超超超マニアックな悲劇の名家 尾張徳川氏

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
名古屋という全国有数の要所を領しながら江戸250余年の間に
ついに将軍を輩出せず、教科書に載るような当主も出なかった悲劇の
名門、尾張徳川氏を語りましょう。
ちなみに自分は小学生の頃、御三家といえば、「将軍家」「水戸「紀州」
だとずっと勘違いしてました
2日本@名無史さん:2007/07/27(金) 19:49:51
2?

石田三成の家系の血が入ってるのってここだっけ?
3偽朝:2007/07/27(金) 21:07:53
小学生の頃の勘違いがどういう意味を持つのか知らないけれど
低中学年なら「ゴサンケノヒットー」の意味が分からないのは仕方がない。
善政だけが教科書に載るわけでもないし。
現代の教科書には載っていようがいまいが、「御三家」がどこを指すかは江戸時代には一般庶民の間でさえ常識だったろう。

ちなみに水戸は家格が下。将軍お目見えの際の控えの間さえも尾張・紀州並み(松の廊下じゃなかったかな)ではなかった。
江戸の子供たちも「水戸黄門」なんていうテレビ番組を毎週見ていたら、水戸のほうが上だなんて勘違いして幕府のお偉いさん達を「此の頃は学力の低下著し」なんて嘆かせていたかもね。
4偽朝:2007/07/27(金) 21:11:22
吉宗に八代目の将軍職がいったのは、新井白石が六代将軍の意向に反対したからで、これは尾張がこれ以上強大になるのを案じてのことだったらしい。

5日本@名無史さん:2007/07/27(金) 23:31:56
徳川慶勝
6日本@名無史さん:2007/07/28(土) 00:26:21
結局尾張家歴代で一番有名になったのは義親侯かな。
7日本@名無史さん:2007/07/28(土) 06:40:43
>>6
慶勝じゃね?
8日本@名無史さん:2007/07/28(土) 08:06:19
宗春だろ
9日本@名無史さん:2007/07/28(土) 10:17:01
>義親、慶勝、宗春
全員他家からの養子だな。
10日本@名無史さん:2007/07/28(土) 10:21:21
野苺にあたって死んだ当主もいましたな。
11偽朝:2007/08/05(日) 04:04:06
>>10
ぐぐつたら三代藩主徳川綱誠(つななり)が出てきました。
1699年没。47歳の働き盛り子沢山。
それにしても随分ろうまんちっくな亡くなり方をしたものですね。
苦しんだんでしょうか。
その辺りについては、ここに比較的詳しく載っていました。
http://wttwtt.seesaa.net/article/27532352.html

それよりこんなものが目を引きました。
http://www.wakayama-city-museum.com/shozohin-rekishi-mitsusada.html
いやいやっ、大人ってきたない。。。
12日本@名無史さん:2007/08/05(日) 11:41:30
徳川米子最強
13国士無双 ◆ktrtoQsVbQ :2007/08/05(日) 12:02:34
マイナーですね。
14日本@名無史さん:2007/08/05(日) 12:12:53
完全に男系が絶えたしね。
紀州は女当主を最後に断絶だったっけ?
15日本@名無史さん:2007/08/05(日) 12:18:50
紀州徳川家と蜂須賀家・・・馬鹿殿が散財、遺族が事業に失敗
尾張徳川家・・・養子当主が財産維持、いまなお事業や文化活動
16日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:32:54
>>12
どして?
17日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:19:23
米子って義親侯の奥さん?
なら、慶勝の血を引いてて、現当主までつながる家系のゴッドマザーだから、
そういう意味で最強なんだろ。
18日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:53:21
そもそもマニアックでなくないか?
19日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:44:22
>>18
激しく胴衣
20日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:47:22
義親侯
21日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:52:10
>>3
こいつも知ったかなんでおかしいね。
御三家当主が将軍に会うことは特にご対顔という。
控間も大廊下上で尾紀水は同じ。
22日本@名無史さん:2007/08/09(木) 03:24:35
昭和初期は御三家の立場も様変わり。
水戸家のみ公爵となり、尾張・紀州は侯爵どまり。

>義親
旧日本社会党を創った人物の一人だもんね。公侯爵議員は、貴族院の中でも
割と社会党に近い人が多かったらしい。
23日本@名無史さん:2007/08/09(木) 04:39:28
そりゃそうだ
水戸理論で転覆させたんだもの
24日本@名無史さん:2007/08/09(木) 12:44:10
水戸が公爵になったとき他の二家の人たちはどう思ったんだろう。

まあ、義親侯はあまり華族だとか家格にこだわるような人ではないという印象があるけど。
25日本@名無史さん:2007/08/11(土) 14:23:10
こんにちは、バブー
吉通の嫡子の五郎太です、バブー
質問を受け付けます、バブバブー
26日本@名無史さん:2007/08/11(土) 18:32:10
金沢は百万石ぞいね
27日本@名無史さん:2007/10/15(月) 07:51:19
ブー
28日本@名無史さん:2007/10/28(日) 21:50:41
29日本@名無史さん:2007/10/28(日) 23:05:00
紀伊は女戸主なのか、知らんかった。
養子とれよ。
30日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:16:20
やっぱり今でも徳川の人々って薩長嫌いなんかな。
31日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:18:06
前から興味有ったんだけど愛知県民(特に旧尾張側)の織田家や豊臣家への愛着ってどの程度有るんだろう。例えば茨城県には水戸徳川家よりも佐竹家への思い入れの方が強い人が一定数いるようだけど愛知県ってあまりそういう話を聞かないんだよね。完全に尾張家オンリーなのかな?
32日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:22:27
>>31
名古屋人からすると、織田・豊臣は名古屋人
ところが徳川は、同じ愛知でも田舎の三河人、という意識がある
33日本@名無史さん:2007/10/29(月) 01:21:45
レスthx。成る程、すると隣とは言え三河から来た徳川家を「あいつらは所詮よそ者」みたいな受け取り方はしてないんだね。茨城の場合は苛政だったみたいだし民衆の水戸家に対する怨嗟の気持ちが前の領主である佐竹氏への愛着に向かわせている部分もあるのかもね。
34日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:39:23
>>30
恒孝氏の祖母と宜子氏の祖母は島津家出身だろ
毛利に関しては誰も縁が無いはずだが

島津忠義┬正子─豊子─恒孝
└為子─宝子─宜子

ところで宝子氏(現在80歳前後)はもう亡くなられたのか?
35日本@名無史さん:2007/11/26(月) 21:43:55
スレ違いだけど
熱田神宮は何で尾張三宮なんでしょう
誰か解説してくれ
36日本@名無史さん:2007/12/12(水) 15:46:56
>>35
3社目に行幸するから。
37日本@名無史さん:2007/12/12(水) 18:46:58
名古屋にある徳川美術館
尾張徳川氏の遺品を展示しているのは勿論だが
徳川将軍家や紀伊徳川家の遺品まで購入して
展示しているらしい
興味のある人は行ってみるべし(みんな知ってると思うが)

http://www.tokugawa-art-museum.jp/
38日本@名無史さん:2007/12/12(水) 19:06:53
綱誠は19男17女の36人のうち32人が早世したのさ
徳川家慶の子供並みの死亡率
39日本@名無史さん:2007/12/12(水) 19:21:02
徳川綱誠は正室+最低でも13人の側室に囲まれ、お盛んだった。
40日本@名無史さん:2007/12/12(水) 21:50:05
>>39
正室には子供はいたのか?
41日本@名無史さん:2007/12/12(水) 22:45:34
新陰流も尾張の方が本流なのに、イマイチ知名度がない。
42日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:27:09
斉温はハトが大好きだったのだ
43日本@名無史さん:2007/12/15(土) 03:53:22
徳川美術館は中々おもしろい
44日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:51:02
関東地震(耐震工学ではそういうのですww)があったから現尾張家当主は生まれているのです
45日本@名無史さん:2008/01/21(月) 18:57:14
義直の男系子孫は皆無?
竹腰とか井上の養子へ行った系統も絶えたの?
46日本@名無史さん:2008/01/21(月) 20:43:07
>>41
尾張柳生家の本宅は覚王山だっけ?
あの辺にあった紅茶専門喫茶ナツカシス
47日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:28:57
尾張家は子沢山だが早死多すぎであります。
って言うか粗製濫造?
48日本@名無史さん:2008/01/24(木) 04:29:44

「尾張徳川家」と言えば一般的に「義直」とか「宗春」とかの話になるが、
尾張徳川家は江戸時代より、八雲産業の逸話のような近代以降の
それも特に戦後の話が面白い。例えば……ほんのさわりだけだが、

第3章 テープレコーダーに惚れた男 ── Sony History
ttp://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-03.html
49日本@名無史さん:2008/01/25(金) 19:41:36
義親は

木彫の熊
徳川黎明会設立
マレーの虎狩
三月事件への資金提供
シンガポール博物館の維持保存
日本社会党結党資金提供
名古屋市長選出馬

話題には事欠かない人物でしたな。
50日本@名無史さん:2008/01/28(月) 04:21:44
正子はデブ
51日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:57:04
あと、治安維持法に貴族院議員で唯一の反対投票をしたこともだな。
52日本@名無史さん:2008/02/21(木) 20:37:13
義親の姉君の節子タソと里子タソにハァハァ
53日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:08:08
尾張侯付家老
成瀬隼人正正成−正肥−正孝(俳優)
54日本@名無史さん:2008/04/10(木) 00:05:06
綱誠の子供は結構味のあるキャラが多い。
剛毅で名の通った通温なんて、もう少し知名度が上がってほしい気がする。
55日本@名無史さん:2008/04/10(木) 06:22:35
慶勝は勝ち馬に乗ったつもりが、薩長に使い捨てに。
56日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:15:52
>>54 綱誠は父が家康の孫で母が家光の娘。
超サラブレッド!
57日本@名無史さん:2008/04/25(金) 23:17:59
尾張藩上屋敷はすごい豪華!
鳩飼って一度もお国入りしなかった藩主もいたよね。
58日本@名無史さん:2008/04/26(土) 09:56:03
徳川三千子タソは存命?
59日本@名無史さん:2008/04/26(土) 12:55:24
御当代(義崇氏)は
コンピュータ業界人として
日本のインタネット黎明期にその発展に多大な寄与のあった人です。

こうして2chができるのも今お殿様のおかげである部分も
何%かはあります。

60日本@名無史さん:2008/04/26(土) 15:07:16
>>58
存命じゃない?
今の天皇のお妃候補にもなってたよね。
61日本@名無史さん:2008/04/26(土) 16:05:40
隠し財宝はありませんか?
休み中に探してみます。
62日本@名無史さん:2008/04/29(火) 07:56:17
>>60
d楠。義宣タソの葬式の時三千子タソじゃなくて義崇タソが喪主だったからきになったのでつ
63日本@名無史さん:2008/04/29(火) 08:05:50
>>61
わざわざ隠し財宝を作ることがどれほど無駄なことかと
しかも山中田舎大名ならともかく、当時最先端商都の名古屋で
あえて財宝といえば、木曽の檜ぐらいか…
64日本@名無史さん:2008/04/29(火) 14:53:42
尾張徳川氏ってなんだ?
尾張徳川家じゃないの?
65日本@名無史さん:2008/04/29(火) 19:04:16
>財宝といえば
本物の金鯱は名古屋城の堀に沈められているそうな
66日本@名無史さん:2008/05/01(木) 00:54:05
>>53
成瀬正孝って確か長崎出身だけど、本当に成瀬家出身?
ところで、竹腰さんって今は何処にいらしゃるのかな。
67日本@名無史さん:2008/05/02(金) 00:35:52
尾張家は、開祖義直の系統は途絶えて、一橋や将軍家(何れも紀伊系)から養子の藩主を迎え、幕末は水戸系藩主だったはず。
尾張家の系図は、複雑だと名古屋城見学のとき思った。
68日本@名無史さん:2008/05/02(金) 03:05:16
>>67
水戸徳川治保→高須松平義和→義建
義建から高須を継いだ義勇の他に
尾張徳川慶勝・茂徳(慶勝養子)、会津松平容保、桑名松平定敬が出た
茂徳の後は慶勝実子義宣が継いだが子がなくその後は
慶勝女登代子の婿義礼が高松松平から入ったが男子なくその後は
義礼女米子の婿義親が越前松平からから入ったが
義親実子義知に男子なく女三千子の婿義宣が佐倉堀田から入った

義宣の実父正恒の実父は鍋島直柔であり父系先祖はどこの馬の骨か
わからず少弐氏(秀郷流藤原氏と称す)説が強いがそもそも
秀郷流藤原氏がどこの馬の骨かわからない土豪の印のようなもの
69日本@名無史さん:2008/05/02(金) 03:25:57
男系女系とも徳川とは縁なし?
70日本@名無史さん:2008/05/02(金) 15:01:27
徳川三千子→松平正子→鍋島信子→広橋栄子→?
71日本@名無史さん:2008/05/02(金) 16:12:40
竹腰は義直の直系だろ?
72日本@名無史さん:2008/05/02(金) 19:49:15
>>71 竹腰家は途中から尾張藩主徳川宗勝の子が継いで幕末まで義直の血筋が続いていたが最後の当主に子が無く、三河田原藩三宅家から養子を迎えている。
73日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:30:27
ほぼ跡継ぎがない紀州徳川よりましじゃないか?
尾張徳川家といえば、終戦で玉音放送の録音盤を
出せと迫られて、それを拒んだために陸軍将校に
殴られたが、最後まで言わなかった侍従の人が印象深い。
74日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:40:56
そちらは分家の男爵家で、尾張慶勝の実子の子孫なので、水戸徳川の男系の血筋。
75日本@名無史さん:2008/05/05(月) 00:35:09
義寛夫人と義孝夫人は実は従姉妹同士だったりする
76日本@名無史さん:2008/05/05(月) 06:52:33
>>教科書に載るような当主も出なかった

これはいくらなんでも失礼だろ?
あやまれ!
77日本@名無史さん:2008/05/05(月) 09:53:16
教科書に載った尾張家当主はいないのだからこれは事実
78日本@名無史さん:2008/05/05(月) 11:12:39
教科書に乗ってるような当主って
光圀と水野忠邦、松平定信、島津久光ぐらいだろ
79日本@名無史さん:2008/05/05(月) 14:52:53
久光当主じゃないし。
80日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:44:32
井伊(桜田門)とか安藤(坂下門)とか鍋島(反射炉)とか・・・
81日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:53:02
>>77
義直も出ていないの?
82日本@名無史さん:2008/05/05(月) 18:52:30
どうしてそんなに怒るの?
ガイキチ?
83日本@名無史さん:2008/05/09(金) 22:43:04
>>45
徳川義直→光友→友著→宗勝→竹腰勝起→井上正紀→正瀧→正和→正順
井上正瀧→永井直哉

竹腰家を通して井上家と永井家に残っている
84日本@名無史さん:2008/05/09(金) 23:12:03
>>83 井上正順って藩主の再就職先とかいうスレで警官になったという彼か
義直の男系子孫だったとは!
85日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:43:58
徳川黎明会って、前は尾張徳川黎明会って言っていたのに、何故「尾張」
を外しちゃったんでしょうか? 将軍も出せず、紀伊や水戸に乗っ取られ、
(名古屋人として)唯一の心の支えが、文化財をいっぴゃー持っている事
なのに、どうして尾張をアピールしないのよ…。
86日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:51:45
女系だが、九条か二条に吉通の血筋が残ってるはず。
今の天皇家も広い意味で尾張の血を残してる。
87日本@名無史さん:2008/05/10(土) 16:20:08
徳川宗春-勝子-近衛経熙---近衛家現当主
徳川吉通-千姫-二条宗基-治孝-九条尚忠---九条家現当主
徳川吉通-千姫-二条宗基---二条家現当主

女系なら近衛家、九条家、二条家に尾張家の血が流れている。
88日本@名無史さん:2008/05/10(土) 21:47:32
九条家を通して現皇室にも繋がるのですね、分かります
89日本@名無史さん:2008/05/15(木) 00:17:55
ご当主はこんなお顔をされているんだね。
http://www.tokugawa.org/~toku/album.html
90日本@名無史さん:2008/05/16(金) 14:28:06
五代藩主五郎太。
吉通直系とはいえ、幼名しか持たない赤子が家を継いだ理由はなんでしょう?
91日本@名無史さん:2008/05/16(金) 17:18:22
>>90 養子相続をよしとしなかったんだろ
いくら血がつながってても
おかげで継友は領民に人気がなかったのだ
92日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:05:49
もっとも斉朝以降は義直の血筋が途絶えて養子相続が繰り返されるわけだが
93日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:50:40
>>90
一応直系だからね。
長子相続できるならできる限りするのが吉という考えだろう
(最も三代綱誠は実のところ次男なのだが)

斉朝といえば
名古屋市史に載っている「順公小伝」はなかなか面白い
思えば彼以降紀伊系4代はいずれも
苦悩の時代に生きた苦悩の藩主だったのかも

特に鳩ばかり飼って、一度も名古屋入りしなかった斉温などは
かなり興味深い存在といえる
長編小説の主役になはれないが、短編向けの人物かも
94日本@名無史さん:2008/05/16(金) 22:37:39
松平高須侍従摂津守義建
95日本@名無史さん:2008/05/16(金) 23:08:45
家康の息子で現代まで男系子孫を残せているのは義直・頼宣・頼房だけなんだよね。
そのうち義直の男系子孫は井上、永井なんて小大名の家系にしか残せていないし、
頼宣は本家の紀伊家が断絶してしまった。
現代の徳川諸家は大半が頼房の男系子孫。
96日本@名無史さん:2008/05/17(土) 07:05:25
秀康はないの?
97日本@名無史さん:2008/05/17(土) 10:32:35
秀康の男系も残ってはいるが、幾度となく改易食らってるし、
宗家とされる津山藩系も福井藩系も秀康の男系じゃなくなってる。
98日本@名無史さん:2008/05/17(土) 20:54:45
断絶した連枝を復活させないから紀伊系に乗っ取られたのだ。

ところで、木曽川の堤防は尾張藩側が高かったようだが、
それでは高須藩と竹腰家が水没してしまうではないか!
成瀬家は安泰。
99日本@名無史さん:2008/05/18(日) 09:10:49
徳川黎明会は徳川家伝来の美術品・大名道具と藩政史料を保存しているが、
家康からの御譲り本を中心とする和漢の古典籍(蓬左文庫)は市に寄贈したんだよな。

なんで、古典籍だけ市に譲ったんだろう?
100日本@名無史さん:2008/05/18(日) 09:52:41
名古屋市内の真言宗・福生院の松平氏、は関係ないんですか?
101日本@名無史さん:2008/05/18(日) 14:06:39
>>99
戦後の財政難で名古屋市に売ったの。
義親侯も美術品を守るために苦渋の決断をしたんだと思うよ。
102日本@名無史さん:2008/05/18(日) 17:41:44
名古屋市がちゃんと引き取ってくれたから良かったよ。
散逸はしなかったから。
103日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:26:32
蓬左文庫は本居宣長が『古事記伝』を記す際に調査に使ったと言われる文庫。
藩の蔵書でありながら身元がしっかりしている者なら閲覧が可能だった。
このような由緒ある文庫が散逸していたら、名古屋は日本中から袋だたきに遭うところだよ。
104日本@名無史さん:2008/05/20(火) 20:47:22

名古屋叢書三編の「尾藩世記 上巻」をネット通販で買うかどうか悩んでいる。
送料込みで3340円だから、そう高い買い物ではないのだが、古書や文献などを
一度集めだすと、止まらない性質なので、悩んでいるのだ。

貧乏人の悲しい性と好きなだけ笑いたまえ。
105日本@名無史さん:2008/05/21(水) 19:34:17
買いです
尾張家を知るためには必携です
付録のパンフ「名古屋業書三篇だより」もいいですよ
林東一さんが連載されています

私は第一巻の『尾張徳川家系譜』をこないだ買いました
大久保家や川田久保家も詳しく載っていて、感激
この値段で活字で読めるなんて、さすがは尾張殿ですね
106日本@名無史さん:2008/05/21(水) 19:35:03
105です
×林東一
○林薫一
107日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:47:43
とういちさんの「とう」は
草冠に重です
108日本@名無史さん:2008/05/21(水) 21:10:36
ごめんなさい
よくみたらそうでした
(よくみなくてもそうだ)
109日本@名無史さん:2008/05/22(木) 00:39:58
董卓の董ですな
110日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:08:39
林董とは何の関係も無いよね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%91%A3
111日本@名無史さん:2008/05/23(金) 09:10:05
城山三郎と義理の兄弟ってのはすごいね。
作家と学者の閨閥みたい。
112日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:29:02
義兄弟
林さん著『将軍の座』(文春文庫)
の城山三郎さんのあとがきではじめて知った

だから『冬の派閥』をあれだけリアルに描けたんだなと納得


ひとつわからないことが
なぜ高洲松平二代目は、長幼の順を無視して、
通顕(継友)ではなく、義孝になったんでしょうか?
113日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:29:35
×高洲
○高須
114日本@名無史さん:2008/05/24(土) 12:54:29
ヒント、藩主のスペア。
115日本@名無史さん:2008/05/24(土) 13:03:15
やはり「お控え」ですか
ありがとうございます
116日本@名無史さん:2008/05/24(土) 13:41:34
なんで尾張徳川家は京都守護職を拝命しなかったの

京都にも近いし御三家筆頭・60万石の大国、おまけに義勝は公武合体派。
政局に首を突っ込んだりしながら、いちばん面倒な役割はうまく逃げたんだな。
117日本@名無史さん:2008/05/24(土) 13:45:13
>>103
つうか名古屋圏以外は散逸させすぎてるんだけど

なぜ袋叩きにしない・・・
118日本@名無史さん:2008/05/24(土) 15:48:04
京都守護職
家格かなあ。いくら王城とはいえ、他の二職より
格下
尾張が就いたら、バランスが崩れると思う
かと言って、慶恕のキャラクタとして後見職や総裁職は無理だろう
周囲も納得しないし
119日本@名無史さん:2008/05/24(土) 15:53:10
慶勝の明治以降の子供って、義寛、義信以外にもいる?
尾張の系図だと「以下略」としかないし
120日本@名無史さん:2008/05/24(土) 15:56:04
×義寛
〇義恕
121日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:49:35
歴史に畏怖は禁物だが、京都守護職になって新選組を配下にしていたら、長州
の恨みを買って、今の名古屋は無いかも…。そう言や弟も京都所司代か。
122日本@名無史さん:2008/05/27(火) 05:58:28
>>84
その正順タソは斉昭娘の愛子タソと結婚したが二人の間には子供はいるのか?
123日本@名無史さん:2008/05/27(火) 08:49:17
幕府の役職は臣下がやるものであって納言の御三家様がやるような
ものではない。
124日本@名無史さん:2008/05/27(火) 12:54:21
やはり家格の問題ですよね
しかしながら、慶勝は京都に滞在していたし
なにより征長総督(これこそ御三家のポスト)になったから
充分怨み買ってますよね
慶勝自身は征長に反対だった訳ですけど
青松葉はその報復ではないか
との説があるくらい
125日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:17:03
おお、高須四兄弟
茂徳のことも忘れないでくださいね
126日本@名無史さん:2008/05/28(水) 12:09:17
高須クリニックの高須って、地名? 人名?
127日本@名無史さん:2008/05/29(木) 03:06:01
人名
128日本@名無史さん:2008/05/29(木) 21:52:26
何で徳川義礼は慶勝娘登代と離婚してその妹良子と再婚したのは何故だ?
そして登代は離婚してから死ぬまでの約20年間一体何をしていたんだ?
129日本@名無史さん:2008/06/01(日) 11:46:08
>>116
>>121
>なんで尾張徳川家は京都守護職を拝命しなかったの

尾張は、幕府が勝った第一次長州征伐の総大将じゃん。
京都守護職よりはるかに格上。
明治に、鉄道を中仙道にしようとしたのは、それで尾張を無視出来るから。
そんな金も地理的優位もなく、あっさり鉄道は東海道にして、
名古屋は両京間の中心となした。
130日本@名無史さん:2008/06/01(日) 14:42:07
尾張大納言五郎太が死亡した段階で藩土返上がされるべきであった
131日本@名無史さん:2008/06/01(日) 15:33:02
>>130
それも吉宗との将軍争いに敗れた原因の一つだな
132日本@名無史さん:2008/06/03(火) 20:37:04
>>130
ならば紀伊綱教が死亡した段階で藩土返上がされるべきであり
水戸頼房が死亡した段階で藩土返上がされるべきであったとでも言うのか?
あんたの言ってることは無茶苦茶だ
なぜ吉宗が将軍になっても紀伊徳川が残ったのか考えてごらん
133日本@名無史さん:2008/06/03(火) 20:42:42
ちなみに五郎太は大納言になってません
というより幼児のまま死亡したんで、生前は無位無官

「同年(正徳三年)十一月二日、御無官ニ而御逝去ニ付、御願之通贈三位宰相
ニ被任之旨被仰出」
蓬左文庫蔵『御系譜』より
134日本@名無史さん:2008/06/03(火) 21:14:31
>尾張大納言五郎太

尾張大納言義直公亦は光友公をさしているのでは??
と無理矢理フォーローしてみる
135日本@名無史さん:2008/06/03(火) 22:42:41
>>132
五郎太→継友の甥から叔父への逆相続がまずいってことだろう。
このせいで尾張家の正当性が薄れてしまった。
136132:2008/06/04(水) 01:52:10
>逆相続
「御三家・親藩」スレでも話題に出たからね
実はそれが言いたいってことはわかってたんだ
しかし、「藩土返上がされるべきであった」と言うのは暴論だと思う。
藩祖義直から一所懸命築いたものを軽く見すぎている、尾藩の武士たちのこと
も考慮に入れていない。
ましてや「大納言五郎太」なんて来た日にはね。

「正当性に欠ける」というのは綱條さんの発言を受けての琴田と思うけれど、
この発言自体勝者におもねっている感じがする。つまり後付に近いのでは。


まあちょっと大人気なかったかな、と反省はしている
137日本@名無史さん:2008/06/04(水) 19:04:28
継友が吉宗との将軍争いに敗れたのは、単に実績の違い。
藩主に就任して3年で実績が少ない継友や、老齢で実子のいない綱條より、
吉宗を選ぶのはごく自然な判断。
138日本@名無史さん:2008/06/05(木) 07:29:01
いや、五郎太から継友への相続は御三家の家格を考慮しての特例措置だよ。
幕府の規定からすれば無嗣断絶か大幅減封されて相続が妥当な線。
139日本@名無史さん:2008/06/05(木) 08:33:36
>>138
御三家は代替わり毎の朱印状いらないし何があっても潰されないの前提じゃないか?
140日本@名無史さん:2008/06/07(土) 09:04:05
だから宗春もあれだけ大胆なことをやってのけたわけ
141日本@名無史さん:2008/06/07(土) 10:58:04
水戸光圀もね
142ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2008/06/07(土) 21:00:45
失敗したけど宗春追放の時に自分の子供を押し付けようとしたのが
事実上の改易処分でしょ。いわば義直藩の取り潰し。
143632:2008/06/07(土) 21:44:49
宗春→宗勝も「相続」ではないですからね
吉宗から新たに宗勝に与えたという感じ
宗春を父と呼ばせるのを禁止したし
144日本@名無史さん:2008/06/11(水) 12:59:53
謹慎を申しつけられたとき、田安宗武が後継ではないことを
なによりも気にした宗春。
145日本@名無史さん:2008/06/11(水) 19:59:39
>>144
どうして?
146日本@名無史さん:2008/06/11(水) 20:16:35
宗武が後継になっていたら松平定信が尾張中興の祖として称えられていただろう。
147名乗る程の者ではござらん:2008/06/11(水) 21:44:40
ぶっちゃけ
吉通が長生きしてても
将軍職は吉宗にもってかれたでしょう。
酒乱・荒淫・悪政と三拍子揃ってたんじゃねえ…

そら白石も反対するわな
148日本@名無史さん:2008/06/11(水) 22:20:25
御三家筆頭生まれで苦労知らずの吉通より、
紀伊藩の財政を再建した功績のある吉宗の方が将軍に相応しい。
149日本@名無史さん:2008/06/11(水) 23:48:32
絵島事件〜八代将軍争奪戦あたりは
フィクションの題材にはもってこいなおかげで
お話として面白いように改変されまくって
ずいぶん創作がでまわっているからなあ。

間部・白石は尾張を支持した
→家宣が吉通を将軍後見職につけようとした時、猛反対して断念させたのこいつらだろ。

紀州(吉宗)は天英院の支持があったから将軍になれた
→姪っこが尾張(継友)の正室なのに何で天英院が紀州応援するんだよ。


尾張兄弟では吉宗相手に勝ち目ないな
150日本@名無史さん:2008/06/12(木) 00:39:09
>>145
尾張の社稷を保つことができなくなれば、先祖に顔向けができない
死んでも償えないから

>>147>>148
吉通は名君、暗君両説あり、未だその人物性向ははっきりわかりません
暗君説の史料の一つに鸚鵡籠中記がありますが、これは一藩士朝日文左衛門の
見聞した記録であり、ゴシップに類するもので、真実かもしれないし、噂に過
ぎないかもしれない、どちらとも言えない物です。
御三家の当主とはいえ、若くして死にましたから、それほど記録は残っていな
いのです

ちなみに私も吉宗は稀有の人物であり、彼が宗家を継いだことは天の采配であ
ったと思っています

>>149
そうですよね
『折りたく柴の記』では、吉通を推したのは家宣であり、それを退けたのは白
石であると書かれていますね
とはいえ、白石が自著の中でそう述べているだけで、それが真実であったかど
うかはわかりません
151150:2008/06/12(木) 00:42:23
読み返してみて、149さんに反論しているように取れる書き方になっていました
スミマセン
同じ意見です
当時の白石たちからすれば、幼君家継が自分たちにとって一番都合がよかった
でしょう
幼い間は自分たちの腕を振るえるし、なにより学者である白石にとって、幼君
を自分が導いて、理想の将軍にしたかったのではないかと思います
152日本@名無史さん:2008/06/12(木) 08:20:14
間部も白石も
家継以外の誰が将軍になっても
自分たちの政治改革が頓挫するくらいは分かってたろうしね。
153日本@名無史さん:2008/06/12(木) 09:53:35
吉通は母親の奔放ぶりも問題あり。
本人が死んだ時もひどい扱いされた。

>>145
尾張家が紀伊家の血統になっちゃうから
154日本@名無史さん:2008/06/12(木) 12:57:07
吉通母本寿院(お福)の乱行も、そのソースは主に『鸚鵡籠中記』です
ですから真実かもしれないし、単なる噂かもしれない
たとえ真実であっても、「腹は借り物」が当時の考えであり、吉通の母親は
公式には新君(綱誠正室)なので、将軍継嗣に関しては重要視することでは
ありません
問題なのは、真実か否かにかかわらずたとえ、密やかな噂とはいえ、このよう
な話が残っているということ、すなわち尾藩の脇の甘さでしょうね
現代企業でもそうですが、社内のあれやこれやがリークされてしまうというの
は、組織としてゆるみがある

吉通の個人的資質がどうあれ、よほどの暗愚でない限り、将軍継嗣に支障はない
でしょう。そのための幕閣であり、逆におとなしい人物の方が御しやすいと
歓迎されたかも。

なお、少なくとも吉通は紀伊重倫のような暴君ではありませんでしたね
155154:2008/06/12(木) 13:07:52
結果として将軍となった吉宗が傑出した存在であり、改革を推し進めたため、
その能力によって継嗣とされたとみるむきもありますが、
第一は血統であって、個人の資質は二の次、三の次です
(紀伊重倫のような暴君は論外ですが)
それは後の紀伊慶福と一橋慶喜の例を考えればお分かりかと
このケースで「英才の誉れ高き」慶喜を推すと、個人の資質がうたわれていま
すが、それは幕末という局面において出てきた問題であり、
その時点ですら血統のよい慶福が本命でした
ましてや正徳享保の時期は、財政こそ赤字であるものの、表面穏やかなこと
平成の今と対して変わりはありません

たらればを重ねるのはなんですが、
吉通が長生きをし、その資質が愚鈍であったとしても、それゆえに将軍継嗣
から遠ざけられるということはないでしょう
156154:2008/06/12(木) 13:51:06
本音を言えば僕も本寿院はかなりの女性だったと思っています
ただ気になる点は先ほど書いたとおり
そして本寿院の出自が町人であったこと
(それゆえ娘時代に駆け落ちをしたとか、近隣の男性を誘いまくっていたとか
いうゴシップもある→『人品記』)

吉通の父綱誠には12人(一説には17人)の側室がおり、それぞれ子供をなしまし
たから(その多くは早世しましたが)、その縁者を巻き込んだ争いが陰日なた
あったことが、こうした噂を通じて透けて見えるような気がします
そういった中で頼れる縁者にたいしたものがいない本寿院は、
・藩主生母として力を振るい、己の欲望のままに振舞った
のか
・ネガティブキャンペーンをはられる無力な存在
だったのか
・周囲(反対派)の勧めに従い、乱行を重ねた
のか

現在残っている記録から僕が考えられることは上記3つのうちいずれかです
157日本@名無史さん:2008/06/12(木) 18:33:51
つまりアレだね
いくら同時代の日記とはいえ、朝日文左衛門のポジションを考えると
現代の大企業の係長か課長クラスが、社長のゴシップを書き留めたもので
信頼できるといえば言えるし
逆にできないとも言えると
158日本@名無史さん:2008/06/12(木) 19:49:48
>なお、少なくとも吉通は紀伊重倫のような暴君ではありませんでしたね

「暴君」に是非水戸光圀も加えて下されい
159日本@名無史さん:2008/06/12(木) 23:41:48
鸚鵡籠中記は貴重な文献だよ
同時代人の見解としてフィクションのイメージぶち壊しなことをさらっと書いてくれているからね。

浅野内匠頭が刃傷やった時に
   〃∩ ∧_∧
   ⊂⌒(  ・ω・)  殿中の喧嘩は是非を論ぜず、先太刀打つ者が全部悪いんだよ
     `ヽ_っ⌒/⌒c  はいはい浅野死罪 はいはい吉良無罪
        ⌒ ⌒
みたいな感想だったことは有名だけれど

絵島事件についてのコメント
               . -―- .      やったッ!! さすが秋元但馬守!
             /       ヽ
          //         ',      俺たちにできない大奥リストラを
            | { _____  |        平然とやってのけるッ!
        (⌒ヽ7´        ``ヒニ¨ヽ
        ヽ、..二二二二二二二. -r‐''′     そこにシビれる!
        /´ 〉'">、、,,.ィ二¨' {.  ヽ     _ _      あこがれるゥ!
         `r、| ゙._(9,)Y´_(9_l′ )  (  , -'′ `¨¨´ ̄`ヽ、
         {(,| `'''7、,. 、 ⌒  |/ニY {               \
           ヾ|   ^'^ ′-、 ,ノr')リ  ,ゝ、ー`――-'- ∠,_  ノ
           |   「匸匸匚| '"|ィ'( (,ノ,r'゙へ. ̄ ̄,二ニ、゙}了
    , ヘー‐- 、 l  | /^''⌒|  | | ,ゝ )、,>(_9,`!i!}i!ィ_9,) |人
  -‐ノ .ヘー‐-ィ ヽ  !‐}__,..ノ  || /-‐ヽ|   -イ,__,.>‐  ハ }
 ''"//ヽー、  ノヽ∧ `ー一'´ / |′ 丿!  , -===- 、  }くー- ..._
  //^\  ヾ-、 :| ハ   ̄ / ノ |.  { {ハ.  V'二'二ソ  ノ| |    `ヽ
,ノ   ヽ,_ ヽノヽ_)ノ:l 'ーー<.  /  |.  ヽヽヽ._ `二¨´ /ノ ノ
/    <^_,.イ `r‐'゙ :::ヽ  \ `丶、  |、   \\'ー--‐''"//
\___,/|  !  ::::::l、  \  \| \   \ヽ   / ノ

はもっと評価されていい
160日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:19:08
別に鸚鵡籠中記全部を否定しているわけじゃあないよ
もしそう読み取れる書き方をしていたのなら謝ります
僕自身抜粋版であるけれど持っているし、全文も数度目を通しました
同時代の貴重な記録で、市井の声を拾っていることや、当時の暮らしぶりが
よくわかる
赤穂事件についてもおっしゃるとおりで、当時の世の中の反応を今に伝えて
いるね
生類憐れみのことや絵島事件のことも歯に絹を着せぬ言葉を述べている
僕が言っているのは、しかし、だからといって、藩主やその生母のことを直接
見聞して書いていたわけではないから、真実を伝えているとは限らない、とい
うこと
吉通は成人するまで江戸にいたし、成人後も江戸と名古屋を往復してた
名古屋でも城中奥深くにいたのだから、文左衛門が会えたわけじゃあない
現代でも、上の方で書かれているけれど、大企業の係長クラスが社長の醜聞を
伝え聞いたとて、はたしてソレがどこまで真実かはわからないでしょう?
もちろん根も葉もないゴシップに過ぎないとも断言できない
繰り返すけれど、問題なのは真実か否かにかかわらず、藩主や生母の醜聞が、
門外不出の個人の日記とはいえ、残されていること、密やかにリークされた
ことにあると思います
それだけ当時の尾藩は規律がゆるんでいた
吉通の寵臣といわれた奥田主馬は城中からさがってすぐに死亡、それも城中で
女中に刺されたため、という噂がたった
このようなみっともない話も残っていることから、藩内の空気がわかるような
気がします
一方吉通の近侍であった近松茂矩は文武の名君であると証言しています
これまたおべんちゃらだと考えることもできるし、近侍の者の証言だから確か
だと考えることもできる
161160:2008/06/13(金) 00:19:36
武に優れていたことは確かなようで、柳生新陰流の正統を継いでいる
これまた尾張藩主は代々柳生本家と交代で引き継いでいるのだけれど、生半可
な殿様芸でないことは確かです
繰り返しになりますが、毀誉相半ばする人物で、その実態は謎に包まれている
といっていい
だから単純に決め付けはできないし、ましてやそれをもとに将軍継嗣云々や
長生きしていたらというイフの話などは、(するのは自由だけど)、
現実的とはいえないでしょう
162日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:25:41
要するにいろいろな文献を読むと、その無個性が印象付けられるということ
163日本@名無史さん:2008/06/13(金) 00:42:44
『趨庭雑話』も忘れないでくれ
164日本@名無史さん:2008/06/13(金) 22:34:51
光友、綱誠の子女はかなり多いが、大半が早世した。
紀州光貞、水戸光圀の子女はそれほど多くないが、早世した者は少ない。
165日本@名無史さん:2008/06/13(金) 23:08:27
綱誠の場合、40人中成人に達したのが
吉通、義孝、継友、通温、宗春、そして松姫の6人
生存率低いと見るか、普通だと見るかは人それぞれですが

綱誠の庶兄、松平出雲守義昌(大久保松平家祖)の場合は
17名中育ったのが
義賢(大久保家2代)  稲姫(伊東佑崇室)  義武
の3人

同母弟、松平摂津守義行の場合
16人中成人したのは越智松平に養子に行った武雅ただ一人です
166日本@名無史さん:2008/06/13(金) 23:14:21
>>165 家慶なみの幼児死亡率ですね。
167165:2008/06/13(金) 23:26:02
光友の場合は、綱誠とは異なり、生存率はやや高め。八代宗勝と似ています。
男女あわせて17人のうち、
「長男」義昌は庶出であるため3男扱い
(北条時輔と同じですね)
そして家督を継いだ長男綱誠、その弟次男義行、
大久保、四谷とならぶ川田久保の家を興した10男友著以外に
家臣松平図書の養子となった4男康永
浅野綱長の正室となった3女貴姫
6男松平六郎友重
がいます

まあこれも半数以上は夭折しているので、生存率低いといえば低いですね
どうも尾張家とその分家の系図ばかり眺めていると、
この比率でも「生存率高め」と感じてしまうのです、僕は

分家の祖となった、義行、義昌、友著に比べ康永と友重の二人は出来が悪かっ
たようで、粗暴な振る舞いが多く、康永は酒色におぼれて養父より早く死に、
友重は蟄居という処分にされています

168日本@名無史さん:2008/06/13(金) 23:31:49
なになに?
綱誠はあんだけ子供いて男の孫は五郎太一人で女子も継友、宗春の娘だけか
女系でさえも血統は途絶えたの?
169165:2008/06/13(金) 23:41:00
>>166
そうですね
医学が未発達だった当時、乳幼児の死亡率は現代と比べ、はるかに高かった
のですが、加えて当時女性が胸元までつけていた白粉に鉛成分が入っていたこと

そして父母の頑丈さも関係してますね
2代光友は、紀伊吉宗と似て、その母は頑強な(一説に農家の)娘
彼女が義直に見初められたのは
・湯女として奉公していたが、その太ももに欲情した殿様に押し倒された
・殿様がやってきた時、その通り道に、彼女の父親が湯浴みをしていた。彼女は
 殿様の邪魔にならぬように、急いで湯桶ごと父親を家の中へ。その力強さに
 力強い男の子を産むであろうと見込まれた
・殿様の前に突進してきた猪を素手でつかみ、倒した
の三説あります。
儒教でコチコチの頑固者義直は、妻以外の女性を置くことを長らく拒否していた
ため、光友が産まれても、これを恥じて2年ほど面会もせず、認知もしなかった
らしいので、恐らく一番目が真相に近いかと

なお光友を産む時も壮絶な逸話が残っていまして
「おらのような下賎なオナゴの股から殿様の子をひりだすわけにはあかんて」
とばかり、下腹部を刃物で裂いて子を取り出したそうな
あくまで逸話ですが
170165:2008/06/13(金) 23:43:23
>>168
義直の男系女系双方の子孫については>>83から>>87あたりを参照してくだされ
171日本@名無史さん:2008/06/13(金) 23:52:45
男系は井上、永井の小大名に成り下がったのに、
女系はやけに栄えているのも皮肉な話。
172165:2008/06/14(土) 00:00:55
ちなみに義昌の娘稲姫が嫁いだ伊東佑崇は日向飫肥藩5代藩主佑実の養嗣子で
残念ながら病弱なため廃嫡されている
よって子孫は確認できない
ちなみにこの伊東氏は尾張分家や重臣家と婚姻をむすんでたりします
173日本@名無史さん:2008/06/14(土) 23:22:34
>169

それ、なんて帝王切開?

でも、結局その末裔に帝王は出なかったんですねorz
174日本@名無史さん:2008/06/16(月) 10:47:19
三姫の息子が生きていれば
175短パンマン:2008/06/16(月) 12:36:35
名古屋はエ〜エ〜で
176日本@名無史さん:2008/06/16(月) 18:45:45
血統はともかく、結局一番体面を保ってるのは尾張家だな
177日本@名無史さん:2008/06/16(月) 19:12:19
水戸は血統も体面も保っているし宗家も血統はぐちゃぐちゃだがまあまあ。
紀伊は・・・・・
三卿は元々大名じゃないし大きな財産も無いだろうから知らない。
178日本@名無史さん:2008/06/16(月) 19:42:11
御三家で家康の男系を保っているのは水戸家のみ。
御三卿も田安家以外は水戸家に乗っ取られた。
179天知茂:2008/06/17(火) 00:20:13
城が無ければただの町
180日本@名無史さん:2008/06/17(火) 00:27:30
なごやブルース最強!
囃しはにゃあでよ
181日本@名無史さん:2008/06/17(火) 07:32:42
男系うんぬんよりも、藩祖いらいの尾藩当主の遺志を継いでいるかどうか、
ですね
男系でつながっているとまずそれは途切れないけれど、別に女系でつながって
いたらそれが無くなるとも限らない

斉朝斉温斉荘慶臧4代50年が「押し付け」と呼ばれたのも、尾藩のアイデンティ
ティが薄められ、幕府の出先機関のようになってしまう/なってしまったのを
危惧したからの評価です

家と血統とはしばしば重なるものですが、だからといって、血統がつながって
いれば誰でもいいというわけでもないし、それが尊いとも、江戸時代ですら
考えられておりませんでした。
血統が続いているのを誇るのは結構ですけれど、他を見下げるのはよろしくない
ですな
182日本@名無史さん:2008/06/17(火) 08:43:55
成瀬、竹腰、高須藩主、
時の当主の年齢にもよるだろうけど、
だれが一番権力を持っていたのだろうか?
183日本@名無史さん:2008/06/21(土) 00:12:13
名古屋駅弁
「味噌カツとエビふりゃあ」は
でらうみゃあよ
184日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:37:01
>>165
そう考えれば御三家の三人がみな無事に育ったのは奇跡に近いな。
185日本@名無史さん:2008/06/25(水) 09:27:42
家康の男子は仙千代と松千代以外は成人している。
過保護で軟弱な時代になったってことだ。
186日本@名無史さん:2008/06/26(木) 21:31:30
家重の子供はみんな成長して50近くまで生きました
187日本@名無史さん:2008/06/26(木) 23:04:24
みんなって二人だけじゃん
188ラーメンのCM:2008/06/27(金) 20:15:29
田舎ラーメンどえりゃあ
うみゃあよ
189日本@名無史さん:2008/06/28(土) 17:47:00
名鉄の神宮前の駅員は訛ってて
何言うとるか判らんかった
190日本@名無史さん:2008/06/29(日) 14:55:05
>>183
温たかけりゃね、見た目は美味そうだけど
冷たいままだと・・・・・
191日本@名無史さん:2008/06/29(日) 15:33:30
名和とかは訛ってる
名古屋の都会人は標準語
尾張藩上士も江戸詰めだから訛ってない
192日本@名無史さん:2008/07/04(金) 19:26:45
松平忠吉の家臣は
尾張藩の郷士になったん?
193日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:54:23
忠吉の家臣団は義直に受け継がれましたよ
形だけを見れば、義直は忠吉の、頼宣は信吉の後を継いだことになりますね
194日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:57:06
>>185
市姫と松姫も夭折しているんだが
195日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:04:43
御三家筆頭と言われながら,8代目争いでは紀州吉宗に敗れ,最後の将軍は水戸家出身の慶喜に取られ。

尾張徳川には,紀州,水戸,御三卿を押しのけ,世に躍り出る逆転のチャンスはなかったのだろうか。
196日本@名無史さん:2008/07/08(火) 00:09:41
なかったです
なぜなら彼らはあくまで徳川家の社稷を守ることが第一ですから
いたずらに波風を立たせることはしませんでした
宗春でさえ、です
197ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2008/07/08(火) 20:33:17
義直
一歳の家綱の山王社初参りのお供を拒否、曰く「大納言が無位無官の者の供などできぬ」。
勝手に城の測量してた水野に江戸城中で
「もし余が江戸に攻め入ったらその方食い止められるか?」とまくしたて
以後常に尾張は幕府の監視をうけることに。
家光の宿舎に帝鑑図のふすま絵を描かせ、将軍だからってあんま調子のんなよ
と諭す。

宗春
義直以来のスパイに反発してパトロール隊結成
家康の形見を江戸市民に公開、国元同様どんぱち騒ぎ。

慶勝
日米通商条約に抗議し、隠居・謹慎処分。のち許される。
長州征伐で攘夷仲間の毛利に手ぬるい処分を下す。
近藤勇曰く「大政奉還は慶勝のせい」。
慶喜に「いざとなったら尾張一国献上してもいいから領土を一部朝廷へ返上
なさいませ」と進めるも江戸開城の結果尾張藩が江戸城を引き受ける。

198日本@名無史さん:2008/07/08(火) 21:51:18
落語「紀州」より

幕閣「将軍職ついでくれるかな」
継友「つぐとも!」
199196:2008/07/09(水) 01:47:20
>>197
あなたのようにうわべだけなぞると、尾州は反幕的となるのでしょうが、
実際は違いますよ
まず義直
あなたが書いてくださった以外にも、尾紀水駿の序列騒ぎ、家光危篤との情報
を受けた無断参府、名古屋城篭城騒ぎなどがあります
義直は真面目人間でしたから、ちゃらんぽらんな家光とそりが合わなかったの
は事実です。序列騒ぎや無断参府などは原理原則を重んじる彼らしい行動
そして何より家康の築いた天下を守るための意識であり、行動なんです
篭城騒動の原因は家光で、彼のために急ピッチで本丸御殿を改築(ほぼ新築)
したにもかかわらず、突然の気まぐれで名古屋入りが中止になったため、
頑張った士民、何より自分の意地が立たず抗議の篭城を図ったもの
家光を殺すとか、天下をとるというのではなく、死を賭した抗議の行動です
そして弟頼宣に相談を持ちかけ、逆に彼から謀反をほのめかされ、思いとどまり
ました(頼宣も兄の性格を知った上でそう言ったのですが)
水野監物に関しては、監物のスタンドプレーにすぎません。考えても見て下さい
名古屋城は天下普請でして、監物ごときが測量しなくても、堀の深さや幅など、
幕府にも、そして手伝普請した諸大名にもわかっていること
もちろん修築すればデータは変わりますが、城の修改築は禁じられていますよね
本来領土を侵犯し、軍事機密(とはいえ先日の通り機密でもなんでもないが)
を持ち出そうとした監物を討ち取ったとて咎めなきところを、
江戸城中での会話で「監物の忠義天晴れ」という流れにしたんです
以上二件は、義直がことを構えようとすればできたところを我慢したりスルー
したことを示しています
200196:2008/07/09(水) 01:53:15
次に宗春
彼の行動は、三流小説などで言われる尾紀の対立、兄たちの復讐なんてちっぽ
けなものでなく、自分自身の政治哲学に基づいたものです
彼が将軍上使に対してどうどうと論じたその主張をきちんと読み取れば、誰に
でもわかることです
大名としてはかなり個性的な人物で、人一人の命は千金より重いという意味の
言葉を残し、治世中一度も死刑を出さず、心中で生き残った男女を、形式通り
罰した後は夫婦にさせたほど、人間愛に満ち溢れてました
とはいえ、彼は理想家であって、政治家としては吉宗の足もとにも及ばず、
経済は破綻し、幕府より厳しい処分を受けたのは周知の通りです
201196:2008/07/09(水) 01:58:49
慶勝に関しては、「社稷を守る」の解釈の違いでしょう
彼は公武合体派であり、尊皇家であり、現実的な政治家でもありましたから、
春嶽や一翁、海舟と同じ行動をとったまでです
幕府や長州などと小さいことにこだわれば、近藤のような見解になるんでしょ
うけれどね
徳川の家が今に残っているのは、彼らの尽力によるものです
加えて慶勝茂栄兄弟には弟容保定敬の助命もありました
慶勝は徳川の社稷を立派に守り通したのです
202196:2008/07/09(水) 02:05:30
ちなみに尾張が江戸城を引き受ける、というのは江戸開城後、一時管理を託さ
れただけであって私したのではありません
誤解を招く書き方はできれば避けてください
203日本@名無史さん:2008/07/09(水) 02:38:07
落語「紀州」より

江戸城に登る継友の耳に、鍛冶屋の鉄を打つ音が
「テンカトッタ、テンカトッタ」
と聞こえた
ところが蓋を開けれみれば天下は紀州の手に
悄然として帰る継友の耳に、鍛冶屋が鉄を水に入れる音が
「キシュウ〜」

お後が宜しいようで
204日本@名無史さん:2008/07/11(金) 00:19:01
慶勝の評価については、低いものから高いものまでさまざまである。いろん
な言葉で表現されているが代表的な例をいくつかみてみると、まず低い評価
では、
・主体性に欠け、優柔不断で、新政府に利用されて、徳川家を売った人。
・将軍にしてもらえなかった尾張藩二六〇年の恨みを、土壇場で晴らした人。
・御三家なら最後まで幕府側で戦うべきなのに、寝返ったのはおかしい。
・当初ねらった公武合体がならずあてがはずれて転換した尾張候。
などがあり、尾張藩が、徳川幕府をつぶす側にくみしたことへの素朴な疑問
から評価している例が多い。
205204:2008/07/11(金) 00:22:39
高評価の例では、
・朝廷と幕府勢力の衝突を和らげるよう周旋し、新政府の橋渡し役を演じて、
 明治への平穏な移行に貢献した。
・あえて討幕派の誘引に応じて激動過渡期のクッション役を担った。
・名古屋を戦火から救うとともに、日本での騒乱を最小限にした人。
・菊と葵の狭間で公武合体に尽力したがならず、勤王に転換して黒子役に徹
 した殿様。
などがあり、最近では高い評価が増えている感じがする。
206204:2008/07/11(金) 00:29:31
日本の中央部に位置する尾張の大藩が、もし、新政府に反旗を翻して徹底抗
戦していたら、日本中は大混乱に陥って外国勢力のえじきになっていたとも
限らない。尾張は幕府と朝廷勢力の合体を意図し、王政復古政府では内部の
一員として、続く明治新政府では、「抗争の後始末」という地味な役回りが
中心であった。大改革が行われた後の新体制では、前時代の中心勢力は新し
い時代には残れないという歴史の前例に照らせばやむを得なかったのであろ
うか。
尾張の実質最後の殿様慶勝は、不本意ながら江戸時代の幕引きと新政府への
橋渡し役を演じることになった。このことは日本全体の明治維新の進展とと
もに、日本の近代化を外国勢力に蝕まれることなく推進できたことに貢献し
ていると考える。
(櫻井芳明『幕末の尾張藩』)
207日本@名無史さん:2008/07/11(金) 09:52:07
将軍家にことあるごとにいじめられるも、宗家を守った尾張家って偉大
208日本@名無史さん:2008/07/11(金) 10:43:03
名古屋城を天皇陛下の離宮にするべき。
(ノ∀`)戦前はそんな感じだったらしーじゃん。
209日本@名無史さん:2008/07/11(金) 13:02:43
>>207
義直の血統は守れなかったがな
210日本@名無史さん:2008/07/11(金) 13:15:31
>>209
それも幕府の強制がなければ、まだ打つ手はあったんだけどねえ
211日本@名無史さん:2008/07/11(金) 13:36:50
血統をのっとられても宗家を守り続けた尾張徳川は偉大
212ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2008/07/11(金) 15:51:34
松平安芸『将軍は貴殿に隠居謹慎を命じられました。まったく、こんなことは初めてのこと・・』
宗春『尾張が初めて(笑)』
213日本@名無史さん:2008/07/11(金) 16:09:20
おはりはつもの
214日本@名無史さん:2008/07/11(金) 20:14:27
>>208
皇室で必要がなくなったから名古屋市に下賜されたのに・・・。
215日本@名無史さん:2008/07/11(金) 22:53:35
治休、治興、治行はやっぱり毒殺されたの?
216日本@名無史さん:2008/07/11(金) 23:45:01
>>215
吉通や家基も毒殺の疑いがあるが、いずれにせよ実証は不可能。
217日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:24:40
ここは家臣がダメと聞いたことがあるが・・・
218ぴーす ◆henn6wQb.g :2008/07/12(土) 16:41:35
光友「城下で辻斬りがはやってる?元気があっていいね。武士は
そうでなくちゃ。」
219日本@名無史さん:2008/07/12(土) 18:30:41
光圀は自ら辻斬りをやった
そういう時代なんだ
どうせ取り上げるなら光圀のほうだろ
220ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/07/12(土) 19:47:21
戦国の気風抜けぬ17世紀初頭、御三家筆頭尾張義直は治安維持の
ためパトロール隊を結成し、喧嘩辻斬りの防止に努めた。

だがパトロール隊もまた戦国の武士、初日から次々と怪しい
者を片っ端から切りまくっていた。

しかし二代光友は戦人かくあるべしと意に介さない。

一方水戸は自分で切った。


こんなもんかな?
221日本@名無史さん:2008/07/12(土) 21:48:55
なぜか底意地の悪い、バランスを欠いた書き方なんだよな
うざいよ、もう書きこむなよ
222日本@名無史さん:2008/07/12(土) 22:54:34
>>221 あなたの書き方もどうかと思うぞ
>>220 私は過分にして光友のその話を知らないのです。ソースを教えてくだ
    さい(史料でなくてもいいです、小説または教養書でも可)
公平に見て三家の中で一番残虐なのは、紀伊の重倫でしょう
これは誰も異論が無いと思います。江戸も中期という時代で、民百姓はおろか
側近や側室までも手にかけた/手にかけようとした。
心が病んでいるとしかいいようがありません
二番目は光圀かな。若いときに刀の切れ味を試すために乞食を斬った、
老いては藤井紋太夫をためらいも無く斬り殺した。綱吉にはいやみで
犬の毛皮を大量に送った
自分の行うことを正義と疑わないその様は偏執と言ってもいいでしょう

>>215 宗睦の嗣子で若死にしてしまったのは、彼ら三人だけではありません
治行長子の五郎太、甥の勇丸(父 勝長)もまた夭折しています。
これを年代順に記せば
1774年 治休(21)
1777年 治興(21)
1793年 治行(34)
1794年 五郎太(14)
1796年 勇丸(3)
ちなみにその後迎えた家斉の子供も夭折
1797年 敬之助(5)
こうして並べてみると寒気がしますね
223日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:12:51
>>222
これは確かに不気味だな。
家慶や綱誠の子も死亡率は高いが、成人した男子が三人も早世するとは…
224ぴーす ◇TfYI6zaOr. :2008/07/12(土) 23:30:55
江戸時代も半ば、綱吉の政策により人名が以前よりも格段に重くなった太平の
世、紀伊家7代重倫は刀を振り回して側近を振るいあがらせ、鉄砲片手に民を
脅して撃ちまくり、あげくには側室を自分の息子ともども斬り殺そうとする始

家臣らは毎度水杯を交わしてから登城したという
さらには江戸屋敷が隣接している松江藩の物見台にいる女中らに鉄砲を撃ちか
け、とうとう30にして隠居に追い込まれてしまったとさ
225日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:52:56
>>222
敬之助はついスナイパーの手が滑って続けて消されちゃったんだろうか。
「おい、そいつはこっちから送り込んだ若君だ」なんて後で叱られたとか。
226ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/07/13(日) 11:54:43
一方ロシアは鉛筆を使ったってネタを無理やり改編した
からいびつなのは仕方ないよ。

明治維新後、藩知事慶勝は藩民を城中拝観に招き、失業士族救済
のカンパをを呼びかけるも、申し出たものはサクラ一人に終わる。


227日本@名無史さん:2008/07/13(日) 12:17:43
>>226 また薄っぺらな知識で事実と違うことを勝手に書いているなあ

明治四年二月九日、名古屋城に御用達商人やお目見えの農民を招き、武士階
級の帰農のため、莫大な入費が必要なことを訴えて、調達金の献納を要請し
ている。この折には接待者に本丸、天守の拝観を許し、酒肴でもてなして、
記念品に「夢の世」と銘した御深井焼きの茶入れを「蜀江錦」に入れて贈っ
た。
在任中に何かと協力をおしまなかった尾張各地の名望家に対する精一杯の感
謝とともに別離の気持ちがこめられていた。領民は旧藩主の真心に感激し、
東京に旅立つ彼を見送ったのだった
228日本@名無史さん:2008/07/13(日) 12:20:45
>>225
敬之助は幼児だから早世してもさほど不思議ではない。
問題なのは成人した男子三人が相次いで死去していること。
229227:2008/07/13(日) 12:27:13
地租改正で増税となる農民へも慶勝は援助をしてやっている
明治十二年に東京の自邸に招いて状況を聞き、次のような解決策を提示した
「救済金として三万五千両を下賜すること、14年度からの地租改訂の見直し
確約書を県から出すこと」の二つの条件であり、これで反対運動を収めるこ
とで妥協が成立した。
彼らがこの提案を受け入れたのは、黒船来航以降、長州征伐出兵等の軍資金
調達、鳥羽伏見の戦への義勇軍・草薙隊の派遣、甲州・奥州への出兵等で尾
張藩へ貢献してきて以来、慶勝への敬慕があったからであろう。
230ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/07/13(日) 13:21:59
元文自体がうすっぺらいからそう言われてもなんとも答えようが
ないですね。むしろ勉強になるので感謝してるぐらいですよ。


231227:2008/07/13(日) 13:27:35
ちなみに士族達の帰農事業で大規模なものは、北海道原野開拓でしょう
尾張家の出資で行われたこの事業、先の名望家達の献金もあった
現在の八雲町は尾張士族達が開拓したものであり
木彫りの熊の置物は、候爵義親のアイディアによるものである
232日本@名無史さん:2008/07/13(日) 13:35:30
>>230
えっ? 元文があるの?
233222:2008/07/13(日) 23:16:49
>>228
治休、治興の死因は麻疹だったそうです
当時は死病として恐れられていたとか
治行は、私にはわかりません。四代吉通以来、久々に徳川家で柳生新陰流道
統を継いだ(十一世)ほどですから、体は頑強だったと思うのですが。。。
『尾張徳川家系譜』には
寛政五年九月二日 御気色御急変とあり、その二日後に死んでます

私が残念に思うのは治行の子、五郎太です
彼は正妻従姫(紀伊宗将娘)との間に生まれた子ですから、そのまま成長し
家督を継いでおれば、尾紀の間、ひいては幕尾の間も融和が進んだでしょう
しかも許嫁が初めは治済の子満姫、彼女の死後は家斉の子淑姫でしたから
(後に淑姫は十代斉朝の正室になりました)
ちなみに私の書きようが中途半端だったのですが、五郎太は宗睦の養子には
なっていません。しかし彼が死ぬまでは他に養子をとらなかったのですから、
「嫡孫」扱いだったのではないかと思います
234222:2008/07/13(日) 23:27:40
ちなみに五郎太の死因は「御持病の御疳積御痰気御差発」とあり、よくわか
りません。浮腫ができた、とも書いてあります。
で、医者のクスリを飲んだが、かいなく死んでしまった、という書き方になっ
てます
勇丸は急に様態が悪くなり死んだということです
235日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:38:37
>>234
痰気は慢性的な熱のことらしい
疳積はググッたら、「楊中医鍼灸院」のHPに説明が出てた
http://www.dokutoruyo.com/index.shtml
★疳積(疳証)★
さて、先ず「疳」という字について説明しましょう。
「疳」には大きく2つの意味があります。
1つは「甘」という意味で、病因である「甘いもの・味の濃いもの・脂っこ
いもの」を表し、もう1つは「乾」で、病機である「気・血・水」の消耗と、
症状である「身体に潤いが無く痩せる」ことを意味します。
5歳以下の小児にみられ、特に3歳前後に多くみられます。
症状は「痩せ」「脱毛」「食欲の異常」「冷え」「精神衰弱」「静脈が浮き
出る」・・・・・など多種多様です。
主な病因・病機は、授乳を止めるのが早すぎたり、不適切な栄養状態、長期
にわたる下痢や嘔吐、寄生虫感染、などにより脾胃が損傷を受け、消化吸収
能力が低下し、その結果 飲食物が体内で停滞を起こし、これが長引くことに
より、熱が発生し気血水が損耗してしまい五臓を栄養できなくなり、症状が
発症します。

どうも五郎太クンは生まれつき体が丈夫ではなかったようだね
236日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:23:43
今日から市博物館で始まった「尾張名古屋は地価で待つ 城下町大発掘」
結構面白かったよ。土人形の多さに驚いたよ。おいらが一番興味深かった
のは、三の丸の(将軍家)御霊屋は、増上寺と寛永寺に祀られている様に、
2箇所に分かれていた事だよ。
237日本@名無史さん:2008/09/11(木) 07:22:18

9/17(水) 22:00 - 22:45

NHK総合の「その時 歴史が動いた」で、
尾張藩主の徳川宗春が真っ向から徳川吉宗に逆らった逸話をやりまーす。

番組自体あまり期待してないけど、このスレに書き込みしている人らは、
是非見ましょう。そして少しだけ盛り上がりましょう。
238日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:51:15
逆らって財政難で失脚ではどうしようもない。
名古屋の繁栄の基礎をつくった功績はあるが、
吉宗に政策で勝たないとダメだね。
239日本@名無史さん:2008/09/18(木) 10:57:58
>>99
戦後の混乱で、徳川家が書籍を手放すことになって、名古屋市が購入したもの。
お金が必要になったんじゃないのかな?
240日本@名無史さん:2008/09/19(金) 16:02:03
吉宗の経済政策も失敗してるだろ。
綱吉の時代の政策に変更してるから。
241日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:09:07
>>233 こうしてみると尾張徳川家は急死が多いですな
242日本@名無史さん:2008/09/26(金) 10:07:41
このスレ丸ごと読んだが、時間の無駄!・・・・・・・とは全然感じなかった。続投希望。
243日本@名無史さん:2008/09/27(土) 19:07:06
綱誠‐吉通‐五郎太‐継友の四代に渡って急死だ
それにしても継友は暗殺されたとかいう説があるが、吉宗が将軍になって14年もたって殺す意味あるの?
244日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:15:25
正直吉通と五郎太の暗殺説もかなりムリがあるからなあ。
傍系相続の場合
家格はあんまり重視されないようだし
(例:兄の子の家宣をさしおいて五代将軍になった綱吉、八代将軍選定でシカトされた家宣の弟の清武)
地方統治レベルとはいえ実績は吉宗が上だし
家宣が将軍後見職に吉通を推した時、これに反対して阻止したのは新井白石なんだし。
暗殺しなくちゃいけないほど吉宗が不利だったとは思えない。
245短パンマン:2008/09/29(月) 21:45:49
名古屋はエ〜エ〜で
246日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:34:52
斉朝って名君だったの?
247日本@名無史さん:2008/10/05(日) 01:57:41
『順公小伝』では変遷期の殿様として、宗春ではなく斉朝を取り上げている。
彼の政策は養父宗睦のそれを引き継いだもので、簡単に言えば武士に優しく
領民に厳しいものだった。
彼の時代はまだ尾張独自の藩政をしていたといえるらしい。
しかし政治的に際立った行動をとるではなく、君臨すれども統治無し、という
状況だったようだ。
ちなみに尾張家で名君といえば、義直・宗睦・慶勝だろうね。
宗睦の諡が「明公」であることもそれを裏付けている。
248日本@名無史さん:2008/10/05(日) 01:58:56
斉朝の木像の写真を見たことがあるけれど、デブだね。
249日本@名無史さん:2008/10/12(日) 13:19:37
慶勝が名君なワケないだろ。
尾張視点じゃなく、ちゃんと歴史を勉強するこったあ。
250日本@名無史さん:2008/10/12(日) 14:36:27
>>249
> 慶勝が名君なワケないだろ。
> 尾張視点じゃなく、ちゃんと歴史を勉強するこったあ。

慶勝に対する毀誉褒貶は以前まとめたんで、それを参照してください。
それを踏まえて貴方は何をもって「なわけない」と断言するのか、お聞かせ願いたい。
勘違いして欲しくないが、歴史の見方考え方は一つきりではないから、「名君でない」と考えるのは理解ができる。
しかしこちらが無知無学に扱われるのは納得いかない。
故に貴方の高説をお聞きし、勉強したい。

まあ予想はつくけどね。
251日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:40:18
治休兄弟って流行病で急死したらしいけど当時何が流行ってたの?
252日本@名無史さん:2008/10/13(月) 22:43:35
>>250
あまり相手にしない方が良いですよ。
おそらくは釣り、かと。
慶勝サンは徳ヲタの標的になり易いから。
253日本@名無史さん:2008/10/16(木) 14:50:10
継友は藩主になるまで部屋済み?

254日本@名無史さん:2008/10/17(金) 06:54:41
>>252
ご忠告有難うございます。やはり徳ヲタでしたか。以後はスルーしますね。
>>253
「お控え」として部屋住みでした。結婚したのも(1718年)、1人だけの子
供が産まれたのも(1722年)、家督相続後です。
長年の部屋住みから抜け出たのがよほど嬉しかったのか、先主五郎太の死を
悼むどころか近臣とともに宴を開き、老臣から諌められています。

>>251
私の知る範囲では治休は「疫病」とのみ。治興は麻疹です。
治休の死んだ安永2年(1773)は全国的に疫病が流行し、江戸では5月まで
に19万人が死んだと『武江年表』にあります。治休は世子として、前年初
めて参勤交代をしたのですが、この年2月に参府し、6月に発病、2週間ほ
どで死去しています。
治興は安永5年(1776)没ですが、この年は20数年ぶりに麻疹が大流行し
、3月から諸国で猛威を振るい、死者を多数出しました。父の宗睦も4月に
麻疹にかかり、7月には治ったようです。治興は生まれつき体が弱く、父が
治癒してほっとしたのも束の間、同月に亡くなっています。
なお治休と同年には宗睦母英厳院(嘉代;一色氏)が、治興死去2年後の安
永7年には宗睦の正室であり治休治興の生母である好君(たかぎみ)が死ん
でいます。
255日本@名無史さん:2008/10/17(金) 07:47:25
>>254
俺が徳ヲタならおぬしは尾厨じゃのう
256日本@名無史さん:2008/10/17(金) 09:20:12
スレ的に尾厨は歓迎されるんだよ
257日本@名無史さん:2008/10/17(金) 10:19:17
麻疹で人が死ぬのww
俺は八歳で麻疹にかかつたよw
麻疹にかかるのは珍しくないけど、死ぬのは稀有ww
258日本@名無史さん:2008/10/17(金) 13:58:55
>>257
w連発でバカ丸出しageで赤っ恥、乙。
辞書でもひけよ。バカな分、人一倍努力しろ。
当時の医療水準の違いとか考えろ。


259日本@名無史さん:2008/10/17(金) 19:39:21
>>254 麻疹ですか、ありがとう
260日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:21:09
綱吉の死因も麻疹
261日本@名無史さん:2008/10/17(金) 20:36:02
現代でも麻疹は死亡するケースがあるから侮ってはイカンです。
262日本@名無史さん:2008/10/18(土) 00:52:00
249じゃないが、俺は徳ヲタだ。
で・・・徳川政権は斉昭+慶勝+一会桑によって滅ぼされたって思うな。
つまり水戸系のせいだ。
特に会桑が徳川に殉じたなんて結果論でしかない。
尊攘狂の孝明天皇に振り回されただけ。
263日本@名無史さん:2008/10/18(土) 03:16:24
>>261
せいぜい風邪程度のものだという誤解のせいで、日本は麻疹ウイルスキャリアーとして
世界的に有名になってしまっているしねぇ。
264日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:04:31
『系図纂要』の「別冊1補遺」に「没年一覧」がありました。
安永2年死没者を調べていけば、治休の「疫病」がどんなものか、もう少し
詳しくわかるかもしれません。
一橋宗尹の子鎌三郎もこの年17歳で病没しているので、もしかしたら同じ病
気かもしれません。
265日本@名無史さん:2008/10/18(土) 07:16:28
>>262
まあ解釈の違いだからな。
しかし分家は本家を守るというのは、本家が駄目な時は矯正をするということでもある。
田舎へ行くと今でもそういうのがたまにあるよ。何かと本家に干渉してくる。
まあ本家当主と分家当主たちのパワーバランスの問題だな。
本家が強いときゃいいが、本家が阿呆な時になんとか尻拭いをしたのが春嶽や月堂だ。
これもまた一つの解釈にすぎないがな。それに春嶽も月堂も地方領主として自分達の民を守らにゃあかんかったから。
266日本@名無史さん:2008/10/18(土) 13:09:34
歴史はいろんな見方がある。たしかにそうだ。
だから歴史上の人物の評価も分かれる。
で・・・
まず俺は世界の趨勢に鈍感で、当時よく言われた「国是」を誤った連中が許せないな。
孝明天皇はしょせん、御簾の中のご仁、攘夷強行にこだわる頑迷さはどうしようもあるまい。
だが、第一に斉昭:
和親条約では畿内に開港地がなかったことから、まだ寛容だった朝廷に要らざる入れ知恵をした。
これが一度や二度じゃないんだよなあ。
ブレの大きな慶喜は論外で、攘夷→開国→攘夷とめまぐるしく変節。
肝心の参与会議では、会津とつるんで越前、薩摩の開国論を封じてしまった。
忠義の容保も徳川への忠義と言うより、禁門の変前後に擁護してくれた孝明帝への忠義一筋。
桑名と一緒になって、小笠原長行の挙兵上洛を阻止してしまった。
公家なんて、力の強い側になびくのは常。
そして慶勝、第一長伐の際の及び腰、はじめから非戦論だったて、その下で闘って命を落とした
将兵への許されざる裏切りと冒涜。
中国諸藩はともかく、九州諸藩の戦意は非常に高かった。
結局、尻つぼみに終わったのも、慶勝の主導じゃない。強硬派だった西郷の勝との
密談による転身に尽きる。
青松葉じけんでも、自分の家臣を切腹させるのに、意味不明な朝命をかざす事なかれ主義。
処罰されたことよりも、主命でなかったことが彼らの遺恨になったらしい。
267日本@名無史さん:2008/10/20(月) 00:01:52
慶勝の評価は難しいです。
それは幕末の政局が複雑であることと無関係ではありません。あの時代主体
的に活動した人物は皆一筋縄ではいかない。だから慶勝に毀誉両面があるの
も無理は無いです。地元でも(大方の人は知らないのですが)必ずしも好意
的に評価されているわけではありません。

ただ勘弁して欲しいというのはあります。
その代表が血統論ですね。尾張家は御三家だから本家に従うべき、という奴。
中世的な血族集団と近世、それも近代直前の藩をいっしょくたにされてはた
まりません。慶勝そして慶喜の兄弟たちは数々の大名家に養子に行きました
が、皆それぞれの藩を背負って行動している。兄弟だからといって行動をと
もにしたり、反発したり、そういう次元ではなく。
本家に従属した分家というと、尾張家に対する四谷家(高須藩)がそれで、
経済的にも政治面でも本家に頼るところ大ですから、これは独自の活動が難
しい。将軍家に対する三卿もそうですね。だから慶喜の政治的立場というの
は、彼の個性もあるのだけれど、彼が一橋家当主であったことも大きい。
ゆえに父斉昭が存命であれば父とも対立していたでしょうね。
翻って春嶽、慶勝は地方領主であり、雄藩連合派でした。もちろん大名すべ
てが雄藩連合を支持していたとはいえませんが。
268267:2008/10/20(月) 00:28:10
次に慶勝の長州征伐における行動ですが、従来は>>266さんの仰るように、
西郷に押し切られた、あるいは惑わされたという見方が主流でした。別スレ
でも書いたのですが。例えば慶喜の「芋に酔ったか」という発言などがそう
ですね。
しかし徳川林政史研究所に残る当時の文書等の研究が進み、今では長州征伐
構想は慶勝自身も早い段階からはっきりともっていたことがわかっています。
まず彼は言を左右にして総督引き受けを延ばした。実はこの間、朝廷の動向
を探っていたのです。従兄弟で関白の二条斉敬を通じて情報を収集し、長州
処分が「御和談」、つまり武力回避の方向にまとまるように働きかけたので
すが、それがかなわないと見るや、「全権委任」を条件に総督を引き受けま
す。
西郷が勝の感化によって長州の寛大な処分を図ったというのも事実ですし、
それを総督慶勝に進言したというのも事実です。しかし一方で慶勝もそれ
以前から長州に対して寛大な処置をとろうとしていたこともまた事実です。
考えてみればこれは当然で、勝の思想的な先導者の横井小楠は春嶽のブレ
インだったこともあり、春嶽の思想に多大な影響を与えている。そして慶勝
は春嶽と同志。勝は「一大共有の海局」を掲げ、雄藩連合を支持していまし
たから、勝と慶勝が直接の面識はなくとも長州処分に対して同じ考えを抱く
のは不自然ではありません。
その下で戦い、戦死した将兵達への裏切りと冒涜ではないかと言われれば、
誤るしかありませんが。
269267:2008/10/20(月) 00:56:06
青松葉事件は今なおわからないことが多いです。
・義宜を担いだクーデタ計画はあったのか
・「朝命」はあったのか
しかし水谷盛光さんなど郷土史家の研究により、
・「ふいご党」なる組織は無かった
・クーデタ計画はなかった
ことが明らかにされています。
問題は慶勝自身がクーデタがあると信じたか、そして朝命があると信じたか、
ですね。過去の人物の心情を探るのはかなり難しいです。
ただ岩倉から「姦徒誅戳を決行し、勤皇誘引せよ」と言われたことは事実で
これを朝命と解釈したか、あるいは朝命とするに利用したのでしょう。
いったい慶勝という人は、慶喜とは異なりスタンドプレーこそ見せないが、
慎重で優柔不断かというとそればかりでなく、時に直情的で思い切った行動
をした人です。藩主就任してすぐに藩主手元入用金を年間1万8千両から2
0両(およそ千分の一!)に削減したり、開国に対して阿部老中を詰問した
り、井伊大老に対して不時登城したり。
青松葉事件でもそうで、見方を変えればこれを期に藩論を統一したとも言え
ます。
藩の衆望を担って尾張家を継いだとはいえ、反対派が決していなかったわけ
ではなく、また一時期は彼と茂徳の二頭体制があったりと、藩内も一枚岩で
はなかった。戊辰のおり藩内不和は命取りになりませんから、ぱっと粛清し
て統一してしまったともいえる。
270267:2008/10/20(月) 00:57:00
春嶽にしても慶勝にしても早い時機から自分達の立場を鮮明にはしていました。
それは雄藩連合です。
幕末になってそれまでにない(あるいはあまり問題にされなかtた)国防が
問題になってきて、従来通り幕府主導ではやっていけない、と、彼らは考えた
わけですね。尊皇攘夷とか公武合体とか色々あるけど、彼らの中で一番主だっ
たのは雄藩連合。
もちろん幕府主導で新しい体制を築くことができる、という考えもあるでしょ
うけれど、彼らはそう考えなかった。これを愚かだというのは後付の知識で判
断する傲慢でしょう。いずれにせよ新しい体制が必要だったわけで、当時者た
ちはそれを模索していたのですから。
ともかくぎりぎりまでそれでいったのだけれど、悲しいかな時代の流れが彼ら
を飛び越えて王政復古にいたり、朝幕いずれか旗印を鮮明にせざるを得なくな
った時に彼らは自藩存続と徳川家を守るために官軍についた。
というのが私の考えです。

連投長文失礼しました。
271日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:25:11
あげ
272日本@名無史さん:2009/02/14(土) 18:11:23
宗睦はどうして連枝を増やさなかったのだろう?
紀伊家は伊予西条だけしか連枝がないが将軍家が紀伊系だから問題ない。
水戸家は初めから連枝が四家もあった。
273日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:30:13
金が無かったんじゃないの。
274日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:34:25
むしろ水戸家が何であんなに連枝を増やせたのかが不思議。
275日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:27:20
水戸の連枝は最初の段階で創設されている。
宗睦の代になってからでは作らせてもらえないでしょ。
もうこの段階の幕府は義直系の親藩を増やそうとは思っていなかっただろうし。
276日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:23:33
尾張家は二代光友の子供が三家も立藩してんだから、
高須以外の2家の再興ってことでいけなかったか?
尾張家の子供の死亡率は異常に高いし、成人しても早死するし。
277日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:40:15
譜代の内藤とか井上とかに養子に行った庶子を呼び戻して、
高須に入れるわけにはいかなかったの?
278日本@名無史さん:2009/02/21(土) 15:21:28
一度養子に行ったらダメだろう。
保科正之とか越智松平清武とかダメの前例がある。
竹腰はともかく、内藤と井上は部屋住みでおいとけばよかった。
名古屋の奉行所は義人たる巾下の長兵衛さんのことも殺した
保下田の久六なんかの讒言に乗ってよっ
その仇は次郎長が知多で取ったが(久六の肉を泥となした)
280日本@名無史さん:2009/04/03(金) 14:00:58
>>278
部屋住みなら勝長、勝当といましたから、宗勝の代は。
宗睦の代でさえ養子治行は壮健、さらにその子五郎太もいましたから、宗勝の子の世代は用は無い。
また部屋住みは子供を作るのも憚りがある。
勝当が場繋ぎで(義裕娘薫の養父となり、婿義居の成長を見届けるため)四谷家を継いだのと
治行、五郎太の急死後勝長の息子勇丸が宗睦の養子となっているので、
全く無駄ではなかったですが。
問題なのは宗睦が正室との間に二人子供を作っただけで終わりにした事でしょう。
281日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:12:10
ほほー
282日本@名無史さん:2009/05/09(土) 00:42:26
>>275
水戸の連枝の高松藩は家光が頼重に与えたもんだよな確か。
家光と頼房が親密だったのが大きいな。

283日本@名無史さん:2009/05/15(金) 09:32:02
ttp://image.blog.livedoor.jp/diary0917/imgs/4/f/4f0ef7b2.jpg
やっと届きました定額給付金の申請書。他県ではすでにもらってる県民もいるのに名古屋市はいまだに申請書レベルです
東山動物園視察もいいけど市役所にも視察にきて渇いれてくださいよ河村さん(´・ω・`)
画像は市の見本。宗春てのは尾張徳川宗春です。徳川吉宗との対比でドラマでは悪役にされがちだけど実は名君なのです
ttp://blog.livedoor.jp/diary0917/archives/51191454.html
284日本@名無史さん:2009/05/15(金) 16:21:55
宗春は経済学部の知り合いがマンセーしてたな。


NHKも再評価してた。


田沼もそうだが時代に合ってなかったのかもな。
285日本@名無史さん:2009/05/15(金) 22:14:00
赤穂浪士の吉良と同じでその時代のヒーローの敵はみな悪者にされるのさ
286日本@名無史さん:2009/07/29(水) 20:06:41
当時の吉宗の評判はあまり良くなかった
287日本@名無史さん:2009/07/29(水) 21:20:05
井沢が吉宗叩いてたな
288日本@名無史さん:2009/07/29(水) 23:22:27
先代当主義宣さんは小佐野英子の弟だったんだな
初めてしった
289日本@名無史さん:2009/10/28(水) 22:03:14
age
290日本@名無史さん:2009/12/04(金) 19:48:20
徳川継友は八代将軍になれなかったことで
評判落としたけれども
藩主時代のケチンボ政治はちゃんと成果を上げているんだよな。

正直、兄貴の吉通がやたら持ち上げられるのは
「吉通だったら将軍になれたのに・・・」
「将軍になれなかった継友よりも吉通の方がえらい」
みたいな感情が働いて名君説が作られたとしか思えん。
291日本@名無史さん:2009/12/24(木) 23:37:56
継友は大過ない藩政を執ったわけだし貶められる謂れはないな
292日本@名無史さん:2009/12/26(土) 12:12:15
継友は八事興正寺の建立により少なくともうちの地元では賢君扱い。
293日本@名無史さん:2010/03/08(月) 23:32:37
継友の正室が天英院の姪なのは殆ど注目されない。
294日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:25:21
ずいぶん前の話だけど…

>>290
吉通って持ち上げられているのかな?
当時はともかく、最近は鸚鵡籠中記にある馬鹿殿ぶりが
取り上げられることも多いと思うけど。
295日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:44:31
尾張徳川家の庶子の諱名は、「義○」だったり藩主の片諱だったり一貫性がないな。
まあ前者は途中から高須松平家の専有になり、部屋住みは軒並み後者のパターンだったのかな。
296日本@名無史さん:2010/03/13(土) 11:52:42
水戸系も同じようにしていなかったかな。
297日本@名無史さん:2010/03/26(金) 18:34:35
そうなの?
298日本@名無史さん:2010/03/27(土) 01:33:10
>>295
初期の川田久保家からして、友著、友淳は当主の偏諱のようですね。
(友を通字にしたのかと思っていたけど、友著は光友、友淳は継友の
偏諱だという話が出てましたね。)
水戸も、連枝は「頼」だけど庶子は当主の偏諱を受けていたような。
途中からかもしれませんが。
299日本@名無史さん:2010/04/22(木) 12:31:11
>>294
新井白石が自著の中で
「上さまが将軍後見職に吉通を就けたいといっていますが、反対してやめさせました」と
堂々と書いているのに
なぜか家宣没後に新井白石は超優秀な吉通を支持して
それを恐れた吉宗に超優秀な吉通が暗殺されたことになっているんだぜ。

姪が尾張へ嫁いでいる天英院がなぜか紀州の吉宗を支持して
幕政改革推進派の秋元となぜかグルになって絵島事件で改革派は大ダメージ
天英院の支持で将軍になれた吉宗がなぜか大奥のリストラに手をつけるとか
この当時の政情を説明する俗説は支離滅裂。
300日本@名無史さん:2010/04/23(金) 15:48:47
これは笑える
http://bakumatu.727.net/yowa/yowa-4.htm

藩を魚に例えると、尾張 川魚、   海に出られない
301日本@名無史さん:2010/04/26(月) 11:03:54
大奥に史実との整合性を期待するな

あれにくらべりゃ
忠臣蔵なんて極めて硬派なドキュメントも同じだ
302日本@名無史さん:2010/05/02(日) 11:02:49
綱誠はあれだけ子供いたのにほとんど早死にか
303日本@名無史さん:2010/05/19(水) 11:44:30
>>293
天英院の姪が尾張藩主の奥方なのばらしちゃったら

天英院が吉宗を支持していた!
天英院が絵島事件の黒幕だった!
天英院が幕閣に影響力を持っていた!

このあたりが全部与太話だってバレるだろ
304日本@名無史さん:2010/05/19(水) 22:25:55
>>303
天英院が吉宗を推したというのは徳川実紀にある、公式見解じゃ
なかった?

近衛家との関係だと、吉宗の奥さん(理子女王)を天英院の母方の
従姉妹とする系図もあるという話らしいね。普通は母を家女房と
しているようだし、実際にはせいぜいが近衛尚嗣女の養女というこ
となんだろうけど。
305日本@名無史さん:2010/05/20(木) 09:23:37
八代将軍に吉宗を決めたのは当時の幕閣。
家臣が主君を選んだのでは体裁悪いから
先代や先々代の遺命だったことに取り繕って
発表役を天英院に頼んだだけの話。
奈良時代の昔からいつもやっているおなじみのパターン。

吉宗が天英院に恩義を抱いていたら
政権握ってから早々と大奥リストラに手をつけないでしょう。
306日本@名無史さん:2010/05/20(木) 23:51:55
リストラ対象がどこまでかで話が違うように思いますが。
天英院づきまで整理されたのか、そこは手をつけずに
他(特に月光院関係)を整理したのかで、意味合いが
全く変わりますし。
307日本@名無史さん:2010/05/21(金) 17:06:49
月光院関係なら
絵島事件ですでに整理済み。
308日本@名無史さん:2010/05/22(土) 18:01:17
絵島事件にしても
天英院も吉宗もいらないよな。
当たり前に大奥リストラ策の口実に利用されただけで。
309日本@名無史さん:2010/06/22(火) 21:24:31
徳川慶勝(笑)
310日本@名無史さん:2010/06/22(火) 22:45:30
慶勝は名君
311日本@名無史さん:2010/06/22(火) 23:58:52
権力欲がなかったからあの判断が出来たのかな
312日本@名無史さん:2010/06/23(水) 08:38:46
慶喜と不仲だったのは、実は権力欲があったからでは?
313日本@名無史さん:2010/06/23(水) 15:09:27
どちらかと言うと将軍継嗣問題の頃は、一橋派の中心メンバー。
その後一会桑と不仲になってゆくのは、松平春嶽・伊達宗城・島津久光あたりと軌を一にしている。

一橋慶喜の京都における独走を良く思わなかったし、
独走に加担した会津・桑名へは切り捨てで対処した。
314日本@名無史さん:2010/06/23(水) 16:49:09
吉通が死ななければよかった
315日本@名無史さん:2010/06/23(水) 19:04:50
新政府軍が容易に中山道、東海道を侵攻できたのは徳川慶勝のおかげなんですね(棒)
つまり会津や桑名の兄弟たちを見殺しにしたと
のんきに写真なんか撮ってんじゃねーよ!!(怒)
316勤皇の会津若松市民:2010/06/23(水) 19:10:16
徳川家の裏切り者、徳川慶勝は絶対に許さない!!絶対にだ!!!
317日本@名無史さん:2010/06/23(水) 22:24:37
会津のカス共なんて見捨てられて当然
318日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:06:15
そのまえに、岩倉具視が書いたウソの勅命で、
尾張藩の幕府派の面々を粛清してる。

基本的に、言われるがままの人だよ、慶勝は
319日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:20:58
嘘ではなくて本物だったから従ったわけですが。

それに、薩長派への参加は王政復古の時点からで、
鳥羽伏見の戦いのときは最初は後方支援、
旧幕府軍へ賊軍認定が下ると、その日から旧幕府軍と戦闘を始めました。

かなり積極的に薩長側に味方するための大義名分を渇望していた人でした。
320日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:33:05
思えば大政奉還は、尾張が幕府の影響から離れ、
旧幕府と敵対するための必須条件であり、彼の希望していたものであった。
弟達は兄の心を知らなかった。
321日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:37:27
最後は、自己保身のため金のシャチホコを新政府に差し出した
名古屋民にとっては、歴史的な逆賊。
その金シャチを名古屋城に返してくれたのは新政府だったのは皮肉。
322日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:47:19
慶喜ではなく、兄の手足として京都に在ればよかったのだ。
帝と諸侯の統べる国には慶喜という上位者は不要であった。
その程度のことが、あの2人には分からなかった。
323日本@名無史さん:2010/06/23(水) 23:49:26
容保のことですか?
324日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:03:23
旧幕府側を支持するには、徳川慶喜との不仲が致命的でした。
鳥羽伏見の段階では、慶喜を追い出すためなら薩長へ味方する意志を固めてしまっています。

会津候も桑名候も、一会桑以外の人々が一会桑を憎み排除しようとしている状況に気付くべきでした。

それにしても、最初支持していた人を次々に反慶喜へ追いやっていくのは、
徳川慶喜の人間性の問題なのでしょうか。
325日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:08:09
江戸城が無血開城するような政治状況で、
東海道、中仙道を新政府軍が通過できたのは
尾張藩のおかげっていうのは、NHKの見すぎだ。
ちなみに慶喜と慶勝の顔は瓜二つだったらしい。
まあ、いとこだしね。
326日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:39:26
>>321
だよなぁ、それさえなければ、領民を守るために無駄な戦争を回避した
名君として評価されるんだろうけど…名古屋城も取り壊そうとしてたんだっけ
もともと養子だから名古屋城には愛着がないんだろうか?
327日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:45:37
彼が名古屋城でやったことは、怪しげな勅命に従って無実の武士を虐殺したこと。
彼の忠実な部下は、その後、名古屋を追われ、北海道の八雲に行ってしまった。
328日本@名無史さん:2010/06/24(木) 00:57:19
でも、俺みたいに、勤務時間中にNHK見て、夜中に2ちゃんに書き込む人間が
こんなに多いとは思わなかった。
329日本@名無史さん:2010/06/24(木) 01:09:42
IDないから
330日本@名無史さん:2010/06/24(木) 01:16:44
>>317-322は自演というか同じ人っぽいね
もれも録画したの今さっき見たんだけど、徳川慶勝自体名前しか聞いたことなかったが、
容保公が実の弟と聞いてびっくりしたよ。兄弟で写真撮ったりしてるってことは仲はいいんだろうね
331日本@名無史さん:2010/06/24(木) 03:25:47
>>330
何の証拠もないのに決めつける会津厨
332日本@名無史さん:2010/06/24(木) 08:16:04
ちなみに318だけど、シャチホコ話も書いたのは俺だけど、
ほかは他人だぞ。
333日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:10:10
>>318
もともと尾州家は勤皇だしホントかウソかは関係なしに、いい口実にしたんだろ
334日本@名無史さん:2010/06/24(木) 17:47:16
慶喜との不仲は有名だが、
それでも大政奉還がなければ、立場上討幕には加担しなかっただろう
335日本@名無史さん:2010/06/24(木) 21:07:19
つーか、宗春以降、尾張の殿様は実質、存在してないんだが。
名古屋に来たことがない殿もいたし、拠点はだいたい江戸の屋敷。
336日本@名無史さん:2010/06/24(木) 22:13:17
しかしこのスレタイはどうにかならんものか・・・。
名家はわからんでもないが、悲劇とかマニアックとかどうなんよ。
越前松平なら、そういう形容も似合うけどさ。
337日本@名無史さん:2010/06/24(木) 22:33:07
悲劇ではないわな。
不遇ではあったかも。
338日本@名無史さん:2010/07/02(金) 16:05:36
大名家の中ではかなりメジャーな部類に入るし石高も家格も高いし何が悲劇で不遇でマニアックなのかまったくわからんw
339日本@名無史さん:2010/07/02(金) 18:50:18
御三家で唯一将軍を出せなかったり藩祖義直の血が途絶えてしまったり
結構不遇だろ。
340日本@名無史さん:2010/07/02(金) 21:28:18
事実上の幕府直轄だったからね。
幕府側からみれば、全部、宗春が悪い。
341日本@名無史さん:2010/07/02(金) 22:42:44
宗春に法人税を制定する先見性があったなら、
消費喚起と符合して健全な財政と経済発展が実現され、

吉宗に、財政危機を理由にした弾圧を食らうこともなかっただろうに
342日本@名無史さん:2010/07/03(土) 00:34:17
いくら米を増産しても貧しくなるばかり

朱子学の徒が貴穀賤金、商は詐なりといったところで世の中どうにもならない
343日本@名無史さん:2010/07/03(土) 13:16:57
紀州も宗直系が断絶して吉宗系に乗っ取られたよね
しかも今は没落している。
尾張徳川は財団や資産管理会社を持ち本家よりも裕福。
344日本@名無史さん:2010/07/03(土) 14:14:09
いまの殿はIT会社社長だったよな
345日本@名無史さん:2010/07/03(土) 17:25:12
>>344
JUNET協会作ったり、かつてのBSD/OSでガシガシコード書いたりとか、
UNIX系技術者の草分け的存在ではあるけど、IT会社社長はやってなかったような。

今は尾張徳川系財団・会社の社長・会長業が本職では?
346日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:27:23
50年の長きに渡り藩政を牛耳ったと言われる大殿こと斉朝公はホモだったが名君だったの?
347日本@名無史さん:2010/07/03(土) 21:09:41
斉朝に実権なんて無かったろう。
成瀬とかの方が力はあったかと
348日本@名無史さん:2010/07/04(日) 20:01:23
>>345
>JUNET協会作ったり、かつてのBSD/OSでガシガシコード書いたりとか、
>UNIX系技術者の草分け的存在ではあるけど、IT会社社長はやってなかったような。
殿凄いじゃん
さすが鍋島閑叟の玄孫
349日本@名無史さん
尾張徳川家現当主は名古屋城本丸御殿着工イベントの
餅まきで見かけたけど結構大柄だったな。
幕末のお殿様方の写真を見ると当時の殿様は
もやしっ子だからびっくり