1 :
日本@名無史さん:
フォッ、フォッ、フォ…
∧ ̄∧ヽ
/∧ ̄∧. \=v=/ ',
,' \=v=/ .(_)\/((_) l
l (_))\/(_) (ヽノ ノ.//| フォッ、フォッ、フォ…
にノ( ヽノノ .( `il´//ニ|
に). `|| ) /⌒/Jヽ二. ⌒ヽ
/⌒ヽ二/|ヽ⌒ヽ 〉‐〔ー'-'‐'二|_ノ
〉_./l(二ー'-'‐'〕.〈 /_./l_V__ノ| |
//⌒ヽ/ ̄ ̄ ̄ ̄/ 〔二|l二ノ|=.|
_((∠二ニ/ バルタソ ./__|__人/⌒)/
\/____/ / //
|_,∠/
九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
■前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 26
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1202390675/l50
|∧,,∧
| ・ω・)<1乙
|⊂ ノ
|ωJ
3 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 02:05:42
>>1 乙。
てかバルタン星人かよ!
どんだけ〜イロモノなんだよこのスレは!w
4 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 07:35:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
5 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 07:54:02
連合とか同盟とか言うのは、戦いの中で生まれ、戦いのためのものというのが
常だからね。少なくとも日本の歴史では。
たとえば、戦国時代にも連合したことがあったと思うが、これは比較的弱者が
強いものに対抗するためだったと思う。
もう一つ、幕末に薩長同盟というのもあったが、これは坂本竜馬という強力な
橋渡し役がいて、幕府という共通の敵を倒すという目的があった。
つまり、同盟で丸く収まることはなく、同盟で激しい戦いが始るというのが
普通だろうと思う。
6 :
虹歩命:2008/02/24(日) 09:32:10
>>995倭国大乱の原因は私も王位継承にかかわるものであるとみています。
そもそも当時の王位継承法はクリルタイによるものであったのではないかとおもわれます。
7 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 11:00:20
邪馬台国の問題は、結局、卑弥呼の時代における日本の姿を知ることだろう。
邪馬台国九州説は、だいたいにおいて、後の大和朝廷の時代と比較して、統合が
それほど進んでいなかったと見る。その前の段階と見る。
畿内説は、九州説よりももっと進んだ状態と見ている。
これだけは間違いがないみたいだ。
8 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 13:26:21
>>7 更に、ここで首長連合を否定している九州説論者だと、統合のプロセスも考え方が異なる。
首長連合なんてものは無く単純に武力制圧でその版図を拡大して行ったと言う考え方だな。
しかし前方後円墳が武力支配した土地の埋葬文化を取り入れて進展して行ったシロモノで無いのは明らかなわけで
むしろ首長連合のシンボルとも言っても良い存在だと思うのだが…
首長連合否定論者の考え方で解釈するなら、武力で全国の統一に進出する前に
各地の埋葬文化をリサーチ、全国的に受け入れられやすい形を予め作っておきました
…なんて事になるのだろうか?www
9 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 13:43:05
前スレから卑弥呼共立に至った倭国大乱を同じ一族の王位継承戦と言うレスがあるが…
ではある一族の王位継承戦が倭国全土に広がったと言う事なんだな?
ほぼ倭国全土がある一族の支配下にあったと…
えらく豪気な話だな、おいw
それとも倭国の範囲を九州に限定すれば可能なのかな?
九州説論者の意見を拝聴して見たいw
11 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 15:33:32
>>10 多分同じ奴だと思うが、いい加減その芸風止めにしないか?w
深い考えに基づく解答を持っているように見せかけて
その実単に書き逃げでなんとかチンケな体面を保とうとするw
もう底が見え見えなんだが…
まあ、どうやって応仁の乱と三世紀の倭国を結びつけるのかご高説をぶってみ?www
>>11 そうだ、その通りだ。
>>10みたいなのを今後は「チンケ芸風」と呼ぼう。
>>11>>12 おまい、頭沸いてるのか?
応仁の乱と言えば、将軍の座を巡った争いがきっかけで
日本中が戦国時代に突入した大乱だろ?
そういう例も有ると
>>10は言いたいんだろうよ。ちょっとは調べるくらいしろよ
14 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 16:11:46
>>13 だーかーらー
それが何故三世紀の倭国におきたのか?
その蓋然性も傍証も挙げないで、単に後世の歴史の中から自分に都合の良い事例をチョイスするだけなら意味が無いっちゅう話だよw
「 日本の歴史の中なら何でもOKなの〜 」 au by KDDI ですか?www
15 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 16:12:00
>>9 西暦107年に後漢に朝貢した帥升について、後漢書は「倭国王」としている。
この時代に全国的な王というのはありえないので、倭国は、九州あるいは
その一部を指していたと考えられる。
卑弥呼はこの流れの中にある。倭人伝にあるように、元は男子を王として
いたが、それから7,80年たって倭国は乱れる。そこで卑弥呼を王にすることに
より収まる。卑弥呼が女王になったのは2世紀終わり頃と思われているので
年代も合う。
これは、後継者をめぐって争いが起こり、後継者が決まって収まったと
考えるのが一番妥当だと思う。
卑弥呼が死んだ後も後継者をめぐる争いが起きて、千人あまりが死んだと
倭人伝に書かれているのもそれを裏付けているように思う。
>>14 >ある一族の王位継承戦が倭国全土に広がったと言う事な
えらく豪気な(ry
という、バカレスに対するレスにしちゃあわかりやすいと思ったが…ね。
頭足りない人には例を挙げてやるのが良いと思ったんだ。
まだ優しさに気が付かないとは…
マッタク予想外デスwww
17 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 16:33:09
>>16 で優しさを発揮するのは良いが
単に時代背景も何も無視して適当な事例を挙げちゃったと・・・アホくさ
で結局そこらへんがお前の「底」って事でジ・エンド?www
18 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 16:35:16
>>14 >「 日本の歴史の中なら何でもOKなの〜 」 au by KDDI ですか?www
そのゲイ風もヤメロ。www
2レスで底を決められてもな。
俺は奈良の地元民の典型的な畿内説者だけど、
大乱が大王の覇権を巡っての争いなら、
これ以上の原因はないかと思うのだがな。
20 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 16:43:31
>>15 チョット分かりにくいだろうけどw
ここで首長連合の形態そのものを否定している人間の説だと
その後継者争いに加わった国は王家の一族同族って事なんだよね。
つまり倭国大乱の範囲はその一族の支配範囲って事になる。
「倭国王帥升 ”等”」にしてもその支配地域を全て同族で固めた
強固なものと想定している人はあまり居ないんじゃないの?w
21 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 16:51:02
ねえ、連合国表現は馴染まないと、前スレで一連のレスをしていたのは私だよ。
似た様な書き込みをしてたから、誤解してるでしょ。
私は前スレの
>>850を最後に一切書き込んでない。
でも思考は似ているかも。私も応仁の乱を思い浮かべたから。
>>9 改めて応仁の乱。それから南北朝もお家騒動だよ。足利将軍家を巻き込み、守護大名をも巻き込む。
将軍家は「観応の擾乱」となり、足利直義や高師直死亡。
応仁の乱や南北朝という例もある。
皇位継承で将軍家や守護大名へ拡大した南北朝の争いや応仁の乱が切っ掛けで戦国時代へなった事実。
西欧では、王位継承でしょっちゅう戦争が起きる。切が無い。
西欧は他国同士が親戚だもん。
俺は
>>10の書き込みの意味がわからない香具師に
原因が王座争いで全国に飛び火って例を挙げたんだよって、教えに書き込んだだけだよ。
>>20 何で同族(親藩)で固める必要があるの?
外様や譜代も居ても可笑しくない。
室町管領の上杉家も足利一門じゃない。親戚ではあるけどね。
これを一門としたら北条家から室を娶ったから、北条は足利一門になってしまう。
>>19 私はお家騒動が、それぞれを支持する豪族等を巻き込んだり、
豪族たちの派閥や豪族たち自身の家の家督相続争いへと発展したと思ってる。
だから豪族たちも兄(若しくは叔父)はAに付き、弟(若しくは甥)は敵対するBに付いたり。
平安末期の保元・平治の乱も、天皇家の皇位継承争いが、藤原氏自身の跡目争いに飛び火して、
天皇側と上皇側に分裂して争いが起きた。
28 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 17:52:58
王家の継承争いが王族以外の外様のような地位の者にまで波及し
やがて倭国全土を巻き込む争いになって行った。
女王共立と言っても王族以外の者はあくまで
「自分達が仕える王に推挙する」と言う立場。
ここの「九州説論者かつ首長連合否定論者」が言う倭国大乱から女王共立への構図はそんなもんでいいんだな?
おk、お前さんらが考える構図は分かった。
で、結局、畿内説の考える「首長連合」があり得ない理由ってなんなのよ?
自分達の考えるモデルと違うじゃあ話にならんよwww
>>27は、これ倭国乱について語っているんだよね?
ということは、その時点でお家騒動が全国の火種となるほどの王族が存在したと考えているわけだ。
倭国乱の正確な暦年代ははっきりとしていないが
目安として、西暦100年から西暦200年まで(最大に長く取ってだが)の100年間のうちだろうとすると
それ以前から有力な王族が存在してと言うわけだね。
ここで問題点がはっきりするわけだが
君は倭国乱の範囲を九州とせいぜいその周辺と捉えているのか、中部日本にまで及ぶものなのか。
その王族に何を想定しているのか(帥升の奴国?)
それともその時代にすでに全国規模の王権があったと考えているのか。
そのあたりをまず説明してくれないかね。
君と思われるレスの中に、すでに矛盾点が多すぎて主張がいまいち良く判らないんだ。
>>27 あと説明する時は簡潔に。
別の時代の例えは不要、引用の意図に誤りがあるのでよけいに話が見えなくなる。
もしかして誤魔化す為にあえて判りにくく謎かけするフリをしているのなら、やめてくれ。
説明の仕方は、以下の手順でお願いする。
・弥生後期開始から古墳前期まで時系列に並べること。
・そこに推測でいいから、おおよその暦年代を入れること。
・根拠として文献を使用するならば、出典を明記すること。
(記紀とかいう大まかなくくりではなく、記か紀なのかをまず書いて、そこからどの項にある話なのかを明記)
・同様に考古事実というなら、論文もしくは提唱者またはそれが書かれた書籍名を明記すること。
・想像の部分は、ここは自分の意見であるとこれも明記すること。
簡単だろ?
31 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 18:33:58
まあ倭国大乱から女王共立に至る状況も
九州説と畿内説では想定している規模が違い
平行線だと言うのは最初から分かっているんだがw
ちなみに倭国大乱の弥生末期、各地に高地性集落や狼煙台が作られ
倭国大乱が九州のみでないとするのに何ら不都合は無いと思うが…
果たして魏志倭人伝の倭国大乱がどのような規模を指していたかは分からないな…
32 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 18:37:56
>>28 >畿内説の考える「首長連合」
前スレでも書いたけど、各地に細切れの均等な勢力が独立して存在した
という「連合」は、空論も甚だしい。
しかもそれが、環濠の終焉後に生じたというのは、無理。
環濠の終焉は、より大きな一つの権力のなかに包摂されて各地で地域間の
紛争がなくなったからと考えるべき。
私は大和朝廷のスタートラインは、他豪族と同じ一豪族だったと思ってる。
それは団栗の背比べだったかも知れないし、頭一つ抜きん出てたかも知れない。
その頃には中国で言う王朝は存在しなかった。国内は混沌としていた。
やがて戦争に勝ち勢力図、領土を広げた。政略結婚してお互いが寝返らない様にした。
その内大和勢力は他を圧倒する様になった。近隣の豪族は一家存続の為戦わずして配下になった場合もあった。
そして国内のトップになった(源氏・足利尊氏・徳川家康)。
これが神武天皇の先祖に当たる。
その子孫の神武天皇の時代は、各地で反乱が起こった。
それを討伐した。喩えるなら江戸時代の「由比正雪の乱、島原の乱、大塩平八郎の乱」
室町時代の「観応の擾乱、上杉禅秀の乱・赤松の乱、その他沢山」鎌倉時代の「比企の乱、宝治合戦、正中の変、その他沢山」
平安時代の「正平の乱(平将門)、天慶の乱(藤原純友)、保元の乱、平治の乱、源三位頼朝の、その他沢山」
奈良時代、飛鳥時代も言わずもがな。有り過ぎる。
鎌倉・室町・江戸に戦があったと言っても、将軍家は存在し機能していた。
幕末も内戦が多かったが、大政奉還するまでは(力を失っても)将軍家は存在していた。
で、当初は武力でトップに君臨したが、反抗的な豪族を討伐したりしてる内に
今の皇室になったと考えている。
畿内派の主張する連合(国)呼称は馴染まないよ。
>>29 >>27じゃなけど
57年に朝貢した奴国は、「王政」であったという前提はOKだよね。
奴国でその頃の王墓が出ているから、考古学的にも支持できる。
その奴国が王族を各地に派遣して、「○奴国」と称する国々ができた。
その「○奴国」という国が北部九州を中心に広がり、107年には「倭国王」と
称するようになっていた。これが、王族の派遣による地域支配。
この時点では、倭国は九州を中心とした国。
しかし、派遣された王族が各地で力を付けて、倭国王の後継者たらんとして
おきたのが「倭国乱」(180年頃〜)。
各地の王族が無益な争いを避けるために、184年頃に卑弥呼を「共立」。
>>32-33 だからさぁw
君らの考えるべき、とか考えているというのは、具体的にそれがいつ起きたんだい?
時代区分(予想暦年代)を明記してくれないと
さっぱり話が通じないんだよ。
>>32は弥生後期後半か終末期か古墳黎明期なのかと、予想暦年代を。
>>33は、それに加えて、とんちんかんな別時代の例えをやめて、シンプルに。
反論しているつもりなんだろうが、具体性がまるでないのよ。
だから君らの主張にはっきりと根拠と信頼性を与えるためにも、
>>30の条件くらいは明記してくれ。
>>34さんの書き方は判りやすい。
そう書いてくれれば、お互いに闊達な議論が出来る訳で歓迎する。
ただ「しかし、派遣された王族が各地で力を付けて・・・」からのくだりは
西日本のほぼ全域までそれが拡がったと見ているのか、それともやはり九州周辺のみなのかが漠然としている。
それさえ書いてもらえたら、
>>34氏の説として十分に成立する。
37 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:10:32
>>32 だから出雲、吉備、東海と独自の文化圏を持った地域連合は存在していたと言うにw
そしてそこから巻向に人や物資が流れ込んできた事は搬入土器(外来式土器)で容易に考えられる。
そもそも環濠の埋め立てなんて弥生中期から始まっているんだがw
お前は畿内ヤマトの支配が及んだ地域から順に環濠が消えたとでも思っているのか?
余程「連合」って言葉が気に入らなくそれで机上の空理空論を振りまいているようだが
「首長連合」って言葉は何もこの板・スレの造語じゃなくて、そこらへんの歴史の本にも普通に載っているしなあw
無論それでもって正しいとは言わないが、あまり神経質にならん方がええんとちゃう?www
38 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:11:19
■クニの成立期(弥生前期)
↓
農耕の広がりにより人口と集落数が増加
↓
土地の権益をめぐる戦いが顕著になっていった
↓
環壕集落の数が増加
↓
(争いの発生)
↓
(集落統合の必要性)
↓
環壕集落を中核とした集落群(地域社会・クニ)の成立
↓
(連合集落を統合する力の必要性)
銅剣を副葬する甕棺墓の登場→祖霊信仰の登場(戦闘の指導者=社会の指導者)
↓
■クニの相互期(弥生中期)
(部族間同類圧力の高まり)
↓
中核的大規模環壕集落が成立
(墳丘墓など祖霊祭祀の対象となる墳墓と祭殿などの祭祀空間、居住区、工房などを備える)
↓
(祖霊信仰の強化)
武器の祭器化
↓
戦神・軍事的祭儀=祖霊祭祀と結合。
↓
(クニの領土拡大が集団の第一課題へ)
39 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:11:40
■クニの連合期(弥生晩期)
中核的大規模環壕集落の拡大施設・設備を拡充
↓
(中核的大規模集落間の戦争圧力が上昇) → 覇権をかけた争い
↓
(巨大な勢力に対応する為に小さなクニは戦争回避)
クニ同士の連合化
↓
環濠集落の消滅
↓
首長墓(祖霊信仰)の再編・強化→レベル4
↓
古墳の登場
※弥生時代の代表的集落である防衛の為の環濠集落は戦争圧力があるレベルを超えるとその意味が失われた。力と力のぶつかりあいが顕在化した段階では戦乱になるか連合を組むかに分かれる。
戦乱になればなるほど、ばらばらのクニを統合する力が働き、集団は拡大し、首長の権力は巨大化していった。
40 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:20:30
>>33 もう言っている事が無茶苦茶だな。
てか頭が逝ってる?w
神武のさらにご先祖さんの代で国内のトップ?www
残念だが三世紀後半頃でもヤマトの勢力は畿内と言っても南部の大和川水系周辺だよw
(出現期古墳の分布から)
もう電波レベルだぞ。
いや煽りじゃなくてマジでwwwwwwww
>>38-39 まずそのチャートがどこからコピペしたのかを書いてねw
えらく昔の年代観だし、それを根拠に考えたらそりゃ間違うだろうと
老婆心から思ったので。
42 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 20:13:21
失礼、基本的には弥生ミュージアムから。
いやあまりにも断片的な書き込みが多いので一度流れを示した上で
論じたらいんじゃないかと思ったので・・
44 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 20:34:25
まあ最後に首長霊信仰の頂点として天皇霊信仰が来るとw
あと弥生時代に穀霊信仰なんてものがあっても良いかもしんないwww
45 :
34:2008/02/24(日) 20:34:39
>>36 君は偉そうだなww
>西日本のほぼ全域までそれが拡がったと見ているのか、それとも・・・
倭国乱は基本的には180〜184頃と考えている。
その頃には、王族の一部は出雲などにも進出していたと考えているが、
基本的には、「倭国」とは北中部九州の国であるという考えで、
「共立」に参加したのも北中部九州の王族。
倭人伝も「東に海を渡るとまだ倭族がいる」とあり、本州は倭国とは
別としている。
46 :
どくだみ:2008/02/24(日) 21:51:14
議論も、ちょっと一段落したようですので、前スレ
>>842さんのご質問にレスです。
スレをまたいだ超亀レスで、すみません。
>倭人伝の行程表記が突然に日数に変化し、
>戸数・距離(余の使い方も含め)・方角などの表記順が伊都国以降変わるのは
>三国志全体、いや同時代かその近辺と見られる文献にも、類似事項はあるのだろうか?
三国志も通読したことがないので、確たることは言えませんが、一応お答えします。
行程を、里数と日数を交えて書くのは、例えば漢書西域伝では、
大月氏國,治監氏城,去長安萬一千六百里.不屬都護.戸十萬,口四十萬,勝兵十萬人.
【東至都護治所四千七百四十里,西至安息四十九日行】
のよう、珍しいことではないようなので、倭人伝も同じではないかと思います。
翰苑の割注に「魏略曰従帯方至倭〜」と、倭人伝と酷似した記述が見られます。
(ググると、すぐに見つかります。)
つまり、倭人伝の記述は、文章まるごと、魏略を下敷きにしたか、
魏略と共通の本の資料を下敷きに書いています。
その魏略西戎伝が、倭人伝の最後の所の注に引用されています。
記述の仕方は、やはり倭人伝の記述の仕方と良く似ています。
その中で、水行という言葉が、一回使われています。
澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半歳,風疾時一月到,
最與安息安谷城相近,西南詣大秦都不知里數.
邪馬壹國も、単純に里数を記載した資料が無かったのではないでしょうか。
つづく
47 :
どくだみ:2008/02/24(日) 21:51:55
それから、魏略西戎伝には、釈迦の生まれた国や、
大秦(おそらくローマ)についての記述もあります。
これには、里数表示はありません。
「從安息界安谷城乘船,直截海西,遇風利二月到,風遲或一歳,無風或三歳.」
しかし、大秦の属国に関しては、
「驢分王屬大秦,其治去大秦都二千里.」
のように、里数表示もあります。
そんなところまで、魏の使者が行ったということはないでしょう。
ですから、里数表示か日数表示かで、使者が実際に女王の都まで行ったかどうかは
判断できないと思います。
ということで、表記の方法が変わっているのには、それほど深い意味はないと思います。
本になった、魏略あるいはその他の先行資料の書き方がばらばらだったので、
切り貼りして文章を作ったら、こうなったのではないかと想像します。
おわり
48 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 22:12:46
倭人伝には、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と書かれている。
女王国の東に海を渡ること千里あまりにまた国がある。皆倭種。
後漢書にも同じような記述がある。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
女王国より東に海を渡ること千里あまりに狗奴国がある。倭種といえども
女王に属さず。
魏志倭人伝と後漢書東夷伝では若干内容が違う。出展が違うのかもしれない
が、共通しているのは、東に海を渡ること千里余で倭種の国があるということ。
倭国の範囲が九州以外に及んでいないと考えるのが普通だと思うが。
あれから出掛けたので、遅くなってしまった。
>>28 >「自分達が使える王に推挙する」と言う立場
純粋に心酔した場合もある。
豪族たち自身の家の跡目争いの場合もある(父が弟に跡を継がせたがっている。
だから弟と父が付いていない勢力に付き、勝った自分が跡を継いでやる)。
家門の生き残りをかけて、態と敵味方分かれよう。必ずどちらかが生き残る。これもある。
○○皇子と親戚だから○○皇子側に付こう。これもある。
どっちつかずの態度で勝ち馬に乗ろう。立場を曖昧にしとく。これもある。
色々な理由がある。推挙?した、味方?したには様々な要因があると思う。
>首長連合が有り得ない理由
大王を決めてるから。
>>29 上段・・そうだ。存在した。
下段>倭国の乱の範囲〜
中部日本から九州全域。つまり当時の日本(倭)の勢力図。もしかしたら東国も範囲だったかも。
>王族に何を想定しているのか
中国の言う王朝が存在しなかった。混沌とした時代に戦争によって勢力を拡大し、近隣の豪族たちを
配下に治めた(兵力の差に戦わずして配下になった場合もある)。大王と呼ばせた。
そして武力で中部から九州を統治した。王族と言っても元は豪族。豪族同士の争いの最終勝者。
>帥升の奴国
王族じゃない
>全国規模の王権があったと考えてるのか
当時の日本の領土(坂上田村麻呂登場以前)に支配力は及んだ。
>君と思われるレスの中に〜
参考までに、私の前スレでの最終書き込みは>850だよ。
50 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 22:57:52
>>48 倭人伝のみで判断すると、そうなるだろう。
だが事態はすでに倭人伝の信憑性を問うところまで進んでいる。
まず魏は、本州各地に発生していた北部九州を凌ぐ規模の勢力たちの存在を知らなかったのか?
北部九州が隠蔽したという考え方もあるが、魏使の主な構成は楽浪郡の郡使である。
彼らも同様に騙されたのだろうか?
さらに3世紀にはすでに山陰、北陸、畿内には半島と直接交易したと思われる土器や文物が出土している。
少なくとも出雲を発祥とする四隅などは、北部九州よりはるかに強く半島の技術影響を受けている。
もし北部九州連合=邪馬台国連合だったならば、それこそ倭人伝には
「女王国の東の海を渡れば、さらに強大な国が多数存在する」と書いたのではないか?
つまり、九州だけで本州は別の国だとするタイプの九州説は、とっくの昔に成立しなくなったんだよ。
本州も含めて九州邪馬台国が統治したとしたほうがよほど辻褄が合う。
そのため東遷説が脚光を浴び、真剣にその可能性を検討されたわけだ。
そして纏向などの出土結果も踏まえて、東遷説も成立しなくなった。
今は九州説や東遷説を経た上で、従来の畿内説さえも否定されて広域連合説が残ったという状況。
ただし論理的には九州内だけで邪馬台国連合が形成されていた可能性はゼロではない。
だがそれについて考察された仮説を、残念ながら2chではお目にかかったことは無い。
>>15 直接関係ない話で恐縮だが、
後漢書で言えば、鮮卑伝に壇石塊が川に魚がいるのを見て
倭人は魚を捕らえるのが上手いと聞き倭人狩りに行く話しが載ってるね。
場所的には内モンゴルから満州あたりに倭人がいたらしい。
また、會稽東冶之東,與朱崖、?耳相近ともあるし、
当時の中国人って日本列島以外も倭と呼んでいたんだろうな。
52 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:27:27
>>50 以前は、纒向は4世紀になってから誕生したと言われてきた。
まず、これを前提に話をすると、纒向の誕生は卑弥呼時代のはるか後になる。
ここで、一つの仮説が成り立つ。すなわち天照大神=卑弥呼(+台与)。
そうすると、記紀の記述で卑弥呼の後を知ることが出来る。
日本書紀で皇祖とされる高皇産霊尊の登場。出雲の国譲り、邇邇芸命の日向
への降臨。その天孫降臨は神武東征につながる。
つまり、卑弥呼の後の台与の時代になって男王の登場し、日本の歴史が
大きく動いたのを知ることが出来る。
倭人伝の記述と記紀の記述が一致して無理がない。
だからというわけではないだろうが、それを壊すかのように登場したのが
纒向遺跡の年代を遡らせる説。纒向が100年遡ると、上の仮説は崩れてしまう。
しかし、纒向の時代についてはいまだに諸説ある。
また、纒向の始まりを3世紀初頭とすれば、いろんな矛盾が出てくる。
たとえば、東に倭種の国があるという倭人伝や後漢書の記述。
狗奴国の問題。などなど。
果たしてどちらが正しいのか。
53 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:33:43
>>51 内モンゴルから満州あたりというのは、良くわからないが、狗邪韓国は倭人の
国だった可能性もあるんじゃなかろうか。
いろいろ議論になるところではあるが、「歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
というのは、朝鮮半島の南岸が倭国の勢力圏だったと解釈することも出来るわけで。
54 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:37:27
>>52 >果たしてどちらが正しいのか。
纏向遺跡の始まりは2世紀まで行きますよ。
少なくとも西暦200年の時点で、マキムク造営が盛んに行われているのは、もうほとんど確定的ですよ。
55 :
34:2008/02/24(日) 23:55:31
>>54 纒向と言っても庄内の時期は、まだそれほど大きくない。
最大期は、布留0で箸墓が作られた頃。
纒向での庄内開始は300〜310頃と私は考えていますよ。
昔は庄内遡上の限度が300年頃だったわけだから、これでも
遡上させているつもりですけどね。
纒向での庄内開始が200年なんてトンデモにしか見えません。
56 :
34:2008/02/25(月) 00:04:07
年代遡上の難点については、前スレで鏡と古墳から書いたけど、
三角縁を国産と普通に考えれば、その製造開始は350年頃になる。
三角縁は布留0の期間内に製造が始まっているので、布留0の開始も
同じく350頃になる。
纒向石塚では、布留0に祭祀が行われている状況が確認できるが、
古墳の盛土は庄内開始直前か開始直後の頃の様相である。
つまり、古墳築造から埋葬までを2、30年位とみても庄内開始から
布留0までの期間はその程度ということになる。
これは年代遡上が始まる前の庄内式に対する見方を裏付ける。
この状況を素直に認めれば、庄内開始は310前後となる。
もしかしたら、庄内開始は320まで下るかもしれないとも考えている。
>>50 信憑性を問う事にはならんでしょ
いくつかの国が代々使者を送ってきたって記述もあるし
そんな大げさに考えることか?
何か纒向の話はまゆつばぽく感じるなぁ。言ったもん勝ちみたいでさ
>女王國東渡海千餘里
そもそも昔から疑問なんだが…
九州説にしても例えば筑後山門郡にしても東の海に出るには九州を横断しなきゃならんわけで
そこらへんどう解釈して良いのやら…
59 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 00:37:59
>>55-56 >纒向での庄内開始が200年なんてトンデモにしか見えません。
決してトンデモではありません。現在では考古学や埋蔵文化財に携わる者の大半がそう考えています。
>布留0の開始も同じく350頃になる。
それこそ大トンデモです。それでは前期古墳の時代がたった四、五十年ほどしか取れず、古墳編年に大支障を来たしてしまいます。
>年代遡上の難点については、前スレで鏡と古墳から書いたけど、
あなたのレスと違うかもしれませんが、「謎の女王…」スレで同様の主張をなさった方のレスを私は保存しています。
考古学的に正しい方法とは言えない実年代推定をなさっていたので、いずれ批判しようと思っていました。
きょうはもう遅いので、後日、必ずどこかにレスいたします。
マキムク造営の実年代についても、後日きちんと根拠をお示しします。しばらくお待ちください。ただ……
>纒向と言っても庄内の時期は、まだそれほど大きくない。
>最大期は、布留0で箸墓が作られた頃。
これはなんとなく解らないわけではありませんが、大きくないと言っても、太田、東田地区の「ト」字形に分岐する大溝の築造は、日本列島では前代未聞の大工事ではなかったでしょうか。
その辺り、纏向遺跡に対する評価といいますか、見解の相違があるようですね。
>>30 >もしかして誤魔化す為に〜
そんな意図はない。
>別の時代の例え話は
そう言われても、私は大和朝廷の先祖は日本豪族で、その中の勝ち組だと思ってる。
中国の言う王朝(夏、殷、周とか)は大和朝廷以前は無かったと思ってる。
それに近い物があったとしても、それは勢力土地が多い豪族であった。
喩えたのは、源氏(北条)、足利、徳川は、武力を捨てた皇室の先祖とだぶるからだ(武力闘争に勝った)。
>弥生後期開始から〜
弥生・・紀元前3から2。古墳・・紀元後3。
>上の根拠
自宅の参考書。数研出版の新日本史。
>想像の部分
「大和朝廷(皇室)の先祖は、日本に生息していた豪族。戦争に勝って、
次第に勢力範囲を伸ばし、他の豪族と政略結婚して彼らの寝返りを防ぎ、
持ちつ持たれつ援助をして貰いながら(戦力とか、物資とか)制圧していった。
配下の豪族には、一族・親戚だが別家門(別系統、婚姻したから親戚になっただけ)
・元からの家臣・戦って制圧されて配下になった豪族・勝ち目がないとみて戦わず配下
になった豪族など。当然制圧された豪族は反乱を起こす場合もあった。だが征伐された。」
61 :
34:2008/02/25(月) 00:47:23
>>59 議論は歓迎なんだけど、尻切れトンボで残念。
>現在では考古学や埋蔵文化財に携わる者の大半がそう考えています。
自分の考えを大切にしようよ。
他の人の考えはあくまで参考。
私も年代遡上説の著書をたくさん持っているけど納得できないんですよ。
>>34は安ポンの人だったのかwww
どおりで庄内開始を100年遅く見たいわけだ。
でさ。
庄内式発祥はどこだと見ているのかい?
北九州だって言いたいんだろw
ほかの事はどうでもいいからこれだけは答えてくれ。
庄内式発祥はどこだと考えているのかねw
どの考えでもおkとか、まだわからないなんてのは無し。
わからないのなら、実年代なんて提示できないはずだから、正直になw
63 :
34:2008/02/25(月) 01:07:19
>>62 おおっ!君は「何でも安本」の人だねww
質問の前に自分の意見を言いなさい。それが礼儀ですよ。
ヤマトの自生説を否定する今の畿内説が、庄内式の発祥を
どう考えているのかちょっと興味がある。
北部九州の庄内式は、環濠の終焉直前から出土が始まっていることから
纒向より時代が古いと考えているが、纒向以外の地域との前後関係は
まだ検討の余地はある。
この場合は女王國≠邪馬台国なんだろうねえ。
で、イメージ的には九州島の東の地(本州、四国)のことだろうねえ。
俺は畿内説なんだけどね。
大分県なんだが、コンビ二店員でも辛島っているね。先日旅行した折
レシートに店員の名前が。
よくある名前なんか?
秦姓は多いと聞いてたけどね。
どうみても自然発生なわけないだろ。ある時期から急に外部の勢力が
はいり技術革命みたいなものがあった感じ。
そのときがキーポイントですな。
中国の史書では倭国は戦争ばっかしてたわけだよ。
倭国大乱。卑弥呼も戦争中に死んでるし。新羅攻めたり百済つくったり
かなり血の気荒いぜ。
畿内説はそんなこと否定したいらしいが。なんせ勝ち目ゼロだから。
ま、簡単にいって九州勢が東に攻めようとしてあっけなく降伏。
北部九州・吉備辺りの王族を一部お迎えして首都になる。
しかし本当にヤマト政権になるのはすくなくとも6世紀後半だな。
>>61 >議論は歓迎なんだけど、尻切れトンボで残念。
>自分の考えを大切にしようよ。
そりゃおれも同感、
だけどな
>>59はこれを言ってる。おれ気になる
>>59 >それこそ大トンデモです。それでは前期古墳の時代がたった四、五十年ほどしか取れず、古墳編年に大支障を来たしてしまいます。
これは
>>61(34)は反論しないの?
てか
>>61(34)は古墳前期、中期、後期をそれぞれ何年から何年まで、って書いて
これで支障ないですよ、って書けよ。
書いてないのは、ア・ヤ・シ・イ・ぞ〜〜〜、ww
68 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 04:05:28
>>67 遡上前はその編年で全く支障なかったから、水掛け論だろ。
69 :
古代:2008/02/25(月) 09:56:34
65
辛島氏は秦氏と同じ渡来系氏族。辛島は伽羅島から来ているとか。
スサノオが朝鮮から持ち帰った植物の神・五十猛を始祖とする。
託宣・巫術を行う一族。
70 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:09:27
>>68の「遡上前」の捉え方はおかしい
「遡上前」に古墳時代開始を
>>56みたいに350頃なんて考えていた考古学者はいない筈
遅く見ていた3先生(斎藤忠・小林行雄・佐原真)にせよ
・前期・・・4世紀 ・中期・・・5世紀 ・後期・・・6世紀以降
だった筈だ
というより、「遡上前」でも古墳時代開始を「3世紀後半」とか「3世紀末」とか
3世紀に遡る可能性の表現は、多くの考古学本に見られた
斎藤・小林でも教科書的な啓蒙書には「3世紀末」と書いて
幅をもたせて(保険をかけて?)いる
斎藤・小林よりもっと前の先生、例えば末永雅雄などは特に年代観が古く
確か古墳が1世紀に始まるみたいなことを座談会で言っていたと思う
小林の前任の梅原末治京大教授なんかも古墳時代は3世紀開始説
梅原は卑弥呼の墓は古墳と考えている
卑弥呼墓を古墳とするのは明治から戦前期の古代史学者の一般的な考えだった
古墳時代開始350頃などと言うのは安本美典ぐらいではないか
無論安本は考古学者ではない、宝賀寿男もそうだ
古墳時代開始350頃だとすれば前期・中期の境目は何時なのだろうか?
水掛け論にはならぬと思うのでこれだけには答えてほしい
71 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:15:30
古墳の編年も変わった。
長年、箸墓は中期の古墳といわれてきたが、最近は、前期それも初期の古墳と
なっているらしいのでびっくりしている。
72 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:21:00
>>70 古墳時代の開始が西暦350年頃と言っているわけじゃないだろう。
三角縁神獣鏡が350年頃と言っているのでは?
ホケノ山古墳など三角縁神獣鏡の出ない古墳はもっと古いかも知れないし。
73 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:28:07
言いたいことがいまいちわからない。
中国の王朝というのは地方にたくさんの王がいて、その上に皇帝が君臨する。
日本も形式上は王の一人として朝貢する。
そういうのはなかったが幕府政治に似たものはあった??
つまり、卑弥呼は宗教上の天皇のようなもので、政治を取り仕切る将軍的な人物が別にいて
大名みたいな豪族がたくさんいたということか?
74 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:28:53
73は60へのコメント
75 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:29:41
>長年、箸墓は中期の古墳といわれてきた
そうではあるまいと思う
箸墓はやはり前期古墳とする解説が大半だったと記憶する
ただ「前方部が発達の兆しをみせている」のように捉えて
箸墓を前期の中でも後ろの方に位置づけるような解説は確かにあった
それが変わったのは全くその通りと思う
だが箸墓を中期古墳とした本は知らない
あったとしても一般的な考えではなかっただろう
箸墓を中期古墳とした本があれば、御示教願う
76 :
34:2008/02/25(月) 10:38:25
遡上前は、だいだい300年頃からが古墳時代というのが多く、
前方後円墳は330年ころからで箸墓は4世紀前半から半ば、、
椿井大塚山は4世紀後半というのが多数説。
椿井大塚山は、4世紀半ばより古く見るのは極めて困難というのが
遡上前の共通認識だった。
一方では、近藤はバチ形の前方後円墳がより遡上する可能性を
主張していたし、寺沢のいう「纒向型前方後円墳」が原初型として
遡上する可能性も言われてきた・・・というところか。
ただし、その頃は箸墓より少し遡って、4世紀始めころにまで遡るか
どうかというレベルだった。
この古墳編年が編年自体として問題があるとは思えないね。
77 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:45:59
畿内の土器の編年の信頼性は低いといわれています。
ホケノ山古墳の木棺表面の分析によると、AD55年から235年(確率95%)
土器は庄内3式でおよそ230年頃。
他方、勝山古墳の周濠出土の木製品の年輪年代測定結果は200年頃。
ところが伴出土器は布留0式。
つまり、木製品鑑定では勝山古墳が古いが、土器編年ではホケノ山古墳が古いという矛盾を生じる。
78 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:46:45
>>75 ずっと前に、田辺昭三という人がこんなことを言っている。
箸墓古墳は、平野部の真ん中に築かれているように見える。しかも、前方部が
かなり発達して三味線のバチのように開いている。というわけで箸墓を中期頃の
古墳と考えてきたわけです。と。
この人は、箸墓の年代が遡ると考えた人で、次のようにつないでいる。
ところが、箸墓から特殊器台形の埴輪という弥生時代に繋がるのではないかと
見られるものが出てきた。だから、箸墓はそんなに時代が下るものではなく、
極、初期のものではないか、場合によっては3世紀代まで遡らせることも
可能ではないかと思うのです。と。
ところが、どういうわけか、田辺昭三氏は、その後、箸墓の年代を4世紀中頃と
する考えに変わったらしい。
79 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 10:53:07
箸墓は従来、構築年代が三世紀末から四世紀初頭というのが通説。
80 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:08:40
>古墳時代の開始が西暦350年頃と言っているわけじゃないだろう。
なるほど
私は古い人間なので奈良盆地の大型前方後円墳が始まったのは
布留式土器の開始と併行すると教わり、今もそう思っている
庄内期の古墳や墳丘墓の問題はまた別に考えたい
それゆえ私の使った「前期」「前期古墳」には庄内期は含んでいないので
そう捉えていただきたい
今は庄内期の古墳は「早期」と言うらしいいので、混乱を防ぐために今後は私もそのようにしたい
ただ
>>56の「三角縁は布留0の期間内に製造が始まっているので、
布留0の開始も同じく350頃になる。」との論はやはり庄内期を省いているから
古墳時代前期の開始時期を言ってると思い、先のコメントをした
布留0は布留式開始時期であり、最初の大型前方後円墳箸墓の築造があった時だから
早期を除く前期古墳の時代(つまり前期)はこの布留0をスタートと考えていいと思う
>>56もその点は同様に捉えていると考えたわけだが、まさかもし違うのであれば
いずれにせよ
>>56本人から真意を聞かねばなるまい
81 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:26:06
田辺昭三氏といえば、須恵器の研究で有名な人。
どうも土器の編年を須恵器から考える人は、庄内期の始まりを4世紀初頭頃、
布留期が4世紀中ごろからと思うらしい。
橿原考古学研究所の関川尚功氏も同じような考えだったと思う。
82 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:37:22
76の
>>34へ
おはようございます
留守の間だったが朝から色々書いたが(80はあなたの今朝のコメントに気づく前)
今ここで急ぎ尋ねたいのは
>>67と同じで次の点
古墳時代を
・早期(庄内期)
・前期(布留期以降)
・中期
・後期
・終末期
と時期区分するのに異論はないと思うが、
1。前期は何年頃からか? 前のあなたのコメント
>>56で私はそれを350頃と受け取ったがそれでよかったか?
2。前期と中期の境目は何年頃か?
3。中期と後期の境目は何年頃か?
以上、あなたの考えをお教え願いたい
83 :
34:2008/02/25(月) 11:57:22
>>78 基本的にヤマトの特殊器台は布留0以降だから、特殊器台=弥生と
いうのは今では、誤りでしょう。
特殊器台のある古墳はヤマトでは少ないことから、葬儀に1回限り使用する
特殊器台が4箇所で見つかったとしても、2〜5年くらいの時間幅にしか
なりません。
84 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 12:15:27
>>80 たしかに、昔は前方後円墳は布留式に始まったというのが定説のように
言われていたね。
寺沢が布留0を提唱したのもそのことを意識したというのもあるかもしれない。
実際に、纒向石塚でさえ祭祀の時点では布留0で、ヤマトでそれ以前に祭祀が
遡る前方後円墳はなさそうでもある。
しかし、私は古墳は基本的に生前に作られ、埋葬されるまでの期間はその人の
寿命によりまちまちで、古墳の築造と祭祀とは別の時期という考えです。
その上で、纒向石塚などは、築造が庄内式に遡ると考えています。
ただ、どこまで遡るのかは、ちょっと判断が難しいですね。今のところ320〜330頃に
まで遡る可能性を考えています。
今日はこれ以降のレスは難しいので、質問は止めて自分の意見を書いて下さい。
85 :
ローガン:2008/02/25(月) 19:51:30
どくだみさん、いてるかな?
倭人伝の卑弥呼の記事の直前、「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱…」
其国とはどうお考えでしょう?
「倭国本亦以男子為王住七八十年其国乱…」なら、倭国=其国と何の躊躇いもないのですが(でもないかな?)。
「其」ですから、前述に対してのものでしょうか?それともタイトルの「倭人伝」の倭人を考えたほうがよいのでしょうか?
直後に書かれた倭国乱の倭国と同じって考えれば良いのでしょうか?
又お手空きの時にご教示ください。
なんせ、漢文が苦手なものですから。
どくだみさんじゃなくて申し訳ないが、
其国=女王国と私は理解しております。
”本亦”とあるので、現代語訳が、<その国もまた男性を王として>
となり<女王国もまた元々は男性を王として>と訳すのが自然かと。
倭国乱ってのは、後漢書で檀石塊が倭人国を襲い倭人を捕らえたのと
時期がぴったり一致するよのねえ
88 :
ローガン:2008/02/25(月) 20:37:41
>>86さん、ご教示ありがとう。
なるほどそうかもしれませんね。女王国とは卑弥呼を共立した国々と言うイメージで読んでいるのですが、貴方はどうお考えになりますか?
>>73>>74 >そういうのはなかったが、幕府政治みたいなのがあった??
当時、幕府は無い。喩えただけ。
大和朝廷(皇室)の先祖は、豪族たちとの戦争を勝ち抜いて大王になった。
>大名の様な豪族〜
御家人でも良い。
>〜政治を取り仕切る将軍的な人物が他に居て
大王
90 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/25(月) 21:14:39
>>87 僕も以前はそう思っていたんだけど、後漢書でいう倭人の国というのは
いわゆる倭国の事では無いんじゃないかと思うようになってきた・・。
91 :
どくだみ:2008/02/26(火) 00:59:41
>>85 ローガンさん
私も、
>>86さんの仰るように、其國=女王國=邪馬壹國だと考えます。
いままで、無意識に女王國のことと考えていたので、
改めて聞かれると考えさせられますね。
わざわざ「以前は男子が王だった」と説明するのだから、
其國は、女王國だろうと思います。
しかし、倭國は、倭人伝の他の部分や本紀の記述をみると、
女王國ではなく、三十国全体を指しているように思われるのです。
(卑彌呼は、親魏倭王であって、邪馬壹國王とは呼ばれていないので)
そうすると、倭國三十国の乱と、邪馬壹國一国の王位の行方が密接に関連していたことになり、
他の国に対する邪馬壹国の支配力が大きかったということを意味しているのかなと思えたりもします。
例えて言えば、徳川将軍家の継嗣問題で、諸藩が反目するというような。
それから、話は変わりますが、以前、三十人の王は居なかったのではないかと書きましたが、
後漢書に、「使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統」とあるのを忘れていました。
軽率な意見でした。ここで改めたいと思います。すみません。
倭人伝の「世有王、皆統屬女王國」という伊都國に関する記述を、
范曄が三十国全部に対する記述に書き換えたと疑うこともできますが、
やはり、基本的には、文献を信じる方が良いだろうなと思います。
92 :
ローガン:2008/02/26(火) 02:15:41
>>91 どくだみさん、ありがとう。
それに微妙に絡む話、よかったら聞いてください。
一大率は「如刺史」ですね。当時のイメージとすれば、読み手は例えば、毋丘倹を想像するのではないですか?
まず、「常治伊都国」ですから伊都国近辺が中央ではない事がわかります。
「検察諸国畏憚之」を考えてみました。卑弥呼は共立された王ですね。(共立とは名ばかりで独裁者であるなら話は別ですが)
一大率の「検察」による受益者は当然積極的に共立に参加した国ではないでしょうか?
しかし、一大率の行動範囲内にある「諸国」は検察行動を畏れています。
という事は一大率の行動範囲内の諸国は卑弥呼共立には参加していない。なんて考えるのですが?
ではお休みなさい。
93 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 07:40:37
遥か昔、紀元前200年頃に、秦の始皇帝は臣の徐福に命じ、東の海に蓬莱・方丈・瀛洲
という三神山があって仙人が住んでいる国にある不老不死の薬を求めて、3000人もの
老若男女の大集団を派遣した。
しかし、船は難破し倭の国々の各所に漂着し、地方各所で族長(弥生人)となり、原住民
であった一般住民(縄文人)と混血し現在に至っている。そして、大陸との交易は北九州
の国々を介して継続されていたが、後漢王朝混乱期の2世紀中頃以降から大陸より多数の
避難民が倭国に移住してきた。
その中の一人に物部の祖饒速日尊が居た。彼らは北部九州に留まっていたが大乱に明け
暮れる土地に嫌気をさし、移動を決意し東へと進み、安住の地であった河内・大和にたど
り着く。
そこで地の神であった長髄彦の妹を娶り、纒向の地に物部政権(三輪王朝)を確立させる。
その頃、また一方で倭国大乱の際に敗北した中部九州(筑紫平野)にあったヤマト軍
(邪馬台国)は南の熊本平野にあった狗奴國軍に破れ、大きく東南に逃亡し日向国
(高千穂久士布流多気)に第二次邪馬台国を樹立する。
そこで、国力を附けて再度北上し、宇佐(中津)に至り第三次邪馬台国を樹立させる。国力
を増強させ、兄弟と多数の兵士を従え、筑紫国岡水門・吉備を経て、数年の歳月を費やし、
その子孫となる神宮皇后と武内宿禰夫妻は遂に畿内に至る。
しかし、そこには先住者であった饒速日尊の子(子孫)である宇摩志麻遅命
(事代主)が待ち受ける。そこで、国譲りの談判に成功し、物部一族は出雲や諏訪地方
に落ちていく。
強引な談判により敗北し深く恨む物部氏を出雲や三輪山で厚く祀ることで大王家
(ヤマト朝廷)の平穏が願われた。
ホアカリ君ウザイ。しつこい。
>>34 >57年〜王政であったとの前提〜
力を持った豪族が支配していた地域にあたる。
>その頃の王墓が発見されている
力を持った豪族が、立派な墓を作っても不思議じゃない。
>倭国大乱〜無益な争いを避けるために卑弥呼を共立〜
?
1392年の南北朝合併による、天皇即位を共立と呼べるのなら、卑弥呼共立でも良いんじゃないの。
96 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 18:30:24
徐福は長いこと伝説上の人物と見られていたが、近年実在性が高いといわれる。
「史記」によると「童の男女3000人を遣わし、これに五穀の種と百工をおくりて行かしむ」
とある。この五穀の種と百工というのは注目しても良いかと思う。
昔は稲作は朝鮮を経由して渡ってきたと言われていたが、近年、遺跡の稲の化石のDNA鑑定で
中国の長江流域が原産地であることがわかっている。
伝説では不老不死の謎を求めて旅立った事になっているが、実際は政治亡命や集団移住であったかもしれない。
私は今日まで生きてみました
時には神社で骨折して 時には受験で池に落ちて
私は今日まで生きてみました
そして今、私は思っています・・・明日からもこうして生きていくだろうと
私は今日まで生きてみました
時には入った会社が潰れ 時には恋人寝取られて
私は今日まで生きてみました
そして今、私は思っています・・・明日からもこうして生きていくだろうと
私は今日まで生きてみました
時には奈良に左遷されて時には生徒にからかわれて
私は今日まで生きてみました
そして今、私は思っています・・・明日からもこうして生きていくだろうと
私は今日まで生きてみました
時には鹿に話しかけられて 時には鹿の顔にされて
私は今日まで生きてみました
そして今、私は思っています・・・明日からもこうして生きていくだろうと
私には私の生き方がある
それはおそらくサンカクというものを、見つけることから始まるのでしょう
けれど、それにしたって どこでニセモノに変わったのか
そうです、判らないまま生きていく そんな鹿男の私です
このスレは平日は静かだね。みんな仕事しているのかな。
99 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 16:05:11
みんな平日もドンと来い。
100 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:52:43
>>97 たくろう ですね
♪あ〜っ春だったんだね
101 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:58:58
≪民族フォーラムで在日特別枠外国人参政権は、テロ目的であると宣言していた≫
(在日は民族フォーラムで、参政権を利用して天皇を逮捕し、処刑すると宣言していた)
■在日朝鮮籍や韓国籍の大半が、元抗日過激派テロ組織の支援者である。
■朝鮮人の滞在目的は資金確保のためのテロ活動であり、大半が滞在目的外である。
■在日コリアンは、犯罪捜査を妨害するための特別な通名を利用し、捜査妨害している。
■民潭は北朝鮮を前面支援しており、麻薬と武器を日本に輸入している。
■在日朝鮮人民族リーダーは、天皇の拉致・皇室の解体・天皇の殺害を宣言している。
■韓国政府が正式に日本国は韓国の領土であると侵攻宣言をしている。
■在日は帰国できる立場だが帰らず、北と韓国と日本の3重国籍でスパイ滞在している。
■在日は昨年日本の発電所を放火し、対日テロを行っている。
■在日朝鮮人は、日本国民を日本から追放する運動「コリア100万人運動」を実行している。
■日本の暴力団のナンバー2と街宣偽右翼の半数は朝鮮籍と北朝鮮である。
■在日は過去に「松本毒ガスサリンテロ」を支援しており、一部免罪されている。
■韓国政府と在日は、竹島の占領を正式にテロとてして宣言している。
■在日と韓国政府は、日本国内でsex強姦テロカルトを多数養成している。
■毎年日本の特許を盗み、国益としている。
■韓国政府は日本の教育を廃止させると宣言している。
■平成にて「2300人以上」の日本人が大量強姦されたが、懲役日数が一部未定。
http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20080223124631.jpg http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20080223124532.jpg ▲2005年夏に【薛鎭鐡 在日本大韓民国民団】【蔡鴻哲 在日本朝鮮朝鮮人総聯合会】は
札幌市での民族代表共同街宣にて、参政権を利用して「天皇の殺害」「拉致」「投獄」を宣言し、
また皇室の解体も宣言!共闘運動は民族機関のリーダーが実行。そこに集まった85名の
一般人在日朝鮮人らが変装して拍手喝采。その場に一般コリアンが多数参加した。
102 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:04:56
徐福はロリコン天国を作った。
103 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 21:27:38
箸墓は卑弥呼の墓なのか???
奈良県桜井市の箸墓古墳は全長280メートルの初期の巨大前方後円墳で、
卑弥呼の墓との説もある。ところが、箸墓の周濠から木製の輪鐙
(わあぶみ=乗馬の時に使用する足掛け)が出土した。倭人伝によれば、
卑弥呼時代は日本に馬はいない。鐙自体は中国晋王朝時代に発明され、
邪馬台国より時代が新しい。記紀の記録でも日本で馬の使用は早くても4世紀後半。
畿内説の牙城であった橿原考古学研究所さえ、箸墓は卑弥呼の墓ではないと言い出しており
(台与の墓とか、台与の後の男王の墓と言っている)最近は完全にトーンダウンしている。
畿内説は卑弥呼の墓を新たに見つける必要がある。
104 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:04:58
>>103 箸墓の築造は、布留0式の時期。
木製鐙(あぶみ)の出土した層は布留1式の頃の層で、少しズレがありますよ。
木製鐙が使用されたのを従来の定説に従い400年以降として、これを出土した
布留1式の層が400年にまたがるとすると、布留0式が300より前に遡るのは
かなり難しくなるという言い方の方が良いと思う。
墓の中から出たのかと思ったら周濠かよ
>>104 木製鐙の話なんて今更持ち出さなくとも、スレ住人はみんな知ってるよなw
また橿考研が論者によって意見がまちまちだというのも激しくガイシュツ。
そこから先の話、つまり布留1が木製鐙によって引き上げられるのか
それとも木製鐙が布留1に引き寄せられるのかという話を、スレでもこれまで討論してきたわけだ。
俺は今のところ、別の共伴例が出るまで保留としているし
(牧が確認されるのは早くとも4世紀末だろうし、単発的な使用だとすれば確認の方法が無い)
箸中山周濠以外の、いや箸中山にしても全周濠の調査が完了するまで、迂闊に答えは出せない。
ちなみに五社神(神功皇后陵)でも、円筒埴輪の破片や葺石の状態から
4世紀後半築造の見方は変わらないとの意見が多勢を占めるし
今後はもっとより具体的なモノが出土するだろうね。
立ち入りが一通り済めば、次はトレンチが入るのはもう確実だろう。
>>106 留保には反対だな。現状での一応の位置づけは可能だし、するべき。
現時点での乗馬の起源は古く見ても5世紀初めころだから、
木製鐙を4世紀初め〜半ばの古さとすることは、極めて難しい。
現状で素直に木製鐙の年代を出せば、古く見てもせいぜい400年ころ。
従って、この推測を積極的にくつがえす証拠が見つからない限り、
箸墓の年代を古く見ることに障害となる事実の一つと認識すべきだよ。
108 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 00:31:33
この分だと、箸墓をむりやり3世紀にするために
大陸の木製鐙を200年遡らせる偽装が流行するな。
三国志の英雄が乗る馬は木製鐙無しだったのか…
>>107 いや障害というより、コトは箸中山の築造年代」などという些細な話では済まなくなるんだ。
もしさ、布留1が暦年代400年以降としたら、土師器の開始と齟齬をきたすわけよ。
で、これがさ(あくまで机上の地論ね)国内における乗馬の期限が5世紀(牧の確認からの推測)として
布留1がそこだとすると、今度は6,7世紀に至るまでごそっと動くか
それとも50年足らずで、まるで現代の建築技術に匹敵するスピードで
墳墓築造が進化したと見なきゃいけなくなる。
これはどの説が正しいかなどではなく、また邪馬台国の場所どころでない話になる。
繰り返すが、布留1が暦年代400年以降なら、飛鳥時代に至るまでのすべての通説がひっくり返ることになる。
このあたり、貴方の意見はどうなのだろうか?
ことは3世紀や4世紀の話では済まなくなるのだから、それも含めて自説を提示してほしい。
煽りや挑発ではないから念のため。
111 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:08:56
112 :
111:2008/02/28(木) 01:12:42
下から2行目訂正。
垂仁天皇の次代
↓
垂仁天皇の代
113 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:25:09
難しい問題だな。垂仁天皇が実在したとすれば、4世紀だろうが、日本書紀を
編纂した人たちは、たぶん垂仁天皇は、紀元前29年あたりから西暦70年くらいの人と
思っていたはず。
当然、その頃は馬はいなかったと思われる。
だから、その話は後世の作り話に近いのでは?
垂仁天皇陵からは形象埴輪は出ていない
>111 は後世の作り話
>>110 >布留1が暦年代400年以降としたら、土師器の開始と齟齬をきたすわけよ。
この部分の意味がよく分からない。土師器でなく須恵器?
その後の部分も、結論に至る理屈が抜けていて意味不明。
昔、須恵器が5世紀初めから半ばに始まったとされていたころには、布留1が
400年にまたがって使用されていても、祖語は生じなかった。
その後の須恵器の年代遡上は、別種のより古い須恵器の発見によるものなので
布留1の上記の年代観には影響しないはずなんだけどね。
>>111 私は垂仁天皇を4世紀後半とみているので、この伝承は、その頃に乗馬の風習が
あったとする根拠の一つになると考えます。
馬具は出土例が少ないので、現存のものだけで年代を決めることは出来ないという
レベルでは同意できますが、あまりに古く見るのも穏当ではないですね。
116 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 02:09:58
>>114 日本書紀にはウソが書いてありますよ、ということやね。w
それと質問なんだが、垂仁陵の埴輪の調査はいつ行われたのかな?
天皇陵は宮内庁が立ち入り禁止にしているから調査が全く出来てないと聞いていたが、
もう大体は分かっているのかな。
それとも垂仁陵だけが特別に発掘されて記録が残っていたのかな。
117 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 02:15:18
>>115 ありゃりゃ、ウソではなかったかのか。w
素人はどちらを信用すればいいのやら・・・。
118 :
115:2008/02/28(木) 02:34:16
>>117 垂仁陵からは、形象埴輪は出ていないというのは、正しいですよ。
今後出る可能性も低いと考えています。
私はそういう伝承があることが「根拠の一つ」になるとしただけです。
119 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 02:38:46
そもそも垂仁陵って、垂仁天皇の陵ということで確定してるの?
素人にはわからん。
120 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 03:07:09
地縁関係からあそこに垂仁天皇陵があってもおかしくないが
壕内にある但馬守の円墳は江戸時代につくられたもの
121 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 03:12:52
122 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/28(木) 07:37:38
記に 「天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入れ・・・」 とある。
>>111 倍暦計算により 崇神崩御=259年
垂仁即位=260年 同崩御=292年
だから、300年より少し手前。
123 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 09:29:26
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
なつかしいコピペだなあ
>>93 >>96 除福が本当に日本に来た、と思うなら
それは北部九州ではなく熊本の可能性が高い。あそこが日本で
一番中国の古代文化に近いだろ。もともと中国の民族が渡ってきた話は
あの辺にいっぱいあるんだよ。
>>93 とりあえず君は九州の人間ではないね。
「久士布流多気」
これは音読みで 九重山脈の久住岳(くじゅうだけ)だろ。
九州一高い山脈なんだが。大分県だよ。豊後牛が有名だな。
ちなみに豊玉姫を山頂で奉る祖母山も近いが。
宇佐と日向に一番争っていたのは熊襲だが。阿蘇じゃないだろ。宇佐に祭られてるのは
隼人だ。(これは戦争して殺したから霊を鎮めるため、だとか。
戦争奴隷の数かもしれんな。古墳に生き埋めにしたかもしれんよww)
あと宇佐家に伝わる口伝書では、そこの「国」の首都は紀元前が吉備でそのつぎに
宇佐、とあるそうだ。
その「国」の単位・大きさの規模はどんなものかは知るよしもないが。多分
数市町村分か、大きくても一県ぐらいの規模だと思うけどな。
秦氏と関係が深いから、秦氏の一部(?)が吉備から宇佐に来たんじゃね?
>>宇佐に祭られてるのは隼人だ
宇佐神宮と勘違いするひとがいるかもしれないから
書いておくよ。宇佐神宮に百体神社というのがあるんだよ。これが
神功皇后が戦争でころした隼人の霊を奉る神社なんだそうだ。なんで百なのか
しらんがね。
多分、どっかに百人生き埋めにしたのかもw
128 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 18:24:55
127
そこまで知っていて何故百なのかしらないとは・・
百個の隼人の首を持ち帰って、
松隈(まつくま)(宇佐神宮の西400b余)に埋められた。
百人の霊であるから百体神社という。
【河童虫からのお知らせ】
こんどハンドルネームを変更しました
河童虫⇒ 古代史大好き にしました
評判悪ければ元に戻しますが
130 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 20:45:09
↑ それより先にハンドルネームをひとつにまとめろや、糞虫www
プラムでいいじゃん
132 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:56:29
人間自体の評判が問題なんですが・・・
プラム=河童虫=古代史大好き
133 :
a:2008/02/28(木) 22:58:07
a
134 :
ローガン:2008/02/28(木) 23:08:23
やっぱりプラムさんでしょう。
2ちゃんの古代史は「プラム」なしでは、(大阪弁で)たよんないですね。
630 :改め〜卑弥呼:2008/02/29(金) 06:08:15
.-、 _
ヽ、メ、〉 r〜〜ー-、__ ________________
∠イ\) ムヘ._ ノ |
⊥_ ┣=レヘ、_ 了 | え−−い、ドンコイはいいっ!
-‐''「 _  ̄`' ┐ ム _..-┴へ <
| |r、  ̄ ̄`l Uヽ レ⌒', ヽ. | 終止符!スレを映せっ! 終止符!スレの戦い振りをっ!!
(三 |`iー、 | ト、_ソ } ヽ |
| |`'ー、_ `'ー-‐' .イ `、  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | `ー、 ∠.-ヽ ',
__l___l____ l`lー‐'´____l. |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| .| |
|| |__.. -‐イ
|| | ノ/
136 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 14:42:27
やはり、キーマンは帥升だろう。
2世紀はじめ頃、邪馬台国の王だった帥升は、当時、倭国と呼ばれる地域を
武力で支配下に置いた。伊都国が支配されたのもこの頃だろう。
後漢書で「倭国王」と呼ばれる実態を、名実共に備えていた。
帥升は、当時、一つの地位を確立したものと思われる。
その地位が重要だったから、跡継ぎ争いが起きる。
邪馬台国内の有力者の争いが、周辺の諸国を巻き込み、大きな戦乱となる。
これが、倭国の大乱と思われる。
長引く戦いで疲弊した後の、妥協策が女王・卑弥呼の誕生だった。
卑弥呼の時代は長く続いた。恐らく、変動の少ない平和な時代だったと思われる。
人々の中で女王が当たり前になる。だから、次の王には台与が就いた。
しかし、狗奴国の存在など、巫女的な女王では対応できない時代が来ていた。
男王との並立が始まり、やがて男王が積極的に動く激動の時代に突入する。
その後、長きに渡って続く天皇制の芽生えは、帥升だったのかもしれない。
137 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 20:35:38
こっちもたまにはUPしないと可哀想だべwww
138 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 20:38:09
追い抜かれたんなら又追い抜かせばいいww
139 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 21:08:42
プ様が降臨すれば、一晩で1000までいくだろうw
140 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 00:12:46
プラム様
太国様
サガミハラハラ様
これで一気に1000
142 :
古代史大好き:2008/03/01(土) 00:23:11
それに
折角立てたスレなんだし、直ぐに埋めなくてもいいんじゃないの。
143 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 00:41:22
>139-140が呼んだら
さっさく プラム=古代史大好き 登場(笑
今日はスペシャルサービスだよ
145 :
aratame_himiko:2008/03/01(土) 01:06:46
私に神奈川県民=改めドツボ 言うてる
日本@名無史さん(ブルー)イヨたんさーん!
おめー終止符ばかりに書き込んでて大丈夫なの?(笑)
私みたいにソースだして集まって貰わないと(笑) 代表でしょ?w
実はスレ主って羨ましがられるがいやな仕事ばかりなんだよね(笑)
みんな〜ここへ集まって書こう!神奈川県民に負けるな!!www
146 :
aratame_himiko:2008/03/01(土) 01:13:09
>>139 >プ様が降臨すれば、
そうそう、貴方はよく分かってる。実は終止符14がよく上がってるのは
この改めの実力やなくプ様の実力なのである。
あと愛知県民さんとか唐松山さん、古代さんとか。
147 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 01:21:51
>>143 呼んだのじゃなく、自演でのこのこやってきただけだよw
考古学データを主に検証しだすと
ついて来れなくなるから神話や伝承でごまかしたいだけだ。
これは考古学よりも、民俗学や文献学の評判を落とす行為だ。
民俗も文献も、判らないものははっきりと判らないと言っている。
ところが考古学が具体的な出土結果を提示するものだから
民俗学や文献学の名を借りた、妄想古代史大好きさんがキチガイじみた反論を
24時間展開しているのが、今の日本史板だ。
クズどもは去れ。
考古学ネタに対し、痛い反論で自滅した「九州ですが」のハンドルネームの使用を控えているのはバレバレなんだわw
さあ、今後の展開はwww
ですが復活か、名無し連投か、プが多数のハンドルで書きまくるかどれかなwww
>>147 前から感じてたんだけど
頭膿んでるだろう?
全てが自演に見えてしまうのがその証拠だよ
少し休め なっ
マジ 病んでるよ
何か心に病でもあるのか?相談にのるよ
>>148 速攻で反応かwww
何で居直れないのかなぁ
オカルト板でも自演しまくりのハンドルがいたんだよ、かつて。
でもそいつはID表示でバレまくったとき、「やり直していいか?」との名言を残したからこそ
今でも住民に愛されている。
君にとっては、ここjは唯一のコミュニケーシュンの場なんだろ?
だったら楽しくやりなよ。
ID表示されるまで、もしくは2shが閉鎖されるまでが、晩年の君の生きた証なんだから。
ヤフーで追い出されたのはつらかっただろ?
でも拗ねてはいけない。
愛される年寄りになりなよ。
そう焚き火の前で子供たちに昔話をする、太古の年寄りのように。
それが君にとって、一番穏やかな人生だよ。
>ヤフーで追い出された
って何?
>>150 誰も追い出されていない
>>149 ID表示を一番嫌がるのは君のような“名無し”の常連さん
本来名無しでいる意味が無くなるからね
>オカルト板でも
君はオカルト板の住人なんだ
なるほどね……理解出来たよ……
ここは日本史板だよ
ドツボがスルーされてる件についてw
153 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:23:12
プラム・・・・茨城県出身
154 :
古代:2008/03/01(土) 20:20:24
五十猛神について
素盞嗚尊は高天原で大暴れして子供の五十猛神を率いて、
新羅の国を経て、出雲の国についた。
五十猛神は木の種を持って天下ったが韓国には植えず、日本に持って来て
九州からはじめて全国に植えたので、日本は全国が木に被われる国となったという。
日本書紀」素盞嗚尊が言うのは「韓郷の島には金銀がある。
もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」
「わが子の治める国」とは、この日本列島のことです。
つまり、ここでは五十猛神が日本を治める大神とされています。
天津神が支配するまでは五十猛神が日本を治めていたのです。
五十猛神は「紀伊の国にお祀りしてある」と記載されています。
さて、五十猛神はもともとは九州が本拠地であったと思われます。
渡来人の辛島氏は氏神を五十猛神としており、九州に根付いていました。
155 :
古代:2008/03/01(土) 20:22:41
一方紀の国の元々の支配者は名草戸畔という女王であった。
神武天皇が名草戸畔を殺し、紀氏の祖天道根命にアマテラスの化身
日像鏡・日矛鏡を与え、五十猛神が祀られていた場所に祀らせる
名草戸畔は五十猛神を祀っていたと思われる。
名草戸畔は九州から来た、あるいは朝鮮から渡ってきたときに
辛島氏と別れたのかもしれない。
古代は五十猛系一族の支配が根強い国だったのか
もっとも稲作が大陸系渡来人によってもたらされた事とは矛盾しているが・・
156 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 21:46:06
>>119 >そもそも垂仁陵って、垂仁天皇の陵ということで確定してるの?
>素人にはわからん。
>>121 >たぶん確定していないと思う。
考古学の方jじゃ垂仁陵を、宝来山古墳て言うんだけど、あれなかなか難物の古墳だよ。ww
幕末嘉永年間に盗掘があって、ちょうどそんとき奈良奉行やってた川路聖謨が犯人一味を取調べして、
その記録が茨城大図書館の菅政友文庫にあって、
そんで宝来山古墳の石棺のサイズとか蓋の形とか分かるんだ。ww
で、宝来山古墳は前期でも遅いほうの古墳てことになってる。前期〜中期の変わり目らしいんだ。
だとすると垂仁天皇のお墓としてはちょっと遅過ぎるんじゃないか、って意見がある。
でもさ、宝来山古墳が垂仁陵ってのは、割りと古くからそう信じられてみたい。
だったら、垂仁天皇はホントは崇神天皇の息子じゃない、あのへんの系図アヤフヤじゃない?って意見もある。ww
このサイト↓の人も、そんな考えみたい。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other/suinin.htm 宝来山古墳は「菅原伏見東陵」てことで12代垂仁陵になっちゃってるわけだけど、
そこから西へちょっといくと20代安康天皇の「菅原伏見西陵」てのがあるんだ。
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/020/index.html だけどさ、この安康天皇陵は前方後円墳じゃないんだ。なんか、あとから無理やり作った御陵みたい。ww
で中には。ほんとの垂仁陵はどっか別のとこで、宝来山古墳こそ安康天皇の陵じゃないか、ていう意見もあったみたい。
でもさ、安康天皇の墓だったら完全に古墳時代の中期になってないとおかしいよね。
だから宝来山古墳は、垂仁では遅すぎ、安康だと早すぎで、難物の古墳なんだよ。ww
森浩一先生のなんとかていう本だったと思うけど、そんなこと読んだ覚えがあるよ。ww
陵墓の位置的には
崇神の息子→景行 に思えるが
158 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 22:23:04
ひょっとして、初期の大王は、世襲制じゃなかったかもしれない。
倭人伝を見ても、世襲制とは思えないから、古代の王というのは、案外
そういうものじゃなかったかも。
ただ、梁書を見ると、倭の五王は、世襲制になっている。
有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武
応神天皇あたりからそうなったのかな。
良くわからないが。
長子相続でなかった事は伺える
むしろ次男相続・・・・兄磯城(えしき)→弟磯城(おとしき) 兄宇迦斯(えうかし)→弟宇迦斯(おとうかし)
あるいは末子相続・・・・五瀬命→稲飯命→御毛沼命→磐余彦(神武)
160 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 23:45:01
>>156 垂仁天皇を「12代」て書いちゃいました。まちがい。ww
「11代」に訂正です。
スマソ m( _ _ )m でした。ww
161 :
古代:2008/03/01(土) 23:48:35
記紀に出てくる次男相続は記紀の編纂を命じた天武天皇の事例を反映している
といわれます。つまり、兄系の天智朝(大友皇子)を倒して天皇になった事を正当化するために
次男相続の事例が多く作られた、とみる見方です。
兄に問題があって弟が倒すという場面も多いです。
一方、神代では末子相続が多いです。これは若い血が尊ばれた事に由来しているようです
天孫降臨の場面でも若いニニギが選ばれまてます。
自分としては古代では王は交代制だったが、ある程度世襲も認められていて
問題のある王や力のない王が立つと別の王が立つ、というシステムだったような気がします。
天武が殺した相手は天智じゃないけどね
>>161 王政であって、世襲で無いと言うのは矛盾するよ。
王政というのは、血統主義だから。
164 :
古代:2008/03/02(日) 00:09:55
163
じゃあ王じゃなくて統治者かな。
最初は部族の首長が武力を競い合って勝ったものが統治者になった。
そのうちある程度は統治者の世襲が認められた
しかし、民衆の支持を得ない統治者は力のある首長に取って代わられた。
世襲制になった時点で王政と同じか・・
165 :
虹歩命:2008/03/02(日) 00:31:38
>>156安康天皇の治世は短く1〜2年です。しかも彼の即位を認めない系譜もあります。
雄略19年に安康天皇の穴穂部をもうけられたとありますからそのとき陵が造営されたとも考えられます。となると、安康天皇の陵がそまつなのはうなずけます。
その時の年代は475年ごろではないかとかんがえられます。
息子に継がせたくなるのは親の本能だから、
古代で実力主義王継だと言われても??だけどな。自然じゃない
167 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 03:51:06
まあ少なくとも卑弥呼の共立なんてことからは
世襲的王権しかもそれが男系男子のそれであると言うのはチョット想像しにくいなw
実際代々の王墓が同一の古墳群に見られるようになるのは
4世紀半ば佐紀古墳群からだと言う。
168 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 04:16:29
ぶっちゃけ「天皇」と言う称号の導入には血統による王位継承を確実にする為の狙いがあったんだろうw
更に言うと「聖徳太子伝説」について…
王の権威や神聖視は既にされていたが、その後継ぎたる皇子に付いてはそれが無く、
皇子の地位安全が補償されなければ血統による王位継承も危うい。
そう天武が大友皇子をぶっ殺したようにw
そこで皇子の神聖化を計りそれが聖徳太子を生み出したとwww
169 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 04:51:27
>>163 >王政であって、世襲で無いと言うのは矛盾するよ。
>王政というのは、血統主義だから。
矛盾しない。
じゃあ先の王を倒した、その血統に繋がらない者は、王を名乗れないじゃないかw
そもそも「王制」に対するのは「共和制」だろ?
血統が必ずしも必須事項である必要は無い。
ローマ皇帝が良い例だろう。
「世襲」ってのは「相続」が代々行われていくことだから、
「君主権(=治政権)」が継がれていくと言うよりも
領地、領民からの徴税権等の財産権が継がれていくことだろうね。
「君主」と言うのは、公権力を行使できる地位のことなので、
天なり人なりがその地位を認めれば成れる。
「世襲王権」は君主選定法の一つに過ぎない。
171 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 14:57:08
天照大神には子供がいないから、皇室の歴史は天照大神までは遡れないとも
いわれるが、必ずしも世襲制でなくても良かったと考えれば、皇室の地位は
天照大神まで遡れると考えてもいいのかもしれない。
血統的には遡れないわけだが。
皇室の血統はいったいどこで始ったのだろう。
継体天皇までは確実に遡れるといわれるが…。
>天照大神には子供がいないから
ハア?
天照大神は神武の5代前の御先祖様ですが。
173 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 16:56:15
天照大神に子供がいないなら
ニニギの親はどうするんだ?
アインシュタインもびっくり。
アマテラスの子はオシホミミだよ。
175 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 21:49:00
邪馬台国関連スレには珍しく王権世襲の問題を論じているが、いい参考文献がある。
・佐伯有清 『研究史邪馬台国』 (吉川弘文館)。
所持している人多いだろうし、なーんだと思ったかもしれないが末尾5章「戦後の邪馬台国研究」は
日本古代の身分・階級と世襲制度の問題に関する諸研究を要領よく紹介している。
所在地論とはひと味違うから、興味ない人は、ここ熟読していないかもな。w
しかし魏志は日本の社会史・制度史を考える上で大切だし佐伯もここは力を入れて書いている。
・「共立」重視の藤間生大の王権論と、これを批判した上田正昭の「世襲」重視。
・上田説の基調に影響したとみられる北山茂夫の男系世襲論と階級支配体制論。
・エンゲルス的な原始共同体→部族連合→英雄時代→専制国家(世襲君主)の図式に照らし邪馬台国時代は?
・「原始的民主制」主張の井上光貞旧説、英雄時代重視の石母田正らの所論。
・反対に専制的支配を重視の田中元、直木孝次郎らの諸説。
・倭人伝に(のみならず東夷伝全体にも)現れる「大人」「下戸」についてどう考えるか?
・大人を「国の大人」(諸小国の王クラス)と「邑落の大人」(首長層)に分ける牧健二の説。
・「大人」は王・官クラスで特定宗族から出る支配層、「下戸」は被支配身分だが首長層とする原島礼二説。
世襲も、倭王、諸国王、首長などそれぞれのレベルで考えなければならんだろうが、
佐伯有清は如上の論者らの王権や首長権世襲に対する考えを取捨し
また烏丸・鮮卑などの2〜3世紀の状況も勘案したうえで、次の自説を述べている。
・(佐伯説)
「古代統一国家の成立に至るまでの推移は
@邑落首長の共立、→ Aその世襲化、→ B小国王の共立、→ Cその世襲化、
→ D諸小国連合の王の共立、→ Eその世襲化=初期古代統一国家の成立
という図式が考えられ、邪馬台国を含めた諸小国はCの段階に、
邪馬台国連合はDの段階に、それぞれ位置づけられよう」(275頁)
つまり佐伯は、卑弥呼が得た倭王権はまだEの段階ではなく、世襲化していないと見ている。
176 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 21:50:22
そうか、忍穂耳命は天照大神の子供か。
しかし、天照大神には夫がいない。
素戔鳴尊が、天照大神の首にかかっていた玉を噛み砕いて、空中に噴出した
ときに生まれたのが忍穂耳命。
子供といえば、子供なのかなあ。
神らしく、お上品に書いてはあるが、
普通にスサノオとの子ではないかと。
スサノオが実弟であればありえないですが…
178 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 22:09:25
恐らく、人々の記憶に天照大神に相当する人物の記憶はあったのだろう。
しかし、天照大神の頃は世襲制が確立していたわけではなかった。
けれども、皇室の歴史書としてはそこまで血統を遡らせる必要があった。
だから、そういう記述になったのでは?
世襲というのは
人間の本能的な動きですから昔からあったんではないでしょうか?
『我が子が可愛い、子供には楽をさせたい』というのはいつの時代も同じだと思います。
下剋上でもない限り、世襲という文化は昔から有ったと思うのだが。
私有財産制と親子を主軸にした家族制度が成立していれば何時の時代でも「世襲」は可能だね。
兄弟相続の文化もあるよ。
たしかモンゴルは、有力部族が複数あって、その時一番力のある部族から
首長が選ばれるというシステムだったような気がする。
中国の禅譲は、そういうタイプの王権移譲じゃなかろうか。
183 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:00:33
古代では、女王がけっこう多かった。女王は巫女的で神に仕えるという性格が
あったと思うのでたぶん独身だろう。だから、子供はいない。
これは卑弥呼からも想像できる。
となると、世襲制はありえない。
古代は世襲制でなかった可能性がある。
直系じゃなくてもいいんじゃねーの。
一族の中から適当な人物が「女王」になって、
王権に付随する権能は同じ世代の他の一族に引き継がれる。
卑弥呼が「女王」でも実務は「男弟」。
卑弥呼が死んで、また一族の中から壱与が立てられる。
これも広義の「世襲」制度。
185 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:10:06
>>179,180
おいおい、
おまいら、「家の世襲」と「権力の世襲」をゴッチャにするなよwww
古代ローマだって帝政の前に共和制がある。
共和制ローマは執政官を元老達の合議で決めていた。民会も意思を示す。
もちろん共和制ローマの前は王政ローマとされ、7人の王が王位継承したらしいが
伝説的だし、だいいち世襲制にもなってないよなww
それと王権が宗教的色彩を帯びる場合は、世襲よりか本人の、てゆうか
つまりだな、継承の候補者の能力重視てこと、あり得るだろ?
卑弥呼は宗教的な王と見ていいだろ? 違うか?
天皇家だってそうとう宗教的だぜ。
186 :
ローガン:2008/03/02(日) 23:14:19
>>175 佐伯先生はいいですね。
いいレスをありがとう。
187 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 01:18:46
>>175 でも九州説だとその図式のBかCってことなんじゃない?
>@邑落首長の共立→Aその世襲化→B小国王の共立→Cその世襲化
>182
クリルタイという部族合議制で首長を決める
普段は個々に独立、遊牧だから別行動なんだな
で、事が起こった時だけ(戦争とか)、首長の絶対統帥権が発動、全軍が一体の戦力となる
189 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 15:22:31
まあ騎馬はないよな。古代は重装歩兵弓兵、石弓(ド)の世界。
古墳とかものすごく長くて大きい矛や剣にフルプレートに近い甲冑。軍団で叩き合う世界なのだな。
大和盆地とかありえないくらいの鏃が出てくるそうだし。
国同士の戦いなら示威的な軍団はかなり有効だけど、坂上田村麻呂みたいな東国討伐とかになる
とあんまり効果がない。アホじゃなければ直接決戦を避けて持久戦略とるから。(実際そうなった)
遠征で異様に出費を強いた桓武天皇は悪逆の評価に・・
攻めようがないので田村麻呂もどうしようもなくなって柵とか作ってなにもしてない。最後は
頭目を騙し討ち(交渉で京に行った使節を処刑して結果的にそうなった)して勝ったことにした。
維持費用が高そうな軍団制は、機動力があって馬を乗りこなす武士の登場まで続く。
源氏は、常備軍ではなく自費で招集(国費ではなく報酬を約して御恩と奉公方式)した
騎馬集団で東国をなんとかした。領地安堵で朝廷の承認というry
190 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/03(月) 16:16:05
共立といっても卑弥呼は「一女」を選んだのでありこれはクリルタイ方式。
後継のトヨは卑弥呼の血筋の者を選んでる、ということは
卑弥呼の縁者は崇められて敬われていた事を表している。
トヨが卑弥呼の鬼道という不思議な力を引き継いでいると考えたのではないか。
卑弥呼が共立されるとクニが良く治まった、というのも特別な一族の持つ力だと
考えられていたとしてもおかしくない。
191 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/03(月) 16:26:47
そのトヨの死とともに後継の血筋を失った邪馬台国は空中分解し、
人々はそれぞれのクニグニに戻っていった。
これはまるでインダス文明が高度な都市文明を築きながら
度重なるインダス川の氾濫で城壁を上へと積み重ねすぎて
都市が過密となり機能性を失いやがては放棄されて
人々が都市を捨て村へと戻って行ったという出来事に似ている。
>>191 >そのトヨの死とともに後継の血筋を失った邪馬台国は空中分解し、
>人々はそれぞれのクニグニに戻っていった。
台与の死、加えて邪馬台国の終末をも記述する史料があるとは、小生は寡聞にして存ぜぬのである。
上述されたことは何という史料に基づかれたのか・・・・、
ぜひに御示教賜わりたく、御願い申し上げる。
193 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/03(月) 17:14:56
>>191 そこは僕の想像の部分ね。
少なくとも邪馬台国と大和朝廷とは連動していないという事から考え起こせば
邪馬台国自然崩壊というのが妥当でしょう。
194 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 17:28:38
チョンが日本人の振りしてる
195 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/03(月) 17:57:50
>>190続き
邪馬台国の王は
>>190に述べた通りの縁戚共立人選方式とも呼ぶべきもので選ばれ
方や大和朝廷は世襲制。と、明らかに別物である事がわかる。
だので、トヨもシャーマンで独身であった為、後が続かず男王が立ち
再びクニが乱れ王立争いで混乱が続いて邪馬台国自体は崩壊したのではないか。
しかしその後九州王朝に引き継がれる経緯は不明だが、あったように思われる。
196 :
唐松山:2008/03/03(月) 18:09:00
卑弥呼が死んで 立てられたのは、男王、
男王が死んで 立てられたのが イヨ。
男王は、共立でなく 卑弥呼共立以前の状態に 戻っただけ
卑弥呼の居所と男王の居所とイヨの居所は 別々。
197 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/03(月) 18:30:45
>>196 男王が死んで 立てられたのが イヨ」
この時の男王って死にましたっけ?
198 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/03(月) 18:39:55
>>196「卑弥呼の居所と男王の居所とイヨの居所は 別々」
それならそうと女王もしくは王の都が遷都したと倭人伝に記すのが普通じゃない?
女王が何処にいるか解んないのに友好関係なんか結ぶかな?
>>189 陸上交通路が整備されるまでは「軍団」とかも機能しないでしょう。
船舶移動中心の海賊みたいな「軍団」ならあったかもしれないけど。
200 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 22:23:12
卑弥呼の前、元は男王がいた。共立は、不規則な継承を意味するという説もある。
とにかく、卑弥呼は世襲ではなさそう。
台与については、卑弥呼の宗女となっているので、巫女的な能力、鬼道と
言ってもいいが、こういう能力を期待したのではないだろうか。
つまり、世襲制度の原始的な形態かもしれない。
卑弥呼の後の男王は死んだとは書かれていない。梁書に、
「復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」
とある男王と同一人物かも知れない。
201 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/03(月) 22:26:45
狛比古っていうのはどんなんだろうな?
イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
203 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/03(月) 22:53:18
>>200 その可能性はある。とても鋭い洞察力だ。
「イヨタン・・・」も出て、とても幸せにスレが進んでいるようだ。
トヨ(豊) だと思うが
イヨかトヨか、どっちかは分からないというのが今の時点だと思う。
佐伯も安易な断定は避けるべきと、釘を刺している。
トヨタン・・・・・・・・・ イヨタン・・・・・・・・・・
207 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 02:55:41
>>175 その佐伯説による「古代統一国家の成立に至るまでの推移」って古代日本以外にも見られるパターンなのかな?
恐らくヤマト王権の発生拡大のプロセスって日本独特のもののような気がする。
他国だと殆どの場合小国や部族が何かをきっかけに(例えば近隣部族との闘いに勝ったとか…)
その勢力を伸ばしその版図を拡大していったってパターンじゃない?
邪馬台国関連スレで
「首長連合なんてあり得ない王がいる限り主従の関係がそこにあるはず…」
と言う発言をしている人間は、そう言う構図を頭の中に描いているんじゃあ無いのかな?
208 :
九州王朝大好き:2008/03/04(火) 10:10:59
>>199 >陸上交通路が整備されるまでは「軍団」とかも機能しないでしょう。
>船舶移動中心の海賊みたいな「軍団」ならあったかもしれないけど。
九州の武具は皮甲冑だから、船舶移動と海戦で上陸攻撃になる。
内陸戦闘では畿内軍よりも弱かったようだね。
継体軍や仲哀軍にも侵攻を許し領土を蹂躪されているからね。
209 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/04(火) 11:31:04
210 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 12:02:46
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
211 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/04(火) 12:21:25
>>211 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・ ・・・・・
213 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 02:41:24
>>191 九州ですが ◆UEukKMcVo2
>そのトヨの死とともに後継の血筋を失った邪馬台国は空中分解し、
>人々はそれぞれのクニグニに戻っていった。
なんじゃそりゃ?w
九州説の弱点と言うか
「邪馬台国がその後どうなったのか?」
これの説明が中々に難しそうだw
九州の邪馬台国自体は未だ何処かの地中に埋まっているとしても
その後継のクニ・都市は一体何処なのか?
畿内ヤマトに滅ぼされたとしても住民を皆殺しにして
国を焼き尽くした訳でもないだろうし
東遷説にしても住民全てが畿内に移住した訳でもなかろうw
何らかの痕跡は残ってないのかねえ?(山門の地名以外で)
214 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 03:37:15
邪馬台国の後継国は、イ妥国でしょう。
215 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 06:42:07
>>213 痕跡というのは、残らないものかもしれない。
たとえば、古代の九州には、筑紫の君、火の君、豊の君と豪族がいたらしい。
今で言う福岡県、熊本県、大分県の豪族なのだろうが、そのどこを本拠地に
していたのかあまりわかっていないと思う。
徳川家康にしても、幕府を開いた江戸は有名でも、どこの出身かについては
あまり有名ではない。岡崎や浜松、駿府には城は残っているが、痕跡といえる
ほどのものはほとんど残っていない。城は日本全国、どこにでもあるもの
だから。
ちなみに、江戸は大都市になったが、全ての人間を地元から連れて行った
のではない。周辺から集めたり、各地から自発的に集まってきた人が大半
だった。
216 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 11:50:09
痕跡?奈良に移築された法隆寺などはその一例。
ほほう、九州から瀬戸内海を船で寺をバラして運んで来たとw?
材木に関しては奈良の方が豊富なのにか?
218 :
ローガン:2008/03/05(水) 15:57:50
宇佐にある川部高森古墳群、赤塚→免ケ平→鶴見の埋葬施設の変化を見れば、
九州の独自色が失われていく様子が想像出来ますね。
普通に太宰府や条坊があったというだけで充分じゃね?一般にはあまり知られてないけど
徐々に権力の中枢は畿内に移っていった、と
邪馬台国のその後、って言ったって記録媒体が貴重で文字だって
今の時代とは違うだろ。どうしろっつーんだよ
ただ考古学から憶測するしかできないのが現状なんだよ
九州にだってまだ調べがついてない遺跡もたくさんある
最近はやたら畿内畿内言っていて胡散臭いものを感じることは否めない
夢想の中で生きる事は良くないんじゃないの
220 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 20:04:16
>217
移築という手段は、極めて有効。
山奥から大黒柱となるような巨木を諸国から探すのに数年。
生木を切り出して海に下ろすまでに、約半数の木は割れてしまう。
それから乾燥させて製材するのにまた数年かかる。
寺の建立を決意してから、建つまでに10年程度では無理だから、
移築のほうが簡単だ。
221 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 20:14:14
歴史の考察を見ると思うけど
地理に関して現代人が当然持ってる知識を古代人が持ってたとは限らないんだよな
222 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/05(水) 23:02:48
>>213 だからインダス都市の様に人々の記憶から無くなっていった。
と言ってるでしょ。その後九州王朝に引き継がれたにしろ・・。
邪馬台国が大和朝廷になったという方がよほど短絡的。
卑弥呼は記紀には出てこない。卑弥呼が現在の天皇の直系の先祖だと
誰も言わないし思っていない。戦時中天皇をプロパガンダとして利用した軍部でさえ
邪馬台国は天皇の万世一系を否定するものとして、学校で教えなかった。
年配の人が邪馬台国を知ったのは戦後という事が多い。
つまり邪馬台国卑弥呼は天皇家とは別物であると決定付けられていたわけである。
223 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:05:11
>>221 よく思うのだが、奈良盆地というのは、天然の要塞というか、特に大陸から
すれば、非常に到達しづらい場所だと思う。
瀬戸内海は、島もあれば半島もあってどう進んだらいいか、どこに上陸したら
いいのかわからない。
地理に詳しくない人はまずたどり着けないだろう。
しかも、奈良盆地の瀬戸内海側には生駒山地もある。南はといえば、広大な
山地が広がっている。
しかし、地理さえ知っていれば、比較的安全に、しかも船を使えるから楽に
大陸と行き来することが出来る。こういう地理的な条件も何か関係している
かも知れない。
たとえば、東遷の理由として、大陸のある出来事に脅威を感じて、より安全な
土地を選んだとか。
224 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:13:38
柿本人麻呂は、「遠の朝廷」という表現で九州王朝を呼んでいるね。
225 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:29:51
■出現期古墳に2タイプ 前方部の長さに違い 奈良県桜井市の纒向古墳群
2008/03/05 19:21 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200803/CN2008030501000754.html 前方後円墳発祥の地とされる奈良県桜井市の纒向古墳群にある勝山、矢塚、東田大塚の3古墳(いずれも3世紀代)の発掘調査で、墳丘の詳しい形状などが分かり、県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会が5日、発表した。
勝山古墳などは前方後円墳の原型の「纒向型」と呼ばれ、後円部の直径が前方部の長さの約2倍になるのが特徴だが、勝山と東田大塚には当てはまらないことが、ほぼ確実になった。
前方部の長短で2つのタイプに分かれ、前方後円墳の出現や発展過程を解明する資料となりそうだ。同研究所の寺沢薫調査研究部長は「古墳のデータがそろってきており、纒向型の位置付けを見直す段階にきた」と話している。
古墳群は邪馬台国の候補地・纒向遺跡内にあり、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(3世紀後半)など出現期の前方後円墳6基が集中。箸墓を除く5基が纒向型とみられていた。
【写真説明】 纒向古墳群の(手前から)勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳=2月、奈良県桜井市で共同通信社ヘリから
226 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:53:29
小野老が九州王朝滅亡後の大宰府での歓迎会で詠んだ歌
「青丹よし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今さかりなり」
現代語訳
「九州王朝は滅んでしまったが、今は奈良の都が真っ盛りだ、
しかしこの世に永遠ということはないものだ、畿内ヤマトもいつか
滅亡するときがやってくるに違いない」
227 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 02:23:25
前方後円墳を見ると
北九州でいちばん古い那珂八幡古墳は4世紀はじめ
これはすんなり畿内→北九州への支配で説明がつく
西都原にある西都原81号墳は3世紀はじめから中期で
ひょっとすると国内最古クラス
形も纒向型前方後円墳と同じ
つまり南九州と纒向とは古来から非常に近い関係にあり
北九州とはまるっきり別の勢力だったってこったよねえ
>>223 ヤマトの古代の地形については、出雲の古代の地形との類似が気になる。
ともに湖があり、その奥にマチを築いている。
229 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:02:50
纒向なんか、海外戦争逃避政権だろ。
広範な地域から戦争嫌いが集まって作った国だから、
別に西都原色が濃いわけじゃない。
230 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:32:19
しかし東遷説がトンデモの部類に入りつつある今、邪馬台国滅亡のシナリオも
タイムスケジュール的にかなりタイトだよなw
先ず266年にトヨによる西晋への入貢があったのでここまでは邪馬台国があったのは間違い無い。
で
、
>>227で出ている那珂八幡古墳や、津生生掛古墳が何れも前期纏向型で4世紀初頭=300年代?
つまりわずか30年チョイで影も形も残さず滅ぼされたと…
下手すりゃ半島の帯方郡の消滅より早い?
まあ九州説論者の中には邪馬台国の時代のヤマトの首長連合なんてものも認めず
単に畿内の一国と言う奴もいるが、そうなると30年ぐらいで畿内を出て九州の邪馬台国を滅ぼすに至った事になるw
231 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:40:59
>>230 東遷説が邪馬台国論の王道で、畿内説というのは単なるアンチ東遷説に過ぎない。
昔から、負けては装いを変えて、性懲りもなく、挑戦し続けるのが畿内説。
でも、いつも返り討ち。
232 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 04:34:06
東遷論は大正時代の和辻哲郎が始まりだったかな?
まあ今日九州説論者からも見放されるようだがw
土台、銅鐸祭祀が廃れたをもってその根拠と成すなんてのが無理w
もっとも今の東遷論者ってのは、その根拠は記紀の神武の東征神話一本槍なんだろうけどwww
那珂八幡はもっと古いよ。3世紀半ばくらい。庄内式が出ているよ。三角縁は第2主体で、最初の築造に伴う土器は古いらしい。
津古も庄内式の新しい壺やカメがあり3世紀後半くらい。
他にも北九州の古墳で古いのがいくつかあると思う。
西都原81は古いと言われたけど、土器の最近の検討では意外に新しくなるらしい。九州前方後円墳研究会の資料集を参照。
234 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 10:30:24
寺や仏像を移設するのに鐘だけを残していく不思議。
記紀に書いてある「いわゆる東遷事件」は、
1:国が遷ったとは書いていないし、
2:都が遷ったとも書いていないし、
3:国民全員が遷ったとも書いておらず、
4:小さな部族、久米集団を引き連れた神武らが
畿内にささやかな領土を占拠しただけのつまらぬ事件だ。
5:そもそも神武が畿内侵入以前に王様だったこともない。
6:神武が巨大な領土を占拠したこともなく、
7:神武が巨大な王国を築いたこともない。
8:海外派兵時代に乗り遅れた近海専門海軍=久米軍の
情けない都落ち話にすぎない。
これを
A:国が遷ったように書きたて
B:都が遷ったように書きたて
C:国民全員が遷ったように書きたて、
D:畿内説の根拠とするなど言語道断。
236 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 15:26:09
これを
A:国が遷ったように書きたて
B:都が遷ったように書きたて
C:国民全員が遷ったように書きたて、
D:九州説の根拠とするなど言語道断。
237 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/06(木) 15:34:36
>>236 そういう、畿内から九州に遷ったとかいう九州説があるのか?
九州王朝は畿内からか〜??ww
238 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 17:57:11
■纒向古墳群発掘説明会
3月8日(土)13:00〜16:00、、桜井市民会館(JR・近鉄桜井駅より北西へ徒歩約10分)で。
桜井市教委文化財課の報告。入場無料。
http://www.city.sakurai.nara.jp/event/event03.html 〜関連記事〜 2008.3.6 00:32(産経)
■最古級の奈良・桜井“3兄弟古墳”、形状ほぼ判明 卑弥呼の時代に相次いで築造
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080306/acd0803060039001-n1.htm 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡にある日本最古級の前方後円墳3基について、県立橿原考古学研究所と桜井市教委が相次いで発掘調査を行い、墳丘の形状や規模がほぼ判明したと5日、発表した。
全長100メートル前後の大型古墳3基は、女王・卑弥呼の時代に“兄弟古墳”のように相次いで築かれていたことを確認。邪馬台国の謎に迫る貴重な資料となりそうだ。
3基は勝山、矢塚、東田(ひがいだ)大塚の各古墳。南北方向に200〜300メートル間隔で並んでおり、近くには全長280メートルで卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳や、纒向石塚古墳もある。
今回の調査で、勝山古墳では墳丘の南側で前方部の一部と周濠を確認。古墳の形はこれまで、地形などから前方部が細長い長方形とみられていたが、東田大塚古墳と同様に三角形状に広がっており、全長は115メートルと推定されるという。
東田大塚古墳では前方部の一部が確認され、従来の説より20メートルメートル以上長い全長120メートル前後と分かった。
また、矢塚古墳では前方部の先端が見つかり、全長93メートルと判明。しかし、前方部は他の2基より極端に短く、古墳の誕生直後は設計プランが統一されていなかったことをうかがわせるという。
調査では、3基が3世紀半ばから後半に相次いで築造されていたことも改めて確認。当時の政権構造を知るうえでも興味深い資料になるという。
現地はすでに埋め戻され、8日午後1時から桜井市粟殿の市民会館で調査報告会(入場無料)が行われる。
菅谷文則・滋賀県立大学教授(考古学)の話 「卑弥呼をめぐる論争は、箸墓古墳を基準に考えられていたが、その直前に100メートル級の大型前方後円墳が次々と築造されていたことが明らかになった。3基まとまっての調査は、邪馬台国や古墳発生期を探る上で大きな成果だ」
239 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 18:48:39
そもそも女王じゃなくて共通の巫女さんに過ぎないんだよね
一番おいしかったのはヒミコを輩出したクニだったはず
神武東征伝承で注目なのは
畿内で神武天皇を向かえた人物は
神武天皇とは親戚関係にあった連中が多かったということ。
つまり、分かりやすく例えれば
徳川時代に、江戸幕府に
紀州分家の徳川吉宗がむかえられるようなもの。
要するに当時、畿内圏も大九州王国の人脈のもとにあったということだ。
アイルランドがイギリスの影響下にあったようなもの。
242 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:57:57
>>238 >邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡…。
最近は纒向を紹介するとき、接頭語のように「邪馬台国の最有力候補地とされる」
というのが付くなあ。
243 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:01:15
>>241 違う。
どうも、神武の曽祖父のニニギも、畿内の高天原の出身。
246 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:34:56
>>242 たぶん記者が勝手に書くんだろう
少なくとも橿原考古学研究所のホムぺには、そんな紹介はしてないみたいだ。
ただな、さっき桜井市ホムぺ見てきたら、観光のページには「ひみこの里」てあった。
それと行政のページにこんなのもあったぞw
http://www.city.sakurai.nara.jp/shisei/shisei02.html 市長の新年のあいさつだ
「私は、今回の市長選挙で申し上げましたように、21世紀の中頃を目途に、市内の、
(1)大神神社を中心とする三輪地区
(2)長谷寺を中心とした初瀬地区
(3)談山神社を含む多武峰地区
(4)邪馬台国候補地の纒向
を世界遺産の自然文化遺産に登録出来ますように、3年後に策定する第5次総合計画に
取り入れさせて頂き、市民一人一人が夢と希望とロマンをお持ちいただけるように、
全力を挙げて頑張って参りたいと思っております。」
だからさ、いまの市長が売り出しに懸命なんだよ。
ひょっとしたらそれが記者の書く記事に反映されてるのかもしれんな
247 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:48:06
>>246 九州では、甘木市が「邪馬台国まつり」なるものをやっているらしい。
248 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:49:21
さんかくぶちしんじゅうきょう?
>>248 ん? どうした?
漢字変換ができんのか? www
250 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:56:03
以前、ドラえもんで、邪馬台国関連の部分がカットされたことがあったらしい。
たぶん、どちらかを邪馬台国としたら、反対側から抗議があったのだろう。
邪馬台国関連の話は面白いし、みんなそこそこ関心があると思うのだが、
こういう風に妙な抗議をするから、テレビでは扱いにくい題材になっている。
今や、邪馬台国論争は、選挙運動よろしく、支持者集めに躍起になっている
ようなところがあるのかも。
参画扶持心中経
>245
違うどころか、図星。
253 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:25:03
>>233 まあ3世紀に畿内ヤマトの勢力が九州に伸びていたとて
九州説は最悪『偽僭説』で生き延びられるんじゃね?w
…つまり表向きヤマトに恭順していたものの独自に魏と交渉をもったとかwww
なんかもう必死だな
255 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:46:34
三角縁舶載説が存在する時点で畿内説はアウトだな。
日本 : 国外 = 540枚(100種)以上 : 0枚
この状況で国外で作られたとか、もうね。狂信団体ですかww
256 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:48:51
九州説の立場に立つなら
3世紀ひたひたと聞こえてくる大和の足音に焦った卑弥呼が
打開策として魏の威光を欲した。
実はクナ国のバックには畿内ヤマトが糸を引いていた。
…なんて筋書きも書けそうだがw
妄想乙
258 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:55:49
今日のドラマ「鹿男あをによし」は、三角縁神獣鏡が出てた。
2,3回しか見てないけど、邪馬台国畿内説ファンタジーのようだった。
259 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:57:16
>>255 アウトになるのは「舶載説」自体だけだが何か?
260 :
ローガン:2008/03/07(金) 00:57:57
(断面が)三角(になった)縁(を持つ)(内区に)神獣(の像がある)鏡って本当に国外からは一枚もみつかってないのですか?
261 :
ローガン:2008/03/07(金) 01:01:43
>>260は255さんへの質問です。
私、よくわからないものですから…
是非、ご教示賜りたい。
一枚あっただろ、中国に
263 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:06:24
>>246 >(4)邪馬台国候補地の纒向
纒向を邪馬台国候補として売り出すのはねえ、、、、
日本人は自国の文化等を表すのに「やまと」って言葉を用いてきた。
曰く「大和魂」「大和朝廷」etc…
その大和の中のヤマト、この国の原点たる遺跡だからなあ。
はっきり言って邪馬台国なんか付加価値の一つでしかないだろ?w
縁が三角じゃない、非対称の斜縁神獣鏡。
外区の構成も違う。
「三角縁神獣鏡」の定義はほぼ固まっていて、その定義に当てはまるものが、
日本で500枚以上で海外で0枚。
内区は画文帯などと同じなので、外区で区別するのが基本。
266 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:12:37
そもそも「三角縁」って鋳造の技術的な要因から来ている形状なのか?
それともその形状自体に何かしらの思想(道教・神仙とか)が込められているのか?
日本のために「特鋳」したといっても、普通は現地にある鏡に「親魏倭王」など
と入れるのがせいぜいで、現地にない鏡を数千枚、100種類以上作ったという
のはちょっと無理かな。
9寸(21cm)以上の鏡が邪から身を守るとする思想に従ってほとんどが9寸以上で、
その思想が「抱朴子」で唱えられのは、300年以降のことである。
逆に考えるんだ。魏は日本にあったんだよ!
呉は銅が豊富であったのに対して、魏は銅が欠乏して221年に銅貨の鋳造が
出来ない状況になっている。魏のこの状況は中国では定説。
魏での銅の流通がよくなるのは、呉を滅ぼした280年以降のことである。
この状況で日本に数千枚の銅鏡を贈ったというのは、無理がある。
「100枚」と正史にある以上、100枚でしょう。
270 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:23:45
…と言うか三角縁が全て国産であっても
畿内説は何も困らないわけだがw
困らないのは九州も同じ
他の出土物をみてもどう考えても九州の方が有利
プロパガンダも大概にせいと思う
272 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 02:16:11
ま、国産であっても邪馬台国と無関係ならなんで
「景初三年」の銘が入った鏡があるのかだね。
普通に考えりゃ「景初三年朝貢記念品」ってのが一番妥当w
273 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:09:00
>>238 には、「卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳」とも書かれているが、
箸墓を卑弥呼の墓に比定する根拠ってなんだろう。
なんか良くわからないな。
考えてみれば、纒向を邪馬台国に比定する理由も良くわからない。
根拠の積み重ねでそうなったというよりも、はじめに畿内説ありき、って
感じだな。
274 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 08:24:56
>>273 マキムク研究所の予算が減らされるからじゃねーの?
有力っぽい情報発信し続けて存在感増すのが方針なんだよ
北朝鮮の核問題と根本は同じ
県立橿原考古学研究所=北朝鮮
卑弥呼=核開発
国からの予算=他国からの援助
箸墓古墳の近くに出雲とか吉備とかの地名があるのは何で?
276 :
古代:2008/03/07(金) 09:59:41
275
三輪山の大物主は出雲の大国主の幸御魂であると記されています。
大物主を祀る大田田根子・大田氏は出雲国意宇郡の「オウ」から来たのかもしれません。
鴨氏も大国主の子である事代主を祀っている出雲系氏族と言えます。
崇神天皇の御世に疫病が流行った時、出雲の神宝をわざわざ取り寄せています。。
また太田遺跡からは出雲系土器が発見されていることも出雲との関わりを連想させます。
さらに畿内特有といわれている銅鐸ですが、発見されている数からみると、
畿内よりも出雲の方が圧倒的に多いのです。
以上から考えると、三輪国家とも言うべき国家は出雲の人々が作った国。
その中でも銅鐸を祭祀として使っていた氏族が作り上げた国と言えるのではないでしょうか。
その中心は三輪山信仰であり、祭祀国家の性格を擁していたのかもしれません
>272
ついでにいうなら景初四年鏡もあるんだよね
改元のため、景初四年は無かったようだが
ちょっとフライングして作っちゃったみたいだね
278 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:03:48
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
280 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:38:36
巻向の年代設定に疑問がいつもあった。なんで邪馬台国の時代にまで
遡ると断定できんの?
もうちょっと新しいだろ?邪馬台国時代の後だと思えるんだが。
C14でひっくり返る畿内出土物の優位性。
おなじ様式同士を比べてみると、九州のほうがはるかに古いだろう。
半島にどんどん出て行った倭人が、鉄器のない畿内なわけないだろう。
邪馬台国の後継国たる「イ妥国」は、阿蘇山で国家行事「祷祭」を行っている。
畿内ヤマトの王様が、阿蘇山で祭りをやった記録がどこにある?
金印も筑紫で出土。どうして畿内から出てこない?
282 :
古代:2008/03/07(金) 21:58:23
279
これは失礼しました。気軽に畿内と書いてしまったのが誤りでした。
大和と書けばよかったですね。巻向の大和と比較すれば出雲が圧倒的に多い。
で、いいですか?
要するに文化圏としては畿内が銅鐸の文化圏と言えるのでしょうが
一国単位で見れば出雲が一番多いということでしょうかね。
畿内と言っても当時は大和、河内、葛城などは全て別の国でしたね。失礼しました。
「銅鐸出土地リスト 豊中歴史同好会」でみると摂津や阿波が多いのですね。
これは知りませんでした。情報ありがとうございます。
283 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:44:12
結局、これで決まりでしょ?
『隋書倭国伝』の冒頭に近い個所に、有名な次の記述がある。
「其の地勢は東高西下、邪靡堆に都す、則ち『魏志』に云うところの
邪馬臺なり」(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)です。
284 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/08(土) 07:45:50
>>283 中国人の誤解はしょっちゅうだったから、そんなのはあてにならない。
以前アメリカン・ニンジャという映画を観たことがあるが、非常に日本の忍術の
姿がよく出ていたが、これもなにやら香港とか中国とかのにおいが、雰囲気が
有る箇所が見られ、米人は日本も香港も中国も黄色人種の考えからか同一的と
いうか、日本への交錯、誤解があるようだ。
285 :
ローガン:2008/03/08(土) 14:00:56
>>277 景初四年銘鏡…
景初四年があったかどうかはさておき、なかったと考えるなら、
存在しなかった年号を後世に刻んだとは考えられませんね。
この鏡が作られた年は景初の終わりから正始の初めに限定できると思います。
286 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 16:05:18
>>280 ホケノ山古墳出土の木棺の放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果
築造年代が3世紀前半と言う結果が出ている。
何も年輪年代方のみによるものではないw
287 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 16:10:39
銅鏡で言うのなら公孫氏の支配した半島から伝わった「画文神獣鏡」が畿内を中心に分布しており
ここで既に大陸半島の文物を畿内が入手するルートを確保したと見るべきだろうな。
それまでの銅鏡が九州を中心だったのが畿内中心にシフトしたと。
288 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 16:17:37
>>282 >巻向の大和と比較すれば
まあ分かっているんだろうが念の為書いておくと、纏向では銅鐸祭祀は行われていないようだよw
人為的に割られた銅鐸の破片が一つ出土していたはず。
そこらへんも併せて神聖視されていた三輪があって纏向ができたのではなく
纏向ができて三輪が神聖視されたんじゃないかと思っているんだがw
289 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 16:37:03
>>286 放射性炭素による年代測定法の結果では、弥生時代は500年以上遡ることになる。
どうも、仕組み的に古い結果が出るんじゃなかろうか。
C14というのは、時間が経つにつれて数が減っていく。だから、現在の数と、
元々の数を比較するとどれくらいの時間が経過しているかがわかる。
どうも、年ごとに定められたその元々の数というのに疑問点があるような気が
する。
290 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 18:08:44
話は変わるんだが
我々が「邪馬台国」を語るとき、暗黙の了解で近代の国家概念を用いて議論していると思う。
なぜなら、近代国家以外に住んだ経験がないので、
体感的にそれ以外の国家概念をイメージできないからだ。
だから邪馬台国には領土があって、君主の住む首都的な存在があって、君主がいて、それを取り巻く組織がある。
だが待って欲しい。そんなものはわずか数百年前にできた概念だ。
国家の概念を近代のそれから取り外してみよう。
例えば、当時まだ農業が開始され生産技術のおぼつかない時期。
農業即定住と考えるのは生産技術が高度化したのちの時代の発想で、
この時代は農業を営みこそすれ、連作障害の回避や良い気候を求めて、ゆるやかな非定住だったかも知れない。
そういう状況の中で、邪馬台国は一箇所に留まっていたと考えるよりは、
勢力圏という枠があって、その中をゆるやかに移動していたと考えられないだろうか。
そして記録に残ったのは、たまたまそこに拠点を構えたときに記録されただけなのだ。
だから邪馬台国は九州といえば九州で、近畿といえば近畿といえる。
近代人の考え方からすれば非常にアバウトな国家なのではないか。
>>290 >我々が
キミと一緒にしないでくれw
弥生時代は定住社会だよ。殆どの大規模集落は、数世代に渡って維持されている。
博多などは、海退によって海側に広がっていくが、現代に至るまで連綿と継続している。
292 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/08(土) 20:19:58
>>290 考え方が流動的すぎて失敗だと思う。勿論少数ではそれに当てはまる
ような連中も当時いたのは確かだろうがね。
邪馬台国は慣海民の国。
農業国家で土地にへばりつくように生きていた、農本主義の国ではない。
決まった首都は無かったかも知れない
例えば平安時代、通い婚で生まれた男子は母の実家で育つ
邪馬台国の時代、王家もそうだったとすると、
即位に伴って新王の育った国が新たな首都になったんじゃないかな
飛鳥時代頃まで、天皇ごとに皇居を造り替えていたくらいだからね
295 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:04:13
>>290 つうか縄文時代の山内丸山でさえ定住型だったんだぜ?w
仮にそんな首都移転が頻繁に起こるような国家像を想定するとしても
一度統一した後で無いと無理だろう?
おいおい、頻繁な首都移転の話じゃないだろ。
一種の海洋民族だったという話だ。
いやごめん、>290へのレスだったのに、気づかなかった。
298 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 22:23:44
尼崎市の田能遺跡は、甕棺もあり、副葬品も九州のものに非常に良く似ている。
九州の人間が移り住んだのではないかとも言われているね。
>298
すぐ横の大阪(伊丹)空港の滑走路工事で出た銅鐸の一つが
出雲のものと同笵銅鐸であるらしい
田能遺跡の職員は銅鐸に詳しいよ、勉強させてもらった
300 :
ローガン:2008/03/09(日) 00:43:40
ところでサガミハラハラさんはまだご健在でしょうか?
301 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 01:40:34
巫女的な女王がいて、怪しげな術(鬼道)で政治を行うというのを
どのように考えるか。
やっぱり、大王がいて、力を誇示するのとはかなり違う国のあり方じゃない
だろうか。
纒向を、当時の最新の都市と言う人がいるけれど、それならばなおさら、
邪馬台国とは一線を画するような気がするが。
302 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 01:59:17
>>301 >怪しげな術(鬼道)
これを大陸の道教、もしくはその亜流とするなら最新都市に相応しい
で、その神仙世界にあこがれ三角縁神獣鏡を造りまくったとw
それに箸墓のすぐ後に造られたと見られる西殿塚古墳には前方部分に方形壇があり
前方部分と後円部分に合わせて二人を埋葬したと想定できるとか…
聖―巫女、俗―男王の組み合わせも考えられるわけで。
303 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 02:14:15
>>284 都合の悪いところは「中国人の誤解」で済ますのか?
304 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 02:18:10
旧唐書では倭国伝と日本伝の2つを載せてるんだよね?
これは何故かね?
305 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 02:36:44
>>302 鬼道が、大陸の影響というのがありうるかどうか。それほど事情に通じていた
とも思えないし、第一、景初三年まで交流はなかったと思う。
卑弥呼が女王になったのは、そのはるか前だし。
それよりも、日本書紀などに出てくる倭迹迹日百襲姫や神功皇后の姿が考えられる。
つまり、神懸りして、神の声や祖先の声を代弁するというやつ。
あまり関係ないかもしれないが、政治家というのは、占いのようなのが好きらしい。
細木数子のところにも相談に行く政治家がけっこういるらしい。
>>305 >細木数子のところにも相談に行く政治家がけっこういるらしい。
それは占いをしてもらう為じゃないと思うぞ。
元銀座クラブママとして、それなりに政界裏情報網を持っている。
細木バックは893
もう、死んじゃったから、その893オヤジは。
309 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 06:56:31
>
>>304 お前もまだ紀無い説の亡霊に拠ってるのか? 中国古文献での邪馬□国は□の
部分がまちまちである。これを通常の考えでいったらいずれかが間違ってるん
だから、それだけ当時の日本の内情に大陸の連中は通じてなかったということに
なる。ということは、まず用心の必要な信用おけない古文献だということになる。
片方は合ってることになろうがねぇ?w
都合なんか悪くないよ。ただこっちはそういう考えを必ずしも持ってはいない。
通常人はそう考えるのが多いだろうということだ。真相は大陸人の日本の内情の
雲中の状態での誤解の交錯に加えて、真相を語った書もあろうし当時の日本の
名称において、九州だけをヤマトと為したり畿内だけをヤマトとしたり、双方を
ひっくるめてヤマトと称したり、あるいは国名に「ヤマ」のつく慣習があっ
たことから邪馬□国という二つ、三つ、四つ似た国名の国があったというもので
ある。これは時代に応じて畿内朝廷の勢力の範囲の大小によって名の変動が
見られるということをも含む。
要は大陸人が遠い日本の実情が充分知らんがための誤認記述がうんとあったという
ことであるから、一古文献で「決まり」だとかの即断の奴を破折!!
310 :
ローガン:2008/03/09(日) 09:32:17
>>309太国さん、ずっと以前にも言いましたが…。
隋書経籍志に「三國志…裴注」とあります。魏徴はこれをみています。
その上で、自撰書に「魏志所謂邪馬臺者也」と書いた。
魏徴が読んだ魏志には邪馬臺と書かれていた訳ですね。
裴松之が亡くなる20年程前に書かれた後漢書では、「邪馬臺国」とあります。
三國志注記の資料としておそらく目を通したであろう後漢書に邪馬臺国とある。魏略逸文も邪馬臺国ですね。
もし三國志に邪馬壹国とあれば、裴松之のコメントがあってしかるべきですね。
貴方のお言葉を借りれば、国名とは重要なものなのでしょう?
つまり魏志には初め、邪馬臺国と書かれていた可能性が高いですね。
311 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 10:48:30
>>305 所謂「卑弥呼=シャーマン説」ね。
でも既に時代は旧来の銅鐸祭祀を捨て大陸由来の銅鏡にシフトしているし
シャーマンとするにはえらく外交にもタッチしていると思うがw
312 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 10:49:19
>>310 この前もう討論、回答はしたと思います。倭人伝のいう「邪馬壹国」が正解で
あって、先に読む読まないなどにあまりこだわらないほうが誤認を避けられます。
また「臺」「壹」の記述の多いほうが正解を観る方もおられますが、こういう
取捨も失敗の元です。それに先が正解で後が誤の場合と先が誤で後が正解で
ある場合もあるでしょうし二国あっていずれも正の場合もあると観るべきです。
時代によって日本の国名の呼び方が変化してるのだということを熟知していなけ
れば真相はつかめません。日本の国情に薄い大陸の連中は相当いたと思うべき
で、その連中の書いた中国古文献は、九州をヤマトと考えた場合と畿内をヤマト
と考えた場合と、方法ひっくるめてそれを考えた場合による交錯とかで結構
誤認文献となっていると観てます。それに当時の日本では国名に「ヤマ・・・」
を冠するものが慣習でか多かったようで、ヤマトのほかに「邪馬壹国」とか
「邪馬国」とかもあって、畿内はヤマトと言っても九州は同名ではなかったと
いうことです。しかし時代の降下で国の名は狭議と広義の変遷と地域での呼び方
の変化の多様性と大陸人の日本不知からの交錯のため、大陸古文献は誤字を使っ
気づいていないままそれらを記したのが多いと思って然るべきです。
倭人伝の言う女王国のあった時代はローガンさんはどう考えてるか聞きたい
ですが日本では崇神の時代であり、このころは朝廷の勢力はほぼ畿内に留まって
おり、さらに記紀の編纂された日本統一的700年代とは違い九州は朝廷の勢力下
にはなく、九州と本州の畿内とは新幹線、飛行機等のない今日の高橋さんの
マラソン的苦労をせねば双方が到達が容易でないほど遠隔であったわけで、九州
と畿内は彼ら古代日本人にとっては別国であったと思うべきとです。
神武が畿内へ来てから九州は王者がガラ空きの様相であり、崇神世ころに戦乱を
終えて九州に女の王国ができたということですよ。
313 :
ローガン:2008/03/09(日) 10:57:20
太国さんレスありがとう。出かけますので又後程。
314 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 11:10:53
>>312 ローガンさん 続き
崇神のころは畿内はこの天皇が天下を取っている畿内朝廷の傘下にあり、その
時代に朝廷とピッタリ寄り添うようにて畿内に女王国があったとは考えにくい
です。例外的なのは南北朝の時代であってどちらも天皇を呼称して優位を争って
たんでしょうからこれはいいとして、女王国と天皇国とが双方オとメの重在天下
が畿内にあったなどいうのは非常に考えにくい論理です。もしそうならば記紀に
女王国との交流が倭人伝以上に記載されて然るべきですが、独立した女王国の
記載は猫の額より記述量がないようです。これは女王国が九州という畿内から
遠く離れた別国にあったために記載の情報が取れなかったと観るべきです。それ
も北九州では半島からの朝貢により女王国の情報は畿内に入るはずですから、
北九州に女王国があったとも考えにくく、当然それより以南が濃厚です。だから
崇神のころ畿内がヤマトと言ってても、九州女王国はヤマイチとか音韻の正確
読みはまだまだですが、そんな感じで畿内と九州は別の国名であった。しかし
後代の大陸人がそれを交錯誤認するものが出てしまった。これが真相ですよ。
最後に卑弥呼が朝廷に女だというなら、倭人伝は女王国などとは書かず、大王国
(天皇国)、あるいは卑下して小王国とかの記述にするでしょうが。神功が
卑弥呼だというなら應神、仁徳の寿命の連続での百数十歳を遠回しに容認
したことになりありえません。卑弥呼を神武以前と考えてるんですか?
315 :
古代:2008/03/09(日) 11:12:11
311
最近では銅鐸祭祀は古墳時代まで続いてたというような話が出ていたと思うのですが・・
銅鐸には山の神としての鹿と太陽を表す文様が刻まれていますが、数的には
鹿のモチーフが圧倒的に多く、山岳信仰であったと思われます。
一方銅鏡はどうかというと、後の時代では太陽信仰の象徴的なものだったと思いますが、
古墳時代初期においてはお守りのようなもので、祭祀と結びつくかどうかは疑問が残ります。
神獣鏡の神獣も虎や龍といった倭では見られない動物です。
銅鐸祭祀を捨てて鏡にしたのなら鹿が描かれていいのではいいのでしょうか?(国産だとしたら)
神仙思想でも白鹿が神の使いとして神聖視されていますし。
316 :
古代:2008/03/09(日) 11:21:44
鬼道がどういうものかは疑問の残るところですが、大陸で言う鬼道とは
祖先崇拝のようなもので、氏神信仰みたいなものでしょうか・・
一方で魏志倭人伝では何か物事を決する時には骨占を使うと紹介されています。
鬼道=シャーマンだとすると神がかりで決めていそうなものですが、骨占を使っています。
鬼道は宗教で、骨占は占術と見れそうです。
平安時代に仏教を信仰しながら、陰陽道で行動を決めていたのに似ています。
一方、魏使が邪馬台国には行っていないとすると魏使が行ったイト国までは骨占で、
邪馬台国は鬼道=シャーマンという解釈も成り立つかと思います。
317 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 12:35:51
>>315 >最近では銅鐸祭祀は古墳時代まで続いてたというような話が出ていたと思うのですが・・
できればソースをきぼん。
銅鐸の破棄=地中への埋葬って弥生中期末頃から既に始まっていて
末期には殆どが埋葬されたと思っていたが…
まあ地域差もあるだろうけど少なくとも大和は割と早かったんじゃなかろうか?
今後、纒向から当時使用されていたと思われる銅鐸が出てくるのだろうか?
318 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 12:45:55
それに素朴な疑問として纏向での卑弥呼が行っていた祭祀が弥生時代からの旧来通りのものなら
各地の首長にアピールするだろうか?と…
「衆を惑わす」とあるんだから相当アピールしたんだろう。
大陸的要素と旧来的要素のミックス(
>>302の「道教の亜流」とはその意味で書いた)
と言う話はあるだろうが全く新しい要素の無いものとは考えにくい気がする…
319 :
ローガン:2008/03/09(日) 16:52:36
>>312 すみません遅くなりました。
太国さんへの返信です。
すると貴方は魏志にある邪馬壹国と後漢書に書かれた邪馬臺国とは別々の国であるとお考えなのですね。
320 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 17:27:10
>>319 そこの判別はそれだけでは無理ですよ。さっきの場合のいずれかで参考としか
言えないです。別々かもしれないし、その場合は片方が九州で片方が畿内の国
か、あるいは錯誤をして九州の国なのに畿内の名とうっかりか未知かでそっちを
記載したとかいろいろ考えられますな。
321 :
ローガン:2008/03/09(日) 17:38:01
>>320 錯誤?
後漢書の編者が「錯誤」する際のソースはなんでしょう?
さっぱりわからない。
322 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 20:47:55
>>321 ソース云々よりも当時の中国古文献は日本国名をほぼ二分してるん
ですから、あなたは日本を当時一国形式で考えていたとすれば、二半
の片方は誤でしょうが? つまりあなたからして一半は錯誤だという
考えでしょうが。ならばその頃の中国人がその一半が間違い(錯誤)
だということはあなたのお説ではありませんか?
当時の中国人が日本の実情を充分熟知してない状態で書けば、国名
がそうなるということは言えるでしょうが。しかし合ってる書も
あるでしょうし、日本の未知、既知の度合いからまちまちですよ。
旧唐書では、倭国伝と日本伝の2つを載せているからね。
324 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/09(日) 21:03:34
>>314 続き
もしローガンさんが卑弥呼を神武以前の人物だと考えているなら、それが畿内
なら天照としてるのか分かりませんが、とにかく神武以前に 239年=景初3年
の時代があったということになりますから、これだと後代の天皇がスシ詰め在位
となり、考えにくいと思いますがねぇ。だから239年は神武以降の時代ですな。
そうなるとあなたの考えでは畿内に男王の天皇国と卑弥呼の女王国が重在して
いたことになり、そうなら卑弥呼と天皇の交易とかが外国にある遥か彼方の倭人伝
よりも、もっと詳しく記紀に載らねばおかしいということなんですよ。
それが伝からの借り物記載はあるも独自の記載は蚊の鳴き声文よりも少ないよう
だとなれば、結局朝廷と女王国の位置がかけ離れて遠かったという結論になら
ざるを得ません。それを畿内論者の一部は、女王国を都合が悪い事情で隠匿
したかったから記紀に載ってないなどと抗弁しており、こういうことが正解なら
ば、伝からの借り物である神功39年等の記述も女王国の存在を率先して仄めかす
記述となりますから、その記載をするわけがないのです。だから隠匿説は成立
しないですね。
325 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 22:58:44
>>315 >最近では銅鐸祭祀は古墳時代まで続いてたというような話が出ていたと思うのですが・・
そうですね。古墳時代に埋納されたとされる銅鐸もありますね。
始まりは古く見ても弥生中期後半までしか遡らないという見方が強いですね。
銅鐸の鋳型は北部九州でも多く出土していて、国産の銅戈、銅鉾と同じ頃に九州で作り始めた
と言う見方の方が良いと思います。
原田は銅鉾、銅戈、銅矛、銅鐸を全体として一つの文化圏と見るべきだと主張していましたが、
その見方の方が正しいのではないかと思います。
>神仙思想でも白鹿が神の使いとして神聖視されていますし。
銅鐸の絵も神仙思想とのつながりを認める説も有力ですね。
326 :
ローガン:2008/03/10(月) 00:11:16
太国さん。
私は壹と臺は単純に後世の書写のミスに因るものと考えています。
>>321で私が質問したのは、貴方が「九州の国なのに畿内の名とうっかりか未知か 云々」とお考えを述べられた事に対するものです。
よってもし後漢書に書かれた「邪馬臺国」が魏志に書かれた「邪馬壹国」と別の国であるとお考えなら、よく仰る所の「中国古文献」、のどの部分がその論拠とお考えなのかご教示頂きたいと思います。
>>323の方。旧唐書については先日、私見を書きました。
隋書における間違いが原因であり、唐書では訂正されています。
隋書が誤っていたわけじゃありません。
旧唐書の記述を、畿内ヤマトの政治思想を呑んだあとで、
新唐書に書き換えただけです。
328 :
古代:2008/03/10(月) 00:26:34
317
ソースを探したのですが見つかりませんでした。すみません。
巻向は土抗祭祀で弧文円板や鳥形木製品、鶏の埴輪などが見つかっています
確か、祭祀用具を火で燃やした後、土抗に捨てた、というような説明だったと思いますが。
それが後に、銅鏡、銅剣、勾玉の祭祀に変わっていきます。
329 :
古代:2008/03/10(月) 00:27:48
「それが後に、銅鏡、銅剣、勾玉の祭祀に変わっていきます。」
これは三輪山祭祀でした。すみません。
330 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 00:41:18
>>317 >銅鐸の破棄=地中への埋葬って弥生中期末頃から既に始まっていて
>末期には殆どが埋葬されたと思っていたが…
弥生時代中期中ごろに確実に遡る銅鐸はないのでは?
逆に、弥生後期以降とされる銅鐸が大半ですよね。
331 :
古代:2008/03/10(月) 00:51:34
325
昔は「銅矛文化圏」「銅鐸文化圏」と色分けしていましたが、
今は違うのですね。九州では銅鐸の鋳型しか見つかっていないので、
九州で製作したものを輸出していたのだと思いましたが、一体として考えた方がいい様です。
戦の勝利祈願では銅矛や銅剣、地鎮祭・豊穣祈願のような時には銅鐸と
その目的で使い分けていた、という説がしっくりくるような気がします。
332 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 00:54:06
>>330 佐原眞氏なる人物による分類では「菱環紐式」が弥生前期末。
続く「外縁付紐式」が中期前半〜中頃とか。。
(そのあと扁平紐式、突線紐式…と続く)
333 :
古代:2008/03/10(月) 01:10:25
323
旧唐書は邪馬台国の時代から何百年も経った記述で、今われわれが魏志を読んで
解釈しているのと同じように、唐の時代の人々がそのように解釈した記述で、
これが全て真実とは限らない、といって反論があったような気がします。
旧唐書は国名が倭から日本に変わるが、王朝は変わらないと説明してますね。
このあたりは倭国伝なんでしょうか日本伝なんでしょうか?
ついでに、11世紀の大陸地図には
倭奴国、日本国、扶桑国、毛人国、毛野国、流求国、蝦夷国など別の国のように書かれています。
民族によって宗教が違うのは当たり前で、
銅鐸、銅矛や銅剣、銅鏡・・・・それぞれ主体者が違う他民族状態だったのでは? 当時の日本は
336 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 03:32:31
「事実誤認が多発する」中国文献を根拠になぜ九州王朝とかトンデモ説を流せるのか不思議
構造的、体系的な誤認がない中国文献を無視して、
C14の測定るら無視して畿内を古く九州を新しく判定し、
錯誤だらけの天皇家唯一絶対史観を流せるほうが不思議。
>>337 中国文献に、構造的・体系的な誤認がないと、何故信じきれるんだろう。
誤認がなければ、邪馬台国の位置なんて、はじめから議論にもならなかったと思う。
339 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/10(月) 08:06:35
>>326 ローガンさん
ミスなら壹与のほうを臺与と書くでしょう。2回も国名に使う字を間違えると
したら、もうどこもかしこも倭人伝は誤字だらけと観たほうがいいです。
前から二字の水掛け論で、中国書からの論拠はもう肯定否定いずれにしろ結論は
出ないようですから、あなたは中国古文献にお詳しいようですが、別の視点から
成否を考えたほうがいいでしょう。たとえば当時の日本が一国であったか二国で
あったかですがね。半島も大陸も多国だったんでしょう。日本も小国は属国的に
は九州にあったようで、朝廷が権力を握った畿内と違い、九州は多国が小国的に
分立して戦乱だったわけで、それから女王国ができたということから、畿内には
朝廷の権力が次第に広がって行ってるわけで一国的状況のところ、九州は卑弥呼
の前はこんな戦国であって、畿内の勢力は至っていないと思うべきです。要は
大陸と半島同様、日本は統治的意味で、九州に多国からの一国、畿内はすでに
統治からの一国、まぁこれが正解だと思いますよ。そうなら二字双方が正解の
こととなって着ます。勿論交錯文もありましょう?
うっかりということは例示的に挙げたものですから、それがただちにそうだとか
言ってるのではないですよ。そういう類の誤認があったか、もしくは二つの
漢字のどっちも正解で日本に二国あった記述か、交錯での二国をとっちがえての
記載とかが横行するくらい当時の日本の姿が不明瞭であったとか・・・。
いったい朝廷の領域の箸墓を卑弥呼の墓というなら、イヨとか男王の墓もその
へんにあるでしょうから、なぜ朝廷の領域に混在せねばならぬのかおかしいと
思いませんか?
畿内ヤマトの唯一史観の電波度に比べて、
漢籍の構造的・体系的正確さのほうが、
はるかに上なのが笑えます。
342 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 15:50:31
>>339 魏志倭人伝によると、3世紀の倭は3国に分かれています。
女王國(邪馬台國グループ)(女王)+狗奴國(男王)+伊都國(世有王)(統屬女王國)
343 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 16:39:10
伊都国は、邪馬台国の女王・卑弥呼を「倭王」と呼ぶ帯方郡の使いが、
常に滞まるところなので、倭国の一部。
狗奴国は、倭人伝によると、女王の境界の外。後漢書によると、倭種であるが
女王に属さないと書かれているので、これは倭国には入らない。
344 :
ローガン:2008/03/10(月) 16:52:41
>>339 太国さん。理解しました。どうもありがとう。
私は仰る所の「朝廷」の始まりが邪馬台国より後ではないかなあと考えています。
しかし、地盤的に引き継いだので某かの関連は当然あるでしょうが、
邪馬台国が連合体の王家として天皇家へすんなり移行したとも思えません。
平たくいえば、「とって変わった」んじゃないか?なんて考えています。
以前にも書いたのですが、三輪山祭祀の変化…
山及び山裾一帯を聖地と考える人々→山に住む神を畏怖する人々。
この変化をさして、王権の移動の一端が窺えるように思います。
まあ一概には言えないでしょうが。
345 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 20:34:54
ちょっと気になったんで
【社会】建設現場から人骨相次ぐ 東京都心、地下は遺骨だらけ [03/10]
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1205131432/327 327 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/03/10(月) 20:13:43 ID:q5rgXhNS0
人骨は出てないけど田舎で似たようなのあったな。
銅鏡とか大量に出てきちゃって、工事のおっちゃん達が
「欲しかったらもっていきなはい」ってくれたな。
その週に友達連れて皆で貰いに行ったら
わざわざ関西の大学?から来た人達が全部持って行っちゃったとの事。
俺は中坊だったけど当時地元でニュースにもならなかった。
346 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 21:59:51
347 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:42:40
>>331 古代
>昔は「銅矛文化圏」「銅鐸文化圏」と色分けしていましたが
そう言えば二つの文化圏の範囲を円で表したやつ、あれって今の教科書にも載っているのかねえ?w
348 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:54:08
>>344 三王朝交代説の元祖・水野祐だと崇神朝は「呪教王朝」で呪術的・宗教的な王朝としたとか。
まあクナ国が崇神朝を滅ぼし、それが河内朝になるというのは流石に首肯しがたいけど
崇神朝がかなり宗教的であったと言う”カラー”はすんなり受け入れられるw
>>347 昔は、ある程度区分けできる出土状況があったから、別の文化圏であり、
別種族の人達がいたという説もあったね。
しかし、初期の銅鐸と鋳型の出土例が九州に多く積み重なり、
別種類のものの同時出土が少なくないという事実がはっきりして、
別種族説はトンデモになり、文化圏を分ける説も苦しい状況ですね。
文化圏を分けなければ、全体をひとつの「青銅器文化」として同時代にして、
九州を起点とした青銅器文化の広まりを認める方向に向かうので、畿内説と
しては、認めたくないところでしょうね。
350 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:04:19
>>348 王朝交代説は、講談社学術文庫の「古事記」の解説で頻繁に出てきますね。
著者の次田は直木孝次郎説がお気に入りで、応神と仁徳がもとは同一だったと
いう説などを紹介してますね。
昔はこれが有力説だったんだという歴史を感じます。
351 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:04:40
>>349 うーん、、、その”畿内説にとって不味い”ってロジックがイマイチ分かんねw
仮に銅鐸が九州起源で何か畿内説に不利な要素ってあるのかしらん?www
352 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:10:57
>>350 まあ「三王朝交代」なんてセンセーショナルな文字は使わずとも
ほぼそれと同じ内容を考えている学者さんて多いんじゃないの?
血統の継続も「入り婿」もアリと言う方向でwww
353 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:15:13
>>351 全体を青銅器文化の発展という流れで見ると、初期は九州で小銅鐸が作られた
時期になり、青銅器の大型化という流れの中では銅鐸だけを古く見ることが
出来なくなります。
昔、畿内自生説がまだ存在した頃は、銅鐸を極端に古く見ることにより、
鉄器で圧倒的優勢に立つ九州に対抗する独自の文化圏を主張していた。
銅鐸の始まりを九州の小銅鐸や鐸形土製品になると、九州勢力の移動という
畿内説が拒絶してきた事実につながっていきます。
354 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:23:21
>>350 >直木孝次郎
この人ってまだご存命なんだよね?w
王朝と呼ぶに相応しいのは応神からって説だったらしいけど
纏向とかも踏まえて現在もそう言う主張なのかなあ?
355 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:28:40
>>353 昔の話でしょ?
いつもの「恨み節」の人っすか?w
今日び、九州の鉄器の優位性を否定している畿内説の学者さんているの?www
銅鐸勢力 九州→畿内→出雲と東海 そこで終焉
後続の勢力 九州→畿内 そこで定着
九州出土物に対して
「畿内ヤマトの支配が九州に及んでいた証拠」
っていう解説、耳にタコができたなあ。
358 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:04:02
もう九州説論者の「ウリナラ起源説」はお腹いっぱいっすw
お国自慢はどうでもいいんでw
邪馬台国九州説・畿内説の論議なら
ニ世紀末〜三世紀中葉の遺物・遺跡からどう言う事が推察できるのか言ってもらわないと…。
青銅器も鉄器も北部九州で栄えた時期を経て、本州、四国に伝播した。
鏡も北部九州で大量に祭祀に使われた時期を経て、伝播した。
鏡は銅鐸より後に入ってきて、しかも、環濠集落の時期の畿内では
皆無ということからは、銅鐸祭祀が環濠集落の終焉のころまで続いて
いたと推測できる。
360 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:10:00
邪馬台国所在地論争に銅鐸や銅矛の「文化圏」を持ってくるのが、全くピント外れ
銅鐸にしろ銅矛にしろ、青銅祭器によるお祀りは、邪馬台国時代にはもうなくなってる
ていうか卑弥呼〜台与時代の倭の社会を理解するのに銅鐸・銅矛を持ち出すのはむしろ有害
(昔イラストで卑弥呼と銅鐸、あるいは卑弥呼と銅矛を描いてたりしてたが、共に間違い)
まあ「邪馬台国成立前史」の弥生時代を語るのなら青銅祭器も意味が出てくるだろうけど
>>353 >銅鐸の始まりを九州の小銅鐸や鐸形土製品になると、九州勢力の移動という
>畿内説が拒絶してきた事実につながっていきます。
まじめくさってピンボケ言ってるとしか思えないね
銅鐸も西→東の移動でいいんだよ、でもそれは卑弥呼よりずっとずっと昔
邪馬台国時代に重ねるのがなんとも哀れ
畿内説批判も聞くべき点があれば拝聴するけど、ともかく現在の畿内説に対してやってくれ
361 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:19:30
>>360 それは年代遡上を前提としないと成り立たない反論ですね。
三角縁国産説を採ると伝世論が通用しなくなり、同型鏡はほぼ同時代になり、
三角縁の長期編年が破綻して、年代遡上も破綻するということは、すでに
前スレでさんざん書かれているわけだが・・・
三角縁は無関係といいつつ舶載説に執着せざるを得ない苦しさがありますね。
362 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:26:52
>>331 >地鎮祭・豊穣祈願のような時には銅鐸と
興味深い話として鳥取県稲吉遺跡出土の壷(弥生中期)には
太陽の下、鳥装の漕ぎ手がゴンドラで高床倉庫に向かい
その倉庫の隣には銅鐸を思わせる器物が描かれているという。
銅鐸による穀霊の招来の場面とか…
穀霊信仰は新嘗祭(別に皇室の専売特許ではない)等で今日にまで伝わっており
銅鐸祭祀が廃れた後も何らかの形で五穀豊穣祈願の穀霊信仰はなされていたんだろう。
363 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:28:12
>>360 銅矛かどうかはともかく、倭人伝には、兵は矛を用いるとあるね。
「兵用矛、楯、木弓」
矛は突いたり斬ったりできる長柄の武器で
中国では歩兵でよく用いられている
兵装が似ていたから記したのだろう
青銅でも矛なら実用に耐えられるよ
銅剣は折れて白兵戦で実用にはならん
365 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:44:55
昔から疑問なんだが、、、、
大まかに言って武器の歴史として、両刃の「剣」が先で、片刃の「刀」が後だよね?
鍛造するにしても、或いは武器のメンテナンスにしても片刃の「刀」の方が楽だと思うんだが…?
366 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:47:51
>昔イラストで卑弥呼と銅鐸
んで卑弥呼のバックに環濠集落の竪穴式住居があんのなw
367 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:48:13
>>363 ついでに言えば、銅矛は明らかに九州に集中して分布している。
島根県の荒神谷遺跡から16本の銅矛が見つかっているが、これは九州から
運ばれたものと考えられている。
そういえば、荒神谷遺跡からは、銅剣も大量に出ている。
これも九州産とすれば、何かと交換したか、またはぶん取って来たかの
どちらかか。
>>363 そうか。鉄の矛は考えにくいから、やはり銅ということかな。
368 :
360じゃないが:2008/03/11(火) 02:53:52
>>361 >それは年代遡上を前提としないと成り立たない反論ですね。
(゚Д゚)ハァ?
青銅器祭祀の時代と邪馬台国の時代を分けるのに年代遡上が必要なのか?
ワケワカラン…
369 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 02:55:50
>荒神谷遺跡からは、銅剣も大量に出ている。
あの数は異常www
370 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 03:02:36
倭人伝に銅鐸の記述がない、とよく九州説論者が言うが、こうも言えるだろうね
「倭人伝には、九州の青銅器祭祀の中心となる祭器、広形銅矛の記述もない」
大型化した広形銅矛は研がれておらず、刃も切先もつけられていない
これで人を殺傷するのはまったく不可能なんだよ
つまり大型銅鐸と用途は同じで地域共同の祭器と見られる
(対馬では個人が所有したようだが)
決して「兵用」ではないんだよ
しかしだ、倭人伝には「銅矛を祀り・・・」といった記述はひとつもない
もう銅鐸も銅矛も終わっていた・・・のさ
371 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 03:21:04
そういえば、記紀にも矛はたびたび登場するが、銅鐸は登場しない。
このことから、記紀の神代は、銅鐸文化圏を舞台にしていないとも言われる。
372 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 03:22:42
>>371 誤解されるとなんだから書き換えると、記紀の神代は「矛」の文化圏を
舞台にしているとも言われる。
373 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 03:31:06
>>371-372 見方を変えれば「地域」じゃなくて銅鐸の「時代」の話じゃないとも言えるんじゃね?w
武器として矛は古墳時代にも使われていただろうし…
記紀編纂時までに残存した弥生時代の神祭りの語り伝えが
たまたま銅矛祭祀だけだったということなのではないか。
記紀には「前方後円墳」の記述も残されてないし
>>374 というか、文献の量が少なくすぎるから
仕方がないように思う。
だから、記述が少ないからといって、それで
白黒つけることは不可能なわけで。
>>368 銅鐸の時期を古く見る年代遡上に対しての反論ですよ。
古墳時代まで下る銅鐸が存在するのに、それが卑弥呼より以前と
いうなら当然の批判でしょう。
377 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 11:37:34
>>376 君は年代遡上には反対なんだね。
すると古墳時代開始は4世紀説?
で「古墳時代まで下る銅鐸が存在する」と書いてるが
それはどこの何ていう銅鐸かい?
その銅鐸が確実に4世紀にも祭祀で使われてたという証明ができるのかい?
「古墳時代まで下る銅鐸が存在する」と書くと、まるで当時そこの人々は
古墳を築造し、なおかつ銅鐸のおまつりもやっていた、って意味に聞こえるわけだが
君は本当にそう思っているわけ?
完形銅鐸が前方後円墳の中に副葬してあった例はないだろ?
どうして銅鐸や広形銅矛が古墳の副葬品にはならなかったのか、もっと考えてみたら。
378 :
古代:2008/03/11(火) 13:11:02
銅鐸は最初は小型で音を鳴らすための物だった。
それが巨大化し鳴らすための銅鐸から見るため(あるいは埋めるため)
の銅鐸へと変化した。
銅剣・銅矛は最初は武器として使われていたが、これも巨大化し、
祭祀用にと変わっていったと言われている。
前は、九州では銅鐸の鋳型はあっても出土例がないため、作っても祭祀に使うことは
ないと言われたときもあったが、吉野ヶ里で銅鐸が発見されたことによって影を潜めている。
吉野ヶ里の銅鐸は島根県で出土した「木幡家所有銅鐸」と同系らしい。銅矛・銅剣も見つかっている。
九州から銅鐸が伝播したか、畿内からかはどちらの解釈も可能で
これで畿内説だ九州説だというのは意味がないような気がする。
先に銅矛などは戦勝祈願で、銅鐸は豊穣祈願用と書いたのは発見された場所に特徴があるからだ。
銅矛などはいわゆる遺跡で大量に見つかっているが、銅鐸は調査によって発見されることは少ない。
道路工事や山林開発などで偶然見つかる場合が多い。祭祀用に埋めたと見るのが一般的。
従って、377のいう古墳から銅鐸が見つかる事はないのが当然。
古墳の中から銅鐸の破片が見つかることについては諸説あるので論じないが、
銅鐸の全盛は終わっていて、役割を終えた為埋めたとも考えられる。
同じ土に埋めたといっても壊して埋めたものとはその性質(目的)が異なると考えるべき。
銅矛などは権威の象徴であり、支配者層のための祭祀道具であったかもしれない。
一方、銅鐸は庶民が田植えの時などに使ったお祭り用祭祀であった。
従って、記紀に銅鐸は登場しない。記紀は庶民の生活を細かく紹介するものではない
379 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 13:51:34
>>377 畿内(特に摂津地域)の地域別銅鐸使用の消滅状況の推移をみると、
銅鐸文化の最後は初期の古墳時代であった見られる。
銅鐸文化の担い手は、地域ごとに順次、古墳文化の担い手に滅ぼされていった様に見える。
銅鐸文化と古墳文化の最大の攻防は、日本書紀の狹穗彦と垂仁の争いだと思われる。
380 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 13:55:37
>>377-378 畿内(特に摂津地域)の地域別銅鐸使用の消滅状況の推移をみると、
銅鐸文化の最後は初期の古墳時代であった見られる。
銅鐸文化の担い手は、地域ごとに順次、古墳文化の担い手に滅ぼされていった様に見える。
銅鐸文化と古墳文化の最大の攻防は、日本書紀の狹穗彦と垂仁の争いだと思われる。
崇神紀に出雲の神宝の話が出てきますね。
これは荒神谷などから出た銅鐸などの青銅器にまつわる話でしょう。
とすると、古墳時代に入る直前か直後までは銅鐸が使われていた可能性は
高いですね。
>>377 古墳から出土した銅鐸はないけど、埋められたのが古墳時代に
下るとされる銅鐸はありますよ。
382 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 14:50:39
>>377 九州でも、棺の中に入れるものは弥生中期あたりから剣で、矛が入っていた例は
たぶんないと思う。矛はそういうものではなかったのだろう。
>>378 銅鐸は、確か住居跡からは見つからず、人里離れたところに埋められていた。
大きく立派になり、恐らく集落の宝物のような存在だったはずだから、
もっと大切にされていても良かったのではないかと思う。
あるいは、もう必要ないとなったら、溶かして鏡でも作ればいい。
なのに、人里離れたところに埋められて、そのまま忘れられる。
よそから違う文化の人がやってきた。大切な宝物を取られる。だから隠した。
そう考えるのが一番妥当なように思うが。
384 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 14:57:45
>381
>古墳から出土した銅鐸はないけど、埋められたのが古墳時代に
>下るとされる銅鐸はありますよ。
詳細キボンヌ
386 :
ローガン:2008/03/11(火) 15:28:31
>>378 古代さん。お詳しいですね。
>一方、銅鐸は庶民が田植えの時などに使ったお祭り用祭祀であった。
ちょっと質問。
庶民の祭器と考えるなら、しかも生活の根幹である農耕に纏わるものであるなら、古墳時代以降も用いられたと考えるべきではないですか?
387 :
古代:2008/03/11(火) 21:05:00
386
前に書きましたが、銅鐸には鹿が書かれていることが多いです。
鹿は山神の使いと考えられます。
何故山かといえば、山は神の領域であり、祖先崇拝の拠点(あの世)でもあり、
禁足地でした。
銅鐸に神の使いである鹿を描き、鹿に豊穣の願いを届けてもらおうということであったのかもしれません。
しかし、山の信仰や鹿の神聖化に変化がおきます。
鹿は角を切り落とせば制御できると考えられるようになり、
山も禁足地ではなくなり、山頂祭祀が行われます
銅鐸に鹿を描いて願いを運んでもらう必要性がなくなったのではないでしょうか。
そこにはまた山岳信仰から太陽信仰への移行があったのかもしれません。
もう一つ考えているのは鉄鐸です、銅鐸から鉄鐸へと変化したのではないでしょうか
銅より鉄が重要視されるに伴って巨大化した銅鐸も、もとの小さな鐸に帰り鉄製になった。
ただ、鉄鐸は諏訪地方のものなので一概には断言できませんが。
記紀の記述を考えるならばタケミナカタとともに出雲から諏訪に移動した、とも考えられますが。
鉄鐸でなくとも鈴へと変化したのではないでしょうか?これは妄想ですが・・
神道でも舞いの時に片手に剣、もう片方の手に鈴を持ったりしますし。
>>385 『邪馬台国時代のツクシとヤマト』91頁以下(寺沢薫・担当)を参照。
これの破砕銅鐸の廃棄時期一覧表によれば古墳時代に下るものが結構ある。
寺沢は、廃棄時期を第1、第2と分けて、そのうち第2時期は、弥生後期末から
古墳時代初頭にかけての時期とする。
389 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/11(火) 22:02:18
>鈴へと
あの
神社にあるガランガランが、銅鐸の後の姿。
390 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:12:36
適当なこと書くな。
ガランガランは律呂の音とは程遠いわ。
391 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:21:13
>>388 古墳時代初頭ねえ。なんかわかりにくい。
>>335 民族とは生活環境や宗教儀式での色分けを指しているの?
それとも遺伝子での色分けを指しているの?
邪馬台国関連では、土蜘蛛・熊襲・隼人・出雲・三輪・大和・蝦夷とかの呼称が出ているけど、
遺伝子で分けて呼称しているのか、遺伝子は同じだけど生活習慣や宗教儀式で分けて呼称しているの?
該当区域に人骨は出土しているの?
皆に聞きたい。
何かスレを読んでいると、武田族、織田族、豊臣族、徳川族、伊達族、毛利族とかの意味合いで
呼称しているんじゃないかと思ってしまう。勢力氏族の色分け。
394 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:35:00
民族と人種と国籍の違いを百字以内で述べよ
異民族じゃないね。異部族だ。異部族間では、
死後の世界観や祭る対象や形態が異なるから、
銅鐸が破壊されたんじゃないのだろうか。
>>395 銅鐸の破砕と鏡の破砕には、通じるものはないかな?
ともに初期には破砕していたが、後には破砕していない。
ともに時代を下るにつれて大型化する。
397 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:52:10
平家と源氏の違いみたいなものだろう。
>>394 国籍は西欧概念が近代に入ってきて出来た。それまでは国籍法は無い。
人種はコーカソイド、モンゴロイド、ネグロイド。
民族の概念は良く分からない。
>>395 異部族ならば、縄文や弥生と言う位置づけではどの様に分類するの?
土蜘蛛・熊襲・隼人・出雲は縄文で、大和は弥生(中国、江南地方)なのかな。
>>397 私もそう思うんだけど、ここでの○○族と呼称している人達は、異民族の意味で言ってるのか、
戦国大名の○○氏族の意味で言ってるのか良く分からない。
該当区域に当時の人骨が出土して、遺伝子鑑定の結果民族が異なると判明して呼称しているのか分らない。
吉野ヶ里遺跡は人骨が出土しているから、異民族(江南地方)の流入があったと判る。
400 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 23:13:22
遺伝子鑑定でわかるのは人種の異同。
人種は生物学的な異同。
民族は文化的な異同。
>>400 貴方は、邪馬台国関連で良く出てくる、土蜘蛛・熊襲・隼人・大和・出雲・蝦夷とかはどの様に分類しているの?
遺伝子鑑定といっても、吉野ヶ里を除いて殆どは、該当区域に当時の人骨は出土してきないんでしょ。
縄文と弥生は遺伝子鑑定で判明するから、縄文と弥生は別人種。
マヤ・アステカ・インカ文明では、中南米に数十の部族がいた。
都市部族国家といってもよい。これらの部族は人種が同じ。
しかし、しきたり・社会ルール・習慣・信仰などがそれぞれ違う。
日本列島もこのように、いくつもの部族に分かれていたのだと思う。
古代インドでは、ドラヴィダ系とアーリア系の異人種が錯綜して
もっと複雑だった(今日もだが)。
404 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 23:25:45
言葉の違いはどんなものだろう。
明治維新のとき、標準語を作ったのは長州藩の人だったらしい。
山口の言葉と江戸の言葉を合わせて標準語を作った。
薩摩藩出身者が、鹿児島弁を標準語にすべきだと言ったら、鹿児島弁では
よその人間は誰もしゃべれない、と言われたとか。
余談だが、徐福が日本にやってきて王になったという説もあるが、だったら、
中国語も残っていてもいいような気がするのだが。
405 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 23:26:03
>>388 その論文、寺沢先生かなり力こめて書いたみたいだよ。
添付資料のあっちこっちに「実査」「実査」「実査」・・・・だってお。ww
報告書のない銅鐸だっていぱ〜いあるからさ、きっと全国走り回ったんだろね。ww
で、寺沢先生の考えをきちんと知るには、やっぱ本文読まなくっちゃ。
資料だけもってきちゃうと、寺沢先生の考え誤解する人が出てくるかもよ。ww
つか
>>391さんみたいにさ、ほら
「古墳時代初頭ねえ。なんかわかりにくい」
て悩んじゃう人もいるしさ。ww
結論となってる最後の最後のとこ、引用しとくよ。
>そして、3世紀初め、倭国乱の収拾として新生なる倭国王都が纏向に建設され、
>大王墓としての、新たな首長霊継承の舞台としての(纏向型)前方後円墳が
>集約的に考案され、王権の根幹たる祭祀が確立し、
>続いて定型化(形骸化)前方後円墳祭祀として各地に王権祭祀が伸張し定着するや、
>弥生的伝統をもった銅鐸のマツリは名実共にこの列島から消え去ったのである。
銅鐸タン、おつかれさ〜んでした〜、だね。ww
>>403 ?
日本は縄文と弥生の二種類の人種がいた。何故なら遺伝子鑑定で縄文と弥生が判別できるからだ。
縄文と弥生が同じ人種ならば、遺伝子鑑定しても同じはず。
貴方は日本に居た部族は、何族が縄文人種で何族が弥生人種だと推測している?
吉野ヶ里は弥生人種(中国・江南地方)の骨が鑑定の結果判明した。
天皇陵を調べれば分かるのに
408 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 23:40:11
>>406 骨で判定するというのもどんなものだろう。たぶん、頭蓋骨で判定するのだろう。
でも、山口県の土井ヶ浜だったか、古代の弥生人骨の出たところだが、ここには
あなたの顔が縄文顔か弥生顔か判定しますと言う機械があるらしい。
つまり、現代の日本人にも、弥生人の頭蓋骨をした人もいれば、縄文人の
頭蓋骨の人もいることになる。
409 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 23:53:33
>>406 その理屈で行くと、幕末の薩摩人と長州人は別民族になりそうだが・・・
骨格の形態変化にはかなりの時間を要するから、渡来した100年以内
なのか、1万年以内なのかは分からないのではないかな。
>406
日本列島には石器時代に北方から、そして南方海洋上から、異民族が来て、
縄文・弥生になっても流入が続いた。しかし各民族はモンゴロイドであり、
異人種というほど乖離していないと思う。
>>408 意味が分らない。
遺伝子鑑定は頭蓋骨骨格で鑑定するんじゃないよ。
遺伝子で鑑定するんだからね。
>骨で鑑定するというのもどうなんだろう。
貴方は骨の骨格鑑定と遺伝子鑑定を混ぜてるよ。二つは別物。
私が書いた吉野ヶ里の人骨鑑定は遺伝子鑑定であって、頭蓋骨骨格鑑定じゃないよ。
>>410 >異人種というほど乖離していないと思う。
ならば弥生と縄文の遺伝子鑑定結果が異なるのはどうして?
>412
亜種だから当然違う。みかんとデコポンのようなもの。文旦や金柑ほど違わない。
415 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:11:38
>>413 みかんとデコポン程度の人種異差だと言うこと。
>>415 つまり人種異差がある。よって縄文と弥生は別人種。遺伝子鑑定で差が認められるもの。
417 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:15:11
日本人は民族であり、日本人という「人種」は存在しないとされる。
日本人は、シベリア・朝鮮半島・中国大陸・東南アジアなどから移住してきた、
様々なモンゴロイド系「人種」の混血であるという説が有力とされている。
418 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:18:34
>>405 ごめん。もうちょっと前のとこから引用しとかないと、て思ったから、補足させて。ww
寺沢先生はまず
>こうして、銅鐸圏にあって、銅鐸のマツリから大形(巨大)首長墓築造と
>それに伴う新たな祭祀の創出へと変貌を遂げたのは現在の資料による限り、
>キビ地域と、イヅモ地域が最も早いことは確実である。
そう書いてさ、それから銅鐸圏じゃなくて銅矛圏でも似たり寄ったりだよ、って意味で
イトの平原1号墓を挙げてる、「ほぼ同じ時期かそれに先行する時期に」だってさ。
で、そんでから、
>対象となる霊を増幅鼓舞し、最も重要なこの祭儀を恙なく達成するための呪器として、
>銅矛圏では多くの巨大な鏡が、銅鐸圏では巨大な墳丘(特殊器台・壺も)が
>用意されたのである。
と書いて、でさっきの
>>405の、「そして、3世紀初め、倭国乱の収拾として・・・」のとこに
いくわけでした。ww
補足の引用オシマイ。ww
>>417 ?
だから日本には縄文と弥生の二つの人種がいた。
ついでに、朝鮮半島からは当時の人骨は一体も出土していないから、
当時何人種が居たか不明。私はメールで確かめた。
420 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:42:00
>>419 一体の人骨も出ていないと言うことは、
当時の朝鮮半島は無人地帯だったようだね。
その無人地帯に北部中部シナ系人種や満州系人種が流れ込んだのだね。
>>417 それと北方経由とあるが、北海道からは当時の人骨は朝鮮半島と同じく出土していないらしいよ。
縄文人骨も弥生人骨(中国・江南地方)も南方系列の骨だしね。
北海道から骨が一体でも出土すれば確かめようがあるんだけどね。
422 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:52:33
日本から縄文文化や弥生文化は朝鮮半島には伝わらなかったの?
無人地帯だったってことは日本人も少しは行った可能性はあるよね。
>>418 寺沢の年代観に従うと、九州で鏡文化が全盛の頃に、本州では
銅鐸文化が隆盛であったことになる。
その後、本州は銅鐸文化を捨てて鏡文化に移ったのを「昇華」と見るが、
それはどうかな?という感じですね。
あの論文は、最後の方に抽象的な言葉が呪文のように続くけど、あれで
本人は納得しているのかな?
424 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 01:02:36
寺沢せんせいは、小説家のほうが向いているかも。
425 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 01:07:18
北海道もほとんど無人地帯だったからね。
アイヌの人口が増大したのはもっと時代が下ってから。
>>420 そもそものメール問い合わせの発端は、民「俗」博物館だか、民「族」博物館だか
「民ぞく」の漢字を忘れたが、その博物館ホームページに稲作の記述があったんだよね。
で、弥生=朝鮮半島との例の如く、お花畑記述(笑)だったから、
根拠はあるのか、何の書物を参考にして記述しているのか題名を教えて欲しいとメールを
送ったんだよね。そしたら、根拠は無い。当時の稲作遺伝子でも日本と朝鮮半島は同じのが無い。
書物の裏はとっていないとの返事が来た。
ならば稲作記述訂正をして欲しい。それと弥生=朝鮮半島としているが、
朝鮮半島では当時の人骨が出土して、それと日本出土の人骨と遺伝子鑑定の結果判明した事実を
元に記述しているのか教えて欲しいとメールをだしたら、朝鮮半島からは一体の人骨も出土していない
との返事が来た。それに稲作記述は自分の一存じゃ訂正できないだってさ。
だけど中国と日本の稲作が一致していて、朝鮮半島は北方地域の稲作と一致しているのは知っているだって。
>>425 アイヌが北海道に移住したのも新しいらしいね。
昔は蝦夷=アイヌだったが、今じゃ違う。蝦夷とアイヌは別だと言われている。
>>427 見たけど、何か?
人骨は発見されたの?
430 :
ローガン:2008/03/12(水) 01:42:10
>>387 古代さんレスありがとう。
銅鐸→鉄鐸(or鈴)の変化ですか。そのお説惹かれますね!
銅鐸が農耕に纏わるものであるのは仰る通りだと思います。
私はやっぱり後漢書馬韓「建大木以縣鈴鼓」が気になります。
「一人主祭天神」とありますね。祭祀の主催者の存在が想像出来ますね。
もっとも我が国の事ではないので、祖型を朝鮮式小銅鐸に求めたとしての愚考です。
穀霊への祈りが主催者(首長)を媒介としたものであるなら、銅鐸の大型化や多量の保有は首長の意思とも考えられますね。
半島生まれの本来の意味が薄れ、首長が使う神祭りの道具となった。(庶民の信仰に根ざしたものではなくなった)
「倭国」として纏まり初めた頃、巫女王に祭祀を委ねる事により、国邑の首長主宰による祭祀の道具が役割を終えたのではないかなあなんて考えたりしますが…
やっぱり駄目?
431 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 01:56:41
銅鐸と鈴は構造が全く異なるから、
銅鐸から鈴への移行はありえない。
銅鐸から鉄鐸への移行は鉄加工技術しだい。
>429
君は北海道には誰もいなかったって言ったよね。
433 :
425:2008/03/12(水) 03:40:55
>>432 「ほとんど無人地帯だった」と言ったのは
>>425だよ。
完全無人地帯だとは言っていない。
人骨が残るにはあまりにも人口が希薄だった。
434 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 05:04:16
此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也
宮崎の高千穂で生まれた二二ギが大宰府まできて
ここは韓国に向かってまっすぐ道が伸びてる朝日と夕日が照らす良い土地
と言って宮殿を築いたんだろ
435 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 07:40:23
此地≠大宰府
大宰府なんて何処にも書いていない。
436 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 08:22:25
「梁書」などによれば、卑弥呼より後の時代に讃・彌・済・興・武が順に王となっている。
武=神武天皇だとすれば、卑弥呼より後に神武天皇が日向から橿原に移ったのだから
卑弥呼の時代の中心的な土地は九州ということになる。
道程や温暖な気候等の記述を考えると、場所は南九州だと思われる。
ただし、邪馬台国の治めた国々は北九州のほうまで広がっていたと考えていいだろう。
ちなみに、神武天皇の父とされる「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」は
宮崎や鹿児島など南九州に多く祀られている。
神武天皇は紀元前711年2月13日〜紀元前585年4月9日の時代だとされているが、
実際はもっと後の時代だったと考えられる。
九州北部っていう説は確かに苦しいと思う
439 :
433:2008/03/12(水) 11:10:41
>>438 見たよ。
北海道は平安末期まで無人になっているではないか。
原始時代、西日本と北海道の人口は、大して変わらないw
北方(青森・秋田・新潟経由も含む)から人間が流入したかどうかと、
発掘のすくない北海道で人骨が出ないことは無関係だろ。
縄文時代、東北の人口は相当多い。
骨が出ないのがどうしたの?
>>441 北海道との書き込みだったでしょ。
そりゃ、人は居たでしょ。
>>433の書き込みの様にね。
(北海道は)殆ど無人地帯だった。
そもそも誰も東北とは書いてないよ。北海道だもん。
445 :
古代:2008/03/12(水) 11:57:15
430
祭祀の道具が役割を終えたというのはどうなんですかねー。
やはりあったと思うんですが。
「建大木以縣鈴鼓」ですが、『古語拾遺』の鉄鐸の記述に
「手に鐸着けたる矛を持ちて、」とあります。似ている感じだと思いませんか?
ちなみに鐸は中国の分類では「柄があって手に持って鳴らすもの」
鈴は「紐がついていて、揺らして鳴らすもの」ですから日本では鈴と鐸の区別があいまいみたいですね
鈴に関しては原料が「すず」なので鈴だとか、その意味で銅鐸は鈴にはならないのでしょうかね。
後漢書馬韓にある「蘇塗」ですが、蘇塗の祭りは,竿や木柱を神木に見立て,鳥の羽,白紙,
布を結びつけて天神を降ろし,民衆がこれをとりまいて歌い踊るもので,五穀豊穣を祈願する祭りだった。
そこからまた,鳥形の木製品を竿の上に立てて,ムラの境界線におき,
村に邪気、悪気が入らないように祈念するソッテ信仰も派生している。
「蘇塗」は日本の鳥居の起源といわれています。
鳥形の木製品は巻向でも発見されていて、朱色に塗られています。
・・・鐸はどこ行っちゃったんでしょう・・・
鉄製は残りにくいようですが、時代が合わない気がしますね。
やはり征服されて破棄したんでしょうか・・
>>443 朝鮮半島同様に、北海道は一体も大昔の人骨が出ていないと指摘しただけ。
だから遺伝子鑑定は出来ない。本土で言う縄文人種かどうかも分らない。
人がいないのに、石器が自然発生・流通するっていうトンデモ説かw
北方から人が日本列島に流入してるのは明らかだろ。
骨が出るかどうかと、人がいたかどうかを同一視するなよ。
>>446 それがどうした?
北海道では人骨は未だ出土していない。
>>449 だから何だ。
私は最初から、人骨は朝鮮半島同様に北海道では一体も発見されてないと書いている。
加えて
>>433の書き込みは、人は居なかったとは書いてない。
殆ど無人地帯だったとある。
>>446のグラフでも、北海道は殆ど無人地帯だね。
私は、
>>433じゃないから誤解しないように。私は人骨が発見されてないと書いた人だよ。
>>441 それに北海道限定だったのに、いつの間にか捏造曲解して東北と拡大解釈してるし。
>>438のグラフでも北海道は殆ど居ないじゃん。
>>433の人の書き込みであってるよ。
殆ど無人地帯だね。
>>440 それは、北海道じゃなくて、東北じゃん。
>>388以下にあるとおり、最近では、銅鐸の終焉が弥生後期末〜古墳時代初頭
(布留0または1)の頃にまで下ることが明らかになった。
布留0は、崇神の時代とされるモモソヒメの箸墓古墳の築造と埋葬祭祀の頃。
となると、
>>381のように崇神紀の出雲の神宝の話は銅鐸の終焉に
まつわる話ではないかと考えられる。
銅鐸の廃棄が2期に分かれるというのも、@出雲の国譲り〜ニギハヤヒの東征
の頃と、A崇神の頃のにそれぞれ当てられる。Aの廃棄は破砕が多い。
これは@を契機に最初の廃棄が行われ、その後銅鐸文化が人心掌握のために
保護されていたが、A崇神の頃に禁止され、廃棄されたと考えられる。
北海道の人口は 火 の有無によるんじゃないか?
火が起こせない時代なら冬は無理だろ
>>455 北海道は寒いからね。暖房施設もない大昔は、
>>433の人の様に“殆ど”無人地帯だったでしょうね。
少数勢力としては北海道に生息していたはずだけどね。
遺跡・道具・壁画は見付かってるから、人間が生活していたのは間違いないもん。
>>454 に続けて
箸墓が、モモソヒメの墓であるという伝承は信用できる。
1、伝承のとおりの場所にある。
2、伝承とおりに大坂山の石が使われている。
3、布留0の範囲内で築造と祭祀が行われているのも、高齢のモモソヒメの
ために突貫工事でつくり、ほぼ同時期に埋葬されたことになり、記紀の記述
にも整合する。
「昼は人が作り、夜は神が作った。」、「大坂山から手渡しで石を運んだ。」
という記述は、この古墳が短期間で作られたことを象徴している。
布留0の時期幅は結構長いと思うけどなw
459 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 15:43:44
460 :
ローガン:2008/03/12(水) 16:35:00
>>445 鳥形木製品は、時代が下りますが橿原四条古墳から他の大量の木製品と共に出土していますね。高野槙製であり、葬具に変化したと考えた方が良いのでは?なんて思います。
461 :
ローガン:2008/03/12(水) 20:36:08
あ、それから。
>征服されて破棄…
ん〜、破棄させるでしょうか?再利用可能に資源ですね。征服なら「供出」じゃないのでしょうか?
462 :
古代:2008/03/12(水) 21:15:25
銅鐸を鏡に再利用と言う話も聞きますが、どうなんでしょう・・
463 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:49:59
>>459 出土した層で年代が絞れる銅鐸が結構存在する。
その結果、銅鐸の終焉が庄内〜布留1あたりになったというのが事実。
その実年代をいつごろにするかは、別問題だが。
>>462 それも十分にありうるでしょう。銅鐸が最大化して1m前後のものが作られ
たのが弥生後期の終わりごろ、それが布留0以降になると大量の鏡に
取って代わられたわけだから、原料がその方向に向けられたというのが
自然な考えですね。
邪馬台国畿内説って正常な古代史研究の障害だよな。
465 :
ローガン:2008/03/13(木) 00:12:41
>>463 ごもっともだとは思いますが。
主原料をリサイクルに依存するとすれば、当時銅、鉛、錫のいずれかが品薄と考えるべきなのでしょうか?
それとも銅鐸が鏡に生まれ変わる事に、何か祭祀に纏わる意味合いを考えべきなのでしょうか?
「自然な流れ」とはどういう意味ですか?
466 :
ローガン:2008/03/13(木) 00:14:03
467 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:16:52
>>461 供出させられるのが嫌で隠したというのもあるかも。
468 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:02:07
銅鐸も昔は古墳時代の始まりと共に一斉に廃棄されたと考えていたらしいけど
地中に埋められたものが 同じ様式=同一時代の物 と言う組み合わせから
銅鐸の廃棄時期はある程度の幅をもっていたと考えられているらしい。
(具体的には弥生中期から)
一部古墳時代に残っていたものもあるんだろうね。
まあ最初はガンガン鳴らす為の物を巨大化して観賞用にしたんだから
威信財とか地域の首長の連合のシンボルとかにしては
銅鏡とかに比べてやっぱイマイチだったんじゃね?w
469 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 01:30:43
つまり、銅鐸がある時期を境にいっせいに姿を消した、とすれば、劇的な変化が
想定される。それは一体なんだろうということになる。
しかし、徐々になくなっていったと仮定すれば、比較的穏やかな社会の変化と
考えることも出来る。
ということなのだろうな。
>>463 素人の疑問でもうしわけありませんが、
銅鐸と銅鏡の成分(銅、鉛、錫の比など)はおおまかにいって同じなのでしょうか?
銅鐸を鋳つぶしてそのまま銅鏡にリサイクルできるのでしょうか?
471 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 04:32:54
472 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 06:16:42
銅は赤がねとも言われるように、赤っぽい色をしている。ちょうど新品の10円玉
のような色。ところが、すずを混ぜると白くなる。すずの量が多いと、金色の
ような銀色のような色になる。
だから、すずの量が多いほどきれいで価値も高かったのだろう。
また、太陽の光のような色と表現することもあるらしいので、鏡を作るには
適していただろうし、宗教的にも意味があったのではないかと思う。
たたいたときの音も良いらしいので、初期の銅鐸にも適していただろう。
ただ、現代でもすずは貴重らしいが、古代でも貴重だった。
銅鏡も、すずの割合を調べると、貴重品かそうでないかはわかるんじゃなかろうか。
そういう記録が少ないのはどうしてだろうかと思う。
なお、銅鐸を溶かして銅鏡を作ることは出来るだろうと思う。
473 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 07:04:47
隋国の役人が、「即ち・・」と断定形で見解を伝えている。それまでは、国書
の記述内容や伝聞で混乱も多々あったのだろう。しかし、裴世清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
遣隋使であった小野妹子の帰国時に合わせ、隋の「裴世清」が大和に入って
いる。
『隋書倭国伝』の冒頭に近い個所に、有名な次の記述がある。「其の地勢は東高西下、
邪靡堆に都す、則ち『魏志』に云うところの邪馬臺なり」(原文=邪靡堆則
魏志所謂邪馬臺者也)である。
また、この内容は日本書記の推古天皇16年の条(608年)にも記載されているの
で、事実であったろう。
同年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行
474 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 07:40:44
>>473 その断定は間違いだね。239年から608年も経過してその位の記述でどれだけ正確
に239年ころのことが取れているか考えればあてにはなりっこない。その一文で
信用するやつはギョウザなんか今でもすーぐ食えるだろう?、ww
その断定はねずみ取りに跳びつき入るねずみのようで利口なねずみはひっかから
ないよ。経験少ないねずみはすぐとびつきやすい。その文は権威がな〜い。
女王国が畿内にあれば伝以上に記紀に卑弥呼の記述が載るわけだよ。朝廷の
お隣が女王国ならば朝廷との付き合いはいくらでもある。
475 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 09:37:34
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
476 :
九州王朝大好き:2008/03/13(木) 10:33:45
>>473 裴世清は唐使であることが日本書紀に書いてある。
隋だとは一言も書かれていない。
即ち、690年頃の大和の出来事を推古記に挿入されているんだよ。
推古記の記事はすべて690年代の大和の出来事を挿入したものなんだから。
大和は隋について何も知らなかったんだよ。
日本書紀の編集者は、609年にシナにあった国家は唐であったと思っていたんだよ。
「小野妹子が隋の国書を紛失したが天皇からお咎めなし」
→畿内ヤマト(推古天皇・聖徳太子)が遣隋使を出していない証拠
隋書の記述は大和王権の主張に従ったまでで、だから九州説が
間違いって程の説得力はないなぁ。初代天皇神武の東征から朝廷の
系譜は始まってるんだろ。
479 :
九州王朝大好き:2008/03/13(木) 13:11:07
>>487 >隋書の記述は大和王権の主張に従ったまで
意味不明
おそらく
×隋書の記述は大和王権の主張に従ったまでで
○新唐書の記述は大和王権の主張に従ったまでで
神武天皇って実際はいつの人物?
西暦で…
伝 庚午年1月1日(紀元前711年2月13日)− 伝 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日)
485 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:07:57
神武は 紀元前1世紀〜1世紀 の人物だよ。
「皇紀」をウィキで調べろ。明治の初頭に中国の神秘的革命思想を
借用して決めただけだ。神武と雄略が同一人物だって神話伝承の
世界では不思議じゃない。
487 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:09:01
489 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:13:07
個人的には、4世紀半ばに近い人物ではないかと思う。
西暦430年〜、あたりか。
ただ、そうなると、記紀に書かれている初期の天皇がどんずまりになるので、
神武天皇=崇神天皇とせざるを得なくなるのだが。
神武とか存在しないだろwww
491 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:16:24
>>489 西暦430年〜は、西暦330年〜の間違い。
492 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:28:05
>>490 紀元前660年〜紀元前585年の間に天皇なんかいなかったのは事実だがな。
ただ、モデルはいるのではないかと思われる。
騎馬民族征服王朝説だと、神武天皇のモデルは
4世紀ぐらいに渡来した騎馬民族の長、と言うことで説明がつくんだが、
騎馬民族征服王朝説自体現代では否定されている。
個人的に、神武天皇=崇神天皇では無いかと思う。
494 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:45:17
等号はまず外れるよ。けっこうこういう論の方がいるようだが。飛鳥さんなど
は神武=崇神=應神=・・・=・・・ と等号ばかりで論じてた書があったが。
その意味で、
>>487の太国◆yVAs7uaYlY氏の発言は正しいと思われ。
神武なんて、卑弥呼とさして違わない時代の、都落ちサムライでしょ。
紀元前など、笑わせます。
と思ったら、既にその太国氏から否定されてたな。
>飛鳥さんなどは〜
あ〜、あの人ね。
あの人は世界中の神話等から役割の似た神や人物を集めて、
等号をつけるのが趣味のようだから。
498 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:52:36
倍暦計算で、神武誕生は紀元前1世紀ころだ。
499 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:58:57
>>484さんのおっしゃる意味が分かりました。それは紀から通常暦での逆算だな。
500 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 16:06:05
>>492 基本的に東遷説なので、卑弥呼+台与=天照大神が出発点。
3世紀の間は、邪馬台国の内部あるいは周辺でかなり変動があったと思う。
女王体制からの脱皮、それに続く狗奴国との決着、周辺への勢力進攻。
記紀に言うところの邇邇芸命の日向進出や饒速日命の大和進出は、その最集
段階ではないだろうかと思う。
日向三代を考えると、神武に相当する人物は4世紀の半ば近いと考えざるを
得ない。
考古学的に言えば、饒速日命の大和進出を庄内期と考えて、西暦300年頃。
神武東征を布留期と関連付けて4世紀半ば近くということになる。
まあ、九州王朝説系統の考え、あるいは畿内説の考えとは根本的に違うので、
到底受け入れてもらえないのはわかっているが。
501 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 16:13:19
>>500 卑弥呼≠壹與 をたがえたのはうまくないですね。神武が4世紀中頃
では天皇の在位がスシ詰めでコレもまずいです。スシ詰め解消を天皇
の架空にしてつじつまを合わせるよりも、4世紀中頃としたのが
間違いだとバックすべきでしょう。それを前進つっ走ればもう間違い
の海の中で沈没です。
502 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 16:28:46
>>501 卑弥呼+台与=天照大神は、記紀の記述と中国の文献の記述が、妙に一致する
ので、だいたい間違いないと思っているのだが。
とすると、天照大神の時代は、2世紀終わり頃から3世紀後半までと考えられる。
それから考えて、神武東征に相当する出来事は、やはり4世紀半ば近くかな。
欠史八代はあまり受け入れたくないのだが、年代的に仕方がない。
年代観の違いで「間違いの海の中に沈没」は、九州王朝説も同じだよ。
503 :
ローガン:2008/03/13(木) 16:45:33
崇神vs神武の可能性はいかがでしょう?
ひそかに暖めているのですが。
同時代と考え、在地系が神武。長脛彦=大物主、ニギハヤヒ=神武。
また、叱られそうですが。
504 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 16:49:51
>502
九州王朝はもう年号が出てるから動かないよ。あろは時間の問題で、うんと
言わすには長く時間はかかるだろう。否定者は年号を、根拠も出さずに直ちに
創作だとか偽造だとか糊塗し、吼えるだけです。
神武天皇が4世紀の人物だとすると、邪馬台国のほうが前の時代になるから
東征前の九州にあったことになる?
しかも日向のほう?
大和朝廷とて中国側の記録を完全に無視して国史を編纂するわけにも
いかないだろう。
507 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 18:48:41
卑弥呼を天照大神としたら、壹與は豊受大神なのかな?
なるほど。
神話に卑弥呼出てこないなぁと思ってたけど、そういうことか。
でも卑弥呼の時代の争いとか、全然書かれてないよね。
ああ、神話的色彩の強い仲哀天皇と神功后の息子で、九州で産まれた
ことになってる応神天皇辺りからが倭の五王と時代も系譜も相応じる
点が多いわけね。
四世紀は中国は内乱で倭国の記録が欠けているが、倭国は朝鮮に
進出して七支刀を贈らせたりしてんだっけ? その次に来るのが
中国の記録にある倭の五王の五世紀。
いや、素人にはキツいわ。
なんでもかんでも 「=」で結ばないでほしい。
おそらく卑弥呼は糸島郡の出身、天照大神は対馬の人。
神武は壱岐の出だろう。
もっと南では?
末盧国がたぶん松浦半島あたりでしょ。
それより南だと思う。
高千穂?
奴国って邪馬台国より北?
奴国は確か極南界(=鹿児島のほう?)だよね。
その近くでは?
ええと、初代神武天皇は別格として次の八代が名前だけしか記録の
ない実在性の薄い天皇で、次に三代、畿内王権とおぼしき崇神、垂仁、
景行と続く。次に影の薄い景行の子の成務、続いて仲哀天皇と
后の神功。
仲哀天皇は系譜にリセットを掛けるようにヤマトタケルの息子と
されてる。
こんな感じ?
地名相似の件もあるから北九州山門と畿内大和の連続性を簡単に
捨てたくないんだが、それを繋ぐ糸は単純じゃないってことかな。
514 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 20:35:07
515 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:43:31
和風諡号を見ると二代と三代と五代は居そうな漢字だけどね。
517 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:50:35
>>476 どうしてヤマトの者が隋のことを何も知らないんだよ。
暴君煬帝のことを遣隋使は見てきて報告しているだろ。
ただ、隋は7世紀当初正に混乱しており、二代煬帝は悪政を連発し李淵の
革命により傀儡政権に祭り上げられ唐が成立した。煬帝とその孫を利用して
の政権奪取なんでそれこそ、今の時代では隋は○○年から○○年まで、
唐は○○年から○○年までとしているが、それこそ混乱していただろうよ。
邪馬台国の本質論から外れているが・・
隋と九州王朝の外交の内情は知ってるはずがないでしょう。
畿内側は、国書さえもらってないのだから。
>514
天照大神の別名にオオヒルメムチ尊というのがある
ヒルメ(昼間)=太陽 ムチ=巫女 つまり太陽に仕える巫女であって
卑弥呼=日の巫女 と重なるのだ
>>514 その資料の文献学的考証が必要だね。検索しても余り上がって
来ない。
これは「欠史八代」論争って奴だな。
521 :
九州王朝大好き:2008/03/13(木) 21:15:52
>>518 >隋と九州王朝の外交の内情は知ってるはずがないでしょう。
その通り。
推古記には609年のシナ外交の相手国は、
隋ではなく、大唐であると記している。
522 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 21:23:08
>>519 だってアマテラスは日そのものの神の名だろう。日巫女とはいい考え
だが、これだと日に仕えるほうでないの。
まだ唐はなかったのに大唐と書かれてるのはなぜかすら・・・。
年を間違えた?
暦の計算の問題?
隋の時代に唐の前身とやりとりしてた?
倍暦理論はまだよく分からないんだけど
太国さんの天皇在位の実年代推定はとても正確な希ガス
太国さんがんがれ! きょうはトコトンがんがれ!
525 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 21:45:36
>>518 >>521 九州王朝説とは、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・
日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述
した研究書においては記載されずに無視されている説であることに留意する
必要がある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
比定可能な地名があれだけ北九州に固まってて、
中心の邪馬台国だけが近畿ってのもなぁ・・・。
If we had a timemachine, we could know real history.
ああ、俺は間違って読み取ってた。那珂通世の説は、記紀編纂時の時点で
既に朝廷が中国で流行してた辛酉革命説を取り入れてて、それに合わせて
年数合わせをしたってことね。那珂通世の決めた話じゃないわけだ。失敬。
「巌頭之感」の藤村操は北海道出身でこの人の甥、漱石の教え子。漱石の
件は大昔になんかで読んだな閑話休題。
>>474 > その断定は間違いだね。239年から608年も経過して
記紀の記述は何百年経過後のものだっけ?
日野郡誌は千何百年経過後のものだっけ?
まさに自爆テロだねw
同じ関心を持ってるんだから仲良くやろうよ
ウガヤフキアエズは紀元前3世紀ごろの実在した人物ではなかろうか。
そして、神武〜崇神は兄弟ではなかろうか。
ウガヤフキアエズの勢力が基となり、神武が紀元前2世紀ごろ王国を築き、
何だかんだ(ここはまだアイデアが無い)で天皇がめくるめく代わりあっという間に10代過ぎたのではなかろうか。
ま、単なる空想だがな。
532 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 22:32:16
九州王朝説というのは、元をただせば本居宣長に行き着く。
大和には、神功皇后というれっきとした皇室の系統があるのに、卑弥呼という
九州の「女酋」が、神功皇后の名前をかたって魏と交流したというわけ。
本居宣長の年代観は、紀元前から大和に皇室があったことを前提にしている。
九州王朝説の年代観も似ている。ただ、現代では、いくらなんでも紀元前は
ありえないので、倍暦など変なものを持ち出して辻褄を合わせている。
でも、それも今では難しいな。畿内説でさえ、大和に王権らしいものが
誕生したのは、西暦200年以降としているわけだから、それ以前の大和には
めぼしい勢力はなかったと考えるべき。
個人的には、西暦200年も怪しいと思う。西暦300年以降だろう。
533 :
九州王朝大好き:2008/03/13(木) 22:36:39
>>523 >まだ唐はなかったのに大唐と書かれてるのはなぜかすら・・・。
推古記の出来事記事は、その殆どが690年代の畿内の出来事や畿内が知り得た限りの九州王朝内の出来事を挿入したものだから。
534 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 22:37:58
>>529 記紀は阿礼と原書からだ。 原書は紀の成立前かあるから内容は実際
ずっと古いと観てよい。阿礼は紀の原書とおおまかに合致してるから
それに準ずる。邪馬臺なんて倭人伝からではないし、日本のどの情報
から隋書が採ったか分からんだろう? で、年代が経っていて九州の
邪馬壹国をなおざりにして畿内の邪馬臺国を女王国と勘違いした
もようだな。それに詳細の説明書きでもあるのかねぇ??
隋書は邪馬壹国とある伝を違えて「臺」という重要箇所を取替えて
いるんだから、倭人伝に準じてるとは言い難い。
日野郡誌は参考だよ。絶対的にそうだと言ってない。付加すんな。
>>527 いやいや、これは日本人の大好きな暇つぶしなので。
536 :
古代:2008/03/13(木) 22:57:46
隋書は「文林郎裴清」、日本書紀は「鴻臚寺の掌客裴世清」と書かれてる。
「文林郎」は従八品(大業以降)。
「鴻臚寺の掌客」は開皇令では正九品下、唐令では正九品上。
隋の時代には「文林郎」だったが唐の時代に「鴻臚寺の掌客」に降品した。
当時の日本は年号ではなく干支で数えていたので12年間違えて年号を記した
日本書紀の編纂の時代「国記」は大化の改心で失われていることも考慮に入れるべき
このスレの人はやっぱ「鹿男あをによし」を見てるのかな
日本書紀の「ヤマト」は「夜郎死苦」みたいな当て字多いらしいね。
>>525 批判はされているけど検証はされていないのでは?
学会でもフル無視状態
何で未だに無視?堂々と表舞台で切って棄てればよいものを
C14だってマトモに聞き入れようとしないんだから全くこの国の
学者先生たちは頭がお花畑としか言いようが無い
金印って捏造物らしいな
そうらしいね。
九州北部で見つかるなんておかしい。
543 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:04:37
>>541 最近そう言う本が出たらしいが…
多分トンデモ本の類だろうw
捏造するのなら世に出たとき「本物だ」と言われるような物にするだろうさw
当初、偽物と言われどう言う経緯で本物と言われるに至ったかを知っていれば
偽物説には簡単には組みしえないw
見つかったのは江戸時代でしょ。
その頃から本物と思われていたから現代人も信じているのでは?
畿内説を信仰する立場からは、漢籍はすべて偽書なんだろうなあ。
畿内でも北九州でもないと思う
金印は捏造かとも思われていたが、
本物っぽいって流れじゃなかったかな
だれか起源頃の日本列島の地図うpってちょ
549 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:40:07
江戸時代にどうして金印を捏造する必要があるのだか。
九州説を主張する人が自分が正しいと思わせるためにやった
551 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:50:02
>>503 ローガン
わはは、そんな程度で「叱られるとか」気にしているわけ?w
俺なんか「長脛彦」との闘いには弥生人(新モンゴロイド)が縄文人(原モンゴロイド)
と遭遇した時の記憶が引き継がれているのではないか?と思っているwww
土蜘蛛と称された民は縄文的神で東日本でその痕跡が見られる、アラハバキ(=荒吐=荒脛巾)神を信仰していた民ではないかと…
記紀神話にはトンデモなく古い物が混ざるし割とありうる話だと思っているw
(イザナミイザナギの攪拌型世界創造神話は中央ユーラシアに分布するとか
神武の爺さんの代の海幸山幸のお話も海外に類似するものがあるとか…)
552 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 01:00:12
>>550 江戸時代には、邪馬台国論争などないと思うが。
国学者は皇国の歴史についてどう思ってたんだろ
江戸時代にも邪馬台国の場所について意見が分かれていたと
どこかで読んだのだが・・・。
ごめんアンカー間違えた
皇室関係者の一部は謎を知ってたりするのかなぁ。
邪馬台国のことはわからなくても、少なくとも三種の神器のこととか
いくつかの謎については知ってるんだろうな。
558 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:14:47
>557
皇室はそんな所ではない
現在、賢所は2つあって、南北朝いらい引き継がれているんだと
内内陣にからびつが2つ、どっちかに統一しようとはせず、ただ2つを同等に祭っている
そんなものだよ皇室は、深く考えないの
金印発見当時、福岡藩内では
「漢委奴国王とは日本を漢の属国扱いにした言い方だ。だからこの金印が
届いた時、天子様は怒って志賀島にお捨てになられたのだ。そのような恥辱の
品など珍重する必要はない」
ということで、「鋳つぶし論」が沸騰したらしい。
金印贋造説は、ちょっと成立は無理だな。
>>577 >>559 話はずれるかもだが、現役の天皇は平城京以来の秘儀については
いろいろ知っているようだよ。
奈良時代、いわゆる人面土器に息を吹き込み、蓋をして川に流すという呪術が
あったようで、これに興味を持った「宮様学者」三笠宮が昭和天皇に話したところ、
「その儀式なら朕もやっている」と答えられたらしい。
564 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 07:13:42
>>540 邪馬台国論争を語るとき、畿内説VS九州諸説までは普通のはなし。ここに、古田武彦氏
の九州王朝説をとして取り上げてくるから荒れてくる。
吉備王朝、出雲王朝、河内王朝、葛城王朝、毛野王朝などと単体的にはそれぞれがあった
ものとして推測しても差し支えない。しかし、壬申の乱の舞台は北部九州である。とか、
隋書に言う「姓阿毎 字多利思北孤」も九州王朝の倭国王である。とか、磐井の乱も畿内大和
の九州王朝に対する反乱である。とか、倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州王朝の王
である。など等の珍説三昧なので、学会の先生方も表舞台でこの事を取り扱うこと自体、
品格を損なうものとして恐れているのでしょう。邪馬台国九州説自身は説得力のあるもの
なんですが。
565 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 07:26:57
>>541 金印をやるなら小判大判のほうがてっとり早いだろう? どうせ偽造だと分か
りゃぁ、死罪か準死罪だろう? 出た場所あたりに金山があるのか?
そういうことで、偽造ではないな。
>>564 王朝とは如何に?
王朝と言うよりも、精々各々の力ある土着勢力でしょ。
当時の日本には大和朝廷以前は、王朝らしいものは無かった。
王朝だと所謂文明人国家としてのソレだったり(ササン朝ペルシャとか)、
文字持たぬ文明国家じゃなくても、インカ帝国やアステカ文明やマヤ文明などの過去の遺跡郡を思い浮かべる。
>>541 金印は本物たよ。
中国で当時製造の金印が数年前に発見された。志賀島の金印と同じ作りだったそうだ。
そのニュースを知らないの?
↑訂正する
正確には、略似たような作りだったそうだ。
同じ作り・・・・・・×
ほぼ似た様な作り・・○
>566みたいに、王朝がなかったように引き摺り下ろす奴もいるが、
連続した元号を制定し、広大な領土を持ち、一貫した政治体制と
危なげない首長の交代をしている国家は、王朝といっていいだろう。
7世紀以前の畿内ヤマトには王朝はなかった。
しかし九州には王朝があった。
>>569 あのさ、7世紀は600年代だよ。少なくとも4世紀(300年代)には大和朝廷は根を張っていた。
馬鹿を言え。7世紀以前、畿内に王朝があるわけないだろ。
九州王朝が制定した元号を畿内ヤマトが使用していたくらいだ。
九州王朝が、畿内ヤマトの人間に対しても、真人・朝臣などの賜姓をしていた。
畿内ヤマトの大王だって九州王朝が賜姓していたわけだ。笑わせるな。
継体・白鳳などは、九州王朝が制定した元号だが、何か?
576 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 11:56:40
なんか九州王朝説って、日本は朝鮮人が作ったって言う朝鮮の人の主張と似ている。
では、
大化の改新も聖徳太子も
入鹿も馬子も物部も
山背大兄も
九州王朝下での出来事や人になるのか…w
蘇我とか飛鳥朝は無理でしょ。
遺跡があるもの。
蘇我馬子が建設した飛鳥寺とか、
(飛鳥時代、鞍仏師による仏像が現存)
入鹿が殺された皇極天皇の宮殿飛鳥板葺宮跡とか
法隆寺もそうよね。
遺跡があるから否定のしようがない。
579 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:40:38
それに吉備や東海に四道将軍を九州から派遣したり
飛騨の両面スクナを滅ぼしに行くのに九州からでは無理がある。
尾張との関係もそう。九州から東海との関連を示す土器などは見つかっていない。
それとも大和が九州にあったという主張と同じで
吉備や飛騨もすべて九州での出来事にするのかな?
580 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 12:45:27
>>566 >王朝らしいのは無かった
どうしてこんなことが言えるのか? タイムマシンはも持ってないだろ?w
古史古伝にはウガヤ朝70数代の記述がある。
古代マヤは文字あるよ。
581 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 12:50:32
>>571 確かに元号は要件だろうが、おそらく代用として崇神元年とかの意味で即位年
からの年数数えをやってるから、準じて王朝といっていいと想うがね?
徹底して厳格じゃなきゃダメ?
>578-579
得意満面で取り上げた法隆寺が、
九州王朝の寺だったって知っていってるのかな?
>581
首長の交代がズタズタだし、領土が狭すぎて、王朝というには足りないでしょう。
584 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:27:17
それは九州も一緒。統一王朝があったというならその都は?
遺跡は?
585 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 13:27:27
>>583 ズタズタはあったろうな。そうでない時代もあったんでないの?
586 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:31:14
>>582 九州生まれの聖徳太子が母親の宮殿と称して
遠い畿内に中宮寺を建てて母親を隔離し、
自分も遠く離れた畿内に作った法隆寺に
隠居しながら九州にいる推古天皇や蘇我馬子と
連絡とってたわけか。
遣隋使も冠位十二階も無理だな。
587 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 13:33:41
>>584 それがわかれば苦労はないよ。どうせ木造建築だろうし、エジプト、マヤの
石造りの建造物、墳墓等だったらこれは残っていただろうがね。木造じゃぁ
壊滅は矛盾にはならんよ。
588 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:39:13
それはおかしい。吉野ヶ里とかだって木造建築だったがちゃんと見つかっている。
弥生時代の木造建築が見つかっているのにその後の王朝の木造がないと言うのは根拠に乏しい。
589 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:43:15
>>588 飛鳥時代の皇居のあとは九州のどこにある遺跡?
まさか弥生時代の吉野ヶ里だと言わないでねw
590 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 13:45:38
>>588 根拠に乏しい? それは〜少しは残ってるよ。壊滅って言ったって、
完全の意味で言ってるわけではないよ。なにごとにも例外はあろう。
古史古伝にもウガヤ朝の記述があるし、年号があるんだから、もう根拠
どころでないよ。決まりだよ。ただ無名さんが言っていたが、完全厳格
でなければダメだというなら王権の字でもいいよ。
591 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:46:16
九州王朝ってさ。切れ切れなんだよね。ものすごく一部分だけを切り取って
ほら九州にあるでしょ。みたいな。
東京に伏見があるから京都の伏見はもともと東京にあったって言ってるのと同じ。
592 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 13:48:36
>>591 最上段はほぼ同意。ある程度そういうことはあったと想う。
>584
ジンギスカンの墓が見つかったら、すぐに九州王朝の都もわかるんじゃないかな?
装飾古墳の中心は北部九州だ。
北部九州を中心に(畿内を除外して―笑)東北にまで広がっていた
この装飾古墳の文化は畿内の文化ではなくて、九州王朝の文化だ。
法隆寺も九州王朝の寺。聖徳太子に「無関係」な釈迦三尊像の
光背銘は、九州王朝の人物ばかり出てくる。
595 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:54:04
文献史学的にも考古学的にも
飛鳥朝が九州にあった説は無理
日本史や古事記には天皇の皇居の場所や
豪族たちの屋敷の場所がふんだんに出てくるのに
九州の地名に全く合致しない
九州の王がなぜ法隆寺や飛鳥寺といった大規模寺院を
遠く離れた畿内に作ったかも不明
九州には同時代の大規模寺院などまるでなし
九州王朝の王宮があった場所の一つと思われる、大宰府政庁跡は、
いま非常に矮小化された区画だけを、宮殿跡のように展示しているが、
敷地は何km四方もあったはずで、京都の御所より大きいはずなのに
笑わせる。
九州王朝の配下で、畿内ヤマトに地方領主がいただけでしょ?
だから何?
598 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 14:00:58
>>595 それはなくてもおかしくないな。朝廷は今でも天皇がいるくらいの強力
な統治の国だが、九州王朝のほうはさっき切れ切れとか言ってた方が
いるが、勢力がそれほどでもないし途中で滅亡している。
つまりだから滅亡したんだろうとしてもおかしくはない。ないんだったら
聞いたこともないような年号が出てくるわけもなかろう。それだけで
決まりよ。木造でいままでたくさん遺跡が残っていたなどとは奇跡に
近いことで、むしろ〜うんと木造が残留していろ、なんて考えにくい。
10年以上かかる大建築築造よりも、数年で終わる移築が楽。
九州王朝の大建築は、天武らが移築しちゃったようだ。
吉野ヶ里の吉野に30数回も行幸した持統天皇も、案外建築物の
移築をしていたんじゃないかと思われる。
600 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:07:49
だからさー吉野が吉野ヶ里だったら
なんで天武天皇は東海地方の尾張氏と手を組まなきゃいけない?
それとも尾張氏も九州にいたのか?
601 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:08:41
>>599 まったく史料を読んだことのないやつだということはわかったよ。
造作が趣味だった斉明天皇は、吉野に別荘を持ち、ときどき行幸していた。
大海人皇子は吉野へこもった際、この母親の別荘を手入れして住んでいたんだ。
持統天皇がたびたび行幸したのも、この夫と過ごした思い出の場所。
斉明朝に作られ、天武、持統も愛好した吉野宮跡は遺跡も発掘されているから
もっと史料を読んだほうがいい。
中国から歴代大将軍号を受けた記録が畿内にないのは当然。
九州王朝の前身だったから。
鉄器もなかった畿内ヤマトのローカル史より、極東全体を把握しましょう。
畿内は極東が戦乱に明け暮れた時代に、戦乱回避の桃源郷のように
各地から人が集まって都市を形成したが、結局九州王朝のパワーの
もとでやっていかざるをえなかったわけだ。
隋の煬帝に国司を派遣したのも九州王朝。畿内の天下は天武から。
604 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:25:49
畿内の古墳から鉄剣が出土していることは無視か
九州王は畿内豪族よりもずいぶん貧弱な
都&墓を作ったものだねえ。
605 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:26:14
やっぱり。朝鮮人と同じだな。九州を朝鮮に変えて読んだら全く同じだ。
自分の意見ばかり主張していてはきっと答えは出ないよ。
相手の意見も参考にして自分の考えを見つめ直すことも大事。
607 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:42:30
>>603 >畿内は極東が戦乱に明け暮れた時代に、戦乱回避の桃源郷のように
>各地から人が集まって都市を形成したが
「隋書」は都(九州)が戦乱で明け暮れていたなんて一言も書いてない。
戦乱やってたならそう書くだろうが。
突っ込みどころ満載
九州王朝が主催した大嘗祭に畿内ヤマトの大王(所謂天皇)が出席している。
のちの時代になって、文武天皇が「初めて大嘗祭を主催」したけどな。
それまでは、九州王朝の格が上でしたということだ。
609 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:44:29
「桃源郷」であるところの畿内に、あれほど高い文化が
花開いたのはなぜだろう?
百済や高句麗から呼んだ技術者に教えを請い、
法隆寺や飛鳥寺、さまざまな宮殿が建った。
戦乱に明け暮れていた九州の王が?
はるか遠い畿内に渡来人たちを誘致して
自分は訪れることもない寺や豪華な宮殿を建設。
そんなことやってる暇あったの?
610 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:45:57
>>608 >九州王朝が主催した大嘗祭に畿内ヤマトの大王
ああ、誰が祭をやったか主語がないってやつね。
まあ、九州王の名前もないけどね。
九州王朝論者は卑弥呼の墓を特定できないのか?
古墳なのか?
じゃなくて、まだ地下に埋もれてるのか?
福岡にあるんだろ?径百余歩のが。
福岡は博多区から大宰府府政庁、大宰府天満宮位まで、掘ったら何か出てくるような状態
甕棺のかけらが転がっているところはあちこちにあるし、開発で山崩したら何か出土することはざら
こんもりとした山を削ったときにでてくる甕棺は、山を古墳にしていたところなのだろうか
子供のときは工事現場の発掘調査によく出くわしたなあ。ブルーシートかけているところもあったが
雨ざらしのところは、流れていかないか子供心に心配したもんだ。
丸っこい小山から何か出てくるときは、古墳かもしれないね。
>>612 太宰府を掘っれば ゙なにがが出て来る゙はず゛ では具合悪いですね。
辺境の島、九州から長岡京まで遷都したのかw
平安時代に東遷w?
やっちまったなら ごめんなさいで済むのに、
このままじゃ、美濃が都で有名な美濃もん太くん
と同レベルだよwww
自分の意見ばかり主張していてはきっと答えは出ないよ。
相手の意見も参考にして自分の考えを見つめ直すことも大事。
畿内の大和周辺に、纏向遺跡が発生したひとつの要因に、東西の交通の要所として、初めは開けたのではないだろうか?
>>612 急に歯切れが悪くなったぞwww
自信喪失?
ヤマトは百済と深い関係があるのではないかと。
誰か百済語と古代日本語の比較研究してる人いない?
五王の最後の王(武)は神武天皇だったっけ?
神武天皇が東征したのなら、それより前は西のほう?
620 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 17:23:23
ついでも九州王朝の説明もして欲しいね。
筑紫の国造磐井は実は九州王朝の王だったと説明するが
大和朝廷も実は九州大宰府にあったという。
つまり、九州王朝の王である磐井は継体という新しい九州の王に滅ぼされ
第二九州王朝ができた。
しかし王朝説によれば大化の改心までは蘇我氏が天皇だった事になっているから
継体の後、欽明天皇あたりから蘇我王朝が始まり、肥後大津の天智天皇がこれを滅ぼし、
吉野ヶ里の天武天皇がさらに天智朝を滅ぼしてそのあと都を畿内に移した・・・でOK?
ごめん雄略天皇だった
623 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/14(金) 17:37:57
>>619 それでいいんだよ
初代天皇は、帝国でも認めた「武」
つまり 神武天皇
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
倭の五王についてはいろんな説がある。
>>618 イメージが掴みにくいのは邪馬台国畿内説だろ。大和朝廷が畿内
だから、当然、三世紀の邪馬台国も畿内だろうって単純な思い込みで
考えるだけじゃないか?
>>626 そんな畿内説聞いたことないw
ちょっとは調べなさいよ。
九州王朝説って信長も秀吉も家康も九州出身だろ?とか言われたらはぁ?って思うだろ。
628 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 18:41:10
>>626 では処刑ライダーさん!
>>618が挙げてる丸隈山古墳について、あなたのコメントをどうぞ!
調べろって言って逃げるの無しで。
実証史観の俺にとって「建国の父」は神武帝でなくて太子だからな。
高天原に通じる道は現実の歴史をどんなに掘り起こしても見付ける
のは難しいだろう。
九州辺りになら辿り着くのかも知らないが。
処刑ライダーさん丸隈山古墳についてどうぞ
五王は五世紀、仲哀天皇・神功后の後だろ。もう畿内に移ってても
おかしくない。
それはさて置き、クラカタウの噴火のあった頃の安閑天皇以降、
「クニオシ(国押、国廃)」って名前が三代ばかり続いてるが、
どういう意味だろ。
なあんだ処刑ライダーさんは九州王朝説じゃないのか
ヤマト王権の話は微妙にスレ違いでは?
邪馬台国〜ヤマトの繋がりの話ならおkだけど
最近ちょっとズレてる気が。
全然詳しくないくせに邪馬台国=福岡辺りと決め付けて
自慢してる福岡人が身近にいる。
七世紀に九州王朝とかwwwファビョり過ぎwww
福岡は俺の生活場所
邪馬台国なんてあるとは思えない
>>629 いや素直に、畿内説には詳しくないのでわからないって言えばいいじゃん。
知らないものを何故批判するのだい?
教えてくれって一言言えば、その考察をしているスレを教えてあげるのに。
聖徳太子のことをろくすっぽ知らない奴が
「太子は実在しないんだって。あんなのいたと思っている奴ってバカじゃん」とか言ってたら
君もつっこむだろうに。
それと同じだよ。
九州は日向を東征に出発した神武に畿内宇蛇で刃向かった国津神は
「エウカシ(兄宇迦斯)」、「オトウカシ(弟宇迦斯)」。
アイヌ語の「エカシ」は長老。
>>642 どうせ、右翼の聖徳太子マボロシ化工作員だろ。
福岡県民だが、あちこちに古代の生活の後があるのは感じる。
邪馬台国などという、巨大な国家があるようには感じない。
小さい集落の集合体が邪馬台国というのならそうかなという程度
福岡は古墳より生活跡遺跡が多い
古墳もあるけどそんなに一生懸命作ったような気がしない。
近所の山のてっぺんに適当に整地して埋めた程度ではないかな
要は、阿蘇山と金印の地が邪馬台国だ。
>>644 じゃあ何で作り話したんだろう?
神話を大和地方に持って来れば話がわかるのに・・
>要は、阿蘇山と金印の地が邪馬台国だ。
実に懐かしいコピーだな〜
プラム = 河童虫
651 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 20:54:55
九州王朝ネタはもういいよ
荒唐無稽な説で誰にも相手されてないから
俺はそんなに沢山勉強してるわけじゃないからな。触りの常識
程度の知識を書いてるだけ。
世の中を平らげるにゃどこで政治をやったら良いかと兄と相談して
神武は九州から東征に出掛けた。東遷の理由としては分かりやすい
話だ。
>>654 何かとおいしい所だったんだよ。何かとね
当時、まだ固まっていない地域だったんだよ
かの地に大和という造語も造りだすぐらいだから・・
伊弉諾尊と伊弉冉尊が日本を創ったって本当?
いまどき651みたいなのが闊歩してるのを見ると、ゆとり世代が溢れてるんだなw
さあ、ここで問題。
ここは邪馬台国スレか、古代天皇スレか、九州王朝スレか?
答え…話の流れで代わります
春だね。毛虫が湧いて来たようだ
狗奴国に比定される九州山門の南の熊襲と畿内大和の南の熊野も
地名相似なのかな。
福岡と東京に赤坂があるが?
「クニツカミ」の「カミ」は神話だと「神」だが、江戸時代の
「〜之守(カミ)」と一緒で首長や位の高い人物を意味する日本語の
原初的用法であって、必ずしも超自然的な意義ばかりを意味する
わけじゃない。「神々」は「上々」、つまり支配層とも受け取れ
るわけだな。
>>617 >百済語と古代日本語〜
百済語なる言語は“殆ど”残っていないから比較自体出来ない。
一昔前、朝鮮人が万葉集は古代朝鮮語で書かれたと言うトンデモ本を書いたのを知っている?
比較する古代朝鮮語が残ってないのに、脳内妄想で書かれたトンデモ本だよ。
“殆ど”残っていないと書いたのは、残ってる言語はあるから。
百済は「くだら」と読む。これは数少ないサンプルの一つ。
比較言語が残ってないと比較出来ない。人骨が発見されないと遺伝子鑑定は出来ない。
現代の朝鮮語と古代の日本語の比較は出来ない。同じく現代朝鮮語と現代の日本語の比較も出来ない。
日本語も昔と今では、母音・子音発音が異なる。日本語の場合は昔の使用言語が万葉集等が現存してるので分る。
源氏物語の冒頭「何れのおほん時にか、女御、更衣、あまたさぶらひ給ひけるなかに〜」も
学校で習った現代日本語読みと平安日本人の発音は異なるらしい。母音・子音が変化したから。
侍の語源は平安時代の「さぶらう」だけど、現代読みの「さむらい」に変化したのは江戸時代以前。
よって鎌倉・室町の武士は「さむらい」と発音していない。
666 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:26:02
九州王朝を簡単に信じれるほうがゆとってるよww
667 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:32:05
古代言語については、『縄文語の発見』(小泉保)をお勧めします。
東大の言語学科卒で学界の第一人者が分かりやすく色々な説を述べた上で、
縄文時代からの言語復元に取り組んでいます。
安本美典もこの方面の著書が多いけど、参照する学説が狭いのが難点。
小泉は広く説を述べて、的確な批評をしています。
>>642 左翼脳の人には、「蘇我氏に滅ぼされた山背大兄王一族は誰の子供か」と尋ねて見れば良い。
幾等なんでも「上宮山背大兄王」は居なかったと主張しまいて。
主張したら、頭が突き抜けてしまってるよ。
「王朝」の定義って何? その概念で何を求めてる?
しかし、古代世界ってのは宗教的権威と世俗的権威なんて区別は
ないから「神々」も「上々」も意味としちゃ大差ないかもな。
>>665 中国の歴史書によれば、たしか百済の言葉は当時の高句麗の言葉とそっくりだったと思う。
671 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:38:46
>>662 日本書紀によると、景行天皇は、熊襲征伐に出かけたわけだが、まず大分に
到着、次に日向に宮を構えて、6年かけて熊襲を平らげたとある。
だから、熊襲というのは日向の南だろうと思う。
その後、子湯県(児湯郡)で遊び、やっぱり大和はいいなあ、なんて歌を
詠んでいる。
それから、九州巡幸の旅に出る。まず行ったのは、夷守(宮崎県小林市付近)
ここで、諸県君泉媛に歓迎される。だから、小林市付近は熊襲ではないと思う。
次に、熊県(熊本県球磨盆地)に行く。ここで、熊津彦という兄弟を呼んだ。
兄はやってきたが、弟は来なかったので討った、とある。
だから、人吉盆地も熊襲ではなかったと思う。
次に芦北から八代、阿蘇や三毛(筑紫国の三池)、八女、浮羽などを経て
大和に帰る。
このように見ると、熊襲というのは限りなく鹿児島県に近いと思う。
あるいは、宮崎県都城市付近か。
畿内説で邪馬台国の南の狗奴国といえば熊野以外には考えられない。
入植者が入植先を故郷の地名でなぞるのはごく普通にある景色だから、
後代の神話がこんがらがるのはやむを得ないだろうって感じになる。
難升米って誰?
人生の権威の源を歴史の原初に探るのは、ある意味、自分探しの
旅ではあるな。俺はそういうことはしないで済む方だが。
魚とかは先祖が分からないけどね
>>666 勢力を持った豪族は居たはず。
天武天皇の夫人の一人である高市皇子の母親は、宗像?氏じゃなかったけ?
若しかしたら伊賀氏だったかな。うろ覚え。
>>669 学術用語としてでは無くて、
その辺の街を歩いているノンポリ平均的日本人は、文明国家としての王朝を浮かべる。
ササン朝ペルシャ、エジプトのギリシャ人王朝(ピラミッド)、清、明、宋、唐、隋、
殷(商人)、夏(姫)、ブルボン、ハプスブルク、ロマノフとか、、、、。
日本にも勢力拡大して領土を治めていた者が存在したと思うが、
それは土着勢力であって、文明国家としての王朝は大和朝廷が最初だと思う。
少なく見積もっても、4世紀(300年代)には大和朝廷はあった。
広開土王碑をみても明らかだ。あれは大和朝廷だと思う。
>>668 山背大兄いなかった説いるよ
関なんとかってPHPからよく本出す人
藤原氏はピントの時太子を祀るが山背大兄は祀らないとか
山背大兄の墓がないとかいってたな確か
立ち読みだからはっきりしないが
678 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:11:17
>>673 難升米
1、「難」は奴国の「奴」
2、帥升は「スシのミコト」であり、「スサノウのミコト」と同系。
「升」は同じ「升」を用いているのでその系列の人物。
3、米は命と同じで、当時から「命=ミコト=メイ」の訓読みと音読みが
存在し、「命」と名乗ったのを魏の側が「米」と表記した。
よって、ナシのミコトである。
奴国の王族であり、そのうち帥升の系列に属する権力者であったw
679 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:13:05
ピントってなんだよピンチだよorz
景行天皇の親王(息子)にあたる名。
熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと)
襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)
意味深・・一筋縄ではいかんわな〜
682 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:16:39
>>673 難升米というのは、倭人伝には七回出てきている。
卑弥呼が五回だから、すごいというべきか。
難升米は、倭国の「大夫」となっている。大臣のようなものだろうか?
魏からも「率善中郎将」という官位をもらっている。
景初三年(239年)に卑弥呼の使者として帯方郡に行ったのだが、正始八年(247年)
にも、帯方郡の使者である張政から詔書や黄幢を授けられているから、
在任期間?は長いなあ。
まあ、卑弥呼が大統領とすると、卑弥呼の弟が総理大臣だろうか。とすると、
難升米は外務大臣かな。もし、卑弥呼の弟がたいした人物でないなら、難升米が
総理大臣クラスかもしれない。良くわからないが、重要人物ではあるなあ。
>>677 上宮山背大兄王は存在しなかった説の人も居るんだ。吃驚。
だって、蘇我氏によって上宮一族は滅亡したじゃん。
>藤原氏はピントの時〜
ピントって何?
>>677 関はデンパで有名だよ。彼に言わせれば
例えば
神武を瀬戸内海を通って畿内まで船に乗せた人=浦島太郎=住吉大神
=武内スクネ=恵比須=事代主神=一言主神
だからねwww
1300年経っても右翼分子の行動に進歩のないのは分かった。
私は大和朝廷は少なく見ても4世紀(300年代)にはあったと思う。
上レスでも何度か書いたが、「少なく見積もって」4世紀だから、3世紀(200年代)もあったと思う。
少なく見積もって4世紀としているのは、邪馬台国関係の倭国大乱及び卑弥呼が良く分からないからだ。
関東に住んでいるので、畿内にあろうが、九州にあろうがどちらでも良い。
卑弥呼は誰なのか。自然に考えれば畿内だと思うが、神武天皇は九州出身だと思う。
日本書紀に態々九州は日向だとの記述をするのは本当じゃないかと。
神武天皇畿内出身との記述でも良かったはずなのに、苦労しての遠征が綴られている。
そこでだ、九州派は誰が卑弥呼だと統一推測している?
私は神武天皇遠征を信じているから、九州でも有り得るかもと思っている。
九州から畿内へ移行したとも考えられない事もない。
畿内派は略百襲姫統一なんでしょ。
> 関東に住んでいるので、畿内にあろうが、九州にあろうがどちらでも良い。
なにそれ
688 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 00:21:42
>>684 所詮記紀の内容は故意に事実を捻じ曲げられているんだから、推理小説として
読んでいけば楽しいよ。
浦島太郎=住吉大神=武内スクネ=恵比須=事代主神=一言主神
記紀にはそのように匂わせる部分もあるんだからOKじゃないか。
いろんな推理があって・・・
689 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 00:23:36
関本人ウザイぞ
691 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 01:09:07
>>684 関裕二ねえ、、、俺みたいな素人から見れば着想自体は良いと思うんだ。
戦略的・地政学的に邪馬台国の場所を特定しようってのはね。。
…でも最終的結論が
『畿内ヤマトのトヨ=神功皇后による九州邪馬台国の卑弥呼(山門の田油津媛)殺し』
じゃあねえ、、、流石の素人の俺も付いて逝けませんwwwwww
692 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 06:55:04
>>691 九州王朝説の古田氏が言っている、「壬申の乱の舞台は北部九州」である。とか、隋書
に言う「姓阿毎 字多利思北孤も九州王朝の倭国王」である。とか、「磐井の乱も畿内大和
の九州王朝に対する反乱」である。とか、「倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州王朝
の王」である。など等の珍説三昧よりも、各神社の伝承等により、宗像の子が住吉でその子
が宇佐と推理するこのおっさんの推理の方が読んでいて楽しいよ。
>>692 まあ、面白いって意味じゃ九州王朝物語も
関古代史物語と同じくらい面白いけどさ
と弁護にならない弁護をしといてやる
関のデンパはある意味、神憑りだからなwww
古田は一言で言えば 糞 ごり押しがウザ過ぎる。
プププ、どっちが神憑りだか(ry
696 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 17:38:36
金印が博多湾岸で見つかっている以上、僅か200年位しか経っていない邪馬台国も博多湾の近くであることは間違いない。
4世紀にヤマト朝廷が成立なんて言っているやつは狂人。
UVERworldの神集めでも聞いてみな
>>696 別に「漢委邪馬台国王印」とかは出てないことを忘れるな。
>>696 僅か200年って・・・
その200年間に玄界灘沿岸の集落が、どれだけ変化したのか知らないのか。
700 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:42:14
>>696 200年は僅かでない。
倭奴國王は50年で別王権の倭國王帥升に変わっている。
701 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:07:13
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
倭奴國が漢から金印「漢委奴國王」を綬けて、倭國の王に任命され倭國王と成ったんだよ。
倭國王帥升は倭奴國の王。
具体的に界灘沿岸の集落がどう変化したんだ?
大宰府は8世紀でも国際交易都市であり『続日本紀』に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」と繁栄している。
魏志倭人伝の記述は、海洋民族的で、金印の志賀島に環境が近く、
内陸部の大和じゃないな。
>>702 > 魏志倭人伝の記述は、海洋民族的で、金印の志賀島に環境が近く、
> 内陸部の大和じゃないな。
陸行一月って書いてあるじゃん。
704 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:22:02
>>702 >海洋民族的
まあ編者が中国の海南島あたりの習俗と混同しているとの指摘もあるしw
幾ら九州で、加えて当時が温暖な気象であるとしても南国すぐるwwwwww
705 :
改め〜壹與ちぁん:2008/03/15(土) 21:23:45
何か〜日本@名無史さん の溜まり場か(笑)
ここのスレヌシ 日本@名無史さん (ブルー)のイヨタンさんはいないんですか?
貴方の畿内説をお聞きしたいんですがwww
>703
海洋民族だって、陸にあがるのを知らないのかw
海賊って海に住んでたんですか?
>>706 そんなこと書いたらよけいにつっこまれちゃうぞw
陸行一月、往復二月かけて漁をする海洋民俗ってwww
おいおい、ろくな道もないジャングル状態だったんだぞ。
しかも普通、外人に対しては中心地から遠いところへ上陸させるわけだ。
ペリーが浦賀から、ジャングルを通って江戸城まで歩いたら、
何ヶ月もかかるだろw
針葉樹林ばっかだから仕方ない
照葉樹と広葉樹な。
713 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 22:20:51
志賀島ってのは、昔はたぶん島だったんだろうな。
金印が島から出るというのが不思議なんだが。
王様の墓というわけでもないし。
今でも島じゃないの?
715 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 22:43:31
716 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 22:43:45
地図を見ると、つながっているように見えるが。
JR香椎線が走ってるくらいにつながってる。
邪馬台国って温暖だったんでしょ
今の地図で考えてもダメじゃないのか?
720 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 23:19:34
>>713 志賀島は昔は島で、たしか戦後に繋がったはず。
対馬での大型青銅器の出土状況とあわせて見ると、倭国乱の
ときに、奴国〜志賀島〜対馬と逃れたような感じに見える。
大昔の地図うpしてよー
722 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 23:32:57
723 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 23:36:00
「逃げた」っていう前提は、どういう根拠で誰が決めたんだい?
なんで日本で作られた地図にこだわるの?
もっと昔のオーパーツ的な地図がどっかにあったはず。
726 :
改め〜壹與ちぁん:2008/03/15(土) 23:46:09
ww
日本@名無史さん がいっぱい!
728 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 23:52:33
>>724 志賀島は、とても古代の国の中心とは思えないから。
逃げたのではなく、主要な地を睥睨できる良い土地を選んで
埋めたんだろう。
>>727 よく見つけたね。
日本全体が載った地図はないかな。
732 :
改め〜壹與ちぁん:2008/03/16(日) 00:36:35
〜たく!ここか?!
邪馬台国 ドンと来い♪さん仲良くしましょうね!
>>732 嫌だ。
荒れる元凶になる君をここで歓迎するわけにはいかない。即刻、去りなさい。
>>734 氷の下の南極大陸が高精度で書かれてるものもあったでしょ
736 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 08:36:04
>>713 金印は志賀島で発見された物ではない。
福岡市近郊の別の場所で発見され、しばらく近所の神社に保管された後に売られて世に出たから。
志賀島で発見されたとされたのは、買ってきましたとは言えなかったのと、正確な出土場所が判らなくなったからだ。
金印の実際の出土場所は糸島に近い付近ではないか。
>736
その話のソースは?
>>735 それはピリ・レイスの地図のこと?
それはホラ、載ってる本が近くにあったら、
同じ場所を書いた世界地図と比べてみなさい。
ピリ・レイスの地図で書かれてる場所に、あんな風に南極大陸が無い、と言うことがよく分かるだろう。
そして、このピリ・レイスの地図の最大の弱点、
それは、南アメリカと「南極大陸」が…な、何と陸続き!?
そう、この「ピリ・レイスの地図」の正体、
南アメリカの部分を書く際に、途中から縮尺を誤って書いてしまったものなのだ!
(紙が貴重だったので収まるようにわざと曲げて書いたという説もある)
そして「南極大陸が書かれた古地図」は、後4枚ある。
「オロンテウス・フィネウス地図」「フランチェスコ・ロザエリ地図」
「ジェラル・メルカトル地図」「フィリップ・ブアシュ地図」がそれだ。
そして、これらに対しても、結論は既に出ている。
フィネウス地図、メルカトル地図、ブアシュ地図中の「南極大陸」と、
現代の測定で明らかになった氷の下の南極大陸の類似性は、
グラハム・ハンコック「神々の指紋」でも指摘されており、君も知っていると思う。
しかし、フィネウス地図の「南極大陸」、本物の南極大陸と比べると、面積が4倍も違うのだ!
この地図を自著「オーパーツの謎」で取り上げた並木伸一郎氏は、
「原地図が存在したと思われるが、どこかで誤りを犯し、南極大陸の面積が実際の約4倍になっている」
と説明を添えているが、実際に同縮尺で2つの南極大陸を比べると、…ぜ、全然似てねえ!
メルカトル地図の南極大陸はフィネウス地図のそれを写した物なので上と同じ事。
さて、ブアシュ地図の「南極大陸」、二つに分かれており、一見すると本物の南極大陸とは似ていない。
しかし、氷の下の南極大陸は、ブアシュ地図の南極大陸と同様に、二つに分かれているのだ!
この二つを比べると、確かに似ている。フィネウスやメルカトルの南極大陸より似ている。
…しかし、実際に比べてみると、やはりこの南極大陸も、実際の南極大陸より大きく書かれている。
そして、このブアシュ地図の南極大陸、「神々の指紋」で取り上げられているのとは違い、
実際はそれより90度回転した形で書かれている。
それを踏まえたうえで二つを比べると…やっぱり似てねえ!
そしてロザエリ地図、上記3つに比べると面積は近いが、形はやっぱり似ていない。
そしてこの4つの地図、オーストラリア大陸が書かれていない。
…本当に超技術を有した超古代文明がこれらの基となる地図を作ったのなら、
こんなミスは犯さないはずだ!
…真相はどうなのだろうか。
それにはまず、これらの地図が中世に書かれたものである、と言うことを頭に入れて欲しい。
そして、南極大陸が発見されるまで、南極大陸より何倍も大きい「南方大陸」の存在が信じられていたことも。
…そう、フィネウス地図、ロザエリ地図、メルカトル地図、ブアシュ地図には「南極大陸」など書かれていない。
書かれているのは、ムー・アトランティス・レムリア等と同じ空想上の大陸「メガラニカ(南方大陸)」だったのだ!
結論
ピリ・レイス地図中の南極大陸…縮尺を誤ったかわざと曲げたかした南アメリカ大陸
オロンテウス・フィネウス地図中の南極大陸…空想上の「メガラニカ大陸」
フランシスコ・ロザエリ地図中の南極大陸…同
ジェラル・メルカトル地図中の南極大陸…同
フィリップ・ブアシュ地図中の南極大陸…同
失礼した。
何故邪馬台国スレで古地図の講義をやらねばいかんのだろうか。
志賀島が半島でなくて島だったかどうかを、
世界地図で確認する必然性も、
世界地図で確認できる可能性も全然ない。
742 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:26:44
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
壱岐や対馬、半島まで見える良い土地に、金印は埋められた。
744 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 17:24:05
>>743 それ、何処だよ?
GoogleEarthの世界の話しか?
745 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 23:05:46
奴国の王族が志賀島まで追い詰められて埋めたのかもね。
一大率の存在を考えると邪馬台国は博多湾から離れた地域に有ったと思う。
多分、邪馬台国の有った地域は有明海に近い地域で、女王への貢物を積んだ船に対して球磨川南岸に有った狗奴国が海賊行為に出たりしてたのではないかと思う。
ここでどれだけ主張しても結局推測の域を出ないからなぁ。
推測するのが学問だからなあ。
推測→実証 が学問
推測→こじつけ・ゴリ押し ←今ここ
畿内説信仰→こじつけ・ゴリ押し→利権制圧→九州説狩り ←今ここ
へぇ〜え、九州説狩られてるんだw
確かに、九州王朝説は首刈られたよなwww
畿内説の妄想一人がち、乙w
終局間近の九州説者は
トンデモ九州王朝説でも反論せず黙認どころか、擁護さえするようだなw
畿内説者を叩くことでしか、
その存在を見いだせないようだ。…なんだか、少し可哀相になって来た
一番かわいそうなのは>753自身だけどな。
言い返せないとことか可愛いな。
やはり九州説は村興しか。
言い返すとかなんとか、小学生か低脳
このスレ、日によって伸びに差がありすぎ。
いつもほんの数人が言い合ってるんだろうな。
九州説はともかく九州王朝はデムパ
759 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 11:47:28
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
760 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 16:19:29
畿内説のレベルを象徴するご意見ですねw >758
↑本当に九州説論者は
畿内説論者を叩くことで、生き残ってるって感じの書き込みですね。
763 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 22:10:01
九州説・九州王朝論者は
邪馬台国と王朝が九州にないと何か困るのだろうか。
そのぐらい彼等は必死だ。
764 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/19(水) 22:16:53
とにかく畿内に女王国はないよ。当時九州と畿内は別国と観てよい。
困るのは畿内
何にも無いとこ掘り続けてますけどどーすんのよ
766 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 22:49:56
九州の場合は、候補地がたくさんあって、どこも一長一短。
どこも決め手に欠ける。
全てのことを満足させられる場所はないと考え、何を重視するかという
考え方をしなくてはならないのかもしれない。
畿内説は論外だが。
阿蘇山で国家行事=祷祭をやった国が、畿内ヤマトにあるはずがないな。
阿蘇山で国家行事???????????国家?????????????・
?がうざい
>>765 >何にも無いとこ掘り続けてますけどどーすんのよ
ん?どこか掘ってますか?掘ってんじゃなくて
こんもり盛り上がった古墳が大昔からあるんですけどねw
どっちかといえば、掘りたがってるのは九州で、大宰府なんでしょうが
>こんもり盛り上がった古墳が大昔からあるんですけどねw
岡山県のほうが立派だったりするけどなw
772 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 00:21:16
吉野ヶ里遺跡は、環濠に大量の土器が捨てられて、集落そのものが廃絶
のような状態になった。ちょうどその頃、奈良盆地に纒向が誕生する。
年代的にこれは確かみたいだな。
その頃、環濠集落が廃絶状態になったのは、吉野ヶ里遺跡に限ったことでは
ないが。
古墳、特に前方後円墳なんて時代が違うのにねぇ。論外だよ
無理やりマイ設定で時代を変えようかえようとして。見苦しい
まーお墓だけゴージャスもね、って話
ん?どこか掘ってますか?
に答えておくれ
>768
イ妥国が阿蘇山で行う祷祭は、国家行事以外の何者でもありませんが何か?
「何か?」って久しぶりに聞いたな
>>776 へ〜wあ、そうw
蘇我だって天皇でもないのに
八つらの舞を奉納したんだけどw
>>776 んな、ちっちゃいムラだかクニの行事を、
端っこの火山地帯で、日本全国を治めてたかのように国家行事なんていいすぎだろ
>>779 阿蘇神社は、官幣大社だからさ、そこでの祭事も「国家事業」と言えなくもない。
あんまし、貶めた発言をすると可哀想だよw
そうだね。
九州の人にとっては大国家プロジェクトだったんだろうね。
まぁ本州ではその辺の国祭と大差ないけどwww
畿内が単なる田舎政権だった事実について
田舎、都会の違いはないと思うが。
巻向は多数の神殿の周りに水道を通してたり、
出雲は高層神社建てたりしてたけど。
筑紫は………港かな。
京都や河内はぬかるみが多くて、ひどい土地だったと思う。
785 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 00:35:47
阿蘇神社って言うのは、肥後国一宮、つまり、肥後で一番の神社だった。
主祭神は、健磐龍命(タケイワタツノミコト)で、神武天皇の孫になる。
つまり、神武天皇の三男・神八井耳命の子供。
ちなみに、長男は悪いやつで、次男は影が薄く、三男の神八井耳命は、
臆病者で、四男の綏靖天皇はすばらしい人物ということになっている。
そういえば、神武天皇も四男だったなあ。
なるほど、"肥後"で一番ね。
肥後も交通の便的にどうかと思うし、
福岡にしても西は中国、北は半島、南はクマソと
かなり危険な地域だしな
もう、畿内でも良いかなって思い始めたわ…
昔は熊本・佐賀の有明海が、唐津・博多側へ繋がっていて、船で行けたんだってね。
だから、>786のような誤解が出ちゃうわけだ。
博多は中国、朝鮮半島から
攻められたら終わりだな。
東西南北で四面楚歌か。
前線基地としてなら使い勝手良さそう。ああ、それで探題か。
水城の防衛線って、畿内大和からの補給線について全然考慮していないよね
遠くて畿内大和からの補給は全然期待していないのかもしれないけど
後ろに畿内大和の支援があるのなら宇美から宗像方面に陣を敷くべきだと思うんだ
四面楚歌の九州は
取り敢えずの強敵、クマソと隼人を倒すベく
ヤマトと下僕同盟したか、併呑されたんだろうな。
新羅が半島を占拠して、唐は極東での拠点を失ったのが670年ごろ。
新羅と九州倭国は敵対関係だったが、天武が乗っ取りに成功した新生畿内と
新羅との関係は、必ずしも敵対関係ではない。
新羅の敗北して倭に逃げ込んだ唐軍と、新羅唐連合軍に敗北した倭国軍との
負け連合が博多に集まってやったことといえば、とりあえずの軍建て直しだろう。
それを殲滅していったのが天武軍だ。熊襲・隼人はすでに倭国軍の内部勢力で、
このとき天武軍による倭国軍の残党狩りのとき、一緒に一掃されているはず。
ただし持統天皇の代まで残党狩りは盛んだったようだ。
792 :
九州王朝大好き:2008/03/21(金) 20:11:14
>>791 続日本紀によれば、倭國軍討伐は文武の時代698年までしていましたよ。
残党狩りは710年代まで続いていたよ。
残党狩りが完了した後に日本書紀の編纂が開始された。
続日本紀にはその年月も書いてあるよ。
続日本紀を読むのがめんどくさいので、それらをここで書くのは失礼。
793 :
791:2008/03/21(金) 21:09:18
おおこれは、ようこそ大好きさん。
フォローをありがとうございます。
794 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 00:38:10
シンポジウムのおしらせ (本日です!)
■倭国連合の成立と姫路地域の役割
・2008年3月22日(土) 11:00〜16:00
・兵庫県立姫路労働会館(姫路市北条一丁目98番地)
・無料(申込不要)
女王卑弥呼が国をまとめた際、播磨はどんな役割を果たしたのか。そのころ姫路は。
地方から倭国連合の実態に迫ります。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/5tpuaj00000041kp.html ・プログラム
報告1 「大和からみた播磨」 青木勘時(天理市教育委員会)
報告2 「邪馬台国時代の播磨」 渡辺昇(兵庫県立考古博物館)
報告3 「運ばれた土器からみた播磨」 蔵本晋司(香川県埋蔵文化財センター)
・シンポジウム
司会; 石野博信(兵庫県立考古博物館 館長)
パネラー; 各報告者、小柴治子(姫路市埋蔵文化財センター)
※備考 主催は兵庫県立考古博物館ですが、会場は兵庫県立姫路労働会館ですのでお間違えないように。
兵庫県立姫路労働会館: JR姫路駅南出口から高架沿いに左へ。2つめの信号を右折。「兵庫県総合庁舎」の南隣。徒歩15分。
http://www15.ocn.ne.jp/~a1981/access/index.html
796 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 02:38:12
>795
外国っていう定義も難しいぞ
戦国時代にバテレン大名もいた訳だし
外国とは言わないよな
そもそも、
金印が本物である証拠はあるの?
799 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 03:09:28
大倭(俀)國連合播磨國・・・播磨
大倭(俀)國連合難波國・・・大和
阿蘇山が畿内にあったという証拠はあるの?
金印が贋物だと断定する証拠はあるの?
801 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 03:50:17
まあ邪馬台国九州説論者が全て九州王朝説ではないだろうが
九州王朝説論者はもれなく邪馬台国九州説なんだろうなあ。
802 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 06:53:29
漢委邪馬台国王の金印が九州から出たとでも言うの?
テレビ東京で四国と言ってたよ。ほぼ決定的だろう。
阿蘇山が四国にあるかよ。
805 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:09:48
j
806 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:10:09
徳島らしいね、説得力あったし
徳島に金印と阿蘇山があるのか?
808 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:41:13
その昔「邪馬台国は阿波だった」って本があったなw
以前NHKで邪馬台国の番組やった時もチラッと阿波説が出てたな…
809 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:42:36
畿内より古い前方後円墳が徳島にあって、
あるときから忽然と消える。
そして畿内に巨大な前方後円墳がゾクゾクと誕生。
邪馬台国(徳島)→大和朝廷(畿内)に移行したんだろうな。
邪馬台国の記述には、古墳が一つしか出てこない。
邪馬台国は古墳が大量にある徳島や畿内じゃないな。
811 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:56:56
真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(丹砂=水銀)があり・・・
この水銀の発掘遺跡が四国にあると説明していた。
3世紀の遺跡では四国だけなんだと
812 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:58:47
じゃあ決まりじゃん
装飾古墳などは丹だらけだ。装飾古墳は北部九州が中心。
今後丹の産出地などたくさん見つかるはず。
青玉も日本海産が多い。
814 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 13:04:59
見つかるはずではね・・・・
阿蘇山と金印は見つかってるけど、徳島にはないしね。
倭人は半島側にもたくさん住んでるんだが、水銀ぐらい半島から出るだろ。
徳島から持ってくる必要はない。
817 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 13:34:17
九州は今だに邪馬台国の地域を特定できないからな
818 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 13:38:26
819 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 13:57:30
赤い丹と云えば水銀丹と決め込む浅はかさ。
阿蘇のリモナイトか作れる鉄丹も赤いよ。
>>813に同意。
それから、丹は単に鉱物顔料との意味だろう。
赤でも橙でも黄色でも何色でもいいのだ。
820 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 14:07:20
九州はまず場所を特定してから。
じゃないと好きなように解釈できる
821 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 14:10:39
やはり徳島か
822 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 15:03:46
卑弥呼は阿波人だったのか
823 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 15:10:42
徳島に神山町があるが、まさかここに卑弥呼が居住していたの
824 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 15:22:48
神山は蛭子神のことではないの。
825 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 15:24:56
倭人伝には、「其山有丹」と書かれている。
山に丹がある。山…。
阿蘇には、リモナイト(褐鉄鉱)の鉱床があり、リモナイトを焼くと、赤い顔料
であるベンガラが出来る。だから、阿蘇では、ベンガラが大量に見つかっている。
古墳の棺を開けると溢れるほど出てくるし、住居にも大量に撒かれていた。
これほど大量に使われている例は他にはないらしい。
山というのは、阿蘇かもしれないな。
>>822 >卑弥呼は阿波人だったのか
あわわ・・・
828 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 15:31:12
ここは学問板である。
ダジャレ教室ではないぞ。
829 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 15:45:12
ていうか誰も産出地の話をしているのではない。
九州から丹がとれるだのリモナイトが赤いだのの話はしていない。
倭人伝の記述に「其山有丹」と書かれているが、四国から3世紀の採掘遺跡が唯一見つかっている
といっていたのだ。別に四国からだけ赤い丹が取れると言っているのではない。
遺跡の話。遺跡が唯一見つかっているって事。卑弥呼の時代の3世紀の遺跡。
これだけ強調しないとわからない?
だから阿蘇がそうだってんなら、その遺跡があればいいわけ。
830 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 16:14:13
>>829 阿蘇でも、遺跡はたくさん見つかっているし、発掘調査も一部されている。
たとえば、小野原(このばる)遺跡からは、鉄器が1,200点も見つかっている。
下扇原(しもおうぎはら)遺跡では、住居跡や墓も発掘されている。
また、鉄器の工房と見られる集落が多数見つかっている。
とにかく、阿蘇は鉄が圧倒的に豊富で、恐らく、鉄を作る過程でベンガラが
大量に出来たんじゃないだろうか。
831 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 16:54:07
卑弥呼が阿波人だったとわ
832 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 17:00:04
中国で丹と言えば水銀の事だよな。
丹生川とか、丹生山なんて地名の有るところで実際に水銀の取れてたところはどれ位あるんだろ?
833 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 17:05:56
リモナイトを焼いて脱水をするだけで鉄丹(ベンガラ)となる。
更に焼いて脱水し鉄原料の酸化鉄にする。
酸化鉄からの製鉄は出雲タタラと同じくカーボンで脱酸して金属鉄とする。
834 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 17:09:58
835 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 17:33:08
いいかげんやになってきたんだけど、その阿蘇の遺跡は丹の採掘遺跡?丹をとるための遺跡?
鉄器が見つかったのと丹となんの関係が?
それに倭人伝では鉄は専ら輸入に頼ってたから阿蘇は邪馬台国じゃないって言ったら
阿蘇は隣のクナ国ですって説明されたけど?
836 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 17:45:57
ついでだから、倭人伝の中で
「そこの風習では、事を起して行動に移るときには、為す言動があり、
すなわち骨を焼いて卜占で吉凶を占う。先ず卜占を唱えるが、
その語句は令亀の法の如く、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆(きざし)を占う。」
とあるね。
九州では骨占の形跡は見つかっていないね。
昨日の話では四国の有力氏族は忌部氏だそうだが、忌部氏といえば骨占・亀占の大家だよね。
丹の採掘遺跡があるのは阿波だけ
現時点では阿波が最有力
838 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 17:55:12
四国なら九州論者がたびたび問題にする
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」もクリアできる♪
四国人なら酒も強いし、魚も採るし、南方系だしな
大和にも海を隔てて隣だし、畿内と四国は地名で共通が多いし、
四国徳島で決まりだな
840 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 17:59:13
徳島、捨てたもんじゃない
今まで徳島を田舎と馬鹿にしてきたけど
仲良くしようね^^
842 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 18:02:48
日本のルーツは徳島だったとは、、
843 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 18:07:02
四国は、畿内人に罪人の島流しする場所と
下に見られていたが、実は畿内人のルーツは四国なんだね
お遍路さん88番目が卑弥呼に関係してる。
そもそもお遍路さんの目的は、邪馬台国の呪術を封じるため
845 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 20:04:04
神道vs仏教?
846 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 20:09:31
そのうちソロモン王の秘宝とか
壇ノ浦に沈んだはずの草薙の太刀が剣山に埋まっているとか…www
848 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 20:50:28
古代邪馬台国は剣山で復活する!
神山は江戸時代まで上山で統一表記されてたから神様とは無関係
周囲を山(山神)が守ってるとこって奈良だけかな?
吉野山、金剛山、葛城山、二上山、信貴山、生駒山…霊山揃い
徳島って畿内より古い古墳があるんだろ
で、水銀発掘遺跡も見つかってる
弥生時代に徳島に進んだ文明があったのは明らか
進んだ文明≠邪馬台国
日本の文明はメソポタミアなどに比べると浅い
854 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:48:05
徳島か、ググってみた参考までに…
http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/2007/0404.htm で「木郭」を囲む石積み「礫郭」の高さがホケノより低い事から更に古いという事だそうだが
実際C14とか年輪年代で数字出ているのかな?
まあ「邪馬台国=阿波」と言うより「邪馬台国=畿内ヤマト」の母体の一つになったってところなんだろうな。
あと「木郭」と言えば時間を経て崩れているはずで、その点盗掘されない分には有利だと思うんだが
出土物ってどんなものがあるの?
詳しい人情報きぼんぬw
四国説は今の松山地方の伊予、四国中央市の宇摩地方、それと剣山の阿波がある
いずれも意外と説得力がある
徳島県民バンザイ!
857 :
卑弥呼:2008/03/22(土) 23:30:46
さあさ、皆さんご一緒に!
♪踊るアホウに
見るアホウ
同じアホなら踊らにゃソンソン〜
要するに、九州北部説しかありえないだろう。
859 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:33:39
860 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:34:15
まあこれでその徳島の前方後円墳(プロトタイプ?w)から特殊器台でもでりゃ
邪馬台国阿波説も一躍真実味を帯びるんだろうがw
861 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:46:51
>>858 そう言えば
「前方後円墳は九州発祥ニダ」
って説もありましたっけw
四国、特に阿波などの瀬戸内海沿いは、
難波から出る船の盗賊などからの警護や、船の製造などで財を成したんだろう
神話の住吉神恵比須の出身地は確か阿波だったような・・・
邪馬台国の記述には、墓が一つのみ。古墳が少ないのが特徴。
西都原も巻向も徳島も失格。
いや、別に記述以降に墓作ってもバチは当たらないと思うが。。。
いや、「墓が多いからこここそ邪馬台国だ」って騒いでるでしょ?
867 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 00:57:42
四国は、記紀にもあまり登場しないし、なんか影が薄い。
遺跡や遺物から見たら、出雲や吉備のほうがずっと重要に思える。
畿内説の人も、邪馬台国九州説が出ると感情的になるが、邪馬台国四国説は
けっこう、おおらかに見ているのではないだろうか。
石器時代の遺跡充実している四国は、邪馬台国でなくともしっかりと歴史がある。
巻向にはないが。
>>867 畿内ヤマトの前身じゃなければ逆に関連がないほうが正しい。
記紀にも登場しないのが○
870 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 08:41:26
ていうか邪馬台国の記述に古墳は一つのみなんて書いてあった?
卑弥呼の墓しか紹介されてないじゃん
神山町民が失礼します。
神山町は合併以前は6つの村からなり、徳島でも上位の神社がある神領村の
神の字を上山村とくっつけたものです。ですから神山自体は戦後の名前です。
いまから30年程前、TBSだったか、NTVだったかフランキー堺をナビゲーターに
「邪馬台国は阿波だった」みたいなスペシャル番組を放送しました。
神山に残る天の岩戸伝説などをからめ、あることないことでっちあげて
番組を作ってました。町や県までもそれに飛びつき、その後20年ほど、
「邪馬台国は阿波だった」の観光ポスター、書籍など、力をいれていたようですが、
さすがに学会でも鼻で笑われるような説をいつまでも使うわけにもいかず、
いまでは一部の好事家が細々と唱えているような始末です。ホームページも
あるはずです。(ソロモンの秘奥もあります)
今回のテレビ大阪の番組は見て無いんですが、前出と五十歩百歩ってとこじゃ
ないでしょうか?
>870
誰も言ってないことに対して反論するなよw
「古墳が多いから徳島が邪馬台国だ」
「古墳が多いから巻向が邪馬台国だ」・・・こんな議論は成り立ちませんよという話。
>>871 30年の間に色々発掘されたんだよ
畿内より古い古墳や水銀発掘遺跡とか
話は変わるが、
ずっと前に遺跡に壷埋めてそこを掘らせ、あたかも新発見だと
言ってた香具師が荒らした遺跡ってどこだっけ?
876 :
874:2008/03/23(日) 14:56:28
877 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 17:08:15
878 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 21:23:57
神山←上山←上邪馬
水銀を産出する山なら、佐賀と大分にもあるよ
880 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 00:41:22
879
だからさ産出地の話じゃないの。3世紀に水銀を発掘してた形跡(遺跡)があるって話なの。
そんなら畿内だって
近畿地方、時に奈良と三重には水銀鉱脈が多い。
特に有名なものは奈良県宇陀郡(現在の宇陀市)周辺、
そして三重では勢和町の丹生鉱山がある。
だけどわざわざ四国を注目してるのは3世紀の発掘遺跡が見つかったから。
今見つかってるのが徳島だけだってのは何回も何回も何回も聞いたよ。
わからない人だなあ。今後見つかる山地がいっぱいあるって話さ。
で、古代において丹を日本最大級に使用したのが、九州だってことなんだよね。
そんな徳島まで、九州の人間がぞろぞろ大勢、丹をとりに行った形跡があるのかい?
邪馬台国は八幡平だってばさ
883 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 07:33:49
邪馬台国は、南に水行と書かれている。
更に、ご丁寧に、一大率のある伊都国は、女王国の北と書かれている。
邪馬台国が南の方にあるのは間違いないところ。
畿内説はもちろんのこと、北部九州説も苦しいかもしれない。
884 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 07:38:06
885 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 08:43:57
881
だから今後見つかる予定の話はしてないわけ。見つかってからおいで。
そんなら畿内からだって見つかるかもよ
886 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 09:18:19
徳島と畿内は同じ地名がやたら多い
古代、徳島から畿内に移住し、同じ地名をつけたんだろう
つうことは畿内のルーツは徳島の可能性が高い
大和朝廷の前身が徳島にあったんだろう
888 :
灰神楽:2008/03/24(月) 09:41:54
方向の違う前原が伊都国であるとする理由はどのようなものでしょうか。
前原が決定的でなければ、倭人伝が方角を間違えているということにはならないと思います。
そもそもなぜこの論を避けて前原で決定として再論しないのかふしぎである。
>885
ちがうね。発見されていないから存在しないと断定しちゃうほうが、失格だろ。
890 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 10:55:29
889
ちがうね。発見されている方が現時点では有利と言う話。
発見されていないから存在しないと断定した覚えはない。
発見されてない以上畿内も九州も5分。。
891 :
九州王朝大好き:2008/03/24(月) 11:00:39
>>886-887 末盧国=唐津市
伊都国=佐賀市大和
奴國=佐賀市(佐賀平野南部)
不彌國=吉野ヶ里町
投馬國=大川市・柳川市・大木町
邪馬臺國=久留米市・広川町・筑後市・八女市
>>889.890
未知なる過去は現在の発掘研究が決定する
過去は発見と推論で暫定的に決定するのだよ。
考古学はミステリーなんだよ石岡君
>>888 >方向の違う前原が伊都国であるとする理由はどのようなものでしょうか。
地名だろ、怡土郡、怡土城跡とかあるぞ。次の奴国も那の津でぴたりだな。
方向をとるか地名をとるかだが伊都国の場合、地名を重くみた。それと遺跡。
決定じゃないかもしれんが、ほぼ決定的と違うか。
895 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 11:22:05
890
まったく有利じゃないから、いままで問題にされてこなかったわけで、
徳島の可能性は初めからゼロなわけだが。
896 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 11:23:43
893
発掘されていないから存在しないという論理を信じちゃった893の判断力が問題だろ。
>>891 >伊都国=佐賀市大和
>奴國=佐賀市(佐賀平野南部)
これはちょっと理解できんなあ。
佐賀市大和というのは佐賀平野北部だろ。違うか。
すると倭人伝の方向を尊重してるのか無視しているのか。
たぶん無視しているようだが、どうもよく解らん。
898 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 11:35:51
895
逆じゃないの?今まで問題にされていなかったがここに来てにわかに注目を集めている、でしょ。
徳島で、特に家の近所でいくつもの発掘が行われてます
900 :
九州王朝大好き:2008/03/24(月) 12:07:25
>>897 >すると倭人伝の方向を尊重してるのか無視しているのか。
倭人伝の方向と距離を尊重している。
唐津市から国道323号沿いに進む。
最初は東へ、観音峠を越えて嘉瀬川に行き当たり、
次に嘉瀬川沿いに南下、佐賀市大和の平野部にでる。
佐賀市大和は唐津市から東南に500里である。
佐賀市中心部は佐賀市大和から東南に100里である。
吉野ヶ里町は佐賀市大和から東に100里である。
吉野ヶ里町で帯方郡(京城市)から積算道程は12000里となる。
いままで問題にされてこなかったから
徳島の可能性は0って頭が悪すぎ
902 :
九州王朝大好き:2008/03/24(月) 12:15:05
>>900の続き
隋使も筑紫(唐津)から同じルートで邪靡堆(邪馬臺國)に進んでいるよ。
903 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 12:46:20
徳島以外に丹なんていっぱい出てる。
水銀に限定しちゃってるのが問題だろ。
904 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 13:27:55
発掘遺跡は出ていない
905 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 13:29:13
金印が破格の待遇って聞いたけど
じゃあ当時日本以外で金印与えられた国ってどこ?
906 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 13:31:47
金印は移動できる
907 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 13:43:24
徳島と畿内
海を隔てて同じ地名が多い
わざわざ名前を踏襲するってことは大和政権以前に
徳島にリスペクトすべき文明文化があったということ
つまり邪馬台国
その逆。 美濃の国にも大和と同じ地名がある。
つまり、大和の地名を他国にも当てていたと考えられる。
しかし畿内より古く、精密な古墳が阿波で見つかっている
大和以前に阿波に進んだ文明があったのは明らか
910 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 17:11:29
905
金印が破格の待遇なのじゃなくて「親魏倭王」の称号が破格の待遇なんだよ。たしか
>>909 俺も先進的な阿波の人達が、古代に海を渡って
無能な自力では何も出来ない、近畿の土地基盤を整備したと確信してる。
徳島説は30年くらい前にも一時脚光を浴びたらしい。
徳島といえば中世、罪人の島流しの場所
コンプレックスの裏返しか?!
そのうちに、八丈島=邪馬台国説が叫ばれるヨカン
915 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/24(月) 21:15:56
環濠集落内に100人を殉死させた卑弥呼の墓と親魏倭王の印が同時に出たとしたら
そこが邪馬台国である可能性は甚だ高いといってよい。
私にお任せください(藤村 新一)
卑弥呼の墓ってさ、何をもって卑弥呼の墓と断定するわけ?
しっかり名前を刻印しておきます(藤村 新一)
919 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/24(月) 21:43:20
>>917 100人を殉死させている事からその痕跡があるかどうか。
卑弥呼の墓は円墳または方墳と考えられることから
約150メートル程度の塚が築かれているかどうか。
卑弥呼が魏王に貰った鏡は後漢鏡と考えられるから
数多くの後漢鏡が遺体の頭の周辺に破砕されていない形で
置かれているかどうか、などがポイントでしょう。
ゆえに前方後円墳なんて、ね、もうお話にならんのですよ
巨大前方後円墳の地は、邪馬台国候補地からはずすべき
922 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/24(月) 22:40:19
賛成です。
923 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:03:45
>>891九州王朝大好きさん
>末盧国=唐津市
>伊都国=佐賀市大和
>奴國=佐賀市(佐賀平野南部)
>不彌國=吉野ヶ里町
>投馬國=大川市・柳川市・大木町
>邪馬臺國=久留米市・広川町・筑後市・八女市
これだと伊都国以降は九州王朝説の古田武彦さんとは全く違いますね。
古田説には批判も多いが、少なくとも古田さんは
遺跡の多い前原や博多あたりを気にする姿勢があったと思うのですが。
大好きさんはこの点どうなのですか。
古田説のどこが受け入れられないのですか。
私がかわりに“あの人たち”の心中を告白してあげよう
「畿内に邪馬台国を持ってこないと困ります、私の生活や人生、大切な学閥が学会が台無しになります」
925 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:14:51
最近古代日本史を持ち始めて、スレを眺めていたのですが、一つ質問があります。
邪馬台国と大和朝廷の関係を教えて頂きたい。宜しくお願いします。
私がかわりに“あの人たち”の心中を告白してあげよう
「九州に邪馬台国を持ってこないと困ります、私の町や村、大切な故郷が破産して夕張みたくなります」
927 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/25(火) 00:36:37
邪馬台国を九州に比定する人は、九州以外の出身者が極めて多いのが特徴
邪馬台国を畿内に比定する人は、畿内でないと生活に困る環境の人が多いのが特徴
929 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:59:42
928
逆だろW
930 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:02:59
>925
まったく別な国ですね。
文武天皇が即位のときに、九州の一連の国(含む邪馬台国)を引き継ぐ宣言をした。
しかし唐は認めなかった(旧唐書)。ずっと後になって、中国側は政治決着して容認した(新唐書)。
>>925 真偽は不明ですが、邪馬台国九州説をとる人の中には
「邪馬台国東遷説」といわれる説を主張する方々がおられます。
九州にあった邪馬台国の勢力が女王台与以後のあるときに
東へ遷って、つまり大和へ遷って、政治・経済・文化の中心となった、
それが大和朝廷だ、という説です。
したがってこの邪馬台国東遷説には、天皇家の祖先は
九州邪馬台国の支配層から出ているとの主張も含まれています。
邪馬台国東遷説はこのように邪馬台国と大和朝廷には大いに関係があった、
とみる説です。もちろん反対される方もおられます。
932 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:04:55
×
真偽は不明ですが、邪馬台国九州説をとる人の中には
「邪馬台国東遷説」といわれる説を主張する方々がおられます。
○
真偽は不明ですが、邪馬台国畿内説をとる人の中には
「邪馬台国東遷説」といわれる説を主張する方々がおられます。
933 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:07:16
薄弱な東遷説!
東に遷ったのは、数十名ほどの久米軍人集団。
役立たずの退役軍人が、単に都落ちしただけですね。
934 :
931ですが:2008/03/25(火) 01:08:35
私は931ですが、
>>932は私のレスではありません。
935 :
931ですが:2008/03/25(火) 01:21:40
936 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:41:07
>>935 そのとおり。邪馬台国九州説の本流は東遷説。
邪馬台国は、大和朝廷になったとする。
安本氏は、邪馬台国の位置を特定してしまったので、東遷説の有名人とはいえ、
完全に同意する人はそれほど多くないのではないかな。
でも、同じ東遷説なので、年代観については同意できるものがあるけど。
937 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:45:04
記紀には
国が東遷した記述がない。
都が東遷した記述がない。
国民全員が東遷した記述がない。
だからいわゆる東遷説は、後世の学者の妄想です(笑
938 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 01:51:55
>>937 記紀には、神武東征の記述がある。
徳川家康が江戸に幕府を開いたときも、明治維新も、支配層が移動しただけ。
それで十分で、その国の住民全部が移動する必要はないし。
939 :
931ですが:2008/03/25(火) 01:52:21
931です。何度もすみません。
疑問を呈しているのは用語の適否ですので悪しからず。
>>932 邪馬台国畿内説をとる人の中の一部には、確かに
「東遷」の考えを含む主張をされる方もおられます。
中山平次郎さん、原田大六さんなどです。
しかし中山さん原田さんの説は、「北部九州勢力東遷説」と呼ぶのが適切です。
中山・原田説を「邪馬台国東遷説」と呼ぶのは大きな間違いで、誤解を生じます。
原田大六さんは、卑弥呼を女王に戴くよりも前の段階で(つまり2世紀中に)、
北部九州勢力(主に伊都国)が畿内奈良盆地へ東遷(東征)を果たした、そこ(畿内)が
邪馬台国だとの説なので、安本美典さんとはかなり異なる主張です。
940 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 02:35:36
伊都国だろうが邪馬台国だろうが東遷したって形跡ないからなあ…
マキムクも結局のところは相変わらずの金属不足だし…
勿論ある時期を境に九州系の土器がわんさか出て来って話も聞かないw
941 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 02:52:19
土器は、持っていく必要もないし、作る人を連れて行く必要もない。
そこにいた人に作らせればいい。
あるいは、作る人を周辺から集めればいい。
942 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 03:17:36
学者の妄想を除いて、記紀に載っている「東遷」らしきものは、
神武ら数十人が都落ちして畿内にわずかな領土を得て定着した事件。
神武はそれまで王様じゃないから、九州の軍人集団が放浪の末、
畿内に引っ越しただけの事件だ。のちにこの神武の子孫と称する人間が、
天皇と呼ばれるようになるだけのこと。
×国の東遷
×国王の東遷
×国民の東遷
○久米軍の東遷
943 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 04:42:17
「邪馬台国東遷説」というよりも「大和朝廷九州起源説」といいほうが正しいと思うのだが。
>>「邪馬台国東遷説」というよりも「大和朝廷九州起源説」といいほうが正しいと思うのだが。
1票入れておきました。
945 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 06:13:37
>>928 考古学会の偉いお方達は、公共施設の管理職や大学教授またはそれらを
引退した名誉博士などの人々・・
邪馬台国が近畿であろうが九州であろうが生活に困るはずがない。
以上
946 :
925:2008/03/25(火) 07:04:14
ご返答ありがとうございます。
東遷説で以前から疑問に思っているのですが、その動機と建国手法(政治)です。
古代中国では(あくまで素人の認識ですが)、支配層が政治的・軍事的理由により、
新天地を求め、その時の情勢に適した土地に建国する、一般的だと思います。
また国力は、武器への依存が高いと思います。
この辺は、今どのように整理されているのでしょうか? 宜しくお願いします。
947 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 07:18:55
東遷の動機というのは、前から考えているのだけれど、個人的には、どうして
奈良盆地なのかというのが鍵のような気がする。
奈良盆地の特徴は、山に囲まれた天然の要塞のような地形。
だから、一つには、大陸の情勢による危機感。たとえば、呉の滅亡とか。
もう一つは、大規模な自然現象。たとえば、火山の爆発。大地震。
日向を前提にすると、巨大な台風。また、最近も警戒されている東南海地震に
よる津波とか。
948 :
サガミハラハラ:2008/03/25(火) 07:58:29
>>942 私も賛成です。(久米軍については保留)
一票いれておきます。
古代中国のような例では、日本では明治維新の東京遷都がそれに当たると思います。
949 :
925:2008/03/25(火) 08:13:01
>>948 軍人集団の移転を否定するつもりはありませんが、国の建設(支配・被支配)には
なんらかの政治形態(祭祀も含む)が必要だと思いますが、これは九州(久米?)を
移植・発展させたと考えてよろしいですか? それとも独自に発展したのでしょうか?
私が興味あるのは、「血縁」ではなく、邪馬台国と大和朝廷の政治的な関連性です。
例えば、殷(商)の地方豪族の一つであった周(西伯)のような関係です。
この辺は、邪馬台国の所在が明らかになったとしても、謎のままなのでしょうしょうか?
950 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 10:54:08
未開の野蛮人と石器メインの畿内なら
少数の鉄器集団が奈良盆地に住み着いたら畿内制覇できるだろう
三輪山信仰とか取って付けた嘘信仰で土人を誑かせば簡単
951 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 11:50:28
>邪馬台国と大和朝廷の政治的な関連性
まず、大和朝廷が出来たのは天武以降だから大和朝廷改め「大和政権」とします。
邪馬台国は一過性の国名ですから、「九州政権」として語ります。
この関係は、アメリカ合衆国独立前の、英国政権とプレ北米政権の関係に近いでしょう。
952 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 13:22:09
>942
となると、神武はクマソの一部族になるのかな?
日向はクマソの勢力圏だし。
卑弥呼の神聖性は大和政権以降も天皇という形で踏襲する
邪馬台国と大和はなにかしらの関係あるのは間違いない
955 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 14:37:27
>>952 日向でも、異なる二つの文化圏がある。
端的にいうと、高塚古墳のない地域が熊襲の文化圏だろう。
だから、宮崎平野と鹿児島県の肝属平野は、高塚古墳が非常に多く、文化的に
畿内と近い。
956 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 14:54:25
>952
神武は福岡県の糸島半島付近に勤務していた軍人で、出身は壱岐の可能性があります。
安曇族やアマ族の一派だと思われますが、武力に秀でた熊襲とは無縁でしょう。
957 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 15:10:17
記紀では神武は宮崎生まれの宮崎育ちに描かれている。
東征を決意して初めは宇佐→岡水門と動くのだから宮崎が神武の出発点である。
958 :
925:2008/03/25(火) 15:10:33
九州政権(邪馬台国も含む?)と大和政権(地方政権の一つ?)が並立していて、
九州政権の一部(神武)が九州政権の”何か”に反発して(もしくは勢力争いに負けて)、
東征し大和政権をのっとった、と解釈すればいいのかな?
もし邪馬台国が畿内あったしても、大和朝廷に繋がる大和政権は、九州政権の一部に
よって樹立してと考えてもいいのかしら?
959 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 15:31:49
九州政権と畿内政権は、それぞれ一枚岩でないので、
アイルランド系・フランス系・ドイツ系・イタリア系・中国系北米人が、外国との複雑な動きをしながら、
合衆国が建国されていったわけで、ある場合は敵対し、ある場合は協力し、ある場合は支援をしつつも、
利害が逼迫しなければ、さして問題ではなかったでしょう。
暗に対立関係が深まったのは、九州政権が畿内政権に対して、半島への軍役・物資供出を重く求めてからでしょう。
960 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 15:37:56
いわゆる大和政権がいつ誕生したかというのが重要かな。
大和盆地で注目されている纏向遺跡がいつ出来たのか。
西暦200年頃という人もいれば、300年以降という人もいる。
100年くらいの違いだが、卑弥呼時代の前かあとかは非常に重要。
961 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 15:50:33
纏向では九州の土器に限定されることなく、広範囲の土器が出てくるなど、
纏向の畿内政権発足に、九州政権が全く関与しなかったどうかわかりませんが、
今言えるのは「九州政権の強い影響は見られない」ということですね。
962 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 15:55:49
土器で政治的なことがわかるのかどうか。
鏡の文化は、九州の影響を受けていると言える、と思うが。
963 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 16:02:19
九州政権の意思により分国として纏向都市国家を作ったのではないだろうということです。
極東全体に九州政権の影響があるのに、纏向だけがまったく九州の影響がないなどありえません。
964 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 16:15:02
なんにしろ古代の倭が政争に破れた王侯貴族、犯罪者、食いつめた貧乏人
これらの亡命地だったことはわかった
俺たちは弱者の子孫なんだなあぅ
965 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 16:25:32
人類史全体を眺めてみれば
最初はアフリカに誕生した人類だがマイクタイソンやアーネストホーストみたいなのにイジメられた弱者が欧州へ逃げ延び
さらにシュワルツェネッガーやピーターアーツみたいなのにイジメられて中東へ逃走
そこでもビンラディンやフセインみたいなのに虐待されアジアへ逃げ出し
なおかつ始皇帝や毛沢東みたいなのに朝鮮半島に押し出され
やっぱり金将軍様やヨン様にボコボコにされて海をわたり倭に落ち延びる
なんかキツイよな
966 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 17:40:36
纏向に畿内政権が発足した当時は、畿内政権は大和盆地の地方政権だったのだろう。
何時ごろ畿内政権が日本全土を支配するようになったかが重要だ。
967 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 17:42:16
>これらの亡命地だったことはわかった
戦勝国の唐(郭務そう等)が九州政権の王、薩夜麻ら2千人を引き連れて、九州対馬に来ますが、
このとき唐軍は新羅軍に敗北・追放された状態でしたから、九州政権に対して胸を張っての凱旋行為はできません。
しかも唐の中央政府からは、さっさと極東を切り上げて撤収せよと、再三指令が来ており、命令を守れなかった
唐極東軍のトップ、劉仁願は白村江の前に左遷されています。九州政権に過大な賠償を要求するほどの
立場は取れなかったでしょう。むしろ一緒に仲良く、皇帝の儀式に参列するため、一緒に泰山へ行ったほどです。
ですから、むしろ唐軍が逃げ込んだのが、九州政権だったというのが本当のところです。
968 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 17:51:39
>966
唐軍の「郭務そう」らが2千人を連れて九州に来た671年に、天武が九州から畿内に移動し、
壬申の乱を起こして畿内を征服します。畿内の周辺国から援軍をもらって相当したたかに勝ちます。
ここで、畿内政権が倒れます。九州政権も敗北と内部混乱でズタズタなわけです。
天武が起こした「新畿内政権」は、弱体化した九州王朝の残党狩りを、これ以降始めて成功していきます。
その奥さんの持統と、その孫の文武の代に、畿内政権が完成度を高めていきます。
969 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 18:51:53
>>927 九州ですが氏へ
>お答えします。無関係です。
上記は「邪馬台国と大和朝廷の関係を教えて頂きたい。」とした
>>925氏への回答だが
九州ですが氏の過去レスを知っている者としてはこの発言は理解に苦しむ
氏は卑弥呼をアマテラス(皇祖神!)と同一視していたし
邪馬台国東遷説も強硬に主張していた筈
それがなぜか今になって、邪馬台国と大和朝廷は「無関係です」と言う。
自己矛盾ではないのか!
ともかく無関係とする理由を述べてもらわないと話にならない。
970 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/25(火) 21:39:00
>>969自己矛盾ではないのか
それってだいぶ前でしょ。
安本説を全面的に否定するわけではないけれどやはり記紀はどう見ても
3,5,7という数字から道教の影響が見える{が元は仏教のもの}だったり
つまり記紀はあらゆる地方の言い伝えや伝説が凝縮されているといえるのである。
要するに創作。
それは僕が最初からシンクレティズムといって一貫して訴えてきた事でもある。
その上で神武東征を考えると、これ自体が何処の発祥のものか解らないといえる。
よその伝説をさも自分達の言い伝えのように取り込んでしまうことはありうる事。
971 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 22:55:14
古事記や日本書紀が創作だったら、どうして天孫の日向降臨が書かれ、あるいは
神武東征を天皇の始まりとして書かれているのかを考えなくてはならない。
奈良の都に居する天皇の作った皇室の歴史書を、そのような筋にしたのには
何か理由があるはず。
大和で誕生した皇室が、我々は日向の出身だ、みたいな歴史書を、はたして
創作で作るものだろうか。
972 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:02:03
ちょっとでも創作臭い記述があったら
それを全て無意味な作り話と片付けるのは間違い
973 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:04:50
>971
旧唐書と新唐書を比較するとわかります。
旧唐書ではもともと小国だった日本国が、倭国を併呑したとしていますが、
新唐書では以上のような倭国への言及を一切やめています。
文武天皇が即位したときに、ニニギからずっときたものを継承する宣言をしていますが、
これは天武から始まった「新畿内政権」が九州政権を引き継ぎ継承する宣言です。
日本側のこの立場・主張を、当初中国側は認知しなかったのですが、のちに
受け入れるようになったわけです。
邪馬台国の話しろよ
九州妄想説は専用スレ逝ってくれ
そこから出ないでくれ
ハァ?
976 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:34:27
邪馬台国は一過性の国名です。
その時期以外も見ないと、しっかりと邪馬台国を検討できないわけです。
977 :
925:2008/03/25(火) 23:51:01
これで最後の質問にしたいと思います(みなさんの意見は拝見しますが)。
邪馬台国の所在地(九州か畿内か)如何によって、倭国(日本)の東アジアにおける位置づけ、
及びその前後の政治・社会等の歴史認識に大きな差が生じるのでしょうか?
978 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/25(火) 23:53:40
>>971 神武は伝説にすぎなくて実際は祟神から実在したという説もある。
この場合「神武」はどこかよその部族というかクニの言い伝えから持ち込んだもので
そのためハツクニシラスがダブっているとも考えられる。
979 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 00:31:44
>977
九州政権=軍国主義、畿内政権=安定志向、といった対比で認識できると思います。
九州政権は、後漢滅亡後の3世紀末から軍国主義の道を歩んで、7世紀後半つまり
白村江の敗戦(663年)まで好戦国家の色彩が強いです。
そして同時期に、高句麗が軍国主義で意気盛んだった。朝鮮半島を中心に、
極めて不安定で危険な極東の400年間があったわけです。
天武が新畿内政権を樹立し、新羅が朝鮮半島を統一することで、軍国主義一点張りの
風潮が、武力外交をやめていく方向に進みました。
唐にとっても西を吐蕃の攻撃から守るのに必死で、極東の安定を望んでいました。
まさに畿内政権の列島支配と新羅の半島統一とが、安定をもたらしました。
畿内(日本国)と新羅が唐に恭順してさえいれば、唐は日本と新羅を甘やかしても
損することはなかったでしょう。
持統天皇と則天武后(武即天)は実権を握った時期がほぼ同じです。則天武后は、
官僚の縁故採用にメスを入れ、採用試験を行ったりして、改革を行いました。外国人も
平気で採用する国家となりました。こういう唐を見つめながら、天武・持統・文武は
国内統治を進めていったのです。おそらく、九州政権の残党狩りも大変だったでしょうが、
畿内の土着勢力と九州系の勢力を融和させながら、新しい国家を建設していったでしょう。
こういった国際社会から見ていくことで、日本列島の歴史がさらに浮き彫りになっていく
と思います。
980 :
ローガン:2008/03/26(水) 00:35:37
みのもんたの番組あげてくれよ〜
食器って生活習慣と切っても切り離せないものだぞ
形が違えば食べ難いものだ
土器の形式って、箸を使う文化とナイフフォークを使う文化ほど違うものなんだ
一家の女性が作ったり、専門の職人もいただろうな
食器の用途と土器の用途をごっちゃにして考える事自体ナンセンスだと思うんだけど
ぶっちゃけ何も考えて無いかもしれないんだしw
ちょっといい感じの作ってるやつ等がいたからパくっとくか、みたいな