そもそも渡来人の定義から勉強して来いって話だ罠
953 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:36:07
No.1【鎌倉幕府の制度】(守護・豪族)
(佐渡・能登・越中・加賀・越前)=比企朝宗
(信濃・上野)=比企能員
(越後)=佐々木盛綱
(下野)=小山朝政
(常陸)=八田知家
(下総)=千葉常胤
(武蔵)=平賀義信
(相模)=三浦義澄
(伊豆・駿河)=北条時政
(遠江)=安田義定
954 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:38:53
No.2【鎌倉幕府の制度】(守護・豪族)
(三河)=安達盛長
(尾張)=小野成綱
(美濃)=大内惟義
(伊勢)=山内首藤経俊
(近江)=佐々木定綱
(若狭)=津々見忠季(島津)
(和泉)=佐原義連
(播磨)=梶原景時
(淡路)=横山時広?
955 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 13:40:05
No.3【鎌倉幕府の制度】(守護・豪族)
(但馬)=小野時広
(讃岐)=後藤基清
(土佐)=佐々木経高
(出雲)=安達親長
(安芸)=宗考親
(石見・長門・隠岐)=佐々木定綱
(対馬)=河内義長
(筑前・肥前)=武藤資頼
(日向・大隅・薩摩)=島津忠久
余計な改行減らしたら1レスに納まったかと思われ
957 :
光源氏:2008/07/07(月) 21:53:00
島津氏は鎌倉幕府以来の、数少ない由緒ある家系ですね。
島津の過去を遡れば、大和朝廷に仕えた秦氏の裔の惟宗氏。
仕えていた近衛家が平安時代に島津荘を寄進され、平安後期には宇佐神宮領もこれに併合された。
平安末期に惟宗忠久はこれらの荘園の管理者となり、島津と名を改めた。
鎌倉初期に薩摩・大隅・日向の守護に任じられたが、源頼朝の死後、
比企氏の乱で北条氏の罠に嵌りこれらの職を奪われた。
元の宇佐神宮領は伊東氏のものとなり、彼らの分家の田島氏が領することとなった。
(後に南北朝期に伊東本家が下向し、分家の田島氏を滅ぼし日向を実力で支配下に置くこととなる)
薩摩の島津荘内の入来院は澁谷氏のものとなり、元寇以降は澁谷本家が下向した。
その後、承久の乱で近衛家と共に北条政子を支持し、薩摩と越前の守護を入手した。
元寇期に本家が薩摩国出水に下向し、以後土着化。
南北朝期に足利尊氏を支持し薩摩・大隅・日向の守護職を回復。
鎮西探題今川了俊と対立するも、足利義満と了俊との対立によって了俊は今日へ召還。
公家・寺社ならこの程度の歴史なら言うに及ばず
武家で言っても佐竹も宗も相良もありますが?
959 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:54:42
>>958 >島津の過去を遡れば、大和朝廷に仕えた秦氏の裔の惟宗氏。
曖昧な根拠だけだと野次馬学者レベル。明解な証拠が欲しいな
960 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 08:30:29
>>958 鎌倉いらい江戸期迄、家として続いてる(養子相続等も可)って事で見れば
島津、伊東、相良、秋月、松浦、宗、小笠原、毛利、佐々木(京極)、諏訪、伊達、相馬、田村、佐竹、南部、安藤(安東・秋田)
とパッと思い付くだけでも結構あるな。
俗に「江戸三百諸藩」というから、その5%強位か?
>>960 それ、鎌倉時代には守護職でない家ばかりじゃない?
そこんとこがちょっと違うような希ガス
佐竹やら相良って爵位なんだったっけ?
>>962 秋田藩佐竹氏は侯爵 東北にありながら奥羽越同盟に参加しなかった数少ない藩だったから
相良は子爵 石高から見て妥当なところ
>>960 守護歴があるのは島津、小笠原、京極、佐竹かな?
島津以外父祖伝来の地から飛ばされているのが残念
>>950 この手の話題になって島津の出自が突き詰められてくると、必ず最後は「タイムマシーンが発明されるまではどうのこうの」って話にするんだなw
このスレでもすでに3箇所ぐらいあるぞw
皆同一人物か?
大体、「タイムマシーン」なんてこれが史板でする発言かw?
タイムマシーンなんてこと言ったら何だって(織田や徳川やその他多くの戦国大名の他、出自を仮冒していると一般に言われている家々)皆そう言えてしまうじゃねえかw!
965 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 13:37:00
>>959 ≫曖昧な根拠だけだと野次馬学者レベル。明解な証拠が欲しいな
それでも『頼朝の御落胤』なんて言うよりはよほど「根拠」のある事だから心配しないでいいよw
966 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 21:06:29
>>958 結局、動乱期にだれを支持したか。
時代を見る目とそして何よりも運がなければ古墳時代から延々と続く
秦氏の血脈は守れなかったことが分かります。
その意味では、秦氏の末裔はすぐれた才能を持っていました。たとえ
ば、首相の器としてはどうか?と疑問を持つ羽田孜氏が首相になるな
ど政治力学を巧みに読んで利用する秦氏の血統が伺えます。
省エネルックは、クールビズとして定着した感があります。
>>960 島津氏の血統を受け継ぐには、純血をどれだけ守れるかにかかってい
ます。一族以外の地を入れない。これは現在では難しくなっているの
で、血統を保つのは、もう無理なような気がします。
斉藤>CCO真実
古墳時代から大和朝廷の成立から語らにゃならんのか
難儀なこったな
970 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 21:15:49
山崎寿満子の女系子孫はすごい子孫繁栄だね
>>969秦氏は、秦の始皇帝の末裔とも言われているし、
漢の国に追われた呉や越の工人を引き連れて渡来している。
その過程で、揚子江沿岸の海族や朝鮮半島付近の騎馬民族の
影響もうけている。
それ以前は、古代イスラエルとの関係も匂わされるし、シルクロード
を通じてオリエント文明の影響を受けていることは、まず間違いない。
その民族的文化的な歴史を考えてた上で、秦氏>島津氏の繋がりを
見ないと、誤った判断をすることになると思う。
鎌倉以前から薩摩は秦氏がおさめていた(宇佐だか辛島だか)?
だとしたら頼朝以降、惟宗氏を薩摩に封じたのも、それなりの因縁があったのか?
973 :
日本@名無史さん:2008/07/09(水) 23:04:18
秦氏⇒惟宗氏⇒島津氏
戦闘力は高い!
えーと・・・どこからどうすればいいのか それともおさわりしないほうがいいのか えんがちょ
>>970 でもその山崎寿満子の出身は未だによく分からなかったりする 父:山崎拾って誰
>>972 薩摩平氏という物の存在もお忘れなく
島津量子さん(元久邇侯爵夫人)の離婚後の消息が気になる。
あれから再婚したんだろうか?
1908年生まれだし、今じゃさすがに亡くなってるかな。
薩摩国司にゃ大伴家持とかもいるんだったよな確か
幕末の話になるが
斉彬の過大評価、久光の過小評価は酷いな
>>975 ご健在なら本年でジャスト100歳
・・・佐土原島津家の故・久子夫人の例もあるけど100オーバーはやはり難しそう
>>976 藤原良継や佐伯今毛人とかと共謀して謀反を企んだとか言われて左遷された
実際に陰謀に加担したのかどうかは不明
>>977 明治維新後の言動があまりにもアレでしたからなw >久光
とは言ってもああいう環境でお育ちになった方に近代社会を理解しろと言う方が無理かも。
979 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:16:07
>>978 それより量子が父親52歳、母親37歳(いずれも満年齢)の時に生まれたのが凄杉
しかも再婚じゃくて共に初婚
しかし近親婚なのに離婚するなんて普通の時より難しいのによほどの事情があったのか?
量子の兄姉には邦久の叔父や従妹と結婚している人もいるのに
980 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:34:14
>>974 惟宗氏(島津氏)の入植と先遣薩摩平氏
の政権争いや、降伏後の薩摩平氏の処遇
成れの果てなどについても、もう少し詳しく
聴かせて。
981 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:36:46
>>977 そおかぁ?
妥当だろw
薩摩人が言うんだから、間違いない!
>>979 公式発表によれば、夫妻双方の病気が原因。
元々侯爵の健康が優れない上、結婚後1年ほどして夫人も神経衰弱気味になり、
別居して実家などで療養したものの良くならないため結局離縁。
侯爵はその後健康を取り戻して再婚できたけど、夫人はいったい?
侯爵の姪・朝子女王は島津斉視氏と結婚したが、子供がないまま死別してるね。
斉視氏と後妻の間にはいるわけだし、やっぱり遺伝的なことでできなかったのか?
島津氏自体の実際の下向は元寇以後というのが有力な学説のようだ。
それまでは鎌倉にいたようなんだが・・・鎌倉で何していたんだろう?
比企氏が滅亡した後は有力御家人でもなかったろうし。
そういえば鎌倉時代、同じ惟宗氏末裔同士で土地争いで裁判してたような。
相手は何レスか前で話題になった執印氏だっけ。
薩摩平氏は早くから地元に土着して開発に携わってきた人たちですから、当然後から来た島津氏とは仲が悪く、
土地争いをはじめとして裁判でいざこざが多かったことが残った史料から伺えます。
薩摩平氏の系統を継ぐ人は南北朝時代には北朝に付いた島津氏に対抗するため南朝に味方しました。
結果、南朝の没落と共に後ろ盾を失い没落、国人として細々と生き残ったのはいい方で滅亡した氏族も多いです
(例えば「頴娃氏」は当初は薩摩平氏系だったが滅亡して、後に頴娃領主となった肝付氏が名乗るようになった)。
985 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 05:43:10
その佐土原の久子夫人、三十代になってから家付き娘と二度も結婚した養子の後妻(しかも四人の子供と家付き娘の母親がついている)になるのはどうなんだろう・・・
しかも久子は先妻の娘という立場を経験している
そして久子の父親の高倉永則(1864-1947)は明治維新と終戦を経験している
最近の惟宗氏→島津氏って流れはそこらへん論文で主張してる
鹿児島大の研究者やらが居るんだろ。誰だか知らんけど。
薩摩一之宮争いで新田神社が後から割って入って来たこと考えれば
正直どーかと思うけどね。ハナから丸々信用する気にはならんな。
987 :
↑:2008/07/11(金) 12:59:46
日本語でおk
989 :
988:2008/07/11(金) 14:00:04
と思ったら、
>>984で薩摩平氏の成れの果てについては書いててくれてるねw
スマヌスマヌ。
ただ今度は古代‐中世の薩摩に秦氏が及ぼした影響についても誰かお願い。
古代の薩摩って誰が何をしたかほとんど分かってない状態なのでわ
古墳時代 日向南部から大隅半島にかけて大古墳が築かれる この頃は大隅半島>薩摩半島 大隅の方が都会
飛鳥時代〜奈良時代 隼人が大和朝廷に対して大反抗を行い大伴旅人率いる中央軍を派遣して制圧
以後、一部の隼人を畿内に移住させて朝廷の祭儀や雑用をさせるようになる
平安時代 初期のころはよくわかんない
中期頃から荘園の開発が始まり、
後期には土着豪族の薩摩平氏が開発した日本最大の荘園「島津荘」が誕生
薩摩平氏は島津荘を摂関家に献上し、自らはその代官に納まってうはうは
摂関家側から派遣される代官の中には、摂関家家人の惟宗氏がいた・・・らしい。
鎌倉時代 ここでようやく島津氏登場
秦氏の影響は他国と比べて薩摩では顕著とは言えないのではないかな
そういえば一度鹿児島の神社を調べたことがあるが、鹿児島県では稲荷神社系の神社が少ないし
しかも島津氏の尊崇もそんなに厚くないような。
日向に関しては、京都の岩清水八幡(正八幡)宮の分社と、大分の宇佐八幡宮の分社の分布を調べたら、
島津荘と宇佐八幡領の領域とほぼ重なった、という研究がありますよ。
秦氏の稲荷信仰を追うよりは、京都の藤原氏=近衛家の領地と見たほうが良いのではないでしょうか。
当時の惟宗氏は近衛家の家来だったわけですし。
992 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 19:41:45
そうですねぇ
薩摩は諏訪神社系が多いですねぇ、
惟宗氏(島津氏)の直属が諏訪氏(上井氏)
だからでしょうかねぇ。
島津は鎌倉時代は頼朝直属の重臣では?
頼朝の信頼が絶大だったので、最果ての鎮西を
任せたと聞きますが。
>>984 なるほどね
だから、明治維新の原動力となった
下級武士は薩摩平氏の裔が多いわけですね。
極貧の極みですよ。。。薩摩の下級武士は
南朝一揆への恨みですかwww
993 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 20:50:36
>>991 惟宗氏(秦氏)⇒島津ほぼ同族や義兄弟になる。
994 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 21:24:17
旧諸県郡の北斗七星、秦氏や道教との関係が伺えます。
明日香村キトラ古墳の埋葬者も島津藩の天井にも北斗七星が描かれて
いるというし、明日香村を支配していたのは、島津氏の祖先だということです。
島津藩は、幕末になって急に出てきた外様大名かと思っていたのですが、
古代史を知れば知るほど認識が変わります。
大政奉還は、ワケ王朝島津氏への政権返還だったのです。
998
999
1000 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 22:10:17
1000get
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。