1 :
日本@名無史さん:
もうすぐ絶えそうなので立てときました。
譜滅って感じだな。
3 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 05:49:03
『南朝全史』P104での南朝構成員である正三位、非参議「晶王」の系譜というのは明確なのでしょうか。
読み方すら分かりません。
正しくは、(晶+灬)王だよね? この人物については、
『大日本史料』の元弘3年5月24日条や延元元年8月10日条などに
簡明な考証がなされているので、詳しくはそちらを見てほしいけど、
結論を言えば、高倉院の玄孫、惟明親王の曾孫で、
『紹運録』の「尾崎宮」、『太平記』の「弾正尹宮」と同一人物と推定される。
『紹運録』をベースとして系図に起こせば、次のようになるだろう。
惟明親王──交野宮─┬醍醐宮──┬高桑宮
(国尊王)│(大豊王?)│
│ ├尾崎宮([晶+灬]王)
└栗野宮 │
(字明王?)└萬寿
ttp://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h002/image/06/h002l0652.html 大豊王や字明王の名は『一代要記』に拠った。字明王について、同書から大豊王の
子になったと取れるので、『大日本史料』は[晶+灬]王と同一t人とも考えている
ようだが、そもそも名として不自然なので、「宗明王」かなんかの誤写じゃないかな?
読みは不明、一般に「ショウオウ」「ジョウオウ」と読み習わされている(笹原宏之)。
>>7
ご親切感謝に耐えません。
(晶+灬)王、そうですそうです。高倉天皇の子孫ですか。隔靴掻痒感が払拭されました。
まずは『大日本史料』も確認してみます。吉野宮廷は私の予想以上に様々な人物が入り込んで
いますね。またそれを考証してきた先人の努力にも驚かされました。
9 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 22:50:57
すいません
岡崎門主の岡崎が蓮華王院であるという根拠をもう一度あげてくれませんか?
>>9 了。
以前にネット上に岡崎前門主の「岡崎」を、
『大日本史料』の文明九年十二月十五日条、
九條政忠子某、岡崎蓮華光院入室
文明十年九月三十日条、
池田春能、岡崎門跡領山城賀茂境内之地ヲ、同門跡ニ押領セラルヽ云々
から蓮華光院(安井門跡)ではないかという意見が有りました。
検証をしていませんのでそれ以上の事は判りませんが。
『家系研究協議会掲示板』
ttp://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=sgs00632&dd=12&p=13 というサイトの306の条に書かれておりました。まずは取り急ぎ。
『歴史読本』平成18年11月号「特集 天皇家と宮家」所載の今谷明「中世の親王家と宮家の創設」
は後南朝ではないですが興味深いですね。岩倉宮家・四辻家・五辻宮・常盤井宮・木寺宮についての概略
が分かりますね。
12 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 20:44:55
>>11 面白そうなテーマですね
後醍醐流以外の大覚寺統の末裔がどうなったのかは気になっていました
玉川宮流のその後は不詳。
『看聞日記』永享九年(1437)七月十六日條
聞、大覚寺逐電實説也、玉川護聖院候人両三人逐電、
依之彼方様女中共皆逐電云々
『建内記』嘉吉三年(1443)五月九日條
玉川宮遷因幡
『康富記』享徳四年(1455)ニ月二十九日條
相國寺慶雲院主梵勝蔵主、舎弟梵仲侍者兄弟、昨日逐電云々、
行方不知、又不知子細云々、南朝玉川宮御末孫也
その二年後が長禄の変。
『大乗院寺社雑事記』長禄元年(1457)十二月十三日條
去二日於吉野河上、南方之宮兄弟被打了、於頭者吉野荼スト云々
「南方之宮兄弟」は梵勝・梵仲兄弟が該当しそうでは有りますよね。
ただ『闇の歴史、後南朝』P31で森さんが「玉川宮流からは臣籍に下った者が出ている」
と有りますが具体的にはどのような系譜が確認されているのでしょうか。ご存知の方おられますか。
【木寺宮】
後二條天皇―邦良親王―康仁親王―邦恒王―世平王−承道法親王
|
−明仁法親王
|
−邦康親王―帥煕親王(静覚法親王)
Wikiに長慶天皇中宮が西園寺氏とあるけど、
この説を歴史読本以外で全く見かけないんだが。
17 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:22:58
>16
校中に根拠とする史料が挙げられてある。
吹上本『帝王系図』の付紙に、寛成の子の行悟について
「御母女院公重公女」とあることに拠る
18 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 23:26:37
あげ
>>17 吹上本『帝王系図』の史料性に問題があるのかも?
>『国史大辞典』の「後亀山天皇」項では、『帝王系図』吹上本の付紙を根拠に、
>天皇の生母が阿野実為の娘であることをほぼ確実とする〜
でも、この「後亀山天皇」項を書いてたのは確か村田氏だよね。
ネタがないなら、暇つぶしに熊沢の話題でも
21 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 20:34:54
今熊沢さんの子孫はどうしてるのかねえ
>>21 前スレには広島の熊沢コーチが子孫とか書いてあったけどね。
24 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 21:04:33
楠木氏の終焉をメモしてみました。【長禄の変(1457〜1458年)の2年後】
長禄四年(1460年)三月二十八日〔蔭凉軒日録〕
南方楠木一族、東寺四塚ニ誅戮サル
同日條〔經覺私要鈔〕
去比楠木部類ト云者、以廻文成僧遊行之間、曾祢崎ト云者召取進了、
仍今日○条河原被伐之了、即頚ヲ四塚被懸之云々、
(31年前の永享元年には「楠木五郎左衛門尉光正」が足利義教(六代将軍)暗殺を
企図し失敗、刑死。四塚で梟首)
寛正元年(1460)九月 畠山義就、河内に出奔。「先陣ハ誉田、後陣ハ須屋、
甲斐庄以下ノ楠黨也」〔長禄寛正記〕九月十八日條
寛正ニ年(1461) 畠山義就、河内嶽山籠城。
一月二十三日「南方同意ノ企」〔大乗院寺社雑事記〕
寛正四年(1463)四月 嶽山落城。畠山義就は高野山を経て吉野奥北山に遁走。
九月二十八日「南方蜂起、云々」
文正元年(1466)畠山義就、吉野〜壷坂〜河内国
文明元年(1469)十一月二十一日〔大乗院寺社雑事記〕
南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、
年号ハ明應元年云々、希有事也
文明二年(1470)三月二十一日〔大乗院寺社雑事記〕
南方去月末於宇惠左衛門之所被上御旗、中將ヘ政自越智馳參畢、
當月八日藤白仁御出云々、郡者共大略成御方、皆以畠山義就之
披官人等云々、以上大義也、
五月十一日〔大乗院寺社雑事記〕
南帝事内々計略子細有之歟云々、(略)去年以來御蜂起之間、
畠山衞門佐一人難義之由申入之間、于今延引、其故ハ紀州・
河内事南主御領也、楠木分國之間迷惑之由相存歟、
「楠木分国」とは畠山義就に吸収された誉田氏・隅屋氏・甲斐庄氏等の楠木党も指す
と思われます。
当時、伊勢国司は北畠教具(親房の玄孫、満雅の子)。足利義視を領内で保護したり
するが応仁文明の乱では東軍側という事になっている。旗幟不鮮明(伊勢国司一左右未開云々)
で足利義政(東軍)からも警戒されている感じです。
〔大乗院寺社雑事記〕文明二年六月廿五日
吉田相語、南方御蜂起事、於于今者事實云々、西方大名同心、此間者畠山右衞門佐、
就紀州内兩國事、令存六借歟云々、不同心處、諸大名並權大納言殿被仰子細之間、
於畠山モ同心云々、和州儀越智計略云々、伊勢国司一左右未開云々、於南主者近所
ニ御座歟云々、御手者少々紀州合戦云々、高野山ハ南方云々、根比ハ北朝方也、
當國布施以下可帰國支度、來秋可有合戰云々、
朝拝式は2月5日(火)ですね。降雪が気掛かりです。
sageを全角で入れても意味ない( ^ω^)お
29 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:25:01
551回目だっけ?
>28 御教示有難う御座います。
>29 551回目だそうです。大したものです。
31 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 16:51:18
北山の人たちが「朝拝式」を551回も一度も欠かさず実行してきたなどと自慢するのは勝手だが、
私に言わせれば、彼らが自慢する割に両宮の系統はじめ当時の正確な史実を何一つ伝えていないのが片腹痛い。
まともな同時代史料を何一つ残さず、あると言ったらおいたわしい「小倉宮実仁親王」についてのしょうもない口伝ばかり。
全く世間を馬鹿にしてるよ。
別に「朝拝式」に限った話ではない。観光地ではよく見受けられる現象。
村落解体が進む中、北山の人たちは歴史のシンボルとして後南朝伝承を選択し、
「朝拝式」を通して(建前上)中世から続く共同体の維持・強化を図ってきたのだ。
こういった現象が「世間を馬鹿にしている」というのは、一面的な評価でしかない。
551回というのも「伝説」なの?
史実と証明できるなら、誰も苦労してない。
長禄の変(1457年12月2日)の勃発一月前、「南方宮」方が吉野衆徒に対して攻勢をかけています。
「宮方得勝由」だった合戦が長谷寺衆徒・多武峯衆徒の加勢で漸く撤退させられている事から長禄頃
の後南朝勢力の軍事力が想像出来ます。
長禄元年
十一月二日 南方宮蜂起、於愛染寳塔、于吉野寺與宮及合戦、宮方得勝由、近日風聞
四日 南方蜂起、先日於愛染寳塔、吉野大衆與及合戦、大衆打負云々、但昨日
被引退候、珍重々々
就南方蜂起、京都以書到來候
去月(十月)廿九日、南方令出張於金峯山、及合戦由、所々注進到來候、
不廻時日、相觸衆徒々々等可勵忠孝旨、可有下知状如件
十一月四日
興福寺別当僧正殿
36 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 04:12:08
皆さん、今年は朝拝式に行かれましたか?
小生は仕事の為に残念ながら行けませんでした。
どなたか行かれた方、お話をお聞かせ下さいませ。
ちなみに4月に尊秀王の遺蹟を訪ねて、
八幡平から隠平へ行く予定です。
37 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 19:23:43
おそらく北山の伝説は、正確な史実がほとんど忘れられた江戸時代後期に、
南朝顕彰の風潮が現れたのに乗じて創作された物語であろう。
たぶん朝拝式もそのころはじめられたもので、551回欠かさず続けられたなんてのはまず信用できない。
彼らがそこまで後南朝の歴史を大事に思っているなら、変の後間もなく詳細な記録がまとめられたであろう。
敵方の上月氏ですら詳細な記録をのこしているのである。
おそらく北山の人たちは、後南朝なんて厄介者にしか思っておらず、変の後速やかに忘却したというのが真相であろう。
八幡平から隠平探索お気を付けて。朝拝式に参列するつもりでしたが、
紀和国境の河内国甲斐庄安満見(大阪府河内長野市天見)付近の道路凍結で意気消沈
断念しました。
39 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 12:28:53
>>38 ありがとうございます。
私も大阪なのですが、確かに天見越はこの時季は厳しいものがありますよね。
恥ずかしながら、八幡平まで現在では車で入れる事をつい先日知りました。
ずっと柞木田龍善氏の「秘境・歴史の旅」ばかり読んでおりましたもので。
雪解けが待ち遠しい今日この頃です!
5年前の夏、三之公(八幡平〜隠平)に行って来ました。
八幡平よりさらに先の「明神出合」までは車で行けますが、そこから先は登山道(最後はけもの道)
で予想していたよりも長く感じました(3km位か?)。「明神出合」には「遭難注意!」という
標識が設置されております。
下記の国土地理院の三之公川の上流・明神滝の脇を通る黒点線の最末端が「宮址伝承地」と「
尊義親王御墓伝承地」。附近の1177.8m地点が馬ノ鞍峯で東側はもう三重県です。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=51363005&slidex=0&slidey=1200 「三之公」紀行を記したものとしては、
『南帝由来考 後南朝秘史』中谷順一
『吉野 その歴史と伝承』宮坂敏和
『後南朝史論集』
『昭和史の謎を追う(下)』秦郁彦 がそれぞれに記しています。
宮坂氏の著作では「明治末期の開墾で隠平附近から朱の椀片・薙刀の破片と小束付刀を掘り出した」とあります。
ただ私の実感としてはこれはあくまで「伝承」であって行宮や皇胤のお墓というのは「創作の歴史」という気がしました。
余りに出来すぎているような〜。川上村の方々ごめんなさい。
【玉河宮(玉川宮)流】
長慶天皇―玉河宮―○――梵勝蔵主
| |
| ―梵仲侍者
|
―南方姫宮
長禄の変の一宮・二宮に比定され得る逐電兄弟「梵勝・梵仲」については父宮名が不詳。
村田正志『傳後醍醐天皇御木像をめぐる史實』で紹介されている木像奥書や当時の状況から憶測するに
川上村信仰「自天王(尊秀王)・忠義王兄弟」の実態は京都相国寺の僧侶で「行方不知」になった
梵勝蔵主・梵仲侍者を川上村郷民が擁立した事が伝承化したように思えます。
37氏の指摘は的を得ているように思う。
天見の出合は古戦場といわれていますね。
『楠木合戦注文』元弘三年(1333)
今年正月五日、於河内国甲斐庄安満見致合戦、打死人々、紀伊國御家人
井上入道山井五郎以下五十余人皆為楠木被打畢
楠木軍が紀州から進出して来た幕府御家人(湯浅党)を撃退しています。
禁闕の変の110年前、長禄の変の124年前、小倉宮御息、最後の消息の146年前の出来事です。
44 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:46:54
>>40 貴重なお話ありがとうございます!
馬之鞍登山の方のお話では隠平辺りはヤマビルも多いとか。
私も登山装備で挑むつもりです。
また尊義王墓はもともと八幡平に住んでいた西浦某氏が
墓石等を担いで登り建立したのが最初とか。
その方の御尊父が明治期に隠平を開墾され、薙刀等が出土した
との事です。
出土したという「糸尻のついた椀」「薙刀の破片」「小束付刀」が人手に渡って
現物の鑑定は不可能。かなり心許ない発掘物だと思いますが・・・。
なお「三之公行宮址」という石碑も誰が何時建てたか分からないようですね。
『朝拝実記』を信じるならば、長禄元年十二月七日
「賊、三之公仮御所(隠平)へ忍入、夜半を見計ひ、四方より火を放ち、焼討に逢い玉
ふこそうたてけれ、甚無念に云はん方なし、御討死多く残党の者雪氷を凌き難くも、
嶮岨岩間に落入、散々親を見捨て子を殺し、落行こそ歎はしく、聞くに涙の渕となる、
末世に残る焼桜、残るは谷川の水より外に、知るべき身の御末こそ運のつきなりける」
苔むした隠平で果たしてこのような史実があったのでしょうかね?
考古学上の調査で楠木本城落城(『太平記』の記述)の「楠木本城」が上赤坂城か下
赤坂城か論争が有りましたが、焼土の地層が発見された事から上赤坂城こそ楠木本城である
という推定がなされていました。隠平での調査はやらないものなんでしょうかね。
西浦F太郎氏(明治32年生・存命であれば107歳か)が「尊義親王墓」を「建立」
したというのならばそれ自体「創造された歴史」という感じですね(^ー^)
川上村の信仰の対象ですからそれを悪くは言えませんよね。ただ事情を知らない
一般の人があの場所で「行宮址」やら「親王墓」を見てしまうとコロリと後南朝哀史
に感染してしまいそうです。
【大覚寺義昭事件】の始まりは以下の如く、
『看聞日記』永享九年(1437)七月
十四日 晴
仰聞大覚寺門主逐電云々 室町殿御連枝也 御意不快之間野心之企歟
候人共被召捕被糺明云々 朝日若宮上臈も逐電被尋云々 南方祇候人
も逐電云々 為世恐怖 但實説不審也
十六日 晴
聞大覚寺逐電實説也 玉川護聖院候人共三人逐電 依之彼方様女中共
皆逐電云々
廿日 晴
仰大覚寺門主 天王寺落下僧坊一宿 彼坊主相伴被出 不知行方云々
仍彼僧坊追捕 法師一人召捕 管領預置被尋 更不存知之由申云々
南方宮同御逐電 叛逆之企露顕歟
廿三日 晴
大覚寺大和隠居小路取申、云々
山名区内少輔 御方参 伊勢国司等、合力錦旗可上云々
関心をお持ちの方は、『日本中世政治社会の研究』所載「大覚寺義昭の最期」桑山浩然
をどうぞ。なかなか読ませますよ。
>>46 まあ歴史浪漫の一種として良いのではないでしょうか。
信じる信じないは個人の自由という事で。
これまで本格的な調査も行われていないようですし・・・。
オレに考古学的知識とか経験があれば
あの辺を勝手に発掘調査するんだがなあ・・・
51 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 11:43:38
52 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 00:07:21
宮坂氏の「吉野 その歴史と伝承」ですが、現在では高くなっていますね。
4000円前後が相場のようで入手するのは少し先になりそうです・・・。
4000円前後が相場みたいですね。
『吉野 その歴史と伝承』名著出版(1990年:2000部発行:定価3800円)だそうです。
第五節 「後南朝の歴史と伝承」部分はP442〜P488。図書館でコピーという手も有ります。
吉野の人文について、実証史学で貫かれていますので資料価値はかなり高いと思います。
54 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 13:15:07
ありがとうございます。引き続き検討いたします。
同じく宮坂氏の著書で「吉野路案内記」は比較的安価なのですが、
内容は如何なのでしょうか?
『吉野記案内記』未見ですね〜。
入手してみます。
お手数をおかけいたしました。
57 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 23:48:22
南北朝二流の源流は後深草と亀山の兄弟だが、
長幼では後深草系、先帝の指名では亀山系に分があり、
どちらが正しいか甲乙つけ難いところがあったのだが..
亀山系は先帝指名を拠りどころにしているにも係わらず
2代目後宇多は幕府と組んで父の遺詔を反故にして自分の血筋が
皇統から外れるのを阻止した。その後、身内の不幸により
中継ぎで即位した次男の後醍醐も父の後宇多の遺詔を反故にして
自分の血筋のみに皇位を伝えようとした。
だから後醍醐系(所詮、南朝とは不忠者後醍醐の子孫)がいくら正統を
主張しても説得力がないんだよ。子孫が後南朝とか言ってしつこく
頑張っていたけど正統性がないから大勢に相手にされなかったってこと。
58 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 00:54:17
59 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 23:01:59
>>57 今さらながらのご意見ですね。
このスレにいらっしゃる方々にとっては別に目新しくもないお話だと思いますよ。
「正統性」云々の話ではないでしょう。
様々な観点から当時の北朝が足利政権にとって担ぎ易かっただけの事でしょうに。
事実、応仁の乱では山名氏によって南帝末裔が担ぎ出されていますよね。
要は時の為政者が担ぎ易かったか否かではないでしょうか。
更なるご勉学の後にいらっしゃって下さいね(笑)
応仁の乱でもし西軍が完全勝利してたら皇統はどうなったんだろう?
後亀山→後小松みたいに後土御門から西陣南帝へ譲位されてたのかな
当然そうなったと思うけど、所詮は傀儡だしね。
山名宗全さえ亡くなっていなければ面白かったかも知れないね。
62 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 02:31:18
楠木正勝の墓が十津川村の武蔵にありますよね。
公認という事になっていますが、その後方に眠っている佐久間信盛の子が正勝という名で
その人物の墓とも言われていますね。
皆さんは如何思われますか?
>>60 継体天皇即位を連想する面白い「if」ですよね。五世王の即位、推定ですが。
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)
|
|(推定) 第104代
−岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
|
−弟宮
(誤)五世王
(正)四世王
65 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 21:42:42
>>59 本来正統性のない系統が皇統争いにも敗れて
十津川近辺に埋もれてしまった。
それをほぜくりかえして何が楽しいのかな。
あとは勝手に楽しんでね。さようなら!
66 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 21:47:49
美作 後南朝 age
67 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 22:27:39
歴史浪漫を理解できない人が去っていきましたとさ
応仁・文明の乱で西軍諸将が仮にも正当性の根拠として奉戴した人物の系譜や実名などが不詳
というのも皮肉を感じますよね。当事者達が「後世への史実保存」感覚が無かったのか、単に未
発掘の史料が有るのか。関心を持っていたような『大乗院寺社雑事記』『經覺私要鈔』が伝える
人物像は、
「小倉宮御末、岡崎前門主御息歟」「南方可爲王人」「後村上院之御末云々」
「西方新主ハ小倉宮御息、十八歳成給」「則日尊取立申君也」
位の情報です。最後の消息といえば
「文明九年十月晦日、京都一宮ハ鞍馬邊ニ近日中引退哉由」
「文明十一年七月十九日(略)以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮
今自越後越中次第國人等奉送之著越前國北庄給之由」
そして「令遁世テ可向高野」したのが真実のような感じがします。
持明院統で無い皇胤で有れば誰でも良いみたいな感じでしょうね。
新たな史料が出てきて欲しいものですよね。
>>62
楠木正勝墓の所在地候補として、
@奈良県十津川村武蔵
A大阪府富田林市大伴
B奈良県川上村伯母谷上垣内
が有りますね。
Aは『全休庵楠系圖』の正勝の譜「於河内國大伴邑葬林中行年五十歳」が典拠ですが、
私は富田林市大伴地区でそのような伝承は聞いた事がありません。
Bは橘将監(=楠木正勝)墓として存在。
@については廃校裏手の案外立派な墓地だったような記憶が有ります。佐久間正勝
という人物は分かりません・・・。
『全休庵楠系圖』では応永の乱(1399)で大内義弘に加担したのが楠木正勝
としていますが弟の正秀とするものもありはっきりしないです。
楠二百餘騎、今迄ハ眼前ノ御敵ニテ今更降參申サンコト無益ナリトテ、
大和路ニ懸リテ行方不知落失セヌ『応永記』
敗けを知るやそそくさと大和に退散しています。
検索すると墓所候補として
大阪市東淀川区豊里町の「定専坊(西光寺)」にも有るようです。
74 :
62:2008/02/17(日) 18:03:36
皆さん、ありがとうございます。
十津川村の武蔵には墓参りしてきました。
往古には長慶天皇をも埋葬したという光明寺があったそうですね。
今は村の教育委員会の体験館の敷地内の墓所にあります。
結構、整備されており、地元の方のお気持ちの厚さが感じられました。
楠木正勝の墓の後ろに佐久間信盛の墓がありました。
織田信長の家臣でありながら追放され、一時は高野山にのぼり、
この地で最期を迎えた佐久間信盛ですが、子息に「正勝」の名が見える系図もあり、
その墓ではないかとおっしゃられる方もおられますね。
その時は平維盛伝説巡りも兼ねていたので、川上村までは足を伸ばせんでした。
次回は川上から北山まで周る予定です。
また、73さんのおっしゃる定専坊には仕事も兼ねて何度かお邪魔しました。
72さんのおっしゃる応永の乱後、当寺(当時は西光寺)に隠棲したとも伝わっています。
正勝と子の正盛・盛信の古びた五輪塔がありました。
正盛の子は蓮如上人と親交があり、その関係で当寺も定専坊と改称したそうです。
後の本願寺合戦でその子孫は織田勢と戦ったとの事でした。
>>74
伊勢楠木氏や本願寺与党の楠正具についての考証は藤田精一『楠氏後裔 楠正具精説』が網羅的に詳しいですよね。
応永の乱・堺浦から遁走した楠木一党が大和を経て伊勢領に逃げたともいいます。
ただ「後南朝」における楠木氏についての考察は文明二年『大乗院寺社雑事記』
五月十一日条 南帝事内々計略子細有之歟云々、(略)去年以來御蜂起之間、
畠山衞門佐一人難義之由申入之間、于今延引、其故ハ紀州・
河内事南主御領也、楠木分國之間迷惑之由相存歟、
での「楠木某」についてに留まっていますが。
>>75 ありがとうございます。
応永の乱後、伊勢に敗走したのは一説によると楠木正勝の子・正盛ともいわれていますね。
三重県亀山市楠平尾町の楠木氏系図(「楠町史」「関町史」記載)によると、
堺籠城の末、北畠顕泰に救出され伊勢に至り、関氏・鹿伏兎氏に匿われたとか。
顕泰の一字を拝領、正泰と称して楠平尾楠木氏の初代となったそうですね。
ご教示の藤田氏の著書に「全休庵楠木系図」と記載のある楠木氏のようです。
その子息らは紀伊国北山八幡で討死、娘の一人は楠木正行の後裔・正理の室と
なったと伝えられています。
後裔や一族はその後も北畠配下にあり、北畠満雅の挙兵や嘉吉の変に参加して比叡山にて
討死した者、北山郷新宮衛士になった者、長禄の変で赤松浪士を追撃中に討死した者など
終始、後南朝方であったようですね。
のち、織田軍の伊勢侵攻で勇戦した楠正具が石山本願寺に去った後、その娘婿が継ぎ織田方と
なるも、秀吉軍との戦で討死、伊勢楠木(楠)氏は絶えたとのことでした。
「小倉宮御息」が上洛する前の記事をメモします。
『大乗院寺社雑事記』文明二年(1470)三月二十五日
一楠葉備中守相語、南方御旗以下被上越智郷歟、御勢共ニ於橘寺邊奉見之由、備中之中間相語云々、
不審事也、長櫃三荷上下七十騎計、本人兩人ハ錦直垂云々、昨日事也云々、
四ヶ月程遡る事、文明元年(1469)十一月二十一日の『大乗院寺社雑事記』
口遊南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、
年号ハ明應元年云々、希有事也
に現れる「南主兄弟」が、橘寺周辺で70騎に囲まれた錦直垂姿の「本人兩人」である事が推察される。
『大乗院寺社雑事記』文明二年(1470)七月二日
一慶英瓶子并瓜等持參之、慶英相語云、南帝ハ壺坂寺ニ御座、越智ハ無存知分と云々、
毎日供御以打火等致其沙汰、嚴重無双云々、興憲法師爲彼寺學頭下向相語云々、
その後、
『大乗院寺社雑事記』文明二年七月十八日
一昨日宗藝法師來、於當國可有合戰歟云々、布施・高田等可打入之由支度歟云々、
越智十方於相語、先可入和泉・河内云々、此条不審事、但自去年爲西方大名之沙汰、
被成和泉守護職之由風聞、則可入國之由支度之處、于今不及是非条、誠以不審事也、
伊勢國司ニ申合子細有之歟之由云々、南朝御事哉、南主ハ御座越智之館壺坂、給云々
越智氏の壺坂の館に入っている事は当初からの予定で有ろう事は吉野奥・熊野「南主兄弟蜂起」の
一月前の記事から確認出来ます。西軍の意向をうけた越智氏が南主蜂起〜「迎進」を手配。
『大乗院寺社雑事記』文明元年十月五日
一、自箸尾藤徳方申上云々、南方自□□御上洛、越智御迎進之之由、
光宣法院□□□上之由、光秀相語者也、自先日世間及此沙汰、西陣之計略云々、希有之事也、
>>77,78
ありがとうございます。
文明三年閏八月の南帝入洛までの西軍の周到な準備が窺われますね。
後南朝側も「明應」の私年号を使用している事などから、その意気込みが
伝わってきますね。
山名持豊が今しばらく存命であったならば、様相も変わっていた事でしょうし、
この南朝皇胤の実名も判明していたのでしょうね。
また長禄の変の際とは変容している越智氏の態度も興味深いところです。
南朝皇胤の動きとして、文明二年二月に紀伊有田郡で旗揚げし、同三月
紀伊海草郡にて畠山義就被官の援助を受けた人物との関連。
さらには文明二年末に幕府に捕縛・殺害された「後醍醐院の御末」日尊との
連携はあったのでしょうか。
興味の尽きないところではあります。
文明3年っていったら、戦乱の4年目。
未だ「応仁の乱」の前半に入る時期だろ。
山名持豊の寿命の問題じゃなく、
南帝を担ぎ出す意義が低いと判明して作戦中止となった、だけじゃないのかな?
81 :
79:2008/02/25(月) 16:38:46
そもそも南朝皇胤が担ぎ出されたのは、細川勝元が後花園上皇・後土御門天皇を強引に東軍陣営に
引き入れたのに対抗したことに因りますよね。応仁文明の乱初期だからこそ、両陣営とも大義名分が
必要だった訳ですね。ですから、少なくともこの時点では南帝擁立の意義は高かった訳です。
その際、西軍陣営で南帝招請に異議を唱えた畠山義就を説得した足利義視は翌年には一変して
擁立に反対しています。その中で諸大名の同心を得て南朝皇胤の入洛が相成ったのは、ひとえに
山名持豊の熱意と発言権の強さからであったのではないでしょうか。と「大乗院寺社雑事記」の記事
から推察されます。
歴史に「IF」は禁物です。あくまでも歴史浪漫として仮定するならば、上記を踏まえる限り、山名持豊が
存命でなおかつ細川勝元が歴史通りに急逝しておれば、南帝が皇位に就く事も可能だったのではと
述べたつもりでありました。
当方の言葉足らずで誤解を生じさせました事、何卒ご容赦下さいませ。
当時は北朝側に担ぎ出せる皇胤がほとんどいなかったから
仕方なく後南朝末裔を引っ張り出してきただけのような気が。
だから仮に山名持豊が存命のまま西軍が勝っていたとしても
北朝皇胤を確保できれば、西方新主は用済みだったと思う。
ただ東軍が北朝皇胤を連れて都落ちしていたらあるいは・・・。
>>82 たびたびですみません、81です。
あくまでも想像の域ですので。
朝廷・将軍という権力をいち早く東軍に奪取された西軍陣営としては
もちろん「仕方なく」の行動だったと思います。
仮に西軍が勝利したとしても、南帝擁立に反対している足利義視も
抱えている事ですしね。
何らかの理由をつけて皇位には就けない可能性のほうが大きいでしょう。
おっしゃられる通り、東軍の都落ちという事になれば、立場逆転となり
更に興味深い歴史が生まれていたのでしょうね。
84 :
54:2008/02/29(金) 21:17:57
>>55 「吉野路案内記」取り寄せましたが、後南朝については2ページほどの記事と
朝拝式の写真が2枚・隠し平三之公行宮址の写真が1枚だけでした。
やはり吉野町主導の出版物ということもあるのでしょうね。
次は「吉野 その歴史と伝承」を取り寄せます。
>>84 御報告多謝です。それならば『吉野 その歴史と伝承』の方がボリュームが有りますね。
日尊記事を掲載します。
『親長卿記』文明二年(1470)十二月六日
十二月六日、晴、南方餘流人打取云々、賊首京著之由尾張守注進、廻文、刀等執進上之、
自武家被進仙洞、廣橋大納言持參、予執進之、~妙之由有仰、賊首事爲公家御沙汰可請取歟
之由自武家申之、文安五年故畠山コ本入道南棟梁仁躰打取進之、時有勅問于關白、兼良公、
以官人行向河原可請取歟云々、三月廿七日、官人行向河原、請取賊首云々、不及被懸獄門、
是又關白勅答之内也云々、
『親長卿記』文明二年十二月八日
八日晴、南方賊首、奉行頭辨、春房朝臣持參、次來十一日十二日云々、十二日分仰也、
官人行向河原可請取云々、
『重胤記』○歴代殘闕日記七十八所収 十二月十二日
(信賢) (大判事明基)
一、今朝卯刻、於北白川武田陣麓、南帝御頸實檢在之、勢田判官實檢之、装束之躰立烏帽子白張著用、
『親長卿記』文明二年十二月十八日
十八日晴、○中略入夜廣橋大納言申云、南方廻文、及數十通、於關所不知其所有喧嘩事露顯、於彼輩者打取云々、
廻文被備叡覧、○中略仰云、廻文被執進之條~妙、
『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月十六日
一中御門被相語、南朝方ニ此一兩年日尊と号シテ十方成奉書、種々計略人在之、後酉酉院之御末也云々、南朝御方ニハ隨分人也、
可成將軍所存在之歟云々、去年召取之被○了、其靈之所爲ニ法皇俄ニ崩御云々、彼靈ウツヽニ相見事及度々、然之間被立石塔種々
佛事有之被訪之其以後ハ不見靈云々、希有事也、今西方ニ御出之南朝ハ、則日尊取立申君也云々、
「南方餘流人」とはいえ「南朝御方ニハ隨分人」「可成將軍所存在之歟」な皇族を弑殺した事への
一定の配慮が成されており興味深い。「日尊」というエネルギッシュな某宮がこの頃の後南朝を統率
していたように思える。
「可成將軍所存在之歟」って現代語で訳するとどんな感じですか?
「可成將軍所存在之歟」=「将軍に成る可(べ)き所存之(これ)在り歟(か)」。
意訳すれば「将軍になるべき人物らしい」。これが大意です。
【再録】
●吉田東伍 (1864−1918)編纂の『増補 大日本地名辞書』「藤白」項で、
日尊者南族、亦不詳、其属文明二年春奉小倉宮猶子教尊弟某起兵、
紀伊越智惟政首応之、進抵藤白、畠山義長発兵攻日尊敬、於南都殺之
とあり「日尊」という人物は南朝系の不詳の人物で、「教尊の弟」を擁立し
挙兵したと指摘していますがその典拠は不明です。
>>89 「将軍」というのは征夷大将軍ということなんですか?
それとも一般的な意味での将軍?
なんとも判りません。
後醍醐天皇の皇子で護良親王・宗良親王・成良親王が征夷大将軍ポストに就任
しており懐良親王は「征西大将軍」。広義の「将軍」かな?
「則日尊取立申君(=西方新主)」の従者等が僅か「上下七十騎計」程
という事を考えれば征夷大将軍というより棟梁位の意味で書かれたのでは?
なんとも判りません。
後醍醐天皇の皇子で護良親王・宗良親王・成良親王が征夷大将軍ポストに就任
しており懐良親王は「征西大将軍」。広義の「将軍」かな?
後南朝廷臣の名前が知りたいところです。
南朝公卿は後亀山天皇の京都御出で大方京都に戻っているだろうから、
それ以後はやはり楠木家や川上・北山郷民という連中がおそばに存在しただけなのだろうか?
源尊秀
野長瀬
98 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 03:07:29
越智など大和の土豪
京での生活に不満のある公家も一部いただろうね。
とても土豪や郷民クラスだけでは存続できないだろうし。
後南朝構成員とは言い切れないが「禁闕の変」に与同した人達は以下の通り。
大将
金蔵主・通蔵主兄弟
南方謀反大将
源尊秀(鳥羽尊秀)
日野有光・資親父子(『大乗院日記目録』等)
冷泉某(『康徳記』『師郷記』)
高倉某(『康徳記』『師郷記』)
細川氏・山名氏(『看聞日記』)
赤松党(『看聞日記』)
山名被官人(『康徳記』)
臼井の部類(『康徳記』)
紀伊国玉木の小番衆(『康徳記』)
赤松党(『大乗院日記目録』『看聞日記』)
『南山御出次第』(村田正志氏比定版)では明徳三年(1392)時点での南朝構成員の顔ぶれは、
☆後亀山天皇
○惟成親王(東宮)
○福御所(上野宮)
○阿野実為(関白)
○北畠守親(土御門前大納言)
○北畠親能(同権大納言)
○北畠某 (三条権大納言)
○北畠時熈(六条中納言)
○押小路中納言○中院中納言○堀川宰相○高倉左兵衛督○頭中将烏丸
○八条中将○六条中将○左兵衛佐○大膳大夫○六位蔵人(一人)○判官
△伯耆党(六人)
△楠木党(七人)
△和田(一人)
△秋山(宇陀郡住人)
△井谷(宇陀郡住人)
後南朝ではさらに貧弱でしょう。
上記の訂正
@
(誤)北畠時熈(六条中納言)
(正)六条時熈
A
(誤)阿野実為(関白)
(正)阿野実為(前内府)
明徳三年(1392)時点で恒敦宮(小倉宮) や長慶上皇は生存している。
【訂正版】
☆後亀山天皇
○惟成親王(東宮)
○福御所(上野宮)
○近衛某(経家△ 関白)
○阿野実為(前内府)
○北畠守親(土御門前大納言)
○北畠親能(同権大納言)
○三条権大納言
○六条時熈(中納言)
○押小路中納言○中院中納言○堀川宰相○高倉左兵衛督○頭中将烏丸
○八条中将○六条中将○左兵衛佐○大膳大夫○六位蔵人(一人)○判官
△伯耆党(六人)
△楠木党(七人)
△和田(一人)
△秋山(宇陀郡住人)
△井谷(宇陀郡住人)
>>79
文明二年三月二十一日『大乗院寺社雑事記』
紀州紀(有か)田郡
南方去月末於宇惠左衛門之所被上御旗、中將ヘ政自越智馳參畢、
當月八日藤白仁御出云々、郡者共大略成御方、皆以畠山義就之披官人等云々、
熊野地方での後南朝党が不詳なのですが、応仁・文明の乱で「畠山義就勢力」と「後南朝勢力」
は行動目的が合致したので大和・紀伊・和泉等の畠山義就派の一部は後南朝に参集。
「25」での動きでもそうだが畠山義就は紀伊半島の旧南朝勢力とは気脈を通じている。
例えば新宮市(旧東牟婁郡熊野川町)日足に本拠を持つ西一族の「日田義宗(*1)」が
以前から畠山義就と気脈を通じていた様子(*2)なので、文明元年「南主蜂起、兄弟一所
ハ熊野」の際には日田氏等の土豪が後南朝側に与したかと思われます。
*1 日足氏とも。武田氏族愛州家とも。
*2 『熊野市史 上巻』P613など
「禁闕の変」は元々「嘉吉の変」と呼ばれていた事件だったと思うんですが
おそらく嘉吉元年の「嘉吉の変」とカブるのを避けて改名されたのでしょう。
それでは一体いつ、誰が「禁闕の変」という言葉を使い始めたのでしょうか?
『後南朝史論集』(昭和31年)渡邊世祐が「嘉吉の禁闕の変」を使用。
それ以前に有るのかな?
オレも教科書とかに載ってる歴史上の有名な
事件や戦争の名前の初出が知りたいものだ。
用語そのものの初出及び変遷を専門に記した
歴史辞典があればいいのに・・・(´・ω・`)
>>104 79です。ありがとうございます。
その日田氏あるいは日足氏が愛州氏であるならば、伊勢の愛州氏が北畠氏配下だった事も
手伝って、興味深いですよね。
>>106 渡辺氏といえば明治後期から大正期の学者ですから、その当時からそう呼称していたのかも
知れませんね。
日田義宗については『後南朝史論集』で魚澄惣五郎が、後亀山法皇の吉野潜幸後
に反乱を企図した人物として言及しています。
飛騨国司 藤原尹綱
紀伊熊野 日田義宗
阿蘇惟康・菊池兼朝
伊勢国司 北畠満雅
関東 伊達持宗
というふうに。書籍として『伊勢愛州氏の研究』も有るようですが未見です。
日尊関係の記事以降の記録を掲載しておきます。
『大乗院寺社雑事記』文明三年(1472)閏八月十七日
南朝御上洛事、西方諸大名沙汰也、持誓院法印者不可然旨申云々、
『經覺私要鈔』文明三年閏八月廿日庚寅、霄
内府様御物語云、南帝只今京都へ御出王二條家門ニ御移、自其可成内裏御移云々、
『大乗院寺社雑事記』文明三年九月三日、小雨下
南主北野御參詣云々、夜御衣等自山名方進之、今出河殿未無御參會儀云々、
四條殿一向奉公云々
『大乗院寺社雑事記』文明三年九月八日
西方新主ハ小倉宮御息、十八歳成給、今出川殿ハ御同心無之云々、
自餘大名悉以同心、御禮等申入之、御器用云々、春圓大説云々、
『大乗院寺社雑事記』
文明三年九月十六日
(順永)
筒井律師來、對面、(中略)
筒井相語、新主方仁御請申入方々請文等取之、吉野一山返事、南都衆内少々、
其外諸國輩也、年號各別ニ被立之、八月御請共在之、又二宮御座之由在所見云々、
(筒井順永が来て対面した。彼と語るに新主方に御請申入れ、方々の請文等これを取る。
吉野一山の返事、南都衆のうち少々。その他諸国の輩なり。年号は各別にこれを立てらる。
八月御請共これ有り。また二宮が御座との事。所見あり云々。)
この年は後南朝にとって「南主蜂起、兄弟」が打立てた「明應三年」だったのかもしれない。
ここでも二人の宮の存在が再確認出来ますよ。
正しくは『伊勢愛洲氏の研究 三重県郷土資料叢書』のようです。
【終焉】
『大乗院寺社雑事記』文明九年(1477)十月晦日
晦日、京都一宮ハ鞍馬邊ニ近日中引退哉由、雑説且如何
『妙法寺記』文明十(1478)、戊戌、十四日、王、京ヨリ東海へ流レ御座ス、
甲州へ趣、小石澤観音寺ニ御座ス、
『晴富宿禰記』文明十一年(1479)七月十九日、癸酉、晴
職業語云、以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮、
今自越後越中次第國人等奉送之著越前國北庄給之由、
斯波内細川被管自國上洛語云々、
『晴富宿禰記』文明十一年七月卅日、甲申、晴、
出羽王ニテ侍カ、武士等致緩怠之間、令遁世テ可向高野、
先暫可在八幡由自稱、而令通市原野二瀬給、其躰法師ノ四十計ナル、
赤袴ノ上ニ白布ノ袴ヲ重テ、上ニハ装束ノ様ナル者ヲ著テ、只一人有之、
從類六人在後、定テ人ニナフラル丶間遅く來歟ト云々、希代之仁成ト云々、
『妙法寺記』 明應八(1499)、巳未、
此年霜月王流サレテ三島へ付玉フ也、早雲入道諌テ、相州へ送賜也、
妙法寺記の「王」が西陣南帝だということは
何が根拠なのでしょうか。
『大乗院寺社雑事記』『晴富宿禰記』『妙法寺記』ともに「西方新主(西陣南帝)」として現れた小倉宮御息
との関連は不明です。ただ近接する「流離する王」という点で周辺史料として掲載してみました。
『妙法寺記』 明應八(1499)の王がかつての「西方新主」だとすれば40歳ですね。
皆さんの自由なご意見をどうぞ。
熊沢氏の伝承において、西陣南帝(信雅王)が母方の八代熊沢家を頼って
甲州に下ったというのも、妙法寺記の記事が下敷きにされているみたいね。
言葉や文章の意味を理解するためにはその部分だけではなく
史料全体を読まなければなりませんね。その時代の常識的な
言い回しや書いた人の癖などは他の部分と比較することにより
初めて明らかになるものなのです。
それが何か?
誰か「妙法寺記」のテキストを打ち込んで
デジタルデータ化するんだ
そうすると「王」で検索するだけで
使われ方がわかるから超楽じゃん
【木寺宮流のその後】
(後醍醐兄)
後二條天皇―邦良親王―康仁親王―邦恒王―世平王−承道法親王
|
−明仁法親王
|
−邦康親王―帥煕親王(静覚法親王)…某―某―赤津中務少輔―女(大沢基胤妻)―大沢基宿
系図上の「…」は推定。
Wikipedia「木寺宮」より
『龍雲寺文書』によれば、永禄〜天正の頃、当寺に「大宮様」が住んでいたが、武田方の軍役を務めていたため、
徳川家康に攻められ、寺を焼いて信州に逃走している(1580年)。「大宮様」とは赤津中務少輔のことで、木寺宮(康仁親王)8世との
寺伝がある。実際に皇族の子孫などであった可能性は高いが、その詳細は不明である。なお、『寛政譜』に大沢基宿の母や知久頼氏の妻の
出自と伝える「木寺宮」はこの一族かと思われる。(龍雲寺は静岡県浜松市(
http://www.ryouun.com/)
なお大沢氏については万石以下の禄高ですが江戸時代は高家の家柄。
(
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/osawa_k.html)
「大沢基宿については「正室は一条信達の娘。四男二女あり。その他に養子一人あり。長男基重は大沢家を相続し、次男基定は公家持明院基久
の養子となり、三男基成は分家して旗本になり、四男基近は分家して徳川頼宣の家臣になった。なお、大坂夏の陣に際し、持明院基久・基征父子
は、豊臣秀頼を支持し、戦死していた。」そうで地方武士の割りに家柄が良さげなのはその出自に有るのかも知れません。
以上、後南朝とは異なりますが、貴種流離の一例として掲載してみました。
「持明院基久」というお公卿さんも面白いのでついでにどうぞ。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
持明院 基久(じみょういん もとひさ、天正12年(1584年) - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))は、
安土桃山時代から江戸時代初期の公家。官位は従四位上、左近衛権中将。 正親町季秀の子で、持明院基孝の
養子。妹に基子(後陽成天皇典侍、了性院)。子女は、持明院基征、河鰭基秀(河鰭公虎のちの西洞院時慶養子)、
富小路頼直(富小路秀直養子)、持明院基定室。
公家の身分でありながら、子の基征とともに大坂の役に参加し大坂城に入城し、最終決戦の天王寺・岡山の戦いで戦死した。
また一説には落ち延びたが同年5月28日に没したともいわれている。
高家旗本・大沢基宿の次男基定が基久の娘の婿となり、名跡を継ぐことを許された。
"
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E5%9F%BA%E4%B9%85" より作成
すみません、持明院さんのお話が出ましたので便乗して・・・。
基久の祖父にあたる基規(正三位・権中納言)は美濃・周防にたびたび下向していますが、
天文20年(1551年)周防在国中、大内義隆が陶晴賢の下剋上に遭った乱に巻き込まれ
没しています。
また、基久の義父の基孝は慶長16年(1611年)5月28日に没していますが、もしかすると
その日にちが基久の戦死した日の一説となっているのかも知れませんね。
後南朝から離れてしまい、すみませんでした。
>>119 年齢を考えると、大沢基宿の母は赤津中務少輔と同世代くらいではないかな?
邦康親王以降の系譜については、系図家の栗原信充や中田憲信の著作に
言及があるけれども(後者は赤津中務少輔の系も明記)、齟齬が多くてその
ままには信じ難い。 両者で共通するのは、静覚法親王の弟(栗原は邦平王、
中田は邦治王とする)が木寺宮家を継ぎ、遠江へ下向したということぐらい。
後醍醐ってあれだけ沢山子供を作っていながら
男系のみならず女系の子孫も残ってないの?
>>115 熊沢天皇側は『妙法寺記』を利用してるね。但し『晴富宿禰記』の記事は虫されている
ようです。⇒これ。「以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮、今自越後越中次第國人等奉送之著越前
國北庄給之由、斯波内細川被管自國上洛語云々」
>>115,126
熊沢氏側によると、長禄二年に赤松党に弑せられた尊雅王の御子・信雅王は
楠行康らに守られて熊野にて成人、熊野宮と呼ばれ、応仁の乱で西軍に擁立
されたのもこの熊野宮であるとされていますよね。
文明十年、京より東海に流され甲州に赴き、さらに奥州の標葉氏を頼って、
奥州沢邑に落ちたとしています。
世を忍んで、熊野の熊と沢邑の沢をとって「熊沢」と称し、長享二年に尾張に
移ったとか。偽説ではあるのでしょうが。
史実における小倉宮御息らを脚色していて面白くも在ります。
ただ「尊雅王」「信雅王」は信頼出来るどの史書にも名が残っていないですからね。
しかし時之島・熊沢氏が名家とする論説も有るので後南朝と何等かの接点があった
家系という可能性も放棄してはいけない気がします。戦国期の時之島城主は和泉発祥
の日根野氏である事等も気になります。
『晴富宿禰記』での「武士等致緩怠之間(武士に見放され)」たという出羽王と10日前の記事に現れる
安清院之南方宮は同一人物と考えて良いかな。小倉宮御息ならばこの年26歳のはずなので微妙に食い違うけれど。
「定テ人ニナフラル丶」が「武士らに弄られる」という意味ならば従者6人を引き連れ高野に出立する僧形の王の姿
こそ大覚寺統最後の皇胤ということになる。
>>129 七月十九日に越前の北之庄に入られたのは、恒良親王が下られたり、
その後は成仁親王も居住せられた事からも所縁の地だったのでしょうね。
それから京に送られて、同月三十日に高野山に出立せられたのかも知れませんよね。
旅程からいっても無理ではないと思いますし、著者が伝え聞いた時点では「安清院之
南方宮」としか記述されなかったのが、京を経る事によって「出羽王」と呼称が確定された
かのような表記に変化していますしね。(あくまでも推測ですが。)
「出羽」という呼称が気になるところではありますが。
@『晴富宿禰記』文明十一年(1479)七月十九日、癸酉、晴
以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮、今自越後越中次第國人等奉送之著
越前國北庄給之由、
【@の訳】
以前、山名宗全が安清院(安山院)に入れ奉っていた南方の宮が、越後越中の国人
達に奉送され越前国北ノ庄(現:福井市)に到着された次第である。
A『晴富宿禰記』文明十一年七月卅日、甲申、晴、
出羽王ニテ侍カ、武士等致緩怠之間、令遁世テ可向高野、先暫可在八幡由自稱、
而令通市原野二瀬給、其躰法師ノ四十計ナル、赤袴ノ上ニ白布ノ袴ヲ重テ、
上ニハ装束ノ様ナル者ヲ著テ、只一人有之、從類六人在後、定テ人ニナフラル丶
間遅く來歟ト云々、希代之仁成ト云々、
【Aの訳】
出羽王と(称)?しております。武家達の疎略(な扱い)により遁世を志し高野(山)
に向おうとしておられる。先程までしばらく八幡に居られたと称しておられ、そうして
市原野二瀬を通られた。その御姿は法師で四十(歳)位で赤袴のうえに白布の袴を重ねて
上には装束の様なものを着て従者六人を連れて只お一人でいらっしゃる。きっと人に弄られる
間遅く来たかと(意味?)。世に稀なるお方だという事だ。
『村田正志著作集』第七巻では「出忠、と稱せらるゝ南朝皇胤の動靜」と明記される。
由良哲次『南北朝編年史』では
文明十一年七月卅日 南朝の皇胤出羽王、京都を経て高野山へ向かう
講談社(H7)の『クロニック戦国史』では「京で捕縛」とも。典拠は不明。
越後・越前・出羽に南朝遺臣が分布していただろう事は容易に想像が付きます。
武家に見放され各地を動座さし最後に高野へ入山されたのでしょう。
134 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 22:57:25
南北朝時代以来、各地に遺臣は潜在していたのでしょうね。
「出羽王」が40歳位に見えたというのも、ご苦労されたせいかも知れませんよね。
足利義教の後南朝皇胤断絶策があったとはいえ、他にも皇胤がいたという可能性も
消し去りえませんが。
懐良系も宗良系も消えちゃったのが不思議・・・
皇族だから地方大名化するわけにもいかなかったのかねえ
○征西将軍懐良親王は弘和三年(1383)に筑後矢部にて没。養子の後征西将軍良成親王
(後村上院皇子)の史料所見の最後は元中十二年(1395)頃。子孫不明
○征夷大将軍宗良親王(信州大王)は弘和元年(1381)〜元中元年(1389)の間に没。
子孫は後醍醐源氏(尹良親王後裔)。尾張津島神社神職 尹良親王は宗良親王の第2王子
で後醍醐天皇の皇孫にあたる。元中3年(1386)、南朝より源朝臣を賜姓され、征夷大将軍右近衛大将
となって武家方を相手に各地を転戦するが、応永31年(1424)、信濃浪合山で戦死した。親王の子良王
は尾張津島に逃れ、その弟良新が社家に入り、社領のあった中島郡氷室村を取って氷室を称し、以後神職
を世襲して明治に至った。同家は押小路の名家取立請願書に掲載されたが、神官華族の増加には反対意見
が多かったためか、結局華族にはなれなかった。
宗良親王系は系譜は案外辿れるのではないでしょうか。ただ厳密な系図かというと疑問ですが。
(サイト『家族になれなかった家』より
ttp://wolfpac.press.ne.jp/kazoku10.html)
138 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 19:56:24
宗良親王の子孫がいたのか
熊沢天皇よりも正当性があるじゃんw
誤『家族になれなかった家』
正『華族になれなかった家』
『日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 後醍醐源氏』には
【後醍醐源氏】
建武中興を成し遂げた後醍醐天皇の孫尹良親王が至徳3年(1386)に源朝臣姓を賜るに始まる。
尹良親王の子、良新の系は津島神職家となり、尹重の裔祖父江氏は尾州津島を中心に活躍して
織田家に仕えて領土は最大時2万8千石となり土州太守と呼ばれる。
懐良親王の子は九州へ下向して後醍院越後守源良宗と称し、肥後の名門として系を伝える。
後醍醐天皇の養子となった源宗治は後嵯峨天皇曾孫で、従三位左近中将と記録に見える。
と有りますが真偽は不明。
《練習》
−興良親王
宗良親王−| |(推定) 第104代
| ―良王−大橋信重−定廣−貞安
−尹良親王−| | |(推定) 第104代
―良新 −女子(蜂須賀正則妻)
『後南朝編年史』掲載の宗良親王系譜です。
宗良親王−興良親王
尹良親王−良王−神主(大橋信重)−貞廣−貞安
良新−貞常 女子(蜂須賀正則妻)−小六利政
上手く掲載出来ません。興良親王と尹良親王が兄弟。良王と良新が兄弟。
貞安と女子が兄妹です。
宗良親王後裔の「後醍醐源氏」は各種系図が在りますし、懐良親王後裔を称する「五大氏」「後醍院氏」
の系譜は真偽不詳の在地国人による自称の可能性が高いですけどね。
145 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 22:16:14
後高福天皇について教えてください
>>146 御親切感謝します。使いこなせるようになりましたらまた掲載してみます。
尹良親王は浪合記(定説として偽書)以外には
見えない人物じゃなかったっけ?
「ただよし」という呼び名から足利直義の伝承と
いつの間にかごっちゃになったのではという説を
何かの本で読んだことがある。
あるいは「ゆきよし」という読み方もあり、これには
旅の安全を祈願する神様である「ゆきよしさま」への
信仰が絡んでいるとの説もあり。
お話の途中ですが失礼いたします。
下記の本を購入するかどうか迷っているのですが、どなたか読まれた方がおられましたら
ご感想などをお聞かせいただきたいのです。また、後南朝史を勉強する為に役立つかどうかも
ご意見いただけますれば幸いです。(ちなみに当方、宮坂氏や森氏の著書は一通り読みました。)
1) 「紅の雪 風聞・後南朝悲史」 笹目広史・著
2) 「後南朝史 神璽喪失」 赤松光夫・著
3) 「吉野 仙境の歴史」 前園実知雄・著
また、他にもお勧めの書物などがございましたら、お教え下さいませ。
よろしくお願いいたします。
1)は千葉の文筆家の方が頑張って書かれたんだなあ、というぐらいの感想。高度な学術的
なものでは有りませんが割合真面目な記述だと思います。
2)プロの作家が書かれた歴史小説なので安心して読めるのではないでしょうか。
赤松光夫は『歴史読本〜特集さまよえる皇子』(1989年4月号)に「後南朝の皇子たち
と山岳ゲリラ」という8頁ほどの概説を掲載しています。私が最初に出会った後南朝に関す
る論考でした(それより以前に海音寺潮五郎『武将列伝』の足利義満編(?)で「自天王」
を初見した事が後南朝存在の最初の気付き)。著者は赤松満祐の子孫ではなかったですか?
後南朝には思い入れが有るようです。「後南朝の皇子と山岳ゲリラ」は森さんの『闇の歴史
後南朝』の参考文献にも掲載されています。「後南朝の皇子と山岳ゲリラ」の参考文献で私は
『後南朝史論集』の存在を初めて知りました。私が14歳の時。
3)に関しては後南朝関連は5頁だけなので図書館コピーで充分だと思いますよ。吉野全般の歴史
が必要でなければ。
上記の三冊で後南朝史が勉強できるかどうかは分かりませんが何等かの気付きは
得られるかもしれません。後南朝を扱った小説では
『悪党の戦旗 ― 嘉吉の乱始末』岩井三四二 新人物往来社
『彷徨える帝』安部龍太郎 新潮社 などもあります。
研究本としては
『後南朝史話 歴史と文学の谷間に』 安井久善 笠間書院
がバランスが取れた良い資料だと思います。
学者の研究本ですと『村田正志著作集』辺りに行き着くのではないでしょうか。
森茂暁さんによるより本格的な学術研究本を期待したいところですが。森さんの
『闇の歴史 後南朝』が新刊で出版された時は我が目を疑いましたからね。
154 :
149:2008/03/30(日) 23:04:13
>>150,151,152
ありがとうございました、とても参考になりました。
2)は取り寄せますが、3)は購入せず図書館をあたってみます。
1)もまずは内容を見てから検討することにしました。
「彷徨える帝」も安価な出物がありましたので取り寄せ、「悪党の戦旗・・・」も安価なものを
探してみます。
本日、図書館に「吉野その歴史と伝承」を借りに行ったついでに「後南朝史話・・・」も
「後南朝新史」「後南朝史論集」等と共に借りてきました。
また「村田正志著作集」は次回まとめて借りる予定です。かなり高価になっていますので
購入するにしても、まだ先になりそうです。
ご親切なご教授に感謝いたします。
『後南朝新史』や『前・後南朝史』は熊沢物語の中では本格的(?)な文献です。
「熊野宮信雅王」ストーリの集大成なのではないでしょうか。実証史学とはいえませんので
歴史の真実を探求されている方にはお勧めできるものでは有りません。
小松左京『本邦東西朝縁起覚書』も「南朝第五代自天王」を扱っています。
SFですね。
157 :
154:2008/04/04(金) 11:31:58
>>155 ありがとうございます。
熊沢天皇については以前から何点か書物を集めていました。
なかなか興味深いストーリーではありますね。
>>156 ありがとうございます。
もともと後南朝に興味を持ち始めた頃に読んだ一冊です。
三之公に行った時にそれらしき洞窟を探してしまいそうです(笑
今回は下記2点も取り寄せましたので、ご報告まで。
「消された皇統 幻の皇統系譜考」 早瀬晴夫・著
「美作天皇記」 原三正・著
触発されて『美作天皇記』を購入しました。奇書ですね。
159 :
157:2008/04/11(金) 01:06:47
>>158 同感です。なかなかの労作ですよね。
もともと美作菅家にも興味をもっていましたので頃合も良かったです。
この書に辿り着いたのも、様々な書物をご指南いただいた皆様のおかげと
感謝しています。
また「植月御所の真相」(田中千秋・著)も入手してしましました(笑)
今度のゴールデンウィークには美作まで足を延ばして、植月御所跡や
良懐親王御陵を見に行こうと計画中です。
160 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 02:04:10
興味深いですね、よろしければレポをお願いします。
161 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 20:27:00
>>136 確かに不思議な感じがするが、冷静に考えればすでに先住の支配者が居るところに、
皇族がやってきてもそれなりの待遇などできないだろう。
せいぜい姫君を一人あてがわれて子供は一人二人、男ができたら出家ってところだろう。
むしろ清和源氏や桓武平氏がまるで無人の荒野に展開した如く異様に繁殖したのが不可解で、
おそらくこれらのほとんどは偽系図じゃなかろうか。
149です。
「紅の雪 風聞・後南朝悲史」入手しました事を報告申し上げます。
多くの文献を基にダイジェスト版のような感じですが
150さんがおっしゃるように「真面目な記述」という印象を受けました。
またお話にでていた「歴史読本」の1989年4月号「特集 さまよえる皇子」も
拝見しました。なるほど、なかなかに興味深い概説ですよね。
1987年9月号「特集 異形の天皇家・南朝秘史」の記事「特別企画 後南朝の
すべて」も18頁とコンパクトながら、安井久善氏と中谷順一氏の手によるとても
読み易いものとなっていますね。
今回は上記3冊の他、小説ではありますが浪岡御所ものの「津軽南朝秘聞」
(長尾宇迦・著)、並びに少々奮発して「悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について」
(伊藤独・著)も入手しましたが、なかなか纏まった時間が取れず、読破はまだ先の
こととなりそうです(笑
150です。色々頑張って蒐集されていますね。『歴史読本』「後南朝のすべて」
は確かに簡潔でわかり良いです。
中谷順一さんはご健在なら今年90歳だと思います。川上村からみた後南朝史の著作として
『南山慟哭 〜後南朝物語〜』昭和54年刊
『〜後南朝秘史〜 南帝由来考』昭和60年刊
『天を望まん 〜後南朝秘話〜』平成2年刊 が有り古書で案外入手し易いですよ。
川上村には『悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について』や『川上村に伝わる後南朝史』など
著作が多いですね。
「美作後南朝」関連としては、
『植月御所の真相』
『藤子内親王おぼえがき〜美作語南朝宮家の崩壊』
『正さねばならぬ美作の歴史』
『美作天皇記』
といったものが有るようです。美作後南朝の典拠は一体何なんでしょうかね?
『歴史読本』の今月号(6月号)P144〜P149が松薗斉(マツゾノヒトシ)氏の
「禁闕の変と〈三種の神器〉−史料から読み解く「神器」の争奪史−」。
ご参考までに。
『南朝・最後の証言―奥吉野に埋没せる南朝皇胤の末路名門たりし熊沢家の家譜』
山地 悠一郎 (著) ・南朝皇愛会というところから出ています。
166 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 00:09:12
167 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 09:23:18
鳥羽尊秀って、後鳥羽の末裔といわれてるけど、常識的に先祖の天皇の追号を苗字にするなんてありえるだろうか?
「鳥羽」という氏の地侍じゃないかね。
しかもへたするとこれが自天王を詐称したw
168 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 11:21:57
円満院宮も泣いておるぞ。
169 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:36:09
後南朝の歴史に涙する人が、熊沢天皇には罵倒の限りをつくすが、
実は長禄の変の宮も西陣の宮も相当素性は怪しい。
これらもある意味熊沢天皇みたいなもんだろw
170 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:38:40
お前十年前まで居た人間の子孫が怪しいのか?
171 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:46:48
熊沢天皇は数百年たちかつ系図も怪しい。
後南朝は少なくとも連続している。
たいして重要視されてないから系図が現存していないだけで、
その当時の人々は怪しいとは思っていないから盟主にしていたんだろう。
すくなくともあの「源(鳥羽)尊秀」ですら南朝の子孫を名乗っていない。
当時ですら怪しくなっていたら自分が名乗ろうとするだろう。
172 :
159:2008/05/06(火) 03:50:45
美作へ行って参りました。
植月御所などの事はネットでも詳細な場所は判らず、おまけに愛用していた
カーナビが運悪く故障中の為に難儀な旅とは相成りましたが(笑
中国自動車道・美作ICからR179経由で勝間田交差点を北上しR429交差から
岡山県勝田郡勝央町植月北です。(ICより約10km)
持参した「植月御所の真相」(田中千秋・著)によれば、当地の鳥羽野・高根の
両部落を中心とした場所との事。鳥羽野を通り過ぎて高根まで来ていた事に
気付き、道端に駐車して左手に軽い台地状の地形が見えました。
持参書の写真と見比べると多少の差異はあるものの恐らくはと見当をつけて
近づいてみると民家も建っている事で確信を得ました。
竹薮あたりが正門跡とあったので歩いてみましたが、確かに小道らしきものが
あり、敷石らしきものも所々には残っていました。ただ江戸期には庄屋屋敷地
でもあったという事で、浅学の私にはいつの時代のものかまでは・・・。
仙洞御所跡という意味では当地からの眺めは納得できるものはありましたが、
もしも真説ならば、如何なる御気持ちで眺めておられたのかと宮の胸中が察せ
らるるようでもありました。また高福天皇陵なる土盛も発見できませんでした。
事前の情報量の乏しさに加えて、天候不順の為か人とも出会えずに残念で
なりませんが、次の機会に譲る事としました。
南方に少し返すと鳥羽野の台地が東西方向にあり、政務所などがあったといい
ますが、細かい遺構を見るには至りませんでした。
この二箇所だけでもかなりの広範囲に及び、大和・川上村の三之公御所跡とは
比較になりません。事実ならば、かなりの守護兵も必要だったかと思われます。
また御所宮といわれる日吉山王宮の扉には確かに菊花紋章が刻まれていました。
当地に赴かれる方は是非こちらにも立ち寄られる事をお勧めします。
当地付近には吉野などの地名も残り、田中氏は高福天皇御即位の頃に設置された
のではと推考されていますが、大和の吉野と比するには多少景観が違うのではと
私には感じられました。
173 :
159:2008/05/06(火) 04:54:05
連投で恐縮ながら、美作紀行を続けさせていただきます(笑
(当地は坂田金時の終焉の地でもあるとの事で、その小祠へも寄り道しました。)
元来た道を戻って南下、勝間田交差点よりR179を東進しR374を吉野川(!)
沿いに14〜15kmほど南下して高下を右折、鷺橋を渡ると久米郡美咲町(旧・
柵原町)飯岡です。ここに美作後南朝第9代・良懐親王の墓があります。
吉野川に面した田地の中に一本の榎の樹が立っているのですぐに判りました。
以前は寂しい景観だったようですが、今では平成11年銘の印塔と3枚の碑が
並んで立派な面持ちになっています。
建立者は流王農氏、持参した「植月御所の真相」をはじめとする美作後南朝
関連書の発行人です。碑にはそれら書物の序文や美作後南朝に連なる皇統
略系譜などが刻まれていました。
良懐親王なる人物については、時の徳川幕府の命もあって当地より下流の
和気町あたりで難に遭われ非業の死を遂げられたといいますが、田の中に
ぽつねんと建つ墓が何とも物悲しく映りました。
犬の散歩をされておられたご老人にお伺いすると、付近には「我王さん」という
力持ちの方の伝説も確かに残っているが、それが皇胤に繋がるかどうかまでは
判らない、ただそうであれば可哀想な事とおっしゃっていました。
以上、駆け足でお伝えしました。また本来ならば写真等も掲載するべきところを
整理もおぼつかず間に合いませんでした。どうかご容赦下さいませ。
あくまでも私見です。文化年間に正木輝雄により調査され明治期に発刊された
「東作誌(追捕作陽誌)」に始まり、昭和30年代にその記述通り兵庫県境で発掘
された三種神器とも揶揄される「八咫鏡」に至って俄かに真実味を帯びたような
美作後南朝説ですが、「植月御所の真相」60頁よりの「従来の大和説反論」では
余りに根拠が弱いと感じるのは私だけでしょうか。もちろん大和説も現状の史料
の乏しさにおいては「説」の域ではあるのかも知れませんが。
ただ、美作菅家の栄光、後南朝家を庇護した美作津山藩・森家の国除も考えあわ
せるに、どなたか高貴な御仁の難儀が遭った事は事実かと思います。
今はただ、その御仁の御冥福を願って止みません・・・。
174 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 09:41:32
>文化年間に正木輝雄により調査され明治期に発刊された
美作南朝ってそんなに古くからの伝承なの?
熊沢ストーリーよりふるいじゃんw
175 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 14:19:12
笑ってやるなよ!
事実かも知れん・・・・な訳ないか
176 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:41:56
鹿児島の五代院とか、大橋氏は、江戸時代から南朝の子孫を自称して他の?
>>172,173
レポ有り難うございます。
美作後南朝の典拠は今のところ「東作誌」辺りにしか求められないようですね。
触発されて何点か文献に探ってみましたが、残念ながら他に見当たりません。
真偽の程はともかくとして、今後の研究に委ねるしかありませんね。
お疲れ様でした。
>>172,173
御苦労様でした。
なかなか興味深く、私も訪ねてみたくなりました。
>>165 中谷順一氏は既にお亡くなりになっています。
そういえば氏は「南帝由来考」で美作後南朝にも触れておられましたね。
二皇子が川上村で遭難されてから神璽が還京するまでのタイムラグから
同時期に美作は「北山城」でも南朝皇胤が謀殺されたと著されています。
氏の御冥福を御祈りいたします。
179 :
178:2008/05/13(火) 03:05:38
申し訳ございません。
中谷氏の件
>>163様宛てでした。
そうですか。折り目正しく、誇り高い日本人の姿が想い出されます。
哀しいですねえ。
山地悠一郎氏・著「南朝・最後の証言」入手してみました。
氏の前著「南朝霊の呼び声」に連なる書ではありますが、今作前半部は川上村井光の
後南朝皇胤ともいわれる伊藤家に伝わるかの林海音(水月)氏による「南山雲錦拾要」を
主軸に川上村に伝わる後南朝史を解いています。
伊藤家といえば清作(獨)氏が著した「悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について」があります
が、氏が山地氏に送った書簡も載録されています。
その中に前出の美作後南朝ルポにも登場した「八咫鏡」なる出土物が見えます。
発掘者は赤松満祐の子孫という春名氏で、壇ノ浦で沈んだ鏡を何者かが引き揚げ山中に
埋めたのであるからと安徳帝を祀る下関の赤間神宮に奉納。ところが美作後南朝の子孫を
名乗る人物が所有権を主張して裁判に及び、春名氏側の勝訴に終わったとの記述です。
平家滅亡と後南朝という貴種流離の連綿性を感じさせるとともに、その子孫を名乗る現代人の
所業には落胆を禁じえません。
後南帝
小説ではありますが赤松氏の「神璽喪失」と岩井氏の「悪党の戦旗」を読んでみました。
もちろん小説ですので双方ともフィクションや推察の部分は多いですが。
「神璽・・・」は「南帝由来考」等を参考にしただけあって、いくらか川上村の伝承寄りに
なっていますが、史実の順も追っていて事件の成行としては判り易かったです。
ただ官能小説家として名を成した赤松氏ですから、そういう部分に頁を割いてしまったのが
些か残念ではあります・・・。
「悪党の・・・」は赤松家寄りですね。このスレで発言するのも何なのですが、お家再興までの
赤松家浪人たちの苦労がその台詞の多用の中に偲ばれる一作ではあると思いました。
「神璽の・・・」のあとがきで赤松氏自身が語ったのですが、川上村を訪れて以来の頭痛が
三之公の碑に手を合わしてから嘘のように消え去ったという話が心に残りました。
小説ではありますが、未だの方は是非ご一読される事をお勧めいたします。
>>184 これはこれは「御首戴石跡」碑ではありませんか。
伊勢湾台風の際に流失して現在の碑となったとの事でしたよね。
郷民が取り戻したのはどちらの御首だったのでしょうね?
小倉宮聖承の王子について教尊の他に、
岡崎前門主
嘉吉の乱に際し赤松満祐が奉戴しようとした「小倉入道宮末子」
嘉吉3年以前に卒した「彼(教尊)弟小生」
の3名の存在が知られると、嘉吉3年5月の時点で小倉宮を継ぐ
俗体の宮がいなかったと推定されますが、上記3名の関係は、
どうお考えでしょうか?
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)
|
|(推定)
−岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
|
−弟宮
63にあるように「教尊−岡崎前門主」は推測ですよ。
教尊に弟はいたようですが、史料が少なすぎて断定的な事はいえませんね、残念ですが。
答えになっていませんでした。
【訂正】
×教尊−岡崎前門主
○聖承−岡崎前門主
ただ「小倉入道宮末子」と「彼弟小生」も俗体と見做す事は可能ではないでしょうか?
「岡崎前門主」いったい何者?
「彼弟小生」≠岡崎前門主
「彼弟小生」=小倉入道宮末子 ?
だと思うので、小倉宮聖承の子は教尊の他、
少なくとも2人は確実かと思いますが。
教尊は応永26年生、西方新主が享徳3年生であるので、
その父岡崎前門主は応永の末から永享年間の生まれではないかと。
そうすると嘉吉3年時「彼弟小生」と云われた人物より年長で
「小倉入道宮末子」とも別人と推定出来ないでしょうか?
又、岡崎は実乗院の事ではないですか?
前スレからの再録。小倉宮聖承入滅の記事。
『建内記』嘉吉三年(1443)五月九日条
後聞南方小倉宮、後醍醐玄孫、後村上曾孫、後亀山院御孫、故恒敦宮御子、去正長比出勢、
依懇望歸京之後、以子息爲普廣院御猶子、入室勸修寺門跡、其身得度、法名成承云々、
俗名可尋之、近年自嵯峨移住下京邊給、近日所勞邪氣云々、圓寂云々、與海門和尚同日、希代事也、
南北兩朝、元弘建武以兩不安不休之處、近年無争論止干戈、今巳歸皇統自然天運之理、可云?慮、
遺領等附属勸修寺宮云々、彼弟小生歟、而先年巳先父云々、於今者彼御流斷絶了
あくまで伝聞ですが、聖承遺領は御子の教尊(勸修寺宮)に附属され、教尊には「彼弟小生」がおり
3年前の『建内記』の記事で赤松氏により「盗み奉られた小倉入道宮(聖承)御末子」らしき人物として
確認出来ます。聖承には少なくとも二人の王子がいるようですね。
『健内記』嘉吉元年(1441)七月十七日条
南方御子孫小倉入道宮御末子奉盗、播州赤松歟云々、直冬子孫爲禪僧在播州、以彼可取立申由、赤松稱之云々
この教尊の弟の存在は村田正志・森茂暁両氏も言及しております。また森氏が「岡崎前門主」の系譜の可能性
として「聖承の王子で、教尊の弟ぐらい」と推測されたのは、小倉宮を継承し得る人物で以後の消息が不明の播磨
に動座した「小倉入道宮御末子(≒「彼弟小生」か)」の存在が念頭にあり比定したのかもしれませんね。
『建内記』嘉吉元年(1441)記載の赤松氏による「小倉入道宮御末子」擁立。
『建内記』嘉吉三年(1443)記載の「彼弟小生」・・・先年聖承に先んじ死去か。
「彼弟小生」=小倉入道宮末子・・・これの可能性は有りですね。
小倉宮御息(西方新主)誕生は享徳三年(1454)。「彼弟小生」≠岡崎前門主。
そもそも岡崎前門主は京都西方で小倉宮御息&御弟と同座していますからね。
小倉入道宮御末子=岡崎前門主の可能性もなくはないのではと思いましたが、何分
これだけでは判明し難いですね。
192 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 11:53:41
「自天王」はなんと読むのが正しいとされているのですか?
「じてんのう」ですか?
何かの本で「なんてお」とルビがふられていたのを見たことがあるのですが
193 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:28:34
戦国時代にも諸国で世話になっていた南朝の皇子が何人かいたらしいんですが、ご存知ですか?
当時はもう利用価値がなくて戦国武将達に政治的には使われなかったらしいですが。
194 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 16:40:36
高家の大沢って、単なる遠州の土豪にすぎないのに吉良とならんで高家になれたのは、
やっぱり南朝の末裔だから?
南朝というか木寺宮
小倉宮家の系統も難解ですが、玉川宮も
【玉河宮(玉川宮)流】
長慶天皇─玉河宮┬○○―┬梵勝蔵主
│ │
│ └梵仲侍者
└東御方
と云う様に梵勝・梵仲兄弟が長慶院の皇曾孫であるとすると、
『看聞御記』や『建内記』に見える玉川宮は長慶院皇孫と
考えた方が、適当でしょうか?そうすると玉川宮の父は
長慶院の年長の皇子でないと、年齢が合わないと思いますが、
第一皇子と目される世泰親王の王子の可能性もありましょうか?
>>192 「なんてお」とは「南帝王」の事ですね。
自天王=南朝皇胤との観点からの振りのようですよ。
198 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 18:28:02
>>193 勝元が天皇と将軍を拉致ったので
宗全が南朝と将軍弟を擁立しようとした。
最初は河内や紀伊の既得権が失われると畠山が渋ったが義視と宗全が説得。しかし、のちに義視が自分の地位に不安がり反対。結局、宗全の死去で終了。
他に伊豆で北条早雲が南朝皇子を諫めて相模に送ったとか
皇子が越後から越前に移ったとか
甲斐の寺に移っただったか?
南朝の出羽王ってのが高野山を目指しただったか?
同一人物ではないだろうが記録はある。
文明11や明応3前後の時期だったかな?うる覚えだから間違ってるかも知れない。
補足。
山名宗全が安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が越後より越前北荘へ移ったのが
文明11年7月19日ですね。
「出羽王」が高野へ向かう道中は同年7月30日。
また、「王」が京より甲斐に流され小石沢観音寺に滞在した事は文明10年の記事です。
さらに「王」(同一人物かは不明)が三島につき、北条早雲に諌められて相模に送られた
のは明応8年でしたね。
ただ
>>193さんが訊ねておられるのは、それ以外の皇子たちの事かとも思います。
これにつきましては皆様方の論議にお譲りいたします。
>>201 該当部分だけ読んだけど擁立されたのは
「小倉宮息」としか書いてなかったよ
御丁寧に有難う御座います。小倉宮御息の点線はともかく一宮&二宮の点線
が凄い所に繋がっていますね。
川上村の金剛寺、三之公、それから上北山村の龍川寺に行ってきました。
三之公は車で行ける道の行き止まりまでは行ったのですが、山道の入り口に「遭難時の捜索費用100万、200万はあなた持ち」みたいなことが書いてあって、一人だったこともあり、ビビって引き返してしまいました。
ここから先を登ったことのある方、どんな感じなのか教えていただけませんか?
>>206 >>40-
>>47位までに参加していた者です。
遅ればせながらここに報告します。
3月初めに隠平経由で馬ノ鞍峰まで単独で登りました。
車を停めた場所からは階段状なのでよいのですが、少し登ると「明神滝まで30分、云々」との
案内看板があり、そこからが結構な山道です。
ただ、山に登る身としては一般にいう「けもの道」ではなく、樵や漁師の使う「杣(そま)道」で、
登山シーズン前には整備されているように見受けられました。とはいえ、著名なコースでも
ありませんので、それなりの覚悟も必要ですよ。また、多少の倒木や崩れがありましたので、
行かれる方は足廻りを固めていかれたほうがよいかと思います。
明神滝に立ち寄りましたが、分岐から滝への下りはかなり急で戻りがきつかったです。
その分岐から先、勾配もきつく道は更に荒れており、頑張ってしばらく行くと「かくし平 1.0km」
の看板と丸木のベンチが現われます。そこから隠平までの道はかなりしんどい上りでした。
「かくし平入口」の看板まで駐車した場所から1時間半ほどの行程でした。
行宮跡で一服して「尊義親王墓」に詣でてから、更に馬ノ鞍山頂を目指しましたが割愛しますね。
場所が場所だけに山登りに慣れておられない方は一人で行かないほうがいいと思います。
また、山蛭や蝮もよく出る土地ですので、季節を選んで行かれる事をお勧めします。
帰りには入之波温泉に立ち寄られるのもよいでしょう。
ちなみに下記も参考にされるといいのでは?
文中重複する箇所もありますが、全くその通りで、とんでもなくしんどい「ハイキング」では
ありました(笑
http://www.tokyo-kurenaidan.com/yoshino6.htm
>> 207、208
ちゃんと読んでなくてすみません。
ご丁寧にありがとうございました!
次回関西に行ったときには、しっかり備えをしてトライします。
あ、209=206です。
今ヤフオクで「熊野市史」3巻揃いが3000円から出品されているのですが
やはり「買い」なのでしょうか?
後南朝関連の一節が掲載されているので悩んでいます・・・・。
>>211 見ました見ました(笑
私も入札参加してたんですが7,500円で落札されましたよね
三巻あっても後南朝についての記述は僅かだから
図書館で借りたほうがよいと思いますよ。
どこの図書館にもあるわけではないからなあ
三重もしくはその近辺でないと難しいのでは
ちなみに東京なら都立の中央図書館にある
大阪にもあったけど一般閲覧不可だったような・・・・・・
熊沢大然が欲を出さずに皇族に加わるオファーを受けてたらどうなってたのかな
結果的に後南朝(違うけど)にとって最大のチャンスだったんじゃないのか
218 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 20:09:34
皇族の一員の座を提供ってのが宮内省側の罠なんじゃないかな
そうなったら徹底的に身元調査してインチキ野郎だってばれるし
熊沢側もそれを知ってて回避したとか駆け引きがあるんじゃまいか
219 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 00:17:24
他の「自称」天皇たちはどうだったのだろうね?
自称している時点でアウト
自称じゃなくて、もしかすると本物かもよ
神のみぞ知る
222 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 17:37:26
失礼ですが、常盤宮について誰かご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。
223 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 20:07:31
熊沢を皇族にしようというオファー自体が幻だろう。
そもそも熊沢ストーリー自体が、富士古文書と称する偽書から作り出されたものであって、
決して熊沢家伝来の古伝と言うわけではない。
家系図すら印刷されたパンフレットがあるきりで、だれも墨で書かれた原本を見た者はないのだから押してしるべし。
南朝は正当だが、存続してはいけないというなんとも明治の皮肉だね。
押してしるべし → ×
推してしるべし → ○
せっかくいい事言ってたのに台無しの巻
226 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 21:55:10
確か滝川政次郎が熊沢天皇に同行したとき、熊沢が後醍醐天皇の遺詔をでっち上げたのを書き留めてるね。
熊沢伝説は決して熊沢家伝来の古い伝承ではなく、明治の後半から親子二代にわたってそんな感じで作り出されたものに、
もとは富士古文書ファンだった吉田長蔵なんかがさらにふくらませてでっち上げたものと見て間違いない。
他の自称天皇も全く同じで、はっきり言ってそのほとんどすべては熊沢天皇に触発されて当人が言い出したものだろう。
16花弁の紋章は古くから使われたものらしいが、これは木地屋由来だろう。
要するにこの紋章から触発されて熊沢大然が言い出したに違いない。
美作天皇もそんなふるいものかしら。結局典拠になってるのって活字のパンフレットしかないんだろ?
古文書めいたものも系図原本も実際の所何一つない。
自称天皇の中にはデンパ系のみられるのもあるし。
227 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 15:59:53
>>223 「押してしるべし」=意味不明
<推して知るべし>とすべき。
論全体がアフォが書いたように見える。
228 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 16:08:51
>>226 「実際の所」→形式名詞は平仮名で書けよ。デンパ系が書いたように見える。
適切な表記は<実際のところ>だ。
>>222 北海道の利尻島で神社の宮司さんやってるそうです。
安井久善氏の「後南朝史話」、Amazonで1,980円だったので購入しました。
微妙なバランスな中で上手く描写した好著かと思います。
後南朝皇胤とも伝える伊藤獨氏「悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について」を2000円で落札しました。
ちなみに皆さんは林海音氏の「南山雲錦拾要」はどう評価されますか?
232 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 03:30:58
λ
λ !.! / 後南朝を返せ・・・
>Y〃
(ヘ < 後南朝を返せ・・・
ヽヾ、、
ヾ ヽ /_⌒ヽ⌒ヽ
ヾ ゙'-、, /` ゚` :.; "゚`ヽ
゙'し `/ ,_!.!、 ヽ
゙'-、( __ ⊂⊃ , , )
ヽ__(r `〜〜ュ_
`ヽ ノ \
Y /~ ト、
__ ノ ! ,、--'" ヽ
\_>> ___ノン /,'" ヽ--'" ヽ
-= \__,、-'" _゙',_ノ-'"ヽ'--'" -'" ヽ
゙'、,__,ニ、,二,、-'" ヽ'--'"゙'--'"ヽ
/ :::::::::::ゞ〜ヾ
!::::::::::::::::::〆⌒
⌒⌒⌒⌒゙'〜〜
>>230 良い買い物ですよ。なかなか市場に出回らないですから。
内容も仰る通り史実と伝説のバランスを巧みに扱っていますので。
発行部数が少なさそうですので大切に。
>>234 230です。ありがとうございます。
図書館でコピーしたものしか持っていなかったので、
まさか本物を入手できるとは思ってもいませんでした。
愛読書の一冊として大事にしますね。
236 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 11:48:59
今年の朝拝式は2月5日ですか?
今年も朝拝式に行けそうもありません・・・。
どなたか行かれる方いらっしゃいましたら、
お話をお聞かせいただけましたら幸いです。
238 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 21:50:26
どなたか朝拝式に行かれた方〜〜〜!
残念です。今年も試験の為行く事叶いませんでした。来年こそ!
今回の朝拝式、行った方はおられないみたいですね・・・・・。
三輪氏のアレですね。
故・中谷順一氏の「天を望まん」がやっとAmazonで出品されたのを
本日発見し、入手しました! 珍品なのに、1,200円は安いですよね!
私は瀧川政次郎博士の「日本歴史解禁」を1,000円で
手に入れることができました。AMAZONです。
稀少本ですから即買してしまいました(笑)
245 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:09:05
美作南朝関連ですみませんが、「藤子内親王おぼえがき 美作後南朝宮家の崩壊」を
取り寄せてみました。
小説仕立てで美作後南朝の江戸時代の模様を描いています。
あったとしても傍流なのかも知れませんが、なかなかに興味深いお話でしたよ。
去年、車で植月御所の辺を通り過ぎたけど、
南朝を思わせるものは何もなかったね。
美作後南朝説自体がトンデモじゃん。
思い込みから発生した説でしょ?
あくまでも仮説でしょうが、そのおおもととも云える原三正氏の
死亡事件には確かに腑に落ちない点があるのも事実ですよね。
みんな何処行ってしまったのかね?
皆、幕府の追及を逃れて潜伏しておるのじゃよ
或る者は大和の山奥、また或る者は熊野の山野、そしてまた或る者は・・・・・
南朝再興を夢見て
>>246 簡単で良いからどんな内容か書いてくれると嬉しい。
美作後南朝については書物も少なく、闇の中のまま。
南北朝時代の末期に山陰の大々名の山名氏が南朝の断絶を避けるために
美作国の植月に後南朝の皇子を招いて開設されたのが美作後南朝。
三種の神器も美作後南朝に伝えられ、代々天皇が即位し、地元豪族達に守られて
戦国時代も生き延びたが、第8代高仁天皇が死に、後継者である良懐親王が江戸幕府
により庶民の身分に落されて美作後南朝は滅亡したとされている。
その後の話を書いているならどういう内容か知りたいな。
>>252 遅くなりました。
本作は、高仁天皇の妹君である藤子内親王を主人公に据え
タイトル通り、美作藩主・森家の改易から美作後南朝の滅亡を描いています。
残念ながら、滅亡後の話ではないものの、美作後南朝の成り立ちからの
歴史を判り易く合間合間に挟んでいます。由比正雪との関わりのくだりなどは
興味深く読めました。
全体的に静かな文調で進んでゆくのですが、その下には著者自身も語るように
史料や逸話収集の苦労が忍ばれる作品となっています。
些か簡単に過ぎ、失礼いたします。
>>253 ありがとうございました。
やはり滅亡後の話ではないですか。
個人的には美作後南朝の存在自体を疑問視しております。
平民に落とされたにしろ子孫は続いた訳で、それらの足跡が余りにないのは
不自然ではないかと。
ましてや地元豪族が本当に支持していたなら、その後も支援するだろうし庇護もするでしょう。
突然のようにすべてが消失するなんてありえないと考えています。
>>254 253です。
私も滅亡後の話かもと多少の期待を持ちながら購入したのですが、残念ながら・・・。
後南朝関連書物収集の一環として、所謂「美作後南朝」関連書にも手を染めているのですが
>>254さんもおっしゃるように読めば読むほどその存在には疑問を持たざるを得ないというのが
本音ではあります。
奈良・川上村に伝わる後南朝伝説を基に多少のこじ付けすら感じられるようなその歴史に
加えて、「モーゼの自然石」までがとび出して来るのですからね・・・。
その観点からも
>>254さんと同感です。
村田正志先生、亡くなられてたんですね・・・
ご冥福をお祈りします(-人-)
同じく
合掌!
御教示感謝。合掌。
村田先生は戦前から南朝及び後南朝関係の論文を書いておられたので
相当高齢なんだろうとは思っていたが104歳だったとは・・・。合掌。
全集高額で・・・
追悼の意味も兼ねて購入いたしました・・・・・再び合掌
後南朝もこのようにひっそり埋没していったのかな。
263 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 00:34:08
んなあこたあない。
元弘期に後醍醐天皇の御子を宿した広橋局が天皇の流された隠岐国へ下向する途中、
美作国は藤尾山で出産し、「大内皇子」と名付けられたそうです。
当時、美作国で勢威のあった菅公の末裔という菅家の一族がそれを守護して
御所を造営するも、「大内皇子」は三歳で亡くなられたといい、御所宮、日吉山王宮という地が
その跡だという話が「美作太平記」巻之二にあります。
同書には所謂「高福天皇」系の「美作後南朝」については見当たりません。
Latter Southern Court
266 :
誤難聴:2009/11/07(土) 22:08:22
はじめまして。楽しく拝見させて頂いています。
ひょんな事から後南朝に興味をいだき、段々とのめりこみそうな雰囲気に
なってきました。特に尊雅王、信雅王、西陣南帝あたりに興味があります。
いろいろお聞かせください。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
と申しましても、私も諸先輩に混ぜていただいている身ではありますが(笑
ところで
>>266さんはどのようなきっかけで興味を抱かれたのですか?
差し支えなければお教え下さい。
268 :
誤難聴:2009/11/08(日) 19:13:54
はい実は私の在所が尊雅王や尊秀王ゆかりの地でして、
ついこの前までは後南朝という言葉さえ知りませんでした。
もちろん地元でありながら、学校で教わったこともありません。
先日近くの寺の前ご住職が市史の記述に対して激しく抗議しているのをて聞き
今更ながらそんな歴史があったのかと驚いたところです。
学術的なことは解りませんが、地の利を活かして現地調査の真似事でも
してみようかなと思っています。
地元の方なら、まず朝拝式ですかね。
270 :
誤難聴:2009/11/09(月) 19:19:44
吉野方面は、たくさんの方々が色んな研究なりレポートなリを発表されて
いますから、私の場合熊野北山十津川を中心に歩きたいと思います。
当面のところ、座崩、池の宿、星野平、小橡、大河内、近露、等々と
いったところでしょうか。
後南朝なるものは痴人の妄想
歴史上、何の意味もない
好んで狂人の群れに加わるもの
に過ぎない
とおっしゃる御仁もいらっしゃいますが、
歴史に浪漫を感じる事は個人の自由ですしね。
「誤難聴」さんもご自分なりの楽しみ方を見出して、
またレポ等よろしくお願いいたしますね。
273 :
日本@名無史さん:2009/11/10(火) 19:31:01
確かに私も痴人の一人かも知れません。
ただ彼の王子達をお守りした人達の子孫は今なお各地に残っており、
当地方にも古文書にも残る家系は脈々と続いています。
一概に妄想と言い切れないこともあると思います。
最近ブログを開設しましたので、良い写真が取れたら紹介します。
痴人なぞと野暮な事を申してはいけませんよ。
悠久の歴史に夢を馳せる事も大事ですぞ。
時にはここで語り合いましょう。
雪の季節前に伯母ケ峰から北へもどうぞ。
>>268 >先日近くの寺の前ご住職が市史の記述に対して激しく抗議
(熊野?)市史の記述というのはどんなものだったんですか?
「尊秀王・忠義王という名は民間の伝承に過ぎない」とか?
276 :
日本@名無史さん:2009/11/17(火) 19:00:31
熊野市史には南北朝に関わる記述が200頁あまりあります。
和尚が抗議するのは、市史が大西源一氏の説
「円満院の大僧正円胤といふ方の事が誤まって伝えられて居るのだろうと思う
市史p632」
を取り入れ
「円胤をもって尊雅王と同人であるとすると、市内に残る尊雅王の伝承、
史跡のすべてが否定されることになる。」
という部分だと思います。(他にもたくさん文句を言っています)
和尚は神山光福寺の前ご住職ですから、心が痛むのだとおもいます。
後南朝を云々すること自体、狂気の沙汰
その大西氏とやらのおっしゃる事も推測による一説に過ぎないでしょうし
熊野市史がその説だけを採って「否定的」記述をするのも如何なものかと思いますよね。
もちろん「歴史の闇の中」にある後南朝ではありますが、何らかの要因があって現存する
史跡・伝承等々もあるわけですからね。
熊野市はそれを地域文化資源として活かさなければならないでしょうに。
>>史跡・伝承等々
幕末・明治の南朝・勤皇ブームに乗っかって捏造されたものが殆どであろう
280 :
誤難聴:2009/11/18(水) 18:58:37
たしかに捏造されたものも多々あると思います。
機会があれば市長に言って、史跡等のアイソトープ測定の予算を
つけてもらいます。
281 :
誤難聴:2009/11/18(水) 19:12:31
>>278 熊野市はそれを地域文化資源として活かさなければならないでしょうに
おっしゃるとおりです。熊野市を含め当地方の農林水産業は
就労者の高齢化とともに衰退の一途をたどっています。
後南朝の遺産は地域活性化の起爆剤にもなりうる好材料です。
>>281 正直そう思いますよ。
捏造であれども後世に生きる我々にとっては歴史浪漫に変わりありませんからね。
事実「平家落人伝説」などは捏造がほとんどなのに、地域の活性化に一役買っている
所もかなりの数にのぼりますしね。
後南朝ファンの一人として、ご健闘をお祈りいたしておりますよ!
大西源一といえば、それまで諸説あった神武天皇の東征時の上陸地を
三重県熊野市二木島に定説化した人だよね?
光福寺の前住職って秋田氏でしょうか?
氏の著書 「後南朝 尊雅王子は蘇る / 平惟盛卿残照」はなかなか見かけませんね。
どなたかお読みになられましたか?
光福寺は平維盛の開基と伝えられてるよね。
熊野には維盛はじめ平家の伝説も多いね。
286 :
誤難聴:2009/11/20(金) 22:49:58
後南朝のスレなのになんだか熊野ばかりで申し訳ないです。
>>283 神武天皇の上陸地を熊野にして頂いたのはありがたいことです。
尊秀王を否定されたのは残念です。
また日本最古の神社といわれる 花の巌 もあります。
>>285 そのとおりです。平家の伝説もたくさんあり、光福寺はここらあたりが
捏造と言われる所以かも知れません。
>>284 秋田和尚は隠居され、 光福寺の横に私文庫を開設されています。
「後南朝 尊雅王子は蘇る / 平惟盛卿残照」とともに
「後南朝の殿 尊雅王子」も編著されています。
2,3時間 後南朝談義を聞くつもりで訪問すれば
二冊タダでくれるかもしれません。
この著の中で中谷順一氏の「高尾谷城塞」説が秋田和尚の考察と
ともに紹介されています。
恥ずかしいのですが、ヤフーブログでこの「高尾谷城塞」らしき一部分の画像をup
しいてます。「誤難聴」で検索してみて下さい。
287 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 01:13:14
川上村の人たちがあれだけ熱心に自天王を祀り続けてるってことは
逆に言うと自天王以後の後南朝なんてものは存在しないってことだよな
>>286 貴ブログに訪問させていただきましたよw
今後とも現地の生の情報レポを楽しみにしています。。
高尾谷には南朝方の山東氏も潜居したといいますよね。
ただ、ご存知とは思いますが、山中に残る石垣等住居の形跡は
木地師の生活跡という事も多いのでご注意下さいね。
光福寺にも近いうちに伺いたいと思っています。
奥の院には尊雅王のご遺骸が眠っておられるとか、でしたね。
289 :
誤難聴:2009/11/22(日) 17:49:01
光福寺より尾鷲方向に10分程走ると、長谷山大義院があります。
ここには自天王の位牌があります。
星野平は自天王に仕えた星野源六左衛門が定住した地です。
星野氏はここに尊雅王のお后と子(信雅王?)を匿っていたのかも知れません。
また光福寺には藤の方という側室がおられたようです。
ごめんなさい、奥の院にあるといわれているのは平維盛の遺骸でしたね。
星野氏のお話は有り得るかも知れないですよね。
291 :
誤難聴:2009/11/23(月) 18:19:30
光福寺の皇霊殿の裏に石宝殿(尊雅王の墓)があり、その右奥に維盛の夫人
菖蒲御前の墓があります。
また本堂裏の一番高い所に熊沢天皇と右翼清水亘氏の
墓碑があります。
平維盛の墓は各地にありますが、討手の目をくらませるため
かも知れません。
お客(歴オタ)を呼べそうなエサ、山盛りだな
興味もないのに横槍ばかり入れる御仁は放っておきましょう。
「熊澤天皇」は生前に光福寺を訪問したのでしたね?
また、維盛の遺骸が安置されているというのは観音滝のようですね。
時代錯誤の南朝なんて、国民に塗炭の苦しみを与えただけだし、
後南朝に至っては足利方に追われ山野を奔竄しただけなんだが・・・
295 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 23:42:21
「塗炭の苦しみ」を与えたのは南朝だけに限らんだろが。。。
それに時の政権に追われて逃げ回ったのも後南朝だけに非ず。。。
竜頭蛇尾 → 雲散霧消
何か恨みでもあるのかな、この人。
298 :
誤難聴:2009/11/24(火) 19:11:11
恨みはあるでしょうね。
先祖代々500年も続いた家系なら、
双方ともに「500年の恨み」
があるでしょう。
恨みがないとすれば、給料もらって
後南朝の動きを監視しているのかも知れません。
時代錯誤とはこういう人のことです。
でもこのスレに投稿するということは、
同じお客(歴オタ)ですから、
仲間に入れてあげましょうよ。
299 :
日本@名無史さん:2009/11/24(火) 19:18:45
話ずれるけど、南朝を正統とする詔を明治天皇に出させた山縣有朋
の真意がよく分からない。
明治天皇その他の政府高官に自身の影響力を誇示したかったのだろうか?
>>299 山縣有朋が出させたという根拠はありますか?
妄想や想像ではないレベルで?
>>298 2ちゃんには大室キチガイ厨とか居ますから、後南朝ネタは
忌み嫌われます。別の掲示板かメールで仲良くやられたほうがいいですよ
他人に迷惑かけなかったら別にいいのですがね。
> ただ彼の王子達をお守りした人達の子孫は今なお各地に残っており、
少なくともこれだけは確実に言えるでしょう。
本読んだだけで無下に否定している方々にはフィールドワークをオススメしますよ。
304 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 03:12:13
熊沢天皇は?
>>303 おっしゃる通りですよね。
闇雲に否定するよりも、まず野に出て探索してみれば
何らかの営みがあった事が自ずと判ってきますからね。
シロートが600〜700年前の事象をフィールードワークだとさwww
ここへの書き込みだけで「シロート」かどうか判断するのは如何なものかと。。。
308 :
誤難聴:2009/11/27(金) 21:59:18
>観音滝
小中学生の頃三回ほど行ったことがあります。
付近は近年の豪雨で崖崩れしており、危険な状態だと思います。
国道からは比較的近いので、近いうちにレポートします。
平維盛と後南朝は時代が違うので直接の関係はありませんが、
この時代から平家の落武者等により
紀伊山中の隠れ里の情報はよく知られていたのかも知れません。
>>308 お気をつけて行ってきて下さいね、観音滝。
隠れ里の「情報」の伝達には修験者らの存在も大きかったでしょうね。
310 :
そんが:2009/12/02(水) 12:03:07
はじめまして。後南朝研究がんばってください。
まだ公開はできませんが・・・。私なりに結論はでました。
皆さんの情報を期待してます。
渡邊大門著『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史 』 講談社現代新書(720円・204頁)
第一章 宝剣喪失−鎌倉期における三種神器−
第二章 南北朝における三種神器
第三章 嘉吉の乱と赤松氏の滅亡
第四章 禁闕の変−神器強奪
第五章 長禄の変−神器奪還と赤松氏再興
【2009年11月20日第一刷発行】
内容と著者名で即買いしました。
>>312 有意義な情報ありがとうございます。
早速注文してみます。
>>314 重ねて感謝いたします。
先ほどヤフオクで送料込500円で即決落札いたしました。
来週には届くと思いますので、楽しみです。
こんなマイナーなテーマの本が
講談社現代新書から出るとは!
317 :
南朝ファン:2009/12/07(月) 15:40:05
渡邊大門著『奪われた「三種の神器」 皇位継承の中世史 』講談社現代新書は、なかなか読み応えがありましたな。禁闕の変の首謀者の考証にも目新しさがありましたが、嘉吉の乱の新幕府構想もなかなかのものでした。森茂暁もビックリというところでしょう。
なるほど、わくわくしますね!
ヤフオクに吉田長蔵氏の「南朝の正皇系・熊澤天皇の真相」が出ていました。
22000円ほどで落札されました。それでも安いですな。
しかし現物は初めて見ました。
320 :
日本@名無史さん:2010/01/04(月) 23:51:08
亀山系は先帝指名を拠りどころにしているにも係わらず
2代目後宇多天皇は幕府と組んで父の遺詔を反故にして自分の血筋が
皇統から外れるのを阻止した。その後、身内の不幸により
中継ぎで即位した次男の後醍醐天皇も父の後宇多天皇の遺詔を反故にして
自分の血筋のみに皇位を伝えようとした。
だから後醍醐系(所詮、南朝とは不忠者後醍醐の子孫)がいくら正統を
主張しても説得力がないんだよ。子孫が後南朝とか言ってしつこく
頑張っていたけど正統性がないから大勢に相手にされなかったってこと。
この件については、いい加減に熱をさませてね!
>>1 スレタイおかしいと思います
南朝の皇統なんてありえないし、仮に動物学的な子孫がいたとしても
そのへんの諸々の源氏や平氏と一緒でしょ。何の価値もない
でわ、こんなところで
後南朝w【廃滅せる皇統よ永遠に眠れ】
「奪われた三種の神器〜皇位継承の中世史」をやっと読む時間ができました。
確かに面白い内容で、あっという間に読み終わりました。
渡邊氏の観点はなかなかにユニークでもあり注目されるべきでしょうね。
また、それぞれの事件の前後や背景、経過等も簡潔ながらなぞっているので、
これまで森氏の著書頼りだった後南朝史のあらましも判り、入門編としてもよいのでは?
自分もやっとこの本を読めました。
皆さんと同じく後南朝への関心から手にとってみたのですが
意外にそれ以前の時期を扱った第1・2章の方が面白かったです。
赤松氏・後南朝の動向を扱った第3・4・5章は、本来の主題である
三種の神器の話がオマケみたいになってしまってますね。
ただ禁闕の変で神璽が奪われたことにより朝儀に不都合が生じたという
形跡がほとんど無いばかりか、神璽が戻ってきても碩学・一条兼良は
「無益のこと」と冷めたコメントを残している下りは興味深かったです。
室町時代は有職故実が形骸化してゆく時代なんだという気がします。
今年も御朝拝式に行けそうにありません・・・残念!
行かれる方、寒波が来ていますのでお気をつけて。
327 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 12:55:58
昔の2ちゃんねるには、南朝板というのがあってなぁ。
残党が抵抗したのだが、捻り潰されてしまった。
まさに後南朝そのもの・・・・・
>>328 ああ、あったな
コテハンの熊沢ってやつがうざかったわw
今ある南朝皇族スレにも時々、末裔とかいうのが現れてたな。
真偽のほどは分かりようもないが。
後南朝ファンの皆様、お元気でしょうか?
333 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 01:12:02
はい。元気です。
そろそろ終焉かな
いやいや、まだまだ。
スレ住人達は三之公で花見中です。
誤難聴さんお元気ですか?
あちらは不貞の輩によって随分と荒らされてしまいましたね。
せっかく面白いレポでしたのに残念です・・・・。
でも、ああいう奴等はスルーして復活される事を切に願っておりますよ!
頑張りましょうね!!
337 :
誤難聴:2010/05/04(火) 08:31:37
ご無沙汰しています。GW中は田植えと鹿対策の電柵張りで大忙しです。
一段落したらまたあちらも復活します。お楽しみに。
>>337 早速のレスありがとうございます。
好天に恵まれ多少暑くなっているかとは思いますが、頑張って下さいね。
ちなみに先週、あの方が三之公へ行かれたようですよ。
もちろん、貴殿のレポも楽しみにしておりますので!
三之公って今行けるんですか?
前に行ったとき道が閉鎖されてたのですが。
今は問題なく行けますよ。
そろそろヤマビルやマムシの季節なのでお気をつけて。
341 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 12:28:10
後南朝も系が多いが西陣宮(応仁の乱で西軍が奉じた)が有名ですが、本流は
小倉宮系の尊雅王ー信雅王(南朝軍師で来ていた武田信広の娘が母・信広の
半生は松前藩祖に)で熊野市飛鳥の義士清水亘君(平氏子孫)の実家の近くの
光福寺(当時は興福寺)で潜伏後、船(知多半島が武田が手に入れた直後で)で
武田氏甲府に退散。熊野の熊沢地区で信雅王が生まれたので、甲府亡命後熊沢を
名乗る。信州大河原で自刃した尹良親王(宗良親王の子)その子らが愛知県津島神社に
落ち庇護され、氷室姓(子孫は氷室・大橋・恒川・堀田=江戸幕府家老出る・祖父江)名乗る
その尹良親王の生首を北朝方から取り戻す郷士(愛知県一宮)がいて、その郷士の
一宮の氏寺の娘の家に養子の熊沢子孫は入り僧籍に。護良系は後南朝に入らないが、伊勢
市や度会町の電話帳の 秦道・帝釈・大釈・北畠はこの南朝(護良系)子孫ですわ。
342 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 12:34:58
小倉宮の三種の神器は、伊勢国司北畠が天皇から預かり小倉宮系が生まれた津市
美杉町の神社に保管し預けたままになり、明治維新迎える。・・・
司馬遼の小説に出てくる熊野若宮というのはどういう?
清水は右翼系のチンピラじゃんwww
345 :
誤難聴:2010/05/29(土) 19:22:26
>>341 342 344
実に興味深いです。詳しく教えてください。
私は熊野の住人です。
逆に聞きたい事があれば、お尋ねください。
347 :
誤難聴:2010/05/31(月) 00:22:09
熊野には私の知る限り熊沢という地名はありません。
ただ星野源六左衛門が尊雅王の王子(信雅王?)を星野屋敷のある
現大又地区に隠していたとすると小又から鳥越を越え現尾鷲市
賀田町より船で脱出という方法は考えられなくはありません。
なぜなら戦いが終わった後といえこれより大又川下流の敵軍の
真っ只中を抜けて野長瀬の近露に逃げるとは考えにくいのです。
>>341 光福寺さんにそのような話は伝わっていましたっけ???
349 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 02:12:58
何が「義士」だ。
清水はどうしようもないヤクザ者で思想などはこれっぽちも持ち合わせていなかった。
祖先が平家落人というのも伝承にしかすぎない。
350 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 06:48:17
南朝の聖跡
神戸市兵庫区門口町の禅宗〔南禅寺派〕福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。
あの〜・・・・・「後」南朝スレなんすけど・・・・・
後南朝の子孫なんて現存しない。
室町幕府の施策により男子は仏門に入れられ子孫は絶えた。
自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。
また何処かのコピペか。
歴史浪漫の判らぬやっちゃのう・・・。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。
後南朝というか正確には後醍醐流は断絶に追い込まれた。
それが史実でしょ。
天皇家の正史とやらも怪しいもんだがw
単純に捏造と片付けずに、もっと民俗学側から研究のメスが
入るといいんだけれど。木地師の惟喬親王伝説と同じでさ。
ですな。
史学的観点からだけで語るのも如何なものかと。
何故にそういう伝説・伝承が生まれたのかという点ですな。
在日の方で箔をつける為に、滅亡した旧大名家の
子孫を自称したりする人がいますが、それと同じ心理でしょう。
何かを誇りにしないと心の支えがないから。
その嘘を何代もつき続けると系図も、先祖伝来の宝物も捏造され、
子孫たちは本気で末裔だと言い出すのです。
いいじゃないの、ロマンがあって。
そうであろうがなかろうが、今の世にあっては大勢に影響無しでしょ。
そうギスギスする事でもないと思いますよ。
注:ここは学問板です
だから?
他スレも見たことあるのかい?w
だから他板でやれってことだろ。
やだね
ったらやだね〜
演歌調?じゃなくて後南朝だよw
保守