1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:58:52
age
4 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 18:40:45
乙
5 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 19:14:03
18松平のうち、確定しているのが14家で、あとの4家は数え方によって
変わるってことじゃないの?
6 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 21:13:19
名スレの予感
7 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 01:29:38
徳川家康って、将軍に即位したときに本姓を松平から徳川にしたんだっけ?
8 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:38:49
9 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 15:37:38
>8
永禄9年(1566年)、今川氏から独立し、三河を統一した家康は、
新田源氏の庶流得川氏の末裔であると自称。
正親町天皇の許可を得て、姓を徳川と改め、
得川氏は藤原を称していたとして、本姓を藤原と定めた。
この時期、家康は藤原家康と署名している。
しかし、慶長8年(1603年)征夷大将軍になるに当たっては
将軍は源氏でなければならないということで、
得川氏はもともと新田源氏であるとして、源を本姓とした。
10 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:14:33
世良田清康って名乗ったのは家康の祖父だろ。
11 :
徳川極秘史:2008/02/28(木) 19:37:17
祗園精舎の鐘の声、
松と竹は同じ山から別れたのであった
12 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:45:58
世良田って?
13 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 06:49:08
>>9 源氏を称しはじめた時期が違うんじゃない?
将軍に就任するときに復姓したのではなく、
関東入国の時期でしょう。
家康が新田氏の庶流を選んだのは、先祖伝来のためではなく、
鎌倉北条氏を滅ぼして入国した新田義貞の故事に
なぞらえたため、という説が強いでしょうに。
祖父の清康は新田氏と何らの由緒もなく、
松平氏がその時期から源姓を称したというのは眉唾くさい。
むしろそのころの松平の姓は賀茂氏でしょ。
その証拠に、葵の家紋、あれ、賀茂神社の神紋だからね。
14 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 09:02:21
>>13 祖父の清康の時期から新田を称したなんて誰も言っていないんだが?
家康が新田氏庶流得川氏を名乗ったのは、家康三河統一時。
ついでながら、家康は新田氏を名乗ったことはない。
あくまでも新田の庶流得川氏。
徳川の姓の由来もこの得川氏から来ている。
関東入府の前から、家康は新田源氏の得川氏末裔を自称し、
徳川氏を名乗っていますが?
おたくの解釈だと、関東入府にあたって
はじめて徳川を名乗ったということになる。
素朴な疑問としてなんで得川でなくて徳川なんですか?
まさか家康が字を知らなかったとかってことはないだろうし。
16 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 12:02:14
武士が「損得」の得を名乗るのは汚いから、
「人徳」の徳に変えた、という説あり。
いかにも教養主義の家康らしいな。
なにしろ戦国の御世に、ハンコに「寛恕」などと
彫らせるくらいの人間だからな、家康は…
なるほどね、そう言われればどことなく家康らしい行動ですね。
18 :
13:2008/03/01(土) 12:22:19
>>得川氏は藤原を称していたとして、本姓を藤原と定めた。
>>この時期、家康は藤原家康と署名している。
>>しかし、慶長8年(1603年)征夷大将軍になるに当たっては
>>将軍は源氏でなければならないということで、
>>得川氏はもともと新田源氏であるとして、源を本姓とした。
家康が三河統一時から源氏を名乗っていたというのは新知識だな。
俺の理解では、藤原姓得川を買うまでは、賀茂姓だと思っていた。
しかしもしそれが正しいとして、
源姓への復姓の時期への理解は譲れないな。
9さんは将軍になるために復姓したとしてるね?
これは今の研究では違うんじゃない?
家康の「復姓」はもう少し早く、やはり
関東入府までさかのぼれる、というのが
今の成果じゃないのかね?
19 :
13:2008/03/01(土) 12:27:59
>>家康が新田氏庶流得川氏を名乗ったのは、家康三河統一時。
俺の理解では、家康が新田氏庶流を選択したのは
関東入府の際、後北条氏を滅ぼして入る自身と、
鎌倉時代に鎌倉北条氏を滅ぼした新田義貞をなぞらえてのこと、
というものだった。
これは俺からみると、実に説得力のある仮説だよ。
家康は縁起や由緒を恐ろしく求める人物だったからね。
9さんの見解では、三河統一時に家康が
新田流の系譜を選らんだ理由をどこに求めているのですか?
20 :
13:2008/03/01(土) 12:36:33
>>しかし、慶長8年(1603年)征夷大将軍になるに当たっては
>>将軍は源氏でなければならないということで、
これにはもう、本当に異議を唱えるね。
信長の時代、武家伝奏だった勧修寺晴豊が
信長側に「関白、太政大臣、将軍」のいずれかへの
就任を打診した、といういわゆる三職推任があったよね?
このとき、信長の公称は平氏でしょ?
しかし朝廷はそのことに拘泥した様子はない。
「源氏と日本国王」などの著者はハッキリと
「この時期、平姓の将軍は想定できた」と述べている。
しかも家康は豊臣摂関家というメチャクチャな家系が
生じた後に将軍になっているんだよね。
本当に家康は、「将軍になるために」復姓したのかねぇ?
しかも足利将軍家と対立した過去のある新田流の源氏を名乗って…
21 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 12:41:42
徳川家康を人質だったから
無教養だったという人がいるが、実際は逆。
家康が養育された今川家というのは
将軍家の親戚で、有数の名門。
しかもその家風は源氏一門でも有数の教養主義で
今川了俊のような、浮世離れしたほどの
武士道信奉者を生んだ家柄。
そこで今川義元の姪を娶り、一族待遇で育てられた家康…。
その前半生が戦国武将にしては
モラリスティックであることも頷けるよ。
汚くなるのは関が原以降のみ。
22 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 12:45:14
>18
おいおい・・・
家康が「藤原家康」と署名しているのをどうとるんだよ?
家康が新田庶流得川氏を称して、
藤原姓を取得したからだろう?
おたくは得川=源氏だと思っているわけかい?
初期のころ、家康は新田系の得川が藤原を称したことがあると言って、
藤原姓を名乗っていたんだよ。
23 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 12:49:08
>20
ふんふん、秀吉が「藤原姓」にこだわって関白になったのに対し、
家康は「藤原姓」のままで征夷大将軍になれると思っていたのかね?
信長は、「藤原姓」と「平姓」の両方を称した事実がある、
信長が平姓のまま三職についたという保証がどこにあるのかね?
信長が推挙されたところで、先例のある平姓太政大臣以外は
どのような姓でその任を受けたかわからない。
信長が名乗った姓は「平」だけであると思ってる時点でアウト。
24 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 13:02:24
>19
家康が「徳川」と改姓したのは
1566年2月29日。
調べれば簡単に分かることだが、
この時期、家康は織田信長の同盟者として
三河統一を成し遂げた年。
家康が「徳川」を選んだのは自ら
新田庶流得川氏の末裔を称したから。
君は、1566年、家康が徳川姓を朝廷から受けたという
この歴史的事実を否定するつもりなの?
家康はこの時期に早々と新田庶流得川末裔を
朝廷に認めされているんだが?
25 :
13:2008/03/01(土) 13:06:36
>>家康が「藤原家康」と署名しているのをどうとるんだよ?
それはいつの時期の書面だい?
確か、関が原直前の「藤原家康」「藤原秀忠」と
親子が発してる文書には偽造の疑いもあったはずだぜ?
>>秀吉が「藤原姓」にこだわって関白になった
そのあと、「豊臣」などという新姓を創始してるだろ?
百姓に摂関家の姓を新しく創ってやるくらいだから、
すでに朝廷のなかに姓へのこだわりなど
すでに消えているように映るが?
26 :
13:2008/03/01(土) 13:11:22
>>信長が平姓のまま三職についたという保証がどこにあるのかね?
>>信長が推挙されたところで、先例のある平姓太政大臣以外は
>>どのような姓でその任を受けたかわからない。
ちょっとまてよ…
仮定の話に及ぶのかい?
だって信長が将軍就任を打診された時点で
平姓だったことは事実だろ?
もし仮定の話に可能性を見出していいというのなら、
信長が将軍就任時に姓を変えるなどという保障がどこにある?
姓を変えないという保証もないが、
姓を変えるという保障もないではないか?
27 :
13:2008/03/01(土) 13:19:57
そもそも歴代の征夷大将軍で
叙任のために改姓したなどという例がいくつある?
たとえば足利将軍家はまず、一度も改姓してはいない。
これはすぐにわかるから問題ない。
では鎌倉幕府はどうか?
4代将軍九条頼経から氏は藤原姓に変わる。
確かにこのとき、2代将軍頼家の娘を娶り源姓になっている。
しかしこの後、藤原姓に服している。
俺の知る限り、将軍就任に際しての姓変更は
この1回きりであり、その後、将軍職が皇族に移っても、
当然、藤原氏への改姓などなかった。
28 :
13:2008/03/01(土) 13:24:44
それにそもそも将軍家とは坂上田村麻呂もなっているし、
鎌倉幕府では源氏将軍はわずか3代で、
残りの6代は公家と皇族である。
朝廷が、将軍就任の故事を、源氏が将軍職を独占していた
室町幕府のみに求めていたという根拠がどこにある?
当然、さまざまな姓の将軍があった鎌倉幕府や
それ以前の事例も故事とみなされたはずだ。
29 :
13:2008/03/01(土) 13:29:50
>>秀吉が「藤原姓」にこだわって関白になったのに対し、
>>家康は「藤原姓」のままで征夷大将軍に
>>なれると思っていたのかね?
ふっ…
関白ってのは豊臣以前、藤原氏以外の関白はいなかったんだよ。
だから藤原の姓を望んだに過ぎない。
将軍職は藤原姓や皇親、坂上田村麻呂のように
さまざまな姓の将軍がおり、関白のように
1つの氏の家職になどなっていない。
どうして家康が源氏に拘泥する必要があるのかね?
朝廷は室町幕府のみを故事に採用して
それ以前の例を除いたという根拠、あるのかね?
30 :
13:2008/03/01(土) 13:46:15
いいかい?いったん、整理しよう。
俺はまず、家康が三河統一時に源氏を称していたという話、
これはまず、いったん認めておくよ。
そのあと、藤原姓を名乗った、ここは俺とまったく同じ。
問題はその後。
あなたは、家康が将軍就任のころまで藤原姓を通し、
源氏に復姓したのは将軍就任のため、と主張してるよね。
つまり将軍就任の絶対条件として源氏への改姓があった、
としているわけだ。
俺と見解違うのは、そこ。
俺は、家康に「復姓」の必要性が生じたのは、
関東入府に際し、と主張してる。
つまり俺とあなたは、
家康に源氏への「復姓」を迫った要因について、意見が対立している。
ここを論じたい。
31 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:10:32
>>13 おまえ、源平交代説知らないのか?
よく日本史板に来るよな…
32 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:13:18
13氏へ
ずいぶん熱くなっているようでw
>>30 >家康が三河統一時に源氏を称していたという話、
>これはまず、いったん認めておくよ。
ということはつまり、君が
>>19で言っていた
>家康が新田氏庶流を選択したのは
>関東入府の際、後北条氏を滅ぼして入る自身と、
>鎌倉時代に鎌倉北条氏を滅ぼした新田義貞をなぞらえてのこと、 というものだった。
はとりあえず一時撤回なわけだね。
そもそも、三河統一時に源氏を称していたというのが間違い。
家康は三河統一時に得川氏末裔として藤原姓を名乗っている。
だから、この時期から徳川氏は得川氏末裔藤原姓なわけだ。
君の言ってることと違うのがわかるかい?
33 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:18:17
13氏
そして、君が最大の論拠としている
関東入府によって新田義貞の故事によって源氏を名乗ったという説だ。
これは、君が19で持ち出している、
このときはじめて新田の末裔を名乗ったという前提があって初めて成り立つもの。
1566年からすでに家康が新田庶流得川氏を名乗っていたという事実の前では、
全く成り立たない。
家康は「新田」を名乗ったのではない。
新田の庶流で藤原姓を称した「得川」だと言っているんだよ。
34 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:27:14
家康は朝廷への署名や叙爵の際には「藤原」を用いていた。
ただ、私的な署名などには源家康も用いた。
得川氏の末裔と称したことで、家康は藤原と源を自由に使い分けていた。
そして、征夷大将軍宣下の際、家康は以降の姓を源氏に統一した。
源氏将軍を名乗るのが歴史上もっとも有利であることを知っていたためだ。
「御湯殿上日記」には、征夷大将軍のお礼のために参内した家康が、
朝廷から「新田殿」と呼ばれてたいへん上機嫌だったとある。
このとき家康の脳裏には藤原姓をへの迷いは断ち切れ、
新田の姓である源氏として幕府を開くことへの覚悟が見え隠れするのだが。
35 :
13:2008/03/01(土) 17:01:23
>関東入府の際、後北条氏を滅ぼして入る自身と、
>鎌倉時代に鎌倉北条氏を滅ぼした新田義貞をなぞらえてのこと、 というものだった。
はとりあえず一時撤回なわけだね。
36 :
13:2008/03/01(土) 17:02:09
>>35はミスね。
enterキーに触れただけ(笑)
37 :
13:2008/03/01(土) 17:16:18
>>>家康が新田氏庶流を選択したのは
>>>関東入府の際、後北条氏を滅ぼして入る自身と、
>>>鎌倉時代に鎌倉北条氏を滅ぼした新田義貞をなぞらえてのこと
>>これはとりあえず一時撤回なわけだね。
いや、そこを撤回じゃないよ。幾度か書いてるが
俺は得川という姓を、(朝廷から)藤原氏だと承認してもらうまで
賀茂姓だと思っていた。
葵の紋が賀茂神社の神紋である、などいった他者の見解によって。
だから藤原氏だという承認を受ける前に源氏と称していた、という
知識は、俺にとって初見だったのだ。
だから俺が撤回したのは関東入府によって"初めて"名乗った、という
この"初めて"の部分を撤回したつもりで、一旦認めて以降の表現は
「復姓」というものを使っているつもりだ。
つまり、三河時代にすでに源氏を称していた、という点を認めたのであり、
関東入府で源氏を"再び"名乗り始めた、という
この時期を撤回したのではない。
だからそちらとは、家康がいつ「復姓」をはじめたのか、
ここを論じたかったのだ。
38 :
13:2008/03/01(土) 17:26:48
俺が家康の「源氏復姓」の時期にこだわるのは
そちらの表現から、そちらが
「将軍就任の条件として復姓の必要が生じた」と受け取ったからだ。
それは先ほども書いたが、絶対条件とは思えなかったために、
ここで論じさせていただいた。
だから俺がそちらにはっきり主張したいのは、
源氏復姓の時期が、将軍就任のため、というのは
現在では根拠薄弱とされているのではないか、ということだ。
もしあなたの言うとおり、家康が器用に
源藤の両姓を使い分けていたとすれば、
この議論は一気に終息することになるね。
ただ、いろいろな最近の本を読んでみて、
多くの研究者が家康の「源氏再使用」の時期を
関東入府におき始めているのは事実だよ。
将軍就任を有利にするため、という動機は薄れつつあるよ。
それはさっきも書いたように
将軍になっているのは複数の氏であり
源家に特定されていないこと、平氏の信長が打診を受けたこと、
将軍就任のために改姓したものがいないこと、などから。
39 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:28:32
>関東入府で源氏を"再び"名乗り始めた
いや、家康は関東入府後も、「藤原」と署名している。
そもそも、三河時代から得川氏を名乗っていたこと自体、
新田源氏の末裔だと周囲に公言してはばからなかったことの証明。
それでは、家康が関東入府までは「藤原」しか名乗らず(源を名乗らず)、
関東入府により姓を「源」と改めた(以降は藤原を用いず)、という史料はあるかい?
家康が公に姓を源氏と改めたのは征夷大将軍就任時だよ。
40 :
13:2008/03/01(土) 17:41:25
>>家康は関東入府後も、「藤原」と署名している。
>>それでは、家康が関東入府までは「藤原」しか名乗らず
>>(源を名乗らず)関東入府により姓を「源」と改めた
>>(以降は藤原を用いず)、という史料はあるかい?
いや、そう断言できる資料を見たことはない。
ただ、俺の固定観念では、そのように器用に氏を使い分けるという、
そういった柔軟な使い方 があると思わなかったから。
たとえば俺の思い込みでは、たとえば上洛前後の信長では、
藤原と平氏の氏の使い分けは一貫している、と思い込んでいたのだ。
別に藤原氏と源氏を使い分けていたという形跡があるのなら、
それで全然かまわない。
41 :
13:2008/03/01(土) 17:47:43
ただ、そちらも両姓の使い分けがあったと書くまでは
一貫した使い分けがあったかのような書き方をしていたよ。
もし最初に使い分けのことを書いていれば、議論はなかったね。
あと、そちらは三河時代の松平氏の伝来の姓が
賀茂氏であるという説、これはどう捉えているの?
三河時代にも源姓と賀茂姓を使い分けたのかね?
それとも賀茂氏の痕跡は家紋だけなのだろうか?
42 :
13:2008/03/01(土) 17:53:54
それと疑問がもう一つ。
これは誤りなのかもしれないが、俺が得た知識では
家康が得川の姓を藤原に改姓する必要があったのは、
三河守の官位を得る際に、卑姓を指摘されたためだ、
というものだった。
もし得川が源氏を公称(私称)していたのなら、
どうして藤原姓に変える必要が生じたのだろう?
源氏では都合の悪いことがなにかあったのだろうか?
43 :
武陽隠士:2008/03/04(火) 00:24:45
どうでもいいくだらないことが、
どっかの田舎のプー太郎で、先祖自慢かつ先祖探ししようとしてる何とかってコテハンが、
12月くらいまで徳川関連スレにいただろ?
あいつどうしたんだ?
また寺の和尚んとこに押しかけてウザがられてんじゃないのか
どうでもいいけど
>13
眉唾くさいもなにも、実際の由緒がどうであれ清康が「世良田」という、一時期新田惣領
だったこともある苗字を称していた以上、「源姓新田」を称していたと考えるのが自然。
「得川」も、「惣領が二筋にわかれていて、一方が藤原を称していた」という系図をでっち
あげてのもの(得川と世良田は、元来同族)。
藤原にしたのは、近衛前久が取り次いだからでしょ?
46 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 03:28:25
おまえよぉ、自分の都合の悪いとこ、全部スルーなんだな…。
俺がおまえの説の弱いとこ、随分指摘したつもりだが、
おまえはたったの1つも補強せず、
自分の説ではこうだ、だからこうなるはずだ、の一点張りだな。
>>藤原にしたのは、近衛前久が取り次いだからでしょ?
だから、どうして源氏を名乗れていたのなら、
藤原氏への改姓を「取り次いで」もらう必要が生じたんだ?
まずこれだけでもいいから答えろよ。
俺は賀茂氏という武家貴族としては素性の悪い姓を
指摘されたために改姓の必要が生じた、としていた。
あんたは改姓の必要性の理由がいったいなんなのか、
まったく補強しないじゃないか。
>>清康が源氏を名乗っていた
俺はそんなもん、朝廷に通らなかったんだと思うね。
源氏だというのはあくまで私称だろ?
だから公称として得川の姓が必要になった、というのが
本当のところだろ。
47 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 04:10:17
>>46 学問の話をしろ
お前がどう思うかなんぞ関係ない
48 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 16:07:03
清康が世良田を名乗っている史料って偽文書の可能性はないの?
ちょっとずれるかもしれないけど
征夷大将軍が源氏ゆかりのもの云々ってのは
「絶対のルール」って言うよりも「源氏がなるのがお約束」的な
もんなんじゃねーの?
武士連中の中では「やっぱり源氏じゃね?」とは考えていても
朝廷サイドは「源氏じゃなけりゃだめっしょ」とは考えてなかったんじゃないかな?
50 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 18:48:29
>>41 >三河時代にも源姓と賀茂姓を使い分けたのかね
家康は「得川氏の末裔」を名乗ることで
藤原と源、両方の姓を手に入れたのだが?
得川氏の末裔、と朝廷に認めさせた後も
賀茂姓なんて名乗っていたのか?
51 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:03:50
得川名字が新田流の清和源氏に結びつくことは分かるが、藤原氏とはどう繋がるんだ?
非源氏の将軍なんて掃いて捨てるほどいる
>46
>45は初めて書いたんだが、「ぼくちゃんに反対するやつは一人にきまってるんだい」か。
それはともかく、
三河時代に、藤原改姓後も、少なくとも新田流を称していたというのは、里見家への書状
等々が有名ですな。むしろ、「賀茂」を称していたという証拠を出して欲しいものですが。
後、近衛前久に取り次いでもらったのは、「三河守」だし、氏素性で言えば賀茂を称して
いようが源だろうが藤原だろうが、同じこと。何氏を称していたかじゃなくて、系図が出せ
なかったのが問題なんだから。
いずれにせよ、近衛前久に頼む以上は「藤原」になるし、藤姓のどこかを称することに
なる。で、藤氏長者の前久が「うちの一族」と認めれば、三河守任官に関しては通るし、
実際にそれで任官している。
むしろ、「藤原」なら自然に名乗れる苗字がいくらでもあるはずなのに、なぜ
「惣領が二筋に分かれていて、片方が藤原に改姓した」なんていう系図をでっち上げて
まで、「徳川(得川)」にこだわったのかという方が問題だと思うんだが。
後、「世良田清康」をわざわざ後世に偽造しますかね?確かに同族ではあるけど、作る
なら最初から「得川」にすると思うんですが。
>>49 そりゃあもちろんそうですよ。
ただね、征夷大将軍足利義満が朝廷内での権利権力を極めてしまい、源氏長者の座まで獲得したから
源氏を名乗っていた徳川家康は、それの後釜扱い。
>51
実際につながっていたかどうかはともかく、吉田兼右が「見つけ出した」という
系図では、得川の一族の中に藤姓になった家があるということになっている
らしい。で、それを清書したものを近衛前久を通して奏上した、と。
まあ、金を積んで「発見」してもらったというのが実態じゃないかと思いますが。
近衛家は、後世に津軽家も「うちの一族に間違いなし」として窮地を救ってやっ
たとか、いろいろ逸話がありますね。
津軽の自称する素性も、「近衛家の落胤」(尚通だったか?)という代物ですか
らね。
56 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 16:22:58
それって菅浦文書の松平益親?
57 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 18:06:54
初参加で恐縮だが
三代将軍家光の「光」は明智光秀の「光」だ、という説、あるよね?
これは家光が家康と春日局の子であるという説、
春日局が明智家の家系であることからきてるらしいんだけど、
たしかに久能山東照宮の鐘楼鼓楼の庇の裏には
明智家の家紋である桔梗が彫られていた(TVで確認した)。
東照宮で確認される家紋は葵と明智桔梗だけとか。
この話していたら、横レスで
「光というのは松平氏のいみなの一つで
18松平の家祖にも光を名乗る者が3名ほどいる」というのがあった。
皆はどう思う?
58 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 18:17:12
家康って、自分の子供の名前、全部、
人間関係にあやかってつけてるじゃん?
長男の「信康→"信"長+家"康"」、次男「秀康→"秀"吉+家"康"」
三男「秀忠→"秀"吉への"忠"義」、四男「吉忠→秀"吉"への"忠"義」
五男「信吉→"信"長+秀"吉"」
十男「頼宣→秀"頼"」十一男「頼房→秀"頼"」など...
(九男 義直だけ不明...)
二代将軍秀忠夫妻も次男には「忠長→秀"忠"+信"長"」という
人間関係を反映させた名前をつけた...
(秀忠の婦人は信長の姪だから、信長の縁者)
それなら秀忠の長男の家光だけ、
この習慣の外にあったって不自然じゃない?
やはり誰かのいみなを受けていたと考えるべきでは?
59 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 19:04:18
>>58 ただの賜諱じゃないのかと、とりあえずレスしておく。
61 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 20:16:24
>>58 いい加減過ぎるね(笑)。
信吉の「信」は武田家を相続させたときに
武田方の諱からつけられたもの。
頼宣、頼房の兄弟は秀頼の頼ではなく、得川家の源氏イメージを
補強するために選ばれたものだ。
幕府開いてから元服してんだぞ?
常識で考えてみろよ(笑)
62 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 21:01:45
幕府開いたあとも微妙な時期が続いてたからな。
なんともいえない。
吉忠って誰?忠吉だろう!
忠吉の「忠」は東条松平家(というより安城松平家)の「忠」だろう。実際、はじめの名前は忠康だったし。
「吉」は秀吉の吉なのかな?しかし、下につけるのは失礼だし、どうなんだろう。
64 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 21:46:55
九男がどうして「義直」なのか考えてみろよ。
「義」と「頼」というのは源氏の二大いみなだろうが。
秀吉の死後に秀頼の偏きをうける必要はどこにもない。
65 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 21:51:50
>>64 しかし家康は自分の子供につける「頼」が
秀頼の下の一文字にみえて、まるで臣従しているかのように
見えることは理解できたはずだぞ?
強行する理由がどこにある?
下の2人の子供にも「義」の字をつければよかっただけだろ?
66 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 21:59:11
確かに、あの微妙な時期にわざわざ秀頼とかぶる字を使うことないよな。
源氏を強調するなら「義」の字(義家、義光、義朝や足利、新田)で十分だし。
67 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:04:23
素朴な疑問で申し訳ありませんが、
家康は、秀吉から羽柴ないしは豊臣の姓を受けたことは
有ったのでしょうか?
結城秀康は「羽三河守 秀康」と署名したりしていますので、
つい、気になってしまいました。
はあ?
秀頼ってなんだっけ?
って余裕がいいんじゃん
69 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:17:15
そのわりには必死だったけどな>家康
70 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:20:25
71 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:23:22
>>67 秀康が羽柴姓を名乗ったのは、秀吉の人質となり
羽柴姓になったから。
また秀康が秀忠の兄でありながら将軍家を相続できなかったのも、
いったん豊臣家に入れられてしまったからというのが大きい。
72 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:34:28
いや、たしか徳川家康も羽柴姓を押し付けられたはずだぞ(笑)
73 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:24:45
>>58 秀忠・忠吉の「忠」は家康以前の三河松平氏の通字。
>>63 忠吉・信吉の「吉」は確かに不思議だが、当時は他にも浅野長吉とかもいるから
秀吉はあんまり気にしていなかったのかもな。
>>64 それぞれ「頼」は河内源氏の祖である頼信、「義」はその子である頼義以来の
由緒があるからな。
ただこの両字は、既に鎌倉・室町の将軍家が使用していたから、重複を避けて
江戸の将軍家自身は、頼義の次の義家に由来する「家」を用い、御三家に
旧将軍家の通字を付けたというところか。
ただどうして尾張が「義」で、紀伊と水戸が「頼」なのかは、よくわからんが。
まあ水戸は紀伊の分家のように見る向きもあるから紀伊と同じというのは
わからんでもないけど。
>>64-66 家康お得意の方便ってやつじゃね?
豊臣恩顧の大名達には豊臣もちゃんと敬っているように見せかけておいて、
結局大阪の陣が終わってしまえば「頼」の字は源氏由来のものだったという
ことで片づけてしまうような。
74 :
武陽隠士:2008/03/06(木) 00:25:34
韓国人のふつうにある名前に秀吉(スギル)ってのがある。
韓国人(インテリ)の友達に、豊臣秀吉と同じ名前を付けるのは何か理由でも(敵の名前を付けると長生きするとかなんとかの迷信W)
あるの?
って訊いたら
「関係ないよ」
だって(笑)
ただ彼は「秀吉」好きじゃないんで、子供が出来ても付けないとさ(ま、他の韓国人だって秀吉嫌いだろうが、名前に対する意識が韓国人は少し日本人とは違うのか?分からないが…)。
75 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:51:56
>>韓国人のふつうにある名前に秀吉(スギル)ってのがある。
この話、何気にすごいな。。。
この秀吉って、朝鮮侵略以前から半島にある名前なの?
それとも日本統治以来、流行したものなの?
その追跡レポを頼む。
これはおまえが思っているより重要なことだぞ。
軽くスルーしていい問題じゃない。
奴らの心中に日本への憧憬が隠れているかもしれないのだからな。
>>名前に対する意識が韓国人は少し日本人とは違う
今度大統領になった李明博は大阪生まれで
韓国にとっては日本からの帰国子女だろ?
この「明博」という名前が日本的過ぎるということで
DNA鑑定にかけたくらいなんだぞ、奴らは…(ニュースで見た)。
だから名前には異常なこだわり、もってんだよ。
だから俺の疑問点はかなり重要なんだ。
ここ数日のうちに聞いてこいよ、
そんで携帯から打てよ…
待ちきれねえよ…
早く誰かに打ち明けたい、この一大秘事をな…
76 :
武陽淫士:2008/03/06(木) 00:56:39
韓国には信長(シンチョ)という名前も多いんだよな
77 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:02:40
>>75 李明博の名前には「あきひろ」という日本語読みまであるみたいだしな。
>>76 信長を朝鮮語で読んだら、신장(sin-jang、シンジャン)になると思うのだが。
てゆうか「長」は日本語でも旧仮名で読めば音読みは「ちゃう」なのだから、
「長」の字は母音は本来的に[a]だよ。
>>76は頭悪すぎ
「秀吉」とかは、字の意味だけで考えればどっちも好字だから、日本以外の漢字圏にそういう名前があったとしても、別に不思議はないよ。
80 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:10:56
>>77 アキヒロくんは、日本生まれで、
途中まで日本で育った元在日。
「日本でも通じる名前」というより
そもそも日本式命名。
81 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:11:55
>>80 韓国の大統領がそんなことでいいのかよ?
え?
82 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:36:48
>>73 紀伊頼宣(頼将)と水戸頼房は、母方の祖父の正木頼忠の名前も意識しているって話も聞く。
だとすると、紀伊と水戸の「頼」がまず決まっていて、尾張義直(義利)は消去法で「義」が割り当てられたって可能性もあるかも。
『公卿補任』を見ても、義直と頼宣の任官は同時だし、名前も同時に決められたのかな?
83 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:53:50
>>紀伊頼宣(頼将)と水戸頼房は、
>>母方の祖父の正木頼忠の名前も意識しているって話も聞く。
それって秀頼の頼説や、源氏の頼より奇説じゃない?
御三家の元服のときって、もう秀忠と忠輝
(そして養子の秀康)以外の子供、いない時期でしょ?
そんなときに、天下の征夷将軍を遠慮させて
いみなを取らせる、そんな大物なのか、正木頼忠って???
それこそたまたま「頼」の字がついてるだけじゃないのか?
84 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 02:37:42
三家に「頼」と「義」のいずれかをつけることは既定路線だったとして、どの字をどの家に割り振るかというのを決める段階でなら、そういうこじつけもないとはいえない。
ただ決定的な証拠もない。
85 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 02:40:48
>>81 でも韓国人名で、そのまま漢字を日本語読みすれば日本人の名前になるような命名は結構あるよ。
例えば女性名の「〜子(자、ジャ)」なんて明らかにそうだろう。
日本統治時代以前の半島にはまず存在しない名前だし。
86 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:47:39
87 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:56:34
漢字圏の人名は普通は字の意味で考えて好字の組み合わせで名付けられる。
「秀」も「吉」も普通にお目出度い意味の字なんだから日本以外の漢字圏の人名にあったって不思議がるところじゃないだろ。
88 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 04:44:51
だって韓国って
あれだけ徹底した反日教育してんだぜ?
そんな一般論で秀吉って名前、つけるか?
字の意味がよければそれでいいのなら
どうして「李明博」が問題になる?
やっぱ日本的である、ということは問題なんじゃないのか?
90 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 13:48:44
「李明博」の名前が問題っていったって、大統領に当選したことからすれば
大半の韓国人にとって大した問題ではなかったってことだろ。
>>59 そのサイトだって所詮は妄想だよ。
あと世良田頼氏に関しては、このスレの住人には常識レベルだろ。
キミが大げさにいうことじゃない。
92 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 19:12:27
家康の氏はどうしようもなく低いな。
だから混乱するんだよ。
争いはやめろよ、バカどもが…
93 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:15:40
94 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:21:52
>>73 徳川将軍家としては、頼宣・頼房の「頼」は源氏の「頼」と言いたいところだろうが、
その後の史実を知っている現代人でも、秀頼とかぶることに奇妙な印象があるのだから、
豊臣家が健在であった当時の人々なら、もっといぶかしく感じたことだろうな。
「頼」にこだわらなくても、源氏には足利将軍家や新田一族の「義」の字があるんだから、
あの時期にあえて秀頼とかぶる字を用いたのは、何らかの意図はあるだろう。
義は足利とモロかぶりだからイメージ違えたかったんでしょ
秀頼は「ああそういえばそういうやついたなあ」って扱いで
96 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:52:23
まあ「頼」は摂津・大和・河内の3源氏共通の通字だが、
「義」は基本は河内源氏だけのローカル通字。
そういう点では「頼」>「義」にも見えそうなところ、あえて兄のほうに
「義」を付けているんだし、いろいろな意図がありそうだな。
97 :
武陽隠士:2008/03/06(木) 22:55:31
>>88 は?
秀吉(スギル)って名前、韓国にあるからしょうがないだろ。
じゃ何か?
オバマが日本の敵になったら小浜市は改名しなけやならないのか?
おまえバカW
韓国人でもドイツ人でも何国人でもいいから生の外人と一度対話しろ。
引きこもり野郎W明博はもともと韓国にはあまりない名前なだけだ。
バカはいやだね
98 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 23:03:15
>>1 名文ですね。
2ちゃんねるの文章が
恥ずかしく感じられます。
99 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 23:08:36
あえて息子たちに「頼」をつけたのは、秀頼に敬意をはらうのとは逆の意味で
「秀頼だろうがなんだろうが絶対に控えないよ」って意思表示だったのかも。
100 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:16:54
>>81 いいも悪いも、そういう経歴なんだから
しょうがない。
つまり、
日本も韓国の知性ある奴らも、
「いい加減に韓国のバカ教育とか、どうにかしようぜ」
という動きで、彼が大統領になったんだよ。
101 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:34:56
淫士よぉ…、おまえは究極のバカだな…。
いいか?
秀吉ってのは韓国史上、最大の悪役なんだぞ?
そいつの名前がポピュラーだとお前がいうから、
話題が広がったんだろ?
実際、お前の友人は子供につけないといったんだろ?
だから他の韓国人はどういう心理でつけるんだ、と
こういう展開だろ?
何もそんなに反発する話題じゃないだろ?
淫士ッ!
てめえは糞だッ!日本史板最低の臭い臭いネット糞だッ!
とにかく秀吉という名前がどうして普及してるのか、
その心理を探る、これは貴様の宿題だッ!
数日以内にきちんとやって来いッ!
102 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:41:34
>>徳川将軍家としては、頼宣・頼房の「頼」は源氏の「頼」と
言いたいところだろうが、その後の史実を知っている現代人でも、
>>秀頼とかぶることに奇妙な印象がある
しかし御三家の連中が名前をつけられた時期って
関が原から10年近く経過しており
すでに豊臣は泉攝河の小大名に転落しており、
何も秀頼の下の諱をもらう必要あるか?
103 :
102:2008/03/07(金) 03:46:13
確かに
「秀頼と家康の会見時、義直は
人質として加藤清正のものへ預けられた」とあるから
まだ豊臣恩顧の大名へのポーズは必要だった可能性もあるが…
家康は福島正則や加藤清正には秀頼を殺さない、という
ポーズをとり続けていたわけだからな…
いわば関が原で利用した武闘派の恩顧派をだますために
秀頼の諱を利用した可能性はあるかもしれないな、家康なら…
104 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 05:27:10
豊臣秀頼の元服は1596年(ここで秀頼の名づけ)。
一方、徳川義直・頼宣は同日で1606年。
つまり義直の元服時にも、やはり秀頼の名はすでに存在する。
同じ日に元服しながら兄の義直には源氏の通字を与えており、
弟には秀頼の諱を与える、という変則的な偏諱は不自然だ。
もし頼宣の頼が秀頼の諱として、それが徳川家の立場なら、
当然、同じ日の兄の義直の名にも、頼の諱が用いられたはずだ。
やはり同じ日に源氏の通字をもらった兄同様、
弟の頼宣の頼も源氏の通字からとった、と考えるのが自然。
105 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 05:30:24
義直と頼宣の元服、名づけが同日というのは
気づかなかったよな。
ここにもっと早くきづけば
頼宣の頼が秀頼の偏諱だなどという誤解は生じなかった。
やっぱり、調べてみるもんだよなぁ。。。
106 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 08:10:27
家光の「光」はどうなった?
ご先祖から採ったのか、光秀から採ったのか?
こちらのほうが先の話題だったろう?
スギルの話なんかどうでもいい
107 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:51:30
>>105 つうか元服が同日ってことは分かっていて、それを前提の上で
議論していたんじゃないのか?
あと任官も同日。これは
>>82も指摘しているが。
>>106 ご先祖の松平信光か?
108 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 16:15:30
同じ日に名前をもらっているのだから、義直も頼宣も
同じ立場で命名されたとみなすのが妥当。
つまりどちらも源氏にあやかっての命名だな。
弟の頼宣にだけ秀頼の偏諱を受けさせたというのは不自然。
そう主張するのなら理由を挙げよ。
109 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 16:18:00
誰かが言っていたが、もう頼の字を用いても
誰も家康が豊臣に臣従しているなどと映らなかったに違いない。
俺たちは深読みし過ぎたんだよ。
110 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:24:28
まずはこの2人の烏帽子親が誰かを確定させることだ
111 :
武陽隠士:2008/03/08(土) 00:23:46
スギル云々で多少話題が広がったのかな。
私は基本的にアジビラのつもりで書いてるんで後レスあまり追わない。
それと、あっちゃこっちゃのスレに書き散らした書き込みに対するレスに応答してたら、マジ身が持たない。
まあ許せ
112 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 08:41:39
わざと頼の字を使って、
「豊臣だろうが、秀頼だろうが俺は控えない。断じて控えない」
と宣言した、最大の嫌がらせという見方も成り立つなw
113 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:30:50
室町幕府や江戸幕府は、逆に偏諱として貰った場合以外で、ときの将軍の名前と
同じ字を用いることを規制しているからな。
114 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:15:17
>>112 かえって勝手に秀頼の諱を使うことで、もう家臣でもなんでもない、
秀吉の時代とは違う、といいたかった可能性もあるな。
とにかく、取り様によってはある意味、最大の豊臣無視だよな(笑)
豊臣なて関係ないよ
普通に源氏だからでしょ
116 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 23:55:41
>>83 もし烏帽子親が正木頼忠なら可能性はある。
117 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 20:53:51
なにが 豊臣だ
豊 臣 秀 頼
だ ろ う と
俺 は 絶 対
控 え な い
断じて 控 えないからな
118 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 21:32:53
家康乙
119 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:23:23
家康は豊臣を無視するために
あえて頼の字を使ったんだよ。
そのことがわからなければこのスレから出てゆけばよい。
120 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 11:28:14
つまらん挑発はやめよ
だから豊臣なんて関係ないって
豊臣豊臣いってるやつって大阪民国人?
122 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:01:13
朝鮮人は秀吉嫌いだろ
ところが、中国東北部や朝鮮半島では「秀吉」という名前が一般的なのです。
(例:釜ヶ江秀吉(早乙女貢の本名、旧満州出身))
124 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:29:45
それ舞踊淫祠が既出
125 :
武陽隠士:2008/03/11(火) 23:31:50
126 :
武陽隠士:2008/03/11(火) 23:56:02
むしろ秀吉のほうが朝鮮の文化に憧れて
名前を拝借した可能性もあると思うぜ。
尾張は連歌師の公家を通じ朝鮮文化も
広く普及していたからな。
127 :
武陽隠士:2008/03/12(水) 00:00:12
>>126 勝手に名乗るな。
否、まともな論ならいいが
てめえみたいに偏差値低そうなトンデモ日本史レスじゃ困るんだよW
バカなのか?
くだらねえ珍説唱えてる暇あんなら仕事しろクズ野郎W
128 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:21:12
>>武陽隠士
>>むしろ秀吉のほうが朝鮮の文化に憧れて
>>名前を拝借した可能性もあると思うぜ。
>>尾張は連歌師の公家を通じ朝鮮文化も
>>広く普及していたからな。
ほんとに戦国に朝鮮文化の普及なんてあったのか?
古代天皇家の宮廷は朝鮮語だったみたいだけど…
朝鮮通信使って江戸時代だろ?
129 :
武陽隠士:2008/03/12(水) 00:35:15
>>128 私は本物だが、教科書レベルだよ以下は
利休が高麗茶碗を好んだりしたろ
あと朝鮮の磁器はすばらしい。
だから陶工が捕虜になったんじゃないか?
儒者もだ。
130 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:35:37
武陽隠士って停脳なんだねw
131 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:39:39
>>利休が高麗茶碗を好んだりしたろ
>>あと朝鮮の磁器はすばらしい。
>>だから陶工が捕虜になったんじゃないか?
>>儒者もだ。
なるほど…
いわれてみれば戦国期にも
それなりの朝鮮フィーバーみたいなものがあったんスね…
よく考えてみりゃ当時の朝鮮って漢字だったんだですよね。
うっかりハングルだと勘違いしてました。すみません。。。
132 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 13:24:57
で 増長した利休に切腹
命じた秀吉
133 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:27:24
134 :
武陽隠士:2008/03/13(木) 01:15:27
136 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:16:53
ブヨがうざいのは今に始まったことじゃないよ。
137 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:00:20
138 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:23:18
>>武陽隠士:2008/03/11(火) 23:56:02
>>むしろ秀吉のほうが朝鮮の文化に憧れて名前を拝借した可能性もあると思うぜ。
>>尾張は連歌師の公家を通じ朝鮮文化も広く普及していたからな。
一瞬、信じかけたw
だってこいつ、朝鮮で秀吉という名前が多いとか言ってたから...
っつーかもともと奇説論者でしょ...
まあいつも電波発言しているからな
140 :
武陽隠士:2008/03/14(金) 21:47:08
141 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:49:13
人気者は辛いね>ブヨ
142 :
武陽隠士:2008/03/14(金) 21:49:36
あぼんしとけ
俺はしてる
144 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 07:30:51
ぼんぼんばかぼん ばかぼんぼん
146 :
武陽隠士:2008/03/15(土) 18:49:04
おまえらの軍事貴族に対する定義をききたい。
147 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 18:51:18
なにが 豊臣だ
豊 臣 秀 頼
だ ろ う と
俺 は 絶 対
控 え な い
断じて 控 えないからな
148 :
武陽隠士:2008/03/15(土) 18:59:30
>>146は偽物だ。
ついでに言えば武陽スレの書き込みは一回だけしかしてない。
あとは全てなりすましの連中。
文体も巧い具合に真似て巧妙だが、私は知らないし文責なしだ。
しかしマジでトリップつけるかな…。
こんな時間帯に書き込みするのは面倒くさいなまったく。
149 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 04:52:54
>>148 おまえが本人だって証拠、どこにある?
てめえこそ本人騙ってるキチガイだろうが…
151 :
武陽隠士:2008/03/16(日) 10:28:12
>>149 無くてもかまわない。
ただ武陽隠士はトンデモを極端に嫌う人間だという証拠を残せればいい。
トンデモを嫌う武陽隠士が偽物というお前こそ偽物をカタる基地外だろ。
私はギャラリーを意識して書き込みしてるだけだ。
152 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 13:38:18
154 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 18:04:46
>>152 どうでもいいが
おまえ碌な書き込みしてないクズだろ?
もっとお勉強してから言えクズ野郎
馬鹿が秀吉が朝鮮人名だとか関係ないレスつけたのが、そもそもの誤りの出発点。
スレタイに関係ない話題は、そういうスレ立てて勝手にやってくれ。
ここを朝鮮人がどうのこうのという話題でジャックするな、ボケ。
156 :
ピンチョ:2008/03/16(日) 19:30:17
>>155 無視すりゃいいだけだろうが
ボケ。
レスひとつでウダウダ抜かすな。
いちいちうるせーぞ
女でもつくれ。キモいんだよ
朝鮮人がどうのこうのと、関係ない話題でジャックするな、ボケ。
158 :
ピンチョ:2008/03/17(月) 00:18:24
159 :
パンチョ伊東:2008/03/17(月) 06:39:10
ボクの偽者かい?
>>ピンチョ
160 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 06:41:26
日本史板は粘着が多くてイヤだね。
とくにピンチョ。
他所でやれ
162 :
武陽隠士:2008/03/17(月) 21:17:45
私の秀吉についての書き込みがこのスレを混乱させたことは素直に認める。
自身の影響力の大きさを自覚できていなかった私の不徳だ。
しかし後の朝鮮遠征を見てもわかるように
秀吉が朝鮮に一種の憧れをもっていたのは否定しようのない事実だ。
また秀吉が千利休と対立したのも、利休があまりに朝鮮茶碗を
珍重することに秀吉が嫉妬したからだ、という説もあるくらだい。
とにかくこのスレは朝鮮のことを語るスレではない。
私は日本史板の指導者として、
このスレにおける松平氏関連以外の話題は以後禁じる。
163 :
ぶ陽いん士:2008/03/17(月) 22:51:03
>>162 あこがれなんか秀吉はない。
馬鹿だろおまえ
どうでもいいが勝手に名乗るな
あと勉強もっとしろ
おまえ才能ねえぞ
私はネットなんかぶっちゃけ潰してやりてんだよ
なりすまし野郎、それじゃ武陽の真似になってねえんだよ馬鹿じゃねえか
164 :
武陽隠士:2008/03/17(月) 23:14:29
>>163 秀吉が唐や朝鮮、南蛮の文物を好んでいてことはまぎれもない事実さ。
ただほんとうに秀吉が朝鮮にあこがれて名前をつけたのかどうか、
たしかにこれからの研究に待つところが大きい。
165 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/18(火) 00:42:58
>>164 うぜーぞ
当たり前のこと書くな。
馬鹿じゃねえか
これからこのトリップで行く
追々偽物と本物の区別もつくだろうが
今しばらくの時間かかるな
これからなりすましのクズ片っ端から潰すぜ
長期的な論争なら私の勝ちだ
とりあえず今日は顔見せイエイ('-^*)/
乱暴な言葉づかいの奴は偽者。
つねに冷静沈着なのが本人。
167 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/03/18(火) 16:26:32
>>43>>44 ただいま活動凍結中です。
とりあえず調整役が必要だな。
竹下さん蘇って下さい。
168 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 19:41:56
169 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/18(火) 22:47:59
>>166 武陽隠士の特徴は日本史の高い識見もさることながら、
余人の追随を許さぬ罵倒が真骨頂だろーがW
もうひとつ武陽の特徴は短時間に広範囲に様々なスレないし板にレスしまくることだW
武陽の離れ技、てめえには真似できまいW
さあて行くぜ。
片っ端から書き込みするぜ
この人ほんもの?
それともほんものの上をいこうとする偽者?
トリップまでつけちゃって。。。
171 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/18(火) 23:50:23
>>170 本物でも偽物でもどうでもいいよ。
私が楽しければね。
元々前から言ってるが鬱の気散じで書き込みしてるわけだし。
君のようにウィとかグーグルとかに過大な期待ないし、
ていうよりインターネットなんか世界から消えればいいと日頃こい願ってるわけだしさ。
おまえはなりすまししてた奴だろう?
変な牽制してくんな。
武陽隠士がめちゃくちゃ博覧強記ってことはおまえも知ってたはずだ。
なりすまししたきゃちっとは研鑽しろクズ。
ま、トリップ急遽つけたのは、あまりにバカなトンデモレスが武陽隠士の名前で行われたことに腹が立ったからさ。
まともな水準の書き込みなら放置してた。
江戸時代の天皇と庶民ナンタラスレで私とやりあった人たちは私のことすぐわかるだろう。
私が、すぐに怒ったりするが、学問的なことはそれなりに書き込みしたりとかね。
癖だなこれは。
日本史板の奴らは田舎の人とか引きこもりの人が多いのか、
歌舞伎見たことない奴らばっかだし(学校で連れられて観たはなし)
聖書なんか読んでないし、ていうかクリスチャンはいないだろたうし、
史料ロクすっぽ読めないし(活字化されたのでも難しいと抜かすバカ)、
私がやったみたいに、文語体でレスするなど出来まい。
以下武陽隠士の特徴を本人自ら挙げる。
クリスチャン。
左翼。
歌舞伎好き(能も好き。演劇好き。そして筋がね入りのシネフィル)。
日本史は専門があるが身分が特定されるので言明しない。
美術鑑賞が好き。
武道を習っている(下手)。
年齢は三歳(精神が)。
武陽隠士の『世事見聞録』を通読している(全部読んだ人あんまりいない、近世史の研究者でも拾い読みして引用するだけだ)。
まあこんなとこだ。
すっかり見えない人だらけのスレだw
174 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/21(金) 23:09:34
>>172>>173 どうでもいいけど、論破された負け犬の遠吠えという感じする。
これも見えないんだろ?
ばあかW
176 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 07:58:18
age
177 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 17:45:54
三河以来の徳川家臣団
には戦国時代には珍しいほどの
忠義がある。
三河一向一揆の際に反逆した
罪を許された恩に
報いるために三方ヶ原で
家康の身代わりになって
戦死した
夏目吉信の話しを聞き感動いたしました。
178 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 21:11:40
忠義三河武士の話しは
当時から有名だったようです。
江戸幕府が忠義を奨励したのは
そのような伝統からでしょう。
179 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 13:30:35
越智松平、柳沢松平、越前松平、鷹司松平、本荘松平、津山松平、糸魚川松平、松江松平、明石松平、
180 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 05:00:23
徳川とか十八松平とか松平郷と関係あったのかな
そもそも信光が親氏の弟なのか息子なのかもあやふやだし
岩津あたりの土豪が松平を僣称したのでは
181 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 12:24:26
「松平」の名は、徳川家康の祖父松平清康が三河を武力で統一するまでは、
素性も怪しい一国人のものであった。その時代に他氏が松平にあやかるいわれはない。
183 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 17:03:53
フィールドワークをしないやつは駄目だな。
松平郷から平野を目指せば
自然に岩津あたりに住み着く。
184 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 09:16:51
報恩の士、夏目吉信公の
死に際を讃えよう
185 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:03:59
三河武士ではなく、三河衆、三河之者が正しい、戦国時代は、大久保の三河物語に書いてある。
三河武士は、明治以降の本に出てくる造語。
186 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:17:40
大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑、三河後風土記に、
安祥譜代、山中岡崎譜代、駿河譜代となってるのに、
岡崎市が、三河武士発祥の地?はああああああああああああ???
187 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 22:29:24
徳阿弥という遊行僧が松平家、酒井家の娘をそれぞれはらませたのが松平、酒井の連立の発端だそうですな?
西郷氏は元岡崎城主
牧野氏は元牛久保城主
本多、大久保、榊原、大給、松井、大河内、長沢、滝脇、桜井も集まった!
188 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 22:13:12
>>186 安祥譜代ということは
安祥以前の岩津からの
譜代も含まれるでしょう
189 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 22:21:09
三河に行った時、
義理のために討ち死にした
吉良仁吉の参拝の帰り道に
恩義に報いるために
家康生涯最大の危機、三方ヶ原の合戦で
家康の身代わりになって
敵陣に切り込み散華した
夏目吉信の話しを聞いた時の感動は忘れられない。
190 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 08:27:36
えと、幸田は坂崎付近の人だっけ?違った?
あそこらへんの公図って、いまだに和紙なのね。
旧額田町は全域が和紙だからまだマシだけど
191 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 22:18:58
坂崎?あの坂崎出羽守と
関係ある地域でしょうか?
193 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/05/01(木) 09:50:29
>>190 幸田町には深溝本光寺があったはず。
知ってる人います?
情報求む!
坂崎幸之助のるそる
195 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 22:10:45
この潰走(三方ヶ原)の寸前、家康は若かったのか、
一度錯乱した。武田方の城伊庵という将が、
逃げてゆく武者を家康と気ずかずに、
追ってきたとき、家康はふりかえりふりかえりして
ついに狂乱し、
もはや逃げきれぬ。死ぬる死ぬる。
と、にわかに城の隊へ馬主をめぐらし、斬り死にしようとした。
その家康の馬のくつわを
とっておさえたのは、
夏目次郎右衛門正吉という男であった。
196 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 00:12:02
家康が大中黒の紋を使わなかったのは偽者の引け目があったから?
197 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 03:30:25
鷹司松平(吉井)ってすごい継承の仕方してるな。
傍系でも女系でも繋がってない。
関白鷹司信房→寄合松平信平→信政→@松平信清→A信友→C信明→E信允
紀州徳川宗直→B信有→D信成→F信敬
D信成→房府→G信任
津山別家松平雅賢→H吉井信発
米沢上杉斉憲→I吉井信謹→廃藩置県
198 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 10:09:33
徳川宗家と幕臣の会は
久能山にしか集まらないの
でしょうか?
199 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 10:13:33
三河は義理人情に厚い。
200 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 18:22:15
>>198 今は久能山にも集まってない。尊皇派の神社本庁に上納金を払ってる非包括法人などに衆参したとしても時間の無駄にしかならないし、もっとも何処の不肖者が代表役員を務めているかも知れたものではないからな。集まっているのは宗家
201 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 18:26:52
を含めた歴史研究会(凡人学者)グループだけ。
中央義士会や五稜義士会などの信仰地ではない。
202 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:09:30
久能城代 榊原大内記あげ
203 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 17:44:41
>>200 ?集まってますが。
変な政治思想がらみの
発言は不快。
204 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 17:51:39
ちなみにのちの細川家、戦国の細川幽斎や忠興、
室町時代の管領の
ルーツの額田郡細川荘や
仁木家の仁木荘は
岩津のすぐとなり。
さすがの松平も手を出さなかったのか?
205 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:58:38
206 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/25(日) 00:56:36
>>205 おお!
将門スレで私に完全論破された引きこもりだなw
知識のなさを茶々とウィキで埋める
悲しい奴めw
207 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 01:19:19
>>206 将門の頃の人身売買を証明できねーヴァカw
やり手貴族スレで死刑復活説なんてトンデモ珍説を開陳して失笑された阿呆w
208 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 01:22:37
209 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:19:07
鎌倉時代の三河国守護は
吉良氏?
210 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 11:21:03
ちなみに一時期スレッドもあった
「穂の国」はのちの東三河で
三河の本流は西三河です。
211 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 12:20:27
せっかくインターネットが
できたのに
どいつもこいつも文献や検索で得た情報しか
書かない。
ローカルはフィールドワークな
ネタがあるこのスレッドは貴重。
212 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 12:21:20
な
213 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 12:39:44
ま
214 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:32:07
215 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:32:34
い
216 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 15:34:47
>>191 平岩親吉、大久保彦左衛門
あのあたりは名のある三河武士が多いですね
217 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:51:30
大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑、三河後風土記に、
安祥譜代、山中岡崎譜代、駿河譜代となってるのに、
岡崎市が、三河武士発祥の地?はああああああああああああ???
岩津譜代なんて言葉はない。
218 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:10:51
219 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:30:08
220 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:10:42
221 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:19:59
222 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:43:00
安城譜代は大久保さんが
作った分類。
岩津譜代のが古いし、安城は
岩津に攻められたという
気持ちがあるから
安城市民に自分達は三河武士だという気持ちは薄い。
松平三代信光の主力はやはり岩津周辺から額田郡あたりまでの
岡崎衆だったでしょう。
223 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:49:29
>>219 榊原や井伊が岡崎譜代と
いうのもおかしい気がしますし。
彼らは遠州の出では?
224 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 20:44:15
島原は松平氏七万石らしいですよ。
225 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 21:39:47
島原は高力6万石だろ
226 :
日本@名無史さん:2008/06/09(月) 22:48:27
高力左近大夫隆長、肥前島原6万5000石転封
227 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 10:25:45
知り合いの女の子の苗字が徳川です。
家康一族だと思ったいたら、在日の人でした。
徳川なんていう苗字を何で使うんだろう?
228 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 11:09:15
徳朝子(トク・チョンコ)
230 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 17:25:54
安政の江戸地図に松平時之助とありますが、どこの大名家でしょうか?
231 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 20:53:21
大和郡山藩主の柳沢保申でしょう。
柳沢家は吉保の功で松平姓を賜っていますし、保申の幼名は時之助です。
保申は2歳で藩主になり、安政元年の時点でまだ8歳ですから、このときは保申ではなく幼名の時之助を名乗っていたでしょう。
232 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 21:37:28
>>231 なるほど柳沢でしたか。官位をもらう前だったので幼名が書かれていたのですね。
ありがとうございました!
233 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 17:32:24
三河武士とかいう概念は幕末・明治につくられたものです。
大久保の三河物語では、そのような呼称は、ありません。
信長公記においても、家康公であり、大河ドラマのように、
三河殿、岡崎殿などと呼ばれている事実はない。
三河とか岡崎とかにこだわるから、徳川家康と松平氏の歴史解釈を誤る。
松平信光〜広忠までの家臣を安祥譜代と呼ぶと、大久保の三河物語に書いてあります。
山中譜代、岡崎譜代は、安祥松平家に降参した連中で、
また、松平郷や岩津時代には、家臣団はない、一門衆がいるだけ。
譜代筆頭の酒井も石川も碧海郡で、額田岡崎の人間ではない。
234 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 17:46:04
榊原は、遠州ではない。
井伊は、遠州だが、遠州譜代という区分はなく、次が駿河譜代になり、
今川に井伊が滅ぼされて、家康のもとに転がり込んで、井伊家を再興しており、
徳川の敵だった歴史はなく、遠州攻略でも道案内している。
ゆえに、岡崎譜代で問題ない。東三河の牧野とかは、徳川に敵対し、
服属後に直接部隊の指揮権を預けられていないので、駿河譜代である。
譜代とは、譜代の部将クラスの家格であり、のち譜代大名。
服部半蔵とかは、部将ではなく、旗本・御家人クラスである。
ゆえに、安祥譜代に分類されない。
235 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 17:51:09
徳川の家臣で、最初外様扱いで、のち譜代は、駿河譜代が多い。
東三河の牧野は、駿河譜代だが。
田原の戸田、遠州井伊谷の井伊は、岡崎譜代。
松平郷、岩津譜代なる譜代区分は、存在しない、学者の捏造である。
大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑いずれも、
安祥譜代、山中・岡崎譜代、駿河譜代、外様となってる。あと、松平一門衆。
松平一門衆は、もともと分家で家臣じゃないが、のち家臣扱い。
236 :
日本@名無史さん:2008/07/20(日) 07:18:09
大久保さんの三河物語に
基づいてるからでしょう。
安城と岡崎では人の気質が違う。
ちなみに岡崎に権力者が
豊田方面から降りてくるのは
今も同じ気がする。
237 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 03:35:38
大久保の本は基本的に
「古参の家臣がいかに頑張ってきたか」
「中でも大久保一族の折々の貢献ときたらもうね」
ということを、多少誇張して書きつつ、
「だから古参系をもっと大事に扱え。新参に威張らせんな」
「古参家臣一族にもっと領地を与えよ。幕政に参加させろ」
「特に大久保に」
って言いたいだけの″オレ本″なので、、、
幕府にしてみたら、妙な階級意識を作られて困る上に、
ビンボー無名下積み時代をバラされたような迷惑。
238 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 18:43:21
岡崎中心徳川史観の岡崎市民の捏造に注意!
徳川は、安城地盤50年時代が重要です。
239 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:46:02
増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体が手に入らない内容教えてください。
240 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 04:27:21
遺体を手に入れて、どうすんだよ。
クローンでも作るのか?
お菓子作ってくれる将軍さまにしてくれ。
ケーキ屋開業しよう!
241 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 21:07:26
いや一番重要なのは
征服王三代信光の岩津時代。
皇室でいえば崇神天皇や
応神天皇にあたる
重要人物。
242 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 21:14:42
菓子屋と家定クローンは如何?
小説のように,御家人層にまで落ちて,それでも松平姓を名乗っていた家はあったのでしょうか?
244 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 02:49:26
信光の岩津時代なんてもんは、ありませんよ。
三河物語には、岩津、岡崎、大給を取った。
で、安祥城攻めは、詳細に書かれて、親忠、長親・・・
松平郷→岩津→安城と、平野に出て行く過程を説明しただけ。
親元日記の信光も、岩津とか出てこないし。額田郡の土豪を退治したとあるだけ。
だいたい、岡崎・山中を清康の時代に、また攻め落としているのは変でしょう?
岡崎は、信光時代にすでに松平のはずなのに???
松平や酒井は土豪だが、石川氏は河内源氏で、
石川氏を家臣にしている安城時代が重要なのは当然。
石川氏は西三河の旗頭で酒井と同等だったが、数正出奔の件で、低い扱いだけど。
石川は、本願寺門徒総代でもあり、本願寺を懐柔するのに重要。
本多や大久保も、松平や酒井と同類で。石川氏が重臣という事実は大きい。
足利氏の一族の細川・仁木は、岩津と同じ場所。三河守護の細川氏の立場は?
守護代の西郷氏はどうなるの?
245 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 11:12:10
三河武士なんてことばはたしかに明治新政府により
軽蔑的なニュアンスとして作られた言葉だろう
家康は清和源氏新田氏を名乗っているわけだし、
三河は出世の過程で支配した一領地に過ぎず、無理に三河に結びつけるのは不自然
246 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 12:08:20
松平氏が、もともと松平郷・岩津が中心なら、
分家の1家に過ぎない桜井松平が、安城松平を凌駕する力を持っていたり、
分家の安城松平が、本家の岩津松平や、母国の松平郷松平に代わって、
宗家になってるのも変。葵紋を酒井や本多からもらった話しも、松平信光がヨソモノで、
松平郷の名跡を継いだ証では?西三河旗頭が、石川氏ってのも変な話しで、
松平氏や酒井氏を差し置いて、自分の本拠地を下位の家臣に任せてる。
北条早雲が松平長親と決戦したとき、酒井、本多、大久保が活躍した
というが、石川氏はいない。そんな新参の石川氏が旗頭?
額田郡には、国人一揆、守護細川氏、仁木氏の守護代の西郷氏がいるって
のに、岩津を本拠にして勢力拡大?岩津の隣が松平郷、その隣りの
豊田市寺部に鈴木氏がいる。周りを敵対勢力にグルリ包囲されてるのに、
なぜか勢力拡大?
京都から一番近い碧海郡の安城を本拠にしていた信光が、岩津を落とし、
松平郷の名跡をもらい、清康時代に、岡崎・山中を落とし、東三河に
攻め込んで、三河全域支配。尾張に攻め込んだが横死。桜井松平が謀反。
広忠逃亡。今川植民地。家康が桶狭間のころ、岡崎に戻る。
すぐ浜松へ本拠移動。さらに、駿府、江戸へ移動。
どう考えても、岡崎にこだわりがあるようには見えないが、松平氏は。
家康が岡崎で生誕しただけというだけで。岡崎中心史観で松平家を見るのは、
ムリありすぎ。
三河一向一揆の4か寺が、全部碧海郡(現在は岡崎市3、安城市1だが)で、
家康が一元化のため解体しようとして大ピンチになってる、しかも
重臣多数謀反。額田郡の岡崎中心なら、なんで、碧海郡の勢力にこんだけ
振り回されるの?信長・秀吉・朝倉が、家臣が一向一揆に加担して謀反で
大ピンチとかないでしょ?
影武者家康説ってのも、松平の系譜におかしな点が多すぎるからで。
247 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 12:55:45
当の三河武士たちは自分たちをどのように呼んでいたかといえば、
けして三河武士などと呼んでいたわけではなく、むしろそのような三河の者と見られるのを嫌い、
わざわざ清和源氏の系譜を入手し、入籍しているわけである。
岡崎市を始め周辺自治体が三河武士を強調して郷土の自慢みたいにせんでんするのは
まったく筋違い。 田舎の町おこしでしかない。
248 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 13:03:34
家康の多田院帰りの摂津の海人に船を出してもらった伝説もどうも怪しい。
征夷大将軍は清和源氏のパターンが定着していた時代で、
征夷大将軍となるために家康は何が何でも清和源氏としての承認を受けねばならないと考えていただろう。
多田院参詣も、家康に船を出した海人伝説も、すべて後に自身の征夷大将軍へ至る経歴を完璧にしたい
家康により創作された話ではなかろうかと思う。
歴史上、そうやって後から伝説が創作され関連付けられたケースは多い。
日本デンマークの水飲み百姓ががんばってるのかw
250 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:03:21
日本デンマークといわれたのは、明治以降で、当時は安城が原で、
安祥城から古井・桜井・小川・野寺に至る鹿乗川流域が中心。
本願寺の寺も、この矢作川・鹿乗川流域にある。
この河川の水運・商業を抑えたのが大きいらしい。
家康は、これを直接管理しようとして反乱が起きた。
安祥城は、この河川の南北軸と東海道の東西軸の交わったところにあり、
要衝であった。のち、東三河制圧のために、岡崎城に本城が移転するが。
酒井も水野も刈谷だし。石川、植村、阿部は安城。
トヨタの山奥から、松平が出てきましたでは、説明付かない。
251 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 14:28:32
大久保彦左衛門が、三河物語で、信光〜広忠までの家臣が、安城普代といってる。
広忠は岡崎のはずだが、清康が、岡崎城・山中城を落として臣従させたのが、岡崎譜代、山中譜代。
清康横死で織田・今川の草刈場になり広忠は、伊勢に逃亡。
岡崎に戻ってきたが、岡崎城で岩松八弥に刺殺される。
清康も安城から岡崎に移ったはいいが、守山崩れにあうなど、岡崎と相性がいいとは言えない。
で、家康も岡崎生誕だが、すぐ信長の尾張清洲〜今川の駿府。
桶狭間で岡崎に戻ったが、すぐ一揆発生で家臣謀反多発。
苦心して三河統一。遠州に攻め込んで、すぐ浜松城に本城移動。
岡崎に長男信康、大賀弥四郎、築山殿、武田に内通謀反。
現在の岡崎城の縄張りは、豊臣家臣の頃のものなのに、
岡崎市は徳川時代のものと捏造。家康岡崎三河中心史観完成。
むしろ、岡崎は松平との相性最悪。
安祥城時代50年は、家臣の謀反とかないし、一向宗ともうまくやってる。
安祥城奪取の経緯も踊りの見物で空になった城に入るとか、
家康の桶狭間の岡崎入城と似ている。奪ったというより、招かれて治まった感じ。
岩津松平家も北条早雲の攻撃で滅んだらしいし。安城家台頭。
岡崎市が、徳川に貢献するどころか足を引っ張てる事実しかない。
252 :
日本@名無史さん:2008/08/11(月) 21:03:05
一般的な書籍やネット検索では得られない情報のはずだが
なかなか語るやつがいるな。
しかし、踊り(松平初代譲りの念仏踊り)の見物で空になったのは
岩津信光の計略。
253 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:24:51
安城はたしかに重要だが
岩津、岡崎は
松平の聖地だろ。
254 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 08:49:05
開拓農民が武装化したのが先祖だしょ。
徳川系は、NHKの松平さんも慶喜さんもみんな
体型がずんぐりむっくりの西田敏幸。
255 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 09:02:22
武士の出自ってねえ、ほとんどが強盗やくざのたぐいなのよ。
だからこそ、ちょっともでも高貴な繋がりがあるとありがたがるの。
今のヤクザのなわばり争いと同じ。
256 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 13:25:24
武士の出自がならずものは、応仁の欄以降でしょ
それまでは名家の暴れん坊のみ いちを名家血統
しかし応仁の欄後は守護が勢いを失い、公から公認されてない地侍たちが一気にあらわれ、幅をきかせるようになった
しかしまだ当時の地侍土豪は大半が在地では名門の郷農有力者がなってるのでまだチンピラとまではいかない
しかし戦国期になり、地域の流動性が激しくなり ならず者や盗賊らがおおくなってきた
このあたりからチンピラが武装しはじめ、守るものなどはなからなにもないこれらは、それを在地領主や地侍はおさえきれなくなる
名門守護代ですら織田のようにDQN化する。その結果戦国期から在地地侍土豪とは違い、失うものも守るものもない、ただ荒らすだけのチンピラヤクザ出自が江戸期の三分の一くらいの大名になっていった
実際旧名門支配者層は江戸期、旗本や後家人、庄屋になてしまったのが圧倒的
よほどこれらより江戸期大名家の出自のほうが、チンピラヤクザまがいの際下級出自が多い
257 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 13:47:46
チンピラでもヤクザでも日本の支配階級だったのは間違いないし
自称両班、本当は白丁の末裔というヒトモドキとは比べようがないよね
258 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 14:56:38
たしかにそうではあるが 浅野長吉などに代表される小作農チンピラは 一代限りの功績は評価するが、代々崇められる出自ではない
旗本や後家人には守護家がおおい
また庄屋も中世の国人や地侍、土豪、滅亡大名家家臣団などの出自が多い
支配者層で一番出自がハッキリしないかみすぼらしいのが近世江戸大名家なのは間違いない
これは 代々受け継がれるような功績ではない
259 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 15:08:12
白鳥でも エタ頭騨サエモンや否認頭車家ですら出自は名門家
よほど近世大名家は部落頭より出自が悪いのが多い
一代限りの功績なら認められるが 子孫代々は 蜂須賀や浅野は無理だろ
260 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 17:50:25
江戸時代って、名古屋人が貴種として日本各地へ拡散した
時代だったのよね。日本人が不細工と言われるのは名古屋人の
せいなのよね。
261 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 18:07:20
名古屋人っていうと、嫌味で陰湿なイメージある。
実際、いじめ自殺、アベックリンチ強姦殺人・・・後味悪い事件が多い。
権力者も残忍なの多い。
そういえば源頼朝の母も名古屋人だったな
263 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 20:28:25
名古屋太郎も名古屋人じゃないか????
264 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 23:51:31
頼朝もじつは名古屋生まれ。
熱田神宮前の寺。
265 :
日本@名無史さん:2008/08/17(日) 05:01:19
なこと言ったら、貴族の出自も強盗人殺しのたぐい。
266 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 01:03:37
なんで公家が盗賊のたぐいになるわけ? 意味不明
近世武士ならそうなるとわかるが
267 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 17:36:51
268 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 18:10:35
公家の先祖は古代の豪族=腕力でその辺を支配してた連中
269 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 18:59:00
うーん”腕力でその辺を支配してた”とは限らないんじゃないかな
知恵と勇気のある人と言って欲しい。
270 :
日本@名無史さん:2008/08/21(木) 09:25:32
愛と希望は?
得阿弥なる遊行僧が松平と酒井の両家の娘をハラませたのがそもそもだと言うが本当か?
272 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 09:41:26
本当。信光とかも同じ
手法で勢力拡大。
273 :
日本@名無史さん:2008/08/23(土) 15:54:17
274 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 07:30:44
長久手パビリオンは行列がながくてながくて
どえりゃ往生こいた。
>>273 「海道一の弓取り」とは、元々今川義元に与えられていた評価の一つ。
桶狭間の横死後、徳川家康が自らのものとした。
>誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ
訳「(豊臣秀吉曰く、)誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう」
豊臣秀吉がこの名をつけたわけではない。
276 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 10:26:25
↑
また、捏造ヤローがきたか。今川義元は違う。
>>276 ↑捏造野郎出現。嘘を並べるのではなく、証拠を見せよ。
278 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 11:08:18
>>275 家康は義元を尊敬していて
その後継者を自任してましたから
279 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 11:12:19
じゃあ、なんで今川一門(義元の姪の夫)として氏真を助けなかったの?
なんで氏真から禅譲されて「今川元康」として信長と戦わなかったの?
280 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:02:11
>>279 _______
, イ´ `丶,
/ }ミヽハ. ヘ
. / , / , / / ハV.7〉:∧
/ / / , / / / / /l! ∨|| ハ
| | / // / / / / ソ V| |
| | |//__/__/, / ハ‐----- リ |
レl.| |/__/_ /__ 厶イ ,_ _U.レ⌒)|
|ヘj {「{「::::}「 {「::: }}.}} r゙^/ |
∧.l人゙'=='′ ゙'=='ソ ハノ j
// 人xx ̄  ̄xx.人| | f´ ̄ ̄ ̄`Y
. // />.U; cっ _U<l | | | | ア : |
// / / / `T ¬ ´ |_l ll l| | __j ホ : |
. // / /_,.ム.イ| ./ ∨ll l| | ヽ. の. キ !
// _>'´ l|- ノ゙フy \l| | | 子 ミ l
. // r'⌒ヾ《. V゙)//,/}l \ | l な. は |
// / ∧゙《. r' ′ ` j ∧| | の |
. // / ∧゙《 ,、,ノ / //'}| | か |
// / 人_X \. _/ // || | ? |
. // / ノハ∧. \∠辷三三彡' ||
281 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:08:07
あの時期の松平氏が今川陣営にとどまるという選択肢はあったろう。
織田との同盟が必然的だったわけではない。
282 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:09:54
>>275 >誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ
>訳「(豊臣秀吉曰く、)誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう」
>豊臣秀吉がこの名をつけたわけではない。
反語も知らんのか
誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう、それは私だ。
>>277 証拠を先に出すべきなのは276ではなく275
283 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:41:11
>>282 その解釈は成立しない。
>>282の解釈が正しいのなら、その文章の後に列挙されている「徳川家康の良い評判」も、
全て、豊臣秀吉が勝手に言った事ということになり、
世の人々は徳川家康に良い評価を与えていなかった、ということになる。
東照宮の縁起で、そのようなことはありえない。
だから、海道一の弓取りというあだ名も、世の人々が言っていることなのだ。
284 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 13:49:37
豊臣秀吉がおべんちゃらを言っているのは事実だが、
それを全て豊臣秀吉が最初に言ったこと、とすると、
それらのおべんちゃらはすべて 過去に豊臣秀吉しか言っていない 、ということになり、
世の人々は、徳川家康に良い評価を与えていなかった、ということになる。
「海道一の弓取り」は、その時点で徳川家康に与えられていた世の評価なのだ。
その後の云々は豊臣秀吉のおべんちゃらとしても、
「海道一の弓取り」まで豊臣秀吉を起源にしていては、話の筋が通らなくなる。
285 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 14:14:44
弓取りネタ飽きた。
もっと、他の話題はないのかよ。
286 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 15:23:07
>>282-284 「誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう」という直訳ではないには賛成だけど
「それは私だ」ではなく「〜『海道一の弓取』と呼ばれている」と訳すのが適当
287 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 17:42:12
海道一の弓取り=今川義元=出典不明です。
小和田哲男などの今川厨のキチガイ学者の捏造によるもの。
徳川家康は、徳川実紀、改正三河後風土記、白石の藩譜に記載されている。
288 :
日本@名無史さん:2008/08/24(日) 18:28:35
結局、「海道一の弓取り」は世評なわけね。
豊臣秀吉が名付けたものではない、と。
さよう。
290 :
日本@名無史さん:2008/08/25(月) 13:31:59
豆知識。
弓取り式は織田信長が考えた。by 界屋太一
中途半端なことやって帰りの客を
適当にばらけさすのが目的。
291 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 07:12:52
292 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 09:09:33
海道一のくみ取り
293 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 10:45:41
海道一のカマ掘り
294 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:18:15
水海道
295 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:42:53
296 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:29:41
松平家の当主はやたら早く子供を作ってる。
清康と家康の年齢差が31しかないのも凄いが、
家康の高祖父の長親は70で玄孫の誕生を見届けているのも凄い。
297 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 05:56:57
海道一の嘘つき
298 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 12:12:04
得川義季、世良田頼氏はノンフィクション、
松平親氏はフィクションでOK?
299 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 16:58:57
海道一のクソ洩らし
300 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 11:59:51
海道一の捏造出自
301 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 00:51:53
>>296 ベトコンを嫁にもらった19代目宗家は40過ぎてまだ子供いませんが何か
302 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 03:18:10
303 :
日本@名無史さん:2008/11/10(月) 03:19:33
まぁつだいら定知さんって徳川男系の血は引いていないのかな?
305 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 02:40:02
海道一の弓取り=今川義元=出典不明です。
小和田哲男などの今川厨のキチガイ学者の捏造によるもの。
徳川家康は、徳川実紀、改正三河後風土記、白石の藩譜に記載されている。
306 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 05:29:57
>>304 ただの旗本だからね
十八松平のどこかの血は引いてるかも知らんが
307 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 06:14:12
キックは久松松平の一族だよ
308 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 23:06:19
松平キック大夫定知
310 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 10:21:59
ペン投げ松平
311 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 21:14:06
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
312 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:12:51
その時タクシーは動いた
は、久松松平の分知した旗本
313 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 23:15:41
ペンは投げられた!
>>282 >反語も知らんのか
>誰が徳川(家康)に『海道一の弓取』というあだ名をつけたんだろう、それは私だ。
いや、ここは「誰が徳川に『海道一の弓取り』というあだ名を付けたんだろう。(うまいこと言うなぁ!)」
だろ。
315 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 03:51:11
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
316 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 13:37:06
家臣は三河に未練はあったろうが
家康自身は駿河に愛着があったんだね。
317 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:57:48
松平氏と酒井氏が同族で、酒井氏の先祖が大江氏という話を聞いたのですが、
大江氏は毛利氏の先祖でもありますよね?
毛利と松平、徳川のルーツは一緒なのですか?
>>317 そこはあくまで伝説。
酒井氏は松平氏から婿養子を迎え同族になったのは確からしいが、それ以前は不明。
319 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 20:04:36
320 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 17:43:45
松平家と岩松家はどちらが格上でしょうか?
321 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:59:45
>>316 そういえば家康って幼少時今川家の人質だったから
駿府育ちなんだよな
人質と言っても丁重に扱われてたみたいだし
322 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:00:57
家康は今川義元を尊敬してましたよ
323 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 19:04:47
324 :
日本@名無史さん:2009/04/12(日) 23:28:32
岩津あたりの豪族が松平を僣称したのが事の始まり
326 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 11:37:08
327 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:33:33
信光以前は、架空だろうな。
松平郷松平家は、十八松平じゃないし。
328 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 11:08:10
松平益親あたりが本来の松平氏?
329 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:02:34
330 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:15:25
>>258>>259 たしかに。近世大名は
それまでの日本の
歴史では考えられないほど
出自不明ですね。
松平家もしかり。
331 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:21:40
332 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 00:24:55
北条早雲が松平と決戦なんて
初めて聞いた。
小田原から三河までて
相当な距離では。
当時の農民は地侍クラスはおろか、ペーペーの下っぱ百姓に至るまで武装してたんだろ?
そんな状況下でよそ者の「ヤクザ」や「チンピラ」の類いが突如現れて「今日からここは俺達の土地だ!よって皆俺達に年貢を納めるように」なんて言ってもリンチされたり、下手すりゃ殺されるだけ。
のちの江戸時代と違って当時の農民の気性は荒々しかったのだ。
よって領主になるような家は、そんな領民を従わせるだけのそれなりの由緒というものを有していたと思うけどね。
そうじゃないと領民も地侍もついて来ないよ。
少なくとも
「庄屋の方がよほど出自はまし」なんてことはないな。
334 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 07:36:11
徳川家はルーツ?
えたひにん
最初の苗字は江田
江田→世良田→松平→徳川
335 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 16:39:44
>>333 つまり、他の地域からの貴種武士団の流入はありえず、
地元の山賊が成長する過程で、先祖の詐称や付会が起こったというわけですね。
「三河松平一族」では山賊等による乗っ取り説には否定的だったね。
当時の三河でやったらすぐ潰されていたはずだということで。
初期松平家が攻め取ったという相手の中に、奉公衆もいたとかいう
ことで、到底現実的でないということらしい。
実際には金で買い取ったりしたのを、後世に見栄を張って「武力で
切り取った」ということにしたんじゃなかろうか、という話だった。
伊勢氏とのつながり(あるいは細川?)ができて
ハクがついたってことだろうか?
別に武力で奪ったり,僭称でなくとも,被官・家臣化した国人クラスに同じ名字を与えることはあったのでは?
懐柔する手段として・・・
339 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 19:28:09
新田・足利(時代によってどちらを先祖とするかは変化)
→世良田・江川→(この部分の連関が不明)→松平→徳川
341 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:07:19
>>340 はっきりしてますよ。得川ですよねえー家康は戦場で「新田」と名乗るし
新田の家紋愛用
342 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 20:37:36
世良田二郎三郎の二郎三郎って何よ
>342
松平家の次男の系統の三男、というありきたりな名乗りだと思うけど。
清康もだし、広忠、家康、信康と松平−徳川の嫡男が代々名乗って
いるね。
茶屋四郎次郎もめんどくさい名前だけど
法則さえ理解できれば便利じゃないかに
347 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 23:55:30
足利一族の領地の中で
新田系を名乗るなど
宣戦布告に等しいとしか
思えないが
348 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 01:51:34
だから実際の系図を見ると、実は先祖は足利系に作ってあったりする。
(新田としているものもある。)
>341は間違い。
家康は山名禅高と仲がよかったらしいが
「同族の誼で」とかいって近づいていったのかな。
>>347 足利系の根拠地で,偽の足利系を名乗っても,嘘が直ぐにばれる。
その点,新田系は壊滅状態で,名乗っても嘘がばれにくいし,遊行僧に身を落す者がいても不自然ではなくなる。
>>350 新田系の家は少なく、家系図自体の所持者が少ない。
自然、土地の有力者や京都の記録からコピー・すり合わせを行うと、足利系になる。
>>351 それで家康は,岩松の系図を欲しがったのかな?
岩松(当時は新田か)も調子を合わせて,「徳川家のご先祖はここに御座います。」なんて系図を差し出せば,吉良くらいには所領をもらえただろうに・・・
353 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 11:41:48
徳川最古参の安城譜代を無視して、岡崎が三河武士発祥と捏造。
岡崎市役所悪質だぜ。
徳川本家は、安城だと、徳川幕府の成島が、改正三河後風土記で書いているのに、
岡崎だ、豊田だと捏造。。
松平郷松平家は、十八松平じゃないから、徳川本家の枝分かれじゃない、単なる松平氏。
354 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 11:57:19
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
>347
そもそも清康が「世良田」と名乗りだした頃には、宣戦布告云々という時期は過ぎていたと
思うけど。
356 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:05:35
深溝松平家菩提寺で
小判が発見!
357 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:09:23
松平の本家はどの松平?
358 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:11:06
重扇の紋、深溝松平家、
松平忠雄公。
359 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:12:16
深溝松平は今の岡崎市かな?
360 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:18:05
361 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 18:21:04
362 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:23:41
竹谷松平
松平郷松平
松平太郎左衛門家
系図的には嫡流と称してもおかしくないな
363 :
日本@名無史さん:2009/05/16(土) 14:06:57
もともと松平そのものが小土豪にすぎないのでどこが嫡流でも
新田と足利のような大問題にはならないな
364 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 17:11:51
365 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 17:13:29
たしか以前子孫と名乗るやつの書き込みが
あった気がするが、彼はどうしているのか?
366 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 01:00:42
信光が同時代資料でたどれる最も古い先祖だというのは承知しているけど
その父が泰親というのは確かな史料で否定されてるの?
あと家康が系譜を作り上げるため足利一族の吉良氏の系図を貰い受けたというのは?
367 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 12:32:35
系図買いあげとは?
もともと領主としての吉良家を滅ぼしたのは
家康だろ。
368 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 13:21:55
家康が官位に就くにはそれなりの家柄であることを証明する必要があり
従五位下叙任前に吉田兼右から徳川氏系図を譲り受けたが藤原姓だった
征夷大将軍任官に際し吉良氏から源姓徳川氏の系図を得たと言われてる
これによって松平親氏を新田氏に結びつけ晴れて家康も源姓を名乗った
369 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 13:26:31
そもそも清和源氏新田支流の得川氏の子孫を名乗るために、
足利支流の吉良氏の系図を譲り受ける意味があるのか?
清和源氏とはいえ、全然別の家系だろ。
370 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 17:36:26
吉良の先祖には、足利も新田も両方実在の人物がいるんですよ。
だから家康にとって、垂涎の代物だった。
371 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 22:09:21
平山てどうしたの?
372 :
日本@名無史さん:2009/05/26(火) 23:04:51
安城(志貴荘)は、平安末期〜鎌倉に、藤原北家(近衛家)の荘園。
徳川本家(安城松平)とのつながり。
藤原忠通書状案{○天理図書館所蔵文書}(「平安遺文」2847)
御庄々
志貴{参川国}
保元々年七月 日
近衛家所領目録{○近衛家文書}(「鎌倉遺文」7631)
庄々間事
{京極殿領内}
参河国(碧海郡)志貴上條
{高陽院領内}
越後国(古志郷)大嶋庄 {已上五ヶ所、当時近衛殿御相伝之}、
已上八ケ所、播州自富家賜之、播州又譲尼上、{正治二年十月廿二日}
374 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 00:28:12
うん、すべて一人妄想です〜
安城(志貴荘)は、平安末期〜鎌倉に、藤原北家(近衛家)の荘園。
徳川本家(安城松平)とのつながり。
だから徳川本家は岩津。
岩津の信光とは言われるが
安祥信光なんて聞いたことない。
377 :
日本@名無史さん:2009/05/29(金) 09:52:29
十八松平(じゅうはちまつだいら)とは、徳川本家を含める松平十八家のことである。出典は成島の改正三河後風土記、三州十八松平家の事。
十八松平
徳川家御本家をさしていう。徳川家安祥岡崎を兼領。いわゆる安祥松平家。
竹谷松平家 三河国宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市竹谷町)を領した。
形原松平家 三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原町)を領した。
大草松平家 三河国額田郡大草(愛知県額田郡幸田町)を領した。
五井松平家 三河国宝飯郡五井(愛知県蒲郡市五井町)を領した。御油とも書く。
深溝松平家 三河国額田郡深溝(愛知県額田郡幸田町深溝)を領した。
能見松平家 三河国額田郡能見(愛知県岡崎市能見町)を領した。
長沢松平家 三河国宝飯郡長沢(愛知県豊川市長沢町を領した。
大給松平家 三河国加茂郡大給(愛知県豊田市大内町)を領した。
滝脇松平家 三河国加茂郡滝脇(愛知県豊田市滝脇町)を領した。
福釜松平家 三河国碧海郡福釜(愛知県安城市福釜町)を領した。
桜井松平家 三河国碧海郡桜井(愛知県安城市桜井町)を領した。
東条松平家 三河国の東条城(愛知県幡豆郡吉良町)を居城とした。
藤井松平家 三河国碧海郡藤井(愛知県安城市藤井町)を領した。
三木松平家 三河国の三木城(愛知県岡崎市上三ツ木町)を居城とした。
岩津松平家 三河国額田郡岩津(愛知県岡崎市岩津町)を領した。
押鴨松平家 三河国の鴛鴨城(愛知県豊田市鴛鴨町)を居城とした。
鵜殿松平家 松平信忠三男十郎三郎康孝の流れ。
378 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:49:00
岩津信光明寺に
松平三代の墓がある事実
379 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:52:07
いずれにしろ三代信光が
松平史上のキーマンなのは事実。
かれの通称は三郎または
次郎三郎。
どこかで聞いた通称だな。
380 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:17:53
一次史料でいうなら益親だって活躍している。松平をいまだに戦国成り上がりの
馬の骨扱いするやつがいるが、室町中期から中央政権とつながりがあったことは間違いない
381 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 22:39:13
次郎三郎というのは三男だが次男扱いというのでいいの?
>>381 「次郎家の子孫の三郎家の人」という意味。
ちなみに、この数字と誕生順に整合性があるとは限らない。
次郎三郎太
太郎家の太郎:又太郎
太郎家の次郎:太郎次郎
次郎家の太郎:次郎太郎
次郎家の次郎:又次郎
…
風の又さぶ(ry
386 :
徳川発祥の真実:2009/06/18(木) 08:58:51
事実は松平郷では
松平太郎はただの村民だったにすぎない。
三郎または次郎が中根氏の
岩津城を買ったのが
戦国大名松平氏の始まり。
三郎が和田氏の安祥城、西郷氏出城の岡崎城
を奪いさらに西三河一円に
勢力を築いた。
387 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 01:03:17
>>332 早雲は終生今川の一門格して働いてるから。
遠州三河攻めで活躍してるし今川軍の大将も勤めてるよ。
駿遠三の太守
気候に恵まれものなりのいい東海だから
面積はさほどではなくてもかなり国力があると思っていた
中でも駿河に豊かなイメージがあったんだけど
この三国の中で一番石高が小さいのは意外だった
現在の静岡市の北端が北岳直下ということを考えると
かなりの部分が山岳地帯ということなのか
389 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 14:39:08
>>388 地図見ればわかるけど可住地面積が少ない上に高低差があって実質の可住地も少ないんだよ。
標高1000m以上の山でも1、2キロ行けば1000m近いアップダウンがあったりして同じ標高が延々続く信濃あたりとは比べられない。
川も多いし湿地がかなり多かったとも伝わっていて、旧清水市の西端、
駿府城から東に五キロ程離れた大内ってとこなんか未だに地盤が緩くて建築不可。
駿府城から東に3、4キロの上土ってとこは明治時代に治水事業反対派を村民数10人で襲撃してるくらい土地が酷くて米作が出来なかったとか、
興津から江尻にかけての現在の平野部も昔は芦原なんて言われてた湿地帯。
清水の名称も海と川の水が入り交じって真水が確保出来なかったところ、近郊の岡で真水が湧いたからつけられたとか。
古い書物には現在の清水平野を船で往来してる記述があるし、沼津、富士、焼津も近い状況だったと思われる。
静岡も家康時代に改修されるまでかなりの川があった模様。
逆に人が住める範囲が少ない分街は密集してる。
概ね武蔵東南部の伝と似たような状況だね。
>>389 おお詳しくありがとう
昔の耕作地や居住地に適した地域と今とは違うからね
そう、信濃とか三河遠江なんかは山国と言っても
大小の盆地が点在して(それだけに大勢力が出なかったんだろうけど)
結構生産力・国力があったみたいだしね
信濃=科野=品野
分けるとか分かれてという、<しな>という音が先にあったらしいし
段々という形状をあらわす品、科学の科
なんとなく、温暖な気候、新幹線が県内全域を通る現在の静岡県
全盛期通称百万石の太守今川の本拠地という先入観があった
遠江を山国はちょっと語弊があるかな
北部はかなり山が多いけど
でも南部のかなりの部分を遠い江が占めるから
>>390>>391 自分は駿河出身だけど、今川や家康大御所時代の先入観と石高のギャップがあり過ぎとは歴史好きな友人からよく言われるよ。
土地が足りないから今でも旧浜松市域(60万人超)より旧清水市域(24万人前後)の方が住宅地の地価が高くて、
静岡市も同程度の人口の都市の中では全国トップクラスの地価だしね。
遠州南部の山は山岳というより丘陵だから下手な平野より河川に浸されなくて割合良かったんだろうね。
家康が治水を重視してて、実際に技術も伴っていたのは矢作川、天竜川、安倍川の大河川を間近で見てたからだろうなと思う。
五年前の台風の日、江尻を自転車で通る時に前方の路上の車が水没してて、
自分もそのまま通ったらふとももまで水が浸かった事があったが現実はこんなんw
30〜40年くらい前には市内平野部丸ごと水没してある意味東洋のベネチアになってたし。
鎌倉府成立前後の甲斐源氏や今川が駿河をわりとすんなり治められたのもこういうので国人が疲弊してたのがあったんだろうな。
393 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 21:49:00
>>387 なるほど。信光明寺を
焼いた北条軍とはやはり
早雲ですか。
なにやら信玄と戦って敗れて
落ちてきたとか書いてありましたが、
時代的に合うのかな?
394 :
日本@名無史さん:2009/06/26(金) 22:03:44
>>393 その時代に合うのは今川氏輝と北条氏綱だね。
義元が継ぐ前は今川と北条がまだ対立してなかったから有り得る。
395 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 07:59:48
396 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 08:36:35
松平宗家についておしえてください。
397 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 08:56:17
宗家?皆さんが思うように考えればいいんじゃないですか、
自分が末裔、そう考えるのも夢があっていいじゃない、
俺は、数年前、そういうやからを目の前にしたことあるから、
私たちだけは表門から入れる、貴方たち下々の人間は、勝手口で十分よ・・・
仮に自分が深く関わっていたとしても、あの発言だけは、忘れない、
今生きている、それだけでいいんじゃないですかね?
398 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 09:02:48
ちなみに、平山氏の推理、いい線ですよ、
399 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:19:29
どれだよ
400 :
ねこ:2009/07/06(月) 13:33:57
401 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/07/21(火) 03:56:54
>>371 ソフトバンクの規制3ヶ月くらってました。
402 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/07/21(火) 03:58:22
403 :
日本@名無史さん:2009/07/26(日) 18:51:17
平山、先祖の墓から
小判が出たろ。
先祖の供養をちゃんと
しているのか?
404 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/07/29(水) 00:21:16
>>403 うちは三河じゃなく島原の本光寺。
もうじき墓参りに行く予定。
先祖供養はバッチリやります。
そういや忠雄公の墓あったな。こっちにも。
405 :
日本@名無史さん:2009/08/11(火) 11:09:36
駿府城崩壊(笑)
406 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/08/11(火) 21:33:34
平山、働け。
左翼思想はやめろ。
408 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/08/12(水) 20:48:06
>>407 日本の歴史・伝統・文化を尊重しとるオレのどこがサヨクなんだ?
平民は黙ってろ。
409 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/08/12(水) 20:51:55
>>407 共産党・公明党・社民党は大っ嫌いですが何か?
ちなみにオレは中道穏健派です。あしからず。
410 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/08/12(水) 21:30:02
・旧皇族の皇室復帰
・憲法9条削除
・華族制度復活
・共産党、公明党の活動停止
・貴族院復活
・自衛隊を国軍に昇格
・思いやり予算廃止
・神道の国教化
・在日特権廃止
・中国へのODA凍結
・平城宮復活し遷都
・非核三原則の撤廃
・紀州徳川家の財団設立
こんな事主張しとるオレがサヨクだと!(嘲笑)
411 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 22:28:21
華族制度復活・貴族院は要らない
412 :
共産党:2009/08/13(木) 03:29:14
>思いやり予算廃止
我が党の主張と一致する人は、一致点で共闘します
413 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/08/13(木) 12:52:37
414 :
ねこ:2009/08/14(金) 03:47:33
415 :
日本@名無史さん:2009/08/16(日) 09:31:11
>>410 平山君、おもしろいが、
他に該当スレッドはないのかね?
教えてくれれば私もそちらに行こう。
ここではスレ違いだ。
416 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/09/01(火) 01:41:00
安城歴史博物館にて
安城松平一族特集を
開催中との情報あり
418 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 14:17:23
徳川家康の源流と
安城松平一族
12月6日まで
>>416 安っぽい挑発に乗るなってこと
荒らすなよ、頼むからさ
420 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/12(木) 20:13:21
421 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 23:21:24
422 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 00:20:34
松平長親って家康が生まれた頃まで生きてたんだな
なにげにすげえよね
最初期の戦国大名の一人である早雲と戦い
戦国時代を終焉させた家康の後見をした。
まあ家康が幼児の時に死んでいるんだけどね。
425 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 18:22:04
平山氏に質問。
なぜ平山家は松平姓から
改姓したのか?
それはいつ頃のことだったのでしょうか?
信忠って影薄いよね
427 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/18(水) 00:36:04
>>425 改姓じゃないよ(笑)
母方の実家が松平なの。
428 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/18(水) 00:39:39
>>422 オレが生きてて喜ばれたのって多分初めてだな。(感慨無量)
レスさんくすです。
429 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/18(水) 00:46:46
ちなみに
平山家の家紋・・・丸に橘
松平家の家紋・・・重扇
とりあえず戸籍調べて「柳営会」に入りたいな。
ちなみに9月に徳川記念財団の賛助会員になりました。
次の会報に私の名前が出ると思いますので
どうぞよろしく。
430 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 12:58:47
徳川氏という名字は、家康が三河を統一したさい、松平氏から改姓したものである。
家康は改姓ではなく復姓として朝廷に申請したのだが、藤原氏に系統があったとして勅許された。
しかし系図上の事実が明白でなく、朝廷側がなんとかひねり出した結果である。
もちろん関係者へは相当の金品の贈与がなされた。
徳川という名字については、近衛前久からその子信尹に与えた書状に、
「徳川は得川、根本此字にて候、徳之字は子細候ての事候」
とある。
431 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 13:04:46
家康が徳川と改姓したのは、新田支流の得川氏の存在を知っていたのである。
なぜかというと、祖父清康が得川庶家の世良田氏を称していたからである。
これについて、松平一族の菩提寺である大樹寺多宝塔に
「大檀那世良田次郎三郎清康」
の銘が、天文二年(1533)の制札に
「源清康」
の署名がある。
432 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 13:09:32
清康は三河をほぼ統一したことによって、家柄を誇示する必要から源姓を自称し、その系統を世良田氏に求めたのであろう。
源姓といえば足利だが、その系図はしっかりしているので詐称できない。
>>423 安城松平氏二代の長親は在世中、大浜・福釜・桜井・藤井に庶子を独立させ、安城松平氏の一族的結合を拡大した。これに
より、他の松平一族を圧倒する大名領主権力をもちはじめた。
長親は文亀元(1501)年八月、父親忠の初七日に、松平一族を大樹寺に集め同寺警固の禁制に署名
させた。長親の意図は、安城松平氏が一族全体をまとめる惣領家であることを認めさせることにあ
り、本来の嫡流である岩津氏は名跡のみで、もはや庶家を統制する力はなかった。
434 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 19:57:47
>>427 なんだ女系か。
残念ながら女系は継承者とは
認められません。
435 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 20:01:19
436 :
日本@名無史さん:2009/11/18(水) 20:07:00
岩津松平は今川家の
伊勢新九郎の遠三大進攻の
最終標的にされ壊滅的
被害を受けて衰えたのです。
安城が台頭したのは
その後です。
長親というより長忠と言って欲しいのゥ
だけど松平清康がもっと長生きしてたらどうなってたか興味がある。
439 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/21(土) 03:42:59
>>434 血筋以外何一つとりえのないオレにとっては「死刑宣告」に等しいわ。
容認できねえわ。他に生きる価値見出せねえもん。
「オレの先祖は何者か?」
この疑問がオレを自殺から踏みとどまらせてくれ続けたんでね。
それだけでこれまで生きてきたんでね。
「何言われようが先祖探しこそオレのライフワーク」
440 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 00:52:37
>>439 先祖自慢ヘタレか。道理で女にモテんわけだなw
441 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/22(日) 01:17:01
>>440 まあ書いてる事は事実だな(笑)
「こんばんは松平信光の末裔です」
一般人にしてみれば「何それ?」だろうけど
オレにとっては唯一の生き甲斐。
まあへタレだし、もてねえし、人間的価値全くねえし
血筋しか「とりえ」ないんだけどね。
442 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 00:15:26
せっかく透明してんだからアンカつけんなや
清康が生きていたら、信長と家康の立場は逆転してたかもしれないね。
しかし2代連続暗殺って
どんだけ警備がいい加減なんだよ
その一方で、長親とか異様なまでに長生きが
446 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:39:08
平山!
女系だろうと血脈を受け継いでいるのは事実だ。
三河ね山野を駆け抜け
天下に活躍した
先祖の生き様を受け継げ。
小さな自分にとらわれるな。
447 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 20:45:55
先祖探しに向かうのはおまえが
いかに生きるべきかを
暗に先祖が指し示しているのだろう。
さて、安城歴史博物館はじまって以来の
熱い企画「安城松平一族」も
まもなく終了。
期間中は歴史ヲタや
郷土史マニア、さらには
松平郷松平家の末裔の方まで来たとか。
448 :
三河松平一族の謎を追う:2009/11/25(水) 20:56:45
展示されていた伊賀八幡所蔵の
松平一族の誰かの熊皮張りの兜は
彼らが源平以来の武士ではない
山奥出身の新興一族であることを
あきらかに示していた。
松平太郎左衛門は
商いで財を築いた
「有徳者」であった。
また現地調査でえた情報では
岩津城も武力ではなく
貨幣により岩津より南東の中根一族から
買い取ったというのである!
449 :
三河松平一族の謎:2009/11/25(水) 21:00:52
この中根一族の中根城というのもくせもので
城跡の案内はあるが
矢印どおり進むと
意味不明な腐ったアスレチックもどきのある
あやしげな山奥に誘導されるのである。
450 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:06:49
平山、
山奥の小金もち一家を
三河の強豪一族にまで
のしあげた英雄・信光の末裔なら
たいしたことあるはずだろ。
今、ダメなのは卑小な
エゴにとらわれているからだ。
451 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 21:13:19
>>431 しかし、なぜ清康が
「世良田」を知っていたのか?
そして、なぜそれを名乗ったか?
は謎のままである。
(いかに新田支流といえど
「世良田」の認知がまったくない三河では
まったく効果はない。)
452 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 22:32:13
>>441 そんなんが「とりえ」になると思いこんでる時点で、ダメダメ人間だな
問題は、松平が源氏だったということです。
秀吉は、源氏でなかったため征夷大将軍になれず、次善の策として藤原氏の養子になり太閤関白を名乗るしかなかった。
しかし、徳川は、源氏だったので征夷大将軍となり、鎌倉幕府以来の源氏による武家政権を復興させた。
源氏とは、一体何だったのか?それがポイントです。
454 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/26(木) 00:55:52
>>452 だからオレ個人は「ダメダメ人間」だと言ってるだろが
文脈理解出来んのか?お前は?
アホ!
455 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:56:43
>>453 え? 藤原朝臣家康として三河守任官にこぎつけた努力は
評価されないのですか?
456 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 23:08:22
>>454 「血筋しかとりえがない」と言ってるのは、まだ己のダメダメ人間度を自覚していない証拠。
「とりえ」などなに一つない役立たずの人間なんだってことを
ちっとは自覚しろやwボケ
457 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 00:05:41
>>456 平民が何言っても説得力ゼロ(嘲笑)
お前何一つオレの役にたってないしな(笑)
文句があんならオレの戸籍調べてみろ!
お前は「身分はえた非人」「人格は人非人」
深溝松平家に対するやっかみもほどほどにな。ボク。(犬コロ一匹一蹴)
458 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 00:11:36
>>456 最後の2行そっくりそのまんま返すわ(一蹴)
459 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 00:33:23
460 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 01:08:38
あんな文章書いてる奴よりまだオレの方がマシだな。
世の中下には下がいるもんだ。
ただの罵詈雑言の羅列じゃねえか。くっくっく。
きっと他にとりえないんだろな。かわいそ。
オレは人格高潔なんであんな低俗な文書けねえもん。
(書きたくもねえがな!かっかっか!)
461 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 01:17:02
↑
連投するほど頭にきてるとこみると、
ダメダメ人間てのは図星なんだなw分かり易い奴www
462 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 04:44:16
>>461 「Wの悲劇バカ」(嘲笑)
連投してんのは「ダメダメ星人」は楽しんでるわけなんだが。プッ!
お前ホント「バカバカ星人」だな!あっはっは!
人の心読み違えとる事に気付け。
あと、オレは徳川記念財団の賛助会員だ。きちんと徳川に貢献しとる。
1万円も寄付出来ん。お前の方がダメ人間なんだよ。現実は。
また、思いついたら何か書けよな。オレの暇つぶしの為に。
何ておバカで安い奴・・・プッ!
463 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 04:56:25
連投してやろう。匿名(ふくしま)が喜ぶからな。
お前のおかげで、いい暇つぶしが出来て「余は満足じゃ」
お前、オレの役に立ってるぞ!
さあ、どんどん書け!
太っ腹なオレ>誹謗中傷しかとりえのないフクシマ(笑)
バカガキの相手は楽しいな!
464 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 05:08:36
確かに「ダメダメ人間」ですが何か?
オレは統合失調症で精神障害年金もらっとんじゃ!
国公認の「ダメダメ人間」なんですが何か?
「ダメダメ人間」気に入ったから当分オレ専用で使うわ。
段々楽しくなってきた!(最近マゾになったみたいだ)
お前に著作権などないわ!パクって何が悪い!
統合失調症で鬱病なんだから固い事言うなや!
(ダメダメ星人よりフクシマへ)
465 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 05:13:26
「ダメダメボーイは今日もダメ」
こんばんはダメダメボーイズです。
明石家マンションのファン?キミ?
466 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 16:16:33
>>456 そういう能書き聞き飽きた(笑)
34年生きてるが、この程度の事しか言えないバカばっかと遭遇してばっか。
「お前の存在が有害だからオレの手で殺してやる」ぐらい書いてみろ。
悔しかったら徳川記念財団の会員になってみろ。
悪態ばっかついてないで少しは社会に貢献しろ。
「どうせムリでしょうがね」(笑)
467 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:55:30
平山、雑音は相手にするな。
468 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:57:30
深溝松平といえば
たしか司馬遼太郎が
典型的な三河武士の家と
表現した忠義の家柄。
469 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/27(金) 23:59:05
470 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/28(土) 00:04:33
>>468の文を見て
(言葉に詰まる)
(マジでビビる)
(オレって一族の恥じゃんと悟る)
471 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 20:28:28
殿様暮らしが長くて
無骨な田舎者だが
忠義に篤いと言われた
三河武士の魂を忘れたか。
まずは己のエゴに克て。
472 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 20:29:22
平山氏はいまはどこにお住まいか?
473 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/30(月) 13:34:00
474 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/30(月) 13:38:08
>>472 長崎県西海市の山奥に在住。
オレはこの近辺を「グリーンモンスター」と呼んでバカにしている。
ああ!名古屋より東に行きてえ!
475 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:49:06
一度、徳川・松平家の祖先の地、
西三河を訪れてみるが
よかろう。
476 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 20:56:37
時代は違うが人生劇場で
吉良常が飛車角を伴い
西三河に来た時に
「義理人情が溶け込んだような風景」
と紹介した場面があったはず。
近世日本人の心の
ふるさとを知りたければ
西三河を訪れよ。
477 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 21:09:47
深溝松平家が長崎という
江戸時代日本における
最重要外交拠点を
任されたのは
徳川家が権現家康以来
いかにこの家を信頼
していたかの表れに他ならない。
深溝松平家は信義の家柄ではなかろうか、平山君。
ま、徳川氏は源氏の末裔ではなくて、松平は土豪という説もあるんだけどね。
479 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:38:52
>>1 >>468 松平を語るのに、士農工商エタヒンン制度の確立で徳川幕府とその一族郎党を憎み、
歴史を歪曲して宣伝する嵯峨源氏渡辺党の大阪芦原橋の司馬遼太郎の歴史観を参照するのはどうかと。
清和源氏と嵯峨源氏、一時期協調することもあったろうけど、
やはりその嵯峨源氏渡辺党の石山本願寺が大阪城となり、
反徳川の拠点となっていたわけで、大阪の陣の際は、
その芦原橋、木津川周辺が秀吉軍の拠点となり、
佃・大和田の漁師・水軍の徳川と戦ったわけで。
480 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:45:10
そもそも大阪芦原橋の司馬遼太郎は
いかにもその芦原橋木津川周辺の渡辺党皮革部落うまれそのままに、
嵯峨源氏渡辺氏の大陸文明崇拝思想をもち、
そんで司馬遷を崇拝してそんなペンネームにしているんやが。
481 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/30(月) 23:48:35
>>475>>476 やっぱり名古屋より東行かないとダメですよね。
オヤジが愛知県に単身赴任した時
龍城神社のお守りを買ってきてくれました。
今でも宝にしています。
482 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/30(月) 23:50:37
>>477 「信義の家柄」・・・
ずっしりこたえました。(感動)
483 :
平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv :2009/11/30(月) 23:53:24
>>478 そうです!三河の地侍です!御異議ありませぬ!
484 :
日本@名無史さん:2009/11/30(月) 23:56:15
清和源氏の湿地を埋め立て田畑を開墾を尊重し、
生き物の皮をはいで肉を売って金儲け・・・を軽蔑する思想が
家康により士農工商エタ非人制度になったわけで。
その生き物の皮を剥ぎ血肉を売って安易にぼろ儲けする成金文化が
嵯峨源氏渡辺党の文化であり、清和源氏とは正反対の思想。
ま、ここにいる秀吉と家康の区別もつかない、
佃・大和田と木津川・今宮・芦原橋の区別もつかない、
大阪と尼崎の区別もつかないアホなやつに説明するだけ無駄でしょうけど。
485 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:01:10
松平家が清和源氏の正式な血統かどうかなどどうでもいい話。
歴史的事実は、徳川幕府が必要以上に清和源氏思想にこだわり、
徹底してそれを追従した結果「士農工商エタヒンン制度」の誕生となり、
いまだに部落差別として根強く日本社会に残っていることでしょう。
家康の性格は意外にも気が小さく、
清和源氏の思想を追従しないと征夷大将軍にはなれないという
トラウマが強かったと思われる。
486 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 00:07:55
司馬遼太郎の松平観をすべて否定するわけではない。
しかし、司馬遼太郎がそのような人物であり、
あくまで松平を敵方から観た史観であるとして参照すべきであり、
それが真実とは大きく異なる場合もあり、
また今日、渡辺党がマスゴミ・メディアから経済界など多くの分野を牛耳り、
その敵方の被差別部落民側から観た史観が多く採用されているケースが多いことを知るべき。
487 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 23:24:51
くだらない陰謀論はご遠慮願いたい
488 :
三河紀行:2009/12/04(金) 13:24:47
三河守護細川氏の
居城細川城跡を訪ねた。
松平郷と
細川城はかなり近いですね。
石碑には足利義清の長男が義仲挙兵の時に
どうのこうとか、
尊氏、義アキラ戦功ありとか
書いてありましたが、
彫ってある文字の上の方が
消えかけており、おまけに逆光でよく読めませんでした。
ただの多少力のある百姓だよ 松平は
徳川御三家の尾張、紀伊、水戸は、もとはと言えば新羅の支配地ではないのか?
松平とは末盧の新羅のことだった。
渡辺党がメディアを牛耳るとは?
大阪の海賊の子孫が
ナベツネの他にいるのかだれか?
ブラタモリは江戸の成り立ちを知るうえで役に立ちますね。必見です。
493 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 22:17:09
松平一族の歴史から見れば
家康は松平一族がまさに
どん底の時の当主だったというわけか。
尾州藩浪士(びしゅうはんろうし)、尾
張屋源内(おわりやげんない)の娘小菊の霊を祀(まつ)った地蔵堂です。
浪士源内は二日町(現、東本町)に住み、猟師として生活していました。
貞享(じょうきょう)4年(1687)春のある日、播州(ばんしゅう)明石(あかし)の
城主松平(まつだいら)若狭守(わかさのかみ)直明(なおあき)
の行列が三島宿にさしかかったとき、当時6歳の娘
小菊は、道の向こう側にいました。これを見た母親は粗相(そそう)
があってはいけないと思い、小菊にそちらにいるように声をかけました。
それを娘は自分を呼んだのだと思い、何気なく列を横切ったので、
前駆(ぜんく)(注)が小菊を取り押さえてしまいました。それを見た
家老が機転を利かせて「犬だ、捨て置け」と命じましたが間に合わず、
小菊は本陣に引かれて行きました。驚いた町民たちは問屋役人、町名主、
本陣などを総代とし殿様に命乞いをしましたが聞き入れてもらえませんでした。
そこで大名と同格の10万石の格式をもつ玉澤妙法華寺の第24代住職
日迅(にちじん)上人(しょうにん)が、下座
について助命を乞いましたが、それでも聞き入れられず、小菊は本陣庭先で
お手討ちされることになりました。その折、幼い小菊は手を合わせ、
「なんでも殿様の言いなりになりますゆえ、命ばかりはお助けください」
と懸命に頼みましたが、小菊の願いも空しく聞き届けられませんでした。
怒った父源内は、箱根街道石割坂付近(接待茶屋下)に待ち伏せし、
殿様の籠(かご)に鉄砲を打ち込みましたが、
察知されていて、目的を果たすことができませんでした。源内は自害し
日迅上人は雲水(うんすい)僧(そう)として旅に出ました。
町の人々がこれを憐(あわ)れみ、小菊の霊を祀るための地蔵堂を建てました。
今では、この地蔵に願いをかけると 必ず叶えられると言われているそうです。
495 :
花:2010/01/05(火) 19:35:28
496 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 07:03:30
>>453 >源氏とは、一体何だったのか?それがポイントです。
天皇の子孫だからというのとは別の話?
497 :
日本@名無史さん:2010/01/08(金) 17:36:17
保科正之の血って
男系は断絶だろうけど
女系にも全く残ってないの?
ウィキペディアに松平益親の項目作ってくれ
499 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 04:51:02
新田郷から流れてきた
乞食坊主、徳阿弥が
松平家の娘を夜這ってできたのが源氏の根拠。
ここでカリカリしているのは何がしたいの?
>>392 自分も東海地方の大河を肉眼で見たとき、おったまげた経験あり。
静岡、愛知の沿岸部は灌漑すすんだ今でもとても湿っぽい風土をしていた気がする。
体で感じにいくことって大事だよ。
501 :
日本@名無史さん:2010/01/14(木) 23:53:03
表の顔が徳川幕府。裏の顔が弾左衛門。
二人が血を分けた兄弟だったことを誰も知らない。
つまり穴兄弟だな。
503 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 01:40:47
ほほー
504 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 21:03:11
だれそれ?
505 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 14:11:08
なんか本当に家康は源氏の末裔かって話題が永遠に繰り返されてるけど
家康のほうが源氏よりも圧倒的な偉業を成し遂げたんだから
むしろ源氏のほうが先祖に選んでくれたことを素直に感謝すべき
源氏長者でないと征夷大将軍になれないというのは俗説だけれど、
東国の最高実力者という地位を確立するため是非ほしい呼称だったのです。