【モンゴル】 元寇 3 【高麗】〜神風は運?実力?〜

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1日本@名無史さん
引き続きまたーり語りましょう

前スレ
【モンゴル】 元寇 2 【高麗】〜神風は運?実力?〜
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1158940720/
2日本@名無史さん:2007/10/26(金) 09:58:46
客観性のある資料が少ないから、もう言い合い水掛け論
3日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:02:02
史料では文永の役は元軍の完敗

『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」

『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」

『鎌倉年代記裏書』
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」

『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」

『金剛仏子叡尊感身学正記』
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」
4日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:45:00
元は欧州やイスラムとも交流があった世界帝国の一翼
日本はバカな武士が頑迷にも外交使節を虐殺したために、世界から取り残されてしまった
かえすがえすも残念だ
5日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:53:05
モンゴルの使者処刑って当時の世界の外交では常識的な対応だよ
6日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:03:53
元以外の中国の王朝ってどうして日本に攻めてこなかったの?
平安時代って基本的に常備軍がなかったとか聞いたことがあるけど
そういう情報って商人とかを通じて向こうに知られたりしなかったんだろうか。
実際に攻めてきたら撃退できたのかな。
7日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:35:01
>>5
嘘つけ
交戦中ですら使者のやりとりすらあったのが当時だ
殺した場合はホラズムのような壮絶な報復受けても文句言えない
日本の内戦の慣例を適用するとしても使者は殺さないものだぞ
8日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:50:42
>>7
ホラムズだけじゃないだろ。
エジプトのマムルーク朝も使者を処刑してる。
あと、ビルマのパガン朝も雲南の大理国も使者を処刑してるな。
北ベトナムの陳朝に送られた使者2人はいきなり投獄され、1人は拷問によって
獄中死してるし、南ベトナムの占城も交戦中は使者を処刑してる。

日本も文永の役の前は使者を生かして帰したんだけどね。
モンゴルはその使者にスパイさせて攻めて来たから処刑は当然の処置。
9日本@名無史さん:2007/10/26(金) 14:02:58
UU モンゴル帝国の英雄たち UU
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1192256868/
10日本@名無史さん:2007/10/26(金) 14:31:47
>>6
唐が元気なときには朝貢してたから。唐に元気がなくなると止めた。
テラ現金。

大元ウルスには「朝貢?ハァ?」って対応したので攻めて来た。
11日本@名無史さん:2007/10/26(金) 15:49:37
>4
外交使節を処刑したから取り残されたのではないのでないかい?当時の
鎌倉幕府は外交問題よりも内政問題の方がより深刻だったから、そっち
にばっか気を取られて外交がお留守になっちゃったのでは?大体文永の
役の前に蒙古国書が来た後も二月騒動が発生してるし、弘安の役が終わ
った直後も身内人と御家人の対立から霜月騒動が起きて、しかもその後
は得宗専制支配で内管領の独裁でしょ?国内が無茶苦茶だからどうしよ
うもなかったんじゃない?
12日本@名無史さん:2007/10/26(金) 16:01:49
「世界から取り残されてしまった」って何?
元朝時代の日本と大陸との文化や経済の交流はそれまで以上に活発に行なわれているのに。
モンゴルを撃退したマムルークは世界から取り残されたの?
モンゴルに征服されなかったヨーロッパは世界から取り残されたの?
モンゴルに征服されたロシアの方が遥かに取り残されてる感じだけど。
13日本@名無史さん:2007/10/26(金) 18:28:08
元と日本が実は民間レベルでは普通に交易してたことを知らないアホの子が紛れ込んでるスレはここかい?
だいたい商人が宋や元と普通に取引してた日本が世界から取り残されてたんなら
当時のサハラ以南のアフリカとかシベリアの北の方とかはどうなるんだよw
14日本@名無史さん:2007/10/26(金) 18:33:15
>>6
大元ウルスはモンゴルの王朝。
15日本@名無史さん:2007/10/26(金) 19:51:37
>>6
律令的常備軍がなくなっても非武装=無防備になったわけではないし。
坂上田村麻呂なるものが、源頼義なるものに変化した。

それから、半島からは結構頻繁に、
今と同じように「拉致」や「略奪(強盗)」目的(国家主導の場合もある)で来ている。
16日本@名無史さん:2007/10/26(金) 19:57:08
そもそも幕府が元の第二次遠征の時期を実行の半年も前に知り得たのは
個人的な大陸貿易を通して元軍の情報収集に努めてたからだそーだ。
(このことと北条氏の西日本における専制強化により弘安のときは
総体で10万を超える動員をかけることができた)
文永以後は使者を皆殺しにしてたことといい
元が最終的に太宰府より東の情報を入手できなかったぽいことといい
当時の武士は諜報に関する意識がかなり高かったことを伺わせる。
17日本@名無史さん:2007/10/26(金) 23:00:00
北条家は実は平氏
18日本@名無史さん:2007/10/27(土) 11:37:32
そういや高麗も使者ぶち殺したせいで酷い目にあってたっけ
話し合いの機会を持とうともしなかった幕府の精神的鎖国っぷりは凄まじいな
19日本@名無史さん:2007/10/27(土) 13:48:36
文明史学の大家トインビーがモンゴルに支配された地域で近代化に成功した国はどこにもないと言ってた。
納得。
東は韓国から西は東欧まで、確かに先進国はどこにもない。
鎌倉幕府偉い。
20日本@名無史さん:2007/10/27(土) 14:11:26
>>18
精神的鎖国っぷりと言うより、メンツの問題じゃないの?

「歯向かう奴はぶっ殺す」くらいの勢いで国内を強引にまとめてたのが
超大国が物言ってきたからといって、「今日からあなた様に従います」とか
「これからはあなた様と仲良くやって行きます」なんて言えないと思うけど・・

内心はどうあれ、「文句があるならかかって来い」としか言えなかったんじゃないかな?
21日本@名無史さん:2007/10/27(土) 14:53:29
>>18
世界中の国々を片っ端から滅ぼしてきたモンゴル相手に話し合ってどうなるというの?

鎌倉幕府の外交はまともだった。
日本を臣下扱いした国書に対してはまともな国書を持参するまで外交はしないと態度で示し、
また使者と称しながらスパイ活動したものは厳罰に処する。
そして侵略してきたモンゴル軍には敢然と立ち向かい、高麗兵は容赦なく殺す。
殺された高麗兵自業自得。
22日本@名無史さん:2007/10/27(土) 15:59:38
>>18
鎖国って・・・お前少し上のレスすら読めない文盲?
23日本@名無史さん:2007/10/27(土) 21:28:04
ホラズムが滅ぼされたときは
地方の太守が貢ぎ物目当てでモンゴルの使者を皆殺しにした上、
国王がそれを何ら咎めなかったのが理由で最終的に
攻め滅ぼされるに至った。
ここはモンゴルをなめすぎだってばよ。

高麗への元の侵攻の発端になったのは、高麗から戻る途中の使者が
盗賊にブチ殺されたのを「高麗が殺害した」と元が疑ったこと。
高麗が殺したわけじゃないんよ。
高麗は一部は「かような小城が大軍と渡り合うとはもはや天佑と言うより他無い」
と元軍に言わしめるほど頑強に抵抗したが民の反乱や将の寝返りなどが相次ぎ
国力をすげー勢いで疲弊させてしまう。
イタ公といい多勢より無勢の方が手強いのは半島の軍隊の特徴なんかな?
24日本@名無史さん:2007/10/28(日) 01:10:16
>>23
すげー読みにくい文章を我慢して最後まで読んだが

>元軍に言わしめるほど頑強に抵抗した

って何所?韓国の国定教科書かなw
25訂正:2007/10/28(日) 01:10:50
>>23
すげー読みにくい文章を我慢して最後まで読んだが

>元軍に言わしめるほど頑強に抵抗した

って何所?出典は韓国の国定教科書かなw
26日本@名無史さん:2007/10/28(日) 01:37:13
ごめんごめん。
無理矢理縮めたらすごく読みにくくなってしまった。

>元軍に言わしめるほど頑強に抵抗した

亀州城防衛戦での話です。朴犀、金慶孫て武将が大活躍してますね。
ネタ仕入れたのはここ
ttp://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/histo2-2.html

金慶孫 ????〜1251
高麗の武人。
1231年に静州の司令官となり、モンゴル帝国の侵攻に対して決死隊を募って
僅か12名の参加者と共に亀州救援に赴き、果断な突撃を繰り返して
防戦に成功して勇名を轟かせた。
この功績により1237年に全羅道の指揮官に抜擢され内乱の平定に活躍したが、
1249年政権を牛耳る崔氏に妬まれその讒言により流罪とされ、
後に縁戚の罪に連座し刑死した。
救国の軍人の一人である彼の死は民衆を嘆かせたという。

27日本@名無史さん:2007/10/28(日) 01:59:49
高麗史にも金慶孫列伝
ありますね・・・

朝鮮の武将でここまで意地を見せた武将は
珍しいんじゃないでしょうか

28日本@名無史さん:2007/10/28(日) 03:51:56
韓国の教科書
蒙古は義州を武力制圧。亀州を攻めるが朴犀が固く防衛。蒙古軍は迂回し開京を包囲。
開京は十分な戦備なく、武臣政権はあわてて蒙古の要求通りの講和を結ぶ。
http://homepage1.nifty.com/~kibouhou/history/jk/genkou.html

enjoykorea
朴書(朴犀?)の指揮の下キジュ性(亀州)守備軍は結局モンゴル君の攻撃を撃退させた.
モンゴル君は "空が助けるところです, 人の力ではない."と歎息しながらキジュ性で退いた.
http://enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=4&nid=93467

亀州で検索しても十一世紀の戦闘ばかりorz
一部に頑張った兵もいたけど大勢に影響は無かったってことでFA?
29日本@名無史さん:2007/10/28(日) 10:39:50
>>23
高麗について、使者殺害は故意じゃなかったとしても、一度全面降伏した後に、
モンゴルが送って来た役人を皆殺しにした件は言い訳できないだろ。
降伏しておきながら、相手が撤退した途端に平気で違約を繰り返すのは卑怯。
30日本@名無史さん:2007/10/28(日) 10:49:36
>28
姜維が剣閣で防衛しているあいだに
ケ艾が険路を強行して緜竹を陥とし
蜀が降伏した話を思い出した

こういう武将を中国人はどう評価するのかな(苦笑
31日本@名無史さん:2007/10/28(日) 12:41:31
>>23
高麗への使者が殺害された件で
殺害後高麗は自分たちの仕業じゃないって言ってるけど
盗賊の仕業ってソースあんの?
>>28のリンク先では韓国教科書は女真がやったって書いてるらしいけど。
女真の仕業ってソースあんの?
少なくても蒙古は高麗の仕業と見做したわけだけど。
32日本@名無史さん:2007/10/28(日) 13:01:14
>>23
とはいえモンゴルに滅ぼされる前のホラズムは、実は中央アジアにおける超大国だったんだよな。
だからモンゴルをなめてかかるのも無理ないかと。
ていうか、モンゴルと戦う前から冷静に彼らの戦力分析した国って実は無いんじゃね?
どこも最初は簡素な鎧で、狩人みたいな格好で攻めてくるモンゴルのことを舐めてたのでは?
33日本@名無史さん:2007/10/28(日) 13:28:23
>>31
気に食わない話が出てくる度に
ソースソースってうるさいな
せめて反証のために
韓国の教科書以上に確実な資料を引っ張ってきてから
そういう反論はやれよ。
単なる水掛け論になっちまうだろ
34日本@名無史さん:2007/10/28(日) 14:08:26
>>34
だけど韓国の教科書なんて最初から最後まで大嘘だらけなんだから、
韓国の教科書を持ち出した時点で歴史の議論にはならない。
35日本@名無史さん:2007/10/28(日) 14:57:12
韓国の教科書は確かにソースとするには問題がありすぎるね。
36日本@名無史さん:2007/10/28(日) 15:41:15
いずれにせよ高麗の忠烈王はモンゴルに対しこの上なく忠烈で
モンゴルから従軍処女500人差し出せと命令されたら婚姻禁止令
まで出して命に忠実に服したという事実。
三別抄は南朝鮮の支配権を認めてくれればモンゴルのいうこときく
なんて勝手なこといいながら日本に同盟持ちかけたりと節操のない
連中。決して高麗人民解放のため戦ったわけではないという事実。

この2点は正しい史実と認識しないかぎり元寇の論議は歴史討論と
して成り立たない。
37日本@名無史さん:2007/10/28(日) 15:47:34
>>33
いちおう聞くが、韓国の歴史教科書執筆者は、
教科書作成に係わったことを明らかにされると、
名前をだした相手を名誉毀損で訴える確信犯だぞ?

冗談のような話だがこれは事実。
38日本@名無史さん:2007/10/28(日) 16:41:30
>>37
そうか。韓国でも本当に良心的な学者は教科書編纂に手を染めたことを不名誉だと感じているんだ。
39日本@名無史さん:2007/10/28(日) 17:39:42
ばかか。
韓国で本当に良心的な学者は教科書編纂なんかに手を染めるわけないだろ。
それがわかると学者として自殺行為だから、匿名で執筆し、
教科書作成に係わったことがばれたら、逆ギレして
名前をだした相手を名誉毀損で訴えることで恥辱行為をはぐらかそうとする。
40日本@名無史さん:2007/10/28(日) 18:29:11
>4
使者を殺したから云々といってるが
文永の役の前に来た使者は丁重にお帰りいただいてるわけだが
41日本@名無史さん:2007/10/28(日) 19:23:15
結局>>31の求めた根拠は何も提示できないんだね。
42日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:01:08
>>40
ずーと元からの国書を無視していたら、
高麗の忠烈王が、フビライに対して「武力でやりゃいいじゃんよ、ウチもばっちし協力するよ」
って進言いれて可決された。

『世祖本紀』(元朝)
高麗国王請自造船百五十艘助征日本。


『高麗史』(朝鮮)
惟彼日本未蒙聖化故発詔。使継糴軍容戦艦兵糧方在所須。
儻以此事委臣勉尽心力小助王師。


で、文永の役で侵略軍を撃退後に、
杜世忠を正史とする使者がのこのこやって来てスパイ紛いの行為もあって
初めて鎌倉の龍ノ口で使者を斬った。
で、弘安の役開始。

よく日本史知らない人が使者を斬ったから元が来寇したなんて主張しているけど
ちゃんと日本史勉強していれば、使者を斬ったのは文永の役で侵略を受けてから。
43日本@名無史さん:2007/10/30(火) 04:17:57
確か二回目の元冦の時はかなり防御力がうpして普通に戦えたんだよね?
44日本@名無史さん:2007/10/30(火) 07:06:13
>42
杜世忠や何文著もスパイ行為してたの?使者を斬ったのは前回侵略された
からというよりは蒙古に対して断固たる態度を示すためだったからでは?
>43
日本軍は博多に防塁築いたり、那珂川に乱杭打ち込んだりして防衛力の強
化を図ってたからね。それに第一回では蒙古軍の弓の方が射程距離が長か
ったために武士は苦戦を強いられたけど、二回目は弓を改良して蒙古軍の
より射程距離を長くしてたみたいだし。
45日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:13:18
>44
もともと弓の射程距離は日本の方が長かったよ。
だから、一回目の文永の役でもあっさりと元軍を撃退できた。
46日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:20:59
刀が改良されたのも元寇でそれまでの日本刀の欠陥が露呈したからだしな
時代遅れだったが一回目を辛うじて撃退できた僥倖を利用して二回目はがちがちの防御戦術
少なくとも学習能力はあったから良かった
昭和の軍隊なら二回目で全滅だぜw
47日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:52:30
>46
二回目の弘安の役で日本軍はがちがちの防御戦術なんかやっていない。
むしろ徹底した攻撃戦術。
元軍が志賀島に上陸したらこれを攻撃し、相手が壱岐に撤退すれば船団組んで更に攻撃し、
遂には鷹島にまで追撃している。
48日本@名無史さん:2007/10/30(火) 18:44:30
>42
>46
みたいな無知がつけ上がるのってどうにかならんかね。
49日本@名無史さん:2007/10/30(火) 18:45:09
ちがw
>42→>44
50日本@名無史さん:2007/10/31(水) 18:36:11
>46
刀を改良?そりゃ初耳だわ。広い砂浜なんかでは軽装で機動力に勝る蒙古
兵が有利だったって聞いたけど、狭い船内では逃げられない蒙古兵は簡単
に日本兵に討たれたって・・・。
51日本@名無史さん:2007/10/31(水) 21:36:55
彼、前スレからいるけど、あんまりいじめると可哀想だよw
52日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:52:04
>>32
いや、同盟者だったクチュルクがあっけなく敗死しているし、侵攻を受ける前に色々準備もしているので
かなり警戒してはいても、舐めて掛かっていたということは無いだろう。

むしろ、主戦力として当て込んでいたカンクリ部族がモンゴル側に寝返ることを恐れて野戦を避け、籠城戦に
持ち込んで程良く敵側が疲弊して退却する頃を見計らって反撃、殲滅する心づもりだったらしいが、これが
裏目に出たのが致命的な誤算だったと思う。モンゴル側が大量の攻城兵器を前線に投入して各都市を片っ端から
陥落させられ、泡を繰ったスルタン・ムハンマドはホラーサーンへ逃走。体勢を立て直す前にジェベ率いる部隊が
追撃してきて、イラン中部での遭遇戦でムハンマドの軍隊は敗退・瓦解してしまった。

ホラズムシャー朝の敗退の原因はいくつかあるが、モンゴルと比較した場合、国力の差は置くとして、まず母親の
テルケン・ハトゥンとの対立を引きずって国内の権力を一元化出来なかったことが終止アキレス腱になっていた。
カンクリ部族出身のこの母后はムハンマドの世継ぎ問題でも対立し、ムハンマドも妥協したものの自分が発行した
勅令に反する独自の命令を各地に発令することもしばしばで、国政はややもすると混乱状態になることもあった。
致命的な事は、カンクリ部族はどちらかといえばテルケンの方を支持していたため、テルケンに対しては果断な
処置が出来ず、分が悪かった。(テルケンがモンゴル側と内通しているという話もあったそうだが)

53日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:53:47
>>52の続き。
『世界征服者史』のホラズム軍40万騎がどれだけ本当かは分からないが、少なくともモンゴルよりは多勢であった
らしい。ゴール朝や西遼との戦闘のように、野戦で決着をつけても良かったはずだが、それが不可能だったのは
やはり内部対立がこの時それほどまでに深刻だったということなのだろう。

次に、やはり、籠城戦ならばそれらの事情を押して勝てる!と踏んだのだろうが、モンゴル側が予想に大きく反して
攻城兵器を多用して次々と城塞や都市が陥落していったので、この時点でムハンマドの賭けは大外れしたんだと思う。

モンゴルの場合、1206年のモンゴル高原統一前後までにチンギス・ハンは自勢力で自分と伍する権力者をあらかた
粛正をし終えていて、西方遠征の時には権力を一元化出来ていた。ここら辺の違いはやはり大きいと思う。
(ここら辺の問題はバルトリドとか亡き本田実信先生、例の杉山せんせとか色々書いているけど)
54日本@名無史さん:2007/11/01(木) 13:55:04
相州伝はモンゴルに日本刀が効かなかったというよりは
思ったより元軍が軽装だったので猪首蛤刃のデカブツよりももう少し軽めにして鋭い刃がある刀のほうがいいかもねという発想
そしてどうせ刃を鋭くするなら今までの強度を維持したまま鋭くしたいじゃんということで強度を落さずに薄くする工夫がなされた

てかそもそも対モンゴルを目的とした工夫というのは実は根拠がないんだけどね
なんとなく時期が近いから無理やりこじつけられてるとも
55日本@名無史さん:2007/11/05(月) 23:27:26
しかし、モンゴル側は防備を固めた博多湾ではなく、別の地点に上陸しようとしなかったのは何故だろう?
いっそ瀬戸内海に入っちゃうとか。
56日本@名無史さん:2007/11/06(火) 04:08:27
それじゃ大宰府までの道がわからない
57日本@名無史さん:2007/11/06(火) 04:22:45
大宰府は必ず占領しないといけない拠点だったのだろうか?
というか、元軍は日本の地理をどこまで理解してたのだろうか?
58日本@名無史さん:2007/11/06(火) 08:06:49
>>57
元の使者は大宰府までしか来たこと無いから、確実に把握していたのはその周辺だけだろ
59日本@名無史さん:2007/11/06(火) 09:05:12
日本は平安時代から外国人は大宰府までしか入れない風習があった。
平安中期、日宋貿易は盛んだったけど宋人は京都に入ることは許されなかった。
雅で軍備を解体して国防に無頓着だった平安貴族たちも何故か外国人の入国には敏感だった。

例えば藤原道長の甥、中納言隆家は目を悪くしたとき、大宰府に宋の名医がいると聞いて自ら大宰権帥に任官を志願して九州に赴いた。
権力者の甥っ子でも宋人を都に呼べなかったのだ。
隆家がちょうど九州に行ったとき襲来したのが、刀伊。
貴族とはいえ法皇に矢を射掛けて流罪になった前科を持つ豪傑肌の隆家が現地の武士を集めて指揮して撃退したが、
防衛拠点は大宰府ってのが平安時代、いや白村江の敗戦以来伝統としてあって日本の玄関大宰府は見せてもその奥は断じて見せないっていうのがあったと思う。

平清盛が福原に港開いて宋人を福原に入れるようにしたとき貴族たちの反発は凄かったというから。
60日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:52:11
なるほど。
だとしたら元軍の日本攻略は、かなり情報不足の状態で行われたということか。
下手したら日本が地理的に奥行きのある島国だということも知らなかったのではないか。
61日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:54:22
史書を紐解けば、
隋や唐の時代、中国の官僚が大和にある都まで来たことがあるから
それくらいは分かると思う・・・
62日本@名無史さん:2007/11/06(火) 16:17:34
ならやっぱり波の高い玄界灘に居ないで、艦隊を瀬戸内海に進めてしまえば良かったのに。
で、大阪湾まで行って部隊を上陸させて京を目指す。
63日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:02:36
 瀬戸内海は島が多く、潮の流れもあるし、いきなり攻め寄せられるものでもないと
思う。
 飛び石で対馬→壱岐→(博多)→(大宰府)→京 ってわけにはいかないんでは。

それと交易がある程度あれば、地理やその他の事情は知られていたと思うのだが。
64日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:16:29
元と明では日本の情報量に差がある
65日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:00:32
補給の問題もあるし、近いところに橋頭堡を築きたいのは当然のことじゃないかな
九州北部を確保できれば、そこを拠点にしてじっくり料理すればいい
実際には料理されちゃったけど

66日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:21:38
だって敵前上陸って軍事史的にもあまり成功した例がないし、成功したとしても消耗が激しいでしょ。
敵前上陸が成功した例ってノルマンディー上陸作戦くらい?
他に大規模上陸作戦として有名な、WW1に於ける英国のガリポリ作戦では英国軍はトルコ軍の頑強な
抵抗にあって失敗しているし。

敵に上陸地点を察知されている時点で作戦成功の確率は低くなる。
67日本@名無史さん:2007/11/07(水) 11:12:05
敵前上陸に成功した例は日本だと、1336年の湊川の合戦の足利尊氏。
あと、1555年の厳島の合戦の毛利元就とかかな。

世界だと、海上からコンスタンティノープルを攻略した第四回十字軍。
1271年の元軍による珍島攻略と、1273年の耽羅島攻略。
1535年にチュニスを攻略したカール5世。
1661年にオランダ東インド会社が支配する台湾に侵攻した鄭成功。
1758年、フレンチ・インディアン戦争におけるイギリス軍のルイスバーグ攻略。
1776年、イギリス軍のアメリカ独立戦争におけるスタテン島、ロングアイランド島、マンハッタン島攻略。
1854年、クリミア戦争での英仏連合軍。

探せばまだまだ幾らでも見つかりそう。
68日本@名無史さん:2007/11/07(水) 19:01:06
>>67
毛利は特殊な例ではないか
厳島に陶軍を引き込んでその尻を村上とかせがれのウルトラ三兄弟共に突いた

敵前上陸で勝つには物量作戦にかぎるな
69日本@名無史さん:2007/11/08(木) 05:55:34
水際防衛が有利ってよく言うけどさ、水際防衛にもいろいろ問題あるよね。
海岸で敵を食い止めようとすると、主力を広く浅く配さなくちゃいけないから。
文永の役の日本軍5000で20キロの海岸を守るには、1人が4メートルの幅を受け
持つ必要がある。
しかも、一点突破されたら終わりだし。
あえて水際防衛を行なわず、内陸でまとまった兵力をぶつけるのも作戦的には
有りなんじゃないの。
70日本@名無史さん:2007/11/08(木) 11:32:41
>>69
それは話が逆なんじゃないかと思う。
上陸側の方がむしろ兵力を上陸地点に集中して拠点を確保する必要があるから
防御側の方が守りやすいのでは?
小出しにいろいろなところから上陸を図れば、各個撃破されるのおちだと思う。
71日本@名無史さん:2007/11/08(木) 18:22:47
>>62に関して、軍板の元寇スレで元の艦隊が瀬戸内海を東に移動して
一気に京に攻め上ることを警戒して、鎌倉幕府は京にも部隊を配置していた
と書かれていた。
元側も日本の地理情報をある程度持っていた模様。
72日本@名無史さん:2007/11/08(木) 19:42:31
敵前上陸大成功と言えば朝鮮戦争の仁川上陸とかも有名かも

よく攻撃側は防御側の3倍の兵力が必要と言われるけど、逆に言えば1/3で防御側は守れると言うこと。
同兵力なら海岸に1/3を配置して防ぎつつ、2/3を機動予備に回して敵主力上陸地点を集中して叩けばいい。
1対2/3でも十分勝てる。
ちょっと乱暴な計算だし数値に異論はあるだろうけど、基本的な考え方ね。

しかし、>69のように攻撃側はどこを攻めるか選べるというメリットもある。
ノルマンディー上陸でも連合軍は上陸地点はカレー地区だとドイツに誤断させて機動予備の配置を誤らせ、まんまと成功させた。
陽動でどこかに一部を上陸させて、敵を引き付けて他に主力上陸とかも可能。

と言っても上陸はどこでも出来るものではないので、地形等から自ずと場所が決まってくる。
なので敵前上陸は予測されていることも多いし、遮蔽物も少なく、最初から持ち込める装備も限定される。
よって敵前上陸は難しいとされる。

元寇は、というと、細かいこと抜きで戦力で圧倒して正面突破を試みた形と言えると思う。
73日本@名無史さん:2007/11/08(木) 20:22:37
元寇は敵前上陸自体には成功したが、あまりに消耗したので陸上に橋頭堡を築けなかったと見ることができるか。
74日本@名無史さん:2007/11/09(金) 02:27:56
致命的な損害を受けるとこまではいかなかったけど
このまま続けても目標達成できそうもないし
損害がヤバいことになりそうだと一日の戦いで見切ったんで
帰ったとか。
75日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:12:42
地名的な損害を受けなかった割には続行側の提案した作戦は背水の陣
かなり必死
76日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:24:11
>>69
そんなに均等に配置する必要はない 歩哨をたてておけば大船団がくれば
かなり時間的余裕をもって確認できる
ただし、防塁はどこにきてもいいように築いておく必要がある
77日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:39:30
この戦いで大きな打撃を受けたのは
兵数よりも元軍将兵の士気の方だと考えてる。
元軍と日本軍の間にはかなりの兵数の開きがあったし
(戦力比で1対3か1対4くらいか)
戦闘そのものも楯突戦と比較的少数の弓騎兵による突撃、追撃がメインで
兵力面で元軍側が大損害を被った、という状況が想像しにくい。
兵力に劣る日本側が果敢に攻めてきたんで恐れをなしたんじゃないかな?
78日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:38:56
文永の役の元軍の指揮官が撤退時の軍議で、
「時間が経てば経つほど自軍が不利になる」
「少数で多数には勝てない」
と言っているのは、今日はともかくも、時間が経てば敵兵力が増大すると見ての発言だろうね。
この発言から、少なくとも元は当初日本軍の集結前に目標を攻略するという戦略的奇襲を目論んでいたはず。

高麗の指揮官が撤退反対を唱えたように、元軍大損害というほどでも無い状況ならなおさら、ただ一日の戦闘で撤退を決めた元軍指揮官の判断力は評価できると思う。
事実、日本全国から戦力が集結中だったわけだし。
79日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:45:38
謎の元軍夜間撤退、壊滅の理由なんだが、
頑丈な構造の指揮官の船が「自分たちは夜でも帰れる。夜襲も怖いし先に帰ろう。兵隊のボロ船は朝を待たせて帰らせろ」と突然碇を上げて撤退開始。
他のボロ船はそれを見て「ウリ達を置いてかないでー!」と追走、風雨でボロ船が壊滅。頑丈な船は助かりました。
案外こんなんではないかと想像する。
80日本@名無史さん:2007/11/10(土) 02:26:18
日本側は博多湾に防塁を築いたが、その背後に木造のタワーは築かなかったのだろうか。
81日本@名無史さん:2007/11/10(土) 03:25:29
見張りに適した高所がもうあったんじゃね?
文永の後壱岐、対馬にのろし台作ってたって話は聞いたことある
82日本@名無史さん:2007/11/10(土) 16:57:22
高麗の指揮官が撤退反対を唱えたといっても
「船を焼き決死の覚悟で戦えばなんとかなる」というやけっぱちなこと言ってるわけでかなり冷静ではなくなってるよね
83日本@名無史さん:2007/11/10(土) 19:06:10
>>82
そうだな。
優勢であればそこまでのことをする必要もないわけだし、
冷静に考えれば大陸との連絡用にも船は必要だった筈だ。
84日本@名無史さん:2007/11/10(土) 19:46:28
そんな感じで高麗人はいつもの火病起こしたけど、蒙古人指揮官が冷静に引き上げ決定したってイメージ。
85日本@名無史さん:2007/11/11(日) 00:27:36
日本軍の意表を突いて若狭湾辺りから上陸作戦を展開していたなら、あるいは。
86日本@名無史さん:2007/11/11(日) 01:01:12
>>85
土地勘もないようなところにいきなり上陸するのは愚の骨頂かと思うけど。
87日本@名無史さん:2007/11/11(日) 04:06:21
>>86
上陸地点が北九州だろうが、その他の地域であろうが、土地勘がないことには変わらないと思うが。
それともモンゴル側は密偵を北九州に放っていて、予めある程度の情報を得ていたの?
88日本@名無史さん:2007/11/11(日) 04:58:04
>>87
モンゴル側は北九州の大宰府周辺については、訪日した使節が密偵として調べた詳細な情報を得ていた
89日本@名無史さん:2007/11/11(日) 14:59:27
>87
もうちょっと調べてから書いてくれ。
90日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:45:16
>>47
防御してないってのはさすがに言い過ぎかと思うよ。
現代戦術に照らせば、当初は火力戦闘を主体とした陣地防御から局地逆襲、その後攻勢に転じて洋上撃滅
を企図するまでに至ったって感じじゃないかな。

>>57
地形上、福岡一帯は海岸沿いと太宰府(と言うか水城)を押さえると、逆襲のための戦力推進が困難になる。
これまた現代戦術に照らせば、これらの地域を制することにより海岸堡の確保が完了する。
水城の地形的な価値と太宰府の政治・軍事的価値を見れば、この一帯の制圧が当初の上陸作戦における
目標なんじゃないかな。
91日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:52:37
>>76
陸自の古い戦術では準備陣と呼ばれてた方式だね。
確かに敵がどこに来ても対処可能だが、同時にどこにきても上陸直後の弱点を衝くのが困難で、
なおかつ複数正面への同時上陸に対しては脆弱性を曝すとして廃れた戦術だよ。
92日本@名無史さん:2007/11/13(火) 23:49:39
疑問なんだがたとえ大宰府落としても、後続部隊ないんだよな。
このあたりどうなってたんだろう。
やはり威力偵察と恫喝目的だったのかな。
それとも高麗に後続部隊いたの?
93日本@名無史さん:2007/11/14(水) 07:17:27
威力偵察については↓の715以降を参照
【文永】元寇の軍事分析【弘安】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/army/1189275357/
94日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:04:59
>>92
威力偵察はありえない
恫喝というのはざっくりしすぎだがそっちのほうがまだ該当する
大宰府落せばそれで日本がしっぽ振って朝貢すると思ってたんだろう

ようは自分らに有利な条件で制限なく貿易させろ邪魔すんなよということだよ
なのでモンゴルの軍事力を見せ付けるというのが目的といえば目的
返り討ちにされて全く目的を果たせなかったが

国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!


95日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:45:32
そういえば当時、逆に日本から大陸に打って出る作戦案があったらしいな。
結局は実行に移されなかったけど。
96日本@名無史さん:2007/11/14(水) 12:28:03
文永の後、朝鮮を松浦党が襲撃した記録があるよ。元史にも記載されてるはず
97日本@名無史さん:2007/11/14(水) 13:21:24
>80
前原市高祖山頂上付近に望楼跡がある。
グーグルアースで視界を斜めにして頂上付近から博多湾を見ると
博多湾が良く見えることに驚く。
98日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:08:31
>>94
これは元シカトされるわけだわ
99日本@名無史さん:2007/11/14(水) 17:51:48
日本の文献に登場するモンゴルについての一番最初の記事。

『外記日記』文永4年11月25日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」

最初から日本はモンゴルを侵略国家と認識して対応していた。
100日本@名無史さん:2007/11/14(水) 20:19:50
>>98
まあご先祖様はイスラムのモスクに乗り込んで
「てめーらは大きな間違いを犯した。俺こそが神だ!」っていうような人ですからw
101日本@名無史さん:2007/11/16(金) 04:24:55
>>100
違う。実際に記録に残ってる文句はこう。↓

「てめーらは大きな間違いを犯し、てめーらの親玉はその大犯罪者だ!
 そして、俺こそがてめーらのその過ちを正すために派遣された神の使いだ!!」

>ジュワイニーの『世界征服者史』に出てくる、チンギスがブハーラーの
 金曜モスクの説教壇(ミンバル)の上でやった演説
 「天の神そのもの」でなくて飽くまで「天の神の使い」としか言って無いみたい。
102日本@名無史さん:2007/11/26(月) 14:15:14
今日11月26日は文永の役の日。
九州に攻め込んだモンゴル軍が鎌倉武士の集団戦法に圧倒されて逃げ帰った日。
103日本@名無史さん:2007/11/27(火) 04:49:52

そういえばそうだな
104日本@名無史さん:2007/11/27(火) 10:57:35
あれ?この時期になるといつもの相撲ジジイが来るはずなんだけど?
105日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:48:34
モンゴルでゲームばかりしてるニート急増中!
http://news.ameba.jp/internews/2007/12/9033.html
106日本@名無史さん:2007/12/02(日) 13:07:14
ウイグル自治区か
自分の国でもない国の為に働けるかみたいな考えがあるんじゃないの?

中国のウイグル人とかも弾圧が相当ひどいようだし
107日本@名無史さん:2007/12/09(日) 21:18:50
元あるいはモンゴル帝国の情報網は当時としては最高水準というのが今や定説だろう。
でなければ猪突猛進や運頼みであれだけの帝国を築けるはずはない。

日本は海で隔絶されていたにしても、明や高麗からある程度の情報は仕入れているはず。
ならば、元軍は2通り攻略方法を考えていたに違いない。
日本の出方次第、あるいは戦闘状況次第で一気に京へ攻めのぼるのが最善だが、
太宰府占拠、しかるのち京へという現実的な方法。
しかし、思った以上に鎌倉武士の抵抗反撃が大きく、
上陸地点でさえ確保できない状況だった。
できれば陸地を確保して、背後に軍船が控えるという形が望ましかったはず。
しかし、彼らは怖れた。
昼間の戦闘状態から判断するに、日本の抵抗力は衰えていない。夜襲もあり得る。
しかし、海に戻っても安心はできなかった。
単発ではあるが、小舟による夜襲がかけられたからだ。

こうなると元軍には短期決戦しか残された道はないが、
それは墓穴を掘るようなもの。
一時的には優勢だったとしても、地理的状況抵抗勢力等々で、京へ上がることなど不可能。
途中の道程には山が多く、
海路は瀬戸内の海賊に近い武士がいる。
どう考えても元側に勝ち目はなかった。
108日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:54:54
【コラム】 実はチームプレイで動く!?“カミカゼ精子仮説”とは?
http://news.ameba.jp/r25/2007/12/9269.html
109日本@名無史さん:2007/12/11(火) 00:12:11
>>107
たとえ日本に負けたとしても元軍の主力は朝鮮人と南宋人。
厄介払いができるって寸法だよね。
うまい戦略だと思うよ。
110日本@名無史さん:2007/12/11(火) 07:52:29
>>109
元軍の主力は蒙漢軍だろ。
朝鮮人なんて蒙漢軍の三分の一程度の兵数しか参加してないじゃん。
111日本@名無史さん:2007/12/12(水) 00:15:36
>>110
文永の役でも半分くらいだよ?
112日本@名無史さん:2007/12/13(木) 03:06:30
>>111
文永の役の時の朝鮮人なんて、非戦闘員まで含めても全体の半分に遠く及ばない数
113日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:35:57
高麗兵や南宋兵はともかく、高麗と南宋の水夫や艦船はフビライにとって虎の子だろ。
占城を拠点にインド洋支配を狙っていたフビライに、海軍力を提供できるのは、
実質的にこの二国だけなんだから。
弘安の役で江南軍が壊滅しちゃったせいで、その後の東南アジアにはしょぼい艦隊しか
送れなかった。
114日本@名無史さん:2007/12/17(月) 18:29:21
とにかく日本軍の対応がはやかったところと、夜襲の功名さやその勇気に点があがる。
他の国々では、元軍に翻弄されてなす術なしであったが、日本では武士団はこれに迅速に対応できた。
さらに他の国々では、恐れおののいて戦線離脱や降伏、あるいは城にこもってしまったが、武士団はむしろ夜となれば夜襲をしかけ
舟にまであがりこんで奮戦している。
対応能力と思想 
などなど、これまでの日本民族の歩を考える上で、特筆する点が多い。
115日本@名無史さん:2007/12/17(月) 22:09:17
>>114
確かに弘安の役のときの河野通有の勇敢な奮戦振りは凄いね。
夜襲で敵を恐怖のどん底に落としいれ、敵が夜襲に警戒すると今度は伯仲堂々の出撃。
敵がいったい昼間から何を?講和の使者か?なんて思って油断したところを斬り込んで。
通有の銅像をぜったいに建てるべきである。
116日本@名無史さん:2008/01/15(火) 19:03:44
あ゛〜〜〜い゛ぇぇぇあ゛あ゛〜あ゛あ゛あ゛〜あ゛〜♪
チャーチャーチャーチャーチャ♪チャーチャーチャーチャー♪
117日本@名無史さん:2008/01/15(火) 20:04:53
>>115
河野通有は救国の英雄です。
こういう偉大な武将を教えることこそ歴史教育のあるべき姿です。
って世界中歴史教育ってこんな感じで行っているのに何故日本だけそうじゃないんだ?
118日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:06:54
119日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:00:04
元軍「くそっ!上陸さえできればこんなことには…」
日本軍「上陸してみろよ」
元軍「!…ほざけーっ!」

(神風で壊滅)

元軍「…!」
日本軍「ユーラシア大陸は支配できても…
     たったひとつの島国は支配できないようだな…」
120TK:2008/01/18(金) 02:19:50
フビライは日本へ趙良弼を使者として送ってきたが、朝廷が返事を用意したにもかかわらず
時宗の指示でこれを黙殺。黙殺は当たり前で非常に適切な処置だっただろう。NHKの番組
等で国書は過激なものではなく・・・、必ずしも戦争を目的としたものでは無かったかも
知れないなどとの意見は馬鹿げている。文章だけで相手の意図していることがどうして分かる。
普通なら言葉だけ信じたりしない。ましてや相手は蒙古。噂くらいは知っていただろ。なら
それを確かめるまで迂闊な返事が出来ないのは当たり前だろ。そして時宗は時間を稼ぎ当然
それをやった。

「日本に向かった国使の趙良弼からこちらに送られて来た張鐸が言った。『弥四郎という日本人と
ともに大宰府西守護所に着くと、その守護主はこう言った。「前は高麗によって欺かれた。蒙古皇帝は
殺生を好まないと言うが、そんなことはない。日本を攻めると何度も言って来ているぞ。先に人を遣って
国書を下すよう天皇にお願いしている。しかし京都は遠い。そこで、先に日本国使だけそちらに連れて
行くよう願う。」と。』

趙良弼は、張鐸にその二十六人の日本使を京(蒙古朝廷の都)に送らせた。フビライは、その国使を疑い、
大宰府西守護所の偽りであると言った。(臣の)姚枢、許衡らは言った。『ご賢察であります。彼らは
我が軍事力をおそれて偵察に来たのです。寛大さを示すべきですが、会見しないほうがよろしいでしょう』」

「(臣の)安童が言った。『趙良弼が「金州(朝鮮半島南部)の屯田兵を他へ移すよう要請する。日本に
疑いを抱かせないために。」と言っています。日本側は金州の屯田兵について知っていると思われます。
しかし兵を移すことはありません。ただ日本使には「この屯田兵は、耽羅(三別抄のこと)に備えて仮に
設置しているものである。あなた達が疑いおそれる必要はない。」と言いましょう。』帝(フビライ)は、
それは善い考えであると褒めた。」
>>http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm
121TK:2008/01/18(金) 02:21:25
他にも、「慶尚道の安撫使(地方の軍事民政を司る官)が、金州に来た日本船と通交していたことが発覚
して捕縛され、やがて殺された」という記事がある。この金州に来た日本船もまた情報収集の動きの一つ
だっただろうし、これはバレたから記録に残ったが、バレず記録に残らなかった情報収集が沢山有っただろう。

そして、高麗の状況とは、
高宗十八年(1231)十二月二十三日、(蒙古の)使者が来た。曰く、「崔?から進上された貢物は、
欲しくないものばかりだ。別の財宝を持ってくるがいい。また戦いが長引き、兵士の衣服がすべて
破れているので、百万人分を調達せよ。馬一万匹を選んで持ってくるように。王子・王女などはもちろん、
身分が高い家から子女を供出せよ。また男女一千人を選び、蒙古皇帝に贈ること。これらは迅速に行え。」

高宗十九年(1232)四月、高麗は蒙古に使者を送って奏上した。高麗王は、「臣」と称した。曰く、「要求
された貢物が多すぎて調達が困難である。現在集め得たものを贈るので、事情を考慮願いたい」云々と。

元宗十五年(1273)三月、元使が高麗を訪れて「南宋の軍人が妻を求めているので、夫のない婦女百四十人を
献上するように」と命じた。督促は秋に至るまで激しく行われた。

高麗に駐在する元の役人もまた良家の婦女を求め、美女を選んで強制的に結婚した。高麗王は、何も言わ
なかった。『高麗史提綱』

忠烈王元年(1274)十月、処女を元に献上する時期が近づいていたので、国中で結婚が禁止された。『高麗史』

忠烈王二年(1275)閏三月、元使が高麗に至り、帰附軍のため妻となる女を献上するよう求めた。高麗王は
寡婦処女を選別するための監督に金応文ら五人を諸道に派遣した。『高麗史』

最後の2つは文永の役の後だから時宗の集めた情報には無かっただろうけれど、蒙古の言う「君臣」の
関係や高麗が日本の説得に使った「蒙古皇帝は貴国と通交をしたいだけで、貢献を求めるものではない。
天下に名を高めたいだけである。」の嘘と「朝貢」の意味を悟っただろう
>>http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm
122TK:2008/01/18(金) 02:30:24
そして一方、趙良弼は再度来日し1年間スパイ活動し博多近辺の詳しい地形をフビライに報告し誉められ
ている。こちらは切り捨てず時宗がわざと彼を泳がしたのだろう。大体1年も異国人がうろうろして気が
つかない方がおかしいし、事実スパイしている奴がいるという記録が日本にもあるようだ。

つまり相手に情報を与え、蒙古を博多湾に誘き寄せる。多分、時宗は蒙古は攻めてくるなら博多湾とほぼ
確信していただろう。勿論若狭湾なども大軍の上陸地としては都合がよい場所だろうし、他にも有っただろう。
(ただし大阪は無い。大体、難波津はあったが大阪などという場所が無かった。今の大阪は難波津という
一角を除き、葦原の州があった河口で、とても大群が上陸できるような場所じゃない。その前に瀬戸内海など
通って来れるわけが無いし、もし蒙古が瀬戸内海に入ってきたなら大敗しただろう。)

だから他の上陸地の候補を消すために趙良弼にあえて博多近辺をスパイをさせて、詳しい地形を敵に知らしめた。
勿論、博多湾の地形を詳しく知っていでも蒙古が100%そこに上陸地点を絞るとは言えないが、蒙古が
ほぼ百戦練磨で東ヨーロッパまでを征服したという自信を持って責めてくるなら(蒙古は弥四郎他の日本の使に、
資料にあるように、牽制も含め自慢げに包み隠さず蒙古の偉大さを語っただろう)、知らない場所に大軍を上陸させる危険性を考えれば、相当な確率で詳しい地形を知った博多湾にくると時宗は確信に近く思っただろう。
123日本@名無史さん:2008/01/18(金) 09:38:09
>>118
リンク先の>>1見てビビった。未だにこんな教え方してる教師がいるのか。
ついでに言うと当時の世界でちゃんと集団戦法確立出来てたのって
モンゴル以外だとせいぜい一部のイスラム国ぐらいなんじゃね?
あと個人戦法云々でよく鎌倉武士が一人ずつ名乗り出て・・・
ってのにも疑問が残る。個人戦法っていうのはそれぞれの武将達が
各々のグループ単位で戦ってて全体としての統率が取れてなかっただけで
文字通り一人一人がいちいち名乗り出てたわけでは無いと思うんだが。
124日本@名無史さん:2008/01/18(金) 17:38:16
>>123
鎌倉武士が一人ずつ名乗り出て・・・ってのは裏付ける史料が全く存在しない
完全な作り話。
文永の役の際、実際に最前線で戦った武士の残した史料「蒙古襲来絵詞」には、
鎌倉武士の集団戦法に圧倒されて逃げ回る元軍の様子が描かれている。
125日本@名無史さん:2008/01/20(日) 01:16:38
>>122
のわりには防備が甘いな。そこまで分かってるんだったら博多湾の防衛を固めるべきなのに
実際には元に侵攻されてから武士を派遣している
126TK:2008/01/21(月) 01:29:33
>>125
確かに具体的な準備が足りないといえばそうかもしれない。しかし、一番重要なことはやった。つまり
幕府を一枚岩にした。蒙古から国書が来たのが1266年、時宗が18歳で執権になったのは1272年。その間、
宗尊将軍の廃位、2月騒動で反時宗勢力(反得宗)を一掃。これが無ければ幕府自体も断固とした決定が
出せなかっただろう。しかし、それでも未だ、日本の鎌倉時代の状況つまり幕府と御家人の関係、公家との
関係を知っていればそう簡単に「日本を守れ」などという状態じゃないのは分かると思う。その中ではよく
準備できた方だとと思うが。

ただ中国の状況から見て蒙古来襲の時期は誤ったかもしれない。つまり、南宋を始末してから来るだろう
と思ったかも知れない。実際、準備不足と言うのは文永の役を指していってると思うが、文永の役では
蒙古もそこまで本気じゃなかったから、予想は半分以上当たっていたと言ってもいいんじゃないかな。
また蒙古の短弓を見ていても、鉄砲や毒矢を知らず、過小評価をしたかもしれない。事実、高麗軍は馬鹿に
していたふしがある。ただ少なくとも、それぞれ自分の土地に「一所懸命」の御家人達を日本を侵略から
守るという気持ちにさせ、注意を怠らないよう具体的に行動させていただけでも大きな成果だろう。

卑近な例をあげれば、現在の日本で、財政再建は誰もが最も重要なことだと認識していても、道路を
作りたい、地方財政の補助、社会保障の充実・・・、それぞれの利益を優先して財政再建などちっとも
進まない。元寇の時もこんな政府(=幕府)の足の引っ張り合い、官僚(=御家人)は自分の利益を優先、
坊主(=学会)はチャンスと見て不安を煽り自派を広めようとし、国民も危険が分かっていてもつい年金や
地方財政の赤字、おらが村にも高速道路を・・・なんて言う状況だったら、如何に武士の戦闘能力が
侵略者より上でも、一重まぶたが殆どの国民になっていた可能性も有るんじゃないかな。
127歴史の教訓:2008/01/21(月) 08:58:50
朝鮮と組んだら必ず負ける
128日本@名無史さん:2008/01/21(月) 09:21:27
反例は秀吉の朝鮮出兵ぐらいなもんか
129日本@名無史さん:2008/01/21(月) 09:51:16

「勝敗は風を読む事と心得ろ!」


130日本@名無史さん:2008/01/21(月) 10:40:09
当時の世界では、どの国に対しても3万もの大軍を上陸させれば、橋頭堡なんか
楽々と確保して、かなり長期間にわたって暴れまわることが出来るのが普通。
文永の役みたいに全く橋頭堡を確保できずに1日で撃退されちゃうなんて事態は、
日本以外の国相手ではありえないこと。
鎌倉幕府が本当に準備不足の状態でこんな凄いことができたのなら、その方が驚き。
131TK:2008/01/21(月) 20:50:38
>>130
確かにこの時代の侍も、太平洋戦争の日本兵も強い。ただし思い上がってはいけない。日本の戦い方は
消耗も激しい。

大体大国の兵は戦争で逃げるのが上手い。ただ逃げるにもお国柄が有る。ロシアの撤退など芸術的と言っても
いいくらい?。ドイツの参謀だか将軍が、記憶があいまいだが、日露戦争でのクロパトキンの逃げ方の
見事さを誉めてた?。只見切りが少し早くて勝機も逃すが、彼らは多少のチャンスには絶対掛けずに撤退する。
撤退する場所は後ろにいくらでもあるから困らない。そして絶対勝てる時には強硬に押す。そして勝ちに
乗ると押し捲る。日本人にはロシア兵は弱いなどと思い込んでいる人も多いが、とんでもない。よく見れば
分かる。必要なときはロシア兵は絶対逃げないし命も惜しまない。例えば友軍が撤退するまで死守する必要の
あるときは死守する。「ウラー」と叫びながら突撃してくる。また我慢強く包囲にも耐える。

ついでに大国ではないが、草原のモンゴル人も逃げ足は速い。彼らは馬に乗って短弓を操り襲ってくる。
草原では長弓は役に立たない。馬に乗って素早く動く標的を狙って当てるなど不可能だし、しかも彼らは
数頭の馬を引き連れ、走る馬を盾にして襲ってくる。馬が射られれば馬を代える。そして相手が強行に
反撃してくれば逃げる。代え馬を備えた彼らに追いつける軍隊はいない。そして、相手が引けば狼のように
またしつこく相手が疲れ弱るまで襲ってくる。そして何より、どんなに遠くまで、どんなに長く遠征しても
兵站で困ることは無い。何故なら、彼らの兵站は自分で歩き、しかも腐らない。羊が食べる草原が続く限りは。

中国人はどうだろう。負け戦になれば彼らは一心不乱に逃げる。そして何十万もの軍隊は雲散してしまう。
所が食さえ与えることが出来れば(徳が加われば更に)、またあっという間に何十万もの軍隊を作り再起できる。
三国志を読んで皆さんも不思議に思ったことでしょう。劉備しかり劉邦しかり。項羽は100戦して99勝した
が最後に1敗して滅びた。これが中国人の考え方。負けること、逃げることを恥とは思わない。

日本はどうだろう。逃げる所などどこにも無い。勝たなければ死ぬ。負けても死ぬ。突撃ィー!。

132日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:12:59
>>131
すごい!
ものすごくわかり易い分析ですな!
面白い!
133日本@名無史さん:2008/01/22(火) 00:12:50
>必要なときはロシア兵は絶対逃げないし命も惜しまない。例えば友軍が撤退するまで死守する必要の
>あるときは死守する。「ウラー」と叫びながら突撃してくる。また我慢強く包囲にも耐える。
つ督戦部隊 懲罰大隊

X草原では長弓は役に立たない
○モンゴルのドクトリンでは長弓は役に立たない

134日本@名無史さん:2008/01/22(火) 11:16:47
>>131
武士ってのは、馬に乗って素早く動く標的を狙って当てる騎射技術によって日本の
支配階級に伸し上がった集団だし、日本の長弓はそのために発達した弓だよ。
135TK:2008/01/22(火) 15:08:22
>>133
ソ連時代の督戦部隊・懲罰大隊が厳しかったのは事実だが、基本には国民の戦う気持ちが無ければ、
少数の管理者で管理できるものではない。多かれ少なかれどこの国民にも弱い人間はいる。そう言う
兵隊がパニックを起こし、そのパニックが全軍に伝わり、総崩れになるのが軍隊では一番怖い。
ソ連軍人が基本的に弱ければ督戦部隊・懲罰大隊だけで総崩れを抑えられるものではない。
督戦部隊・懲罰大隊だけで軍隊が強くなるなら、どの国の軍隊も強くなってるはずだ。

X草原では長弓は役に立たない<<これはその通りで訂正する。「ドクトリン」の意味が取れないので
○草原で疾走するモンゴル人相手には長弓も役に立たない

>>134
>>馬に乗って素早く動く標的を狙って当てる騎射技術によって日本の 支配階級に伸し上がった集団

これは違うだろ。「武力」によってと理解されているはずだが。それに遠くを失踪する敵にそんなに
当たるとも思えない。日本の「流鏑馬」を見る限りは、敵の近くに馬で走り寄って、槍・長刀・刀などが
届かない所からアウトレンジで攻撃し、更に走り去るヒットアンドアウェイに使ったと思うが。

何れにしろ騎馬武者が弓を持つ意味がなくなったので、ただの飾りになって、そのうちに持たなくなった。
136TK:2008/01/22(火) 19:04:35
「文永の役」はどんな状況だったとしても日本の完勝。つまり、たとえ嵐が来ていてもそれは神風ではない。

まず、鉄砲はこけおどしでしかないから、なれて実情がわかれば殆ど効果は無いだろう。大体モンゴルは
鉄砲を手で投げたのか、それともカタパルトで飛ばしたのか?。もしカタパルトで飛ばしてたならそれこそ
笑止。城砦攻撃では回回砲の威力は証明されているが、日本軍が最初から砦にでもこもって戦うとでも
思ったのかな。もし手投げ弾だったら直径15cmもの手投げ弾を投げるには砲丸投げじゃどうしようも
ないし、せいぜいハンマー投げ。重さはどのくらいか不明だが、ハンマー投げの世界記録は7.5kgを86m
くらい。有る程度ねらいを定めたところへ投げるなら50mくらい??。

弓については、日本の使節は大都でそれを見た瞬間に勝てると思ったんじゃないかな。しかし、モンゴルや
女真の遊牧民族は別にしても高麗にも長弓は無かったのかな?。更に下記要点をクリアーするのは無理だろ。

1.侵略軍の兵糧は残り一ヶ月。高麗が新たに造船を続けた様子は無いし余裕も無かったから、補給用の
予備の船が無い。つまり、日本に侵略軍を送った船を空で返して、それに兵糧を積み込んで日本へ送ら
なければいけない。という事は数日、最大限見ても10日以内に、確固たる橋頭堡、最低でも20〜30日は
持ちこたえられる橋頭堡を作らなければならない。戦況から見て無理だろう。

2.例え橋頭堡が出来て兵站も確保できる目途がついても、高麗には日本へ送る補充の部隊(最低月2万
くらいで合計20万くらい?)を用意していた様子はないし、所詮、兵の補充がきく日本軍にその間
一回でも橋頭堡を潰され全滅すれば、一からやり直しとなる。またその間に荒天でピストン輸送している
船団が壊滅的打撃を1回でも受ければ侵略軍は全滅。荒天の前に2〜3回くらいのピストン輸送で船は
使えなくなる可能性大じゃないかな。

3.食料現地調達は日本側が貯蔵食料をちょっと奥に隠せば、地理を全く知らない侵略側は見つけること
さえ不可能だろう。
137TK:2008/01/22(火) 19:08:10
弘文の役の方は文永の役ほど断定的には言えない。何せまだ14万もの侵略軍が残っている。ここで、
日本が侵略軍を追い出せたかと言うことを考える前に、如何にすれば日本の侵略が可能だったかと言う
ことを考えてみると別の見方が出来て、問題点がはっきりする。

1.まず14万の侵略軍が日本の攻撃に持ちこたえ橋頭堡を確保する。
2.兵站を確保する。
3.持久戦に持ち込む。14万で日本全土を攻略・征服は不可能。
4.九州全土を安定的に支配。
5.御家人を順次凋落、及び増援軍で占領地を広げていく。

5まで来ればもう日本は属国になるのは避けられないだろう。モンゴルの戦法は繰り返す波状攻撃、持久戦
による消耗戦だから日本が絶えられるわけが無い。まあ何処かの時点で高麗と同じような条約を結び属国と
なっただろう。ただ日本がフビライが死ぬ1294年まで相手に損害を与えつつを持ちこたえるか、一旦属国に
なってもゲリラ戦等で損害を与えつづけていれば、モンゴルの撤兵も有り得た。

4九州全土を制圧し安定的に支配できれば、もう日本の占領は7〜8割成功したも同然だろう。百姓は年貢
軽減でつり、御家人も本領安堵で釣る。その上、新領地を飴玉に使えばなびく御家人も出てきただろう。
更に、江南軍など補充し放題。当時の南宋人の人口6000万、漢人(女真族)1000万人。補充も増強も
し放題。対する日本は人口700〜800万。武家の人口を最大見積もっても6〜7%で約50万、
家族を含んでいるから男子だけで25万、そのうちの成人を2/3とすると15万。相手は増強し放題だと
消耗する一方だろう。そのうち本州で裏切る御家人などが出てきて、軟弱な朝廷は和睦をいい出す。
138TK:2008/01/22(火) 19:14:33
3蒙古軍が兵站・増兵を安定的に受けられるような九州の一角の占領は難しかっただろう。鍵は江南兵の
10万だが、どのくらい戦えたか。4まで行けば、南宋人も当然勝組みとして、日本人の土地を耕し、
又日本人を使い安定的に食にありつけるというモチベーションから蒙古に従って懸命に戦っただろうが、
まだこの時点でのモチベーションは低かっただろう。

つまり侵略軍が14万で有ろうと、実質的に蒙古側で戦いを引っ張っていかなければいけないのは、すでに
日本が実力にまさる事が証明された東路軍。と言っても江南兵も日本が弱ければ勝ち馬に乗る。そして
何より数は10万。下手をすると負けて安定的橋頭堡を作られた可能性は有る。

そうなれば、日本も兵力を集中しての本格的な戦いとなるが、日本はどのくらいの武士をここに集め
られただろうか。まあ類推にすぎないが10万くらいだろう。当然国内の全兵力を集めると言う意味では
ない。全兵力を集めれば15万くらいかな。只この数字は平時の数字であって、戦時となれば武士はもっと
増えただろう。

さて主力の戦闘力4万とモチベーションの意識の薄い10万の江南兵に対し、侵略されて危機の状態に
あるという意識があってモチベーションのある専門職としての武士10万。しかも武器は日本が優勢で
地理にも詳しい日本の方が優勢なのは間違いなかっただろう。

>>続く
139TK:2008/01/22(火) 19:15:34
3の続き
しかも、蒙古側はこの戦いで是が非でも勝とうという気は無かった。蒙古の侵略で恐ろしいのは、
波状攻撃で相手を消耗させて、最終的に勝つか降伏させるかと言うことで、弘安の役もその波状攻撃の
一環に過ぎない。だから負けても日本に損害を与えられればそれで成功と位にしか考えていなかった。

それは遅れた江南軍の到着を待たず、先に日本の侵略を開始した東路軍が押し返された時の軍議でも
わかる。食料が残り一ヶ月になったので帰ろうと言う意見が出て議論したのである。流石に江南軍が
到着してきているので、合流して戦いを続行すると言うことになったが、この議論の意味する所は
勝たずに逃げ帰ってきてもいいということである。

一方の江南軍はそうはいかなかったであろう。江南軍は棄民をかねた日本を消耗させるための捨て駒
だったから、負けても中国へ逃げ帰らせるつもりは無かったであろう。負けそうになれば主力の東路軍や
江南軍の蒙古人・女真人は引き上げさせ、残った南宋人は全滅しても痛くも痒くもないし、できうれば
残った彼らが日本になるべく大きな損失を与えてくれれば大成功と言う戦いだった。

となれば14万対10万であろうが、日本が優勢でも勝敗は時の運と言う人がいても、この弘安の役に
限ってみれば、侵略軍が九州の一角ででそこそこの安定的橋頭堡を築けたとしても、その時の勝敗に
ついてのみ述べるなら、どちらが勝ったかは明白だと思う。
140TK:2008/01/22(火) 19:21:45
2、蒙古軍の兵站の確保だが、その前に弘安の役で蒙古軍がどのくらいの兵站を持ってきたのだろうか。
東路軍は900隻で4万の兵と3か月分の兵糧を持っていたであろう事は文永の役、弘安の役で分かる。

船の大きさが同じと仮定、江南軍の3500隻の船は15万の軍隊とその3ヶ月の兵糧を運ぶ事が出来た。
実際に来た南宋軍は10万だからその差のスペースには兵糧及び武器が積んであった。運んでない5万人分
の食料は実際に来た10万人に分けられるから、1.5ヶ月分のプラス、更に、一食一合として、一合は
体積だが米の重さに直すと150gくらいだそうだから、副食も含め1日500g必要として、兵隊の体重を60k
とすると、体重分食べるのに120日でそれが5万人分だから10万人分に直せば60日で2ヶ月分。
合計は3ヶ月+1.5ヶ月+2ヶ月で六ヶ月半分。

江南軍の船はより遠くから来るため、高麗の船より大きかっただろうし、6ヵ月半よりもう少し兵糧を
積んでいて、次の年の秋の収穫時期までの兵糧を積んでいたのではと推測すれば、江南軍が種籾や農具を
携えた屯田兵だったとする考え方とも合致する。
141TK:2008/01/22(火) 19:26:10
1、さて2では江南軍の兵糧について述べたのだが、何故東路軍に必要な兵糧を考慮しないか疑問に
思われた方もおられるかも知れない。それは弘安の役で蒙古軍は東路軍には最初から三ヶ月のミッション
しか与えられていなかったと思うからだ。何故なら、当初から東路軍に当面の食料は3か月分だが、
後の分は江南軍に合わせて積んでいると言われていたら、先に日本の侵略を開始した東路軍が押し返され
た時の軍議で食料が残り一ヶ月になったので帰ろうと言う意見がでる分けが無い。一応、江南軍と
合流して兵糧の問題を解決することになったが、何か他軍に兵糧を助けてもらうと言うニュアンスが
感じられる。

つまり東路軍の食料を江南軍は積んでいなかった。当初から東路軍は陸戦隊の役目しか持っていなくて
江南軍が無事に上陸できれば彼らのミッションは終わり、帰るつもりだった。想像するに3ヶ月以内に
博多に江南軍を上陸させるための橋頭堡を築き、江南軍を安全に上陸させ、さらに出来れば江南軍が
屯田兵として耕せる土地を江南兵と一緒に確保する。

耕作地の確保に東路軍は協力はするが、東路軍は耕作地が確保できなくても最低江南軍を無事に上陸
させれば帰っただろう。あと江南軍が耕作地を確保できなくて全滅するかもしれないことは予定内の
作戦で、その間日本側に大きな損失を与えてくれれば大成功。予定地として博多がダメな場合はその場所を
壱岐とする。

ただ東路軍が壱岐でも安全に江南軍を上陸させることが出来ない事が判明し、集合場所を平戸に変え、
更に江南軍の上陸地も平戸方面に求めた。だから平戸近辺を1ヶ月もうろうろしていた、そう考えると
集合してから何故博多湾に来ず、しかも平戸から鷹島あたりでまた止まったかが説明できる。

所詮江南軍は降伏するか全滅するしかなかっと思うから、神風が吹かなくとも日本は侵略軍を撃退できた
と思うが、日本側の損失を少なくしてくれたと言う意味では神風と言ってもいいかな。
142日本@名無史さん:2008/01/22(火) 21:33:48
>>135
鎌倉時代なら騎射技術はモンゴル騎兵よりも鎌倉武士の方が上。
蒙古襲来絵詞でもモンゴル騎兵は鎌倉武士に圧倒されている。

http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e03.jpg
143日本@名無史さん:2008/01/22(火) 21:52:51
それ以前に、船じゃ騎馬軍団そんなに連れてこられないんじゃない?
一人で何頭も馬を連れて高速行軍とか
騎馬弓兵の機動力で付かず離れず射撃の雨とか
元寇に限って言えば、そういう事をできる土台が無さそうな。
指揮官以外歩兵とかじゃない?
144TK:2008/01/22(火) 21:57:23
>>142
モンゴル相撲の横綱が日本に来て日本相撲で日本の横綱に勝てると思うか?。

日本の横綱がモンゴルに行ってモンゴル相撲でモンゴルの横綱に勝てると思うか?。
145日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:03:25
>>144
現実に元寇で圧勝したじゃん
146TK:2008/01/22(火) 22:33:06
>>145
だから、日本では日本の横綱がモンゴルの横綱より強いように、騎馬軍団も日本が強い。

日本のような山あり谷ありの、しかも湿地が多く、泥田や石だらけの土地では頑強な
馬に乗って重装備の日本の騎馬軍団の方が強い。

モンゴルの乾燥した地平線まで見渡せるような草原では日本の重装備の騎馬軍団は
軽装備でも機動力抜群のモンゴルの騎兵軍団が強い。
147133:2008/01/22(火) 22:55:24
>135
>ソ連時代の督戦部隊・懲罰大隊が厳しかったのは事実だが、基本には国民の戦う気持ちが無ければ(ry
戦う気持ちの全く無い部隊が督戦部隊・懲罰大隊の対象のわけだが?

>多かれ少なかれどこの国民にも弱い人間はいる。そう言う兵隊がパニックを起こし(ry
何時の時代のどの国の話をしているのか不明

>ソ連軍人が基本的に弱ければ督戦部隊・懲罰大隊だけで総崩れを抑えられるものではない。
督戦部隊や懲罰大隊に関する知識が全く無いということだけは理解できた

>草原で疾走するモンゴル人相手には長弓も役に立たない
意味不明



>136以降は読んでないがどうせ読む価値もない駄文だろう(苦笑
148日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:07:56
>>146
モンゴル軍がそんな局地専用の軍隊だったら、あんなに沢山の国を征服できるわけない。
東欧や中国みたいな山あり谷ありの、しかも湿地が多く、泥田や石だらけの土地でも普通に
強かったでしょ。
149日本@名無史さん:2008/01/23(水) 00:33:19

勉強不足
150日本@名無史さん:2008/01/23(水) 01:28:37
結局、土地のせいだなんてのは単なる言い訳。
組織力などで鎌倉武士に劣るモンゴル軍が元寇で大敗したのは当然の結果。
151TK:2008/01/24(木) 08:43:04
>>147
督戦部隊や懲罰大隊などよく知らないよ。詳しく調べるつもりも無いし、文字から類推して書いたのです。
大体、私の>>131 に対しての君の最初の >>133 自体、ピントがずれてる。返答し様か迷ったくらいです。

もしロシアの陸軍が強いのは督戦部隊や懲罰大隊のせいだと本気で思ってるのなら、全くお話にならないね。
ほんの少しの例をもって全体を計るなど愚かとしか思えないが?。しかし、もしそれでもロシア陸軍が強い
のは督戦部隊や懲罰大隊のせいだと主張したいのなら、過去の戦いにおいて如何に督戦部隊や懲罰大隊が
活躍したかを示してからにしてくれ。そうすれば私も納得して持論を変えるが。

大体ロシア陸軍の強さは、攻撃の強さじゃない。変な言い方だが、ロシア軍は個々の会戦で負ける強さと
でも言えばいいのかな。負けても決定打を相手に討たせず、相手が必死で追いかけても、それ以上の速さで
撤退する。そして相手を引き込み、気候まで応用して、相手が弱ったところで反撃する。そして勝ち筋に
乗れば相手を打ちのめす。

歴史を見ればロシアの強さは分かるだろ。一時的にモスクワを占領されようが、モスクワのすぐ側まで
攻め込まれようが、建国以来ロシアの領土は拡張の一途だった。そのロシア陸軍の強さに督戦部隊や
懲罰大隊がどう関与したか示して欲しいものだね。

>>136以降は読んでないがどうせ読む価値もない駄文だろう(苦笑
私も君には無駄だと思うよ。読んでもその意味するところは理解でき無いと思う。それに比べ >>148
反論は、誰かが指摘したように、確かに勉強不足だと思うが、真髄はついている。勉強不足は勉強すれば
いいだけなんだが・・・(笑。
152日本@名無史さん:2008/01/24(木) 10:26:46
映画スターリングラードだったかを見た時のソ連軍の脱走兵や退却兵にたいする対応はすごかったです。
退却してくる自軍の兵に機関銃を乱射ですから。あ。れみてると、とくせん部隊や懲罰大隊のすごさは想像以上でしょうね
153日本@名無史さん:2008/01/24(木) 10:29:12
元寇の時代のロシアは弱かったよね
モンゴル軍にあっさりと征服されちゃった
154日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:50:22
>>147
あまりにも>>135に良心的な受け答えだ
あほは、スルーでおk
155日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:06:15
>>153
そもそもロシアという国自体が存在しなかった。
当時ロシアはノヴゴロドやキエフにちょこちょこと小規模な豪族がいたぐらい。
そんな状況でモンゴルに大軍でこられちゃフルボッコにされて当たり前。
156日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:08:13
ロシアが大国になるのはタタールのくびきを脱却し、イワン雷帝が現れる頃まで待たねばならない。
157日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:16:19
この時代にモンゴル軍を撃退できる程の実力を持った統一国家の日本は、
世界でもかなり進んだ国だったということ
158日本@名無史さん:2008/01/27(日) 09:37:35
モンゴルにしても船の数分しか兵を運べないからなあw
159日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:08:33
>>158
この時代、船舶の輸送力は馬や人の力頼みの陸運よりも圧倒的に大きいから。
弘安の役の兵14万ってのはモンゴル軍の他の侵攻作戦と比較してもかなりの規模。
160日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:16:14
>>159
それでも船の数しか運べないし、一時撤退とか即時増援もできないし。
161日本@名無史さん:2008/01/27(日) 17:28:08
>>160
弘安の役の元軍の船の数は3500艘もあったし。
3ヶ月間補給無しで戦える量の兵糧も積み込んでた。
例えば、モンゴル軍の中東遠征は世界史で有名だけど、総兵力は4万程度で
モンゴルにとっては弘安の役よりも遥かに規模の小さな作戦なのだ。
162日本@名無史さん:2008/01/28(月) 09:37:56
いつもの相撲爺はもうここくんのに飽きたみたいだね
163日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:56:11
そりゃ南宋を制した後なら、船も人員もいくらでもあったでしょうな。
ただ中東やらに比べたら、日本の人口密度はdでもなかっただろう・・・・
164日本@名無史さん:2008/02/08(金) 19:08:48
日本は大した資源も無いのに無駄に兵だけは強いからな
攻めるだけ損
165日本@名無史さん:2008/02/08(金) 19:20:14
おかげで、秀吉、家康と国民の武装解除に偉い苦労したもんなあ
本来なら、兵隊でしか食っていけない連中の糊口をしのぐため
戦続けなきゃならんところだ。
166日本@名無史さん:2008/02/10(日) 10:16:26
秀吉の刀狩、家康の武士と農民の分離政策によって、農民(武士と農民の区別がつかない連中)の武装解除が完了された、
という説が一般的だが、実は江戸時代の農民も多大な武装を隠し持っていたいう説もある。
刀槍類は言うに及ばず、鉄砲火薬類も地方の富裕な農民は蔵に普通に保有していた。

お上が強烈に農民の武装を解除したというよりも、どうやら農民が自主的に武装を解除してみせた、
というのが実情らしい。お上もあまり突っ込んで取り上げるようなことをした形跡がないという。
武器を蓄えるほどの農民は農作業に取り組んで益を得ることにそれほど抵抗感がなかったようだ。
167日本@名無史さん:2008/02/12(火) 13:06:34
家康は(それ以降の為政者も)国民の”心”を攻めたということでしょうか
武装解除には大なり小なり血が流れるもの。
米の武装解除はいつのことになるのかな
168日本@名無史さん:2008/02/12(火) 13:20:38
モンゴルの歴史研究家・斉藤俊一(モンゴル在住)です。
[email protected] 
ぜひ歴史認識のご意見をお願いします。
モンゴル政府の歴史管轄機関に伝えていきます。
169ななしさん:2008/03/09(日) 00:02:04
>98に対する日本からの返答ってどんなんだっけ?w
170日本@名無史さん:2008/03/09(日) 01:54:33
>>1 二度とも台風シーズンを知らずに来たのがモンゴルの失敗だったな。シナ、
朝鮮も台風シーズンを経験的に知っていたはずだが、フビライに進言する者がいなか
ったのだろうか?
171日本@名無史さん:2008/03/10(月) 07:28:37
>>170
モンゴル軍が来たのは二度とも台風シーズンではない。
一度目の文永の役は新暦だと11月下旬で、台風なんて考えられない時期。
モンゴル軍は普通に戦闘で鎌倉武士に負けて逃げ帰った。

二度目の弘安の役もわざわざ台風シーズンを避けて6月に日本に来たんだけど
博多であっさりと撃退され、その後2ヶ月間も鎌倉武士の猛攻から九州近海を
逃げ回っていたため台風シーズンになってしまった。
172日本@名無史さん:2008/03/10(月) 09:17:21
>>170
ユーラシア大陸の大半を征服したモンゴルはそんな軍事音痴ではない。
わざわざ相手国の気象も何も考えず侵略するような阿呆な国があれだけの大帝国を建設できるわけなどない。
173日本@名無史さん:2008/03/10(月) 09:25:41
>>172
海のことは良く知らなかったのでは?
横綱の白鳳が、魚を食べるのを見て卒倒した、ということですが…

とにかく、日本の歴史ってホメロス以上に劇的ですよね。
これが御伽話ではなく、実際にあった話なんですから…。
当時は、神風を呼び込んだ亀山天皇と延暦寺は
とてつもない神通力を持った寺、と映ったでしょうね。
だからそれを焼いた信長は魔神に見えたはず…
174日本@名無史さん:2008/03/10(月) 09:40:53
>>173
何も劇的なことなどない。
普通に戦って勝った。
ただそれだけ。
175日本@名無史さん:2008/03/10(月) 10:36:45
元寇について戦後の歴史学者たちの言ってることが大嘘だってことは、
日付を確認するだけで簡単に分かること。

文永の役で元軍が博多に到着したのは旧暦の10月20日。
これは新暦だと11月26日。
こんな時期に台風が来るわけない。

弘安の役で元軍が博多に到着したのは6月6日。
台風に遭遇したのはそれから2ヵ月後の8月1日で、沈没した元艦隊の残骸は
博多から遠く離れた鷹島沖の海底に眠ってる。
元軍は2ヶ月間も何をしていたの?
何で博多から遠ざかってるの?

元軍は戦闘で日本軍に負けたんだよ。
176日本@名無史さん:2008/03/10(月) 20:27:00
14万の軍勢で攻めてきて、あっさり逃げ帰ったら、後が怖いよなw
177日本@名無史さん:2008/03/11(火) 05:59:33
>>170
「朝鮮は日本を助けるためにわざと台風の時期に攻めるよう進言した」と
高校時代のバカ教師はヌカしてたなー
他にも「中国・朝鮮はいい人、日本は悪人」と電波飛ばしまくりだったなぁあいつは
こんな奴が高校教師になれるんだからどうかしてるよ世の中
178日本@名無史さん:2008/03/11(火) 06:39:23
> モンゴル軍の中東遠征は世界史で有名だけど、総兵力は4万程度
嘘をついてはいかん。
179日本@名無史さん:2008/03/11(火) 20:44:41
>>177 それはいつ頃の話ですか?60年代、70年代ならまだそういうのがいましたが。

 我が高校の日本史教師はその点、時代から浮いていた右翼教師だったな。

 大学の経済原論教授も狂信的に近い右翼人だったし。
180日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:11:49
>>179
俺は70年代後半〜80年代前半にかけて中学高校を過ごした。
中学時代の社会科教師は決して左翼的ではなかった。
明治維新後の廃藩置県だって徳川政権では簡単に出来なかったろうが天皇の治世になったから大きな混乱もなく中央集権がスムーズにいったと言ってた。

そんな教師でも元寇では、
集団戦術に一騎打ちを挑んだ鎌倉武士は苦しめられた。
高麗がモンゴルに抵抗するためわざとお粗末な船を作った。etc
などと教えられた。
181日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:55:05
>>178
純粋なモンゴル軍は少数だよ。
モンゴル人は他民族を使うのが上手いんだ。
結局元寇はフビライによる朝鮮人や南宋人に対する厄介払いの意味合いが強かったと思うよ。
成功すれば儲けもの。
失敗しても死ぬのは朝鮮人と南宋人。
反乱の芽を摘むには最高の戦略じゃね?
182日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:11:38
>>181
モンゴル人に限らず征服した異民族をうまく使える国が大帝国を築けるんだよ。
オスマントルコの軍事の中核イエニチェリだってトルコ人ではなくヨーロッパ人。
戦争に敗北すれば帝国の権威をが失墜しそれこそ次々と反乱の火の手が上がる。
ナショナリズムがまだ存在しなかった時代異民族に支配されたくらいでやたらと反乱などするわけでもない。
よっぽど過酷な支配でも受けなければ。
無意味に殺すだけならモンゴルはそれこそジンギス=ハーンの時代に散々やってきた。
しかしジンギス=ハーンは名臣耶律楚材の建言を入れて制服した民族をやたらと殺さず有効に活用するように方針を変えた。
元には漢民族の高官だってたくさんいた。

元寇というのは歴戦の勇将たちによって日本征服を綿密に計画実行され、しかし日本の武士はより強かったし日本にはそれなりの国力(兵力と武器の優秀さ)がったからモンゴル軍は負けた。
そういう戦争です。
183日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:46:53
>>180
高麗がわざと脆い船を作ったはよく聞くけど、実際問題として高麗軍も日本遠征に動員されている
からそんなことは自分で自分のくびを占めるような行為だもんな
184武陽隠士 :2008/03/12(水) 00:30:21
>>日本の武士はより強かったし
>>日本にはそれなりの国力(兵力と武器の優秀さ)が
>>あったからモンゴル軍は負けた。

おまえみたいな低脳が戦前の日本を謝らせたんだよ…!
亀山天皇が叡山にこもり祈祷により神風を招来したことは
厳然たる日本史の事実だろーが?
それは偶然なんかじゃなく、中世では必然と捉えられたんだよ…!
だからこそ叡山を焼いた織田信長が恐れられたんだろ?

どうしてモンゴル軍の強さを認めない…?
どうしてそのモンゴルを葬った神風の神秘を認めない…?
日本人の実力を過大評価する時代錯誤野郎ッ!
このスレから出て歴史のゴミ処理場へ逝けッ!
185日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:38:08
>>183
ディスカバリーチャンネルで元寇の特集を半年くらい前にやったが、その時は、
造船の工期が短かったので、本来十分乾燥させた木材で船体を組むのに、
伐採して製材したばかりの木材を使ったことと、船の数を揃える為に喫水の
浅い内陸河川用の船まで徴発したことが原因ととりわけサボタージュで脆い
船を作ったとは分析してなかったな。
186日本@名無史さん:2008/03/12(水) 05:01:24
>>184
神風なんて厳然たる日本史の事実なんかじゃない。
鎌倉武士は赤子の手をねじるようにモンゴル軍に圧勝したというのが事実。
187日本@名無史さん:2008/03/12(水) 05:44:02
>>181
まず「純粋なモンゴル軍」という言い方が漠然とし過ぎていてそもそも良く分からん。

千戸制からなるテュルク・モンゴル系の遊牧騎馬戦士からなる「騎馬軍団」とその他の「歩兵部隊」
の別があったことは間違い無いが、「純粋なモンゴル軍」とやらがこのチンギス・カンやそれ以降の
モンゴル皇帝や諸王家のもと千戸体制によって編成された正規のテュルク・モンゴル系の「騎馬軍団」
のことを指すのか、何かナイマンやオイラトのようなテュルク系を除いた、チンギスの属すキヤト氏族や
コンギラト部族をはじめとするモンゴル諸部族からなる「部族的集団」としての来歴が分かっている
モンゴル軍のことを言っているのか分からない言い方だ。
(後者がモンゴル帝国の軍制からしてどれだけ実体が分かるものなのかは謎だが)

188日本@名無史さん:2008/03/12(水) 05:48:43
>187の続き。
>161
> モンゴル軍の中東遠征は世界史で有名だけど、総兵力は4万程度
初耳。
ホラズムシャー朝のアラーウッディーン追捕のためジェベとスベエデイが各々1万騎を率いて派遣され、
イラン中北部でアラーウッディーンの軍を撃破したものの取り逃がし、そのまま北上してアルメニア
王国軍やグルジア王国軍とも遭遇戦になってこれも撃破したことは知られているが、「4万」とは?

その後イランに駐留したチョルマグン旗下のイラン鎮守軍も2〜3万騎だったと言うし、フレグの
遠征軍は、アムダリヤ川以西の諸軍を統括するよう兄の皇帝モンケの勅命によってカシュミール鎮守軍
公称2万騎と、チョルマグンを継いだバイジュのイラン鎮守軍3万、フレグ本軍の実数は良く分からないが、
前衛軍でアイン・ジャールートの戦いで戦死したキトブカ旗下の軍勢が1万2000、この段階で「4万」を
とうに越えている。これにアルメニア王国軍だったと思うが「騎兵1万5000人と歩兵1万5000人」、
さらにグルジア王国軍やファールスのサルグル朝、ケルマーンのカラヒタイ朝、ルーム・セルジューク朝
その他の諸軍が、フレグがアムダリヤを渡った後に皇帝モンケの勅を奉じてフレグに帰順し、遠征軍に
加わったらしいから、いづれも「モンゴル軍の中東遠征」での「総兵力は4万」には当て嵌まらない。

誰が率いたモンゴル軍のことを指して「中東遠征」で「総兵力は4万」と言っているのか正直思い付かない。

> モンゴル人は他民族を使うのが上手いんだ。
これはどうにも某杉山先生あたりの言い回しを半可に理解している感が否めないのだが、文永弘安の役の話は
置くとして、モンゴル帝国軍全体の話をするなら、ムック本に出てくるような在り来たりな文言をそのまま
書くのではなくて、もう少し史料や研究史を踏まえた情報でもって話をすべきだと思うんだ。
189日本@名無史さん:2008/03/12(水) 15:50:44
チョルマグンを継いだバイジュは、イランをフレグに明渡すようにモンケに命じられて、
フレグの遠征の時は代替地を求めて小アジアへ遠征してなかったか?
190日本@名無史さん:2008/03/12(水) 18:12:33
ふむ
191日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:17:47
元寇とはクビライが思いつきで始め、その後意地になって進めたけど上手くいくはずが無かった。

適当に編成された元軍に対して、質も量も圧倒的に上の日本軍が勝つのは理の当然。日本海海戦もそうだったけど「 勝兵は先ず勝ちて、しかる後に
戦いを求め」を実行していた。

それを日本武士が勇猛で優秀だからとか神風だとかいうことに変換するからおかしくなってくる。
192日本@名無史さん:2008/03/12(水) 21:49:28
モンゴル側では遠征失敗の責任とって処刑された政府高官とかいたの?
193日本@名無史さん:2008/03/13(木) 19:33:36
勝てたのは高麗のおかげとかチョンが言ってるってマジ?
194武陽隠士:2008/03/14(金) 01:43:24
どれだけ罵っても神風の威光は揺るがないね...
195日本@名無史さん:2008/03/14(金) 08:52:15
神風とか馬鹿なことを言ってると昔の日本人に笑われちゃうよ。

頼山陽の『蒙古来』  

筑海颶氣連天K、   (筑海の颶気、天に連なって黒し)
蔽海而來者何賊。   (海を蔽うて来る者は何の賊ぞ)
蒙古來 來自北、   (蒙古来る 北より来る)
東西次第期呑食。   (東西、次第に呑食を期す)
嚇得趙家老寡婦、   (趙家(南宋)の老寡婦を嚇し得て)
持此來擬男兒國。   (此を持して来り擬す男児の国)
相模太カ膽如甕、   (相模太郎、膽甕の如し)
防海將士人各力。   (防海の将士人各力む)
蒙古來 吾不怖、   (蒙古来る、吾は怖れず)
吾怖關東令如山。   (吾は怖る関東(鎌倉幕府)の令山の如きを)
直前斫賊不許顧、   (直前、敵を斫って、顧みるを許さず)
倒吾檣 登虜艦。   (吾が檣を倒して虜艦に登り)
擒虜將 吾軍喊。   (虜将を擒にして吾が軍喊す)
可恨東風一驅附大濤  (恨む可し東風一驅大濤に附し)
不使羶血盡膏日本刀。 (羶血をして尽く日本刀に膏らしめざりしを)

そんなものに威光なんかない。
武士にとっては邪魔なだけの「恨む可し東風」。
196日本@名無史さん:2008/03/14(金) 22:39:43
少なくとも「弘安の役」では、旧南宋の軍が勝ってくれればよし、
負けて死んでくれても困らない、というのが本音だろう。
軍人を武装解除したところで厄介者でしかないのは、中国の
歴史の示すところ。死んでくれるのが一番面倒がない。
197日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:16:10
>>196
旧南宋兵を殺したいなら南宋滅亡させたときに皆殺しにしてるよ。
公安の役のときは日本に派遣した使者さえ殺されてるし、しかも征東行省なんて対日本戦争の役所まで作ってるくらいなのに負け戦になったら帝国の威信に拘るでしょ。
元に降伏を勧められても頑として受け入れず自ら刑死を望んだ文天祥が讃えられているのは逆に見ればその手の忠誠心を持った武将が少ないから。
むしろ南路軍司令官だった范文虎は自身が南宋で名将と言われただけに忻都と功を競う意気込みだった。
しかし台風で艦隊転覆後、将兵をおいて先に逃げ帰ったことがフビライに知られ激怒したフビライに斬首された。
実際公安の役の敗戦後元では反乱ふが相次いで起き始めた。
公安の役は文永の役以上に元は意気込みそして熱意を持って取り組んだ戦争だった。
198日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:22:06
>>195
そのとおり!!
199日本@名無史さん:2008/03/15(土) 02:52:34

エリザベスにも、
神風が吹いた?
ー無敵艦隊撃破ー

200日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:41:37
ちょっと流れぶった切ってしまうんだけど、
福岡の東公園のところにある元寇史料館って中身どんな感じですか?

土日しかやってないとかで前福岡行ったときは入れなかったんだけど、
日蓮系の寺?の敷地内にあるいささか変なところのようなので、
隣県から見に行く価値があるようなところのかなと気になっています。
201日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:49:06
やまのはなし?
202日本@名無史さん:2008/03/16(日) 00:50:17
>>199
キリスト教徒同士の戦いなので、神様は依怙贔屓はしません
203日本@名無史さん:2008/03/16(日) 14:17:32
でもカトリックとプロテスタントの違いが(ry
204日本@名無史さん:2008/03/16(日) 19:24:16
でも、おお元は一緒だしw

それはそうと、ちゃんと鎌倉武士が実力でモンゴルを追い払った
って書かれた本とか、研究して本とか出している人とかいるんでしょうか?
205日本@名無史さん:2008/03/16(日) 21:58:25
>旧南宋兵を殺したいなら南宋滅亡させたときに皆殺しにしてるよ

うおいっ!めちゃくちゃ言ってるな。いくらなんでも皆殺しなんて出来るわけ無いだろ。
あくまで「殺したくて殺したんじゃないよ」という理由付けのためってことだろ。
206日本@名無史さん:2008/03/17(月) 07:31:28
>>205
江南艦隊の全滅は元にとって大打撃だよ。
お陰でその後の東南アジアには小規模な艦隊しか送れなかった。
ベトナムもインドネシアも日本には感謝するべき。
207日本@名無史さん:2008/03/17(月) 09:23:14
昔から軍事関係の人が書いた本では、ちゃんと鎌倉武士が実力でモンゴルを追い払った
って書かれていたよ。
最近だと松村劭の「海から見た日本の防衛」とか。
歴史研究者の書いてることって軍事的には滅茶苦茶なことが多いからね。
208日本@名無史さん:2008/03/17(月) 09:24:12
>>207>>204へのレスね
209204:2008/03/17(月) 18:16:08
ありがとうございます。
今度、読んでみます。
210日本@名無史さん:2008/03/18(火) 16:16:46
自衛隊とか傭兵とかそんなんだった人はちゃんと「鎌倉武士の実力勝ち」って評価してるお
211日本@名無史さん:2008/03/18(火) 19:46:46
そうそう。憲法9条なんて観念論では平和は守れないのよ。
212日本@名無史さん:2008/03/18(火) 23:16:36
けど憲法9条にはアメリカがついているわけですよ。
吉田茂や岸信介以来の自民党捕手本流はは名を売って実をとってきたわけです。
213日本@名無史さん:2008/03/18(火) 23:45:21
憲法9条は2条だけ削れば桶。

そういやぁ、時宗はモンゴル軍を日本海大海戦よろしく、洋上で撃破しようと
考えて立ってほんとうかしら?
214日本@名無史さん:2008/03/20(木) 02:10:01
鎌倉武士の戦闘で誤解されているのは、一騎打ちで接近戦を挑んだということ。
源平合戦のときから、武士は先ずはお互いに矢を射ち合ってそれで相手の陣が
乱れたと見た時に接近戦に移った。鎌倉武士も上陸してきた元軍に当然猛烈に
矢を射掛けたから、元軍も矢を射返したし飛び道具を使った。だから、文永の役
では一日の戦闘で矢を使い尽くして、引き上げることになった。一騎打ちで接近戦
ばかり挑んでくるなら、それこそ取り囲んで槍襖で串刺しにすればいいから、矢を
乱射する必要もない。
215日本@名無史さん:2008/03/30(日) 04:46:18
高橋克彦は小説で「南宋を包囲するために、貿易国であった日本を先に攻めた」といってたが、日本一国をせめても南宋の国力に影響しないと思うんですけど..
216日本@名無史さん:2008/03/30(日) 07:14:21
日本を占領して包囲網作っても意味ないよなw
217日本@名無史さん:2008/03/30(日) 09:26:28
元軍は日本の御得意芸夜襲ゲリラ戦に負けたんだよ。
陸上でも、海上でも。
陸上では、各個破壊の小集団夜襲ゲリラの餌食に、
海上では、船団を常に移動させていないと小船夜襲ゲリラの餌食になる。
元軍は夜も眠れず内部崩壊したんだよ。

台風なんか来なかった。温帯性低気圧は通過しただろうが。
218日本@名無史さん:2008/03/30(日) 10:06:24
NHK番組で白石一郎は、文永の役は台風ではなく三角波なるものによって船は沈んだ、と言っていました。
疑問@本当に文永の役では台風は来なかったのか?もし来ていたら「台風が来た」と記録に残っているはずだが。
A三角波はそれほど強力な波なのか?ナホトカ号なるロシア船は沈んだらしいけど。
B文永の役での実際の元・高麗の被害はどれほどだったのか?
219日本@名無史さん:2008/03/30(日) 10:27:43
しかし、なんで元軍は夜になると船に帰っていったんだろうね。
野営すればいいのに・・・
220217 九州王朝大好き:2008/03/30(日) 10:55:16
>>218
>@本当に文永の役では台風は来なかったのか?もし来ていたら「台風が来た」と記録に残っているはずだが。

台風シーズンが過ぎているので、台風は来なかったと思う。
温帯性低気圧による三角波しかありえない。


>A三角波はそれほど強力な波なのか?ナホトカ号なるロシア船は沈んだらしいけど。

三角波は、海流の方向と風の方向が90°ずれている時に最大となる。
海峡などで海流が速いと風速がそれほどでなくても、白波が立つ。
沿岸の海流の速いところでは、100d位までの木造船では波に翻弄され、沈没もありうる。

子供の頃明石海峡で500dの客船で三角波による船酔いになったことがある。
その10年後、その同じ船に小型台風の時に大島-伊東間で乗り合わせ、やはり船酔いをおこした。
僕はあまり船酔いはしないほうなんですが。


>B文永の役での実際の元・高麗の被害はどれほどだったのか?

大したことはなかったと思う。
それよりも大きい被害は、長期の船上生活による兵士の疲弊だったと思う。
221217 九州王朝大好き:2008/03/30(日) 11:00:10
>>219
>しかし、なんで元軍は夜になると船に帰っていったんだろうね。
>野営すればいいのに・・・

野営すれば、日本武士団の夜襲ゲリラに翻弄されて、夜も寝られない。
222217 九州王朝大好き:2008/03/30(日) 11:02:50
>>220の修正
×500dの客船
○300dの客船
223日本@名無史さん:2008/03/30(日) 13:25:22
>>220さん、ありがとうございます!
やはり文永の役では台風は来なかったんですかね。
子供向けの歴史本では台風があったと書いていたので、僕は長い間台風のおかげだと思っていました。
なお、韓国の教科書や歴史漫画本では「日本が勝ったのは二度とも台風のおかげ」とあっさりかいていて不快でした。日本の独立のために戦った英霊を侮辱してるのでは!(別に僕は右翼ではないけど)
224日本@名無史さん:2008/03/30(日) 13:37:24
韓国なら別にまあ外国のことだからそれでもかまわんが
日本の教科書にそう書いてあんのが問題なんだよな。
225日本@名無史さん:2008/03/30(日) 17:43:33
高麗の国王(忠烈王)がクビライに日本出兵を進言したらしいけど、ただでさえ元との戦いで国力疲労していたのに何故再出兵なんか進言したんだろう?
いわゆるゴマすり?確か当時の高麗は武臣が国王から政権を奪ったから、国王は政権回復のために元と手を組んだので借りがあるからか?
226日本@名無史さん:2008/04/01(火) 10:26:23
>>219
元軍は鎌倉武士の集団戦法にまったく歯が立たなかったからな。
高麗史に、モンゴル軍の将軍が「このままでは全滅だから撤退するしかない」と
言って乗船し、帰路についた所で暴風雨に遭ったと書いてある。
227日本@名無史さん:2008/04/07(月) 08:25:14
         ハ,,ハ  
        ('(゚∀゚∩_ おいらをどこかのスレに送って!
      /ヽ   〈/\ お別れの時にはお土産を持たせてね!
     /| ̄ ̄ ̄|.\/
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228日本@名無史さん:2008/04/15(火) 16:15:22
つ違法CD
229日本@名無史さん:2008/04/16(水) 01:07:56
ダライラマの半生を描いた映画「クンドゥン」のラストシーン
決死のヒマラヤ越えを経て、ようやくインド国境にたどりつく場面。

護衛の人たちが無事を見届け、再び戦うためにチベットへ戻っていく。
その姿に、彼らの悲壮な死のビジョンを見るダライラマが、ただただ彼らの
ために合掌するシーンは切腹の歴史持つ日本人なら理解できるはず。

日本語字幕はありませんが、音楽・映像も素晴らしいので、ぜひこの9分間のラスト
シーンだけでも見てください。
http://jp.youtube.com/watch?v=MjH25m5vffg
230日本@名無史さん:2008/04/16(水) 19:47:56
>>225
忠烈王は父王の元宗と違ってイケイケだよな
元宗は「日本とは交流がない、服従の使者を出すだけ無駄」とか
ものすごく消極的な態度なのに
やっぱり忠烈王は若い頃から元で暮らしていたから元人に対する拒否感がなかったのではないか

小説を書くとしたらこんな筋立て
戦争や軍事を厭わしく思っていた老王・元宗と対照的に
モンゴル流の苛烈でドライな軍人気風をたたき込まれた若い忠烈王
父王元宗はモンゴルに対してすごく屈辱感を抱いていたから元軍を利用するという発想はなかった
ところが息子の忠烈王は元軍を上手く自分の権力維持に利用しようと考え実行した

フビライの目的は南宋兵の始末で、それを忠烈王はすでに承知しており
遠征で元や高麗の兵士が損害を受けることは少ないだろうともわかっていた
だからこそ自ら名乗りを上げて、どうぞ我が国に元軍を派遣してくれ、と言った
どうぞ日本へ攻め込んで下さい、人員も船も駐屯地も用意します、と
とにかく自分の膝元に自分を擁護する元軍がいればいいわけだから
日本遠征が失敗しようが成功しようが皇帝の威信が傷つこうが知ったこっちゃない
(失敗すれば失敗したで「日本からの反攻のおそれがあるから」
 という名目で元軍を首都や半島南部に常駐しておけるかもしれない)
果ては遠征によって元が疲弊すれば、それに乗じて高麗の自治権を強化できる
そんな野心さえいだいていたかもしれない

俺の考えでは元も高麗も実際のところ日本への遠征はさほど本気ではなかった
そもそも日本が海を渡って大陸へ攻め込むことなどあり得ない
ただ元「南宋兵を始末する」高麗「自分の王権を確保する」ためだけに兵を捨て石にした
そんな日本と南宋兵だけが犠牲になる(予定の)遠征ではなかったか、と・・・
231日本@名無史さん:2008/04/16(水) 19:53:00
■「歴史問題、永遠に言い続けよ」江沢民氏、会議で指示

 【北京=藤野彰】中国の江沢民・前国家主席(前共産党総書記)が在任中の1998年8月、
在外大使ら外交当局者を一堂に集めた会議の席上、「日本に対しては歴史問題を永遠に言
い続けなければならない」と指示し、事実上、歴史問題を対日外交圧力の重要カードと位置
付けていたことが、中国で10日発売された「江沢民文選」の記述で明らかになった。

 中国は胡錦濤政権に移行した後も一貫して歴史問題を武器に対日圧力をかけ続けており、
江氏の指針が現在も継承されているとすれば、歴史問題をめぐる中国の対日姿勢には今後
も大きな変化が期待できないことになりそうだ。

 同文選(全3巻)は江氏の論文、演説などを集大成したもので、これまで未公開だった重要
文献を多数収録。江氏は同年8月28日に招集した在外使節会議で国際情勢について演説、
この中で対日関係に言及し、歴史問題の扱いをめぐる指針を示した。

 それによると、江氏は「日本の軍国主義者は極めて残忍で、(戦時中の)中国の死傷者は
3500万人にも上った。戦後も日本の軍国主義はまだ徹底的に清算されていない。軍国主
義思想で頭が一杯の連中はなお存在している。我々はずっと警戒しなければならない」と述
べ、日本の軍国主義はなお健在との認識を表明した。

 さらに、台湾問題との関連で「日本は台湾を自らの『不沈空母』と見なしている」と批判、「日
本に対しては、台湾問題をとことん言い続けるとともに、歴史問題を終始強調し、しかも永遠
に言い続けなければならない」と指示した。

 江氏は同会議の3か月後の同年11月に日本を訪問。滞在期間中は歴史問題を再三とり
あげ、強硬姿勢を印象付けた。

(2006年8月10日19時35分 読売新聞)
232日本@名無史さん:2008/04/16(水) 20:00:51
元志巻一二八・相威伝に曰く「士卒を喪うこと十の六、七」
同巻一二九・阿塔海伝に曰く「師を喪うこと十の七、八」
東路軍四万・江南軍十万の計十四万のうち七割を喪ったとすれば
およそ十万弱・・・
「八月、諸将未だ敵を見ざるに、全師を喪って以って還る」
もしかしてこれらの記述は最初から予定されていた内容で
日本と戦っても戦わなくても最初から「このように書かれること」が決まっていたのではないか??


…という内容の陰謀小説が書けないかな

まあその後に「九日、八角島に至り、ことごとく蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりと謂い殺さずして之を奴とす」
って記述がちゃんとあるから「死んだ十万人はみな南宋兵でした」っていうことにはできないから
元志読まれただけで瓦解しちゃう設定だけどね
233日本@名無史さん:2008/04/16(水) 20:29:18
>>131
>日本はどうだろう。逃げる所などどこにも無い。勝たなければ死ぬ。負けても死ぬ。突撃ィー!。

看羊録にいわく
「『なぜ、あなた方日本の武士はまるで死を望むかのように突撃するのか?』と訊いた」
「答えはこうだった。『俺たちは主からの俸禄が全てだ。主が死ねば死ぬしかねぇ。逃げる奴を雇う主もいねぇ。
 だが死を恐れずに突っ込む奴は金をもらえる。だったら突っ込むしかないだろ?』」
「『わかるか?俺たちが突撃するのは誰のためでもありゃしねぇ、自分のためさ』」
「つまり、倭兵が残忍で凶猛な兵であるとしたら、それはこういう軍事制度によるものなのだ」

234日本@名無史さん:2008/04/23(水) 00:47:23
元寇で元軍が弱いとバレてしまって以来、中国を訪れる日本の商人も強気になって、
気に喰わないことがあると城下町一つ焼きの原にしたりもしたらしい。
お陰で元は日本の商船が入港するたびに軍勢動員して、恐る恐る交易を監視したん
だってさ。

『元史』(巻184)王克敬伝
「延祐四(1317)年、四明に往って、倭人の互市(交易)を監する。これより先に、
往って監する者は外夷の情の測られないのを懼れて、必ず厳兵して自衛し、大敵を
待つがごとし。」

日本の商人が元軍にとっては大敵w
235九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/23(水) 17:28:04
相手が強いと商人、
相手が弱いと海賊、
これ古今東西普遍則。

極東最古の記録は後漢期の挹婁(北朝鮮)。
236日本@名無史さん:2008/04/23(水) 17:58:08
つまり日本の商人がやりたい放題だったのは元軍が弱いからということだろ
237日本@名無史さん:2008/04/24(木) 03:09:01
>>1
運でも実力でもなく、どう見ても法則の発動です
ありがとうごじゃいました
238日本@名無史さん:2008/04/24(木) 17:34:34
これ以降日本海では元寇ならぬ倭寇が幅きかせてたもんな
元寇は元の皇帝が送り込んだ国家軍だったが
倭寇はただの私的交易、ときどき海賊まがいのこともするただの民間人
239日本@名無史さん:2008/04/24(木) 17:44:08
元寇以降中国人の日本観は一転するんだよね。
何しろ中国を征服した強いはずのモンゴル軍が、日本軍相手では逆にフルボッコにされたんだから。
日本は中国にとってアンタッチャブルな存在になる。
明の朱元璋がビビッたのも当然。
240日本@名無史さん:2008/04/24(木) 23:27:35
        ,..-―- 、
       /       ヽ
        {      }  おいらをどこかのスレに送って!
        ヽ ● ● /
         '、_ ▲ ,ノ__  お別れの時にはお土産を持たせてね!
      /|i '=' i/\ 
     /| ̄ ̄ ̄|.\/
       |     |/
        ̄ ̄ ̄

現在の所持品:藤原北家・蝦夷共和国・島津斉彬・井伊直弼
241日本@名無史さん:2008/04/26(土) 00:11:34
日本は武士団ができてから小粒だがアジア最強の軍事力を備え続けた、アジアの虎だからな。
明が清に滅ぼされようとしてた時も幕府に助けを求めてきたりもした。
最盛期のモンゴル人だけの蒙古軍だったら怖いけどシナチョンが混ざってたら
負けはしない
242日本@名無史さん:2008/04/26(土) 04:32:02

最盛期のモンゴル人だけの蒙古軍は全く怖くない、敵としての資格がない。

海も渡れない、山も越えられない、谷も渡れない、森も進めない、

唯、狭い平地をうろうろするだけ。

山かげから、森かげから、藪かげから、ゲリラ戦を仕掛けられ身動きもできない。
243日本@名無史さん:2008/04/26(土) 04:41:15

ジャングルのような日本の山野では馬は何の役にもたたない。

馬子にでもなって荷運びするのが精一杯。
244日本@名無史さん:2008/04/26(土) 20:40:57
武士が騎射戦術を武器に日本の支配階級まで上り詰めてる時点で説得力なし
245九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/26(土) 22:36:43

>>244はモンゴル軍の強さが何であるかをしらないようだね。
騎射戦術ではないよ。

兵站。
それでモンゴル短弓は発達したが。
246日本@名無史さん:2008/04/26(土) 22:49:04


(1)憲法とは、日本人の意思であり、日本人の主権である。
   あらゆる問題を、日本人どうしで話し合い、日本人の意思によって解決するという原則。
   それが憲法である。
(2)憲法とは、日本国の独立を維持し、日本人の自由と安全、生命を守るために
   戦うという原則である。敵の侵略から日本国と日本民族を守るという原則。それが憲法である。
(3)憲法とは、日本国の歴史と文化である。日本人は悠久の歴史の中で、自分たちの生活を守るための
   さまざまな慣わしを作り上げてきた。それらの慣わしこそ憲法である。
(4)憲法とは、日本人の意思によって作られた法律であり、それらの法律を基に構築された
   国家体制である。
(5)憲法とは、日本人の諸権利である。また、日本人の諸権利を外国勢力の侵害から
   守らなければならないという原則。それが憲法である。

247日本@名無史さん:2008/04/26(土) 22:55:13
>>244
武士というより鎌倉武士(坂東武者)だな。
しかし文永・弘安の役で元軍は軽騎兵を運用しておらず重騎兵+従者の日本軍には
本領を発揮していない。

>>245
世界史にも明るいね 君は。
馬や羊の家畜を大量に引き連れて冬場の凍結した大河・南ロシア平原の湿地帯を
一気に西進したのは有名な話。
248日本@名無史さん:2008/04/26(土) 23:00:55
>>246
ここは学問板だ。
学術・研究に裏付けのない脳内妄想はもういいから。
249日本@名無史さん:2008/04/26(土) 23:05:21
>>247
>しかし文永・弘安の役で元軍は軽騎兵を運用しておらず重騎兵+従者の日本軍には
本領を発揮していない。

また根拠の無い事を・・・
鎌倉武士から敗走する元軍の軽騎兵↓
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e03.jpg
250日本@名無史さん:2008/04/27(日) 00:21:36
>>249
それのどこが軽騎兵だ〜??
敗走する歩兵と騎乗の指揮官だろw
251日本@名無史さん:2008/04/27(日) 00:43:45
>>250
ラメラー・アーマー装着の重騎兵なら別に描かれてる↓
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm

実際に最前線で武士と戦ってる軽装備の騎兵なんだから>>249は一般の軽騎兵じゃん
252日本@名無史さん:2008/04/27(日) 01:00:42
>>239
で清朝もびびって日本に攻めて来なかったということかw
253日本@名無史さん:2008/04/27(日) 01:08:37
>>251
ラメラー・アーマーでも日本の甲冑に比べて隙間多いから長刀を振りかぶって切り付けられたら
ダメージ大きそう。
254日本@名無史さん:2008/04/27(日) 01:14:10
>>239
妄想 乙。
255日本@名無史さん:2008/04/27(日) 02:27:48
明の太祖朱元璋は、自分が日本に送った使者が拘束されて囚人同然の扱いをされたことに激怒し、
「武力をもって勝負を較べ、是非を見、強弱を弁えよう」などと威嚇しておきながら、日本から
「我が国には水沢の地や山海の洲にも備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしない」と返信が
来た途端、モンゴル軍がボロ負けしたことを思い出して腰砕けになった屁タレ。
中国が日本に勝てるわけないというのが両国の共通認識なんだよ。
256日本@名無史さん:2008/04/27(日) 19:23:16
>>238
倭寇が民間人??どこでそんな電波受信したんだ?

中央政権が関与しなければ民間人ていうのは短絡的。

現在の研究では少弐氏被官の兵糧調達行為が始まりとの説が有力である。

また「明太祖実録」によれば征西将軍府も黒幕として関与した形跡がある。
257日本@名無史さん:2008/04/27(日) 21:56:37
>>229
お前 脳の発育は大丈夫か?

ダライラマと切腹のどこが関係あるんだ??

258唐松山:2008/04/27(日) 23:37:24
>なんで元軍は夜になると船に帰っていったんだろうね。

元の兵は、大陸の軍隊 水上戦も 大河か湖
水軍が岸に着いたら 船をつなぎ合わせ 陸地のように行動自由にする、
このつなぎ合わせた 船団に 海の波風が襲う こすれ合った船は、破損
そこに 日本軍が小舟で襲いかかる、 揺れる船の上からでは反撃も思うに任せない。
 
259日本@名無史さん:2008/04/28(月) 14:37:47
>>249
確かにどうかんがえても歩兵を率いる指揮官にしか見えない(w
『八幡愚童訓』で、少弐景資の側から矢傷をうけた左副元帥、劉復亨らしい人物が出てくるが、
これも歩兵数十人と騎馬10数騎くらいを従えていたとか書かれていたと思うが・・
『蒙古襲来絵詞』でも『八幡愚童訓』でも、当時大陸で紛争に明け暮れていたモンゴル王侯に
直属していた軍のように、騎馬部隊だけ1000〜1万騎の規模で行動しているように
書かれている場面はお目にかかったことが無い。『絵詞』でも『愚童訓』でも守護方が
100騎くらいで行動して応戦している場面が幾度か出てくるが、この違いはどうなんだろうか。

>>251の『蒙古襲来絵詞』に箱崎に集結した蒙古側の陣が描かれていて、騎馬兵も一ケ所に
集まっていたことが描かれている。まあ、それは全然問題無いんだが、やっぱり連中の矢筒の
位置が凄く気になる。当時と言うか、テュルク・モンゴル系の遊牧民は脇腹の位置に矢筒を
下げるようなスタイルは取らない。
(多分、ひもで肩から担いでいるから脇腹の位置に来ているんだと思うが)
普通、突厥時代でもそうだったと思うが、テュルク・モンゴル系の遊牧民の場合、弓袋も
矢筒も刀剣も、全部腰に巻いたベルトの下に下げる場合が一般的で、騎射が右利きの場合、
矢筒は右の腰から太股のあたりにぶら下げている。甲冑云々以前に描かれている連中が
中央アジアとかで戦争していたような「テュルク・モンゴル系の騎馬兵」とは正直思えない。
高麗人か女直人なんだろうか。

『元史』でも『高麗史』でも文永の役で東寧府(現在の平壌)から派遣された蒙古人や、
女直人などの「漢人」からなる部隊が高麗軍と併せて派遣されたことがでてくるが、
東寧府からの軍の内訳の数字は全然書かれていない。(「萬五千」とは書かれているが)

旗田巍という朝鮮史を専攻された先生が中公新書の『元寇』って本で、文永の役の2年前に
耽羅島征討軍として至元九年十一月に「高麗在住の蒙古駐屯軍二〇〇〇、高麗の軍兵五〇〇〇、
水手三〇〇〇、元からの増派する軍兵二〇〇〇、合計一万三〇〇〇」が派遣されたと書かれているが、
これは『高麗史』が典拠なんだろうか? 『元史』ではどう書かれているのか。
260日本@名無史さん:2008/04/28(月) 17:00:08
>>259
そもそも当時大陸でだってモンゴル軍は普通に歩騎混成部隊だろ。
フレグの中東遠征だってモンゴル軍として十字軍やアルメニア軍も参加してるじゃん。

もともと民族の区別なく多民族混成で編成されているモンゴル軍から、モンゴル人だけ
わざわざ抽出して編成し直すことに何の意味があるのさ?
しかも、指揮官はモンゴル人なのに。
元寇とは別の年だが、『元史』にも洪茶丘の指揮下にモンゴル人部隊が存在したという
記事もある。

「十四年正月、授鎮國上將軍、東征都元帥、鎮高麗。二月、率蒙古、高麗、女直、漢軍、
從丞相伯顏北征叛臣只魯瓦歹等。」

日本に派遣されたのは当時の典型的なモンゴル左翼軍としか考えられん。
261日本@名無史さん:2008/04/28(月) 23:31:19
>>260
フレグの西方遠征軍にグルジア王国軍やアルメニア王国軍、後からシリアで十字軍諸侯が付き従った
ことは『集史』「フレグ・ハン紀」にも出てくるが、例えばキリキアの小アルメニア王国の歴史書
『東方史の華』で1241年にアルメニア、グルジア連合軍とバイジュ・ノヤン率いるイランの
モンゴル駐留軍が交戦した時、アルメニア王国軍の規模について「騎兵1万5000、歩兵1万5000」
という数が出てくる。

> 大陸でだってモンゴル軍は普通に歩騎混成部隊
当時の中東一帯の軍制は、基本的に歩兵部隊と騎兵部隊はそれぞれ別の構成であって、当時の大陸の
有力部族の首長たちが指揮するような一般的なモンゴル軍の場合にしても、劉復亨らしい人物が
そうだったような騎馬の指揮官に多数の歩兵部隊と騎馬兵が何人か随伴する、という型式が取られていた
形跡は自分が見た限りほとんど見当たらない。(グルジア語年代記はさすがに確認できないが)

「フレグの中東遠征だってモンゴル軍として十字軍やアルメニア軍も参加してる」とはいうが、
それは飽くまでもフレグ指揮下の軍団に「十字軍やアルメニア軍も参加してる」」んであって、
フレグやバイジュが率いていたようなテュルク・モンゴル系の諸部族からなる千戸隊の指揮官も
劉復亨らしい人物のようなスタイルで戦っていたという証拠には全然ならない。
262日本@名無史さん:2008/04/28(月) 23:53:16
>>261の続き。

> もともと民族の区別なく多民族混成で編成されているモンゴル軍から、
その認識自体がかなり大雑把すぎる。さまざまな出自の兵が騎兵も歩兵もモザイクのように
ばらばらに混成して部隊を編成していた訳では無い。

> 日本に派遣されたのは当時の典型的なモンゴル左翼軍
これも何のことなのか訳が分からない。典型的なモンゴル軍の編成は、一個の派遣軍について
主将のいる中軍に左右両翼軍がつき、加えて中軍の前に前衛軍がつく、という型式。
『高麗史』(巻28 世家28 忠烈王1)元宗15年十月乙巳条を見るとやはり
「都元帥忽敦、右副元帥洪茶丘、左副元帥劉復亨」とあり、中軍に金方慶が都督使として
左右の軍使とその他の指揮官がついて「三翼軍と号す」と書かれているから、文永の役でも
右翼軍+中軍+左翼軍というモンゴル軍の軍制で一般的な編成がされていたっぽいような
印象を受ける。
(「都督使の金方慶は中軍を將い、朴之亮・金忻を知兵馬事、任キ_を副使と爲す。
  金ヒツを左軍使と爲し、韋得儒を知兵馬事、孫世貞を副使と爲す。
  金文庇を右軍使と爲し、羅裕・朴保を知兵馬事、潘阜を副使と爲して、三翼軍と號す」)

文永の役で派遣された軍団が全体で「左翼軍」というものではない。
263日本@名無史さん:2008/04/29(火) 12:36:54
>>262
モンゴル帝国では西方が右翼で東方が左翼だよ。
だから文永の役で派遣された軍団は全体で「左翼軍」じゃん。

それから『元史』に洪茶丘の指揮下の部隊が蒙古、高麗、女直、漢軍で編成されていたと
書いてある点については、どう考えているのさ?
264日本@名無史さん:2008/05/01(木) 10:24:24
>>259
>旗田巍という朝鮮史を専攻された先生が中公新書の『元寇』って本で、文永の役の2年前に
>耽羅島征討軍として至元九年十一月に「高麗在住の蒙古駐屯軍二〇〇〇、高麗の軍兵五〇〇〇、
>水手三〇〇〇、元からの増派する軍兵二〇〇〇、合計一万三〇〇〇」が派遣されたと書かれているが、
>これは『高麗史』が典拠なんだろうか? 『元史』ではどう書かれているのか。

元史卷七 本紀第七 世祖四
「己巳、敕發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衛軍二千、征耽羅。」
265日本@名無史さん:2008/05/01(木) 19:37:46
日本語でおk
266日本@名無史さん:2008/05/02(金) 06:01:58
>>263
> モンゴル帝国では西方が右翼で東方が左翼だよ。
違う。
それはチンギス・カンが行った最初のモンゴル帝国の分封を行った時の左翼軍・中軍・右翼軍。
文永弘安の役の時代とでは状況が全然違う。平襄周辺の遼寧府に進駐していた蒙古軍やオゴデイの
時代に高麗に派遣されたイェグウ指揮下の諸軍が、チンギス・カンの敷いた千戸体制で恐らく
東方3王家と関係がある『(チンギス・カン由来の)左翼諸軍』を基盤にしていたとかいう話なら
分かるけど。

> だから文永の役で派遣された軍団は全体で「左翼軍」じゃん。
?? どこからそんな根拠が。『元史』にそんな記述あったろうか?
じゃあ、忻都や阿塔海が率いた「左翼軍」以外に日本遠征に参加した「中軍」や「右翼軍」が
あったってこと? モンゴル帝国時代の軍制について何か根本的に誤解している気がするんだけど。
それとも

> 『元史』に洪茶丘の指揮下の部隊が蒙古、高麗、女直、漢軍で編成されていたと
ええ、文永の役の博多上陸前後でそんな記述あったっけ? 
至元十一年三月に勅によって鳳州經略使に任じられた忻都が、高麗軍民總管の洪茶丘をはじめ
屯田軍、女直軍、水軍併せて1万5000、軍船900艘を率いて日本遠征に派遣されたって部分は
知ってるけど・・

>>264
後で自分も確認した。旗田巍先生は「屯田軍」を「蒙古兵」と比定しているみたいだけど、
この連中テュルク・モンゴル系の遊牧民出身と見なして良いんだろうか? 中書省令によって
高麗側に連中のために徴発を命じられた物品のなかに、牛3000頭は良いとして、農具とか種子とか
秣粮とか言っているみたいだが・・・ オゴデイ以降の高麗駐留の「蒙古軍」ってどうなってるんだろ?
267日本@名無史さん:2008/05/02(金) 09:36:44
>>266
洪茶丘の指揮下の部隊が蒙古、高麗、女直、漢軍で編成されていたという記述。

元史卷一百五十四 列傳第四十一 洪福源俊奇君祥萬
「十四年正月、授鎮國上將軍、東征都元帥、鎮高麗。二月、率蒙古、高麗、女直、漢軍、
從丞相伯顏北征叛臣只魯瓦歹等。」

>後で自分も確認した。旗田巍先生は「屯田軍」を「蒙古兵」と比定しているみたいだけど、
>この連中テュルク・モンゴル系の遊牧民出身と見なして良いんだろうか?

元史卷一百五十四 列傳第四十一 鄭温
「九年,詔温統蒙古、漢人、女直、高麗諸部軍萬人、渡海征耽羅、平之。」
268日本@名無史さん:2008/05/02(金) 12:14:33
>>266
>それはチンギス・カンが行った最初のモンゴル帝国の分封を行った時の左翼軍・中軍・右翼軍。
>文永弘安の役の時代とでは状況が全然違う。平襄周辺の遼寧府に進駐していた蒙古軍やオゴデイの
>時代に高麗に派遣されたイェグウ指揮下の諸軍が、チンギス・カンの敷いた千戸体制で恐らく
>東方3王家と関係がある『(チンギス・カン由来の)左翼諸軍』を基盤にしていたとかいう話なら
>分かるけど。

文永弘安の役を実行したフビライの権力基盤は、東方三王家や五投下をはじめとする左翼軍じゃん。
269日本@名無史さん:2008/05/02(金) 15:28:32
>>267
> 元史卷一百五十四 列傳第四十一 洪福源俊奇君祥萬 (洪茶丘伝部分)
> 「十四年正月、授鎮國上將軍、東征都元帥、鎮高麗。二月、率蒙古、高麗、女直、漢軍、
> 從丞相伯顏北征叛臣只魯瓦歹等。」
至元十四年(1277年)って文永の役(1274年)の三年後じゃあ・・
「從丞相伯顏北征叛臣只魯瓦歹等」ジルゴアダイって誰だっけ。バヤンと「北征叛臣」
って書かれているから時期的にいってシリギの乱のあたりかな?

> 「九年,詔温統蒙古、漢人、女直、高麗諸部軍萬人、渡海征耽羅、平之。」
いや、それは耽羅島遠征にも「蒙古人」が参加していた証拠にはなるけど、「蒙古人」が「屯田軍」
として農具とか農牛を使って耕地を耕作をしたという傍証として良い、とはならんはずだよ。
耽羅島派遣とか日本遠征など他の部分の記述でもそうだけど「女直人」と並んで「漢人」が
加わっている点も重要だと。
270日本@名無史さん:2008/05/02(金) 15:29:54
>>268
> 東方三王家や五投下をはじめとする左翼軍
だから、それらと文永弘安の役の派遣軍を「左翼軍」だとするのでは意味が違うんだと。

「モンゴル帝国全体」を考えれば「(モンゴル帝国全体の)左翼諸軍」には違い無いが、
文永弘安の役での派遣軍が「=(モンゴル帝国全体の)左翼諸軍」ではない。
全体と部分での意味を混同している。

例えば、ジョチ家の封土はチンギス・カンの分封の区分で言えば、諸弟が「左翼諸軍」に封じられたものと
対になる諸子からなる「右翼諸軍」に属するが、そのジョチ家の諸領も同じように左翼軍・中軍・右翼軍に
さらに別けられていた。ジョチを継いだバトゥはジョチ家全体を自身と異母兄のオルダとで所轄を二分したと
『集史』ジョチ・ハン紀で述べられているが、その内、中軍と右翼諸軍はジョチ家の当主であるバトゥが、
左翼諸軍をオルダが統括していた。1260年代の後半から1270年にかけて中央アジアにチャガタイ家の
バラクがクビライから派遣されて来て、カイドゥとマー・ワラー・アンナフルの所領を巡って色々大変な
ことになったが、この時ジョチ家はバラクへの牽制のためオルダ家の当主コニチを彼の管轄下の左翼諸軍
5万の軍勢をもって派遣したそうだが、この時派遣された「ジョチ家の左翼諸軍」に属する軍団もやはり
左翼・中軍・右翼に分かれていた。

派遣軍そのものが帰属するウルスの左翼・中軍・右翼のどの部署に属していたかはまた別の問題だろう
けど、派遣軍単独で「左翼軍」とか呼ばれる訳では無い。必ず、「ジョチ・ウルスの」とか「王族の
だれそれに」属する「左翼軍」なり「右翼軍」なりであって、飽くまでも派遣軍のなかで左翼とか
右翼とか言われる。

>>262にあげた『高麗史』の部分でも
「都督使の金方慶は中軍を將い、(中略)三翼軍と号す」と書かれていて、派遣軍内部でも
左翼軍・中軍・右翼軍の体制が敷かれていたらしいことは伺えるけど、文永の役の派遣軍そのものが
「左翼軍」だという風には書かれていないんじゃないのか。
271日本@名無史さん:2008/05/02(金) 17:04:31
一応、参考までだけど、『集史』アバカ・ハン紀によると、
チャガタイ家のバラクが、1270年にアバカが治めるアムダリヤ以西のホラーサーン地方へ
侵攻した時、ヘラート近郊のカラスウ平原で両軍が大会戦してバラク軍は敗北したんだけど、
この時、ロレスターンのセルジューク朝系アタベク政権の当主アタベク・ユースフ・シャーと、
ケルマーン地方を根拠地とするケルマーン・カラヒタイ朝の第三代当主スルタン・ハッジャージュが
アバカ軍に従軍していた。彼らユースフ・シャーの軍もハッジャージュの軍も、ともにアバカの左翼の
主将であるアバカの三弟ヨシムト隷下、前イラン総督アルグン・アカのもとで戦ったそうだ。
ちなみに右翼には六弟トブシンの隷下にヒンドゥー・ノヤン率いるカラウナス軍団がいたそうだが。

フレグがアムダリヤを渡ってイラン周辺の方面軍全軍を指揮下においたが、そのなかには
ケルマーン・カラヒタイ朝や、アルメニア王国、グルジア王国などモンゴル帝国に帰順した
現地諸政権の諸軍も含まれていた。
フレグ・ハン紀冒頭で、フレグは皇帝モンケによってイラン以西の諸地域を統括するよう命じられた
ことが書かれているが、
「フレグ・ハンを西方の諸地域、すなわちイーラーン・ザミーン、シャーム、ミスル、ルーム、
 アルメニアに任命して、彼ら各々が自分の持つ軍隊とともに彼の右翼と左翼になるようにした。」
とあるように、現地諸勢力の軍が一律遠征軍の左翼軍に振り分けられた訳では無い。

1281年10月にアバカは十一弟モンケ・テムルをシリアをマムルーク朝から奪還すべくシリア北部へ
派遣したが、ハマーとヒムスの中間の平原で両軍は会戦した。モンケ・テムルの軍は結局敗走した
んだが、バル=ヘブラエウスとかハイトンの『東方史の華』によると、この時、モンケテムルの
右翼の主将アリナクのもとにグルジアやアルメニアの軍がいたそうで、右翼配属のオイラト部族の
諸軍とともに、マムルーク朝軍の左翼と中軍の最左翼部隊を潰走させる程奮戦したらしい。

というわけで、主にイルハン朝での例だが、非テュルク・モンゴル系の部隊でも配属は必ずしも
左翼軍のみに限定されては居らず、大体においてこれらの部隊の配属については、戦況などに応じて
適宜左右に振り分けられていただろうことが分かると思う。
272日本@名無史さん:2008/05/04(日) 07:13:57
>>269
至元十四年(1277年)って文永の役と弘安の役のちょうど中間。
「東征都元帥」ってのは日本侵攻作戦のためのポスト。
その就任2ヵ月後の時点で洪茶丘が蒙古、高麗、女直、漢軍を率いていたのなら、
文永弘安の役の部隊編成も同様だと考えるのが当然だろ。
273日本@名無史さん:2008/05/04(日) 15:52:20
>>270
左翼軍・中軍・右翼軍の三軍編成がモンゴルの軍制の基本だから、戦略レベル、
作戦レベル、戦術レベルなどの各次元でそれぞれ同様の三軍編成をとる。
東方が「左翼軍」で西方が「右翼軍」というのは、その中で最も高次の編成での話。
そして、日本侵攻はモンゴル帝国全体の「左翼軍」が行なった軍事作戦の一つだろ。
民族構成の話で、文永の役で派遣された軍団が典型的な「左翼軍」だったと書いて、
どこが間違ってるのさ?
274日本@名無史さん:2008/05/05(月) 02:02:44
>>261
> 至元十四年(1277年)って文永の役と弘安の役のちょうど中間。
> その就任2ヵ月後の時点で洪茶丘が蒙古、高麗、女直、漢軍を率いていたのなら、
> 文永弘安の役の部隊編成も同様だと考えるのが当然だろ。
ちょっと待った!
文永の役のあった至元11年の記事では、洪茶丘が蒙古、高麗、女直、漢軍を全て指揮したかどうかは
直接には書かれていないみたいなのだから、三年後の記事に書かれているからといって、三年前もそれぞれの
軍の所轄が洪茶丘の指揮下に全く同じ状態で置かれていたとかそんな「同様だと考えるのが当然」とか簡単に
断定して良いのかね?(汗

13、14世紀のモンゴル軍でも遠征先で部隊の配属が戦況に応じて調整されることは普通にあるので、
ちょっと文献を扱うには大胆が過ぎると思うんだが。
他の南宋遠征なりで左右の副元帥が「蒙古軍」や「漢人」部隊を含め遠征軍全体を直接指揮したとかいう
記事でもあったなら、文永の役でも「同じだったかも知れない」という「類推」は出来ても、
「同様だと考えるのが当然」と断定して良いかは、微妙だと思うんだがねえ・・
275日本@名無史さん:2008/05/05(月) 04:40:54
>>273
> 民族構成の話で、文永の役で派遣された軍団が典型的な「左翼軍」だったと書いて、
> どこが間違ってるのさ?
だから、「民族構成」に由来する「典型的な「左翼軍」」なんて概念は、テュルク・モンゴル系の
軍制に関わる文献上には出て来ない概念なんだとw
それとも誰か「モンゴル帝国の左翼軍は、決まって多民族から成る軍隊であった」とかそういう説を
唱えてでもいるんだろうか? 正直、聞いたことが無いのだが・・

> 日本侵攻はモンゴル帝国全体の「左翼軍」が行なった軍事作戦の一つだろ。
待った待った!(汗
そんな風に『元史』その他の文献に書いてあるかね? モンケはフレグにイラン以西諸国の統括と征服を
命じ、クビライには中都を中心とする華北全域(いわゆる漢地、キタイ)および南宋遠征の総司令官に
それぞれ命じたが、これらフレグの遠征軍全体を西方に派遣されたから"全体"で「右翼軍」だとか、
クビライを南方に派遣したから、"全体"を「左翼軍」なり「中軍」なりで呼んだとかいう記録は、
『集史』でも『元史』でもまず見たことが無い。

276日本@名無史さん:2008/05/05(月) 04:44:13
>>275の続き。

いわゆる東方三王家と五投下についてだが、
ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家のチンギス・カンの諸弟からなる東方三王家と
ジャライル部族の首長家ムカリ国王家、ボルテの兄弟アルチ・ノヤンらのコンギラト附馬家、イキレス、
ウルウト、マングト諸部族長家からなるいわゆる五投下が、耶律阿海ら金朝から帰順した契丹軍団
その他の諸軍とともに、チンギス・カンの時代に「帝国全体の左翼諸軍」を構成したことは、実際
そのように記録があるのは問題ない。

「典型的な「左翼軍」」とか言うけど、左翼軍に「典型的」ってのが何がどう「典型的」であるのか
さっぱり分からないし、文永の役に派遣された遼寧方面の駐留軍と高麗軍による連合軍、および
弘安の役に派遣された文永の役の時の派遣軍をそのまま引き継いだいわゆる「東路軍」が「左翼軍」
というカテゴリーで表現して良いのかという問題はまた別のはずだ。

>>273の主張したい内容を整理すれば、せいぜい
「文永の役の派遣軍は、東方三王家と五投下、契丹軍その他チンギス・カンの左翼諸軍を淵源とする」
くらいは言えるのかも知れないが、そもそも、高麗駐留軍や遼寧府方面の所轄が東方三王家などと
同じであったかは微妙だし(これは単に歴代の高麗方面へ派遣された軍の所属がそれぞれどこなのか
自分が良くは知らないというのもあるが、オゴデイ治世初期のイランが「前線」であって所轄は
「左翼」でも「右翼」でも「中軍」でもなくて「皇帝直轄地」であった可能性はある。隣接して
いたから高麗は東方三王家とは関係は当然あったろうけど)、よしんば高麗周辺が「帝国全体の左翼」で
分類されていたとしても、文永の役の派遣軍が「左翼軍」というのはやはり表現としておかしい。
やっぱり「帝国の左翼諸軍から供出された軍団」であって、「帝国の左翼」全体が派遣でもされない
限りはそんな言い方はしない。(これでも実際遠征で軍がどう呼ばれているかが問題なので正直厳しいが)
277日本@名無史さん:2008/05/05(月) 05:08:39
>>276の続き。
うーん、東方三王家や五投下のウルスは嶺北行省と遼陽行省のどこに属していたんだっけ。
聞き慣れないカテゴリーで話すんで、なんかだんだん訳が分からなくなってきた・・(汗

>>275で至元十四年(1277年)に洪茶丘がシリギの乱平定のため総大将バヤンに従って
「蒙古、高麗、女直、漢軍」を率いたっていう『元史』の洪茶丘伝である「列傳第四十一 洪福源子俊奇」の
記事を引いているけど、この時「東征都元帥」を授かったことは出てはいるが、>>262でも書いた通り、
文永の役の時、『高麗史』によれば洪茶丘は「都元帥忽敦」の次席だったらしい「右副元帥洪茶丘」と書かれている。
至元十一年と至元十四年では「右副元帥」が「都元帥」に昇格したと考えれば、役職についても以前より権限の
拡大があったと予想出来るから、文永の役での洪茶丘について

「文永弘安の役の部隊編成も同様だと考えるのが当然だろ」

と断定するのは論理として乱暴が過ぎる。少なくとも役職名の変更があった以上は、職権についても拡充や変化が
あった可能性は十分配慮すべき。
278日本@名無史さん:2008/05/05(月) 05:34:46
>>277の続き。
とりあえず、もう一つ遠征軍の例をあげておくけど、(『集史』モンケ・カアン紀の記述)

モンケが南宋へ親征した時、遠征軍の右翼軍団はオゴデイの六男カダアンやチャガタイ家のクシカ、
モンケの庶弟モゲなどが、左翼軍団は東方三王家からテムゲ・オッチギン家のタガチャルや
ジョチ・カサル家のイェスンゲが、同じく五投下からはムカリ国王家のクルムシ、コンギラト附馬家の
当主アルチ・ノヤンおよびナチンの兄弟、イキレス部族のデレゲイ附馬、ウルウト部族のケフテイと
ブジル、マングト部族のモンケ・クルジャとチャガン・ノヤンが、それぞれ参加している。

ここまではまあ良いんだが、問題はこの時の遠征に参加した諸軍の内、当時「ジャウクト」と
通称されていた北中国(ヒターイー)やタングート、女直(ジュールチャ)、高麗(ソランガ)などの
非テュルク・モンゴル系の部隊は、モンケが親率する右翼軍団に属していた。
ただ、タガチャルはジャウクトの諸軍数万を監督していたらしく、痛風が平癒しためと称してモンケへの
従軍を奏上したクビライは、華北へ帰還したタガチャルからこのジャウクト軍団を受け取って南下している。

>>273がどういう意図で説明をしたいのかは自分には正直良く分からないが、
モンケの南宋遠征の部隊構成を考えると、漢人や女直人、高麗人部隊を主要構成員としていたらしい
文永の役の派遣軍や弘安の役の東路軍を指して、モンゴル帝国のどのレベルを指してかは別にして、
全体で「左翼軍」と言うのはやはり問題があると思う。
279日本@名無史さん:2008/05/06(火) 08:16:05
>>275
ドーソンはチンギス・カンが他界した時の左翼軍の民族構成について、オイラト族4000、
バリアン族1万、契丹人1万、女真人1万を含む多民族軍だったと書いてるよ。
その後、右翼のモンゴル軍がクマン人やタジク人を吸収しながら西へ発展したように、
左翼のモンゴル軍も漢人や高麗人を吸収しながら発展したわけで、日本に派遣された元軍の
蒙古、漢人、高麗、女真という民族構成も、左翼諸軍を基盤とするこの地域のモンゴル軍と
しては特異なものではない。
テュルク・モンゴル系の騎馬兵をコアに多数の民族が参加する典型的なモンゴル軍だろ。
280日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:08:36
蒙古兵の首の暑苦しさにウホッ
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/image/h800/e_13_h800.jpg
281六無斎:2008/05/15(木) 20:59:14
モンゴルと現在の朝鮮(高麗または高句麗)がの本に侵略し、多くの農民を殺害したのに
害したのを賞賛するならば、日本の侵略を批判する権利は無いぞ。
282日本@名無史さん:2008/05/15(木) 21:55:43
このときの蒙古軍の将軍は本国に帰ってやっぱり処刑されたのかな。
283sage:2008/06/01(日) 18:20:21
疑問点
文永の役で蒙古・高麗の船が沈んだのは、高麗が突貫で造船したので手抜きだったと言われているけど、
なら、弘安の役ではそれを反省してきっちり造船すると思うんですが..
それでも沈没は手抜きのせい?それとも台風がすさまじかったのかな?

あとさきほど図書館で「漫画 朝鮮の歴史」なるものを読んだのですが、「弘安の役では東路軍は半数ぐらいしか沈まなかった。これは高麗の造船能力が優れていたことを示す」
と書いていましたが、本当に半数しか沈まなかったの?まあだとしたら、司令官クラス(キント、金方慶、ホンタグ)が無事帰国できた理由にもなりそうだが。
284日本@名無史さん:2008/06/05(木) 09:17:05
>>283
高麗人が自分たちも乗る船に手抜きするわけないじゃん。
元軍が台風に遭遇したのは弘安の役のみで、一回目の文永の役は普通に戦闘で
負けて逃げ帰っただけ。
その唯一台風に遭遇した弘安の役で高麗製の船は江南製の船より遥かに損害が
少なかったんだから、高麗が造船で手抜きしたなどという話は真っ赤な嘘なの。

その手抜き説ってのは高麗が積極的に日本侵略に加担した事を誤魔化すために
言い出した説で、もともと何の資料的根拠もない話。
騙されちゃダメね。
285日本@名無史さん:2008/06/15(日) 00:48:59
BS11デジタル 6月15日(日) 23:00-23:55 歴史のもしも もしも元軍が九州上陸に成功していたら
再放送 6月18日(水) 15:00-15:55
ttp://www.bs11.jp/?action_public_pgm_detail=true&cid=1&pid=187
286日本@名無史さん:2008/06/15(日) 18:58:06
歴史のもしもし
287日本@名無史さん:2008/06/19(木) 11:03:18
「中世では騎馬部隊の海上輸送は無理」なんてデマが日本では何でこんなに定着してるんだろう?
ちょっと調べれば騎馬部隊の海上輸送の例なんていくらでもあるのに・・・
島国イングランドを征服したウィリアム征服王は騎馬部隊を連れて荒波のイギリス海峡を越えてるし、
十字軍だって遥かかなたの聖地まで騎馬部隊を海上輸送している。
何より、日本から元寇の逆ルートで対馬海峡越えて高麗に攻め込んだ倭寇ですら騎馬部隊を普通に
海上輸送してるのに。
元の艦隊は倭寇以下かよ・・・
288日本@名無史さん:2008/06/26(木) 23:19:57
山野野衾ってコテが北条時宗を「外交感覚のない人物」って言ってたんだけどどうなの?
289日本@名無史さん:2008/06/27(金) 09:24:27
関連スレ
【蒙古襲来】元寇の勝因は?part2【文永弘安】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1214484133/

290日本@名無史さん:2008/06/27(金) 20:24:12
>>287
どこのスレ?
291日本@名無史さん:2008/06/28(土) 16:02:31
山野野衾は基本的に日本史に詳しくない世界史板とかの住民相手にしか知ったかできない人。
相手に日本史の知識があるとわかると直ぐに逃げるし。
292日本@名無史さん:2008/06/28(土) 18:24:51
>>288
じゃあ逆に聞くがあの当時外交でうまく立ち回ってモンゴルの侵略
切り抜けられた君主はどんだけいる?モンゴルの支配下に入った連中は抜きで。
293日本@名無史さん:2008/06/29(日) 12:05:15
当時の幕府の外交姿勢に関しては諸説あるけど、南宋から亡命してきた僧侶たちから外交情報を仕入れていたことが強硬姿勢をとるにいたった原因なんじゃないだろうか?

南宋から亡命してきた僧侶たちにしてみれば、元は祖国を滅ぼした仇敵、どう控えめに見ても日本側に元の悪いイメージだけを吹き込んでいないと考えるのは難しい

使者の処刑は、元とは倶に天を戴かずという態度を示して国内の意志を統一し、元という強敵を外に創ることで国内の不満をそらさせる目的もあったのでは?
294日本@名無史さん:2008/06/29(日) 21:50:18
>>293
防戦しないのならば、最低限、元の冊封体制に入るってことだろ。
上のレスでは日本の外交云々言っているが、中華圏の外交は華夷序列のみだし、無理だろ。
序列を覆すには必要なのは武力だし。

南宋の亡命者がどう言おうが、高麗人に唆されたフビライの標的には入っているんだしね。
295日本@名無史さん:2008/06/30(月) 08:15:35
世界征服を国是としている国が、自国の隣国を武力で征服した挙句に国書を送ってきたのに、
「自分たちとだけは友好的な関係を望んでいるのに違いない」などと考える為政者はいない。
弱腰外交で散々批判されているチェンバレンですら、ドイツのポーランド侵攻の後は
宣戦布告に追い込まれたのに。
鎌倉幕府は常識的な外交を行なったのに、外交オンチの歴史研究者たちが空想平和主義を
振りかざして批判してるんだよ。
296日本@名無史さん:2008/06/30(月) 11:02:50
>>295
そういう考えの学者方は、元からの国書に書かれた「武力を用いることなど誰が考えるだろうか」という記述を元に武力行使の意思がなかったという論拠にしているみたいだけど

当時破竹の勢いで領土拡大を続ける超大国からそんなことを言われたら“脅し”としか思えない気が……
297日本@名無史さん:2008/07/04(金) 17:08:36
おバカな歴史学者はおとぎ話の平和外交に骨の髄まで犯されてる。
民衆のために戦争のない平和外交なんて聞こえがいいが、
かりに武力なしに元と外交関係を結んだ場合、誰が一番泣きをみるのかわかっているのかな。
元が贈り物でもくれるのか。
さらに重い税の取り立てに苦しむのは民衆に決まってるじゃないか。

現実感覚の欠如した妄想的サヨ史観などというは相変わらず噴飯もの。
298日本@名無史さん:2008/07/05(土) 10:20:12
戦後の歴史学者って元寇について日本を侵略した加害者の元や高麗ではなく、被害者の日本の方を
「侵略主義」だと非難してるんだぜ。
元寇の後、鎌倉幕府が異国征伐と称して朝鮮半島へ報復攻撃しようとしたじゃん。
日本を侵略して疲れている高麗へ攻め込むのは、「高麗の弱みに付け込んだ侵略主義」なんだって。

ありえない理屈だろ???
299日本@名無史さん:2008/07/05(土) 20:55:03
海外に軍隊を派遣=侵略ってことなんだろうな、たぶん。
まあ攻めた後恒久的に居座れば侵略かもしれない。
長居できたとも思えないが。
300日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:03:08
戦前の戦艦「金剛」は、金剛(クムガン)山が日本領だった時代だからわかるけど、
北朝鮮が独立した戦後の護衛艦まで「こんごう」を踏襲するのはまずいのでは?
301日本@名無史さん:2008/07/05(土) 21:09:40
韓方とか韓字とか脳に蛆が湧いている民族の発想ってのは見てて面白いw
302日本@名無史さん:2008/07/05(土) 22:54:55

神風。

運も実力のうち。
303日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:01:19
ザビエル、フロイス、アビラ・ヒロンも本国で騎兵を見ているが
彼等は異口同音で日本では戦闘になると下馬して戦うと言っている
特にフロイスは繰り返し、指摘している
当時の欧州では現代の馬より小型だが、それでも150cm内外あり、馬も馬具も
騎乗で突撃することに適していた
しかし日本の馬は戦国武田氏の居館址から発掘された馬は120cm前後
しかも去勢も蹄鉄も知らなかった日本では騎乗で弓以外の戦闘に適していない
畜産史家の加茂儀一氏、安芸武田流の流鏑馬指導者の金子有鄰氏も
当時の重い鎧武者が和製馬で騎乗での直接戦闘にはかなり無理があることを指摘している
馬が使われたのは騎乗で弓を射るとき、逃げる敵を追い掛けるとき
そして逃げるときに限定されるという
江戸時代の軍学書では騎乗で槍を扱うのは犬槍と言い酷評しているぐらいだ
槍の発達していなかった鎌倉時代では騎馬武者は刀も持っていたが
刀では金属製の甲冑は勿論、斬撃に強い革鎧に対しても刀疵は残っていても
裏地まで斬れることはまずない
この種の防具は斬撃より槍、矢、銃弾の一点集中の武器に弱い
従って鎌倉武士が騎馬で蒙古軍に突撃したことはまずありえないである
304日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:34:48
ありえないである!
305日本@名無史さん:2008/07/06(日) 02:45:33
>>300
あれは朝鮮半島ではなく奈良県の金剛山だぞ。
306日本@名無史さん:2008/07/06(日) 08:59:28
倭寇では日本の騎兵が海を越え、朝鮮半島で大暴れ
307日本@名無史さん:2008/07/06(日) 12:11:25
>>300
面白いww
308日本@名無史さん:2008/07/10(木) 18:41:49
戦後はともかく、戦前も両方とも、歯が立たなかったけど、
神風で助かったって教えられてたのは、どうしてなんだう?
実力で追い払ったって教えた方が、「やっぱ日本人は凄いぜ!」
ってことになると思うんだけど?
309日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:38:55
>>308
戦前は両方とも歯が立たなかったなんて教えられていなかった。
昭和天皇の歴史教科書『国史』に書かれていた元寇↓

「元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、数百艘の船をつらねて、
朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、
元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。」

「このため、元はまた大挙して攻めてきて、その軍は壱岐、対馬をへて博多と肥前の沿岸にも迫りましたが、
南海、西国の将兵がよく防ぎました。また、偶然にも大暴風雨がおそい、敵の船は破壊され、多くの兵が溺死し、
残った軍はあわてふためいて逃げかえりました。弘安四年のことでありましたので、これを弘安の役といいます。」

文永の役なんて完全に武力のみで元軍を撃退したと考えられていた。
両方とも歯が立たなかったなんて話になったのは太平洋戦争で負けてから。
310日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:58:52
X両方とも歯が立たなかったなんて話になったのは太平洋戦争で負けてから
○両方とも歯が立たなかったなんて話になったのは太平洋戦争で負けた後、一部勢力がマスコミ・教育・出版を侵食しはじめてから
311月読:2008/07/11(金) 17:14:39
日光よろしく!
312日本@名無史さん:2008/07/11(金) 18:22:03
>>309
トンクス
戦中、神風とか言ってたから、てっきり戦前から元が神風
でやられたように、日本は神に守られてるちか教えてたのかと
思ったけど、ちゃんとした歴史を教えてたのね。

しかし、鎌倉時代から否定に入るなんてバカサヨは性質が悪すぎ
ですね。
313日本@名無史さん:2008/07/11(金) 22:45:58
バカサヨだけでなくて、日本人は昔から自国を小さくみる傾向があるんだが、
一つはインドや中国は大きいという漠たる情報を持っていたこと。
まあ、夜郎自大にならずに謙虚になるのはいいことなんだが、それが自己卑下になりがちだ。
特に戦後は顕著だ。
外国に占領された経験が初めてなんていうことは、裏返せば、
日本は世界史上希にみる恵まれた環境にあるとも言える。

フビライが何故日本にこだわったか。
説はいろいろあるし、それが間違いというわけではない。
ただ、根本は日本は日本人が考えている以上に、大きな国だという認識があったのは間違いない。
東西南北に渡って世界帝国を築くという野望がモンゴルにはあった。
そうでなければ、あれだけの領土を占有することもなかったはず。
モンゴル皇帝にとっては、東の帝国日本を抑えなければ寝覚めが悪い。
地図から重要な地域が欠落しているのだから、
完全には埋まらないパズルのようなものだったに違いない。
二度の遠征が無に帰した後でも、誰に何と言われようと、
フビライは死ぬまで日本攻略を諦めることができなかった。
314日本@名無史さん:2008/07/12(土) 03:28:05
小国だったら14万人も送らないよね
315日本@名無史さん:2008/07/13(日) 09:33:28
鎌倉武士がモンゴルフルボッコについて書かれたサイトってないですか?
本も「海から見た日本の防衛」以外見つからないし、本当に書いてある
所とかすくないですね(´・ω・`)
316日本@名無史さん:2008/07/13(日) 09:53:21
第三次を送ろうとした時、フビライが死んだ。
波状攻撃を受けつづければ、局地的に善戦できてもいずれ負ける。
日本は運が良かった。これが真のカミカゼ。
まぁ人を殺す神様ってのがいたら嫌だがw
317:2008/07/13(日) 09:53:28
最初のほう読んでないが
相手の蒙古内は寄せ集めな為 内部分裂や意志伝達が問題だらけだったのが 劣等日本に自然災害という幸運と相まって、
皆殺し根絶やしフルボッコ丸焼きされずに 大陸猿に島猿は共食いされずにすんだんだぞ

そういうのとかしらないだろ?W


318日本@名無史さん:2008/07/13(日) 10:55:52
>>317
その認識は全面的に間違い。
蒙古軍が多民族軍なのは、他の東欧や中東、中国に侵攻した際も一緒。
モンゴル帝国の第4代大ハーンのモンケが中国に攻め込んだ時、モンケ直属軍の民族構成は蒙古、漢人、高麗、女真で
元寇とまったく同じなんだよ。
さらに元寇の参加部隊は、その前に三別抄の乱を鎮圧したのと同じ部隊。
元寇の勝利は純粋に鎌倉武士の方が蒙古よりも優れていたからね。

そういうのとかしらないだろ?W
319日本@名無史さん:2008/07/13(日) 11:21:15
第一回は優勢に戦ったのに準備不足(矢の予想外の損耗)と戦意不足(肝心の元の部将達が消極的)で失敗
二度目と逆だったら負けてたな。
320日本@名無史さん:2008/07/13(日) 11:26:21
>>319
第一回も元軍は全然優勢なんかじゃないよ。
元軍の戦死者1万3500人に対し、日本軍の戦死者は対馬80騎、壱岐100騎、松浦党数百人。
あきらかに圧倒的に日本軍が優勢。
321日本@名無史さん:2008/07/13(日) 12:03:28
>>320
何その「殲滅されるような人数自体がさほどいなかった」例だけ取り上げる印象操作は。
322日本@名無史さん:2008/07/13(日) 12:12:51
>>321
印象操作じゃないよ。
それが日本軍の損害の全て。
元軍をたった1日で撃退という圧勝で終わった文永の役で、日本軍の損害が僅かなのは当然だろ。
323日本@名無史さん:2008/07/13(日) 12:28:15
>>322
ちょっとまった。壱岐とか対馬とかの損害だけいっておいて肝心の本戦損害は推定すらスルーした挙句、1日と対馬壱岐はそこではスルーとか。
一体何なんだこいつは。
324日本@名無史さん:2008/07/13(日) 16:57:17
>>323
だから本戦損害なんて皆無なんだよ
小弐氏率いる日本軍主力部隊はまったくの無傷ね
325日本@名無史さん:2008/07/14(月) 00:59:39
>>321
文永の役での日本勢は北九州の御家人約五千
ソースは軍板の前スレ

むしろこんだけの戦力で三万の補給を枯渇させるだけ
戦えたのがビックリ、しかも全体の統率なしで
(得宗家の人間が直接指揮したのは弘安の役から)。
326日本@名無史さん:2008/07/14(月) 13:53:40
元の有名な将帥は参加しなかったからね。
アジュやウリャンハタイ、バヤンのような一流の将帥が統制していたらどうだったんだろう?
327日本@名無史さん:2008/07/14(月) 13:54:39
>>324お前の脳内鎌倉武士は不死身なのかw
そして不死身の兵士がみすみす町や神宮を灰燼に帰されるのを見てたことになるわけだな。
328日本@名無史さん:2008/07/14(月) 17:21:48
>>327
町や神宮が焼けたのは自焼だろ
堅壁清野戦術ってやつ
329日本@名無史さん:2008/07/14(月) 18:41:56
町や寺社やかずにいられない状態とはいえどれほど急に迫った背水の陣か考えろ脳内鎌倉武士論者
330日本@名無史さん:2008/07/14(月) 18:56:47
だいたい港も占領せずに馬を陸揚げできるのか
ノルマンディみたいに船舶が海岸に乗り上げ兵を続々吐き出したと勘違いしてんのかな
釜倉武士ビイキはさ、んなわけありはしねぇと思うけどね

釜倉時代の武器では長物は長刀しかなくて槍に類するものなかったことは確かなんだけど
糞重い甲冑着て太刀、長刀やトロくさい日本の長弓で勝てたってホントかね
331日本@名無史さん:2008/07/14(月) 19:02:27
しょぼい装備で元軍追い返す鎌倉武士さんかっけー
332日本@名無史さん:2008/07/14(月) 19:19:39
大体 釜堀武士団のバカどもは一騎打ち戦法などを駆使してた雑魚軍団
集団戦法の前に 名実ともにフルボッコの釜堀武士団
しかも元のテツハウのまえにガクブルののろま亀
どの面下げて鎌倉武士無傷論ぶちかましてんだかwそう信じたいお子ちゃま歴史家か? プッ
333日本@名無史さん:2008/07/14(月) 19:39:48
日本軍の強さの秘密は、日本刀の切れ味これに尽きます。
首や腕が、一振りで飛ぶ初めて目の当たりにした元軍は、夜船上で過ごさねば成らないほどの
ショックを受ける、
以後、日本刀は、世界基準となるが 中国で作られた、模造品に席巻される。
334日本@名無史さん:2008/07/14(月) 19:50:07
>>325
つまり>320が正しければ戦力の20%近くを失ったわけか。
どう考えても楽勝じゃないな。
335日本@名無史さん:2008/07/14(月) 19:57:50
ホームでそれだけ野垂れ死にしてりゃ、雑魚認定必至WWWW
336日本@名無史さん:2008/07/14(月) 19:59:15
装備、戦術面でも劣り5倍の相手に勝つ鎌倉武士さんかっけー
337日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:03:59
地形を利用しなきゃ、何一つまともに戦えない野猿島猿が武士
338日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:18:26
※釜倉騎馬武者の悲惨な戦い予想
≫騎射により矢を射るものの数十倍の敵の矢が釜倉武者に当たり落馬戦死!!
≫釜倉騎馬武者が騎射以外の戦法を無理して使おうと長刀を振り回すが
120センチの小型馬に糞重い甲冑で乗って長物を振り回したためバランスを崩し落馬し敵に討たれる!!
≫ならば太刀を振るいこれも今までの戦法にない接近戦を行おうとするが
去勢をしていない釜倉武者の馬は鳴り物や多数の槍ぶすまの敵を恐れ動かす
無理して強いた途端、去勢していない馬が暴れ哀れ釜倉武者は落馬し討たれる!!
≫どうにか馬をなだめ、動き始めるものの重い重量でとても走れず次々敵矢の餌食に!!
≫釜倉武者の中にはどうにか馬を「走らせる」ことに奇跡的に成功したが
途端に蹄鉄をしていない釜倉武者の馬の爪が重い重量で割れ馬は立てなくなり
釜倉武者は振り落とされその上に自身の馬が倒れこみ圧死!!
339日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:38:34
ダッセ〜WWWWWWWWWなにが鎌倉武士だよWWWWW
340日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:56:55
釜倉武士マンセー屋は兵力も誤魔化すんだよな
ふつー1騎といったら絶対最低限でも数人の徒歩の従者が付く
当然だよなぁ
騎馬武者だけなら直ぐに騎射用の矢なんか尽きるだろうしな
当然、従者も武装しているから兵力の一部のはず
だから50騎なら従者含めるなら少なくとも兵力は300以上だ
それに少弐家も戦死者出してるだろ
341日本@名無史さん:2008/07/14(月) 21:12:58
5000騎なら30000人か
すぐさま30000人動員する鎌倉武士さんかっけー
342日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:01:38
それに蒙古側の兵力
ここか別スレか忘れたが、江南軍は屯田目的で南宋の老兵で武装もたいしたことないことと
高麗からの兵も高麗軍を除くと督戦係の僅かな蒙古兵を除くと旧金にいたキタンや女真族、漢人が殆んどで
中には仏僧や流民を強制的に武装されている者がいたと書いてあった

それに付け加えれば
ふつー、舟で渡海してくる軍兵力の半数から少なくとも3分の1は陸戦には参加しない水夫なんだけどなぁ
343日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:05:05
ループw
344日本@名無史さん:2008/07/14(月) 22:12:19
つまりそんなもんで攻め込んだモンゴルはアホってことか
345日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:22:30
>>342
>ここか別スレか忘れたが、江南軍は屯田目的で南宋の老兵で武装もたいしたことないことと
高麗からの兵も高麗軍を除くと督戦係の僅かな蒙古兵を除くと旧金にいたキタンや女真族、漢人が殆んどで
中には仏僧や流民を強制的に武装されている者がいたと書いてあった

自分で書いたんだろう?
346日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:30:15
水夫を除いても7万人か
2ヶ月間も海でさまよってたんだっけ?
台風の季節が来ることを知っていた兵士も結構いただろうな
上陸できなくて不安だっただろうな…
347日本@名無史さん:2008/07/14(月) 23:50:18
>>320
> 元軍の戦死者1万3500人に対し、
『高麗史』忠烈王世家 元宗十五年十一月己亥条などには「軍不還者無虜萬三千五百餘人」と
確かに書いてあるが、博多その他での戦闘で直接失ったものであるかどうかは全く書いていない。
これだけしか書かれていないので普通、同じ忠烈王世家の少し前の箇所で
「夜、大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金[人偏に先]溺死」との関係で云われていたと思うが。

>>333
> 日本軍の強さの秘密は、日本刀の切れ味これに尽きます。
> 首や腕が、一振りで飛ぶ初めて目の当たりにした元軍は、夜船上で過ごさねば
> 成らないほどのショックを受ける、
何度か話題に昇ってるみたいだけど、矢を射掛け合ったり騎馬での突撃した話(竹崎季長とか)
ならいくらもあったと思うが、刀で斬りあった話なんて文永の役や弘安の役であったろうか?
弘安の役の時の鷹島あたり?
>>328
> 町や神宮が焼けたのは自焼だろ
> 堅壁清野戦術ってやつ
とりあえずソース。

>>344
モンゴル帝国の軍事作戦の傾向から云えば割と普通。投入兵力とか派遣軍の部隊構成とかは
それぞれの遠征で色々事情の違いはあるが、対象地域に侵攻して周辺への劫掠を繰り返し、
降伏勧告を行いつつ戦闘を続ける。それを複数回を続けて最終的には降伏させるか
陥落させたりする。金朝然り、南宋然り、イラン然り、雲南然り、高麗然りetc.
結果的にそうなった、ってのも多いけど。

弘安の役の時の江南軍みたいに歩兵軍だけの10万を派遣したって作戦は、まず他では
聞かれないものだけど。
348日本@名無史さん:2008/07/15(火) 06:10:05
自分の都合のいい所は相手の文献を引用し曲解、省略
都合の悪い場所は罵倒

いつもの倭族パターン

日本側の史料なんか恩賞目的で自分の戦果誇張して書くに決まってるのに
まともに採用するあほさ加減に閉口
349日本@名無史さん:2008/07/15(火) 08:31:13
でも竹崎季長なんかは、緒戦では手柄無く負傷して助けられただけ、と素直に残しているぜ?
当時は先陣務める勇者は戦功なくても手柄扱いされた(すったもんだあったが、竹崎も認定された)んだから。
誇張する理由がそうそうあるかいな?
350日本@名無史さん:2008/07/15(火) 08:48:05
>>349
現場に行って見てきたかようなwww
351日本@名無史さん:2008/07/15(火) 09:17:27
>>347
『高麗史』巻八十七 表には「至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」と書いてあるよ。
大風雨云々は、高麗と一緒に戦っていた元の記録には一切残っていないし、日本の記録でも当日の夜に雨が降っていたことが
確認できるだけで、特別な大風雨といった表現ではない。
この夜、元の艦隊の内で岩に触れて被害を受けたと確認できるのは、志賀島に座礁していた200人乗りの1艘だけだろ。
風雨による損害など軽微で、1万3500人の大半は戦闘による損失と考えるべきだろうな。

それから博多や筥崎については、史料から焼けたということがわかるだけで、元軍がやったと断定できる根拠も無いし。
日暮れまで博多付近に駐屯していたはずの少弐氏の部隊が、まったく損害を受けていない点を考慮すれば、自焼だとするのが自然。
352日本@名無史さん:2008/07/15(火) 09:24:01
>>351
へぇ。町や神宮守りきれなかった武士達への恨み節は記録に残っているし。
少弐入道はその屈辱を晴らすため老齢押して二度目の元寇にも出張っているぐらいなんだが。
353日本@名無史さん:2008/07/15(火) 09:35:06
そもそもしなくて済んだ戦。
鎌倉幕府のバカが、使者を殺害するなんて蛮行かますから。
チンギスハン時代のホラズムや高麗の例もある通り、これは相手を本気で怒らせる道義も何もない行為。
日本自身が招いた災厄。
354日本@名無史さん:2008/07/15(火) 09:41:24
勝てる相手に、町や神社を自ら焼いて黙っていた鎌倉武士?
贔屓の引き倒しって言葉しってます?w
355日本@名無史さん:2008/07/15(火) 09:56:21
文永の役の時は、鎌倉幕府もまさか元軍が水城まで到達できないほど弱いなんて想定外だったんだと思うよ。
だって「天命によって世界征服しています」なんて豪語する連中なんだもん。
だから水城籠城のためセオリーに従って行動した。
文永の役の後の日本人の感想は、「使者が来た時は大騒ぎしたけど、ぜんぜん大した事なかったね」。
356日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:00:14
昨日から今日で軍板のスレとこっちとで全然違う流れだけど
どっちも同じぐらい急にスレが伸びてるね。
どっちも普段は過疎スレなのになんでかな?かな?
357日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:01:29
「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ」(八幡大菩薩愚童訓)なんだけどな、実際は。
元軍に向っていった日本の武者や兵は、帰ってくるものは無いという有様。
「蒙古ヒタ破ニ責入テ今津早良百路原赤坂及乱入ケリ」
と、防衛が破られて敵が入ってきたと日本側でもいっており、自焼とかいう話などではない。
また高麗史を根拠にするのなら、「倭兵大敗、伏屍如麻」(『高麗史』金方慶伝)という相手方の主観も出さないのはアンフェアだな。
358日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:12:59
>>357
八幡大菩薩愚童訓って何の目的で書かれた文献?
八幡大菩薩愚童訓には異本が数多く存在してるけど、一体どの八幡大菩薩愚童訓?

という問題はひとまず置いておくとして、

『高麗史』金方慶伝の「倭兵大敗、伏屍如麻」は、上陸地点付近で松浦党が戦った時の記述だろ。
八幡大菩薩愚童訓だって「松浦党が多く討たれた」と書いてるじゃん。
その時の松浦党の損害は日蓮書状によれば数百人で、これが日本軍の戦闘による最大の損害。
八幡大菩薩愚童訓にも小弐氏の部隊に損害が出たとは一言も書いてないよな。
359日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:18:08
>>358
いや損害でたって書いてあるじゃん。
かかっていった者は帰ってこず、防衛線は破られ攻め込まれた。
これで損害が無い、とはどうみてもいえんじゃん。
それとも不死身の脳内鎌倉武士は、勝っていて損害ゼロなのに敵陣にお世話になって帰ってこず、土地や町・寺社を敵に明け渡してやったことになってるのか?w
360日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:21:34
「日大将軍」自らが殿軍務めて逃げないといけないほどだったしね。
361日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:25:26
勝っていたのに、不死身なのに町を焼かれ人々が拉致されるのを黙ってみていた鎌倉武士って最低ですね。贔屓の引き倒しが最低なのが実際だけどな
362日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:27:52
>>359
だからその「かかっていった者は帰ってこず」は松浦党で、小弐氏の部隊じゃないだろ。
元軍は夕刻に松原から壊走状態になっている。
ほぼ上陸地点に釘付けにされていたってこと。
その時、小弐氏の部隊はまだ博多を保持していたんだから、元軍に占領や放火をする時間などない。
363日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:33:43
>>362
都合の悪い事は全て松浦党のせいにしたいってことですね。わかります。
博多炎上等も無かった事にしたいんですよね。
364日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:38:05
有名な「日本のしきたりにしたがって鏑矢撃ったら、笑われ鬨の声と太鼓で驚かされた」件の、鏑矢撃ったのはその少弐一族なんですが。
当時の動員体制として、一族がばらばらで戦うなんてありえたんかいな?
365日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:41:44
>>363
都合の悪いとかそういう問題じゃないだろ。
「かかっていった者は帰ってこず」の文章はその後「松浦は勇みし故多く討たれた」と続いてるんだから、
普通に読めばそれは上陸地点付近で松浦党の戦闘の記述じゃん。
366日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:42:44
>>357
の戦闘描写があるのは十一月二十日の日付から。
松浦党は十四日までに壊滅しているからありえん。
どうやら脳内不死身鎌倉武士には松浦党や宗一族らは入れてもらえないらしい。
367日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:45:52
むしろ少弐氏本隊は退却に追い込まれ博多一帯を敵の手にわたし。
善戦したのは侵攻してきた相手を迎撃した赤坂の菊地勢等なんだけどな。
368日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:47:30
>>366
松浦党が多く討たれたという記述があるのは11月20日の戦闘の場面。
369日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:47:52
なんなんだこの悪い事は全て松浦党のせいだ! なヴァカは。
命懸けで戦った鎌倉武士の中には当然松浦党も入っているのに全部押し付けかよ。
よっぽど個人的恨みがあるんだろうなw
370日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:48:24
>>368
嘘乙。もういいよ、脳内のターミネーター武士での想像して悦にいってなさい。
371日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:48:47
>>367
博多一体が敵の手に渡ったなどという記述があるのなら出してみろよ
372日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:52:14
まて。どっちも勘違いしてないか?
松浦党、といっても佐氏氏等の氏族にわかれて戦ってたわけで、別に一箇所に固まってたわけじゃないぞ?
あと松浦党だけじゃなくて同時に原田氏らも元軍と戦って痛打されたとあるわけだが、こっちは脳内鎌倉武士からは除外されんの?w
373日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:55:26
博多は焼かれてない、もしくは日本側が自ら焼いた、とまた自説の脳内鎌倉武士は損害無く優勢に戦ってた論と根本から矛盾する妄想再発動?
374日本@名無史さん:2008/07/15(火) 10:59:20
「博多、箔崎ヲ打捨テ、多クノ大勢、一日ノ合戦ニタヘカネテ落チコモルコソ口惜ケレ」
(「八幡愚童記)

博多等を放棄して、大勢の武士が1日の合戦にも耐えかねて逃げたことはくやしかった、ということだそうだよ。
375日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:01:20
まず、『高麗史』金方慶伝では、日暮れ時刻に戦闘が終わったことになっている。
その時、小弐氏は博多をまだ保持していた。
あと、『八幡愚同訓』の正応本では元軍はその時刻、松浦の陣を捨てて退却したと書いてある。
これは、上陸地点そのまま。
『八幡愚同訓』では赤坂で元軍が菊池氏に撃退され後、日本軍に損害が出たという記述は皆無。
376日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:03:30
ギャグや反応面白くてやってる冗談かと思ったけど。
本気で博多や神宮が焼かれてないと思ってるのこいつは?
377日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:27:25
夕刻に松浦から退却した元軍が、夕刻まで小弐氏が保持していた博多を占領したり、放火したりするのは無理だろ。
地図を見て考えろよ。
378日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:30:55
ごめん
「松浦」→「松原」
379日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:31:57
この狂った鎌倉武士贔屓のあまり、同じ鎌倉武士である松浦党らはけなしてもなんとも思わないバカの妄想の通り。
博多まで攻め込まれて人々が拉致されたりしなければよかったのにねぇ。
現実はかわらんけど。
380日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:41:52
元軍が到達してないという珍説をとるとするなら、鎌倉武士が戦闘そっちのけで博多を焼いて略奪してたのなら辻褄あうんじゃないの?w

勿論冗談でいってるんだが。
381日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:46:26
松浦党をけなしてなんかいないだろ。
数百人とはいえ、松浦党は文永の役の日本軍の中で最大の損害を受けた。
その激戦の結果、元軍は大宰府にも水城にも指1本触れることなく撤退した。
文永の役勝利の最大の功労者は松浦党だと思ってるよ。
382日本@名無史さん:2008/07/15(火) 11:52:08
いい加減釣られるなよ。損害無しなんてありえないこと言う奴は。
383382:2008/07/15(火) 11:54:02
×いい加減釣られるなよ。損害無しなんてありえないこと言う奴は。

○いい加減釣られるなよ。損害無しなんてありえないこと言う奴はレス乞食に決まってるだろ。
384日本@名無史さん:2008/07/15(火) 12:51:17
日本側兵力は、参集が上陸直前までに間にあった武士の数のみの3千程度とされるが、当時の慣例からすると数倍の補助戦力が付く。
総兵力では元側と大してかわらん。予備兵力と予備物資調達の当てからいえば防衛軍のほうが圧倒的優位。
元軍が優勢に攻め立てつつも決定打を欠いて粘られ退却余儀なくされたのは当たり前の結果。
385日本@名無史さん:2008/07/15(火) 12:55:03
>>384
上陸からたった1日で退却して、粘られた云々はないだろ。
普通に劣勢だったから撤退しただけ。
背水の陣は優勢な軍が選択する戦術じゃないぞ。
386日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:03:42
>>385
そうだね。劣勢じゃなかったら、日本軍は水城まで全軍退却余儀なくされないもんね。
篭城頼みなんてありえないものね。
387日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:07:06
後世のガダルカナル戦での米軍司令官の述懐風にいえば
「元軍が逆の手順で来ていたら鎌倉軍は叩き落されていただろう」
というわけか。
敵失につけこむのも立派な勝利だ。恥じる事はない。
388日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:10:27
>>386
水城籠城は白村江以来、日本防衛の基本プランだよ。
何のために水城に兵糧蓄えていたと思ってるのさ?
最初から水城で元軍を迎え撃つつもりだったからだろ。
389日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:14:36
>>388
もしかして脳内鎌倉武士は無敵ださん?
じゃあなんで最初から篭って迎え撃たなかったの?
なんでそこまで相手を引き込む、とわかっているのなら非戦闘員避難させず大損害容認したの?
どうして肝心の戦の戦地にせず、負けて逃げ込んだ場所としてしか使わなかったの?
390日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:17:28
>>374
まさに
くやしいのう くやしいのう な事態だったんだな。
そして後世はその反動として自分たちで町神社焼いたサイボーグ鎌倉武士を妄想する奴まででてきたと。
391日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:26:34
>>389
籠城戦のセオリーは敵に拠点にされたり、補給物資を奪われたりするのを防ぐため、城外の家屋などを撤去すること。
まず、人口や物資の多い博多に進出し、住民を避難させ、その上で焼き払う。
全部水城篭城のための準備じゃん。

それから、文永の役については、日本、元、高麗、関係国全ての史書が「元軍が戦って負けた」と書いてるんだからな。
392日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:36:56
>>391
つまり鎌倉武士は自分たちで街を焼き神社を焼き、領民を拉致(避難ってどっから?w)したと?w
やっぱり脳内無敵鎌倉武士さんだったのか。無駄したな。
393日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:39:03
鎌倉武士無敵論のためなら、その武士が他ならぬ日本人に蛮行働いたtことにするおかしな人の相手まだしてたのか?
394日本@名無史さん:2008/07/15(火) 13:51:40
同様のことは、古今東西、籠城戦なら普通に行なわれることだろ。
別に蛮行でも何でもない。
395日本@名無史さん:2008/07/15(火) 14:00:24
白村江の水城籠城ってなんだ?
確か上毛野君稚子、間人連大蓋ら率いる倭の中軍(第2波派遣軍)2万7千が多数の舟で白村江へ来襲
左威衛将軍孫仁師率いる僅か7千人170隻の唐軍に攻撃を仕掛けた
倭軍は風向きも見ず単純で無謀な突撃を4回も行い、倭舟400艘を焼かれ、倭軍惨敗
当時高句麗討伐で大軍が出払っていた唐・新羅軍で百済に駐留していた軍は他に
唐の中郎将劉仁願率いる唐軍1万と新羅の王子仁泰率いる新羅軍7千しかいなかったが
陸戦においても僅かな兵で倭の前軍(第1波)派遣軍の大軍を撃破した

これが一般的な白村江の戦いの流れだが
倭軍がいつ水城籠城なんかしたんかね
よかったな新羅がその後唐に反抗して
もし新羅が反抗していなかったら倭は唐に軽く制圧されたんじゃないか
396日本@名無史さん:2008/07/15(火) 14:02:57
>>395
水城が築かれたのは白村江の後、唐の侵攻に備えるためだろ
397日本@名無史さん:2008/07/15(火) 16:10:34
>>395
それはいくらなんでも大袈裟。
敵地侵攻のための輸送船を多数抱えた倭軍と、迎撃目的で編成されて
戦闘艦艇が大部分の唐軍の戦力を一律に比較すること自体が誤り。
しかも陸戦の倭の大軍ってどこのゴースト部隊よ。
398日本@名無史さん:2008/07/15(火) 16:42:26
阿雲比邏夫連や廬原君臣健児の軍だろ
言っておくが百済駐留の唐・新羅軍1万7千は倭軍だけでなく各地の百済の反乱軍とも交戦し分散していたから
倭軍に対した兵力もさほど裂けなかっただろう
399日本@名無史さん:2008/07/15(火) 16:44:54
>>397
元寇のときは丸っきり逆の事言って罵倒しておきながら


ほんと都合いいやっちゃなぁ
400日本@名無史さん:2008/07/15(火) 17:01:36
>>397
バッカじゃねぇの
戦闘艦とわかっていて輸送船が突撃してくるんだぁ

ひっぷの勇というよりはピッグの勇だな
倭豚
ブ〜〜ッ
401日本@名無史さん:2008/07/15(火) 17:03:07
かつては狂信者、今はバカサヨが
ことさら鎌倉武士の功績を貶めるのに汲々としているようだ。

元軍は上陸途中の小島を2つくらい落としただけで、
本土は侵攻はその日のうちに撤退。
そしてこれは戦術的な退却ではない。
そうであるならば、幾日も次々に波状攻撃が続けられるに違いない。

そうではなかった、ということはどういうことか。
単純なこと。
戦意喪失。
ボクシングでいうなら、一回戦を終わったところで棄権したということ。
後から何とでも理由はつけられるが、結局はそういうこと。

我が神仏のおけげで元軍は撤退した、というのも日本側の狂信者の理由付けと同じ。
平和外交をしない鎌倉幕府が悪いという、バカサヨの理由付けも似たようなもの。
402日本@名無史さん:2008/07/15(火) 17:06:18
わけわかぁんな〜い
ブゥ〜〜ッ
403日本@名無史さん:2008/07/15(火) 17:13:09
【竹島問題】

◆半世紀前まで韓国が日本領として認識していた竹島
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=1111904&start_range=1111869&end_range=1111904


548 可愛い奥様 New! 2008/07/13(日) 17:45:16 ID:Rk2aB6yL0

アメリカが「竹島は日本領」と、韓国大使に最終回答。これが「ラスク書簡」の原本です。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1670953

国会図書館で原本を発掘された方に敬意を表します。
是非コピペして広めてくださいね。
404日本@名無史さん:2008/07/15(火) 17:30:47
>>395
その理屈で言うと、文永の役で4万、弘安の役で14万の元軍が惨敗した元寇の後、日本が大陸へ侵攻していたら、
元や高麗は日本に軽く制圧されたんじゃないか、ということだな
405日本@名無史さん:2008/07/15(火) 18:02:52
>>400の脳内資料には、倭艦隊の 全 船 が突撃を敢行したと記されているそうですww
406397:2008/07/15(火) 18:03:54
>>399

元寇で俺が言った逆のことって何よ?
ここに書いたの今日が初めてなんだけど?
407日本@名無史さん:2008/07/15(火) 19:06:17
>>405
ほぉ、そうかい
じゃあ400艘焼かれたから倭船団は4000艘ぐらいあったんかい
4回も突撃したんだろ

蟻並のノーミソで良く考えろよ
体はどうせ豚並だろうけどなw
408日本@名無史さん:2008/07/15(火) 19:26:31
流れが早いと思ったら、昼間は異常な鎌倉武士マンセー・夜はなりすまし三国人が無意味レスしまくってるだけかよw
409日本@名無史さん:2008/07/15(火) 19:32:18
戦闘で負けても、弾切れに相手を追い込んで戦闘継続意図を挫いたんだから日本の勝利には違いないのに。
何故、史実を無視して自分たちで焼いたw とか爆笑モノの珍説をたてなきゃならんのか。
410日本@名無史さん:2008/07/15(火) 19:52:22
>>408
こんな過疎板じゃ自演で伸ばしてもすぐバレるのにねw
411日本@名無史さん:2008/07/15(火) 20:10:45
なんで急に変なのがわいて来たのかな? かな?
412日本@名無史さん:2008/07/15(火) 22:20:22
軍板で袋叩きにあった三国人が、自作自演し放題なここで糞レスを連投してるだけ。
413日本@名無史さん:2008/07/16(水) 04:28:32
別スレでも、しばらく前まで鎌倉武士絶対マンセーな牽強付会っぷりに辟易していたんだが、
(あげくに資料的にも確認出来るチンギス・カン時代の陸上での兵站輸送を、不可能・妄想
 だとかトンデモなこと言い出して閉口することこの上なかったが)やっぱり日本史板的にも
かなり特異すぎる主張の持ち主なのね。
414日本@名無史さん:2008/07/16(水) 04:52:45
鎌倉武士が最強かは知らんが、元、高麗軍が苦戦してたのは確かだな
415日本@名無史さん:2008/07/16(水) 05:03:23
で、博多を焼いたのはどっち?
416日本@名無史さん:2008/07/16(水) 08:21:58
元軍の数的主力は、漢軍と称される中国人の中国式軍隊、及びそれに影響を受けた高麗軍。
この軍制は重装歩兵・軽装歩兵・砲兵など諸兵科がありバランスが取れたものだったが、投射兵器である弓は軽装歩兵が主体で装備していたぐらいで、決して装備率は高くなかった。
元直轄の騎兵なら馬上用短弓を多数装備していただろうが、比率は遠征では低い。
一方、鎌倉武士団は愚管抄の記述を信じるなら、本来非戦闘員の人夫すら弓矢を携帯して戦うこともあったそうだ。
仮にいわれるように総数自体はさほど遜色無い、とすると弓矢装備率は鎌倉方が上。
元軍の輸送は船腹頼みしかないので、優勢を保つために携帯していた矢を使い果たしても不思議ではない。
417397:2008/07/16(水) 08:37:53
>>407の脳内では、戦闘艦艇は輸送船団を一切攻撃しないことに
なっているらしいな・・・




豚(笑)
418日本@名無史さん:2008/07/16(水) 08:42:14
>>409
何で元軍が戦闘に勝ってたことになるんだよ?
元史にも高麗史にも「戦って負けた」と書いてあるだろ。
蒙古襲来絵詞でも、元軍は武士の集団戦法に歯が立たず、逃げ回るのが精一杯。
419日本@名無史さん:2008/07/16(水) 08:49:21
>>415
元軍。日本軍が水城に撤収した後、夜までにかけて好き勝手やってたらしい。
遠くからも博多が燃える炎が見えた、とか記録があちこちにある。
420日本@名無史さん:2008/07/16(水) 09:07:13
>>419
元軍は夕刻に戦闘解除して撤退したことになっている。
その時間は船の中だよ。
421日本@名無史さん:2008/07/16(水) 09:19:53
八幡愚童記によると、元軍主力を博多湾で迎撃した日本軍本隊は
少弐・大友・白杵・戸次・松浦党・菊池・原田・小玉党の諸武士団、さらには「神社・仏寺ノ司」まで動員されて数万に及んだそうです。
古来の文書の書き方としてどうも部署や時系列がはっきりしないが、数的には互角だった可能性は高い。
422日本@名無史さん:2008/07/16(水) 09:31:13
>>349
当時の鎌倉武士の功名基準ってよくわからん。
日本軍が緒戦で不利になっていく中で、敵中突撃して部下を失い、本人達だけ命からがら死体の中から逃げてきた菊池重基・侘磨頼秀(いずれも「騎」だけで百余を従えていた)らすら武名上げた扱い。
それぞれ部下多数を討取られているのに……。
423日本@名無史さん:2008/07/16(水) 09:36:02
>>422
菊池の部下はほとんど討ち取られていない。
赤坂での戦闘の後、竹崎季長が菊池と挨拶を交わしているが、その時の部下の数は戦闘前と同じ100余騎。
424日本@名無史さん:2008/07/16(水) 09:47:31
>>422
勇敢な行為を皆の面前でやったか、が大事であって。
具体的な戦功ないし損害の局限はあまり問題じゃなかったんじゃないの?
首とって手柄云々はあるが、激戦にもかかわらず部下を失わなかったぞということが注目されたことは日本史上ではまず皆無。
425日本@名無史さん:2008/07/16(水) 09:56:08
蒙古襲来絵詞 詞書

「葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、
太刀と薙刀の先に貫きて、左右に持たせてま□□□と由々しく見へしに、「誰にて渡らせ給候ぞ。涼しくこそ見え候へ」と申に、
「肥後国菊池次郎武房と申す者に候。斯く仰せられ候は誰ぞ」と問ふ。「同じき内、竹崎五郎兵衛季長駆け候。御覧候へ」と申て馳せ向かふ。」

「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く。」

菊池は100余騎の部下をほとんど失わず、元兵の首をとった上で敗走させてるんだから、武名上げた扱いされるのは当然。
426日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:03:47
元軍の引き込み戦法に、「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ」な損害を出したのに、臆しなかったのは結構だが対策もたてず、むしろ
「少しの記述に怯えて退き腰になるとは何事か」とぶち切れて突進するあたりが鎌倉武士の恐ろしさ。
後世、この血を受け継いだ日本軍は、万歳突撃で全滅することを美化することに。
427日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:05:08
鎌倉武士は不死身だよ君が完全スルーされているのにしつこくレスしているのが一番の笑いどころ
428日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:08:20
>>427
史料に裏付けられた事実には反論しようが無いからだろ
429日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:11:10
「菊池次郎計被打漏テ、死人之中ヨリ起上リ、頸共餘多取以、城之内ニソ入ニケル」
(八幡大菩薩愚童訓)

敵の首とってるし。
当時の武士は家社会をそのまま軍に持ち込んでいたわけで。
主が打たれたらどらだけ勝っていようが負け。逆なら負けではない。
430日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:24:47
>>426
しかし日総大将・少弐景資は、このままばらばらに戦ってたら駄目だ、と水城撤収を決意して自ら殿軍務めているわけで。
玉砕思想とつなげるのは乱暴じゃ?
むしろ旧軍より頭いいぞw
431日本@名無史さん:2008/07/16(水) 10:41:59
>>429
つまり竹崎季長は武士の情け=身内庇い、で圧勝したように描写したわけか。
432日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:08:36
あるいはどっかから郎党借りて帰る時だけ立派なように装ったとかな。
433日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:30:49
>>420
またこれに対しての反論がないのか・・・
434日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:41:20
>>426
プッ
435日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:51:06
敵ではない農民殺して手柄にする偽首はこのときも横行してたの?
436日本@名無史さん:2008/07/16(水) 12:56:59
>>430
旧軍にしたって、逃げ場のない太平洋の小島でもなけりゃ
普通に撤退してるって。

あとま、敗軍における死者の大部分は撤退中に発生する
という戦史上の原則も考慮すべきかと。
437日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:08:18
「家々ノ燃ル焔ノ海ノ面ニ移レルヲ海中ヨリ猛火燃出ルト見成テ蒙古共肝心ヲ迷ハシテ我先ニ逃ントハ
後ニ生取レタル日本人帰レルト又彼蒙古カ一同ニ申上ハ更ニ誤不可有。」
(八幡大菩薩愚童訓)

元軍は自分で放火しておきながら、家々が燃える炎が海面に映るのを見て、怖くなって壊走したの?
バカ?
438日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:27:22
>>435
無敵鎌倉武士が、勝っていたにもかかわらずなぜか自分で町を焼いた説なら説明つくな、それでw
住民は元軍に殺されたり拉致されたのではなく、偽手柄欲しさの鎌倉武士に殺されたと。


ありえないけどな、まず
439日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:34:48
「蒙古ヒタ破ニ責入テ今津早良百路原赤坂及乱入ケリ
異国之者合戦何事カ可有ト平安之敵トアナツリ思テ妻子眷属ヲ隠置ニ不及シテ有シカハ
家々ニ乱入テ数千之妻子共ヲ取ニケリ」
(八幡愚童訓)

日本軍を蹴散らした蒙古兵が、異国との戦を甘く見て残されていた子女らを略奪したのが実際。
440日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:41:51
鎌倉武士は敗北はしたが、決定的大敗はせず大宰府陥落を防ぎ、
元軍大将に「このまま増員していくであろう敵と闘うのは得策ではない」と引き上げを決意させた
戦術で負けて戦略で勝ったわけだ。
441日本@名無史さん:2008/07/16(水) 13:56:57
勝ちは勝ちなのに、完全無欠絶対勝利、被害は敢えて自分たちの手でやったもんだと妄想する意味がわかんない。単なるレス乞食か?
442日本@名無史さん:2008/07/16(水) 14:46:22
レス乞食ってわかってるなら相手にするな。
そのうち軍板にまた帰る。またあっちでも無視されて帰ってくるかもしれんがw>無敵鎌倉武士論者
443日本@名無史さん:2008/07/16(水) 15:49:05
朝鮮と組んだら必ず負ける。それが歴史の教訓。
444日本@名無史さん:2008/07/16(水) 16:35:50
筑紫哲也が、博多湾に沈んだ元の船を発見したニュースで
「歴史のロマンですねぇ〜!」と嬉しそうに笑いながら発言したが、
豊臣秀吉の朝鮮出兵に対しては「歴史をしんしに受け止めなくてはいけません」
って神妙な顔で言ってた。
それを見て、俺は筑紫は狂ってると思った。
445日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:24:00
さんざん八幡大菩薩愚童訓を引用しておきながら、その中に博多に放火したのが元軍ではないことを裏付ける記述が
存在する事を指摘されると、話題をそらすことしかできない・・・
自分たちには史料を読み解く能力が無いって暗に認めているようなものだな
446日本@名無史さん:2008/07/16(水) 23:48:55
>>444
思うのが遅い。
447日本@名無史さん:2008/07/17(木) 03:10:27
>>445
『八幡大菩薩愚童訓』って甲種本の一類二類のどっちだっけ?
>甲種本の特徴。1)推定1309-1318年(延慶元年-文保 2年)編纂、2)蒙古襲来に際し、
>八幡大菩薩の霊験を説くのが話のメイン。
>文永の役における対馬・壱岐への侵攻に関する記述が具体的なのが一類、そうでないのが二類

岩波の『寺社縁起 日本思想大系20』の「八幡愚童記 甲」上は、岩清水八幡宮蔵の菊大路本を底本に
京都大学本とかで補いながら校訂されているそうだが、「上」の本文の末尾でいつのまにか社殿に火が回って
御神体を御輿にも載せる暇も無く、唐櫃に入れて運び出したとか書かれているけど、ここら辺の経緯って
自分はそんなに事情を知らないのでアレだが、愚童訓の諸本で記述のされかたの違いとかあるんだろうか?

>>437
何となく、文意としては八幡大菩薩の神威の顕現で出火したため、異賊が神威の宿る火勢に恐懼したって
ことで、実際に蒙古軍が社殿が延焼する様を見ていたとか何とかは関係ありませんよとか中世思想史を
専門にやっている人に言われそうな気がして来たw
448日本@名無史さん:2008/07/17(木) 08:03:58
>>249
軽騎兵の定義ってのは「装備」の問題じゃなくて「運用」の問題だと思うぞ?

軽騎兵の運用が何か、っていえば、軽快な機動力を生かしてあらゆる地形を
踏破し、偵察や追撃を行うことに尽きる。
そうである以上、「軽騎兵に同伴する兵士はすべて軽騎兵でなくてはならない」
という原則は簡単に導ける。鈍重な歩兵や重装騎兵を連れていたんじゃ、
せっかくの機動力が殺されちまうからな。

で、この原則から判断するなら、リンク先の絵に描かれている騎兵は軽騎兵ではなく
「軽騎兵と共通の武装を備えた歩兵部隊指揮官」
って考えるのが妥当だと思う。
ただしこの結論は、騎兵と歩兵が同じ部隊に所属していると仮定した場合の
話だけどな。もし騎兵と歩兵が別部隊で、鎌倉武士に仲間を殺されながら
追い立てられるうちに合流しただけだったならば、その騎兵が軽騎兵
(おそらくは壊滅した部隊の生き残り)である可能性も残っている。
449日本@名無史さん:2008/07/17(木) 11:13:38
元軍が使った石弾の実物が残っているが。
対南宋戦で猛威を振るったペルシア式カタパルトの回回砲も持ち込んだんだろうか?
土塀で高く囲んだ大陸式城市を攻めるのならともかく、野戦じゃあまり効果なさそうだが。
450日本@名無史さん:2008/07/17(木) 12:54:21
回回砲なんてどうやって持ち込んだんだろう。
艦載兵器だったんだろうか。
451日本@名無史さん:2008/07/17(木) 12:59:38
>>447
日本側が受けた損害と違って、なぜ元軍がせっかく占拠したところ放棄して後退したかなんて日本側から確認する手段ないからね。
信心が当たり前だった当時、神様のお陰と思っても不思議はない。
実際、京都まで元軍撤退したのは白装束の神人が出てきてやっつけてくれたお陰だよ、という噂が伝達されているほど。
452日本@名無史さん:2008/07/17(木) 14:13:06
八幡愚童記にはっきり明記された日本側損害は頑として信じないのに、
非現実的な部分だけ取り上げ、しかもそれを一行もそんなこと書いてない日本軍自ら火をつけたという妄想の根拠とするとはなんという脳内麻薬分泌ぶり
453日本@名無史さん:2008/07/17(木) 14:23:43
これは酷い

写真 (犯罪者と書かれたプラ看板)
http://imgnews.naver.com/image/079/2008/07/16/16181100828_61000020.jpg
http://imgnews.naver.com/image/001/2008/07/16/PYH2008071607900001300_P2.jpg


【竹島問題】ソウルの日本大使館前に集結した韓国デモ隊、「アキヒト日王」(天皇陛下)の写真を燃やして抗議 ★2 [07/16]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1216268909/l50
454日本@名無史さん:2008/07/17(木) 14:51:29
なんだ元軍が焼いたっていう証拠も無いのか
455日本@名無史さん:2008/07/17(木) 16:54:42
神風は実力。
1ヶ月以上も上陸させなかったのは実力。
そりゃ台風シーズン真っ盛りの中、長期に渡り海上にいたら結果はわかるよな。

神風が吹かなくても、99パーセントは日本の勝ちだよ
1月以上も上陸出来ないで海上にいわけだろ?
そりゃ疫病になるわ、士気はむちゃくちゃ低下するわで
万が一に上陸したとしても呆気なくサムライに切り殺されるのは火を見るよりあきらか。
456日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:15:59
文永の役での高麗軍の動きについては不分明な点が多いが
実は「高麗史」の中に高麗軍の惨敗を示俊するような文があるんだよな

たとえば高麗は元に命じられて二次遠征の準備にとりかかるんだけど
一次遠征の時に半数しか帰ってこなかった上に帰還した兵士達も
兵器と甲冑を全て日本に棄てて来たから新しく募集する兵士のみならず
一次遠征の生き残りの分の兵器と甲冑まで準備しなければならないと嘆いている

因みに当時の東アジア大陸の戦いでは戦闘に負けて壊走する場合、甲冑を脱ぎ棄てながら
逃げる事が多かった(もちろん兵器も棄てる)

もし高麗軍が勝利したならば、どうして兵器と甲冑を棄てなきゃならなかったんだ?
457日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:30:42
>>456
この「高麗史」の内容を考えれば船に帰還した高麗軍指揮官が
何故あのような強硬な態度をとったのか納得がいく

高麗軍が実質的な戦闘能力を失った時点で、このまま帰還すれば
敗戦の責任を(元軍が負けたものまで)全て被って処罰されるのを恐れたんだろう

だから、船を焼いて断固決戦すべし!などと主張してあくまで自分は
戦いを継続したかったと逃げ道を作っている
458日本@名無史さん:2008/07/17(木) 22:57:05
>>447
『八幡大菩薩愚童訓』は別名『筑紫本』。
『寺社縁起 日本思想大系20』の解説では、二類に分類されている。

『八幡大菩薩愚童訓』の「蒙古が家々の燃える様子を見て壊走した」という記述が、八幡大菩薩の神威を強調するためのもので、
信用できないと言うのなら、当然他の部分は本当に信用できるのかってことになると思うけど。
他の部分も、八幡大菩薩の神威を強調するために、デフォルメされてるんじゃないかって。
菊池次郎について、『八幡大菩薩愚童訓』では部下の大半を失ったように書かれているけど、『蒙古襲来絵詞』では手勢100余騎を
率いてピンピンしてるでしょ。

『八幡大菩薩愚童訓』→非現実的な記述のある宗教書。
『蒙古襲来絵詞』→実際に現場に居合わせた人物による一次史料。

この二つの史料の比較で、一体どういう基準を適用すれば、『八幡大菩薩愚童訓』を信用できる?
459日本@名無史さん:2008/07/18(金) 11:26:26
非現実的宗教本、と頭からレッテル張りの全否定した本の記述の一部分だけをなぜか根拠に、全くの妄想でしかない自焼説が証明されたよと慶ぶバカは駄目ってことですね? わかります
460日本@名無史さん:2008/07/18(金) 11:35:33
少弐氏の19歳に過ぎない資時が、危険な孤島に放り出されたのは文永の役で敗走し、街や寺社を無残に敵の手に任せたという批判に対するための人身御供なんだろうか?
批判された当人の一人・資能も弘安の役に老病押して出陣し、戦傷が元で死亡しているし。
461日本@名無史さん:2008/07/18(金) 11:47:32
それなりに手柄立てた少弐氏がそれなら、同じ責任者でありながらあまり軍功もなかった大友氏への風当たりはさらに強かっただろうな。民衆から恨まれ狂歌で揶揄された上、幕府からも譴責の文書喰らっているし
462日本@名無史さん:2008/07/18(金) 11:56:47
「戦場に臨んで進み戦わず、中には当境を守ると言い第一線に出ない者が多いと聞く。甚だ不忠者である。此等は厳科に処するので夾名を報告せよ。これらのことを全軍に通達せよ。」
(建治元年 幕府の大友氏宛文書より)

文永の役で、総兵力で遜色なく上陸してくる相手を迎撃するという有利な戦いにも関わらず敗走したのはこういう手合いが多かったからだろ。
463日本@名無史さん:2008/07/18(金) 12:01:15
>>462
それ、最近の研究では偽書ってことになってるらしいよ
464日本@名無史さん:2008/07/18(金) 12:05:12
蒙古襲来絵詞は、後年になって竹崎季長が絵師に書かせたもので、一次史料ではないわけだが。
465日本@名無史さん:2008/07/18(金) 12:11:47
絵詞はオリジナルは散逸し、写し(それも書法の違いから捏造や改竄の疑いがある)があるだけだしな。
身内贔屓の可能性はある。
部外者の記録と違って。
466465:2008/07/18(金) 12:12:45
ごめん。記憶違いした。改竄の可能性はあるが、絵自体は中世期のものとされている。
467日本@名無史さん:2008/07/18(金) 12:21:36
原本にも改竄が確認されてたんだっけ? 所蔵者の大矢野氏がいじくったやつ。現状では切れ切れの場面のどっかがみ使ったら、また話は変わるかもね。
468日本@名無史さん:2008/07/18(金) 12:55:20
歴史を偽装する会のウヨ思想の汚染力は凄まじいな。本人達は学術的ではない、とまで言われて分裂内ゲバに必死な状態なのに、なおそれを信じて徹頭徹尾日本ヽ(´ー`)ノマンセーな奴が複数の板で必死とはW
469日本@名無史さん:2008/07/18(金) 13:11:03
>>468と自国歴史全部が捏造の朝鮮人が申しております
470日本@名無史さん:2008/07/18(金) 13:25:05
>>468
煽るだけならよそ行ってくれねえかな
471日本@名無史さん:2008/07/18(金) 13:33:38
早速過敏反応か。やっぱり図星だったわけだな>作る会の洗脳
472日本@名無史さん:2008/07/18(金) 14:11:33
元寇はモンゴルにとっては惨敗以外の何ものでもない。
あれだけの大軍をようしながら、一日だけの上陸作戦なんて、
戦史の上からも噴飯ものだろう。あげくの果てに海の藻屑。
それをああだこうだと脳内否定しようとやっきになってるのは、
チョンかバカサヨのみ。
このところちょっとうるさ過ぎ。
473日本@名無史さん:2008/07/18(金) 22:50:42
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20080717

日本が蒙古に勝ったのは、韓国人は日本の友達を攻めるのが嫌で
手抜きの船を造ったからだそうだ。そして、それを日本に感謝してほしいそうだ。
474日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:21:12
>>464
あれが一次史料でないというなら、世の中に一次史料なんてものは1つも存在しない事になるだろうな。

475日本@名無史さん:2008/07/18(金) 23:39:51
>>471
そういうお前がこのスレ自体に過敏反応だろ
朝鮮人が図星だったのか?
476日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:06:27
>>472
弘安はもちろん文永ですら事実関係をまともに見れば、蒙古側の完膚なきまでの惨敗という評価以外
下しようがない。
ところが奇怪なことに戦後日本の歴史学では、そのチョンかバカサヨの脳内妄想が主流としてまかり
通ってきたわけよ。

もちろん初めに結論ありきのイデオロギーに脳を冒された連中に事実を基にした議論など出来ないから
やることといったら>>468のような糞レスを貼ることだけ。
477日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:27:26
いやいや、太平記も
「蒙古を撃退することが出来たのは、我が国の武勇によるものではなく、神様の手助けのおかげ」
と言ってるんだから、
そういうことなのだろう
478日本@名無史さん:2008/07/19(土) 12:27:51
太平記なんて元寇から1世紀近くもたってから成立した文献。
明空が1301〜1319にかけて集成した宴曲の中の真曲抄「祝」

「西戒は浪路のすゑの 泡と消えては跡なき泡、武は又梓弓、真弓槻弓取々に、其勢にやなびくらん」

蒙古撃滅の例をあげて幕府の武力、威勢を讃えてるんだから、
そういうことなのだろう。
479日本@名無史さん:2008/07/19(土) 13:25:13
文永の役で天候の荒れが無かった説も、昭和に入ってからの50年を参考に、しかも神風=台風と決め付けて否定した説だからね。
有為な検討とはいいがたい。
日本側朝鮮側双方の記録に暴風雨は記録されているわけで。
世界に先駆けて水密構造を用いていた中国式の船舶ならともかく、当時の日本や朝鮮の船ではやや強い程度の荒れでも致命打になりかねん。
480日本@名無史さん:2008/07/19(土) 14:18:32
八幡愚童訓によると、文永での日本側総兵力は10万騎に達したそうです。
無論、全てが間にあったとも思えず、また通例の御家人のみを数えた数字としてはあまりに過大なので、
郎党や非御家人も頭数に入れたものと思われるが。
仮に元軍が留まっていても、物量差で勝てただろう。
日本側もそうだが、元も相手の戦力を完全に測り損ねていたな。
481日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:43:19
ヴェトナムでもジャワでも軍事的に敗北している元軍。やはり海等防御効果は大きい
金や南宋は、完顔陳和尚や孟キョウといった名将が何度モンゴル(元)軍を撃破しようがやられてしまったのにね
482日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:05:22
元軍は自軍を傷つけないために大陸に温存し
僻地を攻める際には征服した国々の民を当てたんだよ
古来征服されまくりの朝鮮人とかね
当然征服した民は元のために戦う気力などなく
もとからやる気がなかった
元軍が誇る自国民騎馬軍団が
船に乗ってやってきたわけじゃないんだよ
483日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:38:36
>>481
フビライが死んで、第三回以降の日本攻撃は沙汰止みになってくれたしね。
484日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:45:32
いつもの人が居ないと元気になるね
485日本@名無史さん:2008/07/19(土) 18:26:06
>>479
>当時の日本や朝鮮の船ではやや強い程度の荒れでも致命打になりかねん。
なりかねんてな、君。

実際に当時の日本と宋と高麗の船を造って、それらに三角波をぶちあてる実験すら日本歴史学界は行っていないのか?
486日本@名無史さん:2008/07/19(土) 19:36:09
>>478
それ、別に幕府の武力、威勢を讃えてるわけじゃないから
487日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:08:17
KAMIKAZEのお陰でベトナムも助かったね!
488日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:27:25
結局、どっちが博多を焼いたのか解らないんだね
489日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:56:38
>>462-463
偽書は偽書なんだけど、室町時代くらいに大友氏の権威に箔を付けるよう
一部改竄を行ったものらしいけど、幕府が文永の役での兵士の逃亡の報告を受けたため、
九州における御家人の統制を強化するよう鎮西東方奉行の大友頼泰に下達した、って
地の部分はオリジナルに近いだろう、ってのが最近の説だとか聞いたけど。

>>476
> 事実関係をまともに見れば、
資料的問題に阻まれて言う程には事実関係がいまひとつ良く分からないから、蒙古軍圧勝から
鎌倉武士最強まで、ここを含めて関連スレですら評価が両極端に飛びまくっている訳だがw
(是が非でも鎌倉武士最強と言い立てているのは極一部の人間だけみたいだが・・)

>>483
弘安の役の翌年からクビライの晩年まで政権転覆レベルの騒乱が2回もモンゴル宮廷内部で
勃発していて、とても弘安の役レベルの外征は不可能だったから、というのが根本原因。
一つは弘安の役の翌年、1282年の皇太子チンキムのクーデター事件と、もう一つはチンキムが
没した翌々年の1287年から1293年頃まで興安嶺一帯を中心にカラコルムから高麗王国まで
満遍なく巻き込んだ東方三王家のナヤンおよびカダアンの乱。

ナヤンはクビライが親征してきて瞬く間に鎮圧されたけど、クビライが東方三王家の当主位の
改廃を行った後に、カチウン家のカダアンがこの人事に異を唱えてなおも小興安嶺一帯を転戦、
1290年に入って高麗王国に落延び、1293年頃までこの一派は高麗の諸城を占拠するなどして
なおも騒乱は続いた。

クビライ政権側としては三回目の侵攻はかなり本格的にやるつもりだったらしいけど、肝心の
前線基地である高麗内部で重大な紛争が続いていた。つまるところクビライの生前には二重三重に
王朝内部の問題を抱えていたので実現不可能だった、というのが実際のところみたい。
490日本@名無史さん:2008/07/20(日) 01:13:37
軍板から面白い書き込みを拾った

232 :名無し三等兵:2008/07/14(月) 20:48:39 ID:???
>>165
上は歩兵と敗走する指揮官にしか見えない。
下も矢筒や刀剣の位置などから考えてもモンゴル・テュルク系の騎兵にはぜんぜん見えないし弓を持ってない騎手すらいる。
そしてモンゴル軍のドクトリンにおいて決定打を与える存在の装甲騎兵がまるで見られない。
モンケの南宋遠征と同じく主力は漢人、女直人、高麗人ではないのか。

そもそも元寇の史料は陸戦に関しては断片的な記述しかなく、結果だけが書かれてる物が殆どなので憶測だらけになってしまう。
元軍の内騎兵が何割を占めていたのかすら解らないのだ。

233 :名無し三等兵:2008/07/14(月) 20:50:08 ID:???
残っている絵を見る限り、モンゴル弓って複合素材のリカーブボウだし
リカーブしてない和弓に比べて、そんな圧倒的に威力が劣っていたとはとても思えない、
それどころかむしろ威力は強かったって考える方が自然だと思うんだけれど
491日本@名無史さん:2008/07/20(日) 01:15:11
316 :名無し三等兵:2008/07/17(木) 20:08:40 ID:???
>>303
自分は見てないがディスカバリーの元寇を見た人のblogによれば
弘安の末期に回回砲を積んだ船が到着したとのこと
同時に台風で全艦沈没で実際に使われることはなかったとのこと
番組内では潜水カメラにより回回砲が結構見られたとの事
間に合ってたら保塁を巡る戦いの展開も変わったのではないかとか感想あったな

317 :名無し三等兵:2008/07/17(木) 20:14:53 ID:???
あと文永についてなんだが
かなり前たまたま図書館で読んでた際に
元軍の人種比率は高麗兵が多かったという話があったよ

元軍は漢人・金・色目などの混成だと思いがちだが
あの場合については元の高級将校にも高麗人が結構いて
元に帰化した高麗兵や将校、更には「在元高麗人」とでもいうべき
元領内で育った高麗人からなる集団だけの兵もそのまま組み込まれていて
高麗軍とは別に元軍そのものが高麗人をかなり抱え込んでたんだとさ
492日本@名無史さん:2008/07/20(日) 01:35:52
はいはい運が良かった運が良かった
493日本@名無史さん:2008/07/20(日) 07:52:32
「南蛮には虫を従へ、西羌には羊を従へ、北狄には犬を従へたり。東方は君子国なりとて
獣を従へず。其上天竺・震旦・日域の中には、日本人心もたけく、弓の力餘国にすぐれたり。
故に夷の字をば名づけたる也。夷は弓の字に大の字書入たる形なり。されば夷の字は本朝の
弓箭に携る人の眉目なるべし。」
(鎌倉末から南北朝期の儒学者玄恵)

元寇で実際に元軍と戦った当時の人たちが「日本は弓の力が諸外国よりも優れている」と認識してるんだから、
弓の性能は日本の方が優れていたということだろ。
494日本@名無史さん:2008/07/20(日) 19:16:39
>>489
3〜4万もの兵力を動員して九州を制圧すべく太宰府を目指したにもかかわらず、太宰府攻略どころか
現地守備隊レベルの敵に海岸線に釘付けにされて全く侵攻できず、わずか1日の戦いで矢を撃ち尽く
し、橋頭保の維持すら放棄して夜陰に乗じて撤退を図った挙句、難破して多大の損害を出した。
これが明確な事実関係だ。

軍事的には明白な惨敗でそれ以外の結論など出しようがない。
にもかかわらず無理やりそれ以外の結論を出そうとする連中が存在し、マルクス史学に牛耳られた戦
後の歴史学会ではむしろそういう連中が主流を成すという異様な状況がまかり通ってきたわけよ。
495日本@名無史さん:2008/07/20(日) 20:57:41
元・高麗「今日はこのへんにしといてやる」
496日本@名無史さん:2008/07/20(日) 22:54:03
自分たちから鎧や弓矢を捨てて敗走したら、確かに「官軍整わず、又矢尽き」だよな・・・
497日本@名無史さん:2008/07/21(月) 06:48:19
文永でも苦戦してんの元、高麗軍じゃん…
498日本@名無史さん:2008/07/21(月) 11:57:15
3万もの大軍を擁して一日の戦闘で矢が尽きた、
なんていうのは下手な言い訳でしかない。
それを真に受けて、文永の役は示威行為でしかなかった、
なんていう馬鹿な説があるが、
もしそうだったら、その10分の1の兵力でさっさと引き上げる決まってる。

アホな学者?が多すぎ。
考える頭がないのかね。
499日本@名無史さん:2008/07/21(月) 13:27:52
>>481
40年とか30年とか継続して攻撃されているからな
陸続きだから数量も対日よりずっと多いし
500日本@名無史さん:2008/07/21(月) 13:31:16
元史・安南伝によると、滅ぼされた南宋将兵やその子弟が多数安南軍に参加して戦ったそうだ。
日本軍にはこういった亡国の将兵達は混じってたのかな?
鎌倉幕府首脳の宗教上の師や側近に旧南宋人が多くいたのは知られているが。
(ってかこいつらが日本と元が争うようにしむけたのかも…)
501日本@名無史さん:2008/07/21(月) 13:37:08
自分の気に食わない見解ばかりだからって、学者をアホ呼ばわりとかどれだけ自信過剰な奴がいるのやら。
自分がおかしいとは思わないんだろうか?
502日本@名無史さん:2008/07/21(月) 13:51:38
>>499
いや、モンゴルが金を征服した時の兵力は、元寇よりも少ない。
チンギス汗死亡時のモンゴル帝国の総兵力は12万9000で、この時点で既に弘安の役の14万より少ないし、
更にカスピ海方面と中東方面へそれそれ3万の軍勢を差し向けてるから、残りの7万程度が金征服に投入できる限界。

503日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:02:47
>>502
何ゆえそんな印象操作的なこというんだ?
金へのモンゴルの攻撃は1211年から、1234年まで及ぶ。
チンギス死後のオゴタイの代にまで及び、死去時の兵力と限定する理由なんてないわけだが。
しかも金を滅ぼした際は、当時は同盟国だった南宋軍も参加しているし。
504日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:09:13
>>503
>金へのモンゴルの攻撃は1211年から、1234年まで及ぶ。

これの方が印象操作的でしょ。
日本へのモンゴルの攻撃は1274年から、1281年まで及ぶ、と言うのと同じ。
それに同盟国だった南宋軍2万を加えても、弘安の役14万の方が多いよ。


505日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:12:13
>>503
あと遼系の人々もモンゴル軍に参加してたしな
鎌倉武士マンセーは結構だが、なぜセコいやり口でそれを広めようというのか。
むしろ、そんなことしているから誰も賛同してくれないと理解しえないのだろうか?
506日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:14:46
金挟撃時の南宋の将軍は、孟キョウ。後にモンゴル軍を何度も大破する当時の中国きっての名将。これも歴史の皮肉かな?
陳舜臣氏によると、援軍自体より彼らがくれた二十万石もの食糧のほうがモンゴルにはありがたかったそうだが。
507日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:17:24
>>505
>あと遼系の人々もモンゴル軍に参加してたしな

その人数はちゃんとモンゴル帝国の総兵力の数字に含まれてる。
でも、弘安の役よりも少ない。
508日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:17:33
>>505
まさに歴史を偽装する会のやり口そのものだねw
残党乙でいいんじゃないの、今日も。
509日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:18:35
>>507
根拠は?耶律リュウ可らの軍は、後から合流したもので、チンギス死去云々とは時系列が遭わないわけだが。
510日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:19:38
>>509
集史だよ
511日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:25:03
そもそも、お前等はモンゴルの金侵攻の兵力を、どの位だと考えてるのさ?
その数字の根拠は?
512日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:27:17
完顔陳和尚が四百騎で八千騎のモンゴル軍を大破しても負けるんだからなー。

海のお陰で侵攻経路が限定されていて本当に日本助かったぜ。
南宋も呂文カンが5年もジョウ陽で粘ったのにモンゴル軍は根をあげてくれず陥落。
513日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:30:53
遊牧民族は、総兵力で劣っていても歴史上しばしばより大群の農耕民族国家を悩ませている。
モンゴルの真水の鉄騎と、征服民主力の雑軍を数だけで計算すること自体が間違い。
ましてそれで日本のほうが凄かった、とかいうのなら。
五十万の大軍(元史)を撃破した安南はどうなる?
514日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:34:44
>>513
五十万の大軍って元史のどこ?
515日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:36:35
南宋を滅ぼすのに功績あった名将・李恒とサトもヴェトナム軍にぶち殺されているしね
ってか戦争しすぎだろ元は……
南宋に助勢される恐れがあった時期ならともかく、南宋覆滅後強いて日本やヴェトナムを攻撃する必要なんてなかっただろうに。
516日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:39:58
地上最強ベトナム軍w
517日本@名無史さん:2008/07/21(月) 14:42:55
おまえら相手に対して印象操作だとか、偽装だとか書いたんだから、元史のどこに安南が五十万の大軍を撃破した、
って書いてあるのか答えろよ。
言っておくが、安南は僅か3千のモンゴル軍に首都攻略され、属国になった国だぞ。
518日本@名無史さん:2008/07/21(月) 15:28:41
釣りだろ
519日本@名無史さん:2008/07/21(月) 16:15:47
>>498
「矢が尽きた」というのがどのレベルの事なのかははっきりしないけどね。
あるいは初日の消耗量からあと1〜2日分しかないという意味なのかもしれない。
いずれにしろ船に搭載できる量は限られているし、日本側の反撃力を過小評価していたなら矢より
他の積荷を優先しただろう。

いずれにしろ矢なんてものは敵地を占領できればいくらでも現地調達できるハズのものだからな。
520日本@名無史さん:2008/07/21(月) 16:58:17
>>519
高麗史 世家 忠烈王六年
「又た、昔、東征の時に於いて、五千三百軍の齋去せる衣甲・弓箭は、多くを棄失するあり」

史料に弓箭は多くを棄失したって書いてあるんだから、無理やりな説明しなくても素直に>>456の説明でいいじゃん。
元軍は敗走する時に自分から矢を棄てちゃったから「矢が尽きた」のだと。
521日本@名無史さん:2008/07/21(月) 19:34:27
>>508
何言ってんの?
522日本@名無史さん:2008/07/21(月) 20:11:58
作る会、ベトナム五十万…
523日本@名無史さん:2008/07/22(火) 00:15:01
時宗の計画通り、朝鮮に攻めていって防衛拠点作ったとしても物量的に勝ち目なかったろうな
524日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:20:15
元が日本を舐めてくれたのが最大の勝因。元本軍の将帥は戦意不足か無能のどちらか。
江南軍司令官の范文虎なんか、ジョウ陽救援戦では10万の大軍を率いながら大敗して元に投降。
圧倒的優勢な常州の戦いでも、少数の敵に本陣まで切り込まれて遁走、僚将に負傷しながら助けられた程度。
南宋の皇族を追撃する時は、たった二百の護衛に5千の兵を持ちながらてこずり、張世傑に蹴散らされた程度の戦歴しかもたない。
525日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:23:28
>>517
よう、作る会の残党の印象操作乙w
安南は首都を占領されたが、反撃して奪還し元軍を三度にわたって大破しているわけだが(元史・安南伝)
同書の李桓・サトの伝にもそれぞれ戦死(正確には李桓は本土まで逃げ帰ったが毒矢のために死亡)したことが確認できるわけだが。
そんなに鎌倉武士以外が勝った史実がくやしいのか?
わけわからんんだが。
526日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:29:12
日本マンセーは勝手にしてくれ、だがなぜ他国の奮戦を貶めてそれをなそうというのか

この分じゃバイバルス(エジプト)、ハルジー(インド)の戦いにもケチつけてきそうだな
527日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:35:18
>>525
で、どこに安南が五十万の大軍を撃破したと書いてあるの?
528日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:37:04
ベトナムの陳朝軍はウリャン・ハタイ、トゴン、ウマルという高名な将軍が指揮する元軍を撃退した
特に第3回のモンゴルのベトナム侵攻では陸海双方から大軍を投入
海上からの元軍はフビライの命により第3回日本遠征用の建造船舶の全てを投入
しかしベトナム側のチャン・フンダオに白藤江河口の戦いで惨敗し、遠征司令官ウマルも捕虜になった

日本の元軍で溺死など事故死以外で戦死したり、捕虜になった将軍は皆無である
一次は敵が引き上げてくれたお陰で助かり、二度目は防塁の陰に隠れていたら台風がやっつけてくれたんだから当たり前だが
529日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:42:54
元史の、というか中国の史書の兵数はふかしすぎ
30万(日本)とか50万(ムンケの南宋攻撃・安南)とか100万(南宋)とかでてくるけど、兵站からして不可能だろ
号した、つまりそう宣伝したレベルの話じゃないの?
530日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:42:58
>>528
それ、勘違い。
ウリャン・ハタイのモンゴル軍にベトナムはあっさりと首都を制圧され、その後属国化している。
しかも、この時のウリャン・ハタイの兵力は僅か3000人。
531日本@名無史さん:2008/07/22(火) 08:51:17
安南軍が取った戦術は、後退して敵を引きずり込み疲弊させたところを撃つ、というパターンですね
古くは呉権、現代のベトナム戦争でも用いられました。かならずしも狙って後退したケースばかりではないですが
特に有名なのが日本が明治維新初期だった頃のフランス軍との戦いで、漢人の傭兵将軍・劉永福が二度にわたってフランス軍を撃破(いずれも司令官を戦死させています)したもので
数だけでなく火力の差にも有効だと証明されました
このとき、一度も外国に勝てたことが無かった日本は、劉永福を「楠木正成と諸葛孔明をあわせたような名将」と絶賛しております
他国を貶めて自国を誇るのとは無縁の、古き良き時代のことでした
532日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:02:29
>>531
一度も外国に勝てたことが無かった日本って何だよ?
ベトナムを僅か3000の兵力で降したモンゴル軍が、4万、14万という大軍で攻めてきても、日本は圧勝だっただろ。
自国を貶めるため他国を持ち出すのなら、正確な史実を認識しないとな。
533日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:08:50
首都を占領した、ということを振りかざしているが。
それでも屈せず皇帝自身が山中でゲリラ戦を行い、数年で奪還している点を無視するのはアンフェアだな。
だいたいそこで完全に終ったのなら、後の二回の遠征は不用だろ。
本当に日本の当時の戦歴に自信があるのなら、強いて他国をくさす必要性もなく「あっちもよくやったな」で済むはずだが。
534日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:10:27
「日本を貶めるのは自虐史観だ」と怒号しながら、代わりに出したのが「他国を貶めることで日本を偉く見せようとして失敗」した自称自由史観な連中の残党に何をいっても無駄だろうw
535日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:17:47
 興道王チャン・クオック・トゥアン(陳国峻)が白藤江で元朝水軍を撃破した。
 チャンは、内地から湾へ抜けようとする元軍を待ち受け、あらかじめ川の中に杭を打ち込み、
草でおおい隠しておき、満潮時に戦闘を仕掛けて逃げるふりをして元軍をおびきよせた。まんま
と罠にはまった元の水軍は、杭に引っ掛かって壊滅的な打撃をこうむった。そのさいチャン軍
は、400あまりの船を捕獲し、指揮官らを捕虜とした。
 このたびの作戦は、300年以上前、この場所でゴ・グェン(呉権)が南漢を撃退し中国からの
自立を手に入れたのとまったく同じやり方だったのである。
 じつは、これより先の2月に、元軍は総退去を決めていた。ベトナムに出兵して3か月、紅河デ
ルタの中央部は押さえたものの、補給路を断たれ、伝染病に苦しむ元軍は、すでベトナム側の
ゲリラ戦に耐えきれなかったのである。しかし、国土を蹂躙されたベトナムは、簡単には帰して
くれなかった。陸路で撤退した元軍も主要路線をベトナム軍に押さえられ、間道を通り多くの損
害を出しながらようやく帰ることができたのである。
 こうして、南海交易支配の野望に燃えるフビライの2度めの遠征も、大失敗に終わった。
 元成立以前も含め、3度に及ぶモンゴルの侵攻をチャン朝は撃退した。いずれも、いったんハ
ノイをあけ渡してから相手の補給を断ち、ゲリラ的に反撃を加えるという作戦である。このゲリラ
戦の原動力は、チャンら地方に勢力を築いた皇族だった。彼らはデルタ開拓の担い手として力
を蓄えていたのである。

(『クロニック世界全史』)
536日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:23:47
>>533
一度は占領、属国化しながら耐えかねて反抗はじめた占城とかの戦いも、鎌倉武士マンセー君の脳内では消去されてるんだろうなぁ
537日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:25:22
>>532
ウリャン・ハタイに侵攻された後、ベトナムはモンゴルへ朝貢し、ウリャン・ハタイの南宋侵攻軍の際にはモンゴル軍の国内通過を認め、
挙句に国内へのダルガチ赴任まで受け入れてるんだから、はっきりと「モンゴルに屈した」んだよ。
別にくさしてるんでも何でもない。
事実を書いてるだけ。
ベトナムやら、朝鮮やらの左寄りお気に入りの国に歴史は史料無視してマンセーし、さらにそれを自国を貶めるために持ち出すのは
おかしいだろ。
538日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:32:20
>>537
何がいいたいのかよくわからん。一度屈したら後はどんな戦いしようが無視るんだろそんなことまでして日本マンセーしたいのかよ、という批判は自分も自覚してますと認めているのか?
539日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:36:04
エジプトやインドがいつから左好みの国になったんだろw
ってかいずれも戦ったのは共産主義なんてもんは地上に生まれてもいないはるか昔のことですが。
もう無茶苦茶。
ついでにえば、朝鮮をマンセーしているレスなんてどこにも見当たらないが。
むしろ弱兵の朝鮮が主体で日本助かったね、とか酷い扱いなわけでw
540日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:39:32
井沢元彦さんによると、文永でもやっぱり神風はあった可能性が高い、だそうですよ。史板じゃ微妙な評価の人だけども……
541日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:41:39
>>538
無視してないよ。
俺はベトナム史が大好きだから、「安南が50万の元軍を撃退」みたいなトンデモが堂々とまかり通っているのが、
許せないだけ。
ちゃんと調べれば面白いのに、ベトナム戦争以降一般人がきちんとしたベトナム史を知るのが困難になる一方だろ。
早くありのままのベトナム史を語れる時代が来て欲しい。
542日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:42:55
>>529
割り引けばよい。
日本側の記録だって、総兵力10万騎とかふかしているだろ。
543日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:44:03
鎌倉武士マンセー君は、ついに親ベトナム便衣兵をはじめましたか。
左好みの国、とか酷い言い草でくさしてたくせにwwwwwwww
544日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:50:38
>>536そういえばチャンパでも暴風雨が吹いて元の船団が壊滅したんだよな。あっちも神風扱いしたんだろうか?
545日本@名無史さん:2008/07/22(火) 09:57:23
まぁヴェトナムの戦いは、戦力差上仕方無いとはいえあまり綺麗なものでは…
第一次なんか、降伏申し入れて相手が撤退しようとしたところを攻撃するとかしているし
(もっとも降伏を申し入れてきた、というのはモンゴル側の主張だから、攻勢限界に達したモンゴル軍が面子のためにそう述べただけかもしれんが)
546日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:07:08
>>542
そんな単純な話ではない。
そもそも、元史にはベトナムへ侵攻した元軍が50万だったなんて一言も書いてない。
元史を読む限りでは、ベトナム侵攻軍の兵数は不自然な数じゃない。
モンケ指揮下の南宋遠征軍の数を60万と書いてるのは集史で、元史では4万の軍を10万と号したことになってる。
文永の役の日本側の10万騎については、書いてあるのがもともと信頼度の低い文献な上、さらに後世改編された際に
書き加えられた疑惑のある記述。
一律に割り引けばよいというのは乱暴すぎる。
547日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:08:11
ベトナム贔屓の人間がいうこととは思えん書き込みばかりだしな>>543
史書によって差異ある兵力はともかく、大勝したことと元・モンゴルでも著名な将軍を安南軍が撃破したことは事実
それがよほど悔しいんだろう
日本軍は、マイナー武将を負傷させたぐらいが関の山だ
それでも勝利は勝利なんだから、別に他国をおとしめてまでやるこっちゃないのにねぇ
548日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:11:58
アイヌも元軍に勝っているしね。

やはりモンゴル軍は騎兵戦が本領だな。海を経由すると苦戦。
そうなると騎兵戦やって勝ったエジプトは凄い。
549日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:17:21
勝ってる軍が一日で引くわけないだろ、という文永の役日本完勝論を使うのならば
属国化するほど勝っている軍がなぜ2日でせっかく占領した安南首都から逃げ出す必要があったのかw
550日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:17:42
>>547
間違いを訂正してるだけで、貶めてないだろ。
551日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:29:12
>>549
日本は文永の役の後も独立守ってるけど、ベトナムが第一次侵攻の後、モンゴルの属国化したのは事実。
侵攻受けた後の展開が大差だよな。
それから、安南首都占領期間は7日(元史・兀良合台)〜9日(経世大典序録・安南)ね。
552日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:37:24
貿易するときだけ形式上臣下扱いを受け入れる、なんていうそれまでの中国王朝と周辺国がやってた緩やかな上下関係でなぜ元は納得しなかったんだろう。
直接攻めて占領(素直に支配下に入った国さえ過酷に支配し結局反抗されているし)なんてコストかかりすぎ。負けているしさ。
553日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:40:11
そーいえば歴史を捏造する会は日本は冊封体制から脱したから他のアジア国家と違うんだ、とかしつこく主張してたなw
平清盛とか、足利義満とかも形式的に受け入れてたのは忘却の彼方に押しやって。
554日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:40:58
>>548
アイヌがモンゴル軍に勝ったなどという記録はない。
しかも、モンゴル軍が海を経由してサハリンを制圧したことについては物的証拠がある。
サハリン最南端に白主土城と呼ばれる元軍によって築かれた城跡が残っているのね。

555日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:44:14
>>553親○○とかのフリしても、馬脚をすぐに露わしてくれるから笑えるんだよな。
556日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:46:58
>>552
第一次侵攻の後のモンゴルとベトナムは、貿易するときだけ形式上臣下扱いを受け入れる、なんていうそれまでの
中国王朝と周辺国がやってた緩やかな上下関係なんかじゃないよ。
モンゴルからベトナム国内にダルガチが常駐してるんだから。
557日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:47:30
一旦屈したら、以後反抗して自由や独立を取り戻そうが認めない

なにこのかたくなさ
558日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:48:38
>>556だから耐えかねて反撃し、大勝したといっているわけだが。
都合よく後段は無視する癖に、そこにだけ噛み付く偏向の意図は一体?
他国をバカにしないとできない日本万歳なんてやめちまえよW
559日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:54:59
少弐氏は本姓を武藤氏と言う。藤原秀郷の末裔と呼ばれ、初代の武藤資頼が鎌倉幕府から大宰府の少弐職に命ぜられたために少弐姓を名乗る様になった由緒正しい名門であり、景資は資頼の息子少弐資能の三男として誕生する。景資は雄偉な体躯と腕力に恵まれ、
幼い頃から柿の木の柿を弓で射落として食していたと言われるほどの弓の名手であり、元寇においては父や兄少弐経資と共に菊池武房、島津忠宗ら九州の御家人達を指揮して奮戦した。
文永の役においては、日本軍が劣勢に追い込まれたところ、景資が放った矢が蒙古軍の主将劉復亭に命中して重傷を負わせ、主将を失い統率が崩れた蒙古軍は撤退せざるをえない状況となった。景資は日本軍の勝利に多大な貢献をもたらしたのである。

しかし景資の功績が讃えられる事はなかった。この戦闘で博多の街は焼き払われ、結果として謝国明ら博多の商人、NGOや左翼団体、弟に殺されかけて気がふれてしまった売国奴の赤マフラー北条時輔などから鎮西奉行であった少弐一族に非難が集中した。
老齢の身で奮戦した景資の父少弐資能は憤り、弘安の役では博多に一歩も敵を近づけんと石垣の最前線に立って奮戦したが、これが悲劇の原因となる。景資が敵将に狙いを定めて矢を放った所、資能も同じ敵将に狙いを定めていたのか、その射線上に飛び出す形になってしまい、
資能の首筋に景資の矢が命中してしまう。蒙古軍を撃退する事は出来たものの、この不慮の事故が原因で資能は死去する。完全な過失であったが、景資は兄である少弐経資から父殺しの非難を浴びるようになり、元寇から程なく、
平頼綱が安達泰盛を誅殺した霜月騒動において、景資は泰盛方と見做され経資から追討を受け殺害される。元寇を共に戦った竹崎季長は彼の悲劇を大いに嘆き、同時に「供物の一つでも備えてやりたいが、俺は極貧[1]だから何一つくれてやることが出来ん」と悔しがったという。

少弐景資
ttp://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B0%91%E5%BC%90%E6%99%AF%E8%B3%87
560日本@名無史さん:2008/07/22(火) 10:58:38
>>557>>558
認めないなんてことないだろ。
何か、否定しないと無視してるとか書かれちゃうのかな。
561日本@名無史さん:2008/07/22(火) 11:02:19
さすが趣味板ですら相手にされなかった日本マンセー君ですね。
562日本@名無史さん:2008/07/22(火) 11:15:25
元々、日本に対する元の態度は親交を結ぼう、程度であって別に入朝しろとか属国になれとかいってない。
これが元に地理的により近い国々に出された過酷な要求と比べればどれだけ恵まれていたかは一目瞭然。
まぁ、元のことだから後から条件出してくるって可能性もあるが……。
将帥といい、兵の組成といい軍事的にも最良を向けてきたとはいいがたい。
その程度の価値だったんだろ、良くも悪くも日本は。
563日本@名無史さん:2008/07/22(火) 12:54:28
日本の返書草案って元の国書どころじゃない過激ぶりなんだよね
あれ出してたら全面戦争になってただろうな
564日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:17:42
ベトナムを貶めるつもりはないんだが、
日本ではもし一時的にせよ京都を元軍によって陥落させられたのならば、一種の敗北という意味合いが濃厚にある。
ベトナムはやはり小国、最終的に勝てばいい。ベトナム戦争しかり。したたかな民族だ。
しかし、日本はそうはいかない。
大国とは言わないが、それなりのメンツを保ちつづけた国だ。
だから、国土に一兵たちとも入れるなという気概で鎌倉武士たちはけなげに戦った。
元は日本を甘く見ていたのは確かだが、実戦をしてみてその強さに舌をまいた、というのが真相。
文永の役でも南宋攻略後、もっと兵力を増強して日本に当たった方がいいという慎重論もあったが、
結局、現実認識のない高麗の進言に押し切られた形になった。
(今も昔も隣の国レベルは変わらない)

そして、今度は14万の大軍だ。3万から14万という数字を考えてみれば、
日本侮るべからず、という認識ができあがっていたことは確かだ。
さらに、次は30万とか言われている。それはフビライの妄執かもしれないが、しかし、たとえ30万でも元軍の日本占領は不可能。
やるまえからビビッてるからだ。

その民族の戦い方についてのイメージというのは一朝一夕でできるものではない。
欣然と死地に赴く、というのが古代から変わらない日本人の戦い方。
唐新羅と戦って敗北を喫した時も、秀吉の侵攻の時も、太平洋戦争の時も
(有名なのがカミカゼというのはいうまでもないが)日本人の戦い方についてもイメージは変わらない。
これは日本人自身がどう思うと関係ない。
戦いを通して他国がイメージする日本人というものだから。
モンゴルも同じ。弘安の役なんか、戦う前に元軍は戦意喪失している。
防塁を築かれたって物量に物を言わせて攻めればいいものを、
これで撤退するする言い訳ができた、としか考えられないくらい何もしていない。
もちろん精神論だけで戦いに勝てるわけではない。
しかし、心理作用というのは気概に影響する。
こんなのとは戦いたくないが、皇帝の命令とあればしかたない、
そう思ってとやってきた元軍に勝ち目があるはずはない。
565日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:32:24
歴史を捏造する会とか意味わかんないこと言ってる人らは何なの?ばかなの?
566日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:40:16
日本完全勝利論に対しては、僅かな異論も許さない

外国の勝利については兎に角腐そうとする

夏厨らしいねぇ〜
567日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:45:41
清の趙翼という著名な史家によると、フビライ即位以前から数えて30年、即位後さらに40年、これだけ長く外征を続けた王朝は他に例がない、とのこと。>>552
明らかに特異だろう。
ってかモンゴル帝国自体が世界史上かなり特異な存在。征服した地域領土は空前絶後。
568日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:48:17
ここにしろ、軍事にしろ、元寇に貼り付いているチョンかバカサヨがいる。
即反応。
しかし、こんなに早くレスがつくとは(笑)
大方、隋を撤退させたのに、こんな糞土の国を攻めても益はありません、
と、書き送った国の子孫のなれの果てみたいだな。
569日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:52:44
>>563
日本は天皇の威徳が行き渡った国だ、お前らは知恵で争うことも力で戦う事もできないよ(プゲラ
みたいな無茶苦茶だからな。
この神国思想という魔物は第二次大戦でボコボコにされるまで日本を蝕みつづけたわけだ
570日本@名無史さん:2008/07/22(火) 13:55:22
いくら史板が新しい歴史教科書を作る会に辟易してたからって、それ扱いはあんまりだと思うよ
実際そんなレベルなのは、軍板とかでも嫌われた鎌倉武士無敵クンぐらいだろ?
571日本@名無史さん:2008/07/22(火) 14:00:30
その一人が毎日一日中粘着してるっぽいから問題なのでは?
仲間が大勢いる東亜板にでも行けばいいのに。
572日本@名無史さん:2008/07/22(火) 14:22:31
本当はワンパターンの日本マンセー外国腐しがボコボコされるの楽しんでるくせに(ボソッ

辟易しているのなら、無視すりゃいいだろ。
573日本@名無史さん:2008/07/22(火) 15:29:44
> この神国思想という魔物は第二次大戦でボコボコにされるまで日本を蝕みつづけたわけだ
まーたなんか言いだしたぞ
574日本@名無史さん:2008/07/22(火) 16:04:20
「五十万の大軍(元史)を撃破した安南」とか適当なこと書いてるから、間違いを指摘しただけなのに・・・
事実を書くことが何で外国を腐すことになるの???
575日本@名無史さん:2008/07/22(火) 16:12:34
このスレにいる人全員死んで
576日本@名無史さん:2008/07/22(火) 17:41:55
>>574
あと一旦は屈したことと後に耐えかねて反撃に出て大勝したことは別の戦いとして論じるべきだと思うんだが、なんでいっしょくたんに語るんだろうね?
577日本@名無史さん:2008/07/22(火) 19:29:08
まー。元寇は日本史の中じゃ影薄いからね。
雑誌とかがやる好きな歴史人物とかで元寇関連の名前があがることはほとんどなし。
少弐とか大友どころか、北条時宗さえマイナー。
海と暴風雨のお陰で勝った戦で、機略をめぐらせたとか激しい名将同士の激闘があったとかいうエピソードに乏しいし。
578日本@名無史さん:2008/07/22(火) 19:35:57
ハルジーとかバイバルスとか陳興道とかはその国の歴史上の大ヒーローになっているのにね。結果として敵軍が大打撃受けたのは台風とかのお陰だったとしても、その自然現象が有利に働くまで粘った人力は無視できんだろうに
579日本@名無史さん:2008/07/22(火) 19:38:59
>>577
勝った後、台風のお陰なのにオレらの手柄だ土地寄越せ、と武士は愚か寺社まで恩賞ねだりまくりで鎌倉幕府崩壊の一因に。元より早く滅亡しちゃったからマンセーする権力が無かった。
580日本@名無史さん:2008/07/22(火) 19:59:43
>>528,>530,>537
揚げ足を取るようで申し訳ないけど(汗 ウリャンカイ Uryangqai 部族の
スベエデイの息子だから「ウリャンカダイ Uriyangqa-dai 」なので
「ウリャン」と「ハタイ」で切っちゃ駄目。単語としての構成は、
「ウリャンカ」+「モンゴル語の男性形容詞 dai 」なので。
581日本@名無史さん:2008/07/22(火) 20:33:27
元寇での鎌倉武士の功績があまり語られないのは当たり前のこと。
実情を見ればたいした激戦もなく、史上に残るような何とかの戦いと名付けられるのものがなく、
あっけなく終了してしまったことによる。
そしてまた、思想的な思惑から、神風を否定すると、今度は鎌倉武士マンセーになりかねないから、
平和国家日本には相応しくないということになる。
結局、鎌倉幕府崩壊の一因になった、という無難なことしか記述できない。
弘安の役では台風が来るまで武士はがんばってと書こうにも、
元軍は攻撃らしい攻撃をしていないし、というよりもできなかった、
というのが真相だが、それは武士を怖がったためでもあるのだが、
そういうことは語ってはいけない風潮がいまだに残ってるいることによる。
日本軍強し、というとすぐにまた過去の戦争の亡霊に脅えるほど平和な国だから。
ここはどうしても日本軍は軟弱であってほしいわけだ。
鎌倉武士は強かった、と意地でも認めたくないからだ。
582日本@名無史さん:2008/07/22(火) 21:09:54
>>570-571
すまん、軍板と言う特殊なところ(と言ってもここも過疎っている上に特殊か)に行ったこと無いんだが、
コテもないのに人物特定出来るの?

第三者から見ると、>>574の言っている事は、>>574の事だけと思うのだが、
特殊な人物と特定出来ないのなら、内容部分だけで反論した方がよくないか?
人格(と言っても匿名掲示板だからほとんどの場合は憶測だが)攻撃しても、
軍板に興味がない人間からすると何のことやら全くわからん。
583日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:29:33
日教組の教科書採点表
9.元寇
「失敗の原因について、朝鮮・中国・ベトナム人民の抵抗運動にふれているかどうか。」

「元寇 日教組」で検索すると山ほどヒットする。
このスレに粘着しているチョンだか糞サヨが「日本マンセー厨が他国の奮戦を貶めてそれをなそうとする」などと
ほざいているのも、そもそも奴らが「他国の抵抗や奮戦を執拗に強調する事で、とにかく日本を貶める事」を基本
方針としているから。
自分のやろうとしている事を180度裏返して相手にレッテルを貼り論難するのは糞左翼の常套手段。
584日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:34:24
作る会にベトナムウン十万の次はアイヌが勝利…
585日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:35:32
.>>566
ちゃんと話そうよ
586日本@名無史さん:2008/07/23(水) 00:14:44
>>569
この辺が左翼脳の恐ろしさ。
何であろうと兎に角、日本が悪いという事にしないと気が済まない。

いきなり「服属せよ、さもなくば武力で攻める」といった内容の、無礼極まりない恫喝に対して
その無礼と恫喝をたしなめ、服属を拒絶しただけの返書草案が無茶苦茶とは・・・・
天皇の威徳を強調した箇所だって、蒙古側の中華思想丸出しの相手を見下した物言いに対
する返礼として書いているだけで、当時の公家ならあの程度書き方をするのは当然の事。
それを
>この神国思想という魔物は第二次大戦でボコボコにされるまで日本を蝕みつづけたわけだ 
とくるんだから、この妄想ぶりは笑うしかない。

左翼というのは口を開けば「平和」を唱えるが、実は人類史上最も血塗られた凶悪な思想の
信奉者であり、「民主主義」を唱えながら一貫して専制独裁体制をマンセーし続けた連中な
んだから、この程度は別に不思議でもないか。
587日本@名無史さん:2008/07/23(水) 03:28:31
民衆の抵抗やゲリラ戦が無いと物足りないの
588日本@名無史さん:2008/07/23(水) 04:07:08
>>586
> いきなり「服属せよ、さもなくば武力で攻める」といった内容の、無礼極まりない恫喝に対して
確かに、グユクがローマ教皇インノケンティウス四世に宛てた書簡や、モンケ、クビライが
南宋宛に出した書簡(南宋宛のそれは最後通牒も含む)でははっきりそのように書いてある。
グユクのものなどは「汝、大教皇はケレル(欧州)の諸王とともに我らの面前に至り臣従をせよ」と、
かなり直截的に要求している。

一方、東大寺尊勝院蔵『調伏異朝怨敵抄』と『元史』世祖本紀に記録される至元三年の有名な
「大蒙古国牒状」ではそういう書き方は全くしていない。少なくともクビライ側は最初から
「大蒙古國皇帝奉書日本國王」とか「不宣」とか、『調伏異朝怨敵抄』が国書原物をほぼ忠実に
書写したものであったのであればだが、モンゴル政権の命令文書で通常「上天」「皇帝」
「祖宗(チンギス・カン)」などの擡頭は行われるが、本牒状の場合これらは一字擡頭のみで
「日本國王」「王之君臣」「王國」「王其圖之不宣」と少なくとも四回も平出を行っており
最後は「不宣」の語で結ばれ、「用兵夫孰所好」が終わりの段に来ていて目を引くが
それ以外は全体的にはモンゴル皇帝が国外に出した書簡としては、かなり極力穏当な表現に
なるように配慮が見られる。ここまで対外文書で気を使ったものはまず見られない。

もし、クビライ政権側が服属要求を突き付けて武力侵攻を前提にしていたなら、グユク、モンケ
あるいは自身が南宋に出した書簡の通り、はっきりと文面に書いただろうが、そうは書かれていない。
内容は飽くまで「通好」に主眼が置かれており、「服属せよ、さもなくば武力で攻める」といった
内容にはなっていない。

ただ、朝廷側が返牒について議論した資料では(誰かの日記だったと思うが)「用兵夫孰所好」の
部分に「通好」と言いながら服属要求を潜ませ、それが拒否された場合は武力侵攻を目論んでいる
ことを暗に示しているのではないか、という見解は実際にあったようだ。
589日本@名無史さん:2008/07/23(水) 08:33:56
自分好みじゃない意見は全て左呼ばわりかい。別にマンセーレスなんて全くない朝鮮まで持ち上げたことにして。
590日本@名無史さん:2008/07/23(水) 08:39:40
>>588
しかもフビライは、日本と戦争状態になっても民間貿易は別に制限せず、許可しているからね。
無視る、なんていう乱暴な手段とらず普通に外交しておけばそう悪い扱いは受けなかったんじゃなかろうか。
591日本@名無史さん:2008/07/23(水) 08:55:48
> そう悪い扱いは受けなかったんじゃなかろうか。
592日本@名無史さん:2008/07/23(水) 08:58:50
通例だと、全軍に占める戦闘員の割合は10万とか号してもせいぜい三分の一が相場だが、この場合はもっと比率は低かっただろう。
しかも彼ら江南軍(彼らの多くは、遺品から農具や定住生活品が出てきたことからもわかるとおり、屯田が目的でにわかに集められた旧南宋人が数的主力。)は、海上での会合に失敗して日本軍と戦ったのは東路軍のみ。
日本側が4万もの軍勢を集めたのに対し、東路軍はせいぜい2万。まして文永には無かった防御施設が海岸にずらり。
元軍はそれでも志賀→海の中道と積極的に進んできて(元軍の長門襲来説を偽とするのなら)ほぼ唯一の弘安の役の大規模陸戦がおこるが、地勢兵力差とも日本側有利。
総大将・洪茶丘すら危うくなり、王万戸が日本軍を撃破してあやうく助かったぐらい。
これでは駄目だ、江南軍を待とうとなったが、それが最悪の選択。台風襲来で10万余の兵はほとんど海の藻屑に。
593日本@名無史さん:2008/07/23(水) 09:00:46
つまり北条時宗は英雄ってことだな
594日本@名無史さん:2008/07/23(水) 09:10:42
竹崎季長が書かせたという蒙古襲来絵詞なんか見ると、手柄欲しさに数人の手勢しか持たない武士が多勢につっこんで当然の如く負けて負傷、あやうく殺されかけている。
武士の動員は全て家単位で、郎党だけで百人とかの大武士団からほぼ武士一人だけが戦力の零細御家人まで編制はバラバラ。
これらは統制されず、勝手に抜け駆けを行った。
(その結果が、「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ」)
いくらか指揮系統が改善した弘安の役でさえ幕府が抜け駆け夜討ち勝手にするな、と命じても無視しているし。
それこそ軍事史の専門家さえ元軍に対して日本軍は強かったなんていってない、自然のお陰としているわけだが。
595日本@名無史さん:2008/07/23(水) 09:14:18
あー
なにこれ?
どっかにこのスレのURL貼られてるの?
596日本@名無史さん:2008/07/23(水) 09:18:04
>>588
その国書が届いた時、日本側は明確に「クビライに日本侵略の意図あり」と認識してる。

外記日記 文永四年十一月二十五日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」

世界征服を国是としている国が、自国の隣国である高麗を征服した挙句、そのことを得意気に書いた
牒状を送ってきたら、自分たちも危険だと考えるのが普通の外交感覚だろ。
言葉使いが丁寧だから安心だなんて思うわけないよ。

それから、その国書を持った使者が日本へ到着して外交交渉をやってる真っ最中の1268年5月、
クビライは高麗に対して「自分は日本を征服したいから、そのための戦艦を作れ」って命じてたんだよ。
最初から武力侵攻する気満々じゃん。

高麗史 李蔵用伝
「爾、爾が国に還り、速かに軍額を奏せよ。不らずんば、爾をして将に之を討たしめん。
爾等、軍を出して、将に何れの国を討たんとするか知らざらん。朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。
今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。爾が国、若し難あれば、 朕、安んぞ敢えて救わざらんや。
朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。
爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載すべきを造れ」
597日本@名無史さん:2008/07/23(水) 09:48:33
>今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。爾が国、若し難あれば、 朕、安んぞ敢えて救わざらんや。


意訳「対日侵攻戦で功績を挙げれば朝貢の額を減らしてやるぜ?だから頑張って戦艦作れよ、な?」

でおk?
598日本@名無史さん:2008/07/23(水) 10:01:36
意訳すれば
「俺はお前等を家族のように思ってるし、お前等が困ってる時はちゃんと助けてやるつもりなんだぜ。
だから、俺が気に入らない国を征服する時に、お前等が協力するのは当然の義務だろ。
わかったらさっさと帰って戦艦を作れ」
って感じかな
599日本@名無史さん:2008/07/23(水) 19:16:16
>>594
>それこそ軍事史の専門家さえ元軍に対して日本軍は強かったなんていってない、自然のお陰としているわけだが。
2chと言えど一応、学問板だから「軍事史の専門家がこう言っている」と言う権威付けいらない。
その人の名前、内容を抜粋すればよろし。出来れば書籍名込で。
600日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:03:29
>>594 
>それこそ軍事史の専門家さえ元軍に対して日本軍は強かったなんていってない、自然のお陰としているわけだが。 

日本史板でよかったね。
軍板でそんなレスつけたら、嘲笑われるだけだったよ。
601日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:22:21
>今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。爾が国、若し難あれば、 朕、安んぞ敢えて救わざらんや。

一言で評せば、「何様のつもりだてめえ !」 としか言いようがなし。
602日本@名無史さん:2008/07/23(水) 22:06:52
>>588
他国への国書がもっと無礼で恫喝的だったというのが、日本への国書の非礼性、恫喝性の阻却要因になるのかよ。
奴らにすれば多少は穏やかな表現を使ったというだけで、日本に対して蒙古への服属を要求する恫喝的文書という
内実はいささかも変わらない。

やくざの 「こちらも手荒なマネはしたくないんでね」 という表現を、「手荒なマネはしたくないと言ってるんだから本当
に暴力に訴える気はないんだろう」 と解釈する馬鹿がどこにいる。 
603日本@名無史さん:2008/07/24(木) 02:25:00
当時、色んな国宛ての国書を照らし合わせて比較出来たわけでもないしな〜
604日本@名無史さん:2008/07/24(木) 03:17:00
>>602
> やくざの 「こちらも手荒なマネはしたくないんでね」 という表現を、
> 「手荒なマネはしたくないと言ってるんだから本当
> に暴力に訴える気はないんだろう」 と解釈する馬鹿がどこにいる。
そのやくざが本当に手荒なまねをするつもりがなくて、その意思をなんとか伝えたい場合はどうするのか。

もっともこの場合にやくざを例にあげるんだったら、「やくざ」→「一般市民」の図式じゃなくて
「関東全域を支配しているやくざ」→「仙台周辺のみを支配する地方のやくざ」みたいな
やくざ同士の抗争として比較するのが妥当だと思うけどね。
605日本@名無史さん:2008/07/24(木) 03:32:58
>>604
クビライは裏で日本侵略のための戦艦建造を命じてるんだから、本当は手荒なまねをするつもりが
大有りだったということだろ
606日本@名無史さん:2008/07/24(木) 12:18:42
>>604
10回や20回使者が切られてもあきらめずに話し合いの場を持つ努力をする。
607日本@名無史さん:2008/07/24(木) 12:30:26
平和?的な外交関係を結んだとしたら、
まずは金銀等の供出を要求されるだろう。
そして、強兵でならした日本軍に是非とも我が軍に加わるよう要求することは間違いない。
そのためには金がいる。
誰が出す。民衆から税を絞り取るしかあるまい。
民衆のための平和、なんて綺麗事はバカサヨの妄想。
608日本@名無史さん:2008/07/24(木) 13:01:24
なんでここにいる人達って、こう両極端なんだろ?
609日本@名無史さん:2008/07/24(木) 13:06:57
>>608
すごい極論だ
君が一番極端
610日本@名無史さん:2008/07/24(木) 17:43:31
日本に来た元軍は馬がいない、つまり戦車のないソ連軍のようなもの

T34やKV1にはかなわなくても
ソ連軍が歩兵のみ日本軍がチハタンという条件なら勝っても不思議はない
611日本@名無史さん:2008/07/24(木) 17:54:56
元軍の主力が朝鮮人だから弱かったんでしょ。
いくら海戦が苦手といえ、ユーラシアを凌駕した蒙古が
ああも簡単にやられるとは到底思えないし。
612日本@名無史さん:2008/07/24(木) 18:15:39
海戦はしていないが
613日本@名無史さん:2008/07/24(木) 18:35:41
蒙古が海戦を不得手としていたことは常識じゃない?
614日本@名無史さん:2008/07/24(木) 18:38:05
日本武士に侵入されてあっけなく切り殺されてるよね
これは海上での出来事。
615日本@名無史さん:2008/07/24(木) 20:20:46
>>611
いや、元寇の後、強気になった日本人が武装して中国大陸へ出かけていっても、蒙古はビビッて何もできなかった。
明州城とか焼きの原にされても、蒙古は日本人の来航を拒むこともできない。
ユーラシアを凌駕した蒙古といえども、自分たちよりも強い日本人相手にはだらしないのね。
616日本@名無史さん:2008/07/24(木) 20:28:35
>>604
>そのやくざが本当に手荒なまねをするつもりがなくて、その意思をなんとか伝えたい場合はどうするのか。

本当に手荒なまねをするつもりがない奴は、「手荒なマネはしたくない」なんて表現は絶対に使わない。
そういう言葉を使う事自体、暴力を背景にした恫喝をしているという事だ。
こんなもの一般常識だよ。

国書に「兵を用うるに至りては、夫れ孰(たれ)か好むところならん。」などと書いてくる事=「従わなければ
武力で攻める」と言ってるという事なの。
それ以外の解釈など無い。
617日本@名無史さん:2008/07/25(金) 03:51:20
>>616
自分の解釈のみを一般常識と思い込むのはどうだろうかw
618日本@名無史さん:2008/07/25(金) 04:13:50
>>606
> 10回や20回使者が切られてもあきらめずに話し合いの場を持つ努力をする。
一回目に斬られただけなら何かの手違いかも知れないと思うだろうが
(一回でもあればその時点でかなりアウトだと思うが)二回三回となると
もう脈無しとみてすぐに交戦状態に突入するのはどこでも同じだと思う。
もっとも使者が斬されるようになるのは文永の役の後だけど。

参考までに、戦国時代とか使者が斬られる場合ってどんな時だったっけ? 
徹底交戦とか籠城とかかねえやっぱり。

>>607
> 民衆のための平和、なんて綺麗事はバカサヨの妄想。
そもそも鎌倉時代にそういう「民衆のため」という現代的な思想は無かったとか
何とか聞いたような・・・

鎮護国家(仏教的な意味で)とかそういうのに近い認識だったとかだったろうか。
取り敢えず、幕府が止めるよう意見を出して二回も実行寸前で実現しなかった、
朝廷側が企画した返牒案がそのまま文永の役の前に使者に手交されていたら
状況はまた違ったかも知れない。(ここら辺が鎌倉マンセーの人は納得出来ないらしいけど)

>>608
軍事板の関連スレと最近のこのスレの流れだったら、両方の意見のやり取りがあって
まだ良いけど、しばらく前までこことか他の関連スレでは鎌倉武士マンセーの
ワンサイド状態で見ていてドン引きだったw 
619日本@名無史さん:2008/07/25(金) 05:20:46
武家政権が侵略者を撃退した
これが気に入らない
620日本@名無史さん:2008/07/25(金) 06:07:28
「武家政権が」というよりも、主張内容を要約すると
「スーパー超人鎌倉武士マンセー!!」+「悪の帝国モンゴルを撃退した正義の鎌倉幕府・武士最強!」
的なことを、資料を色々こねくり回してはとにかく一般的に言われている言説を片っ端から否定し、
(そこまではまだ良いのかも知れないが)「自分の言っていることは正しくて当然のことだ」ということを
前提に臆面も無く話しているので、いい加減ちと辟易しているというかw

主張内容もまあ受け入れ難いってのもあるけど、むしろ論理展開とそれを当然・自明の事のように主張する
姿勢がどうにも学問的じゃなくてついていけないというかねえ。この肝の太さはどっから来るのか。
621日本@名無史さん:2008/07/25(金) 07:57:36
>>618
何でクビライが裏で日本侵略用の戦艦を建造していたことは無視するの?
クビライは最初から「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」だったんだから、鎌倉幕府の対応のせいで
戦争になったというのは完全な間違いでしょ。

>>620
史料無視して何の根拠もないことを当然・自明の事のように主張する姿勢が学問的なんだ?
622日本@名無史さん:2008/07/25(金) 08:33:03
いつもの人はちゃんとアンカー付けるね
623日本@名無史さん:2008/07/25(金) 08:54:49
>>622
学術板なんだから、異なる意見や反論に答えられない書き込みなんて意味ないからなー
都合の悪い見解からは逃げることしかできないなんて、その時点で学問的でも何でもないんだよね
624日本@名無史さん:2008/07/25(金) 19:49:36
>>617
自分の解釈が一般常識といかにかけ離れているかを自覚すらしないのはどうだろうかw 
625日本@名無史さん:2008/07/25(金) 21:04:45
>>624
一般常識で押すようになったら、ここでは不要だよ。
論拠は、なるべく原史料、史料による。
反論側は他の史料、もしくは史料批判で反論する。

それが出来ないのだったら別の板に行く。
626日本@名無史さん:2008/07/25(金) 21:42:53
>>625
なるほど、じゃあお前さんは
「兵を用うるに至りては、夫れ孰(たれ)か好むところならん。」
というくだりに「武力行使の意図など無い」と判断するわけだな。
ならその論拠を、原史料、史料によって示してもらおうか。

まあ、蒙古に侵略の意図があった論拠はこのスレでもさんざん書かれているし
なによりも現実に侵略してきた事実によって証明されているんだがな。
627日本@名無史さん:2008/07/25(金) 22:09:34
自分は一切、資料による論証も史料批判もできないくせに、人に対しては
「それが出来ないのだったら別の板に行く。」
なんてことを平然と言いやがる。
まったくもって卑怯千万、これだから糞サヨというやつは・・・・
628日本@名無史さん:2008/07/25(金) 22:18:49
>>620
マルクス史学に牛耳られた戦後日本の歴史学会がいかにダメなもので、それを信奉する左翼学者の唱える
「一般的に言われている言説」なるものが、いかにデタラメなものであるかを示しているだけのことだろ。
あんなものは「学問」じゃないからね。
事実を基にして理論を構築するんではなく、はじめに結論ありきでそれに合わせて事実の方をこねくりまわす
んだから。
日本に関しては、はじめに「過去の日本は常に遅れていて悪しきものでなければならない」という大前提があ
って、それに合わせて「事実」を捻じ曲げて無理矢理「大前提」に合わせるだけ。

当然そんなものは資料に基づく公の議論などには耐えられず、こんな閑古鳥掲示板のレスに対してさえまとも
な史料批判による反論すら出来ない。
出来ることといったら相手に「鎌倉武士マンセー厨」とかレッテルを貼って口汚くののしる事くらい。
629日本@名無史さん:2008/07/26(土) 05:51:20
新式目 正嘉三年二月九日

一、城郭事。岩門並宰府構城郭之條、為九州官軍可得其構。云々
一、寄役所致自由合戦、縦雖抜群之忠、不可被行其賞。所詮随大将命、可令進退由、
  厳密可被相触九州守護並御家人以下輩也。
一、警固詰番事。為諸人煩労基之由有其聞。加談儀、可令注進。
一、兵船事。海上合戦更不可有其利歟。加談義、可令注進。
一、大隈日向両国役所、今津役濱事。先度雖除之為要海云々。如元警固。


正嘉三年(1259年)2月に鎌倉幕府が発した、大宰府や岩門城など博多湾近くの城郭の整備や、
沿海の警備強化の命令。
1259年2月と言えば、大陸ではモンケ・ハーンによる南宋侵攻作戦の真っ最中で、朝鮮半島でも
崔氏政権が崩壊して高麗王朝の世子が降伏のため入朝しようとしていた時期だった。
つまり、鎌倉幕府は思いっきり大陸情勢に呼応して海防を強化していたんだよ。

でも戦後の歴史研究だと、この時期の日本人は大陸情勢に全く無知で、1268年にクビライからの
牒状が来て初めて蒙古の存在を知り、ビックリ仰天したことになってるじゃん。
だから当然こんな都合の悪い資料は無視。

これの一体どこが学問なのさ?
630日本@名無史さん:2008/07/26(土) 08:08:05
つまり、鎌倉幕府ははじめから合戦を意図していたから、国書の内容の如何に関わらず
国書が到来した時点で既に交戦は避け難かったと?
631日本@名無史さん:2008/07/26(土) 08:18:09
>>630
鎌倉幕府ははじめから蒙古が周辺国へ侵略しまくりの全く信用できない国家だと熟知していたから、国書の裏にある
日本侵略の意図を掴んで的確に対処したということでしょ
632日本@名無史さん:2008/07/27(日) 08:30:56
      _ ●●●            ●●●●●
    /    \ ●     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ●
   /  元    ヽ●    /    元       \●
   | − −    |●   /   − −        |●
   |         |●   |               |●
   | / − ヽ   | ●.  |   / − ヽ       |●
.   ヽ|      |  / ●  |   |      |       | ●
     ヽ ___ /ヽ    ヽ              /
     / |__/  ^ヽ   \             /
     | |      |  |     l━━(t)━━━━┥
633日本@名無史さん:2008/07/27(日) 09:11:30
>>596
>世界征服を国是としている国

モンゴルが世界征服を国是としている国かどうかなんて、
鎌倉幕府や京都の朝廷に分かるわけないだろ
鎌倉幕府や京都の朝廷が、
国書の「受天明命、奄有區夏」の「區夏」の語を「世界」という意味で受けとめたとは、
到底思えないし
634日本@名無史さん:2008/07/27(日) 09:34:49
>>633
>モンゴルが世界征服を国是としている国かどうかなんて、 
>鎌倉幕府や京都の朝廷に分かるわけないだろ 
重箱の隅を突いた揚げ足取りだな。

現に朝鮮を征服し、南宋を滅亡寸前に追い込んでいる国が (このくらいの事は日本側も先刻承知)
あんな内容の国書を送ってくるんだからな。
服属するつもりがない以上、攻めてくると考えるのが当然。
635日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:36:41
仮に北条時宗が大河ドラマの時みたいなヘタレだったら
間違いなく日本は属国になってた。
確かに鎌倉武士達は強かったとは思うが、単に兵が強いだけじゃ戦は勝てない。
むしろ評価されるされるべきは、開戦を決意した後
いち早く反乱分子の名越と兄貴を殺して、朝廷を黙らせた時宗の政治手腕と統率力だろ。
こいつはタダのラッキーボーイでもギャンブラーでもないぞ。
モンゴルに滅ぼされた、あるいは滅ぼされはしなかったが
ボコられた国の殆どは内輪もめしてたかバラバラだった。
西夏、ホラズム、高麗、金、南宋、東欧諸国みーんなそう。
逆にモンゴルを撃退したマムルークなんかは、バイバルスという優れた統率者がいた。
636日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:59:02
>>635
日本も必ずしも一枚岩じゃないぞ。
承久の乱を経て武家の力が大きくなったとはいえ、公武二元体制だったんだから。
637日本@名無史さん:2008/07/28(月) 23:59:12
西夏もホラズムも内紛だったの?
それは知らなかった。
どんな小さな国でも一致団結すれば国を守ることができるってことだね。
638日本@名無史さん:2008/07/29(火) 06:59:22
>>637
どういう論理でそのような結論が導き出されるのか理解に苦しむ
639日本@名無史さん:2008/07/29(火) 20:51:48
>>634
>南宋を滅亡寸前に追い込んでいる国が (このくらいの事は日本側も先刻承知)
>あんな内容の国書を送ってくるんだからな。

最初の国書が日本にもたらされたのは、襄陽・樊城包囲戦の前のこと
この時点の南宋を滅亡寸前と言うのは、いかがなものかと
640日本@名無史さん:2008/07/29(火) 21:43:15
>>638
だって西夏やホラズムよりも小さな国家である日本や南越がモンゴルに勝ったんだよ?
一枚岩なら祖国防衛はできるんだよ。
641日本@名無史さん:2008/07/29(火) 23:01:27
>>639
高麗の使者がきた1268年は襄陽包囲戦が始まった年で、元使の趙良弼がきた1271年は襄陽への
南宋の援軍が大敗し、襄陽落城が時間の問題となって南宋の運命もほぼ定まり、蒙古が大元を称し
た年なんだが。

まあ、こんなのは枝葉の話でどうだっていい。
「モンゴルが世界征服を国是としている国かどうか(日本側に)わかるわけない」とか「あの時点で南宋
はまだ滅亡寸前とは言えない」とか本筋とは何の関係もない揚げ足取りの議論にすぎん。

「(現に、金を滅ぼし朝鮮を征服し南宋を侵略している国の)服属要求を受け入れなければ攻めてくるだ
ろうと考えるのは当然」という主張に対するいささかの反論にもなっていない。
642日本@名無史さん:2008/07/29(火) 23:21:35
>>641
>高麗の使者がきた1268年は襄陽包囲戦が始まった年で、

高麗の使者がきた(最初の国書到来)のは何月で、襄陽包囲戦が始まったのは何月?

>「(現に、金を滅ぼし朝鮮を征服し南宋を侵略している国の)服属要求を受け入れなければ攻めてくるだ
>ろうと考えるのは当然」という主張に対するいささかの反論にもなっていない

はて?俺はそんなことを問題としていないんだが
ただ、ここは違うんじゃないか?、と言っただけ
何を錯乱しておられるのか…
643日本@名無史さん:2008/07/30(水) 00:10:09
>>642
>はて?俺はそんなことを問題としていないんだが 
>ただ、ここは違うんじゃないか?、と言っただけ 
>何を錯乱しておられるのか… 

誤解であったのならばお詫びする。
だが、こちらが問題としているのは、あの時点 (高麗の使者が来た1268年〜文永の役の1274年までの間) の
日本側の蒙古の意図に関する認識なのだから、それと関係ないあんな枝葉のレスを付けてきたら単なる揚げ
足取りが論点ずらしと判断されても仕方ないと考えるが。
644日本@名無史さん:2008/07/30(水) 01:16:26
>>643
いや明らかに揚げ足取りの論点ずらしだろw
645日本@名無史さん:2008/07/30(水) 08:42:47
>>644
そもそも、モンゴル帝国が南宋侵略したのはフビライの時代が初めてじゃない。
それ以前から何度も攻め込んでるわけで、高麗の使者がきた1268年に鎌倉幕府が蒙古を侵略国家と認識していたのは当然。
646日本@名無史さん:2008/07/30(水) 08:50:26
アンカー間違えた。
647日本@名無史さん:2008/07/30(水) 21:32:33
>>640
西夏ってモンゴルに服属したのにチンギスハーンの出兵命令に従わなかったから滅ぼされちゃった国だっけ。

なんにしろモンゴル帝国ってのは、形式だけ服属すれば見返りに多大な利益を与えてくれた支那の歴代王朝とは
本質的に違うな。
あたかも、服属したって大したことなかったかもしれないような事を言う、一部左翼の主張など寝言もいいところだ。
648日本@名無史さん:2008/07/30(水) 23:48:39
>>636
実は元冦を機に幕府は鎮西探題置いたり御家人の力弱めたりして
むしろ支配力強めてるんだよね。

一般に元冦後、鎌倉幕府は急激に衰えて云々
って言われてるけど、当の蒙古襲来から鎌倉幕府滅亡まで
半世紀以上あるんだよね。
649日本@名無史さん:2008/07/31(木) 02:13:07
>>648
>一般に元冦後、鎌倉幕府は急激に衰えて云々

確かにこれも一般的によく言われている言説だが、極めて眉唾ものだな。
何としても日本を矮小化したい左翼史観では元寇で弱体化した事にしないと気が済まないんだろう。

現実にはむしろ、元寇を機に支配力を強化しようとする北条得宗家に対する御家人の反発が、最終的
に後醍醐に呼応する形で噴出したと言うべきだろう。
650日本@名無史さん:2008/07/31(木) 08:39:01
>>650
確かに元寇を機に北条氏は長門探題、九州探題などを設置して一門をその職に任命した。
その後、御家人ではない北条氏の私的家来の内管領が有力御家人安達氏を滅ぼすなど北条専制体制を作っていった。
北条も御家人に過ぎないというのがそれまでの建前だったけど。
651日本@名無史さん:2008/07/31(木) 10:33:09
>>631
それは今までの情勢を遠目で見て、日本に国書を送って来たから日本にも侵略に意図があるに違いない
と幕府側が判断したことはわかっても、本当にクビライ政権側が初めから日本を占領することを目的で
国書を送って来たかどうか、ということとは全然別のレベルの話だと思うんだが。
652日本@名無史さん:2008/07/31(木) 10:47:31
>>651
> 本当にクビライ政権側が初めから日本を占領することを目的で
> 国書を送って来たかどうか

対等な友好条約でも結ぶつもりでいたとでも?
653日本@名無史さん:2008/07/31(木) 11:00:25
>>648
貨幣経済の浸透もあって御家人は困窮し、幕府は徳政令を出した。
しかし抜本的な対策にならなかった。
一方で幕府は一門を西国の守護に任命し、統制を強めた。
幕府は次第に求心力を失っていった。

こっちの方が一般的。つうか教科書でも図付で載ってるくらいのレベル。
元寇以降幕府が急激に衰えたなどと言ってる人は見たことがない。
654日本@名無史さん:2008/07/31(木) 13:29:06
用 兵 夫 孰 所 好
兵を用いることなど好むところではない。
「モンゴル国書より」

こういのを恫喝という。
サヨかチョンかはたまた純正アホか知らないが、
オバカチャンたちは「恫喝」という言葉すら知らないようだ。
655日本@名無史さん:2008/07/31(木) 16:29:31
なんか静かになっちゃったね
656日本@名無史さん:2008/07/31(木) 20:14:02
>>643
外記日記 文永四年十一月二十五日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」

要するに、これだろ。
これに尾ひれをつけて話を大きく見せようなんて余計なことするから、つっ込まれるんだよ。
はじめに結論ありきでそれに合わせて事実の方をこねくりまわすようなまねはせずに、
素直に「隣国である高麗を征服した国が」とでもしておけば良かったものを。
657日本@名無史さん:2008/07/31(木) 21:12:22
>>656
>はじめに結論ありきでそれに合わせて事実の方をこねくりまわすようなまねはせずに、

自分が言われた指摘を必死に相手になすりつけようとしてるな、見苦しい奴。
結局、相手の主張に対してまともな論理的反論などは何一つ出来ず、重箱の隅をつつく
無意味な揚げ足取りをしていきがるだけか。
658日本@名無史さん:2008/07/31(木) 21:28:07
>これに尾ひれをつけて話を大きく見せようなんて余計なことするから、つっ込まれるんだよ。

突っ込んでるつもりなんだなこいつ・・・・
659日本@名無史さん:2008/07/31(木) 21:53:34
>>657
自分が言われた指摘?
ということは、俺は>>620ってことになるのかw。
>>628の文章を参考にしただけなのにな。
それにしてもこういう反応が返ってくるということは、>>628>>657なのかい?
660日本@名無史さん:2008/07/31(木) 22:16:35
>>628の文章は単なる>>620に対するレスではなく、サヨの主張がいかにデタラメか揶揄したものだろ。

その左側の言説に対する右側からの反論の揚げ足を取ろうとしてるあんたが、>>628の文章をもじった
レスを付けるんだから、そりゃ>>628の指摘が悔しくてたまらなかったサヨの意趣返しだと思う罠。

あんたが>>620であるか否かにかかわらず。
661日本@名無史さん:2008/07/31(木) 22:38:06
さて実際問題として当時の日本がモンゴル帝国の実態をどの程度認識していたのか ?

さすがに西夏やホラムズへの戦役を正確に認識していたかどうかは疑わしいと思う。
だが南宋や高麗とは交流があったのだから、当然この両国へのモンゴルの侵略についてはかなり詳しい
知識があっただろうし、金が滅ぼされた事もこのルートから知っていたと考えるのが自然だろう。
662日本@名無史さん:2008/07/31(木) 22:43:00
なんか草生やして必死になってる奴は何なの?死ぬの?
663日本@名無史さん:2008/07/31(木) 22:51:14
>>662
>>656のレス読んで>>628が思い浮かぶあたり、
>>657の方が何かと必死になって戦ってるとしか思えませんが?
664日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:24:42

うるせえヴァカw
665日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:31:38
と、必死な>>663が申しております。
666日本@名無史さん:2008/07/31(木) 23:45:31
>>663
図星だったようだなw
667日本@名無史さん:2008/08/01(金) 01:03:34
>>661
う〜ん、南宋や高麗でさえウイグルや西夏よりも西の方についてのことについて
どれだけ知っていたか怪しいような感じだけどねえ。南宋がオゴデイの時に派遣した
使節の報告書である『黒韃事略』には、モンゴル軍によって攻撃された諸国の
リストにサマルカンドやホラズムらしい「撒里達」とか「抗里」みたいな名前は
出てはいるけど。西遼と南宋って交流はあったっけ?
『事林広記』あたりを調べれば南宋がモンゴル帝国と西方との関係をどれだけ
知っていたのか大体のところは分かる・・・のかなあ。

『混一疆理歴代国都之図』を見る限り大元朝の後期には高麗にもモンゴル帝国全体の
地理情報はかなり正確なレベルで入手出来ていたことはほぼ間違い無いだろうけど、
元宗とか忠烈王の治世はじめくらいの時期に、どれだけ西方についての知識を
持っていたかは何とも言えないように思うけれど。
668日本@名無史さん:2008/08/01(金) 06:43:16
>>667
南宋の場合、内陸方面の情報はともかく、海に面した地域なら交易を通じてかなり詳細な知識を持っていても不思議じゃない。
当時ペルシア湾にまで宋船が出入りしていたらしいから。

あと、日本側の蒙古にかんする認識でいえば、1271年の『東厳慧安意見状』の中で、「蒙古は日本の軍兵を手に入れて
中国・インドなどの征服に利用するつもりだ」という指摘がなされているから、モンゴル帝国が南宋や高麗以外の地域へも
侵攻していることや、そうした征服活動に支配下の民族を投入していることなどは、認識していたと思う。
669日本@名無史さん:2008/08/01(金) 23:53:30

                      西
______________________________
|.       |  |.        |. |   .|..   |      |
|     唐 |境.|. 多.国...ト..高|境|七  |五  .|四    |
|     土 |河.|ナ湛...ト..云..麗|河|百..高|百..新|百..百  |
|   三   |広.|リ.国.云...、...ヨ|広|六..麗|六..羅|六..済  |
|   百   |丗.|.. ト 、..日...リ|廿|十..国|十..国|十..国  |
|南.. 六   |里.| 云..唐.本..ハ|里|六  |六  |六   北|
|   十   |.. .|  、.土..ヨ..蒙| |.ヶ.  |.ヶ  |.ヶ    ..|
|   六   |  | 一...ヨ...リ..古|. |国  |国  |国    .|
|.   ヶ   |  | 千....リ.ハ..国|. |..   |.   |     ...|
|   国   |  | 八...ハ.刀  |. |.   |.   |     ...|
|.       |  |. ヶ..  伊  |. |.   |.   |     ...|
|.       |  |....国      |. |.   |.   |     ...|
|.       |  |.        |. |..   |.   |     ...|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
670日本@名無史さん:2008/08/01(金) 23:55:23

                             .対
.                   嶋      ...壱.馬
                  嶋キ嶋    博岐
                  ウ.シ五    多
                  ワ.コ..  六
                  イ    十日
                       六本
                       ヶ.国
                       国
      身琉     タ    鬼           嶋千ノスヱ
      ハ球     ム    海
      人国     ロ    嶋
      頭      サ
      ハ      ム
      鳥

                      東

※五嶋、コシキ嶋、イワウ嶋のところは字そのものもひっくり返ってる。

大体上のような感じの妙本寺本日本図が、
当時の日本の世界認識、知識を現してるのではないかと思う。
671日本@名無史さん:2008/08/02(土) 02:53:47
>>668
宝慶元年(1225年)に、南宋の朝散大夫・提挙福建路市舶の趙汝モ?によって編纂された
地誌『諸蕃志』というものがある。
「外国の商人たちに訪ねて、諸国の名を列挙させ、それぞれの国ぶりや泉州からの道程は
どうであるか、山沢の産物について語ってもらい、中国語に翻訳し」たものだそうだが、
近海の占城から天竺、インドの向こうのアラビア半島のメッカ(麻嘉)やペルシア湾の
キーシュ島(記施)なんかも出てくる。

基本的に東シナ海からインド洋方面の沿岸部の諸国についての地誌で、インド洋方面は
イスタフリーやイブン・ハウカルなどアラビア語やペルシア語の地誌との共通点について
色々言われているようだ。ちょうどこの時期中央アジアやホラーサーンがモンゴル軍の
侵攻を受けていた時期だけど、さすがに蒙古のもの字も出て来ないが。

> 当時ペルシア湾にまで宋船が出入りしていたらしいから。
ほほう、それは初耳な。

家島彦一先生の『海域から見た歴史』に十二世紀末から十三世紀に入るくらいには南インドの
アラビア海側のカリカットのあたりまで中国のジャンク船が入港していたらしいけど、
この時期にペルシア湾まで来ていたかはどうだったろうか。
672日本@名無史さん:2008/08/02(土) 10:10:39
>>671
ごめん。
当時ペルシア湾にまで出入りしていたのは、「宋船」ではなく「宋の商人」の間違い。
673日本@名無史さん:2008/08/02(土) 14:10:51
よくわからんが、宋の商人の乗っている船は宋船ではないのか ?
674日本@名無史さん:2008/08/02(土) 16:57:52
>>673
インドの南端まで宋船を使い、そこから現地の小舟に乗り換えて、ペルシア湾まで行っていたらしい。
そういう記述が12世紀末の『嶺外代答』にあるんだと。
675日本@名無史さん:2008/08/02(土) 22:32:33
でも、「蒙古なんて初めて聞くなぁ」みたいなこと言ってなかったか?
676日本@名無史さん:2008/08/02(土) 23:57:22
>>675
それは結局出されなかった朝廷の返書案にあるものだな。
当時の日本は蒙古のことを「むくり」と呼んでいて、彼等の自称する国号が「蒙古」であることは
多分、国書で初めて知ったのだろうから嘘ではない。
ただ、「むくり」=「蒙古」である事は重々承知の上で、あえて「知らん」と書くのは外交上の駆け
引きだな。

いずれにしろ出されなかったんだからどうでもいい話だが。
677日本@名無史さん:2008/08/03(日) 09:14:54
蒙古に関する情報は、大宰府で直接蒙古の使者と交渉できる幕府の独占状態。
朝廷なんてもともと内向きな人種の集まりなのに、幕府が上げてくれる情報しか入ってこないんだから、何がなんだか
良く分からない状態になるのは当然。
「朝廷の認識」と「幕府の認識」は違うんだということを前提に議論しないとな。
678日本@名無史さん:2008/08/03(日) 10:45:55
韓国英雄板がないのは人種差別ニダ!!
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1166796382/460

そのレスの訳が正しいのかは知らんがw
679日本@名無史さん:2008/08/03(日) 13:12:23
高麗は消極的だった


NHK高校講座日本史より
680日本@名無史さん:2008/08/03(日) 13:59:45
>>678
九州南部まで制圧したのに台風で撤退したってどういう事だろな。そんな小説で稼げるんだから
笑いが止まらんだろな。
681日本@名無史さん:2008/08/03(日) 18:22:23
>著者は、麗蒙連合軍の日本征伐がいわゆる「神風」という表現によって深刻に歪曲されているという点に 衝撃を受ける。

ここは同意。
全部神風のおかげとか、命を賭して戦った武士を侮辱してる。
682日本@名無史さん:2008/08/03(日) 22:12:58
上陸前どころか、著者の書いてるように九州南部を制圧した段階で、台風で撤退したんなら
それこそ「神風」だよなぁ。どれほどの嵐だよ。
683日本@名無史さん:2008/08/04(月) 01:55:59
【韓国】高麗・モンゴル連合軍(元寇)は台風で壊滅せず、破竹の勢いで日本本土占領を開始した … 新刊小説『日本征討軍』出版 [08/01]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1217719609/
684日本@名無史さん:2008/08/04(月) 02:12:14
【韓国】高麗・モンゴル連合軍(元寇)は台風で壊滅せず、破竹の勢いで日本占領を開始した … ノンフィクション小説『日本征伐軍』 ★7[08/01]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1217755163/
685日本@名無史さん:2008/08/04(月) 05:20:28
> 『嶺外代答』
ほほお、そんな話があったのか。興味があるからちょっと調べてみる。

>>676
> 当時の日本は蒙古のことを「むくり」と呼んでいて、
幼児に聞かせる「むくりこくりが来るぞ」って話しの「むくり」は「蒙古」、「こくり」は「高麗」の
訛音だってはなし(説?)は民俗学関係で割と耳にする有名みたいだけど、13世紀後半の段階で
「蒙古」を「むくり」と呼んでいたの?
それは『塵袋』みたいな文永・弘安の役の直後くらいに出来た辞書とか韻書あたりからの情報?
686日本@名無史さん:2008/08/04(月) 10:03:34
>>685
日蓮の書状によれば、当時の日本人は蒙古のことを「むこ」と呼んでいたらしいぞ
687日本@名無史さん:2008/08/04(月) 22:19:15
>>685
「蒙古トハ異国ムクリノ事也」という説明が、鎌倉幕府の法律書である「沙汰未練書」にあるらしい。
688日本@名無史さん:2008/08/04(月) 23:22:01
「蒙古」、「むくり」は高麗経由の名称なのかな?
南宋経由だと「多湛(タタル?)」になりそうなもんだし
689日本@名無史さん:2008/08/04(月) 23:38:15
「モンゴル」「ムクリ」「ムコ」、語源は多分全部同じ。
彼等の自称を多民族がどう聞いてどう表現したかの違いで、本来の発音はおそらく「Mongol」に近いものなのだろう。
漢人がそれを漢字で表記したのが「蒙古」。
日本でムクリを蒙古と書くようになったのは、多分例の国書が届いて以後。

なお、現在モンゴル人は「蒙古」は漢民族が作った差別的名称だとして「蒙古」と呼ばないよう求めているらしい。
ttp://blog.kansai.com/argument/425
ttp://d.hatena.ne.jp/wnao/20070613/p9

「コクリ」は「高句麗」からだろうな。
690日本@名無史さん:2008/08/08(金) 11:32:49
「日本の戦争・蒙古襲来」によると、対元戦で武士の討ち死にが多数出たためにお家騒動がかなり発生したようです。
当時は長子相続が確定しておらず、中には討ち死にしたときの事を考え相続済ませてから出陣する者もいたとか。
691日本@名無史さん:2008/08/13(水) 22:33:20
日本史における蒙古襲来戦の解説は、
多分に、モンゴル・朝鮮の血を引く天皇家を立て、
天皇に反逆した武家をおとしめる内容になっている。
かなり創作部分が多いんじゃないかな。
武家の活躍じゃなく、天皇の神が起こした「神風」のお陰で蒙古を撃退したと。
挑戦人の氾濫まで出してきて蒙古敗退の原因にしている。
今の日本史っていまだに皇国史観が色濃く、
武家なんて徹底的にバカにされている。
武家は、封建制を敷き、農民とかを搾取し、乱暴を働いた抑圧者として描かれている。

692日本@名無史さん:2008/08/13(水) 22:57:09
文永の役で、「元軍が博多正面に上陸し、そのまま日本軍を破って博多の町を占領した」というのは全部創作。
実際の元軍は、上陸地点の生の松原付近に釘付けにされ、一方的に万を超える損害を出して逃げ帰った。
693日本@名無史さん:2008/08/14(木) 12:56:24
はいはいカッカッカッカッ
694日本@名無史さん:2008/08/15(金) 10:14:24
「元軍の主力部隊が博多正面に上陸」ってのも「元軍が博多の町を占領」ってのも完全な創作だから、
いくら探しても裏付ける史料なんて出てこないだろ。
それには事情があるのね。

戦前の元寇研究は現在よりも遥かにまともだったから、異なる立場の研究者がいろいろな説を出して、
自由な討論が行なわれていたの。
ところが、日本が太平洋戦争で負けた途端、その中から政治的に都合の良かった池内宏の『元寇の新研究』が
選択され、それに対する異論がタブーになっちまったんだな。
今でも元寇関連の研究書は必ずと言っていいほど、参考文献に池内宏の『元寇の新研究』を挙げてる。
半世紀以上たっても、その路線を墨守し続けてるわけ。

で、元軍の主力部隊が博多正面に上陸し、博多の町を占領したってのも池内宏が言い出したことなんだけど、
史料の使い方とか現在の基準から見ると滅茶苦茶なんだよ。
そのため今では、元軍の主力部隊が博多正面に上陸し、博多の町を占領したことになっているんだけど、
その根拠は一切提示することができないという悲惨な状態になっちゃったのね。

戦後半世紀以上、元寇研究は脳死状態。。。
695日本@名無史さん:2008/08/15(金) 12:24:49
>>694は正論。
だからと言って、元軍が博多に上陸できたかできなかったは分からないこと。
元軍による博多の占領はなかったとは言える。
696日本@名無史さん:2008/08/15(金) 12:35:21
そう思い込みたいだけだろ
日本発信の文献などいくらよんだところで不利は書いてないわな
697日本@名無史さん:2008/08/15(金) 20:42:25
じゃあ、元、高麗側の資料で博多正面に上陸し、博多の町を占領したってでてるのですね!
ぜひ、その文献をここに書いてください!!
読んでみたいです!!
698日本@名無史さん:2008/08/16(土) 21:14:13
早く文献だしてくださいよ
699日本@名無史さん:2008/08/16(土) 23:10:55
反対に日本が中国、朝鮮あたりでこんな風に負けてたら
ボロクソに言われるだろうな
700日本@名無史さん:2008/08/17(日) 13:48:56
根本史料のひとつである元史は、いわゆる正史の中でも一番評判悪い。
記録が正確じゃなかったり、改ざんや曲筆が結構発見されたり。
そこらへんもわかりにくくなってる原因かもね。
まして日本側記録は書いた人間の意図ばりばり。
701日本@名無史さん:2008/08/17(日) 13:52:21
>>696いや日本側に思いっきりそう書いてあるよ。
占領され、逃げさせなかった人々がさらわれ、神社焼かれてとかむしろ日本側の記録のほうが被害がつまびらか。
上で出てるじゃん。
702日本@名無史さん:2008/08/17(日) 13:53:56
何もわかりにくいことはない。
日本へ攻めて来た元軍が大敗して逃げ帰った。
ただそれだけ。
703日本@名無史さん:2008/08/17(日) 13:58:15
>>701
日本側の文献に、元軍が博多の町を占領したなんて書いたものはない
上でも結局誰一人だすことができなかった
704日本@名無史さん:2008/08/17(日) 14:01:06
ユーラシアの平原では無敵の蒙古も、河川や海が多い地形だとだめってこった。
記録が少ない地域もあるが、ほどなく元の勢力は一掃されているんであちこちで負けたか撤退に追い込まれたのは確実。
まぁ中国みたいに河川が多くても、40年も継続して攻められたらやっぱたまらんだろうけども。
モンケ戦死させようが(戦病死説も有力)しつこく攻められた南宋川磯巣
705日本@名無史さん:2008/08/17(日) 14:03:03
>>703
ああ、そうだな。町を焼いて人をさらっただけだからな。
占領という言葉を使いたくないだけならそういう強引な詭弁もありだろ(笑
706日本@名無史さん:2008/08/17(日) 14:06:06
>>705
八幡愚童訓は宗教書であって元寇の実録じゃない。
鎌倉時代の資料では、ほぼ一致して元軍があっさりと追い返されたと書いてある。
707日本@名無史さん:2008/08/17(日) 19:29:50
>>706
高麗側の記録だからお手盛りなんだろうが、蒙古側の指揮官が矢がなくなった
ことと接近戦での鎌倉武士の強さに怖気づいて、高麗側は戦闘継続を主張してる
のに、撤退を主張したということが書いてあるよね。実際、蒙古人や女真人よりも、
戦闘能力の低い高麗兵など、鎌倉武士が相手なら、徒歩武者の長刀で頭を
西瓜割の酸いかのように、かち割られまくりだったんだろうな。長柄の斬撃用の
武器で、上から遠心力つけて振り下ろすのは予想もつかない攻撃だろうし、
遠心力をつけた長刀の面打ちは、高麗兵の皮製の兜など、バットで西瓜割る
ようなものだっただろう。
708日本@名無史さん:2008/08/17(日) 19:33:41
つ【ヌルポ】
709日本@名無史さん:2008/08/17(日) 21:01:36
日本の文系の学問(もどき)なんていうのは、
実証的な研究を欠いているのが多い。
特に古代史なんていうのは、
資料が少ないのはそれをいいことにして、空想もどきのものばかり。
事実がどうだったかというよりも、思想的な色眼鏡で歴を見ようとしかしない、
脳天気な学者がいまだに存在できるのが大学だから。

事実は元軍は惨敗したということ。
仮に博多を焼いたとしても、火事場泥棒程度のことでしかない。
710日本@名無史さん:2008/08/18(月) 11:50:54
またウヨ史観のレス乞食が連日粘着開始?w
711日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:02:51
当時の日本人自身が、助かったのは自然=神のお陰、という感覚だったからね。
モンゴルに勝った将軍は世界各国で出世しているが、北条時宗らは特に朝廷から恩賞もらったということもない。
一方で寺社にはたとえば箱崎神宮に天皇直筆の額が送られたりと、恩典の数々。
時宗らが褒賞されるのは明治になってからようやく。おそらく最初に鎌倉武士マンセーをはじめた頼山陽すら江戸時代だし。
712日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:11:08
ほんと、どうしても神風のお陰にしたいウヨ史観ウザイね
713日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:14:37
>>700
評判悪いが、俺自慢か宗教書しかない日本側よりははるかにアテになる。
漢人が書いたものだが、それでも元軍には戦地ですら不要な虐殺を許さず略奪もしなかった将軍が何人もいたという都合の悪い人の記録もしっかりのこっている。
このあたり、史料残す情熱ってのは中国人は執拗なほど。
714日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:17:02
神風のお陰、というのはウヨ史観でもなんでもなく事実そう捉えていたわけですが、当時から。
715日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:23:42
当時は迷信深かったからな。ほかならぬ武士自身も神様をありがたがった。島津久経などの武将は、自分の領地に箱崎八幡の分社をいくつも作っている。
716日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:42:01
もしかして神風と日本のお陰で東南アジアは救われたんじゃね
717日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:08:13
>>714
それは間違い。
当時の記録には合戦で勝ったと書いてある。

『鎌倉年代記裏書』
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」

『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
718日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:33:26
>>717
いやだから具体的に天皇も朝廷も武士も神様をありがたがったわけですが。
断片的一文の、主観的記録とかじゃなくて現在も実物残っている神宮への奉納品とかで証明されているし。
都合が悪い内容だからってだけで神主が書いたものだから、という一点だけで全否定するくせに、都合いいものは無条件で信じる意味がわかんね。
719日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:44:38
>>718
そりゃ合戦で勝った後、神様に感謝するのは当然だろ。
そんなの元寇だけじゃない。
日本史の合戦の大半に共通すること。
当時から戦前まで史書には一貫して「合戦で元軍に勝った」と書いてるんだから、日本人は文永の役を
合戦による勝利と認識していたということだろ。
720日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:44:38
さすがあらゆる板で嫌われるダブスタウヨですね
まったく学習能力が無いw
じゃあ聞くが、根本史料のひとつである八幡愚童訓を宗教書の一言で全否定しているまともな学者とか識者って誰か一人でもいるの?
721日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:46:39
>>719
天皇直筆の門額をわざわざ送ったり、武士がこぞって領国に分社建てたりするほどの感謝した例があたりまえ?
722日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:47:44
723日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:49:23
>>711
どころか時宗は恩賞与える側として裁定に必死。
武士はもちろん寺社も俺らの祈祷のお陰、とこぞって。
さらに兵力不足を補うために非御家人にも恩賞だすぞってやっちゃったから……。
エジプトのバイバルスはスルタンに成り上がっているし、ベトナムの陳興道は大王の称号をもらっているのに比べて冷遇だなぁ。
朝廷もちっとは官位挙げてやるぐらいすればよかったのに。
724日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:50:51
だからどこが全否定?
725日本@名無史さん:2008/08/18(月) 13:56:05
帝王編年記は室町時代になってからの成立だしな。
けちつけて否定しようと思えばいくらでも余地はある。
説得力とはまた別問題だし、ウヨのまねなんか馬鹿みたいだからしないけどさw
だいたいその編年記の後段には「依筥崎宮焼亡事有陣定」と日本側被害もはっきり書いてあるし…。
いかに右の人がセコく印象操作しようとして失敗しているかよくわかる。
726日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:01:07
>>724
八幡愚童訓に対する「八幡霊験記であっても実録に非ず」という戦前の低い評価を肯定してるだろ
727日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:07:01
都合が悪いと全否定

一方で断片取り出し印象操作

そりゃ意見の種類に限らずどこでも嫌われないわけない行為ばかりだな武士マンセー君は
728日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:10:27
>>725
そういえば神社や町焼いたのは、モンゴル軍じゃなくて日本軍だという焦土作戦説を出したやつもいたっけかw
同一人物かな?
729日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:13:42
帝王編年記や勘仲記からわかることは、ただ筥崎宮が焼けたということのみ。
10月20日の合戦の記述との間隔が空き過ぎていて、それが元寇の時の出来事かも厳密には特定できない。
仮に元寇の際に焼けたとしても、それが元軍の仕業かということも不明。
730日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:14:55
元の国書にまつわるいきさつも面白いね。
蒙古皇帝、と書いてあるけども蒙古ってのは中華王朝がつけた周辺民族への悪字まんま。
一方で元史には「不宣」という文章の意味合いが変わってしまう一語はなぜか抜かして記録されている。
731日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:16:08
>>729
同一人物乙W
何ヶ月粘着しているんですかあんたは。
他にやること無いのかね。
732日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:40:06
中世の自焼については、中澤克昭が『中世の武力と城郭』で考察してる。
この時代、合戦の際に自分の家などに火をつけることは、ごく普通におこなわれていたこと。
文永の役で筥崎宮が焼けた状況に近い例には、こんなのもある。

「『看聞日記』によれば、応永三十一年(1424)六月、石清水八幡宮の神人は強訴におよび、
薬師堂に放火しようとするが、これに対し将軍足利義持は、二十五日に「薬師堂雖焼失不可痛。
只神人可責殺」といい、さらに「神人家共山下在家、悉可焼払」と下知して、軍勢を差し向ける。
翌日、幕府軍に攻撃された神人は、薬師堂の後の岩屋堂に放火するが、「自兼合図約束之間、
山下在家神人妻子、自焼。神人家共、数多炎上」したという。幕府軍に焼き払われるのではなく、
山上の炎上を「合図」として自焼を「約束」していたというところに、八幡神人とその妻子たちの
強い意志を読み取ることができよう。」
733日本@名無史さん:2008/08/18(月) 17:09:36
大半の兵士を失った元軍には惨敗でも、
日本軍にとっては大勝とも言えない程度の小競り合いでしかなかった、
というのが事実。

粘着するバカサヨかチョンにどんな劣等感があるのかは不明。
734日本@名無史さん:2008/08/18(月) 21:03:22
>>719
嘘つくなよ
『太平記』には「神様のおかげ」って書かれてるだろ
735日本@名無史さん:2008/08/18(月) 21:56:28
人の努力+神の助力みたいなことじゃないの
736日本@名無史さん:2008/08/19(火) 00:41:04
>>734
『太平記』は史書ではなく軍記物語
737日本@名無史さん:2008/08/19(火) 10:43:09
またお得意の都合悪いからって全否定ですか。
前には利用してたものも都合悪くなると切り捨てるとはなんとも……w
738日本@名無史さん:2008/08/19(火) 10:50:06
>>734
いや、明らかに武士より寺社が優遇されたわけだが?
弘安四年から、興行法が出されて元寇の手柄でもらった分含む旧寺社領持ってる武士はすべてそれを返せ、と朝廷に言われたわけだが。
739日本@名無史さん:2008/08/19(火) 11:04:18
当時の公卿の日記である勘仲記でも、元軍を倒した逆風は神のご加護か、としているしね。文永でも弘安でも。
740日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:02:21
>>737
別に八幡愚童訓のことも切り捨ててるわけじゃない。
宗教書であって実録ではないということを認識した上で用いるべきなんだよ。

資料としての価値は、
一次資料の蒙古襲来絵詞、勘仲記、高祖遺文録>>>二次資料の鎌倉年代記、帝王編年記、増鏡など>>>宗教書の八幡愚童訓。

他の資料で裏が取れなかったり、食い違っていたりする八幡愚童訓の記述が信用できないと考えるのは当然。
741日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:04:18
>>456
高麗軍ボロボロだな
742日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:09:09
>>734>>739
戦前の史料云々っていうのも大嘘だったわけですね
なんで鎌倉武士擁護が嫌われるかよくわかります
嘘、都合悪いってだけで頭ごなし否定、一方で一行抜き出し印象操作。
史板で嫌われる行為をほぼ網羅
743日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:12:15
>>739
文永の役について勘仲記には「元軍を倒した逆風は神のご加護か」なんて書いてない。
「元軍が海上で逆風に吹かれたのは神のご加護か」と書いてるんだよ。
まったく意味が違うからな。
744日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:15:58
ついには不可思議なオレ解釈絶対をはじめたかw
まぁ勝手に妄想加えて焦土作戦捏造するよかましか。
もし焦土作戦だとしたら、じゃあ同じ日本人をさらったのも日本軍かい?w
745日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:17:16
>>742
だから『太平記』は軍記物語だろーが
746日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:17:27
>>738当時の日本がいかに神威をありがたがったかわかりますね。武士らは可愛そうだけど、ここまでいくと……。
747日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:18:32
>>745また頭ごなし否定ですか? ワンパターンですね。
太平記も愚童記も、(無論無条件ではなく、だが)根本史料として研究されているというのに。
748日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:25:04
>>747
太平記や平家物語みたいな軍記物語の記述を、一次資料を差し置いて鵜呑みにはしないだろ。
元寇についても八幡愚童訓が太平記や平家物語並の扱いなら、何も問題はないんだよ。
749日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:31:45
>>748
だから無条件ではない、といっている。史料との照応は当たり前。
一次史料かどうか、という資料的価値と信憑性は別問題だから、それこそまともな識者ら一次資料すら鵜呑みにしない。
論以前の問題として、一片あげつらってレッテル貼りして全否定のお前は異常だといい加減気づけよ。
750日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:36:19
>>749
元寇でまともな資料の照応なんかされてないじゃん。
どういう基準を適用すれば、武士の戦法について蒙古襲来絵詞を無視して八幡愚同訓の一部の記述だけを
鵜呑みにするなんてことになるんだよ?
751日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:37:46
あーそうだな。戦争中の戦闘詳報なんかは誤認ばかりだが、だからといって史料としての価値が減じるわけではない。信憑性と価値は別問題
ま、地道な研究しかないよね。
その結果が今の主な史観なわけで。
752日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:43:28
陣前の作法に則って武士は合戦を仕掛けたが、相手は異人なので相手にしなかった。
この件って蒙古襲来絵詞で否定する部分ってあったっけ?
それこそ竹崎が自分と少数の従者だけで突っ込んで殺されかける、というシーンがあるから補強されちゃうわけだが。
753日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:48:17
>>751
少なくとも、どのような戦法で戦ったかについては、戦闘当事者の資料に信憑性で優るものはないだろ。
地道な研究云々だころか常識レベルの話だぞ。
蒙古襲来絵詞の集団で戦う武士団や敗走する元兵を隠し、武士が苦戦してるように見える一部だけを抜き出して
教科書に載せるようなインチキを平気でやるのが今の日本史研究。
754日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:51:45
>>753
だから当事者の竹崎は騎馬一騎従者少々で突っ込んで殺されかけていると記録しているじゃないか。
当時は家単位で動いていて、自分ひとりしか戦闘員がいなかろうが武士として権利を主張できたから少数で突っ込んで殺される武士が続出したんだよ。
当時の社会慣習の研究と符号しているじゃないか。
755日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:53:44
>>752
蒙古襲来絵詞に蒙古と名乗りあって一人ずつ戦おうとする武士など一人もいない。
さらに元軍は集団で陣形組んで突撃する白石勢によってあっさりと蹴散らされてる。
756日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:55:16
>>755
八幡愚童訓でも、鏑矢や名乗りは最初だけで、後は別にこだわって戦ったという記述もないわけだが。
なんか他人の根拠を批判する論法がもろお前さん自身にあてはまるんだね。
757日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:57:05
また右翼ちゃんは、一部を切り出して都合がいいと全肯定・悪いと全否定やっているのかw
758日本@名無史さん:2008/08/19(火) 13:00:21
>>756
じゃあ、教科書などにも後には集団戦法で元軍を圧倒したと書けばいいだろ
759日本@名無史さん:2008/08/19(火) 14:54:52
つうか、蒙古襲来絵詞なんかは田舎御家人が自分の戦功を飾り立てる為に作らせたものなわけだが。
当時の装束風俗を知るには格好の資料ではあるが、戦況については全くあてにならない。
760日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:14:23
761日本@名無史さん:2008/08/19(火) 23:50:15
>>696
それより蒙古軍が博多を占領したというソースを早くだせよ
762日本@名無史さん:2008/08/20(水) 00:21:43
このスレから悲鳴が聞こえる
763日本@名無史さん:2008/08/20(水) 01:43:26
>>762
エスパー乙
764日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:25:13
>>759
君は歴史について無知すぎwwwww
765日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:54:30
歴史のプロが登場しました!
注目!
766日本@名無史さん:2008/08/20(水) 09:06:55
>>765
エスパー乙
767日本@名無史さん:2008/08/20(水) 10:46:37
六日戊寅、晴、或人云ふ凶賊の船数万艘海上に浮ぶ、而して俄かに逆風吹き来り、本国に吹き帰す、少々の船は又陸上に馳せ上る。
仍って大鞆式部大夫の郎従等は凶賊五十余人を虜掠せしめらる也、皆搦め置く、彼の輩等召し具して参洛せしむべしと云々。
逆風の事は神明の御加被か、止ん事なく貴ぶべく、其の憑み少なからざるものなり、近日内外法の御祈、諸社の奉幣連綿として他事なしと云々
(勘仲記)

原文は漢文。
数万艘の大軍は逆風で本国に吹き返された、残った船少しが上陸したが絡め取られた、この風は神様のお陰か、天皇はじめ諸国の寺社の祈願の賜物だ、というのがリアルタイムでの捉え方だったようだ。
768日本@名無史さん:2008/08/20(水) 10:52:14
>>758
圧倒どころか水際迎撃に失敗、博多も箱崎も捨てて逃げているからそれいったらただの捏造。
日本側は家単位で動いていて、進退を一致させて戦ったわけじゃないし。
それともお得意の博多や箱崎の被害や人攫いは日本軍がやったんだよ説ですか?w
769日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:11:53
>>768
時代を超えて、鎌倉時代で拉致や略奪に精を出す大日本帝国陸軍の兵士たち、って本気で思ってるヤシがいたら入院を勧めてやるべき
だと思うんだけど。
770日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:13:43
>>769
いや別に日本軍=旧大日本帝国軍、じゃないが。
ってかスレではずっと日本軍=当時の日本の武士やら非御家人の僧兵らをまとめた総称で通じてたはずなんだがなぜ急に?
771日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:23:59
地元史によると、博多を放棄して水城に退却した日本軍は、周辺の人々をかき集めて徹夜で堀や堤を直させたそうですよ。
それ以前にいざ篭城となったら、という準備は見られない(食料備蓄した、という記録はあるが、これは別に篭城じゃなくても野戦の補給として必要)
いかに思わぬ劣勢にあわてていたかよくわかる。
772日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:28:16
>>768
博多も箱崎の手前の赤坂で元軍を撃退し、そのまま撤退に追い込んだんだら明らかに圧勝。
小弐氏が博多や箱崎を放棄したとされる時刻は、高麗史によれば既に戦闘が終了した後であり、したがって博多や箱崎で
大きな損害が出たという記述は事実と認められない。
773日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:34:16
>>772
つまり博多や箱崎を焼き、人々をさらったのは暴虐な日本の武士ということですね?w
される時刻、とか時系列の記録が正確であるという判断をまた都合によって一方的全否定・あるいは全肯定とかマジ毎日同じ馬鹿が粘着しているんだなぁw
774日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:37:22
>>773
つまり、博多や箱崎にはほとんど損害がなかったということ
775日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:40:03
そうか、身勝手な武士が敵との戦いそっちのけで略奪放火に走ったのか。納得。


と、誘導したいのかな。実は右翼装った反日君かな?
ただのレス乞食が一番確率高そうだが(笑
776日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:19:23
逆風の事、神明の御加被歟。止事なく貴ぶべし。
其憑少なからざる者也。

(勘仲記/文永十一年十一月六日条)

原文は漢文。二度もタイミングよく自然現象が発生したんだ、当時はなおさら超自然の力だと捕らえたんだろう。
777日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:23:27
>>775
エスパー乙
778日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:34:29
八幡愚童訓には、武士たちが箱崎を放棄した後で社官たちが境内から御神体を運び出したと記述されているが、
本当に武士たちが引き上げた後で元軍に箱崎が占領されていたのなら、こんなことは不可能ね。
779日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:38:20
>>776
文永の役は少しもタイミング良くないだろ
一度上陸した元軍が海上にいる時点で、戦闘は元軍の敗北
780日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:48:26
>>779
それはお前の思い込みを前提にした一人の考え。
当時の記録だから。
一次史料一次史料とうるさかったくせに、都合が悪いとそういう態度とるからお前に誰も賛同せんのじゃない?w
781日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:50:35
>>780
『金剛仏子叡尊感身学正記』
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」

これも一次資料だけど
782日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:52:13
あら。宗教書と否定してた愚童訓までつまみ食いの対象にしはじめちゃったか。
実際には神輿に乗せる暇もなく、唐櫃に入れて慌てて運び出したと命からがらだった様子がしっかり書かれているわけだがな。
つまみぐいに嘘、オレ思い込み絶対。いい加減にしてほしいはもう。
783日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:54:24
>>782
仮に元軍に箱崎が占領されていたのなら、命からがらではなく確実に殺されてるだろ
784日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:54:59
>>781
それは一次史料ではないなぁ。
後年の弘安八年から書かれた、しかも宗教書と右翼君が全否定するような坊さんが書いたものだぜ?
第一、どうして蒙古軍が退散したか書かれてないわけだから否定材料にならんわけだが。
785日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:58:20
>>783思い込みだけで全否定するのなら、最初から一部だけ引用とかすんなヴォケ
786日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:02:54
>>784
同時代人の自伝は普通に一次史料だよ
それから、勘仲記だって元軍が海上にいる時点で戦闘は元軍の敗北だとは認識していなかったという根拠にならないじゃん

787日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:05:31
>>785
元軍に博多、箱崎が占領されたという話だって単なる思い込みじゃん
788日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:07:17
だいたい○次(等)史料ってかなりいい加減な定義だぞ? はっきりした定義あるわけじゃないし。
南京虐殺論争とかでよく一次史料じゃない、という論法で都合悪い史料全否定したりするけど、明らかに間違い。
(他者の意図が入ってないのなら、証言だって一次史料扱いされる。信頼性とはもちろん別問題だが)
まして内容を嘘ついた挙句、都合悪いと全否定に回るとかの醜態はもう問題外。
789日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:08:24
>>788
>内容を嘘ついた挙句

これどこのことよ?
790日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:10:10
ウヨクレス乞食は、何がしたいのかわからん……>頭から馬鹿にしてた愚童訓を嘘混じりで持ってきて、嘘がばれると否定
791日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:11:27
>>790
だからどこに嘘混じりなんだよ?
792日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:14:40
八幡愚童訓に書かれているように、」箱崎神宮から神体を持ち出す暇があったんだから、元軍にやられたわけじゃないんだ!
といったが、すぐに神体を作法にのっとる暇もなく唐櫃でギリギリ持ち出したというのが正確と判明
そうすると、逃げることすら無理だと自分のレス含めて全否定。

何この阿呆。
793日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:20:01
>>793
八幡愚童訓に箱崎神宮から神体を持ち出す暇があったと書いてあるのは事実だろ。
元軍に箱崎が占領されていたのなら、神体を作法にのっとる暇もなく云々のレベルではなく、持ち出すこと自体不可能じゃん。
794日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:21:13
>>793>>792へのレスね
795日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:21:33
>>793
恥の上塗り乙
お前が結論ありきのつまみ食い、重要なところぼかして印象操作の常習犯だってもうみんなわかっているから。
796日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:25:17
>>795
全然重要なところじゃないだろ
だいたい俺はこのスレに書き込んでる連中のかなりの割合が、八幡愚童訓の全文読める環境にいるという前提で書き込んでる
797日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:29:58
敵の手が迫ったので命からがら慌てて逃げました、という部分を。
安全に逃げられたんだから敵はきてないよ、とするのを嘘じゃない、というのなら。
嘘の定義を書き換える必要がありますね。
798日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:33:59
歴史上数え切れないほどある、あわやというところでの脱出はすべて嘘にされるのか。難儀なこった。
ただ鎌倉武士マンセーに都合が悪いという一点だけが原因で。
799日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:35:49
>>797
いそいでいたという記述があるだけで(余火急ノ事ナレバ)、「敵の手が迫った」とは書いてないだろ
800日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:37:58
博多箱崎に損害ほとんど無し、ということは被害とその復興を記述した地元史料全ても嘘扱いされるわけかぁ

ま、本当に被害が僅少ならよかったんだがねぇ。
801日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:42:23
箱崎を守っていた大友勢はとっとと水城に逃げたんでかなり不評買ったようだね

『大友は子供うち連れ落ち行きて、方々にこそよりやす(頼泰)みけれ』
と揶揄されているし、幕府からも譴責文書食らっている。
もっとも弘安で奮戦して名誉挽回したり、文書にちゃっかり加筆して勢力拡大の道具にしたり転んでもただではおきないしたたかさが持ち味だったかもしれんが。
802日本@名無史さん:2008/08/21(木) 12:27:16
>>797
嘘の定義

敵の手が迫ったので命からがら慌てて逃げました、という部分を。←これが嘘
803日本@名無史さん:2008/08/21(木) 15:29:21
>>801
逃げて正解。小弐氏率いる本隊すら退却しているぐらいなんだもん。
死守とか玉砕なんて馬鹿のやること。
勝ち目が無ければ逃げて後図を策すのは当たり前。
804日本@名無史さん:2008/08/21(木) 15:35:58
元軍も勝ち目が無いから退却してるしな
805日本@名無史さん:2008/08/22(金) 00:59:59
とりあえず今焦点になってるのは文永がどうだったかってことで
弘安の方は普通に日本側の完全勝利ってことでおk?
806日本@名無史さん:2008/08/22(金) 09:59:20
ついにレス乞食ウヨを誰も相手にしなくなったw
807日本@名無史さん:2008/08/22(金) 10:26:18
「就中蒙古凶賊等来着者于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉」
(薩摩国国分寺文書・建治元年(1275年)官宣旨案)

やっぱり神風(と当時の人々が認識した自然現象)は起こっていたらしいよ。文永でも。
神風のお陰云々、という考えは当時からのもの。
808日本@名無史さん:2008/08/22(金) 15:04:43
>>807
そりゃ、日本を侵略した憎き敵軍が、戦いに負けて敗走する最中に暴風にも遭遇すれば、神様まで味方してるんだと
ありがたくお思うだろう。
でも、戦いは海上にいる時点で元軍の負けなわけで、帝王編年記、鎌倉年代記の記述が、当時の人々が文永の役を
合戦による勝利だと認識していた事を裏付けている。
809日本@名無史さん:2008/08/22(金) 15:08:58
風が吹いたこと自体認めてない人はいないと思うが>>807
810日本@名無史さん:2008/08/22(金) 21:10:22
うん、風が勝利の決定的要因だったかどうかの話だよな
811日本@名無史さん:2008/08/24(日) 09:41:09
まあ、ナポレオンもヒトラーも冬将軍に負けたしね。
812日本@名無史さん:2008/08/24(日) 09:43:35
ナポレオン軍は韓国騎兵の猛追撃で壊滅したわけだが。
813日本@名無史さん:2008/08/24(日) 19:01:48
東亜板で遊んでろよ
814日本@名無史さん:2008/08/24(日) 21:21:18
          ♪        ,.-r、.
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815日本@名無史さん:2008/08/24(日) 21:23:49
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        l l;';'lk!';'__;'_;';'-...―...-..、';';';';';';';';';';';';'トェイl;' ハ
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816日本@名無史さん:2008/08/25(月) 02:12:45
少し時代は下るが、明の戚継光も「剣で斬ろうと近づこうにも、刀の方が長く近づきにくい。
また、槍で突こうにも柄ごと両断されてしまう。」と日本人の日本刀を使った接近戦での苦戦
を記録に残しているから、元寇の時も接近戦で同じ様な目にあったんだろう。
817日本@名無史さん:2008/08/25(月) 11:25:14
なんだ、戦前には神風の記録はない、とか言ってるやつがいたけど。
実際には当時からいくつもあるんじゃん。
818日本@名無史さん:2008/08/25(月) 11:27:05
>>808
よう、嘘つき捏造印象操作、一部切り取り全否定ご都合主義者w
お前の思い込みなんか誰ももう聞いてない。事実としてそういう史料があるという以上、確定。
819日本@名無史さん:2008/08/25(月) 11:51:38
鎌倉武士強かった論を論じるのは勝手だが。

その手段に嘘とか使う神経がわからん。だから誰からも信用されないし、ほとんど相手にすらされなくなっているんだ。
820日本@名無史さん:2008/08/25(月) 13:59:23
>>817-819
戦前には神風の記録はない、なんて書いていないだろ。
適当な嘘で印象操作するなよな。

821日本@名無史さん:2008/08/25(月) 14:17:29
>>805
一寸の国土も奪われること無く、侵略してきた敵軍を撃退してるんだから、普通の基準なら明らかに日本軍の完全勝利。
ましてやモンゴル軍は目標の大宰府攻略どころか、そこまでたどり着くことすらできなかったんだから。
文永の役も弘安の役もね。
困ったことに世の中には、自国が2度に渡ってモンゴル軍に完全勝利を収めたという事実が気に喰わなくて、日本にだけ
特殊な基準を適用しようとする輩がいるが・・・
822日本@名無史さん:2008/08/25(月) 15:42:46
完全勝利という言葉にいつもの方々が飛びつく予感
823日本@名無史さん:2008/08/25(月) 15:51:14
八幡愚童訓によると、文永では日本側は水城に撤収した後、明日はどうなることかと嘆きあっていたが、いざいってみると敵影はなく大喜びしたそうですよ。
実際、元軍の撤収は一ヶ月余という時間がかかっており、何らかのトラブルがあったことは確実。
日本側からしたら逆風(と、当時の人々が認識した現象)はまさに神風だとらえられたのでしょう。
824日本@名無史さん:2008/08/25(月) 16:08:19
>>823
文永の役で日本軍に合戦で敗れた元軍が、朝鮮半島まで敗退する途中で何らかのトラブルに遭遇したことや、
そのトラブルを神風だととらえた記録があることは、誰も否定していない。
825日本@名無史さん:2008/08/25(月) 16:28:59
嘘つきウヨはお仲間が大量にいる極東板あたりにいけよ。
何度嘘や一部抜き取り印象操作がばれても意地でも勝った勝ったと連呼したいガキはおよびじゃない。
826日本@名無史さん:2008/08/25(月) 16:33:24
>>825
史料に「元軍が合戦で負けた」と書いてあるんだから仕方がないだろ。
嘘や一部抜き取り印象操作とか言いながら、その具体的な例を一つも出せないじゃん。
嘘や印象操作を繰り返してるのはお前だよ。
827日本@名無史さん:2008/08/25(月) 16:43:54
25000人連れてきてやったことは町を荒らして人攫い
828日本@名無史さん:2008/08/25(月) 16:47:01
ウヨとか関係ないだろ・・・
829日本@名無史さん:2008/08/25(月) 20:59:24
>>823−824
>実際、元軍の撤収は一ヶ月余という時間がかかっており、何らかのトラブルがあったことは確実。

その何らかのトラブルとは、船団内での伝染病の流行だったと聞いたことがある。
これは本当?
830日本@名無史さん:2008/08/25(月) 22:27:21
>>827
> 25000人連れてきてやったことは町を荒らして人攫い
歴代のモンゴル帝国の軍事活動としては割と普通だ。
831日本@名無史さん:2008/08/25(月) 22:57:55
>>829
『高麗史』金方慶伝の弘安の役の部分(忠烈王七年六月)に金方慶や洪茶丘のいた
東路軍のことだと思うけど、江南軍が到着する前に「軍中又大疫、死者凡三千餘人」
とあるからこのことだと思う。
832日本@名無史さん:2008/08/26(火) 09:10:01
蒙古人襲来対馬壱岐致合戦之間、所被差遣軍兵也、且九国住人等、其身縦雖不御家人、有致軍功之輩者、可被抽賞之由普可令告知之状、依仰執達如件
(幕府より大友氏への文永十一年十一月一日付書状。大友文書)

ま。勝ってたのなら、幕府の御家人体制を揺るがしかねない、非御家人の動員と恩賞授与を公的に命令するはずないな。
833日本@名無史さん:2008/08/26(火) 09:12:32
>>826
ほらまた一部抜き出し印象操作w
それは逆風のお陰、という史料もいくつもあるわけだが。
どころか武士は打ちまけ、街や避難させなかった妻女を敵手にゆだねたという史料もな。
お前は本当に進歩がないなぁ。
834日本@名無史さん:2008/08/26(火) 09:57:54
>>833
お前等が逆風のお陰、という史料だと言い張ってるのは、元軍が帰路暴風に遭遇したということを書いてるだけ。
逆風のお陰、という史料じゃないじゃん
それに、武士は打ちまけ、街や避難させなかった妻女を敵手にゆだねたという史料は、怪しげな宗教書だろ。
「元軍が合戦で負けた」と書いた史料より信頼度が低い。
835日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:26:12
夜明ケレハ廿一日之朝、海之面ヲ見ニ蒙古之舟共皆馳テ帰ケリ。是ヲ見テコハ如何ニ此方ハコナタヘ彼方ハカナタヘ後合ニ落ル事、
コハ何事ゾ、今日ハ九国ニ充満シテ人胤モ無ク滅ビナント終夜歎合シニ、如何ニシテ角ク帰ラン、是者只事ナラヌ消息、泣笑シテ色メキテ人心付キニケリ
(八幡愚童訓)

これが戦地の状況だしな。
今日でみんな殺されちゃう、と嘆きあっていたところへ朝になったら敵は消えていた。
助かったとみんな大喜び。
836日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:27:18
>>834
また宗教書とレッテル貼って全否定か。
さすがその宗教書から一部抜き出しして利用し、しかしそれがその日に失敗したら全否定に回ったお人ですねw
837日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:29:39
勘仲記や薩摩国分寺文書のどこに帰路暴風にあったなんて書いてあるんだ?
脳内のオレ妄想と史料をごっちゃにしないようにな、いい加減。
だいたい書いてない、と言い張るのなら散々出した「元軍が敗れた」という史料だって、単に「自然現象のお陰で」を書いてなかっただけとも強弁できるわけだが。
お前さんの理屈はただの屁理屈。
838日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:31:29
何度か書いているが、八幡愚童訓は宗教書であって、元寇の実録ではない。
よって>>835が引用した箇所も、八幡神の霊験を強調するための創作を多分に含んでいると考えるべきであり、
戦地の状況とは言えない。
839日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:39:30
日本軍勝利論の根拠にした、坊さんが自分と仏教との縁をつづったものも宗教書呼ばわりされかねないのにな、そんな乱暴なくくりだと。

ああ、いつものダブスタか。
840日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:41:21
>>838
お前の予断はどうでもいい、といい加減気づけ。お前は結論ありきで、すべての史料や解釈はそれに奉仕するものと思い込んでるクチだろ
841日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:47:36
>>837
勘仲記や薩摩国分寺文書も海上で元軍が暴風に遭ったのはありがたいと書いてるだけ。
一度、上陸した元軍が再び海上で暴風に遭うのは既に陸で敗退した状態。
こんなの常識じゃん。
だから、鎌倉年代記、帝王編年記、だけではなく、北条九代記、保暦間記、北肥戦誌等々数々の史書でも、
文永の役について神風のお蔭などという戯けた寝言を書いてないんだろ。

842日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:48:57
八幡愚童訓を宗教書と都合悪いからって全否定
 ↓
でも一部取り出して利用しようとする
 ↓
あっさりそれがばれて全否定に戻る

以下エンドレス……

何こいつ
843日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:50:34
自分の妄想は絶対。同じ論法で返されたら罵倒。駄目だこりゃ。だから何ヶ月粘着しても孤立したまんまなんだよねぇ。極東板向きだよ、君はw>>841
844日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:52:09
八幡愚童訓では、元軍は箱崎宮から出てきた神様によって撃退されるわけだが、これって事実?
そんなに八幡愚童訓が信頼できるなら、逆風なんか持ち出さずに、白装束の神様が元軍を追い払ったと主張すればいいだろ。
845日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:59:11
「神風」という概念自体は、実は古い。
日本書紀には、壬申の乱の時に天武天皇が神に祈って戦況を有利にする風を呼んだ、とありこれを神風と称した。
伊勢神宮があった伊勢は、この霊験譚にちなんで「神風ノ伊勢」などと呼ばれていた。
初体験の国難のとき、有利な自然現象が二度も起こったのなら、当然結びつけるだろう。
846日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:00:55
>>844
あのなぁ。だからそういう短絡的な全肯定ないし全否定脳は、論以前の問題だと何度も注意されているだろ。
何逆切れしてるんだよ?
847日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:05:13
ご都合主義の全否定ないし全肯定をやめれ、といっている相手に

じゃあ全肯定しろ! というとは一体なんなんだか

わざとやってるんかなぁ? ピエロやってレスつけられること自体が喜びとか
848日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:08:16
>>846
全否定してるわけじゃない。
八幡愚童訓より信頼度の高い史料に「元軍が合戦で負けた」と書いてあるのだから、当然そちらを史実だと考えるべきだと言ってるだけ。
何度もそう書いてるだろ。
849日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:10:24
>>847
八幡愚童訓に、元軍は箱崎宮から出てきた白装束の神様によって撃退されたと書いてあることを無視するのは、
ご都合主義じゃないの?
850日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:12:15
八幡愚童訓には、元軍は自分たちがつけた博多の炎が海に映るのにおびえて、とかもあるわけだがな。
単なる宗教書呼ばわりなら、オール神さまのお陰にするだろ。
神宮だって神威で守られた、と書かずに被害こうむったって素直に書いてあるし。
一方で武士が集団戦を行った形跡も書かれているわけで、全否定ならこれも嘘扱いせにゃならんぞ。
ほんと度し難い単純脳だな。
851日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:14:37
白装束、というのは何かの話が変化したもんじゃ?
夜襲・焼き討ちかけた日本側の部隊をそう捉えたとか。
まったくの創作と決め付ける証拠は無い。
無論逆もしかりだが。
(武士の可能性は低いがな。みんな水城に撤収し、地元民集めて篭城準備徹夜でやってたし。)
852日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:18:34
>>850
赤坂で元軍が菊池に撃退されたことについては、正直に書いてないぞ。
おまけに、菊池勢百余騎があたかも全滅したかのような悪質な印象操作もしている。
853日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:18:59
決め付けの全否定全肯定はやめろ、といわれているだけなのに。逆切れして相手に全肯定しやがれ、とかむちゃくちゃ言い出すほlど追い詰められているのか?
自業自得とはいえ少しかわいそうになってきたW
854日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:23:07
印象操作? 手勢が全滅する前で戦い、敵の首とって生還して武名を挙げたとほめているじゃないか。
もし印象操作が目的なら、もっとひどく書けるだろ。
脳内で白黒二色にすべて分けた妄想をぶちまけるのはいい加減迷惑とわかれよ。
855日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:25:17
菊池氏の家伝だと、実際一門からも討死が出ているほどだったからね>赤坂戦
856日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:28:28
>>853
白装束の神様云々は、八幡愚童訓の文永の役についての記述の要だろ。
八幡神の霊験を示すために書かれた宗教書なんだから。
中核部分の記述の信頼度に問題があるのに、何でその他の箇所は信頼できるなんて言えるんだよ?
857日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:33:52
文永の役で竹崎季長が主張した功績は「先駆け」したこと
でも菊池勢が既に戦闘していたのなら、先駆けも何も無い。単に後から少数で突っ込んでいってやられそうになって他の御家人に救助されただけ。
だから蒙古襲来絵詞で菊池勢激闘の痕を書くのは都合が悪かったのです。


と、某レス乞食ウヨ風に強弁してみるw
858日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:34:24
>>854
竹崎が戦闘の後で百余騎を率いた菊池と会っている。
全滅とは程遠い状態なのに、あたかも全滅のように書くのは、ひどい印象操作そのものだろ。
859日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:35:41
また勝手に確信とか決め付けて、やはり全否定につなげるし。

オレ全否定もご都合主義もしてないよ、といいつつやってりゃ世話無いや
860日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:38:56
結局その赤坂放棄して撤収しているわけだしね。経緯はともかく、防衛失敗したのは事実。
それが打撃によるものか、他が崩れたので下がったのかはいまいち不明分だが。
しかし一門や系列の赤星氏からも討死がでているわけで、圧勝とは考えにくいがな。
861日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:41:23
江戸時代に書かれた『北肥戦誌』までさらっと持ち出してきたか。
書名並べりゃいいってもんでも……
862日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:42:12
>>860
元軍が敗退してるのに何で防衛に失敗なんだよ?
防衛に成功したのが事実じゃん。
863日本@名無史さん:2008/08/26(火) 11:44:52
やっぱり運が良かったから助かったんだね。
864日本@名無史さん:2008/08/26(火) 13:25:40
蒙古が怪しい動きしてたのわかってたのに、壱岐対馬を捨て殺しにし、挙句拠点である水城修築は敵に負けて後退してから徹夜でようやく……
ほんとうに準備不足だったな。
相手の自主退却だか逆風だか知らんが、日本は運が良かった。
865日本@名無史さん:2008/08/26(火) 14:01:50
まあ、理由がどうであろうと、日本が勝ったのが過去に遡っても気に入らない人にとっては残酷だが、被侵略者が侵略者をごくざずかな時間
で撃退したんだから勝ったと言って言い過ぎることはないだろ。
気に入らない人たちが大好きな国が、数十年かけてやっと日本人を追い払ったのを「勝った」と言っているくらいなんだから。
中には全然戦ってもいないのに「我々の戦いの勝利」などという「リアル・ヨブ親父」みたいな連中もいるしw
866日本@名無史さん:2008/08/26(火) 20:29:21
>>841
『北条九代記』というのは京都大学附属図書館所蔵の『鎌倉年代記』(壬生家旧蔵書)の
写本や活字本の題名だったはずだが・・
取り敢えず、『勘仲記』『帝王編年記』『鎌倉年代記』の文永の役当該部分を上げてみる。
(『帝王編年記』『鎌倉年代記』も当該部分の分量は上げてある分だけで記載内容は少ない)

『勘仲記』の文永十一年十月二十九日、十一月六日条には、
「十月廿九日、辛未、異國賊徒責來、有興盛之由風聞、關東武家邊騒動云々」
「或説云、北條六郎(北条為時)并式部大輔(北条時広)等打上云々、是非未決、怖畏無極者也」

「十一月六日、戊寅、或人云、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹歸本國。少々船又馳上陸上、
 仍大鞆式部大夫(頼泰)郎從等凶賊五十餘人令虜掠之、皆搦置、彼輩等召具之。可令參洛云々、
 逆風事神明之御加被歟、無止事可責、其憑不少者也」

『帝王編年記』(1364-1380年頃成立?)の巻二十六 亀山院 文永十一年十一月六日条に
「六日、飛脚到來、是去月廿日蒙古与武士合戰。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」

『鎌倉年代記』裏書 文永十一年十月五日条
「(今年文永十一)十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、
 於大宰府合戦、異賊敗北、」

ちなみ『鎌倉年代記』というのは、折本型の年代記と云うか年表のようなもので、折本仕立て一帖二十六折。
表面に年表がかかれ、年ごとの幕府の将軍や執権、連署などの役職とその在職だった人物の名前と
経歴、没年月日などが列挙されている。裏書きに年ごとの出来事が書かれていて、蒙古襲来関係の記事も
この裏書きに記されているもの。書名は原本包紙によるものだそうで、現在、原本は京都大学附属図書館
所蔵で、もともとは壬生家の旧蔵書。折り畳み地図みたいに畳んで携帯して使用するものだったようだ。

写本や活字本では『北条九代記』。元弘元年(1331年)頃成立し、まもなく追記・裏書などが記入
されたと考えられているんだとか。編者は鎌倉幕府の吏員ではないか、ということらしい。
867日本@名無史さん:2008/08/26(火) 21:24:29
>>866の付け足し。
後宇多天皇の時代(在位1274-1286)に成立したと考えられる『一代要記』にも文永の役関係の
記事があって、後宇多天皇(今上皇帝)の項目の文永十一年十月条には

「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵
 亂入壹岐嶋、同十四日、彼嶋守護代莊官以下被悉打取云々、
 對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國甲良郡、同二十日始合戰、
 宰府軍等皆北了、爰同日亥刻、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、
 測知是神明之儀也、即異國兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、」

この『一代要記』というのは、水戸藩の史官が延宝年間(1673-81)に金沢文庫から発見したことで
有名になった資料だそうだけど、金沢文庫本は現在、東山御文庫に架蔵されているため、東山御文庫本とも。
東山御文庫本は春夏秋冬の全4冊から成り、後宇多天皇は「今上皇帝 第九十」として冬冊に含まれている。
このため、後宇多天皇の時代(在位1274-1286)に成立したと考えられ、鎌倉時代末期から南北朝時代初期
までの書継があるそうだ。

『鎌倉年代記』や『帝王編年記』などは鎌倉時代の末期以降の資料になるから厳密には同時代資料と言えるか
微妙だけど(これをいうと『元史』『高麗史』もそうなるが)、書継があるものの『一代要記』本文の場合
恐らく弘安の役から10年以内に成立したものだろうから『勘仲記』や『蒙古襲来絵詞』と同じくらいは
同時代資料と言えるかと思う。

自分が確認したのは東山文庫本の一部(コピー取り忘れた)と『改定史籍集覧』の「校本 一代要記」の方。
↑は概ね『改定史籍集覧』を写したものだが、「同二十日始合戰、宰府軍等皆北了」のところの「皆北」は
wikipediaの『一代要記』にリンクされている京都大学附属図書館所蔵、平松文庫『一代要記』(十巻本)の
当該部分だと「同二十日始合戦宰府軍等背北了」と書いているから「敗北」と同じ意味だろうか。

(あと「爰同日亥刻、兵船二艘出來」が平松文庫本だと「爰同日亥刻許兵船二艘出来」と「許」の字が入っている)
868日本@名無史さん:2008/08/26(火) 21:42:58
久々に覗いてみたら、揚げ足取りの粘着バカがますます酷い事になってるな。

八幡愚童訓の資料評価と、宗教書という性格からくる資料的バイアスについて論じてるだけなのに
いきなり全否定だの全肯定だの言い出すんだから開いた口がふさがらない。
実は全否定とか全肯定とか言ってるのはこの粘着バカ1人だけで、他の人間は誰一人として八幡愚
童訓 ( に限らず全ての資料 ) を全否定も全肯定もしていないのに。
こいつが人のレスを捻じ曲げて印象操作しているだけの事。

自らの資料批判能力などゼロ、やることといったら嘘と捻じ曲げと印象操作と揚げ足取り、そして相手
に「嘘つきウヨ」とかレッテルを貼って口汚く罵るだけ。
まったくもって卑怯卑劣、最低の人間だなこいつは。
869日本@名無史さん:2008/08/28(木) 19:34:27
こんな過疎板の隅っこのスレなのに最近よく伸びるね。
それもスレの伸び方が不自然だし。どうしてかな?
870日本@名無史さん:2008/08/28(木) 19:45:26
どのスレでも、すぐギスギスした論争に持って行きたがる論争厨がいるよな。
871日本@名無史さん:2008/08/28(木) 21:53:16
>>869
ID出ない板だし、そりゃ不自然に伸びる理由は1つしかないさ。
872日本@名無史さん:2008/08/30(土) 00:25:56
自力でモンゴルに勝利したって言うのは、ベトナムやマムルーク朝みたいなのを言うんだよ。
鎌倉武士(笑)なんて、偶然の台風無ければ一方的にやられたチュートン騎士団や朝鮮と大差ない。
873日本@名無史さん:2008/08/30(土) 02:34:12
釣りウザイ
東亜板で遊んでろよ
874日本@名無史さん:2008/08/30(土) 06:19:35
あっさり勝ってしまったせいで過小評価される鎌倉武士
875日本@名無史さん:2008/08/30(土) 12:00:56
もし「元寇に失敗したのはタイミングよく来た台風のおかげ。鎌倉武士はザコ」
ってのが正しいんなら
「ナチスドイツやナポレオンがロシア遠征に失敗したのはタイミングよくきた冬将軍のおかげ。ロシア軍はザコ」
とか
「日本が唐入りに失敗したのはタイミングよく秀吉が死んだおかげ。明軍はザコ」
ってのも正しいことになるなwありえねーよwww
876日本@名無史さん:2008/08/30(土) 12:13:17
460 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2008/08/30(土) 01:41:20 ID:87ACVNF4
もし「元寇に失敗したのはタイミングよく来た台風のおかげ。鎌倉武士はザコ」
ってのが正しいんなら
「ナチスドイツやナポレオンがロシア遠征に失敗したのはタイミングよくきた冬将軍のおかげ。ロシア軍はザコ」
とか
「日本が唐入りに失敗したのはタイミングよく秀吉が死んだおかげ。明軍はザコ」
ってのも正しいことになるなwありえねーよwww

461 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2008/08/30(土) 02:03:01 ID:D5fyLh3Q
>>460
一番下は正しい
877日本@名無史さん:2008/08/30(土) 12:18:50
文永の時は、あのまま強引に太宰府まで攻め込んできてくれたら、幕府の増援軍と合流し背後に回り込んで
船を焼き払ったうえ包囲殲滅戦を仕掛けるという見栄えのある展開になったろうにな。

まあモンゴル軍もそこまで馬鹿ではなかったということだ。
878日本@名無史さん:2008/08/30(土) 12:22:41
アメリカが日本に勝てたのは偶然ミッドウェーで日本の4空母を沈められるという僥倖に恵まれたから。

米軍はザコ。
879日本@名無史さん:2008/08/30(土) 15:28:18
>>875
一番上以外は誤り。
880日本@名無史さん:2008/08/30(土) 16:19:00
神風は日蓮が吹かせた
「日蓮上人と蒙古襲来」大昔の映画
881日本@名無史さん:2008/08/30(土) 23:53:46
>>879
バカ?
882日本@名無史さん:2008/09/04(木) 11:00:33
鎌倉幕府は、文永の役での戦闘経過をかなり正確に掴んでいたようだね。
戦いにおいては元軍優勢だが、輸送を船腹に全面的に頼ることから継続戦闘力は低い。
石塁積んで、持久戦に持ち込んだのはほぼ唯一の正解だろう。
(手柄欲しさの命令違反が続出したが、幕府は海上への切り込み攻撃すら禁じていた)
文永のようにまともに迎撃したり、あるいは元軍が負った不利をより重く背負う朝鮮侵攻(当時の日本には組織的な水軍はなく、造船技術も低いからろくな補給はできそうもない)やったりしてたら大敗は必至だった。
誰がどんな経緯で対元作戦を考えたのか、明らかじゃないのは惜しい。
883日本@名無史さん:2008/09/04(木) 11:36:41
アイデアは亡命した中国人のブレーンからだろ

防御施設を連ねて持久に持ち込む、というのは春秋戦国時代の趙の李牧以来の、典型的な対遊牧民戦法。

それを日本でできるようにアレンジしたんでしょ。
884日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:34:38
しかし、元冦についてちゃんと書いてある本はほぼ皆無で、サイトも見つからず
唯一まともにやっているのが2ちゃんだけってのは酷すぎないかい?w
885日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:00:53
壱岐対馬では元軍優勢だったね
886日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:05:57
>>885
まじで?!
やっぱり日本の完敗だったのかorz
887日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:16:48
>>886
釣りは軍板でやることですな
888日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:47:43
我々日本人は列島だorz
889日本@名無史さん:2008/09/04(木) 22:41:33
なんで文永の役で元軍が撤退したことがミステリーのように語られるんだろう
890日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:11:55
>>883
それこそソース提示しろよw
891日本@名無史さん:2008/09/05(金) 10:43:46
>>884
お前さんが不勉強なだけじゃないの?w
オレの気に食わない意見はすべて屑、のレス乞食ウヨ再臨ですかそれとも?
892日本@名無史さん:2008/09/05(金) 11:07:13
何でそう喧嘩腰なのか
893日本@名無史さん:2008/09/05(金) 11:10:57
何度も言うが、ウヨとか関係ないだろ・・・
894日本@名無史さん:2008/09/05(金) 11:11:37
何を持って研究されてない、というのかは不明分だが。
たとえば蒙古襲来絵詞が後世加筆された、なんて話は明治から研究されているわけだが。
佐藤鉄太郎なんか有名
(日露戦争でも戦った軍人で東条英機の父親と並ぶ日本の戦史の大家。日本の大陸進出策失敗を予見したことでも知られる。)
895日本@名無史さん:2008/09/05(金) 11:29:05
ちゃんと書いてある本なんて、図書館行けばいくらでも見つかるだろうに何をいってるんだ。
ちゃんと、の定義がわかんないから、「特定の極論に特化した研究」とかのヘンなのを指しているのから知らんがなw
896日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:15:00
>石塁

どうも日本人の発想っぽくないな。こんな防御施設作ったことって日本戦史ではあんまりないでしょ。
対唐の防衛戦を本気で考えていた白村江敗戦後だってやってない。
897日本@名無史さん:2008/09/05(金) 12:28:08
当時の日本は階層が固定していて、たとえば下層の一兵士が武功で出世して将になって、とかなかったでしょ。
幕府上層部に意見できる人間っていうのは限られていたから、そのうちの誰かじゃ?
最終的に無謀な高麗出兵中止・持久を決断したのは北条時宗らだろうけども。
898日本@名無史さん:2008/09/05(金) 14:32:47
あれだけの大軍を用意して、元は日本の鼻先をかすめただけで惨敗、
そして、そのことに対しては武士たちの奮戦があった、
ということをどうしても認めたくないバカサヨかチョンが1匹か2匹いて、
無限ループを繰り返してるだけ。
相手にするだけ野暮。
899日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:02:09
レス乞食ウヨが消えてスレが修正したな、と思ったらすぐ>>898みたいなのがが湧く。邪魔。
900日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:10:03
>>894
だよなあ。ちょっとでも探せばそういう本出てくるはずなんだがな
>>884は明らかに知識不足
901日本@名無史さん:2008/09/05(金) 15:18:12
文永の役は元軍は台風に遭ったのではなく予定通りの撤退、
単なる規模の大きな偵察部隊だったから。
弘安の役の時は確かに台風にやられたが、それまで二カ月ほど日本の小舟に船団を攻められ
陸戦はほとんどなかった、
これが最新の学説であると、最近立ち読みした本に書いてあった。
902日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:11:46
>899
はこの板に張り付いてるやつだな。
毎回、すぐに釣られて出てくる。
しかも入れ喰い状態(笑)
903日本@名無史さん:2008/09/05(金) 20:16:22
コノスレシュールスギルヨ
904日本@名無史さん:2008/09/05(金) 23:03:12
>>891>>899

ほら、また湧いてきたぞ。
下劣な罵倒レスしか付けられない低能白痴の粘着バカが・・・
905日本@名無史さん:2008/09/05(金) 23:22:32
>>901
太宰府攻略を目的に3〜4万もの大軍を送り込んできたのだから、「予定通りの撤退」という事は無い。

単に日本側の反撃が当初の想定を上回っていたので、早々に現有戦力での侵攻をあきらめて撤退した
だけのこと。
退却の難しい渡洋作戦で無理押しすれば全滅に繋がるから、この判断は全く正しい。
906日本@名無史さん:2008/09/05(金) 23:38:04
>>884
だって図書館行ったりしたけど結局「海から見た日本の防衛」しかみつからなかったんだよう ・゚・(ノД`)・゚・。
907日本@名無史さん:2008/09/06(土) 21:49:48
弘安の役の時は朝鮮半島南部を出発したのが5月3日。
対馬に着いたのが5月21日。18日間もかかっている。
いくら鎌倉時代でも、これはあまりにも時間がかかり過ぎている。
この辺りに失敗の原因が隠されているのでは?
すでに出発の時点で勝利の可能性は低かったと思われる。
台風が来なくても元軍に勝利はなかった。
908日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:25:17
運も実力のうちなんだ
とくに一発勝負のトーナメント方式はね
909日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:32:43
http://ja.wikipedia.org/wiki/高麗神社
高麗神社だった。

高句麗が滅亡したときに、関東にたくさん移住してきたらしい。
910日本@名無史さん:2008/09/07(日) 03:27:19
ところで、文永の役の後で、日本にやって来た元の使者の杜世忠は、
モンゴル族となっているが、辞世の漢詩をしたためる位の漢語の教養
あるのって本当に純粋のモンゴル族か?チンギス・ハーンの時代から
帰順した契丹人か漢人世侯の子孫のような気がする。
911日本@名無史さん:2008/09/07(日) 04:16:19
弥四郎の事詳しく知ってる人います?
福岡県の今津で趙良弼と会見した一人なんだけど。俺の先祖なんだ
912日本@名無史さん:2008/09/08(月) 04:08:57
ttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html

上のサイトに、和弓の射程がモンゴル弓の半分程度という記述があったけど、
これってどうなの?
以前、弓スレで和弓(重藤の弓)はモンゴル弓に劣るものではないというような
話を何度も見たわけですが、どっちが嘘なの?
913日本@名無史さん:2008/09/08(月) 08:42:39
>>910
モンゴルの三代目ハーン・ムンケは数ヶ国語を操り、ユークリッド幾何学にも通じていたそうですよ。
モンゴル人だから、というのは別に否定の理由にならないと思うけど。
漢語は当時国際語だったわけで(日本でも朝鮮でも、大抵のアジア圏国家は公文書に漢語を使っていた)
914日本@名無史さん:2008/09/08(月) 09:21:06
>>912
和弓の射程がモンゴル弓の半分程度という俗説の出所はこれ↓

黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、
(日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人
手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦したが、
衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した。」

和弓の射程がモンゴル弓の半分程度というのは、和弓の「有効射程」とモンゴル弓の「射程」を
比較するという超悪質な印象操作によって広まったデマだから。
915日本@名無史さん:2008/09/08(月) 09:48:10
>>914
どこでそんな悪質な勘違い仕入れてきた?
群書類従本に「蒙古の矢は二町ばかりいる間に」飛んできた、とあるのが元ネタ。
これ自体が移し間違い説があってはっきりしないが、それが元ネタというのは大嘘で史料にあること。
916日本@名無史さん:2008/09/08(月) 09:56:14
>>915
黒田俊雄が八幡愚童訓の記述を元ネタにそれを書いたのは知ってる。
そのうえで、和弓の「有効射程」とモンゴル弓の「射程」を並べて比較すること自体が滅茶苦茶だと言ってるんだよ。。
超悪質な印象操作そのもので、どこが勘違いなのさ?
917日本@名無史さん:2008/09/08(月) 09:59:38
つーよりも、制圧射撃という戦法を知らなかったのでは?
918日本@名無史さん:2008/09/08(月) 10:21:20
>>916
知ってるなら最初から書けよw
ま、どっかの悪質なサイトで仕入れた知識を検証もなくコピペした挙句、後付言い訳を必死で考えるのもほどほどにな。
919日本@名無史さん:2008/09/08(月) 10:27:59
今でも流鏑馬として残っているような武士の馬上弓術は、かなり至近から馳せ合って射るのがメインだったからね。
引き絞って、角度つけて相手の頭にとりあえず落としとけみたいなのとはあまり縁がなかったんじゃなかろうか。
ってか個々の家単位で戦っている以上、そんなまねしたら無駄撃ちばかりになる。
920日本@名無史さん:2008/09/08(月) 10:55:00
ああ、近代兵器にもそういう面があるが、運用によって当然変わる罠。
人力だから個々人の訓練技量も影響しただろうし。
個人的には、火薬で矢を飛ばす中国の「火槍」でも持ち込んできたんかいなーとも思ったけど。
921日本@名無史さん:2008/09/08(月) 10:56:25
>>918
>>914の書き込みでも、和弓の「有効射程」とモンゴル弓の「射程」を比較してることを問題にしてるだろ。
わざわざ「」をつけて。
勘違いしてるのはどっち?
922日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:05:19
>>921
お前。元ネタ(史料)を聞いているのであって、別にお前のオレ解釈を求めたレスなんてどこにもないわけだが?w
有効射程と射程ってのはお前さん一人の思い込みに過ぎないっていい加減気づけ。そして誰もそんなもの聞きたいと思ってない。
923日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:15:25
>>922
元ネタ(史料)には、どこにも「和弓の射程がモンゴル弓の半分程度」なんて書いてないだろ。

1965年に出版された黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』 は、その後出版された蒙古襲来関連書の大半が
参考図書にあげる影響力の大きな本。
この中の悪質な印象操作が、「和弓の射程がモンゴル弓の半分程度」というデマが広まった原因だろーが。
924日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:17:04
八幡愚童訓によると、蒙古の弓勢自体は弱い、でも毒矢だという記述がありますよ。使う矢の種類の違いもあるでしょう。
とりあえず届いて、相手を傷つければダメージになるんだから、射程を重視するのはむしろ当然。
925日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:23:34
飛ばすだけなら和弓でも二町飛んだだろう。
でも実戦でどの程度か、はまた別の話なわけで。
組織的な弓隊で、誰かの矢が当たればいいやとばらまく相手は日本側は初見だからね。
926日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:26:12
つうか脳内で勝手に有効射程と射程を決め付けて、かつそれがアンフェアに言われているとやっぱり脳内で断定しているやつって世界史の鎌倉武士団最強スレでも」見かけた。

コピペか例のウのつく人かどっち?
927日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:32:33
>>926
現実に有効射程と射程を並べて比較してるじゃん。
信用できないというのなら書店でも図書館でも行って確認して来いよ。
文庫本P98〜99だから。
928日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:33:48
ちと質問。wikiに弘安戦では日本は射程の長い矢を開発して使った、とあるんだけど。
wikiらしく出展がよくわかんない。心当たりがある方おられます?
929日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:36:14
>>927
お前が決め付けているだけ。双方有効射程ないし射程でも意味通じるじゃん。(毒矢使ってれば、という話かもしれんという予測レスはあるが)
脳内断定君はもういいって。
930日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:39:48
弩を使ったんじゃないの?
初歩的な機械力使うこれは、連射性はともかく射程と威力では人力の矢より上で、欧州でもアジア圏でも普及していた。
なぜか日本では律令制軍隊崩壊後に廃れ、消滅しちゃったけども。
931日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:40:59
>>929
意味通じないよ。
有効射程は射程よりも遥かに小さいから、言葉を置き換えたら当然数字も大幅に違ってくる。
932日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:48:45
時折、武士の弓は世界で例をみない複合弓だ、とか勘違いしているサイトとかがあるけど。
モンゴルの弓も同様ですぜ。
少なくとも日本側の弓のほうが優れていた、という記述はどこにも無い。
あと、古流弓術にはより遠くへ矢を飛ばす技法が蒙古式、という呼び名で伝わってる。
(西洋弓術に比べて矢尺を長くとる、つまり大きく引く方式)
933日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:49:13
「例のウのつく人」とか言い出してる奴はなんなんだ
こいつはいつまで見えない敵と戦い続けるんだろう
934日本@名無史さん:2008/09/08(月) 11:57:35
日本の弓術の技法が体系化されたのは他の諸芸と同様に室町期から江戸期にかけてであり、じゃあ蒙古襲来時どんな技術だったのか、はいまいち不明。
蒙古式、というのは蒙古の技術に倣って取り入れたものなんだろうか?
元寇の影響で日本刀の改良が試みられた、という説は有名だけども。
935日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:02:47
「南蛮には虫を従へ、西羌には羊を従へ、北狄には犬を従へたり。東方は君子国なりとて獣を従へず。
其上天竺・震旦・日域の中には、日本人心もたけく、弓の力餘国にすぐれたり。
故に夷の字をば名づけたる也。夷は弓の字に大の字書入たる形なり。されば夷の字は本朝の弓箭に
携る人の眉目なるべし。」儒学者玄恵(生年不詳−1350年)

元寇で実際にモンゴル軍と戦った後の時代の日本人が、日本は弓の力が諸外国よりも優れていると
認識してるんだから、実際にそうだったんだろ。
936日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:04:20
他板のスレで受け入れられなかったオレ意見をここで蒸し返す奴ってなんなの? いつか賛同してくれる人が一人でもいるだろう、と思っているのならご愁傷様。 邪魔なだけ。
937日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:06:04
>>935
そんなわが国マンセー文書なんて信じられるの?
日本人だって古くから犬を飼って、家畜飼ってたのは遺跡時代からの発掘でも証明されて久しいのに。
938日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:07:15
>>936
具体的に
939日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:10:32
源平時代の弓の名手・那須与一が扇を落とした有名は逸話時の距離は、平家物語によれば七、八段だそうだ。
現代の距離に直すと70メートルちょい。
ちなみに現代の弓道でも距離は60メートル。
むろん、実戦の有効射程ではないが参考までに。
940日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:12:19
現代モンゴル、朝鮮の弓はどうなんだろうね
941日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:18:51
長射程かならずしも優れているわけではない。クレシーの戦例のように速射がものをいう場合もある。
大陸屈指の強兵を誇った女真兵の弓は射程は短いが連射が効くタイプだし。
どーでもいいが、すぐ強いだの弱いだの優劣だのに話を持っていきたがる奴はなんなんだ?
ガキじゃあるまいし。
942日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:22:16
>>939
那須与一の話は、実は20メートルの距離って説もあるけどな。
単位は時代によって変わったんでいまいち不明。
それでもゆれる船の上の扇落とすのはたいしたものだろうが。
943日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:24:17
>>940
世界・ふしぎ発見のミステリーハンターが韓国に行ったとき
現地のガイドさんが穴のたくさん開いた岩を指して
「この穴は三別抄が弓の訓練をしていたときにできた穴です。あの丘の上からこの岩めがけて矢を射ったのです。
わが国の伝統的な弓はおよそ300メートルほど飛ぶので、これほどの距離があっても穴を開けてしまうのです」
って言ってた。参考になるかな
944日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:26:47
トルコ弓は飛ばすだけなら600メートル飛ぶ。
これも例によって実戦で使えるかは不明分だが。
そのオスマントルコは、モンゴルの後継を自称するモンゴル系のチムールにやられているしね。
945日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:29:00
>>932
世界に類を見ないコンポジットロングボウってなら合っているかな?
946日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:32:20
怪しげな造語までして俺国は唯一、にしたいのか。つきあいきれん。
947日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:38:10
これは戦国時代の話だが、徳川軍の弓の名手・内藤正成が弓の極意をたずねられたとき、
拳を相手の目の前に突き出して、この距離で射ることだといったそうだよ。
「道」としての精神面が求められた時代はともかく、実戦ばりばりのころは威力重視じゃなかったのかな日本の弓は。
馬上弓術での接近して射る手法もこれに通じる。
948日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:52:57
蒙古の弓術は、清朝支配下で危険として禁止され、祭礼の弓比べすら制限を受けたから現代のそれと同一なのかはわかんない。このあたり歴史の霧のむこうやね。
グユク時代のモンゴルを旅した西洋の修道士の記録だと、
・蒙古兵は二種類の矢、二種類の弓を常に携帯して使い分けていた
・殺傷可能な距離は200から300ヤードに達する
と、かなり優れていたものだとあるが。
使い分け、というのがミソかも。
949日本@名無史さん:2008/09/08(月) 12:59:32
>>946
具体的に
950日本@名無史さん:2008/09/08(月) 13:02:23
蒙古兵 200から300ヤード=だいたい180メートルから270メートル前後(殺傷距離)
日本武士 七、八段=70メートル、一説には20メートルぐらい(しかも実戦殺傷ではなくて)

ああ、アウトレンジされたってのは別におかしいことでもなんでもないのか。
951日本@名無史さん:2008/09/08(月) 13:10:54
和弓の引き重量は決して強いほうではないよ。現代基準だけどね。
モンゴル弓や朝鮮弓の女性用相当が、和弓の男性用相当。
アーチェリーは知らないけど。
952日本@名無史さん:2008/09/08(月) 13:11:03
>>937
一行目の意味を取り違えているような・・・
953日本@名無史さん:2008/09/08(月) 13:14:22
>>950
しかし日本に来た蒙古生粋の強兵は少数で、ほとんどは征服民族から成る雑軍。
弓の水準は劣っていたんじゃ?
954日本@名無史さん:2008/09/08(月) 13:20:27
どっかで、対元の防塁が海岸からだいたい50メートルに築かれたのは、当時の日本側の弓の射程にあわせたからだって話みかけた。
955日本@名無史さん:2008/09/08(月) 15:21:51
この時代の和弓の射程は四町(440メートル)程度とされるのが一般的
956日本@名無史さん:2008/09/08(月) 15:49:47
祖国を誹謗する俗説を撒く輩は死刑にする法律が必要だな。
957日本@名無史さん:2008/09/08(月) 17:54:07
>>956
具体的に
958日本@名無史さん:2008/09/08(月) 18:17:00
あの時代の弓については諸説あって、
今でも紛糾しているのだが、
これはあくまで素人考えなんだが、
日本には様々な樹木がある。
となると、弓の素材となる木材は元寇時の敵より良質なものだったのではないかな。
といっても戦いの勝敗を決定的にするほどの違いがあったとも考えられない。

古代の集団戦法でいくでまずは遠くから弓の連射で始まる。
しかるのち接近戦という形になる。
元寇時、弓の撃ち合いで劣勢になったということは考えられない。
元軍の弓の方が圧倒的なら退却を余儀なくされていただろうから。
実際にはどっちもどっちだったのだろう。

結局、接近戦での日本刀の威力と、武士の組み討ちに
元軍が恐れをなした、というだろう。
そのことは時代は違うが、中国の記録にも残っている。
武士たち戦い方や日本刀は時代によってそんなに変わってはいないのだから、
鎌倉武士マンセーでなくても、そう考えるのが自然だろう。
959日本@名無史さん:2008/09/08(月) 18:54:02
>>948
グユクの即位式に参列した、ローマ教皇使節プラノ・カルピニのジョヴァンニだったか
マルコ・ポーロの記録だったっけ。遠矢用を三十本、近接戦闘用でデカくて貫通力のある
ナイフ並に鋭い矢じりの矢を三十本、合計六十本携帯するのが遊牧諸部族から成るモンゴル兵に
各々義務付けられていたとか何とかいう報告だったろうか。

もっとも文永の役の時に派遣された部隊や弘安の役の時の東路軍は基本的に遼寧から高麗方面に
駐屯していた女直系や漢人系、高麗王国からの歩兵軍っぽい連中が殆どだったみたいだから、
元寇時の蒙古軍側の弓矢の性能を考える場合は金朝や高麗の軍隊の弓矢に関する情報も調べる
必要があるだろうねえ。

でもこういった内容を知るとなるとどんな資料を調べれば良いんだろう?
『金史』や『元史』の「兵志」あたりとか、元朝や南宋時代に類書が結構書かれているから
そういったものに弓矢の有効射程距離について書かれていたりするんだろうか。
北宋の曽公亮『武経総要』、南宋の陳傳良『歴代兵制』とか明代後期の茅元儀『武備志』、
趙士禎『神器譜』とか兵学関係の書は割と色々あるみたいだけど・・

>>958
『蒙古襲来絵詞』でも件の『八幡愚童訓』でも、蒙古側も鎌倉武士団も弓矢の記述が目立つけど
刀を振るって戦い合うような記述はあまり見たことが無いような。一応『高麗史』金方慶伝に「長剣交わる」
みたいな表現があるけど、『蒙古襲来絵詞』を見る限り蒙古側は槍、鎌倉武士側は薙刀の携用率が高い
から(もちろん、両方どの兵も刀剣もあわせて佩いているけど)、矢戦が終わったら刀剣が出るよりも
前に槍や薙刀で打ち合う図式が自然じゃなかろうか。
(鎌倉時代だと太刀で斬りあうみたい記述自体が殆ど無いとか聞くけど)

でも、あまりそんな薙刀や槍で打ち合ったような話は聞かない気がするけど、自分は良くは知らないが
弘安の役で蒙古の軍船に夜襲をかけて蒙古兵を討ち取ったみたいな記述以外に、白兵戦で槍やら薙刀やら
刀剣やらで戦ったみたいな記述って資料中に確認されてるんだろうか。
960日本@名無史さん:2008/09/08(月) 21:51:12
>>959
むしろ、刀剣での戦いが常識だから、そういう記述がないのではないかな。
だからこそ需要が多く、また改良を重ねていったということだろう。
銃の時代になって、刀は無用の長物になっていったわけだから。
961日本@名無史さん:2008/09/08(月) 22:02:13
源平合戦だって殆どが矢の射ち合いだろ。富士川の合戦とか川挟んで矢を射掛けた
だけで、殆ど白兵戦にならずに平氏が勝手に驚いてにげったてパターンじゃん。
時代は下るが明時代の戚継光は、倭寇の刀剣による接近戦は手ごわいから、接近戦
に持ち込まれないようにしろと言ってるので、ある程度乱戦になったところで接近戦は
あっただろう。
962日本@名無史さん:2008/09/08(月) 22:37:57
>>880
日蓮は蒙古襲来に対する祈祷は一切行った記録が無い。
題目唱えなきゃ末法末法、世界破滅、地獄って繰り返していただけ。

蒙古退散祈祷をしたのは、真言律宗の叡尊と仁海だよ。
彼らは律僧として、多くの戒を持して、布教よりも人々の救済に努め
日蓮よりもはるかに知名度が高かった。
日蓮が神風を吹かしたというのは後世の創作
963日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:23:51
単に矢の射程を延ばしたければ矢を軽くすればいいだけの話。
軽い矢は遠くまで飛ぶが、威力と命中精度に劣る。
逆に重い矢は射程は短いが、威力と命中精度で勝る。
これはトレードオフの関係で、それを無視して射程だけ議論したって大した意味はないんだ。
矢の持つエネルギーは弓の張力で決まり、張力は結局引く人間の腕力で決まるんだから。

同じ張力ならば長弓の方が引きやすく、また無理なく強い張力を得られる。
理論上は和弓の方がモンゴル弓より威力を高めやすいだろう。
だがその分、速射性には劣る。
964日本@名無史さん:2008/09/08(月) 23:43:54
>>959
薙刀ではなく多分、長巻である思われ。
965日本@名無史さん:2008/09/09(火) 00:59:22
スレがのびてるからまた変なのが来たのかと思ったら
今度はまともな話題でよかったw
966日本@名無史さん:2008/09/09(火) 01:42:07
> また変なのが来たのかと思ったら
具体的に
967日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:18:56
>>963
いや、一概にそうはいえん。
記録(第三者の西洋人のものだから、身ひいきは少なくとも入ってないだろう)を信じる限り、モンゴルの矢の射程は日本のそれより三倍から四倍に達するが、矢もモンゴルのほうが重い。
重い矢は飛ばすのは大変だが、一旦飛ばせば重いほうが弾道が安定するから。
968日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:33:48
一撃必中ならそれでもいいけど
個人の技量や体格で矢の長さや重さは違っていたんでないの?
969日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:35:15
日本の弓は、二人かかり、三人かかりで弦を張るのを二人張り、三人張りとしてもてはやしたが。モンゴルの弓矢の弦の張りは二人がかりがデフォ。現代の話だから当時は知らんが
970日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:36:55
モンゴルの矢は西洋の重装騎士の鎧すら貫いて大量に殺害しているからね。
当時はプレートメイルなんてなくて(これは銃対策で後世できたもの)、鎖帷子が主流だったけども。
971日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:37:51
数人掛かりで張っても数十メートルしか飛ばない倭弓・・・
いくら何でも劣等すぎだろw
972日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:48:55
弓隊として統制し、数を揃えて個人の技量じゃなく公算で当てる方式で射るのなら、農民徴兵の弓隊でもなんとかなるだろう(逆にいえばそれ以外は無理っぽい。やっぱり生粋の戦士が個人技では有利)
でも日本は家単位で集団を形成していたから、それこそ郎党が何百人もいるような大きな家以外は、当主一人だけが射撃要員とかざらだったのでは?
いきおい撃ち合いだと手数でまず不利だろ。
973日本@名無史さん:2008/09/09(火) 11:52:41
那須与一の弓は何人張りだったか記録ある? 日本の弓は70メートルそこそこ、ということらしいけども、これは与一と現代の弓を基準にしたものでしょ?
974日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:02:54
>>955
ありえん。江戸時代の弓術ですら四町は「遠矢」とされ、
一度撃って駄目なら矢羽剥ぎ取って(バランス変えて)撃て、と伝書されている。
四町が一般なんてどうみても無理。
975日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:10:45
>>974
江戸時代は日本人が最も小さかった(ひ弱だった)時代だが。
鎌倉時代なら4町くらい余裕だ。
976日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:17:57
>>975
具体的に
977日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:20:42
有名な三十三間堂の通し矢のような腕比べ的な射撃ですら120メートル程度だしね。
まぁこれは仰角が制限されている話だが(その分を座位でうってカバーしたりとか)
978日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:24:47
また他板のスレで相手にされなかったレスをそのままコピペしているしw>当時の一般は四町
979日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:27:24
>>974
>一度撃って駄目なら矢羽剥ぎ取って(バランス変えて)撃て、と伝書されている。

なんか勘違いしてないか?
江戸時代の「遠矢」の練習では四町が基本で、それが可能になったら、矢羽剥ぎ取って(難易度上げて)
更に上級コースに進むって話だろ。
四町は初級ノルマ。
980日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:31:38
>>978
具体的に
981日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:35:33
文永後、武士の装備は趣がかなり変わっているからね。
十分ならわざわざ変更する必要も無かった。
日本刀は実戦での斬り合いに適したように身幅を広くして、鎧は動きやすいように軽量化、弓はより飛距離が伸びるようにした。
いずれも集団戦への対処を考えたものと推測されている。
982日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:37:06
>>979
してない。和弓は70メートルで遠矢に分類され、それ用に矢を変えた。
近矢なら20メートルから。
初級ノルマなんて大嘘。そんな流派があるのなら、ぜひお目にかかりたい。
四町なんて達人でもまずあたらんよ。
983日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:39:41
>>982
矢を遠くに飛ばすための訓練であって、当たるか当たらないかは問題じゃないだろ
984日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:42:27
和弓の射程でググったら、それが当たり前としているのは2ちゃんのスレばかりでワロス
これが「他板で相手にされなかったレスをここで蒸し返し、でもやっぱり誰も賛同してくれず」ってやつか。
某大学の弓道部のHPに>>974に近い記述があるぐらい。
985984:2008/09/09(火) 12:44:49
訂正
和弓の射程→和弓の射程 四町
986日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:51:27
第三者も記録する300ヤードの蒙古兵の射程距離、しかも当てて殺傷できる距離。
大して一人のねらーの脳内妄想に過ぎない武士の四町(笑)。
お話にならないな。
987日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:52:08
>>984
具体的に言ってくれてありがとう(^o^)
988日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:52:19
>>984
某大学の弓道部のHP

http://rukyudo.cup.com/goroku.html

>これは、たとへば弓術伝書の「遠矢」に関する記述を見ても明らかです。
>「遠矢射様の事」という箇条には「町の準(ちょうのかね)」という項目があり、
>これは四町(約四三六メートル)に矢が達したら、矢羽の一部をはぎ取り、
>更にもう一度試みるといっています。最終的には矢羽の茎の部分だけを
>残した矢を用いて四町の距離を飛ばす事を目標としています。

>>974は完全に勘違いで、書いてあることは>>979の意味じゃん
989日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:55:25
ついには当てるのが目的じゃない、飛ばすだけですとか嘘の上塗りはじめるしW>武士の射程四町
990日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:57:40
>>989
最終的には矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて四町の距離を飛ばす事を目標としています。
最終的には矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて四町の距離を飛ばす事を目標としています。
最終的には矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて四町の距離を飛ばす事を目標としています。
991日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:59:36
江戸以降の弓胎弓ですら射程は最大で200メートルですよ?
あと弓道なら原則ただ飛ばすだけ、なんてありえないはずだけども。
遠矢用でも的と距離は規定されているし。
似たような内容、としているだけなのに。
992日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:02:57
日本の記録の場合、町という単位換算自体が時代によって変動しているから上下あってどれを信じていいのやら。
それはおくとしても、四町というのは南北朝時代に入っての遠矢の制が制定されての規準だろ?
これですら当てられずとも飛ばすだけで栄誉とされた特別な資格。
993日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:03:14
>>991
弓術伝書の「遠矢」に、「四町に矢が達したら、矢羽の一部をはぎ取って上級コースに進む」って書いてあるのに
射程が最大で200メートルなわけないだろ
994日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:06:27
ああ、江戸時代は一番ひ弱とか言ってたくせに、脳内で勝手にごっちゃにして都合がいいと思うといきなり肯定にまわりやがったw
995日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:08:30
弓の製法と射法が整った江戸時代ですら、四町ただ飛ばすだけで特別な矢を射るは羽根とったりと工作がいるわで大変。
しかも平時のもので命中殺傷可能距離とかじゃないし。
やっぱりアウトレンジされたって話は信憑性あるわけか。
996日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:10:55
>>995
>羽根とったりと工作がいるわで大変。

羽根のない矢が通常の矢よりも飛距離があるわけないだろーが・・・
997日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:12:08
少し整理してからレスしてくれ。
現代弓道と、江戸時代と南北朝と源平がごっちゃになっててわかりにくい。
中には明らかに脳内混同している奴もいるし。
肝心の鎌倉武士自体の記録やソースがないのがなんともw
998日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:16:10
蒙古兵が異常なんじゃないの?
ポーランドじゃあ聖堂の塔の上からモンゴル軍来襲知らせるラッパ吹いたとたんに遠くから射殺された、なんて話が伝わってて今でもその日はラッパ演奏やめるとかあるぜ。
999日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:17:41
蒙古兵は、ただ飛ばすだけじゃなくて殺害可能圏で300フィート。しかも第三者の記録において。これに対抗できるほどの根拠あるの?
1000日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:19:33
>>999
ないから武士贔屓が困ってる。
10011001
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