1 :
越後から関東までの守護独占:
上杉謙信の前の上杉氏、スレッドないのが意外でした。
2 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:16:08
2ゲット
3 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:18:28
そもそもは公家なんでしょ?何氏?大江家と関係あるんだっけ?
娘たちが足利家の家女房に入らなきゃならないくらい落ちぶれたのは何故?もともとそんなもん?
4 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:32:32
上杉家はもともと藤原北家勧修寺流の公家。
後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が関東へ下るときに
お付の公家として一緒に下向、そのまま関東に定住した。
足利家時の妻の一人に上杉氏があるが、家女房ではなく側室。
尊氏の母上杉清子は、足利貞氏の後室の意味合いが強かったと思う。
南総里見八犬伝の悪役
6 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 21:18:01
下向した公家だと、頼朝時代に、
まず大江氏が有名(毛利氏を出したんで有名)かも。
中原氏はよくわからんが、だれか知ってるかい?
宮将軍のお供なら、上杉だけだったんだろうか?
あるいは、ほかの連中は、宮将軍が京都へ戻されるたび、一緒に戻ったのか?
ほかの氏族の行方はどうなんだろ。
源仲章みたいにあぼーんされたのもいるし
8 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 01:16:27
そもそも側室と家女房の違いってなんだ?鎌倉期の御家人の家の場合。
9 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 11:59:14
>>6 勧修寺系藤原氏の上杉家は公家だけど
大江(寒河江・毛利の先祖)惟宗(島津の先祖)中原(摂津の先祖)は公家というより官人階級だと思う
10 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 14:29:54
>>9 コメント深謝。
ところで、公家と官人の違いとは、
堂上(当主は、殿上人になれることが決まっているような家)と、
まず、無理な家(および絶対無理な家)という違いで、よいの?
11 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 16:07:06
9さんに賛成
先生の見解によって、分け方は様々だとおもうけど
個人の才能を認められての大抜擢や天皇の寵愛など
ほぼ一代限りの特異な例を除けば
藤原氏、村上源氏など政局の中心たりえる家柄の人および一門を一般に公家というのだと思う
他の貴族の家来も兼ねて、天皇に仕えている氏族や
実務としての事務仕事に追われているような氏族は
官人というんだと思うよ
公家は政治家
官人は公務員(技能者)
東儀家みたいな中国系外国人に官人は多いね
外来の新技術や特殊技能保持者だったんだろうね
12 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 16:24:21
>>4 江戸時代にも
後水尾天皇の皇子 輪王寺宮守澄法親王が関東に下られるとき
御付の公家として一諸に下向し、そのまま武士になったことがあったらしい
確か烏丸家の一族で六角に改名したとか
日光の傍の足尾の領主だったはず
13 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 00:46:50
鎌倉公方(古河公方)と関東管領って
どちらが格上なの?
主従関係あったの?
鎌倉公方は将軍の代理で、関東管領はその鎌倉公方を補佐する役職…
てことは単純に鎌倉公方の方が関東管領より上ってことなのかね?
主従関係となるとどうなるんだろう…
関東管領は鎌倉府の役職でありながらその人選(任命?)は将軍が決めるってことは…主従関係ではないのかな?
15 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 16:07:03
主従じゃないのなら命令きかなくてもいいねえ
上杉謙信も将軍に任命されたんだね
16 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 16:22:44
江戸時代の小大名の
加々爪氏
あれ上杉氏一門だよ
17 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 17:39:05
鎌倉府にみんな出仕したと思うけど
千葉介は関東管領に対して文句言えるくらい発言力あんの?
吉良氏もかなり優遇されてるみたいね。
>>15 通説では将軍足利義輝は謙信に『関東管領の上杉憲政を助け、相談にのってやってくれ』とは言ったらしいが、『謙信自身が関東管領に就け』と言ったのかどうかは謎。
でも当時関東管領は上杉氏の世襲になっていたらしいから、憲政が謙信を養子に迎えた時点で謙信の関東管領を継ぐことは決定…してたのかな?
やっぱり将軍の補任が必要だったのだろうか…?
養子になったのはどの時点だ?
関東管領、上杉家の家督両方同時じゃねーの?
21 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 11:00:25
>>18 最近の説では将軍足利義輝が謙信に「上杉憲政から上杉を相続し、関東管領として
足利藤氏を補佐せよ!」と命じたらしいよ
その本の解説によると
足利義輝は、北条が足利義氏を傀儡とし、鎌倉時代の元祖北条氏のような巨大な勢力
になっていくのを憂慮してたみたい
近衛前久は足利義輝の親族として、将軍代理を依頼され
従軍したって書いてあった
どの本だよ
謙信は毛氈鞍覆や白傘袋等の使用を許されたが、これはあくまでも守護もしくはそれと同等の地位を認められたってだけで、
関東管領の補任とは別物なんでしょ?
24 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 14:46:43
越後、上野、武蔵、相模は上杉(一門)の領土(守護)だったんでしょ
上杉にとって北条は次々領土を侵す天敵だよなあ
北条は将軍の兄弟の堀越公方を殺したけど
幕府の討伐は受けなかったのかなあ?
政府からしたら明らかに反乱軍(賊)じゃん
25 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 14:57:23
>>24 将軍(茶々丸の弟)の命で、堀越公方(茶々丸)を北条が討伐したんだよ
26 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 16:17:35
>>24 >上杉にとって北条は次々領土を侵す天敵だよなあ
北条は下剋上の先駆けみたいなもんだしね。
そしてそんな北条から自分達の領土を守りたい関東諸候と、関東の秩序を守りたい上杉氏と室町幕府が、北条に対抗できる者として期待したのが長尾景虎だったって訳ね。
27 :
くるくるパー将軍:2007/12/25(火) 16:41:22
上杉家とは高貴すぎる
28 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:13:23
茶々丸の生母って誰だっけ?
将軍になった弟の生母って公家の姫だったよね?だれだったっけ?
29 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:43:30
足利義澄の母?
足利将軍家御用達の
日野家の娘でしょ
武者小路流の。
>>26 そうだと思います。
が、相手は北条氏
上杉×北条こそが
応仁乱に互する
戦国最大級の戦だったと思う
関東の旧秩序と新秩序のガチンコ勝負。
上杉謙信は信長との戦術戦には勝てたけど
北条との戦略戦には負けたのだと思う
30 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 23:40:27
>>23 毛氈鞍覆や白傘袋等の使用を許されたのは、定実の調停で
長尾の家督を継いで、その後定実が病死したときでしょ?
景虎は定実の甥で、越後上杉に男子がいなかったら守護格になれた。
32 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 10:15:21
>>28 >>29 足利義澄の母は権大納言武者小路公光女。
この武者小路家は、柳原家からの分家。
柳原家の本家は日野家だが、
後醍醐天皇の頃活躍した日野俊光の子供の代に
分家しているため、この時代には血縁は随分遠い。
>>31 謙信(景虎)は上杉定実の正室の甥ね。
上杉定実はもともと越後守護上杉家の分家の生まれ。
本家上杉房能の娘婿となって越後守護を継いだ。
越後守護代長尾景能の補佐を受け、のちに景能の娘を
後室に迎えた(これが謙信の叔母)。
景能?能景?
35 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 21:48:34
上杉憲政のオヤジの憲房は、僧籍にあった周晟の息子だそうだが、
僧に子孫がいるってどういうこと?
36 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 09:34:00
若いうちに還俗したと考えられんか
37 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 12:16:52
>>31 そうだと思うよ
この様式は守護のもの
管領(関東)は、
もっと格上の様式
織田信長が上杉謙信に贈答した洛中洛外図に謙信の様子が描かれている
38 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 15:30:03
>>37 守護の網代輿から、関東管領に就任して管領級の塗輿になったってこと?
39 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 09:25:31
>僧籍にあった周晟
この人、系図に名前が出てくるだけで人物像や業績をしのばせるものは何も伝わってない。
なんで、そんな人の息子が関東管領になれたんだろう?
しかも、僧に息子ってどういうことよ。
40 :
仙台市民の一人:2007/12/31(月) 14:22:28
伊達家の家紋て上杉に貰ったって聞くけど
何で大大名が山奥の15万石の大名から貰うの?
伊達から上杉にあげたんじゃない?
武将とか公家とか僧侶の息子って結構多いな。
大概は祖父か伯父・叔父などの子ってことになってるけど。
破戒坊主だったのか、子供を作ってから出家したのか知らないけどね。
42 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 16:32:54
鎌倉時代に慈円がすでに僧侶が平気で女を囲い、
女犯を犯すことを嘆いているから
この時代には当たり前になっていたのかもね。
43 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 17:04:57
出家なんて建前ですよ。
信玄とか謙信とか宗麟とか…つか上杉憲実は結城合戦の時に幕府にムリヤリ還俗させられたな。
44 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 14:24:47
45 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 00:01:30
46 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 00:35:48
扇谷>犬懸>山内>宅間 と思うのですが。
(1)藤原北家勧修寺流武家上杉の創始は、重房さまということで、
よろしゅうございますでしょうか?このあたりまではご異存はないものと思いますが。
(2)さて、その重房さまの本流は、嫡孫であらせられる重顕さまの流れと理解しております。
よって、扇谷の家こそが勧修寺流武家上杉の本流であると。
なんとなれば、その後もっとも栄える山内家は、重顕さまの弟の憲房さまのご系統にすぎません。
憲房さまのご子息憲顕さまが幕府創業の功臣として関東管領になられ、のちに山内家と唱えれますのはご案内のとおり。氏憲さまの犬懸家も、ただしくは、憲藤さまの流れにて、山内家よりも兄筋になりまする。
47 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 15:25:13
Wikipediaには米沢藩と扇谷のつながりが書いているよ。
まああの時代まで行けばそれ以上に印象濃い人が血縁にいるが
48 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 05:23:55
吉良の爺様か。そういや山浦や三本寺、上条はどうなったんだ。まったく歴史に出てこんが。
千坂だけはしっかり出てるがな
49 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 17:49:47
内山氏七沢氏とかも出てこないね。
Wikipedia「上杉氏」の赤字部分をだれか完成させておくれ〜
50 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 01:44:16
鎌倉幕府滅亡から戦国時代までの関東は、一応、室町幕府の時代では
あったのだけど、京都とは別の歴史が流れていたような感じがする。
関東御分国は鎌倉府の管轄下で関東の諸将は鎌倉殿を戴いていたわけだし。
関東の武士にとっては、鎌倉府は鎌倉幕府の延長だったのかもしれない。
二代氏満の時点で既に京都に対して野心をもっていたように、鎌倉殿の自立志向
は、遠く平将門からの東国の気風という感じもする。
京都とは対立傾向をはらんでいた鎌倉御所に対して、京都の幕府が任命権をもつ
関東管領が、鎌倉殿の補佐役、実際は、幕府の監視役の意味合いもあったのかも
しれないが、このねじれた関係が、後の四代持氏が自害に追い込まれ、五代成氏
に至っては鎌倉を逐われて下総古河に移るという事態の遠因なんでしょうね。
この鎌倉御所と関東管領上杉との対立に、上杉一族内の内紛も絡んで、共倒れ
に陥って、その間隙を縫って後北条氏が領地を拡大、関東に新しい時代が来た
という感じでしょうか。
51 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 19:24:18
前から気になってたんだが、鎌倉府とか鎌倉公方って同時代の呼称じゃないだろ。
本当は鎌倉御所とか鎌倉殿だったんだろ?
後世の便宜的呼称を当時から使われてた関東管領と併記されるのは違和感あるな。
鎌倉大草子とか永享記とか見ると、、鎌倉殿、鎌倉御所、あるいは単に公方
とか。将軍も公方だから、区別するときは京公方に関東公方とか。
鎌倉公方という呼称は、当時の認識からするとあり得なかったかな。
政知が鎌倉に送られたときに、「関東主君」としてとあるから、鎌倉にいた頃の
公方は関東の主という認識だったろうから、鎌倉というより関東の公方と感じ
だったのだろうね。
鎌倉府については、当時の呼称で、これに相当するものがあったのかな。
鎌倉殿、鎌倉御所は、関東公方のことを指すし、関東管領と関東公方が差配
する組織全体を指す言い方ってあったのかな。
53 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 04:10:01
鎌倉府とか、建武政権の鎌倉将軍府・陸奥将軍府なんてのは後付けの呼称じゃないの?
54 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 00:47:01
何で上杉氏は鎌倉の地名を名乗ってるの?普通、平井上杉氏や河越上杉氏を名乗るもんじゃない
初期に、屋敷のあった地名だからね
56 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 13:43:55
足利は上杉から正室を迎えてるのは何故?
正室?側室だと思うが
58 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 09:56:32
>>53 そういう後付の呼称を同時代の別の役職名と普通に併記すると、勘違いするよな。
59 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 10:15:16
>>56 上杉はもともと京の公家。
宗尊親王の関東下向に付き添った上杉重房がそのまま関東に定住した。
重房の娘は足利頼氏の側室となり足利尊氏の祖父家時を生んでいる。
足利尊氏の母上杉清子は足利貞氏の後室。
貞氏が北条氏から迎えた正室が没した後、
貞氏祖母の出身でもある上杉家から清子を後妻として娶った。
60 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 12:41:48
61 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 10:07:17
継室は、四男、五男の生母になれるから重要
62 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 23:08:28
よく定正が道灌を殺したせいで扇谷上杉家は急速に衰退したって言われてるけど、
道灌の誅殺は下克上を阻止した英断だと思う。
そうだな。
実際、道灌が死んだ跡も、定正は尖兵で山内と渡り合ったから
定正自身、戦上手な名将だったと言える。
64 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 23:45:41
道灌をあのまま放置しておいたら、定正は下克上された暗君扱いだろうな。
65 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 22:46:40
最近、上杉・道灌関係で面白かった本は、
「扇谷上杉氏と太田道灌」(岩田書院)
「決戦〜豊島一族と太田道灌の闘い」(風早書林)
とりあえずおススメ。
これ読むのは相当なマニアだろうけど。
66 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 13:04:46
上杉は養子相続が多すぎる
67 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 17:48:12
68 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 20:49:46
上杉憲実って自分の思うような方向に行かず苦悶ばかりでかわいそうだよね。最後は大内氏のいる周防で死去?雪舟とかと山口で会話したりしたのかな。
北条が上杉に止めをさしたけど実質的には長尾景春が上杉家を疲弊崩壊されたようなもんだね。
69 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 02:24:13
70 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 02:36:24
71 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 02:37:51
72 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 23:22:16
>>68 持氏の死後も息子の憲忠と房顕が上杉持朝や長尾景仲に擁立されたが、
いずれも憲実に先立っているし、失意の晩年だっただろう。
享禄二年師走に江戸城代遠山直景が攻めて、翌年正月三日に上杉朝興が迎撃して追い払った
という吾名蜆城って、大築城と言う人もいるけど、ちょっと、山奥過ぎるかなと思う。
上杉軍は、迎撃した後、余勢を駆って、三日後には、小沢城、世田谷城を攻略して、その二日後
に江戸城城下に放火している。
大築山からだと、谷を東に向かって越生に出た後、そこから南下して毛呂、飯能と過ぎて、峠
越えをして勝沼(青梅市)、そこから多摩川沿いに南下するルートで向かったと思うけど、迎撃後
に三日で小沢城、世田谷城攻略はちょっと厳しいかなとも思う。大築山は標高466メートル、麓の
麦原の集落からでも260メートルの比高はある山城だから、かなりきつい行軍だったような気がする。
吾名蜆城は、高麗川沿いの飯能に近い辺りにあったのではなかろうか。
74 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 16:41:36
真の上杉スレage
75 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 17:35:45
扇谷は
おおぎたにと読む
京都人はね。
鎌倉に同じく藤谷というところがあるが
ふじたにと京都人は読む。
世田谷、熊谷も
せたたに、くまたにと読むかどうかは未調査。
76 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 01:31:12
それは単なる「知識足らず」「つーかバカ」で、
京都云々以前の問題。
江戸の人が大原を「おおっぱら」とは言わないように。
77 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 01:42:19
室町時代の鎌倉府とはどういう意思決定機関であったのか、関東管領の任命は京都ということで、最初から2頭組織の危険があったような感じだと思っていますが。
78 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 01:45:51
足利持氏が亡んだ後は、
鎌倉公方も関東管領もしばらくいなかったのでしょう。
それで、鎌倉府自体が消滅していた?
でも、公方と関東管領の下にあった下部組織は機能していたのでしょうか、
京都の指示あったか、適当にか、
また、関東10カ国、東北2カ国は、京都が直接指揮していた?
79 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 22:54:53
>>75 実は賢い人なんじゃない?
冗談のとこもあるが、昔のみやこびとは確かに谷をガヤとかは読まない
80 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:45:16
伊達家
伊達成宗:奥州探題就任
伊達尚宗:上杉氏から正室を迎える
伊達稙宗:再び奥州探題就任
伊達実元:上杉氏の養子となるが長尾家の妨害により失敗
長尾家
長尾景春:関東を争乱状態にして、管領上杉家の勢力を衰退させる
長尾邦景:上杉家をないがしろにし、専横を振舞う
長尾実景:越後守護家に謀反を起こす
長尾為景:上杉房能、八条定宗、上杉顕定らを殺害して上杉家を傀儡化
長尾晴景:上杉実元の家督継承を妨害
長尾顕景:上杉憲政、上杉憲重らを殺害して上杉を僭称
さらに上条上杉政繁を追放
どちらが上杉を継ぐに相応しいかは、バカでもわかるわな
関東管領が事実上、鎌倉府を支配してたんじゃない?
たしか義教が自分の息子を鎌倉公方にしようとしたのも反対してんだよね。
それで関東管領に出仕して頭を下げるのが嫌で関東八屋形どもが
越後上杉に頼んで公方さま復興を幕府に取り次いでもらったんじゃないかな。
東北方面は京都扶持衆になる者が多かったんじゃないかと。
公方存命の時に鎌倉出仕中だった大崎氏なんかは管領に挨拶しなかったくらいムカついてたらしいし。
公方滅亡時は初代政宗とかは鎌倉府と対立してるし。
82 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 22:39:18
208 人間七七四年 sage 2008/08/09(土) 20:45:03 ID:ezV9ADek
憲政の子孫は米沢で上杉に仕えてるのも知らんとは…アホ過ぎてワロタw
213 人間七七四年 age 2008/08/10(日) 10:48:32 ID:wX57hSJu
系図だけだと何とも言えん
幕府に仕えたとかも考えられるし
米沢藩士になったというなら
米沢藩の資料に名前が載っているはずだけど
216 人間七七四年 sage New! 2008/08/10(日) 20:36:54 ID:BVzHEhC3
>>213 >米沢藩の資料に名前が載っているはずだけど
米沢藩のなんていう資料に名前が載ってなかったか言ってみ?
調べもせずに言ってるとしか思えんが。
83 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 19:25:27
>>78 鎌倉府は、鎌倉公方だけが不在で休止状態ということではないでしょうか!
関東管領は、山内上杉家が世襲していたはず。
後に持氏遺児、成氏(いわゆる古河公方)を擁立し再興という流れだと思います。
この時期(室町)幕府自体が、権威を失墜していましたので、関東は中央よりいち早く
戦国時代に突入ということだと思います。
山内上杉家VS扇谷上杉家の対立、その間隙をぬって北条早雲の登場と続きます。
84 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 22:43:26
あくきんやっと解除かよ・・・・
85 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 17:25:36
まーた上杉憲盛で盛り上がるスレかよ。
86 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 02:03:04
そのとおり!
87 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 08:58:28
>>76 扇谷>犬懸>山内>宅間 と思うのですが。
上杉氏は、その当初(室町初期)、上記4家の明確な分立はなかったものと
思慮します。関東管領職や所領は、上杉一族「回り持ち」の印象を受けます。
後に子孫間の縁が薄くなったことにより、家督・役職・所領争いが生じ、
上記4家間に確執が生じた。 室町初期は山内家と犬懸家、中期は山内家と扇谷家
がその典型でしょう。
4家間に序列をつける意味はあまりないでしょう。
強いてつけるなら、単純に長幼の順ではなく、総合的に判断すべきものと考えます。
88 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 09:01:45
87の修正 76ではなく、>>46でした。
89 :
みつき:2008/11/02(日) 12:37:52
義輝てったいへんですね
90 :
みつき:2008/11/02(日) 12:44:02
義輝って30さいでしにました。わかいですね。はい剣豪将軍足利義輝。
漢字使えよw
92 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 01:29:29
関東管領家は謙信で終わってしまった・・・・
93 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 01:04:53
うm・・・・・
sage
関東管領扇谷定正
96 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:42:13
おほぎがやつ
>>96 これホンマ?「扇」は「あふぎ」なんやけど関東では違うの?
>>95 かんとう かんれい おおぎがやつ さだまさ
鎌倉市北部に扇谷という地名があり、扇谷上杉家や、その家宰の太田家(道灌で有名)の屋敷があった、ということです。
山内上杉家の家宰は長尾家。扇谷上杉家の家宰は太田家。京都から関東に来たのは上杉と太田だったのだが。長尾は相模の地侍。
>>99 上杉家の本来の家宰は太田家で、その伝統を受け継いだのが、分家筋の扇谷家だったのだろう。長尾家は、上杉が関東に来てからくいこんだ、という事だろうか。
下向する際に伊豆や相模の豪族を取り込んだんだっけ?
>>101 その通りではないでしょうか。ただ、それだけでは坂東の武将は、ついてこないのでしょうが。
sage
104 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 16:23:48
関東管領職上杉家は上杉憲政が謙信に家督を譲って以降景勝etc..と米沢上杉家と命脈は続きますが、血縁的には憲政で断絶していますよね。
憲政以降で上杉家の血筋を引く人っているのでしょうか?
105 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:15:57
吉良系の血筋になった四代上杉綱憲以降は今川経由で扇谷の血筋を引いている。まあ禅秀の乱の時代にまでさかのぼってしまうがな
106 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 10:30:14
越後の長尾と関東の長尾って同族意識あったの?
どの時代でどの程度までをいうの?
上杉謙信誕生の流れとその活動を見れば
「上杉」を上に頂くことでは仲間意識があったんじゃない?
108 :
日本@名無史さん:2009/04/27(月) 11:31:43
>>97 関東でもあふぎだと思うよ。語源を考えたら当然の如く。
山下真司って関東の長尾氏出身らしいぞ。
110 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 17:50:03
>>104 憲政って実子はいなかったの?御館の乱(?)で非業の最期をとげたようだけど、晩年は比較的のんびりした余生を過ごしたと思うのですが。
111 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 23:54:16
憲政には三人の男子が居て、そのうち一人が生き残って武蔵国羽生に住んだと言われている
子孫には南部家盛岡藩に仕えた者も居るらしいが
米沢藩からは排除された模様
113 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 22:42:27
憲政の孫の上杉憲国が生き残ったようだ
114 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:11:10
山吉家家譜が偽書でないなら
上杉憲将−山吉義盛室−行盛−長尾頼景室−重景
−能景−為景−輝虎・仙洞院−景勝
115 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 18:14:06
>>115 そこまで、大きな差はなかったんじゃない?
上杉の本貫地の丹波の所領の継承を調べて、上杉嫡流が移っていってる経緯
を調べた人がいたよね。
117 :
日本@名無史さん:2009/06/07(日) 12:12:54
土佐一条も伊勢北畠も京都を離れても公家じゃん?
上杉はいつ公家じゃなくなったの?
118 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 01:07:16
上杉重房から?
足利家の執事になってから?
119 :
長尾:2009/06/17(水) 00:14:34
景勝って藤原姓?。
平姓の方が似合う名だよね
平 景勝。
>>119 顕景時代は平氏。
景勝になってから藤原氏。
121 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 11:06:47
なんで相模の長尾は上杉に取り入ったんだろう
>>117 公家といっても、一条や北畠みたいな堂上じゃないからねえ。
勧修寺清房って定家と流血事件おこした人でしょ。
上杉重房は系図では清房の次男になってるけど、少し年代がとびすぎてる
ような気がするんだよねえ。鎌倉に下向したのはかなり年いってたのかなあ。
ただ、一条や北畠と違って、宗尊親王に供奉して鎌倉へという説をきちんと
裏づけする史料はないと思う。
長尾って鎌倉幕府では有力な家だったの?
124 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 11:03:09
いや、非御家人。陪臣
125 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 13:41:15
三浦介の朗党、家人だね
126 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 16:03:03
上杉て保元の乱で頼長派だったらしいから、京都いてもいずれ消えてしまいかねない存在。
現代でいう脱サラ気分のようなもんだったんじゃないの
127 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:29:59
没落公家か
没落といっても、もともと摂関家の家司の家だから。
まあ、頼長の天下が続いたらどうなってたかわからないけど。
あと清房は土御門天皇母承明門院のいとこにあたるけどねえ。
129 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 19:21:37
乳兄弟だっけ?
下っ端とはいえよく政界復帰できて棚たな
130 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 13:40:36
江戸時代にも上野宮家に従って公家の庶子が下向しているね。
高家としてこれも武家になったみたいだけど。
江戸版上杉家かなあ
古河公方の末裔、古賀元幹事長。
また、やってしまったな。
古賀氏、本当に時勢を読む能力に長けている。
鎌倉幕府が滅亡した後も古河公方として生き残り、関東支配を続けた。
上毛野(かみけぬ)氏の流れを汲む東国六腹の朝臣、時の勢力を巧みに
利用して生き残りをかける戦術は、もう、天性のものといわざるを得ない。
自民党の古賀って…まさか
この古賀氏の出自についてなのだけれど、
父親が早く戦死していることもあり、詳しいことが書いてない。
福岡県山門郡瀬高町(現:みやま市)
で、由来ですが
大蔵氏族で原田氏と同族。
「先祖は漢高祖の苗裔にして劉氏たり。始め甲斐国に住す。
子孫、筑後国三潴郡古賀村に移り、古賀を称号とす」(古賀家伝)
邪馬台国との関係がうかがえますね。
全然うかがえないが?
いやいや、充分うかがえますよ。
麻生総理は阿蘇の古代九州王朝の末裔だと容易に推測できる。
古河公方の子孫古賀氏がマンガ総理誕生をなぜ容認したのか?
麻生家は古代九州王朝の直系、古賀氏は関東に移った九州王朝
の傍系だったからです。
あやしいからクリックしないようにしよう。
139 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 22:46:06
上杉氏定-今川範政室-今川範忠-義忠-氏親-義元
氏真-吉良義定室-吉良義弥-義冬-義央-上杉綱憲
140 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 11:07:49
上杉憲将-山吉義盛室-行盛-長尾頼景室-重景-能景-為景-上杉輝虎
141 :
日本@名無史さん:2009/09/07(月) 17:32:25
上杉のりも(ry
142 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 20:15:12
>>141 ( ^ω^)
( ^ω^)
( ^ω^)
( ^ω^)
( ^ω^)
143 :
日本@名無史さん:2009/09/22(火) 00:28:28
144 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 23:48:50
詫間上杉の城跡は
横浜の港南区にある
146 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 21:37:43
マジで〜
147 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 13:31:53
藤原氏といったら中臣鎌足の子孫、渡来人じゃないか。
百済王・豊璋=中臣鎌足、間違いない。
その百済は扶余人の起こした国。
扶余人はバイカル湖の東岸に住んでいたブリヤートモンゴロイド。
まあ、北方系のモンゴロイドということでいい?
149 :
日本@名無史さん:2009/11/20(金) 23:34:37
お?
150 :
日本@名無史さん:2009/11/21(土) 10:25:31
のりもりクンはゆるキャラ
上杉は緩キャラが似合うね。義と愛ですから。
戦うよりも退くのが好きだった。
152 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 14:28:18
153 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 00:15:46
尊氏の母は上杉なんだな
156 :
日本@名無史さん:2009/11/29(日) 00:43:13
>>155 初耳だけど、そんな話しどこに載ってたの?
158 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 21:30:14
祖が貴族で
その後大名になったのって
おおどころでは
毛利 上杉 か?
他にある?
源氏も平家もそうだよ
161 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:37:27
ぎゃおおおおおおおん
163 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 22:16:57
宇都宮氏
宇都宮氏は、上杉氏よりももっと伝統のある上毛野氏の子孫。
165 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 00:38:13
藤原氏と上毛野氏の婚姻の末の末裔では?
上さま
167 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:52:01
>>155 憲政の三人の息子のうち一人だけ生き残ったんだっけ
168 :
日本@名無史さん:2010/03/17(水) 14:25:58
そう、それでその息子は当然景勝によって追放され、上杉家乗っ取りは完了した
上杉景・・の景は鎌倉党に共通の名前だろ
まあ 謙信が長尾鎌倉党だからだが、
京都発祥の公家・上杉は末裔どうなったの?
>>167 続群書にはそんな系図があるらしいけど、
一次史料はないし、ほんまにそんな息子おったん?
171 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 14:46:57
>>170 上杉文書内にもあるから、憲政に孫が居たことは事実でしょう
鎌倉景名室:丸子公景息女
長尾景茂室:葛西時清息女
長尾景為室:佐原明連息女
長尾景晴室:山吉長久息女
長尾頼景室:山吉行盛息女
長尾能景室:高梨政高息女
長尾顕吉室:尾崎持重息女
長尾晴景室:上杉定実息女
上杉の「景」とは、景教(ネストリウス派キリスト教)のこと。
秦氏とともに渡来した景教徒の末裔である上杉氏は、いさかいを避け一族の繁栄だけを願った。
上杉氏は「かみずぎ」、つまり「神に感謝して過越しの祭りを行う」という意味が秘められているのだ。
モーゼの出エジプト以来、強いものと戦って一族が滅びることは決して望まなかった。
秦の始皇帝が滅びれば朝鮮に亡命、百済が滅びれば日本に渡来、京を追われれば鎌倉へ、
鎌倉幕府が滅びれば、信長・秀吉・家康と常に時の権力者に巧みに擦り寄りつつ距離を置いていたのだ。
今も上杉氏の子孫はコバンザメのような生き方を続けているはずだ。
174 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 13:11:54
吉良系になったら(憲)復活した
175 :
日本@名無史さん:2010/05/18(火) 15:12:48
>>173 上杉家に「景」なんて通字は、もともとありません
176 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 09:13:51
「景」の通字は長尾家だな
177 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 11:08:19
今日、村上市の長尾氏の音楽家のコンサートがあるね。
家系図や古文書も同時展示するから、抽選で行ける人は幸せだなぁ。
178 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 18:35:58
仙洞院の母親が上条氏出身という珍説があるらしい
179 :
日本@名無史さん:
まあさかあ!?