聖徳太子 総合スレッド

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1日本@名無史さん
誇張や粉飾があったにしても、実在と非実在では話の次元が
全く違ってしまいます。ところが、積み重ねられた近代の
実証的歴史学の結論は「聖徳太子はいなかった」で、どうやら
決定的らしいのです。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2008021002086536.html
2日本@名無史さん:2008/02/27(水) 18:15:03
聖徳太子知ってる?
3日本@名無史さん:2008/02/27(水) 18:28:25
>「聖徳太子はいなかった」

推古天皇もいなかった
光明皇后もいなかった
弘法大師もいなかった
吉田兼好もいなかった
北条早雲もいなかった
真田幸村もいなかった

でも、後世そう呼ばれた人物は実在した。
4日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:03:59
>1の記事は、
冠位十二階も三経義疏も飛鳥時代には存在しなかったことをあげて、
聖徳太子の実績はすべて嘘だったと言っているわけであって。
実在した厩戸皇子は法隆寺を建て、
叔父蘇我馬子の仏教崇拝を引き継いだだけの人物だったらしい。
5日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:39:44
>>4
よく嫁。冠位十二階については言及してない。

冠位十二階は隋書にも記述があるから、これを否定するのは難しい。
6日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:48:21
十七条の憲法と三経義疏を否定
7日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:21:34
聖徳太子は六世紀末に威徳王が倭国に派遣した百済の王族
8ローガン:2008/02/27(水) 20:40:40
>>5
紀の冠位十二階の記述には主語がありませんね。
9日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:41:41
>>7
聖徳太子って誰?w
10日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:45:38
>>8
そこで法王帝説ですよ
11日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:47:07
>>7
それは舒明天皇が義慈元年に倭国に派遣された男だという説のパクリだな。
12ローガン:2008/02/27(水) 20:55:55
あ、私は聖徳太子とは全くの架空の人物だったとは考えておりません。
後世尾ひれがついた太子伝説、太子信仰については勿論割引が必要だとは思いますが
13日本@名無史さん:2008/02/27(水) 21:29:00
>>1
>「聖徳太子はいなかった」で、どうやら決定的らしいのです。
聖徳太子がいなかったことにしたい変な人達が勝手に
「聖徳太子はいなかったことに決定!」宣言してるだけ。
まともな根拠はなにもない。
だいたい厩戸の皇子が実在したと認めるのに聖徳太子はいなかったって何だ?
同一人物だぞ。
14日本@名無史さん:2008/02/27(水) 21:31:17
いなかった派て
トンデモなやつばかり
15日本@名無史さん:2008/02/27(水) 21:49:13
>>1
>十七条憲法については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、
具体的根拠は?

>戦前に津田左右吉博士が内容、文体、使用言語から書紀編集者たちの創作などと結論
なんで内容、文体、使用言語から十七条憲法が創作になるの?
まさか太子の時代には使われてなかったとか、そんなアホな理屈言ってないよね?

>三経義疏は仏教の注釈書で太子自筆とされる法華義疏も現存しますが、これらも敦煌学権威の藤枝晃京大教授によって六世紀の中国製
仮に三経義疏が太子自筆でなかったとして、それがなんで太子がいなかったことになるの?

>世に知られた法隆寺の釈迦(しゃか)三尊像や薬師如来像、中宮寺の天寿(てんじゅ)国●帳(こくしゅうちょう)も、その光背の銘文研究や使用されている暦の検証から太子の時代より後世の作であることが明らかになってきました。
仮に釈迦三尊像や薬師如来像、天寿国●帳が後世の作であったとして、それがなんで太子がいなかったことになるの?

>聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢になりました。
歴史上の人物の事跡が潤色されることはよくあること、それを大袈裟に捏造とか、人物そのものが創作とか言うほうが異常。
本当に歴史を捏造してるのは、そういう異常な奴等。
16日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:06:49
遠山美都男(史学博士・日本古代史)
『天皇と日本の起源』(P63〜P64)より

近年、大山誠一氏は、『日本書紀』に描かれた聖徳太子が編纂者による創作の所産であり、それと実在の厩戸皇子とは別個に考えるべきだという「聖徳太子虚構説」を唱え、脚光をあびている。
しかし、『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみのことである。
大山説にメリットがあるとすれば、それは聖徳太子像を創造した人物の具体名とかれらに共通する動機を明言したことであろう。
だが、この点については種々の解釈が可能であって、大山説はなお仮説の域を出ていないといわねばならない。

さらに、大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。
斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。

大山氏のいうように、『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だったのである。
17日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:15:15
誰だって聞いてんだよ
18ローガン:2008/02/27(水) 22:35:30
>>16
ああ、大山さんはトーンダウンしたのですか。知りませんでした。ご教示ありがとう。
19日本@名無史さん:2008/02/27(水) 23:06:22
>敦煌学権威の藤枝晃京大教授によって六世紀の中国製であることが論証されてしまったのです。

純漢文の語法で書かれてないことについてはどう説明したんだっけ?
20日本@名無史さん:2008/02/27(水) 23:51:48
日本人のアイデンティティーの根元に関わるモノは徹底的に叩き潰す
21日本@名無史さん:2008/02/28(木) 00:00:25
なぜ一万円からはずされたの?
22日本@名無史さん:2008/02/28(木) 06:28:58
外圧的内圧
23日本@名無史さん:2008/02/28(木) 08:03:50
>>15
聖徳太子=太子とは皇太子の意味。

実在する厩戸皇子が推古天皇の皇太子ではなかった可能性は高いよね。
はじめて皇太子が建てられたのは、天武天皇の皇太子草壁皇子から。
それ以前は、大王が死ぬと群臣が推挙して次の大王を立てていたから。
「太子」は明らかに架空だ。
24日本@名無史さん:2008/02/28(木) 09:06:19
次の代に推挙されるのは確実だと見られてたってことじゃねえの。その状態を後の人間は
太子と表現したんじゃないのか。
ライバルのいなくなった蘇我氏のバックアップのもとで寺とか建てまくってたわけだし。
25日本@名無史さん:2008/02/28(木) 09:21:35
>>24
推古天皇即位時点ではおそらく
推古の実の息子竹田皇子が最有力候補
何人もいる皇位有力候補の一人を表す「大兄」であった可能性はあるが
厩戸の子山背大兄王が天皇になれなかったように
絶対的な次期天皇などこの時代には存在しなかった。
その意味では、次期天皇として天皇と同じく内裏に住み、
政変などで廃太子にされない限り確実に次の帝位を踏める皇太子とは全く異なる。
厩戸皇子は父用明天皇にたててもらった上宮と呼ばれた屋敷に通常住んでおり
推古天皇が住む皇居豊浦宮、小墾田宮には住んでいなかった。
26日本@名無史さん:2008/02/28(木) 09:25:54
厩戸皇子が政治をとったと歴史を改変するために
のちの時代の天智称制、草壁称制にならって
厩戸を皇太子になぞらえた可能性はある
しかしこの時代皇太子が存在しなかったのは勿論
天皇以外の皇族が政治に関与した可能性も低い
蘇我馬子が推古天皇を補佐し
厩戸皇子は馬子の姻戚筋の皇子ということで持ち駒の一つとして
自由に寺を建てさせてもらっていたというところだろう
27日本@名無史さん:2008/02/28(木) 10:45:07
草壁皇子も皇太子とされたのは持統朝になってからではないのかね?
大津皇子をぶっ殺したのを正当化するためとかで。
28日本@名無史さん:2008/02/28(木) 10:56:17
天武朝に天皇、皇后という名称がはじめてつかわれた。
天皇は中国の天王思想と皇帝の名からのもじり、
皇后は中国王朝の名称をそのまま輸入。
中国王朝にはあった皇太子制度がこの時期輸入された可能性は高い。
持統天皇は退位前、孫の軽皇子(文武天皇)を皇太子に推挙、
ほかの天武皇子から反発を受けた記事もあるので、
この時期に皇太子制度があったことは確か。
29日本@名無史さん:2008/02/28(木) 11:50:25
1 聖徳太子は、今日の皇太子のような身分だったのか?
  たぶん、違う。
  ゆえに、
   a 聖徳太子は存在しなかった、捏造だった
   b 当時の太子=皇太子という(>>23)の想定が誤っている
  のいずれかであるが、落ち着いて考えれば、bの「当時の太子=皇太子」という想定がそもそも根拠レスな妄想であることに気付く。どこにもそんな記述はない。

2 聖徳太子はいつから、聖徳とか太子とか呼ばれたのか。
  生きているうちにそう呼ばれていたという明確な証拠はない。
  しかし、日本書紀の作成以前にそう呼ばれていたことは、法起寺銘などでほぼ確実。

聖徳とか太子とかの称号についていくら突付き回しても、その実体(用明の子で、推古の甥で娘婿で、馬子の娘婿で、数々の政治上の功績や仏教上の功績のある厩戸という名の人物)の否定にはつながらない。

「聖徳太子はいなかった」というのは、受け狙いのホラ吹きによる詐欺まがいのセールスコピーのようなもの。
30日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:26:43
最近の書き込みを見ると、「太子」や「皇太子」という言葉そのものががインチキくさく見えてくるが、
用語としては、聖徳太子のはるか以前の時代から「太子」や「皇太子」という言葉や、
「皇太子が天皇に即位した」といった表現は、日本書紀にはテンコ盛りのように出てくることは、知っておいて欲しい。

また、推古元年(593)四月の「立厩戸豊聰耳皇子為皇太子、仍録摂政、以万機悉委焉」ぐらいも知っておいて欲しい。
皇太子にしたと明記してあるのに、何の根拠もなく「皇太子ではなかった可能性は高いよね(>>23)」という奴はペテン師と思ったほうがよい。

(皇太子が)「次期天皇として天皇と同じく内裏に住み(>>25)」とか、
「しかしこの時代皇太子が存在しなかったのは勿論天皇以外の皇族が政治に関与した可能性も低い(>>26)」など、
ヌケヌケと根拠のないこと、つまりウソを言い続けているので、要注意!
31日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:28:21
いくらなんでも捏造はないよね、
しかし明らかに仏典や聖書からのパクリと
わかるような記述もみられ、キリスト=厩戸の皇子=聖徳太子のような書き方
からして(しかしキリストが死んで700年もあとだしwww)

よほど凄いんでしょう。日本の歴史上、「「初めて」」中国に遣いをだしたよね。
それが600年。 その前は?w
このひと、後の記紀のもとになる歴史書もまとめている。(書いている。)
つまり、神武が日向から来たとかいう、あれ。

この聖徳太子、と呼ばれる人物の前は書物も歴史書もなく
あるいは焼き尽くされ、しかも最初の遣いは外交の仕方をしらずに苦労してますね。

つまりそれ以前までに中国と交流していた日本の国々と王族は全くの別筋ですな。
32日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:29:56
>>31

ああ、キリストが死んで700年後は間違いですな。550年ぐらいですな。
失礼しやしたw
33日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:30:30
用語の齟齬で「聖徳太子はいなかった」とかいうトンデモはもうウザイ。
例えば、「天皇」という称号は飛鳥池遺跡の天皇木簡により、天武が使っていたことはほぼ鉄板であるが、それ以前は明確な証拠はない。
だからといって、「神武から天智までのすべての天皇は、日本書紀に『天皇』と書いてあるから捏造」と言う奴がいたら馬鹿だろう。
発想が時代遅れだろう。

「聖徳太子はいなかった」というのは、受け狙いのホラ吹きによる詐欺まがいのセールスコピーのようなもの。

聖徳太子虚構説は、今となっては、古臭いアンチ皇国史観とか唯物史観などの先入観や偏見の遺物。
それに、団塊世代の日教組系の馬鹿教師などが食いついているだけ。
(ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20010714.html)
34日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:36:34
>>29
>日本書紀の作成以前にそう呼ばれていたことは、法起寺銘などでほぼ確実

おいおい、ほら吹き君w
法起寺銘は、鎌倉時代成立の『聖徳太子伝私記』に書かれてあるもの。
鎌倉時代の史料を出してきて、日本書紀成立以前から
聖徳太子と呼ばれていたことは確実なんて、どこの学者も言っていないよ。

「聖徳太子」の名称が、明らかに後世の「皇太子」を意識したものであることは間違いないし、
法隆寺を建てた「厩戸皇子」を否定してる人はいないだろ。
35日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:39:04
>>30
ふーん、日本書紀に「○○天皇」とあるのを見て、
君は天皇、皇后という称号が神武天皇のころから使われていたとみるわけだね。
天皇、皇后、皇太子が神武天皇から確実に存在したと。
とんでも君だね。
36日本@名無史さん:2008/02/28(木) 13:19:30
>>34
人をほら吹きというくらいなら、資料の紹介とかはもっときちんとしたほうがいいよ。
どうせ書くなら、「法起寺三重塔の露盤は現存していないが、鎌倉時代成立の『聖徳太子伝私記』に露盤銘が載っていて、
それによると法起寺は上宮太子聖徳皇(=聖徳太子)の遺願によって岡本宮を寺に改ためたもので、露盤は706年に作られたとされている。」
とかね。
で、露盤銘の真偽については諸説あるかもしれないけど、これを正しいとする説は人を「ほら吹き」呼ばわりするほどの珍説でもないよ。
あと、上宮太子聖徳皇は聖徳太子ではないとかの屁理屈はやめてね。

そんでもって、706年は日本書紀成立以前です。  (終了)

それよか、皇太子とかについてウソをつきまくっていたホラ吹きを、一緒にとっちめないか。(アンタじゃないよね。)
37日本@名無史さん:2008/02/28(木) 13:22:51
古事記と日本書紀以前の書物って何? 

日本書紀以前の書物の文書みせてよ。
38日本@名無史さん:2008/02/28(木) 13:26:31
>>35 天皇、皇后、皇太子が神武天皇から確実に存在したと。

ウ〜〜〜ン、この手の反論が一番始末に悪い。
なにせ、必要条件と充分条件という論理のイロハも分からずに、人のことを「とんでも君」と誹謗するのだものなぁ。

「神武から天智までのすべての天皇は、日本書紀に『天皇』と書いてあるから捏造」と言う奴がいたら馬鹿だろう
とは書いたけど、
「神武から天智までのすべての天皇は、日本書紀に『天皇』と書いてあるから本当に天皇だった」とも言っていないのですが、・・・。
39日本@名無史さん:2008/02/28(木) 13:45:58
>>37 日本書紀以前の書物の文書みせてよ

日本書紀以前のもので、書物としてまとまってきちんと残っていて、年代も確実視されているものはない。
しかし、文字資料は書物だけではないよ。銘文(石碑や剣や鏡などなど)とか木簡とか墨書(土器など)等、いろいろな種類がある。

ここでは、法起寺三重塔の露盤銘を例に挙げていて、それが706年のものと書いてあるじゃろうが。日本書紀は720年ということぐらいは知っているよね。
ただし、これは鎌倉時代の文書からの引用ということになるけど、・・・ところで、逸文とか知ってる?
短絡的に逸文を否定したりすると、笑われるだけだよ。

なお書物としては、聖徳太子が書いたとされる法華義疏が現存(!)しているが、本当に聖徳太子の真筆かは諸説あり。
(ただし、735年以前であることはほぼ鉄板で、あとはどれだけ年代を遡れるかだ。)

聖徳太子虚構説の方々は、こういった資料もきちんと否定しないと成り立たないのだがねぇ。
40日本@名無史さん:2008/02/28(木) 14:03:53
>>34 「聖徳太子」の名称が、明らかに後世の「皇太子」を意識したものであることは間違いないし

ここでいう「後世の皇太子」とは、軽皇子(文武天皇)(>>28)あたりを指しているのかな?
何度もいうけど、太子や皇太子といった用語はいくらでも出てくる。
太子と皇太子の用語の使い分けは法則性がよく分からないが、少なくとも同時代には同じ人物をさしているようであり、太子と皇太子は同じと考えても大きな誤りはなさそう(・・かな・・・自信はない)。

聖徳太子の話なのに、軽皇子を持ち出すのは唐突な感じがするし、「意識した」など何の根拠もない。
有名な、「持統−草壁−軽(=文武)のラインを強調するために日本書紀は書かれたんだよ」といった説の、伏線かな?
だとすれば、かわいい孫の文武を、子孫が滅亡した聖徳太子になぞらえるなど縁起でもねえと、持統あたりが言いそうだがね。

トンデモっぽい話はおいといて、何の根拠もない話なのに、「間違いない」ですか。
(そういえば、長井秀和ってどこいった?)
41日本@名無史さん:2008/02/28(木) 20:37:11
ちょっと「太子」について書いとくか。

内容的には講談社の『日本の歴史』シリーズで大山説批判の一つとして指摘されてることだが。

『隋書』倭国伝に「名太子為利歌弥多弗利」というくだりがある。
岩波文庫版の現代語訳には「太子を名づけて利歌弥多弗利(和歌弥多弗利か、ワカミタヒラ・稚足、ワカミトホリ・若い御世嗣、ここでは聖徳太子を)となす。」とある。

つまり、飛鳥時代に太子を意味する倭語「和歌弥多弗利」が存在したことがわかる。

『隋書』では「和」ではなく「利」と書かれているが、ら行から始まる単語が大和言葉にないという特徴から誤字だとわかる。
また、太宰府天満宮にのみ伝わる『翰苑』という唐代の類書には、「王長子号和哥弥多弗利、華言 太子。」(翰苑、蕃夷部 倭国)とあり、『隋書』が誤字である傍証になる。

つまり、厩戸皇子が後の皇太子にあたる地位にあったとしてもなんら問題はない。
42日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:00:46
>>41
引用文訂正

×ワカミトホリ・若い御世嗣、ここでは聖徳太子を)となす。

〇ワカミトホリ・若い御世嗣、ここでは聖徳太子)となす。
43日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:32:21
>>37
>「神武から天智までのすべての天皇は、日本書紀に『天皇』と書いてあるから
>本当に天皇だった」とも言っていないのですが、・・・。

そう思うなら、自分で言ってることも訂正したら?
日本書紀に皇太子と書いているけれども、
神武天皇が天皇ではなかった可能性が高いのと同様、
聖徳太子が皇太子だったという根拠もない、
自分で証明してるじゃない。


44日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:36:36
>>36
だからあ、『聖徳太子伝私記』は鎌倉時代の成立。
日本書紀には「穴穂天皇」と載っている人物を、
のちの時代の歴史書は「安康天皇」だと書き換えているわけ。
のちの時代の史書が「上宮王子」とでもあったものを
聖徳太子のことだ、と解釈して、
こういう文章が載っていましたよ、と書きかえることだって充分あるわけ。
厩戸皇子在世時の史料ではないことが明らかなのに、
そんなのが証拠になるわけがないでしょ。
45日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:38:21
>>41
「隋書」は当時の天皇は男だったとしているよ。
適当に中国の制度をあてはめて書いているから、
日本の風俗、制度についてはかなり内容はいい加減。
遣使したのは事実だろうが。
46日本@名無史さん:2008/03/19(水) 11:40:02
なぜか奈良市内の法華寺(皇室の御寺)と海龍王寺聖徳太子二才像があるんだな
不退寺はどうだったんだろう?
ウワナベ・コナベ古墳の石棺はあるけどね
47日本@名無史さん:2008/03/19(水) 12:22:25
法華寺の童子像は聖徳太子像とは確定されていない。
また聖徳太子二歳像はこの2寺だけではなく全国各地にある。
いずれも平安末〜鎌倉時代に作られたが、
聖徳太子の伝説をもとに聖徳太子信仰が全国的に広まって作られたもの。
勿論、聖徳太子存命時のものではない。

不退寺は平城上皇が晩年に暮らしたという寺。
息子の阿保親王から孫の在原業平に伝わったとされる。
阿保親王像とされる童子像はあるが
聖徳太子像はなかったはず
48日本@名無史さん:2008/03/19(水) 13:27:15
だからあれだろ?

太子は存在して政治の重要職にいたのは事実だが

誇張されすぎてる所があって、だから非実在説なんてオカルト説が生まれたんだよな
49日本@名無史さん:2008/03/20(木) 15:35:21
【国内】韓国人犯行グループによって盗まれた聖徳太子の掛け軸の修復が終了[03/20]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1205978072/
50日本@名無史さん:2008/03/22(土) 18:39:19
キリストが死んだとか言ってる馬鹿がいるが
キリストが本当に死んでたらキリスト教なんて
存在してねーよ
復活したから宗教になったんじゃねーか
51日本@名無史さん:2008/03/23(日) 22:18:06
聖徳太子の実在説非実在説のあらそいと、法隆寺が再建されたい野菜書のままだという論争で

実在説が非再建論で非実在説が再建論だったのがよく分からない。
再建論なら仏像の裏に掘られた文が聖徳太子の時代のものではないという説を説明できるのに。
焼けた寺がわざわざ再建されるくらい、再建される時に聖徳太子は偉人扱いだったって事にもなる気もするし。

誰か素人の俺に分かるように説明してくれ。
52日本@名無史さん:2008/03/24(月) 16:28:47
現在ある法隆寺は持統天皇のころの建築で一致している。
(薬師如来が持統朝には伝来していなかったとみられること、
銘文中の用語がのちの時代のものであること)
ただ、蘇我馬子が飛鳥寺を建立して以来、寺建築は皇室の関心の的で、
厩戸皇子なる皇族が法隆寺(今あるものではなくこれ以前に)を建築した
ということを否定している学者は少ない。
つまり、仏教に入れ込み、法隆寺を建設した皇族の厩戸皇子はいたが、
推古天皇の皇太子で、推古朝において摂政となり、政治をとった聖徳太子はいなかったと。
用明天皇には大勢皇子がいたので、厩戸皇子なる皇子がいたということそのものは、
否定してはいないはず。
53日本@名無史さん:2008/03/30(日) 23:03:20
>推古天皇の皇太子で、推古朝において摂政となり、政治をとった聖徳太子はいなかったと。
根拠は?
54日本@名無史さん:2008/04/07(月) 16:32:19
いなかった事にしたいのは支那の工作員だろ?
55日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:33:56
日本書紀否定は朝鮮人が大好きなテーマ
56日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:38:17
皇太子は天武朝にできた制度
この時代には天皇が死んだら群臣の推挙で決めていた
推古朝に皇太子制度があったのはおかしいんじゃなかったっけ?
推古天皇は聖徳が死んでも皇太子を選定しなかったし、
山背王と田村皇子は推古の崩後にはじめて帝位を競って争っている。
57日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:45:33
58大村益次郎:2008/04/07(月) 17:46:11
59日本@名無史さん:2008/04/16(水) 04:24:38
飛鳥寺のモデル、韓国の王興寺か 塔の構造、出土品似る
ttp://www.asahi.com/culture/update/0415/TKY200804150318.html
60日本@名無史さん:2008/04/16(水) 21:23:40
聖徳太子の誕生シーンはキリストのパクリだったんだよ、ななんだってー。って話は事実だとしても別に不思議な話じゃないよね?。
キリストが生まれてから500年以上も経ってからなんだし。
61日本@名無史さん:2008/04/17(木) 00:07:55
厩戸皇子は生粋の阿波国人らしいがな
62日本@名無史さん:2008/04/17(木) 03:26:20
【文化】奈良飛鳥寺のモデル、韓国の王興寺か 塔の構造、出土品似る 百済王の発願で577年に創建…朝日新聞[04/16]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1208298676/

◆◆◆ネオ騎馬民族説◆◆◆

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.8【波夫】
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1163094069/
http://p2.chbox.jp/read.php?url=http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1163094069/all
532-533 560-562 564

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1174084868/435-440
63日本@名無史さん:2008/04/17(木) 03:43:34
64日本@名無史さん:2008/04/19(土) 17:03:15
飛鳥寺の創建には百済から迎えた瓦師や仏師、
建築士らがかかわったことが日本書紀に明記されてあるから、
別に百済の寺と似ていて不思議はないよね
65日本@名無史さん:2008/04/21(月) 02:03:42
物部守屋の名前もソロモン神殿のモリヤ山が由来かw
66日本@名無史さん:2008/04/23(水) 18:03:59
67日本@名無史さん:2008/05/09(金) 11:40:55
推古天皇は敏達天皇との間に2男5女を儲けたとされている。竹田皇子を
寵愛し、後継者として考えていたが竹田皇子は早世した。ところが気になるのが
尾張皇子、尾張皇子には位奈部橘郎女がおり、彼女は聖徳太子との間に
一男一女を儲けている。尾張皇子って本当は推古天皇の実子じゃなく他の
女性が産んだ子を推古天皇が養子にしただけじゃないだろうか。

尾張皇子について詳しい人教えてください。
68日本@名無史さん:2008/05/09(金) 14:25:39
記紀による限り尾張皇子は推古天皇の実子。
崇峻天皇没後、次の帝位を竹田皇子と厩戸皇子が争った時期、
尾張皇子はまだ幼く(尾張皇子は推古天皇が産んだ6人目の子)、
実兄竹田皇子の存在もあったために、
皇位継承争いには加わらなかったと思われる。
また、母の推古天皇が当時としては69歳まで生きたため、
推古天皇より先に没し、推古没後の皇位継承争いに加わることもなかったと思われる。
尚、推古の長女菟道貝蛸皇女も厩戸皇子の妻になっており、
皇女の嫁ぎ先は当時皇族にしか求められなかったことから、
尾張皇子の娘が厩戸皇子の妃になったことは特に珍しいことではない。
天寿国曼荼羅繍帳を作ったとされる尾張皇子の娘橘大郎女は
厩戸に比べて相当若い妃であったであろうとは考えられる。

(推古天皇即位時点での皇位継承有力者の年齢)
推古天皇(敏達天皇大后) 40歳
厩戸皇子(用明天皇嫡子) 20歳  
竹田皇子(推古天皇長男) 推定18歳
尾張皇子(推古天皇次男) 推定11歳
69日本@名無史さん:2008/05/10(土) 05:18:40
>>68
皇極・斉明天皇が譲位するまで生前譲位はありませんでした。推古天皇の時代には
天皇(大王)が亡くなるまで次期太子を決めることができなかったんですね。
すると尾張皇子も娘を儲けたのは良いとして、竹田皇子と同様母の推古天皇の
生前に死亡したのですね。そして孫娘が産んだ一男はまだ幼く天皇の後継者には
なりえる資格がなかったと解釈してよいのでしょうか。また、宜しく御教授ください。
70日本@名無史さん:2008/05/11(日) 04:16:11
聖徳太子って存在をもし作ったとしたなら
一体何を隠したかったのかな?

誰が創作したのか本当にいたのかよくわからんけど
71日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:34:02
天武朝に、天皇を称える国史を編纂しようという気運が高まった→
天武の兄天智は若いころ中臣鎌足らとともに蘇我氏を討った。
天皇家や藤原氏を称えるため、蘇我氏は悪者にしなければならない。→
しかし、推古朝を編纂する際、偉大な功績を残した大臣蘇我馬子の存在が気になる。
馬子は中大兄らが討った入鹿の祖父、蝦夷の父で偉大であってはどうしても困る。→
厩戸皇子の子山背王は舒明天皇との皇位継承争いに敗れ、蘇我氏に滅ぼされた。
厩戸皇子は蘇我馬子が生きた時代と時代的にも一致する。
厩戸皇子は本当はこの時代にはなかった皇太子だった、
それも聖主であったことを表すために聖徳太子という尊号を与え、
大臣蘇我馬子の功績はすべて「聖徳太子」の功績ということにした。
72日本@名無史さん:2008/05/12(月) 16:38:45
>>71
文章荒いけど、言ってることはよくわかる。
おそらく、偉大な「聖徳太子」誕生の事情はこれでガチだろう。
「聖徳太子」に対する異常な賞賛の理由もさらっと説明できるし。
ま、ほとんど定説と言っちゃってもいいだろ。
73日本@名無史さん:2008/05/12(月) 21:40:39
「立派なじいさんの孫が極悪人」
それがじいさんの功績を消さなければいけないほどのこととは思えないのだが。
74日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:30:39
>>73
チミには歴史や人間を語るセンスがないとおも。
入鹿が「極悪人」かどうかは知らんが、暴力を用いて権力を奪取した者にしてみれば、その正当性を訴えるために「極悪人」としなければならなかったし、たとえ祖父であろうとも、その家の功績は目障りだったはず。
ま、平民にはわからない感覚なのかも知れんが。
75日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:38:54
>>71-74
妄想乙。
76日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:03:31
要するに、蘇我馬子は医大だったということでオケ!?
77日本@名無史さん:2008/05/13(火) 01:32:07
おそらく、後付けで粉飾された部分を除いた聖徳太子の治績の多くも、馬子の手によるものと考えてよかろう。
78日本@名無史さん:2008/05/14(水) 21:09:01
>>77
妄想乙。
79日本@名無史さん:2008/05/14(水) 22:25:36
いやむしろ「聖徳太子」こそ妄想の産物だろ!www
俺も一応、厩戸皇子の実在までは否定するつもりはないけどねw
80日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:29:31
>>79
それはお前の妄想
81日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:56:10
>>80
君は聖徳太子の『未来記』でも信じてるのがお似合いだよ!www
82真皮の太子:2008/05/17(土) 01:05:40
なかなかレベルが高いね。だ、もんで参入。
大山氏が聖徳太子はいなかったというロジックは、太子をキリストに言い換えてみればよく分かる。
イエスはいた。でも、人間に水をワインに変えたり、いざりの足を立たせることなんかできるはずはない。
だから、キリストはいなかった。ということになる。大山が言ってることはこれと同じ。
キリストの神秘化がいつの時代に行なわれたかは、もうすっかり解析されている。でも、キリストはキリスト。
大山の話をキリスト教国の歴史学者や神学者に聞かせたら、笑い出すだろう。
水戸黄門が漫遊できたはずはない。だから光圀はいたけど黄門はいなかった?
聖徳太子の事績から、神秘的なものを取り除いたら厩戸になるという発想そのものがヘン。
真皮を除いたら名前が変わるのか(包茎手術したら変わるけど)。
大山のデータ処理は作為的過ぎるんだ。
83日本@名無史さん:2008/05/18(日) 01:08:49
わしも参入おけ?

作為的に見える、ということは逆に論理的には間違ってない、ということじゃないのかな。
ある論理があって、それが作為的かどうか、はまた別の話でもあるだろうし、82さんの
言ってる事は大山の論と同じに思う。

ところで聖徳太子がいなくてもあんまり困らないけど、キリストが明日にでも復活して
「全部ウソぴょ〜ん」って言ったら困る人多いだろな〜。
ほんでさ実際、神秘化というウソ、はつかれてるわけだから、なかなかややこしくないかな。
いかん、話がずれた。
84日本@名無史さん:2008/05/18(日) 11:35:57
>>82
前半の論旨は至極尤も、てかそんなことは言わずと知れた自明のことだが、後半言ってることがよくわからん。
同一人物でも別人格、ということがあるうるのは心理学でも認められてることで、ましてや轢死の人物ならなおさらジャマイカ!?
東照大権現様と徳川家康は同一人物だが、別人格ジャマイカ?
マグダラのマリアと聖母マリアが同一人物かどうかは俺にはわからないけどね。
85日本@名無史さん:2008/05/19(月) 02:12:31
>>77の言うようなことを記した史料は存在しない。
>>77の言うようなことを証明するものは何も無い。

つまり空想に過ぎない話ということ。
86日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:37:08
>>85
ところで、『未来記』だと地球が滅亡するのはあと何年後ってことになってんの?
87日本@名無史さん:2008/05/19(月) 23:09:49
残念ながら、轢死というのは史料に残ってないことが山ほどある。
それに、その残ってる史料というヤツも誤謬や偏見を多分に含んでるんだよ。
実証史学が史料から一歩も離れられないというなら、轢死学者に轢死の実相を明らかにすることは不可能。
そんな轢死学に期待するよりは、君も平民なら平民らしく、常識を使って自分のアタマで考えてみるんだな。
88日本@名無史さん:2008/05/20(火) 05:37:25
>>77みたいな話は
全く実証性のない空想。
89日本@名無史さん:2008/05/20(火) 23:13:13
今更だが、『日本書紀』の記述でも「是歳、皇太子(聖徳太子)・嶋大臣(蘇我馬子)、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国百八十部并て公民等の本記を録す」とあり、少なくとも歴史書編纂事業は太子と馬子の共同事業とされている。
馬子の名前を後で付け足す理由はないから、馬子の関与大なるは確実。対する太子の方は……さすがに俺も、太子の名前が後で付け加えられたなんて主張するつもりは毛頭ないけどね(笑)
また、こういう場合、上席者は単なる名義貸しであることが定石、とは言わないが、得てしてそういうことがよくあるということも、頭の片隅くらいにはいれとこうね(笑)
90日本@名無史さん:2008/05/20(火) 23:18:51
ま、平民と話しても詰まらないだけなんで、これくらいにしておくが、もう一言だけ言っておけばだな、聖徳太子の超能力は『日本書紀』の保証付きだからなwww
そこんとこ、くれぐれも誤解のないようにw
91日本@名無史さん:2008/05/21(水) 01:14:59
>>89
まあ、>>77みたいな空想には結びつくものじゃないがな。

>>90
えーと、『日本書紀』は当てにならないと言いたいようだな。
『日本書紀』が当てにならないならば>>89の話も当てにならないし、
そもそも蘇我氏そのものが存在しなかったことになるw
92日本@名無史さん:2008/05/21(水) 01:33:57
>>91
君は味噌も糞もカレーも一緒に呑み込むような人間か?
もしその区別がつくのなら、『書紀』の太子周辺の記述が、とりわけ粉飾の色が強いということくらいは理解できように┐(´ー`)┌
93日本@名無史さん:2008/05/21(水) 18:57:18
>>91
おまいはそうやってイチかゼロでしかモノを考えられないのか?
そんな単純な話なら楽でいいけどよw
ま、オツムの弱い奴って、すぐそうやって楽をしたがるもんだけどなw


ゆとり、おそるべし(((゜д゜;)))
94日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:12:06
日本書紀の自説に都合の悪い所があれば粉飾捏造とする。
日本書紀の自説に都合の良い所があれば真実とする。

ご都合主義の典型的事例ですな。
95日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:22:56
>>94
勿論ご都合主義であるかどうかの判断はあろうが、批判的に史料考証をするのは当然、歴史学のいろはの‘い’だぜ。

だいたい『日本書紀』自体がご都合主義的記述に満ちているのだから、それを取捨選択しないでどうする!?

矢張り君は糞とカレーを混ぜて食うのがお好みらしいなw

マジで詰まんねーよおめえヾ( ´ー`)
96日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:36:03
まあいい、それなら具体的いこう。
君もさすがに『書紀』の叙述を丸ごと信じてはいまい。
君の言うご都合主義的かどうかは知らぬが、少なくとも事項ごとにその当否を判断するだろ?
例えばこれはどうだ?
「生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く弁へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす」
君はこの記述を歴史的事実だと思うのか?
この部分を否定したら、丸ごと『書紀』を否定しなければならないのか?
つまらないのでいい加減うんざりだが、一応訊いてやる。答えよ。
97日本@名無史さん:2008/05/22(木) 01:37:05
>>95
『日本書紀』を自説の都合のいいように恣意的に取捨選択をしているから
ご都合主義と言ってるんだよ。

>>96
常識の問題だよ君
日本書紀に限らず、中国史書なんかでも
帝王の出生伝説とか眉唾な話は多々あるわけでね。
ある中華皇帝が眉唾な話で潤色されてるからといって
その事跡まで潤色扱いして否定するなんで馬鹿げた話だ。
98日本@名無史さん:2008/05/22(木) 22:56:49
>>97
君が糞とカレーの分別がつくようなのでよかったよwww
そのとおり、君にも『日本書紀』がいかに“ご都合主義”的で作為に満ちた叙述をしているかわかっただろう?
そのことが確認できればそれで充分なんではあるが、敢えて一言付言すれば、君はそのご都合主義の生じた理由を中国の史書になぞらえて推定し、私はそれとは違う推定をする、それだけだ。
事績にまで敷衍するのは怪訝しいという指摘だが、例えば冠位十二階の制定はどうだ?
『書紀』には太子の事績であるとは書かれてないようだが、いつのまにやらそれが太子の事績であると当然のように了解されてはいないか?
ま、ソースはこの板の最初の方だがなwww
99日本@名無史さん:2008/05/24(土) 00:32:21
>>31
という事はキリスト教日本伝来は早かったのね。
100日本@名無史さん:2008/05/24(土) 06:57:00
>>99
景教な