照合して洗い出された不適正な支出や不足分のリスト。補填対象となる。
解由状:国司交替に際して、事務引継が完了したことを報告する文書。
※「勘出を下す」→「勘出の宣旨を下す」?:勘出の一部の補填を免除すること。

承徳二年(1098) 1月27日
早朝に退出した。除目が終わったが、出仕していないので詳細は記せない。後で聞いたことだが、二ヶ国の功課定めが
なされたということだ。(前陸奥守義家朝臣、隠岐守正盛)

隠岐守正盛:平正盛
※前日の26日は宿侍(宿直)だったので、早朝に退出となっている。

承徳二年(1098) 4月2日
小除目があった。
源高実を中宮亮に、源顕通を権亮に、兼信を右馬助に、源義家を正四位下に任じた。
830日本@名無史さん:2009/10/21(水) 01:26:00
院庁はイヤに義家の貢納未納分の事を調べたり催促している。

義家がネコババしたのか、それとも院による清和源氏抑圧政策なのか判らないけど・・・・・

頼義−義家は、陸奥で色々やり過ぎたのだろうか?
831日本@名無史さん:2009/10/21(水) 02:48:18
>>830
>院庁はイヤに義家の貢納未納分の事を調べたり催促している。


いや、それが普通。
受領の最大の役目は官物の徴収だから。

陸奥守の義家に限らず、
日本全国どこの国でも、受領の仕事ぶり(=官物徴収とそれの都への運搬)は朝廷により厳しくチェックされる。
受領の勤務評定のことを受領功過定というのだが、それにパスしないと、国司として失格の烙印を押されて次の赴任先も得られなくなる。


>院による清和源氏抑圧政策なのか判らないけど・・・・・

これも河内源氏警戒抑圧策でも何でもなくて、
上で述べたように、
単なる受領功過定に義家がパスしなかっただけ。

陸奥国の官物たる砂金は当時の朝廷にとって無くてはならない必需品だった。
にもかかわらず義家はそれを滞納した。
832日本@名無史さん:2009/10/21(水) 11:57:09
当初は奥羽の実力者清原氏を手なずけるべく、清原一族の内紛をうまく
コントロールしようと関与していったのだろうけど、泥沼にはまって、多額
の戦費が必要になった。そこで、仕方なく、中央に納入すべき砂金や租税
収入に手をつけてしまった。つまり、公金横領なのだが、その横領分に、参
戦した武士への恩賞分も加わり、莫大な額に上ったので、滅ぼした清原家
衡らを謀反人に仕立て上げ、この合戦を朝敵討伐の公戦としようとしたのだ
が、このせこい工作も関白師通ら公卿に見破られて、あえなく失敗。結局、
私財を投じる羽目になった。それでも、陸奥守時代の未納分は残り、約十年
請求され続けることになった。その間、当然、解由状は下りず、次の職に
つけない。
義家は、追討の宣旨などの裏付け無しに合戦を始めているのだから私戦と
されても仕方ない。それで中央に納入すべき官物などを無断で戦費に使った
のだから受領の義務として、未納分は、納入するのが当然。



833日本@名無史さん:2009/10/21(水) 15:43:33
そこで義家デフォルト宣言ですよ。
834日本@名無史さん:2009/10/21(水) 21:55:34
清衡が恩賞を代わりに出していれば、関東まで勢力下におけたのに。
835日本@名無史さん:2009/10/22(木) 21:59:51
>>834
後3年合戦に勝ち残ったばかりの頃の清衡にそんな力は無いだろう。
後には佐竹氏なんかと姻戚関係を結んでるけどね。

それに義家が私財を投じて配下の武将に与えたお陰で、東国武士からの崇敬を受けることになっていった云々の話は今日学界では殆んどフィクションとみなされている。
836日本@名無史さん:2009/10/23(金) 19:28:32
>>817
1088年に義家が召還されて、それから清衡の陸奥北部での押領活動が本格化する。

1092年の清衡の合戦準備を陸奥国司の藤原基家が制止云々の頃に、反清衡系の豪族
(出羽の清原系仙北三郡の豪族?)との対決がピークに達し、94年には、清衡与党の
平師妙・師季親子が、出羽国府を攻撃破壊し、清衡は奥六郡と仙北三郡を中心とした
奥羽北部は制圧したと思う。
それまでの過程には、清衡は、自分が奥州安部氏の血縁者である事を奥羽北部
の在地豪族にアピールし、自分の支持基盤を固めた感がある。
清衡の奥羽北部制圧は、それだけが成功要因ではないけど、奥六郡の豪族を
清衡の主力の兵力としたのなら、必要不可欠な要素ではないだろうか?

ただ、清衡の奥州安部氏血縁者アピール作戦は、奥羽南部では使えない。

下手に南部でこの事をアピールすれば、外祖父の安部頼良や叔父の貞任と
同じ目に合い、陸奥国司から追討されかねない。

したがって、陸奥南部での押領作戦に取り掛かった時に始めて、摂関家や寺社
などの中央権門と結んで、後ろ盾を得て、国司の権限に対抗できる力を蓄積し
始めたのだろう。

そういう意味で、清衡は奥州安部氏の血縁者であることと、中央官人の血縁者
であり、摂関家との繋がりがあることの双方を利用したと思う。

そういう意味で清衡陸奥押領過程では場所や時期により2面性2重性が感じられ、
この両者をうまく使いこなした感がある。
837日本@名無史さん:2009/10/23(金) 19:52:46
そういう意味で清衡陸奥押領過程では場所や時期により2面性2重性が感じられ、
この両者をうまく使いこなした感がある。 ←×

清衡の陸奥押領過程では場所や時期により2面性2重性が感じられ、この両者
の違いをTPOに合わせて上手く使いこなした感がある。←○

清衡は、基本的には奥羽南部では、国司とは対決しない方針のように思える。

陸奥北部ではともかく、南部では、基本的に国司の斡旋や支持がないと荘園
押領には乗り出さない様だし、その後の荘園の拡大では、第三者の仲立ちで
国司との全面対決を避けている。また、清衡は、陸奥押領史に任官し正六位
になるなど、朝廷の職責や身分秩序へ巧みに参加を表明している。
清衡は、半独立性と言うよりは、むしろ朝廷の行政事務を請負う事で自らの
存在を示し、奥羽押領体制の構築を目指している感がある。

むしろ陸奥国司との対決を辞さず、奥羽の在地領主としての押領体制を顕示
したのは、基衡ではないだろうか?

その基衡も最終的には、陸奥国司に屈服し、摂関家との血縁関係を選択しているが・・・・・・
838日本@名無史さん:2009/10/23(金) 23:20:37
> 清衡与党の平師妙・師季親子が
清衡と平師妙・師季親子が組んでいたというのは、どの史料の記述を根拠にしているのですか?
839日本@名無史さん:2009/10/24(土) 00:25:26
このスレの>>532に出てくる、
> 1093年に平師妙・師季親子が出羽守源信明の館を攻め、1094年に陸奥守
> 源義綱の郎党により鎮圧された。前年の1092年6月には陸奥守藤原基家
> により、藤原清衡に合戦の企ての報告がなされていることから、両者を
> 関連づけ、この師妙親子を清衡の大伯叔父である国妙の子及び孫ではな
> いかとする説がある。
の記述を元にしているだけじゃね?
840日本@名無史さん:2009/10/24(土) 00:38:42
>>839
しかし、それじゃ、根拠になっていないな。どこにも両者が組んでいるなどと、書かれていないし。
あっさり、義綱の郎等如きに鎮圧された事実を考えると、両者が組んでいたと考えるのは不自然な
感じがする。
もし、両者が組んでいたら、平師妙・師季親子は、何かしら、清衡の裏切りを非難したりして、両者の
関係が問題になっていそうだけど、そんな話、全くないしな。
841日本@名無史さん:2009/10/24(土) 00:43:30
姻戚関係があるからと言って、関係が良好だとは限らないし。
842日本@名無史さん:2009/10/25(日) 08:41:51
出羽の争乱に清衡が関与していないと考える方が無理があると思うけどな。
特にこの場合、前年に合戦の準備ありと報告されているわけだし。
なにがあったのかは、非常に興味あるところだけど。
843日本@名無史さん:2009/10/26(月) 11:53:28
前年の合戦の準備というのは、清衡と在地豪族との争いだと思う。相手は清衡と同族
という可能性もあるかもしれない。もし、合戦の相手が出羽守だったら、合戦の恐れと
いう報告ではなく、謀反の動きありという国解になるんじゃないか。
まだ、清衡の権力基盤は脆弱なころだったろうし、その間隙をついて、一族や他の在地
勢力との衝突があっただろうし、また、この状況を見て、陸奥・出羽の国司が在地勢力
に様々な干渉をしていた可能性もある。平師妙・師季の出羽守襲撃は、そういう状況で
発生した、単独の報復行動じゃないかと思う。もし、これに清衡が荷担していたら、もっと
大きな騒ぎになっていそうだし、この事件について、清衡のことに言及されていないと
いうのも、不思議だ。また、義綱の郎等が鎮圧できたというのも、襲撃側が小規模だった
から、可能だったのかも知れない。

十二年合戦や後三年の役で、国司と対決した側はいずれも敗北して凄惨な結果に終
わっている。清衡は、後三年の役では、その凄惨な結末を目の前で見ているわけだし
国司と正面対決するような愚行はしないと思う。清原一族の後継者として有利な位置に
いるわけだし、そんな危険を冒さなくても、まずは、中央権門とのコネを作って、国司に
対抗できる後ろ盾を得るのが賢明なやり方。事実、そうやって摂関家領や寺社領荘園
を多く経営している。

と、ここまで書いたものの、史料にはっきりした記述があるわけでないので、推測の域
を出ないのだが。

唯一、清衡の関与の可能性と言ったら、師妙等の襲撃を影でけしかけたというのがある
が、これは既存の史料で、それを窺わせる記述はないから、妄想の類になるか。
844日本@名無史さん:2009/10/26(月) 12:50:53
>>761 後二条師通記試訳

応徳3年(1086)
9月28日
晴れ。巳の刻ごろ、少納言知家が維摩会の布施のことを申してきたので、承知した旨、返答した。白河行堂念仏の始まりである。
関白殿下と藤大納言が左衛門督を召して、陸奥の兵が事件を起こしたことについて、義綱を出羽に派遣すべきかどうか議論したが、
何も決まらなかった。

巳の刻:9〜11時
少納言知家:藤原知家
関白:従一位藤原師実(45)
藤大納言:正二位藤原忠家(54)か。大納言はもう一人、正二位按察使藤原実季(52)がいる
左衛門督:權中納言正二位源師忠(33)
義綱:源義綱。源義家同母弟。

応徳3年(1086)
10月7日
<略>
夜になって陸奥の義家からの訴えについて公卿らの議定があった。(追って確認すべし)

応徳3年(1086)
10月29日
晴れ。伊勢臨時奉幣使の公卿である右衞門督に障りが生じたので任をとどめ、他の者を使者に立てた。
日入の頃、民部卿の里邸、二条家に参入した。左大弁匡房が控えていた。確と決まっていないということを承った。陸奥の出来事
について尋ねる。不審である。民部卿と匡房は義綱の申文を御覧になり、陸奥守になるべき日を教える所であった(?)。耳にした
ところを記した。

右衞門督:權中納言正二位源俊明(43)
民部卿:權大納言正二位源経信(72)
左大弁匡房:大江匡房(46)

845日本@名無史さん:2009/10/26(月) 12:53:23
>>761 後二条師通記試訳

応徳3年(1086)
11月2日
晴れ。未の刻頃、時雨が降った。
殿に何事かあったのか。時範は大したことはございませんと申した。そして、義綱を召すことを承った。世間は義家の起こした
合戦について尋ねられるのだ。爲房が召して尋ねさせるのである。

未の刻:13〜15時
殿:関白従一位藤原師実(45)
時範:平時範(33)
爲房:正五位下権左少弁左衛門権佐藤原爲房(38)

寛治5年(1091)
11月15日
亥の刻頃に盛長朝臣が来て言った。関白殿の御使者である。清衡(陸奥の住人である)が馬二頭を進上してきたことを仰ったので、承った。
文箱を開けてみると、二通の解文・申文などが入っていたとか。

亥の刻:21〜23時
盛長朝臣:源盛長
関白殿:従一位藤原師実(50)
846日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:37:22
>>844
応徳3年10月29日の義綱の申文って受領申文のことか。
だとすると、義家が追討終了を報告するのが翌寛治元年だから
義綱は義家在任時から、既に後任の陸奥守を狙っていたという
ことになるが、実際は藤原道綱の孫となる藤原基家が就任している。
義綱の陸奥守就任は、寛治7年に基家が死去して後になる。
寛治5年6月には義家と義綱は所領の争いで、合戦寸前の騒ぎを
起こしている。
847日本@名無史さん:2009/10/26(月) 19:48:39
義綱一族は悲惨だよな
848日本@名無史さん:2009/10/26(月) 20:39:33
>>843
襲撃が小規模稼動かは不明で、個人的には、かなりの規模の軍勢を動員したと思います。

何故かと言うと、国司を殺害し、国府を破壊したんだから、それなりの準備と軍勢の規模がないと無理だと思います。

資料がないということで、否定的な意見が多いですが、平師妙・師季の乱は
かなりの規模で、清衡の支援がないと不可能ではないかと仮定しています。

この時期の奥羽は、北部は清原鎮守府将軍家(宗家)中心の体制から、
清衡中心の体制に移行しつつあり、南部に清衡の勢力が次第に南下しつつあると思います。

客観的な資料はないのですが、この流れに沿って考えれば、平師妙・師季の後ろに清衡が居てもおかしくないと思います。

また、平国妙が出羽の住民というのは資料にあります、おそらく出羽の何処かの郡の郡司だと思います。
しかし平国妙と平師妙の関係はよくわかっていません。
849日本@名無史さん:2009/10/26(月) 20:40:55
>>791 後二条師通記試訳

寛治5年(1091) 11月15日
亥の刻頃に盛長朝臣が来て言った。関白殿の御使者である。清衡(陸奥の住人である)が馬二頭を進上してきたことを仰ったので、承った。
文箱を開けてみると、二通の解文・申文などが入っていたとか。

亥の刻:21〜23時
盛長朝臣:源盛長
関白殿:従一位藤原師実(50)

寛治7年(1093) 6月18日
雨が降った。東山道相撲使秦正重が、出羽守信明と合戦となる申文を二通(注文、申文)を献上してきた。年預中将に預けて仰るには、
それらを添えて奏上すべきということであるとか。去る17日、左大弁のところより申文が二通送られてきた。相撲使が非法な目にあったこ
とを訴え申すものであった。

東山道相撲使秦正重:出羽は東山道諸国に属する。相撲使は、相撲節会の相撲人を諸国から集めるために派遣された使者。
出羽守信明:源信明
注文:明細を記した文書。この場合は合戦の死傷者、被害状況などのリストか?
年預中将:左中将源国信(27)
左大弁:大江匡房(53)

寛治7年(1093) 9月17日
晴れ。雨が降った。左大弁がいらっしゃった。後漢書伝第五十一を一日で読み終えた。陸奥守基家が亡くなった。顕仲が今すぐにでも
逗留し罷り登るとのことである(?)。止めようがないことを母のもとより申すところであった。殿下が御教書を下し、舎人2人を添えて遣わす
べきということであった。必ず日次を選ばざるべき由、左大弁に申させたところであった。来る23日に遣わすべきということであった。
左大弁:大江匡房(53)
顯仲:藤原顕仲。陸奥守藤原基家の猶子。
殿下:関白従一位藤原師実(52)

寛治7年(1093) 9月19日
晴れ。陸奥在庁官人のもと、下文らを遣わすところの例とか。
850日本@名無史さん:2009/10/26(月) 21:40:06
>>848
大規模な軍勢を動員して国司襲撃しておいて、その反乱軍が、義綱の郎等ごときに
簡単に鎮圧されるというのは、変じゃない?
しかも史料を読むと「上洛せんと欲する間」に襲撃したとあるから、恐らく、不意打ちで
襲撃したと読み取れる。大規模な軍勢を動員していたら、その過程で露顕する可能性が
高いし、不意打ちするというのも不自然。小規模な軍勢しか動員できなかったからこそ、
不意打ちという奇襲攻撃を選択したのであって、そう考えていくと、師妙・師季親子単独
の行動と見た方が自然じゃないか。
それに清衡は、追討対象にもなってないし、全くお咎め無しなのだから、無関係と考える
のが普通じゃないか。大規模な軍勢を動員して、それに清衡が荷担していたら、間違いなく
追討対象になっているでしょ。

逆に聞きたいが、清衡が荷担して大規模な軍勢を動員したとして、その状況で、義綱の郎等
だけで簡単に鎮圧できた理由は何なのですか?
清衡が全くお咎め無しである理由は?
851日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:47:20
国妙が清衡の父経清に前九年合戦で助命されていることが、
国妙や師妙師季父子にとってどう影響しているとみるか?

単純に恩義に感じているのか、
それとももっと複雑な感情を経清に対して抱いていたのか。
852日本@名無史さん:2009/10/28(水) 17:12:57
>>850
途中で清衡は、師妙・師季親子を見捨てたのでは?

それとこの時点では、奥羽北部では、清衡中心の体制が出来つつあり、
次第に奥羽南部に清衡の勢力が南下しはじめている状態です。

この大枠の流れに沿って、平師妙・師季父子の乱を解釈しました。

>>851
平国妙が黄海の戦いで助命された事は、単純に有難いと思ったんじゃないですか?
それが縁で清衡との関係も出来た可能性も。
853日本@名無史さん:2009/11/03(火) 18:20:54
>>684 中右記試訳

康和5年(1103) 11月1日
・・・<除目の記事>、藤原基頼を陸奥守に任ずる(神社の功績による)。・・・

神社の功績:神宮や春日大社などの神社の修・改築を行ったか。

長治元年(1104) 5月2日
・・・
今日の夕方、小除目が行われる。上卿は民部卿が勤め、宰相左大弁が臨席した。
大膳進紀行俊(放火犯を捕らえた恩賞。中宮侍)
右京進宮道兼政(齊院侍。齊院で窃盗を捕らえた恩賞)
右兵衞佐源顕親(去年の春の除目で右兵衞佐が欠官であったが、誤って左兵衞佐に任じられてしまったことにより、
今夜、右兵衞佐に異動)
同じく少尉藤原親兼(齊院侍。兼政と同じ功績による。但し、傷を負ったとか。それで急ぎ任ぜられたものか)
鎮守府将軍藤原基頼(兼任。去年の春の除目で陸奥守に就任)
大外記師遠が後日に語ったところによると、先例では、臨時の小除目の際は尻付はないが、今回は尻付があった。
頗る先例に違うところだ。「兼」の字があっても、尻付は付けてはいけないのだ。鎮守府将軍は武官の方に入れ
るということだ。

小除目:臨時の小規模の除目
上卿:議長に相当する役目を担う。通常、参加公卿中の最上級者がなる。
民部卿:大納言正二位源俊明(61)
宰相左大弁:参議左大弁正三位源基綱。宰相とは参議の別称。
齊院:ヮq内親王(堀河天皇同母妹)
中宮:篤子内親王(堀川天皇中宮)
大外記師遠:中原師遠
尻付:新任者の官位・姓名の下に小さい字で年齢、前職、任命理由などを書くこと。
854日本@名無史さん:2009/11/03(火) 18:28:30
>>684 中右記試訳

長治元年(1104) 5月3日
朝の間、雨が降っていた。午の刻頃、右衞門督(宗)が内裏に参上した。下官、右中弁長忠、少納言懐季・時俊が
参入した。上卿が外記庁に到着した。下官も外記政が始まるので外記庁に向かった。
少納言時俊と外記が官符に押印した。この官符は、陸奥守基頼が今日、任国に下向するので作成されたものである。
このような官符は急いで押印するものである。
事が終わってから近衛の陣に移動した。南所は物忌みのため立ち寄らなかった。床子の座に於いて弁侍がいつもの
ように申しあげた。
上卿が近衛陣の奥の座に着した。蔵人行盛に内文を行うことを奏聞させた。
<省略>
今日の内文は陸奥守基頼が将軍を兼任する任符である。(任符は史生則元が作成し、左中弁が内印を押印した)
<省略>

午の刻:11時〜13時
右衞門督:権中納言正二位藤原宗通(32)
下官:参議正三位右大弁藤原宗忠(43)
右中弁長忠:藤原長忠(47)
少納言懐季:藤原懐季
少納言時俊:源時俊
上卿:右衞門督藤原宗通になるか?
陸奥守基頼:藤原基頼
蔵人行盛;正六位上藤原行盛(31)
内文:内印(天皇印)を押印する公文書。五位以上の位記や諸国に下す文書などが該当。
史生則元:姓不明(上野則元?)
左中弁:正四位上蔵人頭源重資(60)
855日本@名無史さん:2009/11/03(火) 18:36:13
>>686 中右記試訳

天仁元年(1108) 11月10日
夜になって参内した。大嘗会の悠紀・主基を担当する国司を任命する除目があるためである。殿下の御直廬に参上した。
少々仰せくださるところがあり、蔵人頭為房が御使者となって往反した。民部卿、右衞門督、皇后宮権大夫、私、別当、
左大弁、藤宰相が参集した。そして、議定があった。陸奥国司基頼の申請してきた件などについてである。
一つ一つについて裁許あるべきか詮議した。左大弁が定文を書いた。

悠紀(ゆき):御神酒、神饌を献上する国郡。
主基(すき):悠紀とともに神饌を献上する国郡。
殿下:摂政右大臣正二位藤原忠実(31)
御直廬:内裏内の摂政・関白などの御座所。
蔵人頭為房:正四位上藤原為房(61)
民部卿:大納言正二位源俊明(65)
右衞門督:権中納言正二位藤原能実(39)
皇后宮権大夫:権中納言正二位源顕通
私:権中納言従二位藤原宗忠(47)
別当:検非違使別当参議正三位源能俊(39)
左大弁:参議左大弁正四位上源重資(64)
藤宰相:参議正四位下藤原顕実(60)?
陸奥国司基頼:藤原基頼

天仁元年(1108) 12月30日
陸奥守基頼に重任の宣旨が下った。最近は特に見られないことだ。但し、橘為仲の延任とかがあるが、それく
らいか。とりわけ、基頼は去年の秋に上京している。最近ではこの恩があるが、ならびなき恩賞と言うべきか。

陸奥守基頼:藤原基頼
856日本@名無史さん:2009/11/03(火) 19:01:06
>>686 中右記試訳

天永2年(1111) 1月21日
除目の中日である。よって酉の刻頃に参内した。<中略>
僉議があった。史巡で第一の者である正基は季仲の帥の事件に関わっているが、この件については、まだ法家が
勘文を提出していない。如何であろうか?第二の者である良俊が陸奥国清衡のもとへ行った事はどうであろうか?
人々は定め申して言う。「正基はなお、本罪が決せられていないので、すぐに賞するのは難しいか。」
この中で別当が一人、発言する。「度々の恩赦で赦免されているのだから、どんな問題があるというのか。」
史巡第二については、左宰相中将が発言する。
「五位以上の者が畿外に出るのだけでも制約があるのに、遠国に向かったのだ。よって、第三、第四の者がなるべきであろう。」
私が発言する。
「件の良俊は国家に背いて清衡に従った者であり、最も咎のあるべき者である。但し、下向したのはちょっとの間だ
けで、すぐに馳せ登ってきたという噂を耳にしている。大体、外記史が敍爵の後に、受領の執鞭として遠国に赴き、
巡年の時に参上し、その賞に浴するのは最近では普通の事だ。良俊は早々に参上したと聞いている。どうして外
すべきなのか。」
人々の多くが、私の意見に賛同した。
<省略>

除目の中日:除目は3日間続くので、2日目。
酉の刻:17〜19時
史巡:史(さかん)を長く勤めた功労により受領に任ぜられる順番。
季仲帥事:太宰権帥藤原季仲が筑前で、延暦寺末寺が起こした乱行を鎮圧する際、日吉社神人を殺害し、神輿を破壊。
激怒した日吉社が強訴し、長治2年(1105)11月1日、季仲は解官、12月28日には周防に配流、後に常陸に移配され、その地で死去。
法家勘文:明法家(律令法の専門家)に法的解釈を諮問した際の回答文書。
陸奥國清平:藤原清衡。
左宰相中将:参議正三位藤原忠教(37)
五位以上出畿外有制事也:五位以上の者が畿内五ヶ国より外に出る場合は、事前に申請をして許可を取らないと行けない。
受領執鞭:執鞭は御者のこと。受領の配下としてという意味か。
巡年之時:史巡により受領に任ぜられる権利を得る時期。

857日本@名無史さん:2009/11/03(火) 20:21:30
中右記

保安元年 六月十六日
辰時許參院?一絛、午後歸家、參院之次謁別當尋小泉庄前定使兼元丸沙汰、一日於使廳問之所、
清衡全犯之由承伏了旨所被談也、〈略〉

保安元年(1120) 6月16日
辰の刻頃、院ならびに一条殿に参上する。午後になって帰宅した。院に参上したついでに別当に謁見して
小泉庄の前の定使兼元丸の沙汰について尋ねた。先日、検非違使庁で尋問した所、清衡が???の由、
承伏したことを語られた。

辰の刻:7〜9時
院:白河院
一条殿:関白忠実邸
別当:検非違使別当・権中納言従二位藤原忠教(46)
小泉庄:陸奥国本吉郡にあったという摂関家領荘園と言う説と、越後国岩船郡にあった中御門家(宗忠の家系)領荘園
の小泉荘とする説がある。後者の小泉荘は「中御門右大臣宗忠公譲状案」と称される史料で存在が確認される。
※「清衡全犯之由承伏了旨所被談也」この部分、意味が取れなかった。「清衡全犯之由」は清衡が主犯と言う意味にも
取れそうだが、実際はそうではない。
858日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:01:35
>>752 中右記試訳

保安元年(1120) 6月17日
検非違使有貞が別当の使者として来た。先日、兼元丸が申状に勘問の記録を添えて、送ってきたのである。件の子細
は有定を介して伝えた。
これは、去る七日、殿下の御厩舎人兼友が清衡の使者を伴ってやってきて、申したのである。大いに驚き、検非違使
庁を介して兼元丸を探し捕らえたのである。件の兼元は先年、小泉荘への定使と定められたとき、清衡の金、馬、檀
紙らを奪い取った者である。全くとんでもない大泥棒である。

別当:検非違使別当・権中納言従二位藤原忠教(46)
殿下:関白従一位藤原忠実(43)

保安元年(1120) 6月24日
巳の刻ごろ、院ならびに一条殿に参上した。午後に帰宅した。院で別当に対面したついでに、かの兼元が去年の冬、密か
に小泉荘に下向し、種々の物品を強奪して行ったことを伝え聞いた。そこで、人をやって確かめた。
もし、そうだとすると恩赦が行われた後の犯行か。但し、実否を調べる間、暫く赦免してはいけないことを、伝えたところ、承
知なさってくれた。件の男の所業は非常にけしからぬ事である。そこで暫く放免してはいけないということだった。

巳の刻:9〜11時
院:白河院
一条殿:関白忠実邸

保安元年(1120) 10月9日
少将が帰宅して言った。殿下が仰るには、小泉荘の相博は、よく調べて行うべきである。また、盛実が法性寺の田地について
訴えている件は、使者を使わすべきだと言うことだった。夕方に日野に入った。

相博:別の土地と交換すること。
少将:四位少将藤原宗能。宗忠の息子。
日野:日野にある法界寺。宗忠は法界寺の阿弥陀堂などを建立している。この時期、頻繁に日野に滞在している。
859日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:07:34
>>753 中右記試訳

大治2年 12月15日

民部卿が杖座に参上した。明日行われる最勝寺の灌頂の僧名を決められた。行事は右少弁宗成とか。
今日の夕方、女院の御仏名だった。宰相中将を連れて参入した。三条殿寝殿で散花が行われている時だった。
座に加わり参仕していたところ、暫くして弁官が来て、新院の殿上に於いて議定があるということなので人々は
殿上に来て欲しいということだった。よって座を立ち、新院殿上に参着した(西の侍廊であった)。両三位は
仏名の座に残られるのであった。
藤大納言、私、民部卿、源中納言、別当、左兵衞督、宰相中将、皇后宮権大夫、右兵衞督が殿上に参着した後、
頭弁が文書を下され、各自、目を通したところ、日吉社が陸奥守良兼を訴える訴状であった。宮主法師二人、
一人は殺害、一人は負傷したとのことである。検非違使庁に下され実検したところ、その傷は治ってはいるが、
傷跡は歴然としているとのことである。但し、国解では、住人清衡が山門の千僧供養のため、700町の土地
を囲って保を立てたということである。これは有宗朝臣の時代に立て始めたが、その後の国司の時に田数を拡
大したのである。そして、新立荘園を収公しようとした際に、日吉社の使者が乱行に至ったのである。
右兵衛督がこれを読み上げ、発言した。
「件のことは最も沙汰あるべきか。但し、去年12月に非常の恩赦が行われている。この恩赦の対象とすべきか
について勅定を賜るべきである。」

<つづく>
860日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:08:44
>>753 <つづき>

皇后宮権大夫師時が発言する。
「乱行した国司郎従ならびに官使等を召し上げて庭において対面させ、きちっと対決させて、沙汰するべきか。
本当のところがわかりにくいからである。但し恩赦の対象とすべきかについては勅定によるべきである。」
ということであった。
一同、この意見に同調した。
私が発言した。
「証人等を召し沙汰せらるべき趣き、皇后宮権大夫の定め申すところに同意する。但し、恩赦の対象に該当す
べきかどうかについては法家に問うべきである。このようなことは、過去、恩赦を受けたり、あるいは受けなかっ
たりするので、明法家に問い、その申すことに従い、判断するべきかと。」
藤大納言<一字欠けており意味が取れないため省略>
一同の意見を頭弁を介して奏上させた。文書を作ることはせず、ただ、口頭で申し上げた。
一同は仏名の座に戻った。錫杖の最中であった。
<省略>

<更につづく>
861日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:09:27
>>753 <さらに続き>

民部卿:権大納言従二位藤原忠教(52)
仗座:近衛陣
右少弁宗成:藤原宗成?
宰相中将:参議左近衛中将従三位藤原宗輔(51)
三条殿:女院の御所
新院:鳥羽院
藤大納言:大納言正二位藤原經実(60)?
私:権大納言正二位藤原宗忠(66)
源中納言:中納言正三位源顕雅(54)?
別当:権中納言従三位藤原実行(48)
左兵衞督:権中納言従三位藤原実能(32)
皇后宮権大夫:参議従三位源師時(51)
右兵衞督:参議正四位下藤原伊通(35)
頭弁:蔵人頭右大弁正四位下源雅兼(49)
日吉社:現在の日吉大社。比叡山山麓にある神社で延暦寺の守護神。かつては神仏混淆により延暦寺と一体化していた。
陸奥守良兼:藤原良兼
山、山門:比叡山延暦寺のこと。
※「被濫行庭於相逢國司郎從并官使等召上」:この部分、意味が取れないため、推測で意訳しました。
※このあとの記述で、頭弁の話として、本院(白河院)が非常の恩赦の対象としない沙汰を下したと書かれている。

862日本@名無史さん:2009/11/03(火) 21:11:42
>>753 中右記試訳

大治3年(1128) 5月29日
止雨奉幣があった。
去る13日、陸奥住人清衡が亡くなったとか。73歳。
863日本@名無史さん:2009/11/04(水) 02:18:29
>>758 長秋記試訳

大治4年(1129) 8月21日
無事ご出産の後、院がお帰りになられた。関白が参上なさった。
頭弁が語るところによると、陸奥国の清衡の二人の子が合戦に及んだので、公事が多く欠怠したと言う。兄弟の名は
基衡と惟常とか。

院:鳥羽院
関白:関白従一位藤原忠実(33)
頭弁:蔵人頭右大弁正四位下源雅兼(51)
※前日に五の宮(体仁親王・覚性入道親王)が誕生している。

864日本@名無史さん:2009/11/04(水) 02:19:38
>>758 長秋記試訳
大治5年(1130) 6月8日戊寅
晴れ。治部卿が来て語るところによると、
先頃、陸奥の清衡の長男(字を小館)が弟(字を御曹司)に国の館に攻め込まれ、その攻撃が激しくて堪えきれず、子息
や家来ら20人余りを引き連れて、小船に乗って越後国に逃れた。それを聞いた弟は、軍勢を動員して、陸地より追いか
け、海上を航行していた長男等が強い波風に遭って元の場所に戻ってきたところを弟が襲撃して、父子ともに首を斬られ
たとか。この話は、清衡の妻が奏上した話である。この清衡の妻は、上洛して、検非違使義成と再婚し、その後、夫の行
く先々についていって珍宝を献上したが、中でも検非違使別当は強欲で、それらを巻き上げて、自ら院の御前に出向いて、
自らの献上品として献上したので、人々の非難の的になったとか。

治部卿:権大納言正二位源能俊(60)
長男:藤原惟常
弟:藤原基衡
国の館:陸奥の国の館と言う説もあるが、小船で越後に逃れたとあるので、出羽の国の館と思われる。
清衡の妻:?
検非違使義成:源義業(源義光の子)?
検非違使別当:権中納言左衛門督正三位藤原実行(51)
院:鳥羽院

※清衡の妻について
・元永二年に書写された大品経巻第二十二の奥書に「大檀主藤原清衡」の後に小さい字で「北方平氏」と書かれている。
・天治元年八月二十日付の金色堂建立棟木墨書銘に「大檀散位藤原清衡」の後に「女檀」とあり、その下に横一列に
「安倍氏」「清原氏」「平氏」と並べて書かれている。
上記2つの史料から、清衡には少なくても3人の妻がいて、平姓の女性が「北方(きたのかた)」つまり正妻だろうと
されている。ただ、今回の記事に登場してくる清衡の妻が、誰だったのかは、様々な解釈があり、とりあえず不明としておく。

※「所被追貢物手自被持參院御前」の記述は、「所被追貢物、手自被持參院御前」として、「追われる所の貢ぎ物、
手ずから院の御前に持参せらる」と読む説、『春光』では「所彼進貢物乎、自被持參院御前」とあるので、これから
「かの進むる所の貢ぎ物か、自ら院の御前に持参せらる」と読む説がある。今回は前者の読み方を採用した。
865日本@名無史さん:2009/11/04(水) 02:58:51
清衡が亡くなった翌年、早くも子息の間で殺し合いが起こる。
長男の惟常は出羽国府の館(?)に籠もり、それを弟の基衡が攻めて討ち取る。
長男の字は小館に対して、弟の字は御曹司、つまり嫡男。
清衡の妻の一人は上洛して、この事件を院に(?)奏上し、陸奥に戻らず、検非違使義成と再婚する。
この義成を源義業とすると常陸の佐竹昌義の父となる。
この清衡の妻が北の方である平姓の女性だとすると、殺された惟常の生母だったのか、あるいは
どちらの生母でもなかったのか。基衡の生母だとすると、上洛して再婚したまま基衡の元に戻らない
のは不自然になる。しかし、北の方の息子が嫡男でないのも不自然。
惟常が出羽国司の館に籠城したのは、出羽の在庁官人だったからか、あるいは出羽国司と関係が
深かったからか。
そもそも、なぜ、この兄弟は対立して、合戦に及んだのか。

当時の奥州藤原氏の内情をほのめかせる、なんとも興味深い事件ではある。
866日本@名無史さん:2009/11/04(水) 03:13:10
> ※「所被追貢物手自被持參院御前」の記述は、「所被追貢物、手自被持參院御前」として、「追われる所の貢ぎ物、
> 手ずから院の御前に持参せらる」と読む説、『春光』では「所彼進貢物乎、自被持參院御前」とあるので、これから
> 「かの進むる所の貢ぎ物か、自ら院の御前に持参せらる」と読む説がある。今回は前者の読み方を採用した。
これは、
「所被追貢物、手自被持參院御前」→「貢ぎ物を追われるところ、手ずから院の御前に持参せらる」
「所彼進貢物乎、自被持參院御前」→「かの貢ぎ物を進むるところか、自ら院の御前に持参せらる」
だな。
前者の読みだと、別当に強引に奪われそうになったが、清衡の妻自らが院の御前に参上して献上したとも読める。
867日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:14:41
この辺のところ、興味深く拝見しています。
ところで、惟常が出羽国府にいた、とする根拠はあるのでしょうか。それは間違いではないかと思うのですが……

是非、このページをのぞいて見てください。
奥州江刺郡「豊田館」考
http://www.asahi-net.or.jp/~ac6i-kryu/
868日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:54:02
俺も同じサイト引き合いにして問題提起しようと思ってたところ。

先越されたw
869日本@名無史さん:2009/11/04(水) 16:59:15
でも工藤先生は蝦夷アイヌ説と辺民説を止揚された方だし、尊敬に値する研究者なんだけどね。

まあ、たまに勇み足が過ぎてしまうところがあるのはご愛敬w
870日本@名無史さん:2009/11/04(水) 21:18:02
アイヌ説?ばかじゃねえの?
871日本@名無史さん:2009/11/04(水) 21:53:18
アイヌ説
872日本@名無史さん:2009/11/04(水) 22:54:07
>>870
是非ともあなたの蝦夷に対する「ばかじゃ」ないご高説を承りたいのですが。


873日本@名無史さん:2009/11/05(木) 01:56:16
>>867
そのサイト見たけど、小船で越後に逃げた下りに対する説明が不十分では?北上川河口から小船で
越後まで向かうのは、発想としてあり得ないでしょう。津軽海峡まで北上して越後に南下するつもりだっ
たと考えているのか?だとしたら、無謀の極みとしか思えない。とても小船では行き着けない。それだっ
たら、むしろ、陸路で越後に向かうのでは?
このサイトの記述と同じく、私も「平泉の世界」で「多賀の国府と思われる」とあっさり書かれているだけ
で、その理由が何も書かれていないのには引っかかっていて、>>869さんのご推察通り、「平泉への道」
(工藤雅樹著)の中で、「小船で逃げたとあるから出羽の国府の可能性が高い」という記述を見つけて、
こっちじゃないかと思った次第です。出羽国府は日本海沿岸に近いところにあったと思われるので、
沿岸伝いに越後まで小船で下ることは可能だろうと。そして、基衡は、それを沿岸沿いに陸路で追いか
けた。これなら、現実味があります。

また、なぜ、惟常が出羽国府の国の館にいたかについては、前掲の本の中に理由が書かれているの
で詳細は省略しますが、私自身の推測としては、清衡は安倍氏、清原氏、平氏と、奥羽の有力氏族
だった家系とバランスよく婚姻関係を結んでいるので、出羽に根を張った在地豪族の娘と婚姻関係が
あった可能性もあります。そして、惟常の生母が出羽の在地豪族の出で、そのせいで、惟常は陸奥
ではなく、出羽に居住しており、惟常が出羽の在庁官人として、出羽国府に出仕しているところを基衡
が責め立てたというシナリオを想定しました。その背景には、基衡派と惟常派の対立というのがあり、
その背後には、それぞれの生母に連なる有力氏族の利害の対立があったのではということです。

とは言え、長秋記だけの記述では、あまりに不十分で、推測の割合が多くなってしまうのは仕方ない
ところで、出羽の国の館とは、100%断言はできませんが。
ただ、私としては、国の館から小船で越後に逃げようとした下りを合理的に説明できる説があれば、
そちらを採用したいと思っています。
874日本@名無史さん:2009/11/05(木) 02:47:30
>>856
>受領執鞭:執鞭は御者のこと。受領の配下としてという意味か。

実際は受領が任期中に雇った期間契約スタッフのようなものだろうね。
良俊のような外記などに多かった。
あとは軍事貴族。
清衡の父・経清自体が元々陸奥守登任に雇われた軍事スタッフだったともいうし、あと平正盛(清盛祖父)なんかもそう。
良俊(中原氏?清原氏?小槻氏)にしろ、経清にしろ、正盛にしろ、
諸大夫身分でも受領は数が少ないのでなかなかそのポストが巡ってこない。
よって受領の順番待ちしている間に副業で、受領になった人間と私的契約を結んで現地に赴く、ということを多くの受領にありつけない諸大夫クラスの貴族がやっていたようだ。

良俊の場合は、雇い主は受領ではないが、
清衡は広大な奥六郡などの経営をしていく上で、恐らく都の有能な実務官僚スタッフを必要としており、その点で良俊と思惑が一致したのだろう。

875日本@名無史さん:2009/11/05(木) 11:24:42
> 実際は受領が任期中に雇った期間契約スタッフのようなものだろうね。
> 良俊の場合は、雇い主は受領ではないが、
> 清衡は広大な奥六郡などの経営をしていく上で、恐らく都の有能な実務官僚スタッフを必要としており、その点で良俊と思惑が一致したのだろう。
恐らく、そうでしょうね。
荘園経営に関連する文書や申文や解文を作成するときなどは、専門知識や経験のある事務方の実務官僚がいると助かる。

ただ、気になるのは、清衡と良俊は面識があったのかってとこですね。清衡は上洛したことがないはずなので、都で、清衡が良俊を
知ったってことはない。とすると、良俊がかつて(それこそ受領の執鞭として)陸奥に来たことがあるのか、それとも、仲介する人物が
いて、良俊を清衡に斡旋したのか。清衡は一地方豪族だから、上位の仲介者が間にいないと、直接、依頼しても門前払いされそうな
気がする。それとも、かつて陸奥守に同行して下向していた下級官人とのコネを利用して、良俊に行き着き、更に、そのときの報酬が
破格だったから下向したのか。

基衡・惟常合戦の記事で、清衡の妻が珍宝を献上して回ったとあるが、だとすると相当な財産家だろうし、一地方豪族に過ぎない清衡
の死亡記事が中右記に載っているのも、何か示唆的。清衡は、都で相当な金品をばらまいていて、それで、都でも清衡の名は、結構、
知れ渡っていたのかもしれない。

「但し白地に下向し、則ち馳せ上るの由、風聞あり」というのも、ちょっと気になる。「白地」というのは「あからさまに」ということで、つまり
「一時的に」とか「ちょっとの間」という意味なんだけど、ちょっとだけお手伝いして終わりというのも不思議だ。急に都の実務官僚の手腕
が必要になってちょっとだけ来てもらったのか、あるいは依頼を受けて下向してみたものの、嫌気が差してすぐに都に戻ったか。
876日本@名無史さん:2009/11/05(木) 16:26:21
>>873
「小舟で逃げた」ことが、出羽の国府説の根拠とされていますが、はたしてそうでしょうか?

長秋記には、長男の惟常が『子を率い廿餘人を従え、小舟に乗り越後の國に逃ぐ、
弟その由を聞き、軍兵を発し、陸地より之を追う、先に海上に浮かぶといえども、
風波の難に遇い、本地に還り着くの間、弟の兵等襲来し、父子共首を切りて去る
と云々』とあります。

金色堂を造営し黄金の平泉の建設に邁進する、日の出の勢いの奥州藤原氏の実業を
一手に担い、都への貢物等の舟運を業としていた小館惟常の一族が、窮余の末越後
の国へ逃亡することを考えた時、一艘の小舟に身を託しただけと、哀れな想像を誰
ができるでしょうか。

小舟に乗ったのは出発の様子を伝えたものと考えられます。惟常の居館の下を流れ
る新川から出て行く時、20人余と身辺の荷物があったでしょうから、小舟は1艘
だけではなかったと思われます。そして北上川で20人以上乗れる船に乗船したの
ではないでしょうか。この兄の逃亡の報告を聞いた基衡は、部下の軍兵を指揮し陸
路を北上川沿いに追跡した。しかし追いつかれる先に惟常一行は海に出ることがで
きた。『先に海上に浮かぶ』という言葉には、もはや小舟のイメージはないように
思われます。さらに『海上に浮かぶといえども、風波の難に遇い、本地に還り着く
の間』とあり、嵐にあっても遭難せず、本地に帰還した船であったことが明らかで
はないでしょうか。
877日本@名無史さん:2009/11/06(金) 17:36:59
>>875
諸大夫や受領の執鞭(を勤めた者達)の中には、
受領や清衡のような在地の有力豪族に「執鞭」を斡旋することを、半ば副業にしている者も結構いたとみても良いんじゃないか?
源義家が、坂東の豪族の土地を権門に寄進するための窓口=斡旋業者のようなものだったと最近では言われているように。

因みに、興福寺修復のために藤氏長者頼通が全国の藤氏諸大夫に寄進を要請した『造興福寺記』(1047年)に記されている名簿だと、
藤原氏だけで五位の者の人数は331名にも達している。
藤氏だけでこの数だから、
他氏の五位貴族も含めると、当然その数は更に膨大なものとなるだろう。
対して受領の数は60余州分しかないし、仮に全ての国に権官をもうけたとしても、その倍の数しか任官できない。
こう見ると、いかに受領のポストが諸大夫層にとって高嶺の花だったかが分かる。

だから、諸大夫は受領待ちをしている間、「執鞭」として総称される様々な副業をしていたであろうことが容易に想像できるし、
また、
清衡のような大豪族が地方に誕生することは、これら諸大夫層にとってはそれだけ仕事にありける機会が増えるということで歓迎すべき事態だったと思えるんだけどね。
878日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:52:33
>>876
レスが大分遅れましたが、もう少し、「国館=出羽国府説」で頑張ってみますね。
まとまりもなく、長くなりますがご勘弁を。

まず、訳がちょっと不適当だったところもあるので、問題の部分を再度、引用してみます。

先比(さきごろ)、陸奥の清衡の長男(字小館)、弟(字御曹司)のために、国の館に責め籠まる。
しかるにその責めの堪え難きにより、子従二十余人を率い、小船に乗り、越後国に迯がる(のがる)。
弟、その由を聞き、軍兵を発し、陸地よりこれを追い、海上に浮くと雖も、風波の難に遭い、
本地に還り着くの間、弟の兵等襲来し、父子共に首を切り去ると云々。

この間の状況を整理すると、
・小館と呼ばれた長男と御曹司と呼ばれた弟がいて、対立していた。
 呼び名から弟の方が嫡男の扱いを受けていたと想定され、その生母が正妻扱いであったことも想定される。
 ※大治4年8月21日の記事から長男は惟常、弟は基衡とわかる)
・基衡が惟常のいた国館を責め、閉じこめた。
・惟常は、厳しい包囲に堪えかね、子息、家来、20人余りを連れ、包囲網を突破した。
・包囲網を突破した一行は小船に乗り越後に向かった。
・逃げられたことを知った基衡は軍勢を動かして陸路で追いかけた。
・基衡が追いかけてくる間に惟常一行は海上に出ることができた。
・しかし、惟常一行は海上の強風と荒波に遭って、戻らざるを得なくなった。
 ※遭難して元の場所に漂着したともとれる。
・その情報をつかんだ基衡は、惟常一行の居場所に急行し、捕らえて、惟常親子の首を切った。

<つづく>
879日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:06:59
<つづき>

さて、国館を「ふる里の館」つまり旧居であった豊田館とする説では、
・基衡の軍勢が惟常の住んでいた豊田館を包囲したが、
・惟常は逃亡して、人首川(ひとかべがわ)、北上川を小船で下り
・知らせを受けた基衡が平泉から軍勢を率いて追いかけ、
・惟常一行は海上に出たが強風と荒波にあって戻り、
・そこを、追いついた基衡一行が襲撃して討ち取った
この説が問題点としているのは、
・国館を攻撃したとしたら謀反であり基衡はただでは済まなかったはず
・陸奥国府(多賀城)は海に近く、逃亡したらすぐに海上に出られるはずで陸路を追いかけたというのは不自然
・出羽国府説では、長秋記の記述と合わない点が多々ある。(詳細は割愛します)

<更に続く>
880日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:10:26
<更につづき>

ここから本題。豊田館説の問題点を指摘しつつ、出羽国府説の妥当性を書いていきます。
・基衡は後に惟常親子の首を切り落としているように、殺す気満々なのに、なぜ、国館では、包囲したまま手出ししなかったのか。
 豊田館は豪族の私邸なのだから、火をかけたり敷地内に侵入して破壊、殺害しても問題はないはずである。
・中世の山城のような高度な築城技術はなかったろうし、城柵を思わせる記述もないことから、殆ど武装していない館だったと推
 測されるので、尚更、包囲したまま手出しをしなかった理由がわからない。
・包囲して投降を待つのなら、館内に突入して惟常親子を捕縛した方が手っ取り早く、その方が兵粮などの戦費もかからない。
・惟常の館である豊田館を包囲したのなら、当然、惟常側も応戦したはずであり、ここで合戦となるはずだが、その形跡が記述か
 らは窺えない。
・基衡が包囲しただけで手出しできなかったのは、国司の館だったからであり、もし施設を破壊したり、館内に軍兵が侵入したり
 すると、謀反と扱われかねないので自重していた。包囲するだけなら、もともと、豪族の内紛から起こったことで国司に敵対する
 意志はないのだから、豪族の内紛に巻き込まれたくない、あるいはこれ以上騒動を大きくして公事の停滞を拡大したくなかっ
 た国府側は傍観していた。
 ※恐らく、基衡は、目的は惟常一味で、国司側には何ら危害を加えないことを明確に意思表示していたと思う。また、国司側も
 騒動に巻き込まれたくないため、惟常を基衡に差し出すような動きをしていたかもしれない。それが惟常に危機感を与え、逃亡
 を促す結果になったことも考えられる。
・国館に出仕していたタイミングだから伴の者は少人数であり応戦の準備は全くしていないはずで、惟常側は全く反撃できず、
 また、長期間の包囲にも堪えられるはずもないので、包囲開始から逃亡までは、そんなに日数は経過していないと思われる。
 ※在庁官人だからといって、惟常が出羽国府周辺に居住していたとは限らない。

<更につづきます>
881日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:15:17
<つづき>
・逃亡者に子息も含まれているが、大治3年に死去した清衡が73歳とあるので、長男惟常は40代後半から50代であろう。
 すると、その子息には20代から30代と想定される者がいてもおかしくないので、共に国の館に出仕していても不思議では
 ない。
・惟常は包囲網を突破したあと、人首川(※)、北上川と下って、海上に出たとあるが、その場合、平泉の目の前を通過すること
 になる。こんな無謀な逃走経路を採用するのか。
 ※この辺りの人首川は浅瀬もある渓流で、断崖絶壁の渓谷なので、しばらくは陸路を逃げて北上川から小船で下ったか。
・江刺から北上川河口までは直線距離で60キロはあり、一関を抜けたあと、東に蛇行、更に相模土手の辺りで南下せずに西に蛇
 行して迫川に合流する流路になっていたようなので、更に距離は伸びる。蛇行していたから浅瀬に乗り上げないよう操船する必
 要があり、高速で下り続けるのは難しいだろうし、基衡は騎馬で追いかけただろうから、途中で追いつけそうな距離である。更
 に、件のサイトでは、基衡は平泉から軍勢を発したと想定しているようなので、追いつくのには更に有利になる。果たして追波
 湾、あるいは石巻湾(※)まで出られたのか疑問。また、平泉から別働隊を出して船で追跡させることもしたのではないか。
 ※北上川下流域は江戸時代に河川改修が何回か行われていて、現在とは流路が違っている。河口付近では、2つに分流しており、
 一方は現北上川に沿って追波湾に注ぎ、他方は旧北上川に沿って石巻湾に注いでいたらしい。
※件のサイトでは、「前年から二子合戦の情報は都に伝わっていたのだから」とあって、大治4年8月21日の記事の指す合戦と
 今回の合戦を別物と見ているが、合戦後に上洛して再婚した清衡妻の奏上した内容に関する記事だから、一年くらいのブランク
 があっても不思議ではないので、同じ合戦を指していると思われる。

<まだ、つづきます>
882日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:17:08
<つづき>
・出羽国府を山形県酒田市城輪柵跡と推定するならば、近くに荒瀬川、日向川があり、川伝いで海に出られる。
 海岸線まで5,6キロ。逃亡に気づいて、基衡軍が包囲を解いて追撃に移ったとした場合、陸路で追いかけるのは不自然で
 はない。わざわざ、川船を調達して同じ川を追いかける方が不自然。
 更に、距離からして、逃亡が発覚して陸路で追いかけている間に、惟常一行が海に出ていても不思議ではない距離である。
・国府の近くの川なら、物資輸送のために日頃から川船が用意されている可能性も高いので、逃走に川船を使用するのは、難しく
 ないと思われる。
・基衡が出羽の国館を包囲していたとしたら、遠く出羽まで出向いているわけだから、本人もその包囲軍とともに出羽にあったの
 は当然であり、平泉にいたというのは不自然。「その由を聞いた」場所は、遠征軍の陣中。
・惟常が越後に逃げた動機に越後の城氏との血縁関係を想定しているが、もし、血縁があるなら、越後に近い出羽に居住している
 方が江刺より自然な気がするが。当時の風習では、子供は妻の実家が面倒見ることが多いから、妻の実家の屋敷で養育されてい
 たと考えるのも不自然ではないし、だとすれば、出羽にいてもおかしくない。母方が出羽の豪族であれば、出羽の在庁官人として
 出羽の国の館に出仕していることもおかしくない。清衡が、出羽支配のため、出羽国府周辺に長男を配置したというケース以外に
 も、長男の生母の実家が出羽の豪族だから出羽に居住していたという可能性もあるのでは。
・包囲を突破したあと、出羽の私邸に向かわずに船で越後に向かったのは、恐らく、私邸が既に基衡の軍勢の手に落ちていたか、
 陸路で私邸に向かうのは基衡軍と遭遇する可能性が高く、より安全な海路で越後の縁者を頼ったからと思われる。もしかしたら、
 基衡は国館包囲軍と惟常私邸攻撃軍とに二手に分け、基衡本人は惟常私邸攻撃軍の方にいたかも知れない。

<まだ、つづきます>
883日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:19:47
<つづき>
・長秋記の記述では惟常には官職名がないが、尊卑分脈には清衡は陸奥押領使とあるのに、中右記の死亡記事では単に「陸奥住人」
 となっていることでもわかるように、別に在庁官人の官職名が明記されていなくても不思議でない。更に清衡妻は、基衡の字を
 「御曹司」と紹介し嫡流であることを否定していないし、基衡の所業を非難している節もないことから、惟常側の人間でない可
 能性が高い。むしろ珍宝を献上して基衡が嫡流を相続したことを宣伝しているから、基衡寄りの人間だった可能性もある。だと
 したら、尚更、惟常の官職名は口にしないだろう。
・清衡妻が「ふる里の館」という意味で「国の館」と言ったとしたら、それを聞いた周囲の人たちが誤解して国司の館なのか問い
 質したのではないか。その結果、通常の意味とは違うとわかった源師時が日記に、そのまま「国館」と書くのか。

長くなりましたが、この辺で終わりにします。
884日本@名無史さん:2009/11/14(土) 21:08:34
歴史をひもとく楽しさを存分に味わわせてくれるレス、有難うございます。
可能性のつばさが幾重にも広がっていますが、ポイントは「国館」の解釈にあります。このレスの最後で、

>・清衡妻が「ふる里の館」という意味で「国の館」と言ったとしたら、それを聞いた周囲の人たちが誤解
>して国司の館なのか問い質したのではないか。その結果、通常の意味とは違うとわかった源師時が日記
>に、そのまま「国館」と書くのか。

とありましたが、むしろその逆ではないでしょうか。京の都の中枢の貴族たちが国の先端の機関である国府
を、地名をつけずただ「国館」と書くようなことがあるとは思えません。
清衡妻に問い質して出羽国府と確認したのなら、はっきりとそう記したのではないでしょうか。
885日本@名無史さん:2009/11/14(土) 23:06:36
どこで読んだか忘れたが、平安も中後期になると各国の国衙(役所の建物)は廃れて、国司たちはそれぞれの館(国の館=知事官邸のようなもの?)で政務を執るようになったと聞いた。

でも記憶が曖昧なので、詳しくは自分で図書館で調べるなり、ググるなりしてくろ。
886日本@名無史さん:2009/11/15(日) 01:51:35
「国館」という語の用例について。

貴族日記では「国館」という語は、調べた範囲では他に用例が見つからなかった。
但し、「守館」という用例なら、小右記や、国府跡(筑後国府など)の遺跡から発掘された墨書土器に見られる。
ただ、今昔物語集では、巻第二十六「陸奥国の府官大夫の介の子の語 第五」に「国の庁に常にありて」とあって
「庁」を「たち」と読ませている。この用例の類推で「国館」と書かれてあっても「国守の館」の意ととるのは可能だろう。

ちなみに「くに」を「ふるさと、故郷」という意味で使う用例で言えば、万葉集の歌(19-4144)にあり、そこで
は「燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)偲ひつつ雲隠り鳴く」と「本郷」を「くに」と読ませていて、「国」
という字は使用していない。

長秋記の記事で単に「国館」とあってどこの国の館か書かれていない事情はわからないが、もし「国」を
「ふるさと」という意味で使用していたとしても、地名を明記していないという点がひっかかるのは、どちら
も同じだろうと思う。
つまり、「ふる里の館」でどこをふる里と言っているかは清衡妻にしかわからないのだから、それを問い質して
聞いた人たちは、どこどこにあった「国館」とか「どこどこの館」と書くだろうし、普通に考えると、「国館」のような
書き方でなく、「長男の館」という風に書くのでは。
だから、国名がなくても、それが直ちに豊田館を指すという根拠にはならないと思う。

話は変わるが、惟常は国館に出仕していたところを基衡に包囲されたとしたが、これは基衡軍に追われて
国司の館に逃げ込んだところを包囲されたと見た方がいいかもしれない。最初から国司の館を包囲するつ
もりだったという発想は、ちょっと無理があるかも知れない。
「被責籠国館」というのは「責められて国の館に逃げ込んだところを包囲されて閉じこめられた」という解釈。
887日本@名無史さん:2009/11/15(日) 01:56:17
>>886の補足

ただ、20人余りと少人数だし、応戦の記述もないから、出仕のために国府周辺に来ていたところを
襲撃されたということで。
888日本@名無史さん:2009/11/15(日) 16:44:16
とどのつまり、清衡の妻の言葉から出た「くにの館」で、地名の特定は不可能で、あとは解釈しかないので
すね。
では、基衡は惟常をなぜ攻めたのか。遠い出羽の国府に勤務する官人でおとなしそうな兄を、遠征までして
攻めた理由があるでしょうか? まして勢力を維持したい出羽で悪評をかきたてるような暴行をするとは?
889日本@名無史さん:2009/11/16(月) 10:29:55
>>888
> では、基衡は惟常をなぜ攻めたのか。遠い出羽の国府に勤務する官人でおとなしそうな兄を、遠征までして
> 攻めた理由があるでしょうか? 
> まして勢力を維持したい出羽で悪評をかきたてるような暴行をするとは?
襲撃した理由は、長秋記の記事にも、それ以外の史料にも書いてないのだから、憶測にしかならないが、現時点では
以下のように考えている。

清衡は、そもそも亘理経清の息子で、清原とは血のつながりはない。それが生母の再婚により、清原一族に入った
いわばよそ者。それが清原の遺領を継承する立場になってしまったのだから、出羽の清原系の豪族達が、どう感じた
か、一部に反発する者があってもおかしくない。出羽においては、清衡の権力基盤に脆弱なものがあったことは推測
が可能である。しかし、清衡がいた頃は、清衡の力で、この対立は抑えられていたが、清衡が没したことで、重しがな
くなった出羽側の勢力が惟常を担いで、分離の動きが一気に表面化したとも考えられる。
一方、基衡は、この動きに対して、先手を打って、惟常を殺害し、惟常一派を解体させ、自身の権力基盤を安定させた。
この騒動は、奥州藤原氏内部の紛争で、中央政府にとっては、一時的な公事の欠怠があるにしても、反逆行為では
ないので、基衡に対してペナルティを課すことはないし、基衡は公事を拒否しているわけではない。一時的に悪評が
たったとしても、その結果、奥羽の在地が安定して、官物納入などがスムーズに行えるようになれば、中央政府は、
この騒動を不問に付すはず。その辺りも見越して、基衡は行動に移していたかも知れない。

また、兄をおとなしいとしているが、そうは決めつけることはできない。今回、合戦の準備をしていないところを襲撃
されたので、一旦、安全なところに身を引いて、捲土重来を期したと考えられるので、これは、臆病だからということ
ではない。そもそも、兄弟間に合戦が起きたのだから、この兄弟間に何らかの利害の対立、しかも深刻な対立が
あったはずで、惟常は、単に基衡に先手を打たれたに過ぎない。惟常はおとなしかったのではなく、下手を打った
だけのこと。
890日本@名無史さん:2009/11/16(月) 14:56:11
おとなしそうと言ったのは、兄惟常に戦意が感じられなかったからで、父清衡の遺志を帯して平穏に事態を
終息させようとして、一方的にやられていたように思えたからです。

この前年に伝えられた二子合戦の報と、清衡妻の報じた戦いが同じ事件と考えるのには同意ですが、どちら
の記事も二人の兄弟の争いだけにしか見えず、
>出羽側の勢力が惟常を担いで、分離の動きが一気に表面化した
という史料の片鱗さえ出てこないのは、まことに残念!ですね。
出羽国府を舞台にして、出羽の清原一族が藤原氏に叛旗をひるがえしたというのであれば、まさに大事件で
はありませんか‥‥。そして基衡は軍兵を率いて陸奥から出羽へ遠征したというのですから‥‥。中央政府は
不問に付すとしても、騒動の情報は伝わっていたはずでしょうに。
891日本@名無史さん:2009/11/16(月) 17:43:26
> >出羽側の勢力が惟常を担いで、分離の動きが一気に表面化した
> という史料の片鱗さえ出てこないのは、まことに残念!ですね。
挑発してんの?
892日本@名無史さん:2009/11/17(火) 09:11:06
楽しいやりとり、有難うございます。おかげで、深く考えているうち、今朝ハッと思いつくことがあ
りました。この間のQ&Aを含めて、整理してホームページに出したいと思います。ご了承願います。
もしかして大発見!かも‥‥。ちょっと時間がかかるかも‥‥。史料はよく読まないといけませんから。
893日本@名無史さん:2009/11/18(水) 01:57:29
>>892
HP作ったらおしえてね!
894日本@名無史さん:2009/11/20(金) 17:06:37
ようやく書き込めた。
>>889
>清衡が没したことで、重しがなくなった出羽側の勢力が惟常を担いで、
>分離の動きが一気に表面化したとも考えられる。

これって清原真衡の時に清原氏は内訌したのと同じ現象。

おそらく旧秋田の城介傘下の豪族(旧来の清原氏)が陸奥鎮守府傘下の豪族を従えた真衡を打倒し様とした。
旧清原氏本家や吉彦秀武が新清原本家である真衡を認めなかったんだろう。

真衡が急死?暗殺?で清原領が分割されたのに対し
基衡は積極的かつ電撃的な軍事攻勢で出羽国府に有無を言わせずに事態を解決したことが異なる。

為義は、基衡を討つ為に陸奥国司職を望んだらしいが、幸いにもこの時期は清和源氏は、政治的に元気がない。

陸奥を事実上押領したのは、基衡の代から。
895日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:52:17
やっと新しいページを追加しました。
「基衡 誕生の秘密」 どうぞ見てやってください。

奥州江刺郡「豊田館」考
http://www.asahi-net.or.jp/~ac6i-kryu/
896日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:06:06
>>895
素晴らしい
ありがとうノシ
897日本@名無史さん:2009/12/02(水) 13:22:49
「愛の貧乏脱出大作戦」には飲食店のFC、VCもたくさん出てただろ?

そこでは些細なミスを見つけたり、ミスをわざと誘って「お前は何もできない
馬鹿だ」とか怒鳴ってただろう?
これはFC、VCの洗脳なのである。

優秀な人材に育ったら「ロイヤリティがもったいないんで自分でやります」
と言われるので、「お前は一生ロイヤリティを払いつづけないと自殺するはめになるぞ!」
と洗脳するのだ。
宗教が「教祖様に金を出さないと、交通事故やガンで死んだ奴もいるんだぞ」
と言うのと同じだwww

つまりFC、VCは、宗教なんだよ!

>>157
奥州安倍氏が、中央官人説だって言う奴がいるけど、
蝦夷系豪族に決まっているだろ!
898日本@名無史さん:2009/12/02(水) 22:13:26
>>897
素晴らしい時間帯のレスだね。

>奥州安倍氏が、中央官人説だって言う奴がいるけど、
>蝦夷系豪族に決まっているだろ!

どう「決まっている」の?
それと清原氏についてはどう思っている?
899日本@名無史さん:2009/12/06(日) 12:02:56
安倍しんぞうに失礼だぞ
900日本@名無史さん:2009/12/08(火) 04:19:33
>>898
おらよ!フィリピンで前九年の役やっているぞw

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1260178646/
【国際】フィリピン大量殺人の州、有力者私兵と警察が銃撃戦

1 :海坊主φ ★:2009/12/07(月) 18:37:26 ID:???P ?2BP(294)
【12月7日 AFP】フィリピン当局は7日、来年の知事選をめぐって地元政治家の親族やジャーナリスト
ら57人が殺害された事件で戒厳令が敷かれている同国南部ミンダナオ(Mindanao)島の
マギンダナオ(Maguindanao)州で6日、パトロール中の警察部隊と、拘束されたイスラム系の
地元有力者の私兵との間で銃撃戦があったと発表した。

ロナルド・プノ(Ronaldo Puno)内務相および国家警察庁(PNP)のへスース・ベルソサ(Jesus Verzosa)
長官によると、銃撃戦が起きたのは同州ダトゥウンサイ(Datu Unsay)。武器の不法所持を
取り締まっていた警察部隊が襲撃を受け、銃撃戦となった。襲撃してきたのは、身柄を拘束された
地元有力者アンパトゥアン(Ampatuan)一族を支持する武装グループで、戦闘は10分ほど続いたが、
フィリピン国軍の部隊が増援に駆けつけ、武装グループ側が撤退したという。

フィリピン軍は同日朝、戒厳令の発令前に逃亡した3000人以上の私兵を追跡中だと発表していた。
この事件では6日までに、2001年から同州の州知事を務めるアンパトゥアン一族の長、
アンダル・アンパトゥアン・シニア(Andal Ampatuan Snr)知事を含む63人が身柄を拘束されたほか、
一族の自宅の敷地内から銃器883丁、銃弾43万発が発見されている。

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2672036/5004682
依頼
901日本@名無史さん:2010/01/17(日) 04:56:00
小沢氏、自らを日本人のアテルイの末裔と主張
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1263671658/

1 :変態仮面アマゾン(二代目 山城新伍)φ ★:2010/01/17(日) 04:54:18 0
岩手県出身の小沢氏は自らをアテルイになぞらえる。平安時代初期、蝦夷の軍事指導者アテルイは
朝廷軍と戦い、最後は処刑された。つまり小沢氏は、本心はともかく、「賊軍の立ち位置を失っていない」
と公言する数少ない政治家といえよう。敗者の美学に憧れる者は生臭さを嫌う。彼もその一人なのかも
しれない。批判すべき点はいくらでもあるが全否定する気になれないのは、その立ち位置にある。

本誌05年1月21日号、編集委員本多勝一による小沢インタビューの一部を再録する。

本多 小沢さんはアテルイの末裔だそうですね。その意味では、日本国憲法の1条から8条あたりに
対して違和感があるのかと思っていたのですが(以下略)。

小沢 僕らの先祖は130年前の明治維新のときも賊軍の汚名をきせられた。賊軍だから靖国神社にも
祀られていない。それにもかかわらず、今も勤王の志を抱いているのだから、たいしたものだ。先祖は
その昔「俘囚」と呼ばれ、大和朝廷に最後まで反抗した。アテルイは1200年前だ。僕は、末裔として
反骨精神が強いと思うが、ものの考え方は論理的、合理的だ。

http://www.kinyobi.co.jp/henshucho/articles/ippituhuran/20100115-782.html
902日本@名無史さん:2010/02/01(月) 20:20:26
戦前の東北閥といい、小沢といい、
東北は素晴らしい人材を輩出してて笑えるな。
903日本@名無史さん:2010/02/08(月) 00:37:06
東北の戦国大名って、奥州藤原氏の子孫だったりするの?
904日本@名無史さん:2010/02/08(月) 02:06:52
>>903
そういう奥州征伐以前の血筋は秋田の安東くらいだろ。
東北の地頭・大名はだいたい頼朝に従った関東武士の末裔。
905日本@名無史さん:2010/02/09(火) 17:14:50
南部あたりはアイヌだろ
906日本@名無史さん:2010/02/09(火) 17:30:23
>>905
おいっ、嘘教えんな。
南部は甲斐源氏。南部という地名が山梨にある。よってその庶家の大浦氏(津軽)も甲斐源氏。
あと比内浅利氏も甲斐源氏。
実際に当主が下向したのは鎌倉後期以降と考えられるが、ルーツは甲斐にある。
907日本@名無史さん:2010/02/09(火) 22:46:28
>>902
岸信介とか佐藤栄作とか安倍晋太郎とか安倍晋三とかか?

>東北が輩出した素晴らしい人材
908日本@名無史さん:2010/02/24(水) 02:06:23
平安〜室町前半の主要都市の推定人口

京都: 8万8000人 (800年, 井上満郎)
   12万〜13万人 (9世紀, 井上満郎)
   10万〜12万人 (9世紀, 村井康彦)
   17万〜20万人 (10〜11世紀, 村井康彦)
   12万人 (平安時代全般, 鬼頭宏)
   9〜10万人 (鎌倉時代, 碓井小三郎)
   10万人 (14世紀後半〜15世紀前半, 高尾一彦・林屋辰三郎・松浦玲)
   4万人 (15世紀末, 碓井小三郎)
   15万〜18万人 (15世紀末, 高尾一彦・林屋辰三郎・松浦玲)
   10万人 (1500年, 原田伴彦)

博多: 9千人 (12世紀, 原田伴彦) 戸数から
   「李氏朝鮮の都城のよう」 (15世紀末, 『李朝成宗実録』)
鎌倉: 5万人 (13世紀, 吉田東吾) 酒樽の数から
   2万3千人以上 (13世紀末, 原田伴彦) 地震の死者から
   6万4千人〜10万人 (14世紀前半, 石井進・河野真一朗) 市街地の広がりの推定から
奈良: 8千人 (14世紀, 原田伴彦) 戸数等から

チャンドラーの推定はかなり元文献の引用がいい加減なので省略。

で、東北の推定総人口が60万人だというのに、
平泉の人口が10万人だとか15万人だとかって、誰の試算なんだろう?
909日本@名無史さん:2010/02/24(水) 02:36:36
>>903
岩城氏
910日本@名無しさん:2010/03/09(火) 23:09:53
>>903
奥州藤原氏の子孫ではないけれど、清衡の弟に藤原経元という人が
いて子孫が後に白石氏を称します。伊達家の家臣となって活躍しますよ。
あとはウソっぽいけど津軽氏かな。
911日本@名無しさん:2010/03/13(土) 19:53:14
>>910
伊達家ご一門となり20,000石の領主となるから、藤原氏の係累では成功した
ほうかなー。
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/siraisi.html
912日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:06:08
白石宗実か。
伊達政宗の腹心として活躍するも、晩年南部藩との境界争いの責任を押し付けられる
913日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:24:24
伊達氏はともかく、伊達の下についているの者どもは偽家系はなはだしい。
914日本@名無しさん:2010/03/13(土) 22:36:42
俺もちょっと調べたけど、確かに系図に傍証が少ない。
文治合戦後刈田郡の地頭なったのは中条氏らしいし。
でもこれをウソだとすると、系図作者はいい仕事してるよー
実にツボをついてる。
「経元」自体は「尊卑分脈」にも確かに載ってるね。
915日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:38:12
>>910
津軽の先祖は藤原基衡の次男秀栄ということになっているが、
その存在自体疑わしいからな。
まずそもそも。「秀栄」って何て読むんだろうか。
916日本@名無しさん:2010/03/14(日) 10:23:40
>>915
「ひでひさ」らしい
917日本@名無史さん:2010/03/14(日) 20:29:23
「ひでひで」ではないんですね。
918日本@名無史さん:2010/03/16(火) 11:56:14
>>915
「疑わしい」
ではない。津軽藩による100パ-セント捏造。
919日本@名無史さん:2010/03/22(月) 06:08:08

奥州安倍氏は、蝦夷系の豪族です。

有難う御座いました。
920日本@名無史さん:2010/04/01(木) 13:48:28
エミシ系って、どういう意味?
921日本@名無史さん:2010/04/01(木) 13:55:32
アシタカの同族ってこと。その後、安東氏になり、秋田氏になり、
福島三春藩の藩主になり、明治時代に秋田子爵家になる。
922日本@名無史さん:2010/04/04(日) 00:33:39
登米伊達家の伊達さんと結婚すると、子供にちょっとだけ
奥州藤原氏の遺伝子が
923日本@名無史さん:2010/04/09(金) 06:01:53
>>921
アシタカ って何?
924日本@名無史さん:2010/04/09(金) 11:22:40
もののけ姫の主人公
925日本@名無史さん:2010/04/09(金) 17:06:44
工藤雅樹先生お亡くなりになってたんだね。

合掌。
926日本@名無史さん:2010/04/09(金) 23:29:26
このすれ、低調だな。
927日本@名無史さん:2010/04/14(水) 08:24:13
ゆみさん結婚してくれ
928日本@名無史さん:2010/04/15(木) 22:49:17
経清の流れをくみ、近世まで伊達家仙台藩を支えた名族、登米伊達家。
登米市は石ノ森章太郎の故郷です。旅しよっかなー
片倉小十郎の白石城も登米伊達家ゆかりの城で有名だし。
929日本@名無史さん:2010/04/17(土) 03:22:20
出羽国にも留守氏っていたんだな。

陸奥国留守職の伊沢氏系留守氏と違って、
出羽国留守職は須藤(首藤)助清の系統らしい。
930日本@名無史さん:2010/06/20(日) 19:07:34
保守
931日本@名無史さん:2010/06/21(月) 00:37:55
いずれにせよ源家に臣下の礼をとる家柄
932日本@名無史さん:2010/07/04(日) 04:10:51
古代の氏族ってのはほんと零落してしまったんだな。

近世になると、またどこぞの馬の骨が現れて大名になるわけだけど、どこかで源平藤との関係があったり、それを詐称したりする。
また、源氏の名家は江戸幕府に高家として厚遇されてたりもするのに。
933日本@名無史さん:2010/07/13(火) 23:01:05
前九年の役のあと金為行ってどうなったの?
為時は清原と争って殺されたらしいけど
934日本@名無史さん:2010/07/15(木) 19:51:25
んなもん誰も知らねーよ
935日本@名無史さん:2010/07/16(金) 19:58:05
朝鮮に渡ってキムになりました。
936日本@名無史さん:2010/07/16(金) 20:46:57
当時の記録では
「斬獲賊徒安倍貞任。同重任。藤原経清。散位平孝忠。藤原重久。散位物部惟正。藤原経光。同正綱。同正元。
 帰降者安倍宗任。弟家任。則任。散位安倍為元。金為行。同則行。同経永。藤原業近。同頼久。同遠久等也。」と、あるらしい。
宗任なんかは死罪を免れて流刑に処されてるから、殺されてはいないんじゃないかね?
937日本@名無史さん:2010/07/23(金) 02:01:50
>>936
陸奥話記のその当該箇所に「『散位』安倍為元」とあるのがとても重要。
「造興福寺記」等の「散位経清」と同じく、
『散位』(四位、五位の位階は有するが無官の者のこと)と付いているのがね。

これもまた、安倍氏中央貴族出自説を裏付ける根拠の一つになってくる。

因みに安倍為元は陸奥権守忠好(良)の息子で頼良の弟(つまり、貞任・宗任の叔父)。

また、やはり同箇所の藤原重久、経光、頼久、遠久なんてのは、その名から経清の同族であることを彷彿させる。
938日本@名無史さん:2010/07/24(土) 21:46:26
物部にも散位がいたの?
939日本@名無史さん:2010/07/25(日) 01:03:03
いたんじゃね?陸奥脇によれば
940日本@名無史さん:2010/07/26(月) 00:31:52
賊軍の城は柵っていうんだね。
941日本@名無史さん:2010/07/26(月) 06:21:58
多賀城も「役所や倉庫を柵で囲んだ」程度のシロモノで
とても要害とはいえない。
942日本@名無史さん:2010/07/26(月) 23:06:05
清原の拠点も別に朝廷に逆らってないのに柵やん
943日本@名無史さん:2010/07/27(火) 00:56:44
朝廷側の拠点は城でそれ以外の拠点は柵か
944日本@名無史さん:2010/07/29(木) 19:07:21
ちょwww城ってwwww
俘囚の分際で城ってwwwww
んなもん柵で十分だろw柵wwww
柵wwwちょーうけるんですけどwwwwww
 
て感じなのかね?
945日本@名無史さん:2010/07/29(木) 20:23:12
wikipediaの「城柵」によると朝廷側で設置した軍事機能と政治行政機能を併せ持つモノが城(き)。
古くは柵(き)だったがだんだん城と書くようになる。多賀城が代表。
安倍氏や清原氏が設置した軍事拠点は柵(さく)。

という事らしい。
946日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:37:27
>>945
なるほど元々は朝廷のものでも蝦夷のものでも柵だったわけだ。中央の行政機能を持った柵が城と呼ばれるようになったのなら>>944の感覚で正解なわけだ。
947日本@名無史さん:2010/07/30(金) 01:27:29
越後に朝廷側の「柵」があったと記憶。
948日本@名無史さん:2010/07/30(金) 08:23:37
>>947
そう、越後には渟足柵とか磐舟柵とかあった。これらは出羽国成立以前に設置された古いもの。
蝦夷との境界が北上すると新たに出羽国が作られ、出羽柵とかが設置される。
もっと後になると秋田城とか雄勝城とか城と書いてる。
949日本@名無史さん:2010/07/30(金) 08:49:58
織田信忠の官位は「秋田城介」だったな。
950日本@名無史さん:2010/07/30(金) 08:51:35
秋田城は多賀城より軍事的な防御力が「多少は」高かったらしいと聞いている。
951日本@名無史さん:2010/07/31(土) 01:15:00
岩手県の鳥海柵(とのみのさく)遺跡から律令制度の末端行政組織に関する出土物なんて出てたのか。
ここは城だったのかもしれんね。
ttp://mytown.asahi.com/iwate/news.php?k_id=03000001007240004
952日本@名無史さん:2010/07/31(土) 03:08:19
>>951
こっちの記事を見ろ。時代などを考えあわせると近くに有った胆沢城の役人が
この辺に住んでいたんじゃないかとの事だ。
ttp://www.kahoku.co.jp/news/2010/07/20100724t35037.htm
953日本@名無史さん:2010/07/31(土) 11:09:56
鳥海柵と胆沢城はどっちが軍事的に守りやすい地形なんだ?
954日本@名無史さん:2010/07/31(土) 13:29:48
地形的には判らないが、そもそも時代が違う。胆沢城は10世紀後半には衰退し、代わって安倍氏が
台頭してくる。その過程で鳥海柵を含む安倍氏十二柵が作られるのは11世紀前半という事になる。
955日本@名無史さん:2010/07/31(土) 13:35:08
追記。胆沢城が衰退するというのは朝廷の力が奥六郡まで及ばなくなったということね。10世紀前半には
承平・天慶の乱(平将門藤原純友の乱)もある。朝廷の力が地方に及ばなくなっている徴だ。
956日本@名無史さん:2010/08/01(日) 03:27:38
土器に行政機関名の墨書がってのもよくわからないんだけど、そんな例は他にもあるのでしょうか?
957日本@名無史さん:2010/08/01(日) 03:30:57
木製兜が廃物利用品の井戸桶として井戸跡の底から発掘されたのも東北だったよね。そんな廃物利用だったのでは。
958日本@名無史さん:2010/08/01(日) 10:38:20
>>956
墨書土器でググるといろいろ出てくると思われる。ただ、今回の「五保」ってのは江戸時代の五人組
みたいなものらしいから行政機関名じゃないよ。
959日本@名無史さん:2010/08/08(日) 05:06:59
>>4
奥州安倍氏の土地を源頼義らの罠で戦となり、安倍貞任の妻の内通により、敗戦。
源頼義に囚われ、飼い殺しだった藤原母子の子が成長し安倍氏の土地を奪い返した実の質相続者が、奥州藤原氏
960日本@名無史さん:2010/08/08(日) 05:09:10
文訂正。
奥州安倍氏の土地を源頼義らの罠で戦となり、安倍貞任の妻の内通により、敗戦。
源頼義に囚われ、飼い殺しだった藤原母子の子が成長し安倍氏の土地を奪い返した実質の相続者が、奥州藤原氏
961日本@名無史さん:2010/08/08(日) 05:19:57
俺も、その奥州安倍氏の子孫みたいだし・・先祖が松浦党出身の長崎奉行家系の子孫
安倍元総理と同じ松浦(安倍)高俊の血を受けてるみたい・・
松浦氏自体のルーツは、枕草子の渡邊(源)綱で、その曾爺さんは、光源氏(源融)で、嵯峨天皇の血筋だが・・安倍高俊の血を受け継いでるから、孝元天皇の子孫、大彦命の子孫でもある訳だ。
962日本@名無史さん:2010/08/08(日) 14:36:57
>>960
>源頼義らの罠で
この事件については、過去には源頼義による謀略説が唱えられていたが、現在では、藤原説貞
(光貞、元貞の父)などの反安倍氏の在庁官人による謀略説が有力視されている。

>安倍貞任の妻の内通により、敗戦。
どういう事?

>源頼義に囚われ、飼い殺しだった藤原母子の子が
清原武則に囚われ、だろ。
963日本@名無史さん:2010/08/08(日) 15:03:00
>>962
清原氏だったなww
訂正ありがとう。
貞任の妻が、義家と浮気して、妻と妻の父とが頼義側と内通し、安倍氏の全ての柵の兵の配備状況を漏らして居たのが、NHK大河ドラマの内容だったって話。
貞任の妻と義家をくっつけたのも、妻の父だった。
妻の父と頼義の陰謀だったと成ってる。
964日本@名無史さん:2010/08/08(日) 15:04:55
大河ドラマ「炎立つ」だったな。
965日本@名無史さん:2010/08/08(日) 16:16:13
>>963
>妻の父と頼義の陰謀だったと成ってる。
それにどんなメリットが有ったんだ?いずれにしても実際どうだったのか何も伝わってない部分に関して
ドラマの内容を、さも史実であるかの様に語るのは問題有り過ぎ。阿久利川事件での濡れ衣といい
安倍貞任の扱いが可哀相。
966日本@名無史さん:2010/08/09(月) 09:46:28
>>965
仕方ないよ。
ネットで系譜調べるサイトに系譜にまで、そんな事を匂わせる系譜あるんだから・・

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 安倍氏/那須国造/膳氏/佐々貴山氏【2】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208a.htm
967日本@名無史さん:2010/08/09(月) 09:53:32
この系譜・・一見、貞任の娘のようだが、娘が義家の妻に成った記録無いんだろ?
だから、ドラマでは、妻と予測されたんだろ・・
違うかな??
こんなこと、初めて知ったのがドラマだから、信じても仕方ないだろウヨ。
968日本@名無史さん:2010/08/09(月) 09:56:13
別に、俺自身のご先祖の事で、君にとやかく言われる謂れも、無いんだがね・・
969日本@名無史さん:2010/08/09(月) 10:06:00
高俊の(上松浦党へ)のジャンプ変なんで
蒲池氏の一番下の戻るをクリックし、皇別から、嵯峨源氏をクリックし、融流源氏へをクリックしたら、高俊の次の系譜へジャンプします。
970日本@名無史さん:2010/08/09(月) 10:24:32
武将の家紋[九州]-Contents-
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_9shu.html

武家の家紋_松浦氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_matura.html

武家家伝_有浦氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ariura_k.html
(有浦氏の系譜に高俊の名が出ています。)
971日本@名無史さん:2010/08/09(月) 11:06:39
>>968
君のご先祖の安倍高俊は安倍宗任の子孫じゃないのかね?義家の妻と何の関係があるの?
972日本@名無史さん:2010/08/09(月) 11:41:23
>>971
しらねーよっ!!
この系譜書いた所に聞けっ!!

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 安倍氏/那須国造/膳氏/佐々貴山氏【2】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208a.htm
973日本@名無史さん:2010/08/09(月) 11:47:48
>>971
宗任の兄、貞任の関係でっ言っただけですが・・宗任の父繋がりで先祖の家族関係の事を話すと、不都合あるのか・・君にW
974日本@名無史さん:2010/08/09(月) 11:56:44
Ryokan Yoyokaku―唐津のなごみ 旅館 洋々閣
http://www.yoyokaku.com/index.htm
(目次から松浦党へ)

松浦党 目次が開いたら

「ただ春の夜の夢のごとし」     (壇ノ浦での松浦党)          善 達司
を、クリック

洋々閣ー女将のご挨拶61
http://www.yoyokaku.com/sub7-61.htm

975日本@名無史さん:2010/08/09(月) 12:00:12
洋々閣ー女将のご挨拶61の記載には
松浦(安倍)高俊が、松浦太郎高俊と成っています。(注)
976日本@名無史さん:2010/08/09(月) 12:03:13
>>973
俺は>>967ではない通りすがりだが、「別に、俺自身のご先祖の事で、君にとやかく言われる謂れも、
無いんだがね・・」なんて言われ方する謂れも無かろうと思ったまでの事だ。
977日本@名無史さん:2010/08/09(月) 12:15:33
>>976
分かったから、後スレ立てるハメに成るんで、失礼。
978日本@名無史さん:2010/08/15(日) 13:53:18
網野善彦他多くの学者が、
朝敵であるにも関わらず、平将門と奥州安倍氏は後代の武士に人気が高くて、その後裔を称する家が多いのが共通する特徴と言ってるね。
979日本@名無史さん:2010/08/16(月) 08:27:23
純友の子孫名乗る家も後の時代にそこそこあるよな
980日本@名無史さん:2010/08/17(火) 17:30:59
>>978
奥州安倍氏はともかく、将門は過大評価だよな。
反逆は私闘の発展みたいなもんだし
朝廷の征討軍が到着する前にあっけなく死んじゃったし。
981日本@名無史さん:2010/08/17(火) 19:05:48
>>980
だが新皇なんて名乗ったのは日本史上他にいないから箔付けに利用するにはピッタリなんだろ。
982日本@名無史さん:2010/08/17(火) 19:34:14
昔の人間は良く言えば信心深い、悪く言えばアホだからな。
平将門とか、菅原道真とか、死後に迷信で評価が高くなってる奴が結構いる。
983日本@名無史さん:2010/08/17(火) 19:44:59
>>981

拳王と名乗ればもっとかっこよかった。
984日本@名無史さん:2010/08/17(火) 22:01:17
>>980
征東将軍到着前に将門は倒れたけど、
それは藤原秀郷が朝廷側として参戦を決めたからだよな。

秀郷参戦前の貞盛なんて将門に連戦連敗。
最後は戦いにすらなっておらず、ほとんど追っかけっこのような様相になっていた。

また清和源氏初代の源経基なんて、この戦いでは早々に都に逃げ帰ったただの告げ口王。
そういう意味では将門征討の勲功ダントツNo.1が秀郷なわけで、
その子孫が奥州藤原氏なわけだから、そうした由来に誇りを持っていた泰衡の家来・由利八郎が頼朝(上述した経基の子孫)の捕虜になりながらも、一歩も引かずに筋目を通したことも道理な話。

985日本@名無史さん