1 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :
※九州王朝はあったか?※の復活です。
九州王朝を肯定する人も否定する人も、立場の違いを超えて、思う存分語りましょう。
九州王朝に関心がある人は、おおいに語りましょう。
九州王朝に関心のない人や、九州王朝に関りの無い主張は、書き込まないでね。
2 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/20(月) 02:32:32
※九州王朝はなかったか?※ 11
が途切れていたので復活しました。
3 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/20(月) 22:57:29
とにかく崇神の世の前後ころですよ。卑弥呼は九州王朝の始祖的人物でしょう。
帥升等は九州の小王で王朝まで至らない王朝の準備的時代の人物です。
丁度戦国時代の天下統一に至らないころの武将的地位に近いかと思います。
それで倍暦計算で 崇神即位元年=237年=景初元年 と観ます。
4 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 23:46:34
どなたか九州王朝なるものの概略と根拠を書いていただけませんか?
古田武彦説なら学問的に論破されてますよ
5 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 00:05:27
九州共和国はこれからできる
6 :
ゆうき:2007/08/21(火) 05:57:00
九州山口ね。
7 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/21(火) 07:02:33
>>4 論破はされてないでしょう。そうならば古田先生が撤回してるよ。
それでもそうだと強く言うなら、
君もその論破なるもののの概略と根拠を書いていただけませんか?
8 :
倭奴国:2007/08/21(火) 07:37:45
9 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/21(火) 09:23:31
>>4みたいな奴はだいたい女王国畿内説論舎であろうし、九州王朝論が肯定的に
なって来ると自分の畿内説が崩壊の危機になるのでなんとしても否定したく、
最後まで畿内説にしがみついていたいのが本当のところであろう。w だが結局
は矛盾の孕み放題で、しがみついても真にはならない。
また畿内説は同様にしがみつく臥海が頑張るものの、あとは全体的に論破され
て次第に下火に向かう。その反動として九州王朝説が揺るぎないものになって
来る。
10 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 22:20:37
結局古田説か
話を簡単にするため6世紀以降に限定しよう
古田説が成り立つためには
1.文献(書紀、隋書、新旧唐書)の否定ないし読み替え
2.考古学的成果(畿内、九州の双方)の軽視
こうならざるを得ないと思うのは偏見でしょうか?
あと何ひとつとして積極的な証拠を提出できてないのはねえ
>>9 人が書いてない事をよく書けるねえ
脊髄反射か?
11 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/21(火) 22:35:58
>>10 これの前スレに証拠根拠とか書かれてるよ。お前読んでないのか?
そこをよく読め。大陸と半島と同様に日本も二つくらい国があってもおかしく
はない。それにウガヤ朝もあったという。
半島南部の遺物が4世紀に北九州系から大和系に変わるのはどう説明しますか?
13 :
ゆうき:2007/08/22(水) 00:09:10
九
14 :
ゆうき:2007/08/22(水) 00:13:23
九州王朝だ.山口県は違う.下関は入るらしい。
15 :
ゆうき:2007/08/22(水) 00:14:07
それでか
16 :
ゆうき:2007/08/22(水) 00:16:15
ごめんなさい
間違えました
<(_ _)>
17 :
ゆうき:2007/08/22(水) 00:25:09
五世紀です。じゃないとおかしい。
18 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 07:23:35
>>12 小川の流れの如く日本版シルクロードは下図の状態で当時朝貢をやっています。
大陸 半島
↑
↓
対馬等
↑
↓
北九州←−−−−−−−−−→畿内
・
・
・
奥九州
中九州以南は小川の流れ中のの停滞地域で、交流があまりありません。貴殿の
言う4世紀でもこんな感じで半島と畿内は朝貢がスムーズだったでしょう。
九州王朝は大和朝廷ほど勢力は少なく、交流も朝廷ほどではなかったという
ことです。4世紀に王仁の千字文も伝来してる位ですから(倍暦計算で381年)、
大和朝廷と半島の結びつきは奥九州より強かたっと思います。4世紀になれば
朝廷の勢力が拡張されて2世紀までの欠史八代のころの朝廷の勢力より強力
ですから、貴殿の言う変わるのは当然言えるでしょう。九州王朝は細火の状態
で文武世まで苦し紛れに継続したということです。
19 :
ゆうき:2007/08/22(水) 11:15:12
爪井
20 :
ゆうき:2007/08/22(水) 11:17:29
九州大和朝廷
21 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 11:59:53
>>4 【九州王朝経】九州王朝の一切の真理が込められた有難いお経を毎朝10回唱えるべし。
山島附庸渡平海北 さんと〜、ふ〜よ〜、と〜へ〜かいほく
金印鉄剣光背銘文 きんいん、てっけん、こ〜はい、め〜ぶん
法興偽僣考二中歴 ほ〜こ〜、ぎ〜せんこ〜、に〜ちゅ〜れき
白鳳以来朱雀以前 はくほ〜い〜らい、す〜じゃくい〜ぜん
長門以東筑紫以西 ながと〜い〜と〜、つくし〜い〜さい
阿蘇水沼磐井甕依 あ〜そ〜、み〜ぬま、い〜わい、みかよ(り)
薩夜麻多利思北孤 さ〜ち〜や〜ま〜、たりし〜ひ〜こ
王妻後宮侍奉大嘗 お〜さい、こ〜きゅ〜、じ〜ほ〜だいじょ〜
磯城斯鬼都府楼敷 し〜き〜し〜き〜、と〜ふ〜ろ〜しき
文献捏造根拠無用 ぶんけんねつぞ〜、こんきょ〜む〜よう
妄想妄想自慰妄想 も〜そ〜も〜そ〜、じ〜い〜も〜そ〜
一元史観七世繁栄 いちげんし〜かん、ななせ(いき)〜はんえ〜
九州王朝九州王朝 きゅ〜しゅ〜お〜ちょ〜、きゅ〜しゅ〜お〜ちょ〜
南無 (ゴ〜〜〜ン) なあむ〜〜〜〜〜
22 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 15:37:00
>7
>論破はされてないでしょう。そうならば古田先生が撤回してるよ。
ネタですか?
往生際の悪さは最近の寛政原本騒動でも
よくわかるところでしょうに。
23 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 20:12:36
往生際が悪いだと・・・? ふ〜ん、じゃぁ論破されないという事だよ、それは。
お前は自語相違ということになるがね。ww
>>18 >4世紀に王仁の千字文も伝来してる位ですから
千字文って4世紀にできてたっけ?
25 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 20:20:59
>>24 当時は倍暦をやっていたんですよ。だから皇紀945年での285年というのは
みかけであり、実際は381年だということです。
>>25 もっと後世だったんじゃないかということなんだけど・・・
27 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 21:21:49
千字文伝来は應神世の皇紀945年ですから西紀285年ですが、みかけではそう
でしょうけれどももっと後代の381年が倍暦計上で求められます。
それより後代だというと、どういうことですか?
28 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 21:30:54
千字文も別の千字文があったことは否めません。
七支刀も石上神宮のものと紀の神功五十二年のとは別の可能性が相当あり
ます。石上のは倍暦計上で安康元年(468年)の結果のものでしょう。
29 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 23:10:53
>>25 また倍暦ですか
他のスレでもボロだしまくってるのに
書紀の年紀との対照表でも見せてくれませんか?
脊髄反射起こさないでね
30 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 23:17:44
>>29 前に2回も年表を作って書きこんだよ。全部書きこむのに疲労を考えてやると
1週間〜10日ばかりかかる。疲れてたまったもんじゃないよ。
過去スレを読め。「邪馬台国は大和朝廷になったのか Part21」
>411〜>499(訂正>485)
ここに断続的に書きこんだ。
31 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 23:20:20
32 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/22(水) 23:46:32
>>29 お前ボロとか言ってるが、具体性がないではないか? 勝手に糊塗するなよ。
33 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 23:51:54
古田武彦氏も「邪馬台国はなかった」の頃はなかなか良かった
この問題提起は専門家からも注目された
転機になったのは稲荷山鉄剣銘文の解釈から
大勢の雄略に結びつける解釈に対し各地に大王がいたとの立場をとった
このこと自体は仮説を立てただけであり何の問題もない
しかしこれを論証しようとしようとするあまり袋小路に入ってしまった気がする
偽書騒ぎは知名度のある氏が利用された気がする
古文書の専門家ではないのだから
>>30 さっそくのレスありがとうございます
残念ですがプラウザがIEなもんで
じゃあどうする?寝るところだが?
簡略に書くか?なら明日以降だが。ボロと言うなよ。
35 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 05:43:53
36 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/26(日) 17:33:50
>>21 >【九州王朝経】九州王朝の一切の真理が込められた有難いお経を毎朝10回唱えるべし。
>山島附庸渡平海北 さんと〜、ふ〜よ〜、と〜へ〜かいほく
>金印鉄剣光背銘文 きんいん、てっけん、こ〜はい、め〜ぶん
>法興偽僣考二中歴 ほ〜こ〜、ぎ〜せんこ〜、に〜ちゅ〜れき
>白鳳以来朱雀以前 はくほ〜い〜らい、す〜じゃくい〜ぜん
>長門以東筑紫以西 ながと〜い〜と〜、つくし〜い〜さい
>阿蘇水沼磐井甕依 あ〜そ〜、み〜ぬま、い〜わい、みかよ(り)
>薩夜麻多利思北孤 さ〜ち〜や〜ま〜、たりし〜ひ〜こ
>王妻後宮侍奉大嘗 お〜さい、こ〜きゅ〜、じ〜ほ〜だいじょ〜
>磯城斯鬼都府楼敷 し〜き〜し〜き〜、と〜ふ〜ろ〜しき
>文献捏造根拠無用 ぶんけんねつぞ〜、こんきょ〜む〜よう
>妄想妄想自慰妄想 も〜そ〜も〜そ〜、じ〜い〜も〜そ〜
>一元史観七世繁栄 いちげんし〜かん、ななせ(いき)〜はんえ〜
>九州王朝九州王朝 きゅ〜しゅ〜お〜ちょ〜、きゅ〜しゅ〜お〜ちょ〜
> 南無
興味深く楽しいお経ですね。
37 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/30(木) 00:17:54
38 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 00:57:41
他のスレではフトクニ帰って来たけど・・・
書紀の年紀との対照表マダー?
な〜んだ回答ないからやんないでいいのか? と思ってたがね?
じゃぁ新スレ「【倍歴】記紀時代の編年考察スレ【七支刀】」へ書きこもうか?
あとでな。略式でないと疲れちゃう。あ〜〜ん、もぅ〜〜。
40 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/30(木) 22:43:32
>>38 上述(
>>38)のスレに書きこみ始めました。疲れますのでゆっくりになります。
41 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:40:58
42 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 09:14:03
九州王朝説を否定して、倭の5王を上手く説明できるんなら
古田を論破したことになるけど、
彼の説が一番納得できる、
武を雄略に当てはめるなんて、無理ありまくりだもんなぁ
43 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 09:47:48
倭王武は雄略天皇に間違いありません。
倭の5王も、讃=仁徳(411〜432) 珍=反正(436〜438) 済=允恭(438〜459)
興=安康(459〜461) 武=雄略(461〜479記では478)で決定しています。
44 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/12(水) 09:53:10
倭王武は雄略天皇にあらず。だから年代をいくら調整させようとしても合う
ことがない。それのDNA(禰名)も一致しない。五王は当時九州に国が
多発していたうちの国のひとつの王らだよ。
つまり五王は天皇ではない。
45 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 10:12:53
みごとな、レスありがとう
43と44だよなぁ 要するに
46 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 21:54:55
古田説に限定すると
>九州王朝説を否定して、
そもそも九州王朝なるものが存在したという文献、考古学的証拠はない
有るのは古田氏の恣意的文献解釈だけ
古田氏の挙げた根拠を否定する事はできるが
そもそも存在しない物の存在を否定するなんかできない
>倭の5王を上手く説明できるんなら
宋書と紀の間に不整合はない
稲荷山古墳出土の太刀銘文、船山古墳出土の太刀銘文は必然性のある重要な傍証だ
>彼の説が一番納得できる
信じるのは勝手
それが論理的帰結かどうか考えれば?
>>44 お帰りなさい
布教活動はうまく行きましたか?
47 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/13(木) 22:24:22
>>46 証拠はあるよ。お前はウソを言うな。年号の木管も出てるしな。
不整合がないのなら、数字をキチンと並べて書いてみろ。鉄剣鉄刀は雄略天皇
であることは確かだが、五王の傍証にはなっていない。
48 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 23:35:32
>>47 >証拠はあるよ。お前はウソを言うな
何回も証拠なるものを見せてもらったけど
いろいろなスレその都度論証した通り
>年号の木管も出てるしな
かなり新しいものだと自然科学的方法で実証されてるのでは
>不整合がないのなら
珍と済の続柄が書いてない事を除けば紀と系譜は一致する
>数字をキチンと並べて書いてみろ
その主張が意味を持つには倍暦が当時使われた事を証明しなければ
まして九州王朝説とは別の問題だ
>鉄剣鉄刀は雄略天皇であることは確かだが、五王の傍証にはなっていない。
傍証=証拠の補強
関東と九州から出た事の意味は大きい
それが必然性と書いた理由
勿論九州王朝も倍暦も存在の蓋然性は有る
限りなく0に近いけれども
49 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 00:29:00
倭国は連続した元号を持ち、歴代極東で将軍号を受け、
隋の煬帝と対等の天子を自称した首長がおり、
一貫した行政組織があったので、この国体は王朝と呼べるが、
倭国は畿内の国ではなかった。・・・九州だった。
九州にあった王朝って、なんと呼べばいいですか?
やはり 「九州王朝」 でしょ
50 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 00:49:15
51 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 01:03:58
>50
お前にその言葉、そのまま返してやるよ。
52 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 01:15:29
太国さんはおかしな人(人格のことに非ず)
九州王朝も倍暦も、存在を主張しながら
記紀の真実性までも主張する
論理的というより観念の人に見える
熱心さには敬服するけど
九州王朝を支持するバカ=現実が見れないガキ
54 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 02:13:12
馬鹿の信仰
→「古代日本列島には畿内天皇以外に最高権力なし」
7世紀以前には、畿内に王朝などなかったのさ。
九州にはあったけどな。
55 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 02:25:19
>>54 >「古代日本列島には畿内天皇以外に最高権力なし」
そんな事誰も言ってないんじゃないかな
九州に限定して論じてるだけ
歴史論議にこんな話をするヤツがいるとは
まさに蟹は甲羅に似せて穴を掘るとはこの事だ
56 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 03:33:42
57 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 06:54:56
>>48 >実証されてるのでは
何だい? この語は? だ とか である じゃないぞ。いいかげんなこと
を云うな。
>珍と済の続柄を書いてない事を除けば紀と系譜は一致する。
まだ一致しないものはある。DNA(禰名)も一致していない。一致して
ないことは別人ということだ。
>倍暦が当時使われていたことを証明しなければ
なんだ、お前倍暦の肯定論者か? まぁそれはいいのだが・・・。
>関東と九州から出た事の意味は大きい
それは意味自体は大きいよ。大きいだけではは鉄刀鉄剣が五王の一人だとの
根拠にはなるまい。
>>52 おかしくはないだろう。九州王朝は畿内から遠方にあり、しかも半島大陸との
交易路から一寸かけ離れた地理的位置にあったことも多分にあって、物理的に
情報が畿内に届きにくかったので資料少なく、記紀に記載が見られない。
だからおかしくはない。
58 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 22:46:33
太国さんは他のスレで布教中
ほとんど身内スレみたいだけど
59 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 05:50:10
九州王朝でいいんじゃないの?
それに対して近畿にも銅鐸出るので王朝あったはずで
学問的には王朝が複数あるのはおかしくない
おまんらは学問とイデオロギーごっちゃにしてるだろw
なんでそれをわざわざ王朝というんだ?
61 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:37:13
王朝の要件を満たしてるからでしょ。
どこがw
63 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:14:01
畿内はまったく王朝の要件を満たしていないね。
単なる王国。
64 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 04:09:41
九州王朝なんてwww
存在の可能性ぐらい証明してみろ
文献や考古学に基づいて
65 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 09:35:25
>>64 文献には九州王朝年号があるそうだ。年号の木管も出ている。考古的に有効。
■■ 幻の九州王朝 〜崩壊する仮説〜 ■■
今週のテーマは、古田説否定による古代九州の王朝全否定や。
基本テクニックやさかい、是非マスターしたってな。
仮説は、トンデモ人物による「トンデモ説」とゴリ押しせぇ。
内容度外視で無視せぇ。
仮説提唱者なんぞ黙殺したったら、ええねん。
仮説提唱者に「教祖」仮説支持者に「信者」とダメ押しするんが、定石や。
仮説は、通説ではないので「疑似科学説(非科学説)」とゴリ押しせぇ。
独自単位等が不使用でも、学術論文としてデータベース化されてても無視せぇ。
仮説論文なんぞ黙殺したったら、ええねん。
難点を極限まで拡大解釈して「砂上の楼閣」とダメ押しするんが、定石や。
仮説は、裏付けの無い「妄想説」とゴリ押しせぇ。
特別な印綬や、特異な地名や、異様な舞踊や、独特の古墳その他数多の傍証は無視せぇ。
仮説史料なんぞ黙殺したったら、ええねん。
特定集団的解釈で「根拠が(脆弱じゃなく)皆無」とダメ押しするんが、定石や。
次回の配信は「編纂だけじゃ危ない!? 〜焚書へのいざない〜」や。
ほなな。
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その「九州王朝年号」なるものの出土が最も多いのが山口(九州じゃないぞゴルァ)だったり
関東や近畿などからの出土もあったりして、
どこが「九州王朝年号」なのか判断に苦しむ現実を、うまく説明してくれたまえ。
68 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 16:55:48
>>67 それより、お前はおかしなことを言ってるな。山口等から出てきてもおかしく
はない。稲荷山鉄剣も畿内の雄略天皇の銘文ながら関東で出土だ。江田船山
でも同天皇銘文のが出てるではないか。畿内のが九州から出てもおかしくは
ないよ。なぜか? 簡単だ。これらは可動性の物だからだ。
69 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:40:35
法隆寺は九州王朝の代表的建築のひとつだろ。
価値あるものは九州からみんな奪い取っちゃったんだよ。
インか帝国の財宝だって同じこと。
そろそろお花畑から脱出しろよw
71 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 03:08:02
そろそろまきむく馬鹿から卒業しろよ。
72 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 05:04:38
>>68>>69>>71 こいつらに論理で説得しようとも無駄
何故ならば九州王朝の存在をなんとしてでも証明したいという願望に基づいてるから
その為には詭弁、強弁なんでも有り
レスを見れば一目瞭然
73 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/01(月) 07:25:19
卑弥呼の女王国が九州王朝の一つですよ。倭の五王朝もこれです。五王は
大和朝廷の天皇ではないせすよ。
それに古史古伝にはウガヤ朝70数代の記録もある。これだけでも可能性は十分
ありうる。
74 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 20:15:41
75 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 21:41:30
>>74 >稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。
>単に定着しなかったというだけで、かつては朝鮮半島にも
>RM1-b遺伝子の稲があった可能性もある。
上記は、中国から日本へ稲作直接伝来説を否定できる根拠にはならない。
76 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 21:45:25
要するに、(従来の対立軸)
考古学者の主張する「半島経由説」と
農学者が主張する「中国直接(東シナ海渡航)渡来説」だな
考古学者の大半が前者、農学者の大半が後者を支持してきた。ってことらしい
78 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 12:14:12
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
79 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 13:54:55
花粉というのは極小なので、土に沁み込み、ず^っと下におりていき、
戦前の地層を通り越し、明治の地層を通り越し、江戸時代の地層を通り越し、
室町時代の地層を通り越し、平安時代の地層を通り越し、大和時代に地層をとおりこし、弥生時代の
地層をとおりこし、縄文時代の地層で花粉を通さない地層があればそこにたまるのです。
ですから単に地層が縄文時時代というだけではだめなのです。
80 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 13:58:31
あーああ、やになっちゃった、あーあーあ驚いた。
そういえば、緑色の管玉がでてきたので翡翠だとした学者さんもいらっしゃったっけ。
考古学の学者さんがんばってね。
>78
現在の中国史では、小麦栽培は6〜7000年前頃からで、
ヒエ・アワ・キビ(だったかな)栽培が1万1千年前後前から、
米は9千〜1万年ぐらい前から栽培されてたらしいぞ。
6千年前頃には朝鮮半島でも雑穀種子が見つかってるとか。
さすがに日本列島では、6千年前の小麦などは有り得ないが、
すごく荒唐無稽なことではない。
江戸期伝来と伝えられてるものの中に、
戦国時代とか室町時代とかまで遡るものは数多くある。
むしろ「江戸時代伝来説」の方が怪しいだけかもしれない。
82 :
日本@名無史さん:2007/10/05(金) 20:51:03
>>78 >>81 中国での小麦栽培が6〜7千年前頃からなら、
日本列島での6千年前の小麦は不思議ではない。
83 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 07:55:54
ドキュンからバックアップうけている反日本記事捏造のアサヒる新聞。
恥ずかしくて公共の場では読めない新聞。
84 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 10:58:10
記紀では、神武、応神(神功)、継体などが、(今日の)関西の勢力と九州の勢力とで戦争を行ったとはっきりと記されている。
神武と応神(神功)についてはともかくとして、継体については6世紀前半のことで、これを史実ではないと否定する説はあまり聞かない。
また、7世紀後半の壬申の乱では、近江朝側が九州の軍勢を動員しようとしたが、九州勢(栗隈王)が動かなかったという話もある。(天武元年(672)六月)
つまり、古代の九州に軍事的に有力な人達がいたことを否定する学説など聞いたことがない。
そして、おそらく政治的にも有力な勢力であったことは、間違いなかろう。
しかし、それが単なる地方勢力なのか、国の出先なのか、はたまた独立した国家なのか、しかも王が何代も世襲する王朝なのか、
ここが一番大事なところであり、明確な根拠を持って説明しないと話にならない。
しかし、九州王朝には、肝心な部分の説明がまったくない。
王朝というからには、王の世襲の系譜が示されないとお話にならないが、見たことない。(せいぜい、磐井−葛子 ぐらい)
独立した国家というなら、外交権や軍事権の構造が明確に示されないとだめだが、継体以降、特に欽明などを中心とした日本書紀の外交関係の記述と完全に矛盾する。
ただのトンデモ説である。
85 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 11:11:26
86 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/17(水) 11:23:09
トンデモは早計。
卑弥呼の女王国がもうそのいい例だ。女王国は畿内なんかにありっこない。
系譜がどうのと云ってるが、倭の五王朝は短期的だが系譜だあるわけだ。
九州では女王国系と五王朝、その他小国が分立しており、系譜がないとかでは
存在は否定できない。
87 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 11:42:17
肝心な部分の説明がまったくないのは、畿内説の特徴。
88 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 12:17:25
>>86 五王が九州王朝とか言う根拠は?
妄想は根拠じゃないからね^^
>>87 そうやって逃げるのが九州王朝のトンデモぶりを如実にあらわしてるね^^
90 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 03:26:18
>89
五王が畿内の天皇である確立0%であることを、
そろそろ認めろよ、この一元史観信者。
日本列島の中心権力は畿内の天皇しかいないという、
否定こそ出来るが証明できない大嘘を、古代史の
大前提にしちゃってるだろ、畿内説馬鹿君よ。
91 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 03:35:44
ちなみに、五王のように極東の覇者として首長が将軍号・大将軍号を
授かれるのは、鉄器のない畿内の国は無理。幻想・妄想はやめましょう。
鉄器が豊富なのは九州。邪馬台国で特筆される絹の出土も九州。
イ妥国の国事として祷祭を行なっている場所は阿蘇山。阿蘇山は
畿内の山ですなんて妄想を言うなよw
92 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 03:56:45
九州王朝説をいう人へ
1.文献、考古学的証拠を挙げることが出来ていない
2.古代文献(金石文を含む)に対して正確な史料批判を出来るだけの知識なし
3.蓋然性ですらかなり乏しい説なのだから他説の批判より前に1,2をしっかり固めてくれ
まあ言うだけムダかwww
93 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 07:40:59
>>92 君はま〜だ五王が雄略当の各天皇だと思っているのか? 考えてもみろ、
上表文も見てみろ。禰名(DNA)が一致しないだろうが。つまり五王は天皇
ではないのだよ。それに系譜図を出して各研究者はなんだかんだ説をのべて
るが、将軍の名もあり、戦争もやってるだろうがかなり力量があった王らだ。
だからそえは王朝だよ。それは短期にはなってしまったが、九州にあったもの
だ。当時九州は小国が分立して多数の国が乱立していた。その中の国の王が
彼らだ。それに年号の木片様のの物出てるということだし、トンデモにはまるで
ならないぜ。それに九州王朝は一つでない。女王国の系がもう一つあったのだ。
こっちのほうは長期で、崇神の前後の世から文武のころまでで、かなり長い。
94 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 07:53:56
應神仁徳あたりの先代の御名を見れば、禰名(DNA)が一致しない。
これだけで五王が畿内の朝廷の天皇ではないことが知れる。九州はそのころ
小国がうんとあり、そのうち比較的実力があり将軍の名までついて安定性が
あったと考えるのが至当である。天皇だと云ってる連中はこれは妄想論。
95 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 08:06:15
>>93 訂正
× 雄略当 ○ 雄略等
五王が天皇ならば、将軍号をもらったくらいだからそれも記紀に書かれて然る
べきだろう。それがないのは五王を天皇だとするにはおかしい。それが
中国の属国のような関係になる史実だから隠したくて記載しなかったと云う
んなら、彼らは最初からもろわんだろう。当時の中国からもらうのを拒否
するだろうが・・・・・。
96 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 13:57:44
>92
お前は、ジンギスカンの墓を探して来い。
無ければ、ジンギスカンはいなかったって結論を出すのか?
そもそも、金印と阿蘇山は動かぬ証拠だ。
法隆寺(釈迦三尊像光背銘も含めて)も九州王朝の物的証拠。
それより、畿内一元史観の証拠をもってこいや。鉄の無い国が
どうやって半島で高句麗や新羅と戦ったんだ?
>>91 お前って時代感覚が無茶苦茶なのなw
五王と鉄器の九州優位って何世紀離れてんだよwww
98 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 17:55:50
>>96 チンギスハンのような人間の墓が見つからないこと
九州王朝のような実在そのものが極めて怪しい人間の墓が見つからないこと
同じ事象でも全然違うね
そのあたりを無理矢理一般化しないと成立しないのが九州トンデモ王朝
99 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 18:20:19
トンデモではないねぇ。すでに年号も出ている。あっちこっちと出てくりゃぁ
イカサマ捏造説は考えにくい。女王国と五王朝。もう万全だな。
だいたい畿内に卑弥呼の国などありゃしないし、あるんなら何で記紀に載ら
ないの? 畿内の近隣に女王国なんぞないからだよ。当然九州にあったわけだ。
100 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 18:44:25
>97
はあ?中国側じゃ一連の国家だと認識してるわけだが。
あとから出来た国として認識してるのは、「日本国」だぞ。
101 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 18:45:44
>98
だから何度言えば解る?
金印と阿蘇山と法隆寺がその証拠の一部だ。
102 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 18:57:35
>>101 恐らく昔は都市国家だから名のある豪族の国家が沢山あったんだろうとは思う
まずはどの氏族がいたのかがわからないとなあ
九州を納めてた「藩主」の歴史を辿ってみれば?
例えば出雲大社の出雲氏は辿れば奈良や美濃から流れてきた氏族だよ
九州も同じだと思うけどな
卑弥呼も邪馬台国も五王も金印も畿内です。
104 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:19:17
阿蘇山も志賀島も畿内です。
大宰府も吉野ヶ里も畿内です。
105 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:59:49
「九州発祥説」
これが通説となった理由は、薩長連合はそれを理由に倒幕して明治維新をしたからだよ
天皇を担いだ理由も九州発祥説にこじつけたからだよ
明治維新後は神武九州発祥説を普及させた訳だから(江戸時代は天皇の事を気にする庶民はいない)
薩長はその後神話になぞらえて九州から東征と辻褄の合うように神社を改名させ地名も変えたんだよ
例えば今の出雲大社ってのは明治維新後に改名した名前だから
因幡神社や因幡って地名も明治後に古事記になぞらえて付けられた地名だよ
そもそも九州や中国地方は「ここには古事記に出て来る因幡の白兎が祭られてて」なんて由来の神社や地名ばかりだから流石に後付けって気付くでしょ?
106 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:00:16
邪馬台国と九州王朝は別だろ?
107 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:03:27
>>106 うん。絶対に違うと思う
渡来人は「近江」の港に来た訳だから
関西の近江か新潟の近江かどっちかだよ
108 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:06:14
ただ九州は九州で大和族とは違う民族が渡来してた可能性はあるよ
例えばアイヌ民族は大陸にいたエスキモー民族と同じ民族だから
大和より先に九州や本州に渡来して来てた可能性はある
琉球王朝やアイヌ王朝が正にそれなんだろうし
109 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:08:06
>>105九州南部の因幡という地名はどこに存在するのでしょうか。
不勉強でしらなかたものですから。おしえてください。
110 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:35:52
>>109 >>109 確か中国地方にあるよ
古事記に出て来るワニを祀った神社もね
明治維新後に付けられた地名だけどさ
ただ九州と奈良の間にそういう地名を付ける事により、九州から東征したというこじつけが出来る
ただ無理やりこじつけてるから訳の解らないルートで奈良に行ったルートになる
伊勢半島を船でぐるって回ったり戻ったりさw
そもそもそのルートに古い街道や港があったのかすらわからないのに
111 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 21:18:25
古田説を超える九州王朝説を聞いた事が無い
こんなトンデモ本に影響されて
古田の引用、ほのめかし以外根拠を言えないヤツこそあわれ
だいたい九州王朝(狭い意味の)に否定的だとなんで畿内説だとか天皇一元論
としかとれないのか?
思考が硬直化に過ぎる
112 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 21:22:00
心配すんな。こちらは古神道のウラゴト(卜事)から九州王朝を把握している。
それにお前さんは二元論なのか?
古田説がトンデモだからといって九州王朝がトンデモになるという理由にはならないな。
自分も王朝?という言葉が適切かは疑問が残るが。
シナ側の記述を素直に読めば、畿内の文書とはつじつまが合わないんだよな。
ただ九州側にしっかりとした文書が残っていないから九州説は検証できないのが弱み。
114 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 21:52:06
弱みとか云ったって、ちゃんと古史古伝には九州王朝が記述されている。
ウガヤ朝70数代があり、文献はこのように載っている。
115 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 21:56:59
>>112 また古神道かw
それの存在証明はまだじゃないか?
他のスレでズッコケていたのは拝見したけど
二元論なんて言うこと自体が思考硬直化の証拠
歴史的には多次元だった権力構造が日本列島内では最後には不完全ではあるけれど
一元化したということ
時期については議論があっていいけど
116 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 22:01:23
なにがズッコケたんだ? それはお前のほうだろう。 一元化っていう
のは明治以降このごろだろうが? 江戸幕府のときも二元だろうが。
厳格に言えば、今だって一元とは云い難いかも知れぬぞ。民主主義と
やらでな・・・。
>>114 古史古伝が一般の議論に耐えるほどのものが少ない。
具体的なものをサンプルで出して欲しい。
118 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 22:07:11
>>117 まぁ竹内文献はちょっとお前の言うとおりで、これは無理だな。それは
そのとおりだ。お前の言い分はそこは正解。また家の奥を探さんといかん
から、それを除いて、お前がググッてでも調べろ。それがいい。
119 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 22:09:52
>>112 まああったとしたら古神道時代だろうね
古墳時代〜飛鳥時代以降は密教が渡来して漢字表記と神仏合同になる訳だから
俺が美濃や信濃って言ってるのはこの時代の事だし
ただイザナミイザナギや天照大神の発祥の地は美濃の中津にあるよ
真言宗以降の遺跡(寺や漢字表記)とは違う文化の巨石と神代文字と自然崇拝の遺跡
また日本中に横穴群遺跡があるけど、あれは土蜘蛛族(縄文人)の遺跡だから別もの
九州も何か探せばあるんじゃないのかな?
沖縄では神代文字時代の石版が144枚も見つかってるよ
120 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 22:22:29
>>117 いや古史古伝は議論に耐えうる
古事記は神代も神武代も同じ時代の同じ出来事(王申の乱)を書いてるだけだよ
漢字と密教が渡来後の最近の出来事しか書いて無いんだよ
恐らく古くても1800年前頃から奈良へ移転までをまとめたもの
だから70代続いたアガリクス(だっけ?)王朝の事とかが抜けてるよ
イザナギイザナミや天照大神の恵那山の巨石遺跡を築いたのが仮に古事記の表記通りに2600年前とした場合、800年ぐらいの間の出来事が抜けてるんだよ
ただこの2600年前ってのはメソポタミア地区のシュメール文明以降のアッシアやアーリア国家が建国された年の事じゃないかって人もいた
渡来して来たのも1氏族だけじゃなく対立とかあっただろうから、古事記以外の古史古史などの文献からも探る必要があるよ
インドのヒンズー教も氏族や宗派ごとの聖典が沢山残されてるんだよ
121 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 22:25:25
>>114 ちなみに古史古伝には「九州」って表記されてるの?
だとしたら今の九州は、そこから「九州」って名前を取ったんだと思うよ
「四国」や「九州」ってのは明治以降に付けられた名前だから
123 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 22:45:28
>>121 なに言ってるんだろう? 間違いしない限り、呼び名はこだわることはないよ。
古事記に筑紫嶋とあるだろう。それが九州だよ。九州がいやならこれでいいよ。
124 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 23:07:37
>>123 いや古史古伝に「九州」って名前で表記があれば今の九州は後付けの地名と思ったから、九州って書いてない方が信憑性があるよ
今の出雲大社なんて明治以降に、古事記になぞらえる為に後付けで付けた名前なんだよ
ただ筑紫や伊勢や出雲や蘇我や熊祖や蝦夷や讃岐や、、、
土地の名前じゃなく氏族の呼称だと思うんだよ
戦国時代の藩主も例えば「藤原系の家系で」みたいに続いてるじゃん?
126 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/18(木) 23:25:31
>>124 いま見たが、ウエツフミの訳だと筑紫の島とあるな。
水道水は水なのかとあんたに聞くが? 近代的塩素が入ってるんだぜ。
それでも水と読んでるんだろ? それとも(うまくはないのかも?これは別で)
飲まないのか?
古史古伝は、反論者は編纂当時の混ざり物語が少しか?入ってる文献があると
して偽書だとか言ってる奴がいるようだな。こやつも水道水は疑わずに飲む
だろうからな。ww
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・
127 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 23:28:08
俺は九州という語が気に食わないから、九州王朝はなかったっていう
論理はむちゃくちゃだなぁ〜。
>>127 そうは言ってないみたいだぜ。
王朝が気に入らないのはいっぱい居るみたいだが。
九州国と書いても気に入らないのは出てくるだろう。
129 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:19:58
>>126 俺は古史古伝は古事記と同じように日本の歴史を探る上で貴重な資料だと思ってるよ
ただややこしいのが、名前や呼び方や当てる漢字や、、沢山あるでしょ?
その辺りが統一されてないから読み説く事が必要になるし
ただこれって古事記に限った事じゃなく、例えば釈迦と空海は共に
「明けの明星が口に飛び込んで仏(菩薩の化身)となった」
っていう同じ逸話がある
同一人物なのか、ごっちゃになったのか、こういうややこしい記述や由来が沢山ある
京都奈良の寺や地名や由来はほぼ全て、美濃飛騨信濃と共有してたりするしさ
あと関係ないけど明けの明星ってフリーメーソンが信仰してる「ルシファー」も明けの明星の事だし
錬金術と明けの明星でメーソンと密度も繋がるよ
九州王朝があったなら良く調べれば本当に九州かどうか分かると思うけどな
大和や出雲やヤマタノオロチの場所も俺だいたい解ったよ
やっぱその土地に残ってるよ
ただ同じ由来が他地域にも分散するから最終的には解釈にはなるけど
130 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:29:27
ただ思うのは古神道時代の王朝を探すなら古事記より古史古伝や風土記とかのがいいと思う
山彦海彦やスサノオ辺りは密度伝来以降の話と思うよ
スサノオは東王父仙人や覚林坊や大仙人やら、山岳密教に関係する人物と同一視されてるしさ
古事記でも「国に帰りたい」って嘆いたりしてるし
ここのスレの人たちの最大公約数的なところでいうと、
検討にあたいする古史古伝はどのあたりにしぼられるのでしょうか?
あるいは、ここのスレの人たちでも拒否している古史古伝名を聞いたほうがいいか
133 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 03:42:06
>>131 俺、実際には見たことないよ
ただ古事記以前の神話も明記してあるらしいよ
ただヒンズー教の聖典とかなり記述が被る箇所が多いみたいだよ
水銀を原動力とした自由に空を飛ぶ船の設計図と操縦の仕方とかさ
全くのウソを書いた訳じゃ無いと思うよ
ただどの立場の氏族が書いたかによって記述内容も違うだろうし、元が神代文字だから読み手の解釈が加わるし
本当は聖徳太子と蘇我氏の大和飛鳥朝廷がまとめた帝記が見つかればいいけどさ
あれはいわゆる古史古伝を漢字表記でまとめたものらしいから
ただ古史古伝は太平洋戦争後に日本を統治してたアメリカのフリーメーソンが持って行っちゃったから日本にないんだよなあ
134 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/19(金) 07:49:10
>>126 訂正
× 混ざり物語 ○ 混ざり物の語
135 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 08:44:42
>>134 日向氏発見したよ
美濃信濃の氏族に伴ってた氏族に日向氏族があったよ
あと飛騨で竹内とかと別の古史古伝(?)の「ほほぎり(?)文書」があって、メールすれば送ってくれるって書いてあるHPがあった
仮に九州王朝があったとしても古事記から探すのは難しい気がするよ
奈良朝廷の天武天皇の都合良く書いてある気がするからさあ
沖縄には海底遺跡があって神代文字の石版が144枚も発見されてる
九州に王朝があるとすれば、そっちの流れを組んだかなり古い時代のものであるような気がするよ
九州や沖縄で大和渡来以前っぽい神話や伝承や遺跡とかなにかないかな?
136 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 08:49:57
飛騨から日本海沿いの北辺りは巨石遺跡群やピラミッド山の多発地帯だよ
これらは古事記にほとんど明記がない遺跡
沖縄の海底遺跡も大和の古事記より古いと思う
長州辺りにもなんかある気がするけどなぁ
遺跡気付いた民族が大和と全く違ければインカみたいに伝承も残らなかったりするのかな?
137 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 11:27:50
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
138 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 21:08:34
>>137 >プラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
極めて疑わしいとは結論付けられない。
>小麦が中国よりも数千年も前から
上記は嘘、小麦の栽培はシナより少し遅れている程度。
>ハトムギが江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた
だからと言って、ハトムギの第一次伝来が6000年前でなかったとは言えない。
米の陸稲(熱帯種)と水稲(温帯種)の例もあるからね。
通説を否定の根拠とすることは大間違い。
通説を否定したガレリオ・ガリレイの有罪の例もあるからね。
根拠を挙げて批判することには何の問題もないが。
139 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 23:03:52
140 :
138:2007/10/27(土) 19:09:36
>>139 知りません。
だぶん、一つの報告として処理されているだけでしょう。
否定するも肯定するも、いずれにしても批判材料が不足していますから。
141 :
九州王:2007/10/31(水) 15:34:39
郡から伊都國までを計算すると下記のように11900里になる。
七千里+千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里+五百里=11900里
※方可とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したと考え、(四百里×2)(三百里×2)
「自郡至女王國萬二千餘里」とあり、帯方郡から女王國まで12000里。
伊都国から奴国まで百里、つまり帯方郡から奴国までが帯方郡から女王國までの12000里と同じ距離となり、奴国は女王国の一部であったと考えられる。
距離を時間で再説明
南へ水行20日で投馬国に至る(7000里)。南に水行10日陸行1月(3400里+600里、陸行1月は1日の誤り)で女王の都のある邪馬台国に至る。
(邪馬壹国)70000余戸=對馬國1000余戸+一大國3000余戸+末盧國4000余戸+伊都國1000余戸+奴國20000余戸+不彌國1000余戸+20國×2000戸
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
142 :
九州王:2007/10/31(水) 15:35:28
海〜┌←←←▲帯方郡庁∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵(馬韓)∵∵┃(辰韓)∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸∵┃(弁辰)∵┃〜方可四千里〜〜〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━━┻━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃(投馬國)5万余戸 ∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└→→→→→→→┘↓〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜七千餘里〜〜〜〜〜↓〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
143 :
九州王:2007/10/31(水) 15:36:24
海〜水行20日〜〜對馬國├◎┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜方可四百餘里〜〜海
海〜〜〜〜〜〜水〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜行〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜10〜〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜日〜〜一大國├◎┛壱岐〜方可三百里〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━◎〜〜┏━━┓〜〜┃∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜┃末↓━陸行1日(月) ━┛∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━┛盧└→→◎┐∵∵奴∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵國∵五∵伊└→◎國∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┏┓┗┓∵∵∵∵∵百∵都∵百∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┃┗┓┗┓∵∵∵∵里∵國∵里∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜┃∵┃〜┃∵∵∵∵∵∵∵(邪馬壹国)7万余戸
144 :
大倭弟王:2007/11/02(金) 02:02:38
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌┃◎帯方郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵(馬韓)∵∵┃(辰韓)∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸∵┃(弁辰)∵┃〜方可四千里〜〜〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━━┻━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵韓地倭人國∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
145 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 05:29:31
新羅の事を九州って呼ぶのはあれなんでなの?
日向三代達が作ったのが新羅?
なんか関連あるっぽいよ
146 :
大倭弟王:2007/11/03(土) 12:50:32
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┌┃◎帯方郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┣━━━━━┳━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵┃(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)┃(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸┃∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵┃◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┣━━━━━━┻━━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜↓┃倭人國地域┏━━━┛〜〜〜〜〜〜倭韓地〜〜〜〜海 │
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 使譯所通三十國
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
147 :
大倭弟王:2007/11/03(土) 12:51:32
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜一大國┃◎┃壱岐〜方可三百里〜〜〜┏━━━┓ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜┏━━┓〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │
海〜〜〜〜┏━┳┛∵┗━┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國
海〜〜〜〜┃∵┃末盧國◎→→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜┗┓┗┓∵∵五百里↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜┗┓┗┓∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┗┓┗━━┓百里│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │ ●印:女王國構成国
海〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵┃奴國●┃┃●●邪馬壹国 7万餘戸 │
海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵┃┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵┃┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┃倭┃┗┓┗┻┓〜〜┃國∵┏━━━━━━━ ┿
海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┏━┛∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┣┛∵◎狗奴國∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國連合地域
海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵倭∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
海〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗━━━┓┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
水行十日陸行一月(倭人からの伝聞)
邪馬壹国→陸行(倭地)→末盧國→水行→狗邪韓國→陸行(韓地)→帯方郡
水行二十日(倭人からの伝聞)
投馬國→水行(有明海→島原湾→天草灘→東シナ海肥前海岸→対馬海峡→半島南岸→東シナ海半島西岸)→帯方郡
倭五王の時代は、投馬國が狗奴國側につくことによって始まった。
148 :
九州王:2007/11/03(土) 19:31:22
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┗━┓∵∵∵帯方郡∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗━┓∵▲帯方郡庁∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┣━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┃∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏━┛∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵∵∵馬韓∵┃辰韓∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗┓∵10万余戸┃弁辰∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵┃4-5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┣━━━━━┻━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏┛投馬國5万余戸┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓
海〜┃∵∵∵┏━━━━┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┗━
海〜┗━━━┛〜〜〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
149 :
九州王:2007/11/03(土) 19:32:09
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏倭種∵∵∵┏┓∵┏━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵侏儒國┃┗━┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜┗━━━━━┛〜〜┏┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜〜〜〜〜〜〜┏┛┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛裸國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵邪馬壹國∵┃〜〜〜┏┛K齒國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵7万余戸┗┓〜〜┗┓∵∵┏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┻━━━━┳┛〜〜〜〜┗┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
150 :
九州王:2007/11/03(土) 20:37:00
訂正
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵┏━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜┗━━━━━┛〜〜┏┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜〜〜〜〜〜〜┏┛┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵邪馬壹國∵┃〜〜〜┏┛侏儒國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵7万余戸┗┓〜〜┗┓∵∵┏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┻━━━━┳┛〜〜〜〜┗┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
151 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 22:39:39
どうでもいいけど邪馬台国と九州王朝を一緒くたにすんのやめれば?
九州王朝など無かった
以上
153 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/06(火) 19:27:25
九州王朝はあったさ。卑弥呼当時すでに九州には小国がうんとあったんだから、
そのうち一つ二つは勢力をつけて王朝まで成り上がった国があっておかしくは
なく、理の当然なる発展的事柄だ。倭の五王朝がそのいい例。
倭の五王は九州なのか?
155 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/06(火) 20:24:36
七支刀が奈良の石上神宮でみつかったけど、九州を本拠地とするのはどういうとこから?
157 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/06(火) 20:50:18
剣は可動性のもの。関東の稲荷山の鉄剣には畿内拠点の雄略の名があるし、
九州の江田船山の雄略名も同様だ。
ただ、石上の七支刀が九州本拠かどうかは、今のところ確定した考えまでは
行かない。旨王のことからだろう?
七支刀の 泰□四年 を468年とすれば、倍暦計算で安康元年なのだ。だから
安康即位での半島側からの贈り物という可能性は充分ありうる。この場合旨王
の「旨」は王名でなく、形容詞とか福祉かそういう意味の語ということとなる。
158 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/06(火) 20:53:00
確かに九州王朝=邪馬台国は畿内天皇家=邪馬台国と同じぐらいあやしい。
だが、九州にある程度の政治権力が成立していたのは間違いないな。
それが邪馬台国からの連続政権かは疑問だけれど。
160 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 00:19:36
ここは九州王朝妄想スレなんだから
邪馬台国の話はスレ違い
161 :
大倭弟王:2007/11/07(水) 02:32:23
九州王朝≠邪馬壱国
九州王朝≠狗奴国
九州王朝≠倭五王王権
狗奴国≒倭五王国と空想している。
九州王朝=磐井王権から。
王朝と言うには律令と元号ができてからじゃないか。
倭五王権と九州王朝の都は邪馬壱国のあったところ(久留米近辺)だが、倭京(大宰府)に移転。
162 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/07(水) 07:24:01
年号とかが絶対条件なら、九州王朝は女王国よりもっと後代だろうな?
これなら、九州年号の出来た時代から後ということになる。
それにこういうんだと、畿内の朝廷のほうも初期の天皇の時代は年号がないん
だろうからその時代はまだ王朝ではないことになる。
163 :
大倭弟王:2007/11/07(水) 14:27:56
畿内が朝廷になったのは文武から。
>>160 九州王朝を妄想した場合でも
邪馬台国を何処に否定するかによって妄想の種類は異なる。
自分の妄想rと他人の妄想のどちらが上等かを語るんだろうがw
165 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 19:19:47
まあ、文武以前に畿内王朝などなかったことだけは間違いない。
王朝があったとすれば九州以外にありえない。
166 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/07(水) 19:38:06
年号がどうのこうのとかいう必要性はそこまで厳格でなくていいだろう。
167 :
大倭弟王:2007/11/07(水) 23:30:08
律令からみても文武からだよ。
168 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 23:33:06
畿内王朝には厳しく、九州王朝には優しい
そういう基準が見えてきます
169 :
大倭弟王:2007/11/08(木) 00:26:47
そうだね、畿内王朝には厳しく、九州王朝には優しいようだね。
律令は持統からだよね。
170 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 21:01:28
九州王朝、九州王朝ってそれにとりつかれてる人達
否定的な材料しかないのに
どういう思考過程でそうなるの?
それとも論理じゃなくて単なる願望?
171 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 21:14:47
畿内朝廷、畿内朝廷ってそれにとりつかれてる人達
否定的な材料しかないのに
どういう思考過程でそうなるの?
それは論理じゃなくて飯の種だから?
172 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 21:30:47
>>171 とりつかれていないよ
論理的に可能性を証明してくれれば固執する気など毛頭ないし転向するかもしれない
そうじゃないから言ってるだけ
173 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/11(日) 22:05:44
>>170 古史古伝の九州王朝たるウガヤ朝の記述があるんだから、肯定材料はある。
ないというのは間違い。
174 :
日本@名無史さん :2007/11/11(日) 22:27:59
まだやってんの、このスレ。
ある意味凄いね。
175 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/11(日) 22:34:19
卑弥呼当時、九州は小国に分立していたことが倭人伝からうかがえ
るから、そのうち勢力をつけた豪族が突出してくることは充分可能だと
云える。丁度戦国時代の大名のようなもので、結局徳川が幕府を作っ
たように、九州でも当時そういう王朝的政権が出来たと云えるのである。
倭の五王朝は比較的短期の九州王朝で、そういう豪族の一系が覇権を
握っって勢力をふるったものと観てよい。
176 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 22:53:53
せいぜい磐井だろ
あんな雑魚で王朝なんてちゃんちゃらおかしいわw
177 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/11(日) 22:57:10
奥九州っていうのは古代史の盲点的場所だよ。そこにあったんだよ。
それに先述のとおりウガヤ朝存在の文献もあるわけだから、単にストレートに
ないなんて云うのは恣意的否定の行きすぎだということだ。
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・・
178 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 22:59:50
>>173 まず厳密な文献批判をしてみれば?
私見では単なる偽書
179 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 23:01:33
魏志倭人伝の記述が、もし
鉄も絹も遠洋航海術もない畿内だったとしたら、
南極や北極も同じぐらいの確率でありうるだろう。
180 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 23:38:46
だから九州妄想と邪馬台国は分けろよ池沼が
181 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 03:32:10
>180
倭人伝の記述に存在しない「邪馬台国」を倭人伝論で語るな池沼。
豆腐の角に頭ぶつけて畿内妄想から目を覚ませ池沼。
182 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 07:28:40
>>178 偽書と云う前に真書はどれかを言いな。どれが真書なんだね?
たとえばバッグ等の偽者があったとして、ルイビトンとかだっけ〜? それが
真物で、それの偽物だとか、そのように云わないとお前の古史古伝への勝手の
牽強的説明としか云えないね。両者の比較から相違点を出してもらって、
はじめて偽書だとの主張が通る。それがないんじゃ、ぬれぎぬと云われても
致し方あるまいが・・・? つまりお前の恣意的思いこみだということよ。
まぁ竹内文献はこれはちょっと内容が極端なので、採用できないのは充分
理解できるから、これは論外で範疇に入れないが。
183 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 08:53:23
記紀も偽書ではないだろうが、
記載されている内容の殆どは
7世紀末に日本各地の伝承を参考に
創作されたものだと思う。
ヤマト朝廷の正当性を強調する為に
都合のよい事実だけ残し
悪い事実は削除
ヤマト朝廷の話以外もヤマト朝廷の話に組み込んだり
時系列を入れ替えたり。
184 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 09:29:44
>>183都合のよい事実だけ残し、悪い事実は削除
あなた記紀を読んだことありますか。
185 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 09:47:39
大和王権のための歴史書だから、その支配権に疑問を持たせるような事は削除。
邪馬台国や卑弥呼の事も神功皇后という存在を作り出して自分たちの都合の良い方向に誘導。
186 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 09:53:41
>>183 創作だったら稲荷山鉄剣の雄略名と大彦名と合うわけがないではないか?
江田船山の鉄刀の雄略名も同様だし、隅田八幡鏡の繼體名からして記紀と違って
いないと観るべきだから、創作という主張は神代はどうだか知らんが退けられて
いい。つまりそういう創作という考えは、お前の頭脳内の勝手な創作なわけ。
それに雄略、武烈の悪業ほか、浮気葛藤殺し合いも記述してあるんだから、削除
との主張も棄却される。
187 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 10:03:18
>>185 九州の神社等の神功の伝承がかなり残っているから、卑弥呼とのくっつきは
紀の編者らは思いこみでやったようだが、神功を作り出したということは
考えにくい。つまり伝承までもうんと作るために畿内朝廷の役人がわざわざ
九州まで出向いていろいろと創作するために歩き回ったということは、余計な
労力であり、他にやることがいっぱいあろうから、そういうことも考えにくい。
つまり神功を作りだしたなどという主張は、お前の不勉強らしい脳内の創作
であったということが正解。
188 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 10:45:29
神功紀と応神紀を二重に書き込んで神功を実際よりも大きな存在にし、
神功紀に倭人伝の記述を紹介してるのは明らかな誘導だろ。
応神天皇を生んだ女性は当然存在するだろうが、神功皇后のような活躍を
したわけではない。
189 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 11:03:35
>>188 皇后より天皇のほうが偉大なんだよ。お前の云うのが正解ならば記紀は神功皇后
とは記載せず神功天皇として書くだろうが? だから神功のほうを大きくすると
いうのはお前の考えすぎだ。古史古伝の一部のほうがまだ神功を大きくしてる。
なぜというに、神功天皇としてあるのがあるからだ。
誘導とかよりも、紀の編者らは大陸半島と日本の暦法の大きな違いを忘れて
か、双方を同一的暦法と考えた結果、あっちの文献と日本の文献の記述に
でかい断層があるのを知り、神功が卑弥呼であろうことと同一年代であろうとの
考察からか、神功の時代に卑弥呼を持っていってしまったということだ。
その原因は日本側がむこうと違い当時倍暦を行使していたためで、これで
むこうとこちらとの歴史の断層が出来てしまっていたわけ。それをなんとか修正
しようとして、神功と卑弥呼をくっつけたりしたんんだろうが、結局修正は
うまく出来なかったということだ。
偽書
由来が偽られている文書・書物のこと。
主として歴史学において(つまりはその文献の史的側面が問題とされる場合に)用いられる語である。
単に内容に虚偽を含むだけの文書は、普通偽書と呼ばれることはない。
191 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 12:42:37
>>190 だからそういう語を使うということは古史古伝の信用性を落とす陰謀目的
から糊塗されたものなのさ。通常ニセ物がありゃぁ真物があるんだから
ねぇ。
>>191 偽書という言葉が適切かどうかは別として、由来が偽られているかどうかで
選別することは大事
193 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 13:26:09
それも大事だが、中身まで違うとは限らない。確かに誇張とかは古史古伝も
あるし、編者が書いたその書を持ち上げる意図を持ってたとは相当考えられ
るだろう?
偽書としないとその連中の主張が内々で崖っぷちに追いやられるから、そういう
語を使って葬りたいわけ。つまりその連中もある程度必死なのだ。
伊勢神宮の参道灯篭にダビデ紋がついていたが、これなどつけた奴の関連と
神宮とを関係つけたい陰謀だというので、今は取り外しているのさ。古代史界
でもそういう操作があるのさ。だから信用をどうしても下落させたい意図から
そういう糊塗語でうっちゃろうとしたいわけさ。
194 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 13:36:04
さっきも言ったが、竹内文献はこれは論外だな。これは極端すぎるし、臥海が
ダメの烙印を押すのは一応うなづける。それにあの津軽のなんとかもうまく
ないという可能性はあろう?
今言ってるのはこれら等ではなく、九州畿内関係の古史古伝のこと。
>九州畿内関係の古史古伝のこと
なんという書のどういう記述か書かないと誰にも通じない
196 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 15:03:15
文献名もだしたのくないのか?何を怖がっているのか
198 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:40:33
偽書も原点批判をすれば、しっかりとした研究対象になる。
日本書記ですら、滅亡王朝や「評」制度を隠蔽しているので、
王統や王権の由来を改ざんしており、ある意味偽書といっていい。
>>198 だから
>>190のように語らないと偽書の意味が変になるだろ。
単に製作側の都合にあわせて書いたものを偽書と呼んだらなんでも偽書だ。
200 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 17:22:24
>>197 怖がる? 推量が激しいぞ。 ウエツや富士文献などよ。あとはお前がググれ.
なにを面倒臭がってるんだ? 偽書だと思ってんのか? ならば
そんなことより、女王国畿内説というものこそ偽説なんだよ。
201 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 17:24:15
>>197 何で真書を出さないのか? それこそ怖いのか?
202 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 17:37:06
>>197 お前、威勢いいようだから今度は有コテで来い。そこまで抜かすなら
有コテ可能だろう?
>>200 >何で真書を出さないのか?
お前と同じいいかたしてやろうか?九州畿内関係の史書だ 後はググれ
まーたはじまったw
AA略
>>200 >そんなことより、女王国畿内説というものこそ偽説なんだよ。
これが問題なんだよな。
九州説、畿内説。どちらをとっても双方を併呑した女王国という説が出ない。
結局畿内説と九州説は水と油なんだよな。
自分は九州説に分があると見てるが。
206 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 19:34:16
>>181 はいはいおもしろいおもしろい
じゃあこれでいいか?
いわゆる「邪馬台国」
207 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 19:36:13
>>203 それじゃぁ、うぬも有コテで来い。
それにどうせ真書なんかないんだろう?
208 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 19:38:20
九州王朝を肯定すると畿内説があやうくなる。それでこれを否定するん
だろうが、どっちみち女王国畿内説は偽説。
209 :
九州王:2007/11/12(月) 20:10:10
女王国畿内説が偽説であることが明らかになると、
九州王朝の信憑性が大きくなる。
何としても女王国畿内を守らなければ、
皇国史観が壊れてしまう。
210 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:37:49
>199
はあ?
一般に主たる主張が作者によって捏造されたものも偽書だろ。
日本書紀は、畿内王権が旧王朝ないし王権とは別系統なのに、
不断に連続していることを確信犯として捏造している。
211 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:41:45
コテハン使ってる女王国畿内偽説とか言ってる人達
結局古田説を一歩も出てないじゃないか
そうでないと言うなら確かな文献や考古学の成果でせめて可能性ぐらい証明してみたまえ
フトクニさんみたいな、さも存在したかのような(例:うがや朝)仄めかしはなしよ
存在しない九州王朝(私見)を証明をしろっといわれてもムリ
これを悪魔の証明という
そもそも存在しないのだから
212 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:46:18
211です
×存在しない九州王朝(私見)を証明をしろっといわれてもムリ
○存在しない九州王朝(私見)の非存在を証明をしろっといわれてもムリ
213 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:48:36
畿内説のほうが、古田説に一歩も近づけない電波説だろw
214 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 20:49:09
>>211 ま〜た悪魔の証明か? そもそも存在するって古史古伝には書いてあるんだよ。
お前よりは信用あるだろう? 書いてあるんじゃ仄めかし位はいいだろうが。
それに女王国が畿内のどこにあったというんだい?ww え〜マキムクか〜?
そこにあるんなら近いんで記紀に載ってもおかしくはないだろう。女王国は畿内
の遠方の九州にあるんなら、畿内に情報が伝達しにくいから記紀に書かれてなく
ても当然だろうが?
215 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:51:55
>>213 畿内説て何?
邪馬台国?OR九州王朝?
あなたたち混同してるのじゃないの?
>>210 そういう程度の低い議論かましてどうするのよ。
結局主たる主張と言う奴を主観で決めたらなんでも偽書に出来るだろうが。
217 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:57:59
横から太国に確認。
>>208 太国よ。女王国の所在地はさておき、貴殿は古田の九州王朝説を認めるのか?
あれを認めてしまうと、日本書紀の記述は偽りがある、ということになるぞ。
とくに仁徳紀〜仁賢紀あたりの外交記事は。
それでいいのか。
218 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 21:53:54
>>217 20年余前、古田先生の九州王朝、女王国関係の本を数冊読んだ。そのときは
古神道の卜事(ウラゴト)のおおまかを把握していたので、論述はおおざっぱ
の意味で合致していると観た。その時特に卜事からとりわけピタリと合ってると
思えたのが、文武の時代あたりで九州王朝が終焉したという論のところだ。
それで古田先生の説があってると確信したが、20余年前でそれらの書は家の奥
に入りこんでしまい再読ができないが、あくまでおおざっぱということだから、
詳細まで先生の論と同一ではないはずだ。つまり、同じ九州王朝説でも細かい点
は全然違うんだということになるわけだ。
正解は九州に王朝が存在したのは、崇神ころの卑弥呼の時代から文武の世の頃
までだ。それ以後少しはズレることはありうるが、同王朝は終焉した。
219 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:31:55
>>218 >正解は九州に王朝が存在したのは、崇神ころの卑弥呼の時代から文武の世の頃
>までだ。それ以後少しはズレることはありうるが、同王朝は終焉した。
説は分かったから
可能性だけでも証明がなされていないと何度も・・・
古神道?
古史古伝?
これだけでもいいから説明してくれ
220 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 22:41:35
>>219 古神道のウラゴトだ。古史古伝のウラゴトではないよ。まぁ古史古伝にも
その跡形は書かれてるかも知れんがね?
卜事は古神道の機密的ものだが、将来解説書の刊行は考えている。ただ現今で
発表すべき代物ではない。これはアナログ的に留まるが、神代から未来への
運命的たる勢力の消長を正確に把握できうる。アナログ的ということは
デジタル的ではないので、欠点とも云える。それで倍暦に重要な関心を持つ
わけなのだ。
なんかウラゴトを説明してるつもりらしいが
ウワゴトにしか聞こえんなw
222 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:52:34
>>220 いろいろ書かれて乙
理解力に乏しいのか
「古神道」も「古史古伝」も貴方の脳内の存在としか見えん
223 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 22:53:11
卜事をナメるんじゃないよ。お前ら、余に天下をとられるんだぞ。
ウワゴトじゃなくタワゴトのようだw
225 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/12(月) 23:00:12
>
>>222 古史古伝はWikiを調べればひととおり説明が書かれてるよ。そこを読め。
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・
そしてネゴトで締めるか、太国もなかなかやるなw
227 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 23:20:09
>>225 失礼「古史古伝」については取り消し
ざっと読んだが来歴不明の怪しげな書の総称てことか
ただでさえ出所が怪しいものを「古史古伝」でまとめて語る奴はみんな馬鹿か
神代文字をまとめて切り捨てるのはありだがなw
229 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 01:12:28
神武天皇の話は進んでますか?「古代は輝いていた」ぐらいまで知らないんですが、最近の神武天皇研究はどうなってるんでしょうか?
230 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 01:14:01
脱字 ぐらいまで<しか>知らない
231 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 03:15:34
229も230もわしの書きじゃが、あんまり神武天皇研究って進んでないみたいですね。
232 :
サガミハラハラ:2007/11/28(水) 10:03:14
神武天皇の研究
日本書紀紀年法では橿原即位年は西暦131年ということまでわかってきました。
233 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 00:21:02
234 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/29(木) 00:54:37
>>232 それは年代もなにもはっきりしてるじゃん
橿原の藤原京に6世紀に遷都したんだよ。それが持統元年
現在、橿原にある神武陵(墓)と神武神社は、調べればすぐわかるけど、明治政府が明治時代以降に建てた偽物だよ
神武の墓や神武の神社は橿原には無いよ
神武天皇が本当に初代天皇として存在してるなら橿原の藤原京よりだいぶ前の人だよ
235 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 01:17:20
>神武天皇が本当に初代天皇として存在してるなら
神武が領有できた土地は、非常に小さな土地。村長クラス。
初代天皇というより、畿内天皇の弱小な始祖。
236 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 02:36:04
気をつけれよ
学問板とは遠遠い話になりそうだ
237 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 02:28:20
そろそろコテハン達帰って来そう
age
239 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 20:52:34
古田氏もバカだな
埼玉稲荷山鉄剣発見時の関東大王、九州大王の存在説ぐらいなら蓋然性はあるですんだのに
六世紀以降の存在を主張したためにおかしくなった
信者も結構いるようだけど贔屓の引き倒しだぞ
240 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 20:56:12
九州王朝は文武天皇の時代前後まで継続。
241 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 20:58:48
フトクニ キタ ━━━(゚∀゚)━━━ !!!
九州王朝はなかった
243 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 18:15:39
纏向信者>242の糞脳の中には、九州王朝が見当たらなかった。
244 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 19:16:05
6世紀以降で九州王朝なんて言ってるのは、
トンデモ電波本か地元びいきの郷土史家くらいだろw
8世紀以前の畿内にも、王朝なんかまったく存在しないしな。
九州にはあったけどな。
246 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 22:45:01
電波キター
九州王朝はなかった
そのとおり、畿内にはなかった。
九州にはあったんだが・・・
249 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 01:30:03
アホの脳内にしかないよw
250 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 01:38:52
?
九州王朝はなかった
と、だれもが錯覚した。
253 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 23:06:40
と、アホが妄想した
と無能な学者が信じた。
と学者でもないバカが論じた
という奴は隋書イ妥国伝を100回嫁!
257 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 04:27:37
九州王朝をいうためには古田氏を乗り越えないと
なあフトクニさん?
258 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/08(火) 07:17:11
>>257 君のは論説でないだろう。それになんでも宇佐神宮卜部文書にも九州年号が書か
れてるっていう古田学派さんの話だし、乗り越えなんかもあまり必要ない。
九州王朝はなかった
畿内にはなかった
261 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:55:17
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。
九州王朝はなかった
263 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 23:05:12
畿内にはね。
すげーなこの粘着ぶりw
265 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 23:26:18
出典、プリーズ。
半島の地名を日本語で解いたってただの駄洒落。
266 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/28(月) 00:33:50
>>265 私も
>>261氏と同じ様な見方をしている。
3世紀においても、半島の言語(高句麗・東沃沮・濊・韓)は倭語に近かったからである。
特に弁韓人辰韓人の言語は倭語と相似。
志羅紀の地は辰韓の地と重なるから、その言語は倭語と相似と推定される。
ソース
高句麗語と日本語数詞の近似性
三國志魏書東夷伝の言語に関する記述(非朝鮮語系言語)
7世紀の新羅語は朝鮮語系で、半島を起源としない非半島語
267 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/29(火) 15:05:00
>>261 「志羅紀」に対して、新しい「羅」表記で「新羅」となったのかな?
同じ地域を指すものであるので倭語読み発音は変わらず。
新羅は濊人の国では無い。
なぜなら濊語は高句麗語に似ていて新羅語とは全く別の言語であるからである。
新羅は南下してきた挹婁人の国である。『其國便乘船寇盜鄰國患之』魏志挹婁伝
(挹婁は北朝鮮に似ている。挹婁人≒北朝鮮人)
濊は挹婁に滅ぼされたたのである。そして次に挹婁に滅ぼされたのは志羅紀である。
挹婁は半島付け根(現中国東北・ロシア沿海州・半島東北端にまたがる地域)
以上論拠は魏志東夷伝記事より引用。
268 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/30(水) 14:55:57
魏書東夷伝地図 (他スレより引用)
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵弱水∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜海
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜海
∵鮮卑∵∵∵∵∵∵∵∵夫餘∵∵∵∵∵挹婁┏┛〜〜〜〜〜海
∵∵∵∵∵∵(方可二千里 戸八萬)∵北沃沮┏┛〜〜〜〜〜〜海
∵∵遼東∵∵∵∵高句麗∵∵∵∵東沃沮┏(戸五千 東北狹西南長可千里)
∵∵∵∵∵(方可二千里 戸三萬) (沃沮)┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
━━━┳──────┐∵∵∵∵∵┏┛〜南沃沮位置不明〜海
海〜〜┃∵楽浪郡∵∵│∵濊(貊) ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┠──────┴┐2万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┌┃◎帯方郡∵∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┠─────┬┴───┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵∵∵∵∵│(辰韓12国)┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃(馬韓55国)│(弁辰12国)┃〜〜〜〜韓〜〜〜〜〜海
海〜〜↓┃∵10万余戸│∵4-5万戸 ┃〜〜〜方可四千里〜〜海
海〜┌┘┃∵∵∵∵∵│∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┏┛∵∵∵∵∵│◎瀆盧國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜↓┠──────┘……………┨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┯
海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ↑
海〜↓┃∵倭人地域┏━━━┛〜〜〜〜〜〜倭韓地〜〜〜〜海 │
海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜└→→→→→→→┘↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜七千餘里〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 使譯所通三十國
海〜〜〜〜〜對馬國┃◎┃対馬〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
海〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 │
ダレモイナイ・・・
| ゜ロ゜)<九州王朝は無かった!
|ミ サッ
270 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 03:08:29
そう、畿内にはなかった。
271 :
虹歩命:2008/02/07(木) 23:53:07
過疎っているようなのでここに書きます。
今日久しぶりに新宿のTS劇場にいってきました。踊り子さん、とても熱演しておりました。美しい体を惜しげもなくひらいての御開帳でした。
堂々とあそこもしっかりとみせるのですね。特に川中理沙子さんがすてきでした。若い女性の体の美しさを今日はしっかりと堪能してまいりました。
272 :
虹歩命:2008/02/09(土) 19:44:05
ストリップの歴史を紐解いていきますと、神代の天石屋戸事件にまでさかのぼるようです。意外と古い歴史をもっているのですね。
古事記には「天宇受売命、天の香山の天の日影を手次にかけて、天のまさきを鬘として、天の香山のササ葉を手草に結ひて、天の石屋戸に槽ふせて踏み轟こし、神懸かりして、胸乳をかき出で
裳緒を陰に押し垂れき。ここに高天の原動みて、八百万の神共にわらいき」
日本書紀には「猿女君の遠い先祖の天鈿女命は、手に茅纏の矛をもって、天の岩戸の前に立って、巧に踊りをした。また、香具山の榊を頭飾にし、ひかげのかずらをたすきにし、かがり火を焚き、桶を伏せて
その上にのり、神憑りになったように喋り踊った。」
とあります。神がかり状態となり、服装が大きくみだれたというわけである。
273 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 02:29:17
ナンパの歴史
いざなぎ・いざなみの出会いから
274 :
虹歩命:2008/02/10(日) 09:41:27
読んでわかるように、古事記と日本書紀では描写がことなり、書紀ではインピなる自称をさけている。
これは書紀は体裁をつくろい、古事記は伝承をそのまましるしたといえる。
ここで問題としたいことは二つある。ひとつは服装のことである。
275 :
虹歩命:2008/02/12(火) 14:13:27
胸乳をかき出しとあることから、彼女は貫頭衣は着用していなかったということである。
また、俗に踊っていて彼女の陰部がみえたのでみなわらいころげたともいわれています。
もしスカートのような衣服であればおどっていても陰部が見えることはないであろう。
そうなると、どうもこれは、和服のような衣装だったのではないかということになる。
彼女が夢中になって踊っているうちに衣服がみだれて下腹部が見えたとすれば和服の裾がみだれるというのが
もっともてきせつではなかろうか。
276 :
虹歩命:2008/02/14(木) 10:48:17
倭人伝の記述によれば、倭人の女子は貫頭衣を着用していたとある。とすれば、これは倭国のことではないということなのだろうか。
いやそうではない。このとき彼女は貫頭衣を着用していなかったということである。
絵や写真では貫頭衣だけを着用しているのであるが、思うに倭国の実態では、貫頭衣の下に和服を着用していたようなのである。
現代でも、神社関係の衣装の中に貫頭衣上のものがあり、それらは和服の上に着用している。
貫頭衣は正装やよそゆきのときに着用するものであり、普段着ではないのである。
277 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 01:32:02
>>276 神話や邪馬台国の話は別スレでやった方がいいと思う
九州王朝を肯定的に書くレスは古田説を超えるものはない
むしろ邪馬台国とからめて議論をすりかえてるものばかり
学問的(信頼できる文献からの推理ないし考古学的証拠)な議論を望む
278 :
虹歩命:2008/02/16(土) 08:56:36
問題は九州王朝の解釈であろう。九州王朝が九州における政権保持者のことをいうのであれば、金印奴国や邪馬台国(九州説)の
ことは避けて通るわけにはいかないであろう。
また、神話の範疇にはいるとはいえ、高天原については九州に存在したとの説もあることから、やはり中国の資料等との
関連を論じるのは当然ではなかろうか。
上記のアメノウズメは古事記によるものであり、貫頭衣は魏志倭人伝によるものであり、ともに信頼できる文献です。
もし、高天原が茨城県だったとするならば、九州と関東では服装が異なるとして解釈されるところであるが、九州邪馬台国と九州高天原を
結びつけるとするならば、両者がさしてことなったものではないことを論じなければならないと思い上記のごとき推理解釈をしたものである。
279 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 10:35:10
「九州に大きな国があった」ってだけだろ
んで国の中枢に朝廷を置いた大和が日本をほぼ掌握したんだろ
九州に朝廷があった証拠なんてどこにもないしだれも書いてない
九州地方の縄文文化は6300年前の喜界島の大噴火で滅亡し、
それから数百年もの間、人の住めない不毛の土地になっていたから
亡命貴族が舞い降りるにはもってこいの土地だったのでしょうね。
281 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/16(土) 11:00:02
>>279 九州にはウガヤ朝70数代の記録が古史古伝にあるし、年号の証拠も多彩だな。
無いと言うことは、他説の見聞が0に近い馬脚を現したこと。
倭の五王は短期九州王朝だし、いろいろとある。
282 :
虹歩命:2008/02/16(土) 11:44:21
九州に大きな国があったとは一言も書かれていない。
奴国すら九州にあったのかどうか疑わしい限りです。
284 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 13:15:35
× 九州に朝廷があった証拠なんてどこにもないしだれも書いてない
○ 九州に朝廷があった証拠なんてたくさんあるし多くの人が書いている
285 :
女王國はどこか?:2008/02/16(土) 14:22:22
厳密な九州王朝は6世紀から7世紀。
元号律令があったのはこの期間だから。
5世紀の倭5王はプレ九州王朝。
5王はシナ王朝の臣下とであると名乗っていたからまだ独立した王朝とはいえない。
九州王朝の曙は、肥後横穴式石室墓(古墳)が北上しはじめた4世紀から。
以上が九州王朝
邪馬台国、倭國王帥升、倭奴國の時代は九州王朝とはまだ云えない。
286 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 15:34:24
>>279 古史古伝の話を持ち出してるけど、それしかないのですか?
証拠力に乏しいので別の例を挙げて下さい。
五王=朝廷と言うからには、五王の下で朝廷が存在した証拠を挙げて下さい。
287 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 15:45:42
>>282 魏志倭人伝の中に、日本に王朝があったとは書かれていません。王が統べる国があるとは書いてあります。
あなたは、単なる小国を仰々しく「王朝」と唱えることによって、あたかも自分が常識を覆す偉人であるかのように装っているだけです。
実際はそうでもなく、反発を受けて理論に詰まることを承知しているから
>>282のように見え見えの挑発で議論のレベルを下げるのです。
哀れです。
288 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 15:54:34
記紀のどこにも畿内ヤマトに王朝があったとは書かれていないな。
そのままヤマトには王朝がありませんでしたってことでいいわけ?>287
289 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 16:31:17
大和朝廷の場合は律了制の下に朝廷もしくは朝廷に類するものが存在したことは明らかです。
ただ初期の大和に朝廷が存在したかと言うと、私は判断できません。
290 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 18:34:03
>289
記紀のどこにも畿内ヤマトに王朝があったとは書かれていないでしょ。
同じ理由で九州王朝がなかった証拠になるの?
291 :
女王國はどこか?:2008/02/16(土) 19:03:57
>>289 >ただ初期の大和に朝廷が存在したかと言うと、私は判断できません。
大和に朝廷とみなしてもよいものがでてきたのは8世紀から。
畿内の7世紀以前は九州の4世紀レベル以前の状態。
日本書紀卷廿二推古記の殆どが7世紀末の出来事の挿入。
292 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 19:22:22
>>290 まず「朝廷」という言葉の意味から考えて下さい。
私が九州に朝廷があった記録が無いと言っているのは、律、制度、組織諸々含め、朝廷の存在を証明できる記録が残っていない、という事です。
293 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 20:05:50
>292
畿内ヤマトに先駆けて、連続した元号を持ち、法を制定した九州の王権があるのに、無視しちゃうわけねw
294 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 23:02:56
その王権には朝廷があったんですか?
その王権の名称は?
王がいれば朝廷もあると勘違いしてませんか?
295 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 23:13:03
極東の最大級国家で、連続した元号を持ち、兄弟統治制度や
法制度があるような大国が、九州にあった。
畿内ヤマトにはそんな立派な制度も権力もなかった。
294のほうが勘違いでしょうw
296 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 00:05:41
極東最大級というのが曖昧且つそれについて何も証明していませんね。
畿内に存在しなかった、という事についても証明していません。
兄弟で統治というのは、邪馬台国を例に挙げて宜しいんでしょうか?
法についてですが、王が入れば必然的に法は発生します。
なぜなら王が居ることは、王をトップに据える決まり事が存在するのとイコールだからです。
年号が連続するというのは、記紀からの推測ですね。
さて、朝廷というのは、簡潔にいえば国家の中で政務を司る機関の事です。
もう、その機関の存在を証明して下さいと言っても、議論が平行してしまうので、
あなたが言う通り、法があれば王朝としましょう。
先に述べたように、またこのスレの論理の拠り所は記紀を始めとする文献にあるようです。
魏志倭人伝には邪馬台国の他に王権国家がいくつか出てきます。それらを王朝とするからには(王がいるので法の存在が推測されます)、
所謂九州王朝と銘打つ王朝はより巨大で具体的でなければなりません。
具体的というのは、年号の連続性を証明する必要があるからです。
かなり前のレスになりますが、五王が九州王朝の祖であることが書かれていました。
あなたが五王が九州に実在したことを証明できれば
「政務機関が存在したか不明であるが」という前提のもと
大和朝廷へ続く九州王朝の存在が証明されます。
さ、頑張って下さい。それがこの議論のひとつの結論になります。
297 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 00:41:39
あいうえお
298 :
女王國はどこか?:2008/02/17(日) 01:14:43
>>296 九州年号(二中歴 麗気記私抄 海東諸国記 如是院年代記 襲国偽僭考 和漢年契 寺社伝承古文書 )
517年〜698年
磐井律令(「贓物」「偸人」)
兄弟統治『倭王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟』
年号「法興」と「倭京」
上宮法皇
299 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 02:25:54
畿内ヤマトは、極東最大級の国家でもなく、連続した元号も持たず、法制度もなく、王権の制度もないことが、
記紀によって証明されますね。九州にはあるんですけどね。
300 :
あ:2008/02/17(日) 06:22:41
誰かタイムマシン作れば全て分かると思うよ。
301 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 06:31:35
畿内ヤマトは大古墳群を作っていますよね。
にもかかわらず、法制度もなく、王権の制度もないことが、 記紀によって証明されているのですか?
302 :
296:2008/02/17(日) 12:42:50
303 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 12:45:33
立派な制度を作ったなら、記紀に「制定す」とかけばよろし。
九州王朝はどこにもなかった
終了
305 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 02:47:40
と思ったら、九州にあった。再開。
306 :
虹歩命:2008/02/20(水) 09:49:49
王朝や朝廷という言葉をあまりにも細かく規定しすぎてはいないだろうか。
細かく規定してちょっとでもあっていないところをみつけては否定する傾向があるようだ。
近代国家は憲法を持っているがイギリスには憲法がないので近代国家ではないという論法になる。
307 :
女王國はどこか?:2008/02/20(水) 11:58:49
二元統治
『倭王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟』隋書俀國傅
倭王(以天爲兄)=宗教王=兄王=天皇=天子=卑弥呼・壹與・卑彌弓呼・持統
倭王(以日爲弟)=世俗王=弟王=法皇(上宮法皇)=天子=多利思北孤・薩耶摩・磐井・讃・珍・済・興・武・狗古智卑狗・帥升・倭奴國王・天智・天武・(応神〜持統歴代天皇)
持統及び文武以降は兄王弟王が統合され天皇となる。
308 :
女王國はどこか?:2008/02/20(水) 22:01:48
二元統治 追加
倭王(兄王)=伊都國王
兄王元号:九州年号
倭王(弟王)=倭奴國王
弟王元号:法興(多利思北孤一代限)
九州王朝は無かった
終了
310 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:07:25
九州以外に九州王朝はなかった。以下、開始!
311 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 09:50:49
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
312 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 11:11:50
九州だけに王朝が普通にあった。
313 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 06:03:27
呆れますね…
どうせここは、九州居住者の主催するスレでしょう…
いいですか?
仮に九州に大規模な政権があったとしても
天皇家の系譜に繋がらない政権を
王朝などと認めることはできませんよ…
それらは飽くまで「私政権」に過ぎませんよ…
単に独自の元号を使っていたとか、大陸と交易していたとか、
そのような行政的な事実のみをもって
「王朝」などと認めることはできませんね…
それが王朝なのかどうか、最終的な判断基準は、
古代天皇家との系譜上のつながりですよ…
それさえあるなら王朝として認めても問題ないでしょう。
しかしもし、その政権が仮に
大和王権に対立するような立場にあったのなら
その呼称はせいぜい「九州政権」にとどめるべきでしょうね…
それが日本人としての良識でしょう…
314 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 06:08:49
確かに中国などは25個もの王朝を是認する国です…
しかし王朝が死滅してしまって
単にそれを学術的な問題として扱っている中国と
仮に建前にとどまるとしても
神代からひとつであったと主張する王室が
健在する日本の国民とでは
その感性が異なってしかるべきですよ…
権力の実態があればそれでよい、などというのは
いかにもeasy goingな中国人の発想ですね…
それは毒入り餃子問題にも端的に現れている…
あなたは中国人か…?
権力の実態を至高の価値とするのですか…?
だとしたら日本史を愛好する資格はないですよ…
まるで街中のチンピラと同じ感性じゃないですか…
中国人留学生と同じですよ、あなたの心は…
315 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/01(土) 07:25:55
>313
当時の畿内と九州は双方の彼らにとっては別国気分ですよ。つまり一歩進んで
言えばお互いに外国だということです。天皇家の系譜のつながりはなくても
外国なら当たり前。なら聞きますが外国のウマイヤ王朝っていうのは天皇家と
系譜のつながりなどあるんですか?w これは王朝でしょう?
九州政権にしたい?まあそのくらいの言い方で意味がある程度違ってきますが、
継続性は朝廷ほどはないものの言い回しはそういうんでも狭小評価はかまわん
と思いますよ。
316 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/03/01(土) 15:15:44
>>313 >呆れますね…
>どうせここは、九州居住者の主催するスレでしょう…
ぼくの本籍地は奈良の奈良育ち、現在阪神間在住だよ。
317 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:50:06
僕は生まれが群馬県、今住んでるのが神奈川県。
関東以外に住んだことがない。
しかしどう考えても遣隋使を遣ったのは九州王朝だと思うし、
卑弥呼は福岡県の人だと思う。
日本列島に王朝といえばヤマトのみ、であるとか、
九州のド田舎に王朝があるはずない、であるとか、
妄想はいい加減にやめてほしい。
C14によって、九州の遺跡や出土物の年代判定が
今考えているよりも150年〜数百年も古いことがはっきりすれば、
少しは妄想君にも理解されるだろうと思う。
318 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:54:33
>>どう考えても遣隋使を遣ったのは九州王朝だと思うし、
>>卑弥呼は福岡県の人だと思う。
ここって、ほとんど狂人の集まりだな…
冗談ヌキで怖い...
旧唐書はすでに論破されてるだろうに…
319 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:26:38
畿内ヤマトの強引な言い分が採用された、新唐書と
中国側が素直に理解し、日本国と倭国が別な国とする、旧唐書が、
それぞれ立場を異にしているという事実が、どうかしたの?
320 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/01(土) 17:38:28
女王国のあったころは、九州と畿内の本州とではもう別国気分、これが彼らの
思い。東京マラソンで42km余を走るのでも大変な労働。あれを見てても古代は
新幹線も飛行機も車もない時代で、せいぜい馬があれば多少は便利だが、あとは
船しかない。歩いたり、マラソン以上の長距離では42km余どころではない。
だから九州と畿内のほうとは外国同士での遠隔にあり、そういうことを念頭に
入れて当時を考えるのが妥当。まぁさっきの無コテさんの言うとおり、九州王朝
の言い回しがダメだと言うなら、彼の言う「九州政権」の狭小的言い方の
主張も否定までには至らず、これも間違いとは言えない。
321 :
虹歩命:2008/03/01(土) 20:28:33
ところでふと思ったのだが、平将門が関東に覇をとなえ一時独立したのであるが、かれの政権は王朝ということになるのであろうか。
322 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 21:25:04
王統とそれを支える人員体制や制度・システム、
さらにそれらの連続性が必要だと思う。
元号が散発的で、王統がずたずたな7世紀までの
畿内ヤマトなどはも、王朝の体を成していない。
323 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 23:52:00
>>平将門が関東に覇をとなえ一時独立したのであるが、
>>かれの政権は王朝ということになるのであろうか。
ここってさぁ、もっと真面目な人いないの?
「将門記」に書かれた「新皇」即位とか、あれは架空なの。
実際、将門は私君の藤原時平に
泣かんばかりのとりなしを頼んでいる。
その手紙、残ってるのよォ。
>>319 貴様は正真正銘の狂人だ。
まるでウィーン時代のヒトラーだよ…!
324 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 01:33:39
旧唐書によれば
もとは小国だった日本国が、倭国を併合した
新唐書によれば
倭国は日本国になった(これは畿内ヤマトの言い分そのまま)
狂人を隔離しておくスレですので一般の方は来ないでください
何を言っても無駄だし、論破されてもバカなのでわかっていません
326 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 02:03:13
はあ?
論破も何も、書いてあることそのままでしょ。
327 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 05:32:34
コテハン共
学問的な書き込みをしてくれ
議論はそれから
328 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 07:41:42
大陸も半島も当時は多国に分かれていた状態が大半であって、日本のみが一国
だけだという考えが狂人の考えだと言ったほうがまだ本当とだと言える。
それは今は日本も中国も一国での統一となったが、まだ半島は二分されてる。
だから当時の日本は九州と畿内とは別国であり、さらに倭人伝を見れば、九州
はまだ小国がうんとあったわけで、このころ畿内は一国的状況の天皇の統治下
なっていたというのが真。時代の降下で、畿内の朝廷の勢力により支配範囲が
順次拡大して、九州王朝(九州政権にしろなら九州政権)は文武の時代あたりで
滅んで、記紀のできた元明元正ころで蝦夷は知らんが全国制覇的となったもの。
329 :
横槍:2008/03/02(日) 10:15:07
>>330 何故丹波道主は、開化天皇を丹波の国に奉ったんでしょうかね?
330 :
横槍:2008/03/02(日) 10:41:41
331 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:05:22
>>当時の日本は九州と畿内とは別国であり、さらに倭人伝を見れば、
>>九州はまだ小国がうんとあったわけで、
こういう推論自体には、誰も異を唱えてないでしょ?
最近の考古学は、当時の日本列島に
幾つかの異なる勢力が並存していたことを裏付けている。
このことに誰も異論はないんだよ。
だが、あんたらはそれを「王朝」だとか「別国」だとか
不必要に挑発的な言葉を使うでしょ?
今の一般人が「国」と聞けば、それは即座に近代国家を意味し、
従って異なる民族、異なる風習、異なる言葉など、
まったく異なる国境線が存在したかのような錯覚をうける。
それは罪でしょ?
倭人同士のなかに、アイヌ系だとか、蝦夷だとか、
日本海系(朝鮮含)とか、そういう「勢力」が並存したとか、
それぞれが「別種の政権」を築いていたとか、
そういう言い方をすれば抵抗なく受け入れられんだよ。
確かに「九州王朝」という言い方はとても刺激的で、
おそらくこのネーミングが人気の核なのだろうが
この言い方をする限り、マイノリティに終始するだろうね。
332 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:14:10
たとえば徳川幕府を事実上の「王朝」と呼ぶ研究者は多い。
国民的歴史作家だった司馬遼もそうだよ。
幕府権力の実態が天皇家を圧倒していることを知っているからだ。
しかし一般人に「徳川家康は王だ」とか
「徳川幕府は徳川王朝だ」とかいって、すぐに納得するだろうか?
「事実上の王だ」とか「事実上の王朝だ」とか言えば納得するだろうが、
「徳川王朝だ」と断言調に言えば
「実力はあるけど幕府は幕府で、王朝とは違うでしょ」という
反応になってしまう。
九州王朝説も似たところがあると思う。
九州政権論というかたちで展開すれば、俺自身、何の抵抗もなくなる。
「まぁ、そうだろうな」という感じでしかない。
なぜなら俺らの世代は、
古代天皇家は輪番制だったはずだと教えられており、
複数の権力集団があったという事実にまったく違和感がない。
それを天皇家と張り合おうとして「王朝」だとか
「大宰府にも朝廷が」という部分を強調するから、
マニア向けの奇説と受け取られてしまう。
333 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:25:30
>>古代天皇家は輪番制だったはず
あんたが自分で言うとおり、
ようするに西日本各地に大王になれる格式をもった豪族、
つまり「王」がそれなりの数、いたことになるよな?
だったらどうして九州に「王朝」があっていけないんだよ?
むしろ日本各地に「王朝が乱立していた」と書くべきだろ?
どうして王朝という表現じゃいけないんだよ?
王朝と名乗ってはいけない、その理由をうかがいたいね(笑)
今の御時勢に万世一系かよ!?
あんまり権威主義的なこと言うなッ!
正直、あんたみたいのは腹が立つ…
もう二度と日本史板に来るなッ!
334 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:30:29
九州王朝というのは、ウガヤフキアエズ朝のことだよな。
神武以前の話だ。
335 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:31:08
俺は九州王朝という建前を絶対堅持すべきだと思うね。
否定派は九州独自の年号を私年号などと呼ぶが、
それが差別以外のなにものでもないこと、きづかないのか?
九州は独自の外交を行い、元号も持っていた。
立派な王朝だろうが?
このバカ野郎ッ!
否定派は全員、日本史板から出て行けッ!
糞差別野郎ッ!固定観念野郎ッ!
おまえらが日本をダメにしてんだッ!
336 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/03/02(日) 20:05:21
>>331-332 畿内の政権を「朝廷」と言いい、大王を「天皇」と言うなら、
九州の政権を「王朝」と言わねばならない。
「九州王朝」は古田氏の名言だな。
337 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 20:39:17
>>331 >不必要に挑発的な言葉を使う
これらの語は歴史を論じる場合に必要。日本と中国は別国だよ。同国では
ないぞ。だいたいお前こそ挑発的言動ではないのか?
>アイヌ系だとか、蝦夷だとか・・・そういう勢力が並存したとか
ここでは九州王朝の所在についての論であり、そういう要求は二次的の議論
だろうが? そこまで論じるのもいいわけだが、それが所在の有無に関わ
る場合もあろうが、そうでなければそこまで民族論的ことにつっこむ必要まで
には至らでよい。
>>332 古代天皇家の即位に関しては輪番制ではない。
338 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 23:44:40
>>古代天皇家の即位に関しては輪番制ではない。
じゃ、血統でつながってるの?
339 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/02(日) 23:48:25
>>338 よそ者は入ってないだろうが。どこにクルクルと即位がタライの
ように巡って来るのか? そんなはずはないよ。統治の日本は
民主主義ではないしね・・・。
九州王朝は一切存在しない
341 :
日本@名無史さん:2008/03/03(月) 23:21:14
畿内には九州王朝が一切存在しない。
王朝と呼べるレベルのものができてないのにわざわざ王朝を使わなくていいよ
九州に昔畿内とは独立的な政権があったが、おまえらのいうような王朝ではない
せいぜい小国かその連合政権
時期もいいとこ4世紀までだな
343 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 00:07:34
未開だった畿内ヤマトとちがって、
連続した元号を持ち
聖俗二王で統治する体制を敷き
極東の筆頭国として君臨した
九州の国は間違いなく王朝だ。
え?ヤマトはどうだって?
極東にたくさんあった弱小国のひとつだね。
九州王朝はなかった
終了
345 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 00:25:52
畿内にはなかった。
九州だけに王朝があった。
以下開始!!
九州は王朝というより、首長層による連合体だったと思われる。
邪馬台国九州説が正しければという前提であるが、卑弥呼が共立された女王であった事を考えれば、やはり王朝というより、首長層による連合体である。
347 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 00:55:02
7世紀以前に王朝だった日本列島の国は、九州だけだな。
ずっと王朝の体制だったわけじゃないが。
畿内は7世紀以前、一度も王朝だったことはない。
4世紀頃まで九州に小国連合政権があった
以上終了
349 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 03:04:53
もっと核心を突く議論しろよ。
この国において天皇家以外の者が主催した権力を
「王朝」と呼ぶのか、呼ばないのか。
そのことをまず議論してくれよ。
350 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 03:32:34
>九州は王朝というより、首長層による連合体だったと思われる。
だろうねえ、、倭国王師升等(ら)だし
351 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/04(火) 07:47:14
>>342 厳格に徹すればそういうことになる。連合はどうでも、年号が出てるのはもっと
後代で、王朝でもいい。どうしてもダメなら準王朝、九州政権でもいい。
>>347 同様に厳格なら見方によるがほぼ正解だろう。
「畿内は7世紀以前、一度も王朝だったことはない。」
多分これが真相だろう。
その場合、「古事記」で先ず設計図を作成して、
「日本書紀」に大成したことになるだろう。
353 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 12:03:56
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
354 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 20:22:41
阿蘇山で国家の祷祭を行っていたのが特徴の「イ妥国」には、
連続した元号があり、兄弟統治を行う王統の継続性もあったようで、
王朝といってよいだろう。
いっぽう畿内では、7世紀以前に王朝は見られない。
355 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 20:28:40
356 :
九州王朝大好き:2008/03/05(水) 20:52:17
>>355 反論済
と言うより、
『九州王朝説批判』は批判になっていないね。
反論済みてwww
358 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 21:57:53
>>356 『批判』の門をくぐった人は
もう九州王朝説は支持できないと思う…
あれほど詳細な反論をどうして受け付けないのか?
あなた方は本物の狂人なのか?
359 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/05(水) 22:24:20
>355
そういうサイトがあろうことは直感で思っていたが、とりわけ今回
始めてみたものの、かなりの長文と窮屈なスペースデ読むには時間が
かかるなぁ? 最初のほうをよんだが中国古文献と記紀の古い新しい
から古いほうか〜? そっちを信用するとか、こういうことは古田
先生の説か忘れたが(ニ十年ばかり前、数冊読ませてもらったが)、
先生とそれがしとは見解が違うところはあるだろうが、とにかく
中国古文献のほうは日本のある地域においてはそこの詳細を充分知悉
していなかったと見るべきで、たまたま北九州まではいいが、以南の
奥九州に関しては明察が行き届いていないと思ってよい。だから各
記述に交錯があって統率的ではないとうだ。
それに九州王朝が記紀に断片的記載と思えるというものは、いまの
ところなんとも?だが、女王国同様明快にこれが九州王朝だという
記述のものはないようだから、やはり畿内から遠方にある九州王朝の
情報が取れてなかったと観てよい。つまりなにを言ってきても、当時
の九州と畿内のほうとでは別国気分だったと思っていいだろう。
360 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:27:11
>>そういうサイトがあろうことは直感で思っていたが、
>>とりわけ今回始めてみた
この論支持者のレヴェルが垣間見えた(笑)
俺はもう、金輪際、このスレには二度と足を踏み入れない
狂人ではなく、無知な人の集まりだったのだな(再笑)
無知はそっちでしょ。批判材料となっている文献を
ちゃんと読めばわかるよ。一部で解釈されたものを読ませられるというのは
洗脳の常套手段だし
362 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/05(水) 22:35:18
>>360 そんなサイトを重視なんかしてないよ。お前さんも否定論者か?
無知どころか、そんな文献の集合で古代をみる一般のやり方と違う
方法というのがお前は無知で知らないようだが、あるんだよ。
無知というのはこっちの言うセリフだ。
当たり前だ。 確な九州王朝の記載なんて記紀にある訳がない。
畿内から遠い外国になるのが九州。たまたま半島遠征に行くときだけ
北九州を通ったり、景行の行幸があるくらいの、朝廷では未知の土地
なのさ。
363 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:35:32
>355
あんなチョロいサイトで、いちいち九州王朝説がひっくり返ってたら、
毎日何度もひっくり返らなきゃならないだろw
365 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:56:36
>>364 (1)はちょっと見ただけでも古いよ。
卑弥呼の墓は円墳で前方後円墳ではない、などといっているが
マキ向なんかは、最初、円墳であったことがはっきりしてるだろ?
あそこが卑弥呼の墓として一番臭い、といわれてるんだから…
366 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/06(木) 00:01:01
とにかく年号がうんと出てるんだから、もう九州王朝の存在は間違い
ない。否定は年号だとかを彼らが偽造にでっち上げること位だな?
偽造って言うや奴は根拠、論なしで、ただちに偽造を強調するから
相手の内心がわかるというものよ。
なぜ否定をしたいかというと、安本先生はそういうことからでは
ないようだが、九州王朝の存在は女王国が九州にあったこととなって
くるから、畿内論者が研究して崩せないかと必死に反論するわけ
で、それをしても畿内に女王国はありっこないから、やるだけ無駄な
労働さ。
367 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:08:29
九州は私年号の宝庫
368 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:19:46
そんなちょろいサイトにまともな反論もできないのが九州妄想説
ちょろい説だなおいw
369 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:13:23
九州王朝つーても
北九州と南九州は明らかに別もの
370 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:14:11
九州王朝を認めない奴は、このスレから出て行けッ!
目障りだッ!
371 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:45:12
>367
そんな九州年号「私年号」が、うっかり記紀に出てきてしまう、
畿内政権の迂闊さについて
372 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:46:11
>368
全然九州王朝説の否定になっていない点について
373 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:56:49
九州王朝を認めたら
日本史の体系が崩れると、本気で妄想してるんだろうな(笑)
事実は揺るがないよ
九州王朝はなかった
終了
375 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 20:09:36
九州にはあった。
開始!
九州には九州王朝≒倭王朝があった。
勿論、地方政権には該当しない。
377 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:32:46
反論済みと称してまったく内容に触れようとしない九州王朝論者www
>377
それは畿内派に言ってくれ。
学会とか定説とかいう言葉を使うのに、論文のひとつも出せやしない。
「古代史の論点」で批判されている。
377氏が、妥当と思う論点を具体的に示してくれれば、
このスレが有意義に展開すると思うよ。
あなた自身が「妥当と思う論点」を示してください。
380 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 10:39:55
>>371 >そんな九州年号「私年号」が、うっかり記紀に出てきてしまう、
>畿内政権の迂闊さについて
続日本紀にも九州年号が出てくるよ。
「そんな昔の年号は知らない」と。
日本旧記とか墓記とか帝記だっけ?こんなのが残っていれば
古墳のナゾもまるっと解決するのにね
まあ実を言うと九州王朝なんて無かったんだけどね
383 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:31:29
畿内にはなかったけど、九州にはあったのさ。
384 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 04:15:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
パタ直営店の店員は濃すぎて嫌い
ニット被ってたりして服濃すぎるし喋り方とかナル入ってる
パタゴニアカラー強制されてるのか店買いのノルマあるのか解らないが
とにかく客がプレッシャー感じるのはどうかと思うな
俺は古墳散策するときアウトドア系でハイカー装ってるよ
奈良とかは似たようなオタ臭を感じるオジサンもよく見かけるよ
>>7 今更あれだが、
本人が撤回してないからその説が正しいというなら、
副島隆彦の月面着陸ナイナイ論も正しいのか?
387 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 07:46:20
>>386 月面関係はどうだか知らんよ。そういうことは言われているがね? コカコーラ
のビンが月地面に写ってたとかいう話だったな? 本物と公開用ニセ劇との兼用
があったかも知れない。
九州王朝は年号が出てるからもう間違いなくあったことは動かないよ。あとは
否定者がギゾウだとか根拠もなしに大々的にデッチ上げることはたるだろう?
東国に大王あり。名を卑弥呼といふ。
389 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 09:36:32
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
390 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 10:52:37
というわけで、九州王朝は間違いなく、畿内王朝に先行して存在しました。
九州王朝の年号のほかに、多分、一番の根拠は、
「隋書」の、「邪馬臺=邪靡堆」と「阿蘇山」だと思うよ。
邪馬臺が九州でないと、根拠は非常に弱くなる・
392 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:24:13
>>391 「臺」の字は倭人伝を読んだ他の中国古文献の著述者が当時ヤマトという日本
の国の呼称をすでに知っていて、倭人伝が「邪馬壹国」とあるのを不審に想い、
ヤマトではないのか? との疑念を持っていて、トの音韻の漢字に変更して
修正して同文献を著そうとしたが、迷って「壹」の字に似る「臺」がト音に近い
(タイ音?)ので、それで間に合わせたが、後代それをヤマトたる使い方をして
る畿内と勘違い交錯して、以後「邪馬臺国」とする古文献が増えてしまったと
いうこと。また「都」とかでト音として国名を書くと、倭人伝から逸脱の度合い
が大となるし、よもや彼ら著述者が倭人伝のほうが正解なのを恐れて似た字の
「臺」の字で小康状態を選択し、やむを得ず記載したもの。
393 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:26:36
>392
違うんじゃないですか?
隋書では「イ妥国」になってますから。
394 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:36:01
>>393 俀国も倭(ヤマト)国の代用字で、いいだろう。
395 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:39:03
「倭」の字はヤマトとは読めませんし、中国人も読みません。
396 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:42:09
じゃぁ大和(ヤマト)は大倭でかまわんだろう。記の国生みに
「大倭豊秋津嶋」とあるしね。だから倭をヤマトと読んでかまわん。
397 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:43:12
「大和」の字はヤマトと読めませんし、中国人も読みません。
398 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:49:52
これは特殊読みで読める、中国人は通常は読まんだろうが、今の日本人が米国
をアメリカとかU.S.Aとか読めるように、倭をヤマトと読む情報くらい大陸に
伝播してるよ。記の国生みにあるんだから、否定は間違い。
400 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:53:15
当時の漢籍の表記ではありえませんね。
たとえば隋書イ妥国伝に、列島側の王様と后の名前がなんと書いてあるか。
401 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 15:54:43
402 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 16:01:09
>401
はあ?事実かどうかですが。
「太国」と書いて「メタボ・カントリー」って読めますが、
世界標準でそう読まれていると信じれば、それが事実になりますか?
403 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 16:03:08
>>402 お前こっちをなめてるのか? ほかの例えで言え。
ワロタw
405 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 16:46:25
>>402 お前、
>>400の内容が具体性がないから分かるように書きこめというところ、何で
余の名前でからかって無礼をするのか? それにお前は否定するのはいいが、
単に中国人が読まないとかくらいで、否定の具体性も乏しいぞ。
それにこっちの論は一般的意味で言ってるのだから、何か個別に書を出して言っ
ところで、それがお前の言い分が通る書であってっも他のうんとはまた別だ。
>>392 「臺」の字の説明について。太国さんの解釈。
倭人伝を読んだ他の中国古文献(「後漢書」)の著述者が、
当時(AC400ころ?)ヤマトという日本の国の呼称をすでに知っていて、
倭人伝が「邪馬壹国」とあるのを不審に想った。ヤマトではないのか?
トの音韻の漢字に変更して修正して同文献を著そうとしたが、
迷って「壹」の字に似る「臺」がト音に近い(タイ音?)ので、
それで間に合わせた。・・・これは一つの解釈ですね。
私は、魏志の著者(あるいは検閲者)が、撰修の時点で(又は撰修後)、
原資料(あるいは魏志の原文)にある「邪馬臺」を、
「邪馬壹」と書き換えてしまっていた、という可能性もあると考えます。
その論拠は、それこそ、古田氏の「貴字」の説を逆用したものです。
407 :
九州王朝大好き:2008/03/13(木) 18:09:14
>>406 >>392 元々は「委(イ)奴國」であり「倭(イ)國」であったので「邪馬壹(イ)國」とした。
後世に資料引用した時「倭(イ)國」は「大倭(タイ)國」であったので、
「邪馬壹(イ)國」は誤記とみなし、字体の似た「邪馬臺(タイ)國」とした。
同様の文字変更は「邪摩(惟)堆」と「俀」に見られる。
408 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 18:18:04
「倭」は日本を表す場合「ワ/ヲ」と読むことになってる。
「イ」と読むことはない。
倭人伝は隋以前の写本でも見つからない限り
写し間違いが多いと云わざるを得ない。
409 :
九州王朝大好き:2008/03/13(木) 18:28:20
>>408 「委」は「イ」音であるから、「委」に人偏を付けた「倭」は「イ」音となる。
410 :
九州王朝の論理:2008/03/13(木) 18:37:04
バッタは動物である
福田首相は動物である
従ってバッタは福田首相である
411 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 18:59:28
>>406 魏志倭人伝の最終部に『詔臺』という言葉が使用されているため、『壹』→『臺』の書き間違いとは一概に言えないですよ。
徐福は秦の始皇帝に仕えた斉の人、つまり倭人。
東海の蓬莱山にあるという不死の薬を求めて出港したのはBC244年。
徐福の連れてきた子女は7人だったが、日本に来てから3人の男子を得、計10人となった。
子供たちは姓を福の一字をとって、長男は福岡、次男は福島、三男は福山、四男は福田と
称した。始皇帝の死後間もなく秦は崩壊したわけだから、類縁にあたる魏の国に使いを送った
とすれば、すぐれた航海術を持ち中国の内情に明るい徐福集団以外に考えられない。
従って、邪馬台国は富士古代王朝に間違えありません。
福田首相も徐福の子孫として国を治めることになったのも、当然の帰結だと思われます。
413 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 19:25:19
どちらにせよ、中国人が「倭」を「ヤマト」と読んでいた可能性はありません。
414 :
大和朝廷の論理:2008/03/13(木) 20:24:10
>>410 福田首相は動物である
バッタは動物である
従って福田首相はバッタである
なるほど、福田首相はバッタ物って言うことか。
415 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 20:27:26
>>413 可能性ないなら根拠を駄品。 なきゃぁ、暖簾に腕押し。w
それがしも九州大好きさんのその(
>>407)考えを想っていたところ
です。正解はそのへんでしょう。
416 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:33:46
読んでいない証拠は存在しないので、中国人が当時、倭をヤマト読んでいたと
主張する人が、その証拠を出すしかないでしょう。
417 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 20:40:15
>>416 >読んでいない証拠がない
ないなら
>>413に、そういう主張はできないと諭せ。そっちのほうへ
言えよ。そうでないと、お前は証拠がない>413の肩を持っていること
になる。
418 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:43:34
正確に言えば、読んでいた形跡が一切ないのだから、読んでいないというべき
419 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 20:47:10
>>418 あんたが自分で墓穴を掘った言葉から言い訳の訂正だな。ww
420 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:51:48
根拠がない太国氏の妄言に、忠告したまで。
でたらめを言いふらすのはやめましょう。
421 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 20:54:30
>>420 あいつも根拠は言ってないよ。お前も言ってないがね。お前も
でたらめの片棒をかつぐなよ。
422 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:57:28
中国人が「倭」を「ヤマト」と読んでいた証拠はないのですね。
それなら、反論しないで矛を収めてください。
423 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 21:07:21
>>422 お前も読んでないという証拠を出せよ。お前が出してこっちが出さ
ないなら論を止めてやるよ。え〜?悪魔の証明で頑張るか〜〜?
隋書以前に日本に中国人は一回も来なたのかねぇ?w ヤマトも
知らないで全員帰国したのかねぇ? どうせお前、紀無い説者なん
だろう?ww
424 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 21:08:47
425 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 21:17:46
ははぁ分かった。やはりそうか〜。隋書のその記述は畿内論者の大事
な拠り所なんだ?
言っおくが、頑張ったって畿内に女王国はないよ。毎回聞いて
るんだろうが、あるんなら記紀に載るだろう。朝廷のお隣りさんよ。
地図上で目と鼻の先。そういうところに女王国があれば、天皇国に
よりそう場所の女王国の記事があるなら紀の原書にあるはずだから、
舎人親王らは記紀に大幅なスペースをこの記述に費やすだろうがね。
それがないんだから畿内にはない。この厳然とした事実を早く知っ
て畿内説を放棄したほうがいいぜ。
>>411 魏志倭人伝の最終部に『詔臺』という言葉が使用されているため、
『壹』→『臺』の書き間違いとは一概に言えないですよ。
・・・私の仮説(
>>406)は、「書き間違い」だという主張ではありません。
古田氏は、「三国志」において東夷の国名・人名に、貴字である「臺」の字を
用いることはありえない、との論を張っていました。これを容認するとして、
原資料に「邪馬臺」とあったとしても、執筆者は「臺」を使えなかった、
その結果(我々に残された「三国志」については)「壹」を代用した。
・・・古田の論法借用すると、このような推測も可能だよ、ということです。
九州王朝の存在を示した本物の古文書があれば一発なんだけどねえ。
年号にしたって、書いてる資料は古くとも中世のものだしなあ。
まあ、確かに、だからと言って九州王朝の存在を絶対否定する必要もないけど、
絶対肯定も出来ないと思う。
九州から「東日流外三郡誌」みたいな古文書が出てきて、
それが本物と確定できたら。
とにかく、太国はがちがちすぎる。
あれでは皆から反感を買うのは当然の事。
ロクな証拠もない無視された説だからあえて確定的に言わないとアピールできないんだよw
429 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/13(木) 22:54:45
年号が出てるから、もう動かないね。あとは反論者が否定の論を
即創作だとか偽造だとかで信用度を故意に低下させる運動をやるも、
厳然とある年号からは否定はむなしいものよ。時間はかかる。
古文書じゃなくてもあるでしょ>年号
記紀だとそんな昔のことは知らん、と書かれてるわけで
>>380 書き方が非常に曖昧。これがイヤらしい所なんだけど
記紀作成にあたり相当厳しい書物の取り締まりをしたようなので
文書系は難しいんじゃないの
ただ山の中とかで逃げ延びてまで持ってた人がいるなら・・・って無理か
木簡や紙じゃ土にかえってるだろうね。ツマンネ
私は九州王朝説を無条件で信奉する者ではありませんが、
古田説から生き残る部分を採用することによって、
古代史の難問の或るものが氷解するのは確かだと感じています。
仮に、かの説が真実だとすれば、島国であるおかげで、
我が国は焚書のごときな手段により、統一国家が作られたという、
世界でも稀な国であることになります。(実質:天智、理論:不比等ら)
古田説が完全に誤謬ならそれはそれで構いません。私もいい歳ですので、
生きているうちに是非をはっきりさせてもらいたいと思っております。
432 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 00:23:01
ニニギの子孫である神武がニニギの国を継承せずに新たに「天基を草創」したんだから、
ニニギの国はどうなったのかが問題だ。それが九州王朝だってこと。
天武がニニギの国を継承する宣言をして、九州王朝を吸収合併したわけだが、
旧唐書はそれを認知しなかった。新唐書は認知した。
>>429 九州年号が絶対に本物だとする根拠は?
誰も絶対否定なんかしてないよ。
ただお前が絶対肯定する有様に疑問を抱いてるんだよ。
434 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 07:51:35
>>433 金印偽造説も出てるが、刑事裁判級の根拠、証拠をやってたら、あんたが死ぬ
まで古代史の真相は納得しないで終焉だよ。だからよっぽどのおかしい状況が
見られるなら偽造と疑ってよいがね。強いて言えば、年号の出所がバラバラ
ならば個々独立してるわけで、全部偽造は成立しにくいだろう? そこだよ、
断を下すのは・・・。
神功とか創作だと抜かしても、バラバラで北九州に伝承があるんだからこれは
創作人物ではないし、各自説を過信しているとこういうのまで創作だとかで葬
ってしまうのが多々ある訳で、それら自説こそ合ってないことを意味している。
その判断は伝承が個々独立しているか否かよ。記紀は神功の存在を肯定して
おり、古史古伝も肯定で内容もほぼ合っている。かつ隅田八幡鏡とか、稲荷山
鉄剣には記紀の天皇と宮名が厳然としてあるし、日野郡誌には欠史八代の文面
があり、さらに記述の当地にはちゃんと遺物伝承もある。古墳も天皇の数だけ
ちゃんと畿内にあるし、こうなってくると、これらは独立して個々だと観て可で
あり、津田式論理の切捨ては真相の切捨てとなる沈没論理なわけ。
435 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 11:20:23
「欠史八代」というお題目を唱える人間で、マトモな議論・研究をしている奴を
見たことがなく、同意。
津田左右吉は、日本人の思想を研究する一環として、記紀も題材にしただけで、
天皇家の研究をしたことはなく、考古学をやるつもりもなかった。
もし彼を考古学者・古代史学者と思い込むなら、帝国主義時代の安楽椅子の
学者ということになる。彼が「欠史八代」と言い出したのは、記紀を絶対視する
世間の風潮をひっくり返して、目を覚まさせる目的だった。
太子の国史が失われたのが悔やまれる。残すわけにはいかない
内容だったかもな。
「隋書」には、軍尼120人、80戸に1伊尼翼、10伊尼翼=1軍尼、
とある。つまり、タイ国は、120軍尼、96000戸を擁する国であり、
本文にも、戸は10万戸、とある。
魏志倭人伝には、伊都国2万戸、邪馬壹(台)国7万戸(蛇足だが
投馬国は5万戸)、とある。
戸数の面からも、隋書のタイ国は邪馬壹(台)国の後身であることは
確実だろう。近畿天皇家が西暦600年頃に日本を統一していたなら、
もっと戸数が多いだろう。
438 :
九州王朝大好き:2008/03/14(金) 19:39:01
>>437 其の通りだね。
隋書に『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』とも書いてある。
裴清のルートも、上陸地点を竹斯國=末盧國=唐津とし、
観音峠を経て(国道323号)佐賀平野に入れば、魏志と全く同じルートになり。
『達於海岸』は吉野ヶ里の南東に入り込んだ有明海北東海岸。
それから馬で内陸に入ったところが俀國の都。
「都於邪靡堆」の場所は、「邪馬壹國女王之所都」と一致し、
久留米・八女付近になる。『其地勢東高西下』にも合致する。
『其國境東西五月行南北三月行各至於海』は九州島の形と合致する。
『境東西五月行南北三月行各至於海』は、東西の境界線の長さは五月行、
南北の境界線の長さは三月行で、各4本の境界線で海に至るとの意味。
439 :
九州王朝大好き:2008/03/14(金) 19:49:49
余談
久留米から八女あたりは美人が多いので、
昔々都が長期間置かれた場所ではないのかな。
441 :
九州王朝大好き:2008/03/14(金) 20:17:14
秋田美人は好みじゃない。
ぼくの好みは、
久留米の「いちご姫コンテスト」
442 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 20:57:11
確かに筑後に美人が多いのは不思議だ
大善寺の火祭りに行った時は御神籤売ってる
バイトの女の子たちさえそこらのタレント以上だった
>>434 そのあんたのいう伝承ってさ、いつできたかはっきりしてるものなの?
445 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:30:54
>おり、古史古伝も肯定で内容もほぼ合っている。かつ隅田八幡鏡とか、稲荷山
>>435東国に女王あり、名を卑弥呼と称す。それを証明している。
>>434 稲荷山鉄剣は未だに解読はされてないですよ
それに出てくる役職も記紀には出てこないものばかり
思い込むのは勝手だけど
447 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/14(金) 23:45:01
>>446 稲荷山鉄剣の銘文の辛亥年は、拙者の倍暦計算では
雄略元年=471年
と一致する。つまり雄略即位で関東に贈った、そのへんの理由の剣。
倍暦で14年ズレるんだよ。
石上神宮の七支刀の銘文の
泰和四年(泰始元年=景和元年=465年から左辺の「泰」と中辺の「和」を採った合字の年号)=468年
は、倍暦計算で安康元年に合致する。14年ズレるのだ。つまり安康
即位で大陸から贈られた剣のわけだ。
双方とも天皇元年なのである。安康は石上穴穂宮にいたからますます
明らかである。つまり記紀の記述はいい加減ではないということだ。
稲荷山鉄剣はこういう補強ができるから雄略天皇関係の剣なんだよ。
448 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 00:05:46
>>447なるほど。そうだったのですか。雄略天皇が関東の大王だったのですね?
450 :
九州王朝大好き:2008/03/15(土) 02:22:18
>>442 通勤時間帯に大善寺駅を下車した時、
最初、駅に来る通勤通学の女性を見てふと気が付いたのだが、
このあたりは美人密度が高かったね。
451 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 08:01:44
>>448 >>449 倍暦計算なら紀の即位翌年の皇紀1117年が 雄略元年=西紀471年 となるから
この点では辛亥年が紀と合っていると観ていい。それに雄略からの系譜の代数
が崇神世のシキ宮から同時代と合理的数字であるし、シキ宮と大彦の名も時代が
合致している。さらに関東の大王がワカタキルで雄略と別王と考えた方がいるの
かもしれないが、大王って言ったらもうこれは天皇と観るべきで関東に別の
天皇級の者がいたとは考えないほうがいい。なぜかというと九州江田船山鉄刀
にも同名ワカタキルの銘文があるからであり、畿内の雄略が勢力を関東、九州に
拡大して行くころ、その地方に贈った刀であることを物語っている。
452 :
武陽隠士:2008/03/15(土) 10:51:44
>>九州江田船山鉄刀にも同名ワカタキルの銘文がある
それじゃ、ワカタケルが全国規模の人物だったことは明らかじゃないか?
やっぱり『幼武』、すなわち雄略天皇とみていいんじゃないのか?
どう釈明するつもりなんだよ?
453 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 11:00:06
>>451 続き
かように稲荷山鉄剣の銘文は記紀の記載とほぼ合致して、シキ宮がオオビコと
同時代で矛盾ない関係が確認できたわけだから、これを考えても仁徳を初代と
して前代の天皇らを架空とするひっとさんの主張は間違っている。
隅田八幡鏡の「八月日十大王年・・・」の銘文は「八月十日大王年・・・」を
銘文を入れた者が故意に「日」と「十」を転換したもので、かような味なマネ
をやらかしたのには何らかの意図があったわけで、その文字あたりを注視して
俺の言いたい謎を解けということだとのメッセージだと考えられる。
それではそれは何か? 「十」と「大」とを隣接させて文字の分解を示唆し、
「十」+「大」=「本」
たる「本」の字を示唆強調しているのだと思える。つまり「日十大王」とは
『日本王』だとその者は言いたいらしく、これは時代の位置からして
大日本根子天皇=清寧天皇
のことを黙示しているのであろう。ということは
稲荷山鉄剣→雄略天皇
七支刀−−→安康天皇
隅田八幡鏡→清寧天皇
ということであり、三代の天皇が順番通り並ぶこととなる。それに梁書巻五十四
列伝第四十八には日本の国王として乙祁(オケ=顯宗天皇)の記述もあるそうで
四代並ぶこととなり、記紀の天皇の記述にウソは見られない。
454 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 11:02:12
455 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 11:42:00
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
継体天皇までのいわゆる神話の時代の天皇というのは、
要するに世代交代を伴う一つの政権ということです。
ヤマトタケルの死後、子供のワカタケルが東国遠征を
引き継ぎ、つまり、
雄略天皇ヤマトタケル
雄略天皇ワカタケル
二人で一人の天皇という意味です。
天皇が変わるということは、家系の断絶を意味します。
これは中国の前漢、三国時代(魏・呉・蜀)にもよく見られることです。
もともと大和朝廷は、複数の有力豪族の合議体ですので
その時々の力関係で政権は交代され、別の部族の長が大王に
なったと考えるのが妥当だと思われます。
有名人同士を=で結ぶだけの古代史って、楽しいのかなあ。
458 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 16:05:57
昭和天皇から平成天皇に天皇が変わったって断絶などなってないよ。
開化も清寧も若日本根子と同名的であるが別人だよ。だからワカタケルと
ヤマトタケルだって別人だよ。
中国は易姓革命の国だから、それは日本にも当てはめて日本もそうだとはならん。
459 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 16:19:42
読売新聞カメラマンが木棺破損
奈良県香芝市の下田東遺跡で、読売新聞大阪本社の男性カメラマン(29)が14日、
取材中に誤って足を滑らせ、出土した木棺の底板にぶつけて一部を傷つけた。
読売新聞大阪本社によると、事故は午後1時20分ごろ発生。底板の表面が長さ数センチ
にわたってめくれた。底板は古墳の周濠(しゅうごう)にあり、カメラマンは周濠内に入
って20〜30センチ離れた場所から撮影。現場は傾斜があり、雨でぬかるんでいたという。
市教育委員会は専門家に依頼し、詳しい破損状況を調べる。木棺は5世紀後半ごろのものと
みられるが、詳細は調査中で確認できていない。
読売新聞大阪本社広報宣伝部は「貴重な遺物を傷つけ、深くおわびする。慎重な取材の徹底を
指導する」としている。
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20080314-335533.html
>>457 飛鳥昭雄なんか
「神武=崇神=応神」なんて楽しい説を自説に取り入れている。
元々誰の説だったかな…
いくらなんでも崇神と応神は別。
461 :
武陽隠士:2008/03/15(土) 18:48:07
おまえら話をあちこちに飛ばすなよ。まず
>>九州江田船山鉄刀にも同名ワカタキルの銘文がある
↑このことについて語れよ。
稲荷山古墳のワカタケルは全国規模の人物か、関東限定の人物か、
そのことに結論出してから前に進めよ!
そうすることで大王乱立の仮説にある程度の推測ができるだろうがッ!
462 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:25:15
九州限定と関東限定
463 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:29:47
シナが漢朝の時代、カラ半島の最南端に韓(カラ)という国があったという記録がある。
このカラこそ、稲飯命が建てた『シラキの国』である。
正式には、『カラ』が正しい国号だったのであり、シラキとは首都の名前である。
シラキとは「知ら城」という意味であり、カラを統治するための都市のことだ。
シラキという都市がカラの東部(現在の慶州の位置)にあったことから、
シラキ(知ら城)を中心とするカラ東部地方を『シラキ』と呼んでいたのだ。
またカラ西部地方は、シラキから見て日が沈む方角なので、降ら(クタラ)と呼ばれていた。
「日が降る(クタル)土地」という意味だ。
百済が「クタラ」と呼ばれるのはそういうことなのである。
464 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:42:39
稲荷山古墳出土の鉄剣推定銘文
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、(表)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也、(裏)
江田船山古墳出土の鉄剣推定銘文
治天下獲□□□鹵大王、奉□典曹人□弖、八月中、用大リ併四尺□刀、八十練六十□刀、服此刀者長寿、子孫注ゝ得三恩也、不失其所統、作刀者名伊太□、書者張安也
獲加多支鹵大王と獲□□□鹵大王・・・個人名で同一人物?一般名詞で若い大王様?□□□?何とも言えない。
465 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 20:51:23
466 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 20:54:48
とっとと消えろ!!
467 :
犬国:2008/03/15(土) 21:13:54
468 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 21:29:32
>>467 お前の豆脳は「平静」か〜?ww
お前の豆脳は平静電脳なのか?ww
三倍歴、三倍酢かよ。ぷっ
470 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 21:43:32
>>468 現在の陛下は通常では「平成天皇」という呼称では呼ばれない。
これは死後の追号・諡号の形式であるところから使用を避ける傾向がある
ためであり、「今上天皇」が一般的である。
太国さんへ
「お前」とか「豆脳」とか「電脳」は酷い言葉ですよ。
取り乱して、汚い言葉でののしるのは、恥ずかしいことです。
人間としてね。
>>464 しかもその鹵っていう字も微妙に違う
その上□□□って何だよ。つまり読めないってことなんだよな
妄想だけで成り立つ研究なんてそれはもう研究じゃないっつーの
473 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 22:50:58
>>470 そんなことは大体分っているよ。2ちゃんでそんな厳格にすること
はなかろうが。平成天皇でも陛下も宮内庁も一般人には怒らないよ。
お前というのは別に悪い言葉ではない。豆脳はお前のように格式
ばった人間にはこたえるようだ。それよりお前は まぬけ と相手に
言う奴の事は寛容なのか? これのがよっぽど悪い言葉でないのか?
お前は仕事場でもエコひいきが強くないか? 電脳は中国人でも
使っているよ。
獲加多支鹵大王、と、獲□□□鹵大王、とが個人名で同一人物である
ことを根拠に、井上光貞は古田の九州王朝説を論破したわけだが。
これ(井上説)は現在の主流の考えなのですね?
475 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 23:19:06
ワカタキル大王とした銘文記載者は、評判のよくないこの天皇(雄略)
を、自己のカタキでワルだよと言いたかったわけなんだろう。だから
ワカタキル大王としてワカタケル大王とは書かなかったわけだ。
まぬけというのはワルい語であろう。
476 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 23:28:07
「獲」をバとか読むと、『馬鹿だ切る』大王となる。善悪の判断が
愚で、いわゆるバカトノで、大王に刀剣で多数殺害されたとか、殺害
をたのむとかの、想いをこめた怨念なのだっろう? その剣が稲荷山
鉄剣というものか??
ついに駄洒落スレに落ちました。
478 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/15(土) 23:45:17
そういうつもりではない。□□□がカタキ(仇)と読めるから、残り
二字はワルとなるし、ここは真面目な話。
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
必至だな
駄洒落で読み解く古代史スレ
481 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 00:19:46
>>474 現在主流です。
太国氏の駄洒落は…
もう少し捻って下さい。
主流が正しけりゃ、国史の教科書に墨を塗る必要もなかったなw
>>437 に書いたように、「隋書」にはタイ国は戸数10万戸、とあります。
戸数の面からも、隋書のタイ国は邪馬壹(台)国の後身であることは確実と思う。
近畿天皇家が西暦600年頃に日本を統一していたらもっと戸数が多いでしょう。
一方、
>>474 のように、井上が九州王朝説を論破し、これが主流たとすると、
隋書のタイ国は、九州の北部から阿蘇山の周辺辺りを国土としていた、という
ことになりますね。
だとすると、「古事記」に雄略のタイ国との戦いの記事がないのはなぜか?
という疑問が生じます。
483に追加補足しておきます。私は、
古田の「関東に大王あり」の主張にも一理あって、
主流の井上説(=雄略の時代に日本は既に統一済み)で確定した
とは思っていません。しかし、獲加多支鹵大王、獲□□□鹵大王、
の相似は偶然とみなすのも困難のようですので、何とか矛盾を
解消できないか、との発想から、あやふやな書き込みをしています。
>「古事記」に雄略のタイ国との戦いの記事がないのはなぜか?
どちらかといえば九州勢力よりだった天武が、むしろ畿内王権を
簒奪した立場だったから。
486 :
九州王朝大好き:2008/03/16(日) 04:27:18
>>484 稲荷山と江田船山は全くの別人だよ。
「獲加多支鹵大王」と「獲□□□鹵大王」には全く相似性はないよね。
「獲△△△鹵」と「獲□□□鹵」に相似性があると言えるのかね。
5文字中、頭と尻が一致するだけで相似と言うには、其の通り無理がある。
あなたもご認識されている様に、厳密には前者の「鹵」と後者の「鹵」は同字と言えないから、
「獲△△△△」と「獲□□□□」は先頭文字が一致したので相似と言っていると同じことになる。
上記同一性を根拠にした井上光貞氏はの説は全くなりたたない。
井上氏はなぜそこまで堕落したのだろうか?
いや、其の時点で井上光貞氏は既に他界されていたのだと思いたい。
>>486 注意喚起、ありがとうございました。
「シキの宮」の発見など、やはり、古田説を採りましょう。
「カタシロ大王、寺」も、代案がない限り、受け入れるべきでしょうね。
井上説は、文献による九州説の大元だと思い、言及しました。
九州説の人は、結局は九州王朝説に賛同することを余儀なくされます。
488 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 08:57:56
太国氏は、
「お前」という言葉は → 別に悪い言葉ではない
「豆脳」という言葉は → お前のように格式ばった人間にはこたえるようだ
「電脳」という言葉は → 中国人でも使っている
として、他人を罵倒した自分の書き込みの非難をこのように反論しています。
たとえ低俗な2chであっても、人としてどうかと感じてしまいます。
489 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/16(日) 09:39:57
お前は無名への弁護士役か〜? まぬけ と言った無名のことはなおざりで、
お前の人格こそ誇大のエコひいき脳が分かろうというものだ。
では聞くがな、何故あやつの言った まぬけ という語はよくないと言わないの
か? こういうことだからお前は善を偽装した批判をしているということだ。
お前こそ反省をしたほうがいい。有コテで論じたらどうだい?
>>487 に追加しておきます。
古田が、「魏志」の「女王の都する所、水行十日陸行一月。」の後半を、
帯方郡からの総行程である、との解釈を提示した時、
井上(と他大勢)は、漢文の解釈として無理だ、と述べたわけですが、
「隋書」にある「戸十万ばかりあり。」は本来あるべき場所から
ちょっと離れたところにあるね、という(弱いけれども)弁護もありえた
わけです。井上くらいの立場の学者が、古田説について、
一学説としてありうる、と一言残しておれば、古代史像の変革も
もう少し別の進展になったろうに、と悔やまれます。
↓
蘇我 馬子
蘇我 蝦夷
蘇我入鹿
はたしてそれは本名でしょうか?蘇我韓子、高麗にしても当時、
敬称であったとは思えません。もしかしたら、「馬」と「鹿」の間に
「蝦夷」を挟み、間を抜くことで馬鹿と読ませ笑いものにしたので
はないでしょうか?
しかし、大化の改新で天皇の位についた中大兄皇子自身も蘇
我一族なのに、なぜ大和朝廷が天皇家の祖先である蘇我氏の
名前まで変えで、けなしたのか不思議ではありませんか?
それは、もしかしたら、中大兄皇子は中臣鎌足の操り人形にす
ぎなかったということではないかと考えられます。
秘密を解く鍵が、「けなし」毛野氏にあります。
そういう戯言(ざれごと)に長けた祟る神=出雲神
物部の策略ではないでしょうか?
492 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 13:18:16
「魏志」の「女王の都する所、水行十日陸行一月。」
陸行一月は陸行一日の誤りだろう。
陸行一月が正しいとすると朝鮮半島陸行となるが、魏使が半島を重い荷物を担いで歩いて横断し、倭の舟で海を渡ったとは考えられない。
始めから中国船を使い、女王の都する所の直ぐ近くまで行き、最後の1日だけ歩いたと考えるのが自然だ。
一旦九州に上陸したものが、中国船を捨て再び倭の舟に乗り換えたり、歩いて畿内など北部九州以外まで旅したとは考えられない。
>>481 主流なのが凄いですね・・・
私はこの原文見たとき別人か、って思ったから
確かに主流=正しいってワケじゃないから今後も
正確な判断ができるような資料つくりを行っていただきたいですね
494 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/16(日) 14:21:31
>>492 「壹」を「臺」だという者がいて、「一月」も「一日」の間違いだとするのは
考えものでしょうがね? 旅程を一本線的に考えていいのは北九州までですよ。
それ以後は未知の土地での観光周遊をやり、どこからか情報を得て女王国の存在
を知り、その発見に心労をついやして右往左往に準ジャングルを書き分けて
ある日やっと前方が開けて木造家屋群国家を発見し狂喜して、そこの住民と
手まねで会話して卑弥呼の存在と女王国の全貌を知悉したのだから、一月は
かかってもおかしくはないし、もっと観光、滞在したいのなら二月三月でも
よろしわけですよ。今だって外国を旅する日本人でも二月、三月と長期の方が
いるはずですよ。
495 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 14:38:32
そうやって話を飛ばすから無限にループすることになる。
まずせっかくちょっと前に『ワカタケル大王』に対して
良い参考意見が双方から出ただろ?
まずそこを詰め切ってから話そうよ。
俺は太国のレスでワカタケルが全国規模の大王だ、と信じかけた。
しかし九州派は、九州の王は中3文字が欠けていて、
ワカタケル大王とは読めない、と反論してきた。
ここをまず詰めてくれよ。
相応とも知識あんだろ?
それを披瀝してくれ。
496 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 14:42:06
>今だって外国を旅する日本人でも二月、三月と長期の方が
いるはずですよ。
滞在期間の説明ではなく、どの位掛かるかの説明です。
>旅程を一本線的に考えていいのは北九州までですよ。
目的地までは一本線的に説明するのが普通の説明。つまり北部九州が目的地。
>「壹」を「臺」だという者がいて、「一月」も「一日」の間違いだとするのは
考えものでしょうがね?
確かに無闇に間違いだとするのは考えものでしょう、しかし一大国(一支国)の例もあり、間違いがないこともない。
日本国内を一月も旅すれば、関東まで到達する。
>相応とも知識あんだろ?
>それを披瀝してくれ。
知識のある奴が、知識に溺れているのが、古代史論争の特徴だ。
「ワカタケル」は、無数に読みうる読み方のうちの一つにすぎず、
先頭の一文字が一致するだけで、全国誰でも同一人物だというほうがおかしい。
>陸行一月
北朝鮮にヘリで行けばたちまち着くが、マトモな手続きをとると1ヶ月以上かかる。
498 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:01:47
>>495 雄略にワカタケルとの呼び名があったとの記録もない。5世紀にはヤマト朝廷が全国規模の国家を成立させていたと捏造したい為の嘘です。
499 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:04:01
>>陸行一月
>北朝鮮にヘリで行けばたちまち着くが、マトモな手続きをとると1ヶ月以上かかる。
3世紀にヘリとか、入国手続きとあったの?
500 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:08:13
自分が国語で落第だった告白をして面白い?>499
501 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:18:53
502 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/16(日) 15:20:52
>>495 たとえば神武=崇神=應神の方がいたりしてはいるが、拙者はこの等号を否定
している。「神」の共通性からだろうがもう各一字ずつは違うわけであり、飛鳥
さんは等号多用だが、これはその論者の失敗であると思っている。
@江田船山と稲荷山の出土は畿内から双方が遠方であり、地図を一見すると両者
の畿内からの離れ方がイコールではないがなんとなく似通っているに見うけら
れる。
A双方が五文字であり□の3字から両端に位置し、しかも双方同字と見てよい。
九州王朝大好きさんは別だとおっしゃっているも、そんな大きな違いには思え
ないのだが? 読める字の(位置)も同じでその字の中身もほぼ同じようで双方
の共通性は一段高いと見うけられる。
B読める二字はワルであり、間の3文字はカタキと読めるから、故意に江田船山
鉄刀の銘文は読めない工夫がしてあって、後世の現代人に雄略はワル王で自分
の仇にあたる人物だと言いたいのではないのか?ワカタケルをワカタキルと
書いたのはそういう黙示であり、キルは刀剣で斬る、殺害を仄めかしたいので
あろう。双方刀剣であるから斬ると読めるようにしたのではないのか?
C双方の剣と刀は何かしら銘文記載者が同一人物かそうではなくても同属近縁的
に感じる記載の仕方であり、似通っている雰囲気がある。字の選択とか、
たとえば八月中と七月中とかの記載要領がなんとなく似ていることから、目的
は九州も関東も同族関与によることからのものであろう。
九州王朝大好きさんは九州王朝の大王だとの考えではないのか? 可能性は
あるかも知れないが、雄略当時は確か屯倉をうんとこさえて全国制覇に前進
する時代であって、制覇の象徴としてかあちらの豪族とかに即位にて支配域の
拡大端地域へ贈った品であろう。年号が出てるから九州王朝は当然肯定すべき
である。
503 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:25:22
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
504 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 16:09:50
というわけで「陸行一月」は、政治的な外人隔離策や、
道が未整備だった当時の状況も含めて、ありうるだろう。
(1)
>>491の、「馬」と「鹿」の間に「蝦夷」を挟み、云々は、
「馬鹿」は「オコ」に由来するという柳田説をしらないジョークにすぎない。
(2)
>>502の、故意に江田船山鉄刀の銘文は読めない工夫がしてあって、
後世の現代人に雄略はワル王で自分の仇にあたる人物だと言いたい、云々は
ジョークであってほしいと思う。
(3)
>>498の、雄略にワカタケルとの呼び名があったとの記録もない、は、
「大長谷若建」の「建」がタケルとも呼べることで解決したはず。
506 :
九州王朝大好き:2008/03/16(日) 17:55:09
>>502 >九州王朝大好きさんは九州王朝の大王だとの考えではないのか?
稲荷山は関東の大王ですが、
江田船山は肥の大王であって、
九州の大王かどうかはわかりません。
九州には筑紫の大王もいますから。
しかし、江田船山が九州の大王であれば、
江田船山は倭武になります。
507 :
九州王朝大好き:2008/03/16(日) 19:10:34
>>502 続き
常陸國風土記に倭武天皇があります。
この倭武天皇が九州の倭武の影響下にあることを示しているのであれば、
稲荷山は関東の大王ですから、
稲荷山と江田船山の鉄剣の類似性からみて、
稲荷山と江田船山の大王は同格と見做せるので、
江田船山は肥の大王となります。
筑紫の大王は九州の大王となり、倭武になります。
補足:倭武は倭5王の武のことです。
東国の天皇(ヤマトタケルとか)=鎌倉公方 のようなもので
東国にあっては遠の御門のだったのでは?
御諸別大王、ヤマトタケル、ワカタケルの関係を誰か説明してください。
510 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:33:31
ざっくり言って、阿佐田哲也と武田鉄矢と小室哲哉と宮崎哲弥と筑紫哲也の関係。
511 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:58:29
「関東の大王」の存在を証明することは、間接的に九周王朝の存在を
証明することになる。白村江の戦の主力は毛野氏だったわけだし、
九州王朝との関係、豊前に上毛という町がある理由を説明してください。
防人にも、なぜ、わざわざ東国から人を送ったのか。
大化の改新以降は、防人は九州の人を充てたというではありませんか。
512 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 23:48:11
>>505 (1)
>>491の、「馬」と「鹿」の間に「蝦夷」を挟み、云々は、
「馬鹿」は「オコ」に由来するという柳田説をしらないジョークにすぎない。
そんな俗説を信用してどうすのですか?自分で調べたのですか?
513 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 23:49:16
装飾古墳の中心地は北部九州であり、「畿内を除いて」岩手県に及ぶ
広範な地域に、装飾古墳が見られる。
この北部九州を中心とした、広範な勢力があったのだ。
>511氏が指摘する点に符合する。
>511
初期大王の武力が東国の兵だったということ
近世の植民地募集兵というか傭兵というか
農業生産力が低くて出稼ぎに出なければならない土地が兵隊に多く出る
日本軍でも屈強な兵隊は東北の師団だった
逆に東京大阪の兵隊は弱い
>>512 さんが書かれたのは、
「蝦夷」を挟み、間を抜くことで馬鹿と読ませ笑いものにしたので
はないでしょうか?
という疑問形の説です。512さんと柳田さんと、どちらの説を採るか
という場合、私は、先ずは柳田さんの説を採ります。
私は語源については自力で調べるつもりはありません。
517 :
九州王朝大好き:2008/03/17(月) 03:18:27
>>514 「また負けたか八連隊」を知っていますか?
518 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 10:56:13
×[「馬鹿」は「オコ」に由来するという柳田説]
○[「びろう」は「尾籠=おこ」に由来するという柳田説]
・・・じゃないの?>512
519 :
九州王朝大好き:2008/03/17(月) 10:56:50
>「馬」と「鹿」の間に「蝦夷」を挟み、間を抜くことで馬鹿と読ませ笑いものにした
面白いね。十分に有り得る説。
継体記に「樟葉」を「糞袴」と嘲った例があるからね。
ところで、7〜8世紀に「馬鹿」って言葉はあったの?
「バカ」の起源が「馬鹿」の気もする?
>>505 >「馬鹿」は「オコ」に由来するという柳田説
柳田説を知りません。教えて下さい。
520 :
大田田根子:2008/03/17(月) 11:08:29
まあ、九州には弥生前期には立派な港があったし
(博多湾、有明海、鹿児島湾)
その技術・文化的な、或いは渡来人の影響下で
ある意味、日本では先進国的な土地だったでしょうね。
私は沖縄諸島を含む交流港として鹿児島湾を重視しますが・・
>>518,519他
「オコが一転して馬鹿になったという、私の証拠は少々ばかり
ではない。」(「嗚滸の文学」16)
「以前京都人がオコと口をせばめて評した場合を、多分東国の
田舎武士らが、バカと大口に疾呼していたのかと思う。
(「馬鹿考異説」)
詳細は原文にあたってください。
7〜8世紀に「馬鹿」という言葉があった可能性が高くなった
なら、私見を改める用意があります。
>491>505
名前に動物を入れる習慣は結構あったと思うし、近代でも和歌山県には特に多かった(熊楠など)とも聞く。
人間にはない野生動物の属性(神秘的な力もあるだろう)にあやかる意味があったとしか考えられない。
梅原が「水底の歌」で展開した、柿本人麻呂=柿本猨(猿)説、は
著書では、本名「人麻呂」であると書いていたが、
後に、本名「猿」の方が合理的である、と、
梅原本人が認めております。
「猿」は平安時代でも「風流」のイメージをもった動物だった。
漢代に中国の文化人の間で流行した隠遁生活への憧れに通ずるものがあると思う。
鬼怒川は紀ノ川に由来するという説があります。
また、荒川は、当時紀伊を支配していた荒川戸畔(女王?)に由来するという説もある。
上毛野氏、下毛野氏の始祖といわれる豊城入彦命は、10代崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛=荒川戸畔
の間に生まれた子といわれており、いずれにせよ、紀伊と坂東は密接な関係があったことは間違いあり
ません。また、弥生時代の遺跡の分布を見ると越の国から碓氷峠を越えて関東平野に侵入した形跡が
みられますし、出雲神を祀った赤城神社があることからも出雲との関係も深かったと推測できます。
坂東⇔紀伊⇔出雲⇔九州王朝の結びつきが伺えます。
そして、すべてに共通するのが倭人ということではないでしょうか?騎馬民族たる天皇家を祭りあげて実
質的に日本を仕切るようになったのが、大化の改新だと思うのですが・・・
論旨が荒っぽすぎて、このままでは受け入れてはもらえないでしょうけれど、九州・東国・紀伊・出雲の関
係を解き明かすことが、記紀編纂以前の日本を解き明かすカギだと思います。
526 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 22:26:45
倭奴国→わのくに
狗奴国→きのくに
528 :
武陽隠士:2008/03/17(月) 23:16:17
こういうことは考えられないかな?
つまり、日本各地の大王たちはすべて
畿内王朝の大王の血縁者だった、だから
どの大王たちの主催した政権も、大和王権に含まれる、と…
畿内王朝が始まったのは、文武以降ですが、それでよろしいですか??>528
530 :
武陽隠士:2008/03/17(月) 23:42:32
>>529 それはいくらなんでも強引
ある程度常識のレベルで話さないと
国の安危は東国にあり
>530
九州王権が制定した元号を畿内王権が使用しているというのに、
真実よりも、「歪んだ常識」を前提に論じられるわけですか。
畿内天皇が九州王権から賜姓されているフシもありますしね。
>>530 その常識が非常識なのを自覚すべし
畿内の方が新しい可能性も十二分にある
地理的科学的な根拠を考えると普通の脳みそならば
>>529に分がある
万葉集に、
「九州王権領土出身者の歌」が全然なく、
「九州王権領土以外の出身者の歌」ばかりで、
「九州王権領土以外の出身者が九州王権領土で詠んだ歌」などは
ふんだんにある、
ということも忘れてはならないでしょう。
535 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:30:14
しかし王権とは珍奇な言葉だ。
536 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:40:18
なんと呼べば満足するの?
九州幕府?九州政府?九州王国?九州王朝?
537 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 02:06:28
王が政治権力をにぎっているなら王朝でいいじゃないでしょか?
邪馬台王朝とは言わないんだな?
539 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 02:09:06
それともアジアでは後宮に女を数百人かこっていないと王朝とはいえないとか?
朝が付けば中華王朝に倣った中央集権国家が確立している様なイメージがある
磐井の乱とは、東国支配に抗議した九州土着民族による暴動。
今のサラのチベット民族みたいなものです。
542 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 08:34:48
某マスコミでは、ケネディ王朝とかブッシュ王朝とかの言葉をつかっていますね。
邪馬台国王朝とはいわないですが、卑弥呼王朝とはいってもいいでしょう。
是非おつかいください。
543 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 11:17:40
× 磐井の乱とは、東国支配に抗議した九州土着民族による暴動。
○ 磐井の乱とは、東国支配に抵抗した畿内土着部族による反乱の逆称。
>>542 朝鮮民主主義人民共和国なんて最初から無かった。
あるのはただ一つ、金氏主体思想王朝だけだ。
ソビエト社会主義共和国連邦は、レーニンの代で滅んだ。
新たにスターリンがソビエト共産党スターリン主義王朝を成立させた。
毛沢東は中華人民共和国なんか作らなかった。
彼が作ったのは、中国共産党毛沢東思想王朝だった。
最近では中共王朝も民衆の声を少しずつ聞き始めているが、
それでもまだ君主制からは抜け出せない。
日本国は、鳩山一郎の代で、連綿と続く旧自由民主党資本主義王朝を作り上げた。
それでも小渕敬三あたりまでは上と比べると多少自由があった。
しかし、森・小泉・安倍の3代の間、自由民主党新自由主義王朝が支配した。
この時代、民衆の不満の声は高まり、
次の王も新自由主義王朝の麻生太郎が就くようであれば、暴動が起こることも予想された。
しかし、資本主義王朝の福田康夫が王となり、新自由民主党資本主義王朝が成立した。
この王朝は、旧自由民主党資本主義王朝末期の小渕時代よりもマシであったが、
民衆の怒りはまだ収まらない。
現代において王朝とは、こんな国々を皮肉るために用いることも多い。
ようは九州王朝なんて無かったってことだね
ようは「九州王朝なんて無かった」ってことにしないと
現在の通説が維持できないってことだね。
547 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 22:02:46
ようは九州王朝説論者は
何が何でも定説を覆して学会でもてはやされたいってことだね。
548 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 22:10:14
ようは九州大宰府は東国の大王の支配下にあったということだね。
大宰府や多賀城府以上の都が東国にあったはずなのに、
それを根こそぎ土台ごと破壊した勢力がいる。しかし、
その都の跡を見つけて発掘しないことには話にならない。
湿地帯にゃ人は住めないもんね〜
550 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/18(火) 22:24:48
年号が出てるからもう存在は間違いない。
>>511の続きになりますが、
筑紫と関東と紀伊を結ぶ共通項は何か?
それは、福※姓の人がやたらと多いことです。
そしてその始祖は「徐福」ではないかといろいろ
調べています。
徐福一行は、まず、筑紫の高天原に上陸した。
その後、紀伊に3年とどまり、最後は蓬莱山=富士山
麓に富士王朝を造った。当初、徐福の連れてきた
3000人の職工集団のほか、徐福の後を追って移住
して来た倭人の集団が日本の礎を築いたのではない
かと考えられます。
倭国が、九州邪馬台国を中心とする(九州・大和・関東等の)連合体で、
そのうちの大和がじわじわと勢力を拡大し、九州・関東等を呑み込んだ
という図式もあるでしょうから、
>>551さんが固定ハンドルを使えば、
皆さんが注目するのではないでしょうか。
アリストテレスによると、推理には、
A必然的推理(厳密に証明される確実な真理)
B弁証論的推理(蓋然的で異論の余地ある心理を目的とする)
C詭弁的推理
の3類型がある。
九州王朝説は、私はBであると思うが、多くの邪馬台国大和説論者にとっては
Cなのであろう。逆に、九州王朝説論者にとって、阿蘇山のあるタイ国を九州に
位置づける以上、記紀の記述を鵜呑みにした(または微修正した)古代史像は
Cならざるをえない。
古田は、古事記が天皇家の伝承、書紀は九州王朝の史書からの盗用を含む、
と言っているが、古事記の説話もほとんどすべて創作ではないか、という
観点も必要ではないか、と、最近つくづく思うようになった。
例えば、成務天皇が近江に都を移したというような記事は、事実と言えるの
だろうか。
唯一の手がかりは「年号」
しかも眉唾
555 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/19(水) 07:13:29
>>553 創作をすれば舎人親王は死罪か準死罪とかの公文書偽造在で失脚だよ。イカサマ
八百長を書くのは利害がでかいときにこっそりとやることが大半だろう。その
創作に何の特段の利害関係があるのか? 何の利害もなけりゃぁ、そんなことは
平静、真面目に書くよ。
556 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/19(水) 07:18:18
もう年号で決まりよ。それは個々がバラバラに年号が出てるはずだから、眉唾
にはならんね。君のは眉唾との根拠がそこに書いてないだろう。そうなると君の
説が間違いだになる利害からの否定だよ。つまりまゆつばの根拠、資料を出して
いないのが君の脳が即興で考えた眉唾だということになるのだ。
557 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 07:26:56
門司、下関の地名を見ても、上位にあったのは門司だから・・・・
門司と上関とではどちらが上位ですか?
>>555 (1)創作をすれば舎人親王は死罪か準死罪とかの公文書偽造在で失脚
(2)イカサマ八百長を書くのは利害がでかいときにこっそりとやる
その創作に何の特段の利害関係があるのか?
・・・これらは近代的な考え方であって、立法者が恣意的な運用に
よって法を遵守しないことはよくあります。古代において作者は
「当時の必要や意図にまかせて記録を作り上げるに彼らは良心の
呵責を感じなかった」(フロイト「モーゼと一神教」)ようですし、
書記に「645年、天皇記・国記を焼き、国記だけ取り出した」
と書かれていますから、天皇の系譜にも疑念が生じるわけです。
九州王朝の存在が年号の存在によって傍証されるのはそのとおりです。
>>555 (1)創作をすれば舎人親王は死罪か準死罪とかの公文書偽造在で失脚
(2)イカサマ八百長を書くのは利害がでかいときにこっそりとやる
その創作に何の特段の利害関係があるのか?
・・・これらは近代的な考え方であって、立法者が恣意的な運用に
よって法を遵守しないことはよくあります。古代において作者は
「当時の必要や意図にまかせて記録を作り上げるに彼らは良心の
呵責を感じなかった」(フロイト「モーゼと一神教」)ようですし、
書記に「645年、天皇記・国記を焼き、国記だけ取り出した」
と書かれていますから、天皇の系譜にも疑念が生じるわけです。
九州王朝の存在が年号の存在によって傍証されるのはそのとおりです。
561 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 10:54:46
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
562 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/19(水) 15:17:15
>>559 >>560 創作をするならでかい利害があるときよ。それがなければ都を移すとかで
イカサマする必要もなかろう。創作なら雄略、武烈の悪事も削除してるよ。
それに皇族の浮気だとか殺害のほうをひた隠しにするだろうが。ww
563 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 15:47:14
畿内説だと、九州のド田舎に都があるはずがない、という印象だろうが、
法隆寺は九州からの移築だし、畿内天皇が使っていた元号は九州の
王様が制定したものだし、九州が決めた「評」を畿内が隠蔽して「郡」とした
怪しい作為もあるし、国家行事たる祷祭を行った阿蘇山も金印も畿内では
見つからないこともある。
装飾古墳が畿内を除く九州〜東北地方まで分布し、その中心が北部九州
であることはあきらかで、北部九州を中心とした東北地方に及ぶ権力が
あったとするより仕方がない。
564 :
九州王朝大好き:2008/03/19(水) 15:57:20
>>562 >創作をするならでかい利害があるときよ。
清寧、継体にとってでかい利害があったのですよ。
応神にもでかい利害があったので、仲哀を蔑んでいるよ。
565 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/19(水) 18:23:25
でかい利害があったから殺害とかがあったんでしょう。今回は舎人親王らの
記述者のほうのことです。
566 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 20:52:14
>>552残念ながら、私はまだ初心者で、太国さんや九州王朝大好きさんのように
ハンドルで書き込むほどの力量はありません。(論破されて逃げ出しのが落ちです。)
私はただ、自分史を書こうと思い立って、いろいろ調べていくうち、ここにたどり着いて
しまったということです。
私がこれまで調査したことを基にした推測では、福※姓以外にも、徐福に従って渡来
した人の子孫があるのではないかと思われます。
岩※姓(例えば、石井、石川、石上)もその候補です。群馬県史によると、碓氷郡にあ
る石井郷は(伊波井)と呼ばれていた形跡があります。つまり、磐井、石上(物部)、
石川(蘇我氏)は同族だった可能性が推測ができます。
このあたりの証拠を積み上げていけば、日本史に新たな1頁を加えることができそうな
予感はるのですが・・・
567 :
九州王:2008/03/19(水) 21:20:06
「世有王、皆統屬女王國」
これは伊都國と女王國の関係を説明した文で、通説では日本語に訳すると「(伊都國には)代々王がいる、(伊都國の代々王は)皆、女王國に統屬されてきた。」の意味とされてきた。
「世」は漢籍で代々の意味に通常用いられる語なので「世有王」では「伊都國には代々王がいる」の意味は疑う余地がない。
次の「皆」は「世有王」のことを指すとされてきたがはたして、そうであろうか。
「皆」が「世有王」を指すとすると、「伊都國の代々の王は女王國に統屬されてきた。」となる。
(伊都國の)「王」が代々「女王國」に「統屬」される!
「王」が「國」に「統屬」される?「王」の下に「王」がいる?「女王」が昔から伊都國の王を何代も統屬してきた?
通常「國」に「統屬」されるのは「國」である。(漢籍には組織が組織員を統屬するとの表現はあるが、王国が他の王を統屬するとの例はない。)
漢籍では「王」の下の者は「王」とは呼ばない。「王」は下の者は「公」や「大夫」と表現される。
ここで「女王」とは卑弥呼のことであると考えられる。通説の解釈では卑弥呼が王位を継承する以前から「女王國」があったことになるが、卑弥呼以前は男王だった。男王だった時代も含めて「女王國」と呼ぶのか?
どうも「皆」が「世有王」を指すと考えるのは無理である。
では「皆」は何を指すのであろうか。
まず「國」に「統屬」されるのは「國」である。
「皆」とは複数の意味である。
この条件を満たしているのは、『三国志魏書』倭人伝の出だしに書かれた「今使譯所通三十國」である。
「皆」とは「三十國」の国々のことなのである。
また突然現に「女王國」と書かれているのは「世有王」で王が伊都國に居ることを既に説明しているので、「皆」の三十國を「統屬」している「女王國」が伊都國を中心に三十國の連合国であることを説明したものなのである。
つまり「世有王、皆統屬女王國」の意味は「(伊都國)には代々王がいる、(三十國は)皆女王國(伊都國を中心に三十國の連合国)に統屬している。」なのである。
女王國とは伊都國が中心となった三十國の連合国だったのである。
568 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 22:04:50
そういえいば、紀の国の荒川戸畔も女酋長、奇異ですね。
569 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 23:48:47
>567
中国でも春秋戦国時代に、「周」が諸国を「統屬」に近い形でまとめていた(最後はバラバラになったが)。
570 :
九州王:2008/03/20(木) 00:04:25
周王室が「統屬」に近い形でまとめていた時期は覇者争の春秋時代で王は周だけ、他は公。
バラバラになった時代が戦国時代、各国が王を名乗り周も王の一人に成り下がる。
571 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 00:12:47
>570
それは中国の内輪のはなしであって、諸侯も今日的には国の一種に分類できる。
戦国時代に周が脆弱な国だったにもかかわらず、瞬時に圧殺されなかった理由も見るべき。
あのう、欠史八代の・・特に『考』系の大王は葛城に言い伝えが多く墓もあります。
雄略天皇の伝記は大和葛城氏の領地にもいっぱいあるのですが。。。
事代主(一言主)と雄略の問答とか。。。
なんと二代スイゼイ天皇の宮後なんてものもあります(これはホンマかよとは思うのですがw)
九州に王権があるって言えるんならこのスレに葛城王朝もあってもいいですかね?
・三輪王権との大和郡山辺りに有ったらしい湖畔の利権争い
・相撲のルーツとなった野見宿禰(三輪代表)と当麻蹴速(葛城代表)との戦い
・墓の主が分からない大きな墳墓の発掘(室大墓)とか馬見古墳群
・その辺の田んぼに普通にある古墳ども
・高天原の高天彦神社とか
どうでしょ?
理由もなく畿内のモノを九州産にするバカ共
574 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 05:40:52
九州王朝かー。
ないな。
九州兵弱すぎ。
575 :
九州王朝大好き:2008/03/20(木) 07:19:17
陸戦の九州兵は弱いよ。
九州兵が強いのは海軍と海兵隊。
九州兵の装備は海戦向きで陸戦向きでなかったからね。
九州兵は陸戦主体の畿内兵には内陸戦ではボロ負け。
正確には九州兵ではなく筑紫兵だね。
誰だよww鉄器を持ってる九州が強いとかいったバカはwww
577 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 12:43:53
鉄器がない畿内じゃ、長年、大陸へ出兵できないでしょ。
長年、大陸へ出兵????????
579 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 13:01:31
>578
はあ?気は確かですか?
高句麗好太王碑って知ってる?
倭の五王は中国から極東最大の
将軍号・大将軍号を授与されてるって知ってる?
580 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 13:51:41
>>575 陸戦弱い?
意味が解らん。
なんで海軍が強いんだよ。
必ず海戦になるだろ。
なら九州王朝は生き残る。
581 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 13:54:29
反乱が多いのは首都から離れてたからだろ。
東北に九州。
>>579 >倭の五王は中国から極東最大の
>将軍号・大将軍号を授与されてるって知ってる?
えっ?「極東最大」ってどう言う意味?
「最高位」ってことですか・・・そう言うことなら事実誤認だな。
それとも、何か別のことを言いたいのかな?
「梁書」扶桑国伝について。
岩波文庫「新訂魏志倭人伝・・」に、参考原文として、「梁書」から、
「倭国」「文身国」の記述が載っている。が、これに続く「大漢国」
「扶桑国」の記述は省かれている。古田「法隆寺の中の九州王朝」
(文庫135頁以下)に読み下し分が載っているので、かなり知られて
いると思うが、岩波文庫がこの部分を切り捨てたことに、古代史学会
の無意識の作為を感じざるをえない。
さて、扶桑国が、関東圏か(古田説)、近畿圏か(いき説)、確定は
できないが、文身国は北陸あたりの国であろうから、九州の倭国以外
に、日本列島に複数の国が併存していたことは明白である。
「梁書」の記事を無視することで、通説の日本古代史像は成り立って
いるのである。
>>575 陸戦向き、海戦向きの装備とは、どのようなものですか?
一般的な防具は、木製の短甲、スネあて、編籐製の兜で、武器は短弓と長鉾かな。
これは九州も畿内も大差は無いと思います。
鉄兜とか鉄剣は貴重品かつ重装すぎて大将格くらいしか使っていないと思いますが。
585 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 15:09:43
>582
最大って、領域以外に何かあるの?
君が言いたいのは王様の体重かいw
586 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 15:13:57
>584
装備だけの問題だと君が信じちゃってる理由は何?
そもそも半島まで確実にたどり着く手腕・知識や、
海戦の訓練度合い・習熟度が大事。
>>585 > 最大って、領域以外に何かあるの?
> 君が言いたいのは王様の体重かいw
>極東最大の将軍号・大将軍号を授与
そうか、「将軍号・大将軍号」って「領域」のことなのか!!
いやー、気がつかんかったわー、エラクすんませんこってw
でもね、所管が表記されているのは「都督諸軍事」と言う官名の方で、
「将軍号」は単に職位だけを示すものだからさー、
ここ以外では、そんなこと書かない方が善いと思うよ。
>>586 > 装備だけの問題だと君が信じちゃってる理由は何?
> そもそも半島まで確実にたどり着く手腕・知識や、
> 海戦の訓練度合い・習熟度が大事。
いやさ、別にキミに訊ねてるわけじゃないからw
おじさんはね、王朝さんに九州兵と畿内兵の強弱の特性について
語って欲しいの。
キミも話を聞いて欲しいと言うなら、別のネタをあげるよ。
当時の倭人(韓人でもよいけど)の「海戦の訓練度合い・習熟度」とかが検証できる
資料があったら紹介してね。
急がないから、ゆっくり調べてみてね。
九州王朝ってなんか大層だな。
九州ムラか九州クニかなんかでいいんじゃないの?
590 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 18:37:09
> 何処坐御子日子
論破されちゃったね(笑
591 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 19:39:20
鉄製品で一財をなしたのが出雲
592 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 20:30:31
〜高天原はチベットだと確信〜
593 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 20:32:10
事実は壱岐 >高天原
どつぼ君、荒らさないで下さい。
キミが来るとどのスレも人が寄り付きません。
自スレでオナっててね。
595 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 20:55:53
高天原は宮中の事。
高天原は静岡県駿河湾。
徐福集団が最初に上陸して集落を作ったのが、登呂遺跡あたりではないかと思う。
597 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 21:29:49
古代は宮中の事を雲居などとも言い、手の届かぬ場所という事で
天空に喩える事が多い。
高天原は単に宮中の事。
598 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 21:33:24
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」(阿倍仲麻呂)
宮中でふりさけ見てどうするよ。
599 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 21:38:57
徐福は童男女数千人を始皇帝に要求するほど、ロリコン+少年愛のオタクだったから、
上陸したのは秋葉原に違いない。
600 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 22:16:22
601 :
九州王朝大好き:2008/03/20(木) 22:16:33
>>584 >陸戦向き、海戦向きの装備とは、どのようなものですか?
一般兵
海戦向き筑紫軍:皮甲冑+短弓 身軽で動き易く(水に落ちても)白兵戦向き。弓の威力に劣る。
陸戦向き畿内軍:木甲冑+(長)弓 すばやい動きに弱く対峙戦向き。威力のある弓が主力武器。
602 :
九州王朝大好き:2008/03/20(木) 22:30:18
大宰府では、三(御)笠の山に出でし月は見えない。
三(御)笠の山に出でし月を見たのは糸島・壱岐方面から。
万葉の転勤族、大伴家持。
その当時、すでに大和朝廷の支配は、
大宰府から多賀城まで及んでいて、
身の危険はなかったとしても、
飛行機も新幹線もない時代、
相当の冷飯食いだったのは確かですね。
604 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 23:34:29
天武天皇は九州側の人物で、畿内の王権を簒奪して即位したのだから、
大宰府は僻遠の地であるまえに、由緒ある古都として最重要都市だったろう。
そんな大宰府を詠んだ歌・・・
「あおによし 奈良の都は さく花の におうがごとく 今さかりなり」(小野老)
倭の都大宰府が滅んだように、繁栄の極である奈良の平城京も、永遠ではありえない・・・
>>601 皮甲は残り難いので除くとして、木製甲は九州・畿内双方から出土しますね。
木弓は両者で長さが違う、と言うよな顕著な違いが認められるのですか?
>603
天皇の親衛隊として、謀反の臭いがする各地に赴任していたと思われる
>>598 それってほぼ100%奈良って教えられるけど
全くもって遺憾だよね。ここらへんの地名については
初めて知ったとき驚愕だった
608 :
九州王朝大好き:2008/03/21(金) 09:21:27
>>605 筑紫のメインが皮甲であることは隋書俀國伝にもみられます。
弓が長いと矢の初速を上げるか鏃を重いものにできます。
つまり矢に大きなエネルギーを与えられるので破壊力が増大します。
短弓でも蒙古兵の馬上弓の様に特殊な構造故に、
矢に大きなエネルギーを与えることができるものもありまが。
魏志倭人伝によると「木弓短下長上」と、
できるだけ弓の長さを大きく取れる構造にしていますが、
船上戦では取り扱い上、弓を長くする事には限界があります。
畿内の鏃は弥生時代に入って、対人用に九州より大型化しているので、
九州より長弓であったと推定できます。
609 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 19:19:08
縄文の鏃は狩猟用なので、弥生の鏃に比べて小型軽量です。
狩猟用では飛跡が正確で飛距離があることが重要ですので、
鏃の大型重量化の必要がありません。
むしろ遅効性でも良いから毒矢であることが重要です。
西日本よりも、東・北日本の平野部に毒草の分布が多いのも縄文の置き土産のような気がします。
人間とハイエナ以外には破壊力の大きな矢は不要ですから。
九州は、縄文時代の喜界島カルデラの大噴火(6500年前)で
1mにも及ぶ火山灰が堆積し、草木も生えない不毛の台地となった。
それから草木が生え、森ができ、人間が暮らせるようになるまでに
4000年もかかっている。今でも土を掘り返せば、その下に厚い火山灰の
層ができていて農耕に適さない。
そんなところに邪馬台国があるだろうか?
邪馬台国は、もっと肥沃な土地。
狗奴国とは毛の国、つまり関東だと見るべきだし、
関東と九州が戦う必要はない。
毛の氏の勢力は、足柄山までであり、それに対峙する三河あたりが
邪馬台国の候補としては有力だと思う。
611 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 11:47:00
だから、海に沈没して生活していたわけだし、列島側だけでなく半島側にも住んでいたわけだ。
阿蘇山の記述もあるし、金印が埋められた北部九州ってことだね。
612 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 11:53:27
富士山の噴火でも関東は暮らせなくなってないだろう?
613 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 13:23:36
>>610 >>611-612に追加
温暖な縄文時代には、6500年以上前から西日本の人口は希薄。
温暖期の西日本は夏の日照り旱魃の為、野山の生産力が低く、人間の生活には適さなかった。
人口希薄な地に噴火の火山灰が積もっても200年も経てばほとんど影響はない。
西日本の人口が増大し始めたのは縄文晩期寒冷期以降。
高温少雨の夏が少なくなり植物生産力が増大してから。
邪馬臺國の時代は、縄文晩期→弥生前期→弥生中期→弥生後期の、
縄文晩期低温期が始まってから1400年後のことですよ。
614 :
何処坐御子日子:2008/03/22(土) 15:29:16
>>608 いろいろと例を出されてご教示いただきありがとうございます。
皮革製品は、温暖湿潤な日本の気候では残りにくいですからね。
九州でも畿内でも出るのは稀でしょうね。
弓も実際に出てくるのは、墳墓からが多く、
これは飾りの付いた威信財としてのものでしょう。
長さも2メートルを超え、実戦で使えそうな
ものも少ないです。
銅鐸や埴輪などで描かれた二次的資料をもとに
判断するところですが、畿内について言えば、
弥生と古墳時代の間に大きな変化はないですね。
基本的には「長弓」ではないようです。
615 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 15:37:14
>>612 富士山だって宝永噴火程度の規模でも何年にもわたる凶作を巻き起こし、
何十万人も餓死者を出しているが、喜界カルデラの爆発は、
その何百倍かのエネルギーだったんだよ。
616 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 15:42:58
>>614 >弥生と古墳時代の間に大きな変化はないですね。
>基本的には「長弓」ではないようです。
その様に思います。
畿内と九州の弓はどちらが長かったかと言うことです。
畿内>九州であったと思います。
617 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 18:17:44
>>615 実際九州はみんな生活してるだろうが? それに景行だって九州行幸しているし、
そんな困窮なんぞの話もないようだし、当時だってなんとか生きていって
いるようではないか。そんな噴火があっても何とか知恵を絞って生きてるわけさ。
それにエネルギー計算はどうやって数値を得たのか?
>>617 犬国!
オマエ、ホントに○鹿だな。
喜界カルデラの爆発は縄文初期の話だぞ。
だから、縄文時代の人口が東高西低だって言う話題になってるんだろうが!
こんな基本的な知識も無しに話題に入ろうとするなよw
あ、それとな、爆発のエネルギー量の計算は、
堆積層の厚さと飛散面積からの算定だよ。
これも常識な。
619 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 21:49:10
>>618 太国さんは、自説にこだわるあまり、いつも他人のレスをきちんと読んでいない
ようです。だからいつも、反論は的外れで、大局を見誤っているきらいがあるの
ですが、このスレにはなくてはならない名物男ですから、大目に見てあげてくだ
さい。
喜界カルデラの噴火は、日本列島形成以来最大の大爆発。
噴煙は高度3万メートルの成層圏のまで達し、火山灰は九州では1mも積もり、
遠くは関東や東北まで火山灰は降り注いだという。これは、有史以来の富士山
の噴火の比ではありません。富士山が吹き飛ぶ規模の噴火です。
この噴火の前には、九州にも豊かな縄文文化が栄えていて、それらはこの噴
火により壊滅したと思われます。
あなたの言う通り、九州は数千年の間、人に住めない未開の土地だったと思
われます。
620 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:01:33
太国、お助けレスが入ったぞ。
くくくくくっ。
哀 れ だ な
621 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 22:07:27
>>618 お前の豆脳はそんな答えしかできないのか?ww
実際今でも住んでるだろうが? 住めないほどひどけりゃぁ、景行
が九州行幸なんぞするか?www 仲哀、神功も同様だろうし、
クマソの文が記紀からなくなるよ。ww
622 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:15:26
>>621誰も景行天皇の話なんぞしておらんわい。
まったく人のレスを理解できてない。笑っちゃう。
だろう?みなさん。
623 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 22:20:52
>>622 景行の二代前が卑弥呼の時代ですから話に関係があります。
おまけに壹與はその後代で景行の時代に近接してきますから、当然
関係があります。卑弥呼が九州に火山噴火のため住めないなどという
お前の論理は成立しにくいでしょうがねぇ。www
624 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:37:50
時代背景ではなくて、もともと九州は稲作には適さない土地だと
言っているのに、全然理解していないみたいですね。
>>623
625 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:46:04
九州じゃ、縄文時代からメロン栽培してるけどね。
626 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 22:54:38
稲作には向かないので、サツマイモやメロンといった火山灰でも育つ作物を
栽培していたわけだし、水田稲作を続けようと思えば、もっと肥沃な土地を
探すと思う。それが東遷のもう一つというか最大の目的であったとは思わな
いか?
627 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:00:12
東遷って、たかだか数十人の久米退役軍都落ち話でしょ。
彼等は遠洋航海できないから、軍からリストラされただけでしょ。
関係ないんじゃない。
628 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:03:29
>>626 稲作には向かないサツマイモやメロンといった火山灰でも育つ作物を
栽培しているのは南九州だけ。
北部、中部は米処。
629 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:04:16
>>626 稲作には向かないサツマイモやメロンといった火山灰でも育つ作物を
栽培しているのは南九州だけ。
北部、中部は米処。
630 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:11:03
>>626 それだ!
つまり、邪馬台国は、稲作に適さない南九州にあった。
しかし、北九州には既にいくつもの大きな国があって征服するのは無理。
だから未開の地に東遷したんですね。
631 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 23:25:41
>>624 稲作に適さないから何だと言うんだ? そこから卑弥呼が九州に
生きていけないと言いたいんだろう? そうでないのか?
ならば稲作不適は何の目論見で言ってるのか?
ちなみに徐福集団が最初に寄港したのは薩摩半島南部の串木野だいわれている。
それは、南九州には、すでに大きな国があって上陸できなかったためかもしれない。
徐福集団は、そのあと、紀伊半島の熊野、そして駿河湾の富士見市に上陸するこ
とになる。数百隻の大型船が到来したわけだし、その集団が近代的な水田稲作を
伝えたことはまず間違えない。
633 :
九州王朝大好き:2008/03/22(土) 23:28:51
>>619 >この噴火の前には、九州にも豊かな縄文文化が栄えていて、それらはこの噴
>火により壊滅したと思われます。
噴火が原因と違うよ。原因は気温上昇による夏季高温少雨だよ。
九州で縄文文化が栄えていたのは縄文草創期と早期の低温期まで。
縄文早期に気温が上昇して夏季の高温旱魃で生活に適さなくなった。
そこに7300年前の鬼界カルデラの噴火。
以降縄文早期後半から後期までの温暖期には九州は人口希薄化。
九州の人口の増大し始めたのは縄文晩期の低温期になってから。
夏季の高温少雨が少なくなり、植物の生産性が上がり、水稲作が始まった時だ。
余談:木の年輪の硬い部分は何月頃何故形成されるのか調べてみよう。
634 :
虹歩命:2008/03/22(土) 23:52:57
サツマイモが日本に渡来したのは戦国時代といわれます。
青木昆陽
636 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 00:06:00
昆陽の頃、とっくに大阪でサツマイモが普及してた。
もっと昔からあるのはサトイモだね。
>>634 wikiより
もともとは南アメリカ大陸熱帯地方から東南アジアに導入され、そこから中国を経て沖縄、九州、本州と伝わった外来植物で、日本から対馬を経て朝鮮半島へも伝わる。
このため中国(唐)から伝来した沖縄や薩摩では唐芋(奄美諸島では何故か薩摩芋)、沖縄(琉球)から伝来した九州では琉球藷、九州から伝来した本州では薩摩芋と呼ぶ。
638 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 09:42:08
サツマイモやメロンと言ったのは、火山灰の多い地域でも栽培できる作物の例であって、
なにも、卑弥呼の時代から神棚にマスクメロンがお供えされていて、悪くなる前に巫女が
食べていたのだと言っているわけではない。w
どうして揚げ足取りな議論が始まるのか、まったく信じられなーい。
639 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:07:40
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
640 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:25:31
火山が噴火したから無人だなんてデマは、結局通用しない。
641 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:41:21
火山灰が1メートルも積もれば草木も生えない。
雨が降って水たまりができて、そこに季節風に乗って、種が飛んできて、
草が生えて鳥がやってきてウンコしてリンがたまって、それを養分に
木が育ち森ができるまでには何千年もかかるんだよ。
火山灰がうっすらと積もったのとはわけが違う。
642 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 14:31:21
溶岩だって、火山灰だってすぐに草が生える。どんどん人が住めるようになる。
溶岩だって、火山灰だって、オケラだって〜、アメンボだぁって〜♪
みんなみんな〜生きているんだ友達なんだぁ〜♪
644 :
九州王朝大好き:2008/03/23(日) 17:45:37
1914年桜島大正噴火は対岸の大隈半島と溶岩で繫ぎ、
桜島を島でなくしてしまった。
噴火50年後はまだ溶岩の隙間に草が生える程度だった。
今は木が茂る。
森になるまでにあと何千年もかかるだろうか?
いくら長くても何百年もかかるかな?
100年後は森になっていると思うが。
645 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 19:41:09
>>644 まあ、何年後に森が広がったかについて議論するのはやめましょう。
取りあえず、当時住んでいた縄文人は絶滅し、(もしくは、避難し)
噴火後しばらくの間、人の住めない不毛の大地だったことだけを
指摘しておきましょう。
646 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 19:56:01
魏志倭人伝に出てくる倭人みたいな漁労民なら、噴火後すぐにでも居住OK。
647 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 21:41:10
直ぐにって、雨が降ると泥沼と化す火山灰の上に柱が立つとでも?
648 :
九州王朝大好き:2008/03/23(日) 22:25:45
>>645 元々ほとんど居住していなかった縄文人も、
降灰を避け九州北部へ逃れていったことでしょう。
そして噴火終息後も、しばらくの間、人のほとんど住めない不毛の大地だったことは間違いないでしょう。
結局は日本最古の稲作の遺跡はまだ九州でしょ
縄文の話をしてるわけじゃないから噴火関連の話は
止めにしましょう。スレ違いかと思いますので
この話がしたかったら別にスレ立ててやってくださいな
650 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 22:57:42
>>649賛成です。
噴火の話は、九州には旧石器時代や縄文時代からの住民はおらず、
九州の文化は真白な状態から、朝鮮半島や南方、そしてもちろん本州
や四国からの移民によって形成されたという大前提を確認するためで
す。
そして九州文化は、本州や朝鮮半島からも近く、火山灰の影響も比
較的少ない北九州から始まりました。これは重要なことだと思うのです。
半島から交通の要所は筑紫地方であり、邪馬台国は佐賀にあったとす
るより、本州にあったとするほうが説得力があると私は思うのです。
いまでも現実に火山灰が降り積もり続けている鹿児島でも
立派に農業は成立し続けているのだが
火山灰層の厚さは1mなんてものじゃないよ
それに阿蘇カルデラ内では、すでに紀元前後には十分に肥沃な
土地であったという証拠がある。溶岩台地ですら数百年で緑が
戻り始める。火山灰ならば、100年もすれば、農業は可能である
652 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 23:21:03
>>651 牧草を育てたりサツマイモやメロンを栽培するには十分かもしれませんが、
水田稲作には、もっともっと適した土地が畿内や関東にいくらでもあったの
です。それを認めようとしないのであれば、何を言っても無駄じゃないかと
思ってしまいます。意見が合わず残念です。
653 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 23:42:34
魏志倭人伝にみる倭人などの漁労民にとって、火山灰はあまり関係なし。
654 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 23:47:21
薩摩隼人は漁労の民だよ
シラス台地に代表されるように火山灰層は
水はけがよすぎて、水田などには向かないといわれている。
しかし、熊本県から大分県にかけての阿蘇からの火山灰に
よる地層を見ると結構緻密な粘土質である。これは数万年
のオーダーによる風化によって生成されていると思われるが、
その上の表土は意外と薄く、むしろ希土類元素の補給源と
して重要なものだと考えられている。
同様に関東などに分布する関東ローム層も緻密な粘土質である。
熊本から佐賀、福岡にかけては水田に適した場所が非常に広範囲に
存在し、古くから水田を作っていた痕跡が数多く発見されている。
これが現実だと思う。さすがに噴火直後は水田稲作は無理だろうが
影響の少ないところは比較的すぐに復旧しているのではないか。
場所によっては、微量元素のよい補給源となり、収量が増加するような
こともあったかも知れない。
656 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 00:28:18
なんでも不毛にしたい奴がいるようで・・・
657 :
九州王朝大好き:2008/03/24(月) 12:19:39
>>655 其の通り。
でないと、九州王朝が成立しないもので。
>>583 「梁書」扶桑国伝について。の続き。
「梁書」によれば、国王は「乙祁」と名付けるとあり、論者からは、
オケの命「仁賢天皇」の名前と時代が一致する、と評されている。
貴人の第一は「大対盧」と称し、これは高句麗の官職名なので、
仁賢朝は高句麗系の王朝であった(つまり記紀は事実を伝えていない)
という可能性が考えられるのである。
(むろnこの主張は蓋然性の低い仮説にすぎないが。)
659 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/24(月) 18:26:42
>>658 「乙祁」の『乙』は甲乙の二番目だから、仁賢天皇ではなく弟の顯宗天皇のほう
だろう。
吸収央蝶葉中津田
661 :
倭奴国:2008/03/24(月) 19:56:48
久しぶりにスレに来てみました。特に荒れてはいないようなので満足です。
内倉武久氏の新刊「卑弥呼と神武が明かす古代 日本誕生の真実」を斜め読みしました。
古田説とは少し違う九州王朝説を展開しており、そういった点で興味深い。
また、九州の某博物館に対して、氏が木簡をすべて公開するように要求したときの話も興味を引く。
内部から聞こえてくる話として、「定説に合わないものは出さない」ということだそうである。
いつもながら定説側の学問への態度とはこんなものなのだろうか、大いに疑問に思う。
なお、氏の古田史学の会会報の原稿(「理化学年代と九州の遺跡」)がホームページに
掲載されている。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou63/kai06301.html
662 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:14:23
まあ、反論もあるようですが、
九州は、喜界島の噴火の後、長らく人が住めなかった不毛の台地だった。
しかし、草木が育って人間が生活できる環境が広がるにつれ、断続的に
移民・流民が入りこむようになり、その中から王を名乗る者が何人もあらわ
れた。
このうち、中国大陸とつながりのある有力な王が使者を送ったのだろうと
は思うのだけれど、しょせん余所からやってきた侵略者。その後も、九州は
内紛が続いたわけだし、賢い王はもっと住みやすい土地を求めて本州や四
国に移り住んだのだし、それでもあくまで九州王朝は存在したというのなら
別に否定はしませんが・・・なんだかなぁ。
663 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:17:35
長らく人が住めなかった > 人類1万年の中の一瞬
>>663関東や東北には、縄文時代どころか旧石器時代から人が住んでいました。
九州にも少数ながら縄文集落の跡が見つかっているけれど、6500年前に一度
だれも住めなくなって、そのあと、どこから渡ってきたのかわからない馬の骨の国
です。歴史の浅い野蛮な国という印象がありますね。
665 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:36:05
漁労民の行動半径は広いし(数百キロなど当然)、撤収も帰還も速い。
喜界島って、奄美大島の喜界島のことでしょうか?
昔、そんな大噴火があったのですか?
それとも、なにか別の噴火のことをさしているのでしょうか?
667 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:36:46
歴史の浅い野蛮な国 > 典型が巻向
668 :
九州王朝大好き:2008/03/24(月) 22:25:31
>>659 「乙祁」の『乙』は甲乙の二番目だから、
仁賢天皇ではなく弟の顯宗天皇のほうだろう。
←弟の顯宗天皇・・袁祁=をけ 「を」は、乎、遠、怨など。
兄の仁賢天皇・・意祁=おけ 「お」は、意、於、億、乙など。
万葉仮名ではこうなるので、仁賢天皇です。
扶桑国の僧侶が499年に報告したもので、仁賢の在位と合致します。
670 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/25(火) 07:30:25
>>669 499年は2倍暦で実際の499年ではなく、この歳こそ顯宗即位年であり、報告が
同年ならば、国王というなら甲乙二番目の乙である弟、顯宗だと考える。
499年は仁賢は倍暦の関係で即位していない。真の仁賢即位は502年だからである。
671 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 22:43:58
ここは3倍歴で解釈するのが正しい。
この際12倍歴くらいでもいいんでないの
673 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:06:33
竹下さんの全部。
674 :
:2008/03/25(火) 23:30:17
>>672そうだね、時計の文字盤の12等分だしね。
675 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 23:35:35
やっぱり、日本はユダヤ人が造った国だと言いたいわけ?
kyushuouchohanakatta
677 :
:2008/03/26(水) 02:04:46
南九州は古来ソシシのムナソウ国とか、空国(カラクニ)とかいわれる不毛の土地でした。
これは火山の噴火による降灰によるものです。
尚、霧島の韓国岳は本来は空国岳であったようです。
ですから、ニニギの命が言った「ここは韓国に向かい」は「ここは空国に向かい」で、
鹿児島のことをいいったわけです。
678 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 18:57:54
不毛の土地 > 短期間だけだし漁労民には関係ない
「ここは韓国に向かい」 > 福岡県北岸
>>664の続きです。
鬼界アカホヤ噴火は、大量の火山灰の降下だけではなく、大津波が発生した可能性が指摘されて
います。
鬼界アカホヤ噴火の爆発規模は、1991年に起きたフィリピンピナツボ火山の爆発の10倍、雲仙普
賢岳の噴火の100倍の規模だそうです。それが海底で起きて、島が丸ごと陥没したとすると、大隅
半島では30mもの大津波が押し寄せたかもしれないと推定されています。
http://www.cneas.tohoku.ac.jp/a4/2ken(6).htm
この後は私の推測ですが、この鬼界島の噴火か、それよりもっと大規模な火山爆発や地殻変動
によって、スンダーランドから沖縄にかけて大規模な沈下が起こって、謎の古代文明が消滅したの
ではないかと推測しています。そして、ノアの方舟伝説は、火山の噴火を予測して大きな津波を受
けても沈みにくい方舟に乗り込んでいた一部の民族だけが生き残った。そして、アララト山や富士
山、遠くはイースター島にたどりついたというのが真相ではないでしょうか?
水が引いて淡路島ができたというのも、大津波の跡の引き潮なら考えられることですし、それが天地
創造という形で神話になったとも考えられます。
さらに、天の岩戸に隠れたのは、鬼界カルデラ噴火の場合でも、噴煙は3万メートルの成層圏まで達
したわけですから、津波が引いた後も、火山灰の影響が比較的少なかった地域でも太陽が見えにく
い状態が続いたのではないかと思われます。太陽が隠れたのは日食ではなく、火山の噴火というの
が真相だと考えます。
これらを全て立証するには、膨大な資料が必要ですが、まあ、気長に一つ一つあたって行こうかと考
えています。
ま、いろいろ推測に基づいて書きましたが、古文書の分析だけではなくて、民族学考古学、気象学、
火山学、あらゆる分野の分析結果を総合的に判断しないと、有史以前の九州王朝説を立証するのは
難しいのではないかというのが私の考えです。
680 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 21:14:06
岩手県三陸海岸の大津波被害のほうがはるかに大きかったが、岩手県民が絶滅したことは一度もない。
富士山が噴火して日本列島人が絶滅したことも、一度もない。
よって、九州王朝が絶滅する要因にならない。また九州王朝は有史以前でなく、有史後の王朝。
681 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 21:43:47
三陸大津波はチリ地震だし、沿岸部の住民には大木が被害があった。
有史以来の富士山の噴火なんて、すかしっ屁みたいなもの。
富士山の形が変わるほどの噴火で絶滅はしません。
682 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 21:50:30
>>679 マテ、百歩譲って九州に火山灰が届く可能性があってもいいが、さすがに
>ノアの方舟伝説は、火山の噴火を予測して大きな津波を受
>けても沈みにくい方舟に乗り込んでいた一部の民族だけが生き残った。そして、アララト山や富士
>山、遠くはイースター島にたどりついたというのが真相ではないでしょうか?
ここまでくるとやりすぎだ。いったい何の情報に感化されたのだろう?
ムーかなにかにそんな記事あったのか?
684 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 23:54:22
6000年も前の噴火は無関係。南九州は、古代においては住みやすい所として多くの人が住んでいた。そんなことは常識だよ。
上野原遺跡によっても、人が絶え間なく住んでいたことは裏づけられている。
だいたい、南九州からは他に例のない玉壁が出ている。南九州には中国からかなりの国だと認められる国があったということだよ。
古墳にしても、初期古墳を始めとして、おびただしい古墳がある。弥生時代に人がいなかったような所に急に古墳文化が成立するはずはない。
熊襲というのは、大和側が邪馬台国の人々をけなして呼んだだけのことでは?
685 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 18:02:56
686 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:19:32
>>684当初は先住民が全くいなかったのですから、それはそれは住みやすかったでしょうね。
他の部族から侵略される心配もなかったし、村の周辺に環濠を掘る必要なんて全くなかった
わけですから。あの人たちがやってくるまでは・・・・
687 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:22:51
688 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 22:48:32
日本民族の祖先は、ヘブライ人もいるけれど、ほんの一部。
秦からやってきた秦氏にしても、ほとんどは中国の原住民。
ユダヤの血が混じっているのは1%にも満たなかったと考
えられます。
したがって、長い年月のうちにユダヤの血は薄れ、倭人と
同化してしまった。ユダヤの血を引き、数ヶ国語を操り、数学
や天文学にも造詣の深い日本人は、ほとんど見かけません。
太陽の船なんじゃなくて、太陽が昇ってくる東へ旅する船だよ
太陽の黒点が3本足のカラスで太陽の化身
690 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 09:23:05
九州王朝が存在したとすればそれは複数の国の代表ということになります。
ローマが共和制から帝政に移行した歴史を見ればわかると思います。
691 :
九州王朝大好き:2008/03/29(土) 12:56:55
>>690 >九州王朝が存在したとすればそれは複数の国の代表ということになります。
その通りですよ。
その主要国は、筑紫・出雲・肥・難波・加賀・尾張・夷(武蔵・毛野)の7ヶ国。
非主要国は、豊・日向・長門・周防・伊予・吉備・播磨・常陸・日高見・その他多数
>>691 さま。
九州王朝の主要国は、
筑紫・出雲・肥・難波・加賀・尾張・夷(武蔵・毛野)の7ヶ国
←ここまで細かく特定できる根拠は?「日本書紀」の批判的読解ですか?
あるいは、九州王朝説論者が書いた有力な本があるのでしょうか?
693 :
九州王朝大好き:2008/03/29(土) 16:30:53
>>692 @古田武彦氏によって紹介された筑紫の舞です。
「翁の舞」
三人立:筑紫翁・出雲翁・肥翁
五人立:筑紫翁・出雲翁・肥翁・難波翁・加賀翁
七人立:筑紫翁・出雲翁・肥翁・難波翁・加賀翁・尾張翁・夷翁
この順番で登場します。
即ちこの登場順位が、九州王朝が連合国家として成立していった順番だと思います。
A日本書紀の批判的読解でも裏付られます。
>>691 帝政ローマ帝国は、紀元前27年より共和制から帝政へと移行しましたが、
ただ、初代皇帝アウグストゥスは共和制の守護者であり、実質的に帝政が
成立するのはディオクレティアヌスの時代に入ってからである。
九州王朝も、小国のまま大和朝廷による緩やかな支配を受け入れていた
ということになります。百済王が大和朝廷を乗っ取るまでの間は・・・
696 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 23:18:32
>九州王朝も、小国のまま大和朝廷による緩やかな支配を受け入れていた
>ということになります。
大和朝廷が成立するのは、九州王朝系の天武が畿内大和を征服した以降のこと。
白村江の敗戦までは、九州王朝が畿内大和を支配していました。
厨臭え・・・・・
>>697 引きこもりの妄想が炸裂しているスレですので生暖かく見守ってあげてください^^
699 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 00:39:23
「継体」も「白鳳」も九州王朝の制定した元号であり、
配下の畿内もこれを使っていたことについて
妄想炸裂はどっちなんだっつー話だわなw
もう少しちゃんとした証拠がないと九州王朝はバカにしかされないですw
九州からの出土品を見りゃ一目瞭然
C14をとっても地名もについてもまたしかり
礎石をもつ堅固な山城や屋敷跡。内地の都wよりも立派な出先機関
九州論者ってわけじゃないけど畿内はもう普通に絶望的
だと思うけどね。ちゃんとした証拠を出せないのは果たしてどちらか?
だから唯の掘立小屋でもゴリ押しで大騒ぎしなきゃならんという惨めさ
バカにされてるというかもう呆れられてるんだよ。時代からも取り残され
それにも気がつけないとは可哀相に。裸の王様、風邪ひくなよ(ひけないと思うけど。バカだから)
九州には、中国や朝鮮半島で政変が起こるたびに亡命者や難民が
次々と渡ってくるので、相当治安が悪かったと思われます。防人を
何人徴用したところで、広い海岸線を全て警備することは不可能だし、
生きるか死ぬかでたどり着いた難民を阻止しきれません。
だから国と言えば環濠集落。深い堀を巡らせ、堀の周りには逆さ茂木
を並べて柵を作り、その中だけで生活をしていました。
そういう状況で大きな国など作れるわけがありません。
あったのはすべて小国ばかり。治安維持も小国が連合して当たらない
といけなかったので、仮の女王と立てた。それが卑弥呼。
それは、もしかしたら個人名ではなく、例えばエンペラーと同じような
呼称だったのかもしれない。
704 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 10:56:28
卑弥呼を親魏倭王としたのはなぜか?朝鮮半島の小国などと比べてかなり大きな国だったからです。
北九州の小国などではないなと考えるべきです。
1.周の諸侯のひとつ。春秋時代、晋に滅ぼされ晋の邑となる。姫姓。
2.戦国七雄のひとつ。戦国時代、今の山西省西部から河南省北部を領有した国。魏 (戦国)へ。
3.秦末に魏咎が建てた魏。
4.秦末に魏豹が建てた魏。
5.三国時代、曹操・曹丕父子が建てた王朝(220年 - 265年)。曹魏ともいう。魏 (三国)へ。
6.五胡十六国時代、冉閔が建てた魏(350年 - 352年)。冉魏へ。
7.五胡十六国時代、翟遼が建てた魏(388年 - 392年)。翟魏へ。
8.北魏。南北朝時代、鮮卑族拓跋氏が建てた王朝(384年 - 534年)。534年、東魏と西魏に分裂した。
9.隋末に李密が建てた魏。
10.唐の太宗の子の李泰の封号。魏王(636年 - 643年)。
11.唐の懿宗の子の李佾の封号。魏王。
12.北宋の趙匡胤の弟の趙廷美の封号。魏王。
13.南宋の孝宗の子の趙トの封号。魏王。
706 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 13:59:33
>九州には、中国や朝鮮半島で政変が起こるたびに亡命者や難民が
>次々と渡ってくるので、相当治安が悪かったと思われます。
九州政権にしてみれば、半島の治安が悪かったので安定させに行っていたわけで、
亡命者の戦闘能力などほぼゼロにちかいし、難民は九州政権を頼りに渡ってくる
恭順勢力にすぎないだろう。半島の国家が列島を侵そうとするならともかく、
亡命者や難民はむしろ治安を良くするための要員だ。
たとえば、フランスのトルコ移民の差別による社会問題
を見ればわかるように移民は治安悪化の原因になります。
708 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 14:41:15
差別する異民族の国に移住した場合はそうなりますし、
古代の日本列島のようにほぼ同じ民族間で歓迎して受け入れた地域もあります。
まあ「九州王朝」のトンデモぶりに気づかせてくれたことで
「東日流外三郡史」には感謝すべきだな。
710 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/30(日) 15:00:53
トンデモではない。もうかなり年号出てるからあるのは決まりだよ。出たのは
氷山の一角。
711 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 15:08:23
三郡史を出せば勝ち誇れると信じちゃったヤマト信者って、とっても哀れだなあ〜
C14で自説崩壊前夜だというのにw
学会で無視されてるからここでしか言えないんだよねw
かわいそうだからこのスレだけでは威張ってていいよw
713 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:53:07
>>712 書店で最近は九州王朝に関する書籍が増えている。
一般の歴史好きには人気が高く、良く売れているようだ。
ソフトバンクがどうの、王監督がどうの・・と書いただけで結構売れますからね。
九州人なんてちょろいものですよ。
715 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 17:12:32
>>713 一般的じゃないのに染まる奴が続出してるんだよ。
716 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/30(日) 17:25:07
>>712 年号で決まりだね。いくら否定の見解をゴリ押ししたところで、1、2個なら資料
のいい加減もありえようが、うんと出てくりゃぁ出てる資料が全部デタラメには
なり難い。5個も6個も出てま〜だ連中間違っているのを認めないで頑張って
るわけさ。ww あいつらは生活かかってるし臥海も面子のほうが大事なわけ
さ。ww 年号では反論しても一般の連中はそれら論の錯覚、著名な研究家の
名前で誤魔化せても、いろいろこだわらずに冷静の研究と積んでる者の目は節穴
ではないぜ。うんと出て来るということは、氷山の一角がぞろぞろと現れ出て
いるものよ。
717 :
☆130万人以上のチベット人を虐殺拷問した中国の正体っ!!!☆:2008/03/30(日) 17:35:18
718 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 18:04:41
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
うんうん威勢がいいね!
>>713 一般の歴史好きは謎やらトンデモ説が大好きだからな
九州王朝はそういった層には売れそうだわw
720 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 19:04:47
>>719 馬鹿のくせに他人は皆馬鹿だと思っている馬鹿↑
なにそれw
九州王朝支持者はただのバカだろw
九州人は郷土愛が旺盛だな
723 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 20:47:44
九州出身者以外の支持者が圧倒的に多い九州王朝説。
職業上の都合で仕方なく支持されている畿内説。
歴史というものは多数決で決めるものではないし、
ましてや職業上の都合で決めるものであってはなりません。
その意味で、真実を突き止めることに執念を燃やす在野の
アマチュア歴史研究家の存在意義は大きいと思います。
九州王朝はいつ頃成立し、いつごろまで王朝としての体裁を
維持していたのか。興味深いテーマではあります。
しかし、王朝という定義があいまいなうえに、大和朝廷の手
によって焚書が行われ、過去を伝える証拠が消失している
なか、断片的な書物や状況証拠だけを頼りにあれこれ
論じることは歴史を局解する恐れが高いのです。
しかし、そういった危険を冒して九州王朝について述べれば、
九州にあったのは、最大でも人口2万程度の小国です。
狭い平野と火山灰、そして度重なる流民の進入に阻まれて、
集落の集約ができなかった。これが結論だと思われます。
その程度でも九州王国があったというのであればあえて否定
はしませんが。日本の歴史にとって重要性は薄いです。
岩井の乱までは畿内政権に属さない比較的大き目の九州勢力はいただろうな
それを過大評価してむちゃくちゃなこというからバカにされるんだよおまえらは
>>724 隋書タイ国伝に、10万戸、とあります。
九州説王朝説では、タイ国は九州の国ですから、
九州にあったのは、
×最大でも人口2万程度の小国、ではなくて
○10万戸の国(人口は数十万?)、です。
727 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:17:21
>しかし、王朝という定義があいまいなうえに
自分の無知を他人に転嫁しないでください。
>九州にあったのは、最大でも人口2万程度の小国です
九州王朝は極東最高位の国だったわけで、高句麗や畿内をしのぎます。
とりあえずソースを出そうよみんな
>九州説王朝説では、タイ国は九州の国ですから、
( ^ω^)・・・
730 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:51:57
ああ、阿蘇山のあるイ妥国ね。阿蘇山がある国ってどこだっけ?
上記「×九州説王朝説」を訂正。「○九州王朝説では、タイ国は・・」です。
近畿説だと、(1)「阿蘇山」は物見遊山で立ち寄った、(2)富士山は
600年頃には阿蘇山と呼ばれていた、の二つの説があるようですが、
いずれも私を説得してくれません。
732 :
日本@名無史さん:2008/03/31(月) 12:39:07
>>724 >歴史というものは多数決で決めるものではないし、
ましてや職業上の都合で決めるものであってはなりません。
証拠が確りし論理に合理性があるもの、一部の専門家だけでなく万人が納得できる説が最も正しい。
>九州にあったのは、最大でも人口2万程度の小国です。
魏志倭人伝では、人口2万の国(都市国家)以外にも二十数カ国(都市国家)が九州内にあり、
更にこれらの国々が連合し、投馬国や邪馬壹國、狗奴國等の国(領域国家)を形成していと読み取れる。
733 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/31(月) 15:05:37
>>724 これは重要なんだよ。九州王朝があったということは、女王国畿内説には大きな
疑念が出てくることになるのさ。それだから同調者は必死に否定を繰り返すわけ。
年号が出ててるから次第に認容に向かうだろう。うまく否定したつもりでも巧妙な
言い訳、批判にすぎず、あとは時間の問題。時間は永くかかるね。年号は氷山の
一角で、真が何かが多少見え隠れして来てる状態なのさ。
年号が出てるって何のこと?
735 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/31(月) 22:00:55
だから九州年号だよ。
ありもしない妄想年号。
737 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/31(月) 23:19:12
5個も6個も資料が出てまだ眼がさめないのか?
お前のほうだよ。w
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・
『東日流外三郡誌』と同じ匂いがします。
朝廷支配に反抗して、自ら歴史を作った。
仏教が伝わる前に仏教用語が多用されている
など、あとの時代に捏造された形跡があります。
>>735 もっと具体的に言ってくれないと何のことだかわからんよ
740 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 00:22:09
畿内ヤマト信者が「九州元号はなかった」なんて叫び始めるヨカン
741 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 01:13:38
>>725にほぼ同意だね。
なんなら九州で独自の年号を使っていたって構わないw
所謂「九州王朝説」がイタイのは畿内との関係において
陰謀論のオンパレード状態になっているところだなw
白村江の闘いで倭国が敗れたのは大和の裏切りだとか
法隆寺は九州からの移築だとかetc・・・
そうそう藤原京も九州王朝の歴史を抹殺する為に焼き払ったなんて話まであったw
で、肝心の九州王朝の全貌となると大和朝廷の徹底的な焚書等により記録が残っていないとか・・・
それにしちゃあ記紀神話に神武東征や天孫降臨・日向三代等の話を残してしまう間抜けさwww
結局歴史の謎の部分を拾い集めて
都合の良いように解釈した『スキマ産業』のようなものかとwww
743 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 02:43:29
オンパレードなら、畿内ヤマト至上主義の専売特許でしょ。
744 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 09:27:00
九州王朝が実在した最大の証拠は太宰府。
なかなか興味深いネタがいっぱいあるな
>白村江の闘いで倭国が敗れたのは大和の裏切りだとか
当初は倭国大和国連合軍ってこと?
>法隆寺は九州からの移築だとかetc・・・
時々話題になる礎石式建築はいつから?
>そうそう藤原京も九州王朝の歴史を抹殺する為に焼き払ったなんて話まであったw
初めて聞いたが、つまり藤原京は九州王朝系の都ということか
>で、肝心の九州王朝の全貌となると大和朝廷の徹底的な焚書等により記録が残っていないとか・・・
ほんとに一書に曰くと書かれている引用先の書物がほとんど見つからないね
>それにしちゃあ記紀神話に神武東征や天孫降臨・日向三代等の話を残してしまう間抜けさwww
まったくだ。うそならうそで、大和周辺の話にしておけばいいのに
九州王朝説では、タイ国(都ヤマタイ)は九州の国。
阿蘇山のあるイ妥国です。
近畿説だと、(1)「阿蘇山」は物見遊山で立ち寄った、
(2)富士山は600年頃には阿蘇山と呼ばれていた、
の二つの説があるようです。
記紀神話に、神武東征や天孫降臨・日向三代等の話が残っているのは、
事実よりも伝承を尊重したからでしょう。
747 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/01(火) 13:32:27
>>738 仏教が伝わる前と云ったって、畿内は552年とか538年なわけだが、九州は畿内
と別国的だから、そちらは早期に伝来してることは充分云える、仏教臭いなら
九州のほうが畿内より伝来が早いといことになろう。だから別におかしくはない。
5個も6個も捏造する必要もなかろう。数歩譲って、仮にそういうのがあったと
してもだ、単数的だよ。
九州年号をここで書いてみてよ
749 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/01(火) 14:09:49
>>748 お前、新参者か? つかれるなぁ〜。
継体 善化 正和 発倒 僧聴 同要 貴楽 結清 兄弟 蔵和 師安 和僧 他
750 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 14:13:37
751 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 14:24:04
752 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 15:15:24
「白鳳時代」「白鳳文化」の名は、九州王朝の元号に由来します。
753 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 16:48:14
>4
>古田武彦説なら学問的に論破されてますよ
論破も何も通説支持の学者さんは古田武彦説を無視してるだけで、真ともな議論や反論は何一つされていないのが実情です。
自然科学などと違って、古代史の場合は、
その「学問」の根拠それ自体について、合意を得ることが必要です。
学問を支える人間の「イデオロギー度」についての反省も必須です。
九州説を無視する通説は、大東亜戦争時の大本営発表を妄信する
(あるいは単純に、疑問を持たない)常民の位置にあります。
「神皇正統記」の次の文章を味読しましょう。
「昔『日本は三韓と同種なり』と云事のありしかの書をば
桓武の御代にやきすてられしなり。」(岩波文庫60頁)
755 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 17:51:13
通説の学者は檀君神話を史実だと思っている朝鮮人と同じレベルだよな。
756 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 19:25:05
畿内説って朝鮮人排斥運動だったわけね。
757 :
九州王朝大好き:2008/04/01(火) 20:30:10
>>756 三韓は朝鮮人とは別もの。
朝鮮人は挹婁。
758 :
日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:24:28
その三韓という名称が誤解や偏見のもとだと思います。
実際のところ三韓は、ツングース系の騎馬民族を支配
したユダヤ系の王による国家だったりするわけです。
三韓(さんかん)は、中国三国時代のころに帯方郡の南、
朝鮮半島南部にあった部族とその地域の事。
朝鮮半島南部の事を韓と言い、風俗や言語によって
大きく3つに分けられた事から三韓と呼んだ。
三韓の地域
馬韓(のちの百済)は、西部に位置し50数国に別れていた。・・
辰韓(のちの新羅)は、馬韓の東方に位置し、12国に別れていた。・・
弁韓 (弁辰、のちの任那)も12国に別れており、・・
『日本書紀』では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を称して
三韓と呼んでいた。
何度も書きますが、『梁書』によれば、
「扶桑国」の国王は「おけ」、貴人第一は「大対盧」、とありますが、
「大対盧」は高句麗の官職名であることに留意しましょう。
761 :
九州王朝大好き:2008/04/02(水) 00:44:29
「昔『日本は三韓と同種なり』と云事のありしかの書をば
桓武の御代にやきすてられしなり。」(岩波文庫60頁)
>>754(762は書き込み失敗)の「昔『日本は三韓と同種なり』と云事のありし
かの書をば桓武の御代にやきすてられしなり。」の「三韓」は、
(1)辰韓・馬韓・弁韓、(2)新羅・百済・高麗、のどちらもありえます
が(著者北畠親房は少し前の方の記述で、三韓は2をいうが、1をすべて
新羅という、という判りにくい注を付けている)、ここは多分1でしょう。
764 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 22:16:34
なぜ、白村江の戦に負けると九州王朝の権力が失墜したのか?
それが重大な問題だと思います。崇神天皇が筑紫の王で、その
妃の遠津年魚眼眼妙媛は、紀伊国の荒河戸畔の娘で、かつ、
曾孫の御諸別王が関東を支配して毛野氏の祖となったのであれば、
筑紫―紀伊―関東は一国だったことは明白です。
だとすると、邪馬台国と争っていた句奴国=関東の鬼怒国だったと
するのが合理的だと思われます。
765 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 23:15:17
>崇神天皇が筑紫の王で
「ジョージ・ワシントン大統領が徳川将軍で」
みたいに聞こえるんだが。
766 :
日本@名無史さん:2008/04/02(水) 23:33:29
>白村江の戦に負けると九州王朝の権力が失墜したのか?
九州王朝の天皇「筑紫君薩夜麻」が唐の捕虜になったからでしょ。
でも唐に敗れても九州王朝は滅亡しなかった。
その後に起きた九州王朝の内乱「壬申の乱」で九州王朝は形骸化し、代わって畿内大和が乱を利用して勢力を伸ばした。
大化元年(695年)には畿内大和が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した。
それを古田説として聴いたことはないな。
>>765 崇神天皇=九州王朝は、当時既に畿内、紀伊、関東を支配し
ていたと考えられます。
壬申の乱で九州王朝が形骸化したのではなく、もともと九州
王朝は畿内を支配していて、足場を大和に移ったのです。
770 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 07:34:38
え?
>崇神天皇=九州王朝
ジョージ・ワシントンは徳川家だったのか。
○九州王朝の内乱「壬申の乱」
等は書記の批判に基づくものでしょうし、フォローしてないので
何とも言えませんが、あの古田氏でさえ認めていないとなると、
万葉集の解釈においても齟齬をきたすように思われます。
一つ一つ当該説の根拠を詰める必要があるようです。(私は、
古田の前の三部作と後の三部作を読んだだけなので。
773 :
九州王朝大好き:2008/04/03(木) 10:41:42
>>768 >崇神天皇=九州王朝
これはないよね。
畿内の九州王朝化は応神からだね。
継体〜宣化をとばして、
次いで、なぞの欽明から。
774 :
九州王朝大好き:2008/04/03(木) 11:01:15
>>772 >○九州王朝の内乱「壬申の乱」
誰が言い出したの?
僕も知らない。
「九州王朝の内乱=壬申の乱」説を支持するが。
どなたか教えて下さいませんか?
倭奴國さんならご存知だと思うのですが。
それよりも推古記の記事は685〜695年頃の出来事をデフォルメしたもののように見えます。
賛同できる方、何か書き込んで下さい。
775 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 11:28:34
崇神の事跡が九州王朝のものである可能性が高いという論旨の展開ならば、理解できます。
776 :
九州王朝大好き:2008/04/03(木) 12:05:03
崇神の事跡は九州王朝からの転載ですね。
777 :
九州王朝大好き:2008/04/03(木) 12:13:37
崇神朝の事跡は九州王朝からの転載だけでなく、
尾張等、幾つかの他王権のものも含まれていますね。
778 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 12:32:21
779 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 12:52:52
780 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/03(木) 16:01:51
崇神の時代はまだ朝廷の勢力は畿内止まりだよ。九州に勢力が及び出したのは
だいたい雄略の時代のころさ。後代の景行、仲哀の九州行幸とか記紀に記述が
あるのに、崇神の九州行幸の記事もないのに崇神が九州王朝の王になる訳がない。
・天智天皇の時に倭国ほぼ統一(日本)
・天智と天武が兄弟でない可能性
・壬申の乱は九州の王権と近畿の王権の争い
これですら通説からは仰天ものだが(私は当然ありえると思うが)、
天武紀に書かれた壬申の乱が近畿で起きた事実であることを否定する
というのは、私にとってさえ仰天ものです。万葉集に反するのでは?
782 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 16:29:56
783 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 17:03:59
九州王朝の最後については古田の説明でもはっきりしないな。
784 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 17:22:57
>>780 その逆です。
つまり九州の勢力が畿内に及んでいたという説。
その時の九州王朝の王、それが崇神天皇。
786 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/03(木) 22:42:42
崇神の前、神武が畿内へ来たことから朝廷の祖が畿内に出来たのに、
何で崇神が九州の王になるのか? 主客転倒ならぬ主客天皇で、
そんなことを云うとみんなに笑われるぞ。
787 :
:2008/04/03(木) 23:02:09
おれもそう思う。
天皇陵墓発掘調査研究が望まれますな。
敏達天皇のころ(6世紀後半)大和国にとって播磨国は外国だったから、
大和国は非常に狭い国だったことになる。
当時すでに筑紫は関東と繋がっていたことでもわかるように
九州王朝の支配領域は全国に及んでいたとみるべきだと思う。
伊東は実は伊都国。伊豆半島の神社を調べてみると、
筑紫との関係をにおわせる神社が多数あることに気付きます。
これは冗談と受け取ってもらってよいのだが、
聖徳太子が一度に複数の言葉を聞いて理解した、というのは、
まだ日本が複数の国に分かれていたことを意味してると思う。
792 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 11:26:31
>>791 当時の日本には各国からの渡来人が多かったってだけの話じゃね?
九州王朝の遣隋使派遣やら九州王朝下での数々の文化事業を、
何の関係もない聖徳太子の功績に無理やり仕立てるための
創作伝説であることが前提。
794 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 15:43:09
倭国は日本全土を支配していたが、その本拠は九州にあった、白村江の敗戦で大和に移った、
という説があるよ。
その説が正しければ、壬申の乱は倭国本家と大和分家の戦いかも知れないな。
795 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 18:13:46
日本の7世紀は謎謎謎謎謎・・・。
白村江の敗戦後、九州王朝による列島支配が有名無実化し、政治的空白状況が生まれ、
畿内でも政治的不安定状況が生じて、畿内土着の一部勢力と九州王朝系一部勢力とが結託して、
周辺豪族を巻き込み、なんと畿内政権転覆運動を始め出す大事件が発生(壬申の乱)、
ついに畿内革命に成功して大和を乗っ取り、返す刀で九州まで支配してしまうようになった。
中国の歴史書編纂が以前の政権が倒れた後の正当化作業として
行われたように、記紀も大和朝廷が名実共に支配者となった時の
正当化のために作られたのだとしたら、大和朝廷の成立は
記紀編纂に着手したときから、それほど古くはないのでは
なかろうか。記紀編纂に際して中国の書物を買いあさるなど
かなり急いでいるような形跡があるし
畿内で旧大和政権の転覆に成功した天武は、自分の王位着任を正当化しようと考えた。
ニニギの末裔伝承を持つ神武の子孫として、つまり九州倭国の血統を引く天智天皇から、
事実上の禅譲をうけて王位に着いたもので、いわゆる邪馬台国・倭国の正当な後継国は
いまの大和国であり、私天武は倭国を引き継いだ王である、と古事記で公式見解を表明した。
数年後、九州王朝の王家文書が押収されたため、古事記は日本書紀として全面的に書き直された。
この公式見解は唐に認められることはなかったが(倭国と日本国は別な国・・・旧唐書)、
のちに中国側が日本国の要望を呑んで政治決着した(倭国は日本国の前身・・・新唐書)。
九州王朝は無かった
九州にはあったが。
大和朝廷の成立は記紀編纂に着手したときからそれほど古くはない
という見解に与したい。
645年大化の改新時に「国記」「天皇記」を焼いて「国記」のみ救った
という記述は、天皇の系譜が怪しいことを暗示していると考えられる。
802 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 21:48:10
九州王朝があったかなかったかは、教科書を抑えたものの勝ちです。
教科書に「九州王朝があった」と書いてあれば、高校入試でも大学入
試でも「九州王朝はあった」覚えてもらえるし、国民に九州王朝ありと
いう認識を植え付けられる。
しかし、そのためには、膨大な量の証拠をそろえて、反対派を封じ込め
る必要があり、1300年も前に焚書で証拠を全て隠滅しつくした大和朝廷
のやり方がいかに先見の明があったかということがわかります。
そしてそれは中国新の始皇帝、そしてユダヤ教の痕跡を徹底的に破壊
したローマ帝国の手口と関係があると思います。
しかし、あまりにも証拠がなさすぎることが、翻って、証拠隠滅の証拠で
もあるというジレンマを生むわけです。教科書にはない公然の秘密として
広く知れ渡らせる努力が必要になります。
>九州王朝があったかなかったかは、教科書を抑えたものの勝ちです。
学問は、勝ち負けの問題ではなく、どれが真実かが問題だ。
戦前は「日本に石器時代はない」というのが定説だったぐらい、
日本の古代史はインテリジェンスの水準が低いのである。
だがこれは、九州王朝説の普及からほころびはじめている。
804 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 23:12:57
マニアだけが九州王朝説を信じていても意味ないじゃないですか?
九州王朝説は、信じる信じないのレベルではなく、
記紀の史観に依存していてはわが日本国成立の実像が得られない
という疑念を晴らす点に、最重要の意味があります。
だから、井上光貞(クラスの歴史家)が、「驚天動地であって
天皇制の根幹に関わり、自分は採用しないが、一説として認める」
くらいのことを言っておればまだしもなのですが、いかんせん、
無意識のレベルの内なる天皇制が、考察を妨げているようです。以前
「九州王朝」が文献にあればよいのに、という指摘がありましたが、
『釈日本紀』に「倭国の中南北二倭あり」「北倭この国なるべし。
南倭は女国。云々」という問答があり、二種類の倭があるという
伝承のあることを示しています。(『釈日本紀』の注釈書は私は
知りませんので、ここの箇所を専門家がどう解釈しているかも
不明ですが。)
隋書イ妥国伝に倭国と日本国は別な国と出ているのは、信じる信じないの問題ではない。
単なる事実だ。
808 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 06:29:04
>>807それは「関東に大王あり!」の証拠になってしまいそうです。
809 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 07:05:35
九州王朝説ってのは、
「反相対性理論」みたいに、
むしろ心理学の分野だと思う。
810 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 07:44:04
通説のヤマト一元論は皇国史観に基づく宗教の分野だと思う。
通説は科学とは相容れないものだ。
811 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 08:31:55
日本の古代史の学会は高名な宗教指導者が指導する聖書研究会。
聖書に書かれている内容は事実であり、それを証明するのが学会の目的。
聖書の内容を疑ってはならない。
漢籍に登場する邪馬台国も倭の五王も全て、日本での出来事はヤマト朝廷の事でなければならないのである。
聖書=記紀。
>>803 九州王朝説とはあんま関係なくほころんでるけど。
自己愛性人格障害
誇大な感覚
限りない空想
特別感
過剰な賞賛の渇求
特権意識
対人関係における相手の不当利用
共感の欠如
嫉妬または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
傲慢な態度
こりゃオレだな。嗚呼。
>811 同意
>漢籍に登場する邪馬台国も倭の五王も全て、
>日本での出来事はヤマト朝廷の事でなければならないのである。
いわば、大和朝廷原理主義だ。(大和朝廷一元論原理主義)
日本の古代史はすべて大和朝廷を中心として存在し、
大和朝廷が常に最高権力だったと無批判に信仰する宗教である。
こんなありえない信仰をいまだ待ち続けている信者が学会にもごろごろいて、
無数の教徒が日本の古代史界に巣食い、博物館や大学を支配し、
日本考古学・古代史学の学術的低迷・停滞を守ってきた。
大和朝廷原理主義は、九州王朝説の前では歯が立たない教理なのだが、
オウムと同じで洗脳されてるから、一生洗脳=信仰が解けることはない。
815 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/05(土) 14:35:03
そういうことだ。カルトでなかなか抜けられないわけさ。
しゃぁないだろ、今更。
その国家の中心性をメリケンや中共に付け込まれてんだからw
817 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/05(土) 14:46:16
>>806 拙者の主張のとおりだ、当時畿内と九州は別国だったということで、日本は
二国だったということだな。
九州王朝説も十分宗教だと思うがな
九州王朝説の中にも妄信的な者はいるかもしれない。
提唱者の古田本人にその傾向があるのかもしれない。
しかし、「隋書」のタイ国伝の「阿蘇山」が九州の阿蘇山
であるからには、当該個所を万人が納得できるように
(九州論者も近畿論者も)説明しなければならない。
各論者がどの程度宗教的か(カルト信仰の度合)は
それからだ。
プレクロビス論争において進行中の学問的・科学的な研究レベルは、
日本の前期旧石器論争に比べると、成熟した大人と子供くらいの差がある。
野球でいえばメジャーリーガーと、砂場遊びに興じる子供を比較するようなものである。
ナショナルジオグラフィックの記事は、彼我の差をいやになるほど思い知らせてくれる。
世界的なレベルは遥か彼方にある。(略)
批判は、ごく通常的に、パブリックなものとして行なわれている。
しばしば過熱するし、時として醜いものとなることもある。
しかし批判に対しては、正面から答えが返ってくる。
批判への解答を見い出すために、莫大な時間・労力・資金が費やされることも厭わない。
プレクロビス論争をめぐるこうした傾向は、日本の前期旧石器論争では、
大いに欠落している類いのものである。(略)
彼等は、批判を無視する傾向が強く、批判者を嘲笑することすらある。(略)
日本のアカデミズムは、閉鎖的な体質で知られている。学生は教師を忌避できない。
下位にランクされる教師と学生は、上位にランクされる教師や指導者の意見に従わなければならない。
さもなければ、グループから排斥されてしまう。(略)
考古学は、進歩し、熟練した世界の考古学の仲間と認めてもらうために、
これから長く苦しい戦いを要求されることになるだろう。<C. T. キーリ >
821 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 19:50:15
宗教法人九州王朝学会のスレはここでつか?
いいえ、狂信者集団=大和朝廷原理主義を叩くスレです。
オウムも現代科学や社会システムを
敵視し、罵倒してたな。
自分たちこそ正義だって。
あの愚かしい教義を信じてたのは、
かなり高度な教育を受けた秀才たちだった。
旧唐書にはっきりと、倭国と日本国は別な国だと書いてあり、
隋書イ妥国伝にははっきりと阿蘇山があると書いてあるのに、
大和朝廷原理主義が、洗脳された宗教的立場から否定しちゃってるだけ。
九州王朝説は、そう書いてあるから、そのとおりでしょう、と言っているだけ。
さあ〜あなたはどちらに組しますか?
大和教と九州教が教義をめぐって争ってるww
827 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 22:31:39
どっちとは言わないけど、
こう言うカルトって、地域社会に迷惑かけない限り、
一応存在は許される。主張は大いに結構だ。
ただし社会に実害が出始めたら、それは公安問題だと思う。
「古代日本には大和朝廷以外に最高権力なし」
・・・だれもこんな証明をしたことがないのに、
絶対証明できるはずのないのに、
この教義を頑迷に信仰しているのが大和朝廷原理主義です。
旧唐書を見ても、あきらかに間違いなんですが。
帝政ローマ時代に、異端のユダヤ教を唱えれば迫害された。
現代はもっと思想的に自由な時代であるように見えるけれど、
実はそうではない。
九州王朝はあった。王朝復古。なんて唱えて、独立運動でも
あおれば、公安からマークされて、国家転覆罪で死刑という
こともありうる。
大和朝廷原理主義では、
金印が志賀島から出た理由がボロボロ
700年を境にして評制が郡制に変わった理由もボロボロ
旧唐書の別な国、倭国と日本国についての説明もボロボロ
無茶な信仰により、事実の説明が破綻してるわけです。
じゃあ学会で発表すりゃええやん
833 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 23:41:46
宗教会議でか?公安でか?
古代史学会やろとマジレス
異端審問所でどぞ
836 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 23:46:41
そうか。
つうか九州論者は何で真っ向から闘おうとしないの?
既存の史観に不満なら正面から堂々とぶつかればいいじゃないの。
2ちゃんで愚痴をこぼしてるだけじゃ何も変わらないぞ。
大和説を擁護するつもりはないけど、そういう熱意が伝わらない限りどんなに力説しても誰も聞いてくれないぞ。
それともたかがアマチュアが何を言っても無駄だと諦めてるわけ?
838 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 23:58:48
そうか、学会か。
>つうか九州論者は何で真っ向から闘おうとしないの?
大和朝廷原理主義の徹底抗戦バリアだらけですが何か?
畿内派が真っ向から闘おうとしてくれないからね
なんて受け身な…
ああ言えばこういうw
実際に「市民の古代の会」(正確な名称は知らない)などの
集まりで、少しずつ成果が出ているはず。が、定説確立は遠い。
学会の世代交代に際して、若手の一部から少しずつ九州王朝説の
賛同者が出るかもしれないが、記紀のほとんどを否定する説だから
たとえ正しいとしても、常識化するまでの道のりは長いだろう。
まぁでも普通に九州説と畿内説がありますよって感じだろ
今は言ったもん勝ちで何か畿内から出るとすぐ結びつけるから
畿内が有利に見えるだけ。
常識的に考えたら今よりも星空を見上げてた人間が南と東を
間違えるわけないっつーの
本来ならば九州と沖縄で二分しててもいいくらい。これだけでも
日本の歴史学がどれ程思い込みで成り立ってるか判ろうというもの
845 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 03:10:35
>>837 >つうか九州論者は何で真っ向から闘おうとしないの?
まあ、その大部分が記紀の不備を突いて成り立つ仮説だからなあw
無論「九州王朝」の存在以外にもいろんな仮説が成り立つ。
記紀が時の権力者によって編纂され
その内容が都合の良いようにされているのは言わば前提であって
ドグマの如く盲信している学者さんもそういないだろうw
九州王朝説は自身が自律的にその存在を示すべく研究を重ねれば良いのであって
記紀の不備に依存するのなら珍説仮説の域を出ないwww
例えば九州王朝の首都は大宰府という事だそうだが
九州王朝が何百年続いたか知らないが、その間遷都は一回も無し?
・・・とかツッコミどころ満載www
先ずは自分の足元を固めろって話でwww
漢籍を説明できるのは九州王朝説しかないわけだが、
大和朝廷原理主義では、このことは都合よく無視します。
>例えば九州王朝の首都は大宰府という事だそうだが
違うだろ。最後は大宰府だったというだけの話。
848 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 09:34:42
>>843 大和朝廷原理主義では日本古代史は永遠に謎のままだが、
九州王朝説でも日本の古代史の極一部しか解明したにすぎない。
殆どの事柄が謎のままだ。
定説確立は遥かに遠い。
>>843 そうかな?九州王朝説を認めることと記紀を否定することはイコールにはならんと思うが
やはり邪馬台国は三河で、句奴国は関東だとするのが自然。
九州は朝鮮半島や中国大陸への玄関口として栄えていだけたが、
政治の中心では肥沃な三河や関東に移っていたということです。
三河に阿蘇山はあるのでしゅか?
852 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 10:56:27
富士山は阿蘇山と呼ばれていました。
「aso」とは古代語で煙、つまり火山を意味します。
>富士山は阿蘇山と呼ばれていました。
証拠がないことを抜け抜けと言うのは、学問ではない。
また、6世紀後半に大和国と播磨国が外国同士だったくらいであり、
大和国にとって富士山の領域は、はるかな異郷の地に過ぎなかった。
で、三河からは金印が出たの?
富士山は阿蘇山と呼ばれていました。
←これの根拠は何ですか?
「aso」とは古代語で煙を意味します。
←こちらの根拠もお願いします。特に「古代語」の部分は詳細に。
>>854は、
>>852を書き入れた人への質問です。
質問に対する回答がない場合には、
>>852の内容それ自体はいささか怪しい
と受け取らせていただきます。
856 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 14:41:53
子供の頃見た日本武尊の映画では、
阿蘇山は三重県にあった。
噴火した溶岩は三原山の溶岩の様に山の斜面を流れ下っていた。
出鱈目も程々にの映画だったな。
857 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 14:44:14
>>855 阿蘇山 有珠山 恐山 浅間山・・みんな噴煙をあげている火山です。
アイヌ語辞書には、ウサッ=おき(火のついている炭)とあります。
また、富士山頂に浅間(せんげん)神社奥の院があり、
古くは「あさま」と呼ばれていたようです。
阿蘇の字をあてていたかは不明ですが、同様の説はよく見かけます。
富士山頂に浅間(せんげん)神社奥の院がある、ことと、
古くは「あさま」と呼ばれていた、ことと、は
どう結びつくのですか?
呼ばれていた「ようです」というのは
>>857さんの推測ですか?
859 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 16:30:43
それがおまいたの手か?
富士山は阿蘇山と呼ばれていました。
←これの根拠は何ですか?
「aso」とは古代語で煙を意味します。
←こちらの根拠もお願いします。特に「古代語」の部分は詳細に。
と訊ねているわけだ。
>>852の内容はそれ自体いささか怪しいどころか、
852を書き込んだ人物も怪しいんではないかね?
861 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 17:35:34
しかし、どうして邪馬台国大和説を唱える人が九州王朝説を否定するのに使う手口を
九州王朝説を唱える人がそっくりそのまま使うのか、笑ってしまいました。
証拠はありません。一切は、大和朝廷による焚書によって失われてしまいました。
また、富士山の噴火により富士王朝の遺跡は喪失してしまったため、のあったため、
九州王朝より証拠はさらに少ないと思われます。
しかし、それでも、やはり邪馬台国は三河にあったと信じております。
>一切は、大和朝廷による焚書によって失われてしまいました。
はあ?漢籍に残ってるわけだが。そこには阿蘇山、金印が出てくる。
海にもぐって海産物を取る民俗も出てくる。だから九州でしょ。
852 :日本@名無史さん:2008/04/06(日) 10:56:27
富士山は阿蘇山と呼ばれていました。
「aso」とは古代語で煙、つまり火山を意味します。
861 :日本@名無史さん:2008/04/06(日) 17:35:34
しかし、どうして邪馬台国大和説を唱える人が九州王朝説を否定するのに使う手口を
九州王朝説を唱える人がそっくりそのまま使うのか、笑ってしまいました。
証拠はありません。一切は、大和朝廷による焚書によって失われてしまいました。
また、富士山の噴火により富士王朝の遺跡は喪失してしまったため、
九州王朝より証拠はさらに少ないと思われます。
しかし、それでも、やはり邪馬台国は三河にあったと信じております。
↑
こういう人もこのスレッドに書き込んでるんだね。
864 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 20:50:51
>>862 後漢王朝時代には、邪馬台国には文字がなかった。
にもかかわらず、九州の阿蘇の表記が後漢書の阿蘇という表記と
一致することのほうがかえって不自然です。後の世に「阿蘇」という
文字をあてたの考えられます。
むしろ表記の一致しない浅間(あそやま)のほうが信憑性が高いよ
うに感じます。もちろん確かな証拠はありませんが・・・
ことばの起源は「話し言葉」です。
「あそ」と呼んでいたのを中国側で「漢字」にしたわけです。
866 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 21:17:05
九州王朝学会はいつも詰めが甘いな。
だから大和に負けるんだよ。笑った。
>詰めが甘いな。
「日本の古代の中心権力は大和朝廷以外に存在しない」という信仰のほうが、100倍甘いでしょう。
868 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 21:41:23
>>867 だから、邪馬台国は三河だと言っているのに…
しかも、句奴国(関東)相当大きな勢力であった。
>>864 意味がわからん
地理的にもそのものズバリ阿蘇とあるものをわざわざ浅間の方が信憑性が
高いなどといい出せるのか。頭整理したほうがいいんじゃないの・・・
阿蘇が別名で呼ばれてたっていう証拠でもあんのか、ないだろ。妄想乙
870 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 21:53:15
>>864 後漢書の何処に阿蘇という表記があるんですか?
後漢王朝時代には、既に邪馬台国があったんですか?
邪馬台国時代には文字がなかった?
メチャメチャ
871 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 22:10:17
九州王朝があったことを証明するのに、他の説を貶める必要はない。
872 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 22:13:09
恥を知りなさい。
873 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 22:14:47
他の説が間違っているから時節が正しいのではなく。
自説が真実だということを訴えればいいだけの話。
真実を追求するということはそういうことです。
874 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 22:16:59
話を矮小化してごまかすのはやめなさい。
つくる会みたいに九州王朝派を集めて運動すればいいじゃなぁあい
>>875 「新しい歴史教科書に九州王朝の存在を明記させる会」か。
中国側がかつての邪馬台国をイ妥国と呼称し、その国に阿蘇山があると
隋書ではっきりと断定している。だから九州以外にありえないということなんですが。
大和や三河の可能性はゼロだと、漢籍が明示しているんですが。
邪馬台国候補に三河が出るなら、南極のほうがマシだろ。
私は、
>>877 が、このスレのほとんどの人の見解であると考えます。
三河説を唱える人は、ライターで火をつけてボヤを起こし、
近隣の人が騒ぐのを見て喜ぶ、放火魔のようなタイプに似た人だな
と解釈しております。実害は僅少ですが、スレの書き込みの質は
下がるでしょう。死ぬまで三河説を唱えることをお勧めします。
880 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 00:23:04
20年ほど前の教科書に九州王朝説が載ってていた。
881 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 00:28:38
別に隋書に阿蘇の麓とか、そこから***の距離に邪馬台国があると書いているわけじゃないからなあ・・・w
別に隋書に阿蘇の麓とか、
そこから***の距離に邪馬台国があると書いているわけじゃないから、
邪馬台国は邪馬台の国であることは確かなのになあ・・・
邪馬台国が九州か大和のどちらかなんて、おかしいよなあ・・・
屁理屈をズラズラ並べて、
阿蘇山は三河だ大和だ
金印は三河だ大和だ ・・・・いいかげん虚しくないですか?
九州以外ありえない、という平明な判断こそ当然なのです。
九州説で、名前があり、遺跡があり、位置関係に若干難ありだが
文献にもかなり一致する。それでも否定するのなら
大和畿内説はもっと否定されなくてはならない。
というより、機内には素直に一致する記述がそもそもあるのか。
885 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 12:42:56
>>883 そんな理屈でいいなら南極説も作れる上に実証できるぞ。
886は、一生南極説を唱えてください。
>>887 やだよ。
古田武彦みたく恥掻きたくない。
笑
南極説も作れる上に実証できるぞ
南極説も作れる上に実証できるぞ
南極説も作れる上に実証できるぞ
南極説も作れる上に実証できるぞ
南極説も作れる上に実証できるぞ
南極説も作れる上に実証できるぞ
南極説も作れる上に実証できるぞ
南極説も作れる上に実証できるぞ
屁理屈ならいいんだが、理屈になってないからね。
あ、ウンコ理屈にはなってらあ。
みんなが臭がるのもとうぜんちんだ。
891 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 21:40:17
なんだか、九州王朝説は墓穴を掘っている感じがします。
大和説を唱えている人が読んだら失笑すると思う。
むしろ、三河派のほうがまともなのでは?
大和説のが充分失笑ものなんですけど・・・
程度の低い煽りしか来なくなっちゃったね。つまらんな
所詮こんなものか
三河説と畿内説のあまりの低レベルに、相手をする気持ちすら起きない・・・
保育園児の政治論争を聴いているようなもの。
>>850,
>>852の三河説は説というよりは妄想だろ。
畿内説は岩波文庫の解説程度の説だから、
これら二つを並列して同等に扱うのは良くない。
九州説>>>畿内説>>>越えられない溝>>>三河説
といったところ
住人の民度を反映してるんでしょうね。
これではとても九州王朝があったとは思えません。
住人の「民度」を反映してるんでしょうね。
←民度って? 馬鹿者が交じっていること?
これではとても九州王朝があったとは思えません。
←論理的に上の文章とつながらない。
確かに「民度」を反映している書き込みだ。
九州王朝説が受け入れられないのも当然かな。
民度というのは一部のものではなくて、国全体のレベルのことです。
隋書に阿蘇山の記述があり、志賀島から金印が出て、
旧唐書には倭国と日本国は別な国だと書いてある。
列島内では九州元号が今日にも伝わり、畿内大和でも
この継体・白鳳などの元号が使用されていたことを考えれば、
畿内大和が九州王朝の傘下にあったことが見て取れる。
白村江の敗戦後、唐軍が決して畿内に凱旋しなかったのも当然。
敗戦当事国は九州だったからだ。
900 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 00:00:10
九州王朝の話しようや…
901 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 00:04:45
順番狂ったので900取り消す。
なお、大化の改新で使用される「大化」も九州元号だと思われる。
903 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 05:51:53
宝満神社、玉垂宮を調べろ
>>899 「畿内大和は九州王朝の傘下にあった。白村江の敗戦後、
唐軍が畿内に凱旋しなかったのも当然。敗戦当事国は九州だったから。」
←この推論が古田の論証にあったかどうか、覚えていないのですが、
非常に説得的です。私がいまだに近畿説の可能性を捨てきれないのは、
応仁稜、仁徳稜などの大古墳が河内にあるという事実なのですが、
九州の王権は、配下にある近畿の王に、大古墳建造を許可したのでしょうか?
それとも、大古墳は九州の王の墳墓なのでしょうか? このあたり、不明です。
「九州の王権は、配下にある近畿の王に、大古墳建造を許可した」
のではなく、中国に朝貢していたのは九州倭国であって、
近畿は、半島からの移民が押し寄せ、戦がない代わりに、
労役を酷使されて大古墳を作っていた。
・・・・というように自分(904)で解釈してみました。
大古墳の造営は、古墳の様式が違うだけであり、許認可の対象ではないでしょう。
畿内を除いて東北地方におよぶ装飾古墳の分布は、北部九州が日本列島の大部分を
掌握していたことをうかがわせますが、畿内の古墳が異なる様式だったのは、
畿内には経済力があり、文化の発信に足る場所だったためだと思います。
装飾古墳は地上部分よりも、地下に比重がありますが、畿内の古墳は地上の姿に
比重があるのではないでしょうか。
畿内は海外での戦争を回避する地域でした。遠洋航海するノウハウもなく、
海戦も不得手で、海外の戦争などまったく望んでいなかったでしょう。
九州の王権は永年、海外での戦争をダラダラやっていて、畿内からも
兵や物資の提供せよと九州から言われたでしょうが、万葉集をみると、
畿内から兵はあまり出していなかったのではないかと推定できます。
経済力のあった畿内は、主に物資の供給をさせられたのでしょう。
908 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 12:52:00
前方後円墳であっても、畿内の横穴式石室古墳や阿蘇凝灰岩製石棺は、
装飾古墳の影響下(九州王朝の支配下)にあったことを示している。
909 :
九州素人:2008/04/08(火) 22:39:06
九州王朝を唱える方に質問です
(質問1)九州年号とは何か
その概要、誰が唱えたのか、証拠についてものか説明されたい
910 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 22:44:08
ググレカス
911 :
九州歴40年:2008/04/08(火) 23:00:00
912 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:15:10
(質問2)九州王朝の起源はいつですか?
カスがググりました。九州年号は、>(「二中歴」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。
>517 継体 けいたい 丁酉 継体11年
から始まりっています。だとすると邪馬台国の時代には年号はなかったのですか?
にもかかわらず、邪馬台国は九州にあったと主張する根拠は何ですか?
ググレカス
せめて本を読め。このゆとりが
914 :
九州歴40年:2008/04/08(火) 23:31:43
915 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:45:26
>909>912
何も調べてこないあなたに、端的に回答が得られるはずだと断定した根拠を述べてください。
916 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:47:16
金印と阿蘇山にゆかりがある場所って、どこだっけ?
917 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:52:28
(質問3)
なぜ何も答えずに、ググれと叫ぶだけなのですか?
918 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:58:47
結局、説明するだけの知識がないんじゃない?
まさか、そんなことはないですよね。失礼しました。
別に叫んでいるわけではなくて、
最低限の基本的知識がないと、効率が悪いから、と受け取ってください。
朝日文庫で出ている古田の3部作を読むことをお勧めします。
920 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 00:15:48
>917
九州年号が出ている典籍(複数)と、その原点批判がどうなっているのか、まず調べてから質問してください。
921 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 00:20:05
>918
九州王朝説の根拠は無数にあるのに、九周年号だけが九州王朝の根拠であると断定して、
それを前提に質問する理由を述べてください。
922 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/09(水) 01:03:31
>>917 基本知識を仕入れてから質問してください。
見当外れな質問には応え様がありません。
外交は大和配下の九州の国にさせていたのかも知れない
「古田は輝いていた一−『2ちゃん』にいた卑弥呼−」
「古田は輝いていた二−九州限定の信者たち−」
「古田は輝いていた三−妄想の中の九州王朝−」
925 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 08:27:01
当たり馬券教えろやーみたいなやり方だな。
926 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 09:20:34
「古代は輝いていた1−『風土記』にいた卑弥呼−」
「古代は輝いていた2−日本列島の大王たち−」
「古代は輝いていた3−法隆寺の中の九州王朝−」
927 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 09:37:40
wikipediaの九州王朝を見たが、中国史書によらない部分ーー
聖徳太子、大化の改新、壬申の乱等ーーはす即賛同はできない。
自説を立てていないので反論はできないが、逐一個別に検討
すべきだと感じた。例えば、法隆寺が移築されたのであれば
九州の王家の者が大和入りして推古と共同統治した、等の可能性。
聖徳太子一族の抹殺などは、梅原説を超えることができよう。
また、壬申の乱は、人麻呂の長歌が通説を支持していると思う。
さらに「蘇我氏の名は馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になる」
とあるが、ずっと上の方に書いたように、「バカ」は「ヲコ」の
変化形で、せいぜい平安末までしか遡らないはずである(柳田説)。
『隋書』によれば倭国(タイ国)は10万戸を擁する国である(600年)。
近畿天皇家は新興の兄弟国という位置付けだったのではないか。
929 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 12:43:54
>聖徳太子、大化の改新、壬申の乱等ーーは即賛同はできない。
十二分に検討ください。
>「バカ」は「ヲコ」の変化形で、せいぜい平安末までしか遡らないはずである(柳田説)。
馬鹿に起源が馬子と入鹿であるとも考えられる。
○馬子と入鹿→馬鹿
×馬鹿→馬子と入鹿
>九州の王家の者が大和入りして推古と共同統治した
九州の有力者が大和入りした時代と推古の時代は異なる。
推古は持統を模して描かれた九州系の地方大王。
>人麻呂の長歌が通説を支持していると思う。
逆に支持していないと判断できる。
>近畿天皇家は新興の兄弟国という位置付け
新興の対立国である。
>>929 これだけでも論点が多いので、2つだけ。
(1)「馬鹿」の起源は、馬子と入鹿であるとも考えられる。
←馬鹿もしくは莫迦の初出と表記の前後を確認する必要がありますが、
まず「バカ」の音があって、表記も平安末のはずです。
もちろん仮説を立てるのは結構ですが、蓋然性は僅少では?
(2)人麻呂の長歌は、通説を支持していないと判断できる。
←万29「岩走る 近江の国の ささ波の 大津の宮」は近江、
万199「渡会の 斎の宮ゆ」は伊勢、としか取れない。
九州でも戦闘はあったかもしれぬが、天武紀上すべてを
九州での事件と解釈するのは無理ではないか?
931 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 14:59:29
>909>912>917-918
逆に質問します。
あなたが畿内大和一元史観以外正しくないと断定する根拠は何ですか?
話はそれからだ。
932 :
929:2008/04/09(水) 16:08:55
>>930 (1)「バカ」は単なる仮説と見ています。
bakaは全国的にある音ですから、平安よりはるかに古い起源を持っている音だと思います。
(2)天武〜文武の活動域は、九州、畿内と跨っていますら、人麻呂は畿内説も九州説も支持するものでありません。
933 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 17:25:28
>>932 「馬鹿」は高校で習った「史記」の有名な一節、二世皇帝のとこにあった。
私はこれまで、九州出身者の知り合いもいなかったし、九州に対して
特別な感情は持っていなかったのだけれど、このスレで、傲慢で和を
尊ぼうとしない九州王朝説の信者を見るにつけ、和を尊び季節感を大
事にする繊細な都人には我慢のできない存在だったろうと納得しまし
た。
ニニギの子孫が、野蛮人との抗争に嫌気がさして、九州を捨てて大和
に移った気持ちがよくわかりました。
935 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 22:16:46
>934
「畿内説が正しい証拠はなんですか?」
こう紋切り型に聞かれてうれしいかい、楽しいかい?
答える気持ちが湧いてくるかい?
936 :
932:2008/04/09(水) 22:18:03
>>933 馬鹿(バカ)は日本語だから漢籍に求めるのは間違っている。
>>934 良く言うよw
貴方は元から差別的な目で九州みてたんでしょ
自分はもともと大和派だったけどどれも胡散臭い虚構に
逆に愛想つかしましたけど
もう少し澄んだ心で現実見た方がいいと思うよ
貴方の書き込みの方が余程品性が疑わしいことを自覚してください
938 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 22:59:36
確かに下品だ。
939 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:07:46
>934の思考能力に笑う。
彼の思い込みを添削します。
×「九州出身者=九州王朝説支持者」
○「九州王朝説支持者は全国にくまなく分布→支持団体は全国で九州はほんの一部」
×「和を尊び季節感を大事にする繊細な畿内人:九州人は野蛮人」
○「万葉集では九州出身者の歌が全部カットされており、今に伝わる歌はその残滓。
国宝法隆寺は九州王朝の寺。極東最大の国家が九州王朝で、雅は九州から。」
×「ニニギの子孫が、野蛮人との抗争に嫌気がさして、九州を捨てて大和に移った」
○「ニニギの子孫で軍人をやっていた神武は近海戦専門で、海外戦争が主流となる時代に乗り遅れ、
食っていけなくなって雇い主を探すも失敗、ついに畿内で人殺しをして小領土を占拠しただけ」
大分県 下毛郡本耶馬溪町に羅漢寺というところがあります。
また、福岡県築上郡には上毛町もあって、関東との関係が伺えます。
527年、近江毛野氏、6万を率いて任那に行き新羅に敗戦。
それがきっかけとなって磐井の乱が起きたことになっています。
つまり、九州王朝は、毛野氏の傀儡政権。毛野氏の敗退に乗じて
被支配民である磐井が乱をおこしたとするほうが自然です。
九州王朝は、関東だった。
941 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:12:36
>940
阿蘇山と金印のある場所が九州王朝の地ですね。
北部毛野氏は後から九州王朝に加担したようです。
942 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 00:24:19
数学や物理学のように、数式や実験で判定できる学問の手法を、古代史や考古学の大きな命題に
当てはめようとすると、「今この場で×××を証明せよ」と相手を問い詰めることになる。
刑事事件の裁判じゃあるまいし、反対陣営すら降参するような、決定的証拠はまず存在しないのだ。
少ない仮設で多くのことを、深く細かく矛盾なく説明できる説が、真実に近いと判定できるだけだ。
そんなことがわからない詰問屋(>909>912>917-918) があらわれて、偉そうにしているのは困ったものだ。
943 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 12:41:43
>>936 >馬鹿(バカ)は日本語だから漢籍に求めるのは間違っている。
杞憂(キユウ)は日本語だが漢籍の『列子』が出典。
馬鹿が漢籍由来なら「バロク」だろう。
馬子・入鹿由来なら「うまか」だろう。
945 :
936:2008/04/10(木) 13:59:37
Wikipedia「九州王朝」の、「大化の改新」の説明箇所に、
・・・・蘇我氏とは九州王朝(倭国)の天皇家(王家?)と考えられる。
蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になる
ことや蝦夷など、実名ではないと考えられる点がある。・・・・
とありますが、何度も言うように、説得的でないように思えます。
また、蘇我氏が大和でなく九州に在住したというのも、不審です。
天皇記・国記を所持していたのは、蘇我氏が王家だったという
可能性以外に、最重要文書を所掌する氏族であったという解釈も
できます。
947 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/10(木) 16:03:08
>>946 馬鹿はともかくとして、ちょっと割り込みます。
「推古記は685〜695年の畿内と九州のできごとの改作挿入記事」とすれば、そほど疑念も起こりませんよ。
僕もその詳細については詰めきれていません。
今後修正すべきことも出てくると思います。
948 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 16:30:19
天皇記・国記など古い記録に関する最重要文書を所掌する氏族がいたとしても、
それは皇室に古くから使えた氏族の仕事だろう、
新興の蘇我氏が古い記録を所掌する氏族であった可能性はないな。
949 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/10(木) 17:37:00
>>948 >新興の蘇我氏が古い記録を所掌する氏族であった可能性はないな。
その通り。曽我氏は日本書紀に挿入された氏族だからね。
950 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 18:19:13
新興勢力の蘇我氏が天皇記・国記を所持する必要性もないし、所持していた理由も全く理解に苦しむ。
実は蘇我氏が王家だったという以外に解釈はない。
951 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/10(木) 18:41:28
>>950 そうだよね。
「蘇我氏が王家だった」以外の論理的解がないね。
952 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 19:17:44
645年頃にヤマトでも何らかの事件があったのかも知れない。
50年後の695年に九州であった政変を合わせて大化の改新を創作したものか・・・?
馬鹿はサンスクリト語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」「moha」の音写
「莫迦」「募可」が転じたとされる。また、秦の趙高が二世皇帝に鹿を馬である
と言ったのが起こりだとすれば、秦の始皇帝の子孫を自称する秦氏がその
故事をもとに揶揄したというのは、いかにも「ありそうな話」です。
強引に自説を唱える、どこかの人にま当てはまりそうです。
954 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 01:00:46
>新興の蘇我氏が古い記録を所掌する氏族であった可能性はないな。
ナンセンス。
国の歴史を編纂するのは当然その時代において最大の権力を有する者達。
氏族としての新しい古いは関係無し。
古代において最大最古かもしれん物部の宗家も蘇我氏が滅ぼしているしなwww
955 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 07:54:20
>>945 >ならば、馬鹿をバロクと読むべし。
ならば、入鹿をイルロクと読むべし。
入鹿をイルカと読むなら、馬鹿をバカと読むべし。
956 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 07:59:26
>>954 >国の歴史を編纂するのは当然その時代において最大の権力を有する者達。
蘇我氏は天皇から歴史書を取り上げ、新たな国の歴史を編纂しようとしていたのか!?
957 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 09:35:09
958 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 09:46:12
まともに字が読めないやつが湧いてきた。
字が読めないのはおバカタレントだけではないんだ。
959 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 19:17:36
>>955 >入鹿をイルカと読むなら、馬鹿をバカと読むべし。
馬鹿をマカと読むべし。 ではないの?
馬鹿がバロクなら、入鹿はニュウロクではないの?
960 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 19:50:08
「馬鹿」の由来が解明出来ても出来なくても、
古代史の解明には関係ないからやめましょう。
古代史を語る上で、唯一日本の正史と呼べるものは「記紀」。
それを編纂したのは誰か?
この問題は、古代史を語る上で最も大事な問題の一つです。
紀記に対する評価が確立されていないことが、日本の古代史
が定まらない最大の原因だと思います。
蘇我馬子、蝦夷、入鹿は実在の人物か?天智天皇も曽我氏
の血を引くものなのか?
古事記や日本書紀を裏で糸を引いた勢力はだれか?それが
日本の古代史のキーポイントです。
962 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 22:55:22
天武が畿内政権を簒奪したあと、そのいかがわしい政権取得を
正当化したものでしょう。その根本はかわりませんから、
>蘇我馬子、蝦夷、入鹿は実在の人物か?天智天皇も曽我氏
>の血を引くものなのか?
など、解明できたところでまったく異なる古代史になることはありません。
>>962 天武は、天智の兄弟ではなく、九州王家の(血筋の?)王
と推論される、ということでしょうか?
私には天武の実像がはっきりしなくなりました。
記紀(特に記の上巻と紀全般)は、天武の原案の中身を空洞化させつつ、
藤原不比等(とその周辺)の構想に基づく、藤原政権正当化のための
歴史書だと思えるのですが、まちがっているでしょうか?
964 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 00:15:34
>963
個別具体的な人物や家柄をミクロに見ていくと、木を見て森を見ないことになります。
巨視的に見たほうが、よいでしょう。
ご指摘のとおり、天武は出家して畿内から九州に行き、隠遁していました。
唐軍2千人が九州にやってきたときに、畿内へ戻り挙兵して、壬申の乱を起こします。
天武の行動から、九州にゆかりのある人物だということは、明らかです。
だからといって、例えば「天武は九州王朝の兄弟王のうちの弟王だ」などと証明するのは
難しいでしょう。
記紀が藤原政権正当化のため・・・そういう側面はあると思います。
日本列島内だけでなく、対外的にも、畿内政権の永き伝統とその王権継承の正当性を
打ち出したものが記紀だと思います。それは、永き伝統と王権継承の正当性が怪しい
ために、わざわざ書いたのであろうということです。
また、いったん古事記を編纂し、それをすぐに否定して日本書紀を書き直したのは、
九州王朝の残党狩りを行う中で、九州王朝の伝承資料を押収できたので、さっそく
これをネタとして取り込み、日本書記として補強したと見られます。
965 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 01:10:52
>>956 >蘇我氏は天皇から歴史書を取り上げ、新たな国の歴史を編纂しようとしていたのか!?
果たして大王家が歴史書を持っていたのかどうか知らんが
例えば神武の名が磐余の地名に由来するイワレビコであり
即位が橿原と言うのも蘇我の本貫地に持ってきたと言う推理もできる。
記紀を読む時に必ず留意しておく必要があるだろう。
まあ九州王朝説論者にとっては神武はイワレビコなんて名ではなかったとするほうが都合が良いのではないかね?w
>>964 ご説明、ありがとうございます。WIkipediaともどもさらに考えます。
「いったん古事記を編纂し、それをすぐに否定して日本書紀を書き直したのは、
・・九州王朝の伝承資料を押収できたので・・日本書記として補強した」
『釈日本紀』に「古事記はただ立意をもって宗と為す」という問答があります。
私はこれを根拠に、一旦「古事記」で神代巻及び天皇の系譜を素描した上、
舒明以降を現在のような一元史観でまとめあげた(その際、景行紀などは
大幅に改定した)、と見ています。ですから、近畿天皇家一元史観は
天武天皇の意図ではなく、不比等(とその周辺)だと考えるわけです。
967 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 01:54:30
>>964 >九州王朝の残党狩りを行う中で、九州王朝の伝承資料を押収できたので、
九州王朝の残党狩りを終了したので、日本書紀の編纂を開始した。
残党狩り終了宣言が続日本紀にあり、その直後が日本書紀の編纂開始時期と見られる。
>>963 >天武は、天智の兄弟ではなく、九州王家の(血筋の?)王と推論される、ということでしょうか?
天武は、胸形君のバックアップを持つ九州の有力「君」のひとり。
即ち九州王朝の弟王になり得る立場。
弟王薩夜麻に対立する畿内担当の弟王として九州から畿内に移動したのかもしれない?
(曽我氏は兄王)
968 :
967:2008/04/12(土) 02:24:22
書き忘れたが、
多利思北孤も胸形君。
小泉=もちろん小出雲
福田=言わずと知れた徐福の子孫
海部=徐福を導いた海族
鳩山=実は秦山
麻生=意外にも阿蘇
古代の王族の子孫は、今でも政界を牛耳っていることがわかります。
どなたか、壬申の乱の実相(実際に起きた場所や原因等)が、
天武紀上の記載とは全く異なる(九州である)という推論の
(史料批判の)要点を解説していただけないでしょうか。
970続き
自分で思い当たるものとしては、万葉集4261の、
大王は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ
の水沼(みぬま)を地名ととらえる、などがあります。
972 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 13:50:29
>>969 ネタとしてもできが悪い。
そう言う話なら
羽田(元首相)をいの一番に挙げるべきだな。
昭和天皇は小倭国の王統のながれを受けている
「壬申の乱」「九州王朝」でググり、上位3件を見ました。
(1)続・「九州年号」真偽論の系譜ーー「(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、
都を近江州に遷す。」やはり、九州王朝が近江遷都し、それにともない
白鳳と改元したのではあるまいか。・・・論者は作業仮説と言っている。
(2)大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)
(3)九州王朝説 - Wikipediaーー「倭京」の名、大分恵尺・大分稚臣等の
九州の豪族、ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習
残念ながら、これらは十分に説得的だと思えませんでした。
976 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 23:05:22
>975
高句麗・百済・倭に対して戦勝した唐軍が、2千人も(さらに追加で2千人?)九州に上陸しましたね。
このとき、九州と畿内はこれをどう受け止めたか、どういう情勢だったかを考えてみます。
畿内政権は以前から唐に対して協調的でしたので、唐が畿内を攻撃する可能性はなく、新羅とさえ
うまくやっていれば外圧による畿内世界の混乱はなかったでしょう。
これに比べて九州王朝では、「対唐徹底抗戦派」やら「対唐恭順派」やら「対新羅同盟推進派」など、
いろいろな内部抗争があったと思われます。熊襲・隼人などの部族単位の派閥争いもあり得たでしょう。
(これらは想像の域を出ませんが)
かくいう唐軍は中国中央政府から早く戦争を終結させるように催促されていますし、新羅軍に敗北して、
唐軍が半島を撤収せざるを得ない状況でした。傷痍兵の治療や食料・物資の補給を懇願しなければ
ならないような側面もありました。唐は結局、倭=九州王朝に武装解除と唐への恭順を命じ、都督府を
設置して九州王朝の王を都督に任じる程度のことしか出来なかったのではないでしょうか。
九州有明湾に自力で引き上げ来た兵力や残存した軍備は、唐に供出するのが順当でしょう。しかし、
そんなタイミングで天武が畿内で壬申の乱を起こせたのは、唐の支配をすり抜けて、この九州残存兵力
や軍備を利用できたからこそだと思うのです。そうでなければ天武の勝算はなかったと思います。
977 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 23:59:57
つまり、筑紫は、形の上では唐の属国になったと・・・
>>976 ご説明ありがとうございます。ゆっくり考えます。
さて、Wikipedia「九州王朝説」には次の注意書きがあります。
・・・九州王朝説の支持研究者間でも、@白村江の戦いまでを九州王朝の歴史と
見る、A壬申の乱までを九州王朝の歴史と見る、B大化の改新まで九州王朝の
歴史と見る等、考え方は様々であり定まっていない。・・・
私はまだABには達しておりません。が、九州王朝について、隋書の阿蘇山
以外の論拠を挙げておきます。
古代の推定人口を、小山修三・島貫基久氏が出していますが、それによると、
AD750年、九州70万、近畿120万、近畿・中国・四国・九州の合計300万です。
隋書タイ国伝には、タイ国の戸数10万とありますから、これは九州で決まりです。
979 :
泉 こなた:2008/04/13(日) 11:25:10
黒崎恵に頼むべし
980 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 13:06:55
日本の稲作の発祥の地は諏訪盆地。
自生のジャポニカ米を栽培していた。
諏訪神社は、今でも稲荷、八幡に次ぐ勢力。
諏訪では、青銅文化が入ってくる以前に
鉄の文化があったし、縄文土器などの文化は
他の地区を圧倒していた。
6000年以上前から古代日本の文明の中心で
あった。
朝鮮半島経由で土木技術を伴う灌漑施設を
使った大規模な稲作の技術が入ってくる以前
に、小規模な稲作がおこなわれていたことは
確かなようです。
982 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 19:18:22
>>978 『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』
『其王朝會必陳設儀杖奏其國樂戸可十萬』
十万戸なのは都のある邪靡堆(=邪馬臺國)であって俀國全体の戸数ではない。
たとえば、三国志の赤壁の戦いでは、魏軍15〜30万、
蜀軍+呉軍数万と言われている。軍船だけで数千隻。
邪馬台国は、たかが10万戸、とるにたりない小国。
そんな小国の事情を正確に調べて記すくらいなら、
自国の地方の事情を述べたほうがよほど価値がある。
東夷の事情を記したのは、おまけ程度だってことに早く気づけよ。