【小和田】雅子さまのご先祖【江頭】

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824日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:01:59
>>819
改めて金吉以前がわからないすごさ。
他がとりあえずここまでわかっているのに、なぜ金吉以前は?????????
825日本@名無史さん:2008/09/21(日) 00:26:31
とりあえず俺には動物霊ついてないみたい。神社入っても平気だから
雅子に動物霊ついてるって…この人ヤバすぎ
826日本@名無史さん:2008/09/21(日) 10:43:12
雅子は素っ裸でリオのカーニバルに出場させろ。

或いは愛子の同級生の男を、抱かせたら?
827日本@名無史さん:2008/09/21(日) 23:38:17
どこの家でも明治期の戸籍が取れるはずなら(つか取れるww)
当時の戸主の父母、祖父母、が載っているはず、
そのあたりの生年は弘化、嘉永、文政なんてざらさ。
金吉程度が遡れないのは同考えてもおかしすぎる。
と、毎日仕事で戸籍見てるので素朴な疑問だ。

たかだか4代前の金吉がわからないわけがない。
わからない事にしておきたいんだな。
原戸籍は壬申戸籍じゃないんだからBかどうかも別にわかんないし。
汚輪駄家問題はB疑惑じゃない気がする・・・
828日本@名無史さん:2008/09/22(月) 03:07:49
B疑惑じゃないなら何だろう
金吉という人の存在は確認されている(お墓は無いが)
その妻の職業と実家(親の名前)も確認されている(お墓は確認されてないが)
その娘の嫁入り先も確認されている
なぜ金吉の親の名前が不明なのか
戸籍や過去帳を見れば一発でわかることなのに
わからないことにしておきたいその理由は何だろう
829日本@名無史さん:2008/09/24(水) 12:31:42
967 :可愛い奥様:2008/09/22(月) 23:34:50 ID:bXmMQY3t0
>>851
寺や住んでた村が何度も焼け落ちてて
そのせいで戸籍が消失(←事実)
お墓は苦労した先祖の立てた墓だから(←事実)
捨てたりリサイクルするには忍びなく
痛んだ土台だけ変えて上はそのままにした
ってのが皇室ヲチャや日本史板の賢い人たちの検証だけど?

http://babauso.white.prohosting.com/01/nazo02.html
>村上では三度の火災があった。
>慶応四年(1868)戊辰戦争のさなか村上城の本丸が炎上し、藩政時代の貴重な資料が
>失われた。
>昭和22年(1947)には金吉の本籍地である本町役場が焼失。
>昭和24年(1949)旧士族内部での内紛のため城跡保存育英会が内部資料を焼き捨てた。
>
>これに加えて金吉の父、道蔵匡利が葬られた新潟市内の泉性寺は明治13年に大火に
>みまわれ資料を失った。


830日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:03:11
では逆に、村上の人たちは皆三代より前に
さかのぼれないのですか?
小和田さんの資料だけすべての火災に遭遇し、
完膚なきまでに焼け落ちるというのは、
何とも都合の良い話ですよね?
831日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:28:54
967 :可愛い奥様:2008/09/22(月) 23:34:50 ID:bXmMQY3t0
>>851
寺や住んでた村が何度も焼け落ちてて
そのせいで戸籍が消失(←事実)
お墓は苦労した先祖の立てた墓だから(←事実)
捨てたりリサイクルするには忍びなく
痛んだ土台だけ変えて上はそのままにした
ってのが皇室ヲチャや日本史板の賢い人たちの検証だけど?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヲチャは鬼女板やオカルト板、占い実践板などで、小和田金吉は
兵五郎の三男だというトンデモ説をさも事実であるかのように語り、
wikipediaにも全く事実でない捏造家系図を載せていたw
832日本@名無史さん:2008/09/24(水) 14:06:42
>>829小和田恒氏の大先輩にあたる、幣原喜重郎の生家は、門真で約300年続いた
豪農であった。
幣原家には代々の先祖の名前が記された掛け軸が2本あった。
ところが、明治7年の洪水によってその掛け軸が流されてしまい、幣原家の確かな
系譜は分からない、と幣原自身が自叙伝の中で述べている。

家系図が洪水で流されても、菩提寺に残る過去帳や検地帳、差出帳などの古文書
などで幣原家300年の歴史は確認されている。
新潟市の西真寺は火災に遭ったというけれども、村上市の本悟寺は火災にも遭って
いないし、第一村上市は戦災も大きな天災も無かった。
そういう意味では、村上市は他の都市に比べて多くの古文書が保存されているし、過去の
歴史を探る上で非常に恵まれている立場にあるといえる。
833日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:43:41
>>829
707 : 名無しさん@九周年 : 2008/09/24(水) 07:54:39 ID: qqLMIA+OO
名字のない農民ですらも過去帳や寺の檀家帳、墓の刻からさかのぼれる。
戦争で死んだなら遺族年金から。神道なら氏子帳や寄進帳から。
それでもダメなら地域と名字で傍流から攻めれば5代前まではさかのぼれるのが普通。
引用以下略

日本で金吉より前の先祖が存在した痕跡が全くないのは普通に考えると
金吉が明治時代に日本に来た外国人である可能性が高い
戸籍も墓も過去帳も無いのはそのせいだろう
火事や災害で書類が消失したから不明というのはいかにも説得力に欠けて不自然
日本人であればどんな身分であれ上記引用の方法で3代より前は簡単に辿っていける
恒氏の父、毅夫氏は雅子さんの婚約時には存命であった
毅夫氏の祖父の名前さえわからないというのは有り得ない
834日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:44:53
約1300年前にも百済系帰化氏族の7代目あたり(帰化後、約200年経過)の子孫が
皇室入り(皇太夫人)した事があるので帰化人の子孫である事を問題にするつもりはない
問題は帰化人の子孫である事を隠そうと無理に他人の家系図にくっつけようとして
矛盾と疑念が露呈した事である
誰がこんな小細工をして国民を騙そうとしたのか
なぜそうしなければならなかったのか

しかし雅子さんが皇太子妃としてやるべき事をやり天皇と皇室を敬っていれば
出自がどうであろうとここまで言われることは無かったと思う 
その点が実に残念だ
835日本@名無史さん:2008/09/25(木) 18:58:14
つか政府はみんな帰化人じゃん。
836日本@名無史さん:2008/09/28(日) 15:40:28
出自が出自だから、皇室でまともなことができないのだよ。
原因があって結果がある。
あんな家柄の娘が、最高の家柄でうまくいくほど、
家柄と言うものは軽くはない。
837日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:00:21
金吉が海を渡って来たから、雅子も海を渡って
ふらふら出かけたがるのか?
838日本@名無史さん:2008/09/30(火) 22:05:07
誰がうまいことを(ry
839日本@名無史さん:2008/10/01(水) 04:34:37
1874年(明治7年)  匡利(道蔵)死亡 現在、墓は新潟市の泉性寺
          匡利の両親兵五郎夫妻と匡利の妻とその子供の墓だけは村上市西真寺にある

1897年(明治30年) 新潟県にて税務署員の金吉が竹野と結婚 夫妻は高田郊外(現在の上越市)の官舎に住む
1898年 (明治31年) 毅夫新潟県にて金吉、竹野の長男として生まれる
1900年(明治33年) 金吉死亡 (毅夫2才) 墓の所在地不明
         妻竹野は息子毅夫を連れて実家に戻り、産婆の資格を取得、働きながら毅夫を育てた

奨学金のため毅夫が士族の子孫(小和田匡利(道蔵)の子孫)である事を表明する必要があった

1920年(大正9年)  毅夫(18才)広島高等師範学校卒業 4月福島県立相馬中学校に赴任 
1958年(昭和33年) 毅夫(60才)高田高校の校長職を依願退職する
1963年(昭和38年) 毅夫(65才)が父金吉の墓だけを村上市西真寺から宗の違う新潟市の泉性寺に移したと言われている
         しかし泉性寺住職は知らないと言い、現実に金吉の墓は無い

本当は移したのは金吉の墓ではなく匡利(道蔵)の墓だったのではないか(金吉の墓は元々存在しないから)

1980年(昭和55年) 毅夫(82才)が泉性寺にある匡利(道蔵)の墓の台座だけを新調して奇妙な墓になる
1993年(平成5年)1月19日 皇室会議にて妃に小和田雅子が内定。

小和田両親と雅子、新潟市の泉性寺の匡利(道蔵)の墓参り 依然として金吉の墓ではない事に疑問はないのか?

1993年(平成5年)6月9日  結婚の儀
1993年(平成5年)10月19日 毅夫(95才)水戸市の高級老人ホーム(ケアレジデンス水戸)にて老衰により死去
840日本@名無史さん:2008/10/01(水) 14:17:57
967 :可愛い奥様:2008/09/22(月) 23:34:50 ID:bXmMQY3t0
>>851
寺や住んでた村が何度も焼け落ちてて
そのせいで戸籍が消失(←事実)
お墓は苦労した先祖の立てた墓だから(←事実)
捨てたりリサイクルするには忍びなく
痛んだ土台だけ変えて上はそのままにした
ってのが皇室ヲチャや日本史板の賢い人たちの検証だけど?
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新潟市の泉性寺は、確か明治7年に火災があり過去帖等が消失(住職談)。
しかし、本籍地である村上市の役場は火災に戦災にも遭っていないし、戸籍
は残っているはずだ。
本悟寺も火災に遭ったという話は聞かない。

小和田家のルーツが村上であり、本悟寺の墓を新潟市の泉性寺に移した
というのであれば、戸籍や過去帖等の史料は豊富に存在する。
841日本@名無史さん:2008/10/01(水) 15:01:52
>>840
>新潟市の泉性寺は、確か明治7年に火災があり過去帖等が消失(住職談)。

これを下記の証言と並べると
>>820
>2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言
> 「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない 匡利(道蔵)の墓だけがあります
>  …30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」

匡利(道蔵)の墓が明治7年から泉性寺にあったと住職が思っているのは過去帳からではなく
明治7年の刻がある墓が現実にそこにあるからそう考えたということになる

本当は1963年(昭和38年) 毅夫(65才)がこっそり匡利(道蔵)の墓だけを泉性寺に移したのではないか
状況証拠:1 匡利(道蔵)以外の墓(匡利の両親、妻、子供)は今も村上市西真寺にある(寺の宗は別)
     2 匡利の墓は正面上の角部分が欠けている
     (墓は廃棄するか移動するか以外の理由で動かす事はありえない よって欠ける理由もない)
     3 1980年(昭和55年) 毅夫(82才)が匡利の墓の台座だけを新調(元々は台座のない墓石だけの墓だった)
     4 匡利の墓は元々新潟市泉性寺の墓地の隅っこにひっそりと置いてあったが撮影前に急遽中央に移動した

上記の考察と>>840
>しかし、本籍地である村上市の役場は火災に戦災にも遭っていない

金吉の戸籍は存在しない
 
以上の事実をふまえると
毅夫が自分の家系を創作するために家系が絶えた士族小和田匡利の墓を利用して工作した
という結論になった
目的は奨学金取得だったが後にまさか孫が皇室入りし、それによってその工作と矛盾が明るみに出るとは
夢にも思わなかっただろうね
842日本@名無史さん:2008/10/01(水) 18:40:04
結論?
単なる飛躍であり妄想だと思うよ
843日本@名無史さん:2008/10/01(水) 18:50:33
どこでも妄想でかたづけられるのか?


>>841
裏暗いことをしたのなら大人しくしておけばよかったのにな
844日本@名無史さん:2008/10/01(水) 19:42:29
>>842
どの点が飛躍でありどの点が妄想なのか具体的に言って欲しい
845日本@名無史さん:2008/10/01(水) 20:16:54
>>833
金吉さんの戸籍も無いんですか?
じゃあ、息子さんから始まっているのかな?
846日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:22:38
系譜
小和田家は江戸時代、越後村上藩(現・新潟県村上市)の下級武士だった。[4]。村上市に残る記録では、
小和田姓の藩士名が散見される。それらの者は、下横目、同心、郡方懸りといった役であった。 しかし、そ
れら小和田姓の藩士と恒の父祖との繋がりは明確にされていない。[5]。その理由のひとつに、対外的に公
表されている小和田家の系図が恒の祖父である金吉以降のものである、というものがある。

一般的には、金吉は村上藩の下級武士である小和田匡利という人物の三男とする説が有力である[6]。 早
世した金吉の職業が税務署員という公務員であり、また、村上藩「種川の制」の収益で創設された旧藩士子
弟の育英制度の一員であったこと、下級武士の名簿でもある村上鮭産育養所の漁業権者名簿に金吉の名
前が明記されている[7]こと、恒の父の穀夫が 国立の高等教育機関であり、広島大学教育学部の前身であ
る広島高等師範学校に進学しているという事実からもこの説が妥当ではないかと考えられている。

毅夫は広島高等師範学校を卒業後、旧制福島県立相馬中学校を皮切に各地の旧制中学・高等女学校で教
鞭をとり、1958年に新潟県立高田高等学校校長を最後に勇退。その後、新潟県高田市の教育委員長を務め
るなど一貫して教育者として活躍した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92
847日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:42:16
>>846
>その理由のひとつに、対外的に公
>表されている小和田家の系図が恒の祖父である金吉以降のものである、というものがある

じゃあ何?対外的には公表されていない小和田家秘蔵の家系図が存在するんだ?
しかも、公表できないような家系図ってどんなんだよw
848日本@名無史さん:2008/10/02(木) 03:26:01
>>846
>一般的には、金吉は村上藩の下級武士である小和田匡利という人物の三男とする説が有力である[6]。
これは明確に否定されている
           ↓
「 一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、
仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」
小和田金吉(1867年(慶応3年)ー1900年(明治33年)
本籍新潟縣越後國岩船郡村上本町(現 新潟県村上市飯野)
西日本系圖大鑑より

金吉が匡利の子なら匡利12〜13歳の時に生まれた三男となり有り得ないので
仮に小和田兵五郎の三男として繋げたが 一言でいえば「この小和田家ではない」(別流)と言っている
【小和田氏系図】
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-owada.html
849日本@名無史さん:2008/10/02(木) 03:26:31
匡利の三男では年代が合わなくなるので
系図作成者は無理矢理兵五郎の三男に繋げたが(ただし「(?)‥‥‥」という表記で疑問形で繋げてある)
現実には兵五郎の墓は村上市西真寺に現在も残したままで、
昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たがここに墓参していない
兵五郎が金吉の父なら有り得ない行動である

>下級武士の名簿でもある村上鮭産育養所の漁業権者名簿に金吉の名前が明記されている[7]
                ↓
本籍地である村上市の役場は火災に戦災にも遭っていないのに金吉の戸籍が存在しない
士族小和田本家の過去帳に金吉の名は無い
小和田金吉の墓は存在しない

この大きな矛盾点からは「漁業権者名簿」の金吉と毅夫の父の金吉は別人かもしれないという推理ができる
また金吉の戸籍は実は存在しているが親の名前が兵五郎でも匡利でもない為、
公表できない事情があって戸籍が存在しないという事にしてあるという推理も成り立つ
金吉の親が匡利でない場合、なぜ匡利の墓を毅夫が小和田家の墓にしているのかという根源的な疑問が発生する

宮内庁が公式発表している小和田家系図が金吉以降からなのは
匡利と金吉が繋がっていない事実を認めているからと解釈する以外にない
850日本@名無史さん:2008/10/02(木) 03:49:40
851日本@名無史さん:2008/10/02(木) 04:28:10
>>850
今日も来たのかキムチくせえ醜悪な朝鮮ウジムシ工作部隊員。

懲りねえなオマエも。
852日本@名無史さん:2008/10/02(木) 10:55:29
品性下劣な輩に必死で擁護されている小和田家の謎
853日本@名無史さん:2008/10/02(木) 11:45:19
実は兵五郎の子孫なら年齢的にもアリなのに
墓石は恬として匡利、一族も恬として
匡利のつぎはぎ墓にお参りするから
兵五郎にも繋がりませんと
自らゲロった感じね
854日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:20:59
金吉は新潟県内の聾唖教育にも力を注いだという記述を、このスレのどこかみたことがあるが
これも嘘だろうね。
855日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:42:05
そーゆー公の教育機関に属してたりすると
期間がどんだけ短くても記録には必ず残るらしいんだけど
記録には小和田金吉の名前は一切見当たらないらしい
税務署に勤めてたってことは公務員だったわけで
その記録もはっきりあるのかないのか不明
856日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:47:52
税務署とか聾唖教育に関係してた金吉と毅夫の父の金吉は別人という説もあって
そこらへんは新しい情報が出てくるまではまだわからないね

酒乱で暴力夫だから奥さんが子供連れて実家に逃げ帰った話も
誰に聞いた話なんだか不明だし
逃げ帰った翌年金吉死亡なら一応子供連れて葬式とか行くよね?
葬式なら金吉の親族親戚とも顔合わせるだろうし
お墓に納骨するから父親の墓の場所とか
子供が大きくなったら言うのが普通だと思うけど
金吉のお墓が無い(所在不明)っていうのが摩訶不思議
857日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:14:04
雅子妃とメーソンは仲良いよ
これから始まるメーソンによる秋篠宮弾圧は見ものだ
858日本@名無史さん:2008/10/05(日) 13:51:48
雅子さまは今日本に生まれてどう思っているのだろうか?
元外務省に勤務されていたそうですが、外国の文化にもくわしく
海外の自由な皇族を見て日本の皇族との違いに驚愕されていることでしょう。

日本人に足りない平等意識を高める必要があるでしょう。
私も含めて気をつけます。
859日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:09:49
江頭氏について。
鍋島本藩の家臣は旧龍造寺氏より引き継いだ者が多く直茂、勝茂の時代に整理。
其の為、寛永5年(1628年)の鍋島本藩着到帳にて家臣(直臣)は約860名。
支藩、親類、親類同格の旧龍造寺5家も全て家臣に含まれている。
さらに家老7家、着座9家等など壱千石以上が30家。
寛永5年の着到帳の附を見ると江頭助右衛門尉ほか55名の名前で
家老職の姉川鍋島家(3779石)へ属与となっている。
本藩から姉川鍋島家へ移籍したものと考えられる。
もう一人江頭五右衛門尉の名前が見られるがやはり大身の石井家へ属与。
当初に述べたけど龍造寺氏の家臣を引き継いだ為に多過ぎて困った策と考えられる。

それ以降の鍋島本藩着到帳には江頭氏の記載は見当たらない。
江頭助右衛門尉の子孫に該当するか、
姉川鍋島家の着到帳を調べるのも一つの方法でもあると思う。
860日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:33:57
江頭氏について
江頭2:50と雅子さまが「またいとこ」だと言われているので
誰か検証してみませんか?
861日本@名無史さん:2008/10/06(月) 07:08:39
859訂正
鍋島本藩着到帳にて家臣(直臣)は約860名。の項
約860名ではなく418名
862日本@名無史さん:2008/10/06(月) 13:15:03
>>859
江頭安太郎から後は、東京・青山墓地に弔われているけど、その父の嘉蔵や
それ以前の先祖の墓がどこにあるのかも分からないんですよ、江頭家は。

江頭家の菩提寺すら分っていません。
863日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:00:41
妻の実家の菩提寺が北川副町木原にあるので里帰りしたら墓地を見てみようかな。

このスレにて武家の墓は禅宗系って言うけど、佐賀藩の武家は浄土真宗系にもかなり墓が多い。
理由としては鍋島氏が関ヶ原で西軍に与して取り潰しの憂き目にあった時、佐賀の浄土真宗の
高僧が手を尽くして間逃れた経緯がある。直茂、勝茂公が浄土真宗の寺院を保護した記録がある。
妻の菩提寺も浄土真宗だけど100石程度の武家なら結構あります。
864日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:37:33
江藤淳『一族再会』での記述。

江藤が自らのルーツである佐賀市の木原地区を訪れ、菩提寺を探すために
浄土真宗の阿弥陀寺に赴いたところ、住職の妻が現れて「うちは真宗の寺なので
旧藩関係の檀家は無い。ここのもう少し奥に入ったところの禅寺が旧藩士の菩提
寺だろう」との言葉を紹介し、祖父の生家の江頭家、祖父の義父の生家である古賀
家の菩提寺を曹洞宗の岩松軒寺であろうと推測している。


ところが、その後地元の郷土史家が佐賀市からの依頼を受けて調査したところ、古賀家の
菩提寺は阿弥陀寺であり、しかも古賀家の墓は無縁墓として処理されていたことが判明。

江頭家の墓所と菩提寺がどこにあるのかは、郷土史家の調査でもついに分からなか
ったそうです。
865日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:53:27
>>864
>江頭家の墓所と菩提寺がどこにあるのかは、郷土史家の調査でもついに分からなか
>ったそうです。

金吉の墓と戸籍と過去帳が所在不明の件と合わせて
なんて不思議な謎だらけの家系なんだろう
江頭家も小和田家も…
866日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:55:51
阿弥陀寺は浄土真宗ではなく浄土宗のはずです。
実家の菩提寺(浄土真宗)のすぐ横に建っていますので存じています。
867日本@名無史さん:2008/10/08(水) 00:52:29

江藤淳『一族再会』での記述上の間違い

江藤が自らのルーツである佐賀市の木原地区を訪れ、菩提寺を探すために
浄土真宗の阿弥陀寺に赴いたところ、住職の妻が現れて「うちは真宗の寺なので
旧藩関係の檀家は無い。

佐賀市の木原地区の寺院
岩松軒寺…曹洞宗
宗専寺……浄土真宗
阿弥陀寺…浄土宗

江藤淳『一族再会』で、阿弥陀寺は浄土真宗と書いているが本当は浄土宗。
868日本@名無史さん:2008/10/08(水) 00:58:17
>>867
それから江藤淳は、古賀家と江頭家の菩提寺を岩松軒寺だとしているが、そうでは
なくて阿弥陀寺だった。

東京・青山墓地の江頭家の墓は江頭安太郎の母から埋葬されているが、
それ以前の墓所はどこにあるのかも分かっていません。
869日本@名無史さん:2008/10/08(水) 04:18:56
小和田も江頭も「うちは由緒正しい!」なんて感じでふんぞり返っている割に
一般の家よりも遡れないという不思議。
だから平気で東宮御所に入り浸れるのかも知れんな。静養にくっついていったり
何でも有りってところが代々の血なんだな。
870日本@名無史さん:2008/10/09(木) 21:20:33
先祖が武士、御典医
在日の常套句だよね。
871日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:18:01
先祖代々ただの百姓だけど本家の菩提寺に行けば
過去帳から最低江戸時代までは先祖が遡れるし
お墓の刻からも江戸時代の先祖の名前はわかるよ
っていうのが一般的な日本人

本当に武士の家系の人(足軽とかじゃなくて)は江戸時代より前まで遡れる場合が多い
明治維新の混乱で云々火事があったせいで云々は嘘の言い訳で
混乱した時代でも親族の動向は冠婚葬祭で集まった時に
年長者から若い世代に口で伝わっているのが普通
自分の家系を身内に粉飾して伝えても他の親戚の証言や墓と過去帳で嘘はすぐバレるから
そんな愚かなことは普通しない
872日本@名無史さん:2008/10/11(土) 08:47:07
女帝推古朝の宮殿「小治田宮(おはりだのみや)」
推古帝の時代と言えば、蘇我氏や聖徳太子らを中心として、
冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣など、
国を大きく転換する改革が行われた時代です。

蘇我氏の血をひく氏族の一つ小和田家から天皇家へお輿入
れされた雅子さま、その御子、愛子さまが経済的・文化的に
閉塞しきった日本社会、いや、世界を変える女帝になられる
ことは間違いありません。

ありがたいことでございます。
873日本@名無史さん
三代前が不明の家系を蘇我氏にどうやって繋げたんだよ 笑
小和田本家から知らないって言われてんのに

釣り針デカ杉 笑笑笑笑笑笑

客観的に物事を検証する科学的思考より
個人的願望を優先するファンタジーが好きな人は学術板には向かないよ
願望が強すぎてデータを捏造する国の学者を思い出した