福島は実際色々あったらしいじゃん。
> 松平と書くべき所をわざと毛利と書いたり
は?
結城秀康の娘娶って越前松平の一門扱い。
福井藩のゴタゴタの火の粉が飛んできたり確執が絶えんかったようだが。
>940
慶長13年に秀就が賜姓されたの、そう言う理由だったんだ。
武家の官名乗りって,形骸化した官職は名乗っているが,少しでも実質が残っている官名は名乗っていないよね?
東宮大夫とか,蔵人とか,陰陽頭とか
これって,やはり意識して避けたのでしょうか?
>942
蔵人頭は秀忠が武蔵守の前に一年ほど名乗ってなかったっけ?
944 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 23:49:09
玄蕃とか兵部とか民部とか結構名乗っているよ
945 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:06:55
↑
時代劇に出てくる家老でよく聞く
>>943 Wikiでは,秀忠は武蔵守の前に蔵人頭に就いたことになっているが,これはおかしくないか?
秀忠は,蔵人頭になった4年くらい後に右近衛権中将になっている。
昇進順序がおかしいし,蔵人頭って,頭中将か,頭弁でしょ。
>946
公家の官位はその通りだけど、秀忠は武家だからたまたま適当に名乗ったんじゃないのかな?
公家側では、信長の上総守のようにあり得ない名乗りというわけではないので放置プレイと。
948 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:31:01
>>841 前田斉泰が権中納言に任官したのはその例かな?
綱吉生母の桂昌院が従一位に叙任されてますが,これもやはり武家官位で公卿補任に載らないのですか?
武家と公家の官位を別枠にするくらいなら、
官位以外の地位や役職を新設すれば諸大名を朝廷から遠ざけられたのに、
なんで旧来のままにしたのだろうか?
やっぱり積み重ねた歴史というのは形骸化してもそれなりに後光が差してるもんなんですよ。
戦国時代に天皇公家は権威のかけらもないド貧な暮らしをしていたのに、
官位(勿論形骸化してる)をあげると言うだけで、諸国の戦国大名がどれだけ献金したか。。。
第一征夷大将軍という役職自体が天皇から任命されると言う権威で成り立ってるのに
その将軍が新たに武家専用の官位を新設しても自己否定につながるだけ。
官位にしろ,西洋の爵位にしろ,元は実態のあった職が後に身分を表す称号になったはず。
では,武家の職制がなぜ身分を示す称号にならなかったのだろか?
守護,地頭くらいが,武家の身分を示す称号になったが,一般的ではないし・・・・・
朝廷官位の方が権威があったから。
武家の職は時代に応じて改変されるし、もとは将軍家の家職が拡大したもんで
将軍家が変われば家職も変わる。
明治維新で摂関が廃止されたりしてるんだから、
江戸開幕のときにも武家の分だけなら制度改革できたんじゃね?
摂政は現行憲法でも規定されてるかw
>>954 そりゃ、天皇の国事行為の代行者を規定しておかないと、天皇が病気のときとか困るやん。
法律で首相の代行者の規定がなかったせいで、小渕が倒れたときに密室での首相決定劇
という発展途上国並にアレな事態に陥ったわけだし。
>>954 江戸幕府の権威は累代によるもので、開幕の頃なんてまだ豊臣家が健在だったからw
豊臣家を滅亡させた後でも、織豊大名は大量に残ってて政情は安定しなかったし。
綱吉の頃なら朝廷官位を廃絶できたかもしれんけど、綱吉にはそこまで強い意志力はなかった。
綱吉以降は朝廷官位を潰す動機がないだろうし。
>956
でも、新井白石は「武家独自の官位制度を作れ」と言ってたよね。
華麗にスルーされたけど。
まあ大名たちは将軍家からは封地の保証さえしてくれれば
いいわけで、古代的権威もない徳川創始の官位など
もらっても「フンッ!」って感じになっただろうね。御三家を筆頭に。
>>958 見栄の固まりみたいな大名たちが?
そんなわけネーだろ。
>959
見栄の固まりだからこそ、より権威のある称号を求めるわけですよ。
武家諸法度制定のころなら新制度?にできたろうな。
むしろ新制度にした方が徳川の世であることを強調できる。
逆らえる大名はすでにいない。
むしろ江戸中期に易姓革命をやっておけば、開国後も徳川家は生き残れたのに。
>963
いや、徳川家は生き残っていますよ。明治に入って貴族院議長も務めているし、
固辞したけども組閣の大命も内示されています。
易姓革命をやってしまっていたら、かえって根絶やしにされたおそれがあります。
965 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 21:19:20
江戸初期の徳川将軍家は、上洛して京都御所に参内した時には、
太上天皇の扱い?を受けたらしいですが、
太上天皇の格式や待遇ってどんな感じだったんですか?
そんなの受けてない。
っていうか、天皇より上になっちゃうジャン
967 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:15:51
あくまでも天皇の下じゃないか?
将軍職、大臣職じゃ朝廷では摂関以下だし
足利が持ってた准三后単体じゃえらいのかどうはびみょうだしね。
>965
「幕末の宮廷」によると、秀忠が天皇と対面したときは、関白や諸公卿たちよりも上座で、
「天子様と御同間で天子と向かい同士にした。全く太上天皇のお取扱い」となっています。
>967
同書によると、少なくとも、秀忠、家光のときは関白の上座についたとなっていますね。
摂関と将軍はどちらも官位の序列になじまないんで、どちらが上にくるかはその時々
でしょう。
969 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 09:40:54
摂関家の中でも二条家は将軍の家来になって代々一字頂戴してたらしいぞ。
970 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 17:38:15
二条家の場合、足利からは
満基、持基、持通、政嗣、尚基、尹房、昭実
徳川家からは
光平、綱平、吉忠、宗熙、宗基、重良、治孝、斉通、斉信、斉敬
摂関のプライドは無いのか?
お公家さんの場合、かなり家柄良くても摂関家の「家礼」になってたりするからなあ。
摂関家も将軍家の「家礼」化してたとか?
徳川将軍こそ天下人だもんな
朝廷なんて幕府に食わせて貰ってた居候同然じゃん
973 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 19:44:21
5000石クラスの旗本はどこまで上れるんだ?
高家でなければ従五位下まで。
まあ、加増されて大名になり、老中まで進めば従四位下侍従があるが。
あと、中将クラスの大名なら、養子に迎えられる可能性もあるかも。
それ以上はどう頑張っても無理だと思う。
あ、裏技で公家に養子に入るという手もあるか。
同じ中将でも右→左と任官してるとは知りませんでした。
このことが詳しく載っている書籍をご存知の方、ご教示下さい。
>>974 公家の姫を正室,側室にした大名はいるのに,武家から公家に養子に入った者は皆無なんだよな。
母系相続であっても良いと思うのだが・・・・
977 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 00:13:27
公家って位が高いから大名にとっては娘の片づけ先に
いいんだよな。尼寺に入れるんじゃ可哀相だし、経済的
に援助してやればそれなりの暮らしはできるし。
978 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:15:10
大名の娘で後家でも無いのに尼寺逝きって、そんなにいないだろ?
家臣、一門、他の大名、上級旗本、公家といくらでも行き先あるし。
その辺が室町時代以前と江戸時代の違いだよね。
室町時代には武将や子供(男女関係なく)の出家は多かったのに
江戸時代になったら一気にごく稀になる。
出家して改易される殿様も出る始末。
一方の公家は出家して寺に口減らしされるケースの方がほとんどのようだが。
980 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 18:51:15
大名が出家したら
従四以下松平大僧正
とか名乗れるの
それとも薩摩守なら薩摩入道?
981 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 19:59:38
島津薩摩入道になる
紀州の重リンの場合。
紀伊前中納言太真入道重倫卿
江戸期に,法印等の僧位や,僧正等の僧官を与えられた大名はいるのでしょうか?
前田玄以
985 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 00:12:21
徳川治宝はなぜ従一位になれたの?
>985
養子押し付けのための懐柔でしょう。