なんで徳川幕府のまま開国しちゃだめだったの?

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1日本@名無史さん
開国のとき、なんで徳川幕府体制のまま開国してはいけなかったんだろう?
2日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:24:34
徳川じゃダメだった理由教えて。
3日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:40:34
いわゆる不平等条約を結んだのは幕府ですので幕府が開国(鎖国を解く)してます
4日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:59:09
そう、それで幕府の弱腰では日本も清国みたいに半植民地化される
と憂いた人たちが、倒幕→西洋式の国へと言う流れを作った
5日本@名無史さん:2007/11/17(土) 21:30:09
開国だけならよかったが通商条約や兵庫・下田開港や大坂開市の締結について朝廷や薩摩長州が嘴をいれ、日本は統一国家でないと宣伝されたから
6日本@名無史さん:2007/11/17(土) 22:44:11
朝廷が嘴を入れるという言い方はおかしい。
7日本@名無史さん:2007/11/17(土) 22:54:23
>>1]
幼稚園からやりなおせ。
8日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:19:24
江戸幕府は鎖国などしていない。
9雪の典侍 ◆.dZGrsR71s :2007/11/17(土) 23:31:47
>>1
これ思ったことよくあります!
「信長が本能寺で脱出してたら?」
「徳川慶喜がタカ派だったら?」
この二つは想像すると楽しいです
10日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:35:17
>>1
別にいいけど。
たまたま

・倒幕
・開国

が一緒の時期にきただけだよ。
あのまま幕府が開国してれば、フランス主導になっただろう、ってだけ。
11 ◆.dZGrsR71s :2007/11/17(土) 23:38:46
>>10
会津がどつぼに嵌まらずにすんだし
12日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:42:31
>>1が建てたスレタイのむごさに
ゆとり教育の弊害を感じた
13日本@名無史さん:2007/11/18(日) 00:26:25
1854〜1868年まで徳川幕府が開国、外交を主導してきたのに
あまりにも薩長史観によりすぎて、史実が見えなくなってる
14日本@名無史さん:2007/11/18(日) 00:30:55
と会津贔屓史観が叫んでいるw
15日本@名無史さん:2007/11/18(日) 13:23:05
会津こそ真実の歴史
16日本@名無史さん:2007/11/18(日) 13:27:57
知るか
17日本@名無史さん:2007/11/18(日) 13:30:56
>>14-16の三連コンボワロタw
18日本@名無史さん:2007/11/18(日) 21:32:37
開国と明治維新は無関係
19日本@名無史さん:2007/11/18(日) 21:39:54
身分制度のまま列強に開国していたら、まず他の植民地国と同じ運命をたどったろ。
20日本@名無史さん:2007/11/18(日) 21:46:11
北鮮が改革開放すれば、徳川幕府と同じ運命が待ち構えているな。

 北鮮には徳川幕府の改革開放派、勝海舟のような人材がいないようだ。
21にゃんこ:2007/11/18(日) 22:02:05
まず、幕府の徴税能力の低さが問題。江戸時代は、脱税天国。新井白石は、実質税率
28%と計算していたらしい。吉宗時代に30%台後半に戻るが、後はなし崩し。

そして、武士階級の生産効率悪すぎ。無駄飯食い。

ほんで、財政難。幕府側の方が、薩摩の田舎者や長州の狂信者よりも、海外知識
が豊富だったらしいが、長年の財政難で、ケチケチ官僚のみが出世できるように
なってたらしい。洋化には金がかかるので、幕府には難しい。

要は、旧会社(幕府)を倒産させて、借金を整理して、無駄な人員をクビにして、
新会社(明治政府)を作る必要があったんだな。
22神奈川県民改め三重県民:2007/11/18(日) 22:05:15
ラスト侍みたでしょうに〜
23日本@名無史さん:2007/11/18(日) 22:19:25

徳川幕府の開国と言うのはその時代の外国から要請。開国と言うのは手段の一つでしかなく後の明治政府の理念は文明の導入。
これが目的です。なので文明を導入するにあたっては幕府なるものは必然的に崩れていたでしょう。文明の導入が失敗に終わった場合、少なくとも隣国をご覧になったら良くわかるはずです。ここで文明と文化を間違えてはいけません
24日本@名無史さん:2007/11/19(月) 09:40:39
>>21
所得税、消費税、その他諸々考えると年収によっては現代のほうが年貢高いケースも多々ありか。
25日本@名無史さん:2007/11/20(火) 17:59:38
まあなあ、大奥なんて無駄の権化を抱えてちゃ無理でしょ。
26日本@名無史さん:2007/12/15(土) 00:26:58
名古屋城って昔から緑の屋根だったの?
27日本@名無史さん:2008/03/14(金) 08:46:58
実は気が小さかったから
28日本@名無史さん:2008/03/14(金) 09:29:13
>>4彼の国のように実力も無いのに強腰でいってもね・・・
相手を刺激しないように弱腰に出てその間に国力増強を目指す。信長だってそうなんだぜ。
29日本@名無史さん:2008/03/14(金) 09:33:19
藩というのは幕府を宗主としつつも独立した一つの国である。タダでさえ小さな日本がさらにバラバラなんだから、強大な外国と戦えるはずもない。
30日本@名無史さん:2008/03/14(金) 10:05:11
ダメ、ゼッタイ!!
31日本@名無史さん:2008/03/16(日) 06:50:06
>>30
田舎者みたいなやっちゃのぅ
32日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:56:34
交易の窓口を長崎などに絞り、諸外国との交わりを極端に制限していた徳川政権下の日本。
しかし当時の欧米列強の間では、ロシア、中国、トルコ、神聖ローマ帝国などと並ぶ
「世界の七帝国」の一つとして認識されていたらしいことが、東北大の
平川新教授(日本近世史)の研究で明らかになった。

「七帝国」に関する記述があるのは、蘭学者・桂川甫周が1794(寛政6)年に
編集した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』だ。
10年のロシア生活の後、1792年に日本に送り返された漂流民・大黒屋光太夫への
聞き取りなどを基にまとめられた本で、光太夫がペテルブルクで聞いた情報として、
「帝号を称する国をイムペラトルスコイといい、王爵の国をコロレプスツウといふ。
(中略)帝号を称する国僅(わずか)に七国にて、皇朝其一(そのひとつ)に居る」
というくだりが出てくる。漂流民の歴史に詳しい平川教授が確認、
先頃開かれた研究者向けのセミナーで発表した。

「帝号を称する国」とは帝国、「王爵の国」とは王国のこと。ここで
「帝号を称する(略)僅に七国」と書かれた日本以外の国々は、
ムガール帝国(インド)、ロシアなどといった大国ぞろいである。

では、「帝国」と「王国」はどう違うのか。蘭学者・山村才助は『訂正増訳采覧異言』(1803年)で、
「威徳隆盛にして諸邦を臣服する大国」のことを「帝国」と呼んでいる。
つまり複数の王国を支配する国というわけだ。

2008年06月03日12時18分 朝日新聞
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200806030124.html
18世紀にアムステルダムで発行された「日本図」。欄外に「EMPIRE」の文字が見える
http://www.asahi.com/culture/news_culture/images/TKY200806030120.jpg
33日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:57:34
平川教授によると、16世紀以降、来日した宣教師らによって、戦国大名が割拠し、
分国を支配する日本の姿はヨーロッパに逐一報告されていた。徳川幕府が成立すると、
それら「諸王」(大名)に君臨し、統括する幕府の将軍を「皇帝」とみなし、
皇帝が治める日本を「帝国」とする見方が強まる。1785年に太平洋を
探検したフランスのラペルーズの航海記にも日本が「帝国」と書かれている。

当時、列強の間では、「帝国」は「王国」より上の最上級の国家とみなされた。
大黒屋光太夫も、ロシアでの経験として、「王国の民だと言っても誰もとりあってくれないが、
私の国は帝国だというと皆、上座を譲ってくれた」と語ったとされる。

光太夫はロシア滞在中に、7回もエカテリーナ女帝に召し出されるなど、非常な厚遇を受けた。
「これまでその理由がよくわからなかったが、彼が帝国の臣民とみなされたから
だと考えれば納得がいく」と平川教授は語る。

「日本が中国と並ぶ世界の帝国の一つという考え方は、ロシアから帰国した大黒屋光太夫や
石巻の若宮丸漂流民などによって伝えられ、19世紀には知識人の間にかなり広がっていた。
漂流民がもたらした異国情報が、当時の人々の日本という国に対する自己認識の形成に
大きな影響を与えた可能性もあるのでは」

菊池勇夫・宮城学院女子大教授(日本近世史)は「帝政ロシアが徳川日本を同等の帝国と
認識していたとの指摘は重要だ。これを機に、世界史の中での近世日本をめぐる
議論が活発になることを期待したい」と話している。(宮代栄一) (終)
34日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:21:10
>>32
記事が抹消されますた。
35日本@名無史さん:2008/08/18(月) 16:40:18
百姓に軍を任せないと
開国(米国従属)できんだろ
見事完敗してくれたじゃねえか
36日本@名無史さん:2008/08/31(日) 08:39:10
37日本@名無史さん:2008/08/31(日) 12:30:06
>>1 徳川時代にすでに開国してたことを知らないアホ
38日本@名無史さん:2008/09/06(土) 11:05:21
だからダメだったっていいたいんじゃないの?
39日本@名無史さん:2008/09/12(金) 20:43:29
むしろ「なんで薩長は鎖国→開国に主旨替えしたのか?」では?
40日本@名無史さん:2008/09/12(金) 20:47:50
薩長の目的は倒幕だからな
41日本@名無史さん:2008/09/13(土) 11:14:28
実際に外国との戦争を体験したからじゃね〜の
42日本@名無史さん:2008/12/29(月) 21:05:22
>>39
薩摩はずっと開国じゃなかったか?
43日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:48:11
侵略の危機が迫る中、幕府が中央政府の力も権威もないくせに居座ろうとしたから排除された
44日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:01:58
外交に関する権限は幕府が持っていたんだから、勝手に開国しても問題なかった
のに阿部正弘がヘタレでペリー来航を知った時に島津に教えたり、1回目の
来航後に諸大名、一般市民にまで意見を求めたりしたから大騒ぎになって
倒幕にまで発展してしまった。
老中の責務として幕閣で処理していたら明治維新はおこらず大陸との戦争、
しいては大東亜戦争なんてやらなくてもいい戦争もしないですんだ
45日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:41:36
その処理する能力がなかったんだろ
46日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:41:43
「征夷」大将軍が勝手に外国と通商条約を結ぶのは越権行為だという、水戸藩や薩長の難癖だろう。

「征夷」なら攘夷でなければならんということだ。
47日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:35:33
>>32
帝号くらいで大国って…この先生アホ?
48日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:08:11
>>43
というか当時の日本は封建体制で、統一国家でなかったわけで。
欧米の植民地にされないためには、早急に「国家」を作る必要があった。
幕府を潰して天皇制の国家にするか、幕府が諸藩を潰して自ら国家に成るか、
どちらかの選択しかなかった。
49日本@名無史さん:2009/01/09(金) 12:00:05
じゃあ、連邦制は?
中世じゃあるまいし、連邦制国家が既にあるでしょ
50日本@名無史さん:2009/01/09(金) 20:20:27
同じ頃ドイツやイタリアが統一した事からもわかるように、当時は中央集権国家がブームだったんだよ
51日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:01:25
ドイツはバイエルン王国とかザクセン王国とかバーデン大公国とか
残したけどね。
ぶっちゃけ、徳川が本気になって薩長を粉砕すれば可能でしょ。
内政不干渉の原則を破れば国家として近代化できるだろうし。
52日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:20:47
>>50,51

ドイツ帝国は連邦国家じゃん。
国家統一の中心となったプロイセン王国も帝政が倒れるまで存続してた。
帝国を構成する国家は独自の軍隊まで保持していた。

国家の中に国家が存在し、尚且つ1個の近代国家でもあったのがドイツ。

あのビスマルクも帝国を構成する国々の内政には干渉しなかった
らしいね。
53日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:50:57
ていうか、越前・土佐などの公議政体派や開明派幕臣がねらってたのが、
まさにドイツ帝国みたいな諸侯連合国家だったわけだが。

開明派幕臣が慶喜のために書いた「大君制」の新国家構想は、ドイツ帝国そっくり。
(時期的に、当時のドイツはその前身の北ドイツ連邦だが)
54日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:56:59
>>44
一般市民にまで意見求めたのが、尊王攘夷が手が付けられなくなった1つの原因だしなぁ。
老中の中では他に開国派がいない時期だから、世論や朝廷の力で押し切ろうとしたんだろうが
やはり無責任すぎたと思うよ。
55日本@名無史さん:2009/01/10(土) 07:24:57
>>1
当時の“時代の気分”がそうさせたんだろ。
黒船(外国の圧倒的な武力)にビックラこいて「現状のままではどもならん。どげんかせんといかん」っちゅうことやろ。
「なんでこないなことになったんや?徳川はんの責任でっしゃろ?そら責任とって辞めてもらわなアカン」となるは自然の成り行きでんな。
56日本@名無史さん:2009/01/10(土) 08:14:06
21世紀の現代でも、アラブ首長国連邦やマレーシアのような土侯国の連合国家があるのだから、
日本もドイツ帝国式の諸侯連合国家になってた方がよかったのにな。
57日本@名無史さん:2009/01/10(土) 09:17:34
日本は建国以来、天皇を中心とする神の国だったわけだし、
徳川は、征夷大将軍として実務を任されていただけの話。
幕府が弱体化し、管理できなくなったからやめてもらった。
それだけの話です。
58日本@名無史さん:2009/01/10(土) 11:09:15
は?
59日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:50:00
>>1
そんなことしたら貿易のうまみが
すべて幕府の手に落ちて
薩長がこれまで吸ってきた甘い汁(=密貿易)が
パーになる。
60日本@名無史さん:2009/01/11(日) 02:11:05
連邦国家を選択しても中央政府を作る必要がある。中央政府で幕府、親藩と外様藩では対立が続くだけだろう。

 外様藩の長年の差別という幕府に対する恨みもある。ドイツとは事情が違っていた。

 どの藩も財政赤字で藩を経営していく能力も限界に来ていたようで、中途半端な連邦制では富国強兵は無理だっただろう。
61日本@名無史さん:2009/01/11(日) 03:29:59
プロイセン王国はフランス帝国やオーストリア帝国と戦って勝って
ドイツ統一の主導権を得た。
幕府も第一次長州征伐の段階で薩長を完全に破壊して天領にするくらいの
実力があれば連邦国家もできたかもな。
62日本@名無史さん:2009/01/11(日) 07:10:56
>>1
不平等条約を押しつけられて開国したのは幕府だろ
63日本@名無史さん:2009/01/11(日) 07:44:21
>>1
天皇中心でないと、まとまらなかったからじゃないの?
64日本@名無史さん:2009/01/11(日) 07:52:32
秦国ニッポン。もとえ、神国日本。
ガド族こそ天皇の祖先。
65日本@名無史さん:2009/01/11(日) 08:22:05
今の政治の衰退ぶりをみると薩長政権が糞だったのがよくわかる

徳川が続いててもそのうち鎖国もし近代化もしてただろうしもっと良い国になってたかもしれないな
66日本@名無史さん:2009/01/11(日) 09:12:15
大和朝廷はもっとしっかりしていれば・・・
源氏だの平家だの半島出身の騎馬民族がばっこしだしたのが間違い。
67日本@名無史さん:2009/01/11(日) 09:59:02
薩摩長州の下で実際に役人として働いてたのは幕府系の人材であり、初期の明治政府はそれらに頼らざるを得ないほどの実力しかなかった。
面子だけみたら徳川幕府と大きく変わらない。お偉いの顔ぶれが変わっただけ。
68日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:26:58
徳川幕府を潰さなければ、毛並みが良いだけで無能な連中を排除できなかった。
当時の幕府は、いわば動脈硬化のボケ老人状態。
老害を排除して新しい血を導入すべきときだったのだよ。
69日本@名無史さん:2009/01/11(日) 16:46:02
それは現代の国会や自民・民主両党のことか?
70日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:12:19
>>66
それは言えるんだよな。最後はおじゃるごじゃるの世界。
なさけねぇ。
71日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:36:50
>なんで徳川幕府のまま開国しちゃだめだったの?

フルベッキとグラバーの
2人のユダヤ人が維新志士たちを操って
倒幕に持っていったから

さらにその背後にはロスチャイルドがいる
72日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:50:22
徳川幕府は開国するつもりで条約を締結した
しかしこの機に乗じて幕府から主導権を奪いたい
薩摩などの列藩が朝廷を持ち出し
都から出たことのない孝明天皇に異国の恐ろしさを切に伝え
天皇が幕府に鎖国を命じるという暴挙に出た
幕末は長らく幕府主導者は開国主義、朝廷は鎖国主義だった
しかし薩英戦争で薩摩がイギリスにぼろくそにされたことで
薩摩は一気に開国論者となり
孝明天皇没後幼少の明治天皇を奉じて討幕にむかった
73日本@名無史さん:2009/01/12(月) 03:01:11
>>66
そもそも大和朝廷自体が(ry
74日本@名無史さん:2009/01/12(月) 12:31:29
>>66 源氏、平家が騎馬民族? 頭大丈夫か?
75日本@名無史さん:2009/01/12(月) 13:16:33
源氏と平家の正体を知らない奴がいるな

奴らの本当の正体はな、


おっと誰か来たようだ
7675の許を訪れた「誰か」:2009/01/12(月) 14:03:32
源氏と平家の正体、教えてもらおうか。
77日本@名無史さん:2009/01/12(月) 14:39:34
>>75は死んだ。
そう、秘密を暴露しようとしたために組織のものに消されたのさ。
俺もこうしてはいられない。さらば!
78日本@名無史さん:2009/01/12(月) 16:14:05
>>72
薩摩は最初から開国だろ

薩英戦争も死者はイギリス側の方が多かったし
79日本@名無史さん:2009/01/12(月) 17:41:03
>>76
ペルシャ人だったんだよ
80日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:17:02
>>79 源氏、平家でなくて聖徳太子がトルコ人だったはずだが。
81日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:35:16
薩摩が最初から開国派だったという事実はない。
薩英戦争という史実からは、むしろ攘夷派だったと結論付けられる。
しかしながら >>72 が主張するような「薩摩がイギリスにぼろくそにされた」というのは事実誤認。
互角にわたり合って撃退したというのが事実。
ただし、このときの体験から攘夷の非現実性に気付いたのも事実。
82日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:48:03
>>81
所詮は「薩摩」という日本の中の一藩と
「イギリス」という国の一部の艦隊との砲撃戦。
イギリス艦隊は本気で戦うのでもなく適当に撤退。
幕府の命令により日本のイギリス大使館で講和が結ばれており、
幕府が薩摩の行動に起こっていたのと同様、
イギリス本国も艦隊の動きに全く無感知だった。
83日本@名無史さん:2009/01/13(火) 20:50:26
>>82
> イギリス艦隊は本気で戦うのでもなく適当に撤退。

その ↑ 根拠は?

それにしても致命的な誤字が多いぞ。
「起こっていた」「無感知」   ぷっ!
84日本@名無史さん:2009/01/14(水) 02:50:20
2万5000ポンドの賠償と、犯人の引渡しに薩摩が応じない場合は武力行使をしてもよいという、
ラッセル外相からの訓令があったとはいえ、薩英戦争自体は出先(おもにニール代理行使)の判断。
ニール(強硬派)とクーパーの二人の思惑も一致していなかった。
イギリス議会では、すでに多額の賠償を得ていたこと(戦闘後に薩摩からも賠償金を得た)
などから鹿児島城下への砲撃を必要以上の攻撃と非難したほど。
イギリス艦隊自体は当時のイギリス海軍からみれば、ほんの一部の弱小艦隊といえる。
実際に当時最強の砲列艦[4000〜6000トンのスクリュー推進艦で当時はイギリスは64隻所有]は一隻もなく、
当時、イギリス海軍には、砲列艦、フリゲート、コルベットを合わせると約100隻あったが、
そのうち、薩英戦争に参加したのはユーリアラス(フリゲート)、パール(コルベット)の2隻のみ。
(砲列艦>フリゲート>コルベット>スループ>砲艦>ガンボート)
85日本@名無史さん:2009/01/14(水) 16:27:46
つまり、「薩摩がイギリスにぼろくそにされた」というのは事実誤認ということだな。
イギリスはそこまではしなかった、というのが実態。
86日本@名無史さん:2009/01/15(木) 17:24:07
薩摩は、ぼろくそにされたと思ったかもしれないが、
イギリス本国の意向としては本気で戦う意思はなかった。
イギリス艦隊の威容(と言ってもイギリス海軍からみたらほんの一部の二線級)で、
薩摩が屈伏すると甘く考えていたら、以外にも反撃してきたので応戦しただけ。
87日本@名無史さん:2009/01/15(木) 19:27:58
つまり、薩摩はイギリスと戦争したというより、
風車と闘うドンキホーテだったということですね?
88日本@名無史さん:2009/01/15(木) 21:00:25
>>87
的外れなたとえ。
89日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:10:55
慶応三年三月頃の天皇宛・徳川慶喜の上申書、ワロス。
何を今更、という幼稚園児並の内容
90日本@名無史さん:2009/01/15(木) 23:55:51
薩摩は、幕府のように二線級の戦艦で屈すると思ったら、
互角の戦いをした。薩英戦争ではイギリスがドンキホーテであったのだ。
91日本@名無史さん:2009/01/16(金) 11:40:48
別に徳川幕府のまま開国してもよかったよ。
ただ薩長が混乱に乗じて関ヶ原の恨みを晴らしただけ。
92日本@名無史さん:2009/01/16(金) 12:51:01
幕府じゃ守らなきゃいけないしがらみが多すぎて改革なんて出来なかったろ
93日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:12:15
幕府じゃあ改革が出来なかったのは明白。
麻生じゃあ日本の国が潰れるのと同じ。
94日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:20:39
>>93 民主党に大久保、西郷、木戸、伊藤、山県、大隈、江藤は居ないんだが…orz
95日本@名無史さん:2009/01/16(金) 22:22:41
やっぱり、小松帯刀が死んだことで、日本が間違った方向へ進んでしまった。
それが真実です。
96日本@名無史さん:2009/01/17(土) 00:36:22
大河板に帰れ
97日本@名無史さん:2009/01/17(土) 15:21:33
というか、幕府が開国したんだが。

まあ不平等条約という形だったけどさ。
98日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:27:57
薩摩人が馬鹿だったということでしょう
99日本@名無史さん:2009/01/17(土) 17:30:11
鹿児島人とは付き合いたくないもんよ
100日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:58:58
>>94
当たり前じゃねぇか。
時代が違うぜ。
101日本@名無史さん:2009/01/20(火) 01:47:52
薩長が戦前に井伊大老を必要以上に認めなかったのは
開国に関する功績が偉大すぎたからだろ。

奴らの論理だと、自分たちがすべて国際関係を作り上げたという
捏造をする必要があったからだ。
幕府(しかも自分たちの反対派)の大功績を認めるわけには行かなかった
んだろうな。
102日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:25:14
井伊の開国なんて、まやかしの開国やで。佐久間象山とは違うで!
103日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:13:04
>>101
そんな悠長な話じゃねぇだろ。
自分らの仲間や身内が安政の大獄で殺された恨みだぜ。
104日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:34:24
>>102>>103
なんだやはり薩長の私怨かww
105日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:36:35
幕府が開国してたら、無益な侵略などしなかっただろうな。
106日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:42:57
もし江戸幕府が鎖国をしなかったなら、
日本は東アジアを支配していたかもしれない。
107日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:12:54
>>106
ないない。
というか、鎖国とは貿易の制限と、外国への渡海を禁じるということであって、
領土拡張のこととはあんまり関係ない。
108日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:21:12
幕府が開国してるんですが・・・
109日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:23:46
そもそも尊皇攘夷派って、開国をした幕府を恨んだんだよね。
そのくせ後の世になって自分の手柄にするのは薩長はずるいな。
不平等条約うんぬんは、あとだしジャンケンみたいなもんだろ。
110日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:26:18
鎖国をしなかったなら東アジアを支配していたとかさ、飛躍しすぎだろ。

もし日本が外国を統治するにも、決して安定しないだろうとおもうしね。
異民族を統治するってのはそれほど難儀なことだよ。
111日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:45:54
鎖国しなくても、東アジアを支配したってことはないだろ。
秀吉が朝鮮出兵をし損なって、内外から恨みをかってたんだから
徳川は二の舞は踏まないだろう。

鎖国する前にすでに、朝鮮出兵を謝罪してんだから
東アジアを侵略はありえないと思う。
112日本@名無史さん:2009/01/23(金) 14:30:23
わざわざ他国を侵略するより、友好関係を築いて商売するほうが余程日本の為になる。
113日本@名無史さん:2009/01/24(土) 10:21:27
結局動乱期には『拙速』ができるかどうかが大事だと思うんだよな。
巨大な組織である幕府には有能な人材もいたが、無能な人材もいるし、
古くて大きすぎる組織はどうしてもスピード感に欠けてしまう。
平時ならまだしも、動乱期には時間が重大な要素だから。

明治維新を100年かけてやりなさい、というならば幕府のまま開国したほうがよかったのかもしれないけど、
現実は時間との戦いだからいろいろな矛盾を抱えながらも突き進む勢いがないと
時間には勝てないと思う。

114日本@名無史さん:2009/01/24(土) 11:41:56
しかし、300年も鎖国しておいて、いまさら開国しようとあせってもなぁ・・・
115日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:16:21
だから〜
鎖国なんかしてないっちゅうの。
江戸時代を通じて、ちゃんと西洋の文物も入ってきてたんだから。
116日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:20:42
そうそう、西洋の文物といえば、そのときの中国にも西洋の文物は来てるんだよね。

中国経由で日本に来た西洋の知識とかも実に多い。
117日本@名無史さん:2009/01/24(土) 17:23:26
別に日本は「開国」を焦ってないよ?

武力による威嚇で開国を要求したのはアメリカ合衆国だよ。史実を知れよ。
118日本@名無史さん:2009/01/24(土) 20:40:29
>>116
ついでに言うと、近代に入り中国は何度も何度も『革命』と称する運動を行っている。
その結果があれです。

革命という名の共食い。
119日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:31:53
征夷大将軍は文字通りに解釈すれば、夷逖(いてき・異民族のこと)と戦うのが職務だった。幕末に日本にやってきたアメリカ人をはじめとする外国人は、文字通りの異民族。
異民族と戦うと看板を掲げている将軍が、異民族と勝手に条約を結んではおかしい。この矛盾が将軍の存在基盤をゆるがした。
つまり幕府は戦うための政権だったから、平和的に条約を結ぶ能力を欠いていた、と言うのがその答。

120日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:55:10
>>119
それは解釈次第だろ。

戦争すると、日本が負けて天皇家がなくなる可能性もあったためで。
日本や天皇家を守るため、幕府は開国したという論理もなりたつぞ。

121日本@名無史さん:2009/01/24(土) 21:57:31
幕府は開国してますけど?
122日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:03:59
それに徳川家は、単なる征夷大将軍だけじゃなく
官位や源氏長者も拝領していたわけだろ。
政治を知らない天皇家に反してでも、日本を守る義務があったはず。

天皇の勅令で、攘夷戦なんてアホなことを本気でやったら
天皇が処刑される可能性すらあっただろ。
まあ、2次大戦のときは天皇はうまく責任逃れしたけどね。
123日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:13:59
結局、幕府のまま開国してはいけない理由など何もなかったってことだな。

西周の案で、構造改革してたら
基本的には明治天皇の役割を、徳川将軍が果たしていただけ。

その場合は、アジア諸国と友好関係な日本の伝統職や武士の力が強い
明治時代を迎えていただろうが・・
124日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:46:03
鎖国はしていないというのなら、攘夷なんてたわごとではないか。
しかし、少なくとも一般庶民は外国人や外国の文化を直接享受することはなかった。
それを鎖国というんだよ。理解できますか?
125日本@名無史さん:2009/01/24(土) 22:49:43

>>少なくとも一般庶民は外国人や外国の文化を直接享受することはなかった。

>>124
そんなことはないだろ。
朝鮮総督府の来日は、庶民の見物でいっぱいだったじゃないか
庶民に制限があったのは事実だが、完全に遮断されてたわけでもない。
126日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:11:16
>>123
上級武士は「貴族階級」として、民選議院開設を迫る平民層と対峙するという
政治構造になっていただろう。20世紀前半のうちには、
欧州諸国と同じように民主化が進んだだろう。

重要なことは、徳川将軍の権威の裏づけには、
水戸学的な朱子学(腐れ儒教)が、入る余地が無いということ。
結局、大日本帝国最大の癌は、
天皇のもつ古代首長以来の素朴な神権主義が
腐れ儒教の大義名分論によって、変形され腐臭を放つ怪物となった
なんとも始末に負えない国粋主義にあるわけで、
これが生じないことのプラス面は計り知れない。
19世紀のうちには、大君の君主権力は早々に制限され、
穏やかな議会主導の立憲君主制が、進展したものと思われる。
ただ、gdgdの将軍家が外国につけこまれないうちに、
政治勢力が上手に立憲化しないといけない。
一歩間違えると、オスマントルコ、エジプト、イランと
同じような事態になる危険もある。
127日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:13:04
言葉の定義の問題かもしれんが、幕府は渡航制限と貿易制限をしただけで、
鎖国をしたわけではない。
攘夷運動は、朝廷の勅許もなく勝手に異国人との条約締結したこことがその発端。
128日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:49:11
幕府のまま開国?をしてたら自由民権運動なんて
起こらなかっただろうな
幕府と明治政府の一番の違いはそこだろ
商人や農民は政治に介入する事は許されず
士分の者達は
世襲で金が入る
129日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:55:28
>>128
下品な成り上がり(かねもうけ財閥や下級武士)が偉そうにしてる国家よりは
武士が力を持った明治時代のほうが良いと思うが。
130日本@名無史さん:2009/01/24(土) 23:58:44
開国した以上、どの道幕府も憲法草案を議会制を作らなきゃならなかっただろう。
(慶喜の考えはそうだった)
函館政権に近いことを幕府はやったのではないだろうか。
131日本@名無史さん:2009/01/25(日) 00:39:19
>>128
開国した以上、西洋の政治思想が怒濤のように入ってくる。
「御一新」は起きず、漸進的改革が進むから、分かりやすい民衆のガス抜きは困難。
さらに、徳川氏が抑圧してきた毛利など西国諸藩藩士のストレスはたまりまくる。
仕切っているのが西周や慶喜、勝だから、啓蒙専制君主のようなことを始めるだろう。

どうみても民権運動の高まりは確実のはず。
徳川「君主権」の神権化は、精々東照大権現レベルだから簡単に打破される。
民主化へのハードルはずっと低いだろう。
だが、ハードルが低過ぎて混乱が起こる可能性もかなりある。
19世紀の世界史をみれば、これが亡国の道にすらなりかねないレベルだ。
132日本@名無史さん:2009/01/25(日) 03:28:45
関連スレ
徳川幕府って、そんな悪かったのかい???
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1230370703/
徳川政権が続行していれば、太平洋戦争は無かった。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1161996972/
133日本@名無史さん:2009/01/25(日) 04:00:28
>>131>>130西周や勝海舟、徳川慶喜が憲法草案を作っても
納税者が議会議員に加わると言う事は出来ないのでは?

西周って大政奉還くらいになって慶喜に仕えなかったけ?
大政奉還してから憲法公布は出来ないでしょ

それにあくまでも幕府は
見せかけだけであっても身分平等なんて歌わないだろな
それと廃藩置県は出来ないだろう

この平成の世も幕府の支配下であったらと思うとゾッとするな


>>129西周は武家のではないですよ
西は4万石ほどの山奥の小藩の御典医の家
勝は旗本の出だが
血筋は農家
金で旗本になったらしい
134日本@名無史さん:2009/01/25(日) 04:20:20
>>130
函館政権といえば、原住民への略奪暴行と
日本人入植者への奴隷化、重税で有名ですね。
135日本@名無史さん:2009/01/25(日) 09:39:46
勝の祖父は盲目で按摩を職業としていた。と同時に金貸しを兼業して財をなし、旗本の株を買って息子、つまり海舟の父小吉を武士とした。
日本社会には養子という制度があったので、身分制度にもかなりの抜け道があった。大名などでも養子が全く入っていない家系のほうが珍しいのでは。
136日本@名無史さん:2009/01/25(日) 10:02:30
むしろ、親戚の優秀な子を跡継ぎとして向かいいれることで世襲家としての面目を保ってきたのです。
江戸幕府も徳川御三家から養子という形で将軍職を継いでいるし、その御三家の方も養子を入れて
いるので15代も続くと元の家康公の血をどの程度引き継いでいるのかもうさっぱりわからなくなりました。w
諸大名も農民も商人も職工も同じで才能のないものに後を継がせなければならない場合の方が多く、
徳川幕府というより、世襲制という社会制度そのものが崩壊したといえます。
137日本@名無史さん:2009/01/25(日) 10:13:35
>>133>>136
一度幕末維新前後の政体をよく見比べてみろ。
実は、明治政府のほうがよほど専制的で神権的だ。
王政復古号令の「政府」なんて、
ほとんど「とりあえず集まったチンピラの徒党の役割分担」でしかない。

西欧においても、まずは貴族の集まりとしての身分議会があり、
それが徐々に門戸開放されて、「民主化」というのは進んでいるんだよ。
だから、未だにマグナカルタが「近代立憲制の最初の憲章」とされている。
摂関も武士も気に入らないから、何もかも破壊して「王政復古」し、
だが少年明治天皇が「裸の天皇」で「万民を支配する」なんてありえないから、
薩長の「有志」が徒党を組んで「藩閥政治」を行い、
岩倉以外京都の公家を切り捨てて天皇が丸裸だから、あわてて「華族」を作り、
あぶれた土佐などの武士があんまり煩いから「議会を作る」といい、
せっかく創った「華族」の居場所がないから貴族院も作っておき…

いきあたりばったりもいいところじゃないか。この変則性こそが、
日本の議会政の脆弱さと変な神権性(と裏腹の貴族制度の弱さ)を生み、
最終的に1930年代の最悪のgdgd体制に突入する。
138日本@名無史さん:2009/01/25(日) 10:13:49
確かに徳川幕府がそのまま近代国家となったらと想像すると面白いけれども、
現在の官僚制度が有能な人材がいたとしても、なかなか自己改革できないところを見ると、
やはり一度小回りの効く組織に変えないとスピードがでないのかなと言う気はする。

野蛮でも下品でも幾つか考えが足りない部分があったとしても、
肝心な部分だけ捉えて走り続けるエネルギーがないと変革期・動乱期は厳しいかなと。
後の歴史家はゆっくりと過去を振り返ってダメだしできるけどね。

この話題に限らず、学者先生には現場の人間が如何に時間と戦っているかを全く理解できない人が多い。

139日本@名無史さん:2009/01/25(日) 10:22:49
明治維新は旧体制を一度壊したことに意義があるのであって、
それ以上の意義はない。西郷も大久保も政治家としては無能。
140日本@名無史さん:2009/01/25(日) 11:43:43
>>137明治政府って幕臣も入ってるの知ってる?
それに岩倉以外にも公卿はいるよ
(三条実美や万里小路とか)
たとえ烏合の衆でも徳川幕府を倒したのだからそれなりの実力があったのだろう
幕藩体制のまま帝国主義臭い世界とやって行けるとは到底思えないし
もし
幕府が廃藩置県をして反乱でも起ったらどうだろ?
薩長程度に負ける幕府が諸候の反乱を収める事は出来ないよ
141日本@名無史さん:2009/01/25(日) 12:31:21
>>137
明治政府はむしろ、朝廷がこれまで長らく続けていた太政官制を基礎に
幕末に活躍した志士たちが参加したという形だよ。
版籍奉還後、天皇の輔翼として右大臣に就任したのは公家の三条実美だし、
宮家の有栖川宮熾仁親王ものちに左大臣になるなど太政官に参加をしている。
大久保利通らが明治維新後任じられた参議も、
もともとは律令の時代にまで遡る公家の官職だった。
華族たちが参加した「貴族院」には明治維新に功績のあった志士たちだけではなく、
長らく朝廷に仕えてきた元公家およびその子孫たち、
反対に旧徳川幕府を支えた元藩主並びにこの子孫も加わり、
志士たちだけが貴族院に参加できたのではない。
別に華族の居場所がないから議会を置いたのではないよ。
華族はこれまでの公家同様、大臣をはじめとする役職について
天皇の御前での議奏という形で政治を行っていけばよかったのだし。
それを国民に見える形での議会設置に持っていったのは
民主主義を志向する国民運動の故だろ。
142日本@名無史さん:2009/01/27(火) 07:39:12
封建制度下では、各藩はそれぞれ独立した国だ。将軍家に従っていたのは、幕府と戦って勝つ見込みがないからにすぎない。
もしどこかの藩が、独自に外国と結んでその軍事力の助けを借りたらどうなるか。
当時の武士は教養人だったから、そんなことをする藩はなかったが、封建制度のもとでは常にこの危険がある。
事実、小国が乱立していたインドではイギリスは藩主間の対立を利用して、全土を支配下に置くことに成功した。
国内を統一しないと外国の侵略に対して有効な手が打てないから、封建制度のままではだめだった。
143日本@名無史さん:2009/01/27(火) 09:11:00
まあそうなんだけど、それにしては日本を弱体化して乗っ取りたかったフランスは
(中央政府である)幕府の後押しして、新生統一日本を作らせたがったイギリスは、
(侯国)薩摩のバックについたね。

なんかねじれ現象というか。
144日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:16:30
フランスに先を越されちゃったんで、イギリスは仕方なく薩摩と手を組んだ。
145日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:52:22
当時のフランスには日本を乗っ取る意志も実力もない。
インドシナの経略で精一杯。

日本はあくまで貿易の相手。
146日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:55:40
そもそも仏本国の外務省と駐日公使ロッシュの間にかなりの温度差があり、
本国政府はロッシュほど日本に介入する気持ちはなかった。
だから幕府の借款交渉もうまくいかなかった。

外相が交代すると日本に深入りしていたロッシュは更迭されることになる。
147日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:56:34
>>145当時のフランスってナポレオン時代でしょ
日本くらい簡単に植民地化出来たんじゃね?
148日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:49:43
それは日本舐めすぎじゃね
149日本@名無史さん:2009/01/27(火) 21:54:12
>>148幕府に武器提供と兵投与したら諸候はフランスに服従するだろう
150日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:30:43
薩摩はイギリスとくっ付いているし、
151日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:37:12
>>147
ナポレオンとは言ってもこの時代のは有名な奴の甥の3世だからなあ。
まあ彼もイタリアに介入してニース獲得したりメキシコに介入したり、
クリミア戦争に介入したりしたから、やりかねないことではあるがw
152日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:37:16
薩摩と英国がくっつく前にやるのさ
153日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:49:08
くっつく前だったろうが。
前後関係分かってるか?
154日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:51:15
江戸末期の日本の人口は2000万人近かった。
それだけの人間を相手に戦争をするには、英国本土から数百隻の軍艦と
数万人の兵力と補給部隊、占領した後も治安維持のための警察組織や
官僚組織の要員を派遣しなければならなかった。
そこまでして極東の島国を支配するメリットがなかったということです。
155日本@名無史さん:2009/01/28(水) 07:13:33
>>154
まあ、そういうことだろうが、もっと重要な点がある。
それは、イギリスはインドを植民地化し、中国へはアヘン戦争で強引な外交をしてきたが、そのことに対する反省の気分が芽生えていたということだ。
それゆえ、日本に対してはそれまでの外交方針を柔軟なものにするというのがイギリス本国の考えだった。
日本との条約締結のために派遣されたエルギンも、本国から強行手段による条約の押し付けを日本にするべきではないといわれていたことが知られている。
156日本@名無史さん:2009/01/28(水) 07:21:40
というか、実際に薩摩と戦争してみていろんなことを悟ったんだろ。
157日本@名無史さん:2009/01/28(水) 07:31:38
薩英戦争でもさ、イギリスは市街地へ砲撃してるんだよね。
都市爆撃の思想というか、頭にきたからジャップは皆殺しというかんがえ方は、航空機ができるまえから脈々とあるわけだ。

大して死人は出なかったとされてるがさて、本当か?イギリスに都合の悪い情報は隠されてないか?
158日本@名無史さん:2009/01/28(水) 08:49:23
アホか。

航空機を使った市街地への無差別空襲は国際法違反だが、
大砲を使った砲撃はどこででも普通にやってることだろうが。
159日本@名無史さん:2009/01/28(水) 10:04:35
あっさり白旗上げた清朝も覚悟決めてやれば外国勢やぶれたと言われてるしね。
日本人は無駄に戦意は高いから大変革しなくとも少なくとも19世紀の間は
植民地に堕することはなかったと思う。
160日本@名無史さん:2009/01/28(水) 11:12:49
大奥なんて浪費したまま近代化できるか?
身分制度や300の藩抱えて、
近代化できるという奴は知能が低い。
中央集権の平等国家こそ強国。
161日本@名無史さん:2009/01/28(水) 12:39:18
明治政権は全然平等じゃないだろう。
だからこそまあ何とかギリギリやっていけたんだろうけど、
もうちょっと民主化を進めていたらやばかったと思う。
162日本@名無史さん:2009/01/28(水) 12:57:50
>>158
市街地への砲撃だよ
本質的に大して変わらない。
163日本@名無史さん:2009/01/28(水) 13:00:42
徳川一門でなければ、最高責任者になれない江戸時代は平等?
大奥制度まであるのに。
明治は教育普及させ、能力ある人材を家柄に関係なく登用した。

164日本@名無史さん:2009/01/28(水) 13:31:04
>>162
そんなに狙えるほどの精度がありましたか?って話だろ?
なんとか弾は届く範囲だったけど、ちゃんと狙えるもんじゃないだろ?
165日本@名無史さん:2009/01/28(水) 13:33:53
>>164
ん?
普通に市街地を避けて、砲台だけを狙うことは、たやすいよ。
166日本@名無史さん:2009/01/28(水) 13:52:54
お互いもう少しちゃんと書けよ。
片言隻句ばかりで話がいまいちかみ合ってないように見える。
167日本@名無史さん:2009/01/28(水) 15:19:33
身分制度を残したまま近代化するとインドのようにいろいろな弊害が出てくる。
日本は不敗どころか、戦争に負けるたびに近代化して行ったのです。
168日本@名無史さん:2009/01/28(水) 15:22:45
>>164
大砲の命中精度ってのは、かなりのものだよ。
169日本@名無史さん:2009/01/28(水) 20:38:21
>>1井伊直弼という彦根藩主・幕府家老が開国を認めたんだよん〜
170日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:46:35
>>168
距離によりけり。

いわゆる射程範囲内だとそうだが、やっと届く程度の距離だと全然。
171日本@名無史さん:2009/01/29(木) 08:12:42
大奥抱えたままで、近代化は無理。
身分制度で学習意欲が向上せず、産業・学問が発展しない。
172日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:19:00
>>171
「藩校」とか知ってる?
武士階級用の学校があったんだよ。

別に農家に学歴はいらんといえばいらんからね。
173日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:24:21
学習意欲は身分制度に関わらずあるもんだよ。

「知識欲」ってのがあるからね。
174日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:25:22
>>172藩校ってだいたいの所は上級武士だけだよね
藩校って言ったら佐賀藩
175日本@名無史さん:2009/01/29(木) 12:09:37
一応寺子屋ってものもあるけどな。
176日本@名無史さん:2009/01/29(木) 19:51:22
武士階級にだけ学問させるんじゃ、国力伸びない。
身分制度抱えたままの近代化は無理。
日本中から税金で美少女集めて将軍の為の大奥作るの?

177日本@名無史さん:2009/01/29(木) 19:52:41
そうかな?
178日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:42:36
江戸時代の日本ほど、庶民階級の教育程度が高かった国は他にはない。
識字率ひとつとっても、世界有数のレベルだったのだよ。
「算額」ってのを知らんのだろうなあ。
江戸期の日本の教育水準の高さを証明するモノなのだよ。
179日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:46:11
でもそんなの全部廃れてしまったよな。
180日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:52:53
>>179
そんなことはないぞ。
先人の知恵は、今でも受け継がれているのさ。
君が知らないだけ。
181日本@名無史さん:2009/01/30(金) 00:39:12
>>178
現代日本の方が普及してるだろう。
182日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:28:25
>>178 背中に子供を背負った子守の女中が、奉行所の立てた制札を読んでいるのを見て、ペリーの艦隊で日本にきたアメリカ人がびっくりした、という記録がある。
欧米では、このレベルの人間は文字など読めないのが当たり前だったからだ。日本は江戸時代でも、読み書きができ、そろばんも使える者は、できないものより高く評価される社会だった。
だから親は寺子屋へ通わせたり、さまざまなけいこごとをさせた。
183日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:39:16
徳川のままだったら、いずれ欧米の植民地になって、今日本は存在しない。
せいぜい香港のような位置づけ
184日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:47:04
欧米では、平民に文字を教えないことで支配者階級の優位性を維持してきたのです。
日本は文武両道の名のもとに庶民に教育を施したことで江戸幕府の崩壊を早めるという
皮肉な結果となったのです。
しかし、日本全国津々浦々、(方言は残ったけれど)同じ言語を使う統一国家を作った
のは、律令制の国分寺の頃から、蝦夷の俘囚にまで文字教育を施したおかげだといえます。
185日本@名無史さん:2009/01/31(土) 15:54:00
>>183 日本が欧米の植民地になったかは疑問。金銀が湧いて出た戦国時代ならともかく、江戸期の日本には世界的レベルでの資源はなかった。
資源に恵まれない土地で、マンパワーを生かしてそれなりの生活を維持していたのが当時の日本。このような土地を植民地にしても、あまりメリットがない。
捕鯨基地としては役立っただろうが、皮肉なことに開国した頃から、石油産業の発展で、捕鯨が廃れた。
ただ、ロシアにとって北海道は、太平洋への出入り口を確保するために価値があったろう。
186日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:18:39
当時の日本に資源が無かったか?といえば、答えはNO。
教育水準が高い人的資源が豊富にあった。
しかも権威に弱く従順な国民性のな。
当時まだアメリカで奴隷制度が健在だったことを想えば、危うくはあったのだよ。
187日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:35:54
幕府の開国は、植民地化の始まり・中国の二の舞という意識。(アジア的な政治機構・封建制を潰す必要)
当時、米は南北戦争に、英は中国の反乱に、仏はパリコミューンに手を取られていたのが幸い。「今しかない!」

188日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:44:11
>>187
ごめん。仏はパリコミ前、独統一干渉の為の戦争突入にだね。

189日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:18:47
>>137
岩波新書の近現代史シリーズみても幕府のほうが薩長よりも
よほど完成された組織だったみたいなことかいてあるな。
身分制がどうのとかいっても、新撰組とか見ればわかるように
幕末には幕府内でも身分の低い人間を登用する仕組みができてたんじゃないの?
190日本@名無史さん:2009/02/03(火) 01:26:30
明治維新も余計だったよな。
191日本@名無史さん:2009/02/03(火) 03:12:52
ペリー来航の時、遠山の金さん生きていても隠居決めてたしな!

192日本@名無史さん:2009/02/03(火) 10:55:41
>187
なんでちゃっちゃと武力で日本制圧して植民地化しなかったのか不思議だったが
そういうわけだったのね。
193日本@名無史さん:2009/02/03(火) 13:12:51
政権トップと取り巻きが世襲のアホじゃどうにもなんないだろ
現代日本でも同じことが言えるが
194日本@名無史さん:2009/02/03(火) 16:43:34
>>192
というか、武力で日本制圧なんてなかなかできるものではないよ。
195日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:18:18
原爆落とせば良いじゃないか。
196日本@名無史さん:2009/02/04(水) 00:35:05
はい、はい、じゃあロンドンにも原爆落とせば日本が征服できたかもね。
197日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:39:03
>>192 19世紀中ごろの輸送力は帆船がたより。長距離を運ぶのは時間もかかる。1000人の軍隊を運ぶのも大仕事だった。
一方日本国内の戦闘員は、人口3000万の一割が武士階級で300万人。半分が女性で男150万人、そのうち老人子供を除くと成人男子100万人で、常時50万人ぐらいは動員できた。
サラリーマン化した武士も多かったが、一方でまた武術に優れた者もいた。なによりも刀を腰に帯びたサムライ、のイメージは外国人に恐れられた。
軍事的に日本を占領するのは、世界中のどの国にも無理だった。

198日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:21:16
てか、江戸時代を植民地支配など出来ないが。出来てもやる意味無し。
と言うのも、江戸時代は商人が社会を動かすシステムだったからだ。
商人が日用品の「ものづくり」を行い、支配者層はそれを「買って」生活していた。
要するに江戸時代は「物を買う支配者」が登場したんだね。権力の頂点に立つ者さえ、
市場経済に巻き込まれた社会、それが江戸時代。
ものどくり、流通、金融、あらゆる点で商人が引っ張るようなシステム。社会全体が
商人(民間)に何らかで依存してる社会で権力を獲っても、結局は商人に依存せざるを
得ない。そんな面倒な事するなら初めから商人と交易(貿易)する方が利益がある。

あと、江戸時代は一地一作人で農民個々人が土地や農具などを保有してるから、
プランテーション経営は成り立たせにくい。その意味でも江戸日本を植民地に
する意味はあまりないだろう。 
199日本@名無史さん:2009/02/04(水) 22:42:53
日露通商条約の全権大使プチャーチン。
彼は江戸時代の日本の先進性に惚れ込み「日本は白人諸国と対等に接すべき国」と言った。
現実に本国に日本人の治外法権を認めるよう提案したほどだった。
200日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:53:45
かつてライシャワーは「封建制は領主が土地の所有・徴税に集中し、なおかつ権力が
分散するため、商業活動や製造(ものづくり)が国家所轄から離れやすい」と説明。
まさにそのとおり。
ただ、日本の場合は古代から地方豪族などが技術者や工房を抱えており、必ずしも技術や
生産が国家中枢に独占されていたとは言えないらしい。例えば、日本の製鉄工房は地方の
有力者にも抱えられ、その事が刀の発展と地方武力(侍)の台頭と無関係ではないらしい。
201日本@名無史さん:2009/02/07(土) 13:50:24
徳川政権のはじめの領土配分が、将来は徳川による中央集権に移行可能な形になってなかった?
そういう領土配分になった理由は関が原の東軍勝利で徳川軍の果たした役割が小さかったから?
徳川軍の果たした役割が小さかったから理由は秀忠が遅参したから?
・・・秀忠が悪い?
202日本@名無史さん:2009/02/07(土) 14:12:56
>>201
ただ、歴史には無数の分岐点がある。
家康が「西日本の領土は全部義直にゆずるぞよ」とか言い出してたらどうなっていたやら?
大きな領土を得た譜代大名同士で戦争になってたらどうなってたか?

203日本@名無史さん:2009/02/23(月) 22:56:59
204日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:53:30
> 家康が「西日本の領土は全部義直にゆずるぞよ」とか言い出してたら・・・

それはない。
家康は無用な権力闘争を避ける為に、長子相続をあえて選んだほど。(家光のことやで)
205日本@名無史さん:2009/02/24(火) 19:31:29
おまえらいい加減にしろw
鎖国体制が崩れ開国したのは徳川幕府時代だろうが
1854年 日米和親条約

206日本@名無史さん:2009/03/09(月) 03:44:11
207日本@名無史さん:2009/03/09(月) 16:18:50
そうそう、オランダ、明、清とも貿易してるし
全く無知の>>1相手に、何で真面目な議論してるかねぇ?
放置で良いんじゃないか。
208日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:51:45
>>170
当時の欧米艦隊の大砲の射程距離は4kmほど。
209日本@名無史さん:2009/03/14(土) 01:37:02
戦争ですべてを失ってアメリカ様の犬になったんだから
結局、薩長政権は大失敗。
北海道をソ連に取られなかったのは奇跡的。

政治の実績のある徳川様なら、すべてを失うことはなかった。

210日本@名無史さん:2009/03/14(土) 05:08:22
黒船さえ来なかったら仲良くできたかもしれんのにな。
あるいは、長州がいち早く攘夷戦闘をやって攘夷は無謀だと、現実を知ればな
幕府と協力体制ができたはず。

時間を稼いで、武術を外国から盗んで国力を高めると言う考えは
幕府も後の長州も結局同じだろ。
幕府は戦う前から相手の力読んでいたと、長州は戦ってみなければ納得できなかった
だけの違いかと。
211日本@名無史さん:2009/03/15(日) 01:09:06
>>210
協力体制築くんならそれこそ三百余州の全ての藩でやらんと駄目だと思うがな。
そうしてれば北陸や東北辺りの諸問題もそんなに起きんかったろうに……
とりあえず河井継之助あたりは何かと役に立ったのではないかと。
212日本@名無史さん:2009/03/19(木) 04:47:01
>>210
八月十八日の政変以後、引き返すことなく、
第二次長州征伐の幕府撃退まで
怒涛のように長州藩は突き進んだわけだけど、
攘夷派にしても、倒幕派にしても、一旦争いが起きると、
武闘派が武をもって押しきるのは当然なのでは。

もっと以前の幕府内のごたごたが、
こういう事態を招いていると思う。
213日本@名無史さん:2009/06/04(木) 00:22:20
早慶上智は薩摩、長州力同盟が権力強奪するために、英国に国を売りさばいて
金と武器を供与された売国奴が作った大学だ。
江戸時代は元禄より以前から、百姓でも幕臣になり江戸で奉行になれた。
実力主義だったんだよ。
実力がなく、腕力しかないバカが妬んで権力強奪したのが明治維新だ。
世襲の意味は現代とは全く違う。幕臣も次男以下は養子にでる。
実力がなければ武士だろうが終わり。
明治維新は、ゴロつきの起こした妬み闘争だ。
現在の私学は根は同じだな。国立や県立にわずかながら、
江戸時代の質実剛健の教育理念が残されている。
214日本@名無史さん:2009/06/04(木) 07:22:15
国立や有名私学に入れなかった奴が言いそうだ。
215日本@名無史さん:2009/08/11(火) 22:20:59
保守
216日本@名無史さん:2009/10/08(木) 18:01:53
毛利・島津・小早川が本気で家康軍強襲!
徳川軍壊滅!内府家康は明に逃亡!
豊臣秀頼石高462万石太政大臣!関白秀秋 左大臣輝元 内大臣秀家
征夷大将軍上杉景勝! 豊臣摂関の下に
上杉・毛利・宇喜多の将軍御三家体制の幕府
石田・直江・真田・大谷・小西の五管領・五参議体制
島津・長曾我部は大納言 織田信雄は右大臣
上杉家越後を増加
後に上杉親藩に足利武田徳川の御三家と長尾北条ができる。
上杉定勝は帝の皇女を正室に迎えその間に生まれた姫を
足利徳川武田に嫁がせ
その間に生まれた男子を一度定勝の養子にして源氏の三名家を相続
上杉御三家は左右近衛の大将を武田と徳川 足利は中納言指定席を
兼継の孫は管領筆頭を勤めた後に中納言に
老後は日本各地を周り義と愛を説く「米沢黄門」
豊臣は秀頼系統と秀秋系統と織田系統が交互に
関白太政大臣に就任「筆頭は秀頼系統」
三家摂関 三家将軍 五管領・三位制度でバランスを保つ。
やっぱ一つの一族の将軍独占はダメでしょう。
あと大大名は嫡男を帝の皇女との間に生まれた男子にした方がいい
豊臣も上杉も毛利も対等。 皆皇族との血縁あり。
217日本@名無史さん:2009/12/04(金) 13:51:31
>>208
ペリーの艦隊の旗艦サスケハナは
主砲に150ポンドパロット砲を搭載しており
その最大射程は7.3kmに及んだという
218日本@名無史さん:2009/12/04(金) 23:47:56
射程と実際に弾が当たるかどうかは別の問題なわけで
219日本@名無史さん:2009/12/20(日) 21:12:21
>>218
上嫁
220日本@名無史さん:2010/01/17(日) 10:20:21
>>1
徳川幕府が徳川幕府体制のまま開国したんじゃないのか。
そのことに志士たちが激昂して、ついには討幕って話になったんじゃないのか。

夷人斬りなんて騒いでたのは勤王の志士たちだったように思うのだが。
221日本@名無史さん:2010/01/17(日) 19:23:34
徳川の開国=屈服外交→植民地化
新政府の開国=対等開国→現在
222日本@名無史さん:2010/01/18(月) 17:41:47
ペリー艦隊って海兵隊連れてたのかな?
交渉決裂してたら江戸城占領するつもりだったの
223日本@名無史さん:2010/01/18(月) 23:06:07
その前に江戸湾で 威嚇の号砲 →幕閣震え上がる 井伊太老アヘン戦争二の舞を何としても避ける固い決意
224日本@名無史さん:2010/01/24(日) 03:14:45
あの時代に、アメリカから日本を占領できるほどの軍隊が派遣できたとは到底思えない。
少し幕府は過剰反応しすぎたのでは、打ち払うことはしないまでも、外国勢に有利な開国
までしないでもなーと思いますが、
私であれば、オランダを窓口にして、他国との交易は断固として断っていたでしょうね!
まあー、オランダが他国とも交易を望むならゆっくりと腰を上げて、武力には武力で、
脅しには屈せずに開国の話を進めますが、
上陸して地上戦になれば抜刀隊の勝ちでしょう。日本にも鉄砲もあるしね!忍者もいるよ!
夏になれば神風(台風)も吹くしね、
225日本@名無史さん:2010/01/24(日) 03:52:23
>>221
徳川の開国=屈服外交→植民地化→(独立?→???)
新政府の開国=不平等貿易→戦争→敗戦→高度成長→バブル崩壊→現在

前の???を想像するほうがよっぽど面白い。
少なくとも前者のほうが遥かに文化度は高そう。
226日本@名無史さん:2010/01/24(日) 07:31:28
というか幕藩体制では統一国家の概念がなかったし
そのまま吸収されて国はなくなっていたよ
227日本@名無史さん:2010/01/24(日) 08:45:22
>>1
江戸幕府というより、わが国全体の「幕藩体制」が、
時代的・国際的に役割を終えたのだと思う。
 そうじゃないと旧体制のまま開国・西欧文明を取り入れての近代化・
政治の民主化は、各所に矛盾が生じ、無理だったと思う。

例えば、ちょんまげをしながら大名行列とか、ちょんまげ姿で
国会開設とか考えられないと思います。
228日本@名無史さん:2010/01/24(日) 09:13:57
@幕府に対する薩長の怨念
A260年以上続いた幕藩体制の制度疲労
B天皇による国家(意識)統一<Aとも関連>
まあ、歴史の結果を知っているからこそだけど、
自然の流れだったと思います。
229日本@名無史さん:2010/01/24(日) 17:02:28
>>228
>@幕府に対する薩長の怨念

それは違うんじゃねーのw
徳川幕府に対する怨念なら、薩長だけでなく仙台伊達や米沢上杉も怨念を持っていたよ。
これらの藩が佐幕派になるはずがない。また、徳川御三家の紀州徳川も尾張徳川も官軍だ。
徳川恩顧の土佐も最初から官軍だしな。
尾張徳川に至っては薩長といっしょに王政復古までやっている。
230日本@名無史さん:2010/01/24(日) 21:08:41
>>229
最初から最後まで倒幕を貫いたのが長州。
薩摩は最初は会津(幕府)と組んで長州と敵対した。
まだ幕府の勢いは盛んと見られ、長州以外は日和見だった。
日和見は戦国時代から続く生き残りの「知恵」であり、
薩長同盟が成っても他藩はまだ日和見、
どころか最後の最後まで日和見だった藩がほとんどだったと思うよ。
これ前提。
で、ちょっとズルイが、もし薩摩と長州に幕府への怨念がなかったとしたら・・・。
薩長同盟成立後の怒涛のような討幕運動が起きていたかどうか?
やっぱり幕府に対する薩長の怨念は倒幕の大きな要因だったと思う。
違うかな?
231日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:08:36
基本的に長州は水戸から受け継いだ尊皇攘夷思想であって倒幕思想ではない
232日本@名無史さん:2010/01/25(月) 00:35:38
>>229
米沢も仙台も佐幕じゃない
反新政府派で徳川に代わって薩長が仕切ってるのにたてついただけ
233日本@名無史さん:2010/01/25(月) 01:07:06
>>230
たしかに、長州戦争で10万の幕軍が5千の長州に負けて、幕府が張子の虎とは判っていたが、
鳥羽・伏見の段階でも、土佐なども薩摩と幕府の私戦としてほとんど働いてない。
錦旗が出たことと、淀藩と藤堂藩の裏切りで流れがきたけどね。
でも、薩長の怨念なんて無いと思うよ。そんな昔の怨念などで人は動かない。
徳川家という400万石を超える巨大勢力が残ってしまっては、朝廷中心の改革は中途半端になるので、倒幕しか道はない。
234日本@名無史さん:2010/01/25(月) 01:08:08
>>225
旧大英植民地印度並みには?
235日本@名無史さん:2010/01/25(月) 01:46:41
>>229
東北の諸藩は、幕府の犬ですよ。
秋田も米沢も仙台も牙をすでに抜かれてた。
特に仙台は、伊達騒動で幕府の御恵みで存続がかなったようなもんだし、
米沢も御恵みで家名を存続できてヨウザン公にいたったわけだし。

個々の人物はそれなりに輩出しているけど(とくに昭和の軍人は東北士族の末裔が多い)、
藩政府はすでに政治的な野心を持ってなかった。
236日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:16:23
>>235
別に、犬とかなんとかでは無く、情報に疎かっただけだろう。
薩英戦争や下関戦争(四カ国連合艦隊)を経験している彼らには、
今の幕藩体制では国は持たないという意識があった。
別に、怨念で行動したわけでは無い。
237日本@名無史さん:2010/01/25(月) 02:46:48
>>236
情報に疎いか。でも知識人はそれなりに出てるんよ。
吉田松陰も遊説のために東北に訪れている。
国賊になっちゃたからメジャーではないだけで。

東北諸藩も蝦夷の守備という形で外国の脅威を考える機会はあったんだが、
その負担で財政が圧迫されることを嫌がるだけで、主体的に国防を意識することなく終わってしまう。

怨念を強調したいんじゃなくて、東北と九州の違いを考えたいんだよ。東北出身者として
238日本@名無史さん:2010/01/25(月) 05:33:03
沿岸に築かれた台場の数見ても東北の国防意識は低すぎる
いかに東北の方は外来船が少ないと言ってもゆとってたとしか思えない
239日本@名無史さん:2010/01/25(月) 08:39:52
ホントかウソか長州では、
毎年の正月に家老が藩主の前に進み出て
「倒幕のこといかがなさいますか」と聞いて、
藩主が「時期尚早」と答えるのが恒例だったとか。
薩摩にも城下の若い武士たちが藩主家の菩提寺に集まって
「関が原の恨みを忘れるな」と誓い合う祭りがあったはず。
怨念説に固執する気はないが、やっぱ捨てがたいなあ。
「歴史は技術革新とそれに伴う社会構造の変化、および階級闘争でしか動かない」w
なんて唯物史観は、どうも苦手だし、信じられない。
240日本@名無史さん:2010/01/25(月) 10:33:25
>>230
薩摩は最初から日和見的ってことはないよ。
藩内で凄い闘争を繰り広げていた。
241日本@名無史さん:2010/01/26(火) 23:47:00
毛利家の恒例行事なんて後付けの俗説に過ぎないし
長州も薩摩も毛利と島津が討幕に積極的に動いたわけじゃないしな
242日本@名無史さん:2010/01/27(水) 15:46:48
つか、幕府(井伊)が不平等な条約を結びまくったって知んないの?>>1は…
243日本@名無史さん:2010/01/29(金) 00:38:10
>>241
ホントに俗説なのか?
オマエ、なぜ、そんなこと知ってんだ?
事実かもしれないじゃないか。
244日本@名無史さん:2010/01/29(金) 02:32:15
しかし薩も長も度量が小さい小さい
徳川を新政府に残そうとしたのは坂本だけではないか
245日本@名無史さん:2010/01/29(金) 03:14:09
江戸300藩がそれぞれ近代国家として独立、
少なくとも律令国が独立てのもシブイと思う

少なくとも薩摩と長州はキャラ立ってるから単独で独立すべきだったな

統一前のイタリアみたいにヴェネチア共和国とかナポリ王国とか小国乱立すべきだった

大政奉還(日本版ラテラノ条約)して御所周辺だけ天皇親政の独立国(日本版バチカン市国)

薩摩、長州、対馬が琉球王国と朝鮮において清、露を破り、

薩長独三国がWW2で米英、天皇御所と戦う

薩長、無条件降伏

天皇が薩長ドイを委任統治
日本統一へ

1947年 大日本帝国憲法発布

琉球、朝鮮、台湾を併合 満州国建国

戦後はイケイケになる
律令国が切磋琢磨で個別に富国強兵をすべき
246日本@名無史さん:2010/01/30(土) 09:08:21
 丁髷を結って開国したら「変」。だから徳川幕府ではだめだった。
247日本@名無史さん:2010/01/30(土) 10:01:11
>>246
それはいまの感覚じゃないの?
チョンマゲが変だとは、当時の人は思ってないでしょ。
逆に開国してから変えた可能性は大きいだろうけど。
248日本@名無史さん:2010/01/30(土) 11:55:03
丁髷を切るのに一番反対したのは女性。
249日本@名無史さん:2010/01/30(土) 14:31:31
越中褌は昭和20年8月15日まで日本男子の根本だった。
250日本@名無史さん:2010/01/30(土) 15:29:35
褌ねえw
確かにそうだったよ。
ずいぶん昔になるが、あれは気持が引き締まった。
いまじゃ笑われるだけだろうけどね、
251日本@名無史さん:2010/01/30(土) 15:31:11
あっ、もう泳ぐときだけだったけどね。
252日本@名無史さん:2010/02/07(日) 16:37:05
開国云々より徳川が残ってちゃ藩や武士階級の破壊が早急に出来ずに
近代化された日本軍を作れないだろうな
無理して潰そうと思ったら不平士族の反乱がもっと大規模で起こって死亡だろう
253日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:51:39
それもいっきょう
254日本@名無史さん:2010/04/04(日) 13:51:07
>>1中学生か君はwwwww
255日本@名無史さん:2010/04/04(日) 18:05:08

家康の征夷大将軍就任と英国王就任は同一日

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/37/251.html

グレゴリオ暦とユリウス暦と和暦を巧みに使い分けていた。
256日本@名無史さん:2010/04/22(木) 22:17:17
>>1とかのイメージする開国=他国との貿易・文化交流=鎖国の時点で「幕府の管理下で」既に達成
薩長(というか薩摩)の言う開国=琉球経由清だけではアガリが悪くなってきたから欧米とも好きにやらせろ(密貿易の拡大要求)
この齟齬を埋めないと話にならんだろ

後修好通商を井伊が焦った裏には薩摩がスタンドプレーで同条件で単独締結をやろうとしてて
先手を取って幕府が唯一の外交機関であることを示すためには修正交渉する余裕が無かったのではないか、という説もある。

257日本@名無史さん:2010/04/22(木) 23:03:43
開国作業の流れがスムーズに行かなくなるからっしょ
258日本@名無史さん:2010/05/11(火) 06:22:06
徳川慶喜には幕藩体制を破壊してまで近代化を果たそうという意識はあったのか?
薩長は自分の藩や藩士を切り捨ててまで近代化をしたけど

徳川家の利益>日本の利益の意識じゃだめだろ
259日本@名無史さん:2010/05/11(火) 22:42:25
維新正当論に毒されすぎ。
>薩長は自分の藩や藩士を切り捨ててまで近代化をしたけど
そりゃ新政府の名目で個人単位で旧幕府領を切り取り放題だし(戊辰の恩賞とか凄いぞ)
所謂終身雇用状態で財政圧迫してた藩士を体良くリストラかませるんだから願ったり叶ったりだろうよ。

幕府は諸藩や様々な層の利益を保護してやらないといけないのに対し(当たり前だ、現体制の親分なんだから)
事が成れば色々な約束事を知ったことかで白紙に出来る薩長では土台が違う。

因みに慶喜は大政奉還前後の動きから、そういった状況であっても勅命を上手く利用して穏当に幕藩体制を解体しつつ
徳川宗家の持つ大身と幕府の育ててきた官僚機構をもって新政府での主導的な発言力を確保する目論見があったとも言われている。
そうなったらそうなったで明治政府は誕生しえたんだろうけど
新政府においての主導権(=自分達の利益)を渡したくない薩長閥としては血みどろの内戦やってでも徳川を表舞台から退場させたかった。
260日本@名無史さん:2010/05/12(水) 04:31:03
>事が成れば色々な約束事を知ったことかで白紙に出来る薩長では土台が違う
それってつまり薩長のほうが近代国家建設に有利ということじゃん
封建体制のしがらみが強い幕府の改革はできたとしても遅くなる

列強国が勢力拡大を続けているのにゆっくりとした改革じゃ間に合わない
徳川を新政府にいれたら史実でさえ政府内の対立が激しかったのにさらに収集がつかなくなる
261日本@名無史さん:2010/05/12(水) 20:01:52
徳川の主導権を認めつつ新しい耐性を作る、という動きに賛同する大名が多数派を占めるにいたった中で、
それを阻止して徳川排除を強行したいと考えていた大名は長州毛利家と薩摩島津家だけしかなかったんだよ。

ということは逆に、だ。
徳川が主導する新体制の方が、政府内の対立をうまく収集できていたかもしれないんじゃないか。
狭量な薩長が主導したから路線対立が深刻化しやすくなっていたわけだろ。西南戦争とかな。
262日本@名無史さん:2010/05/13(木) 08:09:17
>>260
そこまで喫緊で、かつ慶喜側近や穏健派改革大名の側で出されていなかった問題って何かあったか?
条約改正・国民軍制度・外資、技術による近代化なんかは既に話が出てたぞ。

あと、しがらみが無いとかそういう問題じゃない。
「新政府発足の暁に…」と甘言を弄して諸藩を協力させつつ、いざ新政府が立ち上がったら薩摩・長州以外は蚊帳の外、みたいに
信用を蓄えてない上に嘘を平気でつくって点な。
薩長間だけでも権力綱引きでドロドロのしがらみだらけだし。なまじ立場的に同等だったもんだから明治初期の政争を押さえつけれる者が居なかった
あと各地の藩士の人気取りに士族の権益を喧伝して、財政が圧迫されると判明したら特権期限を「こっそり」付け加えたりとかなり無茶苦茶。
263日本@名無史さん:2010/07/19(月) 17:33:45
>>261
当時の情勢での最優先事項は、対立を収拾することではなく改革を行うこと。
幕府主導のゆるやかな改革では内乱が起きない代わり、廃藩置県や
徴兵制の導入はかなり遅くなる。
それらが遅くなるとロシアとかの植民地になってしまう可能性も出てくるし、
薩長主導の急進的な改革は結果として大成功だったと言っていいはず。
264日本@名無史さん:2010/07/19(月) 23:50:48
Victoriaで日本佐幕プレイとかすると良いかもシレン
265日本@名無史さん:2010/07/25(日) 00:51:27
改革という点では、幕府でも可能だったんじゃないかな。
明治の実務官僚のほとんどは旧幕臣だし、実業界もしかり。
諸藩の人材を登用する制度もそのうちできただろう。薩長藩閥政府よりずっと開かれた政府ができたかもしれない。

ただ改革(技術の吸収)という意味では徳川主導でもいいんだけどさ、政治的にはそれじゃまずい。
日本の主権者は誰なの?っていう黒船以来の政治問題が解決されず残り続けることになる。
266日本@名無史さん:2010/07/25(日) 18:08:41
だが、天皇が多少なりとも政治的に実権を持ち得たのは、明治末期から終戦直後までの半世紀程度の期間だろ。
維新から明治末期まで、天皇はほとんど権限を持たないミコシだったじゃん。
267日本@名無史さん:2010/07/25(日) 18:29:17
それはちがう。主権者は天皇で、天皇の信任を受けた政府が統治するという原理があった。
ひとりの元首、ひとつの政府。それでも統帥権のような抜け穴があった。

徳川が統治する限り、天皇の意思という抜け穴がついてまわることになる。
天皇は象徴である!と言い切れればいいんだけどね。
268日本@名無史さん:2010/07/26(月) 00:33:33
>267
そんな形式論なら、
「天皇の信任を受けた将軍が統治する」という形式と大差ないじゃん。
269日本@名無史さん
だからぁ、天皇の信任を受けた将軍の信任を受けた政府になっちまうだろう。
諸侯は朝臣であり、徳川の家臣でもある。外圧に直面してそういう構造があきらかになったのが幕末だろ。

幕府を解体し、諸藩を解体して権力を天皇とその政府に集中させたのが明治維新だ。