1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 14:52:53
2げと!
3 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 20:26:40
>>1 乙です。
でさっそく疑問なんだけど、、
よく纏向が作られた要因として鉄資源の流通云々ってのがあるよね?
確かに3世紀になってヤマトに鉄が相当流入するようにはなっている。
(無論絶対量としては九州に比べるべきも無いけど)
しかし東海地方って殆ど増えていないと言うか逆に減っているみたいなんだけど…
普通に考えれば東海は地理的にも纏向の恩恵に最大限与かるだろうし
搬入土器も東海の物がほぼ半分を占めているんだしこれは一体何故?
(邪馬台国畿内説で東海をクナ国とするには都合が良いかもしれんけどw)
逆に東国で増えているのは関東・中部・北陸に見られる。
素人考えで、ひょっとして東海をすっ飛ばしてそれらの地域のマーケットと交易を行った?
…とか考えてみたりもするんだけど、どうでしょうか?ww
4 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 21:44:42
>>3 >しかし東海地方って殆ど増えていないと言うか逆に減っているみたいなんだけど…
これは初耳。
この東海地方って濃尾(美濃・尾張)と伊勢だよね。
なんかそんなソース(「逆に減っている」)があったのかな。あったら示してほしい。
>普通に考えれば東海は地理的にも纏向の恩恵に最大限与かるだろうし
発想が俺と逆だ。ww
纏向の立地(交通面)が東海勢に魅力だったから、ここへ大勢押しかけて市をこしらえたんじゃないの?
河内勢力もだよ。
俺は纏向が河内〜伊勢の中間地点、て発想なんだ。
それとあんまり鉄ばかりにこだわるのもどうかと。
老教授は、「技術、文化、物流の集積地」とか「ありとあらゆるクニの技術とモノ」とか言ってるよ。
鉄はそのうちの一つ、ぐらいに少し押さえて考えた方がいいんじゃないかな。
>>4 >俺は纏向が河内〜伊勢の中間地点、て発想なんだ。
なるほど。河内勢力と東海地方の連合がマキムクだと。
でもなんで連合して巨大王権を作る必要があったのか?って問題が残るような。
それと河内に初期古墳が見られないことからも、河内がマキムクの初期メンバーだったのは
そうだろうけど、東海はどうか?
むしろ、マキムクと並立的に王権が発生していたように見えるが。
6 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:20:25
東海勢のマキムク関与は古いよ。
つか、最初からと見てよいだろう。
赤塚さんは辻土壙1出土の小型器台を「東海系器台」としてる。
これは旧編年(石野・関川)では纏向1式(新)とされ、新編年(石野・豊岡)で纏向2類(前)に整理し直されたもの。
↓これの一番下の表参照
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html#makimuku そのほか赤塚さんは加飾壺、椀形低脚高坏も東海系の例に挙げてる。
赤塚
「纏向一式成立段階において東海的な要素が色濃く、しかも五様式からの脱却を
考える重要な要素(器台・加飾壺)が東海系土器を基盤にしている点を強調しておきたい」
(伊達編『古代「おおやまと」を探る』学生社188ページ)
だから洩れ、旧編年で纏向1式(古)にX様式をまとめ、纏向1式(新)以降に庄内式土器をまとめて持ってきたのが、
ちょっと勘違い厨を誘発しそうでマズかったんじゃないかい?と思う。ww
(古)→(新)じゃなくて、1式(古・新同居)だよ、たぶん。土層の再検討必要だけどね。
庄内甕は新編年纏向2類(中)からだね。ここが本当にビミョーでww、もし赤塚さんの言う通りだったら
河内勢のマキムク関与は一瞬だけど(10年ぐらいかな?)東海勢に遅れをとった〜!?ww
7 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:34:42
>>5 >でもなんで連合して巨大王権を作る必要があったのか?って問題が残るような
そこで王権発生が先ではなく、結果的に王権化したというのが
>>1の主張じゃないのかな。
>いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
これはもう鶏かタマゴかの問題だろうけど
広域王権が新都を建設したと見るか、各地からの物流拠点に人材と物資が集中した結果
各々の故郷を凌ぐほどの勢力になったかの、どちらが正解なのかを議論するスレだろうね。
8 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:44:10
王権の礎・・・・・だもんね。ww
意味深だよね、ほんと。
9 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:44:34
纏向以前には、すでに東海王権と呼んでも差し支えないものがあったと考えられるし
これは勿論、吉備、出雲、北部九州、畿内もそう。
その中でも比較的小規模だった奈良東南部の大和川水域にあったヤマト王権に
各地の中継点になれと持ちかけた(半ば強制的に?)とも考えられるし
ヤマトが、千載一遇のチャンスとばかりに立候補したとも考えられる。
その後、纏向が巨大化する中で、損な役を押し付けられたヤマトが力をつけたのか
それともwktkで立候補しながら時代の波に飲み込まれたのか。
邪馬台国や大和朝廷の話よりも、さらにコアでディープなマニア話を
最新の出土状況によるデータ比較で、大胆な仮説を提示して検証し合おうというのが、スレの主旨だと思う。
>>4 >ソース
すんません。
孫引きになるんだろうけど
寺沢薫 「日本の歴史02 王権誕生」
川越哲志「弥生時代鉄器総覧」
を元に作られた図を見てです。
まあ自分も鉄中毒から脱してはいると思うんですが(苦笑
それでもかなり重要な物資ではあると思うんですよw
いずれにせよ東海が何の為に巻向に足繁く通ったのかメリットが見えてこないと言うか…
>>10 >まあ自分も鉄中毒から脱してはいると思うんですが(苦笑
鉄みたいな遠隔地交易でしか入手し得ない物資の需要が高まったことが、
弥生後期の王権の発生の流れを形作ったんだと思うよ。
王権の重要な役割のひとつに、交易路の安全の保障がある。
広域に権威を主張し得る大王権力の誕生無くして、遠隔地交易は活性化しない。
>>7 >広域王権が新都を建設したと見るか、各地からの物流拠点に人材と物資が集中した結果
>各々の故郷を凌ぐほどの勢力になったかの、どちらが正解なのかを議論するスレだろうね
弥生由来の拠点集落の解体は突然に起こっていて、何らかの政治的決着で
突如大王権力が生まれたことを物語っている。
政治的決着とは卑弥呼擁立による大同団結のことなんだろうけど。
>>9 >その中でも比較的小規模だった奈良東南部の大和川水域にあったヤマト王権に
>各地の中継点になれと持ちかけた(半ば強制的に?)とも考えられるし
>ヤマトが、千載一遇のチャンスとばかりに立候補したとも考えられる。
どうなんだろ?
卑弥呼擁立がマキムク王権の画期と見るなら、それなりに宗教的権威であった
三輪山の巫女を神輿として、中河内・大和の大和川水系、東瀬戸内地域が
連合、大王権力を生み出したと見る方がしっくりくる。
卑弥呼の宗教的権威の源流は、銅鐸神になるのだろうと。
大和を過度に政治的空白地と見るのは、東遷説の名残りだろうけど。
「政治的決着」って言ってもプロセスは複雑だろうね。
次の例は単なる仮想の組合せなんだけど、
吉備と讃岐、吉備と播磨、播磨と讃岐、播磨と河内・・・みたいに
近接勢力相互の連携が徐々に広がって行ったと言うスタイルが
基本だと思う。
では、王権化の画期は何かと言うと、それは海上交通の支配では
無いかな?
後世の塩飽水軍とか三島水軍みたいな海上勢力から、
陸上勢力が瀬戸内の制海権を奪取した時期、そうれが王権成立期
なんだと思う。
例外も多いとは思うが弥生期に見られる高地性集落とは、
陸対陸と言うより陸対海の争い(海賊行為とそれへの反撃)に伴うもので、
臨海部に多く築かれているのは前述のような理由があったのではないか。
何れにしろ王権レベルの交易には海上輸送力が絶対的な必要条件なので、
陸が海を支配する構図が出来ていなければならない。
>>13 瀬戸内海航路が初期ヤマト王権の生命線だったのはそうでしょう。
吉備の楯築墳丘墓は、瀬戸内海航路の安全保障をし得る権威として、
大和より先立って担がれた神輿だったのではないでしょうか?
結局その目論見はなぜか潰れ、大和が権威として選ばれる。
15 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 01:45:57
東海と言えば大和古墳群に「ハタゴ塚」とか「フサギ塚」とか前方後方墳があったりするけど
…アレは一体ナニ?w
>>13 >では、王権化の画期は何かと言うと、それは海上交通の支配では
>無いかな?
でも単純に考えて、それにしては纏向は内陸すぎやしない?
いくら大和川を遡上して船での航行が可能とは言え。
実働部隊は吉備あたりから派遣されるとしても中枢を奈良盆地に置く意味がイマイチのような気が…
とりあえず一番重要なこと。
マキムクは2世紀後半なんかじゃなく3世紀半ばぐらいの可能性も
十分あるってこと。勝手に最古ピンポイントにするとは詐欺だね。
いわゆる東海系土器に関しては、丁寧に系譜を辿る必要がある希ガス。
縄文時代や中世以降ならいざしらず、
文化伝播方向がほぼ一方的な「西→東」となる弥生時代において、
東海勢が、西向きに何も無いところに新規に乗り込んできたというのは、
常識的にちょっと考えにくい。
東海系土器を持ち込んだ東海(濃尾伊勢)勢力は、
巻向または大和盆地の、ヤマト族進出以前の旧勢力の一翼だったという、
神社伝承からはベタな話は、考古学的に裏付けられないものかと思うんだが。
もし新規に乗り込んできたと考えるなら、なぜ巻向かという理由は簡単だろう。
「北(関ヶ原から近江)ルートが塞がれていた」これしかない。
「名神が使えなかったから名阪国道ルートで降りてきた」ということで、
現代にも通じる地理学的な話だろう。
降りてきたところが拠点となる。直接的に乗り込めるのはここまでで、
さらに西からの文物物資移入は、交易という形を取ると。
理由は、この両方かもしれないけどね。
19 :
13:2008/02/25(月) 21:00:04
>>16 > >では、王権化の画期は何かと言うと、それは海上交通の支配では無いかな?
> でも単純に考えて、それにしては纏向は内陸すぎやしない?
> いくら大和川を遡上して船での航行が可能とは言え。
> 実働部隊は吉備あたりから派遣されるとしても中枢を奈良盆地に置く意味がイマイチのような気が…
うーん。
纏向だけに着目してるとそう見えるかもしれんが、庄内の分布から見て、
王権成立時には河内・摂津・大和は既に一体化された勢力とも考えられる。
港湾施設は河内・摂津と言うことであっても、内陸にも拠点はあってしかるべき。
畿内の中では纏向が他地域を凌駕しているわけでもないでしょう。
20 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 22:38:44
>>16 >いくら大和川を遡上して船での航行が可能とは言え。
大和川って遡上できるの?
大和路線だっけ?だと柏原から王寺まで結構な山の中だけど。
21 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 00:11:22
22 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 00:27:07
>>21 ありがとやんした。
結局構造の違う船を使って載せ替えたりしたのね。
23 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 00:28:22
制海権を握ると言う事で軍港(?)みたいなのを作るとしても
やっぱ河内湖じゃね?
北部の淀川水系、南部の大和川水系両方にアクセスできるしw
24 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 00:44:26
>>18 >縄文時代や中世以降ならいざしらず、
>文化伝播方向がほぼ一方的な「西→東」となる弥生時代において、
そうかなあ、まあ「ほぼ」て書いてるから全部一方通行とは思ってないんだろうけどさ、
いろいろあるんじゃない?反例がだよ。
たとえば土器製塩。
これは九州よりか吉備あたりの瀬戸内が早いよ。ぜったい。
それから四隅突出型墳丘墓。
出雲、伯耆、中国山地、それと福井・石川・富山の方、福島もだな。
九州にはまだまったく見つかってないじゃん。や〜い。ww
あと後期後半だから古墳時代に近いけど、特殊器台もあるし、
分銅形土製品、手あぶり形土器、とかなんとか、イロイロだよ。ww
だからさ、マキムクの最初が東海主導だっていいわけよ。
たぶん最初は東海の流れ者連中がマキムク行ってさ、
「お、ここええとこじゃねェが」
な〜んて住みついて開発おっ始めたってこともあるかもよ。ww
25 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 01:46:31
>>12 >大和を過度に政治的空白地と見るのは、東遷説の名残りだろうけど。
ある資料(泉拓良・西田秦民編 1999)によると弥生時代の地域別人口密度として
東北 0.50
関東 3.20
北陸 0.85
中部 3.07
東海 4.50
近畿 3.33
中国 1.80
四国 1.61
九州 1.56
全国 2.04
( 単位:人/ku )
…だそうな。
鉄器の出土量からイメージする人口の多寡とは随分違うw
26 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 17:21:11
九州が少なすぎ
根拠不明
>>25 泉拓良氏は先史縄文が専門の人だから、西田秦民氏が作成したデータかもしれないね。
だけどこれって、弥生のいつのことなの?
おそらく弥生後期後半のものだろうと思うけどさ。
最大で1200年間続いたと見られる弥生時代だから、引用はそれも明記してほしい。
じゃないと
>>26みたいな、なんでも反対クンが粘着するのでね。
>>26 根拠は「縄文世界の一万年」か「日本時代史1 縄文文化論」にでも載っているんじぇね?
泉拓良の名前を知らずに、不明とかケチつける君ってどうよw
具体的に、泉・西田説のこの点に疑問があって、自分はこのようなデータを出すとか
反する内容の論文を引用して反論を展開するとか、それは議論のルールとして守っていこうよ。
2chと言えども、ここは学問板だぜ。
>>24 暗黙のうちに「最も西は九州」という、九州弥生発祥一元論を前提としているけど
「九州は西じゃない」という考え方もあり得るよ。
これは、神話上の「出雲」の、考古学的扱いとも関わって来るんだが、
最も「西」なのは、中国地方、特に山口あたりだという考え方もある。
遠賀川式土器を作る弥生勢力の最主力が、
上陸後直ちに東へ向かい楽勝で急速に伝播したが、
九州島内南行きの方は遅遅として進まなかったというのは、
言い古され尽くして、もはや古典芸能的な伝統説になる。
北部九州はかすっただけで、弥生文化はさっさと東に移動したという話だね。
だが、これは中国地方の話。もしくは日本海や瀬戸内海を前提とした話。
近畿を飛ばして東海が勃興というのは、
弥生文化のスタートが西国で始まっている以上、地理的にどう考えても不可能だ。
近畿を飛ばして北陸(越)が勃興したならまだしも(これは十二分にあり得る)。
>>25 それは縄文末期の過大評価の希ガス。縄文後期の人口崩壊を想定するかどうかで、
東日本の人口推定値は激変するからね。特に関東の数字は異常。
移行説ベースとしても、関東の弥生遺跡はひどいものなのに。
>>29 弥生文化の東進は、確か東海辺りで一旦止まったんだよね。
ある種、西国諸国は弥生文化的に均質、同族的、親和的だったのかもしれない。
これって、崇神の頃の記紀の記述と一致するんだよな。
つまり西=夕日=出雲=穢 と 東=朝日=伊勢=聖 の対立軸での
世界観の構築がある。
西郷信綱の説だけど。
31 :
25:2008/02/27(水) 00:50:35
>>27 ご指摘の通り引用は「日本時代史1 縄文文化論」からでつw
でも時代区分としては単に「弥生時代」としか出てないんですよ…。
掲載されていた表の時代区分は以下の通りです。
縄文U期・縄文V期(前)・縄文V期(中)・縄文V期(後)・弥生時代・奈良時代
まあ弥生時代通しての平均でしょうか?
何れにせよ纏向の時代に九州が他の地域を圧倒していたと言う事はなさげw
32 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 02:20:19
>>29 >それは縄文末期の過大評価の希ガス。縄文後期の人口崩壊を想定するかどうかで、
>東日本の人口推定値は激変するからね。特に関東の数字は異常。
別データから。
ttp://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04suidenninasakunotourai.html 縄文後期以降の人口減の原因を急激な気候変動に求めると、東北地方における縄文文化の継続的発展の説明がつかない。
推定人口はあくまで発見されている住居遺跡の個数から人口を推定するもので、
未発見の縄文晩期住居遺跡が発見されたらすべて崩壊する。
たとえば縄文晩期は縄文海進後の「海退期」にあたるので、台地上ではなく沖積平野に縄文遺跡が埋没している可能性もあるはず。
とりわけ沖積化の顕著だった関東平野では十分に想定されるはなし。
それから、どうやら西日本が縄文型生活に不適応であったという考えも不穏当なようだ。
西日本の縄文遺跡における遺物からは、縄文人の生活は定住ではなく、
夏季の海洋漁労と春秋季の採取生活に応じて集落ごと移動していた形跡がある。
縄文時代観もみなおさなければならないかもしれない。
>>30 弥生文化の東進は東海と関東のみが極端に大きな壁というわけではなく、
思っていたよりも緩やかに進行したらしい。
BC500年に近畿、BC400年頃に東海、そして南関東の沿岸部ではBC200年といった感じ。
>>31 弥生時代の区分というと、最近は弥生時代遡上論もあるしな。
弥生時代を稲作農耕の時代と定義するなら、
西日本では、上記時代区分のうち縄文V期(後)以降は弥生時代と考えていいはず。
---
纏向の時代の話からすこし逸れてしまった。
33 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:57:03
少なくとも北九州の弥生後期には列島最大規模の弥生集落がいくつもあるんだが。
小山修三の人口分布推定と同じで基礎データに偏りや不足がある疑問がある。
それから泉氏は縄文から弥生前期が専門で弥生後期の基礎データをチェックしているとは思えない。
34 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:34:18
>>32 その資料によると、西暦200年頃の人口は、
東北 33,400 人
関東 99,000
北陸 20,700
中部 84,200
東海 55,300
近畿 108,300
中国 58,800
四国 30,100
九州 105,100
となっているな。
35 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:48:16
>>34 ついでにいうと、
近畿地方の内訳は
畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉) 3.0万人
畿内周辺(近江・伊賀・伊勢・志摩・紀伊・淡路・播磨) 7.0万人
中国地方は
山陰(丹後・但馬・因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見) 1.8万人
山陽(美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門) 4.9万人
九州は
北九州(筑前・筑後・肥前・壱岐・対馬・豊前・豊後) 4.1万人
南九州(肥後・日向・大隈・薩摩) 6.5万人
となっている。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html
36 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:48:55
実数はともかく、やっぱり九州多いじゃん
人口密度も、福岡佐賀熊本北半は遺跡のあり方からかなり大きいはず。九州南半分は密度が少なく九州全体としての密度にすると下げてしまう。
37 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:51:26
あらら南九州多いことになっているが、遺跡のありかた(集落遺跡数、集落遺跡での遺構密度)から疑問だよな。どういうデータだ?何かの予測値か?
38 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:52:02
>>34と
>>35で若干の違いがあるが、これは丹後・但馬を山陰に含めるか
近畿周辺に含めるかの違いだろうな。
39 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:59:00
>>37 やっぱり肥後ではなかろうか。日向もけっこう人が住んでいたのかも。
40 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 17:49:46
肥後北半は遺跡も多いし、集落遺跡も大きいし、遺構密度も濃い。
しかし日向は大きい集落遺跡は少なく、遺構の重複があまりない密度が薄い遺跡が多い。
その推定値は疑問。
41 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 17:55:26
北九州に人口が密集していたのは、
奴国が遣使していることから見て妥当じゃない?
卑弥呼の遣使もここを通っている。
だからといって、邪馬台国が北九州にあったとは
誰も思っていないわけで、無意味。
42 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 23:40:02
43 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 00:56:29
何れにせよ九州から畿内への「東遷説」なんか夢のまた夢だね(笑
44 :
ローガン:2008/02/28(木) 01:03:27
北九州に古くからの先進地域ですから、人口は比較的多かったのでしょうね。
ゆえに広域連合体としては一大率が必要だったのではないでしょうか?「如刺史」ですね
45 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:11:21
縄文時代の急激な気候変動=寒冷化による東日本から西日本への人口の移動か…
まあもっと短いスパンでのお話として
弥生末期各地に高地性集落ができ、畿内でも大阪湾方面からの敵を知らせる狼煙台が作られた頃
(それが倭人伝の倭国大乱かは別にして)
河内で海からの襲撃を恐れ人口が内陸へ移動したって事は無いものかね?
んで奈良盆地の人口が一気に増え、それが巻向誕生の遠因となるとか?
まあ全く根拠無しの素人の孟宗竹だがwww
46 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 03:13:53
>>45 高地性集落ネタは、いまや考古資料の前で風前の灯火となった
東遷説・記紀原理主義者の最後の砦だからなぁ。
高地性集落は弥生V期BC100年ごろに瀬戸内東側北岸から始まり、
AD100年頃までには瀬戸内と大阪湾岸を席捲している。ところが九州側にはあまり広がらない。
ところがAD200年頃には、広島近辺と畿内のみに残存しほかの瀬戸内海周辺地域からは消滅、
そのかわりに伊勢湾周囲の東海地方や北陸にその分布を広げていき、AD350年頃の北陸を最後に消失してしまう。
この分布変遷を「神武東征」と関連付けようとすると、
神武帝は近畿をすり抜け四道将軍あるいはヤマトタケルよろしく東海北陸まで東征したことになってしまう。
東征の有無を考古的に再検討することはもちろん、倭国大乱という事件があったのかどうかも併せて再考しなければならない。
3世紀における纏向への急速な求心力をもたらしたものは何だったのだろう?
>>40 >日向は大きい集落遺跡は少なく
地形知って言ってんのか? あのへんは無茶苦茶に険しい山だらけだぞ。
高い山々が海までズボッ。
でも海岸は怖いぐらい小さい古代古墳が密集してる。大体、海側を(海岸ではなく山のね)
ズラーっと果てしなく古墳が続いてさ。
腐るほどある山に腐るほど人が暮らしてたんじゃねーの?ザッと見渡しても
相当すんでいたと思うが。食べ物は山でも海でも豊富だし、
なんといっても暖かいし。これ以上古代人だとして住みたいと思う場所はないと思うが。
暖房がなく食べ物も自給自足しないといけないわけだからな。
>>43 王と塩と鉄の技術は東遷してるけどね。
九州の王の畿内への東遷は「夢」でなく、天皇家の「史書」からに拠るものw
大体、阿蘇の地名を本州で探してみなw そして何をもって阿蘇がついてるかも調べてみな。
それが古代の塩の歴史なんだよ。
マキムクに、九州の影響が見られるようになった「その時」がヤマト政権発祥の「その時」
なんだよ。それ以前は東海側からしか来てない。
それまでのマキムクは東海と行き来する畿内の一国だった。ただソンだけ。
気になるのは年だな。やはり大きくなった「その時」が祟神天皇だろう。やはり。
3世紀中期から、前後の誤差は50年ぐらい、もっとあるか?
49 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 17:58:34
>>15 そうそう前方後方墳ね。何だろうね。ww
でもこれ弥生時代→古墳時代を考えるときとっても重要だと思うよ。
「ハタゴ塚」「フサギ塚」は天理市だけど、マキムクでもひとつ見つかってるよね。
これも東海の影響なんじゃない?つか近江かも。
でもいい加減なこと書いたら怒られそうwwちゃんと勉強してまたレスするよ。ww
>>48 弥生の製塩土器のいちばん古いのは倉敷市の仁伍遺跡や児島上之町遺跡とかだよ。
土蔵の倉敷考古館に製塩土器展示してあったと思うよ、確かめに行ってみて。ww
それと児島半島の対岸の豊島にある柚ヶ浜・水ヶ浦・浜田遺跡、
それと小豆島でも出てたと思うよ、ここいらは香川県だね。
マップファンで示すとこのあたり、弥生で最初に土器製塩が始まった地域は。
http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E133.54.21.4N34.30.7.5&ZM=5 だいたい弥生の中期後半までさかのぼると思うよ。備讃が弥生製塩の発祥地だよね。
こんな古い製塩遺物、九州じゃまだぜんぜ見つかってないんじゃない?や〜いや〜い。ww
鉄は東遷でもいいだろけどさ、塩は「東遷」という考えがちょっとおかしいよ。ww
>>32>>45 縄文後期に、関東・中央高地から九州への人口と文化の移動があったことは確実なんだが、
単純な寒冷化の影響とは言いがたいんだよなあ。
縄文晩期の東日本の気候は、ほぼ江戸時代と同じと推定されている。
植生が寒冷化によって激変するほどではない。
むしろ一見矛盾するが、関東平野の「照葉樹林化」との関連があるのかもしれない。
照葉樹がどんぐりの生産性が非常に低いことは、よく知られたこと。
植生と気温との関係はそれほど単純ではなく、
高温の縄文中期のほうが、関東などはむしろ落葉樹林的植生だったらしいからね。
遺跡から食物を推測すると、ナッツ類に関しては
後期になると、胡桃が減り、トチノキが増えて、さらにこの時期から常緑カシが増える。
中期に、気候植生にぴたりと嵌った生活様式で人口爆発が起きた後、
その脆弱な生活様式と巨大人口を、ちょっとした植生の変化が直撃して、
反動として止め処も無い人口崩壊状態になったというのが、一番自然な推定だろうね。
後世の話になるが、江戸初期の本格稲作の普及で人口爆発を起こした東北農民は、
ちょっとした冷害で江戸時代を通じて大飢饉を繰り返し、
かつ、嘗ての有力な食物だったはずの、どんぐりや野草の食べ方を完全に忘れていた。
スレ違いスマソ。
>>49 >>48も誤解しているみたいだけど、いわゆる古い「東征論」と言っても、
軍事的・政治的征服(これはもちろん半径1kmでもいいw)を言っているだけで、
文化技術のパッケージの、全面優位性を述べているわけじゃないからなあ。
>>29を書いたのは俺なんだけど、東征論に対して、
九州は「西」ではなく、本来は「南」なのかもしれないし、
後の巻向の王の祖先は、
瀬戸内海沿岸を、神話のように1世代で駆け抜けたのではなく、
数世代以上かけてゆっくり進んだのかもしれない。
俺は、記紀神話は一定の事実を反映しているが、
出発点は、九州島内なら間違いなく福岡県内または大分県西部、
ひょっとしたら本州西端部かもしれないと思っている。南九州はない。
だが、東海は無い。巻向で出てくる東海系遺物は、
いずれも先住者のものであり、最大限の配慮と懐柔はされていたが、
どこまでいっても、「被征服者の部族」だっただろうと考えている。
むしろ、最終的に東北まで東日本全域に拡散して、律令時代に北東北の蝦夷と対峙し
言語記録として万葉防人歌を残したいわゆる「東国人」、
もっと言えば今の東日本人の大元の部族群が、
「巻向最古層に通じる東海勢」だった可能性が高い。
52 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:56:40
>>49 製塩土器ならば縄文後期〜晩期の関東にもある。
貝塚の消滅は製塩の開始と関連すると考えられている。
つまり縄文人が、大量の貝を食べたかったわけではなく保存用貝肉を食塩の代替品として用いていたということ。
貝塚から秩父の青石で作られた宝飾品が出土するが、これははるか関東山地に食塩の供給することで調達したものと見られる。
製塩に関しては、縄文文化圏と弥生文化圏の違いはあるにせよ、
開始時期的には瀬戸内と関東では大して変わらないかもしれない。
54 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:21:22
>>47 日向にも、非常によい土地がある。古代人にとってこんなに良い場所はないだろう
といわれるところが。それは都城盆地。
ただ、ここは熊襲の本拠地だろうと思われる。
55 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 00:17:35
>>46 ううむ、そうなると神武も一人じゃ足りないね。
初代神武、二代目神武、三代目神武…記紀に出てくるのは何代目の神武だろう?w
>>48 >マキムクに、九州の影響が見られるようになった
>「その時」がヤマト政権発祥の「その時」なんだよ。
おいおい、NHKの松平アナウンサーはちゃんと実年代で「その時」を言うぞw
今のところ影も形も無いわけだがwww
神武なんてのは、日向神話を採り入れる時に、皇祖神を日向に降臨させてしまったばっかりに、
仕方無しに生み出されたものだよ。
日向から大和に、舞台を無理矢理を移すために、「神武東征」が必要とされたんだと。
それくらい、初代大王は「大和で即位する」必要が是が非にでもあったわけ。
筑紫や日向にいる時点で即位していてはいけなかった。
大和とは、初代天皇が即位した特別な場所、聖域、中国で言うところの「中原」という意識が
比較的後代にまで残滓していたのだろう。
で、大和で即位したのがトトビモモソ媛(卑弥呼)であって、
吉備やら東海、越、丹波などの各地のオウ(四道将軍)に擁立(共立)され
ヤマト(邪馬台)に大王権力を確立したハツクニシラススメラミコト(初代天皇)。
魏から下賜された乱反射する銅鏡を用い、ニギハヤヒなどの他の太陽神を殺戮、
太陽崇拝を独占する。
彼女は、後世アマテラスと呼ばれるようになった。
58 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 01:26:20
せっかく纏向を考えるにあたり
これまでのステレオタイプな縄文時代観、弥生時代観を覆すような
良スレの流れだったのに
また搬入土器が暴れだしたのかw
59 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 01:34:02
記紀では、大和の橿原で即位ということになっているが、王年代記では、
「第四子を神武天皇と号す。筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。」と
なっていて、単に都を移したということになっている。
大和で即位を、地元である大和を重視したという見方をするなら、なおさら
日向出身をわざわざ書かなくてはならない理由が見つからないような気がする。
それはそうと、即位したとされる橿原には遺跡はないのかな。
60 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 12:14:59
マキムクの鍛冶遺物と技術系譜に関しては明らかに博多遺跡の出店みたいなもの
村上教授が明言している
61 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 12:32:38
>42
宇土付近が中心化するのは古墳時代前期半ばぐらいから
>47
日向の遺跡や地形を知った上
実際、弥生後期の集落遺跡は特別に大規模なものはないし、全般的に遺構密度が小さい。
古墳の大小や多寡と人口数や人口密度は単純相関しない。
例えば河内平野は古墳前期の集落は多いし密度も濃いが、大型古墳は少なく、古墳自体少ない。削平されるような方形周溝墓は少なくないが。
北九州も集落遺跡数や遺構密度から、人口が多いし、遺物から交易の一中心と考えられるが、意外に大型古墳は少ない。
62 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 12:35:35
>52
弥生の土器製塩と縄文のそれは別系統。弥生末に広がる土器製塩の技術は確かに瀬戸内系譜。
63 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 14:20:49
>>52 縄文の製塩は、関東というより東北南部の文化なんだよね。
今の所の考古学では発祥は茨城ということになっているわけだが、
関東の歴史に一貫する問題として、関東北東部と南西部との間は、
もはや別の地方と言えるほど、常に文化圏がかけ離れているというものがある。
これは縄文時代から、中世武士の攻防、更に現代の方言分布にまで一貫する特徴。
関東北東部は、東北南部の太平洋側とほぼ不可分一体。
関東南西部は、中部地方東部(甲信静)と極めて密接。
この縄文製塩に関して重要なのは、神話で言えば宮城県の塩竈神社の伝承について。
仙台湾沿岸は縄文製塩のメッカであったが、一旦途絶し、弥生式製塩の到達は奈良時代。
塩竈の製塩伝承は「鹿島由来」と言っていて、茨城→宮城となっている。
これが、縄文製塩の伝承なのか、弥生式製塩が奈良時代に伝わった伝承なのか、
現存する東日本文化の基層が何なのかを探る、重要な問題となり得るだろう。
巻向古層につながる濃尾系文化の前進の果てが、関東経由で東北南部になるからね。
65 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 04:02:35
>>58 >これまでのステレオタイプな縄文時代観、弥生時代観を覆すような
縄文のイメージを変えたのが山内丸山だったなら
弥生・古墳時代のイメージを変えるのが纏向って事なんでしょうか?
…でもあまりにトンデモ過ぎて「特異例」になりはしないのかな?w
>>65 > 弥生・古墳時代のイメージを変えるのが纏向って事なんでしょうか?
> …でもあまりにトンデモ過ぎて「特異例」になりはしないのかな?w
「特異」なんてことは無いでしょう。
ほぼ同時期には、九州の那珂比恵遺跡群や津寺で有名な岡山の足守川流域も
大和川流域と同じような状況になっています。
貴方も「トンデモ」なんて言ってないでさっさと「イメージ」を変えましょうw
いまや東遷説とか記紀原理主義者のほうが「トンデモ」だな
68 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:44:43
>>65 纏向は古墳時代、つまり巨大王権時代の開始時期やその形態に関わる重要な遺跡だからね。
弥生時代というとちょっと違うかも。
69 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 18:52:48
>>66 全国的な潮流とすれば中心集落とその周りの集落からなる「クニ」から
政治・宗教に特化もしくは二次三次産業専従者からなる「都市」への変遷
その嚆矢と言う事なんでせうか?w
しかしその場合でもその主導が他所の地域の勢力によるものと言うのが良く分からないっす。
例えば吉備や出雲が三輪山麓にやってきて地上げ屋よろしく
「おらおら、旧態依然の集落ぶっ潰して新しい都市造るんじゃけえ
お前らはさっさと何処か去ねや!」
てな事があったのだろうか?www
70 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 19:24:57
北九州の一部のが「都市化」が早いみたいだけどな
>>69 >しかしその場合でもその主導が他所の地域の勢力によるもの
いわゆる搬入土器は、纒向遺跡(のうち発掘された場所)から出土する土器の約15%以上を占め
同時期の遺跡に比して非常に高率となっている。なかでも東海地方で製作され纏向に持ち込まれたものが約半分、
つまり全体の7.5%となっていることが判明している。
これだけでは他所の地域の勢力が「参入」したことは間違いないが、「主導」であったとまでは
いいきれないのではなかろうか?
>>70 ここは早さ自慢大会ではなく、なぜ纏向が王権化したかを考える場所ですよ〜。
72 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 20:47:48
>>71 だね、搬入もしくは外来式が80%とかだったら
>>69の地上げ屋説も考慮しないといけないのだが
全体の22%(2006年時点ではこの数字ね)にとどまっている点からすれば
外来勢力の過度な評価は控えねばならない。
だがまず全体の10%以上も外来式が出土する遺跡は、纏向しか今のところ無い。
また在地系の中にはもちろん庄内式も古留も含まれている。
あくまでも総出土の22%という大雑把な数字であり
創設初期と見られる庄内並行の外来式の割合を示すデータの方が欲しいんだよね。
それと問題なのが、祭器や祭祀形態に、大和川水域の各弥生遺跡に見られた特徴が
纏向ではほとんど反映されていない。
むしろこちらのほうが重要な問題だと思う。
73 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 20:53:25
>>70 九州の弥生遺跡は、再開発によって古墳時代初期に都市化する。
これは水路や道路遺構から庄内式(搬入&現地生産)が在地系と共伴していることからも明らかだよ。
74 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 20:55:44
いやいや、そうなんだが、マキムク=倭王権の成立がイコール列島最初の都市の成立ではないということ。
都市という存在の設計思想について、先行する北九州からの影響や連携が考えられるのではということ。これは長距離交易の動きとも関係するかと。
従来の東遷説とは別の話で。
あとマキムクの東海系土器は、一つは土木労働者としてが考えられ(見直す、の北條氏の秀逸なイラストw)、また西日本の諸勢力は体外交易において北九州やたあるいは半島に直接出向くのが容易だが、東日本はマキムクでの大市でそれを済ませた、と考えられないか?
で、伊勢湾の連中は東日本への交易の媒介者でまさに海部かと。
東海系労働者については桜井茶臼山近くの城島遺跡やナスビ形木製農具の動きから言える。
75 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 20:57:44
>73
須玖岡本の青銅器生産の集中や那珂の大規模化は弥生後期にすでにある
76 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 21:04:23
>>74 >>72&
>>73ですが、これは
>>71への反論?
で、あなたは
>>70?
というのは
>従来の東遷説とは別の話で
という、いわゆる北部九州影響説には非常に興味があり
(もちろん柳田氏がその先鋒)
もう少し詳しく知りたいので、北部九州において先行されると考える遺跡の遺構を具体的に書いてくれるとありがたいのだが。
と、ここまで書いてリロードしたら
>>75で答えてくれているね。
あとでそれについてレスしますね。
>76
先日、資料を入手したが、奈良女子大学COEの都市の成立についてのシンポジウム資料を見るべし。
那珂の長大な道路遺構の成立は弥生末から古墳初めのようだから、マキムクの成立と発展の時期と変わらないけど、それ以前から先行遺構があるみたいだ。
>>72 最新のデータでは22%でしたか。
それでは
>>71は以下に訂正します。失礼しますた。
---
搬入土器は、纒向遺跡(のうち発掘された場所)から出土した土器の約22%。
そのうち東海地方で製作され纏向に持ち込まれたものが約半分、全体の11%
---
ということでおながします。
79 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 12:59:13
>>69 >例えば吉備や出雲が三輪山麓にやってきて地上げ屋よろしく
>「おらおら、旧態依然の集落ぶっ潰して新しい都市造るんじゃけえ
> お前らはさっさと何処か去ねや!」
>てな事があったのだろうか?www
それはない。
纏向遺跡は今までの発掘調査では畿内弥生土器編年のT期(前期)や
U〜V〜W期(中期)の土器は全く出土していない
(縄文土器は少し出ているが)。
出てくる弥生土器はX期(後期)からだがそれも少量。
俄然多くなるのは庄内期。
レス
>>6の意見もあるが纏向はほぼ庄内期からの遺跡と見てよい。
つまり弥生時代を通じ纏向は前・中期から後期末に至るまで
集落も水田も墓も見当たらない無人の地が続いた。
おそらく荒れ地や原野的な様相だった筈。
そこが弥生のT期から水田・集落を継続していた唐古・鍵などとは決定的に違う。
弥生末になり他所から纏向に人がやって来て開発を始めたのは事実。
だが無人の地ゆえ立ち退き強要等はあり得ない。
>>72 >それと問題なのが、祭器や祭祀形態に、大和川水域の各弥生遺跡に見られた特徴が
>纏向ではほとんど反映されていない。
これは新しい宗教が創始されたというだけで、外来勢力云々は関係ないような。
新しい宗教ってのは、いわゆる「前方後円墳の祭り」のことで、
各地の葬祭儀礼のパッチワーク。
>>79 >おそらく荒れ地や原野的な様相だった筈。
>そこが弥生のT期から水田・集落を継続していた唐古・鍵などとは決定的に違う。
>弥生末になり他所から纏向に人がやって来て開発を始めたのは事実。
>だが無人の地ゆえ立ち退き強要等はあり得ない。
マキムク近くにも弥生集落はあるから。
三輪山山麓は、弥生後期にはむしろ聖地として忌避されていたと見るべきじゃないかと思う。
81 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 22:14:59
扇状地地形と河川氾濫で弥生後期までの技術ではほとんど開発できなかっただけだろ。
三輪山祭祀が弥生からとか根拠がない妄想。
>>81 考古学的根拠がないと妄想という態度はどうかと。
記紀でハツクニシラスとされる崇神でも三輪山の神が重要な役割を果たしてるし。
ましてやマキムクのあの立地で三輪山崇拝が無関係と言い切れる神経の方が問題。
83 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:22:20
だからそれは古墳前期からでしょう?弥生後期にあったと言えますか?
マキムク付近に弥生後期まであまり生活空間にならなかったのは、単に自然環境的理由とするのが妥当。
逆に言うと、マキムクが出来てからこそ背後の山が神聖視されたんじゃあないのか?
85 :
ローガン:2008/03/02(日) 23:41:28
>>84 三輪山の麓という宗教的空間だから、市場が成立し得たんだと思うよ。
古代では、神が市場での規律を保障した。
神への恐れ抜きで市場取引は成立し得なかっただろう。
>>83 わざわざそのような開発し難い場所を選んだのか?っていうことだよ。
聖地だったからというのがしっくりくるが。
>>86 これはすごく同意なんだな。
ただその権威が三輪山が元から聖地だったからという理屈は考えにくいんだわ。
たとえば吉備と東海が取引をするとしよう。
その際にお互いの神に取引の公正を誓い合うといった交易ルールが存在したというか
そうでなければ現物を総てチェックするなど、物流状況からして不可能と思えることをせねばならなくなる。
前スレで見本市のような存在だったのかもと書いたのは
サンプルをお互いに見せ合うか、試供品のようにお試しをしてもらうことによって、契約が成立したのだと思う。
だからこそ、そこで行われた祭祀は、各地の宗教が入り混じったものになったと。
そしてそのパッチワーク宗教を管理する神官職が必要になった。
それは地元の奈良東南部だけでなく、各地から派遣されてきたのだろう。
でないと宗教的特色を他者に説明できないだろうから。
同時に墳墓建設に長けた技術者も派遣された。
また彼らを統括する各地のナンバー2あたりの統治関係者も派遣されていたとも考えられる。
現状では纏向に市場機能があったかどうかは不明なんだが・・・
>>88 パッチワーク宗教っていうか、無理矢理新しい宗教的権威を急造したということでは?
各地のオウの上にダイオウを乗せたというか。
倭人伝の卑弥呼共立の記事がそれに該当する。
各地のオウがマキムクに来てたってのは充分にありそうなこと。
古代では、マキムクの大王に直接仕えることを要求されただろうし。
>>89 そこは突っ込まないでwww
一応あったとういう前提の下で考えられる説は何かというのが、今の話題だから。
無かったというか、それほどたいした交流でもなかったことを前提にすれば
また別の仮説があるわけだし。
>>90 これは貴方とは些細な違いなのかもしれないけど
まずは各地のオウが勝手に自分たちの宗教観を持ち込んで
それがものめずらしかった頃はお互いに「ほおーっ」って感じで見ていたのかもしれない。
だがそのうち、どこかの宗教観に塗りつぶされることを危惧したか
その無邪気な寛容さが結果パッチワークになったかは両方考えられるが
何らかの宗教統合が行われたように思える。
だからもし纏向の神官が地元の奈良東南部出身だったとしても
祭ったモノは各地の神々だったろうし
その神々というのはやはり各地のオウの祖霊だろう。
その神官職が女王として共立されたというのが倭人伝の見解なんだが
実質そうだったのかどうかは、今はなんともいえない。
ただ魏が彼女をキング・オブ・キングスに認定し、その死後に揉め事があり
やはり同じ路線を継承したというのは、あながち間違いではないと思う。
その体制が長く続かなかったか、祭祀王と為政王を兼ね備えるイデオローグ(笑)が出現したかは定かではないが。
93 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 02:00:51
三輪山での祭祀・信仰が先か巻向が先か…
三輪の山中の磐座群から出土した遺物って巻向より昔のものってあったっけ?
>>88 でも、そうすると「なぜよりによって巻向?」という地理的問題がどうしても出てくるんだよ。
これは地理的な国土軸線の問題なので、
大陸移動でもしないかぎりずっと変わらないんだが、
巻向(奈良盆地南部)は、国土軸線から南にかけ離れた位置にある。
だから、奈良盆地から都が出て行った後、
奈良県は二度と交通の要衝の地位を得ることは無かった。
東海勢力と山陽勢力が、中間点で交易することを想定するなら、
昔も今も、摂津か山城が適切な地域であるに決まっているわけで。
中間点なら山城南部、東海寄りなら近江、山陽寄りなら摂津北部になるはず。
中間点仮説は面白いが(世界の大都市や首都は、大抵複数の文化圏の境界にある)
巻向に関しては、巻向周辺(奈良盆地)自体の政治・文化勢力に
吸引力がある状態を想定したほうがいいと思う。
>>94 >巻向に関しては、巻向周辺(奈良盆地)自体の政治・文化勢力に
>吸引力がある状態を想定したほうがいいと思う。
だいたい同意見なんだけど、マキムク周辺というより、大和川水系首長連合。
大和・中河内がマキムク王権の主体と考えたい。
>>94 いい疑問だと思うよ。
>でも、そうすると「なぜよりによって巻向?」という地理的問題がどうしても出てくるんだよ。
それについては、仮説の根拠となる出土状況を持つ遺跡が、大和川・初瀬川水系にいくつかある。
八尾南、瓜破、今池、舟戸山などから唐古・鍵に至るまで
弥生後期後半から終末期において、吉備や山陰系の土器が総数の5%近く出土するんだ。
もちろんこの時期にそれほどまでの外来系、しかも複数地域のものを出す遺跡は、少なくとも畿内には無い。
それも山陰系が多い遺跡、吉備系が多い遺跡と、はっきり特徴がある。
これは奈良北中部の、たとえば芝遺跡が河内と東海の外来式が(総数の2%にも満たないが)主流なのと、明らかに違うんだよね。
そして大和川系の集落からは、同様に東海系の土器も弥生後期からは頻繁に出土する。
これは奈良東南部も含めた大和川・初瀬川水系の集落が、他の地区からすれば異質なくらい
各地と交易を行っていた実績があるということなんだろう。
だからこそハブ基地としてふさわしいと、中国・四国(もしかしたら九州も)と、東海・南関東を結ぶ接点になりえたのではないだろうか。
ここでその交易網に、当初は参加しなかったのではないかと思えるのが
播磨・丹波・丹後・近江なのど北と西近畿。
3世紀に日本海ルートでの九州との交易(ひいては半島・大陸とのそれも含めて)が考えにくいのは
これらの地域が交易連合に積極的に参加していなかったからではないかと思う。
これらのデータについては、石野氏の「邪馬台国の考古学」に概要があったはず。
一番入手しやすい書籍なので挙げさせてもらう。
97 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 03:48:05
>>94 『思いつき仮説その1』
奈良盆地東南部三輪山麓が権力の空白地帯だった?
少なくとも外部勢力が入りやすい状況があって巻向誕生。
そこで物流のハブ機構もでき永らく機能するようになった。
『思いつき仮説その2』
地政学的防衛上の観点から…
3世紀まだ王権の黎明期に近畿北部淀川水系上つうか京都に都を築いた場合
北陸や中国地方または東海・関東方面からの敵に苦慮しなければならない。
それより奈良盆地東南部が安心感があった?
98 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 07:22:40
河内から伊勢湾に抜けるにはヤマトはいいルートだけどな
むしろ最後の銅鐸祭祀の中心である近江勢力を通るルートを避けたとも考えられる
あと三輪山祭祀は全て古墳前期以降。むしろマキムク建設により初めて聖地に見立てられたのではと。
だいたい、ヤマトに弥生時代からの求心力を求める旧来からの自生説はもう破綻してますけど
99 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 07:25:25
>96
日本海側(多分近江も間接的に)諸国は3世紀も日本海ルートで九州、半島に通じているはずだが
100 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 07:29:48
>87
無人に近く計画都市を作りたかったということと、新たに来た連中の鉄器の普及度やその質、さらに土木技術、灌漑技術が高かったので、今まで開発できなかったところを開発できたということでは
テクノクラートは吉備や九州の連中が考えられる。
101 :
::2008/03/03(月) 07:31:02
4
102 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 07:36:06
あと、単に畿内だけとか大和川水系だけとかすると、吉備はもちろん、大陸との交易を含め、九州の勢力をも傘下に入れられたのか説明がつかない。
九州の一部勢力と瀬戸内の諸勢力が東日本に及ぶ長大化時代交易網をコントロールするために新たな拠点を作ったのではないのか?
103 :
102:2008/03/03(月) 07:46:20
>傘下に入れられたのか→なぜ傘下に入れられたのか
>長大化時代交易網→長大化した交易網
104 :
100:2008/03/03(月) 07:55:28
>計画都市を作りたかった→計画都市を作りやすかった
スマソ
105 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 09:39:09
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
>>94 大阪から名古屋までは
京都〜近江〜 よりも
大和〜伊賀〜伊勢〜 のほうが近いよ
近鉄ルートだな
>>100 >無人に近く計画都市を作りたかったということと、新たに来た連中の鉄器の普及度やその質、さらに土木技術、灌漑技術が高かったので、今まで開発できなかったところを開発できたということでは
>テクノクラートは吉備や九州の連中が考えられる。
筑紫がそうなのは分かるが、吉備ってその当時、そんな新技術もってたのか?
>>98 >むしろ最後の銅鐸祭祀の中心である近江勢力を通るルートを避けたとも考えられる
近江は三角縁の初期のが沢山出てるし、ヤマトとの敵対関係はないと考えられる。
むしろ東海だろ、対立してたのは。
>>102 >あと、単に畿内だけとか大和川水系だけとかすると、吉備はもちろん、
>大陸との交易を含め、九州の勢力をも傘下に入れられたのか説明がつかない。
傘下に入れたとか、庄内や布留のころすでに全国規模の大王権力が
生まれていたと考える必要はないのでは?
大和川水系の連合だけで充分大きな国になるよ。
マキムクは吉備や筑紫に比べ頭一つ抜け出ていただけ。
倭人伝でも邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸と、あくまで別国と記述されている。
卑弥呼の共立は、あくまで大和川水系豪族の連合のことで、
マキムクを選んだのは、三輪山が大和川水系の人々にとって聖なる山だったから。
111 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 23:59:45
>>98 >あと三輪山祭祀は全て古墳前期以降。
>むしろマキムク建設により初めて聖地に見立てられたのではと。
↑
VS
↓
>>110 >マキムクを選んだのは、三輪山が大和川水系の人々にとって聖なる山だったから。
>98にイピョーw
山中からの遺物も巻向以前の物出てないし、、、
これで柳本古墳群・大和古墳群とかの古墳が全部、三輪の方を向いているとかだったら
話も違ってくるんだろうけどw
祭祀が先か、はたまた都市が先か?
ところで三輪山の磐座っていつごろからあるんですかねぇ?
113 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 01:04:32
>112
古墳前期以降だろう>110
少なくとも倭王卑弥呼は倭の代表者であり外交の主体、対外外交易も「倭国」が組織的に統括している。また外交や対外交易は当然筑紫を通り、筑紫諸国との利害が衝突したりするはずだが、一大率により抑えている。
初めは仮に共立でも3世紀半ばには筑紫までを抑える力を持つに至ったし、またそもそも初めから共立に何らかの利害で筑紫勢力も関わったとしたり方が矛盾がない。
114 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 01:06:30
卑弥呼は倭王として共立されたのであり、大和川水系という当時の田舎連中だけの王ではない。
卑弥呼は倭王であり、邪馬台国王ではない。邪馬台国は倭王が都を構えた場所ということだ
115 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 01:11:53
>109
東海と対立の割に東海系土器が多く出土するが
また前方後方なら近江も一中心だが
銅鐸については末期銅鐸の数量と鋳造可能性は近江が中心的。
日本海→近江→東日本ルートは弥生後期までは主要幹線なのは考古学的に最近よく言われてある。
それが庄内以降、瀬戸内→畿内(河内→大和)→伊勢湾になるのも事実
116 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 01:14:07
>108
楯築大墳丘墓、上東の船着き場、灌漑技術など
117 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 02:30:01
>>113 >初めは仮に共立でも3世紀半ばには筑紫までを抑える力を持つに至ったし
考古学的な根拠ってある?
>>114 >邪馬台国は倭王が都を構えた場所ということだ
いや、倭人伝では、邪馬台国は7万戸のひとつのクニという記述。
単なる都ということではない。
邪馬台国の女王が各国のオウから共立されたと読むのが普通だ。
>>116 楯築にしろ平原にしろ、マキムクの石塚とそう年代は変わらないだろ。
吉備なんて特に新興国だし。
なぜヤマトだけ、「マキムク以前は権力の空白地だった」ってよく主張されるのだろうか?
119 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 07:52:51
>118
卑弥呼は邪馬台国の王とは書かれていませんが。
あくまでも倭王です。
倭王としての男王時代が続いた倭国が後に乱れて倭王として卑弥呼が共立されたのです。
倭国全体が乱れて倭王がいないのに、邪馬台国王だけ共立しても仕方ありません。共立されたのは倭王です。
ちなみに以上の見方が最近はむしろ普通ですよ。
また邪馬台国は女王(倭女王)が「都する所」という書き方です。
また、並行関係から言って、鬼川市(上東)3式の楯築は、庄内1〜2式の石塚より細分型式で2型式は前です。つまり約50年前。
平原は厳密な時期は不明ですが。ただ、最近の井原ヤリ溝の厚葬墓群の調査を見ると、王墓が平原まで後期に継続している可能性大です。
120 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 08:05:36
>117
まず文献で、一大率の記述。また各国の市に大倭を派遣して交易を統制してます。
また、筑紫には3世紀半ばには那珂八幡古墳があります。弥生後期の北九州は墳丘墓を発達させない文化でしたが(韓半島に近い様相)、急に変わります。
同じ頃に福岡平野の土器が畿内系の影響が強い様相になるようです。つまり、北九州の一部が畿内の王権と強い連携を持つことになったと考えられるのではないでしょうか?
ただし一方的関係ではなく、例えばマキムクの鍛冶技術は明らかに博多からですし。
また那珂遺跡に長大な道路が建設されるようですが、これはマキムク建設と同じ頃です。偶然でしょうか。
吉備との関係も、雀井遺跡に立坂型の弧帯文と同じ文様のある木製短甲があります。
121 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 08:45:09
倭王、倭国全体の話を大和川水系だけの話に納めようとする時点で無理があるよ。
大和川水系だけで王を共立したって、ただそれだけ。吉備や外交や貿易の権益を握っていた北部九州諸国が黙って倭王に認める訳ない。
122 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 14:05:26
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
マキムクが九州経由で中国とやりとりしていたなら
中国・九州の色が色濃いはず。
とりあえず九州・中国の影響が見られるまでは、絶対に九州まで共立も
何もへったくれもないのは間違いないね。
倭の大乱。 戦争による卑弥呼の死。 新羅に攻め入る倭。
戦争ばっかしてる倭が史書からみえてくる。 何が共立だよwwwwwwwww
124 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 15:07:48
纏向って、三輪山の門前町ってイメージだけど・・w
邪馬台国ってのも、中規模国のおばちゃんが箔を付ける為に
中国に、「私を女王様とお呼び!」みたいな書状&貢ぎモノを送って
馬鹿な中国(魏)も、それを信じただけだろ?
そもそも、三国志の内容・数字を信じる事自体ナンセンスだろ?
125 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 15:10:49
やれやれ
またまた搬入土器が暴れだしたのかw
史書原理主義者や記紀原理主義者は邪馬台国スレにでも逝け!
別に原理主義でもなんでもないが。
倭人伝にしかでてこない「邪馬台国」畿内説に非常に都合の悪い中国の史書の記述
「倭の大乱」「戦争による卑弥呼の死」「新羅に攻め入る倭」
邪馬台国や卑弥呼、などという記述も倭人伝以外には見当たらないのだがwwwww
マキムクを大和王権の礎、とした時点で無理が出てくる。
なんせ大和王権なんて実はそんなに古くないからな。
マキムクは大和とは別系統だろ。
そうでなければちゃんとマキムク京と残り語り継がれるはずだぜ。
紀元前の神武東遷は覚えてるのにマキムクは覚えてません、って?
もう変なことだらけなんだよ。
128 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/04(火) 15:30:24
顔を洗って来い。ww
邪馬台国厨が割り込んできて変なスレになっちゃったなあ…
>>129 まあまあ、三足土器以下をよく見てみw
今日になって突然、考古的知見がかけらもないレスが
さも複数の人間の投稿に見せかけて投入されているのが判るからw
他のスレでぼこぼこにされた人間が、腹いせにやっているのかもしれないねw
131 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 18:18:29
うわ大乃国まで出てきた><
わざわざこっちまで布教活動しなきていいから
搬入土器は搬入土器どおしで邪馬台国スレで勝手にやっててくれよまったく
>>130 >複数の人間の投稿に見せかけて投入
「見せかけて」っつーのが笑えるwwwww そんな意図別にないだろww
133 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 19:54:37
>126
倭人伝に共立って書いてあるじゃん、
アホラシ
134 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 19:58:27
>127
崇神〜景行の宮伝承、最初の大王クラス古墳築造伝承としての箸墓説話
>123
畿内に無かった鏡を中心とする厚葬、大型内行花文鏡、初期に見られる破砕鏡、鍛冶技術、新たな土木技術、灌漑技術(今まで開発できなかった地域も開拓)などが九州的要素だろう
>>121 >大和川水系だけで王を共立したって、ただそれだけ。
>吉備や外交や貿易の権益を握っていた北部九州諸国が黙って倭王に認める訳ない。
これってよく聞く主張だけどどうかな?
筑紫が黙って認めるというか、畿内が連合して西新町まで直接鉄を買い付けにきた、
ていう解釈はどうか?
別に筑紫を傘下に入れなくても、対外交易は可能。
庄内・布留期にそこまでの広大な大王権力を想定する方が難しい。
>>119 >卑弥呼は邪馬台国の王とは書かれていませんが。
>あくまでも倭王です。
じゃあ邪馬台国には卑弥呼と別に王がいたってこと?
もしくは、7万戸とされる邪馬台国は単なる都ですか?
最近は普通と言われてもなあ。
138 :
ローガン:2008/03/04(火) 20:52:11
>>136 後漢銅鏡の出土数の地域別変化を見れば、
北部九州の衰退をある程度想像出来るのではないでしょうか?
初期ヤマト王権を筑紫から吉備、畿内まで及ぶ巨大統一王権と考えるから
見誤るんだよ。
そんなに突然、統一王権が誕生するとは考え難い。マキムクを全国政権と過大評価するのではなく、
楯築や平原程度に考えてみてはどうか。
つまり、吉備や筑紫のように、大和川地域でも首長層が結集。ひとつのクニになって王権が発生したと。
最初のマキムク王権とは、直接支配領域は東瀬戸内から大和川水系くらい。
公孫氏や魏などの大陸の権威をバックに、画文帯や三角縁を配布して、各地のオウたちを懐柔。
ゆるやかな倭国連合を形成していたと。
4世紀末頃になって漸く全国規模の政権になったと見るべき。
140 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:23:34
>137
買い付けに来るなら買い付けだけで、北部九州の客に過ぎないはずだが、外交代表権まて奪っている>138
実際の時期別出土で鏡出土数が畿内と九州で逆転するのは布留0から。神獣鏡が庄内から畿内に大量に入っているという仮説は証明できない。庄内の遺構から証明できない。辻田氏の著作や寺沢氏の論文参照。
141 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:31:10
>136
西新町は布留0以降、最盛期は布留1並行だろう
>137
庄内以前は、畿内というか、大和川水系に統一的まとまりがあったか疑わしい。
そういう意味ではマキムク建設の頃に「邪馬台国」というまとまりができたのだろう。中河内と大和東南が基盤で。ただし、それこそ倭王を支える領域としての新しい国だろう。
中河内の中心であり庄内カメの生成地の中田遺跡において、庄内最初期に吉備系土器が大量に出土することの意味は大きい。
142 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:36:21
>139
北部九州を飛び越えてどうやって楽浪や中国と交渉するの?
北部九州では古墳初めの布留0並行まで楽浪土器がたくさん出ていますよ。
初めから役割分担でつるんでいたとした方がよいのでは?
強大な統一王権ではなく、あくまでも共立王権で、だんだんと中心化したとしたら別に矛盾がない。
143 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 22:00:11
>>135 >大型内行花文鏡
下池山古墳のことを言ってるんだろうが下池山古墳は大和古墳群の方で纏向遺跡の中ではないぜ。
もしこのスレが大和盆地の早期・前期古墳時代に対する九州の影響を考えていく、っていうんだったら
オオヤマト古墳群の全体を見て大型内行花文鏡など例に挙げるのも分かるんだが、とりあえずここはマキムクスレ。
老教授が
>>1で言ってるだろ。
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
「参加時期や規模の差はあるが」ていうのが老教授らしい心憎い?配慮で、
そこをよおく考えてみろって課題を突きつけているんだわな。
纏向、柳本、大和の各古墳群それと桜井茶臼山・メスリ山は、なんというか
微妙にそれぞれの性格が違ってると考古ファンなら感じる筈。それに時間的な変化もな。
マキムクだけをとったとしても時期による変化があるんじゃないか?
そこらあたりに老教授の言う「母体」を考えていくヒントが転がってるんだよ。
しかしきみは奈良盆地の発掘調査があっても「九州的要素」しか目に入らない、いや
入れようとしないんじゃないか。それで本当にヤマト王権を正確に論じられるか?
>>140 > 買い付けに来るなら買い付けだけで、北部九州の客に過ぎないはずだが、外交代表権まて奪っている
北部九州以外の地域が外交権を奪ったとは思わないが、
鉄の売り手が九州とは限らないでしょう。
北部九州勢だって、鉄は韓から輸入するわけだから、
卸問屋稼業に勤しもうとしても、韓が売ってくれなければ商売にならない。
韓は吉備や畿内の方が高く買うと言うならそっちに売ったかも。
その場所が、韓式土器が豊富に出土する西新なんじゃないかな?
日本側の商品とは「生口」だから、どこの地域も提供できる財物だが、
先進地域の北部九州より後進地域の方が「安価」に供給できたと思う。
>>144 >日本側の商品とは「生口」だから
これには異論も多くあるだろうけど、商売原則の発想を持った良い視点の説だと思う。
緩やかな主張連合、しかも商取引(交易)に準拠した微妙な関係で
それがどういうわけか共通宗教を意図的に形成したとみられる、そんな砂上の楼閣のような共同体だからこそ
互いを出し抜くようなダンピングや地域カルテルは当然あっただろうから。
武力制圧という選択肢がほぼ消えた今(さすがに邪馬台国関連スレでも下火になっている)
いかにしてヤマトが力をつけてきたかという指針になる考え方だと思う。
あとは
>>143や
>>119などが期せずして言うように、新技術がどのようにして共有されていったか。
また纏向で投入される最先端技術のプロトタイプがどこかにあるのか。
そして各地の勢力がどの時期にどれほどの規模で参加したのか。
経済原理と技術革新、これが王権発生の重要なプロセスになるだろうね。
146 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:46:07
>143
ホケノに30センチ近い内行花文鏡あるよう
147 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:48:55
>143
柳本大塚、茶臼山、メスリ山もある
マキムクの盛期の末期に重なる
148 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:51:06
で肝心の老教授はもう出てきてくれないのか?
話によれば2chの邪馬台国論争を終わらせたというその説をぜひ読みたいのだが。
149 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:51:25
西新町自体、北部九州が運営しているんじゃないか?
藤崎の墓を見たら?
>>149 運営母体は今のところ分らないとしか言いようが無い。
ただ畿内勢力は西征したとかの可能性は低いだろうから、やはり北部九州主体だろうけど。
しかしそれまでの首長層とは、どこか考え方が違う次世代が率先して
過疎化した集落を新しい血を入れて再開発しようとしたとの印象は受ける。
いや抽象的なのは認めるけど・・・一種の勘だなw
庄内式の煮炊き甕などは、それ自体が生活を一変させるほどの発明だし
省エネと調理時間短縮をもたらした台所革命だからこそ、一気に北部九州に流れ込んだように思う。
その結果、西新は半島、九州、本州を結ぶハブとして蘇り
那珂や井原は緩やかに衰退したとも取れる。
これは衛生上の問題(糞尿処理)もあったのだろうけど。
もっとこういう交易拠点となる集落遺跡(新設、再開発を問わず)があってもいいはずなんだけどなー。
>151
那珂(比恵?)や井原(三雲?)って古墳前期でも全く衰退していないと思うけど
>143
九州の要素を完全に否定したり無視したりする連中(それも極端)がいるから強調して注意を換気しているんじゃないのか?
土器だけ見たら確かに九州の要素は全く見えないが、鉄には明らかに主、鏡についても九州の影響を考えるのが素直だと思うけど。
>>136 交易品そのものは、転々流通するからね。それで特に問題ない。
たとえ鏡のようなものであったとしてもだ。
だから、
>>139は前半だけ同意する。
巻向自体は畿内の地方首長の「都市」。直接の勢力圏は近畿を出ない。
交易ルート・人の流入元は、九州から東海まで幅広かった。
神武東征と、巻向と、後の大和政権と、邪馬台国は全部分けて考えるべきだと思う。
神武東征伝承の元ネタが仮にあったとしても、巻向成立より前じゃないか?
巻向と大和政権の接続も、やや慎重に考える必要がある。
それから。
邪馬台国なるものは、華北の政権が、遠い島の蛮族について書いた中国史書の記述。
西南日本全体の権力構造を把握して書いていない可能性も非常に高い。
無論仮定になるが、16世紀のポルトガル人宣教師が、
「日本の王は大友宗麟である。彼は我らが神を信仰し我らと同盟を結んだ。
大友には我らが鉄砲を与えた。彼は大いに喜んだ。
大友の敵は島津である。領土は大友の南にある。」
というような記述を残した事態に近いのではないかと思う>魏志倭人伝
これで、「大友が畿内中央政権だった」「いやこの時代の中央政権は大分にあった」
のような、とんちんかんな議論をしている可能性があるんだな。
>>155 >神武東征と、巻向と、後の大和政権と、邪馬台国は全部分けて考えるべきだと思う。
同意。ただ神武東征だけは特殊事例だからよそでやれw
>>142 >北部九州を飛び越えてどうやって楽浪や中国と交渉するの?
北部九州が対馬とか壱岐とかを直接実効支配してたら難しいだろうけど、
実際は違うだろうからね。
大陸と日本の運輸に携わっていたクニが、需要側としてどちらを選んだか?
ってこと。
中世で大内と細川が揉めてた時や、織田と毛利が戦っていた時など、
瀬戸内海航路の東vs西で対立してたことは度々あるけど、
畿内が大陸と切り離されていたという訳じゃない。
よほど過激な戦争状態だったら別だろうけど。
159 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 03:12:52
>>135 >新たな土木技術、灌漑技術(今まで開発できなかった地域も開拓)
>などが九州的要素だろう
例えば巻向で護岸の為に使われている「ぬき」って技術(杭に穴を開けそこに板を通すみたいなものとか)
はそれまで鎌倉時代からと考えていて実に900年(!)もその時期が早まったなんて話もあるらしいからなあ…
日本国内はおろか他国でもあるのかどうか…
マキムクが東海と西日本との結節点として繁栄した、って説があるけどどうか?
むしろ、瀬戸内海航路と日本海航路の合流点として栄えたんじゃなかろうか。
椿井大塚山を見ても、有力な盟友が山背にいたようだし。
山の辺の道も南北に走ってるし、その後の流れも、奈良から京都に北へと
政権の中心地は移動している。
大和と近江地域が対立してたなんて、単なる推測でしょ?
都出の言うように、初期三角縁の出土分布を見る限り、東海を包囲する形になっているのは、
マキムク王権の対東海戦略と見るのが正しいと思う。
>>160 だったら奈良盆地でも、奈良(平城京)寄りの北のほうになるだろうよ。
奈良盆地自体がやや結節点からはずれていて、
適地としては、琵琶湖畔の近江か、木津川河畔か、京都盆地か、淀・大山崎・高槻周辺か。
巻向は、その考え方だと奈良盆地の最も奥まった「どんづまり」になってしまう。
これより南は熊野の太平洋までずっと深山で、内海航路もへったくれもない。
紀ノ川を必死で遡上して、さらに山を越えてというのも、
政治・軍事的なルートならともかく、巨大な交易網の維持ルートとしては明らかに変だ。
つまり、どんづまりの南端勢力がヘゲモニーを握る「包囲網」なんて、ちょっと考えにくい。
つうか邪馬台国の機内とか九州ってのは単に考古学的な優先順位の問題だろ?
まずは機内で掘って出なかったら九州で掘ればいいだけのこと。
ってスレ違いかw
163 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 04:24:24
>>160 四世紀の大型前方後円墳の分布も東海辺りすっ飛ばして関東に多いw
でもねえ、、、それを包囲網とするか勢力拡大の最前線とするかだな…
つまり東海は既に勢力下(少なくとも敵対関係に無い)にあり特段の策は必要無かったと。。
164 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 04:42:16
>>162 >まずは機内で掘って出なかったら九州で掘ればいいだけのこと。
ここだけの話wだが久米邦武(九州説)が明治に
「邪馬台の考証時代は既に通過したり、今は其地を探検すべき時期に移れり」
と言って既に百年以上経っている訳で
幾ら待っても九州から邪馬台国らしい遺跡が出ず
そうこうしている内に巻向が出ちゃったと言うのが実のところwww
165 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 06:55:38
吉野ヶ里の話はどうなったのでしょうか。
166 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 08:02:23
>158
楽浪土器は対馬壱岐糸島博多湾岸に分布する
また原の辻なんかは土器様相とか糸島の植民地、交易のための前線基地とさえ言えよう
また須玖で下限は庄内並行まで作られた広形矛は対馬に大量出土する
いずれにしても、北部九州勢力を無視して勝手に対外交渉は無理
纏向遺跡の話をしてください。
168 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 08:04:03
>159
原の辻でかなり高度な技術の建築材が出ているよ
169 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 08:20:03
吉野ヶ里からは魏志倭人伝の記述を彷彿させる遺構がみとめられたが、纏向遺跡からは
そのようにみられるものは出土していない。
ただ人口が多いということぐらいである。
この遺跡は山沿いにすんでいた天皇や貴族に生活用品を供給する人たちがすんでいたのです。
170 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 13:11:09
>>169 だからなに?
このスレはいわば纏向の地が物流の集積地となり王権化していったのはなぜかを
考えるところで、魏志倭人伝の記述とやらと一致するかどうかなんて関係のない話。
巣に(・∀・)カエレ
>170
?
>166に関しては流れから言って、大和川水系だけで倭王を共立して九州を飛び越えて中国と交渉したというような説、九州との関わりを無視した説への反論になっていると思いますので、単なる九州自慢ではないんじゃないの?
このスレはマキムクだけの話をするスレではなく、マキムクを中心としたヤマト政権の成立過程を論じるスレだから、それに関わる範囲については九州や吉備、出雲、東海あるいは半島の話をするのはありだろうと思うけど。
173 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 18:01:56
174 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:29:00
■出現期古墳に2タイプ 前方部の長さに違い 奈良県桜井市の纒向古墳群
2008/03/05 19:21 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200803/CN2008030501000754.html 前方後円墳発祥の地とされる奈良県桜井市の纒向古墳群にある勝山、矢塚、東田大塚の3古墳(いずれも3世紀代)の発掘調査で、墳丘の詳しい形状などが分かり、県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会が5日、発表した。
勝山古墳などは前方後円墳の原型の「纒向型」と呼ばれ、後円部の直径が前方部の長さの約2倍になるのが特徴だが、勝山と東田大塚には当てはまらないことが、ほぼ確実になった。
前方部の長短で2つのタイプに分かれ、前方後円墳の出現や発展過程を解明する資料となりそうだ。同研究所の寺沢薫調査研究部長は「古墳のデータがそろってきており、纒向型の位置付けを見直す段階にきた」と話している。
古墳群は邪馬台国の候補地・纒向遺跡内にあり、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(3世紀後半)など出現期の前方後円墳6基が集中。箸墓を除く5基が纒向型とみられていた。
【写真説明】 纒向古墳群の(手前から)勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳=2月、奈良県桜井市で共同通信社ヘリから
175 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:09:30
纒向型の後期のものは前方と後方の繋ぎ部分がなだらかと言う事だったけど
あれは後方部分の肥大化の前段階だったって事なのかな?
いずれにせよ築造年代が搾り込めるのはええこっちゃとw
マキムクにあるやつは調査の結果、全てくびれがシャープにくびれる。なだらかなのは、他の地方に散在する。だからなだらかなくびれのそれをマキムク型とするのはどうかと。
今回の調査で、前方部の長さもやや長いやつが箸墓以前にあることになったが、いずれにしてもマキムク型の再定義が必要だな。
今までも後円部の半分より長いかなり古そうな古墳が各地にあったが、例えば黒田、那珂八幡、鶴尾など、それらとの関係が気になる。
>160-161
河内から伊勢湾の最短ルート、今の近鉄ルートだが、は大和東南部経由、つまり瀬戸内から東海への直通ルートを重視した立地で日本海ルートは関係ない。
近江は対立かどうかはわからないが日本海ルートから東海への結節点。淀川ルートでもあるが、瀬戸内ルートからの分岐としては大和ルートに比較して傍流かと。
178 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 17:55:17
■纒向古墳群発掘説明会
3月8日(土)13:00〜16:00、、桜井市民会館(JR・近鉄桜井駅より北西へ徒歩約10分)で。
桜井市教委文化財課の報告。入場無料。
http://www.city.sakurai.nara.jp/event/event03.html 〜関連記事〜 2008.3.6 00:32(産経)
■最古級の奈良・桜井“3兄弟古墳”、形状ほぼ判明 卑弥呼の時代に相次いで築造
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080306/acd0803060039001-n1.htm 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡にある日本最古級の前方後円墳3基について、県立橿原考古学研究所と桜井市教委が相次いで発掘調査を行い、墳丘の形状や規模がほぼ判明したと5日、発表した。
全長100メートル前後の大型古墳3基は、女王・卑弥呼の時代に“兄弟古墳”のように相次いで築かれていたことを確認。邪馬台国の謎に迫る貴重な資料となりそうだ。
3基は勝山、矢塚、東田(ひがいだ)大塚の各古墳。南北方向に200〜300メートル間隔で並んでおり、近くには全長280メートルで卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳や、纒向石塚古墳もある。
今回の調査で、勝山古墳では墳丘の南側で前方部の一部と周濠を確認。古墳の形はこれまで、地形などから前方部が細長い長方形とみられていたが、東田大塚古墳と同様に三角形状に広がっており、全長は115メートルと推定されるという。
東田大塚古墳では前方部の一部が確認され、従来の説より20メートルメートル以上長い全長120メートル前後と分かった。
また、矢塚古墳では前方部の先端が見つかり、全長93メートルと判明。しかし、前方部は他の2基より極端に短く、古墳の誕生直後は設計プランが統一されていなかったことをうかがわせるという。
調査では、3基が3世紀半ばから後半に相次いで築造されていたことも改めて確認。当時の政権構造を知るうえでも興味深い資料になるという。
現地はすでに埋め戻され、8日午後1時から桜井市粟殿の市民会館で調査報告会(入場無料)が行われる。
菅谷文則・滋賀県立大学教授(考古学)の話 「卑弥呼をめぐる論争は、箸墓古墳を基準に考えられていたが、その直前に100メートル級の大型前方後円墳が次々と築造されていたことが明らかになった。3基まとまっての調査は、邪馬台国や古墳発生期を探る上で大きな成果だ」
179 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:11:20
九州の影響を無視し、九州の話がでるとヒステリックになる傾向があるな。
九州を支配(無理)しないかぎりマキムクが王権として発達するのは不可能なのに
その辺の矛盾に気づかないとは 本 当 に 馬 鹿 の あつまり
180 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:36:27
九州の影響なしに王権の礎を語れると思っているところが凄いwwww
瀬戸内海の覇権もなしに中国と交易できたとか、九州と争わずに
日本統一ができたと思っているとかwwwwww
いつになったら、「 王 権 」 になった時期の話題にいきつくのやらw
181 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:43:50
>179
九州を「支配」しなくても何らかの協力、同盟関係が構築できれば(九州の一部とでもいい)、大陸との交易や外交はできるだろよ。
だからこそ「共立」に九州勢力も一部入っていたと思うけど。九州側も交易の顧客が増大するから悪い話ばかりではない。
ただ、九州を無視するのは論外だな。
巻向と一緒に九州も掘ればいいんだよな、なぜそうはしないのか
184 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 17:35:08
>>183 九州のどこだよw
九州全土を掘る気か?
185 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 17:48:49
九州派は九州なら何処でも良いと思ってるんだから九州全部を掘らなきゃいけないだろ、必然的に
筑後国山門郡(福岡県南部)や肥後国菊池郡山門郷(熊本県北部)
なんかが候補なんだと。
じゃあ九州人は全員立ち退きかよw
歴史時代を二千と五百年も数えたけりゃ、三世紀頃の日本の中心が
北九州ってんじゃ格好付かないからな。
行政発掘は全国でやってますが。
狙って調査している訳ではないが、これだけ掘っていたらどこかで邪馬台国の都の一部を引っかけている可能性は高い。
マキムクかどうかは別にして。
周囲が4千里の島だろ?
出雲も無視しないでやって下さい
192 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 21:58:43
搬入土器が大暴れw
193 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 00:44:16
もう搬入土器つうより神の手による捏造石器レベルだな('A`)
てか九州北部に纏向型前方後円墳がある時点で3世紀の九州の情勢も
どうだったか分からんけどなwww
>>177 問題はその「河内」から先にあるんだよ。
そのルートだと、当時の地名で河内、
今の地名で言えばむしろ泉州で「ルートが途切れてしまう」。
広義の瀬戸内海のどんづまりは、今も昔もまずは難波(上町台地北端)であって、
河内湾(または河内湖)があった時代には、
河内は河内でも、生駒山系の北部山麓になっただろう。
(つまり、伝説上の神武東征路と全く同じ)
出来る限り水路を使いたいなら、河内湖東岸まで全部船だっただろうし、
さっさと陸上に上がりたいなら、
むしろ六甲山麓から千里丘陵の麓までの間で上陸してしまったほうが楽だ。
何が悲しくて、わざわざ泉南まで、大阪湾を南下しなければならないのか
これが問題になる。瀬戸内からの大阪湾の入り口は、基本的に北西端の明石。
大阪湾の北西端から南東端まで横切る必要が出てくる。
明石海峡が政治的に塞がれていて、
鳴門回りにならざるを得ないというのなら、「近鉄ルート」の合理性は一つあるけどね。
>>194 わかった、わかった。
君に言いたいことはわかったから、もう巣に帰りなさい。
196 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:01:19
>194
河内の中心は河内潟の奥、南岸の中河内だぞ。
そこから旧大和川に入るが。庄内から布留の時期には、西岩田、中田、東郷、小阪合、萱振、加美、久宝寺、八尾南といった各地の搬入土器が多く集まり、河内型庄内カメの中心地である集落遺跡群が連なっている。全体としてはかなりの遺跡群の規模だ。
中田などに吉備系土器が多くあり、東海、山陰、四国系や少ないが韓半島系もある。
弥生後期にも亀井などの有力な大型集落がある。
それらから大和川を少し遡れば船橋遺跡があり、ここも各地の搬入土器がある。古墳前期前半の玉手山古墳群はこのすぐ上の丘陵地にある。
船橋まで来て上陸すれば、大和はすぐそこだ。
搬入土器を多く出す遺跡の分布から言っても、当時に河内潟→中河内→大和川→大和東南部の幹線ルートがあったのは明白だぞ。
197 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 12:20:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
198 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:39:15
アゲ
199 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:46:04
「纏向は王権の礎の地」
今更だがこれって、三輪朝と河内朝がどれくらい連続しているのかどうかによって違ってくるよな?
ひょっとしたら三輪朝は緩やかな首長連合で宗教文化的権威をその求心力にして
河内朝はその内容が一変、強固な王権を欲したとか?
以前から疑問なんだが奈良盆地の北部、佐紀古墳郡を造った勢力と
河内朝を築いた勢力って同一のものなのか?
多分、通説では三輪と河内は連続していると言うから同一と言う事なのだろうが…
200 :
aratame_himiko:2008/03/08(土) 21:59:38
neta
202 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 22:49:54
>>176 >マキムクにあるやつは調査の結果、全てくびれがシャープにくびれる。
素人考えだけど円墳を造って、後から前方部分を付け足したら
「くびれ」がシャ−プになるような気がする。
逆に「前方後円」を一気に作ったらシャ−プにする方が手間が掛かるとも。
…そこらへん土木技術に詳しい専門家の意見も聞きたいところ。
勝山と東田大塚の墳型がいわゆる「纏向型」でなかったという新事実で、
つまり何が明らかになったんでしょうか?
上のほうで、より築造年代が絞り込める云々との書き込みがありましたが、
素人目には、より混迷の度合いが増したように思える。
>>203 もっとサンプルが増えれば
纏向型T式、U式というようにパターン分類できるようになるだろうから。
今のような混迷の時期が一番面白いと思うよ。
既存の単純な国家成立論が総崩れしているんだから、新事実が出るたびに。
やっぱ教科書も変わっちゃうのか…
(´・ω・`)
206 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 02:10:02
てか今の歴史教科書どう書いてあるんだろ?
俺がガキの頃は
「大和朝廷全国を手中(=シュチュー=4世紀半ば)に治める」
なんて憶えたもんだがw
教科書で出てくる単語と言えば
倭の奴国王 倭国王帥升 邪馬台国卑弥呼 倭の五王
こんなもん?
新事実が出るたびにっていい加減ってことだな
もう既に基準でも何でもないってことじゃん。そんなもんに何の価値があるのか
結局自分の都合のいいように解釈しただけでしょ。学問でもなんでもねーよ
今更かよw
>>204 > もっとサンプルが増えれば
> 纏向型T式、U式というようにパターン分類できるようになるだろうから。
そんなことは無いと思うよ。
纏向型って言っても、その内実は定型化以前のプロトタイプみたいなものの総称だから。
もともと様式でくくれるようなものじゃないでしょう。
211 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 10:41:05
>>208 いやいや、新事実が出ても変わらなかったら
それこそ学問でもなんでも無い。カルトだw
212 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 10:58:28
今日、連投タンがすごい爆弾を投下した
室大墓は結局誰の墓なんだ?
高松塚も誰の墓?
>>166 >また原の辻なんかは土器様相とか糸島の植民地、交易のための前線基地とさえ言えよう
>また須玖で下限は庄内並行まで作られた広形矛は対馬に大量出土する
青銅器や土器の分布だけで支配・被支配を決めるのは剣呑だよ。
植民地とかも言い過ぎでしょ、倭人伝でもクニ扱いされてるし。
>いずれにしても、北部九州勢力を無視して勝手に対外交渉は無理
無視っていうか、北部九州vs畿内で考えなくてもいいのでは?ということ。
二者択一ではなく、両者とも平行的に大陸と交易していたという考えはないのだろうか?
上の方でも細川・大内の例を挙げたけど、歴史的に見てそういう事態は有り得ると思うのだが。
結局、渋谷向山とか行燈山の柳本古墳群の巨大古墳から、
前方後円墳は定型化していった、ていうことなんでしょ。
前から言われてたことだと思いますが。
>>161 >だったら奈良盆地でも、奈良(平城京)寄りの北のほうになるだろうよ。
そう。だから後世、都は北へ移っていった。
実際、マキムクから北陸系土器も多く出てるしな。
奈良県南東部から東海へは、確かに直線距離では最短だが、山道過ぎるよ。
航空写真で見てみ。マキムクが東海地域との大規模な交易拠点となり得たかどうか分かるから。
せいぜい、伊賀・伊勢程度まで。
山背や近江などと陸路で結ばれている点がマキムクの強み。
>214
平行的にある程度の交易があったかもしれないが、北部九州経由が圧倒的だろう。
朝鮮半島系土器の分布数量を見たら分かる。畿内が日常的交易レベルで直接的に半島と結びつく、半島系土器が畿内で多くなる古墳前期後半以降。
倭人伝でも対外交易は北部九州の出先でしていることになっている。
一大卒を派遣して、交易を統制するが、それは一つには倭王側の取り分を確保するためだろう。同時に北部九州以外の地でそれをできなかったということでもある。倭人伝に北部九州諸国だけ詳しく列挙されているのは重要だな。
壱岐の原の辻が伊都国の植民地的なものかもしれないというのは長崎県の担当者が言っている。まあ植民地とか支配被支配という言い方までは不適切としても、壱岐や対馬の海人が北部九州勢力の強い影響下というのは否定できない。
「原の辻貿易」「博多湾貿易」でググッて見たら?交易センター原の辻の「大株主」は伊都国奴国でしょう。
あと中世のように海運業者や商人階層が確立している時代をアナロジーな出されてもナンセンス。
畿内が北部九州とは負けず劣らずの質量で独自に交易しているとあくまでも主張するならば、時代の違う例で都合のいい類推をするのではなく、同時代資料での証明をしてください。
>>216 確かにマキムクが対東海交易の重要地だったのなら、後代、
王権の中心地は、伊賀→伊勢とかに移っていっただろうなw
実際にはそうはなっていないし(一応)。
マキムクで東海系土器が多い、ってだけでの推論なんだよな、結局。
搬入土器で考えた場合、その運ばれた物資の種類の差が大きいと思う。
東海から運ばれた物資は、土器で運ばれることが多かったというだけ。
北部九州の鉄とかは土器なんかでは運ばないだろうし。
>210
いや、マキムク型自体、調査が先行していた石塚を典型として他も類推していたが、前方部が後円部の二分の一とか一応の設定基準が本来はあったはず。
ただ、提唱者の寺沢氏自身が各地にマキムク型を探す過程で古そうな未定型前方後円墳を、定義を曖昧にしてほとんど全てマキムク型にしてしまったんだがw
讃岐型の前方部とか全然違うはずだけど。当然、今までもマキムク型の設定や比定に批判もあった。
>215
柳本の前に、少なくとも大王クラス墓やその影響下の墳形プランの地方の大首長墓は箸墓段階から「定型化」してますけど。
崇神陵よりは前の箸墓、西殿塚、桜井茶臼山、椿井大塚山、黒塚、メスリ山その他が「定型化以前」ってことはない、と思いますが。いつの認識なんでしょうか?
>>217 >あと中世のように海運業者や商人階層が確立している時代をアナロジーな出されてもナンセンス。
古代では商人=首長層だから。
商人層が確立とか言う方がナンセンスだろ
>216
北陸系や近江系土器は東海に比較してわずか。
>218
伊賀まで引っ込んだら瀬戸内側からのアクセスが悪すぎますけどw
北陸や近江あるいは日本海ルートとのつながりがより重要なら奈良北部になっただろうけど(古墳前期半ばから佐紀に拠点や大王墓が移るのはこれから)、盆地東南にあるのは瀬戸内と東海を結ぶルートの中間ということでいいと思うが。
>>219 どうなんでしょ?
桜井茶臼山とかメスリ山とかは、柳本とは別系統という説もありますが。
定型化の捉え方の違いじゃないか?
>220
?
だから中世の例を古代に当てるのがナンセンスということじゃん。つまりは中世の例を古代には適用するのは要注意ということだろ。
>222
メスリ山は時期をやや新しく見る人もいるが(最近は埴輪からやや古く見る人が多い)、桜井茶臼山は時期比定の多少の前後は論者によりあるが、崇神陵以前という点は間違いない。
茶臼山の墳丘や副葬品セットや石室その他について、定型化以前という人はいないはず。
大王墓クラスの中での系統の相違の話と、定型化か否かは全く別の論点だが。
>>217 >平行的にある程度の交易があったかもしれないが、北部九州経由が圧倒的だろう。
その圧倒的の転換点が古墳時代の始まりと呼ばれてるんだと思うが。
>倭人伝でも対外交易は北部九州の出先でしていることになっている。
>一大卒を派遣して、交易を統制するが、それは一つには倭王側の取り分を確保するためだろう。
>同時に北部九州以外の地でそれをできなかったということでもある。
後世の大宰府機能。北部九州に畿内の出先機関があったというのはそうだろう。
>倭人伝に北部九州諸国だけ詳しく列挙されているのは重要だな。
それだけ連合化されておらず、小国乱立していたということなんだろう。
文化の先進地域でありがちなこと。後進地域の方が連合・大国化し易い。
>>223 違う違う。
北部九州を支配せずに、畿内は大陸と交易出来ないという思い込みに対する反論だから。
北部九州のクニ(具体的には奴国)と適当に同盟を組むことでも充分に可能だよ、ということ
>225
最近では古墳時代の始まりはまだ北部九州に対外交易の中心があるとされている。
シフトし始めたのが古墳時代初めで、古墳時代の初めにシフトが完了していた訳ではないということ。この重要な違い分かります?
また北部九州諸国が分立していたのはそうだが、同時に各国が交易を中心に力を持っていたからというのは事実で否定できないでしょう?
だからこそその他の傍国とは扱いが違う訳で。
また伊都国と奴国に関しては小国というのは違うと思うが。
>226
それなら概ね同意。
>>225 >まあ植民地とか支配被支配という言い方までは不適切としても
まさにそのことを指摘してるのだが。
>壱岐や対馬の海人が北部九州勢力の強い影響下というのは否定できない。
強い影響は否定しない。古墳時代以降、その影響力が相対的に弱まったと。
>畿内が北部九州とは負けず劣らずの質量で独自に交易していると
>あくまでも主張するならば、時代の違う例で都合のいい類推をするのではなく、
>同時代資料での証明をしてください。
画文帯かな、やっぱり。最初に畿内を中心に出土する舶来品だから。
なんか君の主張は弥生後期の話であって、庄内・布留以降の話とは若干
タイムラグがあると思うのだが。
君の言うような筑紫対外交易独占の状況が切り替わるのが、初期ヤマト王権の始まりなんだろうと。
>>217 >同時代資料での証明をしてください。
とか言ってるけど君こそ纏向遺跡出土の何一つも議論の材料にしてないよな。
纏向報告書は素通りなのか。それで倭人伝を持ち出すのかw
それと議論をそっちの方に持っていきたくはないんだが倭人伝の解釈も自分勝手。
倭王と一大卒の力関係は、倭王>一大卒だぞ。
倭王<一大卒、でも、倭王=一大卒、でもないぞw
>229
画文帯はほとんどが布留0以降の出土。
庄内段階のわずかな出土は東瀬戸内。ホケノは鏃や土器から布留0に下る可能性がある。庄内だとしても布留0直前で、庄内段階の畿内の中心性は見えない。
画文帯は布留0〜1式に多く出土し、庄内段階に大量に入っていたかについては辻田氏の著作では疑問視されている。
また庄内から布留前半までは、威信財どはなく、鉄を含む日常品交易の対外交易中心地は依然として北部九州でしょう。「博多湾貿易」と言われていますが。
九州と山陰との関係もあり、畿内にばかりシフトしたシステムではないみたいですし。
>>221 >盆地東南にあるのは瀬戸内と東海を結ぶルートの中間ということでいいと思うが。
要は、単に「交易の利便性」だけで三輪山の麓に都は造らないだろうと。
三輪山の麓を中心と考えた場合の初期ヤマト王権の重要とした地域は、
後世五畿と呼ばれた大和河内和泉摂津山城。
対東海との交易を重要視したとは思えない。
>>231 極端だなあ
マキムク以降、畿内も独自に交易するようになったと言ってるだけなんだけど。
別に畿内が北部九州から交易路を奪取した、とか言ってる訳じゃないよ。
じゃあ逆に質問するけど、畿内が独自に交易を始めたのはいつ頃?
>230
じゃあマキムクの資料で対外交易資料はどれくらいあるの?
韓半島系土器は5点あったかどうかだけどね。
漢式鏃自体はなくてなぜか模倣木鏃があるとか不思議だけど。
あと勝山や巻ノ内の鍛冶関係は量的に博多の出店みたいなもんでしょ。村上氏の本読んだ?
あと倭王>一大卒とか当たり前じゃん。倭王側が派遣しているんだから。
>233
別に極端でないよ。最近の傾向。古墳時代初めはまだ王権が強大化していない、中心化が不十分ということ。
対外部門は北部九州の同盟国が担当していたということでは?共立だから。
畿内王権が直接的に半島交易をするのは、金官加耶に畿内系威信財がどっと出てくる古墳前期半ばからでは?
その時期には、逆にマキムクや博多湾岸の遺跡が衰退するという面白い現象がある。
>232
五畿内が確立するのはいつの時代だよw弥生時代に「畿内」というまとまりがあったことについては最近は否定的になってますけど。
三輪山が神聖視されたのはマキムクが中心になった結果だろうが。
弥生から神聖視された証拠は無い。
また「畿内」が形成され始める、のもマキムク成立以降。結果を原因にしないでくれ。自生説の悪い伝統だが。
マキムクに現に東海系土器がもっともたくさん出てくるのに、その交易ルートを重要視しないのはどうかしてますけど。
>232
五畿の中心なら奈良盆地東南はかえって地理的におかしい。
中河内か奈良盆地北部なら分かるが。
>>236 交易の拠点としてマキムクが最適地なら、後代もマキムクは繁栄しただろう。
実際はどうだった?
大和川水系が中心の王権だったからマキムクが中心に選ばれた。
大和政権の勢力圏が巨大化するにつれ、拠点は河内やら奈良県北部、近江や山城に移る。
交易地としてマキムクが選定されたという説自体が暴論。
>>235 >対外部門は北部九州の同盟国が担当していたということでは?共立だから。
それなら概ね同意。
>>237 >五畿の中心なら奈良盆地東南はかえって地理的におかしい。
>中河内か奈良盆地北部なら分かるが。
いや、マキムクは瀬戸内海→大和川水系の水路から、奈良県北部→山城→近江の陸路に変わる
重要地点だよ。
>>236 >五畿内が確立するのはいつの時代だよw
でも実際に大和政権の都が造られたのはこの地域に限定されるんでね。
>弥生時代に「畿内」というまとまりがあったことについては最近は否定的になってますけど。
どう否定的なんだろ?具体的に
>三輪山が神聖視されたのはマキムクが中心になった結果だろうが。
発見された物だけの議論の限界性は知った方がいい。
>マキムクに現に東海系土器がもっともたくさん出てくるのに、
>その交易ルートを重要視しないのはどうかしてますけど。
土器は出土し易いからね。土器で運ばれない物資の可能性は無視ですか?
>240
おいおい、それなら、瀬戸内からは摂津から淀川を遡ればいいだろwそういうルートが主流なら摂津か山城に都がまずできるだろ。
東海ルート軽視もいい加減やめたら?一度近鉄で大阪から名古屋に行って(逆でもいい)みて考え直してくれ。
あと、布留前半までは奈良盆地北部は重視されていない。庄内甕もほとんど分布しないし、佐紀成立まで大型古墳がほとんどない。
>238
交易ルートは勢力変化や気候変動により変化するもの。>238と同じ理屈なら、いつまでたっても北部九州に中心があるはずだよ。
交易重視の国家成立論は各地域の初期国家論でふつうで最も重視されていることですので(畿内自生説派の都出先生もそうだよ)、交易ルート論がダメとかそれこそ暴論。
その当時(纒向成立時)の諸勢力のニーズとして、瀬戸内ー東海ルート上の交易拠点が望まれたということだろう。
>>242 >おいおい、それなら、瀬戸内からは摂津から淀川を遡ればいいだろw
>そういうルートが主流なら摂津か山城に都がまずできるだろ。
実際、椿井大塚とかあるし、淀川水系でも王権は発生していたと思いますが。
マキムクとは別系統で。
>166,>214,>217,>225.>227,>229,>231,>233
www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001b.html
www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html
www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001c.html
www013.upp.so-net.ne.jp/kouken/jpyousi53-4.htm
>>242 >一度近鉄で大阪から名古屋に行って(逆でもいい)みて考え直してくれ
いや、あの山道だろ。
東海地方ってのは、結構大きい勢力なんだよ。
本当に瀬戸内海経済圏と東海経済圏の結節点としてマキムクが最適地とするなら、
後世でももっと発展してると思うのだが。
最短路だからって、あの山道がメインの交易路になったとは思えないが
>244
だから、纒向とは別系統だろ?
そっちの(淀川水系の)王権でなく、なんで大和川水系の奥に王権が出来たのか?
近江は日本海側からの交易ルートがあり、奈良盆地と結びつかなくても良いし。(別に対立してたとかは別にして。)
なんで奈良盆地北部でなく、東南部なのかは東海ルートということをいい加減認めたらいいと思うけど。
>>242 >佐紀成立まで大型古墳がほとんどない。
それは、奈良県北部がマキムク王権の勢力圏だったからだよ。
王墓を造ることを規制されたから
>>248 確かに河内でも初期の大型古墳は無いしな
>>247 >東海ルートということをいい加減認めたらいいと思うけど。
そう言われてもなw
初期三角縁が東海から出土しないから
>246
5世紀後半から6世紀には大王宮が磯城磐余にまた来る。ツバキ市もできる。
伊賀にも意外に大型古墳が多い。石山古墳が有名だが、御墓山なんかは190Mもある。
www.pref.mie.jp/TANBO/BUNKA/mieb0202.htm
このルートは律令期にも重要ルート。壬申の乱でもたしか重要ルート。
252 :
素人の素朴な疑問…:2008/03/09(日) 23:22:20
で、結局畿内勢力は半島の楽浪郡・帯方郡を新設した公孫氏と直接の交渉を持っていたの?無かったの?
もし画文帯が古墳時代前期半ば4世紀からとなると
山梨県鳥居原狐塚出土の「赤烏元年(238)」の紀年鏡なんかは
半世紀以上のタイムラグを経て日本に来ってこと?
で、それが日本に来る前に畿内では景初三年(239)の紀年鏡を造ったと…?
>248-249
大型集落も分布しない、庄内甕もないけどな。
実際は佐紀成立頃に初めて進出する。
搬入土器が集中し、大規模集落が連続している中河内に大型古墳がないのとは違う状況。
ただし河内には大和への入り口に玉手山古墳群がある。
>250
奥津社、新豊院山とか無い訳ではない。
古墳自体は少し遅れるが東之宮古墳とか重要だろ。
あと、三角縁だけで言うの?東海系土器の出方をどう説明するの?
威信財の分布と日常的交易のルートとは必ずしも一致しないが、纒向成立自体は前者によるものと考えれば、政権確立以降の首長間関係のありかたを示す三角縁の出方とずれていても問題はないでしょう。
>>251 単に外来系の継体王権が、大和王権のイワレの地として、
重要視しただけでしょう
>252
>もし画文帯が古墳時代前期半ば4世紀からとなると
それはない。庄内から出始めている。
>254
雄略とか磯城の地に宮があることになってますが。
曾我遺跡とかも5世紀から。
>>253 東海系土器を重要視し過ぎ。
要は、東海は海産物の輸出が多くて、土器が多く出るだけ
横から失礼。活発に議論しておられるようだね。
しかし小生、横で見ていていささか物足りなく感じる点もあります。
>>1で述べられているところの、
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
の箇所なのだが、9つ挙げられた地域の中、ご議論でさっぱり言及していただけぬ国々がある。
吉備、出雲、讃岐、播磨、丹波
これらの国々のマキムクへの関与については、皆さんはどうお考えになっておられるのか・・・、
小生不勉強ゆえ、ここがよく解らないのである。
なにか今後の勉強のヒントになる一言でよいから、どうかお聞かせ願いたい。
>257
だったら交易物資が多く重要じゃんw立派な交易だろ?
「贄」の起源とか考えたらそれはそれで重要。
あと在地産の東海系土器も纒向や周辺で多く出ているから、海産物輸入だけじゃないんじゃない?
>>251 >5世紀後半から6世紀には大王宮が磯城磐余にまた来る。ツバキ市もできる。
もっと後世にないのは何故だろ?
本当にマキムクが東海交易の最適地だったのかな?
>260
3世紀においては、盆地東南部が交易ルート上、重要であった、ということだろ。
もっと後世って、都自体が別の理由で盆地北部や山城、近江に移るんだからしょうがないじゃん。
ただ、壬申の乱の軍勢の動きとか考えると、飛鳥の時期は盆地東南部から東海ルートが重要だったのも確か。
>>259 土器で運ばない物資を無視する態度を問題視してるだけなんであって。
考古学で土器偏重は仕方ないけどね。
東海系土器は、近江や山城を通じて畿内に入ったと思うが。
263 :
素人の素朴な疑問…:2008/03/09(日) 23:38:31
>大和川水系と淀川水系
西から東への物流を考えた場合、馬も使用されず街道も整備されていなかった古代
できるだけ舟運を用いたいだろうから、伊勢湾を船で横断するとしたら大和→伊勢と言うのは
結構便利なのでは?
>>261 >3世紀においては、盆地東南部が交易ルート上、重要であった、ということだろ。
そう言われても納得できないな。
3世紀と後代と、地形的にそんなに極端に違いはないだろ?
近江や山城に敵対勢力があって、そのルートが使えなかったというなら、
まだ話は分かるけどね。
三角縁の分布をみても、そんなことは有り得ないのだが
>262
伊賀はもちろん東海系土器がかなり多い。(伊賀自体は畿内五様式系のエリア。)
そこを通って東海系が来たというのが至当。
近江は東海系が多いが、山城になると大和東南部より少ないし(近江に比較して急に少なくなる)、もちろん奈良盆地北部はもっと少ない。
したがって、>262の東海系土器ルートは机上の空論。考古学的根拠が全くない。
今でこそ山道に感じるかもしれないが、飛鳥時代の状況を見ても、盆地東南部〜伊賀〜伊勢湾は古代の一つの幹線ルート。
もちろん、いつでも主要幹線という訳ではないが、それはどのルートでも時代とともに変化盛衰するだけのこと。
>264
三角縁の分布は、政権確立して安定した3世紀半ば以降だろ。
纒向成立から発展の2世紀末から3世紀半ばとは異なる。
また、三角縁を配布することにより、初めて手なづけた、という見方もできる。
>264
いや、新幹線が無ければ近鉄路線が最短ルートだよ。
古代も重要路だったんだが。「山道」だとか先入観に過ぎない。
>>265 土器の分布だけでの議論に危険性を感じるが。
三角縁の出土状況からも、大和王権が瀬戸内海ルートの次に
北陸ルートを重視したのは明白。
>268
北陸ルート自体は必ずしも否定しないが、それと纒向選定の理由は別問題でしょ。
盆地北部や淀川水系の山城に都が出来ていない訳で。
北陸云々とか三角の分布は政権確立後の政権戦略な訳で、問題がずれていますが。
>262の東海系土器ルートは無理ありすぎ。かえってその説明が無理なことが明らかになってしまったが。
ぶっちゃけ大和川水系の舟運の衰退って大和川の水量の低下がかなり影響しているんでは?
勿論、陸上輸送の進歩(馬や街道の整理)政治的中枢の移転等もあるんだろうけど…
>271
なるほどね
平城京が初めから存在していたと考えるのではなく
大阪の堺あたりが遠浅でなくて船が着岸出来たので船は堺に停泊
最も奈良盆地に入りやすいルートは大和川周辺を上ることか
近鉄大阪線のルートで奈良盆地に入ることだから
そのまま奈良盆地に街を造ったら橿原市や飛鳥地方になるわな。
議論にお忙しいようで、とてもではないが小生の初歩的な質問を行うタイミングではなかったようだ(笑)。
後日どなたでもよいから、吉備、出雲、讃岐、播磨、丹波とマキムクの関わりについてお教え願いたい。
それともう一つある。
昨年発掘調査がなされ一時話題となった福岡市西区の今宿五郎江遺跡だが、下記引用の部分、
とくに外来の土器を云々する処に、小生、何かしらマキムク的≠ネ匂いを感じ、気になっておる。
伊都国を支えた大型環濠集落を発見
−西区・今宿五郎江遺跡、大塚遺跡第11次調査−
http://www.city.fukuoka.jp/download/1591053125757.pdf >特に舶来の青銅器類や土器、山陰や瀬戸内、近畿、東海地方の土器などは、
>本遺跡の環濠集落が、この地域一帯の拠点集落として、国内外各地と広範な交易、交流活動を
>していたことを如実に物語るものです。
この今宿五郎江遺跡と纏向遺跡の間の関係は、有りや無しや?
これも知りたいので、考古にお詳しい人、よろしくお願い申し上げておく。
>231
>辻田氏の著作
『鏡と初期ヤマト政権』
前期古墳の銅鏡出土地名表もあり、読んで損はない
>273
河内潟が古墳時代まではあり、船は中河内まで入り、さらに大和川の水量が多かった時代には遡れたはずだが。
277 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 02:22:47
>>274 =258
>吉備、出雲、讃岐、播磨、丹波とマキムクの関わりについて
俺も知りたいっす。
てかこのスレの一大テーマだしw
纏向が吉備・出雲の合作って言うのが寺澤氏だっけ?(今は違うのかな?)
今このスレで大和川水系の重要性云々で話が揉めているwのは
結局纏向と言う都市の性格がはっきりしていないと言う事なんだろうなあ。
交易都市なのか宗教都市なのか…
ただ交易のみを以って誕生・発展した都市ならもう少し段階的な発展をしても良い希ガス。
結局、宗教・政治・交易の複合的要因で誕生し発展したんだろうと。。
ただ軍事というファクタに付いては希薄のような希ガス。
少なくとも瀬戸内の制海権を積極的に握ろうとするのならあまりにも内陸ではないのかと…
瀬戸内の制海権を握りたいのなら後の河内朝みたくもっと海よりの方が良いんじゃね?
むしろ纏向の位置は攻めるというより守備に重きを置いたものではないかと。。
>>274 >吉備、出雲、讃岐、播磨、丹波とマキムクの関わりについてお教え願いたい。
お教えできる程の知識ないのですが。
吉備は、特殊器台が採用される箸墓以降にマキムク体制に参画したと考えていいのではないでしょうか?
浦間茶臼山が箸墓の相似形なのがその証左で。
讃岐は、鶴尾神社4号墳をどう捉えるかですよね。三角縁出土してませんし。
讃岐・播磨・阿波と一緒くた、東瀬戸内地域として、比較的初期段階でマキムクに参加してたんじゃないかと
考えています。この地域の人々が生み出した墓制が祖形になって大和の古墳祭祀に繋がると最近言われてますし。
東瀬戸内の墓制の大元を辿れば、吉備の楯築になるのでしょうか。
出雲のマキムク参画はどうなんでしょう?
古墳時代に入っての出雲地域の凋落から考えて、マキムク参加は無かった、
もしくは参加が遅れて発言権を失ったが正しいのでは?と思います。
特に、マキムク王権誕生による瀬戸内海交易路の安定化により、相対的に
日本海ルートの役割が低下したというのも大きいでしょう。
吉備と越が大和に寝返ったというのも大きいでしょうが。
出雲国造家が代替わりの度に都にやって来て、服属儀礼を強いられた
(紀国造家もそうですが)のも、出雲が敵対勢力として永らくライバル視された
名残りではないでしょうか。
丹波は北部近畿との繋がりで考えていくべきでしょう。
文献史学になりますが、日子坐王ってのがこの辺りの豪族の共通の祖先と
されていて、マキムクとは違う何らかの政治的連合が古代、この地域にあったことが推測されます。
281 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:14:18
>画文帯神獣鏡
畿内ヤマトが半島支配していた公孫氏と交渉の結果入手したとしたら
公孫氏が帯方郡を新設し、魏が公孫氏を討ち帯方郡を接収した年代
=196(219)〜238年に九州に交易の窓口を持ってたってことかな?
(別に直轄・支配下出なくとも良いが…)
うーん、纏向は時代的に間に合うのか?w
>>273 結局、巻向の位置を決定付けたのは、
やはり西側の状況だったというのが説得力がある説明だろうなあ。
東海側は、それに応じたルートをとっただけだろう。
伊勢湾は当時大垣まで切れ込んでいたので、
西へ抜けるルートが南になればなるほど、特に濃尾勢にとっては不利になる。
難波のデルタ地帯や潮が渦巻く湾口の、河川の作った複雑な海浜・湖沼地形よりも、
上町断層で地形がスパッと切れる住吉・堺以南への接岸を望んだのかもしれない。
兵庫→山城(京都)、堺→大和(奈良)というのは、
都市と外港の関係として、古代から戦国時代まで続く明確な1:1関係。
古代の船乗りは、川をむしろ嫌がったのかもしれないね。
さらに、断層地塁の生駒山系が途切れるのは八尾なので、
大和盆地(往年は湖)に入るルートはここしかない。
大和川の舟運を使えたかどうかはわからない。急流だから。
>>271>>273 奈良盆地の最低部は当時湖だったはずだよ。河内も同じだけど。
>282
当時の遺跡分布を無視ですか。搬入土器の集中する遺跡も無視ですか。
中河内に河内潟から入って来たというのが妥当と思いますが。
少なくとも玉手山の麓までには河内潟から大和川を船で行けますけど。
堺ルートは河内潟が土砂堆積で湖沼化し、百舌鳥と古市を結ぶ道路の原型ができる5世紀以降ですよ。
>196を参照
>>284 そうすると「入り口の問題」が生ずるだろ。
当時の大和川河口は深いデルタ地帯になっていたはず。
そして河内湾の入り口は吹田市垂水になる。
遺跡分布は知っているが、
>>196>>283想定ルートだと、何とも大回りに過ぎるんだ。
北に上がり、また南に降りる。同じデルタ地帯なら、古川(淀川)デルタで上陸して
さっさと枚方あたりで生駒山系を越えてしまえばいいのに。
この不思議さが最大の問題になるんだよ。
>282
大垣以南の濃尾平野低地部にも弥生から古墳時代の遺跡がたくさん分布してますますが。確かに海岸線は入りこんでますがね。
濃尾から伊勢の雲出川に水運が推定できます。胎土からS字カメの伊勢からの大量搬入が考えられます。
>285
そうは言っても、枚方や堺に各地の搬入土器が集中するような交易拠点としての大集落は古墳時代初め前後には顕著なものは存在しない。中河内に集中している。
枚方からヤマトに入る場合の大和北西部にもやはり交易拠点となるような集落が無い。
中河内の河内型庄内カメもまた大和東南部にたくさん搬入されている。
ちなみに垂水付近の河内潟の入り口に垂水南や崇禅寺といった搬入土器が集中する交易拠点集落がある。その先はやはり中河内。
地図上を眺めた単なる感覚的な推定より実際の遺跡の実態を重視すべきだ。
>285
大回りとか現代的な感覚だな。古代においては船運の方が速度も物資移動量も有利だ。だからできる範囲は船を使うだけ。下手に早くに上陸したら逆に損だ。
急がば回れ、ということだが。
289 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 03:29:02
>>274 >伊都国を支えた大型環濠集落を発見
> −西区・今宿五郎江遺跡、大塚遺跡第11次調査−
>この今宿五郎江遺跡と纏向遺跡の間の関係は、有りや無しや?
大いに関係あると思うけど。
でもこのスレで今宿五郎江を議論していいのか?
>>287 ということは、交通のメインルートに巻向が出来たのではなく、
巻向自体に最初からデフォで求心力があり、
巻向に向かって交通・交易路が発展したという説が正しいということになるんだよ。
結局論証されるのはここ。
「近鉄ルートはそもそも万古不易の合理的メインルート説」が否定されることになる。
>>286のレスも、同じことを東から証明していることになる。
海を越え山を越え、東からは「神君伊賀越え」逆ルート並みのことをやり、
(当時の伊勢湾は広かったことに再び注意)
西からは土器を抱えて「大阪縦断ウルトラクイズ」をやる。
そうやって巻向にさまざまな物資が流れ込んだ。
紀ノ川ルートは検討しないの?
阿波を意識してもいいんじゃないの?
阿波は前方後円墳のルーツかもしれないんだし
阿波がヤマト王権のルーツかもしれないよ。
その阿波の対岸にあるのが紀伊で
紀ノ川を遡れば大和盆地のすぐ南。
そこからさらに東海に進出しようと思えばマキムクの地は最適。
「交通のメインルートに巻向が出来た」と考えたいところだけどねえ。
「巻向に向かって交通路が出来た」と考えるのはなかなか想像しづらい。
「巻向に向かって」説だと求心力は三輪山くらいしか思いつかないが、
三輪山祭祀はそれほど遡れないからなあ。
現在は山陽から・摂津・山城・近江・美濃・尾張のルートが主要な国土軸になってるけど
古代は四国北岸から・紀伊(又は河内)・大和・伊賀・伊勢・尾張のルートって
結構重要だったんじゃないかな。
7世紀でも白村江の戦いに向けて出航したのは伊予の「熟田津」からで山陽ではないし
その白村江敗北後に防御拠点として朝鮮式山城を築いたのは讃岐の屋島でどっちも四国北岸。
(吉備にも鬼ノ城があるけど記録には残ってないから重要度で低かったのかもしれない。)
さらに言うとマキムクの時代って河川にろくに治水なんてされてない。
だから河川は雨が降ると頻繁に氾濫してたと思う。
水量の多い淀川が氾濫した場合、それだけダメージが大きかったと思う。
そういったところを拠点にしたくなかったのかもしれない。
それに比べるとマキムク周辺は大きな河川がなくて氾濫による被害も限られてる。
後の飛鳥にしても大きな河川がないし
淀川流域の長岡京造営のときは氾濫に悩まされたっていう。
淀川流域を中核拠点にしようとするとそれなりに治水が発達してこないと駄目なんじゃないか。
その時期が平安京造営時かも。
(その平安京にしても宇治川から少し距離をとってる。宇治川に面した伏見のほうが交通の要衝にも係わらず)
マキムクから尾張まではそれほど高い山を通らずにいける。
マキムクから165号を通り伊賀の名張に抜け、
伊賀上野から伊勢の亀山に抜けて尾張。
素朴な疑問ですが
3世紀の巻向にとって主要な交易物資って具体的になんだったのだろう?
律令時代のように、米だとか布だとかではないよね?
西からは鉄なんだろうが、東海からは何が運ばれてきたの?
>292が正しい
>290はアプリオリにマキムクに求心力があったという証明不能の話をしている
>287のルートは先行する弥生後期にもある程度形成されているからね
交通の要衝たりえた、そのニーズがあった地なのに弥生後期まで開発できなかった、拠点ができなかったのは、畿内にそれまでマキムクの扇状地や山麓の段丘を開発する技術力が無かったから。
それが西からのテクノクラートを含む諸国合作で新しい技術がもたらされ開発可能になったから。
>296
海産物と労働力!
いい加減、マキムクが交易上の至便の地だったから選定された、という説には
無理が出てるよな。
地勢的に唐古・鍵と立地条件は変わらないし、
対東海で考えるなら、磐余地方の方が適してる。
やっぱりマキムクは、三輪山信仰に基づいた宗教都市だったと思うよ。
三輪山信仰を持ち出すとヒステリックに否定する人が一部いるけど、
別に、弥生時代からの三輪山信仰がそのままと継続された言ってる訳じゃなく、
「前方後円墳の祭り」という新興宗教を生み出す時に、三輪山に重要な役割、
新しい権威を付与したというだけのこと。
卑弥呼の鬼道がどんな宗教だったのかは今では分からないけど、現在の神道で考えれば
恐らくは三輪山の巫女ってのが妥当な線だと思う。
記紀でも三輪山の役割は大きい。崇神紀の記述を見ても、マキムクの頃の伝承を
割と忠実に伝えてるんじゃないかと思われる節もある。
何より、山処国だしねw
庄内初期に突然マキムクが開始。畿内や伊勢の環濠集落の堀が一斉に埋め立てられるってのも、
「マキムクが交易の中心地として徐々に力をつけて王権化した」という寺沢説と、
真向から反する。
むしろ極めて政治的に、倭人伝でいうところの女王共立によって、人工的に造られたのが
宗教都市マキムク。
昔の政治はイコール祭事だからね。
301 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:39:29
>>299 まあ纏向の宗教都市としての要素を認めるのにやぶさかでは無いがw
前方後円墳と三輪がセットの新興宗教と言うのはチョット…
奈良盆地の古墳郡は別に三輪に拘っていないし
いやそれどころか山(かんなび?)とセットと言うわけでなさそうだし。
普通に考えて前方後円墳の埋葬文化と三輪信仰は別物だろうね。。
302 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:45:26
>>291 >阿波がヤマト王権のルーツかもしれないよ。
その昔、「邪馬台国は阿波だった」と言う本があってだな(以下略
>>297 証明不能ではないよ。アプリオリに「デフォで」というのは、さすがに煽りだが、
日本史を見ても、後で見れば交通路が集中する一大結節点の大都市であっても
発祥は、純然たる政治的経過からという例が沢山ある。
その一番分かりやすい例は江戸・東京だ。
今では地理の教科書にさえ「東京は日本のほぼ中央部」にあり、
「関東平野の中心」に位置して、全国の交通の要衝であることは疑うべくも無い。
仙台のヤシが陸路大阪へ行くのに東京を経由するのさえ、当たり前という状況なんだが、
政治都市としての江戸の発祥は、
豊臣秀吉が徳川家康に「武蔵国江戸を拠点に汁」と命じたという、全くの政治的理由。
五街道は、江戸が中心になってから、江戸を中心に編成された交通路だ。
それ以前の交通路と言えば、
鎌倉と奥州を結ぶ中世東日本の国土軸線「鎌倉街道中道(奥大道)」は、
今の新宿や渋谷付近を通っていて、江戸ではない。
江戸を通っていたのは鎌倉から常磐方面へ向かう街道(下道)だけ。
政治的勢力の台頭にとって、本拠地があまりの僻地であることはさすがに不利に働くが、
交通の結節点そのものをホーム・本拠地とする勢力であることは、必須でも何でもない。
むしろ逆に、こんなところをホームにすると、干渉を受けて弱小勢力に甘んずる場合が多い。
交通の結節点や街道筋は、押さえていればよいだけの話。
304 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:58:36
>>301 古墳群ってのは、大和のそれぞれの造墓集団がいたから。
大和の有力豪族の持ち回りだっただろうしね、初期「治天下大王」は。
マキムク型とか箸墓が画期と考えるなら、三輪山の意義は大きいと思うよ。
まあ、柳本が正当っていうか、後世主流派になったことは間違いない。
後世、三輪山が重要視されてることからも分かるように。
>>302 そんなトンデモはどうでもいが、
萩原2号墳丘墓のような創成期墳丘墓は重視されてしかるべき
>>300 大筋では同意するけど(ただ、渾然一体とは言え世俗の軍事的覇権のほうが先だろう)
女王共立だの倭人伝だのを、平然と絡めるのはやめてくれw
魏志倭人伝の信憑性は、疑わしさの方向性は違うがハッキリ言って記紀とさほど変わらん。
ただ、三輪信仰がどのような射程を持つのかは微妙ではある。
三輪と同型のパッケージでの祭祀が、
近畿東海の他の古い神社(祭祀遺跡を含む)に受け継がれているとは言いがたい。
祭神や由緒は後で整理されてしまっているから、あまり役に立たないんだよなあ。
近畿東海に大物主を祀る神社は多いけどね。
それから、前方後円墳のような祖先墓祭祀と、三輪山の自然神信仰はかなり毛色が違うよ。
308 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 01:36:00
>>303 >豊臣秀吉が徳川家康に「武蔵国江戸を拠点に汁」と命じたという、全くの政治的理由。
これは嘘。家康自身は、関東についてはをよく勉強しており、江戸の拠点性も当然理解していた。
家康が来る前の江戸を、ことさら田舎だ荒地だと強調することで相対的に家康がいかに先見の明を持っており苦労して江戸の町を造ったのかを、
あるいは江戸の地を紹介した秀吉がいかに優れていたかを強調しようとしたためだろう。
実際のところ中世の江戸というのは、利根川河口部の複雑な潮流から神田の山で遮られた天然の良港を有する港町だった。
中世の湊船帳には、武蔵国には品川湊と江戸湊の記述がある。
それ以前に伊勢物語の時代にも頼朝の進行ルートも利根川=隅田川を利用している。
陸路を見れば、いまの甲州街道の原型となる道路は既に存在していたらしく、武蔵国府に向かう道路として
国府路(こうじ)と呼ばれていたという。国府路沿いにあった町はいつしかこうじ町=麹町というようになった、と。
さらに東京湾沿いを通る東海道の原型の道(付け替えられたあとの鎌倉街道下つ路)と十字に交わっていたのだから
陸上交通においても重要な拠点であった。浅草も重要な寺社門前町でもある。
こういった状況もあるから、江戸はもともと交通の結節点であったことになる。
スレ違いすまそ。
>>307 >ただ、渾然一体とは言え世俗の軍事的覇権のほうが先だろう
これはどうなんだろ?初期ヤマト王権の大王は、宗教的権威として有力豪族たちに
担がれただけの神輿で、軍事的指導者だったとは思えないが。
大王が軍事的指導者として立ち現れてくるのは、4世紀末、
半島利権を巡って高句麗と衝突、挙国一致の必要が出てきた時位からだと
思うのだが。
>>307 >女王共立だの倭人伝だのを、平然と絡めるのはやめてくれw
>魏志倭人伝の信憑性は、疑わしさの方向性は違うがハッキリ言って記紀とさほど変わらん。
私自身、考古学者の記紀や倭人伝無視の態度が物足らないのでw
確かに科学的ではないが、まったく無視というのも、思考停止みたいで
好きじゃないな
>>307 >それから、前方後円墳のような祖先墓祭祀と、三輪山の自然神信仰はかなり毛色が違うよ。
そうかな?神南備信仰と首長霊祭祀は地続きだと思うが。
大神神社の御神体は三輪山自体だし。
古来、祖霊は山から天に帰っていった。大文字の送り火からも分かるように。
初期古墳が尾根の突出部に造られることが多いこと。
マウンド自体が、天から見られることを意識して造られた形であること。
為政者が山の上からクニを見るという国見の習俗などからも、
山岳信仰と首長霊祭祀は隔絶してる訳じゃなく、なだらかに繋がっていると思われる。
巻向の性質の一つの参考になる例なので、スレ違い承知で少しだけ続ける。
>>308 徳川氏が主張した「家康入府以前の江戸はただの荒野」は確かに嘘。
だが、家康以前の江戸が「強力な商業拠点都市だった」
などと言うのもまた嘘。
家康は、今の日本橋から銀座の微高地にあったとされる
江戸前島という商業村落を円覚寺から不法に乗っ取ったので、
それをごまかすために「江戸は荒野で云々」という神話を作った。
だが、江戸前島というのは大した商業村落ではなく、
中世を通じて、品川や、旧利根川デルタ対岸の下総国府(真間)のほうが
よほど大きな中世港湾だった。そして品川は江戸とは別の港湾だ。
そして品川より金沢(今の金沢八景)のほうが、中世にはよほど重要だった。
そして浅草も、江戸とは都市としてまた別。港というより歴史ある渡河点ですな。
「江戸と、品川や浅草をごっちゃにしてはいけない」という考え方は、
巻向に関する議論についても、極めて重要な意義を持つものだろう。
古代の神官は神の声を聞くため、出来るだけ天に近い場所、つまり山に登ったと
言われている。
そして神官の権威が高まり、その職が一氏族に世襲されるようになって、
首長霊祭祀が始まった。
無理に首長霊祭祀と山岳信仰を分ける必要はないと思うよ。
>>311>>313 だが、三輪山のような信仰と、古墳に繋がる墓の祭祀との間には、
「現実の首長の死体はどうしたんだ?」という越えられない壁があるんだよ。
ここを何らかの形で解決しない限り、溝は埋まらない。
他の文化圏ならともかく、畿内西日本の神祇信仰の最も激しい伝統として
神祇の、死穢に対しての徹底忌避というのがある。
三輪山の山中から、ごろごろ首長の頭蓋骨が出てきたというのなら話は別だが、
現実には頭蓋骨どころか禁足地だからね。
>299-300
三輪山信仰が初めからというのが根拠無く無理があるが。
崇神期はすでに王権確立期だし。
江戸も実際交通要衝だったし。
細かいこと言えば言磐余でもいいが、それは五十歩百歩でしょ。古代の交通路と東海から瀬戸内に抜ける交易ルートを重視すべき。考古学的証拠と合致する。
そのルートに力を入れるための結節点としてマキムクは建設された。その結果さらなる中心化を生み、強大化した。
庄内初めから布留0にかけて規模も倍以上になった。
そこに集まるイデオロギーとして新たな宗教が作られたんでしょ。
>300
そもそも一斉に埋め立てという話がかなり怪しい。もう少し前から時間をかけて埋没したり、逆に庄内期に再び掘削とかある。
317 :
sage:2008/03/12(水) 10:28:19
>300
交易重視にしたって政治的な都市建設には変わりないんだけどね。だからそれは意味のない批判だと思うよ。
ただ三輪山の神聖視が初めからあったというのは無理があるけどね。マキムクが成立してから結果的に聖なる山とされたんだろ。それと古墳祭祀の成立を一緒にするのもまた強引な話だし。
宗教的儀礼的整備は初めからではなく段階的でしょ。
マキムクが運河としての大溝掘削から始まったのはやはり物資集積のためでしょ。
>>314 >「現実の首長の死体はどうしたんだ?」という越えられない壁があるんだよ。
正直、本当に意味不明なのだが。
神道の本とか読んだことある?
>>312 >「江戸と、品川や浅草をごっちゃにしてはいけない」
確かになにやらおもしろげでマキムク議論とも関係ありそうだが、
もう少しマキムクに即して展開してくれると嬉しいです。乱暴でもよいので。
>マキムクが成立してから結果的に聖なる山とされた
三輪山信仰はむしろ巻向が廃絶されたあと生まれたのではないの?
5世紀後半というか。須恵器と子持ち勾玉の祭祀。
なぜ纏向が選ばれたのか?
スレを読んでいると、交通交易の要衝論には異論多く、
はたまた宗教を求心力とした纏向選定論にも、
三輪山祭祀の位置づけ等について、同様に異論が多いように思う。
>>1の提起を読み直すと、「誰が(どこが)纏向建設を主導したか」が鍵だと読める。
「何故」ではなく「誰が」を追求することのほうが
結果的に「何故纏向が選ばれたのか」の答えにも近づけるのでは無いだろうか?
>>321 まったくそのとおり。
交易が先なんではなく、あくまで王権が先ということ。
この当時の王権=宗教だから、マキムクが宗教都市という言い方も間違いではない。
323 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 09:59:04
縄文期の土製の仮面が発見されてるとか?
324 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 11:44:56
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
>>322 >交易が先なんではなく、あくまで王権が先ということ。
>この当時の王権=宗教だから
喩え王権が宗教と等質なものであっても、
交易と言うバックボーンがなければ、
権威も権力も生み出されないと思いますよ。
どちらが先かの話であれば交易が先。
人と富が集まらなければ、宗教としても成立しません。
人、富、宗教がセットで何処からか、
やってきたと言うのは、どこぞの東遷説と
同じ発想です。
>>325 権力の基盤に経済があるのは当たり前でしょ。
ただ権力も高度になってくると、単純にそうはいかない。
頼朝や尊氏、家康などの権力構造について、「経済が先で権力が後」なんて言えない様に。
当時、拠点集落の首長の連合体が初期ヤマト王権の実態。
彼ら首長層の権力基盤は、確かに交易などによる経済性だったと思われる。
そして、その首長層の上に作られたのがマキムクの大王。
極めて政治的だったと言わざるを得ない。
>>325 >人、富、宗教がセットで何処からか、
>やってきたと言うのは、どこぞの東遷説と
>同じ発想です
結局のところ、筑紫にして吉備、東海、出雲にしても、
マキムク以降も在地勢力が存在したことが推察される。
つまりは、マキムク王権を支えたのはあくまで大和川水系の豪族たちであって、
マキムクのハツクニシラスが、吉備出身なのか、東海、筑紫、もしくは日向、宇佐出身なのか?
についてはどうでもいい。
寺沢の言うような、明治維新みたいに、なんてことはなかったと思うが。
328 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 01:24:15
>>327 >つまりは、マキムク王権を支えたのはあくまで大和川水系の豪族たちであって、
それは違う。まるで遺跡を見てないね。
纏向とその周辺の同時期の遺跡や遺物をよく見て検討すれば、
ヤマト政権がいかに列島各地諸勢力の影響の下にあるか解りそうなもの。
単に外来系土器の比率だけじゃないんだぞ。
329 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:45:40
>>325-326 真摯な議論で好感だが、近世〜近現代の感覚で古代を論じる危うさを感じる。
われわれは高校日本史などで「政治史」「経済史」「宗教史」と区分けして学んだり、
それを受験の対策などに役立てたりしたものだから、
また、現代の日本が一応、政・経・教の分離が建前となっているから、
政治・経済・宗教が渾然一体として未分化な古代社会を想像しにくくなってしまった。
それでもまあ、政治と宗教に関しては「まつりごと」とも言うようにある程度は想像できるだろう。
だが「経済と宗教の未分化」と言うと、「なんだそれ」と思うのではないか?
網野善彦を読め。
>>325にはとくに薦めたい。
−−−引用−−−
「市の立つ場所は、そういう原理を持っているんです。
物を普通の場所で交換すると贈答になりますから、商品としての交換にはなりません。
むしろ交換することによって、贈与互酬関係で人と人の間の結びつきが強くなってしまう。
市庭の立つところは、神仏に近い場所だから、そこで一度神仏に捧げた形にすると、
誰のものでもなくなってしまうので商品になる。
そこで初めて交易ができるわけです。これが市の原理だと思います。
私流に言うと、物を「無縁」にしないと、商品の交換はできない」
・・・・・・・・網野善彦、森浩一 『馬・船・常民』 講談社学術文庫 138頁
網野を薦めるのは、中世史家の中でもこの人が恐るべき史料博捜の実証主義者だから。
網野をいくつか読んで、彼が描いた中世日本社会の像を少しでも掴めれば、
おのずと古代を見据える新たな眼差しが生まれるだろう。
いや、べつに網野ばかりを薦めるのじゃなく、他の中世史家でもよいのだけれど、
少しばかりそうした回り道をして、それから「マキムク」を論じてみてはどうか。
330 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:46:17
>327
今までの議論は無視ですかw
典型的自生説の化石みたいだなw
だいたいが、大和川水系の連中だけで王を共立したところで、一部地域の田舎の王に過ぎず、「倭王」にはなれないことを分かっていないなw
大和川水系だけが統合しても、列島の中心的な交易拠点になったり、あるいは倭王としての外交代表権を得ることはできない。
筑紫(伊都、奴国)はもちろん、吉備や出雲、丹後の各王も、大和川水系だけで共立されたの「王」が、
突然、「王になりました、これから皆さんの上に立つ倭王になりますので、言うこと聞いてください、中国とのつきあいや文物の輸入はこちらが仕切ります」と言われても、「はぁ?」だろw
マキムクの建設や新しい倭王の共立には畿内以外も含む各地の代表、首長が大いに関わっているはずだし、各地の王族(の一部)もマキムクに集結している可能性すらある。
>>329 示唆に富む指摘だと思う。考えがまったくまとまらないが、
網野のいう「市」論がそのまま2・3世紀にあてはまらないにしても、
それ以前の、たとえば「交易拠点」などとは質的に断絶した全く新しい段階の
都市であって、だからこそ当時の周縁たる巻向が……、とかムニャムニャ。
>>330 自生説とかいうからおかしくなる。
庄内期に、全国規模の統一王権が誕生していた、と考える方が危険。
吉備や出雲、筑紫みたいに、大和・中河内でも、首長連合から王権が
誕生したというだけの話なんだよ。
四隅突出型があるからと言って、北陸地域=出雲の移住って解釈はしないだろ?
外来的要素にばかり目を奪われてる東遷説の名残りなんだろうけど、
一回リセットした方がいい。
> 332
だからさ、何で畿内だけでの田舎の王が倭王たりえたのか全く説明してませんねw
共立されたのは倭国の王であって畿内だけの王じゃない訳だが。
畿内だけで王が成立して、他地域の関与が無く、単純に他より優位に立ったという説明は自生説の構造そのもの何ですがw
頭を洗濯して下さいw
>332
それに「共立」だから、強大な統一王権が成立したとは誰も言ってないですが
>332
「大和川水系の王になりました。これから倭国王もやりますのでみなさんよろしく従ってください」で説明できてると思っているのがイタいw
336 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 10:40:32
「邪馬台国王」と「倭国王」は分けて考えるべきでは?
前者は畿内南部大和川水系の王で後者はもっと広範な地域の王。
箸墓のすぐ後と目される西殿塚みたいに前方と後円の両部分で
二人の被葬者を想定できるのもあるんだし。。
>327
>332
ヤマト政権の成立を考えるにあたって、外部からの強い影響だけでなく、諸地域複数勢力の連合(共立)という観点さえ闇雲に否定に走り、(多分、九州の影響や関与は、少しでも、特に否定したいんでしょうねw)
はては「東遷説」の復活だなどとレッテルを貼る(中身は全然違うのに)見方こそ古くさく、リセットすべき対象です。
言ってることは結局>333の言うように古くからの自生説そのものなのにね。
かなり年配の方とお見受けしますが、もう少し柔軟に考えた方がいいと思いますが。
葛城氏についてはどう考えられますか?
考の付く欠史八代の天皇の伝承が多過ぎます。
室大墓も誰の墓か謎ですし。高天原もあります。
340 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 20:25:22
あたかもスレが盛り上がってるように見えますが、
やってることは結局アンカーさえまともに打てないヤシの自演そのものなのにね。
かなりヤヴァイ方とお見受けしますが、もう少し柔軟に考えた方がいいと思いますが。
>>340 アンカーについて
ヒント:2chビューアー、またはケイタイ
寺沢薫に毒されとるな
>>332もまともに答えてないけどな
>>340もまともに答えられないヤヴァイ人だし
いわゆる自生説派が寺沢や北條の指摘にまともに反論しているの見たことがないけど。
>>332 北陸のは勢力の発展が連続的ですが、マキムクの成立は以前の奈良盆地の弥生集落とは断絶的であり、突然に外来要素を持って出現する。
この点は寺沢の1984年の「マキムク遺跡と初期ヤマト政権」以来、変わっていない。
また
>>332ほかは、「大和川水系の王」が何故に、どのように、各地の王の上に立つ倭国王になれたかについては何も答えていない。
北部九州が有していた倭王権(外交権)をどのように、我がものにしたのか有効な説明を聞いたことがない。単に優位になったとかでは、何の説明にもなっていない。
巻向に各地の品が集められてるのは何故?
>>345 葬送儀礼は伝播するもの。新しく出来たヤマト王権が、各地のやり方をパッチワーク的に採用した
とも考えられる。
外来土器も交易品の搬入のためとも考えられ、必ずしも入植者が
マキムクに多数いたとの証拠にはならない。それも全体の2割程度に過ぎない。
マキムク以外では、楯築も突然だが。緩やかな大和川水系連合が、突如大王を
推戴。弥生以来の拠点集落は解体し、三輪山の麓に宗教都市を建設、古墳を作り出す。
このような発想(小さなマキムク)は瀬戸内海地域にも伝染している。
なんらかの政治的変革、宗教改革のようなものがあったのではないか。
全てが外来勢力の主導とか言うのには無理がある
なぜ優位になったかは、@大和川水系の大きさ(倭人伝でいうところの7万戸)と、
A倭国全体での立地条件。対東海地域としての有利さ。このあたりは交易至上論者の
言ってることは正しい。
Bあと、瀬戸内海交易の安全保障をする大きな王権、広域に権威を主張し得る、
が求められた、時代の要請というのが大きい。筑紫や吉備にもその可能性があったのは
確かだが、結果的に大和が選ばれたのが歴史の事実。
瀬戸内の安全保障でなぜ大和?
搬入土器はカメのような炊飯具に交易品が入ってたとかは無理がある。壺や大ガメなら分かるが。薄作りのカメは軽いが壊れ易い。
また実際のところ東海系や山陰系は在地産がかなりある。人が来たことは否定できない。
マキムクが伝染とか言うが、吉備の津寺付近の集住や北九州の大集落が先。マキムクから再拡散なら分かるが。
各地の祭祀をパッチワークというが、自らのものがほとんど無いのが疑問。
楯築も突然だが、楯築自体、系譜を追えない(韓半島か)主体部構造や「鬼」にまつわる楯築の伝承を見ると外来王の可能性がある。
唐子を見ても、庄内カメが出土せず(布留0以降出土)、主体的にマキムク成立に関わったか疑問。
外部からの関与もあって大和川水系が初めてまとまったと見た方が説明しやすい。中河内の中田に、庄内初めに吉備系土器が大量に出土し、庄内式成立に影響を与えているのが何かを暗示している。
また、結局のところそれまでの北部九州勢力をさしおいて倭王たりえた理由が説明されていない。
>>347 初めから宗教都市だったという痕跡ってありますかね?
三輪山祭祀はやはり後からだし、どうでしょうか?
また大和川水系の統合は説明できたとしても、倭国全体に及ぶ話にはならないし、人口が多いからという説明にしても、人口が勢力の序列を決めるとは限らないし(小国でも組織化されている方が強かったりする)実際は説明になっていないと思いますが。
「結果的に」と括るあたり、要するによく説明できないと受け取りますけど。
>A倭国全体での立地条件
これは寺沢氏など外部勢力による共立論者が強調するところですけど。
>>349 地域王権の統合の過程で優位になったとしか考えられないでしょう(主観です)。
そのプロセス(あくまでも仮定ですが)を示すとこんな感じ。
1 大和川流域で治水・灌漑や交通・交易などの必要から緩やかな連携が始まる(弥生中期以降)
2 紛争調停機能がシステム化され『龍域内権力(首長連合)』が成立する。(後期前葉)
3a流域の農業生産性向上で生じた余剰を原資に纏向で治水・灌漑などの開発が始まる。(後期中葉)
3b最初の開発は畿内V様式ごろ(北溝の掘削よりさらに古いと思う)
3c原資の提供は流域内では優位に立つ河口部の中河内が中心と想定するが、
やがて、内陸部で東海への入り口を押える新興の纏向が本家を凌駕し『地域王権(大和川流域王権)』化する。
3d淀川流域や伊勢との連携も深まり、緩やかな『王権連合(畿内王権)』へ成長。
この『王権連合(畿内王権)』の盟主が「纏向」
4a瀬戸内交易を媒介に吉備・播磨・阿讃などの他地域の『王権連合』との連携が強まり『東瀬戸内連合』が生まれる。
この時域内で相対的に優位であったのが、東海と言う大きなヒンターランドを押えていた『畿内連合』で盟主に。(後期後葉)
4bその後、豊前・長門・伊予などの西瀬戸内地域も連合に加わり『大瀬戸内連合』に成長。
一方、対半島交易で、絶対的な優位を保っていた北部九州王権は、公孫氏の盛衰に伴い内実は不安定であった。
5a『瀬戸内連合』はさらに拡大して、南四国や日向へも拡大(古墳草創期)
5b伊都を盟主にした北部九州王権であったが、公孫氏滅亡の影響により弱体化して内部分裂。
博多湾岸が瀬戸内連合へ参加、遂に対半島交易での優位を失う。
6 北部九州王権が畿内を盟主とする「大瀬戸内連合」に組み入れられ『倭王権』が誕生す(古墳前期)
>351
2、3、4を示す考古学資料が全く無いな。特に2、3。まさに仮定ばかり。根拠になっていない想像。
2の畿内の後期での首長連合や(3dの伊勢や淀川との連合も)、マキムク大溝以前のマキムクの開発とか何の根拠も無いですね。
結局、このように仮定や想像ばかりで(最たるものが学史上の伝世鏡論)、まともな根拠を示せないのが自生説の問題点であり、寺沢や北條はそこを批判している訳だが。
また北部九州が動揺したというのもかなり怪しい。楽浪土器は弥生終末、つまりは公孫氏の時期にもっとも出てくるみたいですけど。事実と言われることが矛盾してますねえ。
あと確認しますがここでいう後期は5様式で、古墳草創期は庄内式でしょうか?。
>>351 畿内での倭王権成立は公孫氏滅亡以後なわけ?マキムク成立からしばらくは、畿内王権は倭王権ではないということ
畿内論者の多くは公孫氏時代に北部九州から畿内に中心が移ったとするけど、それとは違う意見?
>>352 いや全部根拠がない。
1の「連携」が政治的な意味であれば、証明なしと言わざるを得ない。
2以下の「連合」も証明なしの前提をアプリオリに用いている。
具体的事実を抽象化し過ぎて、ブラックボックスのなかでの議論に堕している。
抽象的な呪文の羅列は北條や溝口など中堅に目立つが、事実から乖離する。
本人達は抽象化が上品で高級と勘違いしているのか。
お前ら必死すぎだww
>>355 北條や溝口も言いたいニュアンスだけは伝わるが、安易に抽象論で
まとめようとする点は評価できない。この点は村上も同じ。
統計も用いない感覚的な抽象論では論証過程も結論も基盤がもろくなる。
抽象論では議論のポイントが絞りにくくなり、有益な議論もできない。
>>358 といって今までの論説がいいとはとても思えんがw
また村上については「古代国家成立過程と鉄器生産」にはそのような批判は当たらないと思いますけど。
「見直す」の結論が気に入らないだけじゃないの?
同じ基準(抽象化云々)なら松木なんかもダメになるわけですよね?
>>359 >「古代国家成立過程と鉄器生産」
抽象論の難点という点ではこれが一番問題があると感じた。
結論は概ね支持できると考えているが、その論法には疑問がある。
現時点での基本レベルの統一を目しているが、対立の大きい争点でも
抽象論で結論を導く手法では反対論者が納得するとも思えない。
抽象論に移行する前に、基礎資料を一覧で明示するなどしなければ、
論証が成り立たないという典型例ではないか。
基礎資料の一覧があっても、辻田の『鏡と初期ヤマト政権』のように
資料と論述が乖離していては意味がないが。
>>360 結論は支持できるのに、村上の論述のどこが具体的に問題なのでしょうか?
また辻田のどこが資料と論述の乖離が見られるのでしょうか?
あと、あなたが良しとする著作や論文があれば教えて下さい。
>>360 鉄器なんかは基礎資料を全部著作で提示したら大変だよ。今までの村上の多くの論文ではしっかり提示されているし、文献リストに論の基礎となる資料の報告書も全て載っていると思いますが。
363 :
351:2008/03/16(日) 14:19:47
>>352-354 アナタ達、もしかして釣られ易いタイプ?
>2、3、4を示す考古学資料が全く無いな。特に2、3。まさに仮定ばかり。
全部、仮定って書いてあるでしょう。王権の進化するモデルを示したにすぎない。
何か、必死になって否定するようなことかなw
>マキムク大溝以前のマキムクの開発とか何の根拠も無いですね。
確か平塚遺跡の調査の時、偶然にその脇に掘られた溝状の遺構が見つかっているはず。
その時の発表では、北大溝よりもさらに古い可能性が指摘されていたと思うが?
>結局、このように仮定や想像ばかりで(最たるものが学史上の伝世鏡論)、
>まともな根拠を示せないのが自生説の問題点であり、寺沢や北條はそこを批判している訳だが。
私のモデルが自生説に見えたの?
>また北部九州が動揺したというのもかなり怪しい。
そんな表現は一切使っていないが・・・虚言癖か妄想癖が御有りか?
>マキムク成立からしばらくは、畿内王権は倭王権ではないということ
纏向王権の成立とそれへの北部九州の参加は多少のタイムラグが有るとは思っています。
>畿内論者の多くは公孫氏時代に北部九州から畿内に中心が移ったとするけど
2世紀に畿内が北部九州を影響下に置いたなんて、それこそ根拠が無い。
>いや全部根拠がない。
はい、はいw
364 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:28:04
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
釣られてみますw
>>363 >公孫氏の盛衰に伴い不安定、
>公孫氏の滅亡で内部分裂とか
書いてますがw
>全部、仮定
>モデルを示したに過ぎない
要するに逃げですね
>根拠がない。ハイハイ
根拠がないことを認めますね
あと
>>351のような仮定の道筋、「モデル」を持ち出すのがまさに、いわゆる自生説の主張そのものです。
畿内が内部発展を主に王権を成立させ(自生)、そのまま予定調和的に周囲に「優位」に立ち、倭王として君臨するというのはまさに自生説以外の何ものでもありません。
寺沢や北條の批判を読んだことがあるんでしょうか?
根拠がない、とお認めになるのに、何でそれにこだわるのでしょうか?大いに疑問ですね。それとも確信犯ですか?
勝手な「モデル」は誰だって妄想できますが、それを論証しない、しようともせずに根拠のないことを突っ込まれて、「いや、それ単なる仮定だから、何必死になってるの?」というのは学問ではありませんねw
一応、たかが2chでもここは学問板ですが。
根拠が無いことを分かっていて、「モデル」を夢想するのは呑気なもんですなあw
366 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 19:32:46
そもそもの疑問なんだが…
永初元年の師升等(ら)の朝貢って、通説では玄海灘沿岸地域の小国群の連合って事だと思うんだけど
その当時、既に九州以外の四国や本州(畿内にまで及ぶかは分からんが)
の勢力との連合ってできてたって可能性は無いの?
一度そこで連合体の素地ができていると仮定した方が
後の畿内を中心とした連合を形成するのに楽なのではないかとw
無論其の時の求心力は大陸からもたらされる文物と、、
まあその中心が九州から畿内へ、瀬戸内海の西端から東端へ移動した理由は
やはり解けないけどw
…少なくとも永初元年の朝貢を九州限定にしてしまう根拠も無いよね?
>>366 107年のは「倭国」の成立を示すという西嶋定夫ほかの有力な説がある。
ただしその場合の「倭国王」は実質伊都国王だろうと。それは井原や平原の存在で裏付けられる。
ただ、「倭国」という連合体は緩やかながらも西日本一帯で成立、あるいは形成されつつあった可能性はある。
この場合、「倭国」は初め北部九州を中心とするが西日本一帯の緩やかな連合体(交易同盟か)であり、「倭国乱れ」て共立された王はやはり連合体の王であり、例えば畿内大和川水系だけの王ということは難しいのではないかと。
共立された王が初めからマキムクにいたのかどうか。少なくとも3世紀半ばの倭国王はマキムクっぽいが、それ以前はどうなのか。
倭国王という存在はやはり、外交や体外交易を考えると、北部九州との何らかのつながりや大陸とのチャンネルが無いとおかしいが、マキムク成立当初からそれがあったのか。
新しい都としての(「都する所」)、あるいは列島中心の交易拠点としてのマキムク建設プロジェクトに北部九州が投資したというのも思いつきだが、それはさすがにどうだろう。
ただ、畿内の土木技術や鉄器普及度からは弥生後期まで開発できなかったマキムクが急に開発されるのは何か西からの(吉備など瀬戸内勢力を含む)の関与があるのではないか。
>>367 マキムク開始時、庄内初期はまだ倭国王ではなかったのでは?
それが3世紀初頭に倭国王に共立されたと。
箸墓の被葬者こそが畿内最初の倭国王で、それ以前のマキムク型の王たちはその前。
>>365 そうムキにならなくても。
根拠に乏しいとは言え、倭王権成立のプロセスを想定することは無意味ではないと思います。
根拠根拠というと、古代なんて殆ど語れなくなるよ。
試しに、君の成立プロセスを披露してみては?
それ無しに、人の説を非難するのはどうかと
370 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:50:42
纏向遺跡というのは良くわからないなあ。
すごいという人がいるが、どこがすごいのだろう?
>>370 邪馬台国と同時代らしいことが分かってきたから。
あくまで推定だけどね(これ重要!)
>>348 >瀬戸内の安全保障でなぜ大和?
だから大和のクニが大きくて権威があったから。
吉備にする予定もあったが(楯築)、なぜか後に続いていない。
計画がポシャッたんだろう。
>搬入土器はカメのような炊飯具に交易品が入ってたとかは無理がある。壺や大ガメなら分かるが。薄作りのカメは軽いが壊れ易い。
>また実際のところ東海系や山陰系は在地産がかなりある。人が来たことは否定できない。
人の移住がまったく無かったと言ってる訳じゃないよ。あくまでマキムクの主体勢力になったのが、
大和川水系の豪族たちだろう、と言ってるだけ。
>マキムクが伝染とか言うが、吉備の津寺付近の集住や北九州の大集落が先。マキムクから再拡散なら分かるが。
吉備が先とか筑紫が先とか言ってるんじゃなくて。古墳時代以降、マキムクの影響を受けた集落が見られるようになる、ってこと。
>各地の祭祀をパッチワークというが、自らのものがほとんど無いのが疑問。
首長霊祭祀の後発国だからなw
マキムク型は阿讃播の墓制が祖形になったんだろうけど。
>「鬼」にまつわる楯築の伝承を見ると外来王の可能性がある。
はいはい妄想妄想。
>唐子を見ても、庄内カメが出土せず(布留0以降出土)、主体的にマキムク成立に関わったか疑問。
地理的に非常に近接してるけどね。まったく無関係とは思えないが。
庄内甕が権威のシンボルとかいうなら別だが、出てこないからと言って、
マキムクと唐古が対立してたってこと?
土器が残り易いから考古学の研究対象になり易いだけなんであって、
土器偏重な思考は専門バ○といわれても仕方がない。
>外部からの関与もあって大和川水系が初めてまとまったと見た方が説明しやすい。
外部からの関与がまったく無かったとは言えない。
ただ、関与の度合いの問題。
>中河内の中田に、庄内初めに吉備系土器が大量に出土し、庄内式成立に影響を与えているのが何かを暗示している。
吉備と交易が盛んだったってことだけでは?
中河内を通じて吉備の古墳祭祀が伝わっていた可能性は高い。
中河内の勢力が大和王権の成立に大きな役割を果たしたのはそう。
>また、結局のところそれまでの北部九州勢力をさしおいて倭王たりえた理由が説明されていない。
遼東の公孫氏が半島に攻め入って後漢の権威が低下。
公孫氏は昔からの漢の臣下だった筑紫王ではなく、新興の大和王を優遇した。
>>374 公孫氏がヤマト王を優遇とか言うが、公孫氏が楽浪や帯方を治めた時代に楽浪土器は北部九州にもたくさん出てくる。ヤマトには無い。
多分、神獣鏡を持ち出すだろうが、布留0以前の庄内期の出土は少なく、むしろ東瀬戸内にある。畿内はヤマトもだが、布留0以降に出土する。三角の分布と同じであり、実際は三角と一緒に3世紀半ば以降に入ったものだろう。
これは最近は辻田氏の著作で明快に主張されている。ホケノも鏃や土器からは布留0。
>>372 ヤマトが大きくて権威があったから、とか全くもって説明になってないしw
結局、鬼=外来王とか言う東遷説の残党が、ムキになって外来説を強弁してるだけか。
墓制の変化があったら、全部外来勢力の移住が原因なんだな。
例えば東海地方の前方後方墳や、椿井大塚山古墳も、越や千葉県の初期古墳とかも。
やれやれ。
>>376 権威が無ければ安全を保障し得ないでしょ。
あくまで>瀬戸内の安全保障でなぜ大和?の質問に対する答えだから。
そもそもの質問の仕方が悪いんであってw
>>373 唐子については、近接しているにも関わらず、庄内カメといった新しい土器様式が波及しないのは、社会関係的にマキムク建設の主体者ではなかったんじゃないのか、ということ。
唐子とマキムクが対立とか誰も言ってないしw
土器もわからないとこの時代はわからんよ。
楯築は、「鬼」に関わる伝承(温羅)がある。まあ妄想というならそうだが、木郭墓の突然の出現は外来王という説明も全く無しではないと思いますが。それしか説明できない、とは言いませんがね。
>>375 でも実際問題、マキムク成立の頃、公孫氏に朝貢してただろ、倭国は。
邪馬台国九州説の人なら別だけど、畿内が公孫氏に通じてたのは間違いないと思うが。
あ、もしかして九州説の人なのかな。
>>369 いくら何でも根拠が無さ過ぎる仮定を出されたら困るでしょw
>>368 石塚は庄内1式、勝山、矢塚は庄内2〜3式、ホケノ、箸墓は布留0式
連続している。箸墓以外を3世紀初めまでにもってくるのは無理。
倭王以外の政権有力者(共立に参加した諸勢力の王か?)が葬られているのではないか。
ちなみにマキムク古墳群だけでなく、柳本や萱生(西殿塚の周り)古墳群も大王墓級以外に下位の系列が複数ある。
>>378 何ゆえに「権威」が発生したのか?またそれは考古学的に証明できるのか?
吉備などにとってみたら大和なんて当時(マキムク以前)はただの田舎だぞw
何でそこに権威があるの?
>>382 その質問が正しいんであって。
以後気をつけるようにw
で、その答えは上の方に書いてます。
>>380 間違いない、という根拠は?
あと、必ずしも九州説ではありませんので
>>384 マキムクの実年代がいつか?ってことになると思うよ。
私は邪馬台国の時代と思うので、必然的に公孫氏と畿内は通じていたことになる。
>>383 どこに答えがあるの??
しかし、あなた上から目線やなあ。わざと?
>>381 >いくら何でも根拠が無さ過ぎる仮定を出されたら困るでしょw
じゃあ、あなたが根拠のあるマキムク成立のプロセスを提示してみて下さい。
>>385 時代が同じなら通じてるって、それじゃあどこでも通じてるよ。
別にマキムクが邪馬台国時代ということを否定してないし、公孫氏時代、庄内の特に前半期に、ヤマトが通じていた根拠を求めているんであって、同じ時代だからとか全く説明になってないわ。
>>386 わざとですよw
wとか書く失礼な人には、それなりに対応しますw
理性的な反論をしてくれる人にはこちらも理性的に
>>388 倭韓は公孫氏に属す、と中国の史書に記述されてるから。
これを素直に読むなら、卑弥呼が共立された時期、倭国は公孫氏に属していた。
邪馬台=大和とするなら、必然的に答えは一つだよな
読み返したが、大きいから権威?としか説明がわからん。
ただ人口があるだけでは烏合の衆だけどな。
そもそも統合された領域だったか怪しい。5様式期には一つの大きい政治領域だったという証拠は何もない。
マキムク以後にむしろ大和川水系の統合が開始されたと見るべき。交易と政治の拠点が諸勢力の関与で建設されたのが先だろう。
その周囲がお膝元として大きい国に成長したのはその後
外来勢力主導説の、マキムク成立プロセスの説明に期待。
さぞや根拠のある仮説を提示してくれるのでしょう
>>390 その倭は倭一般であって、倭の諸地域のうち、大和が特に公孫氏とつきあいが深くなったということにはならないでしょう。
その程度の根拠ですか。はぁ。こっちは庄内期前半の物的証拠を求めているんですが
>>393 だからさ。こっちはマキムク=邪馬台国と思ってるわけですよ。
卑弥呼共立が庄内期、それを3世紀初頭と仮定するなら、
畿内は公孫氏に通じていたことになる。
ここまで説明して分からないの?
あなたは庄内の実年代を何年ごろと考えてるわけ?
外来説と自生説の2人が自作自演を繰り返し、アク禁になって漸くスレが落ち着きましたねw
>>394 >>347は「優位」になった理由を後付けしているだけであって、根拠にならない。領域や人口が大きいから優位だという点の疑義は述べた。交易上の地理的優位性は外部勢力関与マキムク建設説でもありだから別に自生説の根拠にならない。
瀬戸内航路云々は、大和という地理的位置から根本的におかしい。
ましてや、これらは「権威」があった証拠にはならないでしょう。
>>395 物的証拠はない訳ですね。
邪馬台国は畿内でも、その時期に公孫氏と通じていたのは実質的には北部九州ということもありうる訳です
ということは、「共立」勢力に北部九州を含めた方がよいかもしれませんね。
マキムクの王権が強くなってから、共立時には外交権を北部九州が従来通り持つ取り決めだったのに、後になって一大卒を派遣して統制を初めたとか、いろいろと想定してみたらどうでしょうか?
>>397 >交易上の地理的優位性は外部勢力関与マキムク建設説でもありだから別に自生説の根拠にならない。
だから交易の要地を抑えた勢力が強大化するのは歴史上よくあることだと思いますが。
>邪馬台国は畿内でも、その時期に公孫氏と通じていたのは実質的には北部九州ということもありうる訳です
その可能性は否定できない。要は庄内の実年代をいつにするかにかかっている。
私は庄内初期を2世紀半ばと見るので、そういう結論になるだけ
アク禁解除されて、また論争を始めたなw
できれば冷静で建設的な議論をお願いしたいものだ。
>>399 庄内初期が2世紀半ばとか無理よ
北部九州の庄内より前の後期後半の墓に2世紀半ばまでの中国鏡があるし、庄内前半(初頭よりは遅いが)の萩原1号に3世紀初めの神獣鏡がある。
庄内初頭はいいとこせいぜい2世紀末ですよ。
古代学研究の鏡からみた実年代に関する寺沢論文読みましたか?
交易上の要地云々は、外部勢力関与説でも同じことでしょう?それは大和がアプリオリに権威を持ったということにはなりませんねぇ
>>401 鏡の実年代をどう判断するかだと思うよ。
紀年鏡ならともかく。
簡単に2世紀半ばまでとか、3世紀初めとかいうのは学問的とは言えないな
>>402 だいたい一致した見解というのがある。それを無視する方が学問的ではないですよ。
萩原の神獣鏡は、小山田氏のように3世紀第2四半期前半まで下げる人さえいる。3世紀初めから第1四半期というのは鏡研究の人たちの間でのある程度のコンセンサス。2世紀に上げる人がいるかもしれないが、それは下げる小山田氏と同じで少数派だと思う。
北部九州の後期後半の鏡も、2世紀半ばが最新で、少なくとも2世紀前半の鏡は少なくない。これはちょっと調べたら分かるはず。
九州の後期後半は庄内より前。庄内に平行するのは九州で終末と言っている時期。
平原の妙な方格規矩群などを除けば、後漢鏡の編年と実年代観は論者の間で大きなブレは無い。
>>403 編年と実年を一緒くたに語るのはどうか。
実年代は当然に幅を持たせるべきで、確定という方が学問的ではない。
結局、外来説はマキムク成立プロセスを提示出来ないわけね。
自分があんまり根拠根拠というから、自説が言えなくなる。
思考停止する人の典型。
2ちゃんねるはもっと自由な発言の場であっていいと思う。
>>405 特に神獣鏡は紀年鏡が多いから、それを型式学的序列の途中途中の実年代基準にできるから、紀年鏡ではない鏡もおよその年代が推定できる。
型式と実年代を混同している訳ではない。
また別に1年単位に絞りこんでいる訳ではないし。せいぜい1世紀の四半期単位、紀年鏡の多い神獣鏡でも四半期の前半か後半ぐらいのレベル。
福永氏とか小山田氏とか上野氏の論文を読んだことあるの?
>>407 編年で実年代を確定できるという態度こそ問題だと思いますが。
それはある程度のものさしであって、他の資料と比較検討していくべきもので。
形式変化の幅を何年で見るかで、編年と実年は大きく変わってくる。
要は解釈の問題
409 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 02:36:23
>>375 >実際は三角と一緒に3世紀半ば以降に入ったものだろう。
うーん、三角と画文って少なくとも時間差はあるように思うんだけど…
ホケノ→画文と内行花文の欠片で三角は一片も無し
黒塚 →画文と33枚の三角
>>381 >石塚は庄内1式、勝山、矢塚は庄内2〜3式、ホケノ、箸墓は布留0式
>連続している。箸墓以外を3世紀初めまでにもってくるのは無理。
庄内の年数は何年くらいに考えてるんだろ?
形式変化の多さからみて7〜80年と私は考えるのだが。
>倭王以外の政権有力者(共立に参加した諸勢力の王か?)が葬られているのではないか。
もし多くのオウたちが平行して墓を造ったとしたら、当時有力だった河内地域にも
初期古墳があってしかるべき。
河内に初期古墳が無いのは、古墳築造に何らかの規制が働いたとみるべきだろう。
それは河内がマキムク大王の直轄地域だったから。
マキムク型は箸墓の被葬者に先立つ、マキムク大王たちの墳墓と見るのが妥当。
>>409 三角が布留以降にしか発見されないことを重要視するなら、
三角の前に画文帯時代を想定すべきですね。
412 :
外野から:2008/03/17(月) 02:45:36
深夜まで真剣な討論、乙彼っすww.。お願いありますです。
面倒かもですが、ご自身のなさったレス番号を、それぞれ書き上げてもらえません?
おれは何番、何番、何番・・・・何番、レスしたぞ、てな具合に。
名無しでどちらもsageだから、読んでて混乱してくる。(アタマ悪いんだww)
あ、片一方の方だけでもいいですよ。
>>404さんにお願いできないかな?
あす以後でもいいですからよろしく〜。ww
廻間の放射性炭素年代も記憶に新しい。
今後の趨勢として古墳時代は定説よりどんどん遡っていくと思われる。
実年代の難しさはそこにある訳で。
実年代確定とか言える人はある種幸せだと思うよ。
>>410 複数系列古墳群って知ってる?
マキムクのが全て大王とか難しいんじゃないのか?
箸墓の時期にも中山大塚その他がある。全て縦の年代に並べるのは編年的に無理だよ。箸墓の前の庄内2〜3式に勝山や矢塚がある。その間に3世紀初めから50年が空く訳?有り得ないな。
河内に無いのはそれこそ何らかの規制かもしれないが、代表者がマキムクに墓を作ってるかもしれない。ただ、箸墓以後は玉手山があるけど。
>>411 畿内では画文帯も布留0以降にしか出土しない。鏡の編年では画文帯が3世紀前半に存在するが、大量に入って来た年代は別に考える必要がある。最近では辻田氏の著作を参照。
>>408 難癖だな。
それなら、「学問的に」庄内初頭が2世紀半ばという理由は何?
鏡をさらに全体的に古くする学問的根拠は何かありますか?
箸墓の前のマキムク型は3世紀初め以前のはず、などという勝手な仮定はそもそも根拠になりませんから、念のため。
>>406 自生説がかなり怪しいということは理解されたので、外来説を検討して仮説を出すのもありだと思うけど。
これまでのレスの中にその仮説モデルを構築するヒントがあると思うけど。
417 :
外野から:2008/03/17(月) 03:00:18
>>381 >石塚は庄内1式、勝山、矢塚は庄内2〜3式、ホケノ、箸墓は布留0式
>連続している。箸墓以外を3世紀初めまでにもってくるのは無理。
ここ
>>410さんとおんなじで俺も疑問もちますた。ww
石塚築造=庄内1式てするんなら3世紀初め説は無理じゃないと思うよ。
「連続」って、世代ごとに連続の意味なんでしょ。え、まさか1年ごと連続の意味?ww
でも石野さん説だったっけ、「石塚は庄内1式」は、大丈夫っすか?
418 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 03:16:24
だいたい、纏向遺跡は4世紀初め頃というのが定説じゃなかったかな。
池上・曽根遺跡の木材を年輪年代で調べたところ、それまでの説より100年
古いこととなった。そこで、畿内W式だかX式だかが100年遡った。
まあ、C14も似たような結果になったわけだが。
じゃあというわけで、庄内期まで100年遡った。もちろん、みんながみんな
それを信じているわけではないが。
しかし、年輪年代法やC14には、ちょっと疑問な点もある。
こうやってみると、庄内期の開始時期も確かなものではないなあ。
ここを見てみると、さらに2世紀半ばという人もいる。なんだか、都合が悪く
なったら、庄内期を遡らせればいい、そんな感じにも受け取れる。
あ゛〜こういう事でしょうか?
自生説…容疑者にその犯行を完遂する能力がないっぽい
外来説…容疑者の搾り込みできず、そもそも犯人の動機が不明
で、現場の物証も今のところ犯人確定には至っていないとw
420 :
外野からですがww:2008/03/17(月) 03:40:57
>>418 >だいたい、纏向遺跡は4世紀初め頃というのが定説じゃなかったかな。
そんな「定説」述べた人はいないよ。ww
小学校敷地調査のときから庄内〜布留にかぶってるのは分かってんだからさ、
ピンポイントでこの遺跡は「4世紀初め頃」なんて言えないよ。ww
>>417 石塚は3世紀初めでいい。庄内初頭が2世紀末で。
>>368が言ってるのは、石塚以下のマキムク型が全て2世紀半ばから3世紀初めまで全て作られたという説。
しかしこれはトンデモw
まず東田大塚は布留0で箸墓と同じ時期。ホケノも鏃や土器から布留0になるという意見が強く、遡ってもその直前。ホケノの画文帯は220年を前後する時期の型式なので、3世紀初めよりは新しい。
複数系列古墳群というのがあり、最高首長以外も大型古墳が継続して作られる古墳群がある。柳本や萱生がそうだ。古市や百舌鳥も。地方では西都原が有名。これらは全てを縦の一系列に並べるのは無理。
卑弥呼共立以後は箸墓まで王墓が作られないとか勝手な推測。例えば、特殊器台の細かい編年では中山大塚は箸墓に先行する。布留0初めだろう。箸墓は布留0の中でもやや新しい。大王(倭王)以外の有力者でも王墓が作られたとすべき。
中山大塚のあるオオヤマト北部の萱生には布留0にヒエ塚やノムギもある。やはり複数系列だ。
>>414 辻田のは超トンデモ本。
平原の鏡は超大型も含めて全部舶載とするが、柳田が国産の根拠として
列挙した約10個の理由はほぼ全部スルー。
これは学者としては絶対にやっちゃ行けないこと。
>>413 挾間の実年代論はAMS年代をストレートに使いすぎ。
土器表面の煤の年代を根拠にするが、来歴不明の燃料の煤だが、常に全体的に少し古く出る可能性がある。
燃料がいつも灌木や樹皮付近とは限らない。建築廃材が燃料になることも考えられ、全体的に古くでてしまうとみた方が穏当。
例えば布留中相の土器のAMS年代が3世紀半ばが出たりするが、布留中相までには西晋代の鏡が存在するから、古く出ているのは 確実。
ハサマ式初頭を2世紀前半にした赤塚氏の濃尾の年代論で問題は、ほとんど濃尾の資料で組み立ていること。
せいぜい近畿の資料は目配せするもののが、九州や朝鮮半島の資料はほとんど無視しているという点。
平行関係を九州まで追いかけた上での年代論資料を検討していない。
だから北部九州の後期後半に2世紀に入る鏡があることは全くスルー。
寺沢氏なんかは広く検討した結果、庄内初頭を3世紀初めにしている。
まあ2世紀末くらいに遡らせるブレはあるが、2世紀半ばとかは論外。。
また濃尾の立地を考えると、最近また問題ななっている海洋リザーバー効果がクリアされているか疑問。
>>422 平原のは意見が分かれるところ。
超大型鏡はともかく(これは国産の方が可能性高い)、方格規矩に関する柳田氏の指摘は、型式の混乱から新しくする根拠にはなっても国産の根拠なのか疑問。
むしろ超大型以外の鏡は中国鏡とする意見は意外に今も多いし、中国にもおかしな大型鏡があり、超大型鏡も中国鏡とする意見も辻田氏以外にも一部にある。
内向花文のうち大宜子孫鏡は逆字は中国にもあるから国産とは断定できない。
大宜子孫鏡の着色技法と方格規矩が同じだから国産とするが、大宜子孫鏡が中国鏡でも良ければ問題ない。
そもそも確実な国産鏡にその特異な着色がある訳ではない。
辻田氏は柳田氏の指摘にいちいち答えてはいないが、中国鏡とする根拠を述べた上で論を進めている。
したがって、これをもって辻田氏がトンデモとか言うのは不当。
>>417 石野は、石塚は纒向T式で庄内(纒向U〜)以前とする。
古墳周濠の最下層からは布留0が全般的に出土し、特に前方部からは多数の布留0が出土。
対して、石野は「布留0の頃に植物層によりフタがされる以前のものが最下層で一緒になった
ため、その後の布留0(纒向V後半)が出土している。」とする。
石野は、古墳盛土のなかからは纒向U以降の土器が出土していないとする。
寺沢はU、Vに相当するものがあるとするが、石野は「それはUになりかかったTである」とする。
>>424 辻田は要するに「中国でも大きい鏡が出土しているから平原の超大型も中国製だ」と
いうレベルで舶載と断定し、それ以上の根拠はまったく述べていない。
しかも、国産説の根拠に全く触れない。・・・このレベルをトンデモというのは当たり前。
その他の鏡も国産とするためには、柳田の挙げる根拠に触れなければ学者として失格。
こんなことは当然。柳田が自説を無視して舶載とする者を厳しく批判していることを
学者であれば知らないはずもなかろう。
石塚は盛土内は寺沢含めて庄内1式までという結論。
ただしあくまで盛土内だから上限に過ぎず、周溝の庄内3から布留0ではないかというのが寺沢。
ただ、石塚だけは後円部がいびつで、墳形論から古くした方が辻褄が合う。
庄内2から3の勝山や矢塚は正円だからね。周溝資料は今度は新しい時期の遺物が入ってしまう可能性があるからね。
>>426 方格規矩に関する柳田氏の指摘は厳密には国産の根拠になっていないかと。
超大型鏡に関する辻田氏の根拠は確かに弱い。
しかし、それだけで著作全体をトンデモとか、トンデモ過ぎるぞw
>>428 >国産の根拠になっていないかと。
辻田がそう考えたのかは不明だが、重要な反対説を全部無視してしまっては
学問的態度からは程遠い、つまり「トンデモ」といわざるを得ない。
それ以外の部分でも全般的に見て、反対説を無視しすぎて独善が強く、
全く評価できない。
>>416 「老教授」が居たころの「外部勢力要因説」って、結局のところ次のようなレベル話だったよ。
当時のテンプレを再掲す。
『諸勢力による連合説』
倭王権は、北九州、吉備、讃岐、出雲、讃岐など複数の政治ブロックによる連合であり、
諸勢力(主として吉備)が協力して 平和的に巻向を建設した。
根拠1)
銅鐸祭祀に代表される弥生畿内文化と鏡、玉、剣の古墳文化に何の
つながりなし(大六、森浩、方丈その他)引き継がれるのは北枕の 思想だけだ。
根拠2)
鉄器の質量とも西日本最低で、サヌカイトで闘ったら負けるだけな
ので鉄器ルートの奪取はありえない(川上哲治、村上恭通)
根拠3)
大集落以上の統一的な権力や流通の存在が考古学的に証明できない。
銅鐸祭祀の中心は近江。
根拠4)
古墳時代の首長霊儀式は、特殊器台の流入に見られるように吉備から受け継がれた(近藤義郎)。
円形という形、木隔、葺石などからも楯突→石塚の流れがより重要。
だから吉備を中心とする東瀬戸地域が主導したはず。
根拠5)
古墳からは、どの勢力が優越したのかは導き出せない(北條)
根拠6)
戦闘の遺跡が証明できないことから、平和的共立を裏付けている(寺澤薫)。
431 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 21:54:29
>>423 >だから北部九州の後期後半に2世紀に入る鏡があることは全くスルー。
詳しく。
432 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 22:44:22
20年近く前、吉野ヶ里遺跡が発掘された頃の雑誌を見ていたのだが、そこに
森浩一氏と石野博信氏の対談が載っていた。
当時、纏向遺跡も発掘されており、この遺跡が、弥生時代の終わりかあるいは
古墳時代のはじめに突如、大勢の人が住み始めた遺跡ということでは一致して
いた。
しかし、その人々がどこからやってきたのかについては、石野氏は、唐古・鍵遺跡
から移ったのだろうということを匂わせていた。
森浩一氏は、「九州の大勢力が、ある段階で大和を中心とした地域に大きな
影響を与えたことは、まず動かないと思います」と東遷説気味の発言だった。
面白いのは、この森氏の発言に対して、石野氏は、やんわりと反対し、
「研究所の寺沢薫君はさかんにそう言いますね」と言っていることである。
寺沢薫君は以前は東遷説だった?
ちなみに、森氏は発言の根拠として、墳墓における鏡の組み合わせが、弥生九州と
古墳時代の畿内で同じだということだった。これは、梅原末治氏も同じ意見らしい。
石野氏の根拠としては、弥生時代の畿内の土器と古墳時代の土器の連続性と
言うのを挙げている。
>>430 根拠1)〜根拠6)の中には、
何故纏向の地であったか? の答えは含まれてないと思う。
>>430 内容からして、外部勢力要因説を否定するためのテンプレにしか見えないのだが。
>>434 > 内容からして、外部勢力要因説を否定するためのテンプレにしか見えないのだが。
じゃ、直してみ!
>>431 『古代学研究』の2年ぐらい前の号に2号続けて寺沢が弥生後期から古墳初め出土の鏡を網羅して年代論を展開しているのを嫁
吉備のマキムク参加は布留以降でしょう
てか纏向って巨大霊園施設だったんじゃねえの?w
まあそう言う説は既に出されているんだろうけど…
交易都市としては結局出土品から鉄や銅の金属不足の感は否めないし
(金属製品を模した木工品が出てる)
また大和川水系の交易ルートの優位性を認めるとしても
纏向自体の立地ってどうなのかと?
東西2キロで100メートルの高低差があるらしいけど、わざわざそんなところに交易都市を造らなくても
もっと下流で流れの穏やかな場所の方が、船を繋留するのにも楽なのではないかと…
無論今後の調査(遺跡全体の東側?)で祭祀を行う神殿みたいなのは出てきても
政治中枢たる宮殿みたいなのが出てくるのかな?
搬入土器の件にしても元々の人口密度がスカスカだったゆえにその比重が上がってしまったとか?
もっともそうなると、その巨大霊園のオーナーは誰だったのか?
その政治中枢の都市を別個に探さなきゃならんけどw
440 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 11:01:25
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
441 :
灰神楽:2008/03/19(水) 23:07:30
初めてレスいたします。今後ともよろしくお願いいたします。
初心者につき行き届かない点や、的外れな点もあるかとおもいますが、よろしくご指導のほど、お願いいたします。
巻向遺跡は、政治の中心地ではなく、王権者や政府の人たちの生活必需品を供給するための一般庶民や工人の作業所や居住地だったのではないでしょうか。
巻向の東の山麓に天皇の宮の伝承地がありますから、
政府の役所がそこで、一般の民衆は下の巻向に住んでいたのではないでしょうか。
ですからいくら発掘しても、政庁のあとらしきものがでてこないものと考えます。
442 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 01:31:21
崇神天皇…しきみづがきの宮だっけ?
みづがき=水の垣根で大溝の事なんだろうか?
日本書紀の船を作ったと言う記事も併せて纏向の人っぽいw
要は布留以降の古墳の定型化が重要なんであって。
その前は、造るたびに違う古墳を造っていた。
倭国王に推戴されたのは布留以降のマキムク大王であって、
それ以前の王たちは地方王権に過ぎない
庄内の頃、マキムクはどういう状態だったのか?
寺沢の言うように、本当に各地の豪族が集まってきて都を造っていたのか?
議論はこのポイントに絞られてきている。
445 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 00:39:23
シンポジウムのおしらせ (本日です!)
■倭国連合の成立と姫路地域の役割
・2008年3月22日(土) 11:00〜16:00
・兵庫県立姫路労働会館(姫路市北条一丁目98番地)
・無料(申込不要)
女王卑弥呼が国をまとめた際、播磨はどんな役割を果たしたのか。そのころ姫路は。
地方から倭国連合の実態に迫ります。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/5tpuaj00000041kp.html ・プログラム
報告1 「大和からみた播磨」 青木勘時(天理市教育委員会)
報告2 「邪馬台国時代の播磨」 渡辺昇(兵庫県立考古博物館)
報告3 「運ばれた土器からみた播磨」 蔵本晋司(香川県埋蔵文化財センター)
・シンポジウム
司会; 石野博信(兵庫県立考古博物館 館長)
パネラー; 各報告者、小柴治子(姫路市埋蔵文化財センター)
※備考 主催は兵庫県立考古博物館ですが、会場は兵庫県立姫路労働会館ですのでお間違えないように。
兵庫県立姫路労働会館: JR姫路駅南出口から高架沿いに左へ。2つめの信号を右折。「兵庫県総合庁舎」の南隣。徒歩15分。
http://www15.ocn.ne.jp/~a1981/access/index.html
446 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 02:37:01
447 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:28:03
徳島か、ググってみた参考までに…
http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2007/0404.htm で「木郭」を囲む石積み「礫郭」の高さがホケノより低い事から更に古いという事だそうだが
実際C14とか年輪年代で数字出ているのかな?
まあ「邪馬台国=阿波」と言うより「邪馬台国=畿内ヤマト」の母体の一つになったってところなんだろうな。
あと「木郭」と言えば時間を経て崩れているはずで、その点盗掘されない分には有利だと思うんだが
出土物ってどんなものがあるの?
詳しい人情報きぼんぬw
今んとこ考古学的には外来説に軍配が上がりそうだが、
弥生時代にキャンベラやブラジリアみたいな考え思いつくんかね?
日本史で似たような都市は鎌倉だと思うが建設当初は関東の都にしか過ぎないし。
軍配というか、外来がないというのはありえない。
問題は畿内(というか奈良大阪限定でいいかもしれない)の人たちがどういう役割をしたのか。
>>448 外来とか言うからおかしくなるんだよ。
まるで吉備とか筑紫から王権が大和にやって来たみたいに取られる。
実際のところは、吉備や筑紫の先進技術者や宗教家が畿内に来て、
畿内豪族たちの連合形成に寄与した、程度の解釈でいい。
マキムクを造り、その主要メンバーになったのは、あくまで畿内の豪族たち。
451 :
450:2008/03/24(月) 01:02:37
鎌倉幕府の例はまさに正しいと思う。
当時の倭国のオウたちは、弥生以来の環濠集落の首長だったわけで、
非常に在地性が強い。鎌倉武士みたいなもの。
そのオウたちが、わざわざ自らの勢力基盤を捨ててまで東遷してくる筈がない。
マキムクの大王家は外来出身の可能性もあるが、それを支えたのはあくまで畿内自生勢力なんだよ。
またぞろ自生派が湧いてきた訳だが
しかし自生派も外来要素は認めざるを得なくなってる訳だw
「畿内豪族の連合形成」というが、相変わらず単に畿内だけでなく「倭国」の中心ということはスルーだがw
当時の社会は海民を絡めたら意外に流動性のある社会だけどな。
最近は、列島的な「ポピュレイションの移動」があることを松木氏が明らかにしている。
農耕社会だからって在地性だけが強く移動は無いとアプリオリに措定するのはどうかな。
首長層なんかは社会でも特殊な存在だから、一般人の在地性とは別の次元の存在のはずだ。
また外来説でも、マキムクにやってきた外来勢力が元の本貫地を捨てたとか言ってないし。言ってもいないことを批判されてもねぇ。
外来勢力が集まった結果、新政権ができて中心となったら、別の論理が働いて「地方」を統制にかかるのは別に普通。
明治維新の後、廃藩置県で中央集権が目指され、西南戦争まで起きたからって、だから明治新政府は薩摩勢力など地方勢力の関与は無く、関東の有力者が作ったとか言えますかね?
古文献(記紀、旧事紀、姓氏録)では、畿内の氏族の9割以上が
九州の出身としていますよね。
畿内の自生勢力がこのような伝承を残すのも変ですね。
墳墓のみに囚われるから、外来性ばかりが目につくんだろう。
文化の伝播という視点が欠落している。殊更に外来性を強調するのは東遷説の名残り。
>相変わらず単に畿内だけでなく「倭国」の中心ということはスルーだがw
当時の倭国の中心として、マキムクは東に寄り過ぎなんだよ。
本当に吉備や筑紫がキャスティングボードを握っていたのなら、
もっと自分たちの根拠地近くに王都を築く筈。
大和が昔からの王都という特別な場所なら話は別だが、そんなことはないだろうし。
明治維新はあくまで倒幕だからな。今まであった幕府に取って代わる形で、
明治政府が作られている。日本全体を統治するという政体の伝統を、
玉を担ぐことで引き継いでいるからこそ、あんな芸当が出来た。
首都を東京に選んだのも、旧幕府勢力を押さえ込むという現実的な理由があった訳で、
それは尊氏が京都に幕府を開いたのと同じ。おっかなくて旧政権の都を離れることが
出来なかった。
以上のように、自らの勢力圏を遠く離れて都を造った例があるにはあるが、
非常に特殊な事例であったと。
明治維新は寺沢が言い出したと思うけど、古墳時代前夜の状況の喩えとして
相応しくないと思うな。
倭国は一つという概念も無かったであろう時代に、庄内開始で突然、
九州から畿内にまで及ぶ大連合政権が作られたというのは夢想だよ。
>>452 >農耕社会だからって在地性だけが強く移動は無いとアプリオリに措定するのはどうかな。
>首長層なんかは社会でも特殊な存在だから、一般人の在地性とは別の次元の存在のはずだ。
逆に聞きたいけど、各地から移り住んだという首長層は、どういった人々を連れてきたんだ?
クニ自体が移動するという状況がよく分からない。
どういう単位を考えているのだろうか?
多くの人々が一気に集まったのなら、彼らの食料はどうしたのか?
元々住んでいた現地人との軋轢は?
マキムク以外にもマキムクのような集落が生まれているが、それらも
移住者によって造られたのか?
そもそもなぜ移住する必要があったのか?なぜ都が大和でなければなかったのか?
こういった疑問にまったく答えてくれてないんだよね。
単に古墳儀礼に外来要素が多いからというだけ。
456 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:45:24
>>455 >マキムク以外にもマキムクのような集落が生まれているが、
遺跡名を挙げてください。
457 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 19:38:18
巻向は集落ではなく、高床式の神殿が立ち並ぶ、
宗教都市というべきかな?
水道も掘ってあり、かなりの実力者が居たと思われます
いや、明治維新というのはかなり面白い例えかもしれない。
妄想の未来シミュレーションになるが、
仮に、江戸時代の日本の文献が全く解読不能になり歴史が口承伝承レベルになった
40世紀の東京を考えてみる。
すると、「21世紀六本木巨大建築遺跡ww」の下層から、
明らかに毛利家関連としか思えない遺物を含む遺構が出てくる。
時代考証をすると、どうしても江戸時代になる。
だが、伝承からすると、毛利を主要な一翼とする政権が成立したのは
19世紀半ば以降のはずなのだ。
これが
>>453に対するおそらく答え??になる。
弥生文化そのものは、畿内よりずっと西から波及して来たことが確実なのだから、
巻向時代の畿内在地豪族の古い出身地は、さらに西である可能性は高いわけだ。
そして畿内は、人種的に縄文/弥生でほぼ綺麗に入れ替わっている。
東日本や、あるいは福岡の弥生前期にみられるような混交的状況ではない。
巻向自生・外来説の対立と、伝承に伝えられた部族の出身地の問題はまた別。
後者はもっと古い時代の渡来を反映している可能性が極めて高い。
弥生の初めとかムチャクチャ古い伝承などという説明をするのに、神武東遷は否定する矛盾について
460 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 00:19:48
うーん明治維新の例えは不味いんじゃないの?モデルとして。。
だって薩長が乗り込む前に江戸には徳川幕府と言う巨大機構が存在していたんだし
事実新政府の役人も幕府からの転職組み多いんだろw
まあ素人のツッコミだけどw
461 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 02:02:54
素人の素朴な疑問…
上水の為の浄水施設か、下水の為の浄化施設かしらんが例の集水槽みたいなもん
んなもん当時の日本にそうそうあったもんじゃないんだろ?
あの技術を持ちこんだ地域とか分からないの?
ここには素人しかいないから安心汁
寺沢と柳田のフォロワーばっかりだからな
>>421 古墳に序列があるのはそうだけど、まったく反論になっていないよ。
そもそもすべて縦一列なんて言ってないしw
マキムク周辺で造られた最初のマキムク型が、マキムクの初代王墓でないというのは違うだろ。
古墳築造=首長霊祭祀であり、最初に造られるのはその造墓集団のリーダーだわな、普通に考えれば。
「最初の王は死せる王」とも言われる。首長霊継承の成功が王権にとって一番の重要事であって、
まして、古墳築造には規制が掛かっていた可能性の方が高い。
そんな並列的に王墓が築かれたというのはかなり無理のある設定。
元々マキムク型を造っていた地方王権が、箸墓の時に画期的な飛躍があり、
初期ヤマト王権が誕生したと考えるべきだと思うよ。
その画期ってのが卑弥呼共立な訳で。
465 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 15:54:36
>>464 発掘調査の結果、マキムク型という分類そのものが誤りであったという見解が
先日出てなかった??
466 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 01:58:52
個人的に纏向は、インカにおける祭礼都市マチュピチュのようなものだったのではないかと思っているのは、ここだけの話だw
467 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 02:19:39
>>464 ああ、本当に勿体無い。
最後の一行さえ無ければ良レスだったんだがw
考古学的知見があるなら、玉石混交の
>>421から
変な情報は華麗にスルーしてくれよ…
この時期の西南日本の考古学的な話を、きちんとつめるなら、
「卑弥呼」と「神武東征」は、間違いなく二大NGワードと言っていい。
考古学的な資料としての価値は、どちらもほぼゼロ。
後者と同様に、前者の価値も明確にゼロだ。
別に全部切り捨てると言っているのではなく、
これらは神話学の学者が、文献学として、
一体これらの物語が、何を意図して書かれどこまで現実を反映しているのか、
丁寧に分析考察するべきことがらだったりする。
>>468 >421の変な情報って何?
>>464 君のマキムクやオオヤマトの各古墳の編年観を実年代入りで教えてくれ。
卑弥呼共立時に箸墓?とか意味不明なので。
471 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 16:18:05
>>469 >変な情報
『卑弥呼共立以後は箸墓まで王墓が作られないとか勝手な推測。』
の部分でしょ。要するに考古現象を分析する手段として文献を使うのはやめたら?ってことでしょうね。
だされた結論と文献とを二次的に解釈するのは問題ないだろうけど、
結論を導き出すための論拠にしちゃダメだってこと。
…を
>>468のひとはいいたいのではなかろうかと。
>>471の方へ
>>421は
>>368を批判しているのであって、「変な情報」の元は
>>368だと思いますが。>421自体が文献を変な風に使っている訳ではないです。
卑弥呼共立とある文献情報から、その前がマキムク型、後が箸墓までないという「変な情報」は
>>368の説明です。
>>472 >卑弥呼共立とある文献情報から、その前がマキムク型、後が箸墓までないという「変な情報」は
>>368の説明です。
368ですが、別に「後が箸墓までない」なんて言ったつもりはないですが。
箸墓以前のマキムク型が、箸墓以前のマキムクの王墓。まだ地方政権だったころのもの。
箸墓がそれまでと隔絶して大きいことから、その被葬者が、倭国連合の盟主に担がれた卑弥呼では
ないかと言っただけで。
474 :
455じゃないが:2008/03/30(日) 00:44:30
475 :
サガミハラハラ:2008/03/30(日) 00:51:38
霊能力者であるヒモモソ姫の墓を突如巨大につくったのは、はるか遠くの邪馬台国の女王卑弥呼の墓を意識してのことです。
この時代になると、ようやく畿内は九州を視野に入れうるようになったのです。
これが邪馬台国九州厨か
478 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 01:37:48
スレ汚し厨、と呼ぶべき
>>474 小迫辻原はこの時期の面白い集落ですが、「都市」というほどの規模はないです。
>>473 ちょっと確認するが、
地方王権としてのマキムク型の時期はいつ?
卑弥呼共立はいつ?
卑弥呼共立以後はマキムク型は無いわけ?
以上は時系列(実年代と土器の時期)で説明してください
で、箸墓=卑弥呼なの?
>>473 あと、箸墓以前のマキムク型はどれと考えてるの?
重複するが、卑弥呼共立はいつで、それ以前の地方政権のマキムク型の時期の倭王はどこよ?
>>479-480 卑弥呼共立は200年頃でしょうか。ただ倭人伝でも詳しい年代が
書かれていませんので推測になりますが。
共立は公孫氏の勃興とリンクしてると思います。
箸墓は布留0で250年頃でいいと思います。箸墓の被葬者は卑弥呼に
なりますね、時代的に見て。
庄内の時期が大体100年くらい続いたと。
上にも書きましたが、「卑弥呼共立後、マキムク型がまったく無い」とは言ってません。
「すべてを縦一列」とも言ってませんし。
ただ古墳が王権の祭祀として重要な役割を果たしたことから考えて、
マキムク型が箸墓以前の王墓である(すべてではないですよw)ことは疑いないとは思います。
卑弥呼共立以前に大和川水系豪族、東瀬戸内豪族の連合があって、ヤマト国が誕生。マキムクの建設。
200年頃にヤマトの女王が吉備、越、東海、丹波などに担がれて、倭国連合が誕生。
マキムク型をどう捉えるかだよね。
寺沢が言うように、あくまで各地(吉備や筑紫)のオウたちがマキムクの地に突然集合して(明治維新のようにw)、
それぞれ思い思いに墓を造っただけなのか。
この説だとマキムク開始は卑弥呼共立以後の話になるわけで、庄内開始が200年とした場合、
大体箸墓は3世紀末になるので、おそらくは箸墓は卑弥呼の墓にはならない(径百余歩の問題はあるけど)。
箸墓に先行するマキムク型のひとつが卑弥呼の墓になるだろう。
箸墓の被葬者は台与が妥当か。
年代的に妥当な考えと思う。トヨはAD266で31歳だから無理はない。
>>481 「倭国」連合に九州が入ってないなら、「倭国」王になれないよ
481の想定だと、それは近畿ヤマトという田舎の土豪の王に過ぎなくなる
公孫氏の時期でも楽浪土器の出方からは、最もつきあいが深いのはやっぱり北部九州
よく言われる画文帯にしても、庄内期の出土はごくわずかで、しかもヤマトには無く、ホケノ以降、布留0から増えて布留1に出土量がピークになる。
つまりは庄内期にリアルタイムに入っていたか疑問。
後から出る画文帯を除くと畿内ヤマトが公孫氏と直結していたか疑問。中平太刀も布留2の時期の出土だし、それまでの来歴が不明。
マキムクのどれかが卑弥呼墓で(例えば少し大きな勝山とか)、石塚とかさらに古いのは倭王卑弥呼ではなく、共立に功のあった副王(実質的俗王権のある男弟とか)の墓でもいいと思いますが。
いずれにしても倭王以外も「複数系列」で作っているから、どういう想定もアリだよな。
布留新相に完成の箸墓が、多分布留0最初頃の250年はキツいと思う。
布留0の年代幅の末の275年前後として、トヨの墓にした方が無理が無い。箸墓が卑弥呼墓というのを前提にする考えはまだ危ない。
485 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 11:18:52
>箸墓の被葬者は台与が妥当か。
ふむふむ。
中国史書をストレートに俎上に挙げてマキムクを論じるのはどうよ。
俺から言わしてもらうなら、スレの趣旨
>>1とは全く折り合わないと思うぜ。
もし墓制に触れたいのなら、
木棺、(石囲い)木槨 (或いは二重木棺)、石槨、葺石、(器台を伴わない)壺供献、・・・etc.
まだちっとも議論していないことが、いくらでもあるだろ。
まあ纏向で内部構造が判明してるのはホケノだけだが、
中山大塚、下池山、天神山、黒塚、桜井茶臼山、メスリも近隣にあることだし・・・。
487 :
486:2008/03/30(日) 11:58:04
「玉製品のの非副葬」、もだ。
>>486 倭人伝抜きで3世紀の日本は語れない。もし倭人伝が無かったとしたら、
マキムク等の考古資料だけで、AD200頃に北九州〜近畿の連合政権が誕生したなんて言うヤツが居たらDQN扱い。
までは行かなくても異端視されたのは間違いない。
倭人伝で卑弥呼が共立され、その倭国の範囲も想定できるから、寺沢氏の様な本来なら「突拍子もない説」に十分な信憑性がある。
倭人伝抜きで語りたければ考古学板でやればよい。そっちはちゃんと邪馬台国厳禁って書いてある。
>>488 倭人伝によりかかり過ぎるのはどうよ、と思う。全く使わないのもアレだが。
しかし考古学だけでも、例えば寺沢や北条が整理したように、前方後円墳祭祀の諸属性の起源を見るだけでも、倭人伝抜きで、単純な畿内自生ではない諸国大連合説が出てくるのは妥当と思うぞ。当否はまた別として。
整理したていうけど何を根拠にどの程度まで整理したのかな?
科学的根拠はどのくらい反映されているんだろうか?
それが明らかにされない限りいつまでたっても世間からは認められないよね
>>484 筑紫は初期倭国連合と対等の同盟関係だったのでは?と思っているので。
筑紫は比較的後代まで独立性を保ったのではと考えている。
本当に筑紫が倭国連合に参加したのは4世紀以降では、と考えている。
初期ヤマト王権は奴国と対等同盟関係を結び(庄内3式以降)、
対外交易をするようになった。
画文帯が流入する時期を考えればそうなる。
もし仮にマキムク開始時より筑紫が参画していれば、もっと早い段階で
中国遺物、舶載鏡が畿内に入ってきていた筈。
492 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 20:01:12
>>477 どうも最近
土器を搬入したがるやつらが多くて多くて
493 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 20:27:30
>>488 倭人伝を読んで近畿ヤマト云々が解らん?
倭人伝には九州までの事しか書いてない。
纏向の事等全く触れられていない。
ここの住民は妄想に取り付かれている。
494 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 19:27:14
>>491 >筑紫が倭国連合に参加したのは4世紀以降では
実年代だとなんですが、確かに布留以降でしょう。
庄内では対等互恵。
この時期に北部九州が優位を失った原因は判りませんが、
対半島交易の利権をめぐって、深刻な内部対立が有ったのでは、
などと考えている。
この時期、西日本で半島系土器の分布域に差異が見られることが、
かすかな傍証の妄想ですが。
北部九州が本格的に失速するのは古墳時代前期以降では?
496 :
サガミハラハラ:2008/04/03(木) 07:31:06
九州が大和政権の傘下にはいったのは垂仁天皇(288〜314)のころです。
傘下とはいっても連衡だったようです。
ですから、4世紀以降、古墳時代前期以降というのは近いと思います。
497 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 21:47:55
>>487 >「玉製品のの非副葬」、もだ。
「の」がダブってるよ〜。ww
これホケノ山古墳のことだね。
纏向のホケノ山だけじゃなくて、古墳時代早期や前期初頭にできた有力古墳の中に
玉製品を副葬してないのが結構あるんだよね。
弥生の「王墓」とされてる墳墓は、北部九州でも吉備や出雲や丹後でも
ほとんど玉製品を副葬してるっつーのに、なんかフシギだにゃん。ww
ホケノ山古墳は石囲い木槨や画文帯神獣鏡なんかで
よく似てる阿波の萩原1号墓との関連が言われてるけど、
あ、俺、関連なかったて言うつもりはないんだけどさ、
関連はあったんだよたぶん、あ、いや、ぜったい関連あった、ww
でもさ、萩原1号墓は管玉が出てるんだよ。4個だったっけ。
でもホケノ山には玉が全然ないんだよ〜。うえ〜ん。ww
だれかうまいこと説明してくれ〜。ww
498 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 23:56:39
>>497 ホケノ山ってのはよくわからない。埋葬者も複数だし。
主体部の石囲い木槨ってのは間違いなく阿讃の正統後継型。
石塚山2号墳、萩原1号墓・2号墓との関係は?また同様の構造を持つ綾部山39号墳は?
葺石は地元纏向川の河原石を並べている。また、コウヤマキ製木棺からは埋葬者が高貴な人物であったことが推察される。
木棺のC14測定によると伐採年を2世紀末〜3世紀前半、埋葬時期も3世紀とされる。
石壇?の上に一定間隔で並べられていたとされる庄内式の二重口縁壺類は、
埋葬場所を囲むという特性から、後の特殊器台を彷彿させる。
前方部に葺石をはがして木棺にあとから簡易埋葬された人物。主体部の被葬者との関係は?
内部にあった巨大壺と被葬者との関係はどう考えたらいい?
内部の巨大壺は西部瀬戸内地方(いまの山口県あたり)独特のものという。
ただ内部から出たほかの壺はマキムク製と東海系という。
そして横穴式石室。なぜ既存の古墳にわざわざ横穴墓をつくったのか?
被葬者は大神神社によると豊鋤入姫墓とされるが…、それを知っていながら墳丘に敢えて横穴を開ける
その理由はなんだったのか?数世紀あとに縁者が埋葬されたとでもいうのか?
わからないことが多い
499 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 02:10:37
いつになったら発掘するんだ考古学者は
500 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 11:55:54
何処を?
巻向
今年から
503 :
虹歩命:2008/04/05(土) 23:22:50
纏向遺跡はこれ以上hおっても今まで以上のものはでません。
都のようなものを発掘したいなら、東の山裾の発掘がよいでしょう。
崇神垂仁の宮があったと伝えられている所です。
505 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 02:02:05
どうなんだろう?
今後の発掘対象地域に含まれるのかねえ?
教えてエロイ人。
崇神の「磯城瑞籬宮」伝承地は古墳時代前半の
”狭義”の纏向遺跡からは外れるんじゃねえの?
垂仁の「纒向珠城宮」伝承地
景行の「纒向日代宮」伝承地
・・・はその範疇に入ると思うけど。
あと
雄略の「泊瀬朝倉宮」伝承地
武列の「泊瀬列城宮」伝承地
・・・は三輪の東南だけど何らかの調査はされているんだろうか?
506 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 13:22:47
507 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 01:16:19
>>505 磯城瑞籬宮が存在したのが、今に伝わるように志貴御県坐神社の
位置であるかどうかもわからない。実際のところここは結構な斜面で
古事記に示されるような水垣をつくることなどできそうにない。
纏向遺跡は2`四方とも推定されるが発掘されたのは全体の5%以下。
当面はこの地を丹念に発掘するよりない。
>雄略の「泊瀬朝倉宮」伝承地
こちらは1984年に発掘調査された脇本西遺跡・東遺跡ではないの?
纒向遺跡とはなんだろう。
政治都市という説もあるが、宮殿も大型建物も見つかっていない。
そもそも建物が密集しているわけでもない。
古墳築造労働者の宿舎群という説もある。そのためだけに水路を作った
のだろうか。
交易場所(市場)という考えもある。箸墓の場所は「大市」と言われていた。
つまり、市場である。各地からの搬入土器が多いのも説明できる。後世に
宮殿所在地として伝承に残らなかったのは市場だったからかも知れぬ。
確かに高床式住居のような柱の建物跡のようだが、
綺麗に区画された水道はどういう意味があったのか
5%の発掘で性急に結論を求めるのはどうか。
400年近く続く古墳時代の始まりの画期がマキムクであって、
倭王権力の誕生と不可分に語ることは出来ないと思う。
マキムク駅周辺の初期マキムク京の発掘の現状はどーなってんの?
卑弥呼の宮殿早く見たい。
512 :
サガミハラハラ:2008/04/13(日) 23:32:05
初期マキムク京なんて存在しませんよ。
巻向は庶民の居住地です。
権力者は東の山裾にすんでいました。
513 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 00:59:09
搬入土器はカエレ
514 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 12:19:21
邪馬壹國が畿内説をいまだに主張している学者は学者じゃないよな。
学者のふりをしている宗教家だな。
邪馬壹國畿内説はカルトだな。
515 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/14(月) 12:26:17
そのとおり。
邪馬台国厨は帰れ
>>512 なるほど、山裾の高いところに宮殿を作って庶民を見下ろしていたの
かも知れませんね。
しかし、伝承では山裾の方に宮殿が集中して作られているわけでも
ないので、一般化できないのでは?
518 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:05:09
搬入土器はカエレ
邪馬台国がどこかなんてどうでもいい
519 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:19:24
>>512 その「庶民」と言うのはどう言う身分の人間なのかな?
どの道、地形的に稲作には向かず一次産業従事者=農民の集落があったとは考えにくい。
てか政治宗教に特化した都市or国と言うのが今のところ言われている纏向の姿だと思うが・・・?
520 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 09:34:02
>>518 どうでも良くはない。
マキムクが邪馬台国でないとするなら、同時代に存在したはずの邪馬台国はどこにあるんだ?
九州か?四国か?エジプトか?
大体、倭人伝が無く考古資料だけだったら日本の3世紀像なんてどこまで描けるんだ?
2世紀の帥升の北九州倭国←日本のルーツ。4世紀の半島派兵まで力を付けた大和朝廷。
重要なポイントのハズだがその具体像は見えてこない。考古学だけではこんなモンだ。
倭人伝の知識がデフォで頭に入ってるのをコロッと忘れて、
さも考古学だけで3世紀の初期ヤマト王権が見えてきたと勘違いしてる人大杉。いやそんなに多くはないか。
だから別スレ行けって
523 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 22:32:20
>>521 >2世紀の帥升の北九州倭国←日本のルーツ。4世紀の半島派兵まで力を付けた大和朝廷。
>重要なポイントのハズだがその具体像は見えてこない。考古学だけではこんなモンだ。
考古学だけでは、といいながら例示されているのは文献じゃないか!
文献至上主義者は勝手にドンと来いでも終止符でもいいからオナニーしてろよ!
つうかここはあくまで巻向を考古学的に語るスレだろ
邪馬台国とかってのはスレ違い
まあ考古学板じゃ無いし年代的にも邪馬台国と被るから仕方ないっちゃ仕方ないんだがw
でも邪馬台国論争の歴史を俯瞰すると考古学に期待したのはむしろ九州説の方が先なんだよねwww
白鳥庫吉ですか
>>524 考古学に軸足を置いて、文献を語るのが正しいスタンスだろ。
文献を全く無視する態度は思考停止と非難されても仕方がない。
実年代が確定しないと考古学と文献のすり合わせが難しいのは、確かにそうだが。
文献を無視しろってことじゃなくて邪馬台国論争を持ち込むなってこと
巻向が邪馬台国と関係があると断定しちゃってる奴がそもそも多すぎる
>>528 そら関係あるだろ。
イコールかどうかは別にしても、無関係と考える方がおかしい。
とにかく実年代だよ。
でも、国内の出土物から決定的な代物は、もう見いだせないと思う。
これからは韓半島との相対編年作成にに注力して、
漢字文化の恩恵をより強く受けたはずのあちら側で決
定的な遺物がでるのを待つしかないよ。
実年代もある程度絞れてきてるだろ。
庄内開始の実年代が2世紀半ば〜3世紀初めくらいまでは確定。
マキムクが邪馬台国と関係があることは、最早議論の余地がない。
文献軽視は問題だと思うぞ。
記紀も、少なくとも8世紀の大和朝廷が編纂したもの。
大和朝廷に直結するであろうマキムクの倭王権についても、
ある程度の伝承が8世紀の当時、伝わっていたと考えるべき。
で、8世紀の大和朝廷は、皇室氏は日向出身であるとして、筑紫出身であるとは
していない。
初代天皇はあくまで大和で即位している。大和など五畿が中原、王都であるという思想が
すでに形成されている。
当初葛城地方に本拠があって、後に三輪→河内に移っていったと考えている。
箸墓には霊能力の高い巫女が埋葬されている。
箸墓=崇神の次世代・垂仁の時に、殉葬の風習が改められた。
533 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 00:37:16
>箸墓=崇神の次世代・垂仁の時に、殉葬の風習が改められた。
埴輪起源のお話だろうが、そもそも奴婢の殉葬なんて現在まで実例が認められていないしw
まだ巻向が邪馬台国と関係するという物的証拠がない限り邪馬台国論争を持ち込むのは時期尚早では?
取りあえず纏向の全体像をはっきりさせて欲しいね。
>>533 根拠薄弱というか、記紀に書かれてることをそのまま書いてるだけだろ。
記紀、読んだことある?
勿論全てが正しいと言ってるのではなく、少なくとも8世紀の大和朝廷
(おそらくはマキムク王権の子孫たち)はそういう認識だったってこと。
魏志倭人伝の殉葬記事って元ネタ何なんだろうな?
当時の中国でも殉葬の習慣はなかったはず。
むしろ薄葬令なんて出ていたわけだし。
ただ当時の中国では、「主人は奴隷を殺しても可」という
意識があったことは事実。
有名な曹操の遺言も「ほんとうは生前の侍女たちを殉葬させたくして仕方がないのだけど
あんまり派手な墓を造ると荒らされるから仕方なく我慢した」と曲解しようと
思えばできなくもない(w。
魏晋時代の権力者たちには、「本音では奴婢を殉葬させたい」という願望が
あってそれが出来なかったら異国の女王に自分たちの夢を投影して
あんな記事になったのかもしれない。
文献畑のすれ違いの話すまそ。
すれ違いの続きだけど、
漏れは垂仁紀の埴輪起源説話は、
日本書紀の編者たちが魏志倭人伝を読んで思いつたもので
日本古来の伝説ではないと憶測している。
541 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 13:26:56
文献無視で考古学だけで、っつーなら完全に板違い。
ただ文献になると九州しか出てこないから畿内説の人間には
我慢できない上に反論できないからスレ保つのにきつすぎるんだろうね。
542 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/18(金) 13:52:26
>>540 具体的論のつっこみがなけりゃぁ、君が妄想を思いついたとしか考えにくい。
543 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 17:50:07
>>541 マキムクのスレになぜ九州説とか畿内説とかあるの?
邪馬台国ネタを持ち込みたくて必死な奴がいるなw
今日、夜10時から
奈良テレビで
報道特集 邪馬台国はマキムクにある
が放送されます
546 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:06:10
>>545 情報、乙、
ベニバナ染め、参考になった
花粉分析はたいへんな仕事だな、よく見つけたもんだww
547 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:16:15
内容を10分刻みで要約しる
548 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 03:05:58
ベニバナ花粉は分析花粉の1%
549 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 09:22:43
藤ノ木古墳の石棺からも紅花の花粉が発見されてる。
発見した人が水路のどろの中から紅花の花粉を発見した人と同じなんだけど。
550 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 10:37:03
552 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 18:27:59
考古学板から逃げてきた基地外どもの避難スレーーー
553 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 21:58:48
554 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 17:32:01
そうそう、邪馬台国でもどうでもいいわな。
だって考古学板じゃ邪馬台国畿内説コテンパンにやられてるから
「邪馬台国」をひとことでもだしたら又コテンパンにやられる先が
見える畿内説信者たち。
本当に邪馬台国などどうでもよく考古学で語りたいならさ、ここでスレつくる
わけもないのに、本当に頭の弱い邪馬台国畿内説信者たちwwww
巻向スレで何で畿内とか九州とか出てくんだよ
奈良県にあるんだぞ
邪馬台国が大和マキムクでないとするなら、いったい何処?
吉備楯築? 東海朝日遺跡? 伊都平原? 阿波萩原?
巻向は市場でしょ。邪馬台国とも関係ないし、大体
年代もごまかされてるから議論のしようがない。考古学で語りたいなら
考古学板へどz−
558 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 00:39:03
409 :日本@名無史さん:2008/04/23(水) 21:00:40
前方後円墳という墓の形を考えたとき、
後円部では円形に丸く土を盛る、ということがあるが、
こういう円形的な要素が九州の弥生期の墓にもたくさん見られるのなら
九州勢力の東遷も考えられると思うが、
どうも九州にはそんな円形系統の弥生墓は希薄なのではないか。
九州で古い円形系統の墓ということで調べてみたら
小郡市の津古生掛や佐賀県三養基郡の姫方遺跡雌塚、武雄市の椛島山の墳墓があるらしいが
もう古墳時代初頭のものかもしれない。
これらよりもっと古い確実に弥生後期の中でつくられた円形系統の墓が九州にたくさんあればいいのだが
平原遺跡も方形だし、なかなかというかもうほとんど見当たらない。
吉野ヶ里の北墳丘墓は弥生中期までさかのぼるらしいがあれも方形だ。
しかし全国に目を転じても弥生後期の首長墳墓はやはり方形系統が多く
出雲や北陸の四隅突出型も方形、丹後半島の台状墓も方形だ。
そのほか近畿東海東国でも方形系の周溝墓が主流のようなので
なかなか前方後円墳の円形的な要素に結びつけるものがない。
そんな中、この地域は弥生の頃から円形的な要素があるな、と思うのが
瀬戸内の東部ではないだろうか。吉備、播磨、讃岐、阿波だ。
まあなんとなくの印象で不勉強でもあるし具体的な遺跡名はこんどきちんと調べて書きたいが
倉敷市の楯築などは円形丘が中心となっているし
赤穂市にも円形の有年なんとか遺跡という弥生墓が面白かった記憶がある。
よくご存知の人がいれば教えてほしいと思う。
前方後円墳の円形的な要素の源は東部瀬戸内以外に考えにくいと自分は思うがどうだろう。
559 :
サガミハラハラ:2008/04/28(月) 08:42:16
560 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 10:24:31
561 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 10:24:55
562 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 10:25:22
563 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 10:26:45
564 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 10:27:24
コピペ連投ウゼー
566 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 11:57:46
567 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 11:58:06
568 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 11:58:36
569 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 11:59:05
570 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 11:59:33
571 :
サガミハラハラ:2008/04/28(月) 18:54:39
こないだ、なんかで四国の徳島県って言ってたが、どう思う?
>>559 甘木説コピペ 04/28(月) 08:42:16
>>560-564 RM1-b遺伝子コピぺ 04/28(月) 10:24:31〜10:27:24
>>565 連投ウぜーの名無史さん 04/28(月) 10:39:14
>>566-577 RM1-b遺伝子コピぺ 04/28(月) 10:24:31〜11:59:33
>>571 甘木説コピペ 04/28(月) 18:54:39
574 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 22:30:57
575 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 00:55:12
邪馬台国=山口組説
両方とも単体がデカクナッタのではなく、連合体だからな。
くな国は住吉連合
伊都国は会津小鉄あたりか
>>575 そうそう。三角縁と前方後円墳が山菱ブランド。
そのブランド力を使って、各地の首長たちは地方支配。
大和はその政治力で地方抗争に介入。
>>577 > 三角縁と前方後円墳が山菱ブランド。
> そのブランド力を使って、各地の首長たちは地方支配。
そのブランドが幅を利かしたのは、卑弥呼よりもう少し後の時代(3C後葉以降)だね。
卑弥呼時代のブランドは、やはり倭人伝で言われる「鬼道」と中国王朝のお墨付き。
そして、そのブランド力を獲得するには、流通システムの基幹を押えるとか、
先進的な生産手段(労働力と生産地)を確保しているとかの要素が必要だと思う。
>>578 畿内をひとつの勢力で考えれば、吉備や筑紫より大きいと思うよ。
少なくとも人口的には。
マキムクとは、畿内首長層が談合で結集し、大王権力化。その結果として造られた都。
580 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 01:37:28
>>575-579 だからおまいら
>>1を読んでるのかっての
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
>>580 ヤマト王権が全国規模に拡大する過程で、それらの地域が参加。
前方後円墳を造った、ってことでは?
特に筑紫の参加は、比較的遅かったんではないかと思うのだが。
491 :日本@名無史さん:2008/03/30(日) 21:48:44
>>484 筑紫は初期倭国連合と対等の同盟関係だったのでは?と思っているので。
筑紫は比較的後代まで独立性を保ったのではと考えている。
本当に筑紫が倭国連合に参加したのは4世紀以降では、と考えている。
初期ヤマト王権は奴国と対等同盟関係を結び(庄内3式以降)、
対外交易をするようになった。
画文帯が流入する時期を考えればそうなる。
もし仮にマキムク開始時より筑紫が参画していれば、もっと早い段階で
中国遺物、舶載鏡が畿内に入ってきていた筈。
583 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 17:25:24
>>575の邪馬台国=山口組説ってのは
実は初期ヤマト連合を説明するモデルによく使われる。
ただ本家(この場合は畿内ヤマト)に絶大な権力や決定権があったかどうかは疑問が多い。
>>578の言うように、支配というより連合参加国を増やしていく時期と言うのは4C以降だろう。
そのブランドに前方後円墳と三角縁神獣鏡があったというモデルは
今ではこれも疑問符がつく(出土事実と必ずしも整合しない)のだけど
この辺りは発掘待ちだね、もっとサンプルが欲しい。
>>582は?
>本当に筑紫が倭国連合に参加したのは4世紀以降では、と考えている。
ここは良いのだけど
>初期ヤマト王権は奴国と対等同盟関係を結び(庄内3式以降)、
>対外交易をするようになった。
>画文帯が流入する時期を考えればそうなる。
庄内3式や画文帯は4Cじゃなく3Cですよ。
これらは連合参加と言うより、それ以前からの交流によるもので
筑紫での庄内式の爆発的流行が連合参加の証としたほうが良いのではないか?
>>583 >邪馬台国=山口組説
じゃあ卑弥呼は「極道の女たち」の岩下志麻のイメージでw
「舐めたらアカンぜよ!」(←作品が違う!
>>583 >筑紫での庄内式の爆発的流行が連合参加の証としたほうが良いのではないか?
うーん、どうなんでしょう。
筑紫の参加が3世紀だとしたら、マキムクからもっと鉄器が出てこないとおかしい気がします。
あくまで、4世紀頃まで、ヤマト連合と玄界灘グループは対等の同盟関係で、
ヒラバルの後継たる筑紫王は、鉄カードを用いて大和王と交渉していたように思うのですが。
山口組も実態は連合政権に過ぎない訳で、内部での主導権争いが激しい。
今や東海勢力である弘道会が牛耳ってる。
初期マキムクの大王位が、有力豪族たちの持ち回り、ってのが妥当な線
マキムクにも博多からの鍛冶工房がありますが
>>587 村上の著作を読む限り、マキムク時代の鉄技術は未だに、
筑紫>大和
圧倒的に
おまいら鉄中毒だな
村上は柳田に気を遣いつつも、マキムク王権を銅鐸勢力の後継では?
とか言ってるしな。
筑紫参加は比較的遅いと思ってるだろ
そんなこと言ってるかいな?
大和を銅鐸勢力と呼ぶのには違和感があるな。
もしかして、自生じゃなくて吉備東遷説っぽいイメージか?
593 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 02:46:06
鉄は非常に大事。
都合の悪いことがでてくると中毒などと使って
言葉のあやでごまかそうとする極めて低俗なやつら。学問など語る資格はない。
594 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 05:34:50
>>593 鉄を無視するわけにはいかんが
鉄の保有数の逆転が起こる前に政治的力の逆転が起きているのも事実
(出土した漢鏡の編年の結果等)
・・・てかこのスレなら「過去ログ嫁!」って一言で終わる話だなw
>>590-592 そう言えば今まで考えたことなかったけどw
弥生末期の巨大銅鐸って製作の中心地 ― 工房のあった場所 ― って特定できてるの?
状況証拠的には大和より近江っぽい
596 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 23:45:23
>>595 半島・九州から出雲経由の日本海ルートで
先ず近江に根付いたとか?
598 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 13:51:22
銅鐸生産センターで有力なのは唐古鍵だろ
600 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 00:21:59
巨大銅鐸の出土の分布見ると確かに近江・東海に多く
加えて和歌山の南部にそれらに匹敵するほどの密度で見られるがアレはナニ?w
東海は三遠式だから別だとして、、、
単純に近江・和歌山南部それぞれが巨大銅鐸生産地であったのか?
それとも鋳造関連遺物が多く出土する唐古鍵(プレ纏向?)が生産地で
現代の中国の「パンダ外交」宜しく、銅鐸外交の結果両地域に集中したのか?w
近江には5様式後半から庄内初め頃の鋳造関係遺物が集中しているよ
銅鐸そのものの鋳型は不明だが、末期銅鐸の分布と鋳造関係遺物の分布は符合する
唐子は後期後半の鋳造関係遺物はほとんど無い
>>601 それは青銅器崇拝の決別の時期のズレが原因では?
周辺部で比較的後代まで銅鐸崇拝が続けられたっていうことで。
銅鐸の出土分布についても、数が少ないのではっきり言えないが、
廃棄方法の違いが原因ではないか。
一括でまとめて埋める地域と、粉砕して再利用する地域との違い。
紀伊はともかく弥生では近江は周縁部ではない
伊勢遺跡とか見よ
大和に後期後半の顕著な青銅器鋳造の証拠が無い
また、あまりに早くに大和が銅鐸祭祀を捨てたとしたら、銅鐸祭祀の中心から、そのまま古墳祭祀の中心に移行したというテーゼ?wにも抵触する
むしろ、後期後半にはすでに銅鐸祭祀の周縁部で中心ではなくなったところだからこそ、外部からの強い影響や入植で新しい広域と関係する体制ができたという方が実際だろう
あいかわらず唐子と書いてるな。
大和が銅鐸の中心で無くなった(廃棄した?)という弥生後期後半と、
石塚築造との間、そんなに期間が空いてるんですかね。
青銅祭器訣別=古墳祭祀の始まりとした方が理解し易くはない?
私は大和中心史観ではないけれど、大和を過度に政治的空白と考えるのは
どうかと思いますが。
理解しやすいということと実際の事実はまた別
実際の事実って重複表現のような。
まあそれは置いとくとしても、考古学的事実とその解釈を混同してない?
要は、その解釈の仕方の相違なんであって。
そもそも唐古で銅鐸の完形は見つかってなかったような。
唐古は後期初めまでの鋳型片はたくさんある訳だが
>>609 鋳型片は、石製→土製に替わったから、残りにくくなっただけでしょう。
マキムク型が吉備の楯築墳丘墓の影響を受けているのは間違いないが、
特殊器台が布留以降であることからも分かるように、吉備→大和直接ではなく、
阿讃播地域でワン・クッション置いていると思う。
つまり、吉備→阿讃播→大和。
近藤が拘る吉備東遷は、箸墓が最古でなくなった時点で消滅している。
むしろ、東海、阿讃播、丹波の影響が大きいように思われる。
612 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:52:23
近藤って?
近藤芳郎
後期初めのは土製鋳型が唐古から出ている。たくさんあれば出るはず。近江の後期後半のも土製鋳型がいくつもあるから。
土製の鋳型が残り難いというのが原因では?
616 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 11:15:08
後期のいわゆる見る銅鐸が、原材料と様式の同一により、同一工房で製作された可能性が高いこと。
中心勢力が銅鐸を周辺に配布したと考える方がいい。
近江が中心とした場合、紀伊や東瀬戸内地域の銅鐸分布の説明が出来ない。
弥生後期後半、畿内を中心に銅鐸を共通のレガリアとした首長連合の成立の可能性。
それは、プレヤマト王権の勢力圏とほぼ重複する。
唐古鍵とマキムクの断絶を殊更強調するために、あえて弥生後期の大和川地域を
政治的空白地とする見方には賛同出来ない。
もし仮にマキムクで外部勢力の影響が強かったとしても、都を造るのは政治的重要地であるべきだ。
自らの本拠地を遠く離れて都を造る以上は。
近年、畿内の遺跡で後期銅鐸の破片が発見されることが増えてきており、
大和の後期銅鐸出土の不在で、銅鐸の中心地が近江に移ったという説にも
疑問が出てきている。
近江で畿内式と三遠式の様式の融合が起きたのはそうかもしれないが。
畿内では銅鐸を破砕し再利用したため、出土しないというだけのこと。
1〜2世紀の畿内に、周辺地域へ銅鐸を配布・プレゼントした、プレ大和王権が本当に存在したのかどうか?
してません。次
確か巨大銅鐸(所謂”見る銅鐸”)の鉛同位体の分布が近似するって話があったと思うけど
それもあくまで原料の産地(鉱山?)が同一って事なんだろう?
近江や南紀に銅鐸を配布した製造元が畿内中心にあったとしても
もう少しそれを示す出土分布が欲しいところ。
「銅鏡にリサイクル」…って邪馬台国九州論者から
「鉄の時に聞いた話」とか言われるヨカーンw
まあ以下話しのネタ程度だけどw
銅鐸を一括生産した中心地があったという説で南紀との関係に付いて述べた説で
四国の南方、太平洋コースを通ってやってくる脅威に対抗し南紀との連携を強めたって話がある。
高知に銅矛文化の強い影響が見られる事をその傍証としていたみたいだけど。
それまで半島・九州から畿内への海上ルートは瀬戸内海、日本海は考えて
太平洋は考えてなかった自分にとって新鮮ですたw
622 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 08:40:10
纏向遺跡は小規模過ぎて問題になりません。
623 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 10:07:38
>>622 そうだね。1.5km×2kmの範囲のうちまだ5%しか発掘してないもんな。
624 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 11:29:07
>>621 原料の産地が同じってことは、外国から一括輸入して作ってるということ。
適当にそこら辺にある青銅製品をつぶして使った訳じゃなく、
銅鐸を大規模に生産してると考えられる。
近江生産だと東瀬戸内や紀伊に分布する訳が無い、というのは思い込みだろ?
後の時代の様相を過去に投影するなって。
ヤマトだけ廃品回収を徹底したとか、鉄器で言われていた妄説と同じ感じだが。
土製鋳型としても、なぜ大和だけがより残りにくいのか訳わかめ
近江では土製鋳型片が後期後半でも出土している訳だが
末期銅鐸の近畿式と三遠式の融合があった可能性も認めるならなおさらだし
なんだ、やっぱり妄想前提なのか。怖杉
>>626 違う違う。
土製だから残り難いのは大和だけ、と言ってるわけじゃない。
見つかり難いから、大和ではまだ見つかっていないということ。
考古学の限界というか。
この銅鐸の議論は、昔の三角縁神獣鏡論争と似ている。
昔は大和から三角縁が出土しないことから、大和王権が三角縁を配布した
という説に疑問を言う人がいた。
結果は、黒塚の発見。
後期銅鐸もそうで、大和を中心にドーナッツ状に分布。
それをどう解釈するかの問題。
それまでの、地域でそれぞれに作っていた銅鐸が、
後期銅鐸で一括生産・配布される状況をどう解釈するかだと思う。
青銅器は当時重要な祭器。
北部九州の広形銅矛のように、銅鐸を用いた政治体制が誕生していたと
考えられるのではないか。
つまりは、銅鐸を共通のレガリアとした広域首長連合の誕生。
畿内以外でも、東海でも三遠式銅鐸で同じような現象が起きていたと。
銅鐸は後に画文帯→三角縁にその座を譲るわけだが。
後期銅鐸の生産センターを、後の大和王権に繋がる勢力と見た場合、
近江では相応しくない、ていうか実力不足。
実力不足とか決めつけだよな
古墳前期の様相で前の時代を決めるなって
だいたい、後期銅鐸と画文帯って分布が同じとは思えないが
画文帯は紀伊にはないし、近江にも少ないが
>>631 そういう反論の仕方だと、見る銅鐸をレガリアとした広域政治連合の存在を認めたことに
なるけど、それはそれでいいの?
近江勢力が見る銅鐸を一括生産して各地の首長に配布したと?
633 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 18:44:03
そもそも銅鐸と三角縁では、祭器としての性格が違うのだから、
一緒くたにしたような議論は意味がないと思うが。
>>633 後期銅鐸が一括生産され、一括配布されている以上、
非常に政治的意味合いの強い祭器であったと考えるべきでは?
>>632 近江銅鐸は確かに巨大だが、初期の大型古墳が見られないこと。
野洲町よりむしろ、山城町に椿井大塚山古墳のある山背地域の方が
初期ヤマト王権の実力者として優遇されたことが分かる。
東海勢力の境界として優遇された時期はあったが、それはあくまで庄内後期までで、
大和と東海の関係が融和して以降は、むしろ冷遇されていたのだろうと。
三角縁が殆ど出ないことからもね
>>634 確かに、当時の政治=マツリゴトですからなあ
福永先生も、見る銅鐸の頃に、畿内勢力のまとまりがあったと言ってるしね。
筑紫東遷の柳田シンパの人々は、畿内を過度に政治的空白地として見ようという嫌いがある。
後期銅鐸の中心や配布の主体が近江であっても問題ないですが
古墳や三角縁の分布は時期が異なるのだから、だからどうした?
弥生後期は弥生後期の資料でモノを言えって言うのw
639 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 01:36:20
じゃ弥生時代後期の資料ってことで庄内式土器を考えてみる。
弥生時代後期、3世紀になると日本列島の事情が急変し、土器の移動が始まる。
これまでは地域ごとに特徴的な土器はほとんど移動しない、つまり自給的な地域経済圏(いわゆるクニ)といえるものであったが、
土器の移動、すなわち経済圏をまたいだ交流が発生する。
なかでも庄内式土器は畿内と吉備の文化の融合によって生まれたとみられている。
庄内式土器のなかで最も特徴的なのが庄内甕。煮沸用の鍋として機能していたと推定されるが、その薄さゆえ非常に熱効率に優れている。
これは、畿内における弥生土器の叩き成形技術と吉備地方に特徴的な内面削り技術との融合による技術革新であり、
結果として、燃料の節約による可処分分所得の増加ならびに調理時間の短縮による可処分時間の増加という
経済的に優位な状況をもたらし、畿内が他地域をやがて凌駕してゆく原動力になったと考えられる。
庄内式の陶土は生駒山地西縁から採取され、その生産拠点はいまだ未発見ではあるが土器の高密度分布域から
大和盆地の南部(大和湖南岸?)ならびにその下流域の中河内地域であろう。
いずれにしても量産体制がとられ、同型の土器は西日本へと大量に搬出されていった。
やがて北部九州においても庄内式の特徴を有する土器が現地生産されていることから、
技術伝播あるいは陶人の移動があったであろうことは間違いない。
庄内式を主軸に考えると、畿内と吉備との緩やかな連携により生み出された経済的優位性というものがまず出来上がり、
それが瞬く間に西日本一帯へと拡張していき、西日本における生産性の拡大に寄与し王権の萌芽となったと考えることができる。
つまり問題は同時期(いわゆる庄内期:200〜250年)の東海地域の経済事情がどのようになっていて
纏向に参入してきたか、という点にある…と思うんですが。
たしかに土器に関して言えば、畿内勢力とヤマト王権は地続き。
断絶はない。
しかし墓は、断絶を言われることが多い。
641 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 19:02:18
>>640 墓制の断絶というのはどう捉えるの?
支配者の交代とか??
>>641 政治改革とか宗教改革のたぐいでしょ。
別に外部入植者を、必ずしも想定する必要はない。
643 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 21:27:41
纏向に住居跡なんか殆どないよ。
良く調べてものを言うんだね。
纏向遺跡の終わる頃ようやくすこしだけ住居が現れる。
一方、祭祀をしていた形跡は沢山ある。
ここは祭祀場であり、その祭祀場としての役割が終わったから
住居が作られるようになったと解すべきだ。
墓もね。
>>643 >纏向に住居跡なんか殆どないよ。
>良く調べてものを言うんだね。
纏向遺跡で発掘調査されたのはまだ全体の5パーセントにもなってないんだそうです。
>>643さんは未調査の95パーセントの地域にも居跡なんかないとどうして分かるのでしょうか?
645 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 02:46:33
ただ現在までの結果で柱のサイズがあまり大きな物が出て無かったんじゃなったっけ?
…その柱からすると全て平屋?と言う話しも…
そこらへんは邪馬台国九州説論者にとっては朗報だろうなw
魏志倭人伝に記された『楼観』が無いって事で、、
なんでそこを突っ込まないかなーと、いつも思っているんだけどww
まあ鳥居があったなんて話もあるし、ひょっとしたら今の伊勢神宮の遷宮みたいに
「ビルト・アンド・スクラップ」繰り返していたのかもw
646 :
卑弥呼:2008/05/24(土) 03:37:32
スクラップ&スクラップ、 もはや倭国転覆しかない!
647 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 09:41:35
纏向遺跡には周辺各地からの土器が集まってきている。
周辺の諸族が纏向に集まって年に一回とか二回お祭りをしたんじゃないかな。
主に農耕に関する出土物が多いから、秋に収穫祭のような事が行われていた。
今の天皇家が行う新嘗祭とか。それを全国規模で行った。
人が住むところではなく、年に一度か二度集まって宿す仮住まい程度ならあったかもしれない。
邪馬台国の王都という可能性はないね。
>>647 考古学だけで考えれば、こんな結論になるわけね
649 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 10:24:43
>>647 その可能性はあるとは思う。
纏向が祭礼に特化した都市で
実際の政治的主体が水系下流の河内あたりで
そこに実際の政治を執り行った男王がいたとか?
でその祭礼都市の主が卑弥呼で
後の皇族女性をその地位に就かせた
伊勢神宮の斎宮や、賀茂神社の斎王に当たるような存在だったとか?
何れにせよ調査が進んでいるのは古墳のある西側だろう?
傾斜のきつい扇状地において人が恒常的に住むにはあまり適していないと言う。
特に箸墓のエリアなんて纏向川の氾濫に晒されるとか…
王宮みたいな物が出てくるとしたら東側なんだろうな…
当時の宗教、交易、労働力=軍事力が集中していたであろうマキムクが、
政治の中心地であったと考える方が自然では?
あえて、河内との二元政治を想定する、積極的理由はない。
5パーセントで結論を出すのは早すぎ。
後年、河内地方にシフトしていくのは、ヤマト政権の勢力拡大により、
交易・軍事の中心が大和から河内に移ったから。
652 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 19:54:09
>当時の宗教、交易、労働力=軍事力が集中していたであろうマキムクが、
>政治の中心地であったと考える方が自然では?
宗教はともかく、労働力=軍事力と言うのはどうかな?
武器類は殆ど出ていないし、箸墓築造は纏向祭祀が終わった頃だ。
労働力なんぞあまりなかった。
住居跡が見つかってから想像力を働かせればいい。
未だ見つかってもいない物を有ったかのごとく空想して歴史を語るのは歴史じゃない。
>>639 突線紐銅鐸は下限は庄内かもだが、主に5様式
弥生後期=5様式の時期の様相は5様式の資料で語るべきなんだが、
なぜか、もうマキムクが出来た庄内式や古墳が広まった古墳前期の鏡の分布で弥生後期の政治動向を説明しようとする人がいる
そもそも、後の時代の資料で前の時代を説明すること自体がおかしいことに気がつくべきだろう
655 :
639:2008/05/25(日) 13:34:19
>>653 庄内の誕生と分布のお話をしたのでうが、どこに銅鐸の話が?
銅鐸は、その型式をふくめ知識がないので、ぜひ解説をしてくだされ。
>>654 わけわかめ
656 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:58:15
>>644 >纏向遺跡で発掘調査されたのはまだ全体の5パーセントにもなってないんだそうです。
100パーセント発掘調査が済んでから議論するいいのに。
全体の5パーセントも発掘調査が済んでないものを議論するなんて時間の無駄。
658 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:14:29
>>656 そんなこと言ったら何の議論もできないがw
659 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:05:20
>>658 >>652が言っているように『未だ見つかってもいない物を有ったかのごとく空想して歴史を語るのは歴史じゃない。』
何の議論もできない・・・・事実。
660 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:16:40
空想が楽しいんじゃないのか?
>>652 いやさ、箸墓以降も継続的に巨大古墳が造られてるよね?
あと武具についても、ホケノから大量の鏃が出てます。
記紀にあるように、武具は国庫で一元管理されていて、
有事には古墳労働者に手渡され、軍団に組織されたのだろうと。
平時から武器を渡してたら危ないからね
>>654 >もうマキムクが出来た庄内式や古墳が広まった古墳前期の鏡の分布で弥生後期の政治動向を説明しようとする人がいる
>そもそも、後の時代の資料で前の時代を説明すること自体がおかしいことに気がつくべきだろう
庄内初めに、突然畿内王権が成立したと考える方が無茶だと思うよ。
X様式を通じて、倭国各地で遠隔地交易の重要性が高まり、首長層が連合し、
やがて広域に権力を行使し得る権力が誕生、成長していった。
そういった流れを読み解く必要がある。
「庄内初期に突然大王権力が生まれました」じゃ説得力が皆無でしょ。
↑それを5様式の資料で説明できなきゃ説得力が皆無
できなきゃ、庄内初めに大王権力が「形成され始めた」とすべき
初めから確立した大王権力が庄内初めからあったとは言えないだろ?
倭王が倭国全体で「共立」されたという意味を考えるべき
「見直す」を読み直しなさい
665 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 11:11:50
マキムク大溝は庄内初め
庄内式期にすでに5様式までの他の拠点より大きい
箸墓作っている布留0期にさらに巨大化し布留1式まで巨大
巻き向く大公は、庄内はじめというよりは五様式末
大溝の掘削は確かに庄内初めよりは5様式末だが、庄内初め直前の末の末
ただし、その時期の遺構数や遺構の広がりは少ないよな
669 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 12:15:44
670 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 17:20:00
庄内式土器は北九州からも出ているね。
九州に畿内人が行って九州を支配していた証拠なんてアホな事を言う香具師もいる。
しかし、それ以外に九州と畿内が関係しそうな物はないし、布留式以降は断絶状態。
どうして畿内が九州を支配していたんだろ。
671 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 19:36:02
いや、布留なら九州では庄内より更に広範囲から出ますが?
672 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 19:59:49
福岡の東の方だけ?
九州での庄内式の出土が畿内の九州支配を示すとかは違うと思いますが、布留以降は断絶とかありえないしw
西新町とか庄内と言うよりは布留前半で、もちろん布留も出てます。
布留の時期ならば、広く分布する前期古墳の内容から、九州と畿内がより密な関係になったのは明白
674 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:25:59
>>673 庄内とか布留1の頃に、北部九州から畿内にかけての超巨大王権が誕生していた、
というのは無理だろ、流石に。
古墳中期くらいまで、筑紫と大和が同程度の力を持って並立していたと
考えるべきでは?
3〜4世紀の畿内マキムクが全国規模の大王権力だったなんて誰も言っていない。
当時のマキムクの支配領域は大和川水系、東瀬戸内地域がせいぜい。
ただ、なぜマキムク王が後世の大和政権に繋がるような求心力を持ち得たのか?という疑問が残る。
魏が後ろ盾というだけでは説明できない。
畿内のアドバンテージはいろいろ言われてる。
西日本と東日本の結節点という交易上の優位さ。
肥沃な平野に裏付けられた人口の多さ。
銅鐸以来の宗教的権威。
北部九州に比べて後進的だったからこそ逆に、強大な王権が誕生し易かった
というのもある。
しかし、正直結果論だと思うのだが。
筑紫や吉備、出雲、東海に「ヤマト王権」が誕生する可能性は充分にあった。
ただ結果的に畿内に誕生したというだけ
実際、畿内がヤマトって呼ばれてたかも不明なんだけどね
679 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 02:51:37
>>676 5世紀に入っても馬見古墳群とかを見ると
奈良盆地ですら完全掌握していたかどうかもあやしいのでは?w
680 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 03:40:33
やはり三輪と河内ではその性格が大きく変わったのでは?
三輪=宗教的・受動的
↓
河内=軍事的・能動的
纏向の地は東瀬戸内の首長連合にあってはやはり端っこと言うか
強大な王権のスタート地点としては似つかわしく無かったのでは?
逆に言えば、だからこそ皆が安心して担げる神輿だったとw
>>674 伊都国にも布留は出ますが
奴国=福岡平野に比べたら段階的に畿内系土器の波及がやや遅れるだけの話
奴国はすでに庄内式から波及し初め、布留0段階にすでに多いが、伊都は布留1からという話
奴国以南の九州各地も似たような状況
布留式の波及が畿内王権の影響を直接示すかどうかは疑問がありますが
>>677 銅鐸以来の、というのは怪しい
弥生後期段階の大和の銅鐸は意外に少ない。弥生後期段階の銅鐸の宗教中心は、出土量と鋳造遺物の出土分布から近江の可能性が高い。伊勢遺跡などの様相もそれにふさわしい。
弥生後期も大和が中心のはずという話は、次の庄内期以降の様相から期待的に遡及して想像しているだけ。弥生後期段階の資料で組み立てられた証拠は無い。
また、後期銅鐸の分布と初期三角や画文帯の分布は同じとはとても言えず、中心の継続性を主張するのは強弁に過ぎない。
>>681 強弁に過ぎないかどうかは議論の分かれるところ。
同時代資料での説明がなされない限り、また分布には不一致が多く見られる訳で、結論が先に用意された強弁と言われても仕方ない希ガス
684 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 09:14:01
庄内式も布留式も九州発祥。
↑それはないw
根拠薄弱の妄説
686 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 02:10:36
なんで銅鐸と銅鏡を関連させたがるんだ?
687 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 07:18:14
銅鐸から銅鏡に変わったのは外来勢力が入った証拠だろう。
しかしそれは九州からじゃない。
半島からだな。
ホケノ山から出た鏡は半島製だし、土溝からは半島の農具が出土した。
いずれも九州からは出ていない。
688 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 11:45:59
689 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 19:55:35
>>681 >弥生後期段階の大和の銅鐸は意外に少ない。弥生後期段階の銅鐸の宗教中心は、出土量と鋳造遺物の出土分布から近江の可能性が高い。
畿内では鋳潰されて鏡になったんだよ。
田原本町の鏡作神社近くから銅鐸の鋳型が見つかっている。
鏡作神社が出来て鏡の材料として銅鐸を使った。
銅鐸職人は鏡作職人になって鏡作神社を祀ったのだろう。
そして三角縁神獣鏡を作った。
鏡作神社の神宝は外区の欠けた三角縁神獣鏡だ。
690 :
サガミハラハラ:2008/05/29(木) 20:12:00
鏡作神社付近が三角縁神獣鏡の製作地であるならば、決め手は大量の廃土(使い終わった砂型)であろう。
あの近くの湿地にうめたてるみたいにハイドを捨てたものとおもわれる。
691 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 20:55:14
邪馬台国を「日本国の発祥」みたいに解釈してるからオカシイんよな
あと日本民族は決して大陸から渡って来た移民族じゃないぞ?
>>689 また都合のいいことをw
鏡作神社のはいわゆる舶載三角の内区ですね。もし舶載三角が文字通り舶載ならあなたの説は成立しません。
鏡作神社ですから古い時代に鏡を近辺で作ったのは間違いないでしょうが、それは三角縁かどうかはわかりません。
伝世された御神体は単に倣製鏡のモデルかもしれません。
銅鐸と三角縁鏡は成分比、例えば錫の比率が異なり、鋳潰して鋳直したとしては成分が異なり、また鉛同位体比の傾向も違います。
何よりも、唐古の青銅器鋳造の遺物は今のところ、5様式前半までで、三角縁鏡の出る布留初めまで150年もの時間差があります。
693 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:46:59
>銅鐸と三角縁鏡は成分比、例えば錫の比率が異なり、鋳潰して鋳直したとしては成分が異なり、また鉛同位体比の傾向も違います。
錫とか鉛は鋳潰す際に加えればいい。錫のインゴットは吉野ヶ里から出ているはずだ。
錫や鉛は別に輸入され、追加されたのだろう。
そういえば鉛の同位体成分比は5世紀の北魏の銅銭に近いそうだが。
>何よりも、唐古の青銅器鋳造の遺物は今のところ、5様式前半までで、三角縁鏡の出る布留初めまで150年もの時間差があります。
三角縁鏡の出る布留初めってこたあないだろ。0、とか1、からは三角縁は出ていない。
>伝世された御神体は単に倣製鏡のモデルかもしれません。
たしか、おなじ内区の△鏡が犬山の古墳から出ているね。
同じ内区の画文帯もあったと思ったが。
>何よりも、唐古の青銅器鋳造の遺物は今のところ、5様式前半までで、三角縁鏡の出る布留初めまで150年もの時間差があります。
銅を溶かす設備があれば鏡作りなんてたいした技術はいらないし。
694 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 22:55:52
つか鏡鏡って言うけど「鏡」を神器として扱う理由ってどうしてですか?
もちろん姿を映して鏡としての用途もあるかもだけど、それ意外にも鏡には儀式上や信仰上の何かの意味があるんですか?
例えば今でもそこら辺にある神社でも御神体として鏡が納めてあるんじゃなかったっけ?
695 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 23:10:55
「天皇即位の大誉祭の儀式の中に、ヤタ鏡に天皇は自分の裸体を映し、菊の花弁に精液を掛ける」
見たいな儀式があったとか無かったとか聞いた事はあるw
つか天皇ってようはジャーマンで、神を降臨させて話を聞ける力を持つ人でしょ?
記期にも良く「天つ国から神々を呼び話を聞くと」とか「天照の言葉を聞いた神巧皇后は仲哀天皇にその事を伝えたが、、」とか
いわゆる神を降臨させて助言を聞く神着きの儀式でしょ?
天岩戸の話も、岩戸の前で鏡を使った儀式を行い天照を降臨させたって意味じゃないのかな?
三種の神器も確か神器を媒介として天照を降臨させられる血統を持つものが受け継ぎ、その血統を持つものが宗教上のいわゆるシャーマンキングの天皇の地位に着くんでしょ?
696 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/29(木) 23:24:43
「天皇」ってのは、権力者としての皇帝や王って意味より
最高司祭のシャーマンとしての「血統継承者」に与えられる称号でしょ?
信長や家康が天皇の座を奪わなかったのも、天皇ってのシャーマンの血統継承者だからと思うよ
祭司としての儀式や催事が天皇の仕事な訳だし
697 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 00:56:55
>>693 >三角縁鏡の出る布留初めってこたあないだろ。0、とか1、からは三角縁は出ていない。
三角縁神獣鏡が古墳に埋葬されるのは早くても布留2式期から、という意味ですか?
それは絶対おかしいです。
椿井大塚山古墳や西求女塚古墳などは古い古墳で、決して布留2式期に下るようなことはあり得ません。
布留1からが多いが、権現山とか布留0だろ
>>698 昔は椿井大塚山古墳は布留2という考えもあった。
古墳にある最も新しい土器が布留2とされたから。
その頃は、三角縁は主として布留2からとされた。
最近は椿井大塚山古墳を布留0とする説もある。
根拠はよく分からないが。
701 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 01:29:50
>>700 箸墓と椿井大塚山が同時期築造になっちゃうじゃんかw
椿井は布留1の幅の内
その中で新しいか古いか論者により違う
703 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 11:46:30
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
椿井大塚が布留2って、流石にないだろ。
wikipediaの読み間違いなんかな?
マキムク王権の版図・勢力範囲を、皆さんはどの程度だと思ってるのでしょうか?
3世紀初頭に畿内から吉備、筑紫までの全国規模の統一王権が誕生していたとか考える方はいるでしょうか?
>>705 「昔は筑紫がマキムクの主勢力でなければ対外交易出来る訳ないだろ」
とか極論を言う奴がいたが、今は流石にいない。
707 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 02:57:51
>>705 マキムク王の支配領域という点では大和盆地内でさえ限られた範囲の支配に過ぎないと思う。
708 :
九州王:2008/06/04(水) 07:44:38
>>705 3世紀初頭に畿内から吉備、筑紫までの全国規模の統一王権があったなんて言ったら笑われる。
何で笑われるのっかなぁ〜
710 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 19:03:47
壬申の乱で有名な不破の関の「不破」はもともとは地名ではなく
3世紀初めごろ鉄器生産に携わった渡来系技術者が天皇から頂いた
決して破れない(負けない)という意味の姓であると地元で伝わっており
この辺りが当時の大和政権支配地域の東端であろう。
711 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:29:42
ところで・・・
暇潰しに読んでいた、とある本に纏向に水洗トイレがあったとはっきり書いてあったが・・・
多分、例の浄化施設からの事だと思うのだが、水洗トイレで決着したのか?ww
712 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 02:27:39
>>706 主勢力とは思わないが、何らかの関わりはないとやはりおかしいと思いますけど
>>706 筑紫が主勢力とは思わないが、何らかの関わりはないとやはりおかしいと思いますけど
「共立」な筑紫の一部も深く関わりがあれのではないの?
714 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 13:53:23
同盟というか交易連合体が3世紀に発足して
それが九州から関東まで広がり、その中心がマキムクだったということだろう。
経済観点で見ずに、軍事などによる統一国家を想定するから本質を見誤るのであって
北部九州もその中に徐々に参加していったことは間違いないと思う。
その交易システムの中に宗教が使われ、例のパッチワーク古墳が出来上がり
ある巫女が祭祀王となって、最終的に魏から倭国王に認定されたということなんじゃないかな。
彼女がマキムクに居たかどうかは判らないが、案外商業地には居ずに
三輪山か、少し離れた天理市あたりに居たとは思うが。
715 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:42:26
>>714 >例のパッチワーク古墳が出来上がり
するってぇと前方後方墳の位置づけはどのように?
>>714 交易連合体って、具体的にどういったものを想定してるんですか?
マキムク王権が無くても、交易が出来ない訳ではないと思うのですが。
>>714 なぜマキムクが誕生したのか、という視点に欠けてると思うぞ。
それまでの倭国王(倭国の代表)は伊都王だったのが、
後漢の衰退に伴い、権威として機能しなくなり、瀬戸内海交易路が機能不全に陥った。
で、畿内やら東海、東瀬戸内地域が困窮、それら首長層が新たなる権威を模索したのが
マキムクであったということ。
マキムクの前の試みが吉備の楯築墳丘墓。
巨大な墓を造ることで、各地のオウたちの上に君臨する「大王(オホキミ)」を創造しようとした。
日本の歴史を見る限り、近世に江戸幕府が誕生するまでは、
瀬戸内海交易路が日本の大動脈であって、ここを押さえる政権が日本国王であった。
瀬戸内海の東と西は利害対立関係にあって、常に綱の引っ張りあいをしていたのだろう。
718 :
705:2008/06/06(金) 23:18:24
では次に質問ですが、北部九州がヤマト王権に本格的に参加したのは、みなさんはいつ頃と思われているのでしょうか?
>>717 >視点に欠けてると思うぞ。
同じ言葉遣いで貴君を批判しよう
貴君には瀬戸内海交易路は見えていても
日本海航路に対する視点が全く欠けている
出雲・伯耆・因幡・但馬・丹後・若狭・越・能登・佐渡・隠岐・・・・・
これら日本海側にはマキムの時代に相前後する重要遺跡が目白押しではないか!
>>719 実際のところ、古墳時代前期には日本海側は衰退していたと思うが
721 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:20:26
しかし纏向に出雲の参加はあったんだろうか?
普通に考えて瀬戸内ルートが再び活性化すれば
自国の不利になるのは火を見るより明らかだろうに。。
722 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:31:27
>>718 纏向プロジェクトには最初から乗ってたんじゃね?
統制交易品たる中国鏡は畿内に譲っても
一般消費財の鉄とかの流通は握っていて
言わば「名を捨てて実をとった」と言う事では?
>>715 前方後方墳は前方後円墳と同じ規格・思想で造られているもので、
対立関係にあったとは思えない。東海=狗奴国という思い込みがあるのでは
なかろうか。
>>718 筑紫の畿内王権本格参加は4世紀後半くらいでは?
筑紫の畿内王権本格参加は欽明朝では?
>>721 山陰系の土器も搬入されてるから参加してるんだろうな。
となると『瀬戸内ルートvs日本海ルート』という前提が間違ってるのかも試練
>>727 いや、そもそもの「マキムクが全国各地のオウたちが寄せ集まった王権」というのを
前提にして語られても。
搬入土器ってのは、交易やその地域の人々の入植を意味するもので、
王権自体が移動したことの証拠とは言えない。
奈良盆地から四隅突出型墳丘墓が出たら別だけど。
729 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 02:48:33
>>728 まあ四隅の貼石が前方後円墳の葺石ってのはよく言われる話ではあるな・・・
てか「王権の移動」って?
各地の王がマキムクの王に臣下の礼をとったと言う事か?
うーん、そんなモデル想定している人少ないんじゃないの?w
730 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 09:50:56
纏向に人が定住していた形跡は無い。
人の住まない王都なんてありうるんかね?
>>711 どっかで纏向便所説なんて言っていた香具師がいた。
土溝跡から回虫の卵が見つかったからだそうだ。
731 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 13:42:27
纏向は、都じゃなくて、市場って説は、どうしてダメなの?
732 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 16:40:37
>>730 纏向に人が定住してないだと!笑止千万!
纏向豊田遺跡にも纏向箸中遺跡にも芝遺跡にも
纏向太田遺跡にも人は住んでいた。
古墳時代初頭の奈良盆地屈指の大集落だぞ。
それ以上の遺跡はゴロゴロあるんじゃね・・・
先ずマキムクありじゃお話にならない
「ここの古墳は、まだ知られてないけど、異常に古いんですよ。」「しかも、畿内にある古墳が、
大きさが縮小した形ですべてそろっている。」
・・・「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」
「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」「でも、公には、畿内の巨大な勢力に
あこがれた宮崎の勢力が、畿内に遠慮して、そっくり同じ物を少し小さく作った事になっています。」
・・・「でもそれでは、時代的に矛盾があるではないですか?」「ウーン・・・・」
つまり、こういう事だったのだ。宮崎の古墳が、畿内地方の古墳より古くなっては困るのだ。
宮崎が先となると神武東征が立証されてしまうのだ。宮崎では、研究者も疑問を投げかけざるを得ない
不思議な物が、数多く確認されつつある。しかし、神武東征や神話と結びつきそうな発見は、
口を封じざるを得ないのが実情らしい。
ちなみに、上記の会話を交わした研究者に、笠置山墳丘墓の事を尋ねてみた。答えは「向こうは、
生目より更に古い。確実に3世紀にさかのぼる。もし日高氏が何か見つけたのなら、それは弥生の
遺跡だから古墳ではなく、ただの山だ。」と言い切った。古墳ではない理由は、時代だけなのである。
逆手に取れば、日高氏の主張する年代は、確認されたわけである。
http://www.gondo.com/g-files/miya/miya1.htm
736 :
日本@名無史さん:2008/06/11(水) 13:49:59
>>735 同じサイトに
>火星で地下都市への入り口発見?
なんてのがあるんだがw
737 :
ローガン:2008/06/11(水) 15:49:31
>>735 > ・・・「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」
> 「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」
2世紀後半ですか!とすれば、そう考えるのが自然ですね。
そこで生まれた首長霊祭祀の考え方が、遅くとも3世紀初め頃に畿内に受け入れられた。と云いたいのでしょう?
つまり祭祀方法を共有する広域倭国が卑弥呼以前に生まれていたと。
> つまり、こういう事だったのだ。宮崎の古墳が、畿内地方の古墳より古くなっては困るのだ。
> 宮崎が先となると神武東征が立証されてしまうのだ。宮崎では、研究者も疑問を投げかけざるを得ない
東遷も良いでしょうが、東遷後の足取りというか土器等の生活遺物、どの遺跡に求められますか?
738 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 08:53:30
>>729 >まあ四隅の貼石が前方後円墳の葺石ってのはよく言われる話ではあるな・・・
てか「王権の移動」って?
各地の王がマキムクの王に臣下の礼をとったと言う事か?
出雲は5世紀くらいまで前方後円墳作っていないし、四隅突出墓は畿内への対抗意識があったんでは?
四隅から前方後円墳に進化したと言うのはどうかね?
纏向に四隅突出墓があったら別だけど。
>>732 でその遺跡には住居跡が見つかっている?
たしか纏向祭祀の終わる頃になっていくつか出来たという話だった。
739 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 20:45:57
戦後、畿内説の学者たちが会合を開いた時、ある学者が「箸墓を卑弥呼の墓に出来ないものだろうか」
とつぶやいた。
それ以降、畿内説の学者たちによって古墳時代開始を繰上げる努力が続けられて来た。
と言う話を聞いたんだが、この「ある学者」って誰か?
情報求む。
740 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 23:04:50
小林行雄じゃないかい。
741 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 08:14:50
ありそうだね。
742 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 08:24:24
>畿内説の学者たちによって古墳時代開始を繰上げる努力が続けられて来た。
捏造の努力が続けられて来た!!
確かに畿内説の学者の年代決定は恣意的すぎ、信用に値しない。
743 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 10:21:54
九州説はもっと信用に値しないがな。
744 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 10:38:51
歴博なんて「弥生時代開始BC1000年」を発表した時は国際標準炭素年代を使っておいて
箸墓年代を決めようと言う、布留0式土器年代は日本独自の炭素年代を作るという噺だ。
「弥生時代開始BC1000年」もインチキくさい。
布留0式土器年代を3世紀半ばと言うのもインチキだろう。
745 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 10:49:39
九州説には、科学の「カ」の字も無いけどな。
746 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 10:54:24
747 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 11:05:49
だいだい、布留0式土器年代がいつであろうと、纏向に九州の多大な影響は無いのは明らかだし、
纏向を作ったのは吉備や東海その他近隣地域であって、
近隣といってもその範囲は九州全体より、はるかに広範囲。
そういう広域交易連合が大和を中心に築かれたのは明らかで、九州はおこぼれをもらってたにすぎない。
邪馬台国がどこか?なんて議論はとっくに過去のものだよ。
748 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 11:36:00
>>747 九州弥生文化の拡散として古墳文化が説明できることは明らか。
鏡、朱、玉などは明らかに九州から伝わっている。
>>748 初期の有力古墳に玉類の副葬を認められなかったものがある。
ホケノ山、西求女塚、中山大塚、椿井大塚山、黒塚・・・・etc・・・
椿井大塚山、黒塚などは鏡はワンサカ過ぎるほどだったのになぜか玉類を副葬していない
これをどう説明するか。
>>748 円筒埴輪の母胎となるものが九州にあるのか?
これは誰がどう考えても吉備だろう
>>748 前方後円墳の後円部の形状は九州が主導できるものか?
円く土を盛り斜面には葺石を施して崩れを防ぐ技術。
こうした技術、発想そのものが九州に元々あったとは言えないであろう。
752 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 13:10:43
小林行雄は古墳時代を四世紀以降に考えてたから、それはないだろう。
753 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 13:21:08
>>729 ヤマトにオウたちが集まり、明治維新みたいな連合政権が誕生した、ってのが寺沢の説だろ?
754 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 13:46:02
うん
755 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 17:20:23
あの時代は民主主義がさかんだったから、平等な連合なんだよ。
756 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 17:49:17
わざわざ各地のオウがマキムクに集まる訳ないだろ。
マキムクはあくまで大和川勢力が結集、共同で創った都兼聖地。参加したのはせいぜい東瀬戸内地域まで。
757 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 20:30:51
むしろ東海の影響が強い。
759 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:15:13
東海は初期三角縁が出てないから、初期結成メンバーからは除外されると思う。
かといって敵対してたとは思わないが。
なんかやっぱり眉唾だよね。マキムクってさ
何か現実に出てきてから語ってよって感じ
761 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:31:56
>>760 マキムクが眉唾という意味が分からない。
ヤマト王権発祥の地、ってのは間違いないと思うが?
762 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 01:06:34
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
763 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 09:49:21
円筒埴輪は韓国の特殊器台が由来だろ。
あっちの物は陶器だが。
正確には「マキムクが邪馬台国だ」というのが眉唾ということだろ。
可能性はかなり高いが
765 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 12:48:52
>>763 陶器って
須恵器より前に登り窯と釉薬があったのかよwww
766 :
日本@名無史さん:2008/06/14(土) 19:16:55
五世紀なら問題ない。
767 :
唐松山:2008/06/14(土) 19:44:43
鉄を溶かせる温度が有れば、須恵器は作れる
技術は別問題として。
韓国の特殊器台って、なに?
769 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 03:11:22
sage
771 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:06:53
森浩一先生の特別講演があるよ! 8時間の大シンポジウム!
http://www.city.izumi.osaka.jp/entry.aspx?id=2061 ■「和泉黄金塚古墳国史跡指定記念シンポジウム」
日時:2008年7月6日(日)10:00〜16:45(9:00開場)
場所:和泉市立市民文化ホール(人権文化センター)
定員:1200人(全席自由)
参加費:無料
申込方法:往復はがきに郵便番号、住所、氏名(返信はがきにも)、電話番号を記入し、〒549-8501、和泉市教育委員会文化財振興課へ
上代町に所在する和泉黄金塚古墳は、戦後すぐに発掘調査が行なわれました。
多くの副葬品が発見され、特に卑弥呼が魏に使者を送った年「景初三年」の銘が刻まれた銅鏡は日本中に大きな影響を与えました。この調査は類まれなその成果から、戦後考古学の出発点といわれています。
和泉市では、和泉黄金塚古墳が国史跡に指定されたのを記念して、シンポジウムを開催します。戦後の調査を担当された森浩一先生による特別講演をはじめ、斯界の先生方によるパネルディスカッションを行ないます。
特別講演:森浩一氏(同志社大学名誉教授)「敗戦前後の考古学−和泉黄金塚の発見−」
基調講演:和田晴吾氏(立命館大学教授)「和泉の古墳」
調査報告:白石耕治(和泉市教育委員会)「平成の発掘調査」
パネルディスカッション
コーディネーター:広瀬和雄氏(国立歴史民俗博物館教授)
パネラー:菅谷文則氏(日本考古学協会理事)、和田晴吾氏(立命館大学教授)、宗田好史氏(京都府立大学准教授)、禰%c佳男氏(文化庁文化財調査官)、岸本直文氏(大阪市立大学准教授)
772 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:35:56
■特別講演会 「邪馬台国は畿内か九州か」 対決第2弾!
(邪馬台国の会主催 第270回講演会)
〜ホケノ山古墳の年代 纏向古墳群はいつ作られたか 〜
日時: 6月22日(日)13:30-16:30
会場: 文化シヤッター(株)BXビル 多目的ホール (東京都文京区西片1-17-3)
参加費: 一般 1500円 学生 1000円
講師:
徳島文理大学教授 石野博信氏
邪馬台国の会主宰 安本美典氏
※参加ご希望のかたは直接会場へおいで下さい。
http://yamatai.cside.com/katudou/teiki.htm
773 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 20:54:26
■いのちのたび博物館 歴史講演会 「倭人伝の世界 〜末廬国・桜馬場遺跡〜」
講師: 九州歴史資料館館長 西谷正氏
開催日: 6月21日(土)
時間: 13:30〜15:30
場所: いのちのたび博物館(北九州市立自然史・歴史博物館) 1階 ガイド館
(福岡県北九州市八幡東区東田2-4-1)
鹿児島本線『スペースワールド駅』下車、徒歩約5分
料金等: 資料代700円
※申込方法: 当日、会場で受付いたします。
http://www.kmnh.jp/event/detail.php?seri=206
>>772 _ ∩
( ゚∀゚)彡 録画!録画!
⊂彡
コッソリトナ・・・
775 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:33:38
>>711 >多分、例の浄化施設からの事だと思うのだが、水洗トイレで決着したのか?ww
水洗トイレ!ww
そんな説、あったね〜。ww
でも水洗トイレじゃない、てことで決着したみたいだよ。ww
きっと水の祀りの遺構じゃないのかな?
南郷大東なんかよりマキムクのはとびぬけて古いから、疑問視する人もあるけど
斗西遺跡なんかでも水の祀り、やってた形跡、あるんだよな〜。ww
斗西はおそらく神郷亀塚をつくった人々が住んでた遺跡だね。
前に約束したけど、前方後方墳のお勉強、やってま〜す。少しずつだけど、ww
776 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:44:28
>>774 なに期待してんの?ww
両先生が取っ組み合いのケンカ、おっぱじめる、とか?ww
お二人とも紳士だから、そんなことにはならないよ。ww
ま、なったら、腕力では石野先生が絶対上だよ。
考古学者は現場で鍛えてるもん。ww
でもひょっとして外野が不穏な動き、するかもね。ww
777 :
ローガン:2008/06/19(木) 23:40:24
けどね、石野先生って結構気が弱い方ですよ。
778 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 00:14:23
なんで安本の相手なんかするのかな?
講演料めあての茶番か。
>>777 えーーーっ!
ということは・・・・・・・・
石野先生、立て板に水の安本に、言い負かされてしまうのか・・・・・・、うぅ(←泣)
780 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 01:02:36
まあ安本は本職は心理学者だしw
心理戦はお手の物?www
781 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 01:25:08
組みやすい論客選らんでるんでしょ。
で、相手を言い負かして畿内説全体をウソのように誘導すると。
石野も若干妄想で語る悪いクセがあるから困り者だ。
議論が得意な若手中堅だと安本の嘘がバレるからなw
783 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 01:00:10
>>775 >前方後方墳のお勉強、やってま〜す。
期待していますw
てか邪馬台国畿内説でクナ国を東海に比定するに
三遠式銅鐸やら前方後方墳をネタにするのは個人的にどうにも納得できないw
まあそれを抜きにしても前方後方墳の立ち位置って良く分からない。
ランク分けでもないし敵対する勢力によるデザインって訳でもないし・・・うーん。。
東海勢力が予想以上に実力者で、マキムクの立地が東海寄りだから、
狗奴国=東海って考えるんだろう。
倭人伝で「南」を東に読み替えるなら、確かに東海はマキムクの「南」だ。
初期三角縁が、東海勢力を包囲するように配布されているとか、都出も言ってたし。
クナ=東海ってのは違うように思う。
弥生後期から、畿内と東海はレガリアを共通にする盟邦。
見る銅鐸にしろ、古墳にしろ。
前方後円墳と前方後方墳とは同じ思想、設計で造られている。
マキムクが東海との交流が頻繁であったことも、外来系土器の出土から
明らか。
ではクナ国とはどこか?
畿内の南、熊野地域が相応しいと思う。
紀ノ川水系と大和川水系との争い。
786 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 10:22:51
ふつうに考えればクナ国=毛野国だろ。
787 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 14:07:01
>>785 >前方後円墳と前方後方墳とは同じ思想、設計で造られている。
詭弁・強弁のたぐい
同じ設計で造られたのなら同じ形になっていないとおかしいが・・・・・wwwww
しかし纏向にも前方後方墳があり(メクリ1号)、ホケノ山とほぼ同時期というから驚く
前方後方墳の研究が大切である点は俺もそう思う
>>787 >詭弁・強弁のたぐい
前方後円墳と前方後方墳とは異なる思想、設計で造られている。
も童謡に詭弁・教鞭のたぐいだと思うが。
789 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:46:52
突出してるのは、明らかに同じ思想だろ。
790 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:57:24
★古代日本人の世界イメージ(3世紀以前)
<アヤ>(漢)
↑
<コマ>(楽浪郡)
↑
(クタラ=西部<カラ>東部=シラキ)
↑
呉国(暮れ国)←〔東シナ海〕←大八島(日本)→海(太平洋)
クタラ(任那)の北方にコマ(楽浪郡)があり、コマのさらに北にはアヤ(漢)がある。
こういうイメージ。
791 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 20:36:38
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
792 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 03:25:50
巻向は市場のあと。王権とは関係ないんだな、これが。
793 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 03:36:13
>>792 見てきたようなこと書くならちゃんと解説しる!
794 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 21:19:52
初期古墳の存在から、「マキムクが王権と無関係」なんて説は流石に無理だろ。
後のヤマト政権に繋がる大王権力がマキムクの頃に誕生したと見るべき。
795 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:12:09
>>747 その突然急速に力を伸ばした大勢力が九州経由ではなくどこから?
つまり九州とは反対側ルート、朝鮮半島からの大量の移民と技術の
流入以外に考えられないな。どうりで関西=朝鮮半島=マキムク
>>795 半島からの入植は、そんな短期間なものじゃなく、
弥生時代を通じて徐々に、てのが妥当
797 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 01:27:12
>>795 >その突然急速に力を伸ばした大勢力が九州経由ではなくどこから?
九州以外、いっぱい。
ほとんど発掘されてないのに多大な影響がないって変だよね
まだ議論する段階にもなっていない。論外だよ
800はもらった
801 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 03:30:29
>>800 キリ番ゲッターも久しぶりに見たな・・・
802 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 03:36:51
>>747 >九州はおこぼれをもらってたにすぎない。
また、そう言う九州説論者の神経逆撫でする事を言うw
でも半島からは畿内の土器が出ず、畿内からも楽浪土器は出てないでしょ?
半島から出てるのは九州と山陰の土器だっけ?
畿内ヤマトが大陸半島の物資を手に入れようとしたら山陰か九州と関係を持つしかない訳で…
何れにせよ九州との関係はどうしても知りたいところ。
九州北部の纏向型前方後円墳の年代が確定したら、もっとはっきりした事が解かるのかねえ?
803 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 08:26:10
マキムク型って、前方部が小さい前方後円墳の前段階のことですか?
804 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 11:04:28
>>802 >畿内ヤマトが大陸半島の物資を手に入れようとしたら山陰か九州と関係を持つしかない訳で…
>何れにせよ九州との関係はどうしても知りたいところ。
どうして畿内ヤマトが大陸半島と関係もちたがってると思い込んでるの?
畿内ヤマトと関係持ちたかったのは、九州&半島のほうだろ。
だから王都が畿内に生まれたのであって。
九州説のほうこそ、畿内ヤマトに王都が生まれた説明をしないといけないんだよ。
東遷は、ナシね。
805 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 11:10:59
何だ、結局東遷にこだわってるとか、関係もちたがってるとか
感情で考えてるんじゃん。
しかも王都が畿内に生まれたとか、そういうことに持っていきたいわけね。
邪馬台国馬鹿と何も変わらんwww
806 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 11:18:00
機内からも韓式土器がでてますよ。
807 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 11:20:16
結局、ここの奴らって記紀=古代から語られてきた日本の神話の歴史
ってのを真っ向から逆説したいわけね。記紀は全部嘘だと?
しかし史書を無視してどうやって語られるのだろうか。例えば、この
九州の王族は普通に東遷している。
塩の生成技術も九州の王族が東遷しながら広めたものだというのに..
しかも4世紀の神功皇后は九州と半島に入り浸りだったうえ、倭人伝では
九州ばかり書かれているのに、マキムクは九州と半島とは全く関係ないという。
つまり、畿内は完全に九州・半島・中国とは関係がなかったってことを
主張したいみたいだが、変だな。
808 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 11:29:44
東遷ってタブーなんだw
>>807はこれ読んだか?
>>49 >弥生の製塩土器のいちばん古いのは倉敷市の仁伍遺跡や児島上之町遺跡とかだよ。
>土蔵の倉敷考古館に製塩土器展示してあったと思うよ、確かめに行ってみて。ww
>それと児島半島の対岸の豊島にある柚ヶ浜・水ヶ浦・浜田遺跡、
>それと小豆島でも出てたと思うよ、ここいらは香川県だね。
>マップファンで示すとこのあたり、弥生で最初に土器製塩が始まった地域は。
>
http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E133.54.21.4N34.30.7.5&ZM=5 >だいたい弥生の中期後半までさかのぼると思うよ。備讃が弥生製塩の発祥地だよね。
>こんな古い製塩遺物、九州じゃまだぜんぜ見つかってないんじゃない?や〜いや〜い。ww
>鉄は東遷でもいいだろけどさ、塩は「東遷」という考えがちょっとおかしいよ。ww
810 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 11:40:20
>>807 >塩の生成技術も九州の王族が東遷しながら広めたものだというのに..
それは、大ウソ。
九州のどこで製塩されてたのだ?
三輪山の本殿の説明看板に
ここより初瀬川の上流に市場があった
と書いてあったが、マキムクではないのか?
812 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 01:14:04
まあぶっちゃけ纏向のお陰で東遷説が木っ端微塵に砕け散ったって感はあるなwwww
813 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 01:42:43
>>811 たぶん「海柘榴市」のことなんじゃねえの?
814 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 02:22:06
東遷説など茶番だ。
古墳時代の皇后に九州出身など1人もいない。
815 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 11:57:22
>>814 九州が可哀想すぎるよな。
弥生時代は先進国だったんだろうが。
古墳時代は完全に畿内にやられっぱなしだ。
東遷説を信じて、九州出身の王が近畿から皇后を迎えたなどと考えるのも仕方ないだろう。
東遷説を信じたい人を相手に、さらに東遷説を信じこませて儲けようとたくらむ、
古代史本作家が、俺には許せない。
説得力ある東遷説を説くためには、東遷説を否定する情報を巧妙に隠蔽するテクニックが必要。
つまり、作家のほうは、本当は東遷なんて無いことを知り尽くしておきながら、
「東遷があった」とウソ情報で読者を釣って儲けてるわけだ。
読者のほうは、だまされてることも知らずに、東遷説を信じ込み、無駄に邪馬台国論争で一生を終えるわけだ。
816 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 19:03:09
単純な東遷があり得ないのはそうなんだけど、
寺沢が言うような、吉備とか阿讃播、丹波とかと一緒に筑紫もマキムクに参加してたのか?
ていうのが議題なんだろう。
817 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:17:04
じゃあ単純じゃない東遷って何よw
818 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:48:12
筑紫も市場に参加しただろうが、人的影響力は少ないというところだな。
土器がほとんど出てないし。
819 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:49:38
要は、外部勢力が大挙してマキムクに集まって「明治維新」のような連合政権を樹立。
庄内始めに西日本を包摂するような大王権力が生まれたと。
前方後円墳が各地の要素を含んでいるのは連合政権であったことの証左。
前方後円墳に畿内の要素が無いのは、大和は蚊帳の外だったから。
あくまでヤマト王権は外部勢力主導であり、自生勢力の関与は僅か。
外部から来てマキムクを創ったオウたち、首長層階級の人々は、後世、大和の有力豪族となる。
820 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:52:52
どうしてマキムクが選ばれて大挙して集まってきたかが問題だろ。
奈良盆地の奥地にどんな地の利があるんだ?
821 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 21:04:14
瀬戸内海航路の終点
822 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 21:10:40
当時最大のライバルだった対東海の立地上の優位さ。交易、軍事面含めて。
あと、未開拓だった当時湿地帯だった奈良盆地の伸び白の大きさ。
最新の潅漑工事を用いることで大規模な耕地を生み出すことが可能。そこに目を付けたのが外部勢力。
新規開拓地なら既存勢力との軋轢もなく、新しい国造りに最適であったと
ある時期までの纏向は、九州からみて東瀬戸内以東におけるハブでしかなかったと思うよ。
論点は、立場が何時頃変わったかでしょ。
庄内期のどの辺りがターニングポイントなのかは判らないけど、
布留以降は、完全に古墳体制化で、畿内>九州でしょう。
>>823 >ある時期までの纏向は、九州からみて東瀬戸内以東におけるハブでしかなかったと思うよ。
完全に倭人伝無視だな。
卑弥呼共立を三世紀初頭と見た場合、筑紫>大和は有り得ない想定では?
825 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 23:49:04
>>822 >対東海の立地上の優位さ
ダメ。
どうして河内とかじゃなくて奥地なんだよ?
>>825 対東海の要衝として、なんで河内なんだよ…
827 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 01:37:17
>>820 >奈良盆地の奥地にどんな地の利があるんだ?
「地の利」じゃなくて「地の不利」では無いのかとw
どう言う事かと言うと・・・
首長連合のシンボルとしての王、そして都市。
そんな物を何処かの勢力の支配する地に置いてしまったらどうなるか?
恐らくあっという間に勢力を伸ばしパワーバランスが崩壊してしまうのを恐れたのでは?
首長s「まあ纏向なんて場所なら、そんな大事には至らないべ?わはははー」
・・・とまあこんな感じでw
実際、交易都市と言うには、あの大溝も運河の用を成すのか疑問だし
(もしそうなら船を繋留する遺構とかが出てくるのでは?)
宗教の聖地ってのは俗世から離れた得てして不便なところにあったりwww
まぁ・・・ちょっとした市場、ってことで
829 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 08:23:44
大和川水運で運ばれた物資が陸揚げされる場所。
当時奈良盆地は湿地帯で盆地東部を山伝いに通る山の辺の道が幹線道路だった。
弥生の畿内地域の拠点集落だった唐古鍵と立地は殆ど同じ。
マキムクが辺鄙な場所ってのは現代の感覚だよ。
830 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 12:11:37
奈良盆地が湿地帯なら、イネが自生してたってことはある?
よく水田跡がないから人が住んでないなんていわれてるけど。
831 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 12:44:38
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
832 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 13:14:56
日本海ルートが繁栄していたなら、
どうして丹後が王権を築くことなく、大和に王権ができたのだろうか?
833 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 13:20:25
un
自称王権
>>832 日本海ルートは瀬戸内海ルートと競合関係にあって、
瀬戸内海ルートが権威の不在で機能不全になっていた時に、
代替ルートとして畿内勢力が日本海ルートを重用したということ。
836 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:25:55
>>835 瀬戸内海ルートが機能不全で、
どうして畿内が力をつけられたわけ?
畿内勢力の母体は吉備じゃない、ってことになるけどそれでいい?
837 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 14:05:59
>>836 瀬戸内ルート復活の為に瀬戸内の首長らが結集した結果が纏向と考えれば筋が通るw
面白いのは纏向西方の四基の古墳
石塚・矢塚・勝山・東田大塚には葺石の痕跡が無いと言う。
もし葺石が通説言われるように四隅にルーツがあるとすれば
出雲の纏向参加は途中から?
少なくとも立ち上げの面子には入ってなかった?
瀬戸内ルートの復活がされれば自分達の商売上がったりになるのは重々承知していたが
もはやその流れを止めることは出来ず、参加して何とか地位を確保しようとしたとか?w
838 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 17:17:23
>>837 瀬戸内ルートの機能不全〜復活の流れかどういう経緯だったかは(あるいは機能不全自体があったか)わからないが、
出雲の参加は、連合王権に遅れて飛び乗りをしたという視点はあってると思う。
記紀を参考に書き込みすると「原理主義」って揶揄されるだろうけど、
国譲り、出雲降根、あるいは大物主の話を考えると、纏向から誕生した王権は
外部勢力である出雲に対して並々ならぬ警戒をしていたんじゃない?
だからといってその勢力の影響は無視できないほどに大きく、排除したくてもなかなか出来ない状況があったと。
考古的には古墳の形状からも
日本各地では統一された規格の前方後円墳が主流(一部異なるが)の分布とは違って、
方墳や前方後方墳を中心に分布している。
おそらく出雲の参加は吉備や阿讃なんかよりもだいぶ後だろう。
ヤマト等初期の連合にとって、大勢力である出雲の参加は心強くもありなおかつ危険な存在だったのだろう。
ちょうど徳川家という爆弾を抱え込んでしまった秀吉政権のように、
政権の首班が最大勢力に対してかなりの配慮をしなければならない状態だったろう。
839 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 19:32:03
出雲を過大評価しすぎ。
交易の中継地程度のやくわりしかないだろ。
大勢力の人口を抱えるほどの農地も無いし。
ここでいきなりクナ国吉備説。
本来は瀬戸内を通るのがメインルートのはずだが、
卑弥呼生前から王同士が不和となったために、
万が一を恐れて帯方からの使者は日本海ルートを通った。
これが陸行一月の理由である。
吉備は倭国連合を成立させるために多大な貢献をしたのだが、
それだけに自分が王になるべきだと自負していた吉備の王は、
卑弥呼が選ばれたことが不満だった。
異論は認めん。証拠はそのうち出る。
狗奴国は女王国の南だから。
842 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 23:36:48
>>841 女王国を「邪馬台国」ではなく「倭国」とすれば九州の南部に狗奴国を求めてもおkw
新しい交易体制になって大陸からの文物の入手が難しくなり
その事に不満を持った勢力が狗奴国。
ひょっとしたら日向が狗奴国そのもので、あの古墳群は後に征服され入植された跡とか?
もしくは対狗奴国の最前線が日向だった。
巨大前方後円墳は勢力拡大の最前線に分布するのを考えれば説得力もある?
(まあ吉備は例外だが)
>>841 所詮伝聞だから。正確な位置関係などわかろうはずがない。
遠絶にして詳らかにできない余某21国よりさらに南にあるらしく
書かれている(あくまで「書かれている」)国だ。
まともな情報ではないと考えておくのが自然だ。
日本海航路、出雲あたりを通過中、
倭人「本当は南のほうにもっといい航路があるんですが、
いま、その沿岸の国と揉め事が起こっておりまして、
万が一を考え、こちらの経路を使っております。
ご迷惑をおかけしますが、ご辛抱ください。」
帯方郡使「ほう、そうでござるか。ずっと南のほうに
女王に従わない国があるのですな。」
(メモしとこ・・・・『其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王』φ(.. ) …メモメモ)
てなとこだろ。
844 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 12:22:19
吉備と大和が対立してた証拠が欲しいな。
845 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 15:37:13
846 :
日本@名無史さん:2008/06/29(日) 15:41:35
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
>>845 吉備津彦とか四道将軍が大和から派遣されたとか、本気で信じてるの?
>>844 巻向の吉備系土器の出土割合が年次を追うに従って減少している。
箸墓あたりでまた復活するようだが。
箸墓以前のマキムク型が特殊器台無し、ってことからも、
吉備勢力はマキムク王権に途中参加したってのは正しいんだろう。
ただ、吉備とマキムクが対立してたかどうかは分からない
850 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:02:43
>>849 確か石塚の濠から「弧文円板」と名付けられた木製品が出土。
これは吉備の特殊器台の表面に見られる「弧帯文様」に共通するものがあると言う。
その他にも「弧帯文様」が施された木製や石製の遺物が出ているとか。
あとホケノの槨の中は朱で真っ赤だったらしいが朱の使用は吉備からじゃなかったっけ?
楯築が土着王で吉備津彦以降が浦間茶臼山・中山茶臼山なんだろ?
一つ、人の世の生き血を啜り
二つ、不埒な悪行三昧
三つ、醜(以下略
前方後円墳祭祀は、柳田の言う筑紫の影響、近藤の言う吉備の影響も確かにあるが、
一番大きいというか、成り立ちに関わってくるのは、北條の言う阿波の影響かと思う。
最初にマキムクを創った人々は、東瀬戸内地域を中心とした海商国家群で、
後に吉備、東海、丹波、越などが参加し、少し遅れて筑紫が参加したと。
昔から仲良かったんだな。
現代まで続く民族対立のきっかけみたくならずによかった
>>850 石塚の濠はずいぶんあとまで開いている。
あとから入ったもんだろ。実際、濠からは布留0も出てるわけだし。
856 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 03:54:44
てか素朴な疑問。
あの土木技術は何処から?w
よく纏向を明治維新になぞらえることがあるが
明治新政府の軍隊の近代化は薩長のそれぞれの軍の近代化が元になっているわけで
纏向の立ち上げメンバーになったクニに
その技術の出所って推測できないものなのかねえ。。
いっそ国内じゃあムリポで大陸からの渡来人とか?
巨大銅鐸の製作に大陸からの技術者の渡来を想定する説もあるぐらいだしwww
857 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 08:23:32
そもそも弥生時代からそれなりに技術者集団はいたんだろうと。
マンパワーを大量に動員出来る王権力の確立があって、大規模な土木工事が出来るようになっただけでは?
あんなもん、方形周溝募の延長みたいなもんだろ。
それに、巨大な環濠集落の環濠を掘るのに
動員できる人的資源があれば、十分。
ちがいは、集団のために、から、首長個人のために、というところ。
社会構造のおおきな変化があったということだな。
859 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 08:41:11
庄内甕にしても、それまでに比べて格段の技術進歩があるわけでなし。
大規模な工房で大量生産されることで、
分業や資材の一括搬入などの効率化→安価に
という薄利多売こそ画期的だったのでは?
860 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:21:11
>>858 首長霊祭祀の創始ってやつか。
マキムク外来主導説の人ほど、マキムクを超古代文明にしたいらしい。
実際に画期があったのは、庄内開始より布留開始時。石塚より箸墓だろうし。
マキムク初期はただの地方王権の都。
861 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 23:51:07
庄内式を大和系と河内系に分ける説ってまだ有効かな。
たしか大和の方が素朴な作りとかいう説だったような・・・
862 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 00:22:09
>>859 庄内式による台所革命とか
>>639で触れられてるけど。
安価とか薄利多売とか貨幣経済がない時代に語られてもねえ
863 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 00:29:15
864 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 01:37:19
>>862 物々交換でも安価とか薄利多売の概念はあるだろ。
865 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 17:41:54
>>639 台所革命がマキムク王権を生み出したみたいな言説だが、
マキムクを見る限り、土器より王権が先。ていうか同時か
866 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 19:00:04
ある程度まとめると、
弥生後期、遠隔地交易の需要の高まりで、各地で首長層の連合、王権の成立がパラレルに起きた。
筑紫平原、出雲西谷、吉備楯築、少し遅れて纏向石塚。
その中でマキムク王が倭国王に選ばれ、共立され、前方後円墳体制が誕生。
のちの大和政権となる。
867 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 21:26:52
868 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 00:42:16
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
870 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 08:32:49
王権誕生が遅れたからといって、後進的だったとか国勢が弱かったとかではないんだろう。
弥生由来の氏族制というか長老制みたいなのが上手く機能しておれば、王権なしの発展というのもありえる。
比較的畿内や東海は氏族制の影響が強かったということ。
一つ前のレスぐらい嫁よ・・・・
872 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 12:41:06
昔は、王権の不存在=政治的空白地=後進地域なんてのを平気で言ってる輩がいたが。
弥生後期の畿内で首長墓の発展が見られないことから、畿内の衰退。そこに外部勢力が侵入してマキムクを建設したとか。
873 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 14:04:20
複数の外部勢力は、どうして奈良の奪い合いにならなかったの?
874 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 15:13:12
日本書紀に神武とか応神とか奈良をめぐって争った事が書いてある。
875 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 17:40:38
神武はどうして奈良を奪いにきたの?
奈良には何も無かったはずだよね?
876 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 22:04:22
神武伝承は後世創作されたもの。
モデルは応神、継体、天武など、外部から来て政権奪取した大王たち。
ヒムカでなくツクシ、イワレでなくマキムクだったなら、もう少しリアルだったんだけど
877 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 22:18:50
カシハラで即位してるイワレヒコだからな。伝承形成時の政治的思惑で、始祖伝承には様々な改変が加えられたのだろう。
元々の始祖王伝承は、三輪山に降臨したハツクニシラスが王国を築いたみたいな、いたってシンプルなローカル神話だったのだろう。
崇神が初代でいい。
878 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 22:24:01
>>874-876 なぜ神武つまり初代天皇は、大和で即位しなければならなかったのか?
即位するだけならば日向で即位してもいいはずだし、ニニギ天皇でもウガヤ天皇であってもいいわけだ。
日本書紀では「天皇」が「ヤマト」の地で即位することを重要視している。
つまり書紀編纂のときには、王権はヤマトでなければならないという前提があったのだろう。
879 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 00:15:43
だから、どうしてマキムクに王権が生まれたんだよ?
理由を教えてくれ。
>>879 マキムクの立地は、それまでの畿内経済ブロックの中心地のひとつ
だった、唐古鍵とほぼ同じ。
つまり、畿内における交易上至便な土地だったということ。
これがまず一点。
あとは、王として選ばれた人々が三輪山祭祀関係者だったのではないか、
という推測。マキムクの立地や、記紀の記述を読む限り、三輪山は
初期ヤマト王権において最重要視された神南備。
なぜ畿内勢力がオウを担いだかと言えば、筑紫王の権威衰退、
他地域での新興勢力台頭で、瀬戸内海交易路が機能不全となる
(代替航路として日本海ルートが発展)。
瀬戸内海航路の安全保障をする新権威が必要となったため。
>>880 > なぜ畿内勢力がオウを担いだかと言えば、筑紫王の権威衰退、
「衰退」と言う表現はどうかと思うけど、瀬戸内海交易路の安全保障には、
もともと北部九州は関与(少なくとも東瀬戸内には)していないと思うよ。
瀬戸内を弱々しくとも統制するような機能があったとしたら、
それはやはり自生勢力のネットワークで、かなり不安定なものだと思います。
防御的高地性拠点の存在は、そういった状況の反映なのでは無いですかね。
で、その不安定なネットワークが安定化したとき、初めて「筑紫王」の衰退が
始まったのかなと。
882 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 15:43:47
>>881 後漢の衰退による東アジアの政治的混乱、秩序体制の再編の流れを考えれば、
ツクシ王が倭国王の地位を失ったとみるべきだろう。
883 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 16:08:18
>>880 >マキムクの立地は、それまでの畿内経済ブロックの中心地のひとつ
>だった、唐古鍵とほぼ同じ。
唐古鍵は、畿内経済ブロックの中心といえるほど、
マキムクのように搬入土器が多いのかね?
筑紫は弥生中期以降、中継貿易で財を成したと見るべきで、
需要側の畿内東海向け瀬戸内海ルートを軽視したとは思えない。
>>883 吉備やら東海まで、広く集まっているが。
886 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:24:12
董卓死んだ後、遼東の公孫度が自立、この時に後漢の権威をバックにしたツクシ王体制が崩壊したのだろう。
公孫氏は新興のヤマトに肩入れし、半島を経由して画文帯が流入する。
887 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:31:29
マキムクには人がたくさん住んでいた痕跡があるのか?
食事を作った囲炉裏のようなものは一つも見つかっていない。
出てくるのは掘っ立て建物が大半で、そこに人が居住していた
のかさえ確定できない。
しかも、建物の密度が低いので「都市」といえるほどの人口は
絶対にありえないことも分かっている。
土器が多いのは「大市」の市場で物々交換がなされたからであろうし、
掘っ立て建物は倉庫のようなもので、古墳築造の労働者の食料などを
備蓄していたという程度のものであろう。
「マキムク」はいまや懐疑の対象になりつつあるのが現状だろう。
888 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:38:32
九州説の悪あがきか
889 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:55:01
古墳造りの労働者が大量にいて、全国各地から物資が集まる市場があって、
なんで人が住んでないことになるんだよ。
890 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 22:03:56
日帰りなんだよ。
古墳がイパーイある所は日本全国どこにでもあるし
たかだか数パーセントの発掘で結論を出すから、そんなアホなことになる。
893 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 22:55:16
>>887 確か「後の新嘗祭の原型か?」とか言われた米を炊いた跡と
丁寧に脱穀された米が検出されたはず。
また先にも出ているが浄水施設は人が住んでいればこそ。
「交易都市」「経済都市」じゃなくて「宗教都市」「政治都市」と考えた方が実態に近いのではないか?
まあその面積が広いもんで人口密度となると低くはなるだろうな。
ただその人口の低さが纏向の特異さでもある。
常時住んでいる人が少ないのなら古墳造営時や
その他の大掛かりな土木工事時にだけ
何処からか人手を駆り出さなければならない。
単に人口が多いとか人口密度が高い交易都市(と言えるようなもの)なら
九州にもあったわけで単に量的な差しかない。
>「マキムク」はいまや懐疑の対象になりつつあるのが現状だろう。
・・・ってどう言う疑惑?w
894 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:15:40
自炊していた痕跡が全然出てこないから、庶民も王族も
食料の配給を受けていたと思われww
895 :
日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:39:30
王宮も豪族の居館も全然出てこないから、王族も豪族も
庶民と同じ暮らしをしていたと思われww
都合の悪いことは無視してやっていけばいい。
三角縁神獣鏡が日本で550面以上出て、中国からは1面も出なくても
舶載説が多数説なのは、この点を心得ているからだ。
くだらない雑音は無視して学問に精進しよう。
897 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:24:14
三角縁神獣鏡とマキムクが何か関係あるの?
898 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:24:32
>>896 スレ違いと言うか随分と雑なレスだな。
その程度なら
「舶載説論者は全てを舶載と言っているわけでない」
で終わってしまう話wwww
三角と言えば纏向からは一面も出ていないが
九州の所謂「纏向型前方後円墳」からは出てるんだよなあ。
(那珂八幡とか神蔵とか)
もし纏向と九州の纏向型前方後円墳に殆ど時間差が無かったとしたら
纏向の古墳にはあえて三角を副葬しなかった?
899 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:54:54
マキムクで古墳が作られるようになってから、
三角が祭りに使用されるようになったんだろ。
900 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:48:33
900
901 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 22:45:57
902 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 22:52:41
>>898 三角縁が副葬されるのが布留=箸墓以降だからだろ。
画文帯と三角縁の流入時期の違い
903 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 20:59:38
数は少ないものの、マキムク型の全国的な広がりを見る限り、
石塚以降マキムクは非常に広範囲に権力を行使し得る大王権力であったのだろう。
箸墓を卑弥呼とみると、大和のマキムク型四基はそれ以前の男王たちかと思われる。
904 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:13:42
突出して古い石塚が、マキムク王権の始祖王の墓、ってのはそうなんだろう。
しかしそうすると、石塚は3C初頭の卑弥呼共立後に造られたことになってしまい、倭人伝の記述がおかしくなってしまう。
905 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:19:20
ただその疑問も、現在優勢な実年代に基づいたもので、庄内開始を2世紀半ばにまでもってくれば氷解する。
つまりはマキムク開始=卑弥呼共立ではないと。
906 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 22:01:18
放射性炭素とか年輪年代で、ある程度の絞り込みが出来るようになれば、
邪馬台国問題、大和か九州かは解決する。
実年代を抜きにして(つまりは倭人伝を省いて)マキムク王権の成立プロセスを語るのが、このスレの趣旨だったのでは?
907 :
ローガン:2008/07/09(水) 23:11:43
>>906 そうですね。祭祀の画一化と普及にある程度の権力が集約していく過程が見えるように思います。
その始まりが纏向なのでしょうね。
908 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 00:04:32
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
909 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 00:11:08
>>906 >邪馬台国問題、大和か九州かは解決する。
おいおい。
九州に邪馬台国があった余地がどこにあるのさ?
910 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:05:16
邪馬台国問題はよそでやれ
邪馬台国問題は、結局実年代問題なんだよ。
マキムクの頃、庄内期が3世紀の卑弥呼の時代とされたら、
必然的に邪馬台=大和となる。
それに疑義を呈してる一部の人がいると。
ヒラバル王墓の被葬者が卑弥呼の可能性はまだ残されている。
マキムクに人がいないとか極論言う九州説の人は論外としても。
被害妄想気味だね
913 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 00:32:55
橿原の発掘はしないのかな。
そろそろ「ポスト纒向」を用意しないと畿内説も危ない。
>>913 むしろ九州説にポスト吉野ヶ里が必要な時期に来ているだろう。
「○○から邪馬台国が見る!今度こそ本当なんです(><)」とかwww
915 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 11:08:30
あの掘っ立て建物は人が居住して生活した痕跡が全くない。
まず、食事を作る場所が存在しないが、食料は配給制なのか?
当時の他の地域では竪穴式住居で生活していたことと合わない。
それでも「マキムク王権」なんていっている奴は
オレオレ詐欺のような宣伝に騙されすぎだな。
畿内説は年代遡上とマキムク王権という虚像にすがっているだけ。
916 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 11:30:38
先進のマキムクと遅れた他地域
917 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 13:41:33
掘っ立て建物は、人間じゃなくて、鹿が立てたんだろ。
その冗句の意味がわからん
919 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 14:48:06
銅鐸には、高床建物と鹿の絵が描かれてる。
920 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 20:31:49
>>909 邪馬壹國は九州の北半分ぐらいを占める国だったのだよ。
九州の南には狗奴國があった。
朝鮮半島の南部には投馬国があった。
921 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 13:54:03
922 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 15:00:22
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
923 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:49:36
>>922 どうせコピペだろうけど。
ハトムギじゃなくてジュズダマだとしても区別できない罠。
しかしこのスレは定期的に邪馬台国馬鹿が流入してその後すぐこういうコピペ貼りがでる。
なんの儀式なんだよw
マキムクの実年代を4世紀、「邪馬台国の時代」の後にしたいんだろう。
もう、無理な話なんだけど。
925 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:09:47
マキムク型とか箸墓の縮小タイプが全国各地に見られるんだから。
マキムクを各地に影響力を行使し得た強大な王権だったことは間違いないでしょ。
弥生後期に首長墓の発展が見られない唐古はまだ分かるけど、マキムクを王権とみないのは無理有り過ぎ
マキムクと呼ばれている狭い地域に「王都」が存在したかと言えば、
答えはNOとすでに出ています。
宮殿や豪族の居館は出土しないのではなく、存在しないのです。
記紀によれば初期の王権はヤマトの広い領域の中で宮殿が各地に
移転しています。その大半が「マキムク」とは明確に異なる場所です。
マキムクで長期間「王都」が存在したかのような議論はもう止めた
方が良いでしょう。
927 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 22:38:45
考古学的に布留1終わりまで、大体4世紀後半までマキムクは続いてるんであって。
記紀にしたところで、崇神垂仁景行と三輪山山麓で宮が営まれたことになってるしな。
928 :
日本@名無史さん:2008/07/21(月) 23:53:20
>>923 大馬鹿。
プラントオパールの形でハトムギとジュズダマは区別できるんだよ。
それに小麦の時代矛盾の方はどうするんだ?
929 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 00:06:02
930 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 00:06:56
931 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 00:51:35
>>926 >その大半が「マキムク」とは明確に異なる場所です。
・・・こいつ馬鹿だろ?
垂仁・景行の宮の伝承地は纏向のエリア内にある。
三輪周辺で言うなら崇神の宮の伝承地もあり
三輪の南側には雄略の宮と推測されている脇本遺跡も出土している。
なんでこんなアホな嘘を平気でつくかね?w
雄略の都?
何をもってそういえるのか?半島まで攻略していた
ことを示す遺構が出たんですかねぇ。例えば堅固な(山)城的なものとか
大陸とやり取りあったようなものとかさ。どこからでも出そうなものじゃ意味ないわけよ
933 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:48:00
>>930 で、小麦の時代矛盾の方はどうするんだ?
934 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:48:57
>>930 で、小麦の時代矛盾の方はどうするんだ?
935 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 11:04:06
>>931 「マキムク」は纒向遺跡のことではないのか?
マキムク広域説でうやむやにする訳か?
何でもありなんだなww
936 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 14:39:55
ていうか、記紀のマキムクの記述を意識して名づけられたんだろ、マキムク遺蹟は。
記紀の記述を読む限り、ハツクニシラス天皇以下三代は三輪山山麓に居住している。
初期マキムク型の集中するマキムクとの関連性は言わずもがな
>926
90次調査あたりの濠と導水遺構
マキムクでも山手に布留0から1式の居館がある可能性が高い
>927
布留1って後半でもせいぜい4世紀前半だろ
布留0が3世紀半ばという説を採れば布留1も3世紀末まで。それはどうかと思うが
938 :
日本@名無史さん:2008/07/25(金) 14:44:12
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
939 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 01:01:43
940 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 13:24:24
日本より2〜3000年古くなると8〜9000年前だぞ。
5000年前にヨーロッパに小麦が伝わったその3000年以上も前になるぞ。アホか。
それに日本で炭化小麦が出土し始めるのは2000年前頃からだぞ。
何でそれ以前の炭化小麦が出土しないのかね?
941 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 23:22:02
中国でおよそ一万年前の農業遺構が発掘されてたなぁ
レバント、黄河流域、長江流域、パプアニューギニアは
ヤンガードリアス期のすぐ後ぐらいに農耕が始まった場所だよな
AA
944 :
日本@名無史さん:2008/08/08(金) 23:56:08
アゲ
945 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 23:13:35
age
946 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 00:48:54
三輪山は大和川水系であるんですが、初瀬川を遡り、東へ進むと、
距離数km, 標高差300m程度で峠(分水嶺)を越え、榛原に至ります。
この峠を見下ろしているのが、春日宮天皇妃陵です。
http://maps.nifty.com/cs/catalog/map_spot/catalog_070222105086_1.htm この榛原は木津川水系で、結構大きな河川が峠のすぐ下にあります。
宇陀市榛原、名張市、南山城村、木津川市と川を下り、
つまり奈良県東県境から北県境を巻くようにして、淀川に合流します。
ですので、地形的にちょっと特異なところです。
盆地奥地にあるのに、河内湾に大和川からも淀川からも出やすい。
また、淀川合流点は、琵琶湖下流の瀬田川合流地点のすぐ下流です。
越にも通じていると言えましょう
南山城村で合流している支流を遡ると、伊賀です。
伊賀市を通り、柘植までいくと、すぐに分水嶺で、
関市にたどり着きます。鈴鹿川を下り、亀山を経由して、伊勢湾に出ます。
尾張までもうすぐです。
名張市から川を下らず、陸路を西に取ると、
青山峠(分水嶺)を経て、雲出川上流にいたり、松坂市を経由して伊勢に至ります。
これが初瀬街道です。(近鉄大阪線)
伊勢から鳥羽に出ると、伊勢湾最狭部を渡って渥美半島伊良湖岬に出ます。
この経路だと、尾張を無視して、駿河、関東に至ることができます。
舟運だと結構便利なところです。
榛原から陸路を西に向うのが伊勢街道です。
ちなみに、舟運はかなり上流部でも荷物を上げるが可能です。
ちょっと本題から外れますが、
街道整備前の舟運は非常に重要なので、書いておきます。
昭和初期まで熊野川の上流部で、林業を営んでいる人のために、
日用品を運ぶ仕事をやっている人の聞き取りを読んだことがあります。
荷物を担いで歩く道すらない奥部に、家族で住んで木を切って、
筏に組んで、下流に運んで売る仕事です。
樵が下る時は筏に乗ればいいのですが、登りは道なき道を帰ります。
それでも昔は自分達で、塩、道具などを運んでいたそうです。
ところが運搬を生業とする人が現れて、任せることになりました。
この運送が凄まじいものでした。中流部辺りでは、
二人組みで川の両岸から紐で引っ張って船を遡らせます。
片岸しかなくなると、一人が紐で引っ張り、
もう一人は船に乗り、接岸しないように棹で岸や障害物を押したり、
人間が川の中に入って押します。
さらに川の両脇に歩けるところもなくなると、
二人が川の中に入り、一人は引っ張り、もう一人は押して、
川を遡る。越せない落ち込みがあると、
荷物を船から下ろして、二人で担いで越えるそうです。
これを冬でもやります。(熊野は雪がほとんど降りません)
古代の舟運がどういうものだったかはっきりしませんが、
こういうことも想定しておく必要があります。
それから、琵琶湖から関が原を通って、
終わりに至る経路は、越も視野に入れられる街道として魅力的です。
実際、JR東海道本線、新幹線、名神高速道路はこの経路です。
しかし、江戸時代、東海道はこの経路を通りませんでした。
理由は幾つかあると思いますが、
・関が原の北は伊吹山。これが冬の難所。
ヤマトタケルが氷雨に打たれ死亡した伝説のあるところ。
冬型気圧配置が進むと、日本海の湿った空気が、
寒気を帯びたまま琵琶湖の上を通り抜け、
さらに湿気を帯びて、伊吹山に突き当たることから雪が良く降る。
東海道も名神もよく雪で閉鎖、渋滞になっている。
・揖斐川、木曾川、長良川の三角州が難所。
東海道53次は熱海神宮から桑名まで七里渡で海路となる。
三角州にまともな道、橋がないから。
江戸時代になっても街道としては不適。
などです。
伊賀市を通る経路は、上述の三角州のように渡るのではなく、
川に沿って移動するということと、それほど大きな川ではないため、
江戸時代の大井川、天竜川のように、氾濫して足止めを食うことはありません。
951 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 15:05:02
あげ
952 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 19:52:22
奈良は掘ったらまだまだ出そうだな。
こんなもんじゃなさそうだな。
いつか出るよ、紀元前の古墳が。
953 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:37:54
8C以前の畿内は田舎、何も無い。
954 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:39:27
8C以前の畿内は田舎、何も無い。
955 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 19:34:50
8C以前でも畿内には奈良盆地が有ったぞ。
>>953 >>954 >8C以前の畿内は田舎、何も無い。
ここまでは言いすぎでしょう。
ワシは九州王朝説がおそらく正しいと敬意注目するのだけれど、関西をバカにするのもほどほどにすべきと思います。
九州王朝説というのは、
日本列島の中心勢力が、九州から関西へ移動したのが7世紀だった と主張するので、現在のところ物凄く特別に見えるが、
なぜ移転先を関西とした理由といえば、それだけの勢力・経済力が存在した地域を九州の中央権力者たちが選択したと考えるべきでしょう。
このスレを読んでいて感じたことだが、
マキムク:関西経済ブロックの実力の象徴。
精巧な鋳型により、薄手に仕上がる銅鐸の製造技術には目を見張るものがあるそうだ。同様に
薄手に仕上がる三角縁神獣鏡の技術にも敬意を持つべきだろう。
以下のような古代人の技術をバカにする態度では考古学知識を展開できなかろうと思います。
>>693 >銅を溶かす設備があれば鏡作りなんてたいした技術はいらないし。
私は、この見解に断固ノーと言います。
三角縁神獣鏡は、伝統の銅鐸製造技術が生かされた、美しい、優れた工芸品であり交易を通じて全国に流通した(ただし、関西の王者が下賜したものではない)と、考えます。
古代の関西の優れた技術力は、関西経済ブロックの実力の一部だった。関西の一部の製品:鏡は特産品だった。
958 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 23:41:12
959 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 00:38:13
北部九州が東遷したとか、いい加減否定されてるだろ。
ていうか、少なくとも考古学的には証拠が無く、
「なぜ北部九州から東遷したのか」の明確な理由も提示できていない。
960 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 03:20:13
安本は畿内説を批判するのと同じエネルギーで、
記紀の神武東征神話も批判してもらいたいものだ。
まともな史学者は、神武東征を実話と考える人はいないし、
天照大神を皇祖神と考えてる人もいない。
安本は史学者ですらないしw
渡来系の豪族の渡来、
こういうレベルもの「東遷」って言葉の意味に含まれるんですかね?
963 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 13:56:26
神の名前から考えるに、渡来系の神はほとんどいないよ。
せいぜい、ワタツミの「ワタ」が朝鮮語の「海」に近いくらい。
964 :
日本@名無史さん:2008/09/14(日) 01:44:14
松木武彦の列島創世記を読んだが、説得力があったな。
結局マキムクが強大化したのは、畿内地域ではいまだ鉄が寡少で、
遠隔地交易の窓口足り得る指導者に権力が集中した結果だと。
965 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 16:36:04
>>959 >考古学的には証拠が無く〜
中山平次郎、和辻哲郎(哲学者)、原田大六、柳田康雄、奥野正男、森浩一を黙殺するんじゃねえよ。
彼等は神武東征に関して多くの考古学的な研究を残している。
>>960 シュリーマンを忘れるんじゃないよ…
966 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 03:34:29
>>965 いつの時代の話だよ。
北部九州と畿内の軍事的対立の根拠になるような、武力抗争の痕跡が
考古学的に存在しない。
むしろ、マキムクは環濠も無く、外に開かれた都市。
弥生末に誕生した交易ネットワークの中心地=マキムクであって、
特定の勢力が単独で遷都とかは考え難い。
968 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:47:36
>>966少数の高床倉庫と土器の欠片
交易ネットワークにしてはお粗末、鉄製品や絹織物は交易されてないし
縄文時代からのドングリとか食い物だけ交易してたのでは?
第一軍事的対立ができるほどの先進性も人口もない過疎地
土着関西人が反乱起こさないように毎日穴掘らせて墓作らせたのがマキムクだと思ってる。
969 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:18:47
>>968 そう、交易都市と言うには金属製品の出土が少なく
交易品目に金属製品が無かったとは考え難い。
そこが 纏向=交易都市 説に対する根本的疑問の一つw
かと言って…
>縄文時代からのドングリとか食い物だけ交易してたのでは?
”食い物”の交易で交易範囲がアレだけの広範囲になるわけ無いだろうw
970 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:25:27
金属器は交易に使うから、右から左にながれてたわけで、
市場から出るほうがおかしいだろ。
市場から金属器が出たら、それは売れ残りだ。
金属器が売れ残るわけないから、出ないのは当然。
971 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:46:29
>>970 短絡的に過ぎる。
例えば原の辻では中国貨幣、銅鏡、銅剣、三翼鏃等々が出土。
「市場の纏向の金属は右から来て左に受け流し他だけなので一切残りません」
なんて笑い話の範疇w
どうしてこのスレでは(恐らく九州説論者と思うが)こう極端な事言う奴が多いんだろうwww
972 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:59:22
あと倉庫郡とされるのは太田北微高地の建物の事だろうが
大きさが精々3m四方でキャパが少なすぎると思えるし
柱の直径が10cm程度と華奢すぎる。
加えて微高地の東端に祭殿と思われる建物があり
それらを合わせて考えれば一定期間使われた後廃棄される事
(ビルトアンドスクラップw)を前提とした仮説の祭殿
…今の伊勢の遷宮のような感じでw
各地から持ちこまれた供物を納める為の建物
(ひょっとしたら短期間人が住んでいたか?)
…と言う仮説が一番しっくり来るように思うwww
973 :
972:2008/09/24(水) 19:08:19
>972だと搬入土器の多さや建物の特異さ等々を一番上手く説明できると思うのだが?w
おまけで言うと各地から纏向の祭りに参加する為に来た人間達を称して
卑弥呼がはべらした奴婢千人と言う文言になったと言うのはどうか?w
(まあ数には誇張があろうが環濠集落ならもっと難しいわなw)
974 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:10:51
そこまでひねくれないと関西説は説明できないわけですね。
975 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:16:07
マキムクで金属が出ないってどういうこと?
ホケノとか多数副葬されてるだろ。
もともと畿内は吉備と同じく薄葬文化だが、前方後円墳以降は一気に
豊富になる。
原の辻は航海の無事を祈って捧げた供物だろうし、「市場から出土しない」
=「無かった」の議論は短絡。
976 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 22:44:48
市場は墓じゃないんだから、鉄が出なくても当たり前だろ。
貴重な鉄が埋もれてたら、とっくにみんなで掘り出してるよ。
977 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 04:36:02
マキムクの住人は交易の様子を指をくわえて眺めてたのか
はたまた交易商人に騙されて畿内に何も残らないような取引をしてたのか
どちらにしろ必死に交易しても貴重な鉄や高価な絹は手に入らなかったようだ
交易の結果、頭が弱い畿内住民は壊れた土器のみ手に入れてたとw
こんな哀れな交易センターに奴婢1000人を従え一大卒を地方に派遣する女帝がいたとは思えないんだがw
978 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 05:26:02
それがいたんですよ。
すごいねえ。大和の卑弥呼は。
979 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 07:35:32
>>977 だから、何も残らないとかないからw
特に鉄器は格段に増加してる。
そもそも箸墓の被葬者は、鉄器を主にした遠隔地交易の窓口、
旗頭として祀り上げられた人。
980 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 16:05:31
981 :
曲学の徒:2008/09/25(木) 19:22:07
982 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 20:42:44
>>979 纏向と言うよりは大和を中心とした首長連合の形成を
鉄の入手ルート確保の為とするか否かは学者でも意見が分かれているんじゃないのかな?
纏向の性格に付いても俺自身は交易都市と言うより祭礼都市と言うのが主で
交易活動があっても副次的なものであったと思う。
(前述の金属製品の少なさ等)
983 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 22:16:33
>>982 いやむしろ、鉄が寡少であった地域だからこそ、
遠隔地交易の窓口になり得た有力者に権力が集中したと、
松木武彦は論じてるわけで。
北部九州のオウが弥生後期末に権威を低下させたのは、
永らく続いた寒冷期で後漢が衰退したという理由も大きいが、
何より九州で鉄資源が潤沢に行き渡り、あえて鉄の窓口のオウを
推戴する必要が無くなったためとも言える。
984 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:20:33
>>983 古代で鉄が必要とされたという先入観をすてたまえよ。
東海地方は、古墳時代になっても鉄器は少ないよ。
所で絹って最近は出土してるわけ?
服飾史は良くわからんけど首都=文化都市=人種のるつぼでファッション発信の場
というのは古今東西かわらない気がする。田舎の娘が109に憧れるようなもんでさ
やっぱりここらへんからしても鉄だけじゃなく他の出土品も炭素測定やり直して総
合的に判断する方が理知的だなと思うね
986 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:41:05
>>984 鉄が耕地開拓に力を発揮したのは衆人が認めるところ。
武器としては余り役に立たなかったらしいが(高価過ぎるのと、鍛造技術が
当時の倭国では未発達であったため)。
村上恭通以降、変な鉄軽視傾向があるが、それは間違いであると
村上自身が言っている。
987 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 23:55:38
>>986 >鉄が耕地開拓に力を発揮したのは衆人が認めるところ。
ウソだね。
当時の鉄はもろくて使えない。
一方で、木製のスコップなんてのもある。
988 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:04:46
纏向古墳群中で唯一詳しい調査がされたホケノ山古墳からは、豊富な鉄器が出土した事実がある。
・素環頭大刀1口を含む鉄剣類約10本、
・鉄鏃60本以上、
・鉄製農工具多数・・・
少なくともホケノ山の埋葬の時点で、ホケノ山の被葬者かもしくは葬儀を仕切ったその後継者は
これらの鉄器を入手し得る状況にあったことは認めざるを得ない。
とすると上で盛んに鉄の九州優位を主張している投稿者は、どう解釈するのだろう?
「ホケノ山の被葬者は九州から鉄を携えて遷って来た王」、とでも言うのか? 答えてくれ。
989 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 00:43:06
>>987 滅茶苦茶な理屈。
弥生中期から後期にかけて、須玖や三雲の首長が強大化したのは、
いちはやく鉄資源の入手窓口となったから。
鉄を入手し易いという玄界灘グループのアドバンテージを捨ててまで、
一体君は何を論じたいのか?
990 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:24:44
>>989 鉄資源を入手できる立場にありながら、
どうして、あっさり衰退したのか?
ということを論じられなければ、鉄器の優位性など無意味だろ。
991 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:37:23
>>988 ずいぶんわずかな量だね。
九州の圧倒性が証明されたな。
992 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:51:37
圧倒的でも、あっさり衰退したけどな。
993 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 02:55:55
>>991 鉄器なら奈良県桜井市のメスリ山古墳、京都府の椿井大塚山古墳、
大阪府茨木市の紫金山古墳から大量に出土している。
ついでに絹は奈良県天理市の下池山古墳から出土している。
しかも日本固有の文様である倭文だ。
994 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 03:17:04
アメリカのインディアンと一緒でさ畿内が人間の草刈場になっただけ
畿内での権力争いは入植者対入植者
インディアン(畿内原住民)のトーテンポール(銅鐸)は葬られましたとさ
995 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:06:48
>>994 マキムクには環濠がありませんが?
北九州のような戦乱の様子もありませんが?
996 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:21:38
>>995 人が住んでないマキムクの何を守るんだ?墓守数名いれば十分だろ。
997 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 04:58:45
人が住んでない(笑)
じゃ、誰がなんのために開拓したのか。
998 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 05:07:43
逆に住んでた痕跡あるの?
誰が「九州王が」
何のために「原住民の民力を削ぎ叛乱を防ぐため」
999 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 05:19:26
あの巨大差を競うような古墳造りは外来の王が原住民に権威を示すためと考えるのが妥当。
第二の目的は原住民の民力を削ぐと考えるのが目的、まさに一石二鳥の九州王(邪馬台国)
1000 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 05:22:42
大和の読みは八女津からとの説がある
八女が邪馬台国です。
1001 :
1001:
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