【公実】 藤原北家閑院流について語る 【実公】

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1日本@名無史さん
藤原氏の名門で近代にも
三条実美・西園寺公望・武者小路実篤など著名人を排出した
藤原北家閑院流について語りましょう
2日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:32:41
公実を内覧にするとかいう発想はなかったのかな?
3日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:32:48
鳥羽天皇の叔父藤原公実が内覧になれないのがおかしいなら
白河天皇の叔父藤原能長が内覧になれないのもおかしいわな
(能長と白河母茂子はいずれも藤原能信の養子で義兄妹)
白河天皇の世には白河天皇の外戚の娘であるはずの藤原道子が女御で
藤原師実養女の賢子が中宮だった

本来、内覧は関白の職務のひとつで分離していない。
摂関が置かれたときは内覧はおかれず、
摂関を摂関家が独占している以上、他人が内覧に任じられることはない。
忠通と頼長兄弟のときが異常。
4日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:48:06
後々栄えたのは、たまたま白川天皇の外戚になったからだよね
そうでなかったら衰退して歴史から消えるか、
せいぜい嫡流がヒラの公家になれたかどうかでしょ
5日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:53:03
著名人を「排出」した のか・・・
6日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:37:12
白河法皇が公実を摂政にできなかったのは、父の代からの重臣・源俊明が
強硬に反対したため。ここが、閑院流にとって摂関になれる最初で最後の
チャンスだった。失意のためか、公実は同年死去。

この頃の白河は、異母弟・輔仁親王との対立もあってゴリ押しはできなかった。
その代わり、晩年はやりたい放題。璋子を鳥羽天皇の中宮に押し込んでいる。
大納言止まりの公実の女・璋子は本来なら中宮になれるはずがなかった。
7日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:44:46
璋子は白河天皇の養女として入内したからね。
まあ、摂関家も他家の娘を養女として
中宮にねじこんできたから屁理屈もいえない。

とにかく璋子が中宮になったことで先例はできた。
後白河の中宮は閑院家出身だったし、
鎌倉時代に歴代天皇の中宮を独占した西園寺家も
鎌倉幕府の贔屓があったからこそとはいえ閑院流の一族。
8日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:50:25
にしても、通字の公・実を両方取るとは強欲な香具師だ
9日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:56:41
平安版「マイ・フェア・レディ」

璋子・・・イライザ、白河法皇・・・ヒギンズ教授
10日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:09:47
閑院家流で「公」「実」を通字にしてない家はあるのかな?
11日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:59:39
あったはず。どこかは忘れたけど
12日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:05:21
三条・西園寺は日本史の至るところに出てくるけど
徳大寺は存在感薄いよね。

一般人に徳大寺と言えば?と聞いたら、
帰ってくる答えは間違いなく有恒だぞ
13日本@名無史さん:2008/01/16(水) 09:39:30
そうかな?
関東申次を世襲し、後嵯峨〜後伏見・後醍醐までの
正妃を輩出したことで有名な西園寺は別格としても、
徳大寺、まあまあかんばってないかい?

内閣総理大臣にもなった西園寺公望は、
徳大寺家からの養子だし。
14日本@名無史さん:2008/01/16(水) 12:11:21
西園寺なんて四国で武家化までしてるものな。
戦後には赤い公爵、現代では新興宗教教祖とか
話題に事欠かない。


徳大寺は公望の実家って他、戦前に徳大寺侍従長ってのがよく出てくるが
他に有名人はイナス
有恒は勿論ニセモノだし。
15日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:55:51
武家化した西園寺家(伊予西園寺家)は戦国時代に滅んでいなかったか。
公家(清華家)の西園寺家は江戸時代に入って何度も断絶、
一条家、二条家、有栖川宮家から次々養子を迎えて明治維新、
徳大寺から西園寺公望を養子に迎える。
現在の西園寺家は、長門萩藩主毛利氏の男系子孫。
16日本@名無史さん:2008/01/16(水) 14:00:30
西園寺も徳大寺も現在の当主は他家からの養子の血筋だけど
三条家だけはずっと三条家祖藤原北家閑院流実行(公実の子)の子孫だね
17日本@名無史さん:2008/01/16(水) 21:18:32
分家の分家三条西家から養子が入っているね。
18日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:33:51
伊予西園寺ってのは土佐一條みたいなもんか?
19日本@名無史さん:2008/01/16(水) 22:38:53
>>1
公実はいたけど実公っていたんかいな?

>>10
今出川(菊亭)家とか
20日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:08:31
>>19
今出川は公・実・季だね。
季ってのも案外あるみたいだ。公季から取ってるのかな。
西園寺支流の大宮なんかは、公も実も使わず専ら季みたいだ。


「赤い公爵」でググっても出てくるのはヴィスコンティばかりで
西園寺公一は出てこないみたい。かなしす
21日本@名無史さん:2008/01/17(木) 04:07:19
鎌倉時代は洞院家もがんばってたんだけどなあ
ゴダイゴに深入りしたのが運のつきかな
22日本@名無史さん:2008/01/18(金) 17:34:26
洞院家が断絶したのは室町後期で、後醍醐は関係ないようです。
バリバリの南朝派だった阿野家もしぶとく残っていますし。
23日本@名無史さん:2008/01/25(金) 17:37:12
洞院公賢は建武の親政で後醍醐天皇に気に入られ右大臣に上ったかと思えば
その後北朝祟光天皇のもとで太政大臣にまで上っているしね。
公賢の孫には「尊卑分脈」編者の左大臣洞院公定がいる。
洞院家は鎌倉時代、かならずしも後醍醐よりではなく、
持明院統伏見・花園天皇の外戚でもあり、持明院統系にも天皇の愛妾を出していたよね?
24日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:35:24
>>22
阿野家は一族丸ごと南朝方である程度勢力を保ったまま京都に復帰したからだった筈。
25日本@名無史さん:2008/02/11(月) 19:55:24
>>22
確か洞院は最後の当主が何か知らんがぶち切れて家伝の文書を全部焼き払って出奔して滅んだ。
26日本@名無史さん:2008/02/19(火) 09:26:18
上杉定勝の生母は四辻公遠
27日本@名無史さん:2008/02/19(火) 18:40:13
>>25
最後の当主(室町時代)はたしか西園寺家からの養子だったが、
そんなことをしたのか?
28日本@名無史さん:2008/02/24(日) 08:28:33
今も三条家の末流にはオカマがいるらしいゼッ!!!!
29日本@名無史さん:2008/02/25(月) 23:43:08
>>27
最後の当主は実質名目だろう。
出奔したのはその前の当主。
30日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:33:25
>>25
家伝の文書を焼き払って出奔はいいすぎ。
洞院公数は応仁の乱の最中、家伝の文書を処分して出家した。
しかし、洞院公賢の日記「園太暦」や、
洞院公定の執筆になる「尊卑分脈」など、
今日伝わる重要資料の多くは伝本が伝えられている。
31日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:55:32
伊予西園寺の末裔が 愛媛県八幡浜日土町に40軒固まって住んでいる。
ほとんどが西園寺という姓でで有る。
32日本@名無史さん:2008/03/16(日) 00:12:18
まぢかよ・・・と思ったら↓これか?

http://item.rakuten.co.jp/mono-mogu/c/0000000126/

昔なつかし〜い、へちま水の登場です。
毎年、中秋の名月の日に抽出されるへちま水。
昨年秋に抽出されたものが、今、もっとも澄んだへちま水となりました。
にごりも殆どなく、透明感は抜群です。

生産者 夢農園(西園寺公作)愛媛県八幡浜市日土町


西園寺公経の子孫がへちま水?
そもそもこの人の名前は、「きんさく」さん?
33日本@名無史さん:2008/03/16(日) 00:22:35
「作」って何て訓読みするんだろ?
「きんなる」さんかな?
34日本@名無史さん:2008/03/16(日) 23:00:42
伊予西園寺家の生き残りが江戸時代に宇和島藩伊達家の客分として存続した。
その際西園寺姓を避け松田覚助を名乗り、後に家臣となった。
幕末期に一族から雪江が出て伊達宗城の側近として活躍し、明治維新後は
西園寺公成と名乗り、伊達家家令となる傍ら実業界に転じ第一国立銀行・
日本鉄道会社等の取締役を歴任した。
 公成の子に公毅・亀次郎等があるが特に亀次郎は欧米を歴遊後第一銀行
取締役・日本放送協会常務理事として活躍、亀次郎の子実は第一銀行名古屋
支店長を務め、実の弟謙次郎は三和銀行に勤めている。
 尚、亀次郎の妻は児島惟謙の娘、謙次郎弟敬三郎妻は旧新谷藩主加藤子爵家
出身である。
 主要出典 昭和18年度『人事興信録』等
 
35日本@名無史さん:2008/03/17(月) 18:29:48
閑院流(清華家)のなかでも家格の違いってあったの?
三条>西園寺>徳大寺>今出川みたいな
36日本@名無史さん:2008/03/27(木) 00:08:31
石高では
今出川>>>西園寺>三条>徳大寺 だね。


ちなみにIMEでは徳大寺だけ変換できないwww
37日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:06:42
今出川は地名として登録されてるんだろうけどな。
38日本@名無史さん:2008/04/07(月) 08:20:25
今出川=今出川通。
通りの名前。
今出川家はこの通りに面したところに屋敷があった。
39日本@名無史さん:2008/04/10(木) 21:02:00
徳大寺って寺あるよな
40日本@名無史さん:2008/04/11(金) 18:55:44
徳大寺氏の呼び名のもととなった寺「徳大寺」は
鎌倉時代から室町時代にかけて京都にあった寺。
現在は廃絶している。
徳大寺の跡地は室町時代に細川氏が譲り受けて別荘とし、
現在は竜安寺となっている。

現在京都市内に似た名前で「大徳寺」はあるが全くべつもの。
41日本@名無史さん:2008/04/11(金) 19:30:19
>>38
その今出川通りは今出川という川の名前から来てるんだけど
42日本@名無史さん:2008/04/19(土) 17:57:28
>>36
西園寺の庶流が今出川なのに、摂家並の高禄だなw
高禄取りのわりには、大臣の輩出は少ないな
43日本@名無史さん:2008/04/20(日) 16:09:21
今出川(菊亭)家は豊臣秀吉た徳川家康ら
権力者に近付いてどんどん石高上げてもらったからな
嫡流庶流なんてもはや関係なし
44日本@名無史さん:2008/04/20(日) 23:41:54
秀頼が生まれなかったらもうちょい羽振りがよくなったかも
45日本@名無史さん:2008/04/21(月) 00:22:15
江戸時代の公家なんて家来もあまりいなく貧乏してるイメージだが
1500石もあったら、配下に侍も沢山飼ってたんだろうな。
喧嘩しても勝てなさそうだ
46日本@名無史さん:2008/04/21(月) 01:14:17
支出もそれなりにあるよ
47日本@名無史さん:2008/04/22(火) 00:40:31
西園寺は江戸時代には没落していたみたい。
極小の邸とか見てもとても清華とは呼べないレベルまで墜ちている。
48日本@名無史さん:2008/04/22(火) 01:45:22
何でだろう?
500石もあれば上級武士レベルじゃまいか
49日本@名無史さん:2008/04/22(火) 18:40:14
西園寺家は幕末でも左大臣、右大臣を出していて
落ちぶれているという感じはしない。
子のない当主が多く、摂家から養子が入りまくっている。
江戸時代初期には細川忠隆の娘が西園寺家に嫁いだ縁で
忠隆没後600石の遺産相続をしているし、
そんなに落ちぶれていたっけ?
50日本@名無史さん:2008/04/22(火) 20:57:40
51日本@名無史さん:2008/04/22(火) 23:33:29
ホント小さいね。
庭田だの八条だのっていう平公家よりちいさいじゃん、なんでだろう
52日本@名無史さん:2008/04/22(火) 23:40:12
三条(転法輪)も西園寺ほどではないが小さい。平公家なみだな
53日本@名無史さん:2008/04/23(水) 18:59:29
結局、清華家ってのは平公家の中でちょっと有力だった程度なのでは?
西園寺とか今出川なんて、一条家の門流でしょ。
摂家からみたら家来みたいなもん。
54日本@名無史さん:2008/04/23(水) 19:36:54
>>50
手許に幕末慶応年間の公家町の図を持っているのだが、
こちらの西園寺邸は相応に大きい(ほかの清華並み)。
禁裏の南に北から順に清水谷、
中院、局、綾小路、曇花院里坊、西園寺で、
中院から西園寺までの順番はその図と同じ、
ただ北側に清水谷邸があるのと
西園寺邸の南に仁和寺里坊がなく
その部分を合わせたぐらいの土地になっている。
江戸時代、火災で公家町は何度も焼け、作り直されているが、
その西園寺邸はどの年代のものなの?
55日本@名無史さん:2008/04/23(水) 20:53:35
56日本@名無史さん:2008/04/24(木) 08:48:03
享和年間(1801〜1804)というと中納言西園寺寛季が当主のころか。
でもこの後作り直された幕末の公家町では西園寺家の領地が
享和年間の約2倍になっている。
57日本@名無史さん:2008/04/24(木) 10:06:58
江戸時代中で皇族から養子をもらった家って摂家以外ではここだけだよね?
治季は同じ清華家や摂家からでなく、なぜあえて有栖川宮からなんだろう
58日本@名無史さん:2008/04/24(木) 11:15:07
系図上は、寛季ー治季ー師季と血がつながっていて
治季と師季の間に西園寺公潔(実父は有栖川宮韶仁親王・
19歳で早世・治季養子・師季を自分の養子にする)
が入らなくても問題ないわけだけどね
59日本@名無史さん:2008/04/24(木) 21:49:05
ttp://www1.parkcity.ne.jp/sito/k8.html
ここ見ると、西園寺家は幕末には近衛中将止まりが多いね。
4回も断絶して摂家などから養子が入っている。
絶家してもおかしくないくらいボロボロな状態だったのでは?
60日本@名無史さん:2008/04/24(木) 22:51:46
みんな早世しているからね。
天皇もそうだがこの時代の上流階級って実に早死にが多い。

・・・と思たら、
西園寺寛季って70歳くらいまで生きてるのに、中納言止まりか?
よっぽど無能だったんだろうか
61日本@名無史さん:2008/04/24(木) 23:59:35
つ極官が権中納言
62日本@名無史さん:2008/04/25(金) 00:37:17
何で西園寺家の極官が権中納言なん?
63日本@名無史さん:2008/04/25(金) 15:21:11
幕末に西園寺家から左右大臣が出ているから
権中納言が極官なわけがない
西園寺寛季の頃には摂家や大臣家に長生きの連中が多く
上が詰まっていて出世できなかった
64日本@名無史さん:2008/04/25(金) 21:22:22
だからって、
せめて大納言くらいにはしてあげようよ・・・
65日本@名無史さん:2008/04/25(金) 22:37:10
同時期に羽林家や名家の権大納言がたくさんいるのに
それを超えられなかったのは西園寺家の地位の低下を物語る。
66日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:06:21
家っつよりは個人の問題じゃないの。
西園寺家自体は確かに室町期に反逆罪とかで処刑されたりして
清華家の中でも微妙な負い目があったりしたのは事実だが、別に江戸期に没落したわけじゃない。

どういう事情があったのか知らんが、
分家の分家の羽林家とかで齢も下の奴が権大納言だったりして、自分は権中納言止りだったら
かなり屈辱的な人生だな。
67日本@名無史さん:2008/04/27(日) 22:09:42
公家の外様と内々ってどの程度の差別だったんだろう?
西園寺家って正室を持たない風習とかあったりして、
かなり特殊だよね。
68日本@名無史さん:2008/04/28(月) 08:04:00
正室はいたでしょ
夭折した当主を除いて。
江戸時代にも久我家や山内家、徳大寺家から
正室を迎えているよ。
69日本@名無史さん:2008/04/28(月) 08:50:19
正室を持たない習慣っていえばオスマンサンコンならぬオスマントルコだな。
板違いだけど。
70日本@名無史さん:2008/04/29(火) 01:05:22
>>68
そうだね、正室を迎えてる人も結構いるみたい。

公望公が妻帯せずに妾を次々と換えていた、ってのは
「正室を取らないのが代々の決りだから」というのはただの言い訳で、
実際には単に好色だったから、なんだろうか?
71日本@名無史さん:2008/04/29(火) 14:32:43
西園寺公望はパリ講和会議にも妾を同伴してかなり評判が悪かったらしいね。
歴代内閣総理大臣で、生涯妻を持たなかったのもこの人ぐらい。
(総理大臣になった頃には妻と死別していた岡田啓介、離婚していた小泉純一郎を除く)。
72日本@名無史さん:2008/04/29(火) 16:42:28
>>68
正室がいないのは徳大寺の慣例だと思っていたが
73日本@名無史さん:2008/04/29(火) 17:02:43
そんなことはないでしょ。公望の父親は正室不明でいなかったらしいが、
それ以前は今出川とか近衛や武家からもらってるし。
74日本@名無史さん:2008/04/30(水) 14:10:19
>>72
西園寺公望の実父徳大寺公純は正室不詳だが、
徳大寺公純自身は鷹司政通とその正室、水戸藩主徳川治紀の娘隣姫との子息。
(公純は鷹司家からの養子ね)。
公純の養父である徳大寺実堅にもまた、公家の醍醐家から迎えた正室あり。

75日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:51:55
清華家以外の傍流についても語れ

有名なのはやはり大臣家で文化人を輩出した三条西家か。
他には?
76日本@名無史さん:2008/05/04(日) 03:55:31
和歌の清水谷(一条)家とか
後醍醐天皇の愛人の阿野廉子の阿野家とか
洞院家とか
77日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:05:16
橋本家は幕末に結構目立ってるね。
皇女和宮の生母が橋本家。
当主は活動家で、七卿落ちの一人。

しかし今の子孫はきっと、ただの普通の橋本くんなんだろうなw
78日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:26:56
徳川家慶の時代に正室について江戸へ下り、
大奥で権力をもった上臈御年寄の姉小路や唐橋は
和宮の母橋本経子の伯母で
公家の橋本家出身の女性らしいね
79日本@名無史さん:2008/05/04(日) 19:06:06
姉小路公知も閑院流じゃまいか?
幕末の過激派貴族には閑院流多いのかな、
七卿のうち何人が閑院流だろう
80日本@名無史さん:2008/05/05(月) 04:45:34
名前に公、実、季が入ってたら閑院流
81日本@名無史さん:2008/05/05(月) 09:04:03
藤原公任は?
82日本@名無史さん:2008/05/05(月) 10:08:04
三条西の分家の武者小路家も和歌で有名だね。
明治に入ってからは小説家・武者小路実篤を出している。
実篤の兄(嫡子)の公共は外交官で、その子の実秀はdqn政治学者。
83日本@名無史さん:2008/05/05(月) 10:58:39
>>79

七卿
 三条実美  :閑院流、母は土佐の山内豊策の娘
 三条西季知 :閑院流、母は三条実起の娘
 四条隆謌  :藤原北家魚名流(善勝寺流藤原氏の嫡流)、父の隆生の生家は一条氏庶流の醍醐家
 東久世通禧 :村上源氏久我家の庶流、母は柳沢保光の子信貞の娘
 壬生基修  :養家の壬生家は頼宗流持明院庶流、実家の庭田家は宇多源氏
 錦小路頼徳 :養家の錦小路家は丹波氏、実家の唐橋家は菅原氏
 澤宣嘉    :養家の澤氏は清原氏舟橋家の分家伏原氏庶流、実家の姉小路家は閑院流

というわけで2人です。実家を含めても3人ですね。
84日本@名無史さん:2008/05/05(月) 14:46:50
橋本実梁は一緒にとばっちりは受けたが
三条らと一緒に流浪はしなかったということだな。
85日本@名無史さん:2008/05/06(火) 20:25:01
武者小路なんとかいう名前の混血の教授を
新聞記事かなんかで見た記憶があるが
由緒正しい名前と混血にすごく違和感を感じたな。
86日本@名無史さん:2008/05/07(水) 08:15:18
西園寺八郎だってじゅうぶん違和感あるがw
87日本@名無史さん:2008/05/09(金) 00:20:04
>>82
DQN国際政治学者は
武者小路公秀さんじゃまいか
88日本@名無史さん:2008/05/09(金) 13:38:20
wikiによると、西園寺公望は幼い頃、明治天皇の遊び相手だったそうだな。
89日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:28:14
閑院流は天皇家の一番身近な親戚だからね
90日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:38:27
>>88
大室寅之祐には驚いただろうな
91日本@名無史さん:2008/05/10(土) 06:37:36
>>90
大室某が事実だとすると、明治初期の明治天皇の長州嫌いと根本矛盾が生じるわけだが。
92日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:41:22
>>89
閑院流が天皇の外戚だったのは平安末期〜南北朝ぐらいまで
明治天皇の母方中山家は藤原北家花山院流で閑院流ではないけどね
93日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:20:57
>>92
桃園天皇の母は姉小路家じゃなかったっけ。
まあ明治帝とは繋がりはない系統だけどね。
94日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:36:06
姉小路実武の娘だね

光格  
仁孝 母 勘修寺経逸女(勘修寺流)
孝明 母 正親町実光女(閑院流)
明治 母 中山忠能女(花山院流)
大正 母 柳原愛子(日野流)
昭和 母 九条節子

結構ばらけてる
95日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:15:53
江戸時代〜大正天皇までは愛妾との子であっても
天皇の正妃の養子となって即位することが多かったから
文字通り実母は「借腹」。
成長するまで明治天皇の皇后を実母と思い込んでいた
大正天皇の例もあるくらい。
実母とはいえ権力もなく最後まで女官扱いだったからね。
96日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:32:38
一応、女院を復活させて待遇する案もあったようだが、天皇の生前譲位を廃した皇室典範の原則に反するから却下されたらしい。
97日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:44:14
江戸時代の天皇生母も死ぬ間際や出家する間際に
やっと女院号を受けることができるだけで
それまではやっぱりただの女官
女御や中宮上がりの女院のように権力は持てなかった
98日本@名無史さん:2008/05/14(水) 22:31:48
>>92
東山天皇――閑院宮直仁親王―┬典仁親王――光格天皇――仁孝天皇――孝明天皇――明治天皇
                     └鷹司輔平――鷹司政熙――鷹司政通――徳大寺公純――西園寺公望

血筋で言うと男系で最も近親になるね。
99日本@名無史さん:2008/05/15(木) 21:58:47
>>95
しかし江戸時代までは、皇子皇女は母親の屋敷で育てられたんでしょう?
和宮は橋本邸で育ったわけで
100日本@名無史さん:2008/05/18(日) 10:21:56
江戸時代に外祖父の地位を利用して関白になろうとした松木親子は凄いわ。
101日本@名無史さん:2008/05/19(月) 02:11:34
>>97
それは江戸幕府の朝廷政策との関係だし。
特に東福門院生存中は幕府を憚って女院号贈与が出来なかったらしいし。
102日本@名無史さん:2008/05/27(火) 22:45:06
103日本@名無史さん:2008/05/28(水) 21:12:29
104日本@名無史さん:2008/05/28(水) 21:44:49
105日本@名無史さん:2008/06/22(日) 14:39:57
幟仁
106日本@名無史さん:2008/07/12(土) 00:59:14
age
107日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:33:34
>>99
江戸時代では天皇になるには天皇の正妃の養子にならなければならなかった
特に中期以降は生みの母の生家とは縁を切り
育ての母(天皇の正妃)の里の祭祀を行わなければならないという
徹底ぶりだった
もっとも天皇にたてない、ひどいときには親王宣下、内親王宣下も受けられない
その他大勢の子供の場合はそうではない。
子供が天皇になれなければ母親も女院などにはなれず、一生宮仕え。

和宮の生母橋本経子も女院になるどころか、
仁孝天皇の死後は和宮の江戸降嫁につき従い、
和宮付きの女官としての一生を終え、
江戸で没しているからね。
108日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:55:55
>>101
東福門院存命中でも壬生院、新広義門院は女院号を受けているよね
幕府を憚ったという事実はない
それに江戸時代の天皇生母が死ぬ間際や出家した際にしか女院号を受けられなかったのは
なにも徳川家から中宮を迎えていた後水尾天皇の後宮に限ったことではなく
ほかの天皇の場合でも同様
109日本@名無史さん:2008/07/21(月) 08:53:17
壬生院と新広義門院は危篤になってからじゃなかったっか?
110日本@名無史さん:2008/07/26(土) 20:53:43
壬生院は息子の後光明天皇が没したのを機に出家した際、
後水尾上皇が院宣によって女院号を与えた。
新広義門院は危篤になった際に息子の霊元天皇が与えたんだったか
いずれも後光明天皇や霊元天皇の養母である東福門院存命中。
幕府がこれに反対した事実は全くない。
111日本@名無史さん:2008/07/29(火) 04:46:44
ぽっくり逝ってしまえば反対するも何もないだろう。
112日本@名無史さん:2008/07/29(火) 04:53:23
実際お伺い立てたって京都と江戸の往復の間に死んでしまえば、実質追贈と変わりがないのだから、目くじら立てる話でもない。
113日本@名無史さん:2008/07/29(火) 21:40:15
結局幕府が反対した例はひとつもなかったってことかい
114日本@名無史さん:2008/08/02(土) 19:11:52
>>67
>西園寺家って正室を持たない風習とかあったりして、

西園寺家は琵琶の家→西園寺家の神さんが弁天さん
(弁天さんは琵琶を持ってるから)
→弁天さんは女→正室を持つと女である弁天さんが嫉妬する

という理屈らしいが・・・
実際には正室がいる場合もあるんだよね
115日本@名無史さん:2008/08/02(土) 19:36:09
公望だって先代の西園寺師季の正室定君の縁で養子にもらったんでしょ
ただの言い訳だって
116日本@名無史さん:2008/08/02(土) 23:09:58
舞踊がいようといまいと
日本史板は何事も無かったように日々過ぎていく
所詮ちっぽけな存在。
117日本@名無史さん:2008/08/04(月) 00:01:00
>>115
全然関係ないだろ。
118日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:32:43
どっちかというと徳大寺家の問題じゃないのか?
119日本@名無史さん:2008/08/05(火) 14:29:22
三条家と西園寺家どっちが嫡流なんですか?
120日本@名無史さん:2008/08/05(火) 19:31:03
西園寺家。公実の嫡男は実行でなく通季だったので。
121日本@名無史さん:2008/08/05(火) 20:49:23
>>120
それは西園寺家が天皇の外戚として発展してから
付け加えられた話だよね?
122日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:48:20
      伊達家
伊達成宗:奥州探題就任
伊達尚宗:上杉氏から正室を迎える
伊達稙宗:再び奥州探題就任
伊達実元:上杉氏の養子となるが長尾家の妨害により失敗

     長尾家
長尾景春:関東を争乱状態にして、管領上杉家の勢力を衰退させる
長尾邦景:上杉家をないがしろにし、専横を振舞う
長尾実景:越後守護家に謀反を起こす
長尾為景:上杉房能、八条定宗、上杉顕定らを殺害して上杉家を傀儡化
長尾晴景:上杉実元の家督継承を妨害
長尾顕景:上杉憲政、上杉憲重らを殺害して上杉を僭称
       さらに上条上杉政繁を追放

どちらが上杉を継ぐに相応しいかは、バカでもわかるわな
123日本@名無史さん:2008/08/08(金) 00:17:44
西園寺 八幡浜

で検索すると、小学校の先生だの土建屋の社長さんだの色々出てくるね。
この人たち閑院流・伊予西園寺氏の末裔だろうか・・・
124日本@名無史さん:2008/08/08(金) 18:02:53
>>123
勝手に西園寺を名乗るなよな。
125日本@名無史さん:2008/09/16(火) 23:45:46
>>122
それなら佐竹の方が普通に相応しくないか?
126日本@名無史さん:2008/09/22(月) 21:02:12
>>119
西園寺家が最も繁栄したわけだし西園寺家が嫡流でいいだろう。
藤原氏も当初は藤原南家が嫡流だったわけだし。
127日本@名無史さん:2008/09/22(月) 21:11:04
だけど西園寺家は鎌倉幕府の滅亡とともに衰退
閑院流では三条家とか菊亭家とかのほうがあとあと繁栄してなかったか
128日本@名無史さん:2008/11/04(火) 10:39:07
公季の男系を保っているのは三条家のみ
129日本@名無史さん:2008/11/15(土) 11:45:24
公実以前に本流から分かれた家で、後世まで続いた家ってあるのでしょうか。
詳しい人お願いします。
130日本@名無史さん:2008/11/19(水) 12:30:02
日野とか四条とか勘修寺とか
131日本@名無史さん:2008/11/23(日) 00:15:11
age
132日本@名無史さん:2008/11/24(月) 23:08:54
>>130
閑院流で、ってことだろ。
133日本@名無史さん:2008/12/16(火) 04:01:09
秋田県角館の桜について、

「1664年に京都の公家三条西家・実号の娘が角館佐竹北家二代目に嫁いできました。
 その嫁入り道具の中に、枝垂桜の苗木が3本入っていたそうです。」

ってあるんだけど、三条西実号って誰?
134日本@名無史さん:2008/12/17(水) 08:54:04
三条西実条の子で武者小路実陰の祖父に当る、実名って人がいるけど
それと同一人物かな??
135日本@名無史さん:2008/12/18(木) 20:49:45
寛文4年(1664年)、三条西実号の娘が
佐竹義明(角館城主)に嫁いだ際に都から桜の苗木を持参。
三条西実号は右大臣三条西実条の子。
父の三条西実条は徳川家光の乳母春日局を養女にしたことでも知られる親幕公卿。
三条西公勝、武者小路家の祖公種は実号の兄。

三条西実号の娘が嫁いだ佐竹義明の父義隣は、公家の大納言高倉永慶の子。
義明の母が佐竹義宣の妹であったことから
男子の絶えた佐竹家の養子に入った関係から、都の公家とは近い近親関係にあった。
136日本@名無史さん:2008/12/23(火) 14:16:13
> 佐竹義明の父義隣は、公家の大納言高倉永慶の子
公家から佐竹の分家に養子って、どんな気分だったんかね。

身分から言えば、はるかに格下げだろう。
大納言の父親から見たら遥かに格下の田舎大名の、家臣になり下がる。
でも家来も増えただろうし、生活も裕福になっただろうね。
137日本@名無史さん:2008/12/23(火) 16:45:39
>>136
大勢いる子供のうち家督を継げるのは嫡男だけ。
庶子や弟たちは他家へ養子に出るか、
仏門に入る道しか残されていない。
佐竹家を継げただけでもましだろう。
普通は最も血筋の良い嫡男が跡取りとなるため、
庶子や弟が他家へ養子に出る場合、
実家より格下げになることがほとんどだから。
138日本@名無史さん:2008/12/23(火) 17:47:03
おまいら堂上公家(半家)と佐竹北家と、
もしどちらか跡取りになれるとしたら、どっちがいいですか?
自分はやっぱり佐竹かなあ・・・
139日本@名無史さん:2008/12/23(火) 18:25:05
三条西家と佐竹北家なら、三条西かもね。
140日本@名無史さん:2009/01/07(水) 23:55:26
>>137
井伊直弼みたいに仏門にも入れず部屋住みなんてこともありうるからね。
141日本@名無史さん:2009/01/08(木) 03:11:15
>>139
三条西は天皇の歌学の師だから学問せにゃならんよ
142日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:17:37
>>140
富裕藩ならそうかもしれんが
中流公家の部屋住みって厳しそうだな。
143日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:28:48
>>137
公家は領地も経済力も無いぞw
144日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:51:11
>>141
学問と天皇のお相手だけしてればよくて
あとはみんなから貴種として尊まれる生活なんて、最高だな
145日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:29:02
>>136
実際に権力、経済力もてるのは 大名なんだから
大名>>>>公家だろ
146日本@名無史さん:2009/01/29(木) 09:31:36
そんなに権力ほしいか?
自分は人並み以上の生活ができれば、そんなに金いらないけどな
147日本@名無史さん:2009/01/29(木) 09:35:57
だいたい佐竹北家は大名じゃないし
148日本@名無史さん:2009/01/30(金) 04:56:36
それでも元当主は市長だったりする
149日本@名無史さん:2009/01/31(土) 10:53:31
>147
佐竹とか松平とか家臣のくせに
殿様と同じ名字を名乗ったらダメだよな。
紛らわしいからヤメロ。
150日本@名無史さん:2009/01/31(土) 13:59:57
>>149
ばか
151日本@名無史さん:2009/01/31(土) 14:36:18
琉球王の尚家なんかは、家臣となった分家には「尚」ではなく「向」って
名乗らせてたから、
佐竹も「左竹」とか「佐梅」とか名乗らせればよかったんじゃないかな
152日本@名無史さん:2009/01/31(土) 14:37:24
「佐竹」ではなく、「イ左ケケ」とか
153日本@名無史さん:2009/01/31(土) 16:34:42
「佐田」とか「松田」でいいだろ
154日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:40:21
松平は「竹平」とか「梅平」とかか?
石高に応じるのか。旗本だと「桃平」とかか
155日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:18:54
千葉なんて分家に「馬鹿」って名乗らせたくらいだからな。
156日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:24:45
>>85
実篤の兄公共は最初公爵令嬢の毛利万子を妻に迎えたが死なれたので後妻にハーフの男爵令嬢の伊東不二子を迎え公秀が生まれた
157日本@名無史さん:2009/02/07(土) 23:54:52
>>156
毛利万子って、2ちゃんのスレタイにあったら間違いなく★10くらいまで行きそうな名前だな。
158日本@名無史さん:2009/02/08(日) 01:20:46
DQN政治学者の公秀たんって、ハーフだったのか・・・
159日本@名無史さん:2009/02/08(日) 01:23:09
ハーフじゃないクオーター
>>156を信じるならば
160日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:34:26
>>127
嫡庶の概念自体あるのだろうか。
西園寺家と三条家はほぼ同等みたいだし。
161日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:49:29
>>160
江戸時代には三条家(転法輪)、西園寺家、徳大寺家はいずれも清華家で大差ない。

藤原閑院流がこれら三家に分かれるもととなった藤原公実の三人の息子たちだが(長男は早世)、
実行(次男・三条家祖)、通季(三男・西園寺家祖)、公能(四男・徳大寺家祖)
(このうち実行の母は藤原基貞女、通季・公能の母は堀河天皇・鳥羽天皇の乳母である藤原公子)
この3人のうちでは最も年上の実行の出世が一番早く、弟たちより先に太政大臣に昇進、
逆に三男通季は他の2人よりも早く死んだために最も生前の官位は低かった。

では、この3人の子孫はどうかと言えば時代によってまちまち。
摂家ですら必ず長兄、あるいは嫡子の子孫が一番繁栄したわけではないのに、
ましてや閑院流の嫡流がどこで、どこが正統な後継者だとは決めかねる。
道長などのように五男坊の家がのちのち摂家嫡流として繁栄するためしもある。


162日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:59:33
でもきっと、三条家の人は内心、自分のとこが閑院流の嫡流だって
思ってたんじゃないかなきっと。
西園寺がそれを認めたかどうかは知らんが。
163日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:23:09
>>161
公能じゃなくて実能ね。

あと実行は公実の次男じゃなくて三男じゃなかったっけ。
(長男・実兼、次男・実隆)。
164日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:04:13
実兼は生年不詳。
実兼は実隆や通季より長生きしているにもかかわらず出世は劣るので
実兼が何番目の息子かは判然していないのでは?
実隆は実行の1歳違いの同母兄なので、
実隆、実行、通季、実能の兄弟順は間違いない。
概説などでもこの順で長男、次男・・・と数えているものが多い。
(何番目か不詳の実兼は含まれていないことになる)
165日本@名無史さん:2009/02/26(木) 23:17:00
>>155
馬鹿メッセ乙
166日本@名無史さん:2009/03/29(日) 11:28:17
>>161
藤原氏の嫡流は当初は南家だったとも言えるしな
167日本@名無史さん:2009/04/03(金) 14:05:30
実資や伊周の家系って皆殺しになったの?
168日本@名無史さん:2009/04/04(土) 23:50:35
鏖?なぜ?
169日本@名無史さん:2009/04/08(水) 00:23:51
公家は「兼」という字を使いたがるなw
170日本@名無史さん:2009/04/08(水) 00:49:00
>>169
足利義兼
直江兼継
龍造寺家兼
百武賢兼(龍造寺四天王の一人)
板垣兼信(甲斐源氏・板垣氏の祖)
北条兼時(鎮西探題・時宗の甥)
織田信兼(信長の甥)
吉田兼貞(赤穂四十七士の一)
171日本@名無史さん:2009/04/08(水) 08:16:02
>>170
いろんな時代から必死にかき集めてきたようだが、
公家が「兼」の字を使いたがるのと武家に「兼」の字を使う人がいるのとは
何ら競合関係にない。
172日本@名無史さん:2009/04/08(水) 12:20:41
ここは閑院流のスレなんだが?
「公・實・季」は使うが、兼はそれほど使わんだろ
173日本@名無史さん:2009/04/08(水) 21:04:39
閑院流ファンの方々に質問です。
「公」の字の読み方には「キミ」と「キン」の両方がありますが
もともと使い分けていたんですか?
それとも語呂の関係?
174日本@名無史さん:2009/04/08(水) 22:07:26
「公達」(キンダチ)という読みは平安時代からあった
最初は語呂の関係で読みやすいからそう呼んでいたのだろう
公家はのちに名前に独特の特殊な読みをつけて(今の皇族も独特な読みをする)
権威を高めようとはかったがこれは早い段階から始まった読みだろう
175日本@名無史さん:2009/04/08(水) 23:36:04
由来としては「きん」は「きみ」の音便であることは確かだよね。
平安時代だかの口語的表現(?)を後の時代に引きずることで、
権威を高めようとしたんだろうね。
176日本@名無史さん:2009/04/08(水) 23:58:01
>>174
>>175
お二方有難うございました。
177日本@名無史さん:2009/04/24(金) 15:17:02
公家の名前は怪奇だなあ
178日本@名無史さん:2009/05/11(月) 01:10:05
四辻家って名門?
179日本@名無史さん:2009/05/11(月) 01:27:57
良くてもせいぜい中流の下。
180日本@名無史さん:2009/05/11(月) 14:12:28
なんで貴族なのに四がついてるんだ?
181日本@名無史さん:2009/05/12(火) 00:13:29
貴族に四がついちゃいかんの?
四条家っていう堂上もあるが
182日本@名無史さん:2009/05/12(火) 01:23:56
ヨツがついてるからでしょ。
183日本@名無史さん:2009/06/28(日) 08:10:43
age
184日本@名無史さん:2009/07/04(土) 06:24:20
>>180>>182
バカw
185日本@名無史さん:2009/08/20(木) 01:56:30
age
186日本@名無史さん:2009/08/20(木) 02:00:38
あげ
187日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:24:53
藤原は糞
188日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:22:27
徳大寺が一発変換できない
189日本@名無史さん:2009/10/27(火) 23:40:15
>>188

>>36でがいしゅつ!
190日本@名無史さん:2009/10/28(水) 00:19:21
>>188

つ「辞書登録」
191桃太郎侍:2009/10/29(木) 11:32:16
私は、藤原氏を崇拝しています。
192日本@名無史さん:2009/11/02(月) 20:46:14
四辻家や五辻家の名前の由来は?
193日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:30:18
しらん
194日本@名無史さん:2010/02/06(土) 00:01:15
195日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:39:06
西園寺って苗字はかっこいい
196日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:42:29
何か少女漫画とかエロゲのお嬢さま設定の苗字に必ず使われるよねw
西園寺。
197日本@名無史さん:2010/02/06(土) 15:44:51
>>196
でも立命館にはお嬢様はいないんだよなこれが
198日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:33:37
「西園寺」でググると公望公よりも上に出てくるけしからん(厚かましい)奴がいるけど、何者??

あと「西園寺 お嬢」でググると、わけのわからんものが一杯出てくるな。

> 現津みかみ氏が、まんがタイムきららフォワードに不定期?連載中の
> コミックス天より高く1巻【AA】が13日に発売になった。
> コミックス情報によると『お嬢様振り回され系スクールコメディ』で、
> オビ謳い文句は『お嬢様、転落。西園寺遥、どんな時でも誇り高く!』。
> とら1号店のPOPは『逆境に愛されてるお嬢さまと、特徴がないのが特徴な男の子・・・
> なんかスゲェ ストーリーなんですが?』だった。


よくわからんが、確かになんかすげーなwww
199日本@名無史さん:2010/02/07(日) 23:43:35
西園寺世界とかな
200日本@名無史さん:2010/02/08(月) 01:11:25
>>63
>>66
西園寺寛季は若年で出家してしまったから、それ以上官位が上がらなかったみたいだね。
この時代、二条家から出て西園寺の跡を継いだほどの人物なら、
仮に本人がほとんど白痴に近かったとしても、朝廷に出仕さえしていればちゃんと出世しただろう。
201日本@名無史さん:2010/02/09(火) 19:13:17
西園寺はどうしても公望がメジャーな存在だが、
公経さまももっと評価されていいと思う。
202日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:38:23
賞季タンこそ最強でしょ!
203日本@名無史さん:2010/02/10(水) 21:48:20
西園寺公経は九条道家すら手玉に取る傑物
204日本@名無史さん:2010/02/10(水) 23:42:23
徳大寺有恒
205日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:37:15
俺は言葉派。
206日本@名無史さん:2010/02/12(金) 01:16:45
俺は公宗を推す
207日本@名無史さん:2010/02/12(金) 01:23:14
西園寺といえば「赤い公爵」
208日本@名無史さん:2010/02/13(土) 16:25:22
もし共産党の委員長で「西園寺」とか「徳大寺」とか出たら
それだけで話題になりそうだな。
209日本@名無史さん:2010/02/16(火) 21:46:05
「赤い公爵」は共産党シンパ(党員?)だった。
レッドバロンならぬレッドプリンス
210日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:02:15
なるほど
211日本@名無史さん:2010/03/22(月) 16:58:55
ほほ^
212日本@名無史さん:2010/04/23(金) 23:55:14
閑院流で清華家・大臣家以外の傍流の中で
最も有名な人は誰だろう?
姉小路公知?
213日本@名無史さん:2010/04/23(金) 23:56:41
閑院流で清華家・大臣家以外の傍流の中で
最も有名な人は誰だろう?
姉小路公知?
214日本@名無史さん:2010/04/23(金) 23:58:30
>>213
宝暦〜安永の頃の武家伝奏だった人?
結構マニアックだけど清華、大臣家以外あと他にいないかな
215日本@名無史さん:2010/04/24(土) 12:43:51
武者小路実陰はどう?

まあ、子孫の実篤の方がもっと有名だと思うが
216日本@名無史さん:2010/04/24(土) 15:09:15
澤宣嘉
217日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:59:53
仲良きことは美しきかな
218日本@名無史さん:2010/06/15(火) 23:01:05
age
219日本@名無史さん:2010/06/16(水) 23:28:02
烏丸少将
220日本@名無史さん
藤原南家が至高