足利一族の子孫集まれ2

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1日本@名無史さん
足利一族の子孫集まれ2
2日本@名無史さん:2008/01/19(土) 17:01:59
比着座同列定席ってどういう意味なのよ
3日本@名無史さん:2008/01/19(土) 20:23:23
>>1
テンプレも無しに糞スレたてるなよ。汗かきデブっちょw
4日本@名無史さん:2008/01/19(土) 21:34:11
前スレでは、平島がどうとか言っていましたね。
「この話はなるべく落ちはやく議論が落ち着いてください」と思ってます。
 で、足利の本家というのは、どういう意味でしょうか。
 「祭ひ」とかあるわけなんでしょうか。
 また、だれでも勝手に「祭ひ」とかできてしまいますが、
 <おまえんところは、勝手な「祭ひ」じゃないか!>と、
 指摘するのは誰ができるんですか。
5日本@名無史さん:2008/01/19(土) 21:35:18
巖華園

足利持氏の子・足利義久の子孫が経営してるんだって。
6日本@名無史さん:2008/01/20(日) 10:28:21
>>4
もう少し日本語を学習してから書き込みましょうね。

>>5
鎌倉公方家庶流から実業で成功した人物は大勢いる。
中島足利家について検索しない方がいいと思う。
7日本@名無史さん:2008/01/20(日) 12:05:28
足利義久

永享の乱(1439年)で足利義久が11歳で自刃した悲劇の場所でもあり
、庭の裏の崖の中腹にあるやぐらに足利家時墓、義久墓という石塔がある

11歳で自刃したのに子孫がいるのか?
本当かよ?
小学生(いまなら)で子供がいるんかいな
将軍家一族だからって
8日本@名無史さん:2008/01/20(日) 22:01:00
 平島公方の27代目 進悟さんの件ですが、うちの祖母が昔近所に住んで
いたらしいので、確認したところ、やはり養子だそうです。ただ、子供5人
(男2人、女3人)は前妻の子らしいです。後妻と再婚した理由は、子供(女)
が結婚して、家の家事等をする人がいなくなったからとか・・・。
9日本@名無史さん:2008/01/20(日) 23:42:42
現在当主の義弘氏は前妻の子?
それと進悟氏の実家ってどこなのかな?

しかし、平島足利家の男系が断絶しちゃったのは残念だなぁ
10日本@名無史さん:2008/01/21(月) 05:52:04
義弘さん(28代目)は前妻の子。
進悟さんの実家はわかりませんが、「足利銀行」つながりで紹介
してもらったらしい・・・。進悟さんは「中央大学」出身なので、
関東方面ではないでしょうか?子供は武千代さん(26代目)つながりで
みんな「同志社」みたいです。
11日本@名無史さん:2008/01/23(水) 00:43:41
足利尊氏の男系子孫はすべて断絶なのか?
12日本@名無史さん:2008/01/24(木) 21:41:45
とりあえずソースはここに載せてくれ

[うpろだ]
http://pita.st/index.html
http://imepita.jp/pc/
13日本@名無史さん:2008/01/28(月) 00:23:31
西山家の現当主は足利義輝の男系子孫なのですか?
14日本@名無史さん:2008/01/28(月) 21:59:05
斯波氏てつくずく損しているよね。名越が親だったために嫡流になれないし、江戸時代には他の一門は仁木を除いて加盟伝えたのに消息不明とは
15日本@名無史さん:2008/02/12(火) 03:38:01
一色紗英も細川フーミンも頑張って!
16日本@名無史さん:2008/02/15(金) 04:04:52
二本松も忘れないで
17日本@名無史さん:2008/02/15(金) 18:34:39
尊氏の男系子孫ではっきりしてる家ってあるの?
18世界@名無史さん:2008/02/15(金) 22:45:23
逆賊  
19世界@名無史さん:2008/02/16(土) 00:45:21
直義は、護良親王など3人の皇子を殺害した。

しかも戦闘ならともかく俘虜の身にある皇子をだ。
20日本@名無史さん:2008/02/16(土) 02:53:42
とりあえず、子孫だってのは面識がある。
信長に追われて、毛利の庇護に甘んじて、
毛利が38万石に墜ちてからは、スロスマあたりで昭和の御代まで命脈を繋いでた様だ。

どこまでホントかは、正直ね・・・
ただ、五百年前の先祖が悪い方向で
京に染まった陰影を引きずっていたな。
筋金入りの、ヤンキー。。
21日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:11:20
>>17
前スレによると、足利聡氏が実家(宮原家)に戻って、その後宮原家は実子相続してるそうだ。
少なくとも宮原家は聡氏までは実子相続なので、足利尊氏の直系の子孫ということになる。
その話を信じれば、だが。
22世界@名無史さん:2008/02/16(土) 12:27:53
日本史をひも解いても、皇族を惨殺、謀殺したのは足利一族だけだね。
23日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:30:45
>>22
蘇我氏を忘れとる。
24日本@名無史さん:2008/02/16(土) 16:29:18
>>21
この宮原家ってさ、6代宮原氏義の父が杉浦政令になってるんだよね。
この杉浦氏は足利とは縁も所縁もない家(のはず)でここで男系が変わってる。
25日本@名無史さん:2008/02/17(日) 15:44:55
>>24
なるほど。氏義は母系ではつながってる(4代義辰の娘の子)けど父系は途切れてるのか。
26日本@名無史さん:2008/02/17(日) 17:13:33
で進悟は養子だったのか?
27日本@名無史さん:2008/02/17(日) 17:26:08
>>15
これ豆知識、一色紗英の本名は畠山。
28日本@名無史さん:2008/02/17(日) 17:41:04
>>27
何だかますます室町っぽくなってきたな。
29日本@名無史さん:2008/02/17(日) 18:19:42
畠山鈴香容疑者

これも一族?
30世界@名無史さん:2008/02/17(日) 18:45:07
足利兄弟に惨殺された親王は、護良、恒良 成良でよかったかな?
31日本@名無史さん:2008/02/17(日) 21:09:19
宮原家は、上杉憲寛の末裔?
32日本@名無史さん:2008/02/17(日) 21:24:23
>>30
尊良
33世界@名無史さん:2008/02/17(日) 22:28:22
>>32 THANKS  

成良はどうなったんだろうか?
34日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:21:28
一色 まことはペンネームなのかな
35日本@名無史さん:2008/02/18(月) 18:21:28
>>32
成良親王は「太平記」によれば兄恒良親王とともに花山院に幽閉され
足利直義に毒殺されたことになっているが、
「太平記」より信憑性の高い同時代史料「師守記」によれば、
近衛基嗣に預けられ、1344年に病死したことが分かり、
足利兄弟による殺害ではないことになる。
36日本@名無史さん:2008/02/21(木) 14:35:07
足利義輝の子孫は?
37日本@名無史さん:2008/02/22(金) 04:07:56
高師直を含む高一族の話題は出ないの?
38日本@名無史さん:2008/02/22(金) 09:44:03
高一族は確かにわからんw
39日本@名無史さん:2008/04/05(土) 02:48:47
藤姓足利氏です
40尾州男児 ◆7VELMWok.E :2008/04/06(日) 18:58:17
後醍醐天皇の建武の中興に
離反した賊将・足利高氏をボコってください
41日本@名無史さん:2008/04/07(月) 21:44:26
>>40
北朝方だったことをもって「逆賊」と言えるかどうか。「南朝が正統」というのは明治になって初めて確立した話で、北朝方だから逆賊とはいえない。

むしろ「尊氏は北朝方だったくせに、一度はその北朝まで裏切った」ことのほうがよほどポイントだと思うぞ。
42日本@名無史さん:2008/04/08(火) 22:51:20
そういえばうちの墓から足利尊氏の女とか娘とか書かれた墓石が出てきたって
話聞いたことあるが埼玉でも鎌倉街道上なら嫁いった人とかけっこういるのかな
ていうかあれ本当の話なのかななんで足利の人が埼玉に 調べようないな 
43尾州男児 ◆7VELMWok.E :2008/04/09(水) 08:52:54
>>41
後醍醐天皇の在位中に離反したのですから
足利高氏は確実に賊将に断じることが可能
よく武士のなさけなどと過当評価されるが
ご勅旨に従えないのなら帰農すれば済む事
44尾州男児 ◆7VELMWok.E :2008/04/09(水) 08:58:00
その点、
尾張国から出た織田信長公は義昭を奉じて上洛するも
足利幕府を滅ぼしたのですから忠臣と評価できると思います。
45日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:08:46
その前にあろうことか三種の神器の贋物を使って周囲を欺き
何度も復位した後醍醐天皇の帝としての資質の方が問われるべきだ。
46日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:51:38
>>44
今谷明によると、天皇を追放して自分が神になろうとしてたらしい
(けど、正親町天皇との権力争いに負けて失敗)けど。
47日本@名無史さん:2008/04/15(火) 01:41:41
姦族輩!!
48日本@名無史さん:2008/06/21(土) 20:16:37
297 名前:武陽陰士 ◆ATDF4vFZys [] 投稿日:2007/08/04(土) 23:08:28
>>292
確かに。
後鳥羽帝は傲慢でいらしたから、ああいう目にあわれたわけだ。
後醍醐もそうだな。
北朝の花園帝は人格高潔、
というより北朝には素晴らしい人格の帝が多くあらせられる。
我らが今上帝は無論、北朝の貴き血を受け継いでおられるのは皆さんもご存じだろう。
ところが2ちゃんねるなるフザケタ匿名掲示板では、
忠臣尊氏公を逆賊とし、正統な皇統に反逆した義貞正成の如き逆賊を忠臣呼ばわり。
嘆かわしいことだ。
それとも北朝の系統であらせられる今上帝に反逆せんとの企みを抱くものか?
あるいは纂奪者か?
明治帝が南朝を正統とし北朝を閏統とされたからと言って、
何故今上帝の醜の御楯である我らが臣民までもが
北朝が正統であることを言論の拠り所としないのだ!
不忠の者どもめ逆臣どもが!天誅!
49名無的発言者:2008/06/24(火) 03:51:29
足利家が清和天皇の末裔(清和源氏)であることを考えると
皇族の一つだから、ダメ天皇に代わったり、足利義満のように
天皇家に戻ろうとすることも自然だ。という意見もあるよ。
徳川とは違うからな。(徳川は系図詐称)
足利を逆賊とするのは明治政府の考えで、現代人が明治政府の
洗脳から目覚めていないのはいかがなものか?・・・。
で鎌倉公方に付いた、一色家嫡流の直氏系は、現在も男系は続
いているみたいだね。鎌倉の一色直兼、長兼系で古河系だけど。
幸手一色は江戸時代初頭に、男系が途絶え、嫁にやった娘の子
を養子にして現在でも続いているらしい、つまり男系は切れた
がな。
50名無的発言者:2008/06/24(火) 04:04:45
足利義満が死んだとき、朝廷から「太上天皇(上皇)」の戒名を
もらったのも事実だし、当時は、けして逆賊ではなかったらしい
ね。たしかに、明治政府の倒幕の理由としての思想だな。楠木正成
がもてはやされたりね。ただしくは、天皇家を数万石程度の大名扱
いにした徳川と北条が一番の逆賊だな。
51日本@名無史さん:2008/06/24(火) 04:17:51
確かに。当時、天皇家二万石たらずだから、国主(十万石以上)
より下の扱いだったな。江戸時代はひどいもんで天皇家は、まるで
徳川幕府の傀儡状態だったはず。
もっとも、天皇家は、中臣鎌足以来、現在でも傀儡で、後醍醐天皇
のが天皇政権の奪回を計ったが失敗したわけだ。時代がそれをゆるさ
なかったという見方もあるな。
52日本@名無史さん:2008/06/24(火) 04:22:13
そうそう、天皇家は、昔からお飾りだったといえるね。
53日本@名無史さん:2008/06/24(火) 04:30:01
足利家は、武力をもった皇族であり、天皇家は武力を持たない
皇族だね。権威だけじゃ国をまとめ守ることが出来ないことは
日本の歴史が証明しているな。
54日本@名無史さん:2008/06/24(火) 08:49:52
それなら桓武平氏の北条氏も武力をもった皇族だ
55日本@名無史さん:2008/06/24(火) 09:42:32
皇裔=皇族じゃないしね。
北条になると皇裔であるあかどうかも疑問が残るところ。
足利の方も系譜には多少疑問があるよね、
嵯峨以後の皇裔であることにはほぼ違いないだろうけど。
56日本@名無史さん:2008/06/24(火) 17:50:30
>>55
まあ、現代の皇族と皇裔という考えかただとそうなんだが、徳川、北条が
逆賊でなく、足利家だけが逆賊という考えに対しての意見ととってくれ。
それに、「皇裔」という言葉は何時頃から使われるようになったか?も
考えるべきかな。多分、明治〜昭和でなかったかな。
歴史は、現代人の感覚・考えで評価すべきではないんだな。
その時代時代の評価で考えないといけないぞ。
そうでないと、現在の右翼・左翼的な歴史感になり、つまらぬ
差別や誤解をまねきかねないと思うな。
徳川が新田系を詐称していることは、当時の大名家では知らぬ
ものはいなかったはずだね。だから、幕府内に、足利家を収める
べく国主格大名(十万石格)として、喜連川家を約五千石にし、
徳川家親族扱いで、御所号を認め、参勤交代を免除しなければ
ならなかったり、天皇家に徳川家光の妹?だったかな、一万石
の化粧料を付けて嫁がせ、天皇家との外戚関係を計る必要が
あったんだな。
>>55 さんへ 北条は、確かに桓武平氏だったらしいが、足利
と比べると劣るな、足利から分かれた庶家ぐらいでしょう。
だから、源家宗家(足利義国の弟で母が同じ)が滅んでも
北条は、桓武平氏であっても将軍になれなかったんだな。
57日本@名無史さん:2008/06/24(火) 18:20:30
たしか、足利義満は、当時の天皇とは従兄弟だったはずですしね。
58日本@名無史さん:2008/06/24(火) 20:54:04
足利幕府初心者です。
なぜ室町幕府というのか教えてください。
室とはなんですか?
足利氏の自出、物部系、蘇我系・・その辺を詳しく教えてください。
59日本@名無史さん:2008/06/24(火) 23:20:00
貧乏人に金をやる必要なし!
アホに教える必要なし!
60日本@名無史さん:2008/06/25(水) 00:05:27
>>58
天孫降臨に先立ち、豊芦原に舞い降りたニギハヤヒの子孫が
足利氏だという説ですね。物部の一派が、平安貴族の没落後、
関東で勢力を振るったという可能性は否定できません。
61日本@名無史さん:2008/06/25(水) 13:32:01
>>60
初めて聞く話だな。誰の説なのか?情報の出所が知りたいな。

足利は、清和源氏で河内源氏、源義家の次男、義国が祖だが。
最初、義国が嫡子であったが、京にて義国の家来が、貴族と
喧嘩となり殺されたので、その貴族の館を焼き討ちにしたので
父源義家は、義国を廃嫡し下野国足利庄に住まわせた。
以後、義国は足利姓を名乗る。
そして、弟の為義を河内源氏の嫡子とし、その孫が鎌倉初代将軍
源頼朝だ。
この鎌倉将軍家が北条氏の計略により僅か三代で滅亡したので、
源氏の棟梁(武家の棟梁)家は、足利家となったのだ。

これが、日本の定説だ。
62日本@名無史さん:2008/06/25(水) 15:18:07
>>61
修正。「弟の為義」==>「弟の義忠」でした。
為義は、義忠の孫で養子でした。
つまり、足利義国系の方が男系として続いた源氏の正統だとも
いえるかな?
63日本@名無史さん:2008/06/25(水) 17:07:40
源義家−義忠(弟)=為義−義朝−頼朝−頼家−公暁兄弟×(鎌倉将軍家)

源義家−義国(兄)−義康−義兼−義氏−泰氏−頼氏−家時−貞氏−尊氏(足利家嫡子)・・・
          義重 義清 長氏    義顕(渋川祖)
         (新田)(細川)(吉良)    家氏(斯波祖)
                      公深(一色祖)−範氏−直氏−氏兼−直兼・・・
                      頼茂(石塔祖)          長兼・・・
=は養子
−は直系男子

こうゆうことだな。
64日本@名無史さん:2008/06/25(水) 17:16:39
うまくいかん。足利泰氏の子が渋川、斯波、一色、石塔、上野の祖
となっており、足利義康の兄が新田義重、足利義兼の兄義清が細川の祖、
足利義氏の兄長氏が吉良の祖、この吉良から分かれたのが今川だぞ。
65日本@名無史さん:2008/06/25(水) 17:22:18
そうそう、足利義氏の兄義純が、岩松の祖であり、そのご畠山家を継いだのだ。
他に、桃井もあるな。
66日本@名無史さん:2008/06/25(水) 18:27:16
えーと、家紋で丸に二引きは足利であってる?
67日本@名無史さん:2008/06/25(水) 18:52:58
以前近所に桃井(もものい)さんが住んでいた、『家は「ももい」ではない「もものい」です、足利氏の一族の子孫です』と言っていた。
68日本@名無史さん:2008/06/26(木) 01:47:59
>>66
つまらんこと聞くな?当然だな。
ただし、安房の里見は、新田だが「二つ引き両」を使っている。
おそらく、小弓御所(古河公方家の分家)を加護したから、
拝領したんだろうな。
それと、源姓足利系は五七桐も使っているな。足利尊氏以降だが。

そうそう、畠山家の出目は桓武平氏だが、北条得宗家(鎌倉執権家)
の娘が嫁いでいたが、後家となり男子が絶えたので、新田の岩松を
興した、足利太郎義純を男子2名を残し離縁させ、北条との強固な
関係(北条の御家人潰しから逃れる意味と潰された有名御家人の
足利配下への吸収の意味もあった)を目指す上から、この北条の娘
と再婚し畠山家を継いだんだな。
この頃の足利家の嫡子のは、長男だろが三男だろが関係なく、正室
(北条の娘)との間で生まれた男子がなったんだな。ただ、足利尊氏
は、運よく北条の娘が生んだ男子が早死していたので、足利の嫡子に
なれたんだな。当然これが北条憎し(本来足利が武家の棟梁)という
意識と他の倒幕派の武家(北条により虐げられた)とがが強く結びつき
歴史は倒幕に至ったんだな。
当然、後醍醐天皇が正しく時世を読む能力があり、正しい天皇のあり方
が判断でき、足利尊氏に幕府を開かせる器量があったなら南北朝時代は
無かったはずだな。
69日本@名無史さん:2008/06/26(木) 14:50:13
そうですね。足利家のすばらしい所は、あの鎌倉幕府を北条が牛耳ろうと源頼朝の死後、源家を三代で
滅亡させたあと、有名御家人を次々と陰謀により、取り潰したが、一方足利家は源家三代が滅んだ時に
直ぐに、次は足利家だと名乗りを上げずに、ことを荒立てずに北条家の外戚となり、北条に取り潰され
た鎌倉御家人達を家臣とし傘下に取り入れたことですね。北条一族がその所領と権力を広める中、足利
家もその所領と勢力圏を全国に広めながら北条に協力し北条を立てていたのですよね。鎌倉時代の足利
家は数代にわたり着々と倒幕の準備がなされていたといえますね。

それと、家紋の件ですが当家では、正紋は「二つ引両」「五七桐」副紋としては「九曜」を使っていま
す。江戸時代の当初は、「九曜」を使っていました。藩主が「二つ引両」「五七桐」を正紋としていた
ので、筆頭家老(家臣)としての遠慮なのか「九曜」を使っていました。おそらく参勤交代の任のない
藩主(喜連川家)に代わって江戸に行く機会が多く江戸にて同族細川家との交流もあり、細川家が
「九曜」を使うことをまねたものと思います。当然、細川家の正紋は「二つ引両」ですね。吉良家も、
当時は「五七桐」を使っていたはずです。足利一族が江戸で「二つ引両」を使わないのは、自称の新田
系徳川将軍家への配慮であったと思いますね。
70日本@名無史さん:2008/06/26(木) 17:55:04
ところで、金地院崇伝(一色秀勝の子)はどうだね。江戸幕府の基礎は、彼に
よってなされたと考えてよいと思うのだが。
1、武家諸法度
2、禁中並公家諸法度
3、社寺諸法度

これらの江戸(徳川)幕府の根源となる諸法度の草案は、この宗伝によって
作られたものだが。宗伝の父一色秀勝は、足利将軍家家臣であり、室町(足利)
幕府の失敗を見据えて、徳川家康が崇伝(臨済宗僧)を取り立て、新しい幕府
のあり方の指南役としたわけだ。
ある意味、足利一族が江戸幕府の基礎を作ったともいえるな。
金地院崇伝は、天海上人と共に幕府の中枢にあったはずだ。幕府内に足利一族
を収めることも崇伝の入知恵であったと思われる。
どうかな?
71日本@名無史さん:2008/06/26(木) 19:49:41
>>68
そんなこと言ったって、うちは代々神社で「神文」もあるし、武田の合戦にも加勢したみたいでよくわからないんだよ。
72日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:20:11
足利氏館に行くと、江戸幕府が建立した建物があったりして面白い。
二つ引両と葵の紋の両方ある社とかあったりして。
73日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:25:03
金地院崇伝(葦名一族という可能性もある)
74日本@名無史さん:2008/06/26(木) 20:44:00
>>73
天海も芦名一族出身じゃなかったか?
75日本@名無史さん:2008/06/26(木) 21:13:22
豊葦原に舞い降りた芦名一族の子孫。
7673:2008/06/27(金) 12:57:03
すまん天海の間違えであった。
訂正をしてお詫びをしますが、
賠償はしません。
77日本@名無史さん:2008/06/27(金) 14:06:25
映画「バベル」 発情女子高生の元ネタは毎日新聞!!!
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http://shipinsea.nablog.net/blog/g/20199951.html
78日本@名無史さん:2008/06/27(金) 16:57:36
>>71
武田の家臣で思い浮かぶのは一色直氏系で、一色家庶家と名乗る丹羽家・金丸家かな。
なぜ一色から丹羽、そして金丸に姓が変わっていったかはわからんが。
おそらく、地域的には丹羽家や斯波家と関係しているかも。
79日本@名無史さん:2008/06/27(金) 17:33:39
>>78
家臣じゃないんだ。御岳衆として参戦だから。
80日本@名無史さん:2008/06/27(金) 19:41:55
会田みつを
81日本@名無史さん:2008/06/27(金) 20:42:55
しかし、いまや「一色」といえば三河ウナギ偽装。
落ちぶれたものです。
82日本@名無史さん:2008/06/28(土) 00:03:22
>>81
おいおい。大阪の水産業者が中国から輸入した「うなぎ」を
愛知県一色町産の「うなぎ」だと偽装販売した件だろ。
君の意見の愚かさに気付いてほしいな。

それに、愛知県一色町は、確かに一色氏の発祥地ではあるが
あそこに、一色家が住んでたのは鎌倉時代までだ。
室町幕府の成立により、一色氏は皆そこには住んでないな。
丹後一色家が三河守護職を兼ねていたがな。
一色家は京、丹後、鎌倉と領地替えとともに移転している。
現在、あそこにゃ、一色家の子孫がいるとは聞いてないな。
当然、足利市には、足利家子孫が住んでないのと同じだな。
当然、天皇家の子孫は宮崎県には住んでないよな。
ちゃんと歴史や事実関係を調査して意見してほしいな。
83日本@名無史さん:2008/06/28(土) 00:25:38
一色紗英
84日本@名無史さん:2008/06/28(土) 00:44:05
それと、一色家嫡流の鎌倉一色家は、五代鎌倉公方足利成氏
と共に古河に移り、その後、江戸時代には、喜連川に移っている。
つまり、鎌倉にも古河にも一色家はないと言うことです。
現在は栃木県内だ。
幸手一色家は、埼玉県幸手市、茨城県水戸市、東京都内だな。
丹後一色家嫡流は、戦国時代に織田信長の命により、だまし討ち
にあい滅ぼされた。
丹後一色家庶流は、江戸時代初頭に旗本として一色藤長系と
金地院崇伝系で2家あったが皆、男子無しにより断絶している。
江戸時代に旗本吉良家から分かれた一色家があったかな。

それ以外の一色家情報がありましたら、教えくらはい。
隠し子系や新平民や渡来人が明治時代意向に勝手に名乗
った系はだめですよ。
85日本@名無史さん:2008/06/28(土) 00:50:07
>>83
芸名やペンネームもだめですよ。w
86日本@名無史さん:2008/06/28(土) 09:47:07
あの事件で日本一有名な村になった上九一色村はもうない。
87日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:18:40
>>上九一色村も関係ないな。www
88日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:40:57
だいたい、甲斐武田領内の一色系を名乗る家は、勝手に江戸時代に名乗った
だけだという意見が多いな。鎌倉一色家は、鎌倉、古河公方の命で、武田の
乱を鎮めにいっているくらいだ。武田の下に付く一色家庶家なんて信じられ
ないな。武田は甲斐源氏、足利は河内源氏で武田とは格がちがう。
一色家には、家祖足利公深依頼、代々足利家に対して一色(二心はない)で
あるという、親族であるという家風があったんだよ。織田や武田の家臣にな
るなんて信じられんな。仮にあったとしても、破門(縁切り)後のことだろ
うな。
89日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:50:27
一色は五十狹城入彦(いさきいりひこ)から転じたもの。
五十狹城入彦皇子は、景行天皇の6番目の皇子といわれ、
三河長谷部直の祖。
五十狹城入彦皇子陵は、現在の岡崎市西本郷にあり、
一色家は由緒ある姓だということがわかりあす。
90日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:57:43
>>40
足利尊氏が賊将だといってるやつらの思考回路は、後醍醐天皇を愚かな北朝鮮の
金正日にたとえるならば、これに従順であることが尊いとする朝鮮人の思考と
変わらんな。www
91日本@名無史さん:2008/06/28(土) 14:12:59
>>89
なるほど、足利系一色家でない、勝手に一色姓を名乗るやからの説だな。
ただ、岡崎に足利系一色家が残っている可能性はある。『及聞秘録』には、喜連川
で、喜連川尊信の発狂を幕府に届けなかった罪で一度断絶した一色左京が、事件の
13年後に、岡崎藩水野監物家にて、百人扶持の客分扱いで再興された記録がある。
しかし、その後一色左京には男子なく断絶となっており、現に喜連川(足利)家の
墓所にて墓石が残されており現在も供養されている。つまり、一色左京は足利一族
として扱われており、彼の子孫は絶えているわけだ。岡崎に足利系一色家が残って
いる線は薄いな。
92日本@名無史さん:2008/06/28(土) 14:55:25
そういえば、水野監物家も足利家庶家の一つだといわれていますね。
しかも、徳川家康の実母、お大方の生家で、特別な譜代大名家で、
幕府の尾張徳川家の「見張り番」で徳川将軍家の外戚の一つですね。
93日本@名無史さん:2008/06/28(土) 15:19:13
岡崎に宇都宮古墳、宇都宮神社というのがあります。
関東の武士は、古くは三河出身だということがわかります。

94日本@名無史さん:2008/06/28(土) 15:30:00
>>90
ですね。南朝に付き足利と戦った新田でさえ足利を賊軍とはいっていない。
つまり、新田義貞兄弟が戦死したあとは、新田党は岩松家によりまとめられ
足利に付いたのです。当時の新田は足利が幕府を開くことに反対し、源氏の
棟梁(武家の棟梁)は、新田だと主張していただけでした。
新田嫡流が途絶えたなら、足利家に同族としてなびくのは当然ですね。
徳川将軍家も新田党の得川家の流れであり、江戸時代までは足利尊氏が逆賊
だなどど言われるはずもなく、天皇家にとっても英雄扱いでしたね。
つまり、明治政府が天皇家を神輿(傀儡)として利用したいがために、後醍醐
天皇家を滅ぼした足利家を逆賊とし、楠正成を英雄として国民を小学校で教育
しただけのことです。www

足利義満により日本国の南北朝時代の戦乱は治まり、北朝による平和な時代が
到来して以来、現在の天皇家も足利が援護した北朝の子孫ですよ。
仮に、現天皇家が南朝の天皇家だとすれば、どこで滅んだはずの南朝系の天皇
が紛れ込んだのかが、問われることになりますね。

95日本@名無史さん:2008/06/28(土) 15:48:11
>>93
よくわからんが、三河の宇都宮といえば、大久保家(武茂氏)だな。徳川と
同じで仮冒だといわれている。そのへんの関係はないかな。
古墳の名、や神社の名、寺の名もそうだが、当時の権力者により、呼び名が
変わることは、よくあることです。名前だけじゃ、なんの判断もできないよ。
96日本@名無史さん:2008/06/28(土) 17:23:20
三河の古代史を調べていくと景行、成務天皇の時世の
五百木入彦(いほきいりひこ)の東国征伐にたどり着く。
また、東国征伐に加わった五百木入彦の息子に
足鏡別命(あしかがみわけのみこと)がおり、彼こそが
足利氏の遠祖であると推定される。

その五百木入彦の東国遠征の北端が宇都宮付近。
水戸も征伐している。三河と関東の関係はこのあたり
から始まったことがわかる。
97日本@名無史さん:2008/06/28(土) 18:47:56
>>96
君の話しにはついてゆけん。しばらく自論をかまし続けてくれ
君の論拠がわからん。ただ「古代史」でということでなく、
どのような一次資料からの論拠なのか?示してくれ。
98日本@名無史さん:2008/06/28(土) 18:53:54
古代史にかかわる書物は神話で、基本的には作りばなしだな。
歴史を実証するものではないな。古代史は考古学の分野だな。
99日本@名無史さん:2008/06/29(日) 00:02:22
古事記や日本書紀は捏造で、実は、出雲神話、吉備や筑紫
の神話をあたかも大和の伝承であるかのように書いてある
部分がたくさん存在するといわれています。
イリ王朝は三輪山の王朝ではなく、三河の王朝だったので
はないかと私は考えています。
100日本@名無史さん:2008/06/29(日) 01:00:57
一般に足利家といれば、清和天皇系源姓足利氏ですが、もう一つ足利氏が
あります。藤原系の藤姓足利氏です。日本書紀を編纂させたのは藤原(中臣)
不比等ですから、自分の先祖まで神話の世界にしています。
つまり、神話に登場する足鏡別命(倭武命の子・鎌倉別)は藤姓足利氏の始祖と
いっているのですね。そして、彼が下野国の現足利市付近に住んだのでこの土地
が足利といわれるのですね。

なお、時代は変わりますが、平安の頃源姓足利家は、下野国足利の地に領地
を得たので、ここに移住し足利と名乗っただけのことで、源(足利)義国、
源(足利)尊氏などが正式な姓名ですので、この神話とはまったく関係ない
ですね。
101日本@名無史さん:2008/06/29(日) 01:13:00
そうそう。徳川家康の正式名は、源(徳川)家康で、一色直氏は、源(一色)直氏
ということでしたね。
北条時宗は、平(北条)時宗が正式名称です。
102日本@名無史さん:2008/06/29(日) 01:30:24
追加、通称、北条早雲は、伊勢盛時(伊勢新九郎)が正しく、正式名は、
平(伊勢)盛時だな。このへんが区別できてないと、このスレは語れない
かな。河内源氏足利一族のスレだろここ。
103日本@名無史さん:2008/06/29(日) 01:58:08
この北条早雲こと伊勢新九郎盛時は、足利将軍家の直臣で、将軍家嫡男の
行儀作法の指南役だな。つまり彼は、この関係から今川家の相続争いを
取りまとめ、というか自分の姉の子(義元)を今川家の嫡子としたんだな。
その功により、足利将軍家の滅亡後、今川家の家臣となり一領主となり、
さらに稲村御所を攻め、伊豆一国の城主となったんだな。
これが、後北条家の始まりだな。
つまり、後北条家と古河公方家のつながりは、たんに軍事勢力だけでは
なかったんだな。
古河公方足利晴氏の正室は、後北条の娘で、間に生まれた義氏が、上杉家
の娘との間に生まれた兄藤氏をおしのけ、最後の古河公方足利義氏となった
んだな。当然、古河公方家の跡目騒動は、上杉と後北条の軍事的な争いにな
ったんだが、途中、藤氏が早死したので上杉は手を引いたんだがな。
この上杉家は、藤原系上杉家で足利尊氏の母の生家はこの上杉家で、上杉家
は当時の足利家の家臣だな。
104日本@名無史さん:2008/06/29(日) 14:22:56
この古河公方家の跡目争いですが、外部から見ると、将軍足利義輝が松永弾正に京にて殺され
足利幕府が事実上滅んだことを前提とした、関東における後北条家と上杉家の神輿としての
古河公方家の奪い合いであったといえますね。ある意味、京の将軍家が滅んだことで中部から
西の西日本は、無秩序な戦国時代に突入していったが、関東・甲信越・奥州については、古河
公方の権威は健在であったといえます。特に関東における戦は、常に古河公方家を中心とした
戦であり、関東の戦は公方家の跡目争いや、武田、上杉、里見、後北条による古河公方を神輿
としての関東統一を目的とした争いであったといえます。
また、先に話のあった古河公方家の藤氏と義氏の跡目争いは、古河公方家内部から考えるなら
ば、公方家重臣であった梁田家と一色家の争いであったといえます。梁田は、上杉家を後ろ盾
とし、一色は後北条を後ろ盾として戦い、藤氏の死去(病死)により、上杉家は加勢の目的を
無くし、撤退したので梁田は敗れ、古河公方家内での地位を落としたということです。
一方、このことにより古河公方家の跡目は幼い義氏となり、内政は一色家の独壇場となったと
いえます。また、このことにより上杉家側に加担していた宇都宮、小山や後北条家と敵対し、
小弓公方(足利義明の子孫一族)を養護した武田、里見などが古河公方家から去っていくと
同時に、後北条家の関東における勢力が急激に拡大していったといえますね。
105日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:35:25
河内源氏は清和源氏の武士団を摂津国川辺郡多田(兵庫県川西多田)に最初に形成した
源満仲の三男の源頼信を祖とする。とありますが、川西といえば加茂、出自は天皇の子孫
というより物部史そのものですね。愛知県岡崎市の矢作川付近も古くは加茂郡ですので、
三河と足利氏、物部は密接なつながりがあったと思われます。

足利氏は河内源氏だから、足鏡別命とは無縁だという考えは、全くの誤解だということを
これから少しずつ明らかにしていきたいと思います。
106日本@名無史さん:2008/06/30(月) 02:55:54
日本の歴史上で幕府を開き、将軍家として国内を統治した家は、足利家と徳川家
だけだ。足利が鎌倉幕府と室町幕府で、徳川が江戸幕府だ。しかも、いずれも河内
源氏であり、幕府を開けるのは河内源氏だけであった。これだけで十分だな。
古代の話は、おとぎばなしで、なんの立証資料もない。
おとぎ話で捏造の歴史を自慢するのは、藤原氏と朝鮮民族だけだな。つまらんな。
つまらんと思わんかね。考古学的な物証でもあるのかな。それ以外は、まともな
日本人はだれも信用しないな。また、考古学に確定はないのだな。であったかも
しれないの範囲でしかないのだな。
107日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:10:40
>>106きみはダメだな。
なぜ、きみは真実を見ようとしないのだろう?
人に歴史あり。足利幕府が突然わきてきたわけではない。
歴史的事実を裏付ける資料が少いからと言って、先祖がいなかったわけではない。
もっと事実を追及する努力をすべきではないのか?
真実を知ろうとする気持ちがないのなら、それは死んだも同じ。
108日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:25:30
だから、考古学的に認められた物証がある上での話でなければ、足利一族
の末裔の一人としては、はずかしくて人には語れないのでといっているん
だな。
自分の先祖をおとぎばなしを交えて話すのは、ちょっとね。
だから、考古学的な物証があって、信憑性がある話なら、是非聞きたいのだが
日本書記や古事記のような文献であったり、神社の言い伝えや伝書ていうのは
どこの神社のものでも、まともに信じることは出来ないよな。
古来、特異な古事話を作りだし自社を宣伝することで、その神社の参拝者を
増やし神主の安定した生計を保つ、というのが古来からの神社の生業だからだな。

それに物部氏は、神道系で曽我氏と聖徳太子に滅ぼされた一族で、神主の先祖
や諸国を放浪した芸能集団であったり山の民となったりで、さげすまれること
があっても、源氏の棟梁として全国の武家の神輿となることなど、できないか
らな。



109日本@名無史さん:2008/07/01(火) 13:50:08
そうですね。ここは足利一族のスレですからね。これを語る元となる
資料としては一次資料でないとだめですね。当然、書であるなら、
それが書かれている紙や木の年代の考古学的調査検証がなされ、妥当
であるとされて、初めて一次資料となるし、物であっても同じで、
こういった証拠資料の裏付けがないと信用できないですね。
足利一族以外の人が、検証もなしに語っているとしか思えないし、
多くの方がそう思うでしょうね。
110日本@名無史さん:2008/07/01(火) 20:39:47
そんなの天皇の子孫でないといやなのか?
111日本@名無史さん:2008/07/01(火) 21:09:22
興奮しないでください。>>110
清和源氏は、ニニギの子孫、天孫族の由緒正しい部族。
桓武平家は、平群氏の子孫、半島渡来の卑しき部族。

これでいいんでしょう?
112日本@名無史さん:2008/07/02(水) 02:48:04
>>110 >>111 自演までしてどうしたの。

早く、考古学的立証がある一次資料を示した話が聞きたいのだが。?
113日本@名無史さん:2008/07/02(水) 14:03:00
>>112
同感だな。当家も鎌倉時代に足利家から別れ、庶家として足利家当主に
代々親族であり重臣として仕え、室町、鎌倉、古河そして江戸時代にあ
っても喜連川家親族として仕え、しかも現在でも男系を維持している。
当然、先祖のことには興味があるな。考古学的な立証にもとずいた、
新事実なら知識として持っていてもいいかな。
しかし、神社系の「神世の作りばなし」(神話)じゃ、海千山千で信用で
きないぞ。www
114日本@名無史さん:2008/07/02(水) 14:45:39
しかし、喜連川(足利)氏は、宮原家の養子を含め7代喜連川氏連(〜1761年)
までで、男系が途絶えたことは残念だな。その後は、加藤、細川、水戸徳川と
つなぎ、一時期、宮原に戻ったが、これも絶え、現在の喜連川系の足利家は、
実は、徳川慶喜の弟喜連川縄氏系で水戸徳川系だからな。残念だなあ。
115日本@名無史さん:2008/07/03(木) 00:36:12
しかし、自ら足利氏の末裔を名乗る香具師ってのもなぁ・・w
116日本@名無史さん:2008/07/03(木) 00:49:04
嘘っぽい?
117日本@名無史さん:2008/07/03(木) 04:12:29
>>113 さんへ >>115 >>116 の無知な方々がなんか言っているようですが。
『古河市史』資料編と『喜連川町史』第三巻資料編3近世をみました。
>>113 さんは古河公方家の古河城代一色右衛門佐氏久の子で喜連川家筆頭家老
一色刑部義久の実弟で、唯一喜連川に残った一色五郎左衛門系ですよね。
ご本家は、三代喜連川尊信公の「狂乱」を幕府に隠した件で断絶も、岡崎藩主
水野監物家で百人扶持(実禄2000石)、客分扱いで再興も男子無しで断絶と
残念でしたね。喜連川家菩提寺龍光寺の一色家の墓参りにも行ってきましたよ。

当家は幸手一色系ですが、喜連川一色家さんは幸手で開かれた「全国一色家の
会」には、参加されていなかったようですが、古河・喜連川一色家の祖は、
幸手の一色直清の弟、鎌倉建長寺の一色右衛門佐(従五位下)蔵人系ですよね。
一度お会いできればと思っていました。ネット上で大変失礼ではありますが、
ご挨拶させていただきます。
118日本@名無史さん:2008/07/03(木) 04:32:10
「一色右衛門佐(従五位下)蔵人」==>「一色右衛門佐(従五位下)蔵主」
でしたね。大変失礼しました。修正します。
119日本@名無史さん:2008/07/03(木) 15:01:13
>>117 さんのご推察のとおりです。ご気使いいただきありがとうございます。
また、当家の墓参りの件、ありがとうございました。
幸手とは、宿老と重臣として共に古河公方家を支えた間柄であり、鎌倉の一色氏兼の子である直兼・長兼兄弟
をそれぞれ祖とする一色家であると認識しております。先に返礼のご挨拶とさせていただきます。
また、「全国一色家の会」の件ですが、幸手市主催の一色神社での開催であり私共なりのわだかまりもありま
した。問題は『幸手市史』通史編の記述です。古河一色家について、誤解をまねく表現「後北条氏の登場により
一色右衛門佐氏久がこれに結びつき、古河に入り古河公方家内で権勢を振るうようになった。」の件です。
そもそも、町史や市史には「おらが主義」がありやむおえないことは理解しているのですが、この誤りが公的な
記述として公開され、誤解されていることです。
「享久の乱」において四代鎌倉公方足利持氏公に従い鎌倉一色家当主一色直兼一族は、一度壊滅しています。
そして、持氏公の五男足利成氏公が幼少にて五代鎌倉公方として再興され、鎌倉に戻った時に鎌倉建長寺の
蔵主職となっていた一色蔵主を同族の直臣として還俗させ一色右衛門佐蔵主(従五位下)、領地は藤沢
(旧一色直兼領)としたのが鎌倉・古河・喜連川と続く一色家の始まりです。当然、足利成氏の古河移住に
従ったことは、他の直臣(鎌倉奉公衆)の移動から明白です。この件は、幸手一色家本家の系図にも記載
されていたかと存じます。現幸手市史編纂委員会がこの件を修正されることを願っているところです。

120日本@名無史さん:2008/07/03(木) 15:39:38
>>119
追加修正、「領地は藤沢」==>「領地は藤沢・厨子」
そして、一色右衛門佐蔵主(従五位下)の生母は三浦氏の娘です。
幸手とは、安房瀧田城主一色蔵人頭と幸手の一色直清の孫娘(梅壽)
九郎の母との婚姻関係もありましたね。三浦半島と安房は海路では
江戸に行くより非常に近く、この一色蔵人頭も鎌倉一色家の一人で
はないかと考察しています。


121日本@名無史さん:2008/07/03(木) 16:15:43
なるほど。海路ですか。五代鎌倉公方足利成氏が古河に移り古河公方に変わる
時、足利成氏公が鎌倉から海路で銚子の利根川河口から、一色・簗田の船団に
鎌倉奉公衆をともない、古河にむけて溯上する姿が見えてきますね。
確か、戦国末期の安房瀧田城主は里見ですから、安房の一色蔵人頭の一族も
この船団と合流し、瀧田の領地を里見に預け、足利成氏公に従った訳ですね。
122日本@名無史さん:2008/07/03(木) 17:41:46
同感です。しかし一点だけご指摘させていただきたいのですが。
安房の一色蔵人頭の妻梅壽は、幸手の一色直清の孫娘ですから、足利成氏公
の古河移転に同行して移転したとは考えずらいと思います。『喜連川家文書案』
に足利成氏が発給した一色左馬助への文書が残されています。

 依迷惑至極候、不園□御出行分候哉、驚入候、概年来堪忍候上者、
 仰前之思案誠以歎敷次第候、可心安□候地等之事、
 巨細印東宮内少輔可申候、恐々謹言、
   十二月五日           成氏判
  一色左馬助殿

 とあります。つまり、この一色左馬助の所領を概年来、成氏が堪忍
(認めていた)していたが、なんらかのことがあって犯されようとし
たので、これを成氏が再度認め、印東宮内少輔に仔細を申しつけたと
いう内容です。しかも、最後に「恐々謹言」をつけています。通常家臣
や配下の豪族には「謹言」だけになります。このことから、この一色
左馬助は、足利の同族であることを成氏が認めていること、また、古河
・幸手ではない、安房瀧田城主一色家であることが想定されます。
当然、安房瀧田城主は後に里見家となりますので、この安房瀧田の一色
家は、その後の古河公方家からの発給文書が発見されないことから、
おそらく里見に攻められ滅亡したか、古河公方家内の本家となる古河の
一色家に合流したと考察されます。
 
123日本@名無史さん:2008/07/03(木) 22:05:13
その由緒ある一色家発祥の地三河では、
ウナギ偽装により司直の手を煩わし、全国に恥をさらすという大醜態を
演じてしまいました。当地には、もはや一色家の直系は住んでおらぬと
は、みなさんも言え恥ずかしい思いはしたことと存じます。
そこで、この際、由緒ある一色家の身内が三河に帰り、世直しをすべき
ではないかと思うのですね。
どなたか、手を挙げられる方はいませんか?
124日本@名無史さん:2008/07/04(金) 01:37:42
>>123
だから、その事件は、神戸の水産業者が、中国輸入うなぎを三河一色産うなぎのラベルを
だと偽って販売した事件でしょ。一色町は、いわば被害者側でしょう。
君のコメントは、お笑いだな。
125日本@名無史さん:2008/07/04(金) 01:52:02
>>122
なるほど、確か足利成氏の孫、古河公方足利基氏とその弟、上総の小弓公方足利義明
が、里見・武田の神輿となって兄弟間で争った乱がありましたね。正式名称は忘れま
した。当然、古河公方足利基氏方で里見の隣国となる安房瀧田城主一色家は、真っ先に
攻撃され、落城したわけですね。第一次国府台合戦?でしたかね。
126日本@名無史さん:2008/07/04(金) 03:02:09
>>123 君は、あいかわらずお笑いだね。
一色家祖である足利公深は、鎌倉の足利泰氏の子供です。
だから、一色家発祥の地は、鎌倉なの。当時の足利家は、
鎌倉御家人として、鎌倉に住み、その所領は、下野、下総、上総、
三河、丹波、丹後、美作と全国にあったのだ。
公深は、足利から分家して三河吉良荘一色郷に住んだので
一色公深と名乗っただけで、けして一色家の発祥地が三河の一色町
ではないのだな。三重県には「三井家発祥の地」なんてのがあるが
これとは、意味合いが違うことぐらいわかるでしょ。www
127日本@名無史さん:2008/07/04(金) 03:25:32
丹後一色氏はその後滅亡したの?
128日本@名無史さん:2008/07/04(金) 10:58:07
そうですね。丹後といえば、関東の一色直氏の弟で一色範光系だな。確か本流の一色義有は
は養子で、戦国時代に細川忠興に殺されたわけだから、完全に絶たれたな。
しかし、庶家の一色持範系が残っていて十五代将軍足利義昭に細川忠興や明智光秀と共に仕
えていた一色藤長系と藤長の弟秀勝系の崇伝だな。崇伝は臨済宗の坊主だから当然妻子はな
いので崇伝系は彼で終わる。藤長系も幕府の旗本として続くのだが、途中でなぜか姓を丹羽
に改姓しちゃうんだな。もともと丹羽系だったとしたら、織田家家臣であった丹羽長秀系と
かぶり怪しくなる。当然、織田の丹羽系は、二本松藩主として江戸末期に他家から養子を向
かえ家名を存続しているからここで絶えることになるな。(家紋も違う)
で、話をもどすが、一色藤長の件だが彼は同僚の細川忠興のように戦国大名にはならずに、
戦国時代を細川家の食客として遊んでいた。歌を詠んだりしていたらしい。
そして、その間に織田信長は死に、羽柴秀吉の配下となった細川忠興が丹後一色家本家の
一色義有をだまし討ちにしているわけだな。つまり一色藤長系は信用できないし、江戸時代
末期には、一色姓を名乗る旗本がないことから断絶したと判断できるな。
自称の系図や家伝書だけでは信頼できる一次資料ではないからな。当時の第三者による文献
資料や文書によって証明されるべきだと思うな。





129日本@名無史さん:2008/07/04(金) 11:39:31
最後の当主は一色(吉原)義清ではなかったですか?
130日本@名無史さん:2008/07/04(金) 12:18:07
同感ですね。なぜ織田信長の京での「馬揃え」に参加して、織田家配下となっていた丹後の一色
義有を、分家である一色藤長を加護(食客)としていた、細川忠興が信長の死後、だまし討ちに
してまで殺さねばならなかったのか?この意図はどこにあったのか?これを示す古文書は存在す
るのでしょうか。
室町将軍家、鎌倉公方家、古河公方家、喜連川家や江戸幕府の資料文書により、その流れが証明
されている一色家本家となる嫡男一色直氏の関東一色系としては興味ありますね。
131日本@名無史さん:2008/07/04(金) 12:25:53
>>129
そうだね。いずれにしろ丹後系が絶えたことは残念。
132日本@名無史さん:2008/07/04(金) 16:36:52
>>123
ここで「うなぎ」の話は、スレ外だけど、誤解があるようなのでいってくね。
ニホンウナギの産卵孵化地は、グアム・サイパンあたりの深海域です。日本の
養殖うなぎは、100%この学名ニホンウナギです。一方中国産の養殖うなぎの
80%もこのニホンウナギで、残り20%が学名ヨーロッパウナギです。
つまり、日本に輸入される中国産うなぎのほとんどが日本の「うなぎ」とまったく
同じ、うなぎなのですね。だから、ラベルがなければ専門家でさえこの区別が
できるわけないのです。当然味も同じですね。問題は、調理時の蒸かし時間の
差によって、保有する油の量変わり、当然、身のやわらかさも変わるだけですね。
「天然うなぎは、脂身が少なく、身もやわらかくうまい。」なんてのも消費者の
思い込みです。販売店や店の宣伝もありますが。
そして、ここで考えたいのがその値段です。日本産ウナギは一キロ4000円〜5000円
で中国産は、1000円〜2000円です。同じニホンウナギに価格差が生じています。
これは、日本国の産業の保護の観点もありますが、円と元の違いですね。ご存知の
はずです。ラーメン類は、中国では100円前後で食べられ、日本では600円前後ですね。
日本の業者が、ぼったくり商売をしているわけではないですよね。コストの問題だね。
当然、中国産が安いからといって中国産ばかり日本人が好み食べることになると、
日本の業者は衰退して、なくなる心配が出てきますね。これは危険な状態です。
将来、なんらかの理由で日本国が経済封鎖などされた時、日本国は食糧危機になるか
れですね。だから、国産うなぎの価格が高くても日本の国力(食料自給力)を維持す
する意味でもやむおえないことですね。うなぎの話は、これでおしまいです。
133日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:51:01
>>132
ウナギの価格差をコスト面でしか語らないって・・・頭が悪いにも程がある

中国ウナギの養殖方法は、メディア報道でわかってるだけでも飼料に人糞や化学物質を使ったりと
衛生・環境面で劣悪極まりない。食品表示偽装に対するこれだけ厳しい風潮は、
単にコンプライアンスの問題だけじゃなく劣悪な中国製品に代表されるような
食品の安全意識を日本の消費者全般がようやく持ち始めたというあらわれだ。
昔は単に生産コストの違いだけと捉えられていた価格差は、
近年では国産の安全性に対する比較と信頼性の現れが
そのまま付加価値として認められてるという証査なんだよ。
134日本@名無史さん:2008/07/04(金) 22:42:00
>>126
そんなことを知っているのは、日本中探してもせいぜい数人しかいない。
あなたがいくらここで訴えても、日本中で一色は詐欺師集団ではないか
と疑いの眼差しで見つめている。
その汚名を晴らすには、一色家が立ち上がらなければならないことに、
まだ気がつかないのですか?

135日本@名無史さん:2008/07/04(金) 23:29:27
>>133 >>134 全然理解してない子供だな。スレ外なので無視するよ。
あまりにも無知なコメントだな。まあ。恥をかかぬよう、
自分で勉強しなさいな。www
136日本@名無史さん:2008/07/04(金) 23:40:29
日本は、いうなれば子供社会、一色=偽装というイメージが
定着しつつあることに気付いたほうがいい。
137日本@名無史さん:2008/07/05(土) 00:30:20
そうだな。
日本史に長けた人間など、国民の何%?
全てマスゴミを鵜呑みにする人間か余りに多過ぎる。
138日本@名無史さん:2008/07/05(土) 01:11:06
通りすがりのもんだが、読ましてもらったが、勉強になったな。
しかし、>>133 >>137 よ、高貴な足利家の人々に少しでも相手してもらった
だけいい思い出になったな、実社会じゃ鼻にもかけてもらえない方々だ、
感謝すべきだな。
お前等のコメントも読んだが、やつぱりお笑いだ。
俺も若いが、お前等みたいにバカじゃないよ。
お前等のようなバカがいて、俺たちはそのバカをこきつかい、いい目が
見られるのだ。それが世界の常識だな、せいぜいバカに磨きをかけてくれ。

139日本@名無史さん:2008/07/05(土) 09:34:03

 一色=金のためなら何でもやる

というイメージが国民の間に定着しつつあります。
それが事実かどうかなど関係のないのです。
そこが風評被害の恐ろしいところで由々しき問題です。
黙って見過ごせば、後世まで遺恨を残すこと
になりかねません。
ここは、一色氏の有志が立ち上がって、一色氏発祥の
地、三河一色の再興を考えるべきときかと思いますが・・・
140日本@名無史さん:2008/07/05(土) 16:33:56
>>139
おまえは、全国の一色関連の人達に喧嘩売ってんのか。
アホの理論で、w
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2
これが全国の一色だが、いい度胸だな。

おれも、一色に住んでるが、気分が悪いな。
このほとんどが、全国の一色家の荘園だった所だ。
一色は三河だけじゃないんだよ。ボケ。
それに、「ウナギ偽装」をボケた解釈しているのは
お前だけだな。お前は、世間じゃ無視されてる口だな、
それで、唯一相手してくれる人間を求めて2chで
遊んでるんだろ。かわいそうなやつだな。w
しかし、ここでも無視されてやがんの。w
この世に、お前が受け入れられる場所がないこと
を、しみじみと感じてくれ。w
141日本@名無史さん:2008/07/05(土) 18:05:19
てか、ここは日本史スレで、清和源氏足利氏流関連スレです。
142日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:10:48
大体において、歴史板で同族集めて、身内の話をしている感覚が理解できない。
143日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:46:41
>>141 >>142 
「足利一族の子孫集まれ」だろ、このスレ題。
ということは、お前等自体がスレ外なんだな。
自分の素性をある程度、明かしてから入ってくるのが
礼儀でなかい。おれは上野だから、立派な一族なんだよ。
お前等のやっていることはネタミだな。
144日本@名無史さん:2008/07/05(土) 23:58:45
この板にふさわしくないスレと自分勝手に立てておいて・・
良くぬけぬけとそんな根理屈を並べられるものですね。
たいしたものです。w
145日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:22:13
>>144
おそらく、新平民ですよ。「新平民」。
君の本家の明治時代の戸籍を調べておくべきですね。
赤字で区別されていないといいですね。w
146日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:46:20
こらこら。差別問題に係ってはダメですよ。
役所でそんな物、保管していても出してくれるわけ
ないでしょ。
菩提寺があるのか?程度で大方わかりますよ。
墓が田んぼや市外地の共同墓地だと悲しいけど。w
147日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:04:25
>>144 さんへ

「根理屈」ではなく「屁理屈」ですよ。
伝統ある日本語ぐらい正しく使いましょうね。w
だけど・・・君の幾多のコメントを拝見しましたが
まさに、何の根拠もない屁理屈ですね。w
148日本@名無史さん:2008/07/06(日) 03:13:52
このスレは延々と自演するスレ
149日本@名無史さん:2008/07/06(日) 03:33:28
>>143
藤原系にもあるよ。
150日本@名無史さん:2008/07/06(日) 05:41:28
藤系足利なら足利一族を語れる者ならだれれも知ってるよ。
足利一族というえば、河内源氏だけを言うの。
藤太の庶流はダメだな。
別スレ立てないと、話すこと少ないしな。
なんせ、子孫がいないからな。
151日本@名無史さん:2008/07/06(日) 13:42:02
百足退治したら腹減った。芋粥喰らおっと。
152日本@名無史さん:2008/07/21(月) 16:40:52
昔のテレビ番組で足利家末裔を名乗るじいさんが
レポーターとともに金閣寺へ行って寺務所で魚木を
打ち鳴らしていたら僧侶が出てきて叱られていた・・・。
じいさんあたふたしながら「ワシは足利の・・・」と弁明する。

カメラが切り替わって一般拝観者も入れる池の前からの
映像になってた。
誰かこの番組見た人いない?そしてあのじいさんは何者?
153日本@名無史さん:2008/07/22(火) 20:11:22
>>152
平島公方家の当主です。血もつながってるのかどうか、前スレでは激論になりました。
(古河公方家のほうは、血筋が徳川になっちゃってるのが明らかだからね)
154日本@名無史さん:2008/07/22(火) 21:47:16
>>153 サンクスです。阿波でしたか。
    なんか金閣寺ではまったく相手にされてなくて
    ちょっと(´・ω・`) ショボーン・・・って感じだったんで
    見てて可哀相になりました。
155日本@名無史さん:2008/07/23(水) 17:01:28
足利家末裔は、現在の南朝系天皇家末裔に等しいな。立証資料がない。
足利家庶家なら、以外にあるがな。細川、一色、桃井、上野、石塔、小俣、
品川などなどで、全体的に、要は目立たないことが生き残りのコツだな。
目立つことは、同族間や他の豪族との争いに巻き込まれやすいからな。
吉良・今川・渋川など多くは、目立ちすぎて江戸時代に絶えたしな。
なお、品川は今川の庶家だな。それに今川姓は、徳川秀忠の代に禁止され
そのご1800年代にこの本流は男子無しで断絶だな。

話を戻すが、阿波公方は南朝方であり、室町将軍家を裏切ったわけで、
当然、認められていないってことだな。
156日本@名無史さん:2008/07/23(水) 18:13:03
>>154
そのじいさん、本物でしょうかね?
本物ならもう死んだ方だが、「全国足利家ゆかりの会」だったかな。
これの顧問であるから、金閣寺の和尚?と面識は当然あるはずで、
信じられん話だな。なんちゃって番組でないかい。ww
157日本@名無史さん:2008/07/23(水) 18:44:50
>>156 坊さん、めちゃくちゃ怒ってたよ(記憶では・・・)
    「なに勝手に撮影しとんじゃい(#゜Д゜)ゴルァ!! 」って感じで。
158日本@名無史さん:2008/07/24(木) 00:40:50
>>155
いや、平島公方家も古河公方家も、家はちゃんと続いてるんだけど・・・
159日本@名無史さん:2008/07/24(木) 02:14:45
男系で続いてないとな。四代喜連川昭氏で最後だな。足利氏女の血も
ここで切れた。宮原家から喜連川氏春が入るが、3代で切れ、その後は
加藤家から喜連川恵氏が入り、同じく3代で切れ、細川家から喜連川宣氏
で一代、その後は水戸徳川家から喜連川縄氏で一代、一度宮原に返すも、
また喜連川縄氏(水戸徳川)の子が養子となり、以降は水戸徳川家だな。
確かに、「家」の概念だと続いてるともいうがな。
また、平島はわからんからな。自称の可能性は否定できないしな。
平島の正当性を示す、史料(自称史料でなく)があれば、話は別だが?
160日本@名無史さん:2008/07/24(木) 02:27:08
だとすると、宮原家が古河公方家末裔となるが、江戸時代に宮原家が男系で
続いていたかが、疑問視されるな。
だれか、宮原家の系図を知らんかね。養子が入ってなければOKなんだがな。
161日本@名無史さん:2008/07/24(木) 03:00:15
ですね。たとえば上杉家だが、足利家の家臣であり、足利尊氏の生母の
生家で藤原系ですな。しかし、江戸時代の上杉家は、桓武平氏だな。
つまり、山内上杉家(上杉宗家)を家督相続した上杉謙信とは、上杉家の
家臣長尾景虎だが、長尾家は桓武平氏なのだな。
その後、江戸時代の元禄期には吉良家から養子をもらい家名を存続している
から、上杉家が男系で現在存続していれば、足利系吉良家になる。
つまり、宮原家の出が古河公方家でも養子の取り方によっては、足利支族で
なくなるのだな。
162日本@名無史さん:2008/07/24(木) 04:02:09
阿波公方なぁ華族にでもなってりゃ
もちっと現在の待遇が良くなってるのに
163日本@名無史さん:2008/07/25(金) 15:19:20
明治の時点で、阿波平島家については、その正統性を示す史料に
信憑性がないと判断された可能性もあるな。
阿波の蜂須賀家の加護から離れたことが、そもそもの原因だな。
京に出てしまった平島家の身分を保証できる家が存在しなかった
わけだな。
164日本@名無史さん:2008/07/25(金) 18:14:13
>>152-157
随分奇妙な話だね
足利進悟氏なら5年前に95歳で亡くなっている
義弘氏なら大学教授だから名刺を出せばいい
2人とも金閣寺が会員になっている全国足利氏ゆかりの会特別顧問で
金閣寺の僧侶に面識がないとは思えないんだが
165日本@名無史さん:2008/07/25(金) 18:48:59
>>160
Wikipediaによると、血はつながってるんだが女系でつないだことがある。
宮原家6代当主の宮原氏義は、杉浦政令の息子。
但し氏義の母は、宮原家4代当主である宮原義辰の娘。
5代当主義真(つまり伯父)の養子になって家督を継いだ。
166日本@名無史さん:2008/07/26(土) 00:54:10
>>165
女系で杉浦政令の息子とは、かなり厳しい話だね。
やはり男系でないとな。
女系まで含めると、日本中のあらゆる氏族が繋がり、
系統がごちゃごちゃとなり、もはや系統自体が意味を
なさなくなるな。今の宮原は、杉浦系宮原家だな。
やはり、現在の足利一族は、庶家の男系で繋がった家
だけとなるのかな。
167日本@名無史さん:2008/07/26(土) 01:07:31
杉浦氏といえば桓武平氏の三浦和田氏だな。
桓武平氏の末裔が清和源氏の古河公方家の分家となる宮原家を
ついだことになるので、宮原家はもはや桓武平氏であり、
清和源氏の足利家の末裔とするには、厳しすぎるな。
168日本@名無史さん:2008/07/26(土) 01:29:09
ですね、確かに鎌倉時代の足利家は代々、桓武平氏の北条家の娘を
正室としているが、あくまで男系でつながっていることが、河内源氏
で「武家の棟梁」としての足利家たる由縁であったわけです。
つまり女系で、しかも嫁にやった娘の子でつないだ時点で足利家の
血は絶えたと考えるべきだと思いますね。
169日本@名無史さん:2008/07/26(土) 19:10:58
>>166-168
うーん、厳しいね。確かに理屈はそのとおりなんだけど・・・

宮原義辰から見れば「次は息子、その次は孫が跡を継いだ」というのは間違い無い訳で、
義辰に訊けば「血はつながってる」と答えるんじゃないのかな。
170日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:50:32
女系であっても、跡取りであることには変わらない
171日本@名無史さん:2008/07/26(土) 22:02:14
女系は、自分が産んだ子に間違えないから系統が確実に残せるけれど、
ミトコンドリア遺伝子が遺伝するから、男系より遺伝病で子孫を残せない
確率が高まる。ウマズメも多いし。
女系国は滅んで男系一世の国が生き残ったという長い経験則が、男系
神話、男根崇拝を生んだのだと思われます。
金山神社のご神体には、男根の巨大石像が多いけれど、男根崇拝は
宇佐神社をはじめ全国に形跡が残っている。
172日本@名無史さん:2008/07/26(土) 23:31:32
>>169 >>170
現代の価値観であったり、宮原家の価値観からすれば確かにその通りだと
思います。しかし、問題は宮原家が古河公方家の末裔として世間の認めら
れるかにあると思うな。
たとえば、最後の古河公方足利義氏は男子を残さず、氏女だけを残して早死
した。このことにより、「古河公方家は断絶した」と当時の世間は見ていた
ことは、その後の近隣の豪族達の動きから明確ですよね。正月の挨拶の儀は
なくなり古河城を追われ、鴻巣御所にて僅か三百貫ていどの所領となりました。
つまり、女系では足利家を継ぐことができなかったことがここに現れている
わけです。足利氏女が上総小弓御所の足利国朝・頼氏兄弟と結婚しなかった
ならば喜連川家の存在さえ無かったのです。
足利氏女が他家(足利系以外)から婿をもらっていたとしたら、当然足利家
の継続は無かったでしょう。
これは、古河公方家の庶家である宮原家にも対比できることで、一度、桓武
平氏系の家にやった娘の子を養子とすることは宮原家は桓武平氏系の宮原家
となったと見るのが自然です。
鎌倉時代に桓武平氏の名門、畠山家の当主が死去した時、正室であり後家
となった北条の娘婿に足利家の男(新田岩松家祖)が入ったことにより
桓武平氏系畠山家は以後、清和(河内)源氏足利支族となったことと同じで
すね。家の継続は世間が決めることだったといえますね。
173日本@名無史さん:2008/07/26(土) 23:46:49
>>171
女は自分の子かどうかがすぐ分かるからな
不妊の原因は現代の医学によればほぼ同数
石女が多いというが実際には石男も多いということだよ
男が胤無しなら女がこっそり胤つけ男との間に子供を産む
昔は男の不妊がなかったのではなく
ほかの男の子供を自分の子供だと信じ込まされていただけ
174日本@名無史さん:2008/07/27(日) 00:35:07
>>172
同感だな。「足利の男」というのは、足利義兼の長子、足利太郎義純だな。
最初、分家の新田家の娘と婚姻し岩松家を興し二男をもうけるが、離縁し
桓武平氏畠山家の婿となったんだな。
つまり、岩松家は離縁したので新田支族岩松家となり、畠山家には婿入り
した(いいかえれば養子となった)ので、畠山家は足利支族となったわけだ。

この時代の武家の養子縁組は、男系社会であるゆえ、家の継承ということ
では現代の婿入りと同じだが、家の乗っ取りでもあるのだな。
母が誰であろうと、杉浦家の男子が継承したのであれば、宮原家は桓武平氏系
杉浦支族宮原家として継承されたと考えるのが歴史的に見て正しい見解だな。
175日本@名無史さん:2008/07/27(日) 01:37:14
>>174
余談だが、室町初期だが、祖が足利太郎義純とする畠山家と岩松家であるが、
おもしろいところでつながってくる。
新田義貞の死後、その遺児であった新田義興が成人し、新田党の神輿となり
鎌倉公方足利基氏に反旗をひるがえすが、鎌倉公方の執事となっていた畠山
国清は、計略により新田義興を滅ぼす。そして、ちりじりとなった新田党を
取りまとめ新田の棟梁となったのが「建武の新政」以来一貫して足利方に付
いていた岩松家だ。
おそらく、同族畠山家の力が働いていたと思われる。
176日本@名無史さん:2008/07/28(月) 03:11:05
岩松家はその後は上杉にべったりになるけどな
177日本@名無史さん:2008/08/24(日) 16:12:31
いま足利って姓の人はどういう人たちなの?
178日本@名無史さん:2008/08/24(日) 16:43:42
>>177
1.喜連川氏の子孫・・・血統的には繋がっていない
2.阿波公方の子孫・・・明治以来平民扱い
179日本@名無史さん:2008/08/24(日) 17:03:01
上のほうに足利支流の高家宮原家は桓武平氏の杉浦家から養子をもらったから、
もう平氏であって足利でも源氏でもないとあったけど、ちょっと極論すぎないか?

鎌倉期ならいざしらず、近世なら本姓の違う家から養子をもらうのは珍しくない。
米沢の上杉家だって、桓武平氏の長尾や清和源氏の吉良から養子をもらってるけど、
寛政重修諸家譜や明治の華族類別録ではもともとの藤原氏のままだぞ。

宮原の場合も、どこから養子をもらおうが源氏の足利支流であることに変わりはない。
180日本@名無史さん:2008/08/24(日) 17:06:41
ただ、宮原も喜連川も江戸時代に他家から養子が入りまくりだから、
鎌倉公方、古河公方系でも、もう足利尊氏の男系子孫は残っていないのかな。
181日本@名無史さん:2008/08/24(日) 19:14:58
江戸時代は本姓の違う家から養子が入っても、養子を迎えた家の本姓は変わらない。
源氏の家が平氏から養子を迎えても、本姓が平氏に変わったりはしない。
182日本@名無史さん:2008/08/25(月) 00:26:49
足利は明日香と同根。
183日本@名無史さん:2008/09/04(木) 17:55:14
畠山の話が出ているので少し。
畠山重忠の死後、後家の北条時政女と足利義純が婚姻して家名を
継いだのは、家督を継いだのではなく、名跡を継いだだけ。

本姓は源氏を貫き、家名と御家人の格のみを継承し足利一門としての家格を保った。
しかし、一門とはいえ畠山家は足利宗家の支配下や家人ではなく独立した御家人として
存続したので畠山家としての独自性を保った。
足利家としても、代々長男が嫡男とは限らない世代交代が続いたが、庶長子は吉良といい、
斯波といい足利家の家の子ではなくれっきとした御家人として優遇されているが、畠山の
場合も多少の事情の違いはあるとはいえ御家人格が付与された。

後に、三管領を定められるとき、嫡流でありながら名越の女を母とするが故に尾張足利という
別家となった後の斯波氏が三管領筆頭となったのに対して、畠山が第二席となったのは、細川が
畠山義純が庶長子の家系であり独立した御家人であったことも大きい。
それに対して細川家は鎌倉時代、足利家の家人に列に降り、御家人ではなく足利家中の有力一門
ということから他二家とは事情を異にしていたといえる。
184日本@名無史さん:2008/09/09(火) 04:40:51
話しは飛ぶがさ、自称成氏後裔の蔭山氏だが、お万の義父(実父説有)氏広が北条幻庵の曾孫を正室に迎えて後北条と女系で繋がってるんだな。
鎌倉御家人、室町奉公衆と余所の国人にも同族っぽいのがいるあたりからすると、
粟生氏族ってのを考慮しても仮冒しなけりゃけっこうな旧家だったのな。
先祖の誰かがうまいことやってれば朝倉みたいになれたのにもったいなす。
仮冒したお陰で今じゃ戦国末期の馬の骨大名並みかそれ以下の貴種性だもんな。
徳川もちゃんと氏姓しかも朝臣姓があったんだったら、それを捨てるなんてよくよく考えりゃもったいないことしたよな。
ここまで書いたらスレ違いか。
185日本@名無史さん:2008/09/09(火) 22:30:53
ばれないと思ったんじゃね。
186日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:41:12
ばれても、しらばくれきれると思ったんじゃね。
187日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:01:55
今度の報ステのコメンテーターは?
188日本@名無史さん:2008/09/14(日) 17:32:56
畠山重忠公 以前の家の子 郎党は 安堵されたということかな?
189日本@名無史さん:2008/09/14(日) 20:01:06
新田義貞の子孫は=家康
190日本@名無史さん:2008/09/14(日) 22:30:48
実は平将門の血をひく、ガド族出身の家康
191日本@名無史さん:2008/10/02(木) 14:37:11
でシンゴは養子だったのか?
192日本@名無史さん:2008/10/03(金) 19:53:00
喜連川氏の歴史を扱った本が出たが、その中で紹介した喜連川騒動の
重要人物、万姫が主人公の萌えアニメを作って欲しい。
193日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:11:01
>>192 その本の詳細希望!教えてたもれ
194日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:22:15
山下昌也 「日本一小さな大大名」 グラフ社

喜連川氏の歴史を、秀吉の時代から幕末まで描いた本。
江戸時代の「足利氏」の通史、入門書としては最適。
巻末には、参考文献も載っていて2倍お得だけど、個人的には
明治以後の足利子爵家の苦労も載せてほしかった。

聞きなれない出版社だから、書店で買うときは早めにね。

195日本@名無史さん:2008/10/03(金) 20:47:22
横田氏について教えてください。
196193:2008/10/04(土) 05:03:25
>>194
ありがとうございます。
さっそく予約します。
2ちゃんしてて良かった。゚(゚´Д`゚)゜。
197日本@名無史さん:2008/10/04(土) 17:17:15
>>180
宮原は足利尊氏の子孫だよ。女系だけど。
幕末に養子を貰ったけど、足利聡氏が宮原家に戻って家督を継いだから。
198日本@名無史さん:2008/10/19(日) 16:40:16
足利聡氏は、明治維新後に宮原家から喜連川家の家督を継いだ養子だな。
つまり、12代足利縄氏が徳川姓に戻り、喜連川家を宮原家の聡氏に返し、
13代喜連川聡氏が足利聡氏に改姓したんだな。しかし、彼も男子がなく
また、徳川縄氏の孫に相続させたんだな。

だから、男系で考えると喜連川家は水戸徳川家の系列家系であり、
宮原家は、桓武平氏系杉浦家系なんだな。残念。
199日本@名無史さん:2008/10/19(日) 17:53:28
グラフ社 「日本一小さな大大名」山下昌也

だが、喜連川騒動の重要人物に「万姫」を出しているところから予想すると
十分な史料検証もせずに書かれた本だと思われる。喜連川騒動の真実は、
下記のページを見ると分かるよ。
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-yuisyo-yaku.htm

平成19年発刊『喜連川町史 第三巻 資料編3 近世』の「足利義氏家譜」
にも記録されているな。高野修理と梶原平右衛門が逆臣で、この二人に乗せられた
のが義民とされる「五人の百姓」であったことが真実だな。

しかも、旧喜連川町発刊『喜連川郷土史』の「狂える名君」と『喜連川町誌』の
「喜連川騒動の顛末」は明治44年と昭和54年の二人の筆者による歪曲・改ざん文章
であったらしい。たしかに史料となる「喜連川御家」(五人の百姓家の家伝書)
では、三代喜連川尊信の押籠理由は「生来、気性が荒い方であったので」としか
記録されていないのに、これを史料とした二人の筆者は「偽狂乱」として書いてい
る。つまり、筆者は、他の史料にも当っていたが「狂乱の事実」を示す史料ばかり
で、「喜連川御家」(百姓家の家伝書)を否定するものあるので、自ら都合よく
「偽狂乱」として歪曲改ざんしたことは、明白だな。

200日本@名無史さん:2008/10/19(日) 22:03:49
喜連川一色家氏乙!
201日本@名無史さん:2008/10/20(月) 16:54:48
>>199さんへ

まさに「目からうろこ」でした。史料にはあたってみるべきですね。

さっそく、おわらい目的をふくめ「日本一小さな大大名」山下昌也署
を購入してみます。しかし、「喜連川町誌」はあてにならない文献ですな。w

2チャンネルみてて徳しました。よい話のネタになりました。w
202日本@名無史さん:2008/10/21(火) 15:36:25
>>199さんへ

貴重な情報ありがとうございます。今まで喜連川騒動について
町史等により洗脳されていたことが、こっぱずかしくなりました。
感謝です。
メインページの「喜連川騒動の一考察」も拝読させていただきました。

http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-soudou.htm

私も目からウロコが落ちた気分です。喜連川町史編纂委員会と戦うなど
さすが喜連川一色家さんですね。幸手より
203日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:54:45
>>199
名誉を守るのは大変ですな
204日本@名無史さん:2008/10/22(水) 02:30:12
確かに明治時代の役場職員というのは、特に地方では下級士族と平民
で構成されていることが多いからな。あの頃の町史作成は地元中心の
都合主義で編纂されたものが多いね。正しい史料を保有する上級士族
は皆都会に出て新しい事業を始める家がほとんどでしたからね。
しかし、百姓家の家伝書から喜連川家の騒動記述を書いちゃった明治の
「狂える名君」の筆者は誰だったのかね。はずかしすぎだな。
これに追従しちゃった昭和の筆者とグラフ社の新刊「日本一ちいさな大大名」
の筆者はさらに恥だな。歴史でメシ食ってるプロの仕事とは思えない
作品だな。
それに、喜連川は御所様が住む宿場町だから明治維新により東北の大名家
の参勤交代がなくなれば急激に衰退し資産に余裕のある上級士族が喜連川
を離れたことも歪曲文献発刊の原因の一つでもあるが、
プロならこの辺の事情は当然知った上で史料検証してから執筆するのが
常識だね。
205日本@名無史さん:2008/10/22(水) 15:48:46
同感だな。喜連川にはこんな話が残っているそうですね。
江戸時代の喜連川の宿は奥州街道にあるので、東北の大名は皆、参勤交代の時
御所様詣でを兼ねて宿泊したので大変にぎわっており、当然伊達家の宿泊の時
は格別だったそうです。しかし、伊達家においても財政難の時があり、経費の
かかる喜連川詣でを退避すべく、迂回して江戸に向かった時があったそうで、
この時、喜連川の御所様は、参勤交代の任もないのに江戸に出向き江戸城内で
伊達藩主を待ち構えチクと皮肉を言ったそうですな。
つまり、明治維新により喜連川の衰退は当然であり、このような時代の変換期
に編纂された町史「喜連川郷土史」は下級士族達により作られた史料検証もな
い文献であること、また昭和52年の「喜連川町誌」もこれらの下級士族や平民
の子孫による文献であることは明らかですね。市町村役場への就職にはコネク
ションが現在でも必要なことは常識ですよね。だから、まともな歴史作家は
市町村史だけでなく一次史料の検証もしてから執筆しなくちゃいけないし
皆そうしているはずだな。
それに、この逸話もおそらく「日本一小さな大大名」には書かれていると
おもいますが、喜連川騒動事件の重要人物に史料にて検証できない「万姫」
が登場する話を書いちゃ・・・。執筆者の山下昌也氏、はずかしすぎますね。
206日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:31:33
喜連川一色家氏乙!
207日本@名無史さん:2008/10/23(木) 14:19:22
>>204
明治44年の「狂える名君」昭和52年の「喜連川騒動の顛末」の筆者ですが
旧喜連川町誌編纂委員会は発表していませんので残念ながら不明です。
しかし、昭和52年の『喜連川町誌』の町誌編さん委員会のメンバーは巻末
に記録されており、「文化財保護審議会委員」のなかに高野・高塩姓の
人物名が確認できます。歪曲文章「喜連川騒動の顛末」に登場する直訴派
の重要人物の姓です。
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-karoku.htm
上記、資料をご確認ください。3枚目の写真資料です。また、高野氏
の先祖は、高野久平・高野角平で厩番(禄高六石)で、平成19年に発刊
された『喜連川町史 第三巻 資料編3 近世』に載せられた史料
「喜連川家分限帳」(407名を記録)にて確認できます。
厩番とは二本差しの家臣ではなく、奴(やっこ)としての家臣で、
明治維新により、下級士族として登録された家です。明治維新に
より、多くの上級家臣が離れていった明治の喜連川町の役場職員
は、このような下級士族が管理職を勤めたことは当然のことです。
明治維新により平民(百姓・町人・商人)が職を失うことはない
からです。

しかし、「日本一ちいさな大大名」ですか?こんな本が発刊されて
いたとは。さっそく購入し山下昌也氏に間違いを指摘させていただ
きたく思います。>>194さん、貴重な情報をありがとうございます。
208日本@名無史さん:2008/10/23(木) 17:08:51
わらわせんな
209日本@名無史さん:2008/10/23(木) 17:54:30
なにやら、喜連川騒動事件の文献「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」の
執筆者探しで盛り上がっているようなので私も参加させていただきます。

一色さんのページを使わせてもらますね。

「狂える名君」http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-kurueru.htm
>>199で紹介された「喜連川御家」(五人の百姓の家伝書)では、高野修理より
梶原平右衛門のほうが重要人物として書かれているが、「狂える名君」では高野
修理のほうが重要人物として書かれていますね。3代尊信の時の狂乱事件を
4代昭氏のこととして書かれてもいますね。つまり、明治の筆者は古文書
「喜連川御家」の存在をおそらく知らなかったんだな。
なんらかの形で、町内に伝わっていたんだな多分。文書があれば「喜連川町史
第三巻 資料編3 近世」に当然載せられるはずだな。だから口伝だな。
でこの口伝を流した人物はだれかだな。おそらく国老の二階堂か五人の百姓の
子孫または、喜連川家に幕末のころ仕官した高野姓の人物が五人の百姓の子孫
から聞いて、高野修理を自分の先祖のことと誤解して仕官の材料にでもしたんだな。
なんか面白くなってきたね。w
210日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:14:50
>>208
これだけの証拠がそろっているのに「わらわせんな」とは?
君はおそらく、偽直訴派か歴史捏造派の子孫だね。

最後屁ということで許してやろう。www
捏造はよくないぞ。新さくら市から事件関係史料が公開され、調べは
ついてるのだからしょうがないじゃんw

そうそう、旧喜連川町の編纂担当職員だが、さくら市となった現在
左遷されたと聞いているよ。www
211日本@名無史さん:2008/10/23(木) 23:00:25
喜連川一色家氏自演乙!
212日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:18:43
>>207
こちらこそ、参考にしていただき、ありがとうございました。
詳しい内容や引用は、こちらが誤読しているといけないので避けますが、
「日本一小さな大大名」の喜連川騒動は、「第3章 名君か、珍君か」(幽閉された悲運の御所さま)の中で、「喜連川家由緒書」、「喜連川騒動の顛末」に基づき
(万姫の直訴を含む)喜連川騒動の概要を紹介した後、著者が考察しています。
巻末の年表には、正保4年、「娘・万姫を担ぎ、幕府に直訴する」とあります。
また、天保5年に、当時の藩主が「領内を巡回し、正保年間の功労者の子孫に木杯を」与えています。
 著者は、本の最後に「喜連川在住の郷土史研究家で、元・喜連川町史編纂専門委員」から史料の提供
と示唆を受けたと述べていますが、この人が>>210の「旧喜連川町の編纂担当職員」と同じ人でしょうか。

>>192 喜連川騒動の 重要人物、万姫
 ここで言う「重要人物」とは、「喜連川騒動騒動を語る上で不可欠な人物」という意味で使いました。
当時の人が今よりも早く大人になるといっても、10歳にもならないよう幼児が主体的に行動できるわけがないので。

このような問題を抱えた「日本一小さな大大名」ですが、やはり「貴重な本」ではないでしょうか。
江戸時代の小藩の通史、有力な一族のその後をまとめた意味だけは評価したいです。












213日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:56:11
>>212
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-yuisyo-yaku.htm
上記のページに、事件の真相は書かれています。

山下昌也氏に資料提供した人物と編纂担当人物はおそらく別人物でしょう
当人なら「喜連川町史 第三巻 資料編3 近世」と「喜連川町史 第五巻 喜連川文書」
も提供したでしょう。
であれば「喜連川義氏家譜」・「老中連署」(松平忠次に宛てた事件評定の報告と3代尊信の
押籠の為の人員要請・二階堂又市を江戸に召還している件など)・「一色刑部に宛てた土井利勝
からの文書」(二階堂主殿助を尊信の名代として正月の挨拶に行かせる件を了承)などにも目を
通し、事件の真相に近ずけたことでしょう。百姓の私文書より公的文書のほうが、事件の真相を
語っていることは当然ですよね。

最後に、「日本一小さな大大名」の評価ですがまだ、注文している状態ですのでコメントは、
拝読後に入れたいと思います。

214日本@名無史さん:2008/10/24(金) 03:12:31
そうそう、木盃の件がありましたね。それを示す文書(もんじょ)が
「喜連川町史 第三巻 資料編3 近世」に載ってないのです。
編纂担当職員は、喜連川町として最後の編纂になるので、所有する
全ての文書を載せました。といっていたのにです。
つまり、昭和52年の「喜連川町誌」の年表記述には、疑念をいだかずに
いられず。おそらく「改ざん」と睨んでます。

また、喜連川町のホームページには「喜連川町誌」の年表が載せられて
おり、事件関連記述や木杯の件も記録されていたのですが、現在のページ
では、事件関連記述は修正され削除されています。

「旧喜連川町の歴史」
http://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/k-nenpyoutml.htm
215日本@名無史さん:2008/10/24(金) 03:24:15
追伸
義民に賞与された木杯の件ですが、明治44年の「狂える名君」
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-kurueru.htm
の最後の文章を昭和52年の「喜連川町誌」の年表に当て込んだ
だけのようですね。
216日本@名無史さん:2008/10/24(金) 03:48:54
中学時代に足利という名字の奴がクラスにいたが、あれも子孫なのかな?
217日本@名無史さん:2008/10/24(金) 11:34:32
>>212
百姓家の私的家伝書「喜連川家由緒書」(正式な表題は喜連川御家)でも
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-yuen.htm
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-yuisyo-yaku.htm
「喜連川騒動の顛末」でも万姫の直訴は慶安元年(1648年)ですよ。
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-tenmatu.htm

仮に1647年(正保4年)だとしたら事件評定は同年中に終了していましたね。
喜連川文書http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-monjyo.htm

の文書「白河藩主松平(榊原)忠次に宛てられた3通の幕府老中連署書」
が一次史料としてこのことを示していますね。
218日本@名無史さん:2008/10/24(金) 14:15:59
>>217
 「大大名」の巻末の年表では、
正保4年
「筆頭家老の一色刑部らが藩主尊信を幽閉。お家騒動となり、(略)
幕府に直訴する」
とあります。
 本文では、「尊信が一色たちによって幽閉される」年を正保4年、「謀議を重ね幕府に訴えることにした」年を
「慶安元年」としていることから、(弁護するとすれば)年表の編集の都合上
、直訴の年だけを記載しただけかもしれませんが、別々に記載した方がよかったと思います。

喜連川騒動に詳しくない人が見たら、一年で解決したと誤解する恐れがあるので。
219日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:02:50
「押籠」を「幽閉」と表現を変えることも歪曲になることをきずいて
いただきたいですね。
「押籠」はその時代の専門用語です。調べればすぐにわかりますよ。
「幽閉」とすると、尊信は幽閉中に、4代昭氏を側室との間で、
次男氏信を正室との間に作ったことになりますね。ww
「寛政重修諸家譜」では、昭氏と氏信の生母は同じとなっていますが
実は違います。昭氏の生母は欣浄院殿は昭氏を生んで二ヶ月後に死去
してます。次男氏信は事件解決の二年後に生まれていますので、幕府
も認める押籠中に尊信は正室との間に氏信を作ったのですね。

これで、わかりますね。4代昭氏は側室の子で慶安元年の事件解決で
喜連川藩4代主当主となったが、その2年後に正室の子氏信が生まれた
わけですよ。察しが良いかたならこの歪曲の理由も理解できますよね。

喜連川家安泰の為ですね。
220日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:10:19
山下昌也は恥だな。「日本一小さな大大名」買わなくてよかった。

「喜連川町史第三巻資料編3近世」と「喜連川文書」の方が買いだな。
221日本@名無史さん:2008/10/24(金) 16:37:49
>>220
そのほうが、良いですね。私は歪曲文献の証拠資料として
「日本一小さな大大名」を買うつもりです。w

それと、この事件にかかわる二階堂主殿助は二人いたことが
わかりますよ。寛永十八年に狂乱中の喜連川尊信を押し込め
とした、三家老の一人でした。「喜連川文書」に関係文書が
残されています。そして、偽直訴と事件評定前に死去して
います。つまり、評定時の三家老の一人であった柴田久右衛門
は、その代わりに家老として抜擢された人物です。
そして、父二階堂主殿助の死去により15歳であった二階堂又市
が元服し二階堂主殿助を名乗ったわけです。
そして、この二階堂又市は、幕府評定所に招寄せられて吟味さ
れていたことも、「喜連川文書」の幕府老中連署書から、確定
され、「及聞秘録」の正しさ、「喜連川騒動の顛末」等が歪曲
文献であることがわかりますよ。
「喜連川文書」(事件関係文書の抜き出しページ)
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-monjyo.htm
「及聞秘録」(筑波大学中央図書館所蔵文書、事件関係文書の抜き出しページ)
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-oyobi.htm

「町史 第三巻 資料編3 近世」の「喜連川義氏家譜」も確認
してください。これも喜連川騒動の真実を記録した証拠文書です。
「喜連川義氏家譜」(事件記述部分の抜き出しページ)
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-heizu.htm

222日本@名無史さん:2008/10/24(金) 23:37:02
「日本一小さな大大名」が本日書店から入庫した旨、連絡があり
さっそく購入、拝読させていただきました。
この本についての前言を少々撤回しても良いかな?という気持ちでは
あります。先に「喜連川騒動の顛末」の紹介があり、その後事件記述
に対する疑問点ということで、多くの文章が追加されていましたね。
で、つくずく感じたことは、筆者である山下昌也氏は歴史に対して
公平なバランス感覚を持たれた方であり、歪曲派ではなかったこと
にホットしています。また、殆どの追加疑問記述に私の「喜連川騒動
における一考察」の観点を使っていただいているようですね。
山下昌也氏に教授した旧喜連川町史編さん専門委員であった新井氏ですが
、当家から江戸時代に数人の養子を送った、元町役の家の近所に住んでる
方ですね。直接は知りませんが元町役の家に「喜連川騒動における一考察」
のページの一部をお渡していること、この元町役の家の方の歴史の先生が
彼です。また、旧喜連川町編さん委員会の役場職員の方にもお渡しして
いますので、論点と表現手法が類似することはやむおえないと思っても
います。しかし、「喜連川騒動における一考察」ページには、私のメール
アドレスと住所氏名を載せていましたし、現在も載せております。
考察の正等性に自信があるからです。本の末部の参考文献に載せていただけ
なかったにしてもせめて、出版前にでも一報いただければとも感じておりま
す。ついでに「及聞秘録」の記述も紹介いただけたらとも。
喜連川一色家より
223日本@名無史さん:2008/10/25(土) 08:35:41
『日本一小さな大大名』第三章「名君か、珍君か?」についてもう一言
筆者である山下昌也氏は、先に私が開示した「喜連川義氏家譜」の末尾に記録された
喜連川騒動事件記述に関しても記述していますが、実は私のページにある通りで二つ
の文書と池之端の月桂寺で聞いたことが記録されています。しかし、山下氏はこの内容
を同系譜内に連続して記録されている続撰系図の記録を省略しています。ここでは、
二階堂主殿助の預先が本多能登守と記録されています。(先記リンクで確認ください)
そして、筆者の山下氏は文書内容を省略したうえで喜連川家があえて事件の詳細を
知りながら明らかにしていないかのような表現で解釈しています。しかし、3つの
事件記録を残したことから当時の喜連川家でさえ事件の詳細を知らなかったことが
解るはずです。また、文書記録内で「尊信は長いあいだ参勤しないでいた。」の記録
は1〜2年ではなく寛永十八年(1641年)〜慶安元年(1648年)の7年間です。
喜連川家には参勤交代の任がなく、年始の挨拶に江戸に行くだけだからです。
また、二階堂主殿助は次席家老です。(「喜連川文書」)押籠の慣習は家老全員の
合議によって執行されるからです。このへんの常識を知らない筆者山下氏でもないはず
ですから、「日本一小さな大大名」を執筆する過程で旧喜連川町の編纂委員の
情報提供は不可欠であることから、旧町の歪曲を明かすような記述をわざと避けて
いる形をとっているからと、私は理解していますよ。喜連川一色家より
224日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:06:28
そもそも、7年にわたって偽発狂を装える神経の持ち主がいたとしたら
人類には破ることが出来ないギネス記録ですね。
そして、慶安元年の二階堂主殿助が次席家老であった二階堂又市(15歳)
の父であったなら、幕府の命に従い伊豆大島に行っていたでしょう。
つまり、二階堂主殿助(又市15歳)は、自分の父の意向を理解できずに
高・梶原等の直訴派に担がれてしまったと解釈するのが筋ですね。
ゆえに、幕府は一色刑部等三家老を徳川家光の遺言でもあったのでしょう。
彼の十三回忌にあたる1662年頃に彼等の家を主取りで再興したのですね。
しかし、二階堂又市は許されませんでした。彼が幕府への4代昭氏の願い
により帰参したのが事件の22年後です。このきっかけは、4代昭氏の母違い
の弟(正室の子氏信)の20歳での病死であるとにらんでいます。つまり、
第二の喜連川騒動の種が消えたからですね。
225日本@名無史さん:2008/10/25(土) 09:15:02
同じく、高修理(四郎左衛門)・梶原平右衛門の二人が許されなかったこと
は、http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-karoku.htm
にて、理解できますよね。古河・上総派ともに彼等の子孫が確認できない
からです。喜連川一色家より
226日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:32:54
そして、喜連川騒動事件により浪人した一色五郎左衛門(刑部の実弟)
は、その後帰参して右兵衛督(尊信)・右衛門守(氏信)の近習になり
その後、旧兄刑部宅・旧金右衛門宅・旧自宅の3軒の宿屋を始め、商人
となりました。家格は足利家親族ですので兄刑部同様、喜連川では家老職
を凌ぐ家格です。戦乱のない江戸時代であり喜連川家は徳川家の家臣では
ないので、武家であることに拘る必要もなかったのです。
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-negisi.htm
を参照ください。
また、一色右衛門佐氏久(下野守)・一色刑部少輔の墓は古河徳源院と
喜連川の龍光寺にあり、過去帳の刑部の項には「伊豆大島ニテ死去」と
記録されています。死去年は3代尊信の後で明暦二年です。
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-kainyou.htm
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-itusiki.htm
を参照ください。喜連川一色家
227日本@名無史さん:2008/10/25(土) 12:40:04
ついでに、鎌倉・古河・喜連川と続く喜連川一色家の動向ですが
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregaw-ittusiki-02.htm
を参照ください。喜連川一色家
228日本@名無史さん:2008/10/25(土) 17:13:48
>>204
>確かに明治時代の役場職員というのは、特に地方では下級士族と平民
>で構成されていることが多いからな。

喜連川の場合、家老の黒駒家が戦前まで地元に残ってた。初代喜連川町長も黒駒家の出。
だから、そんなに滅茶苦茶な町史にはなってないはずだと思う。
229日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:16:46
知ってますよ。黒駒さんの墓は当家の墓の隣だからね。
ただ、史料にあたればそうなるのですよ。喜連川で生きるには
過去の身分制度が無くなった時代です。幕末の二階堂事件じゃ
ないですが、多勢に無勢(ことば間違えたかな?)で「長いもの
には巻かれろ」で自家の先祖に害がなければ黙認が筋ですよ。
それよりも票集めのほうが優先ですね。w
230日本@名無史さん:2008/10/25(土) 18:46:20
それに、「尊信派が3代尊信を隠居に追い込む話」を誰が信じますか?
「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」・「喜連川家由緒書」(五人の百姓家の
家伝書で表題「喜連川御家」)はすべてそういう話だったのですよ。
231日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:20:50
232日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:32:06
水野騒動http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E9%A8%92%E5%8B%95
ここは、足利家親族で徳川家親族。そして一色刑部の嫡子一色左京の客分での
再興された家ですね。喜連川騒動を経験した一色左京から事件の真相と経緯を
聞いていた家臣達の知恵ですかね。先に幕府に報告しておけばお咎めなしです。w
233日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:52:49
徳川家康の生母「おだいの方」(字がわからん)の生家ですな。
水野下野守が兄でしたかね。
234日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:26:21
「日本一小さな大大名」第三章「名君か、珍君か?」でしたっけ。

評定に立ち会った老中の中に「大老酒井忠勝」が記述されていますが、
「喜連川騒動の顛末」では「酒井雅楽頭忠勝」で「狂える名君」では
「酒井雅楽頭」でしたね。百姓の家伝書「喜連川家由縁書」も同じ。
しかし、酒井忠勝は讃岐守ですよ。w
「酒井雅楽頭」といえば「酒井雅楽頭忠世」ですね。4代将軍徳川家綱
の時に老中になった人物ですね。w
喜連川騒動は慶安元年(1648年)ですから、3代家光の時です。w
山下昌也氏は、この点を指摘してませんね。
つまり、たばかれたわけですかね。w
235日本@名無史さん:2008/10/26(日) 01:08:22
「日本一小さな大大名」著者、山下昌也氏へ
「喜連川文書」江戸幕府老中奉書3通の訳文ですが、私の「喜連川騒動における
一考察」で紹介している「喜連川文書」の私の訳を採用していただきありがとう
ございます。この訳は、私の事件当時の幕府体制や松平忠次が白河に居たのでは
なく、当然江戸藩邸にいたこと、喜連川尊信が喜連川にて押籠められていたという
当然の背景から想定した訳であり、かつ文書本文内容には忠実に訳したものであり
私のオリジナルです。
同時に、「栃木県立博物館の研究員の訳」と「喜連川町史 第五巻 喜連川文書 上」
の訳も紹介していたのですが、その曖昧さと旧喜連川町側に偏った訳であること
に気付いていただけたことと思います。
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-monjyo.htm
また、旧喜連川町発刊「喜連川町郷土史」「喜連川町誌」の事件記述と「喜連川家由縁書」
(百姓飯島平左衛門(佐野越後)佐野家文書)の事件記述に対する、疑問と謎を記述した
記述部(喜連川義氏家譜の事件記述・喜連川文書の江戸幕府老中奉書3通の解析手法と論調
・徳川実紀(大猶院殿実記)の慶安元年七月三日条の紹介と論調そして、「最大の謎」部の
一色刑部の動機の論調や由比正雪事件の採用など多数の私の「喜連川騒動における一考察」
を参考にしていただいていることが理解できますね。ただ、私にはこの本の発刊を知らされ
ていなかったことは残念ですね。喜連川一色家より


236日本@名無史さん:2008/10/26(日) 10:09:07
「日本一小さな大大名」の第三章の幽閉された悲運の御所さまの
「喜連川家由緒書」や「喜連川騒動の顛末」などを元にしたもの
 だと著者山下昌也は先のストーリー最後に記述しているが、
何かがおかしい。直訴決行にあたり二階堂主殿が江戸に向かって
いたり、五人の百姓(喜連川家(嶋子)の為に改易となった
旧塩谷家家臣)が自主的に直訴派(反一色派)の為に駆けつけて
くる彼等の狙いは実は喜連川家の改易が狙いなのか?)。
「尊信の命令書」の書付日付の矛盾や幕府老中達の実在の矛盾など
指摘がたりないな。
http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-kurueru.htm
上記ページは「狂える名君」の原文ページだが、疑問点を考察
する上で「喜連川騒動の顛末」(原文)「喜連川義氏家譜」の
事件記述(原文)、「喜連川家由縁書」(原文)もリンクさせ
てあり、五人の百姓の本当の由来を示す喜連川家の公的文書
「長百姓書上」(原文)も載せられている。
この山下昌也氏の本の創作ストーリーを読んだら、これを参照
したらいいな。旧喜連川町史編纂専門委員の教授をうけた彼の
しがない不本意であろうさらなる「創作ストーリー」との相違
が見えてくるよ。ww
237日本@名無史さん:2008/10/26(日) 11:16:32
家が断絶してしまうとこういうことになる
ぽまいらも子孫は残しておけよ(`・ω・´)
238日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:28:00
>>230
「喜連川家由縁書」と明治の「狂える名君」と昭和の「喜連川騒動の顛末」は
史料検証するまでもなく、著者の名前も明記しない無責任な物だから、
歴史的資料としての価値はゼロだな。この事件は喜連川一色家さんに聞いてか
ら執筆すべきでしたね。
239日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:54:47
喜連川一色家さんのページで主張されるように、「尊信の命令書」の日付けは
矛盾してますね。また「喜連川家由縁書」では「相達(あいたつ)」、他の
明治以降の資料では「相連(あいつれ)」、書付日付から考察すると「相達
(あいたつ)」が正しいようですね。しかし、旧喜連川町は強引に「相連
(つれ)」に改ざんして、万姫登場とつなげる歪曲手法がみえみえでしたね。
旧喜連川町は醜いですね。つまり、「この度、江戸に用事もうし付け候、
首尾よく(目的を)たっせれば」のほうが自然ですね。
「正保四年八月十日」ですから百姓だけで江戸に行った時の日付ですね。
これが仮に「慶安元年八月十日」の間違いであったとしたら、
万姫達の江戸での評定が、終わってから書かれた「尊信の命令書」となり
お笑いですね。www 万姫が直訴するストーリーは明らかな改ざんですね。
240日本@名無史さん:2008/10/27(月) 01:56:30
>>230 >>238さんおよび他の方々へ
私のページ「喜連川騒動における一考察」の主張をご理解いただきありがとう
ございます。しかし、少々誤解があるといけませんので念のため申し上げさせ
ていただきたく思います。「喜連川家由緒書」・「狂える名君」・「喜連川
騒動の顛末」は、改ざん・歪曲文献であることが判明しました。とはいえその
全てが信用できない記述であるとは、私は考えておりません。つまり、歪曲・
改ざん記述部分を史料と照らし合わせ明確にすることで、史実を判明させたの
が「喜連川騒動における一考察」です。人は弱いもので、その時その時の自分
立場や生活環境に応じて自分を守り、世間体を守り生きていくために史実を記録
しつつも、自分の不利になることには、改ざんや歪曲記述を含めてしまう方も
多少なりともいることは当然のことだと思っています。記録を残していただけ
たことが事件の真実にたどりつく唯一の架け橋だからです。ですから故人も含め
感謝しております。幸い公的文書も多々残っていたことから事件の真相に近ずく
ことができたかと思っております。喜連川一色家より
241日本@名無史さん:2008/10/29(水) 14:52:23
寛永十年(1633年)「長百姓姓名書上」(元塩谷家家臣で百姓・町人となった者)
にある、高野(たかの)鴨左衛門と高野(たかの)加茂左衛門から、
年月不明「喜連川家分限帳」(記録にある家臣たちの姓名から幕末の頃)にある
高野(たかの)久平・高野(たかの)角平、ともに厩番(うまやばん)六石は
つながってるな。
明治の「狂える名君」の筆者だけど、高野修理(本当は高(こうの)修理)を
やたらヒーローとして書きすぎだな。(編纂者に高野姓の人物有り)
で、現在は、高野姓をなんと呼んでるのかな?w
「たかの」と「こうの」のどっちかね。恐れ多くも「こうの」なんて自称して
なければよいのですがね。www
242日本@名無史さん:2008/10/29(水) 15:20:24
しかし、五人の百姓の一人で、「喜連川家由縁書」を書き残した
飯島平左衛門(旧姓佐野)はたいしたものですな。この時代に文字
が書けたわけですから、旧塩谷家の祐筆でもやっていたのですかね。
自分の由緒書きを、一番詳しく書いていますな。wそのうえ、
自分の出目を「上総からのお着きの者」とごまかし、同僚の関平三郎の
武勇伝をかってに拝借しているところなんぞ、人間くさくておもしろ
い家伝書でしたな。w しかし、他の四人は彼が何を書いたかなど
しらなかったんでしょうな。w

明治の「狂える名君」の筆者は、佐野家の文書である、「長百姓姓名
書上」・「喜連川家由緒書」を呼んで、このストーリーを書いたこと
は「尊信の命令書」を載せていることから決定でしょうな。
しかも、本来三代尊信の事件であることを知りながら、四代昭氏の事件として
ぼかせ、「よくわからんが」のイメージを織り込む手法ですな。w

喜連川一色家さんの主張は、正しいとおもいますな。w
243日本@名無史さん:2008/10/29(水) 16:58:36
山下昌也署「日本一小さな大大名」第三章万姫登場ストーリーの歪曲

原文「喜連川騒動の顛末」・「狂える名君」・「喜連川家由緒書」の
ストーリーを紹介していると記述しているが歪曲。改ざんしている。

(1)二階堂又一が万姫の江戸出立前に江戸に向かっていること。
    原文では、出奔(しゅっぽん)中と書かれている。

(2)高野(こうの)修理と書かれている。
    原文では、高野修理だけで、よみかたは書かれていない。

(3)江戸評定に立ち会った老中に酒井忠勝と書かれている。
    原文では、酒井雅楽頭であり、酒井忠清か酒井忠世のこと
    をさしている。(雅楽頭は慶安元年には、まだ若年寄りで、
    彼が老中となったのは、4代徳川家綱の時で、忠勝は讃岐守です。)

(4)評定結果の記述で、二階堂又市の預け先が「榊原式部大輔」と記述。
    原文3文献とも、白河城主本多能登守と記述されている。

山下昌也氏も上記4点の歪曲をしている(改ざんかな)。
旧喜連川町の改ざん勢力に負けちゃだめだな。www

244日本@名無史さん:2008/10/29(水) 18:41:58
足利乙氏(あしかが・おつうじ)
245日本@名無史さん:2008/10/31(金) 13:07:35
現代の武士の子孫が中世の格式を振りかざしてもともとの家臣や一般人の力を使ってピンチを切り抜ける方法ってありますか?
246日本@名無史さん:2008/11/04(火) 15:08:53
つまらん、質問だな。世の中そうやって動いているよ。
歴代、総理大臣や自民・民主党議員の面々をみれば。
昔も今も、基本は変わらずだな。
実社会でも同じでね。いろいろ手心はあるよ。
自分で考えるべきだな。サラリーマンや百姓じゃそれを
感じる機会はないだろうがな。w
247日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:36:03
日本が誇る名家の現当主

・明仁(125代天皇)
・九条道成(藤原氏嫡流)
・足利義弘(清和源氏嫡流・武家棟梁)
248日本@名無史さん:2008/11/11(火) 03:02:00
報ステの一色さんはここ?
249日本@名無史さん:2008/11/13(木) 09:33:27
報ステの一色さんは愛媛出身です。
参考
http://dayzi.com/um
250日本@名無史さん:2008/11/13(木) 17:37:08
愛媛出身なら可能性はあるな
251日本@名無史さん:2008/11/16(日) 09:45:54
俺が足利氏本家だったら、一色家は取りつぶしだ。
足利氏の恥さらし。許すわけにはいかない。
252日本@名無史さん:2008/11/16(日) 15:19:31
251さん恥さらしは「あんた」です。
一族でつぶし合う時代ではありません!!
253日本@名無史さん:2008/11/16(日) 23:00:28
いいえ。
足利氏がコンプライアンス意識の高い氏族だということを示すには、
一色氏は破門するしか手はありません。でないと同類とみなされる。
254日本@名無史さん:2008/11/17(月) 09:15:45
ハハハ〜〜「あんた」から、コンプライアンスと言う言葉がでるとは!!
      お笑い種ですね、意味わかってますか?
255日本@名無史さん:2008/11/19(水) 02:28:50
愛媛の一色なぞ知らんぞ。一色といえば三河・丹後・鎌倉・武蔵・下総・下野・
日立・江戸だろ。四国に一色はいってらんぞ。九州なら隠し種があったかどう
だかだ。一色にサヨはおらん。勝ってに付けた姓だろ。w 明治の戸籍は赤色
だな。w
256日本@名無史さん:2008/11/19(水) 02:38:12
寺の史料から語った、一色か。百姓だな。一族としては認めん!
257日本@名無史さん:2008/11/19(水) 16:04:29
なるほどな。名もない庶民(エタ・非民(今じゃ禁句)なども含む)は、寺の坊主や
博識者に相談して酒井・榊原・本多・井伊なんかは平気で好まれて使われたらしい。
姓だけで出目を判断するのはだめですね。w 
木下・豊臣・加藤などは朝鮮系の者が好んで使ったな。あっちじゃ有名人物だからね。w
また、一色とは、本来地名で荘園を意味する名称だから、たとえば一色村の姓のない
百姓が一色姓を名乗ることもある。
さらに、足利一族の今川・吉良などから庶子として分家し一色姓を名乗る一族もある。

喜連川一色家より。
258日本@名無史さん:2008/11/20(木) 09:52:10
おたく喜連川一色家さんですか!
もし本当に喜連川一色の関係者ならあんたらは
エタとか朝鮮とか差別用語を平気で使う一族ですか!
その上から目線の物言いは一色筋の恥さらしでは・・
259日本@名無史さん:2008/11/23(日) 21:27:43
一色はかなり多い地名だからほとんどが無関係だろうねぇ。
260日本@名無史さん:2008/11/24(月) 21:32:23
で進悟が養子なのか実子なのか調査結果出た?
261日本@名無史さん:2008/11/27(木) 16:25:21
斯波氏支族石橋氏です 一応足利一門に入るはず
262日本@名無史さん:2008/11/27(木) 17:29:31
シンゴは石橋氏だったのか。
263日本@名無史さん:2008/11/27(木) 17:45:47
石橋っていうと何故かDQNなイメージがある。
なんでだろう?
264261:2008/11/27(木) 19:35:44
>>262 いや、自分が石橋氏
>>263 自分自身ではマイナーかつ、面白みも無いイメージが・・・
265日本@名無史さん:2008/11/30(日) 23:43:30
義昭には数人の男子があったようで、義尋は信長の人質となったあと出家して興福寺大乗院門跡を継ぎ、
義在は薩摩の島津氏を頼り永山姓を名乗ったという。
266日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:45:46
義輝の男系子孫を足利ゆかりの会ではどう扱っているの?
267日本@名無史さん:2008/12/02(火) 04:25:54
>>258さんへ
栃木県は、昔から差別がない土地柄で特にそのような認識感情は
ありませんよ。w明治維新からの日本人の姓を語る上でやむおえない
歴史用語ですよ。満州における祖父の会社の支店長の多くは日本人
10人の他18名は朝鮮人や満州人でしたよ。当然従業員はみな現地の方々
で日本人との差別などはなく、みな平等と平和な近代民主主義のために
目的を一つにしており、戦後、彼らが日本にこられた時に、祖父の墓参
りにわざわざ来てくれた方もいますよ。当時の話は彼らからも聞いて
おり満州国は差別のない治安の良い理想郷であったのですよ。
現在の日本の歴史教科書でも、そのようなことは書いてありませんがね。
268日本@名無史さん:2008/12/02(火) 05:07:44
>>267
祖父自慢なら他所でやってね
269日本@名無史さん:2008/12/04(木) 19:16:24
笑っていいとも!に出てた兄ちゃんは??だれ???
270日本@名無史さん:2008/12/05(金) 10:44:57
>>269
誰が出てた?
271日本@名無史さん:2008/12/23(火) 13:14:55
結論

徳川家→大企業役員、宮内庁幹部
足利家→普通の人
272日本@名無史さん:2008/12/23(火) 23:48:18
>>271
喜連川足利家のほうもそうなのか?
273日本@名無史さん:2008/12/25(木) 00:08:13
>>272
有名だけど、先代の喜連川足利家の当主は、有名な学者さんだった
じゃんかいか。
274日本@名無しさん:2008/12/26(金) 09:44:53
那珂川町で発見された「足利家系図」に拠れば今回カトリックで福者として認められた
近畿最後の司祭ディオゴ結城了雪は1636年四国の山中で捕らえられ大阪で穴吊りの
刑を受けて殉教しましたが足利義輝の弟、周嵩の三代目の家系にあたる結城喜太郎朝能の
説が有力で、妹の祐賀は三代阿波公方足利義種の妻となりました。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics050602.html

「寛永十二年亥九月阿州出身平島平八郎伴天連詮議の件」に拠れば2つの出来事がありました。
@不慶伴天連(ディオゴ結城了雪)の探索に幕吏が動き出し、それを知った四代阿波公方
 平島又八郎(祐賀の子)の家来荒井門内が、主人の窮状を救おうと謀をめぐらし不慶の
行方を知っている者を訪ねあて、それが巧を奏して阿波讃岐の国境で、大阪に出張っていた
長崎奉行配下の幕吏に捕らえられたこと。
A祐賀は元和二(1616)年頃、不慶伴天連(ディオゴ結城了雪)の勧めで切支丹になり、
 2〜3年後に蜂須賀蓬庵の御改めを受け、転んだと証言しているが、正保三(1646)年に至って
 切支丹の疑いをかけられ、釈明のための口上書を提出し、さらに大阪で訴人と対決したこと。

祐賀は「元和四(1618)年に転んだ」と申し立て、年寄りで中風気味でもあったので許され、
当主である息子の義次(平嶋又八郎)に身柄を預け、転切支丹としての監視の元に暮らした。
「蜂須賀家文書」に祐賀は転切支丹、息子の又八郎も祐賀本人同然のキリシタン類族とされている。
マニラから秘かに帰国した結城神父から洗礼を受けたのは祐賀、祐賀の娘、祐賀の兄兵庫
(法名如庵)、3代公方義種の家来二、三人であり、祐賀と祐賀の娘は平島に残ることを許され、
兄の兵庫、二,三人の家来は阿淡両国を国払いになっています。
「祐賀宗門落書き留書写」に消息は出てこないが、祐賀の甥勘兵衛は徳島の寺町で殉教。
参考資料(三木計男著 「ディオゴ結城了雪と阿波公方)

長々と書きましたが平島家は足利一門として認められてないようですが、切支丹類族だったことと
何かしら因果関係があると思われますか?

シンポジウム 阿波将軍・阿波公方の末裔 殉教者ディオゴ結城了雪神父の生涯
http://www.takamatsu.catholic.ne.jp/yosei/20070915symposium/20070915symposium.pdf#search
275日本@名無史さん:2008/12/27(土) 00:38:09
周嵩に子供なんていたの?初耳。
276日本@名無しさん:2008/12/27(土) 02:58:44
徳島新聞の記事では、周嵩の孫と記載されていますが、周嵩が死んだ時、
子があったとの記録は見当たりません。

先の本にも、『孫と言い切るのは早計と考えられる。』
『歯切れは悪いが、「系図では、周嵩の家系の三代目」というくらいが穏当な言い方であろうと考えられる』
とあります。

何らかの意図を持って周嵩の血系にした可能性もありますが、妹の祐賀は阿波公方に嫁ぎ
ディオゴ結城は1586年(11〜12歳)に大阪のセミナリオに入学したところをみると
それなりの家柄だったと思われます。ディオゴ結城がローマのイエズス会に送った
ラテン語の文書が残っていますが立派なラテン語だそうです。

カトリック中央協議会のHPの紹介では、父は当時「島の公方」であった足利義助の家臣であると同時に、
その親戚でもあったとなっています。

大阪最後の宣教師ディオゴ結城了雪
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/kibe_187/ohsaka.htm
277日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:16:14
結城ってことは、結城山城守の縁者だとみるのが一番
妥当だとは思うが。それならば、平島公方家と縁があっても
不思議ではないだろう。
278日本@名無史さん:2009/01/05(月) 16:49:10
>>68
超遅レスですがそんときに潰された御家人の畠山重忠の一族は
北に逃れて日本海沿いに南下して500年ほど前から富山に寺を開いて
おりますよ。うちの本家なんですが、畠山家です。
一族郎党殺害されるので、重忠暗殺の時に身を隠したわけですが、
遺髪なども残っておりました。

能登などとは重忠死後、源流畠山に挿げ変わっているため
直接の血縁はありませんが、一族のうちで細々と付き合いは持っています。
東京にある畠山記念館(荏原製作所創業者)などは能登のもので、
富山本家はそことの付き合いがあると話していましたね。
あちら側が正しく足利の血を引いているはずです。

なのでうちは正しくは小紋村濃の紋ですが伝来のものには二引両の
印もあるようです。
279日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:01:28
阿波(平島)公方の子孫って皆さんの中では、「もぐり」なんですか??
現在では、阿波系の子孫(足利性で)しか残っていないんですか??たまたま「足利」って名字の人はダメですよ。
280日本@名無史さん:2009/02/15(日) 15:19:38
sage
281日本@名無史さん:2009/03/10(火) 15:15:10
足利っていえば吉良家もあるが、九州の吉良姓は
秀吉の朝鮮出兵で九州に渡った吉良家の人間の一人かその家臣かが
そのまま土着したのが起こり、って話聞いた事あるがホントかなぁ。
九州に残ることを決めた家臣が出身地の名を名乗るって
ケースだったのかもしれないが。
実際、今いる吉良姓は九州出身者が多いそうだけど。
282日本@名無史さん:2009/03/11(水) 02:16:39
一色の後、細川、斯波、今川、渋川が九州探題を勤めた時の流れならあるかも?ただ、あまり聞かないことだ
がね。今川は吉良の庶家だからそのへんの流れってのはないのかね。?今川が吉良に戻るパターンだけど。

しかし、朝鮮出兵に参加したのは、西条?東条?どっちの吉良の話なの?
283日本@名無史さん:2009/04/12(日) 11:37:39
sage
284日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:10:30
子孫でなく、俺は足利義清の生まれ変わりだ。
285日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:21:53
九州は尊氏ゆかりの地だからね
286日本@名無史さん:2009/04/27(月) 11:56:28
尊氏が九州にいく際、吉良も一緒にいるね
287日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:43:36
【常楽寺と田島氏】

 岩松氏関連と推定される寺院に上田島の常楽寺がある。この寺は真言宗寺院で
明治25年(1892)に円通寺、蓮蔵寺と合併し、寺地を円通寺の太田市上田島に移した。
(:現在上田島は、太田市と新田町に分属)。しかし旧寺跡と墓所が新田町分の上田島にある。
この常楽寺跡には、表のような五輪塔、宝キョウ院塔があり、ここから板碑も出土している。
鎌倉末〜南北朝期の銘文が記されている。・・・・・中略・・・・・
旧暦の8月8日(彼岸)に、常楽時の大檀那のしゃみ仏と結衆(信仰で結ばれた人々)
6人と僧12人で千部経供養のために宝きょう院等を造立し、納経しているのである。・・・・・

(この寺を)、岩松氏関連の寺と考えた場合、岩松氏の有力庶家田島氏関係の寺院ではないだろうか。
田島氏は、岩松時兼の子又太郎国に始まる(新田岩松系図)それ以後の系統は系図上では不明であるが、
鎌倉末期嘉暦3年(1328)に、新田荘東田島村内在家2宇、田2町5反畑3丁9反を売却した
新田遠江五郎妙西(長楽寺文書13)が田島氏と推定される。
常楽寺宝きょう院塔銘文の『妙仏』との酷似に注目しておきたい。

ソース  新田町史
288日本@名無史さん:2009/05/09(土) 02:26:06
足利の祭祀を剥奪した「進吾なる人物」が、平島の養子なのか実子なのか調査結果まだですか?

喜連川足利家、宮原足利家並びに、一門の方々は、足利の祭祀が剥奪された件についてどうお考えですか?
これは、私見ではなく、足利の祭祀は、歴史的に喜連川足利家にのみ許されているのですよ。

スレを汚して申し訳有りません。
若輩者ですが、宮原足利家の血を受け継ぐ者として書き込みさせて頂きました。

以前、書き込みをされた分家の方とお会いする機会が幸いです。
それでは、お互いに頑張りましょう。
289288:2009/05/09(土) 02:29:54
>以前、書き込みをされた分家の方とお会いする機会が幸いです。

[訂正]

>以前、書き込みをされた分家の方とお会いする機会が有れば幸いです。

申し訳有りません。
290日本@名無史さん:2009/05/09(土) 05:27:57
>>288
>宮原足利家の血を受け継ぐ者として書き込みさせて頂きました
いかんなー こんな事を書くからには本当に子孫なんだろうね。
直系男子の子孫であれば胸をはって子孫と言えるが、女系とかなら
血を引いている程度だわな。

291日本@名無史さん:2009/05/09(土) 10:50:05
女系でも子孫は子孫
292日本@名無史さん:2009/05/10(日) 08:47:12
女系子孫は公的には認められない。
明治維新の爵位授与の時、政府は楠木正成の子孫を探して
爵位を授与しようとした。
自称:子孫を名乗る者は多数現れたが、確証がなく結局誰も子孫認定されず。
徳川幕府が楠木家の女系子孫として認めていた甲斐荘氏ですら認定されず。
293日本@名無史さん:2009/05/10(日) 11:23:29
知らない人がけっこういるみたいだから言うけど、
普通、母系は「先祖」って言わないからね。
294日本@名無史さん:2009/05/10(日) 11:52:11
>>293
そりゃ、明治時代だったら認められないだろう

女系で繋がれた養子なら認められるが

今現在なら、「男系祖先のみを先祖とする」なんていう
厳密なルールはない。

最も、女系祖先を特定すると言うのは難しいことかもしれないが。
295日本@名無史さん:2009/05/10(日) 15:03:58
>>294
でも、それを言い出したら切りがないんだよ。
誰でも子孫になってしまう。

少なくとも子孫を名乗り、周囲からも認められるには
・菩提寺があり過去帳で先祖がたどれる
・系図(近年作成の捏造ものでなく、それなりに古いもの)がある
・先祖伝来の家宝がある(年代特定出来る鎧兜や刀、年代と宛名など確認できる文書など)
があり、それらが本物であると認められないといけないと思う。

自分で子孫と思い込む分には罪はないが、他人に「子孫である」というからには
当然「証明できるの?捏造じゃね?」って聞かれても証明できないとおかしなことになる。

実際、明治新姓のどさくさで旧家や滅亡大名家の姓を語り、系図の捏造もしている家は
ごまんとある。系図捏造していた系図屋という商売もあった。
また、完全な捏造ではなくとも明治維新のときに武家に仕えていた奉公人がその武家の
姓を貰った例もある(うちの先祖も小藩の家老職だったが奉公人に姓をやった)。
そういう明治新姓の人たちも3代もするとまことしやかに「うちはXXの子孫で」などと語りだす。
296日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:14:37
>>295

>(うちの先祖も小藩の家老職だったが奉公人に姓をやった)。

犬に餌を与える訳じゃ有るまいし、それ、絶対に有り得ませんわ。
それでは、近年現れた、貴方達の公方様も、彼らの同類ですね?
297日本@名無史さん:2009/05/12(火) 20:34:23
喜連川足利家は養子ばっかでダメでしょ〜。やっぱり、平島の方が今となっては「本家」に近いんじゃない??
298日本@名無史さん:2009/05/13(水) 05:56:56
>>296
事実は事実。
先祖が百姓のあんたにはわからんだけ。
299日本@名無史さん:2009/05/13(水) 22:59:17
>>295
一応、有るなあ。
足利じゃないけど、というか足利は先祖の仇なわけだけど。
んで、先祖は鎌倉幕府の北条氏の仇でもある。

鎌倉というか稲村ヶ崎辺りに行くとちょっと複雑な気分になる。

>奉公人に姓をやった
これ、うちの曾々じいさんも同じことやってる。
当時、これ結構あったみたいだね。
300日本@名無史さん:2009/05/13(水) 23:07:30
>>299補足
前半は母方の祖父の祖先で新田氏の話。
後半は父方の祖先で祖父祖母共に福島三春の田村氏に繋がる(伊達政宗の奥さんの実家)。
ちなみに母方の祖母の実家はキッコーマン醤油w
301日本@名無史さん:2009/05/14(木) 20:33:40
>>299
>これ、うちの曾々じいさんも同じことやってる。
>当時、これ結構あったみたいだね。
そのとおり。

うちも曾祖父の代に明治維新を迎えた。
家老職だったので当家の家臣もいたし、奉公人もいた。
奉公人の中には先祖代々仕えてくれた人もいたらしく、何人かに
姓をやった。

曾祖父が亡くなった時には、「殿様が亡くなった」と言って
元家臣の家系の人や元奉公人の家系の人が来てくれたらしい。
(俺はまだ生まれたなかったので当然記憶にない)

祖父が亡くなった時も「先祖が仕えていた家の若様(明治維新当時)が亡くなった」
と言って、やはり何人かが来てくれた。

302私も石橋:2009/05/17(日) 02:35:44

>>261氏はまだ見てるのかな。
こんなところで同族に会えてうれしい。
まだいるならどの系統か教えて下さい。
尾張? 奥州? 下総? 高家?
303日本@名無史さん:2009/05/17(日) 02:41:38
>>288
>足利の祭祀は、歴史的に喜連川足利家にのみ許されているのですよ。

気候が良くなってくるとこのような気違いが沸いてくるのですかw

喜連川が足利将軍家の祭祀権者とは初耳
304日本@名無史さん:2009/05/17(日) 23:35:20
>>288
ついでに言うと「剥奪」の使い方が間違ってる。
305日本@名無史さん:2009/05/20(水) 03:24:13
許されて主人の姓を名乗った謙虚な奴もいたが、勝手に名乗った奴もいたようだそ。
306日本@名無史さん:2009/05/27(水) 02:50:46
足利の子孫の人は、現在どの都道府県に住んでますか?平島系はやっぱり徳島?それとも京都??鎌倉とか関東方面ですか?
307日本@名無史さん:2009/05/27(水) 04:02:34
姓と言えば明治維新の後で
桂小五郎が木戸孝允になったり
村田蔵六が大村益次郎になったりするのは
ありゃ何ですかね
 
近藤勇改め大久保大和なんてのもありますけど
308日本@名無史さん:2009/05/27(水) 18:24:19
桂の場合は禁門の変と第一次長州征討あと、藩が幕府に対し恭順したので、
幕府の手前、公式には桂ではない別人を装う必要があった。
それで桂を木と土に分解して木戸姓に改め、木戸貫治とか木戸準一郎と称した。

村田の場合は、百姓身分から士分に取り立てられ、武家として一家を創設したため。
309日本@名無史さん:2009/08/29(土) 14:26:41
今川氏の子孫はどうなった?
310日本@名無史さん:2009/08/30(日) 22:18:52

>>309
自転車屋さん
311日本@名無史さん:2009/08/31(月) 08:25:26
>>310
んあですか?自転車やさんって
どういう系統の子孫の方ですか?
312日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:39:31
>>309
明治20年に今川範叙の死によって嫡流は断絶したよ。
今川氏の菩提寺は東京都杉並区曹洞宗宝珠山観泉寺にある。

>>310
ははは、その自転車屋のおじさんは庶流今川高久の子孫だよー(笑

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f1/Japanese_crest_Imagawa_Akadori.svg/600px-Japanese_crest_Imagawa_Akadori.svg.png
今川赤鳥

あと、足利聡氏の嫡子、足利(宮原)厳夫の子孫も御健在だよー(笑
足利(宮原)氏の菩提寺は東京都台東区入谷台徳院正覚寺

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Goshichi_no_kiri_inverted_square.svg/538px-Goshichi_no_kiri_inverted_square.svg.png
五七桐
313日本@名無史さん:2009/08/31(月) 21:57:45
近衛家を始め、喜連川家、宮原家は細川家からの養子が多い。
彼らは、歴史的に交流がかなり深く、政財界に大物を輩出するシステムを有す。

そして、例のゆかりの会には決して姿を現さない。
それは何故か?答えは簡単

彼らは、平島(笑)を足利宗家として公認していないから
314日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:39:06
随分前に笑っていいともに出てた兄ちゃん誰よ?

お世辞にも高家って感じではなかったのだが・・・orz
315日本@名無史さん:2009/09/02(水) 20:27:40
>>313
喜連川はともかく、宮原に細川家から入った養子って誰よ?
316日本@名無史さん:2009/09/04(金) 00:11:05
【田島又五郎経政】 新田義貞の鎌倉幕府倒幕軍に岩松軍団の大将として、

新田遠江又五郎経政が居る (元弘3年8月熊谷直経軍忠状・熊谷家文書)。
彦五郎・又五郎は田島氏の諱名であろう。
この経政は、南北朝内乱初期に、陸奥南部で親類の相馬氏と共に活動する新田左馬亮経政である(相馬文書)。
また「新田左馬亮経政代田島小四郎」(相馬文書)という記述から、経政の代官として田島小四郎なる人物が派遣されている。
代官には普通一族の者がなる場合が多いから、この史料は経政か田島氏であることを裏書するものである。
ところがこの経政は、史料上では建武2年(1336)に姿を消し、暦応元年から岩松頼有が伊予国守護、
その後備後国守護として活躍する。岩松氏惣領家は岩松経家が建武2年に中先代(北条時行)の乱で戦死してから、
岩松三郎直(正木文書22)国が跡を継いで活躍する。そのように考えると、この岩松頼有は岩松経政(田島系)の出家した姿か、
あるいはその後継者である可能性が強いが、それを確定する史料がない。
 『新田町史』
317日本@名無史さん:2009/09/05(土) 20:10:50
足利氏は、源氏系のそれ以外にも、藤原系足利氏があったはずだ。宇治川の戦いで、敵前渡河した足利がそれだ。
藤原系足利氏はその後どうなったんだろう。
318日本@名無史さん:2009/09/13(日) 11:48:52
喜連川、宮原、細川などの足利一門は、ゆかりの会(爆笑)ではなく茶会を通じての文化交流が深いですね。

現在、陶芸家・茶人として余生を送っておられる細川元首相は、
彼ら足利一門の総意によって政界入りした良い例でしょう。(肥後細川家は当初反対)

どちらにせよ、笑っていいとも(爆笑)などにひょこひょこ現れては、
「足利の子孫です」などと民衆にPRするすうな恥知らずの輩は此方からもお断りですね。

(平島を除く)足利一門に栄光あれ!
319日本@名無史さん:2009/09/13(日) 23:52:48
さて、『天地人』では最上義光は登場するのだろうか?
米沢はともかく、山形市周辺は、上杉の最上侵略と認識し、何が愛と義かと憤り、
最上公を悪役に仕立てたら許さん!と構えている。
町じゅうに丸に二つ引きの「出羽の虎将 最上義光」の幟が掲げられている。

ちなみに、最上家の子孫は交代寄合近江大森領主を経て今日まで続いています。
320日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:13:16
でてもカマセだよ
321日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:45:43

私は2chにおける平島vs.喜連川の正統争いについては中立なのですが
必死な方には声を掛けてあげたくなる性分ですので何点かコメント。

>>313
>平島を足利宗家として公認していない
そりゃそうでしょ。
平島公方の御先祖である足利義教さんに討たれ、
その子義政さんに鎌倉を追われた人物の末裔が喜連川・宮原氏なんですから。
尤も細川氏から見ても喜連川氏は「宗家」ではないよね。
足利一門同士で旧華族同士ってことで仲間意識はあるのかも知れないけど(爵位は細川>喜連川ですが)。

>>318
>喜連川、宮原、細川などの足利一門は、ゆかりの会(爆笑)ではなく茶会を通じての文化交流が深いですね。
内情にお詳しいようですが、喜連川一族の方ですか?
永享の乱の雪辱のため2chでカキコですか?(失敬失敬)

>足利一門の総意によって政界入り
つまり護煕さんの政界入りに喜連川・宮原氏の支援があったってこと?
一門の総意って。。ほかに何家?吉良とか今川とか(庶流の自転車屋さんとか)も支援したのかな。

そういえば知人に惇氏さんの身内の方がいましたが、最近お会いしてませんねぇ。
やはり、日本史の教科書に載ってるような人と同じ苗字のお家に嫁いでいかれました。
322日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:50:33

もう一点。
>>313
>政財界に大物を輩出
護煕氏のほかにいましたっけ? ご教示下さい。
323日本@名無史さん:2009/09/17(木) 00:53:24

>>319
それほどまで地元の人に愛されているのでしたら、
義光さんも喜んでいることでしょう。

ちなみに私もまた「何が愛と義か」と言いたい立場の者です。
(最上氏関連ではないですが。)
324日本@名無史さん:2009/09/18(金) 10:04:03
義は最上義光
愛は北信愛
325日本@名無史さん:2009/09/18(金) 18:36:33
>>321
汗かきデブっちょは平民上がりの癖にウザ杉

ほらよ、デブっちょの大好きな平島名物(笑)マムシ除けだ
有り難く受け取りな

つ http://www.youtube.com/watch?v=CVXWO29BVZY&feature=related
326日本@名無史さん:2009/09/18(金) 18:55:11
本家さんよ、我慢しながら見てるんだろ?
金なら何億でも積むから家督を私に譲ってくれ。

平島やこいつ等の言動・行動を見ていると我慢ならねぇよ
327日本@名無史さん:2009/09/19(土) 00:16:36

>>325
語彙の貧しさに知性の水準を感じますね。
328日本@名無史さん:2009/09/19(土) 01:00:55
困った御仁は、元不動産屋さんと宮崎の大学教授さんですかねぇ?
329日本@名無史さん:2009/09/19(土) 15:39:42
>>327
同意。何にせよ必死過ぎるのは見苦しいだけだしね。
330日本@名無史さん:2009/09/20(日) 01:39:11
>>326
>平島やこいつ等の言動・行動

「言動」とは「発言」と「行動」である。
従って「言動・行動」はトートロジーであり、
喜連川信者の326の知能の低さを露呈している一例と言えよう。
331日本@名無史さん:2009/10/14(水) 23:35:57
        >一'''==‐ュ、,,_     ,、='' ̄::::::::::::::: ゙̄'''ヽ、
       ./  . : : : : : : : : : : \  /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
      /   : : : : : : ,,,_: : : : : : ヾ/:::::_,_、:::::::>‐-、:::::::::::::::::::::::::::::   某大学教授さんじゃねーのか?
     ム≠ー'" ̄~'''ー_\: : : : : /::::/~ヾ,}::::j|  。 }::::::::::::::::::::::::
     j|           ヽ:: : :l::::/|_ ゚ ,.>ー、ゞー≠ ̄ヽ::::::::::::::
     l、_   イ__,,,_.._、_   |l: : |::/ ヾ≦ヘ,_ノヽ      \:::::     
    l}=、 `チC ̄`ヽ   |: : |Y     l|         ヽ
    {  lト {!    ,}   |: :|ノ〆    l|       ー-  |  
    ゙t,,_.j  くミ、二,,ノ   7_/| /      l|       ー-  |
     | ノ           ゙" 'l / r   」{,        ヽ  |
    | ゝ,‐           l,  ヘ_ _,,>ー=、_   /
     ∧ =ー--、        ∧   `Σ,,、-‐─゙ゝ=´    /
      ヽ ヾ≧  ′       ヘ   ===一       ノ
         ヘ´     /    | ∧
          ゝー┬イ'''"     |_ \≧≡=ニー   ノ   、
           |、′  /´     ]、 ̄  _ニ=、     ,,..
332日本@名無史さん:2009/11/25(水) 23:46:59
>>317
本家は平家方について滅亡
庶流は鎌倉御家人になったり源性足利の家臣になったりしている
333日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:13:55
関係ないが喜連川町って平成の大合併でなくなったんだな。
「さくら市」なんてアホな名前になったそう。
334日本@名無史さん:2009/11/26(木) 00:19:16
>>333
歴史ある地名を簡単に、なんの意味もないであろう「さくら(しかも平仮名)」にして
しまうという神経にビックリさせられる。
335日本@名無史さん:2009/12/06(日) 11:44:37
少年院は名前変えてないよな
336日本@名無史さん:2009/12/20(日) 18:23:28
>>335
刑務所も「喜連川社会復帰センター」です。さくら市喜連川、ということで辛うじて。

余談だけど、姉妹都市の古河でさくら市の物産展をやったんだけど人気者の喜連川と露骨に無視される氏家の差が大き過ぎて同情しましたわ。
337日本@名無史さん:2010/02/21(日) 09:26:19
へえ。
338上杉:2010/02/21(日) 23:13:04
私もいい
339日本@名無史さん:2010/02/22(月) 02:59:13
あんたは藤原でしょ。
340上杉:2010/02/22(月) 14:39:51
外戚です
341日野:2010/02/25(木) 00:52:27
|、∧
|Д゚)
⊂)
| /
342日本@名無史さん:2010/02/28(日) 23:50:51
足利「一族」の子孫だからごまんといるだろ

細川畠山斯波の有名どころの他に渋川桃井石塔一色も含まれるw
343日本@名無史さん:2010/03/22(月) 20:22:10
そんなにいないだろ。
344日本@名無史さん:2010/04/11(日) 17:50:19
まあいるだろう。日本人の内9500万人は源平藤橘のどれかにに含まれる。
345日本@名無史さん:2010/06/13(日) 13:52:51
そうか。
346日本@名無史さん:2010/07/03(土) 01:39:40
【格闘技】足利尊氏の末裔・ショルダーブラザーズ1号 金親尊氏、イ・サンス撃破で師匠の中尾“KISS”芳広との対戦につなげる=SRC ASIA
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1278084865/
347日本@名無史さん:2010/07/05(月) 09:17:59
金親ってどういう系統なのよ?
348日本@名無史さん:2010/07/05(月) 09:19:25
「3〜4年前に、チームのメンバーから『金親という本名だから、足利尊氏のお公家なんじゃないの?』と
言われ、親に聞いたところそうでした(笑)。何で今まで言わなかったの?と言いましたけど、
両親は足利尊氏の末裔というふうには育てたくなかったんじゃないですか」と驚きのエピソードを説明。

そして、「足利尊氏の直系ではありません。末端の枝分かれじゃないかと思います。
家系図はうちにはないのですが、まつわる物はうちにはあります。千葉の実家の蔵に
家紋入りの大変なものがあるぐらい(笑)」と先祖代々伝わるものがあることを明かした。



↑こういう系統
349日本@名無史さん:2010/07/13(火) 19:22:51
足利尊氏の五男の系統らしいけどお坊さんになってたみたいだね

雲龍寺は曹洞宗(禅宗)に属し、大本山は福井県永平寺町の永平寺と横浜市
鶴見区の総持寺と二つあり、このお寺は正親町天皇より紫衣と勅賜禅師号を
賜った勅賜佛國普照禅師が開山(天正八年=1580年5月15日)しました。
本郷村の投込み寺といって、無縁貧困者の無付届寺として建立。明治に至っ
て廃寺同然のところを「三十六世 足利正山」が再興し、昭和20年第二次世界
大戦の空襲で全焼。
「三十七世 足利正明」が戦役から帰郷しただちに再建しました。
戦災孤児らを寺でお世話をしながら福祉事業に貢献し後に社会福祉法人多摩
養育園を設立。現在16施設を運営しています。昭和38年東京オリンピックに際
し区画整理により八木町から現在の山田町へ移転しました。
350日本@名無史さん:2010/07/15(木) 13:19:13
このスレ過疎
351日本@名無史さん:2010/07/15(木) 19:52:31
>>344
家柄コンプレックスの人と同一人物なのかな
352日本@名無史さん
昔直系のおじいさんがテレビに出てたような
金閣寺の入場料も無料で毎日来てると言ってた気がする