忠臣蔵の真実 2 赤穂浪士は忠臣か?

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 今年1月にテレビの人気健康番組が、納豆ダイエット
のデータを捏造していたとして番組自体が打ち切られた。
 忠臣蔵でも吉良上野介は良い人だったとか、大石内蔵
助は討入りするつもりはなかった、などと、面白さだけ
をねらったテレビ番組が流されているが、先の納豆ダイ
エットと同じで、まったくのでっち上げである。捏造の
健康番組は番組自体が取りやめになるが、忠臣蔵の納豆
ダイエット番組は、国民の健康に影響がないせいか、い
つまでたっても後を絶たない。このような番組は、まじ
めに忠臣蔵を研究している人間にとっては、精神衛生上
ほんとうに良くない。ストレス食いとストレス性赤血球
増加症とで心筋梗塞を起こしそうなのである。
 というところで、史実の忠臣蔵を一つ。
 ことの発端は浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷である。
 浅野内匠頭は赤穂5万石城主で大名、豊臣秀吉の義理
の弟浅野長政の子孫。一方、吉良上野介は高家肝煎4千
2百石の旗本だが、上杉15万石の城主の父親で紀州徳川
家とも親戚の間柄、それより足利将軍家の血を引くとい
う、徳川家もぶっとぶ名門中の名門なのである。
 元禄14年2月4日(旧暦、以下同じ)内匠頭は老中から
江戸城へ呼び出され、毎年恒例の年賀の挨拶で江戸へ下
向する勅使(天皇の使い)の饗応役(接待係のこと)を
仰せつかった。高家はこの接待係の差添役もやるため、
上野介も内匠頭の指導役をすることになる。
 勅使は3月11日に江戸へ到着、内匠頭は13日までなん
とか勤めをこなしていたが14日になり、登城した勅使が
休んでいる部屋の前の松之廊下でのこと。内匠頭は座し