【倍歴】記紀時代の編年考察スレ【七支刀】

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1極太 ◆v6e4s/0I9s
みんなで考えましょう
2日本@名無史さん:2007/08/29(水) 04:49:58
フトクニの同類か?
倍暦なんてデムパは簡単に論破できる
七支刀はいろいろな意見を聞きたい
3日本@名無史さん:2007/08/29(水) 06:39:10
梅轢はもうお腹いっぱい
4唐松山:2007/08/29(水) 20:29:27
日本書紀 の朔を数える式  多少手直し
=INT(INT((E1787*$D$2+$D$1)/29.53059+0.3)*29.5306)+D$4
E1787=皇暦
$D$2=365.245  1年
$D$1=106 朔の廻し
D$4=8305干支にあわせる為私的な数字 他意は、ありません。
この式で 閏の廻し バッチリ 
皇暦を打ち込むと 其の年の1月朔 の日数に成ります 誤差+−1日 最大2日
暦日(G1786)を干支に換算=CHOOSE(MOD((G1786+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((G1786+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

今の大方の学者様の考えでは、
七支刀と 埼玉稲荷山鉄剣が 離れすぎだと思う。
5太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/29(水) 20:37:32
>>2
簡単に論破できるだと〜? ならば仁徳以前の天皇の超長寿を他の方法とかで
どのように説明するんだね? 紀が出鱈目だではお話にならんぜ。
6 ◆16/YXRFBRM :2007/08/29(水) 20:41:54
記紀は出鱈目だ
7太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/29(水) 20:50:19
>>6
舎人らは記の崩年干支をほぼ翻して記述している。ということは稗田阿礼の
何らかからの情報を誤認と観て多角的に種々の原書群を点検して記の記述を修正
したものと考えられる。後書きのほうが改正版的になるものだから信用は
充分認容できる。ただ半島大陸との年代の照合については失敗を余儀なくされ
たものであり、誤りが多いと思う。

単に出鱈目だは言い過ぎである。実際稲荷山鉄剣の銘文での雄略からの遡り代数
は合理性があり、シキノ宮とオオビコの記述は記紀とつじつまがあうから
出鱈目とは言えない。
8日本@名無史さん:2007/08/30(木) 00:37:55
>>5
暦法の初歩から書くしかないのか

時間の周期としての一日は誰にも自明だから
暦のそもそもの大元は日を数えることから始まった
歴史以前から、太陽の昇る方位などの観察で春分、秋分、夏至、冬至の知識は有ったと思われ
季節がおおよそ365日で繰り返すのを知った。すなわち年の概念の誕生である
文明が進むともっと細分化する必要に迫られ(過去の記憶、未来の予測のため)
月の満ち欠けの観察(月読み)からそれがおおよそ29.5日で繰り返すことから、月の概念を生じ
新月の日(朔)から数えて12ヶ月後の新月がおおよそ355日で一年にきわめて近い事で1年=12ヶ月の概念が出来た
さらに観察からこの周期がおおよそ太陽年の19年であることから7個の月(当然新月から次の新月の前日まで)
を一定の法則で挿入すればよいことに気が付く
すなわち19太陽年=陰暦の235月
陰暦の月の初めは新月
これに24節気(12個の節、12個の中)を加味し出来上がったのが中国暦
日本には5世紀以前に伝わってる可能性大

日本書紀の年紀で言えばこの暦法を使ってるのは明らか
その他神武以降の各天皇紀、神功皇后紀には一箇所以上太歳記事がある
即ちその年の干支が書かれてる
日付についてもついたちの干支と当該日付の干支を記して記事を構成してる
これらが実録かどうかは別問題だが、いずれにしても紀の年月日を生かし倍暦を主張するのは
数学の定規とコンパスで角を三等分する話と同じ

魏略逸文にある通り素朴な日読みは在ったと思う
初期天皇の長寿を説明したいという思い込みが強すぎるのでは?
9日本@名無史さん:2007/08/30(木) 03:08:10
太国さんよ
古神道、倍暦、九州王朝もいいけれど人の意見を消化し
自分の書き込んだ物を見直す位でないと・・・
10太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 07:09:25
>>8
舎人らは官僚様式での奏上も考えているから、当時流行の干支とかを使って
付加的記述をして行き、原書群の記述を干支とかで書き直して紀を完成させて
行ったことは充分言えることだ。

例えば古事記の英訳があり、英訳だから記が日本の古代を写していないとは
言えない。英字は後付けだが充分古代史を日本語漢字とかでなく記の内容
を欧米等に伝えることは可能である。記紀が漢字書きだから駄目だとか干支
だから駄目だとかいうのは後付けを無視し結論を短絡的に決めたお前の失敗。
こんなんで論破になんない。

実際お前も記紀にないアラビア数字を使っているが、これでも記紀の解説は
ちゃんと出来うる。そのように舎人らも原書群にないかも知れない干支を
使って紀を記述しても、彼らより以前の古代史は後代にちゃんと伝えられる。
干支は60数の代役だから古代の数字は保全出来うる。
11日本@名無史さん:2007/08/30(木) 07:26:07
歴史学的知識や見識の否定と皇室崇拝、記紀原理主義などが太国さんや唐松山さんたちの頭にあるので
一般の方々とは相入れないのでしょう。恣意的なロジックも彼らが一生懸命考えた成果なので頭ごなし否定は
不愉快以外の何物でもなく怒りの矛先を批判の意味すら理解不能なのが当面の問題かと…
12太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 07:48:32
>>10 続き
古代マヤ文明のコデックス等古文書も、当時マヤにないアラビア数字で現代の
紀の編者らに相当する学者編連が解読を試みて我々一般人がその古文書等の意味
を知ることが出来ている。

古代マヤのハアブ暦たる365日暦は20×18での余り5を加えた暦法であり、これ
などはその学者編連がマヤ神聖文字からアラビア数字に変更して現在一般人が
即刻理解できるように解説本が出ている。同マヤの1.4倍暦のツォルキン暦も
20×13での変動による暦法であり、いわばお前の出した大陸の12×10の干支に
双方の暦が数字が若干違えど似たようなことをやっているわけである。アラビア
数字で立派にうちら現代人が古代マヤ古文書等を正確に読み伝えが可能となって
おり、これらはマヤ研究家学者編連の功績なのである。紀の原書群を干支に変え
たところで、アラビア数字の取替えと同様古代の数字は舎人かうちらに正確に
伝達できる。これも舎人ら編者連の功績である。

ところがこれから1000年も経過して未来人がこれら解説本がマヤ文字の数字
でないアラビア数字で古代マヤの記録解説をしてるから当時マヤにはアラビア
数字は伝わっておらず、これらマヤ解説書は古代マヤの暦を正確に伝えられ
ない定規とコンパスの三分割に相当する主張だというのが未来人となるお前
なわけさ。お前はいかに単純な豆脳の人物かが察知しうる。w
13太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 07:53:07
>>11
エジプト学者の吉村教授は古代エジプト神で解説してるぜ。教授の
信仰とは言えない。教授も同神々を尊重はしてるだろう。
そういうやり方でないと古代エジプトの真相がぼけるんだよ。
古神道は朝廷の神々だから、これを使わずやってると古代日本の真相は
闇雲になる。
14日本@名無史さん:2007/08/30(木) 07:55:54
七支刀の事だけど
故宮崎市定先生著「謎の七支刀」(中公)は名著と思う
結論には異論も有るけど
15太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 09:38:55
>>12 続き
訂正  × 豆脳    ○ 頭脳

古代マヤの暦法は現在アラビア数字と英字で利便のための記載がなされて
いる。例えば 8バクトゥン1カトゥン3トゥン6ウィナル3キン ならば
8・1・3・6・3などと書かれたり、ある暦字にはG1G2G3・・・など
英字が入る。こういう記載の研究書、論文が1000年後とかになると、古代マヤ
ではマヤ文字の使用でありアラビヤ数字はなかったからこれらの論文は当時の
マヤの歴史が真に伝わっておらず出鱈目だと言い出すあいつのような奴が必ず
現れて来るであろう…
16日本@名無史さん:2007/08/30(木) 11:02:12
とりあえず大雑把にいこうじゃないか。
5CW期(476-500)生→6CT期(501-525)活→6CU期(526-550)没 継体世代・今城塚
5CV期(451-475)生→5CW期(476-500)活→6CT期(501-525)没 仁賢世代・ボケ山
5CU期(426-450)生→5CV期(451-475)活→5CW期(476-500)没 雄略世代・岡ミサンザイ・稲荷山鉄剣・倭王武
5CT期(401-425)生→5CU期(426-450)活→5CV期(451-475)没 允恭世代・市野山・倭王済
4CW期(376-400)生→5CT期(401-425)活→5CU期(426-450)没 仁徳世代・百舌鳥古墳群・倭王讃
4CV期(351-375)生→4CW期(376-400)活→5CT期(401-425)没 応神世代・古市古墳群・好太王碑文
4CU期(326-350)生→4CV期(351-375)活→4CW期(376-400)没 仲哀世代・津堂城山・七支刀招来
4CT期(301-325)生→4CU期(326-350)活→4CV期(351-375)没 成務世代・佐紀古墳群・纒向→河内の過渡期
3CW期(276-300)生→4CT期(301-325)活→4CU期(326-350)没 景行世代・渋谷向山・倭建伝説(三角縁の伝播)
3CV期(251-275)生→3CW期(276-300)活→4CT期(301-325)没 垂仁世代・宝来山・纒向宮・狭穂彦の乱
3CU期(226-250)生→3CV期(251-275)活→3CW期(276-300)没 崇神世代・西殿塚・四道将軍(定型古墳・布留式伝播)
3CT期(201-225)生→3CU期(226-250)活→3CV期(251-275)没 <ヒミコの時代>・箸墓古墳築造へ(時代の画期)
2CW期(176-200)生→3CT期(201-225)活→3CU期(226-250)没 <ヒミコの時代>・魏への遣使
2CV期(151-175)生→2CW期(176-200)活→3CT期(201-225)没 プレ遣魏期・庄内式(この頃纒向石塚築造か)
2CU期(126-150)生→2CV期(151-175)活→2CW期(176-200)没 倭国大乱→マキムク形成世代(弥生終期へ)
2CT期(101-125)生→2CU期(126-150)活→2CV期(151-175)没 弥生時代後期(倭国大乱以前・マキムク以前)
17太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 14:24:05
紀の神功52年の七枝刀と石上神宮のそれとは別物だと思う。
18太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 15:10:10
【倍歴計算略表 1】西紀は倍歴計算による実年代 下から逆さに見ます。

皇紀     西紀
1200庚申  540庚申  欽明元年 用明誕生
1199己未  539己未  欽明即位 宣化崩御
1198戊午  538戊午  仏教伝来 敏達誕生
1196丙辰  536丙辰  宣化元年
1194甲寅  535乙卯  宣化即位 安閑崩御
1191辛亥  533癸丑  安閑即位 繼體崩御
1173癸巳  524甲辰  安閑立太子
1169己丑  522壬寅  欽明誕生
1157丁亥  521辛丑  繼體即位
1166丙戌  520庚子  武烈崩御
1159乙卯  513癸巳  武烈元年
1158戊寅  512壬辰  武烈即位 仁賢崩御
1154甲戌  508戊子  武烈立太子
1149己巳  503癸未  武烈誕生
1148戊辰  502壬午  仁賢即位
1147丁卯  501辛巳  顯宗崩御
1145乙丑  499己卯  顯宗即位
19太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 17:36:06
>>18 続き 【倍歴計算略表 2】西紀は倍歴計算の実年代 下から上へ読む

皇紀     西紀
1144甲子  498戊寅  清寧崩御
1142壬戌  496丙子  仁賢立太子
1140庚申  494甲戌  清寧即位
1139己未  493癸酉  雄略崩御
1138戊午  492壬申  清寧立太子
1117丁酉  471辛亥  稲荷山鉄剣銘文干支辛亥年と一致【雄略元年】
1116丙申  470庚戌  雄略即位 安康崩御
1114甲午  468戊申  石上神宮七支刀銘文泰□四年(泰始四年)【安康元年】
1113癸巳  467丁未  安康即位 允恭崩御
1110庚寅  464甲辰  顯宗誕生 繼體誕生
1109己丑  463癸卯  仁賢誕生
1104甲申  458戊戌  清寧誕生
1078戊午  432壬申  雄略誕生
1072壬子  426丙寅  允恭即位
1070庚戌  425乙丑  反正崩御
1066丙午  423癸亥  反正即位
1064甲辰  422壬戌  履中崩御
1060辛子  420庚申  履中即位 反正立太子 安康誕生

履中〜反正2倍歴、允恭〜武烈1倍歴、繼體〜宣化2倍歴、宣化元年以降1倍歴
20日本@名無史さん:2007/08/31(金) 07:12:51
うーんそんなにもびしーっとツジツマあっちゃうもんなんですかねえ…
21太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/31(金) 08:01:12
>>20
雄略元年に即位を記念してか、関東へもたらされた鉄剣ではないかね?

雄略元年、安康元年に合わせて倍歴を構想してはいません。倍歴をいろいろな
角度から考えてこうだと判断して神武まで遡り、あとで考古関係の出土の
干支年号を調べたらどうやら元年に合致してたので、辛亥は元年で正解の
ようだと想うようになったのです。
履中以前は後で・・・。
22太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/31(金) 11:10:31
>>19 続き【倍歴計算略表 3】西紀は倍歴計算の実年代 下から上へ読む

皇紀     西紀
1059己亥  419己未  仁徳崩御
1027丁卯  409己酉  武内宿禰没
1003癸卯  401辛丑  履中立太子
1002壬寅  400庚子  允恭誕生
996丙申  398戊戌  反正誕生
979己卯  393癸巳  履中誕生
973癸酉  391辛卯  仁徳即位
970庚午  389己丑  應神崩御
930庚寅  376丙子  應神即位 庚寅←繼體即位丁亥を倍歴辛丑取替1倍逆算
929己丑  375乙亥  神功崩御
917丁丑  371辛未  仁徳誕生
863癸未  353癸丑  應神立太子    (倍歴では皇紀861年と同年)
861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
860庚辰  352壬子  仲哀崩御 應神誕生
853癸酉  345乙巳  神功立后
852壬申  344甲辰  仲哀即位
850庚午  342壬寅  成務崩御
838戊午  338戊戌  仲哀立太子
830庚戌  336丙申  神功誕生
791辛未  323癸未  成務即位
23太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/31(金) 11:50:43
>>18 訂正
×1194甲寅 宣化即位      ○1195乙卯 宣化即位

×1157 繼體即位     ○1167 繼體即位
よって宣化から暫定1倍歴で欽明から恒常1倍歴(通常歴)

佛伝で通常歴が決定的となり、2倍歴の宣化へ少し遡り、1倍歴でのやり直し
修正で、恒常的通常歴へ移行したと想います。
24太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/31(金) 15:55:03
>>19 訂正
×1064甲辰 履中崩御
○1065乙巳 履中崩御



×1060辛子 420庚申 履中即位 反正立太子 安康誕生

○1061辛丑 420庚申 反正立太子 安康誕生(倍歴では皇紀1060年と同年)
○1060庚子 420庚申 履中即位        (倍歴では皇紀1061年と同年)
25太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/31(金) 16:49:40
>>22 続き【倍歴計算略表 4】西紀は倍歴計算の実年代 下から上へ読む

皇紀    西紀
790庚午  322壬午  景行崩御
781辛酉  318戊寅  成務立太子
773癸丑  314甲戊  日本武尊没
769己酉  312壬申  仲哀誕生
744甲申  299己未  成務誕生 武内宿禰誕生
742壬午  298戊午  日本武尊誕生
731辛未  293癸丑  景行即位
730庚午  292壬子  垂仁崩御
668戊辰  272壬辰  景行立太子
648戊申  265乙酉  景行誕生
632壬辰  260庚辰  垂仁即位
631辛卯  259己卯  崇神崩御
611辛未  252壬申  垂仁立太子
592壬子  246丙寅  垂仁誕生
569己丑  238戊午  天照大神宮成る 鏡剣を同床共殿 景初2年
564甲申  237丁巳  崇神即位 【景初元年】

崇神垂仁3倍歴、景行2倍歴、成務3倍歴、仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴
26唐松山:2007/08/31(金) 21:09:09
太国さん 早く 百姓の出来る 暦の読み方を 考えてください。
今のままでは、どんなに 正しくても 相手に出来ません。
27太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/31(金) 21:48:56
>>26 唐松山さん
暦の詳細は、結局各年12ヶ月中欠損月が各天皇世にそれぞれの特色を出し
ながら造っていたらしく、さらに日数も月後半以降は無しの状態が各世で有って
異なったりして複雑だったようですから、現今の記紀等くらいでは資料不足で
まず正確に神武まで現出させることは不可能だと考えております。

通常の研究家は当時12ヶ月が12か月分全部在るという考えで天体の位置を
定めようとしたりしているようですから、こういう空亡の月が複雑にあるん
だということを確かめないで倍暦も無考慮でやっているようですから、合って
いるようで、まず合っていないと想いますよ。

それともいい方法があるんですか?
28日本@名無史さん:2007/09/01(土) 01:42:45
>>18
何だこれは
ちっとも対照表になってないよ
継体-宣化元年は2倍暦だそうだから
この3年を見てみよう

太国さん書き込み

皇紀     西紀
1196丙辰  536丙辰  宣化元年
1194甲寅  535乙卯  宣化即位 安閑崩御
1191辛亥  533癸丑  安閑即位 繼體崩御

これを以下に書き直す
皇紀(西暦)     西紀(太国暦)
1196(536)丙辰   536丙辰  宣化元年 ←太国説・書紀記載も同一
1195(535)乙卯   535乙卯  宣化即位 安閑崩御 ←太国説・書紀記載も同一
1194(534)甲寅
1193(533)癸丑   533癸丑  安閑即位 繼體崩御 ←太国説
1192(532)壬子
1191(531)辛亥         安閑即位 繼體崩御 ←書紀記載

これで解るように太国さんのしたことは書紀の記載を根拠無く移動しただけ
もっともらしく見せるためか?今では使われて無い皇紀だとか西紀(西暦?)なんて怪しげな言葉を使っているだけ
このどこが2倍暦なの?
第一干支の処理はどうするの?
まさか倍暦時代はひとつの干支に2年分割り当てたと言うじゃあるまいな?


29日本@名無史さん:2007/09/01(土) 02:03:44
28です
1194(534)甲寅         安閑即位 ←書紀記載
1191(531)辛亥         繼體崩御 ←書紀記載
に訂正します
スミマセン
30日本@名無史さん:2007/09/01(土) 02:09:19
また倍暦電波かよw 似たようなスレばっかり立てんな
31日本@名無史さん:2007/09/01(土) 02:29:40
七支(枝)刀の話をしよう
32日本@名無史さん:2007/09/01(土) 06:03:35
太国さんよ
暦法みたいな数理的方法をとるとボロがでるばかり
むしろアナログ的に信念を吐露して思い込みを書き込んだ方がいいのでは
その方が賛同者が多くなるなる様な気がする
俺もその方が応援できる
33日本@名無史さん:2007/09/01(土) 06:11:01
28=33
34日本@名無史さん:2007/09/01(土) 06:15:12
×28=33
○28=32
35太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/01(土) 06:49:22
>>28
訂正したつもりですが、拙者のノートの記載方法がうまくなかったため誤り
記憶もあって解説に間違いが入って書きこんだので誤解を与えてしまったよう
です。

宣化元年から通常暦というのは書きこみの間違いで、宣化即位から通常暦です。
ただ当時宣化年間も2倍歴でやっていたのが、佛伝により暦法を変えようとして
宣化即位然へ遡って通常暦に取替えたんではなかろうかと、今のところそう観て
おります。

そういうことで宣化元年からというのは説明の誤りであり、宣化即位から
通常暦となったと訂正します。貴殿は根拠がまるっきり無い言い方をしていま
すが、過去スレで少ないながら論述はしていますよ。
研究の当初おおまかの基準は佛伝により恒常的に通常歴になったと睨んでいま
した。が、その年からの倍歴廃止ではなく一寸宣化即位の1195に遡って通常歴
にやり直して施行したのだと観ております。

>>32
ボロがあるなら具体的に言ってくださいよ。
36太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/01(土) 14:20:02
>>18の訂正を今一度、下のとおり。これより後代は通常歴です。

×1194甲寅  535乙卯  宣化即位 安閑崩御

○1195乙卯  535乙卯  宣化即位 安閑崩御


×1157丁亥  507辛丑  繼體即位

○1167丁亥  507辛丑  繼體即位
37太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/01(土) 14:21:50
>>36
これより後代とは、宣化即位より後代への意味です。
38太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/01(土) 14:56:57
>>25 続き【倍歴計算略表 5】西紀は倍歴計算の実年代 下から上へ読む

皇紀    西紀
563癸未  236丙辰  開化崩御
531辛亥  220庚子  崇神立太子
513癸巳  211辛卯  崇神誕生
504甲申  207丁亥  開化即位
503癸未  206丙戌  孝元崩御
468戊申  195乙亥  開化立太子
453癸巳  190庚午  開化誕生
447丁亥  188戊辰  孝元即位
446丙戌  187丁卯  孝靈崩御
406丙午  173癸丑  孝元立太子
388戊子  167丁未  孝元誕生
371辛未  162壬寅  孝靈即位
370庚午  161辛丑  孝安崩御 孝靈黒田宮徒御
344甲辰  153癸巳  孝靈立太子
319己卯  144甲申  孝靈誕生
269己丑  128戊辰  孝安即位
39太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/02(日) 07:35:01
>>38 続き【倍歴計算略表 6】西紀は倍歴計算の実年代 下から上へ読む

皇紀     西紀
268戊子  127丁卯  孝昭崩御
253癸酉  122壬戌  孝安立太子
234甲寅  116丙辰  孝安誕生
207〜9   107丁未   倭面土国王帥升生口献上
186丙寅  100庚子  孝昭即位
184甲子   98戊戌  懿徳崩御
172壬子   92壬辰  孝昭立太子
155乙未   84甲申  孝昭誕生
151辛卯   82壬午  懿徳即位
150庚寅   81辛巳  安寧崩御
123癸亥   68戊辰  懿徳立太子
113癸丑   63癸亥  安寧即位
108戊申   58戊午  懿徳誕生
107丁未   57丁巳  漢委奴国王光武帝から金印を賜る
104甲辰   54甲寅  安寧立太子
84甲申   34甲午  安寧誕生
80庚辰   30庚寅  綏即位

綏1倍歴、安寧懿徳2倍歴、孝昭〜孝元3倍歴、開化2倍歴
40太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/02(日) 10:31:44
>>39 続き【倍歴計算略表 7】西紀は倍歴計算の実年代 下から上へ読む

皇紀    西紀
79己卯  29己丑  綏、手研耳命を討つ
76丙子  26丙戌  神武崩御
42壬寅  14甲戌  綏立太子
29己丑  10庚午  綏誕生
【元】辛酉 【元】辛酉  神武即位
前7甲寅  前7甲寅  神武近畿へ出発
-37甲申  -37甲申  神武立太子
-51庚午  -51庚午  神武誕生

神武3倍歴、神武崩御〜綏即位1倍歴
41太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/02(日) 10:55:52
>>40 追加
神武誕生〜神武即位前は通常歴です。さらに誕生以前はもっぱら不明です。
先に訂正しましたが、念のため
 宣化元年1196から後代を通常歴としましたが、
 宣化即位1195乙卯 535乙卯 から後代が通常歴です。(1194甲寅は誤記)
  即位手前の2倍歴とで接続となります。
42唐松山:2007/09/03(月) 12:11:24
太国さんへ つまり こういうことですよ
太国さんの 西暦を 年齢に直しても 書紀の年齢に戻せない。
百姓の出来る 暦にも 直せない。

だから 私は、倍暦をあきらめて 増し で考えているのです。
とっつきにくい お姉さまの 方に書き込んであるので 其方も参考に
増し で年齢も考える(西暦は、おいといてね まだ狂いが在る)
増前=即位までの増し=前の天皇の世継ぎ誕生以降の 増し(前の天皇の 増後)
増中=即位から世継ぎ誕生までの 増し
増後=世継ぎ誕生から死亡までの 増し
増=其の天皇の時代に行われた 増し(中+後)
実年齢に加えたものが 書紀の年齢
天皇     誕生    即位 世継ぎ 死亡  増前  増中  増後   増   増総合計
崇神天皇元年 西暦182年 4才 19才 28才 前48増 中11増 後32増 計43年 合計91年
垂仁天皇元年 西暦201年 10才 16才 32才 前32増 中11増 後65増 計76年 合計108年
景行天皇元年 西暦218年 16才 20才 38才 前65増 中1増 後37増 計38年 合計103年

考査途中ですが  いかがですか

 追加 神武は 60才の 子作り?
43太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 14:01:00
>>42 唐松山さん
自説のここは確かにおかしいです。よく見つけてくれました。倉西氏以来の
指摘です。以前別件で似たことを彼女にも言われました。ここは間違いですな。、
気が付かなかったですね。再検討します。出版はしようとしないでよかっ
たです。

記紀の127歳と137歳でしたか、相違がよく説明できてるので合ってると思って
ましたよ。神武以前、研究がいい加減だったようです。
44太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 14:28:45
神武即位前では拙者はもう白旗ですね。即位後〜崩御までは1〜4月までしか
記録がないのに、即位前はほぼ全月あり、しかも月末の日数も少々あり
ますからアウトです。60歳で出生ではおかしいですからね。
九州時の記録が混じっているから九州と畿内の暦法の相違があったのか?
再検討します。
45太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 15:20:31
>>42 唐松山さん
倉西さんは倍歴で綏安寧懿徳の親子関係の歳数の矛盾を指摘して、倍歴を
捨てたのです。
貴殿は今の神武の60歳位での子造りの歳のおかしいのを指摘して、彼女と同様
倍歴を捨て去るおつもりですか? 拙者はまだ望みを捨てておりません。

今回の神武即位前に関しては今のところ白旗ですが、即位前は倍歴ではなくて
通常暦での論の展開でおかしいとなったわけですから、そこんところを倍歴に
て考えれば説明がつく可能性はまだあると想います。

神武の場合は崩御直後に倍歴から通常暦に戻したとみており、他の天皇の場合
は即位、元年で倍暦の改正をやったと想っておりますから、神武の場合は
いささかやり方が違う特殊のような気がしますので、即位前も通常暦と倍歴の
変更をやって即位年まで来てることは相当考える余地があります。

だから畿内へ出発後通常暦をやっていたことは濃厚と考えますが、出発前は
九州と土地が違いますから、ここで倍歴をやっておれば神武は60歳位で綏を
設けたことにならず、もっと若くして不自然な歳でない時に綏を設けた
可能性は相当程度言えると想います。

そこで今日から再度そこを倍歴で新規に年表をこさえて合理性があるか考え
てみますよ。

貴殿の>>42ほかの今までの解説は相当難しく、なるたけ易しく解説を願います。
百姓の暦云々とおっしゃっておられますが、この前申したように1年が12ヶ月
まるまるあるんなら、また1ヶ月がまるまる30日ばかりあるんならそれは
出来えましょうが、やはり空白の月日が各年代で仕様を変えて造って暦法を
使用したと観ていますので、詳細を定めようとするのは紀年法よりも極めて困難
な不可能事だと想いますが? 無理・・・どう、いかがですか?
46唐松山:2007/09/03(月) 16:42:36
太国さんへ

とりあえず 書紀の朔で 皇暦の年表(と言うより月表)を作る。
そうすると 諸処に大きな空白があります この空白を圧縮したのでは, 年齢等
綺麗に 処理できません 当然 百姓のできる暦にもなりません。

そこで この空白を 記年上の ダミー(増し) と仮定し 差し引く
このように 考えているわけです。

書紀は、19年7閏法で 書かれています。 そこで19年7閏を一つの単位と成っていますから
書紀から 19年7閏を 引く 干支は、日々の干支まで其の分変わるが 19年7閏法に変化なし

ほつま では 天皇の代替わりの時 新暦を用意しています 書紀の 太歳かも
是歳哉=増し では無いか
年号を用いなかったこの時代 新しい暦 の意味は?、以前の暦との繋がりは?

各天皇の 治世の 空白を 増しと考えて 差し引く
これで 暦法と矛盾しないか? 世継ぎは? 対外記事とは? 
そして 全体の長さは?

単純な 引き算を行うだけなので年齢に狂いは,生じませんが 世継ぎが難しい
現在 書き込みをしているものは、最も短く診た物であり これ以上 短くできないと思います。

引き伸ばされた 書紀記年を 最大限 圧縮した物だと思います。


47太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 18:02:43
今日やってみます。紀の編者らは神武即位が元々辛酉年だったことを原書から
確信していたんではないかと推察しております。がしかし、どうしても合わない
ことから神功39年も含めて年代の割り当て調整をやりながら前660年相当の辛酉
年を選ばざるを得なかった。知っていたからこそ前660年にゴリ押しし、ついには
えらく先代に神武即位が行ってしまい、結果的に引き伸ばした状態になって
しまったということです。それがしはそう観てます。

どうやら春秋暦とやらか日向のほうでは倍暦があった可能性を想うように
なりました。今後は桃裕行さんの書を研鑚しますよ。
48太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 19:47:04
>>42>>46
ただいま神武らが3倍暦を九州で施行していたとすれば、神武誕生はB.C.22年
で神武が32歳のとき神沼河耳尊が誕生したことになり、23歳で即位、48歳で崩御
となって合理性は保たれることになります。このような計算となりました。
今度は2倍歴でやってみますわ。
49日本@名無史さん:2007/09/03(月) 19:53:44
ああ、やっぱ太国の世界になっちまってたか。orz
50日本@名無史さん:2007/09/03(月) 20:47:41
別に秀吉は60歳で秀頼をもうけているのだからおかしくもなんともないのだけど?
変なところにはこだわりがあるな
51太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 21:46:32
う〜ん、ごもっともですがね? 何とも〜?w
まぁ可能性としては少ないんではあるまいかと思うんですが、貴殿のおっしゃ
ることも小確率と観てはありえますが〜。
190cm以上の大男だったのは秀頼ですか英次ですか?
52太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 21:47:46
>.51 訂正 ×英次   ○秀次
53日本@名無史さん:2007/09/03(月) 21:51:39
家康も60歳以上で子供を作っているしな
権力者は死ぬまでHにはしるのは普通
しかし3倍暦は異常 以上!
54太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 21:58:09
>>53
貴殿は3倍暦を異常と言っておられますが、似たような経験を貴殿も
してるはずですよ。小中高校で1学期2学期3学期の3分割で実での
一年を12年も過ごしておられるでしょうがね? その1学期分が当時の
1年ですね。今の一年はそのころの3年分計算ですよ。
55日本@名無史さん:2007/09/03(月) 23:16:28
3倍暦も考えられるなら、4倍暦も有り得たりするのかな?

これは愚問過ぎましたかな。
56日本@名無史さん:2007/09/03(月) 23:28:57
1/2暦でもいいよな
57日本@名無史さん:2007/09/03(月) 23:42:49
少なくとも1世紀末から2世紀前半を3倍暦にしちゃ駄目ダーメだろ
2倍暦なら分かるが・・・やり直し!
58日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:19:39
コピペ申し訳ないが

日本史板のコテハン
複数のコテハンを使っているヤツがいるのはミエミエ
マナー違反が横行してる
IDを導入すべきでは?
59ルパン:2007/09/04(火) 07:29:40
>>58
酸性!
60太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 07:58:19
>>48
神武即位前の出発前を2倍歴でやってみますと、誕生はB.C.29年、即位30歳、
39歳で神沼河耳尊誕生、55歳崩御となります。
今後さらに検討します。
>>55
サガミハラハラ氏が4倍暦を主張していましたが、拙者は神武即位後は採用
してないと思います。
>>56
1/2倍歴はいまのところ論じた方は2ちゃんでは見てませんし、そういう
主張の具体的論を見たことはないです。神武即位以後ではやってないと思い
ますが・・・。
>>57
あんたは小中高校へ行って3学期制を2学期制にするよう文句を言いに行っ
らどうだい?
61日本@名無史さん:2007/09/04(火) 08:15:45
2倍暦なんてあるわけないやん。
同じ季節が隔年でしかやってこないなんて
そんなアフォなw
ましてや日本は四季があるのに。
62サガミハラハラ:2007/09/04(火) 08:17:42
私は4倍暦を主張していません。2倍年暦を2倍にしているとは首長しています。
記紀の編者は皇紀を古い時代に遡らせるために、ひきのばしたのです。
63太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 09:23:18
>>51
古代マヤ文明アステカ文明エジプト文明も1.4倍暦をやってますよ。だから
2倍暦法は充分言えますね。大祓祝詞も6月で区切ってますから2倍歴の行使
は可能です。
>>62 サガミハラハラさん
この前、確か4倍暦とか他のスレで言ってたようですが・・・?
遡らせる理由は何でしょうか?
64唐松山:2007/09/04(火) 09:50:39
昔使われていた正しい暦  
書紀が 其れを延長した

倍暦で正しい 物に直した

それでは, 直した暦から 書紀が作れるか?
書紀が作れなければ、  間違いがあります。
65唐松山:2007/09/04(火) 17:50:38
太国さんへ

年齢を 再現してみましたが 合わないんです。
66唐松山:2007/09/04(火) 18:02:08
つまり
太子誕生までの 倍率と
その後の  倍率が 違う ということなんですよ
これ以上 分析できませんので 此処までですが。
足し算 だと クリアーできますが。
67太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 19:08:01
唐松山さん
神武の件ですか?出発〜即位手前までは通常暦としかいえませんので。
それでの計算ですが〜。
出発手前〜誕生は3倍、2倍でやってみまして先述の各数字の歳となっています。
68サガミハラハラ:2007/09/04(火) 19:29:33
遡らせる理由ですか?自国の歴史が古いほど自慢できるからでしょうか?
最初の犯人は聖徳太子かもしれないと仮定して検証をはじめています。
69唐松山:2007/09/04(火) 19:36:17
神武じゃない
神武は,今回 見ない

その他の天皇の西暦から 年齢を割り出して 倍率を掛けただけ
いい年の天皇が なかなか子作りをしないのも 置いといて
ただ 年齢に倍率を掛けるだけ。
書紀の年齢にならない。 多少の誤差は,目を瞑っても 合わない。
70唐松山:2007/09/04(火) 20:10:32
サガミハラハラさんも
人事でなく 自分の歴年を 書紀の歴年に直してみた方が良いですよ。
其の方法が 編纂当時使われたか?も含めて。
71太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 20:43:59
>>69
唐松山さんはそれがしの表を見てどんな計算の仕方をしたんだろうか?
あれは略表だからやりにくいか誤計算になってしまったのか、ちょっと
見当がつきにくい。困らせてしまったのかね?m
72唐松山:2007/09/04(火) 21:30:36
たとえば 景行
265 0才
293 28才*3=84才=>81才
322 29才*2+84=142才=>141才
まあ良い
崇神
211
237 26*3=78才 まあ良い
259 48*3=144才 137才 どうしよう
開化も 死亡時 138才  111才
誤差が大きすぎないか? これで書紀に戻せるか?

73唐松山:2007/09/04(火) 21:52:28
たとえば 景行
265 0才
293 28才*3=84才=>81才
322 29才*2+84=142才=>141才
まあ良い
崇神
211
237 26*3=78才 まあ良い
259 48*3=144才 137才 どうしよう
開化も 死亡時 138才  111才
誤差が大きすぎないか? これで書紀に戻せるか?

74太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 22:55:59
略式なのですまんですが、何か計算間違いがありませんか?
合ってると思いますが・・・。

崇神は3倍暦にて
 皇紀513年誕生(西暦211年)
 同 531年立太子(同220年)←紀の開化28年19歳
 同 564年即位(同 237年)
 同 631年崩御(同 259年)←紀の崇神68年の120歳

開化は2倍暦にて
 皇紀453年誕生(西暦190年)
 同 468年立太子(同195年)←紀の孝元22年16歳
 同 504年即位(同 207年)
 同 563年崩御(同 236年)←紀の開化60年、一云・・・115歳では4歳ズレ

開化の一云・・・115歳は誤説でしょう。立太子と即位年から111歳です。
75図書頭 ◆l9FS/7L692 :2007/09/05(水) 06:49:06
七支刀は大仙陵古墳の被葬者に送られたものと考えると
神功52年は432年になる
76太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/05(水) 07:50:33
>>75
ちょっと理由が説明不足です。詳細をどうぞ。
なお432年はそれがしの計算で雄略誕生年の算出です。仁徳崩御419年の算出
から432年は13年後ですから10年ばかりで陵を造成できれば数字が合って
きますが・・・。
77日本@名無史さん:2007/09/05(水) 14:11:44
78唐松山:2007/09/05(水) 20:02:32
こちらを少しぐらい使えないか?
『白河本旧事紀』の「天皇本紀」
孝昭天皇
皇太子、天皇の位に即(つ)く。時に年し三十二
大物主大神出現し、...曰く。我れ神代より已来た、三諸山に在て、
国家を衛護(ゑいご)すること既に久しかりぬ。...
則ち国家威(い)からず。国主、寿(ながいき)せず。国穀、登(みの)らず。国民、
穏(おだ)やかならず。国賊、熄(や)まざりぬ。是(これ)に於て、...

天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。
然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、此れ聖徳(せいとく)の然(しか)らしむる所ろなり。

国主(天皇) 長生きせず
考昭 ママーおっぱい状態
私のほうは 国主長生きせず なんですが
考昭 11才  見直し必死
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/05(水) 20:42:40
>>78
倍暦の間違いでしょう。孝昭誕生から孝昭即位の前年までは孝昭ではなく懿徳の
時代であり懿徳の暦法の時代ですから、3倍暦ではなく2倍暦計算です。
だから孝昭即位時は孝昭は11歳ではなく、17歳です。
80唐松山:2007/09/05(水) 21:30:41
考昭は、安寧の子供であり 懿徳2年の生まれ。
書紀の朔を使いながら此方で 白河本旧事紀 又は,ほつま で考えています。

長所 書紀より 記年を短く出来る。?
天皇家の血液の濃さは,短命 に傾くと思います。
血液の薄い 武内宿禰の方が,成務より 長生き。
日本武尊も怪我の為,よりも 病気のせい? ではないかと。
血液の濃さは,双子,三つ子 だけとは思えません。
81太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/05(水) 22:21:05
紀の18歳立太子から、孝昭誕生は実年計算で懿徳3年の算出でした。
西暦84年になります。
神武の出発前は2倍暦か3倍暦かはいまのところ分からんです。
82日本@名無史さん:2007/09/06(木) 04:37:06
コテハンの人たち
トンデモ物語もいいが少しは学問的な話をしてくれ
即ち結論をいう時は少しは根拠をだせ
七支刀の話でもしてみろってんだ
妄想ヤロウどもが
83図書頭 ◆l9FS/7L692 :2007/09/06(木) 07:02:43
>>76
まず、記紀の神功と仁徳は同時代です、たとえば建振熊命が両方に見えるのが証拠になるでしょう。
七子鏡は大仙陵古墳出土の可能性があるので七支刀もこの被葬者に関係があると考えられます。
84図書頭 ◆l9FS/7L692 :2007/09/06(木) 07:11:00
この考え方を用いると歴代天皇や武内宿禰の異常な長寿を解明できるかも知れません。
85日本@名無史さん:2007/09/06(木) 07:38:30
>>82
ここはフトクニの妄想を語るスレで、真相を語るスレではございません
86太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 07:52:20
古代マヤ、アステカ、エジプトは1.4倍暦をやっていた。一部少数のマヤ地方の
住民は今でもまだ使っているという。2倍暦等が存在するのはおかしくはない。

ついでフランス革命頃は1日が10時間で1時間が100分とかでやっていたそうで
あり、その時計も作る算段をしていたという。さらに現今でも学制は1学期
2学期3学期の3倍暦制と同類を実施しており、事例もちゃんと存在する。理由
なしの否定はここでは必要はない。
87日本@名無史さん:2007/09/06(木) 08:01:45
理解不能です
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 08:16:43
>>87
古代マヤでは1年が260日でやる暦法があり、1.4倍暦に相当する。

古代アステカは現在開催中の東京上野の国立科学博物館でマヤに
似た260日暦の展示があり、やはり1.4倍暦であった。

古代エジプトは前2772年以降は1年が265日の暦法の話であり、マヤ
アステカとはいささか異なるものの1.4倍暦である。これは去年だったか
TV6chの世界不思議発見で放映されていた内容である。
89 ◆16/YXRFBRM :2007/09/06(木) 10:25:34
どうして260日/1年なのか説明できないと意味不明じゃね?
90太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 11:21:53
マヤはもうひとつの暦法は通常暦で1年が365日だが、先述の暦法は1年が
260日で双方並行で使用している。後者は占い用か、儀式暦でツォルキン暦、前者
は農作用だろう、ハアブ暦という。他にもマヤはうんと暦法がある。
どうしてかって? それは専門書かググれ。
91唐松山:2007/09/06(木) 15:25:40
太国さん
やはり 今の分解能では,書紀にならない。
確実に抑えたい ポイント のみでも 正確に再現できなければ、後は,...判るでしょ

正確に、圧縮出来て、しかも 再現できる方法は, 増し 以外考えられません。

しかも 1年は,ちゃんとした1年 もう一度説明します。 暦とは,1年1年の積み重ね、
つまり次の式で表されます。
暦=1+1+1+1+1+1+1+1+1...
このように著されます たとえば 実際の長さは、500年 書かれた書物は,1000年
これをヒトくくりにして 1000割る2 としたのが 倍暦 簡単ですが,書物(支那)には出てきませんし、痕跡が見られない。
 間違いなんです。
増し の考え方は, この1000 から 1つ1つ合計500を引く どの1がダミーか書物には書かれていませんので
空白の1年をダミーとみて 19年7閏 を壊さないように 縮める。
こうすると 干支以外 全ての物が 再現できます。又は,再現できるように、ダミーの1を引く
倍暦で19年7閏を再現 不可能です。挑戦しますか?
書紀は、19年7閏で書かれていますので これを再現できない方法は, 誤り。
 だれからも支持されない 1年の長さだけでなく また一つハードルが高くなりました。
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 15:58:23
とにかく神武〜宣化欽明までの時代は欠乏日欠乏月があって各世が違って
いるようですから、紀の編者らがその19年7閏とやらで逆算で年代の割振り
をしていたとしても、当人らもこの空白日、月等が全部あるとしてやってたん
なら、その方法とやらでも合うことは困難でしょう?
拙者はその19年7閏を勉強するのはこれからですわ。桃さんの書にも書かれて
いるようです。こういうのもよく知悉していれば研究書でも出版してますが。w
まだアマチュアの域ですから暦の知識はまだまだです。紀と年表の内容の
にらめっこまでですから・・・。
93唐松山:2007/09/06(木) 16:13:40
簡単な話 倍暦とは,
各天皇の治世を推定しただけの代物であり 本物の暦の復原には,むかない。
其れが証拠に 1年1年の暦にも復原できない。
3倍とは言わず2倍でも復原出来ていない。
干支も 復原できない。
まだ 頑張りますか?
94日本@名無史さん:2007/09/06(木) 16:22:26
暦は、世界各国、太陽や月の動きに密接に絡み合っている。
暦は、もともと、収穫や祭りに使うためのもので、
毎年繰り返される季節や気候に合っていなければ意味のないもの。
中国大陸と密接なつながりがあった日本が、
太陽暦でも太陰暦でもない独自の暦を使う意味がない。
太国君は、いつまでやっているのかね?
95太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 16:33:45
無理ですよ。もともと記紀等しかない。それが1年がどの世でもまるまる365日
でやって12ヶ月がちゃんとあり、また1ヶ月もどの世でも30日ばかり充填されて
いるんならば、それは正確に神武までことごとくわかるでしょうが?

まず欠損月を朝廷はうんとこさえていますよ。だから紀の編者らが19年7閏で
自信ありげに神武まで正確に逆算式に出したつもりが、虚実の混合ですから
合ってはいないでしょう。むしろ月日よりも年を重視してやるほうが案外正確性が
保てると想いますが・・・。彼らは元年を決めて、以後年代を重ねて行くわけで
すから、倍暦が間違いなければ神武まで年代だけは求められる可能性は相当
あると思いますよ。

唐松山さんはそうはお思いにならんでしょうから、ご自身のお考えでなさるで
しょうが、こういうわけで日数月数閏から年数の確定はお勧め出来難いです。
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 16:37:05
>>94
教授さんですかな? またまたお出でになられたようで・・・。w
意味がないとか云うのは貴殿の恣意的、また自論を防備するための目論見
でしょう? アマチュアと云うと現れるんですかね?
97唐松山:2007/09/06(木) 16:45:08
空白日は,確かに在りますが 月の朔=29.5日
こちらは,空白は実であると主張しています。
これを強引に2ヶ月だ、3ヶ月だと主張しても 当時の文字を持たない民の支持も得られない
四季を割って2年にする事までは、強引ですが(支持率は非常に下がる)可能としても,
3で割る 誰も相手にしません。
では,3年を1年として計算する やはり民からも支持されない

出来上がった3倍暦を見ると天皇の 死亡年齢が高い
世継ぎ 誕生時の年齢が 高過ぎると思われる処がある(人事なのであまり深く追求できないが)
世継ぎ第一と見ると 妃を立てる 年齢が高過ぎる天皇も 
やはり 妃を立てる迄が長い天皇は,幼少である。 こちらの方が支持されるのでは,
98太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 16:52:56
>>97
2倍暦ではまだまだ天皇の寿命が長すぎる嫌いが感じられ、武内宿禰の
寿命なんかはこれではまだまだ武内ギネスと言われてもいいほど寿命
が長いことになります。だから2倍暦だけでは古代天皇らの超長寿は
説明できないと思います。3倍暦ですと説明が出来てきます。反対に
3倍暦だけでも不合理が出てくるようです。
ということは、古代では倍暦変更をやっていたのだと考えますね。

3倍暦は現行でも学制では1学期2楽器3学期とやってるんですから、
可能性は相当ありえますよ。
99太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 16:55:56
>>98 訂正
× 2楽器     ○ 2学期
100唐松山:2007/09/06(木) 17:11:59
太国さん 見方が違います
書紀には,朔と書いてあるのです 朔=新月 是は,古今東西, 変わりません

是を無視してしまうのが 太国さんの倍暦なのです。
だから書紀の朔(日数)を数える 年の数と言いますが、何処から何処までが1年であるか判らない
確かに四季は廻って来ますが,1年の長さは,民の知らない時代です。
それでも 朔=新月は、数えられる
細かい日にちも月を見れば,誰でも推定できる。
1年のポイント冬至は、判らなくとも 朔は、誤魔化せません。

書紀は、年でなく、朔で書かれた書物とも言えるのです。
暦のちゃんとした中国では,あまり朔を重視した 月日の表示に成っていませんが
日本の書物では,朔を重視している と考えられます。
101唐松山:2007/09/06(木) 18:17:01
もう一度書きます 皇暦から1月朔を求める式です。
皇暦1年=8777日=庚辰 に成るはずです。 途中で狂った時は,+1日追加
暦日=INT(INT((E49*365.24688+106)/29.53059+0.3)*29.53059)+8305
E49=皇暦
暦日の干支=CHOOSE(MOD((G48+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((G48+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
G48=暦日
倍暦でも 復原時これをクリアーできれば, 認めます。
1年の長さ 365.24688 変えても良い わずかな違いが出る 其の調整 106 変えると 閏の廻しが狂う
最後の 8305 1年を8777日にする為 干支が狂う 干支の式も変えれば可
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 18:44:36
>>100 唐松山さん
朔の重要性は分かりましたが、29.5日ばかりですか? 逆算していけばそれは
舎人らが決められるでしょうが、まるまる3ヶ月も空白でそれを知らずに逆算
で朔を決めてったらおかしくなりませんか?
もう少し精密な月の満ち欠けの数字を連中は知ってたでしょうが、原書になく
あるいはまばらの場合後付けして行くとなると狂うと思いますよ?

信用しないとまで言いませんが、用心したほうがよろしいと思いますが・・・?
年数の場合はさすがに空白虚無の年は作っていないと思いますので、年でやると
安全じゃないかと愚考しますが・・・?
103太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 23:23:18
紀の崇神六十二年、天皇が農事を勧めたこと記述されている。この天皇の時代
は3倍暦を行使しておるも、天皇がこれを勧めた日が7/2であり、2倍暦では
6/30が大祓いで半年の1年を締めくくる。7/2は2倍暦では年頭の第2日であり、
開化世の2倍暦を消極的にか残した名残りであり、朝廷は農事の2倍暦にこだわ
っていたと想うのである。

2倍暦と農事の関わりはその大祓祝詞を読めばわかるように、
「畦放ち、溝埋め」の田畑の境界線等を破壊することを天津罪として、その行為
を追いやることで、現今の半年での大祓いが、締めくくりにて1年相当として
いたと観る。大祓祝詞と農事はかように関わりあっているのだ。
104日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:52:02
コテハンども
ほんとに救い難いドアホ
主観ばっか
裏づけ脳内妄想
自作自演でオナニー
クソして寝ろ
105 ◆16/YXRFBRM :2007/09/07(金) 01:05:17
>>90
つまり太国にはよくわかんないのか?
マヤの例は天文学的知識の集大成的暦なわけで倍暦とはいえないようだけど
他所で例があれば日本でもあるのだ〜ってのが太国の主張なわけね
106太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 07:51:28
>>105
13×20=260日だよ。
イミッシュ、イック、アクバル、カン、チクチャン、キミ、マニック、
ラマット、ムルック、オック、チュェン、エップ、ベン、イッシュ、メン、
キップ、カーバン、エツナップ、カワック、アハウ
この20と13の日との構成だ。B.C.3113年からやっているらしい。これらの絵文字
は神事関係の意味のようだ。マヤの宗教からの暦法の単位だろう。
ほかに長期暦のバクトゥン、カトゥン、トゥン、ウィナル、キンの構成の
碑文がメインであり、他に短期暦、略暦、月齢暦、819日暦ほかまだまだある。
107 ◆16/YXRFBRM :2007/09/07(金) 22:47:27
まぁまぁ、もう必死にマヤの説明しなくてもいいよ
…って気になったんだけど

> B.C.3113年からやっているらしい

というのはおかしくね?マヤ文明はそんな昔から成立していたんですか?
108太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 22:56:13
>>107
どの解説書もそうだよ。B.C.3114年説もある。マヤ神聖文字解読でそれくらい
古いことが解明されているわけさ。
109 ◆16/YXRFBRM :2007/09/07(金) 23:41:27
暦が古いと文明の歴史も古いんだー、こりゃ勉強になるわ。
てっきり天文的紀元年を過去に遡って設定してるのかと思った。
110日本@名無史さん:2007/09/08(土) 00:29:11
向こうの647です。来ました。誘導有難う。長文すみませんでした。
とりあえず、ここの過去レスを何日かかけてゆっくり読んでみます。
111日本@名無史さん:2007/09/08(土) 05:08:53
太国さんらしいな
自分ではそう思ってるのかもしれないけれど
マヤ文明 紀元前1c頃より(文字あり、1年365日の暦あり)
      もう少し遡れる可能性はあるけど
      B.C.3000年代などありえない
インカ文明 古インカの伝説はあるが考古学的な証拠なし
       文明といえるのは11世紀以降
       縄などを使った記録術あり
       文字はなし
       暦はあったろうが詳細は不明

太国さん
トンデモ本ばかり読まないで百科事典でも読んだ方がいいのでは
つまりあなたの主張はデタラメ
意図的にやってない事を祈る
112太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 07:49:23
>>111
ありえない根拠を書いていないね。
トンデモ本ではない。お前マヤの研究書を全然読んでないな? どの書でも
そうだよ。今の今まで前3113年の反論はお前だけだよ。中村誠一氏や八杉佳穂氏
もそうだと肯定しているし、この数字は専門家同士の異説反論は日本史のと違っ
て全くないから、お前否定するとなると全専門家の説を間違いだと云ってるわけ
だから、それ以上の根拠がないとお前の恣意的妄想となるぜ。
インカは多田井四郎治氏の文字説論があるという。どういうんだか知らん?
113太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 07:51:34
>>112 年のため。
1年ズレの前3114年の反論説はある。これだけだよ。
114太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 08:15:55
>>110
お前のやった干支計算は正確なんだろうし、それで倍暦を簡単に否定して
いるようだから、それで8代の天皇の寿命はいかほどになったのかね?
まだならその計算を8代やってくれよ。ヒマがありそうだからな?
もい一度云うが、お前の計算で8代の天皇の寿命が殆んどみな百歳以上と出たら
お前はどうするんだ?www

ところで、それで頭をかかえるなよ。お前は8回サイコロの目が全部奇数だと
か全部偶数だとかの肯定をまるで100%のように強調するのを常態化を企み誤魔
化しているようだが、お前は14人とかひっくるめて言い出したんだから、
余の論は弱点が補填されたことをあっちのスレで認容したわけで、ここは
もうお前の白旗が確定とお前から自認となったわけで、ひっくり返しでのこの点
はそれ以上聞く耳は持たないぜ。譲らないね。つまり言動に責任を持って
もらう。言い換えれば、マッタ無しだよ。いったん指した手を言葉の誤魔化し
スリ抜けでマッタの有効化を認めると、お前は嘘をいくらでもつける。だから
その引っ繰り返しはお前の嘘抗弁だと決めこむ。約束嘘はこれはだめだ。
うっかり間違いはしようがないがね。そういううっかりは故意性がないから
間違ってても訂正がきく。
115唐松山:2007/09/08(土) 17:29:59
各天皇の 治世を 推定しました。 西暦は,プラス2年が妥当かと,
天皇     即位西暦  即位 世継ぎ 死亡  増前;増中;増後
神武天皇   西暦36年             ?;19;36  増しを年齢に加算すると書紀の年齢
空白(タギシミミ) 3年
綏靖天皇   西暦58年  17才 19才 31才  36;0;19
安寧天皇   西暦72年  14才 16才 23才 19;0;28
懿徳天皇   西暦83年  8才 孝昭は弟 13才 28;2;26
孝昭天皇   西暦88年   5才 16才 31才  26;37;20
孝安天皇   西暦114年  15才 21才 41才  20;43;33
孝霊天皇   西暦140年  20才 25才 39才  33;11;46
孝元天皇   西暦159年  14才 20才 33才  46;0;38
開化天皇   西暦178年  13才 17才 21才  38;4;48
崇神天皇   西暦186年  4才 19才 28才  48;11;32
垂仁天皇   西暦211年  10才 16才 32才  32;12;64
景行天皇   西暦234年  17才 21才 40才  64;1;37

これから モモソ姫を推定します。
西暦143年孝霊3年 モモソ姫 誕生
西暦162年考元5年 オオヒコ 誕生
西暦172年考元14年 ハニヤスのイムナタケハル 誕生 母はハニヤス姫
西暦185年 開化天皇 治世8年で潰える 継ぐのは,崇神天皇ですが,崇神の母は,どちらかと言うと 下賎の民を召した物(孝元の妾)であり、崇神立太子は、とても全員が賛成出来る状態ではなかった。
 ハニヤス乱は、開化天皇の崇神立太子又は,崇神の母をウチメとする。頃の 出来事とするのが 本当?
崇神天皇元年 西暦186年 モモソ姫43才 結婚には遅すぎ 子作り女30まで、
当時の常識,それを40近くで妊娠?なら... 
崇神10年四道将軍の時代 大物主は、もう居ません。たたねこ を 立てたのが最後の仕事。
崇神10年 西暦196年 おおひこ35才,息子と四道将軍,娘11才崇神の妃 共に可能な年齢
同じく モモソ姫53才 年長大には,若すぎる。
前回は,ハニヤス、モモソ姫の年齢を間違えました。 モモソ姫殿ごめんなさい。 
今回 開化天皇即位13才少し若すぎる?。
116110:2007/09/08(土) 18:24:32
>>114
まあ、まあ、そんなに興奮しないで。
もうちょっと、わかりやすい日本語を書いていただくとありがたいです。
以前、文の中の動詞の数が5つを超えると伝わりにくくなると読んだことがあります。
一文を、もう少し短めにされると良いと思います。

ところで、ぼくは、これまで倍暦説は聞いてはいたけど、特に興味を持ってませんでした。
向こうのスレで、太国さんの死亡日がかたよっているという書き込みをみて、
ちょっと興味を惹かれたわけです。
そこで、もし自分が倍暦の存在を論証する論文を書くとしたら、
どの証拠が使えて、どういう手続きで論理を展開するか、ちょっとシミュレーションしてみたわけです。
ぼくは、日本史は全然専門ではないし、倍暦が存在しようがしまいがどちらでもいいので、
倍暦を否定しようとして書いたことではありません。
あっちのスレで書いたことは、論文指導を受けたり、学会発表するなら
誰かが必ず突っ込むだろうなという弱点です。
別に無視されても結構ですが、論文の出来はそれなりのものにしかなりません。

それと、綏靖三十三年七月一日癸亥の日と、翌年の十月一日丙戌の日の間の日数のような、
干支と日数の関係は全部計算されていないのですか?
114の書き込みだと、やってなかったような印象をうけます。
ぼくのような日本史の素人でも、興味を持ったらまず最初にやることで、
基本というか定石みたいなもんだと思うんです。
少なくとも、欠史八代の死亡日を証拠に出しておられるくらいだから、欠史八代の干支の間の日数関係は
把握しておられるのだろうと考え、それで、その矛盾をどう処理しているのかなと思ったんですが。
117太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 19:49:55
この歳で目が悪いのにそこまでやっっちゃぁいないよ。この歳で大変な労力だ。
要領が悪いよ。若いお前のやり方を老齢のこちらもやれなどとはとんでもないぞ。
見当はつくじゃないかい。すでにそういうことは他人がやってる筈だよ。

計算したければそういうのを見ても間に合うだろうが。お前のようなのがやって
来るのをうっすらと待ってたと云えばそう、待ってたわけ。w
そうすればお前に悪いが手間が省ける。臥海までは出場するなどは考えて
いないからな。そうならしようがない。早くにお前の計算もこっちも一応
やってなければならんだろうな。

その労力をこちらは『卜事』に使うので、そんな時間に費やせないぜ。

ところで干支計算で数字はどうだ、合ってただろう?
最後の段、矛盾?まだそんなことを言ってるのか。矛盾などないだろう?
空白日数にも干支がついているはずだ。だからおかしくないと思うぜ。
お前のそれは倍暦にならんということだと抜かすだろうが、そう云うん
なら計算での8代の天皇の歳はどういう数字なんだと聞きたいわけだ?ww
殆んどが百歳以上にならんかったか〜?ww
118日本@名無史さん:2007/09/08(土) 21:06:09
干支や日数計算から簡単に倍暦の証拠が出てきたら、
古田が先に自信満々で発表してるはず。

発表が無いってことは、証拠が無いってこと。
無駄な労力を費やしたくないなら、倍暦なんて考えないことだ。
119太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 21:10:41
>>118
見え隠れしてるわけですよ。絶対完璧な証拠がありゃぁ、それはもう
臥海に行ってるよ。発表と証拠は通常直接関係はない。
120日本@名無史さん:2007/09/08(土) 21:37:37
太国さんはどうして農業に使える暦を提示しないのかな
米作が考古学から記紀以前にまで遡れる以上何らかの暦がない限り
農業文明なんか発展しようにないと思うが
そして米作が年に一回であるからには年齢も米のサイクルにあわせるのが基本
二倍暦自体は古田氏が九州王朝説で提唱していて九州であれば二期作も可能
だけども考古学的に二期作の痕跡の記事は知らない
ましてあわせるために三倍年なんかを持ち出してくると電波といわれてもしかたない
客観的に検証できなければ「私の研究では」の一言ですむ
自分のサイトでも開いて興味のある人に見てもらうのがおすすめ
121唐松山:2007/09/08(土) 21:42:06
太国さん
私は,この式を使わず 1300年余 干支を割り出しました。
その割り出した 干支から導き出されたのが この式です。

時々1日足りない 程度の誤差です。
皇極天皇 元年春正月,丁巳朔=1302年= 483954日= 丁巳
この辺まで計算しました。 もう少し計算すれば良いものを 中途半端が私の性分

この日数から判る事は,相応に正確であるという事(狂いは,1日 月には,遅速が有るからか?)
17年7閏法であり (1回でも狂わせては、いけません。)
多分当時使われていた暦よりも,書紀編纂時の暦よりも 正確
この意味する所は,月齢観測により 暦法と観測値の誤差分も 増し で加えた。

とりあえず 各天皇の治世を推定しましたので
これから 朔旦冬至(11月1日朔)19年に1回有る。を割り出し 当時の暦法(多分4分暦)
で復原できるか 挑戦するところです。

誰か 私より早く この方法で割り出して 発表してくれないかな? 期待。
又は,この方法の 欠点なども
122太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 22:22:31
>>120
それがしは農業を直接2倍暦でやってたとは云っていません。2次的にはそう
していたでしょう。間接的には農業と、詳細までは分かりませんがやってたとは
思いますね。3倍暦と農業とはあまり関わりが無いと感じていますが・・・。
関係は>>103のとおりです。

3倍暦をデンパとか云ってますが、学制だって1学期2学期3学期で似たよう
なものでしょう。あんたも恩恵に預かっていたということですよ。これで
どうしてデンパなんですか? それを決めたのは昔の臥海のおえら方が文部省の
ようなところで決めたんでしょうが? 彼らはデンパなのかね?

古神道的には五十音言霊ですよ。高天原には農作用の天ムラアワセ田天平田
天安田があってスサノオが荒らしたので、六月晦の大祓祝詞で畦放ち溝埋めを
天津罪として祓い6/30で1年を区切ったわけですよ。だから間接的には農業
と関係あるでしょう。

高天原は言霊で たかあまはら(たかまがはら、たかまのはら は間違い)と
読み、総てが五十音図のあ段に位置するのですが、あ段この六音に外れるのが
ワナサヤの四音ですが。1年を閏で366日暦としたときは、この場合

 366日−365.242日=0.758(ワナサヤ)

古神道の高天原三田の暦法が1年366日、365.242日と有関係であることが
示されています。臥海では使えないけどね。これ論文に書いて某に渡したこと
があるんです・・・。
123太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 22:26:17
>>121 唐松山さん
朔とかは舎人らの後付けだと思いますよ。だから複雑な空白月と日が詳細判明
できない現今記紀等の古文献の量では、そのやり方で神武までの正確さはとれ
ないと考えますが・・・。
124日本@名無史さん:2007/09/08(土) 22:41:43
学会をめざしたものの、門前払いされたってわけか。

じいさん……。
125日本@名無史さん:2007/09/08(土) 22:48:35
そもそも「五十音」は、奈良時代の成立で、仏教の影響で作られたもの。
古神道なんてまったく関係ない。

もっと一般的な知識を先に深めたほうがよい。
126横槍:2007/09/09(日) 00:21:37
2倍暦の前に書紀の方は還暦(60年)の水増しを何人かの天皇の在位年数に対して
行っている。これを修正しなきゃいかんでしょう。
(修正すれば古事記、百済紀の年代記に近くなる)
127日本@名無史さん:2007/09/09(日) 01:00:48
>>122
やれやれ、屁理屈は質問以外のところでこねるという王道を行くか人だ
こちらは何故農業に使用できる暦が提唱出来ないのかと聴いている
農業を二倍暦でやっていると言ったじゃないかなどとは言っていない
高等教育は前期後期である、昔は小中学校だから3学期制で三倍暦などという
ことが一般の常識にかなうかどうかもう一度深く考えてみればよい
では逆に4倍暦5倍暦6倍暦以下延々が採用されない理由を出せますか?
このような考えで3倍暦は成立する、それはそう考えるとつじつまが合うという
理由以外でないと説得力がない
以下古神道については突込みが入っているように訳がわからないし本筋でない
もう一度>>120について考えた上返事をしたほうが外野に説得力があると思うが
128太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 07:54:18
屁がでなくても1学期2学期3学期ですよ。似た事例を屁理屈と云うのは
やめたほうがいい。それに証拠が完璧完全なら2ちゃんの域から臥海域となる。
2ちゃんだから想定可能なものは資料根拠で不十分でも書きこむのは構わん
だろう? もう当初から完全に証拠があるとは云ってはいない。こうではないか
と議論することも悪くはなかろうためだ。そこまで証拠と云うのならお前も1年
が当時も現行の1年のみでやっていた証拠はどうなんだな? 悪魔の法則とか
で逃げるのか? まぁ悪魔の法則とやらはあまり知らんがね? おそらく黄泉国
の1000人絞殺と1500人産室からのイザナミの怨念をかわすためだろう?

 1000 : 1500 = 2 : 3

の割合から出たのであろうと推察する。これから来てるとすれば、4倍暦5倍暦等
は不採用だね。神武以前は神代だからな。
神武は五瀬命の戦死のショックを長く癒されないでいた。そのことに因んで
即位後1年の5月以降を切って無しとしたのである。だから5月がくれば1月
にしてイザナミの怨念の回避を迷信的に目論んだ。高天原の五月蝿なす状態の
回避のためには5月を無としたいわけである。だから紀には佛伝以降になら
ないと五月の記述が殆んどない。少量はその記述あるが、何らかの特別な事情
のときであろう。それ以外は5月は朝廷は使用しないのだ。
方位の五黄殺を避けるためのようなものか? 神武崩御直後は5月以降の記述
あるから通常暦に戻しているようだ。綏の崩御が5月だからそれが分かる。
129太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 08:02:10
面白いことで、神武は即位〜崩御までは1月〜4月しか紀に記事がない。当然
だな。3倍暦法だったからだ。それが畿内へ出発〜即位前は5月以降の記事が
うんとある。即位直後も5月以降の記事が出る。つまり通常暦でその双方は
やっていたと思える。特記されるのは綏崩御が5月だ。つまり綏の時代
はどうやら通常の暦法だったということだ。
130太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 09:52:47
>>128 訂正

×即位後1年の5月以降を切って

○即位後に1年の5月以降を切って

当時直前、綏は神八井耳命と一致協力してか手研耳命を討ったが、神八井耳命
の貢献を紀念してその数字の8日に即位した。五瀬命は悲しくも
戦死したが三毛入野命も外国へ行って会うことができない。その懐かしさを
想ってからか皇子綏の立太子を3日にしたのであろう。
131日本@名無史さん:2007/09/09(日) 13:23:27
>2ちゃんだから想定可能なものは資料根拠で不十分でも書きこむのは構わん
だろう? もう当初から完全に証拠があるとは云ってはいない。

といいながら

>そこまで証拠と云うのならお前も1年
が当時も現行の1年のみでやっていた証拠はどうなんだな? 悪魔の法則とか
で逃げるのか? 

こういう
これは悪魔の法則というより阿呆の法則であるw
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 14:26:53
>>40 ≪改正≫ 神武誕生〜出発直前3倍歴  ・・・〜即位直前通常歴の場合

【倍歴計算略表 7】西紀は倍歴計算の実年代 下から上へ読む(>>48

皇紀    西紀
79己卯  29己丑  綏、手研耳命を討つ
76丙子  26丙戌  神武崩御
42壬寅  14甲戌  綏立太子
29己丑  10庚午  綏誕生
【元】辛酉【元】辛酉 神武即位
前7甲寅  前7甲寅   神武近畿へ出発
-37甲申  -17甲辰   神武立太子
-51庚午  -22己亥   神武誕生
133110:2007/09/09(日) 19:58:41
何か、僕が書いたことが出ていたのでレスです。
悪魔の法則ではなく、悪魔の証明です。

「Aは存在する」の命題を証明するには、Aを一つ見せれば終わるけれど、
「Aは存在しない」の命題を証明するには、存在しないものは見せようかないので、
圧倒的に証明が難しいということです。

倍暦の例で言えば、例えば、宮内庁所管の御陵が発掘されて、
16日以降の日付とか5月以降の存在を示す遺物が一つ見つかれば
16日以降や5月以降が存在したという証明は、それで終わります。
ところが、16日以降、5月以降が本当に無かったとしたら、
無いものは見せられないので、存在しないと証明するのは難しいと言うことです。
御陵の発掘は、個人的には、絶対反対ですが。
134太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 20:14:18
そうだったな。了解。
135110:2007/09/09(日) 21:07:38
はじめ、太国さんの死亡日が偏っているという書き込みで、
倍暦は本当に存在するのかもしれないと思ったのです。
しかし、その後、ここの過去ログや記紀を読めば読むほど
やはり存在したとは思えなくなってきました。

神武即位後に五月以降の記述が無いと仰いますが、神武紀は東征の話が延々と続いた後、
即位後の話は6条。

辛酉年(元年)春正月一日 即位
二年春二月二日 東征の論功行賞
四年春二月二十三日 皇祖天神の祭祀場を整備
三十一年夏四月一日 神武巡幸の折に秋津洲の国号の由来ばなし
四十二年春正月三日 立太子
七十六年春三月十一日 神武崩御 

ハツクニシラス天皇の即位と立太子が正月に行われたのは当然でしょう。
むしろ正月以外だったら意外です。
一倍暦でも三倍暦でも、正月に行われれば正月と記載するので、
これは、どちらの証拠にもなりません。
つづく
136110:2007/09/09(日) 21:10:09
即位と立太子の条を除くと、記述は、たった4条しかありません。
岩波文庫のページ数で、東征七年間の記述が21p、
即位後七十六年間の記述が3p。
即位後の記述が、極々簡略なものであることが解ります。
そして最後は、崩御の翌年、秋九月十二日に葬ったとあります。
(まあ、これは、神武の治世ではないというご主張のようですが)
これで五月以降は無かったと仰るのは、あまりにも言い過ぎでしょう。

以下憶測に過ぎませんが、
論功行賞と祭祀場の整備についてさえ、両方とも同じく東征の成功が理由で、
同じく二月に行われていることを考えると、
そういう類の行事は二月に行っていた可能性さえ考えられます。
太陽の勢いが増していく春に、そういうめでたいことをやるのは、ありうると思います。
領地の巡幸は、気候の良い季節に行くでしょうから、夏四月なんて最適ですよ。
夏四月は倍暦ではなく、そのまま、今でいう5月なのではないでしょうか。
超長寿については、昨日、いつものように長文を書いていたら
間違って全部消してしまったので、また何時か書き直します。
おわり
137太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 21:30:24
>>135>>136
だからさ、そうなるとお前は127歳あるいは137歳寿命を肯定したまま検討を
終えているわけ。つまりだ、お前は尻拭いをしないまま大いばりで服を
きちゃってチャチャーとしているわけさ。

そういうことは天皇の寿命が相当人間で生物学的に合理性があれば、お前の
主張はなるほどと思うわけだよ。そうでないからその検討は全部ゴミ入れだ。
怒ってギラギラするなよ。
138太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 21:37:14
奇遇にもスレ数字が137歳に一致している。天の怒りか?天に糞を糊塗するなよ。
139110:2007/09/09(日) 22:15:01
またまた、長文で失礼します。読めないとか、怒らないでくださいね。
倍暦が存在すれば、超長寿が合理的に説明できるから、
3倍暦は存在するに違いないという態度は、
エーテルが存在すれば、光の波動性が合理的に説明できるから、
エーテルは存在するに違いないという態度と同じです。
エーテル学説を主張する人は、反対する人に、
「そういうことは、光の波動性が、エーテルなしで合理的に説明できれば、
 お前の主張はなるほどと思うわけだよ。そうでないからその検討は全部ゴミ入れだ。」
と言ったに違いありませんw 
エーテル否定派は、300年間、それに反論できませんでした。
ところが、1880年の実験でエーテルの存在は否定され、1900年代に量子力学が確立して
ようやく合理的な説明が出来るようになりました。
それ以前に「合理的な」説明をしちゃったエーテル学説は、
間違いだったことが証明されました。

さて、超長寿の話ですが、結局、なぜ137歳なのか、
現在のところ、わからないとしか言えません。
将来、新発見の資料によって、それが解明されるかもしれません。
それで3倍暦が証明されるかもしれませんし、全く別の理由かもしれません。
量子力学の登場が300年待たれたように、
我々も新資料の発見を300年でも1000年でも待つしかありません。
意外に来年見つかったりしたら、とても嬉しいですが。
つづく
140唐松山:2007/09/09(日) 22:25:47
私流 ほつま伝 より 書紀の歴年(西暦)検討 なお神武より3代 書紀とほつま 多少違う。

西暦36年 神武
西暦39年 ホ31024 フソヨトシ キミヨツギなし クメがコの イスキヨリヒメ ヲシモメに 
めせはキサキに とかめられ ユリヒメとなり トノイせず 
西暦41年 フソムフユ マフリミユキの ヤスタレに カヌカワミミノ ミコうみて

西暦58年 綏靖天皇
西暦82年 フソヰサアトの ムツキミカ シキヒトたてゝ ヨツギミコ イマフソヒトシ
ミモソヨカ アメタネコさる モモヤソナ
  考@アメタネコ 神武より2,3歳年上 神武の年齢推定に使える
西暦83年 懿徳天皇 スキトモノ アメスメラキ
 ホ31301 アメのノリもて をがませて マカリヲコヨミ あらためて
  考A 懿徳の暦は 安寧の暦に間借り
西暦88年 孝昭天皇 カヱシネアメのスメラギミ
フソコトシ キシヱハツミカ キサキたつ ヨソタリヒメのトシソヰぞ ムカシヤヒコに
ユリヒメを たまえはうめる アメゐだき このアメヲシオ マゴムスメ
  考B 孝安誕生 西暦99年 母は, 孝昭の妃であり神武の孫

神武時代 おかしいのは, 違う資料のせいで 仕方ないが
全体として 違和感なし。

141太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 22:26:16
わからないなら、でかいことを抜かすな。古代史の証明は数学物理の厳密さ
は必要ない。

お前、以前余にコテンパンにやっつけられたんだろう?ww
否定の能書きの程度が何が何でもやってやろうとの執念が見え見えだからな。
ハハァと感じるぜ。
無理無理の反論を押し通してゴリ押しに終始している。

カタキをとりたけりゃぁ、著しいうなるような137歳とかの合理性を探して
来るんだな。w それができなきゃ史理ぬぐいのできないお前に、スレ人が迷惑
する。とっとと消えろ。
142太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 22:27:27
>>141>>139のことだ。
143日本@名無史さん:2007/09/09(日) 22:29:44
なぜ、そうなるのかを説明します。
太国さんが、超長寿を倍暦・3倍暦で完璧に説明できたとしましょう。
すると、太国さんは

「倍暦・3倍暦が存在すれば、通常の寿命の記述が超長寿になる」

ということの証明に成功したことになります。
ところが、それだけでは、

「通常の寿命の記述が超長寿になるのなら、倍暦・3倍暦が存在する」
「通常の寿命の記述が超長寿にならないのなら、倍暦・3倍暦は存在しない」

ということが真実かどうかは、まったく証明されていません。
なぜなら、記述が超長寿になる理由は、他にも存在しうるからです。
たとえば、このスレでも唐松山さんが増しで説明しようとされていますね。
唐松山さんも成功すれば、合理的な説明が二つ存在することになります。
結局、どっちが正しいかは、合理的説明が付くかどうか以外の別の証拠で判断するしかありません。

論理学では、こういうものを命題・逆命題・裏命題と言います。
数学や法律の厳密さを要求しているのではなく、およそ論文を書こうとすれば、
要求される基本的な事柄です。
これは、人間が決めたことではなく、自然がそうなっているので、
人間にはどうしようもない理なのです。
ですので、太国さんの今のやり方では、倍暦・3倍暦が存在すれば合理的に説明できるが
倍暦・3倍暦が存在するかどうかは解らないというところまでしか結論が出ないのです。
(もちろん、どうしても説明できず、倍暦・3倍暦は存在しないという結論に至るかもしれませんが。)
倍暦・3倍暦の存在を証明したければ、別の方法を取らなければなりません。
エーテル学説は間違いが証明されましたが、
倍暦・3倍暦はまだ完璧な否定材料は発見されてませんので可能性はありますね。
おわり
144唐松山:2007/09/09(日) 22:48:28
太国さん
天種子 死亡は、11月中旬 元旦より 314日目 
太陰暦は、毎年の日数が変わりますので 1年の長さも 1日1日数えていた。
と 読めないですか?

改定
暦日=INT(INT((C496*G$1+$E$1)/I$1+G$2)*I$2)+E$2
C496=皇紀 年
G$1=365.246  G$2=0.3  $E$1=106  I$1=29.53059  I$2=29.53065
この式は, 景行と成務の間に8年の閏の廻しをとる時に 使う
145太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 22:49:47
>>143
お前はうるさい奴だなぁ。全く迷惑この上ない。
ここは倍暦論の選手の溜まり場だよ。ボクシングで云えば古代史、倍暦の
フック、アッパー、ストレートを出し、戦う所だ。余も数日前に唐松山氏に
ストレートをお見舞いされてるぜ。こっちも論のガードをしたりしてお互い
が磨き合いながら正規の倍暦論争を展開しているのだ。

然るにお前のは少しのパンチを出しながらあんまり有効打がない。少々の体脇
に当たったのを大げさに入った入ったと抜かして、さもポインとを稼いだ
話をしている。
それ勝てないから手をかえ品をかえ、あっちこっちと散発しているようだが、
これはまぁ〜いいが、だがお前は勝つために自分で審判も勤めている。つまり
自分で試合を採点するのを武器とする審判兼選手である選手なわけである。

だから自由に自分で相手たる余の点数つけを武器として選手の偽装をしてやって
いるわけだ。これではお前が勝つのは当たり前だということになる、審判の採点
を偽装フックにしちゃぁいけませんぜ。
きちんを論のパンチで来るんだな。審判兼選手はこれはダメだ。お前コスイぞ。
146太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/09(日) 22:56:50
>>144 唐松山さん
貴殿のは難しくて分かりませんな。今後分かるように勉強します。
とにかく干支は神武までどうやら正確でしょう。ただそれが朔とか天体に
なって行きますと、そんなに正確に求められるのか用心が必要だと思い
ますが? 朔と四季は紀の編者らの後付けだと思いますが・・・。
147110:2007/09/09(日) 23:03:18
怒っちゃいましたか。残念です。
久しぶりに日本書紀を開いたり、こんなレスを書くのも楽しかったのに。
ちなみに、ボクは太国さんとレスの遣り取りをするのはこれがはじめてです。
審判兼選手というよりも、観客席から、
フック打たずにストレート打てよと言ってる感覚に近かったですね。
まあ、そういうことで、怒らせてしまったとしたら申し訳ないのですが、
ボクは結構楽しかったです。ありがとうございました。
じゃあ、これで消えることにします。お騒がせして、失礼しました。
148 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 03:11:01
太国は自己存在理由の倍歴が否定されそうになって必死なだけだから相手にする必要ありません倉西と同じ
110氏は他のスレでもいいから何か考察書いて下さい、お願いします。
149日本@名無史さん:2007/09/10(月) 04:54:10
ダイコクは記紀に書かれてることを真実としたいわけ。
ほんとうは別に倍暦を信じてるんじゃないと思う。
神代までに立ち入らないのはせめてもの良心かなと。

2ちゃんにはりつき2ちゃんで主張するのは意味無いから
やめれば。朝夕のジョギングをオススメする。
150 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 08:33:43
唐松山も"ほつま"とか偽書出すの止めてくれたら結構いいんだけど
無理だよね?
151太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 08:55:24
水道水も水にはない、別に製造された塩素が混入しているが、とにかく飲め
るものですな。ホツマも内容は全部ではないが飲める部分はあると思うが。

水道水も偽水ということになってしまう。だが飲めて充分役に立っている。偽書
という連中も毎回水道水を使っているはずだよ。
152 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 10:03:00
>151
水と書は関係ありません、関係あるんですか?
153 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 10:13:06
"ほつま"が江戸時代当時の民間伝承から拾い上げた"飲める"内容は
記紀時代の編年考察に役に立つのかね?
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 10:24:11
お前は余を相手にする必要がないと書きこんでるではないの? →>>148
155 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 10:33:52
まぁまぁ。やれば相手になる書き込みできるんだろ?
156太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 10:35:46
>>148はこれはウソか?
157 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 10:38:39
>148は>110氏あてですよ。
少し遊んでくれよ
158 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 10:43:15
太国はボストン博物館にある仁徳天皇陵出の七子鏡についてどういう考え持ってるの?
159太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 10:59:22
>>157
以前倉西さんに暴言らしき?を吐いたのはお前か? こっちはそれで出ていけと
かを女に云われたが? そうでないなら失礼だがね。 そうならば倉西氏にお前
あてだと言ってくれ。つまり出ていけの因はこちらにはないよとな。ならば今後
は丁寧に倉西氏に接せられたいものだな。確か〜?お前だと思ったが? どうな
んだろう?

書と水とはたとえ話だ。偽書という連中は>110のようにゴリ押し的に徹底的
に疑うのを基点にしてるわけだ。>110並以上に何らかの利害か何物かの目的で
葬り去させることが目的に主張している感じなわけだ。あいつらも水を徹底して
疑念を持って飲まぬとすればいいものを、ストレートに飲んだりしているはず
だ。だから古史古伝を徹底して糾弾まがいのことをやっているには、ミズに似ズ
相当の利害とかそのへんの何かがあるわけだ。お前もそうか?
編年に役に立つやも知れんな。
160太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 11:02:22
>>158
その件は知ってはいるが、結論は出ないな。何ともだ?
161 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 11:35:34
>159
過去ログ調べたら倉西スレ4のことか…
"◆16/YXRFBRM"で書き込みでやり取りしてるから
勝手に倉西に近寄らなかったのは太国の自己責任じゃね?
大体、五王スレには嬉々として書き込んでたようだったけど?
まぁ、まだ倉西と分かり合いたいなら
すべて◆16/YXRFBRMが悪いとして倉西と和解してきたらどうよ?
あれも多年代列構造の概念を提唱できたことにある意味成果あったと思うけど
それだけだよねー。もう用済みでしょ。まだ何か面白いこと思いつければ別だけど。

それから、何に対しても疑念を持たずにピュアな心を持つことは大切だと思うよ
じゃないとどんなことでも成立しないし騙す方と騙される方が両立しなければ
ある意味破綻が起こるでしょ?
古史古伝についてはたしかに魅力的だよね。夢がある。
162 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 11:50:08
>160
とりあえず太国は有り金はたいてボストンに飛んでくれ
結論はそれからだ。
163太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 12:32:40
>>161
ははぁ、やはりお前だったのか。倉西氏は何かなければもう相手にしないわけ
だな。あれは女のヒステリーというヤツだったのかも知れん? ヒストリーに
ヒステリーではこちらが迷惑だ。
>>162
金がそんなにないから、行きたくても無理だ。ところでお前も紀年の考えが
あるんだろう? ここらへんのスレでよう見かけるからそう思うが?
164 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 13:28:09
ぁん?俺の考え方か?
どうでもいいだろ、お前の役には立たんよ。
結論で言えば"記紀は出鱈目 "だ。
検証しなくて結構だし俺だけ分かってればいい。
だから記紀編年論については実はやる気がないんだけど
上に書いたとおり"面白ければ別"だよ、一応可能性を探しているから。

つーか何にしても数字遊びだし実証的でないんだよなー、割り切ろう。
165太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 13:47:31
出鱈目の部分は確かにあるし、神代(神武以前手前)は記紀くらいじゃ絶望に
近いな。編者連の干支の逆算は正確だと思うので望みは捨ててない。欠史八代
あたりを見ると全部1日〜14日までしかない。出鱈目なら数字は1日〜30日の
全体に行き渡って、それとなくとかありふれたとか、そういう配列のはずだと
思うからだ。実際の記述は月片半分だ。いい加減ではあるまい。

記紀と較べると崩年が違うからお前の言う出鱈目はある程度あることは否め
ない。そのトオリだが、トオリ過ぎて〜だからといって、全部出鱈目とするの
は極論。
166 ◆16/YXRFBRM :2007/09/10(月) 14:03:09
出鱈目だと偏るか均等になるか判断つかないな
あるいは編者に意味・意図があったとしても
安易な理由付けは簡単だけど証明するのは難しい

根本的に儀鳳暦なんだから創作とみて近い時代から埋めようとは思わん?
167太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 14:54:18
>>166
儀鳳歴となれば当然舎人らが逆算したんだよ。それも精密だと思う。左半分へ
片寄らせる利害が見えにくい。もしそれがあったとしてもだ、利害の埋め合わせ
には他の方法を用いると思うが・・・。だから干支は数字の代用で、神武までは
月だけでなく日数まで記述あるんだから正確さはあると思う。但し外国文献の
挿入個所はあちらとの年代調整の失敗で合っていないようなのだ。

それでじゃぁ唐松山さんの朔とか月齢も合ってるだろうと考ええれば、天体運行
の場合はそうはいかないではないかと思うのだ。紀の月数日数には空白月空白日
というのが凶を避けるために設けられておるようで、干支はこういう虚無の月日
にも付帯してあるようで、このことから神武までの記事の日数等は正確であろう
が、天体のほうは虚無の月日は不動状態になろうから合っていかなくなるんだと
こう想っているのだ。
168太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 15:22:37
>>166
続き 倉西氏の場合は、彼女が記紀を調べて行って120年の断層を見つけたこと
から、これを黄金の数字と考え、過去の讖緯説系の新説として、原書の関係か?
紀が各層を持つ構造との考えで、倍暦を一部肯定しながらほぼ否定の考えに回り
論を完成したようで、外国古文献もよく調べ上げて一見もっとものように
想えるものの、120年の誤差とは、舎人らが大陸半島の暦法と日本の倍歴法の
相違が見抜けなかったから双方に大幅な年代のズレが出たもので、舎人らはこの
大きな狂いを記述の干支とは別に、同一干支になるどれかの年代に真があるの
だろうとして60年の倍数での修正を考えたもので、このうち 60×2=120 を
メインとして正に近いだろうと考え、まだ矛盾が解消されぬ中、このやり方
を選んだと思っている。あっちも日本も通常歴だと思っていたから無理
にも年代を拡張したようにみかけがそうなったということで、拡張を故意に
やろうとしたわけではない。拡張せざるを得なかったということである。

それがしの先述の表のとおり、倍暦計算をしたところ、神武即位は倍暦でも
辛酉年に一致したものであり、こうなると紀の編者連は原書に神武即位が干支
での辛酉年になることを見て重々覚知していたために、編纂にあたって通常歴と
考えていた未知のミスから、いやがおうでもB.C.660にもっていかざるをえな
かったわけで、これが大幅な拡張に至ってしまったものだとこう考えている。
169太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 15:32:16
続き ということは伴信友や那珂博士のいう、中国の辛酉革命に則って
年代を大幅にずらしたのではなく、舎人らが原書に神武即位が干支計算
での辛酉になることを読み取っていたため、これにあわせようと年代を
定めるものの倍暦のことを見過ごしてしまったこととの重合で、前660年
まで引き伸ばさざるを得なかったというのがそれがしの今の見解である。
170唐松山:2007/09/10(月) 20:09:51
本物の 歴史は,一っ本である。
この歴史を主観を入れて まとめた物に

日本書紀
古事記
旧事記
ほつま伝  当が在ります。
仮定
もし是等が 本物であれば, 本物の出来事に対し 嘘をつくことは無い,

よって 日本書紀より 本物の歴史を引き出す。
この 日本書紀より 引き出された 歴史は, 旧事記やほつま でも 本物で無ければ成らない
つまり 日本書紀より 導き出された 歴史に 旧事記やほつまの記事を当てはめた時
修正できない、又は,容認できない程の 食い違いがでた。この時
旧事記やほつまを 偽書と 葬るのは簡単ですが,
もし これらの書が,容認できる範囲の食い違い で有ったとしたら,
その 歴史の読み方は, 正しい。 と言わざるを得ません。

 其の為にも 旧事記、ほつま 等 捨てるわけにはいきません。
この為に 旧事記やほつまを 当て嵌めて見ているのです。
日本書紀のみで作った 正しい 暦は, 旧事記、ほつまでも 正しくなくては成らない。
 
171横槍:2007/09/10(月) 20:28:02
書紀と古事記を比較すると允恭以前が大きく狂う
これについての説明が出来る人はいるかな?
172日本@名無史さん:2007/09/10(月) 20:55:31
書紀と古事記の何を比較すると、ですか?
173唐松山:2007/09/10(月) 21:59:02
倉西さんが 頑張っていたんだけど
留守中に 数字を一杯並べたら
怒って 蒸発してしまった。

これから 頼りにする積もりだったのに。
174横槍:2007/09/11(火) 00:02:23
2倍暦に話を戻します。

魏略に曰う「其の俗、正歳・四節を知らず。但春耕・秋収を計りて年紀と為す。

こここの部分は非常に面白い。やはり2倍暦の事を指していると考えます。
何故なら、余程珍しい情報で無ければ、わざわざ魏略から引用する必然性が無いからです。
もっと面白い解釈があれば、聞かせてもらいたいと思います。
175横槍:2007/09/11(火) 00:03:42
注意!:私はドモリではありません。
176日本@名無史さん:2007/09/11(火) 00:44:01
ここは太国さん一派の布教活動の場というのがFA?
177太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/11(火) 07:57:57
>>171
具体的な説明は資料不足で残念ながら分からん。記紀双方の情報の根源が
いろいろ違うことと、允恭以前はとりわけ通常暦と2倍3倍暦とかの交錯と
倍暦でない世を倍暦計算(ここは各暦法の消極的並行運用があったか?)したり
して狂ってしまってるということか?

それがしの倍暦計算だと成務は

成務崩御 342年壬寅(紀の倍暦計算、干支も同様)
成務崩御 355年乙卯(←記の崩年干支を紀の倍暦計算からの記近接同一干支年)

その差13年差になるが、同様に允恭でやると上二段は

允恭崩御467年丁未(上二段上側と同じ)
允恭崩御454年甲午(上二段下側と同じ)

でやはり13年差となる。同様に仲哀と履中もやってみるとこちらは各10年差
となる。ということは記の場合は別情報もあったが一つの情報で二つの天皇の
崩御が語られていたと観たい。ただ成務と允恭の場合は同じ13年差でも正負の
符号が違うので偶然といえば偶然と言ったほうがいいのかも知れない。仲哀と
履中は符号が同じなので同一情報から二人の天皇の崩御が語られているんでは
あるまいかとかように想う。
178日本@名無史さん:2007/09/11(火) 09:24:21
日本書紀は「旧記」その他からの抜粋・編集創作歴史書。
目的=明日香の政権正当化

古事記は明日香政権の内部歴史書。
年代特定はこれを基準にすべきでは。

1万年も前ならいざ知らず、エジプトでも紀元前4世紀には
天文学を体系化している。
縄文人も当然一年の動きを知っていたと思うべき。
春耕・秋耕で半年を一年と見る説は古代人を馬鹿にしている
ように思える。
179太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/11(火) 09:49:13
>>178
政権の正当化ならばなぜ雄略武烈の悪業が記紀に記述されているのか? 
皇族同士の浮気とか超不正らしき殺し合いとかが詳細書いてあって、正当化に
なるのか?そういう正当化ということは少しばかりはあろうが、全部で
はないだろう。
このような悪業が書かれていることは、正当化の創作ではない。
180太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/11(火) 09:52:30
>>178
3倍暦に似たようなことをやっている文部省は、1学期2学期3学期と設定
しているが、これも学生を馬鹿にしているのか?
181太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/11(火) 10:48:30
>>177 続き
書きこんでいない仲哀と履中に関しては

仲哀崩御 352年壬子(紀の倍暦計算、干支も同様)
仲哀崩御 362年壬戌(←記の崩年干支を紀の倍暦計算からの記近接同一干支年)

履中崩御 422年壬戌(上二段上側と同じ)
履中崩御 432年壬申(上二段下側と同じ)

双方いずれも10年差である。
182日本@名無史さん:2007/09/11(火) 14:19:09
>>180
1学期2学期3学期は一年を三分割して、別の名前付けてるよ。
三倍暦は、一年に一学期が三つあるのと同じ。
春休みの後も、夏休みの後も、冬休みの後も、いつも一学期。
183太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/11(火) 14:55:22
どんな名をつけてるんか? 総理と言おうと首相と言おうと実質的に同じ。
184日本@名無史さん:2007/09/12(水) 01:30:46
>>183
いやいや、いちがっき にがっき さんがっき と、それぞれ別の名前で呼んで区別してるってこと。
三倍暦は、一月二月三月四月 一月二月三月四月 一月二月三月四月 と同じものが三回繰り返すんだろう。
185太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/12(水) 07:56:09
>>184
そういう場合もあるようだが必ずしもそうではない。そのやり方は神武
即位〜崩御まではそうだろうと思える。(即位前と崩御直後は違うようだ)

しかし他は統計やなんかをとってみると、どうもそうではなく、欠月欠日を
使って3倍暦とかをやってたようなのだ。たとえば1年のうち5月6月7月が
有名無実で干支はあるが凶月凶日とかで跳んでおり4月から翌月は直接8月に
なるとかで、さらに1ヶ月が下旬を無とするとかにすると1年が365日のほぼ
1/3が造れ3倍暦ができ、さらに通常暦も消極的に存在させながら並行でやって
いたとも見受けられる。翌年とかはこの欠乏月を変更したりして複雑運用を
強いていたと思えるものである。
186日本@名無史さん:2007/09/12(水) 19:58:52
>>185
おいおい、何万個のデータから統計を取ったんだ?
187太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/12(水) 20:26:41
>>186
記紀の記録だけで何万個もとれるわけがないだろう。
月数では崇神、垂仁世がその典型だよ。統計をとると規則的の3ヶ月づつ月が
空白だよ。
188日本@名無史さん:2007/09/13(木) 02:06:43
>>185
ようするに、一年を三期に分割して運用するのと、365日を三年に分割するのでは
全然意味が違うんだから、三倍暦論証で、三学期云々を言わない方がいい。
189日本@名無史さん:2007/09/13(木) 05:58:56
>>179
「雄略武烈の悪業」は悪い王の後に良い王がくるという、
中国の史書をマネした「正当化の創作」。
ただし天皇家継続の正当化ではなく、日本という国の運
営方法の正当化をしている。
記紀の一番の目的はそれだから。

記紀は「万世一系」を強く主張しているように見えるが
意外に淡々としている。その思想が強くなったのは記紀
成立以後。
アマテラスの「天壌無窮の・・」宣言は軍部に利用され
有名になったが、それは「一書に曰く」の中の記述。
元の文には、無い。
190太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 07:31:17
>>188
意味が違う理由が書きこんでない。理由が出てこないからだろう。
つまりお前の即興の勝手な考えだ。
>>189
お前は殺人犯人の後釜に座ってくれとたのまれたら、不名誉だから断るだろ
うが、それをあえて記述してるんだからこれは創作ではなく、お前の脳内の
創作なわけだよ。
もっと地についた説明をしやほうがいい。当時は革命で男弟王が天皇にのし
上がったんではない。説が現実から遊離しているな。
191日本@名無史さん:2007/09/13(木) 08:22:18
>>190
理由説明を求められるとは、思いもよらんかった。
一学期・二学期・三学期・四学期・五学期・・・・
というふうに、一人の校長在職中ずっと続くなら、倍暦説明に使っても良い。

一年を、12分割して12ヶ月とするのも、3分割して三学期制とするのも、
4分割して四季とするのも、本質的に同じこと。
何を基準に分割するかが違うだけ。
ところが、おまえさんの三倍暦は、三年を積み重ねたら、
たまたま365日に近かったということだろう。三年で循環するわけじゃない。
一年を三分割することと、三年を重ねることは、全く違うというわけ。
192189:2007/09/13(木) 09:12:09
>>190
上に同じく。真逆の攻撃が来るとは思いも・・
言葉が足りなかったかね。
俺も「革命や戦争はおそらくなかったろう(政治的な反発はあったろうが)」
と言ってるんだよ。
それを中国向けに、あったかのように「創作」してる部分が「先代王の悪政」
なんだと。
193太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 10:12:41
>>191
意味不明の羅列である。それに校長が在職中云々というのはお前の恣意的裁量
で、根拠はお前の脳内だけであり、w 価値が薄い。
>>192
先代の悪政に創作したなら、舎人らは死罪だぞ。お前もっと地についたこと
を考えたほうがいいよ。
194太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 14:30:50
>>191
>4分割して四季とするのも、本質的に同じこと

ちっとは言ってることが分かってきたが、当時は四季の判別は間違いなく
あった。孝安の宮を室の秋津島宮と、開化の宮を春日宮ということからこれが
わかる。ところが現代でも当然四季があるのは自明であるから、古代でも
現代でも四季があったわけで、現今の1学期2学期3学期の学制と3倍暦とは
言い回しの違いがあろうが似たようなものであり、双方四季があっての前提で
での上での存在理由となるものだから、四季とは別物である。
195太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 14:37:27
強いて四季を4倍暦だというなら、通常暦の1倍暦と四季の4倍暦があったの
だから、その間隙の数字となる2倍暦と3倍暦とは数字の埋め合わせを考えるに
傾きたくなるべき事になるろうことから、なおさら存在理由が出てくる事に
なっていく。
196太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 15:17:27
>>191
三学期制の場合は1学期2学期3学期と数字での判別をやっているが、四季の
場合はそうではなく春夏秋冬と数字を使用していないから後者は倍暦とは云い
難い。季節の感じは四分しても温度とかで秋にも夏のような暑い日があるし夏
にも秋のような涼しい日があるから流動的性格を時間内に持たす必要があろう事
から、ピッタリ四分であろうがぼかしたくなるべき必要のものであり、一見似て
はいるものの倍暦とは別物と観ていいものだろう。つまりだ四季は時間的学制の
区分けでも数字区分けではなく、あたかもタカラジャンヌの花組雪組月組星組
宙組とかのような人数区分けを数字でやってないのと同様である。こんなこと
から宝塚のほかに劇団四季があるのかとw思ってしまうが、倉西さんはこれを
聴いたらさぞかし夢の期分で喜ぶだろうな。ww 彼女は夢組ねww

それに四季を4倍暦だというなら、倍暦の存在を自ら肯定したことになる。
197日本@名無史さん:2007/09/13(木) 20:25:31
>>196
三倍暦が存在した根拠を述べよ

1〜3学期は書紀とは何の関係も無い
198太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 20:46:13
もう何回となく書きこんだよ。2倍暦の過去スレにあるから調べろ。
今日は長文と重複はもう疲れて止めだ。あとは倉西さんの過去スレだ。
そこでも読め。
関係は紀の年数のほうだ。お前は上っ面で決めこむな。
199日本@名無史さん:2007/09/13(木) 22:04:22
>>198
全然根拠に成ってないから突っ込まれるんだよ
自分の過去スレを読み返してみれば?
200太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 22:14:20
読みたくないのか?じゃぁここの若い番号だけでも少しはたしになるから読め。
つっこまれるのは自分の論の検討になるのでいいことではないか?
お前は臆病だから経験でいやなんだろう? こっちは同じ繰り返しは疲れとかで
書きこみをやらんときもある。
201日本@名無史さん:2007/09/14(金) 02:54:24
>>200
199です
さすがにあきれたね
貴方とはあちこちのスレでお目にかかり
読んでるのは勿論、実証的な反論も書き込んでいます
それを
>読みたくないのか?
>つっこまれるのは自分の論の検討になるのでいいことではないか?
>お前は臆病だから経験でいやなんだろう?
よく決め付けて書き込めますね

なんだこの人・・・orz
202日本@名無史さん:2007/09/14(金) 03:18:16
>>194
だんだん解ってきたということで、もうちょっと頑張って。四季を4倍暦とは書いてないよ。
もう一回書くと、一年を、12分割して12ヶ月とするのも、3分割して三学期制とするのも、
4分割して四季とするのも、本質的に同じこと。
12ヶ月が12倍暦でなく、四季が4倍暦でないように、三学期制も3倍暦とは無関係。
12ヶ月も三学期制も四季も循環するもの。
循環するものは、12ヶ月とか3学期とか四季とか最初から数が決まってる。
学期は、三学期になったら、次は一学期に戻る。四学期・五学期は来ない。
月は、12月になったら、次は1月になる。16月・17月は来ない。
四季は、冬になれば、次は春になる。冬の次に五番目の季節は来ない。
在位年は、終わりが解らずに一年・二年・三年・・・・と積み重ねるもの。
在位は期間があらかじめ決まってないんだから循環しようがない。
君主の代替わりや改元によって元年になるけど、
それは、そこから数えなおすのであって循環じゃない。
校長が代替わりしたらというのは冗談ねw
積み重なる年の議論に、循環する学期を引っ張ってくるのはおかしいということ。
203太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 07:22:43
>>202
確かにお前の言ってることは分かるところがある。数字の積み重ねにはなって
はいない。それではこれは月の類なのか? 月じゃないだろう。別に学期は天体
とは直接関係はなさそうだ。それに四季の類なのか?これでもない。四季の
春夏秋冬には数字がない。それに先述のとおり流動的可なるべきものだ。

三つ学期と3倍暦とは物事の本質的に似たところがあるということだ。1年の
三分、これが数字的に3倍暦も三分だ。だから1年の三分割は実例があったわけ
だ。それがいま云った三つの学期である。1年を三分割することはデンパでは
ないことになる。便利な箇所があるから文部省国会等が採用したわけだからな。

時間的三分割の事例がある以上3倍暦の可能性はちゃんと残っている。
三分できれば似たようなもので、学期を引っ張ってきてもおかしくはない。

お前が3倍暦を否定するなら、それをハッキリ覆せる当時の天皇の超長寿を
キチンと合理的に説明するんだな。お前は否定はするが、その見返りの、なぜ
超長寿なのかの説明がいつもなおざりで逐電している。できないんだろう??

だろうな。説明して、否定するならしてくれ。2倍暦だけでは合理的説明は
まず無理だよ。2倍暦も否定すんのか?
204日本@名無史さん:2007/09/14(金) 07:43:23
倭人伝には、わざわざ2倍暦のことを書いているのに、
3倍暦にするとは・・・・トホホ
205太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 07:57:34
>>202
四季があるのに国会文部省等はなぜ三つの学期制を採用したのかね? これは
お前に質問してるというより、お互い双方が考えるべき問題なわけだ。
つまり四季により難い事情があるから四季での四つの学期制の採用を見送って
るわけだと思うが、お前はそうは思わないか? 無理に現行の学期制をとらず、
四季を見て四つの学期制をやるのが事は簡単なのに現実はそうではなく、1年が
三分の学期制のほうを採用してるのだから、それには何か都合がいい理由が
あるからかように1年を三分割して学期制としているわけだろう? 余はそう
思うんだがね。

だから事情は違いあるも当時もなんらかの事情、1年が三分のほうが四季はあ
っても3倍暦をやるべき事情があったとは相当程度云えることだ。文部省らが
四季があるのにこれを無視し、三分を選んだのことは、古代の当時もそういう
何らかの理由で三分の道を選んだことは否めない。ただ数字がお前の言うように
繰り上がって行かないだけのことではないかよ。w
206太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 08:00:33
>>205 訂正 最下段

× 繰り上がって行かないだけのことではないか

○ 繰り上がって行くか行かないかだけのことではないか
207唐松山:2007/09/14(金) 13:10:46
あら 正しい方向に進むと思ったら
訂正しちゃったよ。
208太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 14:28:28
>>204
3倍暦でなければ記紀の天皇の超長寿はまだ合理性が完璧には論じられません。
209日本@名無史さん:2007/09/14(金) 18:40:43
一つ確認したいのは、おまいさんの言う神武治世の三倍暦というのは、
四月末日まで行ったら、次は五月一日ではなく、
翌年の一月一日になると理解しているがそれで良いかい。
210太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 19:17:58
>>209
神武の場合はそれだと思える。が、しかし他の天皇の時代は違うようだ。
神武の場合でも即位直前までは通常暦のもようであり、崩御直後は元の暦法に
戻しているようである。そのまま次代綏はそのまま踏襲して通常暦をやって
いる。かように観ている。
211横槍:2007/09/14(金) 20:05:11
>>208
だから〜3倍暦じゃなくて、還暦の繰り入れでしょ
212日本@名無史さん:2007/09/14(金) 20:38:44
>>210
三倍暦を学期制に例えるなら、一年生の一学期が終わったら、二学期三学期は縁起が悪いからやめて、
夏休みが終わったら二年生の一学期が始まって、冬休みが終わったら三年生の一学期が始まるのと同じ。
だから、通常暦で三年間学校に通ったら、三年生のはずなのに、九年生になっちゃったってのが
おまいさんの長寿説明の理屈だろう。
五瀬命とかの、おまいさんの説明する理屈だと、神武治世の三倍暦三年の日数が、通常暦一年に相当するのはたまたま。
それを一年を三分割した学期と同列に扱うんだったら、
自分で提唱した三倍暦の一年を、自分で一年扱いしてないことになるよということ。
今日のレスはこれでやめとく。
213太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 20:53:49
>>211
>>208は、2倍暦だけの論の終始では超長寿の合理的説明におかしなところ
が残りますよとの意味ですな。

>>212
またまた意味不明。
一学期分は4ヶ月分だよ。3倍暦も4ヶ月分さ。ただ繰り上がらんだけの話
だろ。時間的にはほぼ同じことさ。
能書き垂れるなら天皇の超長寿を通常暦で万人が納得する説明をしたらどうだ?
些細な相違を上げて理屈を多大に豪語してるんだから、そのくらいのことは
やらねば云いたい放題御託を並べるだけで、都合の悪い肝心なところでの逐電
行為であると云われてもいたし方あるまいが・・・。いつもお前らはそうだ。
214唐松山:2007/09/15(土) 19:25:11
超長寿の合理的説明は、 増し で 説明できます.

倍暦でも 超長寿程度は,説明できますが  合理的な 暦が出来ない。
肝心なのは
倍暦でも増しでも 合理的な暦 ができるか?
暦が作れなければ 間違っています。
215太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/15(土) 20:21:38
>>214 唐松山さん
干支の場合は空亡月も空亡日の数字にも干支はあると観ていますから、舎人ら
は実とみて逆算で各即位月日等を特定して行っても数字は合って来ますが、天体
の運行はそうは行かず実の月実の日のみで数字が決まりますから、神武即位
の年月日は干支と天体運行が一致せず、現今の記紀等くらいでは正確には出
ないと考えられます。

貴殿の行っている朔計算でやって、月の運行で精密な29.5日の小数点以下が詳細
に知れている場合、全部1年がどこの年も365日で充填されていれば、逆算の
正確性は希望があるわけですが、複雑に空白の月日が入り組んでいる記紀の状態
では当時の年月日を正確に求めるのは無理だと考えています。

紀の朔も舎人らの後付けの逆算的ものであり、空白月日のため必ずしも真と
なっていないでしょう? その後付けだと想われるのは、紀の記述の月食記録
が623年(皇極2年5/16)にあり、これが日本最古の月食の記録なわけですが、
それ以前は月食記事が数個紀に存在してよいものの朔記事と見比べて全く
無いのです。疑念を持ちませんか? これは月の記録の朔が後付けだったのだと
想うのであります。
216唐松山:2007/09/15(土) 21:21:11
確かに 日食、月食の記事は 皆無に近い
そのわずかな 日食 神功初年 の記事は貴重
増しで 西暦273年5月4日 と見ています。理由 @久しぶりの日食と思われる
A大きな食である。この2点より,
太国さんの 暦年には 日食が 有りません

増しで 天体の運行再現 可能と見ています。
倍暦の方が 天体 再現 難しい。
皇極辺りから 食の記事散見されますが, 初期の記事は,暦導入時の計算による
食の予想も 含まれている。
217太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/15(土) 21:39:59
>216
神功初年のは日食ではないでしょう。 だってその記録ではえらく日食時間が
長い。だからそれは雲行きが長々を続いていて暗い状態にあっただけでしょう?
日食はそんな長い時間ではないです。推古の時代のが最古ですよ。

それがしのは日食がなくても困りません。朔が紀のいたるところに記述され
ていて、月食の記事は望のときですか、ならば原書に月食の記録もあるべきで
しょう。それが書かれてないということは、舎人らの干支と同様の精密計算
による後付けのものと観るべきです。彼らは倍暦を見過ごしてその計算をして
行ったことになりますから朔のほうは間違っちゃってますよ。月食計算は
彼らもまだ無理だったんではないでしょうか? 出来れば皇極以前のも書かれ
て然りです。それがないから朔の記録は後付けです。

佛伝後の欽明以前ころから原書にはなかったと思えます。日食の最古の記録は
神功ではなく推古の崩御のころですから、推古は天体記録があるわけで、その
少し前の欽明以前が逆算した可能性が大です。「欽明」の号が(天体の)日と
月と金星を欠くとあるからこのころではないですかな?
218日本@名無史さん:2007/09/16(日) 07:21:54
このスレで最初に学期のレスを食らったものだが
なぜ馬鹿は合理的な理由をだせないのだろうか
便所の落書きでもつまらないものは馬鹿にされるのは当然
馬鹿にされたくなければ書込み禁止のサイトでオナニーしてろよ
219太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 07:27:37
>>218
なぜかって? 幾度も書きこんである。そのうち疲労がないときお付き合い
して野郎。
否定するなら、お前も古代天皇の超長寿をいかように合理的な理由で解説
できるのか? それを云わねば、お前の書きこみはこのスレにクソをなすり
つけたようなものだ。この超長寿を合理的に説明してからデカイことを云う
んだな。説明もできないクセにクソ能書きを垂れに来るんじゃねえ!!
220日本@名無史さん:2007/09/16(日) 07:40:14
おまえは何考えてるんだ説明しろなんて何故お前が言う
長寿の説明するのに不合理な説明をしているのは俺ではなくお前だ
だから不合理だといわれる三倍暦の合理的な説明をしてからほざけ
221太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 07:44:00
222太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 07:56:11
>>221 お前の誤記振りでの書きこみで、以下に訂正
お前も各天皇の百数十歳、二百数十歳の合理的説明をするんだな。
話はそれからだ。披露のないとき説明してやるから、この理由を書け。
それとも水増し、引き伸ばしか〜? まぁ単純だな。ww
223日本@名無史さん:2007/09/16(日) 08:36:04
あほか?自分にレススンナw
もっぺん220を読めよ、俺が何故説明必要がある。3倍暦を言い出したのはお前
突っ込まれると「お前が答えろ」というなら最初から何も語るな
水増し引き伸ばしが合理的でないと考えるなら3倍暦がどう違うのだ?
それを説明しないまま話だけしていても不合理な仮定に基づく推論は何の意味もない
お前も水増しや引き伸ばしをしている年代論を信じないだろ?
つまりそういうことだよ。他人に信じてもらうために自説の合理的な説明をするのが前提で
他人の意見を批判しても自説の強化にはならない。
ここで確認しておくが俺が自説を書いた事はないよ。だから説明を求めるのはお前の説が
実際に成り立つのかどうかを確認するために聴いているのであって「俺の自説のため」ではない
224日本@名無史さん:2007/09/16(日) 09:33:49
ブラックホールの異常接近というのも、宇宙にはある。
225太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 10:02:54
>>223
さっきはPCの不調から起こったことだ。お前の誤記振り論で時間のせっぱ
詰まった状態からのことだ。そっちのことはどうでもいい。

3倍暦に関しては、今までの過去スレに書いてある。そこを読んでから質問を
してこい。あとは倉西氏の過去スレにも初期的ことは書いてある。

今は疲れてるので少しだけ云うが、3倍暦の使用は天皇の超長寿を物の見事に
説明できる。つまり当時の天皇は何のことはない、うちら現代の人間と大して変
わらぬ寿命だったということだ。こんな奇異な暦法はやりかたが違うものの、
3倍式ではないようだがフランス革命暦でもやっていた。この暦法は1日が
10時間でやっている。
欠史八代の紀の記述では天皇崩御に関しては1ヶ月のうち全部が上旬の
10日間である。だからお前の豆脳が未経験で考える現代の暦法が当時もその
まま行われていたなどとの想いこみはとんだ大間違いだということである。

お前が天皇の超長寿の説明を怠れば、お前はこの長寿を是認しているとみなす。
226日本@名無史さん:2007/09/16(日) 10:05:04
オレは223の人ではなくって、三倍暦の合理性は、ひとまず置いとく。
>>182以来、三倍暦が無いなんて一言も言ってなくって、
三倍暦と三学期制は全然性質がちがうって話をしてるの。
なのに、じゃあ趙長寿を説明しろって切れられても、論点違うじゃん。

>>212でオレが書いた

>三倍暦を学期制に例えるなら、一年生の一学期が終わったら、二学期三学期は縁起が悪いからやめて、
>夏休みが終わったら二年生の一学期が始まって、冬休みが終わったら三年生の一学期が始まるのと同じ。
>だから、通常暦で三年間学校に通ったら、三年生のはずなのに、九年生になっちゃったってのが
>おまいさんの長寿説明の理屈だろう。

の部分は、異論がある?

しかし、182を書いた時点では、1,2回レスすれば、「ああそうか」で終わる話だと思ってたので、
こんなにひっぱるとは思いもよらんかった。
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 10:18:12
1年の3分断は三つの学制への3分断で、現代の国会等が決めた事だから
当時もやろうとすれば簡単に天皇のツルの一声で簡単にできる。だから
お前の言う違う部分はその3学期制と3倍暦法にはあるものの、やろうと
思えば1年の3分割はストレートにできうる。違いは確かにあるが、そこ
んところは重要ではない。重要なのはできるかできないかということだ。

お前への要求も重要なことはその超長寿を倍暦でなく、どのように
合理的に説明ができるかということだ。できれば3倍暦など考える必要
などあるまいが。

お前の想いこみの1年が365日というのが当時もそうだと思うのは甘い
考えだよ。そうなら天皇の寿命もうちらとあまり違わぬ記述のはずだ。

これから外出だから、はやく超長寿の説明をしろ。あとで読んでやる。
228日本@名無史さん:2007/09/16(日) 10:44:45
>>226
223だけどさ俺が言ってるのも同じ
なんで齢を数えるのに年ではなく年の三分の一を齢として数えるのかということ
それを不徳には一年を三つに分けるからだという説明にならないことを言う
それでは自分が説を立てるのに三倍暦を採用すれば説明がつく以外の理由になっていない
自分の都合の為に水増しや引き延ばしをしていることとなんら変わらないといっているのですよ
前に書いたけど二倍暦が二毛作二期作であってそのサイクルを齢の単位とするのは合理性がある、
但し当時において二毛作二期作が齢の単位となるほど一般的かは議論すべき点であると書いた。
つまり仮定の合理性を求めているのですよ、貴方も一学期なんてことが説明になってないと考えてますよね
同じくお前が長寿の説明をしろと言われてハァと思ったのでレスしてみました
229太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 11:21:38
>>228
今出発準備をしていたところだ。即外出するから一寸書きこみをするが、
お前の言う天皇超長寿肯定論は生物学的にはとても無理だ。お前の通常暦法では
水増し、出鱈目記述としか説明できまい。こっちを水増しとか言うのは適切な
考えから逸脱している。なぜか、
紀年100円硬貨でも通常の50円硬貨でも使えればいいわけだよ。2倍の場合は
50円効果を2枚だせばいいことだ。双方使うことができる。それをお前を紀年
効果は出鱈目だと云ってるわけで、紀年と通常の違いばかり誇張して使えること
を等閑史している。

いまの暦法では超長寿の秘密を合理的に説明できまいが。紀年硬貨も通常硬貨
も使えればいいことだ。お前は重要でない所ばかりを強調して天皇超長寿の
不審点をなおざりに横へ葬っている。こういうのはだめだ。出発する。帰ったら
読んでやるよ。
230日本@名無史さん:2007/09/16(日) 11:33:59
だから俺は長寿が説明できるとは言っていない
お前は3倍暦の合理的な説明をしろ
他人が言っていないことを説明してどうする
自分が言っていることを説明できないなら批判されないところで書け
お前が様々なスレで蛆虫扱いされているのはまともに他人の話を聞けないからだ
231日本@名無史さん:2007/09/16(日) 11:45:56
フランス革命暦は一日を十時間としたけど、地球の自転一回分を一日とすることは変わらん。
自転一回分を24分割するか10分割するかの違い。
フランス革命暦が、一日の長さを自転と無関係に設定したというのなら、
三倍暦の合理性の議論に引っ張ってきてもいいよ。

12ヶ月も四季も三学期制も、地球の公転一回を一年とすることは動かしてない。
それを、月の満ち欠けとか、季節の変化とか、休業期間の挟み方とかを基準にして分割してる。
分割の基準と長さが違うだけで、やってることは同じ。
公転一回という決まった長さを、決まった数で分割するから、
当然、月も季節も学期も、数は無限に増えず循環するわな。
おまいさんのいう三倍暦は、地球の公転を無視して一年の長さを変えるという行為。
一年をどう分割するかと、一年の長さをどうするかは異質の問題だろう。
三学期制とは明確に行為の本質が異なる。
だから、三学期制をやってることが、三倍暦の合理性の根拠にはならんといってる。

おまいさんは、三学期制があるから三倍暦は合理的だという。
オレは、三学期制は三倍暦とは性質が違うから、三倍暦の合理性の根拠にはならないという。
ここで議論すべきは、三学期制が三倍暦の根拠になるかどうかであって、
超長寿を説明しろというのは、論点をずらしてるに過ぎん。
オレは228さんみたいに、仮定の合理性までは求めんが、
三学期制は三倍暦という仮定の合理性を言うのには使えんよと言ってるの。
232日本@名無史さん:2007/09/16(日) 11:50:41
230と231は別人ね。リロードせずに書き込んだら、なんか続いちゃった。
233日本@名無史さん:2007/09/16(日) 12:55:36
まぁ文体を見ても誤解は受けないと思うけどねw
不徳に本人は多分まともに答えないとは思っている
ただこのスレを読んでいるように俺は倍暦には興味がある
100以上の寿命を記録されている天皇の説明をつけるには
記紀は殆どでたらめ
記紀は概ね事実
この二点に分かれる。俺は下の立場であって倍暦で説明がつく部分もある
かといって自分に都合が良いという理由で倍暦を採用したら
聞いた人間に納得できない理由であれば与太話といわれても仕方ないと思う
年齢は現在の年とほぼ同一で太陽年に近い。
ただ古来の齢が現代の年齢と同一であるのかは疑念がある。
太国が言うように生物学的には難しい、
単なる作り話であればなぜ千年も二千年も生きたことにしなかったのか
なにかしらの伝承によるものなら当時の齢はどう数えたのかに興味がある
このスレにコテでもう一方いるが自分でルールを示して書いてあるから突っ込まないが
太国は自分がルールだからどうしようもない。
「自分でルール」と「自分がルール」の違いは矛盾点の指摘に対して
自説では説明できない又は矛盾ですと言える
自説に都合が悪いと問題をずらす
という大きな違いがある。だから太国は説明できなきゃ消えろと言っている。

最後に少しだけ太国のフォローをしておくと、彼は電波だが都合が悪くなると消える
ダメなようだが粘着荒らしではないことだけは認めてやろう
234太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 14:42:47
>>231 お前は>228でないのか?
そこまで云うならコテハンをつけたらどうなんだ。お前のは聴いてると暦法は
すべて地球の公転に強引に制限されるんだというトンデモの主張だよ。お前は
フランス革命暦肯定するんだな? だろう、もう出揃っている暦だろうからな?
そうでなければそれも徹底否定を貫いているんだろうがね?

なにも1年を1年の公転に拘束されることはない。お前に都合が悪い暦法で
事実古代マヤ文明暦の一つは不規則暦の260日暦を用いている。古代アステカも
同様だ。古代エジプト暦は265日暦でどれも1.4倍暦だ。こんなのがある
ということは、日本の古代の暦法にも1年が365日暦でないのがあっても
おかしくはない。

お前の主張では天皇の超長寿は全く説明できない。せいぜい水増しと創作とか
の逃げの一手の話に終わるだろう?それとも讖緯説か?これならまだ論の主張
にはもっともな点が残っている。お前のは竜頭蛇尾の超長寿を説明怠慢の史理
拭いの放棄をえらくデカイ態度で堂々とまかり通らそうという日下の日物より
ひどい書きこみだな。ww 
235太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 15:01:45
例えば ↓ これをどう説明するのか? 無コテの自作自演くらまし二役を
          止めて、紀のこれをほら、考えてみろ。

 孝昭天皇 113歳
 孝安天皇 137歳
 孝靈天皇 128歳
 孝元天皇 116歳
 開化天皇 115歳
 崇神天皇 120歳
 垂仁天皇 140歳
236日本@名無史さん:2007/09/16(日) 15:21:54
おかえりw
俺は228かつ233であって231ではないが
231がいっているのはお前さんが234で書いたような三倍暦の暦法を示せよと言うことだ
一学期なんて例えは何の説明にもならない
およそ120で廻る三倍暦はどうして古代に採用されたのか
これを三倍暦だから自説に都合が良い以外の事由の説明をしないで他人に説明を求めるな
235の説明の為にこのスレのような存在があるのにその話をマイルールで重要でないと言うの事こそひどい書き込みだ
237日本@名無史さん:2007/09/16(日) 15:42:23
>235
創作上、架空の天皇の名前挙げて、馬鹿かこいつはw
そもそも生きてなかっただろうがよ、そんな奴はw
238日本@名無史さん:2007/09/16(日) 16:00:57
>>234
231だが、三倍暦がありえないと言っているのではない。三倍暦と三学期制は無関係と言ってるの。
なのに、『三倍暦を否定するのは間違ってる』とレスを返されても困る。
何度も同じ事を言わせるなよ。

231のどこに暦法が公転に制限されるなんて書いてる?どこにも書いてないよ。レスはよく読んでくれよ。
頼むから、レスを良く読んでくれ。論点の噛み合わん議論は虚しくなる。

もともと、勘違いをチョッと指摘するだけで、「あっ、そっか、勘違いしてた」で終わると思ってた。
こんなに長引いてるのが、逆にちょっと戸惑い気味。
そんなもんでコテつけろって言われてもな〜。
239日本@名無史さん:2007/09/16(日) 16:05:58
>>233

オレは、記紀はでたらめとは思わんけど、年齢に関わるところは、
伝承過程に誤りがあったんだろうと思ってる。
でも、倍暦を頭から否定しようとも思ってないよ。
合理的な説明があれば、誤りで切り捨てるより望ましいから。

>ダメなようだが粘着荒らしではないことだけは認めてやろう

オレも、荒らしだとは全然思ってない。むしろ、一生懸命やってんだな〜と思ってる。
だから、理屈が通ってないところを、親切心のつもりでレスつけたんだけど、
なんか三倍暦そのものを否定されてるみたいに勘違いしてるようだなあ。
240236:2007/09/16(日) 16:15:42
しょうがないからレス番コテにするw
237のように架空説を唱える人はここで発言してもあまり意味がない
記紀の記述はでっち上げだという考えであればここでムキになる必要もないのだ
ここのスレの公理は架空ではなく「ある伝承」が記述されているというものだ
別の公理は別のスレでやればよい。議論で解決できるものではない
考古学的な新発見でもない限り証明はできないものだからだ

238氏に言っておくとそれが太国クオリティです
他人の意見が自説を磨くためのものと考えていないのだから
三倍暦の説明をするのに「学期の比喩」は信憑性がないという指摘をイチャモンとしか捉えない
他人に自説を説明するなら別の方法を用いればよいとまだ気が付かない
あーやっぱり変な例えでしたねと言える様になって初めて糞コテと呼べれぬ道を歩めると言うのに
241唐松山:2007/09/16(日) 17:14:42
次回より
下記の 治世 年齢で 記事(何でも有り)を検討します。
西暦   治世  即位年齢
神武天皇  36年 19年間  25才以下
空白(タギシミコ) 3年間  
綏靖天皇  58年 14年間  15才
安寧天皇  72年 11年間  14才
懿徳天皇  77年 11年間   8才
孝昭天皇  88年 26年間  5才
孝安天皇 114年 26年間  15才
孝霊天皇 140年  19年間  20才
孝元天皇 159年 19年間  14才
開化天皇 178年  8年間  13才
崇神天皇 186年  25年間  4才
垂仁天皇 211年 23年間  10才
景行天皇 234年 22年間  17才 
朔の廻し8年に相当
成務天皇 264年 4年間  
仲哀天皇 268年 3年間
神功皇后 271年 37年間
応神天皇 308年 24年間

西暦は,2年不足  年齢も検討不足ですが

242唐松山:2007/09/16(日) 17:17:20
まず 神武から 考昭 あたり
ほつまで
ホ29023 アビラヒメ めとりうむミコ タギシミミ キミトシヨソヰ 推定西暦30年頃
ホ31024 フソヨトシ キミヨツギなし         神武24年   西暦40年
クメがコの イスキヨリヒメ ヲシモメに                西暦40年
サミヱナツ ヤヒコのほりて おがむとき ツボネにあるを 神武32年    西暦45 
タギシミコ ふかくこがれて チチにこふ
フソコトシ キシヱハツミカ キサキたつ ヨソタリヒメの  考昭29年  西暦97年
トシソヰぞ ムカシヤヒコに ユリヒメを たまえはうめる
アメゐだき このアメヲシオ マゴムスメ         ユリヒメ=イスキヨリヒメ
ヨソコトシ キミヱハツヒに キサキうむ イムナヲシヒト       西暦99年
ヤマトタリ ヒコクニノミコ

次 有史八代 白河本旧事紀より
 (考昭)天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、
政務を事(つ)かへたまはず。然(しか)れども天下泰平、...
是の月、大物主大神 出現し、...国主、寿(ながいき)せず。...
検討
初に 手研耳 16才で父の妾 イスキヨリヒメを孕ませる
西暦46年 誕生 天忍男その孫娘 世襲足姫 西暦97年15才
46年+18+18+15=97  可能な年齢 及び年数
次 考昭即位時の年齢 上記 有史八代を読んで下さい。
幼いか痴呆 私は,幼い(5才) と読み解きます。
天皇 長生きせず。
 如何ですか?
243太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 17:28:30
>>236
お前は紛らわしいから有コテで来い。今度は撹乱戦法か?
それに>>235の最重要なこと無と為しをあたり触らずで古ずるいこと甚だしい。

それに答えない、有コテもやらんじゃこっちも答えてやらない。
お前はこの前審判兼選手でやってきたコスイ郎だろう? こんどは別策か?
あたり触らずじゃぁ、柔道だったら指導をとられる。これをしないんじゃ
お前の負けだ。ww そうじゃないんなら超長寿を合理的に説明するんだな。
待ってるぞ。余は幾回も説明している。お前過去スレ読んでなかったのか?
お前この前も云ったが、コテンコテンに余に負けたんだろう? くやしいか?w

>>237
生きてない? じゃぁ創作か? ならば舎人は死罪だぞ。お前少し口の利き方
と気をつけろ。

>>238
お前もコテをつけろ。紛らわしくて疲れる。いやなら長文の批判をやめろ。
過労になってしまう。こっちのことを考えて真面目ニ論じろ。それに超長寿の
重要部分をお前も逃げてとぼけている。こういうのは日今日者だぞ。

>>240
なんだ番号コテをつけたのか。まぁそれはいいが、お前の左の数字は繰り上が
っていくわけだ。w
244236:2007/09/16(日) 17:40:50
>れに>>235の最重要なこと無と為しをあたり触らずで古ずるいこと甚だしい
太国少し日本語に直してくれ

参考までに言うとお前に負けた覚えはない
というか勝った負けたと考えてるお前の考えが異常だ
誰もお前が買ったことなど無いと考えているぞw

他人にコテ名乗れなどと支持をするなよw
今つけているのは便宜上だから

何度も書いているがお前が3倍暦についてまっとうな説明をしろと聞いているの
聞かれてるのはお前だよお前
なんで質問を質問で返すかな
都合が悪いのか?
245太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 17:54:37
>>244
だから過去スレを読め。それで質問あるなら話をする。老齢となれば
同じ解説を毎回やるのは疲れるんだ。別に余が逃げたいわけではない。
お前は若いからそんな簡単に云うが、体調のよくないとき説明しろなど
とどでかい要求などするな。それともお前はこっちの研究をロハで
いただきたいのか? いいかげんにしろ。

単に否定目的で来るなら、お前が何らかの下心があるわけだ。確かに
2ちゃんはITをやれれば誰でも覗けるが、こちらは当時の天皇の超長寿
を通常暦で説明するのはイカサマ記述とか水増しとかでない限り説明
できうる代物でないから、苦労して合理的説明ができようかと画策して
いるわけだ。だからその史理拭いをしてない重要箇所から逃げ回って
説明しないお前などにこれ以上付き合ってはおられない。何ら得にも
ならない。

文面で余も人を見る。お前も唐松山氏や倉西氏、征東大将軍氏のように
説明できる自論を持ってから顔を出せ。余の論を否定するのはそれから
だ。無いなら来るな。
246二三一:2007/09/16(日) 18:05:35
231だけど、オレもレス番をコテにしとく。236さんと紛らわしくないように、漢数字にしといた。
オレの書き込みは
>>182,184,188,191,202,209,212,226,231,232,238,239
全部にアンカーつけようとしたら書き込みエラーが出た。
専用ブラウザ使ってたら、これでも一覧できるから。過労防止のために。

マヤのツォルキン暦は、13と20の最小公倍数の260日を1サイクルとする数え方だろう。
なにもマヤを引き合いに出さんでも、10と12の最小公倍数の60日を1サイクルとして
日数を数える干支法と同じで、オレたちだって、マヤと同じで通常暦と干支法を併用してる。
でも、干支法を6倍暦なんていわないんだろう。
だったら、マヤのツォルキン暦を1.4倍暦だっていって引き合いに出すのは変だよね。
エジプトの暦が265日だったというのは、ググッたけど詳しいことは解らなかった。
解説なり、詳しいHPの紹介なりしてくれると有り難いな。

唐松山さんの書き込みは、無視してるわけじゃないけど、
秀真伝は解説本を一冊読んだことがあるだけで、知識が無いのでスルーしてます。すみません。
247236:2007/09/16(日) 19:03:33
>太国
年も糞も関係ない(これは太国と俺の年だ。念のため)
今までレスしてきたのなら学期以外のレスを返せよ
それ以外は水増し引き伸ばしはインチキ以外返していないだろう
それでは太国説の説明にはならないと言っている
何かあれば持論を持ってから顔を出せの一点張り、
そんな批判に耐えられないならオナニーサイトを作れとこれも何度も言っている
三倍暦の質問の説明をしなさいよ

>二三一氏
唐松山さん(明示したほうが誤解が無いと思うのであげる)の説は読んでいるけど
ほつま伝について詳細な知識を持ち合わせないのでレスは避けている
また唐松山さんは自分の解析手法を示して誤りがあれば改良しているのがみえるので
俺が突っ込むところを見出せていないのが正直なところですがw

>all(というか太国向け)
二三一氏と歩調をあわせてるように見えるが別人である。
まして唐松山さんとは別人ですよ。
匿名サイトでコテハン名乗っても自作自演の疑いは払拭できない
読む人間がどう捉えるかにかかっている
248唐松山:2007/09/16(日) 19:23:46
次回は,
崇神1代を 詳細に分析予定。
249236:2007/09/16(日) 19:31:44
IDでないので俺レスメモ1
>>120
>>127
>>218
>>220
>>223
>>228
250236:2007/09/16(日) 19:32:15
俺レスメモ2
>>230
>>233
>>236
>>240
>>244
>>247
251日本@名無史さん:2007/09/16(日) 19:33:51
卑弥呼の写真を発見!!

「これが歌う卑弥呼だ!!」
http://hananoinori.55street.net/photo.html



252太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 20:17:54
>>246
古代エジプト暦については古代マヤ暦ほど知識は持ってない。余はうそは
云いたくないからな、それは去年だったか、そのころ世界不思議発見でやって
たものだ。
内容によるとB.C.2772年以降は1年を265日で暦法をやっていたということ
であった。それ以前は月に基づく暦であったとの話だが、これは具体的には
説明はなかったのでそこんところはよくわからんがね・・・。

引き合いに出すのは暦法を論じてるんだから変ではないだろう。参考になる。
このように有史以来種々の変形奇異な暦法が存在してるんだから、もしや
日本もあったのではあるまいかとの有可能性は云えてくる。つまり日本の古代は
今のような1年が365日と同じだとは、これもからきし根拠が弱体化する。
古代マヤにはまだ多様の暦法があるが、819日暦など奇異な暦法も存在する。

>>247
お前は超長寿の自論を研究してからお相手してやる。
253太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 20:36:57
とにかく1年が古代でも365日でやってたとは必ずしも云えず、古代マヤ。古代
アステカ、古代エジプト各暦法が1.4倍暦であり、確かに細かい点では>>246
二三一氏が言ってたとおり倍暦とはいい難いと云われればそうではあろうが、
いずれにしろ変則暦であり、さらにフランス革命暦も変則暦でやっていたわけ
だからスパッと1年が二分三分としての短期的1年があっても不審ではなく、
よく天皇の超長寿の疑念を説明できる。

現今の経験からの1年は古代も365日であるなどというのは、未熟な脳内の発露
と云われてもいたし方なく、さらに遡って前世紀となれば1年は365日ではなく、
その3億5千万年前は1年が400日近くあったということであり、これは地球の
自転が今より早いためそうなった。これは珊瑚の年輪から判明したものである。

つまり1年は流動的なるものであり、1次元のものさしの1尺と1メートルが
が違うように、4次元的時間のものさしでも365日のもあれば、その半分等を
単位とする年数があったりしてもおかしくはないのである。
254236:2007/09/16(日) 21:07:11
だから持論を言っているのはお前だ
あれこれ他国の暦法を述べているがお前は良くわかっていないとしか書いていない
お前の三倍暦も「何にも考えていません、上手い喩えも根拠も無い」と何故いえないんだよw
255太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 21:58:36
いつお前、余に負けたんか? どうせ女王国の件のときだろう?ww
そんなにくやしいか? 相手を負けさすのが余の目的ではな〜い。
そんなことを考えるより、紀年でもお前も研究せい。

それに、お前だろう? この前干支計算して頭に乗ってたのは?wwww
はやく天皇の寿命を公表せい。どうなったんだ?あ〜ん?
256236:2007/09/16(日) 22:30:36
お前と話したのはこのスレの他では二倍暦スレでやれと言ったときだけ
そのときアンタは物分り良く移動したじゃない
だからアンタもまだまともだと思ったんだけどさ
なんで三倍暦の根拠は何もないと言えないの?
本当におかしい人なのか?
勝ち負けにこだわるし被害妄想でもあるのか?


257太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 23:04:07
>>256
お前も何回同じことを云うのか? 同じ物を毎日食っててみろ。あきてあきて
いやになってくる。お前はそういうことはないのか?
そのうち調子がよけりゃぁ書きこむこともあろう。お前は若いんだろうが、こっ
ちは年行っててお前の進行と一緒にやってなぞいられるもんかい。

そんなに早く知りたけりゃぁ過去スレを読めといったろう。何回も同じことを
聴くな。お前こそが勝ち負けにこだわってるんではないか。とぼけるな。

以前負けて、そんなにくやしいのいか? あ〜ん? なら泣き屋になって
やろうか?エ〜ンエ〜ンと。wwwmmm

そんなくやしいなんか過去のことは女の腐ったように執念をもやさずに、
さっきも言ったがもっと紀年の研究でもしろ。
「太国は3倍暦を主張してるが俺はそうは思わない。これにはこういう紀の
 考え方があり、俺はこう思う。これだと3倍暦なぞ考えなくても、もっと
 合理的な説明ができる。」とか・・・
そうなってくると、こっちも聴く耳を持ち、正解ならば余も自説を廃棄するぜ。
そういうのがまっとうな論者だろ。お前は否定のための否定の繰り返しじゃ
ないか? この前もそれに徹している。だから小数点以下の宝くじ的確率を
さも、しょっちゅういくらでも1等があたるような出鱈目を堂々と抜かして
いる。そういうんだから、お前の腹の中は何を思っているかミエミエなん
だよ。ww それでも改めないなら、また云うが、とっとと消えろ。
改めるんなら研究してこい。相手はそのときだ。
258236:2007/09/16(日) 23:49:04
あふぉか?
あんたが自説を書いてまともに応対すれば何の問題もない
ところが突っ込まれるとファビョる。俺だけじゃなく何人にも同じ事をしているだろ?
くどいぐらいに聞いているのは真面目にスレを読んでいる人が勘違いしてアンタに質問して
聞かなきゃ良かったと思わぬように書いてるの
俺は電波慣れしてるから相手していても苦じゃないからな
ほんとうならあんた自身が自分の対応を改めて突込みにも第三者が納得できるだけの
レスを返すようになることが一番いいんだよ。これはマジで言ってるんだよ

アンタ他人との勝ち負けに異常に拘泥しているが今まで何度も同じように他人ともめてるんだろ
だが第三者からフォローは入らない。それはあんた自身の問題だよ
俺の書き込み読み返してみろ、アンタが普通の対応していれば俺がやりすぎだと言う人が絶対いる。
2chでだって絶対いるんだよ
それなのに太国をいじめるなとは誰も言わない。それは今までのアンタの態度だよ

予想として誰かが言うとすれば「二人とも書くな」ぐらいだ
よーく過去レス読み返して自分のことを省みなさい
アンタが勝ったと思っている事は相手があきれただけだよ



259太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/17(月) 07:58:35
お前が余をいじめるだと? Pu!そんなことは今のところうぬの云うとおり
いるわけがない。当たり前だ。お前なんかに余をいじめられる力量があるのか?
お前は特攻服のほうが好きな野郎なんだろう? なぜ似合わぬスレを荒らす
のか? ああいう奴らと付き合うのがお前に似合ってるんではないか。

ふぁびよるなんぞ言い出して正体を現したな。な〜〜んだ。お前は神社仏閣板
にきたアルカードのチンケな手下じゃないか。
お前ならなおさらだ。暦法論なんかお前に似合いもしない。暴走族のスレでも
行ってろと忠告したろうが。そのほうがお前に似合ってふさわしい板じゃないか。
そっちのスレへ行ったらどうだ。やはりだったな、正規の論述者でない。
あのときののらくら野郎だったわけだ。神社の中で暴走するのがお前の快感
なんだろうが? みんなあっちでも迷惑してたんだ。だいたいお前のガラに
似合わんスレだろうが? いつぞやも余にコテンパにやっつけられたからな。
なおさらやって来るわけか。まだ逆襲したいわけだな? 例の迷惑者とわか
ったからとっとと消えろ。暦法なんかお前に似合うわけがない。
260太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/17(月) 08:22:52
以前女王国の論でお前は余にコテ無板に負けた。そのくやしさもあって、さらに
根が不良品のところがいささかあるらしく、いろいろなスレへ見聞に来て
暴走族等のスレが似合うくせにはいついて嵐回っていたな。

このスレでは正規な論者の仮面をかぶり徹底抗戦して当時の大負けのアダを
取ろうと目論んでたが、生来の好ましくない性癖、人格の面が文章に出て
くるから、いずれは化けの皮がはがれるわけだ。お前の親の顔が見たいものだ。
どういう教育をお前にしたのか? あきれるばかりだ。

お前じゃ迷惑以外の正論など出てくるわけがなく、スレの邪魔と荒らしと正当で
はない暴走族式のあだ討ちがうぬの目的だから、もう論の相手などする必要は
ないわけだ。古神道のスレでさんざん神社の敷地内暴走をして来たお前だから
なおさらだな。もういいかげん真面目な人物になったらどうだ。俺は真面目に
論をしているなど、そんな偽装にはだまされんぞ。
261太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/17(月) 21:29:00
「古代天皇実在の解明」砂川恵伸著 新泉社

3倍年暦で推古起点でのやり方だそうだ。二倍年暦は認めていないとの
ことだそうな。どんなのかねぇ?
262日本@名無史さん:2007/09/18(火) 06:07:29
太国さん、

あのね、みんなあなたの説を否定したいとか思ってるわけじゃ
ないんですよ。むしろ、教えて欲しいと思ってるわけ。
興味津々なわけですよ。あなたが書き込む研究成果の一端について、
見るべきものがあると感じているわけです。何も重箱の隅をつついて
論破しようとしている人ばかりじゃないんですよ。

そこで、こういう形式の掲示板なんだから、膨大な過去のログを
あさるヒマのない人が、ある程度要点をしぼった説明を披瀝する
ことを希望するのは、無法なことでもないと思いますが、いかがな
ものでしょう。
263太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/18(火) 07:31:50
>>261
これは3倍年暦でなく3倍在位年数とやららしく、両者は別物なのかも知れん?
>>262
疲れだよ。 さあらに>236が妨害するんではなおさらだ。あいつは倍暦の存在
非存在なんかはどうでもいいことなのさ。ただ昔、多分女王国の件だろうが、
負けたことへの腹いせが奴の目的なわけさ。だからどんな根拠でも徹底否定に回
っている。その見分けはいろいろあるが、小数点以下の確率、宝くじの1等を当
てること位のことを日常的にありふれて起こりうるような論ででっち上げて無理
なる否定をさも有利なる否定のようにゴリ押ししてちょろまかしている。これは
否定するのが奴の目的なわけだ。正常な討論などできるわけがない。通常十分な
積み重ねでの根拠(証拠ならなおいいが)等でこれではないかという位の説明が
つけば、古代史では真なる可能性と相当評価していいものである。それが必要も
ない、数学的又は刑事裁判の公判廷級の厳格さをとことん要求して論述をすっ倒
すやり方は、あい入れるべきものではない。
そうなれば、古代史ではどんな暴論デンパ節でもみな成立してしまう。それこそ
蚤とゴキブリ、蝿蚊を許容するになる。だから刑事裁判的証拠を要求する事は
古代史論にてはまずいのである。反論者はこれで相手の論を押さえることがよく
あるが、反論者のほうが背水の陣的になってるから、その方法で葬り去ろうと
強行するわけだ。そういうのは反論者の論が間違いの可能性が強いと観たい。
264日本@名無史さん:2007/09/18(火) 19:08:47
さて、>>262>>236な訳だが
265236:2007/09/18(火) 19:31:57
>>264
ないないw
倍暦でも3倍暦でも理屈が通るかどうか
教えてもらう気はないがちゃんと説明すれば話は聞く
馬鹿なら煽る
現在は馬鹿だから
266太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/18(火) 19:53:22
これからは大学の4月入学が9月入学も今年中から可能になると文部科学省の
発表となった。優秀な学生を海外へ流れるのを防ぐためとか他の理由の調整とか
でこのようなことになったということである。このようにやろうと思えば国家
権力は容易に学制の改革をやれるわけで、古代の朝廷もやろうと思えば現今の
三つの学制のように、1年の3分割は容易に出来る。

まったく三の学期制と三倍暦とは違う違うと叫んだところで、双方の国家権力は
ビクともするものではなく、似たもの同士で1年の3分割は定規とコンパスでの
3分割へ不可能だとほざいてみても、幾何学ではできなくても暦法、学制では
簡単に目的を行使できる。>236の主張は違う違うのそれ以外の何物ではなく、
出来る出来る出来る〜のこの権力のパワーに屈服するのみである。www
267日本@名無史さん:2007/09/18(火) 20:09:59
権力によるオールマイティなら記紀は捏造
何でもありが可能なら全ての史料は捏造可能
268日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:05:30
書紀の編集者が年代を3倍に引き伸ばしたと言うなら兎も角、
実際に王が変わるたびに、
1年の長さを4ヶ月にしたり6ヶ月にしたりする無意味な暦なんて、
世界史の中に例が無い。
文献からも全く言及無い事をオウムみたい繰り返す

天地開闢以来のアルティメット馬鹿
269太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/18(火) 21:21:46
>>267
捏造だと舎人らは死罪だぞ。今いう公文書偽造だからな。今はこれでは死刑
にはならんが・・・。
>>267
フ〜ン? それを云馬絵に>>235をなんとかしろ。説明出来ないないならお前も
とっととここから消えろ。
270日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:25:11
なんで舎人が死刑だよ
公権力に命令されたんだろ?
271二三一:2007/09/18(火) 21:32:00
>>266
一年の長さを120日にしようが、400日にしようが、それは支配者の自由だって言ってるだろ。
そして、一年の長さを決めることと、決まった一年を分割して運用することは別なの。
だから、三倍暦が存在したと主張するのは自由だけど、三倍暦と三学期制が同じというのは、全くの間違い。
自分で一年の三分割って言ってるじゃないかい。年を分割したものは、年じゃないよ。
100円を二分割して50円二つにするのと、1円を二分割して50銭二つにするのが違うっていうことと同じ。
わかるかな。単位が違うの。

それから、もう一つ言っとくと、公転周期を一年として、その始点をどこに置くかということと、
公転周期を無視して一年の長さを設定するというのでは、全然重みが違うんだけどね。
今まででさえ、正月始と年度始めっていう、二つの始点が設定されてたろう。
学期始めを九月にしますというのと、一年を九ヶ月にしますというのが同じなわけないじゃん。
272日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:50:21
やつに人間の言葉か通じるかw
273236:2007/09/18(火) 21:56:45
またまた何言ってるんだよ
三倍暦の理由にならないことをくどくど書くから馬鹿にされるんだよ
根拠なんてない自分の説に都合が良いからだのほうがまだまともな返事だよ
権力で何とでもならないものは世の中にいっぱいあるの
なんで三倍暦を権力が定めたかの理由を書けって
274太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/18(火) 22:18:32
>>270
お前のは「だろ」ではないか。なると捏造とはお前の脳内の創作だ。お前の
脳内の捜索をしてみたいものだな・・・。

>>271
間違いだと?間違いだと遠吠えしても国家権力は容易にできる。数の論理〜
お前だけそれにしがみついてりゃいいだろうが。しがみつこうと学制は今度変わ
るんだと。お前が間違いと言ったところで文部科学省は今年からやるとの
宣言だ。なまぬるいぞ。1年の3分割は容易に容易にやろうとすればカ〜ンタン。
行政は間違いがどうのより実行力。やれればいい。機転だ。朝廷もすんなりと
やれるぜ。

お前は出来ないとは言わんのだな。w →間違いだとは言うがな。 ww
それとも三分割の定規とコンパスか〜? あまり笑わせるな。

>>273
お前は過去スレを読め。ちっとは苦労をするんだな。安部総理のように、お前は
お坊ちゃんか^? こわっぱ、 どうだ分かったか〜?
275日本@名無史さん:2007/09/18(火) 22:18:59
フトクニに論理を説いても脳内変換して都合よく解釈するだけだから
ムダ、ムダ、ムダ
このスレの半分のレスはヤツが書いてんじゃないの?
ご苦労なこった
276太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/18(火) 22:21:07
>>275
ご苦労と言われて有難い。天皇の超長寿の秘密を知るのは容易でないんで。
277236:2007/09/18(火) 22:27:02
>>271
ちょっとまった。
>一年の長さを120日にしようが、400日にしようが、それは支配者の自由だって言ってるだろ。
支配者が不可能なことだとは言わないが実際には太国の説にとっては
>そして、一年の長さを決めることと、決まった一年を分割して運用することは別なの。
これは重要なことなんですよ
なぜならば365.25の三分の一と120日では記紀年代の研究では結構な誤差が生じるから
だから妙な理屈をこねているんだと推定している。誤差が生じないためには1/3にしたいわけ

本当にまともに検討するなら三倍暦は何日で構成する暦であるかを仮定しないと研究はでいないはずなんですよ
ところがそれを出せと言うと学期返事に陥るし、説明しろと言うと勝ち負けとか権力とか言い出すのですよ
太国は他人が突っ込むことを自分の否定としか見ないからいまだに判っていない
278二三一:2007/09/18(火) 22:57:52
>>277
>なぜならば365.25の三分の一と120日では記紀年代の研究では結構な誤差が生じるから
>だから妙な理屈をこねているんだと推定している。誤差が生じないためには1/3にしたいわけ

そこはオレは、違う想像をしてる。
確かに、きちんと暦法を研究しようとしたら、365.25の三分の一と120日の違いは大きいかもしれないけど、
太国さんが、そこまで考えて警戒しているとは思えんなあ。
それより、四季を三分割することの違和感が自分でも消しがたくって、
それを何とか説明しようとして、三学期制の例えにこだわってるんじゃないかと想像してる。
自説に自信があれば、もっとどっしり構えた余裕のあるレスが帰ってくるからね。
279236:2007/09/18(火) 23:10:22
>>278
>それより、四季を三分割することの違和感が自分でも消しがたくって、
いや、俺はそれより四季なんか考慮せず三分割思いついたのが学期だったと想像する
あとは引っ込みが付かないだけだと思っている
あと暦法についてはまったく考慮していないでしょうね
説明するためには三倍暦が必要だと研究の結果そう結論したならまだいいが
そういう導入の仕方だと更に矛盾がでたら4倍暦でも持ち込んでしまうことになる
こうなると際限がない、だから俺は突っ込んでいるんだが・・・・・
逆にどうしても三倍暦でないと説明が付かないのだが古代に三倍暦が採用された理由を
誰か教えて(考えて)くれないかなら勝手ではあるがまともな人間に見えるんだけど

280太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/18(火) 23:38:56
>>279
そんな理由はお前が余の過去スレを読めばいいことだ。
こわっぱ。 お前も余に頼らず、苦労してちいと自分でググったりして調べろ。
281日本@名無史さん:2007/09/18(火) 23:46:57
あーやっぱり循環してる
282236:2007/09/18(火) 23:59:07
で?
ググッた結果はどうでした?
283日本@名無史さん:2007/09/19(水) 07:35:45
━─━─━【訳わかりま線】━─━─━
284太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/19(水) 10:32:12
>236の書きこみを読んでいると、こいつは否定の目的を履行する事前の計画性
があり、倍暦に関する有効説明も徹底無視を貫徹して認めようとせず強行否定を
しっかりと実行して来ている。こいつの脳内の根底にはとことん否定してやろう
という根強い強固の願望目的があってそれをやるために幾度となく書きこみを
実行しているようであり、こういう奴には真面目な正規の討論者とハッキリと
区別決別しその手に乗らないように警戒を怠るべきではなく、奴の動向を監視
して葬り去られないようこちらは金剛の盾を設営して奴の論をひねり潰す信念が
必要となり、かようにこれに対峙すべきである。

3学期制を全く3倍暦と同じだとこちらは言ってるわけではないのだが、1年
3分割の行使可能については説明したとおりであり、世の中が力の世界であって、
>236の主張のいう間違いだ正しくないは現実性に乏しく青2才的wたる2の次論
である。力の世界が世間の実態であるからして、力の強いものが勝つ、この論理
を奴でさえも否定はできない。間違いだ正しくないはひよわな虚無の抗弁であり、
およそ国家権力、文部省、朝廷が力でやろうとすれば3倍暦なんぞ赤子の手を
よじる位に容易な政策である。容易であるから事を慎重に画策しながら、今後は
容易に学制を改定し、正しくない間違いなんだとかそんなことは必要もあろうが
青3才的wwに後回しにすればいいものであって、以後4月入学一本槍が、
不規則的な9月入学を容認して学制の変動となる。
285太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/19(水) 11:46:54
>>284 続き
それでは尋常ではない徹底否認を貫く計画の動機とはなにか? だいたい無コテ
にこういう奴が多いだろう。この理由として考えられるのは

1 相手に(ここでは拙者)過去に論戦で敗れたためのくやしさから、アダ討ち
  のためのくやしさの鬱憤晴らし。
2 もともと性格が愉快犯を想わせる小悪党とかのゲーム感覚でやりたいもので、
  とにかく相手が困るのが面白い。
3 相手の(ここでは拙者)論述に重大なる利害関係があり、これを出されると
  自説に非常に都合がわるい。

まぁこういうのが考えられ、このうち1,2は不純の動機的性質が強いようだ。
狙われるのは当然有コテであろう。この該当者は反論には刑事裁判の被疑者の
徹底否認と似たところがあり、わずかな間隙でも突付いて無罪とひっくり返そう
との戦術をとる。
だから反論においては、とことん反対尋問的であり、肯定する気は絶対的に
近くせずに否認に終始する。
286太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/19(水) 15:29:22
>>285 続き
こやつは3学期制と3倍暦の相違点をうるさく主張し、三分割同一の効能に関して
は否定の語は使わずに無関心を装っている。どんなにこちらの有利な同一の点は
あってもそこんところは肯定をせずに、キッチリと同一性を間違いだの言い回し
で格段に強調し絶対的否定を毎回繰り返し繰り返し行っている者である。

これは>>285の箇条書きのどれかの態様での当初からの否定目的の計画的論文で
あり、通常正当な討論者ならそういう否定のやり方に進むものではないはずだ。

「太国の主張の学期制と3倍暦の3分割とはいずれも同一にやれようが、前者は
暦法というにはいささか早計であり、翌年3を超える数字の繰越しは見られず、
別にこれのみでもって古代のその頃に3倍暦があったという根拠にするには依然
として不十分であり、それ以上の根拠、資料等がなければ首肯するにはほど遠い。
だからそういうものを提示して3倍暦を論じるべきであろう。」・・・・・と
かように批評するのが正論の討論者だと余は思う。>236はそのような批評では
なく、当初から徹底否定の目的だから、有利の点があっても刑事裁判の被疑者の
抗戦のやり方をいつまでも強行して風化拒絶し、正規の論述に改める気などもと
もとあるわけがない。
こういう奴はこのスレにいてもらっては迷惑なので消えてもらいたい。
287唐松山:2007/09/19(水) 19:08:50
崇神の 増し
崇神の増しは,前48年 中11年 後32年 と見積もっていますので 
崇神即位52歳は、 52−48=4歳 実年齢と成ります。
中11年=136ヶ月 12*11+閏4ヶ月と言う事で。
後32年=19年235ヶ月+13年160ヶ月 =合計395ヶ月
中と後で43年 531ヶ月 に成ります。
中は垂仁誕生(崇神29年1月)以前の 増しに成ります
まず崇神12年までは,通常年 13年から28年までの間に 11年136ヶ月を引く。
29年、通常年 30年から68年迄の間に 32年395ヶ月 内閏11ヶ月を引く。
細かく書こうとしましたが、断念
実の年を書き出します。
崇神38,40,48,58,60、65年7月と68年12月は同年
増しの 考え方 ということで。 開化と崇神で 増し19*5=95年
垂仁即位が 9歳になってしまった。 反省

なお今回は,行っていませんが, 崇神元年=2年 この様に考えられる天皇が散見されます。(元年の次の記事は3年の記事に成る)
以前に おおひこの年齢を推定いたしましたので今回は,無し

288日本@名無史さん:2007/09/20(木) 03:07:41
>>286
論破されてやがんの
だいたいお前が書きすぎるからだ
それともお前がスレ主か?
289太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/20(木) 06:17:23
>>288
そんなにお前も1でくやしいのか? そんなことより紀年を書きこめ。七支刀
でもいい。ただあいつのようなら消えてしまえ。
290極太 ◆v6e4s/0I9s :2007/09/20(木) 08:02:08
このスレは太国ホイホイなんだから健常者は書き込むなよ(^-^)
291太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/20(木) 09:13:15
スレ主が歓迎してくれないようなので、撤退するわ。>¥<
292日本@名無史さん:2007/09/20(木) 10:30:35
>>291

なんじゃそれ?

論破された上での負け惜しみかよ。
293太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/20(木) 11:15:47
何だ、余をつれ戻したいのか?

論破利か、お前は? 世間は古代でも現代でも力の世界だ。そう言っているのに
お前が肩をもつあいつは、間違いだ正しくない等の無力、虚無の遠吠えをし続け
るひよわな野うさぎ野郎だろうが? よく目を見据えろ。ww ww

おまえも間違いとか間違いえないとかを助長する子供の世界のお話を支持
したいわけだな。ww  力の世界よ。軟弱な間違いだ、正しくないなどは
力の世界の余には、豆腐の角の頭をぶつける主張ではないか? 
それがお前の片棒をかつぐ奴の理屈なんだよ。 ww ww

国家権力も朝廷もオールマイティだから、1年の3分は力で容易にやれるんだよ。
論破とは力の裏づけで出来ることではないか。つまり余の論勝ちさ。
294日本@名無史さん:2007/09/20(木) 11:24:48
太国が勝ってると思ってるやつなんていないって。

295日本@名無史さん:2007/09/20(木) 17:56:04
ああ、こんなとこにも基地外コテがいる
他の板行ってくれよ
良コテは消えて糞コテしか残らない
最低だ
296太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/20(木) 18:09:45
>>295
余は出るぜ。糞無コテがわんさといる。お前もそうか?
スレ主もロクな野郎じゃなさそう。
297236:2007/09/20(木) 18:28:34
なんか一日あけたけど太国は相変わらずだな
スレ主は隔離スレと言っているみたいだからここに太国を留めて置いてもいいのかw
スレ住人には悪いが繰り返そう
太国よ、くだらぬ言い訳はいいからお前が考えている
「三倍暦の暦法」を述べよ
このスレ以外に既に書いたは単なるごまかし、持論なんだからすぐかけるでしょ
298太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/20(木) 20:14:48
お前のひよわな理論にあきれている。ww
暴走族のスレのお似合いのお前らしからぬお坊ちゃん説法で、どう見ても古神道
スレでの乱知基騒ぎと対象的だ。真面目くさって論を言ってるようだが、
一皮剥けば当時のお前なのがすぐすぐ分かる、メッキ剥げの下手糞な偽装だな。

なになに? 間違っている、正しくないだと〜? ww ww
笑わせるな〜ww ww 世の中力の世界だ。お前の正しからぬとか間違いだと
かの猫の遠吠えは、国家権力の前には幼児の手をひねるくらいひねり潰すのは
容易なことだ。国会も文部科学省も大学入学9月本年中履行もそういうことだ。
国家権力の絶大な力だ。いくらお前が間違いだとか言ったところで、1年の
3分割、3学期制は国家権力は容易にやっている。

朝廷の権力も当時の畿内ではオールマイティであり、2倍暦3倍暦もたやすく
実行できる。お前の間違いだとか正しくないとか2の次だよ。すべては力の
世界だ。力の強い者が勝つ。これが古代も現代も変わらぬ理なのである。

力なのさ。力なんだよ。お前の言い分は豆腐の角に頭をぶつけて豆脳を
割るような世の中を知らない野うさぎ理屈だ。ww ww
どうだ、分かったか? 少しは大人になるんだな。
299日本@名無史さん:2007/09/20(木) 23:11:37
>>298
いったいこの精力はwww
ほかにやる事ないんか?
300日本@名無史さん:2007/09/21(金) 07:05:19
ほかにやることがないんじゃね
にちゃんで強がるほか無いから
自分自身の全てがかかってるんじゃねw
301極太 ◆v6e4s/0I9s :2007/09/21(金) 11:51:04
自分に正直な太国さんはステキ
なんていうか「力」のなんたるかを理解してるよね
無いものを有ることにする能力が記紀編纂当時に存在したんですね
302236:2007/09/21(金) 19:19:32
「三倍暦に暦法」について述べよ
の答えが権力なんでもあり回答か
答えが既に大馬鹿なのだがw
重ねて言うが
なんでもありの権力が作った「三倍暦の暦法」とは何?



普通は馬鹿な仮定に基づく推論は馬鹿な結果しか生まないが
馬鹿×馬鹿が絶妙にまともになる可能性に賭けて見る
303236:2007/09/21(金) 19:20:43
ところで俺がなんか理論を語ったっけw
304唐松山:2007/09/21(金) 19:23:18
記紀編纂当時に無いものを有ることにする能力 など さしてない。

記紀は、編纂当時 有った記録を 整理しただけ

記紀編纂当時 記録を引き伸ばした と 主張する 方が居られますが
では何故 当時の暦法に則っていないのか?
途中で ぽつんと 間違いが在ったり するのは,なぜか?

書紀の暦法は、リントク暦 に似ていますが,リントク暦では有りません。

この 2点を 克服してから 「記紀編纂当時 記録を引き伸ばした」と 主張してください。
305唐松山:2007/09/21(金) 19:42:20
太国さんも 一息ついて

現在の四季を3分割すると
例えば,3年の倍数年は,冬の出来事であり, 夏の出来事は無い
こんな事も 証明せねばなりません。
3倍で読める「暦法が在ったはず」ではなく 暦に直せない方法は,間違い

236さんも 太国さんが 一服している間に 増し の弱点を探してください。
306236:2007/09/21(金) 20:11:46
唐松山さん、増しの理論の根幹はどのスレを読めば理解できますか?
このスレに書いたように俺自身が書いてあるようにあなたはご自身で欠点があれば改良されてますよね
ですので俺よりも早く欠点を見出せているんじゃありませんか。
あなたが希望すると言うのであれば興味はありますので検討してみます。
ちなみにこのスレは読んでます。



別件
暦法についてですが引き伸ばしであってもどういう意図でどのような法則で引き伸ばしているか
これが明確であれば個人的には検討に値すると思います。ある程度の合理性があれば検討は可能ですから
それにより「何々の記述と矛盾する」「何々が説明が付かない」などの問題点が出てくるでしょう。
それを合理的な変更によって説明できれば説は成り立ちます。
ただ、引き伸ばし説のほとんどはただ歴史を古くするため引き伸ばしたという意図のみで
なんら年数について語りません
これでは記紀はでっち上げであるという意見と差はなく年代の検討にはならないと考えています。
引き伸ばしだけで長くなったので暦法はまた機会があれば

307太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/21(金) 20:15:18
>>302
そうは問屋が卸さないね。教えてはやらない。過去スレを真面目に見れば分かる。
お前が自分で調べんだな。なに、述べよだとぉ〜?
あ〜ん? ナマイキな口を聞くんじじゃねぇよ。

間違いだ正しくないなんていうのは、世間知らずの経験未熟なお前の言いそうな
こどだな。力だよ、力なんだよ。国家権力朝廷はやろうと思えば事はカンタン。
2倍も3倍も朝廷の権力で朝飯前だ。国会も文部科学省も容易3学期制をやれ
るし、4月入学も今度は9月入学だ。このようにお前の小賢しい奇麗事は力の
強い者が勝つ前には猫がひっかいたくらいしか影響はない。ww www
大馬鹿なんぞと言ってたから、相当オツムがぐらついているな。ww

>>305 唐松山さん
紀の四季は後つけなのは朔と同様でしょう。干支逆算に付加して舎人らが書き加
えたものですよ。いくらでも紀に朔の記述があるのに、月食が皇極二年までしか
記事がないのは不審とは思いませんか? 朔が後つけでないなら、神武〜舒明の
間に数回月食の記事が朔の記事とつりあいがあう位に記述があるはずです。

それがないということは、朔は後付けのものですよ。だから月の運行での逆算は
当時の暦法に空白月空白日があることから、正確には求まりません。労して功
なしのむなしいものになります。

今度はスレ主が真摯のようなので、ズラカルことはいったん保留します。
308唐松山:2007/09/21(金) 20:31:03
古代天皇家のシノギは、種貸し 
暦による 種蒔き日の吉日 と共に種を貸し出す。

だから 1年が365日である事が民に知れ渡ってしまえば 成り立ちません。
この事実を隠すために 干支を狂わせて 計算できないようにする。

民に暦が知れ渡るのは、 倭国大乱の後 倭国大乱は暦の分散を意味します。
之は,九州の出来事であり 景行天皇の時代になります。

この事実を知った景行天皇は, 種貸し屋 からの脱却を図り 日本武を関東に派遣
関東経営は,屯倉。 その後 屯倉経営を成務が推し進める。

ほつま伝には 増しと書いてあるので 次回 掲載
309日本@名無史さん:2007/09/21(金) 20:57:01
スレ主の数行すら理解が出来ない人間は取り合えず放置しておく

>>308
>だから 1年が365日である事が民に知れ渡ってしまえば 成り立ちません。
これはちょっと強引な話ではないかと
種貸しが成立するには翌年に種がなければ知っていても知らなくても借りる
農耕において吉日の概念は現代社会にもあるので暦を定める権力を持つことが重要なのではないかと考える
また吉凶を占う祭司としての力も権威として成立する。

一年が約365日であることは知られていただろうし、暦がなくとも「何々山の雪がああなれば」
等の種まきの時期の目安は知られていてもおかしくはない。
ただ「種まきの吉日」を定めることが出来るのは権威の裏づけが必要となる
日本において暦の作成は朝廷が江戸期まで保持していたということもあるし
310太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/21(金) 21:30:03
>309
こいつ→番号のコテ→>236を除きやがった。ww
そうだろう?w なにが祭司としての『力』の権威だと〜?
余の主張同然ではないか。こういうコスイ奴がこいつだな。こんなぁ奴はこの
スレに来なくていい。
311236:2007/09/21(金) 21:32:42
309は俺だが権力が何でもできるなどと言う妄言は書いていないw
312唐松山:2007/09/21(金) 21:34:54
ほつま に見る 増し
ホ04157  アマノハラ ソムホゐますも ヒトヒとぞ
ホ16160 オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり
タチカラオ ミソムツキます サルタヒコ ソムトシをれど これはまれ

ホ16094  ヰツキはモトの ひとめくり いはふヨロムチヤモヨソム
5月 新年度 祝う(万)6846日   6940日なら 19年7閏だが?
オノコはトシに メはとつき イキスよければ うむもやすきぞ
生まれるまでの日数 男子 一年354日 女子10ヶ月295日
 ホ15160  クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ
フソヨヨロ いまたさかりの カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる
神代の百万は振り 干支に関係なし。
国治 我見る稲穂 (千枝)四回 我が身も今年20才 今盛りの カキツバタ 後 百万を振る も知る。
ホ22045  コヨミをまもる ヤヤサカミなり このカミの つねにめぐりて
まもるゆえ ヒミツのワザの さわりなし 
暦は,神代の昔から,秘密です。

書紀は、19年7閏法で書かれています(確認して下さい。) 
当時の暦法は, 19年7閏法が想定されます。
そうすると 当時(書紀)の歴年から 19年7閏を 差し引いても 19年7閏に変化無し。
之が,増し の基本的考え方。
各天皇の治世年数から 19年7閏*n回を引く 例外あり 安寧と懿徳は、二人で一つの暦
 ホ31302 マカリヲコヨミ あらためて
増しを引く時の目安は、年齢です。

急いで書き出しました。 不足かも?
以上
313太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/21(金) 21:39:46
とぼけるもいい加減にしたらどうだ。え〜? お前は余の説を間違いだ
正しくないなどど徹底否定して今度は余の説にべったりしやがりやがって
いかにお前が誤記不離のように小ずるい野郎だというのがわかる。
お前のやり口は他人の説の抽象的剽窃ではないか。

この野郎、とっととこのスレから消えろ。いなくなれ。
314唐松山:2007/09/21(金) 21:43:54
太国さん 確かに 空白の(特に15日以降)在りますよ。
其れよりも 空白の年を何故か?と考えた方が ガテンがいきます

つまらん私事ですが
私の父 1月1日生まれ 本当は,暮れの忙しい時に生まれた。
私の兄 4月1日うまれ 本当は, 3月27日です。
この程度の事 昔から当たり前。
315太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/21(金) 22:14:53
>236の奴、おじけついたから番号コテをなくしやがって・・・。頭隠して
史理隠さずとは奴のやり方だ。
だいたい人のフンドシで相撲をとろうとはとんでもない野郎だ。
古神道のスレでもみんなに迷惑をかけていたアルカードの手先のような野郎だ。

>>314 唐松山さん
二、三はそれはそういうことはありえましょうが、数代も続けてそんなことは
確率的に言っても宝くじの1等的で滅多に起こりえないことですから、そんな
単純に構えて割り切るのはよろしくないですね。

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・・
316横槍:2007/09/21(金) 23:02:43
昭和天皇も本当は12月下旬に死去
しかし、国民全員が正月早々喪に服すわけにはいかんので
新年1月9日崩御と相成った  のは常識
317日本@名無史さん:2007/09/21(金) 23:02:53
>>306

引き延ばしがされてるのは日本書紀で、
古事記の場合は、天皇の崩年干支が記載されてるのみです。
古事記から天皇の崩年を調べれば、こうなります。

雄略・西暦489年没
允恭・西暦454年没
反正・西暦437年没
履中・西暦432年没
仁徳・西暦427年没
応神・西暦394年没
仲哀・西暦362年没
成務・西暦355年没
崇神・西暦318年没、または西暦258年没

雄略天皇の年代は、稲荷山鉄剣の銘から、崩年を西暦489年と確定できるでしょう。
そこから、天皇の年齢が異常に長寿にならないように逆算すればいいだけです。

古事記を読む限り、干支の還暦だけで説明できるので、
日本書記を信じて倍暦を想定する必要はありません。

318日本@名無史さん:2007/09/21(金) 23:11:45
>>306

日本書紀が引き伸ばされてるのは、讖緯説によるものと考えて間違いありません。
初代天皇・神武の即位年を、紀元前660年にしたかったわけです。
その関係で、それぞれの天皇が長寿にされてしまったのです。
引き伸ばしに、それ以上の理由は無く、倍暦を想定する必要はありません。
319日本@名無史さん:2007/09/21(金) 23:28:38
古事記の雄略〜崇神の崩年干支は、考古学的にも大きな矛盾がなく、
信頼できる資料といえます。

信頼できる資料である古事記を無視して、
讖緯説による捏造がされている日本書記の天皇の長寿を取り上げて、
倍暦だのなんだのと考えること自体がおかしいわけです。



320236:2007/09/21(金) 23:49:54
状況
いま「ほつま」をWeb内で読んでみているが一朝一夕に理解できないことだけは確認
しかし古代史サイトは何故あのように読みにくいデザインなのだろうか
異体字だけでも十分難儀なのに文字サイズとか色とか問題ありすぎ
この件はかなり長期にわたって読む必要があるというところ

>>317
日本書紀の年齢の記述は意味無しと考えていて古事記の干支は採用できるとお考えなのすか?

>>318
後世(記紀編纂時)の造作とお考えですね
年代以外は造作されているとお考えですか?

質問ばかりですが、前提条件が違うと話が食い違いますから

自分は基本的に書紀も古事記も当時の伝承を取りまとめたものという前提
伝承だから誤りもあるでしょうけど

321日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:02:19
>>316
あ〜言っちゃった。前から太国サンにはそれ書こうかと思って
たんだけど。
これでFAと思う。
王の行動は生死含めその記述にはなにがしか縁起がかつがれる
んでしょ。操作されるんでしょ。
たとえば「王は月の前半にしか活動しない」みたいな。
そのへんの宗教的な習慣を逆に「ほんとの古神道」に詳しい
太国サンに教えて欲しい。
322日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:10:50
>>321
>たとえば「王は月の前半にしか活動しない」みたいな。
それは、あるんだよ。

陰暦での月後半は、15日の満月から月が欠けていくから、縁起が悪いと昔から言われている。
323日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:16:13
>>320

生物学的にありえない年齢なら、記述が間違ってると考えるべき。

基本的に書紀も古事記も当時の伝承を取りまとめたものという考えには同意するが、
年代や年齢は後から操作が可能。

逆に後から操作が出来ないのは、「クニの存亡」や「氏族の名誉」に関わること。
たとえば、「出雲は大和朝廷に平定された」「尾張氏は、天孫族=王族」という記述は真実とみなせる。

324日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:18:25
>>321>>322
だけどそれじゃ月の前半に偏る説明には成っても倍暦の説明にはならんわな
325236:2007/09/22(土) 00:23:47
>>323
>生物学的にありえない年齢なら、記述が間違ってると考えるべき。
その説明を倍暦に求めるのがこのスレの意味と思ってここにいるのだが

ただね年齢造作にしても干支をずらさないなら伝承の年齢に60足せばいいだけじゃね?
というVIP的な解決を取っているのかという疑問もある
326日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:28:48
>>325

間違ってるかもしれない記述に、何か法則性があると想定したいということ?

徒労に終わるかもしれない覚悟はあるわけ?
327日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:42:58
>>324
いやだからあなたの言うとおりで。
太国氏の得意技のあの表も確率云々以前に倍暦の根拠には
ならんのじゃないかと考えるわけです。
328236:2007/09/22(土) 00:53:14
>>326
自分にそんな覚悟はありませんがそういう覚悟がある人を馬鹿にする気もありません

ただね間違った選定からは何も生まれないとは考えています
真面目な人間は徒労に終わるかもしれないが真理を目指す
この考えは賞賛に値するとは思うが
真面目にやったから真理にたどり着くわけでもないことは事実
しかし真面目に取り組むほど自分が真理をつかんだと錯覚する事は多い
こうなると周りの意見など聞けなくなるという例は実に多い
まだ間に合うんだろうなと思って突っ込んだ結果時既に遅しだったのがこのスレでの現実

ただ闇雲に真理の追究を妨げる気もないんだけどなぁ
329日本@名無史さん:2007/09/22(土) 02:57:21
>>328
>ただ闇雲に真理の追究を妨げる気もないんだけどなぁ

当然、宗教も同じで、何を信じるかは自由ですよ。

ただ、「信じることは崇高」といっても、弊害もありますね。
他人の忠告に耳を傾けなくなる。
330日本@名無史さん:2007/09/22(土) 03:15:20
あと、結局いままでの研究がムダになるのを恐れて、自説を捨てられなくなったりとかね。
△鏡がとやかく言われるが、東遷説も同じだ。
331太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 07:33:10
>>316
常識ではない。それは根拠の見えない出鱈目のうわさを聞いた君が増幅して
言ってるにすぎない。拙者の友人もそんな恣意的推定をして日付のずらしを
根拠なく信じて拙者にずらしたんだとか決めこんでたが、どでかい利害理由
もでないのにズラす必要にはならない。1月と言えば新年だ。国民が新年を喪で
祝えなくなるからまだ2月に数字を移したほうがよっぽどよかろう。崩御を操作
で新年正月にするなどということはむしろ考えにくい。こんな事を信じている君
の頭の程度が知れる。
この前は天皇の病気も前立腺ガンを宮内庁は隠すとためにならぬ(隠すとうわさ
がいずれ漏れる)から正規に発表するとのことだった。偽装の病名を使わ旨の
説明は信用できる。
332太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 07:44:25
>>317
古事記の崩年干支を翻して日本書紀は年数を記述している。これは原書群と
古事記の双方を読んだ上でのことだから、崩年に関しては古事記の記述を覆して
の記述であり、よっぽど舎人らに自身があったということだ。
つまりそこんところは古事記の改訂版が日本書紀ということになる。紀の記述
は遠まわしで記の崩年干支が間違いだと舎人らが言ってることを意味している。
ということは日本書紀のほうを採用すべきである。ではその数字で天皇の寿命が
著しく長いということは一見おかしいようだが、それにはそれなりの理由が
あるわけで、舎人らの自信は数字を動かさずにある合理的理由が見出せると
いう考えに行き着く。
333日本@名無史さん:2007/09/22(土) 07:53:04
>>332

まるで、日本書記の年代が正しくて、古事記の崩年干支は間違ってるみたいな言い方だが、
おまえの倍暦計算とやらで、古事記の崩年干支に近い数字が出てくるのはなぜだ?

崇神天皇の崩御年はいつだ?
334太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 08:06:24
>>318
初代天皇が前660年にする理由が不十分であり、そのような論は一見真に見え
るものの、那珂博士、伴信友らからのこういう讖緯説は首肯しがたい。

どうせ伸ばすならもっと伸ばせばいいことだ。前660年位では中国の歴史の古さ
に勝てるわけがない。辛酉年も八咫烏と金鵄の説話から原書群が辛酉となって
いた可能性は相当ありうるが、それが革命理論での解決というのは早計である。

大陸と日本の暦法に重大な相違があって、それが古文献の年代の会わない根源的
理由なのである。向こうは通常暦を使用していたが日本側は倍暦を採用して
いたために大きく年代がズレて双方の年代の断層ができてしまったものであると
いうことが真なのである。それを紀の編者らが干支計算を使ってその段差の修正
を試みたために、同一干支が60年ごとに来るために、年代の修正は60の倍数で
やらざるを得ず、メインとしては60の倍数の120年を採用して小康状態で紀を
造ったということである。60の倍数にしないと干支があわないから調整のほうも
大きく年代を動かさざるを得なかったということで、言い換えればそれが年代を
引き伸ばした理由なのであり、彼らが年代をなんとか正確に修正しようとした
ことが、年代をメインに120年的に引き伸ばす結果になり、それからB.C.660年
とかの数字になってしまったということが真相なのだ。つまり辛酉革命での
目的の引き伸ばしそ行ったのではなく、年代の調整の目的での引き伸ばしが
前660年にまで大きく拡張になってしまったのが事の真相なのである。
335太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 08:12:03
>>333
古事記の崩年干支はいろいろな理由があると観ている。今は時間がなくなって
きたので詳細は書かないが、このスレだったか過去スレ(2倍念暦の真実)に
もある程度書いてあるから読んでもらいたい。古事記のは参考には相当なり
うる。

 崇神天皇崩御 259年   の計算結果で1年の違いだ。

このスレの若い数字のところに年表を書いてある。
336日本@名無史さん:2007/09/22(土) 08:19:50
↓古事記崩年干支を否定し、日本書紀の年代から太国が倍暦計算したもの↓
493癸酉  雄略崩御
467丁未  允恭崩御
425乙丑  反正崩御
422壬戌  履中崩御
419己未  仁徳崩御
389己丑  應神崩御
375乙亥  神功崩御
352壬子  仲哀崩御
342壬寅  成務崩御
322壬午  景行崩御
292壬子  垂仁崩御
259己卯  崇神崩御

↓古事記崩年干支から西暦換算↓
雄略・西暦489年没
允恭・西暦454年没
反正・西暦437年没
履中・西暦432年没
仁徳・西暦427年没
応神・西暦394年没
仲哀・西暦362年没
成務・西暦355年没
崇神・西暦318年没、または西暦258年没

古事記崩年干支と、日本書紀から太国が倍暦換算した結果はほとんど同じ。
古事記崩年干支を信じない理由はどこにある?
337日本@名無史さん:2007/09/22(土) 08:26:30
太国は、古事記崩年干支を信じずに、日本書紀の年代が倍暦表記だとしているが、
太国が倍暦から西暦換算したものは、古事記崩年干支に近い数字になっている。
これは、「古事記崩年干支が正しい」ことを自分で証明したようなもの。

古事記の干支が正しいということは、古代では通常の干支で伝承されていたということ。
338日本@名無史さん:2007/09/22(土) 08:31:10
古代に倍暦が使われていたなら、古事記の干支はまったく信用できないはず。

それなのに、太国は、古事記の干支を参考にして、
倍暦計算の辻褄あわせをしようとしてるから、
3倍暦などというおかしな思考が飛び出すわけだ。
339日本@名無史さん:2007/09/22(土) 08:43:09
所詮、ヲタクの恣意的な数字遊びなんだから、そうつっこむなよw
340太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 10:18:49
>>336>>337
寝言を言うな。まだ眠いのか?
古事記のほうを全く否定してるものではない。だから参考になるといっただろう
が。崇神の崩御年はこれは1年違いだからお前らの言うことはそのとおりだが、
他の崩年干支はそんなに近くはない。反正のみは紀も記を踏襲した感じだ。
それ以外は5年〜13年も開いている、近いとか遠いとかは見方の相違だから、
ある者は近いと言うが他のある者は遠いというように、見方で違ってくる相対的
なものだ。
こちらとしてはこんなに開けば近いと言い難い。干支は60個だから離れても
30年までだ。だから余の計算での13年差は近いにはなり難い。
>>338
古事記を参考にしたのは倍暦計算の後だから、古事記が論の主体ではない。
逆である。
341日本@名無史さん:2007/09/22(土) 11:23:49
>>340

>5年〜13年も開いている

逆に言えばその範囲に収まるわけで、
古事記干支は不正確と呼べるほど不正確ではないよな。

太国の論では、古代では通常暦は使ってなく、2倍暦3倍暦が入り乱れてたそうだが、
古事記干支に大きな誤差が無いのはなぜなのかね?

古事記干支か、太国の論のどちらかが間違ってるわけだが、
古事記干支が間違ってるなら、5年〜13年差で収まってるのは偶然だとでもいうのかね?
342日本@名無史さん:2007/09/22(土) 12:25:56
月の前半に偏ってるが成り立つなら近いほうに偏ってるなw
343日本@名無史さん:2007/09/22(土) 12:36:44
古事記崩年干支から西暦換算 − 日本書紀から太国が倍暦計算したものとの差

雄略崩年・古事記干支:西暦489年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦493年 = −4年
允恭崩年・古事記干支:西暦454年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦467年 = 13年
反正崩年・古事記干支:西暦437年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦425年 = 12年
履中崩年・古事記干支:西暦432年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦422年 = 10年
仁徳崩年・古事記干支:西暦427年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦419年 =  8年
応神崩年・古事記干支:西暦394年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦389年 =  5年
仲哀崩年・古事記干支:西暦362年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦352年 = 10年
成務崩年・古事記干支:西暦355年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦342年 = 13年
崇神崩年・古事記干支:西暦258年 - 日本書紀倍暦計算(太国):西暦259年 = −1年

この結果を見ても、古事記干支と、太国の倍暦計算が近いことがわかる。

日本書紀が倍暦で記載され、古事記が通常暦で記載されていたなら、ここまで近似値になるわけがない。
日本書紀と古事記が同じ倍暦を使用していたなら、両者に10年近い差が生じることの説明が出来ない。
古事記干支が間違いで、太国の倍暦計算が正しいとみなす根拠は無い。
344日本@名無史さん:2007/09/22(土) 12:46:00
古代に倍暦があろうとなかろうと、
太国の倍暦計算が正しく、古事記干支が正しくないという根拠は無い。

古代に本当に倍暦があったとしても、まず、古事記干支が正しく、
太国の倍暦計算には10年の誤差があり、計算間違いがあることを認めるべきであろう。

太国は、なぜ自分の倍暦計算が正しく、古事記干支が正しくないと断言できるのか、
その説明をするべきである。
そうでなければ、太国の論が正しいとは主張できない。
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 14:24:25
>>341>>343>>344
古事記も根底からは出鱈目ではないのだろう? だから創作だとか云う奴は
だいたい研究もしないで津田病患者の伝染なる軽症者が多いと思える?
そういうことを想えばお前の言い分もある程度認容できる。

ところで4年差はちょっと見落としていたが、目が悪いためである。最長30年差
だから、その4〜13年差というのは少々近いと云われればそうだなとはまぁ肯定
できうるが、まだまだ差があるぞという反論者の言い分があっても成り立つ。
どっちもどっちだということだよ。30年差から見れば13年差は大きく思うが?

余の論が正解かどうかは、今のところ何とも強い得ない。それがしはそうでは
ないかなと云うだけのことでしかない。だいたい記紀+αの文献での正史の
探りあいはそのへんが限界だということである。云えることは欠史八代の崩御
日数が全部左側に偏るのは尋常ではなく、これは相当倍暦の文証になりえる。

拙論をくつがえすのも真面目な論ならおおいに結構であり、それ以上の論述が
ありひっくり返せるのなら、そのご高見を聴くべきは当然である。
346唐松山:2007/09/22(土) 14:43:45
神武天皇 1年1月1日(暦日8777)から 舒明天皇 5年1月1日(暦日480676) 迄の見解

書紀の暦日 神武から舒明天皇 5年1月1日迄 471899日=1292年間=68章=15980.00582月=一年平均365.246904日
と書かれています。
 先に 1章=19年7閏のこと 朔旦冬至 に合わせるのが本当 多分合っていないが都合上
 書紀は、19年7閏法(閏の位置は,絶対狂わない)=元嘉暦では無い
  私は,途中で朔を合わせる為 8年間2924日加えていますが この数字は、月齢、太陽齢と相性が良く 朔が狂う程度

仮説@ この68章の内38章が 増し と診ています。
 1章=6940日又は,6939日
 実30章 6940*30=208127日 =7050.891973月齢=年平均365.2929825日
      6939*30=208179日 =7049.605172月齢=年平均365.2263158日
この間に本当の暦 4分暦等 が 有る と診ています。
暦法の切り替えは 入っていません。

347太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 15:07:52
>>343
反正は拙者のは間違いでしたか?目が悪いとミスが多い。
 12年差 ですね?
348太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/22(土) 23:16:56
>>340
ミスにより、反正崩年に関して紀が紀を踏襲したとの文言は自動的に誤認と
なりますので、これを無しとします。

倍暦計算はすべて日本書紀のみでの研究からしたもので、先述の年表はその結果
のものです。古事記の崩年干支は参考のためにその後に照合したことになり
ますので、古事記のほうから倍暦計算結果を得たものでは全くありません。
349日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:39:05
普通は二倍暦の正しさは(最初から正しいと認める)古事記の干支と対比することによって
検証できるという研究をするんじゃないか?
350日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:44:03
太国の倍暦計算が正しいか間違ってるか、
古代に倍暦が存在したか存在しなかったかに関わらず、
通常暦の干支で記載された古事記が、10年程度の誤差で正確であることは認めるんだろ?

通常暦で10年程度の誤差で記録された古事記と、
2倍暦3倍暦を仮定して年代復元をしなければならない日本書紀と、
どちらが歴史書として年代の信憑性が高いか?という話になるんだよ。

当然、古事記だろ。古事記。

351日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:47:07
古事記は年号が殆ど記されていないので、厳密には歴史書というには無理がある。
神話、伝説書の分野では?
352日本@名無史さん:2007/09/22(土) 23:55:24
ならば、日本書紀はもっと歴史書とは呼べないな。
年号がデタラメだからな。
353日本@名無史さん:2007/09/23(日) 07:24:48
>>351>>352
記紀をどのように捉えるかは個人によって違う
だからどう捉えているかを示さず持論を述べたところで都合が良いところだけ採用しているとしか見えない

354太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/23(日) 07:27:33
>>349
古事記では開化以前が定まりません。その位の理由で研究の始点を決めこむのは
うまくないと思いますが・・・。もちろん古事記からの研究開始もよろしいで
しょう。
>>350
10年差があればガタガタだと思いますがね? そういうズレはとにかく何らか
の理由があるのでしょう?
355日本@名無史さん:2007/09/23(日) 10:22:08
>>354

おまえは、自分の倍暦計算結果と、
古事記干支との間に10年差があることを理由に、古事記は「ガタガタ」だと言うわけだな?
356太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/23(日) 10:34:25
お前にとってはいいハンドルなのか?w
357日本@名無史さん:2007/09/23(日) 10:49:49
通常暦の古事記が、実年代と10年そこそこしか違わないなら、資料として十分だ。

358日本@名無史さん:2007/09/23(日) 11:12:13
太国は、古事記の年代が、誤差10年程度で正しいと証明してくれた。
立派な功績だよ。どうもありがとう。

100年以上の誤差のある日本書紀と、10年程度の誤差しかない古事記を比較したら、
古事記のほうが年代精度が高いのは、誰からも異論が無いだろう。
ならば、古事記主体で年代考察をすればよろしい。
359太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/23(日) 13:12:44
>>358
そんなに記に入ってくてるのは有り難いと云えばそのとおりだ。
まぁ拙論たる倍暦が合ってるかどうかは、資料が記紀+α だからだろうとまで
しか云えない。今後にゆだねるほかはない。

先述の倍暦計算年表から注視すべきは、以下のとおり天皇元年にかなり重要史実
が終結していることだ。(仁徳元年の広開土王に関しては年表に書き漏らした)

471年 辛亥  雄略元年 稲荷山鉄剣 辛亥年
468年 戊申  安康元年 石上神宮七支刀 泰和四年
391年 辛卯  仁徳元年 広開土王碑 辛卯年
237年 丁巳  崇神元年 景初元年
 元年 辛酉  神武元年 即位
360太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/23(日) 13:16:43
>>359 訂正
× 記に入ってくてるのは      ○ 気に入ってくれてるのは

× 泰和四年     ○ 泰始四年
361唐松山:2007/09/23(日) 21:34:33
古事記は、
崩年干支と聖寿 一対です
干支のみ正しいが,聖寿は、長大 では説明が片手落ち
聖寿の読み方も 開示して下さい。
362太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/23(日) 22:03:02
古事記のほうは参考程度としておりますから、聖寿とやらの数字は当然算出して
おりませんが、拙者の考えでは古事記の干支が正しいとは云い難いと思っており
ます。参考といっても軽視する意味でもなく、何らかの効用があることは
云えると思いますし、原書群の状況の解明にも役立つ可能性は相当あるでしょう。
363日本@名無史さん:2007/09/24(月) 01:03:53
>>361

聖寿が何だか知らんが、不審な点でもあるなら具体的に反論しろ。
364日本@名無史さん:2007/09/24(月) 01:17:01
聖寿は、天子の年齢・寿命。辞書に載ってるよ。
365日本@名無史さん:2007/09/24(月) 01:21:44
不審な点でもあるなら具体的に反論しろ。
366唐松山:2007/09/24(月) 10:58:51
古事記の、崩年干支は 引き伸ばされていない。 と仮定すると
その年に 亡くなった天皇の年齢は,正しい。

この様に 解釈しないと だめなのでは?
367唐松山:2007/09/24(月) 11:20:06
生物学 から見て 血液の濃いものは, 劣化する(短命になる)
この考え方は,長命になる よりも 支持されるのでは?

書紀などにでてくる 長命 武内宿禰 成務天皇と同じ年齢
最低でも神功の初までは活躍した。 仁徳の時代は,「兄弟と争った」。
と出ていますが 争うべき兄弟がいるかどうか?
368日本@名無史さん:2007/09/24(月) 11:20:22
>>366

>その年に 亡くなった天皇の年齢は,正しい。

不審な点があるなら、具体的に書けと言ってる。
369唐松山:2007/09/24(月) 12:24:03
天皇名 旧事紀 古事記 日本書紀

神 武 127才 137才 127才
綏 靖 84才 45才 84才
安 寧 67才 49才 57才
懿 徳 77才 45才  
孝 昭 113才 93才  
孝 安 137才 123才  
孝 霊 127才 106才  
孝 元 117才 57才  
開 化 111才 63才 115才
崇 神 120才 168才 120才
垂 仁  140才 153才 140才
景 行 143才 137才 106才
成 務 108才 95才 107才
仲 哀 100才 52才 52才
神 功 112才 100才 100才
応 神 111才 130才 110才
仁 徳 143才 83才  
履 中 77才 64才 70才
反 正 60才 60才  
允 恭 78才 78才 若干
安 康 56才 56才  
雄 略 ☆61 124才  
370唐松山:2007/09/24(月) 12:38:14
三書の年齢を並べました。

不審な点は 三書大体似たような年齢ですが,
古事記の干支のみ 「正しい」とする読み方。
年齢の読み方が欠けてます。

371太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 13:55:52
>>367
成務と竹内宿禰と同日に生まれたことで、死ぬ日も一緒だとは考えにくいです。
ならば成務も非常な長寿者になります。
兄弟争ったという記事をお見せ願いたいですが・・・。
372太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 14:06:27
>>369
懿徳〜孝元とかの紀の歳が書きこんでないね? どうしたんでしょうか?
若干とか☆マークはなんでしょう? 注がないよ?
373日本@名無史さん:2007/09/24(月) 14:16:59
>>370

おまえが、どう考えようと、古事記干支崩年と、太国の算出した年代と、
10数年の誤差しかないのは事実。
ということは、年齢がウソだということだ。
生物学的にもな。

まさか、年齢が真実だとは言うまいな?
374唐松山:2007/09/24(月) 15:01:09
古事記 崩年干支 と 崩御年齢は,一対です
崩御年齢のみ ウソで片付けてしまうと
古事記は、偽書 と成ってしまいます。

ウソと成らない読み方が 必要。
太国さんの 記年は、2又は,3年を 1年とした物
古事記と似ていても 根本が違います。
長さだけなら 認められないことも在りませんが 暦に直せない代物です。
(早く 暦に直しましょう)
375太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 15:24:37
>>374 唐松山さん
この前も云いましたが、現今の 記紀+α くらいの資料じゃぁ年数の特定は
出来てもそれより詳細のカレンダーは復元不可能ですよ。その理由は毎回の
とおり各天皇の世で複雑に空白月日を設けていたためで、これではつっこんだ
カレンダーの復元は絶望です。今後記紀級の信用が高いと認容できる詳細の
ある古文献が発見されたとかならそういうことの出来る可能性は出て来ましょ
うが、今の段階ではとても無理なことです。やっても失敗が見え見えですね。

月の運行に関わる朔の記述が紀に多用されているのに、皇極より以前に月食の
記録が零用されているということは、朔の記録が紀の原書群にあったとは認め
難いと考察します。朔の記録がそれらにあったとなれば、皇極二年より以前に
数個の月食の記録が紀に載るはずです。それが無いんだから、これら沢山の朔
の文は舎人らの精密計算による後付けのものと言わざるを得ません。

先の年齢表の疑問、武内、成務等についてお答えください。
376太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 15:42:41
>>375 続き
貴殿のおっしゃっておられた神功初年の日食と主張される紀の記録ですが、
日食は数日も続くわけがありません。暗雲が垂れこめた日数が長く続いたか
とかでしょう? 暗雲ではないと云われるならば、もう一つ立派に理由が立つ
事柄が残っています。それは当時倍暦を行使していて空白の月空白の日があれ
ば、このことを知らない者が過去のその話を聴いて数日暗かったと記憶して
いたと考えられ、その者は過去の倍暦、空白のことは知らなかったので、その
ままストレートに数日続いたとの説明文になっただけもので、実際は例えば
空白日の手前の現実の日から空白日を通り越してその後の現実日に移行したと
すれば、暗雲が2日位でも数日とか十数日続いたことにみかけがなりえます。
もう少し具体的に例を挙げて云えば、月後半16日以降が無の空亡日ならば、15日
に暗雲が起こり翌月の1日までそれが立ち込めていて夜のようだったとしても、
みかけは十数日間に見えても正味は2日の暗雲だったことになりますから、神功
初年のその記録は拙者の倍暦、空白月日論には有利の文なのです。
377日本@名無史さん:2007/09/24(月) 15:50:23
>>374

そこまで言うなら、おまえの算出年代(天皇崩御年・年齢)も列挙しろよ。

話はそれからだ。
378唐松山:2007/09/24(月) 17:16:36
訂正 武内は、応神9年頃まで生きていました。

天皇名  西暦  治世   死亡齢
崇神天皇 188年 25年間  30才 崇神6年西暦193年大飢饉
垂仁天皇 213年 23年間  34才
景行天皇 236年 22年間  39才     西暦248年卑弥呼死亡
武内、成務 240年 誕生
仲哀    254年 誕生
(閏の廻し8年成務に加える)
成務天皇 258年 12年間  30才
仲哀天皇 270年 4年間  治世これ以上長いと神功妊娠している。
神功皇后 273年 36年間  この年日食 西暦273年5月4日
応神天皇 309年 24年間  60才 死亡齢より 神(住吉)の子と推定
応神10年 318年 この時点で武内生きていれば69才
空白
仁徳天皇 333年 ? 仁徳以降 引き伸ばされた年数は、36年(38年には2年程合わない)。

同じ事を 何度も書き込めませんので 以前の書き込みを 読んで下さい。

これは 読んでいない 貴方が悪い。
379日本@名無史さん:2007/09/24(月) 17:21:28
人間の恐怖体験については、実際の時間よりも長く感じるものです。
ハワイで飛行機事故にあった人の話では、助かるまで、十数分だったにもかかわらず、
何時間もかかったような気がしたといっており、救急車を待つ時間が、ほんの数分しかまたなかったのに、何時間もまたされたようにかんじるのも
その例であります。
ですから、日食の十数分しか暗くならなかったのに、何時間にもかんぜられ、それが伝えられていくうちに、誇張されて何日もの間となったものです。
380太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 17:25:11
>>378 唐松山さん
説明が不足しています。ここの西暦は何でしょうか? 誕生年、即位年、崩御年
のどれだか不明です? 先述の疑問にも答えておられませんが?

神功の紀の記述からは日食年月日はありえませんよ。数日続く日食っていうのは
ありえんですよ。数歩譲って2日も長い日食はないでしょう? 時間の切れ目で
2日間にまたがるとしても、切れ目は夜の0時ですから月食ではあるが日食では
ありえないことです。
381太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 17:40:56
>>379
そういうことはありえましょうが、だいたいそういうことは一人とか数人の
ときは可能性として云えますが、そんな数人しか見てないものでもないで
しょう? 多人数に見ることができるものですから日数の誇張はかなり正確な
時間にできうるはずですよ。

それに日食ならばその前後の他の天皇の時代でももう少し記述が在って然るべき
でしょう。数個くらいはねぇ・・・。推古より以前は全く日が欠けるとかの
具体的記述は見られませんが・・・。これは佛伝以前の紀の原書群に月食を加え
て、日食も記述がなかったことを物語っているものです。

日食は推古の世、月食は皇極の世で紀の記録のかなりうしろのほうにあり、双方
が近接で寄っている位置と認容できる状態にあり、佛伝以降にあることを鑑み
れば、朔の多用は舎人らの付加的後付けの記述の公算が大だと考えるべきです。
382太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 17:58:03
>>381 続き
それが日食なら、何故神功のときのみを記録残して他の前後の世にあっ
たはずの日食の記録が載せてないのかということになり、前後の世の日食
を無視してそのころ、一つだけ記述をしておくなどとは不審極まりない
ことに想えますが・・・・・。
まさか岩戸開きが女の日神主役だからそれと似通った女の神功の時のみ
を対応目的で記述したなどと考えも成り立つように思えますが、ちょっと
寛容すぎる許容論に思えますが・・・?

日食なら数日暗くなったという記述が誇張だとしても、単に暗くなった
常夜だったくらいの記述より、日が欠けたとか日が真っ黒になって暗く
なったとかの日輪の異常さの具体的な書き方を少しでも残すはずです。
どうも日食にしてしまうのは間違いに感じますがね。
383唐松山:2007/09/24(月) 18:05:03
書紀には これしか書いてありませんが,
故更改棺襯,各異處以埋之.則日暉炳爃,日夜有別.

詳しくは 住吉大明神大社神代紀 ?ですか
適二是時一也。晝暗如レ夜。已経二多日一。時人曰。常夜行〔之〕也。
皇后問二紀直祖豐耳一曰。是恠何由矣。 間二舊老一時有二
一老父一曰。傳聞。如レ是恠謂二阿豆那比之罪一也。問二何謂一也。

日食の記事でしょう
384唐松山:2007/09/24(月) 18:08:48
378の 西暦は 元年です。
この西暦は私の見建てですので 
ご自分の好きな年代に スライドしてもらってもかまいません。
385唐松山:2007/09/24(月) 18:35:18
曇りの為 昼が夜の如くでは,
阿豆那比之罪 神の罰とはなりません。
老父一曰。傳聞。この老人も伝え聞くだけで 本物は 初めて かも
西暦273年5月4日の 日食 食率0.94 欠け始め15時51分 最大16時56分
終わり17時55分
後は,301年4月25日 331年3月25日 等
386太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 19:29:20
>>383
それは天体の話ではないでしょう。常夜の「常」の字を考えても、これは常時
の意味のようですから短時間的な日食ではありませんな。

1 紀には推古世に日食の記事の初聞があり皇極世には月食の初聞がある。
2 紀には神武から舒明世には月食の記録がまるでない。
3 紀にはいたるところに月の朔の記録がある。

朔だけはこれでもかと云えるくらい紀に記事があることはよほど月の運行に関心
があったことを物語っており、こんなに朔が書かれてるからには少なくとも
月食にも関心があってその記事が紀に載るべきなのに舒明、佛伝以前は全く
それがない。一つもない。ということは日食のほうにも当てはまると考えてよさ
そうである。だから神功の数日昼間が夜の状態になったという記録は、これも
舒明、佛伝以前はまるっきり日食の記事がないんだと考えの推定が相当のこと
から日食の記録ではないと思われてもいたし方ない。

1,2の二つと3とは対象的に紀の書きこみが正反対の状況である。これは
紀の朔の記事が原書群からのものではなく、舎らの精密計算による後付けのもの
であると観るのが相当である。
387太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 19:33:21
>>386 訂正
× 舎らの精密計算      ○ 舎人らの精密計算

1,2,3から

4 紀には神武から舒明世には日食の記録もまるでない。

と付け加えるのは相当と想える。
388日本@名無史さん:2007/09/25(火) 00:05:42
>>378

天皇名  西暦  治世   死亡齢
崇神天皇 188〜213年 25年間  30才 崇神6年西暦193年大飢饉
垂仁天皇 213〜236年 23年間  34才
景行天皇 236〜258年 22年間  39才     西暦248年卑弥呼死亡
武内、成務 240年 誕生
仲哀    254年 誕生
(閏の廻し8年成務に加える)
成務天皇 258〜270年 12年間  30才
仲哀天皇 270〜274年 4年間  治世これ以上長いと神功妊娠している。
神功皇后 273〜309年 36年間  この年日食 西暦273年5月4日
応神天皇 309〜333年 24年間  60才 死亡齢より 神(住吉)の子と推定
応神10年 318年 この時点で武内生きていれば69才
空白
仁徳天皇 333〜年 ? 仁徳以降 引き伸ばされた年数は、36年(38年には2年程合わない)。
389日本@名無史さん:2007/09/25(火) 00:10:17
>>388

不審点1
神功皇后から、急に長寿になってますが、何か理由でも?

不審点2
「大山古墳は仁徳天皇陵ではない」と、当然考えていると思いますが、
あれほどの巨大古墳を作らせた天皇は誰だと考えているのですかな?
390日本@名無史さん:2007/09/25(火) 11:07:02
>>371
>>367は応神九年、甘美内宿禰とのことでしょう
つーか数字ばかり見てないで読めよ、日本書紀
391太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/25(火) 14:06:16
>>390
お前の博識は分かったが、仁徳の時代だと云ってるぞ?
ご当人は武内と成務を兄弟と考えているのか、それとも仁徳と大山守命?
それじゃないようだしな?
ご当人はわりかし説明不足の書きこみが多い感じだし、お前が先でご当人
のほうはそこの質問に無回答を終始しているんだ。
392唐松山:2007/09/25(火) 19:26:40
お詫び と訂正
武内の記事は,390さんの言うように応神九年の事でした。
武内と成務は 腹違いの兄弟 

晝暗如レ夜。已経二多日一。
昼が夜のように暗い。1日なのに2日のようだ。

神功皇后は、女性です。しかも 妾程度の血縁関係
55,6歳 (荒い推定) 不信でも? 当時の妃等の 死亡年齢を調べてください。

応神 60才 もし神(住吉)の子であれば 血液は,薄く 長生きしてもおかしくない
たたねこ や武内の年齢も参考にして下さい。

「大山古墳は仁徳天皇陵ではない」 考えも及ばない。
現在 仁徳88年の内 後半50年程が どういう意味の有る 年なのか 全く解かりません。
これ以前の天皇の 増し と全く意味が違う。
成務あたりまでは、暦を隠すための増し
応神あたりは,この流れ
仁徳の後半は、ただ後にプラス50年程を加えただけ?
雄略は、年齢と治世年数が 合致しない。?

393太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/25(火) 19:36:35
>>392
だいぶ分かりました。系図はいささか弱いですんで・・・・・。
成務ころまで、暦を隠すとおっしゃっておられますが、ここは理由が不明確
です。成務の記述が在位年数の割りに紀に少ないのは、舎人らに書いてはえらく
困る事由があったように想えますが、あるつじつまが合わない矛盾とかを抱えて
しまい、そっとしておいたほうが無難と考えてそこの記述をカットするのに
落ち着いたということです。だから記載が無いんです。
394唐松山:2007/09/25(火) 20:30:48
成務ころまで、暦を隠すとおっしゃっておられますが、

ずーーっと言っています。
古代天皇家のシノギは 種貸し屋 暦は、種貸しの為必要(暦を知らない民に種蒔き日を
教える為) 種貸しは、景行辺りで方向転換 屯倉経営に切り替える。
神功三韓征伐の後には、暦は知れ渡る。 

その場合 成務88年 現実には、何年であったか? この辺が今後の課題です。
395太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/25(火) 21:45:23
>>394
暦を隠すことは十分ありえることでしょうが、紀の原書群まで載せられない
となれば、成務以前はもはや正確を期すことは不可能事となりましょうがね?

それとは別件で、成務のことですが、
紀の神武以後の〜【最大の秘密】〜とは、どうやら成務紀の欠損の事由ですよ。
396日本@名無史さん:2007/09/26(水) 00:05:45
>>392

>「大山古墳は仁徳天皇陵ではない」 考えも及ばない。

おまえはバカか?
7世紀には「大山古墳は仁徳天皇陵だ」という伝承があったんだよ。
それなのにおまえは、仁徳天皇の死後、50年たってから大山古墳が作られたと言ってるわけだ。
辻褄が合わないんだよ。

倭の五王も、仁徳でなければ誰なんだ?太国の言うような九州王朝の王か?
397太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/26(水) 08:08:03
>>392 >>394
暦を隠すために月、日の増しをやるのはありうるが、歳の増しで暦を知らない民
に隠すというのは倍暦を肯定するなら別ですが、通常暦では隠すメリットは薄い
ように思いますが? 年を知らない民に年を隠すのはいいとして、年の増しまで
して隠すのは効果はあまり無いから、年の増しは隠すためにやる必要は無いん
じゃありませんかね?
398日本@名無史さん:2007/09/26(水) 08:22:00
>>397
そこで権力はオールマイティですよ太国さんw
399太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/26(水) 11:24:05
まぁ桃栗三年柿八年というから、これを考えれば全く年の水増しが民に暦を
知らせしめないためだったと唐松山さんから主張されても否定は出来にくく
なるのであるが、そんな桃栗等で年の水増しをするんかねぇ?ww

孫悟空は幽冥界で暦法の特定をまずってか、閻魔帳を墨で塗りつぶして年齢を消し
て行ったというから、あながち否定は考えすぎか?ww

天上界の蟠桃園で孫悟空は三千年と六千年と九千年に各々一度実を結ぶという
桃を管理し、ついでに根こそぎ的に桃を食い尽くしてしまたとかいうから、
民に農作物をうんと食べられないように年の水増しを唐松山さんの言うように、
その目的でやっていただろうと、否定は完全には出来ぬことになろうか?ww
400唐松山:2007/09/26(水) 18:56:10
太国さんもご存知のように 支那 三皇五帝の頃は 100歳あたりまえ
ところが 暦をいくら捲っても 不信なところが見付からない。

もし 19年7閏の増しで 暦に埋め込まれていたら。 発見は、非常に難しい。
だから この方法が最も 真実に近い と考えています。

少し飛ぶ
紀元前100年ころ(天照大神ころ)西王母が日本にきた。 と言う人がいます
前漢書に出ている 記事とほつまの 西の母の話が良くマッチするそうです。 (まだ確かめてない。)
もし 本当ならこの時 暦と増しの方法も 入って来たのではないか?

もし 書紀編纂時に 正しい歴年が引き伸ばされた。(倍暦により)
ならば 現在我々の住んでいる今の歴史を倍暦で年齢だけが異常に長いがその他は,余り異常が見られない。
こんな 暦が出きるのですか? 多分かなり読みを曲げないと無理でしょう。
この辺のことも考えて 倍暦を あきらめました。
401唐松山:2007/09/26(水) 19:03:38
白河本旧事紀 で各天皇の誕生年を調べました。
天皇名在位年数 聖寿  誕生年度
神武76年 127歳   -51年 アスス暦3年の生まれ 閏が,神武以降と合わない。?増し19以上38以下閏を合わす
途中省略
景行60年 143歳  垂仁16年
成務60年 108歳  景行12年 ? 成務と同い年武内 景行25年に関東、東北の偵察に出る。可能か?
仲哀9年 100歳  景行29年
神功69年 112歳  成務26年
応神41年 111歳  仲哀8年
仁徳87年 143歳  神功54年
履中6年  77歳  仁徳16年
反正6年  60歳  仁徳39年  空白50年の初期
允恭42年 78歳  仁徳63年  
安康3年  56歳  履中1年   
雄略23年 61歳  允恭7年  この行は 参考程度
空白年は無視
仁徳年間に 3人の天皇が生まれている。しかも 2人は 空白の50年の間。

402太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/26(水) 19:35:09
唐松山さんがそういうお考えならば、ご貴殿の道を進まれるがよろしいで
しょう。先述のことで至難の業だと思考します。

三皇五帝を引き合いに出されましたが、古代中国でも2倍年暦をやっていたよう
だとの古田陣営の主張があるそうです。列子等の文献を掲げてこれを説明して
おられます。3倍年暦も似たものとして先述しましたが、小中高の三学期制が
現にありますし、古代エジプトでも3季暦で1年を三分していたそうですから、
これも3倍年暦に準じるものでしょう。
403唐松山:2007/09/28(金) 19:42:40
太国さん ありがとう

ここから いよいよ 多列,並列 の時代
先に 書き込みいたしましたように もしこの時代 引き伸ばされていないと
仮定すると,記紀に書き込まれなかった 天皇や多列,並列の時代に入ります。

書紀記年法の倉西さんにも ハッパをかけましたが どう成る事やら。
もし 私の 増し暦に欠陥が見付かりましたら 皆様ご指摘 ご指導 よろしくお願いいたします。
404日本@名無史さん:2007/09/29(土) 10:38:33
唐揚
405唐松山:2007/09/29(土) 16:50:06
古事記で推定

歴年 干支 在位 聖寿     」         歴年 干支 在位 聖寿
垂仁 誕生 571 」 應神 即位 928 丙子 58才
崇神 崩御 己卯 168才 」 仁徳 誕生 948 丙申
垂仁 即位 632 庚辰 62才   」 履中 誕生 970 戊午
景行 誕生 677 乙丑    」 反正 誕生 977 乙丑
垂仁 崩御 724 壬子 93年間 153才」 允恭 誕生 1001 己丑
景行 即位 725 癸丑 49才 」 應神 崩御 1001 己丑 74年間 130才
成務 誕生 739 丁卯 」 仁徳 即位 1002 庚寅 55才
仲哀 誕生 792 庚申 」 安康 誕生 1026 甲寅
應神 誕生 811 己卯 」 仁徳 崩御 1031 己未 30年間 83才
景行 崩御 814 壬午 90年間 137才」 履中 即位 1032 庚申 63才
成務 即位 815 癸未 77才 」 履中 崩御 1034 壬戌 3年間 64才
神功 誕生 82 乙未 」 反正 即位 1035 癸亥 59才
成務 崩御 834 壬寅 20年間 95才 」 反正 崩御 1037 乙丑 3年間 60才
仲哀 即位 835 癸卯 44才 」 允恭 即位 1038 丙寅 38才
仲哀 崩御 844 壬子 10年間 52才 」 雄略 誕生 1040 戊辰
神功 即位 845 癸丑 19才 」 允恭 崩御 1079 丁未 42年間 78才
應神 誕生 871 己卯 」 安康 即位 1080 戊申 55才
神功 崩御 927 乙亥 83年間 100才」 安康 崩御 1082 庚戌 3年間 56才
應神 即位 928 丙子 58才 」 雄略 即位 1083 辛亥 44才
仁徳 誕生 948 丙申 」 雄略 崩御 1164 壬申 82年間 124才

まず 最初に この取りまとめた表が 正しいか が問題ですが 正しいとして 見ると
応神誕生 間違っている 又は 誰かと入れ替わっている。
安康は 干支が特定できていないので 推定
雄略 124才 書紀では,仁徳年間で調整 古事記 雄略年間に調整。ということか?

406唐松山:2007/09/29(土) 16:56:51
読みにくいので 書き直し
古事記で推定

     歴年 干支 在位  聖寿  」     歴年 干支  在位  聖寿
垂仁 誕生 571           」 應神 即位 928 丙子 58才
崇神 崩御 己卯 168才       」 仁徳 誕生 948 丙申
垂仁 即位 632 庚辰 62才     」 履中 誕生 970 戊午
景行 誕生 677 乙丑        」 反正 誕生 977 乙丑
垂仁 崩御 724 壬子 93年間 153才」 允恭 誕生 1001 己丑
景行 即位 725 癸丑 49才     」 應神 崩御 1001 己丑 74年間 130才
成務 誕生 739 丁卯        」 仁徳 即位 1002 庚寅 55才
仲哀 誕生 792 庚申        」 安康 誕生 1026 甲寅
應神 誕生 811 己卯        」 仁徳 崩御 1031 己未 30年間 83才
景行 崩御 814 壬午 90年間 137才」 履中 即位 1032 庚申 63才
成務 即位 815 癸未 77才     」 履中 崩御 1034 壬戌 3年間 64才
神功 誕生 82 乙未         」 反正 即位 1035 癸亥 59才
成務 崩御 834 壬寅 20年間 95才 」 反正 崩御 1037 乙丑 3年間 60才
仲哀 即位 835 癸卯 44才     」 允恭 即位 1038 丙寅 38才
仲哀 崩御 844 壬子 10年間 52才 」 雄略 誕生 1040 戊辰
神功 即位 845 癸丑 19才     」 允恭 崩御 1079 丁未 42年間 78才
應神 誕生 871 己卯        」 安康 即位 1080 戊申 55才
神功 崩御 927 乙亥 83年間 100才」 安康 崩御 1082 庚戌 3年間 56才
應神 即位 928 丙子 58才 」 雄略 即位 1083 辛亥 44才
仁徳 誕生 948 丙申 」 雄略 崩御 1164 壬申 82年間 124才

まず 最初に この取りまとめた表が 正しいか が問題ですが 正しいとして 見ると
応神誕生 間違っている 又は 誰かと入れ替わっている。
安康は 干支が特定できていないので 推定
雄略 124才 書紀では,仁徳年間で調整 古事記 雄略年間に調整。ということか?
407太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/29(土) 18:09:51
この歴年とやらは皇紀ですか?
408唐松山:2007/09/29(土) 21:17:47
皇歴では,ありません 残念ながら
垂仁即位で合わせた積もりですが 狂ってきます。 当然か
409太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/29(土) 21:49:09
となると西暦ですか? 随分後代に行き過ぎではありませんか。
どうしてこうなるんかねぇ?
410サガミハラハラ:2007/09/30(日) 08:49:26
日本書紀の実年代にかんする書物がついに発刊されました。
今問題となっている二倍年暦をもとに、日本書紀の年代(景行天皇から雄略天皇まで)を
復元しております。
くわしくは明窓出版社のHPを検索してください。
411唐松山:2007/09/30(日) 09:42:25
古事記 の歴年は,
掲載した 中の年数を数えるだけのモノですので
他の 書物や皇紀 との整合性はありません。
古事記なら 年数は,継ぐ事が出来ますが,
412太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 10:08:11
殻松山さん
貴殿の書きこみはけっこう小難しいです。専門用語のときは特段に気を配って
もらいたいです。通常でも解説が不充分の嫌いがありますので、漠然と年表を
載せるだけでなく具体性のある説明書きをよろしく願いたい。

難度が高いときは表も半分づつ位のが読みやすく、そうしたほうが疲れません。
でないと途中で読むのを断念とかに至りますので・・・・・。
413太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 10:21:14
唐松山さん 失礼! お名前はミスです。ゴメンナサイ。視力弱いので。
414日本@名無史さん:2007/09/30(日) 10:33:52
頭の方もね(^-^)
415日本@名無史さん:2007/09/30(日) 10:47:56
目も自分に都合が悪いものは見えないと言う
いい目をしているのにな
416日本@名無史さん:2007/09/30(日) 11:28:02
>>410 サガミハラハラさん
見当たらなかったので、著者とタイトル、価格などを教えていただけませんか?
417サガミハラハラ:2007/09/30(日) 12:59:31
「神功皇后は実在したーその根拠と証明ー 後藤幸彦著 明窓出版刊 2100円 です。
よろしくお願いいたします。
書店は主に紀伊国屋でならんでおります。
418太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 13:40:52
>>414 >>415
なかなかいいがかりをつけるのはお前らの得意技だな。

盲導犬をつれて歩いている方にそんな口をたたいたら、お前ら周囲から非難され
るぞ。とんでもない野郎らだ。

目のご不自由な方が来たら、お前らは「目も悪いから頭も悪い」とか「都合の
悪いものは見えないんだな」などと言ってると、身障者グループから土下座させ
られるまで猛烈な抗議を受けるぞ。
419日本@名無史さん:2007/09/30(日) 15:29:56
実生活で目の不自由な人にはそれなりの応対をしますよ
2chのスレで頭の不自由な人を見たら馬鹿ですねって言いますよw
420416:2007/09/30(日) 16:12:10
>>417 サガミハラハラさん
ありがとうございます。ぜひ読んでみますね。

みなさん罵倒しあうのは程々に…
421太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 16:29:28
>>419
お前は職場でイジ目の天才だろう?
422日本@名無史さん:2007/09/30(日) 16:42:52
詭弁の天才だな
423太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 16:50:07
>>422
お前がな。ww
424日本@名無史さん:2007/09/30(日) 17:16:32
サガミハラの本か…
イラネ
425日本@名無史さん:2007/09/30(日) 20:25:51
いつもの太国で安心した
日本史板はこれからも安泰ですなぁ
426唐松山:2007/10/01(月) 19:26:54
古事記で見る
応神誕生年は、 景行の終か神功27年
仁徳は、 応神21年
白河本旧事紀でみると
応神誕生年は 仲哀8年
仁徳は、神功54年誕生だが
履中6年  77歳  仁徳16年
反正6年  60歳  仁徳39年  
允恭42年 78歳  仁徳63年

旧事紀でみる限り仁徳の治世は、63年以上必要 ただの空白では無い。
もしこれら(古事記、旧事紀)が 引き伸ばされていなければ 親子で丁度良い開き具合。(誰と誰が親子か?)

427唐松山:2007/10/01(月) 19:35:05
書紀で 倭の五王が特定できない。

では 古事記や旧事紀で 特定できるか?
これからの 課題です。
428太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/01(月) 20:18:00
唐松山さん
特定できないのは当然です。天皇は五王と別人ですからね。
429日本@名無史さん:2007/10/01(月) 23:55:46
太国さんに同意します
仁徳〜武烈は架空の天皇なので五王とは別の想定をしなければいけないでしょう
430唐松山:2007/10/02(火) 00:36:49
天皇は五王と別人やも知れぬ。解かりました。

そして書紀の記事だけでは,神功から雄略そして継体へと うまく繋がらないのです。
仁徳〜武烈は架空の天皇なら この空白はどのように 見るべきか?

当分悩みそう。

431日本@名無史さん:2007/10/02(火) 01:07:42
仁徳さんが架空なら、あのお墓はどうなる・・
432太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 07:06:17
>>429
架空ではないでしょう。なぜかというに、稲荷山鉄剣と江田船山哲刀の銘文が
雄略天皇の名と観るのが相当であることと、補強として前者の銘文の系譜の代数
の合理的状況からの大彦と崇神の宮名の記載から記紀と合致しております。

このことは客観的に考えて記紀に特信性を認容する考古の証拠と云えます。仁徳
と武烈の間の天皇が仁徳ですから、実在はもう確かですよ。つまり津田の考えは
まるっきりに近く棄却されるべきものです。
433太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 07:17:41
>>432 訂正
× 哲刀      ○ 鉄刀

× 仁徳と武烈の間の天皇が仁徳    ○ 仁徳と武烈の間の天皇が雄略


とにかく津田に騙されたらおしまいですよ。なかなかその考えが脳内に染み付
いて脱却できなくなります。彼は記紀の「疑惑王」と云いたくなるクラスの人物
ですからな。それ以上の奴がいますから言い過ぎでしょうが、33代全部が架空だ
とか云う奴はもう精神病院行きの連中で、こういうのが真の「疑惑王」級ですよ。
434日本@名無史さん:2007/10/02(火) 08:06:08
太国も自説に対する強引な展開さえなければ案外まともなんだがな
なんであんなに煽り耐性がないかな。
後少しばかりアップする前に漢字見直せw
435太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 09:39:51
>>434
お前は若くて目がいいんだろう? 年寄りは見直しでもまだ残るんだ。
どこが強引だんだ?
436日本@名無史さん:2007/10/02(火) 10:33:28
津田=太国
お互い本来の目的は「天皇を守る」ことなのにね
437太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 10:45:30
>>436
お前気は確かか? え〜〜?? 津田は故人だよ。m 出鱈目を書くな。
438日本@名無史さん:2007/10/02(火) 11:16:15
太国へ
お前は正真正銘のキチガイだから、早く精神病院へ行った方が良いよ
439日本@名無史さん:2007/10/02(火) 11:21:55
やってることは反対だけど太国は津田だよな
440太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 14:27:39
>>438
お前は精神病院の重病棟がお似合いだな。早く精神病院で診てもらえ。w
441日本@名無史さん:2007/10/02(火) 14:42:49
太国さん、そうやって喧嘩を買うからいつまでも喧嘩になるんですよ。
無視して自説の主張と証明に専念なさっては?
せっかくの自説も価値が下がってしまいますよ。

2ちゃんに罵声はつきものです。
いちいち相手してたらキリがないですから。
442日本@名無史さん:2007/10/02(火) 23:52:34
雄略天皇はワカタケルと泊瀬朝倉宮大王の合成人格
443日本@名無史さん:2007/10/03(水) 07:28:38
>>411
言いたいことは概ね同意するが
太国が自説を主張したことはあっても証明した事はないんじゃないの?
具合の悪い事を言われるとすぐおかしくなる。
煽りに弱いように見せて返答をごまかしてるだけ、太国の作戦勝ち
444太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/03(水) 07:40:56
>>443
完璧証明は、資料根拠は記紀と神社あたりの伝承文献等くらいですから、それは
まだまだ無理でしょう? 紀から、別にまた3倍暦の根拠を見つけてもいます。
ただ先述のとおり、欠史八代の崩御の数字は倍暦の文証と云えます。
445日本@名無史さん:2007/10/03(水) 08:01:05
神社の文献てのは八世紀に作られたものだから
446太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/03(水) 10:04:54
記紀は8世紀でしょうが。
447日本@名無史さん:2007/10/03(水) 10:17:11
>>444
完璧な証明は無理でしょうが、傍証を積み重ねる事はできるでしょ?
矛盾点などを指摘されたら、キレるのではなく真摯に受け止め
整合性を探す努力をするべきでは?
あなたは自説に好意的な人物には敬語を用いますが反論者には罵声を返します。
だから誰もが聞く耳を持ちたがらないのですよ。
2CHは百人が百論を展開しそれを互いに検証してこその論場でしょう。
喧嘩したいならネタスレなどですればよいのですよ。
448太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/03(水) 10:49:29
反論者に罵声をあびせるなぞお前の恣意的な評論でないか。
キチガイとか論拠もなしに書きこむ野郎には鉄杭を打って懲らしめるのが当然
ではないか。うちらコテハンは殆どの者がこんな語やそれに準ずる語で罵声を
浴びせられている。一見正規に論を張ってるようで偽装してやりこめるのが
本望の不純な奴も中にはいる。こういうふうにだ、うちらら有コテハンは皆
迷惑しているのだ。そういう野郎らにはそれなりの非敬語で望めばいいことだ。
サガミハラハラ氏、プラム氏、九州ですが氏等々みなこれで疲れさせられて
いる。うちらのほうがよっぽど被害者だぜ。
反論者でも真面目に論じてる方には罵声などやってないよ。お前はかの無コテ
のああいう連中に方を持ちすぎだよ。だろうな? お前も無コテでからな。
449日本@名無史さん:2007/10/03(水) 11:24:03
そうかなぁ太国だけじゃないコテハンで罵声浴びせているのって
他のコテは自分じゃ罵声浴びせてはいないでしょ
他の人が言うならともかく太国が「うちらのほうが」と言っても説得力に欠けるな
450日本@名無史さん:2007/10/03(水) 11:53:40
>>448
意見を主張する者が、反論者から罵声を浴びせられるのは歴史の必然です。
それに対して罵声で応酬するのはいかがなものか?と私は提起しているのです。

あなたは交通事故で被害者になった際に加害者に暴力で報復するのですか?
罵声には論理で応じるのが学究者として執るべきスタンスではありませんか?
私はあなたの倍暦論にも一理あると思っていますが、
今のままでは賛同する心情にはなれません。
451日本@名無史さん:2007/10/03(水) 12:34:26
コテハンは尊い・・・
想像してみろ
なにも築いてこなかったお前らにとって どこまで想像できるが判らんが 想像してみろ

いわゆる2ちゃんコテハン上を行く 男たちの人生を
・・・名無しのようにボーとしちゃいないぞ・・・・
せっせと小学、中学のうちから ニフティーに通い 常に接続料金はトップクラス
アスキー、PCVAN、あめぞうとコマを進め、たたかれ続け・・・2ちゃんに入る
入って三ヶ月もすれば 今度はコテハン、バッシング・・・

やりたくもない 差別ネタや 宗教ネタをやり、スレッドからスレッドを ネタ回りし やっと得る コテハン知名度・・・・
やっと一流コテハン・・・
ほっとするのもつかの間 すぐ気づく・・・・・
レースがまだ終わっていないことを
今度はコテハン競争・・・まだまだ自制していかなければならぬ
会社も休み エロサイトにも エロゲーにも溺れず
煽りを第一に考え ゲスなひろゆきにへつらい 削除人にはおべっか 遅れず サボらず自作自演 誤字もせず 毎日律儀に 書き込みを行い ネタスレッドを立て 身勝手な削除にも耐え
時期がくれば 荒らし 扱い・・・・

そんな生活を続けて 気づけば30代ともう若くない そういう年になって やっと本当に得られるのがコテハンなのだ・・・
わかるか・・・・・・・?
命を薄めて得られるコテハンは これだけの事を しなければならない

それに比べてお前らはなんだ・・・・!?
必死に煽ったわけでもなく・・・・・・
懸命に書き込んだわけでもない・・・・・
何も築かず・・・何も耐えず 何も乗り越えず・・・・
やったことといえば数十分のネット遊び・・・なめるなっ・・・・・!
452日本@名無史さん:2007/10/03(水) 12:43:06
なにこれw
アメニモマケズのパロでやるぐらいの能もないのかw
453太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/03(水) 15:06:02
>>449
お前もコテハンをつけてやったほうがいい。そうすればお前も身に沁みて
思い知る。それがいいそれがいいぞ。それを毎回書きこんで知悉度が高まって
2〜3年は持続すればいいだろう。そうするとお前幾回か蜂の巣をつついた
ように叩かれる。それをやってから文句を言ってこい。
>>450
お前は罵声を容認してるんだから、片方だけはいいなどど云うことであり、
遠まわしで罵声を容認している。しかも恣意的だ。とんでもない奴だ。
余の論点を少しでも理解してくれることは有り難い。だが無コテの横暴のほう
はいいんだというのは、これはトンデモだぞ。
454日本@名無史さん:2007/10/03(水) 15:50:08
>>453
自分は>>447>>450ですが、そこまで頑なになるのは何故でしょうか?
無コテの横暴と言われましたが、それなら2CH以外の場で発言されるべきです。
2CHでは罵声があって当たり前です。
罵声に対し罵声で応酬しては建設的な議論は進みません。

先ほどは交通事故に例えましたが、今回は泥棒に例えましょう。
あなたは泥棒に入られたからといって、報復として隣家に泥棒に入るのですか?
455日本@名無史さん:2007/10/03(水) 15:53:55
>>453
何が言いたいのかさっぱり分からん
まあ狂人が更に怒り狂って書きなぐったのだから、当然か
456太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/03(水) 16:05:52
>>454
お前何を云ってるんだ。最後段は犯罪だ。同一視するとはお前の
反論のイカサマではないか。
野球は打撃で点をいれられればもう片方のチームは同様にそれ以上の点
を入れねばならない。この場合そういう応酬をやるべきものだ。

そんなくらましの話で幻惑させられると想っているのか?
それにお前は最初の泥棒のほうは仕方がないであきらめるのか?
それのため懲らしめるケーサツの仕事は発動すべきが当然だ。お前は泥棒
を仕方ないと容認するトンデモではないか? ならば一回泥棒は
大喜びだ。こういうのはまずいだろうが。
お前のはスピード違反をした車をパトカーがとっ捕まえるためそれ
以上のスピードを出して違反者を抑えたことをパトカーもスピード違反
だと抗弁してるようなもので、お前はトンデモない野郎だな。
こういう詭弁を発展させるな。
457太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/03(水) 16:11:09
>>455
悔しいか? お前の泣き屋になってやるよ。エ〜ンエ〜ンとな。mm ww

そんなことはいいから、目を覚まして早く編年の書きこみでもしろ。
458日本@名無史さん:2007/10/03(水) 16:36:39
野球は得点を競うゲームであり、警察は治安を守る機関です。
あなたの反論こそ詭弁ですが、あなたの感情がそうさせたのであれば
この点は帰結しない議論となりますので中断しましょう。

「君子豹変す」という諺をご存知かと思います。
私は「反論には論理的な反論で応じるべき」と主張しています。
それがあなたの持論を周知させ賛同を得られやすくする方策だと提起しています。

豹変なさればよいのですよ。

煽られても感情的にならず、冷静に議論をすればよいのです。

以前、あなたの倍暦論に対する疑問を質問した事があります。
あなたに失礼がないよう、矛盾点についての所感を紳士的な文章で質問しました。

あなたからの回答は罵声でした。

事実を事実として、異なる視点から討議する事すらも
あなたは拒絶されるのですか?
459日本@名無史さん:2007/10/03(水) 17:57:12
あーまた始まったよ太国の罵詈雑言が
他人に言われて面白くないなら何で自分で使うかね?
事あるごとに「コテ名乗れ」だもんなw
だったら2ch出て行けばいいじゃない。
名無しが出てくるのが2ch。これは最初から決まっている。
自分が言いたいことを言うなら何故他人が言うのは許せないのか?
460太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/03(水) 19:08:34
>>458
どんなんだ? そんなにお前は紳士的だったのか?
負けたからくやしいんでまたまた猪っ戒を出しにきたんだろう?
真摯面で自分がいい子になるなよ。
>>459
簡単だ。お前が来なければいいわけだよ。
461日本@名無史さん:2007/10/03(水) 19:32:03
>>460
俺がいなくなっても太国の相手がひとりいなくなるだけで
太国にとってもたいしたことはないだろう?
お前がいなくなったら、喜ぶのは一人じゃないだろ?
462日本@名無史さん:2007/10/03(水) 19:40:47
御前が失せろよカス
463弟太国 ◆Tuda/nyJYQ :2007/10/03(水) 23:55:07
何か勘違いした痛い名無しがいるな(藁
464日本@名無史さん:2007/10/04(木) 08:24:16
反対する人と議論をしても時間の無駄
465日本@名無史さん:2007/10/04(木) 22:27:09
倉西さんは日本書紀紀年のスレを新設しないのかな。
466太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/04(木) 22:28:55
あの方は岩戸隠れを地で行ってるようです。もう篭りきりです。w
467日本@名無史さん:2007/10/04(木) 23:47:36
常時ROMってけどな
468日本@名無史さん:2007/10/05(金) 08:08:35
太国はスサノヲか。
469日本@名無史さん:2007/10/05(金) 08:25:26
太国は正真正銘のキチガイと何度言ったら…
470日本@名無史さん:2007/10/05(金) 08:32:15
内容はどうであれ声のデカイ奴が正しいのは歴史が証明していること
471太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 10:00:39
>>469
お前はもう精神病院の末期患者と認定されるんでねぇの?w
472日本@名無史さん:2007/10/05(金) 10:29:27
そうだけどそれがどうした?
473太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 10:46:30
>>472
そうか? 自分で認める者もいるわけだ。www
474日本@名無史さん:2007/10/05(金) 10:51:20
>>473
お前は自分で認めないのだろ?
だったらもうお前は救いようがないわ
宅間とか造田みたいな事をやらない内に
早く死ね!!
475太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 11:10:21
>>474
自分で認めたお前は珍しい事例だろうなぁ。w
お前もとぅとぅ念愚の汚覚め時が来たわけだ。w
476日本@名無史さん:2007/10/05(金) 13:08:35
スレ違いな罵り合いは他所でやって下さい。
太国さん、いい加減にして下さい。
ここは何のスレかご存知ですか?
477太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 14:51:55
>>476
いまこのスレでの狼藉者を懲らしめているところだ。お前はそれが出来ない
弱虫か? それとも奴らの同類か?
478日本@名無史さん:2007/10/05(金) 15:19:11
>>477
客観的には荒らしているのと同じにしか見えません。
議論する気がないなら出ていって下さい。
議論したいなら議論して下さい。

あなたが態度を改めるまで私は呼びかけを続けます。
非はあなたにあります。
479太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 15:48:53
>>479
お前は遠まわしに無コテの片棒を担いでいる小ずるい野郎ではないか。むこう
の非には大甘だな。見方によっては、むしろお前のほうが片手落ちでノホホ〜ン
としていて、奴らよりも大非があると云える。

お前のような奴がいるからコテハン責めの絶えないのだ。もっと真摯になって
有コテを攻撃するのを止めるように忠告するべきなのがお前の立場ではないか。
お前は大非を改めて、無コテを代表して今まで有コテにかけた迷惑を地べたに
手をつく気持ちでわびをいれろ。
480日本@名無史さん:2007/10/05(金) 15:58:38
>>479
違う。
あなたは自分が被害者のように思い込んでますが、
2CHで煽りが入るのは当たり前の話なのを認識すべきです。

いい加減「スルー」を覚えましょう。

無コテの横暴と言われますが、コテハンでも名無しに紛れて暴言は吐きます。
それが2CHの醍醐味でもあり、住人はそれを踏まえて振る舞わなくてはなりません。

あなたはそれを学習せず、些細な罵声に全力で応酬するから叩かれ続けるのです。
騙されたと思って、煽りをスルーするように努めてみて下さい。

あなたの長年の研究の成果を無にしないためにも
あなたのライフワークである倍暦論を昇華させるためにも。
481日本@名無史さん:2007/10/05(金) 16:02:07
>>480の補足

煽りはスルーですが、論戦には堂々と応じればよいです。
ただし暴言は吐かない事。
482日本@名無史さん:2007/10/05(金) 16:05:29
太国は人生の落ちこぼれでイラついてるんだよ。
連休は何もすることないんだろ?
せいぜい、2ちゃんでかまってもらうくらいか。
483太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 16:56:47
>>480
それを懲らしめるのも当たり前になるわけだよ。このように前例を作れば
いいことなのだ。それがまたお前の言う2ちゃんのもう一つの醍醐味な
わけだ。w 従って徹底的に懲らしめる。これで正義は貫かれるわけだ。
484日本@名無史さん:2007/10/05(金) 17:17:54
それこそが「泥棒に入られた腹いせに泥棒する」論理だと言うのですよ。
子供の理屈なのがおわかりでしょう?

あなたが、煽りをスルーすれば議論は続くのです。
あなたがスルーせず顔面に血管を浮かべて応酬するから議論が中断するのです。

あなたに正義はありません。
もちろん私にもありません。
ですが、あなたには良識がない。
なぜなら、泥棒に泥棒で応じているからです。
485日本@名無史さん:2007/10/05(金) 18:09:57
目には目を、歯には歯を
486日本@名無史さん:2007/10/05(金) 18:47:28
>>185
目くそ鼻くそw
487太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 19:29:42
>>484
そうじゃぁないね。スピード違反した奴を感知したらこれを掲刷が追いかけ
ないでおしまいでは正義は達せられない。当然これをとっ捕まえねばなるまい。
ならば当然それ以上のスピードを出してるからそれ以上の違反だとして相手の
違反者をかばって掲刷に講義してるのがお前で、これはお前が泥棒と糊塗せん
とする偽善な論理なわけだ。
お前はえらく無コテに肩をもつ。それはそうだな、お前も無コテなもんだから
エコひいきするわけだ。本当にお前はとんでもない野郎だ。
488日本@名無史さん:2007/10/05(金) 19:53:43
>>487
太国よ、少し落ち着け
お前は警察でもなんでもないんだからスピード違反した車をスピード違反して追いかけたら同じ犯罪者だよ。
今のお前さんのやり方をみてると他人にあーだこうだ言っても説得力がないよ。
489日本@名無史さん:2007/10/05(金) 20:12:25
>>487
その反論には説得力は皆無です。
警察が違反者を取り締まるのは職務ですが、
あなたがスレを荒らすのはあなたの職務ではありません。
あなたの言い分は以下に置き換えられます。

「スピード違反者を発見した一般の市民が、その違反者をさらに上回る
猛スピードを出して違反者を捕まえようとした」

これが非常に危険で他者に迷惑な行為なのは明らかです。


あと、私は、例えばサガミハラハラさんやプラムさん、九州ですがさんなど
他のコテハンの方々の言動を非難した事は一度もありません。
太国さん、あなた一人だけが態度に問題があるのです。

あなたが、煽りに対してあまりに耐性がなさ過ぎるのがいけないのですよ。
何度も申しますが、スルーを覚えて下さい。
490太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 20:28:13
>>488 >>489
そうは問屋は卸さないぞ。ああいう奴はきっちり懲らしめる。
お前ら二人は全然無コテの非を云わないではないか。これがお前達の大非な所な
わけさ。きわめて片手落ちであり、横柄な弁護であるわけだ。一見有コテを
出して比較なんかやってるが、彼の有コテらもみんな迷惑している。我慢
しているわけだ。だが余はそうはいかんぞ。お前なんかには屈服はしない。
491日本@名無史さん:2007/10/05(金) 20:33:28
爺は庭先で猫でも抱いてればいいだろ
492日本@名無史さん:2007/10/05(金) 20:49:56
>>490
それは、ここが2ちゃんねるだからです。
2ちゃんねるには名無しでの暴言や嘘、ブラクラ、グロ画像などが溢れています。
だからこそ誰もが忌憚なく発言できる訳です。
2CHでは名無しが当たり前で、コテハンであるほうが普通でないのです。
それが嫌なら他の登録制サイトにいくべきでしょう。

あと「屈する」とかそういうレベルの話でもありません。
小さな体面にこだわるのは「匹夫の勇」と言わざるを得ません。
君子は豹変するべきです。
493ローガン:2007/10/05(金) 20:53:04
前を通りかかったら、大声で喧嘩ですか?まあまあ皆さん落ち着いて!
494日本@名無史さん:2007/10/05(金) 21:13:02
>>493
一人が落ち着けばいいだけなんだが、困ったものですよ。
495太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 21:23:31
正義のために決然立って〜 苦難の道も恐れない。

さてさて、本論に行きましょう。
以前過去スレでしたか欠史八代の日数統計表を提示しました。八代の崩御日数
はすべて1日〜10日の月の上旬に収まっています。このことから当時は2倍年暦
の他3倍年暦もやっていたのではあるまいかというのが余の論であり、とりわけ
崩御は自殺とか暗殺とかでない限り、人為的ではないことで全部が上旬に死ぬ
ということは生物学的統計学的にも極めて起こりにくく、倍暦の動かし難い文証
であると観ておりました。

しかしこれは1代の天皇の記録ならば充分に倍暦だったと濃厚に主張できるもの
ですが、8代分の紀の記録であり一代の記録が2桁にも満たず、まだ漠然として
8代全部がそうだと云うにはまだ早計であるわけで、おおむね倍暦だろうと
しか云えないだろうとこう考えていました。そのいい例が自論での通常暦たる
綏の時代です。とにかく1代分の紀の記録が7〜8個くらいでしょうか?
こんなもんで、これではまだまだ8代全部が倍暦とするには資料不足で、例外
の時代もあるんだろうと当時通常暦の認容も考えいたわけです。
496太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/05(金) 21:49:35
>>495 続き
訂正 最後段  ×考えいたわけです。   ○考えていたわけです。

いろいろ多角的に考察しましたところ、どうやら神武に関しては、即位〜崩御
の間は3倍年暦を行使していると考えています。その事由はこのスレと過去スレ
にかなり説明しております。ただ即位前、九州出発時から即位直前ころまでは
通常暦をやっていたようで、崩御直後は3倍をやめて通常暦に戻しているよう
なのです。さらに出発前の九州においてはどういう暦法をやっていたのかは、今
のところ判然としませんが、倍暦の可能性は充分考えられます。しかれども
神武以後の女王国卑弥呼の時代は倍暦なのかということについて、余はまだ把握
には至っておりません。まだ分からんというのが本心です。

「日野郡誌」の語るところによれば、孝靈天皇の后、細媛の崩御が
孝靈71年4/21で、ここで初めてか、真ならば、欠史八代関係の別記録に崩御が
月下旬である記事が書かれています。
21日というのは3週間目の末日であり、これは孝靈世と同様の3倍年暦なる
仁徳世と同じ、記録上ではいずれも最後の日ということになるようです。仁徳世
は紀の記録では21日までで22日以降の記事がありません。しかし複雑な3倍年暦
を行使していたと余は考えており、孝靈世で21日の記録があろうと孝靈世の3倍
年暦は行使可能であります。さらに神武とそっくりに近い3倍ではあるまいか?
と想うのですが、その理由は細媛崩御が4月であり、今のところ孝靈では5月
以降の記事がまるでありません。これは神武も(但し即位〜崩御の間)4月まで
の記事しかないのと同様だからです。
497日本@名無史さん:2007/10/05(金) 23:49:19
太国さんがんばって
あなたの理解できない批判は耳に入れる必要は基本的にないでしょう
498日本@名無史さん:2007/10/06(土) 00:03:19
>>497
意外と辛辣だな
499日本@名無史さん:2007/10/06(土) 02:11:21
キチガイの太国死ね!!
お前の書き込みなど最早キチガイの戯言でしかないわ!!
500日本@名無史さん:2007/10/06(土) 02:21:03
盗人猛々しいとはこの事
501ナチスとか:2007/10/06(土) 02:46:38
どんなことでもそうなんだけど正義を意識したり自称する奴に碌なのいないよな
502太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 07:10:50
>>499
どうだ、くやしいか〜? まぁ大した野郎ではないな。ww
>>501
キチガイを他称する奴に真性のキチガイがいるらしい。ほら>499のが参考だ。w
503日本@名無史さん:2007/10/06(土) 07:33:53
太国落ち着けって。
他称の使い方が変だぞ、落ち着け、落ち着け。
504日本@名無史さん:2007/10/06(土) 07:54:11
ora2ckyw
505太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 07:55:28
>>496 続き
問題は細姫の終焉の地、崩御山のある鳥取あたりが、当時朝廷と同じ暦法で
やっていたのかどうかということである? これも分からん分からんである。

別暦、通常暦なら下旬の記録は当たり前だが、これと同一となれば欠史八代の
当時紀にない下旬の崩御が后によってあったわけで、それを紀は欠落して
いるところを鑑みれば、紀の八代の欠史の真の事由解明のカギになるやも知れ
ぬと、今までの考え方が正なのか否か、吟味検討することを余儀なくさせられる。
506日本@名無史さん:2007/10/06(土) 08:21:44
太国に質問するが、暦を定めるたり変えたりするのはままあることだが、
年齢の数え方ってそうそう変えられるものじゃないと思うが、そこはどう考えてる?
507日本@名無史さん:2007/10/06(土) 08:32:56
基本的に朝廷は万能なので何でもアリでしょ?
常に基準となる通常暦を記録していて崩御の度に
逆算・再計算した倍暦で記録しなおした、と考えれば
不思議はない
508日本@名無史さん:2007/10/06(土) 08:36:16
>>507
いや太国の説明が聞きたいんだよ。
いかにも言いそうなことだけどね。
509太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 09:27:12
>>506 >>508
ちょっと具体性の乏しい問いなので、核心がよく分からんが、数字の計算は容易
にやれたはずですよ。仁賢天皇も億計尊という御名であり、億の計算もできると
いう表現の名でしょう。天孫降臨以来179万年余とあることからみて計算は
やれてるはずです。八百万神等もね。二倍年暦の場合は半年で1年だから、今の
1年を二倍することだから×2の掛け算であり、これはむしろ容易でしょうがね。
510日本@名無史さん:2007/10/06(土) 09:42:36
>>509
ちがうちがう、計算が出来る出来ないじゃなくって。
現代の日本では満年齢が基本だけど、数え年の影響ってかなり残ってるよね。
「通常暦二倍暦三倍暦」は「満と数え」とは質が違うよね。
三倍暦で30になったとき二倍暦に変わったら20になるという計算は出来るけど
これってかなり文化的に影響大きすぎないかということ。
いくつになったら一人前とか、いくつのときに何かするとかいう行事・格言・しきたりみたいなものを
全部2/3に置き換えないと判らなくなるでしょ?
これはかなりの混乱をかなりの期間及ぼすんじゃないのか?
511太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 09:50:23
>>510
当時は数え年でないの? まぁそれはいいとして、現今でも午後1時は13時で
あり、双方使用しているところを想えば、当時通常暦と倍暦との併用でもそんな
に苦もなくやっていけたでしょう。2007年も平成19年も日本は併用でやって
ますから、2倍暦で30歳のところ15歳でもそんなに混乱なしにやることはでき
たでしょうがね。
512日本@名無史さん:2007/10/06(土) 10:16:16
>>511
了解了解。
何を確認したかと言うと、通常暦は二倍暦・三倍暦の時代でもあったかどうかの認識でした。
つまり太国は併用暦説ということでいいんですね?
513太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 10:26:25
>>512
おそらく通常暦に加え、倍暦を併用していたんでしょう。陽と陰とでの使用分け
をやっていたと想いますがね。
とにかく即位のたびに倍暦変更をやったりしてたようです。勿論先帝の暦法を
そのまま行使していたこともあるみたいです。例外で即位年でないときに暦法
変更をした場合もあるようです。細媛百十歳だそうですが、これを見て、ははぁ
倍暦をやってたなとさらにその念を強めましたよ。
514太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 10:31:57
併用で、片方の暦法が秘匿的だったのやも知れません。そう想いますが・・・。
併用のいい例として、古代マヤ文明のツォルキン暦とハアブ暦の並行運用が
あります。
515日本@名無史さん:2007/10/06(土) 10:52:12
>>513
また二点ほど。
細かいことなんだけど、倍暦・三倍暦は各天皇によって決まると考えてます?
神武三倍暦で固定、開化二倍暦固定のように途中で切り替える事はないという意味。

もう一つ日本書紀の編者は二倍暦三倍暦について理解していたんでしょうか。
516太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 11:56:09
>>515
貴殿のおっしゃることは現代的には首肯したくなる考えかたで合理的にも想う
ところ、その途中切り替えという離れ業か?w そういうことをやってたよう
なんですよ。理由は明確にはわかったわけではないですが・・・?
例えば繼體世などは通常暦から二倍暦に戻しているようです。繼體即位が2/4
なのは、昔の懿徳世の二倍暦を戻さんとしてその日に即位したんだと考えられ
るものです。懿徳も即位は2/4の同月日だからです。

各天皇の即位のたびに先帝の暦法の継承もありえたわけですが、改変して倍暦を
変えたこともやってた模様ですね。

最後段は通常ならば知らなかったとの考えに至るところ、先述の細媛の件で
いずれかはまだ断定までには至りません。知らなかったならば神功39年の伝の
記事の干支の倍数での年数のズレが倍暦無知にからみながら年代修正のための
移動だと思われますし、知っていたのならば編者らは神功が卑弥呼ではないの
かとの思い、疑惑が払拭されてないための年代移動だと想うことになります。
517日本@名無史さん:2007/10/06(土) 12:15:31
>>516
つまり、一人の天皇の間にも暦の切り替えはありえるという考えということか。
また日本書紀編集者が当時の暦を知っているかは判断しないということか。
518太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 12:30:36
>>517
一人の天皇の間では倍暦の変更はやってないようですが、同倍暦のままやり方
の変更はありえたかも知れません。

知っていたか否かの判断は断定はできないということです。おそらくは知って
いなかっただろうと思ってますが、完全に決める根拠資料等はまだですから、
だろうとか云えませんね。彼らが倍暦をやってたと知ってたならば、神武即位が
引き伸ばしと見かけは見えても彼らは不審がらないでしょうし、知らなかっ
たのなら、なんでこんなに長いのか?と不審は抱くでしょうが、古代からの
原書の言い伝えだからそのまま記述しようとか、あるいは編者らの古神道への
信仰もあってか、神の力で長寿もありえたのかと認容したかそのへんでしょう。

ただ云えることは、天皇の号が倍暦の秘を隠していると拙者は観てますから、
号を名づけた張本人は倍暦を知っていたということだと思います。
519日本@名無史さん:2007/10/06(土) 12:50:16
>>518
>天皇の号が倍暦の秘を隠している

これはどういうことなのでしょう?
倍暦というものがあったことを知っている人が天皇の号をみて、
その天皇の代にどのような暦になっていたか、わかるように
なっているということでしょうか?
520太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 13:05:21
>>519
いろいろ考察しての上の結論ですね、全部そうなってるんだということでなく、
天皇のある方々は号に倍暦の秘が隠されているようです。ただ通常の研究家は
否定思考でしょうがね。

たとえば懿徳の号の『懿』字は「壹」と「次」の文字を含んだ合成的文字で
すが、「壹」は1、「次」は2次的意味の文字で、1→2を示唆しているの
ではあるまいかというのが拙者の考えです、つまり通常暦の1倍を2倍にせよ
との黙示のようです。どうやら他の面から考察していろいろ検討してみると
懿徳の時代は2倍暦をやってたようですよ。
521519:2007/10/06(土) 13:26:26
なぜ、倍暦の秘密を号に隠すようなことが必要なのでしょう?

「号を名づけた張本人」は、知っているのだから、密かに誰かに伝えたいと
いうような意図がない限りは、そんなことする必要はないような。そういう
意図があったとすると、話は別ですけど、倍暦があったとして、それは伝え
たい秘密というようなものだったんでしょうか。
522日本@名無史さん:2007/10/06(土) 13:34:08
>>518>>520
MMRのAAが張られる雰囲気が出てきましたが、まったりと行きましょう。
号を考えたのは通説の方と考えているんでしょうか?
523太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 13:37:21
そこんところは何ともですねぇ? ただ美神の呪いを避けたかったのかと想う
ものであります。祟りを受けないための当たりさわりのないというナベにフタを
しておこうという心理があったか?とは想いますがねぇ。

ファラオの呪いとか将門の祟りとか、類似の恐怖があったかとも思えますが、
いずれにしろ当時の連中は極度に迷信深いものですから、凶をさけるためのこと
でしょうかね? 神ながら言あげせずという振る舞いですよ。

それとも一般住民にもったいぶって支配力を弱めないための秘匿工作もあったや
もしれませんが?
524太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 13:39:12
>>522
三船年老さんですか? そこんところは??ですよ。
525日本@名無史さん:2007/10/06(土) 14:05:22
韓風諡号を近江三船が考えたって出典なんですか?
526太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 14:58:19
そういう話ですがねぇ〜。それ以上は追究してませんが。
わかったら書きこみありがたい。
527花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/10/06(土) 15:22:34
おひさしぶりです。

近江三船が諡号に含みを持たせた話はしばしば話題になりますね。
ただ私は少しだけ懐疑的ではあります。

というのも、もしAという天皇にBという秘密があるとして、
それを三船が諡号に含ませたとしたら
当時の知識人にはたちまち看破されてしまうのではないでしょうか?
Bという伝承がかすかに伝えられていた当時だからこそ、
三船以外にもいたであろう賢人が知らず気付かぬハズもありません。
そうなると三船の諡号は場合によっては天皇家にとって嬉しくない可能性もあり
彼はたちまち投獄される危険もあります。

ゆえに、もしも諡号に含みを持たせたと仮定しても
それは誇張と粉飾が主だったろうと愚考しております。
528519:2007/10/06(土) 17:00:30
太国さんとしては、なぜ倍暦のようなことをやっていたのか、理由として何か
考えをお持ちでしょうか。

何か宗教上の理由があったとかで、倍暦をやってた、ということはあり得ると
思うんですが、それなら皇位(当時は王位?)が変わったぐらいのことで通常
暦にしたり倍暦にしたりしないで、前代からの連続性を維持するんじゃないか
と思うんですよ。根拠はないんですけど。

たとえば王の系統が変わったときに暦法も変わったとか。
529太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 19:25:00
>>528
その理由はすでに>>128で説明してあります。また連続性の維持はあった場合も
存在しますね。
530519:2007/10/06(土) 21:27:29
ああ、失礼しました。五月が来ないように三倍暦とした、というわけですね。
呪術的にそういうことをしたというのはあり得るかもしれませんね。
531太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 21:34:26
古代エジプト暦は3倍暦ではないものの3季暦をやっています。ナイルの洪水
のためだということです。1年がほぼ3分です。
532日本@名無史さん:2007/10/06(土) 21:44:37
先帝が五月に崩御して忌み嫌うので三倍暦にしたのであれば
1月から4月までは30日もしくは29日まである気がする。
しかし記紀は月の前半に偏っている。
これは二倍・三倍暦の傍証というより月の前半に王は行動するという方が適切ではないかな?
533519:2007/10/06(土) 21:58:01
>>532

ありゃ? そう言われればそうですねえ、月を短くしたら、五月きちゃいますね。

534太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 22:01:45
>>532
その傾向は充分いえます。とにかく欠史八代あたりは資料が足りませんので、
確定的なことは言うのは困難です。それに各天皇世で倍暦の数字は同じでも
やり方が違えている可能性も相当あると観ています。

月の前半を陽、後半を陰として前半に活動を積極的にやってたことも捨て切れ
ません。神武の場合はそのとおりのようですし、孝靈世も似てるんではないか
と想うわけです。但し神武は九州出発から即位直前までは通常暦法だと思い
ますし、神武崩御直後即位を待たずに3倍暦から通常暦に戻していると思考
します。

崩御は神武から開化まで全部上旬崩御です。およそ人間の死亡は自殺暗殺等で
ない限り恣意的に決まるものとは云い難いですから倍暦の文証と言えると思い
ます。細媛は4/21崩御で下旬ですが、これでも3倍暦は可能です。
535太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 22:08:08
>>533
神武の場合は>>532氏の主張のとおり1年が1月〜4月で1ヶ月が30日位とあと
は閏関係でしょうが、應神の場合は1ヶ月が30日とかはなく15日間であり、これ
に空白虚無の月が4ヶ月あって、1年が15×(12−4)=120日の4ヶ月でやって
いたんではあるまいかと考えられるもので、同じ3倍暦でもこのように違うよう
なのです。
536日本@名無史さん:2007/10/06(土) 22:14:48
>>533
ちょっと仮想的に二倍暦を作るとして
年の始まりが現在の1月かどうかは無視しておいて
二倍暦1月・2月・・・・・・6月翌年1月・2月・・・・・・6月
通常暦1月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12月
と言う暦であるケース、多分これは太陰暦でうるう月は除外(ややこしいからw)
二倍暦1月・2月・・・・・12月翌年1月・2月・・・・12月
通常暦1月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12月
というケース
したの場合には一月はおよそ15日になる。多分太国暦はこのパターン(推測)
これは月の変わりはどうすんのという疑問に新月と満月が月の変わりとするみたいにして作る(推測)
これは月を見てれば今日が8日目か9日目かはちょと難しいけど1日目はわかる。

閏考慮はちょっとパターンがあるので有力なところを後で書いて見ます。
537日本@名無史さん:2007/10/06(土) 23:17:48
大国暦(今だ突込みが入らないので継続)に於ける閏の考慮
月の周期に於ける閏日
15・14・15・14・15・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15・14?
最後になるのかは不明だがとりあえず12月に閏日が入るものとして14日だったり15日だったりする。
この辺は検証不能と思われるのでまぁいいやw

問題は閏月を考慮するのかしないのかで大きく分かれる。
考慮する場合(大国説では通常暦が存在すると想定しているので有力)
通常暦が太陽年を基準としているならば、これと同期を取るとすれば閏月が入る
閏パターンの想定は困難なので概論とすると、19年に9月の閏で同期を取るとすると
倍暦なので38年に18月の閏が入る。
但し精密に同期を取るよりも、通常暦でいう一月の単位で閏を入れるのが有力と推定
理由は「朔の日が一日」が通常の暦とすれば新年一月が朔から始まるとすれば、閏月も偶数回
でないといけない。
よって二倍暦の一年は12ヶ月又は14ヶ月になる(月の名称は考えていないw)

もう一つ有力なケース
二倍暦が専ら政のためにあるならば二倍暦の一年は12ヶ月で固定するというケース。
これは季節とは全く関係がなくなるが単に(天体の)月の周期のみと連動する二倍暦の場合。
これは農業は通常暦で行い、天皇の治世年等の数えは二倍暦でやることになる。
このパターンだと当然太陽年の1/2より短い。

だから計算すると太陽暦である西暦と対応させたとき数年の誤差は出るので精査がいる。
ちょっとご意見伺ってから精査してみる。
538太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/06(土) 23:21:35
ご苦労さん。サッと読んだ、眠いからまたあした。

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・・
539日本@名無史さん:2007/10/06(土) 23:29:15
了解
540519:2007/10/07(日) 00:39:47
>>536 >>537

これはわかりやすいですねー。感謝です。

……と言いつつ、ぼくにはこれを紀と照らし合わせる能力も根気もないなあ。
541日本@名無史さん:2007/10/07(日) 01:46:27
寝たとは思うがちょっと確認したいこと
資料には宇治谷氏の日本書紀を読んでるんですけど各月に四季が書いてあるんですけど
太国説では秋九月等の季節はどう考えているんでしょうか?
あんまり季節感のある記述がないので無視しちゃいますかw←wじゃないか
542太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 07:19:36
>>541
それは編者連の後付けですよ。今もそうだろうが、官憲の文書というのは一定
の書き方が決まっていて様式があるらしい。当時もお上の読む文書にはかような
様式があっただろうから、そういうような秋九月だとかで季節を付加して書きこ
んだということだよ。この考えからすれば彼らは倍暦のことを知らなんだという
ほうが可能性が強いように思うが、いまだ倍暦を秘匿したいと考えて知って
いたのなら、その考えからの後付けということも云える。編者らは真を書く精神
はあったが、真が無ではなく、隠匿で真を後世に伝えようとしたか? そういう
こともうっすらと想えてしまう。まぁ前者のほうだろうがね?

だから秋九月と書かれても必ずしも秋でない場合があるということだ。例えば
開化は冬十一月即位とあっても真に冬でないようである。何故かというに、開化
の御名は大日日の天皇といい、日が二つを表しているが、そうなら暑くてしよう
がないからこれは夏のような御名であり、冬の意味ではないし、春日の宮名でも
春だとはっきり書かれている。つまり冬を否定してるわけであるから十一月と
いっても紀の記述どおり冬だと即断すべきではない。
543日本@名無史さん:2007/10/07(日) 07:41:51
>>542

>それは編者連の後付けですよ。


>それは編者連の後付けですよ。


>それは編者連の後付けですよ。


>それは編者連の後付けですよ。
544太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 07:58:28
>>542 続き
開化の御名の大日日天皇と春日宮名から、実際の即位は冬でなく春から夏に近い
ころだったという可能性が高い。つまり冬と反対の季節のころだったというのが
真相だろう。ということは通常暦での半年分差し引いて通常暦での反対側の
夏五月が開化の即位月だったということになる。

5月は皇宗神武からのお達して倍暦では無視する月だから、通常暦時代の綏
崩御は5月はいいとして、開化は当然5月を避ける。つまり開化は避けたこと
も含めて半年後の11月即位だということになる。これは開化の世の2倍暦の
やり方がいかようなものであったかの推定材料にもなるわけだ。
545日本@名無史さん:2007/10/07(日) 08:10:51
>>542
了解
書紀をざっと見直すと四季が変わるたびにつけてるみたいですね。
予測ルール
1 記述する最初の記事に四季が付く
exp1 神武東征 その冬10月5日 自ら諸王子・舟軍を率い
2 四季が変わらないときは付かない
exp2 同      11月9日 筑紫に着く
3 季節が変わるとまたつける
exp3 同      戊午の年春2月11日 東に向かう
2-3’ 四季が同じでも年が違うとやはりつける
exp4 神武橿原即位 42年春1月3日 立太子
exp4’ 同        76年春3月11日 崩御

で、想定しているのはこのルールに基づいて編纂時につけたので季節は無関係。

>>543
これは編者連(むらじ)の祖を記述した記事である。

546日本@名無史さん:2007/10/07(日) 08:15:17
>>544
これはちょっと保留します。
倍暦と通常暦の連動について検討してみてからに。
正確に言うとここで通常暦というのは実際の四季と連動していると仮定してです。
547太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 09:46:43
>>544
開化の即位により孝元まで四代続いた3倍暦を取りやめ、元年として2倍暦を
再燃させたということである。この場合2倍暦での元年即位11月は通常暦での
年前半に位置し、それはこの時代1ヶ月が14日(あるいは15日)までと観てで、
11月は通常暦での6月前半ということになる。これなら先述の5月よりいささか
後になってくることになる。6月も紀の記述は佛伝以前では5月に次いで記述が
少ないのである。

旧暦式でのズレもあろうから修正で1ヶ月余りあとのほうの日となると観れば、
即位日の記述が12日のことを考慮に入れてこれは7月後半だということが
正確に近いのではなかろうか? となれば夏の真っ盛りになるころで、二の太陽
があるくらいの暑さの到来のころに、御名に則ってその日に即位しようとした事
なのではあるまいか? またさらにこの御名から、開化は夏に誕生したのだと
いうことも察しうる。
548太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 10:13:43
>>547 続き
開化の御名「大日日」からこの天皇の号を見ると、開化の『開』の字は二つの
日を双柱(タテ線)にて立ち上げている形状である。日と日を線柱で掲げて
いるカッコウなのである。この二つということは暑さ、夏とかの意味もあろ
うが、もう一歩踏み込んで2倍暦の二倍ということを強調、黙示しているのでは
なかろうか? とかような推察に至り行く。門ガマエの中下には鳥居があるが、
これも『二』文字を双柱で立ち上げた形態である。そして・・・

『化』の字のほうも、ツクリの『ヒ』は1を意味するカタカナの語であり、ヘン
の『イ』でさえ1を意味するそれである。つまり二つの1を『化』の字も意味
しているととれる。これも1二つで2倍を示唆しているのではあるまいか?
これらは天皇の号には倍暦の秘が隠れて表現されてるのだろうとの考えに想いが
行かざるを得ない。
549唐松山:2007/10/07(日) 10:45:13
開化の 改革
開化は 次期天皇として 
崇神,御真木入日子印惠、御間城入彦五十瓊植・ミマキイリヒコイ(ソ)ニエ
を選ぶ 入日子=他人の血 
これまで 親族同士の結婚で濃くなりすぎた血を薄める 
他人の血を入れた 最初の天皇に 開化 と名づける。
550太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 10:51:04
>>549
他人の血の他人とは誰ですか? 文献があるんですか?
551日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:05:12
なんか全開スイッチがオンになってそうだ。
年代論に戻りましょ
552唐松山:2007/10/07(日) 11:08:12
シハスハツ ヒノデにキサキ うむミコは イミナフトヒヒ ワカヤマト ネコヒコノミコ

ホ32192 ときアスス ヰオムソホフユ メのソフカ カスガイサカワ
ニイミヤコ ミコトシヰソヒ ネのソフカ アマツヒツギを うけつぎて イムナフトヒヒ
ワカヤマト ネコヒコアメの スメラギと

ネのソフカ=ネ月12日 
ネ月=最も太陽の北にある月=11月(冬至月) ですよ。


553日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:21:21
>>552
メのソフカは何月の12日なんでしょ?
554太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 11:23:09
>>552
ネ月とから開化の御名が来てるんですか? だってそのネコヒコの後に暑そうな
大日日との名が付きますし、ネコとは他の天皇にも名づくのはそのころ数人
いるでしょうから、これら全部が冬至ころ即位とか(あるいは誕生とか)なるの
でしょうか? 考えにくいと思いますがね?
555唐松山:2007/10/07(日) 11:34:14
崇神の母親は,イカシコメ 何か問題がありますか?
イカシコメに 天皇家の 血液は流れておりません。
ホ32199 ソフのキサキも あくるキナヱを ハツのトシ 12才の妃も先に有り 翌年を開化元年とする 
ナトシハツソフ イキシコメ たてゝウチミヤ      7年正月12日 イキシコメを 内侍とする
これのさき キミめすときに オミケヌシ いさめもふさく 他人を内に入れた ためしが無い。 
キミきくや シラウドコクミ ハハをかす ガナいまにあり           わがまま今に在り(崇神のこと) 
キミまねて ガナをかふるや ウツシコオ         わがまま をきいてイキシコメをウツシコオの娘として 宮に上げる。
がな=我難=わがまま
妃の子供の名 タケハニヤス

556太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 11:39:30
欠史八代の天皇で11月即位というのは異例なわけですよ。年前半に即位すれば
いいものを師走に近い11月に即位したということは、御名が大日日でなく
「無日」とか「小日」の御名なら不審へないでしょうが、冬で大日日という名
がつくということは、春日宮名もそうですが、11月即位に疑念が出て然りです。

合理的に言えるのは2倍暦をやっていたからでしょう。ほつまの言い分はその
作者が倍暦を知らずかつ同考えで紀の代弁をしてる式の書き方だからでしょう。
557太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 11:43:35
>>555
すると開化手前の孝元以前は総て皇族の血なんですか?
558唐松山:2007/10/07(日) 11:49:48
ホ37122 タカイシと チヌのイケほる メヅキほる
高石と チヌの池掘る メ月掘る
池を掘るのは 秋の仕事   現在でも川の堤防修理は11月から1月くらい 
メ月=10月  閏月は考慮していません。
559太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 11:51:48
>>558
そうならば紀の記述は「秋日の率川宮」となるはずでしょ?
560日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:55:51
>>558
すみません10・111・12月は冬なんじゃないでしょうか?

561日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:57:40
なんだよ111ってw
111→11
562唐松山:2007/10/07(日) 12:02:00
開化手前の孝元以前は総て皇族の血なんです よ

調べてから また 書き込むね 時間がかかるから。
563日本@名無史さん:2007/10/07(日) 12:17:53
>>558
つまらん突っ込みだが現在の川の堤防修理は季節関係ないな。あえて言えば水量が多くなければいつでも。
用水としての堀なら農閑期なのは今も常識
564日本@名無史さん:2007/10/07(日) 12:20:15
古代の大王は持ち回り制だったので、賛や珍、部などの
565太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 13:11:25
唐松山さん 主題から外れますんで、理由とかはだいたいでよろしいですよ。
566日本@名無史さん:2007/10/07(日) 13:28:11
>>565
>>536-537への突っ込みお願いする。
太国説を追っかけ検討してみたいので。
567唐松山:2007/10/07(日) 13:37:18
訂正 秋が幅を利かせすぎました。
ミソヰホの ナヅキ(9月)ヰソギネ タカイシと チヌのイケほる メヅキほる


世継ぎ 神倭磐余彦天皇より 
アビラヒメ めとりうむミコ タギシミミ 
ミオヤアマキミ ツクシたす ソトセおさめて ヒたるとき タケヒトに さつけアビラノ カミとなる 
フソヨトシ クメがコの イスキヨリヒメ を妾とするが 妃に追い出される。
ホ31047 クメガヤの イスキヨリヒメ と縁りを戻す積もりが 手研耳に貸すはめになり
イスキヨリヒメは手研耳との子 天忍男を産む この天忍男の孫娘(世襲足姫)が 考昭の妃
綏靖 カムヌナカワミミ  ヰスズヨリヒメ ウチツミヤ 叔母
安寧 シキツヒコタマテミ  ヌナソヒメ
懿徳 オオヤマトヒコスキトモ
孝昭 ミマツヒコカエシネ =安寧の子供  妃 世襲足姫
ホ31358 ヨソコトシ キミヱハツヒに キサキうむ イムナヲシヒト ヤマトタリ ヒコクニノミコ うむときに アサヒかゝやき
この アサヒかゝやき は 天照大御神の血液が 再び 天皇家に入った事を意味します。
孝安 ヤマトタラシヒコクニオシヒト   妃シギナガハヱが ナガヒメを ヲヲスケキサキ
孝霊 オオヤマトネコヒコフトクニ    妃シギのヲヲメが ホソヒメを キサキぞ
孝元 オオヤマトネコヒコクニククル  ?
ホ32130 アマツヒツギを うけつぎて ヤマトクニクル アマツキミ アメノミマゴの タメシなり 
(天の御孫のためし)天照大御神の血液が戻って 3代目

全部を読み切ったわけでは ありませんが 大和の支配集団内 その中でも少数の家系内での結婚
568太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 15:05:27
>>566
>>536の件ですが、開化の場合は後者のほうだと考えられます。他に2倍暦では
安寧世などは確定は出来にくいですが、とりあえずは前者のやり方ではなかっ
たかと思考したのですが、まず通常暦なる綏世の終焉の後、元年で7/3に即位
しています。これは先帝の立太子が数字の上で1/3であることを受けて、月日観
ではその半年後の1年の正反対の側の時点での即位だということのようです。

しかしここは想像の途中の考えでありまして、初代即位以降において始めての
2倍暦ということもあり、安寧は大胆にも通常暦での年前半を削って虚無の空亡
と為し、7月を最初の月の正月として即位したのではあるまいかと、こう考えて
いたものであります。そうだとこの時代は元年が7月〜12月までで、2年が1月
〜6月までとなり、相互に1年を現今の半年分でやっていたのかとそうも想っ
たものです。この考えは若干唐突で矛盾があり、元年と2年で通常暦での1年
ですから、ひどく取り違えた感も深く、まるで女性が男装を男性が女装をして
るような極端に逆の感じを免れません。さらに安寧崩御が安寧38年12/6であり、
38年という偶数年は通常暦での年前半の1月〜6月の間に相当しますから反対に
なってしまい、この考えだと合わずで駄目だということが分かります。まだ何
とも?のところですが、やはり安寧の場合にも後者が正解なのだと思います。

>>537の件は倍暦の詳細に波及する論で、当然研究すべきものですが、現今での
記紀、神社等の伝承くらいでは閏とかその詳細は判明するには資料不足で、解明
に至るのはまだまだ不可能な事だと思えます。
569ステテコ:2007/10/07(日) 15:37:59
>>568
お手数をおかけしてますね。過去ログ読んだらコテつけたが良いと思って、このスレ用の捨てコテをつけます。
捨てコテを打ってたらステテコになったので、とりあえずこれで行きます。
>>536の件
基本的に12月までの形の暦だと仮定してみます。
>>537の件
書紀ですら全文精査してませんが閏の記述は時代が古いほうにはないですね。
新しいほうの持統にはありますけども。
古いほうは日付の記述自体数が少ないのでなかったと断定するのは難しいですね。
現状のところ大国暦のモデルはないということですか。

んーどうしようかな。ちょっと別のことからモデルを考えてみるか。


570太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 15:50:11
>>569
>古いほうは日付の記述自体数が少ないのでなかったと断定するのは難しい

何がなかったですか? 倍暦がですか?

モデルそっくりさんはまぁ無いんではありますまいか? わが国の独自性の暦法
となりましょうか? 3倍暦は古代エジプトの1年ほぼ3分割各120日の3季暦
がありますし、学制も3学期制でやってますから、朝廷がやろうとすれば
3倍暦は可能です。2倍暦は古代中国でもやっていたようだ等々の古田陣営での
主張もあります。
571ステテコ:2007/10/07(日) 16:07:50
最初に仮定すべき問題点としてはゴールの問題を成り立たせる仮定。
神武の即位を辛酉としてこの年までたどり着くとゴール。(年代の問題としてのゴール)
基本として書紀を用いる。
倍暦の存在を前提とする。
とりあえずアイテムはこれとして検証スタート。
572ステテコ:2007/10/07(日) 16:12:52
>>570
あ、入れ違いだ。
なかったのは閏の記述ですよ。
ですから古いほうでも閏月がある倍暦を使っていた事を否定するのは難しいけども、
閏月のない倍暦を使っていたという可能性があると言うことですね。
ちょっと三倍暦はまだ二倍暦も飲み込めていないので保留。

これからちょっと予備検証に入ります。

573太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 16:31:25
分かりました。具体的には資料の不足で閏の詳細とかは確定するには極めて困難
です。新たに古文献等が出てくるとか、それを期待する以外にありません。
574ステテコ:2007/10/07(日) 17:08:41
見落としがあるかもしれませんが書紀に於ける閏月の記述で古いもの
清寧の飯豊皇女の項で「夏閏五月」とある。前の文から清寧4年の事。

読み返しの途中で>>545に書いた四季の記述ルールに会わないのを見つけた。
雄略の鳥養部・韋那部の項で秋八月の記事の後、年が変わっていないに「秋」九月
なんじゃこりゃ?
575ステテコ:2007/10/07(日) 17:20:11
あれ大国説だと清寧は倍暦じゃないや。
継体宣化が2倍暦だとするとその間になければ・・・・
と思ったら安閑にはあるなw
倍暦期間にも閏月の記述はあると。
576唐松山:2007/10/07(日) 18:44:32
書紀で朔を数える限り 閏月は、存在します。
そして 閏の廻しが 変化しない限り 有史時代まで続きます。
皇暦は、19年7閏法 19*12+7=235月が基本
2で割っても3で割っても あまりが出る。
10日、又は15日をひと月として 季節に 齟齬の生じない読み方が有るのか?
新月=11日月=満月=20日月  お月見も こんな月を見てしなくちゃ?
ところで 新月の月見って何?

577太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 18:44:53
>>574
そのとおり清寧4年に佛伝以前では数少ない(閏)5月の記述があります。
大宴会でしたっけ? 清寧世は通常暦法をやってるはずです。
578日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:16:32
清寧の宴会の文は漢籍からの引用だっけ?
579唐松山:2007/10/07(日) 19:16:47
干支で考える
年の干支及び日々の干支を 2倍3倍にする 合わない 干支が出てくる。
干支は、2倍3倍を 否定
一月を10日,15日とする 合わない干支と朔が 出てくる。 
こちらでも 干支は 倍暦を否定
月の名前も 24ヶ月36ヶ月 そろえばよいが そんなに無い

増し なら 空白の年を差し引くだけ 空白を引いていますので 合わない干支は無い。
580ステテコ:2007/10/07(日) 19:44:26
>>576>>579
今ちょっとそのあたりの事前検討中ですが
”月”の名が伝承とはいえ天体の月運行とリンクしないと二倍暦は伝承として成立しがたく思いますが、
現在仮定しようとする二倍暦の開始日は新月及び満月に当たるように想定してます。
すなわち月の初めは天体である月と連動します。
問題は閏日ではなく閏月による太陽年との連動の問題ですが、前述したように太陽年との連動を
無視するケース(倍暦二年=通常暦一年にならない困難)、閏月セット販売モデル(14月)との選択
という課題がありそうです。

干支の問題はまた別の問題がありまして検討後回しでいます。
581太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 19:44:54
>>579
通常暦での逆算なら干支は神武まで完璧なんでしょう?
ならば空白月空白日でも空回りにて干支のほうはその間動いているでしょうよ。
だからおかしくはないですね。紀に朔の記述が蟻のごとくあって倍暦のところは
月食記録がまるでないのこそおかしなわけですよ。ということは朔は四季と同様
舎人らの後付けだからですよ。当時朔は精密計算できたろうが、月食まではそれ
が出来なかったから彼らは載せられなかったわけです。朔の記事がうんと原書に
あるんなら原書も月食は落とさず記録をするでしょうが。だから後付けなんで
すよ。そう考えると不具合はないと思われます。
582ステテコ:2007/10/07(日) 19:57:57
ん?
ちょっと気になったんですが「朔」の意味って朔望月による新月じゃなくて「蝕」の意で使ってるんですか?
食い違いがあるとまずいので確認ですが。
583唐松山:2007/10/07(日) 20:30:20
古代の記録に 日食が無い 訳
晝暗如夜,已經多日.時人曰:「常夜之行也.」
 皇后問紀直祖-豐耳曰:「是怪何由矣?」時有一老父曰:「傳聞,如是怪謂-阿豆那比之罪也.」問何謂也,對曰:
「二社祝者,共合葬歟.」
上記のように 古代に於いて 日食は 神の罰 なのです。
2人を同じ棺に入れて 葬る。←アズナイの罪
受ける 罰=日食 なのです
日食は天体の事象でなく 神の罰です。 記録に残りません。
584太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 20:31:02
それは新月のことでしょうが。朔が蟻の軍勢の如くうんと紀に書かれてあって、
なぜ新月の類似になる月食記録が佛伝以前のまるで無いのか? すくなくとも
数個あって然るべきでしょうが。

これを考えるに、紀の原書には朔も月食の記録など双方がなく、編者らが官僚の
書き方の丁寧と格式から精密計算でことごとく朔を計算したものであって、これ
らはえらく正確のはずであり、神武までピッタリ行くと思われます。間違って
いたならば、利巧な学者連が誤記を大々的に広報しているはずですが?

それに神功初年の日食の記事とかも、数日続くなどありえず、口伝えの誇張が
あったとしても1日くらいは行くかもしれませんが、そんな数日も日食の状態
が継続したとは考えにくいです。だからこれは日食ではなく、仏伝以前は月食と
同様に日食も原書にはなかったということです。

干支は空白月日も空回りで動いているものですから通常暦計算でも正確に神武
まで到達するものです。アパート一つの階が5号室までだから室が5部屋だとは
限りません。4号室が凶数を嫌うことから空亡虚無などのごとく、こういう類の
は4室しかないのがあるわけです。天体運行のほうは空白月日は干支と異なり
ずっと進行しっぱなしですから、空白月日内での動きは全く無い事となります。
585太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 20:33:54
>>583 唐松山さん
それは間違いですよ。
罰が当たったて載りますよ。崇神の疫病も神の祟りとやらで記載されているでは
ありませんか。
586太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 20:35:30
>>585 訂正
× 崇神の疫病      ○ 崇神世の疫病
587太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 20:43:44
>>585 再訂正 すみません

× 天体運行のほうは空白月日は干支と異なりずっと進行しっぱなしですから

○ 天体運行のほうは空白月日は干支と異なりジャンプ状態となりますから
588唐松山:2007/10/07(日) 21:02:05
581の太国さんへ
空白の月や日を入れても月齢も季節も変化しません。
年の空白なら 年齢が増す で解決。

「食」は基本的に朔日及び前後。月食なら満月
589日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:20:12
神功元年(201年)に和歌山の御坊市の小竹で日食が三月にありました。
これは、パソコンソフトで確認できます。
私は、アスキー社のステラナビゲータを使いました。
590唐松山:2007/10/07(日) 21:21:37
崇神の疫病神は 祭る事により 解決しましたが
こちら「二社祝者,共合葬歟.」
この様な事を法律らしい法律の無い時代 神の罰として 慎む以外 
対処法が有りません それでも 日蝕は,起こる
そうなると 何処かで誰かが 罰を受ける。日常に大した影響も無い。
書き残す必要性は 何?
 
591太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 21:21:40
月の運行は空白月日をジャンプしますよ。だから不離運行連続です。
干支のほうは空白月日でもジャンプせずその間も変動しています。だから通常暦
での計算でも神武までまっしぐら正確性が可能です。
ですが月の運行のほうは通常暦の考えで計算するとジャンプしてますから、空白
月日を現実にあると思いこんで計算している唐松山さんは、その断層での誤算で
失敗してしまいます。
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 21:31:00
>>590
記紀には不幸な事象が幾多とちりばめられていますから、そういうものは朔
を書くなら書かれるはずですよ。実際倍暦外の皇極2年では佛伝の関係で紀の
末近くに月食記載があるでしょうが。佛伝以前は別物だということですよ。

貴殿の計算は毎年、1年12ヶ月あるのならば神武まで求まりますが、複雑に
やり方を変更している朝廷の空白設定暦法があるため、合わないんです。
593太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 21:35:39
>>589
それは数日続いたのですか? 日食とは結構おこりますよ。それは神功初年の
ものではありません。201年は倍暦計算から孝元天皇の時代です。神功世では
ないですよ。
594日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:43:42
>>589
それって小竹だけの日食ですか?
595唐松山:2007/10/07(日) 21:45:58
西暦201年3月22日の日蝕 食率20パーセント最大8時ころ 特記するには,小さい
西暦273年5月4日の日蝕 食率94パーセント最大17時頃  特記に 値する

空白の月や日がある は 月や日の単位で増し
つまり 1月1日の翌日は,2月2日で 天体は1日増し 干支は30日進む。
こんな 感じ ですか?
これだと 月齢は 良し 季節は,不可
596日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:49:02
だめださっぱり判らない
597日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:51:34
おどろいたことに、新羅でもみられました。
598太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/07(日) 22:09:03
>>595
まぁ例としてはそんな感じですよ。それを唐松山さんはいままで1年が全部
365日余あると考えて計算してるんですから合うわけがないでしょう。

実際ユリウス暦からグレゴリオ暦に変更の際、空白日を造ったそうですよ。
イギリスとその植民地ではではその関係で1752年9/2の翌日は同年9/14だそう
です。その間11日分は全くの空白で存在しないんですよ。こんなことが日本の
古代でしょっちゅうやってたということです。だから唐松山さん式の充填と
思いこみでの計算は誤算になりますよ。
599唐松山:2007/10/08(月) 17:19:41
1年が365日とは 1度も言っておりません。
下記の式で 太陰暦であり 19年7閏法であり 1年の日にちも変化 19年7閏=6940日か6939日
閏年の廻しも ちゃんと 計算されてます 朔の干支と1年の日数をご確認ください。
皇暦1年=8777日=庚辰 に成るはずです。 途中で狂った時は,(皇暦1000年以降)+1日追加
暦日=INT(INT((E49*365.246+106)/29.53059+0.3)*29.5306)+8305
E49=皇暦
暦日の干支=CHOOSE(MOD((G48+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((G48+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
G48=暦日
倍暦でも 復原時これをクリアーできれば, 認めます。
1年の長さ 365.24688 変えても良い わずかな違いが出る 其の調整 106 変えると 閏の廻しが狂う
最後の 8305 皇暦1年1月1日を8777日=庚辰 にする為 干支が狂う 干支の式も変えれば可

この式で計算された 書紀の暦日から 19年7閏をひとつの単位とし1回から3回位 各天皇治世から差し引く(例外あり)
600太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/08(月) 17:27:56
上のイギリスの例が幾回もあったら合わんでしょうが? それに日食の件で
201年が神功初年だと考えてるんですか? そうなると後代の應神仁徳の超長寿
を遠回しに肯定したことになりますよ。それとも水増しだとおっしゃりますか?
601唐松山:2007/10/08(月) 17:55:49
西暦201年日蝕 =神功 これは私の書き込みでないので スルー

太国さんは,日々の干支 100パーセントあると言う事 ですか?
日々の干支は 後の世の 作り物 ですか?
それでは, 年の干支は、 100パーセント有る?
それとも  年の干支は, 後世の 作り物?
602唐松山:2007/10/08(月) 18:11:54
ユリウス暦からグレゴリオ暦に変更の際、空白日
これは 365.25−365.2422=誤差*ン千ン百年=11日 で方がつきます
けっして 2倍、3倍の話とは 違います。
それとも
1年を120日としてしまった為に不足の245日を2年として計上 ですか?
日々の干支が付いて来ません。 
603唐松山:2007/10/08(月) 18:56:24
暦日を計算しました。
天皇    西暦    西暦日数  西暦月数      皇暦日数    皇暦月数
神武天皇 西暦36年  西暦1日  西暦0.034月    皇暦日8777日   皇暦0.03月
崇神天皇 西暦186年 西暦21913日 西暦742.044月  皇暦日214399日 皇暦6963.05月
景行天皇 西暦234年 西暦36176日 西暦1225.035月 皇暦日275409日 皇暦9029.04月

1日=0.034ヶ月です。 全てプラス1日になっています。1ヶ月=29.53059日で計算
西暦でも皇暦でも朔は朔です。此処に書き込めない書紀の全ての朔は、西暦でも朔です。
書紀に朔と書いてあれば全て朔です。 干支も同じです(ただし 増しがある)
日数を月で割って お確かめ下さい。

604唐松山:2007/10/08(月) 19:01:40
訂正
西暦日数は 各天皇の治世日数でしたので 改めて 書き直します。
605唐松山:2007/10/08(月) 19:09:00
訂正 下記の 日数で 計算してください。
崇神天皇 西暦205622日
景行天皇 西暦266632日
606太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/08(月) 19:18:44
>>601
年の空白は今のところ事例もなさようで、考慮に入れないでよろしいでしょう。
それとも事例があるのですか? 記紀の月日数を克明に調べてみると、空白が
かなりあると思います。年の心配は無用のようです。
>>602
その場合は月日が確実に把握判明しているから大丈夫でしょうが、記紀の文面
からして当時の空白がいつといつなのかがはっきり判明してませんので、唐松山
さんの腕でも正確性を期するのは現時点で絶望的ですよ。
とりわけ欠史八代と成務世は月日の記録が雀の涙的量ですから、お手上げで
しょうが? とてもその方法では不明な空白の箇所の計算は無理でしょう?
607唐松山:2007/10/08(月) 19:29:33
再度 訂正 下記の 日数で 計算してください。
崇神天皇 西暦54780日
景行天皇 西暦72322日
度々の訂正申し訳ありません。謝
608唐松山:2007/10/08(月) 19:39:54
太国さんの言うように 完全再現は, 不可能に近い 認めます。
ただ 年数のみなら 再現可能 
神功の年齢推定より 垂仁治世 4年+8年=12年 より 4年+19年=23年
が 正しいと思われます。
そうすると この8年は、暦の切り替え 4分暦より景初暦 かも
考え中です。
609太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/08(月) 19:49:00
舎人親王らが精密計算での干支の逆算を行っていて、原書と併合させて日本書紀
としたのでしょう。ところが、ついでにその干支計算に自信があった為か、倍暦
を知らなかった為か、知っていて秘とすべきと観ての隠匿か、そのために、それ
に四季と朔日を干支の付加に兼ねて、これらも付加したのだと想われます。

月例の精密計算もお手の物で、紀の神武以降ありとあらゆる箇所に朔を蟻の軍勢
の如く記載していった。しかもそれが通常暦的には極めて精度が高かったが、
倍暦を無視しているために干支のほうは空回り的にでも成功して神武まで行って
行くも、朔のほうは空白ではジャンプ天体運行を余儀なくさせられるから、相当
ズレがあり不正確ということになる。

紀の佛伝以前の上代、月食の計算ができなかったから、彼らはその間に月食の
記載を入れることが不能であった。朔日と月食が原書にあるのならば、朔の
状態が望の月食で起きたとみなすべきの特殊な事象だから、朔の記述の他に望時
での朔日として紀に写し書きがなされて然るべきであろう。

ところが、月食はまるでその間の記載がないのだから、これは原書に朔日も月食
も記載がなかったと考えるのが自然であり、紀の朔とは彼らの計算による後付け
のものと観るべきで、倍暦をやっていた上代においては、紀の朔はそのズレこみ
で不正確なものだと観るべきであろう。
610太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/08(月) 19:56:28
>>608 唐松山さん
とにかく今後も頑張って下さい。こいつは一筋縄で行かぬものです。

2ちゃんの民族板で名無しさんから聴いた話ですが、当時の焚書されたはずの
原書群らしき天皇紀、国紀等が何物かがしっかり隠して存在しているという
書きこみ回答があったことを確か覚えています。

詳細は秘で教えられないとのことですが、これが本当なら凄いですよ。
こういうのが公開されるとえらく有効なんですが、世に出ないものなの
ですかねぇ?
611唐松山:2007/10/08(月) 20:02:27
以前に やったじゃないですか
倭武 27年から28年春まで 熊襲征伐
そして 40年秋から41年春 関東東征
この間を 「間無く」と言っているんですよ 4年も5年も間を明けて宜しいのですか?

ホ38343 フソナキの ソミカもふさく 景行27年
 ヲウスミコして うたしむる 熊襲征伐
ホ39003 マキムキの ヒシロのヨソホ セミナツキ(7月) 景行40年
ホツマさわげば サカヲリの タケヒのぼりて ミカリこふ
タレヒトやりて むけなんや モロヒトいわず ヤマトタケ さきにはトミら ニシをうつ ヒカシをうつは モチヒトぞ
ときヤマトタケ をたけびて ニシむけマなく またヒガシ   西を征伐 間なく 又東
この秋は,41年?ですか
612唐松山:2007/10/08(月) 20:08:37
武内宿禰の 文を 読みたい。
ミカサ? に 武内が 文を書いた。 と出ている
613太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/08(月) 20:36:27
>>611
その点は貴殿と討論してなかったはずですが?

「間なく」と行っても、それは時間的に相対的表現ですから5年も開こうが
おかしくはないでしょう。これは極端ですが、白亜紀の5年間は猫の額より
も狭い時間でしょうが、刑務所内での服役の連中は5年は間が長いと感じるで
しょう? 矛盾とは想えませんがね?
日本武尊のあたりは紀の文面では何らかの交錯があって、他の記述よりも慎重
を要する箇所だと思います。それは隣の成務の記述が過少であり、確定の考え
を出すには難しいところなんです。成務の少記載とは神武以降での紀の文の
最大の謎を含む部分だと観ております。
614日本@名無史さん:2007/10/09(火) 02:13:13
八代亜紀?
615日本@名無史さん:2007/10/09(火) 02:26:33
刑務所での5年なんてあっという間ですよ。
616太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/09(火) 07:17:32
>>615
譬えが気に食わないのやも知れませんが、相対的なものでしょう?

刑の宣告を受けてこれから入所する奴は長いなぁと思うだろうし、出所して
所内の思い出を浮かべれば、あぁ短かったとも思うでしょうし、そやつの
被害者は裁判官の判決での刑期を聞いたとき短いぞと文句不平も言うでしょ
うから、「間なく」の記述は年の空白の意味ではなく、このような相対的意味
での思いを表現したものと思考しますが・・・。
617日本@名無史さん:2007/10/09(火) 08:40:37
刑務所にはいったことあるんですか?
618日本@名無史さん:2007/10/09(火) 08:50:27
619太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/10(水) 07:30:03
>>617
 >>495 最上段
620日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:11:44
>>619
自分を正義と言う人間は子供向けヒーロー者じゃなければ
大概はイカレテルと思われるからよしといたほうがいい
621日本@名無史さん:2007/10/10(水) 09:31:14
これを支持する人間の神経がわからん
その境遇に同情や共感でもしてんのか?

太国以外に倍暦肯定のディベーターを求めます
622サガミハラハラ:2007/10/10(水) 09:51:09
私は日本書紀の安康天皇以前景行天皇までは2倍年暦による年代だとみています。
そしてそれは間違いありません。間違いだという人との討論を求めます。
さあ、いらっしゃい。

これからでかけますので、夜からお答えいたします。
623太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/10(水) 10:19:20
サガミハラハラさん
新刊書は120ページばかり読ませてもらいました。これからいよいよ佳境に
入るところ、感想批評等はいずれ致しますわ。なお、拙者は神功の条の日食説は
否定的考えです。
624太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/10(水) 17:13:37
サガミハラハラさん
七支刀の件ですが、東晋という国は一個の年号をダブルで使うほどルーズな国
なんでしょうか? 確かに石上神宮の七支刀が神功紀のそれだという線は拙者
も否定までは至らんのですが、何かしら別の七支刀ではないのか? とも考え
てしまうからなんです。それに銘文に旨王とありますが、神功の時代は天皇が
不在でホムダワケはまだ天皇に即位してないから、そういう時期に王がどうの
こうのの銘文をあちらが入れるなんて不審ではありませんか? 女王だとか王妃
だとか、そういう文字で銘文に書かれるものではないのでしょうか?

泰和を太和とも読んでいたというのは当時どのくらいの普及、分量で東晋で流行
などしていたのか、この二年号を同一の一個として使用していたのか、そのへん
のことはどうなんでしょう? 別国に譲渡するくらいの真の篭った刀となれば、
年号も正式のほうを使うんではありませんか? だから銘文は「泰始」の号では
なかったのかなんです? 太和に決せれるとりわけの事由があるのでしょうか?
625日本@名無史さん:2007/10/10(水) 19:16:10
太国さん。隋書でも王と書いますよ。
日本書紀では推古の御代ですね。
626唐松山:2007/10/10(水) 19:49:12
サガミハラハラさん の 倍暦は、暦に直せる 代物ですか?
各天皇の 生まれは?
書紀以外の 書物は 使う事が出来ますか?
627九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/10(水) 20:04:38
>>626
サガミハラハラさん の 倍暦は、暦に直せる 代物になりそうに思われます。
今は、まだ素材の段階として興味深く見ています。
628ステテコ:2007/10/10(水) 20:05:39
>>626
質問している人に質問するのは変な話ですが、
唐松山氏は日本書紀に記された天皇の年についてどうお考えですか?
また、唐松山氏の説では当時の人はどのような時期に年を加えると想定してますか?

ちょっと現在この年のとりかたの問題で悩んでいます。
629太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/10(水) 20:07:52
>>625
推古は天皇だからこれは王は妥当でしょ。こちらは女王でもいいですがね。皇后
は天皇じゃないから王と銘文に入れれば、両国は恐らくすったもんだになるぜ。
今の皇后陛下を天皇陛下と外国が文に書きこめば、紛糾とかになるぜ。
630ステテコ:2007/10/10(水) 20:22:53
>>624
>女王だとか王妃だとか、そういう文字で銘文に書かれるものではないのでしょうか?
>>629
>推古は天皇だからこれは王は妥当でしょ。こちらは女王でもいいですがね。
引用時改行に手入れ

これちょっと難しい問題じゃないですか?
その当時女性に対して王権をシナでは与えていないんだから、属国である日本にどういう名称で与えるのかは
確定するのは難しいと思う。推古に王を与えたならば、神功は皇后でも王と与える可能性はあるし、
確かに天皇がいるのに皇后に王を与えたらもらったほうで騒ぐなりするかもしれないけど、天皇不在なら皇后に
王の名を与えたとしたら外交的には問題なしという可能でいもあるんじゃないでしょうか。
631ローガン:2007/10/10(水) 20:35:06
>>624>>630じゃあ隋書に書かれた王の妻とは誰でしょうね?
日本書紀では推古の御代ですね。
>>625私でした。
632唐松山:2007/10/10(水) 20:38:28
ほつま には 増しは 寿 として行う と読めます
たとえば
即位の詔元年1月=新暦の導入=2年2月神や宮司を集めて 同年の場合アリ。
景行12年九州遠征一度大和へ帰る=景行17年 景行13年=景行17年ではないか?
景行28年春倭武九州より帰る=景行40年7月 倭武この時点で17才
後に行くほど 回数と増し年数が増える傾向がある。
死亡時のみで 見ると 5年から10年 
死亡直前は, 回数が増える

垂仁時代は、九州において 乱世の時代であり 暦を隠すために
増しの 増発
とにかく 一定の法則的なものは,有りません。
633太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/10(水) 20:44:13
>>631
そういうんならば、問いをいま少し詳細に書きこんで下さい。
敏達天皇か九州王朝の関係か?
設問が簡易なのではそれくらいでとこちらは言うほかないですな。
634ステテコ:2007/10/10(水) 20:49:36
>>632
つまり年というのは”寿”の回数であって現代の年齢とは全く性格が異なると言うお考えですか。
ちょっと文中から読み取れないので確認ですが、日本書紀に記されている年はこの”寿”の回数と捉えているんですね?
635ステテコ:2007/10/10(水) 21:07:59
>>631
あ、自分にもアンカーついているのか。
いや、自分は大国さんのレスの中で論理完結してるんで
推古の御世に王に妻がいるとすれば、前段の前提が偽になるので後半の推論は無意味です。
636唐松山:2007/10/10(水) 21:28:10
天皇     誕生 即位 世継ぎ 死亡 増前 増中 増後 増 増総合計
崇神天皇元年 西暦182年 4才 19才 28才 前48増 中11増 後32増 計43年 合計91年
垂仁天皇元年 西暦201年 10才 16才 32才 前32増 中11増 後65増 計76年 合計108年
景行天皇元年 西暦218年 16才 20才 38才 前65増 中1増 後37増 計38年 合計103年
西暦は 置いといて
たとえば崇神即位4才 書紀で即位52才なら 増し前48年 之は開化 増し後と 同数
増し中 即位から崇神26年世継ぎ誕生 までの 増し 現実15年後の世継ぎ誕生
増し後 世継ぎ誕生から 死亡までの 増し
なお 妃11才 一応子ども扱いで 増しの対象外 死亡時180歳 誕生から死亡時までの全ての増し 含む
太子に成る8才 此処までは、子ども扱い
太子に成る31歳 実際18才なら 太子になる前に 元服 相応の増し含む

増し中+増し後=19*ン回 之が基本
例外
安寧と懿徳  開化と崇神 仲哀と神功 この3組は、2人ワンセットで考えています。
ホ31302 マカリヲコヨミ あらためて 懿徳元年 間借りを暦 検めて
637唐松山:2007/10/10(水) 21:48:21
寿 という 口実を設けて 増しを行う
増し1回が1年か10年か 法則と言えるほどの物は無い。
よって 寿の回数と 書紀の延長年数とは 比例しない。
だから 19年7閏で書かれた書紀には 19年7閏が埋め込まれている(増し)
発見が難しい。
正しく 差し引けば 正しい暦の再現 例えば 4分暦や景初暦が 再現
されるはず。
こんな考えで やっています。
638ステテコ:2007/10/10(水) 22:00:57
>>637
理解しました。
自分が考えていることの参考にはなりませんでしたが、これは当方の問題ですから。
回答ありがとうございます。
639太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/10(水) 22:25:17
サガミハラハラさん
2倍年暦の章を読んでおります。先の件で、七支刀の銘文の旨王が應神天皇
ならば、当時まだ即位してないんですから、銘文の文字はそういう書き方ではなく
「旨王子」とか「旨太子」とかのように書かれるべきものではありませんかね?
だから旨王というのは應神天皇ではないだろうとそれがしは考えるのですが。
640ローガン:2007/10/10(水) 22:55:54
ごめんなさい。空気が読めなくて。レス見てたら皆さん忙しいそう。
又今後にします。
641唐松山:2007/10/10(水) 23:02:36
サガミハラハラさんは
神功摂政=天皇不在=神功が生きていようが死んでいようが関係ない
天皇不在=速やかに天皇を立てる。
こんな考えかもしれない 一理はある
ただ仲哀と応神の間 14年も応神に振っている。
後見人は武内か?ま 置いとく
応神14年には仁徳色気づいている 此処までは、書き込まれていないので 後の楽しみ?
古事記で見る神功誕生は、成務13年頃と成るのだが成務治世6年では,応神誕生不可。
ただ 神功誕生を景行時代にすれば良い が 読み替えでもある。
642サガミハラハラ:2007/10/10(水) 23:09:50
帰ってきたのですが、疲れてしまって頭がまわらないので、お返事は明日にさせてください。
もう寝ます。お休みなさい。
643太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/10(水) 23:12:13
サガミハラハラさん
五王の一人武が雄略天皇であるのがほとんど異存はないとかおっしゃられて
おりますが、これは異存はおおありですよ。

だいたい禰名(DNA)が一致しないでしょう。五王が天皇であることを先に
決めこんで論じているのはうまくないですな。これは倉西さんもそうだと
決めこんでいました、天皇だというなら、いまひとつ根拠を書かれるべきだと
思いますが・・・。
644サガミハラハラ:2007/10/11(木) 10:22:51
東晋の年号については、そのように書かれることもあったとの説があり、七支刀の年代を考える上で、無理がないのでそれを採用しました。(詳述された本の名を跡でかきこみます)
神功の時代の天皇は応神天皇ですが、書紀では神功皇后を天皇と同列に扱ったために、その年代については応神を皇太子という表現していますが、外国の文献では、倭王という表現となっています。
645サガミハラハラ:2007/10/11(木) 10:34:05
>>626私の倍暦は普通暦に復元することができます。諸天皇については、即位年と没年であり、生まれ年まではわかりません。
古事記分註天皇崩年干支を使用しました。
ただし、記干支は2倍年暦です。この発見が書紀の普通年への復元の成功につながりました。(文化勲章を貰うほどの業績であると自負していますが、
大学教授当の履歴がないので不可でしょう)
646サガミハラハラ:2007/10/11(木) 11:00:33
>>639これは>>644での答えの中にはいると思います。皇后の時代に皇太子であるとされたのは、あくまでも書紀の編集上そうなったのであり、
現実には天皇に即位していたのであり、外国の文書の宛名は応神天皇宛になるわけです。

>>641私の推測であるが、神功皇后生年は(日本書紀からの)西暦340年で景行52年秋となります。

>>643倭の五王について、今一つといわれても、私としてはこれで十分だと思っていますので、けど何か思いついたらお知らせします。
647太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/11(木) 14:39:43
>>644 >>646
>外国の文献では、倭王という表現となっています。
>皇后の時代に皇太子であるとされたのは、あくまでも書紀の編集上そうなっ
 たのであり、現実には天皇に即位していたのであり
その外国の文献のどういうところに應神天皇の皇太子のことを倭王と書かれて
いるんでしょうか? 現実に即位していたのならその即位時が應神元年に
なりましょうから(即位の翌年とかが元年の場合も含んで)、その元年は
いつ頃だとなるわけですか? 現実ですか、本当に??

>倭の五王について・・・これで十分だと思っていますので
全く客観的に観て十分とは言えないでしょう。当時九州には小国が分立して数十
あったでしょうから、そちらの王達ではないことの論証がなくて十分とは言い
難いではありませんか。
648サガミハラハラ:2007/10/11(木) 18:33:03
書紀の朝鮮引用記事と三国史記をごらんください。
ただし、応神即位年は356年として対照させてください。

当時は既に大和朝廷の治世下にありました。
九州及び加羅が大和朝廷の治世下にはいったのは西暦290年垂仁天皇の時代です。
649ステテコ:2007/10/11(木) 21:47:20
>>648
三国史記というと345年の「倭王移書絶交」のことですか?
650日本@名無史さん:2007/10/11(木) 21:49:25
滝川ルネッサンス・・・・(´;ω;`)
651サガミハラハラ:2007/10/11(木) 21:54:22
えーっと、ちょっと度忘れしました。思い出したらかきこみます。
652太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/11(木) 22:24:35
>>644
>七支刀の年代を考える上で、無理が無いのでそれを採用しました。
この点はごもっともです。拙者の場合は、銘文の年号を泰始四年ではあるまい
かと想ってもいるのです。この年は拙者の倍暦計算では安康元年=468年であり、
ここの候王あるいは旨王とやらはいずれか安康天皇のことであるという線が捨て
切れてません。(>>19)

この王名は方法順序が逆の書き方ですから、片方が王名であり、もう
片方は王の名詞ではなく副詞形容詞等の文字ではないでしょうか? いずれに
しろ同王は九州の倭の五王朝と拙者が観ているタイプ、某小国の王名やも知れ
ません。もしくは安康天皇そのものやも知れないとの考えが濃厚にも思えます。

稲荷山鉄剣の銘文は雄略でも関東出土ですし江田船山鉄刀も九州で双方が畿内
から遠方の地から出現していますから、畿内に七支刀があっても根源は九州の
物である可能性は十分言えます。
653唐松山:2007/10/12(金) 20:53:33
サガミハラハラさんへ質問
普通暦に直せる→太陰暦ですか?
即位年と崩御年は 決定出きるが 誕生は判らない 死亡年齢から推定できないのですか?
それで 普通暦成る物に 再現出きるのですか?

小城は、熊襲の影響の強い土地。 ここが卑弥呼の都で宜しいのですか?
熊襲の城砦=小城の城砦 です。

654唐松山:2007/10/12(金) 21:58:56
風土記より 抜粋
小城郡.
 昔者,此村有土蜘蛛,造堡隱之,不從皇命.日本武尊,巡幸之日,皆悉誅之.因號-小城郡.
火燎肥前國風土記 藤津郡
能美鄉.在郡東.昔者,纏向日代宮御宇天皇,行幸之時,此里有土蜘蛛三人.兄名-大白,次名-中白,弟名-少白.此人等,造堡隱居,不肯降服

逢鹿驛.在部西北.曩者,氣長足姬尊,欲征伐新羅,行幸之時
遣唐之使,從此停發,到美彌良久之埼,即川原浦之西埼,是也.從此發船,指西度之.
 此島白水郎,容貌似隼人,恆好騎射,其言語,異俗人也.

神功の時代には,三韓を通らず 唐へ直接行くルートも有りました。
655太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/12(金) 22:14:37
>>646 >>648 サガミハラハラさん

>皇后の時代に皇太子とされたのは、あくまでも書紀の編集上そうなったので
 あり

書紀の編集上そうなったと言えるというより、貴殿がご自身の編年の考えに
間違いがあったのではないのかとの考える検討がなされず、ゴリ押しに論を推し
進めて書紀の編集上そうなったすれば辻褄が合って来るため、そういう解釈を
貴殿がより好みで選んぶことに行き着いたのだとも、こちらからはそう見え
ますよ。

そうでないとおっしゃられるなら、その三国史記を見ろと言われる前に、ご自身
でその明文を書きこんで説明して下さいよ。なぜ現実即位だと言えるのか??
656サガミハラハラ:2007/10/13(土) 09:54:57
>>653
2倍年暦、普通暦という表現ですが、これは一般にいう暦ではありません。
単に年の数え方のことで、せいぜい季までを考えています。
倍年暦の呼称は、2倍年暦の他に、春秋暦、1年2歳暦という表現もあります。私はこれらのうち
2倍年暦という表現をとりました。
よって、私が論じているのは、年であり(せいぜい季)月日の暦までは考えていません。
太陰暦かどうかも、閏年云々などに言及できる段階ではありません。ですから何年の冬年と言った場合、
グレゴリオ暦では、あくる年の1月の事件ということにもなるわけです。
そこまでの換算は、現在ではまだできていません。
ですから、現況ではあくまでも書紀の年について西暦(太陽暦)では何年にあたるかと論じておることになるわけです。
657サガミハラハラ:2007/10/13(土) 10:03:37
熊襲については、この呼称が蔑称(野蛮人)としてつかわれるようであるが、
佐賀では神という字をクマと読む場合があります。小城の北方背振山地には神代という姓の人物の
伝承があります。
となると神祖(クマソ)ともいえなくもありません。また、クマソとは大和側が反抗的な人々をさげすんでよんだ言葉とも考えられます。
この場合は相手が文明人であっても使う言葉ですので、クマソの地であるから文化文明の遅れたところとは言えなくなります。
658サガミハラハラ:2007/10/13(土) 10:07:05
>>654
唐松山さん凄い発見ですね。
航海学上は大陸と直接往来は可能だといわれていましたが、日本の文献からよくみつけだしました。
659サガミハラハラ:2007/10/13(土) 10:12:59
もう一方の歴史書である古事記には皇后の記はなく応神天皇記が仲哀記に続いてあるからです。
ですから古事記が原型(仲哀の次は応神と続いた)で、書紀は編纂の際に皇后紀をつくったが、それを天皇と同等に扱ったがために、皇后時代には天皇は在位していないようにとりつくろったのです。
660唐松山:2007/10/13(土) 13:59:20
サガミハラハラさん 古事記には
崩御年干支と 崩御年齢が記載されている。
つまり 干支と年齢は,セットで考えなければ成らない。
この干支と年齢を一つの暦に並べて見て下さい。


661太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/13(土) 14:35:07
>>659
何年に現実とやらの即位をしたと云うんですか? 記紀のその件は分かりま
したが、数字が出てないでしょう? その数字の特定は具体的にいかようなこと
から決まるんでしょうか? 考えれば考えるほど疑問が増加して行きます。


記紀のそれくらいじゃぁ、編集の都合だとはまだまだ云えないでしょうが?
662ステテコ:2007/10/13(土) 15:24:39
>>660
それは私も興味あり
663唐松山:2007/10/13(土) 16:09:05
古事記の崩御年齢を干支に重ねると
崇神から神功までは、 誕生年も 違和感が無い
ところが
応神 どうも 1代抜けている。
即位時 名前の交換どころか 体まで入れ替わっている?

664サガミハラハラ:2007/10/13(土) 22:43:00
>>660試しにやってみましょう。ただし、ちょっと時間がかかります。他の仕事もあるので。
665太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/14(日) 06:57:18
サガミハラハラさん
貴殿の書の應神天皇の現実即位とやらの説明は、
明答がなければ、紀の編者らの都合というよりも貴殿の論の都合と言ったほう
がこれは現実的ではあるまいかと、それがしとおそらくは第三者もそう考えて
しまうと思いますがね?
666サガミハラハラ:2007/10/14(日) 09:20:44
ですから答えは、記では現実即位とやらで書かれていることと、摂政とは、天皇に統治力がない場合におかれる、つまり
天皇の存在を前提として置かれているということです。
神功皇后を天皇と同格に置くがために、しかし天に太陽が二つないように、権力者が二人いてはいけないので神功とたてて真の応神を皇太子としたのです。 



667太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/14(日) 09:38:29
>真の応神を皇太子としたのです。

皇太子とは天皇の即位前の状態身分ですが・・・・・。
即位はまだだということでしょう。貴殿は立皇太子と即位とを同一視してると
いうことになりますがね? これはおかしいでしょう?
668唐松山:2007/10/14(日) 17:51:02
サガミハラハラさんの 応神即位は,
立皇太子と即位とを同一視してる どころか 
立太子以前に 天皇に即位 ですか

先の 在大和と神功軍との戦で負けた 在大和勢力は 敗戦を受け容れ 直ぐに 神功に下る? 
ならば 応神は 何処に都を置いたか?
その後 河内に都の置かれた理由は?
??ばかり増えていく。
 
669太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/15(月) 08:04:20
サガミハラハラさん
うすとぼけないで、具体的に説明をやって下さい。今後も抽象的説明に終始
するんなら、これは貴殿が貴殿の説の都合上そうしたんだとおのれは受け
取りますが・・・・・。
670サガミハラハラ:2007/10/15(月) 09:59:31
神功皇后紀に、仲哀9年の冬10月の次に、また一説によると、新羅王をとりこにして云々とあり、天皇はこれを聞いてまた怒られ
とあります。皇后はではなく天皇はとなっていることから、皇后の時代に天皇がいたことになることを紀の編者は認識していたことになります。天皇とは勿論応神天皇です。
具体的といわれても、文献のうえからしかのべられず、これ以上はタイムマシンでもって調べるしかないでしょう。
671太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/15(月) 10:19:49
外出するので紀のその箇所を少しだけ読んだのみですが、天皇とあるのはまだ
ホムダワケが即位していない段階のため、仲哀の意味で紀んの編者らが仲哀の
号を略して単に天皇を書いたのでしょう。

もしそれでもゴリ押しするならば、この怒った年はいつ頃なんでしょうか?
仲哀9年10月以降にも思えますが少し前の起こったことを述べているのかも
知れませんよ? 仲哀9年の直後ならホムダワケはまだ子供ですよ。理非の判別
は〜いくら仲哀の後釜の天皇だとしても怒るというのは時期尚早の時代となり
ますよ。その一文で現実天皇だというのは考えが行き過ぎで、極論に近いとそう
思いますがねぇ? それ以外に根拠が無いんなら、まず貴殿の主張は受け入れ
難いものとなりますよ。
672サガミハラハラ:2007/10/15(月) 11:58:00
この怒った年は402年前後の年であったと思われます。
ところが書紀の編者はこの事件が皇后の時代のことであると考え違いをしたため
皇后の新羅遠征直後のところにいれたわけです。
ということは(天皇の字を使ったということ)、紀の編者は皇后の時代に天皇が存在していたことを認識していたことになります。
673太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/15(月) 15:36:35
貴殿の書、205頁表3の応神天皇年代表では同天皇は391年即位だとなっていま
すが、402年あたりでは天皇はまだ10歳でしょう? それが怒るというのは〜?
えらく少年のころからそんな気短かだったんですか? まぁ雄略天皇あたりは
そうやも知れませんがねぇ? なんだか歳が若すぎませんかね?

となると391年即位以前の某年に現実に即位したという意味にとらえていいんで
しょうかな? ならば応神は他の天皇と違い2回即位したということですか?
なれば皇極、孝謙のように応神天皇は重祚をしたということですよ? これ
は前代未聞の新説だということになりますが。そんなにこの論説に自信が
おありなんでしょうかね? ど〜うもねぇ〜? 考えすぎでないですか〜?
674サガミハラハラ:2007/10/15(月) 17:17:34
応神天皇の生年は355年秋年です。
本来は356年秋年に橿原で即位したのですが、(住吉大社神代記)書紀の編者が神功紀を特別に作ったがために
書紀での(こちらが正史となる)即位が391年となったのです。
あくまでも書類の上での話しです。
675太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/15(月) 20:06:42
サガミハラハラさん
貴殿の主張が本物ならば、おそらくは歴代天皇の在位期間を見たとき、應神は
その期間の長さが他の天皇ののと較べ平均的に最大クラスにはならないはずだと
想い、巻末の416〜419頁の表の在位の横棒グラグを眺めてみましたが、メジャー
的に長さを測ってその棒の幅を決めてるようで、これを注視したところ應神の
幅、間隔が最長のようにどうしても見えますことから、在位が應神がトップの
ように思われますが? これははなはだ貴殿の論述が強引な無理から結論付け
られた結果の様相かと洞察せざるを得ません。

それはそうでしょう? 紀の編者らの記述を軽視して應神誕生直後即刻即位と
したわけですから、在位年数が 神功+應神 という神功の摂政期間が加味され
たことで最長の長さにグラフの幅が出来上がったというのがそのカラクリで
あるとそれがしは思考してしまいますよ。次いで長いのが欽明のようですねぇ。

どうです、そこの幅が最大ということとはご自身でおかしいとお思いになられま
せんか? 神功の摂政の期間を應神在位期間に加えられていることが最長の
幅になったもので、自然の成り行きだと思うべきでしょうがね・・・・・?
676サガミハラハラ:2007/10/15(月) 20:32:11
ですから、日本書紀には編者の作為があるので、本来の天皇のみの皇位継承に戻して
在位年をかんがえると、日本書紀の皇后の在位年と応神の在位年をくわえた年数が本来の応神の在位年となり、
巻末の年表の長さとなるわけです。
677太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/15(月) 22:10:45
>>676
ですからその表での長さが最長幅級では疑念が残りますね。中ほどから左右に
大きかれ小さかれどんぐりの背比べ的幅ならば信憑性が出てきますが、最長では
貴殿の説が正解だとはまずは思えませんよ。神功の摂政を加入させたから最長幅
になったとしか思えませんね。つまり貴殿の 現実即位+紀の2回目即位 と
いうのはおかしい考えだと思うのが至当としか言えません。
678サガミハラハラ:2007/10/15(月) 23:59:36
ですから、応神は赤ん坊のときから天皇になったので在位年が長く、他の諸天皇は
15,16,17と成長してから即位したから在位年が応神ほど長くないのです。

皇后の摂政在位年に書紀の応神の在位年をたしたものが、応神の本来の即位年から(皇后の摂政即位年と同じ)
没年までの在位年となるのです。
紀では応神の現実即位年は皇后の摂政即位年に入れ替えられており、そのため、皇后の死後に応神の即位という形をとっているわけです。
あくまでも紀の編者の作為です。
679太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 07:58:06
貴殿の書を最後まで読めば分かることでしょうが、先に聞いておきますが、
そうとなると神功崩御は390年なんですか? そして(>>355)應神誕生が355年で

 390−(355−1)=36

だから應神が36歳ばかりまで神功は摂政をしていたことになり、應神が20歳代
で一人立ちは可能なことから神功が摂政を取りやめるべきで、何でこんなに長く
崩御まで摂政をしてねばならないんでしょうか? 10年は長くはありませんか?
いくら神功が実権を握りたいと考えても即位が幼少でも成人になればそんな摂政
なんぞ、摂政の名だけでも解かれてもいいことではないでしょうか? あとは
クグツでやっていられるでしょう?
680太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 08:17:45
それがしの倍暦計上では 應神誕生が352年、同即位が376年で、25歳での即位
ですから矛盾は見られません。貴殿のは幼少即位でも36歳まで神功が摂政で
いたということです。それがしのほうが貴殿のより摂政の期間が長く、神功誕生
は336年で崩御が375年の40歳までなんですから、一見こちらもおかしいよう
ですが、應神が丁度20歳代半ばころで、もう即位のころあいだと思われたとき
崩御してるから、矛盾はないと考えます。

貴殿のおかしいのは天皇が36歳まで神功が摂政でいるというのは変に思います。
それとも途中摂政解任の記述とかがあるんでしょうか? 恣意的に解任年代を
造らぬように願いますよ。
681唐松山:2007/10/16(火) 17:58:58
仲哀末年頃
新羅 征服は、可能でしょうか?

書紀の三韓征伐の記事が仲哀末年として
そのとき 倭軍は、どの位の鉄を持っていたか? にかかると思います。
まさか 銅剣で 三韓征伐が 成ったとは到底思えません
まず 下見 そして 大量の鉄や武器の輸入
国内で兵士や船の調達
その前に 熊襲征伐 熊襲=海洋民族 を傘下に置く。
ここまで 10年位は、かかると思います。
書紀の神功紀は この辺の話を 纏めてしまった物 
確かに 神功時代に 相応の 事実は有ったのでしょうが 時空が 無視されている。

天皇の死亡は、息をしなくなった日ではなく 塚に納め葬った日 ではないか?
682太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 18:08:54
そのうちN回忌の日ではないか? などと言い出んではないですか?
冷静になって下さいね。w
683日本@名無史さん:2007/10/16(火) 18:23:34
このレスを見たあなたは確実に交通事故に会います



逃れる方法はただ一つ
↓このスレに行き

http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/train/1192087741/
(゚-゚)


と書き込んでください。書き込まなければ確実に明日交通事故にあいますよ
684サガミハラハラ:2007/10/16(火) 19:30:25
問題は、何故皇后が応神に権力を委譲しなかったかということになるかと思いますが、
そのことについては、何故なのかはかりかねます。
年代については、私のほうは、私の方法で日本書紀の年代を復元して考えていますので貴方の年代観とは異なっているのだと思います。

私の年代観については、太国氏から異議が唱えられておりますが、他の方々はどのようにみておられるのか知りたいので、
このスレに賛否ご意見等書き込んでくだされば、大変参考になりますのでよろしくお願いいたします。
685サガミハラハラ:2007/10/16(火) 19:34:30
神功皇后の新羅遠征は神託によるものであり、準備等はたいして考慮せずに神がかりでおこなわれ
偶然の出来事で成功したものです。
686太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 19:44:29
現実即位でないという、紀の應神即位とした紀の編者連の編集上とは具体的に
どのようなものでしょうか? そういうものの具体性が根拠等で示されなけ
れば、サガミハラハラさんの一過言で信じ難いですよ。
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 19:46:08
訂正
× 編集上とは      ○ 編集上の都合とは
688日本@名無史さん:2007/10/16(火) 20:01:30
×一過言
○一家言
と思われる。また一家言の用法も正しいとは言いがたい。
689太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 20:14:28
サガミハラハラさん
それがしの倍暦計算だと、391年は應神ではなく仁徳即位の年です。
そのときの半島の乱は畿内からとは必ずしも言えませんよ。当時も九州では
小国の乱立気味の情勢にあったようで、倭の乱とは九州関係だとそれがしは
観ておりますがね。
690サガミハラハラ:2007/10/16(火) 21:52:08
編集上の都合とはーー本来の天皇でない神功を天皇と同格のように扱い
神功紀を設けたことです。
691太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 22:13:28
>>690
そうならば、貴殿の云う神功初年のあたりで即位したことを紀の編者連はその
記載を怠るわけがないでしょう? そこの現実應神即位とやらの年を應神元年
と為して、紀の應神の条の始めのほうからは應神何十何年と記載して行ってくれ
れば、後世の我々も誤解を招かずに済むはずでしょうが? 舎人の取り巻きは
なぜそうしていないで應神元年を應神紀の冒頭としたのですか?
692サガミハラハラ:2007/10/16(火) 22:19:42
そんなこと、僕にはわからないし、空想で根拠もなく発言しても意味がないし。
693太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 22:29:18
あ〜ぁサガミハラハラさんの新説には面食らう。根拠もないんじゃ
これは空想と云う他はありませんよ。貴殿がもうそうおっしゃってるし。

じゃぁサガミハラハラさん。
紀の應神元年からその現実即位の年とやらまでは、これは

 應神前□□年

と呼称されて然るべきとなりますが・・・?
694太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 22:31:29
>>693 訂正
× 紀の應神元年から     ○ 紀の應神元年の前年から
695太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/16(火) 22:47:35
サガミハラハラさん
貴殿のは神功の地震津波説は相当ありえる考えで、いちおう評価されるべき
説明と思いますよ。しかし神功年間に應神の現実即位があったとかいう主張
は、どうやらうまくないと思いますね。さらに 倭の五王=各天皇 のお説を
ま〜だ信じて主張なさってることから考えて、倍暦論はかなり軌道を外れて
いると思いますが? 例の日食説を否定に回ったのは、これは正解ですね。
696サガミハラハラ:2007/10/16(火) 22:54:18
根拠もなく空想というのは、紀の編者の心中を察するのはということです。
697サガミハラハラ:2007/10/16(火) 22:56:48
もう寝ます。お休みなさい。
698日本@名無史さん:2007/10/17(水) 20:03:49
葛城襲津彦
699太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/17(水) 20:23:24
サガミハラハラさん
貴殿の書の228頁にも391年のことらしく

>はからずも倭の応神天皇と高句麗の広開土王が即位した時であり

ここの応神即位は紀の記載の年のほうのようですが、これは貴殿の言い分だと
紀の編者らの編集の都合上のことなんでしょう? だから應神が重祚的で
ないならばこっちはそれの都合上のことなんだから、即位していないで単なる
皇位の継続時の年なのが貴殿の論なのでしょう?

なんで應神が即位したと書いてるんですか?おかしいではありませんかな?
重祚的ものならこれでいいですが、編集の都合上とは重祚ではないですよ?
貴殿は幼少即位のはずでしょうが? それとも391年が幼少時なんですか?
700サガミハラハラ:2007/10/17(水) 21:37:43
日本書紀に沿って話しを進めていますので。
701太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/17(水) 21:44:53
サガミハラハラさん
235頁
>(また、五王については九州王朝というのがあり、そこの王のことで
   あるとか、・・・・・根拠が少なく採用できない。)

九州には五王の当時わんさと小国が乱立していて、五王が九州の王だということ
は十分言えることですよ。根拠が少なく〜なんていう不採用の結論は、抽象的で
具体性が少なくまるでない言い方での不採用の結論じゃないですか?

だいたい應神仁徳手前あたりの天皇を考察しても、禰名(DNA)が全然一致
していないでしょうがね。五王は天皇ではないですな。
702日本@名無史さん:2007/10/18(木) 16:50:08
神功が摂政だったのは9年ほどじゃないの?

ところで、応神の兄の誉屋別皇子はどうなったの?
703日本@名無史さん:2007/10/18(木) 17:43:16
イザナキサザナギが降り立ったとされる地は美濃の中津川市にあるよ
天照大神が生まれた時にくるまれてた衣を祀った山は中津川市の恵那山

今でこそ恵那神社があるけど、雨乞い岩や夫婦岩など巨石遺跡として残してる遺跡だよ
この周辺は他にも船岩や意味のわからないものまで沢山巨石遺跡がある地帯だよ

古事記にあるように降り立ったのは2600年前でもおかしく無いよ
704唐松山:2007/10/18(木) 19:27:25
私の年代感
神功 時代 新羅本紀より

284 儒礼王即位(助賁王長男)
286 百済が講和を求める
287 倭人が侵入
292 倭人が侵入
294 倭人が侵入
295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
297 北方の伊西国が侵入したが神兵が現れて撃退

298 基臨王即位(助賁王の孫)
300 倭国と国使を交換

こんな 時代だと思うのだが 新羅本紀の年代が信じられない。
百済本紀は さらに 信じられない。

行き詰まっています。

705日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:42:08
>>704
九州発祥の前提で探してたら多分一生わかんないよ
あと奈良京都の神社や寺や神話も全て余所(東国)から移転したものだから由縁と地理が合わなかったりするんだよ

渡来人は新潟の近江に降りて一方は岩手の大峰山や高野山側へ行き、
一方は東山道を通って信濃木曽飛騨美濃へ来たんだよ


恵那山を中心に東山道を辿れば、王申の乱(奈良移転)までの神話や神社や寺や地名や氏族は全てあるよ

白山や鞍馬山や貴船神社や上野八幡も、飛騨にある方が元々の神社や山岳だから
706日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:44:31
あと倭国と邪馬台国は別の国

倭人ってのは東南アジア太平洋諸国にすんでた洞窟に住む先住民、土人の事だよ
707太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 19:58:34
そこは四季がハッキリ存在するのか? 
708日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:19:36
>>706
後漢書に出てくるんだが既に倭って地名…
709サガミハラハラ:2007/10/18(木) 20:26:50
倭の五王の時代には九州が大和の政権下にはいってから相当の年月が経過しています。
天皇の漢風シゴウは8世紀に近江三船が造ったもので、倭の五王の中国名を参考に作った気配がします。
天皇の中国名は、天皇の業績によるものではなく、命名の際の法則等はわかりません。
倭風シゴウを基にしたかどうかもわかりません。
710サガミハラハラ:2007/10/18(木) 20:33:25
>>702
摂政だったのは、34年間です。
誉屋別皇子は夭折しました。未熟児であったのかもしれません。
神功はそのショック等も重なり、宮処より逃亡、気比神社奥宮の常宮神社に籠もりました。
711サガミハラハラ:2007/10/18(木) 20:47:46
>>704
287年からの倭人の行動は、崇神、垂仁と津ずくにし西日本の倭人への働きかけ(大和政権下にくみいれようとする)に
たいする、反応によるものです。西日本の安定は300年の国使交換により、確定的なものとなったようです。
712日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:55:30
同意
誉屋別は子孫が姓氏録に複数あるけどこれは捏造だろう
単なる隼人の俳優が成り上がって天皇になるようなもの
713太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 21:12:16
>>709 サガミハラハラさん
それは一部は政権下に入ることもあったでしょうが、全部入ったとはなりま
せんよ。だから九州が朝廷の政権下にはいたっというよりも、むしろ朝廷の
影響下にあったというくらいが関の山ですよ。

先述のとおり、禰名(DNA)が合致しないんではもう天皇だとの論は通らん
です。それとも允恭を禰にするんですか? 禰の字が御名にありますよ。雄略
が武だというんなら、允恭をも禰にしなくてはご都合取りじゃぁありめせんか?
714唐松山:2007/10/19(金) 18:36:28
旧事記でみた 生まれ年
書紀では 年齢が 抜けていますので 其れに近い 旧事記で計算しました。
天皇   治世   聖寿  生まれ
成務天皇 60年間 108歳 景行12生
仲哀天皇 9年間 100歳 景行29生
神功皇后 69年間 112歳 成務26生
応神天皇 41年間 111歳 仲哀8生
空白  2年
仁徳天皇 87年間 143歳 神功54生
履中天皇 6年間 77歳 仁徳16生
反正天皇 6年間 60歳 仁徳39生
允恭天皇 42年間 78歳 仁徳63生
安康天皇 3年間 56歳 履中1生
雄略天皇 23年間 61歳 允恭7生

上記より 実際の治世を推定
成務天皇 23年間
仲哀天皇 4年間
神功皇后 27年間 成務26年を 実10年目位とみて 応神を生む18才
応神天皇 22年間 神功54年を 実20年目位とみて 仁徳を生む21才
空白 2年
仁徳天皇 30年間 応神13年を 実8年目位と見る,髪長姫と恋。 即位32才
履中天皇 6年間
反正天皇 6年間
允恭天皇  42年間 仁徳63年 実26年目位とみて 仁徳58才の時の子供?
安康天皇  3年間
雄略天皇  23年間 允恭治世23年間と診ても 童には、成らない?

応神までは 何とか 仁徳時代が おかしいのか?
715日本@名無史さん:2007/10/20(土) 00:51:19
このスレは学問板にふさわしい書き込みは二割以下
全部読んだら頭が痛くなった
716日本@名無史さん:2007/10/20(土) 04:08:10
学問板なんて名前だけ
知識がなくてもカッコつく上古代史はこのスレの基地には手頃な玩具です
717日本@名無史さん:2007/10/20(土) 07:04:54
負け犬wwww
718太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/20(土) 07:07:48
でけぇことを云うなら、うぬら学問的に書きこめ。抽象的能書きだけ。
719日本@名無史さん:2007/10/20(土) 08:23:08
まぁまぁ太国さん自虐しなさんな
象牙の塔たるこのスレは日本史板の宝ですよ
720日本@名無史さん:2007/10/20(土) 10:21:21
どんなものを宝と思うかは価値観の違いだな
721サガミハラハラ:2007/10/21(日) 09:10:59
このスレにとどまらず、2ちゃんねる日本史板は古代史研究の最先端を行く革命的と言っていい板です。
今まで謎とされていた問題や事象が新視点でみなおされ次々と解明されていっています。
これからもより一層議論討論をくりかえし、深め、古代史の謎解きに挑戦していきましょう。
日本古代史研究の未来はこの板にかかっています。
722日本@名無史さん:2007/10/21(日) 12:17:16
>>721
これコピペに採用してもよろしいでしょうか
723唐松山:2007/10/21(日) 18:50:43
ただいま 充電中
724サガミハラハラ:2007/10/23(火) 00:11:36
見ました?NHKの100年の難問はなぜとけたのか?あれに比べたら、私の美本書紀年代の算出なぞはまさに
小学生の算数でした。
725サガミハラハラ:2007/10/23(火) 00:12:46
訂正 美本書紀は日本書紀の間違いでした。
726太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/23(火) 07:39:33
サガミハラハラさん
貴殿の書の應神即位っていうのは、三様に書かれていて通常人が読めば混迷
してしまうのが大いに予想されます。こういうことはその時点で合理的明快な
解説をするべきで、それがないようなのは何が何だかさっぱり分からないと、
まぁかように思いますがねぇ?w

應神即位は紀の編者らの都合と云っておられる270年を一応使っているんで
しょうし、254年末〜255頁始めには277年とあり、さらには257頁表には356年秋
とあり、一見すると滅茶苦茶に感じますが・・・・・? 秋の付加の年のは
256頁末の説明の仮のものなんでしょうか? そうならば277年が最終的本物
なんですかな?
727日本@名無史さん:2007/10/23(火) 07:51:00
七支刀は百済王から下賜されたことで有名だけど、
倭国はいつ頃から百済の属国だったの?
そしていつ独立したの?
728サガミハラハラ:2007/10/23(火) 08:19:39
応神紀は非常に複雑であります。277年というのは日本書紀の年代(神武元年BC660年)を西暦に直したものです。
356年は私が算出した正しい即位年です。(紀では摂政元年)

その時点で合理的明快な解説をするべきのご指摘、確かにそのとおりです。複雑にして悪文であるため、読解しがたいとは自分でもおもっております。
もっと、文章をねるべきだったとおもっております。

256頁の表は考証の途中なので仮としており、古事記干支の解析により最終判断をだしており、最終判断決定は296頁の表の356年秋年T類であります。
うまく整理できておらずすみませんです。
729日本@名無史さん:2007/10/23(火) 10:28:12
>>727
七支刀は倭が馬韓沿岸部を挟み撃ちにして制圧に協力した御礼です
貴須の故国原王を倒して調子に乗ってたのでカッコイイことを書きました
730唐松山:2007/10/23(火) 17:39:48
まだ 充電中 我が 脳内電池 性能が劣化しているので,
DOS_V がやっと 起動する程度。
731唐松山:2007/10/23(火) 18:17:34
成務天皇 60年間 108歳 景行12生に 付いて考える。

ほつまでは 成務誕生 景行5年となっています
しかし 武内 景行4年生まれと 同い年 とも書いてある。

12−4=8年の差
これは 私が言う所の 閏の廻し8年と 同数
やはり この8年は 成務に 組み込むべきか?
732唐松山:2007/10/23(火) 18:59:08
そうすると
仲哀天皇 9年間 100歳 景行29生

この仲哀景行29生まれ は 支持したいが 此方が狂ってしまう ??

電池切れ 充電のやり直し。
733サガミハラハラ:2007/10/23(火) 21:06:17
成務天皇の在位は7年で景行3ないし4年のうまれです。34歳ぐらいで没です。
仲哀在位3年で26歳没です。景行天皇が即位して14年してからうまれていますから、紀は2倍年暦ですから景行28年ごろのうまれとなります。
そうすると唐松山さんの景行29生の資料はかなり正しいといえます。
734太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/23(火) 21:20:57
サガミハラハラさん
356年即位のとき、應神は通常暦式での計算で何歳だったんでしょうか?
735サガミハラハラ:2007/10/23(火) 21:37:34
数えで2歳、満で1歳未満です。
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/23(火) 21:43:22
>>735
倍暦とかを考えず紀の應神即位はストレートには270年ですが、これで
遡れば應神の立太子が203年になっています。
数え2歳で立太子は何年で何歳なんですか? 2歳以下はわかりますが?
737サガミハラハラ:2007/10/23(火) 22:27:21
太国さん、この年齢年代についての、西暦紀年代2倍年暦の相互換算については、それぞれの数字がどの暦によっているのかをおさえなければなりません。
上の数え2歳は普通年暦(通常年暦)です。立太子の203年とは、摂政3年のこととなります。
単純に摂政3年の応神の年齢は2倍年暦で5歳となります。
しかし、書紀でいう立太子とは一体どういうことなのか、はっきりしていないのです。
本来の応神紀では即天皇だったのですから、皇太子時代はないわけです。
紀の編者がここにおいた立太子はなにを意味するのかは私にはわかりません。
738太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/23(火) 22:35:21
記紀の天皇で立太子にならず即位した方も少しはいるようです。ここで應神が
立太子したという紀の記述がある以上、これを合理的に説明できなければ貴殿
の現実即位とやらの説は崩壊だと想いますよ。
739日本@名無史さん:2007/10/24(水) 08:10:05
740サガミハラハラ:2007/10/24(水) 09:40:25
合理的に説明といっても、本来応神の皇太子時代などということはなかったのだし、摂政紀を作った紀の
編者が何をかんがえていたかあてろといわれても推測でしかないでしょう。
741太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 10:26:53
>>740
ですから、かように紀に明確に應神の立太子の記事があるわけですから、
貴殿の論はそれを忘却か無視した考えにコリ固まってできたものとなって
ますから、やはり貴殿の現実即位とやらの説が間違っているということを意味
してますよ。

いいですか。應神紀には

「皇太后摂政らしたまひし三年に、立ちて皇太子となりたまひき。
 時に年三つなり。」

現実即位とおっしゃるよりも、現実立太子のほうがまだ論が通りますがね?
立太子と即位は別物ですよ。
742サガミハラハラ:2007/10/24(水) 11:41:55
それではこう考えましょう。
応神の2倍年暦での即位時の年齢は3歳です。
摂政3年の時は2倍年暦で5歳でした。
しかし応神の現実即位は356年ではあるが仲哀没のあくる年(2倍年暦)に即位した説もあったようです。(胎中天皇の名もあることから、仲哀直後にもう皇位についていたとみていた人々も
いたようです)に、即位したとみれば、355年の後半即位ですので、摂政がん年の356年後半年には3歳ということになります。
そうするとここに、応神即位3歳説がでてまいります。
それにそって解釈すると、応神の即位は3歳なのであるのであるが、

ここまで考えたがもう少し考察する必要があるのでのちほど続きをかきます。
いつになるかわかりません。
743太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 14:52:49
>>742
3才ならば、考えられるのは0才か1あるいは2才しかありません。そんなに
性急に立太子、即位が続くものでしょうか? それは皇太子での直後に天皇が
崩御なされれば手短に即位となりましょうがね? 反正天皇なんかはそういう
状況のようですが、通常はそんなことはないでしょう? ずっと後代の天皇で
はどうだか知れませんが? 記紀記述にある天皇はそんなことがあるんでしょ
うか? 考えにくいです。これはやはり貴殿の説が破綻しているとの想いに
行き着いてしまいますが・・・・・。
744日本@名無史さん:2007/10/24(水) 19:29:37
神功が摂政になった時の干支と、応神が即位した時の干支を見てみたら?
745日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:08:19
どうせ 応神記 の前に神功記 を 差し込むなら
@仁徳 誕生 神功54年の 前にすれば 皆 認めやすいのに。 中途半端なんだよね
だから 応神13年 A仁徳と髪長姫の恋 当方推定年齢 仁徳15才

この @とAを満たすには 神功摂政 実27年から28年が必要ではないでしょうか?
仁徳には 兄もいる事ですし。

それから サガミさんの説では 負けた在大和軍は 直ぐに神功に 平伏した。と成りますね
遺恨は 無いのでしょうか?

 
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 20:22:00
通常立太子がなくてとたんに即位なんてないでしょう? それは記紀記述の
天皇より後代の天皇はどうだか分かりませんが?

仁徳だってウジノワキイラツコに皇統が行くことになっていたわけで、
ワキイラツコはもう立太子をやってますからねぇ。それが彼が自殺とかなさって
いったんこの皇子が立太子を終えてしまったものだからやり直しというわけにも
行かず、おかしなものだろうからそのまま急遽即位したもので、それで仁徳は
立太子なしに即位ということになったんでしょう。允恭はどうかな?

そういう特例は少しあるわけでしょうが、ホムダワケが幼少だからといって
とたんに即位(サガミハラハラさんの語では現実即位)っていうことはまず
やらんでしょうが? もう少し年が行ってからでも即位ができますから、
立太子をやったあとでしょう?
747太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 20:35:15
いま記紀記載の天皇で立太子を経験しないで即位をした天皇を想ったが、何か
急ぐことがあったとか事変だとかそういう何らかの問題が朝廷にあってそのまま
即位をしたようだな。そうなると應神が立太子をやっているということは、仲哀
の頓死が変事ではなく何らかの病死なのか、不審にとらえていなかったという
ことを意味している。

つまり仲哀が殺害された天皇ではないことを物語っている。
748唐松山:2007/10/24(水) 22:11:21
在大和政権は「仲哀は殺害された。」
と 捉えたから 「軍を起こした。」んじゃ無いですか?
 そうなると やはり遺恨は 残りますよね。
749唐松山:2007/10/24(水) 22:18:02
遺恨を持った臣下の中に5歳の 応神天皇
よく殺されないね。
750唐松山:2007/10/24(水) 22:22:12
名前だけでなく 体も入れ替えて 代理を立てる。

これなら 遺恨も無い。
751サガミハラハラ:2007/10/24(水) 22:43:52
>>742摂政3年は応神の年齢は2倍年暦では5歳ですが、普通暦では3歳(数え)であります。
ここで単純な結論を申しますと、紀の編者はうっかり応神の年齢を普通年暦でかいてしまったということでしょうか。
752太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 22:49:09
>>751
とにかく立太子のあとが即位であって、即位のあとが立太子ということは
ないわけです。それがしはサガミハラハラさんの現実即位とかの論が誤っ
てるからだと考えますがね? 間違ってるならいろいろと他の年代の設定
もおかしい可能性が充分あります。
753サガミハラハラ:2007/10/24(水) 23:06:59
現実即位が正解であって、紀の記述がおかしいのです。紀はもともと天皇になれない神功を摂政と言う形で、
紀のなかに組み入れるという無理をしたのです。
754太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 23:11:29
そういうんなら>>751のような想像ではなく、もっと客観的に納得
出来る何かを持参して下さいよ。
755唐松山:2007/10/24(水) 23:24:53
応神が 「家のかあちゃんを 偉い人にしろ。」といいました。
756唐松山:2007/11/01(木) 18:04:38
静かだね 只今 年齢 考さ中

『四旧事紀』と『記紀』の天皇等の在位年数及び聖寿一覧表
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1527/4kujikitokikinoitiran.html

757サガミハラハラ:2007/11/02(金) 21:00:02
>>660についてお答えします。
仲哀天皇52歳壬戌年没
壬戌年は記干支2倍年暦で355年にあたる。
52歳は2倍年暦なので26才没となる。
よって生年は329年となる。
758サガミハラハラ:2007/11/02(金) 21:03:36

即位年は352年で23才であった。
759唐松山:2007/11/02(金) 21:08:32
ありがとう

では 仲哀の父 倭武の生まれは?

私は ほつまを信じ 景行2年生まれ 仲哀を生むのが景行28年から翌年(景行41年まで)
あたり 17才から18才です。
景行28年=景行40年 ではないかと思っています。
760サガミハラハラ:2007/11/02(金) 21:31:16
倭武の生年は307年頃とみられます。337年没です。父の景行が即位する前、垂仁38年(2倍年暦)に生まれています。
仲哀の生年は景行28年(2倍年暦)であったようです。倭武22歳の時です。
このあたりは、拙書「神功皇后は実在した」に詳しくかいてあります。
761サガミハラハラ:2007/11/03(土) 07:52:17
応神天皇130才甲午年没。
甲午年について、これは応神の没年と末年が錯綜している。
応神没年は壬午年(A)410年で末年は甲申年(A)411年である。
130才は2倍年暦なので、普通暦65才となる。これは日本書紀より10才ながい。
応神は355年生誕であるが、古事記では345年生まれとなる。ちなみに三国史記に346年に倭が襲ってきた(神功の新羅遠征とみる人もいる)
との記事がある。
762唐松山:2007/11/03(土) 14:16:21
仁徳の生まれ 神功54年までは 信じられる のだけれども
履中の生まれ 仁徳16年 間があきすぎている。
其の後も 年数が伸長されていなければ 親子とみられる 年数の並び
よって 応神,仁徳 治世が読めない

私は ここに 空白、または 抜け がある とふんでいます。
763唐松山:2007/11/03(土) 15:33:00
サガミさんに 質問
応神没年齢65才とすると
応神治世(神功含む)51年 との 整合性は?

倭武誕生年に続き 読み替え ですか
とりあえず サガミさんの 各天皇の治世年数を 倍暦で 診る以上 
各天皇の 誕生年を 読み替えない限り 不可能

ほぼ 同じ年数の 増しでは,読み替えをせずとも 可能です。

読み替えをしなくて良い治世年数は 太国さんに軍配 しかし 太国さんの治世は長すぎる。
治世年数だけなら サガミさんに 軍配


764太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/03(土) 17:15:47
>>763
どの天皇の時世が長すぎなんですか? 允恭天皇は長寿だったと想いますよ。
良医によく診てもらってたんでしょうから〜と考えます。ある程度治世が長い
時代があってもおかしくはないでしょう。現に昭和の世がそうではないで
すか。しかも大東亜戦争をやっててもこんなに長いんですから・・・。
765唐松山:2007/11/03(土) 18:44:49
神武元年から景行末年までで 322年
私の 推定と 100年の差

ところで 允恭天皇の 生まれは 仁徳何歳になりますか?

この辺の 治世,年齢が 納得できないので 教えてください。
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/03(土) 19:09:16
30歳ですね。治世って、仁徳世のことですか? それとも允恭世のことですか?
767唐松山:2007/11/03(土) 19:35:12
判らないのは 応神,仁徳 特に 仁徳
仁徳は, 西暦350年頃
百済では 文字による記録の初であり 暦もこの辺から信用できる とすると
日本に於いても 暦の伸長は 仁徳まで。

仁徳時代が末年19年の増しだけ 67年を実と見ると
履中、反正,允恭の生まれが 親子で丁度良い。 となるんです。 
768太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/03(土) 20:00:59
>>757
それがし、この前繼體紀の日数統計表を書きこんだでしょう。それを見て
下さいよ。雄略世末期の即位直前の繼體の行動日と百済王子の死の記事以外は
総て月前半になってますよ。これは先帝雄略の時代と繼體の時代とが暦法が
異なることを物語ってます。先帝は月後半の記述だったことからその世は
通常暦ですが(同様に百済も通常暦の記述)、繼體世は一月が月前半しかない
14日まででの2倍暦を行使していたと充分云えると思います。

だから仁徳世以前のみが倍暦ではないです。繼體から再度2倍暦をやってます。
769サガミハラハラ:2007/11/03(土) 20:49:51
>>763つまり、古事記の没年齢と日本書紀の没年齢が10年ちがうのです。
となると、記の年齢と紀の年齢のどちらが正しいのかということになります。
応神治世(神功含む51年は紀の記述ですので記の65歳とは整合しません。
770サガミハラハラ:2007/11/04(日) 09:55:35
仁徳天皇83才丁卯年没(432年)
普通年では41.5才なので390年生 応神35才の子
即位時は紀の年代によると20才。

履中天皇64才壬申年没(435年)
普通年では32才なので403年生。仁徳13才の子(紀では70才で没、普通年で3年ちがい、紀をとると仁徳16歳の子)
即位時は30才で即位。

反正天皇60才丁丑年没(437年)
普通年では30才なので407年生、仁徳17歳の子。
即位時は28歳。

允恭天皇78才甲午年没(459年)在位21年
普通年では39歳なので420年生。仁徳30才の子。
即位時17歳。

安康天皇は記載なし。

次の雄略天皇が問題である。
771太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/04(日) 10:25:11
>>767
仁徳は371年誕生、391年即位です。即位年に九州の倭兵が半島へ攻め入って
いるようですが、畿内の兵ではないようです。崩御は419年です。
391年は広開土王即位ですか?
772サガミハラハラ:2007/11/04(日) 11:06:44
雄略天皇124才己巳年没(478年)
普通年では62歳没なので416年生、允恭マイナス4才の時の子
即位時39才。
773太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/04(日) 11:38:28
雄略天皇は記と紀が各々124歳と62歳で、紀は丁度記の2倍になる関係にある。
雄略世は一見、これから2倍暦行使の時代に観えようが、允恭の探湯行事と
繼體記の崩御に近いころの記述から通常暦法をやっていたのが正解と考え
ている。つまり記紀の雄略2倍関係は通常暦に並行して、より過去の2倍暦法の
やり方も残存していて、消極的に記録等がなされていた跡形だということに
なるものである。
774太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/04(日) 22:00:46
サガミハラハラさん
祖禰が祖先だというなら、いったい天皇の祖先の誰だというんですか?
皇祖(日神)なんですか? とにかくそれで上表文の内容と合致するんで
しょうかね? 大いに疑問ですよ?
775サガミハラハラ:2007/11/04(日) 22:27:05
この場合の祖先は固有名詞をあらわすものではないでしょう。
776太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/04(日) 22:33:39
固有名詞でないとか云っても、皇祖とは日神ですよ。こっちは固有名詞
です。当然祖禰のほうも具体的人物がいないんではおかしいではありま
せんか? ざっと上表文で言ったとしてもその内容が雄略あわせて
5代分の天皇以前の誰か(←複数可)と行動結果が合致してなきゃぁ
おかしいということですよ。
777太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/05(月) 20:41:34
双喜紋っていうやつが中国にある。なにかしら二倍暦の匂いを感じる語だ。
実際はそういう意味からではないんだろうが? なにかしら二倍暦を
双喜(想起)させられる紋様だなとか思ったりした。喜寿っていうのは77歳の
祝いかね? これが日だとみて 77日×2=154日だが、二倍暦の1年たる
半年182日から 182−154=28日=4週間 の計算で当時の1ヶ月分不足の
数字が出るな。なにかあるんでないのかねぇ?
778太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/05(月) 21:27:46
数字が>777は偶然だった。書きこんだあとにスリー・セブンに気がついた。
驚いたよ。
話かわって、中国の「西遊記」の物語。『偸吃人参果』

天地と齢を同じくする? 人参果は、道教の寺、五荘観での説話である。これを
食べると凄い長寿を得られる仙果だという。観のあるじの沈現代占(鎮元大仙)
の二弟子清風と名月が三蔵に人参果を茶菓子代わりに大仙の命によって
テーブルに出したが、気味悪がった三蔵が食べるのを断ったことから弟子が手
をつけて頂くところ、これを見た猪八戒が孫悟空の耳に入れたことで人参果を
泥棒して沙悟淨とともに3つ食ってしまったのである。
だいたい長寿を得る人参果の話とは3倍暦の示唆だったのではあるまいか?
この『参』の漢字は数字の3を意味している。天皇の長寿の秘密は2倍のほかに
3倍暦が行われていたの認知により、始めて合理的紀年が判明するのでは
あるまいか? 西遊記のこの説話とは古代の3倍暦行使の秘密を物語化したもの
なのであろう?

人参樹(人3寿)には元は30個(30日の示唆?)あったのだが、大仙がすでに
2つ食べており、以後二弟子が2つ木から棒で打ち落として三蔵が食わないので
清風、名月で食べ、その後孫悟空が4つ落としてうち1つは地中に消えたがあと
の3つは三人で食べた。悟空が死なせた樹を観音菩薩の淨水で再生させ、大仙と
三蔵四人と観音、三星らと人参果会を行うために10個落とした。

30−2=28 (先ず大仙がすでに食べていた。→28日が4週間の示唆)

2+(4−1)+10=15 (彌羅宮説法で大仙不在と帰還以降→15日が半月)
779唐松山:2007/11/06(火) 18:46:06
サガミさん
履中天皇誕生以前
応神13年に 仁徳と髪長姫の恋 が在りますが 
この辺は パス ですか?

これを 本物とすると 神功時代は 在りです。
やはり 読み替え ですか。
780唐松山:2007/11/06(火) 19:08:20
仁徳天皇83才丁卯年没
そうすると ベース となる 治世年数は?
781サガミハラハラ:2007/11/06(火) 20:08:17
仁徳の治世は22年です。
書紀では87年となっており、2倍年暦なので43.5年となりますが、
仁徳紀には22年(2倍年暦では44年)の虚構年が入っていますので
実数は22年となります。
くわしくは拙書のp252から「仁徳天皇の年代と虚構年」としてのっています。
782サガミハラハラ:2007/11/06(火) 20:33:53
紀の応神13年の時の応神の年齢は42歳です。
古事記からすると、仁徳は応神35歳の時の子なので、このとき6〜7歳
となります。かりに古事記の83歳が普通年だとすれば、応神マイナス7年のうまれとなります。
783サガミハラハラ:2007/11/06(火) 22:49:58
仮に応神13年に仁徳が17歳であるとすると、仁徳の生年は神功49年で応神が25歳の時の子となる。
これだとピッタリであるが記録がない。
784唐松山:2007/11/07(水) 09:36:20
日本書紀では 「応神13年に仁徳が17歳である」 此方を支持する内容と成っていますが

そうなると 履中、反正、允恭を 生んだ年齢が かなり 狂う

虚構年(増しによる空白年)は 支持しますが 虚構年と共に倍暦は複雑過ぎませんか?
785太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/07(水) 10:33:11
サガミハラハラさんの論は、すでに神功三年のホムダワケの立太子を潰して
いるんだからもう間違っていると観ていい。この立太子の記事が紀にあるという
ことは、同氏のいう現実即位なんかが行われていないことを示している。さらに
倭の五王をいまだ天皇と勝手に考え主張してるのだからなおさら合わなくなる。

つまり、應神は通常の即位をしてたのであり、その間は神功が摂政をしていたと
いうことである。天皇不在で神功が政治を取り計らっていたということが正解
なのである。自説の應神即位は倍暦計算で25歳のときであるから、神功が崩御
まで執政を24歳のホムダワケに譲っていなくても、24歳ならば不審は見られぬ。
786唐松山:2007/11/07(水) 12:44:54
応神 現実即位は 私も無いと思います
では 神功年記 に書かれている 天皇とは?

ps 3,4日休む。
787日本@名無史さん:2007/11/07(水) 13:44:45
神功の部分と応神の部分は、葛城襲津彦の行動をチェックするだけで二重に書かれている事が判る。
788サガミハラハラ:2007/11/07(水) 17:49:37
そうです。神功紀応神紀は非常に複雑です。
789サガミハラハラ:2007/11/07(水) 23:59:08
倉西さん、わたしの本読んだかな。
790日本@名無史さん:2007/11/08(木) 00:05:48
彼女、日本書紀紀年何とかというスレの続きをつくるときっとでてきますよ。
なんといったっけあのスレ。今度はNO6になるのか。
誰か勝手につくって。
791日本@名無史さん:2007/11/08(木) 04:03:04
記紀はもう非常に曖昧模糊としたむかーしの伝承をつなぎあわせて
つくったものなもんだから、そこからあんまり計算上くっきりはっきり
した何かが見出せるってことがあるんでしょうかねえ。あったら楽しい
けど。
792日本@名無史さん:2007/11/08(木) 06:30:15
対洗脳・情報操作に対する十箇条

1. 与えられる情報を鵜呑みにするな、まずは疑え。
2. 自分の頭で考えている気になるな、殆どの場合無意識に誘導されていると思え。
3. 数字に騙されるな、数字でも悪意があれば操作する事は可能だ。統計ってやつは算出方法次第で操作できたりするんだ。
4. 過去に目を向けろ、必ず今と繋がっている。
5. 皆が一様に同じ結論、意見に達したときは、情報操作もしくは悪質な誘導、最悪洗脳されていると考えろ。
6. 事象、問題点、結果を箇条書きで抜き出せ、そして関連付けろ。
7. 耳触りの良い言葉ばかり言う奴は信用するな。そいつは下心を隠している。
8. 強硬論をまくし立てる奴は単なるパフォーマンスでやってるだけだ。バックに居る誰か、もしくは何かから目を逸らす目的があると考えろ。
9. 正論ばかり述べる奴には気をつけろ、禅問答になる。
10. やばいと感じたら直ぐに逃げろ。それと逃げ道の確保を忘れるな。
793太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/08(木) 07:02:14
サガミハラハラさんは應神あたりで自論が合わないので、こんな現実即位など
ということを考え出したんだろう? そうすると当人の説がスムーズに説明
できるから、この考えを打ち出したわけのようだ。

だが、もともと無理な論でそれが過ちであったから、どこかに別の矛盾が見え
隠れして来る。一見スムーズに説明でいたようで、その結論から別の矛盾が
生まれて来るわけだ。

ホムダの立太子の存在が彼の現実即位とやらの論が成立しない紀の記述なわけ
だ。これは彼の論説が間違いであることの文証となる。サガミハラハラさんは
この考えが間違いだと、それでもなかなか改めようとしないだろう? いったん
はまると元に立ち返るのは困難になってしまう。それほどこうだと考えて確信
してしまうと、明確な間違いだというのを見せない限り元には戻れない。

倉西さんの 卑弥呼=成務天皇 と言い出したのもこれと似たような信念の
間違いからだ。しかし拙者も過去にこういうことで大失敗したことがあるから
威張れない。だれでも1回はこんなハンドル操作をブレーキ操作を誤るものか?
だろうね?
794唐松山:2007/11/13(火) 19:11:26
787さん 良い所 ついている。

今 仁徳治世68年とし プラス19年は増しとして 無視する

そうすると 履中,反正、允恭 の 死亡年齢が(各天皇の死亡年齢から19年を引く)
現実の物と考えられる。

仁徳68年は これらの 各天皇と 重複している。
倭の五王も 視野に入ってくる。

只今 考査中
795日本@名無史さん:2007/11/13(火) 21:01:55
なにこの自演
796唐松山:2007/11/13(火) 22:34:59
旧事記の 年齢を 仁徳治世68年間とし 死亡年齢から19年を差し引いて 計算してみました。

天皇   即位  治世   生まれ年 誕生年  死亡年
神功皇后 272年 37年間 成務26年
応神天皇 309年 24年間 仲哀8年
空白
仁徳天皇 335年 68年間 神功54年 307生年 403年 335年28歳で即位
履中天皇 404年  6年間 仁徳16年 351生年 409年
反正天皇 411年  7年間 仁徳39年 374生年 415年 −−倭王讃421
允恭天皇 419年 42年間 仁徳63年 398生年 457年 −−倭王讃430
安康天皇 443年  2年間 履中1年 405生年 442年 −−倭王済443
雄略天皇 446年 23年間 允恭7年 426生年 468年 −−倭王済451
清寧天皇 470年  5年間
顕宗天皇 476年  3年間 允恭36年 455生年 476年 −−倭王済460
仁賢天皇 480年 11年間 允恭34年 453生年 487年 −−倭王武477
武烈天皇 492年  8年間
継体天皇 501年 27年間 允恭38年 457生年 520年 −−倭王武502
空白
安閑531-534
継体天皇の死亡520年 安閑天皇と約10年の差

ザンネン 自演では ありません。
797日本@名無史さん:2007/11/13(火) 23:47:53
子供しかいねーのかw
798サガミハラハラ:2007/11/14(水) 07:31:29
唐松山さん、私の日本書紀年代論ご存知ですか?
是非いちどご一読を。
799唐松山:2007/11/14(水) 19:55:10
サガミハラハラさん 残念ながら 判るのは
未だ 「暦に直せない。」代物だ という事位です。

暦に直せたら 一読させていただきます。
800サガミハラハラ:2007/11/14(水) 22:53:31
景行から雄略までの諸天皇の即位没末年がわかっていますから暦になおせるはずですよ。
801太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/14(水) 23:17:46
暦にはなおせないと思います。それをするのには、記紀等くらいでは
情報量が絶対的に不足ですよ。唐松山さんは年の空白ばかりを追って
いるわけでして月、日の空白はなおざりのようです。月と日の空白が
しっかり判明してなくては、それはもうだれでも絶望でしょう?
関係の大容量の新規の古文献でも現れない限り、とても無理な要求です。

しかし紀年のほうはこれはできるでしょう。
802サガミハラハラ:2007/11/14(水) 23:23:28
確かに記紀の月日が正確でなければ月日の暦はむりでしょうね。
紀年年代は正確に出せても、月日を暦に直せるのはすくないでしょう。
803太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/14(水) 23:29:21
まぁそうですよ。それでステラなんとかというソフト類で神武即位時
とかの正確な天体の位置を求めようとしても、記紀等くらいではとても
出来ない相談です。当時空白月、空白日が不規則にあったようなので、
駄目なようです。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・
804日本@名無史さん:2007/11/15(木) 13:32:31
月日がダメなら年もダメ
805唐松山:2007/11/15(木) 19:19:30
太国さんのように 空白月、空白日が 有ったとしても
満月の翌日が 新月にはならないのであり 其れ相応の 読み替えが必要
とりあえず 朔と書かれていても 朔に有らず。  読み替え ですね。
夏と書かれていても 冬である という主張を 通さなければ 成らない。


○○天皇50年と 書かれていても 
現実 ○○天皇12年目などと 読み替えるだけで 夏は夏,冬は冬

暦に 直せるのは,増し 
倍暦で 年数を 指定した時 記事が多ければ 読み変えねば成らない記事も増える
サガミさんの様な 複雑な 読み方をした 紀年から 書紀が作れるか? 疑問です。

806日本@名無史さん:2007/11/15(木) 19:56:58
>>804そういうこというあなた、暦のこと全然しらないですね。カレンダー以外は。
807太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/15(木) 19:58:27
季節は編者の後付けですよ。何回も云っているとおりです。

紀には蟻の大群の如く朔がありますが、女王蟻に当たる月食が紀の末期のほう
だけしか無いという不審さが大きく目立ちます。それは編者らの配下の精密
計算できる腕達者の誰かが正確に逆算したためですよ。紀の原書群に朔がそんな
にあれば、佛伝以前の箇所にも月食の観測記録もある程度書かれていて然り
です。それが佛伝以前にまるっきり無いんだから、佛伝渡来等による利器での
観測等で書きこんだのが末期ころの皇極二年の月食記事なわけですよ。

唐松山さんのやり方ではもう無駄な労力が見え見えでして、労して功無しと
なるのがもう当選確実です。
808唐松山:2007/11/15(木) 21:19:29
太国さんは 後世の 次のような 記事は何時から行われていたと考えますか?
延喜式より
凡祈年祭二月四日。大忌風神祭並四月。七月四日。月次祭六月。十二月十一日。
神嘗祭九月十一日。其子

これらの祭りが 日本書紀に書かれていたら 倍暦の基礎になりますか?
809太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/15(木) 21:22:41
さぁ〜、それは拙者には分かりませんなぁ〜?
それがどうかしましたか?
810唐松山:2007/11/15(木) 21:52:00
これらの年間行事が
倍暦で 正しい季節に行われているか? 検証の為 暦を 提示していただきたい。
又は、これらの行事が 記紀で正しい季節に 行われていなければ 倍暦の 根拠と成りますし
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/15(木) 22:18:56
その行事はいつごろのことなんですか? 反問しますよ。 それは佛伝以前の
行事なんですか? 勿論モノによってはそれより後代の行事でも理屈が成り立つ
ときもありますがね? それらがいつだか不明なれば、倍暦と関係あるかどうか
も不明でしょう? どういう由緒だかはっきりしないんでは、まだまだ持ち出す
までもないものではありませんか?


通常暦の考えでは、開化の即位は11月の冬ですよ。ところが宮名が春日宮なんで
すよ。おかしいとは思いませんか? 「冬日宮」とすべきでしょう。さらに
天皇の御名は大日日命ですよ。日が二つもあってしかも大きければ、西遊記の
火焔山のようで暑くて暑くてたまりませんよ。天皇は夏の御名ではありませ
んか。

西遊記では秋から冬へ移行してるときの季節が逆戻りしてように暑くなって
いるという火焔山通過の話なんですよ。これと説話が似てますがねぇ?w
812日本@名無史さん:2007/11/15(木) 23:19:05
春日宮ーー寒い冬に即位したので暖かい春に憧れたでいかがでしょう。
813日本@名無史さん:2007/11/16(金) 01:59:26
春日って地名なんじゃないの?
814太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/16(金) 07:32:14
>>812
ならば11月に急遽即位せず、もう3ヶ月してからでも遅くは無いがね?
たしかに急遽即位せねばならぬ事情もある場合が相当程度考えられるがね?

即位後3ヶ月すぎれば春が来るんだし、11月即位で春の宮名に自己の御名
まで太陽二つとまでこだわるのは単なる憧れにしては季節の糊塗のしすぎ
に思えるんだが? 3ヶ月でなく2ヶ月後でも1月即位となって先帝の即位
の月と並べるのに2ヶ月前に即位しているのは、何らかの事情があったん
だろうが、季節よりも1月とかの若い数字にこだわって然りだと思う。1月
ならば、まだ冬だし、先帝らはその殆どが冬に即位していることになるのに
11月即位という2ヶ月前即位を強行しているわけだ。

何らかの特殊な事情があるんだろう? 若い数字でない特異な即位は、当時の
時点まででは安寧の 7/9 即位の7月だが、先帝の立太子が 1/3 と丁度
半年のズレがある。これが2倍暦をやっていたと想われる記録であり、開化も
こういうことで、2倍暦にこだわったことが11月の即位であろうと感じられ
るのだ。
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/16(金) 07:47:19
とにかく憧れていたんなら、特段の事情のない限り3ヶ月ばかり待って、
懿徳のように2月即位をやればいいことだし、そうならば春日宮の名がピッタリ
になる。ところが記録はそうでないと云っている。年の終わりに近い師走の
手前で即位したと、通常暦ならばそういうことになる? 2倍暦ならば、冬即位
でなく、通常暦での7月ころ即位したことになり、開化の御名がピタリと合う。

開化は 11/12 即位だが、孝靈は 1/12 即位で月のほうは10ヶ月の開きが
ある。つまり半年とかではない。これは孝靈と開化の倍暦が異なっていると
考えられるものなのである。拙者は前者は3倍暦、後者は2倍暦だと観ている。
816太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/16(金) 07:51:50
訂正 >>815

× 前者は3倍暦、後者は2倍暦

○ 孝靈は3倍暦、開化は2倍暦
817日本@名無史さん:2007/11/16(金) 08:43:19
眉輪王は何歳?
818日本@名無史さん:2007/11/16(金) 09:41:51
16歳
819日本@名無史さん:2007/11/16(金) 10:10:20
2倍年暦だと思われるので8歳。
8歳では太刀をふるって天皇を暗殺するのは無理と考えられるので、天皇を暗殺したのは本当は、
雄略天皇のつかわした刺客であるとの説がある。

それから、話は変わって、即位と宮の名は関係ないでしょ。
空位が長引くのはよいことではないので、気候と関係なく即位します。
祭典はまた別です。
820太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/16(金) 10:52:05
関係ないと云ったって、当時欠史八代ころは殆どが1月即位だよ。つまり1月は
冬から春に入るころだから、それを天皇は年念頭に入れて即位月日を勘案して
即位しただろう。空位が長くって云っても、11月じゃぁ、あと1ヶ月余で1月に
なるんだから、待てばいいことだろう。それを待たないでやってるんだから、
それ相応の理由があったとは一応考えられるも、即位にてうんとではないが季節
はある程度は関係がある。宮名は季節と関係があり即位は季節と関係がないなど
というのはおかしいと思う。

それにホムダワケもいるのに一度摂政となった神功世は天皇が空位のままで
ずっといたんだから、空位が長引いても即位が後回しにしていることもやって
いるということだ。
821日本@名無史さん:2007/11/16(金) 15:01:59
旧暦の一月は冬でも一番寒い頃でしょ。
822太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/16(金) 15:18:35
どうも新暦と旧暦とこんがらかるから、ちょっとおかしいところがあるやも
しれないが承知して書きこみを読んでくれ。
そのころは極めて寒いころだが、春の初点でないの?
823日本@名無史さん:2007/11/17(土) 08:36:44
四季では普通一月は春だな。
824太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/17(土) 10:45:21
>>819
允恭、安康の時代は通常暦法でやってたようです。それ以後もそうですが、
繼體の時代から2倍暦法を行使してたと考えます。
825唐松山:2007/11/17(土) 19:58:23
春、夏は 4日に 毎年行われる行事の 実施日
秋、冬は 11日が 行事の 実施日
とは 考えられないでしょうか?

開化 即位 11月12日  なんらかの行事の翌日の即位
即位は 11月12日でも 新暦(開化元年は 1ヶ月半後)は 翌年1月1日
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/17(土) 21:00:10
どうしてそう考えられるんですか? 理由がないんじゃぁ〜〜??
827唐松山:2007/11/17(土) 21:46:21
神嘗祭九月十一日は
仏教ですか?
828太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/17(土) 22:38:34
唐松山さん
もう日数のすし詰め逆算は効果がないと思いますから、年数を重点として
紀年を考えたとうがいいですよ。日数論は補助的にやったほうがいいでしょう。
829日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:21:55
>>822
欠八代辺りの即位の年や月は、新暦に変わった明治時代以降に付けた年代だから新暦の1月に即位って事でいいんだよ
神武即位の紀元前660年ってのも、新暦以降に付けた年代だし

830太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/18(日) 07:29:30
>>829
そんなことはないだろう。ホツマでやってる唐松山さんとかがおられるが、殆ど
の方は紀の記述が主体であり、わらわも紀に基づいてやってるんだから紀の
原書からそれを採用した舎人親王らの記載に拠っているわけで、明治に為され
たものではないだろう。あんまりデタラメを云うな。
831日本@名無史さん:2007/11/18(日) 10:53:17
>>829
このスレは馬鹿はいっぱいいるがお前は無知だな
832日本@名無史さん:2007/11/18(日) 11:07:53
>>704
この場合の倭人は壬那の倭人じゃないの?
833太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/18(日) 20:43:12
これから年賀状を書く季節となる。まぁ「平成20年元旦」と印刷してあるのも
多いんではあるまいか? 自筆で書き入れる場合もあるわけであるが・・・。

いま過去となった昭和□□年を当時葉書等に「正和□□年」と書いたり、現在の
平成□□年を「兵成□□年」などと書いたらどうなるか? 誤記の一言で済ます
人らもあられようが、印刷に「 」のようになっていれば誤記となって販売など
出来ないだろう? そういうことをする奴は誤記とか外人は別として精神異常者
等と考えて然るべきである。

七支刀の銘文の「泰□四年」が「太和四年」になりうるのか、これを熟考するに
刻んだ奴は大失態だということになろう? およそそんなに年号という時間の
始点となるべくものをそうやすやすと誤記する、あるいは漢字を交換するで
あろうか? そのことは大いなる疑惑、疑問に行き着くのだ。

石上神宮のこの刀が紀の七支刀だと安易に肯定して論を展開される方々が多い
ようだが、疑惑はますます深まるばかりである。
834太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/18(日) 21:09:09
>>833
外人と行っても漢字使用でない国の人達のことだ。古代中国と現中国、半島等は
これまた別だ。そこは漢字を使ってるからな。w
835ローガン:2007/11/18(日) 23:29:41
太国さんこんばんは。七支刀の件ですが
作刀は百済ですか?日本ですか?それとも中国ですか?
又、何世紀の作でしょう?教えてください!
836日本@名無史さん:2007/11/19(月) 15:51:46
妙な話だな。外国人とかの喩えは少しおかしいぞ。
現代の半島では一般人は感じに対する能力なんぞ殆どないし、昔ならなおのこと。
現代中国だって字体の変化から古い漢文を読む能力は日本人と大差ない。
結局は国がどうかではなく知識の問題であってそれ以外の意味はない。
>七支刀の銘文の「泰□四年」が「太和四年」になりうるのか、これを熟考するに
>刻んだ奴は大失態だということになろう?
普通はありえない話だな。泰と太が現時点での日本語でタイであってるぐらいの理由しかない。
粗悪中国製品の日本語説明でもない限り、そんな間違いはしないだろうし、もらった方もありがたがらないだろそんな刀
837太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/19(月) 16:20:45
>>835
百済王の銘文からやはり百済で造られたんではないでしょうか?
泰始四年なら倍暦計算で安康元年のこととなりますから、安康天皇への貢ぎか
当時九州の倭の五王の近隣の王へもたらされた剣ということになります。それが
畿内へ流入したということでしょう? これは畿内の雄略の稲荷山鉄剣が遠く
かけ離れた関東から出土してるわけですし、同名ある江田船山鉄刀も遠方の九州
出土の物ですから、刀剣は可動性が大いにある品物ということで、発見地点に
こだわらんほうが賢明だと考えます。
それに268年にも西晋の泰始四年もありますから、まだまだ確定は困難です。

>>836
あんたの言い分はわからんでもない。どうやら百済王の名があるから、それを
刻んだ奴は読めなきゃおかしいだろう? 一般論だよ。それは例外はある。だい
たい下っ端の人民は漢字の素養がないと思うから読めんだろうし?

そのありえないということは、結局通説の太和四年が間違い濃厚ということだ。
838唐松山:2007/11/22(木) 18:28:21
任那の倭人なら
295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止

水上戦闘 不要。
839唐松山:2007/11/23(金) 18:59:58
七支刀は 鍛造か鋳造か
もし 鋳造なら 石炭が必要,鋳造は中国 銘は百済。

稲荷山鉄剣 応神か仁徳あたり
特に 仁徳55年から60年に掛けての記事にある エミシの反乱の後
白鳥稜での 法事? 
ワカタケルは 倭武の子供。
840太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/23(金) 19:49:03
他の掲示板で七支刀の話を書きこんだら。泰□四年の □ は、X線の精密検査
でもさらにやったんだろうが、なんでも漢字がノギヘン 禾 と確認されて
るということで、拙者の安康元年説は崩れ去った模様なので撤回したい。

現在では年号の文字取替えは考えにくいだろうが、当時は 泰 と 太 の
取替えが行われていたとのことであり、拙者の論は成立しなくなった。
迷惑をお詫びしたい。

最後に云えることは、旨王とか候王とかの漢字からだが、神功世には天皇は
いないことから、倍歴の論は肯定可能である。
841太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/23(金) 22:58:35
>>839
ワカタケルは倭武よりずっと後代ですよ。それじゃぁ滅茶苦茶になっちゃいます。
842日本@名無史さん:2007/11/24(土) 00:26:51
暦や年号は例えば日本国内でも伊勢歴や出雲歴のように、必ずしも統一した元号を使ってたって前提にする必要は無いよ

紀記は大和統一朝廷が書いた書物と位置付けたとした場合、それ以前は統一朝廷なんて日本には無かったんだと思うよ

すぐにこれは中国の年号だとか中国のものだとかって考えるのもおかしいと思うよ
当時、中国なんて国は無かった訳だから「当時は中国へ貢いで始めて国と認められ、、」とかってのも違うと思うよ
中国の歴史書と言われる史記ってのも、あれ全部倭人が書いた書物の可能性もあるんだよ
その時代の司馬氏ったら倭人の氏族な訳だし
843太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/24(土) 06:50:11
倍暦の関わる佛伝以前は朝廷にはまず元号の使用はなかったろうから、このスレ
では詮索は必要ないはずだ。
殆どの奴は古代中国って云ったって、古代の魏とか呉、漢とかの意味の代用で
使ってるんだろうから、あまりこだわることはないだろう。
844太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/24(土) 06:56:27
それは確かに七支刀には元号が書かれているが、それは大陸半島関係のもの
だから、日本の統一朝廷とかとは無関係だと思うがね?
845日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:08:42
なんで太国は他人の説を批判するときは比較的にまともな事言うのに
自説については滅茶苦茶になるんだろう。不思議だw
846唐松山:2007/11/25(日) 13:30:52
書紀の 辛亥年
応神22年
仁徳38年
五十五年 蝦夷叛之 遣田道令撃 則爲蝦夷所敗
六十年冬十月 差白鳥陵守等充役丁
本当は この辺に 合わせたい。
847唐松山:2007/11/25(日) 13:54:50
古事記で
仁徳 崩御 己未 とすると
9年前が 辛亥年

書紀に戻って
六十七年冬十月庚辰朔甲申 幸河内石津原 以定陵地 ○丁酉 始築陵
が 本当の 死亡ととると 9年前は、仁徳58年。
848唐松山:2007/11/25(日) 15:05:19
太国さん
大彦から 稲荷山鉄剣銘 辛亥まで 7代 何年が必要ですか?
私の計算で 開化元年から仁徳元年まで 154年
こんな物じゃないんですか?
849太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 18:09:40
大彦の誕生年は不明ですからはっきり細かい数字は出せませんが、孝元天皇の
皇子ということで開化天皇の誕生年から代用でおおむねの数字は出ます。

拙者の倍暦でやりましたところ・・・  その前に、書きこみでは開化の即位年
からやってるようですから、即位年からにしますか・・・。そうしますと

開化即位 207年

雄略元年 471年(←辛亥:倍暦)

から、  471−207=264年  です。さらに倍暦計上で

仁徳元年 391年

の場合  391−207=184年  となります。30年差ですね。w
850日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:41:33
サッサとスレたため。ザビビに調子こいて、いつもの調子で書いたら、あっという間に論破されたね!あ〜可哀想!
851日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:07:11
>>太国
2倍暦だと以前16氏が言ってた天皇の年齢差の鏡面性が説明できないよ
852太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 21:09:21
考古は専門でないからね。そっちのほうまで知識は及んでいないよ。
そうしないと専門外での関係事で実力はつかないぜ。負けるのは面白くないだ
ろうが、誤は早く認めるほうがいい。

それに朝吉さんが知らぬ古代史の古神道事はこちらの天下だから・・・。彼は
それは知らんだろうしね?

あっちへ行くのは、さらに倍暦の論を振りまいて反応を見たいわけだし、まだ
まだ誤はあるかも知れんから、それも知りうることもありうる。おじけないこと
だよ。風邪はどうにもならんがね。

お前はそういう結城はあるかな? よく他も見てるな?
今日も今の今まで古神道の秘の研讃に終始していた。TVの聖徳太子の番組を
見ながらな・・・。
853太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 21:10:50
>852は>>850のこと。

>>851
どんなことだ?
854日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:24:41
>>853
各天皇の没年齢の差を数字に出していくと、ある区間が左右対称の数字に
なっているらしい
855太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 21:29:18
>>854
まだ具体的じゃぁないね? それがしの年表かいままでの書きこみで何か
左右対称になるというのかね? ならばどういうところ?
それともそういう意味ではないのかね? そうでないなら、どんな数字のこと
なんだろう?
856日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:43:45
>>855
数字は日本書紀にある各天皇の没年齢の差を順にならべたものです
このスレの16氏ではなく、初期の研究家スレにいた16氏が
言ってたことで、保存したと思ってたけど見つからない・・・・
857太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 21:49:44
>>856
だいぶおっしゃっておられることが分かって来ました。そうしますと対称と
なるんだから、その中心となってる天皇はどなたですかね? そこから左右
(前後)の計算をしてみますよ。
それとも忘れてしまいましたか? どのへんだか、おおむねでもいいですよ。
858日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:55:21
>忘れてしまいましたか
あい。。。。。普通に考えて怪しげな年齢の天皇あたりかとw
859太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 22:16:54
>>858
古事記じゃないそうだが、日本書紀の没年齢を明日でも調べてみるわ。
860日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:34:20
>>859
電卓使ってみたけどそれらしいところがない・・
過去ログ見たほうが早いかも
861太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 22:47:21
今ちょっと書いてあるのを見つけたので、ここに出してみると

神武 127歳
綏靖  84歳
安寧  67歳
懿徳  77歳
孝昭 114歳
孝安 137歳
孝靈 128歳
孝元 116歳
開化 111歳
崇神 119歳
垂仁 139歳
景行 143歳
成務 107歳
仲哀  92歳
應神 111歳
仁徳 143歳
862太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 23:24:15
これを見ると、孝昭からは三代の2桁年齢が3桁に増えている。やはり懿徳と
孝昭で暦法の変更があるからではあるまいかとの自説は合っているような気が〜
さらに増加した。
863太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 23:34:00
同様に、成務から仲哀、應神(あるいは神功100歳)への以降で、仲哀のみは
ちょっとの感じだが2桁である。このことから、成務と仲哀の時代で暦法の
変動があったように想える。仲哀から次代で3桁復活だから、また変わったの
であろう? これも自説どおりである。必ずしも桁の変動ではっきり
するものでもないが〜? なんとなくだ・・・。
864太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/25(日) 23:41:46
まぁ仲哀の場合は頓死だからねぇ。ここは考えすぎか・・・?

ZZZZZZZZZZZZZZZ.....................
865日本@名無史さん:2007/11/26(月) 01:49:53
将軍様のとこに分かり易く書いてあるよ
http://www.geocities.jp/kodaishi2006/
866太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 07:26:58
あの人のとこは字が小さいんで、年をとっている人間には読みにくいのさ。

もう少しあけて大きい字で書かれてあると読みやすいんだが、目が疲れて
しまう。あの人はこのごろ来ないね? 
867日本@名無史さん:2007/11/26(月) 13:55:34
相当都合が悪いのかな
868太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 14:55:30
別に都合が悪くないよ。悪いのはそれがしの視力だよ。
それとも倍暦不成立の根拠があれにあるのかね?
869太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 15:01:28
>>867
ははぁ〜、征東大将軍さんのことかね? なにか論文とか出版とかでITが
なおざりの状況なんじゃないの?
870唐松山:2007/11/26(月) 19:06:47
開化から雄略まで 264年
7代で計算すると 264/7=38年位
1代あたり38年は長すぎでは無いでしょうか。
仁徳で見ると
開化から仁徳まで 184年
7で割って 26年位  まだ 少し長いような気がするが
此方のほうが まだ 説明できる。
871唐松山:2007/11/26(月) 19:25:01
日本に 漢字の入って来た時期
応神年代
十六年春二月 王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁
廿八年秋九月 高麗王遣使朝貢 因以上表 其表曰 高麗王ヘ日本國也 時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使 以表状無禮 則破其表
応神16年には 菟道稚郎子が 漢字を習っている。
同28年には 高麗の 手紙を読んで 破り捨てる 天皇の代理か?

当然 手紙には 年月日は 付き物

そして なぜ 天皇の位に就かなかったのか?

872太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 20:31:29
>>870
開化から仁徳まで7代として、開化から雄略までなら7代を超えるでしょう?
それとも倭武の息子が幼武だとまだ言い張るのですか? それはないでしょう?
873太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 20:35:26
>>871
吉野ヶ里から紀元前1世紀の有文字鏡が出ていますし、57年の金印の文字で、
当時漢字は日本に流入しています。
874日本@名無史さん:2007/11/26(月) 20:49:07
>>873
だからと言って倭人が漢字を使いこなしたわけではない
875太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 21:03:12
>>874
金印の効用を考えてみろ。それは部下の任免に使うんだから、官僚の任用の
たびに印を押してその文字が各部下に伝達して行くんだよ。

当時紙がなかったなら、うすい竹片だとかなにか、代用用紙的の物が
あったろう。それに金印が押されるということだ。すると、お前を任命するとか
いう漢字を書かねばなるまいて。印だけでハイチャするほど国王の印は粗末な
ブツではなかろうが。それとも絵画の隅に押す専用の金印か〜?w

金印の使用(押印)があるということは、付随的必然的に他の漢字を使わざ
るを得なくなるわけなんだよ。だからお前の主張は却下されるのだ。
店に入って食事をすれば、金を払うという必然がついて回るんだよ。お前は
払わないで出て行くわけがなかろう? 無銭飲食詐欺は例外の結末だろうがね?
しっかりしてくれよ。ww
876太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 21:08:44
>>874
お前の印鑑は押すだけか? 証書とかの文面に押すんだろうが?
それとも使用しないで持っているペーパー・ドライバー免許証のように
家に置いとくだけか? そうじゃないだろう? 使うはずだ。

当時は紙もなくえらく不便だったろうが、代用の紙でない何かに金印を
押して任命証としていたはずだ。ならば文字も押印とともに書いてるよ。
お前のは禁飲か〜?ww
877唐松山:2007/11/26(月) 21:14:08
辛亥年七月中記乎獲居臣@上祖名意冨比[土危]A其児多加利足尼 B其児名弖巳加利獲居 
C其児名多加披次獲居 D其児名多沙鬼獲居 E其児名半弖比 F其児名加差披余
G其児名乎獲居臣
稲荷山鉄剣銘の 書かれた時期は 雄略でよろしいのか? と問うているのです。
878太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 21:19:38
>>877
書かれた時期は通常書いてある年月日になるのは当たり前ですが、そうでない
場合もあります。何らかの理由でズレることもありましょうから、現実はどっち
だったか判明はしないですが、そんなに長い年月のズレはまずないでしょう。
予定の日付どおりでない、予定変更がありうるわけです。
辛亥年は倍歴計上で雄略元年(471年)となったということです。
879唐松山:2007/11/26(月) 21:48:04
辛亥年なら 60年に1度必ず在りますよ。

「他人様が雄略だと言うから雄略です。」ならそれでも 私は一向に構いませんが。
880太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 22:11:24
だって銘文は雄略名でしょう? そうなると雄略元年は固いと想うのは合理的
だと想えますが? 倍歴論説が間違いならば致し方ありませんがね?
881日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:13:34
『道具を使えるからと言って、その道具を作れるわけではない。』

漢字入りのTシャツを着た外人が全て漢字を書けるとでも思っているのか?
直感だけがたよりの単細胞だな(あえて言うまでもないが)(爆)
882太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 23:04:33
その外人も数年たてばもう読めるクラスに進むよ。お前の言ってるのは金印を
貰ったその時点での説明だよ。朝廷の中で読める奴が遅くても十年で充分だよ。
それは日本に来た外人は最初はお前の云うとおりだろう。数年も経てばそろそろ
漢字も覚えて来る。金印の数文字なんてそんなにかかるまい。

「その漢字はなんという意味だ?」と外国語でたずねてくれば、お前も教えて
やるだろう? 教えんのか??ww それでもう覚えるよ。
だから漢字は57年から数十年で少数は読めている。
お前の言ってるのは堅物的不実用な論理。笑わせるな。ww
金印は任免の実用品。
883太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/26(月) 23:22:02
現今、パソコンを熱帯ジャングルの蛮族に使えと譲渡したって、お前の言う
とおり使えっこない。だから現時点で使わせるために酋長に譲渡するなどと
いうのは正気の沙汰ではないから、パソコン自体を見せた文明人はいようが、
与えるなどというのは考えにくい。

しかし、金印は日本人たる国王の漢字が入ってるんだから、それは使えると
見込んで当時の中国側が日本人の王に派遣者を通して与えたものだ。これは
実用品だからな。本来の目的で使用できるから、大陸からもらえたわけ。

ということは、漢字を使って金印を紙の代用物に押印して擬似書類を造っ
たことになるから、必然的に証明の内容の漢字はそこに書かれる結果となる。

単細胞っていうのは俺の言うセリフなわけだ。ww
884日本@名無史さん:2007/11/26(月) 23:55:41
記紀は伝説的英雄王ワカタケルをモデルに雄略を創作したのがミエミエ
885日本@名無史さん:2007/11/27(火) 00:14:55
>>883
だからそれがお前の妄想だというのがわかっていない。
1世紀当時倭人が漢字を使っていたならその証拠を提示してくれ
青銅器、土器、木簡、竹簡、埴輪、亀甲、鹿骨
いくらでも同時代の遺物は産出している。その中に日本で書かれた文字を提示してくれ、
文献から具体的な根拠が示せないのでは歴史では無いな。せめて考古学的資料から
それを証明しないと単なる妄想だぞ。

 どうせ性も無い言い訳カキコしてくるんだろうけど
886ローガン:2007/11/27(火) 00:45:45
どうも太国さんは金印を誤解している様に思います
887太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 08:05:23
金は青銅より壊滅を免れにくいから、残ったわけ。土や木じゃぁ壊滅しやすい。
それも国王押印の物ではそんなにうんと多発、発行はしないから、残存は
困難さ。紀の原書も出てない。お前も紀を多少なりとも信じてるんだろう?
原書を提示しなくては全部紀を信じないという信念でいれば、これはこれで
見解の相違だが、当時紙はなかったろうが、用法を考えれば必然のこと。
お前も印鑑を持ってるだろうが、お前も証書に使ったのは必然。お前が紙に
押しただけでそこまでだと言ったってこっちも信じはしない。とことん
お前は印鑑を使ってるよ。
888太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 10:43:34
だいたいそんな青銅器とか木簡等が出てきたのなら、なおさらおかしいとさらに
疑惑を持たれお前のしたよう論に因縁を付けて来られるのが関の山だ。倭人伝の
記述にもあるように、殆どの日本人は文字の使用が出来なかったわけだよ。そこ
でお前みたいのは 殆ど→全部 にしちゃう頭の容量だからおかしなことに
なるわけだ。
もし吉野ヶ里の紀元前1世紀の有文字鏡とこの金印が表沙汰にならなかっらら
お前は日本に当時漢字はなかったと結論して、信念で思いこむだろうな。
だからこういう物が出ると、今度は使用したことにはならないと頑張るわけだ。

有漢字鏡の漢字は本来の鏡の使用に対して直接必要のものでないから、これは
お前のいう言い分は立派に通る。これはまだ使用したということにはいささか
遠い。ではあるが、金印の使用目的は押印だから、紙はなかったろうが、その
粗雑な代用の物があって、それに印を押していたということは必然的に考え
るのが合理的である。お前はそこで印だけは押したが、その紙の代用物に漢字
まで書いたということにはならんと土俵際で頑張るんだろうが、一歩それを
認めても、押印は一種の印刷であるから、これで無字で有印のブツを造って
それを官吏とかに渡した時点で、もう漢字が使用したことになる。
現近で白紙に印だけでおしまいにするというのは、試し押しとか見本とかのとき
くらいなものだろう? だから現代は紙があるが、その紙に押印をしたのならば
絵画とかでない限りその紙に文字が書かれていることは必然的成り行きなわけ
である。金印があるということは、当時王廷のごく少数の人が読めたという
ことさ。あとの殆ど大勢は読めなかったろう。
889日本@名無史さん:2007/11/27(火) 11:23:13
飛鳥・奈良・平安以降の漢字使用を匂わせる発掘物は無数にあるけど
古墳時代のはないからな
890太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 14:22:02
墨か朱肉とか、ハンコはつけばもう使用さ。
891ローガン:2007/11/27(火) 14:52:19
この場合の金印は現在のハンコとは違います。
「中国」と「周辺の王」が文書や、下賜品、献上品などを取り交わす際、それを収めた箱を紐で縛り、結び目の粘土に「印」を押すのです。
冊を封じる印を下賜するので、この関係を冊封体制と言います。
892太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 14:55:50
封印なら漢字が押した箇所に写るんでしょう?
893太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 15:06:04
この前、中国の「西遊記」のビデオ(←日本の制作のでない)を見てたら、
これは時代が唐代のであるが、三蔵法嗣が西の国王自ら通行手形に国璽か王璽を
押印していたシーンがあったのを記憶している。
あんなようなことでなかったのかなぁ? 確かにそういう封印でやったのは信用
できるところ、現代でも封印っていうのはあるし・・・。
894太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 15:07:53
訂正
× 三蔵法嗣が    ○ 三蔵法師と向かい、
895唐松山:2007/11/27(火) 19:52:47
上祖名意冨比[土危]・・・・・・・・・上祖名はオオヒコ    ( 165年生まれ )
其児多加利足尼・・・・・・・・・・・・・其の児多かりたるに  ( 185年  武渟川別の兄弟?)
其児名弖巳加利獲居・・・・・・・・・其の児名はテミカリのわこ ( 205年  磐鹿六雁命の兄弟?)           
土器編年が稲荷山鉄剣銘文の辛亥年471年説(文献的仮説)を前提として加味された上で行われているわけであり、
(大彦=孝元天皇5年生まれ=西暦165年生まれ)(崇神10年=167年)(神功元年=273年)
(大彦より20年で繋いで見ました。応神以降の年代は 私の計算がまだ確定していませんので
書き込んでありませんが 倭武の子 ワカタケル が55年ほど生きれば 乎獲居臣と同じ空気を吸った
可能性は大であり 雄略と同じ空気を吸った可能性は,皆無に等しい。)
()内が 私の書き込み その他は ?さんの考え方。
896唐松山:2007/11/27(火) 19:54:46
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・・・辛亥年七月中コワコの臣記す
上祖名意冨比[土危]・・・・・・・・・上祖名はオオヒコ    ( 165年生まれ )
其児多加利足尼・・・・・・・・・・・・・其の児多かりたるに  ( 185年  武渟川別の兄弟?)
其児名弖巳加利獲居・・・・・・・・・其の児名はテミカリのわこ ( 205年  磐鹿六雁命の兄弟?)           
其児名多加披次獲居・・・・・・・・・其の児名はタカヒジのわこ ( 225年   235年倭武 252年稚武 高橋神社)
其児名多沙鬼獲居・・・・・・・・・・・其の児名はタサキのわこ ( 245年 )
其児名半弖比・・・・・・・・・・・・・・・其の児名はハテヒ  ( 265年  肥前 熊襲)
其児名加差披余・・・・・・・・・・・・・其の児名はカサヒヨ  ( 285年  風早国 )
其児名乎獲居臣・・・・・・・・・・・・・其の児名はコワコの臣 ( 305年生まれ  365年=60年生きれば)
世々為杖刀人首奉事・・・・・・・・・世々杖刀人の首(おびと)として奉事を為す
来至今獲加多支鹵大王寺・・・・・今に至りてワカタキロ大王の寺に来る
在斯鬼宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磯城(斯鬼)の宮にあり
時吾左治天下令・・・・・・・・・・・・・吾天下に(号)令し治むるを左(た
す)く時
作此百練利刀・・・・・・・・・・・・・・・此の百練の利刀を作る
記吾奉根原也・・・・・・・・・・・・・・・吾(系譜と事跡の)根原を奉りて
記す也
(大彦=孝元天皇5年生まれ=西暦165年生まれ)
(崇神10年=167年)
(神功元年=273年)
(大彦より20年で繋いで見ました。応神以降の年代は 私の計算がまだ確定していませんので
書き込んでありませんが 倭武の子 ワカタケル が55年ほど生きれば 乎獲居臣と同じ空気を吸った
可能性は大であり 雄略と同じ空気を吸った可能性は,皆無に等しい。)

()内が 私の書き込み その他は ?さんの考え方。
897唐松山:2007/11/27(火) 19:58:27
訂正
×=(崇神10年=167年)
○=(崇神10年=197年)
898太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 20:00:19
どこから倭武の息子が幼武としたのですか? さっきの無コテさんが拙者の論
を妄想と云ってましたが、唐松山さん。云いたくないが、これは妄想に当選確実
ですよ・・・。
899太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 20:04:18
ははぁ〜 倭武というのは五王の一人のことですか?
日本武尊のことかと思いましたが?
900唐松山:2007/11/27(火) 20:34:28
倭武=日本武尊
世代間を20年で繋ぐのが 妄想で
世代間を38年で繋ぐのが 現実 と おっしゃるのなら 

太国さんの 編年には 誤りが有る と言う以外 何者でも有りません。
 
901日本@名無史さん:2007/11/27(火) 20:40:06
>>623
ああ、俺もだったよ!
きのう「エバラ焼肉のタレの美味しさは異常」っていうスレを立てようとしたけど、立てられなかった。
誰かスレ立てできる人がいたら、立ててくれ〜。><

焼肉板だと、素材信者とタレ信者で荒れるんだよね。
個人的にはタレ重視派だけど、タレか素材かはペンディングした上で、黄金の味について語りたいんだよね。
そう意味では、薬味板で取り上げる意義があると思うんだ。
焼肉につけるタレとしてではなく、薬味の美味しさとしても、エバラ焼肉のタレは秀逸だよな。

>>625
それだったら、俺は五杯はいける。
902唐松山:2007/11/27(火) 20:40:57
ホ40130      ヤマトタケ ミコナをかえて
ホ40131      うちをさむ アメのホマレや
ホ40132      ヤマトタケ イマスのマゴの
ホ40133      タンヤがメ フタヂイリヒメ
ホ40134      うむミコは イナヨリワケの
ホ40135      タケヒコと タリナカヒコの
ホ40136      カシギネと ヌノヲシヒメと
ホ40137      ワカタケぞ
903日本@名無史さん:2007/11/27(火) 20:45:43
中国で最初の成文法を作ったのは、言うまでも無く子産だがそれを同時代の
孔子が厳しく非難している。それは、民衆が法を知るとそれを悪用する奴が必ず
出てくるからと言う理由だ。ある意味漢字は支配者達の暗号だったのだ。
 100年前の中国ですら4.2億の人口に対して識字者は30万人しか居なかった。
 外国人が簡単に漢字をマスター出来ると考えるのは大きな間違いだ。
ましてや、アルタイ語系の日本語は中国語全く文法が違う
904太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 21:07:54
簡単にマスターできない。これは同意。王名くらいは読めたろう?
そうしないと部下は何だか知らんで封印を切って何だろうと目に近づけて
しまう奴が出るかも知れない。そうなると死罪だからな。必死に少し大事な
字だけ覚えると思う。自分の首がかかっているからな・・・。

唐松山さん
日本武尊は景行世の人、幼武尊はもっと後代の当人の支配する雄略世の人。
それじゃぁ、妄想に当選です。
905唐松山:2007/11/27(火) 21:11:02
903さんのおっしゃる事はもっともで

では いつの時代 どの階層まで 漢字が使えたか です。

三韓に 軍を出していた神功以後 相手方より手紙が届く
この手紙を 畿内まで持ち帰って 検討では 遅すぎる。
現地の 上層部は 手紙が読めなくては 責任が果たせないわけで
少なくとも 応神あたりからは 其れ相応の 対処が出来たのではないか。
906唐松山:2007/11/27(火) 21:25:41
902 に書いた物は 景行の子 ヤマトタケ=倭武=日本武尊
其の子に ワカタケ=稚武 漢字はわかりませんが
ここにも ワカタケルに 対応する 名前が在ります。

世代間38年を通しますか?
編年を 見直しますか?
日本武尊の子供にしますか?
それとも 他に探しますか?

選択肢は この位でしょう。
907太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 21:41:05
ああそうですかね? けっこう精読してますねぇ。拙者の不勉強を認めますが、
判別容易に願いたい。系譜の詳細は拙者のテリトリーではありませんので、
紛れは註をよろしく願いたい。それでは妄想の語は撤去します。失礼。
908太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/27(火) 21:46:54
その「稚武」を読んで想い起こしましたが、その人物が箸墓古墳の埋葬者
じゃないのかと睨んでいるんですが? 卑弥呼の墓ではないね。
909日本@名無史さん:2007/11/27(火) 22:04:30
>>905
>では いつの時代 どの階層まで 漢字が使えたか です。

三角縁神獣鏡には日本人らしいミス(目的語が動詞の前にくる)があるものがあるので、
ひょっとしてこの鋳型の文字は倭人が書いたものかもしれません。
910日本@名無しさん:2007/11/27(火) 22:37:17
少なくとも「当時漢字が使えた人」については太国さんの意見に賛成だ。

公印の使い方というのは概ね太国さんが言ったようなことだし、そもそも外交をやるのなら
相手の言葉を理解するものがいないとできたものではない。勿論、読み書きもできないとダメだ。
そもそも、読み書きもできぬ無学な輩とどうして「外交」ができるんだ。
ポっとやって来られてもどこの馬の骨かもわからんではないか。
王(女王)本人は別として、外交するのなら文書を読み書きできるだけの専属スタッフは必要だ。
これは今も変わらないだろう。
だから、当時漢字の読み書きができる人間が倭にいたと考えないのは、むしろ不自然だ。

倭人伝を読んでも難升米など何人か遣使の名が出てくるが、こういった人たちのことだろうと思う。
また伝には倭の社会事情もかなり詳しく書かれているが、支那の官吏が倭の言葉を駆使して自ら
聞き取ったとは考え辛い。上記のような人物から話(あるいは筆談)をして情報を得ていたのだろう。

まぁ流石に、後のお寺さんのような教育機関はなかったろうが、邪馬台国以前から(少なくとも
九州では)交流があったのだし、家業レベルでは漢文の読み書きをする人々がいたと思う。
識字率や青銅器その他に書き込んだ云々ということは、この場合、あまり考えなくていいと思う。
911日本@名無史さん:2007/11/27(火) 23:02:09
魏志倭人伝では倭国の地理志が割りと詳しい。この時代は字を書ける人が居た
可能性が高いと思う。しかし、委奴国王や倭面土国王時代の倭国の記載されている
ものが一切なくて魏志その他にも書かれていないので倭国の情報は殆ど漢に無かったと思われる。
その時代の倭国は情報化の遅れた地域だったのでは・・・・
やはり文字を有さなかったのではないか?
912日本@名無しさん:2007/11/28(水) 00:47:53
>>911
そもそも中原の勢力や文化が周辺地域に本格的に進出するのは三国時代からでして、
それ以前の支那…日本では委奴国王あたりの弥生時代になりますか、西域や北域は
ともかく、倭を含む東域の情報は殆ど持っていなかったと思いますよ。

使節を送れた以上、倭の識字人口が絶無とは言いませんが、
現実、弥生時代の遺物で漢字が記されたものは無きに等しいのですから
漢字という情報伝達手段が倭に普及していたとは思えません。

そういう意味では「文字を有さなかった」という認識は正しいと思います。
913911:2007/11/28(水) 02:26:28
倭人伝は倭の過去については曖昧

乱=桓霊の間、大ざっぱな年代。

『世々王有るも・・・』系図に拘る中国人が何故か王の名を記していない。

これらから倭人が記録をとっていなかった事が判る。
倭人自体が正確な事実を忘れてしまっていたのだ。
914太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 07:59:10
>>911 >>912
普及していない。これは同意。本格使用はまだ無かったと思っていい。本格的
なら土器、木簡、竹簡に漢字のある出土等が少しでもあらねばおかしい。金印
くらいだけでは一般に漢字が広まってはいないのは確かだろう。倭人伝にも
人民が文字が無い読めない旨書かれてあるから、一般的には分からんかったと
いうことだ。

それはいいとして、金印に『漢』字のあるものであれが、国家の中枢でごく少数
が最低限の使用を片言位かもう少しか初級かその上くらいで使わねば金印の
必然的使用はできっこない。封印にも未知で何だろうとあれこれ動かせば、
これは死罪とかになるから、少しの漢字は知ってたよ。「これは国王の名前
だからおろそかにするとお咎めが来るから注意しておけ。」とかそのへん
だろう? シャンポリオンも王名からヒエログリフを解読している。

有漢字の金印が出てるということは、まるっきりインカ帝国と同様の状態では
なさそうだということになる。印鑑帝国だとまではいいすぎだろうが?w
915日本@名無史さん:2007/11/28(水) 16:33:07
>>903
日本語とアルタイ語の関係は不明瞭とされている。
比較言語学では、日本語系の家族は
日本本土語と琉球語の二つしかない。
916唐松山:2007/11/28(水) 19:41:49
古事記には 応神没年より 干支がある
古事記は 物の部氏 が 記録した物である
物の部氏は 神功時代より 三韓に兵を出していた
 上記のように 考えると
古事記の干支は 百済の干支であり この時代から 物の部氏等 軍部の
上層部は 漢字の 読み書きが出来た。

このように 考えています 如何でしょう。

当然百済でも 暦の増しは 行われており 日本の暦とは違った 年に増しが行われる
それが 書紀と古事記では 年数が比例しない原因である。

9179.11:2007/11/28(水) 20:36:34
大国さんに言いたい事は少しニアンスが違う
文字の有る無しを気にしているのは、倭人が当時の事件を記録していたかどうか、
と言うことに注視してもらいたい。

例えは、卑弥呼が共立された年は重要な歴史的事件だが、倭人伝からその年を知る事が出来ない。
これは、倭人がその年を忘れてしまったためで、記録していなかったためである。

つまり、書紀からは資料の無い2世紀以前の歴史(年代記)を知る事は不可能という事です。
918唐松山:2007/11/28(水) 20:43:53
卑弥呼が共立された のは 九州であり
畿内の 歴史ではないので 書紀の 預かり知らぬ所である

2世紀以前の歴史 が判らないのは 書紀等を読む時の 設定位置がずれている為である。
919太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 20:59:11
>>917
なんんだか結論が早いね。たとえば紀の神功39年はみかけは239年だが、
倍暦計算で崇神即位3年となり、この崇神3年が239年の景初3年よ。

すると紀は崇神以前に天皇がおり、その立太子、即位、崩御、葬儀年が紀に
残っていることから、237年が崇神即位元年だから、236年以前の歴史がいつ
だったか計算できる。そして57年は綏の時代の末期ころだと判明するから
2世紀以前のことも特定できうる。
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 21:02:44
>>917
なんんだか結論が早いね。たとえば紀の神功39年はみかけは239年だが、
倍暦計算で崇神即位3年となり、この崇神3年が239年の景初3年よ。

すると紀は崇神以前に天皇がおり、その立太子、即位、崩御、葬儀年が紀に
残っていることから、237年が崇神即位元年だから、236年以前の歴史がいつ
だったか計算できる。そして57年は綏の時代の末期ころだと判明するから
2世紀以前のことも特定できうる。
921太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 21:04:01
失礼 2回入ってしまった。誤操作です。
922フェラーリ911:2007/11/28(水) 21:09:39
そう来ると思いました。有難うございます。
俺は、邪馬台国が北九州にあった場合、伊都からの距離が書かれていないのは、不自然すぎると考えますが・・・
このスレの趣旨と違う議論なのでここでは述べません。

つまり、邪馬台国大和説を支持して、尚且つ書紀のデータも信用できるよりどころの有る
ものだとすれば、神武即位は邪馬台国以降に設定しなければ、ならないという事です。
923フェラーリ911:2007/11/28(水) 21:18:39
追伸
邪馬台国九州説を支持する場合は、
2世紀以前の歴史を記した資料が、
漢と交流が無かった大和に有ったと考えるのはやはり、矛盾を生じます。
九州説でもやはり神武即位は邪馬台国以降になると思います。
924太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 21:19:18
北九州に女王国は所在しにくいです。というのは、そこにあるなら、
大陸に名がとどろくくらいだから、畿内に女王国の情報が逐一入り
やすくなります。ならばその内容、卑弥呼のなりふり等が記紀に載って
しかりです。さっきの神功39年の記事等は編者の伝からの採用ですから
これは独立した朝廷固有の記事ではなく、別物です。そういう独立的の
記事は記紀にないでしょう?
ただ北九州でも遣使の道から相当外れている地域ならば、北九州に
女王国があった可能性はあります。

卑弥呼の神功39年は崇神3年の239年であり。同即位年が237年で景初
元年ですし。卑弥呼の死は崇神11年の247年相当です。記の没年干支の
崇神崩御年は1年ズレていますが、かなり正確だったということです。
925フェラーリ911:2007/11/28(水) 21:20:16
>>923
訂正 漢× 魏○
926太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 21:21:04
卑弥呼は開化、崇神あたりの時代の女ですよ。神武のが古いですよ。
927唐松山:2007/11/28(水) 21:28:14
神武即位を邪馬台国以降にすると 世継ぎが出来ない
そうなると 書紀は,メチャクチャな書物となり 使い物にならない。

崇神6年を 西暦193年とし
景行12年を 西暦247年で読んでみてください。

邪馬台国=大和は 卑弥呼の(頼りとする景行の)都であります。
伊都からの距離が書かれていないのは、不自然 では有りません。

九州の 歴史書は大乱の中で 焼失又は畿内の関心の無いモノであり 消滅
百済の歴史書が 後世に伝えられなかったのと 同一。
928太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 21:34:39
女王国が畿内にあるんなら、朝廷と近隣だから、記紀に先述のとおり卑弥呼と
朝廷の交流が記紀に載るはずです。だから唐松山さん、女王国は畿内には
ありませんよ。九州ですよ。
さらに卑弥呼が神武以前の女なら、紀の年代がスシ詰めになって窮屈この上
ない論となりますからおかしいわけで、911さん卑弥呼は神武以後の人ですよ。
929唐松山:2007/11/28(水) 21:42:37
卑弥呼の墓=箸墓 なんぞとんでもない話で
この時代の 基準となる古墳は 垂仁稜 と お考え下さい。
930フェラーリ911:2007/11/28(水) 21:47:23
>>928
寿司詰になるのは、神武〜成務までの13代連続の親子相続と言う不自然な系図
を信じるからですよ。
931太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 22:02:25
皇統は16数を重要視します。従って16代までは厳格性はが高く、兄弟のヨコへ
の皇位の委譲はありません。
932唐松山:2007/11/28(水) 22:02:38
考昭天皇は,懿徳天皇の弟です。
それ以外は 親子

神武〜成務までの13代を どのように 並べたら 
卑弥呼の後に神武と なるのですか?
933フェラーリ911:2007/11/28(水) 22:15:41
並列であった歴史を直列に繋いだ痕跡は書紀にみてとれます。

1.何故、七代孝霊の娘モモソが10代崇神の同世代として活躍するのか?
2.何故、古事記で12代景行の息子に討たれた出雲振根が、書紀では10代崇神の時代に討たれた事になっているのか?
3.何故、書紀で全国各地に親征をした景行が、古事記では全く活躍しないのか?
4.何故、武内宿禰は300年も生きる事が出来たのか?

書紀には、時、時間に関する矛盾や古事記とのくい違いが多数あります。
934唐松山:2007/11/28(水) 22:24:36
ある程度 疑問に お答え
1、モモソ姫の記事は 崇神11年秋に行われた 箸墓での法事 のいきさつを語った物が 誤って伝えられた。
2、 出雲振根が討たれたのは 崇神時代 景行時代の記事は 使いまわし
3、別の書物ですから 全く同じことが 書かれていなくても よいのでは?
4、判りません
935フェラ一り911:2007/11/28(水) 22:39:18
ある程度 ヒント

1.7代と8代、9代と10代はそれぞれ同世代
2.10代と12代は同世代
3.両方を信用するなら12代は四道将軍、死後天皇に格上げ
4.12〜16代は3世代程度の時間
936日本@名無史さん:2007/11/28(水) 22:49:31
1、モモソが孝霊天皇の没年近くに生まれたとすれば、9代の時に二十歳ぐらいで、10代の崇神天皇のころには
 4、50歳ですか。まあ、あうんじゃないですか?
2、出雲振根事件は崇神の代の事件です。それが古事記ではヤマトタケルに置き換えられています。これは民間伝承でしょう。
3、古事記は民間伝承を中心としているようです。景行の活躍は伝承としてのこるほど面白くなかったのでしょう。
4、この年齢は2倍年暦でかかれ、さらに虚構年がはいっています。
 普通年では105歳ぐらいでしょう。(虚構年は仁徳代で40年、成務代に60年はいっています。)
937フェラ一り911:2007/11/28(水) 22:51:32
>>936さんはサガミさんですか?
938太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 22:51:52
稲荷山鉄剣の雄略から大彦の系譜が代数から紀の記述との合理性がみられま
すから、兄弟にしたり代数をへらしたり、創作にしたりは、いずれも失敗しま
すよ。確かに記紀の間の記述に断層はありますが、皇統まで記紀はいい加減
ではありません。
939フェラ一り911:2007/11/28(水) 22:58:59
稲荷山鉄剣は、いい資料です。

あのような系図を、記紀の編集者は単純に親子相続だと思って縦に繋いだのでしょう。
あの系図は単に主の順番が書いてあるだけです。
940太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/28(水) 23:01:03
兄弟相続は17代からですよ。それまでは父子相続のタテの線しかありません。
他はすべて誤りです。
941サガミハラハラ:2007/11/28(水) 23:03:51
>>937あれーっ、わかりました?
942フェラ一り911:2007/11/28(水) 23:07:54
サガミさん3番は、無いですよ。
日本史上あれ程活躍した天皇はいないじゃないですか、書紀に拠れば・・・
943フェラ一り911:2007/11/28(水) 23:46:20
>>931
「16代まで親子相続せよ」と神武が遺言したのか?
944太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 07:24:06
それが古神道。信じなくてもいいですがね。

皇統を欠落して論を決めこめば、記紀を間違いとすることになるが、それは
君のほうがどこか間違ってるからだよ。記紀を間違いとするより、君のほう
を間違いとしないでチャチャーッと決めこんじゃうのは失敗の論の上に乗っか
っているということさ。

>>930
>不自然な系図を信じるから

これは「ご自身」の論が間違ってるから   と、取り替えるのが身のため。
論としたスシ詰めのほうが不自然、間違いだと知るべき。
945フェラ一り911:2007/11/29(木) 07:43:29
だ・か・ら
根拠を書かないと
単なる妄想だよ
946太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 07:43:36
仲哀崩御して、まだ應神が生まれたばかりだから神功が摂政をやってるわけ
で、ここでも應神の生長を待つわけで、乳幼児だから他の兄弟従兄弟とか
に皇統を継がせよということをやっていないだろう。そういう考えはまだまだ
神功の時代になってもなかったということだよ。

16代の前に神武が兄弟相続にしろとかいう遺言があるのかい? 反問したい。
947太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 07:48:55
不自然だだけじゃ根拠になるまいがね?w 
君もそうではないかね? それは君の論説に間違いがあるからなんだよ。
あれかい? 安本さんのを信じているのかな? あれは間違いだよ。
おそらく卑弥呼をアマテラスに合わせんがための無理な逆算で、強引に
神武以前に卑弥呼を位置させたからこんなスシ詰めになったわけ。
だから間違ってるよ。卑弥呼は九州の人においてまでは安本さんの説
は合ってるな。
948太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 08:00:54
冷静に考えたほうがいいよ。卑弥呼がアマテラスというのはとびつきたく
なる考え方で、そうしたくなるのは分からんわけでもないが、そこでおや?
そうではないんではないかというブレーキをかけたほうがいいよ。双方は
別人だよ。それを似てるからということでイコールにしちゃう考えにある程度
の人達は行ってしまうが、時代が違うから、等号は成立しないんだよ。
これは邪馬壹国を邪馬台国として、ヤマト国だとしたくなるのと似通っていて、
それもかなりの人らがこれにひっかかるんだよ。
949日本@名無史さん:2007/11/29(木) 08:49:03
次はこのスレッドを使ってね

【太安万侶】古事記【稗田阿礼】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1196166752/
950太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 15:28:18
だから、そういう 卑弥呼=アマテラス の考えを過信して、やってることが
スシ詰めだとウスウスおかしいことに気付いて来るわけだが、このときスシ詰め
が変だとの考えを自論の間違いだとせずに他のせいにしたくなるものなのさ。

他のせいとは自説ではなく紀説(日本書紀の記述)が間違いだとして
しまう。そうするとスシ詰めがゆったりになるので、これが正解だとなおも想い
こんでしまう。それが16代の父子継承を、兄弟継承があったのを紀が誤魔化した
とか、本当は即位してなかった天皇と呼ばれる人がいただろうと代数を削って、
あぁこれだと合うから紀の(編者ら)のイカサマで、不自然なのがそのためだと
してしまう。そこまでエスカレートして紀の不信の増幅にまで発展してしまう。

途中合わなかったのは、ご自身の考えた論の中に間違いがあったからだと、
覚醒すべきことだよ。
951フェラ一り911:2007/11/29(木) 20:37:56
>>946>>950・・・・・・シツコイ

根拠を述べよ
952太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 20:49:36
根拠はかんたんよ。記紀の19代までの記述に兄弟継承したなどというのは
ないはずだし、旧事紀も同様だろう。それに古史古伝もそこんところは
兄弟継承などしてはいない。

例の香川事件だが、うちの知り合いにもいたよ。近隣?の某人が怪しいとな。
あいつが犯人じゃぁないか? と想ったりした。犯人が逮捕されてその誤解
が分かったと誤認を思い知った。怪しいからとか不自然とかだけではこれも
根拠にならない。
953太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 20:50:27
訂正
× 19代     ○ 16代
954日本@名無史さん:2007/11/29(木) 21:06:37
>>951
根拠はあっても他人を説得できない説があると言うことを学びなさい
955フェラ一り911:2007/11/29(木) 21:13:59
>>952
意味が良く判らんのだが、
世界の歴史の16代連続で親子相続した王族なんているのだろうか?
956太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 21:18:33
>>955
それはどうだか知らんが、天皇っていうのは国王、皇帝より格が上だよ、
いっしょくたにはできないな。だから国王にないから、天皇もあっては
ならないというもんでもないだろう。まぁ大陸も、昔は一時期天皇号を使っ
たらしいがね・・・。
957フェラ一り911:2007/11/29(木) 21:31:11
天皇家系図  やっぱり初期16代だけ不自然だ

http://homepage2.nifty.com/gojireomogu/rekishi/tennou/01.htm
958日本@名無史さん:2007/11/29(木) 21:49:23
ここはフトクニの身内スレか?w
959太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 21:51:58
兄弟継承を16代以前で隠匿する利害的にはないだろうが? 利害あるんだったら
17代18代19代とかの兄弟継承だって書かないだろうが? だから考えすぎだよ。

それにもっと隠したほうがいい暴虐の雄略、武烈のこととか、不倫、殺害とか
うんと記紀に書かれてるよ。そんな継承のところだけ兄弟継承を父子にしたとか
する必要はあまりないだろうが?
960フェラ一り911:2007/11/29(木) 22:05:55
>>959
単純な親子相続になった理由は>>939で述べた
つまり資料不足
961太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 22:32:49
紀の原書群は多かったでしょう。「一書に曰く・・・・・」とかの書きこみ
はそれを物語っています。もし兄弟継承なら例外の文献もこのように書きこむで
しょうが。資料は多かったと思いますよ。
962日本@名無史さん:2007/11/29(木) 22:33:48
くっせー911はさっさと古事記のスレに帰れよ
963フェラ一り911:2007/11/29(木) 22:42:40
「書紀の編集者は資料不足だが、太国ちゃんは思慮不足」と言うのが我が家の家訓
だが、>>933の問いにはどう答えのだろう?

>>962 サガミの仮の姿?
964太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 22:51:43
だからそれは大方が倍暦で解決するだろう。
武内宿禰が300年というのは倍暦行使の年代を通常年の計算の思いこみのためよ。
5代と神功に仕えており、実際は111歳だよ。紀の記述でこの人が最長寿は
確かだろう。仁徳紀には「国の長人」とある。
倍暦ならモモソヒメもそれで崇神世まで届くんでないの? 他も準ずるな。
景行が不活躍って云ったって、稗田阿礼も忘れることもあるだろう?
そんなところだ。
965フェラ一り911:2007/11/29(木) 23:07:51
資料が豊富にあったらそんな何百年も年を勘違いもしくは操作することはないと思うけどな、
111歳! 国の指導者が100歳を超える例なんて聞いたことない
日本史上最も活躍した天皇の業績を全部忘れるなんて阿礼はアレイないほどアホ、資料も読んだこと無い

ここは一応学問板なので合理的な思考をした方が良いのでは?
太国さんは、芸術系の方ですか?
966太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 23:21:21
半島の長寿王だって確か90歳位だよ。ラメシスU世は92歳。卑弥呼も70,80歳
とかの長寿。現近でも少しはいるから、日本史の有名人で一人二人いたって
おかしくはない。ただ武内が300歳とかは現近でも無いようで、生物学的に考え
にくい。倍暦なら5代と神功に仕えた年数で、仁徳紀の文から可能である。
だいたい朝廷は全国から山海の珍味等うまいものが朝貢されるから、長寿は
当然考えられ、おかしくはない。
967太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/29(木) 23:39:20
これは唐松山さんが関連過去スレへ書きこんだもの。

北史巻一 魏本紀第一
「四十二年 遣子文帝如魏、・・・・・神元尋崩、凡饗國五十八年、年一百四□
 道武即位、尊為始祖」

 治世58年 年104歳
968日本@名無史さん:2007/11/30(金) 21:30:55
現代ですら、100万に一人も110歳まで生きられないのにぷぷぷp
100歳以上の人口はこの50年間で20倍以上も増えたそうです。
969太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/30(金) 22:15:53
成務天皇と武内宿禰は同年同日に生まれてますし、仁徳50年に雁の卵の件で
仁徳天皇から武内大臣に歌を送られてるところ、大臣も返し歌をしてますから、
少なくも誕生時の景行初期から仁徳末期までは生存しております。
武内大臣の名は世襲ではないことは、仁徳がその歌で「国の長人」(国で
最長寿の人)と云っていることから分かります。
仁徳50年時、大臣は109歳で没年の2年前の計算になりますから、5代と神功
に仕えた状況から100余歳は紀の長人の記述に矛盾はありません。現今でも
国の長人級は100歳を超えて少人数存在します。さらに当時朝廷には全国から
山海の珍味がわんさと届けられるから、一般よりうまいものが沢山胃袋に
入ってますから栄養満点で、超長寿が一人二人いてもおかしくはありません。
970フェラーリ911:2007/11/30(金) 22:53:49
可能性は、全くの0ではないかも知れないが、1000万に一つしか外れの無い
ロシアンルーレットに命を預けるガッツが太国さんにあるのか?
余程自信があるなら、書物にして出発してみたら?
971太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/30(金) 22:57:12
じゃぁ、いくつだったというんだね? 300歳か〜?
972太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/30(金) 23:03:31
それ以上短縮が効くのは4倍暦を採用せねばならないぜ。
日本は四季がハッキリしてて判別のための春夏秋冬の4字もあるんだから、
神武以前は分からんが、4倍暦はやってないと思うがね?
973太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/30(金) 23:24:28
昨今、意見が多くなってるようなのが、崇神崩御が258年説なんだよ。他に
318年説もあるがね。拙者は紀のみで倍暦編年をやったわけだが、前者のと1年
しか違わない259年を求めたのさ。すると拙者のでは崇神即位は237年となる。
これは景初元年だ。258年説だと同即位は236年のはずで、237年はその論者は
景初2年を主張してることになる。この説は考古学の結果から考察して合理性が
高いからその論者らはこれを確信し採用したと思うが、とにかく1年しか違わ
ない。
つまり、相当正確だと、彼らの論との対比で双方が合致性が高いと思えるし、
これは記紀の記述が正確であるんだということと考える。
倍暦計上で

 成務誕生=武内宿禰誕生=299年
 仁徳50年=407年

から、407−(299−1)=109歳

それも「国の長人」(国の年齢の長)と仁徳が説明してるから、合理性は
あると想える。
974太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/30(金) 23:32:51
>>973 訂正

× 237年はその論者は景初2年を主張してることとなる

○ 237年はその論者は崇神2年を主張しているもようである
975日本@名無史さん:2007/12/01(土) 03:18:31
武内宿禰の年齢は三倍歴でしたよね
実年齢100歳以上なら長寿といえますな
元ネタは漢書に載ってるあの人だけど誰が考えたのかな?
976太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 07:32:23
>>970
現近でも数字は

 100以上の長寿者>天皇の数=1

であり、左辺のほうは複数は間違いありませんから、君の言い分は分からん
わけでもないが、天皇のほうが数字が低いから、その理由で云うんならもっと
少ないはずの天皇がいるはずがないということとなる。つまり天皇がいたのは
もっと考えられないということとなる。天皇は各時代で(南北朝以外)1人しか
いないという伝えだからね。

>>975
ナニかのネタを使っての創作をすると、舎人親王は死罪だぜ。当時での
公文書偽造となるから。
977唐松山:2007/12/01(土) 18:37:04
開化天皇六〇年(癸未前九八)十月乙卯(三)》冬十月癸丑朔乙卯
崇神天皇元年(甲申前九七)正月甲午 この辺りに 太歳 の書き込みなし=開化と崇神は暦が一緒である事の証拠である。

神功皇后 三十九年.是年也,太歲巳未  が西暦239年己未   年の干支は合っている。
神功三十九年 魏志云:明帝景出三年六月 4. 景初(237年-240年)
神功四十年.魏志云:正始元年 5. 正始(240年-249年)西暦240年庚申  年の干支は合っている。

つまり 神功40年に魏志云:正始元年 を持ってきたのは 「年の干支が合っている」及び「女王である」
この2点 で 時代錯誤を 起こしたと思われます。

よって 太国さんの 説は 何を基準として 西暦273年癸巳 が崇神天皇2年甲午 に成るのか?

B12西暦=CHOOSE(MOD((B12+66),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((B12+68),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
978唐松山:2007/12/01(土) 18:42:19
訂正
×=西暦273年癸巳
○=西暦237年丁巳
979唐松山:2007/12/01(土) 18:55:47
また 訂正
×=崇神天皇2年甲午
○=崇神天皇2年乙酉

崇神天皇元年甲申=>崇神天皇2年乙酉

西暦237年丁巳が崇神天皇2年乙酉  

太国さんの 我が2倍暦計算 以外に 証拠が欲しい。
980太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 19:59:41
>>977 >>978
何を基準〜〜これは 宣化元年=536年 ですよ。そこから倍暦での逆算です。

それがしの説では 崇神天皇2年=238年 ですよ。

>>979
正確であるという証拠までは至ってはいないです。そこまで揃えば凄いけどね。

こうではあるまいかということですよ。昨今は>>973の 崇神崩御=258年 説
に肯定的意見が2ちゃんの日本史板とかでけっこう出回っているところを
鑑みると、考古学的考察と見比べてこれがかなり合理的だとして、そういう説を
支持している方がいささか多くなって来ているんではないかと思えますが?
拙者の説と1年違いですから、拙者と彼らと相当いい線を行っているんでは
ないかともかように想うわけですが・・・・・。
981唐松山:2007/12/01(土) 20:40:42
愚問失礼しました。

ところで 稲荷山鉄剣銘は そのままですか?

私は このような ?を なるべく少なくなる読み方を 目指しているのですが
そうすると 後世に綺麗に繋ぐのに 苦労しています。
982太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 21:00:33
その日本武尊の子供が銘文のワカタキロだということは寝耳に水のことでしたの
で、まだこうだとかまでには至っておりません。天皇でないワカタキロが大王
だということは、通常は否定されましょうが、この者の場合は可能性がありえ
ます。箸墓っていう所は大きさはそれほどまで至らないくてもまだ古墳が
近隣にあるんでしょうか? そうならば箸墓古墳の埋葬者がワカタキロとの
考えはありえるやもしれません? 紀最大の謎がそこにあります。
983太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 21:04:59
辛亥年は、倍暦にて以下のとおりです。

291年 垂仁崩御の前年
351年 仲哀崩御の前年
984唐松山:2007/12/01(土) 21:35:00
神功を 例に出したとうり
干支は 現在の 皇暦で使われている 干支が使われていた。
増し暦 なら 説明できます。

本来の箸墓は モモソ姫ですが 現在の箸墓と磯城が繋がれば
有りうる。
985唐松山:2007/12/01(土) 21:41:42
そう言えば 箸でホトを突いて 死亡した姫は
モモソ姫が初めてではない。
記事の使いまわしか? 堕胎の失敗ととれば 何人いても不思議ではないが。
986太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 21:45:09
なんだか征東大将軍さんが、モモソヒメの墓は、箸墓でも別の箸墓だとか
云ってたと想いましたが、なるとそのころ(景行、成務)あたりに該当
する別の人物の墓だとの可能性があるということです。
モモソヒメの身分では箸墓古墳はでかすぎないですか? 天皇級の大きさなんで
しょう? 問題はそのへんのところです。うまく云えば唐松山さんは核心を
ついているかも知れません。以前稲荷山鉄剣のことで雄略だ、いや別人だで
論争しましたが、前回の安康元年とした七支刀同様、それがしの鉄剣雄略論は
これも失脚の可能性が出て参りました。いや、負いりましたとなりますか?

もう驚きですよ。そういうワカタケルが倭武から現れるなんて・・・・・。
987太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 21:48:25
あとは銘文の代数に倍暦で合理性があるかですな?? 次の問題はそれです。

極太さん、次スレの用意をどうぞ。
988日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:10:11
いらん
989日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:18:29
極太は古事記スレの奴だから向こうでやれば問題ない
既に誘導されてるし
990日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:19:27
1000
991日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:21:03
1000
992日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:23:14
992
993太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 22:39:23
>>989
倍暦は日本書紀が重要なんだ。古事記も大事なところもあるが、古事記スレ
では紀が補欠になる。だからあそこじゃ物足りんわけ。
>>988
いらんなら見なければいいことだ。
994日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:44:12
1000!
995日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:48:17
2000
996日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:57:02
1000
997日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:58:35
1000
998日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:59:31
1000
999太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/01(土) 23:00:18
神州不滅!
1000日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:00:37
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