1 :
神奈川県民改め三重県民 :
2007/12/04(火) 21:51:15 中国古史の三国史、「卷三十、魏書」「烏丸・鮮卑・東夷伝」倭人の条、 通称、魏志倭人伝に卑弥呼なる女王が邪馬台国を治めてたとある。 この邪馬台国の女王卑弥呼は誰なのか、また天皇家との関わり合いはあるのか。 今、その謎にせまる!
2 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 21:53:02
おいおい、また立てたんか。 いつになったら終止符が打てるんだ? wwww
4 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 22:10:45
魏志倭人伝原文 倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴 又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之 東南陸行五百里到伊都國宮曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統属女王國郡使往來常所駐 東南至奴國百里官曰兒馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸 東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家 南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳醍可七萬餘戸 自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳 次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國 次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國 次有鬼奴國次有邪馬國次有窮臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
5 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 22:15:11
共南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王 自郡至女王國萬二千餘里男子無大小皆鯨面文身 計其道里當在會稽東冶之東 其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者 以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居処宮室楼観城柵嚴設常有人持兵守衛 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國在共南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒歯國復在其東南船行一年可至参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹与年十三爲王國中遂定 政等以檄告喩壹与壹与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還因詣臺献上男女生口三十人 貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹
6 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 22:36:35
7 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 23:07:29
昼は人が造り、夜は神が創る。 この前、伝説の箸墓へ行ってきました。 行ったことある方いますか?
8 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 23:11:14
邪馬台国関連のスレいろいろありますが、大分県がよく書かれてるのを見ます。 中津とか宇佐、日田・・・ たぶん大分県へ行ったことない方ばかりが書くのでしょう。 大分県行ったことある人何人くらいいるんでしょうかね。
9 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 23:15:25
10 :
神奈川県民改め三重県民 :2007/12/04(火) 23:18:25
みなさん〜邪馬台国&古代史系〜の本読まれてると思います。 著者は誰でどのような本を読まれました? ここの常連さんが読んだ本〜知りたいものです。
11 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 00:52:46
>>8 みたいな人が居る以上真実の蓋は開かないね
自衛隊演習場追えば見えるのに(-.-;)y-~~
海から見える山岳の彼方。これが古代大陸の民の台地!の概念。
12 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 01:06:07
井沢元彦が逆説の日本史で、卑弥呼が死んだ248年には皆既日食があって、ために 卑弥呼は死んだ(殺された=日の巫女、アマテラスだったから))って力説してるん だけど、雨や曇り空だったら、肝心の太陽が欠けたかどうか、わからないよね? 大胆な仮説だとは思ったけど、ちょっと博打が強いと思わない? まあ、曇りでも空は暗くはなるでせうけど。
13 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 02:32:16
とりあえずエントリーとしてはこんなもんか?w ・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) 第十代 崇神天皇の叔母、三輪の大物主神が乗り移り神意を伝えた。 ・倭姫命(やまとひめのみこと) 第十一代 垂仁天皇の皇女、伊勢で斎宮として五十鈴川に祠を建てた。 甥のヤマトタケルに草薙の剣を渡した。 ・神功皇后(じんぐうこうごう) 第十四代 仲哀天皇の妃、第十五代応神天皇の母。 九州や朝鮮半島に軍を進めた。 日本書紀はこの人物を卑弥呼に比定していた。 ・田油津媛(たぶらつひめ) 神功皇后に殺されたと言う九州山門の土蜘蛛。 ・天照大神(あまてらすおおみかみ) 太陽の女神 …でどれが本命、対抗、大穴?www
14 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 03:07:12
箸墓古墳行ったことありますよ
15 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 17:32:35
>>12 観れる範囲も限られるしね。邪馬台国の場所さえ特定されてないのに。
いくら計算上その日、日本で皆既日食があった可能性が高いにしても、
仮説としては材料が大胆すぎるね。
逆に邪馬台国の場所を、日食が観測できた地域に限定できるというのはどうでしょう?
17 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 19:14:30
史料に卑弥呼が死んだ時に日食があったという記録があるんじゃなくて、 あくまで卑弥呼が日食が原因で死んだのでは、という井沢さんの想像だけの話しだから。 その年に日食があったこと自体は事実として推定されるらしいことだけが根拠。
18 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 19:24:13
>>17 いやすでに245年の日食は日本列島では観測できなかったことが明らかになっている。
井沢はDOS時代のステラ・ナビのデータからこの話を持ってきた
(正確には安本美典のパクリで、安本もすでにこの説を撤回している)
19 :
唐松山 :2007/12/05(水) 19:39:53
古事記の干支が 本物であったら 西暦273年 癸巳 神功元年,日蝕 西暦293年 癸丑 仁徳 誕生 西暦296年 丙辰 應神元年 西暦300年 庚申 新羅 倭国と国使を交換 西暦312年 壬申 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず 同年 百済 獻七枝刀一口 西暦315年 乙亥 百濟肖古王薨 西暦326年 丙戌 神功 六十六年 【是年 晋武帝泰初二年 (西暦266 丙戌) 西暦329年 己丑 神功崩御 西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支 西暦367年 丁卯 仁徳崩御 書紀は 干支と女王 の2点で合う 卑弥呼を間違って 抽入した 朔は 合いませんので 間違い。
>>18 星の動きは計算で正確にでるものだとばかり思ってました・・・。
21 :
日本@名無史さん :2007/12/05(水) 21:18:04
>>20 おおまかな計算は昔の真空管コンピュータでも出来るけど
ピンポイントにどこで日蝕が観測できたかとかになると
DOS時代のPC−88や98のソフトでは玩具同然の精度しかなかった。
今はステラ・ナビもVer.7か8になって、XPやVistaでかなり正確に動く。
てかwin95の時代には、もう245年の日蝕観測は日本では不可能と結論が出ていたのだけど。
22 :
日本@名無史さん :2007/12/06(木) 01:38:51
>>18 はい、全部ウソ。
安本は、京大の荒木駿馬(天文学)と、東大の斉藤国治(天文学)の
検証した結果を報告しているだけ。
今でも、この結果は訂正も、撤回もされていない。
但し、時代ごとの地軸の揺らぎの幅はありうるので、この2名の学者の
考えが絶対に正しいとも言えない。
この板には安本に異常に粘着している人が約1名いるね。
23 :
日本@名無史さん :2007/12/06(木) 02:37:45
>>22 どっちにしても
日蝕があったかどうかはかなり疑わしいわけね
24 :
日本@名無史さん :2007/12/06(木) 03:05:31
>>22 ていうか星の動きについての論文なんて、それこそ世界中に星のようにあるわけだし
その中でたった二人しか支持していない時点で、十中八九間違いじゃね?
へ〜、井沢の日食説、248に死んだとかいうのは間違いなの? ただ、偶然というにはあまりにドンピシャだったもんなー。 としたら、ヒミコーアマテラス説の論拠もほとんどなくなってしまうのかな。
そりゃあ、説がドンピシャであればあるほどアンチが湧いて、必死になって否定の材料を探してくるのさ。そしてたった一点の綻びをもって全否定しようとする。 その後は議論は済んだだの論破しただの言い訳しながら逃げるんだ。 あれ?どっかで聞いたような…
27 :
日本@名無史さん :2007/12/06(木) 18:30:24
井沢さん自身は、日食説についてその後はどんなコメントしてるんでせうか?
28 :
日本@名無史さん :2007/12/06(木) 18:53:46
ダメだ・・・もう我慢の限界・・・なにこの糞スレ・・・・ もうね、金融工学を学んでる自分からすると馬鹿馬鹿しくて観てられないのね・・・ 高卒とか文系の人は楽しめるかも知れないけど、自分は無理っすわ・・・ っつーことで落ちるわw あとは高卒&文系の諸君で楽しんでくれやノシ
ううっ 燃料が粗悪すぎる…
30 :
日本@名無史さん :2007/12/06(木) 19:49:24
>>13 卑弥呼アマテラス説は妄想。エントリーから外すべし。
卑弥呼をアマテラスにあててしまうと、
それより昔の倭国王帥升や、その前の光武帝から印綬もらった奴国王などはどうする?
もう日本神話には、そんな候補者、いくらもおらんぞ。ww
31 :
唐松山 :2007/12/06(木) 20:44:31
迷想中 神功元年の 日食は、正しい 古事記の干支が 本物であったら 西暦273年 癸巳 神功元年,日食 西暦293年 癸丑 仁徳 誕生 西暦296年 丙辰 應神元年 西暦300年 庚申 新羅 倭国と国使を交換 西暦312年 壬申 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず 同年 百済 獻七枝刀一口 西暦315年 乙亥 百濟肖古王薨 西暦326年 丙戌 神功 六十六年 【是年 晋武帝泰初二年 (西暦266 丙戌) 西暦329年 己丑 神功崩御 西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支 西暦367年 丁卯 仁徳崩御 西暦429年 己巳 雄略 崩御 西暦527年 丁未 継体天皇 継体の 時代が 1世代繰り上がってしまった。 でも継体治世27年位とすると 西暦501年 面白いかも。
32 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 00:25:53
卑弥呼が亡くなったまさにその日の夕方に日蝕が起きた。 歴史は劇的な偶然の繰り返しかもしれない。 ・・・日蝕は曇り空で見れなかったかもしれない。 歴史は凡庸な事実の垂れ流しかもしれない。
33 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 00:28:58
>>30 うーん卑弥呼=日の巫女=アマテラス説は結構人気あるからなあw
それにアマテラスの神話が記紀編纂時の「後付け」であるのなら
どの時代の人物でもおkなのでわ?
例えば百襲姫=卑弥呼=アマテラスでも問題無いべ?
ぶっちゃけアマテラス=持統天皇説まであるんだしw
で、素朴な疑問、卑弥呼=日の巫女=アマテラスとして
卑弥呼が奉っていた神って?まさか神たる自分を崇めよと言っていた訳じゃないだろうからw
日の巫女と言うからには太陽神だろうから
太陽の女神アマテラスより先に(恐らくは男神の)太陽神を想定せざるを得ないよね?
単純に考えて、古代史の有名人である程度共通項もあるのだからヒミコーアマテラスでも おかしくないというかかえってそれが普通な感じもする。 もちろん否定的な根拠もいっぱいあるだろうけど、そういうのこそなんか細かい点にこだわりすぎてる、というか。 かたや神話上、かたや実在、なんだから同定しても何の矛盾もないだろうし。 いや、ズブの素人で申し訳ないが。
私も、そう思います。 年代が合わないから卑弥呼=アマテラスではないというのは、アマテラスを 歴史上の人物として特定しすぎではないでしょうか。
36 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/07(金) 17:59:10
年代があわなきゃ、もう別人だよ。
37 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 19:22:26
天照はイザナミが産んだ実在する赤ちゃんだよ 生まれた場所から、生まれた状況から、祭られた山から、詳細に伝承されてる人だよ 前スレにもオレ書いたぞー
38 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/07(金) 21:33:14
アマテラスはサンジェルマン伯爵じゃぁないから、年代があわなきゃもう別人 だね。ww 前者は神武以後まで生きてはいないから・・・。ww
39 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 22:00:43
天皇の即位の儀である大誉祭 その儀式は天照を降臨させた巫女と、皇太子がセックスをする事で天照から天皇の称号を受ける儀式 って話を聞いた事がある 天照の血統を持つシャーマンが天照を降臨させる事により、天照死後も儀式により天照から助言を受けたりしてた可能性はある事はあると思う 皇族にとっては氏神としての存在だと思うしさ
40 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 22:26:12
皇太子のことを日嗣の皇子(ヒツギノミコ)と呼んでた頃から 天皇=太陽=アマテラスなんだろ
42 :
唐松山 :2007/12/07(金) 22:38:46
もん太さん 貴方の言う 天照が 紀元前後の 人間として 其の当時の 恵那山塊が どんな土地だったか 想像したこと在ります? 猪、鹿、猿、熊 など 獣にとっての 天国では在りませんか? 現在の春日市辺りは,最も遅くまで 縄文の残った。? それとも 天照は 縄文人? これらの 獣を手下として 農業を営んだ。とでも? 伊那、阿智は 思兼の治める土地です。
43 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 22:43:37
日食ぐらい古代人も知ってるよ つか古代人の天文学を舐めんなw 干支が12の理由 五亡星や六亡星(カゴメ)の意味 一年が12ヶ月の理由 旧暦では閏年は13ヶ月の理由 七夕は旧暦の7/7(今の8/7)でなければいけない理由 etc... 古代の人達より現代人の方がよっぽど天文学に疎いじゃん
44 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 22:55:14
>>39 秋祭りにセックスの真似事をするというのは
数十年前まで日本全国で行なわれていた。
大阪朝日放送が明日香の神社の映像を放送していた。
今でもやっている処があるかも知れない。
45 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 23:02:21
>>43 カゴメや七夕の理由聞いてあげるから
話してごらん?
46 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 23:16:41
47 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 23:18:20
>>42 天照が産まれたのは紀元前以前の事だと思うよ
地球に数年間もの雨が降り続いてた時代の終焉に産まれた女の子の赤ちゃんだよ
「それまでの神様は体かま弱く子供を儲けても1人産んだら死んでしまってましたがイザナミは天照を産んだ以降は沢山の子供を産む事が出来ました」
記紀ではイザナミイザナキは7神目の夫婦だよ
48 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/07(金) 23:22:21
アマテラスは神武以前の美姫。安藤さんには似てない。 そんじょそこらに居ないな。そういう美女だよ。
>>46 付言
由緒深き神社の貴重な祭礼である
精進潔斎して参拝し、厳粛な心持で見物されたい
50 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/07(金) 23:37:38
ちなみに貝塚や縄文式って言われる人種は単に土蜘蛛族の事だよ 土蜘蛛は岩に穴を掘って住んでた夜行性の小人族の事だよ 吉見百穴などの遺跡は彼らの住居跡で貝塚や縄文式土器は主に百穴遺跡から見つかってる遺跡や骨だよ 小人族は日本だけじゃなく、ハワイ、グアム、マレーシア、スワヒリなど東南アジア太平洋諸国に400年ぐらい前まで実際にいた民族で各地に伝承がある 日本では土蜘蛛、アイヌはコロボックル、欧州はドワーフ、マレーシアはエルボボ、、って各地で呼び方が違うだけ フローレンスの森の原住民からエルボボの住居と言われてた洞窟からは8体もの小人族の遺骨も発見されてて、今年になって正式に発表もされてるよ
51 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 23:40:57
>>44 愛知県ではチンコの神社でチンコ祭りとかあるしね
あとヒンズーの最高神のシバ神もあれチンコの神だったはず
デカイチンコの柱の前の蓮の葉の上に座ってるのがシバ神だw
52 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 23:52:06
>>45 暦は旧暦の暦が正しいんだよ
例えば七夕が旧暦の7/7なのは地球と月の位置関係によって星の光が一番届く日で、天の川が一番見やすい日だからだよ
カゴメ(六亡星、亀甲紋)はハーモニックコンコーダンス
五亡星は黄道上での金星の起動
12支は公転周期が12年の木星の位置
一年が12ヶ月(13ヶ月の年もある)なのは、月は太陽の周りを12〜13角形の軌道で回ってて、一年に地球と12〜13回交差するから
新月とか満月ってのもそうした月の軌道や位置を表す言葉
俺が知ってるのはこんぐらい
まだ他にあるかもだよ
マヤ文明とかの天文学も凄いらしいしさ
>>51 >愛知県ではチン・・・・・祭りとかあるしね
く、詳しく・・・・ (*´д`*)ハァハァ
54 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/08(土) 00:05:33
あとアマテラスは 「数年間雨が降り続いてたある日、突然空からカミナリの様な光が発したと同時にアマテラスが産まれた。それ以降は長年の雨も闇、神様は子供を、、」 って所からアマテラスって名前なんだと思うよ ちなみに「天を照らす明るい光明」ってのは「明けの明星」の事で金星を指す言葉 太陽神じゃ無く、金星信仰から来てる名前だよ 紀記で一番初めに降り立ったとされる国之常立の神 この人も金星神だしさ
55 :
日本@名無史さん :2007/12/08(土) 00:19:16
>>53 小牧だったけな?
めちゃくちゃデカイチンコの祭りだよw
犬山にはマンコ神社があるよw
古事記もイザナキが
「私の体には出っ張った部分がある。そちの体には引っ込んだ部分がある。でや?お互いの凹凸を合わせてみないか?」
みたいな話からはじまるよw
56 :
日本@名無史さん :2007/12/08(土) 04:45:32
>>8 君は前のスレで比売大神が上座に祭られているのは
応神の妻だったからでは?とか書いてたよねwwwwwww
君はどんだけ大分県の風土記や歴史を知っているんだ? 稲作が盛んで
海の幸山の幸が豊富ですべて自給自足で生活できること知ってる?
日田が天領地だったことも、宇佐の郷土図書館には亀山が前方後円墳だと
はっきり書かれていることもしってるの?
神輿の始まりが宇佐神宮からだともしってるんかな?w なんで全国の八幡の総本山が
宇佐なんだろうな。応神天皇がなんでわざわざ宇佐に、ってレベルから考えるんだよ。
応神天皇が宇佐に、ってお告げを聞いたからで納得wじゃなく、どうして宇佐を?って考えるんだよ。
「夢のお告げ」っつーのは口実。そんなの、いちいち真に受けてたら大変だよw
天皇が夢を見るたびなんかあるわけないし。
あそこは特別。なんせ、天孫降臨章からはっきり出てくるから。耶馬○とか名前が
ちらばってるのも怪しいぜ。
57 :
日本@名無史さん :2007/12/08(土) 04:53:00
ちなみに自分は大分県は、もちろん何度もいったが あそこは本当に不便な土地だな。 それは険しい山が凄く連なっているから。 大分南部と宮崎北部の日向辺りまでは九州一険しい山脈地帯が海際ギリギリまで 続く。見渡しても見渡しても山脈ばかり。と思うといきなり海がある。 天然真珠や海の幸が豊富だ。 ちなみに気候は佐伯あたりから変わる。貝もブルーや鮮やかな赤などになって 山の木にフェニックスなんかが自然に混ざってくる。 とりあえず、魏志倭人伝に出てくる「倭」の描写。 これは絶対九州の中部以南に間違いない。 つまり、倭人伝のレポートを出した人間はそういう地域に行ったから書いたんだよ。 「海南島のよう」「冬でも生野菜」これは宮崎くらいまでいけばできるが それより北じゃ無理。
58 :
日本@名無史さん :2007/12/08(土) 09:53:50
>>56 >宇佐八幡宮
頭大丈夫か?
目と鼻の先にある伊美別八幡社に無視された所だよ
>>53 タガタ神社、で調べてごらん。
そのご本体は女だけでかつぐんだよね。
ほんでマン0神社の本体と合体するんだ。
ほんとだよ。
ちなみにおみやげ用に大小いろんな形のチンコが売ってる。
ほんとだってば。
60 :
愛知県民 :2007/12/08(土) 14:32:30
>>56 人違い? 私と間違えてませんか?
古事記で応神天皇が「三柱の女王」を娶ったとあるので、宗像三女神を連想しただけです。
大分県について、情報ありがとうございます。
あと、「耶馬溪」はもとは山国谷と呼ばれ、江戸時代の漢学者・頼山陽が中国風に命名したもの。
邪馬台国と直接の関係はありません。
61 :
愛知県民 :2007/12/08(土) 14:36:33
>>59 小牧の田県神社・間々観音、犬山の大県神社など、愛知県には面白い神社があります。
62 :
愛知県民 :2007/12/08(土) 14:50:41
美濃さんは相変わらずアマテラスですか・・・ あれは濃尾平野の東に恵那山が大きく見えるので、そちらから日が昇るという現象を 神話化したものと思います。
63 :
愛知県民 :2007/12/08(土) 17:38:17
64 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/08(土) 17:51:47
>>62 日が登るのは箒木からだよ
古今和歌集だかの古い書物にも書いてあるよ
だから「日+木」で「東」って言う漢字なんだよ
箒木は実際にある木だよ
65 :
日本@名無史さん :2007/12/08(土) 17:57:26
>「日+木」で「東」 それは誤りだと否定されている。 このスレは漢字に関して素人の マユツバの言説が多い。
辛酉 ↓ 西+一 ⇒ 西暦一年 神武天皇即位
67 :
日本@名無史さん :2007/12/08(土) 18:12:16
美濃もん太クンは、美濃・尾張あたりが狗奴国だろう、ていう説、知ってるかい? 狗奴国は、卑弥呼の邪馬台国とは仲悪くてケンカしてた国。 アマチュアが唱えてるんじゃないんだよ。 大学の国史学の教授とか、考古学者さんとか、いちおうプロの先生たちが言ってる説だよ。
68 :
横槍 :2007/12/08(土) 18:50:57
仮説については、プロもアマも差が無いだろ
70 :
日本@名無史さん :2007/12/08(土) 19:29:54
プロは学会での孤立と援助金打ち切りが怖いから 無難な説しか唱えない。 プロが支援者向けに受けそうな説を提唱しているくらいに 思うのがベスト。
71 :
横槍 :2007/12/08(土) 20:01:51
プロの場合は一度発表した説を簡単に撤回出来ないから 以前ここにいた倉西女史のように困ったことになってしまう事もしばしば
72 :
愛知県民 :2007/12/08(土) 20:06:37
>>13 あと2人、追加エントリー
・八女津媛(やめつひめ)
景行天皇西征時、八女県の山中にいたという女神。
・比売大神(ひめおおかみ)
言わずと知れた、宇佐神宮の祭神。
△鏡が舶載とアマが著書に書いたらバカにされるだけだが、 プロが集団で書けば狭い世界では通用する。
アマでもひどいのが居る
>>66 >辛酉
> ↓
> 西+一 ⇒ 西暦一年 神武天皇即位
学問をなめとる!
75 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 07:23:22
それはいささか結論が付会に行き過ぎだな。w どうも倍暦から、神武即位が西暦元年を計上した。それといまのとは別だが、 計算は合ってるやもしれない。
76 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 07:41:11
>>74 これは ↓ 漢委奴国王金印年の暗記に役立つぞ。
委→イ→5 奴→ナ→7 ⇒ 57年
ところでなめたとかいうその学問では神武即位は何年なのかい? 確定して
るならなめたことになろうが、確定でないなら、あらゆることを参考にした
ほうがいいではないか? 一年って言ったってUFO等がどうのと主張したわけ
でもあるまいが。それだけ資料が不足なわけ。こういう考えをたんつばの
ように遺棄してるんでは、別の新資料等が出ぬ限り、新の神武即位は判明
し難い。むしろ君こそ資料不足で努力しているアマの考えを軽視してるんでは
ないか? 君の考えの神武即位はいつなのか? それが聞きたいもんだ。
77 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 08:06:09
>>74 いまは卑弥呼とからんで 崇神崩御 258年 がかなり板でささやかれている。
これが正だと崇神即位がほぼ判明するが、これからこれの主張者は欠史八代を
検討して金印57年とか帥升107年とかをそのへんのころの年代としている。
こういうことから神武即位を57年と主張している方もおり、その方は八代間が
兄弟継承があったと為し八代は実際は6代とか7代とかで57年に一致するとか
の論である。拙者が兄弟継承がないと考え、このことから57年よりもう少し
神武即位は古くなるとの説である。彼らの説 崇神崩御 258年 からの逆算で
拙者の説でやると神武即位は紀元前1年となる。最初から倍暦計上の自説だと
西暦元年となる。そういうことからいずれが正でも前一年と西暦一年説は
おのおの研究のやり方が違うが、一年のズレということになる。
258年説は拙者の説の259年と1年違いなるも、一年説は荒唐無稽に決めこんで
だわけではない。彼らとともにちゃんと計算をやってるわけだ。
78 :
愛知県民 :2007/12/09(日) 10:32:36
香春(かわら)神社の由緒より。 第一座 辛国息長大姫大目命 神代ニ唐ノ経営渡ラヒ給ヒ崇神天皇ノ御代御帰国香春一ノ岳ニ鎮リ給フ 第二座 忍骨命 天照大神ノ第一皇子ニシテ二ノ岳ニ鎮リ給フ 第三座 豊比賣命 神武天皇ノ外祖母住吉大明神ノ御母ニシテ三ノ岳ニ鎮リ給フ 当神社ハ前記三柱ノ神ヲ奉斎セル宮祠ニシテ遠ク崇神天皇ノ御宇ニ創立セラレ各神霊ヲ香春岳上頂三ヶ所ニ奉祀セシガ 元明天皇ノ和銅二年三ノ岳南麓ニ一社ヲ築キ三神ヲ合祀シ香春宮ト尊称セラル。 延喜式神名帳ニ在ル、豊前一ノ宮六座ノ内ノ三座ナリ。 明治四年九月郷社ニ列セラレ香春神社ト改称シ明治六年七月十五日県社ニ列セラレ今日ニ至ル。
79 :
愛知県民 :2007/12/09(日) 14:01:04
辛国息長大姫大目命の説明を読むと、神代の次が崇神天皇であると読める。 まさか十代も生き延びていたはずは無い。 闕史八代は架空とは言わないが、よほど慎重な考察が必要でしょう。
80 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 16:09:53
>>77 研究者のある方が、欠史八代が兄弟継承とかで実際は6代だと主張しての神武
即位57年だという説は、いまそうではないとし、8代記紀のいうとおりに存在
したとすれば、一代が25年だとみなした場合、二代分では50年さらに遡る
ことになるから・・・ ということは
57−50=7
で、これでも神武即位は西暦7年ころだということになるわけだから、神武
即位が西暦元年の可能性は充分出てくる数字であり学問をなめてるということに
はならんと想う。元年ならば辛酉の「酉」が西暦一年を示唆しているということ
もありうることとなるからだ。
81 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 17:52:56
卑弥呼=ヒミコ=日巫女、ってのは本当にそれでよいのか? 漢字を日本風に音読みしただけだが、オリジナルの中国語でも 「ヒミコ」って読むのか?井沢も自分で言ってたことがあったけど、 「ピメハ」とか「ヒミオ」とか、まったく違った発音の可能性は?
ヒメミコ(姫御子)っていう説もあるよね
83 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 18:53:43
>>81 日本語と中国語のギャップはどうしても埋められない。
漢人達は文字を見るのであって、音を聞くわけじゃないから、正確に音を再現する必要性が無い。
大事なのは漢字の表意性
84 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 19:19:11
>>83 >漢人達は文字を見るのであって、音を聞くわけじゃないから、
漢人には口も耳も無いのかね。馬鹿なことを言ってくれるな。
漢字には表意性はもちろんだが、表音性もある。
片方バッサリ切り捨てられるものじゃない。
85 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 19:24:36
86 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 19:39:36
>>84 和語音 C→F→G
が
漢字表音 C→F→G7やC♭→F7→G
と、なった所で
どれだけの違いがあるんだ?
漢字表音はC→F→G7 だから 和語もC→F→G7だ、は変
和語に7コード表音はないからね
87 :
唐松山 :2007/12/09(日) 19:51:52
辛国息長大姫大目命と崇神天皇 の関係 崇神六十年秋七月 主于神寶.是往筑紫國而不遇矣 つまり 崇神六十年 出雲の宝を求めて 筑紫へ 使いが 行ってます そして 九州東北部は、もともと 出雲族の支配地であり 銅の産地です。 崇神60年には 国譲りが 終了している。 この辺も 勘案してください。
88 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 19:56:18
まぁ「酉」の字の構造はプラムさんに聞かねばなるまい。
89 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 22:25:50
卑弥呼=ヒミコ 「卑」は呉音で「ヒ」,漢音で「ヒ」 「弥」は呉音で「ミ」,漢音で「ビ」 「呼」は呉音で「ク」,漢音で「コ」 つまり「ヒミコ」は呉音、漢音ごちゃまぜの読み方。
90 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 22:55:58
91 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 23:01:58
>>90 訂正。
「比爾?蓋茨」 → 「比爾・蓋茨」
化けないよう気を使ったんですが、中黒「・」も文字コードが違うんですね。失礼しました。
>>89 魏は漢音ですか?すると、「ヒミコ」より「ヒビコ」と発音された
名前の読みを文字化した可能性のほうが高いということですね?
倭人伝の倭国の名詞、固有名詞、地名は魏の発音だけでなく、 より古い発音も検討した方がいい。 日本側で使用していた古い時代の中国の発音による当て字が 含まれている可能性があるから。
94 :
日本@名無史さん :2007/12/10(月) 08:31:21
>>92 「弥」を漢音で「ムビmbi」と発音するのは長安付近に特有の方言。
「梅」をmbaiと発音するのも長安方言。
漢音は漢王朝時代の発音ではありません。
飛鳥時代以前のハ行子音はp
今のハヒフヘホがpa pi pu pe poだった。
これはハ行万葉仮名の中国音が切韻(601年)体系でp、bだったから
阿弥陀仏をビン南方言ではa-bi-too-hutと発音する。
北京音ではa-mi-tuo-fou。
漢語にfが現われるのは唐代後半〜末期。
「佛」は上古にはbutブッと発音していたといわれている。
南無阿弥陀佛 人(ーoー;) ナムナム
96 :
日本@名無史さん :2007/12/10(月) 10:37:54
>>94 漢語音C♭音を和語C音表記しても
当時の漢語音はC♭だから和語音もC♭だ
には、ならないだろう
和語に♭音は関係ないから
卑弥呼さんの遣使、新羅本紀に載ってるのね。 遣使、本来は魏の帯方郡へなのに、三国史記が中国の歴史書を丸写しで 新羅にしないとつじつまが・・・
98 :
日本@名無史さん :2007/12/10(月) 11:34:06
>>97 何か問題あるのか?
否定するような材料でもあるのか?
99 :
日本@名無史さん :2007/12/11(火) 04:50:20
>>96 カラオケでは自分の声が出せる範囲に応じて
移調できることを知らないのかな。
それに昔のピッチは今より低かった。
昔のC=今のC♭だ。
喩え話は慎重にしないと突っ込み処がいっぱい出てくるよ。
100 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 07:02:55
>>65 誤りじゃ無いっての
封神演技時代は日本の事は「扶桑」って呼んでる
扶桑ってのは箒木の事で日が登る木の事だよ
101 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 07:05:32
>>67 美濃が奴国だってのは知らない
ただ平城京や平安京を作った氏族達と仲が悪いのは知ってるよ。ナガスネ彦だっけ?
王任の乱は関ヶ原だよ。美濃が負けた戦いって解釈してるよ
102 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 07:09:55
>>90 大陸においての漢字は1つの漢字に1つの音「母音+子音+母音」が決まってるんだよ
103 :
日本@名無史さん :2007/12/11(火) 07:42:14
>>99 自分が今何を言ってるのか理解出来てる?
>昔のC=今のC♭だ
で、その昔と今の年代差や♭が何故付いたのか
説明してくれ。
私の場合、国間の言語や様々な環境のギャップを♭で表したんだが
君の♭は何?
104 :
日本@名無史さん :2007/12/11(火) 09:53:53
>>102 1字多音の漢字も有る。
「参」や「差」「長」は代表例だ。
http://www.gakira.com/duoyinzi.htm もう少し漢字のことを勉強してから書いたらどうだい。
今時の漢和辞典には普通話(北京官話)の音が載せてある。
「重」が重なるの意味でchong平声、
重いの意味でzhong去声に分化したのは元代だ。
長い=chang平声、成長する=zhang上声も元代に発音が分かれた。
105 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 09:57:47
>>84 大陸や今の中国における漢字→表意文字、1字に1音が定められてて漢字の発音と口話言葉との関連性が無い
日本における漢字→表意表音文字、1つの漢字訓読みの他に口話言葉とリンクする音読みもある為、口話文字としても利用出来る
ごめん、多分説明が下手;;
106 :
日本@名無史さん :2007/12/11(火) 10:08:06
103 だからそういう喩え話は無理があるのだよ。 何も環境説明をしないし、用語の定義もなしで 音楽理論を比喩に用いても当てはまらない。
107 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 10:11:07
>>97 魏志の伝三国志伝は平安時代には既に日本の朝廷にあった書物だよ
ちなみに劉備は「和帝」って記述されてるし、作家と言われる司馬氏って平安時代には既に日本に来てる氏族の司馬氏だよ
司馬氏から鞍作氏とかが出てるんだよ
(多分、軍馬と関係ある氏族なんだと思う)
秦の皇帝にしたって平安時代には秦の4代目の氏族が日本にいるしさ
あと「魏→委鬼」と「倭→人委」は鬼と人との違いで同じ文字だよ
鬼を敵と見てたのなら、魏は敵対する倭人って意味だと思うけどな
108 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 10:58:19
>>104 ありがとう
ただ基本的には中国に取っては漢字は「表意文字」なのは違い無い気がする
けどまあ俺まだ勉強が足らんのは間違いないっす
109 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 11:04:42
あとそうだ 「秦が中国を統一し、その後、漢が中国を統一し、その後、随が中国を、、、」 この認識って戦後に中国が言い出した認識を日本も受け入れてるだけで 戦前までは漢や随や唐も清も別に中国を統一した王朝って認識じゃ無かったみたいだよ そもそも中国統一王朝なんて過去に存在してない訳だから(モンゴル帝国は入るかな?)
110 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 12:27:08
藤原鎌足の事を書いた書物だっけな? 諸葛亮の事や、蘇我氏に向かって「安漢のなんたら」とか 後漢の三韓時代や百済とかの三国時代も、三国志演儀の時代も共に2世紀頃の話みたいだし 中国で三国志演儀の書物がまとめられたのは明や清の頃らしいけど、日本じゃ平安時代に既にあったらしいし
111 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 12:46:50
112 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 12:57:22
113 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 12:58:10
>>108 漢字は「一字一意」
意味はまわりの環境によって様々に肉付けされるけど、根幹は「一意」
例えば「可」
字意は“範囲を把握する”
これを基本に様々な意味に広がったんだよ
114 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 13:16:57
曽褒里や曽褒や添山で調べるとやっぱ色々あるみたい 添山の高千穂の宮とかさ ちなみに日向三代の神話は日本府があったとか無かったとか言われる済なんとかって島にあったよ
115 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 13:21:26
>>113 うん。
例えば日本のように「森林」とか「河川」とか「秋刀魚」って言う熟語も
大陸には無いって事は認識してます
例えばイワナ
日本は岩魚って熟語を作れるけど、中国では鰹、鯛みたいに一文字の字を作ってたから熟語が無いんだと思う
116 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 13:29:40
>>113 >イワナ(岩魚)
これは
和語“イワナ”が先で
“イワナ”の意味に漢字をあてる行為だね
117 :
日本@名無史さん :2007/12/11(火) 13:30:17
118 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 13:41:33
>>116 うん
ヤマメ→山女とかもそうだしね
ね、ね、プラムさんに聞きたいんけど、漢文で「中国」って有れば「なかつくに」って意味でもオッケーなんだよね?
「○○天皇は中国を治め」
ってあれば、天皇の領地を治めたって意味だと思うんだよ
ちなみに記紀は「中国」をそう解釈してるしさあ
119 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 13:50:08
>>118 さぁどうだろう?
意味はあくまで意味だから、まわりの文脈で決定される事
あくまでも
「比較基準に対して、中心的な範囲」
と、考えていれば間違わないと考えます。
比較基準を何にするかは
文脈次第。
120 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 14:05:53
>>119 そっかあ
そういや記紀でも
・中国→なかつくに
・葦原中国→あしはらのなかつくに
これ同じ中国って書いても多分違う場所だね
記紀は中国原を治めたとか、葦原中国を治めたとか言う書き方してたりするしなあ
中国とか天下とか天高原とかの言葉は、どの場所をも呼べちゃう言葉なのかもね
121 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 14:06:50
>>118 つまりこう言う事
主題が倭地ならその対象となる「中国」は
→倭地の中で中心的な範囲がその地の“中国”
倭人伝中にも何箇所か“中国”が記載されているが
この中国も
主題が倭地なら…………。
そう言う事。
122 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 14:22:39
>>121 ありがとう。なんとなくわかった
多分だけど、例えば
「漢の皇帝が中国を統治し、、」
ってのを「漢は中国大陸を統一した」みたいな解釈をしてるからきっとおかしいんだ
漢ってのは中国大陸じゃなく、多分、漢城辺りにあった王朝の事な気がする
朝廷があった場所(京)ってのがあるはずだしさ。京や城は統治してる時代は、コロコロ変わらないと思うよ
清も滅びるまではずっと北京の城にいた訳だしさ
123 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 14:32:19
>>122 そろそろ
巷に溢れる翻訳本を鵜呑みに、あ〜だこ〜だの議論は止めないとね
先ずは自分で
124 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 14:51:42
>>123 うん
魏志にしろ記紀にしろ日本語読みで読んじゃえば読める気がしてきた
そもそも漢文って文法が決まってる訳じゃないし、主語や熟語とかの観念も無い文字だしね
魏志も記紀も平安時代には既に日本にあった書物なんだから、日本語の感覚で読めばいいだけな気がする
125 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 15:19:24
今度試しに 文法がどうの音韻がどうのと言う人達に聞いてみたら? 『じゃあ どうして母音(あいうえお)は(あいうえお)の順番で、子音(かさたなはまやらわ)は、この順番なのか?』 で、どおして 『母音』『子音』なのか?『母』の『子』はどれなのか? 多分誰も適切に答られないだろうね。 母国語をまるで知らない連中が 古代漢語語るんだから 笑える
126 :
日本@名無史さん :2007/12/11(火) 15:36:33
あかさたな いきしちに うくすつぬ えけせてね おこそとの そういやこれ何でだろ? つか阿伊宇江尾って振る前に、キチンと母音や子音を理解してる文字が無ければ、無理な作業の気がする 今はすぐ漢字に書いちゃうけど、「やま」や「かわ」や「あま」ってのにも元々ちゃんと日本語としての意味がある気がする そういやそれがもうわからないや そういやヘブライ語だかペルシャ語で読めるとかいう話があった気はする
127 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 15:50:35
>>126 面白いよ
さけ→さか
あめ→あま
ふね→ふな
むね→むな
いね→いな
め →ま
て →た
他にもいっぱい
128 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 16:07:31
>>127 おー!それなんか解る
そっちが本当の日本語かあ?
ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なー、やー
とかもかな?
あと語尾の「こ」と「め」は性別を表してる気がする
○○ひこ。○○ひめ
むすこ。むすめ
おとこ。おとめ
むこ。よめ
日本語の話と関係ないかもだけど
129 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 16:28:24
探せば沢山ある気がする きん→かね よる→よい うえ→かみ した→しも ひらく→あける 記紀なんかは漢字じゃなく発音の意味を考えればいいのかも知れない 「あまてらす」は、あまをてらす→天照 って、発音に漢字を当ててる書物が記紀なのかも そういや美濃は御野(みの) 三河は御川(みかわ)って意味って聞いた覚えがある み○○は尊敬語なんかな? 大神これは「おおみかみ」だし
130 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 17:19:22
さけ→さか さke→さka あめ→あま あme→あma ふね→ふな ふne→ふna つまり 母音(e→a、a→e)の変化 飲むとサケ 飲まずに貯めるとサカ(酒蔵、酒屋、酒樽) 降るアメ 雨に関係するアマ(雨水、雨戸、雨具) 水域走行のフネ それが留まるとフナ(船宿、船賃、)
131 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/11(火) 17:33:03
>>130 おー!
なんかすげー
それが日本語かあ。マジで全然知らんかったあ
確かに漢字で書いちゃうと区別付かずに元の日本語がわかんなくなっちゃうような気がする
132 :
日本@名無史さん :2007/12/11(火) 19:27:49
>>130 >水域走行のフネ それが留まるとフナ(船宿、船賃、)
舟足フナアシは留まっているときの言葉じゃないし。
船乗りは泊まっている舟にしか乗らないのか?
自分の意見に都合のいい例だけ出して、
都合の悪いのは無視ってのは世の中に多い。
阿蘇とか宇佐とか有珠とか鳥栖とか土佐とか、 【u(o) + s】の発音の古い地名って、なんか共通の意味ありそう?
134 :
唐松山 :2007/12/11(火) 19:52:55
美濃くんには、ほつま伝なんかより、先に読むべき書があるだろう。 記紀万葉とか。後回しでいいんか。
136 :
唐松山 :2007/12/11(火) 20:17:47
漢字は 難しすぎないか?
ワロタ。 唐松山氏は意外にユーモアあるんやな。ww
138 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 20:28:21
>>130 あのね
都合じゃなく
取っ掛かりなの
初めての人に分かりやすく解説したんだよ
★フ →範囲が限定されない(外から内方向)
いきなり
こんな事言っても分かんねえからな
言葉に興味を持ってもらえれば良いの
139 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/11(火) 20:33:02
あっ
間違えた
>>132 へのレスだよ
m(__)m
140 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/12(水) 00:29:26
>>134 おおー
けど、ほつま伝とかは「偽書」としてケチ付けるバカがいるからなるべく読まないようにしてるっす
つか「古史古伝は偽書」とか言うレッテルはいい加減にして欲しいけどな
旧事記まで偽書扱いだし
日本には記紀以外にもそう言う歴史の書物が沢山あるのに、記紀以外は認め無いとか、すげーバカな国と思うよ
141 :
日本@名無史さん :2007/12/12(水) 06:47:00
>記紀以外は認め無いとか 日本版「焚書坑儒」だね。 大和朝廷の正当性に疑いを差し挟むようなものは 無視するのが皇国史観のオキテ。 天皇制を廃止すれば歴史の見直しがあるよ。
142 :
唐松山 :2007/12/12(水) 17:50:51
美濃もん太さん そのバカの 一人にならない為にも 読んだほうが良い。 漢字で書かれた書物を 斜めに読むより 平仮名に (自分なりの)漢字を入れる。 漢字を 読むより 難しい。 例題 下記の文章を 漢字に直しなさい。 ホ38167 そのハジメ カシハヲノイシ ながさムタ はゝミタあつさヒトタヰキ スメラギいのり とびあがる かれスミヨロシ ナヲリカミ 答えは, 書紀の中にもあります 何処に書いてあるか 後で知らせます。 まず 漢字を入れてみてください。
143 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/12(水) 18:28:29
>>131 >さけ→さか さke→さka
あめ→あま あme→あma
ふね→ふな ふne→ふna
つまり 母音(e→a、a→e)の変化
飲むとサケ 飲まずに貯めるとサカ(酒蔵、酒屋、酒樽)
降るアメ 雨に関係するアマ(雨水、雨戸、雨具)
水域走行のフネ それが留まるとフナ(船宿、船賃、)
飲むとサケ 飲まずに貯めるとサカ(酒蔵、酒屋、酒樽)
降るアメ 雨に関係するアマ(雨水、雨戸、雨具)
ここをもう少し詳しく説明すると
『母音(e→a、a→e)の変化 』は母音 e→aだけしか変化しないんだ
フネ → フナ 船があるから船宿、船盛り、船会社がある
サケ → サカ 酒があるから酒蔵、酒屋、酒盛りがある
アメ → アマ 雨があるから雨具、雨戸、雨宿りがある
但しこの逆はない
つまり
(母音e → a)への変化は そこに時間の経過が存在し、それによって意味が変わるわけだよ
必ず言葉には法則があります。
144 :
日本@名無史さん :2007/12/12(水) 20:35:27
かえり船。むかえ酒
145 :
日本@名無史さん :2007/12/12(水) 23:09:16
>>58 宇佐八幡宮など
>>56 のどこにも書かれてないが・・・・
本当に頭大丈夫か?www
146 :
日本@名無史さん :2007/12/12(水) 23:15:18
>>60 >あと、「耶馬溪」はもとは山国谷と呼ばれ、江戸時代の漢学者・頼山陽が中国風に命名したもの。
>邪馬台国と直接の関係はありません。
耶馬溪じゃなく、耶馬○、○耶馬という地名が10近くあるんだよ。今は町で市内に
なってしまったから普通の地図じゃ小さすぎて読めないが。。。
とりあえず、関係あったら大変、決まりだからw
でも自分は宇佐辺りは北すぎるので邪馬台国ではないと思うが。
147 :
日本@名無史さん :2007/12/13(木) 01:16:47
>>145 オメっ身体悪いんか?
今時は宅配はもっと速く対応するぞ。
しかも内容はくだらねえ揚げ足
148 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/13(木) 19:25:57
倭人伝の邪馬国は、やはり大分の「やまくに」でしょう。 躬臣国の「くじ」の音は{玖珠、九重,久住}となって残っているに違いありません。
149 :
日本@名無史さん :2007/12/13(木) 20:05:51
151 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/14(金) 03:34:44
152 :
改め :2007/12/15(土) 00:01:47
倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。 人種禾稻、紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。 出K雉、真珠、青玉。有獸如牛名山鼠、又有大蛇呑此獸。 蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射中而蛇則死矣。 物産略與儋耳、朱崖同。地氣溫暖、風俗不淫。
153 :
改め :2007/12/15(土) 00:06:29
男女皆露紒、富貴者以錦繡雜采為帽、似中國胡公頭。食飲用籩豆。 其死有棺無槨、封土作家。人性皆嗜酒。俗不知正歳、多壽考、或至八九十、或至百歳。 其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶至兩三妻。 婦人不媱妒、無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其宗族。 晉安帝時、有倭王讚遣使朝貢。 及宋武帝永初二年、詔曰:「倭讚遠誠宜甄、可賜除授。」 文帝元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。 讚死、弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、 安東大將軍、倭國王、表求除正。詔除安東將軍、倭國王。 珍又求除正倭洧等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍等號、詔並聽之。 二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。 二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、 安東將軍如故、并除所上二十三人職@。
154 :
改め :2007/12/15(土) 00:09:13
濟死、世子興遣使貢獻。 孝武大明六年、詔授興安東將軍、倭國王。 興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、 安東大將軍、倭國王。 順帝昇明二年、遣使上表、言「自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉、山川、不遑寧處。 東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、陵平海北九十五國。 王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。 道逕百濟、裝飾船舫、而句麗無道、圖欲見呑。 臣亡考濟方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。 今欲練兵申父兄之志、竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」。 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。 齊建元中、除武持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。 梁武帝即位、進武號征東大將軍。
155 :
改め :2007/12/15(土) 00:25:32
>141 >天皇制を廃止すれば歴史の見直しがあるよ。 廃止ありえないけどね・・・。 まあ、歴史の見直し問題とと邪馬台国問題は解決しますわ。
156 :
改め :2007/12/15(土) 00:34:03
157 :
改め :2007/12/15(土) 00:37:54
「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」 「別」って書いてることは別じゃないんですかね?!みなさん
158 :
改め :2007/12/15(土) 00:41:54
プさん〜 「日本國者倭國之別種也」「日本舊小國併倭國之地」て書いてますが。 まだ卑弥呼二代目とか天照一族とか言う?笑
159 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 00:47:59
>>157 そーだ、その通りだ、と諸手を挙げて賛成できないのは
引用箇所の後半に或曰〜以下、全く正反対のことが書かれてるから
160 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 07:38:16
>>157 もう少し正確に理解してからヤリはいれよう。
『日本國者』→現統治者
『別』→ “分”かれるじゃなく“別”れる
『種』→たね、もと
161 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 10:07:33
>>157 後世の史書を引用して過去を検証するのは構わないけど、その際は
もっと中身を把握してから引用してよ。
以前他スレでもあったんだけど
『夷人不知里數但計以日』……隋書倭國伝……
これを背景に
倭人は里を知らないから
日数表記は倭人からの伝聞なんて
とんでもない主張するしね
162 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 13:41:58
国東あたりの山国って日本書紀にも出てくる地名だし、 やはりあの辺かな。 邪馬台国は倭語の「山大国」っていう当て字じゃねーか? 宇佐が熊襲と争っていたこと、九州で一番領地を保有していたことを 考えても無理はないね。 でもちょっと寒いだろ、やはり。もっと宮崎辺りまでくると思うんだけどなあ。
163 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 13:45:17
今ちらっと調べたが、大分の山国は皇室と昔から関係が深いみたいだな。 天領の日田の隣だろ。 平安京建設の木材を治めていて禁裏直轄、つまり、やはり天領のような 政府直轄の荘園だったらしい。 中津、宇佐、そして日田と山国。この辺りはマジ怪しすぎ。
164 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 13:51:10
国東もな・・・。 豊の国って呼ぶこともさあ、 あと、宇佐と皇室で一緒に熊襲を退治にいったのも 宇佐と吉備の秦氏との深いつながりも全部怪しいな。
165 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 13:54:17
中国にとって知りえる倭=九州 海を越えて別種の倭人がいる場所=本州・四国 その後、日本統一されたので、九州+本州+四国=倭で大和になり この経過が中国の書物にでてるね。あとで同じとか言い始めるだろ。
166 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 17:45:57
中国にとって知りえる倭=九州 =後の住吉 住吉=難波=倭 大和=日本
167 :
唐松山 :2007/12/15(土) 18:43:02
景行の九州熊襲征伐で 戦って勝ち取った土地は, 天皇家の 屯倉となる。 景行が収めた香椎の宮や豊の国, 日本武尊が収めた山口県豊浦 神功の足場
168 :
唐松山 :2007/12/15(土) 18:48:14
ついでに 筑紫には 五百野姫を入れる しかし 筑紫は景行が戦で収めた土地ではないので此方には 屯倉なし。
169 :
愛知県民 :2007/12/15(土) 21:38:37
>>87 宇佐八幡宮の神鏡は香春岳の銅から作られ、採銅所駅や古宮八幡宮もあります。
この辺りは興味深いです。
170 :
愛知県民 :2007/12/15(土) 23:37:24
辛国息長大姫大目命=比売大神=宗像三女神(の誰か)のように思える。 さらに卑弥呼であるかもしれない。 すると、同じく香春岳に祭られた忍骨命=男弟、豊比売命=台与となるが?
171 :
改め :2007/12/16(日) 00:53:20
>>160-161 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
いやいや、読みおろしてみてよ。
おたくの師の変な虫が唱えてる天照一族なんて笑いが出て止まらなくなるから(笑)
172 :
改め :2007/12/16(日) 00:58:04
邪馬台国の候補地、大分県各地〜人気ですよね! 比売大神が宇佐神宮に祭られてるからでしょうか。
173 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 01:17:08
>>171 >「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
いやいや、読みおろしてみてよ。
おたくの師の変な虫が唱えてる天照一族なんて笑いが出て止まらなくなるから(笑)
そんな後世の話題なんて付き合っていられないから
その時期がくるまで お預け
174 :
改め :2007/12/16(日) 01:35:25
175 :
ローガン :2007/12/16(日) 01:53:22
>>171 横レス失礼
「日本國者倭國之別種也」
旧唐書はご丁寧に「倭國者古倭奴國也」とあるね。
つまり旧唐書でいう倭國とは、古倭奴國のことだよね。
古倭奴國とは当然後漢書由来のもの。
後漢書に書かれた倭奴国と、10世紀の日本とが違って当たり前だね
176 :
改め :2007/12/16(日) 02:13:35
ローガンさん初登場おめでとう! 上記のことからほとんど日本古代の真相は決着ついてるんだけど、 天皇家が続いてる限り歴史改善はないよね。 かといって〜7世紀以降、国の為にその生涯を尽くしてくれた天皇家を 悪くは出来ない!というのが良識者の現状ではないでしょうか。
177 :
ローガン :2007/12/16(日) 03:04:14
歴史改善という意味がよくわからない。ごめん!眠い…
178 :
愛知県民 :2007/12/16(日) 08:11:04
>>156 確かに開皇二十年の記事は日本書紀にないですが、大業三年の記事は対応しています。
多利思比孤は厩戸皇子と考えるべきでしょう。
179 :
愛知県民 :2007/12/16(日) 09:56:01
宗像三女神の誰かと書いたが、多紀理毘売命は大国主命の妻なので除外。 多岐都比売命を単独で祭る神社は少ないので、市寸島比売命が最有力か。 大姫大目命は、大姫(卑弥呼)大目(難升米)を合わせた名前かもしれない。
180 :
愛知県民 :2007/12/16(日) 10:09:42
歴史改善とは、私もよく分からない。 檀君の遺骨発見!と大騒ぎして、外国人を拉致して偽の遺骨を渡すことではないよね?
181 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 12:58:21
>>174 清と中国は別の国だってば
清の時代に中国なんて国は無いよ
その時代は支那(China)
あと清が滅亡後は、日本は清の皇帝を守って満州の土地を清の皇帝に譲り、清の皇帝を元首として満州国を一緒に建国したんだよ
中国って国は60年前に出来た国だよ
182 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/17(月) 13:04:37
名前忘れたw あと「中国」ってのは吉備氏が納めた中国地方を戦国時代とかも「中国」って呼んでるね 「中国の毛利軍勢」みたいな呼び方してる 紀記代では「中国=中つ国」って意味になる 中国=中華人民共和国 って呼ぶようになったのは60年前からで、それ以前に大陸や国を「中国」なんて呼び方してないよ
183 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/17(月) 13:09:28
>>142 > ホ38167 そのハジメ カシハヲノイシ ながさムタ はゝミタあつさヒトタヰキ
ほ。38167
其の始め、、、わ、わからん;;
184 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 13:12:13
>>146 耶麻=やま=山
って事だって聞いた気がする
185 :
唐松山 :2007/12/17(月) 19:25:01
「カシハヲノイシ ながさムタ」 とりあえず 枕詞として パス はゝミタあつさヒトタヰキ 母3倍の高熱で 一時の息 スメラギ(天皇)祈るも 通じず 彼(母の代人)住吉 ナオリ神 両刃の社 新に建て ムタ=6アタ タは長さの単位(アタが正式 ヤタ鏡のタ)0.8尺=24センチ位 このタを 記紀では 時として 尺と成ってます。 日本書紀 卷第七 景行紀 天皇遂幸筑紫,到豐前國長峽縣,興行宮而居 天皇初將討賊,次于柏峽大野.其野有石,長六尺,廣三尺,厚一尺五寸. 天皇祈之曰:「朕得滅土蜘蛛者,將蹶茲石,如柏葉而舉焉!」 ひらがな なら自分の好きなように訳せる。 好きに訳していいよ。
186 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 19:28:52
>>181 便宜上、中国っていうの。
「縄文時代の日本は温暖で・・・」←これに対し、縄文時代は日本と言ってなかった! というのと同じ。
187 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 20:07:49
中国っていう言葉は史記に出てくる。
188 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/17(月) 22:20:05
>>187 古事記にも日本書記にも「中国」は出てくるよ
「天照大神は中国を納め、、、素戔嗚尊は芦原中国を納め、、、」
たくさん「中国」って言葉は出てくるよ
これ今の中国の事じゃないよ
同じように史記の中の「中国」ってのも今の中国の事じゃない
そもそも漢は漢半島のソウルを都としてた王朝の事だよ
189 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 22:27:43
>>186 同じ民族、同じ場所の事だからそれはオッケーじゃん
大和は今の日本の事だし
もし日本列島が毛沢東によって中国の領土とされてたら、紀記の神話は昔の中国の話って事とする?
例えば畿内で古墳が見つかれば「昔の中国人の遺跡だ」って言う?
190 :
美濃もん太 ◆4/umQuHkWM :2007/12/17(月) 22:33:06
昔の日本ってもちゃんと 昔はアイヌ人がいて、沖縄は琉球王朝で、北海道はアイヌ人がいて、明治維新で統合して、、 って、ちゃんと分けて考えるでしょ? アイヌや琉球は昔の日本人じゃないし、沖縄や北海道は昔は日本じゃないよ
191 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 22:59:54
種子島から南九州・四国・紀伊にかけての黒潮沿岸地域は民族的・風習的に近いものがあるみたいだし 琉球(南西諸島)も民族的言語的にそう遠くなかったと思われる
192 :
ローガン :2007/12/17(月) 23:36:20
>>178 愛知県民さん。
あ〜。面白そうな話!是非、論拠を聞かせてください
193 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 01:01:34
194 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 01:14:37
>>130 は解釈が変。
単に熟語になってるだけ。
船→船宿・・・船の宿 酒→酒樽・・・酒の樽
つまり、HUNENO SAKENO などのENOがNAに変っているのだ。
195 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 01:34:37
>>86 G7とかがなくなったのはひらがな定着以降で、当時は日本語も多くの母音を
持っていた。
196 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 03:37:23
夏はチベットだかウイグル辺りにあった王朝 漢は漢半島のソウル漢城にあった漢人の王朝 随は長江河川付近にあった王朝 唐は随を滅ぼした唐人の王朝 モンゴル帝国はモンゴル民族が中国大陸やヨーロッパ大陸まで勢力を拡大した帝国 明は黄河付近の北京にあった支那人の王朝 清は明滅亡後の北京にあった支那人の王朝 満州国は清の最後の皇帝が日本と共に満州に建国した五民族の共存国家 中華民国は南京の蒋介石が北京の清皇帝を退位させて建国を掲げた政府 中華人民共和国は日本敗戦後に毛沢東がスターリンの支援を受け、満州国や支那や南京の蒋介石中国政府を侵略して建国された共和国 ちなみに日中戦争は日本と蒋介石の中華民国の間での紛争の事
197 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/18(火) 07:41:59
>>194 それは違うよ
船の宿は、宿が船と範囲が限定されるが、船宿の宿の形に限定はない。宿であればOK
酒樽と酒の樽も同じ
時系列的に
母音e→aは存在するが、a→eはありえない。
198 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/18(火) 07:45:29
>>195 昔から母音は五つ
人体構造に変化が無ければ、時間移動は無関係
199 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 15:17:04
>>170 >170 :愛知県民:2007/12/15(土) 23:37:24
>辛国息長大姫大目命=比売大神=宗像三女神(の誰か)のように思える。 血
比売大神は、宇佐の豪族・辛島氏の地神だといわれている。御禁足地で霊地の
御許山の山頂には祭祀場や巨石が立ち並ぶが、比売大神はここで祭祀を行う
巫女だったのではないかな。
他に、姫島のアカルヒメじゃないかともいう人がいるよね。
とりあえず、比売大神が卑弥呼や台与だったのかは謎だよね。別人かもしれない。
しかし比売大神は、中国の書物にしかでてこない卑弥呼や台与と違い
宇佐神宮に正式に祭られ、宇佐の地は古代皇室と非常に関わりが深い。
邪馬台国であろうとなかろうと、彼女が実在の、さらに崇高な地位にいた謎の多い女性だった
ことは間違いないね。
200 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 19:18:37
母音が8つと勘違いされているが、厳密には「や行」「わ行」の重複母音
>>プラム ◆TOfHBAKZgM 音韻関係のレスは封印したのではなかったのか?
202 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 07:22:02
>>198 少しでも根拠があるのかな?
世界の言語を比較していくと日本語の母音は以上に少ないことになる。
それにはなんらかの原因があるはず。
203 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 07:29:05
>>202 漢字以前の神代文字が母音が5だからじゃないの?
漢字カナの時は「いろはにほへと、、」でしょ?
あれじゃ解りづらいから、神代文字の発音表記のように
「あいうえお、かきくけこ」
の、母音+子音の表に戻したんだと思うよ
204 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/19(水) 09:11:25
>>202 根拠あるよ
でも、ここではノーコメント
>>201 との約束もあるし、ここでは上辺だけしか話さない。
簡単に言えば、『母は子供がいるから母』
子供がいなければ母じゃなく、女だよ
205 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/19(水) 09:31:52
>>202 世界の言語と日本語を比較するんじゃなくて
日本語を基に世界の言語変化を考えた方がベスト
他民族と交わりの少ない地理的環境は、古代からの言語体系を残している可能性が大陸よりもかなり高い。これは太平洋上の島々にも言える事
悪く言えば、言語に進歩がなく単純?
>>204 封印しているなら完全に封印してくれ。
>上辺だけしか話さない。
>簡単に言えば、『母は子供がいるから母』
>子供がいなければ母じゃなく、女だよ
これでは約束を守っているとは言えない。
207 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/19(水) 10:13:58
>>207 音韻関係の考察を書くことを封印してくれ。
それが約束だったはず。
それ以外については一向にかまわない。
209 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/19(水) 11:13:35
>>208 日本語の音声表記(かな)=音声記号=個別に意味有り
そう考えている者にとってはその線引きは難しい。
だからたまにフライングもしちゃうわけだよ
かと言って
ここで委細能書き垂れても無駄な事は重々承知しているので 自己判断に任せてほしい。
210 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/19(水) 11:24:10
>>208 ま、こういう事だ
『至』は音(シ)訓(いた‐ラ行)
訓(いた‐ラ行)は私にしたら音ではなく『至』文字の意味が(いた‐ラ行)という感覚
だから音(シ)に触れるつもりはここでは“無い”と言う事だよ
211 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 20:45:50
発音に関しては50音に合わせたわけだ。 琉球語なんてちっちゃい「し」があるし
>>209 .210
それでは話が違う。
常時監視してる訳ではないが、明確な誤りを見つけ次第君を斬り捨てることになる。
封印した訳をもう一度思い出してくれ。
音韻に関しては、君の説が世間に受け入れられる説得力が現時点ではないこと、
その説明のために君が多くの労力を払う必要があること、
世間の通説を論破するには、君があまりに知識不足なこと、
それらの理由で、「今はまだ」封印したのではなかったか。
それらをふまえて、今後活動されたい。
目に余れば、今度は容赦せず斬り捨てる。
これは私の自己判断に任せていただく。
213 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 22:41:31
そもそも現代の我々も、5母音では話していない。
214 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/20(木) 10:26:24
>>212 >バッサリ切り捨てる
ん〜っ
やはり切り捨てなければならない程の価値があるんですね。
頼もしい援護の一言です。
サンクス(^O^)/
どうです?
私みたいな末端相手しないで、直接本家本元を切り捨ててみてぅぁ。
本家が崩れれば
後は何もしなくても末端まで波及しますよ。
215 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:14:09
伊勢神宮は江戸時代まで狐を祭っていたともいうが 神功皇后は死んで百狐になったともいうな。 国東のアカルヒメを祭る姫島では狐祭りが盛んだ。 何か関係ありそう。
216 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:19:57
卑弥呼は卑弥呼。固有名詞です。 卑弥呼の初出は三少帝紀に俾弥呼と陳寿が記しています。 ご確認ください。
217 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:42:25
>>216 >卑彌呼は固有名詞
そんなバナナ?
彌呼という職名じゃないの?梁書や隋書にも登場するし、今や常識。
218 :
愛知県民 :2007/12/22(土) 12:20:49
219 :
愛知県民 :2007/12/22(土) 12:29:34
>>199 比売大神まで結びつけたのは行き過ぎだったかな?
辛国息長大姫については唐(韓)との関係がはっきり言われているから、
卑弥呼はこちらの可能性が高いでしょう。
八幡神の起源の問題など、勉強することが多そうだ。
220 :
唐松山 :2007/12/22(土) 12:44:58
息長=神功の系統 比売大神=卑弥呼
221 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 14:31:40
比売大神≠卑弥呼
222 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 15:44:44
貼っておきますよ。 ■シラキの首都=金城(カネキ)の名前が意味すること 古代の半島東南部にシラキという倭人国があった。この国はミマナとも呼ばれたが、首都を金城(カネキ)といった。 この都の名前は、シラキがヤマト朝廷の製鉄業の重要地だったことを示している。 つまり、鉄(カネ)が取れる国の都だから、金城(カネキ)なのである。 金城には、鶏林(トリキ)というもう一つの名前があった。トリキとは、取城(とりき)の意味である。 金城が「トリキ」と呼ばれたのは、もちろん「鉄を取る」ための都だったからである。 シラキの王子=ツヌガ・アラシト(ソナカ・アラシト)は、この金城(カネキ=トリキ)から来たのである。 もともと、任那日本府は金城にあったのだろう。
223 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 17:53:59
211年大阪住吉大社 248年邪馬台国の卑弥呼
224 :
愛知県民 :2007/12/22(土) 22:19:27
225 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:24:49
卑弥呼はアマテラスだと思います。 大和朝廷のもともとの国は邪馬台国が支配していた30数国のうちの一つで、邪馬台国を滅ぼして連合国をつくり支配的な指導権をとったのだと思います。 その時卑弥呼を神として邪馬台国を神の国としたんではないでしょうか。 理由としては 滅ぼしたので祟りを恐れて祀った。 それまで支配下にあったわけで、いわばクーデターなので他の国を従えるには邪馬台国の格を上げる必要があった。 あと、神功皇后だという説もありますね。
鬼道と天照はイメージが合致しない。つまり別人だな。
227 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:52:51
鬼道とは占いのことだよ。それだけで別人とはいえないと思うけど。 それに天の岩戸の前のアマテラスと後のアマテラスでは性格が変わってるよね。 つまり女王が死んだ後あらたな女王が立った事を意味してるのでは? 卑弥呼が死んで(岩戸に隠れた)、男王が立った、けれども国は乱れ(暗闇になり)新女王を立てたら治まった(岩戸から出てきた) 昔は死ぬことを隠れると言ってし。
228 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 07:46:50
新女王。それは合ってるね。おそらくだが、アマテラスではなく比売大神の ほうだろう。時代の古さの順は、アマテラスが最も古く、次いで卑弥呼、 その後代が比売大神なのさ。
229 :
唐松山 :2007/12/23(日) 08:56:00
比売大神 景行12年 はゝミタあつさ ヒトタヰキ かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ 男王 景行18年 筑紫の博多宮 アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ イヨ 景行20年 五百野皇女 ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
230 :
愛知県民 :2007/12/23(日) 09:44:30
金富神社の祭神に木花咲耶比売命がいますが、これは豊玉姫の先代ということで、 もとは豊比売命だったのではないか? 香春神社の祭神・豊比売命は豊玉姫の母であり、海神豊玉彦の妃でもあるらしい。 おそらく「臺與」であろう。
231 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 10:17:30
比売大神は神功皇后の時代、九州にいた女王か女王級の女性。神功皇后その人 ではないがおおむね時代はズレはあるも双方が近い時代にある。ただ卑弥呼でも ない。景行の時代に女王またが女王級の姫が九州にいた可能性はある。 もともと九州王朝は女王ランクが多いもようのようだ。
232 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:09:13
市村其三郎氏・藤井英雄氏・和田清氏・林屋友次郎氏をはじめ、卑弥呼=天照大御神説を唱える人は枚挙にいとまがありません。 最近でも、安本美典氏は古代天皇の在位年数が統計的にみて平均約10年であることから、過去をさかのぼると、卑弥呼=天照大御神になるとしています。 また、卑弥呼は紀元247年または248年に死去していますが、この247年と248年の2年連続に日本で皆既日食が起こったことが、最近、科学的に明らかとなりました。 そうすると、天照大御神の岩戸隠れのさいに天地暗黒になったとの記紀神話は、卑弥呼が死去した頃の皆既日食の反映であった可能性が強くなります。
233 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:12:49
さて邪馬台国の卑弥呼と台与は、記紀神話では、それぞれ高天原の天照大御神、豊受大神に相当します。 ただ実際には、卑弥呼と台与の人物像は統一されて天照大御神となり「天の岩屋戸」事件前が卑弥呼、事件後が台与となります。このため、豊受大神は名前だけが残ったのであります。
234 :
愛知県民 :2007/12/23(日) 11:12:56
倭王武=雄略には即、反論する太国さん、 「阿輩雞彌・阿毎・多利思比孤(おおきみ・あめ・たらしひこ)」=推古天皇には反論なし?
235 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:17:39
宇佐神宮の主神・比売(ヒメ)大神は「宗像三女神の異名同体」だとする有力説があります。これと卑弥呼との関係をどう考えるべきでしょうか。 日本書紀は神功皇后=卑弥呼・台与の虚像としたため、ヒメ大神=三女神=卑弥呼・台与・神功皇后との関係が混乱しはじめた。 そしてこのヒメ大神=卑弥呼・台与・神功皇后と言う三女神が、別の宗像三女神(多岐津姫・市杵嶋姫・多紀理姫)に徐々に変化して行った
236 :
愛知県民 :2007/12/23(日) 11:20:18
>>232 天照大御神は男神かもしれません。
また、天岩戸神話は数分しか続かない皆既日食ではないと思います。
天の安の河原で会議の準備もできないうちに日食は終わるはずです。
237 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:33:17
>天照大御神は男神かもしれません。 そういう根拠は何でしょうか? たとえ数分でも人々の心には例えようもない印象を残したはずですよ。 神話はそれを説明するためのもので、実在の人物達が会議云々は別の話だと思いますよ。 理解できない自然現象と歴史的過去を結びつけて神話を作ったのでしょう。
238 :
唐松山 :2007/12/23(日) 11:43:16
日食が 地球上で 2年連続で起こる ありえない 月面での 話だろ
239 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:54:54
どこかに2年連続で日食が起こったと書いてあったっけ?
240 :
唐松山 :2007/12/23(日) 12:14:01
232だ 247,248年連続だとよ
241 :
愛知県民 :2007/12/23(日) 12:19:08
>>237 天照大御神が女神だという根拠は何でしょうか?
記紀の記述は曖昧で、女神と断定はできません。
ホツマツタエでは明確に男神とされています。
242 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 12:41:53
各地に起こるアマテル神(日の神)は男性ですね。 自分がもし古代人だったら太陽を見て女性の神だとは思わないでしょう。 そして天照大神はその名前から言っても各地のアマテル信仰を束ねる神として登場したのでしょう。 そしてその時は当然男性であったと思います。 ところが太陽神に仕える巫女オオヒルメノムチが神格化し天照大神と同一化していく事によって女神と考えられるようになったのだと思います。 卑弥呼は日巫女であるので興味深いことだと思います。
243 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 13:41:33
>>232 卑弥呼がアマテラスだろうと考える気持ちは分からんでもないが、双方はこれ
別々の女性だよ。安本氏の皇位平均10年説とやらは、無理にこの両者をイコール
としたいために造り出された理論のように感じるもので、こういうスシ詰めは
期間がいささか少なすぎる無理が見え見えであり、実際はそんなに短くはない筈。
だからその説は間違っているわけだ。日蝕はちょいちょい起こるもので、岩戸
開きは1回だけのようだから、それも岩戸開きに結びつけないほうがいいと
思うがね
>>234 その方は九州王朝か九州のどこかの王だと。
>>235 神功皇后は卑弥呼ではない。なぜか? もしそれを肯定すると後代の應神、仁徳
の寿命が100歳を大幅に超えることを遠回しに認容したことになる。だから
紀の編者が大陸と日本の古文献の年代の大幅なズレがあることを知って困惑
したことでこの調整に手間取り、最終的に神功の年代に卑弥呼の年代を合わせ
ることで編年の小康状態を意図し、終結したから紀はそうなっているわけで、
実際は卑弥呼の年代は崇神(若いときは孝靈、開化のころ)のころである。
年代があわなかったのは、大陸側が通常の暦法をやってたのに日本側が倍暦を
行使していて、年代に断層が出来ていたためである。
244 :
愛知県民 :2007/12/23(日) 13:47:57
オオヒルメノムチ=卑弥呼とすると、邪馬臺国を思わせる地名が出てきませんね。 比売大神・辛国息長大姫大目命・豊比売命と秦氏、原始の八幡(やはた)信仰を探るほうがよいと思う。 畿内のヤマトは「山東」(元興寺露盤銘)から来ているようです。
245 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 14:06:15
243 卑弥呼が崇神天皇の時代だとすると卑弥呼は誰になるんでしょうか?記紀には出てこない? 神功皇后が卑弥呼だとすると朝鮮に出兵したことになりイメージとは合いませんけどね。 244 比売大神は卑弥呼を姫子とするところから来てますよね でも弥呼は官職の名前で卑弥呼自体が固有名詞かどうかは疑わしいので支持しにくいです。 ただ皇祖神の一人として遇したということならあるかもしれないと思います。 山東をやまとうと読むのですか?音読みと訓読みの組み合わせですよね。 当時の読み方として漢と和を混ぜて発音することはないような気がします。
246 :
改め :2007/12/23(日) 14:59:03
247 :
改め :2007/12/23(日) 15:03:39
>>228 >新女王。それは合ってるね。おそらくだが、アマテラスではなく比売大神の
>ほうだろう。時代の古さの順は、アマテラスが最も古く、次いで卑弥呼、
>その後代が比売大神なのさ。
比売大神が応神の后とする理由は?
たしかに宇佐のHPにもそのようなこと書いてあったと思うが・・・
248 :
改め :2007/12/23(日) 15:05:59
しっかし〜向こうの「邪馬台国ドンと来い!」〜スレの勢い凄いよね。 このまえ立ち上げたと思ったらもう400過ぎてる
249 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 15:08:11
>>247 比売大神は應神の后ではないよ。九州王朝あたりの女性だ。
250 :
改め :2007/12/23(日) 15:09:54
>>214 それはあなたと師匠のこといってる?
あなたの師匠崩れかかってるもんね笑
251 :
改め :2007/12/23(日) 15:12:23
現在の本殿は向かって左から一之御殿、二之御殿、三之御殿とならび、
二之御殿の前に申殿があり、八幡造りの本殿があるが、823年弘仁14年に
三之御殿ができて、この形式になったので、それ以前は、一之御殿と二之御殿が
並んでいたとなると、二之御殿の祭神を、八幡さまの妻神と考えられたり、
八幡さまとの中をとりもつ女神などと考えられた。
とあるが?!
この記事は私も面食らった!
http://www.usajinguu.com/Frame.html
252 :
改め :2007/12/23(日) 15:15:28
あの〜太国さん 記紀にかかれてるのは皆、天皇家の御先祖様のことですよ。
253 :
改め :2007/12/23(日) 15:17:01
愛知県民さん >厩戸皇子ではなく、推古天皇に訂正します。 それいうなら太子の名前が違うのはなぜ?
254 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 15:17:55
だから比売大神っていうのは、おそらく日女島生まれの九州の女性よ。
255 :
改め :2007/12/23(日) 15:26:25
>>243 >>234 へその方は九州王朝か九州のどこかの王だと。
とあるが、これには同意。
みんなが探してる幻の国のもの。
256 :
改め :2007/12/23(日) 15:28:21
「阿輩雞彌・阿毎・多利思北孤」についてかたりましょう
257 :
改め :2007/12/23(日) 15:38:48
みなさん 年末年始はどこかでかけますか?
258 :
改め :2007/12/23(日) 15:43:11
昔〜こっちから中国をみたときに三国(魏、呉、蜀)に分かれてました。 あっちからこっちを見たときはどうだったでしょうか? 毛人だの蝦夷だの何カ国もあったのではないでしょうか。 こっち側は一つであったとどうして言い切れるのでしょうか?
259 :
改め :2007/12/23(日) 15:54:34
向こうからコピーしてきたんだが多大国さんはFでしたか? A 邪馬台国は九州にありそのまま消えて幻となった。 B 邪馬台国は九州にあり東征して大和朝廷になった。 C 邪馬台国は九州にあり大和朝廷の西進でほろんだ。 D 邪馬台国は近畿にありそのまま消えて幻となった。 E 邪馬台国は近畿にありそのまま大和朝廷になった。 F 邪馬台国は近畿にあり同じ近畿にあった別の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 G 邪馬台国は近畿にあり出雲の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 H 邪馬台国は近畿にあり九州の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 I 邪馬台国は九州、近畿以外の地域にあった。 J 邪馬台国はなかった。
260 :
改め :2007/12/23(日) 16:09:38
このスレの住民〜の持説はこんなもんでいいですか? 大国さん・・・F 唐松山さん&プラムさん・・・B 九州ですがさん・・・C 愛知県民さん・・・A 日本@名無史さん・・・J ローガンさん・・G たぶん違うような・・・あなたたちに質問です! 卑弥呼は誰で邪馬台国はどこにありどうなったのですか?
261 :
改め :2007/12/23(日) 16:11:17
美濃もん太さんとサガミハラさん忘れてました〜 あなた達はHでいいですか?
262 :
改め :2007/12/23(日) 16:12:08
美濃もん太さんとサガミハラさん 卑弥呼は誰で邪馬台国はどこにありどうなったのですか?
263 :
改め :2007/12/23(日) 16:15:57
この私こと改めと 大国さん、唐松山さん、 プラムさん、九州ですがさん、 愛知県民さん、日本@名無史さん、 ローガンさん、美濃もん太さん、 サガミハラさん 邪馬台国スレで他にもいましたか?
264 :
改め :2007/12/23(日) 16:19:43
日本@名無史さん へ なるべくハンドルネーム付けましょうよ。 何故かって?皆同じにみえるからです。
265 :
改め :2007/12/23(日) 16:23:48
トヨたん・・・ていう人なんていう人でしたか?
266 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/23(日) 16:29:32
オレ
>>259 のどれとも違うよ
邪馬台国→弁韓(百済、任那)にあった「弥烏邪馬國」
ちなみに邪馬台國の「國」ってのは国家の意味じゃなく、倭人が納める地域(領土)の意味
邪馬台國だけじゃ無く他にも沢山の納めてた「國」がある
倭人伝では
「其こから」海を渡り陸地を歩いてくと伊都国がある
ちなみに伊都国は今の信州の辺りと思うよ
この辺りは昔「葦原中国」って呼ばれてて、葦原神社もある
江戸時代までは旧事記の中の葦原中国ってのは今の信濃信州(伊那)の辺りとしてたらしいしさ
267 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/23(日) 16:34:47
かつて倭人が朝鮮半島を納めてた時代の事と思うよ 「鬼道使いの女王の『兄弟』が納める國」な訳だし 卑弥呼ってのは西王母大仙人 岩戸の時に狂ったように踊ってた女 猿田彦の案内で来た猿姫って人 素戔嗚尊と同じ氏族の人
268 :
ローガン :2007/12/23(日) 16:39:54
私はFですね。後ほどレスします
269 :
古代 :2007/12/23(日) 16:47:08
自分はcかな。ただし大和朝廷が畿内からおこったのか九州から来たのかは迷うところ。
>>263 他のコテさんは
大和さん
飛車角(元・圭角)さん
本田さん
他にもいるけど、こんな所かな
271 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/23(日) 17:32:51
そもそも邪馬台国が日本の始まりの要な重要な国とか思って無い 「女王」っても氏族の長だって王なんだし 氏族は沢山いた訳だしさ 邪馬台国と卑弥呼が日本の発祥見たいな解釈がオレはおかしいと思うよ だいたいそんな事どこにも書いてない訳だし
272 :
サガミハラハラ :2007/12/23(日) 17:41:19
私はAかCです。
273 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/23(日) 17:51:36
>>271 >氏族は沢山いた訳だし
例えばどんな氏族?
五、六氏族書いてくれないか
>邪馬台国や卑弥呼が日本の発祥みたいに
それは主張する側の責任ではなく、それを聞く側の責任だよ
『日本の発祥みたい』と感じるのは受け取る側だから
274 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/23(日) 18:11:36
>>273 吉備氏、出雲氏、熊粗、物部氏、天皇家、アイヌ、琉球、漢人、倭人、唐人、、
分類はめちゃくちゃだけど沢山いるっす
>受け取る側の問題
学校でも日本は元々は卑弥呼が納める邪馬台国だのなんだのって教わったよ
天照大神や神武の事は何一つ教わらなかったよ
275 :
古代 :2007/12/23(日) 18:26:36
卑弥呼が西王母大仙人?西王母って道教の西王母?
276 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/23(日) 18:55:34
>>274 サンクス。(^O^)/
>学校で教えてもらわなかった
吉原での秘め事も習わなかったろう。学校だけじゃ時間が足りないんだよ
多分これからここで得る知識は、学校で得る知識の何百何千倍の知識
277 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 19:25:51
それがしはAですな。
278 :
ローガン :2007/12/23(日) 20:59:57
人それぞれの考え方に違いがあって本当に、面白いですね! できるだけ荒れないよう、… あ!自戒、自戒。(でも、畿内説の方が少ないようで、九州説に圧倒されそうです。)
279 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 23:43:16
九州でも近畿でも魏の使者にとってはどっちでもいいこと 邪馬台国の卑弥呼を女王とした倭国(連合)は狗奴国と争うがために九州に宮(都)を営んでいるはずで 魏の使者ともそこが交流の場となる 魏にとっては当時の邪馬台国に七万戸の兵員動員能力(古代日本風にいえば部民)があることが確認できれば わざわざ卑弥呼のいない邪馬台国本国(当時は都といえる都市は無論存在しないただの農村地帯)に行く必要がないから 九州に出向いている邪馬台国の人に話を聞けば十分
280 :
唐松山 :2007/12/23(日) 23:44:43
私は,Bで 卑弥呼は景行時代
281 :
279 :2007/12/24(月) 00:33:33
しかし本当に常時七万戸の部民を王の一声で戦争に動員できる体制があれば 女王の後継に男王が立ったときでもその武力をもってすれば服さない小国を抑え込めるはずなのに 倭国がまとまらず乱を招くってことは七万戸の動員は卑弥呼個人のカリスマ性(もくしくは信頼性)によるもので 結局邪馬台国なんてカリスマ的女王がまとめない限りたいして力をもたない脆弱な国だったんだよ 大和朝廷が日本を統一したときに邪馬台国が影も形もなかったのはそういうこと
282 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 03:15:22
邪馬台国は九州でしょ。 東には出雲、吉備、畿内などにも大きな勢力があった。
283 :
唐松山 :2007/12/24(月) 11:52:28
卑弥呼、邪馬台国が注目されるのは, 記紀の年代設定に使えるから。 神功元年の 日食は、ピンポイントであるが 大半の人は,「間違い」で切り抜ける。 そして 在りもしない西暦248年頃に 日食を作りたがる。 これは 神功記に 日食の記事があるため と思われるが、神功卅九年 是年也 大歳己未 以前の 神功記と 39年以降の神功記の違いを 考慮していない。
284 :
唐松山 :2007/12/24(月) 12:34:56
先日 Bと 書きましたが 訂正 邪馬台国→大和に吸収される→九州王国(住吉」)難波,河内に入る→大和,消滅 難波→大和に入る ですか。 応神とは? @ 仲哀の子 A 神の子 B 武内の子供と入れ替え 韓海部首(からのあまべのおびと)。 武内宿禰の男、へぐりのつくのすくね平群木菟宿禰の後なり。
285 :
古代 :2007/12/24(月) 12:46:45
その前に神功皇后は実在したのか?という疑問。 崇神、垂仁、景行は実在だが、成務、仲哀は実在が怪しい。神功皇后が何十年も皇后称制として政務を執ったのはおかしい。 武内宿禰と不倫していたっていうのもどうかなー? 応神の時に政権交代があったということでは?
286 :
唐松山 :2007/12/24(月) 13:57:56
神功記 西暦273年より 神功死亡 329年 応神記と だぶる 応神記 西暦294年より 応神死亡 334年 仁徳誕生 西暦291年 同死亡 367年 398年 2回死にます。 成務 治世4年プラス8年 朔の回しで 二通り考えられます @治世4年で 景行治世が8年延びる A 治世12年 この年数がないと 仲哀の即位年齢が若すぎ 子作りNG 仲哀 治世3年 神功と武内の不倫なし。 神?との不倫です。
287 :
古代 :2007/12/24(月) 14:11:59
古事記が作られた時代は斉明女帝・朝鮮出兵の時であり、これが為に女帝(皇后政治)が朝鮮出兵し勝利するという逸話が必要だった。 応神(もしくは仁徳)まで大王不在の年があり、ここに神功を挿入した。
288 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 14:16:35
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) 【本家本元】古瀬絵理27【スイカップ】 [芸能] ・・・誰だよスイカップw
289 :
唐松山 :2007/12/24(月) 14:57:21
西暦265年 魏 滅びる 西暦272年 渡海 この 年代だからこそ 任那に 足がかりを作れる。 魏の使いが 倭に居て其の先導があれば なお良い 60年後とかでは 遅すぎる。 大和は,神功に敵対したことにより 分け前(鉄)に預かれなかった。為 西暦340年頃の巻向の衰退に繋がります。
290 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 15:56:44
>>285 神功が摂政をしていたのは69年となってるが、実際はそうではなく、当時は
3倍暦を行使していたから正味は23年ばかりであるからそんなにおかしくは
ない。神功崩御の時は倍暦計上で應神は25歳であり、そろそろ皇位を継がせ
ようとするころに神功崩御となるから不審はない。
291 :
古代 :2007/12/24(月) 16:29:04
23年も帝位が空位なのはおかしいと思うよ。 普通は中継ぎとして皇后が政治をとるのであって、次の天皇が決まらないとか自分の子供にどうしても継がせたいなら、自らが女帝になっているはず。 その頃には女帝の概念がないのかもしれないけどね。
292 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 17:40:51
神功皇后でもないし、モモソヒメでもない。卑弥呼は卑弥呼でしょ。
293 :
古代 :2007/12/24(月) 17:53:55
卑弥呼が神功皇后ではない事には賛成。
294 :
横槍 :2007/12/24(月) 18:56:32
>>291 空位は書紀によると69年間。
しかし、これには古事記の年紀と比較すると干支が還暦挿入されていると思われます。
従って9年間。
しかし、2倍暦で記録されていたとすると、実際には4.5年間です。
295 :
古代 :2007/12/24(月) 19:16:40
記紀によると仲哀が死んでから応神天皇が生まれてるから少なくとも10歳には満たない少年天皇が誕生したということになりますね。
296 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 19:54:45
>>291 皇統の場合は16代は父子継承と男児に厳格に限定されるので女帝はその時期での
天皇は早計であり、女はまだではなれない。。このため神功は天皇にならずに
摂政に留まる。勿論16代間は兄弟継承は許されない。一般とはそういうところが
違う、摂政の場合は多少長らくでもかまわない。天皇ではないからね。23年間過
ぎるころホムダワケは25歳であるから即位にはほどよいころだ。そのころたま
たま神功崩御となったということである。なんらおかしくはない。古神道での
しきたりがキチンと行われてるということだ。
297 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 19:58:23
>>296 訂正
× 女はまだではならない。。 ○ 女はまだ天皇にはなれない。
298 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 20:05:45
>>294 2倍暦だというと、神功崩御の際、ホムダワケは何歳だったの?
299 :
横槍 :2007/12/24(月) 20:12:18
>>298 単純計算で、4歳で即位。25歳ぐらいで退位ぐらいだね。
正し、即位時に神功が崩御したのかは不明
300 :
古代 :2007/12/24(月) 20:14:35
神功皇后が執政した時期について「神功皇后摂政紀」を設け、日本史上最初の摂政と見なしているが、後世の概念を過去に当てはめたもので、伝説の域を出るものではない。 一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義され、史上はじめて摂政を行ったのは推古天皇のときの聖徳太子というのが定説となっている。 ウィキからです。 そもそも摂政というのは天皇がいないと始まらないですよ。 神功皇后が摂政なのだとしたら中継ぎの天皇が他にいたことになります。 まあ中継ぎの天皇はわざわざ記録に出ることはないのかもしれませんが。
301 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 20:16:32
69年のうち60年分の還暦が水増しならが、神功摂政立皇太后から崩御 まで6年だ。紀の神功の条の記録の量からすれば6年は少なすぎない かね? だから還暦挿入はそこはないな。
302 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 20:29:22
>>300 それは貴殿の妄想。神武以降は年月日が朔を蟻の大群のごとき多用
しての記録となっている。神功も同様であるから、伝説とかにすり
換え論は言いすぎである。但し年代が著しく長いからデタラメだろう
と考えたくなるのはもっともでありわからんわけではないが、何らか
の特殊事情があったからそういうえらく長い時間に見えるわけでは
ないのか? と慎重に考察すべき研究態度が必要である。
、
その何らかの事情とは何か?〜を解決すればそのへんの時代が見えて
来る。これは大陸と日本側の暦法が西欧の1mと日本の1尺と距離幅
が違ってるように、同じ1年とはいえ、時間幅が違うために見かけが
長く見えてるだけで、普通の時間経過と変わりないということだ。
つまり大陸の1年は日本の半年とか4ヶ月とかであり、それを覚知
すれば長すぎる年代ではなかったということだからおかしくはない。
すなわち当時は倍暦を行使していたのだ。
303 :
古代 :2007/12/24(月) 20:36:20
倍暦は否定しませんが、つまり太国さんは神武以降歴史の事実が書かれており、全て実在したと考えるのですね。 その間王朝交代もなければ創作された人物もいないと・・ 古神道でのしきたりがキチンと行われてるということだと述べていますが、それが怪しいのです。 つまり古神道のしきたりにのっとって創作されたと考えるほうがわかり易い。 大体そんな法則で16代も続いた王朝は稀有です。
304 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 20:50:36
>>303 それが萬邦無比というものだ。他国にあってたまるもんか? あれば
大した価値もなくなる。
記紀も古史古伝も天皇の代のところはそんなに変わりばえがない。
このことは天皇紀に関しては誤認がないこと意味している、それに
稲荷山の鉄剣の銘文には雄略天皇をさかのぼる崇神世の磯城宮の記述
と崇神の側近大彦の名がある。このことは紀にあるわけで、さらに
雄略からさかのぼりの崇神への系譜の代数も合理的数字で何らおかし
くはないのが各系譜の人物名の数から判明している。ということは
崇神の実在を遠回しの証明となってるのであって、記紀が信用おける
ことが裏づけられたことになる。つまりそういう疑惑は君の妄想だと
いうことになる。
ただ神武以前は年月日数があまりしっかり明確にないところを見ると
そういう伝説だということまで否定はできないがね。一部本物とか
大半が本物とか、逆にあまり史実ではないともいまのところ言うこと
はできる。
305 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 21:05:06
>>304 続き
それに当時の各天皇が実在しないというならば、全国各地にある神社
神宮の由緒書きに天皇は創作だとの文があってもいいはずだがそれが
ない。むしろ多大の各地の神社等に天皇活動とかの記載がある。この
地に某天皇が行幸したとか神功が行啓したとた結構そういう由緒が
残っているのだ。これは君のいう創作ではないことを物語っている。
実在しないとかいう連中は猜疑心のかたまりだから、君もその癖が
あるようだが増幅しすぎで猜疑心を拡張し、記紀のいろいろな文が
何から何までおかしく見え、おかしいおかしいの言動に終始するよう
になる。そうして妄想がたらふく多大になってしまうのだ。
306 :
古代 :2007/12/24(月) 21:16:42
崇神、垂仁、景行は実在だが、成務、仲哀は実在が怪しいと書いています。 全ての天皇が実在なのかと聞いているのです。
307 :
横槍 :2007/12/24(月) 21:20:54
還暦挿入は無いと言うけど、それを考慮すると何故か、古事記の崩御年と近い データになるんだよね。
308 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 21:30:53
>>306 創作するんなら何か大なる利害があるはずだ。仮に仲哀が創作なら
もっと在位年数を広げて記載すればいいではないか?1桁年在位を
記載し、どんな利害があってそんな創作をせねばならんのか?
紀の成務の条の文が貧弱なのは、倍暦の調整が大陸の古文献と合致
せず記述すると年代がメチャクチャになる危険性があったことで
割愛したことと、
君の考えにいささかは似るが、紀の原書のいずれに何か皇統の継続の
件で利害かも知れぬが? それが何かは具体的ではないが、系譜に
消化し難い困った記述があったのだと推理している。それは成務が
不実在ということではなく、皇族の系統の何かにおかしいある何か
が燻っていたということだ。だが舎人親王らが故意の創作したとか
文を葬ったとかそういうことはない。成務は紀の最大の秘密うを孕ん
でる箇所だよ。
309 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 21:32:58
>>307 じゃぁ、年数のわりに多いと思う神功紀の内容はどのようにおかしく
ないと出来るの?
310 :
古代 :2007/12/24(月) 21:48:37
自分も完全なる創作だと思ってはいない。完全な創作ならご指摘のように仲哀の在位を広げて在位を広げればよかったのだから。 自分は多分創作の部分と事実の部分があると思っている。 が、古墳から新しい資料でも出ない限り不毛な議論であるのでこれ以上は論じない。
311 :
横槍 :2007/12/24(月) 22:48:11
>>309 神功紀の記事は、彼女に関する事は、12年までしか無いだろ。
後は外交記録だけ
312 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 22:53:56
>>311 そうなるとただの9年でその外交記録をすませたのかい?
313 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 23:00:51
それがしの3倍暦での23年在位でも、君の13年までしかないのは分か っが、そのあとは39年の記述になるから、外交記録も23年よりは総て それのみに終始する記述になっている。だがあとがないとは言っても 23年のみの3倍暦でもそのような状態になり、3倍暦はありうること と言える。13年でも23年でも次は39年の記述に飛ぶわけだ。
314 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 23:31:36
>>310 紀の原書群のほうはどうだか分からんが、舎人親王らが創作したと
いうことは考えにくい。なぜか? もしそれをやれば逮捕されて
親王らは死罪かそれに準ずる罪にて罰せられる。
天皇がイカサマを書けとしたというんなら、雄略、武烈の犯罪行為
を天皇は消せと言うだろうし、他に沢山ある身内同士の暗殺や浮気
だとかそういうものも美化するとかしてちょろまかすだろう
だからそんなことは考えにくい。
このへんの関連スレではしょっちゅう記紀の某文がおかしいとか
疑わしいとかの毎回のオンパレードである。そんなにおかしいことと
かが、いつもいつもべらぼうにあるのは過大すぎる。つまり殆どが
妄想だということなのだ。
315 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 00:36:51
神功皇后が神の命に従って新羅を攻めると海の魚がこぞって船を運び・・・ 出兵中に産気づいたので石を腰に巻きつけて出産をづらした。妊娠13ヶ月で応神が生まれた。 あまりにもファンタジーなんだよ。神話めいている。 それに朝鮮出兵の事実が当の朝鮮にない。広開土王の碑文に倭軍を撃退したとあるが、この頃は高句麗で国が違う。 もっとも4世紀には朝鮮に足がかりはあったようなので全くでたらめではないようだが。
316 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/25(火) 07:13:42
>>315 ファンタジーと言ってるが、記載は聞きだけではない。他に古史古伝にも類似
記載があろうし、北九州の神社等にも神功行啓等の説話が由緒書きで残存して
いるだろうから、単なるハンタジーではない。
それに神功が妊娠13ヶ月で出産した言ってるが、仲哀の時代は通常暦を用いて
いたところ、神功の時代になって3倍暦法に変更したから神功の時代は1年が
今の4ヶ月分で終わり、仲哀世よりも1/3での1年である。このことを紀の
編者らは計算を1年を1年としてやったために、おそらくは10月10日の計算
が13ヶ月に延びてしまったということなのである。
神功が摂政立皇太后になった年から3倍暦を行使し始めたが、應神の誕生は
その前年の仲哀の崩御年で、このときは通常暦であったのだが、たまたまこの
年を3倍暦の考えで計算したため2〜3ヶ月出産が長い数字になったの事がその
真相であろう。彼らの神功紀を編纂したその記録を見ると、7月8月と12月が
空白月であり、神功世はそれらの月を縁起担ぎとやらの迷信?により削除月と
して1ヶ月を3週間(あるいは2週間位?)とかで1年が正味4ヶ月で完了させ
ていた。計算にてはこの2〜3ヶ月が上積みになるから、13ヶ月から2〜3月分
引いた月数が真の妊娠期間である。つまり10ヶ月くらいになるから現今の一般人
と同じ月数での出産とわかるから何らおかしくはない。
13ヶ月だ。だから創作だとすぐに投げ出すんでは古代史の真相は永久に闇雲の中
である。
317 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/25(火) 07:16:10
>>316 訂正
× 記載は聞きだけではない。 ○ 記載は記紀だけではない。
318 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 00:38:55
>316 すげーデンパw 通常暦と通常の三倍暦のチャンポンで妊娠期間の問題もクリアかよ! 普通に10ヶ月なら石を腰に巻き付けた意味ないやんwww
319 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 00:47:01
ていうか、石を腰に巻くと妊娠期間が延びるの?
320 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/26(水) 07:49:35
>>318 石か?それは女のことはあまり分からんが、戦争に行くためだろう?
それとも何かい?君は神功が100歳生きたと思ってるのか? まぁ卑弥呼は
七、八十歳だそうだが? 神功は2倍暦なら50歳だよ。
暦法はひっきりなしに変えられて現代まで来たもの。さらに調べると、神功の
時代は3倍暦をやってたというほかはない。
321 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 09:11:47
現代にても臨月には努めて歩かなきゃならん=胎児位置を下げる為。 石=冷やす=胎児の萎縮=遅延、 きつく縛る=胎児位置上げる=遅延。 考古学の遅れは従事者層=知恵遅れ
322 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 09:55:54
邪馬台国問題に暦の話を持ち出すなw 暦の話をしたい奴は別スレでやれ。
323 :
古代 :2007/12/26(水) 10:37:30
確かにちょっと脱線気味だね。 要するに記紀の年代だと卑弥呼の時代というのは神功の時代に相当すると考えられるんだよね。 天皇の血統が景行で途絶え、次の支配者が神功だとすると、成務、仲哀は神功(というより応神)が天皇の血統であるための創作かもしれない。 それならば神功=卑弥呼という説も考えられなくはない(もちろん別人という事も考えられる) けれども、本当に仲哀の夫であるとするならば神功は神功以外の何者でもない事になる 神功の縁のある話は九州に多い。これがまた論争を呼んでいる。 もちろん、話の筋からすれば熊襲制圧から朝鮮制圧に切り替わって朝鮮から畿内へ帰る時の話なのでつじつまが合わない事はないが、 とにかく畿内での話がない。故に九州の女王だったのではという説が出てきたりする(それが卑弥呼かと論争) まあ仮に神功=卑弥呼だったとしても畿内説か九州説かは決着しない。移動しすぎている。
324 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 12:17:32
神功皇后は、応神天皇の母となっている。応神天皇は「倭の五王」に比定される こともあるので、4世紀の終わりから5世紀のはじめの人と考えられる。 したがって、神功皇后が実在するとすれば4世紀後半の人物となる。 3世紀前半の卑弥呼とは決定的に時代が違う。 ちなみに、日本書紀によると、各天皇の在位期間は次のようになっている。 1 神武天皇 紀元前660年〜紀元前581年 2 綏靖天皇 紀元前581年〜紀元前549年 (中略) 9 開化天皇 紀元前158年〜紀元前98年 10 崇神天皇 紀元前97年〜紀元前30年 11 垂仁天皇 紀元前29年〜70年 12 景行天皇 71年〜130年 13 成務天皇 131年〜190年 14 仲哀天皇 192年〜200年 (神功皇后 201年〜269年) 15 応神天皇 270年〜310年 16 仁徳天皇 313年〜399年
325 :
古代 :2007/12/26(水) 12:42:20
日本書紀に魏志曰く・・・と魏志倭人伝のことが神功皇后の時代に挟み込まれているので神功皇后の時代と卑弥呼の時代が重なるとされる。 けれども古事記の時にはなかったのであって、確かにこれをもって直ちに時代を確定するのは早計かもしれない。 しかし、倭の五王にも諸説ある。讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略とか「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇とか。 結局物証がないので仮説の上に仮説を立てるしかない。
326 :
さがみはら :2007/12/26(水) 12:48:33
神功皇后摂政元年は356年秋年ということがわかりました。 これはまちがいない数値であるとかんがえられます。
327 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 12:49:05
神功皇后摂政元年は356年秋年ということがわかりました。 これはまちがいない数値であるとかんがえられます。
328 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 12:53:59
パソコンの調子gaokasii.
329 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 13:33:35
卑弥呼と神功皇后は別人 そもそも遣使した時点でかなりの高齢で、 一生夫を持たなかったと魏志に明記されている卑弥呼が、 結婚をし、応神天皇を産むはずがない。 卑弥呼の後は壱与という女王が立ったが、 日本書紀にはこれに該当する女王が書かれていない。
330 :
古代 :2007/12/26(水) 14:01:29
同時期であることと同一人物であることは別の問題。魏志の記述が全て正確とも限らない
で、邪馬台国は何処なの
332 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 14:31:09
しかし、「群臣が立てた」人物が王になっていた邪馬台国と、 世襲制が確定していて他の人物が入り込みようが無かった ヤマト王権の王政は明らかに違う。 卑弥呼が遣使したのは239年。 一方、倭王讃が遣使していたのは400年代前半で、200年もの差がある。 倭王讃が仁徳天皇なら神功皇后は祖母、倭王讃が履中天皇なら曾祖母に当たるが、 いずれにしても200年もの差があくはずが無く、 卑弥呼と神功皇后は年代的にも合わない。
333 :
古代 :2007/12/26(水) 14:37:01
まあいずれにしても記紀には直接卑弥呼と関連付ける記述はないね。 記紀問題が長すぎたのでちょっと話題を変えたいと思います。 ホケノ山古墳の発見でちょっと邪馬台国が話題になりましたね。 これを卑弥呼の墓だと信じる人はあまりいないと思うけど、同時代の墓という意味では意味があるかなと。 ちなみに同形の帆立貝みたいな古墳は北九州にもありますね。
334 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 14:39:02
>>331 211年 大阪に住吉大社
邪馬台国の時代はそれ以降だから畿内かな?
335 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/26(水) 14:46:23
卑弥呼と神功皇后とは別人である。これは紀の編者らがいろいろな事情により、 卑弥呼が神功ではないか?との考察があったもようで、ここから神功紀に伝の 内容を挿入したということなのであろう。なぜ同一人物ではないのか。その理由 は、もし同一人物で卑弥呼が神功年代の女性であると結論するということは、 遠回しに應神と仁徳の寿命が100歳を大幅に越えることを許容したことになるもの で、生物学的に云ってそういうことは考えにくい。だから卑弥呼は神功の時代 の女性ではないことが正解である。では卑弥呼はいつごろの女性なのか? これ は倍暦計上で崇神頃の時代になって来る。
336 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 15:19:34
>>333 大和の古墳がいつ頃からできたかは重要。
卑弥呼の死んだのが西暦248年頃なので、古墳の出来たのが300年以降とすれば、
九州に邪馬台国があり、卑弥呼の後に東遷したとの考えが成り立ちうる。
卑弥呼=天照大神が成立するし、まさに、記紀の記述に一致する。
逆に、大和の古墳が3世紀前半に出来たとすれば、卑弥呼の時代には大和に
古墳が出来ていたことになる。そうなると、九州の勢力と大和の古墳とは
あまり関係がないことになる。
だから、九州に邪馬台国があったとすれば、それは九州王朝説の考えになる。
邪馬台国東遷説の可能性はなくなる。
だから、古墳の出来た年代は重要。畿内説は古墳のできた時期を早めようと
努力するし、東遷説は遅くしようとがんばる。
では、実際はどうかというと、以前は遅いというのが一般的だった。
最近は、早いという人もいる。
畿内説としては、これが今のところ最後の砦なので、これを譲ったら畿内説は
苦しいと思う。歴史学的には九州説が圧倒的に優勢なので。
結論!邪馬台国は呈造
338 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/26(水) 15:36:57
>>336 そのイコールの考えだと、卑弥呼のほうが神武よりも古い時代の人物だという
ことになるが、そうだと各天皇の在位代数が10年ばかりとかになり、この数字は
あまりにも寿司詰めというものであり、卑弥呼が神武以前の女性であるという
ことは考えにくい。つまり卑弥呼をアマテラスにしちゃうのは間違いだという
ことに気付く。卑弥呼は崇神のころの人物だ。
339 :
古代 :2007/12/26(水) 16:36:49
ホケノ山古墳は3世紀中ごろのものだそうです。 弥生から古墳時代の中間的な様式の古墳のようです。 中から出てきた鏡は魏のものよりも呉に近い様式であったようです。
340 :
日本@名無史さん :2007/12/26(水) 16:36:50
>>338 卑弥呼が崇神天皇の時代だとすれば、大和にはそれ以前から天皇家とも
言える大きな勢力があったことになる。神武天皇は崇神天皇よりもずっと前と
考えられるわけだから。
でも、大和にはそれらしき痕跡が見られない。遺跡から考えられる大和は
どう古く見ても西暦200年以降。
畿内説の考古学者がいくらがんばっても、西暦200年より前に大きな勢力が
あったとすることは出来ない。
それ以前の大和は、ほとんど未開の地といっても良いくらいなのです。
341 :
古代 :2007/12/26(水) 17:29:33
崇神天皇は大和朝廷最初の王であるという意見が多いですね。 ハツクニシラススメラミコト(初めて国を治めた天皇)という名前なので神武=崇神という説 この御世の時天照を伊勢に移して三輪に大物主を祀ります。すると国が上手く治まった。とあります。おもしろい記述です。 神代にも似た記述があります。大国主が国造りを困っていると海を照らしながら大物主が現れ三輪山に祀るなら国造りを手伝おうといって三輪山に祀られます。
342 :
古代 :2007/12/26(水) 17:46:47
天照=卑弥呼という線はないこともないと思います。 古事記などは中国の陰陽五行説に影響されていると思われる。陽は支配者の相。 太陽は陽、月は陰である。男は陽の気質、女は陰の気質。 従って本来は太陽神の男神が首長であったと見るべきだし、その可能性は指摘されている。 後の時代に伝説的な統治者卑弥呼と結びついて天照が女性に変化したのではないかと思う。 とすれば卑弥呼はヤマト王権とか関係がない事になるが。
343 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/26(水) 18:49:57
>>340 >痕跡がみられない。
年代測定の機械を持って畿内全部を回ったのか? 見られないなど大きいことを
云うためにはそれだけのことをしてなければ、お前さんの勝手な決めこみに
なっちゃうぜ。神武陵から開化陵まで、中まで測定できんだろうが?
アマテラスは空想の神様だから何時代にいてもよさげな気がする 卑弥呼の一部がモデルでもいいかもね
三輪山の祭祀遺跡は今のところ 早くて4世紀後半以降、本格化するのは5世紀後半だと されているみたいですね。 つまり三輪山祭祀が開始されるころにはすでに纏向は衰退していたと。 崇神紀などの記載とどういうふうに整合性を考えればよいか、 少しひっかかるところです。
346 :
古代 :2007/12/27(木) 00:14:53
確かに国家として三輪山を本格的に信仰する様になるのは5〜6世紀あたりみたいですね。 崇神天皇の時に大田根子に祀らせよ。と出てきますね。おそらく大田氏という豪族がいたのです(オ宇田一族?) この大田根子は賀茂氏の祖ですから賀茂氏が力をつけるようになって本格的に祀られるようになったのではないでしょうか? 纏向の箸墓古墳は崇神天皇の時には既にあったんでしょうか?日百襲姫の墓ではないように思うのですが
>>346 オオタタネコの出自について記紀ともにスエムラとの関わりを記していることは
軽視すべきでないと思っています。
三輪山祭祀遺跡の出土品も子持ち勾玉や須恵器など、
陶邑との強いつながりを思わせます。
オオタタネコに関わる三輪山伝承は、崇神期ではなく、時代が下った、
たとえば雄略期あたりに成立したものではなかったのかなあ、
などとあれこれ想いをはせています。
スレ違いかもしれませんが、モモソヒメ伝承、オオタタネコ伝承の検討も
個人的には邪馬台国問題にとってわりかし重要なのではと思っているもので、
少し書き込みさせていただきました
348 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 02:35:42
つうか倍数暦だの三倍暦だの駆使して妊娠期間をどうこう言う前にだ そもそも神功皇后を実在の人物って考えるのは学者の中には殆ど居ないんだろ?www 後世の女帝を投影し大元は但馬の地母神と聞くが… 神功皇后は実在しなかったなんてサラっと書いちゃったが そうすると仲哀と応神、三輪と河内が繋がらないって話しで、結構えらい事なんだろうがw まあ卑弥呼と神功はそもそも年代が合わない…なんて話は明治の東洋史学創始者・那珂通世が言ってたんだっけ。
倍暦云々を主張されてる人は基本的に、 記紀に残されている皇統譜の信憑性を認めている立場の人で、 記紀皇統譜が疑い得ると考える人たちととは根本が異なるのでありましょう。 ただ、考古学的事実をすりあわせることで たがいの立場を近づける道もあり得るかもしれない。
350 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 06:53:16
後世の女帝を投影して架空の女性統治者を記紀編纂者が捏造したなら なぜ皇后扱いにしたんだろうな そもそもアマテラスを最初の天皇として記述すれば女帝即位の正当性がもっと確実になるのに 実際のところ日本初の弑逆の黒幕の蘇我馬子に擁立された推古天皇が最初の女帝と書かれたわけだし
351 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 08:07:21
捏造ってうのは、通常大きな利害が関わっているときにやることがあるわけだ。 たとえば現今での食品の日付偽造なども、売れなくなって残存した商品を遺棄 ばかりしていては売上がかなり減るから日付を消して新たな数字の日付を書きこ ん再度売りに出す。相撲でよく言われる八王朝も、たとえばこの取り組みで負け ると番付が下がるとか、そのような何らかの利害があって相手に頼んで金を積ん で八王朝相撲をやって息をつなぐのではないか? こういうことで古代史を現在 に実直に書けば大きな困りごとが朝廷に出てくれば、そういうことをやる可能性 があるものと考えることをせねばならない。 この前のプール殺人だとか今回の女性下着の件からDNA鑑定による十数年前の殺人 事件関与などが新聞を賑わせているが、こうした被疑者の家族は恐らくは夜逃げ 同然だろう? 世の中の底辺で今後隠れて生きていかねばならぬ厳しい運命が待ち 受けていて、第二の被害者たる方々と言えるものであろう。こういうことを考え たとき、雄略、武烈の犯罪行為とか身内の殺人、天皇の暗殺、浮気とかの記事が 結構記紀に満載されている。こういう記事は本来はスキャンダルで隠匿してしま うのが予想されるのに、きちんと書かれていることは、どうやら捏造とかはあまり 無い考えるのが至当である。つまり記紀に記録は神武以前は日付もないことから 真を問うのは困難だが、神武以降の記録は基本的にはウソとは思えない。単に 捏造だと主張するなら、どういう大きな利害があるのかを云わねば、当人の勝手 な疑念であり、誤解の増幅につながるものだ。 現在でも某国は絶対制の政治を敷いているが、そういう国の記録は絶対者の不利 なことは、記録とともに葬られる可能性が大と思うのは相当であろう。そんな地 で絶対者の不利を広言すれば本人の命が危ないから、黙っているだろう 。 神功が架空だとかいうのは、恣意的疑念の増幅した結果の論であり、用心しない と自分もやられてしまう。
352 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 08:19:58
>>348 そもそも神功皇后を実在の人物って考えるのは学者の中に殆ど居ないだろう?w
そうですね、危ない橋を渡りたくないですからね。
353 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 09:49:06
学者も実在とか言えば葬られるんだろう? 臥海の利害とボスとやらには従う ほかはないということだろう?w こんなんだから、この点では臥海には真は 殆どないということだ。利害のことだが、朝廷に利害があれば先述での浮気、 殺人だとか雄略、武烈の極悪性も朝廷側が葬るはずだがそうなっておらず、記紀 にはそういう話は数多く載っている。ということは、その臥海の神功が実在 でないということが妄想疑念の増幅であり、臥海に津田病が蔓延してしまったと いうことである。たとえば当時の中国に負けるのがいやで朝廷の権威を高めるん なら、なにも欠史八代なども代数を八百代とかに捏造増加させて夏や殷よりも 古くしなければ効果はまるでないに等しい。だから中国に負けないように神武 即位を紀元前660年にしたなどと云えば、これでは夏、殷には対抗できず実効は なくおかしいわけで、雄略、武烈の暴虐な記述も書かないはずであろう? だから神功が実在でないとかいうのは妄想の増幅以外の何物でもなく、北九州 所在の皇后の活動由緒書きがあるわけがないはずで、これが創作ならば北九州の 神社総てに舎人親王の配下が行ってその由緒書きを全部消して来なくてはなる まい。だから神功が実在でないとかいうのは妄想の増幅定着による臥海、学者ら により一人歩きさせて成った迷信であるということだ。
354 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 10:31:01
>>348 卑弥呼と神功が時代が合わないという那珂博士の主張はこの点では正解であり、
さすが頭脳優秀な学者だと評価できる。紀の神功39年の記述は西暦239年相当
であるが、239年は倍暦の計上で崇神即位3年なのである。ということは景初
元年が崇神即位元年であり、卑弥呼の時代は崇神世に相当する。ただし卑弥呼の
若年は孝元、開化の時代になって来る。
神功世は現実にはもっと後代であり、4世紀中ほどから4半世紀分くらいで
ある。人間の女性が10月10日を経て出産するんだろうが、神功のように13ヶ月
とかで遅延を3ヶ月もして出産する事例があるのだろうか? 真だったら
これは特例ということになるが、まずそれは10ヶ月余の計算を間違って3ヶ月
多くあるように紀の編者連が見えたことから、神功は13ヶ月もかかって應神を
生んだんだと誤認したのが真相ではあるまいか? たとえばアパート、マンシ
ョンの1階の部屋数が5部屋と思ったが、それは単純計算で1号室から5号室
で5部屋だと勘違い計算したもので、そこへ行けば4号室がなく、真は4部屋
だったとことになる。それは4数を凶と現代人の迷信から無とした結果のこと
であり、古代の当時も神功世は欠部屋ならぬ凶の欠月を設定していたため、その
分編者らが計算内に入れていたことにて、3ヶ月ばかり欠月分数字が多くなって
しまったということである。欠月があると、神功世は1年が12−3=9ヶ月しか
ないこととなり、記録を見ればどうやら1ヶ月が3週間で閉めている形跡が
あるから、3倍暦を行っていたと考えられる。そうなると、百歳の神功の寿命は
1/3近くまでが真か真に近くなる。ただ神功前の時代の暦法が違えば若干寿命の
数字が上下する。とにかく神功も通常人の寿命であったわけで、
>>318 の思い
こみの誤は、当人の研究不足と現代の風習の脳内沁みこみの発露による。
355 :
古代 :2007/12/27(木) 11:41:35
また神功皇后にもどってしまいましたね〜。自分は成務、仲哀の存在感があまりに薄いのでこっちの方が実在性が乏しいと思うのですが。 それはさておき神功皇后は九州での痕跡が多く九州出身の人ではないか?という話がよく出てきますね。 そうするとすぐに邪馬台国九州説か?と思っちゃいますがこれはまた別の問題です。 ただ九州は女王が多い(もしくは女性の権限が強かった)ということは注目するべきかもしれないですね。 さて記紀には神話的要素と歴史的要素が混在しているわけですので、その全てに合理的解釈をつける事はそれほど意味はなかろうと思います。 従って妊娠13ヶ月であったからといって神経を尖らせることもないと自分は思うのですが。 大切なのはそこにかかれている流れを読み取ることだと思います。
356 :
古代 :2007/12/27(木) 11:52:42
神功皇后の時代に応神の兄弟香坂、忍熊の乱があり、建振熊命を将軍にして撃退した話がありますね。 建振熊命はワニ氏の祖で後の時代に飛騨とも戦っているので、実在の人物ではなかったかと思います。 それよりも神功皇后の時に神託を告げた神が引っかかります。古事記にはその名前が出てきませんが、日本書紀には住吉の3神であると出てきます。 この三神は天照など三貴神が生まれる前にいざなぎが黄泉の穢れを落とし禊をした時に生まれた神で、天皇家と深くは関わりがないように思いますが、仲哀は天皇にふさわしくないと殺してしまいますよね。
357 :
唐松山 :2007/12/27(木) 19:27:57
@ 神功皇后39年己未は、西暦299年己未に 合わせる様調整された物である。 A これ以降 書紀の干支は,西暦対応の 干支である。 B 応神、仁徳記は,其のままの長さである。 C 履中天皇 西暦400年以後 設定干支(西暦)に間違いは有っても 引き伸ばされていない。 以上のように 考えています。 理由 @ 海外の記事が 干支で合わせて 記入されている (書紀編纂者が これ以降の干支は正しいと 判断) A 古事記の 干支による 年数は,正しいのではないか? と言う考えがありますが、 それならば 書紀の干支も 正しい。古事記の干支は,応神末からであり 倭に漢字が入ってきている。 B 重複である 仁徳とウジノワキイラツコに注目 古代さんへ 流れとは、時代の流れです。渡海するのに 海外の流れに合わせないで 成功するわけがない。 神功渡海 西暦272年 魏の滅んだのが西暦265年 三韓の地はまだ 固まっていません。 あと 5,60年後 なら 丸木舟集団の軍で 成功しますか?
358 :
古代 :2007/12/27(木) 19:47:01
えと、そもそも自分は神功が朝鮮云々のくだりは神話的な部分で後の時代の伏線としての創作だと思うのです。 先にも書いたとおり物証としてあるのは広開土王の碑文ですが、話が逆だしこれ自体真実が問われてますよね。 で自分の考えとしては朝鮮の話は創作で次の反乱の話は事実ではないかと思いましたので紹介したわけです。 でもこれも実は応神の時代のことではないかとも疑っているのですが・・
359 :
唐松山 :2007/12/27(木) 20:05:45
神功は居たが 摂政は無かった。 大和政権は 神功元年の戦いに敗れ 其れを継ぐ者のない時代 空白21年間 応神は大和政権を継いだわけではない。 新たに 河内、難波に 政権を建てた。 西暦300年 新羅と国使交換は 応神時代 この様に見れば 後の世 倭が弱小大和を吸収 日本国の名を 騙る。
360 :
唐松山 :2007/12/27(木) 20:20:44
正始元年 西暦240年庚申(皇暦735年)は 西暦300年庚申の処に抽入
361 :
古代 :2007/12/27(木) 21:00:00
王朝交代説ですね。 応神が新しい政権を建てたとすると、香坂、忍熊の乱は新しい政権に不満を持った大和朝廷の王子の乱と考えることも出来るわけですが・・
362 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 21:04:00
>>358 創作ならば舎人親王は重罪で処罰される。でかい利害があるときに
捏造とかをやる場合があるのさ。そんなところに創作などはない。
君の妄想だな。まぁ君のせいじゃないだろうが、津田病の軽い
症状である。
363 :
古代 :2007/12/27(木) 21:34:53
太国さんはそればかりですね。古事記の稗田 阿礼とか太安万侶とかは他にも考えるべき人はいると思うのですが。 そもそも古事記の編纂の理由について 「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違って いる、多く虚偽が加えられている。今この時期に、その誤りを改めねば、数 年しないうちに本当のことは消えてしまうだろう。これは国家行政の根本であ り、天皇徳化の基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を皆で調べ、偽りを 削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と天武天皇は言われた。 とありますね。帝紀とは、天皇家に伝わる天皇の系譜の記録です。このようなものがどうして、緒 家にもたらされているのでしょう。普通は天皇家にのみ存在するものです。 それに日本書紀の神功の時代に魏志を挿入しているということは日本書紀の編纂者は少なくともこの時代に相当すると考えていたはずですよね。 とすると既にこの時代の歴史認識は確かなものではないという事ではないですか?
364 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 22:50:25
>>363 >普通は天皇家のみに存在する
どうして天皇家のみに存在すると言えるのか?
>この時代の歴史認識は確かなものではないという事
舎人親王らの連中は日本と大陸の年代のズレが矯正できなかったと
いうことだよ。それは年代と言う時間のことであって、書かれてる
内容まで確かでないということにはならない。何故年代のズレ、断層
が日本と大陸にあって合わないのかというと、西欧の1リットル
と日本の1升が同じ1でも容量が違うようにだ、大陸の1年とこちら
の1年とは、同じ1年でも違っていたから合わないわけなのさ。
つまりだ、大陸の1年は現代の1年と変わりないが、当時の日本の
1年は今でいう半年が1年だったとかの為にある。だからの本の
1年の場合は大陸よりも時間経過が早いわけだ。それで日本の天皇の
寿命が100歳を大幅に超えているのがごろごろいた記載になってる
わけなのさ。何のことはない、現代人と大差ないごく当たり前の
寿命だったということなのである。
それを知らずのようで、彼らは干支を一致させれば合ってるだろう
との想いに考えの大半が傾いた。そうすると干支は60年で一巡する
から、次に一致するのは2倍の120年となり、この数字を採用すると
けっこう合うように思えたので、小康状態としてこれで紀を
編纂し、神功39年等に挿入したということだ。勿論そうでない挿入
もあるようだ。
365 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 22:52:58
>>364 訂正
× だからの本の ○ だから日本の
366 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 22:54:34
>>358 これ自体真実が問われていますよね。って好太王碑文のことですか。酒井がもたらした拓本は一時改竄が疑われていましたが、現代では、入手当時の拓本が中国で複数発見され照合した結果
改竄はなかったということに落ち着いています。
367 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 23:08:47
倍暦計上により、 391年=仁徳天皇即位元年
368 :
古代 :2007/12/27(木) 23:10:47
普通は家系図というのは一族に伝わっているのでは? それよりも問題なのは帝記や本辞がたくさんあったという事だと思いますが。 古事記に比べて日本書紀は大国の歴史書を随所に織り込んで歴史書として認識させるように作ってあります。 要するにこれは当てにならず、無視すればいいということですね。 そもそも古事記と日本書紀では内容が違うところが随所にありますが、年代が違うとは言っても成立にそこまで差はないし、日本書紀の編纂者が古事記の内容を見ていないはずはありません。 舎人親王が罰を恐れて真実に書き直したんですか?
369 :
古代 :2007/12/27(木) 23:16:15
366 そうなんですか?改竄はなかったんですね。情報ありがとうございます。
370 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/27(木) 23:36:30
>>368 古事記は稗田阿礼の脳内から出た内容のものだろうし、紀の記事に
対していささか異なる部分もあるが、通常の考えでは後書きになっ
た紀のほうが信憑性が高いと観るほうが安全であろうと感ずる。但し
これは神武以後のことであり、神武以前においては記のほうが優れて
いる面が多分にあるから注意を要する。
しかしながら年代というものは数字であるからして神武以前の数字
たる八百万神とかいうおおまかな意味の使用での数字とは異なり、
おおまかでは看過できない類のものであるから、ここのところは
舎人親王らは気を使ったであろう? どっちの数字が正解なのか?
彼らは原書を見比べって判断に苦しんだやも知れない。その結果が
記に違え、紀との天皇の寿命に関してはある程度の相違が出て
くるわけである。
そこんところは記の数字の誤を修正したということで紀を採るべくで
ある。あたかも前年までの旧車からモデル変更での新車とを見比べて
その機能が後物のほうが優れていることを考えれば、その意味が
分かろう。
勿論記の崩年干支も参考にはなるし、一部はそれがしの倍暦計算で
正確性が高い箇所もあるから馬鹿にはできない。
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
371 :
古代 :2007/12/27(木) 23:57:49
すいません。ちょっと熱くなっちゃいました。 記紀の内容が違うのは時の天皇が違ったり、その時の政治情勢が変わったた為とも考えられますよね。 古事記の方は氏の由来についてが意図であって、日本書紀の方は本格的な歴史書としての意図。 古事記には200強の氏族が出てくるけれども日本書紀には100ちょっとしか出て来ないですしね。 それまで全くあてにならないと言われた神代の年代を照合する倍暦とという考え方は、実はすごい試みだと感心しています。 でたらめだと言ったほうが簡単ですしね。
372 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 01:26:25
日本書紀が架空の人物でかつ年代も合わない 神功皇后の段に卑弥呼の話をそれとなく持ってきたのは 九州の邪馬台国卑弥呼の存在を覆い隠す為だ! …なんて話はどうせここまで 腐 る ほ ど 外出だろうから ちょっと違った視座でw ずっと疑問なんだが、ひょっとして7・8世紀には既に卑弥呼が誰だったか 分からなくなっていた可能性ってないの?
>7・8世紀には既に卑弥呼が誰だったか 分からなくなっていた可能性 その立場をとる研究者は相当多いのではないだろうか?
>>371 >でたらめだと言ったほうが簡単ですしね。
そうでもない。
記紀の皇統譜を事実だとする立場のほうが
依ってたつスタンスが明確なだけに、ある意味ラクだともいえる。
古事記序文によれば 8世紀初めの時点で、相矛盾するさまざまな伝承が存在し その評価に中央が苦慮していたことは明らかだと思います
記序からするとこは、 記紀編纂時8世紀段階で、真偽不明の古伝が乱立していたということでは?
377 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 05:29:41
記紀の系図が基本的に正しいとか これはよくわからん
倍暦とか主張してる人は基本的に 記紀の系譜に依拠してるのとちがうんですか?
379 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/28(金) 06:44:59
卑弥呼は七、八十まで生きてたというが、春秋暦とかいうものが当時九州の
女王国で行われていたかどうかは、倭人伝からではまだなんともだ? 陸行
一月が2倍暦では半月になるから畿内説者と同ひいき者の否定は多いだろう?
畿内が倍暦を行使してたからと言って、あちらの女王国もそうだったとは限らん
からな。w こっちは資料不足ではっきりしないのだ。
>>371 >でたらめだと言ったほうが簡単
簡単ではないと想うぜ。以下の表を簡単に倍暦がないと釈明、解説した者は
書きこみでは見たことはない。こちらが要請してるのに・・・。 回答を待つ。
【應神紀記録の日数統計表】
1日 3 16日 0
2日 0 17日 0
3日 2 18日 0
4日 0 19日 0
5日 1 20日 0
6日 2 21日 0
7日 0 22日 0
8日 1 23日 0
9日 0 24日 0
10日 2 25日 0
11日 0 26日 0
12日 0 27日 0
13日 1 28日 0
14日 1 29日 0
15日 1 30日 0
これを見ると1月が15日までで16日以降の月後半がまるで無い。倍暦がでたらめ
ならば、1ヶ月30日のうちの後半、右半分15日分はどうして全部0なのかね?
380 :
古代 :2007/12/28(金) 09:33:38
魏志には当時の風俗が紹介してあり 人の寿命は100年、或いは80から90年。 支配階級の人は4〜5人の妻があり、一般階級では2〜3人の妻がいる。 と書いてあり、古代の日本人はかなりの長寿で卑弥呼が80まで生きても普通だったと考えていたようですが。 どうなんでしょうか?古代人は長寿だったと聞いて自分は納得いかなかったんですが。その後の寿命から考えたら長いような・・
381 :
古代 :2007/12/28(金) 09:50:34
稗田阿礼の時には既にそれまでの歴史書はなかった。 大化の改新のときに太子と蘇我氏が作った天皇記、国記などは散逸し、さらに壬申の乱でも都が焼ける。 それ故に稗田阿礼が起用された。 よく言われることは稗田阿礼が語り部であって古くからの神話、伝承を受け継いでいた。 神話は記録よりも歌や語りとして受け継がれる事も多いので考えられる線ではある。 もう一つは記憶力が良いと紹介されているので、かつての歴史書を読んだことがあって、それを記憶していたのでそれを語った。
382 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 09:55:24
>>380 この時代の中国の書物には、中国の東の海に
女ばかりで男がいない蛮族が住んでいたとか、
そういうことが平気で書いてあるからすべてを丸呑みにするのも。。。
倭国の女王が長命であるということから推測したものかもしれないし。
383 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/28(金) 10:34:40
古代さんよ。倍暦がでたらめだとの理由が全く無いね。これではあんたの恣意的
かってな言動だと言われても致し方あるまい。
>>379 の表で、なぜ月の後半が0行進が続くのか、その簡単とやらで解説願い
たい。どういうわけででたらめなのか?? これを見ると1ヶ月は当時15日間
しかなかったということに想えるが・・・? これをどう説明するのか?
384 :
古代 :2007/12/28(金) 10:52:26
太国さん。自分は前にも書いたと思いますが倍暦を否定する立場ではありませんよ。 先にも書いた通り、倍暦はそれまで全くあてにならないとされていた記紀の年代に信憑性をもたせる試みとして評価しています。 でたらめだといった方が簡単というのは記紀の年代がでたらめだといった方が簡単という意味で倍暦のことではありません。 言葉足らずでしたか? ということで、自分は379の質問に答える立場にないと思います
385 :
唐松山 :2007/12/28(金) 11:14:55
太国さん そろそろ 倍暦を 普通の暦に直してください。
386 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 11:23:15
>>372 >>373 卑弥呼に相当する人物の記憶が残っていた可能性はあると思う。
しかし、倭人伝の卑弥呼とその記憶に残る人物とが結びつかなかった。
日本書紀が卑弥呼に比定した神功皇后を4世紀終わり頃の人物とすれば、
実際の卑弥呼はそれよりもずっと昔に存在した人物になるわけだから。
それに、中国の見た卑弥呼と日本ののちの人の記憶に残る卑弥呼とは全く
違うイメージというのが普通だろうし。
記紀の編者が真実を知ったら、へえー、倭人伝の卑弥呼って○○のことだった
のか、なんて思うかもしれない。
387 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 11:32:47
記紀には初代女帝を推古天皇と記すのみで、 3世紀にいたであろう卑弥呼、壱与と思われる 女王の記述はない。 神武以降、記紀に登場するのは男性王ばかり。 7世紀の記紀の編者が、3世紀のことを知っていたとも 思えないし。
388 :
古代 :2007/12/28(金) 11:32:57
日本書紀の編纂を漢文で書くにあたって、大陸の人の協力を必要とした。 この時大陸の倭人の歴史書を知り、書記の随所に絡めて言った。 この時まで卑弥呼や邪馬台国のことなんてまるで知らなかったのだと思いますね。 ただ、記紀の人物に当てはめるというのは無意味ではないと思いますけどね。 どこかにはその痕跡はあると思うので
389 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/28(金) 11:55:20
古代さん 貴殿は倍暦は相当の評価をしていることは分かったが、紀の年代のほうは でたらめ簡単だそうだが、そんなような即興的結論を下していいものなのか? 紀の年代はでたらめだがその月日のほうもでたらめなのか? それとも紀の月日 は正しいが年のほうのみ簡単でたらめとの評価なのか? 唐松山さん 本当に貴殿は馬鹿らしいことをうるさく要求しているが、現今の資料だけでは そんなつっこんだ具体的本格使用可能なカレンダーなどできっこないだろう?
390 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 12:02:53
391 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 12:09:57
>>390 記紀の神武以前=神代
神代にも女王の記述はない。
卑弥呼は天照大神?
そうすると壱与に該当する女王がいない。
やはり、邪馬台国はヤマト王権の前身ではなかったのだろう。
女王の系譜の伝承が残っていない。
392 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 12:18:16
>>391 卑弥呼と台与の二人を合わせて天照大神というのがある。
境目は、岩戸に隠れるところ。岩戸に隠れるというのは貴人の死を意味するわけで、
岩戸に隠れるまでが卑弥呼で、岩戸を出てからが台与となる。
393 :
古代さん :2007/12/28(金) 12:23:43
太国さん。 月日を含めて古事記は稗田阿礼が語ったものを写し取ったもので、日本書紀に至って大陸に載せられている歴史書との整合性の為に年代を訂正した。 自分が思うのはこれくらいです。もちろん当時の人は正しいと思って年代なり月日なりを載せていると思います。 でたらめというのが簡単と書いたのは失言でしたね。撤回させてもらいます。
394 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 12:28:13
>>392 邪馬台国はもともと男王が治める国だったが、
争いが絶えなかったので卑弥呼を女王にたてると治まったんだよね?
つまり、卑弥呼は邪馬台国の初代王ではなかった。
次に、卑弥呼が没し、邪馬台国ではまた男王が立った。
しかしまた争いがたえなかったので台(壱)与が女王に立った。
これを見ると、天照大神を祖先神とする記紀の記述は誤りですし、
卑弥呼と台与の間には男王が存在します。
邪馬台国は代々女王の国だったのではなく、男王も立てば女王も立つ国だったので。
395 :
古代 :2007/12/28(金) 12:33:16
392 天の岩戸の前の天照と後の天照が別人であると言う説ですね。 岩戸隠れの前と後でアマテラスの性格が変わっている(岩戸隠れの前は独断で物事を決めているが、後では高木神の指示を仰いでいる、など)ことから、これは指導者の死と新たな指導者の登場を表したものだとする説もある。 卑弥呼=アマテラス説の中でいわれていることで、具体的には卑弥呼の死とその後の混乱、台与の登場を表すなどとされる。 因みに天文学から計算した結果、卑弥呼が死んだとされる248年に日本で実際に日食が起こっている (Wikiから抜粋)
396 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 12:43:50
日本書紀に、皇祖と書かれているのは高皇産霊尊で、天照大神はそのように 書かれていない。 現在、天照大神が皇祖神として祀られているのは、天照大神のほうが記紀の記述 が圧倒的に多いからかもしれない。 もっとも、天孫降臨の邇邇芸命は、両方の孫となっているわけだが。
397 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 12:48:26
>>395 天照大神が岩戸に隠れると高天原も葦原中国も真っ暗になったと書かれている
けれども、これを実際に暗くなったと解釈する必要はないんじゃないかな。
混乱状態になって世相が暗くなったということの比喩のように思うけど。
398 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 12:54:44
>>396 補足
というか、邇邇芸命は、高皇産霊尊の娘と天照大神の息子である天忍穂耳命の
間に生まれているので、男系ということなら、皇祖は天照大神ということに
なるのかもしれない。
399 :
古代 :2007/12/28(金) 12:59:11
天照が元々は男神であったという説もあるので紹介しておきます。 それによると天照はもともと男神であったがそれに仕える巫女が神格化し天照と同一視されるようになった、というものです。 お稲荷さんを祀る時、お狐さんに供え物をしたりして狐がお稲荷さんだと思っている人もいるようですが、これに似ていますね。 話のもとはお稲荷さんの使い神である狐に願い事をしたら見事に叶ったので、これ以降狐信仰も盛んになったというような話だったと思います
400 :
古代 :2007/12/28(金) 13:18:47
高御産巣日神は天孫の外祖父ですね。蘇我氏や藤原氏は天皇の外祖父として権力を握っているので面白い構図ですね。 でも高御産巣日神は権力を振るったわけではないから考えすぎか。 ちなみに高御産巣日神などにはそもそも性別がない。という意見もありますね。 天照もイザナギ・イザナミが共同で産んだものではなく、イザナギが黄泉の穢れを祓って禊をしたときに生まれたヒトリ神であるのでハッキリと性別があるわけではないとか。
401 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 14:26:42
>>400 高皇産霊尊は天照大神よりも政治の主導権を握っていたと思うけど。
その後の重要事項の決定は全部やっているような印象がある。
大国主命に国を譲るように出雲に使者を派遣するのも、邇邇芸命の日向降臨を
させるのも高皇産霊尊だから。
402 :
改め :2007/12/28(金) 14:31:30
古代さん、横槍さん〜ハンドルネームつけたみたいだね。 持説をお願いします。
403 :
改め :2007/12/28(金) 14:34:24
>>266 ものもんたさん
>邪馬台国→弁韓(百済、任那)にあった「弥烏邪馬國」
とか愛知県民さんと同じ説か・・・
404 :
改め :2007/12/28(金) 14:46:07
記紀の神代に書かれてる人(神?)の偉大さがよく解らない。 あれって天皇家の祖先について書かれてるものですよね。 天皇家の祖先より中国史にでてくる卑弥呼のほうが偉大なのでは?!
405 :
古代 :2007/12/28(金) 14:59:56
401 そうですね。一番最初に天孫が地上を支配するべきだと進言したのが高皇産霊尊で他にもあれこれと指示を出していますね。 それ故に皇祖神はもともと高皇産霊尊ではないか、と考えられたりするのですね。
406 :
古代 :2007/12/28(金) 15:04:43
改めさん 自分は邪馬台国はもともと九州にあって滅ぼされたのだと思います。 ただ滅ぼした国が大和朝廷かというと確信はもっていません
407 :
唐松山 :2007/12/28(金) 15:04:54
書紀を読むときに 年数を 圧縮しなければならない。 其のとうりです。 ではどのように 圧縮するか? 残念ながら 掛け算で 圧縮すると 「本物の暦に直せない。」 太国さん肝に銘じてください。 本物の 暦に直せるのは, 足し算 です。 神功39年己未太歳 以降書紀の干支と対外記事の干支は 一致する。 書紀の編纂者は、 掛け算による 圧縮を支持していません。 このことに関しては 太国さんは どのようにお考えですか? サガミさんにも聞きたかったが サガミさんは 神功を無視しているので聞けない。
408 :
改め :2007/12/28(金) 15:11:47
A 邪馬台国は九州にありそのまま消えて幻となった。 B 邪馬台国は九州にあり東征して大和朝廷になった。 C 邪馬台国は九州にあり大和朝廷の西進でほろんだ。 D 邪馬台国は近畿にありそのまま消えて幻となった。 E 邪馬台国は近畿にありそのまま大和朝廷になった。 F 邪馬台国は近畿にあり同じ近畿にあった別の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 G 邪馬台国は近畿にあり出雲の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 H 邪馬台国は近畿にあり九州の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 I 邪馬台国は九州、近畿以外の地域にあった。 J 邪馬台国はなかった。
409 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 15:11:48
邪馬台国はどこなの?
410 :
改め :2007/12/28(金) 15:52:41
太国さん・・・A 九州説で倍暦を唱える。記紀の系図を信じ卑弥呼は祟神天皇の時代。 プラムさん・・・B 邪馬台国東遷説。三十連合国の女王卑弥呼は先代、次代とで分かれ、 卑弥呼は記紀でいう天照大神。漢字の解読に一生懸命な人。 サガミハラさん・・・A,C 邪馬台国は九州朝倉で平和公園が卑弥呼の墓だという。 邪馬台国関連、有名な本の著者でもある。 唐松山さん・・・B 卑弥呼は景行天皇時代の人物。『ほつまつたゑ』を中心に論争。 愛知県民さん・・・C 卑弥呼は景行天皇時代の西征で滅びた宇佐の比売大神?! 美濃もんたさん・・・I 邪馬台国は弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国とのこと。 古代さん・・・C 卑弥呼は神功皇后時代でトヨから攻められて滅んだ説?! 横槍さん・・・不明 卑弥呼=推古天皇説?! ローガン・・・F 唯一、畿内説を唱えてる人。
411 :
改め :2007/12/28(金) 15:53:50
みなさん こんなかんじで良いでしょうか? というかもっと鮮明に卑弥呼は誰で何の本を信じてるのか聞きたいです。
412 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/28(金) 16:16:36
>>407 唐松山さん
それがしも倉西さんも暦の詳細な運用を論じているんではないですよ。2倍暦
3倍暦はその前段階の運用理念であり、これとかのみでカレンダーの詳細な
特徴ある暦法がぢどのようにしてやって行ったのかということは、再三申して
るとおり、うちらのテリトリーではないです。どうしてもというんなら、貴殿
が研究すればいいことで、うちらに要求しても埒があきません。
彼女もうちらもやることは正確なる記年なわけですよ。
それに掛け算足し算がどうのこうのとかいうことは、具体性が少ないので何が
何だか訳がよく分からんです。
413 :
改め :2007/12/28(金) 16:22:12
九州ですがさんと日本@名無史さん 忘れてました〜! 九州ですが氏はAかBで根っからの九州説論者て感じですよね。 邪馬台国時代→大和朝廷時代と区切り、同じものとしてるのか別物か 知りませんが。 どうなんでしょう?
414 :
唐松山 :2007/12/28(金) 16:49:33
邪馬台国の卑弥呼は 係争中の各国が一応まとまる為に立てた王です。 卑弥呼が 死亡した時点で 邪馬台国に男王が立ったとは 何処にも書いてない 卑弥呼の死亡を持って邪馬台国は 中心ではなくなる。 男王、イヨ 共に筑紫 です。 暦は、増し。 書紀の記事を最も多く正しい,と解釈できる読み方。 神功元年の 日食は 正しい とただ一人? 唱えています。
415 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 16:57:47
>>410 ある意味流石2ちゃんねると言うか、、
恐らく現在一般的には一番優勢であろう
『 E 邪馬台国は近畿にありそのまま大和朝廷になった。 』
を支持するコテがいないとはwww
でも「そのまま」と言うのが何を意味するのかは厳密に定義した方が良いのかも
三輪朝=邪馬台国で河内朝と断絶・交代している場合、
両者を同じヤマト王朝とみなして「そのまま大和朝廷になった」とするか
「別の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した」と見るか。
まあ三朝交代説+邪馬台国畿内説見たいな感じでw
416 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 17:14:43
>>395 >天の岩戸の前の天照と後の天照が別人であると言う説ですね。
へえ、そんな説があったんだ。
でそれで連想したのが前方後円墳の機能かな?
夜の間に円墳に死者=前王を埋葬し葬儀を執り行い
太陽が東の地平線に昇る頃には新王の王位継承のセレモニーを
方墳のステージ上で行う…ってやつねw
417 :
古代 :2007/12/28(金) 17:15:11
古事記の中の「肥国は建日向日豊久士比泥別と謂う」の解釈で面白いものを見つけました。 「豊久士比(とよくじひ)」「豊」は「豊日別」と同じ「台与(とよ)」のことである。 「久士比(くじ甲ひ)」は「奇し日(くし甲ひ)」と同じで神聖さが強調された言葉である。 「豊久士比」は、「台与のように神聖で神秘的な」の意味となる。 「肥国は建日向日豊久士比泥別と謂う」は、「その他の火の国は、勇猛でもあり、朝日を拝む神聖な土地もあり、台与の力により神聖で神秘的な国でもある。」となる。 「建日向日豊久士比泥」は、広い意味では全て美称である。「その他の火の国」にふさわしい美称を多く用いて、飾ったわけである。
418 :
古代 :2007/12/28(金) 17:25:44
箸墓古墳がある纏向遺跡ですが、その中の土器には北九州(あるいは瀬戸内海) 〜東海の土器が見つかりました。 これは倭国大乱が落ち着き、広範囲に影響を及ぼす権力の出現を物語っていると考えられます。 支配したか、あるいは連合国だったのかあるいは平和的なルートがあったのか。 さて、畿内説だと箸墓は卑弥呼の墓か台与の墓となるわけですし、九州説だと大和朝廷の誰かの墓ということになると思うんですが、どうなんでしょう?
419 :
古代 :2007/12/28(金) 17:28:17
416 箸墓を作る時に昼は人が作り、夜は神が作った。と書いてあるのにちょっと似ていますね。
>>415 名前を出さずに言いたいことを言える2chだからこそEがいないのかもね。
421 :
サガミハラハラ :2007/12/28(金) 18:09:44
九州説ではヤマトトトヒモモソ媛の墓ということになります。
422 :
ローガン :2007/12/28(金) 18:45:15
畿内説支持は私だけですか? 九州説の内部分裂期待…
内部分裂どころか代表者を共立します
てか九州説の場合、卑弥呼が誰か?と言う問いに対し その候補が複数いるわけじゃないし内部分裂しようがないのでは?w
425 :
日本@名無史さん :2007/12/28(金) 22:24:45
九州説は根本的に東遷説と九州王朝説の二つに分かれるから、これを同じように 扱うのはどうかと思う。 だから、分けるとしたら、九州説、畿内説ではなく、東遷説、九州王朝説、 畿内説と3つに分けるのが妥当。 もっとも、出雲説や吉備説、四国説などもあるわけだが。
426 :
ローガン :2007/12/29(土) 00:12:47
>>423 だ、だれでしょう?共立されるのは?太国さん?プラムさん?それとも、サガミ先生?唐松山さん、九州ですがさん、みのもんたさん!論客目白押しですね。
427 :
ローガン :2007/12/29(土) 00:17:58
愛知県民さん!古代さんもいらっしゃいました。 スレ主さんはどうお考えでしょう?
428 :
唐松山 :2007/12/29(土) 07:06:49
卑弥呼 が誰であるか? より 正しい年代に興味があります。よって共立辞退 推薦回避。 ホ38273 アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ ほつま 閏7月4日 筑紫 地の中央の 博多宮 大御餐倒れ 大御餐とは 天皇の食事の事であり 其の人の事でも有る。
429 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 12:12:18
魏志倭人伝が書かれた頃、北部九州に「邪馬台国」が有り、畿内に「大国」があった。 魏に朝貢したのはこの北部九州の邪馬台国。 この「大国」と「邪馬台国」はよしみを結ぶ事となり、「邪馬台国」から「大国」 に向けて彦火火出見ら一行が旅立つ。 「大国」内部ではこの同盟については必ずしも一枚岩でなく、ナガスネヒコ達は これを阻止しようとするが、なんとか彦火火出見一行は畿内三輪にたどり着く。 畿内に入った彦火火出見の子孫は畿内葛城に土地を与えられるが、やがて力を蓄え 同じ葛城に住む尾張氏らの協力を得て、「大国主」を滅ぼす。 「大国主」を滅ぼした彦火火出見の子孫は「大国」の名を彼らの父祖の地である 「山門」にちなんで「ヤマト」と改める。 畿内の戦いを勝ち抜いた崇神はその軍勢でもって外征に乗り出す。(四道将軍) 大恩ある「大国主」一族の祟りを恐れた垂仁は彼らの父祖の地である出雲に壮大な 社を営み、手厚く祀る。
430 :
愛知県民 :2007/12/29(土) 13:13:41
>>253 改めさん
亀レスですが、「利歌彌多弗利」についてお答えします。
これを太子の名前としたのは隋の誤解でしょう。倭の側が意図的に誤解させたのか分かりませんが。
皇族の血統を意味する「わかんどほり」という古語があり、『源氏物語』『宇津保物語』に用例があります。
「利歌彌多弗利」の最初の「利」は「和」の誤りで、「わかみたふり」→「わかんどほり」と変化したのでしょう。
阿輩雞彌・阿毎・多利思北孤=大王天皇=推古天皇
和歌弥多弗利=わかんどほり=太子
これで説明可能です。
431 :
愛知 :2007/12/29(土) 13:40:44
>>410 私は素人で、自説など大それたものはありませんね。
ただ、このスレを見つけた頃は畿内説でしたが、今では九州説支持です。
文献は倭人伝・記紀ともに九州と考えられますし、考古学で纏向が注目されているといっても
邪馬台国の決め手にはなりません。
A,B,Cのどれかと言えば、Bではないか?と思っています。
台与=万幡豊秋津師比売?
八幡信仰と関係ありそうですね。
432 :
愛知県民 :2007/12/29(土) 14:17:55
市寸島比売命は、宗像大社では辺津宮の神とされています。 ところが古事記では中津宮、日本書紀では沖津宮の神。どれが正しいのか? 仮にイチキシマ=筑紫島とすれば、辺津宮でよいことになります。 また、万幡豊秋津師比売=豊秋津島のヒメと解釈すれば、九州から本州への東遷も考えられる。
433 :
古代 :2007/12/29(土) 15:50:47
>万幡豊秋津師比売=豊秋津島のヒメと解釈すれば、九州から本州への東遷も考えられる。 はつまり万幡豊秋津師比売を本州の姫であるとして、 九州の天照の息子と本州の秋津姫を政略結婚させてニニギを統治者とした、みたいなことですか?
434 :
愛知県民 :2007/12/29(土) 16:18:14
>>433 豊秋津島=本州と決め付けるわけにもいかない。
最初は九州の豊の国を指していたが、九州島が筑紫島という名前になったので
さらに東の本州島に名前が移されたとも考えられます。
435 :
愛知県民 :2007/12/29(土) 16:34:26
英彦山(ひこさん)神宮には、天孫ならぬ天子降臨の伝説が残ります。 ニニギではなくオシホミミが天下ったとしている。 記紀が間違いか、英彦山の伝承が間違いか?
436 :
古代 :2007/12/29(土) 16:38:50
そうですか。自分はてっきり秋津という文字に注目しての推論だと思ってました。 秋津島は本州の意で使われるので。 秋津とはトンボのことで、本州が南北にながいのでトンボみたいだなあと神武が言ったので秋津島と呼ぶようになった。
437 :
愛知県民 :2007/12/29(土) 16:55:54
>>436 神武天皇は、本州が島であることを知っていたのかな?
津軽海峡までの地理が分からないと「本州」が島かどうか分からないはず。
7世紀の阿倍比羅夫の遠征まで誰も知らなかったのでは?
438 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 17:11:06
古田武彦氏によれば、秋津島とは本州島のことではなく大分県の安岐のことだということです。 これで正しいと思います。
439 :
古代 :2007/12/29(土) 17:12:30
説明が足りなくてすみません。神武が本州の地理を知っていたのではなく、神武が征服した国土を一望して秋津のようだと言った。 後の世になって、神武が征服した地だけでなく本州全体を秋津島、ひいては日本そのものを秋津島と呼ぶようになった。が正解かな。
440 :
唐松山 :2007/12/29(土) 18:07:10
初から 神武は アビラツ姫を娶る事により 筑紫を継ぐ が.... 孝昭 ミマツヒコカエシネ の妃 ホ31348 キサキたつ ヨソタリヒメの トシソヰぞ ムカシヤヒコに ユリヒメを たまえはうめる アメゐだき このアメヲシオ マゴムスメ ヨソタリはこれ 百合姫は手研耳の子供を産む 名は天押男 この孫娘がヨソタリヒメ 綏靖は 大物主の娘を 母とする。 手研耳の母は アビラツ姫で 天照大神の系統 孝昭がヨソタリ姫を娶ることにより 天照大神の系統を継ぐ。
441 :
古代 :2007/12/29(土) 18:42:58
ホツマツタヱに出てくるアキツカミ 秋津神は誰のことですか?変な質問?よく知らないので。
アマテラスは大麻を擬人的に表現したもの。 日本古来の神は大麻。 日本の歴史は大麻VSフリーメーソンの歴史
古代邪馬台国は富士山で復活する!
444 :
唐松山 :2007/12/29(土) 19:21:08
大麻は寝釈迦
大麻唯男が神だって!
446 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 20:08:17
太国は寝てるのか?
448 :
愛知県民 :2007/12/29(土) 20:46:51
>>441 天照大神(男)の十二后の中に秋子(アキコ)=速開津(ハヤアキツ)姫がいます。
大祓詞でも速開津比売が出てくるし、古事記では速秋津比古神・速秋津比売神、別名水戸神(みなとのかみ)。
トンボはあてにならない? 九州にもトンボはいるだろうし。
449 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 21:01:50
450 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 21:36:23
>>400 >天照もイザナギ・イザナミが共同で産んだものではなく、ハッキリと性別があるわけではないとか。
アマテラスは女神だろ。
薩神だから。
451 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 21:37:36
>>449 「葦原の瑞穂の国」ってのもあるなあ。
やはり、日本は神々の国だなと思う。
ところで、阿蘇に霜神社というのがあり、「火焚き神事」というのが行われて
いる。神事を行うのが、10才前後の乙女というのが面白い。
http://www.aso-dm.net/t1/fes1.htm 台与は13才で女王になったとされるが、たぶんこの年齢に意味があるのだろう。
乙女というのは現在では死語になっているが、ひょっとすると、
日本の歴史を通じてけっこう大きな意味を持っていたのかもしれない。
452 :
古代 :2007/12/29(土) 22:14:20
448 まあトンボは当てにならないでしょうね。秋津が蜻蛉(トンボ)というのは本当ですが 人名の秋津は(〜の)くらいの意味でしょう万幡豊秋津師比売は機織姫(はたおりひめ)ですね。
453 :
古代 :2007/12/29(土) 22:56:53
奴国の時代には中国(漢)をバックに北九州に大きな勢力がありました。 しかし漢が衰えると奴国の支配も揺らぎます→倭国乱れる 2世紀後半くらいになると出雲に大きな墳丘墓ができたり、吉備に盾築墓が出来たりして九州以外に大きな勢力が出てくる事がわかります。 この時期の墓からは吉備系土器や山陰系土器、讃岐、畿内などの土器が見つかり広いネットワークを形成していた。と思われます。 なかでも吉備の土器が多いです。九州系土器はありません。 つまりこの時期には北九州と出雲〜吉備という2大勢力が窺えます。 ところが、3世紀になると出雲や因幡から吉備系土器はなくなり、畿内系土器が増えます。畿内が力をつけたようです。 一方北九州では大和系・出雲系土器が発見されるようになります。 つまり北九州から出雲・畿内に大きなネットワークがあった事になります。 この時代が邪馬台国の時代と重なるので、邪馬台国は北九州〜出雲・畿内にまで支配権があった。 これだと九州なのか畿内なのかはわかりませんねー
454 :
愛知県民 :2007/12/29(土) 23:36:57
邪馬台国と並ぶ謎の国、隋書倭国伝の「秦王国」。 周防説、豊前説などがあります。 これは同じ国なのでしょうか? 八幡神、秦氏が鍵になりそうですが・・・
455 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 23:45:19
>>451 >台与は13才で女王になったとされるが、
息長足姫=神功皇后が仲哀天皇と結婚したのは12歳の時だよ。
24歳とか言われているが本当は半分の12歳だ。
456 :
横槍 :2007/12/29(土) 23:45:30
>>410 卑弥呼=推古天皇説は驚き
有難うございます
確信的な資料は見当たりませんが、一応卑弥呼=天照大神で御願いします。
457 :
横槍 :2007/12/29(土) 23:46:39
追伸 邪馬台国=大和が正解だと思います。
458 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 00:03:12
>>453 それは交易の範囲を示してはいますが、政治情勢などは分からないのでは?
一般的に都は国の中央ですから、西は九州から東は畿内までというと、
どちらも都にはなりにくいと思う。
459 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 00:07:00
460 :
横槍 :2007/12/30(日) 00:50:16
延喜式の見解は始めて知りました 面白いですね
461 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 04:04:13
>>459 記紀の神代の記述は葛城王朝の記憶に一票w
無論いろんな地域の要素がゴチャ混ぜになっているだろうけど(出雲スサノオとか…)
葛城王朝→三輪王朝 の流れが天孫降臨神話の大元かと。
で、それがなんで天孫降臨の地が九州になったかと言えば
応神の(応神自体は架空の人物であっても)東征こそが史実であり
それを正当化する為に始祖に当たる人物に同じようなルートでの東征を演じさせた
…と考えるのが自然じゃね?www
462 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 04:08:42
>>459 >この尾羽張は、尾張氏・尾張国の名称の元
ヤマタノオロチの「尾を割って」出てきた草薙の剣を熱田に祭ってあるから「尾張」
って話はガセネタだったのか(確かに駄洒落っぽいけど)wwwww
463 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 06:34:07
確かに尾張氏が草薙の剣(天叢雲剣)を祀っているがその扱いはかなりぞんざいじゃね? 熱田神宮じたい尾張三ノ宮でしかなかったし
>>455 春と秋に年齢を増やす春秋年て、
四季のはっきりしている地域でナイト成立しないが、
極東以外でも春秋年の例はあるんだろーか?
465 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 09:51:29
古田武彦系の古賀達也氏が「新古代学の扉」にいっぱい書き込んでいますので、 そちらを覗いてみるのがよろしいでしょう。
466 :
唐松山 :2007/12/30(日) 10:14:14
当時の結婚適齢期は、13才から15才 20才過ぎたら 行き遅れ それでも 神功12才で結婚13才で出産は 早すぎか? 合わないとは言わない。
467 :
古代 :2007/12/30(日) 10:37:33
453から考えますと、最初出雲から吉備くらいまでに出雲連合国(スサノオ王国)があったが、後に大和政権に制圧された。と考えることも可能です。 大和政権が畿内からというのは予想できるが、もともと大和だったのか九州だったのかは不明。 神武天皇の御世その妻がイケスヨリ姫であり、この姫が出雲系なので前政権の姫を娶ることで政権を受け継いだと見ることも出来る。 崇神の時に王朝交代があったとすれば、その妻は皇族であるので同じ図式が成り立つ。このとき出雲系の強い反発があったので三輪山に大物主という出雲の神を祀ることで上手く治まった。とも見れる。
468 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 10:40:57
蜀滅亡時、人口94万人・一戸5人として18万8千戸 倭 邪馬台国7万戸+投馬国5万戸+奴国2万戸+他18国+狗奴国(邪馬台国に対抗しうる力あり) 以上「三国志」より 倭はひとかどのの強国です
469 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 10:42:23
>>459 >>461 天孫降臨は九州高千穂の峰に「高天原」から神々が降り立つわけですが、
その後神々の行った事は、日向でコノハナサクヤ姫を娶ったり、宇佐で
豊玉姫と関係をもったりやたらと具体的かつ人間臭く、
その系譜の上に神武の誕生があるわけです。
要するに天孫降臨神話は神武天皇の系譜を述べているわけです。
ところで、高天原から高千穂に人が「降り立つ」などと言う事はありえません。
神々は高千穂に「登った」のです。高千穂から神々は日の昇る地(東)に向かって
(日に向かう、まさに「日向」ですね。^^)降りていくわけですから、
高千穂へはその西、筑後平野or菊池平野から登っていったと考えるのが自然
だと思います。
470 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 10:50:15
>>455 神功は立后時10歳、應神が生まれたのは彼女が17歳の時である。仲哀の時代は
通常暦法を行使しており、神功の時代においては3倍暦を行使していて、双方の
時代では2倍暦法はやっていないようである。
471 :
古代 :2007/12/30(日) 10:54:19
マキムク遺跡からは広い範囲での土器が見つかっているが半数が東海地方のものだったという 東海に大きな勢力があったのは確かでしょうね。
472 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 10:57:20
普通暦から3倍暦に変わるということはありえん。 つーか、3倍暦なるもの自体、地球上に存在したこと無いだろ(w
今で言ったら池田大作みたいなもの>聖徳太子
474 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 11:05:02
古代エジプトでは3期暦を行使していた。1年を3分している。桁を上げれば 3倍暦となる。お前も中高校では1年が3分の3学期制のお世話になっている だろう? それに古代マヤでは長期暦を永くやっていたが途中で短期略暦という のをやり始めており、こんなのをやっていたのならば、日本でも途中通常暦から 3倍暦法への転換をしていないということにはならない。さらに神功が應神を13 ヶ月で出産していることは通常暦から3倍暦への変更で10月余りで生まれたこと をよく説明できる。
475 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 11:57:31
3倍暦は高木彬光の『古代天皇の秘密』からヒントを得て思いつたものだろうけど、 いい加減つまらないからもうやめなさい
476 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 12:07:04
>>471 巻向の搬入土器における東海地方の割合が一番多い点に付いては
ヤマト建国の最大の受益者が東海地方だったからでは?
少なくともヤマトより東、東国にとってはヤマト建国でそれまで九州に独占寡占で
ガメられていた鉄が回ってくるようになったとw
477 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 12:29:53
>>475 な〜んだ? 3倍暦っていうのは「古代天皇の秘密」からなのか?
そうかね? 読んだことはある。卑弥呼の真の年代を知る上でも必要である。
478 :
唐松山 :2007/12/30(日) 12:34:02
巻向が都になるのは、垂仁から 其の前にあったことは、 崇神11年春 異族多帰 其の前年が 四道将軍 6年の 離散した農奴の補充の為 人攫いをして帰る。 鉄が大和に入るのは 景行の九州以後 其れまでは 非常に少ない。 全国に 鉄の出回るのは 神功以後、 応神稜を作ってからが 塚作りの最盛期。 そのため 仁徳稜の完成は遅れる。
479 :
唐松山 :2007/12/30(日) 12:54:33
崇神6年の読みは非常に大事で 私は次のように読んでいます。 6年秋 大国魂(大物主でもよい)や伊勢の宮を造っている。 宮とは 生きている神の住まい、死んだ神なら 社で充分(考昭が大物主を祭るのは社) つまり 此処に 国譲りを 入れる。 これ以前の 天皇家は地方の王 これ以降 天皇はオオヒコをはじめ各地に軍や人を送る。
480 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:06:42
>>466 豊魂姫は12歳〜13歳くらいでウガヤを出産して死んでしまっただろう。
海に帰る=死ぬ
神功皇后が品陀別皇子を産んだのは15歳くらいの時。
だから、出産の苦しみに耐えられたのだろう。
481 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:10:54
>>474 >古代エジプトでは3期暦を行使していた。1年を3分している。
1年を3分することと暦制はイコールじゃあないだろ。
じゃあ、1年を4分(春・夏・秋・冬)したら、4倍暦なのか?
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
482 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 13:14:23
>>459 >また、天安川神社の祭神は天尾羽張神で、この神様は古事記の
>天安河の話に登場する。この尾羽張は、尾張氏・尾張国の名称の元に
>なったと思われ、皇室と兄弟の家系である尾張氏の以前に拠点であったと思われる。
尾張氏の祖神は天火明(アメノホアカリ)命だが?
アメノヲハバリと発音が似ていなくもない。
ホアカリとニニギの母が、万幡豊秋津師比売。
皇室も尾張氏もヤハタ系ということ?
483 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 13:23:08
>>491 お前の考えでは、古代日本では通常暦一本でやっていたといいたいようだから、
当時具体的にどのように暦を行使していたかの明解な説明がない以上、遠回し
に武内宿禰の285歳生きたことをあっけらかんで認容したことになる。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
484 :
古代 :2007/12/30(日) 13:24:06
草薙の剣も別名天羽羽切(アメノハハキリ)で音は似てますね(似てないか)
485 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 13:24:26
486 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:26:12
>>483 2倍暦から現在の標準暦に変わったんだろ。
コーフンするなよ(笑
武内スクネは、3代くらいで襲名したんだろ。
487 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 13:29:32
>>481 1倍暦しかないっていうのはこんなに長生きをするものなのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
488 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 13:32:04
>>484 天蝿斫剣とも書きます。
「ハハ」は蝿ではなくて蛇を指すらしいです。
なるほど、ヤマタノヲロチのことか・・・
489 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 13:36:42
>>486 フ〜ン、襲名? ジャァこれも襲名か〜?
神武天皇 127歳 崇神天皇 120歳
孝昭天皇 113歳 垂仁天皇 140歳
孝安天皇 137歳 景行天皇 106歳
孝靈天皇 128歳 成務天皇 107歳
孝元天皇 116歳 應神天皇 111歳
開化天皇 115歳
1倍暦しかないというお前はこういうことを自認したこととなる。
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
490 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:37:36
>>487 ムキになるなよ(笑
2倍暦だろ。その次が標準暦じゃん。
491 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:40:55
492 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:42:19
■ツヌガ・アラシトと清彦 日本書紀=垂仁天皇紀に、ツヌガアラシト(天日矛)の子孫についての記述がある。 次のように記録されている。 天日槍の系譜 : 天日槍−但馬諸助(子)−但馬日楢杵(孫)−清彦(曾孫)−田島間守(玄孫) しかし、清彦が天日矛の曾孫というのは日本書紀編纂者たちの誤解であろう。清彦は天日矛が志羅紀(シラキ=ミマナ)から 持ってきた神宝を垂仁天皇に献上している。つまり、清彦は垂仁天皇と同時代に生きていた人物なのである。曾孫ではありえない。 但馬諸助、但馬日楢杵(ヒナラキ)、清彦、この3人は天日矛(ツヌガアラシト)の息子であろう。つまり、3人は兄弟である。 但馬守は、天日矛の孫である。だから、垂仁天皇の命令を受けて南国へ行き、バナナを得て帰国した時、垂仁天皇の崩御を知って 殉死したのである。 日本書紀には、垂仁天皇が140歳で無くなったと記述されているが、これは書紀の編纂者たちが2倍年暦を知らなかったための誤解であり、 実際は半分の70歳で亡くなったのである。 書紀の編纂者たちは、垂仁天皇が140歳まで生きたと信じていたため、垂仁天皇が清彦から天日矛の神宝を献上されたという話を 天日矛の渡来から100年くらい後の出来事だと勘違いしたのだ。それで清彦を天日矛の曾孫と解釈したのだろう。 天日矛ことツヌガアラシトは、崇神天皇の時代の末期に渡来した。崇神天皇が60歳の時である(書紀の記述では崇神天皇120歳の時)。 崇神天皇が亡くなると(この時、垂仁天皇は45歳である)、垂仁天皇に1年半(書紀の記述では3年間)仕えたという。 この記述を信じれば、ツヌガアラシトは崇神天皇よりも若い。しかし、清彦の時代には亡くなっているので、垂仁天皇よりは年長のようだ。 そして、清彦の息子、但馬守は垂仁天皇に仕えていたが、清彦が南国から帰国すると垂仁天皇は亡くなっていた(享年70歳)というから、 但馬守は垂仁天皇よりも若い。但馬守の父=清彦も、おそらく垂仁天皇よりも若いか同年代であろう。
493 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 13:42:34
>>491 お前若いのか? 歳が行けば視力が落ちるんだよ。 図に乗るなよ。
494 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:46:12
ガン化の病院に行けよ(苦笑
495 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 13:52:39
倍暦については、正直よく分かりません。 古事記の火遠理命「高千穂宮に五百八十年坐しき」は十倍暦とかですか? 日本書紀の天孫降臨以来百七十九万・・・年は一万倍暦?
496 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 13:53:19
>>490 お前は世界に類例がないから3倍暦を否定する旨主張しているが、ならば
なぜ2倍暦を肯定するのか? そうなると世界に類例があったことを肯定
しているわけだ。2倍暦の世界での類例というのはどこにあるんだ?
497 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 13:54:43
太国が暴れてますが皆さん気にしないで下さい。w
498 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 14:01:53
>>495 神武以前は神代であり、各年月日の詳細がないところを想えば結論は出ない。
ただ道教宣伝の書、西遊記には仙、道教的に天上の1日は地上の1年として
いるから、365倍暦ということとなる。火火出見尊の580歳は一月分が1年計上
での12倍暦というのがあったとするならば、48歳余で没となる。
499 :
サガミハラハラ :2007/12/30(日) 14:03:58
>>492 なるほど3兄弟説ですか。
私は、田島間守の名が、アメノヒボコの但馬氏と音が同じであることから記紀の編者が誤解し、田島間守が但馬氏と同じであると
誤解したものだと思っております。、
だね 持論に自信がないから名無しなわけで。 (俺も自信がないから名無し) さらりと流してしまうのがいいですよ。 かつて日本の会社は半期決算が主流でした。 今の中間決算のように概況を示すだけではなく、半年毎に本決算を行うものです。 そういうことを考えれば、倍暦を用いたと言われても別に違和感を覚えませんです
501 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 14:11:27
>>490 こいつは説明に窮すると、もう逃げてしまうから、トンでも野郎だな。 終り。
502 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 14:11:30
三国志だっけ? 中国の史書に倭人は1年を四季に分けることを知らないとか、 春に種をまき、秋に収穫することで年を数えるとか記録されてるね。 倭人の年齢の数え方は変だ、そのため異常に長寿だとかね。
503 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 14:13:10
一般人民が短命ということなのに、卑弥呼は七、八十歳ばかりも 生きているという・・・?
504 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 14:18:25
■ツヌガ・アラシトと清彦 日本書紀=垂仁天皇紀に、ツヌガアラシト(天日矛)の子孫についての記述がある。 次のように記録されている。 天日槍の系譜 : 天日槍−但馬諸助(子)−但馬日楢杵(孫)−清彦(曾孫)−田島間守(玄孫) しかし、清彦が天日矛の曾孫というのは日本書紀編纂者たちの誤解であろう。清彦は天日矛が志羅紀(シラキ=ミマナ)から 持ってきた神宝を垂仁天皇に献上している。つまり、清彦は垂仁天皇と同時代に生きていた人物なのである。曾孫ではありえない。 但馬諸助、但馬日楢杵(ヒナラキ)、清彦、この3人は天日矛(ツヌガアラシト)の息子であろう。つまり、3人は兄弟である。 但馬守は、天日矛の孫である。だから、垂仁天皇の命令を受けて南国へ行き、バナナを得て帰国した時、垂仁天皇の崩御を知って 殉死したのである。 日本書紀には、垂仁天皇が140歳で無くなったと記述されているが、これは書紀の編纂者たちが2倍年暦を知らなかったための誤解であり、 実際は半分の70歳で亡くなったのである。 書紀の編纂者たちは、垂仁天皇が140歳まで生きたと信じていたため、垂仁天皇が清彦から天日矛の神宝を献上されたという話を 天日矛の渡来から100年くらい後の出来事だと勘違いしたのだ。それで清彦を天日矛の曾孫と解釈したのだろう。 天日矛ことツヌガアラシトは、崇神天皇の時代の末期に渡来した。崇神天皇が60歳の時である(書紀の記述では崇神天皇120歳の時)。 崇神天皇が亡くなると(この時、垂仁天皇は45歳である)、垂仁天皇に1年半(書紀の記述では3年間)仕えたという。 この記述を信じれば、ツヌガアラシトは崇神天皇よりも若い。しかし、清彦の時代には亡くなっているので、垂仁天皇よりは年長のようだ。 そして、清彦の息子、但馬守は垂仁天皇に仕えていたが、清彦が南国から帰国すると垂仁天皇は亡くなっていた(享年70歳)というから、 但馬守は垂仁天皇よりも若い。但馬守の父=清彦も、おそらく垂仁天皇よりも若いか同年代であろう。
505 :
古代 :2007/12/30(日) 14:35:56
まあ古代の人が太陰暦とか採用してたとは思えないし(月読は名前だけ)太陽暦もないでしょう。 信仰も稲の神様が強いし。稲の収穫に合わせて一年を数えていた可能性は高い。
506 :
ローガン :2007/12/30(日) 14:41:15
>>502 裴松之の割注ですね。
魏略日其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀
そのまま読めば…
秋、収穫後〜春迄は年紀では無いですね。
とすれば、1年はやっぱり1年にになりますね。2年とは書かれてないですね。
507 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 14:44:44
太国は昨日早く寝たから絶好調だな
508 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 14:48:25
>>500 決算は一年でないといけない。
中間決算は補足情報でしかない。
コカコーラとかは上半期と下半期でえらい業績の差が出るわけだから、
比較のしようがないわけで、業績を知る材料としては適当でない。
日本には四季があるし、農耕社会だから、一年を周期に活動していたと
考えられる。だから、収穫祭としての秋祭りが多い。
倍暦は、古代の天皇の異常な長寿を説明するために生まれたのだと思う。
計算上は妥当なところに落ち着くわけだが、どうも説明技術の産物としか
思えない。
むしろ、年号のない時代のことを回顧したときに、そういう風になって
しまったのだと思う。たとえば、戦国時代を回顧したときに年号がなかったら
徳川家康は織田信長の若い時にはもういて信玄と戦ったし、秀吉とも
戦った。関が原を戦い、大阪の陣も戦った。200才くらい生きたのかもしれない、
なんてね。
509 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 14:52:17
九州説の多くは 卑弥呼=アマテラス と言う主張なのかな? でも俺みたいな素人が素朴に疑問なのは九州に 「アマテラス」「アマテル」の名を冠した太陽神の伝承を聞いた事が無いんだが? 「トヨ」の名を冠した姫神の伝承はあると聞くが… まあ東遷説で卑弥呼を神格化したのが東遷後とすればなんとかクリアできるかもしれんけどw 東遷説でなくそのまま滅んだ説なら、 「何でヤマト朝廷が卑弥呼をまつらにゃならんの?」って事になるwww
510 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 14:55:48
>>505 太陰暦は古代からあったと思う。月が新月から満月になり、また新月になると
言うのは一番わかりやすいから、これを文字通り一月とした。
朝、太陽が昇り、次の日にまた上るまでを一日するわけだが、
これと同じくらい古くからあったんじゃないかと思う。
511 :
古代 :2007/12/30(日) 15:04:22
まあそのような考えも否定しませんが 月の神である月読の尊が暦に関連して'月読’であるとも思えますが 何しろ月読の尊は名ばかりで暦を支配したとか何も記述が出てこないんですよね。 つまり太陽を最高神としている訳だからあえて無視してるというか、夜を忌み嫌っていたというか。
512 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 15:12:56
>>509 大和朝廷としては、可能な限り自分たちのルーツを記録したかったのだろう。
でも、記憶や伝承には限りがある。
比較的、記憶のしっかりしている部分、曖昧な部分、そして記憶にない部分と
いうのがあるのだろうと思う。
天照大神のいた高天原は、記紀の上では地上ではなく天上となっている。
だから、天孫の邇邇芸命は山の上に降りてきたことになっている。
記憶の曖昧な高天原は天上に祭り上げられて、神と人間をつなぐ役目を
担っているのかもしれない。
だから、高天原に相当する地があったとしても、天上の出来事になって
しまった以上、伝説としては残りにくいのではないかと思う。
違う形で残っているかもしれないが。
513 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 15:14:12
月読神は農業にとって重要だろ。 だからアマテラスの弟と考えられたわけだ。
514 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 15:14:59
>>508 それならば、
>>379 の表はどのように解釈説明するのか?
ローガン氏のように畿内説の人は2倍暦を認めたくない。陸行一月が半月に
なるからだよ。女王国のほうは文献からは倍暦の有無はなんとも? だがね。
515 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 15:29:18
関係ない話なのですが、今日はじめて父が、うちの曾おじいちゃんが 九州で金持ちだった人で西郷隆盛の仲人もした人だったと教えてくれたのですが、 (今うちは、貧乏庶民です) 信じられません。西郷隆盛の仲人ってネットで検索したのですが 見付かりませんでした。どなたか分かる人いませんかね・・・ びっくりしたなー。
516 :
改め〜IN九州 :2007/12/30(日) 15:44:14
A 邪馬台国は九州にありそのまま消えて幻となった。 B 邪馬台国は九州にあり東征して大和朝廷になった。 C 邪馬台国は九州にあり大和朝廷の西進でほろんだ。 D 邪馬台国は近畿にありそのまま消えて幻となった。 E 邪馬台国は近畿にありそのまま大和朝廷になった。 F 邪馬台国は近畿にあり同じ近畿にあった別の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 G 邪馬台国は近畿にあり出雲の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 H 邪馬台国は近畿にあり九州の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 I 邪馬台国は九州、近畿以外の地域にあった。 J 邪馬台国はなかった。
517 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 15:59:23
>陸行一月が半月になるからだよ。 ならんだろ。 中国側の史書は1倍暦で記録してるから。
518 :
ローガン :2007/12/30(日) 16:11:51
>>514 半年一年説と邪馬台国比定地の話に何か関連が?
さっぱりわけがわかりません。
519 :
横槍 :2007/12/30(日) 16:36:17
>>506 わざわざ注を入れているところが怪しいんですよ
春に蒔き秋に刈る程度の記事を特記する理由が判らない
これはやはり2倍暦の事を言っていると考えます。これは特記に値する記事です。
520 :
改め〜IN九州 :2007/12/30(日) 17:00:11
太国さん・・・A 九州説で倍暦を唱える。記紀の系図を信じ卑弥呼は祟神天皇の時代。 プラムさん・・・B 魏志倭人伝の解読に力を入れ漢字にはめっぽう強い。実はこの人、 卑弥呼は先代、次代が有り天照大神で東遷説というのは余り知られてない。 サガミハラさん・・・A,C 邪馬台国は九州朝倉で平和公園が卑弥呼の墓だという。 邪馬台国関連、有名な本の著者でもある。 唐松山さん・・・B 卑弥呼は景行天皇時代の人物。『ほつまつたゑ』を中心に論争。 九州ですがさん・・・AB 邪馬台国は九州。神社の由来とか、吉野ヶ里遺跡などを調べる。 愛知県民さん・・・B 畿内説⇒九州説。卑弥呼は景行天皇の時代で台与=万幡豊秋津師比売 だという。応神の妻、宇佐の比売大神が気になるらしい。 美濃もんたさん・・・I 近代史〜古代史まで興味を持ち、岐阜の山に伝わる伝承を調べる。 邪馬台国は弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国のこと。 古代さん・・・C 邪馬台国の時代の大和朝廷は九州〜畿内まで影響を与える。 卑弥呼は神功皇后によって滅ぼされた?! 横槍さん・・・E 卑弥呼=天照大神(大日霊女貴命)で女神とする。 ローガン・・・F 畿内説を唱えてる人。 日本@名無史さん・・・不明
521 :
ローガン :2007/12/30(日) 17:00:33
>>519 春耕秋収を注記したかったのではないと思いますよ。
522 :
改め〜IN九州 :2007/12/30(日) 17:09:19
523 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 17:20:39
>>520 改めさん、旅行報告楽しみにしております。
私は卑弥呼が景行天皇の時代とは思っていませんよ。崇神天皇より前であるのは確かです。
闕史時代と神代については同時並行かもしれない。
(九州では神武〜孝霊天皇間の神社伝承がないこともあるので)
宇佐の比売大神は応神の妻ではなく宗像三神、特に市寸島比売ではないかと思います。
524 :
改め〜IN九州 :2007/12/30(日) 17:26:34
太国さん・・・A 九州説で倍暦を唱える。記紀の系図を信じ卑弥呼は祟神天皇の時代。 プラムさん・・・B 魏志倭人伝の解読に力を入れ漢字にはめっぽう強い。実はこの人、 卑弥呼は先代、次代が有り天照大神で東遷説というのは余り知られてない。 サガミハラさん・・・A,C 邪馬台国は九州朝倉で平和公園が卑弥呼の墓だという。 邪馬台国関連、有名な本の著者でもある。 唐松山さん・・・B 卑弥呼は景行天皇時代の人物。『ほつまつたゑ』を中心に論争。 九州ですがさん・・・AB 邪馬台国は九州。神社の由来とか、吉野ヶ里遺跡などを調べる。 愛知県民さん・・・B 畿内説⇒九州説。卑弥呼は祟神天皇以前の時代で台与=万幡豊秋津師比売 だという。宇佐の比売大神が気になるらしい。 美濃もんたさん・・・I 近代史〜古代史まで興味を持ち、岐阜の山に伝わる伝承を調べる。 邪馬台国は弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国のこと。 古代さん・・・C 邪馬台国の時代の大和朝廷は九州〜畿内まで影響を与える。 卑弥呼は神功皇后によって滅ぼされた?! 横槍さん・・・E 卑弥呼=天照大神(大日霊女貴命)で女神とする。 ローガン・・・F 畿内説を唱えてる人。 日本@名無史さん・・・不明 こんな感じで良いでスか?
525 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 17:47:53
秦氏の祖先・弓月君と、月弓尊(月読命)は無関係とは思えない。 弓月君は百済から渡来したというが、実は新羅系であるとする説もある。 百済、新羅も倭と同じ暦(倍暦?)を使っていたのかどうか?
526 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 18:08:38
527 :
古代 :2007/12/30(日) 20:49:06
月読はやはり暦を読むという意味のようです。弓月君はもしかしたら太陰暦を日本に持ち込んだ人なのかもしれないですね。 ちなみに日本書紀では月夜見尊の保食【ウケモチ】神殺害が語られており、それによって天照大神と月夜見尊が仲違いをし、太陽と月が昼と夜とに分かれたという日月分離神話の要素が語られている。
528 :
古代 :2007/12/30(日) 21:10:09
ギリシアの国では自分達が滅ぼした民族をティターン神として、その後オリンポスの神々として祀りますね。 ケルトでも女性統治者ダナーの種族を滅ぼしたとき、ダナーを女神として祭ります。 神話では実際に神々が人間達と争って神々が負けたので常世の国に身を隠した事になってます。これが天国(正確には喜びの地とか青春の地)です。 日本もタタリを恐れて神として祀るということは多いわけですから。高天原という天の国は滅ぼされた国のどこかの土地であるかもしれません。 という想像をしてみました。はい。すみません。
529 :
太 :2007/12/30(日) 21:19:23
>>525 半島も一時期2倍暦をやってたようです。あちらのことはまだまだ
知らんですが、武寧王が日本で出生したことに因んでいるようです。
530 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 21:25:14
>>529 武寧王は雄略天皇の時代に生まれた百済王ですね。
新羅も初期は倭人の重臣がいたので、可能性があるかもしれません。
531 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 21:34:59
>>530 古田先生があちらへ渡って武寧王墓誌を調べたところ干支年を1年
ズラし書き直した形跡をみつけたそうで、恐らくは2倍暦を日本で
再開したことから、日本生まれの王の関係で通常暦と2倍暦の取り
違えでの不合を見つけて漢詩を取替えたんでしょう?
532 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 22:10:07
太国はまだ寝ないのか
533 :
愛知県民 :2007/12/30(日) 22:58:32
>>531 単に誤刻を修正したのではありませんか?
発掘後に書き直したなら大問題ですが、523年当時でしょう?
534 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:01:09
>>522 宮崎は?
たとえば、天照大神を祀ってある高千穂町の天岩戸神社など。
西都原古墳群などの古墳。神武天皇の宮崎神宮。
それに、邇邇芸命を祀った霧島神宮などの霧島六社権現。
僕は、来年、霧島の高千穂に登って「天の逆矛」を見るつもりですが。
熊本は阿蘇神社かな。福岡は宗像大社や前原市の平原遺跡など。
佐賀は吉野ヶ里遺跡。
535 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/30(日) 23:32:08
>>533 「癸卯」とあるところ「甲辰」と改刻されていたということのようです。繼體の時代の2倍暦の関係でか、何か合わなくなっているところ
正すつもりで改刻したか? なんとなくそう感じられます。
536 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 00:03:39
>>535 単純な間違いかもしれません。
古田氏は隋書倭国伝の誤字についても、「タイ国」という別の国とされているようですが、
正直、首をかしげてしまいます。
太国さんのハンドルネームはここから取ったのですか? 別に回答は求めませんが。
537 :
唐松山 :2007/12/31(月) 00:10:36
半島と日本は応神以来 通行があり、別の暦では 文章の交換が出来ない同じ暦を使っていた。 墓誌の改刻は、死亡年と埋葬年 ではないか?
538 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 00:29:17
唐松山さんは、南アの山ですね。きっと。
539 :
唐松山 :2007/12/31(月) 07:23:25
ヒント 前2つが苗字 後ろは名前の半分 もう解かるな。
>>522 、534
鵜戸神宮も忘れずに
あとはついでに生目神社
541 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 09:36:17
542 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 09:50:40
>>535 太国さん
「二倍暦」って暦は恐らく存在しないと思うよ
つかね基本的に古代人の「時間」や「暦」ってのは「12進法」や「60進法」なんだよ
二倍暦説ってのはあくまでも西暦のような10進法の観念の上での二倍でしょ?
暦ってのは太陽系の天体の動きと連動してるものだから二倍にしたり1/2にしたりとかは無いよ
ちなみに辛酉、壬申とかの暦は「甲乙丙、、(10個)」+「子丑寅、、(干支12個)」の組み合わせ
この暦の干支は12年掛けて太陽の周りを一周する木星の位置を表してるんだよ
>>536 愛知県民さん
ハンドルネームはそれからつけたのではないです。
>>542 美濃もん太さん
2倍暦等と10進法とは直接関係ないと想います。10進法はフランス革命暦
で使用されています。天体の月は半月で様相を新月から満月に換えます
から現今の1ヶ月を半月分とした暦法は可能です。12ヶ月だと正味半年分
ですので2倍暦は充分やれます。
544 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 10:04:21
十二干支の方は簡単。あれは木星の位置を表してる 十干支の方の「甲乙丙、、」は、陰陽五行の意味だと 「水、金、土(地球)、火、木」の意が付いてるから、これも多分、太陽系の天体の位置と関係してる事だと思うよ ちなみに十二干支の「子」の字は「一(始まり)+了(終わり)=子」って事らしいよ あと「午(ご)」が「半分、中間」みたいな意味らしいよ
545 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 10:13:48
>>543 「1年=12ヶ月(旧暦では閏年は13ヶ月)」
この「1ヶ月」っ単位は「月」の運動と連動してるんだよ
今は「月」は地球の衛星とされてるけど、実際には月は地球の周りを回って無いよ
× 月は地球の周りを回る衛星
○ 月は地球と共に太陽の周りを回る惑星(地球と双星)
でね、月は太陽の周りを公転してる訳だけど、月ってのは変わってて
『月は太陽を中心に「12角形(及び13角形)」の軌道で公転してる星』なんだよ(ちなみに太陽系を真上から見た場合、地球と12回交差する)
月がその公転形の12角形の「角」に来た時が「○月1日(旧暦でわ)」だよ
546 :
美濃もん太 ◆4/umQuHkWM :2007/12/31(月) 10:24:15
>>543 仮に「新月から満月まで、または満月から新月まで(約15日間)を1ヶ月」とした場合は、一年が24ヶ月になるだけだよ
ただマヤ文明や黄河文明やエジプトやアステカや、、、
今の暦よりもずっと正確な天体運動を表した暦も古代には存在してるからなんとも言えないけどさ
ただ今、俺らが使ってる暦は暦としては間違ってる暦だよ
旧暦の暦が本来の暦だよ
例えば七夕は今の暦で言えば8/7(旧暦の7/7)にやらなきゃ意味が無いんだよ
8/7が月や太陽の位置関係から一年で一番、天の川がハッキリ見える日だよ。だから昔の人は七夕は旧暦の7/7にやってたんだよ
あと確か立春や夏至や冬至とかも、現代の暦じゃ正確に伝えられないらしいよ
旧暦が本来の正しい暦だよ
547 :
美濃もん太 ◆4/umQuHkWM :2007/12/31(月) 10:32:21
旧暦を廃止して、現代の暦にしたのは明治以降でしょ? 美濃や尾張の田舎の方じゃ、いまだに一年の行事は旧暦で行ってるよ 七夕(8/7)、 ひなまつりの節句(4月頭頃)、 こいのぼりの節句(6月頭頃)、 正月(2月頭頃)、 とかさ 約1ヶ月ずれてるよ あと昔の閏年ってか、13暦には13干支ってのがあるはずだよ 月の公転形は12角形の年と13角形の年があるからだよ イスラム圏では今でも大陰暦(13ヶ月)使ってるんじゃなかったっけ?
548 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 10:42:17
一週間も良くわからないけど何か意味があるんだろね 月、火星、水星、木星、金星、土(地球?土星?)、日(太陽) なんでこの並びなんだろ? 地球から違い順だと「月、金、火、水、木、土、日」なんだけどな 「衝突する惑星」とかの本を書いたなんとかって人の説だと「金星は元々は彗星で5000年前に今の位置に来た」だっけ? 昔は本当に地球から近い順に「月、火、水、木、金、土、日」だったのかも知れないね その名残とかだったらオモロいな^^
549 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 10:51:42
って、また話がそれてすみません;;
ってか、太国さんは「皇紀」の正当性を言ってる訳でしょ?
皇紀ってのは明治以降に作られた年号で、皇紀元年を前660年とする根拠は
http://mobile.seisyun.net/cgi/wgate/%e8%be%9b%e9%85%89 でしかないからデタラメだよ
つか俺的には日本の歴史って前660年よりもっと古いって考えてるよ
紀記ってのは読むと「初めに国之常立命が現れて、すぐにどこかへ行ってしまいました。次に○○が現れて、またすぐにどこかへ行ってしまいました」
って、イザナミイザナキの登場までに10人ぐらいこんな感じの神様がいる
これは俺は単に「話を略してる」んだと思うよ
紀記は素戔嗚尊登場以降の話なだけだと思うよ
それ以前にウガヤや、ニギハヤや天照大神やイザナキイザナミや国之常立とかの時代があったんだと思うな
550 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 11:09:34
美濃もん太さん >× 月は地球の周りを回る衛星 >○ 月は地球と共に太陽の周りを回る惑星(地球と双星) これは正しい認識。 >月の公転形は12角形の年と13角形の年があるからだよ これは意味不明。 >イスラム圏では今でも大陰暦(13ヶ月)使ってるんじゃなかったっけ? これは間違い。 イスラム暦(正式にはヒジュラ暦というらしい)は12ヶ月の純粋太陰暦で、閏月の調整をしない。 東洋の旧暦は立春、冬至など二十四節気(これは純粋な太陽暦)に基づき閏月を入れるので太陰太陽暦といいます。 この辺りは暦法の基本なので押さえておきましょう。
551 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 11:10:19
>>542 美濃もん太さんよ
2倍暦がないとかいうならば、
>>379 の應神紀の日数統計の、なぜ月の後半が
全部0であるのを説明してくれ。このままではスレ違いとなるので近隣の
日本書紀のスレのほうへ答えられたい。答えがないと2倍暦の否定は暖簾に
腕押しだぞ。
552 :
横槍 :2007/12/31(月) 11:46:06
2倍暦があったと考える方が、記紀及び倭人伝の古代天皇の中途半端な長寿 を説明するには、合理的
553 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 11:55:27
>>550 >月の公転の形は12角形
これはさ、科学誌のニュートンの「太陽系のなんたら」って本に書いて有ったよ
本では図で説明して有ったからわかりやすかったけど、それをどう説明していいかわからん;;
とにかく月の公転の形は「円」じゃなく「ほぼ正12角形(〜13角形)」って事らしいよ
月の公転は「カクッ!カク!」って12回折り返して12角形になるんだよ。地球のように円で回ってる訳じゃないらしいよ
あと月は地球に対してずっと同じ面を向いてる星(自転してないって事かな?)
月の核は中心じゃなく、地球に向いてる表面側にズレてるからとか、中が空洞だからとかそんな説があるみたい
554 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 12:02:39
日本書紀が基本的に2倍年暦であることは、すでに証明されております。 景行天皇から安康天皇までは2倍年で、紀年の復元は行われております。
555 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 12:05:05
>>554 サガミハラハラさん
すでに証明されている? 誰がどのように証明されたんですか?
そこまでまだ行ってないと思いますがね?
556 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 12:07:17
>>551 だからさ仮に「約15日=1ヶ月」とした場合には「1年=24ヶ月」ってなるだけだよ
例えば時間も「24時→12時(午前、午後)」って24時間を12時間で表示出来たりする訳だし
ただね単位がさ
1日→地球の自転(地上から見て太陽が1周り)の単位
一年→地球が太陽の周りを公転する単位
1月→新月(月が12角形の公転形の角に来てカクッって方向を変える日)から次の新月まで
月の単位を
新月〜満月(約15日)
満月〜新月(約15日)
って区切ったとしても12ヶ月(約30日)が24ヶ月(約15日)になるだけだよ
昔は、正月をスタートで、卯月、水無月、如月、神無月、、とかって呼び方じゃないの?
557 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 12:12:31
>>556 美濃もん太さんよ
君の言うことが正解ならば、應神紀には十三月、十四月、十五月・・・・・
・・・二十月、二十一月、二十二月、二十三月、二十四月があるはずだ。
どこに書かれてあるのかね? 日本書紀総合スレのほうに書きこまれよ。
558 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 12:13:06
559 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 12:14:06
>>410 私の邪馬台国所在地は、佐賀県小城市甘木です。(甘木市ではありません)
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。
なおわたしは、安本美典ではありません。
560 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 12:17:36
>555後藤幸彦著の「神功皇后は実在したーその根拠と証明ー」の内容では不足であるということでしょうか?
>>556 >だからさ仮に「約15日=1ヶ月」とした場合には「1年=24ヶ月」ってなるだけだよ
例えば時間も「24時→12時(午前、午後)」って24時間を12時間で表示出来たりする訳だし
そう言えるのは1日が24時間、1ヶ月が30日、1年が12ヶ月あることを前提にしているからでしょ?
と書こうと思ったら既に太国さんが反論してた件
それと、公転と自転の言葉の意味を少し履き違えてる感がありますね。
でも、太陽から見たら、月は円を描いて回ってはいないことには賛同。
地球から見た外惑星が逆行現象を起こす原理に近いですね。
562 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 12:20:01
>>558 美濃もん太さんよ
神武が紀元660年ころなら記紀は712年、720年成立であり、元明世から遡って
140年くらいで神武〜元明まで終結するっていうのは、安本先生以上のスシ詰め
であるが、こんなことを信じられるか? あまりいい加減なことを言うなよ。
ところで二十一月とかどこに書かれてるんかね? あちらのスレで・・・。
563 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 12:23:12
>>557 だから昔は「水無月、卯月、如月、」とか呼んでたんじゃないっけ?
時間も「三時」とかじゃなく「丑三つ時」とか呼んでたでしょ?
ってまあでも暦っても俺が知ってるだけでも日本だけでも「伊勢暦」「出雲暦」「西暦」「旧暦」「十干十二干支」「一白六金とかのやつ」「仏滅大安とかのやつ」
沢山あるからなんとも言えないけどさ
ただ1ヶ月が30日だろうが15日だろうが10日だろうが、一年は365日でこれは変わらないよ
時間も午前と午後で二回同じ時刻(午前3:34。午後3:34とか)を表すけど、1日は24時間(地球の自転周期)で変わらないよ
564 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 12:24:26
>>560 サガミハラハラさん
そのくらいでは主張にはなりますが、証明にはならんでしょう? だいたい
ホムダワケの立太子前に現実即位があるっていうのはもう間違っていると思い
ますね。
>>562 訂正
× 140年 ○ 60年
565 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 12:34:14
>>553 まあ、3世紀に現代の天文知識があるわけないから、このスレではいいでしょう。
日本書紀の日付は安康天皇以後は元嘉暦、仁徳天皇以前は当時無かったはずの儀鳳暦なので
怪しいと聞いたことがありますが?
元嘉暦の前、魏で作られた「景初暦」は倭国に入らなかったのかな。
2倍年暦では、閏月の調整もあったのですかね?
566 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 12:35:29
美濃もん太さん
そういうやり方だと
>>489 の歳なってしまうが?ww これはどういうふうに
説明するのかいな? こんなに生きたのかね? 即興で自論修復の答えなんか
やっててはためにならんよ。
567 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 12:37:54
ホムダワケの天皇位即位は356年秋年です。 神功皇后が摂政になったのは356年秋年です。 ホムダワケが幼くして天皇に即位して何が悪いのでしょうか?かえって、仲哀天皇が崩御されてから神功皇后が崩御するまでのあいだ、天皇が いないというのは異常ではないでしょうか? そのような異常な状態を放置していたとはかんがえられません。 ただ、日本書紀においては事情ははっきりわからないが皇后にかなり気を つかって、天皇と同格にあつかったようです。
568 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 12:44:00
可能性としては、二倍暦より○○進法の相違で結果的に年数が変わってくるって方があると思うよ 「十干支十二干支」の暦は60進法で60年=還暦がひとつの括りの暦だよ けど伊勢暦って確か7進法で7年おきに宮建て替えて無かったっけ? 東京とかの酉の市とかも60とは違う単位だった気がするしさ そもそも記紀の時代には「西暦○○年」って書き方は無いよ 十干支十二干支の60進法の表記でしょ? 例えば壬申の乱は壬申の年に起こった事だけど、壬申の年ってのは60年おきにある訳だから、西暦何年の壬申の年の事だろうな? って事でしょ? 記紀以前はどんな暦を使ってたのか知らないけど ただ記紀は十干支十二干支の暦で書かれてる書物だと思うよ つか日本書紀が書かれたのが西暦700年としたらさ、数百年も前の事を「辛酉の年に」なんて書き方しないよ 昔の事柄は普通は「ずっと昔の事。数百年前の事。神様が地上に降りる前の事」とか言う書き方するよ イザナミがいつ地上に降り立ったかなんて正確な表記内でしょ? 「乙申の年にイザナミとサザナミが、」なんて書いてある?
569 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 12:50:20
>>559 ちがいます。それはインコのピーちゃんのお墓です。
何度言えばわかるんですか?
570 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 12:51:35
>>566 いや、前も言ったと思うけど、古事記も日本書紀も「系譜の書」が紛失しちゃってる書物なんだよ
例えば日本書紀に「神武天皇」なんて書いてある記述は無いらしいよ
(イワレビコの話も橿原に藤原京を築いた後に「そこで天皇は」って記述でしかない)
あと例えば系譜も年表もない古事記や日本書紀じゃ「景行○○年」なんて表記の場合は西暦何年の事かなんてわかんないよ
そもそも「昭和、平成」みたいに元号が天皇の即位とリンクするようになったのも明治時代以降だよ
江戸時代以前の元号は別に天皇の即位によって元号を変えてた訳じゃないよ
571 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 12:58:45
オレ難しいから全然見てないけど、ほまつたえとか、竹内文書とかの記紀以外の風土記や古史古伝には年号がわかるような書物もあるんでしょ? ちゃんとした年代はそういう書物から読み説いた方がいいと思うけどな ただイザナミイザナキが降り立ったのは○○年 天照大神が生まれたのは○○年 ってのは、普通は書かれた当時には既にわからないと思うよ だから「辛酉年、壬申の年」とか明確に書いてある事柄は、書かれた当時からそんな昔の事じゃないよ
572 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 13:02:03
日本書紀に神功皇后紀を独立させたことから、年代において問題が生じました。 つまり日本書紀は紀年体をとっていることから、神功紀の構成において年代を記入せねばならず、 応神紀にも年代を記入しなければならなくなると、年代が二重になってしまいます。 または、応神の年代が途中(皇后崩御後からつづけて唐突に応神70年となるとおかしい)からと なるとおかしいので、便宜上皇后崩御の翌年から応神元年としたのであって、 皇后摂政から崩御までの間応神は即位していなかったということではありません。
573 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 13:05:10
訂正3行目 応神紀にも即位の356年から年代を記入しなければならなくなると、
574 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 13:07:31
>>567 神功皇后、仲哀天皇はその頃だと思うよ
神功皇后は韓半島に氏族を送って(自分で行ったんだっけ?)韓半島を統治してた訳だしさ
だから百済も新羅も倭人の国なんだと思うよ
イワレビコってその百済だか新羅から九州に渡って東征して橿原に藤原京を築いた人って事と思うよ
あと日向三代の神話はさ今は韓国の領地の「済州島」をウィキで調べたら同じ神話があったよ
ちなみに高千穂って記紀では「曾誉里(ソウル)の高千穂」って書いてあるらしいじゃんよ
575 :
古代 :2007/12/31(月) 13:07:53
森博達著「日本書紀の謎を解く」によりますと、日本書紀は雄略紀と皇極紀から分担して 書き始められたことも明らかになり、当時の宮廷において雄略と皇極の時代が画期とさ れていたこと、また当初は雄略以降だけが編纂を予定されていて、神代から安康紀まで は書く予定はなかったことが確認されたとのことです。
576 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 13:11:25
よくこれだけのデタラメ天文知識を披露できるなぁw
577 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 13:14:51
578 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 13:18:55
雄略紀から分担されて、また、雄略の時代が画期とされてとするならば、 安功天皇紀と雄略天皇紀の接合が木に竹をついだようなわけがわかりますね。
579 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 13:20:40
>>575 日本書紀って系譜も年表も紛失しちゃってるし、作者もいつ書かれたのかも解ってない書物だよ
そもそも日本書紀が正史とされたのも明治時代以降で、江戸幕府(天皇家が京都の頃まで)は、天皇系譜や平安時代以降の全氏族の系譜まである「旧事記」が朝廷の正史だったんだよ
(ただし旧事記の天皇系譜+氏族系譜は明治政府により燃やされたからもう残って無い)
580 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 13:25:05
>>579 別にサガミバカバカに加勢するわけではないが・・・
日本書紀の漢文のクセから、日本書紀の作者には漢語のネイティヴスピーカーとそうでない人の2種類が混在してるっていうのが
森先生の研究。
美濃もん太はもうすこし勉強してから発言してくれ。根拠のない整合性が取れない記述がおおすぎる
581 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 13:27:03
例えばインドのヒンズー教って聖典って言われる書物は氏族や地域毎にあって、それら二十冊以上を「正史、聖典」としてるよ 日本はインドよりもっと沢山の古い書物が残ってる国なんだから、いい加減に「日本書紀以外は偽書」ってレッテルを辞めて、ちゃんと沢山の風土記や古史古伝から歴史を読み解くべきだと思うよ 旧事記が偽書とされた理由なんて「物部氏からの視点に偏った記述で」とか訳わからない理由だし いろんな氏族からの視点があっていいんだしさ 日本にある古い書物は全て本物だよ
弥生人が来るまでは何を神としていたのか?
583 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 13:37:50
例えば桃太郎の話だって「鬼」とされた側の人が書物を書けば、桃太郎ってのは民族を無差別に虐殺した恐ろしく悪い奴なんだろうしさ 氏族や民族が滅んじゃってればそういう伝承は残らないだろうけど、そんな伝承や神話の書物があっても良いと思うけどな 逆にそんなんがあった方が(ああ、コイツがコイツを倒したんだな)って事が解ると思うけどな 例えば神武が武力で東征したなら、攻められて負けた側が存在してなきゃ逆におかしいしさ ちなみに俺、美濃美濃言ってるけど美濃は壬申の乱で負けた側だって意味で言ってるんだよ 負けた蘇我側が美濃と思うよ
584 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 13:43:31
>>565 2倍暦等でも閏はあったと思いますよ。余りがスパッとならんでしょう
から・・・。
>>567 >>572 ホムダワケが幼くして天皇にならなくても悪いとは言えないですよ。神功が
天皇を同格とするならばホムダワケを天皇に即位させては同時に二重天皇の存在
と同意味になりますから、記紀に一章設けられていても神功は天皇同格扱いは
なされていないです。横綱がいないのに最高位が東大関だとしても横綱と同格
には扱わんですよ。
立太子の前に即位はありません。これでは横綱になった後の数年後に十両の祝い
をやるようなのので、失礼ながら滑稽としか言えません。ということは、サガミ
ハラハラさんの言い分より記紀の言い分が正解です。
>>574 サガミハラハラさんの神功、應神が紀元300年代という言い分は正解であるも、
君の書きこみのそのころだというのは、君は神武が紀元660年であると主張
しているから神武が應神より後代の人物だということを自認しており、これ
では自語相違か、ちょっと精神科へ行ってもらうとか言わざるを得ない。もう
滅茶苦茶だということとなる。
585 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 13:46:41
>>576 デタラメじゃないよ
ただまだまだ勉強不足だし知らない事が多いから勘違いしてる事や間違ってる事も沢山あると思うっす
けどちゃんと自分なりに色々調べてるからデタラメやウソは書いて無いよ
586 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 13:52:46
>>584 俺が言ったのは「イワレビコの話は東征して橿原に藤原京を築いた話だから、橿原に藤原京が出来たのは600年頃だよ」って事だよ
俺はイワレビコが初代の天皇だと思って無いよ
記紀にもイワレビコが神武天皇だとか初代天皇だなんて書いてる訳じゃないよ
587 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 13:57:46
だったらそのように書きこめばいいわけだよ。まぁそれは分かったが、 イワレヒコは神武天皇ではないとすると、誰が神武天皇なのか? 言い方ひとつで、おかしいんじゃないか??とみなに言われるぞ?
588 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 14:04:51
イワレビコ=初代の天皇=神武天皇=ここから天皇の歴史が始まった この解釈や説は俺は違うと思ってるよ イザナミイザナキが降り立ってからが記紀神話の始まりと思ってるし、イザナミイザナキ以前の6組の夫婦や国之常立命とかの時代の神話も記紀では省略されてるだけで、ちゃんとあるんだと思うし(じゃなきゃ神として祭らないよ) あんま遡ると人類の始まりは、、って所に言っちゃうからアレだけど、 ただ日本は世界一の歴史がある国だってのは間違い無いと思うよ ただ世界一の歴史があるのに奈良時代以前がなんか曖昧過ぎると思うよ 奈良平安時代以降はめちゃくちゃ明確なクセにさ そのギャップがおかしいと思うしさ 飛鳥時代が曖昧な理由が奈良の明日香村に蘇我氏の飛鳥朝廷があった訳じゃないからだと思うよ
589 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 14:09:42
だからそういう本題をズラす回答ではなく、神武天皇っていうのはイワレ ヒコでない別人だというなら、誰様なんだと聞いてるんだよ。 それとも何か〜、神武は始皇帝だとでも言うのか〜??? ww
>>574 韓半島って朝鮮半島のこと?
ここは学問板なので、用語は正しく使ってね。
591 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 14:13:23
>>575 興味深い見解ですね。
雄略天皇より前は年月日の記録が無いか、仮に倭国独自の暦があったとしても
中国式の暦に正しく換算できる自信がなかったのですかね?
古事記では雄略天皇以後の記録はきわめて貧弱になりますから、当初は古事記と日本書紀が
セットで構想されていたのかも?
592 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 14:19:56
>>587 ○○天皇
ってのは後の時代の人が付けた名前じゃないの?
つか系譜が無ければなんとも言えないよ
例えばさ「神武天皇」が祭られてる神社は俺が知ってる限り、橿原神宮と宮崎神宮
けど橿原神宮も宮崎神宮も神武天皇が祭られたのは明治時代以降なんだよ
あと系譜が紛失しちゃってるからなんとも言えないけど、仮に天皇家の系譜を書く場合は、元始は神武天皇じゃなくて天照大神かイザナミかどっちかだと思うよ
例えば徳川家だって元始(氏神)は家康じゃなくそれ以前のなんとか氏とかでしょ?
つかイザナミや天照大神からの血統が続いてるから天皇の称号を与えられてる訳だと思うし
イワレビコを元始としてイワレビコの血統を継いでる者が天皇に、、ってなんかおかしいでしょ?
593 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 14:35:06
>>589 勉強不足だから推測でいい?
神武って「神武天皇」じゃなく「神武○○年」とか言う元号なんじゃ無いかな?
元号つか平安時代みたいな意味での神武時代って呼び方だとかさ
とりあえず記紀にはイワレビコが神武天皇だとか、神武天皇が東征したとかの記述は無いよ
「神武○○年」って記述から「神武天皇が即位して○○年目」って解釈してるだけって事はない?
元号を天皇の即位とリンクさせたのは明治時代以降の事で、江戸時代以前は元号と天皇の即位は別にリンクしてないよ
例えば岐阜の垂井に秀吉が再建した金山幸彦の神社があるけど、こことかは「設立、神武時代」って形で「神武」って言葉を使ってるし
まあ「元号」ってのも氏族ごとに独自の元号を使ってたりしてたのかも知れないからなんとも言えないけど
594 :
ローガン :2007/12/31(月) 14:44:28
>>559 サガミ先生!
卑弥呼の墓が桜ヶ岡だとされる根拠をご教示ください。
595 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 14:45:30
天皇という称号を名乗ったのは推古天皇(大王天皇=太后天皇)が最初と思います。 607年の遣隋使で名乗り、620年には「天皇記」が編纂されている。 703年の遣唐使で初めて「日本」を名乗り、720年に「日本書紀」編纂。そっくりです。 当時はスメラミコトではなく、アメタリシホコと読まれたようです。 だから厳密に言えば、初代天皇は推古天皇。
596 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 15:02:11
>>595 俺、蘇我氏らの飛鳥朝廷勢力が負けた側の氏族で、奴らに勝って、その後、畿内へ遷都した氏族が天皇氏族じゃないかなって思う(イワレビコとか山幸彦とかの氏族)
その場合さ、飛鳥朝廷と畿内の大和朝廷は(辿れば血統は繋がるかもだけど)違う勢力、違う氏族なんじゃ無いかなって思うよ
そうした場合、推古天皇ってのは蘇我氏の飛鳥朝廷の天皇じゃなく、飛鳥朝廷を倒した天皇家の氏族の人であると思うよ
つかそもそも奈良平安時代以前は大和を統一した氏族の朝廷があった訳じゃ無いと思うし
天皇家は天皇家
出雲家は出雲家
藤原幕府は藤原幕府
で、天皇は王や皇帝と意味が違って別に実権を握ってたり政治をする者って意味の称号でも無いと思うけどな
つか人間宣言する以前は神様みたいな事でしょ?
そういう扱いも単に天照大神からの血統を継いでる人だからだって事だと思うよ
キリスト教で言えば、キリストの血統を持ってる人な訳でしょ?
597 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 15:20:03
年末なのに香ばしいな 記紀のみが正史ではないといいながら天照の実在性をかたくなに信じてる 美濃もん太の頭の中が俺には理解できん
598 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 15:20:57
>>596 イワレビコが672年の壬申の乱で勝って660年即位?
壬申の乱の年代が間違っているのですか?
藤原幕府とは何でしょうか?
599 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 15:41:35
蓑紋多と太国は香ばしさにかけてはいい勝負だな。w
600 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 15:41:48
>>598 あれ?
藤原京って何年だったっけ?
あと「即位」とかはあんま関係ないと思うよ
ごめ藤原幕府じゃなくて鎌倉幕府した
つか俺、そんな突拍子も無い事言ってるかなあ?
昔の日本の呼び名には倭とか以外に、例えば封神演技の中では扶桑国って呼んだり、他に蓬莱国や東海国って呼ばれてた時代も有るわけだしさ
扶桑や東海つったら美濃や尾張や信濃とかの古い国名だしさ
巻向遺跡だって発見された遺跡の50%ぐらいは東海系の遺跡だって言われてんのに
あと畿内発祥説は俺は否定的だけど九州説は別に否定してないよ
最終的には九州からの勢力が蘇我飛鳥を倒したと思ってるしさ
601 :
古代 :2007/12/31(月) 15:43:50
591 中国式の暦に正しく換算できる自信がなかったというより、ここで初めて大陸の年代に合わせる試みがあったのでは?と思います。 自分の感じだと、古事記は国家プロジェクトって言うよりは天皇の為に書いた感じです。 日本書紀は大陸に対抗してというか対外的なものとして作られている国家文書という感じです。
602 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 16:16:40
あと三輪山ってのは三諸山の事で、犬山にある桃山の事だって話もあるよ 日本がこんだけ古い書物が沢山残ってるのに奈良平安時代以前の飛鳥時代以前がなんか不透明な理由が、書物に記されてる場所を間違えて解釈してるからだと思うけどな やっぱ蘇我氏や聖徳太子の飛鳥朝廷は、奈良の明日香村の事じゃ無いですよ あそこの大和川で海から明日香村まで船で物資を運べる訳無いじゃん
603 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 16:24:10
>>600 イワレビコが672年の壬申の乱で、645年に滅びたはずの蘇我氏に勝って、
694年にできた藤原京に都し、660年に即位した。
こういう理解でOK?
604 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 16:26:12
>>600 >巻向遺跡だって発見された遺跡の50%ぐらいは東海系の遺跡
香ばしいところ悪いが、「『マキムク搬入土器15%のうちの50%』が東海系の土器」な。
605 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 16:34:01
>>603 蘇我氏ってそんなに早く滅んでたの?
年代がちょっと、、、今手元に日本書記が無いっす
蘇我入鹿や馬子の辺りはなんかややこしくて、俺あんま理解出来て無いかも
多分この辺を勉強して、ちゃんと理解しなきゃダメなんだと思ってる所っす
蘇我石川麻呂、蘇我入鹿、馬子、聖徳太子、大海なんとか、桃太郎、吉備氏、阿蘇氏、新羅、百済、ナガスネ彦、金山幸彦、イワレビコ、吉野、藤原鎌足、景行天皇、聖武天皇、、、
ちゃんと理解すれば上手い事繋がる気がするけどなあ
606 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 16:52:15
壬申の乱(大海人皇子が大友皇子を破った反乱)のときに 蘇我氏が滅びたって一体・・・ それに藤原京に遷都したのは天武天皇ではなくて 持統天皇なのだが。 持統天皇や元明天皇の母親は蘇我氏出身。 蘇我蝦夷の兄の家系ね。
607 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 16:57:35
魅膿悶太氏は歴史を勉強する前に国語読解力を身につけた方がいい。
608 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 17:03:18
>>601 そうですね、古事記には「日本」は出て来ないが「天皇」は出て来る。
この事実から、「天皇」号は「日本」国号と同じ頃にできた(たとえば天武天皇の時代)
という説は間違いだと思うのです。「天皇」はかなり古いと思います。
609 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 17:12:39
美濃もん太氏はそろそろ精神病院で診療を受けることをお勧めしたくなる。いさ さか支離滅裂な状況を孕んでおり、ああ言えばもん言うで、そうとうおかしな 論理に終始している。だが、まだ遅くはない。他人の批判から自己の頭の コントロールをしっかり行えれば、何とかはなりうるが、黄信号の状態にある。
610 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 17:18:29
>>609 俺話し方が悪いのかなあ?
なんかスレ読み返すと批判されるのも解る気がするよw
実際に自分の中でまとまってない事とかもベラベラ書いたりしちゃうし;;
うーん、、、
611 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 17:21:48
古事記=和銅5年(712年)、元明天皇に献上される 天皇という言葉が天武天皇時代に作られて問題ないですね。 日本書紀や古事記は、随分後の奈良時代の言葉で 遠い昔のことを語っていますからね。
612 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 17:38:49
613 :
唐松山 :2007/12/31(月) 18:04:52
もん太さんへ 太国さんの 記年を私が 変わって説明します。 @書紀の 記年は ながすぎる 書紀 編纂時 編纂者が引き伸ばした。 A各 天皇紀 により 引き伸ばされ方が違う B各天皇紀により 2倍、3倍に 引き伸ばされている C方法は、掛け算である 2倍の証拠 1日から15日までしかない。 3倍の証拠 1日から10日までしかない。 D拠って ひとつきが 15日(10日)で 平均約365日で2年(3年)と成る。 E朔や季節は 後付けですから 無視してください。 E暦の使用方法は、解からない 暦の使用方法は、各自考えてください。 こんな所かな? 解説 たとえば 正月朔と書いてあれば 1日のことであり 正月と朔は無視してください。でたらめに近い物ですから。 間違っていたら 太国さん訂正、お願いします。
614 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 18:37:56
>>613 うーん。
確かに今使ってる暦と同じとは思ってないけど、仮に1ヶ月が15日しか無かったとしても一年は365日と思うよ
1日=12時間×2で24時間みたいに、12ヶ月×2を1年って数えてればそれまでだもん
ただ月の天体運動を基本に考えると1ヶ月=15日で計算してた可能性はあるとは思うよ
新月〜満月で15日 満月〜新月で15日な訳だしさ
あとどのみち、前660年をスタートとすると二倍暦使ってもピッタリ年代が合わないと思うよ
前660年って、明治になってから西暦元年が辛酉年って所から逆算して決めた年代だもん
ウィキで「辛酉」でくぐったら前660年の根拠が書いてあったよ
615 :
唐松山 :2007/12/31(月) 18:48:42
太国に変わって じゃあ 125歳 とか どう説明すんの? 3倍があるだろ。 と来るわけだ。 なら 前660年になる ソースを出せ。 醤油でも良い。 唐松の行き過ぎ。
616 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 18:54:56
そもそも紀記に「神武は辛酉年に即位した」って記述は無いよ 神武が辛酉の年に即位したってのは明治時代の那珂道世って人が唱えた説でしか無いよ 随書かなんかに「辛酉の年には1260年(60年×21)に一度、政変が起きる」って言われてたらしく、それを元に 「推古9年(601年、辛酉年)がその政変の年に違いないから、神武天皇が即位したのは政変な訳だから、そこから1260年前の前660年だ」 って事で「神武即位、前660年(辛酉年)」って明治になってから定めただけだよ
617 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 19:04:37
↑やっぱ読解力無いわこの人
618 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 19:08:37
>>615 スタートを那珂道世の説を信用して初代神武天皇即位が前660年にするからだと思うよ
あと「天皇」ってのは「天照の血統を受け継ぐ、、(ごめん、あんま詳しく覚えて無い;;)」って意味で天皇って字を当ててるらしいしさ
説明が下手でごめんなさい
つまり
×天皇=日本を治める権力者への称号
○天皇=血統継承者に対する称号
って事だと思うよ
だから血統もない俺が天皇には慣れない訳だしさ
619 :
唐松山 :2007/12/31(月) 19:10:01
馬鹿か おまえ ちゃんと 書紀やほつま 読んだか? 干支が 書いてあるだろ? 干支の書いてない 書紀 ソース出せ。 西暦660年も 同じ干支でも 世継ぎ が出来るるのか? 子作りは 男として ”あれが立った後” 早くて15才(おれ 遅いかなー)
620 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/31(月) 19:11:15
>>613 唐松山さん
引き伸ばされたんではなく、結果的に引き伸びならざるを得なかっ
たということですよ。なお日数が現今同様月末まであっても、空亡の
欠月があるから倍暦は可能となります。
美濃氏は明治になって定まったとかばかり言っており、そういう詮索
ものによっては必要であろうが、ここではそんなに明治の強調の考え
すぎはしなくてもいいと思う。さっきよりは論が正常化して
いるので言いたいことがまぁまぁわかる。
621 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 19:24:59
>>619 「神武天皇は辛酉年に即位」って書いてあるんですか?
すみません。知らなかったっす
じゃあ神武天皇が辛酉年に即位した前提で俺も話します
で、辛酉年は別に前660年だけじゃなく、推古9年(601年)も辛酉年だし60年おきに辛酉年があるっす
西暦に直した時に、いつの辛酉の年に即位したのかは解釈になって来るよ
前660年の辛酉の年と解釈したのが那珂道世って人だよ
622 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 19:32:37
えっと上手く書けてないかも 言いたい事は「辛酉年」は60年おきにある で、神武が即位した辛酉年をいつの辛酉年の事と解釈するかによって、今なされてる解釈よりピッタリくる年代があるんじゃないかな? あと思うのは紀記が書かれたのが700年頃とした場合、そこから1000年以上も前の事を「辛酉の年に」って書き方はしないと思うよ 普通は「今から1000年以上前、」とかそういう書き方をすると思うっす
623 :
唐松山 :2007/12/31(月) 19:32:42
空亡月も 365日の中の 実 でしょ? もし 私が 太国さんの 倍暦 認める場合 (部分的にだが) ひとつき(1ヶ月、30日 ではない) 365日を 2分割= 春、夏と秋冬(季節はどうでも良い でも百姓は出来ない) 否定の立場だが 否定出来きれていない。 3倍 暦が出来ない 以上否定しざるをえない。
624 :
唐松山 :2007/12/31(月) 19:43:44
別に 辛酉年で 無くても良い。 各天皇の 治世を(干支を)足していっただけだから。 干支は、60年毎に 回ってくる だけ。 最終的に 何処で 納めるか? 西暦660年は 引き伸ばされていないか? と言う事。
625 :
ローガン :2007/12/31(月) 20:13:29
>>622 上手く書けてるとか書けてないとかの問題では無いと思いますよ。
626 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 20:46:07
美濃もん太さん 神武紀元が制定されたのは明治時代ですが、神武天皇即位の年が西暦紀元前660年であることは 日本書紀にハッキリ書いてありますよ。 もちろん西暦何年とは書いてないですが、各天皇の在位年数がすべて明記されていますから、 読んで計算すればわかるのです。 それでも、「明治政府が日本書紀を書き換えたのだ!」と言われますか?
>>623 空亡という凶の月があれば2倍も3倍暦もやれます。
>>379 の應神世の月前半
の1日〜15日までで2倍暦のように見えますが、実体は空白の月があることで
3倍暦ができます。2倍暦だけじゃぁ武内宿禰の年数がまだまだ人寿より並外れ
て考えにくいです。さらに倍暦は通常暦と重複しており後者は消極的内在となり
ますから農民が著しく困るものでもないでしょう。現に古代マヤ暦は農耕の
通常暦(ハアブ暦)と農耕に関係薄い1.4倍暦(ツォルキン暦)との重複運用
です。
>>626 愛知県民さん
美濃もん太氏は1年が24ヶ月あったということを強く主張しています。
また神武天皇はカムヤマトイワレヒコとは別人だとの主張であり、かなり異色
でそれがしは驚いています。
629 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 21:01:18
>>626 書物を書き換えたりねつ造は無いよ
書いてある内容の解釈の仕方なんだと思うよ
例えば「日本は昔は卑弥呼が治める邪馬台国でした」みたいな事は魏志にもどこにも書いてないっす
後の学者が魏志からそう解釈してるって事なんだと思う
俺はそういう解釈が間違ってるんだと思ってるんだよ
もちろん俺が解釈を間違えてる部分も沢山あるんだろうけど
630 :
ローガン :2007/12/31(月) 21:12:51
>>629 もんた君。「日本は昔卑弥呼が治める邪馬台国でした」
そう解釈している学者とは誰?
君が非難の対象にしている学者とは誰の事?
具体的に即答しなさい!
631 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 21:16:01
>>630 例えばだよ
俺学校でそう教わったし
日本がいつどうやって建国された国なのかは教わらなかったのにさ
天皇がどういう人でいつからなんで日本にいるのかとかも教わらなかったよ
卑弥呼が治める邪馬台国だって習ったよ
632 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 21:28:42
>>629 魏志は別の話。日本書紀の話です。
ハッキリ書いてあることに解釈も何もないですよ。
まず、紀元前660年、辛酉年と書いてあることを認めて、何故そんな常識外れの大昔なのか、
原因追求はそれからです。
633 :
ローガン :2007/12/31(月) 21:31:46
>>631 629と631を読むと、「日本には昔卑弥呼が治める邪馬台国があった」って学校で習った。
って言っているのだろう?
違うのか?
634 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 21:34:07
>>632 紀元前660年なんて書いてある訳ないじゃん
そこは後の人の解釈だよ
辛酉年って60年置きにあるんだってば
635 :
古代 :2007/12/31(月) 21:36:16
もんたさんの考えもおもしろいなと思うところもあると思うんですが・・ ただなんというか書き方をもう少し改めた方がいいとは思います 自分の説の説明がかえって自分の説を弱くしてます。もちょっと論拠を絞りましょう。
636 :
ローガン :2007/12/31(月) 21:40:23
>>634 こら!揚げ足をとるようなレスをするんじゃない。
愛知県民さんは君に教えてくれているんたから。
637 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 21:41:47
>>635 はい。すみません。気おつけます;;
愛知県民さんすみません。
俺話し方が多分悪いっす;;
638 :
ローガン :2007/12/31(月) 21:49:13
>>637 いや、私も言葉が過ぎました。失礼しました
639 :
愛知県民 :2007/12/31(月) 21:52:03
ローガンさん、すみませんね。 もん太さんには話が通じてないかな? 日本書紀の現代語訳でも、一度読んでみれば分かると思うけど。 何天皇何年、何がありましたって全部書いてあるの。 最後の日付が持統天皇11年8月1日。これは西暦697年。 ここからさかのぼっていけば、いやでも分かります。 もん太さん、頑張ってください。
640 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 22:58:46
>辛酉 ヨコだが「辛酉」自体は60年周期だが「辛酉革命」と言われる大変革は その21回毎(=1260年毎)と言うのは知っているんだよね? …念の為。
641 :
640 :2007/12/31(月) 23:38:23
>>616 に外出だったゴメソ。
しかしBC660を神武即位の年にしたのが那珂通世の説がその嚆矢とは
生まれて初めて聞きますたwww
結局聖徳太子存命中の601年の辛酉を基準にそこから1260年遡ってると言う話で
聖徳太子が如何に日本書紀の中で厚遇されているかは今更語るまでも無いだろうがw
解からないことを解かってる振りをしたり、 解かってることも解からない振りをしたり、 まあ、典型的なカマってちゃんだよね。
643 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 00:26:11
↑そのレス打ちながらの年越し
>>640 辛酉革命の終期は、実は定説はないですよ。
>>641 那珂通世は基本中の基本です。
彼の、干支120年繰り上げ説は、没年干支とも整合しやすいので
戦後は通説となっています。
>>621 紀の紀年に従うと、神武即位年は紀元前660年になります。
645 :
【大吉】 【1861円】 :2008/01/01(火) 02:55:10
>>644 だから、那珂通世が神武の即位をBC660年に推定したんじゃなくて
それが辛酉革命説から来ていると言わば「タネ明かし」をしたんだろう?
…って話ねw
646 :
645 【大吉】 【1231円】 :2008/01/01(火) 03:11:20
ついでに、神武即位に関して「干支120年繰り上げ説」と言うのは知ら無いので できれば教えて欲しいんだが。 神功のエピソードに百済王・肖古王が出てくるが百済この人物の記録が無く 没年を干支二運(120年)繰り下げた年に没した人物に近肖古王がいる。 …と言う内容を那珂通世が言ったってのは知っているが。
647 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/01(火) 03:40:42
>>639 一応、手元の日本書記もっかい見たよ
年表の年号を自分で解りやすいように「○○年前」にちょっと変えて抜粋するっす
2674年前 イワレビコ東征開始
2667年前 神武天皇即位
2588年前 すい靖天皇即位
2100年前 (祟神5年)疫病により国民の多くが死亡
2093年前 (祟神12年)人民の戸口を調査し賊役を課す
2030年前 (垂仁7年)当麻け速と野見スクネが相撲を取る
西暦71年 景行天皇即位
西暦200年 神功皇后、新羅征伐
西暦588年 (崇峻1年)蘇我氏、法興寺建立
西暦645年 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害
西暦649年 蘇我倉山田麻呂が自害
西暦663年 白村江の戦いで唐、新羅連合に敗退
西暦667年 都を近江に遷す
西暦671年 大海人皇子、吉野へ隠棲
西暦690年 持統天皇即位
西暦694年 藤原京へ遷都
西暦710年 平城京
648 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 03:57:36
で、紀記の神話を照合してみると 例えばイワレビコ 『八十建、登美彦、兄師木弟師木の兄弟などを撃ち滅ぼして、 そこに現れた天つ神の子の邇芸速日から天つ神の品を献上させ臣従させて、 こうして荒ぶる神を服従させ、服従を拒否するものを追い払って 奈良の橿原に宮殿を築き、そこから天下の政治を取り仕切った』 橿原に築いた宮ってのは、それこそ藤原京の事と思うから、年表の神武とは時代が全然違うと思うけどなあ
649 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 07:09:26
>>646 日本書紀と、朝鮮の三国史記を比較すると
日本書紀 三国史記
255年 肖古王没 375年 近肖古王没
264年 貴須王没 384年 近仇首王没
265年 枕流王没 385年 枕流王没
272年 辰斯王没 392年 辰斯王没
285年 阿花王没 405年 阿莘王没
294年 直支王没 420年 腆支王没
・・・ということです。
神武即位とは無関係で、あくまで百済王の年代が繰り上げられているという話です。
650 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 07:15:36
>>648 >橿原に築いた宮ってのは、それこそ藤原京の事と思う
なぜ、そう思うのですか?
651 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 07:51:12
>>649 紀での履中即位は400年だが、それがしの倍暦計算だと420年だ。だから仁徳
崩御に近い時点で 20年+α の段差だから紀の編者連は20年ばかりズラして
記載するとだいぶ向こうの古文献をあうようなので、大勢が20年の差があるので
あろう? それを見ると殆どが20年差であるから・・・。それより以前となって
くれば倍暦からの段差でそのくらいでは合わなくなり、120年差という干支合
わせでの調整を彼らは選んだようだ。
「宮(みや)」と「京(みやこ)」は意識して使い分けてくれるとうれしいな。
653 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 07:54:46
失礼 間違えたようだ。目が悪いじゃらな。そのころも120年でやってたようだ。 笑ってくれ。
654 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 07:58:38
論は視力の弱さから失敗した。ここで 120−20=100 百済っていう国名は、倍暦差で大略日本と100年余の段差があるからつけた国名 かね? 妄想が激しいかな? w
655 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 08:38:07
>>654 百済を建国した温祚王と十人の家来にちなみ、最初は「十済」といったそうです。
それから国が大きくなって「百済」と改めたとか。
656 :
横槍 :2008/01/01(火) 11:05:59
あけおめ ことよろ 仁徳に60年 神功に60年繰り入れを想定すれば、古事記とも近い年代になります。
657 :
ローガン :2008/01/01(火) 11:16:42
本年も宜しくお願いします。 年初にあたり、妄想を少々… イヨたんを、王とし、国を安定させたのは、大彦、吉備津彦、丹波道主でしょう。 名前から類推するに、もともと吉備、丹波、東海、北陸を本貫とする王族ではないでしょうか? 大彦の娘の入り婿が御間城入彦。然し書紀では崇神が派遣した事に書き換えたと思います。 もともと纒向の建設には彼ら、各地の勢力が参加した事は搬入土器から見てとれますね。 前方後円墳もそういった各地の勢力の融合により、産まれたものでしょうか。 ホケノ山、石塚等をステップとして、巨大古墳の箸墓が造られました。 ある程度の権力集中と安定を考えても良いでしょうか。当然、箸墓は王の墓であると思います。 然し、書紀では孝霊皇女百襲媛陵ですね。 彼女は崇神紀の中で死んでいます。… つまり崇神に先立つ女性王がおり、箸墓に葬られたが、その女王が皇統に繋がらない人物であった故に、記紀に記載されず、百襲媛陵とされたのではないかと考えています…。 長々と失礼しました
658 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 11:19:29
60年繰り上げたのは、それは向こうと日本の暦法の相違が露骨に古文献に 出た結果であり、当時は干支をよく使ったろうから、数年違えば漢字二個は いかめしいためまるで合ってないように見えてしまうため、合ってるように 思えるには同一干支として合致させねば疑問が拡大する。このことから同一 干支とできうる60と60の倍数の選択により紀の編者は修正したものだ。だから 彼らは苦労の結果の末だいたい合ってるんだろうと思っただろうが、倍暦不知 から大きく軌道をそれてしまったいたわけで、神武即位が前660年まで広がって しまっていた。これが真相なのである。当時原書内に、おそらくは神武即位が 倍暦不感知のところなるも、辛酉即位とあったことからこれを信用、採用 したということである。それがしの倍暦での干支計算は通常暦のご存知の干支 と違った年代対応となって来るが、神武即位年は倍暦計算でも辛酉を指すこと でそれが分かるのである。
659 :
古代 :2008/01/01(火) 12:06:31
657 つまり箸墓はイヨの墓ということでしょうか? 自分も皇女の墓とは思えない大きさなので疑問には思っていました。 実は崇神天皇の政治は百襲媛の神託で行っていたのでは?と思ったりもしましたが・・・ 吉備津彦は百襲媛の弟になってますね。 いずれにしても崇神天皇の御世が鍵にはなりそうです。
660 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 12:28:13
>>657 >崇神に先立つ女性王がおり、箸墓に葬られた
古事記では、モモソヒメの母としてオオヤマトクニアレヒメが登場します。
カムヤマトイワレヒコに負けないほど立派な名前です。
私も昔、オオヤマトクニアレヒメが卑弥呼だと主張したことがあります。
卑弥呼かどうかはともかく、彼女が箸墓の被葬者である可能性はあると思う。
661 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 13:10:32
古事記の安寧天皇の段から、オオヤマトクニアレヒメは淡路島で生まれたと思われる。 箸墓の前方部は、後円部から西南西、即ち淡路島の方角を向いている。 これは偶然か?
662 :
汽笛一声 :2008/01/01(火) 13:50:00
そうです。偶然です。
663 :
ローガン :2008/01/01(火) 13:50:57
>>661 前方後円墳の「前方部」をどのようにお考えでしょう?
私は作業通路と考えています。後円部分埋葬施設を造る際の通路及び、割り竹型木棺等、重量物の搬入路として、必然的に産まれたものと考えます。
そして完成後、盛り土により、封印されたって考えています。(近藤義郎先生の説を支持してます)
よって前方部分がどちらを向いているか、については作業性に関わる事であると思います。
664 :
汽笛一声 :2008/01/01(火) 13:59:13
ローガンさんのいうとおりです。
665 :
ローガン :2008/01/01(火) 14:04:19
>>659 畿内説支持者ですので、卑弥呼もしくは、壹輿の墓と考えています。ただ卑弥呼では、少し早いのではないかと…
又、壹輿が「国中遂定」王と書かれている事から、この時期に巨大古墳を造れるある程度の権力集中を考えても良いかな、と思っています。
666 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 14:04:51
国っていうのは隠せないし、畿内にあるなら二つの国がまずはくっつい ているわけで、それに関する記述文献がないところをみると、女王国は やはり九州だと言ってよい。ただモモソヒメは時代的には卑弥呼とかなり 合うようだ。彼女が九州に行ったのならば卑弥呼の可能性はありうるが? 〜何ともだ。箸墓は別人の可能性もある。 記紀に女王国の記載が独自にはないが、欠史八代の間において欠けてる 空白の部分に女王国の記載が記紀の原書にあったのなら 崇神即位元年=景初元年=237年 同崩御=259年 であるからして、崇神の年代ではまだ卑弥呼は生存しているため崇神世に 記載のないのは考えにくい。だから欠史八代の記紀の欠落は卑弥呼のため のことからの空白ではなさそうであり、これは大陸と日本の暦法の相違が あまりにも露骨であったために紀の編者連が困って調整できず書きこみを ためらったというのが真相のようだ。
667 :
汽笛一声 :2008/01/01(火) 14:22:18
邪馬台国は北部九州で、箸墓は伝承どおりヤマトトトヒモモソ媛の墓です。
668 :
古代 :2008/01/01(火) 14:44:30
663〜665 前方後円墳の前方が作業通路であるとすると前方部に埋葬品や副葬品のある古墳の説明がつかないですね。 もっとも同じ理由で祭壇説も否定される事になりますけど 箸墓が壹輿の墓だとすると卑弥呼の墓はどれなのか?ということになろうかと思います。マキムク遺跡の中で箸墓と周りの墓の大きさの差はあまりにありますね。 昔は箸墓は卑弥呼と何十年か年代が合わないとされましたが、今はギリギリ間に合うともみられているようですが、やはり無理があるようにも思えますね。
ikura
670 :
古代 :2008/01/01(火) 14:56:31
661 日本で最初に作られたのが淡路島ということですし、反正天皇が淡路宮で生まれたとありあますから(淡路島で生まれたかは不明) 淡路島を重要視していたというのはわかりますね。国づくりを手伝ったクスナヒコも淡路を通って常世の国に行ったとあります。 ただそうすると卑弥呼は淡路島出身ということになるのでしょうか?
671 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 15:00:58
>>663 前方部についてはいろいろな説がありますが、多くの前方後円墳の向きを調べないと意味ないですね。
そこまで調べる価値のあることか? とりあえず撤回します。
しかし、オオヤマトクニアレヒメについては、モモソヒメ並みに注意が払われてもよいと思う。
古事記ではモモソヒメは名前が出てくるだけで他に何の記述もない。
古事記の安寧天皇の段では、わざわざクニアレヒメの系譜が書いてある。
彼女の父(あるい母?)ワチツミノミコトは淡路の「御井宮に坐しき」と天皇のような扱い。
単に孝霊天皇の妃だったのでしょうか・・・
672 :
ローガン :2008/01/01(火) 15:12:14
>>668 造営時は、作業通路でも、盛り土後は当然葬送儀礼にも利用されたと思います。
前方部埋葬も結構ありますね。追葬でしょうね。おそらく…
陪塚の簡略…は言い過ぎかもしれませんが、主体部埋葬者にちかい人物を葬ったのではないでしょうか。
673 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 15:21:00
オオヤマトクニアレヒメは本名「蝿伊呂泥(ハエイロネ)」妹「蝿伊呂杼(ハエイロド)」 叶姉妹ならぬ「蝿姉妹」 蝿は昆虫ではなく、蛇を意味するようです。 同じく淡路島で生まれたらしい反正天皇は「蝮之水歯別(タヂヒノミヅハワケ)」 蝮はマムシ。長身で歯が見事だったと書かれています。 蝿姉妹も同様の身体的特徴(長い体と鋭い歯)があったのでしょう。
674 :
古代 :2008/01/01(火) 15:50:16
淡路島には式内社倭国魂神社があります。 書記によりますと倭国魂神は最初天照と共に宮殿に祀られていましたが、タタリから他の地にに祀られますが倭国魂神は受け入れません。 大物主と共に三輪山に祀ると国内は治まった。とあります。 大倭国阿礼姫の名前に蛇がついていることや倭国魂神が大物主とともに三輪山に祀られている事などをかんがえると出雲系の人だったのかも知れないですね。
675 :
横槍 :2008/01/01(火) 15:51:52
箸墓は、何も一人の墓とはかぎるまい 歴代巫女の墓だったかも知れないし、共同墓地だったのかも知れない。 円筒埴輪には、花が生けてあったかも知れないし、それぞれその下に遺体を安置 したのかも知れない。
676 :
愛知県民 :2008/01/01(火) 19:09:35
>>674 淡路国の二宮、大和大国魂神社ですね。
淡路は大和とただならぬ関係があったらしい。
倭大国魂神も渟名城入姫命にはタタるのに、珍彦の子孫・市磯長尾市にはタタらないのも変です。
ヤマトといいながら、瀬戸内海の神だったのだろうか? 不思議。
677 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 20:13:21
678 :
汽笛一声 :2008/01/01(火) 20:32:28
箸墓は造営時にはヤマトトトヒモモソ媛一人の墓です。 そのご誰かを埋葬したかどうかはしらないが。
679 :
古代 :2008/01/01(火) 21:43:06
淡路の倭国魂神社は大和からの分霊のようですね。 渟名城入姫命に祟った後、倭氏の市磯長尾市宿禰に祀らせて落ち着いているところをみると元々は倭氏の神だったんでしょうか 倭氏の祖、宇豆毘古は神武東征の道案内を務めた海人ですね。やはり海と関係が深いのかな?なぜ倭なんでしょうか?
680 :
【神】 :2008/01/01(火) 21:44:46
たしかホケノ山には後世の追葬があったんだよね。 6世紀頃だったはず。 その頃は、自分の先祖の墓は分かっていたのだろうね。
681 :
横槍 :2008/01/01(火) 21:53:44
>>678 こうは考えられないかな
箸墓は最初、卑弥呼が葬られ、その後、壱与等巫女達が葬られた
モモソ媛が最後に葬られ、神功が合葬を禁じた。
682 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 22:25:23
モモソヒメが皇統から外れる女性になるから記紀が記載を省いたとか 記載をしなかったとかいうなら、箸墓のように天皇かそれにに近い 大きさの墳墓なんか造ることもなく、もっと小さめに造るだろうから、これはおかしいということになる。あんな大きく彼女の墓をこさえ るなら、彼女は皇后級の地位の筈で皇統からよそ者的にはならない。
683 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 22:32:41
684 :
古代 :2008/01/01(火) 22:39:02
崇神の世には多くの要素が絡んでいると思われるので整理してみたいと思います。 1、大和内では疫病や反乱があり、天照を檜原神社、出雲系の大物主を三輪山に祀ることで大和は上手く治まった。 2、大和外ではまだ騒乱があったので、四道将軍を使わした。それとともに出雲を祀っていた出雲系氏に代わって天孫系に祀らせた。 大和国内に出雲系勢力があり、しばしば反乱を起こしたので彼らの神である大物主を祀り、その豪族大田田根子を祭司とすることによって治めた。 一方大和国外では出雲の祭祀権を大和朝廷が握ることによって支配力を強めた。 しかしながら以下の点が疑問である。 古事記では大国主と大物主が別々に登場し同一視はされていない。つまり大物主が出雲系とは断定できない。 つまり古事記を読む限りにおいて出雲系の神であるとは断定できず、海を照らしながら現れている太陽神のようなイメージである。 ところが日本書紀において実は大国主の幸御霊、奇御霊であり、モモソヒメの説話でその正体は蛇であったと明かされる。 ここに至って出雲系の神である大国主の荒ぶる神としての部分は排除された大物主が誕生し大和に繁栄をもたらす神となる。 古事記では崇神の夢のお告げであったものが書記ではモモソヒメの神託に変えられており、書記ではモモソヒメは巫女的な女性として登場し、死ぬ。 日本書紀にはモモソヒメの母倭国香媛の出自が書かれていない。つまりモモソヒメ自体の出自も謎であるが、古事記には倭国香媛が安寧天皇の孫である旨が書かれている。そのかわりモモソヒメは活躍は見られない。 天照・倭国魂神にそれぞれ皇女を遣わしたのに倭国魂神は気に召さず市磯長尾市宿禰に祀らせた。 つまり天皇家は倭国魂神の祭祀権は獲得できなかった事になる。これも疑問である。 大和説ではこの時のモモソヒメ=卑弥呼・天照に仕えた皇女豐鍬入姫命=臺與説もありますね。
685 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 22:40:20
仁徳天皇陵と呼ばれる古墳は、実は仁徳天皇の墓ではないという説もある。 箸墓は、倭迹迹日百襲姫の墓だが、奈良盆地の桜井市にあるあの古墳は、 箸墓ではないという説もあるらしい。 つまり、あの古墳は倭迹迹日百襲姫の墓ではない可能性もある。 一介の皇女の墓としては大きすぎる、たぶん大王と呼ばれる人物の墓だろうと。
686 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:03:33
>>683 それがしが言ってるわけだが、誰かまだいるかも知れん??
687 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:10:21
>>685 仁徳陵のほうは疑念は必要ない。世界最大の陵墓が天皇以下で
あるわけがない。天皇以上の人物が畿内にいたとはとても考え
にくい。それに記紀も百舌の耳原にあるとあったはずだ。だから
記載が一致している。それに十六菊と16代の代数も一致しているから
世界最大は当然と言える.
688 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:12:25
689 :
古代 :2008/01/01(火) 23:13:56
普通は一介の皇女が死んだのだったら父の墓とかに埋葬されるんじゃないでしょうかねえ。
690 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:15:49
>>687 再訂正 すみません。
× 天皇以上の人物 ○ 天皇を超えるより上級の人物
691 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 23:18:52
このスレと言うか板では「東遷説」がかなり有力なんだよね? 邪馬台国が東遷しヤマト朝廷の元になったと言う説であるなら 巻向との関係はどうなるの? 巻向の年代確定によってその誕生からタッチしていたか… それとも九州の邪馬台国と巻向が平行して存在していた時代を経て 既に誕生していた巻向に邪馬台国が乗り込んだ形か… いずれにせよ巻向から発掘された搬入土器に九州の物の割合がかなり少ないと思うのだが? そこらへんはクリアする妙案はあるのかい?
692 :
横槍 :2008/01/01(火) 23:19:13
モモソ媛=卑弥呼が成り立たない事は明らか 書紀だけ読むとそのように感じるかも知れないが、古事記その他の文献では 活躍しない。 つまり、無視される程の歴史上マイナーな人物
693 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 23:20:39
出雲というのはやっぱり何かあると思う。 天つ神、国つ神という言い方をすれば、出雲は皇統とは関係ない国つ神なのだが、 記紀の出雲の扱いはあまりにも大きすぎるような気がする。
694 :
【大吉】 【651円】 :2008/01/01(火) 23:27:27
モモ姫は天皇の実子だから血統は王族の頂点だろ。 しかも、出雲神を祭って泰平をもたらしたと信じられていて、 謀反の予知までしたのだから、あれだけの陵墓があってもおかしくない。 伝承とおりに大坂山の石が葺石に使われていることから見ても モモ姫の実在と箸墓の被葬者としては十分な裏付けがあるよ。
696 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 23:29:59
>>687 仁徳天皇ではなくて他の天皇の可能性もあるという意味。
だから、最近では大仙陵と言われるのでは?
697 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:30:22
>>694 箸墓には他に当時?の墓が他にあるんだろう? そうなると
そっちのほうも墓はその石でないのかなぁ?
698 :
横槍 :2008/01/01(火) 23:31:24
>>689 そうとも限らない
例えば、巫女が自殺したり暗殺されるような衝撃的事件があれば、崇りを恐れて
盛大に奉る事も考えられる。恐らく霊力の強い人は、大げさに奉られたのでは?
>>687 そうとも限らない
大宰府八幡宮は、天皇を奉ったわけではないし
699 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:32:53
>>696 心配ない。その可能性はないよ。16数が最も天皇には大事だからな。
履中、反正陵も隣りどうしだしな。
700 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:37:22
>>698 天皇の墓が最大なのは当たり前。他に当時それを超える朝廷以外
の天皇より上級の大王なんぞいるわけがない。世界最大の墓が
武士、百姓のわけがないだろうが。ww
701 :
古代 :2008/01/01(火) 23:42:48
694 モモソ姫は頂点の血統とまでは言えないのでは?モモソ姫の母の身分は妃で皇族出身で血統はいいが、皇后ではなかった。 698 普通は祟りを恐れるのであれば神社を建てますよね。それこそ大物主を祀ったように。平将門神社とか。 古墳を盛大に祀るのとはまた違うのでは?
702 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 00:07:12
>>691 重要な問題提起だと思います。
「邪馬台国の東遷」という言い方は適当ではないと思う。
神武伝承が東遷の記憶であるとしても、神武は邪馬台国の「おちこぼれ」だったかもしれない。
ちょうど源頼朝が伊豆に流された罪人であったように。
国家単位の大移動というほどではなかったのではないか?
703 :
横槍 :2008/01/02(水) 00:11:22
>>693 崇神が大国魂を大和から追いやるまでは、
出雲系に頭上がらなかったからね
704 :
汽笛一声 :2008/01/02(水) 00:25:47
>>692 モモソ媛=卑弥呼は成り立たないことは明らか
確かに。しかし、卑弥呼を意識していた可能性はある。
705 :
ローガン :2008/01/02(水) 00:28:03
>>691 そうですね。東遷説を支持される方にお訊きしたい所ですね。
706 :
古代 :2008/01/02(水) 00:39:00
土器の広がりから考えた場合。最初に九州。次に九州と吉備の二大勢力が来て、新興勢力の畿内が二つを制圧した。
707 :
横槍 :2008/01/02(水) 00:51:40
>>704 書紀では、モモソ媛に近い時代に怪しい媛や女王が何人も出てくるね。
書紀を編纂した初稿では、モモソ媛(崇神の時代)は卑弥呼に近い時代に設定されていた可能性
があるね。
708 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 00:57:02
>>691 東遷説からすれば、纒向は、卑弥呼の後。だいたい4世紀になる前後に始る。
以前は、考古学的にもそれでよかったのだが、最近はもっと古いという人も
いる。そうなると、あなたのように、纒向と卑弥呼の前後関係という問題が
出てくる。
そこを狙っている人もいるんじゃないかな。
でも、纏向遺跡というか庄内期の始まりについては、意外に難しい。
今まで何度も議論になっているが、庄内期が遡るとする根拠がいま一つ
わかりにくい。
年輪年代法などが議論されるのはそこなのだけど。
709 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 01:03:38
>>706 その制圧が、景行天皇の九州遠征でしょうか。
しかし、景行天皇が九州で、何の感動も見せていないのは何故だろう?
日向に来たとき、「ついに、父祖の地にやって来たのだ・・・!」とか、
先祖の墓参りをするとか、それらしい記述があってもよいと思うのだが。
710 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 01:05:59
>>699 >16数が最も天皇には大事だからな。
あのー、もしもし?
そもそも日本書紀とかでも
「第○代 ○○天皇」とか書いてある訳じゃないんですが?
マヤとかアステカとかから電波でも飛んできているんですか?
711 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 01:15:42
>>709 そりゃ征服しにきたんじゃなくて反乱鎮圧(まつろわぬ者を服従させる)ためという名目の巡行だし
712 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 01:36:55
>>708 まあ中には「2世紀には纏向はできていた」って豪語する人もいるとも聞くけど
流石にそりゃフライングしすぎなんだろうなとw
でも「纒向と卑弥呼の前後関係」と関り無くやっぱ搬入土器における
九州のウェイトの低さは東遷説には相当不利なのでは?
ぶっちゃけ世間一般じゃあ「東遷説」なんて珍説奇説とまではいかずとも
かなり影が薄くなっていると思うんだけど、それも考古学的成果を踏まえての事では?
それとも単なるトレンドとか?w
713 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 01:58:58
土器と権力の関係はどんなものだろう。 古代の土器は女性が作っていたと考えられているようだから、土器の移動は 女性の移動といえるかも。 銅鐸の製造・祭祀の消滅という問題もあるわけだし。 突然の銅鏡の普及もある。特に面白いと思ったのは、奈良盆地でも、大型の ホウ製内行花文鏡が見つかっていること。これは平原と同じだと思う。 畿内がある時期劇的に変化しているのは事実で、それをどのように説明するか。 畿内説では難しいが、東遷説では容易で、自然に考えると、東遷説になる。 記紀もそれを裏付けていると思われるわけだし。
>>699 江戸時代なんかは神功皇后を15代の天皇と数えていたんですけど…
そうするとズレますよねぇwww
大乃国さんは数字馬鹿ですか?
715 :
横槍 :2008/01/02(水) 02:36:10
そうだね、宋史日本伝でも神功天皇になっているね
以前は300年頃からとされていた庄内式を古く見るようになった経過には かなり問題がある。 最初は、庄内式が出た平原の年代を決めるときに、後漢末から魏晋の鏡が 出ていないという理由であれを200〜250頃とした。それで庄内式を突如 100年遡上させて200年頃からとする説が九州で始まった。 しかし、その当時は、古墳時代は300年以前には遡らないとされていて ほぼ全部が古墳から出土する三角縁や画文帯で300年以前に確実に遡る 事例もなく、魏晋鏡も大多数が古墳から出土していた。 平原は方形で周溝と墳丘があり、割竹型木棺で、大半が国産鏡で、超大型鏡 の類例は古墳時代にしか存在せず、古墳時代直前頃から使用される庄内式が 出土している。・・・これを素直に見れば、300年頃にするべきであった。 しかし、庄内式を100年遡上させて、その年代で鏡年代も遡上させるという 循環論法がその後に始まったというのが、現実の流れ。
717 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 07:41:01
>>710 口をつつしめ。そんなもの数を数えればわかる。いいか仁賢などは億計尊と言っ
てMマヤに準じて億の計算なんかお手のものだ。お前の知識の狭小を恥じろ。
718 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 07:47:53
>>714 お前も口をつつしめ。天皇は皇后ではない。代数に入るわけがないだろう。女帝
は推古からだ。そっちは当然数には入る。神功がどこに即位したと記紀に書いて
あるんだ? 江戸時代? お前大成経の読みすぎか〜?
お前の言い分だと今の天皇は宮内庁は125代でなく126代だと言いだすはずだ。
宮内庁は馬鹿なのか? そんなことはあるまい。ふざけるのもはなはだしいぞ。
719 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 08:05:13
>>714 馬鹿だとぬかすお前はどこに即位したと記述があるのか早く説明しろ。
即位がなくて +1代 になるんならお前も現今即位してないからこれまた
お前も天皇になるではないか〜? www
720 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 09:06:36
>>713 >畿内がある時期劇的に変化しているのは事実
記紀でいうと、崇神天皇がそれに当たります。
疫病大流行による人口激減、そして四道(記では三道)将軍により多数の人々が連れてこられた。
特に東海方面から多くの人が来たらしく、考古学とも一致する。
これに対して神武東征は、ドラマチックに書いてある割には闕史八代が続くなど不自然。
神武は九州出身かもしれないが、やはり大規模な「東遷」はなかったと思う。
721 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 09:22:27
あの〜太国さん、第39代弘文天皇(大友皇子)も日本書紀に即位の記述はないのですが・・・
722 :
古代 :2008/01/02(水) 09:29:35
やはり土器の流れからすれば大和が出雲、北九州を制した。が自然だとは思いますが 例えば九州から大和に高い知識を持った人が来て大和の民を支配し繁栄した。だから九州式土器は広まらなかった。と考えますと、 これだと東征の説明はつくものの出雲→大和に国譲り→東征という流れとは合わない 出雲から来た人たちだったとすると東征は大和から東海への東征になってしまう。 いずれにしても記紀とは上手く折り合わない気がしますね。
723 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 09:54:48
>>722 >東征の説明はつくものの出雲→大和に国譲り→東征という流れとは合わない
「大和に国譲り」ですか?
出雲と北九州の関係はどうだったのでしょうか。
日本書紀によると崇神天皇のとき、出雲振根が筑紫に出かけた留守を狙って神宝を奪っています。
大国主の国譲りは北九州で、崇神天皇のとき、大和に乗り換えさせられたのだと思います。
724 :
古代 :2008/01/02(水) 10:22:22
723 すみません。大和に国譲りは変ですね。 出雲系が出てきた時には北九州との交流は見られませんね、敵対していたかもしれません。出雲系では少数畿内のものがあります。 崇神天皇のとき、出雲振根が筑紫に出かけた留守の時に弟が勝手に神宝を差し出したので出雲振根は弟を殺し、差し出した者を殺すとは何事かと大和が出雲振根を殺しますね。 その後大国主を祀らないのも恐れ多いということで大和から祀る人を派遣しています。 物語的に書かれていますが、要は大和朝廷は出雲の血脈を殺し、大国主の祭祀権を支配することで出雲を支配しようとした、と見ることが出来ると思います。
725 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 10:59:41
>>721 まったくあんたはそんな表見的なことを言ってはいかんよ。
弘文天皇は忍びの者関係だよ。即位をその者のみは秘匿的意味で例外だ。
大友王子は別名を「伊賀」というのだ。
>>725 そ、そうきたかwww
てっきり天武天皇云々て言うのかと思ってたです
727 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 11:58:38
神功皇后が天皇であるというのは、神功が卑弥呼であるというのと同様に、 古代の古文献の編者らのやむをえないデムパに根ざすと言ってよい話である。 そのデムパを受け継いで神功が天皇であると信じちまう無防備脳の持ち主が 現今にもいる。大成経などは古代天皇の姿をべらぼうに誇大化しており、一見 して誇張であると想える。こういうんだから神功を天皇に恣意的に格上げ することは十分ありうることであり、アマテラスが男神などというのもこれに 準ずる間違いだと言える。 景行世に卑弥呼が生きていたということは考えにくく、崇神世までの生存 である。もし卑弥呼が景行の時代に畿内に生存し、その時代にマキムクで 死んだというんなら、卑弥呼没での殉死者は百人ばかりいたそうであるが、 垂仁世で殉死はむごいということからか廃止して埴輪代用となっていること からして、巻向での殉死もあってないことだろうし、景行の朝廷と競合しちゃう からますますありえないということになる。唐松山氏は九州が卑弥呼の土地 だと表では主張しているが、内心は畿内説を捨ててないんではなかろうか? とそれがしは疑念を持っている。
728 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 12:27:35
弘文天皇っていうことでの日本書紀の中に章はなかったと想うが〜? 記載が 消えてるのか?? 伊賀者天皇の「紀離隠れ」の術だ。
729 :
横槍 :2008/01/02(水) 12:44:49
倭人伝を読むと、伊都国から邪馬台国までの距離が書かれていない事から 少なくとも北九州に邪馬台国があったとするのは違和感があります
730 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 12:52:56
>>722 土器と政治的なものは分けて考えるべきだと思うけど。
吉野ヶ里遺跡に行ったときも、近畿地方や山陰地方などの土器が並べて
あったし、熊本県の遺跡からも各地の土器が出ている。
これを政治的な観点から見る人はいないわけで、近畿地方の遺跡の土器だけが
そういう政治的な観点で見られているように感じるのだが。
731 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 13:18:13
大乃国って真性のうましかかよ 本当に神武から16代なんて当時認識していたとするのは疑問だって 話なのにw
732 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 13:22:06
>>731 たわけたことを言うな。神武以前でも八百万神とか大数を使って
いる。16くらいの数が数えられないなどと、お前の貧弱な脳内の働き
活発でのウソ八百だ。
733 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 13:25:00
>>731 数字を数える能力があったかどうかではなく、
為政者自身が、自分が何代目かというのを系統的に理解していたかは
はなはだ疑問だといっているのだよw
734 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 13:26:26
>>733 数字が数えられればそんなことは容易だよ。お前は小学生のときに出来なかっ
たのか??www
735 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 13:39:05
大乃国は自分の16代祖先がわかるのかw きっといい家の出身なんだろうなw
736 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 13:42:05
>>729 伊都国から邪馬台国まで水行なら十日、陸行なら一月。
ただし、距離が数倍に誇張されているのと同様、日数にも誇張があると思います。
もし誇張が無いのなら、一月も歩くのにその間の国々の記事が無いのは奇妙です。
誰を王統の初代と認識するかと言うことだろう。 狭野だか毛沼だか火火出見だかいろんな初代が居たと思うよ。 そして、それが六世紀末くらいに統合されて今の記紀系譜ができた。 そういうことだから、大鷦鷯天皇が16代と言うのは当時の共通認識だね。 でもね・・・・菊って外来植物でさあ、8世紀に薬草として輸入されたんだよねw
738 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 13:47:21
いいか神武〜仁徳くらいははっきりわかるよ。余が神武から今上まで 全部125代言えるぞ。天皇は稗田阿礼よりは記憶力が優れていたか そこまでは分からんが、後代の阿礼だって推古まで知っている。 余の先祖との比喩は関係ないだろう? 八景島のあしかだって訓練して文字がかけるんだ。w 16位父子 継承だからそのくらいは出来るよ。蜂だっていろいろ8字とかで 16mどころか数百mの蜜のあり場所を位置を仲間の蜂に教える。 お前の脳内が見聞未熟でできないから、そんなことをぬかすわけだ。
739 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 13:50:21
倭の五王だって記紀とは系図が一致するかどうか怪しいのに。 大乃国は十六枚の菊紋という先入観があるんだろ。 皇室が菊紋を設定したのはいつだよ、ってそもそも菊は日本産の植物じゃないだろw
740 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 14:00:16
>>737 >それが六世紀末くらいに統合されて今の記紀系譜ができた。
>そういうことだから、大鷦鷯天皇が16代と言うのは当時の共通認識だね。
だから百舌鳥耳原の大仙古墳を築造したとき
彼は16代だから、16にふさわしい大陵にしよう、なんて発想ではなかったと思うんだが。
741 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 14:02:05
宮内庁にに電話でいいから聞いてみろ。神功は代数に数えていない。 16代は仁徳だと回答するよ。それとも庁の連中もデムパなのか?w 三毛沼命、稲氷命は外国等へ行っているし、タジマモリなどは外国 から帰って来てるし、新羅王子の帰化等もあるから外国の情報は 当時でも日本に入る。日本にまだ菊ががないから菊の話が朝廷で出来 ない、知らないなどとということにはならない。余もアメリカには 行ってないが外国から日本での情報流入でそんなことは覚知でき る。日本に入るのが遅かったから日本人が知らないなどと判断するのは、そういうことを抜かす奴の貧弱な豆脳が即興で噴出させる笑い話 的考察なのである。www
742 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 14:12:50
>>741 太国 ◆yVAs7uaYlY
つうかおまえが宮内庁に電話して
「十六葉八重菊は天皇にとって聖なる数故に十六葉なんですね
仁徳も十六代という事でアレだけ巨大墳墓になってますし…」
って聞いてみろキチガイw
そもそも菊紋を十六葉にせにゃならんのなら菊紋より古いとされる桐紋がなんで
十六葉(花弁?)でないんだ?アホw
つうか「五三の桐」でも「五七の桐」でもデザイン上、奇数でしかありえないがwww
743 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 14:27:14
>>742 頭に乗るんじゃねぇ。桐はいまは関係ない。話をそらすのか? ならばお前も
もうおしまいだな。できそこないになるなよ。www
仁徳の次代は履中であるが、後者の天皇はイザホワケと云う名だ。イザとは
イザヨイ(十六夜)でわかるように16数の意味なのだ。仁徳自身が16代と知って
たからこそ次代の皇子にこの名をつけたのだ。イザホワケとは「十六穂別け」と
いう意義で、菊の穂(この場合は菊の花弁)の数の16満了で以後と明確に分別
させる為名づけた意味の名だ。履中世には非時果花の記録が紀にあるのは表面
は別の果花だろうが暗に十六菊を示唆していることになるのだ。
>>740 > だから百舌鳥耳原の大仙古墳を築造したとき
> 彼は16代だから、16にふさわしい大陵にしよう、なんて発想ではなかったと思うんだが。
私が書いた「当時」と言うのは「六世紀末くらい」のことだよ。
別に大仙築陵時のこととは書いてないだろう。
それくらいは読み取ってくれよw
ついでに言うと明治期の出土物(須恵器の編年とか)等から見ると、
逆に息子の履中陵とされる上石津ミサンザイの方が古いと考えられる。
ただし、10世紀の延喜式では、大仙が仁徳陵として認定されており、
そのころには、それが確定した認識であったようだ。
745 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 14:46:00
あのお、すごく基本的な質問なんですが、 太国さんは神武から仁徳までが記紀通りに実在したと信じてらっしゃるんですか?
746 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 14:51:05
>>745 拙者は津田病患者じゃないからな。阿礼の舎人親王も在るって言ってるわけ
ではないか? 創作なら彼らは公文書偽造で身が危なくなる。ただし神武以前
は年月日が殆ど記載ないからどういうんだか不明だね。
747 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 14:52:03
訂正 ○ 阿礼も舎人親王も
>>743 16は当て字。
十六夜(イザヨイ)の「イザ」は「16」のことじゃないだろうw
十六夜は、望月(十五夜)よりも月が出遅れることから
出をためらう月、いざよう(「ためらう」の意を表す古語)月、
それが、いざよい月、いざよいとなったと言われている。
別に16に「イザ」なる読みがあるわけじゃない。
十七日、立待月(たちまちづき)
十八日、居待月(いまちづき)
十九日、寝待月(ねまちづき)
二十日、更待月(ふけまちづき)
日本の伝統的な月名だけど、
17に「たちまち」、18に「いまち」と言う意味があるわけじゃないよね。
749 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 14:55:53
>>743 太国 ◆yVAs7uaYlY
だからそれだけ16に拘って紋のデザインも16葉にするなら
他の紋も何故そうしないと言う必然性の話だよお馬鹿君w
つうか菊紋以外の紋知らなかったんじゃねえのか?
知っていても完全に失念していたとか?
正直に言ってみなさい、先生怒らないから、まあ笑いはするだろうがwww
ちなみに「イザ」が16ならイザナギ・イザナミのイザも16なのかね?w
750 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 15:39:24
745です。返信ありがとう。確かに神武以前は典型的な神話譚ですからね。 で、16代以前の天皇の在位などの年代についてはあまり信をおいてないように感じられたのですが、 どうでしょうか?かつて鳥越憲三郎さんが「神々と天皇の間」で論じられた葛城王朝説のような、モデル論なのでしょうか?
751 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 15:45:14
>>744 ちがうちがう。俺は正月○鹿の意見は正しいと思う。大乃国の
>>687 が先入観ゆえの発想だといっているんです。
ごめんね。
752 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 16:59:29
おや、荒れてますねえ。
太国さんはどこまで洒落で、どこから本気なのか分かりにくいです。
>>728 これは洒落ですよね?
>>736 に横槍さんの回答は無いですか?
まあ、行程論は泥沼になるような気はしますけど。
753 :
唐松山 :2008/01/02(水) 17:25:17
崇神世 推定 崇神は 開化天皇が 早く死んだ為 4,5歳の即位 崇神5,6年凶作 6年は 田植えにも失敗した所も有った。西暦193年新羅では 4月に1尺の降雪 6月には倭人押し寄せる。 6年秋 大国主等が 大和を訪れる 崇神は宮を建てこれらの王を宮に移す。 国譲り 7年 大彦を 越の主とする (これまで越が天皇家の支配地で有った記録なし) 流動化した 民の南下を食い止める為。 10年 6年の飢饉により減少した 農奴の補充の為 四道将軍を編成 冬各地に派遣 11年春 異俗多帰。国内安寧 畿内静謐 畿内に乱はありません。 12年 翌年は17年 17年 冬十月。始造船舶 大きくなった 支配地の上納米の運搬のため 崇神は 子作りの 年齢になる。 48年 立活目尊為皇太子 15才位
754 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 18:06:12
>>748 「十六宵」でいい。イザっていうのはイザナギ、イザナミでの神名であるが、
これはイザというときと言うように、危機切迫の時の意味だ。黄泉の国での双方
の神の取っ組み合いを想起するケンカ別れになることを孕んだ御名である。
八雷神の数字の倍が16だからな。16雷神ではイザナキ命がたまらんのだろう。
しかしあまり言いたくはないイザナミ命の祟るのは露骨なんだぜ。この話を克明
にやってるとやられてしまうことがある。余の過去に論文の関係でか美神立腹
かで??余も硫黄泉とかでこれで大火傷を負ったことがある。お前も口を慎ま
ずへらず口をたたいているととんだ目に合うやも知れんぜ。〜やめたほうがいい
と思うがねぇ〜。余もやられてるんだよ。
>>749 それはそうしないのが当たり前だよ。お前の紋所が菊の紋でも葵の紋でもない
だろう。そっちの紋はこの際関係はない。また話をそらしてるな。そうだろうw
中飛車でこられて勝てなければお前の狭小豆脳は別に花札wwを出してどうの
こうのと能書き勝負を挑なけりゃぁならんわけだ。www
再度言うがお前の家の紋所は関係はない。ハハッ、お前んところは頭の青い紋所
かな〜?? www w ww
お前、少し左党を舐めてんだろう? えらくずうずうしく古神道を舐めた口ぶり
だからな。16座は金剛不壊であり、お前が撹乱しようとしても破壊することは
できないぜ。一系無窮とともに古神道の根幹だからな。
755 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 18:10:26
もう呑んでるのか? 太国は?w
756 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 18:11:37
>751
先入観? 16数は古神道の理。さらには皇道の理。
>>752 愛知県民さん
ちょっとは洒落になってますな。大友さまは伊賀者ですよ。
757 :
ローガン :2008/01/02(水) 18:13:39
>>736 横スレ、ご容赦を。
>水行なら十日、陸行なら一月
イエイエ、水行20日で投馬国そこから、水行10日+陸行1月で女王の都ではないですか?
郡使は伊都国に滞在し邪馬台国迄は行かなかったのではないでしょうか?行っていれば、「男子給食」や「男弟」等と記述せず、名前なり役職の記載があると思います。
郡使は途中の国の副官迄把握している訳ですから…
伊都国について少々…
一大率についての記述がありますね。「於国中有如刺史」
刺史の性格を考えれば、北九州は倭国の「首都圏」では無いと云えます。
758 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 18:16:21
>>755 16数のところ、馬鹿だ1個多いとか少ないなどと勝手なことを言ってることは
美神の心の琴線に触れることなんだよ。だから謹んで注意をしろということだ。
759 :
横槍 :2008/01/02(水) 18:31:49
>>736 出かけていたので遅レススマソ
水行20日、水行10日陸行1月は、それ迄の里数を記した資料とは別の資料に
よるものと考えます。里数の記された資料は、伊都国までの紀行文。
日数の記録された資料は邪馬台国までの紀行文。
結構、資料もいい加減ですが、陳寿の編集もいい加減だったようです。
760 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 18:37:13
>>754 太国 ◆yVAs7uaYlY
おいキチガイ、紋の話は当然天皇家の紋にかぎっての話(具体的には桐の紋)だ。
俺が家紋のデザイン一般の話をしている?
もう少しまともに話の流れを読め。
それとも薬が切れてしまったのか?w
まあキサマがどうほざこうが当の記紀に仁徳を第十六代として特筆する記述が無い限り
所詮キチガイの戯言に過ぎないwww
悪い事は言わない、この際、沸き立って泡を立てている硫黄泉の源泉に頭から突っ込んで氏ンどけwww
761 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 18:49:59
>>757 連続式で畿内ということですね。
行程から見れば、畿内とは考えられません。
@方角が全く異なる。
A末盧国に上陸した後、邪馬台国まで海を渡っていない。
B女王国の東に海を渡ると、別の倭種の国があることが説明できない。
763 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 18:55:46
>>759 いい加減な資料・編集であれば、否定の根拠にならないのでは?
>>757 横レスの又横ですが
> 郡使は伊都国に滞在し邪馬台国迄は行かなかったのではないでしょうか?
> 行っていれば、「男子給食」や「男弟」等と記述せず、名前なり役職の記載があると思います。
> 郡使は途中の国の副官迄把握している訳ですから…
郡使や勅使が邪馬台国まで行ったかどうかと言うことと、
そういった報告書のどの部分が倭人伝の記述として残っているかは別問題では?
私は倭人伝は、部分部分の文体の違いから複数の文章を引用していると考えます。
郡使は邪馬台国まで行って「男弟」の名前を記録したけれど、
或る資料では、字数制約などで、それを省略して転記したかもしれません。
例えば狗奴国王名は書かれていても伊都国王や卑弥呼の前後の男王の名は書かれていません。
「郡使報告書」なる一次資料が存在したとして、それを利用した二次資料、三次資料も存在する
ことは普通のことだと思いますが。
765 :
横槍 :2008/01/02(水) 19:16:10
>>763 帯方郡より出雲・・水行20日
出雲より大和・・・水行すれば10日陸行すれば1月
東の海は、瀬戸内海なのか、伊勢湾なのか不明
766 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 19:24:23
>>765 伊勢湾では、海を渡りません。
「海岸にしたがって水行」または、水行・陸行が併記されるはず。
陸行水行のお話は無限ループしているんだろうなw スレの趣旨に沿って卑弥呼のお話をふってみるけど… 東遷論者って「アマテラス=九州邪馬台国の卑弥呼」って比定する人が多いと思うんだけど じゃあ、なんでそれを伊勢に奉るようになったのか? …その理由が良くワカラネw
768 :
横槍 :2008/01/02(水) 19:55:17
>>767 俺も良く分からんが
山門の東の海に宇佐八幡があり
大和の東の海に伊勢神宮がある。
地形も似ている気がする
769 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 20:08:49
>>768 宇佐八幡は、アマテラスでなく比売大神を祭っている。
宇佐八幡の伝承では宗像三女神と伝えられている。
卑弥呼は比売大神=宗像三女神と思います。
770 :
後槍 :2008/01/02(水) 20:18:28
>>768 > 山門の東の海に宇佐八幡があり
> 大和の東の海に伊勢神宮がある。
神宮は、大和、丹波、紀、吉備、伊賀、淡海、美濃、尾張と変遷して今の伊勢に落ちついたんでしょう。
吉備とか丹波は東方じゃないし、淡海、美濃も内陸地だよ。
たまたま、今の場所が東方の海辺だというだけでしょ。
771 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 20:21:09
古代邪馬台国は宇佐神宮で復活する!
772 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 20:32:05
>>760 お前もそろそろ支離滅裂になってきたようだん?ww
そうだろう?ww菊の話が桐の離しになってきてそのうちお前の
家の頭の青い御紋のほうに鋭利関心が行くようだぜ。ww
だいたい開かずの間の16数のタブーに平気で挑む怖い物知らず
だからな。そのうちお前も懲りて念愚の汚覚めどきが目前だな。ww
まぁ〜お前の豆脳は精神科で見てもらったほがいいだろう。
それがいい、それがいい www
773 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 20:37:18
>>762 君の博識はなかなかだ。それはそれでいい。だったらだ、「十六夜」
なるものを別の読み方にするだろう。そうでないということはだ、
暗にイザを16としたい古代人の言葉なわけだよ。
774 :
横槍 :2008/01/02(水) 21:07:32
>>770 この場合なんで伊勢の地に落ち着いたのかが問題じゃないのかな?
というかそのコテ、コテコテ過ぎるのでやめてもらいたい
>>773 > 「十六夜」 なるものを別の読み方にするだろう。
> そうでないということはだ、
> 暗にイザを16としたい古代人の言葉なわけだよ。
何が言いたいのか全くわからないんだが・・・・
16を「イザ」と読む根拠とか
大仙古墳築造時の日本に「菊」が定着していたかどうかの話をしてくれないと
論が進みませんが・・・・
ああ、そうですか、進ませたくないわけですか。
776 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 21:18:26
>>775 そんならば仁徳陵はどこかのだれかの墓だとふんぎれないわけだ。
ならばそいつの理由を書きこんでくれ、こっちはかなり説明はやって
いるよ。た〜だ疑惑をしたところでそのはかにふさわしい人物が
いるのかいな?? まさか平成天皇の墓となるいまだ無人の墓では
あるまいが。w 当時前後の天皇だというんなら誰が硬いだね?
>>776 他人にも分かるように、内容も吟味して書いてください。
大仙古墳のネタが始まったのは今日のことでしょう。
たった数レスのことなんだから、話の流れを変えないで、
もう少し落ちついて、真摯に応えてください。
ちなみに私のレスは>737 >744 >748 >762 >775 ですよ。
772 太国 ◆yVAs7uaYlY >だいたい開かずの間の16数のタブー なんだそりゃ「菊のタブー」の別名かね? 右翼にでも刺されるのか?w ちなみに秋篠宮でも三笠宮でも天皇皇太子以外の宮家の紋章見てみろ、16葉以下の菊紋だから。 まあ明治の法律で規定されたことなんだが… なんの事はないそうやって葉の数も弄られているって話だw この件に関して太国ちゃんの勝利条件は極めて簡単。 記紀に仁徳が第16代でそれを吉祥とし特筆している記述があれば良い。 太国ちゃんの脳内古神道理論はいらないからwww
779 :
ローガン :2008/01/02(水) 22:11:45
>>761 行程からみれば…
南宋刊本以前の三國志をおそった史書類書の多くは行程の国名をつなぐ際、「又」の字を使っていると言うことは、
テキストには投馬国と邪馬台国の前に「又」と書かれてそれぞれ、前に書かれた国からの距離を著す事は普通に考えれば判る事では無いでしょうか?
違いますか?
もし貴方が、金科玉条の如く、「魏志倭人伝には一語一句間違いや、誤写欠落などない」と言う姿勢でお話を
進めておられるなら、そうおっしゃってください。
もしそうなら私からは何も言う事はありません。
でも貴方ほどの論客なら、中国の史書の記載に、現実とは合致しない記事が存在する事は当然ご承知ではありませんか?
貴方のレスの@では、「方角が全く異なる」とありました。
では何故隋書では、斉州島の東西と南北が誤っていますか?
何故、後漢書で書かれた狗奴国の方角が三國志と異なるのですか?
ついでに距離の関する数字についても少し…
新羅と百済の位置関係ですが…
梁書「其国在百済東南五千余里」
通典「其国在百済東南五百余里」
冊府元亀「新羅国在百済東南五十余里」
このように、方角や、里数等についてあまり、信用のおけるものでないと言う回答でいかがでしょうか?
A海を渡っていない…ですか。
魏志倭人伝では渡海と水行を区別して書いているのでは無いですか?北九州から中国地方瀬戸内を陸地に沿って進む場合は渡海とは書かないと思いますよ。
B倭の別種ですか…
これは、同じ倭人でも全く違う勢力?それとも違う人種?
他の選択肢有るのか無いのか…
私は前者の意味にとらえていますが、違う見解があればご教示ください。
郡使が確認したのか?倭人からの伝聞か、私は倭人からの伝聞と思いますよ。
博多近辺で、畿内の土器を使った集落遺跡が複数見つかってますね。
畿内人が住んでいた訳です。こういった状況で、畿内人の事を果たして倭の別種というような情報を提供したとは、考えにくいとはおもいませんか。
恣意的に考えればなんとでも言えるかもしれませんが、
あくまで、普通に考えれば、私の言う事ご理解していただけるのではないですか。
780 :
古代 :2008/01/02(水) 22:37:38
767 何故伊勢かというと、普通は大和から東海へ勢力を伸ばす時の拠点が伊勢であって、大和から伊勢への元伊勢の旅は神のご威光でもって各地を制覇していった旅。のような解釈ですね。 さらに石部氏(後の渡会氏)の神(豊受大神)が伊勢の外宮に祭られ伊勢の神主となった事から石部氏の協力があったと思われる。 ・・・ が、渡会宮には他にも三神あったとも延喜大神宮式に書かれているし、豊受大神が渡会氏の神であったという事も確定しておらず・・
781 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 22:37:51
>>778 お前はまた直接関係が遠い現代のほうに話が行き来している。
だからお前さんは支離滅裂だと余に言われるわけだ。それは皇族
なら一応の関係はあるには違いないが、ここは古代史のほうの
論なんだよ。負けてくやしいのは分からんわけではないが、他人を
ストレートでデンパだとか馬鹿だとかを言い出すから余にいじめ
られるわけだ。ただスグに全部理解しろと言ったってこれは無理
なのはわかる。参考に聞いてればいいことだろう。
782 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 22:52:12
太国は今日はやけに元気だ 朝まで頑張れ
783 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 23:02:53
>>777 君も言わないではないか? だからそういうこと要求するならば君も
大仙古墳が仁徳でない誰なのかということを、何ゆえなのか具体的
に説明してくれよ。ただ単におかしいだとか不合理に見える、疑念
を持つとか言い張っても、具体的に著しくまたは相当な程度で他人
らしいのが埋葬されているとかの状況が出てきたとかの理由ならば
こっちも真摯に聞く耳を持つわけだし、臥海も静かに遠くから聞いて
いてくれてるぜ。
@ とにかく世界最大の墓だから、誰かさんが文句を言ってたが、
そこらの一般の家系のものとか武士百姓、豪族級の人物ではない
ことは自明だろうが。そうなると畿内にあるんだから天皇以外の
他国の大王がそこに陣取っていないわけだから、天皇を超える
「大天皇」wとかの大勢力ある者がいない限りこの墓は天皇の墓
だということは疑念の余地はないぜ。
A ならば百舌の耳原の埋葬者はだれかと記紀を眺めればもう仁徳
以下三代しか考える必要はないだろう? それともまだ耳原に
埋葬された天皇がいるのかね? いる記載とかがあるなら再考
してやるがね? そこで近隣に三者は埋葬されてるから、まず
一番大きいのは父親の墓だろうよ? それは離れていれば父親
より大なる墓も作るときはあるだろうが。仁徳は履中、反正と
違い在位年数がずっと大きいし他の二者は著しく在位が短く
活動が充分なされないうちの崩御だから、これを考えたとき
大仙陵は仁徳しか考えられないということだ。
784 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 23:03:54
>>781 太国 ◆yVAs7uaYlY
負け犬キチガイの言い訳能書きは良いからw
人が親切に説明してやっているのにまだ分からないのか?
>この件に関して太国ちゃんの勝利条件は極めて簡単。
>記紀に仁徳が第16代でそれを吉祥とし特筆している記述があれば良い。
>太国ちゃんの脳内古神道理論はいらないからwww
さあ頑張ろうねwww
785 :
愛知県民 :2008/01/02(水) 23:09:36
>>779 >もし貴方が、金科玉条の如く、「魏志倭人伝には一語一句間違いや、誤写欠落などない」と言う姿勢でお話を
>進めておられるなら、そうおっしゃってください。
これは違います。
>>736 で書いたように、里数も日数も誇張されていると思う。
合計一万二千里自体、漢書西域伝で遠近ごっちゃで使われており、「遥か遠方」という程度の意味でしょう。
@後漢書の拘奴国については、魏志の狗奴国の記事と倭種の記事を同じものと判断して継ぎ合わせた記事ですね。
方角は、末盧国→伊都国→奴国のところで「東」とあるべきを「東南」と書いており、慎重な扱いが必要とは思います。
ただ、最初から東ありきとするのはおかしな話で、まずは南方を探すべきです。
Aもちろん魏志倭人伝では、渡海と水行を区別して書いています。
九州と本州は陸続きではなく、関門海峡がありますから「渡海」のはず。
B「倭の別種」は旧唐書でしょう? 「倭種」ですから、同じ倭人の違う勢力です。
倭人からの伝聞でしょうね。事情をよく知っている倭人が「東に海を渡る」と言っているのですから、陸続きではない、別の島のことです。
786 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 23:12:13
>>783 太国 ◆yVAs7uaYlY
ヨコだけどさあ、、
お前相手が言っていない事で勝手に噛み付いているぞw
頭に血が上っているのは分かるが少し落ち着け。
なんならセンセイにお薬もらった方が良いんじゃないか?www
787 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 23:12:31
>>777 それが箸墓古墳だと状況がかわって来る。それがしも疑念を持って
くるわけだ。皇族だが皇后でもないモモソヒメが箸墓の埋葬者なの
か?ということは、あの大きさの墓の状況からして考えにくい点が
ある。
卑弥呼女王の墓だというんなら、朝廷の近くに女王国があったことに
なり、しかも倭人伝は天皇国とかのような内容での記載とはなって
おらず、女王国として卑弥呼の状況をこと細かく解説している。
ということは畿内には女王国はないわけで、記紀の記載のないのは
女王国が遠く畿内から離れて女王国の情報が疎遠になって採りにくい
ことからの理由だということになる。
それはさておき、モモソヒメのこのことはどうも彼女の身分から
して墓がでかすぎ、おかしいんではないのかとの疑念を持つに至るのだ。こっちのほうを考えたほうがいいよ。
788 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/02(水) 23:16:52
>>786 もうお前はどうでもいい。大して資料もないような話ばかりで
馬鹿だキチガイだとしかのことにを書く関心馬鹿りだ。ww
お前もう寝ていい。
しかし東遷論でアマテラス=九州邪馬台国の卑弥呼って説だと。 死んだ卑弥呼を神格化しそれを伊勢に持って行くのに極めて短い時間にやっているよね。 「元伊勢」って言われる場所をうろついている暇は無いかな?w 神宮の斎宮となった倭姫命は4世紀半ばぐらいになるのかな?
790 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 23:42:05
邪馬台国は呈造
791 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 23:44:03
邪馬台国問は偽装
792 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 23:44:39
>>779 横レスですが。
畿内説を取ると、一番不可解なのが「東南陸行五百里到伊都國」。
地図を見なくても、近畿地方に行くのに、陸行五百里に何の意味があるのか
わからない。
ずっと水行というのが、畿内説にとっては最も妥当な道筋なのだから。
このあとは、「東南至奴國百里」で、次が「東行至不彌國百里」。
どうも不弥国は港町だったようで、このあと「南至投馬國水行二十日」となる。
これらの道筋をよく見てみると、近畿地方に邪馬台国があったとすれば、
どういう道筋で行ったのかわからない。
まさに、突っ込みどころ満載なのだが、実は九州説の主流である北部九州説に
とっても事情は似たようなものだった。北部九州に邪馬台国があると仮定して
も、やっぱり不自然な行程になる。
だから、以前から手打ちというか、お互いあまり考えないことにしましょう
みたいな暗黙の了解があったように思う。
しかし、邪馬台国を南九州と考えれば、かなり妥当な行程になる。
少なくとも、倭人伝の邪馬台国は、南九州にあるいは中九州にあることを
示唆していると考えるべきではないかと思う。
もし、実際の邪馬台国が他の場所だったら、倭人は魏使を騙したのだという
結論でもいいと思う。
793 :
ローガン :2008/01/03(木) 00:48:49
>>785 早速のレスありがとう。
736で伊都国から邪馬台国まで水行なら十日陸行なら一月…とありました。
それはおかしいと言う意味のレスだったのですよ。
そうです。最初から東ありきはおかしいですね。とりあえず「南」と書いているのですから。
南を探したんですよ。これでも以前は九州説支持だったもので…
でも遺跡が無いのですよ邪馬台国時代の。
あ〜「別種」ごめんなさい!仰る通り。
そうなのですよ。環瀬戸内の広域連合体の東に海があると言う意味です。
関門海峡は水行で良いのではないですか?
794 :
横槍 :2008/01/03(木) 01:20:41
>>792 >畿内説を取ると、一番不可解なのが「東南陸行五百里到伊都國」。
>地図を見なくても、近畿地方に行くのに、陸行五百里に何の意味があるのか
>わからない。
>ずっと水行というのが、畿内説にとっては最も妥当な道筋なのだから。
そのとうり、だから伊都国まで行った使者の報告書と邪馬台国まで行った使者の
報告書は別の物です。
>>783 大仙古墳の第一主体部は竪穴式石室で中には長持型石棺が
収められていたことが盗掘記録などから確認されている。
これは、いわゆる中期古墳の特徴であるが、
百舌鳥で天皇陵とされる他のニ古墳もほぼ同時期だと推定される。
しかし、各墓域内で収拾された円筒埴輪の編年に従がうと、その築造は、
第三期・上石津ミサンザイ(現履中陵)>第四期・大仙(現仁徳稜)の順で
あろうと言う話。
参考、堺市役所のサイト
https://www.city.sakai.osaka.jp/kyoiku/_syougai/_maibun/koni3.html 記紀で仁徳が16代天皇とされ、延喜式で大仙が仁徳稜とされているのは
事実ではあるが、それはそれぞれ6〜7世紀、10世紀の認識ではそうだと
いうことであり、築造時の認識ではない。
大王稜級の古墳で被葬者が比定できない古墳がウワナベ・コナベや
土師ニサンザイのように幾つもあることから分かるように既に6〜10世紀に
は正しい伝承が失われてしまったものは多いと思う。
行燈山と渋谷向山の場合のように上石津ミサンザイと大仙の被葬者伝承が
入子になっていてもおかしくはないわけだ。
よって、大仙古墳が16代目天皇の陵として築稜されたものでなければ
菊の花弁が16枚だからなんたらかんたらと言う奇説も成立しないということ。
さらに、一切の反論をせず、すっとぼけているようだが、十六弁八重表菊紋の
モデルとなった菊が外来の栽培品種で、大仙築造時の日本に存在しないこと
の反論はいかに?
菊の御紋が天皇家に取り入れられたのが、平安時代のことだと知らなかった
のかなw
>>787 > それが箸墓古墳だと状況がかわって来る。それがしも疑念を持って
> くるわけだ。皇族だが皇后でもないモモソヒメが箸墓の埋葬者なの
> か?ということは、あの大きさの墓の状況からして考えにくい点がある。
前レスでも書いたが、被葬者不詳の大古墳が幾つもある状況で、
自説に都合に合わせて延喜式の比定を使い分けちゃだめだよ。
典型的なダブルスタンダードだね。
> 卑弥呼女王の墓だというんなら、朝廷の近くに女王国があったことに
> なり、しかも倭人伝は天皇国とかのような内容での記載とはなって
> おらず、女王国として卑弥呼の状況をこと細かく解説している。
> ということは畿内には女王国はないわけで、記紀の記載のないのは
> 女王国が遠く畿内から離れて女王国の情報が疎遠になって採りにくい
> ことからの理由だということになる。
くどいのでスルーしたいが、その話聞き飽きた、何度も論破されてるでしょうに・・・
> それはさておき、モモソヒメのこのことはどうも彼女の身分から
> して墓がでかすぎ、おかしいんではないのかとの疑念を持つに至るのだ。
問題意識を持つことは大事だけれど、ちゃんとした理屈を構築しましょうね。
多分、主張したいことは、箸墓=卑弥呼墓説の否定なんだろうけど、
そのいささか古めかしい説の論者ってそんなに居ないと思うけどね。
まあ、2ch古代史板にも一人は居るみたいだから、その人を見つけて
遊んでもらいなさいなw
>>796 その太国氏のお決まりのフレーズが論破されてるところを見たことがないです
どうやって論破したのか見てみたいのでソース下さい。
ていうか反論されてるところすら記憶にないです。
798 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 02:12:45
>>796 同じく、箸墓が卑弥呼の墓というのなら、その根拠も聞いてみたい。
てか… >天皇国とかのような内容 天皇国の内容ってどんな内容なんだろう? 3世紀日本に天皇国なんかあるはずが無い…なんてツッコミは止めておいてもw 記紀の記述に間違いが無く畿内のヤマト朝廷は変遷してきているというのなら そりゃ推古まで女王国が存在したはずが無いわけで最初から結論が出ていると言うか…??? うーん良く分からんw
800 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 07:39:32
>>795 な〜んだ。大仙古墳にだれが埋葬されてるのか候補者がいないのか?w
あったりまえよ。先述したとおり畿内には天皇を超える「大天皇」とかいう
大奇説となる大大王はいやしないんだよ。神武以前にいたのかね?? ならば
聞いてやるよ。
この三者の天皇以外記録も無きゃぁ、もうその三者のいずれかだよ。菊がその頃
流入してないなどはあまり否定の根拠にもなるまい。三毛沼命も稲氷命も外国へ
行ってるし、天日槍も日本へ来ている。タジマモリも帰っている。そんな状況
なら外国産の物なぞ彼らから聞けるよ。イザヨイが十六と切り離すことが正解
ならば、なにも特殊に十六夜などと読む必要もないだろう?
君のようなやり方でやってれば、まぁ君の死ぬまで同古墳に誰が埋葬されてるの
か確信しないまま分からず、あの世行きだな?w とにかく仁徳と違うという
相当な疑惑が出てからそう云うことは言ってくれよ。出てくる土器とかが時代
がズレてるくらいじゃ、後代に搬入もできるしそんなことじゃ相当な疑惑にも
ならんだろう? 琵琶湖だったか、元はいない外来魚の入りこみは国産魚を押し
やってるし、まるで外来魚のほうが国産に見えるほど量が増えてもいる話だ。
それを考えればもっともっとおかしいと想える何かを持ってきな。言っておくが、
公判廷の刑事事件の弁護のようなやり方をやっててはうまくないぜ。君もこれで
逆らってるんだろうが、刑事の弁論式ならばどんなそれこそ奇論でも生き残って
しまう。たとえば女王国がエジプトにあったとかハワイ諸島にあったのでも
否定できないこととなる。そういうやり方は古代史ではやることはない。
801 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 07:50:52
>>796 論破なんかされてないよ。いい加減なことではぐらかすなよ、
大仙古墳と箸墓古墳の疑念はどちらがそうだと言える内容があるのか? 先述
どおりだ。後者のほうが客観的に考えておかしいと想えるんだよ。仁徳のほうは
天皇だし他に変えるべき人物が全く見当たらんから間違いないが、箸墓がモモソ
ヒメの墓では、皇族とは言っても皇后でもない彼女にあんなでかい古墳を造ると
いうのは考えにくいのだ。ふさわしくない大きさだということだ。しかも畿内
に女王国は朝廷と二国が競合するわけで、これも考えにくいことから九州説を
採るのが正解なわけで、そうすると彼女の墓でもないわけだ。ということは疑念
は正当なる客観的意見としてみなが考えるべきことであるよ。
802 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 08:12:54
数年前東京上野の博物館で展示されていたが、もう古代エジプトでは菊花紋章は 造られていたことが菊花紋章の展示でうなずける。さらにこれは極端やも知れぬ が、なんでも外国等へ行った三毛沼命、稲氷命は古代エジプトのミケーヌ王イナイ 王だという説もある。彼らも消息を考えてタジマモリが外国へ行ったのなら、 非時果実とかからも他の外国産の花の情報なんぞお茶の子でで入りこんで朝廷の 知識になりうる。菊のご紋が平安時代とか、たわけを堂々といってるが、温存 されてるものは後出ということになる。とくに大事な物は暖めていて後日公表 ということになる。自動車会社の新車ガ出たからといって、その出た日に新車が 製造されたわけではない。もう以前から企画でこういう新車を作ろうという 意念が製作者側にあって、時間を経て新車が発表される。こういうことだから 朝廷にはイザホワケからも知れるように、平安時代まで新菊発表となる遠い 過去に菊花の理念が存在してるのであり、正月○花氏の新車は買った日に 製造したらしい?w 彼はそう想いこんでいるらしく、考えが目前のことに くらんで、平安時代以前の構想というものを抹殺している。ここが彼の考え の間違い部分なのである。彼の新車は買った日に製造したのか〜??ww
803 :
横槍 :2008/01/03(木) 08:34:35
太國さん、こじつけのご都合主義には皆厭き厭きしてるよ
飽き飽きはしてないけど、この長文はちょっとクドいかな かなり飛ばして読んでる
805 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 09:54:48
>>803 お前さんもおかしなことを言ってるな? エジプトの王家の谷を発見した
カーナボン卿さんだって、その日にツタンカーメンの秘法が製造されたとは
言わないだろうが? 秘宝なんぞ発見発表よりも紀元前を遡る時代の製造だ。
ところが正月○鹿氏は当日そういうものが造りあげたとかいう論ではないか?w
だからなまくらの考古かじりは目前の発見月日をできた日としてしまう即興を
結論としてしまう。勿論そういう即席もあるだろう? 横槍氏も正月コンビニで
買いこんだ昼夜食は製造年月日を見てみろ、買った日ではあるまいが。製造
生産日はこれも1週間前とか1ヶ月前とかにさかのぼるんだ。いったい平安時代
の某日発表されたからといって、それがその日に仕上がったものとは言えまい?
こういう即席の考え方の塊が正月○鹿氏の論説なんだよ。目前で事を決めて
しまう。こういう失敗を完熟しない考古研究人間は陥りやすいのだ。お前さん
もそうなのかね??w
>>803 と言うか…
「記紀に女王国の記述が無いので畿内説はありえない」
と言うだけで済む話で
「畿内に天皇国と女王国の二国が競合云々…」
は蛇足w
等式の両辺に要らぬパラメーターをかけているみたいなwww
>>800 > な〜んだ。大仙古墳にだれが埋葬されてるのか候補者がいないのか?w
履中だろう。
「上石津ミサンザイと大仙の被葬者伝承が入子になっていてもおかしくはない」と書かれて
意味がわからないのかねw
> ならば聞いてやるよ。
> この三者の天皇以外記録も無きゃぁ、もうその三者のいずれかだよ。
だから履中だろう。無意味に被葬者の幅を持たせちゃ駄目だよ。
貴(奇)説は「三代中の誰か」じゃなくて「16代目の仁徳」じゃないと成立しないんでしょ。
> 菊がその頃流入してないなどはあまり否定の根拠にもなるまい。
> 三毛沼命も稲氷命も外国へ 行ってるし、天日槍も日本へ来ている。
> タジマモリも帰っている。そんな状況なら外国産の物なぞ彼らから聞けるよ。
それが反論ですかw 貴方は「菊」を訓ずることができますか?
古事記や書紀や万葉集で菊が重用されたり、特殊な花だとか記述されていますか?
> イザヨイが十六と切り離すことが正解 ならば、なにも特殊に十六夜などと読む必要もないだろう?
望月よりも月の出が少し遅い風情を「いざよい月」と呼ぶだけだ。
「十五夜」の次だから「十六夜」と書く、当たり前じゃないかね?
> とにかく仁徳と違うという相当な疑惑が出てからそう云うことは言ってくれよ。
> 出てくる土器とかが時代 がズレてるくらいじゃ、後代に搬入もできるし
> そんなことじゃ相当な疑惑にもならんだろう?
10世紀にできた延喜式以外に大仙が仁徳陵だと言う根拠もなかろう。
> 公判廷の刑事事件の弁護のようなやり方をやっててはうまくないぜ。君もこれで
> 逆らってるんだろうが、刑事の弁論式ならばどんなそれこそ奇論でも生き残ってしまう。
自分のことを言ってるのかいw
>>801 貴方のに論は小学生にも判る循環論法なんだよ。
邪馬台国と大和朝廷の前身は別物
だから、邪馬台国が畿内にあれば、同じ地にあった大和朝廷に記録があってしかるべし。
ゆえに、邪馬台国は畿内でありえない。
相手にされてないのは、自分だってわかってるんでしょう。
箸墓の築年代は、3世紀後半以降というのが世論の太宗、
ごく一部の人が3世紀前半の可能性を認めるといのが現況だよ。
さらに卑弥呼の墓だとか言う人はかなり特殊な人だよ。
貴方もかなり「特殊な人」だから特殊さん同士で議論してね。
809 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 11:08:10
>>807 お前さんの完全な妄想だろう。大大王がいるんなど、臥海もそんな馬鹿なことを
言わんだろうが。ww 幅を作っているのはお前さんだろう? 一般人民の
幅まで許容の大墓か? 大馬鹿になるなよ。w
刑事裁判の公判廷のやり方がお前さんではないか? だからそのまま行けば
死ぬまで迷宮入りをお前さん自ら率先して入場を実行してるわけだ。w
なに? そこが履中だというのか? ならばその具体的根拠は如何??
810 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 11:35:10
>>808 小学生にもわかれば大いに結構ではないか? お前も余の論にうなずいたんだろ
うから同調者ということになる。それとも言い分はわかるが、否定に回るという
意味か? となればお前さんは畿内説なんだな? はっきりしろ。
それにいまごろになって大仙陵が履中だと本音を出したのか、いままでそんな
論説は言っていなかったぞ。これはおかしいねぇ? ははぁ論でやられるのを
回避していたのか? いずれにしても今ごろの後出しでは少しコスイぞ。
811 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 11:49:34
>>793 やはり、行程論だけで決着はしないと思います。
考古学にも期待したいですが、畿内に比べて九州の発掘調査はどうもお粗末な状況のようで。
山門郡が去年合併で消滅しましたが、遺跡の破壊も進んでいるんだろうな・・・ため息
記紀を読むと、九州に大和朝廷の支配が及ぶのは景行天皇、仲哀天皇以後。
卑弥呼より後と思えるので、九州説をとりたいところ。
畿内説の人は記紀をあまり信用していないと思うが、日本書紀のモモソヒメは信用する人もいて、分かりにくい。
>>810 太国 ◆yVAs7uaYlY
>小学生にもわかれば大いに結構ではないか?
いやいやw
この場合、小学生のオトモダチが理解するのは循環論法のパラドクスだからwww
813 :
古代 :2008/01/03(木) 12:26:47
百襲姫命=卑弥呼について次のような説明がありました。 『勘注系図』の〈饒速日命〉の系図2の子孫の第九世意富那比命の代に次のような記述があります。 長女=日女命 この日女命が倭迹迹日百襲姫命の別名であるとし、さらに『勘注系図』にある〈百襲姫命〉の妹・葛木高千名姫に注目します。 葛木高千名姫という名は『古事記』の第八代孝元天皇のところに出ています。すなわち孝元天皇の皇子のひとりの比古布都押之信命が尾張連の祖の意富那毘の妹の葛城之高千那毘賣を娶った――とあるのです。 これが同一女性とすると、〈倭迹迹日百襲姫命〉の妹が天皇の皇子と結婚したことになります。 また『勘注系図』でも『先代旧事本紀』でもこの姫の別名は大海姫とされ、だとしますと、崇神天皇の妃ということになります。 もしそうだとしますと、崇神天皇は〈倭迹迹日百襲姫命〉の「義理の弟」ということになり、『魏志倭人伝』にある「男弟」であるとします。 『勘注系図』は〈饒速日命〉を祖と考える人たちが編纂したことから、〈倭迹迹日百襲姫命〉への崇拝は〈饒速日命〉と関係しており、その系列の氏族に伝承されていたと推理できます。 『記紀』のほうは、あるていどは〈饒速日命〉系の話を入れたものの、偉大なこの女性は三輪や饒速日命の血も持った天皇直系とし、あくまでも天皇の補助者として記しました。 自分は卑弥呼=百襲姫を信じているわけではないのですが、古事記では出てこない百襲姫が日本書紀では活躍しているなどの理由もある程度はつくかな。と思います。
814 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 12:33:29
まず1〜2日で本文完読(ざっと流し読み。分からない語句などが あっても、止まらず読み通す。注や図表も眺める程度)。 次に1週間かけて、じっくり読む。1回目の完読で理解出来てて、 わかっているところはとばして良い。 そして最後に今度は自分で読みたいと思ったところを、読みたい スピードで読む。順番もこだわる必要なし。読みたいところから。 索引で引いた語句のある頁だけ、ってのでもいい。 これであなたも日本史通。
815 :
古代 :2008/01/03(木) 12:33:47
はしょったのでわかりにくいですね。 日女命が百襲姫の別名。同時に天照の別名が日女命であるので 百襲姫→天照という論法ですね。
816 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 12:34:46
400ページの教科書をじっくり時間かけて一週間・・・(^ω^:) 山川(笑)(笑)
817 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 12:35:14
400ページの教科書をじっくり時間かけて一週間・・・(^ω^:) 山川(笑)(笑)
818 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 13:43:22
>>808 特殊〜?? ふ〜ん、余は卑弥呼の墓だとは言っていないよ。そう言うなら、
どうやらお前さん畿内説のようだから、そろそろ寝とぼけていないで、その自説
でも言ったらどうだ? 小学生もわかる云々だけで畿内説だとかの理屈がまるで
ないじゃないか? こわいのか〜? 話が随分進んできたあとに、以外にも履中
の墓だとか抜かしてきて、これなど穴からアナグマが這い出たようではないか?
こちらの反論を言っては来るが、お前の論はカーテンの中で開けようとしない。
女王国が畿内にあると思ってるのか? あれば記紀に載ってるよ。論なく小学生
の一文句でかたずけようとしてもムダ、お前がかたくなに信じてる希望だけで、
そんな所に女王国はないんだよ。遠い外国の倭人伝の外様のほうに詳細なる記述
があることこそ疑念を持つべきだろう。女王国は日本なんだze。その日本の
古文献に載ってないんだからおかしいと考えるのが相当だよ。それをちょろまか
して論棚上げで小学生の語句で葬ろうとは、そうはさせないぜ。それとも日本で
ないというのか?www ならば刑事裁判級の証拠を要求するわけだ? Pu!w
819 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 13:49:49
■ツヌガ・アラシトと清彦 日本書紀=垂仁天皇紀に、ツヌガアラシト(天日矛)の子孫についての記述がある。 次のように記録されている。 天日槍の系譜 : 天日槍−但馬諸助(子)−但馬日楢杵(孫)−清彦(曾孫)−田島間守(玄孫) しかし、清彦が天日矛の曾孫というのは日本書紀編纂者たちの誤解であろう。清彦は天日矛が志羅紀(シラキ=ミマナ)から 持ってきた神宝を垂仁天皇に献上している。つまり、清彦は垂仁天皇と同時代に生きていた人物なのである。曾孫ではありえない。 但馬諸助、但馬日楢杵(ヒナラキ)、清彦、この3人は天日矛(ツヌガアラシト)の息子であろう。つまり、3人は兄弟である。 但馬守は、天日矛の孫である。だから、垂仁天皇の命令を受けて南国へ行き、バナナを得て帰国した時、垂仁天皇の崩御を知って 殉死したのである。 日本書紀には、垂仁天皇が140歳で無くなったと記述されているが、これは書紀の編纂者たちが2倍年暦を知らなかったための誤解であり、 実際は半分の70歳で亡くなったのである。 書紀の編纂者たちは、垂仁天皇が140歳まで生きたと信じていたため、垂仁天皇が清彦から天日矛の神宝を献上されたという話を 天日矛の渡来から100年くらい後の出来事だと勘違いしたのだ。それで清彦を天日矛の曾孫と解釈したのだろう。 天日矛ことツヌガアラシトは、崇神天皇の時代の末期に渡来した。崇神天皇が60歳の時である(書紀の記述では崇神天皇120歳の時)。 崇神天皇が亡くなると(この時、垂仁天皇は45歳である)、垂仁天皇に1年半(書紀の記述では3年間)仕えたという。 この記述を信じれば、ツヌガアラシトは崇神天皇よりも若い。しかし、清彦の時代には亡くなっているので、垂仁天皇よりは年長のようだ。 そして、清彦の息子、但馬守は垂仁天皇に仕えていたが、但馬守が南国から帰国すると垂仁天皇は亡くなっていた(享年70歳)というから、 但馬守は垂仁天皇よりも若い。但馬守の父=清彦も、おそらく垂仁天皇よりも若いか同年代であろう。
820 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 13:54:34
崇神世と垂仁世は3倍暦でやっています。
821 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 13:54:39
>>785 >>793 倭人伝を読んでいて思うのは、関門海峡を通過したと思われる
記載が無い事です。伊都国や奴国をあれ程紹介しておきながら
関門海峡が紹介されていないのは不自然ではないでしょうか?
(まあ、魏使一行は津屋崎までしか行っていないと思うので
倭人たちが彼らに言わなかったと考える事もできますが。^^;)
倭人たちは、津屋崎を通過した後、遠賀川に入ったのではないでしょうか?
(水行十日)そして飯塚あたりで上陸し、陸路、冷水峠or白坂峠を越えて
甘木邪馬台国に入ったのではないでしょうか?(陸行一月)
これならば、「南へ水行十日 陸行一月」に大きな矛盾は無いように思う
のですが?
822 :
唐松山 :2008/01/03(木) 14:04:32
天日槍が渡来して 間もなく2世誕生 そこから20年で世継ぎ 田島間守誕生まで 80年有れば 充分 ただし 私は、崇神崩御35才位と見ていますので 天日槍の渡来はもう少し前の出来事。
823 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 14:25:37
■第25代=武烈天皇についての間違ったイメージを正す 一般に、武烈天皇は次のように語られている。 仁賢天皇7年(494年)正月に立太子。同11年(498年)仁賢天皇の崩後、大臣の平群真鳥が国政を恣にして驕慢であった。 時に、皇太子(後の武烈天皇)は物部麁鹿火(あらかい)の娘・影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子・鮪(しび)と通じていた。 海柘榴市(つばいち、桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、奈良市)に誅殺させ、 11月に真鳥大臣をも討伐させた。12月に即位して、泊瀬列城に都を定める。大伴金村を大連(おおむらじ)とした。 武烈天皇2年(500年)9月に妊婦の腹を割いて、胎児を見る。この年以降、人の生爪を剥して山芋を掘らせたり、池の樋から人を流して矛で刺殺したり、 人を木に登らせて射落したり、女を馬とつるませる(つまりは獣姦)など猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。 天下の飢えを忘れ、日夜問わず宮人と酒食に溺れた。『天書』『先代旧事本紀大成経』には、金村が天皇の暴虐を深く憂えて、これを諌めたとある。 8年(506年)12月に後嗣なく崩御した。『扶桑略記』『水鏡』などには18歳で崩御と記録されている。 【日本書紀と古事記で語られる武烈天皇像】 『日本書紀』には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる天皇として描かれる。しかし、若くして死去していることから、 『書紀』に見るような暴虐は無理があるとも考えられている。また、『古事記』にはそのような記録がない。 一方の『書紀』においても、悪劣で政治を顧みなかったように書きながら、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。 この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が、『書紀』側に強くあり、武烈天皇を漢籍によって暴君に仕立てたため、 とする説が一般的である。
824 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 14:28:32
■第25代=武烈天皇についての間違ったイメージを正す(2) 実は、武烈天皇が暴君であったという説は、日本書紀編纂者グループによる創作である。つまり、捏造である。 日本書紀の編纂者たちは、武烈天皇の時代の歴史が、2倍年暦(半年を1年間と数える古代の暦法。したがって、通常暦の1年が2年になる)で 記録されていることを知らなかった。 そのため、武烈天皇は18歳で崩御したとか、武烈天皇は暴虐行為を行った天皇であったとか、間違ったことを記しているのだ。 武烈天皇が亡くなった年齢は18歳ではない。実際はその半分、9歳であった。したがって、武烈天皇に日嗣(皇太子)がいなかったのは当然なのだ。 また、上記の「妊婦の腹を割いて胎児を見た」だの、「人の生爪を剥して山芋を掘らせた」だの、「女を馬とつるませた」だのといった話は、全て捏造である。 9歳未満の子供がそのような行為をするわけがないではないか。 武烈天皇は、9歳で生涯を終えた『悲劇の天皇』なのである。『武烈』という諡号も、この天皇には相応しくないのである。 小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと[武烈天皇の本名])に諡号を贈るとすれば、幼哀天皇とするのが適切である。 小泊瀬稚鷦鷯天皇の名誉のためにも、ここで暴君説を否定しておく。
825 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 14:31:12
>>823 仕立てあげる?? だって君だって殺人犯人の相手の父親がいるところに
ストレートで婿入りするのか? むしろ隠すよ。 だからそれは考えすぎだよ。
826 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 14:35:12
>>824 武烈の悪事捏造するよりも捏造するならぎ逆だよ。後代は美辞麗句で悪事を隠匿
するよ。だからそうではないよ。なお武烈世は通常暦法の時代だと思う。次代
からは2倍暦をやっている。
827 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 14:39:32
小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈)は、平群氏に殺された(暗殺された)可能性がある。 宮中の権力闘争の犠牲になったかもしれん。
828 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 14:40:52
熟考するに、ど〜も、唐松山氏と正月○鹿氏は言動からして女王国畿内説の 考えらしく、うちらをたぶらかしている。双方九州説論者からの攻撃回避の ためだろう? ろうやら偽装しているな?
829 :
横槍 :2008/01/03(木) 14:45:55
田島守は、実際には1年半ぐらいの渡海であったが、書紀を編集した時に 還暦60年を挿入したため、倭国に戻った時には60年の歳月が経ってしまった という矛盾が生じてしまった。 この田島守が浦嶋伝説の元になったと推測しています。
830 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 14:52:33
831 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 15:21:43
やれやれやっぱり大乃国は 「16代だから十六紋の菊にあやかって立派なお墓」妄想を説明できないんだな
832 :
唐松山 :2008/01/03(木) 15:34:02
ホ37191 コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ コソコホサシヱ アフミハヒ キミまかるトシ ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ 明くる春 弥生に帰る 田島守 時至9ヶ月24日後 90年の詔ですぐに出立 99年垂仁崩御 翌年 約10ヶ月ぶりに田島守が帰ってくる。 これが 当時の暦の使い方。
(太国氏が釣られませんように)
834 :
正月○鹿 :2008/01/03(木) 16:12:26
>>818 >>余は卑弥呼の墓だとは言っていないよ。
私も言ってないし。
>>お前さん畿内説のようだから
まあ、その端くれだが、畿内説の理屈など承知しきってるでしょう。
>>話が随分進んできたあとに、以外にも履中の墓だと
それは、貴方の読解力の問題かな?
始めから提示してることだがw
>>女王国が畿内にあると思ってるのか? あれば記紀に載ってるよ。
何度も言われてると思いますが、親魏倭王の伝承が六世紀まで伝わっていたとして、
これから対等外交を求める相手に、自分のご先祖様は蛮夷の臣として
朝貢してましたなどと書く必要はないでしょう。
貴方はこれに対してまともな反論を一度して行ったことがないですね。
835 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 16:15:46
>>813 >>815 『勘注系図』ではニギハヤヒでなくホアカリでしょう?
大海姫命という名も複数箇所に出ており、七世・建諸隅命の妹、大倭久邇阿禮姫命も大海姫命といい、豊玉姫命ともいう。
しかし、蝿伊呂泥や蝿伊呂杼は出てきません。
古事記は蝿伊呂泥=オオヤマトクニアレヒメとし、モモソヒメをその娘としていますが、
古事記の系譜は名前の欠落もあり、『勘注系図』が正しいかもしれない。
836 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 16:39:11
>>834 お前さんも畿内説なのに有コテでなんら討論もしてないじゃないか? それを
お前はこっちが反論してないなどとくらまかす。そういうのはこっちの言う
セリフなわけさ。朝廷の隣にあって書かないでとぼけるほど舎人親王はいい加減
ではないんだよ。畿内から遠方にあるため女王国の情報が朝廷にあんまり来ない
ためにだ、書くことができなかっんだよ。無いために神功39年等の記述を伝を
借り挿入したわけさ。お前の言う蛮夷の臣がどうのこうのでいやで書かないで
いたというなら、神功39年等の記述も書かないで消しているよ。まぁもっと
もっと勉強するんだな。マキムクが真近かにあって朝廷がうっすらとぼけて記載
しないということは大きい利害があればありうることもあろうが、そのくらい
で書かないわけがない。上述のとおり卑弥呼のことを書くのが困るなら神功39年
などの記載も削るだろうし、女王国の悪口を書けば溜飲が下がるではないか?
つまりお前の言い分は通用しないさ。その反論ができないので論説無しで小学生
がどうのとかでの語でのラクリ隠蔽で誤魔化しているだけにすぎないのざ。ww
837 :
唐松山 :2008/01/03(木) 16:40:27
太国氏へ 進呈 崇神天皇元年二月辛亥朔丙寅 2月16日 四年冬十月庚申朔壬午 10月23日 八年夏四月庚子朔乙卯 4月16日 九年夏四月甲午朔己酉 4月16日 十年秋七月丙戌朔己酉 7月24日 十年九月丙戌朔甲午 9月9日 十年九月壬子 9月27日 ちゃんと数えると 1ヶ月は 何日在りますか?
838 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 16:42:36
初歩的な質問で恐縮だが… 箸墓が卑弥呼の墓と比定するに当たってのネックって何なのかな? 時代は一致。 径百歩のサイズは一致。(前方部分の形状がネックか?) 「一皇女の墓にしては大き過ぎる」に至っては「だから女王の墓」と言う事で反証にすらならない。
839 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 16:46:35
古事記が蝿伊呂泥=オオヤマトクニアレヒメとしたのは、蝿伊呂泥の父ワチツミをワタツミと考えたのだろうか? 豊玉姫命の別名をもつ大倭久邇阿禮姫命=蝿伊呂泥としたわけか。 結果として(半ば意図的に)、ホアカリ系をニニギ系に吸収したとも思われる。
840 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 16:50:41
>>836 訂正
× ラクリ隠蔽で ○ カラクリ隠蔽で
たしかに利害が大だとか、相当都合が悪いと消してしまうとかいうことは実際に
はありうるのだ。以前書きこんだが、東京軍事裁判でも真珠湾攻撃した重要な
地域のハワイ周辺が大地図からカットされて裁判をやっているとのTVでの
放映であった。これなどは日本が先に米国に攻撃したんではないことを知られ
るとまずいから抜いた大地図で裁判したんだろうということだ。だからそういう
ことは都合が大きくわるいときにやるものなんだよ。ところが女王国の存在
が畿内に大きくまずいならば、神功39年等の倭人伝からの挿入も紀の編者は
はばかるべきであるまいか? だから卑弥呼が都合悪いとかで紀の記述が無と
したんではなく、畿内からかなり遠隔に女王国があったので情報があまり無く、
このために載っていないのだということが正解なのであ〜る。
841 :
ちょっと亀ですが・・・ :2008/01/03(木) 16:54:17
>>780 >普通は大和から東海へ勢力を伸ばす時の拠点が伊勢であって
なるほど、東海から見れば西国進出の足掛かりがヤマトであるように
ヤマトから見れば東国進出の足掛かりが伊勢か…
(古事記のヤマトタケルを彷彿させるかな)
なんとなく納得w
畿内説九州説関係無く地政学的に見ればおkとw
842 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 16:55:29
>>837 唐松山殿
あなたはそれがしの過去スレとなった記述を忘れたんですか? それとも読ん
でいなかったんでしょうかね? 1ヶ月が30日とかまであっても欠月があれば
倍暦はやれますよ。崇神紀の全文を調べて考えて下さい。
843 :
唐松山 :2008/01/03(木) 16:59:28
箸墓が卑弥呼の墓と比定するに当たって 崇神10年秋と見て 畿内に あれだけの 稜を作る 人間がいない。 鉄が 無い。 埴輪がある。
844 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 17:20:07
>>838 「時代は一致」と断定はできないでしょう? 考古学者の中では意見が割れているはず。
径百余歩については、すぐ後も「百余人」「千余人」と似たような数字が続いていることもある。
女王の墓というのは、クニアレヒメ・モモソヒメというホアカリ系の女王だろうとは思うが、卑弥呼かどうかは別の話。
845 :
唐松山 :2008/01/03(木) 17:38:35
太国さんへ いくら読んでも 季節を無視しては、 私には読めない。 四道将軍も 冬(農繁期過ぎ)だから出来るのであって 春、田植えと同時進行は無理 夏秋も同様 それでも 福島県辺りまで遠征 半分の長さで3ヶ月 道も整備されていない敵地を 冬の遠征 認められない。 日本武でさえ 関東遠征 半年弱 其の半分の 3ヶ月 冬の記述に成っているが これも 季節を違えると 全く読めない。 太国氏の 記年は 読み替えが多すぎる。 暦に直せない(私には) こんな物を 認めろ と言うのなら 暦に直してから もし 記事が少なすぎるなら 空白の月に何か記事があれば 正しく直せる。 となりますが 空白月は、無くては成らない。 自己矛盾に落ちいてしまう。
846 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 17:58:21
女王卑弥呼は誰か?って事は卑弥呼は卑弥呼以外の誰かの事だと言う事ですね
>>1
847 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 18:11:57
>>843 当時、畿内に人はいましたよ。
箸墓に見られる埴輪は、墓の頂上付近に置かれ、
何かの祭祀に使ったと見られる壷型や台型の埴輪で、
食べ物を供えたりするのに使ったと見られる
弥生時代の通常祭祀に用いられる形のものです。
古墳時代に見られるような、
人や家畜の形をした殉死の代わりとみられるもの、
円筒埴輪など古墳の周りに大規模に埋められた形態のものではなく、
3世紀築造とみて不審な点はないようです。
848 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 18:17:16
>>843 >畿内にあれだけの稜を作る人間がいない。
必要な具体的な数字は分からないけど纏向が造営されてんだから可能なのでは?
それに労力・物資の供給は各地の首長からの提供もあったとか?
>鉄が無い。
まだあの時代はヤマトは鉄不足だった?
北部九州の寡占状態。
>埴輪がある
日本書紀には崇神の垂仁の代に埴輪の起源を記述しているが
実際には弥生後期に吉備で発祥、箸墓に埴輪があっても問題無い?
…以上、素人の書き殴りですW
849 :
848修正 :2008/01/03(木) 18:31:59
×)日本書紀には崇神の垂仁の代に埴輪の起源を記述しているが ↓ ○) 日本書紀には崇神の次代、垂仁の代に埴輪の起源を記述しているが
850 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 20:14:35
>>650 まずは「カシ原」って場所の特定
一応、奈良の橿原の事じゃ無いかなって思う
(これが実は違う場所のカシ原の可能性はある)
んで、奈良の橿原と前提とした場合、橿原の歴史で俺が知ってるのは、694年に遷都された藤原京
(もちろんこれより先の違う時代にそういう出来事があった可能性もある)
@場所、地域の特定(推定)
Aその場所や地域にある伝承や歴史や寺や遺跡などの史料
こんな感じで考えてるっす
とりあえず@は大事だとは思ってる
例えば当時「カシ原」って呼ばれてた場所の特定っても、俺は奈良の橿原って前提にしちゃってるけど、当時違う場所にあった「カシ原」の事であれば、俺はまるで違う解釈をしちゃってる事になる
ただとりあえず「俺は奈良の橿原だと思う」って言う事で、
「奈良じゃなく、○○にあった橿原の事だろ」
見たいな違う解釈を言ってくれたりしたらすげーありがたいっす
851 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 20:30:41
記紀の中の 「景行天皇が猿田彦を溺れさせて殺した伊勢」 俺はこの時代の伊勢(や紀州)の場所は今の三河あたりじゃ無いかって思ってる 理由は @今の三河(特に稲武町や豊田市辺り)の辺りに景行天皇やその息子(日本武尊)などにまつわる寺社や伝承が多い A三河の稲武に「猿投岩」と言う、猿田彦を投げ殺したと言われる場所がある ちなみに三河=御川 から来てて、現在の矢作川の事を昔は御川と呼んでたらしいよ ただし木曽三河や矢作川などの美濃尾張三河辺りに注ぐ川は、今と当時では違う場所を流れてた可能性もある 美濃にはあちこちに「この災害によって長良川や木曽川の流れが変わるほどの大洪水となり、たくさんの人が被害にあった」って話がある その災害の前までには矢作川の上流辺りには「海」って呼ばれる海水の湖があったらしいよ 今でも長野には海水が湧き出る井戸があったり、海水湖で取ってた塩にちなんだ塩田や塩を運んでた塩街道とかがある
852 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 20:41:27
ちなみにこの矢作川の上流にある奥美濃、奥三河、奥信濃の辺りには、浦島太郎にまつわる亀石や、かつて船着き場に使ってたと言われる船岩など、そういう場所や遺跡や寺社も色々ある 竜宮城から帰った浦島太郎が隠れて寝てた浦島岩や浦島神社も神坂峠付近にある 完全な仮説だけど ・大災害以前に「海」と呼ばれる湖があった ・湖じゃなく海と呼ばれてたのは海水と同じ塩水の湖だったから ・「東海」って名前はこの海から来た名前(だから海の無い岐阜も東海に入る) ・浦島太郎や山幸彦らの竜宮城や海にまつわる話はこの海の事(阿智村神話では龍が住んでたとしてる) もちろん単なる「仮説」でしか無いけど、一応この前提で自分なりに色々調べてみるね
853 :
古代 :2008/01/03(木) 20:45:05
835 論者は古事記の系統と勘注系図の系統は別のものだと見ているようです。 それはともかく大和の系統であるはずだし、倭の字も多く見えるのに海のイメージもありますね。 大倭久邇阿禮姫も淡路だし、倭氏と吉備氏はしばしば混同され、倭氏の祖は海人であったり。海から来たのか?と思わせます。 さて、自分としては天照がもともとニギハヤヒ・ホアカリ系の神でそれを取り込んだのであれば 後の称徳天皇が道鏡を天皇にせよとお告げを受けた、これを確かめに和気清麻呂が宇佐八幡に行くという話も納得できます。 伊勢神宮の方が皇統の管理にふさわしいはずなのになぜ九州の宇佐なのか?という疑問にもある程度の答えはだせるのでは?
854 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 20:50:23
855 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 20:56:19
俺なんかが言うとちょっと生意気かも知れないけど 記紀の記述にある地名にしろ、魏志の邪馬台国にしろ 「場所の特定(推定)」 ってのが大事な気がするよ もし今一般的にされてる歴史解釈が、間違った場所を「ここが記紀に書いてある場所だ」って前提で解釈されちゃってる可能性が結構あると思う 例えば俺が良く言う 「蘇我氏とかのいた飛鳥は明日香村の方じゃなく、伊奈波(岐阜)にあった飛鳥の方と思う」 ってのも「飛鳥」の場所のを間違えて特定してるんじゃ無いかって疑ってるから 例えば岐阜にも飛鳥川や大和川や蘇我石川の古墳や言われてる飛鳥にまつわる遺跡や地名などが沢山ある あと犬山だか桃山から見た各務原の地形がまるでなんとかって古い書に書かれてる飛鳥朝廷の風景とソックリらしいし ちなみに岐阜にある大和川ってのは長良川の支流にある川 飛鳥朝廷の記述で言われてるように海から船で大和川(長良川)を使い物資の運搬とかもされてた川だよ
856 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 21:01:09
>>851 景行天皇が猿田彦を溺れさせたという話は記紀にないと思いますよ。
猿田彦が溺れたのは神代で、漁をしていたとき貝に手をはさまれて溺れたのです。
ただ、三河の猿投山は、もともと鷲取山という名前で、景行天皇がここを訪れたとき、
飼っていた猿のいたずらがひどいので、怒って猿を投げた。
猿はその後、鷲取山に隠れ住んだ・・・という伝承が、猿投神社に残っています。
猿投山の山頂近くの西宮には、ヤマトタケルの兄・大碓命の墓(宮内庁認定)があります。
857 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 21:05:30
で、話がそれちゃったから邪馬台国に話を戻すけど、「邪馬台国の場所」ってのも一般的に言われてる前提が違うんじゃ無いかって思ってる ・邪馬台国は日本本土内のどこかにあった国 って事が前提になっちゃってるけど、 魏志には「倭人が納める邪馬台国」って書いてある (倭人が日本人かどうかの諸説もあるけど、一応、日本人の事との前提で考えてます) 説明や根拠を省くけど今の朝鮮半島も倭人が納めてた時代もある 調べれば他にもっと広い地域を倭人が納めてた可能性もあるかも知れないしさ んで話が長くなっちゃったけど 「今の日本領土内のどこかにあった国」 って前提を一度疑ってみて、魏志に書いてある通り「倭人納めてた」って場所がどの範囲なのかって所から考え直してみた方がいいと思うよ
858 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 21:12:57
三国志は呈造
859 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 21:13:51
美濃もん太氏は日本書紀のスレへ1年が24ヶ月存在したという貴説 の根拠資料等の詳細を解説願いたい。確か古代マヤでも18ヶ月暦法が あったそうで、これは注目せねばならぬ説である。
860 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 21:15:14
で、「倭人が納める」で自分なりに調べたら朝鮮半島は今の大連や遼東半島の辺りも倭人の氏族が納めてたり交流してたって話もあった で、邪馬台国のあった範囲の解釈を「×今の日本領土内」から「○倭人の納めてた」って前提で探したら 弁韓に倭人が納めてた「弥烏邪馬国」って国があった 弥烏邪馬国の他に弁韓には魏志に書いてある他の楽奴国とかの12国とかに似た名前の国も複数あったよ 俺は邪馬台国は、ここにあった国の事じゃないのかなって思う ただこの推測を、どう検証して、どうすれば証明出来るのかが良くわからないっす;; まあ「証明」なんてのはどのみち無理かもだけど
861 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 21:23:52
>>853 宇佐は宗像三女神が降臨し、神武天皇が東征で最初に立ち寄り、神功皇后・応神天皇が祭られている。
仮説ですが、宇佐八幡の「やはた」が邪馬台国なのではないか?と思っています。
隋書倭国伝の「秦王国」はそのなごりで、対岸の周防国も指していたのではないか。
862 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 21:27:26
あと他の場所の邪馬台国説を否定するつもりで今の日本領土内以外も候補になるって事を言いたい訳じゃないっす 例えば「邪馬台国=九州説」 これも「九州」って呼ばれてた地域の範囲が今の九州の事じゃ無いんじゃ無いかなって思ってるっす 根拠は ・昔は大陸には九個の州があって(今の朝鮮半島や九州含む?)ここの事を「九州」と呼んでたって話がある ・今の九州が「九州」と呼ばれるようになったのは500年頃に9個の国があったからと言われてる(ただし済州島や対馬を含めて9国とかなんか曖昧な気がする) ・記紀時代は九州は「筑紫島」って呼ばれてるから、その時代の記述に九州ってあれば、今の九州の事じゃない ・今でも中国からの米の事を「九州米」って呼ぶ 「九州」って範囲は倭人が納めてた朝鮮半島とかにあった州なども含めて「九州」なんじゃないかなって思う この時代の九州に当時の筑紫島(今の九州)が含まれるか含まれないのかは良くわからないけど
863 :
古代 :2008/01/03(木) 21:38:52
861 そうすると秦氏の先祖的な存在として邪馬台国があったということでしょうか? 八幡神は秦氏の神ですよね?宗像氏(胸形の君)との関わりはあるんでしょうか? また比売大神=日女大神(天照大神)のような説もありますがどう思われますか?
864 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 21:44:06
>>859 それは太国さんが「1ヶ月は15日しかなかった」って言ってたから
「仮に1ヶ月が15日なら24ヶ月×15日で1年としてたと思うよ」
って話だよ
暦の単位ってのは決まってると思うもん
俺が知ってるのは
1秒→水晶の振動周期(クオーツ)
1日→地球の自転周期
1年→地球の公転周期
12干支→木星の公転周期を1としてそれを12分割すると丁度1年になる(木星の公転周期は12年)
1月(旧暦)→月は太陽に対して円ではなく12角形の公転円を持つ星。月が太陽の周りを回る公転運動と連動
新月(旧暦の1日?)→月が太陽に最も近くにある日(月は公転の形が12角形〜13角形だから年に12回ある。閏年は13回)
満月→新月から約15日後で月が太陽から最も遠くに来る日(しつこいけど公転が12角形だから年に12回ある)
満月の日に月は角度をカクって変えて、約15日後にまた新月になる
865 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 22:35:23
とりあえず暦の事に関しての僕の考えや解釈を日本書記スレに書いてきました ただ「2倍暦は絶対に無い」とは思って無いっす 僕も「暦」に関してはすげー興味はあるよ^^ なぜ1週間は7日なのか月火水とかの曜日の字や順番は、なんの意味があるのかなとか あと現在は世界的に暦が統一されちゃって使われなくなった暦が沢山あると思うから、他にどんな暦があったのかとかさ 暦ってのはまだ良くわかって無い事が沢山ある見たいですよ 今の暦と旧暦を比べた場合には、旧暦の方が新月や立春や日本の祭りや行事などを正解に知る事が出来る暦らしいっす 曜日の並び方の意味とかはまだわかって無いっす 暦にはちゃんと意味があったハズだから、調べれば楽しいと思うっす 俺も干支や旧暦の新月や満月や月の単位の意味を自分なりに調べて考えたりしてるけど、かなりの天文学の知識が無いと暦は作れないと思う 天動説なんて西暦400年頃にキリスト教徒が言い出しただけで、古代人はきちんと天体の動きを知ってて、それを暦として表してたんすよ 凄い知識だと思う 天体望遠鏡や現代の測定器も無く天体の動きを理解して、そのうえ正解な暦を作ってたってのが信じられないぐらい マジで宇宙人とかがいて教えて貰ったんじゃないかって思えちゃうぐらいすよ
866 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 22:37:49
>>863 秦氏は、渡来系であることは確かですが謎の一族。
百済系か新羅系か、はたまた伽耶系か。
秦の末裔か、はたまた前秦か。
「海北道中」宗像とのつながりは書紀にも、宇佐神宮にも伝えられています。
渡来系であれば当然です。
これに対して、宇佐神宮と天照大神とを結びつけるものは何もないと考えます。
867 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 22:56:44
>>863 秦氏って日本に蚕を伝えた渡来人の氏族だよ
秦のハタは機織りのハタ
平安時代頃にいた波多野氏とか波多氏とかが渡来人の秦氏の事だよ
(波多氏かなんかが確か秦帝から4世代目とからしい)
「秦の始皇帝は広大な中国大陸を統一統治して皇帝の座に付いた」
ってのは魏志のどこにも書いて無い
魏志の中で始めて「帝」って書かれてある事からそう解釈されてるだけだよ
俺個人的には秦氏は今の中国からじゃなく、メソポタミアの方からシルクロードを渡って来たアーリア人の氏族じゃないかなって思うよ
家紋が六亡星だったりヘブライ語だったりの説があるでしょ?
古代イスラエルからユダヤ人って解釈は俺は違うと思うけどさ。 なんでもかんでも古代イスラエルを発祥に解釈してるだけな気がするし
ブッダや釈迦のガド族や釈迦族もアーリア人だけど別に古代イスラエル経由でアジアに来てる訳じゃないと思うよ
868 :
古代 :2008/01/03(木) 23:25:39
宇佐もちょっと整理してみたいと思います。 隋書の秦王国の人は中国と同じであるとあるので便宜上呉系新羅人とします。 これが新羅から百済、伽羅へ至り渡来。天之日矛、弓月の民となった。 弓月の民は秦氏。天之日矛は宗像氏。伽羅から辛島の名前が出来たので辛島氏も同族。 弓月の民は宇佐神宮に月神(月読命)を祀った<宇佐公康氏『古伝が語る古代史』> 一方同族の宗像氏は宗像三女神を祀った。特に比売大神を重要視している(第一殿に祭られている) 弓月→秦氏になると氏神(と思われる)八幡神を祀り宇佐神宮本宮になる。 やがて八幡神は一品という皇族に与えられる位を与えられ、皇族と同等とみなされると、大帯姫神=神功皇后であり、その子八幡神=応神天皇とみなされるようにもなり神功・応神も祭神となる。 邪馬台国宇佐説では亀山古墳を卑弥呼の墓としいる人も一部にいる。
869 :
愛知県民 :2008/01/03(木) 23:37:11
美濃さんの「弥烏邪馬国」は大伽耶にあった国ですね。 これは邪馬台国とは別の国と思うが、大伽耶国の始祖王は李朝の「東国輿地勝覧」によると 「伊珍阿鼓」というらしい。 まさか、イザナギノミコトか?
870 :
古代 :2008/01/04(金) 00:12:48
869 そのような説もあるみたいですよ。読みはイジナゴだけれども音読みしてイザナキ 弥烏邪馬国の弥烏は美称で山国=ヤマト国(隼人の読みがハヤヒト→ハヤトになったようにヤマヒト→ヤマトとなったと唱える) なので高天原時代の神話は朝鮮半島にいた頃の記憶ということになります。 ヤマトは地名ではなく聖なる山を崇める民というような意味になります。 ちょっと突拍子もない気もしますが起源が朝鮮であるという説は枚挙に暇がない・・
871 :
愛知県民 :2008/01/04(金) 00:18:46
そう思って読むと、「弥烏邪馬」は「みわやま」のような気がしてきた。 現地にあるのは「伽耶山」だけど。 いいのかなあ・・・
872 :
古代 :2008/01/04(金) 00:27:30
871 自分も各地のお山信仰はここから来たのか、と思いましたが・・・ 少なくとも記紀などにも様々な海人が出てきて道案内や協力をするので海と深い関係がある事は確かだと思います
873 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 01:46:31
>高天原時代の神話は朝鮮半島にいた頃の記憶 そう言えば天孫降臨神話って単身じゃなくて職能集団(今風に言えばテクノクラート)を引き連れてだったな。
874 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 03:58:54
>>871 >>872 おおー、そんな話もあるんだあ?
あと新羅の元始は日向三代とかに出てくるウガヤだって話とかもあるよ
朝鮮半島の倭人に関しては
これらの氏族が九州に渡り東征して大和を統治したって解釈も出来るけど
これらの氏族は朝廷の命を受けたか、もしくは国造りで朝鮮半島へ渡りそこを統治してた氏族で
それら氏族が邪馬台国連合(新羅かな?)を組んで、朝廷に対してクーデターを起こして九州渡って東征してきたって言う話もあるっすよ
「邪馬台国は女王の卑弥呼の『弟』が統治してた」
ってのが魏志に書いてある事だと思うから
例えば卑弥呼は日本にいて、卑弥呼の命を受けた同族の氏族が邪馬台国を納めてればそう言う記述になる気がするし
そう考えると神功皇后の話と似てるなとも思うけど、古史古伝とかにある素戔嗚尊追放の話にも似てる気がする
875 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 04:07:55
>>863 ちょい追加
昔はローマの事を「大秦」って書いてたから秦氏は中国からじゃなくローマの方から来た人って話もある
絹を運んだと言われるシルクロードは日本まで続いてるし、絹を運んだってより、ようは蚕を運んだのかも知れないね
876 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 04:15:29
>>873 天孫光臨って記紀の原文では「曾褒里の高千穂に降り立った」って書いてあって、曾褒里ってのはソウルの事らしいよ
ちなみに「ソウル」ってのは朝鮮語じゃないから朝鮮人が付けた名前じゃないらしいっす
877 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 04:27:57
>>854 奈良の橿原にある橿原神宮や神武天皇綾とかって、調べてみると明治時代以降に作られた後付けのものって分かるすよ
他の場所にカシ原があって神武天皇社ってのがあるなら、そっちが記紀の中のカシ原の事かも知れないね
そうなると藤原京が置かれたのも橿原じゃなく、そっちのカシ原なのかも知れない
奈良の橿原は、橿原神宮が建てられる以前は蘇我氏を祀る神社が地元橿原の人達の神社だった見たいだよ
まだ明治時代の事だから結構詳しく話が残ってたっす
878 :
唐松山 :2008/01/04(金) 09:29:40
崇神元年は 西暦186年頃 箸墓は 石ぶき 石葺と言えば 出雲の方墳だが 石葺を 大物主の系統とみて(モモソ姫は大物主の妻) 大きさから推察すると 西暦300年過ぎ350年 まで 神功渡海が 西暦272年 応神稜を作った後 巻向は 大和天皇家が潰された後で 廃墟同然 其の地に 凱旋組の三輪氏が 3つの稜墓を作る。
879 :
唐松山 :2008/01/04(金) 10:02:45
美濃もん太さん 新羅本記を読んで 西暦300年位の所 神功渡海を 西暦272年で見る 新羅に渡海する能力なし。 書紀の記年は 19年7閏法でかかれている 当時の暦法に合致 それをちじめるには、 各天皇治世から 19*n回を引く 此れしか有りません。
880 :
愛知県民 :2008/01/04(金) 19:33:41
弥烏邪馬(みわやま?)国で連想したが、邪馬台国と邪馬国は全く別の国でしょうか? 邪馬台国と邪馬国が隣接していたとすると、邪馬国は大分県の山国地方と思われるので 邪馬台国はその周辺となります。 弥烏邪馬国の伽耶山に対して、こちらは英彦山が神聖な山だったことになる。
881 :
ローガン :2008/01/04(金) 20:10:41
>>811 畿内説、当然一枚岩じゃ無いので色々な考えがありますね。
まあ、それは九州説も同じ事が云えるでしょう。
こと、邪馬台国については記紀をあまり重視しにくいですね。
やはり中国文献中心に考えると言う事になるでしょう。
まず云える事は…
邪馬壹国なる国の存在は考えにくい事ですね。
中国文献の引用関係を考えれば、邪馬壹国の名称の登場ははるか後の時代である事は明白ですね。
とりあえず「邪馬壹国」が「邪馬台国」になったとか、「邪馬台国」と「邪馬壹国」は別々の国であるといった珍説は問題外ですね。
邪馬台国と言う卑弥呼の都が畿内か九州かって事なのですね。
中国文献…魏志倭人伝は当然ですが、後世の史書が、邪馬台国を(其の史書が書かれた時代に)どう認識していたかを考える事が、
まず重要な事ではないか?って思います。
そして考古資料との整合性を考える事が邪馬台国論争の醍醐味…まあ、いわずもがなでしょうが…
記紀については、邪馬台国に関する限っていえば、参考程度に…と考えています。
勿論、古代史を考える上で記紀が重要である事を否定する訳ではありません。
あ!付け加えると、所謂、「古史古伝」と呼ばれる書物については其の資料価値が共有出来ないので当然論外です。
882 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/04(金) 20:19:57
明白ではないですね。
883 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 20:36:00
蓑門田のせいで、すっかり糞スレになっちまったなあ。
884 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 20:49:33
だからスルーすればよかったんですよ。 なんであんなに一生懸命かまうんですか。
885 :
古代 :2008/01/04(金) 20:57:15
881 英彦神社といえば天忍穂耳神ですね。これまた謎の神。 ニニギの前に中津国を治めるように言われたのに引き返し、子供のニニギに譲っています。 別に必要のないエピソードです。もしかしたら皇祖神は天照ではなく天忍穂耳神では?とも思わせますね。 もともと天皇は稲穂の神を崇めていたという話もありますしね。
886 :
愛知県民 :2008/01/04(金) 21:13:26
「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。 あれ? 日の御子?
887 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/04(金) 21:21:48
英彦山か〜。けわしい山だったな。一度峡谷へ転落しそうになった。 頂上の上宮と云ったか? 参拝時は霧隠れ、霧立ちの天候で四方は見渡せなくて 惜しいことをした。山下に大天狗面を飾る茶屋があったのがえらく記憶に残って いる。とにかくスタミナは限界に近かった。
888 :
古代 :2008/01/04(金) 21:30:32
「記紀」は、英彦山を高天原(たかまがはら)として描いたに相違なく、英彦山伝承では天照大神(あまてらすおおみかみ)の子の天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)が天降った神体山であるとする。 したがって古くは「日子山」と書いたが、822年に嵯峨天皇の詔(みことのり)により「彦山」とし、1734年の霊元法皇の銅鳥居(かねのとりい)御宸筆の「英彦山」によって、以後は「ひこさん」を「英彦山」と書くようになった。 英彦山は三峰からなり北岳の天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)、中岳に伊奘冉(いざなみ)・南岳は伊奘諾(いざなぎ)をそれぞれの峰の御神体とする。英彦山伝承が天忍穂耳命の降臨伝説だけだとすると、当然に天忍穂耳命が中岳に奉られるはずであるが、 中岳には伊奘冉(いざなみ)が奉られている。これは英彦山に天子降臨伝説以外の伝説が存在したことを意味する。これが伊奘冉(いざなみ)卑弥呼伝説である 伊奘冉(いざなみ)は火の神「軻遇突智(かぐつち)」を生んだ為に死に、卑弥呼は狗奴国(肥の国)戦争終結のために死ぬ。これは偶然の一致ではない。伊奘冉(いざなみ)の死は、ここで死んだであろう卑弥呼をモデルにしたのである。 さらに 日本書紀は天孫降臨の地を、「日向の襲(そ)の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」であるとも記している。添(そほり)はソウル、すなわち韓国語で「都」を意味する。英彦山の所在地「添田(そえだ)」とは偶然の一致ではない。←これがもんたさんの話かな?
889 :
古代 :2008/01/04(金) 21:35:37
太国さんは彦山山にも登ったんですね。今は修験道の山として有名みたいですね。 それで天狗の面なのかな?
890 :
愛知県民 :2008/01/04(金) 22:24:43
>>888 イザナギノミコトも祭られているんだ・・・
アマテラスじゃないんですね。
イザナギは大伽耶国の初代・伊珍阿鼓(イジナシと読むらしい)王で、伽耶山と英彦山は関係あるのかも。
891 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/04(金) 22:35:13
修験道の山だからでしょう。どうなってるかねぇ? あの店と大 天狗の面は?? 茶屋へ着いたときはヘトヘトだったな。 懐かしい20年経ってるか〜?
892 :
古代 :2008/01/04(金) 23:35:18
890 いろいろ調べていくと天照はやはりもともと皇祖神ではないような気がします。 天皇の即位の祭「大嘗祭」、もちろん今は天照が祭神であるが、昔の文献には祀られた形跡がない。 その奥の儀式は秘儀なので詳しいことはわからないが、古くは新嘗祭を大嘗祭と呼んでいたこともあったのでその内容からすると稲の神である可能性が高い(タカミムスビか) 大嘗祭では神殿に稲を神に捧げ天皇自らも稲を食す、その時の大嘗宮内陣の神座の神が天皇家の神であるはずであるが秘中の秘である。 (今は大嘗祭で天照の御霊を受け入れるというのが俗説であるが、もともとは前天皇の魂を引き継ぐという事のようである。) これを思うに出雲の大国主を地祇族から奪い、天孫族に祀らせたことによって祭儀権が大和朝廷、ひいては天皇家にあることを示したように、 各地におけるアマテル神(天照神・天照御魂神・天照国照神)、海神族の日神、尾張の天火明命(ニギハヤヒ)、対馬の天日神命などの太陽神を統率する神として天照大神が祀られるとともにその祭儀権が天皇家にある つまり、支配の正統性は天皇家にある事を示したのではないだろうか。
893 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 23:54:35
>>885 >子供のニニギに譲っています。
そこで女帝持統=アマテラス説ですよw
我が子草壁を即位させたかったが病弱で夭折。
孫の文武を即位させたと言う奴w
あまりにできすぎた話でちょっとアレだが
天忍穂耳をすっ飛ばす理由を上手く説明したのを他に聞いた事が無い。
なんかある?
あったら後学の為教えて欲しい。
そもそも高天原在住の神様なら年齢若さは関係ねえだろとw
(でもまあ地上に降り立ったら年とって寿命が尽きるのか?)
894 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 23:58:59
美濃もん太 ◆hF.jG29Cewの説おもろいなw
895 :
横槍 :2008/01/05(土) 00:02:00
倭人伝を見れば分かるとうり、太古は細木数子のような腐女子が 権力持っていたというのは事実じゃないの
896 :
日本@名無史さん :2008/01/05(土) 00:16:57
>>892 >これを思うに出雲の大国主を地祇族から奪い
大国主はむしろ畿内のヤマト朝廷から地方に押し付けられたと言う説がある。
なんでも元々の出雲の国津神は八束水臣津野命(ヤツカミズオミズヌノ命)
と言う巨人だとか…
大嘗祭の深奥部分について色々な推定が多くの学者により
なされているのは知っているがそもそも大嘗祭自体が7世紀頃からで
各地方で行われていた新嘗祭から来ているらしいから
ヤマト朝廷の開闢時にまで遡るような記憶が引き継がれているかどうかは疑問だw
897 :
愛知県民 :2008/01/05(土) 00:18:02
>>892 日本書紀では「皇祖・高皇産霊尊」という表現がありますが、天照大神にはないです。
本来の皇祖神はタカミムスヒかと思われる。
しかし、タカミムスヒも問題があり、葦原中国平定・天孫降臨の際には高木神という名前で出てきます。
何故名前が変わるのか?
タカミムスヒを祭る葛城の高天彦神社は、金剛山中腹の小さな神社です。
祭神は高皇産霊神、市杵島姫命、菅原道真。
数年前に登りましたが、結構きつかった・・・
山頂に達すると大阪側からロープウェイで来た人でいっぱいで、何か不思議な感じでした。
898 :
古代 :2008/01/05(土) 00:19:33
893 天忍穂耳神よりも妻の栲幡千々姫命が重要だった。 天照は栲幡千々姫命を統治者としたかったが血統ではないので天忍穂耳神と結婚させて子供を統治者にした。 まあ何のことはない栲幡千々姫命=元明天皇となるだけなんですけどね。 けれどもこの図式が重要と考えることが出来ます。 天忍穂耳神=太政天皇、栲幡千々姫命=皇太后(国母) ニニギ=天皇、に置き換えれば蘇我氏や藤原氏が妃を送り出す構図とよく似ています。
899 :
古代 :2008/01/05(土) 00:38:06
897 押し付けたというより大国主自体が周りの国の神々をくっつけて一つにした大神だと思います。 大和の地神は倭国魂神で天照と一緒に祀られていました。最もこれは土地の神で国神とは違いますけどね。 大嘗祭の形式を整えたのは物部氏と言われています。もともとの形は知る由もありませんが、恐らく最初は前の統治者が死んでそれを引き継ぐ儀式だったんでしょう。神とは関係なく。
900 :
愛知県民 :2008/01/05(土) 00:41:17
>>893 ブリアート・モンゴルの神話では、至高神サガンの幼い孫ゲゼル・ボグドゥが、六種類の神器(に相当するもの)を授かって地上に天下り、国を建てています。
簡単に先祖伝来の神話を改変するというような説には、ちょっと抵抗を感じます。
901 :
愛知県民 :2008/01/05(土) 00:51:55
至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。 彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。 最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。 そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。 ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。 この神話を紹介された大林太良氏は、 1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。 2.天下る神が幼児である。 3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。 4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、 蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。 という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、 日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。 (諏訪春雄通信23より)
902 :
古代 :2008/01/05(土) 01:02:19
天照大御神が子の天忍穂耳命ではなく、孫の日子番能邇邇芸命を降臨させたことに関して、 歴史学者は第41代持統天皇が孫の軽皇子(後の第42代文武天皇)を即位させたことを投影したものと説明するが、これほど馬鹿げた説はない。 世界の始祖神話などを見ても、主人公的存在の子が始祖となるのではなく、一つ空けて孫が始祖となるような例は探せば幾らでもある。 また、記紀神話には二つの物を直接結びつけるのではなく、その間に緩衝材を挟むという観念が所々に見え、それは古事記の神話体系に見られる無為の中心の観念とも無縁ではない。 後の海神の娘との結婚においても、それは周辺地域のメルシナ型に当てはまるもので、多くはその間に生まれた子が始祖となるのに対し(孫の例もやはりある)、 記紀神話では一つ空けて孫が初代神武天皇となっている。これも同様の緩衝材の観念によるものであるが、歴史学者はまた、これらは系譜を長く見せるために創作・造作されたものと叫んだりする。 以上投影説の批判でした。 どうやら彼らにとっては神話は語り継がれてきたものではなく、官僚の創作物でしかないらしい。
903 :
古代 :2008/01/05(土) 01:04:50
902 一行ずれました。以上投影説の批判、は一番最後の行です。わかりますねW
904 :
日本@名無史さん :2008/01/05(土) 01:12:29
皇族は伊勢神宮をのぞいてあまり神社に参拝しないと思うのだが、その意味では、 宮崎神宮は特別かもしれない。 特に、明治以降はけっこう皇族が参拝している。 交通事情は悪いと思うのだが、大正天皇も皇太子時代に参拝しているし、 昭和天皇は皇太子時代に6回。天皇になってからも2回参拝している。 皇族も日向としての宮崎を重視していた証拠だと思う。 宮崎神宮の由緒としては、神武天皇の子、神八井耳命の子の建磐龍命によって 神武天皇の御神霊が皇居であった高千穂宮の霊地に鎮祭されたとなっている。 明治以前も、神武天皇宮あるいは神武天皇廟として歴代領主により尊崇されて 来たとある。 ちなみに、建磐龍命は阿蘇神社の祭神である。
905 :
日本@名無史さん :2008/01/05(土) 01:30:34
>>902 >その間に緩衝材を挟むという観念
誰が言ったんだっけ?
「日本神話における中空構造」て奴かな?
>>901 なるほど…確かに記紀神話に中央アジアとの類似箇所も指摘されるし説得力ありそう。
まあ持統説は持統のぁゃιぃ動きや、アマテラスが(原初男神だとして)女神になった理由を
一発( モンゴル神話 + アマテラス=卑弥呼 なら二発って意味でw)
で説明できると言うメリットがあるがw
>高木神
タカミムスビの元々の属性に基づいた別名かな?
リアルで見たことが無いがどッかの村祭りで山から
「高い木(竹だったかな?)」を切り出してきて地面に立てて
そこに神様が降りてくるって映像をテレビかなんかで見た記憶があるが…