201 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :
>>198 暦を作ったのは古代人なんすよ
今世界的に使われてるグレゴリオ暦、いわゆるキリスト暦ってのも、500年ぐらい前に、古代からあった複数の暦を掛け合わせて作ったもの
天体学の知識に乏しい(月は地球の周りを回ってるとか思ってたり)学者が複数の暦を統一した暦
一方、今は使われてない古代の旧暦や13月暦ってのはちゃんと古代人が天体の動きを理解して天体運動と連動するように1から自分達で作った暦
(例えば旧暦や13月暦の新月は月と太陽の動きを正確に表してるけど、今のグレゴリオ暦では正確な新月の日にちとかがわからない)
暦の成り立ちがどうかとかは暦を作った古代人にしか分からないっす
けどちゃんと天体の動きなどと連動した理由があるっす
マヤや昔の中国やインドのように複数の暦を使って更に他の観念まである暦もあるっす(例えば仏教の仏滅大安とか、六白二黒とか)
今の暦は天体運動とはずれてるから間違った暦とも言えるっす
この暦を使ってると立春とかの正確な日にちが解らなくなるとかって話もあるみたいだよ
202 :
サガミハラハラ:2008/01/10(木) 19:26:11
203 :
日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:20:59
あ〜あ、もう簑問他と太国のチラ裏と化してるな。w
204 :
唐松山:2008/01/10(木) 20:44:36
美濃もん太さん ちゃんと ほつま 読みました?
暦も出ているし、なにしろ 神代に強い。
今の 書き込みの状態じゃ 混沌としていて まだ 陸に成っていない、
固まってから 書き込むべき それまでは 古伝盲信が 在りますよ。
盲信なら 水を固体と言っても良いから。
205 :
横槍:2008/01/10(木) 21:18:31
隋書倭国伝に東西五月行、南北三月行となっているので・・・
ソウル〜出雲、水行20日
出雲〜大和、水行10日(陸行換算1月)が正解でしょう。
因みに出雲から大和
東回り
出雲⇒若狭湾⇒陸行2日⇒琵琶湖⇒淀川⇒大和、計10日間
西回
出雲⇒瀬戸内海⇒大阪湾⇒大和、計10日間
206 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 22:15:06
>>204 はい、ちょい俺も陸路とか考えてみるっす
美濃辺りの古い街道ならどの辺りをってのはなんとなくわかるんけどなあ、、
207 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 23:01:51
>>152 あんたはこちらを人払い進言していて今日はこちらを用とするのか? あまり
勝手すぎないか? それはある程度回答してはやるが、切り替えしの質問は
するな、などわがままが激しい。質問はするなと言うから、その回答からの
再質問は受けないぜ。七支刀の適正な見解には感謝している。
それは古神道の数読みで、古代において未来に対して主導権を取っての時代区分
というものが悠遠の神代からすでに決定されているということだ。
だから教科書で教える時代区分とは異なるものであり、学校で教えられた区分も
一生懸命これまでの先輩にあたる学者、研究家が苦労してこさえた体系だから、
それなりに有意義であり役立つことは大きいが、それだけでは古代の真相は
充分に見えて来ない。当時の日本の朝廷は古神道の信仰の基盤に立っての日常
生活であり、これを無視、排除して古代を見ようとする者が結構いるんでは
なかろうか? これでは食堂の窓に飾ってある蜜蝋の食品料理を眺めて食わずに
味の美味い?不味いか?をああだこうだと外周で言うことに終始するだけで、食べ
ないで結論を出して帰るようなものであり、古代史の真の姿は未来永劫分からな
いであの世行きとなる研究家にておしまいになる。古代エジプト学者の吉村先生
でも古代エジプトの神々を論じながら同古代史を論じている。つまりだ、そこの
国の古代史の真相を知る上には、一度は自らがその当時の国の神官になりきった
つもりに装って古代史を観るべきだろう。
208 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/10(木) 23:13:03
>>182 例え、ご参考までさんの言う曲筆があったとしても、それが倭人伝に及ぶことは考えにくい。
なぜなら倭国の実情を中国人は良く知らないので、何らかの思惑による曲筆など必要がないからだ。
それらと違って頭が二つある人種、などの記述は曲筆などと言えるものではなく、
恐らく陳寿自体良く知らなかったことに関して伝説や言い伝えをそのまま書かざるを得なかったものだろう。
倭人伝は魏使が興味深く倭人の行動、風俗などを見聞した真面目な内容であり
本国の記述のそれとは違った趣を呈しているといえよう。
209 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/10(木) 23:20:42
>>152 続き
それではそういう時代区分とはいかようなものか? これが古神道の時代区分
であり、神代では1数が当時を示す古代史時計の針だということだった。
天地の初発〜日神誕生以前 0 (こに時代は年月日が無いから判然としない)
日神誕生後〜神武即位前 1 (同上)
神武即位後〜明治時代前 2
明治時代後〜 ? 3 (平成の現代は針はここ!)
以上のようになってるんだよ。どうしてそうなるのかということは今のところ
秘の段階である。信じないなら信じなくてもいいがね、これが真相なんだよ。
そこでだ、ここの2の時代のとき、神代たる1の時代に於いて未消化のある
抽象的モノが存在しており、卑弥呼はこれを自ずのモノと為すために、彼女の
国を2の時代の後代にあったが、1から国名を『邪馬壹国」としたというのが
女王国の真相なのである。だから隋書等の編者らは遠い大陸にいるため国名を
誤認して、ヤマトの名も知ってたこともあってか「邪馬臺国」だと思いこんで
いたということだよ。そういうことで、真の国名は『邪馬壹国』なのである。
当時すでに2の時代の主導権を取ってる国は大和朝廷の畿内の領域であり、これと
並行して女王国が1の時代の領域に1の残存として再生していたのだ。
210 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/10(木) 23:50:01
>>208 ですがさん
>中国人は倭国の事情をよく知らない
それは違います。
彼等は洛陽に居ながらにして、列島の様子を把握出来る環境です
目の前に、生きた広辞苑がいるではないですか?
211 :
横槍:2008/01/10(木) 23:52:49
>>209 よく分かんない噺だけど
ゼロが数列に加わったのは明治以降なんじゃないの?
そうすると0が1に、1が2にずれて『邪馬弐国』になるんじゃないの
ヨコヤリです。
212 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 00:02:02
>>211 以後2,3・・・は普遍的に順次数字が増えて行くから、とりわけ
国名に入れるものでもない。女王国の場合は2の時代なのに1の
数を支配する特例のためにこの数字を強調し、国名に数字が入っているもの。もしかしたら、まだ混沌を示唆するために「邪馬国」とは
「邪馬 国」であって「邪馬0国」かも知れんぞ??w
↑
空
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
213 :
横槍:2008/01/11(金) 00:08:10
もう無茶苦茶
zzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・・
214 :
あさきち:2008/01/11(金) 00:17:26
>>209 ろんきょがききたかっただけだから。
ないならないでいいよ。べつに。
ひらがなだからよめるだろ。
このあいだかきこみにかんじをまじえてごめんね!
>>168 うん、佐賀平野にはたくさん遺跡があるね。
ただし、それ以外のところにもたくさん遺跡はあるわけで、
そこから何が出てくるかが肝腎ですけどね。
でも、数が多いということは、今後何かが見つかる可能性も大ではありますが・・・・
例えば、地の利の有る玄海灘側の遺跡からは、半島との往来の証として、
韓式、楽浪式の搬入土器が大量に出土します。
三雲番上遺跡の廃棄抗などからは、有りとあらゆる種類の楽浪系土器が出るそうです。
そういった遺物の出土地であることは伊都比定地の条件の一つだと思います。
次に熊本ですが、こちらでも半島系の土器は出ます。。
ただし、三雲や御床松原が100だとすると10くらい、吉備や畿内はさらにその10分の1ですが。
ちなみに、私は畿内説ではありますが、熊本は狗奴國ではないかと思っています。
さしたる論拠はありませんけどね。
まあ、考古ネタを続けるとここではスレ違いかと思いますのでこの辺で・・・
216 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 02:42:12
考古ネタ上等。
太国やらもん太やらのデムパオカルトより100億倍ぐらいマシ
つか馬鹿コテはマジ芯で欲しい。
217 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 04:10:18
>>215 玄界灘沿岸には大規模な集落跡がない。有明海沿岸に比べるとこれが弱いと
思う。ただ、鏡を数十枚も副葬する習慣は、後の畿内の古墳にも通ずるので
このあたりが気になるところかな。
熊本の弥生後期の鉄器の出土量は群を抜いているといわれる。
これを九州北部に敵対する勢力と見るか、それとも北部も含めた中心勢力と
見るかで考え方が異なるように思う。
倭人伝の「一大率」は、九州北部を監視する役割りを担っていたと思う。
その意味からすると、邪馬台国は離れたところにあったと考えられる。
だから、邪馬台国が熊本にあったら、ある程度納得がいく。
熊本からは女王の眠る古墳もいくつか見つかっているので、女王国としても
ふさわしいのではないだろうか。
では、狗奴国はどうなるか。後に大和朝廷の宿敵になる南九州の熊襲や隼人を
狗奴国にしてもよいが、自分の考え方からすると、出雲に比定したいところ。
幸いにも、後漢書にはそれを裏付けるような記述がある。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」の部分。
なぜ、出雲を狗奴国に比定するかというと、それによって中国の歴史書と
記紀の記述が一致することになるから。
更に、熊本にあった勢力が日向に進出したとすれば、邇邇芸命の天孫降臨伝説
にもつながる。
まあ、この考えを受け入れられない人が多々いるのはわかっているが。
218 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 07:22:37
>>214 朝吉くんよ
ははぁなめてるわけだ。考古はこっちの本域じゃぁないしお前の見聞での得意技
だろうからいい顔できたろうが、そのへんはそうは行かないぜ。だいたいあれ
でさえもお前の本質的論ではなくだれかの聞きこみを先にして小出しして来た
論法作戦だろうが? 借り物でお前自体の論述ではあるまい? それともお前が刀
のX線撮影でもしたんか? ならばお前の自論と認めていいがね?ww
さぁザヘお帰りを〜・・・。 ここはお前の来るところでないし、4世紀で能書き
をたらふく垂れてればいい。帰りなよ。
219 :
ご参考まで:2008/01/11(金) 10:16:35
プラムさんへご返信・お尋ねの原文は「東沃沮伝」の後半の終わりの方に有ります。
『又言有一國亦在海中、純女無男。又説有一人項復有面』
この前後はご自分でお願い致します。東夷伝原文はネットで容易に入手できます
ことは、プラムさんも勿論ご承知のことと存じ上げますので。
ちなみに、碩学の今鷹真・小南一郎京都大学史学教授の訳文を次に掲げておきます。
『老人が言った。海中には女ばかりで男のいない國があります。また、うなじの所に
もうひとつ顔のある人間がいます。』(ちくま学芸文庫・正史三国志4)
220 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 10:37:48
>>219さん
お手をわずらわせ申し訳ございません。
やはり「言と説」でしたか。
その土地に伝わるお話しと捉えた所で、何の違和感もない記載でもあるわけで、その老人も確証を示し説明した訳じゃないかと
221 :
ローガン:2008/01/11(金) 16:16:43
>>217 九州の墓に漢鏡の副葬多いですね。王墓なのでしょうね。
しかし、平原1号には古いタイプが2枚のみ。あとは国産。
でも、漢鏡が半島から来なくなった訳ではなさそうですね。
7期漢鏡は九州より東で多く見つかります。
九州勢力としては入手が困難になったのかな?
しかし全く九州で見つからない訳ではありません。
古墳から出土してますね。
古墳…… 前方後円墳ですが、始まりは大和でしょうね。そしてあまり時をおかず、北部九州でも前方後円墳が造られます。
赤塚、石塚山、那珂八幡、生掛古墳等々…
遅くともこれらの古墳の被葬者が死ぬ迄に、吉備や大和と同じ首長霊祭祀方法になっていった訳ですね。
中でも、豊前赤塚が古いのかな? 邪馬台国の時代ですね。
222 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 17:37:36
>>221 >赤塚、石塚山、那珂八幡、生掛古墳等々…
>中でも、豊前赤塚が古いのかな? 邪馬台国の時代ですね。
4つ挙げておられますが、このうちの最古はおそらく小郡市の生掛(津古生掛古墳)でしょう。
庄内期併行であり、邪馬台国の時代に重なると思います。
この津古生掛古墳は、九州の古墳時代の黎明を探るうえで極めて重要な遺跡なのに、住宅開発の犠牲になって、無情にもつぶされてしまいました。
なんとか保存できなかったのでしょうか……。(泣)
津古生掛古墳 (福岡県小郡市津古)
前方後円墳と言うより、周囲の土を掘って盛り上げた円丘に細く短い突部がつく「長突円墳」。全長32m。
鶏形土器、方格規矩鳥文鏡など出土。
http://www.inoues.net/museum/ogoori67.jpg
223 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:09:05
卑弥呼の墓はどこかって??
「親魏倭王」の金印が見つかってないから卑弥呼の墓もまだ見つかってないはず。
金印はおそらく墓と一緒に埋葬されてると読む。
天皇家の関わりある箸墓とか歴代天皇綾だってある程度は調べてるんだが、
出てこないのが現実。
というか、箸墓の埋葬されたといわれる円墳部分中心を調べたらいいじゃないか!
とか声が聞こえてきそうだが、おそらく金印はでてこないと思います。
何故かって?! 卑弥呼は天皇家と関わりないからです。
224 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:21:05
>>88 プラムさんへ
>>伊都國が東南方向
>何処から?
>まさか末廬からじゃないよね
>そんな事何処にも書いてないから
だからプラムさんはちゃんと魏志倭人伝読みなさいって。
漢字解読より目の使い方学んだほうがいいんじゃない?
225 :
サガミハラハラ:2008/01/11(金) 18:40:23
卑弥呼の墓には金印がはいっていない可能性があります。
壱与に伝わり、晋ができた時、中国に持って行き親晋倭王の印と交換した可能性があります。
226 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:43:05
『末廬國』国について
松浦半島を東側なのか西側なのか意見が真っ二つに分かれてる。
サガミハラさん達は西側としてるのだがはっきりいって違ってます。
多くの人が関係者が語ってるとおり。
對馬國⇒ 対馬
一大國⇒壱岐
末盧國⇒唐津周辺
伊都國⇒前原周辺
奴國國⇒博多湾周辺
不彌國⇒宇美周辺 まあこんなもんではないでしょうか。
227 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 18:46:05
>>225 >卑弥呼の墓には金印がはいっていない可能性があります。
>壱与に伝わり、晋ができた時、中国に持って行き親晋倭王の印と交換した可能性があります。
サガミハラさんの考えがわからない。
なぜ宗女の壹與へ伝わるんですか?
なんで交換するんですか?
228 :
ローガン:2008/01/11(金) 19:00:14
>>222 ご教示ありがとう。津古生掛の方が古かったのですか。
改めさん。金印の役割を考えると卑弥呼に副葬されたとは考えにくいですね。
卑弥呼と天皇家との繋がりについては不明としかいう以外にないですね。
可能性ありと言ってるわけだけど、なんで可能性が出てくるのか知りたいところではある。
230 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:02:16
>>227 伊都國が末廬の東南にあるなら、
『伊都國在末廬國東南』や『東南至伊都國陸行五百里』でいいじゃん
だれもが抱く単純な疑問だよ。
そこは“臭いものに蓋”かな?
231 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:22:05
>>228 ローガンさん〜もっと当たり前に考えてくださいよ。
『金印の役割』って、親しい国の証に倭王卑弥呼へ送った品物。
ナルメに送ったわけではないんですよ。
普通に考えたら卑弥呼のもの⇒墓ですかね。
まあ、断言はできないが周辺なのは間違いないところです。
>>230 わたしは東南にあるとは言ってない。
鎮守でしょ。
232 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:25:32
ま、サガミさんの場合
長年温めてきた『桜ヶ岡卑弥呼墓』を
先日自ら否定なさった訳で、これから新天地を求め旅立つ訳ですね。
で、新たな候補地は?
233 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:29:30
サガミさんへ質問
卑弥呼の時代の地名が現在では残ってないってどこかにレスしてたと思うが、
對馬國⇒対馬
一大國⇒壱岐
とかはどうなんでしょう?
名残ないですか?
ボタンを掛け間違えたのはサガミさんのほうではないんですかね?
234 :
ローガン:2008/01/11(金) 19:29:55
>>231 印はどう使うのでしょうか?
卑弥呼の死で冊封解消?
235 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:31:13
236 :
18歳になりました中卒ヒッキー:2008/01/11(金) 19:34:20
久しぶりにきてみましたが、冗談でしょ?僕がいた2、3年前からまさか毎日
ここで無限ループの不毛な議論してるんですか?端からみてると
絶句するというかきもち悪いですよw
237 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:36:46
>>234 >印はどう使うのでしょうか?
とか面白い質問しますよね。
それじゃまるでプラムさんと同じレベルの質問じゃないですか。
私に聞くことなのでしょうか?ローガンさん
>>235 東北ではなく東南って書いてるでしょてことだよ。プラムさん
238 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:42:12
>>236 友人とか学校、会社で「邪馬台国論争」したら確かにそう思われる。
しかし、ここは邪馬台国論争するところであり別におかしくなくない?
239 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 19:47:01
>>237 東南って書いてありますよ、それでOKですよ
>東北
それなに?鎮守が書いたの?
240 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 19:59:38
プラムさん
「1759174(いなこくいなよ)」でしたっけ?!
まだ信用してるんでスか?
この前レプリカだが九州国立博物館の「漢委奴国王」の金印みてきたんだが、
(かんわのなのこくおう)て書いてましたよ。
241 :
ローガン:2008/01/11(金) 20:07:02
>>237 そりゃ確かに墓に入った可能性がないとは言いません。
イヨタンや男王が新たに印を下賜されていないので冊封の印を使用出来ない状態にはしないと思いますよ。
プラムさんと同じレベルとは、畏れ多い事です
242 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 20:20:14
>>241 そう書いてあるモノをそう受けとめるなら
そう主張する事は当然の事ですね
>>226 > 『末廬國』国について
> 松浦半島を東側なのか西側なのか意見が真っ二つに分かれてる。
西側も東側も全体が「末廬國」と言う意見も有りますよ。
論者は「普通は伊都まで水行だろう説」の私ですが。
末廬と呼ばれた地域は、現在の東松浦半島だけではないかもしれません。
そのあたりに自他共に共通の地域と認識する領域があって、そこが「末廬國」。
倭人伝の記載では「有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人」と書かれ
ています。
「濱山海居」は、訳し難い言葉なのですが、後続の「草木茂盛、行不見前人」と
併せて考えれば、内陸部よりは沿岸部を主な居住地とする勢力のように思います。
そして、戸数は四千もある。
長大な沿岸部だけに散ばって住んでいるようなイメージです。
桜馬場の被葬者のような存在を考えれば、そこかしこに中核集落はあったかもしれませんが、
玄海諸国の他の国々とは社会構造が異なる地域だったのではないかと思います。
思えば、この国だけは「官」が居ないのですよね。
244 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 20:35:11
訂正
>>241としたアンカーは
>>240へのミスでした。
ごめんなさいねm(__)m
>>241ローガンさん
私は今でも『チラ裏プラム』ですから
「畏れ多い」なんて言わないで下さい。
245 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 20:45:23
>>242 ハッキリいってあのホームページは信用してません。
言葉の伝承みたいなのは凄いな〜とか思ってしまうが、あの人の邪馬台国感はイマイチわからない。
何でそうなるのかなとか思ってしまう。
又、今夜か明日、明後日でもぶった切りに行こう思ってるので宜しくデス(笑)
246 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 21:01:12
正月○鹿 さん
全体が「末廬國」でもいいんじゃないですか。
私がいいたかったのはルートのことです。
サガミハラさんの言うルートはご存知ですか?
247 :
改め〜卑弥呼:2008/01/11(金) 21:02:05
正月○鹿 さん
全体が「末廬國」でもいいんじゃないですか。
私がいいたかったのはルートのことです。
サガミハラさんの言うルートはご存知ですか?
248 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/11(金) 21:07:33
>>245 私も二年前、あのHPを潰そうと考えていた一人ですから
貴方のそういう気持ちは理解できます。
249 :
小倉優子が好き:2008/01/11(金) 21:10:01
250 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:15:45
魏志倭人伝には
1:方向 2:距離 3:地名 4:人口
の4つの要素があります。
1の方向にこだわると、2、3、4の要素を満たせなくなってしまいます。
251 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 22:36:06
宇治谷 孟「あとがき――解説に代えて――」
『日本書紀・全現代語訳 下』(講談社学術文庫)
>この海彦・山彦の話にしても、産室の屋根をウの羽で葺くのに、それが葺き終わぬうちに子が生まれたので、
>ウガヤフキアエズと名づけたなどというのは、われわれもオトギ話程度にしか受取っていなかったものである。
>ところが韓国の古代史研究家によると、三韓を遡る数百年前から、南部朝鮮に「伽耶」という高度の文明国があり、
>韓国固有語で、上伽耶(ウカヤ)・下伽耶(アラカヤ)と呼ばれる兄弟国であったという。
この宇治谷という人は、本物の馬鹿ですなあ。
韓国語に「上伽耶」だの「下伽耶」だのといった表現法は無いんだよ。
何だよ、「上伽耶」って?
「北伽耶」「南伽耶」という表現なら分かるが、上伽耶なんていう表現は、
韓国語には無い。
日本語にも無いし、中国語にも無い。英語にも無い。
ふつうは、北○○、南○○と表現するだろ。
それに、『上伽耶』なんていう名前の国は、過去に存在したことは無い。
252 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 22:42:16
>>236 邪馬台国論争にはほとんど進展がないね。
みんな自分の考えが一番正しいと思っているからしょうがないか。
歩み寄るところがないから、堂々巡りになる。
253 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 22:50:57
韓国の古代史研究家って、誰かね?
自称・研究家の妄想ジーサンなんだろう。
それに伽耶(カヤ)っていう地名は日本語なんだが・・・。
日本語の離ゆ(かゆ)が変化した言葉がカヤであり、
「離れた国」の意味である。
254 :
横槍:2008/01/11(金) 23:07:06
と言うか、九州説という袋小路に入ったら、脱出不可能
255 :
ローガン:2008/01/11(金) 23:07:23
>>252 百人いたら百通りの考えがありますね。
だから面白いのでしょう。
まだやめられまへんなあ〜
>>251 -上伽耶なんていう表現は、韓国語には無い。
-日本語にも無いし、中国語にも無い。英語にも無い。
中国、韓国は知らないが、日本語、英語にはあるだろうw
穏当に近畿でいいんじゃねーの
他のは考古学的な裏付けに乏しいからまー無しだろな。
なお妄想は自由だからお気軽にドゾ
258 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:59:38
>>257 考古学的に畿内説というのは、怪しいものだな。
以前は、三角縁神獣鏡が唯一の支え。それが破綻しても考古学的に畿内説と
言い続けるわけだから。
まあ、都合の良い一点だけを取り上げて、都合の良いように解釈するのが畿内
考古学だろう。
重要な鉄については全く触れないし。たまに触れれば、畿内は廃品回収が
徹底していた。あるいは溶けてなくなった、だから。
259 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 00:20:13
>>251 現代韓国語で、上はウィ、下はアレだろ。今の慶尚南道のあちらこちらに
大伽耶とか金官伽耶とか色んな伽耶国があったのも事実。
ひょっとしたら上の伽耶とか下の伽耶とかの呼び方もあったかも
しれないじゃない。
260 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 01:41:43
>>236 つうか文献中心だともう2・3年どころか何十年同じ事を言いつづけているんじゃね?w
>>258 「鉄は朽ちた」「リサイクルが徹底していた」とか言っている考古学者ってまだいんの?
3世紀半ば頃ならヤマトは、まだまだ鉄器後進地域で問題無いんじゃね?
昔は「 邪馬台国=日本の大半を〆る強大な国家 」ってイメージだったからでは?
逆にいえば未だにその固定観念から抜け出せていないのが
九州説論者のような気がしないでもないですw
>>260 >文献中心だともう2・3年どころか何十年同じ事
発掘調査の年代と脳内妄想が不一致になってもがいてるんだろ
畿内説も九州説も
262 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:26:00
上・下の表現は日本にはあるだろ。
前・中・後の表現もあるが。
263 :
ローガン:2008/01/12(土) 15:36:51
>>261 文献的にみても、畿内説でさほど不都合は感じませんが…
考古学的には、畿内説で決着したのではないでしょうか?
264 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:41:54
日本語における上・下の表現は、「川上の地」「川下の地」とか、
「山上の地」「山下の地」といった意味で使われるのであり、
朝鮮人が主張しているような北(上)と南(下)という意味ではないよ。
そもそも、日本語には「北は偉くて上位、南は卑しくて下位」というような政治思想は無い。
これは朝鮮人の思想だろう。
前・中・後も東西南北と同じように水平方向を表す言葉であって、
上・下というような垂直方向(政治的な上下関係)を表す言葉じゃあないだろ。
265 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:48:09
>>263 魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写になっているのだが。
環濠集落の時期は圧倒的に九州が優位なのだが。
魏志に出てくる鉄鏃が畿内は九州の10分の1以下なのだが。
君は文献も考古学も知らないね。
>>265 >魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写になっているのだが。
なっていない。
まるっきりの出鱈目だ。
おのれの勝手な解釈を押し付けてもらっては困る。
そんな態度では、これから歴史を学ぼうとしている子どもたちに示しがつかない。
卑弥呼の居所が環濠集落だと魏志に描写されているのなら、魏志からその部分を書き抜いてみろ!
267 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 16:32:01
ファビョるなよ関西人・・・・・
268 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 16:43:29
269 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 16:53:53
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
270 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:04:15
>>265 「女王の住まう所、周囲に濠を巡らし…」とか書いてあれば良かったんだろうけどw
あとその都市が卑弥呼の時代より数世紀前に造られたなんて記述があれば
マキムクなんて候補から確実に外れていると思うんだけど…
その都市が何時頃造られたなんか分からんでしょ?
出来立てのホヤホヤかもしれん訳だし…
てか各地の勢力の均衡を計るには新しい都市の方が都合良くね?w
271 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:06:31
>>266 横だが、たぶん、「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の部分だろう。
宮室というのは、たぶん王の住む家。桜観は、高く立派な建物。
城柵を厳かに設け、常に人が武器を持ち守衛する。
環濠とは書いてないが、厳重な警戒がされているということで、日本では
環濠集落が一番妥当だと解釈するのが普通だと思うが。
吉野ヶ里遺跡が発表されたとき、倭人伝の記述にぴったりだといわれた。
たとえば、纏向遺跡はどうなんだろう。
畿内にはぴったり来るような遺跡があるのだろうか。
272 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:13:05
>>270 倭人伝には、伊都国について「世有王、皆統屬女王國」と書いてある。
つまり、代々王がいてみんな女王国に統属すると。
女王国は相当前からあったのだろう。
273 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/12(土) 17:21:18
>>272 >伊都國には代々王がいて
そんな事何処にも書いていませんよ
274 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:25:27
考えてみれば、玄界灘沿岸の地域からは宮室や樓觀と見られるものは出ていない。
畿内にも確か、なかったと思うが、となると、郡使の見た風景はひょっとして
有明海沿岸か?
もちろん、見つかっていないからなかったとは言えないわけだけど。
275 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:31:18
>>273 あなたの解釈は独特だから。
「皆統屬女王國」は、「皆、女王国に統属する」で良いわけでしょ。
276 :
ローガン:2008/01/12(土) 17:31:41
>>265 そうですね。私はあまりものを知らないので。貴方はきっと詳しいのでしょう。
環濠集落とは卑弥呼の記事の後に出てくる、宮室楼觀…を指しての事ですか。(違ってたらごめんね)
もしそうなら、何故環濠集落といいきれるのですか?
私は豪族居館でもいいのじゃないかな?と思いますよ。
鉄鏃の記述は、漢書からの引用でしょうね。郡使がはたして倭国内で確認したかどうか疑問です。
そういったものの、出土量の多少を言われても……
277 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:37:55
>>272 「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。
官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。
千余戸有り。
世王有るも皆女王國に統属す。」
の部分ね。
すると代々女王が統治する国があって、それをある時皆が盟主に祭上げたって事かな?
そうすると…
「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
名付けて卑弥呼という。」
ここで挙げられている「國」と言うのは大小の国の連合体と言う事になるのかな?
「國」の記述を邪馬台国一国と、邪馬台国を盟主とする連合体と分ける
…理屈としては面白そうw
278 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:44:18
そもそも「環濠集落」って中に 一次産業に従事する者=農民 の民家を抱えるものでしょ?
卑弥呼の住む宮殿の周りに民家が立ち並んでいるって記述は無いべ?
もしあれば政治と宗教の特化都市マキムクはアウトだなw
>>271 >「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
「環濠」とは書いてない。「環」「濠」を含む字句も一切無い。
卑弥呼の居所に環濠があったかどうかは、魏志という文献からは確定できないのである。
むしろ魏志に「環濠」めいた記載が無いことを重く見て、「卑弥呼の居所は環濠集落ではなかった」と積極的に捉えることもできよう。
当時の倭の地に、もし濠を環らす居館や集落等があれば、それは魏側からすれば特筆事項とも思われるからである。
要は解釈はさまざまである、ということだ。
それを弁えず、
「魏志の卑弥呼の居所は、環濠集落の描写になっている」
などと出鱈目を述べた
>>265は唾棄されて然るべき存在であり、学問を志す人間ではない。
>>275 >「皆統屬女王國」は、「皆、女王国に統属する」で良いわけでしょ。
OKですよ
>あなたの解釈は独特だから
周りが余りにも無頓着すぎるだけの話
代々と書いてある場合、その代々が何時から代々なのかを明確に示し、初めて代々と表記できる
これは道理
それに、ここで代々と記載する意味は全くなく
状況をまるで把握しない単純な誤訳
「世」を(代々)と和訳できるには、それなりの条件が伴ってはじめて(代々)と和訳できるわけ
それを完全に無視し、「世」と見れば脊髄反射的に(代々)と和訳している
281 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 18:31:56
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
282 :
改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 18:58:14
サガミハラさん、ローガンさん
「親魏倭王」の金印をなぜ副葬されてないと思ってるのですか?
他のみなさんも彼らと同じ考え?!
283 :
ローガン:2008/01/12(土) 19:19:52
>>279 同意します。
マア、もういいじゃないですか。
反論ないところをみると、納得したんじゃないですか?
おそらく、城柵→逆茂木→環濠集落と連想したんじゃないですか?
>>279 書いてないことを書いてあるかのように思う、
の典型ですね。
例示された吉野ケ里にだって、
隔壁と兵士で守られ、多数の婢を従えた女王が
引きこもれるような施設は発見されていないでしょう。
私は想像力が貧困なので、大奥か神社のようなものしか
思い浮かびません。
285 :
改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 19:24:45
サガミさんの邪馬台国、佐賀県小城市説は周りからいろいろ言われてるが
確かに面白いとは思うんですよね。
私もサガミさんみたいに皆、驚くような場所を邪馬台国だって示したいんだが、
現実を考えたらありえない・・・笑
286 :
愛知県民:2008/01/12(土) 19:27:05
>>282 「親魏倭王」の金印は卑弥呼個人に与えられたものではないでしょう?
魏志にも、後継者台与に改めて金印を与えたとは書いてないし。
魏から晋に代わった266年の朝貢で、「親晋倭王」の印を受けたかもしれません。
そのとき魏の印はどうしたのだろう?
287 :
横槍:2008/01/12(土) 19:32:02
>>282 金印は、大事な証印なので魏が滅んだ後も役所に厳重に保管されていたんじゃないの?
『漢委奴国王』の金印も古墳で発見されたわけじゃないし
288 :
改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 19:36:38
>代々王がいてみんな女王国に統属すると
日本語訳が魏志倭人伝に書いてるわけないよね(笑)
世有王皆統屬女王國。
「皆」の字が見えるから日本語訳したとき「世有王」を「代々王」
と解釈したらだめなんですかね。
プラムさんどうなの?
289 :
改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 19:48:14
>>286-287 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻。
太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月 詔書報倭女王 曰 制詔親魏倭王卑彌呼。
「親魏倭王」はナルメ達ではなく倭王卑弥呼に与えられた物です。
290 :
改め〜卑弥呼:2008/01/12(土) 20:04:50
太守劉夏遣吏將送詣京都。
よく使者が女王の都まで「行った行かなかった」議論がなされてるが
これを見るかぎり京都まで送ると書いてるよね。
291 :
愛知県民:2008/01/12(土) 20:11:10
>>290 改めさん、それは違います。
この「京都」は魏の都・洛陽のことですよ。
292 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 20:17:00
>>279 それは普通に読めば、環濠により守られた施設です。
樓觀というのは、高いところから見渡せる物見やぐらのような施設です。
この施設が城柵で囲われた内部にあると魏志に書いてあります。
この場合の城柵は、平地に柵だけがある施設ではなく、濠があると考えるのが
普通で、柵だけでは防御施設としては意味がないでしょう。
つまり、卑弥呼の居所は、明確に環濠集落として書かれています。
環濠のない纒向を邪馬台国時代に遡上させるようになってからは、この当然の
解釈ができなくなったのは、残念ですね。纒向は300年頃からです。
ちなみに、末盧國、伊都国、奴国の想定地は、多数説では環濠集落ですね。
これらの地域では環濠集落が終焉した後は目立った財物の出土もないため、
環濠集落の時期が邪馬台国に書かれた時期と考えるのが普通です。
293 :
改め〜壹與:2008/01/12(土) 20:23:18
294 :
唐松山:2008/01/12(土) 20:37:43
稲城とは 環濠と柵で 防御された 施設だと思う。
遠くから見ると 柵が稲木(イナギ)に 見える
また 土手が 稲を干してあるように 見える
稲藁で目隠しなら 火をつければ 一発で丸見え。
295 :
改め〜壹與:2008/01/12(土) 20:45:20
唐松山さん
アマテルが活躍した年代は西暦何年とお考えなのですか?
296 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/12(土) 20:51:39
>>288さん
「代々」は縦の時間
「皆」は横に広がる数
まるで違うものです。
「皆」を重視するなら「丗」も、同じ横の広がりです。
ましてや
倭人伝は魏時の短い時間幅を記録する史書
代々なんて最も相応しくないトンデモ和訳です。
陳壽も最初に“今/魏時”と限定していますよ。
297 :
改め〜壹與:2008/01/12(土) 21:03:17
298 :
ローガン:2008/01/12(土) 21:08:14
>>282 改めさん。
昨夜
>>241に書いたのですが、読んで貰えなかったようですね。
印は基本的に中国朝と冊封国の王との間で、文物が取り交わされる際、竹簡等を束ねた紐の結び目に付けた粘土に押す為のものでしょう。
まあ、それがどこまで実際におこなわれたかは、知れませんが…。
墓に副葬されてしまえば、粘土への押印は出来ない状態になりますね。
卑弥呼の死後、冊封を解消した様子も、新しく印が下賜された様子もないですね。
次代の王が受け継いだと思いますよ。
勿論、断言は出来ませんが。
299 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:08:57
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
300 :
ローガン:2008/01/12(土) 21:24:09
>>292 5世紀の豪族居館にも、濠も柵もありますよ。