片諱について

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1日本@名無史さん
片諱(かたいみな)とは、鎌倉時代から江戸時代にかけて主に武士の間で交わされた風習。
将軍や幕閣の中枢にいる要人、戦国時代には領主から名前の半分(主に、下半分。信長の場合、浅井長政の「長」。
秀吉は宇喜多秀家など上の「秀」を。)優秀な家来に下賜される。
片諱を下賜されることは、武士としてこの上ない名誉とされる。
足利尊氏のように、後醍醐天皇から下賜された例もある。
これについて語ってくれや。
2日本@名無史さん :2007/07/01(日) 08:27:32
訂正:偏諱が正しい。
3日本@名無史さん:2007/07/01(日) 14:10:23
徳川家定と慶喜から偏諱をもらった大名はいるのか?
4日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:03:37
家定→毛利元徳(前名定広)
慶喜→細川護久
5日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:23:59
護久の前名は喜建だっけ。
読み方がわからんが。ノブタツかな?

あとは松平定安や松平喜徳がいるな
6日本@名無史さん:2007/07/05(木) 20:17:09
age
7日本@名無史さん :2007/07/06(金) 00:22:20
高坂昌信、山県昌景、真田昌幸、内藤昌豊・・・等、戦国期・武田家家臣にやたら見られる「昌」の字の出所が
わからん・・・
諸角虎定とか、飯富虎昌、甘利虎泰とか信虎からの偏諱は分かりやすいが・・・
8日本@名無史さん:2007/07/06(金) 00:42:08
>>7
俺も確かにそうだなぁとか思ってたのだが、wikiによると甲斐を統一した
晴信のひいじいさんの信昌の昌にあやかったものらしい。信憑性は分か
らないがw
9日本@名無史さん:2007/07/06(金) 00:44:20
晴信の晴はあげられないからなあ
どっか別のところから用意したのか
何代か前に信昌がいるけどそれなのか
10日本@名無史さん:2007/07/06(金) 01:01:09
>>1
「主に下半分」ってのは違うような?
「主に通し字以外の部分」じゃないのけ?
俺が違ってたらすまんが
11日本@名無史さん:2007/07/06(金) 01:36:41
大友氏の一字拝領は異常
12日本@名無史さん :2007/07/06(金) 21:19:44
>>10
そうだな、武将の通字は上半分の家が多いから、こういう書き方になってしまったんだが、
多分そちらが正しいよ。訂正d。
しかし、信長や秀吉は親戚になると通字も与えるね。
信長の養女の婿になった細川信良とか、秀吉は養子にした人間は「秀」の字与えまくり!
13日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:57:14
秀吉の吉をもらってる方がむしろ少数派かもね。
大谷吉継、田中吉政とか子飼が多いイメージ。
そう考えると大友吉統はずいぶん思い切ったもんだな。
14日本@名無史さん:2007/07/07(土) 04:42:58
偏諱・通字スレなら面白いのになぁ、まぁいいけどさ

偏諱の発生はいつ頃だ?

通字って初めは先祖代々で次ぐというよりも
兄弟で統一するっていう感じだね
15日本@名無史さん:2007/07/07(土) 05:51:58
>>14
今でも多いよ、亀田3兄弟とか。
16日本@名無史さん:2007/07/07(土) 06:32:21
平安時代の天皇・皇族は兄弟で同じ字を使ってたな。
17日本@名無史さん:2007/07/07(土) 10:37:21
兄弟で統一するって、中国の字(アザナ)みたいだな。

司馬伯達、仲達、叔達……

もとはそういう発想なのかも。
18日本@名無史さん :2007/07/07(土) 21:29:25
>>13
>>10のいうように、戸次鑑連とか、吉弘鎮種とか、本来大友は家臣に偏諱する方なのに、
何とも皮肉・・・
因みに、大友吉統も偏諱してるが、一番有名な立花統虎は宗茂に改名されている・・・
19松浦 てらす:2007/07/07(土) 22:33:45
平戸の松浦は代々殆ど名が一字だけだから大変ですな
20日本@名無史さん:2007/07/07(土) 22:34:21
村上源氏とかみんなそうじゃん
21日本@名無史さん:2007/07/07(土) 22:37:57
・氏(ウヂ)、姓(セイ)、本姓(ホンセイ)
 血縁を同じくする親族を中心に結束された集団の名乗り。
 その由来は地名(蘇我・葛城)、職掌(物部・大伴)、下賜(藤原・橘・源・平)など様々。

・姓(カバネ)
 家柄や職掌を表し、氏(ウヂ)とセットで名乗る場合が殆ど。
 家柄(公・臣・連・造・直・首)、職掌(国造・県主・稲置)など。
 天武天皇により八色の姓(真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置)が制定される。
 後に藤原氏(朝臣)が隆盛を極め、ほぼ全ての姓が朝臣化していった。

・名字・苗字(ミョウジ)
 主に出身地・邸宅地・本拠地などの地名を由来とする場合が多い。

・諱(イミナ)
 いわゆる本名。
 古代風の諱に変わって、現代でも通じる2文字(または1文字)の諱の始まりは、
 818年に嵯峨天皇が遣唐使・菅原清公の進言を採用したことによるとされる。
 しかし実際はそれ以前の奈良時代から2文字の現代風の諱は見られることから、
 遣唐使によって唐風の2文字や1文字の諱が広まり、
 それをさらに推進したのが嵯峨天皇であり、菅原清公であったと考えられる。
 実際に嵯峨源氏は1文字の諱を持つことで有名である。
 「偏諱」、「通字(列系字、行系字)」などの風習が生まれた。

・仮名(ケミョウ)
 いわゆる通称。しかし諱を持たない庶民にとっては、こちらが本名。
 太郎、次郎などの長幼の順を表すものや、
 官職の自称(自官)による受領名、百官名、東百官など多数の由来がある。

22日本@名無史さん:2007/07/07(土) 22:54:01
・偏諱
 主に褒美や結束を固めることを目的として行われた。
 諱のうち「通字以外の部分」を与えることが多い。
 通字を偏諱として与える例は少ないが、その場合は非常に名誉なこととされる。
 また偏諱を与えられた場合、偏諱の部分を諱の上部に持ってくることが殆どであるが、
 初期は偏諱を諱の下部に持ってくる例もある。

・通字(系字)
 中国や朝鮮で見られるような同世代間における通字を「列系字」と言い、
 日本で見られる先祖代々で受け継ぐ遠字を「行系字」と言う。
 通字の始まりは、淳和天皇(桓武天皇の子)の親王における「恒」「貞」と考えられ、
 日本でも始めは中国と同様に列系字であったことが伺える。
 おそらく遣唐使によってこの風習が日本にもたらされたものと考えられる。
23日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:56:37
        /                 ヽ、_
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         ヽ.| ヽ     - - - -     / | j/    |______
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24日本@名無史さん:2007/07/08(日) 07:49:51
25日本@名無史さん:2007/07/09(月) 12:29:20
義輝は乱発しすぎw
26日本@名無史さん :2007/07/09(月) 12:53:43
むしろ、親父の義晴の方が濫発しすぎだろ・・・
息子はそれに倣ったというか、それやらないと食ってけない・・・
足利将軍は末期になると財政難のため、頻繁に名前の切り売りをやってたからなあ・・・
因みに、通字の「義」の方が高い。
大友氏や大内氏のように「義」の付く大名は確かに羽振りがいい。

足利義栄からもらった大名とか家臣は見あたらないなあ・・・。
義昭ですらいるのに・・・。
27日本@名無史さん:2007/07/09(月) 13:45:49
足利将軍家(義満以降)や徳川将軍家は、摂家の二条家にも片諱を与えているな。
足利義昭→二条昭実とか
28日本@名無史さん:2007/07/09(月) 17:54:09
>>26
義晴が与えた大名って誰がいた?

ぱっと思いつくのは伊達晴宗、武田晴信、尼子晴久、大友晴持、晴英くらいかな…

義の字を与えられた大名は、誰からもらったかよくわからんな…
29日本@名無史さん :2007/07/09(月) 21:32:55
>>28
長尾晴景、細川晴元、三渕晴員、足利晴氏、赤松晴政、結城晴朝、畠山晴煕
公家では二条晴良、菊亭晴季
30日本@名無史さん:2007/07/10(火) 00:16:45
「義」が10000貫で「輝」が5000貫だっけか?
押し売りがほとんどなんだろうか
31日本@名無史さん :2007/07/10(火) 21:17:28
それでも田舎大名とか、俄大名はありがたがって買うらしいよ・・・
名前は忘れたが、義晴から父に「義」の字を、息子に「晴」の字を親子で「購入」した
ケースもあるとか・・・
32日本@名無史さん :2007/07/10(火) 21:35:15
>>27
二条家は昔から親幕派で、その縁で片諱を頂戴してる。
朝廷の一切の儀典礼式を司ってるのも幕府の後援が大きいせいもあるだろう。
更に、史上最後の関白は二条斉敬。
33日本@名無史さん:2007/07/11(水) 02:06:55
武家では頼朝が偏諱の最初か?
「朝」は下賜されているけど、頼朝以前に武家で偏諱はあったのだろうか
34日本@名無史さん:2007/07/11(水) 06:06:38
大名じゃない武士でも当時は買えたのかな?
35日本@名無史さん:2007/07/13(金) 22:09:34
>29
近衛晴嗣(前久)も。
近衛家も、足利家からは代々偏諱を受けてますね。
36日本@名無史さん:2007/07/15(日) 01:42:54
江戸後期の「斉」連発は勘弁してくれ
37日本@名無史さん:2007/07/15(日) 10:01:06
明治以降は
津山松平家は「斉」が通字になっていて
徳川慶喜家は「慶」が通字になっている。
38日本@名無史さん :2007/07/15(日) 10:22:28
>>34
金さえ積みゃあ、足利末期の将軍家からもらえたろうね・・・
大抵有力な国人は、大友や大内のように主家の大名からもらってるね。
弘元、興元、隆元など毛利家の嫡男は大内家からもらっていた。
特殊な例は、陶晴賢。元は隆房といっていたが、大内義隆を滅ぼして跡を継がせた大内晴英から
一事拝領したんだけど、晴英はその直後「義長」と改名してる。
将軍からもらった名前を譲っちゃっていいのかなあ・・・。本当は「長房」と名乗るべきじゃあ・・・。

>>35
前久の息子、信尹は信長からの拝領。権力の移り変わりがよく分かるね。
信尹に実子がいれば、秀吉の「秀」か「吉」を貰ってたかも。

>>36
おかげで字はちがえど同訓だらけになってた様だなw
徳川斉昭は本当は「なりあきら」を読むところを同時代に有名な島津斉彬がいたから、
便宜上「なりあき」と読ませてるとか。-wikiより-
同時代の人はどう読み分けてたんだろうね?
39日本@名無史さん:2007/07/15(日) 13:57:34
読まないんだよw
水戸様 水戸の先代様
40日本@名無史さん:2007/07/15(日) 15:06:14
>>38
安倍頼義は、源頼義と名前が被っていることを遠慮して頼任に改名。
41日本@名無史さん :2007/07/15(日) 15:19:34
家慶からの偏諱は、ご先祖に「吉」の字を頂いた先祖がいたら被らないよう注意したろうな・・・
42日本@名無史さん:2007/07/15(日) 20:41:00
土佐山内家が、将軍の偏諱を、忠豊の次の代から受けなくなったのはなぜ?
43日本@名無史さん:2007/07/15(日) 20:53:32
藤堂家や佐竹家がもらわなかったのも不思議だな。
上杉なんて15万石に減らされても、もらってるのに。
44日本@名無史さん :2007/07/15(日) 23:31:47
>>40
頼義じゃなく、頼良。更に改名したあとは、頼時な。

尾張三代藩主・徳川綱誠は最初「綱義」と名乗っていたが、綱吉が将軍となったので同訓を避けて、
改名した。
幕末の桑名藩主・松平定猷は、別に将軍から偏諱を承ってわけじゃないので憚って松平「猷」とか改名。
45日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:05:45
そのパターンで一番哀れなのは松平清武。
甲府綱重の子で、6代将軍家宣の弟だから、偏諱の拝領があってもおかしくない血筋だが、
幼少時、家臣の越智家の養子に出されたものだから、完全に家臣扱いになってしまった。

元服後、まず越智姓のまま「吉清」と名乗るが、5代綱吉とかぶったので「清宣」と改名。
次に兄貴の綱豊が綱吉の養子になって家宣と改名したので、宣の字がかぶって「清武」と改名。

名前だけ見ると、周囲に振り回された人生だった。
46日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:37:57
>>44
松山藩の松平勝善、今治藩の松平勝道も、あえて通字の「定」を避けてるね
47日本@名無史さん :2007/07/16(月) 12:51:31
>>42
立花忠茂とか、京極忠高とか、丹羽光重とか、一代限りの偏諱結構あるね。

>>43
佐竹の方は不明だが、藤堂は譜代並の待遇だったからじゃないか?通常、譜代は偏諱を下賜されないし。

>>45
七代目とか八代目とかの候補に挙がってたのな・・・。

>>46
おそらく、そちらも憚ってのことだろう・・・。
鍋島の通字は「茂」だが家茂から賜った人がいないので、どういう名乗りになるか不明。
七代目の重茂は「しげもち」と読ませることによって、工夫が感じられるw

鍋島や黒田とか、家斉以降の偏諱がないのはなぜだろう?
48日本@名無史さん:2007/07/16(月) 13:02:41
鍋島直正・直大父子は、維新前は斉正・茂実だった。
茂実の「茂」は、言うまでもなく鍋島の通字ではなく、家茂の一字である。

黒田長知も維新前は黒田慶賛(よしすけ)で、家慶から一字拝領している。
外様に家慶以降の偏諱の人が少ないのは、明治維新で将軍の一字を捨てたから。
49日本@名無史さん:2007/07/16(月) 13:43:48
あまり知られていない偏諱たち

家斉から
黒田斉溥→長溥
鍋島斉正→直正

家慶から
細川慶前(家督相続前に死亡)
細川慶順→韶邦
黒田慶賛→長知
毛利慶親→敬親

家定から
毛利定広→元徳

家茂から
島津茂久→忠義
伊達茂村(家督相続前に死亡。ただし伊達家継嗣になる前に田村家当主になっている)
浅野茂長→長訓
浅野茂勲→長勲
鍋島茂実→直大

慶喜から
細川喜建→護久
50日本@名無史さん:2007/07/16(月) 14:07:27
外様でも蜂須賀、伊達、上杉は偏諱を捨てなかった。
51日本@名無史さん :2007/07/16(月) 16:55:52
東北諸藩は元々幕府に同情的だったし、蜂須賀は最後の藩主・茂韶は家斉の男系の孫(父・斉裕は家斉の息子)だから。
外様百万石の前田家が捨てなかったのは、慶寧が家斉の外孫だったからかな・・・

新政府に憚ってのことだろうけど、それにしても非道いね・・・
徳川秀忠が将軍就任に際して「家忠」と改名しようとしたところ、天海上人から「貴人から貰った名前を改めるのは以ての外」
と諭された逸話を思い出すよ。
52日本@名無史さん:2007/07/16(月) 16:56:25
熊本大学付属図書館の細川家旧記・古文書分類目録には、

・御一字「喜」 1包 赤200,13番 慶応3年 徳川慶喜より細川右京大夫ヘ「喜」の字を賜う。
・喜延公若殿様御上京一件 1冊 8,1,190 慶応2年(細川護久)

というのがあったから、護久の前名は「喜建」ではなく、「喜延」だと思われ。
53日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:47:42
結局、家定から拝領したのは毛利定広のみ。
慶喜から拝領したのは松平喜徳と細川喜延のみか。

どうせなら清水昭武にも「喜」の字をやっとけばよかったのに。
54日本@名無史さん:2007/07/16(月) 21:53:55
>>53
松平定安
>>49
有馬慶頼
55日本@名無史さん :2007/07/16(月) 23:01:30
家定は5年も将軍にいながら、下賜したのはたったの2人か・・・
その点、家宣・家継親子は年数の割に結構いるね。
家継の場合は家継より全員年上だが・・・

>>53
「昭」は親父の名前からなので、憚ったんだろう・・・
水戸は斉昭以降親父から息子への拝領がよく見られるな。

池田が西国なのに、偏諱を捨てなかったのは奇跡に近いな。
56日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:24:50
>55
> 水戸は斉昭以降親父から息子への拝領がよく見られるな。
 尾張だと、光友以降は、当主からの拝領がよくありますね。もっとも、高須の場
合は「義」に決まっていてやりようがないのと、子供が少ないことの方が多い等々
で、後半は事例が少ないみたいですが。
57日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:30:35
>>52
ほんとだ、あるね。
ところが同じ分類目録に

・若殿様(喜建)御婚礼仮帳 1冊

ってのもあるんだよね…
58日本@名無史さん:2007/07/17(火) 07:45:18
斉昭の子供は、他家に養子に出る前にみんな「昭○」のイミナをもらってる。
養子に出た時点で養家の通字か将軍の偏キに改めるが、昭武の場合はそれがない。
59日本@名無史さん:2007/07/17(火) 11:11:26
ドドドドドドドドドドドド!!     |風|               _     |風|
                      |林|   _           .|風|   |林|
                      |火|  |風|        .|林|   |火| コッペパ〜ン
                           |山|   |鈴|           |火|   |山| ジャム塗ったらあーんパ〜ン♪
               _∧ ∧(oノヘ| ̄  .|火|          |山|(oノヘ| ̄
               (_・ |/(゚∀゚ )|\.   |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
     _∧ .∧(oノヘ   |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄(_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
    (_・ |/(゚∀゚ )\ (  (_・ |/(゚∀゚)|\   |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
       |\Ю ⊂)_ √ヽ| ||   |\ Ю ⊂) |√ヽ(  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
      (  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~   (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
        ||` || ( | ( |(´⌒(´    ||` || ( | ( |  (´⌒(´⌒;;  (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
60日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:02:47
>>38
晴賢の息子が「長房」と名乗っている
>>55
家宣から
松平宣富
松平宣維
細川宣紀
黒田宣政

家継から
徳川継友
池田継政
黒田継高
61日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:32:18
維新後も将軍からは拝領した一字を捨てなかった外様大名

仙台 伊達慶邦(奥羽越列藩同盟の中心的藩)
米沢 上杉斉憲・茂憲(奥羽越列藩同盟の中心的藩)
加賀 前田斉泰・慶寧(家斉の婿・外孫)
阿波 蜂須賀茂韶(家斉の男系の孫)
備前 池田茂政(水戸斉昭の実子・慶喜の弟)
因州 池田慶徳(水戸斉昭の実子・慶喜の兄)

立場上、いずれも一字を捨てられない、あるいは捨てなくても文句を言われない藩だな。
62日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:48:02
>>60
島津継豊も
63日本@名無史さん :2007/07/17(火) 22:10:32
>>58
昭武の場合、篤敬が成人するまでの中継ぎとして急遽水戸11代藩主になったから偏諱をあえて
遠慮したんだろうと思う。
清水家に行ったときは、幕府がそれどころでなかったとか。

しかし、伊達周宗は歴代藩主の中で唯一偏諱を受けてないのはなぜだろう?
正室腹のまごうことなき歴とした嫡子なのに・・・。お目見えがまだ済んでなかったのか?
妙に浮くんですけど・・・。
64日本@名無史さん:2007/07/17(火) 22:16:48
>>63
水戸家の部屋住み→清水家相続、将軍名代として渡仏→帰国後、急遽、水戸藩相続。

清水家を継いだ時点で、兄慶喜から一字をもらうことは十分可能だったんでは?
65日本@名無史さん :2007/07/17(火) 22:36:56
>>61
親藩でも尾張は義勝が維新後「慶」の字から改めてるな。
藩祖に立ち返ったと見るべきか、よっぽど将軍を尾張から出せなかったことが悔しかったのか・・・。
66日本@名無史さん :2007/07/17(火) 22:40:40
>>64
あくまで想像だが、心情的にいって親父の付けた名前をあえて自分の名に改めさせるのは
気が引けたんだろう・・・慶喜としては・・・
67日本@名無史さん:2007/07/17(火) 22:47:26
慶勝は慶のままじゃなかったか?
68日本@名無史さん:2007/07/17(火) 23:19:38
昭武は家茂没時に昭徳から改名してるんだよね。理由は家茂の法号が昭徳院だから。
何で喜武にしなかったのかな?昭は家茂の法号から受けた偏諱というわけでもないだろうし。
慶喜との兄弟仲もよかったみたいだし、忌避されたということもないだろう。
そういえば慶喜と家達は仲が悪かった。家達は、晩年の慶喜の世間の人気が高いのが気に入らなかった。「この人は徳川を潰した人、私は立て直した人」と露骨に慶喜に大勢の人の前で言った。
69日本@名無史さん:2007/07/17(火) 23:30:13
>>63
将軍に謁見(御目見え)する前に亡くなったからだと思う。
和歌山藩主徳川頼職もそうだと思うが。

>>65
名古屋藩徳川慶勝は最初義恕、名古屋藩主となって慶恕、
安政の大獄で隠居した後に慶勝。
尚、慶勝の息子に義恕(同名)がいて尾張徳川家の分家(男爵)を創立。
さらに義恕男爵の息子が故徳川義寛元侍従長。
70日本@名無史さん:2007/07/17(火) 23:34:24
そういえば、御三卿の当主はいずれも従三位参議が初任なのが普通だが、
昭武は四位少将のままで渡仏している。
71日本@名無史さん:2007/07/18(水) 06:34:16
>>7-9
晴信時代の武田氏の家臣に多い「昌」の字は晴信の曾祖父信昌の「昌」と見て
まず間違いない。
晴信の場合、家臣に偏諱を与えようにも、上の「晴」の字は将軍から貰った
ものだし、下の「信」の字も武田宗家の通字だから、どちらも乱発はできない。

そこで代わりに「昌」の字が授与されたと考えられる。
またここで晴信の直系の先祖の中でも特に「昌」の字が用いられた理由は恐らく
以下のような感じ。
まず父信虎の「虎」の字については、晴信の家督継承時の経緯から言って
使いづらい。
そうなるとそれより前の世代の字を、ということになるが、信虎の前の信縄に
関しては、武田氏の家督にあった期間がわずか2年しかなく、甲斐武田氏の
長い歴史の中でも、極めて存在感が薄い。
そこで、さらにもう一代前の信昌の「昌」が選ばれたのだろう。

信昌は、応仁の乱に乗じて勢力を拡大し、それまで他国と比較しても極めて
不安定であった甲斐守護の立場の強化に努めた人物。
さらにいえば、のちの信虎による甲斐統一&戦国大名化の基礎を築いた人物と
いっても過言ではない。
72日本@名無史さん:2007/07/18(水) 06:45:38
>>16-17
天皇家に限らず、平安時代の貴族の系図を見れば、摂関家など他の家でも
たいていそうなっている。
しかしそれが院政期から鎌倉期にかけて、家の通字のように親子間で代々同じ
字が継承されていく傾向が生まれる。

そしてその過渡期的な形態として、一世代おきに2つの通字を交互に繰り返す
パターンがある。
例えば院政期の摂関家では「実」と「通」が一世代おきに交互に
用いられている。
また閑院流の「実」と「公」、日野流の「資」と「光」なんかは、近世に
至るまで一世代おきに交互という原則が守られている。

その他、菅原氏の高辻流の系図では、通字の「長」の字を一世代おきに名前の
上の字に使う人物と下の字に使う人物とが交互に現れる。
73日本@名無史さん:2007/07/18(水) 06:54:13
>>20
諱が一字なのは、村上源氏じゃなくて嵯峨源氏。

>>29
近衛前久の初名「晴嗣」なんかもそうだね。

>>32
中世には多くの公家が将軍から偏諱を貰っているけど、近世には基本的に
公家で将軍から偏諱を貰うのは二条家だけになるな。
確か江戸初期の当主である二条康道の元服の際、その父親である二条昭実が
「二条家では将軍から一字を貰うのが前代からの慣例だから偏諱をくれ」と
家康に掛け合った結果、近世においても二条家だけは代々将軍の偏諱を貰うのが
慣例になった。
74日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:05:45
>>33
偏諱って、もともとは烏帽子親から烏帽子子に対して与えられるもので、
必ずしも主従関係を示すものではなかった。
だから平安末〜鎌倉段階だと貰う側が貰った字を下につけることもあり得た。
しかし足利義満の時代以降、将軍から貰った偏諱を貰う側が下に付けるのは
非礼だとして、貰った偏諱は上に付けることが徹底されていった。

>>35
近衛家で初めて足利将軍から偏諱を貰ったのは、義政のときの近衛政家。
義満の時代から偏諱を貰っている二条家や九条家に比べると後発。

>>36
家斉の将軍在職期間が長すぎた以上、仕方がない。
75日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:12:55
>>38
毛利氏は大内氏から代々偏諱を貰っていたように見えるけど、実は弘元以前は
そうでもない。
弘元の父豊元の「豊」は山名持豊の偏諱、さらに豊元の父熙元の「熙」は
山名時熙の偏諱だった。
なお山名時熙・持豊は、当時の安芸の守護。
つまり室町〜戦国期の毛利氏は、自分をとりまく情勢の変化に素早く対応して
山名氏から大内氏に乗り換えたと言うことになる。

あと陶氏に関しては、「長房」というのは晴賢(隆房)の嫡男の名前だな。
76日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:25:09
>>51
足利将軍からの偏諱だって室町幕府の末期には
近衛前久(晴嗣)や細川信良(昭元)のように捨てている例があるから
仕方ないよ。
77日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:47:52
朝からまたずいぶん張り切ったなw
78日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:04:11
>>28-29
義晴の「晴」偏諱と見られる他の人物。

南部晴政、梁田晴助、細川晴賢、細川晴国、朽木晴綱、北畠晴具、有馬晴純、相良晴広、
79日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:10:03
>>74
義満の初期の頃だと、まだ貰った偏諱を下に付けてる例があるな。
足利氏満(鎌倉公方)とか武田信満(甲斐守護)とか。
80日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:11:06
>>74
朝からがんばってるようだが、近衛家で最初に足利から偏諱をもらったのは近衛教基
81日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:16:06
毛利三兄弟って、毛利隆元と小早川隆景は大内義隆から偏諱貰ってるのに、吉川元春だけ違うの何でだろ?
82日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:20:15
>>77
そうだね。こういう殊勝な人がいるからスレが活性化するわけで、俺等感謝しないといけないよな。
83日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:22:41
自画自賛はいただけない(ノ∀`)
84日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:53:23
>>81
隆景は、元服前(幼名徳寿丸)に小早川家の当主になり、小早川家の当主として元服したため、
義隆から偏諱+小早川家の通字で隆景になった。

元春は、毛利家で元服し、毛利元春となった。
当然単なる毛利家の次男だから、義隆から偏諱はもらえない。
そのあと吉川家の当主となり、そのとき吉川隆経とでも改名すればよかったのだろうが、それをしなかった。
85日本@名無史さん:2007/07/18(水) 16:57:54
>>84
元春という名前自体が、毛利氏にとって由緒ある名前(室町時代初めの当主の名前)だから、
簡単には捨てれなかったのでは。

安芸に本拠地移した初代といっていい立場の人物だし、南朝方についた親達と違って
一貫して北朝方で活躍した人だから室町時代の元就達からすれば偉大なご先祖様。

86日本@名無史さん:2007/07/18(水) 18:21:57
>>63
お目見えしてなければ替え玉で何とかできたはずだが
南部とか宗みたいに
87日本@名無史さん:2007/07/18(水) 19:38:01
毛利元就は、なんで大内からも将軍からも偏諱をもらわなかったの?
兄貴の偏諱じゃ、格落ちな気がするが・・・
88日本@名無史さん :2007/07/18(水) 22:55:48
>>87
その代わり、息子の代から貰ってるからいいんじゃね?
大河ドラマでは、最初輝元は義輝の「義」の字を貰ったが、今川義元と同じ名を嫌って、
輝元にしたとなってる。
家臣が「『義』の字の方が高いのに」と愚痴ってたw

徳川吉宗は伊達の通字が綱村以降「村」になってたので誕生した名前。

>>74
室町以降で唯一名前の下に偏諱を下賜した例が豊臣秀次。
田中吉次、織田長次、増田盛次など。
89日本@名無史さん :2007/07/18(水) 23:09:49
徳川家達から下賜されたのって、何例あったっけ?
90日本@名無史さん:2007/07/18(水) 23:51:59
>88
> その代わり、息子の代から貰ってるから
 「元」は毛利の通字で、偏諱は受けていないんじゃないですか?
91日本@名無史さん:2007/07/19(木) 01:35:19
>>89
徳川達成と達孝の2例ジャマイカ
92日本@名無史さん:2007/07/19(木) 11:03:36
上杉謙信(景虎・政虎・輝虎)は、なんで虎を家臣に与えずに、家(というか長尾諸流一般)の通字である景を
与えているんでしょう?(北条景広とか中条景泰みたいに)

ちょうど、武田晴信(通字の信をあまり与えず、わざわざ昌を与えている)と逆のパターンと言えますよね。
93日本@名無史さん:2007/07/19(木) 20:21:02
>>89>>91
田安家 徳川達孝(弟)、達成(甥)
一橋家 徳川達道
94日本@名無史さん:2007/07/19(木) 21:18:33
>>81>>84-85
もともと家格的に、小早川>吉川だったからってのもあるかも。
室町期には、小早川氏のほうは沼田と竹原の両小早川ともに幕府奉公衆だけど、
吉川氏のほうは安芸武田氏の被官同然のような立場。
もっとも、元就の子供が養子に入る直前には両小早川も吉川もどちらも
大内氏からの偏諱を受ける家になっているから、それ以前の家格意識がどれほど
あったかは微妙だけど。

>>84
>そのあと吉川家の当主となり、そのとき吉川隆経とでも改名すれば
>よかったのだろうが、それをしなかった。
それをいうなら、小早川隆景の名前も本来的には
「大内義隆の偏諱+竹原小早川氏の通字」だから、隆景が小早川の本家筋である
沼田小早川氏を合わせて継いだ際に、沼田小早川氏の通字を用いて
「小早川隆平」と改名すべきだったともいえる。

>>90
元就の場合、烏帽子親は兄だろうから、一応兄の偏諱でもあるといえるのでは?
尤も「元」の字はもともと毛利氏の通字だし、家臣に対する偏諱ではないので、
偏諱の授受に主従関係の確認という意味合いはないだろうが。
95日本@名無史さん:2007/07/19(木) 21:22:42
>>89>>91>>93
明治維新後に当主になった家達の場合だと、偏諱を与えられる対象も
徳川宗家の親族扱いの徳川三卿に限られるわけね。
96日本@名無史さん :2007/07/19(木) 21:50:44
十七世政宗は父のたっての願いで先祖の7世政宗からいただいたが、通例なら
昭宗とでもなっていたのかな?
97日本@名無史さん :2007/07/19(木) 21:56:08
>>90
隆元の「隆」は大内義隆から。輝元は将軍・義輝から。
98日本@名無史さん :2007/07/19(木) 22:00:51
家康から下賜された例も意外に少ないね・・・。
家臣で思いつくのは、榊原康政ぐらいしか・・・。
外様にはいないと思ったが・・・。
99日本@名無史さん:2007/07/19(木) 22:07:08
山内一豊の弟で、2代忠義の実父が康豊。これは家康と関係あるのかな?
100日本@名無史さん:2007/07/19(木) 22:43:05
>>98
ぱっと思いつくのは石川家成、石川康長、植村家存
外様では島津家久
101日本@名無史さん:2007/07/19(木) 23:18:55
島津久光が「光」の字を下に敷けたのも家光の時代から相当経っていたからかな。
102日本@名無史さん:2007/07/20(金) 00:58:54
>>100
松平家忠、最上家親、二条康道
103日本@名無史さん:2007/07/20(金) 01:02:47
>>101
しかし先祖の名前(光久)を逆さにするってどういうことよ?
104日本@名無史さん:2007/07/20(金) 01:08:30
>>94
家格が小早川>吉川ってのは戦国期にもあるかも知れない。
毛利両川も並べて書くときには、「小早川・吉川」というように小早川が先に書かれることが結構ある。

しかしそうすると、毛利元就は最初に小早川の養子の話が来たときに、どうして次男ではなく三男を送ったのかが不可解だ。
次男ものちに吉川の養子に送り込んだことからして、長男のスペアとして次男を毛利本家に残しておこうという意図があったわけでもなさそうだし。
元就本人は次男より三男の能力のほうを高く買っていたということかな?
105日本@名無史さん:2007/07/20(金) 02:21:09
松平康元、松平康任、植村家長、
106日本@名無史さん:2007/07/20(金) 13:24:55
武田勝頼は武田昭信に改名
107日本@名無史さん:2007/07/20(金) 20:44:24
譜代大名で「家」「康」「忠」「光」が通字になってる家がいくつかあるが、
これは家康、秀忠、家光の偏諱が既得権化してその家の通字になったのか?
108日本@名無史さん :2007/07/20(金) 22:47:44
小早川は隆景の代で既に毛利から独立した大名と見なされてた様だね。
最初の養子・秀包は秀吉からの偏諱だし。
隆景の才は天下人の目にも十分とまってたようだ。
109日本@名無史さん :2007/07/20(金) 22:51:30
勝頼からの偏諱

上杉景勝、織田勝長

肝心の武田にはいない気がするが?
110日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:38:04
勝頼は当主じゃないからな
111日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:46:01
偏諱に擬制的親子関係があるのは知ってるよね?
112日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:10:27
>>111
むしろそれ(烏帽子親と烏帽子子の間での擬制的親子関係構築)のほうが偏諱の本来的な意味だね。
主従関係の確認という意味合いのほうが後から付加された。
113日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:13:11
>>96
政宗が元服する段階では、義昭は既に京都から追放された後。
義昭支持&反信長を明確にしている大名でもない限り、あの段階で義昭の偏諱を貰おうとはしないと思う。
114日本@名無史さん:2007/07/21(土) 04:47:20
>>108
確かに豊臣政権下の小早川氏は、隆景存命中の段階から独立大名の扱いっぽいよな。
そうでなければ、隆景が毛利輝元と並んで五大老の一人になるなんて、あり得ないだろうし。
まあ隆景って、秀吉の四国平定の段階で毛利本家とは別に伊予一国を貰っているし、その後も筑前・筑後を貰っている。

一方、吉川氏の場合は、あくまで豊臣政権に組み込まれる前段階で毛利勢力圏内だった場所にいる。
吉川氏はやはり毛利氏に付属する勢力で、独立大名ではなさそうだ。
もっとも豊臣政権段階では、吉川氏単独でも十分に大大名クラスの石高はあるし、関ヶ原前夜の吉川広家なんかは毛利本家の意向とは関係なく動いている部分もあるから微妙ではあるけど。

でも、確かに小早川隆景の養子って秀秋だけじゃなくて最初の養子の秀包も秀吉の偏諱だよな。
一方、吉川元春の子供は、元長にしても広家にしても、毛利本家で多用される「元」や「広」を使っていて、外部からの偏諱は受けていない。
結局、毛利両川って、元春・隆景だけじゃなくてその次の世代でも、吉川=毛利本家と同じ通字を使う、小早川=外部から偏諱を貰う、となっているわけね。
115日本@名無史さん:2007/07/21(土) 15:10:01
>>109
信勝は偏諱とは言わないか
116日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:43:06
江戸時代に将軍の偏諱をもらっていた大名って、自分の家の通字をどう考えて
いたんだろう?
名前の付け方として「将軍の偏諱+自分の家の通字」ならまだわかるのだが、
「将軍の偏諱+全然関係ない字」という組み合わせの名前が多すぎ。
117日本@名無史さん:2007/07/21(土) 18:01:21
元服→自家の通字をつけたイミナ→一字拝領して改名

ごく短期間だが、将軍の一字をもらう前に、オリジナルのイミナを名乗る。
118日本@名無史さん:2007/07/21(土) 18:25:22
将軍が烏帽子親の場合なら、元服時から将軍偏諱じゃないの?
119日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:08:31
ところが、そうでもない。
将軍による正式な加冠の前から自家でのイミナを持ってる場合が多い。
120日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:32:19
本多平八郎忠勝(当時幼名の鍋之助)は
烏帽子親が家康(当時松平元康)のはずだけど
偏諱を貰ってないよな
121日本@名無史さん:2007/07/22(日) 02:36:18
>>119
じゃあ最初の元服段階から将軍偏諱を貰う場合には、
「将軍偏諱+自分の家の通字」になって、
将軍偏諱を貰う以前に別の諱があった場合には、
「将軍の偏諱+全然関係ない字」になるということなのでしょうか?
>>116>>117の流れはそういうことを仰りたいのですよね?
122日本@名無史さん :2007/07/22(日) 07:00:54
一度偏諱を頂いてから改名する例もあるが、そういうのはちゃんと将軍から
ちゃんと許可を得てるんだろうな。

伊達慶邦(改名前:慶寿)
123日本@名無史さん:2007/07/22(日) 08:14:02
江戸中期における伊達氏の村連発は真田幸村にあやかってのことか
124日本@名無史さん:2007/07/22(日) 08:26:19
幸村って当時からメジャーな名前だったの?
本名の信繁で知られていたんじゃないの?
125日本@名無史さん:2007/07/22(日) 08:31:52
松代藩の書物だって幸村表記だったしな
むしろ信繁って呼んでた人のほうが少なかったと思う
126日本@名無史さん:2007/07/22(日) 12:47:37
譜代大名の本多の「康」、酒井・小笠原などの「忠」、松本系戸田の「光」は、
家康・秀忠・家光からの偏諱が通字化したもの?
127日本@名無史さん:2007/07/22(日) 12:53:40
三河の忠はもうちょっと古くて広い気がする
128日本@名無史さん:2007/07/22(日) 14:12:58
戸田は室町時代から
憲光―政光―康光(松平広忠継室の父)―宣光
だから家光とは関係ないと思われ
129日本@名無史さん:2007/07/22(日) 15:22:34
そういう家って逆に当代だけは遠慮しちゃったりなんかするよね
130日本@名無史さん:2007/07/22(日) 18:16:16
伊達家(宗→村)とか安藤家(重→信)とか板倉家(重→勝)とか見てたら、
当代だけでなく、けっこうあとまで遠慮してるよ。
131日本@名無史さん :2007/07/23(月) 07:00:35
伊達家の「宗」は遠慮したんじゃなくて、家綱の代で親子二人が偏諱を受けたから
変わらざるをえなかったんジャマイカ?

島津の場合、通字である「久」の字が綱久以降、幕末の茂久(忠義)まで使われな
くなるのが興味深い。
3代もいる「斉」の中で斉久というのがいてもおかしくないのに。
132日本@名無史さん:2007/07/23(月) 18:37:00
家定即位のとばっちりで通字を名乗れなくなったのが久松松平の諸家だな。

定穀→勝善、定成→勝成はいいとして、定猷→猷って何よ・・・
133日本@名無史さん:2007/07/23(月) 18:52:37
家定即位w
134日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:03:51
日本国大君陛下の名前で条約結んでるから、「即位」でおk
135日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:14:13
征夷大将軍は天皇から任命されるものであって、
天皇が自分の行為として行う「即位」とは別物。
摂政や関白も「就任」であって即位とはいわん。
136日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:55:58
そんな形式などどうでもいい。
上様こそ、日本国王じゃ。
137日本@名無史さん:2007/07/23(月) 21:05:40
井戸良弘─覚弘─良弘─覚弘…
138日本@名無史さん :2007/07/23(月) 21:21:21
>>132
でも、次の定敬、その次の定教の代で復活してるのなw

将軍就任時に改名したのは二人。
徳川家宣と家定。
家定は最初「家祥」と名乗っていたが、「片」のつく将軍は子孫を残せないという理由とかで、
周囲から強制的に改名させられたらしい。
家宣は綱豊から自発的に改名。
豊という字は今までの将軍にないのに、なんで改名したのかな?
139日本@名無史さん:2007/07/23(月) 21:37:17
>>138
徳川家茂
140日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:21:03
>>138
家宣の改名は、将軍就任時じゃなくて、綱吉の継嗣に決まったときだろ。
141日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:27:51
室町幕府の場合、将軍就任時の改名は義教の
青蓮院義円→義宣くらいか?

就任前・就任後に改名する例は多いが。
青蓮院義円→義宣→義教
義成→義政
義尚→義熙
義材→義尹→義稙
香厳院清晃→義遐→義高→義澄
義藤→義輝
義秋→義昭
で全部かな?
142日本@名無史さん :2007/07/23(月) 23:34:57
>>139-140
訂正d

いずれにせよ、貴人しかも身内からから頂いた名前を改名したら在職期間が短期
で終わってるか、さらには後嗣も残せなかったりしてるよねえ・・・

綱吉は後継ぎはいないが、在職期間が長いし、やりたい放題。
吉宗はかねてから綱吉に私淑してたから、改名しなかった。
慶喜は・・・時期が悪かったんだろうな。
143日本@名無史さん :2007/07/23(月) 23:41:20
>>141
将軍ではないが、将軍になり損ねた男「阿波公方」足利義維は、義賢→義維→義冬
と改名。
息子・足利義栄はおそらく一人の偏諱もない唯一の将軍。
144日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:42:38
>>141
義親→義栄
も忘れないであげて
145日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:44:17
>>143
義量って偏諱出してた?
146日本@名無史さん:2007/07/24(火) 00:40:16
毛利家みたいに嫡子と庶子で名が逆転するのは
他にどこの家があったの?
147日本@名無史さん:2007/07/24(火) 01:07:30
>146
 嫡子は偏諱を受けて通字を下に、それ以外の子は通字を上につける
というのは、わりとありがちなパターンだと思いますけど。
 武田晴信と信繁とかもそのパターンですよね。
148日本@名無史さん:2007/07/24(火) 02:11:23
>>145
義量の偏諱は恐らくなさそう。
まあ義量の場合、父親が全てを握っていたような感じだし、御判の御教書とかも
義量の名前で出された実例って皆無なんじゃない?

そういえば、上のほうで偏諱じゃないのに将軍と字が重なった人物が別の字に
改名する事例が書かれていたが、「量」の字に関して面白い事例がある。

当時の公家に三条実教という人物がいたが、彼は6代将軍義宣が義教に改名した
ときに、将軍と名前が重ならないように実教から実量に改名している。
しかし新将軍と同じ字になるのを避けるための改名で、わざわざ前将軍の名前の
字を使うってどういうことよ?
所詮、義量はその程度の扱いなのかもな。
149日本@名無史さん:2007/07/24(火) 02:15:08
>>146
近世の毛利氏で、本家(秀就系)の当主の名前に「○広」というのが多く、
分家筋の長府毛利家の当主の名前に「○元」という、それ以前の毛利氏嫡流の
通字が使われているってこと?
150日本@名無史さん :2007/07/24(火) 10:21:47
>>146
宗家が将軍から一時拝領して通字が使わないのに、枝藩はそれと関係なく通字を使い続けるというのは
良くあること。

信州松代藩は藩祖信幸以降、「信」の字が通字となって本来の「幸」の字が枝藩以外は省みられなくなってたが、
信幸の血が絶えてから、「幸」の字が復活した皮肉な例。
151日本@名無史さん :2007/07/24(火) 10:27:10
>>148
義勝は在任期間はわずか1年ほどなのに山名勝豊や細川勝元など、ちゃんと偏諱を賜ってるのになw
他にいたかどうかは知らないが、この二人はすごくラッキーな方々。
日野勝光もそうかな?
中でも、勝元は歴史に名を残した人物なので、さぞあの世で鼻が高かろう。
152日本@名無史さん:2007/07/24(火) 14:26:07
>>151
日野勝光は間違いなくそう。
日野家は足利将軍家と家礼関係にあって武家伝奏を務めたりするから室町期には代々将軍の偏諱を貰う。
あと細川勝信(和泉半国守護細川持久の子)もたぶん義勝の偏諱。
153日本@名無史さん:2007/07/25(水) 19:07:10
>>141
高氏→尊氏

あと一説によると

義茂→義満
154日本@名無史さん:2007/07/28(土) 08:26:24
>>149-150
嫡子が○元でほかは元×っていう話なんじゃないの
>>146が言いたいのは>>147がいうように
155日本@名無史さん :2007/07/29(日) 09:41:45
足利義氏以降、泰氏−頼氏−家時−貞氏−高氏と、北条得宗から代々偏諱を賜っておるが、
家時だけなぜか微妙な感じ・・・
当時の得宗は時宗だから、宗氏と名乗るべきだったのでは?
156名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 13:05:23
晴信以前の甲斐武田当主はみんな信が上

晴信の場合は、信晴とはできないし入れ替わってもしょうがないな
157日本@名無史さん :2007/07/29(日) 19:04:18
武田ほどの名門が晴信まで偏諱を受けてなかったというのは、かなり珍しいな。
次の義信は義輝からだが、「輝」の字ではなくわざわざ高い「義」を貰ったんだから、かなりの期待だったろうに・・・

甲斐源氏に限らず、義光流は偏諱を賜ってない方が多いな。
佐竹なんかは顕著な例。この姿勢は江戸時代になっても、いっこうに変わらない。
晴信以前は、平賀朝雅ぐらい?
158日本@名無史さん:2007/07/30(月) 00:36:10
甲斐武田は室町時代に散々内ゲバやらかして
名門などと言えないぐらい凋落してただろう
159日本@名無史さん:2007/07/30(月) 01:07:53
普通は代々の通字の方が本人一代のよりすごいのに
豊臣秀吉なんて各有力大名の嫡子に乱発しすぎで希少価値が逆転してる印象
160日本@名無史さん:2007/07/30(月) 01:31:31
秀吉の吉なんて通字であってないようなもんだ
161日本@名無史さん:2007/07/30(月) 22:30:24
>150
 信幸自身が「幸」字を捨てていますね。それはともかく、兄弟の名が俗に言う「信幸、幸村」なら
「幸」が通字というのもわかるけど、「信幸、信繁」という名からすると、「信」の方がしっくりくる感じ
ですね。
 それに、昌幸の兄弟も、長兄の信綱は別として、兄が昌輝、弟が信尹とかというのをみると、
「幸」は通字という印象が薄いんですが。
162日本@名無史さん:2007/07/31(火) 12:04:06
信幸の従兄弟(信綱・昌輝の息子たち)も信がついてますね。
163日本@名無史さん :2007/07/31(火) 21:56:57
>161
でも、信繁の嫡男・大助のイミナは「幸昌」。
ただ単に、尊敬していた祖父や父にあやかった命名かも知れないが。
164日本@名無史さん:2007/07/31(火) 22:55:39
>>160
秀吉の一族は秀が通字で上に付くのが普通だけど、
何で弟の秀長は初め長秀(信長の部下時代)なんだろ?
長秀に合わせるなら、一門は秀を下に付けるんだと思うんだけど。

長が信長から貰ったから名前の上に付けたのなら、何故兄貴で織田家での地位もずっと高い秀吉が長の一字を貰えなかったのはおかしいと思うし。
165日本@名無史さん:2007/08/01(水) 02:27:09
秀吉は六角義秀からの偏諱って説がある。
長秀は丹羽長秀からもらっただけ。
長秀の死後、秀長に改名した。
166日本@名無史さん:2007/08/01(水) 04:59:21
六角義秀w
167日本@名無史さん:2007/08/01(水) 13:37:46
>>165
長秀から貰って同じ”ながひで”には常識的に言ってならないでしょう。
(同じ名前、読みは不敬なので。源頼義と安倍頼良のエピソードみても)

それに、丹羽長秀が同じ信長家臣という立場の人間に名前与えることが可能なの?
家中の統制上、やったらまずい行為(私党を作っていると批難される)にあたるような気がする。

上洛前あたりに、羽柴が丹羽の組下だった時代があったとしても(そんな記録はないけど)、陪臣じゃなくて信長の直臣だし
それでも秀吉に与えずに秀長(長秀)にだけ与えた理由がわかんない。

つーか、丹羽長秀自体が信長の近習上がりだから、信長に一字貰って長秀と名乗ったと思うので、長は与えないだろ。常考(ry

あと、六角義秀って江源武鑑がソースだっけ?
江戸時代に作られた偽書(系図飾るための創作)って評価だったと思うが、記述の一部に信頼性あるとか再評価されてるの?
wikipediaにも書いてる人がいるけど。
168日本@名無史さん :2007/08/01(水) 21:48:18
そういや、六角氏も偏諱を賜ってたなあ・・・
氏郷の父の蒲生賢秀は六角義賢から。
氏郷の幼名の忠三郎は信長の官名「弾正忠」からだが、これも偏諱のうちに入るのかな?
「信」をやったら親父と被るし、「長」をやったら、長秀となって上述の丹羽長秀と被るから、諦めたのかな?
169日本@名無史さん:2007/08/01(水) 22:26:59
それにしても「賦秀」ってのは解せない。
170日本@名無史さん:2007/08/02(木) 07:16:11
ふと思ったんだが、秀長の「長秀」というのは当時の人の単純な誤記なのでは?
昔の人って、人名の表記にけっこう無頓着だし。
171中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/08/03(金) 20:46:01
どう読むのか躊躇する偏諱

足利義視からの偏諱・・・一色視房
足利義材からの偏諱・・・北畠材親
172日本@名無史さん :2007/08/03(金) 21:41:03
ちょっと待て!
義視は将軍になってないはずだが・・・
将軍なのに偏諱のない義量や義栄の立場はどーなるの!?

一人の人物から別々の名前を親子で貰った希有な例。

足利成氏
足利政氏

喜宣や義煕から貰った人もいるのかな?
細川高国は義澄の「義高」時代からもらったのかしら?
173日本@名無史さん:2007/08/05(日) 11:20:20
>>141

室町幕府の場合、将軍就任時の改名は義教の
青蓮院義円→義宣くらいか?

就任前・就任後に改名する例は多いが。
青蓮院義円→義宣→義教
義成→義政
義尚→義熙
義材→義尹→義稙
香厳院清晃→義遐→義高→義澄
義藤→義輝
義秋→義昭


質問であります。
足利家がころころ改名したのにはなにか事情があったのでしょうか?
174日本@名無史さん:2007/08/05(日) 12:21:04
>>172
兄弟なら

足利藤氏
足利輝氏

もあるね。
175日本@名無史さん :2007/08/05(日) 22:05:38
>>175
義教は「よしのぶ」が世を忍ぶに通ずるというので。
義政は「成」が「戈(ほこ・矛)」が入ってるからという理由で。
戦は嫌い、政治に没頭したいという事らしい。
義昭の「秋」はもの悲しいとか、不吉とかそういう意味だったような・・・

他は・・・政情不安定のため、改名して心機一転ということかな?
詳しいことはしらん。
176日本@名無史さん:2007/08/06(月) 12:09:56
>>155
家時の「時」も得宗からの偏諱なので問題なし。
177日本@名無史さん:2007/08/06(月) 12:18:02
>>156
あの時代だと貰った偏諱を下にするのはあり得ないからね。
もっと前の時代なら問題ないのだが。
あと、晴信の直系の先祖に信春という人物がいるから、仮に信晴だと同訓に
なってしまうな。

>>157
武田氏の系図を見る限り、鎌倉後半期の信時・時綱・信宗の3代はおそらく
北条得宗家からの偏諱だと思う。
あと安芸武田の初代になる氏信は、足利貞氏からの偏諱。
178日本@名無史さん:2007/08/06(月) 12:27:11
>>164-165
秀吉の「秀」は、おそらく織田信長の父信秀の「秀」を念頭においた
ものだろう。
武田晴信が、自分の曾祖父である信昌の「昌」の字を多くの家臣に
名乗らせたのと同じ論理じゃない?


>>167
>それに、丹羽長秀が同じ信長家臣という立場の人間に名前与えることが可能なの?

家臣同士が烏帽子親と烏帽子子の関係ならあり得ないことはない。
また偏諱とは違うが、秀吉の場合、羽柴苗字も丹羽と柴田から一字ずつ貰ったと
いう説がある。
179日本@名無史さん:2007/08/06(月) 12:37:30
>>170
名前を上下逆にする改名っていうのも皆無ではないよ。
例えば三好長慶は、もとは「範長(のりなが)」だったが、のちに「長慶(ながのり)」に改名している。

>>171
北畠材親は、『お湯殿上日記』に「伊勢の国司きちか」と平仮名で書かれている箇所があるので、「きちか」で間違いないとされている。

>>172
足利氏の菩提寺である等持院(京都)や鑁阿寺(足利)では、足利15代に義視をカウントして、代わりに義栄を除外している。
まあ義視は一応、応仁の乱の最中に西幕府では将軍として遇されていたから・・・。
でもそうすると堺大樹こと義維を数えないのも不思議だが。
180日本@名無史さん:2007/08/06(月) 22:07:54
秀吉は官位も偏名も乱発しすぎ。
臣下扱いの武家の内大臣、大納言なんかあり得ないじゃん。
181中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/08/06(月) 22:23:36
>>179
とすると朽木家文書の朽木材秀は「きひで」
義尚の動座のときに出た京極材宗は「きむね」なわけだな

蔭涼軒に出てきた大館視綱は「みつな」か


あと、諱が偏諱や通字ぽくて変だなと思うのは
晴右はともかく勧修寺晴豊の偏諱ぽい使い方や
時代が下って二条とかが尚を諱の頭に持ってきてるがこれもあやしい
柳川藩立花は鑑を通字として使ってるがこれなんてめちゃめちゃおかしいだろ
182日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:21:48
>>175
>義教は「よしのぶ」が世を忍ぶに通ずるというので。
>義政は「成」が「戈(ほこ・矛)」が入ってるからという理由で。
>戦は嫌い、政治に没頭したいという事らしい。
>義昭の「秋」はもの悲しいとか、不吉とかそういう意味だったような・・・

足利将軍が元服して名前を決めるときって、先例に詳しい公家やら側近がいろいろ
調べた上でじゃないのかな?
結構、最初にちゃんと調べとけよってのが多いですね。
まあ、順調にいっていれば気にならないけど、何かあったときに急に気になりだすって感じなのかな。

>他は・・・政情不安定のため、改名して心機一転ということかな?

義澄は、 明応のクーデターが成功して将軍になる前と公卿(参議・近衛左中将)になったとき、
義稙は 越中に亡命していて京の細川政元らと和議の話が進んだときと、
大内氏・細川高国の支援の下、京都に戻ったが、その後何らかの対立から近江へ一時出奔したり、将軍御所造営を開始したりした時期
(将軍としてある程度主体性を発揮しようとした時期)だそうです。
183日本@名無史さん:2007/08/07(火) 00:29:59
>>181
前にも書いたが、立花の通字は本来「載」のはず。「連」でもなければ「茂」でもない。

おかしいも何も。
184中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/08/07(火) 00:43:19
筑後柳川藩 外様 柳間→大広間 十万九千石の立花のことを言ってるんだが
185奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/08/07(火) 00:44:37
もう「鑑」で許してやれよ。
186中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/08/07(火) 00:48:08
帝鑑間
187奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/08/07(火) 00:50:19
それでよかとよ。
188日本@名無史さん:2007/08/07(火) 02:24:54
>>183
立花氏の初代が『太平記』に出てくる大友(立花)貞載だからね。
道雪が入る以前の立花氏は基本的に「載」が通字と見てよいだろう。
189日本@名無史さん:2007/08/07(火) 02:29:37
>>181
義視や義材の偏諱は、ちょっと違和感があっても「み〜」「き〜」で良いのだろうが、もっと気持ち悪いのは実は義詮の偏諱を受けたと見られる名前。
例えば、一色詮範とか大崎詮持とかってどう読む?
190日本@名無史さん :2007/08/07(火) 07:52:57
>>189
普通に「あきのり」とか「あきもち」でいいいんじゃね?
まさか「あきらのり」とか読まねーとおもうけど。
ただし、義満の弟の足利満詮はちゃんと「みつあきら」と読む。
しかし、父親と兄貴の名前半分ずつなんて贅沢な名乗り!
191日本@名無史さん :2007/08/07(火) 09:02:54
同じ将軍の兄弟でも、義嗣や義維と違って、満詮や政知は代々の通字である「義」が
つかない・・・
随分扱いが違うな〜
兄に従順でも気苦労が絶えないのに・・・
192日本@名無史さん:2007/08/07(火) 14:50:02
義嗣は特殊事例だが、義視や義維は明らかに将軍職継承を念頭において「義」の字を含む名前を名乗っている。
193日本@名無史さん:2007/08/07(火) 15:23:36
>>189-190
満詮って、大崎氏にもいるね。
てか、この時期の大崎氏の系図って、将軍の名前の字を組み合わせた名前がやたら連続するんだが・・・。

詮持−満持−満詮−持詮

これはどうなってるの?
194日本@名無史さん:2007/08/07(火) 20:05:25
斯波一族なんて系図混乱しまくりだからな
宗家も奥州系も
195日本@名無史さん:2007/08/08(水) 01:17:14
宗家はそんなに混乱しているか?

奥州系だって高水寺以外はそれほどの混乱はないと思うよ。
196日本@名無史さん:2007/08/08(水) 03:20:02
>>155
北条得宗家の名前も気になる。
得宗家は泰時から時宗までは基本的に将軍からの偏諱だが、貞時・高時の「貞」「高」はどこから来たのか分からん。
泰時(初名:頼時)・・・源頼朝の偏諱。
経時・・・九条頼経の偏諱
時頼・・・九条頼嗣の偏諱
時宗・・・宗尊親王の偏諱

ところが貞時や高時の時期の赤橋流の名前には将軍からの偏諱と思われる名前が続く。
義宗・・・宗尊親王の偏諱
久時・・・久明親王の偏諱
守時・・・守邦親王の偏諱
197日本@名無史さん:2007/08/08(水) 03:36:55
>>157
そういえば今川義元って、武田晴信が将軍義晴から「晴」の字を貰ったのを見て
それよりワンランク高い「義」の字を申請したって話があるね。
晴信元服が天文4(1535)年、義元還俗が天文5(1536)年とされているから、
時間的な前後関係に矛盾はない。
尤も今川氏の場合には、既に義元の祖父義忠が当時の将軍義政から「義」の字を
貰った先例があるから、偏諱を貰うなら自動的に「義」の字だった可能性も
否定できないが。

ただそうすると、義元の嫡子である氏真が将軍の偏諱を受けていないのは、
不思議な感じがする。
武田氏も晴信の嫡子になると「義」の字を貰って義信になるのに、今川義元が
自分の後継者に将軍偏諱を貰おうとしなかったのは理解できない。

さらにいえば今川氏って、歴代のなかで義忠と義元だけが将軍偏諱ってのも
不思議といえば不思議。
義忠の代に将軍偏諱を貰う先例ができたのに、その後の氏親・氏輝が偏諱を
貰っていないのは何故なんだ?
特に氏親なんて家督相続時にかなり大きな内紛を経験しているわけなんだし、
自らの正統性確保のためにも将軍から偏諱を貰うことにはかなり意味が
ありそうな気がしないでもないのだが。
198日本@名無史さん:2007/08/08(水) 04:59:49
>>194-195
やはり、応仁の乱以降は混乱してるかも。
199日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:23:44
>>198
具体的にどうぞ!
200日本@名無史さん:2007/08/08(水) 19:03:34
氏輝の輝って違うの?
時代ずれてたっけ
深く考えずにそうだと思ってたけど
201日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:35:31
>>200
この時代に将軍から貰った偏諱を後ろに付けることは、あり得ません。
また年代的にも合いません。

今川氏輝死去
天文5年(1536)3月17日、死去。

足利義輝
天文5年3月10日、誕生。
天文15年7月27日、元服し義藤と名乗る。
天文15年12月20日、将軍宣下。
天文23年2月12日、義輝に改名。
202日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:43:30
義忠が義もらったのが特例(関東出兵の功績)で一代かぎりだったとかは?
氏が今川氏の通字なのかな。
範や忠のほうが多い気がするけど。

関東公方から氏を貰ったってことはない・・・よね?
203日本@名無史さん:2007/08/08(水) 21:07:35
>>202
関東に出兵して功績があったのは、義忠じゃなくてその父親の範忠だけどね。

あと、今川氏の本欄的な通字は「範」。
「忠」は、範忠と義忠の2人しかいない。

戦国期には何故か「氏」が多用されたが、氏真の子である範以からあとは、
再び「範」が通字に戻る。
204日本@名無史さん :2007/08/08(水) 21:08:20
吉良が代々「義」の字を使用してるのは、将軍候補を自認してるからか?
おそらく偏諱じゃないと思われ(ry
205日本@名無史さん :2007/08/08(水) 21:10:41
家康の初名「元信」は義元からの偏諱。
その後、元康に改名したが、元の字はそのまま。
結構、小豪族の割に実力は認められてたんだな。
206日本@名無史さん:2007/08/08(水) 21:39:15
>>205
小豪族どころか、落ちぶれたとはいえ三河の旧主だぞ
三河諸豪族のシンボルな上に、本人の力量に義元も期待している
207日本@名無史さん :2007/08/08(水) 21:51:50
今川氏親から「氏」の字を貰って通字にしたのが後北条氏。
なぜ本来の北条の「時」に戻らなかったんだろうか?
地元に根付くならそのぐらいやってもいいはず。
そういや、北条も偏諱を賜りまくったっけ・・・
208 ◆GtiShIhaRA :2007/08/08(水) 21:53:58
氏親の氏をまず疑うべきではないだろうか。
209日本@名無史さん:2007/08/08(水) 23:47:40
小田原の目標は関東制覇だから
210日本@名無史さん:2007/08/09(木) 00:38:42
後北条は元々伊勢氏なんだから、通字は「貞」か「盛」がよかったんじゃない?
211日本@名無史さん:2007/08/09(木) 00:54:24
>>208
疑ってどうするの?

氏親の「氏」が足利成氏の「氏」だとでも?
212日本@名無史さん:2007/08/09(木) 04:15:53
そっちじゃないだろ、常考
213日本@名無史さん:2007/08/09(木) 20:44:45
じゃあ何?
京都の将軍家にはこの時代に「氏」を名乗ってる人はいないよ。
214日本@名無史さん:2007/08/10(金) 00:48:36
国語力ねーw
215日本@名無史さん :2007/08/10(金) 06:56:46
要するに、氏親は義忠の子じゃなく、どこの馬の骨か分からないと・・・
だから、家督相続時に一悶着あったと推理すべきか・・・
216日本@名無史さん:2007/08/10(金) 10:09:26
どこの馬の骨かわからないのが名家をつごうとするんなら
むしろこれまでの通字に合わせて同化をはかろうとするんじゃないか?
217日本@名無史さん:2007/08/10(金) 11:28:29
>>214
おまいの脳内妄想なんて他人に分かるわけないんだから、それを国語力がどうとかいうのは筋違いだろw
218日本@名無史さん:2007/08/10(金) 11:33:08
今川氏の「氏」の字は氏親だけの問題ではないぞ。

氏親と同じ時期から、本家だけじゃなくて分家(了俊系)の瀬名氏や堀越氏も
通字が「氏」に変わる。
しかも、これらの家系も近世になると、再びもとの通字の「貞」に戻る。
219日本@名無史さん:2007/08/10(金) 11:35:48
てか氏真が将軍の偏諱じゃないことを論じていたんじゃないの?
220日本@名無史さん:2007/08/10(金) 13:56:24
氏親の「氏」は伊勢長氏(北条早雲)の偏諱で間違いない!
221日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:16:40
>>190
>しかし、父親と兄貴の名前半分ずつなんて贅沢な名乗り!

北条長綱(幻庵)も、父親(長氏)と兄(氏綱)から一文字ずつの贅沢な名乗りだよ。
222日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:30:11
>>217
俺はただ横レスいれただけだよw
なんも妄想してねー
行間を読めば、>>208が何を言いたいのか分かるだろうに

北条家の通字「氏」は、今川氏親からの偏諱ではないのかも

と言ってるんだろ
223日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:30:06
>>222
「氏親の氏をまず疑うべき」といったら、常識的に解釈すれば
「氏親の“氏”の字がどこから来たのかを疑うべき」という意味になる。

「後北条氏の“氏”が氏親の“氏”から来たのではない」という意味にしたければ
「氏親の氏じゃない可能性をまず疑うべき」とでも書かないと。

まあこの場合、書いた本人の表現力の問題だから、誤読されても文句はいえませんな。
論文の場合なら致命的だけど。
なかには、別の意味で解釈しうる他人の文章をわざと誤読して引用し、揚げ足取り的な批判をするような人さえいるご時世だし。
224日本@名無史さん:2007/08/10(金) 23:22:00
今川氏親の氏は、北条長氏(早雲)の氏から来てるんだよ、バーか!
225日本@名無史さん :2007/08/11(土) 05:26:52
早雲の本当の諱は「盛時」らしいね−wiki−より

今川の分家から出て、花倉の乱に巻き込まれながら生き延び、抜群の武勇で氏綱から娘と
北条の姓、偏諱を賜り一門にまで昇格した北条(福島)綱成ってすごいね!
子孫は今川本家と和解したのかしら?
226日本@名無史さん:2007/08/11(土) 11:08:20
福島って今川の一族だっけ?
227日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:42:30
>>223
>>207読めば>>208が何を言いたいか分かるだろうに
2ちゃんで「誤読されてもしょうがない文章」とか「論文だったら致命的」とか言うなよw
そうまでして「自分のミスじゃありません」とでも言いたいのか?
こんな小さなことで、そこまで必死に自分のミスを棚に上げようとするなよw
自分のミスだって分かったなら、俺みたいな厨ぐらいスルーしろよなw
228日本@名無史さん :2007/08/11(土) 21:57:38
>>226
よくよく調べたら、一門どこおか源氏やら平氏やら、果ては藤原の裔とかハッキリしないのね・・・(・ω・)
よくこれで重臣になれたなぁ・・・
229日本@名無史さん:2007/08/12(日) 03:03:18
>>227
>自分のミスだって分かったなら、
ハァ?誰のミスだって?
文章力のない基地外の寝言には、つきあいきれませんなw
230日本@名無史さん:2007/08/12(日) 11:09:17
>>229
うはwもうまともに反論できずに煽りかよww
俺がキチガイだと思うならスルーでもしろよww
涙目必死w
231日本@名無史さん:2007/08/12(日) 16:39:10
壮大な自作自演乙。そんな風にスレを荒らして何がしたいんだ?
232日本@名無史さん:2007/08/12(日) 21:07:02
1 過疎ってるのでレスがたくさんついて賑わってるスレに見せるためな>>1の仕業
2 夏で暇をもてあましてる夏厨
3 きちがい
233日本@名無史さん :2007/08/12(日) 21:48:35
天皇から直接偏諱を頂いたのは足利尊(高)氏ぐらいか?
234夏厨:2007/08/13(月) 12:59:17
偏諱の始まりは頼朝あたりなんでしょうか?
平賀朝雅や北条泰時の初名の頼時あたりが最古?
それ以前の事例はないのでしょうか?
235日本@名無史さん:2007/08/14(火) 02:41:27
>>228
今現在はハッキリしなくても、当時は明確だったんだと思う。
そうじゃないと、重臣まで成れない。
236日本@名無史さん:2007/08/14(火) 03:10:29
読点多いのってバカに見えるから困るな
237日本@名無史さん:2007/08/14(火) 09:31:34
読点使えないヤツはバカそのものなのに、自覚がないから困るな。
>>236、お前のことな。
238日本@名無史さん:2007/08/14(火) 12:18:18
観世音菩薩は、唐の太宗皇帝の諱の「世民」を憚って「観音」に改名させられたとか
神仏をも支配する皇帝スゴス
239日本@名無史さん:2007/08/15(水) 00:01:51
>>237
読点が多すぎるってこと
読みにくいんだよ
240日本@名無史さん:2007/08/15(水) 02:31:45
>>239
このスレ、読みにくいほど読点の多いレスってあるか?
241日本@名無史さん:2007/08/15(水) 02:49:11
多すぎるのも読みにくいが、全くない場合は文章としての体をなさない。
要は、前者は許容範囲だが後者は論外ってこと。
242日本@名無史さん:2007/08/15(水) 03:14:51
このスレに読点がなくて文章としての体をなさないほどの長いレスってないのでは
243日本@名無史さん:2007/08/15(水) 04:21:06
このスレ女ばっかなんだな
244日本@名無史さん:2007/08/15(水) 08:19:27
一つ言えることは、読点もつかえないヤツは読解力も怪しいってこと。
245日本@名無史さん:2007/08/15(水) 08:55:07
極論に走るのは頭の構造がおかしいって事だな!
246日本@名無史さん:2007/08/15(水) 09:16:21
>>238そうだったのか…
元は鮮卑族なのに、漢風に李姓にしちゃう皇帝だからなぁ
247日本@名無史さん:2007/08/15(水) 09:32:05
>>244
そ、う、だ、ね。wwwwww
248日本@名無史さん:2007/08/15(水) 09:42:23
偏諱に対する知識が欠落してるから、読点が問題であるかのように
話題を逸らさざるを得ないんだろう。クレーマー、難癖。
なんでこのスレにいるの?
249日本@名無史さん:2007/08/15(水) 10:07:38
お前ら早起きだなw
2ちゃんなんてやってないで墓参り行って来いよ
250日本@名無史さん:2007/08/15(水) 12:57:15
僕には先祖いないのでいきません
251日本@名無史さん:2007/08/15(水) 16:37:32
ちゃんと黙祷したか?
252日本@名無史さん :2007/09/03(月) 21:04:38
織田勝長が息子に「勝良」と名付けたのは幼い日に分かれた実の親父殿より、血は繋がってないが
可愛がってくれた秋山信友とその主君に敬意を表してのことなんだろうなあ・・・
まあ、あのエキセントリックな親父だから無理からぬ事ではあるが・・・
養父母が磔にされたとき、何を思ったか・・・
253日本@名無史さん:2007/09/03(月) 22:20:32
>>165
丹羽長秀の父は長政、兄は長忠だから、信長の偏諱じゃないでしょ。
>>145
日野量光
254日本@名無史さん:2007/09/03(月) 22:22:52
>>145
高量資
255日本@名無史さん:2007/09/03(月) 22:32:46
>>253
j自分の家の通字なら、主君と同じ字でも勝手に付けて(形式的にでも貰ったことにしなくても)OKなの?
以前どっかのスレで、室町時代の佐竹氏の義の字は、将軍から貰ったものって言ってた人がいたんだけど。

義は足利氏の通字で、長は織田氏の通字じゃないから同一視できないってこともあります?


256日本@名無史さん:2007/09/04(火) 01:26:04
幕末期に久松松平氏系の諸家が、将軍家定の名前との重複を避けるために、
通字である「定」の使用を避けていたという話は有名だな。

まあ偏諱でもないのに将軍の名前と自分の名前の字が重なってしまったために
あえて改名している事例なら室町期からあるわけではあるが。
257日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:10:46
無双やってて思ったのだが
利家の家は勝家からもらったのかな?


258日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:53:47
材って読みにくいな
259日本@名無史さん :2007/09/04(火) 17:52:07
>j自分の家の通字なら、主君と同じ字でも勝手に付けて(形式的にでも貰ったことにしなくても)OKなの?

大久保家や、牧野家、本多家(忠勝系)はずっと「忠」の字使ってるね。
三河以来の旧臣とりわけ老中クラスの重臣はそういうのが認められてたのかもね。
公家でも烏丸家がずっと「光」の字を使ってたりするし、一部じゃ例外がある様子。

>義は足利氏の通字で、長は織田氏の通字じゃないから同一視できないってこともあります?
日本語で(ry
260日本@名無史さん:2007/09/04(火) 18:53:54
>>257
柴田勝家って、1556年に信長に敗れるまで、信長の弟信行に近い人物だったと読んだんだが。
前田利家は、1551年に14歳で織田家に仕官、犬千代から元服して利家と名乗ったとされるから、
信行寄りの勝家から名前を貰うかな?
利家が勝家を親父殿と呼んで慕うのはもっと後だと思うのだが。
261日本@名無史さん:2007/09/04(火) 19:50:16
そういえば、家康の家は誰からだろう?
262日本@名無史さん:2007/09/04(火) 20:51:12
>>261

源義家
263日本@名無史さん:2007/09/04(火) 20:54:38
>>260
小説の読みすぎ
264日本@名無史さん :2007/09/04(火) 20:59:31
家康も末子である3人は好き勝手に付けてたなあ・・・
義直の「義」は尊敬する義家からだし、頼宣、頼房は頼朝から。
265日本@名無史さん:2007/09/04(火) 22:23:25
>>259
>>義は足利氏の通字で、長は織田氏の通字じゃないから同一視できないってこともあります?
>日本語で(ry

足利将軍家の通字は義でしょ。で普通はそっちじゃなくて下の字(義満なら満)を与える。
でも家格が高かったり特に大きな功績があった者には義の字を与えることもある。
つまり主君の通字のほうが希少性が高いと思われる。

>>255で書いたけど、通字が義の佐竹氏も室町時代は、将軍家から義の字を貰ったんだと主張した意見を見たことがあります。
丹羽氏の通字が長、だから長秀と名乗ったというこのスレで書かれた意見と異なる見解なので、どっちが正しいのか(あるいはどちらも正しいのか)疑問に思った。
例えば信長家臣が勝手に(自分の家の通字だからといって)信の字を使うのは憚られるけど、長の字なら許されるということなのかな?という質問です。

266日本@名無史さん:2007/09/05(水) 02:17:31
>>262>>264
てゆうか清和源氏で頼義・義家の流れから分かれた諸家で伝統的によく使われる
字が「頼」「義」「家」の三つ。
そのうち「頼」は鎌倉将軍家が、「義」は足利将軍家が通字として
使っていたから、徳川将軍家は本家の通字を「家」にした。
但し御三家に対しては前代の将軍家の通字である「義」「頼」を使わせた。
徳川将軍家と御三家の通字に関しては結局こういうことだね。
267日本@名無史さん:2007/09/05(水) 07:34:06
>てゆうか清和源氏で頼義・義家の流れから分かれた諸家で伝統的によく使われる
>字が「頼」「義」「家」の三つ。
「家」は別に源氏ゆかりの字ではない

268日本@名無史さん:2007/09/05(水) 10:25:25
>>266
清和源氏ってくくり方なら頼・義・信じゃないか?

徳川家のよくある字(家康以前)だと、親・広・信・光あたりか、結構ばらばらだよね。兄弟・親子間でも統一感があまりない。


269日本@名無しさん:2007/09/05(水) 12:55:37
>>268
あと忠の字ね。安祥松平家では良く使われている。
初代が親忠だったからかな。
270日本@名無史さん:2007/09/05(水) 18:36:42
江戸期で壮観なのは相馬家だなあ。名門よのう。

継嗣にも養子が入っていないよね?
271日本@名無史さん:2007/09/05(水) 18:50:06
>>267
「家」は鎌倉〜南北朝期の足利流や新田流の諸家で割と多く使われる字だろ。
特に斯波氏の場合は、初代家氏をはじめ初期の当主や主要な一族に「家」の字が
頻出する。
ただ斯波氏は室町中期以降は将軍から「義」の字を貰うようになるから
元々の通字である「家」が見えにくくなる(将軍から貰った「義」に通字の
「家」を組み合わせて「義家」とはさすがに名乗れないからね)。

また「家」は畠山氏などでも使われることがあるし、新田流の系図上でも
割とよく出てくる。
さらに足利氏の場合は、鎌倉期には嫡流にも足利家時がいる。
272日本@名無史さん:2007/09/05(水) 19:05:46
>>268
甲斐源氏は確かに「信」が多いが、他に清和源氏で「信」が多い系統ってある?
あと「光」は、頼光の子孫の家(土岐流)とかに特徴的に多いな。

>>268>>269
家康以前の松平諸家の系図は、かなり操作されている可能性の高い家もあり
(特に家康に繋がる系統と敵対関係にあった家にその傾向が高い)、現在
伝わっている系図だけを鵜呑みにすることには危険性もなくはない。

ただ全体として、家康に繋がる安祥松平の系統の通字は、>>269の仰るとおり
原則「忠」だったと考えられる。
家康の後を嗣いだ秀忠の「忠」の字にも、そうした前提が想起される。
また近世の譜代大名のなかでも、酒井・本多・大久保のような初期の頃からの
松平氏の根本被官と見られる諸家に、「忠」の字を通字にしている家が多い
ことも、この「忠」の字が本来的には先祖が安祥松平の当主から貰った偏諱に
由来していることを示唆している。
273日本@名無史さん:2007/09/05(水) 20:58:38
甲斐源氏で最初に「信」を使ったのって武田信義かな?
あと甲斐源氏って、源義光が遠祖の割には「光」の使用例は(皆無ではないが)少ないね。
まあかなり時代が下ってから、若狭武田氏の武田元光とかが思い出したように使っているけどさ。
274日本@名無史さん:2007/09/06(木) 08:34:24
>>272
>甲斐源氏は確かに「信」が多いが、他に清和源氏で「信」が多い系統ってある?
>あと「光」は、頼光の子孫の家(土岐流)とかに特徴的に多いな。

確かに甲斐源氏しか目だって使わないような気もしますが、あくまで清和源氏の代表的な通字ってことで。

頼(摂津源氏・大和源氏)、義(河内源氏)、信(甲斐源氏)って感じで家よりはメジャーかなと。
光も確かに美濃源氏に多いですね。
275日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:41:36
光genji
276日本@名無史さん:2007/09/06(木) 11:37:55
>>274
甲斐源氏は河内源氏の、美濃源氏は摂津源氏の一支流なのだから、
甲斐源氏を摂津・大和・河内の3源氏と同列に扱うのは如何なものかと。
277日本@名無史さん:2007/09/07(金) 08:23:46
>>276
>甲斐源氏は河内源氏の、美濃源氏は摂津源氏の一支流なのだから、
そんなことを言っていたら、結局清和源氏の諸流はみな摂津源氏の支流ですよ。
(摂津源氏嫡流厨は大喜び)

あくまで清和源氏の代表的な通字として、頼・義は別格(多数)として、つぎに挙げるとすると信・光・家のうちどれかって話をしているだけと思いますが。
家も現代の人間からみたら徳川将軍家という例があるから、例として挙げてふさわしくないとは言えない。

逆に鎌倉時代を念頭に置いて挙げたら足利氏の氏が入るだろうし。



278日本@名無史さん:2007/09/07(金) 09:02:58
まあ通字を列挙したからといって
家系を同列に扱ってることにはならんよ
279日本@名無史さん:2007/09/08(土) 07:15:49
てか元々>>266では清和源氏のなかでも、
頼義−義家−・・・という系統(要するに足利・新田流?)に
限定した話として、「頼」「義」「家」の3字が多いということだったのに、
>>267がそれを清和源氏全般に拡大解釈して話の噛み合わない反論をしたから
おかしくなった気がする。

>>277
>頼・義は別格(多数)
摂津源氏厨ではないけど、「義」は河内源氏系だけに特徴的に多い字だと
思うから。この字に関しても、「義」がほとんど検出されない
摂津源氏系などまで含む清和源氏全般に普遍化するのはどうかと思う。

結局のところ、「義」はこれを清和源氏で最初に使った頼義の男系子孫の家で
よく使われ、「家」はこれを最初に使った義家の男系子孫の家でよく使われる。
そして頼義・義家両方の男系子孫に当たる足利流や新田流では、
「頼」「義」「家」が特徴的に多くなる(但し他に「氏」「兼」なども多い)。
また「光」はこれを清和源氏で最初に使った頼光の子孫の家に多く、「信」は
信義以降の甲斐源氏に特徴的に多い。
そして自らを“新田の一流”と称する徳川将軍家が、自らの家の通字として
「家」を選んだことについても、十分な論理的整合性がある。
ってことでいいのでは?
280日本@名無史さん:2007/09/08(土) 07:59:00
結局清和源氏全般に多いのは「頼」だけか。
これは頼光・頼親・頼信の3兄弟に「頼」が共通するから、いずれの子孫の家系でも使われるってことだな。

そうすると、源氏の棟梁を自認する源頼朝・頼家父子が、義朝までの数代続いた「義」の通字を改めて「頼」を名乗ったのは、
河内源氏だけでなく全ての清和源氏の上に立とうという意識があったからか?
281日本@名無史さん :2007/09/09(日) 00:09:06
>>280
・・・となると、実朝飛ばして摂家将軍の頼経・頼嗣父子も同様の志か?
元々は公家の出なのに・・・
282日本@名無史さん :2007/09/09(日) 00:14:41
>>265
>でも家格が高かったり特に大きな功績があった者には義の字を与えることもある。

室町幕府も末期の頃は名前を通字を平気で切り売りしてたよ。
確か、義が1000貫で諱が500貫だったかな?
慢性的に火の車だった将軍家の懐を大いに潤したそうだ。
相良のように、同時に親子で貰った例もある。
283日本@名無史さん:2007/09/09(日) 02:17:19
>>281
摂家将軍段階ではあくまで源氏将軍家の後継者という立場が重要だったんだろうな。
それよりも、むしろ実朝の名前の由来のほうが分からない。
実朝の「実」ってどこから来たんだろう?

あと頼家の場合、「家」の字はやはり八幡太郎義家を意識しているっぽいな。
頼経の場合は「経」のルーツは外祖父の西園寺公経か?
まさか義経の「経」を意識ってことはないだろうから。
284日本@名無史さん:2007/09/09(日) 04:31:49
実朝の「実」は九条兼実からでは?
285日本@名無史さん:2007/09/09(日) 08:03:30
>>271
>>271
鎌倉南北朝期で「家」を使う足利一門→宗家は家時のみ、後は弟・家氏(斯波氏初代)だけww
鎌倉南北朝期で「家」を使う新田一門→宗家はなし、大館家氏と堀口家貞兄弟だけww
斯波氏の通字である「家」をあたかも清和源氏ゆかりの字なんて言うなよ
斯波氏が「家」を通字にしたのは初代・家氏の影響であって、源氏は関係ない
畠山氏で「家」がつくのは、家国と満家のみ

たったこれしか例がないのに、清和源氏ゆかりの字が「家」なんてよく言えるな
無学なら訂正すればいいものを、変に強情をはるからw
286日本@名無史さん:2007/09/09(日) 10:22:23
>>285
遅レスの上に内容痛すぎですよ・・・
287日本@名無史さん :2007/09/09(日) 10:41:26
通字の話はなぜか揉めるなあ・・・
仲良くしようぜ・・・

しかし、足利は義氏以降代々「氏」を通字としてきたが、義詮の代になってなぜか
「義」が復活してる。
3代で終わった源氏将軍を見て、源氏全体の頭領になるなんて大それた事を考えず
「頼」を忌避して義家以降の河内源氏本来の通字である「義」に戻したんだろうな。
288日本@名無史さん:2007/09/09(日) 12:30:56
「家」なんか大して例ねーだろ
頼・義と同列に語るなよ馬鹿w
289日本@名無史さん:2007/09/09(日) 19:05:32
新田義貞の「貞」って、上野守護でもあった得宗北条貞時からの片諱なのかな?
290日本@名無史さん:2007/09/09(日) 19:13:43
>>282
それにしても、お金があれば誰でも買えたと言うわけではないでしょ。
将軍の字を売ってもらえる最低ランクって、どのくらいだろ?
291日本@名無史さん:2007/09/10(月) 14:08:10
>>287
義詮の「義」は、直義の偏諱かと思っていた。

>>289
当時の新田では、得宗の偏諱なんてもらえないのでは?
官途もない、ただの「小太郎」だし。
292日本@名無史さん:2007/09/10(月) 14:14:47
天皇家の「仁」も一種の片諱?
293日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:26:18
>>292
×「片諱」 ○「偏諱」
いずれにせよ→「通字」のことを言いたいのだろうか?
294日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:56:23
通諱だろが
295日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:03:54
天皇から(その従僕である)子供が「仁」を貰うのか、
親子だから「仁」を貰うのか、ということだろ。
296日本@名無史さん:2007/09/10(月) 22:05:04
>>291
貞時の没年が1311年、義貞の推定生年が1301年。ぎりぎりありえなくはない。
確かに得宗と没落御家人という関係では片諱を貰える立場ではないが、上野守護と落ちぶれたとはいえ上野国内では無視できない勢力を維持していた御家人という関係ならあり得る。
上野守護職は1285年の霜月騒動で得宗に渡ったのだから、守護としても新田を手なずけていても損はないよ。
新田も必死になって得宗家にすがろうとして義貞の嫁さんに御内人の娘を迎えているし。
新田の庶子家、堀口家は代々「貞」を通字としているけど、庶子家から片諱を頂くというのは考えられないだろ。
297296:2007/09/10(月) 22:10:23
追伸
そう言えば、堀口は冷遇されていた新田一族の中ではシンジラレナイ美濃守という官職をもらっていたから、堀口の方が格が上で、堀口から片諱を受けたという可能性も0ではないね。かなり屈辱的な事だし、世間から笑いものになっただろ受けど。
298日本@名無史さん :2007/09/11(火) 22:32:26
>>290
守護代以上じゃね?
一介の国人でも下克上でそれクラスかそれ以上に成り上がれば、結果的に「誰でももらえる」。
斎藤義龍の「義」はおそらく将軍家からもらったものと思われ(ry

>>291
直義の偏諱は直冬だろw

足利の通字を「義」に戻す試みは既に高氏の異母兄・高義の頃から始まっていた。
ただ名前の下に「義」が来るのは、高時からの偏諱を無下に出来ないし、まだ幕府に勢いがあった頃だろうし。
299日本@名無史さん:2007/09/11(火) 23:21:54
>>287
尊氏・直義兄弟には、早世した異母兄(母は金沢貞顕の姉妹)として高義なる
人物がいる(>>298も指摘しているが)。
また新田惣領家についても、鎌倉中期以降3代に渡って使われていなかった
「義」の字が義貞の代で復活している。
このことから考えて、既に鎌倉末期の段階で足利流・新田流では「義」の字に
回帰する傾向が起こっていたのかも知れない。
ただ尊氏の場合は、兄に既に「高義」がいたから北条高時から偏諱を受ける際に
やむを得ず「高氏」になった可能性もありかも。
300日本@名無史さん:2007/09/11(火) 23:57:46
>>296
偏諱は必ずしも主従関係を前提としているわけではないから、義貞の「貞」が
堀口氏から来たものという可能性もあり得なくはない。

偏諱は本来的には烏帽子親子関係を表すものにすぎないが、主君が従者に偏諱を
与える(主君が烏帽子親となって従者を元服させる)場合において、はじめて
これに主従関係の再確認というもう一つの性格が付加される。
室町期以降になると、偏諱のほとんどが主君から従者へのものになっていくが、
鎌倉期なら、そうではない偏諱もかなりある。

それに、そもそも鎌倉期の場合、得宗と御家人の間には(現実は別にして)
建前上は主従関係はなく、御家人は将軍に直属しているわけなのだから、
偏諱の授受が必ず主従関係を前提にしているのならば、得宗から御家人への
偏諱はおかしな話ということになってしまう。
301日本@名無史さん:2007/09/11(火) 23:58:54
もっとも、そうは書いてみたものの、義貞の「貞」が得宗からか堀口氏からか
どちらの可能性が高いかといわれれば、やはり得宗だろうな。
もちろん仮に誰かからの偏諱であるとすればだけど。

ただこの時代の足利流や新田流の「貞」の字は堀口氏の例もそうだけど、
かならずしも得宗の偏諱とばかりいえないものもある。
例えば今川貞世なんかは、生年から考えても得宗貞時からの偏諱とは
考えられないが、「貞」を使用しているし、貞世の子孫の系図上にも「貞」の
字が頻出する。

まあ結局真相は闇の中ですな。

>>297
鎌倉時代の新田氏は、惣領家が無位無官なのに庶流が官位を持っているケースは
よくある。
他にも世良田頼氏も三河守とかね。
また山名氏や里見氏は、頼朝との関係の経緯から新田宗家の惣領権に属さない
独立御家人として扱われていた可能性も否定できない。
302日本@名無史さん:2007/09/12(水) 00:13:40
>>298
守護代>国人ではないよ。

守護代は守護の被官(家臣)なのだから、本来的には将軍から見れば陪臣。
一方、守護被官化していない独立の国人領主で、その領主権が現地における
地頭職なんかに由来している場合は、本来的には独立御家人なのだから、
将軍から見て直臣となる。

よって有力な国人領主クラスが将軍の偏諱を貰っても、別に奇異でも何でも
ないが、守護代など守護被官への将軍偏諱は、応仁以前ではかなり不自然。

戦国期においては、斉藤義龍や長尾晴景など守護代クラスへの偏諱があるが、
これは既に彼らが実質的に守護といえる状態になってしまっているということが
大きいだろう。
また尼子晴久や朝倉義景なんかは、先祖は元々守護代であったが、偏諱を貰う
段階では既に正式に守護職を手に入れている。
303日本@名無史さん:2007/09/12(水) 02:38:13
>>287
しかしさー、ちょっと調べただけでもまだまだ類例が出てくるのに、

>だけww

なんていって、他にはないと断定しちゃうあたりが厨丸出しなんだもの。
304日本@名無史さん:2007/09/12(水) 02:42:25
>>302
室町の奉公衆なんかだと現地での規模は大して有力とはいえないようなレベルの国人領主でも将軍偏諱は割と普通に出てくるね。
ただ守護代への偏諱はかなりイレギュラーな臭いがする。
305日本@名無史さん:2007/09/12(水) 16:06:59
丹波の波多野氏は、あれは細川の被官扱いなの? それとも将軍直臣?
偏諱貰ってる人物がいるけど。
306日本@名無史さん:2007/09/12(水) 16:12:22
>>300
室町以降でも、将軍から公家への偏諱は、主従関係では説明できない。
これは単に将軍が烏帽子親となって元服したに過ぎない。

特に摂関家クラスの公家なら、官位的にも将軍と同等かそれ以上だから、
主従関係や上下関係を前提にしてしまうと偏諱授受は説明が付かなくなる。
307日本@名無史さん:2007/09/12(水) 21:52:43
>306
 摂家にしても、官位こそ高くても将軍の機嫌を損ねれば勘当されて即出奔と
いう状態だし、年始に将軍のところに行ったり、儀式で現任の関白に裾をとら
せたりという状況ですね。
308日本@名無史さん:2007/09/13(木) 18:43:32
北条泰時は頼朝から片諱を賜り「頼時」と名乗っていたのに、何で「頼」を捨てて泰時を名乗ったの?
頼家からいちゃもんつけられたの?
実朝に遠慮したの?
309日本@名無史さん :2007/09/13(木) 21:10:09
>>308
図らずも源氏将軍を終わらせしまったので。

足利幕府の末期や幕末などの政権末期にはよくあること。
近衛晴嗣→近衛前久
島津茂久→島津忠義
毛利慶親→毛利敬親
310日本@名無史さん :2007/09/13(木) 21:19:07
三淵晴員の長男・藤英、次男・細川藤孝、藤英の子・秋豪など、この家はよくよく将軍の前名を
頂く家系のようだ・・・。
しかし、義昭の前名「義秋」から頂いた人間もいたんだねえ・・・
311日本@名無史さん:2007/09/14(金) 00:29:24
細川氏綱は、将軍義藤から偏諱を貰って「藤綱」になったという記録があるのに、
その後も何故か「氏綱」を使い続けている。
一方、氏綱の弟で典厩家を継いだ藤賢は、「藤賢」の名を使っている。
312日本@名無史さん:2007/09/14(金) 00:40:46
誰か将軍ごとの偏諱一覧作ってくれないか?
313日本@名無史さん:2007/09/14(金) 04:18:59
>>283
頼家ってある意味、頼義と義家の名前を合わせたわけでもあるから、なにげにスゴい名前だな。
他には源行家なんかも「家」の使用例だな。
確かに「家」の字が義家以降の河内源氏全体に認知されているのでなければ、頼家の命名の際に行家と同じ字を用いることは忌避しそうなものだろう。
314日本@名無史さん:2007/09/14(金) 09:33:16
>>313
>確かに「家」の字が義家以降の河内源氏全体に認知されているのでなければ、頼家の命名の際に行家と同じ字を用いることは忌避しそうなものだろう。
あんまり縁起が悪いとか、使うのを子孫に限定するとか当時は考えてなかった気がするけどね。

まったく同名の例でも
木曾義仲の前にも義仲がいる。(親父の義綱が、甥にあたる義忠(義家の後を継いだ)を殺したとされたときに一緒に死んでいる)
時代が下がった室町時代でも義仲の息子の清水義高(頼朝に殺された)と同名を足利義高(義澄)が使っている。
斯波義教と足利義教って例もあるな。

無論、頼家と名乗るときに義家を意識しないわけはないだろうけど、家という名乗りを特別視することはないと思うが。

315日本@名無史さん:2007/09/14(金) 13:36:58
行家の場合、頼朝系の初期鎌倉将軍家に直接的に仇をなした人物だから、単に重複を避けるとかというレベルとは次元が違うでしょ。
それにも関わらず「家」を使ったことは大きい。
316日本@名無史さん :2007/09/14(金) 20:53:24
行家は最初「義盛」と名乗っていたそうだよ。
しかし、「盛」は仇敵・平家の通字であるので改名したそうだ・・・。
名付ける前に気付かないかねえ・・・。
義経は同時代の九条良経と被るので、頼朝から「義行」に改名せよと散々いわれまくったそうだが、
未だに義経で通るから、改名しなかったのかね?
ちゃんと公式記録に残ってる?
317日本@名無史さん:2007/09/14(金) 21:04:38
>>312
どっかにそういうサイトあったぞ
318日本@名無史さん:2007/09/14(金) 21:06:58
義経は、頼朝と対立した後、義行ついで義顕と改名している。(本人がそうしたわけじゃなくて、朝廷の決定だけど)
最初は、頼朝と対立して逃げたときに九条良経と同じ読みの罪人だとよくないということで、
次に逃れているのが発見できるようにという意味を込めて顕(あらわれるという意味)の字を使った。


319日本@名無史さん:2007/09/15(土) 01:46:54
>>314
「家」(義家以降に分かれた家に特徴的に多く現れる字)を特別視しないというのなら、
「義」(頼義以降に分かれた家に特徴的に多く現れる字)も特別視すべきではない。
いずれも清和源氏全体には普遍化できないのだから。
ただ義家の子孫に当たる家系(当然頼義の子孫でもある)では、「頼」「義」「家」がいずれも使用頻度の高い字として現れることは否定し得ない。

>>316
行家の場合、少なくとも元服の段階ではまだ平家が源氏の仇敵となっているわけではないから気付くも何もないでしょう。
また義経の改名のからくりは>>318の通りだが、実際罪人となった後の義経は朝廷や鎌倉側の史料では「義行」「義顕」などと書かれている。
320日本@名無史さん:2007/09/15(土) 13:47:06
源義平・朝長の二人についてなんだが。

義平・朝長の名は父親の義朝から一字づつ取ったというのはわかる。
これだと義平・朝長の両者には、はっきりとした序列があったという
ことになるのかな。
321日本@名無史さん :2007/09/15(土) 16:29:22
>>320
オレも疑問に思ってた・・・。
義平の母と朝長の母の身分は同じ遊女なのに、朝長だけ「頼」も「義」も付かないのな・・・
義平は若年ながら武勇にたけ、叔父・義賢を討つなどして父の勢力拡大に多大な貢献有り。
頼朝は正室の長男なので、源氏本来の通字「頼」と「自分の一字「朝」を与えた。
あまりにも待遇が違いすぎるよな・・・

義朝の子でもう一人、「頼」も「義」も付かないのが阿野全成。
出家したまま挙兵したので仕方がないが、せめて還俗してそれらしい名前付ければいいのに・・・
322日本@名無史さん:2007/09/15(土) 19:17:27
義平生母は三浦氏の養女、朝長生母は波多野氏養女。但しいずれも実娘説アリ。
まあいずれにしても、母方のバックにいる氏族が三浦氏と波多野氏では、待遇に
差があっても仕方がない。
もちろん摂津・大和・河内の3源氏共通の通字である「頼」を用いた頼朝とも
雲泥の差はあるが。
323日本@名無史さん :2007/09/17(月) 17:04:29
伊勢平氏の名付け方もちょっと変わってる。
忠盛以前すなわち正盛の頃までは、嫡男以外に「盛」の字をあまり使わなかった。
しかし、忠盛以降は次三男以下にも「盛」を使うようになった。
さすがに七八男以上になると、父親や長男の名から一時拝領という形になるが・・・
これってどういう基準があるのかな?
母親の身分とか関係なさそうだけど、単に生まれ順?
324日本@名無史さん:2007/09/17(月) 20:10:42
正盛・忠盛が子孫にとって、特に意識するような大きな功績を挙げた人物と思われていたってことだろ。
325日本@名無史さん:2007/09/17(月) 20:18:32
>>323
母親の身分とか関係あるんじゃないの。

家を継がなくても一族の中でそれなりの位置を占めていられる
男子には、通字を使うんじゃないの。

326日本@名無史さん :2007/09/17(月) 20:57:15
>>325
清盛・重盛親子は長男だけど、母親の身分が低い。
でも、本人に才気があるので嫡子というのは分かるけど、重衡の場合、清盛の正室時子の所生なのに、
「盛」の字が付けられなかった・・・。
更に、嫡流である重盛の子供達はまだしも、嫡流でもない忠盛の三男に過ぎない経盛が自分の息子に
「盛」の字与えまくりというのが分からない・・・。
宗盛や知盛も自分の息子達に「盛」を控えていたのに・・・。
327日本@名無史さん:2007/09/17(月) 20:57:49
>>323
モリモリがんばれよってことだよ
328日本@名無史さん:2007/09/17(月) 21:16:07
>>326
重盛の母方、高階氏より、時子の実家、堂上平氏は家格が上なのか?
時子の兄時忠が出世しはじめたのは、異母妹滋子が高倉天皇を生んだあと、
時子が清盛に嫁いで随分後のことだと思ったが。
329日本@名無史さん:2007/09/17(月) 21:24:16
だから、嫡子だから通字、庶子だから別の字を使うなんて厳格なルールなんてないって。
特定の家の特定の時代によってはあるかもしれないが、それが”普遍的な武家の常識”なんじゃない。

母親の身分でもない、官位・経歴をみても何か分類できそうなわけでもない。
そもそも個々の名前が忠盛なり清盛が決めた名前なのか、それぞれの親が決めたのか、烏帽子親が決めたのかもわかんないだろ。
330日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:01:20
>>323
伊勢平氏の嫡流の系図上では正盛以前に「盛」がつくのは貞盛しかいない。
しかも貞盛の段階では、伊勢平氏という家系が確立しているわけではない(他の系統と未分化)。

>>329
むしろ近世の武家だと、嫡子は「将軍偏諱+全然関係ない字」という名前で、
庶流が代々通字を使用ってことも多いからね。

それに平安後期の場合、そもそも家の通字という概念自体がまだ確立する
途上だから、この時代の命名法に後世的な“常識”(?)を適用して議論する
ことそのものがナンセンスだろう。

もちろん仰るとおり、烏帽子親が誰かということも重要なポイントだろうね。
331日本@名無史さん:2007/09/17(月) 23:28:18
>>326
経盛の子で盛がついたのって敦盛くらいじゃないの。
広盛とかいうのもいたんだっけ。

子供に盛与えまくりなのはむしろ五男の頼盛。
まあ彼の場合は嫡流筋として遇されていた時期もあった影響か。
332日本@名無史さん :2007/09/30(日) 13:55:57
今の水戸徳川家の通字は「斉」。
2〜3代前まで圀公の「圀」だったのに・・・。
良くも悪くも維新への筋道を作った水戸学のルーツは光圀公であり、そういう偉大な先祖への回帰は当然だが
なして「斉」?
8代斉脩の正室は確かに家斉の娘だが、子供を産んでないし、家斉からの養子も断ったはずだし。
藩士総ぐるみで反対したのに、そんな大嫌いな家斉の字が使われているのはなぜ?
333日本@名無史さん:2007/09/30(日) 14:30:50
斉昭の斉だろうがアホ
334日本@名無史さん:2007/09/30(日) 16:08:06
慶喜の子孫が「慶」を通字にしているようなものか。
335日本@名無史さん:2007/09/30(日) 16:44:25
明治からあとの水戸家の当主名なんて知らん
336日本@名無史さん :2007/09/30(日) 18:07:59
それならさあ、普通は「昭」の字の方をつかわね?
余計な養子を押しつけようとした家斉なんかの字を使うよりは・・・
慶喜の場合は自分を取り立ててくれたし、13代将軍にまで考えてくれた人だから
恩義は感じてるかも知れないが・・・>家慶
337日本@名無史さん:2007/09/30(日) 19:25:52
>>301
> 鎌倉時代の新田氏は、惣領家が無位無官なのに庶流が官位を持っているケースは
> よくある。
> 他にも世良田頼氏も三河守とかね。

世良田頼氏が三河守になったのって、新田宗家の政義が自由出家で惣領職を剥奪されてからだと思ってたんだけど違うの?
新田宗家が無位無官になったのもそれ以降だと思ったが?
あとその前にあった堀口が美濃守ってのも、建武の中興以降のことじゃないのかな?
338日本@名無史さん:2007/10/01(月) 14:01:25
世良田頼氏の三河守は足利つながりだっつーの
339日本@名無史さん:2007/10/01(月) 20:10:05
>>338
どういうこと?
340日本@名無史さん:2007/10/01(月) 20:46:57
しかしマニアックなスレだな。好きよこういうの
341日本@名無史さん:2007/10/01(月) 23:17:36
あたしも
342日本@名無史さん:2007/10/02(火) 00:34:22
女かよ
343日本@名無史さん:2007/10/02(火) 02:59:19
>>339
三河の守護は足利氏っていいたいんじゃね?
344338:2007/10/02(火) 04:18:07
ごめん
適当に言ってみただけ
345日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:04:10
足利氏の推挙による成功で三河守になったとか?
346日本@名無史さん:2007/10/11(木) 00:17:57
片諱の風習って、普通の歴史の教科書では説明してないから、みんな気付くの遅かったんじゃないですか?
拙者も江戸大名の配地図見て、やたら「光」や「綱」のつく大名が多いのを不思議に思ってたんですが、
大河ドラマの「吉宗」でナレーションの江守徹が片諱の説明したので、目からウロコが落ちた次第でござる。
347日本@名無史さん:2007/10/11(木) 21:13:15
いつのまにかあたりまえに思ってたけど
小学館の漫画でゴダイゴが高氏に尊氏にしなって言ってた記憶と
吉宗が綱吉から吉もらった話とかと
そういや光圀だ光友だいうな池田も光政っていたな
ああそういえば甲府宰相綱豊とか言うな
ってころ信長の野望やってるとなんか譜代一門って同じ字つかってるな
って思ったころ大河で毛利やってて大内から一文字もらうとか言ってんなとか
なんかそういう積み重ねでなんとなく知ってるところに概念が与えられた感じかな
348日本@名無史さん:2007/10/11(木) 23:03:17
単純に息子なら父親から一字、娘なら母親から一字みたいなかんじであるじゃん
349日本@名無史さん:2007/10/12(金) 00:50:34
小野妹子とか?
350日本@名無史さん:2007/10/12(金) 02:01:32
>>346
不思議には思っていなかったが、全く同じ記憶はあるな
351日本@名無史さん:2007/10/12(金) 21:52:10
小学生6年の時、百科事典に載っていた系図を見ていて
平氏(盛・良)、北条氏(時)、源氏・足利(義)、武田(信)が
つく名前が多いと気がついた。それでなんとなく、そんな
風習があるんだとわかった。
352日本@名無史さん:2007/10/12(金) 21:58:55
それは通字の風習だな
通字は割りとすぐ気づく
系図ひとつみてたらわかるから
353日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:20:47
河内源氏嫡流の通字は頼
義国流の通字が義

ってことでいい?
354日本@名無史さん:2007/10/12(金) 22:49:13
頼って頼朝以前だと頼義まで遡るよ。
やっぱり河内源氏は義が若干上なんじゃないか。
355日本@名無史さん:2007/10/13(土) 01:31:29
上も下も無いだろ、そんなの。
足利将軍家がそうだったというならわかるけど。
356日本@名無史さん:2007/10/13(土) 02:58:01
>>353
「頼」は摂津・大和・河内の3源氏に共通で使用頻度が高い字。
一方、「光」は摂津源氏に特徴的に多く、「信」「義」「家」などは河内源氏に特徴的に多い。
特に頼義・義家父子以降暫くの間は、河内源氏では「義」が大流行。
357日本@名無史さん:2007/10/13(土) 13:34:02
>>355
義詮から義昭まで義使ってるだろ
358日本@名無史さん:2007/10/13(土) 20:11:53
>>357
だから、足利将軍家では「義」が重んぜられていた、ってことを
言ってるんだが?
でもそれ以前の源氏ではどっちが上かなんて無いんじゃないのってこと。
359日本@名無史さん:2007/10/14(日) 11:05:03
>>358
だから、足利将軍家がそうだったというならわかるけどって言うけど現に頼は通字ではなかっただろ。
頼朝以前でも義は若干上(「好まれていた」なら満足か?)だったようだが頼が通字として重んじられていたとは到底思えん。
よって>>353は不同意。
有名な頼朝と跡継ぎが頼家で二代続いたからそういうイメージを持ったんだろうけど。
360日本@名無史さん:2007/10/15(月) 17:46:39
小さい頃は通字と偏諱だけで構成された系図にあこがれてた
361日本@名無史さん:2007/10/15(月) 20:06:39
>>360
あんまりないよね

http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/ikeda.html
光政 綱政 * 宗政 治政 斉政 * 慶政 茂政

通字が2字ある
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/date.html
忠宗 綱宗 綱村 吉村 宗村 重村 斉村 * 斉宗


途中までいい線
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/nabeshima.html
光茂 光茂 吉茂 宗茂 * 重茂 治茂
362日本@名無史さん:2007/10/17(水) 20:14:18
秋田の佐竹家が江戸時代に将軍の片諱を受けず、通字の「義」で通したのって、
幕府に対して具合が悪くなかったんでしょうか?
「ウチは徳川風情と違って本物の源氏ですから」って言ってるような。
363日本@名無史さん:2007/10/17(水) 21:15:39
喜連川家だったか、鎌倉公方の娘さんの婿さんが家を興してなかったか
364日本@名無史さん:2007/10/17(水) 22:21:19
>>361
なぜ池田継政を?
365日本@名無史さん:2007/10/17(水) 22:26:17
ああ家継っていたなw
素で忘れて*にしちまったわwwwwwwwww
366日本@名無史さん:2007/10/17(水) 23:05:33
伊達周宗ってなんで偏諱受けてないんだろ?
367日本@名無史さん :2007/10/17(水) 23:27:51
お目見え(将軍の謁見)が済む前に脂肪>>366
お目見えのあと、偏諱を賜る。
まあ、数えで十七だったし・・・
そのくせ、数代前で同じく夭折した光宗は偏諱を賜ってるのな。
368日本@名無史さん:2007/10/17(水) 23:46:29
光宗は母親が徳川秀忠の養女だったから特別待遇だったんでしょうね
369日本@名無史さん:2007/10/18(木) 01:19:09
>>359
河内源氏では頼義・義家父子以降「義」の字が流行したが、頼朝・頼家は
河内源氏だけでなく、摂津・大和源氏をも含めた清和源氏(武家源氏)全体の
上に立つことを意図して、「頼」を用いた。

足利将軍家は、前代の鎌倉将軍家で多用された「頼」との重複を避け、
なおかつ自らが義家の子孫であることを強調するために、「義」を通字とした。

徳川将軍家は、鎌倉将軍家の「頼」や足利将軍家の「義」との重複を避け、
なおかつ自らが義家の子孫であることを主張するために、「家」を通字とした。
370日本@名無史さん:2007/10/18(木) 01:36:12
>>360-361
室町期の細川京兆家も割といい線いく。
満元、持元、持之、勝元、政元、高国、晴元、
→高国以降は父子相続じゃないのであれだが、もし持元が早世しなければ、
かなり長く「元」だけで繋がっていたかも。

あと室町〜戦国期の伊達氏(6代連続)
持宗、成宗、尚宗、稙宗、晴宗、輝宗、
→成宗は義成(義政の初名)からの偏諱。

室町〜戦国期の毛利氏
熙元、豊元、弘元、興元、(元就)、隆元、輝元、
→嫡子でなかった元就を除けば、偏諱+1つの通字で続く。
但し偏諱を貰う相手が時期によって見事に変わるw
熙元は山名時熙、豊元は山名持豊、弘元は大内政弘、興元は大内義興、
隆元は大内義隆、輝元は足利義輝からのそれぞれ偏諱。
371日本@名無史さん:2007/10/18(木) 02:39:20
家康は義家にあやかって「家」を名乗ったが、
徳川将軍家が「家」を通字としたのは、家康にあやかってじゃないのか?
372日本@名無史さん:2007/10/18(木) 11:27:01
>>371
結局同じことでは?
家康が義家および義家流の諸家に割とよく使われた「家」の字を意識して、
家康と名乗ったことは間違いないが、その子孫も家康にあやかって「家」の字を
使い続けるということは、自らが義家流に属する家だと主張し続けることに
ほかならないわけだから。
373日本@名無史さん:2007/10/18(木) 11:41:30
>>370
細川奥州家

満経−持経−成経−尚経−尹隆−晴経−輝経
374日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:46:34
>>369
後付けのこじつけ
375日本@名無史さん:2007/10/18(木) 20:52:42
>>369
>河内源氏では頼義・義家父子以降「義」の字が流行したが、頼朝・頼家は
>河内源氏だけでなく、摂津・大和源氏をも含めた清和源氏(武家源氏)全体の
>上に立つことを意図して、「頼」を用いた。
はいはい。
じゃあ、実朝が頼の字を使わないのは、頼家が後継者として決まってたから差を付けたとでも言うの?
ってことは、範頼も改名させないとまずいですね。

義朝の弟に頼賢や頼仲がいるから、為義は彼らを後継者と意図してたってことなんでしょうね。
376日本@名無史さん :2007/10/18(木) 22:45:26
>>370
晴元の息子に昭元がいる。
残念ながら、信長の勧めでその妹をめとり、偏諱も賜って「信良」と改名したが・・・
377日本@名無史さん:2007/10/19(金) 01:03:23
>>376
昭元は管領になっていない。
晴元の後に管領になった最後の管領氏綱(高国の養子)は将軍偏諱じゃない。
378日本@名無史さん:2007/10/19(金) 22:41:45
伊達吉村はなんで「吉宗」にならんかったんだろう?
379日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:12:04
河内源氏では頼義・義家父子以降「義」の字が流行したと言うよりは、
河内源氏が清和源氏の一党から、独立した証とみる方がしっくりくる
と思う。
380日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:45:36
佐渡ヶ獄部屋。
琴桜、琴錦、琴富士、琴欧州、琴風。
琴の字。w
381日本@名無史さん:2007/10/20(土) 21:37:30
>>375
何度も出ているが、「義」の字が河内源氏のローカルな通字なのに対し、
「頼」の字は摂津・大和・河内の清和源氏系3源氏に共通して見られる字。
よって、河内源氏の庶流が「頼」の字を用いることについては、何も不思議な
ことはないし、また問題性もない。

なお為義段階での河内源氏嫡流は、河内源氏以外も含む全ての清和源氏の上に
立とうとするような意識は恐らくなかったであろうから、嫡流が「頼」を名乗る
ことに拘らないし、逆に庶流が「頼」を名乗ることにも頓着はない。
むしろこの段階では、河内源氏の嫡流(つまり頼義・義家の直系)であることの
証左となる「義」の字のほうが好まれたといえよう。

しかし頼朝段階になって、河内源氏以外をも含む全ての清和源氏の上に立つ
ことを指向するようになると、庶流ですら使用することがある「頼」を
全清和源氏の上に立とうとする者が使用しないのはマズいということになり、
頼朝・頼家は「頼」の字を用いた。
但し彼らは河内源氏(頼義・義家系)であるというアイデンティティも捨てた
わけではないから、頼家の命名に際して義家の「家」の字も使用した。

なお頼朝の元服は父義朝の生前であるため、頼朝が「頼」の字を使ったのは、
義朝の意向であったと考えられる。
おそらく義朝が河内源氏の勢力基盤を東国へシフトし、東国の武士達から武家の
棟梁のように仰がれるようになった辺りから、意識に変化が生じたのであろう。

因みに実朝の場合は、この名前自体が後鳥羽院による命名(押し付け)なので、
鎌倉側でどうこういうことはできなかったと思われる。
しかし承久の乱によって後鳥羽院の政治的影響力が排除されると、そのあとの
将軍(頼経・頼嗣)が再び「頼」の字を用いていることは注目される。
彼らは摂家将軍であり、もはや清和源氏ですらないのにも関わらず「頼」の字を
名前に使用したということは、頼朝以来の鎌倉幕府のトップとしての将軍の
名前には「頼」を用いるほうが好ましいという意識が醸成されていたからに
ほかならない。
382日本@名無史さん :2007/10/21(日) 00:19:19
>>377
昭元の場合は、元服した頃室町幕府が既に風前の灯火だったからねえ・・・
もう少し義昭が大人だったら、管領になれたであろうに・・・
383日本@名無史さん:2007/10/21(日) 01:02:45
>>382
京兆家は分裂後の高国系が「元」を使っていないのが痛いな。
その点、典厩家は分裂後もどちらの家系も「賢」を使っていて素晴らしい。
384日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:44:41
大島部屋
旭国、旭鷲山、旭道山、旭天鵬。
旭の字。w
385日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:45:32
実朝の「実」って九条兼実の一字をもらったの?
386日本@名無史さん:2007/10/21(日) 15:22:10
伊達宗村は自分とこの通字を偏諱としてもらったんだよな
どんな気分だったんだろう
387日本@名無史さん:2007/10/21(日) 17:12:13
>>386
父方の両親と母方の両親から同じ色のランドセルを同時にもらった子供みたいな感じじゃね
388日本@名無史さん:2007/10/21(日) 19:22:32
>>385
マジレスすると大炊御門頼実
389日本@名無史さん:2007/10/21(日) 21:47:27
>>381
だから妄想で語るなと。

>しかし頼朝段階になって、河内源氏以外をも含む全ての清和源氏の上に立つ
>ことを指向するようになると、庶流ですら使用することがある「頼」を
>全清和源氏の上に立とうとする者が使用しないのはマズいということになり、
>頼朝・頼家は「頼」の字を用いた。
摂津源氏が必ず頼の字を使うわけでもないし、頼を使うものが有力者というわけでもない。
(頼政の親父は仲政、息子は仲綱だし。多田行綱だっているし、美濃源氏は光が通字)

頼朝以降の源氏・藤原氏出身の将軍が、頼を通字としたのは確かだけど(実朝除く)、
単に頼朝の後継者として頼を使っただけともとれる。

それに、もし頼の字が武家源氏の棟梁として使われるべきものという意識が頼朝あるいは幕府首脳にあったとすれば、
(頼朝死後も頼を使っているから頼朝だけの考えではない)有力御家人で頼朝・北条氏とも関係が深かった足利氏が知らなかったとは思えない。
それなら室町幕府成立後に、鎌倉時代には使っていなかった義の字を復活させるのではなく、頼の字を使うだろう。
390日本@名無史さん:2007/10/21(日) 22:25:20
延々と源氏の通字を語ってる奴
源氏の通字スレでも立ててやりなよ
391日本@名無史さん:2007/10/22(月) 04:32:20
>>390
俺はいい加減に終わりにしたいんだけど、いつまでも執拗にかみついてくる
バカ(>>389)がいるから、困っているのよ。w
392日本@名無史さん:2007/10/22(月) 05:34:06
>>391
悪いけど俺は>389のほうが>381よりバカじゃないと思うw
393日本@名無史さん:2007/10/22(月) 11:55:15
平安期は兄弟間で通字を名乗ってたのが
鎌倉以降公家に間でも親子で通字を名乗るy
394日本@名無史さん:2007/10/22(月) 20:20:41
>>392
そりゃ、キミは>>389と同一人物だから、そう思って当たり前だよw
395日本@名無史さん:2007/10/23(火) 21:23:39
時津風部屋

部屋の名から
時太山、時葉山、時津海、時天空、時津洋

双葉山から
双津竜、

豊山から
豊の国、豊ノ島
396日本@名無史さん:2007/10/23(火) 21:25:01
俺の兄貴は親父の一字を使ってるんだ
俺はどこにも使われてないんだ
ひょっとしてみかん箱から拾われてきたのかな
397日本@名無史さん:2007/10/23(火) 21:47:21
>>396
電話帳をペラペラめくって適当につけたんじゃない?
398日本@名無史さん:2007/10/23(火) 23:04:13
>>396
嫡男と次男じゃ身分に雲泥の差があって当然
399日本@名無史さん:2007/10/24(水) 12:43:49
実際名前付きで拾ってくることは稀だろうて
400日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:35:55
時津風部屋

違うよ!

部屋の名から
時太山、時葉山、時津海、時天空、時津洋

>>双津竜の「津」は時津風の津

双葉山から
双津竜、

>>時葉山の「葉山」は双葉山の葉と山

豊山から
豊の国、豊ノ島

401日本@名無史さん:2007/10/30(火) 13:42:18
家光以降、将軍から「家」をもらった人っている?
402日本@名無史さん:2007/10/31(水) 20:40:40
旧藤島部屋(大関貴ノ花)

貴ノ浪、貴闘力、横綱貴ノ花

貴の字
403日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:43:39
>>401
徳川家基
徳川家慶
404日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:38:31
>>403
そいつらは偏諱じゃなくて通字使ってるだけじゃないのか?
家宣や家重は親父(養父)の偏諱じゃないし
405日本@名無史さん:2007/11/04(日) 05:25:03
>>393
通字が2つあり一代おきに交互に使う家があるが、あれは兄弟間の通字の
名残というか、兄弟間から親子間への過渡的形態。
要は通字は元々一族内で同世代であることを示す指標だったから。
なお日本以外の漢字文化圏では、今でも兄弟間通字の習慣が残るところも
あるらしい。

ただ日本の場合、皇室は後冷泉・後三条以降、嫡流が「仁」のみで
統一されてしまう(南北朝期の南朝を除く)。
406日本@名無史さん:2007/11/07(水) 19:18:22
うちの諱は代々同じ通字を使ってるなぁ
偏諱とかカッコイイ
407日本@名無史さん:2007/11/07(水) 19:32:35
明+通字で名付ければ
偏諱の気分が味わえるぜ
408日本@名無史さん:2007/11/07(水) 20:48:46
山下泰裕物語では、爺さんは「泰一」にしたかったが、親父が
「裕」は天からといっとたよな。

これも偏諱か?
409日本@名無史さん:2007/11/07(水) 20:52:48
>>408
あやかって(勝手に)つけたんだから、違うでしょ。
ちゃんと貰ったのなら偏諱だけど。
410日本@名無しさん:2007/11/07(水) 20:55:06
>>402
ニ子山一門で貴の通字を使うようになったのは、貴ノ花(初代)が最初
411日本@名無史さん:2007/11/08(木) 03:10:54
>>409
勝手に貰ってきたにしても、その字を下に付けるとは不敬だな。
412日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:30:10
>>389みたいな頭の悪そうな無駄に長い長文レスを見ると吐き気がするな。
まあ文章能力は一朝一夕にどうこうなるものじゃないにしても、
せめてもう少しこまめに改行しろよ。
413日本@名無史さん:2007/12/30(日) 10:46:12
pc画面見すぎて肩凝ったんじゃないか
414日本@名無史さん:2007/12/30(日) 11:14:17
>>353が一番頭悪そうだけどな。
415日本@名無史さん:2007/12/30(日) 18:53:42
>>414
一番かどうかは別にして頭悪そうという点は同意。
416日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:04:48
>>377
細川氏綱は一応、将軍義藤(義輝)から一字貰って藤綱になったって説があるね。
417日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:24:54
徳川御三家って、どうして偏諱を貰うと通字とは全く関係のない字との
組み合わせだらけになるのかな?
418日本@名無史さん:2008/01/02(水) 09:46:43
偏諱+通字という決まりは、特にないのでは?
御三家は2代目から偏諱をもらってるから、通字が成立してなかったと思う。
義とか頼は連枝の通字であって、維新前は御三家そのものの通字ではない。
419日本@名無史さん:2008/01/02(水) 12:30:32
光友は光義からの改名、
綱誠も綱義からの改名。
このあたりの事情に詳しい人いない?
420日本@名無史さん:2008/01/02(水) 16:43:54
三保ヶ関部屋 増位山 太志郎
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19700301.htm

増速斗(ますはやと、元・万がく雷、すでに引退)
増昴(ますのぼり、現・郡山)
増隼(ますたか、現・立神)
増健(ぞうけん、現在は行方不明)
くらいなら覚えてる。もっといるはずだから、あとで調べてみる。
どれも一見で読めない上にゴロが悪いので、なんとかしてほしかった。
421日本@名無史さん:2008/01/06(日) 12:32:28
>419
綱義からの改名は、綱吉をはばかってのことでしょうね。
その次も、「吉」を拝領する以上、「吉義」にもしがたいということだろし。
422日本@名無史さん:2008/01/06(日) 20:34:25
>>421

>>綱義からの改名は、綱吉をはばかってのことでしょうね。

たぶん違うでしょうね。
私も綱吉をはばかったのかと考えましたが、以下のように時期が少しずれています。
何かにはばかったならば、光友、綱誠は同時に改名すると思いますが、実に9年も違っています。
綱吉との関係でいっても、徳川綱吉になってから2年余り過ぎており、まだこのときに綱吉が将軍家世子になっていないことから言っても、
紛らわしいから改名することになった場合、改名すべきは、あとから徳川「つなよし」と名乗った綱吉のほうになります。

光義→光友:寛文12年(1672年)
綱義→綱誠(従三位中将):寛文3年(1663年)
松平綱吉(従三位中将):承応2年(1653年)→徳川綱吉:寛文元年(1661年)→将軍家世子、将軍就任:延宝8年(1680年)



423日本@名無史さん:2008/01/08(火) 23:04:49
関東公方家の偏諱

氏満・満兼・満直・満隆・満貞  ←義満
持氏・持仲  ←義持
義久  ←あぼーん

成氏・政氏  ←義成=義政
高氏(高基)・高實  ←義高
晴氏・晴直・晴泰  ←義晴
藤氏・藤政・輝氏・義氏  ←義藤=義輝

なんだかんだ言ってちゃっかり貰ってるな。
拒否したらあぼーんになっちゃうわけだけどね。
424日本@名無史さん:2008/01/09(水) 10:08:05
一々拝領するんじゃないのか?
それにヘンキで将軍の「義」はあたえられるのか?
義氏の義はちがうだろ、と思うんだが
425日本@名無史さん:2008/01/09(水) 20:52:28
「義」を与えるかですが、足利義栄はどんどん与えていますよ。

義氏は義栄からの偏諱じゃないですか。
426日本@名無史さん:2008/01/10(木) 13:11:11
義久の「義」は持氏が勝手に名乗らせて問題になったあれ。
427日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:52:09
脱線しますが、ご報告いたします。

音楽家の小沢征爾の「征」と「爾」は、満州事変の英雄、板垣征四郎と石原莞爾にあやかったそうです。
小沢征爾の父の小沢開作(満州在住の愛国活動家だった)もこの2人と同様に満州事変の陰謀に加わっていたそうです。
428日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:03:19
小澤俊夫先生は誰にあやかったの?
429日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:42:55
>>426
そう。それであぼーん。
430日本@名無史さん:2008/01/13(日) 13:23:03
>>425
義氏は義輝だろ。

そもそも義栄から偏諱を貰った実例ってあるのか?
431日本@名無史さん:2008/01/13(日) 14:56:26
足利政氏の嫡男は、時の将軍・足利義高(義澄の前名)から偏諱を賜り、鎌倉公方の慣例に倣い、通字である「氏」を用いて最初
「高氏」と名乗ろうとしたが、遠祖である初代将軍・尊氏の前名と被っては畏れ多いということで、初代鎌倉公方・基氏の名前を
下に置いて「高基」としたそうだ。
最初に気づけよ!
432日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:17:48
あっちは最終的には尊氏だったからまあいいか、っていうことにしてたけど、京の将軍家周辺からクレームが来て気まずくなったとか?
義氏だって上総三郎義氏と同姓同名だけど、こっちは昔過ぎて誰もガタガタ言わなかったか。
433日本@名無史さん:2008/01/13(日) 16:23:43
あげるなら義輝の義じゃなくて輝で、輝氏じゃなかんめえか
上杉政虎にも輝を与えてるし、兄貴の藤氏とも被らないし
それとも過去にえらい輝氏がいたの?

まったく関係ないけど、輝と褌ってぱっと見にてるな
434日本@名無史さん:2008/01/13(日) 16:43:31
義珍とかいるけど、珍は嫌だよな
俺がこんな名前貰ったら改名するね
435日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:33:08
>>434
馬鹿者!チンポ・・・ いや、珍子内親王様に対して失礼だぞ!
436日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:02:35
>>433
輝氏は義氏の兄弟にいるじゃん。
足利輝氏でぐぐってみたらこんな本が出てきて、
義氏の兄弟四人について個別に考察してあるみたい。
誰か読んだ人いますか?

ttp://www.hanawashobo.co.jp/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-8273-1207-9
437日本@名無史さん:2008/01/13(日) 22:38:02
>>435
おもわずぐぐったじゃんw
・・・ホントにいたんだ(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
438日本@名無史さん:2008/01/14(月) 16:41:31
阿保親王とかいうのもいるよね
439日本@名無史さん:2008/01/15(火) 21:28:30
>>434
だから義弘に改名しているね。
440日本@名無史さん:2008/01/16(水) 01:21:30
>>439
「だから」なのか?
本当にそんな理由でw
441日本@名無史さん:2008/01/16(水) 13:03:46
「義珍」とか他にも坊さんの名前でありそうな気がしてw ROMだけしていたのだが
・・・やっぱり半島で暴れた猛烈爺様のことかw

ちなみに改名の理由は不明。
諸史料から改名の時期は天正15年頃(島津氏が豊臣家に降伏した年)というのは分かっているが。
ちなみに義弘以前の島津氏歴代には「珍」も「弘」も使用された形跡がない・・・
442日本@名無史さん:2008/01/16(水) 20:47:58
琉球で珍って名前よくあるよな
もしかして琉球の王族の落胤かなんかか?
443日本@名無史さん:2008/01/17(木) 04:32:53
珍くらい何だ。
曽我兄弟のお母さんの名前なんて満江(まんこう)だぞ。
444日本@名無史さん:2008/01/18(金) 19:06:21
>>436
輝氏いたみたいだな
じゃあ義をあげるしかないのか
しかし、義をあげるぐらいなら使ってない藤を下にもってくるとかありそうなもんだが
でも氏藤って言いにくいしな
通字の代わりっていうことで晴藤とか
で、輝と褌って似てるよな?な?
445日本@名無史さん:2008/01/18(金) 22:53:47
>>444
うざい
446日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:17:14
↑うざいとしか表現できないゆとり
447日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:25:01
どっちもうざいでいいから、やめとけ。
448日本@名無史さん:2008/01/19(土) 03:10:10
>>441
義久・義弘兄弟の「義」の字って将軍家からの偏諱?
449日本@名無史さん:2008/01/19(土) 03:13:42
>>432-433
藤氏と張り合っていたからこそ、「藤」の字より格上の「義」の字を求めたとかじゃね?
「義氏」なら先祖返り的な命名だから縁起もいいだろうし。
もっともいくら先祖返りとはいっても、さすがに高基を「高氏」にするのはまずかったと。
450日本@名無史さん:2008/01/19(土) 07:13:03
>>441
>ちなみに義弘以前の島津氏歴代には「珍」も「弘」も使用された形跡がない・・・

それを言い出すと近世の島津本家の当主の名前なんて代々そんな感じだよ。
451日本@名無史さん:2008/01/19(土) 10:28:16
>>448
たぶんそう。

このあたりは面白い話があって、相良氏の当主が功績を立てて
「義」の字を将軍からもらったことに対して、大友義鎮と島津
義久が抗議したという話が残っている。
452日本@名無史さん:2008/01/19(土) 13:10:17
義滋と晴広は金で偏諱を買ったらしいけどそれはセーフなのか
453日本@名無史さん:2008/01/19(土) 17:17:22
関係ないけど相良は修理大夫の官途も金で買ってて
大友が家格不相応だと幕府に対して抗議してた
当の大友も左衛門督という家格不相応な官途を貰ってるのに
454日本@名無史さん:2008/01/19(土) 17:27:54
>>448
義久は足利義輝の
義弘は足利義昭の 偏諱

ちなみに義昭から偏諱もらった人はかなり珍しいと思われ
だから「義珍」と名乗ったわけでもなさそうだがw

>>450
島津家に限らず国持大藩大名は将軍家から偏諱もらうから
元服したときの初名は一応通字守っているようだけど
455日本@名無史さん:2008/01/19(土) 20:28:09
忠平だったな。

実は大友義鑑も最初は親敦と名乗っていたが将軍家から偏諱をうけて
義鑑と名乗った。
456日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:25:13
系図見てると微妙に通字が変わっていくのが面白い

正広
義広
忠広
忠長
忠綱

みたいな感じで
457日本@名無史さん:2008/01/20(日) 00:54:04
自分なんかは「どれかに統一しろよ!」とか思っちゃうけどなw
458日本@名無史さん:2008/01/20(日) 04:45:56
>>453
修理大夫の官途を家格不相応って、大友が幕府に抗議したのは有馬晴純の
ときじゃなかったっけ?

>>451-452
相良氏の場合、義滋→晴広→義陽って感じで、一旦「義」の字になったのに、
その次の代は下の字になって、そらにその後再び「義」の字になったんだよな。
これも相良氏に「義」の字は家格不相応って大友氏が抗議した結果とか。

大友ってやたらプライドの高い家なんだな。
459日本@名無史さん:2008/01/20(日) 04:47:07
>>454
「偏諱+通字」という名前ではダメなのか?
460日本@名無史さん:2008/01/20(日) 12:44:21
>459

岡山の池田家なんかはそのパターンだね。光政以来偏諱+「政」でずっと続いている。
例外は斉政の養子で同じ家斉から偏諱をもらった斉敏だけ。
461日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:12:36
島津は綱久まで通字の「久」を使ってたが、幕末の茂久(忠義)まで久の字が復活しなかった。
この数代の間に「久」の字が復活しても良さそうなのに・・・。
ところで、島津は斉宣−斉興−斉彬と養子抜きの親子三代家斉から偏諱を賜った珍しい家系。
しかし、斉宣の「宣」は家宣の「諱」だが、1世紀前の将軍とはいえ下に敷いてもいいのかね・・・。
462日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:45:37
>>461
島津家をネタに取り上げると

将軍     島津家
初代 家康→藩主初代 家久
2代 秀忠→(該当無し)
3代 家光→2代 光久
4代 家綱→2代世子 綱久
        3代 綱貴
5代 綱吉→4代 吉貴
6代 家宣→(該当無し)
7代 家継→5代 継豊
8代 吉宗→6代 宗信
9代 家重→7代 重年
        8代 重豪
10代家治→(該当無し)
11代家斉→9代 斉宣
        10代斉興
        11代斉彬
12代家慶→(該当無し)
13代家定→(該当無し)
14代家茂→12代茂久(明治維新後に忠義に改名)
15代慶喜→(該当無し)

3代の「貴」は島津貴久から持ってきたんだろうと推測される(「久」を使うと2代世子とかぶるから)
4代は父に習った物だろうと思われる
だがしかし 5代から11代までは無茶苦茶だw
463日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:47:08
島津氏の2大通字は「久」と「忠」なんだから、綱久の次は綱忠にしておけば
よかったのでは?
464日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:52:13
>>461
まあ家斉の場合、在職期間が長いから、「斉」の字が2世代にわたって見られる
ケースは多くの大名家が該当するが、さすがに3世代となると珍しいな。


>しかし、斉宣の「宣」は家宣の「諱」だが、1世紀前の将軍とはいえ下に敷いてもいいのかね・・・。

室町幕府のケースだと、細川之持とか畠山高政とかみたいに1世紀前の将軍の
諱を下につけた名前は結構見出せる。
465日本@名無史さん:2008/01/20(日) 14:04:07
>>462
無茶苦茶な大名は島津に限らない。
特に前田なんて嫡流の当主に「偏諱+通字」になっている名前が見出せない。
466日本@名無史さん:2008/01/20(日) 14:11:33
島津の場合、偏諱ではないが久光の名前も不可解だ。
なぜに自分の直系の先祖光久の名前を逆にしたんだ?
467日本@名無史さん:2008/01/20(日) 14:16:48
>>463
初代当主の名前が「忠久」で「忠」は先に来ているから、絶対下にしてはならないと言う不文律があったようだ。
本宗家は勿論島津家の分家でも「久○」は普通に存在するが「○忠」はいない。
明治時代以降でもしっかりこの規則を守っているのがおもしろい。(現当主は「修久」、ご子息は「忠裕」)
468日本@名無史さん:2008/01/20(日) 17:31:10
むしろ維新後は嫡男は「忠○」で統一されてるな。
修久氏にも、早世した忠敬氏という兄がいる。
469日本@名無史さん:2008/01/21(月) 05:09:47
分家の中には「久」と「忠」が一代おきに交互の家もあるようだ。
公家によくある命名法だが。
470日本@名無史さん:2008/01/23(水) 15:19:11
今川氏真ってどうして偏諱を貰っていないんだろ?
今川義元が「義」の字を貰った理由って、武田晴信が「晴」の字を貰ったことに
対抗してそれより格上の「義」の字を申請したって聞くけど、息子については
偏諱とか考えなかったのかな?
武田晴信も息子(義信)については「義」の字を貰っちゃっているのに、
今川義元は息子の名前では張り合う気がなかったのか?
471日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:58:59
>>467
先週テレビに出てた、鹿児島・熊本間の新幹線開通で存続が危ない私鉄の社長さんってのは薩摩島津家の跡取なんだ。

関東八館
【佐竹氏】義篤−義宣−義盛=義憲−義俊−義治−義舜−義篤−義昭−義重
【小田氏】治久(後醍醐天皇、高知/北条高時)−孝朝−治知−持家−知久−成治−政治−氏治
【小山氏】氏政−義政=泰朝−満泰−持政=成長−政長=高朝−秀綱
【長沼氏】秀直−義秀−満秀−憲秀−以下不明
【結城氏】直光−基光−満広=氏朝−持朝=成朝−氏広−政朝−政勝=晴朝
【宇都宮氏】氏綱−基綱−満綱=持綱−等綱=正綱−成綱−忠綱=興綱−俊綱−広綱
【那須氏】資氏−資重−資持−資実−資房−政資−高資=資胤−資晴
【千葉介氏】氏胤−満胤−兼胤−胤直=孝胤−勝胤−昌胤−利胤−親胤

実際んところ、那須って守護になってない気がすんだけど。
で↓の、将軍家や関東公方から偏諱を賜い、鎌倉時代に明確に守護であったり
南北朝期の一時期に守護であったとも考えられる宍戸や大掾は、八館には数えられてないのよね。
472日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:59:31
その他の関東国人
【宍戸氏(1)】朝里−氏朝−満朝−持里−政家−政里=義綱−義長
【宍戸氏(2)】朝里−基家−持朝−以下不明
【宍戸氏(3)】朝里−基里−満里−持重−以下不明
【常陸大掾氏】高幹(北条高時)−詮国−満幹=持幹−清幹−高幹−常幹−慶幹−貞国
【小高氏】高幹−直幹−以下不明
【小栗氏】基重−満重−助重
【簗田氏】直助−満助−持助−成助−高助−晴助
【河越氏】高重(北条高時)−直重−以下不明

小栗氏の系図には重貞−詮重−行重−基重とあるが、重貞が建武期の人なので詮重と基重は兄弟だろう。
満重を詮重の子、詮重の子とされる重弘(三河系の祖)を基重の子だとする説もあるので
常陸系・三河系との分流で系線の引き間違いなど混乱したものと思われる。
宍戸の系図もそうとう眉唾。小高高幹も正直出典がわからん。
473日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:55:13
たくさんある大掾氏の分家のうちなんで小高氏だけ出してきたの?w
鹿島や行方みたいな格上の分家もあるのに。

>南北朝期の一時期に守護であったとも考えられる宍戸や大掾は、八館には数えられてないのよね。

大掾氏はれっきとした国香流であり、武家の名門であるけど、鎌倉期には零落が始まってたと考えていいだろうね。
まあ、おごりも少なからずあっただろう。
現に国香流が武家社会の形成に果たした役割は非常に大きい。
国香流の子孫(女系も含む)でなければ武家とはいえない。
源氏も千葉氏も国香流の女系子孫になることによって、関東における地位が飛躍的にアップしたことは否めない。
474日本@名無史さん:2008/01/30(水) 08:47:14
>>471
ちがうよ 同姓同名の別人
何より年齢が合わない
475日本@名無史さん:2008/01/31(木) 01:14:40
>>473
小高遠江守直幹は系図以外の史料で裏も取れるし、直義からってのがレアだからだが
系図だけに見えるのは抜きで、大掾の分家で他に将軍家か関東公方から貰ってるのいた?
てゆうか、小高=行方氏なんじゃないの?
「義」だと小山、長沼氏のほかに鹿島氏の惣大行事平義幹ってのもいるんだが、この人は系図には見えない
てか、鹿島氏は系図と古文書に出てくる人名がまったく違う。

>おごりも少なからずあっただろう。
八館のが格下ってこと?

>>474
嶋津さん? なんだ〜
476日本@名無史さん:2008/02/07(木) 12:54:55
武田勝頼が「勝頼」のままで終わったのは、信玄が存命中に官位と偏諱を義昭に
請うていたが、信長の圧力で実現しなかったせいだとか・・・。
もし実現していれば、「武田昭信」もしくは「昭頼」あるいは、「義頼」か?
「義勝」は既に足利将軍にいるので。
477日本@名無史さん:2008/02/07(木) 13:57:09
義は将軍の通字だし父親ですら晴信だったのだから
使えないだろう。爺さんなんか信虎。
478日本@名無史さん:2008/02/07(木) 14:18:45
>>471
守護職を持つかということと、家格が高いかということは、必ずしもリンクしないでしょ。

>>477
勝頼の兄(晴信の嫡子)は義信だったといっておこう。
479日本@名無史さん:2008/02/07(木) 17:55:02
>>477
俺の敬愛する関東公方に足利義氏というのがいる
480日本@名無史さん:2008/02/07(木) 18:38:42
>>478
> 勝頼の兄(晴信の嫡子)は義信だったといっておこう。

それは将軍じゃなくて今川義元の義では?
481日本@名無史さん:2008/02/07(木) 19:04:32
義元が将軍から貰った義をまわすっての?
482日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:01:48
足利将軍家にとっての「義」は、徳川将軍家の「家」みたいなもの。
というより歴代将軍は初代尊氏以外はみな「義」がつくのだから徳川以上。
簡単にくれてやれるとは思えない。
483日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:02:08
金さえあれば、くれるんだが。
484日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:45:35
末期の足利は財政難だからなあ・・・
このスレを最初からよく見てみぃ。
官位の奏上と名前を切り売りして、何とかしのいでいた。
守護または守護代ででも義の字をもらった例:大内義隆、大友義鎮、朝倉義景、相良義滋
尼子義久や斎藤義龍とかも、そうかも
485日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:01:29
>>480
足利義輝から元服の時にもらったハズ
486日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:19:38
>>484
末期に限らず、足利将軍家の場合は、当初から「義」の字の偏諱として与える
ことが制度としてあった。
当然、下の字を与える場合よりも格式は高い。
逆に将軍からの偏諱以外で「義」の字を名乗ることは憚られた。

徳川将軍家の場合は、初期の頃に「家」の与えているケースはいくつかあるが、
やがて「家」の字を偏諱として与えることはしなくなり、偏諱として与えるのは
下の字に統一されていった。

あと守護代は将軍から見れば陪臣なので、将軍が直接偏諱を与えるようなことは
普通あり得ない。
朝倉氏の場合は、朝倉義景が偏諱を貰った段階では、すでに越前の守護として
認定されている。
尼子義久や斉藤義龍も同様(尼子氏の場合は既に晴久の段階で出雲等の守護に
補任されている)。
また相良義滋に関しては、本来的に守護でも守護代でもない単なる国人領主。
487日本@名無史さん:2008/02/09(土) 11:32:55
信玄は信虎から金ケチられたのかねぇ
普通ならこの代で義信になってるはずだが、格式的に下の方の晴信になってる
488日本@名無史さん:2008/02/09(土) 14:58:15
天皇から偏諱を受けた武士は足利尊氏だけ?
489日本@名無史さん:2008/02/09(土) 20:46:24
>>488
同時代に常陸の小田なんとかって人がやはり後醍醐天皇の
「治」の方を賜っている(治久だったかな?)

490日本@名無史さん:2008/02/10(日) 12:58:05
というか、後醍醐天皇以外に偏諱を与えた天皇はいるのだろうか?
不勉強で申し訳ないが。
491日本@名無史さん:2008/02/10(日) 20:11:34
>>458
頼朝以来の守護家だからね。
大友氏の場合、片諱の与え方が非常に秩序だっていて面白い。
そういう秩序を壊されてしまう危機感が、猛烈な抗議につながったんだと思う。

大友氏一族の通字は、「親」、他には「能」「直」「秀」もよく使われる。

大友家当主は、義右から将軍家から「義」の字を拝領し、本家の嫡子に準じる男子(晴英・輝弘)
にも将軍家から下の字を片諱として受ける。(義右の以前は将軍家から下の字をもらっていた。)

従属する大名、家臣には当主の下の字を与える。
この慣例は大友義長の頃から広がり始め、本家の家臣という立場が、
よりはっきりしている者(臼杵・吉岡・斉藤)から片諱を受け始めた。

従属する大名(城井・蒲池・麻生他)、有力一族・家臣(立花・臼杵・吉岡・斉藤・戸次・奈多他)は、
大友家当主の下の字の下に自分の家の通字をつけて名乗る。

従属する大名(蒲池)・有力な家臣(田北・臼杵・一万田)は、当主・嫡子以外に次男以下も、大友家当主
から一字書き出しを受ける。
小規模な家臣(若林・岐部・丹生等)でも直参なら一家の主は一字書き出しを受ける。

ただし、例外があって一族でも特に有力な志賀・田原・入田は大友氏の通字の「親」を使い続けている。
ただし、志賀・田原・入田の一族でも大友家の直臣の立場の者(例 南志賀・吉弘・巧網)は、大友家当主
から一字書き出しを受けている。

また、豊後大神氏の系統に属する有力な家臣(佐伯・阿南・由布)は、通字の「惟」を使っている。
それでも大友家の家臣という立場が、はっきりしている者(小原・寒田)は、大友家当主から一字書き出しを受けている。
492日本@名無史さん:2008/02/14(木) 19:06:00
>>487
武田は晴信以前に将軍偏諱を貰った先例がないね。
ただ中央から遠い甲斐武田・上総武田の系統はさておき、中央に近い
若狭武田・安芸武田の系統でも、偏諱貰ってる例が全然ないのは何故よ?
戦国期には若狭武田に武田義統って例はあるけどさ。
493日本@名無史さん:2008/02/14(木) 19:08:46
>>491
そのへんの整然さは大内にもある程度いえると思う。
494日本@名無史さん:2008/03/09(日) 05:00:13
ほう
495日本@名無史さん:2008/03/09(日) 12:14:21
けい
496日本@名無史さん:2008/03/09(日) 21:18:20
今月の歴史群像の後北条家に関する記事のところに
北条氏綱の氏は、今川氏親からの片諱とサラッと書かれていたのですがこれって定説なのでしょうか?

当主以外の一門でも氏を使っているし、今川氏との関係が悪くなった時期や今川氏が滅びた後も氏の字を使い続けているんだけど。
497日本@名無史さん:2008/03/10(月) 04:02:33
たしか氏盛(のちの狭山藩主ね)だかが元服するときに氏直が「氏」を与えた書状が
歴史読本の北条一族を扱ったムックに載ってた気がするが。
498日本@名無史さん:2008/03/10(月) 04:28:38
氏綱の烏帽子親が氏親ならそうなるし、元々偏諱だった字をそのまま子孫が使い続ける事例はあり得る
499日本@名無史さん:2008/03/10(月) 09:12:59
もともとは鎌倉公方の流れの「氏」ではないの?
勝手くれてやっていいものだろうか?
500日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:17:08
鎌倉公方重臣の梁田氏とかは京都の将軍家と同じ字を使ってるわけだが
501日本@名無史さん:2008/03/14(金) 21:32:19
>>475
鹿島氏は当主のみならず、一門やなんと家臣まで将軍や執権から片諱を受けているよ。

>鹿島氏の惣大行事平義幹ってのもいるんだが、この人は系図には見えない

はて。自分がみた系図には義幹はのっていたが・・
502日本@名無史さん:2008/04/08(火) 07:46:16
島津本家以外は諱が「忠」の字だが、やはり藩祖・忠久公から来てるのかしら・・・
江戸中期以降「久」の字使うのは本家に限られてるというか、次第に本家も使わなくなってるので
使っても良さそうなんだが・・・。
久光のように、上にすれば問題ない?
503日本@名無史さん:2008/04/08(火) 09:15:40
>>502
>>1を理解できる?
504日本@名無史さん:2008/04/08(火) 10:30:54
>>467

>初代当主の名前が「忠久」で「忠」は先に来ているから、
絶対下にしてはならないと言う不文律があった

とあるが、島津親忠(伊作家3代当主)や
北郷資忠(北郷家初代当主、資忠は島津宗家4代当主の島津忠宗の子)、
伊集院俊忠(伊集院家初代当主、俊忠は島津宗家2代の忠時の孫)の例がある。
いずれも、南北朝時代までの人物だが。
505日本@名無史さん:2008/04/11(金) 12:24:31
清和源氏(満仲の流れ)で、マイナーだが散発的に見られる字としては、
「経」、「基」、「仲」あたり?あと摂津、河内に意外に多いのが「国」。
「満」は平安期の大和源氏にある程度見られるが、やはり室町期の足利一門に
多く見られるという印象がある。

満政流は、これでもかという位「重」を用いてたりする。
506日本@名無史さん:2008/04/11(金) 21:33:47
上杉定勝ってなんで偏諱もらってないんだろ…
507日本@名無史さん:2008/04/11(金) 22:28:01
>506

慶長15年に初めて御目見得、元和9年に家督任官だからいずれも秀忠が将軍の時だな。
よくわからないけど、このときはまだ敗戦国待遇だったためとか?
508日本@名無史さん:2008/04/12(土) 15:23:24
その次からもらえるようになった理由はなんだろ?
保科の娘を嫁のもらったからとかそんな理由かな
509日本@名無史さん:2008/04/12(土) 21:26:36
それよりなんで重憲じゃなくて重定だったのかが気になる
510日本@名無史さん:2008/04/12(土) 23:39:58
伊達吉村が吉宗じゃなかった理由も気になるな
511日本@名無史さん:2008/04/13(日) 14:42:27
>>510
先代が「綱村」だったからならっただけなんでは

でも先々代以前の通字を使って「吉宗」になっていたら、
八代将軍が登場したときやっかいなことになったんでしょうな
下一字を外して「吉」になるとか(後年だが桑名藩藩主に例がある)
512日本@名無史さん:2008/04/13(日) 18:49:16
吉村が吉宗だったら
紀州は違う名前にしたんじゃないかな、さすがに
513日本@名無史さん:2008/04/13(日) 20:49:41
吉友、吉教、吉宣、吉直ってか。
514日本@名無史さん:2008/04/14(月) 09:14:06
まあたとえ伊達吉宗だったとしても
徳川吉宗が将軍になった時点で
初めて「吉宗」→「吉村」に改名ってことになったんだと思うけどね
515日本@名無史さん:2008/04/14(月) 20:57:35
将軍にならずとも御三家当主と同名ですらあり得ない
516日本@名無史さん:2008/04/14(月) 22:19:28
徳川吉宗が紀州藩主になり、綱吉から片諱を受けて吉宗と改名したのが宝永2年(1705年)。
伊達吉村は元禄16年(1703年)に家督を継いでいる。
吉村の方が4歳年上なので、伊達吉村の方が先に綱吉から片諱を受けたと見るのが自然。

徳川吉宗も「宗」が誰から来たのか不明。親父は光貞だし、死んだ兄貴は綱教。
517日本@名無史さん:2008/04/14(月) 22:51:18
先祖代々の通字を偏諱としてもらった伊達宗村カワイソス

そういや伊達家は周宗の代ぐらいから、本家も宇和島も「宗」の字をまた通字として使い始めてるけど
なんかきっかけでもあったのかな?
518日本@名無史さん:2008/04/15(火) 08:47:58
通字と偏諱は別モノじゃないのか?
前者は一族で継がれるもの。
後者は目上の者が授けるもの。
519日本@名無史さん:2008/04/15(火) 11:09:13
>>516
吉宗の宗は他ならぬ政宗にあやかったんじゃなかったっけ?
520日本@名無史さん:2008/04/15(火) 21:56:15
徳川御三家って通字ないから気分で思いつきなんじゃないの
521日本@名無史さん:2008/04/19(土) 11:57:42
>520
本来の通字は「義」「頼」なんでしょうね。分家は基本的にこのルールのままだし、
明治以降は本家も戻しているみたいです。
522日本@名無史さん:2008/04/19(土) 12:50:18
現在の水戸の通字は「斉」だけど
523日本@名無史さん:2008/04/19(土) 13:55:10
「斉」が通字?圀斉、斉正、斉礼の3代か、圀斉の場合、斉は通字とは違うよね。
まだ、通字になるかどうかわからないというのが正しいよね。
524日本@名無史さん:2008/04/19(土) 14:52:32
>>516

寛政譜によると伊達吉村が元服し、偏諱を綱吉より賜ったのは元禄9年ですね。それまでは伊達村房と名乗っていたようです。
初名が村房だから、「吉」に「村」を付けたのではないでしょうか。
また、吉村は綱村の実子ではなく、家臣である伊達宗房の嫡子で、元禄8年に綱村の養子になった人物であることも吉宗を名乗らなかった理由かもしれません。
養父である綱村の同母弟も村和、宗贇と2人、その他に異母弟もいます。にもかかわらず、そういったより藩主に近い血筋の子女とも婚姻を行なわず家督についています。
なお、村和は元禄8年に3万石分知されましたが、12年に旗本と争い逼塞させられます。子孫は仙台藩士として続きます。宗贇は貞享元年に宇和島に養子に入り元禄6年に藩主になっています。
もしかすると、吉村を養子にした頃は、綱村の子ができるのを待っていたのかもしれません。そのうち、子はできなく、同母弟は蟄居になり、吉村以外の選択肢がなくなったのかもしれませんね。
525日本@名無史さん:2008/04/19(土) 15:18:09
>>517

伊達周宗は亡くなったのが将軍に謁見する前でしたので、偏諱されませんでした。周宗は本来ならば初名であってその後将軍の偏諱をうける手はずであったのでしょう。
既に現将軍から斉村が偏諱を受けていますので、「村」以外の字となると「宗」しかないでしょう。
周宗が長生きしていたならば、周宗が斉宗となったでしょう。

しかし、将軍家から偏諱を貰う家はどうしても通字が乱れますね。
517さんは周宗の代から宗に戻ったと書かれていますが、本藩は将軍家斉の時代に早死にした人が多かったのか江戸時代には戻っていないように感じます。戻ったのは宗基以降でしょう。
526日本@名無史さん:2008/04/20(日) 13:59:13
江戸時代中、歴代藩主全員「偏諱+通字」で通した家って正直ないよな。
まあ、家斉のような在任期間の長い将軍がでてしまうとどうしようもないが・・・
あと、綱吉の「吉」と家慶の「慶」、家宣の「宣」、慶喜の「喜」とか、たまに被ってるのもあるし・・・
被るの分かってるなら、改名しろよ!
527日本@名無史さん:2008/04/20(日) 14:31:25
池田光政、綱政、継政、宗政、治政、斉政、斉敏、慶政、茂政

惜しいな…やはり家斉の陰謀か…
528日本@名無史さん:2008/04/20(日) 21:27:22
松平康安はやはりいぢめられたんだろうか
529日本@名無史さん:2008/04/20(日) 23:42:18
荒川良々みたいで個性的だな
530日本@名無史さん:2008/04/20(日) 23:48:43
まつだいらやすやす
531日本@名無史さん:2008/04/21(月) 00:21:25
家康に言われたのかな?
「康安、易々と一向門徒に合力するとは何事ぞ!」
532日本@名無史さん:2008/04/21(月) 00:25:23
感状与えるときは絶対に「マスマス励めよ!」とか言われてるな
533日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:08:11
諱を与えるって風習事態は中国発?
534日本@名無史さん:2008/05/04(日) 23:36:06
日本初では?
中国では親や主君の諱を忌避するから与えないと思う。
兄弟、いとこなどの列系字の習慣はあるけど。
535日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:32:42
名前を与えるってのは日本でも古代からあるしクマソタケルが、オウスノミコにヤマトタケルと名乗るように遺言するとか)
中国でもあるけど(朱温が朱全忠と改名するとか)
自分の一字を子供や家来に与えるのは平安時代ころから出来た日本独自の習慣では。

姓を与えることも、日本も中国のどちらにもありますね。

536日本@名無史さん:2008/05/31(土) 15:22:57
陶晴賢の「晴」は大内晴英から貰ったものらしいが、
将軍の字を勝手に家臣に与えて良いものなのか?
537日本@名無史さん:2008/06/01(日) 01:54:28
良くはないだろうが、誰も陶晴賢の意向に逆らえなかったからでは。
538日本@名無史さん:2008/08/05(火) 00:14:07
晴賢の改名は、大内晴英の家督相続の正当性を世に知らしめ、なおかつその威光を高めるため、
自らすすんで晴英から賜ったそうな。
また、おのが手で滅ぼした旧主の名をいつまでも持つのも抵抗があったんだろうな・・・。
当の晴英は直後に大内義長に改名してしまったが・・・。
539日本@名無史さん:2008/08/05(火) 23:57:20
晴賢の息子は長房なわけで、この親子は同一人物から別の諱をもらっとるんだな
540日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:40:08
足利藤氏、輝氏の様に兄弟で一人の人物から別々の諱をもらったケースもある。
541日本@名無史さん:2008/08/06(水) 23:45:06
足利成氏、政氏父子も同一人物から別の諱をもらった例。
542日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:03:16
【徳川】御三家・御三卿・親藩スレ3代目
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1217952005

上のスレで話題になってたが頼宣、頼房は秀頼の偏諱なの?
543日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:21:24
茶道の茶名も偏諱のようなものですか?
544日本@名無史さん:2008/08/18(月) 19:07:06
>>吉宗の宗

吉宗はほとんど家来筋から宗家を継いだので
宗家の家督相続を得ました、という意味をこめて
「宗」の字を与えられたのだろう。
ほかにも「家督」の意味で「宗」の一文字を用いる例は普通に多いよ。
545日本@名無史さん:2008/08/19(火) 17:34:37
>>542
んな訳なかろうが
546日本@名無史さん:2008/08/19(火) 20:47:34
徳川は豊臣の臣下ではないとアピールする為にわざと勝手に付けたとする説がある。
547日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:23:08
>>546
んな訳。。。あるやもしれぬが。。。
清和源氏の嫡流を気取ったんじゃないの???
548日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:56:32
「頼」の字は源氏の通字から取ったものと考えて問題ないが、
名目上の主筋である秀頼の生前にその一字を勝手に使ったのは何らかの意図があるだろう。
豊臣を尊重するつもりがあれば、義宣・義房と名付けるはず。
549日本@名無しさん:2008/08/20(水) 00:07:57
ソウダヨナ
貰う/貰ったつもりなら、「秀」をつければいいわけだし。
550日本@名無史さん:2008/08/20(水) 02:21:09
>>546
誰の説だそれ。
正直深読みに過ぎると思う
551日本@名無史さん:2008/08/20(水) 09:13:26
>>550
いつもの荒らしだから相手しちゃダメ
552日本@名無史さん:2008/08/20(水) 10:13:30
>>548
その説を唱えるなら、同時代人で頼の字を使った人間がいるのか、いないのか
いるとしたらどんな奴か
そこまで調べておかないと。
努力を怠って単に空想をもてあそぶから「深読み」とか「アラシ」なんていわれちゃうんだよん
553日本@名無史さん:2008/08/20(水) 22:15:45
秀頼の頼が源氏にあやかったもの。
554日本@名無史さん:2008/08/20(水) 23:43:04
秀吉の吉も、「義」の当て字
555日本@名無史さん:2008/08/21(木) 00:27:26
大体、大坂城で秀頼がピンピンしてる時点で「頼」を使うなんて、
豊臣家へのあてつけに決まってるだろう。
もう俺たちはオマエの家来じゃないぞって宣言みたいなもんだろ。

「頼」も源氏の通字に違いはない。
だが、秀頼とかぶる「頼」の字を秀頼の健在な時期に使う必然性はない。
足利将軍家みたいに「義」で統一することもできた。
深読みでもなんでもなく、明らかに徳川の決意表明だろ。
556日本@名無史さん:2008/08/21(木) 01:00:21
>550
「説がある」と書いている本人の説だよ。
ずいぶん前から、「僕ちゃんの思い付きを相手にしてくれないなんて
許せない」とばかりに、あちこちで喚き散らしている。
557日本@名無史さん:2008/08/21(木) 06:36:02
>>555
ユニークな思い付きだと思うよ。ただ>>552も言ったように、その思いつきを自分なりに
検証しなきゃ、誰も相手してくれないのは当然。
>>524 - >>525>>544のレスを見てごらん。このくらいしないと説得力はない。
今は『戦国時代人名辞典』などの便利なものも出版されているから、それほど難しいこと
でもないと思うが? 地味な作業だけどね。
書き込む前に図書館で勉強だ
558日本@名無史さん:2008/08/21(木) 06:48:11
>>555
ヒント 肥後の相良氏
559日本@名無史さん:2008/08/21(木) 08:19:39
自分の思いつき=すばらしい新説または真理
他人の思いつき=単なる世迷いごと
学界の定説=頭が固く、真理を認めようとしない「ナントカの一つ覚え」

このような錯覚を抱くことを井沢病という
560日本@名無史さん:2008/08/21(木) 09:09:39
作家は本が売れてナンボだからねえ
561日本@名無史さん:2008/08/21(木) 10:04:16
>>555
ウィキペディアの「カテゴリ 江戸の大名」から秀頼時代に元服した、頼の字を持つ人物を
ピックアップしてみたよ。

大村純頼、金森重頼、相良頼寛、土岐頼行、一柳直頼、平岡頼資、松平定頼

ざっと調べただけだから、漏れもあるかもしれないね。
さて彼らは秀頼の片諱なのか? それとも秀頼へのあてつけなのか?
562561:2008/08/21(木) 10:06:05
すまぬ。途中で切れてしもうた。
で続き。

それともはたまた別の理由か。説明してくれ。
材料はこちらでそろえたんだからさ。
563日本@名無史さん:2008/08/21(木) 11:33:51
>>562
そんなに虐めてやるなよ。
564日本@名無史さん:2008/08/21(木) 18:02:16
>>561
秀頼が生まれる前から頼の字を名乗りに使っていた者を含めると
もう少し多くなるな。ただ公家には殆どいないんだよ、頼の字。
つまり、いつの時代も変わらず武家に好まれた字で、秀頼云々は
関係ないと思うね。「あてつけ説」でも矛盾しないかも知れんが
以前からの名乗りを含め、豊臣全盛期でも遠慮した形跡がないから
やはり「無関係」が正解だろーな
565日本@名無史さん:2008/08/21(木) 20:34:07
>564

それで思い出したが、松平忠吉とか武田信吉とかは
諱の考え方から行くととんでもない名前だよな。
そもそも豊臣政権は、諱については無頓着だったの
かもしれない。
566日本@名無史さん:2008/08/21(木) 22:21:55
結城秀康に小早川秀秋に織田信秀
えーと吉のほうはと田中吉政に大谷吉継にえー
567日本@名無史さん:2008/08/21(木) 23:32:27
いや、与える方じゃなくて、使わせない方の話。
568日本@名無史さん:2008/08/22(金) 13:07:52
豊臣も徳川も所詮成り上がりだから、緒大名に遠慮してた部分もあったろうさ。
徳川の初期も康や忠、光をそのまま使ってたケースが結構あるよ
569日本@名無史さん:2008/08/22(金) 15:22:57
>>567
後から元服だとその家の通字でもその将軍一代は遠慮するケースがあるよ。
官職だと武蔵守は池田利隆以降は遠慮しているらしいし尾張・紀伊・陸奥・薩摩・加賀などは御三家や大大名に遠慮してつけない場合
もあるから諱もそうだろう。
旗本なんかでも、上司に遠慮して改名する場合もあるようだ。
綱吉・吉宗・慶喜なんかは同じ養子でも家宣・家茂みたいに将軍になる時に改名しなかったから、綱とか吉とか宗とか通字にしている家は
大変だったろう。
570日本@名無史さん:2008/08/23(土) 10:00:52
伊達家なんて通字の「宗」を諱にもらったんだよなw
571日本@名無史さん:2008/08/23(土) 12:05:24
>>570
なわけで、歴代では政宗に続いて宗村も2人いることになってしまった。
宗村の父が吉村(元禄16年(1703年)襲封時に村房から改名)なのは、吉宗(宝永2年(1705年)襲封時に頼方から改名)より先に名
乗っているのだから、遠慮して宗の字を使わなかったわけじゃないんだろうが。
個人的には、吉村は養子なんで養父綱村の村を残しただけだと思ってる。
三代藩主が綱宗じゃなくて光宗だったら、四代綱宗、五代吉宗だったんじゃないかと想像。
572sage:2008/08/23(土) 12:26:42
9代周宗が偏諱を賜ってから薨去してたら、こちらが先に斉宗になってたんだろうな・・・
で、弟の10代斉宗は別な名前「斉○」になっていたと・・・。
573日本@名無史さん:2008/08/23(土) 12:32:03
間違って、名前に「sage」入れてた・・・スマソ

最後の藩主・慶邦の養子に夭折した茂村というのがいたが、そろそろ本来の通字である
「宗」に帰って「茂宗」でも良さそうなのに、あえて茂村。
いつの間にか、「村」の方が常用されていたと思ったら、次代の宗基でまた宗の復権。
574日本@名無史さん:2008/08/23(土) 14:08:07
>>573
明治維新にならず、まだ江戸時代が続いてたら宇和島から来た宗敦と宗基が「喜宗」「喜村」あたりになっていた可能性がある。
そもそも、世の中が物騒になってきた時に慶邦の実子亀三郎(宗基)が幼少で心もとないので宗敦が養子になったわけだがそうでなければ
幼少の亀三郎に直接襲封させて先述の諱を名乗らせていたかもしれん。
575日本@名無史さん:2008/08/23(土) 16:17:11
>>561>>568で言ってたことは、将軍家の諱を用いた名乗りを自粛していた
ことはわかるが、それは将軍家の権威が高まった中期以降だろうって話。
大元に頼宣、頼房という名乗りは秀頼へのあてつけでなはいか、という説の
検証があったのね。で、秀吉や家康の頃は「吉」や「康」を使うのを自粛す
るなんてことはなかったろうと。ましてや秀頼の「頼」をや。
で、問題になったのは、いつぐらいから諸侯が将軍家の諱を名乗りに使うの
を自粛するようになったか、ということ。
576日本@名無史さん:2008/08/24(日) 09:17:09
いつと言っても、実例がどれだけあるんだい?
577日本@名無史さん:2008/08/24(日) 14:37:37
幕末の久松松平系なんか、家祥が将軍になって家定と改名したら、公方様と同じ
名前では畏れ多いということで通字の「定」を取っちゃったもんなあ・・・
おかげで、松平猷て意味不明になってるし・・・
578日本@名無史さん:2008/08/24(日) 22:03:31
>>577
諱名なんか普段口にしないから、漢字で表記できさえすれば良かったんだろうな。
579日本@名無史さん:2008/08/27(水) 01:19:33
>>576
実例とは? 自粛した例のこと? それとも自粛しなかった例のこと?
580日本@名無史さん:2008/09/01(月) 13:40:50
まあ普段は久松殿か隠岐様か殿でじゅうぶんだもんな
581日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:47:45
福田康夫  家康の片諱















んな、わけない。
辞職age
582日本@名無史さん:2008/09/09(火) 01:40:08
編諱と少しずれるかもしれないが
龍造寺長信って弟なのに信の字が下にきてるんだけど
母親が隆信と同じなんだな
上の兄の信周は別腹
信周は家来扱いで、長信は隆信と兄弟扱いされてるって事かね
583日本@名無史さん:2008/09/14(日) 10:03:16
千明史(裏千家・千宋室の長男) → 明仁親王の片諱
584日本@名無史さん:2008/09/18(木) 22:06:43
龍造寺隆信は宗家を継ぐ前は胤信(胤栄の偏諱)と名乗っていた
隆信と改名したのは松平元康→家康と同じような理由かな
585日本@名無史さん:2008/09/19(金) 00:08:59
>584
隆信の「隆」は大内義隆から。
586日本@名無史さん:2008/10/17(金) 19:32:37
ええ
587日本@名無史さん:2008/10/18(土) 09:09:00
隆胤と名乗っていたから、偏諱と言ってよいか疑問
588日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:39:10
室町時代以降は、摂関家の当主が将軍家から偏諱を貰っている。
名実ともに将軍家>摂関家になってしまったわけだ。
589日本@名無史さん:2008/10/26(日) 16:50:38
二条家は江戸時代も徳川将軍の一字をもらっている。
590日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:03:44
>583
現在の天皇の諱は明治天皇即位の詔からとられたもの。
「継之述之…宣明治教以宣揚惟神之大道也…」
から、継宮明仁。
なお、幼名である宮号も同時につけられる。
591日本@名無史さん:2008/10/29(水) 06:59:23
>>155
同時代に足利(斯波)宗氏がいたからじゃない?
592日本@名無史さん:2008/10/29(水) 21:03:14
>>591
それだったら、佐々木高氏(道誉)と被っちゃう足利高氏はどうなるの?
593日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:26:00
高義が嫡男だったからどうでも良かったのかもな。
594日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:41:34
>>22 : 通字の始まりは、淳和天皇の親王における「恒」「貞」と考えられ..

親王の通字については嵯峨天皇が最初のような気がするが...
□文武天皇683皇子
 高円広成、高円広世
□伊予親王780皇子
 継枝王、高枝王
□嵯峨天皇786皇子
 業良親王?、基良親王?、秀良親王817、忠良親王819
□淳和天皇786皇子
 恒世親王805、恒貞親王825、恒統親王829
 恒貞親王825、基貞親王827、良貞親王?
595日本@名無史さん:2008/10/30(木) 18:53:06
ささいな疑問ですまないんだが、>>1はじめ、少なからず「片諱」という表記が見受けられるが、
これは用語として認知されているの?
「かたいみな」と言う場合も、通常は「偏諱」という字を宛てていると考えていたんだが。
596日本@名無史さん:2008/11/01(土) 17:57:10
江戸時代の雅楽頭系酒井家の通字は「忠」だけど、七代目は「親愛」で八代目は「親本」。
「親」の字は何処から出てきたんだ?
597日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:43:52
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%B0%8F
「親」自体先祖に例のない字ではないが確かに唐突だな
598日本@名無史さん:2008/11/01(土) 18:58:32
>>596
親愛の読みは「ちかちか」?
599日本@名無史さん:2008/11/01(土) 19:16:38
>>598
ちかよし
600日本@名無しさん:2008/11/01(土) 19:21:22
>>598
「ちかよし」「ちかなり」なんて読まないんですか?
601日本@名無史さん:2008/11/02(日) 23:58:55
立花の通字は「載」「茂」「鑑」とコロコロ変わってる
602日本@名無史さん:2008/11/03(月) 01:34:20
伊達もだね
603日本@名無史さん:2008/11/03(月) 13:49:41
伊達は吉宗に遠慮してしかたなくだろ
604日本@名無史さん:2008/11/03(月) 18:37:29
>603

綱村の襲封が万治3(1660)年、殿上元服が寛文9(1669)年なので
吉宗は生まれてもいない。すでに先代の綱宗が家綱から偏諱を
もらっていたので、それと重複しないようにしたのだろう。
605日本@名無史さん:2008/11/06(木) 17:55:22
伊達の幕末三代は仕方がないな・・・

他藩にもいえることだが、家斉の治世が長く続いたせいで通字の「宗」も「村」も使えなく
なってしまったんだもの・・・
しかし、斉義って歴代からするとちょっと浮いてるよな・・・
宗も村もつかず、同じ諱もないし・・・
606日本@名無史さん:2008/11/06(木) 17:57:34
偏諱を賜る大名家で通字がないのは、蜂須賀家ぐらいか?
歴代藩主の名前に一貫性がまったくと言っていいほど見られない・・・
607日本@名無史さん:2008/11/06(木) 20:38:07
>>606
忠継系池田家もそうだな。
608日本@名無史さん:2008/11/06(木) 21:20:38
蜂須賀家は「正」が通字だったが、偏諱を貰うようになってから使えなくなった。
江戸時代の前田家も同じような理由で諱に一貫性がない。
609日本@名無史さん:2008/11/06(木) 21:33:13
ただ、そういう家は、将軍の一字をもらう前に、先に内輪の諱つけてるんだよね。
だから、そういう内輪でつけた諱には通字を使ってる。

大藩の藩主の諱や通称などを調べたら、一字拝領の前に諱持ってる人がけっこういる。
610日本@名無史さん:2008/11/07(金) 22:57:42
おまいら細川を忘れすぎだろ
内輪の諱も親父から一字もらったりする程度で一貫性ゼロ
通字「護」が出現したのは幕末
611日本@名無史さん:2008/11/07(金) 23:15:29
すっかり通字の話題だな
徳川御三家御三卿だって通字無いしね
612日本@名無史さん:2008/11/09(日) 09:44:24
肥後細川家って通字自体ないよな。
京兆家の「元」とか、せめて藤孝の「孝」くらい使えばいいのに。

分家の支藩は忠興、忠利の一字を使ってるようだが。
613日本@名無史さん:2008/11/10(月) 17:17:19
細川自体が通字多すぎたのに比べると不思議な気もする
元・之・賢(政が多いのは義政の片諱だな)
614日本@名無史さん:2008/11/10(月) 18:55:59
宇土藩の方は孝・興・立などある程度一貫性がある。
615日本@名無史さん:2008/11/10(月) 20:24:36
細川持隆って、足利義持より半世紀以上あとの人間なのに、「持」の字使ってるから
不思議だなあ・・・と思ったら、親父の之持から一時拝領か・・・。
京兆家に細川持之っていたのに、不遜な名前だなぁ・・・
616日本@名無史さん:2008/11/11(火) 17:49:12
細川も幕初は
忠利
光利(のち光貞、さらに光尚に改名)
綱利
吉利(早世)
で、偏諱+通字になりかかってたんだけどね
617日本@名無史さん:2008/11/11(火) 18:08:49
偏諱が通字化する家もあるな
徳川慶喜家とか(家慶→慶喜→慶久)
618日本@名無史さん:2008/11/12(水) 07:06:55
畠山も通字が無いな。
強いて挙げれば「国」かな?
619日本@名無史さん:2008/11/12(水) 10:01:53
>>617
明治時代以降は話は別。
主従関係がないのに誰から偏諱を授かるんだよ?
620日本@名無史さん:2008/11/12(水) 17:34:07
>>619

617の言ってることは通字でしょ
そのパターンの旧華族2人知ってるよ
621日本@名無史さん:2008/11/12(水) 22:02:22
細川忠興の「忠」は織田信忠からの偏諱。
その息子の忠利は徳川秀忠から。
同じ「忠」でも微妙に違う。
じゃあ、長男の忠隆は誰からもらったんだろう・・・?
622日本@名無史さん:2008/11/14(金) 00:04:02
忠興から、じゃない?
623日本@名無史さん:2008/11/14(金) 08:41:41
>>619
一橋徳川達道や田安達孝・達成父子のように、宗家当主家達の一字をもらった例もある。
624日本@名無史さん:2008/11/17(月) 13:00:51
畠山重忠の烏帽子親は保元・平治の乱で勇名を馳せた
金子十郎家忠で忠の字をもらった
625日本@名無史さん:2008/11/18(火) 07:58:20
石橋山の合戦で討死した佐奈田与一義忠の忠も
烏帽子親である金子十郎家忠からもらった
626日本@名無史さん:2008/11/18(火) 07:59:42
石橋山の合戦で討死した佐奈田与一義忠の忠も
烏帽子親である金子十郎家忠からもらった
627日本@名無史さん:2008/11/18(火) 12:43:04
長宗我部信親の「信」はわざわざ織田信長から貰ったってのは本当?
628日本@名無史さん:2008/11/18(火) 13:28:06
いいすれ
629日本@名無史さん:2008/11/26(水) 15:52:52
池田元助の由来がわからん
630日本@名無史さん:2008/11/26(水) 17:21:59
細川昭元からじゃないの?
631日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:37:24
徳川宗家は慶喜の喜を片諱にしてたよね(松平喜徳のように)?
16代家達の達はどこからきたの?
632日本@名無史さん:2008/11/30(日) 21:03:21
>>631
普通に諱。
633日本@名無史さん:2008/11/30(日) 21:14:56
>>633
つーか片諱じゃなくて偏諱じゃねーの?
634日本@名無史さん:2008/11/30(日) 21:53:40
「家達」は徳川宗家の通字の「家」を使った普通の諱。
「達」はどこからもきていない、家達自身の字。

松平喜徳は会津藩主世子として慶喜の将軍在位中に元服したので、
当時の将軍の一字「喜」を拝領した。
ちなみに明治の徳川慶喜家当主の通字は「慶」で、その他の子は一字名。
慶喜家の分家には「喜」を通字にした家もある。
635日本@名無史さん:2008/12/18(木) 12:15:46
水戸家の通字は「頼」じゃなくて「圀」。
何で光圀に拘るんだろう。
636日本@名無史さん:2008/12/18(木) 15:26:48
大日本史編纂して幕末の尊王攘夷思想に影響を与え、結果として維新のきっかけになった

と思われたからでしょう。

実際はただのはねっかえりボンボンの反抗に過ぎないんだけどね
637日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:05:54
水戸の通字は「斉」ですが?
638日本@名無史さん:2008/12/18(木) 21:19:19
水戸本家には通字ないじゃん
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kantou/mito.html

水戸分家は頼ばっかか
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku/takamatu.html
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kantou/fuchu.html
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kantou/shishido.html

いやまあ明治以後のことを言いたいんだろうが
圀とも斉ともって感じか
639日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:02:47
あのね、その後の話をしてるの

昭武→篤敬(慶篤の子)―圀順―圀斉―斉正(現当主)―斉礼

斉礼の子供は未成年だから名前は出さないが、「斉」から始まってる
当然斉昭からきてるんだろな
640日本@名無史さん:2008/12/18(木) 22:26:19
オットセイ家斉にちなんで、子孫繁栄を願ってるんだよ
641日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:10:13
言いたいんだろうがって言ってんじゃん
一応前をおさらいしてやってんのに
礼ぐらい言ってもらいたいもんだね
642日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:22:12
1行目は同意する
しかし3行目は押し付けがまし過ぎるだろ
643日本@名無史さん:2008/12/19(金) 09:51:07
通字のスレじゃねえし
現代ネタはウザいし
644日本@名無史さん:2008/12/20(土) 08:26:58
ありがとうございました
645日本@名無史さん:2009/01/19(月) 12:43:29
うむ
646日本@名無史さん:2009/02/08(日) 19:28:41
長府毛利氏は綱元の代までは偏諱を貰ってたのに
何で貰わなくなったんだ?
647日本@名無史さん:2009/02/08(日) 20:21:52
>>646

毛利元朝が本家長州藩嗣子にならなかった、あるいは元矩が長生きしていれば、将軍家からその後も偏諱をもらっていたのかもしれませんよ。

その後は清末藩の血筋に変わってしまったからね。幕府としても毛利秀元の嫡流とは認めていなかったのでしょう。
648日本@名無史さん:2009/02/13(金) 19:28:32
>>196
>貞時・高時の「貞」「高」はどこから来たのか分からん。

北条氏の遠祖「貞盛」「高望」から取ったいう説があるらしい。
649日本@名無史さん:2009/02/16(月) 01:38:53
別に無理して理由や意味を探さなくてもいいのでは
650日本@名無史さん:2009/04/09(木) 08:45:52
最強は足利「尊」氏かね?
天皇からのへんき
651日本@名無史さん:2009/05/06(水) 18:16:17
うむ
652日本@名無史さん:2009/05/08(金) 22:37:30
>>594
そもそも縦の通字が一般化したのは11世紀の筈
653日本@名無史さん:2009/06/28(日) 16:34:12
今川氏真はなぜ将軍から偏諱を貰わなかった?
654日本@名無史さん:2009/06/28(日) 20:52:03
むしろ、今川家でもらっていた奴がいたっけ?
氏親や氏輝だってもらっていないぞ。
(ちなみに足利義輝が誕生した7日後に今川氏輝が死亡しているから両者の「輝」は全く無関係)
655日本@名無史さん:2009/06/29(月) 00:51:32
>654
義元が「義」をもらっている。
656日本@名無史さん:2009/07/12(日) 18:46:27
あれって偏諱なの?
657日本@名無史さん:2009/07/21(火) 23:27:02
今川家の通字は「範」と「氏」だし偏諱じゃないの?
658日本@名無史さん:2009/08/19(水) 13:31:17
徳川の養子将軍で
綱吉、吉宗、慶喜は元将軍から貰った諱で将軍になっているが
家宜、家斉、家茂は通字の「家」の入った名前に改名しているけど、この差は何から来るの?
659日本@名無史さん:2009/08/19(水) 20:23:39
>658

将軍世嗣として大納言に任官したか否か。
660日本@名無史さん:2009/08/19(水) 21:09:19
成人してから迎え入れたか
子どものうちに宗家養子になったかじゃないの
661日本@名無史さん:2009/08/20(木) 00:24:09
>>660
家ノブは40過ぎて綱吉の養子になったが
662日本@名無史さん:2009/08/22(土) 10:14:50
秀忠こそ改名すべきであったのでは。
663日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:47:51
だからそのころ公家で家忠という(ry
以下ループ
664日本@名無史さん:2009/08/22(土) 14:27:30
>663
「家」字を通字にしたのは家光からじゃないのかな。
少なくとも家康と息子の代は、「康」を通字として意識して
いたように思えるんだが。元康、信康、秀康は拝領字+
「康」のパターンだし。
665日本@名無史さん:2009/08/22(土) 19:29:07
康高とか康政にほいほいくれてるからどうなんでしょ
666日本@名無史さん:2009/08/25(火) 14:33:53
伊達宗々
鍋島茂々(モチシゲ?)
667日本@名無史さん:2009/08/25(火) 21:20:55
>666

マジレスすると、伊達家は吉宗の時代に通字を村に変えていた。
鍋島家は家茂の時代に通字を直に変えていた。
ちなみに両家とも将軍に遠慮したわけではなく、たまたまそうなってた。
668日本@名無史さん:2009/08/26(水) 00:57:47
伊達の場合は綱村以降、宗と村のコラボじゃね?
669日本@名無史さん:2009/09/14(月) 01:49:23
>>167
>信長に一字貰って長秀と名乗ったと思うので、長は与えないだろ。

長秀の丹羽家では元から「長」が多かったようです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/niwa_k.html
それと、信長は近習や尾張時代からの近臣に偏諱を与える例が他より少ない気がする。
670日本@名無史さん:2009/11/15(日) 19:29:50
ほほー
671日本@名無史さん:2009/11/17(火) 00:06:24
今上天皇の偏諱を受けた事例がありました。

 今上天皇が皇太子時代にタイを訪問した際、タイの国王から相談を受けました。
 「山奥の部族の栄養状態が悪い。特にタンパク質が足りない。」

 陛下は魚類学者でもあるので、「じゃ、コレを養殖してみてはどうでしょう?」と飼育の簡単な「ティラピア」という魚を50匹タイ国王に贈りました。

 この魚をタイでは養殖しまくって、タイ国民の栄養状態改善に役立てました。
 それどころか、バングラデシュへの食料支援として50万匹ほど贈ってます。

 結果的に陛下は2国の食料事情を救ったことになります。
 もちろん、一番の功績は一生懸命魚を育てたタイの国民ですが。

 タイ人も「この魚は日本の皇太子が持ってきてくれたんだ」と感謝してくれています。

 今ではこの魚の漢字名は「仁魚」といわれています。
 この話を聞いた華僑系市民が感動して陛下のお名前(明仁)から一文字とって命名したそうです。
672日本@名無史さん:2009/12/04(金) 21:17:48
>671

それは陛下の公認をもらっているのでしょうか?
黙認なら単にあやかっただけかと。

(しかし「仁」の魚とは言い得て妙な名付けではある)
673日本@名無史さん:2009/12/08(火) 21:00:54
せめて魚に日王の名をつけて切り刻み、その肉を喰らうあるよ
674日本@名無史さん:2010/02/14(日) 02:26:08
ほー
675日本@名無史さん:2010/03/13(土) 11:58:54
なるほど
676日本@名無史さん:2010/03/22(月) 03:02:33
毛利重就のよみは「しげたか」だっけ?
鍋島重茂は「しげもち」
677日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:17:56
家重のヘンキ?
678日本@名無史さん:2010/05/04(火) 11:33:44
片諱をもらった名前の読み方は挙げた人と同じにするものなの?
679日本@名無史さん:2010/09/04(土) 00:45:42
age
680日本@名無史さん:2010/09/04(土) 00:51:33
江戸地図を見ると、島津も毛利も前田、他の大大名もおしなべて松平○×守を名乗っているけど。
徳川から嫁を貰うと松平姓になるのですか。
681日本@名無史さん:2010/09/04(土) 04:39:06
嫁ではなく姓を貰うと松平姓になるんだ
682日本@名無史さん:2010/09/05(日) 00:01:23
>>681
姓をもらうにはどうすればよいのですか?
683日本@名無史さん:2010/09/05(日) 01:10:52
豊臣羽柴姓と比べたら松平姓下賜なんか可愛い者だろう
684日本@名無史さん:2010/09/05(日) 02:37:38
>>682
徳川家の子女が嫁いだ先は松平姓の名乗りを許され(強制されるわけだけど松平姓を名乗りたいがために徳川家から嫁を貰うわけだから)屋敷門として赤門を建てるのが決まり。
685日本@名無史さん:2010/09/05(日) 04:03:18
苗字が松平になるってことか
686日本@名無史さん:2010/09/05(日) 20:55:02
諱のスレなんですが
687北畠材親:2010/09/05(日) 21:18:06
逆パターン
松平定猷→松平猷
688日本@名無史さん:2010/09/05(日) 21:39:35
将軍家定に遠慮した桑名藩主か
松平なんて定だらけだろうになあ
689日本@名無史さん
私が疑問に感じたのは、定猷を勝猷に変えるとか考えなかったかということである。
堀田正篤を堀田篤にしないし