本家以外の武田一族も語ろう

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1日本@名無史さん
武田以外は、どんな方がいるの?
2日本@名無史さん:2007/06/26(火) 04:50:22
本家以外の武田家を語ろう!
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160787455/
3日本@名無史さん:2007/06/26(火) 04:52:33
岩崎弥太郎
4日本@名無史さん:2007/06/26(火) 04:54:52
>>1
このばかちんがぁあ〜〜!!!
5日本@名無史さん:2007/06/26(火) 12:56:05
武田の先祖は源氏じゃなかったか?
それなら織田や徳川とも物凄い遠い親戚になると思うが

6日本@名無史さん:2007/06/26(火) 13:01:17
織田や徳川は源氏ではない
7日本@名無史さん:2007/06/27(水) 05:33:15
>>28

武田氏の家系は清和源氏の一流 河内源氏の一門 源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。
8日本@名無史さん:2007/06/27(水) 13:43:14
織田は平家流を冠していたけど眉唾もんだな
徳川は群馬の得川氏の系図を
時衆の遊行上人を使って書き換えさせただけ
9日本@名無史さん:2007/07/01(日) 11:53:57
大名で、本当の源氏や平家ってどこ?
10日本@名無史さん:2007/07/01(日) 11:55:44
織田は忌部氏
11日本@名無史さん:2007/07/01(日) 14:06:56
>8
織田氏はもともと越前織田庄にある剣神社の神官の家系。
越前と尾張の守護をかねていた斯波氏の配下に入った縁で、
一族の一部が尾張に移住。
織田信長は、平氏を称するまえ、藤原氏を称したこともある。
12日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:48:08
>>1
上総・若狭・安芸の武田氏を語れば良いのですか?
13日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:10:18
武田一族全体の本家は安芸武田なんだっけ?
14日本@名無史さん:2007/07/25(水) 04:55:27
甲斐武田が本家じゃないかい
15日本@名無史さん:2007/07/25(水) 12:02:01
甲斐
安芸
若狭
くらいか、安芸は結局は統治に失敗して毛利の家来になったのだろう
安国寺エケイなんかが、いかにも武田らしい男だな
16日本@名無史さん:2007/07/25(水) 15:33:56
板垣信方様
17日本@名無史さん:2007/07/25(水) 15:45:14
家康に見捨てられてぬっコロされた穴山入道の家は残ってるの?
18日本@名無史さん:2007/07/25(水) 20:49:35
奥州の南部家も親戚だったっけ 常陸の佐竹家とも親戚
常陸は武田一族の発祥の地じゃなかったっけ
19日本@名無史さん:2007/07/25(水) 20:59:02
甲斐武田 常陸佐竹は鎌倉時代以前から存在してる名門
20日本@名無史さん:2007/07/26(木) 00:02:26
茨城県ひたちなか市堀口に武田氏発祥地といわれる場所あり。
21日本@名無史さん:2007/07/26(木) 00:25:33
甲斐武田も常陸佐竹も源氏の名門だけど頼朝をこわっぱと馬鹿にして頼朝の援軍要請を無視したから地方有力者止まり
22日本@名無史さん:2007/07/26(木) 00:54:59
鉄矢
23日本@名無史さん:2007/07/27(金) 12:31:42
武田が作った天下仕置きの設計図をどういうわけか、家康が手に入れて江戸幕府を作った
穴山は設計図が手に入ったので用がなくなったので処分した
織田信長公は天下平定まではやったが、その後の設計図を持っていなかった
だから自殺のような死に方になってしまった そういう意味では信玄公の遺志を次いで
実行したのは家康ということになるかな
24日本@名無史さん:2007/07/28(土) 12:08:08
アルスラーン戦記みたいなの書いてるんか
25日本@名無史さん:2007/07/28(土) 12:26:16
アルスラーン戦記なんて知らないよ
26日本@名無史さん:2007/08/04(土) 11:19:43
上総武田って一族もあって、真里谷武田氏、庁南武田氏がある。
27日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:46:55
小笠原諸流
28日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:01:43
松前一族
29日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:27:55
一条
栗原
逸見

30日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:24:23
>>13-14
南北朝以降の甲斐武田・安芸武田の共通の祖先に当たる家系は、鎌倉中期頃から
安芸に本拠を移しており、甲斐には別系統の一族がいた。
しかしこの甲斐にいた一族は南北朝分裂時に当主の武田政義が南朝方についた
ために、足利尊氏は安芸にいた武田信武に甲斐の守護職も合わせて与えた。
その後、信武の子である氏信・信成から新たに安芸武田と甲斐武田が分出した。
31日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:56:27
>>30
嘘乙
32日本@名無史さん:2007/08/05(日) 21:27:09
どこが嘘?
33日本@名無史さん:2007/08/05(日) 21:33:34
山県氏は安芸から甲斐に入ったんだよな
34日本@名無史さん:2007/08/06(月) 12:05:20
>>30は概ね事実。
35日本@名無史さん:2007/08/07(火) 02:32:06
>>15
てか直前の>>12に上総も挙げられてまっせ。
36日本@名無史さん:2007/08/07(火) 14:47:28
>>26
上総武田は、庁南が嫡流で、真里谷が庶流。
37日本@名無史さん:2007/08/08(水) 01:21:43
武田信長は足利成氏から上総守護に任命されたの?
あと一緒に里見義実は安房守護に任命されたの?
38日本@名無史さん:2007/08/16(木) 17:49:48
板垣や甘利も武田一族だよね。
39日本@名無史さん:2007/08/16(木) 19:00:31
このスレで安芸武田氏って初めて知ったよ。
目の前にある山、武田山っていうんだけど、
安芸武田氏の城で銀山城趾っていうのがあるんだって。
涼しくなったらのぼってみようかな。
40日本@名無史さん:2007/08/17(金) 00:00:37
>>39安藝武田家の最後が安國寺惠瓊
41日本@名無史さん:2007/08/17(金) 00:05:49
>>39
97年の大河ドラマ、毛利元就でいろいろ出てたな。
42日本@名無史さん:2007/08/17(金) 00:35:47
芸備防長の山県と甲斐の山県はどちらが本流?
43日本@名無史さん:2007/08/20(月) 19:05:41
広島に武田家ありました。
44日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:22:02
詳しく教えてぇ!
45日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:23:18
うちも武田で家紋が武田菱なんだけど
国は武田鉄也の尊敬する偉人の出身地だ
ただの捏造かな
46日本@名無史さん:2007/08/24(金) 00:21:40
>>45
土佐?

だったら武田の一族とか遺臣とかが流れ着いてきてても不思議はないかも。
板垣退助も先祖が武田一族の板垣氏ということで板垣姓を名乗ってるし。
47日本@名無史さん:2007/08/24(金) 03:16:23
土佐には小笠原も岩崎も居るしな
48日本@名無史さん:2007/08/24(金) 08:38:53
板垣退助は板垣の末裔じゃないらしい 
山梨を通過するために勝手に名乗っただけの 
自称末裔で板垣本人も後年そう自白していたらしい 
ついでに高知には勝頼の落人伝説とその村があるなぁ 
武田菱ってその絡みじゃないのけ?
49日本@名無史さん:2007/08/24(金) 10:37:34
板垣信方の孫が武田本家滅亡後に掛川に来て山内一豊に仕えて、
そのまま土佐までついていったというのは、作り話?
50日本@名無史さん:2007/08/24(金) 10:38:53
退助の諱である「正方」は、板垣信方を意識した名前かな、とも思ったのだが。
51日本@名無史さん:2007/08/25(土) 12:27:30
>>50
だから、48の言う通り、宣伝効果を考えて勝手に名乗った名前。
52日本@名無史さん:2007/08/25(土) 19:58:29
いみなは乾姓だった時代から「正方」では?
53日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:23:48
>>52
そうだよ。僭称にしても退助以前からの土佐藩士乾氏のもの。
坂本龍馬が土岐明智氏に繋がる系図を名乗っているのと同様。
当人の代以前につくられた家系伝承に基づいている。
54日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:24:08
um
55日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:25:07

◆◆

若狭の武田氏
蝦夷の蠣崎→松前氏

アイヌの人々から収奪の限りを尽くした松前氏は許されるものではない
56日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:34:16
松前氏が武田一族を名乗っているのは、同様に武田一族を名乗っている南部氏に対する対抗心からだろう。
57武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/08(月) 02:55:41
頼朝に誅殺された安田父子も甲斐源氏の傍流だから、
武田一族といってもよいだろう。
哀れ…
58日本@名無史さん:2007/10/08(月) 03:01:57
安田義定の末裔です。
戦国期は武田の家臣だったようですが、鎌倉初期に滅ぼされてきてから
戦国期まで何をしていたかは不明です。
戦国期に織田に滅ぼされてからは、しばらく身を隠し徳川の世になってから
名乗り出たみたいですけど。
59日本@名無史さん:2007/10/08(月) 03:04:12
武陽さん、「遊郭」スレに戻って
「東京の非人宿のルポ」お願いします!!
60武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/15(月) 21:52:29
>>58
おおすばらしいです。誇りになさってください。すごいですよ。
安田父子は頼朝と命がけで生き残りの戦いをしたんだと、私(ほかにいますね)
は常々思っています。彼らの戦いが歴史の影に埋もれてしまったのは返す返す
も残念です。
何か逸話があったら個人情報をボカした形で書き込みして頂けたら
嬉しいのですが‥‥。
>>59
差別問題を助長するような(危険はありますよ)書き込みはできません。
ジョークでなく、私は人文科学の対象としては認めますが、
2ちゃんねるのような掲示板で取り上げる趣旨の事柄ではないと思います。
だから私はここ2ちゃんねるでも差別語を一切使ってません。
まあデブ、バカ、アホ、能無し、田舎者は使用いたしましが。諒とせられたし。
61武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/23(火) 22:15:18
>安田氏後裔殿
お待ちしていますよ。
62日本@名無史さん:2007/11/02(金) 02:47:18
高杉晋作は武田だよな。
63日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:28:16
高杉氏は杉氏の分流だから、もとは大内一族じゃね?
64日本@名無史さん:2007/11/03(土) 18:04:44
安田義定は、逸見清光の子(すごく子沢山)と言う説と武田義清の子と
言う説があるが、どちらが本当なんだろう?
まぁ、安田義定が源頼朝に謀殺されたのは事実らしいけど、源頼朝が
本当に恐れていたのは、一条忠頼。
安田義定も一条忠頼も、甲斐武田氏の中でも10本の指に入る猛将だった
と思うのだが、どっちのが強かったんだろう???
65日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:07:17
逸見って室町時代には甲斐の守護代をやってるんだっけ?
66日本@名無史さん:2007/11/09(金) 21:22:41
逸見有直の事かな?
確か上杉禅宗の乱のとばっちりで武田信満が自刃した後、鎌倉公方足利持氏
(だったかな?)が、逸見有直を甲斐守護にしようと画策したようだけど、
足利将軍家に認められなかったはず。
守護代は跡部明海(甲斐源氏一族の信濃小笠原氏から別れた跡部氏)ですよ。
将軍家は武田信重を甲斐守護にしようとする(後に甲斐守護になっている)
けど、武田信重が固辞したため、武田信満の実弟穴山満春(武田信元ね)が
一時的に甲斐守護になったはず。その次は伊豆千代丸(武田信長の嫡男)です。
武田信長vs跡部明海、武田信長vs逸見有直などがあって、非常に興味深い
時期だけど、信憑性の高い資料が少ない時期でもあるんですよね。

たぶん逸見有直は逸見清光の子孫ではなく、武田信義の4男の武田有義の子孫です。
確かな裏づけ資料は見たことありませんが、武田有義は逸見有義とも呼ばれていて、
その流れが後の甲斐逸見氏になると思われます。
67日本@名無史さん:2007/11/09(金) 21:51:40
甲州武田支族のめぼしいところを書いてみる。

小笠原氏系
深志小笠原、高天神小笠原、幡豆小笠原、阿波小笠原(三好)
鈴岡小笠原、松尾小笠原、伴野、大井
南部氏系
波木井南部(根上南部・八戸南部)・三戸南部・九戸
武田を名乗っている系
安芸武田、周防武田、若狭武田、上総武田(庁南武田、真理谷武田)
松前武田、京都武田(武田公信)、常陸武田、紀州武田、米沢武田
その他
飯富、秋山、安田、米倉、比内浅利、曽根、香宗我部、甘利、板垣
湯川、穴山、栗原、布施、小佐手、下曽根、下条、油川、岩手、
武川衆(一条、青木、山高、柳沢、折井)、溝口、河内

この辺りまであれば、大体網羅できると思うけど。
68日本@名無史さん:2007/11/10(土) 02:52:36
>>66
武田信重は将軍義教の強い後押しで甲斐守護になったから、このことに強い
恩義を感じていたらしく、その後の永享の乱や結城合戦においては、かなり
京都の幕府の意向に忠実に動いている。
なお似たようなことは、やはり将軍義教の強いプッシュで駿河守護になった
今川範忠にもいえる。
69日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:14:34
>>66
武田信長って、関東公方方じゃなくて幕府方なの?
70日本@名無史さん:2007/11/11(日) 17:54:35
>69
武田信長は幕府方ではないですよ。
上杉禅宗の乱で武田信満と共に幕府方と戦っているはず。
確か幕府の命で鎌倉に向かって進攻してきた信濃小笠原と戦っているんでは?
って事は、幕府に弓を引いているわけで。。。
武田信長が鎌倉公方方になったのは、足利持氏が甲斐に進攻してきて、
今の都留市田原の辺りとか大月市とかで武田信長と戦って、武田信長が
降参して鎌倉に出仕するようになってからですね。
でも、その後に鎌倉を出奔して甲斐に戻り跡部明海や逸見有直と戦っています。
結局破れて、京に落ち延び、将軍家の後押しを得て駿河か遠江に捨扶持を
貰っていたらしいです。
結城合戦の頃は将軍方になってますね。
本格的に鎌倉公方方になったのは、足利成氏の頃です。
足利成氏の重心だったらしいです。
上総に進攻したのは、その後の事になりますよ。
71日本@名無史さん:2007/11/11(日) 18:04:10
アンカー間違えた
上のは>>69ですね。

>武陽陰士
安田義定が源頼朝と命がけの戦いをした根拠は?
一条忠頼が謀殺されてからの甲斐源氏武田氏の武力の中心が安田義定で
あることは想像に難くないけど。。
頼朝に無理難題を吹っかけられていることは知っている。
息子の安田義資が源頼朝に謀殺されたことも。
その結果、遠江守護から上総守護にされたことも。最後は遠江守護に戻っているね。
安田義定って、花鳥山の戦いで鎌倉郡25000に対して2500の兵力で防ごうと
した時点で、源頼朝に一方的に滅ぼされたのだと思うが。
全て、源頼朝が甲斐源氏の勢力を弱めるための政策の一環だと。
72武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/11(日) 21:19:18
>>71
私のレス、よく読めバカ。
あと曽我の事件のあとの一連の粛正のことは
結局推論だ。
いろんな研究者の推論読め
おまえ中世史ネットで切り貼りしてんだろ
鏡も読んでくれ。
安田がいかにもつまらない理由で死んでいる。
ていうか中世史の先生の授業受けろ
73武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/11(日) 21:22:52
吾妻鏡は時々こじつけのような理由をつけて事件を説明する。
吾妻の癖みたいのおまえはわかっていない。
とにかく読め バカ
私のは状況証拠による推論だ。
私のこんな書き方は政治史の奴なら推論としてよくやるよ
しかし本どいつこいつも読まないな。
私のを印刷してプロにみせろバカ
74武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/11/11(日) 21:45:02
例えば五味文彦という中世史の研究者がいる(女院領に関する論文は必読だ)。
五味が歴史読本に寄稿していた文章を読んでたらびっくりしたね。
「頼朝は暗殺だったかもしれない」とこともなげに
書いている。
五味も、ちゃんとした論文著作だったら、気楽にこんな断定なんかしないんだよね。
研究者いやアカデミックな学者は、基本的に公的な場所じゃ推論はあんましいわない。
ところが
オフレコ、弟子の前、くだけた雑誌の対談なんかだと日頃考えていた推論推測とか言っちゃいうんだよね
75日本@名無史さん:2007/11/11(日) 23:46:35
>>72
吾妻鏡(勿論読んでいる。現代語訳だが)に記載されている
甲斐源氏関係の記載は、間違いとは言えないけど、断片的
すぎて真実を捉えきれないぞ。
つまらない理由ってのはなんだ?
そこまで言うからには、根拠のある「つまらない理由」ってのが
推察できる資料を教えてくれないかな?
吾妻鏡だけからでは無理だろうが。。。。
安田が滅ぼされた状況証拠に基づいた推論の状況証拠って何だ?
また、一条忠頼の謀殺なども、その背景が全くわからないので、
参考になる資料を知っていたら教えてくれないか?
一条忠頼の謀殺〜安田義定の件までは、甲斐源氏に対する源頼朝
あるいは大江広元の一貫した意図を感じるのだが。
ちなみに甲斐国史や方光寺記(安田義定開基の寺の記録)は
吾妻鏡に比べ詳細な記述があるが、こちらは甲斐源氏の肩を持ち
すぎているのではないかと思う。
それでも吾妻鏡よりは甲斐源氏に関する記述は正しいだろうと
考えているわけだが。
理系人間なので、中世史の授業など受ける機会は無いって言うか
学生じゃないし。。。
76日本@名無史さん:2007/11/12(月) 03:02:37
>>75
方光寺じゃなくて放光寺な。
77日本@名無史さん:2007/11/12(月) 03:49:23
hu-
78日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:03:57

どーでもいいですよ
79日本@名無史さん:2007/11/12(月) 23:30:06
1,000超えの女です。

家は、買いません。転勤がありますし、家賃は会社が7割負担してくれていますので
今のところ必要性がありません。独身ですしね。
彼氏はいません。あまり男性に興味はないです性格です。完全に自立してますし。
まあまあもててはいますけど。
セックスは、上記の通り好きではありません。出来ません、あんなこと、くらいに思っています。
六本木に行かれるんですね。サントリー美術館の鳥獣戯画展、観に行かれました?
80日本@名無史さん:2007/11/15(木) 19:49:34
>>32
相内が町外れって言いたいんだと思うけど『現実的じゃない』は
どうかな?
北見市内から津別や常呂の歯医者に行く人も結構いるよ
81日本@名無史さん:2007/11/17(土) 12:13:46
阿波武田が出てないな

と、先代スレと同じことをレスしてみる
82日本@名無史さん:2007/11/17(土) 12:55:52
>>81
阿波武田って、小笠原系の三好以外にもいるの?
83日本@名無史さん:2007/11/18(日) 09:01:29
因幡武田は?
84日本@名無史さん:2007/11/18(日) 11:48:52
>>83
鳥取城の武田高信の事かな?
武田国信(若狭武田)の庶子という説があるようですが、
活動した年代を考えると無理があるような気がする。
武田高信一代で滅亡したようなので、因幡武田氏という
括りにするのは無理ないか?
85日本@名無史さん:2007/11/18(日) 11:56:30
84の補足だけど、
武田源三郎と源五郎という武田高信の弟がいたようで、毛利や豊臣の
家臣団に組み込まれているらしいね。
武田高信の子息には又太郎・又三郎・与十郎等がいるようですが、
尼崎城関係の資料に名前が見えるだけで、よくわかりません。
86日本@名無史さん:2007/11/18(日) 11:59:25
尼崎城じゃなくて芦屋城だった
87日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:52:50
松前氏が若狭武田氏に繋がるのは本当?
88日本@名無史さん:2007/11/22(木) 17:00:40
嘘(ねつ造)
89日本@名無史さん:2007/11/23(金) 09:59:17
松前氏(松前武田)が若狭武田に繋がるかどうかは、信憑性のある資料には
一切出てこないような。。。
自称って感じじゃないかな?
90日本@名無史さん:2007/11/23(金) 14:54:47
>>88
嘘ですか
91日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:37:44
阿波武田というと、武田信虎の子供だし…。ちなみに本家筋は若狭武田家だったりする…。
92日本@名無史さん:2007/12/01(土) 05:32:58
元ヴェルディの武田は?
93日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:48:18
>>91
武田本家は甲斐武田。
94日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:50:38
若狭が本家ってことはないだろう。
まあ京都に近い分だけ中央の政治史への登場機会は多いが。
95日本@名無史さん:2007/12/12(水) 13:03:41
うちの家系図に源七というのがいるよ 武田は源という言葉が好きなのかな
源氏の正系と思っていたのかな
96日本@名無史さん:2007/12/12(水) 20:28:17
若狭は本家じゃないよ
本家は、相伝の御旗・盾無が受け継がれた会と考えるのが自然だと思う。
武田信武の子で安芸に残った武田氏信と甲斐に戻った武田信成のどちらが
長男だったかではなく、どちらが相伝の家宝を受け継いだかで本家が決まると
思うよ。
だから甲斐が本家でいいと思う
97日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:45:24
安芸家にも、御旗・盾無が伝わっていたって説があるな。
98日本@名無史さん:2007/12/31(月) 14:14:31
安田氏は皇室も認める源氏の名門
安田の支族の粟屋の血が皇室にも入っている
新上東門院の母は、粟屋氏の娘
99日本@名無史さん:2007/12/31(月) 15:04:44
小笠原とか南部も一族って考えて良いの?
100日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:27:07
粟屋って若狭武田氏の重臣にいなかった?
101日本@名無史さん:2008/01/03(木) 18:47:10
>>100
いるよ。
名城・国吉城主の粟屋勝久。

あと逸見昌経とか内藤とか熊谷とか。
なんとなく甲斐武田に似てるよね。



俺が気になるのは、安芸武田の流れだと言われてる安国寺恵瓊。
こいつって、寺領1万ちょっと+代官地6万石も貰ってたわけじゃん?
一応、(毛利から借りてる軍勢も含まれるらしいけれど)軍を率いて関が原とか出てるし。
と、当然、家中というものがあるなら、
それは「旧安芸武田の家臣団」だと思うんだけど。
そう思うとちょっと萌える。

御家復興惜しかったね。
102日本@名無史さん:2008/01/03(木) 19:00:16
>>101
熊谷は、甲斐にはいたっけ?
安芸と若狭には確かにいるけど。

とはいっても安芸の熊谷って武田の被官とまでいえるのかどうかは微妙な気がする。
吉川はもっと微妙だが、
103日本@名無史さん:2008/01/03(木) 19:34:05
安国寺恵瓊は確か、臨済宗の坊主だったか、東福寺だったか
本能寺の変の黒幕は安国寺恵瓊だろう 織田信長が暗殺されて
滅亡を免れたのは毛利、安国寺恵瓊は毛利の外交僧
関が原の戦いも安国寺恵瓊がいなかったら、あそこまで大きな戦には
ならなかった 構想力の大きさはまさに武田の流れだな
104日本@名無史さん:2008/01/03(木) 19:45:05
安国寺恵瓊が信長を殺せるならば
そもそも毛利は攻められなかっただろうが
105日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:01:04
安国寺恵瓊は小早川隆景の家来みたいな立場で外交僧だから家来も
ほとんどいない ただ東福寺の縁で御所にも頻繁に出入りしていたようだし
各種情報を握っていたのだろう 明智光秀との直接的な接触は定かではないが
秀吉とは講和の件でかなり頻繁に接触している 秀吉の中国大返しの
スピードは異様に速い 事前に信長の死を知っていて準備していたのだろう
共同謀議の口封じに安国寺恵瓊に6万石を与えたのかもしれない
明智光秀をそそのかしたのは、秀吉かもしれないが、絵を描いたのは
安国寺恵瓊だろう
106日本@名無史さん:2008/01/06(日) 21:08:15
>>105
101も言っているが、6万石は他の大名のような直轄地ではない。
代官地という微妙なものだったらしい。
107日本@名無史さん:2008/01/08(火) 05:30:31
豊臣政権下の石高とか知行の概念って難しいよね。
108日本@名無史さん:2008/01/08(火) 12:50:10
織田信長が本能寺で暗殺されたときに、備中高松城で秀吉と毛利が対峙していた
時だが、陣の配置を見ると毛利軍の小早川隆景が陣を引いた日差山は高松城の南
小高い山だ 低い位置の秀吉軍の動きは手にとるようにわかる位置にある
秀吉軍が姫路に向けて退却するのも眼下に見下ろせる位置にある 秀吉と
小早川隆景は安国寺恵瓊を通して、同盟関係にかなり前からあった?つまり
本能寺の変は、明智光秀+安国寺恵瓊+小早川隆景+足利+などの暗黙の
了解の元に行われた 知らぬは信長だけという形だろう 高松城に信長が
行っても、ドサクサ紛れに暗殺されていただろう
109日本@名無史さん:2008/01/08(火) 13:24:52
ここ、こじつけ妄想書くところじゃないから。
そういうのはファンタジー系の板で。
110日本@名無史さん:2008/01/09(水) 17:47:35
タコ
111日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:00:45
タコライス
112日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:04:16
タコメーター
113日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:11:34
イカ
114日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:57:30
イカソーメン
115日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:21:30
イカロス
116日本@名無史さん:2008/01/22(火) 10:51:37
旗本550石 油川氏(後に武田に復姓)
117日本@名無史さん:2008/02/03(日) 01:25:38
広島の安芸武田氏
江戸時代の系図ないかなあ
118日本@名無史さん:2008/02/17(日) 02:06:21
暗黒寺?
119日本@名無史さん:2008/02/17(日) 12:21:54
大塩平八郎の乱の直接の原因を作った大坂奉行・跡部良弼も武田一族なんですか?
120日本@名無史さん:2008/03/09(日) 05:02:40
将軍家定の生母も跡部氏
121日本@名無史さん:2008/03/09(日) 08:55:41
武田耕曇斎も跡部氏
122日本@名無史さん:2008/03/09(日) 09:06:18
鉄也
123日本@名無史さん:2008/03/09(日) 09:31:18
武田の本家って愛知じゃなかったっけ?
甲州武田って分家じゃなかった?
124日本@名無史さん:2008/03/09(日) 16:35:22
近江国愛知郡?
125日本@名無史さん:2008/05/22(木) 11:08:05
武田元繁は毛利元就の初陣で討ち取られたが、
討死してなければ甲斐武田以上の勢力になっていたかもしれない。
126日本@名無史さん:2008/05/22(木) 11:39:38
武田の本家は若狭です。甲斐→安芸→若狭と移り住んだようです。安芸の元繁は父元綱のときに若狭本家の代官から独立したみたい。
127日本@名無史さん:2008/05/22(木) 11:55:34
本家は義統(8代)の死後に家督争いで混乱。隣国越前の朝倉に元明(9代)が幽閉されて人質状態。織田に解放されて丹羽長秀の配下として若狭に帰還。本能寺で明智に加担して切腹、だったと思います。
128日本@名無史さん:2008/09/01(月) 18:16:08
そうなんや
129日本@名無史さん:2008/09/01(月) 19:52:46
>>126
一般的な系図見たら安芸と若狭が支流なんだけどどういうこと?しかも歴史の表舞台に出てくるの南北朝からだけど?
130日本@名無史さん:2008/09/02(火) 01:11:26
信玄さんが、若狭が本家だって言ってるから
131日本@名無史さん:2008/09/02(火) 03:10:23
>>129 甲斐武田だって鎌倉時代は一地方領主的な感じだったじゃん。
132日本@名無史さん:2008/09/02(火) 22:54:00
>>129
信光以降、信武登場以前の武田氏は分裂状態で一まとまりになっていなかった。
安芸守護職を継いだ氏信が父祖伝来の家と土地を守り、信成は甲斐に下って甲斐武田氏を再興した。
甲斐武田氏成立(頼朝政権)→分裂→安芸守護家が台頭→
安芸・甲斐を領有する安芸武田氏が成立(尊氏政権)→
安芸守護家・甲斐守護家に分裂(南北朝時代)→安芸守護家、本拠を若狭に移す(室町時代)→
若狭守護家(元安芸守護家)・甲斐守護家ともに滅亡(戦国時代)

武田信武が安芸出身で安芸の軍勢を率いて足利尊氏に味方している頃、
甲斐の武田氏は甲斐の軍勢を率いて北条氏に味方していた。
何をもって嫡流・支流とするのか考えて、自分で判断してみてくれ。
133日本@名無史さん:2008/09/20(土) 19:01:31
喪女板にまさかの武田の子孫降臨
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/wmotenai/1221903981/
134日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:36:39
ほー
135日本@名無史さん:2008/12/24(水) 22:18:57
柳沢家って近代にはいって島津家から養子入ってるのね。
136日本@名無史さん:2009/04/14(火) 00:01:32
そうなん?
137武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/04/27(月) 23:44:22
>>75
今初めてオマエのレスを読んだが何ホラ吹いてるんだよw
オマエがレス時点じゃ安田父子の誅殺や曽我兄弟とかの吾妻鏡でのくだりは現代語訳がまだ出てない(このころは第一巻か第二巻あたりくらいが刊行してたかな?)。
ていうか現代語訳の『吾妻鏡』は未だ完結してない。
現代語訳で『吾妻鏡』で読破した云々は、まったくのデタラメだな。無知まるだしw

やっぱりここは2ちゃんだな。学問やってる奴なんで皆無だ(山野は別だ)
138awaya:2009/05/16(土) 12:39:26
若狭武田の義統は父親が12歳の時に生まれたようになっているけど、誰も疑問には思わないのかな?
群従類書の系図には、年齢がプラス10歳になり、まともになるんだけど?若狭武田家は在京の守護大名から、
若狭に越してきた頃から、だんだんおかしくなり血筋が怪しくなると必ず逸見、粟屋氏が反乱を起こしています。
調べれば調べるほど変ですね、余談ですが、信長公記にも出てくる国吉城主粟屋勝久ですが、後に丹羽長秀の娘を室としたことになっていますが、
長秀と同じ1585年没となっています、当時娘は10歳にも満たないはずです。没年1654年。こういうときは、
粟屋家に嫁入りし息子の室になるということなんでしょうかね。戦国時代の話を時代、年表を追いながら読み解こうとするとわからなくなりますよ。
139日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:47:54
若狭武田の流れは肥後の阿蘇大宮司家の一族、高森伊予守という武将の家臣になってるんだが
140日本@名無史さん:2009/08/30(日) 21:29:56
141日本@名無史さん:2009/09/22(火) 02:26:08
 
142日本@名無史さん:2009/09/23(水) 00:10:07
おいらの祖先は、新潟県柏崎の椎谷ってとこで、
そこに武田姓の家が昔たくさんあったらしい。
なぜ、新潟県のそんなところに武田の集落があったのか、
わからないけど。

山梨県の甲府とぜんぜん離れているよね...。
143日本@名無史さん:2009/11/15(日) 22:16:53
そうやね
144日本@名無史さん:2009/11/16(月) 00:19:40
ここって本家以外の武田氏を語る場だけど
その割には若狭本家が結構出てくるね。
甲斐の分家を語るのならスレ違いではないんだが。
145日本@名無史さん:2009/11/16(月) 10:29:01
そうやね
146日本@名無史さん:2009/11/17(火) 22:32:44
>>5 もっと勉強しろよボケが

ロムっとけ
147日本@名無史さん:2009/11/18(水) 02:07:14
里見家に属した庁南の武田信煕とかは?
148日本@名無史さん:2009/11/22(日) 10:54:48
>>142
本家滅亡後に上杉に仕えた遺臣が居たんじゃない?
149日本@名無史さん:2010/02/13(土) 13:06:07
そうなの?
150日本@名無史さん:2010/02/18(木) 22:48:06
武田義統
151日本@名無史さん:2010/02/19(金) 00:03:49
リニアモーターカーで新幹線に乗った武田信眩惑像見たいな
152日本@名無史さん:2010/02/19(金) 00:30:55
信州佐久郡の日向城。 かなり立派な山城だけど史料には出てこない
地元の口碑では武田の部将長坂氏が在城だとか
城下の集落は武田姓が多く、その城の本丸跡に氏神を祭ってる
ヒマみて調査してみたいけど、なかなか。
153日本@名無史さん:2010/03/07(日) 06:49:44
新羅三郎の子孫‥武田家
154日本@名無史さん:2010/03/22(月) 01:10:48
で?
155日本@名無史さん:2010/03/22(月) 02:09:28
うちは常陸武田の系統。
156日本@名無史さん:2010/07/04(日) 12:40:59
信重の子供ってwikipediaに載ってるので全てなんですか?
157日本@名無史さん:2010/07/04(日) 13:36:21
穴山陸奥入道梅雪
158日本@名無史さん
先祖で滋賀県士族の武田某というのがおりますが、若狭武田と関係あり?