1 :
ズーズー:
今回はおもに飛鳥から平安、鎌倉時代に活躍したやり手の貴族について語りましょう。
2 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 19:38:25
やり手の貴族の筆頭は 藤原不比等でしょう。
並び立つもの無し!
3 :
ズーズー:2007/10/03(水) 20:23:45
不比等もさることながらやはり仲麿でしょ。 彼のプランは凄杉。
4 :
ズーズー:2007/10/03(水) 20:50:40
平安最大の策士といえば、源通親(村上源氏)あたりかな。良房、基経あたりもなかなかだと思う。
日野俊基。
蘇我馬子
7 :
ズーズー:2007/10/03(水) 21:48:00
これからは人名だけでなく、人物説明もいれていただきたく思います。ズーズーしくてスマソ。 それと日野俊基について教えてください
9 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 12:53:03
北畠顕家
言わずと知れた貴族で一二を争う名将
時代は違うけど岩倉具視が一番じゃないかな
11 :
たかし:2007/10/04(木) 13:30:35
とても興味深いのでageとく
12 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 16:54:56
いやいや、姉小路公知もなかなか
六条三位
14 :
正村:2007/10/05(金) 09:44:50
>14
麦茶の名前かな?
画像も貼らずにryの麻呂のこと
>>16 いや、オレもそう思ってググったんだけど、
画像も貼らずに(ry の麻呂(菅貫太郎さん)は、一条三位もしくは城崎三位で
六条三位は、スガカンさんとは別に、蜷川幸雄がやってんのよ。
18 :
まさひろ:2007/10/09(火) 16:59:28
後醍醐天皇の政治は異常
19 :
たかし:2007/10/09(火) 20:05:10
禿同
20 :
じゅん:2007/10/09(火) 22:16:04
げにやげに 冬の夜ならぬ まきの戸も おそくあくるは わびしかりけり と詠んだ奴はかなりのやり手
21 :
正村:2007/10/10(水) 09:40:35
豊臣朝臣秀吉
娘を4人も皇室に送り込んだやり手婆源倫子
>>22 源倫子は「女関白」の異名もあるね。
夫の道長よりも、ある意味やり手だったらしい。
紫式部日記を読んでも、入内した娘のいる内裏に頻繁に行き、
あれこれと指図していたみたいだね。
たしか、道長よりも上の官位を貰っていた時期もあった。
道長より先に従一位になって、その状態が8、9年くらい続いたはず。
25 :
日本@名無史さん:2007/10/11(木) 15:15:04
明子はかわいそうだよなw
槍手の公卿
藤原頼長も藤原信頼も刀は手にしただろうけど、さすがに槍は手にしてないだろうな。
27 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 23:37:22
槍手の公卿
北畠顕家だな。
伴義男、紀名虎を投げ飛ばしたとか言う説話もあるから、張り手の公卿でもある?
詮子が長生きしていればもう少し明子系にも日が当たったかも知れない。
30 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 18:41:47
母后の力を考え直す必要があると思う。
31 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/16(火) 01:34:19
藤原信西。死刑復活もこいつがやった(井沢某の本には後白河が死刑を復活したとあるが間違い)
中級貴族だが、キレ者。
短い間だが一時期政治を動かしてたのは事実だ。
私は大好きでね、この男が。
32 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 19:30:58
清盛がもう少し早く着いてれば信西は助かったのにね。それにしても藤原宗子(池禅尼)ウゼェ。
あれはわざとだという考え方もある。
わざと隙をつくってうざい相手を自分の手を汚さずに消したとか。
34 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 00:26:17
清和源氏の敵 藤原信西!
親兄弟の恨みここに討ち果たす。
35 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/17(水) 00:57:52
>>34 清和源氏の敵はうじゃうじゃいるでおじゃる
信西だけではないでおじゃる
源氏殿、おじゃるはお好きかなw
36 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 14:14:40
信西は清和源氏の敵というより摂関家や他の院の近臣の敵であって、清和源氏なんて論外
37 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 14:23:08
藤原忠通
五摂家の生みの親
確かに信西は清和源氏なんか歯牙にもかけていなかっただろうけど、
相手にもしてないヤツに恨まれるのもよくある話だから。
信西の子供達ってなかなかいい地位をしめてるよな。法印静賢とか。
40 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 19:57:25
是憲や成範が流罪にならず順調に公卿にまで昇っていたら、この家も勧修寺流や善勝寺流と並ぶ名門公家として近世まで繁栄しただろうに。
41 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 18:09:05
源通親をおいて他にはいないだろう。彼は大変な強運に恵まれたいろいろな意味で超ヤリ手の公卿ですね(^_^)v大姫死亡キターーー
本当のやり手はこんな所に名前も挙がらないのに本人地味に出世、子孫しっかり繁栄。
なのだと思う。
43 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:12:06
>>41 晩年には超美少女だったらしい松殿の姫君を孕ませて
後に超有名な思想家となる息子を産んでるしな。
44 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:21:52
>>42 地味なやり手官僚といえば藤原行成あたりかな。能書家として有名だが佐理なんかとは比べものにならないくらい有能だね。
信西みたいに悪目立ちして本人は死亡とか失脚、その影響で子孫が奮わないって言うのは、
はたしてやり手といえるのかな?
まあ最初からそう言うことは度外視で改革に全てをかけるとか言うのであるのならば、
改革が成功しさえすればそれで良いのかも知れないけど。
46 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 22:45:37
女性であげるならやはりこの人、後鳥羽天皇の乳母の卿二位藤原兼子。姉の範子の夫、例の源通親とタッグを組んで権力をふるったおばちゃん。
47 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 16:57:46
卿二位を陰で散々けなしておきながら姉に頼んでしっかり出世工作している定家卿ぷぎゃー 後白河天皇に穴を提供して摂政になった藤原基通アッー
48 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 17:40:38
アッー
藤原百川は?廃れ皇子草壁を押し上げ山部の即位に尽力した式家きってのやり手。子の緒嗣は目をかけられ若くして廟堂入りしたが北家の台頭により官位は思うように進まなかった。百川の娘の旅子は桓武の后となるが若くして亡くなった。子孫の活躍は微妙だが本人はスゴイ!
冬嗣の父右大臣内麻呂、別に特別な業績があるわけでもなく、外戚というわけでもない。
父真盾も大納言止まりで、永手兄や弟魚名のように大臣になったわけでもない。
もっとも当時の大納言は右大臣くらいの価値はあるし、
兄永手より長生きできれば大臣になっただろうけど。
しかも父親の晩年の子だから出仕するころには後ろ盾がない。
二人いたらしい兄もさっぱり出世しなかったようで当てにはならないし。
この人いったいどうして出世したんだろうって感じで。
このわけのわからなさが有る意味ものすごいやり手なのかもしれない。
51 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/19(金) 23:17:52
北家の摂関家に連なる流れの最初の三代は、どうもよくわからない存在。
なんだか有能だったような話も伝わっているけど……
出世した子孫が祖先に箔を付けただけとか。
53 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 00:21:20
藤原四兄弟の中で麻呂だけが左京大夫とか出世の遅れてるのは他の三人と母が違うせいなんだよ。ちなみに麻呂の母は天武天皇の夫人で天武が死んだ後不比等のものに。つまり麻呂と新田部皇子は兄弟なんですね。
54 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 00:41:27
世界的に見れば、武士も貴族のような気がする。
昔からの天皇の外戚とか側近の貴族とは違う新興貴族っぽい。
藤原真夏は平城天皇側が薬子の変で敗北しなければ大臣にまではなれたはず
失脚した後に出てきたのが同母弟の冬嗣。
真夏が失脚しなかったら冬嗣なんてただのカス。
嵯峨天皇なんて即位の見込み無かったんだし。
56 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 15:45:29
嵯峨天皇は桓武天皇在世中に兄平城天皇の皇太弟に立てられました。
最終的には平城天皇の子に皇位を返す予定でしたが
即位の見込みがなかった皇子ではない。
嵯峨天皇の母は平城天皇と同じ桓武天皇の皇后藤原乙牟漏で、
血統が悪いなどと言う事もない。
失脚したあとでてきたって言うより、失脚させるように動いたんじゃないの。
58 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:52:14
伊予が後継者としては最有力。母も健在だし、強力な後ろ盾もある。桓武にも気に入られていたようだし。
59 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 22:58:35
賀美野が皇太子になったのなんて安殿が皇位の継承が有力な伊予を阻むため以外のなにものでもない。
サウジアラビア方式だと賀美野には安殿が死なない限り順番が回ってこない。
61 :
日本@名無史さん :2007/10/22(月) 18:37:55
冬嗣が失脚するように仕組んだとは思えないんだげどなぁ。冬嗣は温厚な人として知られていたし、真夏と仲が悪かった訳でもないから。
その温厚ってのがくせ者っぽいよな、いかにも陰険な良房より上手かもしれない。
ところで良房ってどうして若い頃から長良より出世してるんだろう。
ある程度年食ってからの逆転ならわかるんだけど。
長良ってそんな子孫の顕光みたいに衆目が一致するような無能だったの?
63 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 23:11:56
長良が魯鈍だったという話は伝わっていないから、それだけ良房が優秀だっただけのことではないのかな。良房が従五位下になったのは828年。長良がなったのはいつなの?
64 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 23:35:08
善男は良房派として出世。良房が応天門の変で伴善男を潰した理由。源信を助けたのは良房の死んだ後に良相が首班となるのを防ぐ目的。善男は良相にも尻尾を振っていたから警戒された。善男は良房に裏切られたのだ。
65 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 15:41:31
うんこ水谷たくや(笑
安芸
66 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 16:56:49
>62
嵯峨天皇の皇女源潔姫を妻にまでしている
天皇の皇女が藤原氏に嫁いだのはこれが初
良房はとにかく嵯峨天皇のお気に入りだった
これだけとってみても破格
67 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 20:21:40
源信が良房に助けられたのって清和天皇の即位の時に良房に味方したからだよね? それにしても伴善男は頭がキレる人物ですよね。良房が警戒するのは無理ないよね
>>62 顕光は確かに一般的に無能というイメージが強いが、
であれば何故後世の本多氏はわざわざ彼の後裔を称したのだろうか。
有能をもってうたわれた忠勝や正信が何も考えていなかったとは思えないのだが。
69 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 21:23:50
三条天皇の皇子あつあきら親王を皇太子から引きづり降ろした道長の子(高松系次男)能信。図らずとも院政への橋渡しをしてしまった男。後三条天皇が東宮だった頃の東宮大夫。
70 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/23(火) 22:34:57
>>45 信西は出自は低い。だが志は高いよ(悪くいえば権勢欲旺盛ね)。
理想もなんもなしに保身第一に考えて長生きするような奴が、君のいうやり手なわけなの?
やり手だったら敵がワンサカ出てくるよ。
この時代の宮廷なんて特にそうだ。
まあ信西の激越さ(死刑復活!)は君には分からないんだろうなー
71 :
悪左腐:2007/10/23(火) 23:01:06
たかが元少納権で南家で妻の力を借りてしゃしゃり出てきて。信西にふだふマジうぜぇー >68有能だと思ってたのは顕光本人だけだから。オマエ「小右記」嫁。有職故実に超詳しい実資卿様の書いた日記だぞ。
72 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/24(水) 00:34:59
>>71 おまえだようぜえのは。
知識人の苦悩分からない野郎だなw
ぶよういんもう(笑)
粘着きめぇwww
>>69 藤原能信をいうなら、異母兄頼通に逆らって後三条を皇太子にねじこんだ功績だろw
能信は後三条の東宮時代に没してしまったため、大臣にもなれなかったが、
白河天皇は「この祖父なかりせば」
(白河天皇の生母茂子は能信の養女であることから、白河天皇は外祖父として能信を尊んだ)
と常に敬ったということから、あるいは長生きしていれば摂関が狙えたかも。
75 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 18:56:19
私は高松系と鷹司系の対立が院政のもとになったと思うのだが、オマイらどうだ? >73禿同 ぶよういんもうキメェーww
76 :
ゆうぼう:2007/10/24(水) 22:07:46
藤原基経はヒッキーで陰湿な政治家。まぁやり手な方だが。源定省のやつもなかなかウザいがな。
蘇我馬子
78 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 22:50:17
確かに馬子は大王よりも力を振るった男ですごいが。まぁ俺は赤兄、日向、石川麻呂フェチ。漏れはこのたいしてやり手でもない赤兄が好きなんだよ。
物部雄君(早死)
80 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 18:52:38
名前がまだ挙がってないけど藤原氏の最盛期を築いた藤原道長はやり手なんじゃないですか?
81 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 19:19:17
道長はやり手というより偶然が重なっただけのような気がする
(たまたま兄たちが若死にした、たまたま娘が皇子を生んだ)
82 :
日本@名無史さん80です:2007/10/25(木) 20:40:52
初心者ですいません。では藤原氏のなかで最も権力を振るったのは誰なんですか
83 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:01:28
道長の父の兼家のやり方はなかなか強引ですな。九条流はやり方が汚い。九条流の祖師輔さんも悪い奴だったんですか?
84 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/26(金) 00:27:34
やり手といたって摂関家じゃ、二世議員みたいなもんだよ。
毛並みの良さで、生まれたときから得している。
そんなの連中をやり手に含めても面白かないと思うけどね。
石母田正もいってるけど、院政期というのは中下級貴族のはい上がるチャンスのあった時期なんだよね。
院のヒキがあればチャンスはある。
それまで頭は切れてもゴミ扱いしかされなかった連中、そう例えば信西のような奴ね。
信西は身辺にある諸条件を奇貨としたわけだ。
抜かりない奴だよ。
保元の乱を勝利に導いたのは、
ぶっちゃけ荒くれ武士(ま、大して荒くれでもないが)どもを采配した信西の手腕だしさ。
そうして信西は実に約一年間、この国に君臨したんだよ。
激越さからいえば通親なんか可愛いもんだ。
通親の振る舞いは上級貴族のある種のパターンにしか過ぎないと
私は思うね。
武陽さん、まだ書き込みしてなくてごめんなさい。
何をどう書こうかと悩んでいます。今日ももう寝るので、もう少し時間ください。
86 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 05:43:09
87 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 00:42:03
清盛は後白河の御落胤だから太政大臣になっても不思議ではない。
1年しか君臨しないよりは
通親のほうが俺は好き。
あくまで個人的趣味。太く短くか‥‥
89 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 13:18:12
清盛は後白河の胤ではないよ
本当の落胤ならば正統な後継者とあい争わないよう
普通は出家させられる
俗世間にある場合も、養父の影で、
本当にひっそりと生涯を終えることを余儀なくされる。
天皇が落胤を取り立てたり、落胤が大出世した例はない。
それくらいならはじめから親王宣下でもしてやればいい。
あまり派手さはないが藤原家成は相当のやり手だと思うね。
権勢の行方を的確に読み取り、比類なき閨閥を築き上げた。
家成は自身の才覚よりも、鳥羽院の権威に負うところが大きかった感じ。
院政期の成り上がりとしては、藤原邦綱と藤原範季は外せない。
邦綱は娘を天皇(六条・高倉・安徳)の乳母にしたり、清盛の娘・盛子の
後見として平氏の摂関家領継承を実現するなど、平氏政権の重鎮として下級官人から
権大納言にまで昇進。
範季は九条兼実の家司でありながら、平教盛の娘を妻に迎え、義朝の遺児・範頼を
保護するとともに、陸奥守在任中に奥州藤原氏とも関係を深め、義経の謀反の際は
密かに接触、後鳥羽天皇を幼い頃から養い、娘(重子・修明門院)は土御門天皇の
生母になったことで従二位となった。
動乱期は公家も、一筋縄ではいかない。
失礼、土御門→順徳でした。
まあ家成の場合は、祖父顕季以来受け継がれてきたもの完成させた感じですかね。
一代で成り上がった強烈さとしては、確かに邦綱や範季の方に軍配が上がるかも。
その輝きが強烈過ぎて、子孫には十分に受け継がれなかった感もありますがね。
94 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 20:53:10
誰の研究だったか忘れたが、崇徳が白河の子であることは間違いない。崇徳を身ごもったときから類推すると白河の子。
95 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 22:09:53
冬嗣の死後、天長四年から承和十年までの十七年間廟堂の首班として君臨していたのは式家百川の息子緒嗣なんですが式家が政治を握っていたということなんですか?
96 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 01:48:01
緒嗣は有能だったけど、この時には病気がちで……健康だったらマジで良房の天下も少し遠のいた筈なのに
97 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 20:09:34
緒嗣が首班で権力があったのは、時の淳和天皇の母が旅子だからだろ。外戚として力を保っていたんだろ。
98 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 20:04:32
いろんなとこで尻尾を振っている平知康なんて調子のいい男もいますね。
99 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:33:24
派手ではないが古代から中世の転換期を泳いだ平知康。やり手と言うよりはただのゴマスリだが時代を生き残った貴族の代表。
>94
それは角田の古い研究。
近年M川によって否定された。
>>100 オギノ式の考え方から歴史を読み解く、
ってことで一部でセンセーションを呼んだあれか。
102 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 19:42:39
角田説が否定された理由を教えてくれ!
103 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:19:52
在原業平、源通親、中関白道隆で、あるか。
104 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:21:29
在原業平は何もしてないだろう
平城天皇の第一皇子と正室の子だから
もっと表舞台に出てもよさそうなものだったのに
105 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 22:15:10
いわゆる「武家」が力を握るようになって以後の「公家」の中で最もやり手だったのは、
中世では久我道親、近世以降では岩倉具視だな。
村上源氏つよす
すまん変換間違えた通親だ
107 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:46:05
昭和時代に清岡純子を輩出した家は、菅原氏だな
108 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 21:06:47
>104在原業平は床上手なやり手貴族。兄の行平は中納権だが。業平バロス。
109 :
日本名無史さん:2007/11/03(土) 21:00:12
清川純子って誰?
110 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:33:33
ロリ写真家
111 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 07:09:55
藤氏と源氏以外のやり手貴族はおらんか?
112 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 07:43:41
物部尾輿
大野東人
114 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:46:56
橘諸兄
宿禰の姓を望み臣籍に降りノーマークのダークホースとして時代の間隙をぬって
政界に躍り出た。
聖武天皇の厚い信頼を得、従一位左大臣に上り詰め 生前に正一位に叙されている。
115 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 20:05:38
坂上田村麻呂は武勇の人と思われがちだが、結構出世して大納言。
高麗福信
道嶋嶋足
117 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 19:25:15
平大納言時忠。平安末期は武家平氏の天下と言うより公家平氏の時代。建春門院滋子、清盛の妻時子、建礼門院徳子もみんな公家の平氏。
118 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 20:05:14
>>114 橘諸兄は母の橘三千代と異父妹光明皇后の影響が大きいと思う
異母兄の藤原四兄弟が没した後、光明皇后は異父兄の橘諸兄を頼りにした
諸兄は当初葛城王と名乗っていたが、橘姓を受けて臣籍降下する際
異父妹光明子や妹婿聖武天皇を意識して、
わざわざ諸兄(諸々の人々の長兄である)と名乗った
弟の佐為王が橘佐為と名乗ったのを見ると諸兄の得意振りが分かる
諸兄には同父の弟妹たちもいたが、この場合勿論、
天下の天皇と皇后の兄であるといいたいが為の改名だろう
119 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 20:14:35
>>117 時子や滋子はともかく時忠は役不足だな
島流しにあったり平氏一族の中では馬鹿にされたりと散々
建礼門院徳子は母親は時子だが父方は武家の平氏だよ(平清盛)
120 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 21:28:57
清盛の義母池禅尼は世渡りがうまいよな。崇徳の乳母だったのに保元の乱で裏切って清盛を勝たせてるし。
121 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 22:28:44
室町時代に発展した真夏流日野家は戦国時代はどうなったんだ?
122 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 00:09:42
諸兄ほかかなりの実力者でも生前従一位、生前に正一位に叙された人って誰かいるの?
124 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:20:42
>>122 日野家が歴史の表舞台にあったのは日野富子、その妹
あたりまでじゃね?
応仁の乱の頃には傍流の奴が南朝の末裔担ぎ出したりして散々だった。
戦国時代には目立った活躍はしていない。
ちなみに日野家は江戸時代には名家の筆頭だった。
大正天皇生母を出した柳原家は日野家の傍流。
とはいっても、鎌倉時代に日野家から分かれたんだがね。
>122
従一位はよくいる。正一位は仲麻呂と秀吉くらいか
>>120 藤原宗子(池禅尼)、藤原隆家の子孫だね。
崇徳天皇ではなく、崇徳天皇の子重仁親王の乳母だったのでは?
重仁親王は幼いときから鳥羽上皇の寵妃美福門院の養子になっていましたから、
宗子は崇徳天皇よりも美福門院に肩入れし、冷静に政情を見ていたのかもしれません。
最も、保元の乱で平氏が後白河方についたのは清盛の判断。
崇徳天皇と親しかったのは清盛の父忠盛で、
忠盛はその縁で妻の宗子を重仁親王の乳母に押し込んだらしい。
127 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 21:40:42
乳母の力を利用して勝ち組になった奴。その名は世界最強の政治家信西入道!!!
128 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 19:25:32
諸兄の時代には欠官の職がいくらかあるんだが、なんかあったのか?
129 :
UMA:2007/11/09(金) 23:22:38
このスレはプレイボーイについて語るスレじゃないのか
130 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 23:36:27
受領讃について語るスレ
131 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 00:06:06
受領讃=大僕卿孝標=藤原隆季も、なかなか侮れない。
高倉院庁の執事別当として、父・家成の極官を超えて権大納言に。
「以仁王の挙兵」の対策のため開かれた議定では、九条兼実に
「着座すべからず」と言い放ったり、興福寺を即時追討することを
主張するなど、ふてぶてしい態度。四条家の場合、後醍醐側近で
戦死した隆資、幕末の「七卿落ち」の一人・隆謌(たかうた)など
公家にしては、過激な人が出ています。
133 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 14:15:49
源頼光は受領として莫大な富を貯めて道長のお財布に、、、
134 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 15:19:15
135 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 23:36:34
九条流きっての策士兼家は太政大臣になっているのにどうして贈り名が無いんですか?
136 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 19:13:25
源頼光って鬼退治した人だよな。清和源氏嫡流。
>>135 死ぬ間際に出家したから、贈り名は世俗を離れた人物には贈られない。
道長に贈り名がないのは同じ理由。
教通の子太政大臣信長の贈り名を教えてチョ!仲麻呂は贈り名無いよな?
139 :
日本名無史さん:2007/11/12(月) 23:42:10
1155年、堂上で藤氏以外の氏族はたったの一人。それも村上源氏。しかし鳥羽院の時代。忠通(涙”)
140 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 11:30:33
>>137 藤原信長も死ぬ直前出家していて贈り名なし。
斬首の藤原仲麻呂もなし。
141 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 19:12:41
吉備真備
142 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 18:43:21
仲麻呂は軍事も掌握してたはずなのになんで負けたのかな?それと真備がウザスギる件について。
143 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 22:22:31
京家冬緒
藤原師通、藤原顕季の邸宅を「贅沢すぎる」と破壊。
藤原頼長、藤原家成の邸宅を破壊(鬱憤晴らしのため?)。
九条兼実、藤原隆季と興福寺追討を巡り、大激論。
世代を超えて、繰り返されるバトル。
145 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 19:58:03
摂関家と院の近臣の争いかぁ。院と御所と春宮に根を張って権勢を極めたプレイボーイ公卿源通親はすごいだろ!
藤原真盾、
あの激動の奈良時代において、庶流である北家の三男に過ぎず、
しかも聖武天皇になぜか目をかけられた若年の頃はともかく、
実権者である従兄弟仲麻呂と仲悪かったらしいのに、
それ以後も比較的順調に出世。
若年の一時期病気と称して逼塞したことは有るらしいが、
特に出世に停滞は見られず、弟魚名や従兄弟豊成達のように失脚もなし。
仲麻呂の謀叛の時はしっかり鎮圧側に参加し最終的には大納言まで昇進。
おまけに子孫はちゃっかりと摂関家。
この巧みな政界遊泳術はなんなんだ。
真盾は8世紀としては藤原氏でも希有の兄弟中納言以上同時期連任している。
それ以前には豊成・仲麻呂兄弟だけ。
真盾の子内麻呂もどうやって出世したのかよくわからない?
父親がかなり年輩になってからの子で出仕するずっと前に父は死亡。
二人いたらしい兄も早死したのか全く出世してない。
従って父の蔭位の恩恵はあるが、父や兄の引きはない。
娘が成長するまでは特に目立った閨閥もないようだ。
時の天皇に気に入られたとか言う話も特にないようであるし。
さてこの人は純粋に官僚として精勤して右大臣まで昇進したのだろうか?
逆に無能で有名な貴族、藤原顕光と藤原道綱従兄弟コンビ。
どちらも官位昇進でかなり年齢差のある異母弟のはるか後塵を拝する。
顕光の方は弟が疫病で中年で死亡し本人は無駄に長生きしたため最終的には逆転するが、
弟朝光生前の官位の差はまさに絶望的。
もっとも若い頃は一応蔵人頭も務めているからそんなに無能だったも思えないが、
もしかしてアルツハイマーか何か?
道綱の方は弟道長の引き立てがなければ絶対に大納言にもなれなかっただろう。
まあ二人とも実資っていう希代の記録魔と同時代人だったという不幸もある。
おまけに実資にとって上司であり、目の上のたんこぶでもあったわけで、
そのうっぷんから多少は無能ぶりが誇張されているかもしれない。
無能で有名と言えばもう一人平宗盛、
偉大な父清盛と家を潰した駄目息子、
賢明な兄重盛と無能な弟、
冷静沈着で賢明な弟知盛とうろたえるばかりの無能な兄、
勇猛な弟重衡と駄目兄貴、
落ち着いた息子清宗と最後まで覚悟のない父親、
というふうに徹底的に引き立て役にされている。
こんな人も珍しい
150 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 21:05:59
平家物語の重盛ビイキ乙 徳子のヒロイン化乙 後白河の大原行幸乙
151 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 21:56:05
清河は早くから参議だったのにずっと出世できずにおまけに唐で死ぬ運命になったんでしょう?
152 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:52:24
顕光はアルツ、吹いたわ。確かに彼は魯鈍すぎる。
あとやり手の対極にいる貴族って言えば藤原佐理とか。これも道長・実資の同時代人。
だらしない人として有名。まああれが計算なら逆に凄いが。
警戒されたら消されかねない奈良時代じゃ有るまいし、多分地だな。
154 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 22:17:31
離洛帖や道隆の障子の件に関しても体裁が悪いことこのうえないね。名筆だっただけに後の世まで証拠品が残ってしまうなんて運がないというのか。
清盛、下級貴族に落ちぶれていた家を祖父が中流貴族に立て直す。
更に父親が中の上まで持っていく。
頼朝、祖父の代に下級貴族に落ちぶれかかった家を父が懸命に中流に立て直そうと悪戦苦闘中。
尊氏、上の分類だと由緒正しき中流貴族だが、本人は貴族って言う意識はあったのだろうか?
156 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 20:59:46
>153 安積親王は仲麻呂に殺されたんだよな?きっと。
157 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 19:02:36
朝光の妻の件についてだが、おまいらどう思う?
158 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 22:46:29
後見天皇の遺言を捏造して光仁天皇を擁立した藤原百川(北家)、藤原永手(式家。藤原宇合の子)
159 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:33:48
ここで天武系から天智系への血統の革命がなされたわけだな。ついでだが百川は式家、永手が北家説明が逆になっとるぞ。
160 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:43:01
朝光の妻とは故大納言源延光卿の未亡人のことか?それとも正妻のことをいってるのか?
161 :
東海太郎さん:2007/11/22(木) 20:26:31
実資は祖父実頼の邸などを相続したため当時は大富豪として知られていたようであります。
162 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 09:37:48
実資の小右記は愚痴日記としか言えないな。
163 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 16:59:49
小野宮流は摂関家の嫡流だったのに
弟の師輔の家系に出し抜かれてなんともいえない没落よう。
一族の公任からも権力者道長からも一目置かれる
知識人だった実資にとっては
血筋と知力を兼ね備えた自分がこんなところで
くすぶっていることが耐えられなかったのだろう。
もっとも、道長の御堂関白記が誤字脱字だらけなのに比べて、
実資の残した小右記の資料的価値だけは
摂関全盛期の第一級資料として世に大きく認められているがな。
164 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:45:05
行成は落ち目になってもがんばってるのに佐理なんかは同じような境遇(自分の家系が没落)にあってもかなり違うな。
165 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 19:07:31
実資は佐理をどう思ってたんだろうか?公任も優秀なのになぜ佐理はこんなに阿呆なんだろう?
>>163 >誤字脱字だらけ
当て字というか、分かればいいというか、大胆さを感じますね。私の場合は。
実資も愚痴だらけという気はしません。融通は間違いなくきかなかったでしょうが。
実頼は空也の『大般若経』供養会に参席していますが、個性が強かったようで。
実資の革堂などへの参詣はその影響かもしれませんが、どうも実資が赤の他人とし
て同時代に生きていた場合、非難されたような気がします。
167 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 19:08:56
実頼は恐ろしく清潔ですよね。公季の母のことにしてもそうだし。御前が汚れる!
信西って少納言になるのもやっとだったのに、
なんで息子は中納言までいけたの?しかも信西の死亡後に。
そう言えば頼長の息子も太政大臣まで行ってるし、
家格とか先例重視とか言うわりにこの時代はよくわからないな。
169 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 20:57:41
藤原成範(信西の三男)藤原師長(頼長の次男)ふたりとも解官。 この時代は成り上がるのにはもってこいの時代。
蹴鞠の才能で成り上がり、子孫は難波・飛鳥井両家として繁栄した
藤原頼輔もやり手でしょう。都落ちした平氏一門を九州から追い出した
立役者でもある。
171 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:20:58
後白河の側近で権力のあるところを探し出す鼓の名手平知康。嫌な奴ですなぁ。
172 :
ズーズーさん:2007/11/30(金) 23:27:53
ここらでこれまで出てきたなかで誰が最もやり手なのか決めましょう。まぁ私は源通親を推薦しますがね。
173 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 00:37:46
通親が最強、はたぶん揺るがない。
問題はその次。
174 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 15:47:39
>>168 安和の変で流された源高明の息子も正二位権大納言まで出世。
花山院に矢を向けたとして流された藤原隆家の息子も
父は中納言が極官だったのに大納言まで出世。
複雑な血縁社会だからね。
頼長の太政大臣まで上った息子は忠通の養子だったはず。
175 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:49:01
奈良朝最強の男、恵美押勝。 平安朝最強の男源通親でOK?
個人的には奈良時代においては高級官僚として生き延び、子孫に繋ぐことこそがやり手の最大条件だったと思う。
真盾・豊成・乙麻呂>>永手・百川・蔵下麻呂>>清河・御盾・良継・田麻呂>魚名・巨瀬麻呂>超えられない壁>仲麻呂・広嗣
清成・鳥養は本人がぱっとしないな。
177 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 00:26:59
乙麻呂ってどうしても
お歯黒白塗りした人がPCに向かって、
「
>>1 乙」とかカキコしてそうなイメージがある
178 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 16:23:34
乙麻呂のイメージ・・乙 今川義元→今川義元 乙カレー(今川スレpart3参照)
石上中納言ナメンナコラ!!!
180 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/12/02(日) 17:44:03
>>172 ・藤原有国→関白の譲状を書くように迫って一時失脚。
・大江匡衡→公卿になろうとして果たせず。
・大江匡房→一時失脚して大宰府へ。蔵人頭になれず。
・藤原明衡→子孫は有国と同様文道の家を形成したが、当人は試験問題の漏洩で一時失脚。
・大江広元→最後は鎌倉へ。
有名どころ以外で考えてみましたが、なかなか難しいですね。
子孫にうまく繋げたといえば、安倍晴明はうまくやったと思いますが、彼の
子孫の働きもありますからね。
平安後期〜鎌倉時代に伝説が形成され、秩序が再編された室町時代になると
公卿にまで昇っていますが。
子孫繁栄といえば軍事貴族ですが、一番といってよいかどうか。
平清盛も、晩年には無理が生じていましたし、難しいですね。
やはり、通親も含めた具平親王の子孫か公家系の平氏からになりますか。
しかし、一応とはいえ現世は無常であるとして『法華経』帰依による往生を
祈念して慶滋保胤と同所に生まれようとしていた親王の子孫とは思えない。
181 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:22:57
具平親王は長女を藤原道長の長男頼通の正室に娶わせ
幼かった弟妹たちのことを婿の頼通に託して亡くなりましたからね
当時の貴族はやたらと無常と言う言葉を愛用しますが
結局このことが具平親王の家系(村上源氏)の出世の原因となるわけで
182 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/12/02(日) 18:41:50
>当時の貴族はやたらと無常と言う言葉を愛用しますが
政治的に零落した階層から生じたという石母田正・井上光貞両先生以来の説
は、崩れてきているようですね(そもそも近年は井上論文の引用が稀)。
親王の場合、師の影響もあったでしょうが。
子孫が栄えたおかげで、親王が雑仕女大顔(夕顔のモデルともいう)の顔を
描かせたという牛車は室町時代までは存在していたそうですが、どんな絵で
あったのかが今では分からないというのが残念です。
183 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 21:13:18
>179スカト口乙
185 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 22:39:18
村上源氏以外で頑張ってる源氏はどれだ?
>>180 大江匡房が大宰府に赴任したのって、左遷だったんですか?最後まで白河法皇の
信頼が厚かったと思っていたんですが・・・。学者の身でありながら、権中納言に
出世していますし。大宰府は日宋貿易の利権もからんでいるので、競争率の高い
ポストではないのでしょうか?
187 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:14:27
左遷ではないようです。不正にため込んだ船は無事到着、正規の船は沈没。「世も末よのぅ。」by匡房
188 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/12/03(月) 01:50:53
>>186 永長の大田楽と彼が記した『洛陽田楽記』は有名ですが、彼が決めた永長と
いう年号は、一年足らずで改元されていますね。
改元に関しては、匡房の所属していた源俊房(当時白河院と不仲)派と、匡
房にとっては因縁の相手であった藤原通俊・藤原敦基の一派で争いが生じて
いましたが(通俊らの背後には白河院がいたか)、一旦は俊房派が勝利した
ものの、巻き返されたようです。
大宰府の利潤は、前編が匡房の産着を縫った曾祖母赤染衛門作とも言われる
『栄花物語』も記すところですが、赴任時の年齢を考えれば、京都で薨去で
きる可能性は低く、現に前任者は現地で没していました。
曽祖父匡衡が丹波守に赴任した際、尾張の民に対して文道の者は帝王の側に
いるのが本分だと詠じていましたが、その理想とも遠い。
その上、匡房の前後にいた20人の大宰権師の内、17人が任期を全うでき
ていません。『江談抄』や『平家物語』にも出てくる藤原季仲もそうでした
が、この時代は寺社勢力の訴えで失脚する危険が大きかった。
『洛陽田楽記』も、院と近臣を風刺した作品と見るべきでしょう。
もしかしたら、不利を悟って八幡・天満天神信仰の地を自ら訪問したのかも
しれませんが。
>>187 本人の『続本朝往生伝』や『古事談』にも見られる人物像と似通っています
が、『古今著聞集』の説話ですからね。あてにはなりません。
誰も挙げないから藤原忠平
兄貴を追い越して摂政に出世
しかも子供2人が同時に左大臣右大臣
角田氏はとんでもない悪党だと言ってるね
源光を暗殺とまで言われると疑問にも思うが
>>189 忠平が藤氏氏長者の地位に着くのは醍醐天皇の世で力のあった
長兄時平(菅原道真左遷で有名)が没した後だけどね。
忠平や長兄時平、温子(宇多后)穏子(醍醐后)の母は人康親王女だけど、
忠平のほかの兄(兼平)は異母だった可能性が高い。
ただ、宇多天皇の御前で元服した仲平は同母兄かな。
仲平よりは出世した。
仲麻呂に逮捕されても知らぬ存ぜぬでシラを切り通した良継
自ら兵を率いて仲麻呂の反乱軍を壊滅させた蔵下麻呂
そして凄腕の陰謀家百川
この式家三兄弟はなかなか強烈だと思う
193 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 18:26:00
百川はすごいよな。廃れ皇子白壁王を皇位につけてその息子山部をおしたてて天下を狙った大物。
百川ファンの人って結構いるんだね
でも小説とかでは、端役でしか出てこないような
やっぱり、やり方がえげつなすぎるからなんかなw
まあそこが百川の魅力なんだがw
196 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 21:17:00
百川は式家最強!緒嗣が早くから出世できたのは百川のおかげ。百川は式家最大の策士。
百川は緒嗣が5歳のときに死去。
それでも遺児緒嗣は桓武天皇に取り立てられ、
平城天皇の皇太子時代に死んだ妃の百川娘帯子は
平城天皇が即位すると皇后が贈られた。
ただ、緒嗣のあとはぱっとしなかった。
198 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 19:11:05
承和の変は式家追い落とす目的もあったのでは。帯子→旅子じゃない?
199 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 21:28:54
中村なんとかいう人が書いたトンデモ小説によれば関白近衛基煕が徳川綱吉と鷹司信子夫婦を暗殺したことになっている
よって近衛さんがやり手公家に決定!
200 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 00:00:45
200get
201 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 18:25:35
江戸時代にはすごい公家がいるのか?
202 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 19:42:40
>>198 ん?
平城天皇の皇太子時代の妃で、
平城天皇が即位したとき皇后を贈られたのは藤原帯子だよ。
帯子は延暦13年5月27日没、延暦25年3月18日、贈皇后。
帯子の姉で、桓武天皇妃、淳和天皇母が藤原旅子。
淳和天皇は薬子の変によって平城皇子高岳親王が廃太子になった後、
嵯峨天皇によって急遽皇太弟に擁立された人物で、
当初、登位の予定は無かった。
帯子は平城天皇の贈皇后だが、姉の旅子は桓武天皇の皇后ではなく、
淳和が即位したときに天皇生母として皇太后が贈られたのみ。
近衛基熈、徳川家宣の舅で幕政にも関与した江戸時代の廷臣としては希有の人。
なんか毀誉褒貶の激しい人でもあり、霊元天皇から徹底的に嫌われ、
東山天皇・家宣からは厚い信頼を受ける。
204 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 23:38:09
>>201 スレ違いだが烏丸少将だろう、モデルになった人はいるのだろうか?
205 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 20:53:32
烏丸少将って誰?それについてkwsk
>>205 柳生一族の陰謀って映画に出てた公家の剣の達人
成田三樹夫が演じてた
あとで柳生十兵衛に斬られる
> あとで柳生十兵衛に斬られる
すごくないやん
208 :
ズーズーさん:2007/12/07(金) 19:58:36
源通親を一番のやり手としてもよろしいですか?異論がなければこれをこのスレの 見解とさせていただきます。
209 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 22:21:20
異議無し。
210 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 23:35:03
スケールの小さいやり手だなあ
宮廷政治家に限定すれば最高のやり手で良いと思う。
実績で負ける道長は、実力より運の面が大きいし。
>>210 思いっきりスケールの大きい答えをくれ。
貴族ってどこまでなんだろう、公卿は当然として受領もまあ貴族だよね。
受領の郎党とか六位級官人も貴族?
府生とか番長・看督長なんかは貴族じゃないよね。
やり手の貴婦人(って感じがしないものすごいが)日野富子。
北条政子や春日局は所詮田舎娘の生まれだから貴婦人ぽくないのは当然だけど。
この人は生まれからいっても経歴からも完全に貴婦人なのに、ちっともそれらしくない。
>>214 やり手の貴婦人と言えば、後深草院二条だろ
別の意味での「やり手」だけどさw
216 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 19:41:02
もっとすごいやり手貴婦人なら和泉式部がいる。王朝一やり手の女。
217 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 19:58:15
東三条院詮子、丹後局、卿二位、今参局、春日局。
後醍醐天皇の母ちゃんもなかなかのもんだぞ
息子の即位のため、義理の父親を誘惑するやり手w
219 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 20:02:55
>>213 貴族=内昇殿できるもの=従四位 参議 以上に叙任した家。
それ以下は、朝臣であって貴族ではない。
で、あってるかな?
220 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 11:45:27
221 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 16:24:43
不比等の方が通親よりもすごいと思うんだけど。そんなすごいなら通親はなんで有名にならないの?
222 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 16:56:32
不比等は教科書にも載っているような偉人。
やり手とは、一枚上手ぐらいの貴族の意味では?
223 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 19:14:18
生前正一位に叙された貴族は、みな晩年や死後が不遇。
橘諸兄→晩年は仲麻呂に権勢を奪われ、子の奈良麻呂は謀叛を起こして敗死。
藤原仲麻呂→謀叛を起こして敗死。
藤原永手→子孫が繁栄せず、北家嫡流は真楯流に移る。
224 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 19:34:04
225 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 21:21:12
藤原秀吉は貴族のなかで最も権力を持った男。天皇の子だから当然なんだけどねww
226 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 21:42:21
白河院に重用された藤原公実について語らないか?
金玉
228 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 22:22:16
後白河の金玉恥知らず
229 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 12:41:18
>>226 藤原公実は白河院の従弟にして、
白河院と同い年(1053年生まれ)だった。
清盛の娘を嫁に貰ってへこへこしていた貴族も平家滅亡に殉じたわけじゃやなし、
あれだけ北条の虎の威を借りた西園寺も北条滅亡後も生き延びたし、
足利べったりの日野も足利衰亡後も何事もなかったがごとく存続。
公家って本当にしたたかな存在ですね。
231 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:45:50
そこが面白いんですよ。現代に通じるものをたくさん含んでますからねぇ。
232 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:55:54
通親は現代の政治家たちの手本みたいなもんですね
政治をしない政治家
武士には忠君があるが、公家には忠君なんて考えさらさらないよな
自分の息子に忠君と名づけた藤原師輔ならいるが。
キングメーカー大伴金村
237 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 23:47:22
父を早くに失っても出世できた藤原種継・藤原小黒麻呂。
238 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 13:59:07
大伴や紀や石上に頑張って欲しかったニダw
239 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 16:24:28
>>234 公家の主君は天皇だろ。
天皇が滅んでいないのに、
武家に殉じるわけがない。
南朝に殉じた公家なら忠臣?
殉ずるって言うよりもろともに没落した公家はいくらかいたな。庶流が多いけど。
不器用でスレタイと対極にいる人たちだね。誠実とは限らないけど。
241 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 05:41:24
西園寺 実兼
242 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 05:55:02
日野 勝光
243 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 06:03:47
平 時実
244 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 15:43:11
>>240 南朝に殉じて戦死した公家はいるけど(北畠顕家とか)、
南朝の天皇だって敵に殺された人は居ないのだから、
殉死(生き残れたのに、あえて自害)した公家はいない。
戦死は運が悪かったとしか言いようが無い。
ほかにも、流れ矢に当たって死んだ藤原頼長とか、藤原仲成とか。
本人に死ぬ気がなかったのに、殉死とは言わないでしょ。
245 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 19:12:41
自分の信念のもとに国を動かそうとした奴なんて桓武帝ぐらいなもんだろう。神功皇后にも勝るのは桓武だけだ!
246 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 19:18:02
仲成は謀反を起こす気なんかなかったと思う。もしそうなら出かけていくことはない。機先をせいした嵯峨側の勝利。
南朝系の公家って傍系とかで結局後が続かなかったって言う印象があるんだけど、
爵位貰った家系はあるの?
阿野家とか?
249 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 01:40:49
>246平城天皇は優秀だったんだけどなぁ、一途だったんだね、きっと。
>>240 嫡男が南朝へ走った例もあるよ。
「園太暦」で有名な洞院公賢の嫡男実世は南朝左大臣。
弟の実夏が北朝で内大臣。
南朝につくか、北朝につくかは公家の間で流動的だったと見え、
公卿補任を見ると、途中で北朝を捨て南朝へ走った公家、
逆に南朝を出て帰京し北朝に仕えたいと申し出た公家もいたようだ。
251 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 15:52:03
池田大作先生が日本史上最強だと思います。
252 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 18:12:49
阿野家って?教えてください。
253 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 18:57:34
阿野家は源頼朝の弟の阿野全成を祖とする名家。
明治時代に子爵家となった。
254 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 20:28:46
>>253 阿野家の祖は、鹿ケ谷の陰謀で流された藤原親成の子で、
藤原北家閑散院流の滋野井実国の養子となった公佐。
阿野氏は藤原氏。
公佐の妻が阿野全成の娘で、公佐は舅の全成から阿野荘を伝領したため、
阿野氏と呼ばれるようになった。
阿野全成とは女系でしか繋がっておらず、
阿野家は阿野全成を祖とする家ではないよ。
阿野家こそ南朝に殉じ(殉死の意味じゃなくて、最後まで後南朝につくして没落の意味)てもいいような家だと思うが、
しっかり生き延びているのが公家のしたたかさですね。
256 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 20:08:23
昭和天皇と皇位を争った熊沢天皇に付き従った公家はいるのか?
258 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 11:05:40
不比等は鎌足の子じゃないの?
真偽不明としか言いようがない。
まああなたやわたしの父親とされている人物との親子関係さえ明確でないわけで・・・
その点母親の方は病院での取り違えとかでもない限り確実ですね。
男が自分の遺伝子を後世に伝えるにはじ結婚より同母姉妹の娘を援助する方が確実?
261 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 14:12:31
鎌足が認知していれば鎌足の子で問題ない。
262 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 14:19:44
不比等は公の史料では鎌足夫人車持与志古の子で、
不比等の子供で問題ない。
それが、不比等は鎌足の夫人でかつて天智天皇の愛妾だった鏡王女の
子ではないかという憶測から(天智の子をはらんだまま鎌足に与えられた?)
不比等皇胤説があるわけで、普通は鎌足の実子で問題ないはずなのだが・・・
263 :
262:2007/12/16(日) 14:20:42
訂正
不比等は公の史料では鎌足夫人車持与志古の子で、
不比等の子供で問題ない。
→
不比等は公の史料では鎌足夫人車持与志古の子で、
鎌足の子供で問題ない。
264 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 21:22:36
不比等皇胤説も藤氏に箔をつけるためのメイキング。だが秀吉は本当に天皇の子。
265 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 22:04:10
秀頼が秀吉の子かどうかも怪しい。
266 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 22:06:18
基経に嫌われた天皇の子源融、源定省。ついでだが源定省がうざすぎる件について。
徳川家康は本当に松平広忠の子なのか?
松平秀康は本当に徳川家康の子なのか?
松平忠輝は本当に徳川家康の子なのか?
268 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:58:34
石上麻呂。不比等より上の立場にいた男。
269 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 19:24:50
>279ヒッキーの基経は果たしてやり手といえるのか?
271 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 21:18:01
蘇我赤兄
272 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 01:04:42
北家最大のやり手は兼家。
273 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 01:05:27
北家最大のやり手は兼家。
274 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/12/19(水) 02:34:11
>>201 千種有功はどうです。公卿で、歌人で茶人で絵師で書家で刀まで打っていましたが。
>>213 「貴族」という言葉が公家という意味で使用され始めるのは、南北朝時代からのよ
うですが、朝臣(含六位蔵人)以上でいいでしょう。
順徳院が、天皇は六位蔵人と下揩フ女房以上としか会話するなと書いているのは、
後白河院や後鳥羽院の行動を振り返ってのことでしょうね。
275 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 02:38:25
なんで、五摂家に分裂したんですか?
276 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 09:16:44
摂関家の相続争いのせい。
277 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 12:23:17
千種有功はいつの人ですか?
278 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 12:31:57
age
279 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 13:31:09
基経は兄たちを差し置いて良房の養子に選ばれたやり手。
280 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 13:39:31
つーか、良房はわざと跡継ぎではない三男坊の基経を選んだんじゃ?
基経は何の実績も持たない幼少時代から、良房の後継者だった。
その証拠に、基経は良房の後継者として、
文徳天皇自らの加冠により元服している。
当たり前だが、基経は元服前には何の活躍もしていない。
選ばれようによっては純友が関白で実頼か師輔が謀反人だったりして。
純友のじいさんは基経の兄ちゃんだからなあ。
283 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 17:59:30
京極って宇多源氏と藤原氏いますがなんか関係あるの?
284 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 18:20:24
どっちも京極通に面したところに
邸があったからだろ
一条(摂関家藤原頼通流・藤原頼宗流)
二条(摂関家藤原頼通流・藤原長家流)
など他にもだぶっている例はあるよ
江戸幕府は北条政子や日野富子みたいな猛烈婦人はいないななんでだろう?
側室は凄いのが居るけどね。
286 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:17:34
お江与はなかなかの烈女だと思うけど。
287 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 23:34:45
公家の女でやり手というと、日野富子ぐらい?
288 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 01:48:46
源 通親 だな
こいつはマジで腹黒い。
でも、源通親の悪どさって玉葉の影響がかなりあるんじゃない?
ライバルの兼実の通親批判をそのまま受け入れるのも、どうかと思う
290 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 19:55:14
だが通親の先を読む力と運の強さには舌を巻きますね。あそこで大姫(頼朝の娘)が死に任子(兼実の娘)は女を産み、在子(通親の義理の娘)は皇子(土御門帝)を産むとは。
291 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 20:06:30
>290
それだけ先を読む力があるなら、まさか養女と密通せんだろw
妻の死後、通親は妻の連れ子で後鳥羽上皇の後宮に入った
養女の源在子と密通、後鳥羽上皇の知るところとなり、
後鳥羽上皇は在子を遠ざけられた。
通親の死後は通親と争った九条家を登用、
在子の産んだ土御門天皇を廃して、異母弟の順徳天皇を立ててしまった。
292 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 21:12:45
そんなことがあっても通親はあまりにも力をもちすぎてい遠ざけることができなかったぐらいだからねぇ
293 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 20:28:49
日野富子って名前からしてガメツそうだな。
きっと親もがめつかったんだろう。
北条政子って名前からして政治好きそう。
296 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 21:59:25
政子は義時に操られてただけで政治に口出しをしたわけではない。
そもそも、政子の名は頼朝死後のものでしょう。多分父親の一字で。
童名は万寿だったか、朝日だったか、それ以外だったか分かりませんが。
298 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 02:28:07
藤原 実資 は?
日記がもっと残ってれば面白いのに・・・
実資はやり手っつーよりも、頑固じじいって感じだな
なんで北条政子は頼朝の妻なの?
身分的には側室がいいとこでしょう。
頼朝が流人のうちはしょうがないかもしれないけど、
復権して更に公卿にまでなってるんだから、
身分相応の妻を貰って当然じゃないの?
実家の北条氏だって頼朝存命中は大して力がないみたいだし。
政子ってそんなに魅力があったの?
301 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 18:44:32
流人の頼朝には嫁のなり手もなく、
伊東祐親の娘に手を出すも、子供は殺され、娘はほかへ嫁がされた。
政子とも最初は駆け落ちだったはず。
源頼朝が以仁王の令旨によって挙兵したのは、34歳のとき。
舅の北条時政が真っ先に頼朝に協力したことはいうまでもなく、
すでに頭のあがらない状態だった。
頼朝が自らを配流にした平氏を滅ぼしたのは39歳のとき。
このときすでに政子は頼朝との間に長女大姫、嫡男頼家を生んで
正室の座を確固たるものにしており、
また、頼朝自身、都に住むつもりも、都から妻を娶る意思もなかったようだ。
302 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 22:50:39
北条氏は過大評価だろ。旗揚げの時は土肥や三浦の力を評価すべき。
303 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 00:25:50
304 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 14:10:27
鎌倉幕府の能吏大江弘元はなんで鎌倉に来たの?
弘元は鎌倉幕府の大成に大きく影響を及ぼしたやり手。
305 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 18:54:00
>304
都で出世できなかったから。
せめてもう一世代若ければ信西も鎌倉に来たかもしれないと妄想。
307 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 14:08:28
大江広元は昔中原姓を名乗っていたはずですが、なんで大江にしたんですか? ってか中原ってどこの氏族?
中原氏は安、寧天皇の第三皇子磯城津彦命の後裔の十市宿禰有象が中原姓を賜姓されたことに始まると伝える。
子孫は大内記、少内記を世襲し、また明法道、明経道の家としても著名である。
鎌倉幕府の成立時、中原氏は法律に明るいところから大江広元らとともに文官として幕府の創業に尽力した。
大江広元は母が中原広季と再婚したので、広季の養子となり中原姓を名乗ったが、のちに大江姓に復したものである。
中原広季は広元のほかに藤原光能の子親能を養子としており、親能は源頼朝の側近として重用され鎮西奉行も務めた。
なんてのを見つけた。
大内記、少内記は、外記の誤りだと思うが。
309 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 15:13:22
「尊卑分脈」によれば、
大江広元の実父は藤原光能(道長六男藤原長家の曽孫に当たる)。
母親が大江氏だった。
広元が幼い頃に母は父光能と別れ、中原広季と再婚。
そのため、当初、広元は母の実兄である大江維光の養子となり、大江姓を名乗った。
その後、母の再婚相手である中原広季の養子となり、中原姓を名乗る。
のち、最初の養父の姓である大江姓に復した。
310 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 16:14:23
中原姓ができたのは比較的新しく、
平安時代中期、円融天皇の御代に、
十市首有象が中原宿禰姓を賜り、
ついで中原朝臣姓を賜ったことによる。
十市氏の歴史は古く(天武皇女十市皇女を養育か)
皇別氏族を称していた。
311 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 17:14:23
三善康信は叔母が頼朝の乳母をしていた関係で鎌倉に来た人でしたよね?三善の姓の由来を教えてください。
清行は康信のご先祖?
三善氏はもとは錦部(錦織)宿禰姓を名乗っていた。
平安時代に入るまで三善姓は現れず、平安時代に改姓したと見られる。
三善清行が三善宿禰姓から三善朝臣姓を賜ったことが見える。
三善康信は三善清行の子孫で、代々学者の家系。
314 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 13:50:40
田辺史すなわち藤原不比等に一票
315 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 16:41:14
不比等と蘇我系の元明天皇たちのあらそいは面白いな
聖武天皇の即位まで不比等が生きてたらなぁ
持統とか元明とか元正とかを蘇我系天皇と言い出したのは作家の永井路子だと思うのだが
その割には蘇我一族を取り立ててないよね、この3人・・・
317 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:21:56
>>316 元正天皇はともかく、
持統天皇、元明天皇の母親は蘇我山田石川麻呂の娘。
(持統母と元明母は姉妹)。
持統天皇が幼い頃に、外祖父蘇我山田石川麻呂とその息子は
父親の天智天皇に滅ぼされてしまいましたからね。
もっとも、持統天皇と元明天皇が取り立てた藤原不比等、
不比等の妻は蘇我山田石川麻呂の兄弟連子の娘蘇我娼子であり、
幼い頃に父鎌足を失った不比等が女帝たちの寵愛を得たのは、
妻の蘇我娼子が持統・元明両天皇の外戚筋に当たっていたからだと言われています。
さらに、持統・元明両天皇が守った草壁皇子の子文武天皇、
文武天皇の後宮に不比等の娘宮子が入ったのは勿論、
嬪として石川刀子娘 (蘇我氏はのちに石川姓を名乗った)が入内したのは、
やはり蘇我系が天皇の外戚筋であったためだと考えられます。
318 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:55:57
中原(十市)とか三善(錦織)なんてマイナー氏族がよく中世まで存続できたな。
319 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:41:40
石上(物部)とか石川(蘇我)はいつの間にかに消滅したのにね。
320 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 00:19:21
藤原氏に中で最強なのは不比等だろ
321 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 18:44:59
蘇我氏と藤原氏の相克はすさまじいものがあるよ
322 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 18:47:13
藤原氏に消されていった氏族の中でやり手なのって誰がいる?
歴名土代みると結構いろんな姓がまだ残ってるね。
奈良時代に比べると激減してるけど。
324 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:16:56
伴善男はなかなかのやり手だと思う。
早良親王の事件の影響で没落した大伴氏で、
大納言にまでなるとはかなりすごい。
良房に密着して生きてきて最後には
裏切られるのはかわいそうだが・・・
325 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 02:06:52
善男が良房の後を継いで政治を動かしていったらおもしろかったのに
良房が善男を裏切るんじゃなくて、善男が良房を裏切って良相につくんじゃないの?
で、その裏切りを良房が気づいて、善男あぼーんだったような
327 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 12:01:15
善男は良房も喜ぶと思って源信を
陥れようとしたの?
良房にしてみたら善男よりも
嵯峨皇子左大臣源信のほうが怖い相手だよね?
源信って人畜無害だったの?
まあえらいお坊さんだったようだし。
>328
源信違いだな
330 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 18:42:22
日野富子のアニキだな。家格を越えて大臣にまでなっている。
あと、藤原邦綱。ノンキャリアの地下から大納言までなっている。まあ、マブダチの平清盛のお陰だけどね。因みに清盛と同じ年に死んでいる。
検非違使補任を見ていて思ったんだけど、
検非違使の尉・佐・別当を歴任したのって平時忠くらい?
332 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:05:48
小野氏ってなにげにしぶとく生き残ってるな。
旧豪族では紀氏とならんでかなり頑張った方かな。
333 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:15:10
>327
怖いのは弟の良相や伴善男だと思う。
信はそんなに凶暴な人じゃないし
334 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:17:15
内大臣日野勝光サン
335 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:54:39
道長の時代になってくると廟堂には藤原氏と源氏ばかり
336 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:55:47
南家で頑張っていた藤原元方はやり手!?
337 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:58:47
元方の子の懐忠も地味に大納言にまでなっているな。
院政期に信西・範季らが活躍するまでは、この辺の系統が南家では花形だったのか。
338 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 19:16:31
あげ
339 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:29:53
平安時代
南家・・・元方
北家・・・??
式家・・・緒嗣
京家・・・冬緒
元方って大納言だけど、自分は怨霊になっちまうし、
孫は大盗賊だしで、何か殺気立ったイメージなんだが
341 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 08:04:36
>339
平安時代に一番活躍した人物を挙げるなら、
??になってる北家は道長・頼通だろ
342 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 19:41:48
南家は信西じゃないの。官位とかじゃなく存在感で。
信西の子はどうにか公卿になったけど、孫以降はどうなったの?
344 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 17:00:09
信西の子のひとり中納言藤原成範って、
高倉天皇の愛妾小督の父親なんだね。
平清盛の娘婿を約束されながら、平治の乱で失脚。
その後許されて中納言に登る。
345 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 18:25:16
蜜右衛門
346 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 19:28:14
西園寺公経
347 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 20:20:28
平高棟はよく大納言にまでなれたな。
348 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:02:55
>346
公経は王朝最後の人だな
権勢を極めた最後の人
349 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:07:26
>341
北家でやり手といえるのは兼家ではないだろうか。
>339
緒嗣の父百川はやり手だが
緒嗣はやり手というか
むしろ我慢して生きながらえた人だと思う。
350 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 09:27:04
日本史の中で、最大のやり手は、「蘇我一族=特に、蘇我稲目・馬子」以外に有り得ない!
ヤマト朝廷の王権が絶えた時に継体・欽明天皇による天皇制を実質に造り上げ!近親相姦の繰り返しによる独特の天皇家を編み出す。
また、日本史の芸術思想の核となる仏教を認めさせる。一族関係者から「聖徳太子」まで出してきた。なぜ、闇に消されていったかが、日本史の隠された原点!面白いよ!
351 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 23:42:20
蘇我入鹿
藤原氏があこがれた男。
入鹿が悪人のはずがない。
352 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:45:41
平時忠
353 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 03:16:07
足利義満といって見る
一応貴族だし
354 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 12:42:18
水戸肛門
355 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 12:47:05
ミトコンドリア
北畠親房だろ
357 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 19:03:56
南北朝最強の政治家は誰だ!!!!!!!
北畠顕家
358 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 20:56:29
顕家はそれほど政治家って感じじゃないけど
359 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 00:55:05
だが陸奥からの大遠征はすごすぎ
凄くもねえよ
親房・顕家が出てきたので、村上源氏の元祖・源顕房。
娘の賢子を摂関家の養女にするなど要領よく立ち回り
堀河天皇の外祖父として栄華を極めた。本来の嫡流だった
兄・俊房の系統は没落。
362 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 00:43:25
宇多、村上、清和源氏以外の源氏で
がんばってるのってどこの家がある?
>>362 藤原師実の正室となった妹の麗子に娘が生まれず、
顕房の長女が師実と麗子夫妻の養女になったのが良かったのだろうね。
(この時点で俊房には娘がいなかった)
生前、顕房は兄の官位を超えることを恐れ、自ら兄を推挙して
俊房が左大臣、顕房が右大臣で終わったが、
顕房の子雅実は堀河天皇の叔父であることを利用して昇進、
俊房の子とは官位に大きな差ができ、こちらが源氏の嫡流となってしまった。
364 :
生物御殿:2008/01/25(金) 10:17:58
興味深いのでage
俺的には伊藤貴志って貴族がいいと思うんだが・・・
365 :
たかし御殿:2008/01/25(金) 17:05:11
おれは近代ナンバーワンのオナニー貴族
366 :
日本@名無史さん:2008/01/25(金) 17:10:08
日野勝光
名家の家柄、日野家の当主。
日野政光の子で、母は北小路苗子。
妹の日野富子は将軍足利義政の正室。
父政光が出家したため6歳で家督を相続。
妹である富子を将軍義政の正室に入れ、
足利義尚の将軍職就任に寄与して、
さらに娘を義尚の夫人に入れる。
左大臣まで昇進した。蓄財にもはげみ、
その権威の大きさから「押大臣」と評される。
室町時代のやり手の公家といったら彼しかいないでしょう。
時忠 「しかし時実・・・これでわしゃ、3度目だぞ。
人生で3回も配流されるなんて、そんなヤツあるかなあ」
時実 「2度とテメーの息子には生まれねえ」
おまいら1をよく読め
鎌倉時代までだ
369 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:33:41
南家ですごいのは恵美押勝ぐらいだろ。
元方なんて大したことないし
371 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 03:38:49
また村上源氏ですか
村上源氏自重汁
石上マンセーー
大作先生マンセーー
372 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 15:35:55
院政期のやり手ナンバーワン
信西入道
373 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 16:57:51
>>369 元方は娘に村上天皇の手がついたというだけで
娘も孫もどうすることもできず、
ただ娘と一緒に早死に(病死)しただけだもんな。
このとき元方の孫廣平親王を超えて即位した
冷泉天皇が病気持ちだったもんだから、
元方と娘祐姫の祟りだといって
藤原北家から勝手に恐れられたけど
374 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 15:48:43
怨霊なんてみんなそんなもんでしょ。
醍醐天皇だって道真に祟り
殺されたことになってますし。
藤原北家の人々 勘違い乙
375 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 14:49:36
やり手貴族の定義ってなに?
この板は権謀に優れた人について書きこめばいいの?
それとも歴史の中で活躍した人?
前者なら藤原百川
後者なら藤原不比等
376 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 15:41:26
やり手ではないが運のいい人一条能保
父親は受領で高位の官僚でもなかったが、
たまたま妻にしたのが不遇時代の源頼朝の同母妹。
能保はこの縁により義兄頼朝から全面的に信頼されて
京都守護に任じられ、妻と一緒に鎌倉へ旅をし、
頼朝、政子夫妻から歓待も受けている。
娘は摂家の九条良経、閑院流の西園寺公経の正室となり、
一躍上流貴族の姻戚となった。
一条能保の権勢は頼朝あってのもの。平時忠のごとく一代限りでしたね。
時忠は3回配流されたが、高階泰経も治承3年(1179年)平清盛のクーデター
寿永2年(1183年)木曽義仲の法住寺合戦、文治元年(1185年)義経・行家の
謀叛への同意などにより3回も解官されるが、不死鳥のごとく復活。
>>377 子供が幼少だったから
息子は泰時の婿だったけど伊賀氏の乱に加わって滅亡
>>378 その息子(実雅)は承久の乱を生き延びたからまだマシな方で、
兄弟は鎌倉方に捕まって晒し首にされたり散々な末路を辿っているわな。
>>378 大姫に縁談を断られた高能と、承久の乱で処刑された信能は頭に入っていましたが、
実雅の存在には全く気付きませんでした。鎌倉に下って実朝暗殺に遭遇するなど、
波乱万丈な人ですね。能保の子孫は細々と続いたようですが、南北朝期に廃絶した模様。
381 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 17:27:14
法印尊長がいった
義時が飲んだ毒を自分に飲ませろ
っていう話本当?
382 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 18:03:26
通親のあとのやり手は西園寺公経だろうな。
これを最後にあと素晴らしい貴族は消えたな。
383 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 18:37:58
ヤリマンの貴子スレかと思った・・・
384 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 18:45:29
道長の息子の頼道に興味があります。
50年も摂政関白やって、平等院鳳凰堂もたてたのに、父の影に隠れてあまり目立たない。
385 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 19:03:27
五男坊からのし上がった父の道長に比べ
頼通は道長の生まれながらの長男坊
姉妹たちが天皇の妃になっていたおかげで
特別苦労することも無く政権担当者になったからな
386 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:29:02
ところで、日本史全体を通じたライバルとも言うべき
村上源氏と藤原氏閑院流とは、結局トータルでみてどっちが勝ってると思う?
源通親vs西園寺公経
北畠親房・顕家vs洞院公賢
道元vs??
??vs三条西実隆
岩倉具視vs三条実美
??vs西園寺公望
久我美子vs武者小路実篤
色々考えるとやはりやや、村上源氏の勝利かな?
清華家の数で言えばもちろん閑院流だが
387 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 12:51:20
あげ
388 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 15:34:02
藤原基房(摂政) 対 平朝臣清盛(太上大臣)
389 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 15:37:53
>388
基房は清盛の娘婿
完全に舅の清盛に飲み込まれている
390 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:45:06
391 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:52:19
摂関家VS新興貴族平氏
結局勝ったのはどっちなんだ???
おれは華やかに散った平氏の肩を持ちたいんだが・・・
392 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:29:55
「勝った」のは明らかに摂関家だろ。肩もちたいってのは判官びいきってやつだ。
村上源氏VS閑院流は村上源氏の勝ち。
西園寺は鎌倉将軍家にとりいっただけ。
393 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 18:05:45
判官はけっこう痛い役回りなきがする。
空気嫁っていうか
江戸時代は空気嫁ない奴が
もてはやされた時代なんだねぇ
痛いなぁ
394 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:10:58
>383
ヤリまくった貴族についてでも語りましょうか。
和泉式部が平安朝NO1の淫乱女
男なら源頼定とか、いっぱいいすぎてわからん。
395 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:21:35
ヤリまくり過ぎて殺された貴族もいたな
猪熊だっけ
>>395 たしかそいつの姉妹は後水尾天皇の妾と上杉景勝の妾だったな。
397 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 08:27:24
ヤル相手を選ばなくて身を滅ぼした奴で言えば
藤原季通とかかな。
つーか璋子たんがあまりにも乱れ過ぎなのか。
398 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 11:26:57
猪熊なんて山科の分家だそうだから、堂上公家としては最下級でしょ。
それが調子こいて花山院とかいいとこの貴公子そそのかして
天皇を激怒させて、やたら逃げ回るが結局つかまって処刑。
かなり空気嫁ないやつだったんだろうな
399 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 00:12:56
平安時代は性病とかどうだったんだ?
梅毒で死んだやつとかいるのか?
梅毒でググることをお奨め汁
「汁」の文法間違えてないか?
やりてーのう貴族
403 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 22:54:52
子作りに励んだ貴族ナンバーワンは誰だスレ
みたいなのどっかにないのか?
404 :
武陽隠士:2008/02/12(火) 23:39:24
>>399 梅毒はコロンブスの新大陸到達から(乗組員が帰還して持ち込みね)広まったんじゃない?
有名な話だよ。
ただ淋病はどうなのか。私は知らない。
ちなみに後水尾は淋病だった。
405 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 12:52:49
略してSTDですね<性行為感染症^^
406 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:41:34
淋病は古代からある病気だから
結構発病してる人いるんじゃないか。
そういう話だと古事談とかに
のってそうなんだが・・・
407 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 09:50:54
貴志参上age
408 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 14:54:08
>>394 和泉式部は相手が高貴だったから有名だけど
それくらいのことは他の女房もやっていそう
源頼定は天皇の妃を二度も寝とった
(正確には一人は東宮妃、もう一人は天皇の死後だが)
ことでは有名だがまあ相手が天皇妃でなければ
これほど有名にならなかったと思う
409 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 16:20:47
徳川家康は66歳で淋病と診断されている
410 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 16:25:00
道鏡
411 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 22:20:25
戦国武将で最高齢で子供作ったのは
金森長近だったけか・・・
ようやるわww
412 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 07:25:56
平 時実はしぶといぜ
413 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 22:32:15
北家最強なのはなんといっても良房
やつをおいてほかにはいないだろ
承和の変や応天門の変などにみられるように
彼の権謀には舌を巻く
応天門の変は特に見事
弟の良相や伴善男をやっつけて
嵯峨源氏を味方につけ
素晴らしい手を打ったもんだ
北家の繁栄のもとを築き上げた
良房はやり手の中のやり手だ!
414 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 04:05:01
時平ってどうよ
なかなかしたたかな策士じゃありませんか
もう少し生きてれば・・・
冬嗣、良房、基経、時平。
藤原北家の基礎を作り上げてきた
すごい人たちですよ
時平は律令制の建て直しにも熱心だったようだし
弟の忠平は腐敗のデパートのような人物だったようだがw
416 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 13:28:14
菅原道真の件は過剰に悪く言われてるね。
あんなの藤原氏代々がやってることなのに。
417 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 14:19:57
班田制度は良房の時代にすでにぐちゃぐちゃになってる
良房は権謀においてはかなり優秀だが、
政治政策については人任せで自分ではほとんどやってない。
それを基経がしっかり立て直すべきだったのに彼も挫折。
宇多天皇の国を思っての改革は評価すべきだ。
道真を登用したのは国のためを思うと正しい道だったのでは・・
418 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 17:00:50
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
419 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 17:56:12
宇多天皇は下手に退位して道真を追放する
隙を与えてしまったのがまずかった。
というか道真が関白宣下の詔を固辞し通したのがなあ
>時平は律令制の建て直しにも熱心だったようだし
>弟の忠平は腐敗のデパートのような人物だったようだがw
時平は時代錯誤のドンキホーテ的秀才で、
忠平こそ時代に即した臨機応変の才能の持ち主と言う見方も出来るな。
422 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 14:13:09
しかし、日本を立て直さなければいけなかった。
これが藤原政権を繁栄させたと同時にダメにした根本。
この時期に政治改革が必要だったと思う。
日本国内のみの内的発展状況から言うと律令制の導入が数百年早過ぎたんだろうな。
後醍醐天皇あたりが足利尊氏の助けで建武の改新とかやって、
徳川家康が初めての幕府を開き、
明治天皇あたりが倒幕のして明治の新政を行うが数年で挫折、
徳川慶喜が別系の天皇担いで大阪くらいで新幕府を開く。
でそろそろ戦国時代に突入するというあたりが身の丈にあった発展。
そんな感じが自然で資本主義だの民主主義の導入は早すぎるんだろう。
まあそんなことしてたら他国の餌食だけどね。
>>99 平知康は「伊勢平氏」のような気がする。
伊勢平氏の清盛ではない系統のどれか。
425 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 12:25:52
>>419 菅原道真が政治をやっていれば善政だったというのも過大な期待。
道真は娘を宇多天皇の女御にしているし、
菅原氏が藤原氏のようにならなかった保障もない。
426 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 16:23:45
まあ道真の息子達がよっぽど優秀でない限り
菅原氏が藤原氏に成り代わるのは不可能だろうね。
藤原氏は殆ど常に公卿のトップとして君臨してきた一族だし。
427 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 17:45:56
菅原道真が失脚しなくても
どのみち菅原氏は一代限りだった、と。
428 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 20:13:29
天皇に娘を入内させるのはどの公卿でもしているし
それをそのまま藤原氏からの権力の奪取とする見方は間違い。
確かに道真の政治は善政とはいえず、
可もなければ不可もなくといったクリーンな路線。
429 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 20:22:43
しかし、菅原道真の外戚政策が藤原氏にとって脅威に写ったのは確実。
嵯峨天皇以降、醍醐天皇までは歴代天皇には皇后が立てられず、
実質藤原氏を外戚とする妃たちでも女御どまり。
道真の娘は、中小貴族の娘のような更衣などではなく、
藤原氏の娘同様の女御にたてられていた。
道真が失脚すると、道真の別の娘を正室としていた
斎世親王(醍醐天皇の弟)はこれに連座して出家に追い込まれている。
道真が醍醐天皇を廃して娘婿斎世親王を天皇に据えようとしている
という風聞により醍醐天皇が道真を廃したのは確実で、
道真による華麗な外戚政策が醍醐天皇や藤原氏の機嫌を損ねたのは確か。
430 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:28:38
ヤリマンの貴族たまんね〜 エリカ様みたいだ!
431 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 16:32:32
要するに道真はやり手だったのか?
おれはやり手ではないきがするんだが・・・
道真は反藤原である宇多の持ち駒のひとつに過ぎない
それに醍醐天皇は性天使として有名wな彼にたいして謀反
を起こすようなやつはやり手であるわけがない!
432 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:19:23
平安貴族の性生活って乱れすぎじゃね
二条とかひどいでしょ
433 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:20:43
後深草院二条は平安時代ではなく
鎌倉時代だが?
434 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 17:26:59
花山帝を引き摺り下ろして
一条を皇位につけ
強引に外戚となったやり手
藤原兼家ってすごいんじゃないの?
するとそのものすごい弟を出し抜いた兼通は何者?
436 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:57:17
藤原兼家、外孫一条天皇即位時58歳
自分の兄たちのことを考えると
とっくに死んでもおかしくない年齢だった
生きてるうちに何とかせなと思い
なりふり構わずって感じだわな
437 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:45:31
兼通がえらいのではなく本当に権力があったのは
安子ではないかと思うのだが。
確かに兼家はあせりすぎたなw
438 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 19:10:02
兼家は若年のときから兄兼通の官位を抜いてたんじゃないんだよな。
兼家が兼通の官位を超えたのは40代になってから。
兼家は守平親王(のちの円融天皇)を自ら車に乗せて内裏へ連れ出し、
冷泉天皇のあとの東宮を確実視されていた同母弟為平親王をとびこえて立太子させ、
為平親王を娘婿としていた源高明の力を排斥した恩賞だった。
(恩賞を与えたのは関白を勤めていた長兄伊尹)
当然、思いがけず弟に官位を抜かれた兼通の焦燥は相当なものだったろう。
ちなみに村上天皇や安子が生きていた当時、兼通は兼家に官位を超えられていない。
そのため、兄兼通に一筆書くことを催促された安子は不思議だったと思う。
弟兼家ならクーデターでをやってでも俺の官位を抜こうとするだろうと
このころから感じていた兼通が一本。
やり手とは多少違うのかもしれないけど、
良房には人間離れした不気味さ冷たさを感じるな。
伝説的存在である始祖鎌足や不比等を別にすれば、
藤原一門中で最も冷徹な政治家じゃないだろうか?
440 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 23:49:59
藤原内麻呂もかなり不気味だ。
謀略に長けているわけでもないのに、いつのまにか右大臣になっていたり、
薬子の変の時は真夏と冬嗣が争っているにも関わらず、謎の沈黙を守っている。
内麻呂って妻(真夏・冬嗣の母)を桓武天皇の後宮に入れたりしてるよね。
桓武は女性に対する独占欲は弱かったのかな?
昔の愛人の亭主も重用しているし。
同じ女性を共有(って言うとタジマ先生とかに怒られそうだけど)に対する連帯感が異常に強かった?
443 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 17:09:46
内麻呂の妻は女官としては不遇だったみたいだけどね。
444 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 18:41:59
皇后や夫人といった正式な妃については
自分以外に夫を持つことを許さなかったと思うけれども、
いわゆる女官の場合、桓武天皇と一夜を共にしても
天皇は責任を取らなくてもいいわけで(子供ができたら臣籍降下)、
気軽に遊べるお相手だったのだろうね。
女官=妻と取るのが間違いで、せいぜい元カノぐらい。
桓武天皇は正式な妻だけで相当の数がいたから、
元カノの夫や彼氏にまでまでいちいち嫉妬していなかったかもね。
445 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 01:23:11
内麻呂の出世は自分の力というよりも
他との兼ね合いの意味が強かったように思われる。
吉峯安世って結構幸せだったかもw
446 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 17:23:59
>441
真夏・冬嗣の母百済永継は、夫の内麻呂が桓武天皇の後宮に入れたというより
真夏・冬嗣を産んだあと夫と別れ、子供を夫側に残して宮中に出仕、
そこで桓武天皇の手がついたみたいだ。
永継は宮中の雑用係である女嬬、従七位という内麻呂の縁者とも思えない
低い扱いを受けているし、桓武との間に産んだ吉峯安世も、
親王としての扱いを受けずに臣籍降下させられた。
一方、内麻呂は坂上田村麻呂の姉妹など、後妻たちと暮らしている。
吉峯安世がのちにが出世できたのは、異父兄の真夏、冬嗣のお陰だったという。
447 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 14:37:24
平城がもっとがんばってれば真夏も出世できたのに・・・
真夏の段階で嫡流争いから脱落したからこそ
日野流は生き延びることが出来たとも言いうるのでは?
良峯
450 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 12:47:58
桓武天皇は古代史上いや日本史上最高の天皇だろ!
日本史上の最後の独裁者
それはさておき
悲しく思うのが式家の没落
うまく立ち回ればもっと繁栄できたのに
緒嗣の働きが足りなかったせいではないかと思うんだが
緒嗣が長生きの割に息子達は出世してないんだよな。
ちょっと不思議。
緒嗣は後を嗣がそうと思っていた息子に先立たれたはず
残ったもう一人の息子は世をはかなんで早々と引退
緒嗣は、姉の旅子が淳和天皇生母だったことで
嵯峨系と淳和系の対立にいやがおうにも巻き込まれたのでは?
本人はどちらに入れ込むということもなかったが
藤原北家と緊密だった仁明天皇は対立する淳和系の外戚
式家は登用しなかったし
454 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 17:46:00
承和の変では緒嗣の従兄弟の子である中納言藤原吉野が
大宰員外帥に左遷されてるし
式家にとってみれば痛手だな
緒嗣自身について言えばまじめなよい政治家だったと思う
455 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:37:24
百川があと10年生きていたら、式家の基盤も固められた
式家は、百川らに継ぐ第三世代がいまいちだなあ
種継と託美は殺されるし、緒嗣はいい政治家だったとは思うけど
一家の私勢を伸ばそうという意欲は乏しい
蔵下麻呂の息子は多いが、どれもぱっとしない
縄主なんか、ヨメを貸し出して出世したようなもんだしw
457 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 13:28:19
ウム、式家が力を伸ばしたのは百川の尽力のおかげ
南家ってどうしてつぶれたんだ?
桓武時代は堂上をみると式家よりも有力だったと思うんだけど
>>457 伊予親王事件がトドメになったみたいだな
あれで雄友と乙叡が失脚して没落
時々、仲麻呂以来南家は勢力を持ち得なかったとか本で見かけるけど、ありゃ嘘だと思う
459 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 15:46:13
式家(平城・嵯峨・淳和天皇外戚)→薬子の変、承和の変で失脚
南家(伊予親王外戚)→伊予親王事件で失脚
京家(氷上川継舅)→氷上川継事件で失脚
460 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 18:14:14
閑院流の祖である公季
461 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 18:37:37
公季はやり手なのか?
娘を一条天皇に入内させたが
後から入内した道長の娘彰子が立后するのを
なにもせずに見ていた感じ
顕光よりも存在感がないのだが?
太政大臣にまで上るが毒にもならない感じ
母親は醍醐天皇の内親王で生まれは高貴だけどね
確かに育ちの良いお坊ちゃま政治家って感じ。
463 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 19:53:12
キミ達。盲点を教えてあげよう。
最大級にスケールの大きいやり手の貴族は ズバリ
阿倍仲麻呂だ。
留学生として遣唐使船で入唐以来、770年に72歳で亡くなるまで五十年近く
大唐帝国に仕え 従二品大都督にまで栄達している。
しかも王維と李白はマブダチ。
柵封を受けている日本の天皇(大王)はかつて安東将軍都督レベルだった。
従って阿倍仲麻呂(唐名朝衡) 最強。
藤原忠通
465 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 23:42:46
>>463 他に日本人で海外で貴族に叙された人は
シャム王国の山田長政がいるね。
466 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 23:53:30
阿倍仲麻呂の子孫はどうなったんだろう?
467 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 00:06:47
>>459 北家は魚名失脚〜内麻呂台頭までは大した勢力ではなかったみたいだね
内麻呂は北家中興の祖として評価されるべき
>>466 藤原清河には中国人の現地妻との間に喜娘という娘がいたことから類推して
阿部仲麻呂にも中国人妻がいた可能性があるが、
日本側史料にも中国側史料にも仲麻呂の子孫の記載は全くなかったと記憶している。
ただ、『続日本紀』には阿部仲麻呂の死亡記事に際して
「親族は貧困にあえいでおり、仲麻呂の官位相当の葬儀を出せなかったので官庫から負担した」
という内容の記述があったと思う。
469 :
武陽隠士:2008/03/08(土) 01:05:51
>>465 山田長政は虚構の人物という説があるのは知ってるかな?
私もその説を肯定してるんだよね。
470 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 07:24:36
>>463 逆に日本で栄達した外国人貴族はだれがいるのだろう?
471 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 08:36:40
蘇我氏
王仁
473 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 14:44:22
平安初期まで貴族はエリートの条件をクリアーしていたと思う。
家柄血筋は補助的なもので文武両道を奨励し唐の科挙の制度に倣った登用試験など
鍛え上げられ難関を通過できた者が官人貴族として国政に携わった。
後世のような門閥貴族はまだ少数であった。
阿倍仲麻呂と一緒に遣唐使船で入唐した吉備真備は帰朝後橘諸兄に重用され
鑑真和尚の招聘にも尽力し その後順調に昇進を重ね恵美押勝の乱の平定にも
功を上げ勲二等に叙せられている。
吉備真備は地方大豪族の末裔とはいへ衛士少尉の子から右大臣にまで昇り詰めている。
文武両道に傑出していたやり手の官人貴族だと思う。
内麻呂はやり手というか、式家と南家が勝手に踊ってコケるのを傍観してた、待ちの人って感じがする
475 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 15:21:46
安倍晴明が阿倍仲麻呂の子孫だと一部で言われてるが眉唾か?
俺は精々、没落士族の末裔ってことろだな。
477 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 16:45:31
現在、政治家に国民の人気取りの為にスケープゴートとして
やり玉に挙げられている官僚は実は凄いと思う。
特権を持っていても不思議に思わない。
庶民はもっと彼等を敬うべきだ。
478 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 00:12:55
清河ってずっと参議にいるけど何で出世しなかったの?
誰かに疎まれてたとかあるの?
まずあの当時は兄弟に中納言以上が居ると中納言以上への昇進はかなり困難でした。
清河が参議就任した頃以前のでの兄弟で中納言以上と言うのは従兄弟である豊成・仲麻呂兄弟だけです。
それ以前は兄弟どころか藤原氏でも同時期に二人が中納言以上になることは有りませんでした。
その後に清河の兄である永手・真楯兄弟がなって居ますが、このようにかなり希な例です。
藤原氏以外だと中納言以上どころか、一門に参議が居るとそれだけ参議になるのはほぼ不可能でした。
そう言うわけで当時は参議のまま長年を過ごしても格別に不遇とは言えないわけです。
それはさておき清河の場合は遣唐使として唐に行ったまま帰ってこれなくなってしまったので、
朝廷に不在な者を昇進させることが出来なかったと言うことでしょう。
その後に位階だけは三位に上げていますがこれは特例的扱いでしょうね。
遣唐使に選ばれたこと自体は当時の実力者仲麻呂が清河の存在を邪魔に思った可能性はあります。
実際副使の吉備真備や大伴古麻呂あたりの人事を考えると怪しいですね。
481 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 10:06:23
藤原仲麻呂は欲の塊でつね。
しかし逆にこのメンバーだと清河は仲麻呂派とまでは行かないまでも反仲麻呂派ではないのでは?
と言う推測も可能。
全員反仲麻呂派だと連絡手段のない当時のこと、唐で勝手に交渉されて、
最悪唐兵が反仲麻呂派の手引きで日本に押し寄せるとか有り得ないわけでない。
そう考えると使節全員が反対派と言うのは危険すぎるな。
当時の若手高官は弟乙麻呂、清河の兄、永手・真楯(当時は八束)と橘奈良麻呂くらいだが、
奈良麻呂は完全な反対派、北家兄弟も仲麻呂とは良くなかったらしい。
乙麻呂は少し前に五位から従三位に特進したばかりで経験不足?
もう一人の弟の巨瀬麻呂や、婿で従兄弟御楯(清河の弟:当時千尋)はまだ中堅どころで大使には貫禄不足。
そうなると中立?の清河くらいしか人材が居なかったのかも?
483 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 11:58:54
当時の唐と日本の関係は今のアメリカと日本の関係と同じだからね。
484 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 12:20:14
藤原仲麻呂→田中角栄
橘諸兄→福田赳夫
藤原清河→安倍晋太郎
吉備真備→小泉純一郎
橘奈良麻呂→福田康夫
弓削道鏡→創価学会のあの人
唐朝皇帝→アメリカ合衆国大統領
485 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 13:00:53
>>484 小沢一郎が桓武天皇になれるかどうか。
<未来予測>
解散総選挙で民主政権が生まれるも陰謀内紛で瓦解(長岡京遷都の失敗)
その後政界再編で安定政権へ (平安京遷都)
PKOで自衛隊アフガン派遣から海外派兵を拡大 (蝦夷征討)
農家保護政策 (荘園の制限)
公共事業の拡大 ケインズ的経済政策 (平安京の造営整備)
486 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 13:09:30
487 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 18:25:20
age
488 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 01:25:41
話は変わるけど清河の弟の魚名はなんで失脚したんだ?
490 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 10:44:22
魚名は、氷上川継事件に連座して失脚。
種継の陰謀だろう。
491 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 14:48:02
あえての紀名虎でw
492 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 14:53:44
閑院流が発展したのはやはり能信のおかげだろ
閑院流のやつに実力などあるはずがない
493 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 15:03:36
能信が茂子入内のきっかけを作ったのは事実だが
結局は閑院家がはじめて院政をとった白河法皇の外戚だったこと
院政期、摂関家の力が弱まって政治の実権を握った白河法皇が
自らの姻戚を側近として重用したことだろう
白河法皇とその従兄弟藤原公実という同い年コンビが
以降の閑院家発展の基礎を築いた
494 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 15:32:18
吉備真備の構造改革に立ちはだかった抵抗勢力の頭目が
藤原良継・百川兄弟。
そして黒幕が藤原永手。
皇統の天武系の途絶、 天智系を復活させてしまった。
奈良朝はこの国を根本的に改革するモデル国家だったのに誠に残念。
495 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 15:41:57
鎌倉幕府の有力御家人安達泰盛は魚名流を称しているな。
496 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 15:49:05
氷上川継事件は陰謀の臭いがプンプンするが
エポックメイキングだね。
497 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 18:31:38
後世の有力武家で魚名流を称してる家が沢山あるな。
藤原秀郷の武名にあやかろうとしてかな。
奥州藤原氏は本当だろうけど蒲生氏など真偽のほどは?
>>492 禿胴
実成なんか大宰権帥の時、へまやって失脚してるからな
茂子が白河天皇生まなきゃ、受領層に転落して細々と存続、なんて事になってたかも
499 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 19:45:36
どうして吉備真備の子孫は公卿として残れなかったのか?
500 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 19:54:25
天武朝は実力主義が基本だね。
藤原氏も必ずしも門閥ではなかった。
光明皇后の仁徳に藤原一門は感謝しなきゃ。
>>499 真備の息子が政変で失脚した 以後ふるわず史料から消滅
502 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 20:37:53
>>500 その天武朝を滅亡させたのは光明皇后の娘の孝謙天皇。
道祖王の廃太子や橘奈良麻呂の乱それから藤原仲麻呂の乱
宇佐神託事件
藤原仲麻呂や弓削道鏡も血迷ったのだろう。
孝謙(称徳)女帝ほど日本中を振り回した天皇はいない。
本人も狷介な性格だったらしい。
不遇なこととどちらが原因か結果は不明だけど。
真備本人も多少狷介な所はあったようだから遺伝か?
それでも真備は叩き上げな分人当たりの良い面も有ったみたいだけど、
生まれついての貴族のおぼっちゃまはその辺が剥き出しだったのかも?
504 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 20:54:16
>>501 ありがとう
それと陰陽師の賀茂氏は吉備氏と同族らしいね。
それは偽装らしいですよ。堂上清原氏が天武皇胤とかと同様に。
506 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 21:36:11
>>505 そうですか
実は賀茂氏の流れらしい松平(徳川)家が吉備真備と結びつけば
兵法の祖と徳川家康で面白いかなと思ったんで・・・
しかし、陰陽師と徳川家で充分面白いのだが。
>>501 失脚した真備の息子って吉備泉のこと?
薬子の変でも参議は解任されてないし、失脚というのは言いすぎのような
左大弁は解任されてるから、平城天皇よりだったとは思うけど
508 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:02:46
藤原百川ほどの策士悪人はいないだろう。
509 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:10:57
連投スマソ
藤原百川が山部親王(桓武)を擁立しなければならなかった理由を知りたい。
510 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:14:55
本当のワルは白壁王と山部王の親子かもしれない。
藤原広嗣の乱での没落の淵から救われ中央政界に返り咲いた良継・百川兄弟は利用されただけ。
藤原仲麻呂の乱の白壁王の働き振りには謎がある。
それは清成と妻の山背の白髪部によるところが大きいと考えられる。
そして白壁王(光仁)の息子山部王(桓武)は清成の息子種継を重用した。
藤原式家の一瞬の再興は仲成・薬子で終わってしまう。
光仁・桓武にとって式家は踏み台に過ぎなかったのであろう。
結局策士が少なく軽挙妄動が少なかった北家が損害が小さく生き残ったと。
平安初期まではなるべく積極的には動かず、勝ち馬を早く見つけることが正解か?
>>510 オレは百川スキーなんだが、その見解は斬新でなかなか面白いな
だが桓武天皇が思い通り権力振るえたのは、百川・蔵下麻呂が早死に、種継が暗殺、
残った田麻呂が温厚な人、という偶然の影響も多分にあると思う
513 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 13:00:30
光仁が桓武ではなく早良をかわいがってたことについてはどうですか?
それと早良廃太子の事件で暗躍したのは誰?
514 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 13:28:29
光仁天皇は他戸親王を可愛がっていて、他戸親王を陥れた桓武天皇に皇統を譲りたくなかった。
種継暗殺事件で暗躍したのは、北家の小黒麻呂だろう。
515 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 14:25:16
藤原氏のお陰で即位できた光仁天皇に、次期天皇を決める権限はなかった。
もっとも、当初は藤原氏一族の長老である北家藤原永手によって、
聖武天皇皇女井上内親王を母とする他戸親王が皇太子にたてられた。
ところが771年、藤原永手が没。
永手の没後政権をとった式家の藤原良継・百川兄弟は卑母の山部親王立太子で一致、
次々と娘を山部親王の後宮に入れ、他戸親王と井上内親王を失脚させ、山部親王を立太子させた。
全盛期を築いた式家だが、777年に良継、779年に百川が次々と死去。
光仁天皇は自分より若い良継、百川兄弟が先に死ぬとは思っていなかったのだろう。
藤原氏の中心人物がいなくなったところで、老齢の光仁天皇は俄かに反撃に出る。
光仁天皇は父権を行使し、山部親王に生前譲位、
桓武天皇にはこのときすでに藤原良継の娘乙牟漏に産ませた
安殿親王(のちの平城天皇)がすでにあったにもかかわらず、
あえて出家していた桓武天皇の弟早良親王を還俗させて
渾身の思いで桓武天皇の皇太弟にねじこんだ。
安殿親王らの外戚藤原式家を胡散臭く思っていた証だろう。
516 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 15:14:52
平城って有能な天皇だったんか?
神経症を患ってるぐらいだから几帳面でやなやつだったと思う
>>516 あんまり有能とは言えないな
参議廃止して観察使ってポスト作ったり派手なことやってるが、神経症の裏返しとしか思えん
518 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 15:56:00
>>515 どうして良継・百川兄弟は山部親王に着目し立太子させたのかが問題の焦点である。
わざわざ卑母の山部親王なのかだ。
この時点で宮廷社会では井上内親王・他戸皇太子は不動視されていたんじゃないのか?
あなたの論説には時系列の飛躍があると思う。
519 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 16:02:03
>>518 良継、百川はいずれも光仁天皇即位後、山部親王に娘を差し出している。
他戸親王ではなく、なぜ山部親王なのか。
卑母の山部親王のほうが、舅として政権が取りやすいからだろう。
結局、桓武即位前に双方死んだが。
>>518 これは史料上何の裏づけもない推測だが、
他部には他の有力者(たとえば永手)の娘が妃になってたんじゃない?
それを嫌って、良継・百川は他部を陥れたのではないかと
521 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 16:19:27
>>519 なるほど
藤原一族の方程式を実行しようと目論んでいたからという訳か。
光仁即位以前に良継・百川は山部王と接触を持っていたか知りたい。
清成・種継父子は山部王と接触を持っていたようだ。
当然式家の兄弟達は情報を共有していて兄弟間のデフォルトとしてのコンセンサスを
密かに持っていたんじゃないか。
522 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 16:29:54
ポスト道鏡・永手・吉備真備のトロイカ体制か。
523 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 16:41:50
式家の兄弟達は白壁王・山部王父子をセットとして考えていた。
寧ろ父親の白壁王は皇位継承(新王朝創出)で好都合なきっかけの人
だったのかもしれない。
>>520 永手の娘は他戸親王の妃になっていない
他戸親王の妃はそれを除いてもまったく伝わっておらず
他戸親王は相当若くして不審死したとも考えられている
(水鏡・一代要記によれば15歳で没)
永手の娘で父親の光仁天皇に入内した妃はいるのだが
>>524 藤原曹司が光仁天皇の妃になったのは、光仁がずいぶん年をとってからだし
実は、曹司は他戸の妃だったんじゃないか、とも考えたんだが
曹司の母親は良継の娘みたいだから、これも可能性が低いんだよな
もしそうなら、良継は自分の孫娘の夫の失脚を図ったわけで
結局、史料等には出てない永手の娘がいて、それが他戸の妃だったんじゃないか、
という単なる憶測です、はい
526 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 18:01:56
>>522 ちがう
山部王(天智百済系)の新王朝創出の野望に式家の兄弟達は
素知らぬふりで乗ったのだろう。
>>525 藤原永手の娘が他戸親王の正妃であれば他戸親王の失脚は難しかっただろうね
この時代藤原一族は複雑な婚姻関係を結んで対立を防いでいた事実もある
式家は北家を敵に回してまで他戸親王を失脚させられなかっただろうし
他戸親王を藤原北家が庇った形跡もない
528 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 18:05:49
奈良から平安初期はなんだかあくの強い人は大臣になれない感じだな。
例外は仲麻呂と良継ぐらいかな。
530 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:55:24
逆に藤原継縄みたいな凡庸で人柄がいいだけの人物が首班になったりするからね。
なにか精力的な人は大臣になる前に死んじゃう例が多いな。
過労死?
532 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:29:43
平城京は大仏建立の際の水銀で汚染されていたそうだし
暗殺も多かっただろう。
内麻呂は若い頃目立たないんだけど、
よく見てみると同世代の中ではスピード出世の方。
で昇進が早くて、上級者が消えていったから自然に大臣になった言う感じ。
別に光仁に可愛がられたとか、桓武に信任されたとかって言う記録も残ってないし、
どうにもよくわからない人。
永手系が脱落した後は北家嫡流として遇されていたのだろうか?
坂上田村麻呂の娘を妻の一人に迎えたのは大きい加茂ね
桓武天皇の覚えめでたい田村麻呂の閨閥にはいることで出世の糸口をつかんだのかも
ただし、そのわりには内麻呂と田村麻呂の間に産まれた子供は出世しておらず、
どちらかといえば不遇。
535 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:08:39
北家嫡流なら鳥養系が残っているし、
純粋に内麻呂の能力が優れていたのだろう。
鳥養系は北家嫡流といえるかね?
たしかに房前の長男系ではあるが、鳥養の母親の身分は永手・八束兄弟の母親とくらべて低かったと思うが。
537 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:56:59
鳥養流が一時北家の中心たりえたのは小黒麿の頑張りだろうな。孫世代の常嗣氏宗までは持ち堪えたがその息子の世代で終わった感じ。
538 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 03:43:28
武人貴族が文屋綿麻呂以降 平清盛まで出て来ないのはなぜ?
藤原秀郷も源義家も武人貴族というには身分が低すぎ。
539 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 03:59:36
>>538 従三位参議太宰大弐小野好古卿がいるじゃないか。
だけど三位以上の武人貴族は平清盛まで二百年いないな。
540 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 04:08:22
坂上氏も文屋氏も小野氏も公卿層から転落しちゃったね。
541 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 04:24:01
正二位中納言藤原隆家卿がいるじゃないか。
542 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 04:43:37
>>541 藤原伊周・隆家兄弟と伊周の子道雅はチンピラだよ。
543 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 05:18:14
隆家は義勇の人で伊周・道雅父子はただのチンピラw
北家は第3第4世代あたりは鳥養系・真楯系・楓麻呂系で
他氏・他流に対する提携があったような気がするな。
良房あたりで権勢を確立して提携は破れるけど、
それ以前はまだ藤原氏他流にも逆転のチャンスはあったような。
京家だけはもう目がなかった感じだけどね。
氏宗は基経の妹淑子の夫だから、その縁で大臣まで出世できたんだろう
546 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 11:58:15
花山院の皇女の話は凄惨だな。
犯され 殺され 道端に遺棄され 野犬に喰われて・・・南無阿弥陀仏。
実行犯が検非違使庁の坊主とは・・・・
藤原道雅はチンピラ貴族認定第一位ww
通雅のせいで伊周系統も終わったな
>>547 >伊周系統
だが女系でみれば、今の天皇家まで血がつながってたりする
549 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 12:31:35
>>544 永手系はかなり不遇だよね。
良継の一人息子もそうだけど、何で出世できなかったんだろう。
>>549 伊予親王事件のとき、仲成の手先になった藤原宗成って永手の子孫だよね
ずいぶん落ちぶれ果てたなあ、という印象を受ける
永手の長男と思われる家依は30代で参議、40代で中納言だから、かなりの厚遇だと思う。
問題は中納言になった年に死んじゃったこと。もう10年生きてれば少しは違うんだけど。
けど弟や孫世代は不遇、と言うより孫は影薄すぎ、って言うか居たのかってくらい。
四兄弟の孫世代は子世代や曾孫世代に比べてちょっと地味かも。
種継と緒嗣くらいかな。
まあ一口に孫世代って言っても緒嗣の祖父であってもおかしくないようなのもいるけどね。
553 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 14:25:23
>547
当子内親王にへんなことするからいけないんだけどねw
まあ自業自得
最強の公家は土御門通親しか考えられんだろ
554 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 14:46:22
是公は、自分の孫の伊予親王を皇太子にしたいとは思わなかったのだろうか。
種継が死んだ時点でライバルはいないのに。
555 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 14:46:28
変なことして怒られたと言えば
源俊房も後三条天皇の姉を略奪して
後三条在位中出世できなかったらしいね
556 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 14:50:52
>>553 通雅の失脚は当子内親王との密通だけではないだろう。
花山法皇皇女の殺害容疑などで罷免されたりしている。
密通が原因で職を罷免された貴族はいないが、
犯罪を起こしたとなれば別。
>>554 藤原是公が生きていたころは、まだ桓武天皇皇后藤原乙牟漏が生存していた。
乙牟漏は藤原良継の娘で、この頃すでに父良継は没っしていたけれども、
桓武天皇の寵愛著しく、のちに乙牟漏が31歳で没したときには、
桓武天皇は皇后の病平癒祈願のために200人を出家させたほどだった。
是公といえども、桓武天皇寵妃の乙牟漏を皇后の座から追い、
乙牟漏が産んだ安殿親王(平城天皇)を廃太子にすることは難しかったと思う。
逆に、是公没の一年後、乙牟漏はなくなる。
桓武天皇の晩年、是公の娘吉子は桓武天皇の寵愛をもっぱらにし、
桓武天皇は狩りのついでと称して吉子や伊予親王の屋敷を訪問することが多くなる。
これがのちに平城天皇の伊予親王粛清に繋がるのだが、
是公は桓武天皇の晩年まで生きていればあるいは可能だったかもしれない。
558 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 16:35:06
当時の堂上の様相を見れば南家が最有力だったんだがなあ
あの時点で母親が健在でかつバックがしっかりしてたのにねw
七九五年の廟堂(十人中)・・・右大臣継縄、参議乙叡、雄友、真友。
なんで政権掌握できなかったのかいまだに不思議。
559 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 16:49:44
桓武天皇はもともと自分を擁立した藤原式家がお気に入りだった。
式家の有力者が没した後も百川の遺児緒嗣を登用したり、
やはり百川の遺児帯子を皇太子妃にしたりしている。
この時代、藤原氏は他氏と争うことはあっても
まだ藤原氏内部で露骨な対立はしていないよね。
嵯峨朝の冬嗣あたりから露骨になってくるんだけれども。
南家は協調して他流に対抗すると言うより南家内部の主導権争いの方に熱心だった感じがする。
元々人数的に人材に乏しい京家はともかく、北家や式家に比べて団結心が薄いようだ。
本来嫡流であったことから、南家のトップ=藤原氏嫡流と言う意識が強かったのだろうか?
仲麻呂は論外としても、抜きつ抜かれつの継縄・是公の従兄弟同士の出世競争。
継縄と異母弟縄麻呂を豊成家後継者争いのライバルだったようだし。
それを言い出したら北家も式家もばらばら。
一族が結束なんてしてないでしょ。
藤原氏、不比等・武智麻呂・豊成の継承までが嫡流で有ることは問題ないとしてその後が問題。
四男縄麻呂が母の関係でどうやら嫡子だったらしく、また次男継縄が事実上長子格だったらしい。
そこでこの二流のどちらかが嫡流を形成できれば、他流の出番はなかったはず。
しかしどちらも嫡流足りうることが出来ず、ここで嫡流が消滅したとしか言えないだろう。
その後丁度一番やばい時期を若年で乗り切った北家の内麻呂が大臣となり、
更に次男冬嗣も大臣となることでこの系統が一歩ぬきんでた。
しかしまだこの段階では他流の一部にも逆転のチャンスはあった。
良房は摂政となることで、他の貴族とは完全に一線を画し。
藤原基経が摂政、更に関白になることにより他家とは懸絶した嫡流が成立した。
これ以後は最低でも嫡流の孫として生まれないとほぼ駄目。
その範囲内での争いでなぜか結果的に常に弟の系統に嫡流が遷っていき道長に至る。
>>562 道長まで政権を取る方法は天皇との外戚関係によっていたから仕方がない
兄よりも娘に天皇を産ませた弟
嫡子よりも娘に天皇を産ませた庶子
そら嫡男ばかりが天皇の外戚になれるとは限りませんな
逆に平安末期、摂関家が固定されてからは
一時ほどの権力はありませんでしたな
鳥養は確かに嫡子ではなく庶長子だとは思うが、
年齢的に豊成と差して変わらないと思われ、弟達とは相当な差がある。
従って四兄弟没以降まで生存しておれば、早々に四位に引き上げられ、
北家の代表として豊成に次いで参議となったのでは無かろうか?
永手は叙爵から749年の四位昇進(四階特進)までの12年間の空白が謎。
その間に一つ違いの同母弟真楯が従四位下(744)参議(748)にまで昇進、
異母弟清河も748年従四位下に昇進しており、これはかなり特異。
永手はかなりの重病でこの間真楯が北家の惣領扱いだったのではないだろうか?
回復後は一挙に遅れを取り返し、以後は惣領として順調に昇進と言うことでは?
565 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 23:48:31
藤原小黒麻呂も早くに父を失っているが、一時的に北家の代表になっているし
結構なやり手だと思う。
566 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:56:35
氏宗もなかなか有能だったようだし
平安初期から政治体制を確立した有能な政治家達が
本当のやり手ではないだろうか
権謀に優れていて自分の家を盛り上げたからって
すばらしい政治家とはいえないと思う
567 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 08:27:29
藤原小黒麻呂は蝦夷と交戦した武功を認められての出世
この時代は藤原貴族も甲冑に身を包み
司令官として現地に赴き、戦闘に参加していたわけだ
568 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 09:38:40
>>562 その範囲内での争いでなぜか結果的に常に弟の系統に嫡流が遷っていき> 結局、次男三男と血統が下がることで権力が維持されると、天皇家もそうだが他家はまったく口だしが出来なくなる(長男、次男など上の血統も三男四男の権力維持の防波堤にもなる)。
一応嫡子(長子)相続の努力は為されて居るんだけど、
どういうわけかその嫡子達があまり長命でない。
多くはせいぜい50前で死亡してしまう。
さらに外戚関係の形成もなぜかうまくいかない。
結果弟、叔父、従兄弟、甥などに権勢が遷っていく。
厳密な意味では道長・頼通・師実の継承(間に教通を挟むが)まで
嫡流は形成されていないとも言える。
570 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 13:42:18
GJ。 五摂関家が分立さた鎌倉後期以降、五摂家が嫡流といわれ、北條・足利・徳川の幕府最高権力の家格ではそのミニチュア版が出来てから(例、御三家→紀州家→御三卿→一橋家)。将軍家は貴族(從五位以上)?
そーいや、実際の戦闘に参加・指揮した藤原氏って、どれくらいいるんだろうな
小黒麻呂以外には、仲麻呂の乱の良継・蔵下麻呂があまりにも有名だが
ホンモノのドンパチの経験のある貴族連中だと、権力争いも激烈になるなあ、という印象がある
572 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:15:57
藤原宇合なんかも蝦夷との戦いで武功を上げている
平安時代なら藤原忠文や藤原隆家が有名
573 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:31:45
倭の五王の上奏文を見れば 大王家自ら甲冑を身に纏って陣頭指揮している。
古代貴族・豪族の常識では?
時代は下って南北朝でも さらに戦国期にも戦闘に参加した公家・貴族は居た。
軟弱な「おじゃる」の公家のイメージは江戸幕府の禁中並公家諸法度で
武装が禁じられ(鉄砲の所持禁止)統制されて以降のものである。
574 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:38:52
武士という暴力の下請け業者が現れてからアウトソーシングしたのは賢い。
小野好古は名実ともに最後の武官だと思う。
575 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 16:09:23
武力を下請けにだしたことが
天皇や貴族たちが政権を武家に乗っ取られた理由なのだが・・・
だがそのおかげで、天皇や公家は生き延びることができた
一方、武力により権力を奪ったはずの武家の運命は、その後どうなったか?
鎌倉将軍三代、執権北条氏・・・
577 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 16:52:11
>>567 日本の天皇家が世界史上まれに見る長寿を誇るわけだね。
世界的に見ても、武力をほぼ完全放棄、
執政権を自分とは全く別の組織に引き渡して
これほど長い期間生き延びた国王は存在しないよね?
トンガの王家(大首長)は分家に政権を渡して神官王的存在となり以後数百年存続。
結局は分家の分家が再統一を果たして現王家になるようだけど。
あとは後期のカリフくらい?
王朝末期に傀儡になるのは珍しくないけど、世界史的に見ても長期間は珍しいとは思う。
>>578 権力を失うとあちこちに連れ去られているカリフに比べ、
日本の天皇家は不思議と権限はなくとも地位は落ちなかったな。
都である京に住み続けることができたし、
歴代執政者が縁組を申し出たり援助を申し出たりと悪くはない扱いだった。
580 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 18:04:48
後世の武家に 文屋綿麻呂の後裔を称する武家がいないのは
どうして?
征夷大将軍の前任者坂上田村麻呂の後裔を称する武家は田村氏ぐらい?
武官貴族は人気がないのかな。
581 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 18:15:00
無教養な武士は古代史がさっぱり分からなかったとさ。
お蔭で文屋氏は僭称されずに済んだ??
>>582 あんたひょっとして刀伊の入寇知らないの?
それから藤原忠文がどーして面白いの?
584 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:16:31
藤原忠文は承平天慶の乱を平定した英雄だろ。
別におかしい人物じゃない。
585 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:25:22
>>583 藤原隆家本人は文人で、甲冑を身にまとうことも戦場に行くこともなく、
隆家の指示を受けた在地武士や大宰府の武人たちが戦ったんだよね?
隆家は花山法皇を矢で射たぐらいだから貴族のお遊びとしての弓矢は習っていたかもしれないけれども
あくまで文官であって、実際の戦闘に参加した武官というのは違うよね。
586 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 21:03:12
刀伊の入寇の時 太政官符が間に合わないまま撃退したので
恩賞は大蔵種材が壱岐守に任ぜられたぐらいで藤原隆家には何も恩賞が無かった。
ただ久しぶりの対外戦闘(相手が非国家なので戦争とはいわないけど)の最高指揮官だったのは間違いない。
実際の戦闘に中央の指令は全くといって良いほど関与してないわけだし。
それを言ったら頼朝だって大して変わらない。
確かにやむなく甲冑は付けたが、自身の参加した戦闘は追いまくられての敗戦ばかり。
彼の本質は実際に戦場に出るところではない。
田舎の小競り合いならともかく、戦争といえる規模になったら最高指揮官が自ら白刃を振るう方が異常。
全軍潰走の大敗や起死回生の大ばくちは別だろうけど。
そう言えば北条高時も一度も戦場に出ていないな。最後に自害しただけか。
ひょっとして北条氏の方が平家より貴族化していた?
589 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 21:33:31
従二位権大納言北畠教具卿も仲間に入れてもらえますか?
590 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 22:27:54
成親だな
591 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 22:35:24
隆家が勇敢な人として描かれてるのは大鏡の作者の陰謀
武家の象徴としての存在である将軍
また日本の象徴である天皇は貴族的でなにもしなくても
なんら問題ないと思う。
大事なのは権威と権力のバランス。
権威となるべき人がいなければ権力を振るうことはできない。
権威を有するものと権力を有するものとがひとつになって
国はうごいているということですね。
592 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 22:53:19
最もこのスレに相応しき人物は、ダントツで大納言邦綱だな。次は伴大納言だろ。
594 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:27:13
>>575 第二次大戦敗戦まで武力に物を言わせる日本の風潮を創ってしまたW
595 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:35:22
>>588 北條家も平家一門と言われるが、建武の動乱(親政)で朝敵となり、近代以降の南朝正統論の中で汚名を着せ続けられ、歴史から忽然と消えた地方豪族に扱われてる
596 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:41:03
そもそも大織冠鎌足公が、赤穂浪士忠臣蔵顔負けの、草木も靡くと言われた蘇我家嫡流を堂上で誅刹なされたのだから、武門の誉れともいえる。
597 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 05:08:31
武士と武官貴族の大きな違いは自害に際して
作法として切腹するかしないかである。
598 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 07:43:31
伴善男って伴氏の人物じゃないって話しあるけどどうなの?
599 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 08:11:45
>>588 そうじゃないでしょ。
隆家が武官か文官かという話でしょ?
北条高時を例に出すほうがおかしい。
弓矢取りの家に生まれ、武をなりわいとしていた
北条高時は武官だし、藤原隆家は文官。
隆家が実際にどの程度の働きしたか、
史料をあげて説明できるの?
結局は大宰府の武人や在地武士が強かったというだけで、
隆家は撃退の許可を与えた程度でしょ。
実際に戦闘の指示を出し、一向を勝利に導いたのは菊池氏の先祖だっけ?
600 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:13:03
北条高時は従四位下修理太夫で官位はあまりにも低く朝廷に常勤出仕ではないので
このスレで比較対象として取り上げるのは不適当である。しかも公式には鎌倉将軍の家臣(御家人)
なので天皇から見れば陪臣なので武官とは言えない。
601 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:22:26
伊豆の北条氏は平氏の流れかもしれないが平家一門ではない
平家のさほど有力でもない家人だよ
602 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:25:29
>>595 伊豆の北条氏は平氏の流れかもしれないが平家一門ではない。
平家のさほど有力でもない家人だよ
603 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:33:21
>>599 横レスすまぬが 匿名の世界で他人様に横着な口を利いてはいけない。
貴方の論旨も誤謬が散見する。
×北条高時は武官→○北条高時は武士
×菊池氏の先祖→○大蔵種材(九州大蔵氏諸流の先祖)
604 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:46:13
このようなスレがあったとは知らなかったでおじゃる
607 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:22:35
大衆の言論システムとしての2ちゃんならば致し方ない。
608 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:56:19
足利義満に決定だろww
ともかくおまいら
>>1を読むように
>今回はおもに 飛 鳥 か ら 平 安 、 鎌 倉 時 代 に活躍したやり手の貴族について語りましょう
菊池氏が隆家子孫を詐称するってことは、やはり隆家の名声にあやかりたいって気持ちがあったんじゃないかな。
単なる貴種嗜好か、中央で貴族として続いていた隆家の子孫に縁を繋ぎたいって気持ちかもしれないけど。
あの頃の貴族はまだ完全には武力と切れてないよね。
道長も弓や馬術が上手かったとか言う話もある。
それが事実ではないにしても、少なくとも貴族の素養として望ましいと言う概念はあったんだろう。
611 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 09:52:17
>>603 いやいや、君が間違い。
菊池氏の先祖とされる藤原則隆は、
(菊池氏が隆家の子孫だというのは自称ね)
太宰府官として刀伊の入寇に参戦している。
>>610 坂上親子等が活躍した時代ではないし、武力とは離れてる。
馬には乗るが上手とは言わない。
613 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 11:18:19
>>611 泣きながら勉強したか(爆)
武功第一は誰がどう見ても大蔵種材だろw
614 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 11:22:14
>>613 大蔵種材って天草氏の先祖だよね?
脳なしクン。
615 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 11:53:57
>>614 たわけ
「大鏡」「小右記」を読め。
勝倉先生の論文(「大鏡」道隆伝における隆家の位相)でも触れている。
あと「小右記」寛仁三年六月二十九日の公卿定の項を読め。
史料も読めないのか??
616 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:02:17
>>615 あれあれ?
脳なし君。
大蔵種材が菊池氏の先祖だなんて、
「大鏡」「小右記」に出てくるの?
恩賞貰った武士が誰かなんて話、
誰もしてないんですけど。
617 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:15:44
>>616 すり替え捏造するな。
>>603 は
>>599 の「菊地氏の先祖」の誤りを指摘するレスだ。
「菊地氏の先祖」を「大蔵種材」に訂正を求めたレスだ 日本語分かる?
義務教育終えて書き込みなさい。
鞠智(くくち)氏の後裔って話も有るみたいだけど、
だとするとこれも婿入りなのかな?
619 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:24:29
620 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:31:22
>>617 日本語が読めてないのはおまえだろ。
「大鏡」「小右記」に大蔵種材が菊池氏の先祖だなどと書いてない。
お前は書いてあるというのだから、その箇所を抜き出せ。
できないなら小学校からやり直せ。
621 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:33:43
>>616 「菊地氏の先祖」の部分を否定し「大蔵種材」に訂正を求めているのに
否定したもの同士をくっ付けて「大蔵種材が菊池氏の先祖」と捏造する君は
頭大丈夫?
622 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:35:33
623 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:42:08
624 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 12:51:33
>>620 >>615 が「小右記」を参照しているのは武功第一の大蔵種材が刀伊撃退の功で
壱岐守を与えられた以外、恩賞を与えられた者が見られないことだろ。
625 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 13:03:55
>>620 「て」「に」「を」「は」も満足に使えないのか?
親切に指摘させてもらうと
「大鏡」「小右記」に大蔵種材が菊地氏の先祖だなどと書いてない。
↓
「大鏡」「小右記」には大蔵種材が菊地氏の先祖だなどと書かれていない。
まあ、日本語の用法を指摘してあげても内容が間違いだからな。
二人で仲良くケンカしてんなよw
そして2人は横着になった
628 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 00:11:17
戦国大名大内氏の本姓である多々良って朝鮮の王族系だけど
日本でどのくらい活躍したの?
ってか何で大内ほどの大名がそんなマイナーな姓名乗ってるの?
もしかして本物の多々良氏?
朝鮮王族って言うのは自称で多分怪しいらしい。
先祖と言われるなんとか太子は他の確実な資料には出てこないらしい。
平安末期に周防の在庁官人をやっていたのは間違いないようだ。
わざわざ渡来系だと嘘を付くとも思えないので、朝鮮系なのは多分事実だろう。
ただ仮に王族であったとしても、系図よりもっと傍系だと思われる。
なまじ表舞台(片田舎だが)に居たから出自をごまかしようがなかったのか、
はたまた信じている系譜に誇りがあって改めなかったかはわからない。
あと有力武将でマイナー氏姓って、朝倉(日下部)とか宇喜多(三宅)くらい?
630 :
武陽隠士:2008/03/16(日) 10:38:20
>>629 大内氏が渡来系を称しているのは、交易の方便さ。
多分嘘だろ。
631 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 12:42:41
始皇帝の子孫のちょうそかべはどうよ
秦氏は有名だからマイナーとは言い難いけど、
朝廷内部では有力氏族じゃあないな。
力はあったんだけど全然出世出来ない(あるいはしない)。
ちょっと不思議な存在。それとも数が多かっただけ?
633 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 13:42:59
藤原定家
必死の出世工作でやっと中納言に昇進
歌の功徳wだからね
卿二位の実力をなめんな!
駄菓子菓子 それは「やり手の貴族」とは言えないのではないか
と書いてみるテスト
635 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 14:14:59
636 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 17:33:15
藤原定家が後鳥羽上皇の歌の師で上皇の寵愛があったからだよ
もっとも歌の師とはいっても
わがままな後鳥羽上皇のお相手を申し上げるのは並大抵のことではない
定家はさまざまな後鳥羽上皇の行幸に連行されては歌会を強要され
日記にも悲鳴を書き綴っている
承久の乱後は疎遠なふりをしていたようだが
637 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:08:53
定家のようなのが貴族としては一般的な道かと・・・
だが歌のイメージとやってることが違いすぎて戸惑わんこともないが
638 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 12:01:54
坂上田村麻呂って武人としても貴族としてもなかなかのもんじゃないですか
639 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 18:49:26
NHK 「その時歴史は動いた」
今晩だね。
藤原道長・公任は良いとして、源頼信もまあ貴族、
さて小槻奉親とかは貴族ですか?
五位なら貴族でいいんでない?
通貴だから准貴族ってかんじなんじゃないかな
バロネットみたいな
643 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 17:38:10
>639
道長はなあ。
やり手って存在じゃないんだよな。
政権を維持できた運のいい人なだけで
それが一番難しいのかもしれないけど。
『道長と同世代(961生れ〜970生れの)の貴族達』
藤原道兼(961〜995、35歳。摂政兼家の四男)
従五位下(975、15歳)→従五位上(984、24歳)→正五位下(984、24歳)→従四位下(986、26歳)→参議(986、26歳)→
従三位権中納言(986、26歳)→正三位(986、26歳)→従二位(927、27歳)→権大納言(929、29歳)→正二位(989、29歳)→
内大臣(991、31歳)→右大臣(994、34歳)→関白(995、35歳)
大江景理(963〜1028、66歳。正四位下参議朝綱の孫、伊賀守通理(道理)の子)
右衛門尉→紀伊守(998以前、36歳、999同)→正五位下(1011以前、49歳)→蔵人(1011)→右中弁(1012)→従四位下
(1014以前、52歳)→摂津守・左馬頭(1028時点)
小槻奉親(963〜1018?、56歳?:算博士茂助の孫、従四位下忠臣の子)
出納(988以前、26歳)→正六位上右少史(990時点、28歳)→右大史(991、29歳)→外従五位下左大史(994、32歳)→
従五位下(1001以前、39歳)→播磨権介(1002以前)→従五位上(1003以前、41歳)→算博士(1005以前)→正五位下
(1006、44歳)→淡路守(1011以前)→出家(1011)
藤原惟憲(963〜1033、71歳。正三位権中納言為輔の孫、駿河守惟孝の子)
近江掾(985以前、23歳)→従五位下(985、23歳)→従五位上(?)→正五位下(1001以前、39歳)→従四位下(1007、45歳)→
従四位上(1011、49歳)→正四位下(1013、51歳)→従三位(1023、61歳)→正三位(1024、62歳)
藤原誠信(964〜1001、38歳。太政大臣為光の長男)
従五位下(974、11歳)→従五位上(977、14歳)→正五位下(981、18歳)→従四位下(984、21歳)→従四位上(985、22歳)→
正四位下(986、23歳)→参議(986、25歳)→従三位(997、34歳)
高階業遠(965〜1010、46歳。正四位下宮内卿良臣(〜980)の孫、従五位上敏忠の子)
従四位上丹波守・春宮権亮(1010時点)、正四位上・正四位下とも
藤原公任(966〜1041、76歳。関白太政大臣頼忠の長男)
正五位下(980、15歳)→従四位下(981、16歳)→従四位上(982、17歳)→正四位下(985、20歳)→参議(992、27歳)→
従三位(999、34歳)→中納言(1001、36歳)→正三位(1001、36歳)→従二位(1005、40歳)→権大納言(1009、44歳)
藤原道長(966〜1027、62歳。摂政兼家の五男)
従五位下(980、15歳)→従五位上(986、21歳)→正五位下(986、21歳)→従四位下(986、21歳)→従四位上(987、22歳)
→従三位(987、22歳)→権中納言(988、23歳)→正三位(990、25歳)→権大納言(991、26歳)→従二位(992、27歳)→
内覧(995、30歳)→右大臣(995、30歳)→正二位左大臣(996、31歳)→准摂政(1015、50歳)→摂政(1016、51歳)→
従一位(1017、52歳)→太政大臣(1017、52歳)
藤原斉信(967〜1035、69歳。太政大臣為光の次男)
従五位下(981、15歳)→従五位上(984、18歳)→正五位下(986、20歳)→従四位下(986、20歳)→従四位上(991、25歳)
→参議(996、30歳)→正四位下(999、33歳)→従三位(1000、34歳)→権中納言(1001、35歳)→正三位(1001、35歳)→
従二位(1004、38歳)→正二位(1008、42歳)→権大納言(1009、43歳)→大納言(1020、54歳)
源頼信(968〜?。正四位上?経基の孫、正四位下満仲の三男)
左兵衛尉(987、20歳)→上野介(999以前、32歳)→河内守(1046頃)→従四位上(1046以前、79歳:極位?)
源経房(969〜1023、55歳。左大臣高明の四男)
従五位下(984、16歳)→従五位上(987、19歳)→正五位下(993、25歳)→従四位下(995、27歳)→従四位上(1000、32歳)
→正四位下(1001、33歳)→参議(1005、37歳)→従三位(1007、39歳)→正三位(1012、44歳)→従二位(1013、45歳)→
権中納言(1015、47歳)→正二位(1018、50歳)
源道方(969〜1044、76歳:贈正一位左大臣重信の五男)
従五位下(986、18歳)→従五位上(993?、25歳)→正五位下(998、30歳)→従四位下(1000、32歳)→従四位上
(1000、32歳)→正四位下(1004、36歳)→参議(1012、44歳)→従三位(1013、45歳)→正三位(1013、45歳)→従二位
(1018、50歳)→権中納言(1020、52歳)→正二位(1029、61歳)
『独断と偏見による分類』
第一級貴族:摂関・太政大臣の子:なりゆきによっては摂関足り得た可能性はある。早死でなければ公卿はほぼ堅い。
藤原道兼・誠信・公任・道長・斉信
第二級貴族:大臣の子:兄弟の内一人くらいは大納言程度までは昇進可能。他の兄弟も公卿くらいは一応は期待出来る。
源経房・道方
第三級貴族:納言級の子:兄弟の内一人くらいは公卿昇進可能。他の兄弟は長寿でも四位程度。
上記には該当なし
中流貴族上層:公卿の子または孫:受領くらいは期待、運・長寿・才覚・コネ等に恵まれれば公卿到達も視野に。
藤原惟憲、大江景理
中流貴族下層:四位級の子または孫:受領くらいは期待、公卿は相当困難、なれても高齢で散三位が良いところ。
高階業遠・源頼信
下級貴族:五位実務官人の子:四位・受領あたりが望みうる最高位
小槻奉親(父は四位だが奉親の譲りであり本質的には五位級官人であろう)
家柄だけなら誠信も第一級なんだよな。
例の疫病で道長と伊周も死んじゃった場合、さすがに隆家では若すぎかつ経験不足。
摂関家が確立した頃ならともかくこの時期では摂関など望み得ないな。
天皇の従兄弟、正妃の弟に過ぎないし。
もう一人兄(三男?)が居たようだがこの人はこの時点どころか後にも公卿にもなってないし論外。
となると事実上兼家流壊滅状態。
地位と経験と家柄からトップ候補は顕光・公季・実資・公任・誠信くらいかな。
649 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 10:58:53
実資って本当にいやな爺さんだな。しかも90まで生きてw
政界の長老ですからねw
藤原公任は道長と同じ年。
関白の嫡男として育ち、円融天皇の御前で元服、
若いころの官位は道長をはるかに超えていた。
姉の導子が円融天皇の中宮にたてられたとき、
落選した道長の姉詮子をからかったというが、
うまくいっていればもともとは嫡流。
むしろ反則技で藤原義懐還俗、本人は乗り気じゃないだろうが、
誠実そうな人だから懇願されれば断り切れなかったりして。
待てよそう言えばまだ道綱も居たんだっけ。
道長20歳時点では公任はおろか誠信にも遠く及ばず、
それどころか斉信のより下、と言うか経房にすら負けている。
花山在位中に兼家が死んでしまえば一条天皇も即位できたかどうか?
そんな成り行きによっては公卿も怪しかったかも?
道隆はそれでも中納言程度にはなっただろうが多分史実と同じ頃に病死。
道兼は遅くともその後には公卿になっただろう。
歴史が変わると疫病に感染しない可能性はあり、
そうすると道長は庶子として受領・中将止まりかもしれない。
653 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 22:14:28
>藤原公任は道長と同じ年
武智麻呂・房前兄弟に始まって、豊成・仲麻呂兄弟、永手・真楯兄弟、
是公と継縄、真夏・冬嗣・緒嗣とか、
藤原氏の実力者には大抵ほぼ同年輩(2歳程度の差)のライバルがいるんだよな。
655 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 23:46:40
じゃあ継友が伊周ですかね。
656 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 00:20:50
それにしても長毒二年、あの年はひどかったな
ってか偶然にしても死にすぎだろ。
権力を維持するってのは「運」の一言に尽きるな
それだけ運がよければ、わが世とも思うだろうねえ…
その時歴史が動いた(道長編)
争いの無い平和な世の中を作りたい!→自ら長期政権を樹立するしかない!
→定子無視&彰子入内&娘を次々入内の流れも平和の為にはやむを得なかった
道長は一度も権力を得るために相手を追い落とすようなことはしたことが無いBYゲストの同志社女子大教授
なんかNHKっておかしな思想に犯されてるの?と疑うような内容だった
>>658 そんなの以前からでつよ
今頃気が付かれたんですか?
660 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:14:15
無能で知られた顕光はなんで左大臣にまで上がれたんだ?
実資や公任や道綱の方が相応しいだろうに。
661 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:21:15
道綱は無能どころか字もろくに書けないとか言われているし。
まあ実資の腹立ち紛れの言葉だから言い過ぎだろうけど、
少なくとも有能にほど遠いのは確か。
顕光の方が年長なこともあり早く公卿になり地位も上だった。
ほぼ同程度の家柄だとよほどの事情がないと超越はないらしい。
顕光は若い頃は蔵人頭を勤めているが、その頃は特に政務に支障を来したとか聞かない。
馬鹿にされてる頃は結構な年だから老人ボケじゃないだろうか?
663 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 20:15:16
令外の官か
664 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 21:52:58
当時の主な貴族(藤原氏の公卿:忠平子孫限定)
顕光(944生)
参議(975)→従三位権中納言(977)→正三位(977)→中納言(986)→従二位(986)
時光(948生)、参議(976)→従三位(989)
佐理(944生)、参議(978)→参議辞任(991)→非参議正三位(992)
公季(957生)、従三位(981)→正三位(985)→参議(993)→権中納言(986)
懐平(953生)、非参議従三位(986)
道長(966生)
従三位(987)→権中納言(988)→正三位(990)→権大納言(991)→従二位(992)
道綱(955生)、従三位(987)→正三位(990)→参議(991)
誠信(964生)、参議(986:当時正四位下)
実資(957生)、参議(989)→従三位(990)
伊周(974生)
参議(991)→従三位(991)→権中納言(991)→権大納言(992)→正三位(992)
→内大臣(994)→内覧(995)
公任(966生)、参議(992)
隆家(979生)、従三位(994)→権中納言(995)→中納言(995)
顕光は、五位蔵人や検非違使別当も経験、本当に無能だったのか?
と言うか佐理はまだしも時光はなんであの程度のなのか?
665 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:11:14
訂正
公季(957生)、従三位(981)→参議(983)→正三位(985)→権中納言(986)
666 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:19:36
全員が摂関の子か孫、あるいは太政大臣の子。
羽振りの良い悪いはあっても家柄そのものは大差ないのか?
そうすると当時の地位及び経験年数がものを言うってところか。
667 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 00:01:33
>662
では実資はさらに高齢でがんばっているが、
ボケとかがあったという記事はあるのですか?
>656
それと長徳二年じゃなくて元年だね
証拠はないですね単なる推測。と言うかあくまで疑問系です。
実資に関しては、個人差(笑)としか。
まあこの意見に固執するものではないです。
顕光は要領は悪いが馬鹿ではない。
関白藤原兼通の長男として生まれ、母は有明親王女昭子女王、
同母妹は円融天皇の中宮媓子、正室は村上天皇皇女盛子内親王と、血筋は申し分がない。
若いころは美男で知られ関白道隆とも親しかった弟朝光に官位を抜かれたが
朝光没後は相応の出世をしている。
ただ、中途半端に道長におもねったのが裏目に出た。
実資や隆家の爪の垢でも煎じてもらい、道長に対して毅然とした態度に出ていれば、
血筋もよく娘にも恵まれていただけに、道長最大のライバルにもなりえた存在。
午前中図書館で『平安人名辞典―長保二年―』を閲覧。
道隆の子や孫の記録はほとんど性格破綻者の集団の趣。
乱暴狼藉・職務怠慢どんとこい。
師輔系はだいたいはっちゃけた連中が多いけど特に酷い。
隆家はまあ若い頃以外はあまり悪く書かれてないようだけど。
やはり子孫が続いたかどうかも大きいんだろうな。
まあ出世の見込みもなくなってやけくそになっているのかもしれない。
671 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 15:32:37
顕光にせよ、道隆の子孫にせよ道長を持ち上げるために、
貶められているような気がする。
まあやっとこと自体は事実なんだろうから余り行儀の良い一族でないのは間違いないだろう。
ただ羽振りの良い家系は都合の悪いことは隠してもらえたりもするから、
相対的には貶められていることにはなるんだろうけど。
顕光が昇進できたのは、疫病で上がみな死んでしまった事が大きいのだろう
あと、道長がわざと昇進させた事もあると思われ
実資や公任みたいに有能なヤツがNo2なら、いつ寝首をかかれるかわからないからね
伊周失脚後の勢力図、左大臣藤原道長、右大臣藤原顕光、内大臣藤原公季と、
大臣3人はいずれも一条天皇の後宮に娘を入れた経験を持つライバル。
顕光は道長の従兄弟、公季は道長の叔父で、いずれも九条流(師輔の子孫)。
実資や公任などの小野宮流(師輔の兄実頼の子孫)は一条天皇の頃には
天皇との外戚関係が遠くなりすぎていまいちだった。
出世も九条流に比べて遅れたし、娘を天皇に入内させることもできなかった。
実資や公任に能力があったから道長が出世させなかったのではなく、
小野宮家は落ち目だったから一条朝において出世できなかっただけの話。
675 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 20:36:54
蘇我馬子と藤原氏に賞賛された入鹿様w
676 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 09:49:31
なぜかいきなりだが
院政が始まった原因は摂関家内部の対立から始まったのかもしれないな
やり手・・・それは時代を作った者
ということで藤原能信
677 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 07:30:15
貴族として最後の栄華を誇った西園寺公経
やり手というか運だけのような気がするがとりあえず
678 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 08:39:29
西園寺公経
@家運をかけて源頼朝の姪に妻問い
A承久の乱の勃発を真っ先に鎌倉にちくり、承久の乱後は幕府に重宝される
B娘を鎌倉幕府よりの九条家へ嫁がせ、摂関九条道家の舅としてやりたい放題
C道家を外祖父とする四条天皇が急死すると順徳皇子擁立に動いた娘婿道家をあっさり裏切り、
幕府が擁立した後嵯峨天皇にさっさと元服の衣装を献上してごますり、
孫娘を後嵯峨天皇に入内させて中宮に立てる
公経はやり手だろう。
道長みたいに兄貴がたまたま死んだから内覧みたいなものではない。
679 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:01:45
>676
能信は娘を天皇に入内させて摂関になりたかっただけ
院政など志してはいなかった
結果的に道長の息子たちが入内させた娘は男子を産めなかった
産んだのは能信の養女のみ
摂関が弱体して院が台頭するのは本来能信が嫌っていたことw
680 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 12:59:15
藤原か平氏かどうか知らんが清衡さん
正六位上、陸奥押領使だから貴族じゃないけどな
681 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 21:24:14
平安中期 官位保有者(大初位とか少初位以上)は全人口の何パーセントだった
のですか?
その質問の答えは知らないのですが、一条朝くらいになるともう初位の人は居ないみたいです。
従八位上とかはたまにあり、あとは六位以下ではほとんどが正六位上と従七位上だけみたいです。
どうも史生・府生→従七位上→掾・目(源平藤等は掾、他は目)→正六位上→
允・佑・属・令史(源平藤等は允・佑、他は属・令史)と言う昇進コースだったようです。
源平藤(あと菅原?)は主典に任命しないと言う慣習があったらしいです。
黒坂伸夫氏の著作や平安人名辞典を見たところではこんな感じです。
どちらにしても蔭位制度の崩壊で有位者の数は激減しているようです。
蔭位制度の崩壊後下級官人がどういう形で位を得たのか気になっているのですが、
地下官人について研究されている中原俊章氏も現行の著書を見る限りではその辺にはご関心がないようで、
研究論文になど接する機会がない一般人としてはもどかしい限りです。
あー知りたい。
頼通の前後の世代(981〜1010)あたりだと、
文章生→正六位上→六位蔵人(壮年)→五位:大江・菅原・高階・平・藤原傍流等
六位蔵人(若年)→五位:藤原やや傍流、源やや傍流、公卿の孫くらい
五位直叙:概ね中納言級以上の子
と言う感じか公卿補任を見る限りでは
685 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 11:21:52
俺の
>>485 のレスが予言的中しそうな政局情勢だな。
ミンス儲と篤姫ヲタの場所をわきまえないマナーの悪さは双璧 ウゼー
688 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 15:27:43
藤原実資
90歳まで現役で活躍したのは凄い。
689 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:12:28
落ち目の小野宮流にあって、天皇と外戚関係になく、
道長全盛期にあって明確な反道長の立場でありながら、
右大臣にまで上ったのはやり手だと思う>実資。
長らく実子がなく、晩年に儲けた実娘千古を溺愛して
屋敷や財産のほとんどをこの娘に相続させたのは有名。
690 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 17:59:43
実資は道長とは仲が悪いが、頼通とはそれなりに仲良くやっている。
貴族最下層の人達
内蔵文利、998年藤原氏を詐称して氏爵で従五位下昇進するも速攻でばれて位階剥奪。
3日じゃないけど3日貴族。
内蔵有孝、1011年春宮坊主殿首の時、東宮御所の属を捕まえようとして逆襲で切られる。
1016年修理進で皇太后侍の時、少将命婦(人妻)に乱暴して逮捕。
罰としてか馬肉を食べさせられる、皇太后の仰せで釈放。
とみそ付けまくった人生だったが、ついに汚名返上の機会が訪れる。
1019年佐渡守の時、禁中に抜刀で侵入した法師を捕らえる。
8年前の苦い経験が生かされたようだ。
この功績で五位昇進、貴族の末席にたどり着く。
肩書きは文官っぽいけど武士みたいな人だな。
頼通が爺転がしの名人?
実資が孫ほどの年齢の若い男が好きな人だった?
両方?
実は両寮思い?
10世紀末から11世紀初頭の状況だと、
四等官及び品官は全員位階を持っていると推定される。
初任の場合は従七位上もあるが、ほとんどは正六位上か五位以上。
史生・府生の類は正六位上か従七位上の位階を持っている例もあるが、
有位か無位かが不明な場合も多く、有位者が原則かどうかよくわからない。
また有位者が史生等に登用されるのか、史生等を勤めた功績での叙位かが不明?
それ以下の階層だと、官掌で従七位上の例があるが、
これも有位が原則か永年勤続による叙位か不明。
平の近衛・兵衛で従七位下という例もあるが、随身ゆえの例外か?
番長・看督長・府掌・案主・使部等の下級職員の位の有無もよくわからない。
六位以下の散位というのも余り見られない。
まあ位階自体の価値が落ちて肩書きとしての意味もなくなってきたため、
有位者であってもことさらに主張しなくなったのかもしれない。
とにかく初位は10世紀前半でほぼ消滅、六位以下の外位もほぼ消滅。
位階の数はかなり減っており、授与対象者も減少しているのだろう。
694 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 18:58:38
>>692 「小右記」によれば、実資は頼通と同衾する夢を見たらしい。
ここからホモチックな感情があったのではないかと推測する人もいるらしい。
(実資も頼通も、勿論女の人も好きだったけどね)。
頼通からすれば祖父と孫ほどに年の離れた実資は政界の長老で、
張り合う相手ではなく、故事を尋ねるなど丁寧に遇していた。
道長の強引さには抵抗を続けた実資も、
孫のような年齢の若者に丁重にしきたりを尋ねられれば、悪い気はしない。
695 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 21:18:55
どう考えても不比等
五位以上が貴族って言うのはいつ頃まで通用するんだろう?
江戸時代の地下官人なんか五位どころか四位でも貴族?なんてのがごろごろしてるし?
位階の価値が軽くなりすぎ。
江戸時代の六位官人てのは、実はその辺の八百屋さんとからしいね
朝廷でなにかの儀式がある時の、臨時雇いのバイトみたいな感じ
>>697 八百屋とはいっても当時は町方なんかもやる小事業主もいたわけだが、
嘱託用の官位というのは確かかも。
地下の中でも、三催(外記方・官方等の部門のトップ)は別格として、
六位以上は並官人、七位と無位は下官人といって区別があったようだ。
下官人は下駄屋や蕎麦屋の場合もあるが、並官人は一応表向きは専業、商売は禁止。
ただし官人の給与では当然食えないので堂上の家臣とか、
口向勤め(宮廷の家政職員)とかで生活。
本業は神職というのも多い。
陰陽道関係者って結構主税・主計二寮の官職に就いてるけど、
もしかして陰陽道には数学は必須だったってことなのですか?
701 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 04:04:21
ここで空気読まずに蘇我馬子。
推古とともに聖徳太子を操って三十余年政界を牛耳った大物中の大物。
臣下でこれほどの権勢をふるったのはおどろく。
貴族といえるのかしらん
聖徳太子は蘇我馬子の第二の人格です
井沢センセがゆってました
704 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 13:17:28
え?
聖徳太子って蘇我入鹿じゃないの???
705 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 16:46:01
蘇我馬子と推古天皇の共同統治があって、その下に聖徳太子がいた。
と理解してよかったのですね。
そこで太子が言うことをきかなくなかったのですね。
冠位十二階は推古天皇がつくった、だが十七条憲法は太子によってつくられたんだよね
706 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 16:55:47
冠位十二階は「隋書」にも書かれてあり
たしかに推古朝の日本にあったことが確認できるが、
「十七条の憲法」は確認できなかったはず。
文章の用例や思想に矛盾点が多く、
この時代のものではないとする学者も多い。
707 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 19:17:06
蘇我稲目、馬子父子が古代最大のやり手であったことは否定しないが
あえて武内宿禰
神功皇后とともに活躍した古代随一の名臣
708 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 20:29:32
武内宿禰
謎が多いな。
第12代景行天皇から神功皇后を経て15代仁徳天皇まで仕えたって
いくらなんでも長生きしすぎだろ。
仁徳天皇のころに実在した可能性があるとは考えられるが、
神功皇后って・・・
709 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 12:53:45
蘇我氏の出自は難しいね
チョソか葛城氏か土豪かと説が分かれてるからね
710 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 00:10:13
原点に戻って源通親
このスレ全部読んだがなぜ彼の話題で盛り上がらないんだ?
ここで日本のマキャベリスト、源通親で盛り上がろうぜ!!!
711 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 16:45:27
源通親の力の源は、後鳥羽天皇の乳母藤原範子を、
範子の夫(二位の尼平時子の異父弟能円)が平家の都落ちに従ったあと
寝とって妻にした女縁によるもの。
これにより通親は後鳥羽天皇の乳父としての地位を絶対的なものにし、
さらに後鳥羽天皇の後宮に範子の連れ子であった在子を養女として入れ、
在子の生んだ土御門天皇を帝位につけ、政治の中枢に躍り出た。
さらに範子の没後は後鳥羽上皇妃であった養女の在子と密通し、
さすがに後鳥羽上皇位は不貞を働いた在子を遠ざけられたというおまけつき。
>>711 最後に在子と密通したのは詰めが甘かったかもね。
さすがの彼も色欲には勝てなかったのか、
過酷な政争に勝利して気が緩んでしてしまったのか。
713 :
日本@名無史さん:2008/04/16(水) 00:24:54
院と天皇と後宮、この3つをおさえたことで権力基盤が固まった。
やっぱ目の付け所が違うな。
さすがはやり手。
範子は子供を生み続けてたから政治的には役に立たなかった。
その代わりに妹の兼子ががんばったな。乳母は大切にしなきゃいかんな。
714 :
日本@名無史さん:2008/04/17(木) 16:11:15
やり手って言われてる人の条件とかなんかあるのか?
このスレ見ていると
・現代人から見ると非道といえる人間性
・当時の人間から見てもどうしようもない下半身のだらしなさ
この2つは必須条件のように見えるw
716 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 18:44:19
下半身のだらしなさwww
717 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 20:13:11
>>708 宿禰はカバネだろ
武内宿禰が300年生きたってのは
徳川将軍が300年生きたと言うようなもの
718 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:41:49
武内宿禰は一人じゃないと
武内宿禰の頃は宿禰というカバネはないよ。
その頃の偉大な人物に対する敬称とみたほうがよいのではないか。
ただ、野見宿禰、武内宿禰、玉田宿禰、葦田宿禰など野見以外は葛城氏関係に多いのも気になります。
ひょっとすると大王という意味もあったのか?
720 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 02:56:33
昔の人の名前;馬子とか蝦夷、入鹿って動物的で躍動感あふれて
生命力がありそうですね
721 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 03:05:35
姓知らないなんてバカね。
宿禰がカバネに入るのは壬申の乱以降に天武天皇により八色の姓が制定されて以降。
それまでは公、臣、連、造、直、首、国造、県主、稲置、王など。
723 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 16:53:57
ここらでやり手貴族を整理しようじゃないか
蘇我馬子、藤原鎌足、不比等、良房、基経、忠平、兼家、季綱など
源師房、通親。西園寺公経、日野勝光etc
そして後奈良天皇の御落胤、太閤殿下豊臣朝臣秀吉さまw
このなかで秀吉が一番でしょ。
やり手の二つの条件もクリアーしてますしね。
725 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 19:59:32
宗尊親王の周辺で活躍した貴族って誰かいる?
726 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 12:02:14
727 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 19:25:43
>>713 範子はもともと性格がおとなしく、やり手の乳母ではなかったらしいけどね。
後鳥羽天皇を操り権力を握った妹の兼子とは全然違う性格だったらしい。
728 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/24(木) 23:01:40
>>723 +藤原通憲。
意外に知られていないけど、平安時代長らく公式には停止していた死刑を復活させたのも彼です。
729 :
日本@名無史さん:2008/04/27(日) 07:00:42
藤原経宗。要領のいいところは、三国志の賈詡のようなイメージ。
730 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 01:17:08
死刑復活確かにすごいことだ
だが、そんなことしても朝廷の権威はなんら変わりないと思うんだが
731 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/16(金) 00:27:53
>>730 武士(武家ないし軍事貴族etc.)の台頭を促した。
732 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/16(金) 00:41:08
(付け足し)台頭はしてたが、よりいっそう
733 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 20:19:32
つまり信西は武士の世界を作るお手伝いをしただけで
貴族としてはまあまあといったところかな
それにしても信西も運がないな
あんな死に方はかわいそうw
734 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 20:26:14
>>732 またお前か。
至る所で信西入道の死刑復活を書き散らしてるだろ。
735 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 20:31:55
>>731 何故「武士(武家ないし軍事貴族etc.)の台頭をよりいっそう促した」のか
200字以内で簡潔に記述せよ。
736 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/16(金) 22:57:58
737 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:08:28
>>736 また落第だぞ。
いったい何歳まで研究助手をやれば気が済むんだ。
今度、学部長に非常勤講師で推薦しようと思ってるのに・・・
738 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/16(金) 23:25:39
>>737 落第も何も中世史に詳しい奴なら常識だよ。
バカを啓蒙するのは面倒くさい。
ま、気晴らしに教えてやる時もあんだが
オマエの態度がムカつくんで止めた。
もう一つ言っとくと
私は日本史板に書き込みするときは知見を小出しにしてる。
これだと後追いレスされにくいんでさ、ふふ。
まあせいぜいアガケ。
バーカw
739 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:30:32
>>738 マヌケなダボハゼが釣れまちた。
身に覚えがあったようだな♪
740 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/16(金) 23:41:27
武陽隠士と武陽陰士って別人なの?
何だか知らんが相手との論争を一方的に放棄しながら、
妙に威張りくさって非論理な悪口を書き込む癖があるらしいのはいただけないな。
研究者の風上にも置けん。(研究者じゃないのかも知れないが)
743 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 18:32:10
久しぶりに公卿補任みてたけどやっぱ頼通すげーな
堂上にあがり首班となってずーーーーーーーーーーーと
居座り続けてるな
政界のサラブレッドだし、すごいやり手ではないが
偽武陽がいるからage
だからーー、武陽隠士と武陽陰士って別人なの?
745 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/17(土) 21:10:21
前は武陽陰士だったが今は武陽隠士にしただけで同一人だ。
改名の理由は単なる気まぐれだが、
強いて言えば武陽隠士でググった場合にヒットするようにしたのと
相方が書かなくなったので
(前は二人で書いてた。男女二人組の意味を陰陽に掛けていた)
隠にしたという理由もある。
まあ今一つの理由はトリップキー解読されちゃって前の名前にケチがついたから
ってのも理由だな。
本物かどうかの判断は『世事見聞録』に通暁してることだな。
私はこの著者のペンネームを借りてるんだよね。
>>745 ご本人の登場で自らご説明ありがとう。
>男女二人組の意味を陰陽に掛けていた
なるほどー。
っていうことは、「陰」の字をのぞいた現在の武陽さんは男性、ということで
よろしいんでしょうか。
イメージとして、男性なのか女性なのか気になるので。
確かに、以前は書き込み読んで女性っぽかったり男性っぽかったり謎でしたww
747 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 23:35:27
それじゃ理屈に合わんよね。
武用陰士とか舞踊陰士とかにすべきだ
749 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/18(日) 00:04:16
うるさいなー
どう表記しようが私の勝手だろうが。
それより武陽隠士の『世事見聞録』でも読め
750 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 18:31:08
あんたが嫌われるのはそういうところだ
>>745 だったら「不用陰子」にすればよかったのに・・・
>>734 種本が『逆説』だったら大笑いだよなwww
たのむからかまわないでスルーしてくれ
これ以上アホに荒らされたくないんだよ
アホって武陽のことだろ
756 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/18(日) 23:04:14
>>735 バーカ
井沢は『逆説なんたら』で大真面目に「後白河が死刑復活させた」って書いてるよ。
私はおまえらみたいにネットと井沢か司馬くらいしか読まないバカに
中世史レクチャーしてるのさ。
有り難く思えw
まあ、藤原朝成が検非違使長官だった時に100人の盗賊の首を切っただとか、犯罪人は多田館に連行されて、そこで処刑されてたなんて話もあるんで、死刑廃止と言っても実際は形式だけの話。
しかし、例えるなら、現実から乖離している憲法第九条の規定を、実体に即して改正したみたいなものだから、そう考えると信西の功はでかい。
死刑廃止なんて実際に確実に運営されていたのは五位以上だけ
検非違使の庁例は既に律令法の原則なんて無視しているから、ある意味において昭和初期の関東軍に近いよ。
760 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 17:28:26
確かに。
奈良時代の刑罰だって 流 以外はみんな死刑みたいなもんだしな
板違いになるが関東軍は実際にひどかったらしいな
中国人に穴を掘らせて日本刀で切り殺して穴の中に入れていったらしいからな
(ソースは私の祖父)
死刑を復活した信西が、後に斬首されるというのも運命の皮肉。
しかし武士でない信西が斬首というのは、どのようなすごい理由が
つけられたのか?元木康雄氏は『保元・平治の乱を読みなおす』で
「二条天皇、美福門院の暗殺を企てた」という嫌疑をかけられたと
推測されてますね。
あれって正式な処刑だったの?
ただの私刑だと思ってた。
それよか芙蓉さん
>>731の説明まだぁ?
こんな珍説聞ける機会は滅多にないので、後学のために、是非そのご高説を賜りたいんだがなw
うぜえ
765 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:38:53
まあ、あれだ……
信西が武士の台頭を促したと言えるのであれば、大東亜戦争の戦争指導者は日本における民主主義の発展を促進した大功労者とも言える……
>>728 だいたい、『平家物語』にも出てくるような基本的な事柄を、
>意外に知られていないけど
ってあんた、どういうレベルだよwww
それに、ここでも反証が出てるように、その『平家物語』の記述には、疑義がある。
767 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 00:28:20
>>763 そういう突っ込みが来るのが分かってたから
だから
>>732をすぐに連投した。
タイムラグはほとんどない。
君の反論は空回り。
ていうか私の留保レスわざと無視して卑怯だよ。
きわめて部分的な事柄を私は言ってる。
768 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 00:30:27
連投になるが…
なんかこのスレすごくムカついた。
今までワザと見逃していたバカレスも
これからは目についたら
なるべく小馬鹿にして潰すよ。
しばらく君たちを啓蒙するから
常駐だなw
武陽女史っておいくつなの。仕事何してるの。軽く教えてくれ。
ああ、自分も何者か軽く言わないとね。
34歳、女、明大史学卒。ずっと銀行勤務。歴史は今はもう趣味程度のレベルです。
「扶養隠子」晒しage
常駐しても何でも構わないけど、
議論をする際に人の質問には答えること。
自分に都合が悪くなっても話をそらしたり、無視したりはしないこと。
それだけは守ってくれな。人としての、最低限のマナーとして。
773 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 01:37:11
774 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 14:18:38
武陽女史に承る
初歩的なことですが信西はどうして即位の見込みがなかった
雅仁に目をつけたんですか?
自由にあやつれるから、とかそんなくだらない答え以外でお願いします
自演死ね
776 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:37:27
武陽女史29歳美人
自称が34歳ってことは多分40代だな。
若い男ならああいう態度はろくでなしとしか言いようがないけど、
小母さんなら仕方がないな。
778 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 22:17:55
>>777 34歳なんて自称した覚えはない。
勝手に決めつけるな。
もっと下だ。
マジでウザいぞオヤジ。
779 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:32:02
おまえのシートなんてどうでもいい。
やり手貴族について語れよ おまいら。
780 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 22:36:12
>>772 くだらないおバカ質問にいちいち答えてられっかよ。
都合が悪いもなにもないもんだぜぇ。
時々しつこく議論してやりゃあ粘着呼ばわりされるしよー。
マジうぜぇー。
だいたい国史大辞典見りゃすんじゃうレベルのタワゴトご大層に論じたりしてバカじゃねーのか?
あとさググったデータ得々レスしたりしてアホじゃんか。
ちゃんと勉強しろや!
>>768 どうでもいいけどさ、
自分からバカさらしといて「ムカついた」はないんじゃね?
782 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 22:41:19
>>781 なんもバカさらしてないよ。
でっちあげすんなよ
論破されて悔しいのは分かるがw
>>780 ほほう、国史大辞典には「信西入道は武士の台頭を促した」とでも書いてあるのか?w
もともと腐様淫子のレスは駄レスばかりだが、解釈や考察といったことになるとなおのことダメダメだなw
学者や書物の名前より、そっちの方が余程大事なんだぞw
784 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 22:47:22
785 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 22:52:27
私のレス
>>731 >>732は保元以前過去の流れを留保した。
これのどこがトンデモなのか…。
古い研究なんかじゃ散々いわれてきた話だろーが。
バカばっかだな。
786 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 22:54:50
慈円も保元の乱から「武者の世」となったと言ってる。
「保元・平治の乱が……」ならねw
貴女の言ったのはそうじゃないでしょ!
落ち着いてよ〜く読み返してごらん(笑)
証拠はバッチリ残っちゃってからさwww
788 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:04:39
789 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 23:05:21
余程粗雑なオツムをしてるらしい・・・
ということで、武陽隠士晒しageage
790 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:15:18
言葉尻とか短い文章ゆえの言い足りなさとかを
つっこみされて
困るんだよね
ところで死刑制度が形式的に復活すると
武断的な行動が京洛で取りやすくなるんだよ。
地方なんかの争乱じゃなく
京での政変で政敵の処断が容易になる。
政変時に武士のスピード的な行動が(政敵を死刑)取りやすくなるわけだ。
武士の台頭は保元以前からあるし、保元の乱そのものが台頭の主因だが
信西の死刑復活は如上の私の論にあるように
武士の活躍をより拡大させたのさ。
このスレの住人はバカだから分からないかも知れないが
過去の例と形式を貴族は大切にする。
死刑の先例を作ってしまった信西は
武士のよりいっそうの政変時における活躍を結果として許したわけさ。
てなかんじ
まあ今まで書かなかったのは面倒くさかったからだ。
791 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:23:07
上の私の書き込み内で訂正あり。
【誤】保元の乱そのものが主因
→【正】保元の乱そのものもきっかけの一つ
792 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:27:44
どうでもいいが
先行諸研究読んでよ。
井沢なんかゴミだし
ネットのデータとか司馬遼太郎とかですんじゃう
のは単なるバカなんだよ
私に絡んできた奴らはマジ日本史どころか学問の才能ないよ
とにかく信西に関する私の見解は特別間違ってはいない
つっこみしてきた奴はあまり中世史知らない奴なんだろーな
>>790 やっとまともな文章が書けたなw
それなら、俺の知り合いの経営する学習塾のバイト講師に推薦してやってもいいぞw
ただし、それは信西が有能であることの証明には全くなってないので、やっぱり落第だなwww
>>790 長文乙ですw
大真面目に参考書に書いてあるようなありきたりの見解をまあ……ご苦労様ですw
795 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:39:08
>>793 バカだなw
有能なのは政治を動かしてた(武士どもも従えていたな)
という事実さ
この国がある一時期、信西の手で実質治められていたという事実ね。
どうでもいいがもう少し勉強しろよ
マジで初学者レベルだよおまえ
信西の基本前提いちいち書かせるなよ
さんざん昔から語られてきた逸話とかをいちいち書かなくちゃいけないほどの不勉強な
クズなら謙虚になれ
でないと潰すぜ
まあバカの煽りという奴なんだろうがw
796 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:43:27
>>790 ああ恥さらしため〜w
参考書になんか載ってないよーo(^▽^)o
死刑復活の意義なんか、こんな詳しくやらないよ。
おまえ日本史の偏差値低かったろうw
市販の中世史の本にも意外にこのあたりは論じられてないよ。
だから私のレスはかなり貴重だ。
797 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:47:08
またしても私の勝ちだw
あとは煽りを無視するだけ
ま、ロムってる方々、という訳で私の勝ちです
これからはバカたちがイロイロ茶々入れてきても無視しますが、
上のレスを順繰りに読んで
ちゃんと武陽が勝者であることを
ジャッジしてくださることをお願いします。
>>795 ほほう、それじゃあ信西は武士の世の中を作るために死刑を復活したとでも?www
799 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/20(火) 23:56:08
てな感じで
くだらないレスは見つけ次第(いや気まぐれかな)
学問的な視点から小馬鹿にして潰しにかかります。
そういう訳で常駐しますんで
これからもよろしくw
ここは学問板なんで私のようにカチっとした学問を前提とした
レスは荒らしにはならない。
念のため。
しかし私に反駁してきた奴ら
恥ずかしい〜w
負け〜
今までの反論はなんだったんだろうなw
はあか
うひゃうひゃ
だからさ、年齢と職業を。
>>795 > この国がある一時期、信西の手で実質治められていたという事実ね。
これが信西が有能である証拠ですか?
信西が有能だというエピソードは色々ありますが、政治家としてはどうですかね?
権力を握った人間はそれだけで有能といえますか?
舞踊さんって無職なんですか?
【不用日本史まとめ】
信西入道は死刑を復活する事で、武士の台頭を促した大変有能な人物です。
805 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/21(水) 00:15:14
>>804 死刑復活したから有能だなんて一言もいってないぜ
死刑復活の結果も信西の予想だにしなかった事態を引きおこしたしな
ま、こいつの茶々も煽りなんだろうが
806 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/21(水) 00:25:48
【ロムってるギャラリーの方々へ再度おことわり】
今回の論争は完全に私の勝ちです。
負けたことが悔しい住人がしつこく茶々を入れてきますが
スレ内の私とバカ名無しとのやりとりレスを順を追って下さい。
さすれば私が論争の勝者であることが
明白です。
私のレスは学問的にはカチっとした大変手堅いものです。
少なくとも2ちゃんやウィキとかよりは読む価値ありです。
今後ともよろしくお願いします。
807 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:50:48
>>806 > 少なくとも2ちゃんやウィキとかよりは
すまん、前読まずにレスしますが
このスレは2ちゃんのスレだし、あなたは誰が見ても立派な2ちゃんねらーですよ?
あなたの言うことは論理的に矛盾しています。
↑これを「挙げ足を取っている」と思うならば、それは違います。
あなたはそういう根本的なところで独善的だから、みんなに嫌われるんですよ。
>>796 そんなこと貴女の嫌いなウィキにさえ載ってるよwww
ググれよ、カス!
否、ググってんじゃねえ、かな!(笑)
809 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/21(水) 00:59:30
私に勝ちたかったら
ヒマな博覧強記の院生でも連れてこい(ま、友達いないお前らじゃ無理だなw)
それか山野を私にぶつけろ。
山野だったしつこく潰し合いオーケーだぜw
ああ眠い。
今日は楽しかったなあ。
んじゃねまた(^O^)/
810 :
参戦します:2008/05/21(水) 01:02:32
>>795 >(武士どもも従えていたな)
信西がいつ武士どもから名簿を取ったのかな?
ちゃんと説明するんだぞ。
811 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 01:03:10
>>809 >>807の指摘する、論理矛盾は無視か?
少なくともそこについては、潔く負けを認めろな。
まあゆっくり休め。
勝手に勝利宣言しておいて、
即座に論破されてりゃ世話はないわなw
今日のまとめ
不用、wikiを参考に、突然、保元・平治の乱が与えた影響について論じはじめ、急に論点をすり替えて、一方的に勝利宣言(笑)
ということで、本日はこれまでw
>>809 それより、ググってきたぁ?
とりあえずwikiみてみたらぁw
815 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 01:28:09
>>809 山野氏があんたなんかを真面目に相手にするわけがないだろうがw
たぶん武陽タンは、
>>807が何を「論理矛盾」と言ってるか
理解できてないよ。
817 :
参戦します:2008/05/21(水) 03:17:33
武陽の言う「死刑復活論」は体裁を成していない。
何故ならば
「武士の台頭をよりいっそうも促進し」ていないからである。
信西の「死刑復活」は保元の乱の処理に謂わば絆創膏の如く、小泉郵政解散と同様に方便として使われた。
両者は無関係といえよう。
平治の乱に於いても、悪左府は服毒自殺、義朝は暗殺、唯一悪源太は斬首であるが無位無官の者。
さらに壇ノ浦での平家は入水、鎌倉護送の宗盛は帰京の途上官符無き殺害、重衡に至っては南都宗徒のリンチ殺人である。
その後九郎判官は自害である。
また、承久の乱の皇族・公卿は流罪、武士は戦死もしくは自害であった。
鎌倉幕府滅亡時の北条得宗家も切腹自害である。
本当にこの国をパラダイムシフトさせたのは足利義教である。
彼は同族の関東公方足利持氏を死に追い遣った永享の乱・結城合戦で端緒を
作ったのである。自身もまた臣下赤松満祐に謀殺されている。
続く応仁・文明の乱、享徳の乱から戦国の世に突入し国の在り方自体が一変してしまうのである。
┏┳┳┓ ハイ. ┏┳┳┓
┏┫┃┃┃ 武陽ネタは ┃┃┃┣┓
┃┃┃┃┣┓ ここまで ┏┫┃┃┃┃
┃ ┃┃┏━━━┓┃┃ ┃
┃ 雑談 ┣┫ . ・∀・ ┣┫. STOP!┃
┗━━━━┛┗┳━┳┛┗━━━━┛
┏┻┓┃
┏━┛ ┣┻┓
┗━━━┫ ┗━┓
. ┗━━━┛
819 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 04:59:33
死刑を廃止して仇討ちを復活させるべきである
820 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:28:04
源氏物語はヤリテー貴族ばかり登場するw
821 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:36:50
藤原実資は90まで引退せずに政界に居座ったのも凄いが、
頼通と一緒に寝ている夢を見て喜んでるのはもっと凄い。
【お知らせ】
当スレは武陽隠士よけのため、当分の間「ヤリチン貴族について語るスレ」に改めることになりました。
皆々様には大変ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんが、何卒ご了承くださいますようお願いしますm(_ _)m
823 :
参戦します:2008/05/21(水) 16:07:22
おい舞踊。
武士の台頭をよりいっそう促進したのは「死刑復活」ではなく、「知行国制」だ。
10世紀の院宮分国制から始まり(12世紀後半の八条院領はとにかく広大)、
平氏一門の30カ国以上にも及ぶ武家知行国制へと発展し、鎌倉殿の関東御分国へと繋がっていく。
知行国制により大名・小名田堵層(武士団の戦力)が大きく成長し、その棟梁たる源平の武士のより一層の台頭を促すこととなる。
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おい武陽〜〜〜ヾ(≧∇≦*)ゝ
保元平治の乱が、武士が中央政界で力を得る契機であったことは今更言うまでもないが、
それは政争の解決に武士が用いられたことによるのであって、
死刑復活云々などというのは節枝末葉、木を見て森を見ぬ所業といわざるを得ない。
既に保元の乱によって武士の武力が中央政界の政争を解決してしまっている以上、その後の死刑復活が行われずとも武士の台頭が遅くなったとは全く思われない。
確かにwikiにもそれらしいことが書いてはあるし、歴史漫談としてなら面白いとは思うが。
要するに、一言で言えば、死刑復活と武士の台頭?
そんなのカンケーねえ!
827 :
参戦します:2008/05/21(水) 21:36:17
>>825 どこが荒らしだ??
ちゃんと日本語で説明してみろw
829 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:16:13
漏れはアラシだと思う
舞踊は精神疾患者だったのかw納得www
831 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/21(水) 23:21:28
精神疾患?
意味が分からない。
論争は私の勝ち。それだけだ。
私が物議を醸しそうなレスをするのは
自信があるからだ。
変なつっこみすると恥さらすことになるよw
832 :
参戦します:2008/05/22(木) 00:23:31
>>831 どんな自信だ?? 妄想は負けませんってか?
>>830は、
>>824を見ての書き込みだと気付かないのか?
>変なつっこみすると恥さらすことになるよw
何のことやら。
自分のことだろ。
そろそろ自己紹介はほかでやってくださいよと
思ふに
731 :武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/16(金) 00:27:53
>>730 武士(武家ないし軍事貴族etc.)の台頭を促した。
私の見解といたしましては
死刑を復活させたことによって緊張がさらに高まり世が荒れたことで
あたかも死刑復活が武家の台頭を促したように見えるかもしれません
だが、死刑復活は直接的には武士の台頭とは関係ないと思います。
したがってこの論争は武陽の負けだと思いますよ。
で、武陽ねたはもういいので
真のやり手もしくはヤリテー貴族についてまじめに語りましょう
836 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 17:49:43
良継、百川の兄弟の計算高さは凄い。
称徳女帝の崩御後、永手とともに白壁王を擁立するも、
永手死後に他戸親王を廃して山部親王を擁立して恩を売り、北家を牽制するやり方は天才的。
837 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/22(木) 20:56:35
軍事貴族を含めれば
清盛だって(オヤジもかな)やり手だろ
838 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 21:40:47
839 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 22:58:32
女御に手をつけた足利義満は神。
>>839 貴族とは言えない義満を持ち出さなくても、在原業平とか元良親王とかがいるだろ。
いや、業平は結婚前だけかな?
841 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:03:14
俺が個人的にやりたい貴族は和泉式部さま
しまりがすばらしそう
おいらは光明子様にたっぷりサービスしていただきたい(^^
843 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:31:03
844 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:57:28
>>836 良継はどうかなあ
反仲麻呂の謀議がばれて一時失脚してるし、むしろ直情漢という印象を受ける
百川が計算高いのは間違いない
他部廃太子の計画を立てたのも多分百川だろうね
846 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 19:15:57
永手が他部をたてようとしたのはなんで?
どういうつながりがあったの?
永手のホンネを書いた史料は残念ながら伝わってない
ので考察とか推測になってしまうが
他戸親王は聖武天皇の血を引く男子の孫として唯一無傷で残っていた人物だから
じゃないだろうか。
あ、「他部親王」はどれを参考にされたか分かりませんが間違いです。
…でもぐぐーるすると248000件もヒットorz
848 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 18:05:23
確か南家も他部を押してたきがするけど
永手と南家、南家と他部の関係はどうなんスカ?
南家は他戸親王押してたかな。
根拠にしているのは『続日本紀』称徳天皇神護景雲4年8月4日条に出てくる
白壁王(光仁天皇)推挙の貴族の中に藤原縄麻呂が入っていることだろうか。
最もこの推挙メンバーの中には吉備真備も入っている。
>永手と南家の関係
永手の妻の中に藤原巨勢麻呂の娘がいる。
>南家と他戸親王の関係
直接の親戚関係はなかったと思う。
ちなみに他戸親王に妻妾がいたかどうかは未詳。
あと前のレスでも言われているが「他部」じゃなくて「他戸」が正解だから間違えないように。
850 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 02:38:50
京家ってなんで他家のように繁栄しなかったの
やっぱ末っ子だから押されてた?
それとも出自に問題あり?
麻呂が三人の兄よりもかなり年下で出世が遅れたのと
子供が少なかったから
なんつって
852 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:31:40
無知麿と房先は年子、馬回と麿も年子。
けど房先と馬回の間が15歳くらい離れていなかったっけ?
麿の子供は早世が多かったみたいだね。
やっぱ天武亭の夫人だった妹・五百重のいらつめとの
超近親婚だから遺伝子的にやばかったのかな、麿の遺伝子は。
853 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 17:43:41
発展はしていないが麻呂が四兄弟の中で
一番藤原氏の血を濃く受け継いでるよな
852 誤字(意図的かもしれないが)大杉w
854 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:05:38
意図的もなにも、変換するのがめんどいからそのまま確定させただけだとわかんないの?
ちゃんと変換しなくてもここの板の奴ならわかるだろう、と。
誤字だとか馬鹿じゃないの〜
ケンカすんなアホウ
853がアホ杉
857 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 19:15:19
仲麻呂と百川らを比べるとどう考えても仲麻呂に軍配を上げざるを得ない
百川がただのけち臭い策士であるのに比して
仲麻呂の政略の緻密さ、策謀のすばらしさはくらべるまでもないね
ってなわけで仲麻呂マンセー
|
|
|
|
/V\ ,J
/◎;;;,;,,,,ヽ
>>857 _ ム::::(;;゚Д゚)::| ジー
ヽツ.(ノ::::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
859 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 19:27:26
ヽ::::l:::.l| l| l | l| l _/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
l i:::i::::l l| l l l| l ヽ おめでたい
!:::l::.l_j l| _l_l :l:|| | ジャンクだわね
j/l:「! !! /' 「T¬-l |
lZヽi l| ! ,/ 土土/ /∧_________
l ijゝl } li l! イ:ftッ::ト/ ハ i
j/ツ ソ::. ゞ= ' ' /l ! l| |
l |‐彳::::.., /l/ /' l!
イ:::::::._, ..... _ イ j l/ j
.{::::::::..`二´ ト、./_' / {
ハーッ:::. /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
!::込ztrイ| 威勢がいいのは
|::::::::乂 l| 口先だけ……
ハ:::::{:.. j ヽ.__________
860 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 20:37:53
終わりを全う出来ない様ではやり手とは言えない。
861 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 19:08:48
やり手ってのはぱっと咲いてぱっと散る
この美しさがやり手をさらなるやり手足らしめるものだと思う
美しく生きなきゃやり手じゃないよ
じゃあ菅原道真なんかやり手貴族の筆頭だねw
863 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 19:54:37
藤原賢子(紫式部女)
男と才能でのし上がった。
864 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:30:58
道真はだめだろ
学者で言えば道真よりは三善清行のほうがやり手だとおもう
道真にやめろって手紙かいたのもかれだし。
865 :
武陽陰毛:2008/05/31(土) 18:20:04
俺今日から武陽の陰毛になるわage
866 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:03:02
>>865 アホを相手するといい気になるだけだから、やめといた方がいいよ。
867 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:23:35
舞踊は 「死刑復活説」を顔から火が出る程恥ずかしく後悔してるので
このスレには顔を出せません。
868 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/03(火) 23:42:50
>>867 荒唐無稽て何が?
意味分かんない。
私のここでの書き込みは先行研究を踏まえたものだよ。
今までタメにタメてたが
これから反撃開始だ。
まずオマエのタワゴト言ってみろ。
オマエが法制史、中世政治史の研究
ぜんぜん無知なのが分かって安心した。
今まで黙ってたんだがな。
ま、反駁は今度。
将門スレでも反撃のようにダラダラやるよ。
私の勝ちをロムってる人たちのじっくり提示したいんでさ。
しかしぜんぜん本読まないんだなオマエw
×××先生と××氏の所論のパクリなんだぜ、私のここでの死刑云々はよw
無知もここまでくるとバカ以下だな。
ま、反駁すんでよろしく
今日はストレスないんでまたイラついたときに書くよ
じゃなバーカ
869 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:07:33
↑
敏感に反応 お前はクリか??
870 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:10:14
と
871 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 00:14:17
>>869 いや
将門スレ他でやった
タメにタメた反駁って奴さ
それをやりたいんだよ
ま、私のやり方ね
もっと「死刑トンデモ」と罵倒して来いよ
バカども
872 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:19:47
無知無知エロボディー
873 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 00:23:36
ははは
バーカ
負けるのが怖いかw
874 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:28:40
お前は既に死んでいる
875 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:33:04
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
死刑トンデモ
ばーかw
876 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 00:38:54
まあちゃんと
死刑復活の意義書くけど
ここのスレの人たちって
まったく著名な先行研究に当たらないんだな
ていうかネットだけしかやらないバカばっかなのかなw
ロムってる人たちに言うと
私の書き込みはまともなレベルだよ
はっきり言って日本史板では、
私と山野氏くらいしか
学問的にまともなレベルはいない。
あとはぶっちゃけすればゴミだ
877 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 01:05:13
刑罰ではないが鎮西八郎為朝の伊豆大島での自害が切腹の事始とされてるらしいな。
死刑を復活させた信西自身が刑場で斬首されたのと 時代も場所も変わるが
フランス革命当時、ギロチンの発明者がそれで自身を処刑されたのとイメージが
ダブって哀しい。
小賢しい者の因果応報の哀れさと言えよう。
878 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 01:13:26
近代の死刑と平安の死刑を一緒にしちゃ
困るな。
そもそも死刑停止の理由も近現代とは全然違う
しかし法制史の通史
誰も読んでないのか?
このスレの住人は
バカじゃねーか
さて寝るか
無駄な時間を過ごしたな
879 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 01:18:59
お前さんは 『晴れと穢れ』を本気で論ずる根性はあるのかい?
880 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 01:28:00
まあ 結論として信西は取るに足らない小賢しいだけの男。
これでスレタイに戻ったところで めでたし。
881 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 02:47:04
死刑の停止?復活?を論ずるよりも『穢れ』を論ずる方が遥かに重要である。
令外の官として中央と地方に検非違使、地方に押領使を置いた目的は警察機能の
強化だけではなく『穢れ』のアウトソーシングであった。
衛門府の官と兼帯して実務者の最高位は大尉判官で従六位でしかなかったのだ。
しかし承平・天慶の乱後、鎮圧勲功者に対する論功行賞として異例の従四位の叙勲
が行われた(昇殿資格である)。だがそれは『穢れ』を引き受ける(封じ込める)特定の家
(兵の家)の成立であったのだ。
「軍事貴族」とは聞こえはいいが「穢れた貴族」と位置付けられとのである。
紛争事の解決手段として、また暴力装置として朝廷から公認されていたと言える。
公には死刑停止であっても死刑は行われていた。
源満仲を例に上げれば、源氏重代の宝刀「膝切丸」「髭切丸」の命名は罪人を試し斬り
したことに由来する。
朝廷の機関で罪人を死刑執行するのでは無く、摂津の源氏居館へ送られたと伝う。
どのように執行処理されたか定かではないがその門塀には生首が沢山転がっていたとの
記述もある。
鬼退治や土蜘蛛・酒天童子の逸話は殺生を『穢れ』として忌避した仮託の物語であることは
言うまでも無い。
「軍事貴族」が「穢れた貴族」であると看做されていたのは満仲出家時の『小右記』の「殺生非道の者
仏心を起して云々」の記述を見て明らかである。
882 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 02:59:55
武陽 テメー論破されてんじゃねーかよw
883 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 04:13:12
武陽のウソ
@「死刑復活まで停止」されていたのではなく朝廷が執行しなかっただけ。
A「武士の台頭をよりいっそう促した」のではなく、既に巨大な暴力装置及び殺生の中に
身を置いていた武士の機能と流儀の既成事実を信西が追認し政敵排除に利用しただけ。
武陽よ底が浅いぞw
バーカwwww
884 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 12:47:26
ぶよう様みたいな博識な人でも、嵯峨のときに死刑が停止され、
新西が復活した、なんて俗説信じてるんだね。いや、驚いた。
軍事貴族=穢れた貴族と考えれば、道綱が源頼光の婿になったのが嫌がられたのも理解できる
頼通や教通も頼光の家に行くのを嫌がってたしな
今で言えば、伯父がヤクザの娘と結婚して、そのヤクザの家に挨拶に行かにゃならん、って感じかねえ
886 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 21:27:12
>>883ほか
少し古いが
瀧川政次郎『日本法律生活の特質』、
石井良助『刑罰の歴史』(特に51ページ参照)、
とりあえず読め。
おバカな反論は読んでからだバカどもがw
887 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 21:33:23
嵯峨天皇の時から始まった死刑停止は
実は江戸時代から疑われてる。
例えば『大日本史』がそうだ。
『大日本史』は公卿に対して死刑を行わないという
限定的な死刑停止に過ぎなかったという説なんだな。
ところで君たちの論拠はネット上のデータのようだけど
法制史家の研究には当たってないみたいだな。
まあ2ちゃんだからしょーがねえかなw
888 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 21:42:44
処刑はあったが、
法制史的な意味合いじゃ死刑は停止してた。
なんでこれが無知扱いなのかな。
このスレの人間は法制史の先行研究について
全然当たってないな。
石井良助も瀧川もチョー有名なんだけど。
少なくとも二人とも死刑停止は認めてる。
ま、石井は私とはちがうが
瀧川だな私に近いのは。
このスレの住人はやっぱ本もロクスッポ読まないクズだな
ウィキですんじゃうw
ああバカらしい
バカにウンチクいうと疲れるぜ
連投ごめんよ
889 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 21:46:55
おーい 皆の衆
論破された舞踊が足掻いてるぞw
890 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 21:54:57
>>889 いや
別に論破されてないんだが…
ここでの議論がさっぱりバカらしくてさ
みんな法制史の本一冊も座右にないんだなあ
って感じでさ
瀧川くらい読んでたら私の書き込みはまともに受け取れるんだよ
しかしもう低すぎてだめだなこのスレ
怒る気もなくなった
君たちは多分ググった知見に基いてるんだな
891 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:12:49
>今まで私に死刑云々で反論してきたヒマジンネットバカたちへ
これは元木康雄氏が上横手先生の所論を踏まえて
論じてることだけど
結局、信西の死刑復活が何をもたらしたかと言うと、
あの死刑で摂関家の家産的武力を根こそぎやられたんだよね。
それは摂関家とは対立する国権の権力代行者たる信西のねらいでも(おそらくは)あったんだろだろうが、
それによって摂関家領荘園の支配を武断的に請負支配していた武力が
なくなっちゃった訳さ。
摂関家の家産的武士団が消滅してしまったから
勝利者である忠通も家領支配に院近臣である平氏に頼るしかなくなった。
つまり摂関家は家産機構を媒介として形成された軍事力を解体されて弱体化し、
武士団が摂関家に変わって権門化していったんだよね。
つまり信西の死刑復活は武士(団)の台頭の一因であるんだよ。
分かったかな?
バーカw
ま、以上は元木氏の意見。
もちろん私も首肯している論だ。
892 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:13:14
顔を真っ赤にして「バカ」としか言えない様だな。
史学の目的とは「人間の有り様を解明かし未来を予測する」ことだ。
法制史の先行研究には敬意を払うがそれをどう活用するかが重要だ。
良いサンプルであるこの2ちゃんの住民すら啓蒙出来ない様では「先行研究」
と振りかざしても滑稽ですらある。
893 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:18:46
>>892 屁理屈だよ。
法制史の専門家でもないオマエが何をえらそうにw
要は無知だから御託並べてるだけじゃん。
別に私は法制史家じゃないが
人文系研究者の端くれとして言わしてもらえば
オマエは何も分かってない素人だよ。
研究なんて地味で変な飛躍なんかするのは
バカで学力不足だからするのさ。
あと真っ赤はオマエだろうが。
ロムってる人から見たら私の勝ちさ。
しかし学問に対する畏れのない奴が多いスレだ。
マジ、日本史板は山野以外
ゴミだな。
武陽陰毛って甲状腺亢進症じゃねえの?やばいぜ、まじ。
895 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:23:03
お前のカキコミだと元木某はただの阿呆だぞw
本当にそう言ってるんだな?
896 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:25:23
>>862 そういう「学問」の未来なんたら以前に
地味な作業とか蓄積が必要なんだよ。
分かる?
だから君みたいのは宗教でもやればいいよ。
バカで未来なんたら御託並べても仕方ない。
まあいずれにせよ、
君が人文系の院生じゃない(なかった)ことだけは
百%確実だなw
そういういかにもヒマジンの青臭いタワゴトは田舎の引きこもりか
都会のプーかなw
897 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:28:11
>>895 家産機構としての武士団が
なくなったのが
なんで
まずいのか分からない。
あとさ中世政治史やってて元木氏知らないオマエってw
恥ずかしいww
オマエ、ネットでしか日本史勉強してないだろw
元木氏も知らない
バカばっかだ
898 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:28:34
舞踊よ
誰が見ても
>>881 に論破されてるぞ。
お前の負けだw
バーカ
899 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:30:44
みんなネット上のデータで勉強してるから
偏りありすぎ
こっちの前提と全然違う。
いいかげんやんなったな
900 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:32:10
901 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:36:11
ケガレ云々
死刑のアウトソーシングは法制史的にはダメだろ。
あれは自立救済の処刑だよ。
治外法権だな。
しかしアウトソーシングかw
バカらしい。
井沢くさいな
悪いけど通用しないよ
官位云々もしてたけど
ネット上の議論くさいな
902 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:42:58
武士のケガレ云々も
最近は再考に付されてる。
私的にはケガレ説は限定的に見てくべきだと考えてる
ケガレを過大視しすぎてるなオマエら。
しかしネット上で検索するとケガレとか怨霊とかバカみたいな意見ばっかだな
法制史的なアプローチ
荘園史なんかの経済的なアプローチ
そういう観点からの武士論は皆無。
このスレのバカは軍事貴族を職能論で論じる気もないらしい。
やっぱパンピーだわw
完璧に院生レベルはいないな。
ていうかネット上で知ったかしてる
バカばかりなのが見え見えだ。
ちゃんと勉強してたら
絶対に言上げするタームが全然出てこないw
本当
日本史板は山野しか読むレスがない。
903 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:51:09
殺人のプロ=武士の従類
904 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 22:55:42
しかし
>>881の「死刑のアウトソーシング」
とかいう珍説には笑った。
マジ大笑い。
うひゃうひゃ
風水とか怨霊とかケガレとか…バカって、タームをまさにバカの一つ覚えで
安易に振り回すな。
井沢もそうだけどネット上にはこういう
バカ妄想がワンサカありやがる
バカのへ理屈は単純でいいよw
さてお風呂はいろ
今日は映画みるんだ。
じゃあねプーバカw
905 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 22:58:43
舞踊は具体的に反証も出来ずに
尻尾を巻いて逃げ出したw
ヴァーカwwwwww
906 :
881:2008/06/04(水) 23:04:37
俺の勝ちだなw
まさに不様だ(大爆笑)
バーカwwwwwww
ネット嫌いのぶよう姉さんがネットに嵌っていく
908 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 23:25:36
話は変わるが
幕府ってのは摂関家の家政組織をモデルにしてるって聞いたことがある。
909 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 23:34:00
ヤリテー貴族達もぶようとはヤリたくないだろう
武陽いまごろふて寝してるよw
今回も
ブヨーの勝ちか…
もう山野さんしか
いない
山野乙
913 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 00:55:07
914 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 01:04:52
國さんいるの?
916 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 08:19:37
無知は武陽。
あちこちに書き散らしてるレスに読解力の欠如と表現力の未熟さを感じさせる。
元木泰夫の『殺生放免 朝家の守護』は「死刑のアウトソーシング説」を否定する立場ではない。
917 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 08:23:38
科挙の試験で合格し、宮廷職や武官に就くのが奈良時代の官位制。
いつからか、家柄の良い貴族(藤原氏)しか官位がもらえなくなった。
その概念を壊したのが武家の平清盛で、その後をついてきたのが源頼朝。
また武家政権から平民政権に変えたのが豊臣秀吉や石田三成で、家康が平民政権を恐れ士族政権に戻した。
だが士族封建政治に限界が来たので、坂本龍馬や伊藤博文が近代財閥政治を作った。
だが財閥政治にも限界が来たので軍人が台頭したというのが大まかな流れである。
>少し古いが
>瀧川政次郎『日本法律生活の特質』、
>石井良助『刑罰の歴史』(特に51ページ参照)、
>とりあえず読め。
古すぎw
そりゃ死刑停止・復活なんて何十年も前の学説のたまうはずだわ。
上横手ぐらい嫁、低脳
>宮廷職や武官
せめて文官と武官と書けんか?
概念? 概念て言葉の意味わかってるか?
日本に科挙? 平民政権?
ブヨがわめきたくなるのもわからんではないな
920 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 10:28:44
「アウトソーシング」という外来語に違和感があるのだろう。
21世紀に入ってグローバリゼーションが加速し、小泉改革が音頭を取り
官民こぞっての「アウトソーシング」が現状であるが 重要なのは小泉の手法は
「丸投げ」であり日本古来の手法とたまたま合致しただけ。
「死刑の丸投げ」とでも言えば理解出来るであろう。
しったかは止めときなw
武陽
端くれ(ぷっ)バーカw
921 :
881:2008/06/05(木) 10:45:30
まぁ 俺の勝ちで確定だな。
知恵遅れ舞踊♪
922 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 18:00:39
>せめて文官と武官と書けんか?
概念? 概念て言葉の意味わかってるか?
日本に科挙? 平民政権?
秀吉や三成はカーストが農民だろうに?。
秀吉は貧農出身で三成は地主の出やろう?
つまり、武家以外の農民でも官位を持てるようになったのが安土桃山時代であり、それ以前は武家が朝廷(政府)から官位を貰い政治を運営する室町時代であった。
あと、侍や公家になるには漢文の科挙に合格しなければならなかったんだろ。
律令制度についてなんも分かってないよなあ。
それ以前の時代は大連(おおむらじ)が政治を運営する時代であり、物部氏や大伴氏が有名だわな。
923 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 18:11:45
ま、三成の場合は家柄のよい地主だな。
たぶん芦名氏か三浦氏の系統だろう。
先祖は武家になるのだろうか。
924 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/05(木) 22:59:33
バーカ。ググって調べてきた間違いデータ得々とw
元木泰雄だろ。字間違いだ。
ま、ここまではケアレスミスだが、『殺生放免 朝家の守護』とは酷いな。
「殺生放免」というと殺しのライセンスみたいな言い方で変だと思わないのか?これは「殺生放逸」が正しい。
だいたいオマエこの文言の出典知ってるのかよw出典は『小右記』の逸文だ。
分かったか無知。恥ずかしいよなまったくw
それとこんな題の著作は元木氏に存在しない。
オマエの挙げた書名と勘違いしてる文言は、実は『源満仲・頼光』という元木氏の著作のキャプションだ。
実物読んでないのバレバレだなwネット上で拾ってきやがったw
私は元木氏の著作論文はほぼ全て目を通してきているんだよ。
この本に死刑のアウトソーシングなどという意味のことを
肯定する記述はない。
あくまでリンチないしヤクザまがいの暴力装置として、法の埒外において院なり摂関家なりに雇われたというだけのこと。
死刑の請け負いとは違う。まあヤクザだよ。上横手先生もよく言う武士=ヤクザ説さ。
たぶんどこぞのウロンなネット上のデータを真に受けたんだろうが、武士の自立救済は法とは別の私的暴力のものさ。これが肥大したからとは言っても死刑のアウトソーシングなんて考え方はしない。
トンデモだw
しかしみんなが忙しい朝っぱらから2ちゃんに書き込みとは、よほどのヒマジンなんだなw
仕事しろよ、クズ野郎(`∀´)
925 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 23:00:49
↑
定時出勤乙
926 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/05(木) 23:01:04
↑のレスは
>>916へ向けたもの
無知野郎、本くらい読めw
927 :
881:2008/06/05(木) 23:06:52
928 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/05(木) 23:11:18
>>918 オマエ、政治史と法制史の区別つかないのか?
法制史家でもない私が法制史の先行研究挙げた理由分からないのか…
余りのバカぶりに開いた口がふさがらない
ネット上のデータ切り貼りしてるだけなんだろうが
バカにもほどがある
上横手先生は私の敬愛する方だが
原理的に嵯峨帝の時まで
さかのぼって死刑停止については論じていない
それとさ
古い法制史家の本も必読なのさ
古いと私は言ったが
問題点は出てるし再読しなくちゃいけない名著だよ瀧川も石井も読まなくては話が始まらない
しかしいいかげんネット上のデータを真に受けた書き込みやめてくんない
ネット上はバカばっかだからさ
オマエらみたいなクズが
知ったかで一人前のこと書いてる
鵜呑みにするな
しかし政治史と法制史をゴッチャにするとは、救えないバカだなw
法制史プロパーの最新論文でも挙げたりは
オマエらには無理なんだろうなw
929 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/05(木) 23:13:33
>>927 どれがテメエだよ
論破なんて知らねえぞ
読まずにググって恥さらすなクズ
あとさ仕事しろ
キモいんだよ
930 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/05(木) 23:17:00
>>925 ばっきゃろー!
キモいんだよおまえ
仕事しろクズ
おまえみたいなヒマジンじゃねーつぅーの
テメーのようにストレスゼロのヒマジンライフ送りてぇよまったく
しかし常駐。バカじゃねえw
ディスプレイとにらめっこ
はははは
バカらしい
931 :
881:2008/06/05(木) 23:18:12
932 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/05(木) 23:25:32
>>931 最近の武士論は
ケガレを
(元木氏はケガレ説の有効性を極めて限定的に捉えている)
広範囲にタームして振り回すことに疑義が付されてるんだよ。
ケガレ説って井沢もそうだけど素人で武士論やるバカが必ずはまるんだなw
オマエのその知識、インチキネットか大昔の読み物だろ?
それとも井沢みたいな読み物かなw
だみだこりゃ
才能なし
最新の武士論知らないんだな
元木氏川尻氏高橋氏etc.
読めよバカ
933 :
881:2008/06/05(木) 23:48:47
>>931 書物の名前は失念したが14〜15年前に興味本位で読んだ割と一般向けではない本だ。
摂津の源氏館の様子(今昔物語)、満仲出家時の逸話(今昔物語)、満仲出家への皮肉(小右記)からのパクリだ。
検非違使の武官は公人じゃないのか?
たとえ私利私怨での誘拐リンチであっても(闇から闇へは別)官人により公然と衆目の前で処刑が行われれば刑の執行だと
考えられる。
934 :
881:2008/06/06(金) 00:09:03
連投すまぬが
>>932 へ
「膝切丸」「髭切丸」での罪人の試し斬りは法を逸脱した行為とする証左をしたまえ。
935 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/06(金) 00:31:12
>>933 割と一般向けだと思うよ。多分wていうか嘘だろwしかし14、5年前に読んだってのが手の込んでるこったw
ネットで後追いしたのがバレバレだよ。
「満仲出家云々が小右記云々」なんてことはバカなくせに細かく覚えてて、その本の題名だけ失念してるw与太バレバレ。あほくさ。
まあいいや。君の屁理屈は、もう江戸時代から言われてきたもんさ。別に目新しくもない。ネットにもありきたりだから当然散らばってあるだろうが、
法制度にこだわって私は死刑云々してる(だから法制史プロパーの議論にこだわってる)のをお忘れなく。
法制史プロパー的(私は違うんだが)に言えば、
官人たる検非違使が多くの犯人を捕斬した「事実」は、
官吏が独断で斬したことを語るものであって、
朝廷が命を下して刑殺したことを物語るものではないのさ。
命令ないんだからね。
朝廷が黙視あるいは刑殺を賞した事実があったところで、
犯人の捕斬を朝廷自らが命令した事実は存在しない以上、死刑はないんだよ。
言外に命令はあってもそれは法的にはないも同じ。
とりあえず法制史的にはね。
しかし君は法制史の才能全然ないね。
ところで検非違使の捕斬についての「史料」って何だか知ってるのかよ。私は知ってるがな。
これはググって出てくるのかなwどうでもいいが法制史プロパーの先行研究に当たれよバーカ
全然読んじゃないだろうがw
バカと議論するとメリットはストレス発散だけくらいしかない。
ああ無駄な時間過ごしたな
ま、ストレスぶつけたから良しとしようかな
寝よ寝よっと
ところで現代法ではナンタラとか言うウザい茶々入れてくんなよ
マジでバカだからな
936 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/06(金) 00:37:36
>>934 うぜえよ
法制史勉強しろクズ
いちいちおまえらみたいなヒマジンの
くだらねえ質問に答えてられっかよ
どうでもいいがテメーの質問すごくレベルが低いぜ
開いた口がふさがらねえや
テメーゲームとネットが趣味だろ
キモいよ質問が
くだらねえ本当、くだらねえ
質問、反駁のレベルが低すぎだぜ
もっとハイレベルな質問はねえのかよ
ググるしか能の無いクズの引きこもりニートネットおたくのタワゴトはうんざりだ
法制史の緻密な議論ぶつけてこい
分かるか?
テメーの質問は法制史じゃねえよ
キモおたくくず野郎
937 :
881:2008/06/06(金) 01:21:30
じゃあ
こことお別れして別板たてろよw
論破されたテメェは構って欲しくてここに居るのと違うか?
バーカw
938 :
881:2008/06/06(金) 01:41:26
>>935 頼光、渡辺綱の鬼退治・土蜘蛛・酒天童子の逸話は朝廷の命じゃないのか?
殺生の『穢れ』を忌避して妖怪に仮託した話であることは言うまでも無い。
939 :
881:2008/06/06(金) 01:47:06
940 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 01:54:58
>テメーの質問は法制史じゃねぇよ
ついに気がふれたか?
テメェが毒づいてるここは「やり手貴族を語るスレ」だぞw
誰もそんな議論していない。詭弁にも程がある。
おまえ頭大丈夫か?
バーカw
941 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 02:11:04
942 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 02:15:47
男女で得意分野が違うらしいね
943 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 02:21:20
法制史たぶん政治史が♂だろうね。
議論の途中から急に法制史を引っ張り出してきた。
え、ブヨくんって♂と♀と中のひとが二人いるの?
>あと、侍や公家になるには漢文の科挙に合格しなければならなかったんだろ。
>律令制度についてなんも分かってないよなあ。
よそで言わないようにな。笑われるよ。
ブヨ君へ
滝川に石井か。学生時代の私を見てるみたいだ。よく読んだよ。特に滝川は
好きだったな。君に負けず劣らずの口ぶりが。マイナー雑誌に掲載されてる
のまで殆ど全て読んだ。中毒だったと言ってもいい。
残念ながら滝川も石井も、現在の研究レベルでは学ぶところ少ない。
繰り返しになるが、死刑廃止論争については上横手氏を読み給え。退官記念
講義での話が活字化されている。何に載ってるかは君の力なら探せるだろ。
947 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/06(金) 22:08:36
国史大辞典には「死刑」の項目が立てられるし、
重松氏の刑罰年表にも例の死刑廃止(停止でなく廃止という表現が取られてる)
のことが記載されてる。
それくらいチェックしてから反駁して下さい。
後、ググったデータぶつけるの止めて下さい。
読みもしない本を題名だけ挙げるのも止して下さい。
なんだか悲しいほど笑いがこみ上げてきますのでw
(^(エ)^)
949 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/07(土) 00:09:07
どうでもいいけど
し・ご・と・し・ろ
武陽氏の職業教えてくれ
951 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 06:27:33
ネット批判もいいが
ネットの普及により「知の独占」が開放されたことは前進と見てよいだろう。
功罪は認めるも瞬時に広範の情報を入手できる(武陽氏のいうようにガセネタも非常に多いが)ことで第二の脳を獲得した。
しかし、その真価は「教育」に負すべき部分が問われていることは言うまでも無い。
武陽氏がその「教育」を憂いているのであれば罵倒・ストレス発散は解決どころか因果応報の罠に自ら嵌っていく危険性に
気付くべきであろう。
952 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/07(土) 10:20:46
>>951 ネットによって「知」の開放が進んだじゃなくて、自惚れたバカが増えただけだよ。
テレビに似てる。なんとなく知った気になった衆愚が増えただけのこと。
まあ衆愚(バカなくせに知識人的な言動ないし無根拠な自惚れがある)
が過大に増えれば
「知」の真価は下がるから
「知」の担い手の社会的位地(地位じゃなく)というのも必然的に低下する。
953 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 14:13:43
ネットの問題もそうだが
ネット検索システムの弊害が大きい。
私は検索順位が商業主義に反映され正しい情報の入手が阻害されていると思う。
何故ならば ネットも検索システムも開発運営しているのは「かの国」だからである。
衆愚政治の本場の。
954 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 16:37:45
ウィキが常に検索上位に来るのはどうして?
危険だよね。
武陽氏の職業教えてくれ
956 :
881:2008/06/07(土) 19:22:31
それで死刑を公に復活させただけの信西の評価は?
武陽氏の職業教えてくれ
958 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/07(土) 21:52:17
>>946 嘘つくなよ。
ググって知ったかすんなよなw
滝川が載ってるマイナー雑誌ってなんなんだよwおまえなんか勘違いしてないかw
しかしマイナー雑誌はいいなw
どうでもいいけど滝川が書いた武陽隠士について論考も当然読んだんだろうな。
それから、石井良助は法制史の中では未だに基本書だし、国史大辞典の死刑項目は
石井が執筆してる。
滝川も法制史の中で価値は減退などしてない。
読み返す価値ありだ。
でも石井良助の「古い」云々には参ったなw
今もって法制史の論文で注によく出てくる研究者なのによw
おまえ法制史の論文読んだことないんだなw
ははははははは
ネット知ったかバーカw
959 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/07(土) 22:04:22
連投ゴメン。
断っておくと滝川の引用度は石井に比べたらそんなにない。
論文で引用されるのは石井が断絶、滝川よりか多い。
石井は基本書だ。
>>953 タダの「メディア」なんだからしょーがないじゃん。
君はどうかしてるよ。
>>956 法制史の基本書読めバカ
あと信西が死刑を復活したからえらいなんてことは
一言もいっていない。
私の書き込みをちゃんと読めヒマジンクズ野郎w
>>955>>957 気持ちワリいよ。つきまとうな。
し・ご・と・し・ろ
960 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/07(土) 22:37:24
961 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 23:05:57
>>259 20万円以上もする専門書なんて金持ちかプロじゃないと買えないぞw
学者並みに揃えるとなると安いベンツ一台分は覚悟しなきゃならんだろう。
山野は金持ちなのか?
プロ(年収1000万以上)は経費で落とせるのか?
962 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/08(日) 01:51:06
私の平安の死刑停止は法制史の世界じゃ通説。
むしろなぜ死刑が停止してたか争点なんだよ。
このスレのおバカさんたちの争点は全然違うらしいが…
ま、ネットのインチキデータとまともな研究者の問題とするところが
まるで違うというよい見本ですね。
さてバカさん
将門スレをのぞき遊ばされよ
バカが私に論破されてる
わはははははははは
ああクズしかいねー
ニートかなんかでネットだけが世の中を知る手段の人間なんだろうな
本なんか読めない環境にいるんだろうか
寝るか
んで武陽氏の職業は?
964 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/08(日) 09:06:52
>>963 なんかキモいよ。
でも今の私は生身だったらヘラヘラして何でもしゃべくる〜
ああ
いつまでこうしていたい
好き
どうせなら、戦国板と勘違いしている痛いコテに喝して欲しいのにな……
966 :
日本@名無史さん:2008/06/11(水) 13:00:22
このスレ次スレいるの?
信西は個別スレを立てた方が良いかも。頼長にはすでに個別スレがあるので
両方を見比べれば「保元の乱」の理解が深まると思う。信西の死刑復活が注目を
集めているけど、崇徳上皇の配流の方が当時としては衝撃的だったような気がする。
淳仁天皇以来約400年振りの皇位経験者の配流。
968 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 17:24:59
弘文天皇様は斬首された
淳仁天皇以後では皇太弟の早良親王や不破内親王なんかも流罪にされたね。
>>958 うそじゃないよ。君も読んだなら分かるだろ。一度は中毒になる感じが。
九大事件のことや丸山氏への雑言、日本にも奴隷がいたと言ったのは私だ、
とか、ほんと読んでて微笑ましくなってくるよね。
自由と正義、月刊刑政、警察文化、長谷川如是閑の我等なんて雑誌も
滝川のおかげで知った。
今となっては滝川・石井から得るところはない。百害あって一利無しだ。
律令時代、格式時代、公家法・武家法の時代、分国法の時代、 固有法・
継受法‥‥。最近の学界じゃ死語。
>平安の死刑停止は法制史の世界じゃ通説。
君の研究史は20世紀で止まってるようだね。まあ、法制史の教科書なんか
じゃ今でもそうかもしれんね。日本史学界の状況をもっと勉強しなさい。
ちょうど回顧と展望も出たし。
971 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 18:17:47
エイジ
972 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 19:36:25
このスレ、ブヨーばっか書き込みしてて気持ち悪い・・
973 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/20(金) 23:03:07
まあバカが多くて啓蒙してやってるわけだな
974 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 23:06:26
馬鹿が何言ってるんだか。
975 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 00:54:08
論破されてんじゃんw
悔しかったら先行研究参照した書き込みしてみろよ
バーカ
976 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 13:41:12
>>970への反論もできないのに何が論破だwwwww
977 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 13:55:02
うるさいなー
前も言ったが面倒くさい
めちゃくちゃ疲れてる
ロムってる人に言っとくと私は誤りほとんどないよ。
自信があることしか書き込みしないし
でもね重箱の隅的反論に答えてら身が持たない
ほかのスレ板でも相手しなくちゃいけないしさ
基本的なタームの諸前提もしとかなくちゃいけないし
しかし疲れた
ああ眠い
978 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 13:58:58
調べてくるのに時間がかかるんだろ?
優しいお友達に教えてもらうのに時間がかかるんだよな?wwww
979 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 14:07:30
>>970 バカはおまえだよ
石井だけじゃなく日本史プロパーの学者だって古くなっちゃった学説なんてザラだよ。
だからといって全然読めなくなったわけじゃない。
たぶんネット上かなんかで狭いとこだけ検索して知った気になったんだろうな
だいたい石井が国史大辞典執筆してるの知らないのかよ
古くなんかなってないよ石井の知見は。
律令制の見解とか時代区分なんかが批判されてるだけで
今も法制史の基本的な研究だし日本史プロパーに参照されてる
知ったかだな
980 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 14:15:30
>>978 違う
タイムラグほとんどなしで書いてるときは書いてるだろ。
だいたい調べたこと書いたレベルじゃないよこんなのは。
あとどうでもいいけど滝川は武陽隠士研究の論文があって
私も参考にしてる。
実は滝川の論文読んでる人なら私に反論もできるんだよね
読めば分かるけど読みやしないんだよなおまえらw
981 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:20:40
このスレもせっかく奈良平安初期の王朝貴族の実像に迫ろうとしていたのに
武陽淫子の登場で台無しになってしまった。
嘆かわしい。
不様淫子でいいよ。
983 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 16:39:26
>>981 よく知らないけど大したレスないよたぶん
どうせネットから切り貼りした安直なもんだし
誰も本ろくに読んじゃない
バカばっか
984 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 16:44:10
ここは皆の共有財産なんだよ。
もうじき過去スレに収納されてしまう・・・・
>よく知らないけど
この言葉で君の人間価値を象徴している。
今の職を失ったら野垂れ死にするんだろうな 君は。
985 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 17:04:33
>>984 「野垂れ死云々?」
マジ記憶にない。
共有は分かるけど、ウィキの敷き写しみたいのは悪だよ。
デタラメを書きまくれちゃさ。
どうでもいいけど、なんで本読まないわけ?
ちゃんとしたこと書いてよ。
間宮林蔵もそうだけど間違いあるのは昔の人に失礼だよ
986 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 17:19:31
だから
間宮林蔵云々ではなく ここは「やり手貴族のスレ」
場を弁えろ。
だから「今の職を失ったら野垂れ死にするんだろうな」と言われてしまうんだ。
987 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 17:25:32
>>986 おまえこそわきまえろバカ
間宮云々は安易にウィキ鵜呑みしたバカを批判したものだ
だいたい私が信西について書き込みしたらくだらねえアヤつけてきやがったんだろうが
バカはバカなんだから悔しかったらもっと本読め
野垂れ死にはクズのおまえだ
988 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 17:30:20
昨日進退問題に関わる出来事があったんだな♪
989 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 17:59:28
>>988 何それ?
そんなのないよ。
あるにはあったけど全然違う件だよ。
990 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 18:12:47
991 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 20:43:01
>>990 プライベートな人間関係のことでイラついてた。
まあ愛だな。
うめ
たて
999
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。