1 :
日本@名無史さん:
マスコミのトンデモ記事やなるほどと思える記事等、
とにかく貼りたいけどどのスレに貼れば良いか分からない記事は
とりあえずここに貼ってみましょう!
2 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 13:41:04
7世紀後半に銀精錬 石見の源流、飛鳥に? 2007年6月28日 23時18分
飛鳥時代の総合工房跡として知られる奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で見つか
った銀の粒(直径約5ミリ)などを分析、7世紀後半に純度の高い銀の精錬技
術があったことが28日、奈良文化財研究所の調査で分かった。
国内の銀精錬は1533年、鉛を使う「灰吹(はいふき)法」が朝鮮半島か
ら伝わり、石見銀山(島根県大田市)で本格的に始まったと考えられてきたが
、調査した村上隆上席研究員(歴史材料科学)は「灰吹法と同じ原理。基本は
800年以上前に導入されていたようだ。日本の科学技術史を見直す大きな材
料」と話している。
7世紀後半の銀粒や、るつぼにしたとみられる半球状の石器など計約40点
を分析。それぞれ精錬工程で混ざったとみられる鉛を検出した。
石器は内部に微小な穴が多数ある凝灰岩製。わずかな銀を含んだ鉛を熱し、
酸化した鉛が溶けて石器に吸収されると、さらに加える作業を繰り返し、純度
95%ほどの銀を得たらしい。
(共同)
ttp://www.chunichi.co.jp/s/article/2007062801000651.html
3 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 22:12:49
最古級の法隆寺文書確認 大阪・枚方、旧家が所蔵
2007年7月20日 18時44分
大阪府枚方市の旧家が市に寄贈した古文書の中から、平安時代(929年)
の法隆寺文書が見つかり、同市教育委員会が20日、発表した。
市教委によると、東大寺などは古代の文書が多数伝わっているが、法隆寺は
散逸。12世紀以前だと66点しかない。8世紀の文書もあるが傷みがひどく
、判読できる文書では最古という。
鑑定した梅村喬大阪大教授(日本古代史)は「法隆寺が国家の保護を受けら
れなくなった平安時代以降、どう寺を運営したか一端がうかがえ、貴重な史料
」としている。
法隆寺に近くの土地を売った証文「売券」で縦約30センチ、横約70セン
チ。誦師麿という人物が、母親の墓地を買うため売却したとあり、平群郡(奈
良県西部)役所の印があった。面積や価格の記録部分は欠落している。
法隆寺は飛鳥時代に聖徳太子が建立。朝廷の手厚い保護を受けたが、律令体
制が崩れ、土地の私有化が進んだ平安時代以降、財政的に苦しんだとされる。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2007072001000412.html
4 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 00:17:56
倭国大乱の跡? 亀岡で竪穴住居出土
亀岡市千歳町の出雲遺跡で弥生時代後期(2世紀後半)の六角形の竪穴住居
跡が見つかり、府教委が19日、発表した。邪馬台国が日本国内を統一する直
前の「倭国の大乱」の時期にあたり、住居の中には使える状態の土器がそのま
ま残されていた。府教委は動乱の中、敵が迫ったたため、住民が何も持たずに
逃げ出した可能性もあるとみている。
この竪穴住居跡は広さ約50平方メートル。全体の形は六角形で、一辺は4
〜5メートル。住居跡の中からは甕や壺など土器計15点が確認された。いず
れもほぼ完全な形で残されており、散らばった状態の米も数多く見つかった。
米はすでに炭化していたが、脱穀されていた。
こうしたことから府教委は、住居は住民がいなくなって、そのまま放棄され
たと判断。しかし、まだ使用できる貴重な甕や壺をそのままにして住まいを放
棄するのは、当時としては異例で、これまでの発掘調査でも火災を受けていな
いケースはほとんど確認されていないという。
「魏志倭人伝」などによれば、邪馬台国の女王、卑弥呼が倭国を統一する前
、日本国内は100国以上に分裂、戦いを繰り広げていた。発掘調査で見つか
るこの時期の竪穴住居には、戦闘で火災に遭い焼け落ちた状態のものもあるが
、今回の遺構には火災の跡はなかった。
この住居跡は盆地を見下ろす山の中腹につくられていた。府内ではこれまで
に計12例の多角形住居が確認されている。
府教委は21日午前10時から現地説明会を開催。この後、古墳時代の住居
跡が確認された亀岡市教委の発掘現場(同遺跡内)でも現地説明会が開催され
る。
(2007/07/20 02:55)
http://www.sankei.co.jp/chiho/kyoto/070720/kyt070720001.htm
5 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 15:13:28
6 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 18:56:40
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070801-00000143-jij-soci 推古期に直線道路網=7世紀初頭、奈良−橿原23キロ
8月1日18時31分配信 時事通信
奈良県立橿原考古学研究所は1日、古代の幹線道路「下ツ道」の溝が
奈良市三条大路で見つかり、7世紀初めごろの土器が出土したと発表した。
同研究所は「7世紀初頭の推古天皇(在位592〜628年)の時代に
下ツ道をはじめとする直線道路網が整備された可能性が高い」と説明。
古代国家の権力を考える上で、貴重な発見として注目される。
下ツ道は奈良市から橿原市までの約23キロを結び、幅約23メートル。
中ツ道、上ツ道とともに、奈良盆地を南北に貫いていた。
この3本の道は、日本書紀の壬申の乱(672年)の記事に
「上中下の道」と記述されていることなどから、従来は7世紀後半に整備されたとする説が有力だった。
最終更新:8月1日18時31分
企画展:山城「怡土城」を紹介 復元模型や出土品展示−−前原 /福岡
奈良時代に築かれた山城「怡土(いと)城」を紹介する夏季企画展「堅塁 怡土城に迫る」が前原市井原
の伊都国歴史博物館で開かれている。9月2日まで。
展示されているのは、1500分の1の城の復元模型、鬼瓦や平瓦、げた、防人(さきもり)が使ったとさ
れる食器用の土器、古代道の駅家(うまや)から出土した陶磁器など約50点。
怡土城は756年から12年かけて、現在の前原市の高祖山(416メートル)の西側斜面に、遣唐使の経
験がある吉備真備(きびのまきび)らが築いた古代山城。1938年に国の史跡に指定された。指定範囲は
約135ヘクタールで、今も土塁の城壁、城門、望楼跡などが残っている。
入館料は大人210円、小中高生100円。同博物館092・322・7083。【竹田定倫】
〔福岡都市圏版〕
毎日新聞 2007年7月26日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/news/20070726ddlk40040430000c.html
奈良時代の暦、九州で初出土 福岡・太宰府の観世音寺跡
2007年08月01日22時14分
780年1月7日、髪を切るのに吉――。福岡県太宰府市の九州歴史資料館は1日、同市の観世音寺跡から
出土した紙片が奈良時代の暦「具注暦(ぐちゅうれき)」だったと発表した。古代の具注暦は東北地方を中心に
23例が確認されているが、九州での具注暦の発見は初めてで、漆入れの「落としぶた」に使われたため漆が
染み込んで残ったという。
紙片は長さ約30センチ、最大幅約15センチ。77年の調査で出土したまま同館に保管されていた。今年1月に
赤外線カメラで文字を判読し、暦と判明。円形のものが二つ折りされ半円形になっている。裏にも文字がある
らしいが、はがして広げられないため判読できないという。
具注暦は、日付に加え、二十四節気、結婚や湯あみなどにふさわしい日の注釈などが記された古来のカレンダー。
今回の暦は、日付や節気の組み合わせから宝亀11年(780年)1月のものと特定。1月1日は西南西の方角が
吉で「納徴」(結納)や「移徒」(引っ越し)など万事によい――などの内容が記されているという。
紙片は、ほこりや漆の乾燥を防ぐため不要の紙を「落としぶた」にした結果、染み込んだ漆に保護され腐らずに
残ったもので「漆紙文書(うるしがみもんじょ)」と呼ばれている。同館の酒井芳司(よしじ)学芸員は「律令国家の
運営を支える暦が九州にもあったことを物的に裏付ける貴重な史料」としている。
朝日新聞
http://www.asahi.com/culture/news_culture/SEB200708010025.html
9 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 02:10:27
10 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 15:55:07
本能寺に強固な石垣あった…「信長無防備説」覆す発見続々
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070807i505.htm 戦国武将、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」(1582年)で
焼けたとみられる大量の瓦や、寺の堀跡、石垣などが京都市中京区の旧本能寺
跡で見つかった。本能寺の変を巡る遺物、遺構が発見されたのは初めてで、発
掘した民間調査機関「関西文化財調査会」は「史実を裏付ける貴重な発見」と
している。
マンション建設に伴い約130平方メートルを発掘。1545年の古文書で、
寺が調査地点一帯の土地を購入したとの記録が残っている。
堀跡は幅約6メートル、深さ約1メートル。一部には約2メートルにわたる
強固な石垣跡も出土した。
(2007年8月7日13時40分 読売新聞)
「大宰府条坊」 奈良時代の建物跡 8カ所から柱の根元出土 総柱の倉庫跡も2棟
良好な保存状態で出土した柱の根元部分
太宰府市教委文化財課は、同市観世音寺3丁目の「大宰府条坊」発掘調査で、奈良時代(8世紀)とみられる
建物跡の柱穴8カ所から、良好な状態で柱の根元部分が出土したことを明らかにした。根元だけとはいえ、柱穴から
柱そのものが数多く確認されたのは極めて珍しく、今後の分析で建てられた時期や材質の特定も可能になるという。
「大宰府条坊」は、大宰府政庁を中心とした都市として奈良時代に築かれた碁盤目状の街区。現場は政庁跡の
西約720メートルに位置し、南北道路の1つ「八坊」のすぐ東側にあたる。今年4月末からJA筑紫水城支店の
施設建て替えに伴い調査を進めている。
柱の根元は直径約23センチ。10カ所の柱穴のうち8カ所で確認され、大半が根元から高さ30センチ前後で折れた
状態で出土した。調査を担当している同市教委文化財課の技師、下高大輔さん(25)は「根元付近は腐食しにくい
土層に埋もれていたことが幸いして、これだけまとまって残ったのではないか」と話している。
建物は南北に4間(約7.3メートル)、東西に3間(約5.4メートル)で、南北はさらに広がる可能性がある。土器の
破片などから奈良時代の建物跡と推定されるが、建物の用途は分かっていない。
このほか、奈良時代の倉庫とみられる総柱の建物跡2棟が出土。1つは東西2間(約3.6メートル)の正方形、
もう1棟は細長く、現在発掘を進めている。
=2007/08/03付 西日本新聞朝刊=
2007年08月03日11時38分
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20070803/20070803_010.shtml
12 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 19:44:11
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070811i205.htm 大浦天主堂の設計図をパリで発見、金策相談の手紙に添付か
現存するキリスト教会の建築物として日本最古の大浦天主堂(長崎市南山手町)の設計図が、
フランスのパリ外国宣教会で見つかった。
1864年(元治元年)の建築当時のもので、発見した長崎総合科学大の林一馬学長(63)(建築学)は
「建築当時の全体像や細部の構造が初めて明らかになった」として、
今月29日、福岡市で開かれる日本建築学会で発表する。
見つかったのは、平面図と側面図。無地の洋紙に黒いインクで線を描き、木の部分は茶色、
石畳や石段は薄い灰色、尖塔(せんとう)は青色の絵の具で色づけされていた。
林学長は、同宣教会の古文書局でファイルを調査中、宣教会から日本に派遣され、
大浦天主堂を担当していたベルナール・プチジャン神父の手紙にまじって、二つ折りにした平面図と側面図を見つけた。
天主堂建築中、資金が不足し、プチジャン神父は横浜にいた
日本教区長ジラール神父に金策を相談する手紙を送っており、
どのような天主堂か説明するために設計図を添付したらしい。
大浦天主堂は1614年(慶長19年)の禁教令以降、約250年間信仰を守り続けた隠れキリシタンが
1865年(元治2年)3月17日、プチジャン神父に自分たちはキリシタンだと告白した
宗教史上の奇跡「信徒発見」の舞台として知られる。
(2007年8月11日15時56分 読売新聞)
13 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 22:38:01
徳丹城跡:出土の木製兜、640〜690年に製作 武具史の空白埋める資料に /岩手
史跡徳丹城跡調査指導委員会は8日、国指定史跡「徳丹城跡」(矢巾町西徳田)井戸跡から出土した木
製兜(かぶと)の製作年代は、640〜690年であることが測定結果から分かった、と発表した。年代特定
により、古墳時代から中世までの武具史の空白を埋める資料になったという。
木製兜は同町教委の発掘調査で昨年7月に全国で初めて発見された。9世紀前半のものと推定された
が、放射性炭素年代測定で、材木が570〜650年、材木の混じった漆は640〜690年という測定結果
が出た。
征夷(せいい)大将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が徳丹城を造ったのは9世紀初頭。東北城柵を
守る軍団が関東から兜を持ち込んだ後、9世紀前半に井戸の水桶(おけ)に転用したとみられるという。
調査にあたった平川南国立歴史民俗博物館長(古代史)は「残りにくい木製品が公的に管理されたう
え、偶然水に漬かって残った貴重な資料」と評価している。【念佛明奈】
毎日新聞 2007年8月9日
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/iwate/news/20070809ddlk03040125000c.html
<海軍大臣>「嶋田日記」を確認「敗戦は真に申し訳なし」 (毎日新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/mainichi/society/story/13mainichiF0813e046/ 太平洋戦争開戦時の海軍大臣、嶋田繁太郎(1883〜1976)が戦後、
A級戦犯となって巣鴨拘置所時代に記した日記の複写が、防衛省防衛研究所と
国立公文書館(いずれも東京都)で確認された。「獄中日記」の存在は、これ
まで一般にはあまり知られていなかった。陸軍に引きずられて開戦に至り、戦
後は沈黙を続けた嶋田。「敗戦のことは真に申し訳なし」の言葉もあるが、海
軍の最高責任者としては全体に淡々とした内容で、その人物像を知る貴重な史
料だ。
日記は、46(昭和21)年元旦から48年4月16日まで。46年5月1
日には弁護人と初面会し「大東亜戦争は侵略戦争にあらざることを闡明(せん
めい)」「天皇陛下に御責任の掛らざること」「海軍の全責任を嶋田にて荷い
、他人に成べく責任の及ばざること」としている。また、誕生日を迎えた翌4
7年9月24日には「海軍大臣拝命以後のことは(略)他の方途を執るには時
機既に遅きに過ぎたり」と書き、「敗戦のことは真に申し訳なし」に続く。
嶋田元海相は04年海軍兵学校卒で、同期に真珠湾攻撃を指揮した山本五十
六がいる。東京裁判で終身禁固刑を受け、55年釈放された。【鶴谷真、佐野優】
◇ ◇
この日記は、47年9月10日までが防衛研究所図書館、それ以降が公文書館にある。遺族の了解を得て98年3月から同図書館、昨年12月から国立公文書館で公開している。
[毎日新聞8月13日]
[ 2007年8月13日11時45分 ]
15 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 14:45:39
田川市文化財:全国注目の馬形、甲冑形埴輪など 猫迫1号墳出土114点指定 /福岡
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/news/20070814ddlk40040404000c.html 田川市は、同市伊田の古墳・猫迫1号墳から出土した埴輪(はにわ)類114
点を新たに市文化財(考古資料)に指定した。日本最古級の馬形埴輪と、九州
唯一の完形品として知られた甲冑(かっちゅう)形埴輪が含まれている。とも
に保存状態がよく、埋蔵当時の姿に修復された実物が同市伊田の石炭・歴史博
物館で常設展示されている。
同古墳は5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定される円墳。99年度に
発掘調査され、両埴輪のほか、円筒埴輪や家形・盾形など形象埴輪の一部(破
片)が多数出土した。田川地区一帯を治めた首長の墓とみられている。
多くの出土品の中でも、やはり馬形埴輪と甲冑形埴輪は全国の研究者から注
目される“逸品”。馬形埴輪は遺失部分が少ない上、6世紀以降の類型化した
造形と違って背骨や顔骨の隆起、ひづめが写実的に表現され、大陸から馬が持
ち込まれた直後の特徴を示しているという。性器も表現され、「全国で唯一性
別(オス)がわかる馬形埴輪」(同博物館)。笑っているように見えるユーモ
ラスな表情も特徴的だ。
甲冑型埴輪も、大陸からの鉄甲技術を受容後間もない時期の様子がうかがえ
る貴重な遺物。顔の一部が表現され、甲冑だけの形から人物埴輪に変遷する過
渡期の特徴を示しているという。肩当てには魔よけとみられる、かすかな赤い
彩色や線刻文様も見てとることができる。
これだけの貴重な出土品の実物が地方で常設展示されるのは珍しいという。
同博物館は「ともに当時の先進文化を田川地域がいち早く受容していた証拠で
、東アジアの文明伝播(でんぱ)を考える上でも重要な遺物。ぜひ一度目にし
てほしい」と話している。【林田雅浩】〔筑豊版〕毎日新聞 2007年8月14日
16 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 21:14:26
朝鮮王室儀軌返還めぐる調停、日本の欠席で延期
【ソウル24日聯合】日本の宮内庁が所蔵する「朝鮮王室儀軌」の返還をめぐ
り24日に予定されていた調停が、被告となる日本が出廷しなかったことから
来月7日に延期された。ソウル中央地裁が明らかにした。
この調停は、朝鮮王室儀軌還収委員会が日本の皇室と政府を相手取り引き渡
しを申し立てたもの。地裁が送った書類に関し日本側から受領確認がなく、地
裁は外国政府との調停となるだけに書類送付に時間がかかるものとみて、調停
期日を延期したと説明している。
原告側弁護人は、日本政府があくまで調停に参加しなければ強制調停を要求
すると話している。原告の要求を受け入れ地裁が強制調停命令を出す場合、被
告は2週間以内に異議申し立てを行うことができる。異議申し立てがなければ
、強制調停命令は確定判決と同等の効力を有することになる。還収委員会の共
同代表を務める正念(チョン・ニョン)住職は、日本の皇室と政府を韓国の法
廷に立たせることは容易でなく、法的な判断が下される前に日本政府が前向き
な答弁を出すことを期待すると話している。
朝鮮王室儀軌は朝鮮王朝時代の王室儀礼を絵や文で記録したもので72種類
に上る。1922年に朝鮮総督府が日本の皇室に寄贈した。今年6月、国連教
育科学文化機関(ユネスコ)の記録遺産リスト「世界の記憶」に登録された。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2007/08/24/0400000000AJP20070824002600882.HTML
17 :
日本@名無史さん:2007/08/27(月) 12:53:54
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070827i402.htm 岩手・平泉を文化遺産に、ユネスコが調査開始…中尊寺など
世界文化遺産登録を目指す岩手県の「平泉の文化遺産」に対する
「国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)」の諮問機関による現地調査が27日、始まった。
「平泉の文化遺産」は中尊寺や毛越寺など9史跡からなる「浄土思想を基調とする文化的景観」で、
2001年に政府が決める世界遺産候補の暫定リストに登録され、06年にユネスコに推薦された。
来年7月にカナダで開かれるユネスコ世界遺産委員会で登録の可否が審査される。
調査に訪れたのは、ユネスコから諮問を受けた「国際記念物遺跡会議(イコモス)」の調査員で、
奥州藤原氏ゆかりの中尊寺を訪れ、12世紀初めに初代・清衡が建てた金色堂などを見て回った。
調査は29日までの3日間行われ、結果は登録審査の重要な判断材料となる。
登録されている世界遺産は現在851件にのぼる。
ユネスコは適正な管理を維持するために、新たな登録を抑制する傾向にあるだけに、
文化庁や岩手県の担当者らは、調査員を相手に真剣な面もちで説明にあたっていた。
(2007年8月27日10時44分 読売新聞)
18 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 02:31:47
独立記念館、日本歴史教科書歪曲資料室を設置
ttp://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2007/08/29/0400000000AJP20070829001500882.HTML 【天安29日聯合】「庚戌国恥日」と呼ばれる1910年8月29日の韓国併
合に関する条約発効から97年を迎え、忠清南道天安市の独立記念館が「日本
歴史教科書歪曲(わいきょく)資料室」を開館した。韓国の歴史歪曲に関連し
た日本の教科書など約550冊を展示しており、今後も内外から日本の歴史歪
曲に関する資料を収集、展示する計画だ。
同館は1987年8月15日にオープンした。1982年、日本が植民地時
代の韓国侵略・支配を合理化し教科書に記載した「歴史教科書歪曲事件」が起
こり、設立発起大会が開かれたことがきっかけとなっている。オープン以来、
日本の歴史歪曲に対する資料の収集や研究、歴史歪曲を批判する活動を続けて
きた。2001年に「日本歴史教科書の実態と問題点」をテーマに国際学術会
議を開いたほか、2000年と2005年に日本歴史教科書歪曲資料展を開催
している。
鎌倉後期の大規模溝跡が見つかる
野洲、中畑・古里遺跡
滋賀県野洲市教委は30日、同市行畑の弥生時代から室町時代の複合集落跡
「中畑・古里遺跡」で鎌倉後期(13世紀後半)に掘られた幅3−4メートル
の大規模な溝跡が見つかったと発表した。集落を囲う溝跡で、生活用水路や防
御に使われたとみられ、「集落の形成過程を示す遺構」としている。
市の土地区画整理事業に伴い、約910平方メートルを調査した。溝跡は遺
跡中央部に位置し、南北50メートル、東西50メートルのL字型で、深さ1
−1・7メートル。溝から13世紀後半の黒色土器が見つかった。
これまでの調査で、周辺に掘っ立て柱建物など13世紀前半に焼けたとみら
れる4棟の住居跡が確認されており、市文化財保護課は、新しい集落をつくる
ために周囲にめぐらせた溝とみている。
溝跡から明治時代以降の木製の水利施設「川端(かばた)」の遺構や昭和初
期の牛乳瓶も見つかり、溝は鎌倉後期から埋められた昭和40年代ごろまで約
600年間、活用されていたと推測している。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007083000159&genre=M2&area=S10
20 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 21:44:41
太平記の記述そのまま
笠置山 後醍醐天皇の籠城遺構
京都府笠置町にある国の史跡・名勝、笠置山を発掘調査している府埋蔵文化財調査
研究センターは30日、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を目指して笠置寺に立てこ
もった元弘の乱(1331年)前後の排水溝や建物跡が見つかったと発表した。
排水溝は岩を削ったり、加工した石を積み重ねて造営している。「太平記」の
記述そのものの風景が現れた形で、堅固な寺の様子が明らかになった。
同センターが4月から、現在の笠置寺から約300メートル南の約600平
方メートルを調査した。2005年の調査でも、元弘の乱に伴う焼土や巨大な
堀が見つかっている。
今回見つかった溝は幅約30センチで、石を平らに加工し積み重ねて石組み
にしたり、巨大な花こう岩を削って造っていた。深さ10メートルの谷間と尾
根との間にあり、谷間に広がる建物群を大雨などから守ったとみられる。溝の
中に焼土がないことなどから、乱後の再建で整備されたとみられる。
笠置山での後醍醐天皇と幕府の戦いを伝える太平記は、笠置山を「岩を切り
取って堀とし、石を積み重ねて城壁とする」と伝えており、記述そのものの遺
構といえる。(続く↓)
21 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 21:45:35
(
>>20の続き)
このほか約40センチの焼土層の上下に建物跡が多数見つかり、元弘の乱で
焼失した建物を、乱後まもなく再建していたことが分かった。中国の青磁の香
炉や白磁の皿、高麗の青磁わんなども見つかり、笠置寺の豊富な財力と、東ア
ジア貿易と密接につながる人物がいたことを物語る。同センターは「後醍醐天
皇が籠城(ろうじょう)するだけの充実した施設や優秀な工人集団があり、さ
まざまな物資や情報が集まる寺だったことを証明している」と話している。現
地説明会は9月2日午前11時から。問い合わせは現地事務所TEL0743(95)3555。
■山城の先駆例か
鋤柄俊夫・同志社大准教授(中世考古学)の話 武装した山岳寺院は、戦国
期に多くみられるが、14世紀の例はほとんどない。基本的には谷筋をひな壇
状に切り開いた古代以来の山岳寺院だが、尾根筋にも同様のひな壇が造られて
おり、尾根筋の施設が戦闘的なものとすれば、戦国大名が構築した山城の先駆
的な形態としても注目される。
笠置寺 巨石に線刻された奈良時代の磨崖(まがい)仏で知られ、平安時代
から修験道や弥勒(みろく)信仰の聖地となった。鎌倉時代初期に興福寺の貞
慶が六角堂などの伽藍(がらん)を整備。元弘の乱で鎌倉幕府との戦闘の舞台
となった。15世紀半ばには、山城国守護代木沢長政の城となった。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007083000190&genre=M2&area=K20
22 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 03:01:37
ttp://www.47news.jp/CN/200709/CN2007090301000761.html 瀬島龍三氏が死去 元大本営参謀、老衰で
元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が4日午前0時55分、
老衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。葬儀・告別式は未定。
富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。
太平洋戦争時、大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。
終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。
58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進出や、
いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。
副社長、副会長を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。
1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任を依頼され、
伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。
2007/09/04 02:52 【共同通信】
23 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 12:08:02
古墳時代にネコ渡来?須恵器に足跡さん
兵庫県姫路市四郷町の「見野(みの)古墳群6号墳」から、ネコではないか
とみられる小動物の足跡がついた6世紀末〜7世紀初頭の珍しい須恵器が
発掘された。ネコの足跡とすれば、渡来は奈良時代(8世紀)という通説を
覆し、古墳時代にすでにネコが渡来していたことになり、日本史を塗り替える
“新発見”となるかもしれない。足跡は、「杯身(つきみ)」と呼ばれるふた
付き食器の内側に、直径約3センチほどのツメのない5つの肉球と掌球とみら
れる形がくっきりと残っていた。発掘後に洗浄作業をしていた立命館大の学生
が見つけた。焼く前の器を乾燥させているときに、偶然踏まれてついたとみら
れる。調査にあたった立命館大の南部裕樹講師によると、小動物の足跡が
残っている土器が発掘されるのは「極めてまれ」で、ネコとみられる足跡が
ついていたことについても「見たことも聞いたこともない」と話している。
権力を誇示、「太閤堤」堂々
宇治川で大規模な護岸発見
京都府宇治市莵道の宇治橋下流で、豊臣秀吉が築いた太閤堤(たいこうづつ
み)とみられる大規模な護岸=写真=が見つかったと5日、同市教委が発表し
た。対岸の太閤堤と同じ宇治川上流の石を用いており、秀吉が宇治川を付け替
える際に造らせたと推定される。急流が直接に当たらないよう石出(いしだし)
を設けたり、石積みが崩れないようくいを使っており、当時の治水技術がうか
がえる。水に没しない部分にも装飾用の板石を並べており、市教委は「権力を
示したいという秀吉の思いの表れでは」とみている。
■急流対策に工夫、石敷き装飾も
宇治市莵道の宇治川右岸で、太閤堤(たいこうづつみ)とみられる大規模護
岸が見つかり、宇治川を付け替えて伏見城へ導いた秀吉の大事業の一端が姿を
現した。戦国時代から安土桃山時代の石積み護岸出土は全国的にもまれ。同市
教委は「治水構造の歴史を知る上でも重要な発見」としている。
護岸が見つかったのは、宇治橋下流約400メートルで、現在の右岸堤防の
東側。長さ約75メートルにわたって出土し、幅約5・5メートル、高さ2・
2メートル。(続く)
(
>>25の続き)
護岸は、秀吉が築かせた対岸の太閤堤(槙島堤)と同じく、現在の天ケ瀬ダ
ム付近の粘板岩を切り出して利用。市教委は、一緒に出土した土器からも、左
岸築堤や伏見築城と同時期に秀吉が造らせたとみている。
宇治川の急流に耐えられるよう、築堤には工夫がみられる。岸に当たる流れ
を弱めるため、川に8・5メートル張り出して半円状の石出(いしだし)を設
置。石積みが崩れないよう、すそに松くい約300本を打ち、すき間に石を入
れ込んで護岸を築いている。上流部分には、のり面の真ん中に打ち込まれた松
くいもあり、補修を繰り返したとみられる。
水につからない上部も、平らで大きな石を敷き詰めて見栄えをよくしており
、市教委は「秀吉が権力を誇示するために並べたのでは」と推測している。岸
は度重なる水害で、江戸時代後期には完全に砂に埋まったとみられる。
帝京大山梨文化財研究所の畑大介保存修復研究室長(中世考古学)は「この
時期の治水の実像を知る上で、極めて重要な発見だ」としている。
太閤堤は、秀吉が晩年の16世紀末、前田利家らに築かせた槙島堤(向島−
宇治)、小倉堤(向島−小倉)、薗場(えんば)堤(小倉−宇治)計12キロ
の総称。伏見を水運の拠点として繁栄させるため、堤を築いて宇治川を巨椋(
おぐら)池から切り離し、伏見城のすぐそばまで導いた。
発掘調査は、マンション建設に伴い、6月中旬から約1300平方メートル
で実施した。現地説明会は8日午前10時から。
ttp://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007090500161&genre=M2&area=K20
27 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 13:00:46
古墳時代晩期の横穴式石室出土 高島・田中古墳群、全国初「奥室」を確認
2007年9月14日
「奥室」部分の説明をする市教委担当者=高島市の田中古墳群で
高島市安曇川町の田中古墳群で、古墳時代晩期(六世紀後半)とみられる横穴式石室が
初めて出土し、市教育委員会が十三日、発表した。石室奥には遺体を安置する「奥室」も
設けられていた。奥室が確認されたのは全国で初めて。市教委は「近江の国の出身とされる
継体天皇に仕えていた地元の豪族、三尾氏の墓ではないか」とみている。
石室が出土したのは、古墳群の南部に位置する三十六号墳。直径二十四メートル、高さ
二−四メートルの円墳とみられる。石室は全長七・九メートル、幅は一・一−二・一メートル。
天井部分は残っておらず、壁面は花こう岩が組み合わされ、床部分には河原石が敷かれていた。
室内の構造は、入り口の羨道(せんどう)に続き、遺体を埋葬した玄室、さらに玄室より
二十センチほど幅広い奥室を備えていた。奥室は長さ一・一メートル、幅二・一メートル。
玄室と一部しきりで区切られ、床面は約十センチほど高く造られていた。壁面や床には、
神聖な色とされる赤色顔料が施されていた。石室内からは、六世紀後半とみられる轡(くつわ)
や金具など馬具類が出土しており、市教委は「奥室には族長が、玄室には近親者や部下が
埋葬されたのでは」と推測している。
田中古墳群は、継体天皇の父、彦主人王(ひこうしおう)の陵墓とされる田中王塚古墳を
中心に構成。これまでに四十三基が確認されている。古事記や日本書紀によると、継体天皇
(四五〇−五三一)は近江国の出身で、幼児期はこの周辺で過ごしたとされる。滋賀県立大学
人間文化学部の林博通教授(考古学)は「玄室の一部を区切って死者を葬る方法は、九州
地方でも見られる。三尾氏と九州地方との関連性がうかがえる」としている。
現地説明会は十七日午前十時半から午後二時。
問い合わせは、市教委文化財課=電0740(32)4467=へ。
(札木良)
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20070914/CK2007091402048561.html
ttp://www.saitama-np.co.jp/news09/14/01x.html 2007年9月14日(金)
埼玉古墳群の世界遺産登録 県と行田市、18日提案
県と行田市は十三日、埼玉(さきたま)古墳群を世界遺産登録するため、提案書を十八日に文化
庁長官あてに共同提出すると発表した。提案コンセプトは「古代東アジア古墳文化の終着点」に決定。
同古墳群から出土した国宝・金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が五世紀の中国王朝と日本の地方
豪族を結び付け、古代東アジアの政治史を探る唯一の史料であると強調し、埼玉古墳群の世界的な
文化価値を“売り込む”考えだ。
世界的価値、国へPR
世界遺産に登録されるためには、日本政府がユネスコ(国連教育科学文化機関)に推薦し、ユネ
スコの審査を待たなければならない。日本の中で候補になるには、まず「国内暫定リスト」に登録され
ることが必要。今回の提案は、この暫定リスト登録を目指した手続き。リスト入りが初めて公募方式に
なった昨年は、提案二十四件のうち群馬県の富岡製糸場など四件が登録された。現在の登録は昨
年の四件を含め、「平泉の文化遺産」(岩手県)など計七件で、ユネスコへの推薦に向け、国主導の
条件整備が進められている。
提案書は、五世紀の東アジアの国際秩序を探る上で埼玉古墳群の文化的価値を強調。稲荷山
古墳から出土した同剣には西暦四七一年、行田の地方豪族が日本の大王に仕えたことが記されて
いる。一方、当時の中国・宋時代の書物「宋書倭国伝」には四七八年、当時の日本の大王が宋の皇
帝に位を求めた記述がある。こうしたことから中国王朝を頂点とする当時の主従関係が、日本の中
心だった関西地方を経て、末端である行田の地方豪族 にまで影響していた史実をうかがい知ること
ができ、担当者は「埼玉古墳群は地理的にも時間的にも、古墳文化伝来の終着点」と強調している。
埼玉古墳群は古墳時代中期から終末期にかけて継続的に造営された十一基の古墳群で、うち九基
が国史跡指定。提案書は〔1〕国内外に例がないほど多様な大型墳が密集している〔2〕五世紀の政治
構造を証明する同剣が出土した古墳が存在するまれな古墳群―と他の古墳群との違いをPRしている。
(続)
>>28の続き
地元行田市は今後、市景観保護条例を策定し、古墳群周辺を含む保全範囲を設定して自然と歴
史を生かした整備を進め ていく方針。県教育局生涯学習文化財課は「提案するからには確信を持っ
ている。良い返事をいただけるように待つ」と期待を込めている。暫定リスト登録の可否は、来年四月
ごろ判明する見込み。
地元の期待膨らむ
埼玉古墳群の世界遺産登録に向けた第一歩に、行田市民か らは喜びと期待の声が上がった。
市民有志で結成する「世界遺産サポーターの会」の会員で、地元埼玉地区に住む金子孝生さん(65)
は「まだ先の長い話ではあるが、ようやくここまできた感じ」と、提案書作成に感慨深げ。 「埼玉古墳
群の歴史的価値には自信を持っており、まずは国内暫定リストに登録される ことを期待している。
そして地元の財産である古墳を世界 に送り出したい」と力強く語った。
「サポーターの会」には二千三百四十九の市民や地元企業・団体が名を連ね、会員同士で勉強会
を開いたり、古墳をモチーフにしたキャラクターグッズをイベント会場で配布するなどしてPRの輪を
広げている。
同会の鈴木秀憲会長は「国への提案はまだ取り組みの第一段階。暫定一覧表の記載候補には
全国から多くの歴史的資産が集まっており、少しでも早く登録されることが大切」と語り、そのためにも
古墳群の保護や周辺環境整備を課題に挙げた。
世界遺産登録候補の“日本代表入り”は激しい争い。鈴木会長は「市民をはじめ県内全域の協力
を得ながら、多くの観光客に埼玉古墳群の良さを知ってもらい、世界遺産登録への機運を高めてい
きたい」と話した。
30 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 00:00:19
滋賀・高島 田中古墳群
赤塗り別室、継体天皇姻戚・三尾氏族長の墓か
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70916a.htm 滋賀県高島市安曇川町の「田中古墳群」の円墳(直径24メートル、6世紀
後半)で、遺体を安置する玄室の北奥から、石の床や壁を赤く塗った“別室”
が見つかった。玄室内を囲った九州の石室の影響とみられる特殊な構造で、発
掘調査を行った同市教委は、継体天皇を支えたという豪族・三尾氏の族長の墓
とみている。現地説明会は17日午前10時半から。
横穴式石室の中に、玄室(長さ3・4メートル、幅1・9メートル)があり、
この北側で石(高さ約50センチ)で仕切った「別室」(長さ1・1メートル、
幅2・1メートル)が見つかった。別室は、床に川原石(直径3〜10センチ)
を敷き詰め、約10センチ高くし、壁や床にはベンガラを塗ってあった。
市教委によると、近畿では、被葬者は棺(ひつぎ)に入れ、玄室に置くのが
一般的だが、九州では、玄室の奥に石囲いや屋根などを設けて「死者の空間」
を作り、棺を使わずに安置する例が多く見つかっている。この古墳でも、別室
に遺体が安置されたらしい。
日本書紀によると、継体天皇は父・彦主人王(ひこうしおう)の「高嶋郡の
三尾の別業(なりどころ)(別邸)」で生まれ、妃(きさき)2人を三尾氏か
ら迎えた。越前にもゆかりがあるとされる。古墳群には、彦主人王の墓とされ
る田中王塚古墳(5世紀後半、陵墓参考地)がある。付近一帯は今年、即位
1500年を迎えた継体天皇の生誕地との伝承が残り、三尾氏の拠点でもあった。
専門家らは「継体天皇や三尾氏にまつわる謎を解く重要な手掛かり」と注目している。
(続く↓)
(
>>31の続き)
調査では、玄室からほぼ完形の須恵器約20点(6世紀後半)や、鉄に金銅
を施した轡(くつわ)などの馬具十数点が出土したが、別室から遺物は見つか
らなかった。
高橋克壽・花園大准教授(考古学)は、金銅製の冠など豪華な副葬品が出土
し、畿内の影響がみられる近くの前方後円墳・鴨稲荷山古墳(6世紀前半)と
の関連を指摘する。「三尾氏は日本海に近い地理を生かし、九州をはじめとす
る日本海側の豪族と交流して勢力を保ち、畿内の大和王権と仲介するような重
責を担ったのではないか。その返礼に大和から馬具が与えられた」と想像を膨
らませる。
和田晴吾・立命館大教授(考古学)は「別室に遺物はなかったが、死者の安
置空間だったのは明らか。被葬者像は不明だが、独特の『個性』を持っていた
人物や一族ではないか」と推測する。
「謎の大王継体天皇」などの著作がある水谷千秋・堺女子短大准教授(古代
史)は、「三尾氏は継体天皇に妃(きさき)を送った姻戚(いんせき)だが、
今回の発見は、継体朝以降も三尾氏が健在だったことを示している。即位15
00年の記念の年に意義深い発見だ」と評価する。
同古墳群では、1971年に県教委の分布調査で43基の古墳が確認された
が、発掘調査が行われたのは、今回が初めて。市教委の橋本源之助教育長は
「発見を受け、隣接する古墳の試掘を始めた。市内には継体天皇の伝承が多く
残っており、未解明の古墳群全体の調査し、保存活用できるよう努力する」と
している。
(2007年09月16日 読売新聞)
藤原宮・大極殿院南門
年始儀式に新羅使節も参列
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70907b.htm 新時代幕開け豪華演出
国の威信をかけ、幅約25メートルもの大階段を備えた門の周りに、青龍、
白虎、朱雀、玄武の四神を描いた旗「幢幡(どうばん)」がたなびく。藤原宮
跡(奈良県橿原市)で見つかった大極殿院の南門。この場所で大宝元年(70
1年)に行われた元日朝賀では、朝鮮半島・新羅の外交使節が左右に並び、百
官が見守った。律令政治という新しい時代の幕開けを飾る壮麗な大イベントだ
った。
大化改新(645年)で本格化した「改革」は半世紀を経てようやく結実。
この日、律令国家の基礎を築いた天武、持統天皇の孫で、20歳にも満たない
文武天皇が大極殿に着座した。
この日の模様を続日本紀は「文物の儀、是(ここ)に備(そなわ)れり(文
化、芸術、法律、すべてが整った)」と記す。簡潔な儀式の記述に独り立ちし
た国家の誕生に立ち会った人たちの気持ちの高ぶりを伝える。
(続く↓)
(
>>33の続き)
漫画家の里中満智子さんは「東京五輪が『もはや戦後ではない』と盛り上が
ったように、新時代にかける思いが集約されたイベントだったのだろう」と、
その様子を思い描く。
発掘調査を担当した奈良文化財研究所の高田貫太研究員は、「大極殿は基壇
が高く、天皇は幢幡と臣下の礼を執る役人を見据えていたはずだ」と推測する。
南門は、彼らを服属させるビジュアルな〈装置〉として、豪華さと品格が求
められた。今回見つかった階段跡の中央には、天皇が通る通路として区切られ
たとみられる痕跡もあった。
日本の宮殿に詳しい作家の高城修三さんは「平安京まで100年間、試行錯
誤が続いた律令政治の最初の年を象徴する建物。統治に必要なのは、実力より
もむしろ権威だったので、荘厳な門が作られたのではないか」と評価する。
(2007年09月07日 読売新聞)
猪名川流域に最古の前方後円墳 4世紀初頭の長尾山古墳
http://www.sankei.co.jp/chiho/hyogo/070919/hyg070919000.htm 県東部の猪名川流域にある宝塚市山手台東の長尾山古墳が、同流域では最古
の4世紀初頭の前方後円墳であることが分かり、発掘調査をしている大阪大学
文学研究科考古学研究室が18日、発表した。古墳を取り囲む葺(ふき)石の
配列などが、当時の大和政権における巨大古墳と似ており、流域の豪族と大和
政権の間に強い結びつきがあったことをうかがわせる。
今回の発掘は第1次で、今年8月から墳丘7カ所で調査。古墳は全長約38
メートル、後円部の直径が約30メートルの前方後円墳であることが判明。円
筒埴輪(はにわ)の土台と埴輪の破片約1000点や、受け口状の飾りを持ち
、全国でも数例しかない初期の朝顔形埴輪の破片が見つかった。
古墳は猪名川流域では最古の4世紀初頭の築造とみられる。
古墳を取り囲む葺石は段状に配列。大和政権の本拠地である大和盆地の巨大
古墳に見られる特徴といい、同研究科の福永伸哉教授は「猪名川流域の有力集
団が大和政権と政治的関係を取り結ぶようになった経過が明らかになった」と
コメントしている。
(2007/09/19 02:53)産経新聞
南摺ケ浜遺跡:集団墓跡が出土 南薩地域特有の「立石墓」 /鹿児島
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kagoshima/news/20070916ddlk46040385000c.html 南摺ケ浜遺跡(指宿市十二町)で古墳時代中期(5世紀)の集団墓跡が出土
し、15日、現地説明会があった。これまでに板状の石が13基出土。墓標の
ように板石を立て、埋葬する南薩地域特有の「立石墓」跡とみられ、当時のお
墓を研究する上で貴重という。
発掘調査している県立埋蔵文化財センターによると、石は安山岩で、それぞ
れ一枚岩。もっとも大きいものは長さ約2メートル、幅約80センチ、厚さ約
15センチにもなるという。人骨はまだ確認されていないが、穴(土坑(どこ
う))か、周囲から出土したつぼなどに入れられ、埋葬されたとみられるとい
う。副葬品か、供え物とみられる土器、鉄器類も多数出土。近畿地方との交流
の証拠として注目されるという。
古墳時代の墓は、円墳など高塚古墳が一般的だが、南九州では、横穴墓など
地域性がみられるという。「立石墓」の出土は、成川遺跡(旧山川町)、松之
尾遺跡(枕崎市)に次ぎ、3例目。【神崎真一】
毎日新聞 2007年9月16日
龍子三ツ塚古墳、大和や讃岐と関係か 大手前大が発掘調査
http://www.sankei.co.jp/chiho/hyogo/070909/hyg070909001.htm 古墳時代前期(4世紀初め)に築かれたとされる、たつの市揖西町の「龍子
三ツ塚古墳」が、四国北東部に多い墳形を持ち、山陰系の土器や大和政権との
かかわりを示す銅鏡が出土するなど、さまざまな地域とのつながりを持ってい
たことが、大手前大・史学研究所の調査で分かった。「畿内周辺での前方後円
墳の発達過程を知るうえで貴重」と評価している。
同古墳は、昭和6年に地元住民が一帯で三角縁神獣鏡2枚や鉄製の刀剣類、
土器片などを見つけた。これらの遺物は現在、東京国立博物館に収蔵されてい
る。
同古墳の規模や形態、構造などを精査する目的で、同大学チームが今年7月
から発掘。全長35メートルの前方後円墳で、3段築成の構造を持つことが分
かった。
さらに、前方部が讃岐地方の古墳に多い「バチ形」をしており、墳丘部など
から大量に見つかった土器片の中に山陰地方の古墳でよく見られる、竹の管で
文様を描いた壺や器台などが多数出土したことも判明。また、副葬品として大
和王権とのかかわりを色濃く示す三角縁神獣鏡や鉄剣などが見つかった。
これらのことから「揖保川流域を治めていた豪族が葬られていたとみられる
この古墳は、さまざまな地域や王権との交流の様子がうかがえる」と同グルー
プは話している。
38 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 03:04:18
大分県中津市の観光名所として知られる中津城の所有者が、採算が合わないことなどを理由に
天守閣などの売却を検討。住民からは市に買い取りを求める動きもあり、財政難の市は困惑気味だ。
戦国大名の黒田如水が1588年に築城。最後の城主の奥平家が市の意向を受け、1964年に
本丸跡に鉄筋コンクリート造りの天守閣を建てた。倉庫などとして使われた櫓(やぐら)も再建し、
周辺は城下町の面影を残す。
天守閣は第19代当主の奥平政幸氏(50)が代表取締役を務める中津勧業が所有。中津で少年期を
過ごした福沢諭吉の旧居に次ぐ年間約2万人の観光客を集める。
奥平氏は「維持費が年間入場料収入の約1000万円を上回り、これ以上所有する意義が見い
だせない」と説明。値段は3億円程度を希望しているが、市の担当者は「3億円の支出は財政負担
が大きい」と難色を示している。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2007/09/18/02.html
39 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 03:15:27
そう?
行基が築いたと伝わる池から8世紀の堤や木樋
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070921i515.htm 奈良時代の僧行基(668〜749年)が築いたと伝えられる大阪府岸和田
市の久米田池で、734年の築造当初のものとみられる堤と水を通した木樋
(もくひ)が出土したと、市教委が21日、発表した。
堤は、粘土と砂利を交互に突き固め、その間に葉を敷き詰めて強化する当時
としては最新の土木技術「敷葉(しきは)工法」で造られていた。平安時代や
江戸時代の木樋も見つかり、1300年近くにわたって、改修を重ねながら連
綿と使われ続けてきたことが裏付けられた。
堤は地表から深さ7メートルの地点で、幅約10メートル、高さ約1・2メ
ートル分が出土した。敷葉工法は、同府大阪狭山市の狭山池でも確認されてい
る。
久米田池は広さ約45・6ヘクタール、貯水量約157万トンで、大阪府内
のため池で最大。下流域の水田約80ヘクタールを潤している。
現地説明会は24日午後2時から。
(2007年9月21日21時13分 読売新聞)
42 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 02:15:18
大阪市教育委員会と同市文化財協会は、今年六月下旬から発掘調査を行っていた大阪市住吉区の「遠里小野
(おりおの)遺跡」で、七世紀前半ごろのものとみられる巨大な掘っ立て柱建物跡が見つかったと発表した。
同建物跡は南北約七メートル、東西約二十一メートル以上で、古代の港「榎夏(えなつ)」の入り口辺りに立地
すると推定される。同遺跡は、戦前から網に付ける素焼きの重りやタコつぼ形土器などの漁具が出土し、漁業を
営む集落と考えられていた。掘っ立て柱建物跡が発掘したことで、同協会は港湾施設を兼ね備えた集落だった
可能性が高まったとしている。
現地説明会は二十九日午後一時半から。同協会が調査結果を解説するほか、出土品を展示する。
問い合わせは電話06(6943)6836、同協会難波宮調査事務所へ。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200709/news0926.html#09264
纒向遺跡:国内最古の木製仮面が出土 奈良・桜井
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070927k0000m040043000c.html 奈良県桜井市教委は26日、同市内の纒向(まきむく)遺跡から、国内最古
の木製仮面(3世紀前半)が出土したと発表した。縄文時代の土製仮面は確認
されているが、弥生・古墳時代は、土製を含め仮面の実物がない。同遺跡は邪
馬台国の最有力候補地。市教委は、当時の日本の中心地である遺跡の農耕祭祀
(さいし)の実態を示す、貴重な発見としている。
今年4〜6月に同市太田のため池を調査し、仮面は、素掘り井戸の穴から見
つかった。長さ26センチ、幅21.5センチ、厚さ0.6センチ。アカガシ
のくわを転用したとみられ、くわの頭部側をあごにし、柄をつける穴を口に利
用。両目の穴を開け、まゆ毛は線刻で表現、周辺には赤い顔料が付いていた。
ひも穴はなく裏面は平ら。目や口の位置が正確なため、市教委は「手に持っ
て顔を覆っていた」と想定している。井戸からは、赤と黒の2色を塗った盾の
破片(15センチ)やかまの柄(47.5センチ)などの木製品も出土した。
従来の最古の木製仮面は7世紀初頭のもので、神戸市の宅原遺跡から破片が
出土。今回はそれを約400年さかのぼる。纒向遺跡では祭祀で使ったとみら
れる木製品を埋めた穴が多数確認されており、今回の仮面がくわからの転用で
あることから、市教委は、農耕祭祀に使われたと判断した。【大森顕浩】
◇纒向遺跡 奈良県桜井市の三輪山西部のすそ野に広がる3〜4世紀の大規
模集落遺跡。卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳など、3世紀代の最古級の前方
後円墳が六つ存在し、邪馬台国の最有力候補地ともされる。
毎日新聞 2007年9月26日 19時09分 (最終更新時間 9月26日 19時44分)
45 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 01:49:03
最古の売券木簡が出土、上越
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=2754 上越市下野田の延命寺遺跡から、奈良時代に土地の賃貸借を公的に認めた文書=売券(ばいけん)=として使われた
木簡としては、現存最古のものが出土した。県埋蔵文化財調査事業団が27日までに発表した。
この木簡は長さ48・6センチ、幅4・9センチ、厚さ0・6センチ。ほぼ完全な形で発見され、「天平七(735)年三月廿一日」
と記されていた。「物部鳥丸が、酒君大嶋に田を賃祖した。賃祖料は米二石一斗」という意味の文が書かれている。売券
木簡はこれまで、島根県出雲市の青木遺跡で2003年に出土した「天平八(七三六)年十二月十日」のものが最古だった。
売券木簡の発見は今回が国内2例目となる。
同事業団は「木簡は墨の残りがよく、肉眼でも文字が判別できる。最古であるとともに、『野田村』と村名が記載され、
遺跡周辺の下野田、上野田という地名が奈良時代にさかのぼる可能性が出てきた」と今回の発見を評価している。
延命寺遺跡は、国道の整備に先立つ調査で見つかり、5月から本格的な発掘が行われている。木簡のほか、木簡の再
利用のために使われた小刀も出土しており、同遺跡には、公的文書を扱う役所のような機関があったと推測される。
同事業団は29日、現地説明会を開き、出土品などを公開する。今回見つかった木簡は保存処理中のため、複製品を展
示する。同事業団は「貴重な出土物を大勢の人に見に来てほしい」と呼び掛けている。
希望者は午前9時半―正午、または午後1時―3時半の間に現地へ。無料。問い合わせは同事業団、0250(25)3981。
新潟日報2007年9月27日
さくらの森後遺跡 大型の掘立柱建物跡発掘
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/news/php/s_news.php?f=k&d=20070927&n=4 とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化財センターが、さくら市鹿子畑で発掘調査を進めていた古墳時代から平安時代に
かけての大規模集落跡「森後(もりうら)遺跡」で、大型の掘立(ほったて)柱建物跡が東西に整然と三棟並んでいたこと
が新たに分かった。これまで見つかっている掘立建物跡と比べて規模が大きく、隣接する東山道の交通に関する施設
だった可能性も浮上してきた。同センターは三十日、一般向けの発掘現場説明会を開催する。 (下野新聞)
「12世紀」の姿現す 紫波・下川原T遺跡公開
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20070927_14 県文化振興事業団埋蔵文化財センターは26日、紫波町南日詰の下川原(しもかわら)T遺跡を公開した。
7月からの発掘調査で、平泉藤原氏の時代に当たる12世紀の建物跡などが姿を現した。 3棟の掘っ立て柱
建物跡などが公開された。1棟は墓跡とみられる穴の上に建てられていた。お堂だったのではないかと考えら
れている。ほかに12世紀の白磁四耳壺(しじこ)の破片、かわらけ片など、藤原氏との関係が深い遺物が出土
した。圃場整備事業に伴う調査面積は3597平方メートル。10月末まで発掘する。
同遺跡の1・5キロメートル北西にある五郎沼周辺は、紫波町史によれば藤原清衡の孫に当たる俊衡の樋爪舘
(ひづめだて)があったとされ、12世紀の出土品も見つかっている。同センターの米田寛文化財調査員は「遺跡
を大きく囲むような溝跡も出土した。寺などの宗教施設や居館だった可能性も考えられる」としている。(岩手日報)
東側から新たに堀や溝の遺構 長浜・下坂氏館跡、範囲が拡大
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007092700113&genre=M2&area=S00 滋賀県長浜市下坂中町にある中世の平地城館で国史跡の「下坂氏館跡」から敷地の東側に新たな
堀や溝の遺構が見つかり、市教委が27日発表した。館跡の東端が従来より約60メートル広がり、
東西の長さが約195メートルだったと推定される。
市教委が館跡の範囲確認のため今年6月から調査していた。 館跡の東側で11カ所を発掘し、これ
まで確認されていた東端の土塁から東へ約60メートルの畑地で南北に伸びる堀の西端が見つかった。
遺構から16世紀の土師器皿や陶磁器の破片など数十点が出土した。
また、主郭の南東にある下坂氏の菩提寺の東側に現存する土塁の築造状況も確認。この土塁に
沿って幅約2・3メートルの浅い堀の遺構が見つかった。今回の調査で建物跡は見つからなかった。
市教委は「西側部分は未調査で、北近江の平地城館群で最大級の館跡の範囲がさらに広がる可能性
もある」としている。下坂氏は室町時代に現在の長浜市南西部を治めた土豪で、南北朝の争乱期には、
足利氏側の武将として活躍。京極氏や浅井氏との関係を示す文書も数多く残っている。
現地説明会は29日午前10時半から。問い合わせは市教委文化財保護センターTel:0749(64)0395。
京都新聞
48 :
(青森)福島城跡内郭は中世に構築と断定:2007/09/28(金) 22:50:22
福島城跡内郭は中世に構築と断定
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2007/20070928091841.asp 五所川原市相内の福島城跡の内郭が、十四世紀後半から十五世紀前半の中世
(室町時代)に構築されたことが、県教委による二十七日までの発掘調査で明
らかになった。同市十三にある国史跡・十三湊遺跡が港湾都市として栄えた最
盛期と年代が一致したことになり、県教委文化財保護課は「これまで古代か中
世かとさまざま議論されてきた内郭の成立年代が、中世と分かったのは大きな
成果。今後の調査で、十三湊との関連性を明らかにしたい」と話している。
福島城跡は、十三湖西岸の十三湊から北東に約三キロ離れた十三湖北岸にあ
り、外郭(一辺約一キロ三方)、内郭(同約二百メートル四方)の二重構造を
持つ、面積約六十二万五千平方メートルの大規模城跡。
これまでの考古学調査では構築年代がはっきりせず、古代説と中世説があっ
た。近世の文献の記述などから、十三湊を治めた安藤氏の居城だったと理解さ
れてきたが、それを裏付ける発掘成果もこれまで見られなかった。
五カ年計画の三年目を迎えた今年の県教委の調査は、内郭の南東側にある柵
跡の内側約千九百平方メートルを発掘。これまでに三つの板塀跡や、二つの大
型掘立柱建物跡などが見つかり、同建物跡の柱穴からは十五世紀前半の珠洲焼
(すずやき、能登半島産)が出土した。また、板塀跡、同建物跡、内郭を囲む
土塁や堀の向きがほぼ一致していることも判明。県教委は、二〇〇六年度まで
の調査成果も加味して分析した結果、塀や建物、土塁などがいずれも十四世紀
後半から十五世紀前半の間に造られたと結論付けた。
十三湊は最近の調査で、十四世紀半ばごろに最盛期を迎え、十五世紀半ばに
廃絶したと断定されており、福島城跡の構築時期と一致した。
50 :
奈良時代のくじ引き札:2007/09/29(土) 23:01:43
奈良時代のくじ引き札 景品目当てに宴会楽しむ?
http://www.47news.jp/CN/200709/CN2007092901000445.html 奈良時代の役人もくじ引き大会−。「青染綾」(青く染めたあや織りの布)など、繊維の色と名を
記した平城宮(奈良市)出土の木簡24点が宴会の景品を当てるくじ引き札だったとする説を、奈良
文化財研究所の渡辺晃宏史料研究室長が29日までに発表した。
長さ5−7センチで、木簡を折ってくじにしたらしい。ほかに「白緑綾」「青染絹」などと書かれており、
渡辺室長は「繊維の色は、緑や青がほとんど。当時の制服の色から、下級役人の宴会の余興とし
て使われたのではないか」と推測している。
発掘当時は、繊維製品の整理用の木札とされていた。しかし、筆跡がすべて同じで一度に書いた
とみられ、形も荷札用木簡と異なるため、くじ引き札と判断した。
木簡は1963年に平城宮のゴミ捨て穴から出土。今年重要文化財に指定されたため、資料の見
直しを進めていた。
2007/09/29 16:39 【共同通信】
>>42 遠里小野遺跡で宮殿クラスの巨大建物跡発見
http://www.sankei.co.jp/chiho/osaka/070930/osk070930001.htm 大阪湾南部の古代の港「榎津(えなつ)」が付近にあったとされる遠里小野遺跡(大阪市住吉区)
で、7世紀前半の巨大な掘っ立て柱建物跡が見つかった。大阪市教委の発表によると、規模は東西
21メートル超、南北7メートルにのぼり、同時期の前期難波宮の宮殿と同じクラス。市教委は「物流
拠点だった榎津に付属する施設だった可能性が高い」としている。
府営住宅の建て替えに伴い、市教委と市文化財協会が発掘調査。巨大な掘っ立て柱建物跡は
東西棟で、東西に柱が7本以上、南北に4本並んでいた。柱の太さも直径40〜50センチにのぼる。
これは前期難波宮の主要施設の朝堂院東二堂とほぼ同じ規模という。
この付近には、万葉集にも、「住吉の得名津(えなつ)に立ちて見渡せば 武庫の泊ゆ 出る船人」
と詠まれた古代港・榎津があったと考えられている。さらに東側には大和朝廷直轄地の「依網屯倉
(よさみみやけ)」が広がっていたとされ、古代は朝廷が周囲を押さえた物流拠点だった。
市教委は、遺構の立地条件や規模の巨大さから、港から物資を陸揚げする際に使用した倉庫か、
倉庫を管理する役所だった可能性がある−としている。
(2007/09/30 02:27)
52 :
須恵器、土師器が60点 神領10号墳祭祀空間保ち出土:2007/10/01(月) 22:15:24
須恵器、土師器が60点 神領10号墳祭祀空間保ち出土 大崎町
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/kagoshima/20071001/20071001_001.shtml 大崎町の神領10号墳で、計約60点の須恵器と土師(はじ)器が出土した。発掘を行っている鹿児
島大総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)によると、希少な初期須恵器の出土数が多く、祭
祀(さいし)を行っていた状況で発見され「全国的にも傑出した量と質」という。
同古墳は5世紀前半の前方後円墳で、土器は祭祀を行う場とされるくびれ部分にあった。須恵器と
土師器は各約30点。酒などを入れる甕(かめ)や壺を載せる器台、高杯などの食器類が固まって見
つかったため、祭祀の空間を保った状態とみられる。
須恵器は朝鮮半島から伝わった初期のもので、全国的に流通量が少ない。発見された須恵器の中
には、愛媛県松山平野南部で生産された土器も多数あるという。
橋本准教授は「5世紀前半の大隅半島は交易の拠点で、当時の有力者たちが活発に地域間交流を
行っていたことを物語っている」と指摘している。発掘作業は昨年に続き、8月中旬から行われている。
=2007/10/01付 西日本新聞朝刊=
53 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 18:26:17
最古のベニバナ花粉を発見=卑弥呼の贈答品染めた?−大陸伝来の最新技術か・奈良
10月2日17時33分配信 時事通信
奈良県桜井市教育委員会は2日、邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(同市太田)で、
3世紀前半の土壌から、赤色の染料に使われたベニバナの花粉を多数確認したと発表した。
国内最古の確認例。染織の最新技術の一環として大陸から伝わったとみられ、
邪馬台国畿内説を補強する発見として注目される。
花粉が見つかったのは、幅約1.5メートル、深さ約1メートルの溝の跡。土壌1立方平方メートル中に
270〜560個のベニバナ花粉があった。花粉を確認した金原正明奈良教育大教授(環境考古学)
によると「自然界にあったとすれば驚異的な量」。遺跡の中央に近い場所で見つかったことから、
この周囲でベニバナが栽培されていたのではなく、近くに染織の工房があり、捨てられた染料の
廃液の中に花粉が大量に含まれていたとみられる。
魏志倭人伝は、卑弥呼が243年、濃い赤色と青色の糸で織った絹の布を奴隷、
倭国産の錦などとともに魏に贈ったと記載。金原教授は、この布は「ベニバナで染めたものだった
可能性がある」と話している。
【関連記事】 最古の木製仮面出土=3世紀前半「邪馬台国の中心地」で−農耕祭祀に使用か・奈良
【関連用語】 纒向遺跡
最終更新:10月2日18時7分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071002-00000131-jij-soci
54 :
縄文晩期の御物石器発見 大分:2007/10/02(火) 18:26:40
俘囚?
奈良時代の木簡と削りくず出土 栗東・手原遺跡 やはり郡役所?
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007100300153&genre=M2&area=S00 奈良時代から平安時代初期の郡衙(ぐんが)(役所)の1つとみられる滋賀県栗東市手原1丁目の手原遺跡を調査
している栗東市教委は3日、奈良時代の木簡の削りくずが木簡と一緒に大量に見つかった、と発表した。同遺跡で文
書(木簡)が作製されていたとみられ、市教委は「郡衙である可能性がより強まった」としている。
削りくずは、墨で書いた漢字やその一部が残る195点を含め、1000点以上が出土した。「思思」「載載」など連続
の同一文字を書いた5点もあり、字を練習した木簡を削って再利用したとみられる。
木簡本体は10点。「坂本麻呂」や「赤染造(あかそめのみやつこ)」という荷物の受取人の名を書いた荷札木簡8点
などで、祭具の斎串(いぐし)も15点出土した。いずれも同遺跡の東南端付近で、ごみ捨て場跡の深さ1−2メートル
付の溝で見つかった。
県立安土城考古博物館の大橋信弥学芸課長は「奈良時代に文書(木簡)を作り、削って再利用までするのは役所
しかない」と話す。また、字の練習について「文字が普及していない時代で、役人も一生懸命練習したのでは。練習だ
からか上手な字が多い」という。
同遺跡から約2キロ南西の同市岡には、典型的な役所の配置跡をもつ同じ郡(栗太郡)の郡衙・岡遺跡があり、両
者の関係は機能分担など諸説ある。岡では「井戸など木簡の出土が多い場所を未調査」(市教委)で、木簡は出土し
ていない。
現地説明会は6日午後1時半から行われる。問い合わせは市出土文化財センターTel:077(553)3359。
大規模集落を形成か 富山・百塚遺跡、新たに方墳5基確認
http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20071005201.htm 富山市埋蔵文化財センターは四日、同市松木の百塚遺跡で、新たに弥生時代から古墳時代にかけての方墳
五基を確認したと発表した。同遺跡に隣接する百塚住吉遺跡で発見された前方後方墳の一部も確認され、当時
の土器も見つかった。同センターは、一帯で有力者層を中心に大規模な集落が形成されていたとみている。
百塚遺跡の調査は今年七月から、百塚住吉遺跡北側の約千三百平方メートルで行われている。
百塚住吉遺跡の前方後方墳の残り部分が確認されたことで全体像が判明し、全長が十九メートル、幅は十四
メートルであることが分かった。五基の方墳のうち、最も大きいものは全長が十七・五メートルあった。これまでの
調査と合わせて見つかった古墳は計十一基となった。
百塚遺跡は、これまでに確認されている杉谷古墳群や呉羽山丘陵古墳群より神通川の下流方向に位置しており、
同センターは富山平野での古墳の出現過程や時期を探る重要な手がかりになるとみて、来年度にも調査結果をまとめる。
同センターは六日午前十時から、百塚遺跡を一般公開する。問い合わせは発掘調査事務所=080(3472)7055=まで。
仲麻呂邸?に大型建物跡 平城京、権勢示す
http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007100401000507.html 奈良時代に太政大臣などとして権勢を振るった藤原仲麻呂の邸宅「田村第」の推定地(奈良市)で、
8世紀半ばごろの大型建物2棟の柱跡が見つかり、元興寺文化財研究所(同市)が4日、発表した。
2棟はほぼ同規模で、6メートル離れて南北に並んでいた。いずれも南北6メートル。東西は21メー
トル以上と推定される。
柱の直径は30−40センチとみられ、南の建物を囲むような別の柱跡も見つかり、縁側があった可能
性もあるという。
田村第の敷地は続日本紀の記述などから南北約530メートル、東西約260メートルとする説が有力。
平城京内では長屋王の邸宅よりも広く、最大規模。仲麻呂は孝謙天皇や大炊王(後の淳仁天皇)を住ま
わせていた時期もあったという。
現地説明会は6日午前10時から。問い合わせは同研究所、0742(34)0831。
2007/10/04 17:52 【共同通信】
「田村第」新たに建物跡-大規模、藤原仲麻呂邸 (2007.10.5 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/071005/arc071005a.shtml
最古の弥生墳丘墓確認
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=444097006 鳥取県埋蔵文化財センターは五日、同県琴浦町梅田と大山町八重にまたがる梅田萱峯(うめだか
やうね)遺跡で、埋葬部を四本柱で囲んだ墓上祭祀(さいし)施設のある弥生墳丘墓を確認したと発表
した。年代は約二千年前の弥生時代中期後半。同様の墓上祭祀遺構を持つ西谷3号墓(出雲市、約
千八百年前、弥生時代後期後半)よりも約二百年さかのぼる国内最古の事例。弥生墳丘墓としても
鳥取県内では最古級で、初源期の地域首長墓の墓制を解明する新たな手がかりとなる。
墳丘墓は南北十一メートル、東西八メートル、最大高六十センチの方形で、地山を削平した後、約
四十センチの高さに盛土。周辺に一−三段の石を張り付け、東辺と西辺の中央部には長さ一・五メー
トル、幅四十センチの張り出し部がある。埋葬部は地山を掘り込み、その上に盛土。埋葬部を囲うよう
に墓上祭祀施設とみられる直径二十センチの柱跡が四つあった。
同様の祭祀施設を持つ弥生墳丘墓は、西谷3号墳と、福岡県の平原1号墓(約千七百年前)で、今
回が三例目。施設の規模は東西二・八メートル、南北二・一メートルで西谷3号墓と同規模。
同遺跡では、山陰道東伯中山道路整備に伴い二〇〇五年から発掘調査。現在までに約一万九千
平方メートルを調査し、弥生時代中期から奈良時代の集落跡と判明。四十二の竪穴住居跡のほか、
ガラス製品、石剣、玉作り道具などが出土している。
現地説明会は八日午後一時半から。小雨決行。
2007年10月05日 22:00 【山陰中央新報】
船上城跡調査、城下の屋敷跡出土 明石市教委発表
http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/ak/0000674309.shtml 明石市教育委員会は三日、田町一の船上城跡(ふなげじょうあと)の発掘調査で、江戸時代初期から中期にかけて
の武家屋敷とみられる掘っ立て柱建物跡や、皿、瓦など約二千点が出土したと発表した。市教委は「文献で記された
船上城の城下町と思われる。船上城下の構造や明石城に移る過程を示す手がかりになるはず」としている。(永田憲亮)
船上城は一五八五(天正十三)年に高山右近が築いた平城で、一六一九(元和五)年に明石城が築城され廃城となった。
船上城跡の発掘調査は一九八一、九一年に続き三回目。今回は明石署の北東約百メートル、県道明石高砂線南側に
位置するマンション建設現場で六月から行われた。
調査現場の中央には、東西四メートル、南北八メートルの掘っ立て柱建物跡が三区画並び、その東側では土坑数基を
確認した。また、花崗岩(かこうがん)を用いた内径約七十センチの石組み井戸や、唐津焼の皿、備前焼のすり鉢、中国製
磁器などの出土品約二千点があった。
中には、池田家にまつわる「五七桐紋(ごしちのきりのもん)」の軒丸瓦が見つかっており、今回見つかった遺構の大半は、
一六〇〇(慶長五)年に池田利政が船上城に入ってから、小笠原忠政が明石城を築城するまでの約二十年間のものと考え
られるという。
六日午後一-三時には現地説明会を行う。定員百人で現地集合。明石市社会教育推進課TEL078・918・5057
2007年10月04日 【神戸新聞】
堀河院庭園池跡みつかる 中京、平安時代の里内裏
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007100400149&genre=M2&area=K1C 平安時代に、天皇が貴族の邸宅に臨時の御所を営んだ里内裏(さとだいり)の一つ、京都市中京区の堀河院跡
の発掘調査で、白河・堀河両天皇の時代の庭園の池跡が見つかり、4日、京都市埋蔵文化財研究所が発表した。
当時の高級貴族の宅地と同じ1町(120メートル四方)ほぼ全域が庭園だったとみられ、広大な中に変化に富んだ
意匠が施されていた。
市立音楽高校移設に伴い、旧城巽中跡地約2600平方メートルを調査している。
池跡は2つあり、出土土器からいずれも11世紀半ばから12世紀初めとみられる。
一つは三日月形で南北26メートル、東西15メートル、深さは約1メートルで、通常の平安期の池と比べ深い。
南岸には丁寧に粘土が張られ、半島状の出島とみられる地形もあった。もう一つの池は直線状で東西に長く、古い
池を造り替えた形跡があった。
周辺では、白砂を敷いた場所や直径1メートルの庭石のほか、釣殿があった可能性を示す石敷きも見つかった。
堀河院は、平安時代の代表的邸宅の一つ。南北2町あり、9世紀後半以来、代々藤原氏が継承。10世紀後半
の円融天皇から里内裏として使用された。院政を始めた白河天皇はここで位を譲り、次の堀河天皇も好んで住んだ。
鈴木久男・京都産業大教授(考古学)は「山や森、複雑な池のみぎわなど、さまざまな風景も盛り込んだ庭だった
のではないか」と話している。
現地説明会は6日午前10時から。問い合わせは現場事務所Tel:075(212)7383へ。
2007年10月04日 23:02 【京都新聞】
平城宮の柱はリサイクル? 藤原宮から移築か
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200710050039.html 奈良時代の宮殿、平城宮(710〜784)跡で出土した柱1本が藤原京時代(694〜710)の694年に伐採され
たものだったことが、奈良文化財研究所の光谷拓実・年代学研究室長(年輪年代学)の研究でわかった。藤原宮
かその周辺の柱がリサイクルされたとみられる。平城宮での柱の再利用が確認されたのは初めて。
5日発行の「奈文研ニュース」に掲載された。同研究所が平城宮跡などで発見・保存してきた柱根100本以上
を、最新機器で年輪年代測定してきた。その結果、1967年に大極殿地域(政治中枢部)の築地塀(ついじべい)
で出土したコウヤマキの柱1本(直径約40センチ、長さ約1メートル)が694年伐採とわかった。
694年は藤原京創都の年。光谷室長は「藤原宮か周辺の建物の柱が、平城京遷都に伴って再利用されたの
だろう」とみている。
平城宮跡の発掘調査では、約20キロ南の藤原宮の柱を導水管に転用したケースや瓦を再利用した例が確認
されており、多数の建物が移築されたとみられている。
猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)の話 新しい都の形をとりあえず整えようと、藤原京の建物を再利用したの
だろう。首都移転のあわただしい姿がうかがわれる。
2007年10月05日 【アカヒ新聞】
起請文書かれた木簡、大量に出土 西浅井の塩津港遺跡
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007100500212&genre=M2&area=S20 滋賀県西浅井町塩津の塩津港遺跡で、平安時代末期の神社遺構に関連する堀跡から、神への誓詞「起請
文(きしょうもん)」が書かれた木簡が大量に出土し、県文化財保護協会が5日、発表した。木簡に記された起請
文が確認されたのは初めて。うち1本は保延3(1137)年の年号があり国内最古の起請文で、他に長さが2.2
メートルある国内最長の木簡も見つかった。
河川改修に伴う調査で55本が出土した。12世紀半ば前後のもので、港で物資の運搬を担った人々が「荷物
をなくさない」「盗人ではない」といった内容を神々に誓願。神社に奉納、掲示して村人にも周知したとみられる。
出土した木簡はスギ材で、長さは1・5−2・2メートル、幅10−15センチと大型。全長2メートルを超える木簡
は、これまで確認されている木簡の中で最長。
10本はほぼ完全形で、うち5本の墨書きの文字を判読した。最古の木簡には「負荷内魚ヲ一巻にて毛取なか
して候ハ」と記され、「請け負った荷物の魚を1巻もなくさず運びます」という内容で、盗まれたりした場合の神罰
も具体的に示されている。本文の始まりには「保延3年7月廿9日」「草部行元」(差出人)などの文字が並ぶ。
起請文は平安末期から民衆の間に広がった。これまで久安4(1148)年の「三春是行起請文」(東大寺文書)
が最古とされていた。
同協会は「起請文の成り立ちや、当時の村人の信仰心などを知る上で画期的な発見」としている。
現地説明会は7日午後1時から。木簡は8日、滋賀県立安土城考古博物館(安土町)で公開する。 (下略)
2007年10月06日 11:19 【京都新聞】
2m超す国内最長の木簡 平安期、滋賀の遺跡 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007100501000555.html
猿との縁 1800年前から? 九州初の土製品出土
http://kiji.i-bunbun.com/read/read.cgi?1191596400=119163568325088=1 大分市の大道遺跡群
大分市が発掘調査を進めているJR大分駅南側の大道遺跡群からニホンザルをかたどったとみられる猿形土製
品が出土した。市教委によると、千七百〜千八百年前の物とみられ、この時期の猿形土製品の出土は珍しく、九州
では初めてという。
八月下旬、古墳時代前期の千七百年前の環濠(かんごう)跡で発見された。周辺から見つかっている土器と似た
粘土製で、長さ四・一センチ、幅三・五センチ。猿の頭部とみられ、波形のしわが二本、丸い目が二つある。耳や鼻
のような凹凸があり、首の部分の欠け方から製作時は胴体もあったと推測される。
猿形土製品は、東日本の縄文期の遺跡によくみられるが、これまで、県内では中世以降の遺跡からしか見つかっ
ていなかった。市教委文化財課は「出土品はとても写実的な出来。高崎山に代表される大分市は古くから猿に縁が
あったのかも」。
同遺跡は駅周辺総合整備事業に絡み、二〇〇四年に見つかった。約二千五百平方メートルの調査域から千個
以上の土器が見つかっている。漁網の重りとして使う県内最大規模の管状土錘(どすい)や、製塩土器、ほかの瀬
戸内地域の土器も出土していることから、海を中心とした大分平野の拠点集落の一つだったことが推測されている。
さらに、千二百年前の遺跡部分では建物跡が見つかっており、周辺からは須恵器を転用したすずりが見つかっ
ていることから、平安時代初期には文字を扱う公的な施設があったと考えられている。
× × ×
市教委は十四日、発掘調査現場で現地説明会を開き、調査成果を紹介する。午前十時から正午まで。小雨決行。
問い合わせは同課(TEL097・537・5639)へ。
2007年10月06日 10:54 【大分合同新聞】
鎌倉時代の石積発掘 国重要文化財・島田神社
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071004-00000002-rtn-l26 国の重要文化財、島田神社(福知山市畑中)で、現在の室町時代築とされる本殿より古い時代の基壇(石積)が
見つかった。鎌倉時代まで使われていた形式の土器が一緒に出土し、神社の創建時代がこれまでより200−300年
さかのぼることが分かった。同神社は府教育委員会の手で今春から全面解体修理が行われており、本殿がすべて
解体されたのを機に、発掘調査が行われていた。
今の本殿は柱に記されていた墨書から、室町時代の文亀2年(1502)の建立とされている。昭和9年(1934)に本殿
を覆う覆屋の改築が行われており、このとき屋根の軒先部分が切り取られた。そこで、元々の屋根の大きさを調べ
るため建物の基礎部分を発掘調査することになり、地表部から20cm掘り下げた所で、現在の基壇より一回り小さい
基壇が見つかった。
同じ場所から黒っぽい土器(瓦器=がき)の碗(わん)が一緒に出てきたことから、文亀2年より300年ほど古い鎌
倉時代に、別の社殿が設けられていたことが分かった。一角には、更に古い時代のものと思われる、土と石で組ん
だ祭祀跡も見つかっており、創建は平安時代までさかのぼる可能性も出てきた。
また、掘り下げた地層からは、火をたいた跡も確認できた。本殿の床下や柱には煤(すす)がついていることから、
露天ではなく、「いまの本殿の下」で火をたいていたことが分かる。非常に珍しい例で、「お籠(こ)もり」のような宗教
的儀式として火をたいたのか、集落の集まりなどでたいたのかなど、目的は分からないという。火をたいた跡のある
地層から本殿床下までは180cmあり、当時の人びとが楽に歩けた高さ。
なお基壇の発掘で、現在の本殿の元々の大きさは間口6m、奥行き8mで、屋根は70cmほど切り取られていたこ
とが分かった。
府教委と市教委は6日午前11時から市民を対象にした現地説明会を行う。
2007年10月04日 15:51 【両丹日日新聞】
小城中建設地の丁永遺跡で発掘現場説明会
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&blockId=659441&newsMode=article 古墳時代後期から奈良、平安時代にかけての住居跡などが見つかった小城市小城町の「丁永(ちょうえい)遺
跡」で6日、現場説明会が開かれた。考古学ファンら約20人が集まり、古代の人々の暮らしに思いをはせた。
発掘調査を実施した同市文化課が主催。小城中建設現場で発見された遺跡からは、大きな竪穴住居跡なども
検出。参加者は当時の時代背景や、地域におけるムラの位置づけなどについて熱心に質問していた。
遺跡は埋め戻され、その上に計画通りに校舎が建つ。出土した土器や、糸を紡ぐ道具の一部である「紡錘車」
などは市が保存する。同市文化財保護係の古庄秀樹係長は「比較的大型のムラがあった可能性も考えられる。
今後は出土品の調査を進めたい」と話した。
2007年10月07日 08:00 【佐賀新聞】
阿波忌部氏テーマにフォーラム 吉野川市合併3周年記念
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_119173438974&v=&vm=1 吉野川市の合併三周年を記念し、阿波忌部氏をテーマにしたフォーラムが六日、鴨島町鴨島の鴨島公民館で
あり、約六百五十人の来場者が耳を傾けた。
阿波スピンドルの木村悟会長や鴨島公民館の岡田年弘館長ら五人がパネリストを務めた。古代の野川市一帯
で麻を栽培し、大和朝廷成立にもかかわったとされる忌部氏の歴史を生かした観光や文化の振興を議論した。
「産業技術や文化を全国に広めた忌部氏の知恵やフロンティア精神を、小学校の副読本で学ばせてほしい」
「忌部氏の歴史から、地域への誇りをはぐくむべきだ」といった提言があった。
鳴門工業高校の林博章教諭が講演し、日本各地に残る忌部氏関連の神社や史跡を紹介した。オカリナやほら
貝などの演奏もあり、古代へのロマンをかき立てた。
三周年記念イベントは七日もあり、午後四時からは鴨島公民館前の広場で市民が創作劇を上演する。入場無料。
2007年10月07日 14:19 【徳島新聞】
大友氏遺跡説明会に200人
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/oita/news003.htm 大分市教委が発掘調査を続けている同市顕徳町の国史跡・大友氏遺跡(大友氏館跡)で6日、現地
説明会が開かれた。郷土史愛好家ら約200人が集まり、担当職員の説明に興味深げに聞き入った。
大友氏は鎌倉時代から戦国時代までの約400年間、代々豊後国の守護を務めた一族で、16世紀
の20代義鑑(よしあき)、21代義鎮(よししげ)(宗麟(そうりん))、22代義統(よしむね)の時に最盛期を
迎えた。大友氏館は約200メートル四方の規模を誇る西日本でも屈指の館跡で、1573年、宗麟が義
統に家督を譲った際に現在の顕徳町3丁目付近に建てられたとみられている。
説明会は、20地点目となる範囲確認調査がほぼ終わったことから、これまでの成果を市民に伝え、
郷土の歴史や文化に関心をもつきっかけにしてもらおうと市教委が企画。東西幅約15メートル、南北幅
約22メートルの礎石を使った大型の建物跡や、巨大な池を備えた庭園跡、館の北側で大量に出土した
土師器(はじき)などの歴史的な価値や意義について、職員がわかりやすく解説した。
2007年10月7日 【読売新聞】
北上・滝ノ沢遺跡で発掘調査現地説明会
http://www.iwanichi.co.jp/kitakami/item_2170.html 北上市下鬼柳の滝ノ沢遺跡の発掘調査現地説明会は六日、約三十人が参加して現地で開か
れた。縄文、平安両時代の住居跡、土器製作に使用された粘土採掘坑の発掘が報告された。
調査は市埋蔵文化財センターが、私有地の住宅建設に伴って四月から十月まで実施。同遺跡
は昭和五十二年から調査が行われ、縄文時代の住居跡、掘っ立て柱建物跡、土器捨て場、平安
時代の住居跡などがこれまでに見つかっている。
今回の調査地点は、同遺跡がある和賀川から南に離れた標高八〇メートルの丘陵地点で、広
さは縦二十七メートル、横十八メートル。約五千年前から四千五百年前にかけての縄文時代の竪
穴住居跡が三棟重なって発見された。 小規模な建物の跡とみられる土坑六基、柱穴七十基を確
認したほか、平安時代の竪穴住居跡が一棟見つかった。遺物は、粘土採掘坑、土器捨て場の周
囲から土器や石器が多数確認された。
粘土採掘坑は不整形な掘り込みになっており、上層の火山灰層を掘ってから下層の白色粘土
層をえぐるように掘った跡と判明した。掘った跡が広範囲になっており、土器や土偶を作るために
たくさんの粘土が採掘されたことも説明された。
発掘を担当した同センターの君島武史主査は「滝ノ沢遺跡は五千年前の縄文時代の遺構が確
認されており、今回の調査でも同時代の遺構が見つかった。何度も建て替えた跡があり、長い間
この地で生活していたことが分かった。この場所では概算で三十四トンもの粘土が採掘されたと
考えられ、大量の土器が作られていた」と解説した。
2007年10月8日 【岩手日日新聞】
平安期の仏典と聖徳太子信仰を紹介 大谷大博物館で特別展
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007100800126&genre=M2&area=K1A 平安時代末期の聖徳太子信仰の高揚を背景とする一切経書写を伝える特別展「法隆寺一切
経と聖徳太子信仰」が9日から、京都市北区の大谷大博物館で始まる。写経のほか、重要文化
財「聖徳太子勝鬘経講讃(しょうまんぎょうこうさん)坐像」(17世紀、兵庫県・中山寺所蔵)など計
50点が展示される。
法隆寺一切経は、平安時代末期の代表的な仏典の集大成で、11世紀末から12世紀前半に
かけて、聖徳太子をまつる法隆寺・聖霊院の建造と本尊の造立にあわせて写経が行われた。特
別展では、博物館が所蔵する「大宝積経(だいほうしゃくきょう)」など平安時代末期の貴重な写経
や目録のほか、公開の機会が極めて少ない「新撰字鏡」(宮内庁所蔵)なども並べられる。
中世の聖徳太子信仰を伝える「聖徳太子勝鬘経講讃坐像」や重要文化財「聖徳太子勝鬘経講
讃像」(13世紀、兵庫県・斑鳩寺所蔵)などの彫刻や絵画も展示、現在に続く太子信仰を紹介す
る。宮崎健司教授(日本古代史)は「画期的な大事業だった一切経書写の全体像を見てほしい」
と話している。
500円。11月28日まで(日・月曜日と11月17日休館。11月25、26日は開館)。記念講演会
が同大学であり、10月13日は「法隆寺一切経の形成」(宮崎教授)、11月3日は「聖徳太子信仰
と法華経」(田中嗣人華頂短期大教授)で両日とも午後2時から。当日受け付けで無料。
2007年10月08日 23:07 【京都新聞】
播磨の山城の全容を今に 推定復元図描く神戸の男性
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000681867.shtml 中世の龍野城での現地説明会。 テープを張り巡らせて建造物の位置を推測し、弓や鉄砲を構えて
城を守る方法を解説した=たつの市龍野町、鶏籠山 水彩絵の具と製図用ペンで細部まで描かれ、
城の姿が、見るほどに浮かび上がってくる。
中世城郭を研究する木内内則さん(60)=神戸市北区。室町-安土桃山時代、四百超を数えた播磨
各地の山城跡を訪れ、推定復元図を作っている。約四十年前から現地調査を続け、図で比較すること
で、城の全体像や地域ごとの特徴が見えないかと、一九九〇年から復元図を描いている。
現地では、遺構を測量し、城郭の平面図と遺構図を作成。さらに、瓦、陶器、石垣などの遺物を手掛
かりに建物の配置を考え、復元図を完成させる。これまでに三木城(三木市)、置塩城(姫路市夢前町)
など計十作を手掛けた。
木内さんは「中世の山城は、その後の姫路城のような天守はなく、規模も小さかった。身近な存在で、
攻められた際には逃げ道を設けておくなど、人間らしさを感じる点が魅力です」と話している。(峰大二郎)
2007年10月07日 00:00 【神戸新聞】
青谷上寺地遺跡遺物基に 14日に弥生人シンポ
http://www.sanin-chuo.co.jp/event/modules/news/article.php?storyid=444169162 第8回弥生文化シンポジウム「海と弥生人−みえてきた青谷上寺地遺跡の姿」(鳥取県教委主催)
が14日午前10時半から、鳥取市の県民文化会館である。豊富な出土遺物を基に、研究者が交流と
漁労、海、舟をキーワードに弥生人の生活について論議する。
同遺跡は弥生時代後期(約2000から1800年前)に栄えた交易拠点としての港湾集落。「弥生人
の脳」が出土したことなどで知られる。
シンポでは、大陸製の鉄器など海を超えた交流を物語る遺物や骨角製の漁労具、船団を表現した
線刻画、舟材やかいなど海とのかかわりを示す出土遺物も展示する。
福岡大の武末純一教授が「海を渡る弥生人」と題して基調講演の後、県教委文化課の大野哲二文
化財主事が「青谷上寺地遺跡にみる海」として基調報告する。
パネルディスカッションでは、長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所の林隆広氏が、同遺跡から出
土した弥生時代中期の船着き場を基に大陸との交流について語る。中四国地方の漁労具に詳しい香
川県教委の乗松真也氏、古代の船に造詣が深い滋賀県文化財保護協会の横田洋三氏に、 武末教
授と大野主事が加わって意見を交わす。
定員は500人。問い合わせは県教委文化課(電話0857・26・7932)。
2007年10月08日 15:43 【山陰中央新報】
73 :
藤原宮跡の「巨大運河」:2007/10/09(火) 22:23:20
藤原京:大極殿南側にも運河跡…造営手順の手がかり 奈良
http://mainichi.jp/kansai/news/20071009k0000m040096000c.html 日本初の本格的な都・藤原京(奈良県橿原市、694〜710年)の宮跡から、木材や礎石など、造営のた
めの資材を運んだ運河跡が見つかった。大極殿院南門付近の2カ所で、資材を運んだ後、埋め立てられた
とみられる。調査した奈良文化財研究所の巽淳一郎・都城発掘調査部長は「運河が大極殿だけでく宮中枢
部の造営を目的に造られたことを示しており、宮の造営手順を知る上で貴重な資料」としている。
運河跡は70年代などに大極殿北側で確認されているが、今回の調査で、南門を越えて、役人が儀式を
行う朝堂院まで延びていたことが分かった。
今年4月から調査し、南門の土台付近の南北2カ所を掘り下げたところ、深さ1.7メートル以上の大規模
な溝跡を検出。大極殿北側の運河跡(幅5〜8メートル、深さ1.6〜2メートル)と幅や位置もほぼ一致した。
運河の底には、水の流れで運ばれてきたとみられる砂が堆積(たいせき)していた。南門を造営するため、
運河は数センチごとに異なる種類の土層を丁寧に積み上げる手法で一気に埋められていた。
万葉集の「藤原宮の役民(えきみん)(造営にかかわる作業員)の作る歌」には、「近江(滋賀県)の田上山
(たなかみやま)から切り出した木材をいかだに組み、宇治川や木津川を通って現在の京都府木津川市で
陸揚げした」とある。資材はその後、佐保川や飛鳥川などの水運を利用して運河と結び、宮内に運び込んだ
と考えられている。【林由紀子】 (
>>74に続く)
(
>>73)
◇上に重要な建物を建てること想定か
藤原宮の建設には、数万本の柱や壁や床に使う板材、数千個の礎石が必要だったといわれ、その多くは、
この運河を使って運ばれたとみられる。
黒崎直・富山大教授(考古学)は「過去の調査では、宮内で見つかった柱の根元に、いかだに組む際に縄
を通した穴が確認されている」と話す。田上山から藤原宮までは、川も下りばかりではなかったといい「川をさ
かのぼる際には、いかだにひもをかけ、人が岸から引っ張って運んだのだろう」と指摘する。
調査した奈良文化財研究所の高田貫太研究員は「運河は、非常に細かく丁寧な版築(土を突き固めた層)
で埋められていた。その上に重要な建物を建てることを想定した仕事だったのではないか」と想像する。
2007年10月09日 03:00 【毎日新聞】
☆関連記事
藤原宮跡:「巨大運河」 石や木材、大量輸送
http://mainichi.jp/kansai/archive/news/2007/10/09/20071009ddn041040008000c.html
富士山2合目の行者堂跡を試掘調査 埋蔵文化財センター 信仰の実態探る
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2007/10/09/3.html 県埋蔵文化財センターは九日から、富士山二合目の吉田口登山道沿いにある行者堂跡
(富士河口湖町勝山)の試掘調査に着手する。同遺跡は、富士山修験の拠点だったとされる
円楽寺(甲府市右左口町)の関連施設として、登山道を登る修験者の信仰の場となっていた
と推定される。調査は、富士山信仰の具体像を探る手掛かりとして期待されている。
同センターの中世寺院分布調査事業の一環。同遺跡は標高約千七百メートル、冨士御室
浅間神社(山宮)の西側脇に位置し、現在は、遺構とみられる石垣の一部が露出するだけと
なっている。調査面積は約九十平方メートル。
同センターによると、 奈良時代に山岳修験の開祖・役小角(えんのおづぬ=役行者)が右
左口町の円楽寺で修行し、尾根伝いに南下して富士山への登山道を開いた際に、富士山に
設けたと伝わる行者堂の跡と推定される。
2007年10月09日 12:38 【山梨日日新聞】
土清水塩硝蔵を確認 加賀藩の火薬製造、貯蔵施設 金沢市調査 梅鉢紋の瓦出土
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20071009101.htm 金沢市文化財保護課と市埋蔵文化財センターは八日までに、同市涌波町などで加賀藩による黒色火薬の
製造、貯蔵施設であった「土清水塩硝蔵(えんしょうぐら)」を発掘調査し、塩硝を保存していたとみられる土蔵
の礎石と、梅鉢紋入りも含む多数の屋根瓦を確認した。史料の乏しい軍事施設の実態に迫る成果で、市は引
き続き調査を進め、敷地面積約八万平方メートルとされる塩硝蔵の範囲特定と全容解明を目指す。
塩硝蔵の存在は、幕末から明治初期にかけての建物の配置を記した「土清水製薬所絵図」などの史料で
知られていたが、遺構として確認されたのは初めて。
発掘は、国史跡指定を目指す辰巳用水の詳細調査の一環として、九月十日から涌波堤公園(同市涌波一
丁目)周辺の二カ所で行われ、うち涌波町の一カ所から土蔵の存在を示す二十個の礎石と、土蔵が本瓦葺き
であったことを示す大量の赤瓦が見つかった。八日には現地説明会が開かれ、付近住民が理解を深めた。
瓦には加賀藩主前田家の家紋である梅鉢紋が入った軒平瓦(のきひらがわら)も含まれていた。市埋蔵文
化財センターによると、梅鉢紋入りの瓦は金沢城以外での出土例はないという。土蔵の外側には深さ二メート
ル以上の水堀が設けられていたことも分かり、土蔵への立ち入りが厳重に管理されていたことも明らかになった。
加賀藩の塩硝は江戸時代、国産最良の品質で生産量も最大とされ、幕末には五箇山から年間五トン余りを
買い付けていた。塩硝蔵はもともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため、一六五八(万治元)
年に土清水に移転し、一八七〇(明治三)年以降に廃止されたらしい。 (下略。一部改)
2007年10月09日 02:12 【北國新聞】
殺生石伝説の絵巻物を紹介 白河で文化財展
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/10/20071009t65009.htm (※ 会員制のため、Google検索によって抽出されるテキストをもとに復元)
福島県白河地方の著名な出土遺物と寺院の宝物を集めた企画展「白河市の文化財―
祈りのかたち・遺物のかたち」が、同市歴史民俗資料館で開かれている。21日まで。
殺生石伝説を題材にした室町時代の絵巻物「源翁和尚行状縁起」は表郷地区・常在院
の宝物。朝廷にたたりをもたらす妖怪「玉藻の前」の霊が乗り移った殺生石を源翁和尚が
たたき割り、成仏させるまでを描いた後半部分が展示されている。出土遺物では「人面付
弥生式土器」が目玉。高さ25センチ余りのフラスコ状土器で、土器の首の部分に人面が線
刻されている。市内の寺院に伝わる江戸時代の「両界曼陀羅(まんだら)」は縦3メートル、
横が2メートル以上あり、時代の経過を感じさせない鮮やかさが魅力だ。
展示資料は計90点。連絡先は市歴史民俗資料館0248(27)2310。
2007年10月08日 22:20 【河北新報】
78 :
その他:2007/10/09(火) 23:38:20
79 :
平泉の無量光院跡で導水路とみられる遺構出土:2007/10/10(水) 20:32:17
池の岸跡150メートル確認 岩手・平泉 無量光院跡
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/10/20071010t35002.htm(会員制)
岩手県平泉町文化財センターは9日、「平泉の文化遺産」世界遺産登録候補地の一つ、無量光院跡
の本年度発掘調査結果を発表した。池の岸の一部など遺跡の概要をうかがわせる発見があった。
見つかった池の岸は約20メートルで、本堂跡北側に位置する。盛り土がしてあり、高さは40センチ程
度。本堂周囲に設けられていた池の外周は約500メートルあり、今回分も含め約150メートルの岸が確
認されたことになる。ほかに、池に水を引き入れた導水路とみられる蛇行状の約35メートルの溝や、V
字型に重なった2枚の板(1枚の長さ4メートル)も見つかった。 本年度調査は6月に始まった。10月末で
終了予定。センターの及川司所長補佐は「史跡の復元整備を進めるうえで重要な発見があった。溝や
板の用途など詳しく調べていく」と話している。
無量光院跡の現地説明会は13日午後2時15分から。それに先立ち、県教委主催の柳之御所遺跡の
現地説明会が同日午後1時から開かれる。連絡先は平泉町文化財センター0191(46)2118、県教委柳
之御所遺跡調査事務所0191(46)2820。
2007年10月09日 21:55 【河北新報】
☆詳細
平泉の無量光院跡で導水路とみられる遺構出土
http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/item_2198.html 2007年10月09日 【岩手日日新聞】
製鉄の遺跡「たたら」発見
http://www3.nhk.or.jp/news/2007/10/10/d20071010000097.html 島根県の埋蔵文化財調査センターによりますと、雲南市吉田町にある「大志戸IIたたら跡」で、半径
50メートルの範囲内に「たたら」の炉の跡が4基見つかりました。「たたら」は、土で築いた炉で木炭を
燃やして砂鉄を溶かし、鉄を取り出す日本古来の製鉄法で、島根県は「たたら」製鉄が古代から盛ん
に行われたことで知られています。今回見つかったのはいずれも四角形の炉が築かれた土台の部分
で、4基のうち鎌倉時代のものが1基、室町時代のものが2基、戦国時代のものが1基とみられていま
す。いずれも長さが4メートル前後、幅が1メートル余りで、鎌倉時代のものを除く3基は、下からの湿
気を防ぐため土台の下の方に粘土を敷くなどの工夫が施されています。時代の違う「たたら」の炉の跡
がまとまって見つかるのは珍しいということで、島根県は、「たたら」製鉄の発展の経緯がうかがえる貴
重な資料として調査を進めることにしています。この遺跡の現地説明会は今月13日に開かれます。
2007年10月10日 15:30 【NHKニュース】
1860年の武士の写真、ジョン万次郎の撮影と判明
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiioct0710182 1860(万延元)年に撮影された武士の写真が、中浜(ジョン)万次郎の撮影と分かった。写真は静岡県
韮山(現在伊豆の国市)を拠点に、幕末までの約300年間、世襲で駿河、武蔵、相模など広域を支配した
幕府代官・江川家の史料群「江川文庫」の中にあったが、撮影者は不明のままだった。
東京大学史料編纂所付属の画像史料解析センターの調査で、江川家江戸邸の動きを記した「御出府日
記」に万次郎撮影を裏付ける記述を発見。撮影技術と併せて検証した結果、万次郎が咸臨丸でサンフラン
シスコから帰国後、持ち帰った写真機と薬品で撮影したことを突き止めた。
同センター古写真研究プロジェクト代表の保谷徹教授は「万次郎は日本人として最初に本格的な写真
技術を取得しただけでなく、個人的記録として写真を残す写真文化を移入した人物と分かった」と成果を強
調する。プロジェクトの一員の谷昭佳さんは同センターの季刊誌十月号で「万次郎の写真時暦にみる江戸
の最初期写真事情」として技術面を中心にした解明の経過などを発表する。
江川代官の配下にあった万次郎撮影と確認された写真は、ガラス板を使う湿板写真(アンブロタイプ)で
撮影され、大きさは縦八・四a、横七・一a。はかまを着け、太刀を左手にした武士は江川家に出入りして
いた小沢太左衛門とみられ、包み紙には「万延元年七月十六日夕七ツ時写真シ奉ル事」と書かれていた。
(下略)
2007年10月10日 11:24 【神奈川新聞】
初版画55枚を宮崎市で発見 東海道五十三次名所図会
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/?itemid=2410&catid=74&blogid=13 江戸末期の浮世絵師、安藤広重(1797―1858年)が描いた代表作「東海道五十三次名所図会」
で、1855(安政2)年に刷られた初版画が宮崎市内の旧家で発見された。同図会55枚が完全な形で
そろっているのは全国でも珍しく、保存状態もきわめていいという。同市の佐土原歴史資料館「鶴松館」
で21日まで一般公開されている。入場無料。
「東海道五十三次名所図会」は出発点の江戸(日本橋)と終着点の京都(三条大橋)を結ぶ東海道の
宿場53カ所を描いている。嘉永期(1848―1853年)に刷った東海道シリーズの横絵(中判)に対し、
「竪(たて)絵東海道」と呼ばれる。版木から直接刷ったオリジナルで、縦約37センチ、横約25センチ。
版元(出版社)の蔦屋吉蔵、摺(すり)師の卯吉の印もあり、絵師や彫師、摺師らの巧みな技術が光る。
安藤広重は江戸の下級武士の家に生まれ、15歳で歌川豊廣に入門。「東海道五十三次」シリーズ
で一躍人気絵師となり、それ以降「近江八景」などの名作を残した。
2007年10月10日 10:40 【宮崎日日新聞】
83 :
その他:2007/10/10(水) 21:27:16
孝明天皇が攘夷を祈願、下鴨神社「開かずの間」初公開へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071010i507.htm?from=navr 世界遺産・下鴨神社(京都市左京区)は11月1〜11日、幕末に孝明天皇が外国勢力を排斥する
攘夷(じょうい)を祈願した神服(しんぷく)殿(重文)の「開かずの間」を初公開する。
神服殿は1628年の式年遷宮で、祭神用の衣服を仕立てる場所として建立された。広さ12畳の
「開かずの間」は、天皇が過ごしたことなどから一般には公開されていない。
ペリー来航をきっかけに国内が騒然とした1863年には、鎖国を望んだ孝明天皇が将軍徳川家茂
(いえもち)を従え、約240年ぶりとなる行幸で下鴨神社を訪れ、この部屋で休憩を取り、攘夷を祈願
した。公開時には、部屋の中央に「御褥(おしとね)」と呼ばれる座布団を敷いて、天皇が座る「玉座
(ぎょくざ)」を再現する。
2007年10月10日 14:40 【読売新聞】
浜松・引佐の北神宮寺遺跡 60棟超す竪穴住居確認、副葬品数千点発見
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20071010/CK2007101002055334.html 浜松市は9日、同市北区引佐町井伊谷の「北神宮寺遺跡」から、弥生時代から古墳時代(1900−1600年
前)にかけての大規模集落を確認したと発表した。鎌倉、江戸時代の墓や副葬品なども多数確認されたという。
13、14の両日に発掘現場の見学や出土品の展示などを実施し、市民に広く公開する。
調査は2003年度に始まり、旧引佐町教育委員会から合併後の市文化振興財団、市教育委員会に引き継
がれてきた。延べ9720平方メートルの範囲を対象に、1日最大20人の態勢で発掘してきた。
弥生時代から古墳時代にかけての集落として、縦横とも約5メートル、深さ50−5センチ程度の竪穴住居が
60棟以上を確認した。周囲に溝を掘り、掘った土を盛って墓とした縦横約10メートルの方形周溝墓が30基以
上見つかった。墓の溝部分などからは、壺(つぼ)や高坏(たかつき)などの副葬品も数1000点見つかった。
旧引佐町では県指定史跡の渭伊神社境内遺跡や市指定史跡の北岡大塚古墳など、古墳時代の遺跡が相
次いで発掘されている。同課は「こうした遺跡を築いた人々の生活の様子が、今回初めて明らかになった」と意
義を強調している。
鎌倉時代や江戸時代の土坑墓や鉄刀、皿、銭貨なども見つかり、連綿と生活が営まれてきたことも分かっ
たという。
◇
市は発掘に伴う「いなさ文化財まつり」を13、14の両日、午前10時から午後4時まで開催する。北神宮寺
遺跡の発掘現場の見学や、勾玉(まがたま)づくりなどが予定されている。午前10時と午後2時に、発掘担当
者が調査結果の説明をする予定。雨天決行。
引佐健康文化センター(同市北区引佐町井伊谷)で市指定文化財や新種のワニの化石を、引佐歴史民俗
資料館(同)で旧同町の民具や遺跡出土品をあわせて展示する。
問い合わせは北神宮寺遺跡調査事務所=電053(542)3990=へ。(出来田敬司)
2007年10月10日 【中日新聞】
>>80 30分前に速報来ました。
大志戸2たたら跡で製鉄炉跡
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=444251179 雲南市吉田町の大志戸(おおしど)2たたら跡で、鎌倉から戦国時代(13−16世紀)の製鉄炉跡四基が
見つかったと島根県埋蔵文化財調査センターが十日、発表した。隣接する遺跡でも二基が出土している。
中世の製鉄炉跡が一つの谷で六基もまとまって発見されるのは全国でも珍しく、周辺地域が独自の製鉄技
術を持った一大中心地だったと考えられる。
出土したのは、砂鉄を溶かすため粉炭を詰め込んだ製鉄炉の床部分。4基は長さ2.6−4・2メートル、
幅1.2−1.5メートルで、半径50メートルの狭い谷筋に密集し、少しずつ移動しながら操業していたと推測
される。
また、13世紀ごろと推定される2号炉を除き、3基の炉床が中国地方だけで出土している「鉄アレイ型」と
判明。湿気を防ぐ粘土の側壁が残り、溶かした砂鉄の不純物を捨てる大型の排滓(はいさい)場が炉の前後
にある特徴的な構造をしている。
今回の発掘現場から北約500メートルの堂々ノ内1・2遺跡では、同型の製鉄炉跡2基が確認されており、
同センターの松尾充晶文化財保護主任は「たたら産業のルーツを考える上で貴重。同じ流派の技術集団が
存在していたとみられる」と話した。
発掘調査は中国横断道尾道松江線の建設に伴い昨年4月から実施していた。現地説明会は13日午後1
時半から。希望者は雲南市の掛合小学校に集合。問い合わせは現場調査事務所(電話0854・62・0107)。
田中義昭元島根大教授(考古学)の話 出雲地方が江戸時代、重要な鉄生産地だったたことは知られてい
るが、中世から集中的で継続性のある「アイアンゾーン」が形成されていたことが明らかになった。非常に意義
深い。個性的な構造で、冶金(やきん)産業の中核的地域であったことを証明している。
2007年10月10日 21:17 【山陰中央新報】
古代の木の文化紹介 下関市立考古博物館 農具や祭りの道具など150点
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/yamaguchi/20071011/20071011_001.shtml 古代の日本人と木とのかかわりを紹介する下関市立考古博物館の企画展「木の文化‐ハレとケの
世界」が11月25日まで、同市綾羅木の同博物館で開かれている。
展示しているのは、県内をはじめ、石川県や福井県、福岡県など全国の縄文、弥生時代の遺跡か
ら出土した約150点の木器や写真パネル。農具など日常生活の「ケ」の部分の道具や、鳥形など祭
りに使われたと考えられる「ハレ」の道具が並んでいる。
「ケ」の道具のうち、石川県小松市の八日市地方(ようかいちじかた)遺跡から出土した竪杵(たてぎ
ね)(弥生時代中期前半)は、模様が入れられた珍しい一品。鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)
遺跡から出土した木包丁(同中期‐後期)は、石包丁をまねて作った品だ。
「ハレ」では、銅鐸(どうたく)をまねて作られた鐸形(同中期後半、阿東町の宮ケ久保遺跡出土)や、
八日市地方遺跡から出土した黒や赤で色付けされた魚形(同中期後半?)などが紹介されている。
13日午後1時半と、11月18日午前11時には、担当学芸員による展示品解説がある。問い合わせ
は同博物館=0832(54)3061。
2007年10月11日 00:49 【西日本新聞】
坂本、大津、膳所城の史料紹介 大津市歴史博物館
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20071011/CK2007101102055399.html 戦国時代、大津市内に築かれた三城にスポットを当てる企画展「戦国の大津−天下統一の夢」が十一
月十八日まで、大津市御陵町の市歴史博物館で開かれている。
信長、秀吉、家康の三大名がそれぞれ築かせた坂本、大津、膳所城にまつわる史料を紹介。肖像画や
古文書、遺品を通じて、歴史の謎やロマンに迫っている。
県内外の寺院や博物館で所蔵する約二百五十点を展示。焼け落ちた坂本城跡の出土品や、膳所城周
辺を描いた巨大な「膳所総絵図」、膳所城の屋根を飾った厄災除けの「シャチ瓦」などが飾られている。
浜大津地区にあった大津城の広さも推定。同館の青山均主幹学芸員は「大津城は関ケ原の戦いの前
哨戦が行われ、その天守閣は彦根城に移設された。歴史的な重要性を知ってほしい」と呼びかけている。
二十八日には同館近くの警察学校で火縄銃の実演、十一月三日には学芸員らが研究を基に議論を繰
り広げる「トークバトル!大津の城の謎に迫る」が開かれる。
月曜休館。観覧料は一般六百円、高校・大学生五百円、小中学生二百円。問い合わせは市歴史博物
館=電077(521)2100=へ。
2007年10月11日 00:00 【中日新聞】
89 :
装飾古墳10カ所を一斉公開 20、21日 筑後川流域6市町:2007/10/11(木) 05:12:55
装飾古墳10カ所を一斉公開 20、21日 筑後川流域6市町 観覧は無料
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20071011/20071011_021.shtml 久留米市や朝倉市などでつくる北筑後文化財行政連絡協議会は20、21両日、壁画などが多く描かれ
ている筑後川流域6市町の装飾古墳10カ所を一斉公開する。劣化防止のために普段はあまり公開されて
いない古墳内部が見学できる。観覧無料。
公開される古墳は、いずれも6世紀前後に造られたとみられ、内部に赤や緑色で船や盾、弓、人などが
描かれているものも多い。弓道の的に似た円の模様「同心円文(どうしんえんもん)」の壁画も、多くの古墳
で見ることができる。同心円文が何を意味しているのかは、いまだ解明されていないという。
公開時間は午前10時‐午後4時で、仙道古墳のみ午前11時‐午後3時。観音塚古墳の見学希望者は
21日午前10時に砥上神社(筑前町砥上)に集合する。公開される古墳は以下の通り。
【20日】
日輪寺古墳(久留米市京町)▽装飾古墳石材(同市田主丸町田主丸)▽珍敷塚
(めずらしづか)古墳(うきは市吉井町富永)▽日岡古墳(同市吉井町若宮)▽月
岡古墳(同)▽五郎山古墳(筑紫野市原田)▽仙道古墳(筑前町久光)
【21日】
狐塚古墳(朝倉市入地)▽花立山穴観音古墳(小郡市干潟城山)▽観音塚古墳
(筑前町砥上)▽五郎山古墳▽仙道古墳
問い合わせは小郡市埋蔵文化財調査センター=0942(75)7555。
2007年10月11日 01:06 【西日本新聞】
甲府城・乾櫓(いぬいやぐら)の石垣確認 駅北口ロータリー発掘調査 13日に見学会
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2007/10/11/3.html 甲府市教委が、帝京大山梨文化財研究所に委託して行っているJR甲府駅北口の駅前ロ
ータリー発掘調査で、甲府城の北西角にあった乾櫓(いぬいやぐら)の石垣が見つかった。
櫓の存在は多くの絵図で知られていたが、同研究所は「甲府城に関する調査で初めて甲府
城北西角の正確な位置が確定できた」としている。
同研究所によると、見つかった乾櫓の石垣は高さ三メートル、幅三・六メートル。隣接して
清水曲輪(しみずぐるわ)の石垣(高さ三メートル、幅二メートル)も確認された。
遺構は記録保存し、来週にも埋め戻す予定。県考古学協会などは十三日午前九時半から、
見学会を開き、石垣や愛宕町の石切り場跡を公開する。参加は無料。
2007年10月11日 12:42 【山梨日日新聞】
兵庫の歴史再発見 県立考古博物館13日開館
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000687410.shtml 13日に播磨町大中にオープンする兵庫県立考古博物館は、「体感」を重視し、各展示室に体験コ
ーナーを設けるなど参加型の新しい博物館を目指す。博物館の山下史朗企画広報課長は「これまで
考古学に興味のなかった人が関心を持てるような施設にしたい」と期待を込める。
地上一階、地下二階の鉄筋コンクリート造りで延べ床面積約八千三百平方メートル。総工費約四
十一億円。古代の物見やぐらを思わせる高さ約二十二メートルの無料の展望塔もある。
館内は、発掘や古代の暮らしを体験できる展示室「発掘ひろば」のほか、兵庫の歴史をテーマで
まとめた展示室▽考古学資料を備えた情報プラザ▽県内の出土品を展示する見学デッキ▽体験学
習室-などからなる。
発掘ひろばでは疑似発掘が体験できる。旧石器時代から古代までの歴史をひもといた展示室では、
高砂の竜山石で復元した古墳時代後期で最大規模の「大王の石棺」に入ったり、旧出石町(豊岡市)
の出土品を基に復元した古代船に乗ったりすることもできる。
また、開館に合わせて養成したボランティア「考古楽者」らが支援し、各種催しで石器作りやまが玉
作り、火おこしなど古代の生活も楽しめる。隣接する史跡公園の活用や県内のほかの博物館との連
携を強化し、共催展なども企画する予定。
十三日からは吉野ケ里遺跡(佐賀県)や登呂遺跡(静岡県)などの出土品を集めた開館記念展「発
掘・日本の原風景」(十一月二十五日まで)が開かれる。
午前九時半-午後五時(四-九月は午後六時)。初日は午前十時から記念式典があり、一般入館は
午後一時から。月曜と年末年始は休館。観覧料は常設展が大人二百円、大学・高校生百五十円、小
中学生百円。県立考古博物館TEL079・437・5589
2007年10月11日 【神戸新聞】
固有の歴史景観守れ 県教委 県文化財修理に本腰
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=2031 福井県固有の歴史景観の保全を図るため、県教委は「ふくいの文化財再生・活用推進事業」
を新たに立ち上げ、県指定文化財の修理に本腰を入れ始めた。初年度は瑞源寺本堂と書院(福
井市)、劔神社本殿(越前町)、旧古河屋別邸(小浜市)を対象に6900万円を補助。国の重要文
化財の指定や観光客の増加を目指す。
県指定文化財の修理は県の要項によって、年度ごとに1事業当たり500万円を上限に2分の1
以内を補助。知事が特に必要と認めた場合は上限を取り払ってきた。しかし、撤廃は特例的なケー
スとされ、認められたのは過去、阿弥陀堂を修理した敦賀市の西福寺など2件だけ。それ以外は
仏像や小規模な雨漏り修理にとどまっていた。
近年、県指定文化財の老朽化が目立ってきたため、屋外広告物の規制などを検討している県の
「ふくいランドスケープ構想」の一環として、関係市町とともに保存を進めることにした。緊急的な修
理経費の2分の1以内を補助する要項を新たに定めた。
(中略)
3つの建造物については、案内看板の設置やPR用の冊子も作製する方針。県文化課は「県指
定文化財は江戸期以前の建造物で傷みが激しい。修繕によって観光価値を高め、本県のイメージ
アップを図りたい」と話している。
2007年10月11日 10:52 【福井新聞】
最古の写真乾板 京都市芸大が保有 戦災焼失の名古屋城障壁画
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007101100027&genre=G1&area=K1K 戦災で焼失した名古屋城本丸御殿(名古屋市)で、同時に失われた障壁画を記録した写真のうち京都市
立芸術大(西京区)が所有する1928年撮影の写真乾板が、現存する最古の資料と分かった。本丸御殿の
復元事業を進めている名古屋市の調査で判明し、同市の担当者が10日、市立芸大を訪れてデジタル画像
として保存する作業を始めた。一般に知られていない画像もあり、復元事業の貴重な資料として一役買う。
名古屋城本丸御殿は30年に国宝指定を受けたが、終戦直前の空襲で焼失した。障壁画は狩野派の絵
師が手掛け、ふすま絵など戦災を逃れた部分は国の重要文化財となっているが、壁に張り付けられていた
絵や金具などはすべて焼けた。
これまで名古屋市は同市などが所有する30年の写真乾板を最古と確認していた。しかし復元事業に伴
う調査で、京都市立芸大の前身、市立絵画専門学校の教員が学生の教材用として撮影した乾板がより古く、
「鷺(さぎ)の廊下」の壁を彩ったサギの絵や、柱のくぎ隠しの装飾など従来分かっていなかった部分も鮮明
に写していたことが分かった。
名古屋市は本丸御殿を復元し、築城開始400周年の2010年に一部公開、さらに十数年かけて全体を
完成させる計画を進めている。この日、同市の学芸員、朝日美砂子さん(47)ら4人が京都市立芸術大に残
る312枚のうち、158枚を高精度のデジタルカメラで写してパソコンに取り込む作業を開始。11日まで行い、
同市に持ち帰る。
朝日さんは「失われた内装をどう再現するかが課題だった。欠けていた部分が補える」と感謝する。同大
学芸術資料館事務室の大橋明事務長は「代々の教員の資料収集の努力が、国宝だった名古屋城本丸復
元という大事業に結実し、感慨深い」と話している。
2007年10月11日 10:25 【京都新聞】
96 :
信長の庭園か、遺構発見 岐阜公園で市教委:2007/10/12(金) 14:09:27
信長の庭園か、遺構発見 岐阜公園で市教委
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20071012/CK2007101202055688.html 戦国武将、織田信長の居館跡発掘調査を岐阜市の岐阜公園で実施している市教育委員会は十
一日、信長が治めた十六世紀後半の地層で約六十個の河原石が敷き詰められているのが見つかっ
たと発表した。 石は粘土に埋め込まれるなどの特徴から、庭園の可能性が高いとみて調査している。
◆「州浜」に類似
現場は金華山へのロープウエー乗り場と三重塔の間の平らな場所。地中約五十センチまで掘り
進めたところ、帯状に長さ約六メートルの範囲で、所々でこぶし大の石が密集して埋まっているのを
発見した。石は平らで、丸みを帯び、河原石の特徴と一致する。市教委によると、当時の庭園は水際
に河原石を敷いて「州浜(すはま)」に仕立てたのが一般的。今回出土した遺構は構造が似ているた
め、庭園の可能性が高いと判断した。
角のある石を五個立てて並べた石列(いしれつ)も見つかり、石列は河原石が崩れないように固定
する州浜のすそ止めだった可能性がある。現場の東十数メートルにはわき水が出ていて、そこから
水を引いたとの見方もある。
地層は、出土した陶器の破片や火災の痕跡などから十六世紀後半とみられるという。この時代の
大名の庭園は、福井県の朝倉氏や大分県の大友氏などの遺跡で見つかっている。今回、確認され
れば、信長にまつわる遺跡では初めて。
当時、信長の居館を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書にも「(池の)底には入念に
選ばれた清らかな小石や目にも眩(まぶ)しい白砂があり…」との記述がある。市教委はこの遺構が
庭園であることを裏付けるため、専門家の意見を聞きながら、〇八年度以降も範囲を広げて州浜を
探す。河原石がどこで産出したかも調査している。
京都造形芸術大の仲隆裕教授(庭園史)は「石列の南側には水が流れていたか、池であったと考
えられる。部分的に石が集まっている場所は、趣を添えるために配置した景石(けいせき)や手洗い
の水を入れる手水鉢(ちょうずばち)の可能性がある」とコメントした。 (丸田稔之)
2007年10月12日 00:00 【中日新聞】
勾玉の中に貴金属球 鈴のように鳴る…19年ぶり新発見
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071011/acd0710110017000-n1.htm 金銅製冠など豪華な副葬品で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(6世紀後半、円墳)で、
被葬者の髪を飾っていた金銅製勾玉(まがたま)の中に、鈴のように音を鳴らすための小さな
玉「丸(がん)」が入っていたことが10日、県立橿原考古学研究所付属博物館のエックス線撮
影で分かった。金か銀とみられ、動かすと軽やかな音を奏でたとみられる。昭和63年の発見
時のエックス線撮影では確認されておらず、19年ぶりの新発見となり、被葬者の高貴さを裏
付ける資料となった。
勾玉は長さ1・5センチ前後、直径4ミリ前後で、石棺内から約130個出土。内部は空洞で、
薄い銅板を勾玉の形に加工して金メッキを施し、先端は青色などのガラスで装飾した精巧な
構造だった。
同館は今回、被葬者の装身具を復元するため、改めてエックス線撮影したところ、勾玉の
内部に直径約1ミリの白い点を確認。表面の銅より鮮明に写っていたことから、銅よりエックス
線を通さない金か銀の可能性が高いという。
この結果をもとに、銀製の丸を入れて勾玉を復元したところ「シャラシャラ」と音が鳴ったとい
う。金銅製勾玉は全国的にも珍しく、同館の卜部行弘・総括学芸員は「丸を入れた例は聞いた
ことがない。発見時のエックス線撮影で何も写っていなかったので、中は何もないとばかり思っ
ていた。細部までこだわって精巧に作られていたことが分かった」と話した。
2007年10月11日 00:17 【産経新聞】
遺跡泥流下から建物跡
http://www.raijin.com/news/a/12/news03.htm 前橋市田口町の田口上田尻遺跡で発掘調査を進めている県埋蔵文化財調査事業団は十一日、
一七八三(天明三)年の浅間山噴火に伴う泥流に埋もれた建物跡などが発見されたことを明らかに
した。県内では四例目。同事業団は二十日午前十時から午後三時まで、現地説明会を開く。
調査は国道17号(前橋渋川バイパス)の工事に伴い、二〇〇五年から実施。古墳時代前期から
平安時代にかけての竪穴住居や、中世末から近世にかけての堀や石積み、泥流被害の復旧の痕
跡などが出土している。
今回見つかったのは、東西約十五メートル、南北約七・四メートルの母屋と推測される建物の礎
石、便所・納屋を兼ねたような建物の跡、土塁、畑や水路など。母屋とみられる建物にはいろりや
「へっつい」の跡もあった。いずれも泥流に埋もれたまま復旧されていなかった。
同事業団は「泥流の時、既に建物自体はなかったのではないか。ここにあったのは天明三年より
古い時代の建物だった可能性が高い」としている。東吾妻町や玉村町でも、天明の泥流に埋もれた
建物が見つかっているが、これらと比較することで、近世の建物の間取りの変遷を知る手掛かりとな
りそうだ。
説明会の問い合わせは同事業団(電話0279・52・2511)へ。
2007年10月12日 07:11 【上毛新聞】
円墳から県内初の石棺−さぬき市・一つ山古墳
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/social/article.aspx?id=20071012000075 さぬき市教委などが調査を進めている香川県さぬき市津田町鶴羽の一つ山古墳(4世紀後半)
で、香川県内の円墳としては初めて石棺が出土したことが分かった。普通、石棺は地位の高い人
を埋葬する前方後円墳から出土する例が多く、円墳から出た石棺としては国内最古の可能性も
あるという。調査に当たる大久保徹也・徳島文理大教授(考古学)は「この時期の円墳から石棺が
出土するのは全国的にも極めて珍しい。県内の古墳の歴史を考える上で、重要な手がかりにな
る」と話している。
2005年度から同古墳を調査している、さぬき市教委の「津田湾古墳群調査検討委員会」によ
ると、一つ山古墳は南北約27メートル、東西約25メートルの楕円(だえん)形で、突出部を持た
ない円墳。
墳頂部は高さ約1・5メートルの盛り土をして成形しているほか、周囲には上下二段にわたって
葺石(ふきいし)が施されており、つぼ型埴輪の破片も多く見つかっている。香川県埋蔵文化財セ
ンターの渡部明夫所長は「極めて丁寧な作り。この時期にこれほど装飾を施した円墳は例がなく、
手間を考えれば前方後円墳と遜色(そんしょく)がない」と説明する。
石棺は、刳抜(くりぬき)式石棺で、近くの火山(ひやま)産白色凝灰岩を使用。時代は、国内最
古の石棺といわれる赤山古墳(香川県さぬき市津田町)や快天山古墳(香川県丸亀市綾歌町)の
ものよりも少し新しく、古墳時代前期の後半と見られる。
渡部所長は、「県内の古墳が全国に先駆けて石棺を使用し始めたことを裏付ける発見」と指摘。
また、豪華な装飾を施した円墳の形状が、奈良市北部にある佐紀古墳群のものと酷似しているこ
とから、「津田湾周辺の古墳群が、大和朝廷のあった畿内と早い時期から密接な関係を持ってい
たことが分かる」としている。
同市教委は14日午前10時から、一般を対象に現地説明会を実施する。問い合わせは<087
9(42)3107>。
2007年10月12日 09:19 【四国新聞】
種まく縄文人、痕跡続々 新しい研究法が後押し
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200710110154.html 大豆に小豆、キビにヒエ――。これまで「狩猟採集社会」のイメージでとらえられてきた縄文時代の
遺跡から最近、植物栽培が行われていた証拠と考えられる痕跡が次々と見つかっている。縄文時代
観の修正につながりかねないこれらの発見。その背景には、新しい研究法の普及がある。
◇
9月下旬に宮崎県椎葉村で開かれた、第4回九州古代種子研究会。これまで弥生時代からとされ
てきた大豆の栽培が1000年以上古い、縄文後期中頃までさかのぼるという、小畑弘己・熊本大准教
授(考古学)らの研究が発表された。
今回用いられたのは「レプリカ法」と呼ばれる研究手法だ。遺物の表面や内部に残された植物の種
子などの跡を型にとって電子顕微鏡で観察し、種などを同定する。東京国際大の丑野(うしの)毅教授
(考古学)によって、1979年に開発された。
この方法の最大の利点は、「コンタミネーション」と呼ばれる後世の「混入」を防げることだろう。
遺跡から種子などが出土しても、地面深くまで木の根が入り込んでいたり、アリが運んだりすること
で、ずっと後の時代のものが古い時代の土の層から見つかる場合が少なくない。古代米と思って発表
したら実は現代の米だった――という笑えない話もある。
だが、土器などを作る過程でついた痕跡を調べるレプリカ法なら、その心配はなくなる。さらに「X線
撮影などではわからない立体像を得ることもできる」と丑野教授は言う。
九州では、福岡市教育委員会の山崎純男・専門調査員(考古学)がいち早くこの方法を導入。05
年には、熊本県大矢遺跡出土の縄文中期の土器に、稲のもみの跡を見つけた。植物学者などから異
論も出ているが、これが本当なら、日本列島の稲作の始まりは、約5000〜4000年前までさかのぼ
ることになる。 (
>>101に続く)
>>100 もう一つ、最近、成果をあげているのが、AMS(加速器質量分析計)を用いた放射性炭素年代測定
法で直接、穀物などの年代を測るやり方だ。米一粒(約5ミリグラム)程度のわずかな試料でも測定が
可能なため、後世の混入の有無なども簡単に判別できる。
かつて一緒に出土した土器などから年代を推定した種子などについても、AMSで再調査が進んで
いる。
たとえば、国立歴史民俗博物館学術創成研究グループの宮田佳樹・支援研究員(同位体地球化
学)らの研究チームが昨年、滋賀県竜ケ崎A遺跡出土の土器に付着していたキビと同定された雑穀
を、分析会社パレオ・ラボの加速器で測定したところ、土器と同じ、約2800〜2550年前(縄文晩期
末〜弥生早期)のものとわかった。西日本で最古のキビだという。
また、宮田研究員らが、青森県富ノ沢(2)遺跡出土の炭化したヒエを東京大学タンデム加速器研
究施設で測定したところ、約4900〜4600年前(縄文中期)という年代が出た。「この二つは、後世の
混入ではないことが裏付けられた。今後もAMSと化学分析などを併用し、確実なデータを積み重ね
ていきたい」と話す。
大豆やキビなどに加え、小畑准教授らは現在学会誌に投稿中の論文で、熊本県の上南部(かみな
べ)遺跡、同石の本遺跡の縄文後期の土器片から、小豆と考えられるマメの痕跡を発見したことを明
らかにしている。私たちが考えている以上に、縄文人たちが多様な植物の栽培にかかわっていたのは
確かなようだ。 (
>>102へ続く)
>>101 生活環境の再検証に弾み
これらの発見によって、どんな「縄文人」の生活が見えるだろうか。
阿部芳郎・明治大教授(考古学)は「興味深い発見だ。ただ、縄文人たちが植物栽培だけに依存して
いたとは考えにくく、狩猟や採集と並ぶ、当時の生業の一つだったとみるべきではないか」と推測する。
一方、谷口康浩・国学院大准教授(考古学)は「最近の研究をみると、特に縄文時代の後期〜晩期に、
植物栽培への傾斜が強まるようだ。当時、地球規模での寒冷化が進み、それまでの食糧獲得のあり方
に支障が生じたのかもしれない」。
また、高橋龍三郎・早稲田大教授(考古学)は「縄文時代後期は、祖先の祭祀(さいし)が始まるなど、
社会構造が大きく変化した時期と考えられる。栽培植物の増加も、大きな社会変化の一環としてとらえる
べきではないか」と指摘する。
西本豊弘・国立歴史民俗博物館教授(環境考古学)は「これまで遺跡出土の植物遺存体に対する考
古学者の認識は、かなり低かった。今後、遺跡の土などをていねいに水洗いすることによって、より古い
時期の、多くの植物の痕跡が見つかると思う」と話している。
2007年10月11日 10:50 【アカヒ新聞】
青谷上寺地の中心域南側境界を確認
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=444276005 青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町青谷)を発掘調査している鳥取県埋蔵文化財センター
は十一日、工房などがあった遺跡中心域の南側境界を示す溝が見つかったと発表した。
今後、北側も調査して中心域の範囲を確認し、策定中の整備活用基本計画に反映させる。
整備活用を前提とした学術調査として、八月から中心域南側の百五平方メートルを発
掘調査していた。
溝は、弥生時代後期後葉(約千八百年前)に埋まった古い溝と、この溝が埋まった跡を
掘って弥生時代終末期(約千七百五十年前)まで使った新しい溝の二本があった。
古い溝は幅四・九メートルだが、底まで掘っていないので深さは不明。新しい溝は幅三・
七メートル、深さ五十−六十センチ。両方の溝は矢板で護岸を造り、何度か補修したらしい。
一緒に見つかった土器や土層の重なり方から年代の変化が分かった。
中心域の東西は、約百五十メートル離れた場所にそれぞれ溝があったことが分かって
いる。
同遺跡は、約三十二ヘクタールを史跡申請中。中心域の外は水田だったことが、これま
での調査で判明している。県教委が〇八年度末までに整備活用基本計画を策定する。
同センターの久保穣二朗所長は「溝を何度も補修していて、工房がある中心域を大切に
していた様子がよく分かり、景観復元に役立つ発見」と話した。
十三日午後一時半から現地説明会がある。
2007年10月11日 21:15 【山陰中央新報】
平安期地震の新痕跡、国内最大M9規模か
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20071011i506.htm?from=navr 平安時代に東北地方の太平洋沿岸に大きな被害を与えたとされる「貞観(じょうがん)津波」の
新たな痕跡を、大阪市立大、東北大、東京大地震研究所などのチームが岩手県内で見つけ、大
阪市で開かれている日本応用地質学会で11日、発表した。
これまで、宮城県から福島県にかけて痕跡が見つかっていたが、範囲が大きく広がったことで、
同津波を起こした地震がマグニチュード(M)8・6で、日本史上最大とされる宝永地震(1707年)
を上回るM9規模だった可能性が出てきた。
国や自治体が行っている、東北の太平洋沖合にある日本海溝付近を震源に発生が予想される
大地震の被害想定にも影響を与えそうだ。
チームは、2004年から、岩手県宮古市から宮城県気仙沼市にかけて、内湾や海岸沿いの湿
地などで、過去の津波堆積(たいせき)物を調査。宮城県・仙台平野から約120キロ・メートル北
の岩手県三陸海岸の大槌(おおつち)湾で、波に運ばれたとみられるれきや、貝殻など22回の津
波跡が見つかった。炭素年代測定法などから、海抜マイナス約18メートル〜20メートルの層が
860年〜1400年の間に堆積したことがわかり、時期や層の厚さなどから貞観三陸地震(869年)
によって起きた貞観津波と推定された。
大阪市立大の原口強・准教授(地質工学)は「貞観三陸地震は、いくつかの地震が連動した超
巨大地震だったかもしれない」と話している。
2007年10月11日 12:49 【読売新聞】
105 :
その他:2007/10/12(金) 22:53:47
石刃技法用いた石器群 瓜破北遺跡で発見
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200710/news1013.html#10134 大阪市平野区の瓜破北遺跡で、後期旧石器時代前半(約二万八千万年前)に「石刃技法」という
岩石を縦にはぎ取る技術で作った石器が二百点以上見つかり、市文化財協会などが十二日、発表
した。近畿地方では、奈良・二上山が横長にはがれやすいサヌカイトの一大採掘場だったことから、
あまり発達しなかったと考えられてきた技法で「他地域との交流など、ナイフ形石器文化の変遷を考
える重要な資料」という。
こうした石器群の発見は、奈良市の法華寺南遺跡に続いて近畿で二例目、大阪平野側では初めて。
石器は、長さ二−五センチほどの先端が鋭く尖ったナイフ形石器や、皮なめし作業に用いた削器
など。発掘区画内の二カ所に集中し、石器の製作跡と考えられる。石材は二上山産のサヌカイトと
みられる。
石刃技法は、関東や九州などで数多く発見されている後期旧石器時代の代表的な石器製作技術。
同時代の前半は、畿内で横はぎの技術が発達し始めたころに当たり、市文化財協会は「初めから横
はぎの技術だけが発達したのではなく、さまざまな技術が流入した上で都合の
良い製作法が残ったのでは」としている。
また同協会は、隣接する瓜破遺跡で刻目が付いた突帯文土器が市内で初めて見つかったと発表
した。愛知県・知多半島の入海貝塚を指標とする入海式土器であれば、東海地方との交流も推測さ
れるという。ほかにも瓜破台地に存在が推定されながら、地中に埋まっていた谷地形の一つ「西谷」
が確認された。
現地説明会はいずれも二十日。瓜破北は午後一時から、瓜破は午後三時から。問い合わせは
電話06(6790)5541、同協会長原調査事務所へ
2007年10月13日 00:00 【大阪日日新聞】
暗闇の奥に彩色壁画 国府梶山古墳で一般公開
http://www.nnn.co.jp/news/071013/20071013004.html 鳥取市国府町岡益にある国指定史跡・梶山古墳の壁画の一般公開が十二日始まった。考古学ファンが薄
暗い玄室にうっすらと浮かび上がる彩色(さいしき)壁画に目を凝らし、古代に思いをはせた。十四日まで。
梶山古墳は飛鳥時代の変形八角形墳。古墳の南側には石垣に囲まれた高さ二メートル、幅十四メートル
の大規模な方形壇がある。彩色壁画は一九七八年に中国地方で初めて発見され、長さ五十三センチの魚や
三角文、曲線文、同心円文が描かれている。
一般公開では、地元のボランティアら八人が解説員を務め、入り口から玄室まで八メートル以上ある石室
などを案内。市民らは暗さに目が慣れるまで玄室の奥を見詰め、ぼんやりと浮かぶ壁画を目の当たりにする
と感嘆の声を上げていた。同市片原五丁目の安部美喜男さん(62)は「これだけの墓や絵が残っているのに
感動した。どんな材料で描いたのか不思議」と話していた。
2007年10月13日 11:21 【日本海新聞】
悠久ロマンより深く 盛岡・志波城跡に「官衙」復元
http://www.iwate-np.co.jp/kanko/f2007/f0710/f200710131.htm 盛岡市は同市上鹿妻の国指定史跡志波城跡に、役人が政務を行ったとされる建物、官衙(かんが)
を復元した。案内所としての機能も備え、14日にオープンする。 今年は一帯の志波城古代公園が開園
10周年という節目でもあり、1200年前の悠久ロマンをより深く感じられる施設として期待される。
官衙は志波城の中心である政庁の南東にあった。有識者らで組織する志波城跡史跡整備委員会の
検討と、文化庁からの指導で外観構造を決めた。
板壁に切り妻屋根で、建築面積132平方メートル、高さ5・6メートルの平屋。2006、07年度で整備。
総事業費は約1億2000万円。14日に開かれる志波城まつりで落成式を行う。
建物は展示施設として活用する。城跡について解説するパネルや出土品、執務をする人形が飾られ、
映像コーナーではコンピューターグラフィックスによる政庁正殿の復元画像も見られる。城跡にはこれま
で、小さなプレハブ小屋の案内所しかなく、来場者への解説機能が飛躍的に向上する。
志波城は、朝廷が蝦夷を統治するために803年に造営。1976、77年の発掘調査で確認され、84年
に志波城跡として国史跡に指定された。市教委は保存整備事業を進め、これまでに外回りの土塀や門、
櫓(やぐら)、大路などを復元し、公園として一般に開放している。
役人が実務を行っていた官衙の復元により、これまでの土塀や櫓といった軍事的機能に加え、行政
的機能も表現される。
市教委の宇夫方正人教育部長は「ぜひ訪れて古代のロマンを感じてほしい。映像なども見られるよう
になり、志波城がより身近になると思う」と呼び掛ける。
2007年10月13日 【岩手日報】
古代の水洗トイレ復元 秋田城跡
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/10/20071013t45004.htm(会員制)
奈良時代から平安時代の国の出先だった秋田城跡(秋田市)で、復元作業が進められて
いた古代の「水洗厠舎(かわや)」の便槽部分が12日、完成した。交流があった渤海(ぼっか
い)の国使ら国内外の要人が利用したとされ、秋田城が「北の迎賓館」としてにぎわった様子
が想像できる。
厠舎は秋田市教委の1994、95年の調査で、秋田城東門の南東約160メートルで発見され
た。8世紀ごろのものと推測される。南北約5.6メートル、東西約7メートルの木造平屋で3つ
の個室に分かれ、それぞれに便槽がある。個室内のかめの水をひしゃくにくみ、排せつ物を
流す仕組み。汚水は長さ約6メートルの木のといを通じ沈殿槽にためられ、そこから、バクテ
リアが分解した上澄みが沼地に流れたという。
古代日本の交易や外交の窓口とされる福岡市の鴻臚館(こうろかん)跡のトイレはくみ取
り式で、秋田城の厠舎は国内最先端だったようだ。 復元作業は2006年8月に開始。強化プ
ラスチック製の便槽などの設置が完了した。建物は09年2月ごろの完成が見込まれている。
秋田城のあった出羽国には、中国東北部にあった渤海の国使が訪れた記録が残る。 対
立する朝鮮半島の新羅を避け、来訪したとみられている。
市教委は「秋田城は北の窓口として、国の威信を示すため、生活上一番身近なトイレを立
派にしたのではないか。当時の秋田の重要性や特殊性がうかがえる」と指摘している。
2007年10月12日 21:49 【河北新報】
111 :
その他:2007/10/13(土) 22:33:52
112 :
その他:2007/10/13(土) 22:34:41
113 :
復元園池を一般公開 平泉・柳之御所:2007/10/14(日) 23:34:50
復元園池を一般公開 平泉・柳之御所
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20071014_2 県教委は13日、平泉町の柳之御所遺跡の説明会を開き本年度の発掘調査結果を紹介した。今年3月
に完成した復元園池が初めて一般公開された。
歴史ファンら約120人が集まった。県教委生涯学習文化課の斉藤敏男技術副主幹が「規模は南北40
メートル、東西30メートル。発掘調査の結果に基づき藤原秀衡期の様子を再現している」と説明した。
園池は2005年度に始まった柳之御所復元整備の第一弾。今後は道路や堀、建物などを整備する。
完了は11年度以降の見込み。本年度発掘が行われたのは、同遺跡の東端地区など。西沢正晴文化財
調査員は「発掘調査の結果を復元整備に生かしていく」と解説した。
同日は、平泉町教委による無量光院跡の説明会も開かれ、本年度出土した溝跡などが公開された。溝
は池への導水路だったのではないかと考えられている。
2007年10月14日 08:53 【岩手日報】
南部・聖寿寺館跡で掘立柱建物跡
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2007/20071014084702.asp 中世期の南部氏の居城と伝えられ、国史跡に指定されている南部町の聖寿寺館跡(しょうじゅじ
たてあと)の本年度発掘調査で、掘立柱建物跡三基などが新たに確認された。十三日の現地見学
会で、町教育委員会が報告した。三基のうち、二基は異なる時代の建物跡とみられ、町教委は「城
館の変遷を解明する手がかりになる」としている。
聖寿寺館跡は約十万三千平方メートルの面積。旧南部町教委が一九九四−二〇〇三年度、約
三千九百平方メートルを調査し、竪穴建物跡三十八基、掘立柱建物跡一基を確認。また〇四年に
国史跡に指定された。
町教委は館跡保存などのための整備計画策定へ向け、本年度から発掘調査を再開。本年度は
館跡本体地区の西端約四百平方メートルを調査した。
2007年10月14日 08:47 【東奥日報】
鉄くず排出路を公開 釜石・橋野高炉跡で発掘説明会
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/10/20071014t35007.htm 現存する国内最古の洋式高炉跡として知られる岩手県釜石市橋野町の国史跡「橋野高炉跡」で13日、
今年の発掘調査の説明会が開かれ、新たに見つかった鉄くず排出路とみられる遺構や炭窯とみられる溝
などが公開された。
調査は高炉跡の範囲を確認する目的で、市教委が史跡北側の隣接地約2500平方メートルを対象に20
06年度に始めた。2年目の今年は、高炉から出た鉄くずなどを高温のまま流す排出路とみられる、幅と深
さ約1メートル、長さ約25メートルの溝のほか、現場で使う炭を生産する炭窯とみられる溝などが見つかった。
昨年発見された、磁鉄鉱を焼いて割れやすくするための種焼(たねやき)窯周辺でも同様の窯が新たに
3基見つかった。明治初期に高炉に開設された貨幣製造施設「銭座」をしのばせる鉄銭など約700点も出土した。
市教委生涯学習スポーツ課文化財調査員の森一欽さん(35)は「鉄生産の様子が体系的に明らかになっ
てきた。地域の歴史を見直し、高炉周辺の遺構を含めた保存や利用の在り方を考える契機にしたい」と話
した。説明会は20日も午前10時と午後2時の2回開かれる。
2007年10月13日 23:31 【河北新報】
藤原仲麻呂邸「田村第」 予想より巨大 東西27メートル
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news002.htm 有力貴族、藤原仲麻呂(706〜64)の広大な邸宅「田村第(たむらだい)」があったとされる奈良市四条大
路の平城京跡で見つかった2棟の大型建物跡が、東西27メートルの巨大な規模になる可能性が高いことが
わかった。調査した元興寺文化財研究所は「予想以上の大きさで、田村第にふさわしい建物」としている。
これまでに、奈良時代後半(8世紀後半)の掘っ立て柱建物跡2棟分の柱穴を確認し、いずれも南北約6メ
ートルと確定したが、東西は柱が東へ延び、15メートル分しか確認できなかった。
このため東隣約50平方メートルを調べたところ、柱列(3メートル間隔)が6メートル先まで延びているのを
確認、さらに東へ6メートル続いているのはほぼ確実という。
建物の用途は不明のままだが、規模の大きさから高位の人物が使っていた可能性がさらに高まった。
田村第は、平城宮の南東約700メートルにある一等地。平城京の碁盤目状の1区画(530メートル四方)
の半分を占め、長屋王邸の約2倍の広さだったとされる。
2007年10月13日 【読売新聞】
117 :
その他:2007/10/15(月) 00:16:38
118 :
その他:2007/10/15(月) 00:18:19
119 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 21:38:59
フロイス称賛の庭園跡か? 岐阜、信長館で発掘
2007年10月16日 17時27分
岐阜市教育委員会が、岐阜城の築かれた金華山ふもとの岐阜公園(同市大宮
町)で進めている織田信長の居館発掘調査で、16世紀後半の庭園遺構の一部
とみられる石列などが見つかった。
信長居館の庭園については、信長に会ったポルトガルのイエズス会宣教師ル
イス・フロイスが著書「日本史」の中で、「四つ五つの庭園があり」「(池の
)底には入念に選ばれた清らかな小石や目にもまぶしい白砂があり」などと称賛している。しかし、どこにあったのかは書かれておらず、市教委の担当者は「フロイスが記述した庭の可能性もある」と、今後の調査に期待している。
市教委によると、遺構はこぶし大の丸い河原石約60個と2・5メートルに
わたる石列、堆積した粘土層。池の周囲を石列で囲み、水際の粘土に河原石を
敷いた「州浜」と呼ばれる様式とみられ、建物の跡がないため「庭園としか考
えられない」としている。
(共同)
120 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 21:40:04
121 :
米原市の琵琶湖底で遺跡発見 - 尚江千軒遺跡:2007/10/16(火) 22:49:14
水没村伝承、証明された! 米原市の琵琶湖底で遺跡発見
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007101600030&genre=M2&area=S20 水没村伝承が残る滋賀県米原市沖の琵琶湖の湖底遺跡「尚江(なおえ)千軒遺跡」を調査している
滋賀県立大の林博通教授(考古学)らは15日、京都大防災研究所などと合同で行った筑摩神社境内
など遺跡周辺の地盤工学調査で、同遺跡は、大地震により湖岸の集落などが地滑りし、湖底に没した
と判断できる成果を得た、と発表した 遺跡周辺の地盤状況を把握するための初の地盤工学調査で、
同研究所や大阪市立大大学院と合同で今夏、行った。
筑摩神社境内では、地震の表面波探査を実施。木づちで地面をたたき微弱な人工地震を発生させ、
地盤の揺れの波形データ(S波速度など)を解析したところ、遺跡周辺の地下3メートルまでが硬質で、
地下3−6メートルは軟弱な地盤が広がっていることが判明。その上、硬軟の境界線が境内から琵琶
湖に向かって下方に傾斜し、地滑りしやすい構造になっていることが分かった。
一方、湖上で行った音波探査では、沖合約800−900メートル地点の湖底(水深約8メートル)の
すぐ下部に、地滑りした層の末端の下底と考えられる音波反射面を確認した。
水没時期は不明。 林教授は「出土遺物などから7世紀から16世紀の間に近江北部を襲った大地
震が原因」と推定。京都大防災研究所の釜井俊孝教授は「遺跡周辺の地盤は地滑りを起こしやすい
構造と考えられる。琵琶湖周辺での大地震に対する防災対策を検討する上でも、重要な調査結果」と
している。
■尚江千軒遺跡 奈良・興福寺の寺領を描いた「近江国坂田郡筑摩社並七ヶ寺之絵図」の江戸期の
模写図に描かれている「西邑」と「神立」の2集落と、その中間の筑摩神社の大鳥居周辺が大地震で
水没したと伝わる。林教授のグループによるこれまでの湖底潜水調査で、沖合約280メートル地点で
人工利用されたとみられる約80個の石群や7世紀ごろの須恵器破片が見つかっている。
2007年10月16日 09:53 【京都新聞】
福山城に「舟着き場」跡
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200710160061.html 福山市教委は15日、福山城の御水門遺構をJR福山駅南口整備に伴う試掘調査で確認した。
水路を通じて海からの荷船などが出入りしていた全国でも数少ない舟入状外堀の一部で、物資
や人の往来があったことを示す雁木(がんぎ)の一部や門柱跡も出土した。かつての福山城外堀
は水路で海とつながっていた。入り組んだ形の舟入状外堀に船が着き、御水門をくぐって荷や人
が出入りしていたとみられる。
10月15日 23:36 【中国新聞】
矢倉館遺跡で掘跡や竪穴住居跡など発掘
http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2007/10/16/new0710162101.htm 青森県七戸町教育委員会が昨年度から進めてきた同町の矢倉館遺跡の調査が、十
六日で終了した。これまでに堀跡や竪穴住居跡などが見つかり、町教委は「大きな成果
を上げることができたと思う」と二年間の調査を振り返った。
同遺跡は、町道の交通安全施設整備に伴って昨年度から発掘調査が始まった。調査
面積は約一万千三百平方メートルで、本年度は五月下旬から発掘していた。
発掘調査の結果、縄文時代(約六千年前)の石器の加工場、古代(九世紀末から十世
紀初頭)の焼失された竪穴住居跡二軒と堀跡、中世(十五―十六世紀)の掘っ立て柱建
物跡の柱穴などが見つかった。
住居は、堀跡を境に南北に分かれ、どちらも焼失していた。昨年見つかった住居跡も
焼失しており、町教委の小山彦逸総括主幹は「蝦夷間の抗争で意識的に燃やされた」と
推測する。
住居面積は、北側が約五十平方メートル、南側が二十五平方メートルと大きく差があ
り、階級格差を示していると思われる。また、南側の住居には、敷物と使われた「御座」の
ようなものも発見された。
小山総括主幹は「二年間の調査で矢倉館遺跡の概要をつかむことができた。中世史
の解明につながる裏付けデータも収集でき、満足感がある」と成果を強調した。
10月16日 21:03 【デーリー東北】
親子3代、入魂の随身像 八坂神社の2体、江戸後期の仏師が制作
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007101500060&genre=M2&area=K1E 八坂神社(京都市東山区)の西楼門の両脇に置かれている木造の随身像2体が、江戸
時代後期の親子3代の仏師によって作られていたことが、体内の墨書で確認された。この
時代の彫刻としては出来栄えも良く、顔の表情も写実的な作風だ。
随身像は神社の門を守る神で、門の北側に若相、南側に老相の像がある。それぞれ等
身大で、台に腰掛けた「倚像(いぞう)」。高さは1・1メートルで、ヒノキの寄せ木作りだ。特
に老相の顔の表情はリアルで、額や目の下にしわが彫られ、耳の形や唇なども精密に作
られていた。
墨書によると、制作に当たったのは康音、康伝、康朝の親子3代。東大寺の金剛力士像
などを作った運慶につながる系譜の「七条仏師」を自称しており、銘には安永3(1774)年
と書かれていた。
調査に当たった京都国立博物館(東山区)の主任研究員淺湫毅さん(彫刻)は「人形の
ような表情が多くなる江戸時代後期の彫刻としては、写実的な表情を見せる出色な彫刻作
品」と驚く。
京都大大学院の根立研介教授(日本彫刻史)は「仏師が親子3代で作ることは珍しく、面
白い事例だ。この時期の彫刻としては、バランスやまとまりが良い。祇園社に納めたという
ことは、当時を代表する仏師だったのだろう」と語る。
随身像は、顔の塗料がはげ落ちるなどしており、部分修復中だ。四条通東端にある西楼
門の修復完了と同時に、再び西楼門の脇に置かれる。
10月15日 16:12 【京都新聞】
永徳の作品、一堂に 京都国立博物館で内覧会
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200710150210.html 安土桃山時代を代表する絵師、狩野永徳(一五四三―九○)が描いた国宝や新発
見の作品を中心とした約七十点を一堂に集めた特別展が京都国立博物館(京都市東
山区)で始まるのを前に、報道関係者ら向けの内覧会が十五日、開かれた。
永徳の作品が、これほどの規模で展示されるのは初めてという。
「洛中洛外図屏風(びょうぶ)」「檜図屏風」など国宝五点と重要文化財八点のほか、
「唐獅子図屏風」や弟子の作品も。このほど京都市内で新たに見つかった「洛外名所
遊楽図屏風」も初公開される。
訪れた約七十人は、絢爛(けんらん)豪華な永徳の筆さばきに魅了されていた。
特別展は十六日から十一月十八日まで。問い合わせはハローダイヤル、050(55
42)8600。
10月15日 【中国新聞】
127 :
その他:2007/10/17(水) 00:22:34
129 :
5世紀後半の武具発掘 埼玉・東松山の円墳:2007/10/17(水) 23:00:57
5世紀後半の武具発掘 東松山の円墳 高度な技法 大和政権と関係?
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news001.htm 東松山市教委が同市市ノ川地区で進めている埋蔵文化財の発掘調査で、古墳時代中期
の5世紀後半のものとみられるよろいの一種「横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたん
こう)」や鉄剣、太刀などが発見された。同短甲は近畿地方では多く見つかっているが、関東
地方では珍しく、完全な形で発見されるのは県内では初めて。専門家は「当時の関東地方
の豪族も含めた東アジアの政治関係を調べる上で重要な史料。特に、鉄剣に文字が刻まれ
ていれば一級の史料になる」としている。
貴重な短甲などが発見されたのは、「東耕地3号墳」と呼ばれる円墳(直径約25メートル、
高さ約1・6メートル)。昨年、存在が確認され、今年8月から本格的に調査したところ、今月に
なって全容がほぼ判明。12〜15日に取り上げ作業を行った。
円墳の上部には、ひつぎ(縦約210センチ、横約60センチ、深さ約40センチ)があったと
みられる長方形の穴があり、この部分から鉄製の横矧板鋲留短甲(縦約46センチ、横約43
センチ)が発見された。周辺からは、鉄剣(長さ約61センチ、幅約3・5センチ)や鉄製の太刀
(長さ約78センチ、幅約3センチ)、長さ数センチの鉄製の矢なども見つかった。
発掘を進める同市埋蔵文化財センターや県さきたま史跡の博物館によると、短甲の流通し
た時期や同時に発見された土師器(はじき)から、3号墳は5世紀後半のものと見られる。
短甲には高度な技術が用いられていることから、ここに埋葬された豪族は、「埼玉(さきた
ま)古墳群」(行田市埼玉)にいた豪族や大和政権とかかわりがあった可能性が高いという。
古墳に詳しい大塚初重・明治大学名誉教授(日本考古学)によると、3号墳からは馬具など
が発見されていないため、稲荷山古墳より10〜20年ほど古いと見られる。規模などから、当
時の首長に仕える中小階層の豪族のものらしい。 (一部略)
10月17日 【読売新聞】
志段味大塚・大久手古墳群で初めて方墳確認
http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo071017_1.htm 名古屋市教育委員会は16日、東海地方屈指で市内最大の古墳密集地「志段味大塚・大久手
古墳群」(守山区上志段味)で、初めて方墳を確認した。同市教委は「当時の古墳群の社会構造
を知る上で非常に貴重な発見」としている。
同古墳群は古墳時代中期の5世紀中ごろから6世紀初頭に築造され、古代の東海地方最大の
豪族・尾張氏が作ったと言われている。大久手池の北西に位置し、8基の古墳(総面積約6ヘクタ
ール)がある。
このうち大久手3号墳はこれまで、円形の円墳と見られていたが、今回の発掘調査で一辺が約
15メートルの四角形の方墳と分かった。同古墳群ではこれまでに、ホタテ貝のように見える帆立
貝形前方後円墳4基、円墳3基が見つかっている。
同市教委の藤井康隆学芸員は「前方後円墳は地域全体の統率者、円墳はその配下の者が葬
られた。方墳も、円墳と同様に配下の者が葬られたが、その間にも複数の異なる役職があったこ
とになり、有力勢力の社会構造の解明につながる」と話している。
また、同古墳群内の西大久手古墳からは、5世紀中ごろの馬形埴輪(はにわ)の胴が見つかっ
た。西日本では5世紀前半のものが発見されているが、東海地方以東では最も古いという。
同市教委は28日午前11時から、現地説明会を開催する。問い合わせは市見晴台考古資料館
(052・823・3200)。
10月17日 【読売新聞】
縄文中期の土器に栽培種大豆の痕跡、食生活の多様さ示す
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071017i513.htm?from=navr 山梨県立博物館(山梨県笛吹市)などの研究グループは17日、同県北杜(ほくと)市で出土し
た縄文時代中期(約5000年前)の土器内部に、国内最古の栽培種の大豆が埋まっていた痕跡
を確認した、と発表した。
大豆の痕跡については、熊本県など九州各地で発掘された縄文時代後期(約3500年前)の
土器から見つかっているが、今回の発見はさらに約1500年さかのぼる。専門家は「縄文人は狩
猟、採集のほか、植物も栽培し、従来考えられてきた食生活より多様だった可能性を示す発見」
としている。
大豆の痕跡があったのは、1995年に北杜市長坂町の酒呑場(さけのみば)遺跡から出土した
土器。研究グループが、欠けた取っ手の先端部分の断面に、大豆が埋まっていたとみられる空
洞を発見した。
土器断面に残された植物の種子の跡を、シリコン樹脂で型どり、電子顕微鏡で観察する「レプ
リカ・セム法」で調べたところ、長さ11・9ミリ、幅5・7ミリ、厚さ3・7ミリと判明。大きさや扁平(へん
ぺい)型をしていることなどの特徴から、栽培種の大豆と判断した。同グループでは、土器を作る
時に混ざったと推測している。
国立歴史民俗博物館の西本豊弘教授(環境考古学)は「同様の発見が続けば、これまでの縄
文時代の食生活の定説を塗り替える可能性もある」と話している。今回の発見は20、21日に熊
本大で開かれる日本考古学協会の大会で報告される。
10月17日 22:23 【読売新聞】
http://www.asahi.com/culture/update/1017/TKY200710170329.html 【アカヒ新聞】
古九谷様式の磁器片 旧西有田町から初出土
有田町教委 技術の広範裏付け 広瀬向窯跡群・1号窯跡
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20071017/20071017_001.shtml 有田町広瀬山の古窯跡「広瀬向窯跡群」の1号窯跡から、中国・景徳鎮系で1640年代から技術
の普及が始まった古九谷様式の磁器片が出土したことが16日、分かった。古九谷様式の生産範囲
は旧有田町以外はよく分かっておらず、旧西有田町内から見つかったことで、有田町教委は「古九谷
様式の高い技術が旧有田から旧西有田まで広い範囲にわたっていたことを裏付けた」としている。
同町教委によると、藍色の染付の文様を描いた古九谷様式の皿片や色絵を描く前の白磁片が出
土した。古九谷様式は初期伊万里に続く様式で、それまでと高台幅が広い点などの違いがある。旧
有田町の古窯跡以外ではほとんど見つかっていなかった。
有田磁器は1650年ごろから東南アジアなどへの輸出が始まるが、1号窯跡も輸出品を作った窯
の1つとみられ、窯の壁に補修跡がないことなどから1650年代から60年代の比較的短期間に使わ
れた窯であることも分かった。
村上伸之(のぶゆき)学芸員は「広瀬向窯跡群は長期に使われた有田町の窯跡群の中で実態が
分からない代表格だった。古九谷様式を生産していたことを含め徐々に分かり始めた意味は大きい」
と話す。
町教委は20日午前10時と午後2時の2回、調査内容を紹介する現地説明会を開く。問い合わせ
は町教委文化財課=0955(43)2678。
10月17日 00:39 【西日本新聞】
九谷磁器窯跡 加工痕跡 赤石地層を発見
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20071017/CK2007101702056999.html 加賀市調査 古九谷発祥地解明に光
加賀市は十六日、同市山中温泉九谷町の国指定史跡「九谷磁器窯跡」の試掘調査で、色絵原料
の赤石を大量に含んだ江戸時代前期とみられる地層を発見したと発表した。この時代に同所に赤石
加工所があった可能性が高く、佐賀県有田と産地論争がある古九谷にも赤絵が使われており、市は
「古九谷の発祥地を探る手がかりになるかもしれない」としている。
赤石の層が出た場所は、同史跡窯跡から約五十メートル離れた旧県道部分。地下約一・六メート
ルに赤石が約二十センチの厚さで堆積(たいせき)していた。赤石は酸化鉄の塊で、大聖寺川上流域
で産出される。焼き物の色絵では主に赤の原料となり、黄色の釉薬(ゆうやく)として使うこともできる。
田嶋正和・市文化振興室長は「近くに加工所があって、捨てられたものがたまったのではないか。
今回、初めて(絵付け材料の)加工痕跡を発見できた」と評価する。
同所は大聖寺藩士が書いた紀行文にも「朱(赤)をはたきたるところ」と紹介されており、再興九谷
の吉田屋窯(江戸後期)以前の遺構として注目される。今後、周辺をさらに試掘し、古九谷制作時期
のろくろ成形や釉薬がけなどをした工房跡がないか調べる。
このほか、旧県道の下になり調査できていなかった吉田屋窯跡のたき口部分も確認。これまで推
定約十六メートルとされていた窯の全長を確定できるという。
試掘調査は市の史跡整備事業に向け、国の補助を受けて本年度から五年計画で実施している。
10月17日 00:00 【中日新聞】
県美術館所蔵の古九谷と伝統工芸品を展示
http://www.hab.co.jp/headline/news0000000127.html 10月17日 11:37 【北陸朝日放送】
134 :
その他:2007/10/18(木) 00:23:20
遊郭開場350年 地元イベント開催危機 吉原ふぇすた 警察『待った』
江戸の遊郭「吉原」が東京・浅草の北(現・東京都台東区千束の一部)に移転して今年で
三百五十年になるのにちなみ、地元商店会が来月十一日に開くイベント「江戸吉原 花魁
(おいらん)ふぇすた」に、管轄する警視庁浅草署が“待った”をかけた。現地は全国一と
いわれるソープランド街で、その収益が「暴力団の資金源にもなっている」として、道路使用許可を
出さない構えだ。主催者側は「江戸文化を伝えたいだけなのに」と困惑。都も助成金交付を決めた
イベントが窮地に陥っている。 (丹治早智子)
計画によると、イベントは、吉原地区の主要通りを「花道」に見立てて繰り広げられる「お練り」
と、「座敷」に見立てた特設舞台での演目が二本柱。お練りでは、吉原地区の主要通りを通行止めに
して、江戸消防記念会の木やりを先頭に、花魁道中、かっぽれ、日野新選組同好会(日野市)らの
新選組隊士演舞などがパレードする。
特設舞台では、吉原を舞台にした小説「吉原手引草」で本年度の直木賞を受賞した
松井今朝子さんのトークもある。
イベントの発端は「このままでは“ソープ街”というレッテルをはられたまま、町が荒(すさ)んで
しまう」と、危機感を抱いた住民有志や町会が昨年、まとまったのがきっかけ。そば店など
二十二店舗(ソープランドは含まず)で吉原商店会(片桐桂視会長)を発足し、街の活性化策と
して企画したのが「ふぇすた」だった。
東京新聞(2007年10月17日 夕刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007101702057052.html
136 :
その他:2007/10/18(木) 05:45:45
善光寺に鎌倉時代の造成跡 幕府挙げての寄進裏付け
長野市教育委員会は18日、同市の善光寺境内にある元善町遺跡で、鎌倉時
代の大規模な土地造成による石積みや盛り土などが見つかったと発表した。源
頼朝や北条氏が善光寺を深く信仰、鎌倉幕府を挙げて建物を寄進したとする歴
史書の記述を裏付ける初めての遺構発見という。
遺跡は善光寺南側の「仁王門」の東側。発掘した区画の南側に直径60−9
0センチの石を1列に並べた石積みがあり、粘土を突き固めてのり面が崩れな
いようにした上で、北側に約1メートルの高さまで土が盛られていた。盛り土
の上面は水平にならされ、建物の礎石とみられる石が3カ所に配置されていた。
また盛り土には10−12世紀の土器片や、鎌倉時代前期に登場した「巴文」
の瓦片などが大量にまじっており、鎌倉時代初期から半ばの造成と判明。焼け
た壁土なども見つかり、境内で大きな火災が起きた後、整地したとみられる。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007101801000528.html
銅鐸は金と赤の2種類?=「形や色で使い分け」−奈良
弥生時代の祭りに使われたとされる銅鐸(どうたく)は、色で金と赤の2種
類に分類できる可能性が高いと、奈良県田原本町教育委員会が18日、発表し
た。銅鐸はこれまで形態で分類されていたが、分析を指導した奈良文化財研究
所の村上隆上席研究員(歴史材料科学)は「当時の人が、形や色で銅鐸を使い
分けていたことも考えられる」と話している。
同町の唐古・鍵遺跡から出土した銅鐸片(紀元前2〜同1世紀ごろ)と、加
茂岩倉遺跡(島根県雲南市、紀元1世紀ごろ)出土の銅鐸をそれぞれ金属分析
した結果、判明した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007101800742
しゃちほこの「先祖」民家が保管 新宮城で使用の可能性
白浜町才野、古瓦収集家の塚本昭生さん(69)が、しゃちほこの基となった
鴟吻(しふん)を入手した。日本城郭史学会の西ケ谷恭弘代表によると、形や
大きさから1500年代後半〜1600年代前半に製作され、城の天守閣を飾
っていた可能性が高い。塚本さんは近く瓦の専門家に年代鑑定を依頼する。
鴟吻は伝説魚名。鎌倉時代に中国から渡来し、室町時代に寺院建築に広まり
始めた。天守閣に初めて取り入れたのは安土城とされ、後に魚体のまま顔が虎
や竜に変化して、鯱(しゃち)と呼ばれるようになった。三重県鈴鹿市の伊勢
神戸(かんべ)城、兵庫県姫路市の豊臣秀吉が築城した旧姫路城などの鴟吻が
現存しているが、和歌山県内で確認されたのは初めて。
塚本さんの入手した鴟吻は高さ約50センチの雌。尾ひれと胸びれは欠損して
いるが、ほぼ原形をとどめている。新宮市の民家で倉に眠っていたもので、1
875年の新宮城(丹鶴城)取り壊しの際に引き取り、保管してきたと伝えら
れている。今回、ほかにも鬼瓦と棟飾り瓦を入手。いずれも城に使用される型
で、鴟吻と同時代の可能性が高い。(つづく)
(
>>139のつづき)
塚本さんは「初めて見たときは興奮した。しゃちほこは城の顔。現存しない
城の全体像を探る大きな鍵になる。貴重な文化財が流出せず、郷土に残ってい
たことがうれしい」と話している。
新宮城は1618年、紀州藩主だった浅野長晟(ながあきら)の二男・忠吉
が築城に着手。浅野家は国替えで移封されたが、紀州徳川家の付家老・水野家
が城主となり、水野重良が完成させた。現在は石垣が残っている。
県内の城に詳しい日本城郭史学会の水島大二委員(和歌山市)は「現段階で
は新宮城のものと断定は難しいが大変興味深い。さらに研究したい」と話して
いる。
新宮城に関する史料は少なく、塚本さんは情報を求めている。古瓦収集の同
好会もつくりたいという。連絡は塚本さん(0739・45・4545)へ。
【戦国末期〜江戸初期に製作されたと思われるしゃちほこの基となる鴟吻(し
ふん)。城の天守閣を飾っていた可能性が高い=白浜町才野で】
('07/10/19)
ttp://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=133699
桜町遺跡で古代北陸道の跡見つかる
http://www2.knb.ne.jp/news/20071018_13272.htm(映像あり)
小矢部市の桜町遺跡で今から1200年前の奈良時代に作られた北陸道と見ら
れる道の跡が見つかりました。
小矢部市の桜町遺跡では縄文時代の出土品が相次いだ場所から東へ300m
の産田地区で、今年5月から発掘調査が行われています。そして、奈良時代から
平安時代にかけて作られたと見られる道の跡が見つかりました。 道は幅が6m、
長さ20mで、昭和59年と平成5年の調査でも同様のものが見つかっています。
小矢部市教育委員会では、過去と今回の跡が120mに渡って直線につながる
事や文献の記録などから、古代の「北陸道」の跡と見ています。また、この道の跡
の西側には、16棟分の掘立柱建物の跡があり、集落があったと見られています。
現地では20日午前10時から説明会が開かれます。
10月18日 18:05 【北日本放送】
糸魚川市の山岸遺跡に住居跡
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=2&newsNo=3143 県教委が調査している糸魚川市田伏の山岸(やまきし)遺跡から、13世紀末のものとみられる掘
立柱(ほったてばしら)建物跡が見つかった。このうち2棟は中世前期の住居跡としては阿賀野市の
大坪遺跡に次ぐ大きさ。また、同地域の地頭を務めた名越(なごえ)氏の家紋が細工された銅製品
の一部も出土したことから、県埋蔵文化財調査事業団は「この場所は、名越氏が治めていた沼河
(ぬながわ)郷(沼川保)の中核的集落と考えられる」と話している。
名越氏は、鎌倉幕府の執権などを務めた北条氏の一族。
建物は20棟以上あり、大きい2棟は164平方メートルと124平方メートルの建物。この2棟には回
廊状の施設で連結した跡があった。このほか、水路の途中で水をためる石敷土坑1基、石組井戸
1基、区画に使われたとみられる石列などがあった。いずれも鎌倉―室町時代にかけてのものとみ
られる。
名越氏の家紋「輪違(わちが)い3つ傘(かさ)」が細工された銅製品の一部は何に使われたもの
かは不明。このほか、鉄瓶か釣り灯籠(とうろう)とみられるつまみが付いた鉄製のふた、壁や垣に
使われた可能性がある板材を編んだ網代(あじろ)などが見つかった。
同遺跡は面積1万4700平方メートル。北陸新幹線、国道8号糸魚川東バイパス工事に伴い、昨
年から調査が行われている。
20日午前10時と午後1時15分から、現地説明会が行われる。問い合わせは、同事業団、0250
(25)3981。
10月18日 00:00 【新潟日報】
京都府内3例目、シカの線刻土器出土 長岡京・土地の繁栄祈願?
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007101800036&genre=M2&area=K30(画像あり)
京都府長岡京市の「神足遺跡」で出土した弥生式土器片の中から、シカの線刻画が17日まで
に見つかった。府内で過去に2例しかなく、立派な角を持った雄ジカと分かった。
首が長く立派な角の雄ジカで、市埋蔵文化財センターは「農耕や土地の繁栄を祈る祭祀(さいし)
に使ったものでは」とみている。
昨年7月から11月にかけて企業敷地内の土地を発掘調査した際に見つかった。縦約8センチ、
横約6センチの土器片で、同センターが出土遺物の整理をしたところ、高さ約5センチ、幅約4セン
チのシカが描かれていたことが分かった。
奈良時代の「風土記」にもシカの血で田やコメを清めるなどの記述があることから、同センターは
「シカは土地の精霊だったのでは」とみる。弥生文化博物館(大阪府和泉市)によると、シカの線刻
画は全国の出土例のうち半数近くが奈良県に集中しており、京都府内では福知山市と久御山町で
の確認例があるだけという。
この土器片は、11月2−4日に長岡京市奥海印寺の同センターで開く「速報展」で展示される。
10月18日 09:20 【京都新聞】
寺院の存在裏付け 鎌倉−室町期の遺物発見、寒河江「上の寺遺跡」
http://yamagata-np.jp/newhp/kiji_2/200710/18/news20071018_0344.php(画像あり)
県埋蔵文化財センターが発掘調査を進めてきた寒河江市の慈恩寺近くにある上(かみ)の
寺遺跡で、鎌倉時代から室町時代にかけての石塔、青磁などの遺物が17日までに見つかっ
た。同寺の文献では、発掘現場近くに寺院があったとの記述があり、今回の発見はその内容
を裏付ける結果となった。21日に発掘調査の現地説明会を開く。
遺跡は慈恩寺がある山の東側山腹にあり、斜面に階段状に平場が造成されている。現在
はサクランボなどの果樹園となっており、県の寒河江中央地区農免農道整備事業に伴い、慈
恩寺地区と日和田地区にまたがる広さ約3650平方メートルで今年5月から、発掘調査が行わ
れていた。
慈恩寺の文献によると、遺跡西端の北側に隣接する場所に鎌倉時代中期、薬師三尊や十
二神将の像を納めた薬師堂があったとされ、薬師堂は後に聞持院(もんじいん)と称した。江
戸時代初期に廃れ、像は現在の本堂脇に移されたという。発掘調査でも、薬師堂跡の近辺と
みられる溝の跡から、それぞれ板碑、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔という石塔の一
部が見つかった。
13世紀(鎌倉時代)の中国製とみられる青白磁や、茶釜を置く「風炉(ふろ)」、すり鉢、15世
紀(室町時代)の青磁椀(わん)の破片など、寺院の敷地の一部であったことをうかがわせる
遺物も次々と出土した。同センターは「慈恩寺に関連する初の大規模調査であり、その歴史
の一端が明らかになった意義は大きい」と話している。 (下略)
10月18日 11:07 【山形新聞】
「永原御殿」遺構を初確認 野洲 南端で馬屋跡見つかる
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007101800165&genre=M2&area=S10(画像あり)
江戸時代初期の幕府直営の宿泊所「永原御殿」跡(滋賀県野洲市永原)を調査している野
洲市教委は18日、御殿南端から馬屋跡が見つかったと発表した。同御殿の遺構が確認され
たのは初めて。馬屋跡は御殿の建築設計図(指図)に示された位置と一致し、市教委は「御
殿の全容解明に向け重要な手掛かりになる」(文化財保護課)としている。
永原御殿は徳川家の将軍が京都へ赴く際に利用した施設で、朝鮮通信使の通った「朝鮮
人街道」沿いにある。1634年の3代将軍家光の宿泊を最後に、1685年に廃止された。
市教委が御殿南端の三の丸にあたる140平方メートルを調査したところ、1634年に作製
された設計図通りの位置から、馬屋建物の土台となる礎石8基のほか、多数の瓦が出土した。
礎石の一つ(幅26センチ、高さ39センチ、厚さ13センチ)は石仏が転用されていた。
設計図から馬屋の規模は幅約6メートル、奥行き約70メートルと推定され、同課は屋根は
瓦とこけらで葺(ふ)かれていたとみている。
20日午前10時から現地説明会を行う。問い合わせは同課Tel:077(589)6436。
10月18日 20:14 【京都新聞】
珍しい地図の複製発見、佐渡
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=2&newsNo=3147 佐渡市下相川のゴールデン佐渡の所蔵品に、全国的にも珍しい江戸時代の地図の写しが
複数含まれていることが、18日までに分かった。地図研究者らでつくる「伊能忠敬研究会」(東
京都)が、このほど同市を訪れ、確認した。
佐渡金山を運営する同社は、江戸時代以降の絵図や巻物など1600点以上を所蔵。このうち、
江戸時代後期に活躍した佐渡奉行所の絵師、石井夏海・文海親子の子孫が所蔵していた地図
が23点あるという。
同会が佐渡を視察に訪れた際に、伊能忠敬が測量した地図の写しも所蔵している同社に立
ち寄り、23点のうち十数点を鑑定。「地球輿地(よち)全図」(縦143・5センチ、横140・8センチ)と
「断裂世界図」(縦33・4センチ、横100センチ)の2点に資料的価値が高いことが認められた。
「地球輿地全図」と呼ばれる図は、伊能と同時代の人で、かかわりの深かった地図作者山田
聯(れん)が作った木版地図。日本を含む地球の4分の1を記している。見つかった写本は木版
を原寸大で綿密に筆で模写し、原版にはない彩色を独自に施した。同会によると、木版刷りの
図は国内で4、5点ほどだが「手で描いた写しが見つかったのは初めてではないか」という。
「断裂世界図」は、地球を4枚のだ円に分けた「ゴア」と呼ばれる地球図。原本は1680年ごろ
にヨーロッパで作られたとみられ、架空の大陸「メガラニカ」が描かれている。同図は神戸市立
博物館など国内ではこれまでに2点しか見つかっていないという。
同会の渡辺一郎名誉代表は「佐渡奉行所の絵師、石井夏海・文海親子が地図を借りて写し
たとみられる。江戸と直結し、当時の知識の最先端が佐渡にあったことが分かる」と分析。ゴー
ルデン佐渡の永松武彦社長は「島内だけでなく県内でも展示会を開くなど、できるだけ多くの
人に見せていきたい」と話している。
10月18日 00:00 【新潟日報】
橿考研博物館秋季特別展と第59回正倉院展から
<特集> 神宿る動物たち
http://osaka.yomiuri.co.jp/shosoin/news/st71018b.htm(画像あり)
人間は古来、様々な動物とかかわり、その姿に聖なる力を感じたり、神を見たりして文様に
写してきた。奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)付属博物館で開催中の秋季特別展「金の
輝き、ガラスの煌(きら)めき」では、藤ノ木古墳(6世紀後半、同県斑鳩町)出土の豪華な馬具
や装身具などの副葬品に、27日から奈良国立博物館で開幕する第59回正倉院展では、8世
紀代などの多彩な宝物に、そんな異国の動物たちが生き生きと描かれている。古代のシルク
ロードを駆け巡った彼らの姿を追った。(編集委員・坪井恒彦、柳林修)
藤ノ木古墳に副葬されていた金銅製馬具や冠、鏡など。そこには象や獅子、鳳凰(ほうおう)、
龍、虎、女神が乗るガンジス川のワニが原型とされる摩伽羅(まから)など、空想のものを含め
10種以上の動物意匠が採用されている。
正倉院宝物でも今回出陳される「羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」に描かれた
羊や猿、鳥をはじめ、象や獅子、駱駝(らくだ)、犀(さい)、麒麟(きりん)などが数多く登場する
。羊は西アジアの山岳地帯にすむ山羊(やぎ)がモデルとされ、3〜7世紀のササン朝ペルシャ
で文様化された。
藤ノ木古墳と正倉院の間に年代差はあるが、象や獅子、鳳凰など、共通する大陸の動物文
様も少なくない。 (長文につき下略。続きはリンク先で。)
10月18日 【読売新聞】
148 :
その他:2007/10/19(金) 00:27:23
>>141関連
桜町遺跡 木枠の井戸など発見
http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20071019/CK2007101902057596.html(画像あり)
産田地区 古代北陸道も20メートル
小矢部市教育委員会は十八日、同市桜町の桜町遺跡産田地区で進めている発掘調査で、奈良、
平安時代に使われた古代北陸道が過去の発掘に続いて確認され、木の板を内枠として組んだ井戸
なども見つかったと発表した。
縄文時代の遺構や遺物で知られ、約四十万平方メートルと広大な桜町遺跡。その一部である産
田地区は縄文遺跡から約三百メートル東の国道8号沿いにある。調査は桜町遺跡周辺整備事業と
して道の駅建設を予定する約七千六百平方メートルを対象に五〜十二月ごろの計画で実施。今回
の調査地南側では一九八四(昭和五十九)年度と九三年度にも発掘が行われた。
古代北陸道は、この過去二度の調査で確認された道とつながる形で見つかった。道幅六メートル、
長さ二十メートルで、道の両脇には側溝もあった。過去に確認された道と合わせると全長約百二十
メートルに及ぶ。
道の西側では、奈良、平安期の庶民が住んだとみられる掘っ立て柱建物跡十六棟を確認。うち四
棟は倉庫と推測される。わんや瓶、杯、つぼなど庶民の暮らしに使われた須恵器や土師(はじ)器も
見つかった。
一方、井戸は道の東側で発見。内側に木の板を六〜七段の高さで組んだ一辺一・二メートルの
方形枠が残されていた。この時代の庶民の井戸は素掘りが一般的で、高い技術で作られているの
は珍しく、住民以外が作った可能性もあるらしい。
同市教委は「遺跡からは北陸道に沿って栄えた古代集落の形成と変遷を知ることができる」として
いる。二十日午前十時から市民向けの現地説明会を開く。問い合わせは市教委文化スポーツ課=
電話0766(67)1760=へ。
10月19日 00:00 【中日新聞】
大小のシカ彫った弥生後期の土器片 大谷遺跡
http://www.nnn.co.jp/news/071019/20071019006.html(画像あり)
鳥取県米子市教育文化事業団は十八日、同市大谷町の大谷遺跡(縄文−弥生時代)から、大小
のシカをモチーフにしたとみられる弥生時代後期の絵画土器の破片一点が出土したと発表した。絵
画土器の発見は同市内で三例目だが、複数のシカを彫った土器の出土は県内では初めて。弥生時
代中期の水田跡も二十区画以上見つかっており、大谷遺跡が二百メートル東側の目久美遺跡と連
なり、現時点では山陰最大となる十ヘクタール規模の水田が広がっていた可能性も出てきた。
大谷遺跡の調査面積は約千平方メートル。大型のつぼの破片とみられる絵画土器は、弥生時代
後期の水路から発見され、縦十一センチ、横六センチ、厚さ一センチ。左側には小型の四本足の動
物が彫られ、右側の絵は大半が欠けてはいるが、大阪府の瓜生堂(うりゅうどう)遺跡から出土した
シカの線刻のある土器と似ており、シカの首と足の部分とみられるという。
絵画土器の発見はこの地域で農耕儀礼が行われていたことを裏付ける。大規模集落遺跡から出
土することが多いため、大規模水田跡が発見された目久美遺跡から、水路を伝って流れてきた可能
性もある。
また、今回の調査では四−十メートルのあぜに囲まれた二十五−六十平方メートルの大きさの
水田跡も見つかった。水田跡は目久美遺跡と同じ時期に川砂で埋没しており、弥生時代後期に洪
水があったことが判明。大谷・目久美の両遺跡が一連の遺跡であることを想像させる。
現地説明会は、二十一日午後二時から。同事業団埋蔵文化財調査室の佐伯純也主任調査員(35)
が遺跡を解説する。
10月19日 09:32 【日本海新聞】
鴻臚館 海側にも施設? 福岡市教委 砂丘と瓦片を確認
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20071019/20071019_008.shtml 福岡市教委は18日、同市中央区の平和台球場跡で発掘調査を進めている古代の迎賓館「鴻臚
館」跡(国指定史跡)で当時の砂丘を確認、そこから無数の瓦片が見つかったと発表した。主要施設
の客館に当たる鴻臚「南館」「北館」に加え、海岸部に関連施設があった可能性が高まった。
市教委によると、砂丘は北館跡からさらに約20メートル北で確認された。北館の北側は当時(7世
紀後半‐11世紀半ばごろ)の博多湾に面しており、そそり立つがけだったことも判明。北館と砂浜の
高低差は4メートル以上あったとみられる。こうしたことから、鴻臚館は海岸直近の高台に建設され、
海からの外敵に対する防御機能を備えていたと推測される。
砂丘から瓦片が見つかったことで、がけと海の間に関連施設が存在した可能性も浮上。今後の調
査で、海岸部から建物跡が見つかることも期待される。
また、がけ下からは焼損した平安期の建物礎石などが新たに見つかり、鴻臚館が火災に遭ったこ
とが判明。鴻臚館の廃絶時期は11世紀半ばとされ、文献には1047年に「大宋商客宿坊(だいそう
しょうきゃくしゅくぼう)」(鴻臚館)放火犯を捕縛したという記録が残ることから、出土物の被災時期を
調査し、記録との関連を調べる。
鴻臚館跡は1987年に発掘調査開始。20年にわたる調査で主要施設の客館規模を確定したが、
厨(みくりや)(台所)、倉庫、博多湾の警備に当たった警固(けご)所などの関連施設は見つかって
いない。
市教委は20日午前10時から午後3時まで現地説明会を開く。鴻臚館跡調査事務所=092(721)0282。
10月19日 00:28 【西日本新聞】
歴史公園整備へ 構想策定を確認 鴻臚館調査指導委
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20071019/20071019_006.shtml
>>138 奈良の唐古・鍵の銅鐸、島根・加茂岩倉と似た成分比
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20071019p301.htm 弥生時代の大規模環濠(かんごう)集落「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」(奈良県田原本町)の工
房跡(紀元前1世紀ごろ)で出土した銅鐸(どうたく)の破片が、国内最多の39個が見つかった加茂
岩倉遺跡(島根県雲南市)の銅鐸の一部と金属成分比率が似ていることがわかり、同町教委が18
日、発表した。同種の合金の延べ板を使って鋳造された可能性があり、専門家は、この当時、大和
と出雲地方の間に何らかの交流があったことを示す資料として注目する。
銅鐸片は縦7センチ、横6センチ、厚さ7〜9ミリ。2000年の調査で、遺跡(42ヘクタール)南東部
の工房跡から出土。失敗品の破片らしい。町教委の依頼で奈良文化財研究所の村上隆・上席研究
員(歴史材料科学)が一部を切り取り、「誘導結合プラズマ法(ICP)」などで構成元素の比率を分析
した。
銅鐸は豊作を祈るための祭器として使われたとされ、銅とスズの合金である青銅から鋳造される。
調査した銅鐸片は、銅92・75%に対し、スズが2・83%しかないのが特徴で、10円玉に似た赤銅
色だったらしい。同研究所が過去に測定した加茂岩倉遺跡の銅鐸計39個のうち、つり手の縁に飾り
がある「外縁付鈕(がいえんつきちゅう)式」と呼ばれる、紀元前2〜1世紀の銅鐸11個の比率と似て
いた。
唐古・鍵遺跡は、土器、銅製品などの生産拠点だったとされる。出雲地方では加茂岩倉、神庭荒
神谷の両遺跡で、全国の銅鐸総数の1割近くが出土しており、独自の古代文化の象徴となっている。
島根県立古代出雲歴史博物館の松本岩雄・学芸部長は「銅鐸の一部は大和で作られ、出雲にも
たらされたかもしれない。さらに科学分析を進めることで、新たな視点が出てくることを期待したい」と
話している。
銅鐸片は、田原本町の田原本青垣生涯学習センターで開催中の企画展「ヤマト王権はいかにし
て始まったか」で展示されている。
10月19日 【読売新聞】
野洲・亀塚古墳は円墳の可能性 造出の確認できず
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007101900154&genre=M2&area=S00 滋賀県野洲市教委は19日までに、国史跡「大岩山古墳群」の1つで古墳時代中期の亀塚古墳
(同市冨波甲)の墳形が、従来考えられていた帆立て貝型ではなく円墳である可能性が高い、と発
表した。
史跡整備に伴い約80平方メートルを調査した。同古墳は直径約25メートルで、5世紀後半の築
造とみられる。従来は古墳西側に突出部の「造出(つくりだし)」を持つ帆立て貝型の墳形と考えられ
ていたが、古墳周囲を3カ所試掘したところ、造出は確認できず、円墳と判断した。
調査では板でたたいて表面に木目を浮かび上がらせた円筒埴輪(はにわ)や、5世紀後半の須恵
器の破片なども出土した。市教委は同古墳を、野洲川右岸地域に勢力を誇った有力な豪族の墓と
みている。
亀塚古墳の半径150メートル以内には、同古墳群の中の冨波古墳(3世紀中期)、古冨波(ことば
)山古墳(同後半)があり、市教委は「大岩山古墳群の形成過程や首長系譜の変遷を知る上で重要
だ」(文化財保護課)としている。
20日午後11時半から現地説明会を行う。雨天決行。
10月19日 21:04 【京都新聞】
首長級の大型古墳か 長岡京・6世紀中期の横穴式石室跡が出土
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007101900031&genre=M2&area=K30 京都府長岡京市長法寺の発掘現場から古墳時代後期にあたる6世紀中ごろの横穴式石室跡が
見つかったと、長岡京市埋蔵文化財センターが18日、発表した。大型古墳と見られ、この地域の首
長クラスの墓の可能性も出ている。
同市の長法寺小校舎建て替えに伴う発掘で、調査地は約180平方メートル。出土した石室の大
きさは幅約2メートル、長さ約5メートルだった。古墳全体の形状や石室全体の大きさは不明だが、
直径16メートル以上の大型古墳と推測される。
石室の左側壁の最奥部に位置していたとみられる石が一つ残っており、この石には石室を解体し
た際のくさび跡も付いていた。また、石室内の土から焼け跡が見つかったことから、明治初期の小学
校建設の際に石室の石を焼いて粉砕したのではないかとみている。
組み合わせ式石棺の石には内部を装飾したと思われる赤色顔料が付着していた。黒色粒子の少
ない特徴を持つ凝灰岩が使われており、大阪以東では出土例のない石が使われていた可能性があ
る。調査を担当した長岡京市埋蔵文化財センターは「推定される規模と組み合わせ式石棺の存在か
ら、この地域の首長墓かもしれない」としている。
10月19日 【京都新聞】
都会の真ん中で卒塔婆が大量出土 大阪市の再開発地域
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200710190111.html(画像あり)
大阪市教育委員会と市文化財協会は19日、同市阿倍野区阿倍野筋1丁目の再開発地域で、
15世紀末〜16世紀初めの卒塔婆(そとば)100点以上が出土したと発表した。都市の中心部で
中世の卒塔婆が大量に出土するのは珍しく、文化財協会の難波宮調査事務所は「中世の追善供
養の様子を示す、貴重な資料だ」と話している。
卒塔婆が見つかったのは市営地下鉄谷町線とJRの天王寺駅南西の阿倍野再開発事業地。適
度に水分を含んだ土地だったことから、木材が腐らずに残ったと見られる。
一帯は古墳時代から中世の集落遺跡で、現場は当時、台地の斜面にある小さな川だった。卒塔
婆は東西5メートル、南北2メートルの範囲でまとまって出土した。状況から、用が済んだ卒塔婆を
まとめて川に流したものと見られている。完全なものは長さ約70センチ、幅約8センチ、厚さ約0.5
センチ。墨書で、お経や供養の目的、供養される人の戒名、「卒塔婆を実際に立てたなら、必ず極
楽に往生できる」などという意味の言葉などが書かれているという。
大阪城天守閣の松尾信裕館長(中近世考古学)は「周辺に追善供養ができるぐらいの集落があっ
た可能性を示す。この時代の集落の生活を知る貴重な手がかりになる」と話している。
現地説明会は27日午後1時半から。問い合わせは市文化財協会(06・6943・6836)。
10月20日 【アサヒる新聞】
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007101900870 【時事通信】
桜木町誕生時の姿判明 明治初期の絵図発見
http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20071019/7810.html(画像あり)
県内随一の歓楽街、富山市桜木町ができた明治初期の様子を詳しく描いた版画と肉筆画が相次
いで見つかり、十八日までに同市が購入した。桜木町一帯は富山藩十代藩主、前田利保(としやす)
が江戸後期の嘉永二(一八四九)年、隠居所として建てた千歳御殿と庭園があった場所。二点の新
資料から、庭園の築山や池を中心にした初期の桜木町の全体像が明らかになった。同市郷土博物
館は二十七日から、千歳御殿をテーマにした特別展で公開する。
版画は「越中之国富山桜木町一覧」と記され、縦三十四センチ、横四十八センチ。肉筆画は裏面
に「富山妓楼(ぎろう)桜木町之図」とあり、縦四十四センチ、横八十八センチ。いずれも作者不詳。富
山市の古美術商、県外の個人から同博物館に情報提供があり、三月に肉筆画、八月に版画を購入
した。
千歳御殿は富山城本丸の東に位置し豪華で個性的な建築だったが、完成から六年後の安政二
(一八五五)年、大火で焼失。その後再建されたが、簡素なものだった。御殿に隣接した庭園は、地
図などの断片的な情報があるだけで、具体的な様子は分かっていなかった。 (中略)
同博物館の坂森幹浩主査学芸員は、明治十五(一八八二)年に撤去された船橋が配されているこ
となどから、明治初期の様子とみる。肉筆画も同様の情景が描かれており「利保は千歳御殿だけで
なく庭園にも趣向を凝らし、遊園的な性格の強い豪華なものを作った。華やいだ場所だからこそ、新
川県が桜木町を造ったとも考えられる」と話している。
10月19日 15:14 【北日本新聞】
158 :
その他:2007/10/20(土) 01:24:23
159 :
その他:2007/10/20(土) 01:25:11
大森勝山遺跡環状列石、縄文晩期構築強まる
http://www.mutusinpou.co.jp/news/07102004.html(画像あり)
弘前市教育委員会は19日、旧石器時代と縄文時代晩期の遺跡として知られる弘前市の大森勝山遺跡の今年
度の調査結果を報道陣に公開した。同遺跡は国史跡指定を目指し、昨年度から3カ年計画で調査しているもので、
今年度は環状列石の全面検出などを実施した。その結果、環状列石は77基の組石からなり、直径49メートルか
ら39メートルの楕円(だえん)を形成し、全国の同種の遺跡に比べても規模が大きいことが改めて確認された。出
土物などから遺跡が縄文時代晩期に構築された可能性が強まった。
大森勝山遺跡は、岩木山北東部にあり、大森川と大石川に挟まれた遺跡。旧石器時代と縄文時代晩期のもの
とされ、1959年から61年にかけて弘前市教委が発掘調査した。当時、日本最大級と言われた大型竪穴住居や
環状列石、後期旧石器時代のナイフ形石器(2002年度に県重宝指定)などが検出され、注目を集めた。
今回の発掘により、同遺跡の環状列石の特徴として、構築の際、台地を一部削った後、盛り土をして造成したこ
とや盛り土の外周傾斜部に外周全体を囲むように組石が配置されていたことが分かった。組石は環状に配石した
ものや重ね合わせて配石したものなどさまざまな形態があった。
列石内部では県内で縄文時代晩期に多くみられる円盤状に加工された石製品が大量に出土。組石内にも確認
された。 (中略)
市教委文化財保護課は「構築年代や用途については調査中。県内では縄文晩期に多く見られる粗雑な石製品
の検出などから、縄文時代晩期の可能性が高くなった。列石については、規模が大きいことから縄文晩期となると
全国的にも珍しい」としている。
同遺跡では22日、29日の2日間、一般に開放する。時間は午前10時から午後4時まで。
10月29日 【陸奥新報】
×10月29日 【陸奥新報】
○10月20日 【陸奥新報】
奈良の長屋王、京米が支えた 左京の男性が木簡調査
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007102100007&genre=M2&area=K1D 京都市左京区の木簡研究家の男性が、奈良時代の宰相、長屋王の邸宅跡(奈良市)から出土した木
簡を詳細に調査し、現在の京都市伏見区と南区にまたがる旧紀伊郡の5村落からまとまった量の米が届
けられていたことを示す記述を見つけた。「長屋王家が直接経営をしていた水田とみられ、市南部が大規
模な穀倉地帯だったことが裏付けられた」と主張している。
野菜文化史研究センター(左京区)の代表、久保功さん(69)。1988年出土の長屋王の木簡約3万
5000点について、各地から運ばれた野菜の記述を長年調べている。
今年6月、伏見稲荷大社(伏見区)での講演を前に、奈良文化財研究所発行の長屋王家木簡の概報で
同大社近辺の記述を調べた。その結果、石原里、大里(現在の南区吉祥院)鳥羽里(南区上鳥羽から伏
見区下鳥羽一帯)岡田里(伏見稲荷大社の北付近)紀伊里(伏見区中心部)の旧紀伊郡の各集落から米
一石ずつが長屋王家に届けられていたことを示す記述を見つけた。
久保さんによると、府内では、現在の右京区京北や綾部市から米が送られたことを示す長屋王家木簡
があるが、今回のようにまとまった量の米ではないという。旧紀伊郡一帯は渡来人の秦氏が開発したとさ
れ、約2000年前の農耕遺跡集落も確認されていることから、「大規模な稲作地帯だった」と推測する。
奈文研史料調査室は「米は讃岐や近江など3つの国が中心だったが、それに次ぐ存在として、久保さん
が紀伊郡をまとまりとしてとらえたのは評価できる」としている。
久保さんは伏見稲荷大社の機関誌などで発表した。「お稲荷さんのご利益がなければ木簡の記述を見
つけられなかったと思う。奈良の都を伏見などの地域が支えてきたことを子どもたちに伝え、地域の活性
化につなげてほしい」と話している。
10月21日 09:25 【京都新聞】
赤井遺跡:最大級の建物跡発掘 「政庁に付随の脇殿か」−−東松島 /宮城
http://mainichi.jp/area/miyagi/archive/news/2007/10/19/20071019ddlk04040296000c.html ◇あす現地説明会
古代官庁跡と見られる東松島市の「赤井遺跡」の発掘調査を進めている市教委は18日、これまで
の調査で最大級の掘っ立て柱建物跡を発掘したと発表した。大溝と材木列塀で方形に区画された内
側の中心部に当たることから、「牡鹿柵の政庁跡に関連する極めて格の高い重要な建物の可能性が
強い」としている。
同遺跡は、東西約1・7キロ、南北約1キロに広がる縄文時代からの複合遺跡。奈良時代の史書「続
日本記」に記されている「牡鹿柵」と見られ、旧矢本町時代の86年から発掘調査が続けられてきた。奈
良・平安時代の役所跡を示す遺構が多数発掘されたが、牡鹿柵を裏付ける「政庁跡」の位置や建物跡
は未解明となっている。
今回の調査は、従来調査で発掘された大溝や材木列塀跡から、中心部の位置を推定。約440平方
メートルを対象に調べた。
この結果、飛鳥時代の材木列塀や掘っ立て柱建物、竪穴住居跡のほか、奈良時代の一本柱跡や
掘っ立て柱建物跡が見つかった。飛鳥時代の材木列塀は、関東地方からこの地域への集団移住で形
成された集落を囲む形で設けられたと見られ、建物規模も小規模だった。
奈良時代の遺構は、いずれも南北を基軸にしたもので、最大の建物は南北17・7メートル。柱穴は
75〜120センチの隅の丸い方形で、柱痕跡の直径は28センチ。東西幅は未発掘で正確には不明だ
が、規模からみて、格の高い建物の可能性が高い。
市教委の佐藤敏幸主任学芸員も「発掘地点が遺跡のほぼ中心部で、建物規模から政庁に付随す
る脇殿との推測もできる」今後の調査に期待をかけている。市教委は20日午後1時半から一般への現
地説明会を開く。【石川忠雄】
10月19日 【毎日新聞】
山田寺跡から金堂壁画の断片、国内最古級の可能性 奈良
http://www.asahi.com/culture/update/1019/OSK200710190105.html 奈良県桜井市の山田寺跡(7世紀、特別史跡)の出土品に、国内最古級の壁画の断片が含まれて
いたことが19日、奈良文化財研究所の研究でわかった。12世紀後半に焼失したとみられる金堂(643
年創建)に描かれた仏画の一部だったらしい。絵柄は不明だが、同県斑鳩町の創建法隆寺(若草伽藍
(がらん)、7世紀初め)に次ぐ壁画の可能性がある。
78年に実施した発掘調査の出土品整理中に見つかった。壁画片は大(縦9センチ、横6.8センチ)
と小(縦6.3センチ、横6.5センチ)の2点。彩色はほぼ焼失しているが、色を塗った跡らしい曲線文様
などが残っていた。
山田寺は、蘇我入鹿(?〜645)のいとこの蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
(?〜649)が641年に着工したとされる。
断片は、同研究所飛鳥資料館(同県明日香村)の特別展「奇偉荘厳(きいしょうごん) 山田寺」で公
開中。
10月19日 23:33 【アサヒる新聞】
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20071020p301.htm 【読売新聞】
縄文後期の土木工事跡 川尻石器時代遺跡
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000710190004(画像あり)
相模原市教委文化財保護課は18日、同市城山町にある国指定史跡の川尻石器時代遺跡の発掘
調査で、史跡の中央部分で縄文時代後期(約3500年前)以降に、土を削りとって造成された「中央窪
地(くぼち)」を確認したと発表した。こうした縄文後期の造成工事跡が確認されたのは県内初で、周囲
に積み上げて土手状にした「環状盛土(もりど)遺構」の可能性が高いと見ており、当時の集落のあり
方を研究するうえで貴重な発見だという。(小川太一郎)
■「当時の集落研究に貴重」
今回の発掘調査では、遺跡北部の集落地区に、3カ所の調査区(長さ30メートル幅2メートル2カ
所、同25メートルは幅2メートル1カ所)を設けて行われた。その結果、縄文後期の土器、石器、土偶
などの遺物を包含する地層の下層にあるべき中期以前の地層や同時代の遺物を含む地層が認めら
れず、ローム層(旧石器時代)の直上まで後期の遺構・遺物が分布していることを確認した。
この調査区周辺では中期以前の遺物包含層があることが以前の調査でわかっており、史跡中央部
分では縄文後期以降に土を削り取り掘り下げられたことがわかったという。中央に出来た窪地は、南
北約80メートル、東西約50メートルの広さで深さは約50センチあるという。
同課の中川真人学芸員によると、「環状盛土遺構」として著名な栃木県小山市の寺野東遺跡や千葉
県佐倉市の井野長割遺跡などでは、中央部分の土を削り取り、窪地を取り囲むように縁に積み上げて
土手状にした盛土の上に住居跡が発見されている。数百年かけて造成されたとみられ、窪地は墓地や
祭事の公共空間として利用されたという。
今回の川尻遺跡の調査では同様の盛り土は確認できなかったが、中川さんは「この中央窪地のよう
な土木工事跡は、これまで類例がなかった関東地方南西部の縄文後期の集落を考える上で貴重な発
見だ。今後の調査では盛り土の場所や掘られた土がどこに運ばれたかを調べたい」と話す。(下略)
10月19日 【アサヒる新聞】
西九大ハドソン准教授 沖縄で先史時代人骨発見
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&blockId=671055&newsMode=article 沖縄・宮古島の歴史解明に取り組んでいる西九州大リハビリテーション学部のマーク・ハドソン准教
授(44)=神埼市=が今年7月、5―8世紀より前とみられる人骨を発掘した。大きさなどから人骨は少
なくとも2体。12世紀ごろまでの宮古島の「先史時代」では2例目の人骨発見で、謎に満ちた島の歴史
を解明する貴重な手がかりになりそうだ。
発掘場所は、島北部の内陸部にある17―18世紀の風葬跡「長墓」付近の貝塚。昨年の調査で貝
塚を深さ50センチ掘ったところ、貝斧(かいふ)や5―8世紀の魚の骨などを発見した。
今年7月の調査で、前回よりさらに50センチ掘った場所から大腿骨(だいたいこつ)や上腕骨、頭骨
の破片など、成人と子どもの少なくとも2体の人骨を発掘。現在、骨を分析中で放射性炭素年代測定
は行っていないが、昨年の調査を踏まえ「人骨は5―8世紀よりも前と考えられる」(ハドソン准教授)と
いう。
沖縄では縄文、弥生時代という区別はせず、12世紀ごろまでを「先史時代」と呼ぶ。宮古島では、南
部の内陸部にあるピンザアブ洞穴から2万年以上前とみられる人骨が出土しているが、それ以外に人
骨は発見されていない。今回の発掘で未解明の同時代の歴史をひもとく可能性が広がり、地元研究者
などから注目を集めている。
ハドソン准教授は「貝斧などから宮古島の先史時代は東南アジアなど南からの影響を受けていると
考えられる。だが、人については分かっておらず、どこから来たのか、どんな生活をしていたのかなど
を解明できれば」と話す。
10月21日 08:00 【佐賀新聞】
3―4世紀の田げた大量出土
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200710200058.html(画像あり)
島根県埋蔵文化財調査センターは、大田市仁摩町の庵寺遺跡で、弥生時代後半から古墳時代前
半の田げた35点が出土したと発表した。田げたはぬかるんだ水田に入るための農具で、一つの遺跡
からの出土点数は県内最多。同センターは「3―4世紀の農具の保管・管理方法をうかがう手掛かりと
して重要な発見」と評価している。庵寺遺跡の調査は、国道9号仁摩温泉津道路の建設事業に伴い、
今年4月から始めた。
10月20日 【中国新聞】
仁王さまは室町生まれ? 瑞浪・桜堂薬師、江戸中期に改修
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20071020/CK2007102002057680.html 解体修復作業が行われている瑞浪市指定文化財の桜堂薬師仁王像が、江戸中期に改修され、最
初の制作は予測されていた三百年前より百五十年ほど古い室町時代とみられることが、内部の銘板
や造形技法から分かった。
仁王像は、瑞浪市土岐町の桜堂薬師仁王門に立つ高さ約三メートルの「阿形(あぎょう)」「吽形(う
んぎょう)」の二体。老朽化により、五月に桜堂薬師から運び出され、愛知県瀬戸市の「宗教美術工房」
で調査と修復作業が行われている。
今回の解体で、吽形像の内部から取り出された銘板の記述から、仁王像が約三百年前に改修され
たことが判明。おなかを太らせたり、肩幅を広げたりと、当時の流行に合わせて、より力強い像に変え
られたらしい。また、研究者が造形技法を詳しく調べた結果、室町時代のものであることが推測される。
十七、十八日には瑞浪市民らが同工房を訪ね、取り出された銘板や、破損個所に接ぎ木をして補修
された仁王像を熱心に見学した。
仁王像の修復は来年二月まで続き、表面は、赤みがかった茶色に塗られる。瑞浪市の桜堂薬師に
戻るのは三月の予定。
10月20日 00:00 【中日新聞】
「藩主のお宿」の証しを発見 増田の旧家内蔵から木札
http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20071020j 横手市増田町の旧家の内蔵から、秋田藩主・佐竹氏のお宿となったことを記す木札が見つかった。
「佐竹右京太夫宿」との墨書で、杉の鞘(さや)に収まっていた。佐竹史料館(秋田市)によると、藩の筆
耕の専門家が揮毫(きごう)し、藩主が下賜したとみられ「藩主宿泊の証しである札が見つかったのは
県内で初めて。藩主巡覧の様子を知る上で貴重な資料。初代藩主・義宣、九代・義和(よしまさ)、十二
代・義堯(よしたか)のいずれかが泊まった際に、掲げた可能性が高い」と語っている。
札が見つかったのは、同市増田町中町、書店経営東海林正さん(59)宅の内蔵。東海林さんは、戦
国時代の増田城主・土肥家の家老を務め、秋田藩時代には十代藩主・義厚(よしひろ)から名字永代
使用を認められた旧家の十六代目当主。現在の母屋は大正時代に改築、蔵は明治2年の建造。
札は9月中旬、蔵の日の公開に備え、棟札など資料を探していた際に、宝珠の透かしがある杉の鞘
に入った状態で2階のつり天井にあった。縦97センチ、横35センチ、厚さ2センチ。裏面の下部には、
くいを付けたとみられる溝が彫られている。
佐竹史料館の日野久館長(58)が調べたところ、佐竹家お家流とみられる太字の「佐竹右京太夫宿
」の書の右側に「五月三日」と記されていた。「東海林家の家系から推して藩主が泊まったことは事実
だろう」と日野館長は話す。
木札は21日まで増田地域で行われる「蔵の日」イベントで展示される。
10月20日 15:02 【秋田魁新報】
171 :
その他:2007/10/22(月) 01:52:59
弥生時代の銅戈2本出土 長野、東日本に青銅文化か【画像あり】
長野県埋蔵文化財センターは22日、中野市の柳沢遺跡で、弥生時代の青銅
製祭器「銅戈(どうか)」が2本出土したと発表した。保存状態は極めて良く
、同センターは「東日本で完全な形の銅戈が出土したのは初めてではないか」
と説明。弥生時代、この地域にも西日本のように青銅器を使用した文化圏が存
在した可能性を指摘している。
同センターによると、出土した銅戈は全長32・3センチ、最大幅13・9
センチと、全長36・0センチ、最大幅17・2センチの2本。ともにやりの
穂先に似た形。地面から約1・5メートル下で2本が密着して埋納されている
ような状態で見つかった。形式は畿内で出土する大阪湾型の可能性が高いとい
う。
銅戈はそれぞれ17日と19日に出土し、同センターがさらに遺物がないか
調査している。
銅戈は古代中国の武器で、大陸から朝鮮半島を経由して日本に伝わり、後に
祭器になった。
(共同)
ttp://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2007102201000630.html
173 :
鹿児島:2007/10/23(火) 00:25:13
大隅初 弥生の環濠集落/鹿屋市串良・西ノ丸遺跡
土器1万点超、装身具も出土【画像あり】
鹿屋市串良町の西ノ丸遺跡で、集落を外敵から守るために掘られたとみられ
る弥生時代中期(約2000年前)のV字形の溝が見つかった。溝の周辺で弥
生時代中期から古墳時代の竪穴住居跡が約40基確認されており、環濠(かん
ごう)集落であったと思われる。同市教育委員会によると、環濠集落としては
大隅半島で初めてとなる。
溝は深さ1.5メートル、幅は最大で2.5メートル。琉球大学が9月に地
下レーダーで調査、集落の周りを円を描くように掘られていることが分かった。
溝の中からは、かめやつぼなど1万点を超える弥生時代中期の土器が出土し
ている。ほかに管玉などの装身具や石鏃(せきぞく)も見つかった。
同遺跡は肝属川と串良川の合流地点近くにあり、同市教委文化課の稲村博文
主任は「(環濠集落は)標高の高い台地で見つかるが、今回は標高4メートル
という低い場所で珍しいケース。交通の要衝であり、稲作地帯にも近い便利な
場所に集落がつくられており、当時の生活を解明する上で貴重な資料になる」
と話している。
同遺跡は農業水路建設工事に伴い、昨年11月から2月まで確認調査が行わ
れ、現在は埋め戻されている。同市教委は、はぎ取ったV字溝の断面を、出土
品の一部とともに串良歴史民俗資料室(くしらふれあいセンター内)に常設展
示している。同センター=0994(63)5030。
ttp://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=7241
174 :
東京:2007/10/23(火) 00:29:22
遺跡:渋谷で見つかる 大規模な縄文、弥生の集落 /東京
10月21日12時1分配信 毎日新聞
◇周辺住民「何らかの方法で保存を!」
JR渋谷駅まで徒歩10分の渋谷区鶯谷町で、大規模な縄文、弥生時代の集
落遺跡が見つかった。元々は集合住宅があった1・6ヘクタールの土地に、大
手不動産会社が大型マンションの建設を計画。着工に先立ち、文化財の発掘を
したところ、竪穴式住居跡や貴重な土器、石器などが次々に出土した。都心で
見つかった古代の出土品の数々に住民からは「何らかの方法で保存を」と声が
あがっている。
遺跡が発掘されたのは渋谷の道玄坂近くの住宅街。渋谷駅までは約600メ
ートル、東急東横線代官山駅まで約500メートルの距離。元々は外国人向け
の低層住宅があったが、大手不動産会社「住友不動産」(新宿区)が05年に
土地を買い取り、地上6階のマンション建設を計画している。
今年6月、文化財保護法で、企業に義務付けている予備調査を実施したとこ
ろ、縄文、弥生の複合集落遺跡が見つかり、本格的な発掘調査が始まった。
見つかったのは4000〜2000年前とみられる縄文、弥生時代の集落群
。土器や石器、黒曜石の石碑などが見つかり、竪穴式住居の柱の跡が多数見つ
かった。台地で居住環境がいいことが、集落形成の要因となったとみられる。
区によると、同地域周辺ではこれまで、縄文、弥生の集落は見つかっている
が「これほど大規模な発掘は初めて」という。近くに住む男性(78)は「こ
んな都会の真ん中で古代の遺跡が出てくるなんて驚き。何らかの方法で保存を
検討してほしい」と訴えている。
発掘は今年末まで続けられ、その後、区により調査結果がまとめられる。住
民らの意見を踏まえ、出土した土器や石器、集落跡の写真などを区内の博物館
で展示保存するという。【杉本修作】
10月21日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071021-00000135-mailo-l13
出雲で人面付き土器の破片が出土
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=444574004(画像あり)
出雲市文化財課は二十二日、発掘調査を進める同市上塩冶町の築山(つきやま)遺跡で、縄文時
代末から弥生時代前期に作られたとみられる人面付き土器の破片が出土した、と発表した。祭祀(さ
いし)に使われたとされる人面付き土器は、関東や中部地方で出土例が多いが、西日本では珍しいと
いう。
破片は一辺四センチで、両目や鼻、鼻孔が表現され、土器表面の縁部分に付いていたと同課はみ
ている。深さ一・五メートルの土の中から見つかった。
島根県内ではこれまで、近くの三田谷1.遺跡と飯南町の小丸遺跡で一点ずつ、同時代のものとみ
られる鼻の部分が残った破片が発見されており、同課は「今回の出土品と形状が同様で、それらも人
面付き土器の破片と確認できた」とする。
考古学専門の山田康弘島根大法文学部准教授は「関東や中部の人面付き土器と、顔の表現が違
う。出雲は東西の交流拠点として、独自の文化を形成していたのではないか」と話している。
人面付き土器の破片は、近くの築山古墳4号墳の出土品と合わせ、二十七日午前十時から同十一
時までの現地説明会で展示する。問い合わせは現場事務所(電話0853・23・9240)。
10月22日 21:32 【山陰中央新報】
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200710230037.html 【中国新聞】
44年前出土の木簡 実は正倉院級 聖武天皇ゆかり
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200710220085.html(画像あり)
44年前に奈良・平城宮跡で出土した木簡2点が、聖武天皇(701〜56)に直接かかわる重要資料
だったことがわかった。改めて調査した奈良文化財研究所が22日、明らかにした。漬けものや火鉢の
札と思われたものが当時貴重品だったお香の入れ物や香をたく炉を示す札とわかったためで、同天皇
ゆかりの品々を納める正倉院の文書に匹敵するという。
いずれも、聖武天皇が住んだ平城宮の内裏そばのごみ捨て穴で1963年に出土した1785点の一
部。他の木簡に残る年号から、難波宮などを転々とした聖武天皇が平城宮に戻った745(天平17)年
から翌々年にかけてのものとわかり、今年5月、重要文化財に指定された。
同研究所は、出土当時にはなかった赤外線撮影などで調べた。その結果、「搗香漬(とうこうづけ)」
の木簡(長さ4.1センチ、幅2.4センチ、厚さ0.4センチ)が「搗香櫃(ひつ)」とわかった。当初の解読
では「漬けもの」のこととされたが、実は細かく砕いたお香(搗香)の「櫃」(箱)だった。「御殿内(ごてん
ない)火爐(か・ろ)一口(いっく)」の木簡(長さ16.2センチ、幅2.3センチ、厚さ0.3センチ)も、「御殿
(内裏の正殿)の火鉢1個」との解釈が「香炉1個」に変更された。 (
>>177へ)
一向一揆「最後の砦」 二曲城郭、鮮明に 石川・白山市で遺構発見
http://www.hokkoku.co.jp/news/HT20071022401.htm(画像あり)
一向一揆の「最後の砦(とりで)」として鳥越城跡とともに国史跡に指定されている白山市上出合の
二曲(ふとげ)城跡の発掘調査で、新たに城を防備する「空堀」と石積みの防御線「石塁」などが二十
一日までに確認された。山頂に設けられた本丸「一の郭(くるわ)」の周囲に点在する複数の遺構が見
つかったことで、尾根などを巧みに利用した山城の全容が浮かび上がった。
二曲城は、約一キロ離れた「お城山」に築かれた鳥越城とともに一向一揆衆が織田信長方に対す
る拠点とした。一五八〇(天正八)年に金沢御坊を落とした柴田勝家らによって落城したが、山城の存
在を示す絵図や古文書は見つかっておらず、規模は謎となっていた。
白山市教委の調査で新たに見つかった空堀は、一の郭から約二百メートル離れた尾根に位置し、
深さ約一・五メートル、幅約二・五メートル。全長は不明だが、一部とみられる長さ三メートルの堀を
確認した。尾根伝いの山道を遮る形で造成されており、水を張らない空堀と推察される。平時には通
路として利用する「土橋(どばし)」も見つかった。
一の郭の南側斜面で発見された石塁は、自然石を積み上げた形態で、長さ約十一メートル、高さ
約八十センチ。石川県埋蔵文化財センター(金沢市)によると、鳥越城などの石組みと比較して「土着
的な様式」という。このほか、二の郭からは敵の侵入を阻むL字形の出入り口「虎口(こぐち)」が見つ
かった。
県埋蔵文化財センターでは「空堀は最も外側の防衛線と考えられる。中世の山城の構造を示す遺
構としても貴重だ」としている。
二曲城跡は市教委が二〇〇四(平成十六)年度から発掘調査を開始。中国製の青磁なども見つ
かっている。市側は来年度も調査を継続する方針で鳥越城と同様の史跡整備を検討する。
市教委は「霊峰白山と山麓(さんろく)の文化的景観」の世界遺産登録に向け、市内の史跡や文化
財の調査を加速させている。昨年の文化庁への申請では「鳥越城附二曲城跡」として資産に挙げて
おり、今回の発掘調査結果も世界遺産登録実現の材料としたい考えだ。
10月22日 02:42 【北國新聞】
国史跡「比曽寺跡」で墓地を無断造成 奈良・大淀町の寺
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200710220053.html(画像あり)
聖徳太子創建と伝えられる飛鳥時代の「比曽寺(ひそでら)跡」として境内が国史跡になっている奈
良県大淀町の世尊寺(せそんじ)(本山一路住職)が、文化財保護法に基づく文化庁の許可を受けず
に墓地約300平方メートルを造成していたことがわかった。発掘調査を終えておらず、古代から中世
にかけての遺構が破壊された可能性もあるという。同庁は県教委などに調査を求める方針。
関係者によると、墓地がつくられたのは本堂から20メートル北西側。3年前、檀家(だんか)(約50
世帯)の要請を受けて旧来からある霊園を西側へ幅15メートル、長さ20メートル拡張し、25区画を
造成。檀家がすべて買い取ったという。
同寺は92年、霊園の南側を幅8メートル、長さ15メートル拡張する現状変更許可申請書を文化庁
に出し、同庁は事前の発掘調査を指示。寺は「重要遺構が出土する可能性が高い」として造成を断念
したが、今度は元は畑だった西側を同庁に申請することもなく、無許可で04年に造成したという。
文化財保護法では、史跡の現状変更は文化庁長官の許可が必要で、違反すると、「原状回復」が
命じられる可能性もある。県教委は「すでに墓石もあり、今後の対応は文化庁の判断に委ねるしかな
い」と困惑気味。文化庁記念物課は「墓地の造成が、史跡の価値にどの程度影響しているのか、県教
委や町教委に発掘調査などによる報告を求めたい。史跡の土地利用は、宗教活動に必要なものは認
められるが、地下遺構の保全が前提だ」と話す。
比曽寺は日本書紀にも記述がある古寺。薬師寺式に近い伽藍(がらん)配置で、白鳳期の瓦も出
土し、7世紀後半にはすでに存在したとされる。寺名を何度も変えながら、平安時代には山岳密教の
拠点として栄えたという。本山住職は「現状変更の手続きに時間がかかるため、寺経営の都合もあり、
急いで無断で造成してしまった。反省している」とする一方、「参拝者の少ないへき地の寺院の経営は
苦しい。史跡の維持管理はもう限界」と訴える。
10月22日 【アサヒる新聞】
180 :
その他:2007/10/23(火) 02:06:33
近江国庁関連の建物跡2棟発見 大津・中路遺跡 倉庫や厩に使用か
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007102400049&genre=M2&area=S10(画像あり)
大津市神領2丁目の中路遺跡から、奈良時代中期から平安時代にかけての2棟の大型礎石建物
跡が見つかったと大津市教委が23日、発表した。建物跡の規模や、近くから見つかった瓦の破片に
刻まれた文様や文字から、近江国を統治していた「近江国庁」に関連の官衙(かんが)(役所の建物)
跡とみられ、市教委は「近江国庁の実態を解明する上で貴重な資料」と話している。
見つかった礎石建物跡は、幅がいずれも2間(6メートル)、長さは7間(21メートル)と5間(15メー
トル)の2棟。柱穴は直径1メートル前後と大きく、礎石はなくなっていたが、礎石の下に敷かれる「下
石」は数多く残っていた。柱穴と柱穴の間に床を支える「束柱(つかばしら)」のものとみられる小さな
柱穴も確認された。
建物跡の近くには、大量の瓦の破片が1カ所にまとめて捨ててあった。破片には国庁関連の遺跡
でも発見されている「飛雲文」と呼ばれる文様や、修理用に使われたことを示す「修」の字が刻まれた
ものが含まれていた。
同市教委は「国庁に関連する官衙だったことは間違いない」としたうえで「束柱があり、構造的に頑
丈なことから、倉庫や厩(うまや)などに使われていたのでは」と話している。
近江国庁は8世紀中ごろから10世紀にかけて、近江国を統治していた。中路遺跡は近江国庁跡の
南西400メートルにあり、発掘調査は1991年に滋賀県教委が行って以来2度目。
現地説明会は27日午前10時半から行われる。小雨決行。
■規則的に丘に建設
林博通・滋賀県立大教授(考古学)の話 ほかの近江国庁関連の遺跡同様に、中路遺跡も小高い
丘の上にあり、官衙が規則性を持って丘陵地に配されていたことが一層明確になった。国庁周辺に碁
盤目状の都市計画があったとする説が根強いが、今回の発見でさらに見直す必要性が強まった。
10月24日 10:06 【京都新聞】
各務郡の役所跡か 掘立柱建物跡群を発掘
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20071024/200710240806_3152.shtml(画像あり)
県教育文化財団文化財保護センターは23日、各務原市蘇原青雲町の広畑野口遺跡で、飛鳥時
代から奈良時代の役所・官庁にあたる官衙(かんが)に関連する遺構の可能性が高い、掘立柱建物
跡群を発掘したと発表した。専門家は、各務郡の郡衙の一部である可能性が極めて高いと推測して
いる。
発掘されたのは、7世紀後期から8世紀の掘立柱建物跡4棟。うち1棟は桁行(けたゆき)2間、梁行
(はりゆき)7間あり、当時の集落跡など同様の建物跡と比べても大きいのが特徴。4棟はいずれも柱
穴は方形で等間隔に並んでいる。
建物跡は8世紀前半の地方官衙に多い真北方位をとっている。調査では、役人の必需品である円
面硯(すずり)5点や転用硯が多数出土。建物跡に隣接する土坑からは1000点以上の須恵器が出
土した。
同センターは、掘立柱建物跡は官衙に関連する遺構の可能性が高いとしているものの、建物群を
区画する溝などが確認されておらず、官衙のどの部分を構成するかは不明としている。
同遺跡は各務原台地中位面の西端にあり、周辺一体が遺跡の集中地区になっている。指導調査
員の八賀晋三重大名誉教授は「調査場所は山田寺跡の南方に位置する。寺を維持する施設は寺院
の裏側にあることから、各務郡の郡衙の一部である可能性が極めて高い」とコメントしている。
現地説明会は27日午後1時30分から行われる。問い合わせは同センター、電話058(237)8553。
10月24日 08:06 【岐阜新聞】
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20071024/CK2007102402058660.html 【中日新聞】
久米高畑遺跡で官衙関連施設1棟発掘 松山
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20071024/news20071024146.html 松山市教育委員会と市埋蔵文化財センターは24日、同市来住町の久米官衙(かんが)遺跡群の一
部・久米高畑遺跡69次調査で、官衙(古代の役所)の関連施設とみられる7世紀後半―8世紀の掘っ
立て柱建物跡が1棟見つかったと発表した。小規模で、主要施設ではなく実務的な部署があったとみら
れるが、同センターは「官衙の広がりを考える上で興味深い資料」としている。
調査は回廊状遺構の西側に官衙施設があるかを確認する目的で8月から実施。同掘っ立て柱建物
跡は同遺構の西約50メートルの地点で見つかった。南北3・75メートル、東西推定約6メートル。柱穴
が方形で、これまでに見つかった官衙施設と同様にほぼ真北を向いていることから関連施設と位置付
けた。
一方、土師器(はじき)の皿を垂直に埋めた12世紀末―13世紀とみられる柱穴1個を発見。県内で
は同様の発見があると周辺から有力者の施設が見つかることも多いため、同センターは「中世も有力
者が一帯を拠点にしていた可能性がある」としている。弥生時代の竪穴住居跡や柱穴なども見つかった。
10月24日 16:45 【愛媛新聞】
酒船石遺跡でベニバナ花粉を確認 奈良・明日香
http://www.asahi.com/culture/update/1024/OSK200710240073.html 奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡(7世紀、国史跡)と飛鳥寺南方(なんぽう)遺跡(7世紀
後半)で、ベニバナの花粉が大量に見つかっていたことがわかった。分析した奈良教育大の金原正明准教
授(古環境学)が24日、大学院の特別授業で披露した。飛鳥寺南方遺跡は染織工房らしいが、亀形石造
物などがある豪華園地の酒船石遺跡のベニバナ花粉は用途不明。金原准教授は「殺菌・防腐効果のある
ベニバナ液で、貴人がみそぎをしたのではないか」と推論している。
00年に同村教委が酒船石遺跡を発掘調査した際、亀形石造物から北西に延びる石組み溝(幅約2メー
トル、全長14メートル以上)の土を分析した。その結果、天武・持統両天皇の時期(673〜97)である7世
紀後半〜末の土から、全花粉量の約30%にあたるベニバナ花粉がみつかった。風による大量飛散のない
虫媒花のベニバナの花粉としては、けた外れに多い。
同遺跡は、南側の丘陵にある酒船石から水を流してプール状の亀形石造物や石組み溝を通したと考え
られ、祭祀(さいし)場や庭園などとの見方がある。金原准教授は「外見上、染織にかかわるとは思えない。
ベニバナの薬効を知る高貴な人が、みそぎに使ったのでは」とみる。
一方、飛鳥寺南方遺跡は酒船石遺跡の西約100メートル。1992〜93年に見つかった石組み溝(幅
0.8メートル、全長24メートル以上)の土から花粉を検出した。こちらは濃度約85%で、そばに染織場が
あったと推定される。
〈飛鳥の古代遺跡に詳しい黒崎直・富山大教授(考古学)の話〉 おもしろい発見だ。酒船石遺跡は貴人の
占いの場だと思うので、占いの前後にベニバナ花粉の入った濃いオレンジ色の水を流し、何らかの儀式を
したのではないか。
10月25日 09:10 【アサヒる新聞】
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071024i417.htm 【読売新聞】
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/071025/arc071025a.shtml 【奈良新聞】
唐津・中原遺跡 防人が作った土器出土 8世紀後半 相模国の技法示す
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20071025/20071025_001.shtml(画像あり)
佐賀県唐津市教委は24日、「防人(さきもり)」の存在を裏付ける木簡が全国で初めて見つかった中原
(なかばる)遺跡で、防人が作ったとみられる8世紀後半の土器が見つかったと発表した。地元の土を使い、
「相模国」(現在の神奈川県)で特徴的だった技法を施しているという。木簡と同様に防人のルーツや生活
を伝える新たな資料として注目される。
土器は口径約14センチ、高さ約4センチ。技法は金属製のヘラで形を整える「手持ちヘラケズリ」という
もので、表面にできる細かい溝が特徴。今年9月、関東地方の遺跡や土器研究者らがこの土器を調べ、
相模国の者が扱う技法と確認した。
同遺跡周辺は当時の地方役所「郡衙(ぐんが)」があった場所で、防人が警備していたとされる。同市教
委によると、8世紀後半は任期終了後も九州に留まり再登用される関東出身者が多く、土器製作者もその
1人らしい。
防人に関しては、日本書紀や万葉集など文献では知られていたが、同遺跡出土の木簡から「甲斐国」
(現在の山梨県)出身の防人などの記述が2年前に判明。初めて物的資料としてその存在が証明された。
唐津市の古代の森会館で30日から11月25日まで、同遺跡出土品の展示がある。同市教委文化課=
0955(72)9171。
10月25日 00:08 【西日本新聞】
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&blockId=674263&newsMode=article 【佐賀新聞】
藤原京、横大路南側で溝2本出土 平城遷都後に規模縮小か
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/071024/nar0710240302001-n1.htm 国内初の本格的都城・藤原京(694〜710年)を東西に貫いた古代の幹線道路「横大路」跡とされ
る橿原市八木町の発掘現場で、横大路の南側を区切る道路側溝2本が、奈良文化財研究所の調査
で見つかった。1本は藤原京造営時に造られ、すぐ北側の溝は奈良時代(710〜794年)のものと判
明。横大路の側溝が平城遷都に伴って造り替えられ、道路幅が狭くなった可能性が高く、当時の都市
計画の様子を知る上で貴重な資料となりそうだ。
現場は近鉄大和八木駅南側で、大和信用金庫八木支店の移転・新築に伴って調査。藤原京時代
の溝は幅2.5メートル、長さ10メートル分を検出し、約2メートル北では、この溝を埋めて新たに造ら
れた、東西に並行して伸びる溝(幅1.5メートル、長さ10メートル)が見つかった。
横大路は、過去の調査で道路幅が25〜30メートルと推測されていたが、今回の調査によって、平
城遷都を契機に道路幅が約2メートル狭くなった可能性が高まった。
同研究所では、藤原京と難波宮(大阪市)を結ぶ幹線道路として利用された横大路が、平城遷都以
降は役割が変わり、規模が縮小されたとみている。現地説明会は行われない。
10月24日 03:02 【産経新聞】
>>172 現場保存に頭悩ます 柳沢遺跡の銅戈発見で県教委
http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20071024/CK2007102402058640.html 伊勢湾以東で初めて完全な形で武器形青銅製祭器の銅戈(どうか)二本が発見された中野市の柳
沢遺跡。県教育委員会は、遺跡の全容を解明する発掘を継続して新たな大発見を期待しながら、史跡
指定を見越した現場保存に頭を悩ませ始めている。
今回の発掘は、千曲川の築堤工事前の調査として実施されており、計画では遺跡は壊されて堤防に
埋もれる。文化財・生涯学習課は「歴史上重要な発見となれば、史跡指定も考えなければならないが、
人命、財産にかかわる堤防工事のため、地元の理解が必要」と説明する。
遺跡の調査、保存について専門的な助言をする県遺跡調査指導委員会の委員からは「現場の保存
が難しいと判断されれば、(青銅器が出土した付近の)遺構をそのままほかの場所に移築しては」との
案も出ている。
弥生時代の青銅器研究を塗り替える発見の可能性があるだけに、同課は「遺跡の保存は、発掘調
査の過程で研究者や関係省庁などと情報を交換して総合的に検討したい」としている。
埋文センターでは、発見の記者会見から一夜明けた二十三日は、複数の研究者から問い合わせや
助言があったという。また、複数の現場を掛け持ちしていた調査課長を柳沢遺跡の専従とし、発掘に力
を入れている。
10月24日 00:00 【中日新聞】
大隅初のV字溝確認 鹿屋市串良町の西ノ丸遺跡 環濠集落の存在示す
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/kagoshima/20071027/20071027_001.shtml(画像あり)
鹿屋市教委は、同市串良町の西ノ丸遺跡で環濠(かんごう)集落の存在を示すV字溝の跡を大隅地
域で初めて確認。市教委は、土層のはぎ取り資料を同町の串良歴史民俗資料室で一般公開している。
市教委によると、西ノ丸遺跡は肝属川と串良川の合流地点付近に位置する弥生時代の遺跡。昨年末
から今年2月までの調査で、外敵から集落を守るためV字状に掘った溝の跡が見つかった。V字溝は幅
約2.5‐3.5メートル、深さ約1.5‐2.5メートル。
地中をレーダー探査した結果、V字溝が弧を描くように存在することが分かり、吉野ケ里遺跡(佐賀)
などに見られる環濠集落があった可能性が高いという。地中からは、大量の土器や管玉、水晶などが
出土。弥生・古墳時代の竪穴住居も計40基が確認された。
また、一般的に県内の弥生時代の集落は高台につくられていたが、西ノ丸遺跡は標高約4メートル。
水利や交通の便が良いことが理由と考えられ、市教委は「県内の弥生時代研究に一石を投じる重要な
発見だ」としている。
同資料館の開館時間は午前9時‐午後4時半(土日祝は休館)。入館無料。
10月27日 11:43 【西日本新聞】
出雲・矢野遺跡で12、13世紀の道路遺構発見
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=444679004(画像あり)
出雲市矢野町の縄文時代後期から近代にかかる矢野遺跡で、12、13世紀ごろの道路状遺構が見
つかったと、出雲市文化財課が26日、発表した。遺構は出雲国風土記にも登場する八野神社に向かっ
ており、関係の解明が期待される。
道路状遺構は溝で区画され、長さ31.3メートル以上で、幅は2.4−2.9メートル。05年度調査で
見つかった同様の遺構の延長にあり、総延長は80.2メートル。神社への参道だったかどうかは分から
ない。
また、弥生前期の集落北限とみられる幅1.5−2メートル、長さ15メートルの溝も発見された。過去
の調査データを照らし合わせ、当時の集落面積は3万3500平方メートルと推測されるという。市文化
財課は「集落形成を知る上で貴重」としている。
一連の発見について、27日午後1時半から同2時半にかけて、現地で市民向け説明会がある。問い
合わせは現場事務所(電話0853・23・2206)。
10月26日 21:32 【山陰中央新報】
縄文の大規模集落跡か、村上
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=3314 村上市長割の日本海東北自動車道(日東道)の建設予定地で発掘調査が進められている長割遺跡
の遺構と出土品が26日までに、報道陣に公開された。縄文時代後期の大規模集落で、巨大な柱跡や
出土品から、県埋蔵文化財調査事業団は「県内最大規模の遺跡で、地域の中核的な集落であったこと
は間違いない」と指摘している。
遺跡は三面川支流、門前川の自然堤防上に位置し、東西約300メートル、南北約200メートルにわたっ
て広がる。縄文時代後期前半(約4000年前)の遺跡としては県内最大規模。中央広場を中心に、住居跡
と推測される炉跡が40基以上見つかっており、直径100メートル以上の範囲でドーナツ型に住居が配置
されていた環状集落だった可能性が高い。
調査区域の南側では、掘立柱建物の跡とみられる直径1・6メートルもある柱穴が複数発見された。痕
跡から直径60センチ以上の巨大な柱が使われていた大型の建物があったと考えられる。
石器や土器なども大量に出土した。遺物の中には、石に穴を開けて首飾りにした大珠(たいしゅ)と呼
ばれる装飾品や、平らな石に細かい線で模様が刻まれた線刻礫(せんこくれき)などが見つかっている。
大珠は長さ約10センチ。県内の発見例では最大級という。
調査を担当している同事業団の滝沢規朗・主任調査員は「調査中のため、柱穴の配置が明確になっ
ていないが、大きさからすると、これまで県内では例のないような巨大な建物があったのかもしれない。
集落の規模も大きく、慎重に調査を進めていきたい」と話していた。
調査は2年計画で来年度も引き続き実施。27日には午前10時と午後1時半からの2回、現地で一般公
開が行われる。
10月26日 00:00 【新潟日報】
縄文時代の石冠など見つかる 長岡京・友岡遺跡 府内5例目
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007102500186&genre=M2&area=K30 京都府埋蔵文化財センターは25日、長岡京市下海印寺と友岡など2カ所の発掘調査で、縄文時代後
期の石冠(せきかん)や弥生時代後期の竪穴式住居跡などが見つかったと発表した。
石冠は、長岡京市下海印寺・友岡にまたがる友岡遺跡内から単独で見つかった。高さ約8センチ、直
径約5センチ、重さ約300グラムの安山岩で、男性器を模した形をしており、多産などを願う祭事に使わ
れたとみられる。石冠が見つかったのは京都府内では5例目。
石冠は、岐阜県など中部地方を中心に出土しており、同センターは中部地方との交流によって持ち込
まれたのではないかと推測している。ほかにも狩猟で使われた有舌尖頭(ゆうぜつせんとう)器なども見
つかった。
一方、長岡京市下海印寺の伊賀寺遺跡では、弥生時代後期のものと見られる竪穴式住居跡が見つ
かり、6メートル四方で中央にはかまどが据えられていたような土抗もあった。
現地説明会は27日午前10時から伊賀寺遺跡で、同日午前11時から友岡遺跡で行われる。問い合
わせは現地事務所Tel:075(953)1544。
10月25日 22:57 【京都新聞】
みやこ町・上伊良原榎遺跡 柏原式土器(縄文期)100点出土
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20071025/20071025_009.shtml 県教委は24日、みやこ町犀川上伊良原の上伊良原榎遺跡から、縄文時代早期初頭(約9000年前)
の柏原式土器が多数出土、京築地区では最古となる同時期の竪穴住居跡(4棟)なども発見されたと発
表した。27日午後1時から、現地説明会が開かれる。
■京築最古の住居跡も 県教委、27日に現地説明会
県教委文化財保護課によると、九州北部に見られる柏原式土器は深鉢形をした器で口縁部の下に円
形のくぼみとコブ状の突起の装飾を巡らせているのが特徴。今回、出土したのは直径、高さとも20‐30
センチで約100点。京築地区ではこれまで旧築城町で1点出土しただけで、「大量の出土は貴重な成果」
という。
また、竪穴住居跡は県内でも二番目に古く、直径2.5メートル前後の円形で、2本の柱で屋根を支え
るつくり。既に埋め戻されているが、大きさから、狩猟時などに使った簡易式とみられる。
このほか旧石器時代のナイフ形石器や中世(鎌倉、室町時代)の遺構なども出土した。
弥生時代の発掘品はなく、同課の吉田東明主任技師は「縄文時代はここで動物や植物を頼りに生活、
弥生時代は農耕が中心になり山を下りた。鎌倉時代は再び土地を求めてここに来たのではないか」と推
測した。
同遺跡は、同町下伊良原の祓川に建設される伊良原ダムで水没する民家の移転先の丘陵地帯で発
見された。発掘調査は今年4月に始まり、今月終了の予定。問い合わせ先は同課調査第一係=092(643)3876。
10月25日 00:58 【西日本新聞】
平安後期の建物跡見つかる 宇治市街遺跡、藤原氏の関係者か
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007102600144&genre=M2&area=K20(画像あり)
京都府の宇治市教委は26日、同市宇治の宇治市街遺跡の発掘調査で、平安時代後期の大型の建
物跡のほか、当時の中国・宋から入ったとみられる白磁の水差しの一部、平等院内の建物屋根に用いら
れていたとみられる瓦と同型のものが見つかったと発表した。市教委は「藤原頼通とその子孫らが広い
範囲に別荘を築いていたという裏付けになる」としている。
発掘調査は、JR宇治駅北西約10メートルの約500平方メートルで行っていた。建物跡は約100平方
メートルで、直径50センチほどの柱の跡が六つ見つかった。
市教委によると、建物跡は藤原氏とかかわりの深い貴族の別荘か倉庫とみており、2002年に北側の
隣接地で行った調査でも同時期の建物跡などが見つかっていることから、広範囲に貴族の施設があっ
たことがわかるという。
水差しは胴部の直径が約20センチ、高さは約30センチと推定される。福岡県の太宰府跡から見つかっ
たものと似ており、出土例が少なく位の高い人物が権威を誇示するために持っていたものとみられる。ま
た、瓦は、平瓦2点と丸瓦1点が出土した。1993年に見つかった平等院鳳凰堂を眺めるための小御所と
呼ばれる建物跡から出た瓦と同型のもので河内方面(現在の大阪府八尾市)で作られたものという。
市教委は、これらの出土品から「中宇治地域に貴族の別荘地が多く存在したことを裏付ける発見だ」と
している。現地説明会は開かない。
10月26日 20:32 【京都新聞】
「伊都国」に鍛冶工房 弥生時代末大塚遺跡 炉やかまど跡出土 福岡市
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20071026/20071026_022.shtml 福岡市教委は26日、同市西区今宿町の大塚遺跡から、弥生時代末(3世紀)の鍛冶(かじ)工房跡を
発見したと発表した。鍛冶炉や国内最古級のかまどの遺構が出土し、工房の全容をほぼ完全な形で確
認できる。同遺跡は、福岡県糸島地方を中心に栄えた古代のクニ「伊都国(いとこく)」の東端に位置。原
料の鉄は中国、朝鮮半島からもたらされており、市教委は「鉄とともに伊都国にやってきた渡来人たちが
定住した可能性がある」とみている。
鍛冶工房跡は直径約12メートルの外周溝に囲まれた建物跡で、中央に加工用の台石を備えた鍛冶
炉が見つかった。周辺からは100点近い鉄鏃(てつぞく)(鉄製やじり)など鉄器の未完成品や鉄の破片
も出土した。また、大陸から伝わり、日本では弥生時代に次ぐ古墳時代以降に一般化したかまどが、す
でに建物の壁際に設けられていたことも分かった。
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は伊都国を古代日本の外交窓口と紹介しており、工房跡近くの住居
跡からは朝鮮半島系土器も出土。鍛冶工房の炉とかまど、朝鮮半島系土器が1つの遺跡から出土した
のは全国で初めてという。市教委は「伊都国が先進的な渡来文化を多く取り入れていたという魏志倭人
伝の記述を裏付ける発見。モノや技術とともに人の交流もあったはずで、渡来人の居住地区がこの地に
あったかもしれない」と、今後の調査に期待している。
大塚遺跡は、8月に大型の環濠(かんごう)集落跡が確認された今宿五郎江(いまじゅくごろうえ)遺跡
に隣接。鍛冶工房は環濠が埋まった後の時代に建てられており、両遺跡一帯へムラが拡大していった様
子がうかがえる。
10月26日 23:55 【西日本新聞】
石垣、二本松へ“里帰り” 東京丹羽家屋敷跡で出土
http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kennai/20071024/kennai-200710240935440.html 東京・永田町の新衆院議員会館の建設予定地で見つかった旧二本松藩主・丹羽家の江戸上屋敷跡
の石垣について、衆院議院運営委員会の理事会は23日、福島県二本松市に無償譲渡することを決め
た。理事の根本匠衆院議員(自民、本県2区)が地元の要請を受けて議題に上げ、「意義深い」と理事全
員の賛同を得た。衆院事務局は一両日中に市に通知する。
江戸上屋敷は丹羽家が二本松に来る前、白河藩主時代に江戸幕府から拝受した。昨年、屋敷や蔵、
石垣、土杭(どこう)、井戸などの遺構をはじめ陶磁器や漆器などの遺物が多数出土した。衆院事務局に
よると、遺物類は都が管理・保存し、石垣類は衆院の所有となっている。
二本松市は石垣の一部を市歴史資料館の庭に展示するほか公園や公共施設の整備などに活用する
計画で今月、衆院に譲渡を申請した。市は譲渡の通知が届き次第、衆院事務局と運搬の時期や方法な
ど具体的な協議を進め、11月中に運び込む考え。市教委文化課の根本豊徳課長は「江戸上屋敷にまつ
わる二本松藩の歴史を広く知ってもらうため、将来的には遺物を特別企画展などで市民に紹介できるよう
都と話し合っていきたい」としている。
また、根本議員は「かつて江戸で活躍した二本松藩の歴史や生活文化を物語る証しの一つとして、石
垣が二本松に移されることは大変意義がある。有効に活用してほしい」と話していた。
10月24日 09:35 【福島民報】
石垣支える松の丸太見つかる 中津城の内堀発掘調査
http://kiji.i-bunbun.com/read/read.cgi?1193410800=11934526752065=1(画像あり)
中津市教委が進めている中津城本丸南側の内堀発掘調査で、石垣の下で基礎とした松が見つかり、
黒田、細川時代の瓦が出土した。堀の底の状況を調べるため発掘したが、二十九日ごろから埋め土保
存の作業を始める。同市教委は「築城当時の堀底の様子を見られるのは今回が最後。関心のある方は
見学を」と呼び掛けている。
ことしの調査は九月から始め、石垣の角の部分の堀を掘削した。その結果、石垣を支える「胴木」とみ
られる松の丸太が、石垣の角に向かう方向に敷かれていた。黒田時代に作られた「巴(ともえ)の紋」や
植物の模様が入った瓦、細川時代の「九陽紋」の瓦の破片などが数百点出土した。
市教委文化振興課は「今回の調査で、黒田から細川時代にかけての石垣、堀の建築状況があらため
て確認できた」としている。
堀の調査は本年度で終了して、水を張ることにしている。発掘現場は、堀の向かいにある市営三ノ丁
駐車場(無料)から見学できる。
10月27日 11:37 【大分合同新聞】
新たに食堂跡出土−まんのう・中寺廃寺跡
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/article.aspx?id=20071026000178 まんのう町などが発掘調査を行っている香川県仲多度郡まんのう町造田の山岳寺院・中寺廃寺跡で
新たに食堂(じきどう)跡とみられる遺構が出土し、同寺の伽藍(がらん)配置のほぼ全容が明らかになっ
た。町教委では27日に現地説明会を開催。周辺では民間信仰と関係の深い石組みの遺構も見つかって
おり、山岳仏教草創期を知る貴重な史料として注目を集めそうだ。
中寺廃寺跡は標高約700メートルの山中に位置しており、創建は平安時代の十世紀前半。これまで
の調査で、尾根から谷に至る斜面でテラス状になった平たん部で遺構を確認。塔や仏堂跡のほか、漆を
使ったと思われる赤く彩色した祭事土器や四国で初めてとなる上薬を使った多口瓶(たこうへい)陶器な
ども出土している。
食堂跡はこれまでの調査で明らかになっている仏堂や塔跡付近で確認。かまど跡と見られる遺構の
ほか、近畿地方産土器の出土から他地域との交流が盛んに行われていたことが推測されている。
また、一辺が1メートルを超える石組みの遺構は16基確認。平安時代の仏教行事史料「三宝絵詞」な
どに石を積んで石塔とする行為が年中行事化したと記されており、町教委は「参詣する中寺付近の人々
の民間信仰と関係の深い施設だったことを裏付けるもの」としている。
説明会は27日午前11時10分と午後零時10分からの2回に分けて約1時間、町教委の担当者が伽
藍の特徴やこれまでに出土した遺物を解説する。当日は午前9時半にまんのう町中通の大川山キャンプ
場駐車場に集合。参加費は無料。問い合わせは、町琴南公民館<0877(85)2221>。
10月26日 11:12 【四国新聞】
東日本最古級の馬形埴輪出土 名古屋守山・大久手古墳群
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071024/CK2007102402058676.html 名古屋市教委の発掘調査が続けられている志段味大塚・大久手古墳群(守山区上志段味)で、東
海地方以東では最古級とみられる馬形埴輪(うまがたはにわ)の胴体部分が出土した。
市教委によると、馬形埴輪は古墳時代の五世紀中ごろのもので、当時は長さ一メートル、高さ七十
センチほどだったとみられる。二年前の調査では馬形の臀部(でんぶ)が、八月から続く今回の調査
では胴部が出土した。
同古墳群には計八基の古墳が点在する。これまではいずれも前方後円墳か、円墳のどちらかとみ
られていたが、今回の調査で「大久手三号墳」が正方形の方墳であったことが確認された。
市教委は「古墳の形は埋葬された人の役職の違いを示している。今回、古墳の形が三種類だったこ
とが分かり、この古墳群がより複雑な社会構造を持つ実力者の墓だったと推測できる」としている。
市教委は二十八日午前十一時から一時間程度、担当学芸員がこれまでの調査成果を解説する現
地説明会を開く。参加を希望する場合は、直接、守山区上志段味大久手下池内の現地に集合を。問
い合わせは市見晴台考古資料館=電052(823)3200=へ。
10月24日 00:00 【中日新聞】
岡山・安住院多宝塔 密教の儀式跡、県内初出土 江戸期の鎮壇遺構
http://www.sanyo.oni.co.jp/sanyonews/2007/10/26/2007102609580340008.html 国特別名勝・後楽園の借景として知られる岡山市国富の安住院多宝塔(岡山県指定重要文化財)
で25日までに、江戸時代中期の創建時に行ったとみられる、建物の安泰を祈るための密教儀式「鎮
壇(ちんだん)」の遺構が出土した。江戸時代の鎮壇遺構は全国的にも発見例が少なく岡山県内では
初。道具、配置がほぼ完全な姿で残っており、当時の仏教儀式や寺院建築の実態を知る上で貴重な
史料となりそうだ。
真言宗の古刹(こさつ)安住院の多宝塔は岡山藩主池田綱政が元禄年間(1688〜1704年)に建
設に着手し、子の継政が藩主の1751(寛延四)年に完成した。今年1月から5年計画で同寺、県教委
、岡山市教委が多宝塔の修復に取り組んでおり、鎮壇遺構はその過程で、塔を支える「亀腹(かめば
ら)」と呼ばれる基壇部分から発掘された。
基壇の中央から出土した遺構は、深さ約50センチ、1・2メートル四方。中央部の陶製小瓶の周囲
に白い素焼きの小皿5枚が並び、さらにその外側を囲むように「輪宝(りんぽう)」と呼ばれる車輪のよ
うな形をした青銅製の密教法具が四隅など7カ所に配置され、埋納されていた。
小瓶の中からは植物性の有機質が確認され、同様の皿でふたをされていた皿の中には赤、白、緑
など5色に着色した小石があった。
10月26日 09:58 【山陽新聞】
下関市・仁馬山古墳 盗掘坑調査、来週にも着手 埋葬部解明へ手掛かりに
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/yamaguchi/20071027/20071027_001.shtml(画像あり)
下関市教委は、同市延行の国史跡「仁馬山古墳」(4世紀末‐5世紀初頭)の後円部に残る盗掘坑
の調査に、来週にも着手する。同古墳は全長約74.7メートルで県西部では最大の前方後円墳。し
かし、埋葬部の構造などは分かっておらず、今回の調査が古墳内部を知る大きな手掛かりになる。
盗掘坑は埋葬品を盗むため掘られた穴。将来の史跡整備に向けた基礎資料を得る目的で、2005
年度から同教委が行っている調査の一環。文化庁は、直径約47.7メートル、高さ約8メートルの後
円部にあるとみられる埋葬部を直接調査することは認めておらず、今回の調査では、後円部の頂上
からややずれた部分にある縦6メートル横5メートルの盗掘坑の構造を調べる。だが、盗掘坑という性
格上、埋葬部に関する情報も得られることになる。
後円部については、同教委がこれまで2度レーダー調査を試みているが、同教委埋蔵文化財調査
室によると、石室や石棺とみられる反応は確認されなかった。また、古墳内部から掘り出したとみられ
る石も周辺にはないという。そのため、埋葬している場所が棺を安置する部分を粘土で造る「粘土槨
(かく)」である可能性が強い。ただ、埋葬部が深い場所にあるためにレーダーが石に反応しなかった
可能性も残されているという。
今回の調査で盗掘坑が埋葬部に到達していれば、粘土槨かどうかが分かり、到達していなければ
未盗掘であるとも考えられる。
あくまでも目的は後世の盗掘の痕跡を調べること。しかし、埋葬部を狙って掘られたこの穴が、同
市に大きな勢力を持ったであろう人物が埋められた古墳の謎を解き明かす窓になりそうだ。
10月27日 11:46 【西日本新聞】
大刀に銀の象嵌模様 伊勢原の日向・洗水遺跡から出土
(キャッシュから)
伊勢原市日向の「日向(ひなた)・洗水(あろうず)遺跡」から出土した古墳時代の大刀(たち)の鐔
(つば)に、象嵌(ぞうがん)と呼ばれる模様が銀で彫り込まれていることが分かった。高度な技術が必
要だといい、市教委は「石室のあった古墳が豪族の墓だった可能性がさらに高まった」と話している。
昨夏に行われた発掘で、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀前半)の石室から、全長98センチと86
センチの大刀2本が見つかった。それぞれ8つの穴があいた長径8センチの鐔と、穴のない長径5セン
チの鐔が付随していた。
鐔はいずれもさびていたが、エックス線をあてて内部を調べたところ象嵌の存在がわかり、東京国
立博物館に保存修理を依頼。穴のある鐔には、小さな円のような模様が数多く掘られ、穴のない鐔に
はいくつものハート模様が浮き出た。
象嵌は、鉄の表面に細い溝を彫り、そこに銀や金を打ち込んで研ぎ出したもので、かなり高度な技
術を要する。発掘当初から豪族の古墳の可能性が指摘されていたが、全長98センチの大刀が、市内
で発掘された刀剣では最大であることや、象嵌が施されていたことは、埋葬者の位が高いことを示し
ているとみられる。
市教委は、同市東大竹の中央公民館で開催されている「よみがえる銀象嵌展」で来月11日まで、
発掘調査の結果も合わせて実物を展示している。
10月26日 【読売新聞】
羨道の石積みを確認 京田辺市教委
http://www.rakutai.co.jp/news/1026/003.html 京田辺市教委は25日、同市薪の宅地造成予定地で行ってきた堀切古墳群の第4次発掘調査で、
6世紀末から7世紀初頭の円墳2基を発掘し、1基から石室に通じる通路を構成していた石組みの壁
などを確認したと発表した。石室などは、後年の石材採取などで盗掘されていたが、周辺からは矢を
入れて携帯する容器「胡ろく」の飾り金具とみられる金属片も出土したことから、武人を埋葬した墓で
はないかと見ている。現地説明会は、27日午前10時から。
堀切古墳群は、酬恩庵一休寺の西側、市立薪小学校周辺の雑木林や竹林に広がる古墳時代後
期の古墳群。これまでの調査で円墳11基、横穴墓10基が確認され、凝灰岩製の石棺や、顔に入れ
墨模様の線刻が施された埴輪などが出土している。
今回の調査は、古墳群の東側丘陵部(薪小学校東側)の宅地造成予定地に位置する2基の円墳
を対象に行われた。このうち、南側の円墳(堀切11号墳。残っている部分の直径が約13b、高さ3・5
b)は、北半分がすでに造成されているが、元の直径は20bほどだったとみられている。石室につな
がる通路(羨道)を構成していた石積み約3・5bが確認できたほか、床面には排水用とみられる石組
みの暗渠の跡も確認された。
また周辺の墳丘斜面からは、盗掘の際にかき出されたとみられる須恵器高杯や陶棺の破片が出
土していることから、それらの出土品の状況から、円墳の内部には土師質亀甲型と呼ばれる陶棺が
安置されていたとみているほか、築造時期は7世紀前半ごろと推定している。
一方、北側の円墳(堀切10号墳。残存径約8b、高さ約4・2b)は、石室をはじめ主たる遺物は確
認できなかった。
市教委では、「南側の円墳は前回の調査(2005年)で確認された堀切1号墳に匹敵する規模で、
この地区の首長の墓だったことがうかがえる。羨道の石積みは、堀切古墳群の構造を知る貴重な手
がかりだ」としている。
現場は市立薪小学校の東側。現地説明会の問い合わせは市教委社会教育課(64−1393)へ。
10月26日 【洛南タイムス】
204 :
富山:2007/10/28(日) 22:13:24
高岡・下佐野遺跡:墳墓を発見 弥生後期から古墳時代前期 あす現地説明会 /富山
◇県埋蔵文化財センター「時代の流れ分かり貴重」
県埋蔵文化財センターが今年4月から発掘調査を進めていた高岡市佐野の下
佐野遺跡から、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墳墓が発見された。
一つの遺跡で時代の流れが分かる墳墓が見つかるのは、県内では珍しい。同セ
ンターは27日午前10時から現地説明会をする。
1963年に発見された同遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて
の古代遺跡。今回は、高岡環状線工事のための調査で、対象は1万1200平
方メートル。
新たに見つかったのは、弥生時代後期の方形周溝墓や古墳時代初めの前方後
方墳など。方形周溝墓は、墓の周囲に複数の溝を掘ってあるこの時代の特徴的
な墳墓で全長6〜8メートル。前方後方墳は同7・5メートルと22メートル
の二つがあり、当時の権力者の移り変わりとともに、墳墓の形態の流れが分か
る。
ほかに、焼失した弥生時代後期の住居跡からは炭化した木材や炭化米、つぼ
やかめなど数十点も見つかっている。
同センターの宮田進一副主幹によると、現地は庄川の伏流水に恵まれ、縄文
から集落ができ、弥生時代からは稲作も盛んに行われていたといい「これまで
不明だった古墳の移行が分かる貴重な遺跡」と話している。
現地説明会の問い合わせは同センター(076・434・2814)。【青
山郁子】
毎日新聞 2007年10月26日
ttp://mainichi.jp/area/toyama/news/20071026ddlk16040448000c.html
前方部に埋葬施設 氷見・稲積オオヤチ古墳群
http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20071031/8043.html 氷見市稲積の稲積オオヤチ古墳群で三十日までに、前方後円墳一基の前方部から埋葬施設一つ
が見つかった。前方後円墳の場合、通常は後円部に埋葬施設があり、前方部で発見されたのは県内
で初めて。この古墳では後円部にも二つの埋葬施設が確認され、古墳一基に三つの埋葬施設がある
のは珍しいという。十一月三日に現地説明会が開かれる。
同古墳群は余川川下流左岸の丘陵上にあり、A支群とB支群に分かれている。発掘調査は本年度、
能越自動車道の建設に先立ち、県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所がB支群(前方後円墳一基、
円墳四基)を対象に行った。B支群は、約千五百年から千六百年前の古墳時代中期から後期に造られ
たとみられる。
前方部に埋葬施設が見つかった前方後円墳は全長約三十六メートルで後円部の直径は約二十メ
ートル、前方部の最大幅は約二十三メートル。埋葬施設はひつぎを埋めた墓坑(ぼこう)とひつぎの痕
跡で、前方部で発見されたものは長さ三・七メートル、幅一・六メートルだった。後円部にあった二つの
埋葬施設のうち、一カ所からは長さ一メートルの鉄製の刀が鉄のやじり十数点とともに見つかった。三
つの埋葬施設はそれぞれ年代が異なる。
同事務所は「前方後円墳の後円部だけでなく、前方部にも埋葬するなど、古墳時代後期に埋葬の原
則が崩れてきた例の一つだと思う」と話す。
現地説明会は午前十時から正午まで。雨の場合は古墳見学が中止され、遺跡説明と出土品展示だ
けがある。問い合わせは同事務所、電話076(442)4229。
10月31日 08:49 【北日本新聞】
年号入りの漆紙文書公開 茨城町の下土師東遺跡から出土 平安時代の器に付着
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20071031/CK2007103102060693.html 県教育財団は一日から三日まで、茨城町の下土師東遺跡から出土し、年号が書かれている「漆紙文
書(うるしがみもんじょ)」を、同財団埋蔵文化財整理センター国田分館(水戸市下国井町)で一般公開す
る。年号が書かれた漆紙文書の出土は全国的にも非常に珍しいという。 (高橋知子)
漆紙文書は、昨年度の遺跡発掘調査で出土した。財団で出土品の分析をしていた今年五月、平安時
代に食器として使われていた須恵器杯の底に漆紙が付着しているのが分かり、赤外線カメラで調査した
ところ「大同三年正」(西暦八〇八年)の文字が書かれていることが判明した。
県内の漆紙文書の出土は、過去に石岡市の鹿の子C遺跡で二百八十九点、常陸大宮市内の遺跡で
一点ある。全国的には宮城県の多賀城遺跡や近畿地方で出土しているが、年号が書かれているものは
珍しいという。
公開期間中には、勾玉(まがたま)づくり体験や講演会などの催しも予定されており、同財団では「郷
土の文化財に対する理解と関心を深めてほしい」と、話している。公開時間は午前十時から正午まで。
問い合わせは、同財団埋蔵文化財整理センター国田分館=(電)029(239)6000=へ。
10月31日 00:00 【東京新聞】
高松塚壁画、鮮やかに再現 奈文研が映像制作
http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007103001000425.html 国宝壁画修復のため石室を解体した奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)の石室
内を鮮明に再現した映像が完成し、制作した奈良文化財研究所が30日、報道陣に公開した。
実際の石室内で壁画をじっくり観察するようなリアルさで、同研究所は「描線や顔料の濃淡、繊細な筆
遣いまで分かる。かけがえのない壁画の魅力を広く知ってもらいたい」としている。
映像は10分間。南壁の盗掘穴から石室に入り、4神図「玄武」が描かれた北壁へ。東、南、西壁をぐる
りと回り、最後に天文図がある天井を映し出す。「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像など1つ1つの壁画につ
いて、絵の特徴や傷み具合も解説している。
解体前に撮影した高精度のデジタル写真を石室の3次元(3D)計測データと合わせてコンピューター
処理。立体的で滑らかな動画に仕立てた。
10月30日 17:05 【共同通信】
岡山城調査 「五七の桐紋」遺物出土 豊臣恩顧の武将が使用 宇喜多期遺構も確認
http://www.okanichi.co.jp/20071030125935.html 岡山市教委が10月から始めた岡山城本丸「下の段」(同市丸の内2丁目)の発掘調査で、池田・宇喜
多期の建物の基礎、宇喜多家の家紋入り丸がわらなどが出土している。 テニスコート跡から出土した
建物の基礎は、いずれも花こう岩の石組み。古地図によると「多聞櫓(やぐら)」という物置きの基礎で、今
年度調査で全体の大きさが判明する。 丸がわらは、直径約10センチと約15センチの2種類。家紋は、
豊臣秀吉や豊臣恩顧の武将が使用を許された「五七の桐紋」だった。 江戸期の陶磁器、備前焼なども
出土。同市教委文化財課は「池田期には、櫓や役人の住む役宅住居が調査場所にあった。宇喜多期の
資料はなく、そのころから建物があったことが分かる」と話している。
10月30日 12:59 【岡山日日新聞】
>>127 「理兵衛堤防」200年前の姿現わす 中川・天竜川
http://www.shinmai.co.jp/news/20071031/KT071030FTI090009000022.htm 上伊那郡中川村田島の天竜川河川敷で、約200年前に築かれたという石積みの「理兵衛(りへえ)堤
防」が発掘され、往時の姿を現している。護岸工事に伴う現地調査で、31日で完了予定。石積みは、工
事のため現在の場所から一時移し、工事後に復元する方針だ。村教委は「往時の治水技術を伝える貴
重な遺構。村の文化財としていきたい」としている。
発掘は、村教委と国土交通省天竜川上流河川事務所(駒ケ根市)でつくる調査団が15日に開始。30
日までに、全長180メートルとされる理兵衛堤防のうち85メートルほどを掘り出した。堤防の幅は場所に
よって異なるが、3−4メートルほどという。
今回の発掘で、これまで知られていなかった、天竜川に注ぐ前沢川から水を引く水路も確認。水路は、
堤防に沿って長さ74メートル、幅1・2メートルほどで、木材や石で造られている。付近の田に水を引くた
め使われたとみられる。
堤防は、一帯の地主だった松村理兵衛の一族が1808年に完成させたが、明治期以降の洪水で大半
が土砂に埋もれた。
10月31日 【信濃毎日新聞】
周防国府跡出土の金銅仏 県内最古の仏像か 「7世紀前半飛鳥時代の作」 防府市
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/yamaguchi/20071031/20071031_001.shtml 防府市教育委員会は、周防国府跡(同市国衙(こくが)5丁目)から発掘された金銅仏が、7世紀前半
の飛鳥時代に作られ、県内最古の仏像である可能性が高いと発表した。市文化財指定を検討している。
この金銅仏は、高さ3.3センチ、重さ7.3グラム。2005年、国府敷地内を流れていた河川跡から出
土した。奈良市の奈良文化財研究所と山口県立美術館に鑑定を依頼していた。
頭部が大きく、なで肩。背面が平らで、下半身のすそが広がっている。材質は鉛を含む青銅で、表面
に金を施した鋳造仏。朝鮮半島か日本で作られた仏像らしい。市文化財保護課によると、全国で金銅仏
の発掘例は100体を超えるが、7世紀前半のものは珍しいという。
741年、聖武天皇が仏教の力で社会の不安を鎮めようとして、諸国に建てさせた寺院・国分寺造営以
前に、防府に仏教の信仰があったとも考えられる。
同課は「7世紀の朝鮮半島(三国時代)の仏像様式に似ている。菩薩(ぼさつ)立像か供養者立像か、
いずれかだろう」と説明している。
10月31日 00:37 【西日本新聞】
伏見城石垣 参道にごろり 桃山御陵 工事で出土、宮内庁が「展示」
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007102900061&genre=K1&area=K1I(画像あり)
京都市伏見区桃山町の桃山御陵の参道で、下水道敷設工事中に、伏見城の石垣とみられる石が29
日までに多数見つかった。宮内庁桃山陵墓管区事務所は、市民に見てもらうため、石を参道脇に並べ展
示している。
石は花こう岩の切石で、40個ほどが崩れ落ちた状態で見つかった。大きさもさまざまで、一辺40セン
チ−1・8メートル。石を切り出すときのくさびの跡が残っていた。
京都市文化財保護課によると、一帯は伏見城の大きな堀には当たらず、本丸の西南にある三の丸付
近とみられることから、三の丸の斜面に積まれた石垣ではないかとみている。
同事務所は「地域の歴史を伝える貴重なものなので、説明板を設置し、恒久的な展示にしたい」と話し
ている。
10月29日 14:22 【京都新聞】
安土城、もっと広かった? 石垣上に「虎口」が出土
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007102900174&genre=M2&area=S20(画像あり)
滋賀県安土城郭調査研究所は29日、安土町下豊浦(しもといら)の特別史跡安土城跡で、要所への
出入り口となる「虎口(こぐち)」が新たに出土したと発表した。これまで城の内外を画すとみられてきた石
垣上で見つかったことから、同研究所は石垣の外側の内堀も城域に含まれると推定、「安土城が近世城
郭の先駆けと位置付けられる」としている。
新たに見つかった虎口は幅約4・5メートルで、中央の大手門の西約180メートル、西端の百々橋(ど
どばし)口の東約150メートルにあった。家臣が登城に使ったらしい。
虎口の奥にある踊り場の西からは7段の石段と幅1・2メートルのスロープも出土した。礎石などから
櫓(やぐら)門など重厚な門ではなく、虎口を西の端に持つ平屋の建物だったとみている。
虎口が見つかった場所はこれまで、石垣が続いていると推測され、その外側の石敷き路は一般人が
通行できる城外の道とみられていた。
しかし、侵入口になり得る虎口が城外路に面してあれば守備上の弱点となるうえ、虎口を持つ建物も
防御に適していないことから、約120メートル南まで広がる内堀を含めて城域と考えるべきとしている。
淀城、江戸城など後世の城郭は内堀を城域に取り込んで防御するのが特徴だが、堀の内側の道が
堀の外から見える構造の城はごくまれ。近藤滋所長(62)は「安土城はこれまで城外路に面する特異な
構造を持つ城とみられていたが、近世城郭の先駆けをなすことが分かった。1989年以来18年間の調
査を見直す発見」としている。
現地説明会は11月3日午前10時半から。問い合わせは同研究所TEL0748(46)6144。
10月29日 23:36 【京都新聞】
869年発生の貞観地震は明治三陸級 津波堆積物から解析
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/10/20071026t73021.htm 産業技術総合研究所(茨城県つくば市)の活断層研究センターは25日、東北の太平洋側に大きな被
害を与えた869(貞観11)年の貞観地震の規模は、1896年に2万人以上が津波で死亡した明治三陸
地震並みだったと発表した。仙台平野などを襲った津波による堆積(たいせき)物の分布に基づき、規模
を解析した。
佐竹健治上席研究員らは仙台平野と石巻平野で計約300カ所を掘削調査し、数十センチ―約1メー
トルの地層から貞観地震の津波が運んだとみられる砂層を確認。その分布から、当時の海岸線は仙台
平野が現在より1キロ、石巻平野は1―1.5キロ内陸で、浸水域はそれぞれ1―3キロ、3キロ以上に広
がっていたことも分かった。
砂層が確認された地域が浸水する津波を起こす地震の断層を試算したところ、宮城県から福島県に
かけた沖合の太平洋プレートと陸プレートの境界で、長さ200キロ、幅100キロの断層が5メートル滑っ
たというモデルと合致。断層の運動量から地震の規模を示すモーメントマグニチュードは8.5と推定され、
明治三陸地震の8.5と同程度となった。
仙台平野では、貞観より下層でも2つの砂層が確認された。海岸線が特定できないため津波などの
規模推定は困難だが、間隔はいずれも約1000年とみられている。
佐竹研究員は「貞観以前の2回も同じ震源なら、1000年ごとに貞観級の地震津波があったことにな
る。プレート境界地震は繰り返し発生するのが特徴で、将来への備えが重要だ」と指摘している。
調査は文部科学省の宮城県沖地震重点調査観測の一環として、2005年度から行われている。昨年
までの調査で、貞観津波では仙台平野が内陸3キロほどまで浸水したことが判明している。
研究成果は、仙台市で開かれている日本地震学会秋季大会で報告した。地震学会が27日午後一時
半から、仙台市青葉区の市情報・産業プラザで開く一般公開セミナーでも紹介される。
10月25日 23:04 【河北新報】
県指定文化財大師像に人の歯、九州国立博物館の調査で判明
http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/040/040_07102501.htm 福岡市博多区中呉服町の善導寺(有田信量住職)に伝わる県指定文化財「木造善導大師像」(高さ31
センチ)の頭部に、人の歯2本が納められていることが、九州国立博物館(太宰府市)の調査で分かった。
同館は「一つの歯は、善導寺を建立したとされる鎌倉時代の僧辨長(べんちょう)(聖光上人)の歯では」と
推測している。
この大師像は4〜6月に開かれた特別展「未来への贈りもの―中国泰山石経と浄土教美術―」に出品
され、閉幕後、同館がエックス線によるCTスキャン検査を行ったところ、頭の内部に掘られた長円形の空
洞(最長径約3センチ)に2本の歯が紙のようなものに包まれて入れられているのを確認した。2本は別人
のもので、それぞれ大人と子どもの歯とみられる。
善導寺は13世紀前半、浄土宗の開祖、法然の弟子で九州で布教活動を行った辨長が建立したとされ、
像の制作年代も同じころと推定される。像には一度も解体された痕跡がなく、歯は制作時に入れられたら
しい。
同館によると、木像を作る際に、モデルとなった高僧自身やゆかりの人の歯や骨を納める習慣は平安
時代後期から行われていたという。
大人の歯について、同館展示課の楠井隆志研究員は「モデルとなった善導大師は7世紀の中国の僧の
ため、可能性は低い。1238年(暦仁元年)に没した辨長のものなら不自然ではない」と話している。有田
住職は「(歯の存在は)知らなかった。(辨長のものであれば)夢のある話で、ありがたい」と話している。
10月25日 【読売新聞】
>>75 富士山行者堂跡に遺物400点 2合目で試掘 中世の信仰伝える
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2007/10/31/14.html(画像あり)
県埋蔵文化財センターが試掘調査を進めている、富士山二合目の吉田口登山道沿いにある行者堂跡
(富士河口湖町勝山)で、施設の一部とみられる石列や、中世−近世の古銭、土器などの遺物約四百点
が見つかった。センターによると、富士山での信仰活動が中世から盛んだったことを裏付ける考古資料と
なる。
行者堂跡は標高約千七百メートル、冨士御室浅間神社(山宮)の西側に位置する。同センターによると、
富士山修験の拠点だった円楽寺(甲府市右左口町)の関連施設とされる。
調査区では、登山道に並行した南北七・四メートルの石列を確認。行者堂の建物を区画する施設の一
部と推定される。柱穴などの遺構は確認されていず、具体的な建物像は分かっていない。現在の登山道
を拡張した際に建物跡が削られた可能性もある。
石列周辺からは、鎌倉−室町時代に流通した北宋銭や江戸時代の寛永通宝などの古銭の破片が百
数十点出土。土器片も多数見つかった。供え物や宗教儀式に使われたものとみられる。
中には平安時代末期の土器もあり、信仰活動が古代にさかのぼる可能性もあるとみて調査を進めてい
る。同センターは「絵図などと照合しながら、慎重に当時の姿を解明したい」としている。
10月31日 12:29 【山梨日日新聞】
218 :
その他:2007/10/31(水) 21:33:47
219 :
その他:2007/10/31(水) 21:35:29
220 :
その他:2007/10/31(水) 21:39:11
221 :
その他:2007/10/31(水) 21:40:49
222 :
大坂城“最後の宴”…三ノ丸跡で陶磁器片や貝殻が出土:2007/11/01(木) 00:03:23
大坂城“最後の宴”…三ノ丸跡で陶磁器片や貝殻が出土
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20071031p103.htm(画像あり)
◆タイの潮汁、サザエの貝盛り…食膳彩る珍味
大阪市中央区、大坂城三ノ丸跡の北辺で、慶長年間後半(17世紀初め)の地層から、陶器や漆器の破
片、箸(はし)、動物や魚の骨などが大量に出土したことが、大阪市文化財協会の調査でわかった。100人
規模の宴席で使用された食器や食材の痕跡で、タイの潮汁(うしおじる)やサザエの貝盛り、若鶏など山海
の珍味が食膳(しょくぜん)を飾っていたとみられる。豊臣家滅亡直前、大名が城内で繰り広げた豪華な宴
席の様子をほうふつとさせる貴重な資料になりそうだ。
◆豊臣家滅亡直前、100人規模
出土した現場は、追手門学院大手前中学、高校の敷地内。校舎建て替えに伴って同協会が2006年11
〜12月に発掘し、出土した遺物を分析した。その結果、主に杉製の白木の箸(長さ約25センチ)を破片も
含め約1700点確認し、復元すると約430膳が捨てられていたことが判明。出土状況から1度の宴会で使
われたもので、当時の宴席では1度に4、5回、箸を換えていたとみられることから、約100人分と推定した。
備前焼のとっくり、志野焼の向付(むこうづけ)(小鉢)、土師器(はじき)の杯など陶磁器片約50点、椀
(わん)など漆器片約20点なども出土した。
一緒にシカ、若鶏、カモなどの骨が計約110点出土。マダイ、シイラなど魚の骨8種類約220点、サザエ、
ハマグリ、アワビなど貝殻8種類約350点も見つかった。マダイの骨は潮汁に使ったとみられる兜割(かぶ
とわり)の痕跡があった。
当時の大名らの宴席については、豊臣秀吉が千利休の侘(わ)び茶の影響で「二汁三菜」と定め、簡素
化。しかし、秀吉死後、大名茶人の古田織部が「侘びと言っても、あまり粗末なものを出すものではない」と
して料理や器に工夫を凝らした。同協会は「出土した向付などの器や多様な食材は織部が工夫したという
慶長年間の会席料理の特徴に合致する」としている。(
>>223)
>>222 陶磁器片の一部が11月7日〜12月27日、大阪歴史博物館で開かれる「新発見! なにわの考古学
2007」で展示される。
仁木宏・大阪市立大准教授(中近世都市史)の話「1度の宴会の様子が発掘でこれほど具体的にわかる
のは非常に珍しい。徳川側の働きかけで多くの大名が大坂城を引き払う時期。豊臣側の大名の宴会だった
のかもしれない」
■大坂城三ノ丸
1598年に没した豊臣秀吉が没する直前に本丸の周囲に造成を命令し、翌年完成。細川忠興、織田有
楽らの大名屋敷が立ち並んでいたとされる。1614年の大坂冬の陣の後、講和条件の一つとして壊された。
豊臣家は翌15年の大坂夏の陣で秀頼が死亡し、滅亡した。
10月31日 【読売新聞】
225 :
長野:2007/11/01(木) 18:53:13
>>172の続報
銅鐸と銅戈、一緒に埋納 東日本初、長野・柳沢遺跡
2007年11月1日 18時13分
長野県埋蔵文化財センターは1日、弥生時代の青銅製祭器「銅戈」2本が先
月出土した中野市の柳沢遺跡で、新たに青銅製祭器「銅鐸」の破片2点と銅戈
5本が見つかったと発表した。銅鐸と銅戈が一緒に埋納されており、こうした
出土例は神戸市桜ケ丘遺跡など全国に数例しかなく、東日本では初めて。
銅鐸、銅戈は畿内や北部九州での出土が多いが、今回の発見は弥生社会の成
り立ちや青銅器文化の広がりについて見直しを迫る貴重な資料となりそうだ。
センターによると、破片2点から銅鐸を復元すると、高さは約20センチ程
度で比較的小型という。銅戈はやりの穂先に似た形で、大阪湾周辺で多く見つ
かっている「大阪湾型」とみられる。
調査は千曲川の築堤工事に伴うもので、8月に開始。10月に生活排水路周
辺を発掘した際、2本の銅戈が見つかった。
(共同)
ttp://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2007110101000493.html
226 :
大阪:2007/11/01(木) 18:59:19
南九州土器 大阪・久宝寺遺跡で出土 【画像あり】
5世紀中ごろ、成川式4点 「隼人移住裏付け」 (11/01 07:48)
南九州独自の成川式土器とみられる古墳時代中期(5世紀中ごろ)の壺(つ
ぼ)や高杯(たかつき)など4点が、大阪府八尾市の久宝寺(きゅうほうじ)
遺跡の住居跡から出土していたことが、31日までに分かった。同遺跡は、文
献で南九州の隼人が移住したとされる河内の「萱振保(かやふりほ)」に近く
、専門家は「文献の隼人移住を裏付ける資料」として注目している。近畿で隼
人関連とみられる遺物が見つかったのは、1964年に平城宮跡から出土した
「隼人の楯(たて)」以来。
八尾市文化財調査研究会によると、大型壺(残存高37センチ)や高杯(高
さ14センチ)、小型壺など4点。98年から99年にかけて発見された。2
001年発行の報告書では「類例が少ない」遺物とされたが、その後、器形や
胎土などから成川式土器と分かり、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で開催
中の「日向・薩摩・大隅の原像−南九州の弥生文化」展で初めて一般に公開さ
れている。南九州で作られた後に近畿に持ち込まれたらしい。
土器が見つかった竪穴住居跡は、隅が丸い方形(最大幅4メートル15セン
チ)で、不整形な形や柱穴の位置などから南九州系住居とみられている。
久宝寺遺跡は豪族物部(もののべ)氏の本拠地にあり、朝鮮半島からの渡来
人集落なども見つかっている。同研究会の原田昌則・整理係長は「物部氏は6
世紀になると大連(おおむらじ)として権力を握る。その前段階の資料で、天
皇に仕えた隼人のように、物部氏に仕えた南九州の人々がいたのでは」と話し
ている。
ttp://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=7421
227 :
長野・柳沢遺跡:2007/11/03(土) 01:49:11
>>225の詳報
東日本で初、銅鐸と銅戈が一緒に出土 中野・柳沢遺跡
11月2日(金)【画像あり】
ttp://www.shinmai.co.jp/news/20071102/KT071101ATI090024000022.htm 県埋蔵文化財センター(長野市)は1日、弥生時代の青銅製祭器「銅戈(どう
か)」2本が10月に出土した中野市の柳沢遺跡で、新たに「銅鐸(どうたく
)」の破片2点と、銅戈5本が出土したと発表した。銅戈と銅鐸が一緒に出土
したのは、全国では神戸市の桜ケ丘遺跡など数例しかなく、東日本では初。研
究者は、従来伝わる弥生社会のあり方や青銅器文化を塗り替える発見と指摘し
ている。
県埋蔵文化財センターは同日、県内外の専門家6人でつくる調査指導委員会
(委員長・笹沢浩県遺跡調査指導委員会委員)を発足。詳細な調査、分析を進
める。(続く)
228 :
長野・柳沢遺跡:2007/11/03(土) 01:49:52
(
>>227の続き)
同センターによると、銅鐸片のうち1点は一部が土中に残っており、高さ約
6センチ、最大幅8センチ。復元すると全体の高さは約20センチと推定でき
る。古い形式の鳴り物と考えられている「菱環紐(りょうかんちゅう)式2式
」か、「外縁付紐(がいえんつきちゅう)式1式」とみられる。南関東で出土
例のある類似品(小銅鐸)とは異なる。
もう1点は近くの排水溝の底にあり、高さ約8センチで最大幅が約3センチ
。古い銅鐸に多い、のこぎりの刃に似た鋸歯文(きょしもん)の文様がある。
2点が同じ銅鐸かどうかは今後調べる。
やりの穂先に似る銅戈は5本とも刃先が西の方角を向き、うち4本が刃を上
に向けて整然と並べられ、もう1本は少し離れて埋まっている。大阪湾周辺で
見つかっている「大阪湾型」とみられる。
調査指導委員会委員の石川日出志・明大教授(考古学)によると、出土した
銅戈、銅鐸とも、形式などから弥生中期の紀元前2世紀に作られ、紀元前後に
埋められたと考えられるという。
柳沢遺跡は千曲川と夜間瀬川との合流点の東側に位置。これまで弥生時代の
水田跡などが見つかっている。
229 :
愛知・岡崎城:2007/11/04(日) 21:45:16
安土桃山末期の強固な石垣 岡崎城で発見、国内4番目の規模
2007年11月4日 朝刊
徳川家康が誕生した愛知県岡崎市の岡崎城の「大林寺郭(くるわ)堀」跡で
、安土桃山時代末期に築かれたとみられる二段になった防御用の強固な石垣が
見つかった。関ケ原の戦い(一六〇〇年)以前の城郭では高さと長さでは類を
見ない総石垣造りの上、石垣は天守から五百メートルも離れており、日本の城
としては江戸城、豊臣政権下の大坂城、拡張を繰り返した幕末の姫路城に次い
で四番目に巨大な城だったことが証明された。三日に現地を視察した城郭研究
の第一人者である広島大大学院の三浦正幸教授(53)=文化財学=は「近年
まれにみる大発見」と注視している。
見つかったのは、岡崎市材木町のマンション建設予定地。民有地で、開発に
伴い市教育委員会が今年二月の試掘で石垣を確認。九月下旬から本格的な発掘
調査を進めている。
石垣は地表のすぐ下で見つかり、全長約三十メートルに及ぶ。総堀の内側に
あった外堀の「大林寺郭堀」で、上段と下段の間に幅一−二メートルの「犬走
り」と呼ばれる通路がある。高さは約七メートルあり、自然石をそのまま積み
上げる「野面(のづら)の乱積み」と呼ばれる築造方法だった。
市教委は、石垣周辺で見つかった道の遺構などとともに石垣の埋蔵状況を写
真撮影して記録。調査は今週半ばまでの予定のため、既に上段の石垣は長さの
三分の二程度が解体されている。(続く↓)
230 :
愛知・岡崎城:2007/11/04(日) 21:46:25
(
>>229の続き)
三浦教授によると、野面の乱積みによる犬走りの構造は、城造りのピークを
迎えていた一六〇八(慶長十三)年以前の形式。当時の築造技術では高い石垣
が造れず、築かれた場所は低湿地など地盤が軟弱な土地だったことから、犬走
りを設けて二段にして補強した。「関ケ原以前の城郭では二の丸の外側にこの
ような石垣は造っておらず、大変貴重」という。
この石垣は天下を取った豊臣秀吉の命で、一五九〇(天正十八)年に岡崎城
主となった田中吉政(一五四八−一六〇九年)が築いたと推定。この年、関東
に移封された家康のかつての本拠地で、豊臣政権が権勢を誇示し、政略、戦略
的に重要な位置を占める狙いがあったのではないかという。
岡崎市教委は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は一六〇一(慶長
六)年に岡崎城主となった本多康重(一五五四−一六一一年)が主君家康の命
で整備した堀の一部とみていた。これまで岡崎城の外堀などの本格的な石垣は
見つかっていない。
三浦教授は「国や市の文化財指定も受けておらず、民間の開発を止める法律
はない。解体されるのは大変惜しまれる」と話している。
■岡崎市教委文化財班の話 民有地なので現時点では保存は難しいと思う。
中世城郭の専門の学芸員はいなく、専門家の判断を仰ぎたい。
ttp://www.chunichi.co.jp/s/article/2007110490073254.html
発見から55年、調査が形に 神河・福本遺跡
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0000727578.shtml(画像あり)
旧石器時代から奈良時代にかけての大規模な複合遺跡である神河町福本の福本遺跡について、同町
教委は本年度中にも、出土品の検証結果をまとめた報告書を文化庁などに提出する。遺跡からは、約一
万三千年前の石器や弥生時代の住居跡が見つかっており、播磨周辺の歴史を知る上で重要な手掛かり
となりそうだ。(安福直剛)
福本遺跡は市川流域の台地にあり、広さ約十万平方メートル。一九五二年、高校教諭だった男性が縄
文時代早期の土器を発掘し、播磨地域最古の遺跡として注目を集めた。
その後、旧神崎町教委などでつくる調査団が一九七七-八五年、計五回の発掘調査をしたが、財政上の
理由などから一時中断。県教委埋蔵文化財調査事務所魚住分館(明石市)に出土品を保存し、貴重な史
料が眠っていた。
国の補助を得た神河町教委が約三年前から、出土品の検証を再開。旧石器時代の石器をはじめ、縄文
時代の土器や弥生中期の住居跡、奈良時代の瓦窯(がよう)などを整理、検証し、約二百ページに及ぶ報
告書をまとめた。広く公認される遺跡としてのめどが立ったといえる。
地元の福本歴史文化研究会の宮永肇事務局長(67)は「ようやく一つの成果が得られ、感慨深い。神河
をはじめ周辺地域のシンボルとして、遺跡をどう生かすか考えていきたい」と話している。
一方、長年の調査結果の一端を紹介する特別展「福本遺跡 整理作業の成果」が三日まで、神河町中
村の神崎公民館で開かれている。同遺跡や、町内のほかの古墳などから出土した土器などが展示されて
いる。
■地元で3日にシンポ(略)
11月2日 11:03 【神戸新聞】
竪穴住居10棟を発掘 県埋文 状態良好、弥生土器も
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20071101/CK2007110102061005.html 白山・五歩市遺跡
県埋蔵文化財センターは三十一日、白山市五歩(ごぼ)市町の五歩市遺跡で、大型の竪穴住居など弥
生時代後期から古墳時代前期の集落跡や鎌倉から室町時代の集落跡が、良好な保存状態で確認された
と発表した。当時の建物構造や集落の様子などを解明するための貴重な史料になりそうという。(室木泰彦)
同センターによると、四月からの調査で確認されたのは竪穴住居十棟。直径八メートルほどの跡が多く、
大きいものは直径十メートルを超える。特に弥生後期から古墳前期の集落跡では、長軸で十一メートルの
大型竪穴住居を中心に集落跡が広がる保存状態が良い形で見つかった。
このほか弥生土器つぼ、高坏(たかつき)、器台などの遺物も出土しており、現地説明会の際に十数点ま
とめて展示される。
五歩市遺跡は、JR松任駅から東へ約一キロ離れた北陸線沿の田んぼにあり、弥生から江戸時代まで
の集落遺跡。今回の調査対象は約一万二千四百平方メートルで、弥生後期にはすでにこの地域に人々
が暮らし始めていたことが確認されたという。
同センターは三日午後一時から現地説明会を開く予定で、「保存状態が良く、当時の集落の様子や暮ら
しぶりが伝わるので、ぜひ参加してほしい」と呼び掛けている。
問い合わせは、同センター=電話076(229)4477=へ。
11月01日 00:00 【中日新聞】
中世の目抜き通り 舗装路面、良好な状態 大友城下町跡あす説明会
http://kiji.i-bunbun.com/read/read.cgi?1194015600=119404930729018=1(画像あり)
大分市の中世大友城下町跡で県教委埋蔵文化財センターが取り組んでいる本年度の発掘調査で、”メー
ンストリート”だった南北街路の舗装路面が良好な状態で出土した。当時の食生活をうかがい知ることができ
る牛の骨などの遺物も見つかり、四日に現地説明会を開く。
遺跡は戦国大名・大友宗麟が拠点とした約四百五十年前のもので、当時は「府内」と呼ばれた。一九九九
年度から発掘調査を続けており、本年度は錦町三丁目と六坊北町の二カ所を調査した。
大友館の北東に位置する錦町では、道幅六・五メートルの南北街路が姿を現した。砂利を敷き詰めた舗装
路面の状態はこれまでの発掘で最も良く、竹筒製の地下排水溝も見つかった。周りは中国人の居住区と思わ
れ、街路脇の堀から残飯とみられる牛や鶏の骨、貝殻のほか、ざる、草履、耳かき、木げたといった生活用具
も出土した。
大友館の南側に当たる六坊北町では、十六棟分の町屋跡が見つかり、当時の道路に対して斜めに規則的
に並んでいる。
四日は午前十時までに六坊北町の発掘現場に集合。周辺の国道10号に職員が立ち、駐車場に誘導する。
福田快次所長は「南蛮貿易で栄えた中世府内の生活の様子や街並みを感じてほしい」と話している。
11月03日 09:21 【大分合同新聞】
若林城跡:伊達政宗が晩年過ごした、刑務所内の遺跡を初公開−−23日 /宮城
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20071102ddlk04040204000c.html ◇23日、一般に現地説明会
宮城刑務所(仙台市若林区)の敷地内で発掘調査中の若林城跡の現地説明会が23日開かれ、初めて一
般公開される。仙台藩祖・伊達政宗公が晩年を過ごしたことで知られ、84年から発掘調査が進められてきた
が、全国でも珍しい刑務所内の遺跡とあって、20年以上たっても歴史愛好家らには生で見る機会が無かった。
一般公開に先立ち1日、報道陣に公開され、同市文化財課の佐藤淳主任は「江戸初期の武家の御殿建築を
知る極めて貴重な遺跡」などと説明した。
若林城は1628年完成。一国一城令が敷かれていたため、幕府には「仙台屋敷」として造営許可を申請し
たという。政宗が8年間過ごし、死後に一部移築されたが、基本的に取り壊され、現地は薬草園などに変遷。
明治政府が1879年、西南戦争の「国事犯」を収容する宮城集治監を設置。以後、刑務所として利用されてきた。
一般公開されるのは、同刑務所の全面改築に伴い、04年開始した第8次発掘調査の作業現場約1600平
方メートル。2代忠宗により仙台城二の丸に移築された台所跡▽床の間構造が確認され、接客用と推定され
るL字型建物跡▽広瀬川から水をひいたと考えられる樋(とい)(導水管)跡−−などが見学できる。同課は国
指定史跡の登録を目指す。
現地説明会の募集人数は200人(1組2人まで)。午前9時半、同10時半、午後1時、午後2時の4回に分
け実施する。「特殊な場所」だけにカメラなどの持ち込みは禁止で、事前に保険証などの身分証を確認する。
応募方法は、往復はがきに「若林城跡現地説明会参加希望」と書き、希望者全員の住所、氏名、年齢、電
話番号と希望時間を記入。10日必着。あて先は〒980−8671 仙台市青葉区国分町3の7の1 仙台市文
化財課。問い合わせは、同課調査係(電話022・214・8894)。
11月02日 12:03 【毎日新聞】
二の丸への移築を裏付け 仙台・若林城跡で23日説明会
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/11/20071102t15039.htm 11月02日 14:13 【河北新報】
北陸最古の山林寺院跡か 小松に8世紀前半の遺跡
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20071102/CK2007110202061270.html(画像あり)
礎石や須恵器を発見
小松市教育委員会は一日、同市五国寺町の丘陵地で北陸地方最古となる八世紀前半の山林寺院とみら
れる寺院跡が見つかった、と発表した。全国で山林寺院が盛んに建設されたのは八世紀後半とされており、
市教委は北陸への仏教伝播(でんぱ)の過程や人々の信仰を探る貴重な史料としている。
これまでに確認されたのは、建物の基礎となる幅五・七メートル、奥行き三・四メートルの礎石と須恵器の
平瓶(へいへい)など四つの土器。須恵器の様式から八世紀前半と判断した。
礎石を使う建築は当時、役所か寺院に限られており、周囲を急斜面に囲まれた立地条件などから修行用
の山林寺院の可能性が高いという。
礎石から少し離れた南側には、神への信仰の対象と考えられる岩「磐座(いわくら)」(年代不詳)があり、
その一部をくりぬいてほこらが造られていた。寺院跡から約三キロ離れた所に集落があり、市教委は「集落
の人の信仰の場所だったのではないか」とみている。
十一世紀後半から十二世紀後半にかけて成立したとされる白山信仰の寺院「中宮八院」の遺跡調査の一
環で実施。中宮八院の一つ「松谷寺」の推定地とされる場所で偶然、寺院跡が発見された。市教委は今後、
松谷寺と山林寺院の関連について調査する。
四日午前十時から現地説明会が開かれる。問い合わせは、市教委埋蔵文化財調査室=電話0761(24)
8132=へ。
11月02日 00:00 【中日新聞】
ヲカタ塚古墳:前方部、南西に延びる レーダー探査で確認−−天理大研究会 /奈良
http://mainichi.jp/area/nara/news/20071102ddlk29040394000c.html ◇全長は130メートル以上の規模
天理市柳本町の前方後円墳・ヲカタ塚古墳(6世紀)について、天理大学のサークル「歴史研究会」が現地
測量やレーダー探査を実施した結果、前方部は南西に延び、古墳の全長は130メートル以上の規模だった
ことが判明した。これまでの調査で前方部は北東に延びる可能性も指摘されていた。【大森顕浩】
同古墳は77年に橿原考古学研究所が測量調査。北西に前方部が付いて全体がホタテ貝状になる全長55
メートルの前方後円墳と想定した。しかし、南西部には前方部がついたような地形のこん跡があり、南西部に
前方部が延びる可能性も指摘されていた。
同研究会は顧問の置田雅昭教授の指導を受け、今年2月に測量調査とレーダー探査を実施した。その結
果、前方部は南西に末広がりに延びることが判明した。
レーダー探査の結果、墳丘すそ部とみられる部分でレーダー波が戻ってくるのが早く、ふき石のような硬い
部分があることが分かった。その外側には幅約5メートルにわたる溝状のくぼ地も確認された。溝は古墳北東部でも確認されており、周濠が巡っていた可能性があるという。
同研究会長の3年、今井和代さん(21)は「発掘しなくてもレーダー探査でかなりの成果を挙げられたのが
大きい」と話している。調査成果は天理大学祭で2日から展示する。
11月02日 15:22 【毎日新聞】
藩政期の石積み現存 金沢・長坂用水 図面通り、測量技術の高さ示す 市調査
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20071102101.htm(画像あり)
金沢市の寺町寺院群を貫く県道(通称・寺町大通り)で、かつて流れていた長坂用水の藩政期の石積みが
現存していることが一日までの市の調査で分かった。同用水の位置や幅などは江戸期の「金沢測量図籍」の
記載とほぼ同じであることも判明し、加賀藩の測量技術の高さも示している。市は寺町大通りでの同用水復
元に向けた足掛かりになると受け止めており、寺町寺院群の価値を高め、世界遺産登録運動の弾みになるこ
とを期待している。
調査では、寺町四、五丁目の寺町大通り計四カ所を試掘した。市は長坂用水が埋められた際に石積みや
水路の痕跡が破損した可能性があるとみていたが、いずれの地点でも表面加工を施さない川原石積みが現
存していることが確認された。
伏見寺前の地点では石積みの裏側から江戸初期のものとみられる陶磁器が出土した。市によると、石積
みは、寺町大通りの長坂用水築造当初のものである可能性がある。
妙法寺前の試掘地点では道路を横切る形で用水が流れており、土質などから水溜め施設があったことも
判明した。防火用水確保が目的とみられるという。
今回の調査では、県立図書館所蔵の「金沢測量図籍」から江戸時代の平面図を作成し、現在の寺町大通
りの平面図に重ね合わせて、用水の場所や幅を予測した。その結果、鐘声園前の試掘地点では用水の幅が
金沢測量図籍の記載とまったく同じの一・二メートルとなるなど、信頼性の高い資料であることが分かった。
◆長坂用水 1671年に加賀藩5代藩主綱紀が旧泉野村など寺町台地一帯の新田開発や当時の失業対策
として築造した。現在の寺町大通りに支流が引き込まれたのは1708年ごろとみられるている。寺町大通りで
は昭和40年代まで幅約1・3メートルの開渠として長坂用水が存在していたが、昭和50年代ごろに歩道や消
雪装置の整備に合わせて埋められた。(一部略)
11月02日 03:29 【北國新聞】
土塁決壊防ぐ小石の堀見つかる・福岡県前原市の怡土城
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20071102STXKE086701112007.html 菅原道真と並ぶ古代の学者政治家、吉備真備が福岡県前原市に築いた8世紀の山城、怡土城跡(国史跡)
の土塁の内側に多数の小石で埋められた堀があったことが、同市教育委員会の発掘調査で2日までに分かっ
た。
小石を詰めた堀は、城が築かれた山の斜面から大水が流れてきたとき、城の外縁を固める土塁が決壊しな
いよう水の勢いを弱め、石のすき間に水をためて排水溝などへゆっくり逃がした設備と考えられるという。
続日本紀などによると、怡土城は唐に留学し大宰府政庁の高官となった吉備真備が756年、築城に着手。
768年、完成した。西側の平野部に土塁(高さ約10メートル)が設けられた。
西谷正九州大名誉教授(考古学)は「大水から土塁を守る高度な土木技術がうかがえる発見だ。吉備真備
が中国で学んだ土木技術をヒントに考えだしたのではないか。中国や韓国で同じような工事例は見つかってい
ない」と話している。
11月02日 14:02 【日本経済新聞(共同通信ソース)】
蔚州文化院が西生浦倭城の整備事業を推進へ…蔚山(画像有り)
【蔚山6日聯合】蔚山市蔚州文化院は6日、蔚山市の文化財資料に指定された
蔚州郡西生面にある西生浦倭城を整備するための汎市民推進委員会の構成など
、本格的な整備事業に取り組む考えを明らかにした。
西生浦倭城は壬辰倭乱(文禄慶長の役)当時に、日本の熊本城を築城した加
藤清正により作られたもので、1593年に完成した。414年が過ぎた現在
では、蔚山市文化財資料第8号に指定されている。
蔚州文化院は、市民推進委員会を構成後、西生浦倭城整備事業を進めるため
、周辺一帯に蒼表堂と水軍万戸鎮城を復元する。蒼表堂は新羅時代初期から軍
事的に海岸警備の要所地だった西生面に、1599年に王の命により建てられ
た。水軍万戸鎮城は西生浦倭城ができる前の1407年に作られた。壬辰倭乱
の際に侵略した倭軍が拠点を作るためここに多くの石材を積んで築城したのが
西生浦倭城だ。
蔚州文化院は事業推進とともに、日本の熊本市文化院が最近西生浦倭城と関
連し交流を求めてきたことから、正式に交流を持つことにしている。
ttp://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2007/11/06/0200000000AJP20071106003400882.HTML
240 :
愛知・岡崎城:2007/11/10(土) 18:54:55
>>229-230の続報
岡崎城の大規模石垣に反響大 文化的価値を再検討へ
2007年11月6日【写真】
安土桃山時代末期に築かれたとみられる大規模な石垣が確認された岡崎市材木町の岡
崎城「大林寺郭(くるわ)堀」跡のマンション建設予定地。報道を受けて相次いで市民
が発掘現場に訪れるなど反響が高く、市教育委員会は五日、石垣の解体を伴う調査を中
断し、文化的価値について有識者らに再検討を依頼する方針を決めた。「保存」か「解
体」か。民有地から見つかった約四百年前の石垣を巡って議論が始まった。
四日の日曜日。市教委による発掘調査は休み。それでも大勢の市民が次々に訪れ、発
掘現場の擁壁によじ登ったり、隣接するビルの上階に上がったりして掘り返された石垣
を見物し、関心の高さをうかがわせた。
擁壁越しにカメラのシャッターを盛んに切っていた同市美合町の会社員男性(44)
は「幅広い市民向けの説明会を開いてほしい」。同市松本町の薬局経営者(65)は「
民有地とはいえ、これは市民の財産。一度壊したら、もう取り返しがつかない」と保存
を求めた。
五日も、見物者はひっきりなし。同市細川町の自営業男性(49)は「石垣を生かし
た市街地の活性化や国際的な観光誘致にも役立つのでは」と話した。
市教委には、石垣についての問い合わせのほか、現地での保存を求める市民らの電話
が十件前後寄せられたという。
市民オンブズ岡崎代表の渡辺研治さん(55)は「市教委の打ち出した方針は歓迎す
るが、再検討が単にポーズでは困る。真摯(しんし)な論議を期待したい」と話した。
(相坂穣)
ttp://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071106/CK2007110602062116.html
241 :
大分:2007/11/10(土) 20:27:42
日田出土 「鉄鏡」に新説 弥生時代大乱の末敗走奴国の王族が持ち込む?【写真】
日田市内で出土し、現在は九州国立博物館(福岡県太宰府市)に展示されている金
銀錯嵌珠龍文(きんぎんさくがんしゅりゅうもん)鉄鏡(国指定重要文化財)をめぐ
り、同博物館の河野一隆・文化交流展示室長(41)が3日、日田市内で講演。弥生
時代、伊都国(いとこく)(福岡県前原市一帯)との覇権争いに敗れた奴国(なこく
)(福岡市一帯)の王族が持ち込んだ宝物の一部ではないか、とする新たな仮説を明
らかにした。
鉄鏡は1933(昭和8)年、旧国鉄久大線の敷設工事に伴い、同市日高のダンワ
ラ古墳から出土した。金銀が埋め込まれた鉄鏡としては国内では唯一の出土品で、中
国の漢(紀元前3‐3世紀)から日本の王族にもたらされたものとされるが、なぜ日
田から出土したのか、なぞに包まれている。
河野室長によると、弥生時代中期、九州北部には伊都国と奴国の二大勢力があり、
互いに華北(中国)、楽浪(朝鮮半島)との交易・交渉窓口をめぐって覇権争いを展
開。紀元前後に勃発した倭国の大乱の末、伊都国に敗れた奴国の王族の一部が難を逃
れる際、金印(漢委奴国王印)を志賀島へ、鉄鏡を日田に持ち込んだのではないか、
との新たな見方を示した。
242 :
大分:2007/11/10(土) 20:28:44
(
>>241の続き)
鉄鏡は直径約21センチ。金、銀、ガラス(トルコ石)で装飾され、顕微鏡調査な
どによると、コウモリが羽を広げたような文様も見られた。ノミのような工具を巧み
に使った「蹴堀(けぼ)り」の技術が導入されていることなどから、中国の戦国‐前
漢時代に作られたものと推測できるという。
鉄鏡の縁には「孫」「長」「宜」の文字も刻まれ、「子孫の代まで末永くよろしく
」という意味を表しているという。
河野室長は、日田市刃連町から出土し、同じように中国・漢からもたらされたとさ
れる大小2個の金錯鉄帯鉤(きんさくてつたいこう)(帯留め)を含め、「日田には
奴国の王族と血縁関係がある人物がおり、奴国の王族の一部がセットで持ち込んだ可
能性が強い」とした。
そのうえで、鉄鏡、帯鉤とも同じ様式の出土例がなく、比較検討による研究が進ん
でいないこともあり、河野室長は一帯の基礎調査と調査結果の公表を求めた。
=2007/11/06付 西日本新聞朝刊= 2007年11月06日11時00分
ttp://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/oita/20071106/20071106_002.shtml
243 :
愛知:2007/11/10(土) 20:36:46
尾張国府の手掛かり? 柱穴や竪穴建物跡 稲沢「塔の越遺跡」で発見
2007年11月8日 【写真】
県埋蔵文化財センターと県教育委員会は7日、稲沢市長野の「塔の越遺
跡」の発掘調査で、古墳時代から奈良時代にかけての遺構や遺物が見つか
ったと発表した。すぐ西にある大和朝廷の尾張国府の推定地より前の7世
紀の遺構などで、尾張国府の成立前を知る上で重要な手がかりになるとい
う。10日午後2時から、現地で説明会がある。
同県教委によると、見つかったのは飛鳥時代や奈良時代の柱を据え付け
るために掘られた穴や、柱を使った建物群跡、竪穴建物跡、古墳など。中
でも7世紀後半(飛鳥時代後半)の柱の跡は一辺が1−1・5メートルと
大型で、当時の一般的な集落の建物跡とは考えにくく、「国府成立前の尾
張の支配のあり方を考える上で重要な発見」(同県教委)という。
また、塔の越遺跡とその東に隣接する長野北浦遺跡にかけて四世紀前半
(古墳時代前期)の古墳数基を確認。中でも長野北浦遺跡で見つかった一
辺が25メートルの大型方墳は、全長が40−45メートル程度の前方後
円墳になる可能性があるという。
塔の越遺跡ではこれまで5世紀末ごろの円墳が2基確認されていたが、
これよりも150年もさかのぼる古墳が見つかり、「この地域が国府成立
以前から尾張の中心地だったことを示している」(同)という。
(山本真嗣)
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071108/CK2007110802062645.html
244 :
京丹後・谷奥古墳群:2007/11/10(土) 20:46:57
割竹形木棺?の埋葬跡を発見
京丹後・谷奥古墳群 鉄剣なども出土【写真】
京都府埋蔵文化財調査研究センターは8日、京丹後市弥栄町木橋の谷
奥古墳群で見つかった古墳時代前期から中期初めの古墳計14基の発掘
調査結果を発表した。割竹形木棺が据えられたとみられる埋葬跡などが
見つかり、同センターは「中小首長クラスの墓と考えられる」としてい
る。
同センターは府道の改良事業に伴い、6月から丘陵地(5000平方
メートル)に築造された14墓を調査した。
登頂部平たん面が直径約20メートルの8号墳では、長さ10・5メ
ートル、幅4・2メートルの穴に、割竹形木棺によるとみられる長さ8
・2メートル、幅1・7メートルの埋葬跡が見つかり、副葬品の鉄剣や
鉄のやじりなども出土した。
同古墳群周辺には、同時期に大型の前方後円墳が築造されており、谷
奥古墳群の被葬者像は、丹後地域の首長に従属した中小首長と想定され
るという。現地説明会は10日午後2時から。問い合わせは谷奥発掘事
務所携帯電話080(5309)0790へ。
ttp://www.kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007110800199&genre=M2&area=K60
>>240 ローマやヨーロッパの街みたいに、本物の遺跡が街に溶け込むような街づくりをして
観光客に魅力アル街にしてほしい。
海外と比べ、日本ほど歴史的魅力のない街はない・・・
欧米の観光客の求めているものは歴史的魅力のある街だと思うんだよな。
246 :
福岡:2007/11/14(水) 19:40:19
大野城跡 城門内に石段、石敷き 太宰府 九州の古代山城跡で初
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20071114/20071114_001.shtml 福岡県太宰府市教委文化財課は13日、同市四王寺山にある特別史跡・大野城跡で、飛鳥時代から奈良時代のものとみられる城門跡が出土したと発表した。
大野城跡の城門出土は7カ所目だが、九州の古代山城跡の城門の内側通路で石段、石敷きがそろって確認されたのは初めてという。
大野城跡は朝鮮式の古代山城跡。大陸からの唐・新羅連合軍の侵攻に備え、天智天皇が大宰府を防衛するために飛鳥時代の665年ごろ築かせたとされる。
太宰府市、大野城市、宇美町にまたがる四王寺山の標高300メートル前後の尾根に総延長約8キロに及ぶ土塁、石垣などが確認されている。
今回、発見された城門跡は、標高約320メートルの南東斜面で、兵糧などを保管する倉庫があった尾根上の増長天跡から南に約150メートル地点。増長天とふもとにある観世音寺などを結ぶ道路上に位置する。
2003年7月の集中豪雨で土塁がある斜面が崩落。その復旧工事に伴う、今年9月からの調査で奈良時代の瓦、柱穴、石段、石敷き、石垣とともに出土した。
城門は高さ1.94メートル、幅4.3メートル、奥行き9.85メートル。城門の上部と下部をつなぐ内側通路で石畳のような石敷き(長さ約5メートル)と石の階段(10段)が見つかった。石は花こう岩で現地産とみられる。
小田富士雄・福岡大学名誉教授は「九州の古代山城跡城門の内側通路で石段とともに石敷きが発見された例はなく、当時の山城跡を解明する貴重な発見」と話している。
17日午後2時から現地説明会がある。雨天中止。同市教委文化財課=092(921)2121。
=2007/11/14付 西日本新聞朝刊=
2007年11月14日00時09分
船着き場囲む環濠 長崎・壱岐原の辻遺跡 防御用に一体整備?
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20071112/20071112_048.shtml 長崎県教育委員会は12日、同県壱岐市の国指定特別史跡「原(はる)の辻遺跡」で発掘された日本最古の船着き場跡の西側で、環濠(かんごう)とみられる遺構を発見した、と発表した。
専門家らはこの遺構について、弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)、島状に造られた船着き場を防御するための施設として、一体的に整備された可能性を指摘。「過去に類例のない重要な遺構」としている。
県教委によると、遺構は船着き場の西側にある幅約30メートルの川の岸から約3メートル西側で発見。幅は約2.3メートル、深さ約0.8メートル。
原の辻遺跡は居住域を取り囲む幾重もの環濠が特徴で、今回見つかった濠も船着き場を含む区域の周囲に巡らされているとみられる。
同遺跡調査指導委員会委員長の西谷正・九州大名誉教授は「環濠で保護されていたとすると、船着き場は一支国(いきこく)の威信を示し、大陸からの使節らを迎える儀式の場として築かれた可能性がある」と話した。
一方、これまで判明している船着き場の東突堤部に加え、西突堤部の先端を確認。長さはともに約15メートルで、東西対称だったことが分かった。
また、昨年、船着き場南側で見つかった導水のための石積み遺構には、川底や斜面に石を積むなど当時、国内には存在していなかったとされる技術が使われていることが判明。大陸の技術者の指導を受けたとみられる。
=2007/11/13付 西日本新聞朝刊=
2007年11月13日00時01分
赤鉄鉱石:荒尾南遺跡から出土 弥生時代にベンガラ生産集落−−大垣 /岐阜
http://mainichi.jp/area/gifu/news/20071115ddlk21040293000c.html 県文化財保護センターは14日、大垣市荒尾町の荒尾南遺跡から赤色顔料「ベンガラ」の原料となる赤鉄鉱石が出土したと発表した。
近くの金生山から採取してきた赤鉄鉱石を粉にしてベンガラを生産していたと考えられ、弥生時代にベンガラを生産する集落があった可能性が高いという。
弥生時代の遺跡から赤鉄鉱石が見つかったのは県内初。同遺跡から東海地方各地に赤色土器の顔料を送っていた可能性もあるという。【子林光和】
◇「魔よけの色」各地に供給か
同遺跡は、濃尾平野北端部に位置する弥生時代から古墳時代にかけての遺跡で、面積は約17万平方メートル。
東海環状道路西回りルートの建設のため、昨年度から同センターが発掘調査しており、大型船を描いた土器や銅鐸(どうたく)の破片などが既に出土している。
今回の調査で、一辺が2〜5センチの赤鉄鉱10点とベンガラを塗ったつぼの破片が多数見つかった。赤鉄鉱の一部は焼けたものがあり、焼くことで黒みがかった赤色のベンガラを作ったとみられる。
祭祀(さいし)に使ったと考えられる直径7・5センチの弥生時代の巴形銅器も県内で初めて見つかった。
ベンガラは、人類が最初に使った赤色の無機顔料。縄文時代に土器などへ施した赤色彩色が国内最初の事例となっている。赤色は当時、魔よけ、厄よけ、再生の色と考えられた。
金生山は同遺跡の北約3キロにあり、露出した赤鉄鉱石が見つかっている。
弥生時代から古墳時代前期の東海地方の遺跡から発掘された、祭祀に用いたとみられる赤色の土器には、顔料としてベンガラが多く使われている。
同センターは「成分分析をしなければ断定できないが、荒尾南遺跡から各地に供給されていた可能性が高い」と話している。
17日午後1時半から現地説明会がある。
八賀晋・三重大名誉教授 弥生末期に大規模な集落が、水田耕作だけでなく、金生山から産出する赤鉄鉱を加工して顔料としてのベンガラを生産していた可能性が高い。特筆すべきことだ。
毎日新聞 2007年11月15日
「端喰(はしばみ)」の引き戸みつかる 姫路城
2007.11.15 19:56
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071115/acd0711151956005-n1.htm 世界文化遺産・姫路城(兵庫県姫路市)の「太鼓櫓(やぐら)」(国重要文化財)の窓の引き戸に、現存する城郭の天守や櫓などでは使用例がない
「端喰(はしばみ)」と呼ばれる格調の高い技法が用いられていることが、広島大大学院文学研究科の三浦正幸教授(日本城郭史)の調査で分かった。
豊臣秀吉が築いた旧姫路城天守閣から転用した可能性が高いとみられ、姫路市城郭研究室は「全容がほとんど分かっていない秀吉築城の姫路城天守閣に迫る貴重な発見」と話している。
三浦教授らのグループは今年6月、城内の非公開部を重点的に調査。その結果、大天守の東南側に建つ太鼓櫓で、
7枚ある窓のうち4枚の窓の引き戸が厚さ10センチのヒノキ材で作られ、その上下に細長い台形の補強材をはめ込む「端喰」の技法が取り入れられていた。
端喰は、分厚い板材の変形を防ぐなどの目的で施され、神社本殿や書院造の邸宅など格式の高い建物の扉に用いられる技法。姫路城内でも、他の建物からは見つかっていない。
三浦教授は「本来、1つの櫓だけにこの技法を取り入れるとは考えられない。派手好みの秀吉が天守級の建物に使っていたとみるのが妥当」と話し、現在の姫路城天守閣が建つ前に、
秀吉が1581(天正9)年に築造したとされる3層4階建ての天守閣に使われ、この天守が取り壊される際に太鼓櫓に転用したのではとみている。
また、太鼓櫓内からは、やりがんなで仕上げたとみられる柱が1本見つかり、周りの柱に比べてこの柱だけが丁寧な仕上げで老朽化も激しいことから、「秀吉の時代に使われていた可能性が高い」とみている。
三浦教授は「姫路城には、これまで考えられてきた以上に秀吉の“遺産”が色濃く残っているといえる。秀吉がその後築いた大坂城の姿を考える資料にもなりそうだ」と話している。
応神天皇陵東側で外堤跡を確認 (1/2ページ)
2007.11.15 20:09
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071115/acd0711152009006-n1.htm 仁徳天皇陵(堺市)に次ぐ国内第2の規模を誇る大阪府羽曳野市の応神天皇陵(5世紀前半、全長425m)東側に隣接する茶山遺跡で、応神陵の外濠(がいごう)と外堤(がいてい)の跡が見つかり、同市教委が15日発表した。
堤は応神陵の東側に食い込むように接する小規模の古墳に配慮した形で築かれた、極めて異例の様式であることが判明。この古墳が応神天皇と極めてゆかりの深い人物を埋葬した可能性が高まった。
応神天皇陵は、大阪府などが世界文化遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群の中核古墳の一つ。
隣接しているのは二ツ塚古墳と呼ばれ、応神陵よりも30〜50年早く築造された全長110mの前方後円墳で、後円部は応神陵の内濠と内堤が湾曲させて造られるほど密着。羽曳野市教委によるとこうした例は国内では例がなく、両者の関係が注目されている。
同市教委は今年5月から10月に、茶山遺跡内にある中学校のグラウンド約5000平方メートルを発掘調査。応神陵の内堤に平行して幅約17mの外濠と、幅約30mの外堤の跡が見つかった。(続く)
(
>>250の続き)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071115/acd0711152009006-n2.htm 詳しく調べたところ、外濠は同古墳の周濠でせき止められていたうえ、外堤は古墳に沿って東へカーブしており、古墳を囲むように造られていたことが判明した。
古い墳墓が新しい墳墓の敷地にかかる場合、古い方を壊して築造することが多いことから、同市教委では二ツ塚古墳への配慮がうかがえるとし、「墳墓の場所は天皇本人が決めたと考えられるので、
大切な人の墳墓だったと推定できる。被葬者は応神天皇と関係が深い人物である可能性がいっそう高まった」とする。
一方応神陵では、既に西側から外壕と外堤が見つかっている。今回の発見で、現存する堤の周囲を囲む濠と堤を持ち、今より一回り規模が大きかったことが確定した。
奈良大学の白石太一郎教授(考古学)は「被葬者は分からないが、規模が小さい二ツ塚古墳への配慮があったのは重要なポイントで、
さらに陵墓の構造が確認ができた貴重な発掘だ。応神陵の全体像に一歩近づいた」と話している。
252 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:20:49
http://mainichi.jp/select/science/news/20071117k0000e040063000c.html 平家物語:成立年代の謎、火山研究で迫り成果…鹿大准教授
井村隆介・准教授と霧島の地質図(左)=鹿児島市で、山崎太郎撮影 平家物語にある
霧島山(鹿児島、宮崎県境)噴火の記述を、鹿児島大理学部の井村隆介・准教授が
地質調査結果などと照合したところ「平家物語の成立は1235年より前」との結論に達した。
平家物語は成立年代が不明で、研究者は「非常に貴重な意見」と評価。火山の科学的
研究が古典文学のなぞに迫るユニークな成果となった。19日から長崎県島原市で始まる
第5回火山都市国際会議で発表される。
平家物語の原本から派生した長門本平家物語には、原本にはない「霧島山が子の刻
(午前0〜2時ごろ)、鳴動して岩が崩れ、火はもうもうと燃えた」など噴火の様子が記されて
いる。年月は書かれていない。
253 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:22:26
政府の震災予防調査会が1918年に発行した「日本噴火志」は、薩摩藩の学者がまとめた
「襲山考(そのやまこう)」という本の引用から、この噴火を天慶8(945)年としており、
これが通説となっていた。井村准教授が鹿児島県立図書館所蔵の「襲山考」を確認すると、
そのような記述はなく、945年噴火説は間違いで、震災予防調査会が誤って引用したことが
判明した。
一方、長門本には、口語訳すると「噴煙が渦巻いた後、幅3〜6メートル、長さ30〜40
メートルほどの大蛇が現れた」など詳細な描写がある。井村准教授は「『大蛇』はおそらく
溶岩流のことで、実際に目撃したか、それに近い人物でないとここまで記述できない。
霧島山の溶岩流出噴火から時間を置かずに長門本が成立したのではないか」と推定した。
地質調査から霧島山の溶岩流出は788年、1235年、1768年とされている。
788年と1768年は源平の時代ではないことから、1235年が長門本に書かれた噴火の
時代であるとみて、「長門本成立を1235〜45年ごろとすれば、平家物語原本の成立は
それより前になる」との結論を導いた。
日本文学の専門家によると、原本は1220〜30年ごろ、長門本は14〜15世紀の成立と
する考えが主流という。日本女子大の麻原美子・名誉教授は「私は長門本の成立を13世紀
半ばと考えていたが、これで1235年を(成立年代をさかのぼって考える)上限に設定する
ことができる」と評価している。
一方、青山学院大文学部の佐伯真一教授は「長門本は専門家の間では内容の正確性には
疑問があり、噴火の記述が正確だというのは意外だった。長門本の見方を改める必要が
あるかもしれない」と話している。
254 :
京都府木津川市:2007/11/20(火) 21:31:03
高麗寺で最古の築地塀出土 7世紀、伽藍配置も判明
2007年11月20日 18時47分 【写真】
飛鳥時代に創建された京都府木津川市の高麗寺跡で、7世紀後半の築地塀が出土し、20日、同市教委が発表した。同時期の築地塀の出土例はなく、日本最古という。
また金堂、中門、南門が南北方向に一直線に並ぶ変則的な伽藍配置だったことも判明、古代寺院の全体像をうかがう史料となりそうだ。
築地塀は東西方向に約40メートル分見つかった。内側に倒れた状態で、屋根にふかれた瓦もそのままの状態で残っていた部分もあった。
築地塀は奈良時代の8世紀には一般的になるが、7世紀にもあったかはこれまでよく分からなかった。
南門の規模は幅約6メートル、奥行き約3・6メートル。これまでの調査で、高麗寺の伽藍配置は東に塔、西に金堂が並列する法起寺式だったことが判明。
ただこれまで分かっていた法起寺式では塔と金堂の中心にある南門と中門が、金堂のある西側に偏っていた。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007112001000406.html
末盧国王墓の甕棺を発見 佐賀県唐津市で63年ぶり【写真】
中国の史書「魏志倭人伝」に記された「末盧国」があったとされる佐賀県唐津市の桜馬場遺跡で、戦時中に出土したが埋め戻され行方が分からなくなっていた甕棺が63年ぶりに出土した。
多数の副葬品も見つかり、末盧国の王墓を特定する発見として唐津市教育委員会が21日、発表した。
市教委は「弥生時代のクニのうち、王墓の位置が特定されたのは、三雲南小路遺跡と平原遺跡(いずれも福岡県)に次いで3例目」としている。
市教委によると、1944年11月、防空壕を掘る工事中に甕棺のほか、復元され国の重要文化財に指定された「流雲文縁方格規矩四神鏡」などが出土。
甕棺はそのまま埋め戻され、現場は住宅地や駐車場になっていた。
2007年11月21日21時32分
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20071121/20071121_023.shtml
2000年前の環濠集落跡を発掘【写真】
東広島市高屋町溝口の東広島呉道工事現場で、約2000年前の弥生時代中期の
環濠(かんごう)集落跡の一部が見つかった。全体は数100メートル規模の本
格的な集落とみられ、高屋地区の中心地だった可能性があるという。弥生中期
の土器や、石器の工房跡とみられる浅く掘った穴から石の剥(はく)片も発見。
発掘調査をした市教育文化振興事業団は、12月2日の午後1時半―2時半に現
地見学会を開く。
ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200711210029.html
京都・恭仁宮跡から回廊跡 (1/2ページ)【写真】
2007.11.22 22:38
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071122/acd0711222238010-n1.htm 京都府木津川市加茂町例幣(れいへい)中切(なかぎり)にある奈良時代前半(8世紀中ごろ)の国史跡「恭仁(くに)宮(きゅう)跡」で、聖武天皇が国家儀式を行った大極殿の敷地を囲む築地回廊跡が見つかり、府教委が22日発表した。
構造などから、回廊は歴史書「続日本紀」の記載通り、大極殿とともに平城宮から移築され、その東西は148・6メートルだったことを確認。独自の建物配置だった可能性も高まった。
見つかった回廊跡は、延長34・8メートルで大極殿の敷地の北西隅などで出土。回廊の柱をたてる土台固めのために掘られた計11の穴(直径1・2〜1・5メートル、深さ20センチ)があった。
穴は恭仁宮が国分寺となる際、礎石がぬきとられた跡。敷地外側の南北に6つ、外側東西に3つと7・2メートル離れたその内側で2つを確認。
いずれも一直線に並び、間隔が狭くなる北端部分を除いて4・6メートル間隔だった。
こうした回廊の構築方法は、710年に造られた最初の平城宮と同じで、府教委は「大極殿とともに回廊を移築した」との続日本紀の記述が裏付けられたとしている。
大極殿の中心と結ぶ回廊の中心も判明し、回廊の東西距離も確定。平城宮の回廊の東西約180メートルの8割ほどだった。平城宮に比べて地形的に敷地を狭くせざるを得なかったためとみられる。
回廊は、中央を築地塀で仕切り、その両側を行き来する平城宮と同タイプの複廊形式。しかし、回廊の屋根の幅は平城宮のタイプより3・2メートル短い10・2メートルだったと推定された。
(続く)
パソコン木簡解読システムを開発 奈良文化財研究所
2007.11.22 12:21
(1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071122/acd0711221221008-n1.htm 遺跡から出土した木簡に記された文字をパソコンで解読する初の支援システムを、奈良文化財研究所(奈良市)などが開発した。
実用化のめどが立ち、年度内にもインターネット上で公開し、成果を共有化する。
木簡の解読はこれまで、研究員らの知識や経験をもとにした“眼力”で長期間かけて行われてきたが、新システムを使えば、解読困難な文字を読み取ったり、文字が示す意味を探ることが容易になる。
木簡解読の正確性と効率が高まりそうだ。
同研究所では、平城京(奈良市)などの発掘現場で木簡が出土した場合、洗浄したうえで、研究員らが辞典を片手に解読作業を進めてきた。
ただ、木簡の文字は崩していたり、消えかかっているなど解読困難なケースも多く、時間がかかるうえ、読み違えの危険もつきまとう。
平城宮跡で昭和38年に出土し、今年重要文化財に指定された1785点におよぶ木簡は、解読して報告書を出すまでに6年ほどかかったという。
このため研究所では、平成15〜19年度の5カ年で、パソコンを使った木簡の解読支援システムについて研究。東京農工大学の耒代誠仁(きただい・あきひと)助教らとともに開発を進めてきた。
(続く)
(
>>259の続き)(2/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071122/acd0711221221008-n2.htm システムでは、木簡の画像をパソコンに取り込み、解読したい範囲を指定すると、類似文字を示す複数の候補が表示され、選択できる。
欠けている字についても候補が示されるという。
また、それぞれの字が示す地名や人名、品目の候補も表示され、辞典などで調べる手間も省ける。現在、約500種類の字が登録されており、今後は文字数をさらに増やすことが課題となる。
「Mokkan ShoP」と名付け、研究所のホームページで公開する予定で、他地域の研究者たちが利用することも可能となる。
研究所の渡辺晃宏・史料研究室長は「今まで人のみで進めていた解読が、パソコンと会話するように進められる。
(表示候補から)ひらめいたり、思い込みを解消したりすることもできるだろう。公開することで、多くの人との情報交換も期待できる」と話している。
開発の成果は23日午後1時半から、奈良市佐紀町の平城宮跡資料館で開かれる公開シンポジウム「木簡研究の最前線」(無料。先着200人)で報告される。
問い合わせは史料研究室((電)0742・30・6837)。
「中平」銘文鉄刀で活発議論 東大寺山古墳シンポ
2007.11.27 03:01
昭和36年の調査で中国・後漢の年号「中平」(2世紀末)の銘文が入った鉄刀などが出土した東大寺山古墳(奈良県天理市櫟本町)をテーマにしたシンポジウムが、同市の天理大学で開かれた。
研究者らは、邪馬台国の女王・卑弥呼に与えられたともいわれるこの鉄刀について、さまざまな見解を披露。
鉄刀の銘文は3世紀に刻まれた可能性が指摘される一方、別の研究者は卑弥呼との関連に改めて言及するなど、活発な議論が展開された。
同シンポジウムは、同古墳の発掘調査についての正式な報告書を編集する中で開催され、中でも「金象嵌(きんぞうがん)」と呼ばれる手法で24文字が刻まれていた中平鉄刀(長さ約110センチ)に対する見解に注目が集まった。
このうち、工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、鉄刀の文字の特徴について比較した結果、後漢の鉄刀のものとは異なり、3世紀の鏡の銘文に似ていると指摘。
刀が後漢に作られたとしても、銘文はその後刻まれた可能性を示した。また、3世紀に刀などが倭国に贈られたという魏志倭人伝の記述にも触れ、鉄刀は「鉄器・鉄素材を拡販するため倭国の使いに託されたのでは」と推測した。
一方、天理大の金関恕(ひろし)名誉教授は、鉄刀が卑弥呼に授けられた可能性を示したうえで「卑弥呼は国中の人々に見せ、自分の後ろに大国がついていることを見せびらかせながら乱を鎮めたのだろう」と指摘。
また、京都教育大の和田萃(あつむ)名誉教授は、東大寺山古墳が築かれた付近の豪族だったワニ氏の由来などについて講演した。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/071127/nar0711270301001-n1.htm
藤原宮で最古の地鎮跡 つぼに富本銭と水晶
奈良県橿原市の藤原宮(694−710年)跡で、宮の中枢だった大極殿近くの穴から日本最古の鋳造貨幣の富本銭と水晶が入ったつぼ(7世紀後半)が出土し、奈良文化財研究所が29日、発表した。
藤原宮造営の地鎮祭の跡とみられ、宮殿にかかわる地鎮遺構としては最古。日本書紀は、持統天皇が692年に「藤原の宮地(みやどころ)を鎮め祭らしむ」と記述。同研究所は、持統天皇が行った可能性が高く「国家による地鎮の実態を知る貴重な史料」としている。
つぼは高さ約14センチ、長径約20センチ。ほぼ完全な状態で出土した。つぼの口が狭く、富本銭が9枚詰まっていた。CTスキャナーで調べたところ、中には水がたまり、底に水晶も9本入っていた。
1辺約60センチ、深さ約45センチの穴の底に灰色の土を敷いてつぼを安置。同じ土で丁寧に埋めてあった。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007112901000493.html
秀吉の本丸御殿の全容確認
朝鮮出兵の拠点、名護屋城
豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592−98年)の拠点にした名護屋城跡(佐賀県唐津市)の発掘調査で、本丸御殿に計12棟の建物群があったことが確認され、佐賀県立名護屋城博物館が30日、発表した。
単なる出城ではなく、本格的な規模や格式を備えた城の全容が初めて浮かび上がった。
同博物館は1996年の調査で、諸大名が秀吉に謁見した「御対面所」と推測される建物など2棟の跡を確認。2004年に再開した今回調査で、秀吉の私的な「書院」と推測される建物など10棟を新たに確認した。
計12棟の遺構は、建物の礎石や、周囲に敷き詰められた玉石によって輪郭が判明。すべて平屋とみられ、延べ床面積は1500平方メートルに上った。建物間をつないだ廊下の跡も見つかり、建物が複雑に連結して広範囲に展開していた様子がうかがえるという。(共同通信)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007113000190&genre=M2&area=O10
赤いカーボン紙で転写? 高松塚古墳の飛鳥美人【写真】
2007.11.28 18:07
石室解体が終了した高松塚古墳(奈良県明日香村)の国宝壁画「飛鳥美人」(西壁女子群像)などに、下描きの際についたとみられる赤い線や細い線状の溝があることが文化庁の調査で確認されていたことが28日、分かった。
同様の下描きの痕跡はキトラ古墳(同村)の壁画でも確認されており、国内に2例しか見つかっていない極彩色壁画が、共通した絵師集団によって描かれた可能性も浮上した。
高松塚壁画で下絵の痕跡が見つかったのは初めて。壁画は、カーボン紙の役割をする赤い顔料を塗った紙を石室の壁にあて、その上に下絵を重ねてヘラなどでなぞったとみられるという。
同庁が、石室解体によって古墳から近くの修復施設に搬入された壁画を詳しく調査し、赤い線や溝を確認。4人を描いた飛鳥美人像の左端の女性のスカート部分や、東壁男子群像(4人)の左から2番目の男子像の頭部などで見つかった。
赤い線は、石室解体前に撮影された写真にも写っていたが、当時は下描きの痕跡か確認できなかった。今回、修復施設で改めてルーペなどで調べて判明した。
キトラ古墳では、西壁に描かれた四神の一部「白虎」の前足などで赤い線とヘラ状の溝が見つかっている。同庁は、解体された高松塚古墳の他の壁画なども詳細に調査することにしており、両古墳の関係などの解明も期待される。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071128/acd0711281807003-n1.htm
高松塚天文図で「未知の星座」35年ぶり発見
2007.11.30 21:40
高松塚古墳(奈良県明日香村)の石室天井に描かれた天文図について、文化庁は30日、新たに8個分の星の痕跡が見つかったと発表した。
「未知の星座」の可能性が高く、昭和47年に壁画が見つかって以来、35年ぶりの新発見となった。高松塚の天文図には描かれていないと考えられていた「北斗七星」などの可能性もあり、同庁はさらに調査を進める方針。
この日、東京都内で開かれた高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会で報告された。
天文図の星は直径1センチの金箔(きんぱく)で表現され、これまで125個分を確認。北極を中心に、四方に各7個の星座が規則正しく配置していると考えられてきた。
石室解体後、修復施設で石材を調べたところ、星座「奎(けい)宿」と北極の間に星4個分の金箔の一部や痕跡を発見。合わせて「箕(き)宿」の近くに1個分、「翼宿」の近くに3個分の星の痕跡も見つかった。
宮島一彦・同志社大学教授(東アジア天文学史)によると、箕宿は今回の発見ですべての星がそろい、奎宿近くの4個の星については北斗七星ではなく「勾陳(こうちん)」などの星座とも考えられるが不明という。
宮島教授は「新たな星の発見によって、かえって天文図の規則性が崩れることになり、一気に謎が深まった」と指摘する。
一方、飛鳥美人像などで確認された下描きの痕跡は、北壁の四神像「玄武」など計6カ所にのぼることも分かった。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071130/acd0711302140004-n1.htm
副葬品? ヒスイの丸玉出土 【写真】
大原野の上里遺跡
今年2月に近畿では珍しい縄文晩期(2500−3000年前)の集落跡が見つかった京都市西京区大原野の上里遺跡で、最高級の宝石として当時珍重されたヒスイの丸玉や、新たな竪穴式住居跡が見つかり、市埋蔵文化財研究所が29日発表した。
見つかった同時期の集落跡としては近畿で最大になるとみられ、京都府南部の拠点的な集落だった可能性が出てきた。
2月の調査では縄文晩期の7棟の竪穴住居跡を発見。今回は東隣約1500平方メートルを5月から調査している。
南東へ向かう幅8−10メートルの溝の東西に、計15基の土器棺墓が新たに見つかった。西側では2月の調査と合わせ8棟の竪穴式住居跡が馬てい形に墓地を囲んでおり、縄文特有の環状集落とみられる。
東側では、装身具に使われたとみられるヒスイの丸玉や滑石製の勾玉(まがたま)などが見つかった。
ヒスイの丸玉は、同時代の遺物層から見つかり、直径7−8ミリの円柱形。4ミリの穴が貫通し、なめらかに磨かれ、淡い緑色の光沢を放っていた。
ヒスイは産地が新潟県糸魚川市周辺に限定され、硬くて加工には高度な技術が必要とされた。近畿でも橿原遺跡(奈良)などで見つかっているが、非常に珍しいという。
泉拓良・京都大文学研究科教授(考古学)は「ヒスイは交易でしか手に入らない貴重な品で、集落の指導者の墓に副葬された可能性が高い。
一般的に縄文時代は平等社会とみられがちだが、世襲はされないものの、能力のある人物を頂点とする階層もあった。
縄文晩期の遺跡は数少ないが大規模化する傾向があり、府南部地域を統括する集落だった可能性もある」と話している。
現地説明会は12月1日午前10時から。問い合わせは現場事務所Tel:075(332)1516。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007112900141&genre=M2&area=K1K
東山官衙遺跡:国史跡で西辺の材木塀、大溝を確認 避難広場に利用か /宮城
◇武力衝突頻発の780年ごろ
◇あす現地説明会
県教委は29日、加美町宮崎の国史跡「東山官衙(かんが)遺跡」の発掘調査で、南半部の西辺を区画する材木塀と大溝を確認したと発表した。同遺跡は古代の賀美郡の政庁跡と推定されている。
昨年までに見つけた南、東辺の材木塀と大溝につながり、内部はほぼ何もない約3ヘクタールの空地だったことが分かった。県教委は、「蝦夷(えみし)の攻撃から人員を守る避難広場的性格の場」とみている。
同官衙遺跡は、奈良時代の730年代ごろの完成。広場は当初、塀にも溝にも囲まれていなかった。広場北側にある枢要部の政庁と収税倉庫群域(5ヘクタール余)だけが築地塀で囲まれていた。
県教委によると、広場を囲む材木塀と溝の構築は、蝦夷との武力衝突が頻発するようになった780年代ごろとみられる。
広場の南側一帯に、官衙施設群と同時に造成された役人らの居住域と推定されている「壇の越遺跡」があり、そこの人員を危急時に収容し、態勢を整えようとした可能性が高い。
材木塀はクリの丸太(直径約25センチ)をすき間なく立て並べ、推定で地上高約3メートル。溝は塀の外側に掘られ幅5メートル、深さ0・9メートル。
西、南、東辺を合わせた塀の総延長は574メートルで、約2300本の丸太が使われた計算になる。
780年ごろには、両遺跡の外周に総延長数キロとみられる築地塀、やぐら、土塁からなる外縁防御線も構築されたことが分かっており、脅威の切迫ぶりを伝える。
両遺跡は国府多賀城と秋田城(現秋田市内)を結ぶ官道建設を進めた前線都市で、最盛時の人口は1万人ともいわれる。9世紀半ば以後、律令制度の崩壊とともに衰微した。12月1日午前10時から現地説明会を行う。【小原博人】
毎日新聞 2007年11月30日
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20071130ddlk04040331000c.html
(
>>255の続報)
活写!:桜馬場遺跡 新たに豊富な副葬品、末盧国の王墓位置特定 /佐賀
唐津市の桜馬場遺跡から、新たに多数の遺物が出土した。副葬品を納めていた甕棺墓(かめかんぼ)の破片は63年ぶりの再発見。弥生時代の王の埋葬位置がピンポイントで特定された全国3例目の貴重な発掘成果だった。
唐津市教委は6月から発掘に着手。11月21日、市文化財保護審議会に成果を報告した。
遺跡はもともと、1944年に防空ごうを掘っていた住民が偶然、掘り当てた。この時、副葬品も出ており、後に国の重要文化財となる中国後漢鏡「流雲文縁方格規矩四神鏡」などが保存された。しかし、カメ棺は近くに捨てられたという。
今回出土した豊富な副葬品は、同鏡の欠落していた一部と、巴(ともえ)形銅器(重文)の欠落片各1点。
権力者の威信を示すと言われる柄(つか)飾りのある素環頭大刀の鉄片4点、限られた地位にある首長の装飾品のガラス小球2100個余、ほぼ完形に近い巴形銅器1点−−など。
王のものと見られるカメ棺は、約8割の破片が見つかった。「副葬品は一級品。全国的にも貴重な保存すべき遺跡」(西谷正九州大名誉教授)という。【田中操】<写真・山下恭二(遺物6点)、田中操(右2点)>
(続く)
(
>>268の続き)
◇あすから速報展、担当者が説明も
桜馬場遺跡は閑静な住宅街の私有地(約350平方メートル)にある。戦時中に発見された時は、南側の水田面と比べ一段高い砂丘上にあったという。
1955年に日本考古学協会が再調査した時は、防空ごう跡地の上に民家が建っており、カメ棺墓の位置が特定できていなかった。
今回の発掘では、現場の南東部で4メートル×2.2メートルの遺構を検出。深さ1メートルまで掘り下げた平たん面で、西側に緩やかに傾斜するカメ棺のだ円形の掘り込み跡と破片を見つけた。
出土した副葬品が重文級とみられることや、遺跡そのものが高く評価されていることもあり、遺跡の保存法も新たな検討課題として浮上している。
市教委は副葬品を展示する「速報展」を12月1〜9日、同市菜畑の末盧館で開催する。月曜休館。入場料は大人200円、子供100円。初日は発掘現場も公開。両会場で担当者が説明する。
毎日新聞 2007年11月30日
http://mainichi.jp/area/saga/news/20071130ddlk41040027000c.html
270 :
奈良・田原本町・桜井市:2007/12/01(土) 00:18:14
ヤマト王権:成立過程探るシンポ 環濠集落消滅などで講演−−田原本 /奈良
◇650人聴き入る
奈良盆地にある二大集落遺跡、纒向(まきむく)遺跡(桜井市)と唐古・鍵遺跡(田原本町)を巡り、ヤマト王権の成立過程を探るシンポジウム「ヤマト王権はいかにして始まったか」
(桜井市教委、田原本町教委など主催、毎日新聞奈良支局など後援)が、田原本町の田原本青垣生涯学習センターで開かれた。弥生時代から古墳時代への転換で焦点となる環濠集落の消滅、前方後円墳の成立や、ヤマト王権の起源などに650人が聴き入った。
冒頭で石野博信・徳島文理大教授が特別講演。環濠集落の消滅時期が大阪と奈良で差があるのは、平野の開発の発展段階が違うためとの意見を述べた。
この後、パネラーによる基調講演が続いた。藤田三郎・田原本町教委文化財保存課長補佐は、唐古・鍵遺跡の環濠を埋めた土器には奈良盆地東南部産が多いことを指摘した。
秋山浩三・大阪府文化財センター係長は、環濠の有無は農業生産の進展によるとした。橋本輝彦・桜井市教委文化財課主任は、纒向遺跡から各地に伝わった纒向型前方後円墳について、石積みや埋葬施設などの点で、吉備(岡山)の勢力が影響を与えたとした。
シンポジウムではヤマト王権の起源について、唐古・鍵遺跡を重視して大和(奈良)主導とする意見や、大和単独では無理で吉備が大きな役割を占めたとする意見などが交わされた。【大森顕浩】
毎日新聞 2007年11月30日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20071130ddlk29040633000c.html
蜂須賀家家臣資料データベース化が完了 徳島大付属図書館 2007/12/01 15:33
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_119649088296&v=&vm=1 徳島大学付属図書館が所蔵する「蜂須賀家家臣成立書」のデータベース化が完了し、一日から図書館ホームページ(HP)で無料公開した。
家庭などからインターネットで気軽に閲覧でき、徳島藩士の家名や個人名で検索も可能。図書館で原本やマイクロフィルムを閲覧する従来の作業と比べ時間が大幅に短縮でき、研究促進に役立つと期待されている。
成立書は、江戸時代末期−明治初期に藩士が藩に提出した文書を集めたもの。図書館が所蔵するのは約千八百家、一万二千人分で、全部で二百四十九巻。
家系図や家紋、出身地、家の成り立ちが詳細に記されていて、武家社会を研究する貴重な資料となっている。
データベースは、図書館HP左端の「貴重資料ポータル」内に設置。
成立書の原本を撮影したマイクロフィルムの画像約二万六千枚を原寸大で収録していて、当主の名前や名字で簡単に必要な個所を検索できる。検索キーワードは今後も順次増やしていく。
二〇〇五年六月に教員や学外専門家でデータベース作成委員会を組織して作業を進めてきた。
委員会代表の桑原恵総合科学部教授は「成立書がネットで簡単に閲覧できるようになり、県内だけでなく、全国的な藩政や近世史の研究が活性化するだろう」と話している。
HPのアドレスは
http://www.lib.tokushima-u.ac.jp
「礫床木棺墓」出土、中野市の柳沢遺跡
12月1日(土)
弥生時代中期の銅戈(どうか)と銅鐸(どうたく)が見つかった中野市の柳沢遺跡で30日までに、同じ時代の地層から「礫床(れきしょう)木棺墓」とみられる複数の遺構が見つかった。
最大の遺構は青銅器の出土地点の北側約20メートルの場所にあり、研究者は「青銅器が埋められた意味を考える上で有力な資料になる」としている。
礫床木棺墓は、底に小石を敷き詰め、遺体の周りを板で囲って盛り土をしたと考えられる埋葬法。
柳沢遺跡調査指導委員会の笹沢浩委員長=長野市=によると、県内の弥生中期の遺跡では栗林(中野市)や松原(長野市)などで出土例があるが、青銅器の出土で北信濃との密接な関係が指摘されている西日本にはみられない形式という。
最も大きな遺構は、縦横各2メートルほど。これを中心にした半径約10メートルの円内に、さらに楕円(だえん)形や長方形など大小9つ程度の礫床が出土している。発掘が進めばほかにも見つかる可能性があるという。
板の囲いや人骨は確認できていないが、中心遺構からは管玉(くだたま)も出土した。笹沢さんは「血縁を同じにするグループの墓かもしれない」と推測する。
30日は、県遺跡調査指導委員会の委員らが現地を視察。参加した工楽善通・大阪府立狭山池博物館長も「西日本にはない形式なので、同時に見つかった遺物の年代などから、すぐ近くに埋められた銅戈、銅鐸との関連を調べる必要がある」と話している。
http://www.shinmai.co.jp/news/20071201/KT071130FTI090022000022.htm
村上水軍物見やぐら跡?
能島 柱穴130か所、航路監視
戦国時代に瀬戸内海を制した村上水軍が拠点とした愛媛県今治市宮窪町の能島城跡(能島)で、島中央の標高約25メートルの地点に岩盤を円形にくりぬいた柱穴約130か所が見つかり、市教委が30日、発表した。
能島で明確な建物跡が確認されたのは初めて。能島城の防護柵や物見やぐらの跡とみられ、市教委は「島の高台から、多くの船が行き交った海峡に、にらみをきかせていた姿が浮かび上がった」としている。
説明会9日、先着70人
船折瀬戸(左奥)を望む場所で見つかった建物の柱穴(今治市宮窪町の能島城跡で) 穴は直径15〜30センチ、深さ15〜50センチで花こう岩の岩盤をくりぬいて掘られていた。
大半は不規則に散在していたが、6か所については北側の海峡を見下ろす斜面の上に約2メートル間隔の格子状に並んでいた。
北側の海峡は幅約500メートルで、「船折瀬戸」と呼ばれる潮流の速い海上交通の要衝。市教委は、多くの船が通過する航路を監視するための物見やぐらが建っていたと推測する。
一方、海岸沿いの平地の1・2〜1・3メートル地下には、鍋やかめなど約6000点の遺物を伴う盛り土層が見つかり、16世紀前半ごろに村上水軍が埋め立て工事を行い、船着き場などとして使っていたとみられる。
盛り土には20か所の穴があり、係留用くいなどの跡らしい。
市教委の田中謙・村上水軍博物館学芸員は「出土数が多く、大勢の水軍が島で生活し、航路監視などに従事していた様子がうかがえる。城の役割や構造の解明への大きな手がかりが得られた」と話している。
現地説明会は9日午後1時から。渡船の運航のために予約が必要で、先着70人。申し込みは、村上水軍博物館(0897・74・1065)。
(2007年12月01日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is71201c.htm
274 :
奈良県明日香村:2007/12/05(水) 16:19:44
天武天皇の皇子邸跡か さらに大型建物を確認【写真】
2007年12月4日 18時58分
天武天皇の皇子・新田部親王の邸宅候補地とされる奈良県明日香村の竹田遺跡で、7世紀後半の大型の掘っ立て柱建物跡が見つかり、村教育委員会が4日、発表した。
直径約30センチの太い柱を使い、沈み込まないように柱の下に石を敷いていた。建物は南北4・8メートル、東西12メートル以上で、同遺跡で出土した飛鳥時代の建物跡としては最大。
だが正殿などの主要な建物にあるひさしがなく、村教委は「建物の性格は不明だが、正殿は別の場所にあるのではないか」としている。
竹田遺跡は、飛鳥寺の北東約200メートルの丘陵にあり、当時の都・飛鳥京を望む1等地。皇族や高官の邸宅があったとみられ、万葉集の歌などから、村教委は「新田部親王の邸宅候補地の1つ」としている。
柱を支えていた石は砂岩の切り石で、斉明天皇(在位655−661年)のころに築かれた酒船石遺跡(同村)の石垣を転用した可能性が高いという。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007120401000634.html
275 :
奈良県桜井市:2007/12/06(木) 18:39:11
青銅器のリサイクル工房か 銅鐸破片や鋳型出土
2007年12月6日 18時18分
奈良県桜井市の脇本遺跡で、古墳時代初頭(3世紀初め)に捨てられた銅鐸の破片や銅くず、鋳型などが見つかり、県立橿原考古学研究所が6日、発表した。
銅鐸は弥生時代の祭祀で使われたが、古墳時代には使われなくなったことから、同遺跡は不要になった銅鐸をリサイクルして、別の青銅器を鋳造した小規模な生産工房とみられるという。
北西約4キロで大和王権につながるとされる巨大集落跡・纒向遺跡が同じ時期に出現しており、同研究所の寺沢薫調査研究部長は「纒向の都市建設と関係があり、王権の意向により、ここで青銅器を生産していたのかもしれない」と話している。
銅鐸の破片は3点で、最大で長さ約4センチ、幅3・5センチ。発掘した計9棟の竪穴住居跡のうち、1棟を埋めた土から見つかった。周囲には土製鋳型の外枠や鋳造の際に出る銅くずなどが散乱。集落内の別の場所で生産し、捨てられた可能性が高いという。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007120601000453.html
県文化財保護審:中世建造の「荒滝山城跡」、県指定史跡に 20日に正式決定 /山口
http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20071204ddlk35040745000c.html 県文化財保護審議会(小川国治会長)は3日、中世に建造された宇部市東吉部の荒滝山城跡(あらたきさんじょうあと)を県指定史跡に指定することを決めた。
県内最大級の規模で、県指定史跡の中世の山城跡は霜降(同市)、若山(周南市)に続き3件目となる。県教委は「保存状態が良好で、地域の歴史を考える上で極めて重要な史跡」としている。
県教委社会教育・文化財課によると、標高459メートルの荒滝山に造られており、文献などから毛利輝元の叔父、内藤隆春が16世紀中ごろから後半にかけて戦時、非常時の防衛拠点として利用したとされる。
遺構は東西約700メートル、南北約200メートルで、山頂や尾根筋を削った平地「曲輪(くるわ)群」が三つある。
出入り口などの要所には石積みが多用され、北側斜面には敵の侵入を防ぐため山肌を連続して掘り込んだ「畝状空堀群」が配されるなど「詰め城」(要害)としての機能を有している。
発掘調査の結果、大内氏とかかわる遺跡で特徴的に出土する京都系の土師器皿などを確認。
軍事上の機密もあって資料は存在しないが、県教委は「隆春の居城とほぼ断定できる」とした。20日の教育委員会会議での承認を経て正式決定する。【島田信幸】
〔山口版〕
毎日新聞 2007年12月4日
7世紀築造か 三鷹の天文台構内古墳 全国4例目の上円下方墳
2007年12月4日 夕刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007120402069657.html 国立天文台(東京都三鷹市大沢)の敷地内にある「天文台構内古墳」が、七世紀の築造と推定される「上円下方墳」だったことが、三鷹市教育委員会の発掘調査で確認された。
上円下方墳の確認は全国で四例目。二〇〇三年に府中市で見つかった国内最古で最大級の上円下方墳「武蔵府中熊野神社古墳」(七世紀半ば)と酷似しており地元の有力者の墳墓とみられる。 (中沢誠)
多摩川流域から二例の上円下方墳が発見されたことに、専門家は「七世紀の東国の古墳の再考を迫るほどの重要な意味を持つ」と指摘している。
三鷹市教委は〇四年から古墳の測量調査を実施。昨年の発掘調査で府中市の上円下方墳と同じ構造の石室を持つ古墳と確認した。
天文台構内古墳は一辺約二八・五メートルの四角形の方墳の上に、直径約十八メートルの円墳が乗った構造。
高さは約二・二メートル。方墳には全長約六・九メートルの横穴式の石室を備えている。方墳の東、西、北の三方には最大で幅約七・五メートル、深さ約一・八メートルの周溝が巡らされている。
遺体を置く「玄室」の壁が湾曲しているほか、入り口が「八の字」になっている点が府中市の熊野神社古墳と共通していた。
(続く)
(
>>277の続き)
熊野神社古墳は一辺約三十二メートル、円墳の直径約十六メートル。天文台構内古墳はこれを一回り小さくした形。いずれの古墳も多摩川流域左岸に位置し、約七・五キロしか離れていない。
同市教委は両古墳の類似性から、天文台構内古墳の築造時期も熊野神社古墳と同時期の七世紀と推定。
天文台構内古墳は多摩川上・中流域で熊野神社古墳に次ぐ地元の有力者の墳墓と考えている。詳しい年代までは特定されておらず、市教委は再調査を検討している。
東国の古墳定義見直しも
坂詰秀一・立正大学名誉教授の話 上円下方墳は、奈良市と沼津市、府中市にあるが、府中市での発見は例外と思われていた。
三鷹市でも見つかったことは多摩川流域に中央政権の影響を受けた文化が形成されていたことを示す有力な材料となる。
これまで円墳と思われていた古墳の下に方墳がある可能性も出てきた。7世紀の東国の古墳の定義を考え直す必要がある。
<メモ>上円下方墳 四角形の方墳の上に円形の土盛りを重ねた構造で、古墳時代終末期(7世紀ごろ)の有力豪族の墳墓に見られる古墳。
これまでに「石のカラト古墳」(奈良市)、「清水柳北1号墳」(静岡県沼津市)、「武蔵府中熊野神社古墳」(府中市)の3例しか全国で確認されていない。
天智天皇陵が同じ構造と考えられており、明治、大正、昭和天皇陵のモデルとなっている。
丁永遺跡:国内最古の刻書紡錘車 「丁亥年」の文字、防人が関係?−−小城 /佐賀
http://mainichi.jp/area/saga/news/20071205ddlk41040775000c.html 小城市教育委員会は4日、古墳時代から平安時代の住居跡とされる丁永遺跡(小城市小城町)から出土した「刻書紡錘車」を解析したところ、「丁亥年(ていがいねん)(687年) 六月十二日」
と書かれており、年月日が刻まれた同種の遺物としては国内最古だったと発表した。「刻書紡錘車」は主に関東地方で出土しており、当時の人の動きを類推させる遺物として注目されるという。
紡錘車は糸を紡ぐ際に使われる円盤型の小さな器具。年月日が刻まれていた例は関東地方で2点出土しただけで、うち、東京都日野市の落川遺跡からの出土品に714年を示す文字があり、これが最古とされていた。
小城市で出土した刻書紡錘車は、これを27年さかのぼる687年を表す年号などが刻まれていた。直径4・58センチ、厚さ0・75センチで、真ん中に直径0・77センチの穴がある。
表面には「丁亥年(ていがいねん) 六月十二日 亦〓十万呂(いてとうまろ)(または赤〓十万呂(あてとうまろ))」と刻まれている。
一緒に出土した土器などから、丁亥年は687年に当たり、亦〓十万呂(赤〓十万呂)は人名と見られる。祭りに関係する人物と考えられるという。
国内で発見された刻書紡錘車は113点あるが、うち111点は関東地方で出土。それ以外の地域では京都と岩手に1点ずつあるだけという。
刻書紡錘車研究の第一人者、群馬県埋蔵文化財調査事業団の高島英之専門員は「7世紀後半に関東から北部九州に派遣された防人などのかかわりが考えられる」と話す。【高芝菜穂子】
毎日新聞 2007年12月5日
ナベ遺跡:古墳前期の住居跡見つかる 県内初の大型円形−−養父・八鹿 /兵庫
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20071206ddlk28040319000c.html 養父市八鹿町高柳の「ナベ遺跡」から県内初という古墳時代前期(300〜400)の大型円形住居跡をはじめ、多くの建物跡などが見つかった。
県立考古博物館によると、大型円形住居跡は鳥取県ではよく見られ、山陰との交流や当時の生活様式を示す貴重な資料という。8日午後1時半から現地説明会が開かれる。【吉川昭夫】
北近畿豊岡自動車道の建設に伴い、同博物館が今年8月から6135平方メートルで発掘調査していた。
ナベ遺跡は今回の調査で初めて明らかになった縄文から平安時代にかけての複合遺跡。特に古墳時代(3世紀末〜7世紀)と奈良時代(710〜784)の集落跡や遺物が多く見つかった。
大型円形住居跡は竪穴式で、直径約10メートル。これまでは弥生時代に見られたという。
この大型円形住居跡を含め、但馬初の古墳時代早期(300年前後)の多角形住居跡(推定直径11メートル)など住居跡8棟、掘っ立て柱建物跡1棟も出土した。古墳時代の長期間に集落が営まれていたらしい。
また、桁(けた)行12メートル、梁(はり)行5メートルの大型建物跡を含む奈良時代の掘っ立て柱建物跡10棟や縄文時代の土器、古墳から平安時代にかけての粘土採掘坑も見つかった。
◇県立考古博物館、8日現地説明会
大型建物跡は地元の有力者の住居とも考えられる。奈良時代は律令制による中央集権化が進んだ。近くに古代の山陰道があったことから「開拓村」と推測される。
ナベ遺跡は近くを流れる八木川の南側で、北側には県指定史跡の「国木とが山古墳群」が広がり、川を挟んで墓と集落が存在したことが明らかになった。
同博物館の池田征弘主査は「但馬の古墳時代の集落調査は少なく、住居跡などの発見は貴重」としている。
〔但馬版〕毎日新聞 2007年12月6日
企画展:県内にゆかり後北条氏 繁栄の軌跡、城通じ紹介−−嵐山の博物館 /埼玉
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20071212ddlk11040433000c.html ◇陶磁器など160点展示
戦国大名・北条氏の繁栄の軌跡を、拠点とした「城」を通じて浮き上がらせた企画展「後北条氏の城−合戦と支配−」が、嵐山町菅谷の県立嵐山史跡の博物館で開かれている。
寄居町の鉢形城など県内の城郭遺跡に加えて、小田原城(神奈川県小田原市)や八王子城(東京都八王子市)から出土した陶磁器や古文書160点を展示。
同館は「最新の研究史料を集め、分かりやすく紹介した。県内にもゆかりのある後北条氏を知ってもらう絶好のチャンス」と来館を呼びかけている。
北条氏は、駿河国(現在の静岡県)の一城主から身を起こした初代・北条早雲(1456〜1519=写真)から5代・氏直(1562〜1591)まで約100年、関東南部を勢力圏に治めていた。
同展では、八王子城跡から出土した、中国から輸入された陶磁器や茶の湯に使う水指などを展示している。
八王子城は1590年に豊臣秀吉に攻められて落城したが、北条氏の当時の隆盛を示す史料が残っており、極めて珍しいという。当時の小田原城下の繁栄を示す城絵図も展示されている。
県内では鉢形城のほか、11月に文部科学相の諮問機関・文化審議会が国に史跡指定するよう答申した小倉城(ときがわ町)、杉山城(嵐山町)、松山城(吉見町)の比企城館跡群からの出土品も集めた。
北条氏が配下の上田氏に送った、東秩父村の浄蓮寺に保存されている非公開の県指定文化財「浄蓮寺文書」も公開されている。
来年2月24日まで。祝日以外の月曜休館。問い合わせは同館電話0493・62・5652。【山崎征克】
信長の茶室跡を発見!?【写真】
2007.12.10 22:14
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071210/acd0712102214000-n1.htm 岐阜市教育委員会は10日、岐阜城のある金華山ふもとの岐阜公園(同市大宮町)で進めている織田信長の居館発掘調査で、信長が使った茶室か土蔵の可能性がある遺構を発見したと発表した。
遺構は、居館本体があったとみられる場所の裏側の平たん地で発掘。火災で焼けて炭化したとみられる土が約60センチ堆積(たいせき)し、その中から多量の壁土が見つかった。
礎石もあったことから、建物の存在が裏付けられ、茶室か土蔵の跡とみられるという。
市教委は、1600年の関ケ原の合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際、焼けた可能性があるとみている。
信長に会ったポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」で信長の居館や茶室について「一種の茶室がついた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で」と記している。
信長は安土城に移る前の約10年間、岐阜城を居城にしたと言われている。
3本目の装飾太刀公開 出雲 '07/12/11 【写真】
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200712110035.html 全国でも珍しい未盗掘の横穴式石室を備え、古墳時代後期(6世紀後半)の豪族の墓とされる中村1号墳を調査していた出雲市文化財課は10日、石室内で見つかった3本目の装飾大刀を公開。
2年間の発掘を締めくくり、「大和王権と深い結び付きを持ち、独自の交流を幅広く進めた被葬者像が浮かんだ」と総括した。
3本目の装飾大刀は、石室最奥部に横たわっていたのを10月に取り上げた。現存部分で長さ73センチ。つばや吊(つ)り金具が金銅で飾られ、金メッキや緑青が残る。
3本の装飾大刀は構造などからそれぞれタイプが違い、近畿地方で造られたとみられる。当時の出雲では東西2つの勢力があり、東は蘇我氏、西は物部氏との関係が深かったとされる。
市文化観光部の花谷浩次長は「中村1号墳は石室に西部、石棺に東部の影響がみられ、どっちつかずであちこちと交流していたのではないか」と話した。
極楽寺遺跡:6棟の掘っ立て柱跡発見 公的施設「郷倉」の可能性−−高島 /滋賀
http://mainichi.jp/area/shiga/news/20071211ddlk25040680000c.html ◇古代から中世の6棟
県文化財保護協会は10日、高島市マキノ町沢の極楽寺遺跡で、古代から中世にかけての6棟の掘っ立て柱の建物跡を発掘したと発表した。
南北に整然と並んでいることなどから、一般の集落ではなく、公的施設の高床倉庫跡の可能性が高い。同協会は「律令制度下で徴収された米を貯蔵した地元の『郷倉』ではないか」としている。
8月から約2600平方メートルを調べ、大型の穴(約1メートル四方、深さ約40〜80センチ)を確認。
建物は4メートル20センチ四方が3棟▽東西3メートル90センチ、南北3メートル60センチが2棟▽東西4メートル20センチ、南北4メートル50センチが1棟。
平安時代初期(9世紀前半)とみられる土師器も出土。協会は高島郡にあった郷の一つ「大処郷」の「郷倉」の可能性を指摘する。
県立大人間文化学部の林博通教授(考古学)は「人里離れ、急きょ作られた郷倉の可能性があり、古代の地方施設を知ることができる資料」と話す。
現地説明会は15日午後1時。問い合わせは同協会(077・548・9780)。【近藤修史】
毎日新聞 2007年12月11日
285 :
奈良県・桜井市:2007/12/12(水) 16:53:15
奈良県・桜井公園遺跡群
高地性集落3重の防御溝【写真】
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is71212a.htm 弥生後期、緊張状態示す
奈良県桜井市の桜井公園遺跡群で、奈良盆地全体が見渡せる丘陵にあった「高地性集落」を防御する弥生時代後期(2世紀前半)の3重の溝跡が出土し、同市教委が11日、発表した。
中国の歴史書・魏志倭人伝には、「倭国(わこく)乱れる」と2世紀後半から末にかけて、小国の争いがあったことが記されている。
唐古・鍵遺跡(同県田原本町)など、平地に大規模で堅固な環濠(かんごう)集落があったこの地域が、その半世紀前から、防備が必要な緊張状態にあったことをうかがわせる。
溝跡は長さ14〜45メートル、幅1・5〜3メートル、深さ30〜90センチ。丘陵(標高約127メートル)の北東斜面を取り巻くように8〜10メートル間隔で3重に巡っていた。
溝には土器が大量に投棄されており、同市教委は溝の内側の平らな場所(約100メートル四方)に集落があったとみている。
瀬戸内海沿岸や大阪湾周辺ではこの時期、中国と交易していた北部九州の勢力の進出を恐れ、平地から丘陵に移り住む高地性集落が増えたとされている。しかし、奈良盆地では、厳重に防御した高地性集落は1例しか見つかっていなかった。
寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長の話「当時、強い緊張状態があったことは確か。集落の性格を見極めることが、一見平和だった奈良盆地の置かれていた政治状況を考えるうえで必要だ」
(2007年12月12日 読売新聞)
産経記事
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071211/acd0712111742004-n1.htm
石組み水路や塀跡発見 明日香村の石神遺跡【写真】
2007.12.13 20:10
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071213/acd0712132011007-n1.htm 飛鳥時代の迎賓館とされる奈良県明日香村の石神遺跡で石組み水路や塀跡が見つかり、奈良文化財研究所が13日、発表した。
遺跡の南端から始まる基幹水路の一部とみられ、側面を一直線にそろえた精巧な造りで天皇や国家の威信を示したことがうかがえる貴重な資料という。
塀跡はこれまで分からなかった遺跡の東端の可能性があり、これにより同遺跡は東西130メートル、南北180メートルの広大な規模になることも分かった。
同遺跡では明治時代に巨石を加工して組み合わせた「須弥山石」(高さ2・3メートル)や、男女が抱き合う姿を現した「石人像」(同1・7メートル)と呼ばれる噴水施設が出土。
日本書紀の記述などから、斉明天皇(在位655−661年)が蝦夷(えみし)や外交使節をもてなした供宴の場と考えられている。
水路は須弥山石の北約200メートルで長さ15メートル分を発掘。
底に15センチ前後の平らな石を敷き詰め、側面は50センチ前後の石を組み合わせた精巧な造りだった。須弥山石から流れ出た水などを排水したとみられる。
同研究所は「外交戦略として、精巧な石組み水路や噴水施設など高度な技術を誇示したのではないか」と推測している。
塀跡はT字状で、東西方向に17メートル分、南北方向に3・6メートル分を発掘。これより東側に明確な建造物跡は見つかっておらず、東端だった可能性が高まった。
同遺跡ではこれまで南北の端を示す塀跡や水路が見つかっており、今回の調査で遺跡の規模がほぼ判明した。
現地説明会は15日午後1時半から。近鉄橿原神宮前駅から奈良交通バス「飛鳥」下車、東へ徒歩約5分。駐車場はない。
平城京「十条」の謎巡り論争
12月16日7時51分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071216-00000012-san-l29 平城京は九条までだったという定説を覆す「十条大路」とみられる道路遺構が出土した大和郡山市の下三橋遺跡を考える第2回都城制研究集会「古代都城と条坊制−下三橋遺跡をめぐって」が15日、奈良市の奈良女子大学で開かれた。
「当初は十条設計で造られ、縮小された」という同市教委と元興寺文化財研究所の調査成果に対し、奈良文化財研究所の室長らは「あくまで当初から九条設計だった」と異論を唱えるなど、「十条」の謎について活発な論争が繰り広げられた。
下三橋遺跡では今年6月、十条大路とみられる東西方向の道路遺構が出土し、平城京の造営当初は少なくとも左京(東側)では十条大路が最南端だった可能性が高まった。
しかし、都の造営過程や十条部分の性格、十条廃絶後に九条南端に築かれたと推測される城壁「羅城(らじょう)」などについて、今なお見解が分かれている。
集会では、調査を担当した大和郡山市教委社会教育課の山川均主任と元興寺文化財研究所の佐藤亜聖主任研究員が調査について報告した。
これに対し、奈良文化財研究所の小澤毅・遺跡調査技術研究室長は、十条条坊が後に耕地化されたという「特殊条里」に注目。左京でしか確認されていないことから「右京側に条坊が施工されることはなかった」と説明した。
また、750年ごろとされた羅城造営年代がさかのぼる可能性も指摘。十条部分の土地利用の希薄さから「京域は九条までで、左京にのみ特別な地域が付加されたとみるべきでは」とした。
同研究所の井上和人・国際遺跡研究室長は羅城の構造や造営年代に触れた後、「十条大路が他の大路と同規模というのは疑問。十条部分と九条以北は性格が同じと言えるだろうか」と問題提起し、「平城京は当初から九条で造ったのだろう」と話した。
討論ではさらに、十条部分の性格について井上さんが「性格は分からないが、東一坊大路が北側の部分と有りようが違う点などを考えるべき」と指摘。
山川さんが「京内では道路幅が変わる事例もあると思う」などと反論した。羅城の造営時期も再び注目されるなど、課題解明へさまざまな意見が交わされた。
古代人の技術に感動 飾り弓出土、南蔵本遺跡で説明会 2007/12/17 11:23【写真】
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_119785818682&v=&vm=1 弥生時代前期前半(紀元前四世紀)のものとみられる徳島県内最古の木製の弓が出土した南蔵本遺跡(徳島市南蔵本町一)で十六日、現地説明会(県埋蔵文化財センター主催)があり、考古学ファンら約百五十人が詰め掛けた。
センターの近藤玲主任研究員が、出土した弓はヤマグワの黒漆塗りで、表面に樹皮が巻かれている飾り弓であることを説明。「非常に丁寧に作っており、当時の木製品製作技術の高さが分かる。
埋まっていた地盤が粘土質で保存の条件も良かった。ほぼ完全な状態で残っている飾り弓は全国的にも例が少ない」と解説した。
会場には飾り弓のほか、大型の竪穴住居から見つかった柱材や紡錘車、勾玉(まがたま)や土器など約五十点を展示。
遺跡の近くに住む松井正明さん(71)=同市南蔵本町二=は「古代人がこれほど高い技術を持っていたことに驚き、感動した」と弥生時代に思いをはせていた。
発掘調査速報展:鍬形石や鉄斧、展示−−天理で23日まで /奈良
12月17日15時1分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071217-00000185-mailo-l29 天理市内で昨年度発掘した成果を紹介する「発掘調査速報展」が23日まで、天理市守目堂町の市文化センターで開かれている。
弥生時代の環濠集落で知られる平等坊・岩室遺跡では、古墳時代の権力の象徴・石製腕輪「鍬形(くわがた)石」を展示。当時の集落で鍬形石を人為的に埋めた全国初の事例で、権力者の葬送儀礼が分かる貴重な発見となった。
同遺跡で見つかった県内の鉄製品では最古となる板状の鉄斧も展示されている。板状鉄斧としては県内最大の大きさで、大和盆地への鉄製品の流入経路や時期を考える重要な遺物という。
無料。午前9時から午後5時。月曜日休館。【大森顕浩】
12月17日朝刊
「三山統一」の歴史たどる 恩納村で護佐丸展【写真】
12月18日9時47分配信 琉球新報
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071218-00000005-ryu-oki 【恩納】琉球史上で三山統一に重要な役割を果たした護佐丸の足跡をたどる「護佐丸展―護佐丸関連のグスク」が1日から恩納村博物館で開かれている。24日まで。
護佐丸は、三山を統一した琉球の王・尚巴志の北山討伐に参戦し、座喜味城跡を築城したことなどで知られるが、文献上の記録が少なく、実像では不明な点が多く残されているという。
展示では、考古学的な調査成果を通して護佐丸の実像に迫ろうと、護佐丸が生まれ育った山田城跡のほか、護佐丸が城主となった座喜味城跡や中城城跡などから出土した陶磁器などのほか、建物などの遺構を写真や図で展示している。
開館時間は午前9時から午後5時まで(入館は4時30分まで)。問い合わせは同博物館098(982)5112。
最終更新:12月18日10時13分
291 :
兵庫県川西市:2007/12/19(水) 21:30:35
兵庫・加茂遺跡 厳重防備の出入り口【図あり】
環濠集落跡から通路状遺構
弥生時代の大規模環濠(かんごう)集落跡として知られる兵庫県川西市の加茂遺跡で、同時代中期(紀元前2〜前1世紀)に営まれた集落の出入り口にあたる通路状の遺構(幅約5メートル)が見つかり、18日、市教委が発表した。
通路の両側に柵を設け、門扉のような施設もあったとみられ、こうした遺構が環濠集落跡で見つかるのは初めて。市教委は「敵の侵入に備え防備を固めたのだろう。集落同士の争いが激しかった当時を知る貴重な発見」としている。
これまで確認されていた2重の環濠の外側にさらに2重あることが判明し、最も外側の環濠から集落の中心に向かって2本の溝(深さ50センチ)が平行して延びていた。溝の間が通路にあたり、環濠を貫いて長さ33〜34メートルに及ぶとみられる。
通路の途中には壕(ごう)が掘られ、橋脚跡とみられる柱穴二つが見つかったことから、橋が架かっていたらしい。通路外側には八つの柱穴もあり、門扉のような施設があった可能性が高い。現地説明会は22日午後1〜3時半。
多淵敏樹・神戸大名誉教授(建築史)の話「堅牢(けんろう)な出入り口の構造がわかり、当時の人々が集落をどのように考えて造ったかがうかがえる。日本人の都市構成の考え方の根源を知る手だてにもなる」
(2007年12月19日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is71219a.htm (産経【写真】)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071218/acd0712182310002-n1.htm
292 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:41:40
大阪・枚方 百済寺跡 奈良時代の仏レリーフ
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is71222b.htm 初の大型■仏 金箔残る破片出土
■=(セン)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/img/is71222e.gif 大阪府枚方市中宮西之町の国特別史跡・百済寺跡(8世紀後半)で、大型多尊■仏(せんぶつ)の破片9点が、同市教委と市文化財研究調査会の調査で出土したことがわかった。
阿弥陀(あみだ)如来座像や、阿弥陀如来を守る神将立像の一部などで、2点に金箔(きんぱく)が残っていた。
大型多尊■仏は、奈良県斑鳩町・法隆寺の所蔵品(重要文化財)や三重県名張市・夏見廃寺の出土品など7世紀後半の飛鳥時代の4例しか確認されておらず、奈良時代では初めて。
仏教受容の変遷や仏像美術史を考えるうえで重要な発見となる。
同市教委などによると、講堂跡の西側から出土。印を結んだ阿弥陀如来座像の胸と腕の一部(縦10センチ、横6センチ、厚さ2センチ)、
神将の足の部分(縦7センチ、横9・5センチ、厚さ2センチ)のほか、如来像の両脇に立つ脇侍の菩薩(ぼさつ)像の一部とみられる破片もあった。
仏像の下部にある蓮華(れんげ)座の一部(縦、横各4・5センチ、厚さ1・5センチ)に漆を塗った上に金箔を張った痕跡が残っており、全体が金色に輝いていたとみられる。
(下に続く)
(
>>293の続き)
仏像の顔の部分などは見つかっておらず、さらに確認を進める。大きさや形から、復元すると約50センチ四方とみられる。
百済寺跡とその周辺では、これまでに小型■仏(縦3センチ、横3・6センチ、厚さ0・9センチ)などの破片68点が出土しており、大型■仏を中心に小型■仏をちりばめた「■仏壁」が、金堂などの堂内にあった可能性がある。
■仏は7世紀後半に中国から伝わったとみられ、一時盛んに使われた。しかし、8世紀以降、次第に廃れており、今回の発見は、新たな議論を呼びそうだ。■仏壁は、夏見廃寺など数例しか確認されていない。
百済寺跡は、東大寺の大仏造営のために749年、金を献上し、聖武天皇の厚遇を受けた百済王族の末裔(まつえい)、百済王(くだらのこにきし)敬福(698〜766年)の創建とみられている。
百済王氏は、のちに天皇家と姻戚(いんせき)関係を結び、桓武天皇は「百済王氏らは朕(ちん)が外戚なり」と述べた、という。
市教委などは「大型多尊■仏は、これまで皇族ゆかりの寺院など、格式の高い寺院でしか見つかっていなかった。奈良時代以降、天皇家と深く結びついた百済王氏の勢力をうかがわせる」としている。
朝廷との密着示す
森郁夫・帝塚山大教授(歴史考古学)の話「奈良時代に堂内を■仏で飾るのは異例だ。朝廷の許可が必要だったとも考えられ、朝廷と密着した百済王氏一族の仏教観を反映しているのだろう」
(2007年12月22日 読売新聞)
三次と大和つなぐ筒形石製品
三次地域と大和政権の深い結びつきを想起させる筒形石製品が、三次市吉舎町の下矢井南第4号古墳から出土した。
発掘調査した県教育事業団は、権威の象徴として王が持った「玉杖(ぎょくじょう)」の石突き部分「鐓(とん)」とみており、ほぼ完品での出土は中四国で初めてという。
石製品は長さ6センチ、上端の直径が2センチで、直径1.4センチ、深さ2.8センチの穴が開いている。4世紀末ごろの築造とみられる直径22―23メートルの円墳頂部から単独で見つかった。
まが玉や管玉の原料である緑色凝灰岩で作られており、大和政権から贈られたと推測できるという。つえの柄部分という見方もある。
【写真説明】下矢井南第4号古墳から見つかった筒形石製品(広島県教育事業団提供)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200712220087.html
木製仮面
>>41 >>43-44 ベニバナ
>>53 取材現場から:’07を振り返って 国内最古の木製仮面 /奈良
http://mainichi.jp/area/nara/news/20071221ddlk29040651000c.html ◇注目集まる王都
邪馬台国の最有力候補地として知られる桜井市の纒向(まきむく)遺跡で今年、大きな発見が相次いだ。
いずれも国内最古となる木製仮面とベニバナの花粉が見つかった。日本の王権誕生の地、王都とも言うべき纒向遺跡から出土したため、注目度は高くなった。
木製仮面が注目されたのは「国内最古というよりも、とにかく類例がほとんどない」(担当した福辻淳・桜井市教委技師)という点。形状がユニークなこともあったが、当時の農耕祭祀(さいし)の実態を示すだけでなく、
御田祭(おんだまつり)など現代の農耕祭祀の源流とか、王権確立に伴い神を人面で表現するようになった宗教改革などの意見が識者から出るほどだった。
ベニバナの花粉が注目されたのは、ベニバナが大陸・中国伝来で、当時の交流を示す物証になるからだ。
纒向遺跡を長年発掘してきた石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「纒向遺跡と大陸との交流を示す遺物は、今までは朝鮮半島製の土器片ぐらいしかなかった」と指摘する。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、邪馬台国・卑弥呼と中国・魏と織物の贈答の記述があるが、それをほうふつさせる発見となった。
広大な纒向遺跡だが、発掘は道路敷設、宅地造成などの開発行為に伴うことが多く、小さい面積を細かく発掘する。一気に全体像が分かることは少ない。
同遺跡には国内最古級の前方後円墳が多く、発掘すると前方後円墳の成立、ひいては古墳時代の成立にかかわる発見が多く、私も何度か記事にした。今回はいずれも何気ない平地からの発見で、最初「国内最古」と聞いたときは予想外だった。
しかし、弥生時代から古墳時代への転換点に位置する纒向遺跡と考えるならば、「纒向で国内最古の物が出た」というよりも「国内最古の物が出るのは纒向ならでは」と言うべきなのかもしれない。【大森顕浩】
毎日新聞 2007年12月21日
297 :
あおによし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり:2007/12/23(日) 14:28:13
平城宮跡を国営公園化、建造物も復元へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071222it14.htm 世界遺産で国の特別史跡の平城宮跡(奈良市)が、国営公園化されることが22日、2008年度政府予算案の復活折衝で決まった。
今後、国が奈良時代の建造物を復元するなどの整備を進める。
国営公園化するのは平城宮跡一帯の約120ヘクタール。このうち約70ヘクタールを施設の復元・整備などを行う整備区域とする。既存の国営飛鳥歴史公園(奈良県明日香村)と一体の「飛鳥・平城宮跡歴史公園(仮称)」として来年度、閣議決定される。
宮跡内では、これまでの発掘調査結果に基づき、すでに朱雀門などを復元。さらに文化庁が10年までの完成を目指して大極殿の復元工事を進めている。国営公園を所管する国土交通省は今後、文化庁や奈良県などと協議し、予算額や新たに復元・整備する施設などを決める。
国営公園は、国が文化的資産の保存や活用を図り、歴史・文化の学習や体験の場などにするため整備する。現在は環濠(かんごう)集落を復元した吉野ヶ里(佐賀県)や、正殿を再現した首里城(沖縄県)など17か所がある。
奈良県などは、平城宮跡を2010年に行う平城遷都1300年記念事業のメーン会場に予定している。
(2007年12月22日23時37分 読売新聞)
298 :
大阪府高槻市:2007/12/27(木) 18:11:31
発掘へ石積み再現、課題探る 闘鶏山古墳【写真】2007.12.26 22:10
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071226/acd0712262210008-n1.htm 大阪府高槻市の前方後円墳「闘鶏山(つげやま)古墳」(4世紀前半、全長約85メートル)の石室発掘に向け、同市教委が実物大模型の制作を始め、26日公開した。貴重な合掌形の石室を崩さないよう、模型を使って解体手法を探る狙い。
石室解体にともなう実験考古学的な取り組みは、高松塚古墳(奈良県明日香村)に続く試みで、同市教委は「実験を通じて、技術的に難しい構造の石室が造られた背景も探っていきたい」としている。
石室は平成14年、前期古墳時代としては貴重な未盗掘の状態で発見。被葬者の頭骨や三角縁神獣鏡などの副葬品が残っており、魔よけや長寿の秘薬とされた朱がまかれていた。淀川北岸地域を治めた豪族が葬られたとみられている。
積み上げられた石材は、徳島県吉野川流域から運ばれたとみられる結晶片岩の板石で、高さ約1・3メートル。長さ約7メートル、幅約80センチの空間に木棺が納められていた。
合掌形の石室は、近畿地方の大規模な豪族級の古墳にもみられるが、闘鶏山クラスの小規模な古墳としては徳島県で2例見つかっているのみ。このため解体に先立って実物大の模型を作り、技術的課題を洗い出すことにした。
模型の制作は今月から、市立埋蔵文化財調査センター(高槻市南平台)でスタート。実際に用いられている石と似た中国産の泥岩を9トン調達し、石室を長さ3メートルにわたって一部復元する。
これまでに250個の板石が積まれており、来月中に完成する見通し。20年度にかけて、模型を用いて石室の解体方法を検討していく。同市教委は「実験によって将来の保存や公開手法も模索できれば」としている。
299 :
京都:2007/12/27(木) 18:22:03
>>10続報
京都・本能寺跡
遺構出土・・・信長の宿 防御の堀【写真】
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is71227a.htm 織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれた「本能寺の変」(1582年)の舞台となった旧本能寺跡(京都市中京区蛸薬師通西洞院西入る池須町)で、深さ約1メートルの堀の遺構が見つかり、市埋蔵文化財研究所が26日発表した。
8月の発掘調査でも西側で幅約6メートルの堀跡や長さ約2メートルの石垣跡が出土していることから、同研究所は「信長が宿とするにふさわしい防御施設を備えた寺だったのではないか」としている。
調査地は住宅予定地約10平方メートルで、天文14年(1545年)に移転のため、同寺が購入したとの記録が残る敷地の南東隅付近にあたる。
堀は東西方向に走り、底部が狭くなる逆台形で、幅は約4メートルに及ぶと推定される。遺物から16世紀中ごろから末期に築造されたとみられる。
同寺は移転前に天文法華の乱(1536年)で焼かれており、同研究所は「再建時に、防御のための堀を巡らせたのではないか」とみている。今回、敷地の南限が確定したことで、寺域が1町(120メートル)四方という記録がほぼ裏付けられた。
また、寺域のほぼ中央部分で、柱の礎石の基礎部分も発見された。寺の建物跡が見つかったのは初めてで、周辺の遺物などから、同研究所は「寺の関連施設である可能性が高い」とみている。
(2007年12月27日 読売新聞)
城久遺跡で鍛冶炉跡出土 鉄器生産拠点か/喜界
古代から中世の大規模集落跡として注目される喜界町城久(ぐすく)の城久遺跡群の大ウフ遺跡で、鉄を加工して鉄器を作るための鍛冶炉(かじろ)跡が20基以上まとまって出土したことが、7日までに分かった。
11世紀後半から12世紀ごろの遺構で、県内でも珍しい大規模な鉄器工房跡とみられる。琉球大学の池田榮史教授(考古学)は「中世の南島における鉄器生産の拠点といえる。南西諸島の広い地域に鉄器を供給していたのではないか」と話している。
豊臣秀吉:鳥取城兵糧攻めの最前線か とりで跡確認
http://mainichi.jp/enta/art/news/20071228k0000m040022000c.html 鳥取市教委は26日、同市の国史跡「鳥取城跡附太閤ケ平(とっとりじょうせきつけたりたいこうがなる)」で、豊臣秀吉の鳥取城兵糧攻めの際のとりで「陣城(じんじろ)」の跡を確認した。
山城の構造図作製に伴い調査し、堀で囲まれた平地だったことから陣城と判断。調査を担当した城郭研究家で、兵庫県養父(やぶ)市の西尾孝昌・文化財保護指導員(62)は「兵糧攻めの最前線拠点だったのでは」と話している。
陣城は鳥取城本丸から東約600メートルに位置。今回の調査で、東西40メートル、南北32メートルの平地を深さ5〜6メートル、幅8〜10メートルの多角形の堀が取り囲んでいることが分かった。
各地で確認されている秀吉の陣城と形状が一致したことから、今回の堀も陣城の一部と判断した。
秀吉の一代記「太閤記」などによると、秀吉は1581(天正9)年に鳥取城を兵糧攻めにした。多くの餓死者を出し、武将・吉川(きっかわ)経家が自害。毛利方は降伏した。【小島健志】
毎日新聞 2007年12月27日 18時04分
能美の西山古墳群 砦跡発見 織田の陣城か 2007年12月16日
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20071216/CK2007121602072651.html 中世墓、弥生の遺構も
複合遺跡裏付け
能美市の国指定史跡・秋常山古墳群東側に広がる西山古墳群の一部で、弥生時代の遺構や鎌倉時代の中世墓、戦国時代の砦(とりで)跡などが見つかった。
本年度から実施した詳細分布調査で明らかになった。いくつかの時代にまたがる複合遺跡であることを裏付ける貴重な史料になる。 (田嶋豊)
十五日に現地説明会があり、学芸員らが考古学愛好家らに調査経過を中間報告した。
砦跡などが見つかったのは、西山古墳群の南尾根の一角。この一角には昭和三十年代から四十年代の踏査で二つの古墳があるとされていたが、今回の調査で古墳ではなく山城の一部であることが分かった。
市学芸員によると、山城は曲輪(くるわ)や高さ一・五メートル前後の土塁、切岸などを備えている。小規模で簡易的なつくりであることから、短期決戦を目的とした臨時的な砦だったとみている。
戦国時代末期に加賀国へ進出し、上杉謙信と手取川で対峙(たいじ)した時に築かれた織田軍の陣城、もしくは近くの和田山城に築城した一向一揆軍を攻めるのに築いた織田軍の陣城だった可能性があるという。
同所からは弥生時代終末期の土壙(どこう)墓や柱穴と思われる遺構なども見つかった。土塁をつくるために使われた盛土から素焼きの陶器が大量に出土。珠洲焼片や河原石もあり、鎌倉時代を中心とした中世墓とみている。
西山古墳群は徳久、高座、秋常の三町内にまたがる丘陵上に分布する古墳群。二〇〇九年度まで部分的な発掘調査を含め、規模の確認や歴史などを明らかにしていく。
>>305 >今回の調査で古墳ではなく山城の一部であることが分かった。
古墳改造して山城にした可能性ないかな?
古墳→城 ってパターン多いから。
308 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 23:03:17
出雲大社「平成の大遷宮」へ
【写真説明】約60年ぶりの大改修を控える出雲大社の国宝本殿
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200801050062.html 約60年ぶりとなる国宝本殿の改修に伴う出雲大社の「平成の大遷宮」が4月20日、ご神体を拝殿に移す「仮殿遷座祭」で幕を開ける。本殿に再び移す2013年の「正殿遷座祭」まで5年がかりの大事業となる。
日本の代表的な神社様式「大社造り」を伝える出雲大社。現在の本殿は延享元(1744)年の造営後、約60年置きに3度の改修を経て、「平成の大遷宮」は昭和28(1953)年以来。
改修の中心となるのは檜皮(ひわだ)屋根のふき替え。600平方メートルもある屋根に重ねる檜皮は約60万枚。頂部で交差する長さ8.3メートルの千木や同5.5メートルの勝男木も新調される見通しだ。
楼門、八足門など国の重要文化財に加え、境内外の摂末社も修造する予定で、本殿改修後も2016年まで事業は続く。遷座祭の奉祝行事なども含め総事業費は80億円を見込む。
「末廬国」王墓・桜馬場遺跡 別の甕棺を確認【写真】
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&mode=0&classId=0&blockId=750646&newsMode=article 昨年、甕棺墓(かめかんぼ)の遺構が63年ぶりに見つかり、中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある「末盧国(まつろ)」の王墓と特定された唐津市の桜馬場遺跡で、別の有力者が埋葬されたとみられる甕棺片が確認された。
「王」か王の近親者の可能性が高く、唐津市教委は「末盧国の首長墓の変遷を考える上で貴重な資料になる」と注目している。
新たに確認された甕棺は合口式で、昨年の市教委調査で遺跡南西部の防空壕(ごう)跡から、王墓の甕棺片と混在し出土。形状から、ほぼ同時期の弥生時代後期前半(1世紀後半―2世紀前半)のものとみられる。ただ本来の埋設位置はわかっていない。
一方、同じ調査で南東部の防空壕跡に位置する王墓の遺構から、中国製の内行花文鏡の破片が出土。この銅鏡片は、1944年に初めて遺跡を発見した際の出土品記録にはなかった。
このため市教委は、新たに確認された甕棺に内行花文鏡が副葬された可能性もあると推定。王墓から見つかった方格規矩(きく)四神鏡とは製作時期が近く、同市教委は「極めて近い区域に、時代が異なる有力者2人の墓が存在すると思われる」とみている。
佐賀女子短大の高島忠平学長(考古学)は、「当時は政治を司る男性とシャーマン(呪術(じゅじゅつ)者)を務める女性の“二重政治体制”だった見方もでき、高貴な2人を死後も一緒の場所に葬ったかもしれない」と話す。
01月08日更新(佐賀新聞)
他ソース(西日本新聞)
桜馬場遺跡に別の甕棺 佐賀・唐津市 末盧国、2代の王を埋葬か
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/20080108/20080108_001.shtml
奈良・纒向遺跡
本格調査 邪馬台国の証拠出るか【地図】
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80109c.htm 奈良・桜井市教委 中枢部、新年度から
邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3〜4世紀)について、市教委は新年度から、初めて中枢地域の本格的な発掘調査を進める。「日本最初の都市」とされる遺跡の実態解明につながる成果が得られると期待される。
文字資料など、中国との直接交流を示す遺物が見つかれば、邪馬台国の所在地を決定づけ、長年の論争に決着がつく可能性もあり、関係者らは調査に大きな関心を寄せている。
纒向遺跡は、古代の王宮が営まれたとされる三輪山山麓(さんろく)にあり、東西約2キロ、南北約1・5キロ。邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓説がある箸(はし)墓(はか)古墳(3世紀後半)もある。
県や市による調査は1971年に始まり、現在まで153回行われたが、住宅開発などに伴う緊急調査が85%の130回を占め、調査が終わったのは全体の5%程度。
遺跡の中枢は時期によって異なり、3世紀前半は、祭殿とみられる建物跡などが近くで見つかった太田地区、同後半には、朝鮮半島の影響を受けた土器や絹製の袋などが出土した巻野内地区に移ったとみられている。市教委は両地区の発掘を長期的な計画で順次、進めていく。
同遺跡の調査では、東海や瀬戸内など他地域の土器が出土量全体の2割以上を占め、全国各地との交流があったことが知られているほか、板で護岸した幅5メートルの溝など、大規模な土木工事が行われていたことも判明。
最近の調査では、染織に使われたベニバナの花粉が大量に検出され、中国の史書「魏志倭人伝」に記された、卑弥呼が魏に献上した織物と関連する可能性も指摘されている。
纒向遺跡の大規模発掘と整備を公約に掲げる谷奥昭弘市長は「考古学的にも画期的な調査となるはず。邪馬台国の手がかりをつかみたい」と期待する。
文化庁記念物課も「本格的な調査が進めば、全国に類例のない成果が得られる可能性がある。史跡指定をして遺跡を保存するためにも、早急に実態解明を進めてほしい」とする。
(2008年01月09日 読売新聞)
後漢時代の破鏡、ぼう製鏡と同時出土 松江・苅捨古墳 【写真】
http://www.nnn.co.jp/news/071220/20071220007.html 島根県埋蔵文化財調査センターは十九日、松江市下東川津町の苅捨(かりすて)古墳(四世紀後半)で、同時期に中国製の銅鏡をまねて日本で作られたぼう製鏡と呼ばれる銅鏡と、
日本の弥生時代に当たる後漢時代の中国で作られた銅鏡の破鏡が同時に出土したと発表した。同時出土は県内で初めて。
中国製の銅鏡は質がよく、銅鏡を意図的に破壊した破鏡が弥生時代に珍重された。出土した破鏡の製作年代は、同古墳の築造の百五十年以上前と推定され、
同センターは「この間、当地の有力集団が弥生時代の風習を守って何代も引き継ぎ、古墳時代になって有力者のひつぎに副葬品として埋葬した」とみている。
苅捨古墳は、島根大学の東約二キロ、標高四十二メートルの尾根上に築かれ、直径二十二メートル、高さ二・五メートルの円墳。木棺(もっかん)直葬の主体部(埋葬施設)は東西方向に三基並んで見つかった。
東側に「出雲国風土記」に記述のある嵩山(だけさん)を望め、東に頭を向けて埋葬されたとみられる。
三基のうち中央の船底形木棺が長さ五・二メートル、幅〇・五メートルと最も大きく、中心的人物を埋葬していたと推定される。
この木棺の東寄りの位置で、直径九センチのぼう製鏡と、その下に復元すると直径十一センチの中国製の破鏡が重なり合って出土した。鏡の周囲からは、碧玉(へきぎょく)製管玉や水晶製勾玉(まがたま)、ガラス製小玉多数が見つかった。
ぼう製鏡はジェット機のエンジンを正面から見たような文様の捩文(ねじもん)鏡で、同じ文様、大きさのものが熊本県八代市の五反田古墳(六世紀)で出土しており、同じ鋳型で作られた可能性が高いという。
中央の木棺から武器類の副葬品は出土してなく、埋葬された有力者は女性の可能性がある。
二十二日午前十時から、現地説明会がある。当日の連絡は電話0852(25)7388、発掘調査事務所。
大阪・堺 大山古墳
仁徳天皇陵2000人の輪…3月20日に【写真】
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80109a.htm NPO企画、手つなぎ 大きさ実感…世界遺産 登録機運盛り上げ
連日2000人が働き、完成に16年を要したともいわれる5世紀の前方後円墳「仁徳天皇陵」(大山古墳、堺市)。
その〈世界最大級の規模〉を実感しようと、地元NPO法人などが3月20日、2000人が古墳の周りを手をつないで囲むイベントを企画し、参加者を募っている。
仁徳陵など百舌鳥・古市古墳群は、堺市などが世界遺産登録を目指しており、関係者らは「地元の機運を全国に発信したい」と意気込んでいる。
地域活性化を目指すNPO法人・ゴダイや、古代から堺と奈良県側の葛城を結んだ「最古の国道」を顕彰するNPO法人・竹の内街道歩き隊などの主催で、読売新聞大阪本社などが後援。堺市も、100万円を補助して支援する。
計画では、午前9時半に仁徳陵南側の堺市博物館前に集合。10時半から古墳の外堤に沿って市が整備した全長2850メートルの「周回コース」を歩いて古墳を取り囲み、全員で手をつなぐ。
歩き隊代表の隅田禎一さんは「47万平方メートルに及ぶ仁徳陵の巨大さを多くの人たちに感じてもらい、世界遺産登録に向けて弾みを付けることができれば」と話す。
参加費1000円で、全員に特製ブルゾンや百舌鳥古墳群の航空写真マップが配られる。2月20日までに
「ゆうちょ銀行堺金岡支店」の口座番号00920・3・280897「特定非営利活動法人 竹の内街道歩き隊」に振り込む。問い合わせは隅田さん(072・253・5155)へ。
(2008年01月09日 読売新聞)
兵庫・有岡城跡
堀二重構え 主郭の防御力高める【写真】
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80109b.htm 「大溝筋」西側に
兵庫県伊丹市教委は8日、国史跡の有岡城跡(伊丹市伊丹)で、屈曲した新たな堀2本を確認したと発表した。
うち1本は築城前からあった旧堀を掘り直して整備されており、市教委では、居城した戦国武将荒木村重(1535〜86)が城の防御性を高めるために工夫を施したとみている。
有岡城は1574年、村重がそれまでの伊丹城を改築した「惣(そう)構え」の平城で、わずか5年後に織田信長に攻められて落城した。
今回の発掘現場は、城跡中央部の約480平方メートル。城跡東端の主郭を守る南北の堀「大溝筋」(幅約6メートル、深さ約2・7メートル)の西側の部分で、南端が西に屈曲した南北の堀(長さ約18メートル、幅約3メートル、深さ約1・5メートル)
と、西端が南に曲がった東西の堀(長さ約8・5メートル、幅約4・3メートル、深さ約2・5メートル)が見つかり、東西の堀は伊丹城時代の堀を掘り直して再利用していたこともわかった。
形状や位置関係から、2本の堀が城の防御の拠点になっていたとみられ、大手前大の川口宏海教授(中・近世考古学)は「当時の城郭構造を知る重要な発見。防御を強固にしていたのは間違いなく、どのような機能を果たしていたのか大変興味深い」と話している。
19日午後1時半と同2時半の計2回、現地説明会が開かれる。問い合わせは、市教委社会教育課(072・784・8090)。
(2008年01月09日 読売新聞)
315 :
山梨・甲府市:2008/01/11(金) 20:06:05
甲府市:武田氏の館跡を復元 史跡の保存と戦国時代体感、19年完成を目指す /山梨
http://mainichi.jp/area/yamanashi/news/20080111ddlk19040169000c.html 現在の武田神社一帯に築かれていた武田氏の館跡(甲府市古府中町、国指定史跡)について、甲府市が土塁や堀などを復元したり整備する事業を始めることになった。
史跡の保存と戦国時代を体感できる学習拠点とすることが目的で、館を築いて500年とされる2019年の完成を目指す。
甲府市の宮島雅展市長が10日の定例記者会見で明らかにした。市によると、95年に武田氏館跡の発掘調査をスタート。04年に「史跡武田氏館跡整備基本構想・整備基本計画」を策定し、歴史的な裏付け資料などをもとに設計を検討してきた。
総整備面積は約7万1554平方メートルで、「大手門周辺」「北郭(ぐるわ)全域」「西曲輪(ぐるわ)」「梅翁曲輪(ばいおうぐるわ)」の4ゾーンに分割して行う。
主な遺跡を復元し、記録の残っていない施設や建造物については、事業を進める中で整備方法を検討していく。
第1期整備工事は武田神社東側の大手門周辺ゾーン約3500平方メートルで、既に昨年12月28日に着工。
外敵の侵入阻止を目的として人工的に築かれた土手(土塁)や堀、館の出入り口などを復元する。史跡解説板や照明設備などの施設整備も合わせて行い、09年度の完成を予定している。【中村有花】
毎日新聞 2008年1月11日
316 :
山梨:2008/01/11(金) 20:07:53
戦国時代の鉛使った金製錬技術発見 山梨
2008.1.11 02:42
http://sankei.jp.msn.com/region/chubu/yamanashi/080111/ymn0801110242003-n1.htm 帝京大学山梨文化財研究所や山梨県立博物館の研究員らで構成する「甲斐金山遺跡研究会」は10日、県内出土の16世紀の土器から金の製錬時に使った鉛を検出したと発表した。
戦国時代に鉛を使って金から不純物を取り除く技術が確立していたことがわかったといい、同研究会は「金や銀の製錬技術の歴史を知る上で貴重」としている。
研究会は、黒川金山遺跡(甲州市)と湯之奥金山遺跡(身延町)で出土していた土器について、内部成分を調査。土器表面に金が付着し周囲の土器内から鉛が検出され、金の採掘現場で化学反応を利用して金を製錬していたとみられるという。
鉛を使った金の製錬は江戸時代以降の遺跡からは数多く見つかり、奈良県の7〜8世紀の遺跡からも発見されたが、中世での発見例はなかったという。
317 :
九州:2008/01/14(月) 14:53:56
緑色装身具7割が雲母 縄文人好み、九州広まる
2008.1.12 09:59
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080112/acd0801121000003-n1.htm 縄文時代後期から晩期の九州の遺跡で出土した緑色の勾玉(まがたま)や管玉などの石製装身具のうち約7割は、クロムを含んで緑色に見える白雲母岩で作られていたことが、熊本大埋蔵文化財調査室の大坪志子助教(考古学)らの調査で分かった。
これまでの調査報告ではヒスイや緑色片岩、蛇紋岩が石材と考えられていたが、大坪助教は「九州の縄文人が雲母の鮮やかな緑色に美しさや呪術(じゅじゅつ)的な魅力を感じ、九州中に広まったのではないか」と話している。
大坪助教らは、鹿児島県・上加世田遺跡など九州7県の約160の遺跡から出土した装身具約670点について、蛍光エックス線分析装置で成分を調査。
過去の発掘調査報告で緑色片岩とされていた約270点と、蛇紋岩とされていた約90点は、ほぼすべて白雲母岩だった。ヒスイとされていた約140点も、約8割が白雲母岩と判明。全体では白雲母岩が約7割に上り、残りは滑石などだった。
九州産ともみられる緑色の白雲母岩の装身具が島根県のヨレ遺跡、岡山県の吉野口遺跡、新潟県の青田遺跡で出土する一方、
新潟県糸魚川市周辺のヒスイが宮崎県の学頭遺跡で出土した例もあり、大坪助教は「九州の白雲母岩が本州との交易に使われ、ヒスイと交換されていた可能性もある」とみている。
緑色の白雲母岩の産地は未発見だが、加工途中の石を含む装身具の出土が熊本県に多いことや、白雲母岩を含む変成岩の分布状況から、同県南部が有力という。
318 :
愛知・豊田市:2008/01/17(木) 17:35:49
319 :
愛知・安城市:2008/01/17(木) 17:40:19
韓式系の土器片出土 朝鮮半島との交流裏付け
2008年1月17日【写真】
安城市安城町の圦上(いりかみ)遺跡で、朝鮮半島の特徴を持つ五世紀の土器片が見つかった。近くの同市桜井町の彼岸田(ひがんでん)遺跡では、朝鮮半島の影響を受けた同時期の横ぐしが出土しており、
弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて西三河地方の中心的な集落があったこの地域が、国外を含めた広範囲な交流していたことを裏付ける資料となりそう。
圦上遺跡からは十数点の土器片が出土した。少なくとも2種類の土器の破片で、一つはせいろのように使って米などを蒸す甑(こしき)、もう一つは鍋の可能性もあるという。
いずれも韓式系土器の特徴で、土器の内側を押さえ、外側からたたいて形を整える「たたき」の技法が使われている。
一方で、当時の日本では一般的だった、はけを使った調整の跡は見られない。甑の底にある蒸気を通す穴も、国内のものより小さく、韓国・全羅道で出土する土器に似ているという。
遺跡近くの土を使った可能性が高く、当時、この地域に朝鮮半島出身者など韓式系土器の技術を持った人が訪れたことがうかがえる。
市教委では「あらためて朝鮮半島とのかかわりが確認された。これまでの遺跡や遺物も、より広い視野で調査したい」としている。
見つかった土器片は18日から、市埋蔵文化財センターで展示される。
(宇佐美尚)
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20080117/CK2008011702079983.html
320 :
奈良・大和郡山市・奈良市:2008/01/17(木) 17:46:39
下三橋遺跡:奈良女子大でシンポ、築造時期などで論戦 /奈良
平城京の南限を十条大路に拡大する遺構が確認されたことで知られる大和郡山市の下三橋遺跡の発掘調査成果を考える研究集会「古代都城と条坊制−下三橋遺跡をめぐって−」が、奈良市の奈良女子大で開かれた。
羅城(城壁)の範囲と築造時期、水田の区割り「条里」の施工時期を巡り、調査担当者と研究者の間で論戦となった。
研究者ら約100人が参加。調査担当者の山川均・大和郡山市教委主任と佐藤亜聖・元興寺文化財研究所主任研究員が成果を報告。
羅城の年代は、出土した瓦や日本書紀の記述、羅城門(平城京の正門)の築造年代などから750年ごろとし、範囲も羅城門から東西計1キロまでとした。
奈良盆地に広がる条里の施工時期は、平城京の条坊(碁盤目状の街区)が十条まで作られた後に九条まで切り詰められ、十条地区が特殊な条里となった後に、一般的な条里が施工されたとした。
これに対し、小沢毅・奈良文化財研究所室長は、平城京の条坊より条里の施工が先行するとし、羅城の年代も、羅城門付近から出土した瓦の検討から、8世紀の前半にさかのぼる可能性を指摘。
井上和人・奈良文化財研究所室長は、羅城が京域南辺全体にあったとした。
討論では、山川主任の「平城京以前の条里のこん跡が発掘されないのはなぜか」という質問に、小沢室長が「平城京の条坊施工で失われた可能性があり、発掘で確認するのは困難だろう」と答えるなど、議論が交わされた。【大森顕浩】
毎日新聞 2008年1月16日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20080116ddlk29040562000c.html
321 :
奈良・奈良市:2008/01/18(金) 22:16:10
322 :
京都市左京区:2008/01/18(金) 22:18:18
323 :
奈良・奈良市:2008/01/18(金) 22:24:42
神功皇后陵:宮内庁が立ち入り調査許可 考古学協会に通達【写真・地図】
http://mainichi.jp/kansai/news/20080118k0000m040148000c.html 宮内庁は17日、古墳時代のものとされる奈良市の神功(じんぐう)皇后陵(五社神(ごさし)古墳)の立ち入り調査を許可することを決め、日本考古学協会に通達した。
陵墓への立ち入り調査は、宮内庁が補修工事を行う際の見学は認めてきたが、学会側要望を受けた許可は初めて。今後、他の陵墓の立ち入り調査についても申請があれば検討し認めていく方針だ。
神功皇后陵は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の妻が葬られたとされ、全長約275メートルの前方後円墳。4世紀後半から5世紀初めに造られたと考えられている。
宮内庁によると、立ち入りを認めるのは1段目の平らな部分までで、撮影は可能だが、発掘はできない。調査は2月中旬ごろになる見通し。
歴代天皇や皇族を埋葬した陵墓について、宮内庁は「御霊(みたま)の安寧と静謐(せいひつ)を守るため」などとして学術調査を認めてこなかった。
しかし、79年から年1回ペースで、宮内庁が補修時に行う発掘調査を学会などに見学させてきたことや、過去のこうした調査で安全性から立ち入りを認めたことがある−−
などから、昨年1月に陵墓管理に関する内規を変え、研究テーマを問わず申請があれば審査の上、調査を受け入れるよう方針転換した。
同協会理事の高橋浩二・富山大准教授は「調査範囲が限定されているとはいえ、大きな一歩と考えている。今後も他の陵墓の公開を申請していきたい」と話している。【真鍋光之】
▽陵墓 宮内庁は歴代の天皇、皇后、皇太后らを埋葬した場所を「陵」、それ以外の皇族は「墓」としている。近畿地方を中心に、1都2府30県に陵188基、墓552基がある。
形状は時代によって異なり、前方後円墳、石塔などさまざま。陵墓の可能性がある「陵墓参考地」を合わせると、全国で458カ所、計896基になる。仁徳天皇陵とされる大山古墳(堺市)は面積46万4000平方メートルで最大規模の前方後円墳。
毎日新聞 2008年1月18日 2時30分
324 :
福島市春日町:2008/01/23(水) 21:05:54
325 :
新潟県妙高市:2008/01/23(水) 21:06:51
326 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:52:03
age
2種類の蓮華文軒丸瓦が出土 【写真】
京丹後・俵野廃寺
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008012400107&genre=M2&area=K60 京都府埋蔵文化財調査研究センターは24日、丹後地域最古の寺院跡とされる京丹後市網野町俵野の「俵野廃寺」から、飛鳥時代後期(7世紀後半)の文様の異なる2種類の蓮華文(れんげもん)軒丸瓦が見つかった、と発表した。
「当時の寺院建築に必要な瓦製造の時代的推移を知る貴重な資料」としている。
調査は、俵野川河川改修に伴い、右岸脇の水田(約600平方メートル)で昨年10月から実施している。
装飾用に使われた蓮華文軒丸瓦は、上方部分が少し欠けたほぼ完形で計8点を確認した。いずれも直径16・2センチ、厚さは1センチほど。ひとつはハスの花弁が7つに描かれた簡略式の単弁蓮華文。
ほかは、花弁が2枚1組の8弁で表現された複弁蓮華文で、周囲に鋸歯(きょし)文様も施されている。瓦の文様は当時、寺院ごとに図柄が異なっていたとされ、2種類とも丹後独自の文様という。
朝鮮半島から伝わった瓦製造の技術と比べると左右対称の精巧さなどが劣り、同センターは「中央政府の寺院瓦製造技術が地方に伝播・普及する初期のころのものではないか」と見ている。
現地説明会は27日午前11時から。
西田中瓦窯:国家主導で集中生産 藤原宮「瓦供給基地」−−大和郡山 /奈良
http://mainichi.jp/area/nara/news/20080124ddlk29040697000c.html 藤原宮に瓦を供給した「西田中瓦窯」(大和郡山市西田中町)で昨年、7世紀末の瓦窯3基が確認された。近くには同様の瓦窯「内山瓦窯」や掘立柱建物群が確認されており、一帯の丘陵が当時の瓦の大規模生産拠点だったことが実証された。
藤原宮は宮殿に瓦をふいた初めての都だっただけに、国家主導の開発と集中生産ぶりがうかがえる。【大森顕浩】
◇ローテーションで操業?
藤原宮の瓦を生産した瓦窯は、藤原宮に近い県内に7カ所程度確認されている他、香川、兵庫(淡路)、大阪、滋賀などでも生産したとされる。
瓦の形式の新旧から、当初は奈良県外の遠隔地で作られていたのが、次第に奈良県内に集中するようになったと考えられている。
発掘調査はこれまで、内山瓦窯(大和郡山市)、日高山瓦窯(橿原市)、宗吉瓦窯(香川県三豊市)程度しかない。西田中瓦窯は1930年代から知られていたが、04年の試掘で6基を検出。
今回はこのうち3基を調査した。大和郡山市教委は「藤原宮の瓦の研究は、宮跡からの出土品が中心だった。今後は生産地からのアプローチもできるようになる」としている。
(↓に続く)
(
>>328の続き)
今回の発掘のポイントはその規格性。トンネル状の瓦窯3基が2・5メートル間隔で並び、3基を一体として溝が巡っていた。古代の瓦に詳しい森郁夫・帝塚山大教授(歴史考古学)は「普通みられる瓦窯は2個で1セット。
一方で焼いていて、他方では製品を冷ましている。3基で1セットは珍しく、どれか一つの窯をローテーションで燃やして常時操業させていたのでは。膨大な量の瓦生産のためで、一帯は毎日真っ黒な煙が立ち上ったのだろう」と推測する。
何度も操業するため、炭が堆積し、火を燃やす部屋の床面が上昇し、その分だけ窯奥にある瓦を焼く階段状の部屋の床面も瓦片で敷き直す補修跡が見られた。
十文字健・大和郡山市教委技術員は「瓦片を丁寧に敷いていない。とにかく瓦を焼くことだけに専念して、機能優先で運営している」と分析する。
内山瓦窯で4基、西田中瓦窯で既に6基確認されている。両瓦窯から出土する瓦の型式は一致している。
両瓦窯について十文字技術員は「階段状のトンネルを掘る斜面があり、燃料の材木が入手しやすかった他に、原料となる粘土の質が良かったため産地に選ばれた」と推測する。
だが操業期間はほんのわずか。3基とも藤原宮の同じ型の瓦だけしか出土しない。十文字技術員は「藤原宮のためだけに突如開発され、当時の最先端技術を盛り込んだのだが、焼き終わった後は放置されたらしい」とみる。
後の平城宮の瓦生産は、平城京北側の奈良山丘陵に瓦窯が集中して営まれる。西田中瓦窯のような、階段状の部屋を持った窯ではなく、床面が平らな窯に変化する。
生産地も遠隔地から近隣に変化する。こうした都の宮殿にふく瓦の生産体制の変遷についても、西田中瓦窯の発掘が貴重な資料になるという。
毎日新聞 2008年1月24日
墳墓や古墳など5基を確認 【写真】
京丹後の茶臼ケ岳古墳群
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008012400131&genre=M2&area=K60 京都府埋蔵文化財調査研究センターは24日、京丹後市久美浜町橋爪の「茶臼ケ岳古墳群」で、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓や古墳計5基などを確認したと発表した。同センターは「周辺に影響力を持つ有力者の墓と考えられる」としている。
国道整備工事に伴い、昨年10月から調査した。川上谷川流域の平野部を見下ろす丘陵の西側斜面に、東端の7号墳(標高40メートル)から西端の9号墳(同26メートル)まで5基が階段状に並んで築造されていた。
このうち8、9号墳は弥生時代後期の方形台状墓で、8号墳からは鉄剣や鉄の矢じり、管玉などが出土した。
5−7号墳は古墳時代前期のものとされ、▽墳丘のすそが不明確▽墳頂部に土器棺(高さ60センチ、幅50センチ)を含む複数の埋葬施設が存在▽墳丘上に破砕された土器が置かれている−など丹後地域の弥生時代後期の伝統を色濃く残しているという。
五号墳の墳頂部からは、経典を筒に入れて地中に埋めた平安時代末期の経塚1基も見つかった。
同センターは「前方後円墳が誕生する以前の川上谷川中流域の中小豪族の墓だろう。近くに同時期の集落跡もあり、墓と密接な関係があるのではないか」としている。
現地説明会は27日午後2時から。
332 :
長野県中野市:2008/01/24(木) 23:58:46
柳沢遺跡
>>172 >>188 >>225 >>227-228 >>272 埋納坑から銅戈1本取り出す 柳沢遺跡で出土
http://www.shinmai.co.jp/news/20080124/KT080124FSI090010000022.htm 1月24日(木)【写真】
県埋蔵文化財センター(長野市)は24日、弥生時代中期とみられる青銅製祭器「銅戈(どうか)」と「銅鐸(どうたく)」が出土した中野市の柳沢遺跡から切り取り、千曲市の県立歴史館で調査を続けている「埋納坑」から銅戈1本を取り出した。
既に出土している2本の銅戈と同じ大阪湾周辺で見つかっている「大阪湾型」であることを確認した。
この日は、県内外の専門家でつくる柳沢遺跡調査指導委員会の笹沢浩委員長、委員の石川日出志・明大教授らも参加。埋納坑にある銅戈5本と銅鐸片1点のうち、センター職員が一番手前の銅戈について、土を採取しながら慎重に取り出した。
長さは27センチほどで、既に出土している2本より短い。まだ一番奥に埋まっている銅戈は32センチほどと長いため、「大小バラエティーに富んだ銅戈の並べ方をしており、興味深い」(石川教授)とした。
笹沢委員長によると、取り出した銅戈に、のこぎりの刃に似た文様「複合鋸歯(きょし)文」があることも確認。
これまでの2本は斜格子文だけで、和歌山県有田市の山地地籍で出土した銅戈6本の中に、複合鋸歯文と斜格子文が両方ついている銅戈もあり、笹沢委員長は「柳沢遺跡と同じ組み合わせだった意味は大きい」とした。
同センターは2月末までに残りの銅戈と銅鐸片を取り出す計画。その後、土壌分析や青銅器の分析も行う計画だ。
柳之御所遺跡:2010年春に暫定公開 歴史公園完成は約10年後 /岩手
http://mainichi.jp/area/iwate/news/20080125ddlk03040212000c.html 県は「柳之御所遺跡」(平泉町)を2010年春に暫定公開することを決めた。同遺跡は奥州藤原氏の政庁跡と推定され、当時を復元した歴史公園として整備中。完成は約10年後となる見通し。
暫定公開時は作業途中なので、近接する柳之御所資料館で当時の建造物などを復元したコンピューターグラフィックス(CG)を同時公開するという。
県は24日の平泉遺跡群調査整備指導委員会で、CGの試作品を紹介した。県はCGに反映させるため、同遺跡内でまだ確定していない建造物の機能や役割などを今秋までに確定する方針だ。
同遺跡では05年度から、奥州藤原氏が栄えた12世紀当時の道路や建造物を復元する整備がスタート。これまでに園池の整備を終え、来年度は見学・管理用の散策路を整備するほか、遺跡の一部への芝張りなどを行う。
建造物は中心建物2棟を原寸大で復元することが検討されている。同委員会では、それ以外の建造物は復元せず、建物跡の外周を柱や石材舗装で囲んで表示することも決まった。【念佛明奈】
毎日新聞 2008年1月25日
春日社古墳:東北初の「革盾」出土 5世紀後半、ヤマト政権から寄贈? /宮城
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20080127ddlk04040052000c.html 仙台市文化財課は市営地下鉄富沢駅近くの春日社古墳(太白区大野田)から、副葬品の「革盾」が東北で初めて出土したと発表した。古墳時代の5世紀後半に埋められたとみられ、保存状態が良く、豊かな彩色がしのばれる。
同課は「被葬者がヤマト政権と深いつながりがある首長クラスの有力者であることが分かった」としている。27日午前10時から、現場を公開し、現地説明会を行う。
春日社古墳は41基が確認されている大野田古墳群の中で最大の円墳で、外縁の直径は46・6メートル。市は昨年5月から発掘調査を進めていた。
出土した革盾は台形で長さ120センチ、上端幅60センチ、下端幅72センチ。棺(ひつぎ)を納める墓穴の真横から矛や矢と一緒に見つかった。
本体の革や木製の枠は腐食して既に無いが、表面に塗った漆の跡が地面にくっきりと残り、赤や黒の色も確認できる。
革に三角やひし形模様の刺しゅうが施され、漆で彩色されており、儀礼用とみられる。同課の米川暢敬主事は「デザインが洗練されており、当時、畿内にあったヤマト政権の大首長から配られたものと考えられる。
古墳時代中期にヤマト政権の範囲が仙台まで及んでいたことを示す貴重な資料だ」と説明した。同課によると、模様全体がはっきりと見える革盾の出土は、大阪府と滋賀県に次いで全国で3例目という。【比嘉洋】
毎日新聞 2008年1月27日
弥生後期の墳墓など確認 茶臼ヶ岳古墳群きょう現地説明会
2008.1.27 02:09
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/kyoto/080127/kyt0801270209001-n1.htm 京都府京丹後市久美浜町橋爪の「茶臼ヶ岳古墳群」から、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて造営されたとみられる方墳などが5基確認されたほか、土器棺や鉄剣(全長30センチ)なども見つかり、府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。
同古墳群は、府立久美浜高校グラウンド南側の標高40〜26メートルの丘陵にある。東西約60メートルのエリア内で今回、新たに弥生時代後期(1〜2世紀)の墳墓2基と古墳時代前期(4世紀)の方墳3基を確認した。
調査は昨年10月から始まり、今月末まで行われる。丘陵のほぼ中央に位置する長方形方墳「5号墳」(長さ14・5メートル、幅6・5メートル)からは、子供の遺骨を納めたとみられる大型の土器棺(高さ50センチ、直径50センチ)や、
仏教の経典を埋めるために平安時代末期(12世紀)に作られた埋納土器(高さ約40センチ、直径25センチ)なども出土した。
同センターは「方墳3基は、古墳時代に周辺の集落を治めた豪族の墓と考えられる」と話している。27日午後2時から現地説明会が開かれる。
336 :
佐賀県唐津市:2008/01/28(月) 01:27:37
仁田古墳群:県内初、埴輪窯を発掘 犬や格子目ついた円筒も /佐賀
http://mainichi.jp/area/saga/news/20080126ddlk41040280000c.html 県教委と唐津市教委は24日、唐津市浜玉町渕上の西九州自動車道建設に伴う遺跡発掘調査で、埴輪(はにわ)を焼いた古墳時代中期と見られる登り窯(埴輪窯)が見つかったと発表した。
同時代の埴輪窯の出土は福岡県内で7遺跡9件あるが県内では初。「天井の形まで分かり、埴輪生産の様子を知ることができる貴重な発見」と市教委は話している。
現場は玉島川沿い山手に広がる仁田古墳群北側斜面。約2500平方メートルを対象に、昨年8月から調査を進めていた。
調査でくぼ地に堆積した埴輪群が出土したことから試掘を広げたところ、遺構を発見したという。
窯は5世紀代のものとみられるという。登り窯で、斜面をトンネル状に彫り込んだ地下式となっている。全長8・8メートル、最大幅2・1メートル、高さ1・2メートル。
焼いた埴輪が窯内に残ったまま天井が崩落して遺構となっているのが大きな特徴。このため、埴輪を焼く時の並べ方や一度に焼く個体数なども推測することができるという。
これまでに出土した遺物は、円筒埴輪の破片を中心に数百点。
動物(犬)や家形の形象埴輪に加え、焼き物の「たたき」と同じ技法で作られた表面に格子目のついた円筒埴輪も見つかった。
27日午前10時〜午後3時、担当職員による現地説明会(雨天中止)がある。問い合わせは県教委文化課0952・25・7233へ。【田中操】
毎日新聞 2008年1月26日
337 :
和歌山県かつらぎ町:2008/01/28(月) 01:31:42
338 :
鳥取県:2008/01/28(月) 22:09:08
339 :
宮崎県清武町:2008/01/28(月) 22:31:53
上猪ノ原遺跡:縄文草創期の住居跡14基発見 土器、石器1万点以上 /宮崎
http://mainichi.jp/area/miyazaki/news/20080128ddlk45040049000c.html ◇清武町教委「全国最大規模」
清武町船引の清武上猪ノ原(かみいのはる)遺跡で、縄文時代草創期(1万2000〜1万年前)の住居跡が14基見つかった。
縄文時代で最も古い時期にあたる草創期の住居跡は全国でも発見例が少なく、町教委は「草創期の住居跡としては、全国最大規模ではないか」と話している。
上猪ノ原遺跡は、船引神社西方のシラス台地上にある。町教委が05年8月から調査を進めてきた。発掘されたのは、縄文草創期の竪穴式住居の跡。地下約1メートルの地層に直径約2〜5メートルの円形の遺構が並んでいた。
前後に降り積もった火山灰から草創期の地層とみられるという。中央に炉、周辺に柱の跡が確認できる遺構もある。1万点を超える土器や石器も出土した。
3基の住居跡が重なっている場所もあり、町教委の秋成雅博主事は「ここで継続して生活が営まれた証拠ではないか。14軒が同時に暮らしていたのではなく、数軒ずつ時期をずらして存在したと考えられる」と言う。
町教委によると、縄文草創期の国内最大規模の集落跡とされる静岡県の大鹿窪遺跡で、同じく住居跡14基が発見されている。
橘昌信・別府大教授(先史考古学)は「縄文時代草創期は、旧石器時代の移動生活から定住生活に変わる過渡期。14基もの大規模なデータが得られた上猪ノ原遺跡は、どのように定住化が進んだのかを調べる研究材料になる」と話している。
町教委は3月30日まで、同町加納甲のきよたけ歴史館で、上猪ノ原遺跡周辺の遺跡群の発掘成果をまとめた企画展を開催中だ。無料。【佐藤恵二】
毎日新聞 2008年1月28日
340 :
福島:2008/01/31(木) 21:29:45
341 :
奈良:2008/01/31(木) 21:30:47
342 :
佐賀:2008/01/31(木) 21:31:35
343 :
奈良:2008/02/02(土) 17:43:18
344 :
京都府宇治市:2008/02/02(土) 17:47:16
345 :
山口県下関市:2008/02/02(土) 17:49:54
百済と大和交流のかけら 下関・仁馬山古墳 昨年出土の土器片を鑑定 4世紀後半、朝鮮半島製
山口県下関市延行の国史跡の前方後円墳「仁馬山(じんまやま)古墳」(4世紀後半)で昨年出土した土器が、朝鮮半島南西部で作られた百済(馬韓)土器であることが、福岡大学の武末純一教授(考古学)らの鑑定で分かった。
4世紀後半の古墳からこの土器が見つかることは極めて珍しく、同時期に始まった百済と大和政権との外交を解明する手掛かりになりそうだ。
土器は同古墳後円部の埋葬部付近の盗掘坑跡で見つかった。幅15センチ、長さ7センチ程度で、大型のかめの口縁部の一部。かめは口径48センチ、高さ60センチ程度あったと想定される。
一部を消したような特徴的な編み目模様、形状、土質などから、武末教授や韓国・高麗大学校考古環境研究所の金武重・調査研究室長により、新しくても4世紀後半の朝鮮半島製と確認された。
日本で作られた百済系統の土器は多く出土しているが、武末教授らは「この時期の半島の百済(馬韓)土器が、国内の古墳から出た例はないのではないか」という。
4世紀の朝鮮半島は、馬韓、辰韓、弁韓から高句麗、新羅、百済の「三国」時代への転換期。馬韓の中で頭角を現した百済は、367年に大和政権に使者を送って外交関係を樹立した。
ただ、同時期の交流はまだ未解明な部分が多く、古墳時代の日韓交流に詳しい岡山理科大学の亀田修一教授(考古学)は「朝鮮半島に近い響灘沿岸という地理を考えると、その豪族が大和政権の対百済外交に何らかの役割を果たした可能性は高い」と話している。
仁馬山古墳は響灘に面した台地上にあり全長75メートル、後円部の直径48メートル。史跡整備に向け、2005年度から同市教委が調査している。
=2008/02/02付 西日本新聞朝刊=
2008年02月02日00時05分
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/20080202/20080202_001.shtml
346 :
兵庫県川西市:2008/02/04(月) 00:07:57
(
>>291の続報)
加茂遺跡:新たに環濠3条確認、木棺の墓も 計7条、厳重な防御−−川西 /兵庫
川西市教委は1日、弥生時代中期で全国最大規模の集落とされる加茂遺跡(同市南花屋敷など)から、新たに3条の環濠(かんごう)と、同じ時期の木棺の墓が見つかった、と発表した。
遺跡からは、07年12月までに4条の環濠が見つかっており、計7条の環濠を持つ強固な遺跡であることが分かった。
新たに見つかった環濠は、幅2・8〜4メートル、深さ30〜50センチ。これまで知られていた環濠の外側にあった。集落の中心域を同心円状に取囲むような形になっており、防御の態勢がこれまで考えられていたより一層、厳重だったことになる。
また、今回見つかった環濠が途切れる部分に3基の墓があった。中には木棺が埋められていたとみられる。
この遺跡からはこれまで多くの木棺墓が見つかっているが、今回のものは穴が大きいほか、中心域への入り口に近いため、集落の有力者の墓であった可能性があるという。
説明会は9日(土)午後1時から。市文化財資料館(同市南花屋敷2)集合。同館(072・757・8624)。【池内敬芳】
〔阪神版〕
毎日新聞 2008年2月2日
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20080202ddlk28040083000c.html
347 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:21:04
ttp://www.asahi.com/culture/update/0207/OSK200802070103.html 最大級の石室持つ古墳確認 石舞台しのぐ規模 明日香村
2008年02月07日22時05分
奈良県明日香村にある真弓鑵子(まゆみかんす)塚古墳(6世紀中ごろ)の横穴式石室が、
蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(同村、7世紀初め)をしのぐ国内最大級の規模であることがわかった。
同村教委が7日、発表した。石室は1〜3トンの約400個の石をドーム状に組み上げ、
遺体を安置する中心部の玄室とは別に奥室を持つ国内では例のない構造だった。
史跡指定を目指す村教委が昨夏から調査していた。同古墳は直径約40メートルの円墳とみられ、
玄室(奥行き6.5メートル、幅4.4メートル、高さ4.7メートル)の北側は、
通路状の奥室(奥行き4メートル、幅2メートル、高さ約2メートル)だったことがわかった。
玄室の床面積(約28平方メートル)は石舞台古墳(同26平方メートル)より大きく、
欽明天皇陵とされる丸山古墳(橿原市、6世紀後半)の約34平方メートルに次ぎ2番目。
複数の死者を葬るために広く造ったとみられ、少なくとも家形石棺2基と木棺1基が置かれていたらしい。
また、金銅製の馬具や獅子の顔をかたどったベルトの金具など経済力を示す遺物も出土した。
大規模なドーム状石室は国内では珍しい。
1913年と62年に考古学者らが測量しただけで、本格的な調査がなされていなかった。
現地見学会は9日午前10時〜午後3時。
348 :
京都府京都市:2008/02/13(水) 02:00:01
法然上人絵図をデジタル保存 ネット公開を検討
2月5日22時26分配信 産経新聞
浄土宗(京都市東山区)は5日、宗祖・法然上人の生涯を描いた国宝「法然上人行状絵図」をデジタルデータ化して保存するアーカイブ事業を始めたと発表した。
今年5月までに完了させ、学術研究の資料として活用するほか、インターネットでの公開を検討するという。
絵図は総本山・知恩院が所蔵。後伏見上皇の勅命で知恩院第9世別当の舜昌(しゅんじょう)法印が徳治2(1307)年から十数年かけて編集、制作したとされる。
法然上人の生涯や法語などを極彩色の絵と文章で説明しており、全48巻。全長は548メートルに及ぶという。
約40年前に修復したが、顔料の剥落(はくらく)など劣化が進んでおり、佛教大学と共同で高精細デジタルカメラで撮影し、約20億画素の合成画像に仕上げる。
撮影には紫外線を除去した照明が使われ、ポジフィルムでの撮影も同時に行う。
佛教大学の中井真孝教授によると、これまでのデジタル化作業に伴い、描き加えたり塗り消した跡があることも新たに分かり、より詳細な分析も可能になるという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080205-00000970-san-soci 毎日新聞 2008年2月6日
法然上人行状絵図:国宝、デジタル画像で保存−−浄土宗・佛大 /京都
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20080206ddlk26040186000c.html
349 :
福岡県那珂川町:2008/02/13(水) 02:00:45
350 :
奈良県大和高田市:2008/02/13(水) 02:01:44
土庫長田遺跡:5世紀の集落遺跡から韓式系土器100点出土 /奈良
◇朝鮮半島との交流示す 渡来人、集団で居住
大和高田市にある古墳時代中期(5世紀)の集落遺跡、土庫長田遺跡で、朝鮮半島が源流の韓式系土器約100点が出土した。
半島との交流を示す韓式系土器の集落遺跡からの大量出土は珍しいといい、市教委は、半島から来た人々が定着し何代にもわたって生活してきたことを示す貴重な成果としている。
道路建設に伴い、07年1〜12月に約3000平方メートルを発掘。幅35〜40メートルの古代の河川沿いに、竪穴住居12棟、掘立柱建物1棟の集落遺構が見つかった。竪穴住居を埋めた土や河岸の近くから、捨てられた韓式系土器が見つかった。
韓式系土器は朝鮮半島の技術を用いた土器で、焼く前に粘土をたたく時に付く格子状やしま状の文様が付くのが特徴。形状から、半島西部の百済(くだら)や半島南部の伽耶(かや)地方の影響を受けたものという。
奈良盆地南西部の葛城地域には、5世紀にヤマト政権の外戚(がいせき)として栄えた葛城氏の本拠地があるとされる。
葛城氏の始祖とされる葛城襲津彦(そつひこ)の墓との説のある室宮山古墳や、葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群(いずれも御所市)でも、渡来系の土器が見つかっている。
今回の遺跡は葛城地域に近い。酒井清治・駒沢大教授は「100点もの韓式系土器の出土は、百済や伽耶などからの渡来人が集団で住んでいたからだろう。今回の遺跡は、大阪や葛城地方などを結ぶ交通路に当たる。
その地域を支配する豪族が地域を開発するために、技術を持つ渡来人を集団で住まわせていたのではないか」と話している。【大森顕浩】
毎日新聞 2008年2月10日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20080210ddlk29040346000c.html
351 :
東京大考古学研究室:2008/02/13(水) 02:12:09
弥生の始まり、なぜ誤った? 東大研究室が検証
2008年02月09日11時11分
弥生時代の始まりをめぐり、東京大考古学研究室の教員と学生たちが3年にわたり取り組んできた検証研究が報告書にまとまった。
加速器質量分析法(AMS)の測定データが示した、弥生の起源は紀元前10世紀までさかのぼるとの見解を考古学的に検証すると同時に、長い間、考古学者たちが早くとも前5世紀ごろと考えてきた背景に迫ろうとの作業だ。
「私たちはなぜ間違えていたのだろう」といった自問自答もかいま見える。
03年5月、弥生時代の始まりが約500年古くなると国立歴史民俗博物館の研究班が発表するのを聞きながら、東大の大貫静夫教授は納得ができたという。頭に浮かんだのは約40年前に北朝鮮で発表された報告書だった。
「AMSが初めて指摘したのではない。なぜ気づかなかったかを明らかにしない限り次の研究は始められない」と感じた。
弥生時代の始まりは、列島内では決められない。考古学的な手法では、まず一番古い弥生土器と同じ時期の朝鮮半島の土器を探す。
その土器と同じ時期の金属器を朝鮮で特定、その金属器と同時期の中国東北地方の金属器を見つけ、手がかりをつなげ中国の中心地の文物に結びつける。ここで初めて年代を記した文字にたどりつく。
最大の手がかりとされてきたのは遼寧式銅剣だ。朝鮮との間に位置する中国の遼寧地方で発達した銅剣の型式の変化をもとに時代を測る物差しが作られてきた。戦国の七雄の一つの燕が、遼寧に進出したのが前300年ごろと「史記」に記されている。
この動きが稲作などの弥生文化を日本にもたらす要因だったと考え、銅剣の型式変化とリンクさせ日本の弥生時代の始まりを考えてきた。
(↓に続く)
352 :
東京大考古学研究室:2008/02/13(水) 02:12:36
(
>>351の続き)
だが、1960年代に中国と北朝鮮が一帯で実施した共同調査で、遼寧西部での銅剣の登場はそれまでの見方より早かったという考えが示されていた。文革の混乱のため、北朝鮮からだけ発表された報告書の中にあった記述だ。
だが、この見解は日本の弥生時代研究には反映されなかった。遼寧西部での登場は古くても、遼寧東部に伝わるまでには時間がかかったはずだなどと解釈し、新たな研究で生まれた時間差を吸収してしまった。
遼寧での調査は昭和の初め、日本人の研究者も手がけ、土器や瓦、金属器などの出土品が東大の研究室に保管されていた。
今回、当時の出土品を大貫さんたちは丹念に点検し、現地調査も重ねた結果、歴博による年代観と必ずしも合致するものではないが、弥生時代の始まりだけでなく、北東アジア一帯の古代史が古くなる可能性が記された。
「大陸の年代から弥生時代の年代を決めるべきなのに、ある時から、弥生の年代が大陸の年代を決めるという本末転倒なことが一部で起きた。そのため史記も都合よく利用されてきた」と大貫さん。
「呪縛が解ければ、やっぱりそうだったんだ、と気づいた。その手がかりは、身近にあったのに」と検証作業を総括した。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200802090075.html
353 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 17:52:53
桶川市の諏訪野遺跡・県内で最大規模か 〜縄文期の環状集落 直径180メートル超す〜
桶川市川田谷の諏訪野遺跡が県内で最大規模の縄文時代の環状集落の可能性が高くなった。県埋蔵文化財調査事業団が十三日、発表した。
これまでに約六十軒の竪穴住居跡が見つかり、中央部に広場のような形が見つかった。今回の調査で判明した部分の住居跡の密集地は直径が百八十メートルを超えており、はっきりしている中では県内で最も大きいという。
集落跡からは、大量の縄文式土器や耳飾り、石器が出土した。縄文時代中期(約五千年前)の遺跡とみられ、土器の型式は、紋様の形状に特徴がある「加曽利EI」がほとんどだった。
この土器の型式は放射性同位体を使う放射性炭素年代測定による分析で、百年間ほどの短期間に作られたとされる。
直径約百七十五メートルとされる比企郡嵐山町の行事免遺跡では、出土した複数種類の土器から集落が長期間にわたって存在したらしいのと比べ、諏訪野遺跡の集落は短期間だったとみられるという。
発掘調査されていない部分からも遺物が見つかったことなどから円形の集落跡とみられ、全体で数百件の住居跡があると推定されている。
同遺跡の住居跡は当時の表土とみられる土の層から、赤土(関東ローム層)の床までの深さが約八十センチ近いものがあり、保存状態が良い。同事業団は「考古学的には情報量が多い」と、今後の調査と分析に期待をかけている。
この遺跡は建設予定の圏央道(首都圏中央連絡自動車道)の本線が通る位置。同事業団は十七日午前十時半からと午後一時半からの二回、見学会を発掘現場(川田谷本沢)で開く。
問い合わせは、諏訪野遺跡発掘調査事務所(TEL048・789・2250)へ。
ttp://www.saitama-np.co.jp/news02/14/09x.html
354 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 17:55:07
【三重】県内最大級の大型墓跡を確認 明和町の金剛坂遺跡
明和町金剛坂地区に広がる「金剛坂遺跡」の発掘調査を進めている明和町は13日、県内最大級とみられる弥生時代の方形周溝墓跡が、遺跡中央の調査区から見つかったと発表した。
周辺からは弥生時代などの墓約25基の跡も密集して出土し、同町は「地域でも重要な墓域だったと考えられる」としている。
墓跡は昨夏に始まった第7次調査の発掘現場で見つかった。南北に分かれる調査区域のうち、南調査区(約3300平方メートル)から弥生時代の方形周溝墓11基、土坑墓10基などが密集して確認された。
方形周溝墓の中には、溝の外縁部の一辺が約22メートルに及ぶ大型の墓もあり、同時期の方形周溝墓では県内最大級という。
方形周溝墓は、正方形に溝を掘って土を盛り上げる大型の墓で、地域の有力者を葬ったとみられている。
町斎宮跡課の中野敦夫文化財係長は「埋葬された人骨や副葬品などは見つかってはいないが、集落の首長など権力者の墓だった可能性もある」としている。
金剛坂遺跡は弥生時代から奈良時代までの遺構が確認されている複合遺跡で、広さは東西約170−350メートル、南北約850メートル。
明和町などが昭和45年から発掘調査を進めている。同町は17日午前10時から現地説明会を開く。問い合わせは明和町斎宮跡課=電0596(52)7126=へ。
ttp://www.chunichi.co.jp/article/mie/20080214/CK2008021402087251.html
熊本・玉名の両迫間日渡遺跡で県内最古級の水田跡確認 (08.02.08)【写真】
玉名市教委は7日、同市玉名の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡で、県内最古級の弥生時代前期(約2300年前)の水田跡を確認したと発表した。
同遺跡では2005年11月、今回の発見場所から東約200メートルで弥生時代後期(約1800年前)の水田跡や足跡などが見つかっている。
現場は九州新幹線・新玉名駅(仮称)の建設予定地近くで、発掘調査は駅前広場の整備に伴い、昨年4月に開始。
深さ約2・3メートルの地点で、木の杭(くい)(長さ50〜70センチ)約170本が長さ約7メートルにわたって約50センチ間隔で2列に並んで埋め込まれていた。
過去の発掘例から、畦は、杭を盛り土で覆って造られ、杭は盛り土が崩れるのを防ぐ役目があることがわかっている。市教委は、杭の並び方から畦があったと判断、水田跡と結論づけた。
杭が密集している部分では、人の重みで畦が沈み込まないように板を10枚程度敷くという工夫もしてあった。弥生前期の土器片が出土しており、時代を特定できた。
市教委文化課は「水田稲作文化の広がりの状況を知る上で貴重な発見だ」としている。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/kouko/802/ko_802_020801.htm
>>355こっちでも弥生時代前期(約2300年前)で同時期の水田跡
弥生前期の灌漑施設と水田跡出土 橿原市の萩之本遺跡
2008.2.14 20:46
奈良県橿原市の萩之本遺跡で、弥生時代前期(約2300年前)の精巧な灌漑(かんがい)施設や水田跡などが見つかり、県立橿原考古学研究所が14日、発表した。
約500メートル北の川西根成柿(ねなりがき)遺跡では、同時期の環濠(かんごう)集落や橋の跡も出土。稲作が中国大陸から伝わって間もないころから、高度な技術で耕作が行われていたことを示す貴重な資料となりそうだ。
灌漑施設跡は川岸に長さ約10メートルにわたって設けられ、長さ約1メートルのくいを数百本突き差した状態で見つかった。水の出口をくいでせき止める構造で、水を灌漑施設内にいったんためて水田に流すように工夫されていた。
近くでは、縦2.5メートル、横4メートルほどの水田跡約40枚が、規則正しく並んだ状態で出土。隣の水田に水が流れるよう、あぜ道の一部が切れていた。当時は、広い地面を水平に保つ技術がなかったため、小さな田を何枚も築いたとみられる。
一方、川西根成柿遺跡では集落を2〜3重に囲む環濠(幅約4メートル)が見つかり、集落は最大170メートルの規模と判明した。最も外側の環濠の底では柱を2本埋め込んだ橋跡も出土。集落の入り口と推定され、弥生前期の橋跡は全国的にも珍しいという。
同研究所は「稲作は、灌漑施設や栽培技術などがセットで大陸から伝わった可能性もある」としている。両遺跡の現地説明会は16日午後1時から。近鉄橿原神宮前駅から奈良交通バスで川西下車、西に徒歩約10分。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080214/acd0802142046004-n1.htm
>>355と
>>356は離れた場所で同時期の水田跡が見つかったけど
熊本県玉名市のほうは杭の列で、奈良県橿原市のほうは板の列
という違いがあるみたい。
358 :
357:2008/02/15(金) 01:36:29
359 :
357:2008/02/15(金) 01:47:11
360 :
愛知県蒲郡市:2008/02/15(金) 02:08:46
竹谷城直下に古墳石室 東海地方2例目
2008年2月13日
蒲郡市教育委員会が同市竹谷町で発掘調査している中世城郭の竹谷城跡から、1500年前の古墳の石室が見つかった。
大和朝廷時代の有力豪族のものとみられ、石室は15世紀の築城当時に解体され埋め戻されたらしい。東海地方で城の直下に古墳が見つかるのは1985年の岩崎城跡(日進市)に次いで2例目。
石室は長さ2.9メートル、幅0.9メートル、高さ約30センチ。床面に石が敷き詰められ、側面は石積みになっている。
中から金銅製耳管(耳飾り)、糸を通して首飾りに使う碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)、食物を盛る台の高坏(たかつき)、つぼが各1点ずつ見つかった。
出土品から、この石室は6世紀前半の古墳時代後期に造られた横穴式石室とみられる。石室の規模から「古墳は直径8メートル前後の円墳だったのでは」(市教委)という。
石室の四方の石積みの高さがそろい、竹谷城の柱穴がある周囲の地面の高さが石積みより高い位置にあるため、市博物館の小笠原久和学芸員(59)は「築城の際に屋根を含む石室の上部を切り取るように解体。
石室を土で埋めて平らに整地し、その上に竹谷城を建てたのでは」と推測する。
竹谷城は徳川家康を生んだ松平宗家(現豊田市)の居館で、1467年前後に建てられた。城跡では生活道路に使われたと推測される石敷きの空堀が全国で初めて見つかっている。市教委は今回の石室周辺を「竹谷城古墳」と名付ける予定。
(原誠司)
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20080213/CK2008021302086999.html
361 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 02:10:02
>>305-306 >この一角には昭和三十年代から四十年代の踏査で二つの古墳があるとされていたが、
>今回の調査で古墳ではなく山城の一部であることが分かった。
古墳→城や武士の居館になるケースは多いから(
>>360もそう)
古墳ではないと決め付けないで慎重に判断してほしいな。
>>356下段の川西根成柿遺跡について詳報
弥生の環濠集落跡、自給自足の生活浮き彫りに 川西根成柿遺跡
2008.2.15 04:09
弥生時代前期(約2300年前)の環濠(かんごう)集落跡が見つかり、奈良県立橿原考古学研究所が14日、発表した橿原・大和高田市境の川西根成柿(ねなりがき)遺跡では、集落中心部が溝によって区画され、
住居や倉庫などが各ゾーンに分かれていた可能性が浮上した。狩猟採集の移動生活中心の縄文時代が終わり、弥生時代が幕を開けて間もないころから、自給自足の定住生活に変わった弥生人の姿が生き生きと浮かび上がった。
同遺跡は、橿原市川西町と大和高田市根成柿にまたがる8000平方メートルの広範囲にわたる。今回の発見は、弥生時代の集落の様子が一目で分かる成果となった。
集落中心部では住居跡とみられる柱穴を多数検出。また、木の実がたくさん見つかったり、土器作り用の粘土の塊が出土した場所が、溝を隔てて確認されたことから、倉庫や土器工房スペースが分かれていた可能性も出てきた。
溝では焼けた木も大量に見つかり、弥生人が暖をとったり調理で使ったまきが捨てられた痕跡とみられるという。
一方、集落跡南端の環濠で見つかった橋の跡のすぐ南側では、橋が外から見えないように、長さ約8メートルのL字形の柵(さく)跡を検出。この時期のものとしては全国的にも珍しい橋跡や柵跡は、集落と外部を明確に遮断した状況を示していた。
調査担当の川部浩司調査員は「弥生時代前期からすでに、集落内で鍬(くわ)や土器などを作りながら米作りに励み、自給自足の生活をしていた様子が分かる」と指摘している。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/080215/nar0802150409003-n1.htm
関連
>>323 天皇、皇族の陵墓に初の立ち入り調査 奈良・神功皇后陵【写真】
2008.2.15 22:40
宮内庁は15日、日本考古学協会に許可を通知していた奈良市山陵(みささぎ)町の神功(じんぐう)皇后陵の立ち入り調査について、今月22日に行うことを認めたと発表した。
天皇や皇族などの陵墓について、学会側の要望を受けて立ち入り調査が実施される初めてのケースとなる。
古墳時代のものとされる神功皇后陵は、全長約270メートルの前方後円墳。宮内庁によると、墳丘は前方部が3段、後円部は4段に分かれている。
調査では、同協会など16学会の研究者最大16人が、墳丘各1段目の平らな部分まで入ることができる。発掘はできないが、撮影は行える。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080215/acd0802152240006-n1.htm
364 :
京都府長岡京市:2008/02/16(土) 03:36:05
恵解山古墳:前方部東側でも埴輪列−−長岡京 /京都
古墳時代中期(5世紀中ごろ)の前方後円墳で乙訓地域最大の「恵解山(いげのやま)古墳」(国史跡、長岡京市勝竜寺)を調査している長岡京市埋蔵文化財センターは14日、前方部東側で新たな埴輪(はにわ)列などが見つかったと発表した。
04年に前方部西側から見つかった埴輪列と対になるもので、同センターは「古墳の規模と形状をほぼ特定する発見」としている。
同市教委が古墳周辺に計画している史跡公園(13年完成見込み)の整備に先立つ調査。同古墳は全長約130メートルの3段構造。1980年に前方部から多数の武器を収めた施設が見つかり注目されたが、各段ごとの正確な規模や形状は未確定だった。
今回の埴輪列は中段部分に並べられており、周辺からはくわなどの農工具が十数点見つかった。同センターは「武器以外の埋納施設があった可能性もある」と見ている。前方部と後円部をつなぐくびれ部分の葺(ふ)き石も見つかった。
現地説明会は17日午前10時〜正午。同センター(075・955・3622)。【珍田礼一郎】
毎日新聞 2008年2月15日
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20080215ddlk26040332000c.html
365 :
東京都府中市:2008/02/18(月) 03:16:21
武蔵国府:平安の国司住居跡発見 運河とみられる大きな溝も−−発掘調査 /東京
◇流通活動に強く関与か−−府中で特別展開催中
JR府中本町駅西側の府中市本町2で行われている武蔵国府の発掘調査で、平安時代の国司の住居跡とみられる一角が発見された。運河とみられる大きな溝も近くで見つかり、国司が流通活動に強く関与していたことがうかがえるという。
これら最新の調査結果を紹介する特別展「発掘!府中の遺跡」が府中市郷土の森博物館(南町6)で開かれている。
府中市には9世紀の平安時代前期に武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県東部)の国府が置かれた。全権を持つ中央官僚として守(かみ)などの国司が平安京から派遣され、江戸幕府が開かれるまで関東の中心都市だったという。
市教育委員会は70年代から市街化が進む市内をぬうように発掘を続け、これまで約1400カ所を調査している。
06年度に調査した本町2では、巨大な邸宅を示す「大館(おおだち)」と書かれた土器が出土。国司住居跡の可能性が高いという。また近くで、新たに東西約70メートルの溝が見つかった。
土砂の鑑定から人工的に造られたもので、水が流れていたことも判明、運河と考えられるという。
博物館の深澤靖幸学芸員は「国司が流通にも関与し、政治だけでなく経済的にも地域の中心的存在だった可能性を示している」と話す。特別展では溝の写真や土器の一部約100点を展示している。
特別展は3月23日まで(午前9時〜午後5時)、2月中は無休。入場料は大人200円、中学生以下100円。問い合わせは博物館(042・368・7921)。【伊藤直孝】
〔多摩版〕
毎日新聞 2008年2月17日
http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20080217ddlk13040284000c.html
366 :
京都府向日市:2008/02/18(月) 03:18:52
元稲荷古墳:葺き石と礫敷確認 古墳のくびれ部−−向日 /京都
古墳時代前期(3世紀後半)の前方後方墳「元稲荷古墳」(向日市向日町北山)を調査している同市埋蔵文化財センターは15日、前方部と後方部をつなぐ東側くびれ部分から、葺(ふ)き石と礫敷(れきじき)を発見した、と発表した。
通常、葺き石と礫敷の境目にある基底石がなく、礫敷の層が数十センチと厚いことから、同センターは「礫敷が基底石の役割を担っている可能性があり珍しい」としている。
1960年から断続的に発掘調査を行っており、今回が4回目。また、後方部東側から葺き石と基底石が、東側くびれ部分から壺形埴輪(つぼがたはにわ)の破片約10点も出土した。
現地説明会は16日午後2時から。同センター(075・931・3841)。【珍田礼一郎】
毎日新聞 2008年2月16日
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20080216ddlk26040553000c.html
367 :
滋賀県・安土町、東近江市:2008/02/18(月) 04:13:46
関連
>>214 安土城の石垣沿い通路は城内だった 2カ所目の「虎口」発掘
2008年2月9日【写真】
織田信長が築いた安土城(安土町、東近江市)の城跡南側の石垣から、城郭の出入り口「虎口」の遺構が新たに確認され、県安土城郭調査研究所が8日、発表した。
近くで昨秋見つかった虎口と同様、防御性は低く、研究所は「石垣に沿った通路は、家臣らが使った城内路であったことを裏付ける発見」としている。
研究所によると、虎口の遺構は幅約4・5メートル、奥行きは約4メートル。幅約90センチの石段が3段あり、大手門と西側の百々橋口のほぼ中間に位置している。東側に幅約30センチの石組み側溝があり、南側通路の側溝につながっていたとみられる。
虎口は廃城後、畑になっていた場所の土留め石を取り除き、築城時の石積みを再現する工事の過程で出土した。昨秋、約23・5メートル西で見つかった虎口とほぼ同規模だった。
これら2つの虎口が確認されるまでは、石垣が城域の南端で、石垣沿いの通路(長さ約400メートル、幅約6メートル)は商人や庶民らが通行した城外路だったとみられていた。
ところが、これらの虎口は礎石の規模などから敵の侵入を防ぐ「枡(ます)形虎口」ような重厚な造りではないことが判明した。
研究所は「通路は武士や家臣らが使った城内路だった」と結論付けた上で、近世城郭と同様、内堀が外郭であったとみている。
(松瀬晴行)
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20080209/CK2008020902086160.html
368 :
福岡県・うきは市:2008/02/18(月) 04:17:19
うきはの造成地、円墳45基確認 「磐井の乱」豪族との関連は?【写真】
うきは市浮羽町三春の三春工業団地造成に伴う市教委の発掘調査で、縄文時代後期(3500年前)や弥生時代中期(2000年前)ごろの集落跡、古墳時代後期(6世紀ごろ)とみられる古墳が見つかった。
竪穴住居跡28か所、円墳45基に上り、古墳時代に「磐井の乱」(527年)を起こした北部九州の豪族「筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)」との関連を指摘する専門家もおり、集落形成の変遷をたどるうえで貴重な史料となりそうだ。
市教委は昨年6月から予定地(12ヘクタール)内の3ヘクタールを調査。竪穴住居跡のうち縄文後期とみられる8か所は円形で直径約6メートル。
弥生中期ごろの20か所は長方形で縦約7〜2メートル、横約5〜2メートル。それぞれ炉跡があり、石斧(せきふ)や石包丁などの石器、土器なども出土した。
円墳は直径10メートル前後で、横穴式石室内は赤色顔料で朱塗りした跡があった。鉄剣、切子玉、須恵器なども出土した。
現地を視察した元第一経済大教授の田中正日子(まさひこ)さん(72)(日本古代史)は「筑後国風土記の逸文には、磐井が豊前に敗走したとの記述がある。
うきは市付近を通ったとも推測でき、同時代の古墳群が発見されたことで、さらに調査すれば、磐井と関連する新発見があるかも知れない」と話している。
市によると、工業団地には自動車関連企業を誘致したい考えで、発掘調査は今月中ごろ終え、下旬には本格着工し、6月の完成を目指す。
(2008年2月16日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukuoka/news/20080215-OYT8T00660.htm
369 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:12:29
370 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:13:42
371 :
香川県坂出市:2008/02/22(金) 01:22:00
372 :
三重県松阪市:2008/02/22(金) 01:23:33
373 :
岡山:2008/02/22(金) 01:25:47
374 :
奈良県奈良市:2008/02/22(金) 23:42:14
また「見るだけ」かよ。
もうとっくの昔に中味は盗掘されてるってのに。
まぁ、中味暴いてキトラみたいに破壊するのは避けたいがな。
376 :
大阪府枚方市:2008/02/24(日) 01:30:18
淀川の砲台「楠葉台場跡」で堀の一部が出土【写真】
2008.2.23 22:21
幕末の動乱期に淀川沿いに築かれ、河川では全国で唯一遺構の残る砲台跡「楠葉台場跡」(大阪府枚方市)で堀の一部が見つかり、同市社会教育課などが23日、現地説明会を開いた。
台場全体の詳細な設計図が近年、京都府立総合資料館で発見されており、同市社会教育課は「設計図の正確さが証明された」としている。
設計図によると、堀跡は幅約11メートルで、今回の調査では8メートル分を検出。堀の深さは不明だが、堀の底に近い部分からは石垣も見つかっている。
台場は幕末、外国船からの国防のため、江戸湾を守る品川台場(東京都港区)など全国各地で築かれた。河川沿いに築かれたものは珍しく、遺構が残されているものは楠葉台場だけだという。
楠葉台場は幕末、京都防衛の責任者として幕府から派遣された会津藩主・松平容保が提案。幕臣の勝海舟が設計責任者として築かれた。実際には敵対する長州藩が京都に入ることを防ぐ関所としても利用されたという。
同市社会教育課の竹原伸仁さん(41)は「全国で唯一残された貴重な遺産。今後の研究で実像をより正確に明らかにしていきたい」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080223/acd0802232221007-n1.htm
377 :
山形県大石田町:2008/02/26(火) 00:29:46
378 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 20:46:08
379 :
淡路島:2008/02/29(金) 00:06:12
弥生後期に鉄器鍛造か 竪穴住居に焼け跡を確認 淡路島・垣内遺跡
2008.2.28 03:04
淡路市黒谷にある弥生時代後期の集落跡「垣内(かいと)遺跡」で、鉄器を鍛造したとみられる焼け跡が見つかり、淡路市教育委員会が27日発表した。同時期の鉄器鍛造が確認されたのは淡路島内で初めてという。
ほ場整備事業を前に、昨年5月から同遺跡のうち約1万100平方メートルを発掘調査。竪穴住居跡6カ所と掘立柱建物跡1カ所が確認された。
竪穴住居跡は4カ所が元の形状に近い円形(直径6メートル〜10メートル)で、一つは弥生時代後期前半(西暦50〜120年)のもの。
鉄の鏃(やじり)など鉄器5点が出土し、鉄製品を研ぐ砥(と)石なども見つかった。床面の一部に火で焼けた跡もあり、同市教委は「鉄器を作っていた住居跡の可能性がある」としている。
他の竪穴住居跡からはサヌカイトと呼ばれる石を割った砕片と、作業用の台石も発見。「同じ集落内で石器から鉄器への移り変わりがあったことを示す貴重な資料」(同市教委)としている。
現地説明会は3月1日午後1時半〜3時(雨天中止)。問い合わせは同市教委埋蔵文化財係((電)0799・60・2071)。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/hyogo/080228/hyg0802280306000-n1.htm
380 :
兵庫・淡路島:2008/02/29(金) 17:11:03
>>379詳報
県内最古の鉄器工房跡
2008年02月28日 【写真】
淡路市教委は27日、同市黒谷の垣内(かい・と)遺跡から、弥生時代後期前半(西暦50〜120年ごろ)に作られた石器や鉄器の工房跡を含む竪穴住居跡6棟が見つかったと発表した
。同時代の鉄器工房跡の出土は島内では初めて。佐用町の本位田権現谷A遺跡から見つかった同時代後期後半の鉄器工房跡より古く、出土例では県内最古という。
垣内遺跡は01〜04年度の分布調査で発見された。海岸線から約3キロ内陸にあり、瀬戸内海を見渡せる標高約200メートルの丘の上にある。弥生や中世の土器が多数出土し、淡路島北部で約200カ所見つかっている高地性集落の一つとされる。
発掘調査は周辺の圃場(ほ・じょう)整備に伴い、約1万平方メートルを対象に昨年5月から今年3月中旬まで続けられている。
見つかった竪穴住居跡6棟のうち1棟(直径7メートル)は、原石の破片が多数出土し、石を割る作業に使われた台石やたたき石も出たことから、石器を作る工房跡と見られる。
隣接する1棟(直径9メートル)は、鉄製の矢じりなど鉄器5点、砥石(と・いし)2点、たたき石6点が出土したほか、土が赤茶色に焼けた跡が床面に5カ所見つかったことから、鉄器の製作や修理をする工房跡と見られる。
二つの工房跡から出土した土器の特徴から、石器工房の廃棄後、鉄器工房が作られたという。
別の1棟からは、大阪・河内地方から搬入されたらしい線刻絵画土器の破片も見つかった。
奈良県立橿原考古学研究所の森岡秀人・共同研究員は「垣内遺跡は九州北部から近畿へ鉄器が伝来するルート上にあり、近畿に先駆けて鉄器が製作されていたと見られる。高地性遺跡には多様な役割があったこともうかがえる」という。
市教委の担当者は「石器から鉄器へ道具が移り変わっていった様子が分かる貴重な遺跡といえる」と話している。
垣内遺跡では3月1日午後1時半〜3時、現地説明会を開く。雨天中止。問い合わせは市教委社会教育課(0799・64・2520)へ。
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000000802280003
381 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 00:07:28
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080229-OYT1T00772.htm 「九州型」「大阪湾型」銅戈、同時に出土…長野・柳沢遺跡
長野県中野市の柳沢遺跡の発掘調査を進めてきた県埋蔵文化財センターは29日、
同遺跡から、形状の異なる2種類の「銅戈(か)」が出土したと発表した。
銅戈は弥生時代の祭器で、「九州型」と「大阪湾型」が知られているが、
同時に見つかったのは国内で初めてという。
同センターの上田典男調査課長は「九州や畿内の共同体から長野への人の移動を示す資料だ。
銅戈の分布の研究にも大きな影響を与える」と話している。
出土したのは2種類7本(22〜36センチ)。1本は、2本の溝が「V」の字形に先端でくっついた九州型。
残りの6本は、「ハ」の字形に先端で離れている大阪湾型。
九州型が、九州から広島、高知県までの範囲で出土する一方、
大阪湾型は近畿地方で出土し、同時に出土した例はないという。
また、同時代の祭器「銅鐸(たく)」1個も確認された。銅戈と一緒に出土するのは東日本で初という。
いずれも、紀元前2世紀ごろに作られ、紀元前後に埋められたとみられる。
銅戈と銅鐸は15日から5月11日まで県立歴史館(長野県千曲市)で一般公開される。
(2008年2月29日23時14分 読売新聞)
ttp://www.yomiuri.co.jp/photo/20080229-1391704-1-L.jpg 柳沢遺跡で出土した「大阪湾型」の銅戈(奥の6本)と「九州型」の銅戈(手前左)、銅鐸(手前右)
382 :
長野県中野市:2008/03/01(土) 02:54:29
383 :
奈良県橿原市:2008/03/01(土) 03:07:18
奈良・橿原遺跡
もう一つの蘇我蝦夷邸…橿考研研究員指摘【写真・地図】
出土瓦、ゆかりの寺と一致
大化改新で滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷(えみし)(?〜645)の邸宅として日本書紀に記されている「畝傍(うねび)の家」が、奈良県橿原市の橿原遺跡付近にあった可能性が高いことが、県立橿原考古学研究所の
清水昭博・主任研究員の研究でわかった。同遺跡で約70年前に出土した7世紀前半の瓦が、蘇我氏ゆかりの同県明日香村の豊浦(とゆら)寺跡で出土した瓦と一致した。
近年の調査で同村の甘樫丘東麓(とうろく)遺跡にあった可能性が高まった蝦夷・入鹿父子の邸宅とともに、絶頂期の蘇我氏の実像を探る重要な手がかりになる。
瓦は、軒先を飾る軒丸瓦(直径17センチ)の一部で、1938〜40年、橿原神宮外苑の工事に伴う発掘調査で、畝傍山の東約600メートルの井戸跡から出土。
清水主任研究員が、瓦の文様を調査した結果、蘇我蝦夷の父、馬子が建立した豊浦寺跡付近で1977年に出土した瓦と、花弁の形や模様がそっくりで、同じ型から作られたと判断した。京都府宇治市にあった瓦窯で生産されたとみられる。
日本書紀によると、蝦夷の邸宅については、「畝傍の家」「甘樫丘の上の宮門(みかど)の家」「豊浦の家」の記述がある。
このうち、「畝傍の家」は642年に百済の使節をもてなし、大化改新直前には「池を掘って城とし、武器庫に矢を積み、50人の兵士が出入りした」と記されている。場所は畝傍山の東とされ、橿原遺跡は位置的にも一致する。
当時、瓦は寺院にしか使われていないが、清水主任研究員は「蘇我氏は仏教とのかかわりが強く、蝦夷の邸宅に瓦ぶきの仏堂などがあった可能性がある」としている。
瓦片は、県立橿原考古学研究所付属博物館の特別陳列「藤原京の実態」で、3月23日まで展示している。
森郁夫・帝塚山大教授(歴史考古学)の話「瓦の文様が同じだったということは、強いつながりを感じる。畝傍山の東側は蘇我氏の勢力圏で、邸宅があったことは十分考えられる」
(2008年02月28日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80228a.htm
384 :
東京都・千代田、新宿、港の3区:2008/03/01(土) 03:12:40
江戸城外堀:保存復元、完成400年を迎える2036年目標に整備 /東京
◇千代田、新宿、港の3区が委嘱 計画策定委が報告書
◇飯田橋−赤坂4キロ、都市開発などで残る水面2.5キロ
国の史跡指定されている江戸城の外堀を保存・復元するため、千代田、新宿、港の3区の委嘱を受けて保存計画を検討してきた「保存管理計画策定委員会」(委員長・新谷洋二東大名誉教授)が27日、千代田区の石川雅己区長に報告書を提出した。
外堀の完成から400年を迎える2036年を目標に、千代田区飯田橋から港区赤坂まで、3区にまたがる4キロの外堀を整備。歴史的価値を見直すとともに、教育、文化、観光資源として活用する。【杉本修作】
江戸時代初期に築城された江戸城は、大阪城、小田原城を超える日本最大の外堀(延長約14キロ)が備えられた。街を覆う城塞(じょうさい)としては世界でも最大規模で、歴史的価値も高いという。
しかし、近・現代になると、都市開発や関東大震災などの影響で多くが地中に。こうした中、JR飯田橋駅近くの「牛込門」から、東京メトロ永田町駅近くの「赤坂門」までの西方4キロ、約38ヘクタールが1956年、国の史跡指定を受け、保存や整備の必要性が高まった。
3区は、05年ごろから本格的に整備にむけた協議を開始。06年4月には、歴史、考古学、土木工学、都市計画などの有識者でつくる「保存管理計画策定委員会」を発足させ、2年間かけて具体的な整備計画をまとめた。
4キロの外堀のうち、水面が残っているのは約2・5キロで、残りは道路や建物、公園の下に埋まっている。
現存する堀は排水が滞り、汚水がたまっているほか、草木が雑多に生えて景観も悪い。計画では、老朽化した堀の修繕や緑化を進めて景観を整備し、水質改善に向けて東京都などと協議する。
一方、既に埋まっている堀については▽地上の施設の移転により、発掘などで復元を目指す▽表示などで、外堀跡を伝える−−などの整備を検討。また、周囲に資料館や案内板などをつくり、お堀の歴史的価値を伝える。
3区は今後、計画に沿って具体的な整備を進める。新谷委員長は「外堀を整備して、環境、歴史、憩いの場としての価値を住民に知ってもらいたい」と語った。
〔都内版〕
毎日新聞 2008年2月28日
http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20080228ddlk13040530000c.html
385 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 03:31:24
386 :
熊本・玉名市:2008/03/02(日) 23:21:30
387 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 02:07:51
シンポジウム:邪馬台国は畿内?九州? 両説の専門家が激論−−天神 /福岡
◇歴史ファン必見
邪馬台国はどこにあったのか? 畿内説と九州説それぞれの専門家が議論するシンポジウム「九州VS畿内」(毎日新聞社など後援)が2日、中央区天神の都久志会館であり、歴史ファンら約600人が熱心に聴き入った。【結城かほる】
邪馬台国をテーマにした県の「福岡歴史ロマン発信事業」(07〜09年度)の一環。県のあるセミナーのアンケートでは60%が九州説を支持しているが、有力視されているのは畿内説で、事業実行委員会が第1弾として両説をまず知ることをテーマに開いた。
九州説は、高島忠平・佐賀女子短大学長が墓の遺跡から持論を展開。巫女(みこ)が王と政治を担い社会的地位を高めていく様子は、北部九州の遺跡でしか見られず「巫女の王が成立する素地がある九州でなければ、卑弥呼のような王は考えられない」と話した。
一方、畿内説は水野正好・奈良大名誉教授が「隋書(ずいしょ)」を根拠に説明。隋書に邪馬台国と大和を同じとする記述があり、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の位置も、方角を読み替えることでつじつまが合うことを指摘した。
2人の意見が一致したのは「何が発見されれば論争は決着するか」で、魏から卑弥呼に送られた書状に付着した特殊な泥で作られた封かん「封泥(ふうでい)」のみ。この後のシンポジウムでは、互いが意見をたたかわせる度に、会場から拍手や歓声があがった。
〔福岡都市圏版〕
毎日新聞 2008年3月3日
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20080303ddlk40040147000c.html
388 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 05:00:39
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
390 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 03:22:21
391 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 03:28:47
392 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 03:39:20
393 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 03:42:57
394 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 03:45:27
395 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 19:54:51
396 :
奈良県桜井市:2008/03/05(水) 19:57:53
出現期古墳に2タイプ 前方部の長さに違い
2008年3月5日 19時21分
前方後円墳発祥の地とされる奈良県桜井市の纒向古墳群にある勝山、矢塚、東田大塚の3古墳(いずれも3世紀代)の発掘調査で、墳丘の詳しい形状などが分かり、県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会が5日、発表した。
勝山古墳などは前方後円墳の原型の「纒向型」と呼ばれ、後円部の直径が前方部の長さの約2倍になるのが特徴だが、勝山と東田大塚には当てはまらないことが、ほぼ確実になった。
前方部の長短で2つのタイプに分かれ、前方後円墳の出現や発展過程を解明する資料となりそうだ。同研究所の寺沢薫調査研究部長は「古墳のデータがそろってきており、纒向型の位置付けを見直す段階にきた」と話している。
古墳群は邪馬台国の候補地・纒向遺跡内にあり、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(3世紀後半)など出現期の前方後円墳6基が集中。箸墓を除く5基が纒向型とみられていた。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2008030501000754.html
398 :
奈良県桜井市:2008/03/06(木) 15:11:09
399 :
奈良県桜井市:2008/03/06(木) 15:32:12
401 :
奈良県桜井市:2008/03/07(金) 18:08:52
>>396>>398 >>399 この記事では前方部の比率の違いについて両方の可能性を書いてる。
奈良・纒向遺跡
3古墳「前方部」異なる比率【写真・図】
初期大和政権が成立した奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡にある勝山(3世紀初め)、矢塚(同中ごろ)、東田(ひがいだ)大塚(同後半)の3古墳について、同県立橿原考古学研究所と同市教委は5日、規模や形状を発表した。
前方後円墳としては出現期にあたり、前方部が後円部に比較して小さく、比率もばらばら。「卑弥呼の墓」説のある同遺跡の箸墓古墳(3世紀後半、全長280メートル)などの大型前方後円墳に発展していく過程を知る手がかりになりそうだ。
国史跡指定に向けた範囲確認の発掘調査。いずれの古墳も前方部が削られるなどし、勝山古墳は全長115メートル程度で、前方部と後円部の比率が2対3、築造当初は末広がりの形だったとわかった。
矢塚古墳は後円部の直径が約65メートルと、全体(約93メートル)の約3分の2を占め、ずんぐりとした形。東田大塚古墳は全長120メートル程度で全体的に細長いなどの特徴が判明した。
箸墓古墳の前方部と後円部の長さの比率(約3対4)に比べ、3古墳の前方部はいずれも割合が小さく、後円部の盛り上がりに比べて低く造られていた。
前方部の比率がそれぞれ異なることから、時代と共に比率が変化したか、当初から異なる比率の古墳が併存していた可能性があり、
寺沢薫・同研究所調査研究部長は「土器や古墳の形をさらに調べ、時代や規模を絞り込むことで、前方後円墳の変遷が見えてくるだろう」と話している。
8日午後1時から、桜井市民会館ホールで調査成果が報告される。
(2008年03月06日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80306a.htm
402 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 21:29:57
403 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 21:30:34
404 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 21:32:09
405 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 21:32:53
406 :
福岡県大刀洗町:2008/03/07(金) 21:35:41
407 :
神奈川県伊勢原市:2008/03/07(金) 21:51:14
道灌最期の地か 伊勢原・丸山遺跡
主君の館跡有力 巨大な遺構発見【写真】
江戸城を築いたことで有名な室町時代の武将、太田道灌(1432〜86)の最期の地とされる主君・上杉定正の館跡とみられる遺構が、伊勢原市教育委員会の発掘調査で見つかった。
道灌は、相模国守護・扇谷上杉家の家宰で、文武に優れた武将として活躍。道灌は、晩年、主君に謀反を疑われ、館に呼ばれて謀殺されたと伝えられていたが、その場所がどこかは謎だった。同市教委は8日に開く見学会で経緯を説明する。
見つかったのは、同市下糟屋の「丸山遺跡」の発掘調査現場。市教委によると、2月初めから始まった調査で先週、幅約16メートル、深さ7・5メートルの巨大な堀跡が約13メートルにわたって出現。
構造や周辺の土質から15〜16世紀のものとみられ、約400メートル四方の遺跡全体を囲むように広がっている可能性がある。同市教委は「当時の最高権力者だった上杉家の館に違いない」としている。
道灌は、室町幕府と敵対した古河公方などとの戦いのため、武蔵国に進出、江戸城を築いたことで知られる。連戦連勝の知謀で、道灌の力が強くなりすぎるのを恐れた主君、定正に屋敷に招かれ、暗殺されたとされる。
これまで相模国などに勢力を誇った上杉氏の館は、丸山遺跡の約2・5キロ西北西の上粕屋地区の高台にあったとする説が有力だった。館の堀として使える谷があり、近くに道灌の首塚があることなどが根拠だった。
丸山遺跡には、鎌倉幕府の御家人の糟屋左衛門尉有季(さえもんのじょうありすえ)の館があったとされてきたが、今回、大規模な堀跡が見つかったことで、上杉氏の館である可能性が高まった。
1985年には、別の上杉氏の館跡から見つかったのと同じ文様が入った「かわらけ」も出土している。
中世の築城に詳しい石丸煕・東海大名誉教授(68)は、「戦国時代の城の堀に匹敵し、当時の守護の政庁(定正の館)があったと考えられる。道灌はここで殺された可能性が高い」と話している。
見学会は8日午後1時。問い合わせは同市教委文化財課(0463・94・4711、内線5216)へ。
(2008年3月7日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagawa/news/20080307-OYT8T00116.htm
408 :
三重県鈴鹿市:2008/03/08(土) 21:20:11
弥生時代の遺跡発掘 鈴鹿市考古博物館【写真】
2008年3月8日
鈴鹿市岸岡町の岸岡山で市考古博物館が進めていた発掘調査で、弥生時代の大規模な集落跡が出土した。付近は有数の住宅団地だが、約1800年前にも山の南斜面に弥生人の住まいが立ち並んでいた。現地説明会を22日に開く。
民間企業の宅地開発に伴い、昨年11月から約3500平方メートルを調べると、一辺3−6メートルの正方形をした43棟の竪穴住居跡が出てきた。
「足の踏み場もないくらいの建物跡」(同博物館)で、ほとんどが弥生後期のもの。建て替えたり、住居を広げたりした跡もあった。
この遺跡を含む開発をめぐっては、地元のひばりが丘自治会が昨年10月、900人余りの署名を集め、市に「反対」を要望した。市は「住民の意見として受け止めた」(市都市計画課)としているが、事業者には11月7日に開発許可を出した。
現地説明会後、「出土物は博物館で保管し、住居跡は取り壊される見通し」(同博物館)。説明会は午前10時から。付近に駐車場はないため、同博物館は参加者に近鉄千代崎駅からの徒歩(約700メートル)を薦めている。
問い合わせは同博物館=電059(374)1994=へ。
(酒井直樹)
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20080308/CK2008030802093506.html
この前ブックオフで本を買ったところ、ほんの中から九戸城の調査中に
人骨が見つかり、秀吉による城にいた人間が撫で斬りにされたという
記述を裏付けられたという新聞記事のスクラップが出てきたw
410 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 10:27:52
ttp://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20080310-333627.html 明石大佐のライフル銃が靖国神社に寄贈
日露戦争(1904−05年)中に帝政ロシアで革命を起こすため日本陸軍の明石元二郎大佐が
欧州で大量調達したライフル銃の1丁が、このほどフィンランド中部のヤコブスタード市立歴史博物館から、
靖国神社の戦史博物館「遊就館」に寄贈されることになった。
欧州でロシアに対する情報収集や謀略活動に奔走していた明石大佐は、
1905年1月にサンクトペテルブルクでロシア革命の発端となった「血の日曜日事件」が起きると、
対ロ戦争を有利に運ぶためロシアで反政府派の武装蜂起支援を計画。
約1万5000丁のスイス製ライフル銃や拳銃2500丁、弾薬を購入した。
武器をのせた汽船ジョン・グラフトン号は同年9月、当時ロシア領だった
フィンランドのヤコブスタード沖で約1000丁のライフル銃などを同国の独立派に渡した。
さらにロシアの革命組織にも届けようとしたが、座礁してロシア当局に発見されたため船を爆破した。
結局、フィンランドで蜂起はなく、銃は17年の独立後に起きた内戦に使われた。
市立博物館は12丁を所蔵するが、日露戦争を研究する
稲葉千晴名城大教授の仲介で寄贈が決まった。遊就館の日露戦争コーナーに展示される。
[2008年3月10日9時53分]
411 :
誘導:2008/03/10(月) 16:07:29
412 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:31:48
413 :
大阪府岸和田市:2008/03/11(火) 00:36:47
弥生時代の環濠集落発見か
遺跡の発掘調査で、弥生時代の集落から見つかる遺構として竪穴式住居や土坑(どこう)、溝などが挙げられる。大阪府文化財センターが昨年十一月から行ってきた「下池田遺跡」(岸和田市下池田町)の発掘調査でもそうした遺構が見つかり、このほど現地公開された(写真)。
ここから約四キロ北の和泉市に、弥生時代の拠点集落史跡として有名な池上曽根遺跡がある。下池田遺跡は、それに次ぐ大規模な集落として注目されている。
下池田遺跡では、三十年ほど前から小学校建設などに伴う発掘調査が行われている。これまで、弥生時代中期から後期(約二千年前)の住居跡、円形に溝が巡る墓「円形周溝墓」、たくさんの土器が入る溝、井戸や川といった遺構が見つかっている。
今回の発掘調査は、府営岸和田下池田住宅の建て替えに先立って行われたもの。
新たに見つかったのは古墳時代の溝や井戸、弥生時代の住居跡三棟、同時代の土器が数多く入る溝、それに土器を利用した棺(ひつぎ)「土器棺」が二つだ。同時に、弥生時代の石器や木製農耕具、古墳時代に使われていた土師(はじ)器や須恵器も見つかった。
こうした遺物について同センターの職員は「集落が別の場所に引っ越しする際に、身軽になるために捨てた“家財道具”と考える人もいる」と話す。
遺構は基本的に新しいものによってつぶされる。今回の調査でも、遺跡の大部分が近代の水田や昭和初期に行われていたれんが用粘土の採掘によって削り取られていた。
また、土器の数多く入った溝を境として、住居跡などの遺構が集中する区域と、あまり遺構のない区域とに分かれていることが確認された。
「池上曽根遺跡と同様の状況だ。この溝は集落を区画するための溝と考えられ、環濠(かんごう)集落が営まれていた可能性もある」と同センター職員は指摘する。
今後、この集落の性格や広がりを知るため、出土遺物の検討が進められる。関係者や地元住民の期待は膨らむばかりだ。
文と写真・角川吉夫
(本紙掲載:3月9日)
http://www.worldtimes.co.jp/col/every/ev080309.html
414 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 19:42:52
古墳前期の臼や堰 東松山・反町遺跡【写真】
県埋蔵文化財調査事業団(熊谷市)は、古墳時代前期の大規模集落跡とみられる反町遺跡(東松山市高坂)から、木製の臼や堰(せき)などを見つけた。1700年前の集落で進められた大規模な開拓跡とみられており、16日に現地で一般公開する。
同事業団は、2007年10月からの第3次発掘調査で、土器や銅製の鏡などが埋まった古墳時代前期の竪穴式住居13軒を見つけた。
近くを流れていた河川跡からは、高さ40センチ、直径60センチと大型の木製の臼が出土。胴の中央付近が細くくびれていることなどから、穀類の脱穀や精米に使用したものとされる。
保存状態も良く、この時代のものとしては関東地方で初の出土だという。このほか、くわやすきなどの農具、柱やはりなどの建築部材も見つかった。
竪穴式住居周辺から、治水のための全長東西約6メートル、南北約6メートルの大規模な堰が見つかるなど、先進の土木技術を駆使して大規模な農業生産の場を広げていく様子がうかがえ、地域開発に取り組んだ拠点集落だったと推定している。
集落の一部から1500年前とみられる円墳15基と馬や人物などの埴輪(はにわ)が見つかった。古墳時代中・後期に墓として利用されていたとみている。
首都大学東京の山田昌久教授(考古学)は「臼が完全な形で見つかったことから、脱穀など利用目的がはっきりわかり、貴重な発見だ」と話す。
一般公開は無料。問い合わせは、反町遺跡発掘調査事務所(0493・34・3555)。
(2008年3月13日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20080312-OYT8T00824.htm
415 :
茨城県稲敷市:
堂ノ上遺跡:県内最大規模の紡錘車が出土 /茨城
県教育財団は12日、稲敷市江戸崎乙の堂ノ上遺跡で県内最大規模の紡錘車(ぼうすいしゃ)や出土例が少ない子持(こもち)勾玉(まがたま)などが出土したと発表した。
古墳時代中期の集落跡で、大規模竪穴住居跡や石製品が多数見つかっており、中心的な集落だったと考えられている。
同財団が昨年4月から圏央道建設事業に伴い、約9800平方メートルの同遺跡の発掘調査を実施。これまで約160軒の竪穴住居跡、須恵器、ガラス・石製品など約300点が出土している。
紡錘車は糸紡ぎに使う道具で石製。通常の倍近い直径8・5センチある。また、約10メートル四方を超える大規模竪穴住居跡計4軒が見つかった。
同財団は「大きな集落として栄え、紡錘車は儀礼や祭祀(さいし)などで使われる特別な装飾品を作ったのではないか」と話している。15日午前10時から現地で発掘調査説明会を開く。
また、県教育財団は近くの薬師後遺跡でも同日午後1時から現地で発掘調査説明会を開く。古墳時代後期から平安時代の集落跡。竪穴住居跡約80軒が確認されたほか、「真」「人」とも読める文字が描かれている紡錘車や小刀、円面硯(すずり)も出土している。
問い合わせは現地事務所(029・892・5258)へ。【宍戸喜四郎】
毎日新聞 2008年3月13日
http://mainichi.jp/area/ibaraki/news/20080313ddlk08040095000c.html