【ネタ満載】大友家臣団

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1日本@名無史さん
あの武田家や織田家にも匹敵する優秀な大友家臣団
いくら頑張っても報われない大友家臣団等について語りましょう

2スレ題にワロタ:2007/06/22(金) 19:02:02
じゃあ何で滅亡したのよ?
3日本@名無史さん:2007/06/22(金) 19:40:30
>>2
ヒント:君主
4日本@名無史さん:2007/06/23(土) 09:22:38
うん、君主のせいだね。
元から君主の性格が悪すぎて、離反する者が度々出ていた。
さらに君主が変な宗教にハマって元の宗教批判し始めたから、付いていけなくなった部下達が反旗翻しまくり。
そしてまとまりがなくなって、耳川の大敗を機に離反者がさらに続出してどんどん弱体化。

島津軍が豊後に進軍中、戦闘や疲労で兵士達の数が減っていったけど、大友からの離反者が加わったので
兵の補充をしなくて済んだという話もある。
5日本@名無史さん:2007/06/23(土) 09:26:45
ネタ満載なのは家臣でなく宗麟自身では。
笑うに笑えないネタの宝庫ですよ彼は。
6日本@名無史さん:2007/06/23(土) 20:41:55
【宗麟】大友氏について語ろう【義統】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151859366/

戦国時代
http://hobby9.2ch.net/sengoku/
7日本@名無史さん:2007/06/23(土) 20:54:34
立花家:立花道雪、高橋紹運、立花宗茂
豊後三老:立花道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速
知勇兼備の将:一萬田鑑実
政略担当:臼杵鑑続
知略担当:吉岡長増
妖術担当:角隈石宗
猛将:吉弘統幸、柴田礼能
天正の楠木:志賀親次
蛇神の末裔:佐伯惟定

女で活躍した
吉岡妙林寺
高橋宗雲
立花ギン千代

こんなもんか?
8日本@名無史さん:2007/06/25(月) 02:14:53
水上担当 岐部 若林 富来
水中担当 達磨像
9日本@名無史さん:2007/06/25(月) 19:25:38
>>9
水軍ともなると流石に知らねぇw
立花ギン千代はゲームで知った。
優秀な人物は多いけど、一般人が名前聞いてわかるのって宗麟ぐらいだろうな。
10日本@名無史さん:2007/06/26(火) 00:54:50

      《
      ┃,.´ / 雷ヽヽ
      ┃! i iノノリ)) 〉 
      ┃i l l.´ヮ`ノリ 
 ワショーイ   ⊂ く/_只ヽ          
   /■\ ̄/■\道雪┐/■\
  ( ´∀`) ( ´∀`)    ( ´∀`) ワショーイ
  ⊂  ._つ⊂  ._つ ̄ ̄⊂  ._つ
   人 Y   人 Y  Y   人 Y
   し'(_)  し'(_)'(_)  し'(_)

11日本@名無史さん:2007/06/26(火) 02:00:31
バカ殿の女狂いさえなければ、あれでもそこそこ行けたんだろうが。
12日本@名無史さん:2007/06/26(火) 02:03:28
こんなヤツでも一時は九州3強の筆頭に昇りつめたんだからな
実は九州ってレベル低いんじゃねーの
13日本@名無史さん:2007/06/26(火) 20:05:44
>>11
女狂いとキリスト教狂いさえなければそこそこ行けたと思う。
耳川の戦いの前に道雪の忠告を聞いてれば家が傾くこともなかったんじゃないかね。
>>12
九州のレベルが低かったのか大友家臣が優秀だったのかは知らん。
領土拡大してた時期の大友家は、大名が性格悪くてもまだ家が繁栄してたから部下が頑張ってたってイメージがある。
この頃の宗麟は戦にほとんど出ずに家臣に任せてたし、耳川で大敗した後は爆発的に離反者が出まくったし。
14日本@名無史さん:2007/06/26(火) 21:32:40
当主が何もしないで遊んでいたら普通の家臣団は瓦解するものだが
逆に領土が増えてるところをみると家臣は優秀だったんだなと思う
15宇喜多直家信者:2007/06/27(水) 19:45:20
>>7 女で活躍したに鬼御前追加

水軍若林鎮信
利光宗魚
入田宗和
柴田紹安
武宮鎮元・・・などなど、
いくらでもいる
16日本@名無史さん:2007/06/27(水) 20:07:32
>>14
増えるってか大内遺領を継承しただけで切り取った訳ではないだろ。

>>15
この手のスレで朝倉一玄が出ないのは何でなんだぜ?
17宇喜多直家信者:2007/06/28(木) 15:31:07
留守の火縄か・・・、
18日本@名無史さん:2007/06/30(土) 22:49:26
>>16
毛利と一時結託して大内亡き後の領を自分のものにして、その後毛利と土地をめぐって戦ってるから、
継承したとは言えないのでは。

大内領欲しさに自分の弟を見殺しにしたんだよね宗麟は。
19日本@名無史さん:2007/07/01(日) 21:07:07
>>18
土地を巡ってというより筑前豪族の要請じゃなかったっけ?
20日本@名無史さん:2007/07/04(水) 20:00:06
木付鎮秀 鎮直父子も優秀な...
21日本@名無史さん:2007/07/04(水) 20:48:12
優秀な個人は多いけどまとまりのない大友家臣団。
やっぱり派閥とかあったのかね。
立花派とか高橋派とか志賀派とか。
22日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:55:00
特に大友は同紋衆、他姓衆に下り衆とハッキリ分かれてるからね。
23日本@名無史さん:2007/07/17(火) 23:42:57
そんな事より、今日うちの犬が死んだ。老衰だった
24日本@名無史さん:2007/07/18(水) 00:17:45
宗麟の悪行ってなんだ?
家臣の妻を奪ったってのは俗説ではなく本当か?
25日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:55:57
親父謀殺とか?>>二階崩れ
26日本@名無史さん:2007/07/18(水) 23:57:49
家臣の妻に横恋慕して家臣殺して奪ったのは事実。
他の悪行と言えば、神社や寺焼いて耳川へ向かう途中で十字軍みたいなことしてたことか。
二階崩れは宗麟は関係ないとされてるが、実際はどうかねぇ。
27日本@名無史さん:2007/07/19(木) 00:20:55
竹崎季長の末裔が家臣にいなかった?
28日本@名無史さん:2007/07/19(木) 04:52:03
直接タッチはしてないが、裏でグレーな役割を果たしていたかもなぁ
29發 ◆xFjUUUHrqM :2007/07/31(火) 13:34:19
竹崎は阿蘇の分家だし、いてもおかしくないよね
茶堂までずっと肥後にいたみたいだし
30日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:48:58
だな
31日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:55:30
おれ綾垣ってんだけど親が先祖は大友の家臣だったって言ってる
32日本@名無史さん:2007/10/15(月) 14:38:18
綾垣氏は「豊後清原氏」から出ておる。
33日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:40:31
34日本@名無史さん:2007/12/13(木) 10:49:34
35日本@名無史さん:2008/03/02(日) 22:42:24
盛り上がりにかけたか
36日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:33:46
うちは先祖が山伏で、大友に焼き討ちされたそうだ。まあ、島津に味方したせいなんだが。



で、仕返しに調伏したらしい。



ちなみに化けネコ騒動の鍋島とは江戸時代に親戚になった。親戚なら調伏の依頼を受けないだろうということで。
37日本@名無史さん:2008/03/05(水) 00:07:35
おれは賀来だよ!
38日本@名無史さん:2008/03/05(水) 00:13:22
竹崎は熊本の細川家に仕えてるね
39日本@名無史さん:2008/04/14(月) 01:18:45
>>1大友が馬鹿だから
優秀な
家臣が裏朝廷から(隠密な)
優秀家臣が派遣されたって
感じだな

豊前豊後が可笑しな事態になれば
神武東制の再来になりかねん…
40日本@名無史さん:2008/04/27(日) 08:22:47
最近、城巡りがマイブームです。
行った城全部大友派、だったのでこのスレ覗きにきたけどあんまり伸びてないね。
岩屋城本丸の碑は、なかなか感慨深いものがあった。
次は、地元の問注所氏の城に登城するつもりです。
41日本@名無史さん:2008/04/27(日) 08:23:38

             ∧∧
            / 中 \  対日世論工作の強化が必至アル
           (#`ハ´ )|||
           (      O// ドン!!
          | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
          |          .|     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\               | 誰か友達に
 アホくさ    .|               |  なってやれよ。
   帰ろ帰ろ .|    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_ ____   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
___ __/     | 聞いて損した |    V         | せんとくんという名になりました。こらえてつかぁさい
     V         \____ _/   ∧_∧       \_ ______
    ∧_∧         ∧_∧ V    ( ´∀`)   Y   Y V
   (・∀・#)         (; ´д`)    (    つ   (・∀・)
   (    )        と    つ            (    )
42日本@名無史さん:2008/04/27(日) 08:25:33
>>12
今だって古賀やヤマタクを選ぶような地方だぜ
民度が低いのは当然だろ
43日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:29:20
先祖は三田井氏(高千穂氏)に仕えていたが、一時期大友氏にも仕えていたようだ。
分家の中には、大友氏の能楽師になったものが数名いる。
44日本@名無史さん:2008/05/09(金) 21:38:02
一万田 !!!!!!
45オカ板よりコピペ:2008/05/09(金) 23:10:44
高校3年の頃、古典担当でじいさんの先生がいた。
学校の授業なんかちゃんと聞かなかったし古典も嫌いなんだが、
そのじいさん先生の授業だけはなぜかちゃんと聞いてた。妙な親近感あり。
自分でも「なんかよくわからんけど話聞いてるな〜俺」と不思議で。
成績はおぼつかないけど、ちゃんと聞かないといかんな、的な。

ある日、授業中にじいさん先生が突然座って押し黙った。
う〜ん、みたいな感じでうなってたらしくそれで女子が気づいて
「○○先生、体調悪そうだよ!どうしよう」って言い出してざわめいた。
俺、なんでかわからんけど一番後ろの席から教卓に急いで行って、
じいさん先生をおんぶして保健室まで連れて行った。
4階の教室から1階の保健室までの距離を具合悪い人間を背負うのは
かなりつらかったはずなんだけど、必死になってたのだけは覚えてる。
その後はすぐ救急車が来て事なきを得たので、俺はちょっとしたヒーローになった。

結局じいさん先生は心臓の調子が悪かったようで、しばらく休んだ。
後日、卒業前の最後の授業だけ出て来て、俺に、
「こないだはありがとう、なんだか初めて会った気がしないね、君は」と。
俺もなんかそんな気がしていたけど、たしかヘラヘラ笑ってたと思う。

話は少し逸れるけど。
俺の家は代々、とある藩主のNo1側近。家臣を300年やっていた家系。
俺はそこの長男系譜の直系なので、世が世であれば側近をしていたらしい。
まあそんな昔の話は気にする事無く生活していたわけだけど。

それで、後からわかった話なんだが。
そのじいさん先生は藩主の直系で、世が世であれば藩主だったと。
つうことは、世が世であれば俺はじいさん先生の世話をしているはずってことだ。
46日本@名無史さん:2008/05/10(土) 01:17:15
岡城・丹生島城・杵築城・鶴崎城
これらの城って島津の猛攻を凌いだんだよな。
政庁だった府内大友館が落城したらしいが
島津は豊後をほとんど攻略できなかったんじゃねーの?

岡城は肥後口の要衝だし、大友館のすぐそばが鶴崎城だし
豊前口は杵築城で阻止されてるし。日向口も丹生島城で宗麟自らが防衛してたし。
秀吉軍がもう少し遅く着てたら・・・九州支配目前って言われるほど島津が勢力拡張してたわけではなさそう。
むしろ長期遠征の果てに大友の奇襲などの反撃が開始されれば
島津も一歩間違えれば大敗したんじゃないかな?
47日本@名無史さん:2008/05/10(土) 08:52:10
ボロボロになって個別に各城に引きこもってただけだろ。
島津としてはそんなものは問題とならないから放置して中枢を攻めた。
各城の引きこもりたちはなにも出来なかった。
引きこもりたちはなめられてたんだよ。
48日本@名無史さん:2008/05/10(土) 13:43:00
岩屋城で大出血してたし立花城は落城させられなかったし
島津は攻勢限界点を超えてしまったから
防戦側が反撃を開始したら
あとはバカみたいに大敗するしか道はなかったよ。
島津は一見すると勝ち続けていたように見えるが実際は勝っていたのではなく大友や龍造寺に従っていた豪族が相次いで離反してただけだから。
離反するやつらは所詮は雑魚キャラ。それら離反組がいなくなり大友は逆に安定し残った彼らは大友に忠誠する強力な者どもだった。
ここで踏ん張る事で島津への反攻の機会を待ち、島津軍政への不満から内通する豪族が現れ島津大敗は間違いなかったよ。
49日本@名無史さん:2008/05/10(土) 14:07:41
???
岩屋城攻めと豊後攻めは全然方面が違うが・・・??
しかも本国ですら多くの重臣に裏切られ、残ったのは小城すこし、
それも引きこもってるばかりで島津軍を押さえられず、豊後中枢にあっさり侵入・占領されてるが・・・。
大友は安定するどころか当主は逃亡、残ったのは雑魚ばかり。
実際豊後から撤退する島津に何も出来なかったし。
意気盛んな島津勢を前に、手も足も出なかった。
秀吉が来てくれなかったらどうにもならなかったよね。

なんというか大友って本当に残念だねぇ。
50日本@名無史さん:2008/05/10(土) 17:55:38
豊後中枢って府内大友館は政庁で守るに難しいから放棄しただけだし
豊後内部に島津を引き入れた戦略的撤退で拠点城に戦力を集中した。
島津は各城が簡単に落城させられると侮り豊後内部に入ったものの岡城や木次城などに背後を押さえられ補給を切断され苦戦した為に豊後攻略が一向に進まなかった。
この大友の知略の前に島津のスケジュールは遅延に次ぐ遅延。すでに秀吉軍上陸前に実質的に島津大敗していたために秀吉軍が上陸してくると大幅に防御ラインを下げる事になった。
51日本@名無しさん:2008/05/10(土) 18:19:40
まあアレだ。島津勢は攻勢限界点を越えていたのは事実だが
豊薩合戦は全体的に大友側の統率が取れなさ杉。
秀吉の四国勢派遣軍ですら統率が×とあってはどうにもならん。
統率さえ保たれていれば、直入郡のラインで島津の侵攻を食い止められたろうし
仮に戸次川まで進入されても負けてしまうことはなかったろうね。

52日本@名無史さん:2008/05/10(土) 19:11:40
大友氏の家臣で釘宮って居ます?
うちの親父が大友の家来だったと言いはってる
53日本@名無しさん:2008/05/10(土) 19:25:35
具体的には知らんが、確か中世からいたローカルネーム>釘宮
54日本@名無史さん:2008/05/10(土) 19:40:20
>>50
府内放棄は戸次川でコテンパンにされて泡食って逃亡したからだし、
拠点城に戦力集中したんじゃなくて、島津の占領地の中に数名の家臣の居城が取り残されただけですが。
大友は義鎮、義統と二代続けて暗君が出たため累代の家臣にすら愛想尽かされまくり。
戦う前から負けで、義鎮が猿関白に土下座してようやく命脈をつないだ。
豊後の兵権も猿の家臣、たかだか数万石の成り上がり大名・仙石某に握られてアゴで使われる体たらく。
頼みの仙石某が逃亡してからはミジメというよりはもうお笑いの世界。
55日本@名無史さん:2008/05/10(土) 21:06:43
インチキ臭い大友義鎮
56日本@名無史さん:2008/05/10(土) 21:44:59
「秀吉軍上陸前に実質的に島津大敗」
57日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:14:39
「秀吉軍上陸前に実質的に島津降伏」
58日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:24:27
乞食までして秀吉にすがったのに
全国の武将達から「敵前逃亡〜!」と嘲笑されて
いとも簡単に秀吉に、野良犬の様に捨てられちゃった大友家!
       
    末代の恥晒し武将・大友死(笑)








59日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:36:39
朝鮮でも敵前逃亡したあげく、お取りつぶしになったんじゃなかった?
吉統に逃亡を奨めたのはなんと家中一の勇将、志賀親次w
60日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:49:48
>>59
要約
61日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:42:21
豊後の鶴賀城で利光宗魚に大苦戦しまくって大被害を受けてるよな島津。三国一の卑怯者仙石がアホだったから後詰めに失敗したが。
結局は日向は生産力が低く現地調達が難しい地なので島津の日向方面からの豊後侵攻は限界点に達していたんだよ。
大友義統の捕縛に失敗して国東半島と豊後の国境の龍王城に逃げられるわ、宗麟を捕まえる事もできず。
島津筑前侵攻軍も肥前の筑紫広門の大苦戦しまくって戦力ガタ落ちで岩屋城でさらに大苦戦。
秀吉軍が侵攻してきたら空気が読めない秋月が粘ったくらいで
さして抵抗もなく侵攻できたことからも九州豪族達の島津への帰属意識も皆無で士気も低く
正直、竜造寺でも大友でも毛利でも大内でも島津でも秀吉でも仕える相手は誰だって良かった。ただ島津の軍政に不満をもっていたために戦争協力面では積極的な豪族達ではなかった。
大友が島津の攻勢限界点まで粘って拠点防御をしていた以上は
島津は攻めあぐねて士気と補給の限界から敗亡するのは目に見えており秀吉軍が楽勝で侵攻できたのは大友軍の粘りがあったから。
すでにターニングポイントを迎えており下手をすれば大友独力でも島津を追い払うことができたと思われる。また支配される豪族達側からすれば島津も大友も衰えることを願ってたはずなので島津が一戦して敗北すればたちまち筑前・筑後・肥前らの豪族達が大友側に寝返るのは明らか。
62日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:47:51
「大友独力でも島津を追い払うことができた」
63日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:02:20
つか豊前って島津勢力圏みたいに書かれてるけど
実際に情勢はどうだったの?
たしか秀吉が惣無事令の和睦案だと豊前西半分を島津領で東半分を大友としたよね。
そのときの豊前の門司城って毛利方だったの?
門司城って大友になったり毛利になったり目まぐるしく変わってるよね。時系列で年表化されてないかな。
毛利側の本を読むと毛利が支配してたみたいな書き方で、
大友側からすると外交力で取り戻したりしてるんだよね。
大友が関が原での再興に失敗しちゃって滅亡したから毛利の主張が垂れ流されて門司城は毛利所有みたいな論が絶対的意見としてしまった風潮があるよね。
64日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:57:39
豊前の小倉長野氏のほかに豊前最大勢力の宇都宮鎮房
豊後国東半島の大族たる田原親貫と豊後中央部の田北紹鉄に
筑前の内陸部の秋月種実あたりは毛利と組んで暴れてたね。
島津が大友を滅亡寸前にしたと言うよりも大友配下の豪族達の謀反で
大友はすでに弱体化してただけだよな。
それでも拠点防御してるわけだから大友の底力はすごい。
立花城は筑前だし龍王城は豊前だし、杵築城は国東半島だし要路は島津の攻勢は排除し大友が押さえきってる。
疲労損害した島津が大幅に戦線後退せざるおえなかったのと、秀吉軍が円満に進軍できたのはこれらの維持が大きく作用してる。
秀吉軍の破竹の進撃がさすが天下の軍と誤解されるが、大友が大きく貢献し島津敗亡への道をすでに作っていたのは間違いない。
65日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:11:41
滅亡したのは大友。
66日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:34:37
>>64
>秀吉軍の破竹の進撃がさすが天下の軍と誤解されるが、大友が大きく貢献し島津敗亡への道をすでに作っていたのは間違いない。

禿胴。大友があれほど軟弱でなければ秀吉が島津を討伐する名分が立たなかった。
大友の愚鈍さが島津を滅ぼした。
67日本@名無史さん:2008/05/11(日) 20:39:54
>>62
英明誉れ高き島津義久公が、
いんちき武将・大友義鎮なんぞに
いちまとも相手など、するわけないのにな。

最も島津氏領地に先にちょっかいを出してきたのは、大友葬淋のバカ大名という事実。


68日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:28:59
簡単な話、大友を倒したのは毛利
島津は漁夫の利を得ただけ。
そもそも島津は北上だけ考えればいいだけで背後を気にする必要がないぶん元々かなり有利なのに甲斐宗雲にボコボコにされまくる体たらくぶり。
69日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:00:00
せっかく兵を貸してやったのに惨敗して消えた大友に何の畏敬の念があろうか
70日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:02:45
島津厨は歴史を正視しなさい。
大友配下の豪族の離反が相次いだだけで島津は大友滅亡へ向けて決定的な事は何ひとつやってないに等しい。
71日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:17:07
大友の領国は島津によって壊滅したが、
豊臣の沙汰により当面は存続した。
しかしその豊臣を裏切ったことにより、大友は滅亡した。
72日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:22:21
大友は豊臣を裏切ってねーよバカ

志賀親次が、前衛が壊滅したため援護は無意味だと
退却を主張、これを敵前逃亡と誤解され、以後のための見せしめに改易
73日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:35:45
豊臣の期待を裏切ったんだな
74日本@名無史さん:2008/05/11(日) 23:03:19
島津がいようがいまいが大友は自壊していた。しかし島津の侵攻でかえって大友が一致団結してしまい激しい抵抗を受け島津は弱体化した。
75日本@名無史さん:2008/05/11(日) 23:50:25
角牟礼城も島津は苦戦して落せませんでしたねw
76日本@名無史さん:2008/05/12(月) 00:38:02
必死だな(笑)
ボンクラ大友ごときに
77日本@名無史さん:2008/05/12(月) 01:26:01
真実が見えない島津廚の盲目マンセーはキモイ
78日本@名無史さん:2008/05/12(月) 02:23:00
なんだ、今度は島津対大友で煽りに来たのか
ご苦労なこった
79日本@名無史さん:2008/05/12(月) 03:18:03
僻地の低レベルな争い
80日本@名無史さん:2008/05/12(月) 06:21:12
おおともはなんでけらいにねがえられたの?
81日本@名無史さん:2008/05/12(月) 12:07:31
なんだ豊後の大半の拠点城を落城させてないじゃん。
豊前だって島津が支配したんじゃなくなって島津と同盟して謀反した豪族支配だし。
謀反した連中は大内や毛利に組みしたりと組む相手は誰でも良かったようなやつらだしな。
肥前だって実質的に島津が支配したわけじゃねーし。
九州統一寸前って誇張し過ぎw
中央集権や支配力確立地域なんてないから豊臣軍がきたらすぐ瓦解したしな。
82日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:03:44

すぐ瓦解というのはむしろ大友のことをいうんじゃね?
本国まで瓦解というのは実に見事。
83日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:28:50
大友本国は瓦解なんてしてないがw
84日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:32:58
初めて一軍の指揮を任された仙石がアホだったから島津に勢いづかれたが
仙石がいなかったら大友は日向口を固守し独力で島津を排除してた。
85日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:04:14
長宗我部信親の墓って寂しい所にあるよな。
86日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:23:42
>>84
日向口も肥後口も破られてたが・・・。
どうやって府内まで攻め込んだと思ってるんだよw
しかも指揮系統は壊滅し、足軽上がりの他国者・仙石ごときにアゴで使われる始末・・・。
事実上滅亡だわw
87日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:34:13
>>86
誘引の策にハマり背後の鶴賀城を奪回された家久は孤立して必死だったじゃんw
府内館なんて飾りだからw
88日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:03:10
島津を貶している奴も大友を貶してる奴も同一人物に思えてきた
89日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:31:36
>>87
???
本領をボコボコにされたのは普通誘引とは言わないぞ?
っていうか、大友は手も足も出ず、組織だった迎撃どころか抗戦すらできなかったわけだが。
唯一組織的抵抗ができたのが援軍の仙石w
仙石の敗走で府内の義統も領地を捨てて逃亡、府内陥落、大友滅亡w
90日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:33:46
肥後口だって岡城を軽視して進軍したから補給だって苦労したくせに。
まさに敵中孤立し疲弊しまくった島津w
そもそも肥後口や日向口へ至る道自体が痩せた土地だから現地調達できねーがなw豊後入ってから大苦戦の連続だったよな。
91日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:38:12
>>89
アホが。消耗と大出血を強いる遅滞作戦だから。
府内館が落ちたって?あんな守るに適さない政庁にこもるアホがいるかよ。
府内館のすぐ右隣の尼がこもった鶴崎城ごときも落城されられなかったくせに…島津弱っ!
92日本@名無史さん:2008/05/12(月) 16:18:34
91の弱いオツムの持ち主なのは良くワカッタw
93日本@名無史さん:2008/05/12(月) 16:18:57
>>91
アホが。領地を蹂躙され有力家臣を討ち取られ家臣に寝返られ消耗大出血したのは大友の方だろw
つうか最初っから迎撃、撃退して領地に入れなけりゃそんな消耗せずにすんだのによw
累代の家臣に救援も送らず殺されたり寝返られたりするのが大友の作戦かw
能なし腑抜けの大友らしいわw
94日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:19:09
島津厨が自己中史観を垂れ流してるなw
結局は支配権を確立できずズタボロになって豊後から逃走したくせに。
点の確保ができないから線の確保はもっと無理。策源地や拠点を敷設できず、むやみやたらに豊後内をさ迷っただけだろ。
もうね南端の蛮族の隼人遊牧民族が荒らしにきただけだからマトモに戦うチキンなんて文化人大友にはいねーよ。
まさに島津は「きた」「みた」「去った」と言うレベル。
95日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:22:25
実質的に島津は盲目的に攻勢を続けているようなつもりになってたが醒めてから改めて気付いてみたら
大友の諸城に包囲され豊後国内で孤立し補給すら困難になっていた敗軍。
96日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:48:43
現実に島津氏に適わなかったんだけどな。大友氏は

でその後の顛末は>>58

あの熱い時代に全国各地で起こった、様々な出来事を見てみても

次元が低く見下される要素が満載なんだよ。大友いう人物は・・

やはり領内でさえ、悪評が多かったみたいだしね。


97日本@名無史さん:2008/05/12(月) 18:14:33
大友はガクガクブルブルして布団の中で震えてるうちに南郡を制圧され、府内に迫られ、
見るに見かねて迎撃に出た援軍も見殺しにして逃亡。
これほど惨めな滅亡の仕方も珍しいw
地元の有力家臣もこぞって島津に寝返ったから、島津の補給は万全だしw

秀吉公に御家再興してもらえてよかったね〜。
98日本@名無史さん:2008/05/12(月) 18:48:17
>>97
島津の一方的な主張だな。島津史観は捏造だらけwww
大友が滅亡し死人に口なしだからって島津は事実を歪曲して言いたい放題マンセーしてんなよw
事実が見れない人間が日本史語るんじゃねーよ島津厨が。
99日本@名無史さん:2008/05/12(月) 19:59:57
豊後南部で残った大友方有力者って、志賀と佐伯くらいじゃね?
100日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:52:11
>>76
ボンクラ乙
101日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:18:49
>>98
お前さんこそ事実を見ろ
大友は豊後南半が散々荒らされても手も足も出なかったではないか
ようやく手が出たのは府内と目と鼻の先の鶴賀城が必死の抵抗をしてからではないか
その鶴賀城救援すらも自力ではできなかったではないか
救援軍が敗走すると戦わずして逃亡したではないか
豊後南半で残ったのは志賀親次と佐伯惟定ばかり
その志賀も父親や同族は島津に寝返り近隣豪族は寝返ったり滅ぼされたり
肥後口の島津方主将・島津義弘は岡城には押さえの部隊のみ残して自らは豊後国内を転戦
岡城はなんの脅威にもならず
佐伯にいたっては日向口からの島津勢の侵攻ルートから外れてたために申し訳程度に牽制されただけ
前進した島津軍を背後から脅かすこともできずただ城で惰眠を貪る
おおとももうだめぽ
102日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:50:40
いたずらに兵力分散した結果、島津は各戦線で停滞をはじめ
ただ単に豊後に駐留し無策なまま決定打も出せず疲弊を続けた。まさに大友の遅滞遅延作戦は成功しつつあったのである。
大友当主はおろか後見人たる宗麟も豊後で健在で捕まえられないのに後世に捏造で勝った宣言するまで追い詰められていました。
そして国人や豪族は島津の力に疑問を持つようになりましたので士気は低く、よりいっそう大友の城攻めは大苦戦し、すでに包囲と言うより傍観してる始末。
そのために立花城は国人も豪族も協力を拒否し島津単独で攻めあぐねました。
なんだか島津は項羽の野猿のように大友の手のうちで踊らされ疲弊してたのが明白になってきましたね。
大友にとっては毛利は強敵で弱体化させられましたが島津はザコだったね。
103日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:53:23
お前らもう結婚しちまえよ
104日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:57:48
得意のシャーマニズムくじ引きで侵攻方法を占い失敗した島津w
105日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:01:54
>>101
戦略的撤退ですが何か?
106日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:04:07
>>105
戦略的滅亡か?
初めて聞いたな。
107日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:17:18
>>102
いたずらに兵力分散した結果、大友は各戦線で崩壊をはじめ
ただ単に豊前に逃亡し無策なまま援軍も出せず疲弊を続けた。まさに大友の無気力自滅作戦は成功しつつあったのである。
大友当主は愚か、後見人たる宗麟も臼杵で引き籠もりでどうにもならないのに後世に捏造で勝った宣言するまで追い詰められていました。
そして国人や豪族は大友の力に疑問を持つようになりましたので士気は低く、よりいっそう大友の動員は大苦戦し、すでに救援と言うより傍観してる始末。
そのために豊後国は国人も豪族も協力を拒否し仙石単独で攻めあぐねました。
なんだか大友は今川の氏真のように島津の手のうちで揉み潰され疲弊してたのが明白になってきましたね。
島津にとっては相良は強敵で弱体化させられましたが大友はザコだったね。
108日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:18:37
結局、豊臣に頼った事が大名家としての大友家の滅亡の要因だよなあ。
早い内に島津に降伏して豊臣方と戦った方が大名家として残れたんじゃない?
109日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:32:59
>>108
無理。本国も治められない大友は生き残ることなど不可能。
110日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:36:28
島津厨は病気だなw
真実を直視できない島津史観のマンセーぶりは重傷だ。
111日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:23:49
結論は、島津は大友領に侵攻したがあまりにも大友帝国が広大で
島津ごときに治められる領土ではなかった
で良い!?
112日本@名無史さん:2008/05/13(火) 01:01:50
>>111
大友ごときに治められる領土ではなかった、の間違いでは?
事実謀反人・裏切り者だらけだしw
113日本@名無史さん:2008/05/13(火) 02:36:11
筑前侵攻では入り口に当たる肥前の筑紫の前に大苦戦し唯一の味方だった秋月が岩屋城攻めを拒絶。
孤立した島津は自軍だけで岩屋と立花城で苦戦したあげく毛利の影に怯え大逃走し立花宗茂に尻を噛み付かれて諸城を奪回されまくる。

毛利の影に怯える島津は豊後侵入に作戦を切り替える。
まず肥後口より攻めた島津義弘は軍を3つに分け主力を岡城攻撃。新納忠元は玖珠郡・新納久時は大分郡攻略に向かわせる。
主力の義弘は岡城で大苦戦し続けついに放置し作戦は崩壊し新納忠元と合流せざるおえなくなる。しかし玖珠郡では角牟礼城攻城戦で大苦戦。
一方の新納久時は狭間鎮秀の武略の前に敗退し島津義弘の肥後口隊は停滞を余儀なくされる。

日向口から豊後に入った島津家久隊は栂牟礼城の佐伯惟定の前に苦戦停滞したので一隊を臼杵方面に派遣するが宗麟の丹生島城で国崩しの前に逃げ惑う。
また後方の鶴ヶ城では留守だった利光宗魚が城を奪回し撤退路を遮断され焦る家久は必死に督戦したが苦戦に苦戦し島津兵3000人の死をもってやっと奪回。
その間に日向口では佐伯惟定が、肥後口では志賀親次が島津軍が侵攻した南郡諸城を相次いで奪回し島津の背後を閉じる奇策を展開。
さらに大友館を放棄したのに釣り込まれ盲進した島津軍が敵地深くに誘引されたあげく
鶴崎城で妙林尼の神算鬼謀で撃破されて戦線維持すら難しくなり日向口から進軍した島津家久隊もまた疲弊し尽し島津全軍の破綻が目前となった。
まさに停滞から敗北へのターニングポイントを迎え主客転倒し、毛利の影に怯えた島津は進むも退くも地獄の八方塞りの包囲下に孤立してしまい
豊後からの撤退を決意し悲惨な撤退戦になったのだった。
114日本@名無史さん:2008/05/13(火) 05:06:16
大友>毛利>島津
115日本@名無史さん:2008/05/13(火) 10:56:21
大友当主は代々性奸悪で家臣を手なずけることができず、家臣の謀反・離反が相次いだ。
高橋入田朽網佐伯田北田原南志賀志賀父戸次一万田柴田・・・
累代の重臣クラスでも枚挙にいとまがない。

大友の無道に我慢の限界を超えた柴田や入田らの手引きにより、肥後口からは島津義弘、
日向口からは島津家久が侵攻。
肥後口では入田らが先導し、島津の破竹の進撃をうけて南志賀、志賀父、田北、戸次、一万田、朽網らが
続々と降伏を申し出る。瞬く間に大野郡、直入郡を制圧。
岡城を占拠した志賀親次は生来の臆病者、島津の大軍を恐れ、仮病を使って父祖の築いた岡城に引きこもるばかり。
義弘は新納忠元に兵を授けて玖珠郡へ、新納久時は大分郡へと差し向けた。
玖珠郡角牟礼城では誘引策を用いて城兵に大打撃を与え、城内に押し込んで兵糧攻め。
大分郡では権現嶽城の挾間鎮秀を降伏させる。
義弘は孤立し無力化した岡城を放置し、玖珠郡に侵攻。とはいっても、すでに小身の侍、新納忠元によって
わずか角牟礼城を残して玖珠郡全域は制圧されていたのだったw
日向口では境目の城・朝日嶽城主の柴田が家久を先導。一気に三重郷松尾城へとはいる。
栂牟礼城と臼杵へはそれぞれ2000を派遣し城内に押し込んだ上で豊臣軍(大友はすでに組織力0w)を蹴散らし、
府内陥落、大友滅亡w
代々当主の暴政で人心離れ、すでに疲弊し尽くしていた大友は、ほとんど戦わずして滅亡したのであったw

なお、岡城の臆病者・志賀親次の臆病はその後も治らず、朝鮮征伐でも遺憾なく発揮される。
愚かにも親次の敵前逃亡策に乗った義統は、哀れ改易されたのであったw
116日本@名無史さん:2008/05/13(火) 12:46:01
>>115
ププ島津史観w
よくさ、滅亡した当主とかって不当に悪く書かれるんだよな。もう汚名を被せられてさ。
なんせ滅亡しちゃえば弁護してもらえないし公式の藩史だって編纂されないし感状などの書類も残ってない。
しかも島津薩摩と毛利長州は歴史の勝者だから大友は貶められ歴史を捏造歪曲され宗麟は悪逆で無能だとされてるわけ。
こんな偏った史観は昔から変わらず、島津厨や毛利厨に至って自軍兵力まで少数で大軍に勝ったなどと捏造してたりする。
117日本@名無史さん:2008/05/13(火) 12:54:04
大友は滅亡したのち高家として拾ってもらったはずだが。
大友厨はそんなことも知らないのかな?
118日本@名無史さん:2008/05/13(火) 13:02:37
バカだな。藩史とか編纂できるような大身として残んなかったって事だアホが。屁理屈ばっか言ってんな基地外。
119日本@名無史さん:2008/05/13(火) 13:07:15
兵力や戦果を捏造し過ぎだろ

http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/i
120日本@名無史さん:2008/05/13(火) 14:04:13
キチガイが発狂しますたw
121日本@名無史さん:2008/05/13(火) 15:30:30
堀は秀吉軍の先陣でスゴイ速さで南下し薩摩兵50人以上を捕虜にした時に邪魔になったので逃がしてやったんだよな。
当初、島津は日向に主力を集結してたが
堀のあまりの神速に、日向戦線を早期に解決して肥後南部へ戻り薩摩防衛しなくちゃならず焦って大戦略が崩壊、
別働隊の秀長軍先陣に無謀な夜襲をしかけたあげくに救援にきた藤堂高虎(1万石で兵500)に翻弄されまくって時間を浪費したあげくに到着した小早川・黒田に挟撃され日向戦線が崩壊し降伏に追い込まれたんだよw

堀は秀吉から蒲生氏郷よりも評価されてたぜ。
なんせ堀は関東で徳川の備え、蒲生は奥羽の備えにする予定だったくらいだからな。
関東なら200万石級大名だぜ。
島津の田舎大名と織田系の首脳クラスの武将のレベルじゃ明らかに織田系首脳クラスの方がすごいわな。
堀を雑魚とか大した事ないとかどんだけ無知なんだよw
ノブヤボしかやった事ないだろw
島津は織田系主流じゃなかった藤堂高虎でも充分に相手できたわけだがw
小牧長久手の戦いでは堀が榊原康政・大須賀康高を破り、
堀が唯一の勝利を秀吉にプレゼントしてるのに。

呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。
122日本@名無史さん:2008/05/13(火) 15:33:22
島津って弱っ!
123日本@名無史さん:2008/05/13(火) 17:59:22
薩摩28万石
大隅17万石
日向12万石

明らかに薩摩の国力は他を圧倒してます。
よって島津が寡兵で勝ち続けたと言うのは捏造です。ありがとうございました。
124日本@名無史さん:2008/05/13(火) 18:40:22
>>123
おまえさあ・・・
当時の人間が信長の野望みたいに国単位で領土を統治してたと思ってんのか?
島津の領地なんて三州のあちこちに分散してるし、敵も味方も同じく三州に分散してて
グチャグチャな状態だったわけだが?

まあお前のようなゲーム脳には理解できない世界だな。
125日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:17:43
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;:i:i!/´,二、 :、  ::' ,二、\|:;j:;i!;i!|:iト!`       i!l ゚ ノ. ・ .|〈      l|{ェ}i{ェ}リ  |  ?  |
;|l ./ o, | |   、.| o, ヽ ノ' |!li;:;i!;:i、           ゙i  _`_,, u,!7       ゙l ,ニ, ノ   \__,/
 ̄ ̄\‐' :| | ``―'"///|/|;:;i!;:i;:、 _,,、,-、、__   .i、 '--' ,/   / ̄ ̄`く`二'>゙j´ ̄ ̄ヽ
      ̄\. |,、   u   |/ |!;:;i!;:i゙j!ヽ:)‐ニ>>`ir/ `ー7/,r‐r‐ 、:.:.:.:.:.:.:/`ヽ、,r'´ヽ:.:.:.:.:./
‐|‐  l ‐|‐  |.,、/  、 U l、/;:;!:;:i!;! :.:.:`-' ̄:.|:.:j ヽ   /イく:.:.:l:.:.:.ヽ:.:.:.:.:|イチャ「|  ̄ |:.:.:./
(メ`j しd‐  |‐=''⌒'l! u ,'|;:;i!i!{`j!i! -j:.:.:.:.:.:.:.j:./\\_//:.:.:.l:.:.:.:.|`}三|ハ゜ラl l  .|三{
‐|‐  ‐l‐  .|ー'一'ー|  ,' |ハ!ソ` ,rヽ/ ̄l「l'''‐t三‐,ニ\/:,/ ̄ ̄\|_,rュ‐.、|」r‐三l|
(メ`j  (メ`j  |‐─v^i|i / ヽi  ̄|:.l:.:i!:.:.:.:.:ll:`'---! `‐'`/   は   | 三┐|/ ∠i、ト|
r‐‐、 -l-   |ーー一i|!,/  /   |:.!:i!:.:.:.:.:.:ll:.| ̄|:.:.:.:| ̄|   ぁ    |__/匸_」L_」ヽノ
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126日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:24:34
>>124
捏造歪曲を正当化に必死でつぬw
妄想虚言癖島津厨乙!
127日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:32:14
>>121
このスレでは誰も堀Qの話などしとらんが?
真性のキチガイか?
128日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:36:53
>>127
コピペに釣られた島津厨がムキになってて必死乙
129日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:42:42
大友はその卓越した外交力で毛利に続き島津も撃破したのだ。
まさに古来から言われる遠交近攻たる戦略>戦術という素晴らしい見本となった。
米中露に囲まれた日本がこれから生き残る道として宗麟の夷を以て夷を制し自らは高みの見物と言う天才的謀略外交を学ばねばなるまい。
130日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:46:28

日本は大友のようにおのれの無能さが原因で内憂外患状態というわけですね。
わかります。
せめて大友のように惨めな滅亡だけは避けたいですね。
131日本@名無史さん:2008/05/13(火) 19:56:26
>>121
これ某所からパクって来たのが丸わかりだなw
132日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:13:22
ばか殿
133日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:26:13
九州が全て薩摩領だったから農民達は過酷で悲惨な生活が待っていたろう。
地獄よりも厳しい乞食生活から北九州を守った宗麟の知略に我々は感謝しなければならない。
134日本@名無史さん:2008/05/13(火) 23:33:13
明らかに当時の北九州は過疎ってただろ
っていうか北九州なんて重要でもないし。
135日本@名無史さん:2008/05/20(火) 16:56:34
博多は重要だろ
門司だってさ。
136日本@名無史さん:2008/05/20(火) 17:21:56
豊前長野氏
137日本@名無史さん:2008/05/28(水) 22:01:52
日奈子氏最強だよ!
138日本@名無史さん:2008/06/03(火) 04:06:16
>>134は盲目過ぎる…
無知の領域?!
神社の数、鎮座数、当時の復興再建みりゃ
わかるだろがー!
139日本@名無史さん:2008/06/19(木) 02:14:10
私の先祖は大友の土持攻めに加わり討ち死にしてしまいました
140日本@名無史さん:2008/06/22(日) 13:51:31
一万田が最強
141日本@名無史さん:2008/06/22(日) 18:45:39
先祖は大友家の能楽師でした。
142日本@名無史さん:2008/06/22(日) 23:00:47
河原者だったのか?
143日本@名無しさん:2008/06/23(月) 00:14:27
>>142
安土桃山時代、能役者には知行や扶持が与えられたから河原者ってことはない。
どのくらいで召抱えられていたかは不明だが。
144日本@名無史さん:2008/06/23(月) 03:50:56
>>142
いやいや河原者じゃないよ!
ご先祖様は鎌倉時代からずっと高千穂に住んでいたんだよ。
家系図に「大友家ノ能楽師トナル」と書いてあった。
あ、この能楽師になった人は分家の人。
本家の人たちは一応重臣だったよ。
145日本@名無史さん:2008/06/23(月) 11:29:03
どうでもいいようっとうしいな
146日本@名無史さん:2008/06/23(月) 19:27:34
大友家家臣 賀来大納言種正
147日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:06:10
>>145乞食乙
148日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:39:01
やっぱり丞が最強だろ
稙田宮内丞
都甲刑部丞
衛藤治部丞
竹田津刑部丞
野上織部丞

149日本@名無史さん:2008/06/24(火) 14:51:46
>>146
大友氏の家臣には大納言がいるのか・・・
150日本@名無史さん:2008/06/30(月) 08:07:25
田染大宮司
151日本@名無史さん:2008/07/03(木) 17:32:53
熊本に松野って苗字多いけど豊後大友氏の子孫?
152日本@名無しさん:2008/07/03(木) 20:03:05
宇都宮氏流じゃなかったっけ
153日本@名無しさん:2008/07/03(木) 20:20:31
あの田原親賢の養子(実は大友義鎮の子)の松野親盛系ではないか?
154日本@名無史さん:2008/07/04(金) 00:43:45
親盛は松野半済を名乗って細川家に仕官してるが
親家の子も松野氏を名乗って細川家に仕官してる
155日本@名無史さん:2008/07/16(水) 18:37:18
大友家臣団 賀来大納言種正の父、豊臣家家臣 大我部式部丞種綱
156日本@名無史さん:2008/07/16(水) 18:42:05
大我部式部丞種綱、松永弾正久秀との戦で討死、享年40歳
157日本@名無史さん:2008/07/17(木) 04:11:02
そもそもなぜ「松野」を名乗ったの?
158日本@名無史さん:2008/07/28(月) 02:11:12
熊本に松野さんって多いよね
159日本@名無史さん:2008/08/07(木) 19:55:50
なんか、島津と大友でえらく喧嘩してるねぇ。
立花宗茂公は、船上で維新公と和解したというよ。

ところで、おれの先祖は、吉弘統幸っていうけど
全然有名じゃないから、「高橋紹運って昔は吉弘って言ったんだよ、
岩屋城でスゴイ戦いをしたんだよ。」って、戦国好きの友達と戦国話を
していた時、興が乗っていたのでつい言ったら、「あっ俺のご先祖さまも
その戦いで、戦死したよ、黒岩某って言うんだ」って言われた。
俺、ちっちゃいなぁ OTL・・・・・・・・・・・
160日本@名無史さん:2008/08/07(木) 20:11:21
和解したというのかあれは
161日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:17:53
ちゃうの・・・・・。
162日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:46:37
島津と立花はいっしょに戦ったが、大友は逃げちゃったから…
163日本@名無史さん:2008/08/12(火) 18:30:50
それは、対チョン戦?
でも大友だけ改易は、ひどくない?
164日本@名無史さん:2008/11/22(土) 01:46:03
165mozq:2008/12/13(土) 15:10:59
丹生島に築城した理由を教えてください。大友館が防御能が劣るのはわかるけれど、
そばに上野の丘があり、そこに築城してもよかったのでは。後詰に高崎山もあることだし。
大友館と丹生島城との交通や通信についても教えてください。
166日本@名無しさん:2008/12/13(土) 15:30:56
>>165
義鎮が落飾して宗麟と号する頃、隠居後の居館として築城されたものだそうです。
ですから、上野丘や高崎山とは直接の戦略的関係を考えないほうがよろしいかも。
しかし、防衛拠点としても有用な城にしたてていたのは確かなのでして、
現実、島津が攻めてきたとき、あの「国崩し」を動員して撃退に成功したとか。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n544.htm


167mozq:2008/12/14(日) 11:52:29
ご教示ありがとうございました。2w前に臼杵散策のバスツァーで始めて丹生島城のことを知りました。
素朴になぜ大友館から離れたところに城を作ったのかと、帰って色々調べました。それでも物流や情報伝達はどうしていたのだろうかという疑問は残りました。
臼杵築城は伊予の一条氏や亡命した佐伯何とかという人との関係もあるのでしょうか。
日向口として島津に備えたとも思えます。
鶴崎城はどうも石垣はなく館みたいで、頼りなかったのでしょうか。
実戦では奥様ががんばったみたいですが…。丹生島が砂州で繋がっていたことも興味深い。ザビエルの出身地近くのサン・セバスチャンには砂州で繋がった島があって…。
168日本@名無しさん:2008/12/14(日) 13:38:50
>>167
島津に備えた…ということも有り得はしますが、当時は毛利とその同調者の脅威のほうが遥かに大きかったはずなのでして。
あと、鶴崎は宗麟腹心の吉岡氏が居ましたからそこを取り上げるわけにはいかない。
宗麟としては彼ら一族にガードしてもらう必要があると考えたでしょうし、事実、そうなりました。
また鶴崎(城)は、サテライトとしてはいいとこですが、堅固な要塞を作るには出費がいると思えますし。

府内ー鶴崎ー臼杵だと、困るほど遠くはありませんよ。
隠居を決め込むには程よい距離のように思えます。
それに、臼杵のほうが海運(特に南蛮貿易)には圧倒的に有利です。府内は元々良港がないとこですから。
169mozq:2008/12/19(金) 05:46:40
佐伯出身の作家の書かれた宗麟者4部作の中に、臼杵と府内の連絡について騎馬役人と船のことが書かれていました。
のろしでの両地点での連絡をご存知でしたら教えてください。九六位山あたりにのろし台があったのでしょうか。小学校のとき遠足で高崎山に登ったとき、円形に石を築いた狼煙台をみたことがあります。
170日本@名無しさん:2008/12/19(金) 21:04:17
>>169
あったとしたら九六位山しかないでしょう。円通寺という古刹がありますが
縁起によると、天正十四年に島津の侵攻にあったんだとか。
http://www.coara.or.jp/~kurokui/
171mozq:2008/12/19(金) 22:13:36
色々教えて頂き、感謝いたします。一度円通寺へでかけてみようと思います。
今回のバスツアーでは肝心の丹生島城へは行っていません。
ここもいかなくちゃあ。
ところで、国崩しは陸に向けて設置していたのでしょうか、それとも毛利水軍に備えて海にも向けられて
いたのでしょうか。当然、砲撃訓練もしていたでしょうし。
現地に行って台場を確認しなければ。2門の配置具合に興味あります。
172日本@名無史さん:2009/02/01(日) 23:46:16
ho-
173日本@名無史さん:2009/02/02(月) 12:18:25
別府か臼杵あたりに地震か噴火か何かで沈んだ、いまとなっては謎の島があったんだよね
174日本@名無史さん:2009/02/02(月) 12:50:59
瓜生島だよ
175日本@名無史さん:2009/02/02(月) 14:17:58
176日本@名無史さん:2009/02/02(月) 19:28:45
臼杵城ってひょっこりひょうたん島のモデルらしいね。
177日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:07:23
それは知らなかった。
178mozq:2009/03/05(木) 06:58:54
ひょっこりひょうたん島のモデルは広島の因島の近くにあります。そっくりでした。
謎の多い瓜生島を沈没させた地震。このあと大友氏はすでになくそのあとがまは
丹生城をひきはらい府内城の建設が始まる。地震と築城の関係がよく分からない。
179日本@名無史さん:2009/03/05(木) 08:37:16
え?臼杵城って地震で沈んだの?
180日本@名無史さん:2009/03/05(木) 09:58:38
>>179違うよ。
瓜生島(うりゅうじま)=別府湾にあったとされる孤島。
1596年に地震で沈没したとされる。

丹生島城(にゅうじまじょう)=現在の臼杵市に築かれた城。
大友宗麟が晩年に隠居城として使用した海城。

2つはまったく別物です。
181日本@名無史さん:2009/03/05(木) 14:37:53
漢字が似てるからか。
間違いの原因面白い
182日本@名無史さん:2009/03/05(木) 16:11:35
普通間違えるかよ?明治時代に落城した城なのに
183日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:59:27
>>182
まあ、そう言わずに。杵築市も元は「木付氏」を
江戸幕府の幕閣が書き間違えたんだから。
184mozq:2009/03/13(金) 12:10:00
瓜生島の名は地震後100年以上たって資料に出て来るぐらいで、当時は久光島と呼ばれていたらしい。久光島も複数の島からなっていたともいわれている。両島が同一か否かも謎。島自体が砂州なのか、陸地と砂州でつながっていたのかもしれない。
こんな島はモンサンミッシェルがそうだし。で、バテレンからこれを聞いた宗麟が、丹生島を豊後のモンサンミッシェルにしようとしたのではと想像するわけです。島津が攻めこんでいなかったら実現したかもしれない。
185日本@名無史さん:2009/05/05(火) 02:02:37
ほんとかよ?
186日本@名無史さん:2009/05/06(水) 09:19:16
>>184
あれは岩山だから、島自体が砂洲ってことはないだろう。
187日本@名無史さん:2009/05/06(水) 13:47:39
ガ〜ン
188日本@名無史さん:2009/05/14(木) 17:11:00
天正七年の日振島沖合戦と翌年の国東沖合戦の詳細が判る方、両軍の編制や戦いの規模・帰趨などをお教えください。
耳川以後の大友の奮戦が知りたいです。
189日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:36:32
筑紫氏って大友が島津に滅亡寸前にされた時、鳥栖を中心に10万石くらいあったの?
190日本@名無史さん:2009/06/03(水) 23:24:44
10万石もないよ
191日本@名無史さん:2009/06/04(木) 07:54:12
立花宗茂って奇襲や夜襲、偽報やらせたら日本一じゃね?
剣術や弓術も免許皆伝の腕前だし。
192日本@名無史さん:2009/06/04(木) 16:35:01
棄て駒に使われるとものすごい威力を発揮する武将ベスト3に入るな。
193日本@名無史さん:2009/06/05(金) 19:38:40
もし立花宗茂が徳川から豊後に所領をもらってたら、
今頃間違いなく、大分県の代表武将だろうな。
福岡県はどうしても黒田って感じだから、宗茂の扱い低すぎ。
ドラマ性もある武将だけに、大分だったらもっと有名
になってたかもしれない。
194日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:17:37
立花なんか大した武将じゃないだろ
秀吉の依怙贔屓で分不相応な禄を与えられただけ。
本来ならば日向あたりで3万石ももらえればいいくらいだ。
195日本@名無史さん:2009/06/05(金) 23:41:35
>>194
なるほど。そんなに能力のある武将では無かったんですね。
やっぱり優秀な武将で無ければ、大禄は貰えないですよね。
秀吉も秀忠も、過大評価してたんですね。依怙贔屓ありありですね。
196日本@名無史さん:2009/06/06(土) 00:00:35
>>195
別に優秀じゃなくても依怙贔屓で所領を与えられるのはよくあること
197日本@名無史さん:2009/06/06(土) 04:49:37
宗茂は野戦の指揮を取らせたら1,2位を争う実力だと思うけどなぁ。
篭城戦なら真田昌幸が一番強いと思う。
198日本@名無史さん:2009/06/06(土) 06:50:06
(^^;;
199日本@名無史さん:2009/06/06(土) 07:22:47
実際、無能じゃ務まらない所に所領を貰ってるよな。
筑後柳川って、北に黒田、西に鍋島、南に細川&島津。
もう「何かあったら…分かってるな。」って幕府に言われてる様なもの。
依怙贔屓のみで任される場所じゃ無いと思うけど。
無能なら奥州棚倉で終わってる。
200日本@名無史さん:2009/06/06(土) 16:45:50
>>199
福岡も熊本も佐賀も広島も岡山も姫路も明石も・・・馬鹿では務まらない地勢だねw
柳川なんて大して重要じゃありませんから。
201日本@名無史さん:2009/06/06(土) 17:31:14
道雪って強さ的には柴田勝家レベル?
202日本@名無史さん:2009/06/06(土) 17:37:43
>>200
多分に「地勢」の意味を誤解してると思うけど…
まさか、当時の九州の交通の最大の要所が福岡とか思ってる人?
当時の九州の状況を考えたら、分かるだろ。現に島原の乱が起きた時、幕府はどう動いた?
203日本@名無史さん:2009/06/06(土) 17:58:05
柳川の立花は伊達家の親類衆だからね
204日本@名無史さん:2009/06/06(土) 18:41:28
>>201
単純な比較は難しいけど、同じくらいの能力はあったと思う。
下手すりゃ本国の豊後より国力のある筑前、筑後を任されたんだから、よほどの信頼と能力が無ければ、
有り得ない人事。
205日本@名無史さん:2009/06/06(土) 19:55:38
>>202
>当時の九州の交通の最大の要所

門司かな?
206日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:26:33
佐賀たい
207日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:34:41
大宰府があったんだから筑前だよ
208日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:54:51
岩屋城のあたりか。
209日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:26:57
熊本〜筑後〜久留米〜日田〜大分あたりの事じゃない?
当時は海運がメインだし、豊後街道〜瀬戸内海〜大坂の
ルートは九州から上方への最短ルートだから、豊後国は
親藩もしくは天領が多いって聞いた。
210日本@名無史さん:2009/06/07(日) 06:03:30
高橋紹運って強さ的に本庄繁長レベル?
211日本@名無史さん:2009/06/07(日) 09:54:54
>>210
鳥居元忠かな。主君に尽くして、最期は全員玉砕って所も共通してる。
212日本@名無史さん:2009/06/08(月) 11:20:28
大友家ってなんか色々と勿体無いよね
213日本@名無史さん:2009/06/08(月) 12:13:14
鎌倉以来の名門守護大名だもんね(^-^)
214日本@名無史さん:2009/06/08(月) 20:48:57
九国二島の盟主は少弐だよ
215日本@名無史さん:2009/06/08(月) 21:20:23
>>213
名門では無いだろう…
216日本@名無史さん:2009/06/12(金) 08:29:38
WIKI見ると高橋紹運はとても良いエピソードが多い武将だけど、知名度低いね。
岩屋城攻防戦の話なんか大河ドラマでやれば全米が泣くだろうに。
217日本@名無史さん:2009/06/12(金) 10:14:47
所詮田舎で小城に籠もって敗死しただけの小物だからな。
218日本@名無史さん:2009/06/12(金) 23:24:23
鎌倉幕府での席次は源頼朝の次だから普通に考えれば名門なんじゃない?
219日本@名無史さん:2009/06/16(火) 01:57:32
大友といえば超名門ですよ
だって守護だし元軍を迎え撃った時の一方の大将なんだから
220日本@名無史さん:2009/06/16(火) 22:59:46
鎮西奉行?
221日本@名無史さん:2009/06/18(木) 09:24:17
ピンチ時の立花宗茂の強さは異常
222日本@名無史さん:2009/06/18(木) 10:28:39
ピンチであっさり降伏、開城しなかったっけ?
その後秀忠に尻穴を献上して復活に成功するが。
223日本@名無史さん:2009/06/18(木) 13:43:18
猛将立花宗茂ってケツマンで旧領回復したの?
224日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:22:04
アッー
225日本@名無史さん:2009/06/18(木) 21:22:21
いくつの時だよ
226日本@名無史さん:2009/06/19(金) 00:18:37
筑後柳川の男は名器揃いの立花のトロマンとして世に名高い
227日本@名無史さん:2009/06/19(金) 04:55:16
むかしは実績のある武将が「夜伽衆」として主君に奉仕することがよくあったんだよ。
大名クラスでもなっている。
228日本@名無史さん:2009/06/19(金) 10:01:09
飛騨守のケツマンコはトロットロやったんかいな
229日本@名無史さん:2009/06/19(金) 10:50:12
ナッちゃん達乙w
230日本@名無史さん:2009/06/20(土) 12:57:08
紹運って馬鹿だよね。
俺ならあんな馬鹿殿のために死なねーよ。
231日本@名無史さん:2009/06/21(日) 14:14:28
>>230
わかってねーな。
その馬鹿さがいいんじゃねーか。
おっと、宗麟様の馬鹿ぶりのことじゃないぜ?w
232日本@名無史さん:2009/07/30(木) 18:21:16
>>113>>115
角牟礼城は城主森五郎左衛門ら1000が堅く守り落ちなかった為に
島津は標的を同じ玖珠郡の日出生城攻略に変更するも城主帆足鑑直は自ら300を率いて出陣し(西国一美人にして弓の名手と言われる妻の鬼御前は全軍出撃し空になった城を誤魔化すため婦女子に武装させた)
松尾山麓に布陣した新納忠元を急襲し忠元をも負傷するほどの大勝利で山麓から追い落とした。
そのため日出生城攻略不能になり、やむなく撤退し角牟礼城の友軍に合流して必死に攻め立てたが落城せず。
筑後口の玖珠郡はまったくビクともしなかった。
日向口では宗麟自らが国崩しで島津兵を追い散らした臼杵丹生島城・佐伯城、
肥後口の岡城、
豊前口の杵築城、義統自らが防衛した龍王城
守るに適さない政庁の府内大友館を破棄後の鶴崎城では妙林尼の奇策の前に大敗。
さらに利光宗魚が鶴賀城を奪回し日向口の退路を封鎖される。
危機に陥った家久はさらに豊臣の援軍が集結中を知る。
しかしバカ仙石が功を焦り敗北(この時期、大友側の激烈な抵抗で島津は兵の半数を失っていて2万のうち実動可能6000人しかいなかった。仙石も讃岐3000長宗我部3000を率いて盲進)
仙石を打ち破ったものの急ぎ撤退路を作るために鶴賀城を家久は必死にムリ攻めしたために(戦闘に参加してない義統8000はほぼ無傷だった)落城させるのにさらに島津兵3000の命を犠牲にした。
233日本@名無史さん:2009/07/30(木) 18:59:40
この戦役自体が神前でのくじ引きで決定w
しかも義久が筑前攻略失敗で弱気になってたので2度目のくじ引きだったりする。
岡城では戦場を指定し挑戦状を義弘に出して出陣した志賀親次の奇計の前に肥後口担当の島津義弘は惨敗。
日向口では佐伯惟定(大友改易後は羽柴秀保に拾われ藤堂高虎の500人扶持客将にして国府城城代、最終で藤堂家旗本大将4500石)が栂牟礼城で見事な手腕をもって家久を撃退した(この戦いは見事だったので秀吉直々に奮闘ぶりを絶賛)
島津は地域重要拠点をほぼ攻めあぐねて兵の損耗も激しく、焦って作戦行動エリアを無計画に拡大し無謀な戦いをして疲弊しきっていた。
それ以前には筑紫氏の大抵抗でズタボロになってしまった為に、
国人たちが次の高橋紹雲攻めを拒否。
そのために島津単独で紹雲を強攻めして大損害。ために立花宗茂にはもはや力攻め不可能になる。さらに毛利軍上陸で島津は逃走し筑前攻略に失敗してるし。
島津は自滅にむかって突進してるだけで頭がおかしいとしか思えない。
大友もまともに戦うのがバカとばかりに、撤退戦略で戦線を整理し要所防衛に専念し焦土作戦を敢行。
大友の大戦略が大成功をおさめ、島津が迷走し死者を出しまくった笑える戦い。
この後、大友の策に見事にハマって戦力ガタ落ちの島津は豊臣の先陣の快進撃さえまったく止められず大敗。
島津が弱すぎた為に蒲生氏郷が進撃が早すぎてまったく休めないと嘆いた話は有名で一気に肥後を南下してしまい薩摩侵入も時間の問題になったため、
日向で急ぎ決着を付けて薩摩救援しようと焦り日向で島津は致命的大敗。
234日本@名無史さん:2009/08/07(金) 14:05:00
島津は支城や砦は落としてても
各郡の地域拠点の制圧は犠牲甚大過ぎて、できてなかったんですか?
やはり南郡衆の離反の動揺で初期は混乱していた大友も、体制を立て直し始めていたんでしょうか?
大友本軍は龍王城で島津の疲弊の時期を見計らって動かなかったってことかな?
大友本軍は功に焦る仙石軍にも参加しなかったようですし。
235日本@名無史さん:2009/08/07(金) 16:54:52
義弘は無能だからいたずらに兵力分散してどれも落城させられないと言う馬鹿な戦略をとった。
義弘自身は岡城→落城できず忠元に合流
新納忠元に玖珠郡→角牟礼城落城せず
新納久時に大分郡→狭間鎮秀の翻弄され大敗
に派兵。
家久は栂牟礼城で佐伯に抵抗され、丹生島でも宗麟に抵抗され、前方は大友本軍と仙石、長宗我部が集結。
背後で利光宗魚に鶴ヶ城を奪回され袋のネズミに陥った。
家久は日向からの増援は望めない。
ここで仙石が馬鹿なことをしなければ王手だった。
236日本@名無史さん:2009/08/07(金) 17:48:15
田北鎮周の命令無視の独断開戦や
志賀親守・親度親子のクズらの個人的責任での敗戦失策のせいで、
誤解され大友が弱く感じてる人が多いなあ。
今山の戦いも局地戦で龍造寺が辛勝しただけで、
全体的視点で見れば大友は龍造寺に圧勝してるわけだし。
毛利の動きを警戒して龍造寺攻めを切り上げただけなのに、鍋島がそこだけ取り上げて大々的に宣伝してるに過ぎない。
237日本@名無史さん:2009/08/07(金) 18:38:59
日名子は糞だな
238日本@名無史さん:2009/08/08(土) 05:50:04
大友信者必死だな
239日本@名無史さん:2009/08/08(土) 10:45:02
立花城で孤立し中国へ逃げ帰ろうとして道雪に鬼追撃されて、鳴きながらボロクソになって大雪の中を大敗走した毛利の弱さは笑える。
この立花の追撃戦は戦国三大敗戦と呼ばれる。
のちに毛利は尼子がウザかったから撤退しただけと捏造。
240日本@名無史さん:2009/08/08(土) 13:40:44
大友強いんだな。
241日本@名無史さん:2009/08/08(土) 13:53:19
戦国から明治まで、トータルで見ると島津最強
242日本@名無史さん:2009/08/08(土) 17:02:16
利用できる勢力は何でも利用して有利な情勢を創造する…外交政治戦略で地域情勢を手に取るように操る神算鬼謀こそが大友の特技。
243日本@名無史さん:2009/08/08(土) 17:10:36
立花城から必死に薩摩に逃げ帰ろうと逃走するのを宗茂に鬼追撃されてボロクソになって泣きながら九州縦断大敗走した島津の惨めさは筆舌もの。
この第二次立花の追撃戦は戦国三大敗戦と呼ばれる。
244日本@名無史さん:2009/08/08(土) 17:45:56
>>234
耳川の敗戦責任を問われて、
大友から離反した南郡衆とそれに呼応したり、
それによる動揺で戦わず降伏したり、開城したりした大友のヘタレ城主どもがいたから、
一見すると島津がすごい蹂躙しまくったように見えるが
ザコ城主とは違い、離反せず残った骨のある大友武将たちは各地で島津を機をみて奇策で破りまくり、島津側に大量出血を強いたり、
得意の持久策で島津を疲弊させまくった。なんせ島津の城攻めはヘタクソだからね。
はっきり言って島津は毛利より弱かった。
245日本@名無史さん:2009/08/08(土) 22:57:03
長文ラッシュw
246日本@名無史さん:2009/08/08(土) 23:58:50
洞察力のある覇者・徳川家康に聞けばいいんじゃね?
247日本@名無史さん:2009/08/10(月) 21:43:35
不細工チョン島津ウザイ
248日本@名無史さん:2009/08/11(火) 02:12:17
島津が鬼のように強かったかはともかく、
豊臣軍が来なきゃ、大友は終わってた。
で、
結論は、「豊臣最強」
249日本@名無史さん:2009/08/11(火) 08:56:14
土下座島津(笑)
250日本@名無史さん:2009/08/11(火) 09:14:22
>>249
島津がわびを入れたのは、あの時点で仕方ないことだろ。
豊臣の大軍に対抗して先方部隊を撃破までしてるのに
秀吉式、成りあがり者の強力な勢いに抵抗した武将一族達の末路をみれば・・
251日本@名無史さん:2009/08/11(火) 18:23:21
まあ島津は、北条とか大友とか最終的に秀吉に潰された間抜けとは格が違うのは事実だしなあ。
252日本@名無史さん:2009/08/12(水) 03:01:16
>>251
その間抜けに手も足も出せずに土下座した島津は糞雑魚。
253日本@名無史さん:2009/08/14(金) 08:06:52
薩摩28万石
大隅17万石
日向12万石
明らかに薩摩の国力は他を圧倒していた。島津が常に寡兵で勝ち続けたは大嘘。
実は甲斐親直に連戦連敗しまくり完全に肥後口からの北上を諦めていた。
耳川合戦
大友日向方面軍43000

島津北上軍49000+高城兵3000
耳川の敗戦の責任を問われ謀反した南郡衆に道案内されて大友領に入ったが領内でズタボロの大消耗戦。
(のちに朝鮮出兵で敵前逃亡して大友改易に追い込んだ相手)大友の寡兵に負けたら相手を今の世の楠木正成と賞賛し敗戦も仕方がないと言い訳する。
島津が占いで戦略を決めていた未開の蛮族なのは一次史料の上井覚兼の日記から明らか。
朝鮮出兵で鬼島津と呼ばれ恐れられたって言うのは捏造で明らかに島津の自称。
大陸で鬼と言えば幽霊や討ち死にしてバケて出た怨霊で、鬼=強いって使用は日本人だけ。
筑前では高橋紹雲にズタボロにされて立花城攻めができないのを隠して虚勢を張るが毛利の影に怯えて逃走。
肥後方面を南下した先陣の堀秀政は島津が弱すぎて休息が取れないと捕虜に嘆き解放する。
日向方面から南下する豊臣先陣を潰すべく深夜に奇襲に出た島津軍は、
1万石大名だった藤堂高虎500の時間稼ぎにさんざん翻弄されまくった挙げ句に小早川・黒田に挟撃され崩壊。
しかし大豊臣軍に負けたとは言えすごいぜ島津と自己を賞賛w
関ヶ原ではあまりの大戦に緊張して何もできず茫然自失、最終局面では混乱して逃走先すら間違えてズタボロになりながら、部下を見捨てて九州目指して大敗走。
島津兵が脱落しまくり、途中で立花宗茂に守ってもらい逃走。
柳川城が包囲されると島津はワザと遅く救援軍を派遣し義理を全うとホザく。
戦後はビビッて薩摩に引きこもり、家康から事の重大性に気づいて顔が出せないんだろうと嘲笑される。
254日本@名無史さん:2009/08/14(金) 09:42:11
大友を賛美するあまり、客観性がない愚者
255日本@名無史さん:2009/08/14(金) 11:16:24
豊臣の先陣だった堀とかは島津より寡兵だったって言うしな。
藤堂も僅かな兵だし
島津弱すぎてワロタ
256日本@名無史さん:2009/08/14(金) 11:19:29
北では毛利を、南では島津を撃退した大友最強。
257日本@名無史さん:2009/08/14(金) 11:29:36
島津と戦ってた時の宗麟は病気で立つのも大変だったみたいだしな。
それなのに指揮をとり国崩しで島津兵を敗走させた。
258日本@名無史さん:2009/08/15(土) 17:07:57
大友侵略した毛利は全軍挙げて奇襲して守備兵がロクにいない門司城を奪ったくらいしか戦果がない弱大名。
259日本@名無史さん:2009/08/15(土) 18:05:10
さすが豊後侍従大友義統
260日本@名無史さん:2009/08/15(土) 19:15:29
俺は大分県の玖珠町に棲む宅浪生で実質ニート状態(一応家業の手伝いはしてる)だが、
いつの日にか挙兵して日田を犯し、豊後の精兵を率いて筑後を制圧しつつ一気に福岡目指し北上する夢を見てる
261日本@名無史さん:2009/08/15(土) 20:19:52
福岡目指すとか・・・ローカルな夢だなw
262日本@名無史さん:2009/08/15(土) 22:49:23
やっぱり偏狭玖珠人は日田コンプなんだな
大分市民から見たら日田も玖珠も同じ山間の田舎なのに
あの辺は福岡志向が強いよね
263日本@名無史さん:2009/08/16(日) 10:36:29
福岡志向とは迷惑だな
せいぜい筑豊志向だろ
264日本@名無史さん:2009/08/16(日) 20:29:57
男なら九州短大を攻めるくらいを目指せ!
265日本@名無史さん:2009/08/16(日) 23:38:39
玖珠→日田→筑後→筑前は正しい進攻ルートだな
266日本@名無史さん:2009/08/18(火) 20:25:09
>>253
名文
267:2009/08/18(火) 22:28:54
本人乙
268日本@名無史さん:2009/08/18(火) 22:38:20
島津が有馬の勝利を隠蔽
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/88
269日本@名無史さん:2009/08/18(火) 22:39:17
270日本@名無史さん:2009/08/21(金) 15:08:57
名門大内氏は滅亡したが
次々と侵略してくる悪党毛利や情弱島津を見事に撃退し続け戦国を生き残った神聖情強勝者西日本最強大名大友氏
271日本@名無史さん:2009/08/22(土) 16:20:09
九州探題
272日本@名無史さん:2009/08/23(日) 18:24:45
やっぱ宗麟って、前半は「劉備」、後半は「劉禅」って感じだな。
家臣に諸葛亮、関羽、張飛、趙雲とか居ても、主君が劉禅では、
いかんともしがたい状況だろうな。
273日本@名無史さん:2009/08/24(月) 10:55:58
豊かな大友王国を狙う蛮族島津と貧民毛利の相次ぐ侵入により弱体化。
まさにローマ帝国が蛮族の侵入で衰退したのに似ている。
274日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:11:20
>>272
耳川=夷陵の戦い
275日本@名無史さん:2009/08/24(月) 23:26:28
大友家臣団て無能だよね
倍の兵がながら壊滅討ち死にw
276日本@名無史さん:2009/08/25(火) 00:22:48
島津の兵力の方が多かったと言うのが最近の学説だよ
277日本@名無史さん:2009/08/25(火) 08:29:43
それでもあんだけ惨めに壊滅したのは
家臣団が無能だからだろw
278日本@名無史さん:2009/08/25(火) 08:45:13
島津ってガチンコでは勝てないから姑息な手段を使って生き延びて来たんだろ
279日本@名無史さん:2009/08/25(火) 08:46:25
姑息な手段使っても大名家として生き残れなかった大友の悪口は止めろ。
280日本@名無史さん:2009/08/25(火) 09:01:43
岩屋城の戦いが島津の実力だぜ。
島津はすごいな。
281日本@名無史さん:2009/08/25(火) 10:30:41
全然大友家家臣団のお話が出てこない件
282日本@名無史さん:2009/08/25(火) 11:18:03
筑紫の抵抗にズタボロになった島津の姿をみて国人たちは岩屋城攻めを拒否
島津軍は岩屋城を強攻めして落城させたが島津は軍として崩壊。
立花城攻めする余力なく、必死に降伏勧告w
最後は惨めな大敗走で九州縦断のヘタレ
283日本@名無史さん:2009/08/25(火) 14:12:19
しかし島津を出さないと大友家を語ることができんとは
何かにつけて日本は日本はといいたがる某半島民と精神構造が一緒ですなw
284日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:16:28
立花なんて誇張や捏造だらけじゃんw
285日本@名無史さん:2009/08/25(火) 23:23:48
昔、大友柳太郎って時代劇役者がいたな。
286日本@名無史さん:2009/08/26(水) 08:30:51
明治維新後の島津や毛利の捏造は神レベル
287日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:53:38
そりゃ勝ち組だもん
没落した大友と違って
288日本@名無史さん:2009/08/26(水) 12:32:02
島津の支配地ってどこだったの
全国県民所得で46位の鹿児島とは別の場所でしょ
289日本@名無史さん:2009/08/28(金) 07:31:54
>>284
捏造や誇張してるのは
明らかに毛利の方だろw
元就に至っては無敗神話まで作ってるしアホ過ぎ
290日本@名無史さん:2009/08/31(月) 11:50:42
少弐、大内、毛利、竜造寺、秋月、島津と
休む暇さえなく立て続きに侵略されながら全てを撃退し続けた大友こそ最強大名。
普通ならこんだけ再三にわたり戦に明け暮れていれば財政崩壊してとっくに滅亡してるよな。
291日本@名無史さん:2009/08/31(月) 20:34:32
毛利の侵略前に
島津と大友が激突してたら
大友の圧勝は間違いないね。
292日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:09:09
大友氏にあまり詳しくないんで教えてほしいんですが、↓これは本当ですか?

257 :日本@名無史さん:2009/08/31(月) 22:16:20
大友と島津の耳川の合戦の屏風かなんかで刀折れ矢尽きて死を決した大友方の武士が
本隊から離れた山中で一人で木で作ったちんぽ(たぶん張型?)をハーモニカフェラ
してる場面が描かれているよね
293日本@名無史さん:2009/09/01(火) 08:09:34
笛をチンポと書く低脳ぶりをわざわざ自慢しにきたのかね。
しかし耳川の時の大友将兵は皆、死を覚悟して突っ込みまくったくらいに個々のレベルは優秀かつ勇猛だったんだよな。
バカが血気にはやって戦略方針を無視して勝手に開戦して戦い始めなければ島津なぞ敵ではなかったのに。
294日本@名無史さん:2009/09/04(金) 08:12:05
立花3000は他家の1万
295日本@名無史さん:2009/09/05(土) 05:47:45
小学生の歴史の時間に名字が同じというだけで皆からニヤリとされたなぁ
296日本@名無史さん:2009/09/05(土) 18:52:13
大友が高橋鑑種に命じた毛利討伐の発向準備において
高橋は中国各地の諸豪を語らい糾合し
反毛利戦線をかなり構築していた。
これが中止にならなければ毛利は崩壊していた。
のちに自信のあったこの毛利討伐の中止に鑑種は激怒。
中国諸氏に対する面目を失ったことを恨み高橋鑑種が大友に謀反し筑前が大混乱したと言う。
297日本@名無史さん:2009/09/06(日) 08:02:48
豊後府内から門司や立花はかなり距離があるどころか山岳地帯をかなり迂回して越えないと行けれない。兵糧の輸送すらままならない。
大内の根拠地だった山口からなら目と鼻の先ですぐ着く。
あの辺りの攻防は明らかに毛利が圧倒的に有利だったのに毛利は戦略的敗北の連続で、ついには北九州から撤退し失意のまま元就は死去。
やはり大友は強すぎだな。
298日本@名無史さん:2009/09/06(日) 21:35:16
最強大友家臣団
299日本@名無史さん:2009/09/07(月) 09:28:41
大企業の老人会長元就様を見事に撃退した金持ちボンボンの若社長宗麟くん
300日本@名無史さん:2009/09/07(月) 09:30:52
瀬戸内海水軍を総動員して制海権を握っていながら敗北する戦史に特筆されるマヌケ無能毛利
301日本@名無史さん:2009/09/08(火) 09:20:23
大友家臣団って武田家臣団並みに過大評価
耳川や長篠の惨めな敗北見たら無能だらけの家臣団なのに
302日本@名無史さん:2009/09/08(火) 10:51:15
ともっとも過大評価されてる織田雑魚長が申しております
303日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:32:33
道雪がいたら耳川は圧勝だったな
304日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:49:06
普通に敗死してたに100万
305日本@名無史さん:2009/09/08(火) 19:25:28
道雪なんて寡兵秋月ごときに敗北する雑魚武将
大友家臣でナンバー1の過大評価
306日本@名無史さん:2009/09/08(火) 19:41:39
>>305
道雪が負けたわけではないのだが
むしろ敗走してきた味方が同士討ちを始めたのを止めて、敗走から立ち直らせたわけだがな
307日本@名無史さん:2009/09/08(火) 22:22:49
司令官は道雪だろ
308日本@名無史さん:2009/09/09(水) 11:25:28
筑紫を降伏させ、秋月討伐に向かい古処山に追い詰めたが、
毛利が大挙上陸する報に接して迎え討つために撤退を始めた大友軍を追撃した秋月との昼間の戦いでは道雪が撃退に成功。
風雨の夜になっても道雪は油断せず鎧をきたままだったが、
吉弘と臼杵の両将は完全に油断してたために混乱し道雪の陣へ向かって敗走。
道雪が同士討ちを止めて混乱を沈静化させた。
のちの秋月再戦での秋月の降伏から、秋月側もかなりの被害を被っているとされる。これが休松の戦い。
立花鑑載の立花城に毛利は清水左近将監を将とする軍を送り込むが、道雪の猛攻と調略で落城し清水は中国地方へ大敗走。
1ヶ月後に再び清水左近が九州に上陸し原田、衛藤らと立花城奪回のために5000を集めて襲撃するが道雪の前に再度大敗し、清水は新宮の浜より長門へ逃げ落ちた。ここに毛利立花連合軍の大敗北が確定。
再度、秋月へ道雪が侵攻、秋月側は休松での戦いでの被害から立ち直れず戦わずして降伏。
309日本@名無史さん:2009/09/09(水) 11:35:06
>>282
道雪が楽勝で打ち破った筑紫氏を相手に大損害だした島津って弱すぎ
310日本@名無史さん:2009/09/09(水) 17:33:18
立花信者キメー
311日本@名無史さん:2009/09/10(木) 13:04:55
小早川隆景が立花家にさんざんやられた苦い経験から、朝鮮役において明軍の大軍との決戦前、
震えおののきながら「立花3000は他家の1万に相当する!何とか先陣をお願い致したい」と畏怖しながら哀願し、この戦後には立花の武勇にあやかるために宗茂と義理の親子の契りを結び小早川秀包との兄弟の契りを望んだ。
312日本@名無史さん:2009/09/10(木) 14:50:27
なるほど 世間の評判も立花のほうが上だものな
現代では知名度がほとんどないが当時じゃ西国一の武勇の家だし
313日本@名無史さん:2009/09/10(木) 17:24:07
どう考えても毛利のほうが上
314日本@名無史さん:2009/09/10(木) 19:11:53
毛利なんてザコだろ…
西軍総大将でありながら
ヒビりまくって戦わずして家康に土下座して大減封ってw
三成や秀家や景勝や昌幸とかが怒りながらこっち見てるぞ〜w
315日本@名無史さん:2009/09/11(金) 10:19:49
まあ一番乗りの大津城攻めも予想を超えて早く落城させたし、
大名復帰も柳川復帰も立花の武と義が天下に鳴り響き徳川も無視できないレベルだった証だよな。
島原の乱では幕府首脳から伝説の神将と呼ばれ崇められたし。
316日本@名無史さん:2009/09/11(金) 16:01:56
当時の京で日本最強は武田か上杉と言われていたが、
武田信玄が日本広しと言えども唯一、会ってみたいと願ったのが立花道雪公。

317日本@名無史さん:2009/09/11(金) 16:45:23
立花道雪の思想とは通じるものがあったんだろうな
その勇名を聞き及べばぜひ会いたいと思っても不思議じゃない
318日本@名無史さん:2009/09/11(金) 17:23:17
>>314
天下の名城たる大坂城で籠城を主張した宗茂に対して、輝元はさっそく家康におべっかを始めて無血開城。
大坂城に入るや、毛利の所領安堵はウソだよん。毛利の罪は明らかだから改易w
と言い放たれて涙ながらに鬼土下座したアホっぷり。
大坂冬の陣で明らかになったように大坂城籠城すれば家康は手も足も出ず、毛利の名は天下に鳴り響いてたのにアホすぎ。
319日本@名無史さん:2009/09/11(金) 19:23:46
所詮毛利(笑)なんでw
320日本@名無史さん:2009/09/11(金) 20:39:31
毛利が大坂城に籠城してれば、上杉が奥羽を制覇し
黒田官兵衛は北九州で自立開始。
三成討ち死に後の武断派は秀頼のいる大坂城攻めは拒否るどころか、家康と敵対する可能性すらある。
毛利のバックアップで宇喜多も備前で態勢を立て直す時間が生まれる。
321日本@名無史さん:2009/09/11(金) 21:31:58
ここは
「毛利輝元がもうちょっと頑張ってくれたら関ヶ原の合戦で西軍逆転勝利」
を論ずるスレに変わりました。
322日本@名無史さん:2009/09/12(土) 00:02:06
いくらなんでも立花軍団って強すぎだろ!
まぁ道雪の兵たちへの人心掌握術がすごいからなあ。
323日本@名無史さん:2009/09/12(土) 07:27:37
毛利はお笑い大名なんで
宰相殿の空弁当(笑)
324日本@名無史さん:2009/09/12(土) 08:18:37
【ネタ満載】毛利家臣団w
325日本@名無史さん:2009/09/12(土) 09:06:29
【お馬鹿ネタ満載】毛利(笑)家臣団
326日本@名無史さん:2009/09/14(月) 08:30:45
大内、尼子らが滅亡して良質な史料が無いために毛利マンセー捏造歪曲史料をもとに元就朝臣は100戦以上戦って無敗なんだぜと盲信する厨房が発生した過剰過大評価大名毛利
しかし膨大な大友氏文書は大友義統が流罪先の常陸国宍戸で大友家文書録として編纂してしまったので
北条並みに史料が残ってしまい明治維新後の長州でも続いた毛利のウソ定着化工作は見事にバレてしまいました。
327日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:23:17
毛利信者は陰徳太平記の内容はそのまま信じてる癖に
甲陽軍鑑なんかの内容は軍記物の捏造だとか決め付けて叩いてくるしな。

毛利の事は疑いもせずにマンセー
328白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/09/14(月) 23:49:30
>>317
立花道雪の思想云うて、浦宗勝さんらを闇討ちしょうとしたことか?
姑息な手段よのう。
329日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:31:53
また原爆奇形広島人がファビョってるのか
330日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:41:45
>>328
大将の心得とか かなり近いものがあると俺は思うよ
兵が弱いのは兵のせいじゃない 大将の責任だっていうのとか 本来みんな強いとか
家臣を信じて任せてその能力を発揮させるっていう心得
331日本@名無史さん:2009/09/15(火) 10:56:55
毛利厨の口癖
九州人は卑怯ものでウソつき
大友や立花の記録もすべて捏造
根拠は元就は100戦以上戦い、一度も負けたことはない神将だから。
中国人は生真面目で信義に厚く。すべては人助けの仁義の戦いだった。
織田に毛利は勝っていた。そもそも毛利領の備中の入り口にやっと足を踏みだしただけだし、秀吉も信長に援軍を泣きついていたくらいなすすべなしだった。
熊見川の戦で織田軍を撃破したから秀吉はこの時の記憶からビビっていた。
毛利最強無敗の軍。
もうね基地害すぎ。
332日本@名無史さん:2009/09/15(火) 11:23:05
毛利厨って朝鮮人みたいだな。
333日本@名無史さん:2009/09/15(火) 14:05:37
大モウリは400年前から日本を本来は統治してたニダ
小徳川に譲ってやったニダ
334日本@名無史さん:2009/09/16(水) 13:10:46
毛利の捏造には本当にあきれる
それを信じる信者にも
335日本@名無史さん:2009/09/16(水) 21:18:04
毛利が指導して日露戦争に勝ち
毛利が政権を譲ってやったら太平洋戦争で惨敗。
やはり毛利が国家元首になるべき
336日本@名無史さん:2009/09/17(木) 07:57:55
伊藤博文はロシアを恐れて反対してたじゃんw
337日本@名無史さん:2009/09/17(木) 08:03:10
織田厨に見せかけて信玄叩きを必死でやるのが毛利厨の工作。
信玄を貶せば、元就の評価があがると不思議な妄想を抱いている基地害。
338日本@名無しさん:2009/09/17(木) 08:05:11
>>332
近畿と九州を結ぶストロー地域ですからw
339日本@名無史さん:2009/09/17(木) 14:45:54
>>335
山縣・寺内親子・木戸幸一・末次信正をだした毛利は一族みなごと斬首されるべき
340日本@名無史さん:2009/09/17(木) 20:46:22
関東に生まれた毛利元就
謙信様に付くべきか、信玄に土下座すべきなのか…嵐が去るまでまた籠城しなくては(涙)
341日本@名無史さん:2009/09/17(木) 22:34:38
篭城しても謙信・信玄に瞬殺される元就(笑)
342日本@名無史さん:2009/09/17(木) 22:59:52
武田信玄と上杉謙信が毛利元就を攻めたの?
343日本@名無史さん:2009/09/18(金) 08:04:30
氏康>>>>>>>>>>>>>>>>元就
344日本@名無史さん:2009/09/28(月) 13:19:22
豊後のすぐ南なのに日向進出がなんであんなに遅れたんだろうね。
日向北部ってかなり不便な場所なのかね?
345日本@名無史さん:2009/10/01(木) 12:47:06
日向に良港もないからな
346日本@名無史さん:2009/10/01(木) 13:11:07
つ 油津
・・・今じゃ単なる漁村だけどな!
347日本@名無しさん:2009/10/01(木) 16:18:20
筑州や肥州方面で忙しかったし、そのころはまだ伊東義祐が元気だったから。
日向に関わるのはそれからあと。
348日本@名無史さん:2009/10/04(日) 09:42:50
毛利が上陸してこなければ、龍造寺なんて滅亡させようと思ったらいつでも可能な相手だったよなあ
そんな龍造寺を倒したからって島津の強さの証明にはならないと思う。
349日本@名無史さん:2009/10/11(日) 12:45:56
大友が完敗しなければ、龍造寺なんて滅亡させようと思ったらいつでも可能な相手だったよなあ
そんな龍造寺を倒したからって島津の強さの証明にはならないと思う。
350日本@名無史さん:2009/10/11(日) 19:59:59
そんなに竜造寺って弱いかな?
名前は変われど、江戸時代まで生き残るしぶとさを感じるけど。
351日本@名無史さん:2009/10/12(月) 03:17:12
ここで大友の俺が登場
さっき信長の野望で九州統一してきたw
352日本@名無史さん:2009/10/13(火) 13:47:51
龍造寺なんて弱いだろ
鍋島とかなんであんなに評価されるか理解できんし
353日本@名無史さん:2009/10/13(火) 23:19:14
(♯^ω^) ビキビキ
354日本@名無史さん:2009/10/18(日) 06:46:36
そんな弱い所と戦って大将格が討ち死になんて無能な家は無いと思いたい。
355日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:57:21
そしたら当主が討ち死にの織田家は最弱だな
356日本@名無史さん:2009/10/18(日) 13:56:07
そうだね。
あそこまで高転びした家も珍しいけど大名家として残った分マシかな。
357日本@名無史さん:2009/10/19(月) 02:28:06
大友だって高家だぞー。
358日本@名無史さん:2009/10/20(火) 06:38:46
徳川の名家コレクションの高家ね。
359日本@名無史さん:2009/10/21(水) 17:46:09
信憑性分からんが
石垣原の戦いで大友軍の損害200に対して黒田軍は400らしいから
大友軍負けたとはいえ、かなり善戦したんだな
360日本@名無史さん:2009/10/21(水) 18:51:20
知人にベッキさんてのがいたなあ
361日本@名無史さん:2009/10/21(水) 19:17:28
俺のクラスには一万田、帆足、小田原、吉弘、日名子、加来がいるぜ
362日本@名無史さん:2009/10/21(水) 22:24:07
すげ^^^^^
363日本@名無史さん:2009/10/24(土) 08:11:00
ベッキーって戸次一族なんかな?
364日本@名無史さん:2009/10/24(土) 13:46:48
ベッキーギン千代
365日本@名無史さん:2009/10/28(水) 23:56:08
どなたか志賀親次が島津義弘の軍勢を破った戦いの詳細、もしくは資料をご存知の方
いらっしゃいませんか?
366日本@名無史さん:2009/11/07(土) 12:53:26
竹田市史や大分県史を読めば載ってるんでないかな?
367日本@名無史さん:2009/11/07(土) 23:22:19
ググレばいっぱい引っ掛かるよ
368日本@名無史さん:2009/12/17(木) 11:29:32
宗麟は長崎県の方にいた有馬とかキリシタン大名達とは交流があったり、仲が良かったりといったエピソードはありますか?
対龍造寺の軍事同盟をしてたとか?
長崎がキリシタンが多くいて港が栄えてたそうですが、それを知り宗麟も真似をしたかったのがキッカケ?
369日本@名無史さん:2009/12/19(土) 12:52:15
遣欧少年使節団の件は宗麟に話をせずに教会が宗麟の名を勝手に使って送ったらしい。
だから宗麟はまったくこの件に関わってない。
370日本@名無史さん:2009/12/19(土) 19:11:26
>>368
有馬家とは、大内vs大友でも竜造寺vs大友でも敵対、竜造寺が大友に屈していた時代は良好
有馬vs竜造寺ではほぼ無関係(関与するには遠過ぎる上豊後自体が不穏)
大村家は有馬家同族なので(純忠が有馬家出身)言わずもがな
志岐家は当主の麟泉の名が「鎮経」であることからお察し

>長崎がキリシタンが多くいて港が栄えてたそうですが、それを知り宗麟も真似をしたかったのがキッカケ?
府内でキリシタンが増えて繁栄しはじめるのは1560年代から(布教は1550年代から)
長崎で同様に繁栄し始めるのは1570年代から(開港そのものが1570年)
元々西九州の平戸・長崎は豊後管区で、府内から指示を仰いでいた
つまり豊後府内が繁栄していて、その後肥前長崎が繁栄した、というのが実情
371日本@名無史さん:2009/12/20(日) 00:32:17
長崎や平戸が豊後管区だったのはいつ頃?
大友から奉行か武将が城督として平戸や長崎に派遣されたんですか?
それとも現地国人任せの委任統治?
372日本@名無史さん:2009/12/20(日) 01:24:59
統治や武力支配とは別だから。
373日本@名無史さん:2009/12/23(水) 07:05:03
>>371
府内からの指示ってのは、宗麟の指示じゃなくイエズス会日本管区長の指示な
トーレスとかカブラルとかヴァリニャーニとか
日本にドミニコ会やフランシスコ会の宣教師が来るのは1600年以降
それまではイエズス会のみ布教が許された

宗麟と長崎そのものはほぼ無関係
紛らわしくてスマン
374日本@名無史さん:2009/12/23(水) 12:19:28
>>368
有馬晴信のもともとの名前の鎮純・鎮貴の名は宗麟からもらってる。
大友庇護下の竜造寺と対抗してたが、竜造寺に有馬は壊滅状態にされる。
距離的にもさすがに有馬救援は大友にはできんね。
大村純忠はどうかな?実家の有馬と同じ状況だと思うよ。
375日本@名無史さん:2009/12/23(水) 12:20:15
訂正
大友庇護下の
○大友庇護下で
376日本@名無史さん:2009/12/25(金) 18:45:28
>>52
ものすごい遅レスですが、大友頼康と一緒に豊後に入国して土着した家臣です<釘宮
377日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:06:50
豊後湾に沈んだ島々を調査すれば、
大友期の繁栄ぶりがわかりそうなのになぁ
大分県民ってそういう地元を盛り上げる気持ちって
あんまりなさそうだよね。
宮崎県同様に小藩分立のせいかな。
378日本@名無史さん:2009/12/30(水) 11:04:47
一村一品
379日本@名無史さん:2010/02/02(火) 12:23:45
sageましておめでとう
380日本@名無史さん:2010/02/10(水) 22:16:55
北九州だが、ベッキとホアシなら、同級生にいるぞ
381日本@名無史さん:2010/02/10(水) 22:49:57
>>380
それすごいな
382日本@名無史さん:2010/02/11(木) 21:13:08
ほあし?
383日本@名無史さん:2010/03/12(金) 16:54:19
保守
384日本@名無史さん:2010/03/13(土) 21:20:12
戸次の庄屋は帆足さん
385日本@名無史さん:2010/03/24(水) 21:22:27
へえ
386日本@名無史さん:2010/03/30(火) 20:14:31
立花宗茂は大河ドラマの主役にしてほしい
大友家臣団でも吉弘家は優秀

大友家→吉弘家→高橋家→立花家(立花宗茂)

立花宗茂は現代社会ではモテ度120%
おぼっちゃま 頭いい 友達多い 喧嘩強い 優しい イケメン 高身長 

387日本@名無史さん:2010/04/30(金) 07:07:58
吉弘鑑理→有吉弘行
388日本@名無しさん:2010/05/02(日) 04:50:21
>>377
新日鐵ができちゃったのでねぇ…
389日本@名無史さん
(´;ω;`) ぶわっ