邪馬台国

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2ふと聞こえてきた君の歌 実はサガミハラハラ:2007/07/14(土) 19:49:25
魏志倭人伝の邪馬台国の都は佐賀県小城市小城町三日月町甘木(JR小城駅周辺)
です。卑弥呼の墓は小城公園の桜ヶ岡です。
これで確定です。
3日本@名無史さん:2007/07/15(日) 09:21:40
>>2
その根拠は? どんな遺跡なのか知りたい。
福岡県甘木なら聞いたことがあるのだが。
4日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:33:08
あまり、読んでもらえてないようなので悲しい。
ここにぺたぺた張っていきます。
5日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:35:07
三国志は陳寿(ちんじゅ,233〜297)が記したものですが、倭国に陳寿が直接きてその紀行文を書いたわけではありません。
倭国に2度送られた魏の使い、梯儁(ていしゅん)と張政の報告書、および漢書や魏略などといった歴史書、またはそれらの資料を元に書いています。
これらを纏めて1つの文章にしたわけで、当然そこには陳寿がどういう解釈でその文章を書いていったのか、というところが問題になります。
過去多くの読み方がされてきましたが、それらは陳寿がどういう解釈をしたのかという部分を考慮せずに、書かれた文章が正しいとか間違えているとか言われてきました。
しかし、そもそも陳寿の解釈が間違えている可能性が多いにありえます。
いわばこの陳寿の勘違いに振り回されてきたのです。
6日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:35:47
三国志に書かれている行程がどのようなものなのかを見ていきましょう。
できれば、どのような行程になるのかイメージしてみてください。
特に日本上陸後は方向と距離が書かれていますから、そう難しくはないと思います。

0、出発点「郡」は今の韓国ソールあたり
1、郡から海岸づたいに南→東と7000余里で、狗邪韓國
2、海にでて1000余里で、對馬國
3、南に海を渡って1000余里で、一大國
(この次から日本上陸)
4、海を渡って1000余里で、末盧國
5、東南に陸行500里で、伊都國
6、東南に100里で、奴國
7、東に100里で、不彌國
8、南に水行20日で、投馬國
9、南に、水行10日陸行1月で(?)、邪馬壹國
(南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月)

どうでしょう、邪馬台国までの道のりはイメージできましたか?
さて、簡単に3までの比定をしていきましょう。
1の狗邪韓國は朝鮮半島の南端です。
2の對馬國は対馬。
3の一大國は壱岐。
ここまでは間違いないでしょう。
7日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:36:27
末盧國

末盧國は壱岐から一番ちかい東松浦半島でしょう。
次の伊都國の東南500里を考慮して呼子としている人も多くみられますが、私は松浦川流域の唐津市あたりだっただろうと考えています。
末盧國比定の理由はここではまだ詳細に書きません、すみませんがもう少しまってください。
8日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:38:14
伊都國

比定地は前原市(まえはるし)あたり。
当時は海進が進んで(頭痛が痛いみたいな表現ですねw)今の糸島半島は半島ではなく島だったのは興味深いです。前原市あたりが糸島の対岸の海に面した場所であり、当時の遺跡などからも、伊都國がここと比定して間違えないでしょう。

伊都國は1000戸程度の小国(次の奴國が30000戸、邪馬台国70000戸と比べて)にも関わらず、王がいることや郡の使いが常に駐る所であること、一大率という北部の国を治めるような人がいる国、とされています。

しかしこれはどう考えても不自然です。ようやく勘違いその1が出てきました。
これは金印で有名な倭奴國を、陳寿が伊都國と同じ国であろうしたのが原因でしょう。
倭奴國の名は、現存する資料では後に書かれた後漢書にでてきますが、陳寿も同様の資料を持ち、国名などを知っていたと考えられます。
邪馬台国の200年も前の建武中元二年(57年)に、金印をさずかった倭奴國です、陳寿はこれを無視することができません。
そのため新しく手に入った報告書の中に、昔から知られていた倭奴國を探す必要がありました。
それが伊都國です。
王がいる、とわざわざ書いたのは、この昔金印を授かった王がいた国が伊都國である、と陳寿はいっているのでしょう。
使いが駐る所や一大率も伊都國ではないでしょう、上にも書きましたが伊都國は1000戸程度の小国です。
むしろ次の奴國こそ、使いが駐る所、一大率のいる所にふさわしい国なのです。

そしてもう1つ伊都國をそのような重要な国と勘違いした理由があったと私は考えています。それはもう少し後に書かせてもらいます。
9日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:43:54
奴國

20000余戸の大国。
北九州を統べる一大率がおり、使いが駐まる迎賓館である後の鴻臚館(こうろかん)があるところ。
那津、那の川流域、今の福岡平野に栄えたこの大国は邪馬台国連合のなかでもナンバー2の地位をもっていたことでしょう。
面白いのは、魏が帯方郡に置いた太守を、皇帝との間に入れて朝貢などのやりとりをしているのを、倭国も猿真似をして一大率なる役職をつくり同様に女王との間にいれてやりとりをしているところでしょう。
倭国が精一杯の背伸びをしているのが悲しくなるほどよくわかります。陳寿も苦笑していたかもしれません。
しかしそのようなことは1つも書かず、倭国にもそのようなシステムがあると、さらっと書いてるところが陳寿の誠実なところだと感じます。
10日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:44:37
不彌國

奴國を福岡平野に比定している人の間でさえ、不彌國の比定地は分かれます。
理由は、奴國から東に100里で不彌國、そしてそのすぐ南に邪馬台国、と考えているからです。
70000戸の大国である邪馬台国、その北に隣接する1000余戸の小国、不彌國。
奴國から東に100里いくかわりに南東に100里いけば邪馬台国。
なぜ不彌國の記述があるのでしょうか?
たまたま行ったから? 報告書に書いてあるから?
不彌國がないがしろにされてきたのは、やはり陳寿の勘違いが原因です。
ですがここでは触れないでおきます。

ところで不彌國の比定地ですが、私は今の宇美町、須恵町あたりだっただろうと思います。が、この比定地はそれほど重要ではありません。
11日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:48:53
投馬國

>南至投馬國水行二十日

いきなり水行です。しかも南に。距離はなし、代わりに20日。
奴國を福岡平野と比定しました、東に100里の不彌國も内陸です。
かりに不彌國が海岸つたいの国であったとしても、南は内陸です。
行く方向は南でも最初は北に或いは西か東に船出するのでしょうか。
しかも20日、20日あったらどこまで行けるのでしょう。
鹿児島でしょうか、九州を越えて海の中でしょうか。
12日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:54:52
邪馬壹國

>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

南にようやく邪馬壹國です。
しかしどこの南でしょう? 投馬國でしょうか? 不彌國でしょうか?
ここも距離は書かれていません、代わりに水行10日陸行1月です。

陳寿はどう考えていたのでしょう、混乱していたのでしょうか?邪馬壹國ははるか彼方にある国なのでしょうか。

南いたる邪馬壹國、女王のいる都 (全行程)水行10日、陸行1月
とも読めます。これは後に書かれている一文

>自郡至女王國萬二千餘里
郡から女王国に至るまで12000余里

と合わせて考えると、全行程のことと捉えるのが妥当な気がします。
では「水行十日陸行一月」は蛇足だったのでしょうか。そして投馬國は何だったのでしょう?

多くの謎を残し、邪馬壹國に至りました。しかしここは何処でしょう?
福岡平野の南でしょうか?南の海のなかの投馬國のさらに南の彼方でしょうか?南ではなく東なのでしょうか?

何かがおかしいです。
陳寿はどのような解釈でこれらを書いたのでしょうか?
陳寿が間違えたのは距離でしょうか?方角でしょうか?あるいは両方でしょうか?

何かがおかしいです。
もう一度、日本上陸のところから考え直してみることにしましょう。
13日本@名無史さん:2007/07/17(火) 00:03:53
邪馬台国が佐賀にあったら、
おれはがっかりだよ正直
14日本@名無史さん:2007/07/17(火) 00:15:00
つづきは明日かな
15コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/17(火) 08:12:44
邪馬台国について連載されているかた、私みたいにデタラメでいいですからハンドルネームをつけるのがよろしいでしょう。
16日本@名無史さん:2007/07/17(火) 11:51:46
投馬國は北九州戸畑
邪馬台国は九州北部連合国家でキメ
17日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:11:34
>>11
魏の一行は東へ向かって逝ってるんだから、南へと言う事は遠賀川に
入ったと考えるのが自然では?「南至」は、途中から遠賀川に入るので
方向を南としたのでは?遠賀川を少し遡上したあたりが投馬国。
さらに南に水行(遠賀川を遡上)し、飯塚あたりで上陸。
その後、陸路甘木へむかったのでは?
これならば、「南へ水行20日で投馬国、南へ水行10日陸行20日で邪馬台国」
で矛盾しないと思います。

なお、神武天皇が畿内に向かう際、関門海峡をわざわざ一度東へ向かい、
遠賀川河口付近に至っています。遠賀川は当時、邪馬台国の玄関口だった
のではないでしょうか?
18日本@名無史さん:2007/07/18(水) 00:06:55
自分は筑豊出身だけど
遠賀川流域に広がっていた国々は邪馬台連合とは違う文化圏だったと思うよ
邪馬台連合は肥後、肥前、筑後を中心とした地域に広がっていたのではないかと推測する
書記に出てくる「熊鰐」は嘉麻盆地を支配下においていた王=嘉麻大王だろう
投馬国については水行しか書かれてないところからも島だっただろう
北部九州沿岸から見て南にあり、一国を形づくる島といえばひとつしかないように思う
19日本@名無史さん:2007/07/18(水) 00:26:45
邪馬台国は九州北部、大分の宇佐の地。
全国四万四千社、八幡宮の総本社である宇佐神宮は
だてに総本社を名乗ってない
九州のこんなとこに八幡神社の総本社がある理由を・・・
20黒田十四世:2007/07/18(水) 13:01:13
てst
21日本@名無史さん:2007/07/18(水) 13:45:42
狗奴国との戦争に敗れた邪馬台国の末裔が駅館川をさかのぼって宇佐の地に来たのでは
朝鮮から侵入してきたと思われる神功皇后たちの一団はこの宇佐にひっそりと存続していた邪馬台の末裔と
姻戚関係を結んだうえで東進を開始したものと思う、神夏磯姫の記事から類推したものだが
おそらく宇佐神宮の境内を掘れば石棺が出てくるだろう、悲劇の女王の石棺が、金印は失われているかもしれぬが
22日本@名無史さん:2007/07/18(水) 19:17:55
>>19
宇佐は卑弥呼じゃなくて、トヨでしょ?「宗女トヨ」
23日本@名無史さん:2007/07/19(木) 08:05:34
豊の国のトヨは邪馬台国の女王トヨからきたとの説が有名ではあるが、どうもこの語呂合わせはね。
語呂合わせにも程度があるのでは?学問としては。
シロウトさんが空想して楽しむのならそれでいいが。
24日本@名無史さん:2007/07/19(木) 12:17:30
>>23
おいおい、てめえは専門家気取りなのか?シロウトくん。www
馬鹿じゃねーの?
25日本@名無史さん:2007/07/19(木) 14:54:15
傍国のひとつである呼邑国は自分の住む宮崎県児湯郡ではないのかと思っています
邪馬台国は宇佐とどこかでつながってはいるんでしょうね
26日本@名無史さん :2007/07/19(木) 16:36:19
>>24
必ず、こういう風に自分を高く置いて、人を見下すような
記述をするやからが出没する。
自分は何様のつもりかしらないが、シロートながらも真面目
に書いている人に対して失礼だとは思わないのかね?
27日本@名無史さん:2007/07/19(木) 18:38:28
>>26
>>23
人を見下してるのはてめーだろが。シロウト君。w
失礼だと思うなら、2度と来るな。このゴキブリ。
2823:2007/07/19(木) 21:20:56
>>26は私ではありません。
29日本@名無史さん:2007/07/19(木) 22:52:49
>>23
>>26
苦し紛れに、見苦しい嘘はやめよ。
二度とくるな。
30日本@名無史さん:2007/07/20(金) 06:57:23
末盧國は日本本土の上陸地点です。実はここに、多くの人を悩ませる謎があります。
末盧國以降の行程は陸行になるのですが、末盧國で船を降りる理由がはっきりしないのです。

出発地点の郡から朝鮮半島の海岸沿いを7000余里も船で移動しています。
末盧國以降の1000里に満たない距離を、船を使わず陸行するというのは、次に訪れる国が海岸沿いであるのなら考えにくい行動です。
一部の人は、それは倭国が中華帝国の庇護の下にはいったことを民衆に知らしめるためにわざわざ陸をあるいた、と主張しています。しかし次の(非常に重要な)一文がそれを否定します。

>草木茂盛行不見前人
草木盛んに茂り前の人が見えず

前の人が見えない様なのに、人々に知らしめる為もないのです。
人々に知らしめる為なら、国から国へ船ですばやく移動し、長くあるいは多くの人に知らしめるべきなのです。

何故わざわざ陸行したのか?
ここから導き出される結論は、次の国は海岸沿いの国ではなく内陸の国である、ということです。


私が末盧國を、今の松浦川流域、唐津市に比定したのは、このような理由です。
つまり唐津市から、松浦川に沿って南東へ内陸方向に進んでいったのです。
そしてこの道は、今でも唐津街道という名で、唐津市(そしてその先の中華帝国)と佐賀市を結んでいる重要な道路でなのす。

張政は急いでいました。そのために邪馬台国へ最も近いルートを通ることになったのです。
31日本@名無史さん:2007/07/20(金) 06:58:35
ここでいう伊都國2とは、梯儁(ていしゅん)の報告書にあっただろう伊都國、今の前原市(まえはるし)辺りに比定される伊都國とは別の、張政の報告書に書かれていたであろう、末盧國から南東500里で到る国のことです。

末盧國から松浦川沿いを南東に上っていき多久市そして小城市に到る道です。
現在の唐津街道の片端に位置する伊都國2は、おそらく関所的な役割も担っていたのでしょう。
このことは、陳寿に伊都國=倭奴國と勘違いさせるに十分なことでした。
関所として荷の検閲などをすることが、“常にが駐る所”や“一大率がいる国”といった勘違いをもたらしたのです。
これが以前に伊都國のところで書いた、勘違いをしたもう1つの理由です。

実際に迎賓館や一大率(こちらは背伸びかもしれませんが)は、福岡平野にある奴國にあったのでしょう。前原市の伊都國や関所の伊都國2ではなかったはずです。
32日本@名無史さん:2007/07/20(金) 06:59:18
奴國2

伊都國2から南東に100里、奴國2に到ります。
丁度現在の佐賀市あたりでしょう。福岡平原の奴國に負けず劣らずの大国です。

ここでちょっと重要なのが
末盧國〜伊都國2の500里と伊都國2〜奴國2の100里の、1里の違いです。

末盧國〜伊都國2の500里は

>草木茂盛行不見前人
草木盛んに茂り前の人が見えず

なのです、しかも山越えです。
伊都國2〜奴國2の100里は往来しやすい道であったと考えられます、しかも平地です。
里という単位は、絶対的な距離ではなく時間的な距離をあらわす単位系です。○○里で、あとどれくらいの時間歩けば着くかが分かるような単位なのです。つまり歩きづらいところの100里は短く、歩きやすい100里は長い距離になるのです。

その為、末盧國〜伊都國2の500里と伊都國2〜奴國2の100里を比べたても、絶対的距離が5倍ということではないことに注意してください。
33日本@名無史さん:2007/07/20(金) 06:59:57
不彌國2

奴國2から東へ100里、不彌國2です。
邪馬壹國の北にあり1000戸余りの、とるにたらない小国。よらずに直接、邪馬壹國にいけば良いような、この蛇足的な国がわざわざ記されているのは何故でしょう?
答えは1つ、軍事的に重要な国だったから、です。

張政が奴國2に着いたときどのような状況だったのかはわかりません。
奴國2から邪馬壹國に直接いかず一度不彌國2に行ったのは、不彌國2が軍事的に重要だった為だけなのか、不彌國2が邪馬壹國に近い為なのか、邪馬壹國はすでに相手国に侵略されていた為なのか、わかりません。
わかることは次の1文です。

>卑彌呼以死
卑彌呼はすでに死んでいたのです。

それはともかく、不彌國2とはどこなのでしょう。
小国でありながら軍事拠点となりえる国、そう私はこの不彌國2こそ吉野ヶ里だと思っています。
34日本@名無史さん:2007/07/20(金) 07:03:09
投馬國2 その1

別に2にする必要はないのですが、便箋的に投馬國2とします。
投馬國の記述は以下の文のみです。

>南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至る投馬國、水行20日。官は彌彌、副は彌彌那利。5万余戸。

これを正しく読むには次に続く文が必要なのです。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

例の“水行10日陸行1月”です。


それはさておき、まず投馬國とは何かのか、というと「南に20日行ったところにある1つの国」です。
“20日”ということから、これは魏の使いが行ったのではなく伝聞情報であることが解ります。
どこから南へ20日なのかはよくわかりません、不彌國2なのか邪馬台国なのか奴國2なのか、はっきりしません。
わかるのは邪馬台国連合の人が、南に20日のところの国もわが国の一部だ、と言っていたことです。

おそらく邪馬台国連合の人は、自国が魏に朝貢しているように、南に20日のところの国が自国に朝貢しているのだ、と主張したのでしょう。
このあまりにも背伸びしすぎた主張は聞き入れなかったのでしょうが、それでもこの国を邪馬台国連合の1つと思わせてしまったようです。
35日本@名無史さん:2007/07/20(金) 08:20:38
投馬國2 その2

陳寿は迷います。起点のはっきりしない南に20日というところの国、しかしながら官名などはわかっている国をどうすべきなのかと。
そして邪馬壹國の1つ前にこの国の記述を入れてしまったのです。

誠実な陳寿にとって、水行二十日は不確かな情報です。だからこれを補うのが件の水行十日陸行一月なのです。
つまり投馬國を除いて、郡から邪馬台国までが水行10日陸行1月であり、これから投馬國までの水行20日を推定できるのではないでしょうか?という陳寿の記述なのです。

投馬國とは邪馬台国連合と交流のあった国、私は琉球(沖縄)が投馬國だと考えています。

琉球は当時すでに中華帝国に知られている存在でした。しかし琉球語は唯一日本語と関連を持つ言語であり、中華帝国より日本(倭国)との関係がより親密だったことが伺えます。ゆえに当時の倭国にその存在の記述があることはそれほど不自然なこととは思いません。
またより南方の国の情報(裸国黒歯国)は、この投馬國(琉球)からの伝聞情報だったのではないかとも私は考えています。


これで水行20日の投馬國と、水行10日陸行1月という記述がなぜ記されているのか、という2つの謎が一気にとけました。


# 50000余戸は琉球にとっては多すぎる人口なのだが、伝聞情報として割り引くべきか?
現在沖縄人口は150万人、江戸末期には15万人程度。
1戸8人で40万になる、1戸3人か、戸と人の間違いとも取れる。
そもそも伝聞情報としての不確かさや、倭人がわざと大きくいっている可能性も否定できないか。
36日本@名無史さん:2007/07/20(金) 08:21:58
邪馬壹國

不彌國2こと吉野ヶ里の南、筑後川の流れる筑紫平野、こここそが70000余戸の大国、邪馬台国です。

たどり着けば、すごく真っ当な比定地であることがわかります。
当時は福岡平野より筑紫平野のほうが人口が多かったことが知られています。
これは福岡平野の奴國20000余戸より筑紫平野の邪馬壹國70000余戸のほうが多いことと一致します。
また絹の記述が当時九州にしかこれが存在しなかったことと一致します。
記述されている植物が、関西のそれではなく九州のものと考えられることとも一致します。
郡から女王國まで120000余里という記述も、九州内に邪馬台国があることを示しています。

そして今回、なぜ末盧國から水行ではなく陸行になるのか。
小国の伊都國が大権力の国とされているのはなぜか。
奴國から南東に邪馬壹國に行かずに、なぜ小国の不彌國によったのか。
というところが納得できるかたちで解消したのではないでしょうか。

そして今まで、方位が90度間違えているとか、45度ずれているとか、距離が間違えているとか、いろいろ言われてきましたが、
まったく間違えていないと解釈してごく自然に筑紫平野=邪馬台国にたどり着けることが解ったのではないでしょうか。

私は陳寿が、そして倭国の報告書を記述した人が、非常に誠実にかつ正しい記述を後世に残していたのだと確信しています。
福岡平野の奴國やその近隣の国の記述。
邪馬台国までの行程。
そのどれもが、現在知られている当時の状況と矛盾することなく三国志に記されています。
そしてこの三国志を記した陳寿がいかに誠実であったか、本当に頭の下がる思いです。
37日本@名無史さん:2007/07/20(金) 08:22:40
比定地まとめ

すこし分かりづらいかと思い、比定地をまとめてみました。
A〜D國は行程沿いの”〜國2”と書いていた国のことです。

末盧國      唐津市、松浦川流域
伊都國      前原市あたり
奴國       福岡平野、那の川流域
不彌國      宇美町、須恵町あたりか?

A國(末盧國2) 末盧國
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり
C國(奴國2)  佐賀市あたり
D國(不彌國2) 吉野ヶ里

投馬國      琉球(沖縄)

邪馬壹國     筑紫平野、筑後川流域
38日本@名無史さん:2007/07/20(金) 08:38:34
>>15
すみません、そのまま書いてしまいました。

>>19
宇佐は興味深いですが、八幡は渡来系ですし
広まったのは時の権力に便乗してるような部分が大きいので、
邪馬台国との関係は疑問に思っています。
遠いからと名前だけのっている国の1つの可能性はありますが。

>>25
呼邑国についてはあまり考えたことはありませんが、
呼はhoで、h音が当時日本になかったことを考えると
児湯郡と考えるのは難しいように思えます。


皆さんへ
私説の、ここが弱いとか、こう考えるほうが自然ではと
いうところがあれば教えてください。
39日本@名無史さん:2007/07/20(金) 14:16:43
>>37

末盧國      唐津市、松浦川流域
伊都國      小城市あたり
奴國       佐賀市あたり
不彌國      神崎市あたり
投馬國      筑後川西岸地域(有明海から帶方郡まで水行二十日)
邪馬壹國     筑後川東岸地域(有明海から狗邪韓國水行十日、狗邪韓國から帶方郡陸行一月)

女王國      半島南端から九州北部までの地域(使譯所通三十國 狗邪韓國から奴國まで)
狗奴國      菊池川流域と熊本平野(女王国に含まれない倭人の国)
40日本@名無史さん:2007/07/20(金) 22:51:48
邪馬台国が筑後、肥後のあたりにあったというのは自然に出てくる考えだが
自分は「女王国東渡海復有国」が気になる
邪馬台の東には海がなくてはならないのでは?ならば有明海西岸が浮上してくる
そもそもなぜ邪馬台が周辺国を従えるのに熱心だったか
自国がそれほど裕福でなく、新興勢力だったからでは
江南あたりから渡来した部族がその航海術を使って一気に有明海沿岸を制圧したのが邪馬台連合のようにも感ずる
41日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:16:41

「女王国東渡海復有国」

女王國  倭人の使譯所通三十國(半島南端部から九州島北部20%の地域、除狗奴國)
東渡海  響灘・関門海峡・周防灘を東に渡る
復有国  長門・周防の地域、伊予は?


江南あたりから渡来した部族が島原湾東沿岸を制圧したのが狗奴國であるとも考えられる。
邪馬壹國狗奴國戦争は魏呉代理戦争説。
42日本@名無史さん:2007/07/21(土) 10:01:17
>>38
3世紀の紀年鏡をどう考えるか。
43日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:23:53
>>42
もう鏡の話はいいよ。このスレでやるな。
太国が「2倍念力」のスレでガンガッてるように、
藻前も「記念狂」のスレたてて、そこで自作自演してろ。
44日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:55:51
>>39の修正

狗奴國        菊池川流域と熊本平野(女王国に含まれない倭人の国)
↓                    ↓
狗奴國(連合)  菊池川流域、白川流域と緑川流域(女王国に含まれない倭人の国)
45日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:34:31
>>40
周辺諸国の情報は解釈が難しいですね。

>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里

素直に読めば、東にある倭人の國とその南にある侏儒國は、3000里以上も離れていることになります。
ここは1つ引っかかる部分ですね、陳寿が何か勘違いしてるのではないかと・・。
これは私の妄想ですが(全部妄想だといわれそうですがw)
もともとは奴國から東に1000里の國である、現下関あたりの出雲配下の国と、
その南方にある侏儒國は九州東岸の大分か宮崎の沿岸の国であり、
これらが日程ではなく里程でかかれているのは、魏使が実際にいったのではなく
その伝聞情報を得たソースの国を治める者が渡来系であったため

というのは、かなり苦しい解釈ですかねw


>>41
東の国に対しては上の通り
ただし女王国=邪馬台国連合ととるには、他の女王国の使われ方からしてかなり苦しいと思います。
また、狗奴國と呉との関係が書かれているところはあるのでしょうか?

>>42
紀年鏡には疎いですが、
三角縁神獣鏡のことでしたら、これは私の妄想のなかではヤマト政権の捏造鏡ですので
−そうでなくとも国内鏡ですから−邪馬台国の魏からもらったそれとは全くべつの、
なんら証拠にならないものでしょう。
その他の鏡についていえば、少なくとも卑弥呼が使いを送ったことで漢という国が
滅びたことを知りえたと考えれば、漢の鏡が古墳に一緒に埋葬されるようになったのは
この後から多くなっているのかもしれない、とか素人考えですが、どうなのでしょうね。
少しずれますが”漢字”という表現が、なぜ”晋字”や”隋字”や”唐字”ではなく”漢”字なのか、と疑問に思っています。
4641:2007/07/21(土) 23:59:42
>>45
>狗奴國と呉との関係が書かれているところはあるのでしょうか?

「邪馬壹國狗奴國戦争は魏呉代理戦争説」は、
呉と手を組んだ公孫氏が滅亡しているのに、
張政等の軍事顧問団が何故倭へ長期派遣されていたのかの答。
47コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/22(日) 16:53:50
伊都国について、伊都をイトと読み、糸島のイト郡に当てる方がいらっしゃいますが、
都の読みについて、岩波版日本書紀応神紀の没頭に次のようにある。
釈紀十三所引上宮記に凡牟都和希王(都は中国の上古音ではタにあたる音の文字。
推古天皇時代の万葉仮名は止(ト)、州(ツ)、義(ガ)など中国の上古音によるものがかなりあるから、この場合もホムタと訓むものであったかもしれない)。
とある。伊都国はイタコクとよむのが正しいのである。
となるとイトの名をもって伊都国を前原市のあるイト郡にあてるのはおかしいのである。
48日本@名無史さん:2007/07/22(日) 20:24:39
おかしくねーよ。
それより、相模原腹さん。今日はうんこ出ましたか?
49コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/22(日) 20:49:40
まあ、イタが訛ってイトとなったとおっしゃるのでしょう。
ところで前原あたりがイト(郡)となった事情ご存知ですか?
50日本@名無史さん:2007/07/22(日) 22:08:08
>>45
漢字  漢の字。漢から伝わった字。漢で使っている字。

この漢は、前漢? 後漢?
後漢と考えるのが順当だな。
51日本@名無史さん:2007/07/23(月) 02:43:18
>>46
>呉と手を組んだ公孫氏
というところの認識からして間違えているというか、単純すぎるというか、
もうすこし呉と公孫氏の関係を正しく理解されたほうが良いのではと
思えてしまう文章ですよ。

そして、そのことと張政等の派遣期間とになんらかの関係があるというのは、
というか狗奴國と呉とに関係があるとは言えませんよ。

>>47
止(ト)もあるなら
>となるとイトの名をもって伊都国を前原市のあるイト郡にあてるのはおかしいのである
という結論にはならないですね。

末盧國、伊都國、奴國を松浦、糸島、那津に比定する3点セットはかなり強力ですし、
伊都国を前原市とするのもこれに含まれるところですね。
ちがう言い方をするなら伊都國を前原市以外に比定するなら、
奴國も那津福岡平野以外で、非常に説得力のある比定地を提唱する必要があるでしょう。

私はこの3点セットの比定地以外の説で、まともな邪馬台国比定地の説を見たことはないです。

そして道程記事がこの奴國までのものという間違い(陳寿の間違いでもありますが)
にずっとひっかかっていたのではないかというところが私説のポイントです。

>>50
”漢から伝わった字”なのはそうですが、後漢は卑弥呼の時代にすでに滅んでますし、
日本に”漢字”が一般(というか上層だけでしょうが)に広まったのはもっと後のこと
だと思うのですが、それでも”漢”国の字という呼称がずっと残っていたのでしょうかね?

そもそも中国語でも長らく漢字という表現をしてたのでしょうかね?(知識不足)
52震えだしたのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/23(月) 10:13:45
>>51私はこの3点セットの比定地以外の説で、まともな邪馬台国比定地の説をみたことはないです。

1991年に邪馬台国の都の南端に到達し、よく1992年の正月には卑弥呼の墓を発見しました。
これらを一冊の本にまとめて「倭国歴訪」として1999年に発行しました。
この本は共同出版というなの自費出版でした。本屋の店頭にほとんど並ぶことはなく300部しか売れませんでした。
問題はいかにして皆さんによんでもらえるかの一言につきると思います。
見たこともなければ、3点セット以外に見たことがないといわれるのは当然です。
スレに小城小城とかいても詳細がわからなければ、やはり相手にもされません。
となると、いかに本を売るか(図書館も含めて)ということになるかとおもっております。
なにかいい案はございませんでしょうか?
8月ごろ再び小城説の本を出版する予定です。
53日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:17:24
奴国  :那珂川流域。約2万戸
投馬国 :遠賀川流域。約5万戸
邪馬台国:筑後川流域。約7万戸
で桶?
54日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:31:50
GoogleEarth見た面積比だと
福岡平野 2万戸
筑後平野 5万戸
熊本平野 7万戸
が妥当のように見える
邪馬台国連合=福岡平野+筑後平野の説もあったかも

で、重要なことが一つ、少なくとも九州では筑後平野、
熊本平野と同等、またはそれを上回る
平野は九州にはもうない。ということは、
投馬国はそのどちらかであることは間違いない
数字がでたらめだという説の場合を除く
55日本@名無史さん:2007/07/24(火) 05:44:27
>>52
少し調べてみましたが説得力のない説です。突っ込みどころ満載です。
詳細はわからないですが、概要だけで私の言う「まともな邪馬台国比定地」では
ない説だと思えます。

http://www.asahi-net.or.jp/~XK4N-ICKW/EducationD/grid_6_03.htm
ここにある T.Nishimura氏の「邪馬台国論争」の文章のほうが、はるかに説得力があります。

>>53
>投馬国 :遠賀川流域。約5万戸
というのは私以外の人が書いたことです。私説では投馬国を琉球としています。
>>37 です)

>>54
水行20日の投馬国を九州内に求めるほうが無理があるように思えませんか?

それは置いておくとして、7万戸の邪馬台国と、これに敵対する南の狗奴國も九州内に
あったと考えられる訳ですから、「投馬国を筑後平野か熊本平野のどちらかで
あることは間違いない」という考えが間違いである可能性のほうが高そうですよ。

あと宮崎や大分にも、少なからず人がいたことが考古学的資料から分かってきているはずです。
どのくらいの人口がいたと推定されているのかは忘れましたが。
投馬国を九州内に考えるのでしたら、これらの可能性を端から排除すべきではないのでは?

閑話 漢委奴國王 印
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
「漢」と「國王」はいいとして、中の2文字は本当に「委奴」なのでしょうかね?w
56振るえ出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 07:02:50
戸数のことであるが、稲作面積をもって論じてすぎていませんか?
当時はまだ畑作もかなりの人口の維持を果たしていたのではないでしょうか?
そう考えると、宮崎県にはかなりの平野がありますよ。
57振るえ出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 09:47:06
>>55
委奴で間違いありません。
58振るえ出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 10:10:34
現在の邪馬台国論争は新井白石から始まり内藤虎次郎氏、白鳥庫吉氏にいたる
彼らの論法から一歩も抜けだすことなく全く踏襲をしているといってよい。
その結果、両氏の論法のごとく自説に都合のよいように改変し、決して其の枠からふみだして新しい境地論理を開拓しようとしていないようである。
両氏の説を金科玉条のごとく信奉しているのであるから、他説を説得力のない(つまり両氏の論法でないということ)説としてかたづけてしまうことになる。
つっこみどころ満載というなら、その箇所をあげていただきたい。一つ一つご説明いたしましょう。
59日本@名無史さん:2007/07/24(火) 11:19:14
前提条件

記述はある程度正しい
末羅国、伊都国、奴国は現比定地とする
全て九州内と仮定する

もちろん、前提が崩れれば以下の内容は無意味になります。

この前提条件からなら、
奴国 2万戸
投馬国 5万戸
邪馬台国 7万戸
狗名国 邪馬台国と勝つくらいの大国

が存在することになりますね。
奴国が福岡ならば、
その周辺の筑豊、筑後、ちょっと離れて熊本
かなり離れて大分、中津
うんと離れて、宮崎、鹿児島
各平野が候補地となります。
宮崎は古墳も多く、5万戸くらいは確保できそうな平野です。
面積は重要な要素ですし、宮崎を否定する立場ではありません。

>当時はまだ畑作もかなりの人口の維持を果たしていたのではないでしょうか?
これはそのとおりでしょうね。そもそも米だけ食えるようになったのはかなり最近の話です

個人的には、筑後平野が、基山−高良大社−筑後川で分かれて、甘木朝倉、
久留米八女、佐賀吉野ヶ里が初期段階では別の国ではないかという考えを、検証しています

60振るえ出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 11:34:47
そもそも最初の前提が間違っております。
末ロ国が唐津(西唐津八幡町現川浪商会)です。
問題は伊都国(イタ国)です。
西南との記述があるのですから、西南へ松浦川をさかのぼって多久市に
はいります。33kmぐらいのところに延寿寺がありそこがイト国の宮処です。
そもそも従来の説はこの西南を間違いとして東に進んだことにあります。
そのきっかけは、前原市のあたりがイ土郡となっていたからです。
つまりごろあわせ地名比定の弊害があらわれたのです。
明治期においては地理等の詳細がわからず、不十分な研究しかなされていない(これは史学ばかりとはかぎらない)
のはやむをえないが、なぜ科学がぐっと進歩した現代においても再検討もせず盲信しているのか
私にとっては不思議である。
61日本@名無史さん:2007/07/24(火) 15:18:00
前提が違うということなので、 >60 を前提にして考えて見ます
一里あたりの距離を76m、方向を出来るだけ正確に近いところに比定すると
いう前提でたどっていくと確かにそのルートになりますね。

いかの話も前提条件が崩れると無意味になりますのでそのつもりでお願いします

当方が、たどってみたところこんな感じになりました。ためしにやってみただけなので
これをもって、邪馬台国の位置を決めようとする意図はありません

Wikipediaから引用、
> 1. 帯方郡から倭国に至るには船で韓国を経て7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に至る。
> 2. まず海へ1000余里で、対馬国(つまこく)に着く。大官は卑狗(ひく)、副官は卑奴母離(ひぬもり)。絶島
>   で4方は400余里の広さ。1000余戸数。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産
>   物で自活。船で南北岸の市へいく。
> 3. また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国(一支国(いちきこく))に至る。官は対馬国と同じ。
>   4方は300余里。竹、木、草むら、林が多い。3000ばかりの家。田畑はあるが足りず、市へいく。
 ここまでは飛ばします

> 4. また海を1000余里渡ると末盧国(まつろこく)に至る。4000余戸。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚
>   やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
 松浦郡領域の中心地ということから伊万里市としました。

> 5. 東南へ500里陸行すると伊都国(いとこく)に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄
>   渠觚(へくこ)。1000余戸。王が出る。皆が女王に従う。帯方郡の使者が往来し常に駐在する所。
 方向はほぼ東になりますが、1000余戸から盆地と考え、多久市としました

62日本@名無史さん:2007/07/24(火) 15:18:47
続き

> 6. 東南に100里進むと奴国(ぬこく)に至る。長官は?馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸。
 100里という距離から、山を越えて比較的近距離ということで、小城市としました

> 7. 東へ100里行くと不弥国(ふみこく)に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家。
 ほぼ東で距離も妥当なところなので、佐賀市としました

> 8. 南へ水行20日で投馬国(とうまこく)に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。5万戸余。
 有明海に出たところから水行の文字が出てきます。今までは水行はなかったのに
 有明海を20日水行するとどこへ行くのでしょうか。水行の距離は一日15km〜20km程度という説をどこかで読みましたが
 南ということなので熊本あたりでしょうか、それとも有明海を越えて鹿児島方面でしょうか。このあたりからわから
 なくなります。

> 9. 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳碑が
>   あり、人口は7万余戸。
 このあたりからはあやふやです。沿岸を回って宮崎まで行ったのか、水行ではありますが、渡海ではないので
九州内なのか、よくわかりません

63日本@名無史さん:2007/07/24(火) 16:15:09
>>62
昔、佐賀に住んでた事あるけど、
 小城:2万戸
 佐賀:千戸
は無いと思うぞ。いくら弥生時代でも。
64日本@名無史さん:2007/07/24(火) 16:32:02
佐賀県旧三根郡が弥奴国、旧基イ郡が支惟国
福岡県八女郡が邪馬国、旧大野郡が烏奴国なんじゃないかなあ
あと大宰府から出てきた資料に伊邪国は末ラ国の西南とあるから伊万里近辺ではないかと思う
65日本@名無史さん:2007/07/24(火) 16:32:32
>>62
宮崎に行ったんじゃね?
卑弥呼が居たのが日向の国(ひむか)で、
そのあとを受けた巫女が居たのが豊(とよ)の国なり、伊予(いよ)の国。

つまり、卑弥呼も台与(or壱与)も個人名ではなく代表していた国の名前という可能性。
66日本@名無史さん:2007/07/24(火) 16:35:35
佐賀県旧三根郡が弥奴国、旧基イ郡が支惟国
福岡県八女郡が邪馬国、旧大野郡が烏奴国じゃないのかなあ
あと伊邪国は大宰府から出てきた資料では末ラ国の西南にあるということだから伊万里のあたりにあったのではないかと思う
67日本@名無史さん:2007/07/24(火) 16:42:35
>63
そのとおりですね。
この辺の位置関係がよくわかりません。2万余戸というからには
かなり巨大国家のはずなんですが、わずか100里で別の国がある。
常識的に考えて、100里程度なら、同じ国の中だろうと直感的には考えます

佐賀は、現佐賀市大和町+金龍付近が古代の市街地を意識させる遺跡が良く出てきます
そのあたりから下流は湿地帯です。
でも、佐賀城の近くの与賀神社など、古い神社がありますので、佐賀と金龍は別の国だったのかもしれません

2万戸ならば、それこそ吉野ヶ里(現みやき町付近)位まで耕作しないと食わせていけそうにありません
しかし、吉野ヶ里はそれがひとつの王族(国家)であることを物語っていますので、
小さい佐賀連合国家みたいなものがあったのでしょうか
まあ、時代が違うので、吉野ヶ里は滅ぼされてしまったのかもしれませんが

68震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 17:26:01
まず1里ですが、わたしが最初の本を出版した時は、68m弱であるとみていました。
後にひょんなことから中国周代の1里が67.5mであることがわかり、魏志倭人伝の1里は周代の尺度であることがわかりました。
500里は33.75kmとなります。
多久市延寿寺から東南へ鈴山峠を越えて100里(6.75km)で肥前山口土元地区にはいります。
奴という字はトまたはドと発音するのが正しい。そこから西南にかけての沖積平野を支配下においたことから奴国は戸2万の大国となった。
不弥国へは延寿寺から出発、東へ100里で小城市不二町に入る。ここが不弥国である。
不二町から南に1kmぐらいのところにある大江から船に乗って南に20日進むと投馬国(トウマ国)に着く。宮崎県及び鹿児島県東部。鹿児島県西部はサツマ。サツマの北隣はクマ。
不二町の南の1kmぐらいのところの甘木(天子の城の意味か?)が邪馬台国の卑弥呼都城である。
水行十日陸行一月は最後に付け加えた総日数である。尚半島部は韓国内陸行である。
69震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 17:30:27
ざっとこれが邪馬台国までの行程なのですが、単純すぎてがっかりでしょう。
70日本@名無史さん:2007/07/24(火) 20:48:08
単純すぎてがっかりじゃなくて、内容そのものにがっかりだよ。
相模腹腹さん。
小城公園の円墳は、インコのピーちゃんのお墓って、どこかに
書いてなかったっけ?
71日本@名無史さん:2007/07/24(火) 20:54:44
伊都が千戸なのは軍事拠点として要塞化されてたからではないのか
伊都を占領した邪馬台軍が耕作地や水のあるところを独占し
多くの住民が別の場所へ強制移住させられた可能性があるように思う
軍糧などの供給は隣の奴国が請け負っていたか
副官が二人いること、「世々有王」の記事など、この国は実に興味深い
榊の木を持って降伏したイトの県主、イトデが天ノ日矛の末裔だと名乗っていること
糸島半島周辺にカヤ山、カフリ、セブリ、サワラ、ハタエなど半島系だと思われる地名が多いことから
伊都国が半島から渡来した集団によって建国されたのはほぼ間違いないのだろうと思う
福岡平野などの肥沃な地域は先にとられていていたために糸島に入植したものか
伊都人は他国人にはない政治システムを持ち、ハイテク技術を駆使して武器や農具をつくり、北九州地域を傘下におさめていったのでは
後漢から金印を授かった倭王帥升の拠点もあるいはこのあたりにあったのではないかと感ずる
72日本@名無史さん:2007/07/24(火) 21:14:38
>68
奴国の2万戸は小城から南西に広がるという考え方ですね
佐賀の南西側は余り詳しくないのですが、地図で見ると白石町、久保田あたりでしょうか
結構面積も確保できそうですが、干拓地や湿地帯のため、当時の農地がどのくらいかは未知数ですが
いい平野なので、結構農地を確保できそうですね。

投馬国のエリアはひょっとしたら、人吉、球磨地方の可能性も考えられますね
トウマ(ツマ?)、クマ、サツマ、地名の命名に何か一定のルールがあるのでしょうか。

人吉、球磨、えびの、都城、それほど大きくはありませんが、かなり内陸部に
盆地が点在することが気になります。山の民、熊襲はそんな場所の住人なのかもしれませんね
海の民は鹿児島、大隈の隼人族でしょうか。
都城、いかにもという名前です。

九州南部は当方あまり知識がありませんので、この程度しかいえませんが

73日本@名無史さん:2007/07/24(火) 21:19:36
>69
当方は、邪馬台国がどこにあるということよりも
多くの情報がうまくはまる仮説がどのようなものなのかという点に興味があります
その視点では、シンプルで多くの事象をうまく出来るほうが望ましいと考えています。
74震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 22:31:54
インコのピーちゃんとは随分なつかしいですね。
奴国の2万戸は小城からではなく肥前山口から西南の平野部です。
トウマ、クマ、サツマ、大分はアマ、遠賀川流域がカマ、糸島がシマ(斯馬)
対馬がツイマ、半島南部がミマ(ナ)、北部九州中央部がヤマです。
それぞれのマの中にいくつかの国があります。
糸島は古の倭面土国です。伊都国は多久です。
国王帥升はシュセンと発音し、周船寺(スセンジ)として地名に残っています。
75日本@名無史さん:2007/07/24(火) 23:26:25
>>71
>後漢から金印を授かった倭王帥升

『後漢書東夷伝』の記述では帥升が授印したとの記載は無い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%A5%E5%8D%87
76震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/24(火) 23:33:51
そうですね。金印を授受できるのは後漢から金印を賜った委奴国の後継国です。
つまり倭面土国は委奴国とは別の系統の国だったのです。
77日本@名無史さん:2007/07/25(水) 00:19:05
末盧國 松浦川河口部、唐津
伊都國 小城市小城
奴 國 2万戸人口10〜15万人 嘉瀬川六角川下流域 久保田町〜江北町〜大町町〜白石町
不彌國 佐賀市中心部or神崎市
投馬國 5万戸人口25〜35万人 筑後川西岸〜有明海北岸
邪馬壹國 7万戸人口40〜50万人 筑後川東岸〜有明海東岸
女王之都 八女市東部 矢部川中流域星野川 
78日本@名無史さん:2007/07/25(水) 00:40:50

「倭國王帥升等・・・・・・・願請見」

帥升は倭國王と認定されても、安帝に面会すらできなかった。
帥升は、倭奴國王ではなく、別国の倭國王なんだよね。
79震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/25(水) 08:57:35
後漢書の倭国王は諸史料の照合検討から倭面土国王の誤写か誤読(勘違い)とみられています。
80震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/25(水) 09:01:40
但し帥升は倭国を代表する王であるとして貢献したのであるが、>>76の事情のため相手にされなかったのです。
81日本@名無史さん:2007/07/25(水) 14:16:36
>>76
>倭面土国は委奴国とは別系統の国
そうですね、倭面土国と委奴国は倭国内における、別の国名でしょう。
しかも、この倭国王を称した方は、名前が『帥升』が正しいのか、『帥升等』までが正しいのか、はっきりしません。
通説は『帥升』ですが…

何れにせよ、『後漢書東夷伝』の中では、『帥升』に関する記載はほんの数行しか無く、倭面土国の所在地、規模、風土、『帥升』等の正体は全くの不明である。
>>78の通り、安帝には謁見すら出来なかったのは間違いないでしょう。
8278:2007/07/25(水) 15:31:33
>>76
>>81
「倭面土国」の出典もしく資料となった文献はなに?
そしてその文献の何処に記載されているの?


>>81
「『帥升』に関する記載はほんの数行しか無く」は書き間違いではないの?
正しくは「『帥升』に関する記載はほんの20字程しか無く」ではないの?

「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」
どこかにもっと記載されているの?
83日本@名無史さん:2007/07/25(水) 20:18:45
邪馬台国の首都をおせーてくだたい
84震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/25(水) 23:06:26
佐賀県小城市小城町三日月町甘木です。両町にまたがっています。
85日本@名無史さん:2007/07/25(水) 23:55:07
福岡県八女市山内と北杉田です。両方にまたがっています。
86日本@名無史さん:2007/07/26(木) 00:33:04
福岡県八女市山内と北田形です。両方にまたがっています。
871 ◆.L.MXSPOgc :2007/07/26(木) 04:48:17
書き込みが多くなり、私の説も少しは人の目にふれてもらえたのかと嬉しく感じます。

>>68
伊都國(延寿寺)から南西に奴國、東に不彌國。そして、不彌國の南に邪馬壹國。
なぜ奴國を行程から外すのか、合理的な理由が見当たりません。

また不彌國(不二町)の南1kmに邪馬台国なら投馬國は不彌國からではなく
邪馬台国からというべきでは?
しかし当時の海進を考えると、そこに7万戸の邪馬台国というのは疑問、奴國の位置も同様。

それから奴の字は、上古音で「ナ」中古音で「ヌ」。
「ト」「ド」とは読まれていなかった、と考えられているのですが、
・・ええと、どういう主張でしたっけ?

>>77
同じ川の左岸と右岸に、別々の国が発展した例を私は知りませんが、
(発展した国が川を境にすることはありますよ)
それが日本で起こったと考えるのは無理があるのではないでしょうか?
8877:2007/07/26(木) 10:30:14
>>87
>同じ川の左岸と右岸に、別々の国が発展した例を私は知りません

畿内では淀川の北側(摂津)が銅鐸国、
淀川の南側(河内)が非銅鐸国、
の時代がありましたよ。

九州では筑後川東岸西岸地域でこの構図をなすと考えられます。
久留米より上流の筑後川北岸南岸地域ではでは川が境界であったとは見なしきれません。
8977:2007/07/26(木) 11:03:33
「奴」音について。

魏志倭人伝では古代黄河流域音(漢音)で書かれていたので、
「奴」は「ド」と発音したのではないでしょうか。
長江下流域音(呉音)では「ナ」「ヌ」音だと思います。

現代「北方方言」(官話)は全く別系統の音が入っているので参考にはできません。
現代「客家方言」(客家語)が「古代黄河流域音」の生き残りです。
現代「呉方言」(上海語)はそのまま「長江下流域音」が生き残ったものです。
9077:2007/07/26(木) 11:22:35
>>87
>なぜ奴國を行程から外すのか、合理的な理由が見当たりません。

古田説の「行」「至」が合理的な説明だが。・・・『「邪馬台国」はなかった』を参照
91日本@名無史さん:2007/07/26(木) 11:33:50

「倭面土国」の出典もしく資料となった文献を教えてくれ。

「倭面土国」の出典もしく資料となった文献を教えてくれ。

「倭面土国」の出典もしく資料となった文献を教えてくれ。

「倭面土国」の出典もしく資料となった文献を教えてくれ。
92震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/26(木) 11:57:19
伊都国から奴国へは「行」の字がないので、行路上の国とはなりません。
当時は奴国(肥前山口)の東は有明海の干潟となっています。
奴は当時トまたはドと発音され、国という意味や戸口という意味があります。
倭面土国の土も奴と同意義語なのですが、奴表記は漢の時代(前漢からか)からの表記であり、倭面土国は後漢の時代なので、筆記者が異字で記載したものとおもわれます。
ですから倭面土国は倭面奴国とかいてもよかったわけです。
もともと邪馬台国のある邪馬の地域の西の境界はここ肥前山口であり、邪馬の戸口の国(山口)の意味で奴国となったものです。
そしてここ山口を基点として、西南方の縄文系の国々を征服していったので2万余の大国となったわけです。
ドイツで東の辺境のブランデンブルクがプロシアとして大発展したのと同様です。
93日本@名無史さん:2007/07/26(木) 12:27:55
>>92
なんか、突っ込みたいところばかりで、どこから突っ込んでいいかわからない。
94日本@名無史さん:2007/07/26(木) 13:41:05
筑後平野の場合、
筑後川東岸の久留米、八女、
西岸の鳥栖、吉野ヶ里、
上流の甘木朝倉
に分かれているように見えます。
上流の区切りは、基山、高良大社ライン辺りにありそうです

95震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/26(木) 14:39:19
後漢書では倭国王帥升
カン苑所引の後漢書では倭面上国王帥升
唐類函・辺塞部倭国の条所引通典では倭面土地王師升等
北宋版通典では倭面土国王帥升
杜佑の通典では倭面土地王師升
日本書紀纂 所引後漢書では倭面上国
釈日本紀開題所引後漢書では倭面国
漢書地理志倭人の条の如淳の注では委面
宮内省図書寮尊蔵北宋版通典では倭面土国王師升等
となっております。諸本を照らし合わせた結果、倭面土国王帥升が正しいであろうということになっております。
9682:2007/07/26(木) 20:10:56
>>95
ありがとうございます。
9782:2007/07/26(木) 20:23:57

倭奴國 ヰドコク ≒ 倭面奴國 ヰ?ドコク   ????
9882:2007/07/26(木) 20:29:46
間違い修正

倭奴國 ヰドコク ≒ 倭面土國 ヰ?ドコク   ????
99震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/26(木) 21:37:35
面はメンとよみます。
御前、手前はべランメー口調になりますと、オメー、テメーとなります。
前がなまってメーとなり、中国人はヰメードをイメンドとききとり倭面土と記しました。
福岡の港の付近を姪浜といいますが、昔は前浜だったようです。
前が訛って姪となったわけです。
ですから、倭面土国とは倭の前の国ということです。中国に向いたほうが前です。つまり、当時から訛、方言が既にあったようです。
中国につれていった通訳は相当訛っていたようです。
100日本@名無史さん:2007/07/26(木) 22:34:15
>>99訛っていたかどうかは?ですが、相手にはヒアリングでそう聞こえたのでしょうね!
101日本@名無史さん:2007/07/27(金) 21:56:12
訛りですか。

以前日本史をオモシロおかしく学べるというバラエティー本があった。
それによると邪馬台国博多にあった。しかし本当はヤマ国で、
国名を聞かれたときに「ヤマたい」と博多弁で答えたため邪馬台国と書かれたというオチであった。
1021 ◆.L.MXSPOgc :2007/07/28(土) 02:45:27
>>88
その淀川の例は、別々の国が発達したわけではないでしょう。
別の国だった例なら山ほどありますよ。

九州の同じ文化圏の国で、同じことが起こったというのは考えにくいです。

ま、一般に考えにくいことを主張されることは、他の人に受け入れられない
だけで、別に良いですが。

>>90 >>92
「行」とか「至」ですか・・だから南至投馬國も外れるのですね。
ついでに南至邪馬壹國も外したらどうでしょう?w
至一大國も至末盧國も外せそうですね。こうなるともう何処にも行けないですか。

古田説は記憶に薄いですが、そんな主張でしたっけ?
一生懸命足し算して12000里にしてたのは記憶してるのですが。

>>89
>魏志倭人伝では古代黄河流域音(漢音)で書かれていたので、
「三国志」全般は違うけど「魏志倭人伝」は古代黄河流域音だったと?

>>92
>邪馬の戸口の国(山口)の意味で奴国となったものです
山の戸の国で「邪馬台国」というほうが、「と国」よりまだましな程度の主張ですね。
103震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/28(土) 06:45:53
山の戸の国では、山門となります。台(の旧字)はタイまたはトイでしょ。台を戸と発音すると
主張しだしたのは邪馬台国大和説に結びつけるためです。
奴国は2箇所あります。この状態では区別がつきません。おそらく別な名でよばれていたのでしょう。
東の奴(戸)国、西の奴国とか、西が山口で東は山門とか。
ただ山口とか山門は大和語(倭語の基層をなす一種)ですが>
10488:2007/07/28(土) 10:32:01
>>102
淀川境界説は崇神垂仁期の状況です。
淀川北岸勢力(沙穂彦)は、淀川南岸側勢力(垂仁)に、
淀川上流側からの攻撃と人質(沙穂姫)作戦によって破れました。
また銅鐸文化消滅遺蹟から見ると、同時に西方海上方面(神戸)からも攻め込まれています。

>南至邪馬壹國も外したらどうでしょう?
外れていますよ。行路記事は不彌国で終わり。

>至一大國も至末盧國も外せそうですね
「行」の代わりに「渡」があるので外せません。

>「三国志」全般は違うけど「魏志倭人伝」は古代黄河流域音だったと?
魏志の部分は古代黄河流域音です。
呉蜀の部分は言語(方言)が異なります。
10588:2007/07/28(土) 10:52:46
>>102
>>「三国志」全般は違うけど「魏志倭人伝」は古代黄河流域音だったと?
どの地域の音が使用されているかは、正確には三国志編集に使用された文献資料により異なります。

蜀の部分の「音」はどの地域の「音」なのかはまだ検討作業をしておりません。
蜀の部分の「音」は、古代黄河流域音が多いのではないかと推測。
106名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 15:09:47
>>1
投馬国が琉球というのは、あまりに無謀じゃないでしょうか?
福岡から沖縄って、福岡から大阪より遥かに遠いですよ。
投馬国は、5万戸の人口を擁するわけだから、九州内で大河川が貫く
那珂川&福岡平野以上の大平野と考えるほうが自然じゃないでしょうか?
1071 ◆.L.MXSPOgc :2007/07/30(月) 00:11:17
>>104
右岸左岸はいいとして、似たような主張があったので間違えていました。
南至投馬國水行二十日
あなたには、これをどうトンデモ解釈したのか教えていただくだけで十分だと思います。
>>サガミハラハラさん
奴国をナ国と読もうがト国と読もうが、同じくらいその比定地に語呂合わせは必要ないのですよ。
ト国がナの川流域に栄えていたとして不都合はありません。逆もね。
しかし、松浦−糸−那の3点セットや金印の委奴国や当時の推定人口を考慮すれば、
奴国=福岡平野を想定するのが自然ですし、それを非定するならそれなりの説得力の
ある話をしてくれませんと、ダメなのです。

>>106
無謀といわれますが、福岡−沖縄と福岡−大阪は2倍も離れてはいませんよ。
あなたのいう無謀とはどういう基準なのでしょうか?
わたしは朝鮮半島南端−九州北端を水行3日の距離とみています。
なので福岡−沖縄は水行20日といえる距離だと思います。

人口については言われるように5万戸は微妙です。江戸末期に15万人だったのですから
当時もこれを越えていなでしょうから、1戸=3〜1人となりますね。
ただここは倭人からの伝聞情報であり、倭人特有の誇張表現がまかり通っていたと考えても差し支えない部分ではあります。
現在でさえ魏志倭人伝を誇張表現ばかりと考えてしまうのが倭人みたいですからw
108日本@名無史さん:2007/07/30(月) 00:57:01

投馬国は、5万戸(10万家、30万人)を養える平野に求めなければなりません。

投馬国は、佐賀平野筑後川以西から六角川流域平野にあったと推定する。
109104:2007/07/30(月) 14:45:33
>>107 1 ◆.L.MXSPOgcさん

「南至投馬國水行二十日」
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」
上記2つはセットです。
倭人は月日をもって距離を測り、里を知りません。
里はシナ人が測った距離です。
「二十日」「十日」「一月」は、倭人からシナ人が聞いた距離を示す数字です。

女王国連合の2大国である投馬國と邪馬壹國は不彌國の南側に接しているのです。
ですから、両国は有明海に面しているのです。
「水行十日陸行一月」は、邪馬壹國から帯方郡まで、倭人が行く時の距離です。
「水行十日」は有明海から狗邪韓國までの海路距離、
「陸行一月」は岸狗邪韓國から帯方郡までの陸路距離。
「水行二十日」は有明海から半島南岸を経て半島西岸沿いに帯方郡までの海路距離。

倭人の人口
韓伝の記事を参考に人口を試算
1戸=2〜3家、1家を2〜3人とすると、
1戸=4〜9人 となる。
1戸≒6人として、
投馬國・・・・30万人
至邪馬壹國・・40万人
110104:2007/07/30(月) 14:56:58
>>109の補足説明
伊都國、奴國、不彌國は佐賀平野になります。
伊都國は末盧國(唐津・松浦川)から東南陸行五百里の場所になるからです。
1111 ◆.L.MXSPOgc :2007/07/30(月) 21:26:46
>>109
ひとつ想像してみてください。
国の配置があなたのいう様だったとして、いったいどのような報告書を読み
陳寿は三国志にあるような文を残したのだと思いますか?
答えは、どのような報告書であってもあなたのいうような国の配置では、
陳寿はそのような文を書かない、です。
これが分からないから、他の人の賛同を得られないのです。
112104:2007/07/30(月) 22:09:14
>>111
貴方こそ捻じ曲げて読んではいけません。

@東南陸行五百里を勝手に捻じ曲げ東北に変える。
A帯方郡から邪馬壹國までが12000里と書いてあるのに、
邪馬壹國は不彌國から水行十日陸行一月であるとする。
B不彌國〜邪馬壹國の距離が水行十日陸行一月だとする誤った認識を流用し、
不彌國〜投馬國の距離を水行二十日としている。
C「倭人の距離認識は月日でし、里は知らない」ことを無視する。

上記@〜Cのいくつかを複合した誤認識を持っているのではありませんか?
上記@〜Cを否定できる説明ができますか?

113日本@名無史さん:2007/07/31(火) 22:40:38
伊都国は東南の方向にあるのではなく
伊都国に行くには東南に伸びる道を陸行するという意味なのでは?
名護屋あたりに上陸した魏使ははじめ東松浦半島を東南に行き日向峠をこえて伊都国に入ったのではないでしょうか
114日本@名無史さん:2007/07/31(火) 23:02:05
>>113
上陸地点である末盧國を名護屋とすると、
「又渡一海千餘里至末盧國」が「又渡一海五百餘里至末盧國」となるのでは。
115子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/31(火) 23:06:53
>>107
三点セットの弱点は、方向が違うということです。
地理的問題において方角が違うということは決定的間違いということができます。
それはど地理において方向とは重要なことなのです。
さらにもう一つの弱点は地名比定に重きを置きすぎるということです。
これはへたすると奇妙な語呂合わせとなってしまうことがあります。
第一、伊都はイタであってイトではありません。
奴はトと読み、肥前山口に砥川という地名や土元という地名があります。
116114:2007/07/31(火) 23:20:37
続き
>>113
又、名護屋周辺を末盧國とすると、
「末盧國有四千餘戸」は無理ではないの。(四千餘戸≒25000人として)
「對馬國・・・有千餘戸」「一大國・・・有三千許家」に比して、「末盧國有四千餘戸」は人口が多すぎるのでは。
1171 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/02(木) 08:25:08
>112
これほど読解力のない人を見るのは久しぶりです。
最初から私の主張を読み直してください、話はそれからです。
バカは相手できません。

>>113
伊都国をどこと考えているのかよく分かりませんが、
日本海海岸線沿いならば、なぜ末盧国から陸行するのか?
伊都国や奴国まで水行しないのはどうしてか?
という疑問が残ります。

また最初に移動する方向が東南方向だ、という主張はやはり苦しいです。

>>115 サガミハラハラさん
三点セットの弱点は、方向が違う、距離(距離比)があやしい、何故水行しないのか、
など、いろいろとありますね。
それでも奴国=福岡平野が指示されるのは、金印、考古学的資料、2万戸の平野、
時代が下っての大陸との玄関口としての福岡の機能、など、いろいろとあります。
ですからこの三点セットの支持者は多いですし、これを覆すのは容易ではありません。
名が残っているのもゴロ合わせでなく、他の状況証拠の後押し(程度)と捕らえるべきでしょう。
むしろサガミハラハラさんのほうが、佐賀方面でゴロ合わせをしているように見えますが、どうでしょう。

>東南陸行五百里到伊都國
これを素直に読めば、誰もが松浦川沿いを遡って佐賀平野に抜けるルートを一度は考えたと思います。
しかしその後が続かないと感じてしまうのが本当のところではないでしょうか。
サガミハラハラさんの主張も、伊都國から先の国々のところでは「東南陸行五百里」に
あるような単純明快なところが消え去り、奇妙な方向合わせ語呂合わせをしているように思えます。
118112:2007/08/02(木) 10:04:15
>>117 :1 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/02(木) 08:25:08

>>112
>これほど読解力のない人を見るのは久しぶりです。
>最初から私の主張を読み直してください、話はそれからです。
>バカは相手できません。


感情的反発ですか。
あなたの持論をは破綻に導いたようですね。
119子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/08/02(木) 15:10:10
佐賀で語呂合わせはしていないつもりですが?不二町は不弥国に偶然似ているだけで
不二とは二番目でない。即ち一番だという意味です。江戸時代でしょう。
その後が続かないのは通説のほうでしょう。
120子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/08/02(木) 15:12:48
ちなみに金印は漢の委奴国ーカンのイトコクとよみます。イトという国であって倭の奴国ではありません。
そもそも基本からまちがっているわけです。
121日本@名無史さん:2007/08/02(木) 16:00:23
そもそも魏史倭人伝の道中の既述が間違っているとか
どこか欠落しているとか
122日本@名無史さん:2007/08/02(木) 18:47:30
そもそも倭なんてないんです
123日本@名無史さん:2007/08/02(木) 19:51:42

>ちなみに金印は漢の委奴国―カンのイトコクとよみます。イトという国であって倭の奴国ではありません。

意見が一致するな。
正確にには「イト」か「イド」はわからないが。
124123:2007/08/02(木) 20:00:46

サガミハラハラ氏には以下でも感化されたたようだ。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1184946712/56-58
125日本@名無史さん:2007/08/02(木) 21:16:12
邪馬台国ってジャワタイの事だろ?

つまり卑弥呼は東南アジアにいたんだよ。
今や常識だよね?
126日本@名無史さん:2007/08/02(木) 21:30:51
卑弥呼は渡来人です
127日本@名無史さん:2007/08/03(金) 03:41:56
そうだよ
128もどれるんだ ただの男に〜♪:2007/08/03(金) 20:41:32
地名に頼れば、「東南」という方角に矛盾が生じ、
方角に頼れば、「小城」を邪馬台国と言い張る事になる。(相模歯羅葉裸さんごみんね。^^)

魏志倭人伝が書かれた時代はグーグルアースがあるでもなく、
例えば、「地名と方角」のような対立するものの、どちらに信憑性があるかという事
をさぐる作業になるのではないでしょうか?
129日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:21:36
130子供がで〜きた♪ 今出川:2007/08/03(金) 21:28:37
>>129
邪馬台国は甘木(筑後川流域)
投馬国は戸畑(遠賀川下流域〜洞海湾大渡川)
奴国は福岡(那珂川流域)
131日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:40:08
魏志倭人伝が佐賀、小城ルートを通るとなると、福岡平野から逃げるように
ルートを選定しているように見える。
とすると、クナ国が福岡、大宰府なのかな

筑後、邪馬台国文化圏 対 福岡太宰府文化圏の戦い
意外とありそうではある。
宮崎や鹿児島と戦うと仮定すると、道が悪くて、大軍が通れないので、卑弥呼がダメージ
もしくは死亡したというほどの大戦争にはなりそうに無いから
よっぽど、ぼんくらで大軍が配置を完了するまで何もしないで見てたという可能性も無いではないけど
132日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:14:38
また、知らないうちに新たなスレが出現してる。
どうしてこうお行儀が悪いかな、邪馬台国の連中は。
133オーオージョニー それだけが 実はサガミハラハラ:2007/08/03(金) 22:21:31
クナ国ではなくクト国とよみます。熊本県北部のことです。
残存地名は宇土半島のウトです。
134日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:44:22
宇土付近はかなり興味深い地域ではありますね
古代人が好みそうな丘の宝庫、当時はもっと森も広がってたでしょうしね
スサノオとアマテラスが対峙した天の安河は朝倉郡を流れる夜須川のことではないでしょうか
この川を挟んで狗奴軍と邪馬台軍は戦闘を繰り広げたのかもしれません
135九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/04(土) 01:27:21
>>133-134
狗奴國は菊池川流域から緑川流域にかけて、7万戸以上の国と思います。
136九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/04(土) 01:39:09
>>131
>魏志倭人伝が佐賀、小城ルートを通るとなると、福岡平野から逃げるように
>ルートを選定しているように見える。

「倭奴國」や「王帥升」を引き継ぐ旧勢力国を避けたルートを取ったのでしょう。
1371 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/04(土) 02:47:09
>>118
バカはこれだから相手したくないんだ。
「感情的」という意味さえわからずに他人の猿真似の書き込みだし。

あなたが挙げた1〜4の、私の説で対応するのはどこでしょうか。
書いてみてください。

破綻しているのはあなたの頭です。

>>119
サガミハラハラさん
>奴はトと読み、肥前山口に砥川という地名や土元という地名があります
これが語呂合わせ

>>128
その「地名と方角」を上手く(都合よく?w)説明したのが私説であると自負しているのですが、どうでしょう?

>>132
すみません。ここは私の説に対しての意見交換ができればと立てたのですが、
他の人の説を私がつつくような感じになってしまっていますね。


ところで、その後すこし考察を進めてみたので、以下に書いていきます。
1381 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/04(土) 02:48:53
投馬國3−1

謎の国、投馬國。
琉球という否定は間違えていないといまでも思っているものの、やや突飛な感じをうけるのも確かでしょう。
行程から外れている投馬國が邪馬台国の前に入ってきているというところが引っかかります。
なぜ陳寿は行程記事の間に水行20日の投馬國を織り込んだのでしょうか?

その答えの前に、いわゆる3つの行程距離から考察してみましょう。
「12000里」と里程の合計「10700里」と「水行10日陸行1月」です。
それぞれ梯儁(ていしゅん)、張政、倭国からの伝聞情報と私はみているのですが、
それはこの3つを陳寿は競合しあうものではなく補間しあう情報とみて併記したのだろうと考えています。
とすると、梯儁はよく邪馬台国まで行っていないのではないかと云われることもありますが、邪馬台国まで行って12000余里という数字を報告したと考えるほうが自然ではないでしょうか。
ところで梯儁の行程は、伊都国=前原、奴国=福岡平野、ですので、邪馬台国のある筑紫平野中下流域にいくには、途中福岡平野の南の久留米を通ることになります。
1391 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/04(土) 02:49:40
投馬國3−2

ところが久留米の記述がないように見えます。一部の人が久留米に邪馬台国を求めるのはこのためでしょう。
しかしちゃんとあるのです、そう50000戸の大国、投馬國です。
「水行二十日」はどうした?といわれそうですが、これは違うのです、梯儁の報告書ではないのです。

ここで張政の行程をもう一度書きます。
末盧國から南東500里でB国(伊都國2)、南東100里でC国(奴國2)=佐賀平野の大国、東100里でD国(不彌國2)、そして南に邪馬台国です。
張政の行程には、投馬國に対応する国がないのです。

そこで陳寿は、朝貢記事である水行二十日のE国=投馬國2=琉球の記録から、これを投馬國としたのではないでしょうか。
そして梯儁の報告書にある順に従い、邪馬台国の1つ前にこの投馬國の記述を入れたと考えられないでしょうか。
南水行20日、5万戸を擁する謎の大国のできあがりです。

これで琉球に50000戸を求める必要がなくなりました。
50000戸は投馬國=久留米の人口です。仕官情報などもおそらくこちらでしょう。
水行二十日はE国=投馬國2=琉球の行程(伝聞情報)です。

どうでしょう、いままで「謎多き」投馬國でしたが、これで梯儁のルート、張政のルート、そして陳寿の記述が1つに繋がったのではないでしょうか。
1401 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/04(土) 02:51:03
比定地まとめ(改)

投馬國=久留米を入れての改定です。
E國=琉球は行程から外れた国ですが、それ以外の国々は2つの行程をよくあらわしているのではないでしょうか。

末盧國      唐津市、松浦川流域
伊都國      前原市あたり
奴國       福岡平野、那の川流域
不彌國      宇美町、須恵町あたりか?
投馬國      久留米

A國(末盧國2) 末盧國
B國(伊都國2) 小城市または多久市あたり
C國(奴國2)  佐賀市あたり
D國(不彌國2) 吉野ヶ里

E國(投馬國2) 琉球(沖縄)

邪馬壹國     筑紫平野、筑後川流域
141日本@名無史さん:2007/08/04(土) 07:15:56
投馬国は天草ではないかと思う、邪馬台連合の南限
だからこそわざわざ記述された
不弥国は東の、遠賀川流域に広がっていた国々と国境を接していた国ではなかったか
1421 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/05(日) 05:32:45
>>141
投馬国を天草というのは根拠が薄いアイデアのように感じます。
南限というが、他の国をどこに比定して南限といっているのでしょう?
西を南という説はあまりないですね。
日本地図をわざわざひっくり返して、日本海岸沿いをみれば九州が日本の南限に見える
という説ならありましたが、だからといって南限が天草という訳ではないでしょう。

さらに南には狗奴國があるわけですが、この南と投馬国の南は方向が違う?
それとも飛び地のように狗奴國をサンドイッチのように挟んでいるという
考えづらい構図の説になるのでしょうか?
143日本@名無史さん:2007/08/05(日) 10:07:08
141ですが
私は邪馬台連合が肥前肥後、筑後そして筑前の一部にかけて広がっていたのではないかと考えています
狗奴国は天草のさらに南、旧鹿児島県川内市付近だと考えます
あるいは狗古智卑狗は河野氏の祖と伝えられる河野越智彦その人ではないかとも感じています
1441 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/06(月) 19:51:19
>>143
というと伊万里あたりから南東に抜けて邪馬台国を佐賀平野あたりに比定し
その南水行20日を島原あたりという感じでしょうか?

正直、あなたの説に魅力を感じないのですが(=遠まわしにトンデモといってます)
すこしでも私を「なるほど」と思わせる何かを紹介していだだけるか、
AだからBはCでありDと考えられる、みたいな話をしてください。

それから−もし暇があれば−私の説の弱点を突いてください。
145あなたは稲妻のよ〜うにい〜♪ じつは130:2007/08/06(月) 20:55:36
>>1
魏志倭人伝では、「対馬国→末ら国-(東南)→伊都国-(東南)→奴国-(東行)→不や国」
となっています。ちなみに距離の表記はここまでが「里」です。
このうち、対馬国=対馬、末ら=松浦半島、伊都国=糸島半島、奴国=福岡平野
までは、ほぼコンセンサスが得られていると言って良いのではないでしょうか。
とすれば、(東南)は(東北)の間違い(魏使は東南と考えた)と考えるべきでしょう。
ちなみに私は、不や国は、津屋崎ではないかと考えています。

次に、不や国-(南へ水行20日)→投馬国-(南へ水行10日&陸行1月)→邪馬台国 ときます。
ここから、地名、距離ともいっぺんに怪しくなります。
魏使はおそらく、不や国までしか行かなかったのでしょう。
魏では、距離を表すのに「里」をつかい、倭では距離を表すのに「日」を使ったのでしょうね。
「里」は客観性がありますが、「日」はそうではなく、魏と倭の文化程度の差が伺えます。
魏使は九州北岸をどんどん東へ進んでいるわけですから、この投馬国は津屋崎
(福岡としてもいいですが)より東の事を記載していると考えるのが自然ではないでしょうか?
しかし、「南」へ逝ったところへ投馬国はあります。私は遠賀川へ入ったのだろうと思っています。
遠賀川は南北に流れており、太陽に向かって川を遡る事になり、倭人といえども「南」に向かって
いる事は解ったでしょう。遠賀川流域〜洞海湾(旧大渡川)に広がる平野に投馬国はあったのでは
ないでしょうか?
さらに倭人は遠賀川をさかのぼり、飯塚〜田川あたりに上陸、陸路「福岡県甘木市」を目指したのでしょう。
これが「水行10日&陸行1月」ではないかと思っています。

いかがでしょうか? 1さん。
146日本@名無史さん:2007/08/06(月) 20:59:05
以前に、久留米というか筑後川東岸を投馬国として
考えたことがあるのですが、名残がありそうな地名はないでしょうか?
旧地名を漁ったのですが、どうもそのような場所が見当たらないので

久留米は旧筑後国都、三潴県県庁所在地を持ったことがある、重要な場所であることは
間違いありませんが、筑後平野はどのように分割統治されていたかの情報が余りありません
筑後川の久留米付近から下流は東岸の久留米八女、西岸の鳥栖、佐賀、上流の甘木朝倉
で分かれているのではないかというイメージをなんとなく持っています。

投馬国は筑後平野全体だったのか、久留米八女地域だけなのか、興味があります
147日本@名無史さん:2007/08/06(月) 21:13:32
熊本出身の者として>143さんの御説はなかなか興味深いものがありますね
天草が投馬国でないにしても、宇土半島から大矢野島、天草上島にかけては
本当に多くの魅力的な遺跡、古墳が点在してますし早くから開けていた地域ではあったように思います
この地域には大陸の江南地方から直接渡来してきた人々が古くから入植していたのではないでしょうか
1481 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/07(火) 04:26:09
>>145
奴国=福岡平野までの比定は、言われるようにかなり強力だと思っています。
しかしだからと言って方角が間違えていると考えるのには躊躇してしまいます。
北九州45度間違い説は、畿内90度間違い説と、まさに五十歩百歩に感じます。
角度間違いの理由を考証している方も何人かいますが、納得できる説明のものはありませんでした。
奴国=福岡平野の比定だけで、方角が誤っていると考えるのは安易すぎる気がします。

そこから先の話ですが、水行20日や水行10日陸行1月の距離を九州内に求めるのは無理すぎです。
10倍くらい違うと−そんな事を言ってる人もいますが−考えるなら別ですが。

しかも145さんはここからの方角はずれていないと考え、南に遠賀川をさかのぼっているようですが、
それも一貫性のない考えではないでしょうか。
方角を、中国人は間違えたが倭人は間違えなかった、という考えには賛同しかねます。
また甘木に到るルートとしては遠回りしすぎではないでしょうか。
誰かのように福岡平野から甘木(久留米)に至りここを邪馬台国と考えるほうが、
まだ無理のない考えだと思います。
149日本@名無史さん:2007/08/07(火) 04:29:11
>>144
こいつバカか?
てめえのほうがよっぽどトンデモだろうが

143の意見は面白いな
常識的に考えて
投馬国へは水行しか書かれてないんだから
島国だった可能性はおおいにあるな
だが伊都国の南は山、どういうルートで水行するんだ?
あと邪馬台国をどこにもってくる?
一国の大きさが一郡程度だったとすりゃ
たしかに30あまりの傍国が
福岡熊本長崎佐賀の範囲に広がっていた
というアイディア自体は無理がないし、すっきりしてるな
だが南には水行できんだろうが
これをどう説明するよ?
1501 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/07(火) 04:32:30
>>146
久留米には明るくなく、言われる上流の甘木朝倉がそれほど発展していたところなのか
実はよくわかりません。
甘木朝倉説もありますが、本当に大人口を求めることができる土地なのでしょうか?
ということで私は、筑後川上流域=久留米と書かせてもらっています。

地名としての名残は、中国語の当時の発音と、日本の旧地名と日本語の発音の変遷を
考慮しなければならないわけで、考えていません。
そこまでやったとして、名残のある地名を見つけられるかどうか分からない事ですしね。
語呂合わせなら「投馬=くるめ」でどうでしょうw

ところで当時の国はどのような所だったのでしょうね。
一部(といっても1万人程度?)の権力階級のひとが、高台の壕をめぐらせ柵で囲った
内に住み、大多数の人々は田畑と共に平野部に住んでいたのでしょうか。
どうも今一、当時の都をイメージできずにいます・・
151日本@名無史さん:2007/08/07(火) 06:46:23
はじめて書き込みします
いつも楽しく拝見させていただいてます
>>149さんの疑問ですが
当時の博多湾と有明海は水路でつながっていたようですよ
国道3号線、JR、西鉄が束になってるあたりは運河のようになっていたと地元の郷土史家に聞いたことがあります
有名な「水城」の地名もこの運河を利用した城に由来するとか
地質学では「二日市水道」と呼んでいるそうですね
この運河はそののち埋もれてしまったと言います
博多区から流れてくる御笠川〜運河〜旧筑後川がつながっていたようです
筑後川の河口は当時は佐賀県鳥栖市付近にあったとか
>>143さんの見解は面白いと思いますね
ただこの水路を使ったとしてもはたして天草まで二十日もかかるものなのか
邪馬台国は伊都国〜投馬国の行程の半ば(>>144さんの仰るとおり佐賀付近でしょうか)
にあったということになりましょうが
そこが伊都国から陸行一月を要する場所になりうるのか、疑問は残りますね
ただ投馬国が島なのではないか、という見解はとても面白いと思います

ここまで見るかぎり>>1さんはフェアな方ですよ
>>143さんへもきちんと反論してください、とおっしゃっておられるし
>>143さんも悪い感情は持たれてないでしょう、バカ呼ばわりはどうかと思います

それから、これは私の個人的な考えにすぎませんが
意外にトンデモ説のなかにこそ真実が隠れている場合もあるかもしれませんよ
邪馬台国はエジプトにあった、などという説は論外でしょうが
152日本@名無史さん:2007/08/07(火) 07:06:28
二日市水道なんてはじめて聞いた
でもたしかにあの辺は今も低湿地帯だし
水道があったとしても不思議じゃないな
有明海も当時は今よりも佐賀県側にずっと大きく入りくんでいたそうだし
阿蘇山の大爆発で一気に陸化した形跡があるらしい
糸島半島が奈良時代くらいまで島だったことも知らない人多いしな
自分もまだまだ知らないことがたくさんあるということだ
153目を閉じて何も見えず〜♪ ってあたりまえやないかい! じつは145:2007/08/07(火) 18:24:26
>>148(じつは>>1
>145さんはここからの方角はずれていないと考え、南に遠賀川をさかのぼっているようですが、
>それも一貫性のない考えではないでしょうか。
>方角を、中国人は間違えたが倭人は間違えなかった、という考えには賛同しかねます。
「末ら国→伊都国→奴国」と進むには実際は「東北」に進んでおり、倭人伝にある「東南」へ進むとの記述と矛盾します。しかし、
「遠賀川を上流に向かって遡る」のは実際に「南」に向かって進む事になり、倭人伝にある「南」へ進むとの記述と矛盾しません。
末ら国から奴国に至る道は地名と方向のどちらに信憑性があるかというところで皆さん悩むところであり、
ここで、「東南」という方向に矛盾があるかもしれないと結論した場合、それ以外の方向も間違っていると考えるべきではないか
という姿勢はいかがなものでしょうか?

>また甘木に到るルートとしては遠回りしすぎではないでしょうか。
甘木に至るルートは当時もいくつかあったとおもいます。それは現代も同様、例えば唐津から久留米に行く時、
背振山脈の北、福岡経由で行く場合もあれば、背振山脈の南、多久小城経由で行く場合もあるようなものでしょう。
ただ、人口5万戸を抱える大国「投馬」経由で行く場合がもっとも一般的だったのではないでしょうか?
確かに現代の交通感覚だと「遠回り」と感じるかもしれませんが、当時としては、視界の開けた&水量がある時は舟で移動できる
&水が豊富にある大河をとおり、補給交易可能な大国「投馬国」経由で甘木に至る道が一般的だったのではないでしょうか?
かつ、魏使に「投馬国」を紹介する意味もあったのかもしれません。
154日本@名無史さん:2007/08/07(火) 21:07:09
投馬国=出雲国

終了...

155日本@名無史さん:2007/08/07(火) 22:21:42
>>154
だから根拠を書かなきゃ。www
156日本@名無史さん:2007/08/08(水) 03:27:12
邪馬台国は、大和国。
狗奴国は、許乃国(このくに)・・・宇治のあたり(山城国風土記逸文より)

魏志倭人伝は、
最初の北九州の国の漢字名については、
漢の時代の上古音をもとにつけられた名残があって
後の北九州以外の国の漢字名については
魏の時代の中古音をもとにつけられた名残がある。
つまり、伊都国・奴国などと邪馬台国・狗奴国とでは
中国人がこれらの地域と交流を緊密化させる時期が異なっていて
伊都国・奴国などは、57年の金印の頃の上古音時代につけられた可能性が高い。
しかし、邪馬台国・狗奴国などは240年前後の卑弥呼の時代につけられた漢字名で
魏の時代の中古音でつけられている。

よって、魏志倭人伝には、20数カ国の戸数を記していない国が多く列挙されているが
その殆どに、「奴」という字がつくが、これは中古音で「の」と呼ぶ。

狗奴国=許乃国(このくに)=山城の宇治
ここは、日本書紀の崇神期に武埴安彦命が謀反を起こした地域である。
武埴安彦命は、河内と山城の両方に拠点を持っていて
彼は、甥の崇神天皇や伯母のモモソヒメを
山城と河内の両方から、大和を挟み撃ちするように攻めた。
こういう二方向からの攻撃だから、魏志の方角観も混乱したのだろう?

狗奴国=許乃国(このくに)=山城の宇治
狗奴国男王・卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
狗奴国官・狗右智卑狗=河内彦
の可能性が高い。
157日本@名無史さん:2007/08/08(水) 09:30:28
狗奴国は許乃國(山城の宇治)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34476515.html

1581 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/10(金) 12:17:36
>>150 >>146
大変恥ずかしいことにちゃんと地図をみてみると、今まで久留米と私が言ってきたところが
久留米の中心(市役所やらJR久留米駅のある辺り)から小郡市や三井郡、甘木朝倉あたりの
土地だったようです。(北野地域といわれているのでしょうか)
イメージだけで語るとよくないですね。

で、その久留米の中心から筑後川川下方向に邪馬台国といった感じだったのではないかと思っています。
投馬国=久留米、といいましたが、邪馬台国久留米説に近いような感じだったのでしょうか(汗
ただ邪馬台国=久留米というとやはり少し違っていて、もっと海に近いところのほうで
栄えていたのではないかと思っています。
ただ当時は内陸に都、久留米中心地あたりとでも考えられなくないのかな、うむむ・・
海進がどのあたりまで進んでいたのか良く分かりませんし、筑後川の流れが3世紀あたりでは
今と違っていたという話もあり、比定地をしぼれきれていないところが痛いところですか。


>>151
「二日市水道」は、そうだったらしい、とか、そうなのかもしれない、というものではなく、
一人の人が「あった」といってるレベルのもののようですね。

トンデモ説の多くは、自説の都合のよいところだけを書き、それ以外は目をつぶっているものが
多いと感じています。方角のずれもその1つですね。
エジプト論はよく知りませんが、都合のよいことだけならエジプトとでも云える、という
痛烈な批判(もしくはパロディ)のようですね。
ちなみに私の説、邪馬台国=筑後川中下流域は、えらくつまらない結論だな、と自分では思いましたw 皆さんもそう思われたかもしれませんね。
1591 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/10(金) 12:19:54
>>153
数百人からなる使団がきて初めて見る土地を記録に残したのです、記録専門の人も1人ではなかったでしょう。
そのような資料をもとに陳寿は書いています、また陳寿がわざわざ方角などを勝手に直したりと
いうことは考えにくい、むしろ資料に非常に忠実な記述をしていると考えられる。
水行20日は算出すれば概算で里程を書くこともできただろうが、それすらしていない。
その方向が「東南」です。
片や一人の一般人の比定地の、妄想といってもよいでしょう、が東南方向に並んでいる。
どちらが正しいだろうか、と考えたとき、やはり私は陳寿の記述が正しかったろうとしか思えない。
ちなみに上の一般人とは私のことでもあります。

それから投馬国ですが、あなたの説明はあなたの比定地ありきです。そこに比定したいがための説明です。
これでは、投馬国は遠賀川流域ではなかった、と言ってるのと同じです。

>>154
出雲は出てこないのが不思議ですね。ただ投馬国と考えるには、まず方角が違う。
それに投馬国なら邪馬台国傘下の1国になってしまい、これは出雲としては違和感がある。
やはり記述されていないか、東1000里のまた倭種の国が出雲系列?の国、程度ではないでしょうか。

>>156
国名の音ですが、同じ人(使団)が書いたものです、違う時代の音だとは考えられません。
邪馬台国を畿内に求めるのは「自郡至女王國萬二千餘里」という記述に合いません。
160日本@名無史さん:2007/08/10(金) 13:01:43
>>159
出雲がちょうど、その程度。
投馬国が、出雲なのはかなり固い。
161日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:14:59
>158
筑後川流域の特に下流に近いところは、えらく水をコントロールしずらい
場所だったのではないかの考えています。大川、川副など
縄文時代には陸稲が栽培されていたという話を読んだことがありますが、
ひょっとしたら、文化の変遷があったのかもしれません。

邪馬台国以前は、久留米から甘木朝倉あたりの上流域で陸稲を栽培する
縄文(に近い)文化、生産はそれほどでもなく、地力が衰えやすいが、灌漑
などの技術が余り必要ではない、低人口と想定。
のちに水稲が主流になると下流の低湿地に移っていくが、灌漑などの技術
が必要。地力の衰えは少なく、大量生産が可能。ただしたまの洪水などで
全滅する可能性あり

久留米八女エリアはその間に属すると考えられるので、何かあるのかもしれ
ません。
甘木朝倉縄文系文化圏と久留米八女+下流域、弥生文化圏、という妄想が
あります。時代的には後になりますが筑紫の守、磐井も八女ですね。


二日市水道、興味深い話ですが、あのあたりは結構標高が高いですよ。
おそらく、福岡県内では一番の豪雪地帯(言いすぎ)です。
あれくらいの川だとさかのぼるのにかなり苦労しそうです
162日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:27:56
所で金印が見つかれば其処が邪馬台国だと、判明するのよね。
この意見に反論がある?
畿内の古墳内で見つかる可能性もあるね。
163太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/10(金) 23:05:44
判明しないよ。金印は可動性のものだから、女王国でない場所から出る可能性
もありうる。
164あのスニーカーはもう捨てたかい〜♪ じつは153:2007/08/11(土) 20:39:13
>>1さんが言われるような、「東南」という方向が正しい、という事で私もかつて考えて
みた事はありました。ところが、東南へ陸行してみると、出てくる地名は「相知」「多久」
「小城」といった、三点セットとは似ても似つかない地名ばかり。
さらに、「不や国から、南に水行」となるわけですが、水行する為には、海or川が必要です。
東南へ向かった先にあるのは「有明海」。筑後川より西を「投馬国」に比定すると、
甘木市へ向かうには、有明海を「東へ水行」して筑後川に入り、それを「北東に水行」しなければ
なりません。魏志倭人伝には、「南へ水行20日で投馬国5万戸 南へ水行10日、陸行1月」
とあります。最初の方角が現代並みに正しいとすると、ここでまるで説明がつかなくなってしまう
のです。
(私が尊敬してやまない相模原原氏は、おそらくこの矛盾につきあたり、小城のインコのピーちゃん
のお墓を卑弥呼の墓とされたのだと思います。)

最初の地名が正しいとし、投馬国(くどいですが、人口5万戸)を遠賀川流域とした場合、
魏使一行が向かった方向が東南ではなくて東北だったとすれば、その後の記述に大きな矛盾は
生じないのではないかと思うのです。

おまけですが、「投馬」は「とうば」or「とば」を漢字表記したものではないかなと思っています。
「戸畑」がその名残ではないかな〜?と思っています。

>それから投馬国ですが、あなたの説明はあなたの比定地ありきです。そこに比定したいがための説明です。
>これでは、投馬国は遠賀川流域ではなかった、と言ってるのと同じです。
ここはいただけません。この部分には説得力がありません。>>1さんらしくないですね。
165日本@名無史さん:2007/08/12(日) 06:15:15
卑弥呼の墓は箸墓古墳で決まりだな
166日本@名無史さん:2007/08/12(日) 07:25:49
三点セットについて。
伊都はイタ、奴はト、不彌はオビ、とこれらの国名が記載された当初発音されていたようです。

三点セットの地名 イトーナーウミと比べてだいぶことなるでしょう。
1671 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/13(月) 19:38:12
>>164 その1
>三点セットとは似ても似つかない地名ばかり
別に3点セットは地名が似ているというだけの場所ではありません。遺跡や金印や後に伝わる文化など
状況的証拠にちかいものですが、それらが強力に比定地と指し示しているのです。
地名が似ているというのは、これらの添え物のようなものです。

>筑後川より西を「投馬国」に比定すると、 甘木市へ向かうには、
筑後川より西に投馬国を比定する意味が分かりませんが、甘木に向かう必要もありません。
ゆえに東へ水行20日する必要もないですし、水行10日陸行1月する必要もありません。
説明がつかなくなるのは、あなたの勝手な想像が間違えであるだけの話です。
サガミハラハラ氏も、あなたのいうような考えは持っていないですよ(と信じたいですがどうでしょう?)
1681 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/13(月) 19:39:02
>>164 その2
>この部分には説得力がありません。
まず、すでに指摘しましたが方角がおかしい事になります。それまで45度(90度?)ずれている方角が、
南水行20日の南が合っていると考える理由がありません。むしろ南東となっているべきところです。
また20日も、もし魏使が実際に行ったのだとすると、里程で書いていないのはおかしな話です。
また川を船でさかのぼるのは賢くはないでしょう。中国大陸の大河ならともかく日本の小川ではなおさらです。
にもかかわらず、海岸沿いを末盧国から不彌国まで陸行したのち、不彌国から投馬國へ水行したと考えるのは、
簡単な沿岸沿いをずっと水行したというのであればまだしも、無理がありすぎるでしょう。
また遠賀川河口に1000戸の不彌国、内陸に50000戸の投馬国、というのも考えづらいです。
戸畑がどのあたりか分かりませんが、それほどの人口を遠賀川沿いの内陸部に求められるでしょうか?
また投馬国から邪馬台国(あなたのいう甘木)までの里程も書かれていないことが困ります。
山越えに水行10日陸行1月でしょうか? それだけ掛かるなら戻って通りやすい道を行きそうですが。
もちろん戻ったと考えると、南至邪馬壹國の南があやしくなります。

結局の所あなたがいっているのは「南至投馬國」を遠賀川をさかのぼると考えると
「(そこの部分の)方角だけはあっている」というだけであり、積極的に投馬國を
遠賀川流域の内陸部に比定する理由がまったく見当たらないということです。

これらが私が「投馬国は遠賀川流域ではなかった、と言ってるのと同じ」という理由です。
169日本@名無史さん:2007/08/13(月) 20:31:05
>まず、すでに指摘しましたが方角がおかしい事になります。それまで45度(90度?)ずれている方角が、
>南水行20日の南が合っていると考える理由がありません。むしろ南東となっているべきところです
これについては、すでにのべましたね。
>また20日も、もし魏使が実際に行ったのだとすると、里程で書いていないのはおかしな話です。
これについてもすでにのべましたね。
>また川を船でさかのぼるのは賢くはないでしょう。中国大陸の大河ならともかく日本の小川ではなおさらです。
京都の高瀬川をご存知ですか?あんな内陸の狭く浅い川までも遡っていたのですよ。
>海岸沿いを末盧国から不彌国まで陸行したのち、不彌国から投馬國へ水行したと考える
もう一度魏志倭人伝を読んでみたらいかがでしょう?
>また遠賀川河口に1000戸の不彌国、内陸に50000戸の投馬国、というのも考えづらいです。
良く読んでくださいね。不や国は「津屋崎」あたり、「投馬国」は遠賀川流域と書きましたね。
170日本@名無史さん:2007/08/13(月) 20:32:07
169の続き

>戸畑がどのあたりか分かりません
北九州市戸畑区です。地理の勉強はしていますか?w
>投馬国から邪馬台国(あなたのいう甘木)までの里程も書かれていないことが困ります
書いてありますよ。よく読みましょう。
>それだけ掛かるなら
だから、〜日という距離の表記には客観性が無いと逝ってるでしょ?
三歳児が10日間に進む距離と、20才の若者が進む距離は全然ちがいますね。
「それだけ」って、君は「水行10日、陸行1ヶ月」で何キロほど進んだと考えてるの??
>「(そこの部分の)方角だけはあっている」というだけであり、積極的に投馬國を
>遠賀川流域の内陸部に比定する理由がまったく見当たらないということです。
「そこの部分の方角だけ」ではなく、全体的な整合性がとれていると言う事を縷々逝ってきたつもりだけど、
解らないようだね。
たとえば、君が最初にのべていた、「投馬国=琉球」説のようなもの(南にあるというところしかあてはまらない)
ものをそういうのならわかるけど。w
>これらが私が「投馬国は遠賀川流域ではなかった、と言ってるのと同じ」という理由です。
無様な口上ですね。w  こんな口上をかいて、自分に酔ってちゃダメですよ。
お前は比定地すらあげられないのだから。w
あ〜、>>1 がこんなつまんねー香具師だとは思わなかった。(途中から薄々感じてたけど。w)
まあ、せいぜいガンガッテね!
171日本@名無史さん:2007/08/13(月) 21:01:44
あのさあ、邪馬台国がどこにあったかというのは、現代の科学に照らし合わせた時に
完全に合致するものが無いから論争になってるわけよ。それを、
>「(そこの部分の)方角だけはあっている」
(この場合『だけ』がポイント。すべてを満たすものが無い以上、どんな仮説も「〜だけは合っている」「しかし、〜は違う」となってしまう。)
とかいい始めると、なにもかも、「 AはBで無かった、と言ってるのと同じ」になっちまうわけ。
まあ、それもわかんねー馬鹿な「1 ◆.L.MXSPOgc」はハナっから、人の意見を聞く資格なんてねえってわけだ。
まあ、てめえのブログでオナニーでもしてなってことだ。
172日本@名無史さん:2007/08/13(月) 21:13:23
スレ主の1 ◆.L.MXSPOgcさん はどこが投馬国で、
邪馬台国にはどういう道を通っていったと考えてるの?
173九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/14(火) 01:34:57
@「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」
 倭人の國の國邑名はどれか?

A「女王國」
どの國が女王國なのか?
伊都國は女國に含まれない。なぜなら「伊都國・・・皆統屬女王國」だから。
不彌國は女王國に含まれる。なぜなら不彌國はぴったり「自郡至女王國萬二千餘里」の位置にあるから。
邪馬壹國は女王國に含まれる。なぜなら女王卑彌呼が都としている国だから。

B「女王之所都」
女王が都としている場所は邪馬壹國の何処か?

C有明海沿岸の地形
3世紀の有明海沿岸地形はどのようだったのか?
A:佐賀市中心部は縄文前期中期に出来た南に張り出した泥州半島。
B:大川市中心部は縄文前期中期に出来た泥州島。
C:柳川市中心部は縄文前期中期に出来た泥州島。
D:有明海北部海岸線は目達原・吉野ヶ里の南側。
E:有明海東部海岸線はみやき町−千代田町−大川市−柳川市−高田町西部のライン。
F:筑後川の河口の位置は千代田町−大川市間又は大川市−柳川市間
G:低湿地帯(水稲生産地)は、みやき町−千代田町−大川市−柳川市−高田町西部−大木町−久留米市−みやき町に囲まれた範囲
174九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/14(火) 01:37:51
スレ間違えた
175筑後原住民:2007/08/14(火) 09:07:49
>>173
勉強になります。感謝です
176日本@名無史さん:2007/08/15(水) 16:37:27
一大率
女王国の官?
他の官名が明らかに日本語なのにちょっと変

邪馬台国
倭人伝を通じて女王の都すところの国名として一箇所出てくるだけ
この国をいう場合には専ら女王国
177日本@名無史さん:2007/08/15(水) 17:58:49
>>176
「一大率」は女王国の「機関(組織)」。「官」ではない。
178日本@名無史さん:2007/08/15(水) 18:33:58
組織なんてどこに書いてあるの?
179日本@名無史さん:2007/08/15(水) 18:40:49
>>177
組織でもいいがなぜ漢語なの
他にこんな例あった?
180日本@名無史さん:2007/08/15(水) 19:58:15
たしかに一大率は謎につつまれており興味をかきたてられる存在ですね
みなさんは一大率を「イチダイソツ」と読まれますか、それとも「イキソツ」と読まれますか
後者ならば壱岐国と何らかのかかわりのある官、もしくは組織ということになるでしょうか
近くに壱岐神社があり壱岐真根子がまつられていますが
私は彼が壱岐の王でありオキナガタラシヒメが朝鮮半島から九州へ侵入したとき
壱岐の王を人質にとって壱岐人に水先案内をさせたのではないかと勝手に想像しています
用済みになって斬られた浜辺が現在「生の松原」と呼ばれている場所ではないのかと
ワカタラシヒコ、ナカツタラシヒコ、オキナガタラシヒメは半島から侵入した侵略者ではなかったかとも感じています
北部九州に侵入し、平定したオキナガタラシヒメの子がイザサワケ=応神天皇であり
このイザサワケこそ宇佐に細々と存続していた邪馬台の血筋と婚姻を結び、東進を開始した王ではなかったかと
これも勝手に想像しています
181日本@名無史さん:2007/08/15(水) 20:15:06
一人の大率
182日本@名無史さん:2007/08/15(水) 23:33:09
一大率が含まれる部分の原文は

自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之

岩波文庫本の訓読文では
女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。
何か変
というのは
”検察”にこんな再帰動詞みたいな使い方あるの?
”諸国”は一度しか使われてないのに訓読文では段落を変えて二度出てきて
最初は目的語、二度目は主語

漢語は全然知識ないので的外れとも思いますけど、どなたか教示して頂けたら幸いです
183日本@名無史さん:2007/08/16(木) 00:37:05
原文:
自女王國以北,特置一大率,檢察諸國,諸國畏憚之.常治伊都國,於國中有如刺史.
王遣使詣京都?帶方郡?諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯.
184春を愛する人は 心清き人 実はサガミハラハラ:2007/08/16(木) 01:17:15
イチダイソツでは現代日本語読みですね。一はイ、大はダまたはタ、率はソまたはソッでイダソまたはイタソと発音していたでしょう。
イタソのイタはイタク、ウタ、ユンタに共通する語意で言葉と関係する意味をもつものでしょう。
卑弥呼は鬼道に長けていたので、かれも同様オカルト的言動で人々を畏憚させていたものでしょう。
185日本@名無史さん:2007/08/16(木) 01:51:46
だめだよ183さん
原文は区切ってないぞ
186日本@名無史さん:2007/08/16(木) 03:20:13
「一大國」は倭語、
「一大率」も倭語。
187日本@名無史さん:2007/08/16(木) 07:31:59
>>180
それは、有り得ない。
1881 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/16(木) 14:26:48
>>169
話しにずれが生じているようでしたので、遡って読み返しました。
不彌国が津屋崎あたりで、使団はそこから先には行っていないのですね。
でここまでは方角が90度ずれていると。
投馬国は、遠賀川流域〜洞海湾(旧大渡川)に広がる平野で遠賀川をほんの少し
南にさかのぼるから、南水行20日? それともこの南は90度ずれて東のことと
いう主張でしたっけ?
そのあと南水行10日陸行1月は、(文字通り)南に遠賀川をさかのぼり、その後
陸行1月で山越えをし、甘木の邪馬台国にいたる伝聞情報なのですね。
(ここまでで違うでしょうか?)

繰り返しになりますが、方向も間違っていて距離(距離感)も間違えていて、
その前提で○○が邪馬台国と比定すると、どこに比定しようとも矛盾はありません、
全体的な整合性もとれるのでしょう。
ここの南は実は東で、ここは南、ここは南西でそこは東北、とか、もう日本全国どこでもOKです。

ところで、甘木の邪馬台国が伝聞情報であるのに奴国=福岡平野からの行程ではなく、
わざわざ投馬国からの行程を倭人が教えたと考える理由は何でしょう?
後学のために教えてもらえませんか?
1891 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/16(木) 14:34:55
>>171
「(そこの部分の)方角だけはあっている」
これは、その人の主張が「全体の方角が90度(或は45度)ずれている」という主張ではなく、
他のところの方角がずれているのに、その一部の方角だけはあっている、という
一貫性のないところを指している文です。
もっとも全体の方角がずれているという主張で、その理由になるほどと思わせる主張を
私は知りませんので、それらの主張も同じくらいあやしい話に感じられますが。

ところで、私説はどこが満たされていないのでしょう?

>>172
>1 のリンク先のブログ、もしくはこのスレに書いてあります。
ブログの最後の比定地一覧を見るだけで、私説がどのようなものか分かるかも?

>>173
有意義な情報どうもありがとうございます(スレ違いのようですが)
CのD、吉野ヶ里の南側が北部海岸線というのは、その南に邪馬台国と考えていた私説を
修正する必要があるかも知れませんね。
CのGは、私が邪馬台国と考えている地域と大まかに重なるようで、すこし喜ばしい情報に思えましたが、どうでしょうか。

>>一大率
現時点では、論争に加わらないことにします。
190日本@名無史さん:2007/08/17(金) 19:54:08
>>188-189
結局の所あなたがいっているのは「南至投馬國」を琉球と考えると
「(そこの部分の)方角だけはあっている」というだけであり、積極的に投馬國を
琉球に比定する理由がまったく見当たらないということです。

これらが私が「投馬国は琉球ではなかった、と言ってるのと同じ」という理由です。

結局の所あなたがいっているのは「南至投馬國」を久留米と考えると
「(そこの部分の)戸数だけはあっている」というだけであり、積極的に投馬國を
久留米に比定する理由がまったく見当たらないということです。

これらが私が「投馬国は久留米ではなかった、と言ってるのと同じ」という理由です。
191日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:02:48
>>188-189
久留米が投馬国? 
久留米から「南」へ水行10日、「南」へ陸行10日してたどり着くのが筑後川流域???

方向も間違っていて距離(距離感)も間違えていて、
その前提で○○が邪馬台国と比定すると、どこに比定しようとも矛盾はありません、
全体的な整合性もとれるのでしょう。
ここの南は実は東で、ここは南、ここは南西でそこは東北、とか、もう日本全国
いや、世界中どこでもOKです。w

一応マジレスしておくと、久留米なんて筑後川流域そのものだぞ。
192ローガン:2007/08/17(金) 23:32:23
一大率、倭人伝に書かれたところよく読んでください。一大率は伊都国にあるのですね。
では邪馬台国は北部九州にはありません。このスレさっと見ただけでよく読んで無いので既出でしたらごめんなさい。


193ローガン:2007/08/18(土) 00:08:26
ごめんなさい。突然お邪魔して!佐賀見ハラハラさん
194横槍:2007/08/18(土) 00:12:49
3文字熟語は漢文には無いので
一大、率もしくは一、大率と考えてください。
195日本@名無史さん:2007/08/18(土) 02:08:12
久しぶりに覗いてみたが、便所の落書き状態は相変わらずだね
日常生活も妄想三昧なんだろうか
まわりは大変だろうね
196日本@名無史さん:2007/08/18(土) 10:06:51
>>195
おまえもな。w
おおっと、ひきこもりだから
まわりには誰もいないか。w
1971 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/18(土) 10:46:00
>>190 >>191
言葉の意味さえ分からずに他人の文章を丸写しで使うから意味不明になるのです。
「久留米」については >>158 で補足を書いています。

>>192
おそらく私が、一大率などを奴国にあったという主張を指しての文章だと思いますが、
これは20000戸の奴国に対して1000戸の伊都国が、異常とも思えるほど権力などを
持った国のように陳寿が書いていることからの、まぁ私の妄想です。
世有王、常所駐、一大率など、素直に信じられない記述が並んでいますね。
他の人はあまり疑念を抱かずにいるようですが、私はひっかかりを感じる部分なので、
すこしこの辺りのことも書かせてもらいました。
最近も伊都国のものと思われる遺跡の記事がありましたが、新たな考古学的資料が出てきて
より詳細な事が分かってくるかも知れませんね。
ここは私の妄想が間違えている可能性も大いにありえます。

>では邪馬台国は北部九州にはありません
私も一大率は北部九州を治め、邪馬台国はそれに入らないと思っていますが、
「自女王國以北」の以北が気になりますね、今風に読めば女王国を含みますし、
同様の表現のあるもう1箇所では女王国を含んでいます。
含まない表現と解釈可能なのか、・・陳寿のうっかりなのかも?
198ローガン:2007/08/18(土) 16:51:40
>>197スレ主さんですね。こんにちは。
北部中部九州に女王の都があれば、直接諸国を検察すれば良いし、津の統治もすれば良いはずです。離れた場所にあるがゆえ、一大率が必要であったと考えます。
199春を愛する人は 心清き人 実はサガミハラハラ:2007/08/18(土) 20:45:54
一大率の登場は卑弥呼時代からはじまるのか?それともそれ以前から存在したのか?
だとすれば邪馬台国の成立はいつからなのか?
謎は尽きません。
ちなみにわたしは伊都国は佐賀県多久市であったと考え、邪馬台国族(甕棺族)の最初の国家、都はそこであったとみています。
200太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/18(土) 20:51:17
サガミハラハラさん 
例の紀年の研究書は出来たんですか? このごろその話がないもんですから?
201春を愛する人は 心清き人 実はサガミハラハラ:2007/08/18(土) 21:01:09
4校が終わり、表紙も決定して、お盆休みも終わりいよいよピッチがあがってくるとおもいます。
9月中には何とかとおもっています。
202太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/18(土) 21:02:42
楽しみにしてます。w
203春を愛する人は 心清き人 実はサガミハラハラ:2007/08/18(土) 21:08:47
ありがとうございます。
2044つのお願い聞いて〜 聞いてほしいのお〜♪ 実は相模腹腹のファン:2007/08/18(土) 22:27:12
おやおや。相模原腹の師匠はどうしても小城のインコのピーちゃんのお墓までに
全部納めるつもりなんですね〜。
205日本@名無史さん:2007/08/20(月) 00:47:26
コテハンを使ってる人って随分いるけど論旨その他をみると5,6人かな
こんなことして楽しいのかねえ?
206日本@名無史さん:2007/08/21(火) 15:01:37
207日本@名無史さん:2007/08/22(水) 00:47:10
>>164
>「投馬」は「とうば」or「とば」

「馬」をバと読むのは唐代長安付近の発音。
魏志倭人伝の時代は呉音のマが妥当な線。
208日本@名無史さん:2007/08/23(木) 07:12:30
>>197
魏略逸文では、伊都国は1万余戸です。
魏志と魏略のどちらが正しいかは分かりませんが
現在の地形から考察したら、魏略のほうが正しいのではないでしょうか?

あと、奴国と伊都国を比べた場合、
奴国のほうは上古音で記されているのに対して
伊都国のほうは中古音で記されている。
これは、中国側が伊都国を知ったのは中古音の時代だった可能性が高い。
伊都国に一大率が置かれていたということですが、
この国が邪馬台国(大和国?)のよって作られたような国だったような可能性が強い。
奴国は九州現地の国の意味合いが強かったのに対して
伊都国は畿内人の九州支配という目的によって作られた国という意味合いが強い。
209日本@名無史さん:2007/08/23(木) 07:13:30
>>164
投馬=ツマ
2101 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/23(木) 08:58:11
>>208
>現在の地形から考察したら、魏略のほうが正しいのではないでしょうか?
不思議ですね、現在の地形から私は千余戸が正しいと判断しています。
糸島半島は当時は島で、その間(現在の平野部の多く)は海の底でしたから。
それとも伊都国の比定地(の認識)にずれがあるのでしょうか?

>奴国のほうは上古音 >伊都国のほうは中古音
奴国も伊都国も、梯儁・張政の報告が初出ではないでしょうか?
それまで知られていた国名は倭奴国(と委奴国)で、奴国ではありません。
古音についてはあまり詳しく知りませんが、奴国の発音だけ古い(あるいは伊都国だけ中古音?)
という話には、素直には賛同しかねます。

それから畿内説は方位がずれる、自郡至女王國萬二千餘里という距離から外れる。
つまり方位も距離もでたらめの説だと私は捉えています。
もちろん当時に畿内に同程度の国や文化が存在してただろうことは否定しません。
211日本@名無史さん:2007/08/23(木) 09:07:31
九州の伊都国に一大率を置いて諸国を監察せしむ。
これはのちの時代の太宰府のようなものか?
であれば邪馬台国=大和=畿内という図式も成り立つ。
212日本@名無史さん:2007/08/23(木) 20:18:55
横レスだが
>>182-183
>原文:
>自女王國以北,特置一大率,
>檢察諸國,
>諸國畏憚之

「諸國」を2回繰り返したのは先入観による写し間違いだね。
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史・・・

しかし「特置一大率檢察諸國」で「檢察」の賓語は「諸國」であり、
「畏憚之」の(動作、行為の主体という意味で)主語は「諸國」である。
中国文にはこのように一番目の動詞の賓語が2番目の動詞の
主語になる場合がある。
使役を表わす「使,令,教」もこの類の動詞である。
213日本@名無史さん:2007/08/23(木) 21:22:01
みなさん
魏志東夷伝倭人の条は
漢人が母国語で書いた書です
訓読文は翻訳であることを忘れてはなりません
214日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:03:36
>>212
写し間違いじゃなくて標点本がそうなってる
215日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:39:49
@とAでは意味が違うよ

@檢察諸國諸國畏憚
A檢察諸國畏憚

@特置一大率一大率檢察諸國
A特置一大率檢察諸國

216日本@名無史さん:2007/08/23(木) 23:33:02
一大
これを松本清張説に従って一支と見ると
問題は”率”
中国の官に”率”なんて有ったかな
教えを請う
217215:2007/08/24(金) 00:51:24
>>216
教えることのできる輩かどうかわかりませんが。

「一大率」は「一大國」に由来する「一大」である。
「南北市糴」とあり、對馬國の3倍の人口もあり、海峡交易を牛耳っていた。
韓伝「國出鐵韓濊倭皆從取之」とあるように、九州島の倭人諸国は、
辰韓の倭人から一大國経由で鉄も手に入れていた。

「率」は「官」ではなく(倭制)組織の名称である。
その組織の要を「置一大率」であり、その組織の出先機関は其々の地域場所で、
「檢察諸國」と同時に「常治伊都國於國中有如刺史」である。
又同時に、「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國」は「皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」である。
「率」は「官」ではなく「組織」の名称であると考えざるを得ない。

218日本@名無史さん:2007/08/24(金) 03:03:11
>>217
レスありがとうございます
となると”率”は上古音ないし中古音でどういう音韻でしょうか?
219日本@名無史さん:2007/08/24(金) 14:22:39
>>210
現在と3世紀の海岸線の違いは
奴国のあった博多湾にもいえる。
220215:2007/08/24(金) 23:23:49
”率”には2通りの考え方があります。
今のところどちらかなのか結論をでせていません。

@倭語音をそのまま中国語音に文字化した。
一大率→イタリ?[一大人?]

A倭語の意味を中国語に文字化した。
(女王国が)一大國を率いた組織→一大率
例:一大のクニ→一大國
 
221日本@名無史さん:2007/08/24(金) 23:33:20
うるせぇ バーカ
222日本@名無史さん:2007/08/25(土) 00:41:14
筑紫率  大宰帥  
 率    帥    

太宰 地方長官
帥  将軍・元帥

なのか
2231 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/25(土) 03:50:21
>>211
私はもうすこし「自女王國以北」にこだわりたい。
ここは明らかに、魏使側の記述に混乱が見られる部分だと思っています。
記述どおりに読むなら一大率は女王国(邪馬台国)を含めて検察しているわけです。
これは、北九州が遠いから一大率を置いた、というのとは逆に、女王国は北九州から
それほど遠くない故に同じ一大率の下にある、と魏使が思っていたのではないでしょうか?
一大率の記述には、檢察諸國が印象強く、どうしてもこちらが気になりますが、
私はここは倭人からの伝聞情報であり信憑性の薄い部分だと考えています。
ゆえに権限下に女王国を含むか否かの混乱は、女王国と伊都国がそれほど遠くないことの現れとみています。
実質的な一大率の役割は、検閲と中国側と女王との間に立った仲介者的なものだったのでしょうが、
このうち検閲は、末盧国から唐津街道を南東に下ったところの国の記述、仲介者的な情報は
福岡平野の奴国(皆の考える伊都国)にいる一大率の実質的な役割であり、
そしてこの仲介者的な役割は、魏の帯方郡の太守の物真似をするために急ごしらえで
作り上げたポストだったのではないかと考えています。
(まーこれらは私の妄想の域を出ないものなのですがw)

ちなみに後の大和政権がこれを真似て太宰府を置いたのだろうとは思いますが、
邪馬台国=大和政権という図式は、日本書紀から否定されるべきものでしょう。
同様に日本書紀中の人物に卑弥呼を探すのは無駄な作業だと思っています。
224日本@名無史さん:2007/08/25(土) 08:30:07
>>223
その見方は苦しい。
邪馬台国の所在地が九州にするとしたら
もう九州にはスペースが内容に思うんだよな。
225横槍:2007/08/25(土) 09:40:29
邪馬台国が九州北部に存在したら、
当然不彌国や伊都国からの距離が書かれているはずだが・・・
226すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/25(土) 10:31:08
陳寿の入手した資料(複数)には距離は不弥国までしかかかれていなかったのです。
不弥国から邪馬台国までは別の資料により、それには距離はかかれていなかったのです。
227横槍:2007/08/25(土) 10:41:37
という事は、最初の資料を作った奴は不彌までしか行っていないのか・・・
ますます邪馬台国が遠くにあったように思えるのだが
228日本@名無史さん:2007/08/25(土) 13:33:34
邪馬台国、投馬国は、
そうとう、
遠くにあった模様。
229九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/25(土) 13:43:29
不彌國は女王国を構成する国。
「自郡至女王國萬二千餘里」である。
一方、帶方郡から不彌國までの距離を積算するとぴったり萬二千餘里となる。
倭人伝の書き順からみると、不彌國及び不彌國以降の投馬國と邪馬壹國の3国は女王国を構成する国であることがわかる。

以上により不彌國から投馬國と邪馬壹國までの距離は書く必要がないことがわかる。
つまり不彌國投馬國邪馬壹國の3国は女王國内で互いに隣接した国々であると見なせる。

では「投馬國水行二十日」「邪馬壹國・・水行十日陸行一月」は何を意味するのであろうか?
この意味はまた改めて書く。
230日本@名無史さん:2007/08/25(土) 16:45:27
不彌國は地形から見ても、宇美町の可能性が高いように思う。
ちなみに、現在は博多湾の海岸線は、
宇美町の近くまで入り込んでいた。

歴史年表地図・邪馬台国所在地推定地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html
231すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/25(土) 22:49:55
>>227最初の資料では不弥国を通り吉野ヶ里(委奴国<後の邪馬台国>の都)までいっています。
後の資料は3世紀中ごろに小城に遷都してからの資料です。ですから不弥国までとギシの報告書
とを継ぎ合わせて倭人伝をかいたのです。魏使は距離の測定はしていなかったのです。
232日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:57:15
九州王朝大好き=太国?
233ローガン:2007/08/26(日) 00:29:53
ハラハラさんご本は出来ましたか?大阪でも買えますか?
234日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:39:36
>>232

九州王朝大好き≠太国

九州王朝大好きは奈良出身の関西人
太国は九州人
年齢、九州王朝大好き≒太国、60代前半、太国が少し年上か?
九州王朝大好きは昨年スポーツカーポルシェケイマンS(1000万位)を買ったようだ?
太国は生活の為に仕事をしているようだ?

サガミハラハラと九州王朝大好きは投資などをしている資産家のようだ?

今までの九州王朝スレ邪馬台国スレ等日本古代史スレを読んでいれば上記のことぐらいわかる。 
235日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:50:34
>>234
レスどうも
何で貴方がそんなプライベートの事まで知ってるの?
236234:2007/08/26(日) 00:55:15
>>235
今までのスレを読んでいて、その書き込みを繫ぎ合わせるとわかった。
237日本@名無史さん:2007/08/26(日) 01:56:47
>>236
その分析力を古代史に生かせないか?
238日本@名無史さん:2007/08/26(日) 02:14:28
お金持ちかどうかはどうでもいい
コテハン使ってる人たちには論旨、文体その他に共通点がある
書き込んですぐレスが有るとはw
当たらからずも遠からじってとこか
239日本@名無史さん:2007/08/26(日) 02:16:51
「山たい(山だ)」が語源だから九州であろう。

「山とね(山だね)」が語源だから大和も九州であろう。
240すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/26(日) 10:56:34
>>233本の完成はもうじきです。全国の紀伊国屋さんにはおいてもらえるようです。
>>234資産家ではありませんが投資をしております。かのシュリーマンも投資等を行いトロイ発掘の資金をつくりました。
241九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/26(日) 17:17:25
>>234
九州王朝スレを読み続けていただいてありがとうございます。
間違いがありましたよ。僕も資産家ではありません。
242九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/26(日) 17:22:35
「投馬國水行二十日」「邪馬壹國・・水行十日陸行一月」は何を意味するかを書くのは塩基します。
荒らしが入りそうだから。
243日本@名無史さん:2007/08/26(日) 20:49:08
酸とカップリングさせれば(ry
244日本@名無史さん:2007/08/26(日) 22:12:07
>>231
吉野ヶ里は、面土国=米多国であって
邪馬台国ではない。
邪馬台国=大和国である。
245日本@名無史さん:2007/08/27(月) 06:52:35
>>240
詐欺に掛かって無い事を祈る
>>241
あんたがスレ主か?
それならスレタイはまちがえたなw
2461 ◆.L.MXSPOgc :2007/08/28(火) 08:09:52
>>224
その見方の”その”とは、どこを指す言葉なのか不明です。

九州にスペースがないと思うのは勝手ですが、その根拠が全く分かりません。
私は福岡平野と佐賀・筑紫平野に収まると考えているのですが、
あなたの考える九州とはどのようなところなのでしょうか?

>>225
隣接説をとっています。
私説では吉野ヶ里遺跡の国(おそらく)と邪馬台国が隣接していたと考えています。

>>226 >>231
最初の資料とは何時のものでしょう?
その資料の、不弥国以降の里程を陳寿が書いていない理由は何でしょう?
(遷都を知っていたなら遷都のことを書いていない理由は?)
また万二千里はどこから出てきた数字なのでしょう?

>>227 >>228
「自郡至女王國萬二千餘里」は無視ですか?
都合のいいところだけ抜き出して考えてるのでは?

>>229 >>242
投馬国の解釈は一番難しいと思っていますので、ぜひ聞かせてください。
247夏を愛する二とは 心強き人 実はサガミハラハラ:2007/08/28(火) 10:05:21
陳寿は晋の図書館で、漢王朝以来収集された資料を見たとおもわれます。
其の中に、半島や倭についての文献資料があったのでしょう。
それは、箕子朝鮮以来の周文化のもとにしるされた文献であろうとおもわれます。
周文化の証拠として、邪馬台国までの行程は周尺の1里=67.5mで記されております。
陳寿は邪馬台国が小城に遷都したことは知っていたのですが、何故かかなかったのかはわかりません。
遷都のことは知っていたが故に、郡はタイホウ郡のことであり、吉野ヶ里ではなく小城までの行程をかいていたのです。
万二千余里は原文にあったのでしょう。出発地と到着地が変わったのですが、其の分は考慮したようです。
248日本@名無史さん:2007/08/28(火) 10:30:48
全部適当に書いてるので、書き写すときに間違えた
249九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/30(木) 00:09:59
>>246 :1 ◆.L.MXSPOgc
>>247 :夏を愛する二とは 心強き人 実はサガミハラハラ

帯方郡から女王國までは、ピッタリ一萬二千餘里である。
「從郡至倭」は「自郡至女王國萬二千餘里」である。

7000 七千餘里:歴韓國乍南乍東(半島内)
1000 千餘里:始度一海(朝鮮海峡)
800 八百餘里(=四百餘里×2):對馬國・・・方可四百餘里(對馬國半周)
1000 千餘里:又南渡一海名曰瀚海(対馬海峡)
600 六百餘里(=三百餘里×2):一大國・・・方可三百里(一大國半周)
1000 千餘里:又渡一海・・・至末盧國
500 五百里:東南陸行・・・到伊都國
100 百里:東行至不彌國
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12000 萬二千餘里:自郡至女王國(総合計)

「伊都國・・・世有王皆統屬女王國」は、伊都國が女王國でないことを表わしている。
倭人伝文中の伊都國以降の不彌國・投馬國・邪馬壹國は女王國に含まれる。
250九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/30(木) 12:03:48
>>246
>投馬国の解釈は一番難しいと思っていますので、ぜひ聞かせてください。

結論から書きますが、不彌國は吉野ヶ里・目達原・米多のあたり。
不彌國の城郭は吉野ヶ里遺跡か?
魏使の行程については後日記述します。
(たとえば伊都國の城郭は肥前国丁跡あたり。)

不彌國・投馬國・邪馬壹國は女王國に含まれるので互いに隣接していると推定される。
「南至投馬國」「南至邪馬壹國」から両國は不彌國の南側に並んでいることになります。

一方3世紀の地形では、有明海は吉野ヶ里のすぐ南側まで北に入り込んでいました。
筑後川は久留米あたりからまっすぐ西に流れて米多(目達原)の南東で有明海に流れ込んでいました。
もしくは筑後川は久留米の西側の低地部を南下し、大木町を通り、
沖端川方向又は矢部川と合流して、柳川市中心部の北側又は南側で有明海に流れ込んでいました。
投馬國の範囲は、西に有明海に面して、みやき町南部・神崎市南部・大川市・(柳川市)、
邪馬壹國の範囲は、投馬國の東の大木町の低地部(筑後川)を挟んで山側(東側)に、
久留米市・広川町・八女市・筑後市・(柳川市)・みやま市?。
投馬國と邪馬壹國の境界は筑後川若しくは大木町南北の中央低湿地。
この境界の東西部はまさに「豊葦原水穂の地(國)」です。
倭人2大国である邪馬壹國七萬戸と投馬國五萬戸にふさわしい地です。

「投馬國水行二十日」「邪馬壹國・・水行十日陸行一月」の解釈も魏使の行程同様後日に。
251九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/31(金) 11:28:30
>>250の追補
上記に述べたように、3世紀の筑後川のルートは3通り考えられ、
実際はどのルートであったかよくわかりません。
水稲栽培により邪馬壹國七萬戸と投馬國五萬戸の十二萬戸を支えられたことを考えると、
筑後川は久留米の西で南に曲がり、中央低地を蛇行しながら南下し、
柳川中心部の東部あたりで西に曲がり、
柳川の北側(沖端川)又は南側(矢部川)で有明海に西向きに流れ込んでいたと思います。

何故上記のようなことになるのかを説明します。
栄養価の高い米(玄米で)が大きな収量を続ける為には、耕作地に養分の補給が必要です。
特に燐成分の供給が不可欠です。
燐は山間部から筑後川の水によって運ばれてきます。
燐成分は筑後川の定期的な氾濫によって水稲耕作地に補給されるのです。

有明海東岸平野の中央低地部を筑後川が北から南へ流れていたと仮定すると、
邪馬壹國七萬戸と投馬國五萬戸の十二萬戸の特別な繁栄がよりもっともなものとなります。

然しながら、3世紀の筑後川がどのルートで流れていたかを示す証拠は今のところありません。
252日本@名無史さん:2007/08/31(金) 11:41:37
>>249
@『從郡至倭』
郡をしたがへ


A『自郡至女王國』
郡みずから


意味が全然違いますが
253九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/31(金) 12:17:30
>>252

@『從郡至倭』の場合、以下状況説明を述べているので、「從」が適切。
「自」は使えない。

A『自郡至女王國』の場合、以下距離を距離を述べているので、「自」が適切。
「從」は使えない。


「從」は「したがう」の意味では使われてはいない。
「自」は「みずから」の意味では使われてはいない。
254昔々:2007/08/31(金) 12:39:38
>>253
じゃあ
『自分』『自身』『自女王國』『自古以来』
などは、
自の後に距離なの?


その場しのぎはよそうよ。
255昔々:2007/08/31(金) 12:44:59
>>253

使われてる、使われてないと、主観的な自己判断はよそうよ。
ちゃんと『したがえる』『みずから』と、する訓が存在する事は事実なんだし
256日本@名無史さん:2007/09/02(日) 20:00:17
2571 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/02(日) 20:41:49
>>247
サガミハラさん、率直に云います。
「東南陸行五百里」以降のあなたの解釈は、到底受け入れがたいです。
ありもしない過去の資料を想定し、それに基づいて書かれているなどというのは、
ウソにウソを塗り固めているようなものですよ。

伊都国以降のあなたの解釈は本当に複雑です。地理的にも時間軸的にも、ずらさないと
成りたたないと、ご自身で云われているようなものです。

>>250 >>251
九州王朝大好きさん、途中の解釈は別として最終的な結論は私説と似ているようで、
いろいろな面で参考になります。
九州王朝大好きさんは、不彌國(吉野ヶ里)の南に投馬國があり、そのさらに南に邪馬壹國があったと
考えられておられようよですが、私は同じ川の左右(南北)岸で別の国が成ったと考えていないので
筑後川中下流域が邪馬台国、上流域にあたるいわゆる甘木朝倉が投馬国(行程記事の投馬國
=南水行20日の国=琉球、ではない)と考えていますが、
この邪馬台国と投馬国も隣接していた可能性が高いと再認識いたしました。
そういった部分も含め、九州王朝大好きさんさんの主張は私説の補強になる部分が多いように
思えますが、どうでしょうか?

以下、蛇足
>不彌國・投馬國・邪馬壹國は女王國に含まれる
という主張は、納得しかねる部分もあります。

後日書かれるという「水行二十日」「水行十日陸行一月」の解釈に
突っ込みをいれる可能性は高いです。
258サガミハラハラ:2007/09/02(日) 21:50:00
不弥国小城市不二町までは納得できますでしょうか。ここまでは、倭人伝の記述どおりですが。倭人伝は陳寿の創作ではありません。
陳寿は何かの資料をみたはずです。その現物は魏使の報告書もふくめて現存しないはずです。
となると、殆どの人が信じている魏使の報告書すら存在したか疑わしいことになります。
しかし、再度いいますが、陳寿は何かの資料を参考にして記述したことは間違いありません。
259日本@名無史さん:2007/09/03(月) 08:38:45
狗奴国王・卑弥弓呼は、

許乃国王・武埴安彦命。
260九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/05(水) 05:21:40
>>257
>九州王朝大好きさんは、不彌國(吉野ヶ里)の南に投馬國があり、そのさらに南に邪馬壹國があったと
>考えられておられようよですが、私は同じ川の左右(南北)岸で別の国が成ったと考えていないので

上記部分は誤解されております。
不彌國(吉野ヶ里・目達原)の南に東西に並んであったのが投馬國(西)と邪馬壹國(東)。

3世紀の古筑後川下流平野部の地形についても誤解されています。
古筑後川は久留米の東側で南下し、西鉄天神大牟田線にほぼ沿って蛇行しながら、
又低湿地沼沢地帯を形成しながら、柳川の南の塩塚川で有明海に流れ込んでいたと考えられます。

即ち、投馬國は、みやき町南部〜久留米市城島町〜大川市〜柳川市にかけて、
古筑後川西岸を南北に細長くありました。
邪馬壹國は、久留米市〜筑後市〜八女市にかけて、
古筑後川東岸を南北に細長くありました。
大木町およびその南北地域は筑後川蛇行による低湿地沼沢地帯となり、
>>251で「中央低地部」と書いた地域になります。

弥生時代には、河川による低湿地沼沢地帯が国々の境界となるケースが見られます。
@利根川:関東平野中央部の古利根川沼沢地帯により、武蔵側と常陸側に東西に分断されていた。
A淀 川:淀川河口部の網目水路により摂津側と河内側に南北に分断されていた。

利根川と筑後川が坂東太郎と筑紫次郎と呼ばれるのは、
単に暴れ川と言うだけでなく、これらの川の性格をよく表わしているものと思います。
利根川については、【毛野】関東に大王あり【武蔵】スレに、私以外の方の発言や資料が散見されます。


今朝は、とりあえず、>>257の誤解部分へのレス。

261日本@名無史さん:2007/09/05(水) 10:56:52
そもそも
サガミさんの解釈は『東南至伊都國』であって、本来の『東南陸行五百里到伊都國』とは掛け離れた解釈だから。
262サガミハラハラ:2007/09/05(水) 17:45:55
五百里陸行すれば、伊都国に到着するわけですが、問題は方角ですよね。
北から来たのですから、方向は北東、東、南東、南、南西、西、北西のどれかですよね。
しかし、マツロ国が唐津であるとすれば、北東、東、北西は水行できますからはぶかれますよね。
残りは、南東、南、南西ですよね。しかし唐津から南西へは行けませんので、南か南東ということになります。
そうやって、道なりに南、南西に進んでいけば、多久市にはいります。
地図で確かめてみてください。ただし白地図ではだめですよ。
地形がわかる地図ですよ。小中学校でもらった社会科地図でじゅうぶんです。
263日本@名無史さん:2007/09/05(水) 21:54:45
>>262

>マツロ国が唐津であるとすれば、北東、東、北西は水行できますからはぶかれますよね

主観的に判断してはいけませんよ。

>北東、東、北西は水行できますからはぶかれますよね

水行もできるが陸行も可能ですよね?

それに、伊都國が末盧國の港から見て東南の位置にあったときの書き方は
『東南至伊都國五百里』でいいはず
264日本@名無史さん:2007/09/05(水) 22:31:07
東南至伊都国五百里、でなく東南「陸行」五百里となっているところにもっと着目すべきでしょうね
伊都国は末ラ国の東南にあるのではないということでしょう
265日本@名無史さん:2007/09/05(水) 22:37:14
>>264
そういうことです。
東南方向に伊都國があるなら、『東南行』で十分だからです。

266日本@名無史さん:2007/09/05(水) 22:41:31
もう少ししぼった考え方をすれば、『伊都国は東南方向には絶対に存在しない』ということです。
267サガミハラハラ:2007/09/05(水) 23:06:00
おやおや何をおっしゃる。
268日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:14:49
>>267

>おやおや何をおっしゃる。

サガミさん。背中が汗でびっしょりですよ
269サガミハラハラ:2007/09/05(水) 23:33:26
額にも脂汗です。
270日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:38:20
>>269

適度な運動を奨めます。
糖尿には気をつけてください。
271日本@名無史さん:2007/09/06(木) 04:26:36
>>264-265
下記ABで意味の違いがあるのでしょうか?
意味の違いがあるのであれば、ご教授下さい。

(A) 『東南陸行五百里到伊都國』
(B) 『東南陸行到伊都國五百里』
272日本@名無史さん:2007/09/06(木) 07:59:43
>>271

Bに間違いが
『東南至伊都國五百里』でOKですよ


Aの
『東南陸行五百里』の場合、五百里と言う数値を「陸」(歩測)にて、「行」(一方向、起点→着点)計測な結果五百里だった。
そして
最初測り始めた進行方向が「東南」


Bの『東南至伊都國五百里』の場合

起点から東南方向五百里先に伊都國があるのじゃなく、着点伊都國から北西に五百里と数値化した(東南至伊都國)とした起点がありますよ


そういう違いです。
273日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:12:06
そんな漢文成り立つのですか。
274日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:30:37
ここにいる奴らは相当なアホだな
間違いだらけの魏志倭人伝を100%誤りのない物とみなして
あーだ、こーだと論議してるのだから
幸せな脳みその持ち主の連中だ
275日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:53:00
そもそも邪馬台国はなかった。倭もなかった。
あるのは茫々たる大洋である。
276日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:59:13
>>273
たぶん試験でこんな答書いたら0点だろうな

文字数を制限し、合理的に書いた古代漢文なんて試験に出ないから 覚える必要性もないわな
合理的に書かれたものは、形式よりも、漢字自体の意が優先するから


だからあれでいいんだよ
全て、理にかなった合理的解釈。
277日本@名無史さん:2007/09/06(木) 10:12:55
頭の禿あがったお偉いさん達が、何時までも文法文法とほざいていて、合理的に考えないから
何時までも同じ所を堂々巡り。

そろそろ解りゃいいものを、

頭堅すぎるんだよ
気付けよ!
今の読み方が古代漢文には100%でないことを
278日本@名無史さん:2007/09/06(木) 13:17:45
>>259

母音の甲乙違うだろボケ!
279日本@名無史さん:2007/09/06(木) 13:23:26
>>278

>母音の甲乙

なんですか?それ?
280271:2007/09/06(木) 18:24:57
>>272
ご回答ありがとうございます。
しかし質問の意味が理解されていなかったようです。
質問やり直させていただきます。

(A) 『東南陸行五百里到伊都國』 は原文通りです。

(B) 『東南陸行到伊都國五百里』は、 
『循海岸水行(歴韓國乍南乍東)到其北岸狗邪韓國七千餘里』の言葉を、
「循海岸→東南、水行→陸行、到其北岸狗邪韓國→到伊都國、七千餘里→五百里」
と差し替えてたものです。
その上で「五百里」の語順位置が変わることによって意味が変わるかどうかを質問いたしました。

再度質問いたします。
(A)と(B)で意味の違いがあるのでしょうか?
意味の違いがあるのであれば、ご教授下さい。
2811 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/06(木) 19:36:29
>>258
サガミハラハラさん、陳寿が主に資料にしたのは、魏使の2回の渡航記録ですよ。
だから三国志にもその2回の渡航のことが書いてあるのです。
そしてこのことが逆に、魏使の報告書が存在していたであろうことを語っているのです。

もし他の渡航記録があったならば、陳寿はいつのどういう使団のものかを書いていたはずです。
だから時代の違う別資料に里程記事があった、などというのはサガミハラハラさんの妄想です。
サガミハラハラさんの説が、そのようなものを持ち出さなければ成り立たないようなものであるのは、
それが間違えている可能性が高いからだろう、と私は思います。

>>260
なるほど、国の比定についてよくわかりました、ありがとうございます。
利根川などの例が筑後川にあてはまるか否かは不透明(疑問)ですが、
同じ国として発達せずに別の国となったと考えるのはやはり不自然に感じています。

水行20日の解釈、楽しみにしています。
2821 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/06(木) 19:38:07
>>261 >>263 >>265 >>266 >>272
同一人物のような気がするので、まとめてレスしますが
私説は伊都国をそこに比定していませんが、里程記事としてはここは末盧国の南東に陸行500里
いったところに次の国があると解釈するのが当然だと考えます。
その意味ではサガミハラハラさんと同じ(近い)説になります。

南東方向に進むことに関しては、狗邪韓国までの行程記事が最終的に南東方向に進むことになるのを
「循海岸水行歴韓國乍南乍東」と書いてあるように、もし南東方向に進まないようなら、
どのように進むのかが書かれる可能性が高いことが伺えます。
ゆえにここは南東方向に進むと解釈すべきだと考えます。
>『伊都国は東南方向には絶対に存在しない』ということです
という考えは、正直アホです。

「陸行」が書かれているのは、ここから(水行ではなく)陸行に変わったからです。
海岸線沿いをいくなら水行のままいくでしょうから、里程記事を海岸線沿いと考えるなら
陸行に変えた理由が必要になるわけですが、この認識ができている人は少ないように思います。
しかもさらに、陸行の後に水行に再び変わるなどとは、普通は考えられないわけですが、
そんな事すらお構いなしな人が非常に多いですね。

>>274
100%誤りはない、と考えている人は殆ど居ないでしょう。
私はまず陳寿が、非常に勘違いをした記述をしていると考えています。
ただ方向や距離を間違えていると考えるには疑問が多いですが。
283日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:14:16
>>280
意味的な違いがあるとすれば

『東南陸行五百里到伊都國』の場合「陸行」(五百里)であり

『東南陸行到伊都國五百里』は 「東南陸行到伊都國」(五百里)だということの違いです。

284日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:24:30
>>282

>>『伊都国は東南方向には絶対に存在しない』ということです
という考えは、正直アホです。

アホですか? ま、いいでしょう。


>海岸線沿いをいくなら水行のままいくでしょうから

主観的な判断ですね

>狗邪韓国までの行程記事

そんな記事何処にありますか?


285日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:33:31
>>281

>陳寿が主に資料にしたのは、魏使の2回の渡航記録ですよ。

え〜っ?そうなんですか?
286日本@名無史さん:2007/09/06(木) 22:18:39
皆さん、魏志倭人伝の編纂についてというより中国の史書の編纂について基本的に間違っていませんか?
中国の史書(東夷伝)は前の王朝の史書の内容に引き続いて書いていくのです。
楽浪海中に倭人あり。これと同類の文があちこちの東夷伝にあるでしょう。
これ魏使の報告書からですか?
287プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/06(木) 22:46:13
>>286

歴史書でやってはいけないこと

それは未来を書くことですね

過去の史料で使えるものは何でもOK利用です。
288日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:16:55
>>279

母音の甲類乙類が一致していないってこと。
289日本@名無史さん:2007/09/07(金) 01:36:03
ここはアホの巣窟だな
当たり前の事すら分からんのだからな
2901 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/08(土) 21:44:16
>>284
アホです。

客観的な判断です。
あなたのいう客観的な判断ではどうなのでしょう?
海岸線沿いに水行できるところを、わざわざ陸行するのが客観的な判断でしょうか?

分からなければいいです、まったく読んでいないのですね。

>>285
そうです。
もしや魏略を参照してそのまま書いたとか云うのでしょうか?(それとももっと古い歴史書?)
もうすこし勉強してきてください。

>>286
その通りです。言われる1文の、局所的なことを云っているのではありません。
倭の風俗、環境、国々、女王に関する記述などなど、あなたはこれを
魏使の報告書以外のものからの由来というのですね、驚きです。

>>289
対象が不明です。
291日本@名無史さん:2007/09/09(日) 08:57:52
>>>289
>対象が不明です。

1 ◆.L.MXSPOgc がその筆頭なんだよ馬鹿!
292日本@名無史さん:2007/09/09(日) 09:25:47
>>290
わざわざ陸行って?だから主観的だといわれるんだ。わざわざかどうかなんてあんたの主観そのものじゃない?
気付かないのか?
2931 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/09(日) 23:13:15
>>291
馬鹿はあなたです。

>>292
その意見はあなたの主観です。
気が付くべきは貴方です。
294日本@名無史さん:2007/09/10(月) 05:25:17
李舜臣将軍がいなかったら邪馬台国はとっくに滅びていた
295日本@名無史さん:2007/09/12(水) 13:59:06
【映画】吉永小百合「卑弥呼」になる
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1189560254/
2961 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/15(土) 08:13:06
書き込みが止まりましたね。

私説に対する質問や突っ込みは無いものでしょうか?
297日本@名無史さん:2007/09/15(土) 08:38:56
おはつです。

井沢が道鏡の神託事件から推定して、宇佐、と言ってますが、距離等ではなくそういった
論理の主張はどうなんでしょう。
過去ログにあるのならなんとか見てみたいと思います。

古田が「すべての国民に告ぐ」などで強調されてる点もどうなんでしょう。
その後の展開を知らないもので、ぜひ知りたいと思います。
2981 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/18(火) 10:02:40
道鏡の神託事件、というのは知らないです。
宇佐は、私説でのルートからは外れていますが、女王国配下の国の可能性もありますし、
そうでなくとも十分な大国であったでしょうから、その意味では面白いでしょうね。

「すべての国民に告ぐ」も知りませんので、何とも答えようがありません。
299日本@名無史さん:2007/09/18(火) 10:35:49
>>296
質問です。
御説の中身に直接関係する内容ではありませんが、
倭人伝ネタを扱うに際しての基本的考え方を知りたいので。

貴方は卑弥呼が親魏倭王にされた理由をどのように考えていますか?
300日本@名無史さん:2007/09/18(火) 11:27:05
>>296 主殿
佐賀に行っちゃった段階で終わってますから
後はコメントしようがありません。



>>297

三世紀の世界に対し、五百年後の出来事から推察する辺り、スーパー井沢氏ならでわの超魔術
イリュージョンの世界をありがとうですね
301日本@名無史さん:2007/09/18(火) 12:01:57
>>300
どもです。
500年どころか2000年前の神話をいまだに伝える国の民ですので、
そのくらいはスーパーではなく、ハンカチからハトぐらいでしょうね。

明治天皇即位の前日にかの上皇にあやまったり、日本はそういう国ですもの。
で、宇佐にどうして神託を求めたのか、これは、祖がそこにあった、というのは十分
説得力があると思いますよ。

>>298
ぇ〜、日本史上有名な事件ですよ〜、1000年以上も前にそういう事実があったことこそ
ヤマタイの謎をとく傍証としてとても面白いと思います。
宇佐神宮の下には石棺のあるのも確認されてますし、開けてみたいですよね。

302日本@名無史さん:2007/09/18(火) 19:51:41
水行は早そうに感じるけど、何百年も後の土佐日記を見ても
雨の日はもちろんチョット風が吹いただけで船を出せないし
土佐から京まで55日もかかっている。
303日本@名無史さん:2007/09/18(火) 23:56:26
>>302
畿内朝廷文化では8世紀以降の航海術が退化している。
と言うより、九州王朝の航海術が継承されなかった。
畿内権力文化に九州の航海術が継承されたのは15世紀になってから。
大内氏が筑紫を支配することによって、
畿内文化は九州の高度な航海術を得ることとなった。
しかしその航海術の実質的な保有者は大内氏。
畿内にその航海術が伝わったのは、
大内氏が和泉・紀伊を領することになった結果である。
304日本@名無史さん:2007/09/19(水) 00:34:53
外海はな。ただし内海についちゃ、古代日本は最高。
中世には外海もまあまあ。
305日本@名無史さん:2007/09/19(水) 15:54:02
>>302

>水行は速そうに感じるけど


感じません。
速く感じるのは貴方だけの主観
そんな主観を中心に思考を広げてどうするの?
306日本@名無史さん:2007/09/19(水) 17:03:07
古代の舟は、潮の影響、風の影響を強く受けたんでしょうね。

僕は、邪馬台国がどこかをまだ決めていないので、先入観なく解釈すると、
倭人伝の里程、日程の記述から一番妥当なのは、宮崎平野だと思います。

この説は、時折出てくるわけですが。
末盧国から陸行五百里で伊都国。奴国を経て不弥国から南に水行二十日で投馬国。
これは有明海を水行するわけで、投馬国は宇土市付近。
南に水行十日で、芦北の港。そこから陸行一月で宮崎平野。

しかし、伊都国について「郡使往來常所駐」とあるように、郡使は、伊都国から
先に行っていない可能性があります。郡使は、対馬国や一支国あるいは末盧国
にも滞在していたはずで、ことさらそういう記述をするのは、そこまでしか
行っていないことを言いたかった可能性があると思うのです。
里程から日程に変わったことからもそれがうかがえます。

つまり、郡使は(もちろん陳寿も)邪馬台国がどこにあるか実際は知らなかった
可能性があります。

もう一つ重要だと思うのは、卑弥呼が帯方郡に使いを送った理由です。
景初二年に、公孫氏は、司馬懿によって滅ぼされます。15歳以上の男子を
皆殺しにし、全ての首をさらすという残虐なものです。
公孫氏と通じていたとも言われる卑弥呼にとっては穏やかではなかったでしょう。

その翌年に卑弥呼は帯方郡に使いを送っているのです。
このあたりをどう解釈するか、難しいところです。
307日本@名無史さん:2007/09/19(水) 18:46:06
>>306

>末盧国から陸行五百里で伊都国。奴国を経て不弥国から南に水行二十日で投馬国。
これは有明海を水行するわけで


そんな記述何処にも書いてないけど
3081 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/20(木) 09:09:28
>>299
>親魏倭王にされた理由
考えたことがなかったですが、当時中国では本来一人であるはずの天子が複数人存在し、
周辺諸国の朝貢も途絶えていた状況にあって、昔ながらの朝貢を行った倭に対しての回賜として
妥当なものだと思います。

>>300
>佐賀に行っちゃった段階で終わってますから
私の説は、ちゃんと理解されていますか? それはいいとして、
「東南陸行五百里」を一番無理なく解釈するのが松浦川沿いの佐賀に抜けるルートで、
これ以外では少なくとも方位がずれる訳ですが、方位のずれを上手く説明できているものは
ありませんから、むしろ佐賀に行かない段階で他の説は終わってると言えるのでは?

>>297 >>301
道鏡の神託事件、を調べてみましたが、これ自体は大和政権との関連話ですね。
邪馬台国とは全く関係ないですが、他になにかあるのでしょうか?
宇佐神宮はずっと時の権力におべんちゃら使ってきたようなところですから、
邪馬台国にもよいしょにだっこしていたしていた可能性のほうが高そうだと思います。

>>306
宮崎とすると、九州東岸を南下するルートが考えられるわけで、陸行と水行が入り混じった説は
考えにくいというか、釈然としないというか、解釈に無理がありそうというか、
そういった印象です。
伊都国(あたり)から先に行っていないというのは時々見かける主張ですが、卑弥呼の居処の記述や
卑弥呼の墓(冢)の記述(径百余歩など)から、実際にいっていると私は考えています。

それから倭にとって朝貢先が公孫氏だろうが魏であろうが、大差はなかったのではないでしょうか?
もっとも公孫氏との資料が残っていれば、当時の倭のことがもっと良く分かったでしょうね。
309プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 09:38:36
>>308
スレ主さん、しっかりしてくださいな


伊都は末盧の東南じゃあないでしょう。
書かれてある文は『東南陸行五百里』(最初進む可き方位は東南)


>松浦川

勝手に文章継ぎ足しはしないでくださいな


とにかく
解釈が目茶苦茶です
310サガミハラハラ:2007/09/20(木) 09:48:49
東南へは自然に松浦川に沿って進めるということです。それは現地にいってみればわかります。
もし前原方面に到着しようというなら、唐津から前原方面は丸見えですから、最初に東南に進むから
東南だと書かずに、もろに東と書くはずです。
前原方面がまるみえなのに、陸路を進むときかされたら、魏使は何故船を使わずに歩かなければならないのかと怒るでしょう。
第一、馬がないのですから。
311プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 10:31:29
>>310
サガミさん
『自然に』なんて進み方ありませんよ
人は道を選択或は強制的に進むのです。
312サガミハラハラ:2007/09/20(木) 11:00:40
自然に足が向くという表現があるでしょう。
313プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 11:16:09
>自然に松浦川に沿って
>魏使は怒る


もうそういう恣意的かつ主観的な議論は、中ガキの古代史サークルに任せて
ソロソロ違った議論しましょうよ
314プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 11:19:37
>>312

自然と足が向けば、池の中、ガサヤブでも進みますか?
違うでしょう
例えがまるでチンプンカンプン
315サガミハラハラ:2007/09/20(木) 12:28:03
自殺する人なんかは池のなかへでも足がむきます。
ガサヤブにはまず意図的でないと足はむきません。
それは(ガサヤブにすすむのは)自然に足のおもむくところではないからです。
河岸沿いの険しい道よりも、平地の川沿いの道のほうがらくです。
人は意図的でない限り、楽な道をえらびます。それが自然なのです。
316日本@名無史さん:2007/09/20(木) 12:51:09

>>315サガミさん
それっ、本気で反論と考えています?
317九州王朝大好き:2007/09/20(木) 13:49:34
松浦川河口から糸島方面が見えるのに敢て山中に陸行ししたんだろうね。
魏使(郡使)が前原方面の伊都國に行くのなら下船場所は糸島水道付近になると思われる。

松浦川沿いルート以外に、国道323号沿いのルートも考えられるよ。
隋使もこのルートを通ったようだ。

『東南陸行五百里到伊都國』
東へ南へ陸を行くこと500里で到るは伊都國
魏使は、松浦川河口に上陸後、玉島川沿いに東に向かい陸行し、
標高420mではあるが緩やかな観音峠を越え、麻那古川を下り、神水川に達する。
次に南に進路を取り神水川及び嘉瀬川沿いに南下すると、
佐賀平野北端の肥前国庁跡付近(佐賀大和IC付近)にでる。
ここで伊都國の城郭に到着する。
以上は現在の国道323号沿いのルートである。
郡より伊都國までの距離は萬千九百餘里。
318日本@名無史さん:2007/09/20(木) 14:15:03
>>317
王朝さんまでがそんな解釈を〜


>東へ南へ


それはいくらなんでも…



『南鉄道行366q到名古屋』
例え西にある名古屋でもこうなります。
319プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 14:17:12
>>318
by プラム
320九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/20(木) 14:31:00
>>318
「東へ南へ」ではなく「東南へ」でも、どっちでもいいですよ。
「乍南乍東」が「まず乍南へ次いで乍東へ」ですから、同じ様に解釈したまでです。
321プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 15:10:22
>>320

え?……?


『乍』は(ながら)でしょ。
322日本@名無史さん:2007/09/20(木) 15:34:05
>>308
中国の三国時代を見ると、魏は西暦200年頃には北部を支配し、220年には、
曹操の子の曹丕が、後漢の皇帝から禅譲を受け、皇帝になります。

古くから中国と関連を持って来た日本がこのことを知らないはずがないのに、
卑弥呼が使いを送ったのは、西暦239年頃。
それまで魏と交流していた形跡は見られません。
しかも、公孫氏が滅ぼされて慌てふためいてという印象を受けます。
ひょっとしたら、日本も攻撃されるかもしれないという危機感があったのかも
知れません。

記録に残っているのは魏との交流ばかりなので、魏との関係が強かったような
印象を受けるけれども、実は呉との関係のほうが深かったのかもしれません。
画文帯神獣鏡から三角縁神獣鏡に続く鏡の系列などを見ると、そのような
印象を受けます。

つまり、卑弥呼は、魏の軍事力を恐れて仕方なく交流したのではないかと思う
のです。
323九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/20(木) 16:05:52
>>321
「乍」は動詞(用言)の前に付く場合は「ながら」でしょう。
名詞(体言)の前に「乍」が付く場合は「ままに」か「たちまち」でしょう。
「南」と「東」は名詞ですから「ままに」「たちまち」の意では?

「いろんな方向にうろうろしても全体としては南方向のままに」
もしくは
「いろんな方向にうろうろしてもたちまち南へ」
の意ではないでしょうか?
324プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 16:59:21
>>323

「ままに、ままで」は「ながら」よりずっと新しい訓じかたですよ
それに、
「ままに、ままで」は「ながら(つつ)」から派生したものです。


単純に方位「東西南北」は名詞ですが、
乍東乍南の東や南には「東(南)に行く(進む)」が省略されたものです。

古代漢文ですから、無駄な文字は出来る限り省かれるのが常です。
325299:2007/09/20(木) 21:45:35
>>308

お返事ありがとうございます。

>>親魏倭王にされた理由
>考えたことがなかったですが、

先ずは予想外のお返事。
倭人伝の中で卑弥呼の親魏倭王叙任は重要な記述ですよ。

>当時中国では本来一人であるはずの天子が複数人存在し

まあ、そうですね。

>周辺諸国の朝貢も途絶えていた状況にあって

これは違いますでしょう。

(魏志明帝紀)
太和三年大月氏王波調遣使奉獻以調爲親魏大月氏王
(魏志韓伝)
景初中明帝密遣帶方太守劉斤浪太守鮮于嗣
越海定二郡諸韓國臣智加賜邑君印綬

景初三年の時点では「途絶え」ていたわけではありません。
その中でご存知のとおり卑弥呼と波調だけが親魏王となったのです。
この事実をどのように解釈されるのかとお考えを問うた次第です。
326九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/20(木) 22:38:25
>>324
動詞「行」が省略されたものなら、
「乍南乍東」は「南乍東乍」になるのでは?

ですから「乍南乍東」は、
「先ずいろんな方向にうろうろしてもたちまち南へ、
次にはいろんな方向うろうろしてもたちまち東へ」
の意になりますね。
327日本@名無史さん:2007/09/20(木) 23:05:10
>>326

横から失礼します。

> ですから「乍南乍東」は、
> 「先ずいろんな方向にうろうろしてもたちまち南へ、
> 次にはいろんな方向うろうろしてもたちまち東へ」
> の意になりますね。

「乍」の解釈に「いろんな方向にうろうろ」という隠れ修飾を持ってくるのも不自然。
「降ったり止んだり」というお天気の状態を「乍雨乍晴」といいますから、
「乍南乍東」も南→東の方向転換を行うという以外の意味は持たないと思います。
作者は地勢条件で一時的に西に向かうなんていう細かいことは考慮してないです。
この4文字を必要以上に解釈せず、「南へ東へ」くらいに読むのが穏当でしょう。
328プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 23:05:36
>>326

>動詞「行」が省略されたものなら、
「乍南乍東」は「南乍東乍」になるのでは?

いいえなりませんよ
南や東は「名詞」ですから
ここは『循海岸(水行)歴韓國乍南乍東』だから動詞の「行や進」を省略し単純に名詞である「南や東」を使い
『乍南乍東』とすることが出来るのです。

それに、『乍』の訓は(つつ)ですから 南と東の行動は単一ではなく並行行動です。
329プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/20(木) 23:11:52
>>327

>この4文字を必要以上に解釈せず

4文字ではありません
『・・・循海岸(水行)歴韓國乍南乍東・・・』
と、一連の文章ですから、つまみ食いはだめです


「乍雨乍晴」と「・・・乍南乍東・・・」を、同系列で考えてはいけません。
330九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/20(木) 23:32:55
>>327-328
あまりこねくり回さないで、単純にその様に考えるのが妥当でしょうね。
しかし、文の構造として名詞の前に「乍」があるので、「つつ」の意にはならないで、
南と東の行動は並行行動ではなく単一順次行動となります。
331327:2007/09/21(金) 00:28:22
>>330

> 南と東の行動は並行行動ではなく単一順次行動となります。

当然そうですよ。
真っ直ぐ東南に進むわけでも無し、南と東に分かれて進むわけじゃないです。
字面にこだわれば或る方位から南に変化し、また東へ変化したということ。
ちなみに変化の回数は「乍」という文字だけからは読み取れないです。
一連の文章の考案者が韓半島の西南部の形状をどの程度精密にイメージしていたか
わかりませんので想像するしかないのですが、直線的に考えていればターンは1回だけ、
リアス式海岸をリアルに意識していれば何十回となくターンするイメージ。
「乍南乍東」はそのどちらにも使えそうな言葉です。
ただ、用例としては1回だけというの少ないですね。
332九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/21(金) 10:28:57
>>331
用例から考えると複数ターンが妥当でしょう。
半島西南部の海岸線と島の状態から水路をみれば、
乗船していた魏使が複数ターンと感じたのは当然です。
333九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/22(土) 10:59:13
>>1
1〜3世紀の九州の気候地形を洗い直ししているなか、
ふと魏史倭人伝を読みかえしてみると、
この2〜3ヶ月、魏史倭人伝に新しい発見がありました。
未だ十分には練られてはいませんが、ご要望に沿って、
ごく一部ですがこのスレに書き込んでみます。

魏使の行程についての考察

魏史東夷伝倭人条の『從郡至倭 〜 至女王國萬二千餘里』の部分については以下の4部分に分かれる。
(1) 行程記事  
(2) 女王國記事 
(3) 餘旁國記事 
(4) 不屬女王國(狗奴國)記事

@ 『從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里』
狗邪韓國の位置は半島南東部。
郡よりここまでの距離は七千餘里。

A 『始度一海千餘里至對馬國・・所居絶島方可四百餘里・・南北市糴』
對馬國は現在の対馬
郡よりここまでの距離は八千八百餘里。

B 『又南渡一海千餘里・・至一大國・・方可三百里・・亦南北市糴』
一大國は現在の壱岐。
郡よりここまでの距離は萬四百餘里。

以上異論はないでしょう。

以下続く
334九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/22(土) 11:01:18
C 『又渡一海千餘里至末盧國・・沈沒取之』
一大國から「千餘里」の末盧國を推定するに、
ABの「千餘里」は50〜60kmにあたることから、
壱岐から末盧國と推定される地までの距離50〜60km前後の港湾可能地が4箇所ある。
それらは、福津市津屋崎、福岡湾岸、唐津湾岸、伊万里湾岸。船越湾前原市(旧糸島水道)は不適。
5候補地を消去法によって説明すると、説明が長くなるの省略し結論に飛ぶが、
上記可能性のある5港湾で下記D〜Hを満足できるのは唐津湾岸だけであるである。
郡より末盧國までの距離は萬千四百餘里。

D 『東南陸行五百里到伊都國・・有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐』
東へ南へ陸を行くこと500里で到るは伊都國・・・
郡から末盧國までは水行であり、末盧國からは水行から陸行に切り替わるので、「陸行」の表現が入る。
魏使は、上陸後玉島川沿いに東に向かい陸行し、緩やかな観音峠を越え、麻那古川を下り、神水川に達する、
次に南に進路を取り神水川及び嘉瀬川沿いに南下すると、
佐賀平野北端の肥前国庁跡付近(佐賀大和IC付近)にある伊都國の城郭に到着する。
以上は現在の国道323号沿いのルートである。
郡より伊都國までの距離は萬千九百餘里。

D’『自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史、
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯』
女王國より北(の諸国)には「一大率」を特別に置き、諸国を檢察し、諸国はこれを畏憚している。
(一大率は)「世有王皆統屬女王國」と有るように常に伊都國を治め、國中には(中国の)刺史の如きがある。
女王國は一大率でもって伊都國を治めていたので、伊都國は女王國でないことがわかる。
又「自女王國以北特置一大率」であるから、伊都國以北の国々は女王國に含まれない。
以上により、女王國に含まれる国々は、伊都國より南の国々であることを示している。

以下続く
335九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/22(土) 11:02:20
D”『其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妒忌』
倭人諸国の人口について考察する。
倭人の家族構成は成人男子1人に付き2〜3人の妻がおり、権力のある成人男子(大人)では4〜5人の妻がいる。
この妻はどのようなものかは、記紀神武記にみられるように、
父親の死亡後の父の妻はその息子の妻となるような制度の妻であろう。
兄弟の死亡後の兄弟の妻も生き残った成人男子の妻になったであろう。
記紀の神武等の戦闘集団は、刺青(分身)をするなど、
魏史倭人伝中の倭人と同一の文化風俗を持つことは明らかである。
相互扶助的妻制度であるから「婦人不淫不妒忌」であるのは当然である。
この状況は、3世紀の倭人の国では成人男子の半数近くが
戦乱(『住七八十年倭國亂相攻伐歴年』)等で死亡していたことが覗える。
一方韓伝では、一戸=数家であることが示されている。
1戸=(2〜3)家(妻の数)=(2〜3)×(2〜3)人(1家当りの妻子の人数)≒6人
千戸≒6千人となる。
以上から伊都國の人口は約6千人となる。

E 『東南至奴國百里・・二萬餘戸』
東へ南へ奴國に至るは百里
奴國は最初に出てくる女王國の構成国と考えられる。
人口は約12万人
奴國の城郭は現在の佐賀市中心部。

F 『東行至不彌國百里・・官曰多模副曰卑奴母離有千餘家』
東に行き不彌國に至るは百里
ここで魏史は女王國に入った。人口は約6千人。
郡より不彌國までの距離は萬二千餘里。
不彌國の城郭は吉野ヶ里で、女王國の門にあたる。
不彌國で倭の女王國に到着したので郡よりの行程記事は終了。
次Gから行程記事の部分が、倭の女王國についての説明文に変わる。

続く
336九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/22(土) 11:04:00
G『(從郡)南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸』
不彌國の南に至ると投馬國がある。人口は約30万人。
又、不彌國以下、投馬國、邪馬壹國の3国は女王國に属している為、互いに隣接していたと推察される。
投馬國は、現大川市の南北に連なる縄文温暖期に形成された泥州上にあった。
女王國に入ったので、郡よりの行程説明は無くなり、ここGから郡との関係説明も入る。
郡よりの行程説明に変わって出てきたのが、「水行二十日」の関係説明である。
(郡より)投馬國に至るは水行二十日である。
投馬國使は、有明海岸から直接水行で郡へ行ったのである。
(投馬國は倭30国連合中第二の大国であり女王國の重要な一員として郡に直接行った。)
倭人は里を知らず距離は日で計るので、「水行二十日」の表現となっている。
倭人からの伝聞によるため、魏の距離単位ではない。

H『(從郡)南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・可七萬餘戸』
不彌國の南に至ると邪馬壹國があり女王の都がある。人口は約45万人。
邪馬壹國は、女王國に属し、現久留米市から南に伸びる平野部と台地部に、
投馬國と古筑後川(中央低湿地)を東西に挟んで東側に在った。
ここでの郡との関係説明部分は「水行十日陸行一月」である。
(郡より)邪馬壹國に至るは水行十日陸行二十日である。
(邪馬壹國は倭人30国連合の盟主国であり、女王國の中心国であるので、
群への通行の窓口を狗邪韓國とし、邪馬壹國有明海岸から狗邪韓國までは水行十日で、
狗邪韓國から郡までは陸行二十日で移動した。)
「(從郡)南至邪馬壹國」ではあるが距離表現は「從邪馬壹國北至郡」になっていることに注意。
距離表現が倭人からの伝聞であること示していると思われる。

I『自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳・・此女王境界所盡』
女王國以北(実際には「以西北」)の国については略載できたが、
そ(女王國)の餘旁國(女王國の西・北東・東の国々)は遠絶で詳しくは判らない。
「南については次(J)を読め」との言外あり。

続く
337九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/22(土) 11:05:27
J『其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王』
そ(女王國)の南に狗奴國があり、そ(狗奴國)の男子王(國)は女王(國)に属していない。
狗奴國は菊池川流域・白川流域・緑川流域にあり、7万戸以上(50万人以上)の国であると思われる。
又、狗奴國は辰韓から独自ルート(一大国ルートは女王國が抑えているので)で鉄を得ており、
(女王國には「一大率」と言う組織があることから、一大國は女王國と緊密な関係であったと推察される。)
又呉との通交もあったと推定される。
(倭が魏史で特別大きく取り上げられ、印綬、魏史の2回の訪倭、軍事顧問の張政等の長期駐在、
狗奴國不和の記述2回等は、親呉狗奴國に対立する女王國関係に魏の対呉政策上の危機感を示している。)

K倭の餘旁國記事と倭の不屬女王國(狗奴國)記事

L『自郡至女王國萬二千餘里』
「郡より女王國の距離は、(郡より不彌國の距離となるで、)萬二千餘里である。」と確認を入れている。


余談  《 魏使と隋使のルートはほぼ同じであったと思われる 》
隋書俀國伝
上遣文林郎裴清使於倭國度百濟行至竹島(珍島)南望[身冉]羅國(済州島)
經都斯麻國(對馬國、対馬島)迥在大海中(瀚海、対馬海峡)
又東至一支國(一大國、壱岐島)又至竹斯國(末盧國、唐津)
又東至秦王國(唐津市玉島川流域)其人同於華夏以爲夷州疑不能明也
又經十餘國(伊都國・奴國・不彌國・投馬國・etcのあった地域、背振山地・佐賀平野・古筑後川河口域)
達於海岸(有明海東北岸)自竹斯國以東皆附庸於倭
倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎
後十日又遣大禮哥多毘従二百余騎郊勞(倭王は海岸から馬で内陸に入った所に居る)
既至彼都 (久留米付近の古筑後川沿いの地域、)
(『都於邪摩堆則魏志所謂邪馬台者也』は、「邪摩堆」≒「邪馬壹」を示している。)

以上にて終わり
3381 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/26(水) 10:35:29
>>309
「東南陸行五百里到伊都國」の南東を「最初進む可き方位」で、その後はどちらに進んでも
よいなどと解釈してるのはプラムさんくらいです。
私の解釈がめちゃくちゃと思っているのは、私説を理解できていないプラムさんくらいでは?

>>317
国道323号沿いのルートも考えられるのですね。これは知りませんでしたのでとても新鮮です。
ただこのルートは、次の東南至奴國百里がちょっと苦しくなりそうな気がします(特に方位)が、
どうでしょう。

>>322
魏の軍事力を恐れて、というのはどうでしょう。南にある狗奴国のほうがよほど脅威だった
のではないでしょうか? そのために大陸の大国に庇護を求めた、相手は公孫氏でも誰でも
よかったのでしょうが、公孫氏が魏に滅ぼされたためその魏に使いを送るようになったのだろう
と私は思っています。
攻めないで下さい、なら魏の人を呼んでどうぞ内部偵察してください、な事はしないでしょう。

>>325
299さん、私が考古学全般に興味があるのでしたら、親魏倭王叙任は重要なのでしょうが、
残念ながら親魏倭王かどうかで邪馬台国の場所が変わるわけではないという考えの者ですので、
他の国が親魏王になれなかったのは何故か、というのは少し面白そうな話ですが、それ以上には
興味ありません。
3391 ◆.L.MXSPOgc :2007/09/26(水) 10:37:05
>>333-337 九州王朝大好きさん
御説の書き込みありがとうございます。
(残念ながら、どこが新しい発見だったのか分かりませんでしたが)

>郡より末盧國までの距離は萬千四百餘里
島の大きさを距離としているようですが、水行○○里の中に島にそって移動する距離も
含まれると読むほうが良いのではないでしょうか。

>女王國
女王國をある程度の範囲の国々の代名詞とみるのは、國という言葉の使われ方の統一性が
失われるように感じます。

>奴國の城郭は現在の佐賀市中心部
方位が「南」になりませんか?
また奴國を女王国の構成国と書きながら、不彌國で初めて女王国に入ったというのは、
どういう事でしょうか。

>水行二十日、水行十日陸行一月
投馬國と邪馬壹國は隣接しているにもかかわらず、郡より投馬國が水行二十日、郡より
邪馬壹國が水行十日陸行一月、と違いすぎる。普通、人はこのような説明の仕方はしない。

>隋書俀國伝
近畿ヤマトへのルートが書かれているのでは?

ざっと気になった疑問点を挙げてみました。
340プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/26(水) 11:23:56
>>338

ここは東南「行」じゃなく陸「行」なんです

その辺り理解下さい。
341九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/26(水) 14:55:22
>>338
>東南至奴國百里がちょっと苦しくなりそうな気がします(特に方位)が
魏使は奴國へ行っていません。
伊都國(肥後国庁跡近辺)から不彌國(吉野ヶ里)へと東に行く途中に真南に奴國(佐賀市中心部)があると聞いたのでしょう。
奴國(佐賀市中心部)は伊都國(肥後国庁跡近辺)の南南東方向ですから、東南表現でも間違いないでしょう。

>南にある狗奴国のほうがよほど脅威だった
全く同じ考え方です。
加えて言うなら、狗奴國は呉と通好があり、魏も女王國と通好することにメリットがあったのではと想像します。

>水行○○里の中に島にそって移動する距離も含まれると読むほうが良いのではないでしょうか。
古田説の読み方が適切と思います。

>水行二十日、水行十日陸行一月
これらは、魏史が帯方郡で聞いた情報で、
郡に投馬國使が来る時は水行二十日の船便のみで、
邪馬壹國使が郡に来る時は水行十日陸行(半島内)一月で、
投馬國使と邪馬壹國使ではルートが違うだけです。

>隋書俀國伝、近畿ヤマトへのルートが書かれているのでは?
日本書紀推古記の記事は、ほとんどが7世紀末の畿内出来事で、
人名を書き換えて挿入したものとみています。
342プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/26(水) 17:31:58
魏使は伊都國より先に行ったよ
毎回じゃないけどね
343日本@名無史さん:2007/09/26(水) 17:45:26
・国内最古の木製仮面が出土(共同通信)

邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、弥生時代末期−古墳時代初期(3世紀前半)とみられる木製仮面が出土し、
市教育委員会が26日、発表した。神戸市の宅原遺跡で見つかった仮面を約400年さかのぼり、国内最古。

鍬を転用、豊作祈願の際に「神の顔」として使ったとみられる。鎌の柄や朱塗りの盾の破片も一緒に発掘され、
当時の農耕祭祀の実態を知る第1級の史料となりそうだ。

[共同通信社:2007年09月26日 17時26分]
http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__kyodo_2007092601000494.htm
344ローガン:2007/09/26(水) 18:11:12
あのう〜。私はやっぱり、立ち入り禁止でしょうか?
345プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/26(水) 18:14:07
>>344

どうして?
346九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/26(水) 18:41:41
>>341の間違い修正
(肥後国庁跡近辺)→(肥前国庁跡近辺)
347九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/26(水) 18:48:03
>>342
魏使は女王の都まで行っている。
帯方郡使は伊都國止まりかね。
348ローガン:2007/09/26(水) 19:03:36
>>345畿内説支持者は入室禁止?
349プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/26(水) 19:58:04
>>347
郡使も行ってる。
だからワザワザ『郡使往来常所駐』と書いてある。
350299:2007/09/26(水) 19:58:09
>>338

> 私が考古学全般に興味があるのでしたら、親魏倭王叙任は重要なのでしょうが

親魏倭王印が発見されたとかなら考古学も関係する話かも知れませんが、
現時点では叙任記事等の解析という文献史学の話題かと思いますが違いますか?

> 残念ながら親魏倭王かどうかで邪馬台国の場所が変わるわけではないという考えの者です

厳密に言えばそうです。
しかし、中国の倭人に対する見識、位置づけを探るためには重要な事項ではありませんか?
倭人伝を読めば判ることですが、叙任自体は梯儁等魏使の来倭以前に行われています。
朝貢者全てを片っ端から「親魏○○王」にしているわけではないのは前レスのとおりです。
つまり、上申者(卑弥呼の場合は帶方太守劉夏)からの情報等を基に判定されているわけです。
当に「親魏○○王」に価する国としての見識が、梯儁等の遣使に先立って、公的評価として
決定していることになりませんか?

この見識は当然、倭人伝の記述の元になったであろう公文書にも引継がれているのでしょう。
韓伝中の大規模国程度の国勢の国を見誤って、戸7万、郡から12000里の大国と評価して
大月氏と同格の王号を与えてしまったとしたら、官僚主義の立場からは中々訂正できるものでは
ないですからね。
351プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/26(水) 20:01:19
>>348

そんな事ないよ
学問に垣根は無用。
352日本@名無史さん:2007/09/26(水) 20:12:36
>>343
日本最古の木製仮面、奈良で出土…クワを再利用
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070926-00000012-yom-soci
9月26日20時4分配信 読売新聞

日本最古の木製仮面、奈良で出土…クワを再利用

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、木製としては最古の仮面(3世紀前半)が出土したと、市教委が26日、発表した。
農具のクワを再利用したもので、市教委は「農耕に関連する儀礼に使われたのではないか」と推測している。

遺跡中心部付近の井戸跡から、カマの柄や盾の一部とともに出土した。
カシの木で作られ、長さ26センチ、幅21・5センチ。クワの柄が刺さっていた丸い穴(直径3・4センチ)を口に見立てたうえで、
両目の穴(縦約1・2センチ、幅約3・5センチ)を開け、隆起した部分を削って鼻の形に整えていた。
まゆも刻んで輪郭を描いていた。ひもを通す穴がなく、手に持って顔を覆ったとみられる。

画像
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/MM20070926200114284M0.htm
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070926it12.htm
353ローガン:2007/09/26(水) 20:36:11
ありがとうございます。では横レス。
>>336 (從郡)南至投馬国 (從郡)南至邪馬壹国
勝手に付け加えては駄目ですね。どうしても「郡より…」を書き加えて考えるなら、不弥国への行程も「郡より」としないと!
354九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/26(水) 21:34:56
>>353
不弥国?
355ローガン:2007/09/26(水) 23:18:34
もう!分かってるくせに。
投馬国や邪馬壹国の行程の前に、「從郡」を書き加えたいなら、その前に書かれた国にも付けないと駄目ですよ。
「從郡」もしくは「自郡至」は、投馬国や邪馬壹国の前には書いてないのですよ。
ご自分の考えの都合に合わせているだけですよ。プラムさん宅のけんちん汁のようにサ〜ラサラとは聞き流せないので、ご無礼を承知で書いた次第。
356ローガン:2007/09/27(木) 00:10:28
つまり投馬国や邪馬壹国だけ起点を郡に求めるのはおかしいって事。
357日本@名無史さん:2007/09/27(木) 09:22:46
邪馬台国への行程記事ですから、郡を基点にするのは邪馬台国でよろしいのです。
投馬国へは、不弥国を基点とします。不弥国に港があります。
358九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 11:30:11
>>355 ローガン氏
>>357
不彌国への距離は中国式「里」表記ですから、
本文の記述方式に従えば、行程の前国(伊都國)が基点になります。
投馬國と邪馬壹国への距離は倭式「日」表記ですから、
改めて「從郡」と入れるべきところを簡潔にする為省略しているのです。

投馬國と邪馬壹国への距離の基点について誤読する読者の為、
最後に中国式距離表現で『自郡至女王國萬二千餘里』と認識修正のための確認を入れているのです。
もし不彌国が投馬國と邪馬壹国への基点であるなら、『自郡至女王國萬二千餘里』は不要です。
敢て入れるなら、郡より萬二千餘里(合算距離)にある不彌国についての文の次に入れるべきです。

郡より倭女王國までの行程説明記事は、不彌国で距離合算萬二千餘里となるので終わっているのです。
投馬國と邪馬壹國については女王國の説明記事になるので改めて「從郡」と入れるべきところ、
文としては見苦しくなる為、簡潔にする為「從郡」を省略しているのです。
359九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 11:51:59
奴國については女王國に含まれたかどうか断言できません。
@奴國の記述が女王國の一員である不彌国の前にきているので女王國に含まれない。
A奴國は郡より合算距離で萬二千餘里であり、最後に『自郡至女王國萬二千餘里』としめているので、女王國に含まれる。

A説が正しいと思います。論理的なので。
360プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 12:00:34
>>358王朝さん


じゃあ
里数を使う中華の使は、日数表記しないの?
361九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 13:20:30
>>360
文化的に高い水準の「里」表記を持っているシナ人は、
曖昧で文化的に遅れた「日」表記を、自らの指標としては使うはずがないでしょう。
自らの指標を持っていない場合には引用するでしょうけれども。
362プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 14:11:42
>>361王朝さん

ここは大事な項目です。


>はずかない


はずがない、などという曖昧な主観ではなく、客観的な事実を示して下さい。
363九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 14:40:52
>>362
修正
文化的高い水準の者が、曖昧で文化的に遅れた「日」表記を、自らの指標としては使わない。
364プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 15:28:01
>>363

>曖昧で文化的に遅れた「日」


何処がどう曖昧で
遅れた文化なの?


>使わない


そう断言出来る根拠は?
365ローガン:2007/09/27(木) 15:43:41
>>358それだったら、初めから、「自郡至…萬二千余里」だけでいいのではないですか?
「水行陸行」は必要ないでしょ?自説の都合に合わせて起点を変えているだけですね。
366九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 17:30:24
>>364
>何処がどう曖昧で
里に比して長さに絶対性が少なく、長さが相対的で曖昧。

>遅れた文化なの?
時代が下るにつれて長さ単位が精密になっています。
現在の長さと時間の基準単位はどのように決められているのかご存知ですか?
利便性を考えて、現在でも飛行機で何時間・新幹線で何時間・車で何分・徒歩何分とかがありますが。
でも、倭人伝は軍事的外交的な一面を持った報告書を基に書かれていますから、敢て曖昧表現を選択しません。

>そう断言出来る根拠は?
現代では、長さ単位として「日」や「里」は使われないですね。
367プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 18:40:56
>>366王朝さん

話を現代の例えに置き換えて話を逸らしてはダメですよ

当時、日と里数が同じ扱いされているのは中華の話です。
日が里数より後進的だなんてトンデモナイ 中華では制度としてきちんと定義付けされた位置にあるのです。


ご存知なくば、片っ端から漢籍引っ張り出して調べて見てください。
日数は立派な(定義化されてる)長さの単位なのです。

勿論軍事的にも利用された
368九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 19:50:11
里数がわかっているのに、
移動に要する時間を示す目的以外で、
距離を移動に要した日数で表わした例は知りません。

調べるにあたり、どんな漢籍を選ぶと良いですか?
369プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 20:49:02
>>368王朝さん

先ずは、中華の制度を纏めた「唐六典」なんてどうでしょうか?
370日本@名無史さん:2007/09/27(木) 22:59:52
馬鹿馬鹿しいなあ。
大好きさんの判断以外ありえないでしょ。
距離の単位として「日」なんて、唐や宋の宮廷や官僚には通用しない。
371プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 23:20:13
>>370

唐や宋の官僚に、お知り合いでも?
372日本@名無史さん:2007/09/27(木) 23:37:49
知り合いの問題じゃないだろ。
読み手を誰に想定しているかという問題。
373プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 23:45:21
>>372

書物の読み手は
書かれた時間よりも未来の人ですね
そして、書かれている材料は書かれた時間よりも過去のモノです。
374日本@名無史さん:2007/09/27(木) 23:47:46
>373
笑わせないでください。逆です。
375日本@名無史さん:2007/09/28(金) 07:14:22
>>374

書かれた時間よりも過去の人が読み手となりうる方法晒してミソ
376日本@名無史さん :2007/09/28(金) 09:32:58
ノストラダムスの預言書
377日本@名無史さん:2007/09/28(金) 12:17:03
>>376
それは書かれた内容であって、執筆時間じゃない。
378サガミハラハラ:2007/09/30(日) 08:55:46
以前、邪馬台国小城説を「倭国歴訪」で紹介いたしましたが、このたび、この論の弱点を
克服した論を「神功皇后は実在した」という本に付録という形でのせました。
よろしくご批評ください。
379太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 09:32:43
サガミハラハラさん
もう有名書店あたりでは店頭店内で置いてあるんですすか?
それとも10月某日発売ですか? 正規に題名と出版社名、価格等をどうぞ?
380太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 09:38:22
ははぁ、明窓出版社ですか、わかりました。
381サガミハラハラ:2007/09/30(日) 09:52:25
新宿紀伊国屋本店と南店では昨日からおきはじめました。
「神功皇后は実在したー根拠と証明ー 明窓出版社 2100円」です。
よろしくお願いいたします。
ご批評いただければ幸いです。
382太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 10:00:14
あ〜どうもどうも。 このごろ買わない主義だが、サガミハラハラさんのは
顔で買うことにした。
383日本@名無史さん:2007/09/30(日) 22:42:02
瞑想
迷走
名僧
冥想
じゃなくて明窓ですね。
384サガミハラハラ:2007/10/01(月) 07:33:43
太国さんありがとう。
これからの古代史研究に一石を投ずる内容だとおもっております。
385太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/01(月) 07:46:21
おはようございます。遠出して有名書店で買いこみました。なかなかgoodです。
グリーンの表紙だから目のよくない自分にとっては疲れず読み易いです。赤が
基調だと読むのを後回しにしたくなりますので、その点助かりますな。

魚の大群は危機を察知したか大地震で集まっていたようにも感じられます。あと
地図に方位を入れればなお分かり易かったですし、半島の語はなじんでないので、
同語の継続にもルビを再掲してればさらによかったと思います。値段も3000円台
はきついので2100円は厚さと比較して購買者には安く感じ、買い易い値段です。
386サガミハラハラ:2007/10/02(火) 08:24:24
早速のご購入ありがとうございます。
はい、確かに普通だったら三冊に分けて発行するものを一冊にまとめましたので、
一冊1300円として3900円となるところを2100円ですのでかなりの
お買い得となっております。
内容については、2倍年暦を具体的に事例を挙げて紹介しておりますので、今後の倍暦の研究が
さらに発展していくものと期待しております。
387太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 22:47:31
サガミハラハラさん
成務は当然ですが、仲哀も滋賀の高穴穂宮に濃厚な関係あるのは同意ですな。
20年弱前でしたか、気比神宮へ参拝し、脇の宮司さん宅でパンフレットを所望
して楽しく読んだのを覚えています。あの松原も素敵でした。もう記憶は
薄れて幻想的気分ですよ。
388サガミハラハラ:2007/10/04(木) 22:21:01
太国さんもあの社務所にいかれたのですか。
私のときも親切に応対してくださいました。
389太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/04(木) 22:34:47
>>388
素晴らしい神社でしたね。夏でしたから、松原の海岸で海水浴の人が結構
おりました、湘南海岸よりは少な目でしたが・・・。
その後に能登の宝達山に行き、帰りは白山の神社でしたか、さらにハニベ岩窟院
という所を巡って飛行機で帰りした。いい思い出です。
3901 ◆.L.MXSPOgc :2007/10/06(土) 09:37:06
すっかり間が空いてしまいました、すみません。

>>341 九州王朝大好きさん
個々についてはもう書きましたのでもう書きませんが、全般として(分かっているとは
思いますが)無理な解釈が多いと感じます。
想定した説と文献とに食い違いがある場合、どちらが間違えている可能性が高いかと
考えると、はるかに想定した説が間違えである可能性が高いでしょう。
それが複数箇所あれば、さらにその説が間違えている可能性が高くなる。
奴国に行っていないという説は初見ですが、三国志からはそのような解釈は困難ですよね。

>>348 ローガンさん
畿内説支持者でもよいですが、以前に書いたように私説についての議論をしたいと思って
立ち上げたスレなので、できれば私説についての畿内説者からの反論などがあると
うれしいのですが。
スレタイ間違えててすみません。

>>350 >>299さん
文献史学とか大層なものではないです。魏志倭人伝を読んで素直に解釈したらこうじゃないの?
といった程度の話です。
親魏○○王を送る送らないに、当時の政治家の力関係がいろいろ関係していたとか、
そういう話があってもあまり興味がないのです。
でもあなたがどのように考えているのか書いてくだされば、私は新しい知識を得られて
嬉しいかもしれません。

>>378 サガミハラハラさん
「神功皇后は実在した」出版おめでとうございます。
とはいえ私は買いませんが・・すみません。
391日本@名無史さん:2007/10/06(土) 14:38:28
>>390
>奴国に行っていないという説は初見ですが、三国志からはそのような解釈は困難ですよね。

古田氏は、40年も前から、其の著書『邪馬台国はなかった』で、
魏使は奴國にいっていないと主張していますよ。
392九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/06(土) 14:46:05
>>391はぼくのレス。
393サガミハラハラ:2007/10/06(土) 19:12:08
いったかどうかより、行程にはいらないということです。
たかだか7kmのところですから、物見遊山程度にはいった可能性はあります。
394九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/06(土) 19:50:26
>>393
「行程に入らない」ことを「行っていない」と書いているだけ。
395日本@名無史さん:2007/10/06(土) 20:30:31
巻向で決まりだよね。
396ローガン:2007/10/06(土) 21:10:25
>>390ありがとうございます。ちょくちょくお邪魔いたします。
397日本@名無史さん:2007/10/06(土) 21:27:40
海外で鉄器戦争を戦った邪馬台国は、
巻向以外のどこかだな。
まあ九州以外ありえない。
398299:2007/10/06(土) 23:04:34
>>390

>魏志倭人伝を読んで素直に解釈したらこうじゃないの?
>といった程度の話です。

貴方の「解釈」には、次のレスにあるように大きな「前提条件」がありますよね。

>159 名前:1 ◆.L.MXSPOgc [] 投稿日:2007/08/10(金) 12:19:54
>数百人からなる使団がきて初めて見る土地を記録に残したのです、記録専門の人も1人ではなかったでしょう。
>そのような資料をもとに陳寿は書いています、また陳寿がわざわざ方角などを勝手に直したりと
>いうことは考えにくい、むしろ資料に非常に忠実な記述をしていると考えられる。

つまり、「倭人伝の記録のほとんどは梯儁や張政等の報告に基づいている。」
それ以外の伝聞情報の存在を貴方は否定されないでしょうが、
「解釈」するにあたっては、あまり重視されていない。
私はその「前提条件」に疑義を抱きます。

「魏は正始年間以前から倭人に関する詳細(正否は別にして)な情報を持っている」
これが私の前提条件です。
卑弥呼の親魏倭王叙任はこの前提条件の根拠として提示しました。

如何ですか?
399サガミハラハラ:2007/10/06(土) 23:41:30
>>1さん、ご声援ありがとうございます。拙著の「神功皇后は実在した」には付録として「メジャーで辿る邪馬台国」がついています。
是非お読みください。邪馬台国論はどんどん進化しています。
400サガミハラハラ:2007/10/06(土) 23:43:28
>>391
古田氏の説は、このことに関しては正解です。
奴国には「行」がついていないですからね。
401サガミハラハラ:2007/10/06(土) 23:51:20
本日の東アジアの古代の講演会で北条先生は「卑弥呼の時代、瀬戸内海ルートは機能していなかった」
と述べたという。確かにこの説は正鵠をえているのであるが、根拠はなんであったのだろうか。
聴講にいかずに残念であった。
402サガミハラハラ:2007/10/06(土) 23:54:23
魏志倭人伝において、記録の基は殆どが魏使の報告ということはないですよ。
どちらかというと、陳寿は、晋の図書館の資料をひいたようです。
403日本@名無史さん:2007/10/07(日) 00:15:14
>>晋の図書館の資料をひいた

全く根拠のない空想?
404サガミハラハラ:2007/10/07(日) 00:16:08
>>403どうして?
405ローガン:2007/10/07(日) 01:34:48
基本は漢書だと思います。陳寿は晋の図書館のカードを持っていたと思っています。サガミ先生とどう意見です。
406九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/07(日) 02:08:09
>>403
魏史韓伝での引用からも、
陳寿は晋の図書館に出入りしたことがうかがえます。
サガミハラハラさん、ローガンさんとも、ここでは同意見です。
407プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/07(日) 07:21:24
>>403だけしか………
悲しい現状ダネェ


先ずは図書館(蔵書庫)への出入り云々を語る前に、出入りを示す記録を見つけだすこと。

なければ推測
408日本@名無史さん:2007/10/07(日) 09:03:28
あなたは、陳寿は普通の一市井の民だとお考えですか。
409プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/07(日) 09:50:47
>>408

一市民であろうが官であろうが関係ない。
要はその事実の確認がひつようなの
主観で塗り潰しても意味ありません。


陳壽は過去の記録を見たという事だけです。
410日本@名無史さん:2007/10/07(日) 11:23:21
陳寿は魏略を見て倭人伝をかいたということです。
おそらく知人からかりたか、本屋で手にいれたものでしょう。
411プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/07(日) 12:35:25
>>410

陳壽が魏略を見たということは、陳壽が執筆前に魏略が編纂者の手元から離れている事の証明が必要です。先ずは魏略の先進性を確かめる事です。
412日本@名無史さん:2007/10/07(日) 12:50:21
安本美典先生がそういっておりましたので間違いございません。
413プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/07(日) 18:11:39
>>412
なるほどね



(-。-)y-゚゚゚ 仕方ないね
4141 ◆.L.MXSPOgc :2007/10/08(月) 20:28:28
>>391 九州王朝大好きさん
古田氏の主張は記憶に薄いのですが、魏使が伊都国までしかいかなかったとして奴國に
行っていないと云ってるのではなかったでしたか?
邪馬台国まで行ってるとしてその道中の奴國には寄っていないというのが、私が新しい
と感じたところです。

>>398 >>299
それ(前提条件)は微妙に違います。私のは2つのルートを1つのものと勘違いした、というところで、
その2つを梯儁と張政のものとしていますが、本質はこの2つでなくても構いません。

逆に質問ですが「倭人に関する詳細な情報」というのは、いつどのようにして得られたものと
考えているのでしょうか?

そして前回の「親魏○○王」の話はどうなったのでしょうか? あなたの何らかの話を
お聞かせください。

正直、内容の伴わない単なるディベードをしたいだけでしたら、その手の他のスレに行かれる事を
お勧めします。

>>晋の図書館の資料
そこに一体どの程度の情報があったと考えているのでしょうか?
そして使いが倭国にきて内部の国々の情報を詳細に伝えたが、それが倭国にいったことの記録は
残っていないという主張の根拠は?

>>399 サガミハラハラさん
機会は無いと思いますが、あれば読んでみたいです♪
ところで進化していても、相変わらずピーちゃんのお墓ですか?
415サガミハラハラ:2007/10/08(月) 20:51:33
私は古代の話をしているのです。インコのピーちゃんのお墓は現代ですので論外ですよ。
416299:2007/10/08(月) 21:23:06
>>414

> それ(前提条件)は微妙に違います。私のは2つのルートを1つのものと勘違いした、というところで、
> その2つを梯儁と張政のものとしていますが、本質はこの2つでなくても構いません。

そのお返事は想定内です。
どちらに(正始遣使ORその他)ウェイトを置いているのか、明言していただけると話が早いですが。

> 逆に質問ですが「倭人に関する詳細な情報」というのは、いつどのようにして得られたものと
> 考えているのでしょうか?

既に最初のレスでも申しております。親魏倭王叙任の時点で得ていた情報ですから、
1 漢代等からの古い蓄積情報
2 公孫時代の帯方郡官治の情報
3 景初朝貢時の申述内容
などが当然中心でしょう。(繰り返しますが、いずれも正否は別ですよ。)
これらの情報を基に叙任が行われたわけでしょう、「詳細」な「公式記録」に残るべき情報ではないですか?

> そして前回の「親魏○○王」の話はどうなったのでしょうか? あなたの何らかの話を
> お聞かせください。

最初からその話をしてますが・・・

> 正直、内容の伴わない単なるディベードをしたいだけでしたら、その手の他のスレに行かれる事を
> お勧めします。

「何か質問はあるか」との呼びかけに呼応しましたが、「内容の伴わない」などとは礼を書いた言い方を
で返されるとは思いもしませんでした。
貴方は魏志の全体を解釈することなく、路程記事云々についてしか感知しないと言うことですね。
そういう風に理解しておきましょう。
417九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/09(火) 00:11:01
>>414 :1 ◆.L.MXSPOgc さん

『邪馬台国はなかった』について細かいところは正確に覚えていませんが、
古田氏は、帯方郡から女王國への行程論として、述べていました。
郡から不彌國までの距離の合計が万二千余里で、
これは郡から女王國への万二千余里と一致するから、
不彌國は邪馬壱国の玄関国になると言う様な記述だったと記憶しています。

古田氏には、何も述べてはいませんが、
「魏使は邪馬壱国に入っていた」との意識が根底にあったと思われます。

又、奴国は魏使のルート上には無いので、魏使は奴国に行っていないと言えます。
実際に魏使が奴国に立ち寄ったかどうかは、判らないこと、となります。

なお、魏使は卑弥呼の城郭に入っていると、ぼくはみなしています。
418ローガン:2007/10/10(水) 01:14:20
スレ主さん。
過去レス、さぁ〜と拝見しました。にぎやかでいいですね。
「畿内論者からの反論があればうれしい」との仰せにより、とりあえず基本的な質問から…
貴方の書き込みを見れば魏志倭人伝の方角、里数は正しいとして、忠実に考察されてますね。
当然色々な漢籍を読まれた上で自説を展開されている事と思います。
まず、方角についてなのですが、「隋書百齊伝」の「トムラ国」の記述は明らかに方角が間違っていると思うのですが、
こういう事例が有るのになぜ魏志倭人伝の方角は間違いないと考えられるのでしょうか?
次に里数ですが、百済と新羅の位置関係についてです。
梁書「其国在百済東南五千余里」
通典「其国在百済東南五百余里」
其国とは新羅ですね。冊府元亀「新羅国在百済東南五十余里」
いかがでしょう?まちまちですね。全て、百済と新羅の距離に関する記述ですよ。
何故魏志倭人伝の里数は正しいと言えるのでしょう?其の根拠をお願いします。
もう一つ、貴スレでは、1里≒65〜80mで多くの方が書かれています。
ご承知とは思いますが、魏晋朝の1里は70m前後ではないですね。
何故、韓伝倭人伝のみ、其のような事になるのですか?
「報告に基づいて倭人伝が書かれた」のであれば、テイシュン、張政等は、1里≒70mを認識というか、常用していた事になります。
郡の下級官僚が用いる尺度となれば、ある程度、普及していた筈ですね。
一般的に1里≒70mが使われていた事例をご教示頂けますか?
以上の3件の回答を伺ってから、貴殿の説への反論を述べたいと思います。
419日本@名無史さん:2007/10/10(水) 02:35:43
>>418
横レスですが。
魏志倭人伝を間違っているという前提で読むならば、何も得られるものは
ありません。資料としての価値はゼロということになります。

しかし、邪馬台国までの道筋については、ある程度正しいのではないかと
推定できるものがあります。

それは、帯方郡から狗邪韓国。狗邪韓国から対馬国、一支国を経て末盧国に
至るまでの道筋です。
朝鮮半島から二つの島を経て、九州に至る道筋が書かれていて、ここまでは
何の疑いの余地もありません。地理的に間違いもないし、方角もおおむね
合っています。
これは、その後の方角もある程度正しいのではないかと推定する根拠になります。

隋書や梁書に間違った部分があるから、倭人伝も間違っているというのは
おかしな論理だと思います。

里については、スレ主と考え方が違うのでレス出来ませんが。
420日本@名無史さん:2007/10/10(水) 08:38:54
軍事報告書とするならいい加減どころか正確極まりないものになる。
というのは古田の論拠だったか。
421九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/10(水) 19:53:11
>>420
>軍事報告書とするならいい加減どころか正確極まりないものになる。
>というのは古田の論拠だったか。

違う。
木佐証言(軍事報告書説)が古田説を補強するものとなり、古田氏が気付かされた。
422日本@名無史さん:2007/10/10(水) 21:51:30
そうそう、そういう意味ね、わざわざ英訳とかもしてたけどその後はどうなったのでしょう。
423日本@名無史さん:2007/10/10(水) 22:58:44
>>419
横への横ですがw

> 魏志倭人伝を間違っているという前提で読むならば、何も得られるものは
> ありません。資料としての価値はゼロということになります。

「何も得られるものはありません」「価値はゼロ」・・・
倭人伝の記述に整合しない仮定を提示するとこれを否定する論理として、
よくこういう極論を振りかざす人が居ますが、貴方も御同類なのでしょうか?

しかし、魏志倭人伝に間違いがあるのは、異本が存在するわけですから「事実」です。
倭人伝以外にも間違いのある資料はあります。これらを否定することは誰もできないでしょう。
世の中に間違いの無いものこそ「無い」というべきでしょう。
だから、そういった間違いがあると言うことを前提にして資料を「読む」のは当然のことです。
複数の資料を突合せ、間違いの部分を検出、検証していくことが資料の正しい使い方です。

現実に貴方だって
> しかし、邪馬台国までの道筋については、ある程度正しいのではないかと
> 推定できるものがあります。
と、現代の地形図と倭人伝の路程を突き合わせて「検証作業」を行っているでしょう。
実際の対馬と壱岐、壱岐と九州の距離関係が倭人伝の記述どおりでは無くても、
この「検証」によって「読みこなし」ているように見えます。違いますか?

> これは、その後の方角もある程度正しいのではないかと推定する根拠になります。

貴方の「論理」とは「一部が有っていれば全てが正しい」といっているように思えます。

> 隋書や梁書に間違った部分があるから、倭人伝も間違っているというのは
> おかしな論理だと思います。

だから、全然おかしくありません。
424日本@名無史さん:2007/10/11(木) 02:03:49
>>423
よく言われていた魏志倭人伝は約90度東と南を間違えてるって事?
425日本@名無史さん:2007/10/11(木) 10:55:11
>>418
>一般的に1里≒70mが使われていた事例をご教示頂けますか?

1ではないが、
古田武彦著『邪馬台国はなかった』を読め。
426プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/11(木) 12:31:48
>>425

当時のモノサシと当時の度量衡を調べた方が理にかなってる
427ローガン:2007/10/11(木) 23:00:18
>>425相手になるのめんどくさいけど、
もし、読めば何が解るのですか?
解るのは筆者の考え方であって…
お前になにがわかんねん。なんや?ゆうてみい!
428日本@名無史さん:2007/10/11(木) 23:40:22
倭人伝に書かれている邪馬台国までの道筋は、畿内説にとっては都合が悪い。
しかし、畿内説だけでなく、九州説の主流である北九州説にとっても都合が
悪い。

畿内説は、倭人伝が間違いであることを前提にしないと成り立たない。
北九州説は、倭人伝をひねって解釈しようとする。

しかし、邪馬台国を南九州に比定すれば、一番無理なく解釈できる。
伊都国を佐賀県多久市あたりに比定し、奴国を佐賀平野、不弥国をその東に
比定すれば良い。そこからは有明海を南下する。

郡使は、少なくとも、里程で書かれている不弥国までは来ている。
不弥国の港で、魏の皇帝から下賜された品物が船積みされ、出航するのを
見送っている、と思う。
しかし、それから先は良くわからない。だから、邪馬台国は、最低限でも
有明海を南下したところにあると思う。南九州まで行くかどうかはわからないが。
429日本@名無史さん:2007/10/12(金) 00:06:58
>伊都国を佐賀県多久市あたりに比定し、奴国を佐賀平野、不弥国をその東に
>比定すれば良い。

>倭人伝をひねって解釈しようとする。

言った端からひねってる解釈してる…そのままお返ししますよw
430日本@名無史さん:2007/10/12(金) 00:09:56
>>429
なんで?どこがひねっている?理由を言わなくちゃあ。
431日本@名無史さん:2007/10/12(金) 00:10:34
>428はハガミハラハラ氏?
432プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/12(金) 00:25:52
>>431


>ハガミハラハラ氏?

いいえ
「ナカミバラバラ氏」です
433日本@名無史さん:2007/10/12(金) 00:51:09
プラムも、寒いチャチャを入れるだけか。
まあ、いいか。

ところで、熊襲のところにも書き込んだのだが、第12代景行天皇、その息子の
日本武尊、その息子の第14代仲哀天皇と3代続けて熊襲征伐に執念を燃やして
いるなあ。

どうしてそんなに熊襲にこだわるのか、なんか面白い。
それと、熊襲は相当に強力だったのだなと思う。
434日本@名無史さん:2007/10/12(金) 02:16:30
だいたいプラムは、茨城県人のくせに態度がデカすぎる。
435太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/12(金) 07:34:11
>>428
北九州には無いことはほぼ言える。そこだったら大陸のほか女王国の情報が朝廷
にもっと伝わる。だから北九州は考えにくい。中九州、南九州あたりだな。
436日本@名無史さん:2007/10/12(金) 08:52:27
言っては成らない事を言ってみたい

畿内説、北九州説、南九州説

全部一長一短で、結局物証でも出てこない限り水掛け論じゃん
437日本@名無史さん:2007/10/12(金) 09:58:48
プラムは寒くて気持ちのわるいやつやな
438日本@名無史さん:2007/10/12(金) 10:37:16
邪馬台国は何度か場所移動してるから、「魏志倭人伝ではここ」だとしても、
ずっとそこだったわけではない。
439プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/12(金) 10:47:37
>>438

場所は移動しないけど、時間の経過に伴って範囲が変化していることは確か



>>437

そう言いながら、結構弄ってるね
なかなか素直に自分の意思を表現出来ないで、つい
自分の意思とは反対な行動に走ってしまう子がいるけど

応援ありがと
440日本@名無史さん:2007/10/12(金) 10:48:56
>場所は移動しないけど

移動してるでしょ。
441サガミハラハラ:2007/10/12(金) 10:53:15
私のみるところ、邪馬台国は委奴国時代から、惣座〜吉野ヶ里〜小城と遷都を
しています。
442プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/12(金) 11:01:39
>>440

移動しているのは王都(首都てきな)
443日本@名無史さん:2007/10/12(金) 12:16:24
やはり相撲部屋の理事長みたいに共立の長なので
444プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/12(金) 12:53:02
>>443

「共立」の使い方間違っていませんか?
445日本@名無史さん:2007/10/12(金) 15:12:52
>>441
奈良の大和朝廷もしょっちゅう遷都しているしね。
邪馬台国についても、最近、なんか遷都という言葉が頭にちらつく。

大和朝廷の場合は、天皇が死んでその土地が穢れたから、遷都したということ
が多かったらしい。
7世紀の天智天皇の場合は、白村江の戦いで負けたあと、敵が攻めてくるのを
恐れて難波から大津に遷都したことがあった。
446日本@名無史さん:2007/10/12(金) 20:13:10
都市問題についての知識が、まったく無かったわけだからね。
伝染病とかゴミ問題とか。

遷都したくもなる。
447日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:10:28
そういえば、吉野ヶ里も、環濠に大量の土器を捨てて引っ越したような感じらしい。
熊本県のうてな遺跡も、同じ頃、環濠に大量の土器が捨てられて廃絶しているらしい。
これがいつ頃かについては、やっぱり意見が分かれる。吉野ヶ里遺跡の発掘責任者は、
卑弥呼時代のあとという。畿内説的に言えば、卑弥呼の前ということになるらしい。

山陰を代表する弥生の大集落・妻木晩田遺跡も、最盛期は弥生後期後葉とされる。
古墳時代の初め頃には、人はほとんど住まなくなるらしい。

日本に大規模な変化があったのかもしれない。
倭人伝には、環濠集落らしい国の様子が書かれている。
ひょっとすると、卑弥呼のあとに大変革があったのかもしれない。
448日本@名無史さん:2007/10/13(土) 19:21:48

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が早くも弥生前期末には
伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
449ローガン:2007/10/14(日) 21:41:58
どうしてスレ主は質問に答えてくれないのでしょう?
ごくごく基本的な質問なのですが。
450日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:55:03
福岡県みやま市瀬高町が邪馬台国だとプッシュしておりますが、全国には沢山可能性のある場所があるんですね。
住んでいる所から近いのでビックリしました。

451日本@名無史さん:2007/10/14(日) 22:08:18
九州だけでも、邪馬台国の候補地はたくさんあるね。

福岡県で言えば、前原とか甘木とか久留米、八女。
大分県の宇佐。
佐賀平野。
宮崎平野。
熊本も阿蘇とか菊池平野など。
長崎県の島原というのもあった。

最近、聞かないのは、鹿児島県くらいか。

しかし、日向三代の御陵は全部鹿児島にある。
明治時代に決まったらしいので、当時の薩摩藩の政治力かもね。
一応書いておくと、

邇邇芸命の墓は『可愛山陵』。鹿児島県薩摩川内市。
その子(日子穂穂手見命)の墓は『高屋山上陵』。鹿児島県霧島市溝辺町。
更にその子(鵜葺草葺不合命)の墓は『吾平山上陵』鹿児島県鹿屋市吾平町。
452日本@名無史さん:2007/10/14(日) 22:43:42
では、今の奈良ということで
453日本@名無史さん:2007/10/14(日) 23:17:16
>>452
四国もあるし、吉備というのもある。
例のNHKの番組では、沖縄という人もいたなあ。
454日本@名無史さん:2007/10/15(月) 00:05:46
イッパツ四国に強烈な学説ほしいなあ。地元としては。
今あるのはトンデモ話ばっかりなので。
455日本@名無史さん:2007/10/15(月) 00:35:37
我輩が卑弥呼でごわす
土佐の高知の桂浜
黒潮カツオの一本釣り
456ローガン:2007/10/16(火) 23:28:29
せっかく過去レス読んで被らないよう気を付けて質問したのに…
なぜスレ主は答えない!
>>418の質問になんで答えない?
貴説のよって立つ基本の事を聞きたかっただけですよ。
なんで答えない?
自説の整合性を問うべくスレ立てたんじゃないの?
どうして答えないの?答えられないのなら、さっさとたたみなさい。
そう思いませんかサガミ先生!
457日本@名無史さん:2007/10/16(火) 23:51:24
>>418>>456

陳寿に聞け


以上
458日本@名無史さん:2007/10/17(水) 00:31:20
なんか変な人がいるので横レス。
1里が70m弱だった例なんか、古田が散々出しているのだから、
教えて君を決め込んで詰問する前に、目を通すべきでしょう。
魏志の1里が70m弱でない実例を挙げないと、反論にもならず無意味。
459日本@名無史さん:2007/10/17(水) 01:40:16
全部ウソだけどな
460サガミハラハラ:2007/10/17(水) 08:24:30
一里は67.5mです。
実例としては、倭人伝の行路記事【ソウルー仁川ー(水行南下)−群山ー(陸行東)−参礼ー(陸行南下)−求礼ー(陸行東)−固城ー(水行)ー
鴻島ー(水行南下)−対馬小茂田浜ー(水行南下)−壱岐勝本ー(水行南下)ー唐津八幡浜ー(陸行南下)−多久延寿寺ー(陸行東)−小城不二町ー(南接)−小城甘木】
のとおりに進み、その間の距離(m)を67.5でわると、1万2千余里となり(海峡部鴻島から唐津までは70kmとして計算)倭人伝の記述にピッタリです。
461ローガン:2007/10/17(水) 09:37:25
>>458ホラ、古田が出てきた。
君、盲信はいかんよ。
いいかい、君は「周髀算経」を知っているね?1978年谷本茂氏だ。
式の基本は「大地の径3万里」「夏至の正午太陽は南の果ての上空」だ。
谷本の計算はこれに基づいている。ところが之は原初の考え方つまり蓋天説に基づいたモノだ。
後漢代の考え方は方天説なんだよ。ゆえに、周髀算経にも大地は81万里ってある。
もし魏晋朝の度に周髀算経が用いられたとすれば、三角形の一辺の長さが大きく異なっているんだよ。しかし、太陽高度は変わらない。
よって1里≒75mは出てこない。にもかかわらず、谷本氏の計算に古田がダボハゼみたいに食らい付いただけ。
だから周髀算経から求めたとする1里≒75mはなんの根拠にもならない。
古田が…古田が…って云う前に、自分で少しは勉強してごらん。
まだまだいっぱい有るけどめんどくさいので…。
462サガミハラハラ:2007/10/17(水) 09:37:54
1里67.5mは周尺なのです。
魏の時代は長里短里説がありますが。これはどちらでもありません。
つまり、倭人伝の行路記事は周尺で記録されている、ということはこの記事は
魏使の計測ではないということです。
陳寿がみたのは、もともと周尺で記入されたものであり、それは漢の時代に図書館に収蔵されていたのであろう。
つまり、魏志倭人伝は魏の時代に編纂されたものではあるが、その資料は魏の時代のみならず。前時代の資料を使って編纂されたものなのである。
463日本@名無史さん:2007/10/17(水) 11:50:26
>461はアンチ古田信仰。信仰の呪縛ごくろうさん。
信仰じゃなくて、学問をしてください。
464日本@名無史さん:2007/10/17(水) 12:21:36

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が弥生前期末には
既に伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
465日本@名無史さん:2007/10/17(水) 14:18:05
>>458の書き方は、>1ダナ
466ローガン:2007/10/17(水) 14:48:03
>>460サガミ先生ダメですよ。「小城」は貴方の個人的見解なので、そこから求めた67.5mなんて実例になりません。
倭人伝の行路記事が貴方の仰る所の「周尺」で記録されているなんて一体どこに客観的な根拠があるの?
>>462後半部分のご意見には賛同します。
>>461ごめん。君には難しすぎたようやね。「猿でもわかる」ように書いたつもりだったが。
467ローガン:2007/10/17(水) 14:50:23
>>463でした。すみません。
468日本@名無史さん:2007/10/17(水) 15:04:19
>>466
長里にすれば大和説になると思ってるんだろうがw
もう将棋で言えば詰んでるんですよ
反論って相反する論なわけよ
おまえは論が無い、ウザイから糞コテは消えろ。
469日本@名無史さん:2007/10/17(水) 15:05:03
そのとおり。

>>461ごめん。君には難しすぎたようやね。
470プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/17(水) 15:18:09
例え殷時の測量資料であれなんであれ、先代史書のない魏志倭人伝はオリジナル的な存在。
ましてやそれが、公文書的意味合いの史書なら尚更
当時の度量衡に換算し文字化させるのが常識。
魏時に使えない資料をそのまま掲載すれば、その時点で「魏書」ではない
魏時を書くから魏書なの


な〜にが「周里」だ!
471日本@名無史さん:2007/10/17(水) 15:29:17
>461
古田は谷本が「周髀算経」を持ち出す20年前に
魏志の1里は70m弱という結論を出している。
疑似餌以下のガセネタに飛びついたダボハゼは、>461だけだろ。
472プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/17(水) 15:47:58
サガミさん

どうしても「短里」を主張したいなら、魏時に短里を使用していた事を、書にて証明すればいいのです。
そして
どうして「長里と短里」が存在し、どう使い分けされていたか当時の書から引用するだけです。
何故そうなったか?


現代の地図を引っ張り出して“あ〜だこ〜だ”言った所で、単なる自己満足ですよ
473プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/17(水) 15:58:13
サガミさん。

因みに私も一般に言われる「短里」です。
たぶん
サガミさんが「長里」指示ならこんなにシツコク絡んだりしませんが
同じ「短里」だからこそ一寸の隙も見逃す訳にはいかないのです。
474ローガン:2007/10/17(水) 17:52:01
>>468お前ら、ホンマにアホやなあ。
1里≒70mなんてどこに書いてある?
少し位中国の度量衡勉強したらどうや?
あ!そうか!読めないのか!それやったら仕方ないなあ。
めんどくさいけど、最後に教えたるわ〜
魏晋朝の1里は434mや。しかしな、漢代から短里もあるんや。ただ70mじゃあない。
詳しく知りたかったら、あとは漢文読める人に頭下げて頼め!ほなさいなら
475サガミハラハラ:2007/10/17(水) 19:26:28
この度出版した本に全て書いてあります。
で、しめくくったら敵前逃亡と同じになってしまいますのでちぃとだけお答えいたします。
魏の時代には、公には短里は使用されていないと思います。
陳寿は、周尺で記録された行路記事を最後の不弥国から邪馬台国までの部分以外(変更部分)をそのまま
記述したのです。そのため倭人伝は周尺なのです。
476サガミハラハラ:2007/10/17(水) 19:37:49
不弥国から先の邪馬台国投馬国は里数ではなく日数でしょ。
477茨城県民(プ):2007/10/17(水) 19:52:59
サガミさん
魏時公に使用されていない度量衡使用したら『魏書』じゅないでしょ
478茨城県民(プ):2007/10/17(水) 19:58:19
>>476
日数表示がなにか?
日数表示も、帝国で使用されているれっきとした距離表示ですよ
479サガミハラハラ:2007/10/17(水) 21:45:56
陳寿は資料が周尺で記述されているとは全然思っていなかったようです。
4801 ◆.L.MXSPOgc :2007/10/17(水) 21:46:28
>>415 サガミハラハラさん
怒らせてしまいましたか?
インコのピーちゃんは比定地の比喩です。相変わらず、とは比定地のことです。

>>416 299さん
私の説の反論でしたら、もうすこしストレートに、自説を展開された上で私説のおかしな点を
指摘していただきたい。貴方の書き込みは、いまだに私説の内容に触れていない部分ばかりを
話題にされたがる。しかも毎回論点が変わる。毎回論点が変わるのは、あなたがディペードを
したいだけで、内容に関してはどうでも良いと思っているからだと受け止めます。
それが内容の伴わないという意味です。

>>417 九州王朝大好きさん
對馬国や一大国の大きさを行程に入れ、さらに不彌国を行程の終着点とするという説は
残念ながらあまりにも受け入れがたい解釈といわざるを得ないのです。
そしてこれは、末盧国・伊都国・奴国を北九州に比定する3点セットと、ここまでの行程記事との
矛盾に生じた歪を拡張した解釈だと私は感じるのですが、どうでしょう?
4811 ◆.L.MXSPOgc :2007/10/17(水) 21:47:11
>>418 ローガンさん
スレが賑やかなのは、私以外の方々が精力的に書き込みをしてくださるお陰です。
方角が誤りか?の質問については、まず1・2箇所の誤りであるなら作者の誤解や誤写の可能性を
考えるに十分と思いますが、魏志倭人伝のように全体的な方向を疑うのであれば、疑うに
充分な理由を誤説の方が述べる必要があると思います。
短里については、狗邪韓国までの7000余里の記述などから算出されます。なぜこの部分だけ
短里での記述なのか?という理由はともかく、狗邪韓国までの里程だけでも短里で書かれていると
類推するに十分な証拠といえます。
しかもこの部分に関しては、機内ヤマタイ国論者でも賛同が多いと思っていましたが違うのでしょうか?
ちなみに短里の理由ですが、私は当時の朝鮮里だと考えています。邪馬台国にきたTOPは
中国役人ですが、下に付いてきたのは朝鮮人の人々だったと思っています。そして里程を書いたのも
そのような朝鮮の人であり、彼らが自分たちが使用していた基準の里を行程として記述したため
魏の里程とは約6倍(〜2π倍)の差が生じたのだと考えています。これはまだ私の妄想ですが。

>>449 >>456
#レスが遅くなったために不満を募らせたようで申し訳ありません。

>>428
投馬国・邪馬台国を有明海から南方に充分遠いところと比定すると、さらにその南の狗奴国が
きびしくなりますよ。水行20日は決して短い距離ではありません。
482日本@名無史さん:2007/10/17(水) 23:07:54
邪馬台国から投馬国までの距離については、水行二十日となっている。
投馬国から邪馬台国までは、水行十日、陸行一月。
まあ、誰でもが知っていることではありますが。

では、なぜ、それまでの里数から日数に変わったのか。
中国の書物に、倭人は、里を知らない、ただ日数を以って距離を測る。
というのがあったはず。
つまり、郡使は、不弥国から先は行っていない可能性が高い。だから、
里で表すことが出来なかった。そう考えるのが自然だと思う。

では、なぜ、郡使は、不弥国から先に行かなかったのか。
恐らく、片道二ヶ月、往復で四ヶ月という距離が、行くのを妨げた原因だと
思う。

そこで、思うのは、邪馬台国は本当にそんなに遠いところにあったのかと
いうこと。

まあ、最後まで書くと長くなので、ここで止めておきますが、これを前提として
僕は邪馬台国の位置を考えています。
483日本@名無史さん:2007/10/17(水) 23:15:31
>>481
ちなみに、後漢書には、「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とある。
狗奴国(拘奴国)は、女王国から東に海を渡ること千里余りにあると
なっている。倭人伝と異なるので、気になっているのだが。
484茨城県民(プ):2007/10/17(水) 23:36:11
>>482
隋書倭國伝の「夷人不知里數但計以日」この記事かな?

そう書いてあるからね
で、このことと倭人伝の「日表示」がどう関係するの?
つまり、「日表記」なんて倭人だけが使える技だから、倭人からの伝聞とでもいうのかい?

貴方の考えでいくと倭人伝の読者は隋書が刊行されるまで、ず〜っと不知だったわけだよね?
じゃあ、帝国の史書に出てくるその他の日表記はどう説明するの?
485日本@名無史さん:2007/10/18(木) 00:12:43
>>484
>「日表記」なんて倭人だけが使える技
そういう言い方はおかしいと思うが。
里数を知らない倭人が、日数を使わざるを得なかったというほうが正しい。

さらに、不弥国から先には行っていないだろうと言ったのだから、不弥国から
先は、倭人の伝聞ということになる。

その理由として、伊都国について「郡使往來常所駐」という倭人伝の記述。
また、間違いなく通っているはずの末盧国などについては、その国の様子が
書かれているが、投馬国や邪馬台国については書かれていない。特に、
邪馬台国は、都であるから感動して?詳しく書かれていても不思議ではないと
思う。

また、邪馬台国に行けば、卑弥呼に会っていると思われるが、その気配は
見られない。
魏の皇帝から様々な品物をもらっても、「倭王因使上表答謝恩詔」というわけ
で、使いを立てているだけで、卑弥呼自身は出てこない。

それから、隋書の「夷人不知里數…」の記述は前後を見ればわかるように、
倭人伝の記述について書いていると思う。
486九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/18(木) 02:19:20
>>485
「『郡使往來常所駐』は郡使はここまでしか来れない、
俺達本国の魏使はここを通過して女王國へ行くのだ。」
と言っているのではありませんか?

不彌國で女王國に到着したから、其の先の行程記述が無くなっている。

又『居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞』は、魏使が卑弥呼の城郭に入ったことを示している。

軍事顧問の張政等ですら、『政等以檄告喩壹與』とあるように、壹與に会っているから、
正魏使は卑彌呼に会っているとみなせる。

卑彌呼は巫女で夜の人だから、実際に表情が読み取れるような顔あわせはしなかったと思うが、
すだれを通して会うとか、薄暗い灯りのもとで会うとかであったと思う。
出雲大社の古式に則った新嘗祭のような状態での面会でしょう。
487茨城県民(プ):2007/10/18(木) 09:00:22
『郡使往來常所駐』

なんでこんな箇所で意見が分かれるのか理解できない。

この記事は伊都國の記事に掲載されているのだから、当然「視点」は(伊都國)
そこで『郡使往来』と書いてあるので
これまで順次式に書かれた(郡→伊都國)の往来
詰まり、倭人伝内時系列で考えれば(過去)の纏め

よって
これから先に記述されてる奴國以下は伊都國段階では(未来)の話しだから 『郡使往来常所駐』を材料に考えてはいけない訳よ


この先に行ったとか行かなかったなんて話しは、順次式で書かれた文にはご法度。



専門家が堕落するから
488日本@名無史さん:2007/10/18(木) 09:25:33
巻向
489日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:18:48
春巻
490九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/18(木) 19:55:42
>>486の修正
誤:「『郡使往來常所駐』は郡使はここまでしか来れない、
正:「『郡使往來常所駐』は郡使は常にここに立寄る」と言っているだけ、この先には行かないとは言っていない。
491日本@名無史さん:2007/10/18(木) 23:30:31
>>490
しかしね。郡使は、狗邪韓国にも常に立ち寄っていたはず、海の様子を見たり、
航海に必要なものを仕入れたりして、けっこう長く留まっていただろう。

対馬国や一支国、末盧国も同じ。でも、「常所駐」とは書かれていない。

やはり、郡使は、伊都国を本拠地としていた。奴国や不弥国までは行ったが、
その先には行っていないのではなかろうか。

倭人伝に、「及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
と書かれている。
郡使が倭国に及ぶと、皆、津に臨み調べ尽くし、文書や賜り物を女王のもとに
伝送するが、間違えることはない。

これも、郡使が、直接送り届けていない証拠のように思える。
492日本@名無史さん:2007/10/19(金) 03:40:41
詔勅は拝賀せしめたうえ音読して聞かせなければならない
少なくとも激を使わした時の魏使は卑弥呼に謁見あるいは弟に会っているのでは
493サガミハラハラ:2007/10/19(金) 07:53:39
>>451九州説で佐賀県小城をわすれていますよ。
ここは、確定的(一応謙遜して)なところなのでおとさないように気をつけてね。
494サガミハラハラ:2007/10/19(金) 07:57:27
>>457陳寿は記録をみてかいただけですので、わからないと思いますよ。
495サガミハラハラ:2007/10/19(金) 08:12:46
>>492
政等、檄を以て壱与を告諭す。とあります。
この檄文は卑弥呼に告諭するはずであったが、政等が到着したとき、卑弥呼は死にひんしており、面会できぬまま
卑弥呼は没し、そこで次の次の倭王の壱与に告諭したのであろう。
496茨城県民(プ):2007/10/19(金) 11:44:21
>>491

全然立ち寄ってないし〜っ

『…循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里』

(……水行七千里にて到る、その北に狗邪韓国の岸)
「その」は前文(…水行七千里にて到る)にかかります。
497日本@名無史さん:2007/10/19(金) 15:10:29
>>495
政等以檄告喩壹與
「檄を以って」というのが微妙だなあ。
間接的にという意味にも取れる。
498張政:2007/10/19(金) 16:46:50
邪馬壱国の諸君!!

諸君 私は戦争を地獄の様な戦争を望んでいる
諸君 私に付き従う大隊戦友諸君
君達は一体何を望んでいる?

更なる戦争を望むか?
情け容赦のない糞の様な戦争を望むか?
鉄風雷火の限りを尽くし三千世界の鴉を殺す嵐の様な闘争を望むか?

『戦争! 戦争! 戦争!』

よろしい ならば戦争だ

我々は渾身の力をこめて今まさに振り降ろさんとする握り拳だ
だがこの暗い闇の底で半世紀もの間堪え続けてきた我々にただの戦争ではもはや足りない!!

大戦争を!!
一心不乱の大戦争を!!
499日本@名無史さん:2007/10/19(金) 22:54:22
↑藤原カムイかっ!
500日本@名無史さん:2007/10/20(土) 23:27:52
500
ネトウヨって馬鹿だから韓国中国に好意的な事を言うだけで売国奴扱いするよね^^;
501日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:19:36
>>498
まさに檄文
502日本@名無史さん:2007/10/21(日) 11:18:15
>492
拝賀??? 平伏? 要は最高の敬礼容儀をもって拝聴するということ
ひざまずいて上半身は直立不動、頭を垂れる
詔勅は皇帝の発する言葉そのもの
503日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:19:13

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州・西日本に伝わった稲作が既に弥生前期末には
伝わっていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
504日本@名無史さん:2007/10/21(日) 20:53:23
>>501
「檄」は「檄」であって「激」とは意味が違う。
何で「木偏」なのか考えてみよう。
505日本@名無史さん:2007/10/22(月) 00:08:23
>>504
戦争に駆り立てて、鼓舞するようなものを檄だと思ってた!

調べてみたら木管に文書を書いてばら撒くことからきてるみだいだけど
現代じゃ使えない

檄文のというと文書じゃないとダメな気がするけど、
演説だと檄と言えないかというと、三島由紀夫の「あれ」なんかは
「檄」で通ってるし

>>498は檄文でないとしても、内容としては「檄」じゃないかな
506日本@名無史さん:2007/11/07(水) 23:43:04
age
507廿里艾人:2007/11/21(水) 18:54:51
鋭いですね。
http://www.adthree.com/publ/maki-rintarou/index.htm
本になるようです(^_^)。
5081 ◆.L.MXSPOgc :2007/12/03(月) 00:41:28
この方かな?
http://www.adthree.com/i/yamatai/01.htm
一大国の方位のとこでwebでは終わってますが、佐賀県の三日月町(現小城市)ということは
同じく松浦川をさかのぼるルートを考えているのでしょうかね?
私の言う末盧国〜奴国の3点セットをどう見ているのか気にかかりますが・・

しかし久しぶりに来てみたのですが、書き込みがぱったりと止まってますね (^^;
509サガミハラハラ:2007/12/03(月) 09:32:37
>>508この方も私と同じ小城説のようですね。
510日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:47:42

伊都國は佐賀県の春日(現佐賀市大和町春日)ですよ。
511日本@名無史さん:2007/12/30(日) 00:21:06
人口論は出尽くした感もあるかも知れませんが、失礼させて下さい



「三国志」に蜀の滅亡時の人口が94万人と書いてあるそうで(後主伝より、ちなみに呉は230万人・食糧280万石だとか)
一戸5人とすれば約18万8千戸


三国志記載の邪馬台国・投馬・奴の戸数を単純に合計すれば14万戸
さらに他の20近くの小国やらを加え、邪馬台国に対抗しうる力があった狗奴も考えて…
中国本土三国の一角、蜀帝国に匹敵する人口がいたことになりますよね

もちろんかなり誇張はあると思いますが、洛陽からひとかどの強国と見なされてたのは間違いないでしょう

やはり九州には収まらないと思います


東海地方がかなりの人口密集だったとの学説もあるとかで、やはり狗奴は東海から毛野にかけて比定するのがいいのかなと

めちゃスケールが広いですが、三韓をしのぎ蜀に匹敵する人口を有してたならばそれ位いってもよろしいかと
512日本@名無史さん:2008/01/17(木) 13:13:22
珍しく九州以外の説が書き込まれましたね。
近畿説の書き込みが少ないのはなぜでしょうか。
ちなみに私は福岡県か佐賀県の可能性が他の地より高そうと思っていますが。
513日本@名無史さん:2008/01/17(木) 13:32:33
邪馬台国の中心が変遷してるから、1箇所じゃないだろうけど、
 福岡県→佐賀県→熊本県→福岡県って感じかな?
(一世紀)            (7世紀)
514日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:59:45
あの、何で伊都国って糸島半島あたり何ですか?
地名だけだったらうちの近所にも到津ってあるんで、伊都の港だったらこっちの方がよさげです。
515日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:04:43
高木彬光が小説の中で伊都国はそのあたりだとかいていました。
516日本@名無史さん:2008/01/17(木) 21:06:52
>>515
ということは、こっちでもOK?
517仲OゆOえ:2008/01/18(金) 20:46:47
どこでもOKなの!
518日本@名無史さん:2008/01/18(金) 23:05:31
>>517
ぬくみずでもか?
519神奈川県厚木市温水:2008/01/18(金) 23:52:37
もったいなきお言葉。
520日本@名無史さん:2008/01/19(土) 02:35:47
高木彬光とか好きそうな人のスレでいいのかな、ここは
521日本@名無史さん:2008/01/19(土) 03:04:05
最初に言い出したのは新井白石。
522日本@名無史さん:2008/01/19(土) 09:52:37
(小説の中でかいていました、という表現を使うのなら)

鯨統一郎が小説の中で邪馬台国は東北にあるとかいていました。
523日本@名無史さん:2008/01/19(土) 10:50:01
それが正解
524日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:30:46
内田康夫は『箸墓幻想』を読んだ限りでは
正統派畿内説ぽいですな
525日本@名無史さん:2008/01/20(日) 19:55:58
>>522
うちの近所にあるって、じいいちゃんがいってたぞ。
526日本@名無史さん:2008/01/20(日) 21:12:11
関連して、
あの「金印」って、本物なの?

そんなに大事なものが?
527太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/20(日) 21:48:55
本物だよ。ニセだったら造った奴と関わった奴らは死罪に近い。そん
な冒険をたかが銀子が欲しいくらいで小判等を鋳潰して巧妙に造っ
たとは考えにくい。金印があるということは当時九州に国王が
いた証拠と云えるし、当時すでに日本に漢字があったことを物語って
いる。さらに押印は特殊な印刷だから、そこから類推するに使わない
でオシマイにするほどの国王へのオモチャではないこと自明だろう
から、別に筆が出てこなくても漢字の使用があったことは堅い。
だからこそ重要なわけである。

サガミハラハラ氏が奈良東大寺古墳の中平刀は国産だと主張して
いて、だれか研究したことで信憑性が高いという話である。そうなら
ば、この鉄刀の銘文は日本で国産のだから、すでに日本で漢字
が使用されていたことになる。時期は中平年間は日本で孝靈天皇の
時代で倭の大乱の直後であろう。倍暦でそれがわかる。さらに
親魏倭王の金印で同時代(240年頃のよう)ころ、九州で漢字の使用
があったと観てよい、だが一般民衆は殆ど読み書きはできなかっ
たようだ。ごく一部の特権階級のみが読めた使ったということだな。
528日本@名無史さん:2008/01/20(日) 22:30:30
>>526
「漢委奴国王」の事かな?

まあ流石に最初は偽印と言われていたらしい。
と言うのもそれまで蛇がとぐろを巻いた紐は例が無かったから。
しかし後に中国で蛇紐金印や亀紐金印が出土し本物と言う事に落ち着いた。

特に後者は光武帝の子、劉ケイを広陵王に封じた58年に製作されたもので
奴国王の朝貢の翌年製作されたと考えられ外形や文字のフォントが一致するので
同一工房で製作された可能性が高いとか…
529日本@名無史さん:2008/01/21(月) 09:09:09
邪馬台国の条件
1.東に海があること
2.さらにその先には陸地があること
3.その距離は千余里(狗邪韓国-對馬國間と同程度の距離)
4.七万余戸を支える敷地及び水田=水源があること
5.魏志倭人伝の出発地点より一万二千余里でかつ会稽の東冶の東であること
530太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/21(月) 20:22:08
>>527
これだけ根拠を出して説明しても、ま〜だ漢字は仏教伝来の時だとか思いこんで
それ以前には無いと、考えを改めないやつがまだまだいるんだろうなぁ?w
つまりだ、金印の押印行為での特殊な印刷と言えることをだ、使用と認めがら
ないのだろう? 笑いたくなってくる。それだけ現代教育を受け、日本の古代を
舐めきっていた心理の弊害が現れていると言えるんだろう?
今度は別の文献を持ってきて、佛伝に文字があったことを確固とせねば
なるまい。

「梁書」巻第五十四列伝第四十八
「扶桑国。齋の永元元年、其の国の沙門慧深有り、来りて・・・説いて云う。
 『扶桑(日本)は大漢国の東二万余里在り、地は中国の東に在り・・・・・
 ・・・文字有り、扶桑の皮を以て紙と為す。・・・国王の名を名づけて乙祁
 (オケ=顯宗天皇)と為し・・・・・』
531太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/21(月) 22:31:48
>>530 訂正
× 佛伝に文字があったことを
○ 佛伝よりも前に文字があったことを
532日本@名無史さん:2008/01/22(火) 10:19:19
最近、"かんのわのなのこくおう"と読むより"かんのいとのこくおう"
と読むほうが自然な気がしてならない。
533日本@名無史さん:2008/01/22(火) 12:53:42
>>532
自分も国名が委(倭)国の中の奴国と2段で考えるのは不自然だと思う。
仮にそうだとすると、そんな国に対してなぜ金印なのか、という疑問も出てくる。
委を倭国の倭の省略形と考えるのも変な気がする。
やはり委奴という国があったような気がする。
「いと」なのか「いど」なのかわからんが。
534日本@名無史さん:2008/01/22(火) 20:11:22
漢を宗主国と仰いだ「ゐど」国という理解以外にありえないと思う。
535日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:53:09
では、肝心の邪馬台国なのだが、邪馬壹国ではないの
邪馬臺国か邪馬壹国のどちらと思いますか
536日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:24:52
委奴国と書いてあれば委奴国。
邪馬壹国って書いてあれば邪馬壹国。
イ妥国と書いてあればイ妥国。
扶桑国と書いてあれば扶桑国。
537日本@名無史さん:2008/01/23(水) 09:10:26
もしこれを漢の委の奴の国王ではなく
漢の委奴の国王と読むのであれば
委奴はゐど、つまりは魏志倭人伝の伊都国の事ではなかろうか?
倭人伝に伊都国には王がいるとの表記はあるものの国王の名すらない。
代々女王国に属していたとあるから卑弥呼の時代にも王はいたはずである。
しかしその名がないのは不自然で違和感が残る。
さらに伊都国は郡使の往来の際の逗留地であり諸国を検察するという
重要な場所であるにも関わらずその隣にある奴国の5%に満たない戸数しか
有していないのはなぜなのか?
さらに倭人で邪馬台国ですら邪や馬の字を当てているのに伊都国には都という字を
使用しているのも謎である。

ここからは想像の範疇でしかないが
倭国の基礎を築いたのは伊都国で一時は漢に国史を送るまでになったが
何らかの理由で分裂し倭人伝の其國本亦以男子為王のくだりに繋がって行くのでは
なかろうか。
538日本@名無史さん:2008/01/23(水) 12:38:22
委奴と伊都国が関係あるかどうかだが、
一般的に言って、地名や国名が似ているということで関係があると考えると、
誤ることがあるので注意が必要と思う。
539日本@名無史さん:2008/01/23(水) 14:23:30
もしも委奴=伊都なら、倭人の中心国家として漢籍に書かれ、
そういう扱いで詳述されると思うが、それはない。
540日本@名無史さん:2008/01/23(水) 16:33:44
>>539
伊都國は過去の倭人の中心国家として漢籍に書かれているよ。
「伊都國・・・世有王皆統屬女王國」魏志倭人伝

委奴(倭奴)國→→伊都國

倭國(王帥升)[倭面土(米多・目達)國]

邪馬壹國(倭女王國)
541540:2008/01/23(水) 23:50:58

アク禁になっている。

何故?
542三重県民:2008/01/23(水) 23:55:49
終止符12スレ立てれないのか。
2ちゃんの管理ぁどうなってるんやろね。。。
543三重県民:2008/01/24(木) 00:01:06
>>536
>委奴国と書いてあれば委奴国。
>邪馬壹国って書いてあれば邪馬壹国。
>イ妥国と書いてあればイ妥国。
>扶桑国と書いてあれば扶桑国。

同感。
544神奈川県民改め三重県民:2008/01/24(木) 00:18:16
終止符スレにて「前レスへの返答&新しく書き込む」予定だった方へ

No12立ち上げれなく申し訳ないです。
明日か明後日立ち上げますのでお許しください。
545日本@名無史さん:2008/01/24(木) 01:50:34
ワイ国だろ
546後藤幸彦:2008/01/24(木) 10:37:04
昨日本屋によったら、私の本を参考文献のなかにいれている本を発見した。このかたも邪馬台国小城市説なのである。
私に先をこされたようなことをかいておられました。書名は「邪馬台国とは何だろうか}です。
>>507であげられている方です。
547鵜野森の住民:2008/01/24(木) 14:59:01
>546
下九沢の後藤幸彦さん、「ハガミハラハラ」のコテハンをやめたんですか?
548サガミハラハラ:2008/01/24(木) 18:28:17
>>546は特別です。
549鵜野森の住民:2008/01/24(木) 20:34:09
550日本@名無史さん:2008/01/24(木) 23:12:54
小城市には三日月(みかづき)村があるからな。みかづきは昔は甕調となっていたし。
関係ありそうな雰囲気はする。
551日本@名無史さん:2008/01/25(金) 10:14:51
>>537
伊都国を中心とした由緒ある部族連合が
新参の、南から攻めあがってきた邪馬台連合との戦争に敗れ併合されたのでしょう
伊都国の戸数が少ないのは軍が駐留し良い土地を召し上げたからではないでしょうか
おそらく伊都国の領域であった福岡市の西区にはイザナギが降臨したという筑紫の日向の「小戸」という地名、神社がありますし
神功皇后が上陸して潮に濡れたあこめを干したと伝えられる「アコメの浜」に由来する「姪浜」という地名もあります
このあたりは大陸、半島から渡来、侵攻してきた一団の上陸しやすい場所だったのだと思われます
伊都国を建国した一団はここから先住民のいた東ではなく西に定住した渡来人ではなかったでしょうか


552日本@名無史さん:2008/01/25(金) 10:48:02
>551
>伊都国を中心とした由緒ある部族連合が
>新参の、南から攻めあがってきた邪馬台連合との戦争に敗れ併合されたのでしょう

面白いですね。
松浦半島あたりは背振山系を越えなければならないので
南方面からだと半島や大陸に渡る要所の地になる場所ですので
是非にも押さえておきたい場所だったのでしょうかね。

ちなみに魏志倭人伝では伊都国の戸数は千余戸ですが
その前に書かれた魏略では戸万余と一桁違うんですよね・・・
魏略が275年以前、魏志倭人伝が280年〜290年くらいらしいですから
早ければ5年くらいで様子が一変したのかもしれませんね。
553九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/25(金) 20:33:07
>551
>伊都国を中心とした由緒ある部族連合が
>新参の、南から攻めあがってきた邪馬台連合との戦争に敗れ併合されたのでしょう

基本的には同意しますが、正確に書けば、
伊都國は邪馬台連合との戦争に敗れ併合されたのではなく、
邪馬台連合(女王國)との権力争いに敗れ盟主の座を奪われたのです。
理由
「有一女子名曰卑彌呼・・・於是共立爲王」後漢東夷伝
「伊都國・・・世有王皆統屬女王國」魏書東夷伝

>>552
伊都國は、戸万餘の地域権力の座から、千餘戸の女王國従属の座に変わったのでしょう。
554日本@名無史さん:2008/01/26(土) 06:35:56
トンデモ説のあつまりだな。

奴国=な国で、上古音。
伊都国=いと国で、中古音。
少なくとも、伊都国が、中国人に知られるのは
奴国よりも後だった可能性が高い。

場合によっては、伊都国は比較的に新しく設置された国だろう。
この国には、邪馬台国から一大率が置かれていたらしいから、
邪馬台国(大和国)が九州を統治するために新しく設置された国かもしれんだろう?
555日本@名無史さん:2008/01/27(日) 16:22:30
>>552
ちなみに魏志倭人伝では伊都国の戸数は千余戸ですが
その前に書かれた魏略では戸万余と一桁違うんですよね・・・
魏略が275年以前、魏志倭人伝が280年〜290年くらいらしいですから
早ければ5年くらいで様子が一変したのかもしれませんね。

どちらにも見てきたようなウソを書く書記がいたんでしょうね。
556日本@名無史さん:2008/01/28(月) 09:17:36
>554
魏志倭人伝で中古音の伊都の字が当てられてるからといって
そう判断するのはどうなんでしょうか?
まして代々王のいた国ですよね?
557日本@名無史さん:2008/01/28(月) 10:52:26
>>551
興味深いですね。その「伊都国の領域」に住む者として伊都国が新興の邪馬台国に負けて併合されたというのは
感情的に首肯できない部分もありますが、世界の歴史を見ても文化的に進んだ地域を蛮族が武力で蹂躙していった例は
ローマ帝国やモンゴルにも見ることができますから十分有りうることなのかもしれません
伊都国は九州北部の中心国家だったのかもしれませんね

それにしても伊都国もそうですが倭人の条には
弥奴国、邪馬国、支惟国、烏奴国など九州の旧郡名と一致する名前がちらほら出てきますね
三根郡、八女郡、基頴郡、大野郡にあった国家なのでしょうか
伊都国が今の前原から福岡市西部、奴国が福岡市中部、南部にひろがっていたという考えに沿うと
倭人の条に出てくる30余りの国家群は昔の一郡程度の領域を持っていたということでしょうか
大宰府から出てきた文書に「マツロ国の西南百里に島があり、それは伊邪国の分国だ」とありますが
この島は鷹島でしょうか、とすれば伊邪国は伊万里湾沿岸にあった国家なのかもしれないと感じます
蘇奴国、対蘇国などは阿蘇郡あたりと関係があるのかもしれませんし、呼邑国は宮崎の児湯郡なのかもしれません
こうした旧郡名とは一致しない国家の名も多く、地名だけで判断するのは乱暴でしょうが
少なくともある程度は参考になるのではないかと感じます
記紀などには五百木入彦、興台産巣など
倭人の条の已百支国や好古都国に関係があるのではないかと思わせられる名も見えます
好古都国などは他国と違って良い字が使われているのが目を引きます
北の伊都国に対して、あるいは南の(熊本あたりでしょうか)中心国家だったのかもしれません
魏や呉など大陸からの渡来人の入植地だったために良い字を使ったのかもしれないとも感じます

最近古代史に興味を持ったばかりの若輩者ですが思いつくままに乱暴な意見を書いてしまいました、申しわけありません
558日本@名無史さん:2008/01/28(月) 15:40:19
>>557
いや、一番まともだよ
559日本@名無史さん:2008/02/01(金) 13:41:56
>557
地名の一致で考えていくときは注意が必要です。
例えば「ト」という発音する言葉は現在では1種類ですが、古くは2種類あります。
そこを意識していなければいけません。
また、九州各地の地名と同じ地名が遠くはなれた場所に、ほぼ同じ方向(同じ位置関係)に存在しています。
このことも地名を当てはめるときに注意しなければなりません。

560日本@名無史さん:2008/02/01(金) 23:59:31
すべての国民のDNAを集めて、それを家系図と照合して調べれば、
ほとんどすべての日本人の祖先は、古くから日本に住んでいた
古日本人の子孫だということがわかると思います。
日本が大陸から切り離された後に移り済んだ、天皇家の子孫も
物部氏・曽我氏・秦氏の子孫も血統を残せるほどの大集団ではな
かったというのが正解だと思います。
561日本@名無史さん:2008/02/02(土) 09:17:41
>>560
だから、トンデモ説を撒き散らすな。

蘇我氏は皇別、物部氏は天神。

秦氏は渡来系。
562日本@名無史さん:2008/02/02(土) 09:20:56
>>556 :日本@名無史さん:2008/01/28(月) 09:17:36
>>554
>魏志倭人伝で中古音の伊都の字が当てられてるからといって
>そう判断するのはどうなんでしょうか?
>まして代々王のいた国ですよね?

その代々の王という記述も曖昧だよ。
代々っといっても、3代、4代くらいでも代々だから。
563日本@名無史さん:2008/02/02(土) 09:47:35
俺はこれを支持したいな。
http://homepage3.nifty.com/washizaki/index.html
だって、地元だもん。
専門的に考古学やってる人以外の根拠なんて、全部あてにならないけど
地元に邪馬台国があってほしいって気持ちはけっこうみんなあるよね。
俺の血筋と家系は平安時代までしかさかのぼれないんだけど
もっと昔まで探れるようになるとうれしいなー。
564日本@名無史さん:2008/02/02(土) 09:52:26
考古学だけじゃなくて、歴史学の人も
今や
邪馬台国=大和国
卑弥呼=百襲媛命か、その近辺の人
という説が有力になってきているから、
九州説にとっては、つらい日々が続く。
565サガミハラハラ:2008/02/02(土) 10:09:30
>>564しかし、学問や科学は退化することもあるのですね。
わたしは進歩しつづけるものだとおもっていましたが。
566日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:35:00
>>564
それって、世間が驚くような証拠がでたんじゃなくて
説の流行程度のものでしょ?
宇佐神宮・宇佐八幡なんて
リンク先の文章よんでたら
たしかに「卑弥呼・や邪馬台国」につながりそうなイメージをもてるけど
畿内説って、いまひとつなんだよね。
もちろん、地元びいきもあるよ。
あと、耶馬溪だって、なんとなく邪馬台国のなまえからの変化のようなイメージもてるしね。

畿内にはそんなイメージもてる要素ある?
難しいことわかんないから、イメージでよろしく。
567日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:45:06
つーか、文化庁と桜井市がかなり金を出すらしいじゃん。
纏向遺跡ってまだ2%ぐらいしか発掘されてないけど
これから5年、10年と、いっきにけりをつけるんだろう?
2%でもそうとう、凄い発掘があるわけだし。
568日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:46:49
>>566
だからさ、それは、おまえの主観だろう?
おれからしたら、宇佐のどこが卑弥呼に繋がるのか
さっぱり分からない、

畿内の方が、ダイレクトに卑弥呼と関係が在りだろう?
569日本@名無史さん:2008/02/02(土) 10:50:16
>>567
それはそれで、大発見があって、邪馬台国って証拠が出ると
歴史ファンとして素直にうれしいな。
俺の地元じゃないのは悲しいけど
永遠に「わかんない邪馬台国」より、ハッキリした歴史をたどれたほうがいい。

地元邪馬台国説で楽しめなくなるのは悲しいけど
早く邪馬台国の遺跡を見る時がこないかな。
それが地元だったら、速攻で俺は公務員やめて、ゲストハウスを経営するぞ。

ザコ寝部屋・・・1200円
個室・ペア・・・1800円

よろしく。
んでもって「やっぱ邪馬台国じゃありませんでした」ってなったら
人生真っ暗だなw
570日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:12:17
阿蘇山と金印が畿内で見つかれば
極東で戦争を数百年間行える膨大な鉄器が畿内で見つかれば
法隆寺が畿内から移築されたと証明できれば
九州〜東北に分布する装飾古墳が畿内を中心にしていれば

畿内が邪馬台国だった可能性がゼロじゃなくなるな。
今はゼロだけどw
571日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:19:01
>>570
あのな...
邪馬台国(大和国)は、伊都国(北九州)にも
一大率を設置していたわけだから
当然、倭人伝には、九州の風景だって登場する。
阿蘇山がどこかで九州説を語るのは、凄く恥ずかしいこと。

また、鉄器の多さを絶対視するのは、いかに阿呆か。
半島だって、鉄器の多いカヤよりも、鉄器の産地ではない
新羅や百済のほうが半島を統一しようとしていたわけだから。
572日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:22:39
畿内の国に、阿蘇山で国家の祷祭を行った記録が全くない。
やっていたなら古事記・日本書紀にバンバン書けよ。
これは機内の国とは全く関係のない決定的な証拠だな。
573日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:34:06
>>571さんは、証拠もなしに邪馬台国を大和と一緒に考えているのかな?
俺は、地元が邪馬台国だったらいいな〜ってるけど
決め付けようとは思わないな。
考古学って、決め付けはじめたら、お楽しみもおしまいの思考停止だもんね。
ファンであっても学者であってもね。

その時代の鉄器が九州に多い・・・・進んだ文明が九州にあった?
が、歴史的に見てもその後は、畿内が隆盛してくる。
そこで「神武東征」★
どっちも邪馬台国(大和)だった!
とか面白そうな説だよね。

魏志倭人伝の距離表示も、九州じゃ近くて畿内じゃ遠いってはなしもあるよね。
それも、自分が旅行好きだから思うんだけど
旅の報告する時って、正確に伝えるか、少し大げさに伝えるかじゃない?
短く伝える人は少数派だと思う。
魏志倭人伝から、大和朝廷までの空白の時間に、東遷説みたいなことが
おこってても不思議じゃないなー。


>>571さん、熱心に批判するけど
自分のお勧めの説とかあるの?
574日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:40:05
古事記なんか何百年も前の、しかも文字のない時代の伝承を書いているわけだし、
柳田國男が民話聞きとって書いた本といっしょだよ。
歴史的価値はほとんどない。まあ、民俗学の資料だな。
575日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:40:26
>>572 :日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:22:39
>畿内の国に、阿蘇山で国家の祷祭を行った記録が全くない。
>やっていたなら古事記・日本書紀にバンバン書けよ。
>これは機内の国とは全く関係のない決定的な証拠だな。

だからさ、それがお前のサジかげん。

神武天皇に関しては、彼の曽祖父のホノニニギさんが
高天原から高千穂(九州南部)へ降臨したとあるし
日向三代というぐらいだから
当然、ホノニニギさんは、九州南部へ移住しただけで
彼の出身地は、九州南部ではなかったわけだ。
延喜式では、高天原は、奈良県御所市高天のこととなっている。
つまり、紀元1世紀くらいに
大和王朝(ホアカリが国王)の命で、その兄弟のホノニニギが日向に派遣。
その後、その曾孫の代に、大和王朝宗家(ホアカリ系、尾張氏の祖)から
呼び戻されたのが、神武天皇なんでしょう?それが、紀元2世紀初頭。
で、その数代のちが、モモソヒメ(卑弥呼)となる。
576日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:46:17
とにかく、おまえら近代の価値観でものを考えすぎ。

進んだ文明とかいっても、農耕社会なんて
工業化社会ほど、文明の強弱は無関係だろう?
だいたい、半島では、鉄の産地だった加羅は、
隣国の草刈場でしかなかったわけだし、
中国大陸を制覇したのも、後進地域とされた秦によって統一された。
また、中世、日本で最初に鉄砲や大砲が普及したのは九州だが
だからといって、九州の大名が東征して、天下を統一したわけではない。
577日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:50:03
インチキ資料をもとにありもしない妄想はやめなさい!!
578日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:53:38
九州説が追い込まれているのは分かっているが
なぜ、考古学や歴史学で、今や100%近く畿内説になったのか
ということを客観的に分析しないとこまるね。
九州説は素人に小説をうるのは良いけど。
579日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:57:41
なんか、盛り上がってますな。
ただ、考古学や歴史学の分野で
学者さんの間では、ほぼ畿内で決まりというのは
残念ながら事実ですね。
なんか、世間では、九州説VS畿内説が競っているように思われているけど
もう、学界のほうでは、殆ど畿内説で決定!という感じ。
580日本@名無史さん:2008/02/02(土) 12:09:55
地元宇佐神宮が邪馬台国由縁の地であることを祈りつつも
どの説も否定せずに、説の一つとして、ググって調べて
楽しんでる俺が一番偉いな。

どうせ、全員シロウト。
なんか資料みて、偉くなったような気がしてる人が一番醜い。
俺みたいに、ソクラテス先生の思想を理解して
知らないことを自覚して、知ることを楽しむ人が一番偉いぞ!(あ、偉くなってるw)

まぁまぁ両方とも、証拠が出るまでは熱くならずに
色んな説をたのしみなさいよ。
581日本@名無史さん:2008/02/02(土) 13:15:59
邪馬台国は博多に上陸したところという説は少数派ですか
582日本@名無史さん:2008/02/02(土) 15:57:14
>575は激しく×

>神武天皇に関しては、彼の曽祖父のホノニニギさんが
>高天原から高千穂(九州南部)へ降臨したとあるし
>日向三代というぐらいだから
>当然、ホノニニギさんは、九州南部へ移住しただけで
>彼の出身地は、九州南部ではなかったわけだ。

「筑紫の日向の高千穂」に降臨したんだから、福岡県ですね。
>575は0点。高天原は壱岐と思われる。
583日本@名無史さん:2008/02/02(土) 16:03:44
いままでその話題に触れていない者ですが・・・・
思われる・・・・・
だったら、相手0点って決めつけられないでしょ。
バカ?
584日本@名無史さん:2008/02/02(土) 17:57:47
>>582
0点はおまえ。馬鹿か?
585日本@名無史さん:2008/02/02(土) 18:02:06
自分の信じる論を絶対正しいって思ってる人
人の信じるものを完全否定する人

どっちも、愚か者ね。
考古学で結論・証拠がはっきりしてから言おうね。

よって俺は、どこでもいいから早く発見してくれ!
出来れば宇佐神宮がいいな。
聖域だから、発掘調査できない?
そんなんかんけーねー
掘り返しちゃ!
586日本@名無史さん:2008/02/02(土) 18:07:05
>>582
あのなw
九州は筑紫島といって、九州全体が筑紫といったんだよ。
福岡のあたりが筑紫になったのは後世だ。
よって、日向・高千穂は九州南部で
あそこに日向三代の伝承があるのは間違いない。
587日本@名無史さん:2008/02/02(土) 18:20:23
どんな意見を言ってもかまわないと思うが
「0点」だの「間違いない」だの言うようではよくない
588日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:33:35
たとえば自分は本当にやっていなくても、それを証明するものも証人も
いなくて孤立無援。弁護士まで、情状酌量による減刑を狙うように勧め
てくるありさま。そういう状態に追い詰められたれば、誰だって思いあ
まって、「邪馬台国は畿内にあった。」と言ってしまいそうになる。
しかし、真実は一つ。邪馬台国は現在の甘木市付近にありました。
589日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:39:12
問題は何が出たら『ここが邪馬台国!』という証拠になるかだな。
590日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:40:34
卑弥呼の墓 (たぶん大きいはず)
591日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:41:55
ひみこ☆   って書いた棺おけと、ひみこラブって書いた死体。
ウエルカム邪馬台国   って書いた看板。
592日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:47:36
ある非常に大きな勢力を持った親戚一族が
所有している土地や墓を調査できたらわかる可能性はある
593日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:27:33
>586

この百年間に何万回も語られた妄想がでたな。

>九州は筑紫島といって、九州全体が筑紫といったんだよ。

→まったく根拠のない妄想。未だかつて証明も立証もされなかった思いつきw
594日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:59:18
>>593
気持ちはわからんでもないが、やめとけよ。
みじめになるだけだ。
595日本@名無史さん:2008/02/02(土) 21:23:40
はあ?
みじめなのは、古今東西、筑紫≠九州なのに、一部の畿内説学者が妄想した
筑紫島(=筑紫)という造語で、無理やり古代史を捻じ曲げた>586だろう。

証明がいらないなら、、九州島=日本列島全部ということでOK?
596日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:40:19
古事記の国生みのところに、筑紫島と出てくる。この島もまた身一つにして
面四つあり。筑紫の国、豊の国、肥の国、熊曽の国と。
九州全体も、筑紫、筑前、筑後も筑紫と言っていたんだろう。
597日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:15:58
筑紫の日向の高千穂が、いちいち「九州島」の説明をするわけないだろ。
598日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:24:25
>>597
九州の宮崎の高千穂でいいんでないかい。
599日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:28:53
九州全体が筑紫島といわれていたのは有名な話だぞ。
ついでにいえば、日向は、宮崎だけではなくて
九州南部全体が日向だった。
600日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:34:44
いくらなんでも、筑紫の日向の高千穂は日向国じゃないだろ。
601日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:45:48
つーか、北九州には、神武天皇の伝承なんて
全くといっていいほど残ってない。
が、宮崎と鹿児島には、いっぱい残っている。
602日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:47:10
薩摩や大隈は、日向から分離されて
出来たはず。
よって、元々は、九州南部全体が日向だった。
そして、それ以前は、九州全体が筑紫島と呼ばれていた。
603日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:49:31
高天原から降りてきた邇邇芸命の伝説も、宮崎や霧島周辺にはうんざりするほど
あるが、福岡にはないはず。
604日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:55:45
筑紫という語彙をあいまいにするために、筑紫島という語を捏造しただけ。
神武が筑紫国で、遠洋航海のできない時代おくれの退役軍人だったなんて、
地元で伝承するわけないしな。
605日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:59:13
北部九州で神武天皇を祭ったところなかったか?
あったような記憶があるが怪しいので調べてくる
606日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:01:45
天武が九州を併合したあと、文武のときにニニギ系の血統と邪馬台国系の王統を引き継ぐ宣言をした。
王統と血統に齟齬があるのだが、この辺はあいまいにした。古事記を書いた後で、九州の書庫から
膨大な王家の資料が発見されて、これを取り込んで日本書紀に書き直したが、相当嘘八百を混ぜ込んでいる。
607日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:13:36
宗像という場所が北九州市と福岡市の中間にある。
宗像神社があるところから近い島に神話の発祥の地と考えられる場所がある。
地名が天なのだ。
608日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:31:07
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。

その南に、狗奴国がある。王は男である。
狗奴国の官を“狗古智卑狗”という。女王に従わない国である。

女王に従わないのは何時のことか。狗奴国が、
後ろの珠儒国・裸国・黒歯国と同じ場所ではなくここに書かれているのは
倭国の一部という認識か?
後に出てくる狗奴国との抗争を論拠として、
狗奴国は邪馬台を中心とする倭国29ヶ国に匹敵する大国とする説があるが、
感覚的なことだけだがどうも素直には受け入れ難い。
倭国を構成する一国と同規模ではなかろうか?

http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin.html#chiri
609日本@名無史さん:2008/02/03(日) 00:35:15
意外に重要視なのは延喜式。
というのは、延喜式は平安時代の辞書なんだけど
現在の神社伝承というのは、後から作られるものが多くある。
しかし、延喜式を研究すれば、平安時代の時点までは、
どのような伝承があったかという研究において、おおいに参考になる。
そして、その延喜式の時代から現在まででも、いくつかの神社伝承は
変化しているものも多い。
ちなみに、延喜式の時点では、高天原は、奈良県御所市高天の付近とされ
高千穂は九州南部とされている。
610九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/03(日) 13:01:21
>>608
>狗奴国は邪馬台を中心とする倭国29ヶ国に匹敵する大国とする説があるが、
>感覚的なことだけだがどうも素直には受け入れ難い。
>倭国を構成する一国と同規模ではなかろうか?

狗奴国は女王國(邪馬壹國・投馬國・奴國・不彌國の4国連合)に匹敵する程度の大国ではないのか。
狗奴國では官である狗古智卑狗だけでなく、
女王卑彌呼と並列して男王卑彌弓呼の名前が出ているから。

狗奴國の範囲は菊池川流域から緑川流域だと思われる。
又この地域では、弥生鉄加工遺跡から見て、
阿蘇のリモナイトを原料に製鉄も行われていたように思われる。
リモナイトは弁辰の製鉄原料とほぼ同じ水酸化鉄化合物である。
611日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:23:25
>>610
狗奴國は、許乃國。山城のあたり。
規模としては、倭国連合の一構成員と同じ規模だが
そこの国王が武埴安彦命といって、大和王朝の皇族の一員。
つまり、立派な大和王家の後継者候補の一人。
そんな彼が、大和王朝(邪馬台国)に謀反をおこして
王朝を乗っ取ろうとしたんだから、そりゃ、天下の大乱だわな。
612日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:59:31
しかし、邪馬台国は日向市だとあるではないか。
どうして皆さん黙ってたんですか?
613日本@名無史さん:2008/02/03(日) 14:41:49
日向だと朝鮮との位置関係がおかしくないか
614九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/03(日) 15:11:26
>>611
武埴安彦命は京都山城を本拠地とした銅鐸國の大王の一人。
615太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 15:13:18
埴輪っていうのは銅で出来るのかな? 垂仁あたりから埴輪は出来たんでは
なかったか?
616日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:17:54
>>615
埴輪の起源はそうだよ、日本書紀によると。
出雲出身の豪族が、垂仁天皇の時に提案したと。

で、考古学的には、埴輪の最初は吉備だという説が濃厚。
出雲の豪族が隣国・吉備にヒントをえて、大和中央政権に埴輪を提案したのかも?
617太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 15:19:45
>>616
解説有難う。
618日本@名無史さん:2008/02/03(日) 16:11:58
大阪北摂の能美宿禰が赤土で焼いた埴輪を献じたとある
赤馬という土地もあって興味深い
野間神社にはまた、
600何年だったっけ、ニギハヤヒが胸に掛けていた御統の玉が推古帝から奉納されたとある
619日本@名無史さん:2008/02/03(日) 16:15:35
ああそうだ、能勢には銅山がある
能勢の知明山は奈良の大仏の銅に使われたと記録がある
国内で初めて銅が出たと、和同開珎を作ったんやね
和銅=国産の銅
620九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/03(日) 17:24:08
>>619
「和銅開珎」は関東秩父の銅献上を記念したもの。
続日本紀をよめ。
畿内朝廷にとっては支配地からの初銅。
和銅元年以前の銅は畿内朝廷の銅ではなく、
他権力(非大和朝廷)の銅であったと言うことだ。
621日本@名無史さん:2008/02/03(日) 19:47:36
そうなのか、灯台下暗しだな
近場に銅を出す山があったのに
知明(ともあけ)=伴ノ屯倉 という事で大和朝廷の配下だったと思うのだが
622日本@名無史さん:2008/02/05(火) 21:02:36
東夷伝の、南を東へ修正・・・って畿内説の人はアピールするけど
ちょっと疑問なんですが、
昔の人が、そこまでアホと思えないんですが・・・。
俺ですら太陽の位置で、東西南北くらいは分かります。
冒険するための知識が豊富な人たちが
そんな間違いするとは思えません。
この辺りは、どう解釈しているのでしょうか?
623日本@名無史さん:2008/02/05(火) 21:14:31
径百余歩(150メートル)とされる卑弥呼の墓に匹敵する規模の墓
これが、九州にはないって言いますが、
普通の体系の俺でも、一歩の歩幅は一メートルなんてないですよ。
昔の人の体格はもっと小さかったんですよね?
どう考えても150mなんて、大げさなような気がします。
そもそも100歩余りが、103歩の可能性もありますよね?
そうすると、歩幅から考えても
50〜100mって考えるのが、妥当なように思うのですが
そのあたりは、どうおもいますか?
624日本@名無史さん:2008/02/05(火) 21:14:38
>>622
昔の人がアホなんじゃなくて
南を東へ修正なんて間抜けなこと言い出す奴がアホと解釈すれば
万事つじつまが合うだろ。
625日本@名無史さん:2008/02/05(火) 22:01:11
ですよね。
日の出るところを東・・・・とかんがえたから、冬だと45度ずれて
南東が東と思い込んだ・・・・・って
日の入りの角度と考えて真ん中を南と考えるくらいの知能は
冒険してた当時の人にも、当然あったと思うんです。
どう考えても、南を東に置き換えるって話しの時点で、間違ってるので
畿内説が全部眉唾におもえて仕方ないです。

(北海道在住です、九州人の九州ひいきではありません)
626日本@名無史さん:2008/02/05(火) 22:12:53
邪馬台国の特徴は、畿内でほとんど出ない絹でしょう。
畿内みたいに鉄器がなきゃ、極東で長年戦うことはできませんね。
畿内の軍隊は、大陸や半島までの遠洋航海は全くできません。
九州から東北まで広がる装飾古墳の中心は、北部九州です。
畿内が邪馬台国だと仮定したら、矛盾百出。
627横槍:2008/02/05(火) 23:09:58
松下『事件を解く鍵は、
   3世紀初頭に大和登場した帆立貝形古墳が時空を超えて日向の国
   にニニギの命の墓として5世紀に登場する事ですよね』
恭介『松下君、これは探偵小説でゐうところの心理的トリックなんだよ。
   昔、横溝君がよく使ったセコイ手段さ。バカな読者は騙されるのが好きで
   本を買わされたもんだよ。
   先入観を取り除く事が解決の糸口だよフ・フ・フ・・・』
628日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:13:50
三角縁神獣鏡のはなしは、もうまったく邪馬台国畿内説の根拠にならないってのは
もうあたりまえなんですよね?
629日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:17:35
ヒント:ニニギが天孫降臨した地は、
    福岡県にしかない筑紫の日向の高千穂の「クシフル岳」
630日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:22:22
宮崎の高千穂の天岩戸やそのたの史跡はどうなるの?
無視?
631日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:36:34
大分県の宇佐神宮だって
シャーマニズムの原始宗教としては、卑弥呼と無関係とはおもえないんだよな。
少なくとも影響は受けてるんじゃないかな。
周辺から、すごい遺跡でもでれば面白いのに。

吉野ヶ里は、なんで邪馬台国としての注目を失ったの?
なーんもでなかったの?
632日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:39:52
>>631
想定されている邪馬台国の時代より
古すぎるから
もちろん、古代資料としては重要
633ローガン:2008/02/06(水) 00:57:20
>>623
「歩」が歩幅とは新説ですね。
634日本@名無史さん:2008/02/06(水) 07:03:27
>>632
新しいはずの纒向を、卑弥呼の時代に重ねるために無理やり古くしたため。
でも、吉野ヶ里が卑弥呼の時代と重なるとすれば、纒向は従来どおり
4世紀になってから始ることになる。

要するに、吉野ヶ里のほうが早くて、纒向はそのあとというのは間違いない
ところかな。
635河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 09:50:49
>>633

度量衡「歩」は歩幅です。
636日本@名無史さん:2008/02/06(水) 10:59:20
まあ、そういじめずに。
歩幅なんだけど、「歩」の単位は片足が移動する距離。
左足を軸にしたら、右足が地面を離れてから再び地面に着くまでの距離。
足をそろえた状態からだと、普通の意味でのニ歩分。
637日本@名無史さん:2008/02/06(水) 12:11:19
>>636
その根拠は?
歩を一歩だと思ってたんですが、
軸足が、移動した数だとはしりませんでした。
根拠はなにかの文献?
638河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 12:32:06
>>636さんが説明した『足をそろえた状態からだと、普通の意味でのニ歩分。』は
度量衡「歩」の定義ではなく、和語(あるく)その動作の定義です。
度量衡「歩」とはまた別物

長さの基準は「尺」
この尺が基となり(寸、分、間・・・)などの長さの単位が誕生した
その「尺」と「歩」が正式に出逢ったのが秦の時代、この時「尺」六つ分を「歩」という単位にし、度量衡の一部としたわけだよ
決して(あるく)とする歩幅が六尺に相当したから『歩=六尺』になったのではない。
639河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 12:41:29
長さの単位「歩」の定義は
>>636さんが説明したように

『歩幅なんだけど、「歩」の単位は片足が移動する距離。
左足を軸にしたら、右足が地面を離れてから再び地面に着くまでの距離。』

だから『歩』という文字
640日本@名無史さん:2008/02/06(水) 13:24:19
中国の歩は足を交互に動かして一歩となります。これが基準となります。
魏代の度量衡では一歩は1.4472mだそうです。(角川漢和中辞典p1311)
641河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 13:46:13
>>640

>中国の歩は足を交互に動かして一歩となります。これが基準となります

世界中の人間は足を交互に動かし歩く

>魏代の度量衡では一歩は1.4472mだそうです

だから?
642ローガン:2008/02/06(水) 14:24:01
>>635
ははは、きっとそうくると思ってました。
しかし、よくチェックされていますね。さすがです。河童虫さん。
643河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 14:42:06
>>642ローガンさん

せめて皆が根本的なものを持てば、古代史はかなりスッキリしますよ
そして
そこから浮かび上がった謎を解決していくことが、本当の古代史学だと考えます。


644河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 15:19:56
度量衡についてもう少し喋れば

先ほども述べたように、長さの基は「尺」
その「尺」を基準に十進法に沿い 

・・(厘)←(分)←(寸)←『尺』→(丈)→(引)・・・
これが長さの単位
普段史書で目にする(歩や里)は登場しない。(長さの単位じゃないから当然なんだが)

そして先ほども言ったように、度量衡の一部として正式に長さの単位として(歩)が加わるのが
秦の時代の度量衡の統一
つまり、やっと(歩と尺)の割合が決まったわけ「長さの単位(歩)の誕生」
で、普段見かける(里)は?
当然(歩)が決まらなければ、その300倍値「長さの単位(里)」なんてものは存在しないという理屈だ
だから
秦時以前の周里なんていう長さの単位も存在しないわけ


これが公式な 所謂「度量衡」        ただし、非公式なモノは知らないよ
645九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/06(水) 19:25:06
>>644
だが、魏志東夷伝には里が登場する。
その1里の長さはいかほどか?
夫餘:方可二千里
高句麗:方可二千里
東沃沮:其地形東北狹西南長可千里
韓:方可四千里
帶方郡〜狗邪韓國:七千餘里
狗邪韓國〜對馬國:千餘里
對馬國:方可四百餘里
對馬國〜一大國:千餘里
一大國:方可三百里
一大國〜末盧國:千餘里
末盧國以降は省略

以上から、
1里=70〜90m
であることは疑いのないことだ。

もし、1里=300歩であるなら、
1歩=23〜30cm
となり、奇妙なことになる。

魏志東夷伝の原資料レベルでの度量衡では、長さの単位すらまだ統一されていなかったのだ。
里:道程を表わす単位
歩:土地の大きさを表わす単位
尺:身の回りの物の長さ単位
つまり、里と歩と尺は、相互に関連はなく、其々独立した単位であったのだ。

魏志東夷伝の里が周里かどうかについては否定も肯定も出来ないが。
646河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 19:54:55
>>645王朝さん


王朝さんの主観は必要有りません。
倭人伝原資料レベルで統一性がないとする
目に見える史料事実が欲しいのです。
647日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:07:41
畿内説が優位ってなってる、そのポイントはどこなの?

三角なんとか鏡・・・・・これは、まったく魏からのプレゼントではなかった。
地図の方角違い・・・・・これも、かんけいないことが分かった。
畿内であったら、魏と協力するメリットが少ないとも言われるし
鉄もない。
今発掘中の遺跡への期待からそんな流れなのかな?
648横槍:2008/02/06(水) 20:19:01
>>627
松下『西都原古墳群(さいとばる古墳群)は、宮崎県のほぼ中央、一ツ瀬川の中流域右岸に位置する。西都市街の西、通称「西都原」(さいとばる)と呼ばれている標高60mの洪積層台地を中心に東西2.6Km、南北4.2Km、(東京ドーム233個分)の広い範囲に分布している。
現在までの発掘調査より3世紀半ば(3世紀前半の可能性)から7世紀前半に築造されたと推定されている。
前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓、横穴墓など、311基のさまざまな古墳で構成された全国有数の 大古墳群であある。古墳の大部分はいまだに発掘をされておらず,謎を残している。
西都原古墳群は大正元〜6年(1912年〜1917年)に30基が発掘調査され、昭和44年(1969年)迄には わが国第一号の風土記の丘、(西都原風土記の丘史跡公園)として古墳と自然が調和した歴史的景観を維持保存する為の整備が行われました。
 古墳の中には4世紀前半の100号墳4世紀後半の13号墳、5世紀前半の九州最大規模の男狭穂塚(おさほ塚)、女狭穂塚(めさほ塚)(長174m)(男狭穂塚古墳は日本最大の帆立貝型古墳)、5世紀後半の南九州独自の様式の墓である地下式横穴墓などがあります。』
また。6世紀後半には最後の首長(豪族)の墓である鬼の窟(おにのいわや)古墳が築造され、7世紀前半の酒元ノ上横穴墓群で墓の築造は終了します。

恭介『長々とコピペありがとう。
   ところで、古墳の時代設定だが、古墳の形状と出土品から想定されているわけだよね?
   マキムク遺跡の年代が従来より100年遡る事となった現在では、西都原古墳郡も100古くシフトさせるか、引き伸ばす必要があるんじゃないか?
   そうすると古墳の発祥は3世紀半ばということになるけど、どうだろう?
   そうすれば、マキムクとのタイムラグはなくなるねぇ?』
649日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:24:53
>646
本人じゃないけど、半島の大きさは主観じゃないでしょ。
650太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/06(水) 20:26:46
>>647
畿内説では、魏と交渉するくらいなら女王は天皇と交渉するのが、隣同士なん
だから、そっちのほうが先だろう。ところが天皇と交渉した記述は記紀に
あるべきのところ、記述はゼロのひどい状態である。これは何を物語って
いるものなのか? 知れたことよ。畿内に女王国が無かったからだ。つまり
女王国は九州にあったということになるのだ。
651河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 20:34:05
>>649

そんなの見れば分かるよ。何が主観かそうでないかぐらい、書いた本人が一番分かってること
昨日今日デビューしたんじゃないんだから
652日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:36:10
人間は愚かしいので
このスレッドでも分かるように、畿内に近い人は
「畿内が邪馬台国に決定」って決め付けの勢いだったりするよね。
「九州に決まってるじゃないか」って勢いの九州派も絶えない。
きっと大昔も、同じように人間は馬鹿だったと思う。

だからこそ
畿内が邪馬台国であったなら、それを振り返る文章を書く時に
必ず畿内を中心として書くんじゃないかな。
でも現実は、九州と出雲を中心とした話だよね。
これは皆しってるよね。
当時の人には、九州の邪馬台国ってのはまだしっかりイメージがあったからこそ
そういう結果になってるんだ思ってしまいます。

ここの参加者の馬鹿決め付けを見ればみるほど、そう思えてなりません。
653日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:45:58
>651

みんな客観的な話だとわかってるのに、
君が見ても分からなかったんでしょ?
654河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 21:01:06
>>653

そうなんだ
気付かなかった
655日本@名無史さん:2008/02/06(水) 23:15:22
魏より卑弥呼に三角縁神獣鏡100枚が贈られたのが事実だとしても、
畿内の古墳で見つかった三角縁神獣鏡の多くは国産の粗悪品です。
それは、大和朝廷が中国王朝の権威を利用するために作らせた模造
品だということ。かえって大和朝廷の陰謀を裏付けるものでしかない。
九州にあった邪馬台国は、卑弥呼の死後、大和朝廷によって滅ぼさ
れ、その事実を隠すために大和朝廷は東遷し、権威を誇示するため
に大和を名乗ったのではないだろうか?
656日本@名無史さん:2008/02/07(木) 03:24:23
おそらく九州と縁のあった(九州出身?)天武は、
九州で隠遁中に、唐軍二千人が九州に上陸する事件が発生し、
すぐに還俗して畿内へ戻り、そこで天智がすぐに亡くなった。
天武は畿内征服を図って成功する(壬申の乱)。
唐軍のもとで白村江敗戦後処理中の九州邪馬台国は、
天武の武力に倒れ、持統も邪馬台国の残党狩りを徹底。
文武の時代に邪馬台国の王統と神武からの血統を引き継ぐ
宣言をして、畿内の土着旧勢力と九州敗北者系勢力の融合を
成し遂げた。その後、畿内は大和朝廷の前身に発展していく。
657九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 14:41:24
>>646>>651>>653 河童虫 ◆EY2wfgakAQさん 

理解を深める為の参考にしてね。
魏志東夷伝を地図化したものです。
(末盧國の位置は一つの説にしか過ぎませんが)
658九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 14:51:32
魏志東夷伝地図が書き込めない?
659九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 15:02:19
660河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 16:58:49
>>659王朝さん


どうして半島に倭人域があるの?

『韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接…』

韓の三方は海で、南は倭が隣
と、書いてあるんですよ
それなのに無理矢理倭人域を設けてしまうんですか?
661河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 17:14:36
多分王朝さんは
韓伝を読んで、半島南域を倭人域としたんではないでしょう?
662どくだみ:2008/02/07(木) 18:47:47
>>660
河童さん
『韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接…』
>韓の三方は海で、南は倭が隣と、書いてあるんですよ

そうは書いていません。「海を以て限りと爲す」が「南東西」という三方なら、
「韓在帯方之」で切れてしまい、一文になりません。
ここは、「韓在帯方之南」もしくは「韓在帯方之南東」でなければなりません。
その場合、海で限られるのは、東西か西になり、南は海に限られていません。
「南與倭接」について、河童さんは、独特の読みをしておられるのでしょうが、
これは、「南は倭と接す」です。

もう一つ。後漢書で
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也.
とあります。倭奴國は倭國の極南界であると言います。
この「界」といういい方は、つまり、倭の領域内という意味と解釈できます。
一方で、
其大倭王居邪馬臺國.樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里.
拘邪韓國を倭國の「西北界」と表現しています。
つまり、倭奴國が倭の極南界であり、拘邪韓國が倭の西北界ということですので、
倭奴國が倭地であれば、拘邪韓國も倭地であり、
拘邪韓國が倭地でなければ、倭奴國も倭地ではないということになります。
663河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 18:58:32
>>662

どくだみさんは「以、與、接」が読めないだけです。
余り文法にこだわると、古代の漢文は読めませんよ

>「倭と接す」

これで意味が通じますか?
664日本@名無史さん:2008/02/07(木) 19:04:13
>>663
>>「倭と接す」

>これで意味が通じますか?

ごく普通の日本語ですが、意味が解りませんか?


>余り文法にこだわると、古代の漢文は読めませんよ

文法を無視すると、自分の読みたい内容に曲げて読んでしまいますよ。

以前、「與」を「くみする」という読みを披露していましたね。
その詳細を説明していなかったので、ここでやってみてください。
665どくだみ:2008/02/07(木) 19:07:58
664は、わたしです。名前入れ忘れました。慣れてないもので。
ついでに、文法に拘らない河童さんは、
「南東西以海爲限」と読んだら、「韓在帯方之」をどう処理するのですか。
「くみする」とあわせて、こちらもお願いします。
666九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 19:35:56
>>660 河童虫 ◆EY2wfgakAQさん
>>662 どくだみさん
どくだみさんが解説された通りです。
追加説明を加えますと、魏志倭人伝と同様に、
魏志韓伝も正確には魏志韓人伝と呼ばれるべきものです。
韓地には、馬韓人、弁韓人と辰韓人と三種の人々がいるので、
「韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓」
と書き始めたのでです。
冒頭の「韓」は「馬韓人弁韓人辰韓人」を指すので
「有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓」と説明を書き加えたものと見ます。

ですから、韓地に倭人がいても良いし、韓伝では倭人の事をことさら書くことはできません。
倭人が居ないとの誤解を避けるため、
「國出鐵韓濊倭皆從取之」と「其瀆廬國與倭接界」を入れてあるとのだと思います。

弁辰では弁韓人と辰韓人が雑居し、それに弁辰の地域によっては倭人と濊人も住んでいたと読めます。
667河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 19:48:49
>>665どくだみさん


>「南東西以海爲限」と読んだら、「韓在帯方之」をどう処理するのですか。
「くみする」とあわせて、こちらもお願いします。

この段階で説明しても無理ですよ
『韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接…』 は
『韓在帯方之南』『東西以海爲限南與倭接…』 ですよ

『與』と『接』の説明は過去に何度もしてますので、そんなに安売りはしません(私はもうプラムではありませんから)

與と組の違いを調べれば自ずと導き出されますよ

>北西界

これも以前説明したとおりです。
北西(界)と言っているんですから、当然その界は朝鮮海峡しかありませんね
これが漢字の力です。


どくだみさんが言うように、文法に則った文章なら
何も日本人が口出すことではありません。中国人にでも任せておけば十分です。
でも、その中国人が満足に読むことが出来ないのが現状ではないですか?
試しに
『韓在帯方之南東西以海爲限南與倭接…』 を
翻訳検索でもしたらどうでしょう? 文法通りに組み立てられているなら翻訳してくれるでしょう

668九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 19:48:52
魏志韓伝弁辰条
「今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身便歩戰兵仗與馬韓同其俗行者相逢皆住讓路」

上記は、辰韓人と倭人が殆ど同じであることを示しているようです。
言語も倭語と辰韓語は殆ど同じであったと推測されます。
669日本@名無史さん:2008/02/07(木) 19:51:13
>>668
同じだったら、同じと書くだろうが。
現に魏志では、言語が同じ場合は
同じ言語というふうに書いている。
670九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 19:55:05
プラムさんが河童虫さんに改名?
671河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 19:55:31
どくだみさん  翻訳サイトです

http://honyaku.yahoo.co.jp/


http://www.excite.co.jp/world/
672河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 19:59:13
>>666王朝さん

(三種、78国)は、実在しない『韓』と言うものを定義付けし、存在をもたしているんです
673九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 20:03:45
>>669
同じではないので言語については触れていないのでしょうね。
同じ場合は、「弁辰與辰韓・・・・言語法俗相似」と書いていますよ。
674九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 20:12:05
>>672
その通りです。
郡は弁辰の一部をむしりとって併合したりしていますから。
弁辰の抵抗にもあっていますよね。
675九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/07(木) 20:22:55
>>672
特に馬韓は無城郭ですから、各国々に全く自立性がなく帯方郡の一部とみなしても良い状態ですから。
676どくだみ:2008/02/07(木) 20:31:56
>>667
残念ながら、私は「與」と「接」の河童さんの説明を読んだことがありません。

>與と組の違いを調べれば自ずと導き出されますよ

貴方の読みは間違いだと私は考えるので、貴方の読みの何処がどう違うかを提示して説明しました。
貴方も、私の読みが間違いだと考えるなら、何処がどう間違っているか指摘しなければ、議論になりません。
私は、貴方の弟子ではないので、わざわざ貴方がどう読んでいるかを探るために、
與と組の違いを調べる必要は感じません。

>北西(界)と言っているんですから、当然その界は朝鮮海峡しかありませんね

界という言葉は、大陸内部でも使用されます。どうして海峡しかないのでしょうね。
まさか、界も海も「カイ」だなどとは、言わないでしょうが。

>でも、その中国人が満足に読むことが出来ないのが現状ではないですか?

日本人が、教育を受けなければ、古文を読めないのと同じ状況です。
河童さんは、源氏物語を、何の教育も受けず、日常生活の知識のみで読みこなせましたか。
さらに漢文は、現代中国語と異なり、句読点が無い不完全な言語表記です。
句読点の切り方によって、意味が変わってしまう部分があり、
学者によっても意見が分かれる部分もあります。しかし、基本というものはあります。
意見が分かれている部分は、それぞれに、文法的に成り立つから、意見が分かれるのです。
文法的に成り立たない読みは、「そうは読めません」で終わりです。

翻訳サイトと言いますが、たとえば、万葉集や源氏物語を翻訳できるサイトがあるのですか?
わざわざ翻訳サイトを貼ってくださっていますが、どちらのサイトも、ときどき使います。
現代文ですら、トンチンカンな訳をすることがありますよ。
なのに、文法が違い、帯方などの専門用語を含む漢文を、翻訳サイトが翻訳できないからといって、
漢文には文法がないとでも仰るのでしょうか。
それは、プログラマーなどの技術の問題で、漢文の文法とは何の関係もありません。
677日本@名無史さん:2008/02/07(木) 20:41:20
>>626
>邪馬台国の特徴は、畿内でほとんど出ない絹でしょう。
>畿内みたいに鉄器がなきゃ、極東で長年戦うことはできませんね。
>畿内の軍隊は、大陸や半島までの遠洋航海は全くできません。
>九州から東北まで広がる装飾古墳の中心は、北部九州です。
>畿内が邪馬台国だと仮定したら、矛盾百出。

邪馬台国に絹ありとどこかに書かれているのでしょうか。
鉄器も邪馬台国とは関係ありませんよね。


678河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 20:52:58
>>676どくだみさん

>私は、貴方の弟子ではないので、わざわざ貴方がどう読んでいるかを探るために、
與と組の違いを調べる必要は感じません。

(與すと組す)の違いを調べるのに、別に弟子とかそういう問題ではないでしょう。


>界という言葉は、大陸内部でも使用されます。どうして海峡しかないのでしょうね。

そうですね大陸では
ヒマラヤ山脈なんてどうでしょう? あと山もあれば谷も川もありますから

自然界、魔界、芸能界、政界、・・・・・

ここは『境』と『界』を調べ導き出したのが私の回答です。

>残念ながら、私は「與」と「接」の河童さんの説明を読んだことがありません

それは残念
また気が向いたら書きますよ(私はHPを持ちませんから、コピペできません)

679太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 20:55:35
とにかく畿内の天皇統治の領域に、まるでお雛様のように二王並座
で天皇の脇に女王がふんぞり返っている必要はないだろう。w
女王国が畿内というのは畿内説論者のそうありたいという願望であり
選挙の投票をお気に入りの候補者に投票する気分なのか、畿内に引っ
張って行きたいという欲求が動機たる説であり、うまいおかずしか
食べないそれのみ食べようとする甘党というか、まぁそういう心理
にて頭脳が支配されて存立している擬似論説なんだろう?w

負けそうになると、時間切れを狙っての審判論法をやるようだ。w
まぁ論説というものではない。ww 奴は負け犬の遠吠え。ww
680日本@名無史さん:2008/02/07(木) 20:59:37
朝鮮半島に倭人の国があったということですよ。
朝鮮人は認めませんが、後の任那日本府です。
681河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 21:00:38
>>675王朝さん

この(三種78国)韓の定義は架空の上に誕生した用語ですから、この(三種78国)のどれか一つが欠けても
『韓』という用語は消えます。

つまり 狗邪韓国とはそういう綱渡り的な用語なのです

【狗邪(三種78国)国】という
682日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:12:23
>>679太国 ◆yVAs7uaYlY
で、毎度毎度の事ながら客観的な根拠は無いんだな?
で負け犬だのなんだのと勝利宣言とw

そもそも日本書紀の記述を丸呑みするにしても
箸墓古墳は一皇女の墳墓にしては大き過ぎるのは誰もが思う事。

箸墓がモモソの墓でなければ当然その記述は嘘。
モモソが一皇女の地位でなければこれまた嘘。

なんと言うかこのコテには本居宣長の皇国史観に近いものを感じるw
683どくだみ:2008/02/07(木) 21:20:25
>>678
(與すと組す)にどういう違いがあって、「南與倭接」の「與」を「くみす」と読むべき理由とどう関わるのか、
そのことを明言してくれれば、それが正しいかどうか、私も調べます。それが議論です。
ただ単に與と組の違いを調べろと言われても、あまりに漠然としていて話になりません。
貴方が、どのように考えているかを、なぜ私が推理しなければならないのでしょうか。
師匠ならば、弟子を鍛えるために、そのような課題を出すのもありでしょうが、
ここでは、相応しくありません。

>自然界、魔界、芸能界、政界、・・・・・

どれも、抽象的で、海や山脈や谷や川などの具体物で区切られていませんが、
なぜそれが海峡になるのでしょうね。
684横槍:2008/02/07(木) 21:22:25
>682
>箸墓古墳は一皇女の墳墓にしては大き過ぎるのは誰もが思う事。

日光東照宮に奉られている神は、生前、大納言にすぎなかった。
685日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:23:29
そろそろ逃亡準備に入ったプラムさん。

素直に反論できません、ごめんなさいと誤ればいいものをw
686太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 21:24:55
>>682
お前は考えすぎの先行しすぎ。なにも記紀が全部正解とは言っては
いないぞ。だいたい記の崩年干支だって紀の年数とは合ってはない。
さらに他に食い違いもあるようだ。箸墓は確かに天皇でない身分と
しては大きいきらいがあるから疑念を持ちのは当然である。だからと
言って、卑弥呼の墓にもなりそうもない。

この墓が別人の可能性は相当ありうると観てよいだろう。箸墓が
卑弥呼の墓ならば、結局畿内に女王国があったということになって、
ww お雛様かぁ〜? 畿内が二王並座の状態になる。ww

ところが記紀にはまるで女王の記載は独立して皆無である。ここに
畿内説の成立しない不合理があ〜る。二王並座なら、そうほうちち
くりあいの行為の記述が記紀に載るだろう?ww ミマキヒメも
お怒りだ。ww
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 21:28:16
このように、畿内説はまるで印度の歓喜天の象さん理論だな。ww
合体仏か〜〜??ww
688横槍:2008/02/07(木) 21:28:28
太国さんは、西都原古墳郡と邪馬台国の関係はどう考えているの?
689太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 21:33:18
>>688
西都原は女王国の古墳ではないと想うがね? 九州は小国がうんと
あっただろうから、その小国の関係古墳でないの?
690どくだみ:2008/02/07(木) 21:35:08
>>681
横からですが、
「倭人在帯方東南大海之中」なら、倭は具体的な存在で、
「韓在帯方之南」なら、韓は架空の用語ですか。
倭人伝の中にも、「倭」という表記はありますし、韓伝の中にも「韓人」という表記があります。
ただ、冒頭の書き出しが違うだけで、片方が実在で、片方が架空とはならないでしょう。
なおかつ、もし架空なら、(三種78国)のどれか一つが欠けても韓は韓でしょう。
逆に実質的な存在である方が、一つ欠ければ、事実と異なるのだから、韓という意味が成立しなくなりますよ。
691どくだみ:2008/02/07(木) 21:40:57
河童さん

思い出しましたが、低温火傷で高熱を出した後、まだ体調が本復していないのでしょう。
どうぞ、無理はなさらないように。レスは、控えめでお願いします。
忘れていたので、つい何時もの調子でレスしてました。
692日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:41:30
>>686太国 ◆yVAs7uaYlY
で、結局、畿内ヤマト=邪馬台国 の選択肢はお前さんの頭の中には無いわけだ。

まあそれに固執して余生を送るのも良いだろうが
畿内説に対しなんの説得力も無いだろうな。

それで済んだら邪馬台国論争なんて最初から無いって話でw

つまるところ
「記紀に記述が無いんだから邪馬台国は畿内ではない」
じゃあねえ。。

例えれば…
「マルコポーロが黄金の国ジパングを書いているが
 日本側の記録にはそんな物は無い。
 つまりジパングは日本の記録が書き留める範疇の外にあった国」
なんてもんだろうか?w
693日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:45:31
なんで素直に「ヤマト国」と読まないの?
694日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:45:42
邪馬台国って大和の台地にある国って意味じゃない?
695河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 21:49:53
>>691どくだみさん

お気遣い感謝します。

火傷は徐々に回復し、現在は痒みに悩まされています。
696日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:50:23
NHK「日本人はるかな旅」というDVDの第5回に
稲作は紀元前200年の縄文時代に既に伝わっていたと
縄文人ばかりの日本に渡来人が紀元前200年頃には渡来していて
大阪平野には河内湖という大きな湖があって渡来人が多くを占領したと
それから渡来人は濃尾平野まで居住範囲を広げた
濃尾平野以東は縄文人が占領し濃尾平野を含む以西は渡来人と縄文人が混ざって住んでいた
西暦1年頃には上記のような渡来人と縄文人の分布になっていた。

西暦1年に渡来人が大阪平野にすっかり安住しているのなら奈良にも多くの渡来人が
住んでいたのは確実だと思う。
697九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/07(木) 21:52:24
>>693
奈良のヤマトはダイワ{大倭}。ヤマトは大陸でもその名を馳せ浸透していた
北部九州の邪馬台国の名をとって倭に変えて自称したもの。
698日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:53:51
>>694
奈良盆地消えたw
699日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:56:51
>>696
葛城氏が渡来系なんて話もあるw
700河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 22:01:09
>>690どくだみさん

>「倭人在帯方東南大海之中」なら、倭は具体的な存在で、
「韓在帯方之南」なら、韓は架空の用語ですか。

誰かそんなこと言いましたか?


>冒頭の書き出しが違うだけで、片方が実在で、片方が架空とはならないでしょう。

誰か比べていましたか?

>なおかつ、もし架空なら、(三種78国)のどれか一つが欠けても韓は韓でしょう。

違うでしょう
(三種78国)が『韓』なんですから (二種78国)なんて何処に書いてありますか?

>逆に実質的な存在である方が、一つ欠ければ、事実と異なるのだから、韓という意味が成立しなくなりますよ。

『韓』は(三種78国)ですよ   違いますか?






701太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 22:03:21
>>692
選択肢? 記紀にないということはだ、畿内から遠隔地にあるから
記紀の編者らが情報をとれず記紀に記載できなかったということだ。
お前の黄金の国がどうだか知らないがそれは脇に置き、以下のように
ないことに関する例外はある。

この前も例に出したが、東京裁判に掲げられた大地図にはハワイが
無いんだよ。これは日本側が真珠湾に先制攻撃をしたんでないとか
いう弁護をされるのを嫌ったからだと言われている。当時ハワイ沖
だったか、日本の潜航艇を米側が先の攻撃したんだそうだ。これは
米人の攻撃関与者が証言しているとのことだ。
だから国、島を隠すことは稀にはあるわけだが、じゃぁ記紀の編者
はそういう畿内説で言う朝廷の隣の女王国を隠匿したのかと考えれ
ば、そういうことは無いということだ。もし隠す意図があるなら、
神功39年等の記載をすれば女王国が畿内にあったことがうすらバレ
るわけで、隠したければそういう神功39年等の記載は切り捨てるはず
だし、どうせ時間の経過で畿内住民から女王国の所在はバレるに決ま
っている。およそ住民の井戸端会議でうわさは軽くこぼれる。w

だから隠すよりも女王国の悪口等を書いたほうが実効が上がるでは
ないか? そういうことだから、女王国の隠匿などはありえないし、
朝廷の隣の大女王国を書き落とすまでもないことだ。ということは、
女王国は畿内から遠く離れた、より大陸に情報行きの距離の短く
届きやすくなる九州にあったと観るのが合理的なのであ〜る。w
702日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:07:31
みんなこんなとこで力説しても頭脳の無駄使いだから大学院でも行って論文
書き名よ。
703日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:07:33
みんな位置の話ばっかりしてるようだけど、邪馬台国がいつ頃成立したかってのは検討ついてんの?
704河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 22:16:09
>>703

>邪馬台国がいつ頃成立したかってのは検討ついてんの?

後漢書に『自武帝滅朝鮮』って書いただろう
705日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:27:07
>>684

> >箸墓古墳は一皇女の墳墓にしては大き過ぎるのは誰もが思う事。
> 日光東照宮に奉られている神は、生前、大納言にすぎなかった。

否、関ヶ原の前には「内大臣」になっていた。
有名な五奉行の糾弾書でも家康のことを「内府(内大臣)」と呼んでいる。
慶長8年には征夷大将軍宣下と同時に右大臣に進む。
その後、家督を秀忠に譲り官職を解かれる。
最期は、うそ臭い話でが末期に際して太政大臣を贈られたそうだ。
706日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:28:34
>>699
葛城氏も渡来人特有の強気な性格と外見で
人々の支持を得て偉くなったんだろうなぁ。
707日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:31:26
>>701 太国 ◆yVAs7uaYlY

日本書紀に景初3年の倭国女王による朝貢を神功皇后に挿入している事が
邪馬台国の時代の事に関する情報精度がいい加減である事を自白しているようなもんだw
(故意に隠したか知らなかったのかは置いといて)

「記紀に記述が無いから畿内には無い」と言うのなら神功皇后を卑弥呼に比定すべきで
それをしないと言うのなら3世紀の記紀の記述に全幅の信頼を置いていないと言う事で

結局「邪馬台国は九州」と言う結果を前提とした恣意的な文献解釈に過ぎない。

…と言っても理解しない(できない?)んだろうなこのコテはw
708フマキラー:2008/02/07(木) 22:36:10
>>704

> >邪馬台国がいつ頃成立したかってのは検討ついてんの?
> 後漢書に『自武帝滅朝鮮』って書いただろう

だから?
意味不明。
その記事を読むと邪馬台国の成立が判るんですか?
709日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:41:30
>>696 :日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:50:23
>NHK「日本人はるかな旅」というDVDの第5回に

でも、その説は既に過去の説だろう?
710河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 22:45:47
>>708

分かる
紀元前二世紀末
711フマキラー:2008/02/07(木) 22:47:24
>>710

そりゃ凄い!
でも、理由は説明してくれなくていいですよ。
712河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 22:51:00
>>711
する気もない
713703:2008/02/07(木) 22:52:01
>>704
いや、書いただろうとかじゃなくて、その記述が何を示しているのかもう少し具体的に言って下さらないと…
714日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:53:32
>>709
説というより
発掘調査で渡来人(弥生人)が
紀元前2世紀には既に東海地方まで
かなりの分布で占拠していたようだ、
紀元前で関東まで含めると日本には多くの人がすっかり定住していたのだから
紀元前の時点で本州を誰が統一していたのか、
卑弥呼の時代には本州は誰が代表になっていたのか?
715どくだみ:2008/02/07(木) 22:56:06
>>700
河童さん。痒みが出ているのなら、治りかけと言うことでしょうかね。

>誰かそんなこと言いましたか?

誰も言ってません。河童さんが、韓が架空であるという根拠を書いていなかったので、
理由を推測したのですが、見当はずれだったようですね。

>誰か比べていましたか?

私が比べました。韓が架空なら、倭はどうなんでしょう。
私は、どちらも実在だと思うのですが。

>『韓』は(三種78国)ですよ

韓伝に書いてある通りが韓でしょう。それが、なぜ架空になるのでしょうか?
よく解りませんね。
まあ、韓の話は、私は横レスなので、このくらいで、本題の方をお願いします。

「倭と接す」という、ごく普通の日本語ですが、意味が解りませんか?

>『韓在帯方之南』『東西以海爲限南與倭接…』 ですよ
と読むと、どうやって三方が海に囲まれるのでしょう。
それと>>683の「界」についての質問です。
界は海峡だと言い、それが漢字の力だと言いながら、
例示したものは抽象物ばかりでは、論旨が一貫しないと思うのですが如何でしょう。
716日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:06:49
>>714
つーか、あれって2002年くらいのNHKの番組だろう?
あれは水稲時代2300年前という通説をもとに
導き出された結論だろう?
日本の考古学上、決められた通説。

が、2003年頃、考古学者のグループが水稲時代の始まりを
3000年前という新しい説をだした。
というのは、新しい年代法で計るようになって、これまでの年代に
そうとうのズレがあることが判明したから。

しかも、植物学の分野では
日本に水稲が入ってきたのは
3500年前くらいという1000年以上開きのある説を出している。

また、日本では室町時代の終わりまで陸稲のほうが主流で
水稲が主流になったのは江戸時代になってからというふうに
最近、言われ始めている。
717河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 23:22:27
>>715どくだみさん


簡単な事です。

世の中に隣り合う地域の関係を示す『接』は二通り

直接と間接です。
人間が意図的に引く『境/サカイ』によって直接的な隣接関係を作りだし、

人による意図ではなく、自然地形環境が互いを別ける『界/サカイ』間接的な隣接関係


『接』の字意は
⇒AとBの相互関係
(関係することにより、二種が多様に重なる)
718太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 23:28:04
>>707
当たり前だ、畿内なんかにありっこない。あるんだら記紀に
1行「朝廷の隣国巻向に卑弥呼女王有り。朝廷との交流は虫の息。」
とかこれだけでいい。これが書かれてればもう論争は起きない。

となりにどデカイ女王国ございます。天皇と女王はチチクリアイの
中です。w まぁこんなんでもいい。こうあればもう畿内説でキマリ
だよ。無ければ逆だ。隣に住んでないから朝廷と女王国との交易も
戦争もありっこない。だから記述がないんだよ。お前も自分の奥さん
と話もしない中かぁ〜?ww
719日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:32:04
>>716
水稲時代についてわかりました、ありがとう。
それから聞きたいのですが、
日本には紀元前何年から人が住んでいたのか。
紀元前1万年から縄文人がアラスカに行った人たちや
北海道から凍った津軽海峡を徒歩で渡って本州全土にに定住した人たちが数多く居るようですね

720太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 23:33:03
714
それは崇神天皇だ。卑弥呼の若年は孝靈〜開化あたりだ。当然畿内
は天皇の御稜威だから女王はいれば排除的になるし、二帝同座的に
なるから、これはありえないと観てよい。つまり卑弥呼の地は九州。
721日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:35:39
>719だけど読みにくい文申し訳ないです
722日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:44:32
>>720
崇神天皇を知らなかったですありがとう、時間無いけど研究してみます

崇神天皇の統治
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)と崇神天皇の統治
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 23:48:58
>>722
それで百襲媛が卑弥呼との説が考えられているものです。双方は
ほぼ同一時代の女性となることが確かです。

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・
724日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:51:15
>>713

>いや、書いただろうとかじゃなくて、その記述が何を示しているのかもう少し具体的に言って下さらないと…

言うつもりなんか無いよ。
哂われるのが目に見えてるからw

708 名前:フマキラー[sage] 投稿日:2008/02/07(木) 22:36:10

> 後漢書に『自武帝滅朝鮮』って書いただろう
だから?
意味不明。
その記事を読むと邪馬台国の成立が判るんですか?

710 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [] 投稿日:2008/02/07(木) 22:45:47
>>708

分かる
紀元前二世紀末

711 名前:フマキラー[sage] 投稿日:2008/02/07(木) 22:47:24
>>710

そりゃ凄い!
でも、理由は説明してくれなくていいですよ。


712 名前:河童虫 ◆EY2wfgakAQ [sage] 投稿日:2008/02/07(木) 22:51:00
>>711
する気もない

725日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:43:04
>>718 太国 ◆yVAs7uaYlY

で結局、「畿内ヤマト」と「邪馬台国」は別物と言う
ドグマを繰り返すしかないわけだw

箸墓や神功の記述に関しては矛盾を認めても
それでも「記紀は嘘付かない」とばかりに
記紀を根拠にして両者は別物と言い張るw

もう皇国史観の亡霊に取りつかれているとしか言い様が無いな
それともなんかの宗教か?w

726日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:45:11
大和政権を大陸からやってきた者が作ったすれば日本固有の言葉は消滅し、中国語に統一されていただろう
727日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:59:05
中国語よりむしろ、ピジン化してクレオール語になると思う。
728日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:59:41
紀元前3世紀の頃は縄文人と渡来人は争っていたそうだが
紀元前2世紀になり、
同じ肌の色の人間同士なのだから闘うのは止めようと仲良くなったそうだ
729日本@名無史さん:2008/02/08(金) 01:04:35
>>714
>紀元前の時点で本州を誰が統一していたのか、
誰も統一していないw

>卑弥呼の時代には本州は誰が代表になっていたのか?
畿内説が正しければ対外的には卑弥呼と称された人物が代表じゃね?

ただ、崇神天皇を知らなかったと言う事だから念の為言っておくと
崇神と言う漢風の号は奈良時代に、天皇と言う名称は7世紀の天武からで
崇神の治世のイメージを後世の天皇の支配体制と重ねると不味いと思うよw
730日本@名無史さん:2008/02/08(金) 05:52:37
>728の年齢はたぶん2200歳。
731太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 07:48:05
>>725
ならお前の研究は記紀を塚わなければいいだろう。マァ無コテだから、いつでも
誰かわからねぇからいくらでも使うだろうが?そういうことはお前が記紀を採用
しないという念書を有コテで書いて古代史の論説を2ちゃんでやるという確約が
できるなら、お前の其の批評は生きてくるだろう?w そんなことが出来るの
か?wどうせ余の時は記紀の信用を津田が落としたようにやって、それ以外は
記紀を引っ張り出すんだろうが?ww
そうするなら、記紀が全く信じないんだから考古の出の雄略。繼體だけで、他の
天皇を無として、津田式で2ちゃんで有コテで論陣を張ってくれや。
記紀の卑弥呼の時代の関係の記載不合理を具体的に摘出して具体的に信用でき
ないと主張するならともかく、お前の記紀不信の言い分はぼけていて、卑弥呼と
あまり関係のないような上っ面の抽象的記紀不信批判で終わっている。こんな
のはダ−メ。
卑弥呼女王が畿内にいれば、神武以降の人物なら、朝廷と女王国は畿内の隣同志
だから、双方は相当影響がお互いの及んでいるわけで、両者の拮抗というものは
古代史では見逃すことの出来ないものである。そう云う拮抗影響のし合いという
ものは、事件となりやすく、記紀に全く独立しての記載が無くておしまいという
ことは非常に考えにくい。記紀の信用度を落とす工作をする前にだ、お前は畿内
での双方の影響力の行使についてどういうふうに考えるのか? その説明もない
ことは、お前の批判がこれについて不合理を合理にできる論の持ち合わせが全く
無いと見え見えであり、お前の懐具合がわかろうというものである。そういう
説明をしてみてから文句を言うんだな。畿内に女王国なぞありっこはない。ww
732九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/08(金) 12:29:39
>>716
>また、日本では室町時代の終わりまで陸稲のほうが主流で
>水稲が主流になったのは江戸時代になってからというふうに
>最近、言われ始めている。

誤解を招く表現だ。違うだろ。
江戸時代に入って本格化した灌漑工事によって、
今までは稲が輪作や混作であった農地が、
水稲の連作農地に変わったことだ。

更に重要なのは河川の改修により、未開墾地やその他農地が水田化したことだ。
733日本@名無史さん:2008/02/08(金) 15:06:35
ホアカリ君、見てる?
結局ホアカリ君はどこが邪馬台国だと思ってるの。
734日本@名無史さん:2008/02/08(金) 17:49:04
>>731太国 ◆yVAs7uaYlY
>お前は畿内での双方の影響力の行使についてどういうふうに考えるのか?

いや、悪いんだけど「ヤマト王権」と「邪馬台国」二国が並立してたなんて
考えていないので、その質問はそう言う論陣張っている人に聞いてくださいw

自分に都合良く考えた設定押しつけられて、それの説明求められてもねえ(苦笑
 
と言うか畿内説で二国並立なんて唱えている人間ているのか?
俺自身、2ちゃんのこの板で太国センセイのご高説を聞くまで、そんな事想像すらしなかったw

このコテにとって畿内説は自動的に二国並立になってしまうんだろうがw

まあ記紀重視と言う立場で言えば喜田貞吉(北部九州説)が近いかな?w
北部九州説支持の根拠が単純明快、祟神で中国との交渉の記述が無いと言う理由だったらしいが…

今日ある意味そんな素朴な理由で九州説唱える人っているのかねえ?

もっとも太国センセイの場合素朴を通り越して狂信に近い気がしないでもないがwww

735太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 18:05:33
>>734
神武以前に卑弥呼はいたというのは成立しないよ。彼女の活躍は崇神の時代
だ。ただし若年は孝靈〜開化のころだ。倭国大乱は孝靈の時代であ〜る。

そうでないと云うなら、このように自分でいつの時代かをはっきりここで書き
こむんだな。お前のはいつも、どうして畿内説が正解なのかの論議が全く無い。

記紀が信用ないとかは直接卑弥呼の畿内かどうかの論ではないし、今回にも
書かれていない。神武以前に卑弥呼がいたと言うなら、其の論を書きこめばいい
だろうが、その論も0であ〜る。また神武以降の朝廷外の身分の女だというなら、
朝廷の隣に地図上で目と鼻の先に女王国があることになるから、その二王並立の
畿内の状態を根拠を示して言えばいいが、これもまた0。神武以降の女でも朝廷
の女だというなら、どうして倭人伝が天皇の記述をせず女王に昇格させたとかの
論とかを言うのかと見れば、それもない。つまりお前は論戦をしてるようで、あ
さっての話ばかりで固めていて、ちぃ〜ともこちらはダメージにはならない。

まぁもっともっもっとと勉強をするんだな。www
736日本@名無史さん:2008/02/08(金) 20:46:45
まあ太国センセイの二国並立云々などと言う奇妙奇天烈なお話は置いといてw

問題は「じゃあ何故記紀に崇神の代にそれらしき記述が無いのか?」だと思う。

単純に考えて
「隠蔽」…卑弥呼の朝貢は知っていたがこれを隠した
「失伝」…記録も伝承も失せていた

この2通りがあるだろうが前者は日本書紀の神功に魏志倭人伝の引用を持ってきている事で外して良いと思える。
隠蔽したいのなら何もわざわざそこで出す事は無いわけで。

そうすると単なる「失伝」だが、その時代の伝承が失われている好例だと
個人的に思っているのは日本書紀で崇神の時代に
「海辺の民が船を持っておらず不便をしていたので船を造らせた」
と言う記述があるが、考えればその時代マキムクには大和川やそこから引いた運河で
盛んに舟運がなされており、如何に事実とずれていたのかが垣間見える。

逆にいえば舟運の盛んであった事の記憶がその記述になったのかもしれんが
いずれにせよその程度の情報精度だったと言う事だろう。

まあ交易の様子ならまだそれを目にした者もいっぱいいただろうから伝承に残り易いかもしれんが
魏との外交なんてマスメディアも無かった時代、それを知る者は限られていただろうしw
737太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 21:03:42
>>736
PuPuPuPu !! うあっはっは!! wwwww
失伝だと?? 地中に消えたのか?? そのうち銅鏡と一緒に出て
くるのか??ww そうなると女王国は朝廷の舎人親王らに気付かれ
ずに済むな?w お前の話から類推するに、畿内説は朝廷のすぐ近く
にあるし、崇神当時の朝廷のも失伝で気付かれることもないん
だから、女王国のありかは畿内の伊賀甲賀の砦の中奥か黒部峡谷の
最奥地、あるいは朝廷下の地下王国ということになる。www
そうでないと、住民の井戸端会議から隠匿の女王国は日本国中に
遅からずして伝播wwしていく。www

こうなるとお前のはムー的考察であり、とりわけ銅鏡がうんと眠る
らしい地下王国は、まるで江戸川乱歩の「青銅の魔人」の国同然だと
いうことになる。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
738日本@名無史さん:2008/02/08(金) 21:24:51
>>737 太国 ◆yVAs7uaYlY
何を一人ではしゃいでいるのか知らんがまあ落ち着けw

「地中に消えた」と言うのならマキムクは確かに地中に消えて今発掘調査しているわけだが(苦笑

電波ゆんゆんのそのレスじゃあ何が言いたいのか良くわからないが
要は「記紀は当時の様子を一言一句正確に伝えている」といつものドグマを撒き散らしたいのかね?w

739日本@名無史さん:2008/02/08(金) 21:44:48
旧唐書→新唐書の変化などからみれば、中国側での認識の変遷は次の通りだ。

列島の代表国は倭国だったが、小国の日本国が勢力を拡大し、倭国を併合して、
日本国が代表国になった。しかしその日本国は倭国の後継国であると主張、
受け入れがたい主張ではあるが、のちに日中の政治決着によりこの主張を、
両国の公認史とした。

倭国は九州。日本国は畿内。
740日本@名無史さん:2008/02/08(金) 21:51:51
倭は泡のようにチビって意味だろ?
741太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 21:56:54
>>738
だったら倭人伝も信じなければいいだろうが・・・。w
お前これから記紀を根拠に論を張るなよ。ははぁその防備で無コテ
でいたいわけか?? 都合のいいときだけお前は使う。お前恣意的
だぞぅ。
742日本@名無史さん:2008/02/08(金) 22:01:31
まあ日本が倭の東に興ったって書いてあるからねえ。。
でもそれを九州説の補強材料にされても…

じゃあ倭国の東は何所までなのか明確な線引きがあったのかと…
743日本@名無史さん:2008/02/08(金) 22:07:52
>>741 太国 ◆yVAs7uaYlY
もちろん 信じて なんかいない。
心配するな、宗教じゃないんだからw

真偽が入り混じっている可能性を常に頭において取捨選択して行く
…当たり前の事じゃないのかな?w

ちなみにコテにするほど自説ってもんを持っていないんでな
正直、北部九州説も完全には捨てきれないw
しかしお前みたいな電波理論で畿内説捨てる気にもならんがwww
744太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 22:47:32
>>743
な−んだ。〜デンパとかキチガイとか積極的に云う奴に限って論の
持ち駒を持ってないのが通例だ。w お前もそれだな。
まぁ出直してくるんだな。電波の語ばかりで視力、根拠の論説が
無いんでは、お前の懐も知れたもんだな。www
745太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 22:48:45
>>744 訂正
× 視力    ○ 資料
746日本@名無史さん:2008/02/08(金) 23:23:06
>>744 太国 ◆yVAs7uaYlY
残念だが太国君。

仮に俺の懐や頭の中がスッカラカンだとて
それでお前の言い分が正しいと言う事にはならないんだよw

「畿内ヤマトと邪馬台国の二国は別物」の根拠も出せない以上
それを前提としたお前さんの理屈は成り立たない。

「記紀が根拠」と言うのなら卑弥呼=神功説を支持しろって話で
それをせず取捨選択をするのなら補完する材料を出せって話だw



747太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 23:28:00
>>746
だからその調子で倭人伝も根拠にならないように云えばいいだろう。w
大王(天皇)の記述を抜かして女王国が畿内にあろうのを支持をしろっ
たって畿内への取捨選択は無理なこったとな。www
748日本@名無史さん:2008/02/08(金) 23:33:42
お前らいつまでやってんだよ…


【畿内?】徹底討論!邪馬台国はどっちだったか!?【九州?】

こーゆースレでも作ってそこでやれよ
749太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 23:34:59
>>746
畿内に女王卑弥呼がいて、女王が天皇に遣使をやったことは記紀に
記述が無くても、お前の豆脳は信じているわけだ。www
そうだろう? 地図上では目と鼻の先だからな。付き合いがない
わけはないな?ww なに? それで卑弥呼は天皇とチチクリアイを
もしたのか? それで記紀は恥ずかしくて記載をしなかった訳か?w
750横溝:2008/02/08(金) 23:35:43
邪馬台国は九州説だけど、記紀の内容も尊重したい・・・

そういう奴のご都合主義なんだよな、邪馬台国大和政権並立論

現実的には、可能性は殆ど無いと思われるが・・・

余程決定的な証拠が発見されない限り見向きもされないんじゃないの?
751日本@名無史さん:2008/02/08(金) 23:45:51
と言うか一種の「皇国史観」だな。
流石に今日の九州説唱えている人間でもこんな奴他にいないと思うが。

天皇(大王)の威光は畿内から北九州まで隅々に及び
その中に魏に倭王に認められた女王国があったなんて事はない。

天皇(大王)の目の届かないところで勝手にやったんだ!

…殆ど本居宣長の劣化コピーw
752日本@名無史さん:2008/02/08(金) 23:52:43
>750
てか太国が畿内説を「邪馬台国大和政権並立論」に無理矢理持って行こうとしているだけで

現実畿内説でそんな事言っている人殆どいないんじゃね?

753太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/08(金) 23:53:50
>>751
それとも何か〜? 卑弥呼は神武以前でアマテラスだというのか?
ハハぁ、今度は両人のレスビアン説だな〜??ww
在位スシ詰め論だ〜? おかしくかんじないかぇ〜?ww

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・
754日本@名無史さん:2008/02/08(金) 23:57:46
畿内説に立って旧唐書を読めば
太国氏でなくとも「畿内二政権並立論」になってしまうな。
755日本@名無史さん:2008/02/09(土) 00:06:07
なら学会行って直談判してこいよ。。。。。
2ちゃんでいくら九州だと叫んでも世論は動かないぞ
756日本@名無史さん:2008/02/09(土) 00:10:49
佐賀県唐津市には、中国の史書「魏志倭人伝」に登場するクニの1つ「末盧(まつろ)国」があった。
松浦氏は末盧の末裔。津軽の松浦姓にもつながる。
757日本@名無史さん:2008/02/09(土) 00:31:36
>>754
「日本国は倭国の別種なり。
 日本はもと小国、倭国の地を併せたり」
ってやつ?

まあ国内をほぼ統一して国名変えて心機一転リニューアルって事じゃないの?w

ちなみにその理屈だと「倭の五王」も河内朝じゃなくて九州あたりに求めなきゃならんよね?
758日本@名無史さん:2008/02/09(土) 01:00:36
どっちだったかを議論するより
畿内説と九州説両方に立脚した仮説を立てて、それぞれ研究を進めていった方が早い気がするんだが、だめなのか?
要するに畿内にあったらこうこう、九州だったらこうこうと、両方の説を暫定的に採用して別々でやってくわけよ
759ローガン:2008/02/09(土) 01:06:43
>>754
国さんはお休み前の最後のレスが、いつも面白いので結構楽しみにしているんです。
ファンも多いのでしょう?


さて、旧唐書ですか?難しいですね。
旧唐書「倭国者古倭奴国也」ですね。
その後の記述をみるとテキストは隋書が考えられますね。(勿論それだけでは無いのでしょうが)

隋書の倭奴国の記述…
「漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之倭奴国」とあります。
魏徴が認識した倭奴国とは後漢代に朝貢した国の事ですね。

旧唐書が書かれた10世紀、日本は既に認知されていたでしょうね。
10世紀における倭国とは昔の倭奴国、つまり後漢代の朝貢者の事という認識だったのでしょう。

10世紀近畿に都を持つ日本と、後漢に朝貢した倭奴国が違って当たり前ですね。
760日本@名無史さん:2008/02/09(土) 01:51:05
日本列島には倭国と日本国が同時期にあり、他の国は存在しないか書きません、
というのが旧唐書のスタンス。

もし畿内説に立てば、小国だった日本国が大国だった倭国を併呑して、畿内の
大和朝廷になっていったのだから、かつて大国だった倭国も畿内の国でしか
ありえない。畿内以外にヤマトより巨大な国があったというなら別だが(それは
畿内説とは言わないだろう)。そしてこの併合事件は、いわばヤマト国内の政権
交代劇という解釈しか取りえない。ヤマトと別な国とが勢力拮抗していたというなら
話は別だが(もはやその説は畿内説とは言えない)。
761日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:01:21
>>647
一番大きいのは年輪年代学により、邪馬台国の時代古墳の築造が始まっていたことがほぼ確実であることと、
235から244年の紀年鏡12枚が畿内を中心に分布していることが決定的。
実際、ここの九州説もこの二つの事実には何の説明もできず、ただただ必死に目をそらしてるだろう?
762日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:07:27
九州説は文献しか見てないからしょうがない
763日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:44:23
九州説は文献しか見たくないからしょうがない
764日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:47:05
鉄も錦も出ない畿内が
鉄も錦も出る九州より
鉄も錦を特徴とする邪馬台国らしいとは驚きだ。

鉄がなくて大陸でどう戦うんだろう?
765日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:48:36
邪馬台国は大陸と戦ってないだろ
766九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 02:49:01
出土物ばかり眺めていても何も解りませんよ。
土器に「邪馬台国女王、卑弥呼」と名前が書いてあるわけじゃなし。
文献がなければそのクニの国名も解らなければ
古代史の登場人物の名さえ解らないんですから。
767日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:49:29
大古墳がたった一つの記録しかないのが特徴の邪馬台国。
大古墳が沢山あることこそ、邪馬台国ではない証拠だ。
768日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:55:12
>鉄がなくて大陸でどう戦うんだろう?

お前はゲーム三国志無双の槍杉だ!
769日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:55:40
文献ばっかりみてても何もわからんよ。あんなのどうとでも解釈できんだから。
考古学と文献学の両方から探っていくのが歴史学だと思うが。
770日本@名無史さん:2008/02/09(土) 02:58:51
>>767
邪馬台国があった頃はまだそれほど古墳が作られない時期だったんじゃないか?3世紀でしょ?
まぁ中国の文献が正しければだけど
771九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 03:00:32
土器ばっかり見てて文献をないがしろにし「ヤマタイだからヤマトでしょう」
などという稚拙なものの考え方がが歴史学といえましょうや。
772日本@名無史さん:2008/02/09(土) 03:03:13
三国志無双ってゲームは邪馬台国が大陸と戦うゲームだったのか!
773日本@名無史さん:2008/02/09(土) 03:05:55
いや本来、倭人伝の行程に出てくるクニを現在の地名に必死に照合してきたのが九州説じゃね?w
774日本@名無史さん:2008/02/09(土) 03:11:12
>>772
魏の勢力のキャラクターに邪馬台国の卑弥呼ちゃんが出てきて闘うw
775日本@名無史さん:2008/02/09(土) 03:13:36
>>771
文献ばっかり見てて土器をないがしろにし
「これは偽物だ!」という方もよっぽど非歴史学的だね。
つか「邪馬台」の読み方だって定説がないんだしヤマトと読んでしまう説だってあってもおかしくないと思うが。
他にもいろんな読み方があるんだろ?
776日本@名無史さん:2008/02/09(土) 08:30:24
帯方郡=魏の帯方郡(北朝鮮の黄海道付近)
狗邪韓国=ソウル付近
對海国=対馬
一支国=壱岐
末盧国=佐賀県東松浦半島
伊都国=福岡県糸島郡
奴国=福岡県福岡市博多区
不弥国=福岡県糟屋郡新宮町
投馬国=岡山県福山市
邪馬台国=不明
777日本@名無史さん:2008/02/09(土) 09:20:13
しかし、ここまで来てしまったら、邪馬台国が
畿内だったかどうかはともかく、もはや九州に
戻るってことはありません。
ポイントは投馬国です。
778日本@名無史さん:2008/02/09(土) 09:56:12
>>765
Winner
779日本@名無史さん:2008/02/09(土) 10:18:42
(1)其死有棺無槨封土作冢
倭国の人々は、死者の遺体は棺に入れ、槨を設けず土を盛って塚を作ります。

(2)卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死去したとき、大きな陵が作られました。その陵の径は百歩余りもあって、
百人以上の奴婢が殉葬されました。


(1)は倭国の一般有力者の墓の作り方であって、邪馬台国の女王卑弥呼の陵
のことを言っているのではないだろう。この考え方は詭弁ですか??
780日本@名無史さん:2008/02/09(土) 11:02:40
旧唐書に載っているのは倭国軍が日本軍に敗れたって載ってるが
中国では国名が変わることは王朝が変わること(隋とか唐とか)
それをたずねると日本からの使者は
国名は倭から日本に変わるが王朝は変わっていない、と説明している。
中国は意味がよくわからないと書いている。
日本という国名とかからこれは天智朝から天武朝へ変わった壬申の乱に当てはめることが多い。
781日本@名無史さん:2008/02/09(土) 12:12:17
ここで皇室の家系の断絶があったわけで、千代に八千代にでないことを隠すために、
いろいろ手の混んだ工作をしているんですね。
782日本@名無史さん:2008/02/09(土) 12:37:03
>>764
あのさあ、鉄は古墳時代になってからも、畿内より九州からたくさん出土するよね。
でも、古墳時代に日本の中心が畿内であったことは確実なわけ。
(だから九州説論者は未だに古墳時代は4世紀以降であるというもはや誰も支持しない旧説に必死にこだわっているw)
だから鉄の多寡で日本の中心を決めることはできない。おわかり?
783日本@名無史さん:2008/02/09(土) 12:56:38
だね。八幡に製鉄所があって鉄をいっぱい生産していたからと言って
博多が日本の中心ではなかったのと同じ。産地と都は違い。
784日本@名無史さん:2008/02/09(土) 13:14:38
>>771
あんたに歴史学を語る資格などないw
まともな歴史学は同時代史料しか相手にしない。
したがって邪馬台国問題については日々新たに獲得される考古学の知見のみが真の意味で解明に役立つ。
文献のつまみ食いと空想に終始する九州説に何の説得力もない明らか。
785日本@名無史さん:2008/02/09(土) 13:21:09
>>784
他の部分は保留にしておくが、3行目には同意する。
さっさとC14年代法を評価すべき
いつまで土器の主観的な評価に頼っているんだろうか。
786日本@名無史さん:2008/02/09(土) 14:11:01
須恵器か土師器は問題だけれど、
モノは運べるからな。物々交換でいくらでも手に入る。
それが作られた土地=生産地でないことに注意。
787日本@名無史さん:2008/02/09(土) 14:25:47
文化後進地帯の畿内に合わせて、九州の出土物の判定を数百年新しく判定
                         ↓
>782のようなトンデモがウジャウジャ現われて、畿内説を大合唱w
788日本@名無史さん:2008/02/09(土) 14:38:40
>>787
>文化後進地帯の畿内に合わせて、九州の出土物の判定を数百年新しく判定

そうらしいですね。九州各地区の出土物をC14で調べると、古いものは紀元前後の
ものがちょいちょいでてきて、九大や測定業者も???の時があるとか

この結果を素直に取るのが九州説、C14年代測定法を疑うのが畿内説?
789日本@名無史さん:2008/02/09(土) 15:22:56
「大古墳が沢山あるから、畿内が邪馬台国だ」って、畿内説っておかしいね。
古墳の数を言い出したら、西都原馬鹿(邪馬台国西都原説論者)が暴れ出すぞ。
邪馬台国の大古墳は、たった一つ、卑弥呼の塚しかないんだよw
790日本@名無史さん:2008/02/09(土) 16:41:18
物証がすべてだよ。邪馬台国時代が古墳時代であったことが、近年の年輪年代学やC14の研究で明らかになった。
モノは動かせるが、古墳は動かない。箸墓の発掘で中国地方の土器が多数発掘されているし、中国地方や近畿圏の
同時代の古墳が、同時代の大和地方の古墳の構造と完全に一致することが、近年報告されている。

ベクトルはすべて同じ方向、つまり桜井市の巻向にすべての矢印は向いている。
791日本@名無史さん:2008/02/09(土) 16:51:58
正解。
だいたい九州説の連中は(アマチュアばかりだがw)、
相変わらず文献のうち都合のいい部分を持ち出して独自の解釈に固執してるか、
「柳本天神山古墳からは三角淵がでてない」みたいなそれ自体どうとも解釈できる事実をもちだして
なぜか九州説が決定的証拠となるなどといったデンパが多い。
こういう連中に、じゃあ、3世紀の鏡が畿内から集中して発掘される事実はどう解釈するんだと問いつめれば、
偽造偽造の大合唱だから笑える。
じゃあ>>787>>788よ。
3世紀の年号鏡が畿内から集中して発掘される事実をどう説明するんだよw
792日本@名無史さん:2008/02/09(土) 17:52:28
>>791

〉偽造偽造の大合唱

そんなこと言ったら畿内説だって、
倭人伝は間違い間違いの大合唱って言われる。

紀年鏡は極一部を除いて、埋納が4世紀以降のものが多い。
時間差がある以上はコピーや偽造の可能性は排除できない。
793日本@名無史さん:2008/02/09(土) 18:15:47
出たw「お前らも人のこと言えないじゃん」論法ww
文献の正偽と出土品の正偽は判別するベクトルが違うから関係ないと思うが
794太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 18:26:57
>>791
倍暦計上で 237年=崇神即位元年=景初元年 となる。
崇神2年に崇神天皇が鏡剣の同床共殿を行ったことによる畿内住民へのお達し
による鏡祭が畿内各地で行われたことからの出土品であり、卑弥呼の鏡では
ない。だから九州説はおかしくはない。
795日本@名無史さん:2008/02/09(土) 18:35:10
三世紀の鏡が集中的に出土すると言う主張について、
その論証は出来ていないと言う立場でコメントを付けたんだけど、
どうして、主題じゃない方のネタに反応するかなあ。
時間差の方の解釈については異論が無いと言うことかな。
796日本@名無史さん:2008/02/09(土) 18:51:22
「神獣」図案は日本列島固有の世界観だろ。
中国からもらった鏡じゃない証拠にしかならないなw
797日本@名無史さん:2008/02/09(土) 18:53:54
邪馬台国の特徴である錦が、九州ばかりから大量に出て、
国産特有の神獣鏡ばかり出る畿内は、やっぱり邪馬台国じゃないだろう。
798日本@名無史さん:2008/02/09(土) 18:58:05
神獣鏡は神仙界の理想郷を図文化した鏡。中国でも多く出土している。
三角縁神獣鏡が中国で発見されていないだけ
799日本@名無史さん:2008/02/09(土) 18:59:41
中国のはぜんぜん違うぞw
800日本@名無史さん:2008/02/09(土) 19:02:54
日本独特の世界観ていうところが引っかかっただけ。
801日本@名無史さん:2008/02/09(土) 19:05:47

>>797
朝貢品が倭錦であったが、邪馬台国の産物となぜ断定できるのですか?
原文のどのあたりにそうかかれているの?
802九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/09(土) 19:38:12
>>801

魏志倭人伝のラスト
『正始元年・・・・其四年倭王復遣使・・・・上獻生口倭錦・・・・・』
803日本@名無史さん:2008/02/09(土) 19:54:24
>798
三角縁は、その理想郷を上空から眺めた俯瞰図であることが最大の特徴
天孫の視点
804日本@名無史さん:2008/02/09(土) 20:05:47
たしか倭人伝では「鏡」が下賜品の10番目くらいに書かれている。
つまり、どうでも良いレベルの位置付けだよね。
それを特鋳で3000面とかいうのは無理じゃね。
805日本@名無史さん:2008/02/09(土) 20:15:53
>>795
だから、おまえこそ偽造である証拠を見せろっての。
現状では九州説が都合の悪い出土物を根拠なく偽造って言っているにすぎないのだから。
806九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 20:27:57
>>779
卑弥呼は女王として特別だから土を盛って造る一般の墓とは違っていて当然でしょう。
ただ共通点を言えば棺おけをそのまま土に埋めている、という事です。
この頃北部九州で盛んに作られた甕棺墓などがそれに当たるでしょう。
807日本@名無史さん:2008/02/09(土) 20:30:48
>>802
だから朝貢品に倭錦があったのは了解だが、それが邪馬台国の産物と
その記載でどう解釈できるのかって聞いてるの
808日本@名無史さん:2008/02/09(土) 20:37:19
お使い物は金出してでも一級品を用意するものだよ
倭錦が邪馬台国の支配地内の物かどうかは解らない
翡翠なんて糸魚川からしか出ない訳だが
その地域まで支配地だったとは誰も言わないだろ?
809日本@名無史さん:2008/02/09(土) 20:47:45
>>802
普通に考えれば邪馬台国が連合国の他の29ケ国のいずれかに朝貢品を差し出させ
それを持参するだろう。
朝貢にかかる大使は邪馬台国の官吏が正史であったかもしれないが、他国の
王も副史として渡海しただろう。
そして、朝貢品の荷物を運ぶ人夫は九州のいずれかの国の奴婢から連れて
いかれただろう。想像だけど普通に考えればそうなる。
810九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 21:11:52
>>784
別に我見で色々考えているわけではありません。
わたしゃあくまで道理に適った論説を支持しているだけなので
ございま〜す。そして船が山に登るような畿内説は信用できないだけなので
ございま〜す。たとえばこれ。続く。
811九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 21:16:24
>>810の続き
「倭人は〜山島に依りて国邑をなす」この記事は倭人からの伝聞ではなくて、
魏使の現地踏査の結果の認識ですから、山島とは九州を示す以外はない。
・・・・・・本州が島であるとの認識は未だにこの時点では至っていなかったわけですし
「山島に依りて国邑をなす」の山島と言えば九州以外にはありません。

上で、述べてきたように「大和説」は最初に大和ありき!なんだと思う。
これを基に魏志倭人伝を読む。
これが、邪馬壱国にあらず「邪馬台」国=「やまと」説なのでしょう。
この具体的な解読方法が帯方郡から女王の都する所までの行程に
「水行十日陸行一月」の日程を入れて計算するわけです。
しかも南を東に原文を改定までしています。(そうしないと大和にはたどり着けない?
魏使が実際に自分達が行動した(進行)40日間づっと東を南に進行していたのだと間違えることなど
あり得ないことです。
この誤りの本質は「郡より女王国に至る万二千余里」を含む三国史全体の里程の解析を行っていないことにある。
そのことによって、「最初に大和(ヤマト)ありき」の論たてが可能になっている。

などが理に適った論説だと思うわけです。
812日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:24:39
大陸の者から見れば日本列島なんて山島だろ
813日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:32:11
倭錦が出ない畿内が、倭錦が特徴の邪馬台国なわけないだろ。
814日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:35:51
中国から出土しない、伝承もされていない三角縁神獣鏡が畿内から何百枚出土しても、
中国から鏡を100枚もらった邪馬台国の証拠にはならないだろ。
815日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:38:11
倭錦は、配下の今は力の無くなってしまった九州のクニに作らせたんだよ
816日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:38:40
>>814
椿井大塚山や黒塚のような本流でないところから、あれだけ大量に出たのに、
あそこが偶然にも配布元だったとかいうのは、無理だよね。
817日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:42:20
(前提事実)中国で出土しない。

(説明理論)日本向けの特鋳造。

(結論)故に、中国では出ない。



見事な循環論法ですなwww
818九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 21:46:07
>>812 それが違うのでございま〜す。
当時は本州は島という認識が無かったのでございま〜す。
819日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:47:53
>>811
現に、「水行十日陸行一月」と書いてあるしね。
ちなみに、江戸時代の廻船だと、江戸〜大阪の間は、早ければ10日、
風待ち日より待ちで遅くなると2ヶ月くらいだったらしい。
それで、大体15日〜30日の間くらいが標準だったみたい。
造船技術に差があるとはいえ、「水行十日陸行一月」で九州内部というのは、
ちょっと無理があると思うんだがね。
820日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:54:42
>>819
海を渡るという記述もない、とも言える。
川を遡るルートだと、干満や風の影響があって時間を要する。
821日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:00:03
『魏志倭人伝』を書いた陳寿という人物は、実際には日本に来ていないし、
このスレで本を読んであれこれ議論している厨房と同じ立場。
それどころか、ここで好き勝手に書いている人よりさらに情報が少ない中、
古い文献をなぞっただけだと思われます。
822日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:05:14
>>818
それは中国人の認識であり、倭人の認識ではない
823九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 22:35:44
>>818
倭人が認識している事はそのまま魏使の知識となった筈。
弥生時代に東北の北が大陸と地続きかどうか解ろうはずも無い。
九州は山島という認識があるから間違いなし。
824九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/09(土) 22:39:12
>>808-809
『倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木フ[犬付]短弓矢』

絳青縑は翡翠かどうかはわからんよ。
青色か緑色の石であることは間違いないが。
九州出土の緑色の石を翡翠だと決め付けたバカ学者がいたけれど。

邪馬台国が朝貢したのではないよ。
倭女王國王(倭王)が朝貢したのだよ。
「大夫伊聲耆掖邪狗等八人」は女王國の「使」であって邪馬台国の「使」ではないよ。
825日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:42:23
昔の人でも大陸か島かの違いくらい解るだろうよ
山・川・野 全ての規模が違うんだから
826日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:46:08
旧唐書まで倭は九州。九州王朝が滅んで日本書紀が書かれた。
磐井の乱、長門より東は朕取らむ。
ウイキペディアの九州王朝、なんと明快なことか

827太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 22:52:41
>>826
江戸時代の,畿内の朝廷と江戸の徳川幕府の二極のように、当時は
畿内の朝廷と九州の女王国との二極の情勢であったということだ。

このうち朝廷は滅ぶことなく永続したが、徳川幕府と女王国は一定
の期間で滅んだということだ。幕末は女王国にとってはだいたい
文武天皇のころだよ。
828日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:54:33
なんか自分の世界に入ってる人がいるな。
829日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:00:51
>>818
王沈、魚豢、陳寿ともに洛陽?の内陸に居たわけよね。
北に鮮卑や匈奴の脅威にさらされ、西アジアまで果てしない広大な土地を
常に意識していただろう。西域伝にはカシミヤ地方の国々のことまで記述
記載されているなど、後漢や魏の人々は陸続きであれば、果てしない地域
まで使者を立て、時には朝貢者からの情報を得て地方の国々の地理的感覚
を理解していただろう。
しかし、海の感覚のない彼らには、渡一海が大変なことであったろうと理解
できる。「倭人在帯方東南大海之中依山島…」
元々、海洋族でない彼らの感覚としてはさもありなん。
830日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:01:13
よくもここまで九州寄りの推論を重ねられるもんだな、ある意味感心するわ。
これも郷土愛のなせる業か
831日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:01:43
>>827
いくらなんでも卑弥呼の時代3世紀にに大和朝廷は無いだろう
こんな事いう人は、はじめてみた。
832日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:03:04
>827
女王国が権門で畿内朝廷が実効支配権力?
まあ宇佐の神殿にこもる巫女に形式的なお伺いを立てていたのかも知れんな
・・・・・なんてミステリアスを求めたくならないでもない
833日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:05:47
>832
ああ逆だと想定してるんだね
それはイメージが違うな
畿内朝廷は実効支配権力だろ?
834太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 23:09:22
>>831
だから卑弥呼の活躍は3世紀で、そのころ畿内はだいたい崇神の世
ですよ。卑弥呼の若年は孝靈の時代のころからです。倍暦計算では

 237年=崇神即位元年=景初元年     259年=崇神崩御年
835日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:11:07
崇神天皇の防御年は318年じゃないの?
836日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:11:52
失礼。崩御年
837日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:20:13
長門より東というから迩磨郷、備中も当然九州王朝の勢力範囲
伝説とはいえ2万人の兵隊。当時大阪は海、奈良は湖
大和朝廷は狭い飛鳥の地、生産力が違うわな

大陸に出兵している後ろから攻められたら勝てません
838太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 23:24:49
>>835 >>836
古事記の崩年干支からの論者は、崇神崩御は258年説か318年説を採
ってますが、拙者は前者が正解に近いと思います。拙者は古事記から
ではなく、日本書紀からの倍暦の計算に拠っていますが、結果は
259年を算出しました。記の前者の説ですと1年の違いです。

卑弥呼前の王の後、七、八十年は倭国大乱が続いたそうですが、王を
帥升として、大陸に生口を送った107年から計算して

 107+70=177年 (孝靈天皇吉備行幸の翌年)
 107+80=187年 (孝靈天皇崩御年:倍暦計上)

となり、崇神崩御259年だとかなり合ってると思いますが?
839日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:25:06
>831
太国さんの無邪気さを、みんなで愛しましょう。
840日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:28:43
崇神天皇を実際の人物と考えている人もはじめてみた。
841日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:30:31
>>838
その倍歴計算のやり方も古事記や日本書紀に載ってるの?
842日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:30:37
840
はじめて?崇神天皇は実在性の高い最初の天皇と言われたりもするけど?
843サガミハラハラ:2008/02/09(土) 23:32:44
>>838古事記崩年干支からの論者は、崇神崩御は258年説か318年説を採っていますがーーーーわたしは記干支から288年説をとっています。
844太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 23:44:34
>>841
記紀は倍暦の解説書ではないせよ。記紀等から、ありとあらゆる研究
を用いての論です。いまは日本書紀のスレのほうに多少書きこんで
いますから読まれたい。

サガミハラハラさんは烏の餌採りばかりの昨今で、もう信用はどか
落ちです。あきれてるんです。
845太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/09(土) 23:47:11
>>844 訂正
× 解説書ではないせよ     ○ 解説書ではないですよ

ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・
846日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:49:17
842
普通は継体天皇からじゃない?
847日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:52:04
しかし太国の論は天皇の実在をまず証明しなきゃいけないのがネックだな
848サガミハラハラ:2008/02/09(土) 23:55:22
>>844
中平年刀の件ですか。邪馬台国ドンと来いの>>121をごらんください。

この方も私と同意見のようです。
849日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:56:24
そのためには、太国さんの立脚している古神道の中身を開帳して、
学問的検証にさらさなきゃ。
850繋がる携帯w:2008/02/09(土) 23:56:56
>>846
今の天皇に直接繋がるのが継体からと言われる。
実在性云々とは別。

無論、崇神が実在と言っても記紀の記述通りではないだろうがw
851日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:57:24
846
普通はまあ継体からだね。というかここからは確実性があると言うことで、
崇神、応神も実在の可能性があるという人もいる。応神を実在の高い最初の天皇とする考えもある。
852日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:02:53
継体のストーリー=イワレヒコの大和入り
神話は繰り返す
853日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:13:05
ぶっちゃけ明治天皇の京都から東京へも東征神話になるw
854日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:23:57
>>848
サガミさん、私に振らないでくださいww
サガミさんとは理由が違うと思います。
855日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:39:37
古墳がすべてなんだよ!鏡は動くが古墳は動かない。邪馬台国時代の墳墓は古墳であることが解明された。
物証中心主義の警察の捜査なら、大和は重要参考人で取り調べの真っ最中だ。九州はシロだから安心しな。
856日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:41:56
>855 いや既に逮捕かも・・・。
857日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:44:03
大古墳が一つしかないのが、邪馬台国の特徴。
少なくとも大古墳が多い畿内は、邪馬台国じゃない。
858日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:54:44
>857
つまり東征(あくまで東征)したんだよ
卑弥呼の王族の血を受け継ぐトヨからが畿内ヤマト国
中国の文献にその出来事が書かれてないのが不思議
859日本@名無史さん:2008/02/10(日) 01:19:20
4世紀の大陸は動乱期だったんだから海の向こうに目を向けるどころじゃなかったろ
860日本@名無史さん:2008/02/10(日) 01:25:53
>858
はあ?東征?
イワレヒコ(神武)が畿内に乱入し、大敗北してボロボロになって、
ほんのわずかな土地しか占領出来なかった、あの事件を言ってるの?
861日本@名無史さん:2008/02/10(日) 01:39:52
>860
崇神が畿内に入って即位
その斎官たる巫女がトヨ
862日本@名無史さん:2008/02/10(日) 01:52:38
>>861
だから、マキムクの九州地方の土器が他の地方に比べてかなり少ないとかどうすんですか?
何かその説を補完する材料アリマスカ?
863日本@名無史さん:2008/02/10(日) 02:01:51
C14ならもっと古いはずの装飾古墳の分布も、
九州を中心に畿内を除いて東北まで広がってるし。
864日本@名無史さん:2008/02/10(日) 02:28:38
>862
東海や吉備の須恵器が多いじゃないか
その地方がバックスポンサーなのだよ
もっと布留遺跡を掘るべきだと思うが
865日本@名無史さん:2008/02/10(日) 02:38:38
勢力的には、近畿>関東=中部ではないのか?
866日本@名無史さん:2008/02/10(日) 03:05:27
九州〜中国の盟主が東に移動して
中国〜関東の覇王になった
867日本@名無史さん:2008/02/10(日) 03:14:13
>>864
>その地方がバックスポンサーなのだよ

もうなんでもありだなw

でもスポンサーになってどう言うメリットがあったんっすか?w
868日本@名無史さん:2008/02/10(日) 03:24:10
小説畿内国

後漢が衰弱して、諸国は鉄を求めて、無政府状態の半島へ繰り出した。
資源戦争の様相を呈した半島には、九州の王が招集した
列島の地方領主やその配下の民衆らも投入された。
厭戦的領主らは畿内に結集し、独立自営勢力を築いた。
これが畿内国の始まりである。
869日本@名無史さん:2008/02/10(日) 03:31:03
>867
鉄資源ルートと生産の恩恵が対価だった
大陸に朝貢できる資格を持つ邪馬台国の王家の家系がものを言った
畿内を含む東国諸豪族にとってはまさに貴種流離やね
870日本@名無史さん:2008/02/10(日) 03:49:00
>>869
てか>869の編み出した貴種流離譚(フィクション)だねw

共立された卑弥呼はそれだけの家系があったかもしれんが
朝貢資格を持った家系ってw

大体そのストーリーなら畿内への鉄の流入は
もっと3世紀中葉頃から劇的に変化しなくちゃw

それだったら北部九州の鉄の独占寡占が瀬戸内・畿内の首長連合を生み出したって話がリアリティある。
少なくとも貴種流離譚なんか挟まなくてイイwww
871日本@名無史さん:2008/02/10(日) 04:11:09
鉄ルートを求めて本州の首長連合を生み出したって話も私だが、
それだと九州より優位に立って逆にやり込めるって流れが説明し難いんやねw
やはり権力はゼロからは生まれん訳で、核となる物が必要な気がする
だから坂東武者に対する源氏の棟梁のような貴種流離譚を考えたくなるんやね
この場合、京の朝廷に相手にして貰える天上の家系やけどね

872日本@名無史さん:2008/02/10(日) 04:40:54
>>871
つうかだな九州からきたハンカチだかハニカミだかしらんが王子様かその子孫が
故郷の九州に復習するのか?w

まあそれもストーリーとしては貴種流離譚で良くあるパターンだな。
「奪われし王位を取り戻せ!」とかw

でも、恨みをもって追い出された身分なら九州から鉄ルート引き出すコネが無くなるw

シナリオ練り直した方が良いんじゃね?www

873日本@名無史さん:2008/02/10(日) 07:08:56
874太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/10(日) 07:59:18
>>848
その>121を見ましたが、そう考えるのは分かりましたが、どうしてなのかと
いう論拠が彼も同様に書いていません。それを聞いてるんですよ。貴殿と彼の説
が正解ならば、欠史八代のころ日本で漢字が使われていた物証になるでしょう。
だから重要な質問をしてるわけですよ。あなたはそれを今もしないじゃない
ですか? しないのは猫でも出来ます。
875九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/10(日) 08:09:40
>>825
 間宮海峡でさえ大陸と地続きだと思われていて探検されたのが19世紀。
当時の倭人の行動範囲はけして広くない。
{引用}
1800年前後に起こった、サハリンが「島」であるのか「半島」であるのかの論争に決着を図るべく、
幕府天文方の高橋景保は、松田伝十郎、間宮林蔵をサハリンに派遣し、探検させた。
1808年、西海岸を探検した松田は、海峡最狭部に達し、ここが海峡であることを確認した。
最初、東海岸を探検していた間宮も松田に合流して、同様に海峡を確認した。
876九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/10(日) 08:26:26
>>829
中国は古代から広大な地域に異民族が縦横に大規模に入り乱れて争い、
又、皇帝に朝貢などしていたので広い範囲の事情が皇帝には知らされた。
これらの事は三国志などでもおなじみで倭とはスケールが違う。
倭は地元に細かいムラが出来、それが発展してクニが出来、
クニ同士小競り合いを繰り返していた為、活動範囲が極端に制限されていた。
これが環濠集落を持った弥生集落の姿。
877サガミハラハラ:2008/02/10(日) 08:59:03
>>854理由は違うかもしれませんが結論は同じ。
ここは同じ論者同士同盟を結び「中平年刀国産説を普及する会」を結成しましょう。
878日本@名無史さん:2008/02/10(日) 09:37:46

『卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹与年十三爲王國中遂定』

卑弥呼の死後には以前と同じ様に男王を立てたが、男王では
国中は治らず争いが続き、互いに千人以上の人々を殺し合う
戦争がおこった。そこで、13歳になる卑弥呼の宗女台与
共立したところ、国中の争いは治まった。

■国々が再び争いとなっているが、この場合の国々とは、
30ケ国からなる連合倭国のことなのか、それとも7万余戸
を要する巨大国家都市の邪馬台国のことなのか。
879サガミハラハラ:2008/02/10(日) 09:50:10
この場合、国中とは国々ということではありません。
倭国大乱時のように国同士の争いではなく、新王に従わずということですから、
あくまでも王に対する反逆ということです。
ですから誅殺という表現になっているでしょう。
880どくだみ:2008/02/10(日) 10:07:50
>>878
この「更立男王」の「更」は、卑弥呼に対して、「あらためて」男王を立てたという意味ではないと思います。
「更立男王」と「更相誅殺」が対になっていて、「こもごも男王を立て、〜、こもごも相誅殺し〜」ということでしょう。
ならば、男王は一人ではありません。同時並列か、順次一人ずつかははっきり解りませんが、
複数の男王が並立していたような気がします。
そこで、想像を逞しくすれば、三十国が、派閥に分かれて、
それぞれ男王を立てて争ったのかなあとか考えてます。

ただ、その男王たちが、みな邪馬臺國の人だったのか、
それとも29国の人もいたのかは、わかりません。
それ次第で、30国がゆるい連合だったのか、邪馬臺國王家が、
天皇家のような血統の権威を持って君臨していたのか、
性格がかなり違ってきますね。
881日本@名無史さん:2008/02/10(日) 10:14:12
邪馬台国=大和国。首都は纏向遺跡のあたり。
もう、すでに決着はついているけど、
邪馬台国論争が沈静化すると、発掘資金を捻出できなくなるから
そういうことは言えないわけで。

邪馬台國=やまと国=大和國
卑弥呼=媛命=倭迹迹日百襲媛命(7代・孝霊天皇の皇女)
台与=豊=豊鍬入姫命(10代・崇神天皇の皇女)

狗奴國=この国=許乃國(京都の宇治)
卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命(8代・孝元天皇の庶子)
拘右智卑狗=こうちひこ=河内彦(武埴安彦命の生母が河内彦の娘)
882太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/10(日) 10:15:54
>>877
理由がない恣意的結論なら、根拠がないんだから主張は控えたほうが身
のためです。
883日本@名無史さん:2008/02/10(日) 10:20:38
もしかしたら、磐井が邪馬台国なのではないのか?
884太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/10(日) 10:26:03
最新号のムー誌の特集の卑弥呼と超能力捜査官の話はまだなんともだな〜?w
最初のほうは山口県あたりが墓だろうとの説明と夏と冬の活動拠点が別だという
回答からの話で、そのへんから畿内説寄り解説だが、最後まで読んでないので、
まだまだどうなるか・・・・・?
885ローガン:2008/02/10(日) 10:34:53
>>880
「復立」ではなく、「更立」ですからね。お説、ごもっともだと思います。
886日本@名無史さん:2008/02/10(日) 12:44:10
>857 大古墳が一つしかないのが、邪馬台国の特徴。

すごい新説。おみそれいたしました。
887日本@名無史さん:2008/02/10(日) 14:07:21
邪馬台国は幻の女王国。奴国の人すらいまだかつて行ったことがないところ。
帯方郡の特使が実際に行ったのは奴国、もしくは、不弥国までと見たほうがよい。
888二月馬○:2008/02/10(日) 14:11:18
>>880

「更立男王」

私は”更(『女王』に変わ)って『男王』立つ”と呼んでいます。
鮮卑伝でも同様の使われ方をしていると思います。
【至三年中、雄遣勇士韓龍刺殺比能、更立其弟。】
復立卑彌呼宗女壹與は”復(また『女王』に返り)、卑彌呼んお宗女壹與立つ”で
更と復は女王>男王>女王の変遷を表現しているのはないですか?

> この「更立男王」の「更」は、卑弥呼に対して、「あらためて」男王を立てたという意味ではないと思います。
> 「更立男王」と「更相誅殺」が対になっていて、「こもごも男王を立て、〜、こもごも相誅殺し〜」ということでしょう。
> ならば、男王は一人ではありません。同時並列か、順次一人ずつかははっきり解りませんが、
> 複数の男王が並立していたような気がします。

この「更」を複数形の「交々」と言う意味で解釈するとしても並立状態を表すことばでは無いと思います。
889日本@名無史さん:2008/02/10(日) 14:42:49
>886
邪馬台国に「大古墳が二つ以上ある」証拠を出してください。
890二月馬○:2008/02/10(日) 15:08:08
>>889

何で一個しかないと思うのかな?
卑弥呼の墓以外は「大古墳」じゃないとか・・・でしょうか。

それと貴方は>>857氏ですか?

だとしたら訊きますが、卑弥呼の時代に見合う「大古墳」を論じるべきでしょう。
ここで時代の違う古墳を引き合いに出して多い少ないとか言ってもしょうがないのでは?

ついでに言っておきますが、私は土器編年に我流の実年代を振り当てているため、
箸墓を卑弥呼の墓とは考えていませんのであしからず。
891日本@名無史さん:2008/02/10(日) 15:46:55
むしろ、卑弥呼の墓は小規模だったと推測される。
なぜなら後継ぎをめぐって抗争があり、墓の造営どころではなかったためです。
源頼朝の墓の例を見ればわかる。
892日本@名無史さん:2008/02/10(日) 16:04:29
>>891
徑百餘歩
893日本@名無史さん:2008/02/10(日) 16:23:09
1歩50cmとしても直径50メートル余り。
目立たずひっそりと風雨で浸食されて消えてしまったのかもしれませんね。
894日本@名無史さん:2008/02/10(日) 16:45:09
>889
自説を証明できずに人に振らないように。
895日本@名無史さん:2008/02/10(日) 20:17:43
邪馬台国に出てくる古墳は卑弥呼の塚ひとつだけだ。
畿内に同時代の古墳が多いことは、むしろ畿内に邪馬台国がなかった証拠。
邪馬台国は大古墳がおおい畿内にあったというのは、無茶苦茶な論理。
896二月馬○:2008/02/10(日) 20:56:02
>>895

卑弥呼の時代に作られた径100余歩の古墳がたくさん大和に有るんですか?
897虹歩命:2008/02/10(日) 21:58:43
倭人伝の一歩は中国の単位で150cmぐらいですよ。
898日本@名無史さん:2008/02/10(日) 22:55:42
魏は巨人の国、身長3メートル級だったのか?
899日本@名無史さん:2008/02/10(日) 23:04:26
中国の一歩は、日本で言う二歩に相当します(常識)
900日本@名無史さん:2008/02/10(日) 23:38:46
×畿内には古墳が沢山あるから邪馬台国は畿内のヤマトだ
                ↓
       ○邪馬台国に出てくる古墳は一つだけ
901日本@名無史さん:2008/02/10(日) 23:50:32
>>891
>むしろ、卑弥呼の墓は小規模だったと推測される。

かってに意味かえたらアカン! めっ!
902日本@名無史さん:2008/02/10(日) 23:54:55
>895 魏志倭人伝に、卑弥呼の塚以外に塚の記述が無いからといって、それが存在しない
事の証明にはならないでしょ?沢山あったって何も矛盾しない。
それとも、倭人伝に「塚は卑弥呼の塚以外にはまったく存在しな〜い!」なんて記述があるのかな。
903日本@名無史さん:2008/02/11(月) 00:41:51
はあ?
「古墳が沢山あるから畿内ヤマトこそ邪馬台国」という論理は破たんしてると言ってるんだが?
904日本@名無史さん:2008/02/11(月) 00:47:44
殉死した奴婢が百余人と書いてあるからそれなりに大きくないといけないと思う。
鏡とかが埋葬されたとは書いてないんだから、畿内だろうと九州だろうとこのあたりから攻めれば・・
箸墓は無理か。玄室内は入れない。
905河童 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/11(月) 00:57:03
>>899

>中国の一歩は、日本で言う二歩に相当します(常識)

それは度量衡の『歩』ではなく、両足おそろえスタートする【あるく(いっぽ)】の事


>>897

>倭人伝の一歩は中国の単位で150cmぐらいですよ。

そんな単純なものでもない
ここは当時の度量衡との睨めっこだよ

当時の度量衡は(尺=約24cm)

906日本@名無史さん:2008/02/11(月) 00:57:34
マクモニーグルは、畿内設、鳥見山にあったといってるね。
詳しくは今月号のムーを。おすすめ。
907日本@名無史さん:2008/02/11(月) 07:53:35
「古墳が沢山あるから畿内ヤマトこそ邪馬台国」なんていう主張は誰もしていません。
邪馬台国には古墳が一つしかないという考えが間違っているといっているだけです。
そんな証明は誰も出来ないし、魏志倭人伝の記述にもない。

 正 魏志倭人伝に記述されている大塚の記述は一つしかない
 偽 邪馬台国には大塚が一つしかない

分かるでしょ?あなたの論理の飛躍。
908太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/11(月) 07:55:16
朝廷の墓と女王国の墓が畿内に混在してるというのはおかしい。w
909日本@名無史さん:2008/02/11(月) 08:44:39
倭人条冒頭の『百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國』

の30ケ国と邪馬台国連合国の30ケ国はイコールでしょうか。
普通に考えれば違う国々を言っているのでしょうね。
国名のみ記載の21ケ国が『其餘旁國遠絶不可得』と説明されている以上は。
910虹歩命:2008/02/11(月) 09:13:05
少なくとも百余国が三十国にまとまったということではないようです。
北部中心の30カ国があり、残りの70余ヵ国はそれ以東の国々でしょう。
ここから当時の倭国内の勢力が二つに大別できることがわかるようです。
911日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:16:17
邪馬台国問題は日本史の最も有名な論争だから、たとえ、これからの発掘で、決定的な証拠が見つかったとしても、
反対論者はあらゆる論を駆使して、絶対に認めないだろうね。
特に考古学者や歴史家にとっては、学者生命に関わる問題だから、死ぬまで認めることはないと思う。

皆さんどう思う???
912日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:17:31
ウィキペディア
・奈良県桜井市、箸墓(はしはか)古墳(邪馬台国の女王卑弥呼
の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は
3世紀後半説)

これが通説です。
913日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:23:22
>>912
納得できるような根拠を聞いたことがないが。
914日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:28:00
>912
ウィキペディアなんて出さないでよ。私は大和論者だけど。
915日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:31:19
>>903

> 「古墳が沢山あるから畿内ヤマトこそ邪馬台国」という論理は破たんしてると言ってるんだが?

だから何で?
昨日から全く意味不明のままなんですが。
916日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:55:50
>邪馬台国には古墳が一つしかない

↑おーい、どこ行った〜???
917日本@名無史さん:2008/02/11(月) 09:55:52
『倭人の邪馬台国』 (魏志倭人伝)

○ 男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
○ 男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
○ 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
○ 着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
○ 兵器は矛、盾、木弓を用いる。
○ 人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
○ 倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
○ 特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
○ 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
○ 女は慎み深く嫉妬しない。
○ 盗みはなく、訴訟も少ない。
○ 宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
○ 法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。

918日本@名無史さん:2008/02/11(月) 10:11:26
>>914ウィキペディアの影響力は甚大。
その影響力は、古事記や日本書紀も匹敵する。
修学旅行で奈良を訪れる小中学生、高校生の多くは、
ウィキペディアの記述を読んで邪馬台国は桜井市に
あったのかと納得するはず。
権力を狙うものが、意図的に自分たちに都合のいい
情報だけを流し続ければ、長い年月をかけて事実と
同じになるという例を出したまでのことです。
919太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/11(月) 10:15:47
>>918
そういうことは充分ありえます。ムー誌の特集で畿内にあると信じちゃう
連中は相当増大するだろう。影響力は大きいね。それが真とはまた別。
920899:2008/02/11(月) 11:06:35
>>905

> >中国の一歩は、日本で言う二歩に相当します(常識)

uzeeeeeeよ。
勝手にプラムポイズンなレスを付けるな!
バカが感染るじゃないか。
俺のレスは>>898の中国人身長3m説へのレスなんだよ。
勘ちがいすんなってーの。
オナニー憶えたサルが擦りまくるように毎度同じレスを貼り付けるなよ。
それに、それは俺たちが2chやヤフでアンタに「丁寧」かつ「根気よく」教えてあげた内容だろう。
忘れてるようなら昔の恥かしい(今でも余り変わらんが)ログを貼りまくってやろうかw
921日本@名無史さん:2008/02/11(月) 12:19:08
>>920
貼って貼って貼って貼りまくれ
プラムの過去レス貼り専門別スレ立てるか?
922日本@名無史さん:2008/02/11(月) 12:29:45
プラムさんの過去ログ見てみたいです。>>920さんがプラムさんの先生なら、過去と現在を比較説明込みでお願いします。
923日本@名無史さん:2008/02/11(月) 12:54:59
>>922

本質的に今と対して変わらないよ。
 ・論理より感情で判断する
 ・他人の話を理解しない(できない&したくない)
 ・自分の考えを説明できない(最近ではできないのしたくない)
 ・Coppy&Paste(携帯ユーザ)ができないので誤引用が多い
 ・誤字・脱字が多い
 ・一丁前にチャネラー気取り
 ・モノを知らない、コトバを知らない、恥をしらない、礼儀を知らない
924日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:09:07
>907
まったく違います。君は日本語がわからないだけでしょ。
「邪馬台国の記述」の話です。邪馬台国の記述に古墳が一つしかないのに、
「古墳が沢山ある畿内ヤマトは、古墳が多いという理由で邪馬台国にちがいなく、
古墳の少ない九州に邪馬台国があるはずがない」という論理は破たんしてるでしょ。
925日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:12:11
倭錦がたくさん出土する九州と、倭錦がほとんど出土しない畿内と、
倭錦が特徴の邪馬台国はどちらにあったのか、確率論でわかりますね。
926日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:30:45
>>923
アンタはただプラムが嫌いなだけの粘着だろう?
レスに感じるのは怨念だけだし、異常なほどの観察ありきだな。
927日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:32:57
>>924

> まったく違います。君は日本語がわからないだけでしょ。

ハァ?
日本語がわからない?

> 「邪馬台国の記述」の話です。邪馬台国の記述に古墳が一つしかないのに、

ふむふむ、「記述」にね。

> 「古墳が沢山ある畿内ヤマトは、古墳が多いという理由で邪馬台国にちがいなく、

これが分からない。
だから、いろいろと説明を求めているわけだが・・・

「畿内ヤマトに沢山」古墳がある」ことと「倭人伝の記述に一つしかない」ことが、
キミの脳ミソの中ではどうつながってるのかと。
キミの脳内をいろいろと想像しちゃったりもするんだけどね

  この人は邪馬台国の地には卑弥呼以外の大きな墓は作られなかったと考えてるのかな?
  まさか、「沢山ある」古墳ってのは「崇神陵」とか「景行稜」とか築造時期を無視して含めてるのかな?

とかね。
  
 つまり、おじさん達には、キミが全く関係ないレベルのものを比較してあーだこーだ言ってるように
しか聞こえないんだよね。

> 古墳の少ない九州に邪馬台国があるはずがない」という論理は破たんしてるでしょ。

だから、破綻している理由を書いてね。
928日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:38:55
>>926

> アンタはただプラムが嫌いなだけの粘着だろう?

違うよ。
大好きだよ。

> レスに感じるのは怨念だけだし、

恨みなんかないよ。
居ないと寂しいくらいだ。

> 異常なほどの観察ありきだな。

だって面白いんだもんw
929日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:48:09
古墳が一つしか記述されない国の場所はどこか?

>この場所は古墳が多いからその国はここにあった。

これが畿内説です。
930日本@名無史さん:2008/02/11(月) 14:15:57
>>929
> 古墳が一つしか記述されない国の場所はどこか?
> >この場所は古墳が多いからその国はここにあった。
> これが畿内説です。

邪馬台国の時代から古墳がいっぱい有ったなんて言う機内説は無いだろうw
邪馬台国の時代定型化前の纏向型がいくつか有った(石塚・勝山、人によってはホケノ)くらいが
一般的な畿内説だよ。
キミの想像してる畿内説ってそれとは違うんだろうね。
931日本@名無史さん:2008/02/11(月) 16:39:08
>>920
アンタ。プラムに「親切」かつ「丁寧」に何を教えたの?
932日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:02:11
自分は邪馬台国=大和国論者なんだけど、
あの石野という人の説はイマイチ信頼できない。

彼は考古学者だから、限界があると思うけど、
やたら、土器編年で絶対年代を出そうとしすぎて
無理な解釈をしすぎると思う。

まあ、でも、彼も学会の大きな場では、断定しては
いっていないし、まあ、しかたがないか。
実際に、彼がよく交流している学者さんたちは
大和説が多いが、彼の意見とは全く同じではないしね。
933日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:05:38
邪馬台国論争ってさ、どれだけ影響が大きいかというと
3世紀の日本の状況だけじゃなくて
その前後、数百年の大まかな歴史の流れが読めてしまうんだよね。
だから、邪馬台国論争が解決すると
奴國の57年の金印のあたりから、
日本書紀が編纂された8世紀前半くらいまでが
ある程度、大まかに読めてくる。
934日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:17:39
>924

何か、私以外にもアナタに反論している人がたくさんいるみたいなので、混乱してきているみたいだね。
あとは皆さんに任せて、これで最後にするけれど

>「古墳が沢山ある畿内ヤマトは、古墳が多いという理由で邪馬台国にちがいなく、
>古墳の少ない九州に邪馬台国があるはずがない」

上のようなことは、私も誰も言ってませんし、私の意見でもありません。破綻以前に成り立ちもしません。
あなたが勝手に作り出した意見を、自分で否定しているだけです。

あとは皆さんヨロシク。
935日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:18:57
>>933君はどう読んでいるの?
936日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:22:23
>927さん

後を頼むね!通じない人には、どう説明したって通じないもんだね。参るよ。
937日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:39:48
>>931

ここで再現しちゃってもいいのかなw
既に涙目のようだが。
938日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:41:43
良いんじゃねぇ
939日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:51:50
>>932
纒向石塚のときの石野と寺沢の「どうしたことだ」論争を思い出した。

石野は纒向T〜Vまで出た層をTの完形土器が出たとして一番古いTの時期とした。
これに対して、同じ層に布留0があると指摘したが、石野は報告書でこれを無視。
たしか、寺沢が現物を石野に見せたことを述べて「どうしたことだ。」と書いた。
対して、石野が記憶になかったと応答した。

石野の報告書では肝心のT式の完形土器の出土場所が分からないと寺沢が
指摘し、石野が分かりにくくて悪かったと応じる(んなことありうるかww)。

石野は盛土の約3500の土器片は全てT式以前としたが、寺沢がV式の存在を
指摘する。対して、石野がそれはUになりかけのTと反論する。

・・・石野の関る部分では古いものしか出ないという報告がなされ、それに対する
批判が繰り返されるという流れは、笑えないところでもある。
940928:2008/02/11(月) 17:59:33
>>937
アンタやっぱり粘着ストーカーなだけじゃない。
仮に過去レス貼付けたところで、その親切丁寧さんがアンタである事を、名無しのアンタがどう証明するの?
以前にも些細な煽りが原因で、何ヶ月もスレ全体が荒れたのを知ってる筈だ。あのきっかけもアンタの仕掛けだろう?
いい加減コテハン煽ってスレを荒らすのはよせ。
941日本@名無史さん:2008/02/11(月) 18:07:47
だから泣くなってばw

それに君だって名無しじゃないか。
942河童 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/11(月) 18:43:28
なんだかプラムで盛り上がってるようだが
で、原因はこれか?

897 :虹歩命:2008/02/10(日) 21:58:43
倭人伝の一歩は中国の単位で150cmぐらいですよ。

898 :日本@名無史さん:2008/02/10(日) 22:55:42
魏は巨人の国、身長3メートル級だったのか?

899 :日本@名無史さん:2008/02/10(日) 23:04:26
中国の一歩は、日本で言う二歩に相当します(常識)

905 :河童 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/11(月) 00:57:03
>>899

>中国の一歩は、日本で言う二歩に相当します(常識)

それは度量衡の『歩』ではなく、両足おそろえスタートする【あるく(いっぽ)】の事



くだらねぇからよせよ
943日本@名無史さん:2008/02/11(月) 18:47:25
>>939
石野氏は「考古学は科学だ!」と言っている。
これは完全な間違い。思い上がりも甚だしい。
なんか九州説のことを憎みすぎているというか...
邪馬台国大和説を実現するために、
無理に考古学的資料を偏向解釈している。

逆に寺沢氏のほうが良心的だ。彼も大和説に確固たる信念を持っているが
だからといって、邪馬台国大和説を実現するために、
無理に考古学的資料を偏向解釈はしない。
また、考古学は科学だとは思っていない。
944日本@名無史さん:2008/02/11(月) 18:47:49
Pu!
945日本@名無史さん:2008/02/11(月) 18:52:31
千里の道も一歩から
946河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/11(月) 18:53:33
920 :899:2008/02/11(月) 11:06:35
>>905

> >中国の一歩は、日本で言う二歩に相当します(常識)

uzeeeeeeよ。
勝手にプラムポイズンなレスを付けるな!
バカが感染るじゃないか。
俺のレスは>>898の中国人身長3m説へのレスなんだよ。
勘ちがいすんなってーの。
オナニー憶えたサルが擦りまくるように毎度同じレスを貼り付けるなよ。
それに、それは俺たちが2chやヤフでアンタに「丁寧」かつ「根気よく」教えてあげた内容だろう。
忘れてるようなら昔の恥かしい(今でも余り変わらんが)ログを貼りまくってやろうかw


申し訳ない
貴方に指導されたこと覚えていない。
出来たら貴方の度量衡講座をもう一度聞きたいので、再現してくれお願いします。


947河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/11(月) 18:58:07
926 :日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:30:45
>>923
アンタはただプラムが嫌いなだけの粘着だろう?
レスに感じるのは怨念だけだし、異常なほどの観察ありきだな。

931 :日本@名無史さん:2008/02/11(月) 16:39:08
>>920
アンタ。プラムに「親切」かつ「丁寧」に何を教えたの?

940 :928:2008/02/11(月) 17:59:33
>>937
アンタやっぱり粘着ストーカーなだけじゃない。
仮に過去レス貼付けたところで、その親切丁寧さんがアンタである事を、名無しのアンタがどう証明するの?
以前にも些細な煽りが原因で、何ヶ月もスレ全体が荒れたのを知ってる筈だ。あのきっかけもアンタの仕掛けだろう?
いい加減コテハン煽ってスレを荒らすのはよせ。


私が原因の流れみたいだから、お互いこの辺で流してくれ




948日本@名無史さん:2008/02/11(月) 19:00:15
(・∀・)ニヤニヤ
949河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/11(月) 19:02:13
申し訳ないけど、もうプラムは永遠に登場しない
だから
既に存在しないプラムの話題はよしてくれ
950日本@名無史さん:2008/02/11(月) 19:09:16
相変らず自演がヘタなヤツだな・・・
951河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/11(月) 19:23:58
>>950

>相変らず自演がヘタなヤツだな・・・

たぶん私に対するレスかと思うが、意味が解りません
そうやって
今までもレスを荒らしてきたんでしょうか?

もしかして?
貴方が全て自演し、絵を描いたのでしょうか?   凄いですね
952日本@名無史さん:2008/02/11(月) 20:47:49
>>924
お前ね。古墳古墳って、いったいいつの時代の古墳なんだよ。ヴォケが。
953日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:23:59
畿内説の整理

1:畿内には九州より古墳が多いから、邪馬台国は畿内ヤマト
 →邪馬台国にはたくさん古墳があった証拠はなく、むしろ卑弥呼の塚ひとつだけ

2:邪馬台国をどう読んでもヤマトだから、畿内ヤマトが邪馬台国
 →語呂合わせの結果、日本列島に無数の候補地が乱立
 
954日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:26:38
>>953 君さ、早く病院に行った方がいいと思うよ。
955日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:30:02

くそドチンピラくそジャップスくそ死ね天皇死ね天皇死ね

くそジャップさっさと死ね大地震で死ね

くそジャップスつぶれて死ね

くそジャップスつぶれて死ね

くそジャップスつぶれて死ね
956日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:30:34
畿内説の整理

3:纏向をみれば、畿内ヤマトが邪馬台国に間違いなし
 →邪馬台国の特徴である倭錦の出土は北部九州ばかり
957日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:33:20
畿内説の整理

4:国力が圧倒している畿内ヤマトこそ邪馬台国だ
 →鉄がほとんど出土しないほど貧乏だったのが畿内で、九州では鉄が無数に出る
958日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:36:30
畿内説の整理

5:九州の出土物は畿内より後進地域だった証拠で、畿内ヤマトこそ邪馬台国
 →C14で測定すると、九州の出土品のほうが数百年古い
959日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:55:43
>>956-958
すべて現実に存在しない脳内畿内説ばかりだな

いったい誰と戦っているのだろうか
960日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:56:35
病気と闘ってるんだよ。
961日本@名無史さん:2008/02/11(月) 22:06:23
>>959

脳内畿内説 ← うまい。

何か、邪馬台国とは違う方向に盛り上がっているねぇ。
962日本@名無史さん:2008/02/11(月) 22:29:14
>>939 を書いた後に確認してみたら結構間違っていたので訂正

(寺沢)周濠下層出土の土器として、石野氏自身が明らかな庄内形甕や布留形甕を
報告している事実は、どうしたことだ。
(石野)周濠は布留式期までオープンで須恵器の頃の植物層によって覆われた。
・・・つまり、石野はT式以外は後世に堆積したとの主張。

(石野)盛土のなかの3600片の土器は全てT式以前でみんなが同意した。
(寺沢)私は立ち会っていないのにその書き方は誤りだ。しかも、内面彫り甕と
庄内形甕縁口片2点を直接示したではないか。
(石野)寺沢が立ち会っていないのは前提だから誤りではない。土器を示されたことは
記憶に全くないが、橋本氏に聞いたらそうらしい。しかし、これはT式の範囲内の変化だ。
963どくだみ:2008/02/12(火) 13:47:55
>>888
二月馬○さん
亀レスで、すみません。
結論から言うと、誅殺は、罪に当てて殺すことですから、「相誅殺」という以上、
正統王権を主張した男王は複数居たのでしょう。
ですので、「更相誅殺」は「こもごも」だと思います。
それ以外の部分は、絶対こうだとは言い切れません。
私見ですが、「更」という字は「交替」や「重なる」というような意味ですが、
漢文ではどうも、一回か複数回かは意識せずに使われたような気がするのです。
一方で、日本語では一回なら「あらためて(かわって)」、複数回なら「こもごも」と区別するので、
文脈から「更」の読み方を変えるのは、日本語の都合のように思われます。
それで、「交替」の対象を卑彌呼と考えるなら「あらためて」
男王同士と考えるなら「こもごも」と読むわけですが、
これは、もう読む者のセンス次第というところです。
鮮卑伝の例は、一文中に「比能→弟」と交替の対象が明記してありますので、
「あらためて」の読みで動きません。
倭人伝の場合、卑彌呼の死と埋葬の文は一旦切れており、なおかつ、
一文中に「更立男王」と「更相誅殺」があります。
一文中に対象の異なる「更」が二回出てくると考えるよりは、
これを呼応させて読んだ方が自然かなと思ったわけです。
三国志・賈?伝に「促更追之,更戦必勝.」というような例もあります。
(すぐにもう一回追いかけて、もう一回戦えば、必ず勝ちます)
梁書や北史の書き方だと、「あらためて」と読みたくなりますが、
省略で読み方がわからなくなっている引用というのは、割と普通にあるので、
出典である倭人伝の読み方を引用先の梁書や北史で決めるというのは
本末転倒だと思います。
964どくだみ:2008/02/12(火) 13:54:33
つづき
>この「更」を複数形の「交々」と言う意味で解釈するとしても並立状態を表すことばでは無いと思います。

「更」は、上記のように交替の意味ですが、必ずしも順序良く交替するということではないようです。

三国志・董卓伝
法令苛酷,愛憎淫刑,更相被誣,冤死者千數.

「互いに誣告しあって、冤罪で死ぬ者が数千人出た」という内容ですので、
「更」は、そういう無秩序な状態も表します。
ですので「更相誅殺」を考える場合、やはり並立かなと考えたのです。
これは、先にも書きましたとおり、あくまで「気がする」程度の意見です。
或いは、一人ずつ王が立って、後の王が、先代の勢力を誅殺したということかもしれません。
あと、細かいことですが、「立男王(男王を立つる)」とあるので、
男王は独力で王位を獲得したというより、ある勢力に立てられたということでしょう。
卑彌呼の場合は、全ての勢力が合意したので共立と書いたのだと思います。
「男王立つ」「壹與立つ」と読むと、ちょっとその辺、誤解が起こりそうで、
気になったので。
おわり
965日本@名無史さん:2008/02/12(火) 16:39:18
邪馬台国の前にヤマト政権の解明が先だろう
966日本@名無史さん:2008/02/12(火) 19:58:12
まずC14で絶対年代の確定が基礎にあるべきだろう。
967日本@名無史さん:2008/02/13(水) 02:12:03
共立というのは男王と共に立てる、という意味では?
男王に共立の女王、卑弥呼
実態は男王の斎官である神懸りの巫女
968日本@名無史さん:2008/02/13(水) 09:03:46
>967
女王とは別に男王がいたのなら
その記述がまったく無いのはおかしい。
969日本@名無史さん:2008/02/13(水) 10:03:38
一応、弟が政務を司っていたのでは
970日本@名無史さん:2008/02/13(水) 10:29:31
・・・無夫婿有男弟佐治國・・・

これ本当に弟?
鬼道の弟子じゃないのかな?
で、倭人伝読む限り政治的中枢は伊都国なわけで
邪馬台国は呪術的な中心地と思ってる。
つまり佐治國の部分は政務ではなく
種まきの時期や吉凶を占うのを手伝ったんじゃないのかなと思ってる。
どちらにしても王ではない。
971日本@名無史さん:2008/02/13(水) 10:44:35
館から一歩も出ない卑弥呼が政治を行うにはやはりその言葉を伝えるものが必要でしょう。
だから男弟がこの役であったと見る人が多い
弟が表、卑弥呼が奥の政治を取っていた兄弟統治だったかもしれないし(代表は卑弥呼)
共立の意味さえわかれば、別にこの考えじゃなくてもいいんだけど
まあ現実的に見れば小国のたくさんの王の中で、卑弥呼が代表の王としてたった、かな。
972日本@名無史さん:2008/02/13(水) 12:25:52
『共立一女子爲王、名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻、有男弟佐治國』魏志倭人伝
『倭王以天爲兄以日爲弟、天未明時出聽政跏趺座日出便停理務、云委我弟』随書俀國伝

卑彌呼=倭王以天爲兄・・・夜の倭王:宗教的王
男弟=倭王以日爲弟・・・昼の倭王:政治的王
共立したのは宗教的王
更立男王は邪馬台壹國以外で立った政治的王(複数)・・・宗教的王は復(再)立つ壹與まで空位
更相誅殺したのも政治的王達
973どくだみ:2008/02/13(水) 17:08:36
みんな想像を逞しくしているので、私もちょっと想像してみました。
倭人伝で、王の明記は伊都國と邪馬臺國と狗奴國だけということからの想像です。
本拠邪馬臺國が畿内にあって、後世の太宰府のような出先機関が伊都國にあった。
それが、「世有王皆統屬女王國」という状況。
伊都國王=出先機関の長官。三十人の王なんて居ない。
本拠地と出先機関の両方の情報が魏に報告されていた。
魏晋交代の混乱のなかで、これが混同された結果が倭人伝の記述。
九州と畿内にある二つの拠点を、あたかも一箇所のように記述したので解らなくなった。
狗奴国は、九州南部、出先機関の南側に存在した。
こういう風に想像してみました。
当時の史書編纂は、現在の作家のように、陳寿が一人で机に向って書くようなものではなく、
著作カである陳寿の多くの下役が膨大な資料を下読みして、
陳寿が最後に仕上げをするようなものだったんじゃないかと考えています。
ルネッサンスの絵画の巨匠の作品も、工房で弟子達が下書きしたものに
巨匠が仕上げをしたと聞いたことがあります。それと似ていたんじゃないかな。
そういう状況と戦乱とによって、情報に混乱が生じたと考えられます。
考古学とか全然知らないし、あくまで想像です。
974日本@名無史さん:2008/02/13(水) 17:13:36
>972
随書の”倭王以天爲兄以日爲弟”って通常
倭王、天を以って兄となし、日を以って弟となすって訳される部分で
夜に政務を行って昼は”云委我弟”完全夜型人間の話だよね?
倭王以日爲弟をもって男弟が昼の倭王ってのはどうだろうか?

むしろこの文からは伊都国王の名前や様子、卑弥呼が女王になってから
見たものが少ない点もこれと同じ政治方式だったら解る気がする。
つまり郡使は王にも女王にもあっていない可能性がある。
まさに歴史は夜作られる。
975どくだみ:2008/02/13(水) 17:29:57
「有男弟佐治國」や「唯有男子一人給飲食、傳辭出入」というのは、
記紀の神功皇后の神懸りと審神者の関係を連想します。
976972:2008/02/13(水) 19:45:25
>>974
伊都國王:卑弥呼以前の政治的昼の倭弟王
倭國王帥升:政治的昼の倭弟王 帥升は実務王だから漢に出向き安帝に願請見できた。(安帝には会えなかったが)
倭奴國王:政治的昼の倭弟王 光武賜以印綬
多利思北孤:弟王

『桓靈間倭國大亂、更相攻伐歴年無主』後漢書倭国伝
更相攻伐したのは弟王達。歴年無主は兄王不在を述べている。

卑彌呼共立は女性(巫女)を兄王とした苦肉の策。
977どくだみ:2008/02/13(水) 20:34:32
>>976
たしか弟王という言葉は、出てこなかったと思うのですが、どこかにありましたっけ。
存在が確定するまで、実際に書かれていない用語を作るのは用心した方が良いです。
そういう用語を使って話をしていると、存在しないものでも存在したような錯覚を生じますから。
言葉に思考がミスリードされるわけですね。

それに、隋書の記述は開皇二十年西暦600年の話だから、卑彌呼とは時代が違いすぎます。
「倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟.
高祖曰:「此太無義理.」於是訓令改之.」
「倭王は、天を兄として、日を弟とする。未明のうちに跏趺坐して政治を行い、
日が昇ると仕事をやめて、弟に委ねると言う。高祖が「そんな理理屈に合わない話があるか」と言って止めさせた」
文面どおりに解釈すれば、その弟というのは、太陽のことですね。
弟である太陽が昇ったから、あとは太陽に任せるという内容です。
弟王に交代するという風には、書いてありません。
神道の祭りは深夜にやるので、そういう話が隋に訛伝したのかもしれません。
跏趺坐というのをわざわざ書いているのが、なんだか神降ろしでもしていたのかと想像させます。
978日本@名無史さん:2008/02/13(水) 20:39:30
俺は邪馬台国スンダーランド説を支持します。
不弥国までは九州。
そこから南に水行20日で、投馬國=沖縄本島
投馬国から、南に、水行10日でスンダーランド
に到着し、さらに陸行1月で邪馬壹國に到る。
979ローガン:2008/02/13(水) 21:01:26
>>973
どくだみさん。こんばんは。
梯シュン来倭に関しては「上表答謝」がありますね。
張政等の際は「詔書」を届けているにもかかわらず「上表答謝詔恩」とは書かれていません。

張政等がもたらした詔書の内容は、倭側の要望(援軍の要請?)に答えたものではなかったのではないか?って思いますがいかがでしょう?

以前の話を蒸し返すようで恐縮ですが…
980日本@名無史さん:2008/02/13(水) 21:59:36
どくだみさん、こんばんわ。
あまりいい加減なことを書かないほうがいいんじゃありませんか?
981どくだみ:2008/02/13(水) 22:08:05
>>979
どうも、ローガンさん。こんばんは。
お訪ねの件、私も自説の詳細を忘れかけていたのでw
ドン来いの過去のレスを読み返してみました。
簡単に纏めると、もともと邪馬臺國は狗奴國と不和で帯方郡に訴え、
それで、正始六年に黄幢が下賜された。
張政らがそれを倭に持っていって難升米に拜假した。
その後、卑彌呼が死んで、男王が立てられたが国が治まらず、
正始八年に至って、壹與が立てられて、ようやく国が治まる。
壹與は掖邪狗に張政を送らせて、そのまま、王キの取次ぎで臺まで詣り
皇帝に、いろいろ献上するという流れを考えています。
ですので、卑彌呼の死からその後の混乱の為に、「上表答謝詔恩」できずにいた。
正始八年の壹與の使者がそれに当たる。
と私は、考えます。

ところで、>>973の混同説どうでしょうか?
私は、鏡の出土状況とか鉄の分布とかチンプンカンプンなもので、
ただ倭人伝を読んだ感じで想像してみたのですが、
日本史や考古学も知ってる人からすると、どうなんでしょうね。

>>980
どうもすみません。
今日のスレの流れが、想像で物を言うような感じになっていたので、
ちょっと乗っかって、私の想像を書いてみました。
ところで、ちなみに、どの辺りをいい加減とお考えですか?
982972:2008/02/14(木) 00:25:38
>>977
『倭王以天爲兄』を簡略化して「兄王」とし、
『倭王以日爲弟』を簡略化して「弟王」としました。

『云委我弟』から役割の異なる2人の兄弟王であることが裏付られます。
宗教的行事は夜間に兄がし、治世外交等は昼間に弟ががするのです。
政教分離で宗教王が政治王より格上で、それを兄と弟と表現したのです。
似た制度は沖縄に巫女(ユタ)と王の関係として18世紀まで残っていました。

蛇足:
倭王(弟王)と称される人物は、卑弥呼、壹與を除いて、
薩耶摩、多利思北孤、磐井、倭五王等です。
天智、天武も倭王(弟王)の一人であったのではと思われます。(応神以降の天皇の大多数も)
文武以降は兄王弟王制度が無くなり、畿内天皇として一本化していますね。
持統は畿内で最初に大嘗祭をしているので、最初の一本化した畿内天皇か、
最後の兄王(九州とは別)であるのではないかと思います。
983日本@名無史さん:2008/02/14(木) 00:41:56
九州元号には「兄弟」ってのがあるね。
984ローガン:2008/02/14(木) 00:45:08
>>981
混同説、拝見しました。私的には初見です。
興味深いです。貴説によると、女王国=倭国ですね。同感です。
三少帝紀 倭国女王俾彌呼…ですものね。

さておき、先日は失礼しました。「権已死」の事…
昔の雑記帳に書いてました。唐会要ではなく、魏志二十一巻でした。
「今権以死託孤於諸葛恪」

それとどこかは判らないのですが、裴松之の注記で「今権已死託於諸葛恪」て言うのがあったと思います。(違ってたらごめんなさい)
もしそうなら、「卑弥呼以死」=「卑弥呼已死」でしょう。

6年の詔に基づいて張政等が来倭したが、卑弥呼は已に死んでいた。
こう読めれば、前後の文章が一連ですんなり読めるように思うのですが。


8年の朝貢主が壹与との根拠は確か冊府元亀に求めておられた記憶が…
1013年では時代が下りすぎではないでしょうか?
例えば隋書に「漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之倭奴国」とあります。
確かに後漢書によると、建武中元二年の朝貢者は倭奴国ですが、安帝永初元年は倭国王帥升であり、隋書の引用は間違っています。
同様の事が魏志と冊府元亀で言えるとしたら、8年朝貢主が壹与であるかどうかの根拠をかの書に求める事は、慎重になるべきではないか?なんて考えます。
生意気言ってごめんなさい。
ではお休みなさい、又明日にでも…
zzzz…
985日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:26:17
985
986日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:26:41
986
987日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:27:34
987
988日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:29:31
988
989どくだみ:2008/02/14(木) 19:15:42
>>984
ローガンさん
混同説にたいするご意見ありがとうございました。
女王国=倭国についてですが、
陳寿が女王というとき、それは倭の女王ですが、
女王國という場合は、「皆統屬女王國」や「自女王國以北〜」の部分を見ると、
邪馬臺國一国で、29国は含んでいないように思います。
つまり、29国の首長は、王号を称していなかったが、
首長は居たということです。
そういう意味で、三十人の王なんて居ないと書きました。
ちょっと、表現の仕方が不適切だったかもしれません。

>生意気言ってごめんなさい。

いえ、とんでもないです。
私も、指摘されて調べてみると、新しい発見があります。
次にレスする「以」の話も、今回初めて知りました。
「科学の研究は、暗闇の中を蝋燭の火をともして進むみたいだ」
というようなエッセイを思い出します。
たしか、高校時代に国語の授業で読んだ寺田虎彦の文章だったような。
990どくだみ:2008/02/14(木) 19:20:21
つづき
「今権以死託孤於諸葛恪」と裴松之注の文、確認しました。
私の感覚では、「卑彌呼以死」を「已に死んでいた」と読むと、
文脈が、「更立男王」以下に直接続き、
「大作冢〜奴婢百餘人」の部分が浮くように感じます。
ですので、あまり賛成できないのですが、全く違うとも言い切れない事情があります。
お手元に、大漢和辞典があれば、見ていただくのが早いのですが。
「以」の本字は、「已」とよく似た形をしています。
両者は、取り違えやすい漢字です。所謂「魯魚の誤り」というやつです。
さらに、「以」と「已」は、もともと同じ字で、両者は通用するという説もあります。
ただ、「以」を「已」の意味で使った例は、私も、大漢和が挙げている一例、
「無以則王乎(やむなくんば、すなわちおうか)」(孟子・梁恵王章句上)
しか知らないので、多分少ないのではないかと思います。
そういうわけで、「今権以死」が、誤りなのか通用させる積りで書いたのか、
判然としません。(意味的には、已にだと思いますが)
確かに「卑彌呼以死」の「以」は、変な感じはするのですが、
これを「已」と読み替えて良いのかは、かなり躊躇してしまいます。

冊府元亀の件、確かに北宋成立というと、700年以上時間が経ってますし、
例えば、倭人伝の記述から、正始8年に壹與が朝貢したと考えた記述だという
可能性も完全には否定できません。
しかし、最初から問題のある書物ということでなければ、
書いてあることは、灰色程度なら信じていこうというのが、
私の基本スタンスです。
おわり
991改め:2008/02/14(木) 19:33:22
ローガンさん、どくだみさん こんな所にいたんですか。

良かったらこっちきて話しましょうよ。
さがみさんも!
992どくだみ:2008/02/14(木) 20:33:32
>>991
改めさん
地道に過疎スレの埋め立てですw
お誘い、有難うございます。
終止符スレ14が立っているのには、昨日気付きました。
いま、レスを少しずつ読んでいますので、
書き込めそうな流れになったら、また書き込ませていただきます。
993改め:2008/02/14(木) 21:04:54
いや 新しいソース歓迎です(笑)
994日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:26:02
ならば黙ってブルドッグ
995日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:26:33
995
996日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:27:57
 
997日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:28:49
 
998日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:31:16
 
999日本@名無史さん:2008/02/14(木) 23:32:58
ひみこおぉぉぉーーーーーーー!!!
1000ローガン:2008/02/14(木) 23:43:47
どくだみさん。


では改めさん家で…
良ければお話付き合ってくださいっていうか、ご教示ください。
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