【即位1500年記念】 継体天皇の謎 【応神五世孫】

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1日本@名無史さん
『日本書紀』の紀年に従えば、今年2007年は継体天皇即位から1500年。
ということで、継体の出身地とされる越前福井が盛り上がっている訳ですが、
イベントあるごとニュー速+に立つスレで話題がループするのも面倒なため、
学問・日本史板に久方ぶりの継体天皇スレを立てることに致しました。

「応神五世孫」系譜と出身地、息長氏などの後背氏族、任那割譲、
相次ぐ遷都、磐井の反乱、崩年・年齢、陵墓、継体・欽明朝の内乱 etc..
まだまだ謎の尽きない継体天皇について、心ゆくまで語りましょう。
良識ある発言を心がけ、マルチポスト・コピペはスルーでよろしゅうに。

継体天皇は
http://mentai.2ch.net/history/kako/980/980907202.html
継体天皇って先代達と血つながってんの?
http://mentai.2ch.net/history/kako/997/997471414.html
●継体天皇の生立ちについて考察すれ!(第二部)●
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10059/1005968505.html
2日本@名無史さん:2007/06/19(火) 03:22:34
応神から継体までの世系をしるした上宮記一云
釈日本紀に引かれてるだけで現在には残っていない
扶桑略記等には異なる世系が記載されてる
日本書紀にある武烈の行状は何?
詳しい人教えて
3日本@名無史さん:2007/06/19(火) 03:34:53
明治天皇は維新の混乱の中で長州によってすりかえられた
また、それ以前の天皇も南北朝の南朝系であるので正統な血統ではない
4日本@名無史さん:2007/06/19(火) 03:47:07
>>2
扶桑略記にもあったっけ?
愚管抄とか神皇正統記にならあったと思うが。
52:2007/06/19(火) 04:01:31
うろ憶え
6日本@名無史さん:2007/06/19(火) 04:31:45
隼総別で始まってる系譜ね
7サガミハラハラ:2007/06/19(火) 07:53:43
よくぞたててくれました。久々の良スレ。このようなスレを待っていました。謎の継体帝についておおいに論じましょう。
尚、継体帝及び前後の年代論については、「畿内王権生成史の謎3」で若干論ぜられておりますのでよろしかったら参考
にしてください。
8日本@名無史さん:2007/06/19(火) 12:08:40
五世は継体の父親で、本人は六世という説もある。
9日本@名無史さん:2007/06/19(火) 12:14:05
応神を一世と数えれば、六世。
10日本@名無史さん:2007/06/19(火) 12:24:38
どのみち系図はあと付け。
応神の五世王、六世王など、継体でなくともいくらでもいただろう。
継体の父方は近江の息長氏、母方は越前坂井氏。
11日本@名無史さん:2007/06/19(火) 16:15:36
盛り上がってるのは滋賀県高島市もだよ
12日本@名無史さん:2007/06/19(火) 16:20:20
http://ja.wikipedia.org/wiki/継体天皇

(上記から継体天皇の出自に関しての引用)

また新たな説として、伽耶(任那とも言う)から来た古代朝鮮王朝の皇太子の子孫との説も近年浮上
してきている[要出典]。この説が正しいとすれば、現日本皇室の故地は今の朝鮮半島南部である
可能性が高い。


この説はどこから出てきたんだろうね?
気になる。
13太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 16:30:16
>>1
実年代的には1500年ではない。なぜなら、繼體天皇の時代はまだ2倍暦法の
使用だから若干ズレが出る。
14日本@名無史さん:2007/06/19(火) 17:06:20
>13
こんなところでぐだぐだ自説を述べてる暇があるなら、
「継体即位1500年」などと冠して記念イベントをやっている
福井県庁と特集組んでる福井新聞社にでも苦情をいえ。
15太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 17:14:52
それはお前がしたいならそうすればいいだろう。
16日本@名無史さん:2007/06/19(火) 17:17:10
>15
俺は別に即位1500年について異論は述べてないからな。
これ以上、絡むなよ。
17太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 17:32:04
からむ、からまないとかはお前の先入観的脳内の活動ではないか?
余は現実を言ってるものよ。
18太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 19:51:31
倍暦で、真の繼體天皇即位は 521年

つまり2021年が1500年目になる。
19日本@名無史さん:2007/06/19(火) 21:19:09
巣へお帰り

日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177904768/
20太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 21:29:23
>>19
あそこのスレは倉西氏がそれがしに濡れ衣を着せて、出て行けとの
お達しですから行きませんね。彼女がわびれば別ですが、しかしそれがしを
邪魔臭いのでそのままそっちのけですよ。
21日本@名無史さん:2007/06/19(火) 21:48:16
>>20

要は論争に負けたんだろ?
22日本@名無史さん:2007/06/19(火) 21:50:36
またフトクニかw
23太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 21:54:53
>>21
いやそうでないです。論戦中の出来事でした。
24日本@名無史さん:2007/06/20(水) 03:32:01
太国さんの熱意には敬意を表します
でも根拠になるものを相手に示ししてるのを見たことが有りません
自説を言いつのっているだけにしか見えません
www
25サガミハラハラ:2007/06/20(水) 07:24:21
継体紀に「男大ド天皇は、ゆったりと常のごとく床机にかけておられた。侍臣を整列させ
すでに天子の風格がおありになった。」とある。
だいぶもちあげてはいるが、その後の天皇の言動を考えると、これは天子の風格ではなく
ボーっとしたお方で天然ボケであったようである。
26太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/20(水) 07:28:29
>>24
【日本書紀の繼體天皇の記録の日数統計表】

1日 3   15日 0   29日 0
2日 0   16日 0   30日 0
3日 2   17日 0
4日 2   18日 0
5日 3   19日 0
6日 1   20日 0
7日 2   21日 0
8日 1   22日 0
9日 2   23日 0
10日 1    24日 1 ←即位前(武烈世末)楠葉宮行啓の記事(1/24)
11日 1    25日 0
12日 0   26日 1 ←百済の太子淳陀死の記事(7年8/26)
13日 1    27日 0
14日 2   28日 0

上を見てわかるように、二つの例外を除いて記録は総て1日〜14日に収まって
いる。1ヶ月が2週間しかなかったわけであり、2倍暦の文証である。
24日の記事は先帝の時代に通常暦(等倍暦)をやっていたので、1ヶ月が
まるまる4週間の、28日(あるいは30日)あったことを物語っている。
26日のほうも同様で、当時半島側が通常暦(等倍暦)をしていたためで、半島の
ほうは1ヶ月がまるまる通常の4週間(あるいは30日)あったことを意味する。

つまり體繼世になって武烈世でやっていた通常の暦法を廃し、2倍暦としたので
ある。
27日本@名無史さん:2007/06/20(水) 11:24:07
日本史板古代スレに常駐する
「太国 ◆yVAs7uaYlY」氏
「サガミハラハラ」氏
荒らし行為は自分のスレでやってくれ。
ほかの人の邪魔になる。
28太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/20(水) 11:48:31
>>27
そんならそこだけ読まなけりゃぁいいことだろう。
こちらは繼體天皇について論じているんだ。スレ違いにはならんし、
サガミハラハラ氏はほめてるんだから、なにも不都合もなかろう。
あるのはお前の脳内の恣意的不都合だ。w
29サガミハラハラ:2007/06/20(水) 13:55:03
>>27なにをおっしゃいます。太国氏と私は、2ちゃんねる日本史版古代史の顔ですよ。
30 ◆16/YXRFBRM :2007/06/20(水) 15:00:17
汚い顔だな
31サガミハラハラ:2007/06/20(水) 23:58:09
>>27大事な人をおとしました。日本書紀紀年法研究家さんをいれて、太国氏、紀年法研究家さんと私の三人
です。
32日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:57:09
なんだそのいやらしい自負心は
33日本@名無史さん:2007/06/21(木) 04:40:20
この三人は自己愛性人格障害の兆候が見られるから、こういう言動も驚きないな

ま、普通の古代史研究者には不適当な性格だと思うけど観察対象としては面白い部類だよ
34日本@名無史さん:2007/06/21(木) 09:00:17
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀

アマチュアの研究家の中には、1年を2倍にして、年次を設定したとする
2倍暦説を唱えるものが少なからず見受けられるが、2倍暦で『書紀』紀年
の該当期間が矛盾なく説明できる訳ではないから、単なる合理化以上の
ものではなく、学界では支持されていない。
35日本@名無史さん:2007/06/21(木) 09:22:21
3人のなかに自己中がひとりまざってるかも
36太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/21(木) 09:57:16
>>34
お前の結論が早い。3倍暦を使用していたんだぜ。それも即位ごとに暦法の
やり方を変えていたわけさ。
神武の世は3倍暦でやっており、1年が1月〜4月までしかなかったのさ。
やだ神武崩御直後には通常暦に戻している。

何故そうしたかというと、五瀬命の戦死が五月だからさ。高天原の五月蝿
なす状態を嫌い、命の御名が5数であり、しかも5月に討ち死にして神武は
相当の心傷を負った。五黄殺を避ける如くだ。それで1年の5月以降を無の
空亡としたのだ。当然紀の神武即位から崩御まで5月〜12月の記事はまるで
無い。繼體天皇の時代は2倍暦法を行使していた。先帝の武烈は通常暦で
やっていたから>>26の表のとおり、月後半の月末近くの即位直前の男弟王の記録
でそれがわかる。即位ごとに暦法を変えていた文証だ。
ただし先帝と同暦法を継続していた天皇の時代もある。お前の言動は紀の>>26
の記録とまるで違っている。つまりお前の主張はデタラメでありお前の脳内に
おける恣意的希望でしかない。ww
37日本@名無史さん:2007/06/21(木) 10:00:22
また倍歴スレか
数字遊びが好きな奴らだ
38日本@名無史さん:2007/06/21(木) 10:02:22
太国君、暦の話は別にある専用スレでやろう。
スレ主がいってるように、継体天皇にまつわる、

「応神五世孫」系譜と出身地、息長氏などの後背氏族、任那割譲、
相次ぐ遷都、磐井の反乱、崩年・年齢、陵墓、継体・欽明朝の内乱 etc..

について語るのはどうかな?
39太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/21(木) 10:06:44
>>36 訂正 5段目

× やだ    ○ ただし

神沼河耳尊は3日に立太子している。3倍暦にちなんでいたようで、かつ
外国へ行った三毛入野命の名の「三」にちなんでいる。
そして8日に即位したのは、神八井耳命の功労自体が天皇即位に至
る原動力となったからで、命の御名の「八」を採用したのである。
40太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/21(木) 10:16:01
>>38
昔、家で20匹位鈴虫を飼っていたが、毎秋涼しい音色を聴かせてもらっ
ていた。幾年とこう配を続けていると、どうしても出来の悪い鈴虫の子
が生まれてきて、体形がおかしいのがあったと当時を想起する。

皇統もそれと同様で長く系統が続くと避けられない血統というか精神的
あるものというか、デキのかんばしくない時代があるわけで、雄略、武烈
で精神的に乱暴というか好ましい活動をしない天皇が現れてくる。

さらに生物学的にもそれが言えて、子孫が絶えそうになる皇統の危機が
やってくる。その起死回生的皇統での引っ張りが男弟王だということだ。
41日本@名無史さん:2007/06/21(木) 10:31:49
>>40
大王初代〜武列までより、
継体〜現代の天皇のほうが長いよな。
それだと、なぜ武列で皇統が絶えて、
継体以降は絶えなかったのか、
説明がつかないよ?
42日本@名無史さん:2007/06/21(木) 10:38:32
近親婚が無くなった。
43太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/21(木) 11:20:55
>>41
知ってるがね、それは古神道の最高機密なんだよ。その質問を誰かがするかな
と思っていたが、そのとおりだったな。2ちゃんで教えるのは躊躇だな。

ひとつ教えてやろう。信じなくても構わんがね。こんどそのような時代が
皇統に再来することがいずれやって来る。その時代というのは『卜事』
(ウラゴト)で、150代の少し前かその天皇の時代ころに同様の危機がやって
来るのだ。まぁ君も余も生きていないからあの世で確認だな。w
44日本@名無史さん:2007/06/21(木) 11:45:10
だいたいこんなに文章が下手な人間が唱える説なんぞ誰が耳を貸すかね。
どんな説もまずは他人に理解してもらわないと始まらない。仮に中身が
素晴らしいとしても、意味不明で日本語にもなってない文章なんぞ
読む気がしないね。
45日本@名無史さん:2007/06/21(木) 14:05:45
>42
いやいや、近親婚は、継体以降の天皇のほうが多い。
武烈以前の天皇では、血縁関係はどんなに近くても
いとこ婚ぐらいが限界だったが、
継体以後、異母兄妹婚が登場。
大王家が、ほかの氏族から優越した地位を築くにつれ、近親婚は増える。
天皇家の異母兄妹婚は、平安初期まで続き、
それ以後も、おじ姪婚、おば甥婚、いとこ婚は残った。
46太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/21(木) 16:03:15
禰子に古判だからな。ww
47日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:03:11
>46
まあ、150代目の天皇が即位するかしないか知らんが、
その時代の人間が、2ちゃんねる過去ログを見て、
太国 ◆yVAs7uaYlY って馬鹿だよな〜と
思うだけのことだ。
48太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/21(木) 19:32:01
>>47
お前は馬の耳に年仏だろう?ww
49日本@名無史さん:2007/06/21(木) 19:46:47

年仏…

50日本@名無史さん:2007/06/21(木) 19:47:40
ん?
51日本@名無史さん:2007/06/21(木) 21:07:31
天皇はアイオーンだから大丈夫。




52日本@名無史さん:2007/06/22(金) 01:22:44
即位1500年はともかく継体は実在と言うことでいいのか?
武烈の実在性は?
53日本@名無史さん:2007/06/22(金) 03:19:43
武烈の存在は薄いが特に実在性を否定するほどでもない
54太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 05:24:16
>>52
隅田八幡の鏡の銘文で実在だよ。津田病に罹患したらもうオシマイ・・・。
>>53
稲荷山鉄剣の銘文は雄略だから後代の武烈が薄くなるわけがない。
津田病の軽い症状が出ている。
55日本@名無史さん:2007/06/22(金) 06:44:20
雄略の死後は金村が執政権を握っていて天皇(大王)はいなかった
56日本@名無史さん:2007/06/22(金) 08:30:39
執政権は金村・・・・には賛成。
大王はお飾りだったかも。
武烈に相当する人はいたんだろうが、
悪人だったとも思えない。
武烈の死後、その姉手白香皇女が父親のような年の
継体の妻になっている、
武烈は若死にだったのだろうし。
57太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 08:58:51
>>55
崩御後の一小時期ではそういうこともある。短い間はな。その後は男弟王が
即位したわけさ。君に話からはそれだけのこと。
58日本@名無史さん:2007/06/22(金) 10:01:03
史記の項羽本紀のように金村紀があってもよかったのにな
59日本@名無史さん:2007/06/22(金) 11:15:50
>>56

> 武烈の死後、その姉手白香皇女が父親のような年の

日本書紀の年齢を信じてるわけ?古事記のを否定する根拠は何?
曽祖父の妹が允恭天皇の后忍坂大中姫なんだから43歳の方が整合性ある
60日本@名無史さん:2007/06/22(金) 11:27:28
>>59
ん?43歳って何?手白香皇女の年齢?
43歳の手白香皇女が欽明天皇を産んだって、無理がないか?
それとも、欽明天皇の生まれた年を繰り上げるわけか。
それはそれで、支障がありそうだな。
欽明天皇の皇子女(敏達、用明、推古ら)の年齢も軒並み
引き上げないといけなくなる。
61日本@名無史さん:2007/06/22(金) 12:02:17
手白髪っていうくらいだから白髪だらけの老女では?
62日本@名無史さん:2007/06/22(金) 12:05:17
>61
それをいうなら清寧天皇だろw
手白香皇女の年齢を引き上げることには賛成できんな。
欽明以降の天皇の年齢をすべて引き上げていくと、
整合性が取れなくなる。
63日本@名無史さん:2007/06/22(金) 12:19:51
ちょっと、43歳って古事記の継体天皇崩御年齢だから
64日本@名無史さん:2007/06/22(金) 12:30:44
>63
どのみち継体天皇と手白香皇女は同世代ではないが。
手白香皇女の同母妹はそれぞれ、安閑・宣化天皇の妻になっているから、
むしろ、手白香皇女は、継体の息子の安閑・宣化と同世代と考えていいはず。
65日本@名無史さん:2007/06/22(金) 13:07:10
同世代ってのがどういう範囲か分からんけど

継体安閑宣化親子の年齢差(日本書紀)を古事記の継体崩御43歳で再計算すると
安閑・宣化兄弟は春日山田皇女・橘仲姫より10歳程度年下のはず
66太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 13:42:53
2倍暦の時代は年齢の経過を半分としないと合わないよ。先帝世は通常暦だ。
67日本@名無史さん:2007/06/22(金) 13:44:40
>>66
だったらどうなんだ?
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 13:46:24
だったら? 〜だったら寿命が正確に分かって来る。
69日本@名無史さん:2007/06/22(金) 13:54:49
年金が正確じゃないのに寿命が正確なわけないだろ!バカかw
70太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 14:00:27
俺の通帳まで金融機関はイカサマをやっていないよ。
ものによってはそういう今回の件もあろが、真もあり捨てたもんではない。
大相撲の八百長はあろうが全部ではあるまい。一部だ。利害がでかいときに
八百長をしかける奴が出るときがあるのだ。
71日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:07:44
>65
具体的に何歳?
いずれにしろ、その説だと、
手白香皇女をはじめとする三姉妹は高齢(当時としては)
で結婚したということになるんだけど?
72日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:20:52
>>70
おまえは間違っている
ただ自分の都合のいい条件だけをつまみ食いしている偏食主義者だ
考えてもみろ二倍だ三倍だ魁皇拳じゃねーんだからころころ変えるわけなぇーよ
記紀を編集するとき基本資料があったとしても詳しい月日があった例あんのかw
73太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 14:49:44
>>72
それでは>>26を見てごらん。男弟王の時代統計では1ヶ月が14日間になって
いるではないか。月後半があるのは半島と先帝の時代の記録だけではないか?
半島と先帝時は通常暦だったからだよ。統計が君の言い分を減殺してるね。

年金の場合は数多い事務員の中で、その金額を見てこれが自分の金だったらと
利益を想う奴が多々いるわけで、一部に着服等イカサマしたくなる雰囲気が
どうしても長い間に出て来そうになろう? そのうち私服を不正にこやしたい奴
がハードルをこっそりと乗り越えて不正をやり、そのツケが今回の年金疑惑の
デタラメ多大に至っているわけではあるまいかと、かように思うのだ。金銭には
利害が出て来る。だから銀行券の有価証券というわけだよ。

それが年齢の偽造なんてあんまり利害が少ないし、大陸の古き歴史に負けたく
ないからやったと云うんなら、三皇五帝と同等くらいかそれ以上の年月を増加
いなけりゃ追いつくまい。だから記紀の歳の記述はイカサマの為ではないね。
74日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:53:27
なんで、24日と26日の記事はとばしてんの?
恣意的だね・・・
そもそも、在位中に1日から30日まで事件が起こるか?
無理だっちゅうのw
75太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 15:00:55
>>74
よく>>26の表を見てみろ。24日は先帝武烈の記録であり男弟王の活動
でもまだ一つ手前の通常暦の別の時代の記事なのだ。
それに26日は半島の通常暦の記述であり日本の暦法とはこれで違うのが
分かる。のこりは総て14日までしかない。ということは男弟王の即位後は
2倍暦、つまり1ヶ月が14日しかなかったわけだ。なんらおかしくはない。
76日本@名無史さん:2007/06/22(金) 17:46:31
いちいち暦法をコロコロ変更する合理的な理由がないのでは?
当て嵌まるからといって、当時が倍暦であったという理由にはならないかと。

織田信長は夜半に襲撃され本能寺で倒れました。
かといって、当時の戦が夜半に行われたというのは早計でしょう。
77太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 18:04:44
>>76
コロコロ変えずに一貫して同暦法でやっていたという根拠はどこにあるのか?
お前が勝手に固定なりと決めこんでいるだけじゃないか?
天体にも不動的の恒星があるが、コロコロ変わる遊星もあるんだよ

>>26からも、即位直前の24日の繼體の活動は先帝の暦法で通常暦法だから月の
下旬の日数になっているし、百済も通常暦だから26日で同様である。
その他の即位後の繼體記事はすべて1日〜14日にある。つまりお前の主張は
当時の古代が現代と大差ないという脳内の大間違いの恣意的考えに発しており、
そのことは文証の>>26表からもあさってのほうに逸脱しているのだ。
78日本@名無史さん:2007/06/22(金) 23:53:45
漢書天文志によると月の上旬は縁起の良い日とされている
これが偏りの原因と考えられる
79日本@名無史さん:2007/06/23(土) 01:15:31
>>76ですが、
太国さんとは普段はお互いに節度ある会話をしているのに
たまに疑問を呈しただけで罵倒されるなんて心外です…
ちなみに自分は「ドン来い」で畿内派と太国さんの議論で
いつも太国さんを擁護している者です。
反対意見を全て罵倒しては議論は進まないと思いますがいかがでしょう?

なお倍暦に関しては、>>78さんの意見のほうに魅力を感じます。
もしも倍暦を使用したり変更したりしていたのであれば、
何らかの記述が日本書紀にあってしかるべきでは?
80日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:20:18
なんでケータイの話でこんなになってしまうのか。
太国さんに言いたい。あなたはいいところまでいってるんだ。
だがミネルヴァの梟は黄昏に飛ぶ。何事か解明したと思っても、
本当の知性や真実はまだどこかに潜んでいるのだよ。
あなたの話はおもしろいから聞く。でも断言したり人を罵倒するのは
損だ。と、なんでもかんでも津田病ってのはヤブ医者だぜ。
で、今後ともよろしく。
81日本@名無史さん:2007/06/23(土) 03:14:40
余裕がないから暴言吐くことになる。見識と了見の狭さ非難しないが
人目に触れやすいところに現れるな、隅っこで壁に向かって話してろ
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 06:27:25
>>78
そのとおりそういう傾向は言える。自分もある程度そうだと思っている。

しかしだ、欠史八代の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の統計をとっているが、
やはり全部1〜14日で収まっている。ここでも君の言い分は通るようだが、
崩御は当時の朝廷が14日以内に日取りを決められるのか?
そんなことはないだろう。えらい天皇でさえ死ぬのは月前半に集められっこ
ないだろうがね。w 死亡日は恣意的に都合のいい日を選べっこない。
83太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 06:37:15
>>79
倍暦の変更は、その>>26の24日の記述だよ。
男弟王の活動記録だがまだ即位の直前であり、武烈の通常暦法の時代に
あることから14日内をはみ出して記述が下旬にある。

同王の他の記録はすべて月前半だ。後半がまるで無い。

再三言うが、26日は日本の記録ではないので特異であり、半島が通常暦
だったために当然月後半に数字があるのは当然である。

>>81
お前は臭い物に蓋をしたいらしく、そういう態度ではお前のほうが
暴言であり、古代史の真は掴めない。
84日本@名無史さん:2007/06/23(土) 18:00:04
暦は、中国からの輸入。
日本でも、三角縁神獣鏡などに中国の年号が記され、
早くから中国の暦が取り入れられていたことが知られる。
日本だけが、太陽暦でも太陰暦でもない
年号を使ってただなんて、考えられんだろう。
春夏秋冬が無茶苦茶の年号を使っていたでも言うのか?
どんなにがんばっても無理だよ、太国君。
君がアマチュアたる所以でもあるが。
85太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 19:36:13
>>84
>>84
またおいでなすったか〜? 
古代天皇の超長寿を説明しろよ、プロフェショナルなんだろう?
それとも出鱈目かねぇ〜? そうならアマでも言えるぜ。w

頑張ってやろうじゃないか? 面白いねぇ〜。
欠史八代の記述になぜ1日〜14日までしかないのかね? プロ君よ?
答えてくれ。
86太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 19:42:47
>>84
九州王朝の年号があるんじゃ女王国紀無い説はイチコロだなぁ〜。
だから創作だとか偽造だとか言い出すわけさ。
年号はいまはやりの食肉でないぞ。ww
87日本@名無史さん:2007/06/23(土) 19:51:07
継体天皇は間違いなく
皇統に連なる人物。
もし断絶後の事実上の初代なら
もっと崇敬されてるって、
応神天皇みたいに・・
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 21:45:35
>>84
そんじゃぁプロの教授殿、これはどう説明するんだい?してくれよ。

【日本書紀の應神天皇の条の日数統計表】

1日 3   16日 0
2日 0   17日 0
3日 2   18日 0
4日 0   19日 0
5日 1   20日 0
6日 2   21日 0
7日 0   22日 0
8日 1   23日 0
9日 0   24日 0
10日 2   25日 0
11日 0   26日 0
12日 0   27日 0
13日 1   28日 0
14日 1   29日 0
15日 1   30日 0

これを見ると1ヶ月が月前半しかないんだぜ。ただ應神世の記録
では、かなり月までで日の数字の無記載のものも多い。それは
半島関係のものが大勢を占めておるということだ。
ちなみに15日の記述は應神崩御のだ。1ヶ月の半月では1年だと
実質上半年だぜ。それにこの時代は5,6,7月・・・等の欠損月の
空亡が多く、その記述がないから3倍暦論は容易に可能なんだぜ。
89日本@名無史さん:2007/06/23(土) 22:15:27
継体の話なのに済まぬが、さすがに重い腰を上げて本棚の底の
日本書紀、数年ぶりに取ってきた。
応神のところひろげる。で、最初にどかんと見えたのが応神の
生まれたのは「冬十二月」。冬だよ、でも倍歴?
90日本@名無史さん:2007/06/23(土) 22:18:52
崇敬されてたのは八幡だからな
91日本@名無史さん:2007/06/23(土) 22:21:39
>>89
倍暦信者は1ヶ月を15日と考えてるんだろ?
92日本@名無史さん:2007/06/23(土) 22:21:45
月の前半に偏ってるからって倍暦の根拠にはならない
人目に触れやすいところに現れるな、隅っこで壁に向かって話してろ
93太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 22:24:56
>>89
應神天皇の誕生したのは仲哀崩御の歳で、この年は仲哀の世に
含まれ通常暦法の時代ですね。実年代」は352年です。
94日本@名無史さん:2007/06/23(土) 22:31:32
少なくとも今見たところ応神のところに日付は無いね。
「冬十月の辛羊の朔ミズノトリノヒ」って感じ。
だから>>84の言うとおり中国的表現なんだよね。
太国、無理だよ。
でも意識して十六日以降を避けているのは感じられた。
死んだのは15日だね。
95太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 22:34:26
>>92
1ヶ月が以下のカレンダーだ。当然根拠になる。目をかっぽ
じってよく見てみろ。↓  見たら大陸へ消えろ。


日 月 火 水 木 金 土

     1  2  3 4  5

6  7  8  9  10  11

12  13  14  15

96太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 22:38:00
訂正 12日は一段上の真右だったな。

>>94
無理なのは君だろう。そのカレンダーが当時の状況だよ。
97太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 22:46:30
>>94
あの教授の論にだまされるな。
外国で発明された車だって、日本で独自なものは作れる。それに
車なんか毎年と言っていい位四六時中、型変更をいるやっている。
暦法の変更がたびたびあっても、伝中国製であっても、そんなもの
から日本独自の暦法はやれる。

簡単だよ。1年を365日でやってたのを1/2とか1/3とかに
する割り算ができればもうやれるよ。当時中国の漢字は日本に
あったが、それを使って二分、三分して閏を考えれば、あっという
間に暦法を作れる。
98太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 22:50:17
>>97 訂正 スマン

× 暦法の変更がたびたびあっても

○ 暦法の変更をたびたびやれるし
9994:2007/06/23(土) 22:51:49
あ、そっか。(と、ころっと97に騙される)
ではすいません、太国さん質問。
「冬十月(フユムナヅキ)」という表現は、かならずしも季節の
冬を指していないということなのですね?
(継体の話なのにみなさますいません)
100太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 23:01:52
>>99
副題では応神とあるよ。

その冬とか付けるのは、当時の官僚の書き方なのかも知れない。
でなければ紀が日本の重要書物となるので、儀礼的に「×月」とか
の前に付加したようだ。だから紀の編纂当時の通常暦の月の季節
でつけたからなおさら、倍暦が撹乱されて隠滅に至ったものだな。
101日本@名無史さん:2007/06/23(土) 23:07:12
当時、一年が365日と認識されていた根拠はありますか?
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 23:12:19
>>101
神武の即位前は即位前3年の紀の記録をみるとほぼ全月にわたり
まんべんと記事が月後半までも記載があることから、それは
わかっていただろう。
即位後は5月以降を無となし1年を4ヶ月でやっていたようだ。
5の数字をえらく嫌っていたからだ。神武崩御直後、通常暦法に
戻している。
103日本@名無史さん:2007/06/23(土) 23:31:06
>わかっていただろう

つまり憶測ですか。
104日本@名無史さん:2007/06/23(土) 23:32:37
太国!
お前、自分が馬鹿だと気づけって。

計算が合うときは、一月が15日までで
都合の悪いときは一月は30日って、

そういうのを普通、
論理が破綻してるっていうんだ!!!
105日本@名無史さん:2007/06/23(土) 23:42:31
この際だからじっくり太国包囲網を築いた方がいいよ。
これ以後倍歴ナントカに関しては別スレで。
106太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 00:01:12
>>89
失礼。欠損月は略書きだったので、・・・で12月まで欠損だと
思ったんでしょう? もっと正確に書きこんでおけばよかっ
たです。それで應神の欠損月は正確には5、6,7月と12月です。
應神の誕生月の12月は当應神の時代ではなく、仲哀の時代の
はずです。

>>104
恣意的に15日、30日をやってるんではないですよ。これは紀を精査
した上のことで、應神の場合は15日までの月前半しか記述が事実
ないんですよ。たださっき>>88で言いましたとおり、應神世は日の
数字のない月だけの記載がわりかしあるんです。大半は半島の記事
で日本のは少しのようですが・・・。30日あるのは仏伝あたりの天皇
世からでしょう?

疑問は書きこんでおいて下さい。

zzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
10789:2007/06/24(日) 00:12:29
>>106
こちらこそ失礼。たしかに今確かめたら応神期に12月とあったのだが、
それは仲哀9年を意味するようです。
108日本@名無史さん:2007/06/24(日) 00:21:33
まあ、マジレスするとな、下記のように暦が伝わったのは553年とすると、
その前の暦はいったいなんだったのよ、不明だな、というのはある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/暦

 中国の暦が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『日本書紀』には欽明
 天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、
 遅くとも6世紀には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は
 元嘉暦であるので、この時、伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。

で、応神天皇が仮に 倭の五王 の 讃 とすると、
西暦413〜425を含む時代に即位していたということになる。
応神の時代の暦は、暦の伝わる以前の時代なわけだ。
(参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/倭の五王
109日本@名無史さん:2007/06/24(日) 00:37:34
暦の話はよそでやってくれ! ここは継体ネタの場だ!
110日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:40:40
マジレス降臨感謝
111日本@名無史さん:2007/06/24(日) 02:02:04
>>108
それ以前はどうだったのでしょうか?
倭王武の堂々たる上表文
稲荷山鉄剣の銘文などを考慮すると暦の知識がまったくなかったとは考えにくい
>>109
ごめんなさい
112日本@名無史さん:2007/06/24(日) 04:35:21
たとえば基本資料に「六月」とあれば一日から十四日を当てはめ
「六月中」とあれば十五日以降を当てはめた、と考えれば不自然ない
113太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 10:48:42
>>84
暦が中国製輸入であろう、結局日本独自の暦法は造りうる。22日だったか?
NHKの番組で日本は紀元前1世紀にすでに漢字の存在を知っていた。それから
繼體の6世紀前半まで500年ばかり時間か経過しているから、漢字の使用法は
日本人でも出来たことは疑いもない。

それに隅田八幡の鏡にも繼體天皇に関して

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮 云々」

との銘文があるから、君の主張の中国暦だとしても、これの干支とか八月とか
の記述からして暦法が日本に存在したことは確実で、模倣から発展して日本独自
に暦法運用が出来うるに違いない。

中国輸入だったから明確な年月日の使用が日本にないというのはデタラメで
ある。さらに>>111氏の指摘の如く稲荷山鉄剣の銘文もさらに本説を補強する。
中国輸入だからとして日本を小馬鹿にするのは短絡的思考である。
114太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 10:52:00
>>113 訂正

× NHKの番組で日本は

○ NHKの番組での解説から分かるが、日本は
115日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:22:16
太国の説だと、一ヶ月が今の凡そ半分、
1月は、旧暦で言う春と秋の二回来る、
6月は、夏と冬の二回来るということだな。
四季のある日本には全くそぐわないな。
6月も、夏の6月と冬の6月では全く別の行事をやるわけだ。
収穫祭の11月も、2回に1回しか米は取れないから、
2年に一回。
正月の行事は春と秋の2回やるわけだ。
旧暦にある閏月はどうする?
お前の言ってることは、矛盾だらけ。
116太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 17:27:19
6月末は12月末のつもりで大祓いがあります。
朝廷もなれれば2倍暦でも困りはしませんよ。
117日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:28:37
『朝鮮人の『反日主義』は、2000年前から始まった』
http://cgi.members.interq.or.jp/asia/showashi/cgi-bin/trees.cgi?log=&v=1565&e=res&lp=1565&st=0

 多くの日本人が、朝鮮・韓国人の『反日主義』は、戦後に始まったものだと思い込んでいる。
あるいは、次のような思い込みがある。

(1)明治時代に日本が朝鮮半島を併合したことが原因で、朝鮮民族は反日主義になった。
(2)高麗時代に、『倭寇』という日本人海賊が高麗(朝鮮)を襲ったので、朝鮮民族は反日主義になった。
(3)豊臣秀吉が『朝鮮征伐』を行ったことが原因で、朝鮮民族は反日主義になった。

 上記の説は、全て誤りである。特に(2)は間違っている。倭寇とは朝鮮海賊であって、
日本人は無関係なのである。倭寇の正体は、高麗の三別抄(傭兵軍団)とその残党である。

【気ままに歴史】『元寇と高麗』『高麗の無法集団=三別抄』
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 実は、朝鮮民族の『反日主義』が始まったのは西暦1世紀頃からなのである。それは、古代のカラ半島をめぐる
『領土戦争』が原因なのだ。
 朝鮮民族が、半島南部の日本領土(シラキ・ウルマ・ミマナ・クタラ・タムラ等)に対し、執拗に侵略を繰り返したために、
日本民族と朝鮮民族の間で『領土戦争』が起きた。それが、朝鮮民族の『反日主義』の起源なのである。
118太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 17:33:48
数十年前の日本では尺貫法とメートル法の双方並行して行われていたとき
がありますし、マイルとポンドとkm、kg双方やろうとすればできますし、
時間も午前午後ある12時間制と24時間制と双方やっていますから、通常暦法を
念頭にいれておけば2倍暦でも理解可能です。
119日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:51:15
まあ、太国の超ご都合主義の主張にいちいち付き合いたくないんだが、
いちおう言っておく。

そもそも、魏略の

「倭」について「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」
(その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す)
との記載は、

今の半年を一年としてという意味ではないと思うんだがな。

これは、要するに、
天文観測に基づく正確な暦を知らず、春耕秋収のようなおおざっぱな基準によって
1年を数えていたという意味じゃないのか?

(参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏略
120日本@名無史さん:2007/06/24(日) 18:01:54
そもそも、一月がほぼ30日というのは、
月の満ち欠けを基準にしているからで、月を基準にする限り、
ほぼ30日になるのは合理的理由があると考えられる。

書紀が元にした暦伝来以前の記録がどのようなものだったのかは、
今となっては誰もわからないが、
たとえば、上弦の月の満ち欠けと下弦の月の満ち欠けを区別せず
記録していれば、それはあたかも15日までの日付しか存在して
ないかのような記録になる。

また、迷信深い古代の人は、月の後半を宗教的理由から
活動を控えるべき期間にしていたので、月後半の記載が少ないという
ことも考えられる。

そもそも、1年を1年と区切るのは、耕作や収穫などがいつかを
決まった時期に予測するためだ。

ところが、1年が半年では、月の耕作や収穫の行事が年のサイクルで
予測つくようにならない。これでは1年(実は半年)を1年と
区切る意味などないといえる。
121日本@名無史さん:2007/06/24(日) 18:04:29
ついでにいえば、
太国によれば、書紀においても、月後半の記載は実は
いくつも記載されている。

太国は、その都度、
ここだけ通常暦だとか、これは大陸からの情報だから、
とか言っている。

それはあまりにご都合主義だろう。
122太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 19:23:10
>>119
神武即位前ころは通常の暦法でやっていたようですし、九州王朝のほうは
いかような暦法かは不明ですし、天皇の各代において通常の暦法の時代も
あったわけですから、その文がいつの時代の情報かによって左右されて
いまいます。
123太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 19:37:59
>>120
古代マヤ文明の多数の暦法の中で、ハアブ暦とツォルキン暦に関しては、前者は
太陽暦で農作に的していたようですし、後者は儀式暦で神事、占いに的して
1.4倍暦でしたから、農作のほかにも特殊な暦法が幅をきかせていたことになり、
農作に不便だからといって、神道大祓い的な2倍暦がおかしいとか不便だとかで
否定すべきではなく、現代的合理性ばかりで古代を観るべきではないと思います。

古代エジプトにもマヤとは別の1.4倍暦があったそうで、整数の2倍暦はそれより
単純です。
124太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 19:52:15
>>121
應神の暦法は>>88を見れば一目瞭然であり、かつ欠損月が4ヶ月ばかりあること
から以下のやり方で3倍暦法は可能であります。
貴殿の言うとおり、次代の仁徳世でも紀の記述からして少ないながら
月後半の部分があり、一見倍暦をしていないように感じられるところ、3ヶ月
ばかり欠損月が存在し、崇神垂仁世の年毎に欠損月を変更していたことを鑑み
れば、各年により以上の欠損月があったと想えるわけで、、3倍暦は充分可能
であります。

となれば、仁徳と先帝は別法の3倍暦を使用していたわけで、即位毎に天皇は
暦法を変えていたようです。これは>>26の24日の男弟王の活動からも伺えるわけ
で、先帝武烈との別暦法が行われていたと観られるべきものです。
125太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 19:58:01
>>124 訂正

× 以下のやり方で     ○ 1ヶ月15日間での運用で

当然閏は余りが出て造ってますよ。ただどのくらいかと問われれば、記紀の
資料のみでは確定できませんな。
126日本@名無史さん:2007/06/24(日) 20:28:25
3倍暦の根拠はなによ。
根拠もそうだし、それを使う理由はなに?

1年のまとまりは、毎年の決まった時期にこういう事があるとか、
あんな事があるはずだという予想・予定を立てるためのものだろ。

3倍暦を使う意味は?

お前のいう理屈は、計算の都合上からのみ生み出されているもので、
使う意味のないものは古代人だって使いたくないだろ。不便だもの。

3倍暦では、なんの予測も立てられない。
いつ種をまけばいいのかも分からんし、いつ収穫するのかの
役にも立たん。暦はそのためのものだろ。

つまり、1年のまとまりを作ることそれ自体にぜんぜん意味がない。

ただ一つ効用があるとすれば、太国が2ちゃんで妄想を語るのに
役に立つということぐらいか。

古代人はそこまで考えて暦を作りはしなかったと思うがな。
127日本@名無史さん:2007/06/24(日) 20:30:14
http://www.youtube.com/watch?v=MHCQCz2Efnc

北京オリンピックボイコット運動が、欧州、米国から
起こりつつあります
しかし、日本のマスコミは報道しません
128太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 20:59:28
>>126
その理由は>>36に書きこんであります。
コヨミは「古黄泉」にして、太古のイザナギ、イザナミ命の1500の産室と
1000人絞殺の言い合いから朝廷側がイザナミの呪詛を回避させたく、その怨恨
をかぶりたくないことからの比率であり、

1500 : 1000= 3 : 2

に基づくもので、それぞれ3倍暦、2倍暦を使用したい根源的ものです。

時間でさえ現今で通常暦に相当する24時間制と2倍暦に相当する午前午後の
ある12時間制を運用しておりますから、なれれば古代では倍暦の使用は苦に
なりえません。妄想だというなら>>88の表をどう説明するおつもりですか?
129日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:09:31
普通、日本語の「こよみ」の語源は、
日読(かよみ)あるいは細読(こまよみ)とされてると思うぞ。

コヨミは「古黄泉」って、お前の思いつきか?
学術研究するよりか、漫才師になった方がよくないか?

こよみ 語源のソース
ttp://gogen-allguide.com/ko/koyomi.html
ttp://www.koken.ne.jp/hyakka/gakujutu1-fr.html
130太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 21:16:32
>>129
じゃぁそれがどうして正解なのか? こちらは古神道の数読みだよ。
そっちも正解かも知れぬが、こっちのも真でないとは云えんだろう。

またコヨミっていうのは、欠史八代の代数の九、四、三を示唆しており、
つまりだ、開化と懿徳、安寧の各代数で、この三者の時代のみは八代間で2倍暦
を使用しているものだ。

何なら片手落ちにならぬよう、>>88の解説のも持って来い。
131日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:26:35
>>130

現代ゲーマー神道の数読みでは、コヨミは「KONAMI」から来ていることになっている。
そっちも正解かも知れぬが、こっちのも真でないとは云えんだろう。
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 21:28:46
>>129
だいたい語源が二つあって、「あるいは」などとなっているところをみると、
一つに絞れないほど優柔不断であり、信用が絶対あるとはそれも云え
ないだろう? お前は臥海の門番になったほうが向いているだろうよ。
133日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:31:11
通常暦も知っていたけど、天皇の記録としては倍暦などを使ったという
ことでしょう、太国さんのおっしゃってるのは。
ありえないことではないと思う。天皇を記すというのはとても神聖なこ
とであったろうし、またいろいろ詳しい年月日はわからなくなってたか
らそういうふうに縁起をかついだというのもあるかも。
仲哀期は倍暦??なのかと思ったら、その死後のタケウチスクネの行動
は22日となっておったです。
134太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 21:32:05
>>131
ジャァ、お前はゲーマー自認だからTVゲームのスレでも行ってふんぞり
返ってろ。
135太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 21:33:54
>>133
仲哀の時代は通常の暦法のようです。
136日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:39:38
だから、
お前の都合で、あのときは通常暦、このときは2倍暦とか
やるなって。

それを論理の破綻という、と言ってるだろ!

おまけに、今度は通常暦と2倍暦、同時使用もありとか
言い始めるわけ? 勘弁してくれ。
137日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:47:40
>>130
>じゃぁそれがどうして正解なのか? こちらは古神道の数読みだよ。

そのキチンとしたソースを示せ。
というのも、古神道というものの大半が、実は近世の国学隆盛以降に
でっちあげられたものだからだ。言ってみれば、神代文字と同じ。

少なくとも、一般にはそう思われている。
だから、古神道というからには、そういう一般のイメージとは
違う真正の古神道だということを示してもらいたい。
138太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 21:47:45
>>136
お前は同時使用などと言っているが、強くそこまでは考えていない。消極的だ。
がしかし、可能性はある。古代マヤ文明などはもっともっと併用してるぜ。

即位毎に変わることが何故論理の破綻になるのか? 即位毎に天皇なら変え
られるだろうよ。お天気なんかしょっちゅうかわるぜ。これも論理の破綻か?
お前は固定感が現代習慣の沁み込みで、古代の習慣も現代的でなければならん
という即断のお脳が活動してるからおかしくなるんだ。w
車なんか毎年モーターショーで違うのが現れる。暦法もそれだよ。
139太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 21:51:27
>>137
とうとうそれを言い出したか。お前にそれを解説すれば百科事典的に厚い
ページをさかねばならんよ。おまけに真の古神道は「卜事」(ウラゴト)に
帰着されるわけで、お前に解説するなんて1000年早い。w
140日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:52:03
お前の理屈より、
コヨミは「KONAMI」から来ているという方が、
なにやらもっともらしいぞ。

お天気なんかしょっちゅうかわるぜ。これも論理の破綻か?
といってる時点で、お前に学問は無理だと気づけ。
141太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 21:55:41
>>140
なら>>88を説明してくれよ。古神道よりお前らの臥海の脳内なら容易だろう。
なぜ月前半しかないのかね? お前こそそっちのほうはとぼけてなおざり
だな。w まあできないんだろうね?
泣きついて、臥海の親分に聞いて来いよ。ww
142日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:02:08
>>141
それについては >>120 で書いただろ。
143日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:04:02
>>139
で、その古神道とやらが真正だという証明は、結局、
できないわけなのか?

コヨミは古黄泉 のソースはなんだ? ということだが。
お前の脳内か???
144太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 22:07:05
>>140
学問の語だけは、え〜? えらく立派じゃないかよ?
待ってるぜぇ〜。

お前は美神の呪いなんか怖くはないようだな? 朝廷の連中は震え上がってると
いうのにねぇ。まぁファラオの呪いは迷信とお前は片付けるだろうから、そんな
「      」をゲーム感覚で云ってるようだがね〜。

俺らは美神からかいの語は怖くて書きこまないがね。例のイスラムでの
「悪魔の詩」を思い出して、「     」には古神道の連中は近寄らんな。

お前は平気のようだな。クワバラ、クワバラ、それ止めたほうがイイぜ。
強がりか〜〜?
145日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:12:05
追い詰められた太国は、どうやら発狂したらしい。

ま、前から狂っていただろ、というのはあるが、
基地外が狂うとなかなかの迫力だな。
146太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 22:12:43
「悪魔の詩」でイスラムの方々は激怒してるように、お前の書き込んだその
「       」は禁句だぜ。よく平然と、美神お怒りを買う語を書き込め
るよなぁ? それはマジで止めたほうが無難だぜ。
147日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:16:29
コヨミは古黄泉 のソースはなんだ? 

と言われた太国は、いま猛烈に追い詰められているw
148太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 22:16:52
>>145
お前の内心、よく平然としてられるねぇ? おっかなくておさらばだ。
美神の怒りはホメイニ師の如くだ。身の毛もよだつぜ。

災厄はご免だからな。お前、神宮へワビに行ったほうが身の為だぜ。
149日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:19:05
古神道というものの大半が、実は近世の国学隆盛以降に
でっちあげられたものだからだ。言ってみれば、神代文字と同じ。

少なくとも、一般にはそう思われている。
だから、古神道というからには、そういう一般のイメージとは
違う真正の古神道だということを示してもらいたい。
150日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:21:24
http://ja.wikipedia.org/wiki/古神道

黒住教に代表される幕末以来の教派神道系の教団の中に古神道を名乗るものがあり、
事実皇室祭祀である伯家神道の流れを汲むとされるものもある。

さらに、新宗教で古神道を名乗るものも少なからずあり、今日書店で見かけることができる
「古神道」の名を冠した書籍の中のかなりの部分をそういったものが占めている。
151日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:23:15
とっとと、コヨミは古黄泉 のソースを示せよ。

この、古神道ヤロウ!
152日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:37:04
フトクニが出てくると---- orz
153日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:18:35
太国氏の言うこと鵜呑みにしてみたいけど、やはり難しい。
「而るを此に・・(略)云えるは、百済本記を取りて文を為れるなり」
紀は百済本記を元に継体崩御の年を決めている
154日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:22:18
>>149

>古神道というものの大半が、実は近世の国学隆盛以降に
>でっちあげられたものだからだ。言ってみれば、神代文字と同じ。

道理で!
ムーなどでしか取り上げられないのはそういうことか。
そのトンデモ古神道にさらに磨きをかけたのが
太国のバモイドオキ神というわけか。
155日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:35:12
正しくは復古神道なんだね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93

「復」がつくと近世以降のものだということがバレバレだから
詐欺師や権威主義者は、わざとそれを省くってことか。
復古神道そのものは、そうおかしなものでもないようだから
太国みたいな嘘つきは、ものすごく迷惑なんだろうなあ。
156日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:36:07
ここ一体の何のスレだった? 完全にいっちゃってるよ!  
157太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 23:37:48

どうだ〜? 手負いの史士は相変わらずわめいているのかな?
上照るから、たまには肉でも食わしてやんないと怒り狂って神名の書き込み
まで乱行を働く。よっぽど悔しいんだろうな?ww

まぁ以前に余にコテンパンにやっつけられた軽暦があるんだろう?ww
大したやろうじゃな〜い。枝葉末節を突付いて意気を揚げてるようだ。
どうせ>>88に答える力は無いから、まぁまぁ神名変造でやじって来る。

どっかの臥海の番犬だろうな? ハッハツ!!
あいつは話が甚だしく支離滅裂で、精神科行きのキップでもお中元代わりに
やらねば〜なるまい。 口ほどでもない奴だ!!ww

プッ!! それとももう負け犬で退散か〜?? ww
158日本@名無史さん:2007/06/25(月) 00:34:03
こんなにイタい人だったなんて…
159日本@名無史さん:2007/06/25(月) 01:31:59
大乃国…
こりゃひどい
160日本@名無史さん:2007/06/25(月) 03:59:45
フトクニはNGで
161日本@名無史さん:2007/06/25(月) 05:23:06
太国さん知識が有る事は認める
本もよく読まれてるみたいですね
でもここに書き込まれていることは思い込みの結論先に有りき
自分でも分かってるのに認められず強弁して論理の破錠
もうスレの本旨に戻りませんか
162太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/25(月) 08:14:31
>>26で即位ごとに倍暦を変えていたことは否めませんね。

それを否定するなら数歩譲って、>>26の24日の繼體即位直前つまり武烈世の記録
が、百済の通常暦と考察出来る下旬の26日の記事を念頭に入れて、繼體世では
日本国内の事象の唯一の月後半の記述であるわけで、このことから武烈の時代の
通常暦法が體繼世で2倍暦へと暦法が変更されたというのがそれがしの主張です。
厳格に即位年に暦法の変更があったとは云えないとしても、武烈世と繼體世
との境での暦法の変更があったことは相当程度云える主張だと考えます。

こういうことを他の記紀の文をからみ合わせて、一歩進んで即位年に暦法変更
が行われたのが殆どだろうと云いたいわけです。これが真であれば古代天皇の
超長寿は何のことはない、うちら現代人の寿命と大差ないということが知れて
来ます。ですが昨夜のあいつは、どうやら当時の各天皇が200年も
300年の生存していたことを温存していろと聞こえてなりません。ww

学術的態度でないと云うなら、>>88の月後半に偏る真の理由に無回答で
放置してブチ切れるのがあいつの学術的態度だと奴はこれに無言の反論をして
おります。ww

先述のは説ですよ。記録が記紀くらいしかないんだから他から突付かれないだけ
の根拠は不十分でしょうがね。あいつじゃないが、突付こうとすればいくらでも
出来るでしょうがね。だがそれの完全否定も出来ないと想います。
163太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/25(月) 08:18:36
>>162 訂正 3段目

× 繼體世では

○ 繼體紀では
164日本@名無史さん:2007/06/25(月) 10:08:00
太国さん
お説では継体即位が521年とのことですが、
では隅田八幡の人物画像鏡の「癸未年」は何年になるのでしょうか?
165太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/25(月) 12:34:03
>>164
武烈世は通常の暦法と観てますのでその計算ですと 517年 となります。
男弟王即位の4年前になります。
おかしければ要点を書きこんで下さい。その場合は再考しますわ。
166日本@名無史さん:2007/06/25(月) 13:18:11
西暦517年は丁酉ではないですか?
167日本@名無史さん:2007/06/25(月) 14:21:01
スレタイと関係ない話ばかりだなw
168太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/25(月) 15:17:42
>>166
2倍暦の時代では実質上現今の半年が当時の1年ですから、干支は半年で
変わるようです。
169日本@名無史さん:2007/06/25(月) 17:04:38
>>168
ああ、そうなんですか?
癸未=503、丁亥=507、というように
西暦と干支の対応は動かないものだと思っていました
2倍暦だと、西暦の1年に2つの干支が対応することになるんですね

170太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/25(月) 19:51:13
>>169
そうだと考えます。稲荷山鉄剣の銘文の辛亥年は倍暦計算で 471年となり、
この年は同計算の照合から 雄略元年 と判明しました。

今はあんまり使わんでしょうが1尺と、1mでは長さが違います。
そんなことで、当時の日本でこんなことが時間でありえたということです。
それもどうやら相当こみ入っていて、各天皇世で暦法のやり方を変えていっ
たようだとそう考えています。
171太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/25(月) 19:58:57
>>170 訂正

× 辛亥年は倍暦計算で471年となり、この年は同計算の照合から

○ 辛亥年は471年相当と考えており、この年は倍暦計算の照合から
172日本@名無史さん:2007/06/26(火) 09:53:07
たびたびお手を煩わせてすみません
西暦の1年に2つの干支が対応するとすると、
癸未と丁亥の差は2年になってしまわないでしょうか?
画像鏡=癸未、継体即位=丁亥は動かないので、517年と521年に当てるにせよ、
通説のとおり503年と507年とするにせよ、その差は4年です
173日本@名無史さん:2007/06/26(火) 10:40:30
だれもが薄々怪しいと感じていた大乃国の詭弁が
論理的にも崩されつつありますよ
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/26(火) 10:46:09
>>172
繼體即位からが2倍暦なのであり、先帝の武烈の時代では通常の暦法です。
その二つの年の間は武烈に属し、2倍暦の始点での丁亥年でもまだ2倍暦の効用
は出てないですから通常暦の計算になり4年となります。
175太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/26(火) 10:49:23
>>173
お前もそろそろ年愚の汚覚め時が近づいて来たのだ。w
176日本@名無史さん:2007/06/26(火) 11:56:36
このスレは太国に始まり、太国に終わるか・・・
スレ主哀れ・・・
177日本@名無史さん:2007/06/26(火) 13:12:37
>>174
なるほど、わかりました
どうもスレの主題からズレてきたようなので、このへんにしておきます
ありがとうございました
178日本@名無史さん:2007/06/26(火) 14:45:52
>>177
こういうバカがいるからつけ上がる
179日本@名無史さん:2007/06/26(火) 18:00:58
>>178
まあこれ以上展開する能力がないんで
バカ扱いされても仕方ないですが><
納得が行かないのは行かないんですよ
西暦と干支の対応を動かすのはやはり疑問です
それが分かっただけでも収穫でした
180日本@名無史さん:2007/06/26(火) 18:58:50
倍暦は他の専用スレでお願いします。
181日本@名無史さん:2007/06/30(土) 15:52:40
じゃあ、話を変えようか。

手白香皇女はなぜ継体と結婚したの?
武烈の姉だから?
182日本@名無史さん:2007/06/30(土) 16:58:23
そうだよ
183日本@名無史さん:2007/06/30(土) 22:05:58
和珥臣日爪─糠君娘
              ||
市辺天皇      ||───春日山田皇女
   ||───仁賢天皇
手白髪命
(播磨国風土記)

春日日爪臣─糠子
              ||
継体天皇      ||───春日山田皇女
   ||───欽明天皇
手白香皇女
184日本@名無史さん:2007/07/01(日) 09:08:57
どういうことだ?
185日本@名無史さん:2007/07/01(日) 09:30:02
>>183
あれ?名前が同じ皇女がいるけど。
186日本@名無史さん:2007/07/01(日) 09:38:29
旧皇族から皇族女子に婿をとるの構図。
後継ぎを残せなかった武烈はそれを不徳とされ悪帝とされた。
187時間潰しの店の片隅:2007/07/01(日) 10:58:56
武烈の没年は506年、498年に即位在位8年で、
1〜2才で即位、9才で崩御の筈ですが?
跡継ぎをのこせなかったというのはやむをえないでしょう。
けど年をかんがえると、悪帝というのはどうもと思いますが。
188太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 11:11:40
武烈天皇崩御は倍暦の関係で14年後代に降りるのが正解です。

 506 + 14 = 520

つまり520年となります。即位は512年ですね。
189日本@名無史さん:2007/07/01(日) 11:55:45
応神天皇陵で、ヒメホタルの生息が確認されたよ
190日本@名無史さん:2007/07/01(日) 12:02:30
183を見る限り、伝承の混乱ないし捏造があるみたいだね。
ま、どうせ実在しないんだから、どっちでもいいけど。
191太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 14:22:58
繼體天皇に関しては、隅田八幡の鏡の銘文の「男弟王」から実在しないことには
全くならない。その言動はもう滅っ茶苦茶の極、つまりデタラメ。
192日本@名無史さん:2007/07/01(日) 15:33:36
>>183-185,189
系図の混乱の原因として考えられるのは「シマ」の名に関わり合いくらいか
記紀編者による同一人物の複数化ではないだろう
193時間潰しの店の片隅:2007/07/01(日) 23:00:46
隅田八幡の鏡の銘文が天皇名に比定できるとはかぎらないのではないだろうか。鏡の銘は
呪術的なものもあると(三角縁神獣鏡そのものが明器として殆どつかわれている)
かんがえられるのではないだろうか。とするならば、隅田の日十大王も男弟王も
も実在の天皇や王ではなく、オカルト的名称とみられるのではなうだろうか。
194太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/01(日) 23:37:56
>>193
それは古代人は迷信深いだろうから、オカルト的にはなるが、
人物までオカルトの空想では書くまい。
それでもそうだと云うなら、君は津田病の症状が脳から発して
いると考えてよい。
男弟王はどんな空想小説からの名だと云いだすのかね?
195日本@名無史さん:2007/07/02(月) 03:22:12
ヒフレの娘ヌカとの間にカスガヤマダを設けた天皇について
二説あったってことだね。
母がタシラカだという説を重視すれば欽明になるが、しかしカスガヤマダは
明らかに欽明より年長だから、やっぱ通説通り前説だね。
196日本@名無史さん:2007/07/02(月) 03:24:21
>>191
ヲホトとヲオトは別。
197日本@名無史さん:2007/07/03(火) 02:23:17
142 :白馬青牛 :2007/06/24(日) 00:54:46

(前略)

北陸は新羅・ 高句麗系の侵攻地であろう。継体天皇も越前の新羅・伽耶系かも知れん。
198日本@名無史さん:2007/07/03(火) 10:14:10
>>197
侵攻地なわけないだろw
古代豪族が貿易をやっていた可能性は否定せんが。
国府が置かれた「武生」は朝鮮語読みらしいが、
別段支配者が朝鮮からやってきたということにはならない。
199日本@名無史さん:2007/07/03(火) 11:52:07
日本海側に渡来系が多いのは事実。
だからこそ皇族が派遣されている。
200日本@名無史さん:2007/07/07(土) 02:56:41
>>1
「応神五世孫」系譜と出身地、息長氏などの後背氏族、任那割譲、
相次ぐ遷都、磐井の反乱、崩年・年齢、陵墓、継体・欽明朝の内乱 etc..
まだまだ謎の尽きない継体天皇について、心ゆくまで語りましょう

フトクニはスルー
201日本@名無史さん:2007/07/12(木) 23:04:33
継体とその孫の敏達の妃の中に息長真手王の女というのが出てくるが
不可能ではないがかなり不自然
202日本@名無史さん:2007/08/03(金) 02:21:38
age
203日本@名無史さん:2007/08/03(金) 03:39:36
平安時代には、藤原実能の女が、鳥羽天皇と孫の二条天皇に嫁いでるね。
鎌倉時代には、洞院実雄の女が、後深草・亀山−伏見−後醍醐の三世代に、
また正親町実明の女が、伏見−後伏見・花園・後醍醐−光厳の三世代に嫁いでる。
ちなみに、正親町実明は洞院実雄の実の孫ときている。
書紀の継体天皇の行年・82歳(450年生まれ)を盲信しなければ、
そう簡単に不自然とは言い切れますまい。
204太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/03(金) 07:14:10
真の繼體の生まれは 464年 で崩御は 533年 が正解。だから宝算70歳。
これは当時安閑を含め倍暦を行使していたからであり、既存の年代比定は10余年
数字がズレている。これは歴史学者と臥海がその頃倍暦を使用していたことを
知らずに年代を決めていったからで、それは間違い。尚允恭〜武烈世は通常暦。
205日本@名無史さん:2007/08/04(土) 23:00:48
年齢とかどーでもいいって。
で越前生まれなの?近江生まれなの?
206日本@名無史さん:2007/08/05(日) 00:51:05
>>204
妄想乙
207太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/05(日) 07:38:56
>>206
妄想だって? ならば>>26をどう抗弁するのか?
208日本@名無史さん:2007/08/05(日) 09:49:15
数字遊びはもういいよ。数字パズルで脳内年代設定かよ。
209太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/05(日) 09:53:45
>>208
お前、これは遊興で言ってるんじゃぁないんだよ。>>26
を見てみ。文証がちゃんとあるのだ。
お前の古代史の研究不足の豆脳がお遊びだとかぬかす原因のようだ。w
210日本@名無史さん:2007/08/05(日) 09:55:59
万世一系は事実です。
継体天皇は皇統の危機を救った英雄です。
211日本@名無史さん:2007/08/05(日) 09:58:33
>>186
事実をよくいいあてていますね
212日本@名無史さん:2007/08/05(日) 11:22:16
>>210
産んだ子が本当にそいつの子かどうかなんて男にはわからぬ
それでなくとも平安は自由交尾で通い夫
213日本@名無史さん:2007/08/07(火) 01:50:27
>>207
あまりレスする気もせんが
紀の日付は全部干支で表されているこれは連続してて60日でもとに戻る
朔日を特定して日を表す
継体紀については元嘉暦で計算した結果と完全に一致する(年と月の朔日)
「日本書紀暦日原典」有山閣S.53参照
月が15日だと年と月の朔日が一致しなくなる
Are you understand?
214日本@名無史さん:2007/08/07(火) 02:54:21
×Are
○Can
215太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 07:16:39
言ってることが理解しにくい。アンダースタンドでの説明をしろ。抽象的だろう
がね? そこでだ、一致しなくなるなら何故紀の記述は15日までしかないか?
もっとも>>26のとおり例外は特別にあるわけさ。当然だろうが。百済の通常暦
だから下旬の記述でもおかしくはない。もうひとつ即位直前の男弟王の一個の
下旬の記録は、先帝武烈の末期での同帝の暦法の通常暦に基づくから下旬の記述
は当然だよ。その二つ以外全て15日以内に収まっている。つまりだ、男弟王即位
以後は月が15日しかなかったということだ。1ヶ月が現今の半月で次月に
なるから、当時の半年は今の2年分だろうが。

つまりだ2倍暦法を行使していたということだ。だからその書は疑念が残る。
それに通常暦と2倍暦の双方を並行してやっていた可能性も十分ある。丁度
現代での午後3時が15時での並行運用のようにだ。
それでもその書をゴリ押しするなら、何故月後半の記載がないのかの説明を
してくれ。妄想と言ったんだから答えられるだろう? あ、そうそう15日まで
の記載じゃぁないぞ。1日〜14日の2週間までしかない。だから閏月があるや
も知れないね。
216太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 07:25:52
朔なんて、後で紀の編者連がいかめしい当時の官僚の記載をしたいから、
2倍暦を知らずに日々を調べて彼らが朔日を調べ当てはめて付加
した可能性があると考えられる。だからお前の主張のように全部合っち
まうわけだ。記録は特例以外1日〜14日しかないぜ。おかしいだろう?

四季も連中が官僚記載方法的に付加した可能性が充分あるのだ。だから
夏八月との記述でも夏とは必ずしも言えないぜ。
217太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 07:55:41
>>213
繼體天皇の系譜の遡りでの考えで、>>88の應神の日数統計表はどう説明するの?
この表は1日〜15日しかない。つまり子孫の繼體に似て月の後半がまるでない。
1ヶ月が現今の半月だったということになるのだ。

これは繼體が祖應神の暦法に則って2倍暦法を行使したという文証なのだ。これ
でも妄想かね? こうなれば君の言う朔日の一致とは、2倍暦を知らない紀の
編者らが、官僚記載を為すために自ら調べて通常暦と思い、紀の日数に付加して
行ったということが真相になって来る。
218日本@名無史さん:2007/08/07(火) 08:04:23
>>212
平安時代に限らないぞ
鎌倉時代の「とはずがたり」など読んでみればいいと思う
他の男の子供を院のお子です〜なんて普通。
大正天皇の辺りまで、天皇の半数は女官腹、ほかの男とも通じ放題。
219日本@名無史さん:2007/08/07(火) 08:47:31
生物的親子関係より社会的親子関係ですから
220太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 10:09:05
>>216 続き
2倍暦と言ってもさらに説明すると、應神と繼體とはいささかやり方がちがう。
前者は日数が15日まであるが後者は1日少なく14日の間である。まぁこれは
記録がもう少し多くないと二表からでは双方の相違が明瞭にできないのでここ
ん処は推察だが、両者の何かに違いがあるように思えてならない。

結論から先に言えば、應神世は繼體世の2倍暦と違い3倍暦を行使していたと
いうことである。應神の寿命がそのままでは110余歳となり、2倍暦ではこの
長さが解消できない。繼體は應神の倍暦の継承をストレートに行ったのでは
なく、3倍暦を2倍暦法に改めてこれを使用していたというものである。
これは先帝武烈の皇后の皇子が産まれないことからの負的記念として、神代の
岐美両命不仲の言い合い、1000人の絞殺と1500の産室の比

1000 : 1500 = 2 : 3

から3→2への2倍暦の採用を為したものであろうと余は観る。

2/4の即位は同じく2倍暦使用の懿徳天皇の即位にならって應神即位の1/1
を取りやめ、懿徳と同じ即位の2/4を選んだと観ている。
221日本@名無史さん:2007/08/07(火) 10:24:46
いかに精緻な考証を重ねても、虚構の上に虚構を積み重ねるだけでむなしいな。
真っ当な研究者からは相手にされない、閑人の言葉遊びや妄想にすぎない。
222太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 11:01:21
>>221
そんなんじゃぁ反論になってはいないね。ならば紀の仁徳以前の天皇の超長寿
をどのように説明するのかい? 出鱈目で終わりかね〜?w 単純だな。
それに>>26>>88の表の月後半の0行進はいかように説明するのかね?

既存の暦法の考えでは合理的説明はつくまい。それをお前は臥海の権威を
鵜呑みで信じているだけ。お前は上の非合理性に目をつぶってていいのか?
よく考えろ。
223太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 11:16:27
>>221
>>88の1ヶ月のカレンダーはこうだってことではないか。

       ↓

日 月 火 水 木 金 土
     1 2 3  4  5
6 7  8  9  10  11  12
13  14  15
224日本@名無史さん:2007/08/07(火) 18:49:39
>>215
あほらしいけど.....

日の干支というのは年月に関係なく連続しているものなの
だから暦法に関係なく年月日を特定すれば厳密に定まる
今年の七月三十日が丑の日になるように
天文学のユリウス日のようなもの

さかんに月の前半に記述が偏ってることをいうけど
じゃあ実際の継体紀を見てみよう

元年春正月辛酉朔甲子大伴金村大連......

(元年春一月一日が辛酉である甲子(四日)の日、大伴金村大連...)
だから継体紀のどの年月日も一日の干支抜きに何日とは言えない
継体紀の年月日が五世紀に作られた元嘉暦に一致するのは前に述べたとおり
だから月の前半に記述が偏っている事をもって月が14,5日だったなどというのは
元嘉暦に基づき元嘉暦を否定する事になって
論理として全然意味がない
そもそも暦法は天体観測や正確な計算の上に成り立っているもの
誰かさんの言うように簡単に自由に伸び縮みできるものではない

長文スマン
225太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 19:20:20
全然理由になってない。一見学的に高圧的反論をしてるようだが、何故
月前半に片寄るのか説明になってはいない。元嘉暦では月後半はどこへ消えたん
だね?

お前は通常暦でのその暦とから、15日〜30日はこれこれこういう理由で消え
たと説明してないではないか? お前の文より紀の文のが優先だね。そこの
紀の文、1/1の1日が何だというんだ? 長文大いに結構、もっと具体的に言え。

伸び縮みだと? 1次元の距離の単位だって日本の尺と欧米の1mとは長さが
違う。哩もな。4次元的時間の設定の大なるもの年数も、かように同じ1年でも
時間の経過がの日本と大陸とで違いがあってもおかしくはない。
226太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 19:32:39
それにだお前、連続性のような考えで言ってるようだが、現今のアパート
マンションだって室の号数は不連続の場合があり、104号室はない建物がある。
紀の記録を見れば月を見ていくと空白の月があるのだ。だから月数も現今の
12ヶ月が1年で揃っていたとは必ずしも言えない。合ってると言っても念のため
疑ってかかったほうがいいと思う。

勝手に連続のように決めんなよ。天体は連続的に運行するが、人為的な暦法は
凶数のな日は抜くことができうる。お前も自分の住んでる処がアパマンなら
調べてみろ。不規則な不連続だと合致しないんだよ。合うのがおかしい場合
がありうるということで、これも考慮が必要なんだぜ。
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 19:46:51
それは後で思いこみで付け足せば合うに決まっている。ww
紀の編者はそれより昔の1年が365日とか思ってたろうから、そのつもり
でお前のいうように計算していけば合うのが当たり前だ。

1ヶ月が現今と同様まるまる30日あるなら、何も左へ記録が全部片寄る
ことは統計学的にも0に近くありえっこない。ロシアンルーレットを考
えても、半分とは言わずとも通常は1/4くらいでも記録が右に行く筈だ。
228日本@名無史さん:2007/08/07(火) 19:48:02
>>225
>そこの
紀の文、1/1の1日が何だというんだ? 長文大いに結構、もっと具体的に言え。
1日の干支が記載されてないと甲子の日が何日かわからないだろうが
>全然理由になってない。一見学的に高圧的反論をしてるようだが、何故
月前半に片寄るのか説明になってはいない。元嘉暦では月後半はどこへ消えたん
だね?
元嘉暦が消したのではなく編者が記述しなかっただけだろうが
>伸び縮みだと? 1次元の距離の単位だって日本の尺と欧米の1mとは長さが
違う。哩もな。4次元的時間の設定の大なるもの年数も、かように同じ1年でも
時間の経過がの日本と大陸とで違いがあってもおかしくはない。
暦法の話をしているんだろうが
229太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 19:52:55
>>228
早く月前半に片寄る説明をしてみろ。さらに死亡月日は左寄りには
恣意的にはできないからな。自然現象だから。覚えておくといいぜ。
230太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 20:11:15
神武以下、欠史八代を見てみよう。崩御の日数だぜ。

神武 11日      これを見るとやはり、日は全部月前半にある。
綏 10日      お前は記載しなかったと言い逃れをしているが、
安寧  6日      死亡月日が全部月前半に来るなど多連続であり
懿徳  8日      っこない。これは言い逃れが効かないんだぜ。w
孝昭  5日      それとも紀の記述は出鱈目かい? 倍暦なら天皇
孝安  9日      の寿命は何のことはない、うちらと大差ないごく
孝靈  8日      当たり前の通常の寿命だったということだよ。
孝元  2日      お前の云う通常暦では説明がつかないぜ。
開化  9日      それにしても1桁の崩御日が多すぎるねぇ〜。w
231日本@名無史さん:2007/08/07(火) 20:22:33
月火水木金正日
232初心 ◆IkRsyyrA6U :2007/08/07(火) 20:50:03
>>227
>1ヶ月が現今と同様まるまる30日あるなら、何も左へ記録が全部片寄る
ことは統計学的にも0に近くありえっこない。ロシアンルーレットを考
えても、半分とは言わずとも通常は1/4くらいでも記録が右に行く筈だ。

現今と同様まるまる30日というのはどういう意味ですか?
233太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 21:00:46
>>232
いまの1ヶ月が30日のことを云っているわけですよ。それは31日を書きこま
なかったが、2月は28日29日とかを含めての意味ですよ。そこまで云うと論が
長い書きこみになりますんで、一くくりでの意味ですよ。

>>88は應神紀の日数記録です。その日付が1日〜15日までというのが左寄り
だと説明してるわけです。云わずとも知れて、当時のカレンダーは>>223
形だったということです。
234日本@名無史さん:2007/08/07(火) 22:02:40
>>233
おいおい太陰暦の一月は29日か30日だろうが
235太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/07(火) 22:24:47
それは知ってますよ。細かいね。
236日本@名無史さん:2007/08/08(水) 02:43:43
2倍暦は専用スレでやれ!
237日本@名無史さん:2007/08/08(水) 03:52:29
>>235
紀の編者が昔の王の死亡日を知っていたのか。ならどういう形で伝わって
いたのか?ということをまず考えてしまいますが。日付まで正確で明快な
資料はなかったでしょう。
彼らは万世一系(真偽はともかく)と年月日をあらわすことを義務づけら
れながらも、無責任な編集はしないと思います。当時に伝わっていたおぼ
ろげな記憶や伝承を元に、辻褄が合わない(長寿)ことを承知で、「今わ
かっていることは、できることはこれだけ。この後の研究は後輩に託す」
と正直に記したのでは。
彼らにとって天皇は神の子ですから、死ぬことも「天井にお帰りになる」
ひとつの行動でしかないわけで、それが月の前半に集中するのは自然な
解釈、想像のように思えます。

継体の話なのにすいません
238太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 07:41:57
要するにデタラメだといいたいわけか?
デタラメならばなおさらランダムに数字が月後半にも届くぜ。ww

月前半に集中させるには天皇を毒殺とか暗殺にて月前半で亡き者にしようとか
の方法とかに限定されて来る。君はまさか八代分全員が月前半で刺客でやられ
たとは云うまいがね?w 神武の次帝から開化まで全部が上旬に死んでるんだぜ。

自然だとか云ってるが逆で、自然なら植物の生長の伸びの進展のようになる。
それこそ先帝でない剪定鋏で詰めるのが美的不自然というものだろうが?
239太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 08:03:23
月の前半に集中するのは人為的にできるが、自然死ならばランダムに月後半
にも数字が行くぜ。君の言う自然だと月前半に集まるわけがない。何なら君の
祖先も調べてみたら? 君の言い分は矛盾の論理だと自ら気づくだろう。ww
240日本@名無史さん:2007/08/08(水) 08:46:21
600年も前の事を正確に書けるわけがないやろ、適当に8や9を書いたのに間違いない
241日本@名無史さん:2007/08/08(水) 08:48:19
はげどう、記録する用紙やエンピツもない時代にそんなどうでもいいことを正確に
記録する必要もなかったわけです
242太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 10:11:01
太安万侶はそれをやってのけている。昨日のニュースでやってたが、
なんとかキューブか云ってたソノ優勝者はほぼ全部ばらつきを無として
いるすごい記憶力だ。意思強くやる気になればできる奴が出て来る。古事記は
そういう古文書だ。

600年前どころか九州王朝ある天智世あたりか、そのころの墨字の木簡が出て
いる。そこには数字の年号記載がある。つまりお前ら←→>>240>>241の主張は
退けられる。それにだ奈良出土の中平刀には干支が書かれているし、倍暦から
孝靈の世の相当しているから当時も暦法は出来うる。

繼體より古い仁賢の御名は『億計尊』という。つまり億の計算もできるよという
御名だ。百済の百台三桁の数字の計算などわけなくお手の物だと紀は記述して
いることになる。古代人を舐めたらあかんよ。
243日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:56:47
思い込みと妄想に基いた机上の空論はデタラメに決まってるだろ。
どんなにもっとともらしい理論を構築しても、前提になってるものが捏造なんだから
所詮はオタクの言葉遊びや数字遊び、歴史ごっこにすぎない。
244日本@名無史さん:2007/08/08(水) 11:01:08
太国の情熱とエネルギーは認めるが、間違った方向に向かってるのが残念だ。
早く記紀盲信と我田引水的な解釈から脱却してほしい。
245太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 11:01:36
それは抽象的与太話で反論にはなってないね。
くやしかったら>>88の右より全部が0行進なのを説明してみるんだな。ww
舎人の捏造の証拠も出してみな。
246太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 11:04:14
>>244
お前が津田病の末期症状だからそんなことをぬかすわけだ。
お前じゃぁ精神科へ行っても手遅れだな。ww
247太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 11:24:35
イカサマ、捏造っていうのは今よく八百長とか話題が出るが、利害が大のとき
やるんだよ。前660年に引き伸ばしたって、中国の歴史のほうはまだまだ古く
中途半端である。これは捏造する根拠にはない難い。やるならもっと欠史八代
くらいではなく少なくとも100代以上水増しする。八代くらい増したってメリット
は少ないからこれは八王朝とは云えない。

利害無く億の計算ができれば正確に歴史の年代は確固と残しておける。反論
あるなら抽象的な誤魔化しでなく、しっかり根拠を出して言ってこい。これから
外出するから書きこんでおけ。
248 ◆16/YXRFBRM :2007/08/08(水) 11:30:23
文武立太子年(AC697)に合わせるため
神武立太子年(BC697)に設定したんですよ〜
249初心 ◆IkRsyyrA6U :2007/08/08(水) 11:35:48
やはりよくわかりません。
太国さんは二倍暦の時はどのような暦法を採用していて、
記紀成立時に採用されている暦法は何だと仮定してお話されているんですか?

250237:2007/08/08(水) 14:39:48
太国さん、そこまで紀編纂時に過去のことが詳細に伝わっていたなら、
二倍暦が使われていたこともわかったのでは?
詳細は伝わってなかった。>>248さんの言うような事情と、少ない資
料を元に一生懸命考えたらああいうこと(長寿)になってしまったの
だと思います。おかしな結果だが、今はこれが最高最善だと判断し発
表したのでは。(そう考える方が古代人を舐めてないと思うです)

また「けっし」は神話から人間の話にうつるまえのクールダウンの
意味合いもあると思います。フェイドアウトの間が必要。ワニの子
からいきなり崇神じゃ読者も惑うよな、みたいな・・

私の書いてるのも抽象的でごまかしですが。
251日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:46:37
大国のブログ同然のスレだから、あえて茶々は入れないけど、
まあ、こんな珍説は世間の大多数からは受け入れられないよね。
252日本@名無史さん:2007/08/08(水) 15:04:53
ていうか、このスレ立てたのは太国じゃないだろ。
スレ立て早々、太国に乗っ取られて、独善的な年代論を披露するブログと化してるけどw
253日本@名無史さん:2007/08/08(水) 15:56:00
フトクニの実像

記紀の原文を読んだことなし(せいぜい書き下し文まで)
日本書紀の年紀、暦法を理解する基礎知識なし
電波本はよく読んでいる
古田?あたりのとなえた暦が伝わる前半年を一年と数えていたというのを脳内変換し
二倍年暦?というのを妄想

こんなところだろ
254太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 16:25:18
>>248
ならば神武即位もその年にするだろう? しかも神武即位月日を 8/17 に
するか文武即位を 1/1 にするだろうが? 干支も合っていないようだが?
それに倍暦計上だとB.C.697年でなくB.C.37年となり、干支はいずれも「甲申」
と出た。
>>249
わかりにくくてあいすまんな。2倍暦がどのような暦法っておっしゃっておられ
ますが、1年が180日余の場合がそれですよ。記紀編纂時は通常暦での暦法の筈
でしょう。そちらの時代は恒久的通常暦法ですから拙者のテリトリーでないね。
>>250
はっきり云いますと知ってた奴がいたと想いますね。秘密だったと考えます。
>237よりは真面目な書きこみでよろしいです。う〜ん貴殿の言うワニの件
は記紀を神話とかたずけたくなるのはもっともだと想いますが、ただ記紀の
記載の年月日が原書から不明瞭ならば、舎人らは日を記さず、月までとか
あるいは月日なしでの記載に留めるはずでしょうし、誤謬の危険を覚って
「一書に曰く・・・」的記述で参考との書き方もやれえるでしょう? だから
日までの記載のあるところはデタラメだとの考えは早計です。
現に神功紀あたりは外国文献がうんと入りこみ、年代調整がうまくいかない
ためか月数までで、日の記載のない記録がわりかし多く出てますが、これは
そういう不正確を避けたいためだったと考えられます。
さらに八代間のように神話だとしても不可抗力の死亡が月の上旬に全部が集中
するような記載は、当時は現今のカレンダーの月半分だったと思考します。
>>251
お前は珍説だとか言ってるが、現在でも中南米の古代マヤ文明地域では1.4倍暦
を今でもやっている、古代ではやり方がすこし違うようだが、エジプトでもマヤ
でもアステカでも1.4倍暦を行使していたという。それに古代マヤでは他に
変則暦の819日暦法もあるし、イニシャル・シリーズ、セカンダリー・シリーズ、
月齢暦、長期暦、短期暦とかさまざまがある。だからスッパリ半分の2倍暦が
あっておかしくはない。お前は1年が365日的生活の経験しかないから、
  無経験=不実在
で片付ける豆脳の持ち合わせのようなのだ。ww
255太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 16:31:01
>>253
笑わせるな。全部読んでるぜ。
256日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:32:44
Test
257日本@名無史さん:2007/08/08(水) 17:53:33
>>13でフトクニが登場して以後、すっかりフトクニスレになっちゃってるな。
>>1は立て逃げかよ。責任もって軌道修正しろや。
258初心 ◆IkRsyyrA6U :2007/08/08(水) 18:42:35
>>254
煽りじゃないですから怒らないでくださいよ。

>1年が180日余の場合がそれですよ
いや2倍暦なんですから自明ですよ。

>記紀編纂時は通常暦での暦法の筈
この通常暦の種類をお聞きした方のです。 太陰太陽暦であるのは当然と
しても、その中身はなんなのでしょうか?


2倍暦の時代にはどのような暦が採用されていたのか。
素人的な考えとして、年の始まりは春分秋分もしくは夏至冬至。
月の概念がなければ通算日により182または183日によって年は構成される
んでしょうけども、一日と180を超える一年の間に月もしくは週のような中間
的な概念は存在しないのか。あるとすれば何日が一単位なのか。何れにし
ても端数は生じるので閏は必要となる。それは暦法に他ならない。イスラム
暦のように太陽年を無視すれば季節との因果は切り離されすし、正確に2
倍暦とはならない。かのように考えて太国さんのお考えを聞いたのです。
太国さんはどのようにお考えですか?
259日本@名無史さん:2007/08/08(水) 19:50:04
現在でもニセ医者がいてるような文明なのに、今から1500年前に正確な歴史書がかけるわけがないやろ
ほとんどがでたらめと見た方がいい
260日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:00:35
継体天皇ってその前の天皇の血筋から
かなり遠いっていう説もあるよね。
261日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:01:00
>>255
それは失礼でも信じ難い
それなら即位年にある太歳記事のことは知ってるな
注釈書みたいに継体元年(西暦507年)と書いてあるわけじゃないぞ
すべての天皇紀にも太歳記事があるので都合よくここは通常暦、ここは2倍暦
などとしたら年紀が混乱して収拾がつかなくなる
でもこう言うかも知れない
「編纂の時合うように捏造した」
それなら捏造された年月日を元に論じても自家撞着にならないか?
それでも二倍暦を主張するなら試みに前後に年月日が入る形で暦法(ついたちの基準、
閏月なる理由等)無視でいいから作ってみな
それですら矛盾のないものはまず出来ないことが分かるから
262日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:05:42
×年月日が入る形
○年月日の記載のある記事を含む形
263太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 20:22:10
>>258
すみませんな。書きこんだが長文すぎて消えてしまいました。かいつまん
で・・・倍暦ですから儀鳳暦とか元嘉暦とかの名称はついてないはずですよ。
倍暦主張の研究家の話はよく聞きますが、そんな名は無かったと思いますよ。

各天皇世において暦法が違うようですから全容を知るにはとても記紀の記録
くらいでは判明は困難ですよ。>>88の應神の表と前後の神功仁徳の日数表
とはかなり違いますから。各天皇世において暦法を変えていたとするのが
余の考えですな。神功仁徳世は21日の3週間しかないです。3週で暦を行使
していたんでしょうな。

それに時代時代で空白月があるようなんです。ですから1年12ヶ月まるまる
あって1ヶ月が30日まるまるあったとして天体運行計算をやっていますと
合いっこなく失敗すると思いますね。この確定は困難です。

とにかく2倍暦3倍暦の行使では180余日と120余日でやってたということ
ですよ。あとは閏とその空白をどのようにしていたかが当然重要ですね。
これも記紀くらいでは難しいですね。

多少推定で2倍念暦の真実のスレの若い数字の処にこうじゃないのかと統計表
うを掲げて書きこんでありますので読んで下さい。過去スレにも書いています。
264太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 20:33:40
>>261
信じないなら聴くな。過去に古事記前文を全暗記した余に読んでない
とか電波本だとか〜 何事か〜? ふざけるのもいい加減にしろ。
いいか、こっちは老齢に入ってるんだ。記紀を読んだ内容を思い出す
のは疲れるんだぞ。お前、若いのか・・・。

それにお前なんかに指図されることもない。こっちは捏造だとはいままで
主張したことはないぞ。彼らが倍暦を知らずに付加して行けばそうなるだ
ろうが? それでもそうでないというなら>>26>>88の月後半の寒々空虚
なのをお前の主張の暦法で説明するんだな。話はそれからだ。
265日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:37:08
>>263
白旗か?
倍暦主張の研究家の名前を教えてくれ
266日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:45:12
>>264
言葉が滑った。スマンかった
俺ももう若くはないよ
267初心 ◆IkRsyyrA6U :2007/08/08(水) 20:47:04
>>263
返答ありがとうございます。

>で・・・倍暦ですから儀鳳暦とか元嘉暦とかの名称はついてないはずですよ。
倍暦主張の研究家の話はよく聞きますが、そんな名は無かったと思いますよ。

いや名称を聞いたのは記紀編纂時代のことです。
2倍暦に名称を求めてはいませんよ。あえて言えば「太国暦」でもかまいません。
どういった暦法を太国さんは想定されているのでしょうかとお聞きしたかった
のです。
記紀編纂時の暦法を聞いたのは記紀編纂時の人が同時代にどの暦法を
採用していて、その人(編纂者だけでなく協力者なども含んで)が2倍暦
時代の資料または伝承を記述するときにどういう解釈をしたかを検討する
のに必須ではないかと考えたものですから。

太国さんの説明をみると1年は12月で2倍暦のころの記録または伝承も
12月で伝わっているから月の前半になるというお考えのようなのですが、
逆に1月から3月だけに記述が集中してる変換にならない理由とは
何なのだろうかというのが暦法にこだわっている私の理由です。

しつこくてすみませんが是非2倍暦における「太国暦」を教えていただけ
ないでしょうか?

恥ずかしながら(いや恥ずかしがる必要もないのですが)私も2倍暦なら
長命天皇の説明がつくんだがと考えるものですから。

268太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 21:15:46
>>265
白旗? それとあれとは別だよ。あの態度のでかい電波本がどうのとか
云ってた奴がいたが、最後はこちらが勝利だな。

いいか、人間の死亡記録の数字は記紀がイカサマ捏造ならまだ黙ってるが、
暦法を主張していて編纂者の暦法の記述を通常暦だと為し倍暦を否定するなら、
>>230だけで勝利宣言だね。神武以下欠史八代の天皇が全員が暗殺日を指定して
決行されたとかのことが無い限り、不可抗力の自然現象での死亡は通常暦
では>>230のようにはならない。これは厳しいぜ。
あいつもこれだけはどうしようもないだろうが。これは当時倍暦行使があったと
いう文証なのだ。よ〜く考えろ。
269太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 21:28:42
>>267
貴殿が具体的にどのくらいまで倍暦法を知りたいと云ってるかは文意では
分かりにくいので混迷しますが、2倍念暦のスレの1の数字から読んでもらえ
ば、分かってる範囲でだいたいは説明しています。
たとえば統計表を出して崇神〜景行世など書いてあります。他の天皇世も
ある程度は書きこんであります。ただ、まだのものもあり、難しいのは仁徳世の
暦法ですね。欠史八代も表を出していますが何分記録が殆んどないから、詳細
は現今ではわかりっこないです。
あとは過去スレの2倍年暦の真実のスレにも初歩研究を書いております。
一度ご覧下さい。
270日本@名無史さん:2007/08/08(水) 21:45:47
このスレは継体大王について語るスレであって、太国のワンマンスレではないのだが。
正直、継体大王の話題から逸脱した太国の年代論などどうでもいい。
スレ主が立て逃げしたからって、スレジャックするな。
271太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 21:49:37
>>265
あ〜研究家か。ほら倉西さんとかサガミハラハラさんとか征東大将軍さん
とかいるよ。

あとは参考書として欲しいのだが、入手困難だろう? 研究家で
栗原薫とか貝田禎造とかがいるそうだね。
272太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 21:51:19
>>270
はいはい、どうも〜。
>>267さん、質問は2倍念暦の真実のスレへどうぞ。
273初心:2007/08/08(水) 22:20:25
やはり移動したほうがよいですよね
れきし板的にみて不適切だっかたもしれませんね
太国さんも移動されるのですね
国の歴史を研究するのは楽しいです
のちほどこのスレに戻ってくるかもしれませんが
引かないで受け入れてください
率業する訳ではありませんのでこのスレの皆さんよろしく
はじめてなのでご迷惑をおかけしました。
疲れそうですが移動先のスレを読んで見ます
るるるるるーーー
274日本@名無史さん:2007/08/08(水) 23:21:36
継体スレだからあまりしたくはないけど
元嘉暦 宋(南朝)445年施行
儀鳳暦 別名麟徳暦 唐665年施行
持統朝に両者が併用されてたことが確認される(持統紀)
即ち日本書記の編纂時期に当たる

  序でに言えば古事記は勅撰書でなく太氏に伝わっていたフルコトブミを
  安万ろ(字が出ない)の子孫である多人長が弘仁年間に先祖に仮託し序文をつけて
  世に出したものという説を支持するものです
  しかし本文は大化前代の伝承を伝え歴史のみならず日本語研究の貴重な史料なのは
  完全に同意するものです

書記の紀年でいえば安康紀以降は元嘉暦、それ以前は儀鳳暦だと仮定しても
十数か所を除けば矛盾しません
そのほとんどは閏字の脱落ということで解決します
(手に入り易い本だと、講談社学術文庫 古代史を解く鍵 有沢隆道著
 これも暦法にかんしては孫引きですし他の部分ではハア?てのがないでもないですが)
安康紀が元嘉暦と矛盾しないというのは眉輪王の安康殺害の年月日ですけど
雄略即位前紀に同じ記事が有る事を考えると雄略紀が画期だったと主張しても
そんなに的外れはしてないのではないかと思います
仁徳以前の天皇の崩年が人の寿命として長すぎる点については
もともと年月日のない伝承を歴史書の体裁を整える為に編纂時点の暦に当てはめたか
あるいは神武即位の年を固定したため矛盾を起こした為と考えても不思議ではないと思います
2751:2007/08/09(木) 04:02:54
2倍暦の可否は他スレでお願いします。
276日本@名無史さん:2007/08/09(木) 07:36:07
継体天皇の謎

即位してから大和に遷都するまでに20年?かかっている
大和の豪族に推戴されたのかあるいは実力でのし上がったのか
崩年に関して諸書に混乱がある
277日本@名無史さん:2007/08/09(木) 17:38:55
80年代までは井上光貞、水野祐とかの影響で3王朝交代説が有力だったな。
最近は継体王朝と応神王朝との連続性が見直されてるみたいだけど、どうなんだろ。

オホト大王の前身は息長氏そのものだったんじゃないの?
278唐松山:2007/08/09(木) 21:12:42
閏の脱落で考える!!
閏の廻しが間違っています。

閏の廻しを 故意か失策により 間違えています。
ご注意を
279唐松山:2007/08/09(木) 21:18:33
成務天皇からの 閏の廻し
神武から同じだと 閏年は、2,5,8,11,13,16,19年目ですが
3,5,8,11,13,16,19年目 の方が良く合う
神武からの廻しで 丸8年の空白と同じに成ります。
仁徳、履仲の空白は、私の間違い ごめんなさい。

まず 以前 発表した 暦日の式
暦日=INT(INT((G2*365.25+100)/29.5306+0.3)*29.5306)+8305  G2=皇暦 神武元年1月朔=8777日
狂いは、1日か30日 皇暦(年)を打ち込んでください。

他のスレに書き込んだ 文 ですが、
自分で 30,29日の繰り返しで 朔を並べて下さい。
280日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/08/09(木) 21:31:40
>>271 太国さん

倉西ですけれども、わたくしは、二倍暦論者ではありません。
わたくしが二倍暦論者ではないことぐらいは、太国さんも十分存じておられるのではないかと思っておりました。
どうぞ、嘘をおっしゃられないでください。
近々の拙論に「日本書紀紀年法から読み解く隅田八幡宮所蔵明鏡銘文」があります。
そこでも、論じておりますように、わたくしの説は、日本書紀紀年法は、プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造が設定されているというものです。
281唐松山:2007/08/09(木) 21:33:23
なお 出来上がる 暦は、 19年7閏 6940日か6939日 とし
76年間の日数により(暦の元年を何処に置くか?) により変わってくる。
この 間延びした暦の縮め方により 暦の暦法も変わる

私は、19年7閏をひとつの単位として 暦に組み込まれていると思っています。

282唐松山:2007/08/09(木) 21:51:33
継体天皇 の 朔

まず 閏年は、 1,3,7,9,12,14,17年目
元年正月辛酉朔=計算式の434638日
これで計算するといいよ
なお 閏月は、本月の後に来ます。

安閑天皇元年 閏十二月,己卯朔壬午は13月に当たります。
翌月は、二年春正月,戊申朔壬子 (朔で)29日後です。
283日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:06:46
年代論や暦の話はよそでやれ。
ここは継体の人物像や事跡、事件について語るスレ。
284日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:09:00
もう、このスレにフトクニのような狂信者を呼び寄せるのはやめてほしいわ。
285日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:56:42
2のレスをした者ですけど
上宮記一云と水鏡(扶桑略記と誤記しました)の系譜との違いなんですけど
先祖が稚野毛二派皇子か隼総別皇子というのは仁徳と対立した後者と前者では
違いが大きすぎる
よく分からないです
286日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:19:40
連投すみません
継体の和風諡号はイミナみたいな素朴な形の最後ですよね
死後政治的な混乱があったかと妄想しちゃいます
287日本@名無史さん:2007/08/10(金) 03:17:19
忍坂大中姫は皇孫なのにつげ国造に小馬鹿にされてるのっておかしくね?もともと地方豪族みたいなもんだったと思う
288日本@名無史さん:2007/08/10(金) 06:34:00
飛鳥 允恭 顕宗
石上 安康 仁賢
長谷 雄略 武烈
磐余 清寧 継体

宮の位置が作意的に感じる
289日本@名無史さん:2007/08/10(金) 14:26:03
雄略 大泊瀬幼武
武烈 小泊瀬稚鷦鶺

名前の類似から武烈は雄略をもとにつくられた虚像という説ないの?
290日本@名無しさん:2007/08/10(金) 15:35:58
大悪天皇としての類似性もあるが
291日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:36:28
 神皇正統記(抜粋)
 継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが(日本書記では)、
皇位を奪われた正統な天皇の血筋を受けた天皇で、その正統性を証明す
る古文書が「真清探桃証」なのです。しかし、この文書は孤立無援の文
書で、他のすべての文書はこれを否定しているものばかりなのです。
 444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子ですが、安康天皇の弟(嘘)の雄略
天皇が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に
魔の手が伸びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせよう
と出発した。すでに、追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一
宮へ逃れた。すると、弟の弘計王に子が生まれ、根尾で養育してもらう
ことになった。しばらくして、雄略天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏
した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の男子は絶える)は市辺押磐皇
子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億計王が皇太子になる事
が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無くなるので、先に
弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾にいた男
大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木を
植えたのが淡墨桜として残りました。
 継体天皇の孫用明天皇は欽明天皇の皇太子で、用明天皇の皇太子が聖
徳太子なのです。聖徳天皇(聖徳太子)は大化の改新で中大兄皇子(百
済王の子豊璋)らに暗殺され、日本は朝鮮人に支配される事になった。
 大阪府太子町の叡福寺は「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子の墓が石柱
で2重に結界が結ばれている。この寺は聖徳太子の怨霊封じの寺です。
羽曳野市の「中の太子」と呼ばれる野中寺の弥勒半跏像には、天智6年
に「中宮天皇」の病気平癒を願い、作ったとあります。境内の墓には鬼
追(怨霊)という姓が刻んである。この寺は高市皇太子の怨霊封じの寺
です。八尾市の大聖勝軍寺には「縁起絵巻」があって、聖徳太子などが
毒殺されたという姿が描かれていた。この寺は長屋親王の怨霊封じの寺
です。これら三太子はそれぞれ天皇になって、長屋親王は毒殺されたと
分かります。
292日本@名無史さん:2007/08/11(土) 01:12:59
継体がいたことで、後の天皇の血筋がやばくなっても
「ま、てきとうでいいじゃん?」って楽になったって
のはあるね。
平家が殺しちゃっても、次の天皇がポンと作れちゃうみたいな。
293日本@名無史さん:2007/08/11(土) 04:13:02
こんな事を妄想してみました
強権で関東から北部九州、半島南部までをまとめてたワカタケル大王の死後
後継者難のため遠隔地の豪族の自立性が高まり一種の大王空位時代が出現した
これは20年ほど続き、さすがにこれではダメだと畿内の有力豪族の間の妥協がなって
傍系ではあるが有力な王族だった継体を大王に推戴した
もちろん妄想です
294日本@名無史さん:2007/08/11(土) 05:12:35
妄想はラウンジかVIPで
295日本@名無史さん:2007/08/11(土) 07:31:51
妄想の続きです
継体は時間かけて関門海峡以東を固めいよいよ懸案の半島南部の権益の回復の為に
新羅攻略軍を編成します
でも第一義は北部九州を支配している筑紫君磐井に対する挑発で戦闘に持ち込み勝利すること
狙いどおり北部九州の支配権は旧に復しますが半島権益の回復には失敗します
と妄想しました
296初心 ◆IkRsyyrA6U :2007/08/11(土) 08:45:35
やっと太国さんが2倍暦スレにいったと思ったら、妄想宣言さん登場
妄想をきいてもらいたいならVIPでスレたてればよいと思いますよ。
あそこは面白ければなんでもありだし
面白ければですけどもね

>>273は意図的にトリップ入れ忘れました。

初心#無視できない貴方も荒らしです
297初心 ◆O0QpzPp21o :2007/08/11(土) 08:51:44
トリップかえました。
継体天皇というと皇統が絶えているという仮説が多いように見受けられますが
記紀のとおり五世であるっていう普通の仮説はあまり訊きません
私も概ね記紀のとおりと考えていますが
少数派なんでしょうかね

あ、これは縦ではないです。
298日本@名無史さん:2007/08/11(土) 12:49:50
フトクニの独善的な年代論よりは、自称妄想氏の書き込みの方が
スレタイに合った内容なので、何の問題もない。
299日本@名無史さん:2007/08/11(土) 19:01:14
>>297
少数派ではないでしょう
三王朝交代の水野説など最近の研究では取り上げられないし
ただ五世の孫とあるだけで系譜が書かれていないことと、系譜の記載がある
平安末期以降の諸書の記述が必ずしも一致しないという問題はありますが
300日本@名無史さん:2007/08/11(土) 23:09:25
>>293さんの妄想は問題ないだろう。298が冷静。
オキナガとかイワイが強くなったって言ってるんだろう?
あり得ることだし。
大和政権はよくこういうこと(争いになって困ると中立的な
傍系とか女性を擁立)をやってるんでは。

301日本@名無史さん:2007/08/12(日) 09:09:00
いまでも大阪は知事に東京の女を持ってきて治めてるよ
302日本@名無史さん:2007/08/12(日) 19:51:06
>>285
うまく説明できないが、およそこのようなことではないかと。

倭王権を中国王朝交替に擬して、仁徳王朝が武烈を以て滅び、新たに継体王朝が成立したと
考えた場合、その伏線となる逸話が継体以前の4代に必要なはずだが、名だけで事績が伝わらない。
(一方の仁徳王朝には、安康が暗殺されたり、雄略が諸皇子を殺したり、顕宗・仁賢がはるばる
 播磨から迎えられたり、清寧や武烈に子がなかったり・・・と、伏線が多数用意されている)。

そこで、継体王朝の祖を稚野毛から隼総別に書き換えて、仁徳に刃を向けた隼総別の反乱を
継体即位の伏線として位置付けようとしたのではないかと。隼総別タイプの系譜は、稚野毛タイプより
仁徳王朝・継体王朝の対立構造を明確に示すことに成功したため、早くから流布して多数説となり、
『水鏡』『愚管抄』等に採用された。 一方の稚野毛タイプは廃れ、鎌倉時代後期には『釈日本紀』が
言うように、すでに「上宮記之外更無所見」の有様となってしまった。
303日本@名無史さん:2007/08/12(日) 22:00:45
>>302
なるほど
隼総別説が流布した理由がそうだとすると水鏡が扶桑略記に準拠しているのを考えると
略紀の著者皇円が一役かっているとも思えてきました
略紀は六国史のみならず民間の説話集まで広く素材を取ってるので面白い反面
皇円自身の解釈やデムパ的話も混じっているようなので
法然の師でもあるほどの知識人の影響は大きいと思います
304日本@名無史さん:2007/08/15(水) 04:20:40
継体=神武っていう説は最近どうなんですか
305日本@名無史さん:2007/08/15(水) 07:22:10
神武って明治天皇の東京遷都を正当づけるために、皇国史観の学者が考えた
投影による創作です。
306日本@名無史さん:2007/08/15(水) 08:07:15
新撰姓氏録には息長真人、坂田真人はどのように記載されてるのでしょうか?
307日本@名無史さん:2007/08/15(水) 09:10:29
>>305
出た日本の伝統はなんでも
明治以降のデーブ。
捏造がひどい。
308太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/15(水) 09:42:46
>>305
その説明そのものはお前自信の創作だね。このスレにもうこないでいい。
309日本@名無史さん:2007/08/15(水) 16:57:39
>>304
それは神武創作説を前提にモデルの一人としてるんでは

継体といえばおもしろい説があった(かなり偉い先生だぞ)
継の字を問題にして入り婿の証のひとつにしてた
www
310日本@名無史さん:2007/08/15(水) 17:06:16
継体=神武説は直木孝次郎だっけ?
最近聞かないよねえ。っていうか継体の研究自体低調だよね。
1500年機に盛り上がってくれればいいけど。
311日本@名無史さん:2007/08/15(水) 19:04:03
直木先生まだご存命なの?
312日本@名無史さん:2007/08/15(水) 19:12:53
あかんググったらこんなの出てきた

http://osaka9.hp.infoseek.co.jp/yobikakeninn.html
313日本@名無史さん:2007/08/16(木) 02:59:50
N木先生、お元気だよ!名誉職を山のように引き受けて肩書き一杯のU田さんと違って、N木さんはまだまだ研究者として現役だ。論文も書いてるしな。
研究会でも見かけるぞ。
314日本@名無史さん:2007/08/16(木) 03:55:28
継体=応神というのもありますよね。
エピソードがよく似ている。
どうなんでしょ
315日本@名無史さん:2007/08/16(木) 10:43:52
継体がなかなか奈良の都にはいれなかったのは、征服できなかったからですよね
316日本@名無史さん:2007/08/16(木) 19:29:03
>>315
そのへんがよおわからんので。
「征服」を志すほどの力があったのかどうか。そもそも即位したのかどうか。
王不在の大伴金村独占時代があって、欽明がおっきくなってようやく即位し
てからが新王朝ではないかとか。
ただ、「継体と畿内豪族との戦争」というのはなかったとは思います。
317日本@名無史さん:2007/08/16(木) 21:23:06
武力征服の可能性はほとんどないと思います
なぜならば大和の在来豪族間の力関係の大きな変化は認められないし、特に台頭した
地方豪族もないようですし
ただ紀ではその前後の時代として平群氏の没落、蘇我氏の台頭が記述されているのは
ちょっと気になるところではありますけど
318日本@名無史さん:2007/08/16(木) 21:49:37
>>213
直木先生と上田先生(と推察します)は古代史の大御所だけど
学閥の上からは本流、傍流の違いがあるのかなあ
319日本@名無史さん:2007/08/17(金) 00:28:45
>>310
水谷千秋(男)の『謎の大王 継体天皇』(H13、文春文庫)は、なかなか良いよ。
従来の王朝交代説に否定的で、記紀の記載に現実的に対応している。

しかし、この人の『謎の豪族 蘇我氏』(H18、文春文庫)はダメだった。
前著で否定的だった側の学者の意見を取り入れすぎ。反動かな。
320日本@名無史さん:2007/08/17(金) 01:03:11
あ、私も水谷千秋「謎の大王 継体天皇」を基本にしてます。
あとはトンデモ系で補強。

「謎の豪族 そがし」では、
・・『日本書紀』などの史料批判は厳密でなけりゃいけないが、
それと行き過ぎた深読み、ウラ読みは別だよ、と。史料批判が
後者に淫すると恣意的な論証に陥るぞ、という文章が印象的で
した。
好感持てますね水谷さんは。
321日本@名無史さん:2007/08/17(金) 02:11:25
>>320
同意
「謎の豪族蘇我氏」を読んでみたくなった
322日本@名無史さん:2007/08/17(金) 04:13:31
くだらんスレだな! 
俺が4、5年前に立てた 「継体帝は順帝だった」 ほど歴史のダイナミズムを提起するスレではないな

  時代は中国南朝時代、200年にわたって漢の大将軍位として存在した倭王が権威のよりどころとした
  漢(宋)の順帝が廃帝し、劉氏漢帝が終わった後に、突如日本に「継体」という号を継いだ王の誕生である。
  その100年後子孫である倭王(小野妹子のころ)は漢帝を滅ぼした異民族王朝の隋への最初の挨拶が
  「同格の天子」と挨拶である。  南朝の臣風情の子孫が統一王朝の皇帝に同格宣言などは
  この天子が、漢帝の血を引かなければありえん。 さらに100年後の天武帝において、この時の歴史は
  編纂され、劉氏漢帝の滅んだ後の 倭王武列が悪王となり、次の王が継体 と名づけられた。
  すなわち天武の代には無き、漢帝の継ぐ皇帝の意味「継体」をなづけたのだ。 
  では継体が誰か、倭王の表を読んだ翌年廃帝して殺された順帝14歳しか該当者はいないのである
323日本@名無史さん:2007/08/17(金) 09:18:40
まだ応神天皇よりは血筋に信頼が置けるような気がする。
324日本@名無史さん:2007/08/17(金) 10:46:42
応神大王は金官加羅からやってきた傭兵隊長だった。
325日本@名無史さん:2007/08/17(金) 14:45:11
>>320
水谷は現実的で穏当な結論が多いのだが、継体の出自のところで、
神功皇后つまり、息長氏との関係をあえて避けていたのは残念。

息長氏との関係で論じれば、系譜の信用性の補強になると思うのだが、
神功皇后の実在性に関るタブーなので避けた感じがする。
中堅の学者はいろいろと気苦労の多い中間管理職のようなものか。
326日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:13:12
>>322
最近別の板で
「電波を妨害すると電波法違反」という言葉を聴きました
含蓄のある言葉です。
327日本@名無史さん:2007/08/17(金) 20:29:29
古代の歴史を正直に正しく書いて置いてくれたらこんなに苦労しなくてすんだのにさあ
328太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/17(金) 20:32:14
書いておいても捏造とか偽書とか言うやつはひっきりなしに出るよ。
329日本@名無史さん:2007/08/17(金) 21:11:47
これだけ情報化が進んでいる昨今でも捏造が絶えないのが人間の社会
330太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/17(金) 21:41:37
検事連の一人がやっちまったという話が出てるからねぇ〜? 
331日本@名無史さん:2007/08/17(金) 23:15:48
9月30日に継体天皇の生まれた高島市でシンポジウムがあるそうだ。
今年は即位1500年ということで、福井や滋賀では盛り上がってるみたいだな。
332日本@名無史さん:2007/08/18(土) 04:45:23
せっかくの継体スレなのに
一部の考古学者が継体陵と主張する今城塚古墳の発掘調査が行われたのにしては
その後の話が出て来ない
ご存知の方よろしく
333日本@名無史さん:2007/08/18(土) 21:23:08
高槻の今機塚は国の力で改修されて新品の古墳になっていくので地元の人がえらい怒ってはるが
やみの将軍には勝てなくて
334春を愛する人は 心清き人 実はサガミハラハラ:2007/08/18(土) 23:02:42
修復されていくのは大賛成です。
一度行ってみたがあの荒廃ぶりはひどいものだ。
335日本@名無史さん:2007/08/19(日) 01:27:31
9月23日、福井県坂井市で「越の国シンポジウム」。
パネラーは、狩野久、山尾幸久、森田克行、中司照世、富永亮一郎。

9月30日は滋賀県高島市で「継体天皇と古代高島」。
パネラーは、水谷千秋、坂元義種、塚口義信、中司照世、森下章司。

一週挟んで福井と滋賀で。どちらも行ってみたいが、遠いのぉ…。
336日本@名無史さん:2007/08/19(日) 20:51:50
地元の人の生活になじんだ池や桜が容赦なくつぶされ着られたので、江戸時代以前から
誰の墓かわからなくて荒れ地になってたのに、研究者が原爆を造ったみたいになって、きのう
造ったような古墳にするそうなので、地元の人はげきどしてます、娯楽員が将軍になるようなもで
337日本@名無史さん:2007/08/19(日) 21:02:34
かといって、あの荒廃ぶりはひどすぎる。
338日本@名無史さん:2007/08/20(月) 08:58:03
継体量でないと思われたままなら住宅街になってたかも
339日本@名無史さん:2007/08/20(月) 20:15:51
すぐ近くの和歌山から移住した大田の地にある公称の継体量の立場はどうなるのか
340唐松山:2007/08/20(月) 22:30:00
蘇我エミシは、天皇だった、そして滅びる時に天皇家の(自分の)歴史書を焼いた。

こんな事を言う輩が居るんだが?
341太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/20(月) 23:04:32
天皇ではないでしょう。
342日本@名無史さん:2007/08/21(火) 09:35:10
継体もなんであんなとこに墓があるのか、高槻の百済系が入る前の勢力図を調べないと
343日本@名無史さん:2007/08/23(木) 00:29:53
11月にはNHK「そのとき歴史は動いた」でとりあげられるそうだ!今から楽しみ。
344日本@名無史さん:2007/08/24(金) 00:50:01
9月30日の高島市の歴史フォーラム。楽しみです。何か新しい情報があるかも?
345日本@名無史さん:2007/08/25(土) 17:25:49
9月23日の福井県坂井市のシンポと、9月30日の高島市のシンポ。
どっちに行く? 
俺はやっぱ高島市のほうだな!メンバー見た感じでは、こっちのほうが面白そう…。
346日本@名無史さん:2007/08/25(土) 19:21:54
大田の西方に宿久庄と福井の地名がありますが
347日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:15:19
あの・・・
息長公、坂田公の情報が欲しいんですけど
宜しくお願い致します
348日本@名無史さん:2007/08/26(日) 11:18:32

愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。

半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。

脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。

私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。

あれには本当にびっくりした
349日本@名無史さん:2007/08/26(日) 15:53:31
あほくさいなー
そもそも、当時の倭王は漢南朝の臣。
で、当時の漢南朝の首都は、今の上海や南京周辺。 いわゆる蘇呉越という地名は当時田舎の日本にとって
首都東京周辺の地名。
で、当時の倭王の交代にあたって、「継体帝とは、母は親戚のいる「越」に戻って育てられた」
この越って、当時の地理においてなんで日本列島なんだ? そもそも漢字などない。
常識的に、越は当時の南朝の首都の南部地方をさす。
で、継体帝は倭王(日本列島の大将軍位)の継承を認めた後、大和に入ったのが20年先。
どう考えても、越とは大陸側の地名の事
帝位が禅定された後、前帝が悪逆非道に描かれるのは当時の南6朝の風習と同じで
武列の描写はそれをまねたものだから、この一代だけ残酷
日本に、漢字や漢の服古墳が無くなるのも風習が様変わりするのもまさに、この帝の子孫から。
また、継体の息子は、家を当時の渡来人の集落に構えていたのである


350太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/26(日) 16:02:58
隅田八幡の鏡の銘文に男弟王の銘文があるから漢字はあった。それ以前の
雄略も稲荷山鉄剣と江田船山の鉄刀の銘文から雄略世も漢字はあった事になる。
351日本@名無史さん:2007/08/26(日) 18:59:12
万葉集では、漢=河である 
倭の五王をはじめ応神帝の国である河内王国は 方形周溝墓がこの時期最も多い場所である
方形周溝墓は漢人の墓だと推測されているが、 河内=漢内 と読めば極めてシンプルなのだ
352日本@名無史さん:2007/08/27(月) 08:11:33
河内氏は百済系渡来人を外する氏族で河内郡を領していた。
つまり河内国河内郡には新羅系がいてたのかも
353日本@名無史さん:2007/08/27(月) 09:44:38
越は「コシ」の訓に漢字を当てたものだろ?
「漢内」だったら「カナイ」じゃなきゃ変だろ?
354日本@名無史さん:2007/08/27(月) 10:37:05
原文は漢字で越なの?
だったら越は中国かもしれないねー
355日本@名無史さん:2007/08/27(月) 20:14:53
越はエツで今でもエチゴやエツゴと言います、ごえつ銅線のえつ
356日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:05:44
古志とかいう当て字があったんじゃなかったっけ?
だから発音は「コシ」で良いと思う
357日本@名無史さん:2007/08/28(火) 07:41:15
呉音と漢音を調整した時代があるので エチゴです
358日本@名無史さん:2007/08/28(火) 07:49:48
>>355
同舟な。読みは「どうしゅう」
359日本@名無史さん:2007/08/28(火) 10:33:27
呉音が主流でしたが途中から漢音に変更されましたので、エツが正しくて
コシはあとから追いかけて着けた名です
360日本@名無史さん:2007/08/28(火) 11:53:07
一応書いときますが、古い時期の木簡はみな「高志国」です。

「こしの国」と呼ばれていた地域が、漢字の使用によって「高志」の仮名を当てられ、
さらに訓読みの「越」の字が当てられたと考えるのが妥当でしょう。

当時の日本人が中国の「越(エツ)」を「こし」と呼んでいたり、
音読みの「越(エツ・オチ)の国」から、訓読みの「高志(こし)の国」への変化を
滑らかに説明できる証拠・推論があるなら、提示していただきたいところですが。
361日本@名無史さん:2007/08/28(火) 13:20:08
調べてみた。

 継体は幼少、母方の高向で育ったとある。 高向は越の事とあるね
 で、高向を調べてみた。 越や呉出身の渡来人の国や性とあるね
 で、後の世で高向あたりが越と書かれたんだね。

つまり、音の問題じゃなく、質の問題として、「こし」と越は 中国の越がらみでつながってるようだ。
古事記の記述を素直によめば、 母方の先祖は越人で越人の里で育った と書いてある
362日本@名無史さん:2007/08/28(火) 13:28:17
>>360
やっとまともな人が現れた。
363日本@名無史さん:2007/08/28(火) 14:12:41
中国の「越」がらみで「こし」の国になったということは、
その「越」がもし「元」だったら、今の北陸地方は「もと」の国、
「明」だったら「あかるい」の国、
「清」だったら「きよい」の国、
と呼ばれていたわけですね。
364日本@名無史さん:2007/08/28(火) 14:36:37
>>362 まともねえ 突っ込んでみないと真実は見えないよ

振姫の生地が、高向(越前)と記述されている。 
高向を調べて「中国の越」と全く無関係なら只の与太話で終わるんだが
なんと、高向=応神由来の越呉帰化人の総称的用語だったので、 鶏と卵 の話になって
実に面白いじゃないか

越人高向の国→高志→こし→越〔訓読でこしに)→越〔えつに戻る)

常識として、応神の17県が漢字の祖だね。彼らは高向でその高志国に住んでいる。
その後の「木簡漢字 高志国」は彼らが付けたはずだね。 当然 高向と高志には関連があるだろうね 
365日本@名無史さん:2007/08/28(火) 14:48:45
>>363
ピントづれてるよ。 越は今でも日本で「えつ」だし 
じゃーなぜ、こしと呼ばれるか? そこが高志だったから 
じゃーなぜ、「越」と当て字されたのか?「中国の越人出身国」だったから
じゃー高志とは? その土地に住んでいた漢字をもってきた応神帝ゆかりの帰化人〔越人) 高向たちが
恐らくは名づけただろう。(ふるい木簡であれば漢人が管理)

で、全てつながる
366日本@名無史さん:2007/08/28(火) 15:04:29
すると、その土地に住んでいた漢字をもってきた応神帝ゆかりの帰化人が、「高向さん」じゃなかったら、
「こしの国」にはならなかった可能性もあるわけですね。

ところで、「越人高向」の資料希望。上でわざわざ「越呉」帰化人としているところが妙に気になります。
367日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:02:59
368日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:13:28
>高向=応神由来の越呉帰化人の総称的用語

何この初耳。高向村主の高向は河内の高向だろ。
369日本@名無史さん:2007/08/28(火) 20:26:38
木簡に書き間違えたというのは、または漢字を知らなかったとかは
370日本@名無史さん:2007/08/29(水) 08:35:25
無理か こしのくにがあだ名だった、愛称であった
371日本@名無史さん:2007/08/29(水) 09:45:10
 真清探桃証は古代の真実を暴く古文書だ
 記紀では継体天皇は応神天皇の5世孫と言うことになっているが、真清探桃
証によれば、履中天皇の市辺押盤皇子の子・弘計皇子(顕宗天皇)の男大迹皇子
である。皇位を奪われた天皇の血筋を受けた者で、その正統性を証明する古文
書が「真清探桃証」なのである。しかし、この文書は孤立無援の文書で、他の
すべての文書はこれを否定している物ばかりである。
 444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子であるが、安康天皇の弟(嘘)の雄略天皇
が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に魔の手が伸
びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせようとした。すでに、
追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一宮へ逃れた。すると、弟の弘
計王に子が生まれ、根尾で養育してもらうことになった。しばらくして、雄略
天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の
男子は絶える)は市辺押磐皇子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億
計王が皇太子になる事が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無く
なるので、先に弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾
にいた男大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木
を植えたのが淡墨桜として残りました。その時の短歌が
 身の代とおひたつ桜は薄住よ千代を忘るな民の形見よ
 この古文書は土川賢太郎の土川家が一子相伝として伝え護って来た物である。
 記紀を否定する物として偽書扱いされて、図書館から姿を消している。将来
弾圧を受けて、焚書にされるであろう。真実な物ほど弾圧を受けるのである。
372日本@名無史さん:2007/08/29(水) 11:23:14
真清探"当"証な。とりあえず偽書乙
373日本@名無史さん:2007/08/30(木) 20:16:35
機器が編纂された時代が、まともな時代であればいいのですが
374日本@名無史さん:2007/08/31(金) 04:04:50
記紀のなぞ 

天皇の権威づけのためだけなら 武烈が非道である記述はおかしい

  
375日本@名無史さん:2007/08/31(金) 21:31:04
継体はなぞが多すぎるので、あやしい
376日本@名無史さん:2007/09/01(土) 08:38:27
創作が多く有ると見ていいかも
377日本@名無史さん:2007/09/02(日) 02:06:14
〔作者筋)天武帝の視点だけで考えればいい。

 確実なのは、 なぜか武烈が悪者
          なぜか継体が善者
 只の創作なら、武列不要。 

継体の血が入らない かつ 武烈の血は入る → 「この親戚を皇族から排除したい。」 
これしか、この話の結論はない 
378日本@名無しさん:2007/09/02(日) 04:00:27
しかしまぁそうなると(ただの自称であったとしても)武烈天皇の子孫は実在していた
という前提に立たねばならんのだな。武烈天皇は架空とする見方も多いが、
創作するなら「仁賢に皇子なく継体が婿養子になった」とするのもアリのはずだし
あまりに暴君だったので(大伴金村か誰かに)殺されたとするのもアリのはず。

酷く中途半端なんだよな武烈の「創作」は。
379日本@名無史さん:2007/09/02(日) 07:42:50
武烈は信長みたいに苦労の部分を全部引き受けて悪霊にとりつかれてたのかも

倭王 武か
380サガミハラハラ:2007/09/03(月) 08:04:55
私の調査では、武烈天皇は498年1〜2歳で即位、506年9歳で没です。
よって、天皇の暴虐記事は中国の古典等をモデルにした創作です。勿論子供はいません。
381太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 10:30:31
>>380
暴虐を創作して紀に載せれば、舎人らが朝廷に捕縛されて死罪だよ。
サガミハラハラさんらしからぬ説明だね。
382花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/09/03(月) 10:58:43
武烈は雄略のダーク部分のコピーだと考えます。
「大悪天皇」と呼ばれた雄略の、さらに嫌悪された部分を拡大して
個別の天皇として描写された人物であると。

神武と祟神、応神と仁徳のようなものかと。
383日本@名無史さん:2007/09/03(月) 11:10:53
出来た記紀を天皇が点検するので、うまく書いてるねとほめられた
384太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 11:20:00
>>382 花さん
平成天皇の平成は平城天皇の号のコピーですか?
そうじゃないでしょう。暴虐の創作とかコピーなどとの考えは妄想ですよ。
385花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/09/03(月) 11:27:21
>>384 太国さん
おっしゃるとおりです。
創作というよりは、錯誤とか誤解の類だと思ってみて下さい。
雄略から天武まで、ざっと200年ぐらいの時間があります。
その間に雄略に関する伝承が変遷し、
いつしか武烈という人物に独り立ちしたのではないかと思うのですよ。

舎人などが創作したのではなく、それら誤った伝承をもとに
必死に整合させたのが日本書紀ではないかというのが私のスタンスです。
386太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 14:07:30
>>385 花さん
機嫌を直して下さい。今日はそれがしも倍歴の件で唐松山さんに一本矛盾を
指摘されましたので研究を見直さねばなりません。まいったですよ。

それを受けないままだと拙者も誤解のままでいることを余儀なくされます。
お互いに切磋琢磨で行きましょう。
387花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/09/03(月) 15:35:26
>>386 太国さん
あいや、機嫌も何も、普通に意見を交わしただけじゃないですか。
以前にも申しましたが、私は太国さんの倍暦論を
「能動的に肯定しない」だけであり、
否定はしませんし太国さん個人を攻撃する気も毛頭ありません。
むしろ、見解は違えどたまには冗談を交わす仲でいたいとさえ思っています。
主張は堂々と、反論は礼節を持って、お互いを高めていきましょう。

七支刀のスレは先程拝見しました。
私はまだ皆さんほど研究しておりませんし、スレも流し読みした程度ですので
細かい矛盾などはよくわかりませんが、
これは太国さんの倍暦論の論拠をさらに固める機会かも知れませんよ。
小さな蹉跌に過ぎません。
意気消沈する事なく、今後の研究に邁進して下さい。

今まで名無しで何度も書きましたが、
「私は、真相を究明したいだけです」ので。
388太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 21:52:34
>>387
了解です。今後ともよろしく。
389日本@名無史さん:2007/09/03(月) 23:11:45
また妄想が始まったな…。いい加減にしてくれよ。トンデモ本にもならんような
ネタ…。どっちもどっちじゃて。
390日本@名無史さん:2007/09/03(月) 23:35:53
<こし> 大和からみて 冷たい風が吹くからという説もありますよ。
     現在でも木枯らしといいますよね。
391日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:14:08
日本史板のコテハン
複数のコテハンを使っているヤツがいるのはミエミエ
マナー違反が横行してる
IDを導入すべきでは?
392日本@名無史さん:2007/09/04(火) 03:36:18
太国さん
確か新撰姓氏録はお持ちですよね?
新撰姓氏録をどこかのスレで引用されてましたね

新撰姓氏録には息長真人、坂田真人はどのように記載されてるのでしょうか?
393太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 08:04:10
>>392
新撰静止姓氏録の引用というのはやってなかったと思います。
別のコテハンの方でしょう?
394日本@名無史さん:2007/09/04(火) 08:12:30
新撰静止姓氏録w

応神裔 継体裔
395太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 09:25:32
>>393>>394 ありゃぁ〜
誤記です、そんなの入ってしまいましたか? 目がわるいもんで・・・。
静止は抜いて下さい。
396日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:42:17
みんな〜、正気に戻って議論しようぜぇー! もっと着実な研究を。
397日本@名無史さん:2007/09/06(木) 01:50:20
2chで着実な研究なんておりえねえよw
398日本@名無史さん:2007/09/06(木) 13:40:25
継体と大陸を中心に議論してくれ、倍々なんとかは他でやれ
399日本@名無史さん:2007/09/06(木) 14:02:34
〜越の国の中心地、福井から出た継体天皇〜
福井県が、こんなホームページ立ち上げてるんだが、
日本史板の住人的には、どこまでが本当だと思ってる?

http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/history/index.html
http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/achievement/index.html
400日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:38:56
継体が奈良にいれなかったのは、並立する邪馬台国が存続していたからですよ
401花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/09/06(木) 21:23:12
>>400
非常にユニークな仮説ですね。
ちょいと興味がわいたので、詳しく話していただけませんか?
402日本@名無史さん:2007/09/07(金) 08:41:19
継体天皇の没年が『古事記』と『日本書紀』で3説があげられ、
『書紀』の編者は外国資料である『百済本記』に基づき531年説を
本文に採用したことからもわかる。国内資料だけでは継体天皇の没年すら
確定できなかったのである。いわんや在位年数、没時年齢など全く当てにならず、
それ以前の天皇については論外である。ゆえに継体以前の史的事実の確定には、
外国の史書、『書紀』の記述のうち百済三書など朝鮮系の史書に基づく部分のほか
、まずは考古学資料が優先される
403太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 09:35:44
どんな考古学資料なんだろう??
404花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/09/07(金) 10:58:09
太国さん、おはようございます。
先程の「継体は邪馬台国が存続していたため奈良入りできなかった」
という書き込みについて、どのように思われますか?
私は「有り得る話」だと感じました。
405太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 11:28:05
一見ありえるよう見えるでしょうが、それは間違いですよ。
繼體は九州入りしてなかったから、並立している女王国が存在していたとも
云えますがね。
406日本@名無史さん:2007/09/07(金) 12:27:19
継体天皇の在位年については「畿内王権生成史の謎」のスレ311からにでています。
それで正解です。
407花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/09/07(金) 12:50:34
あーそうか、太国さんは九州説でしたね。失念しておりました。
もしよろしければ「女王国は畿内」と仮定して考証してみていただけませんか?説を枉げる様な事になりますが、あくまで「仮説」として。
古神道的観点からいかがなものか知りたいです。
408日本@名無史さん:2007/09/07(金) 13:28:09
大山寺の僧、大蔵院の僧、許波多神社の神官、吉田神社の神官などから伺った話です。
口伝などで代々伝わっている話だそうです。
日本書紀や古事記と違うことを仰っていましたが、私が記紀が絶対に正しいと信じていないので、面白く伺いました。

まず、応神天皇の次に宇治天皇が即位しますが、久米派内で跡目相続をめぐって内乱が起こります。
これで、久米派自体が弱体化し、大和の王、仁徳天皇が久米派を破って即位しました。
宇治天皇の母君、宮主宅媛命が宇治川に身をなげて亡くなります。(許波多神社伝)
これに異論をとなえた播磨が討伐を受けます。
鴨、明石が戦い、伊和は静観したので、伊和一ノ宮は保護されます。
明石のご神木の楠が切られて、船にされます。
切られて後もその船は鳥之磐楠船神として崇敬を集めました。

実際は仁徳天皇が播磨討伐をなされたようですが、それを応神天皇がなされたよう、大幅に歴史の書き換えをおこなったと伝わっているようです。
大変大規模な書き換えがあったので、かなり作業が煩雑になったようです。
ここで政権が大和系の政権になります。
これで、隼人は今までより反乱を起すようになり、播磨系の吉備も非協力的になっていきます。
この系統は雄略天皇まで続き、その後、播磨系の天皇に代わります。
409日本@名無史さん:2007/09/07(金) 13:30:21
しかし、数代後に跡継ぎが絶えて、結局、久米系の“継体天皇”が跡を継ぐことになるのです。
継体天皇の父がひこうしの命ですね。久米系の方だったようです。
諸国のお血筋は婚姻を繰り返し、非常に密接になっていたので、どの系統であろうと、血統的にはほとんど一族に近い状況だったのです。
だからこそ、継体天皇は、久米系であったにも関わらず、易々と帝位につけたのです。
天武天皇の時期にはほとんど名目だけのものになっていたようで、そのような各国の系統よりも、むしろ、その一族からの直系であるかどうか、万世一系であるかが決定的に重要視されたのです。
だからこそ、継体天皇は、中央とはまったく関係なかったのに、探しだされ帝位につかれることになったのです。
だから、歴史上、その系列の記述は無視されたそうなんですね。
この系統の話が出てくるときは、武力で政権交代した場合です。
そのとき、相手側の勢力を討つ口実に系統が使われたようです。
戦国時代、足利が源氏で織田が平家、徳川が源氏と、源平交代説がささやかれたと同様程度の重要性だったのです。

その後、しばらく久米系が続きますが、白村江戦で日本が敗北し、その期に乗じて、大和系の天智天皇が政権をとり、唐に対して、逆賊を討ったので、政権を認めてほしいと使者を送ったのです。
これを唐が認め、日本は領土を失うことを免れたと言っています。
これを快く思わない群臣が天武天皇を担いで反乱を起し、久米系がまた政権を取り戻した、という経緯らしいです。
410太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 15:08:51
>>407 花さん
『卜事』(ウラゴト)で古神道の時代区分があります。

神武以前手前は1の時代で神武以後が2の時代になります。女王国は特例的もの
で、ここの2の時代に1の時代を再現せんがために彼女らがか『邪馬壹国』と名
づけたわけで、1の数字『壹』があるわけです。畿内は2数の主導権の時代で
すから女王国は畿内にはありません。ですから繼體が奈良にいれないとかは
女王国とは無関係と思います。
411花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/09/07(金) 15:49:34
>>408>>409
大変勉強になりました。
「大和系」「久米系」「播磨系」など、複数王権の相剋は面白い話ですね。
倉西先生の「多列、並列論」とも通じるものがあり
直感的ですが頭の中で電球が灯りました。
大いに参考にしたいと思います。

>>410 太国さん
女王国の末裔が畿内に存続していたと仮定しても、
継体の彷徨とは無関係だという事でよろしいでしょうか?
というより、継体支持勢力と畿内勢力との間には何の摩擦もなく、
継体の彷徨には別の事情があったとの見解でしょうか?
412太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 17:15:25
>>411 花さん
雄略の江田船山鉄刀が畿内から遠く離れて出土してるようですから、九州女王国
の末裔が畿内にいないとは申せませんが、末裔の存在で男弟王が奈良にいれない
とかはまだまだ考えすぎだと思いますが・・・。

当時畿内も九州もあっちはあっち、こっちはこっちの考えで、遠い遠国のことを
そんなに意識して行動を考えていたとは思えないと考えます。だいたい女王国
は中九州以南とか奥九州とかに所在していたと観れば、さらに遠国の半島大陸
もより無縁になろうとの考えに至りましょうが、そこは日本版シルクロード上の
あっちとこっちですから奥九州あたりよりも交易が便利だったと思います。
案外現今の旅行でも遠いハワイのほうが北海道よりも行き来の利便がいいんでは
ありませんか? 
413日本@名無史さん:2007/09/08(土) 03:11:27
なんなんだ この猿芝居
414日本@名無史さん:2007/09/08(土) 04:06:28
フトクニがせっかくおとなしくなったと思ったら
また持論を書き始めたとたん
それに沿った書き込みと妙なコテハン侵入
ミエミエなんだよ馬鹿ヤロウ!
以前スレがこの連中に占拠されかねないのを見て
正面から矛盾点を指摘したり、フトクニからみれば揚げ足取りみたいなこともしたけど
それが原因かどうかは分からないが結果として少しは静かになったのも事実
それもひとえに言い負かすのが目的じゃなくて
流れを普通に歴史好きな人(博学な人も多い)に書き込んでほしいから
フトクニ一派もそこんところを考えて自重しろ!
415極太 ◆v6e4s/0I9s :2007/09/08(土) 04:49:12
歴史難民板というのがあるそこにいけ
416日本@名無史さん:2007/09/08(土) 17:16:32
これだけはいえる。大国たちの書込みは品川駅は品川区か?というくらい
どうでもいい話。 場所など誰も興味ない。

継体帝の謎は、 
   中華と日本の関係
     何故、南朝への朝貢が五王で終わったのか
     何故、隋唐に強気の政権に変わったのか
   天武帝の八色の姓で継体ゆかりを恩寵した理由
   記紀での武烈の悪辣記載の不思議
   
   
417日本@名無史さん:2007/09/08(土) 19:25:22
正統に皇位に就いたのなら 筑紫国造磐井の乱はなかった。
418日本@名無史さん:2007/09/08(土) 20:29:54
ものいいがついた
419日本@名無史さん:2007/09/09(日) 08:10:27
磐井の乱と継体の即位は全く関係ありません。
第一、乱がおこったのは即位のずっとあとですよ。
420日本@名無史さん:2007/09/09(日) 08:33:35
527年(継体21)6月3日、ヤマト政権の近江毛野は6万人の兵を率いて、
新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した
この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。

421日本@名無史さん:2007/09/09(日) 11:07:03
日本書紀の「同じ釜の飯」発言、
岩戸山古墳と今城塚や断夫山古墳との相似性、
阿蘇凝灰岩が石人石馬や今城塚の棺材に使用されていることなどからして、
磐井はむしろ、もともとは親継体派であっただろうと思う。
422日本@名無史さん:2007/09/09(日) 11:41:32
フトクニの年代論やらヤマタイ国論はスレ違いだろ。
継体大王のスレで、自説の布教活動は迷惑千万。スレジャックはやめてもらおう。
423日本@名無史さん:2007/09/11(火) 00:32:06
すこしは静かになった
ヨカッタ
皆様に感謝
424日本@名無史さん:2007/09/11(火) 00:38:14
雄略と継体の間の諸帝が存在感が薄いと感じるのは俺だけか?
あと継体紀も半島関係はともかく
国内の記述は貧弱
425日本@名無史さん:2007/09/11(火) 09:08:43
清寧・顕宗・武烈の記事の多くは、『史記』『漢書』『後漢書』『梁書』『芸文類聚』『隋書』などによる造作だからね。
426日本@名無史さん:2007/09/11(火) 12:21:15
日本に文字がなかった時代なので、記紀は半島の資料で書いてるようです
427日本@名無史さん:2007/09/11(火) 16:50:35
まあ、記紀ってのはさ、

   漢人の渡来人達が、
    1・古代の事はギリシャ神話やトルコの神話にならいましょ
    2・武烈は渡来人につめたかったので悪くかいときましょう
    3・渡来人の村を作った継体は偉くかきましょ
    4・その先祖の応神帝が渡来人をつれてきたので、僕らを大事にね
    
   そんだけの記録のような気もする
   
428日本@名無史さん:2007/09/12(水) 16:42:05
あほか
429日本@名無史さん:2007/09/12(水) 20:31:19
和人もいてたけども漢字をあやつれる渡来人に好きなように地名を着けたり
歴史書を書かれたような気がする、
430日本@名無史さん:2007/09/12(水) 20:33:42
明治にあった日米和親条約みたいな不平等条約を容易に結んでいたように
アホと言うより通訳の
431日本@名無史さん:2007/09/13(木) 03:51:43
蘇我 なんてさ  我は蘇る(記紀のころには唐には景教あるしね)
 か 我は蘇〔当時の中国皇帝の土地)

どっちにしろ 漢人記録の思うがまま
432日本@名無史さん:2007/09/13(木) 06:18:13
>>416

武烈天皇に止まらず、歴代の天皇や
天皇候補の御子(ヤマトタケルとか)
でも残忍な人、
好色な人、恐妻家、無知者など
天皇親王といえど欠点は必ず記載されているから
不自然ではないんだけど。
433日本@名無史さん:2007/09/14(金) 19:46:12
国史にそのようなはれんちな内容を書いて、注文主の天皇は起源がよかったのかな
434日本@名無史さん:2007/09/15(土) 08:18:42
そりゃもう
435日本@名無史さん:2007/09/15(土) 12:37:43
>>432
武烈以外は、現代基準で残忍なのであって
記載の意図が残忍だといってるのは、 武烈だけ
で、次の継体のゆかりのみを 真人にしたのが 八色の姓

 どう考えても、武烈系の親戚に天武の政敵がいたとしかおもえん
 もしくは、漢人たちの政敵か
436日本@名無史さん:2007/09/16(日) 01:05:45
「大王」の謎に迫る1冊 福井新聞社が刊行
9月15日午後0時03分

 福井新聞社は14日、「大王がゆく 継体天皇即位千五百年」を刊行した。即位1500年の継体
記念年にちなんで1月から6月まで掲載した半年間の連載記事を中心に1冊にまとめた。王族か
豪族か、越前育ちか近江かという出自から、後継者をめぐる晩年の混乱まで、全国の第一線研究
者に取材。韓国や九州からの視点も交え謎の大王に迫った。近く県内の書店などに並ぶ。

 大和政権が弱体化し、国際情勢も緊迫していた6世紀初頭、地域の力を結集して異例の即位を
果たした継体天皇。古代史に大きな足跡を残した大王の事績や人となりを県内外の人々に知って
もらい、未来に生かす手がかりにしようと連載を始めた。

 日本書紀には近江(滋賀県高島市)で生まれ、母・振(ふり)媛(ひめ)の故郷、越前で育ったと書
かれるが、近江で育ったという研究者もいる。出身地について、妃(きさき)の出身地や県内の古墳、
各地の伝説などを検証。シンポジウムも開催し「越前説を疑う根拠はない」と結論づけた。

 もう一つ大きな議論となっている出自の問題について王族の子孫とする説、王統と無関係の地方
豪族とする説を詳しく紹介し、現代の皇位継承論議にも通じる継体の存在に光を当てている。

(中略)

 単行本化で「大王メモ」を新規に加えた。連載の順序や内容も編集し直し、各章も加筆修正する
など新たな情報も盛り込んだ。本編とは別に掲載した県内外の関連史跡のルポや、ことし2回開か
れたシンポジウムの詳報なども収録した。A5判。税込みで1890円。217ページ。県内主要書店
と本社事業局、県内支社・支局で販売する。

 問い合わせは本社事業局=電話0776(57)5180。

http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=1793
437日本@名無史さん:2007/09/16(日) 09:40:28
継体の墓を三島に造ったのは場所が無かったからでしょうか
438日本@名無史さん:2007/09/16(日) 13:00:14
何だよ、場所がなかったって・・・
439日本@名無史さん:2007/09/16(日) 18:28:08

携帯天皇は飛鳥は圏外でつ。
440日本@名無史さん:2007/09/16(日) 18:38:47
中継局少な杉
まあ、古代だから止むを得まい
441日本@名無史さん:2007/09/16(日) 18:45:05
>>436
おもしろそうな宣伝文ですね
442日本@名無史さん:2007/09/16(日) 23:29:46
継体大王を地域の誇りに 福井で「物語U」
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=1801
443日本@名無史さん:2007/09/17(月) 05:31:21
>>439
携帯天皇には家族割りプランがあったのか?
444日本@名無史さん:2007/09/17(月) 05:47:06
妻が9人、子供が21人なので家族間は携帯天皇かけ放題!
445日本@名無史さん:2007/09/17(月) 10:49:32
養子やったから死んでからも差別されて墓はそこらへんの荒れ地に造ったのかも
446日本@名無史さん:2007/09/17(月) 11:08:34
太田茶臼山古墳(宮内庁指定継体陵)がキーポイントですが、
学者たちはなぜかそのことには触れたがりません。
447日本@名無史さん:2007/09/17(月) 12:00:00
>>445

養子つーよりも手白香ちゃんのパトロン的立場だろう。
あのころ、九州と大和は再び対立関係に近い状態だった。
半島交易の権益なども失っていて財政的にもピンチだったはず。
越前は九州ほどでは無いが独自の半島交流が可能な地勢条件なので
財政的にも裕福だったんじゃないんかな?
実際、5〜6世紀代でも日本海側でしか出土しない舶載遺物って
けっこう多いですよ。
まあ、その経済力で名門である「倭の五王」の末裔の姫と
懇ろになった人の好い爺さんくらいの設定で十分でしょう。
結局、欽明以降も大和在地勢力が中心の朝廷なんだから。
448日本@名無史さん:2007/09/17(月) 14:58:21
利用ポイントは無期限相続可能。
449日本@名無史さん:2007/09/17(月) 15:41:05
三島が本拠地の一つだっただけだろ。
即位した樟葉宮も淀川隔てて程近し。
450日本@名無史さん:2007/09/17(月) 16:25:09
たしかに、飛鳥で死んだのなら飛鳥に埋葬されてもいいのにな
20年近くいた樟葉の近辺が最期まで本拠地だったんだろうか
451日本@名無史さん:2007/09/17(月) 16:50:18
樟葉にいたのは5年もない。筒城、次いで弟国に遷った。
452日本@名無史さん:2007/09/17(月) 17:04:09
今城塚で子供の頃、釣りをした事があります。当時はまだ良かった。
茶臼山は厳重に立ち入り禁止になっていた。入ってカブトムシを採ったが蚊がやたら多かった。

かなり前に、今城塚古墳の出土品を特集したNHKの番組があったが、継体の古墳はどちらなんでしょ?
453日本@名無史さん:2007/09/17(月) 17:09:08
学術的には今城塚だよ。
454日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:01:39
いややっぱり養子やから差別されて荒れ地に墓を造ったことにしたい
455日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:16:41
差別されて荒れ地に当代最大・二重周濠・三段築成の古墳造りですかw
456日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:19:33
継体が養子ってどこに書いてあるの?
457日本@名無史さん:2007/09/17(月) 23:34:45
>>447
出雲は?
458日本@名無史さん:2007/09/18(火) 17:51:50
そういえば、手白香皇女の墓は、
日本書紀に大和の衾田だと書かれてあるんだよね。
現在、陵墓に比定されている衾田陵は年代的に合わないようだけど、
大和に葬られたことは間違いない。
なんで夫の継体の墓はあんなに辺鄙なところだったんだろうね。
本当に、晩年、大和に入ったんだろうか。
もしかしたら、前王権の血を引く手白香皇女と欽明だけしか入れなかったとか・・・
459日本@名無史さん:2007/09/18(火) 19:50:27
>>457
出雲も独自の交易ルートを確保できる立場だと思います。
日本海ルートの中でも越前よりは優位でしょう。
でも、パトロン的地位だけで「満足」してくれる程度の
お金持ちって言う条件には該当しなかったのかもねw
460日本@名無史さん:2007/09/18(火) 22:13:34
日本書紀がまじめに書かれてるのかな
461日本@名無史さん:2007/09/18(火) 22:55:42
まじめに時の政府正当化の為に書かれてるよ
462日本@名無史さん:2007/09/19(水) 03:18:47
垂仁天皇陵が何故あんなとこにあるのかを理解できない人は継体の墓も理解できないでしょう
463日本@名無史さん:2007/09/19(水) 08:25:00
まじめに書いてないのならつじつまが合うわけですよ、他人の墓を継体の墓だと書いたり
464日本@名無史さん:2007/09/19(水) 10:56:54
>>462
安康陵の方が不可解だな
465日本@名無史さん:2007/09/19(水) 11:56:31
書いてるヤツが才能がないのでつじつまがあわなくなってる
466日本@名無史さん:2007/09/19(水) 20:13:37
しかし、継体の孫の推古は、息子との合葬を望んで
その通りの墓が出てきたわけだろう
宮内庁の陵墓比定はおかしかったが
日本書紀は正しかった
継体紀が間違っているともいえまい
467日本@名無史さん:2007/09/19(水) 23:12:15
>>466
>463は日本書紀に継体陵は「太田茶臼山」と書いてあると思ってるんだよw
468日本@名無史さん:2007/09/20(木) 20:05:16
今城塚と取り違えるようなヘマをやるのが
469日本@名無史さん:2007/09/21(金) 17:19:58
携帯天皇ってなんかかわいいね。
470日本@名無史さん:2007/09/22(土) 19:59:42
継体天応は謎が多いので実在しなかったのではないか
471日本@名無史さん:2007/09/24(月) 22:33:21
>>470
聖徳太子は謎が多いので実在しなかったのではないか。
織田信長は謎が多いので実在しなかったのではないか。
西村博之は謎が多いので実在しなかったのではないか。
472継体ニュース:2007/09/27(木) 02:07:30
継体の先進性迫る 坂井で記念シンポ
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=1863
 継体天皇即位1500年を記念した「越の国シンポジウム2007」(福井新聞社後援)が23日、
同市春江町のハートピア春江で開かれた。約400人の古代史ファンを前に郷土史や古代史、
考古学の観点から専門家が継体の時代に関する考えを披露。先進性があり行動力、バランス
力にも優れ、古代国会システムの基礎を作り上げた継体像を描き出した。
 坂井市が今春から取り組んでいるイベント「坂中井(さかない)―越の国まん中物語」の一環。
みくに史学研究会代表の冨永亮一郎氏、大阪府高槻市しろあと歴史館長の森田克行氏、元県
埋蔵文化財調査センター所長の中司照世氏、立命館大名誉教授の山尾幸久氏の4人が基調
報告。奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏を座長に、パネル討論が行われた。

継体、名月 25日までライトアップ
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news3/article.php?storyid=246

10月5日〜7日「こしの都千五百年大祭」
ttp://www.t-catv.co.jp/koshinomiyako/eventmenu.htm
473継体ニュース:2007/09/29(土) 00:18:33
トロフィー完成、披露 「こしの都1500年大祭」向け
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20070927/CK2007092702051801.html
474継体ニュース:2007/09/29(土) 13:22:04
奉納品をお披露目 こしの都1500年大祭、10月5日から
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20070929/CK2007092902052330.html
475継体ニュース:2007/09/30(日) 21:28:39
継体天皇即位1500年を記念 高島でフォーラム
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007093000086&genre=K1&area=S00

  古墳時代の大王・継体天皇の即位1500年を記念する歴史フォーラム「継体天皇と古代高島」が
30日、滋賀県高島市今津町の高島市民会館で開かれ、古代史ファン約730人でにぎわった。

  継体天皇(在位507−531年)は日本書紀などによると高島市が出生地。今年が即位1500年に
当たることから、市や市教委などで記念事業実行委員会を結成。今回のフォーラムも主催した。

  フォーラムでは継体天皇の本拠地について「父の彦主人(ひこうし)王らが支配した近江(滋賀県)と
母振媛(ふるひめ)の実家のあった越前(福井県)の両方と考えるべき」などの指摘があった。また即位
後長い間、当時の国の中心だった大和(奈良県)に入らなかった事情についても論議が交わされた。

  合間にはアトラクションとして、ともに継体天皇の両親ゆかりである高島市安曇川町田中・三重生(みおう)
神社の「うしの祭り」と、同市拝戸・水尾(みお)神社の祭りに古くから伝わる「水尾太鼓」が披露された。

2007年09月30日 18:43 【京都新聞】
476継体ニュース:2007/10/03(水) 00:18:44
たけふ菊人形あす開幕 「大王物語」OSK上演
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=1933
477継体ニュース:2007/10/03(水) 21:00:20
漆のさや、環頭大刀を披露 越前市・こしの都1500年大祭で奉納
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20071003/CK2007100302053351.html

たけふ菊人形が開幕 「風林火山」テーマに37体
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=1948
478日本@名無史さん:2007/10/04(木) 19:56:46
高麗系が主役なんだろうか
479日本@名無史さん:2007/10/05(金) 07:42:34
兵主神社の奉斎氏族についてですが、神社のあった地名の穴師・穴太からやはり新羅系の帰化人の末裔と考えるのが自然だと思います。
景行天皇はそうした一族のバックアップで政権を維持していたのでしょう。近江への遷都がそれを物語っています。
と言うことは、継体も八幡のすぐとなりの樟葉に都を置いたのは同じ新羅系のバックアップで維持してたと
480日本@名無史さん:2007/10/05(金) 08:32:13
今城塚は継体だけど茶臼山は継体のオヤジの墓じゃないのかって
誰かがいってたな
481日本@名無史さん:2007/10/05(金) 21:56:47
そんなことを言っているにはどこの考古学者だ。
なんの証拠があってそんなことがいえるのか。
482日本@名無史さん:2007/10/06(土) 00:28:54
いくらなんでも親父ではないでしょう。
茶臼山は5世紀中頃だから、今城塚とは80〜90年の差がある。
市野山とほぼ同形同大で一世代古く、陪塚も多く有するから、
稚野毛二派皇子の墓である可能性は捨て切れません。
483日本@名無史さん:2007/10/06(土) 04:19:32
>>480
和田萃が、茶臼山は意富富杼王(継体の曽祖父)の墓ではないかと言ってる。
484日本@名無史さん:2007/10/06(土) 08:54:53
あの辺一体も、百済系がはいる前は新羅系だらけだったと言う事ですね
485日本@名無史さん:2007/10/06(土) 09:03:53
百済の亡命貴族が新羅王になることもあったから
新羅系とか百済系と関係ない
486日本@名無史さん:2007/10/06(土) 10:05:58
>>482
二俣王の墓は滋賀県の米原だかにあるなじゃなかったっけ
487日本@名無史さん:2007/10/06(土) 11:38:26
普通は墓と神社がセットになってるので、ふたまたおうの墓の近くの神社が何系統か見れば
488日本@名無史さん:2007/10/06(土) 19:48:51
普通は墓は自分の勢力範囲の理想の土地に造るので、継体は高槻市出身で当時の新羅系氏子集団の一員でした
489継体ニュース:2007/10/06(土) 22:59:46
こしの都千五百年大祭きょう開幕 大王ロマンへいざない
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=1968

「古代舟」華やかに到来 こしの都1500年大祭開幕
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20071006/CK2007100602054151.html
490日本@名無史さん:2007/10/07(日) 12:12:11
高句麗から分かれた百濟は日本になった
491日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:28:14
日本語でおk
492日本@名無史さん:2007/10/08(月) 10:39:13
畿内で政権を構成する氏は、渡来の早い遅いはあるものの、ほとんどが加羅人(あるいは百済人)であったと思われる。
王を中心にした畿内豪族の連合がヤマト政権である。これに対し、出雲・北陸
、東海・関東地方、それに北九州の一部には高句麗または新羅の地を出自とする
諸部族が多くいたと思われる。彼らは、朝鮮半島の情勢を見守りながら、
出身同族国家と連動しての自立や政権奪取の機をうかがっていた。
そんな折り、475年高句麗が百済を攻め、蓋鹵(がいろ)王を捕斬する。
王を失った百済は都を南の熊津に遷都する。当時、高句麗の影響下にあった新羅も、
百済と加羅を攻めた。
この情勢変化を受け、列島内の豪族も動きを始める。吉備、播磨、伊勢で反逆が起き、
関東では上毛野(群馬)などがそれに加わる。畿内連合内でも深刻な事態となっていた。
武王以降、600年の遣隋使まで「消息不明」状態となるのもこうしたことがなせる業だ。
そして、王統譜に継体帝となるオホド王が現れる。オホド王は息長(おきなが)氏が支配する
越(北陸)から忽然と姿を現したが、息長氏とは紀記中の新羅王子・天日矛(あめのひぼこ)を
守り来たった者に他ならない。
ヤマトの大王に新羅王族の血を交ぜることで妥協が成ったのだ。オホド王を支持した有力豪族には、
神武帝に先行する「もう一つの天下り神話」をもつニギハヤヒを祖とする尾張氏などがいた(なお、
物部氏もニギハヤヒを祖とする)。しかしそれでも納得しない豪族もいた。527年、北九州で親新羅派である
筑紫君・磐井が、火(熊本)・豊(大分)勢力を味方にしての大反乱を勃発させる。これを大連・物部麁鹿火
(あらかい)が翌年鎮める。
493日本@名無史さん:2007/10/09(火) 22:00:12
>>492
思われる。
思われる。
494日本@名無史さん:2007/10/10(水) 12:05:02
せやけどほとんどの研究は思われるの状態であり、確定しましたなんて言うほうがめずらしい
あの邪馬台国はここにありましたと言い切ってる基地外はどうなんねん、あっちのほうが
あたまがおかしい
495日本@名無史さん:2007/10/10(水) 15:22:52
>>494
それは理解できるけど・・・。

畿内で政権を構成する氏は・・・何氏よ??
渡来の早い遅いはあるものの・・・何時の事よ??
ほとんどが加羅人(あるいは百済人)であったと思われる・・・なんで??

ひどすぎるだろ!

496日本@名無史さん:2007/10/10(水) 19:24:47
 思われる→思いたい!!
497日本@名無史さん:2007/10/11(木) 01:17:55
   *'``・* 。
        |     `*。
       ,。∩      *    ウリの歴史教科書に5W1Hはないnida
      + < `∀´ > *。+゚
      `*。 ヽ、  つ *゚*
       `・+。*・' ゚⊃ +゚
       ☆   ∪~ 。*゚
        `・+。*・ ゚

498日本@名無史さん:2007/10/13(土) 19:43:14
倭の笠縫邑を出御されたのが今を去る二千数十年前のはるかな昔であった。そしてまず最初に、はるばると但波(たにわ)へ御遷幸、その由緒により当社が創建されたと伝えられる。
皇大神は4年ののち、御神蹟(みあと)をとどめて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、56年後の垂仁天皇26年に、伊勢の五十鈴川上にお鎮まりになった。
499日本@名無史さん:2007/10/13(土) 19:44:57
倭の笠縫邑はどこにありますか
500日本@名無史さん:2007/10/17(水) 21:43:42
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
501継体ニュース:2007/10/17(水) 22:02:38
継体からケータイへ ハイテク“今昔物語” 県立歴史博物館
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=2073

見出し吹いたwww
502日本@名無史さん:2007/10/18(木) 08:24:28
檜原神社のあるところが笠縫かな?
503日本@名無史さん:2007/10/18(木) 09:36:58
>>500
糞して寝ろwww
504日本@名無史さん:2007/10/19(金) 09:23:13
皇別氏族ってほとんどが欠史八代の出だったっけ?
応神天皇の子孫ってその中では新しいのかな?
でもやっぱり「河内王朝」の初代である応神天皇ってのは怪しいし、真人が
携帯の近親ばっかというのも怪しい。
505日本@名無史さん:2007/10/19(金) 09:40:00
欠史八代は国内が交戦状態にあったので記録は取ってないので
あとで好きなように書いて
506日本@名無史さん:2007/10/19(金) 11:22:50
綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇
孝昭天皇
孝安天皇
孝霊天皇
孝元天皇
開化天皇
が  けっしはちだい
507日本@名無史さん:2007/10/19(金) 12:20:07

孝昭天皇
孝安天皇
孝霊天皇
孝元天皇
の「孝」のつく4代が蝦夷だかなんか忘れたが東北の征服王朝だとかそういう
トンデモを読んだ覚えがある
508日本@名無史さん:2007/10/19(金) 20:10:04
>>506
> 綏靖天皇
> 安寧天皇
> 懿徳天皇
> 孝昭天皇
> 孝安天皇
> 孝霊天皇
> 孝元天皇
> 開化天皇

この人たちは崇神の御先祖様です。
稲荷山鉄剣の系譜のように八代前までのご先祖は口伝されていたのでしょう。
そして崇神は「ハツクニシラススメラミコト」ですから初代天皇。
その天皇の直系尊属だから後の草壁皇子の例のように
尊称として大王に列せられたのでしょう。
この八人とは少し違いますが、安閑・宣化も欽明の兄として、
尊称としての大王だったのだと思います。
509日本@名無史さん:2007/10/20(土) 01:15:03
スレを読み返していて、>>26に関連した内容が気になった。

古代は14歳位で成人して、15,6歳で子供がいることも少なくないだろうし、
20歳頃には、子供が3,4人位はいたであろう。
継体が50歳を超えて皇位を継いだというよりは、25〜7歳位と見た方が良い。

先代武烈の姉を后妃に迎えるが、そのとき40過ぎではおかしい。
武列が18〜20歳位でなくなり、その姉が21〜2歳くらいであったのを
后妃に迎えたとした方が自然である。
それでも、20過ぎで未婚という不自然さがのこるが。

要するに、伝承の年齢や在位期間の半分位とみるとちょうど良くなる。
510日本@名無史さん:2007/10/20(土) 09:18:18
倍歴が実証されてないので使えませんよね
511太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/20(土) 09:44:02
>>26は倍暦の文証。また男のほうが歳が行ってて若い女をもらうのは、これは
相当ありうるだろう。
512日本@名無史さん:2007/10/20(土) 11:38:06
原始時代ならまだしも、継体のころ6世紀に二倍暦なんてあり得ない。
513日本@名無史さん:2007/10/20(土) 11:52:00
ここはマジメなスレッドなんだから邪魔しないの
巣へお帰り

【倍歴】記紀時代の編年考察スレ【七支刀】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1188330074/
514日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:33:34
二倍暦なんて使ってたら魏の王様に首をはねられないのかな
515日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:39:02
たしかに、あの時代には日本でも魏の年号を使った鏡を
製造していたんだっけ?
2倍歴はおかしいわな。
516日本@名無史さん:2007/10/20(土) 13:33:04
>>512
継体の没年齢が古事記と日本書紀でほぼ倍違うことは?

それと欽明紀はおかしな紀で、半島関連記事を除くとスカスカになる
果たして欽明という天皇は本当にいたのか?
武烈以前の正統王朝と簒奪者である自分たちとを繋ぐために
作り出された架空の天皇である可能性が高いのではないか
517日本@名無史さん:2007/10/20(土) 13:46:57
欽明は多くの子に恵まれたが後世生き残った子孫は極めて少ない
というかほとんどが敏達の子孫でわずかに用明の子孫も存在する程度
518日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:15:52
また始まるのかよ・・・・・・・・・・・・。
519日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:37:19
応神は易姓革命っぽいが、崇神はそうではなく、畿内から出て
日本の中で一応一番の実力を持ったはじめての王なのだろう。
そうとでも考えない限り欠史八代が記紀に存在する意味が分からない。
520太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/20(土) 14:37:23
>>512
それじゃぁお前の解釈から>>26はどのように結論付けるのか? >>513の指示
したあちらのスレで回答しろ。
521日本@名無史さん:2007/10/20(土) 15:44:41
フトクニの珍説自慢はよそでやっとくれ。
ここは継体大王の出自や生涯や業績や時代背景を語るスレや。
522太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/20(土) 19:38:35
お前が言わなくたって、あいつが向こうのスレで反論すれば向こうに書きこむ
わけだ。どうせお前がここにお前の好物を書きこんだところで、大したもの
は出せまい。
時代背景がどうのこうのなら倍暦は関わってくるんだ。好き嫌いはよくないぞ。
523日本@名無史さん:2007/10/20(土) 20:10:05
通説では古代史の画期として欽明朝を重視するな

日本書紀では継体と安閑の間に空位二年があるっていうけど(辛亥年継体崩御→甲寅年安閑即位)
百済記によらない伝承では甲寅年に継体譲位・崩御で安閑との間に空白はないんだよな
524日本@名無史さん:2007/10/20(土) 22:22:40
継体で新王朝が成立したとして、記紀は遠縁の親戚として記述するかな。

本当に継体と武烈が別氏族だったとしたら、それを隠すために例えば二人は兄弟として書かれるんじゃないかな。
(天智と天武みたいに)
記紀がわざわざ遠縁の親戚と書いてる以上、本当に遠縁だと考えるのが普通なのでは。
525日本@名無史さん:2007/10/20(土) 22:56:23
継体は北陸に派遣された皇族の四道将軍の一人の子孫じゃないか?
たぶん、崇神天皇と応神天皇は同一人物だろう。
「真の初代天皇は崇神」という場合の初代天皇は本当は応神で、その後の断絶で、
継体への継承を正当化するために、応神以降の天皇を書紀でこきおろし、
その業績を架空の前代の天皇、崇神〜に移した。それで日本武尊は雄略天皇を
髣髴させているわけ。
だから、四道将軍を派遣したのは崇神と書いているということは、本当は応神天皇が
派遣したわけ。
それで継体天皇の先祖の系譜は、いくつか欠けていて、判明しなくなっている。
もし判明したら、崇神が架空であることがばれてしまうから。
どうだ、この推理?
526太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/20(土) 22:56:37
武烈の悪態を書いてあるから、ストレート記述だよ。小細工はないな。
527日本@名無史さん:2007/10/20(土) 23:33:21
崇神〜神功の旧辞には、当時の人が抱いた予定調和的な史観、すなわち
日本はかく発展すべきという理想国家像が反映されているだけに過ぎない。
528日本@名無史さん:2007/10/20(土) 23:36:39
当時の人=旧辞を編纂した6世紀の支配層
529日本@名無史さん:2007/10/21(日) 00:20:48
継体と応神系との血統関係は、現代においては「よくわからない」が正しい答えだと思うよ。
たぶん6世紀初頭の当時としても、「言い伝えで同血統らしいけど細かいところはよくわからない」程度の正確さで、
大王に推挙されたのだろう。それがこの時代の限界だったと思う。

むしろ大事なことは、この6世紀初頭の時代に、血統を重視する考え方が出来ていたということだろう。
個人の業績よりも、遠くても血縁関係にある人物のほうを重視する。
例えば現代、皇室の男系男子が絶えた場合に、660年さかのぼって枝分かれした遠縁の親戚に皇位を譲るというような、
そういった考え方がこの6世紀の初頭の段階ですでに出来ていたということだ。

そこから推論すると、継体天皇の逸話は、易姓革命をモチーフにしたという点が重要なのではなく、
後世に対して、「例え血統が絶えそうになっても、安易に業績のある個人に皇位を譲ることなく、
能力の有る無しに関係なく遠縁の人を探し出して皇位につけよ」という訓示なのではないかと思う。
つまり万世一系を守るための良い前例を後世に示したわけだ。

現に、今回の皇室典範改正問題のときも継体天皇の逸話が盛んに語られてたし、
これまでの皇位継承の危機の際にも継体天皇の話が前例として語られていたんじゃないかと思う。
きっと記紀制作者はそこまで見据えていたんだよ。
530日本@名無史さん:2007/10/21(日) 01:28:09
応神息子の枝分かれから継体天皇の活動期までは実際100年程度しか離れていない。
現代に置き換えてみれば、明治40年頃に先祖が分かれた感覚。
田舎のせいか、祖父や祖母の葬式に曾祖・高祖の親戚子孫までが参列した私からしてみれば、
はっきりいって家系・付き合いをウヤムヤなんかには出来ない世代間隔。
出自を騙って前王朝を倒すには時代が近すぎるし、
というより、今城塚なんか発掘すればするほど、前王朝を倒したような形跡など見つからない。
というより、見事に中期古墳の伝統を継承している。(むろん新しい面もあるが)
そう考えると、今城塚より80年位古いという茨木の茶臼山古墳の被葬者像は、
確かに興味深いし、確かにあまり話題に上らないねw
531日本@名無史さん:2007/10/21(日) 01:44:58
継体天皇が簒奪者だとすれば、それまでの大王の系列の出身母体である筑紫と
衝突するのは必然。それが磐井の乱ではないかと思ったこともあった。
532日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:22:34
継体の当時は各地に皇親、王族がいたとされてるから(たとえは悪いが旧宮家みたいな)
そのうちの近江王統である継体が有力な支持をえて即位したってだけだな
大伴、平群と政権幹部は武烈とそのまま変わってないし
533日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:23:17
継体を論じるならば、武烈を軽視しては成り立たない。
武烈の系譜を見たら一目瞭然なのだけど、彼は当時の有力勢力である、
履中系・允恭系・和珥氏系・葛城氏系の四系を近縁に持つ貴重な王子だったんだよ。
ちょっと系譜を上げてみる。

            ┌市部押歯王(履中王子)
   ┌─仁賢天皇┤
武烈┤        └荑姫(父・蟻臣・葛城氏)
   │          ┌雄略(父・允恭)
   └春日大娘皇女┤
              └童女君(父・和珥臣深目)

この時代、少なくとも「履中系」と「允恭系」の間で確執があったことは古事記、日本書紀の
記述からも明らかであろう。
同時に、葛城氏と和珥氏の間で確執があったことも、実は暗示されている。
たとえば、仁徳の皇后で葛城氏系の出である岩の姫が、八田皇女(外祖父が和珥氏)を
嫌い、仁徳と八田の結びつきに尋常でない嫉妬をしていることや、
そもそも応神が菟道稚郎子に皇位を伝えようとしたのは、郎子の母が和珥氏の出で
母方の勢力を無視できなかったためであると思われる。
(私見だが、応神・仁徳陵が群を抜いて巨大なのは、葛城氏・和珥氏などの
婚家縁者の協力があってこそ造営できたからである。そんな縁者の協力が
得られなかった安康の陵墓は貧弱である)

履中系と允恭系という大王家の血筋と、葛城氏と和珥氏という外戚の血と。
これらを結集したのが、武烈である。
雄略紀に、童女君と娘の春日大娘皇女(後に仁賢皇后となる)のエピソードが
特筆されているのは、彼女がただ仁賢の皇后になったから、というだけでなく、
武烈〜継体期のゴッドマザー的存在だったから、に他ならない。
534日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:23:56
ただし有力四氏の「期待の王子」たる武烈は夭折の憂き目にあった。他にこのような有力な
血統背景を持つ王子は他にいなかったのである。
そこで近江(もしくは越前)の有力者である継体に白羽の矢がたち、武烈の同母姉である
手白香皇女と結婚させて、王位を継がせたものと思われる。
継体が本当に応神5世の孫だったかどうかはわからない。学問的に検証するのは可能であるが、
すべて仮説の域を出ず、論証し証明することができないからだ。
しかし彼に白羽の矢が立ったのは、おそらく近江の有力者であることに加え、彼の出自が
允恭の妻・忍坂大中津姫の兄の大郎子(意富富杼王)の子孫であることが大きな要因だと
思われる。
継体が「ヲホト」と呼ばれているのは、おそらくこの意富富杼王「オホホト」と対応させた
名だと思われる。

目子媛はおそらく前からの妻だったものと思われ、継体の死後、彼女の息子達が皇位を継ぐも、
それは手白香皇女の王子である欽明がまだ幼かったためだと思われる。
535533・534:2007/10/21(日) 09:42:04
以上、「女系・母系」を重視する私の論点から、
武烈→継体は簒奪による王朝交代ではなく、武烈の夭折による王統断絶を、
女系によって継いだ、と考える。(「継体」という名が示すとおり)

それは武烈・手白香皇女たちの母である「春日大娘皇女」が王室のゴッドマザーとして
権力を持ち、彼女の意志によって継体が迎え入れられた、と考える。

武烈と同じ血統背景を持つ手白香皇女を王后に据えることで、葛城氏・和珥氏ら
有力氏族を押さえることができたものと思われるからだ。
536日本@名無史さん:2007/10/21(日) 12:49:03
>>533-535
なるほど、面白い説だね。

現代に生きる我々は継体の男系の継続性ばかりに目を奪われて、
応神五世孫というところに関心が行きがちだけれども、
6世紀当時としては女系・母系継承の側面こそ重要視していたわけか。

まあ、現代の皇室でも仮に悠仁親王がご誕生ならずに男系男子が絶えた場合、
愛子内親王に旧皇族から婿を迎えて皇室を継続させたとして、
皇統譜上は後花園系から貞常親王系へ皇位が移ったように書かれるけど、
現場に生きる人々には婿養子を介して同一の血統が続いているように感じる、
ということと同じことか。
537日本@名無史さん:2007/10/21(日) 12:55:57
それにしても、そんなにキーポイントにいた武烈が、
記紀作成時にはボロクソに叩かれる存在になっていたのはなぜか。
皇統の継続性をアピールしたいのなら、わざわざ易姓革命を彷彿とさせるような、
武列の悪逆非道の記述をしなくても良かったのに。
538日本@名無史さん:2007/10/21(日) 14:02:59
古事記で応神天皇は角鹿の神と名前を取り替る話があったはず
こうしたことから大和朝廷の北陸支配の強化がうかがえる。
皇族がこうした支配強化のために当地に送り込まれた可能性は高いだろうから
継体天皇が応神天皇五世の孫ってのは疑うようなものじゃないとおもうけど
上宮記の系図の信憑性だって高いし、皇族とは別の氏であるとは考えられないな。
539日本@名無史さん:2007/10/21(日) 15:08:12
>>536
なわけねえだろwwwww

女系重視なら、夫が誰であろうと構わん。男系男子の継体である必要はない。

女系重視なら、継体以前でも女系だったのか、というとそうではない。

女系重視なら、手白香皇女の子供だけが皇位を継承したのかというと、そうではない。

女系重視なら、継体に多数の妃がいることが説明できない。
540533・534:2007/10/21(日) 23:58:59
>>537
それはわからないけどね。
ただ継体を迎えるに当たった「まさにその当時」は葛城氏、和珥氏などの有力豪族の
協力が必須だったことは当然だと思われる。

しかし後代、日本書紀などが編纂された時期は、「葛城や和珥なんてどーでもいーや」
という雰囲気だったのではないか、と(笑) いやまあ、これは冗談なんだけれども(笑)

でも、継体−安閑・宣化たちが、仁賢系皇女たちと強く婚姻関係で結ばれ、
継体→欽明→敏達(母系をたどれは仁賢系皇女に行き当たる)という皇位継承ライン
を考えてみれば、武烈〜継体期の「春日大娘皇女ゴッドマザー説」しか思い浮かばない。

武烈を継体が武力で倒した、とするなら、やはり「継体初代王」とならざるを得ないからね。


案外、キーポイントだったがために、逆にボロクソに書かれる、ということも考えられないかな。
日本書紀が編纂された頃は、女系が蘇我氏系だったから(持統・元明・元正ラインね)。
敏達の後あたりから、葛城氏も和珥氏も急激に勢力をなくし、物部氏と蘇我氏に
とってかわられるからね。

・・・ありゃ? ということは「葛城や和珥なんてどーでもいーや」どころじゃねぇな(笑)
541日本@名無史さん:2007/10/22(月) 00:21:00
>敏達の後あたりから、葛城氏も和珥氏も急激に勢力をなくし、物部氏と蘇我氏に
これはおかしい。
葛城氏は、雄略の従える兵力の前に早くも倒れてるよ(眉輪王の変)。
これに替わって有力となったのが、大伴氏と物部氏の軍事伴造氏族。
しかし、継体朝にはこの両者の間にも亀裂が生じ、協調関係が崩壊した。
やがて大伴氏が失脚し、蘇我氏などの在地土豪が参政するようになる。
542日本@名無史さん:2007/10/22(月) 00:32:23
>>540
武烈の悪逆に関して言えば、5世紀から6世紀の歴史的事実よりは、
8世紀当時の記紀作成者らがどんな環境にいたかということが重要なのかも知れないな。

案外、外戚勢力の交代を易姓革命風に模して書きたかったのかも知れないな。
もちろん、武烈退場時に葛城氏らが没落したわけではないのだろうけど、
記紀のストーリーとして(作家的観点から)、武烈時代あたりに入れとけば面白くなるぞとか考えて。
543日本@名無史さん:2007/10/22(月) 00:54:43
>>542
>外戚勢力
ここが気になる
>『日本書紀』には、「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった。
>日が暮れるまで政務に従われ、知られないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにし、
>また訴えを処断することがうまかった。」と記されています。

この記述からは武烈天皇が498年から507年というのはあまりにも短い気がする
齢、18か19で没していることになる 
これでは上の記述のようにはいかないだろう

502年に、倭王武を征東将軍に進号されていることからも考えて、倭王武を抹消して、継体天皇を
を正当化するために歪曲化されたとしか思えない
544日本@名無史さん:2007/10/22(月) 00:55:39
「ゴッドマザー説」をさらに広げれば、もしかして古代(律令以前)の皇位継承は、
女性が主導権を握っていたとも考えられないかな。
中心となる女性がいて、その人がキングにふさわしい人を夫なり娘婿に迎えたりして皇位をつなげていく。
まあ、だいたいは自分の息子を次期大王に選ぶのだけれども、たまに男系が絶えそうになったときに、
遠縁から男子を選んでくる。その権限がゴッドマザーにあった。

記紀では律令以前の皇位継承を単純な男系継承に書換えたわけだけれども、
どうしても父−息子継承でない場面で、うまく書き換えが出来なかった。
それで、記紀にはときたま春日大娘皇女や飯豊皇女のようなキングメーカー的女性が出てきてしまうのだけれど、
古代では別に彼女らは特別な存在ではなかった。

古代は現在と国家・統治概念が異なっていただろうから、なにも男王ひとりに権限が集中していたわけではなかったかも知れない。
(卑弥呼と弟王みたいに)

まあ、あくまで憶測だけど。
545日本@名無史さん:2007/10/22(月) 01:24:45
皇統が続かなかった天皇って、負のイメージを背負った人が多いよね。
崇峻、孝徳、称徳、平城、陽成、冷泉、花山、崇徳、称光なんかがそう。
欠点があったから後が続かなかったのか、続かなかったからあまり良く評されないのか……。
武烈天皇は大悪天皇と呼ばれた雄略天皇の血を引いているから、そのようなマイナスの性質が
多少なり有って、その様子が誇張も含めた形で伝承されていたのではなかろうか。
それを書き物にしたのが、半史半物語の日本書紀であり、
文章化の際にはさらなる修飾、脚色が行われたのであろう。
6世紀初頭辺りの日本書紀の記事は、百済系の資料を参考にしているから、
ほぼ同じ時代の百済・東城王の暴政なんかも、記述に影響しているのかもしれない。
546日本@名無史さん:2007/10/22(月) 01:45:34
記紀系譜疑念派しては
王統譜上の「応神」が舒明期あたりに捏造された都合のいい架空聖君だと思わなくもない
547日本@名無史さん:2007/10/22(月) 02:02:51
>502年に、倭王武を征東将軍に進号されていることからも考えて
これは梁王朝樹立を記念した形式的な受爵であって、倭からの遣使はなかったと考えるべき。

>>546
「応神」が架空だとしても、その原型の「ホムタワケ(ホムツワケ?)王」の存在は認めてよいと思う。
548日本@名無史さん:2007/10/22(月) 02:09:37
雄略→○→武烈 これぞ正しく悪の隔世遺伝w
549日本@名無史さん:2007/10/22(月) 02:30:42
>>545
少なくとも継体の部分の記述は、著者は資料を参照して誠実に伝承を
書き記している。
継体の没年を、百済の史書を参考にしてズレが生じるのを、後世の者が
明らかにせよ、とあるのは、伝承をそのまま書き残すという姿勢の表れ。

故に、武烈の悪行は、実際にもその伝承が紀の編纂時に存在したんだろう。
あれだけの悪行をその場で創作したというのも考えにくい。
ただ、その伝承が事実に尾ひれがついたということはありうるが、事実も
かなり含まれているんじゃないか。
550日本@名無史さん:2007/10/22(月) 02:58:43
上でもいってる人いるけど武烈は最初賢帝として記述されてんだよな
いきなり悪行ってのはやはり易姓革命的な潤色のように思える
むしろ最初の部分が実際の伝承でおそらく早くに死んでしまったからあとは
雄略的悪行を加えたんじゃないかね
551日本@名無史さん:2007/10/22(月) 03:18:59
>> 25

へぇー
携帯が好きになった。
552日本@名無史さん:2007/10/22(月) 09:02:21
作物泥棒の生爪を剥して山芋を掘らせる
姦淫した女を馬とつるませる

みたいなことなら法家流の見せしめ厳罰を行いつつ
天皇集権化を図った人物って見方もできる。例えばの話だけど
553日本@名無史さん:2007/10/22(月) 09:33:03
女系天皇論者が継体天皇の前例があると持ち出したりして・・・
554日本@名無史さん:2007/10/22(月) 21:20:25
俺が愛子様と結婚して後継体天皇になってやるかな
応神八十八世の孫くらいの名乗りでどうだ
555日本@名無史さん:2007/10/22(月) 21:29:29
>>553
即位したのが手白香ではなく、婿の継体だからな。
前例にはならんと思う。
556日本@名無史さん:2007/10/22(月) 22:27:23
11月21日(水)、NHK「そのとき歴史は動いた」でとりあげられるぞ!
注目!
557日本@名無史さん:2007/10/23(火) 01:59:45
平将門も一応桓武天皇5世ないしは6世の孫、
なんだし継体天皇を引き合いに出すなら
新皇名乗る道理は一応あったんだよな
558日本@名無史さん:2007/10/23(火) 10:51:48
臣籍降下してるからあまり道理はないな
559日本@名無史さん:2007/10/23(火) 16:51:54
直系も絶えてないしね
560日本@名無史さん:2007/10/23(火) 23:45:52
上宮記逸文ってどこまで信用できるの?
561日本@名無史さん:2007/10/24(水) 00:55:07
天皇はもういらない
税金の無駄
562日本@名無史さん:2007/10/24(水) 01:28:09
清寧、武烈紀は漢籍によってほとんどが潤色されており
この二帝の存在感は極めて希薄
雄略の死後大和朝廷を構成する全豪族が認める大王はいなかったのではないか

飯豊皇女の仮の執政、自称尊号の記述
平群氏の王位簒奪野望の説話

これらはその事を仄めかしてるのではないか?

しかしこの間も豪族連合政権は持続しており
結局傍系王族の継体を擁立することで
豪族間の妥協がなったと思われる
563日本@名無史さん:2007/10/24(水) 04:22:07
>>562
おおむね賛成ですが
貴方の考えならばなお、継体を傍系王族とする根拠が知りたいです。
継体=完全な入り婿と理解するほうが自然ではないでしょうか?
564日本@名無史さん:2007/10/24(水) 05:03:02
562じゃないけど
傍系でも王族じゃないと豪族間での妥協ができないんじゃないかな?
血統が他の豪族よりも劣っている場合は共立する理由がないと思う。
565日本@名無史さん:2007/10/24(水) 05:55:10
562です
>>563
傍系王族とする積極的根拠はありません
私の前段の主張からすれば貴方のおっしゃる通りです
ただ>>564さんが補足してぐださった様な事が
根底にはあります
566日本@名無史さん:2007/10/24(水) 06:16:21
当時はまだ、血統の優劣意識は希薄だったと思うよ。
記紀や姓氏録に見るような氏族秩序は作られたもの。
567日本@名無史さん:2007/10/24(水) 07:22:09
最低限王族じゃなけりゃ、他の豪族の支持なんか得られんわな。
568日本@名無史さん:2007/10/24(水) 07:25:52
>>566こんな知ったかで書くヤツ
実証をしてこそ議論に参加できるということを学べ
569太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 07:35:59
>>562
ほとんど潤色ってどんなんだろう? 具体性が希薄だね?
だいたいそれくらいじゃぁ極めて希薄にゃぁないやせんよ。
570日本@名無史さん:2007/10/24(水) 07:38:25
神武の男系遺伝子保持者なんてゴロゴロいるのだから、
傍系だとするのが当然だろう。
日本書紀でもそうなってるのだし。

こういう場合、「そうでない」という方が根拠示さなきゃ。
571日本@名無史さん:2007/10/24(水) 07:55:08
>>569
手に入りやすい本なら
「日本書紀」山田英雄 教育社歴史新書
専門書なら
「書記の述作-素材論の結び」小島憲之
なんかを読めばわかるよ
572太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 10:28:39
すこし前、サガミハラハラさんの書を買ったから、もう金があまりありません。
573サガミハラハラ:2007/10/24(水) 11:52:17
太国さんご購読ありがとうございます。

けどおおげさですよ。そんなに高い本じゃないですよ。安本先生の本にくらべても。
574日本@名無史さん:2007/10/24(水) 12:42:43
実力だけなら、大伴氏や物部氏が大王になってるだろ! やっぱり血統が大きいと思う。
575日本@名無史さん:2007/10/24(水) 12:49:49
566にはげどう、政情が安定してから氏屍を調べて権威付けを行ったので
よってたかってウソ800でもいいからうちは名家の出でございますと競い合ったので
その前はなんでもありの、愛、交雑する状態であった
576日本@名無史さん:2007/10/24(水) 14:00:59
>>562
みて思い出したが民俗学の授業の時清寧没後のところで
オケヲケ二人がやる気が無くうだうだやってるからじゃあ私がやるよと少女が執政したって話をしてたな
大人が使えないからちっちゃいこが頑張ったって話
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/24(水) 14:45:26
サガミハラハラさん
人それぞれ都合があり、その事情は各自が異なっています。貴殿中心に考え
ればそのような想いでしょうが、こちらには別の考え、経済があります。
578日本@名無史さん:2007/10/24(水) 18:08:26
大王はもともとは姓(かばね)ではないのか?
後には天皇になって姓を授ける側になったが
579日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:02:38
キミのなかのトップのキミだからオオキミだとはいうけど
姓制はそんなに古いのかという問題もある
580サガミハラハラ:2007/10/24(水) 22:19:34
>>577 すみません。半分ジョークぽくみたものですから。
581日本@名無史さん:2007/10/24(水) 23:30:23
川口勝康氏の帝紀論を覆すのは容易ではない。
582日本@名無史さん:2007/10/25(木) 08:35:25
太国は貧乏だから頭が悪かったのか…
今まで馬鹿にして済まなかったm(_ _)m
583日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:19:58
川口勝康説ってそんなに支持されてるのかね? 砂上の楼閣にしか思えんが…。
ニ系統の王統を統合したから、「若野毛二俣王」っていわれてもなぁ…。ほんとかよ?
584日本@名無史さん:2007/10/26(金) 00:49:26
>砂上の楼閣
珍(反正)と済(允恭)の間に続柄のないことが前提だから、
この反証を出せれば、川口説も大きく傾くことになるだろう。

ただ、履中系と允恭系の対立は以前から言われていたことであるし、
考古学の方面からも、古市・百舌鳥の古墳群から抽出される大王墳
の分析を基に、二王統並立の可能性を考えようとする意見があった。
また、同時代の百済王統にもいくつかの断絶が想定されるらしい。

学説史を追ってみれば分かるが、決して突飛な説ではないよ。
585日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:17:49
今と同じやろ、力の強いヤツが対抗者に金を渡して市長になってるのでしょ、それで
政治に金がいるわけですよ
586日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:28:16
しかし古墳など考古学的には断絶は認められないってのが通説だがな
どう二王統の並立を考えたんだろう
587日本@名無史さん:2007/10/26(金) 21:04:06
二王統といっても、同じ王家の二つの系統ならわかるけど、全く無縁の二つの
血族が並立して交互に王位に即くなんて、ありえるのか?
588太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/26(金) 21:08:34
ありっこないよ。w
もとが間違ってるからだ。五王を天皇としたのが間違い。
閻魔王を天帝だとか言ってるようなもの。十王か〜。w
589日本@名無史さん:2007/10/26(金) 22:40:33
ケータイ天皇
590日本@名無史さん:2007/10/27(土) 00:30:47
川口説は東京では支持する人が多くて、通説みたいに思われてるかもしれないが、
関西ではそうでもないよ。継体=王族説をとる人が多い。
591日本@名無史さん:2007/10/27(土) 02:39:45
>>586
>考古学的には断絶は認められない

一系説は、近藤義郎くらいじゃないの?
592日本@名無史さん:2007/10/27(土) 02:45:51
普通に考えて、あんな近所に、大古墳を継起的に造る二つの「王家」が並立・対立していたとは思えないな。
593日本@名無史さん:2007/10/27(土) 03:03:48
王朝交替ではなくて、連合政権における盟主権の移動ということ
594日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:47:44
新羅も倭系の朴氏昔氏と高句麗系の金氏が交互に即位してるよね
595日本@名無史さん:2007/10/27(土) 05:49:51
スレ主でもないのに、電波年代論のフトクニは出入りしてほしくないな。
596太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/27(土) 07:23:45
そんじゃお前、倍暦のスレで説明しろい。どうして古代天皇が超長寿なのか?
そういう言い草はそれを合理的に説明してからデカい口をタタけ。
それだけ生きたのか? しかと返答しろ。あ〜ん、お前はスレ主か?
597日本@名無史さん:2007/10/27(土) 12:31:54
話題を継体に戻そうじゃないの。古墳からいえば、あのあたりでは尾張が一番有力だったはずなのに、
近江や越前出身の継体が大王に選ばれたのは、血統がモノを言ったからじゃねーの?
598日本@名無史さん:2007/10/27(土) 18:20:31
高句麗の南下政策で朝鮮半島情勢が切迫している時に必要とされたのは、
無能の世襲よりも外交手腕に長けた支配者。それが継体だったということだ。
599サガミハラハラ:2007/10/27(土) 18:30:34
継体は外交手腕に長けていません。むしろ無能であったといっていいでしょう。
600日本@名無史さん:2007/10/27(土) 18:56:21
越前の継体が王権から独立した外交パイプを持っていたことは大きい。

五王の遣使のように外交は本来大王のみが掌握していた特権だから、
これを行使できただけでも、大王に選ばれる資格としては十分なはず。
601日本@名無史さん:2007/10/27(土) 22:59:33
紀生磐や阿賢移那斯・佐魯麻都のように半島には王権の影響力が弱い独立倭人勢力が存在していて
近江毛野に継体政権の本質が投影されていると考えれば、単に血統で選ばれた田舎皇族なんじゃないかな
602日本@名無史さん:2007/10/28(日) 16:11:18
盟主権の移動なんかもないよ
古墳群の位置のことをいってるんだろうけど
河内も大和もご近所なんだから河内に古墳→河内王朝とかはない
昔は一代の中でもころころ宮を替えたりするくらいだし
603日本@名無史さん:2007/10/28(日) 21:09:36
継体の直前まで二つの王家があったのなら、そのうちの一つはどうなったの?
自然消滅したのかな? ちょっと考えにくい。
604日本@名無史さん:2007/10/29(月) 09:26:27
百濟の支配層は高句麗人で日本も新羅と、百濟と高句麗の要素でできており
その戦いによってゴロゴロ政権は変わっていたので今でも同じ戦いが続いている
605日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:49:04
聖徳太子の専属教師が高句麗人なのでピーンときましたね
606日本@名無史さん:2007/10/29(月) 23:38:44
継体の真の陵墓・今城塚は、反乱を起こした筑紫の磐井の岩戸山古墳、
継体の嫁の居た尾張の断夫山、手白香の西山塚と相似形なんだよね。

筑紫の磐井はもともとは王権に従っていたが、継体が磐井の勢力を削ぎつつ、
新羅を攻めるという考えで、派兵の大半を磐井の配下から出すように命じた
ところ、あまりに無理な負担だったので、磐井が反乱を起こしたのではないか。
それで、新羅と通じた逆賊という汚名を着せられた。
607日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:28:16
ほとんど誰も異論をはさまない古墳の上限は
継体ー今城塚、磐井ー岩戸山から始まる…、のかな?
608日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:53:19
>ニ系統の王統を統合したから、「若野毛二俣王」

これだけで充分トンデモ説の価値有りだなw
川口氏は国文学者としては超一級と言っていいと思うが
やはり専門を異にする分野には首をつっこまないほうが利口だな。
609日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:59:41
川口が国文学者?一応日本史学者のはずだが…。一部の関東の学者にはよく引用
されるが、それ以外では???
610日本@名無史さん:2007/10/30(火) 02:03:31
岩戸山(138m)より断夫山(150m)のほうが大きいという事実。
尾張連の力は侮れんな。継体としては尾張を味方につけたのが大きかったのではないか?
611日本@名無史さん:2007/10/30(火) 02:18:02
>川口氏は国文学者

>>608の頭の方がトンデモだったようだ
612日本@名無史さん:2007/10/30(火) 02:24:27
磐井は、近江の毛野臣に「昔は同じ釜の飯を食った仲」と言っているから、
若いときはヤマトの学校で一緒に勉強していたんだろうね。
その学校には幼少の継体も居て、いじめられていたかも。
613日本@名無史さん:2007/10/30(火) 02:24:44
よく知らんけど
昔は国文学者と歴史学者の敷居はけっこう低かったんじゃないの?
石母田正とか、私はずっと歴史学のほうの人だと思い込んでました
614日本@名無史さん:2007/10/30(火) 12:36:46
もう釣りなのかなんなのか
615日本@名無史さん:2007/11/01(木) 12:32:16
今でも知事は東京の中央官庁から派遣される事が多いので古代も中央の大和御所の役人をやっていた
ので同じ職員食堂で昼飯を食っていました
616日本@名無史さん:2007/11/03(土) 00:47:55
継体のところの朝鮮関係の記事は、要するに、
名目的には南部朝鮮の支配者の称号を過去に得ていた日本が
百済の領土割譲の要求をしぶしぶ飲まされ、
新羅が敵対行動をしても制御できず、
任那の小国からもなめられていたが、

ろくな派兵もせずに、それを認めない本国との狭間で現地司令官が
苦悩していた、というところか。
617日本@名無史さん:2007/11/03(土) 09:54:47
日本の政党構成が百済系と新羅系と高麗系があったが、政権を取っていた百済系が
日本に不利な事をやったので責任を取って新羅系に政権をイヤイヤ渡した。
618日本@名無史さん:2007/11/03(土) 09:58:51
今の政局も防衛予算を食い物にしてる道具に使われるかもの燃料の補給事業が
これからゴルフに言った大臣が国会でばれてきたらまずいので、イヤイヤ政権を渡そうとした
619日本@名無史さん:2007/11/03(土) 18:41:50
領土割譲はほとんど金村が強引におこなったっぽいがな
それが原因で失脚してるし
620日本@名無史さん:2007/11/04(日) 09:33:33
大友と大伴は同じで金村はきんがはいってるよな、ワイロをもらって割譲にいたったとか
621日本@名無史さん:2007/11/05(月) 00:07:30
>>619
あれは、「4県よこせ、くれないと武力で奪うぞ。」というニュアンスで
迫られて、百済との敵対を恐れて百済に4県を下賜する形で取られた
ような感じもするね。
622日本@名無史さん:2007/11/13(火) 18:30:40
しばらく見ないうちに面白くなってきてるな。

「継体帝の記紀記述は、天武帝時代の都合」 これが真実だろう。
その背景は、記紀編纂の数年前におこなわれた、 八色の姓だ。
これこそが、天武時代に確立した日本国の基礎である。 この皇位選定こそが
当時存在する全ての氏の命運を分けるわけで、
天武の味方に地位を与え、天武の敵から地位を奪う。
この区分けを支配者がおこなうのは歴史の必然である。 

天武の敵を想定すれば、敵となりゆる優れた血筋なのである。
それはちょうど2,3代前に分かれる程度の血族だろう。 
その敵を葬る都合で 八色の姓が生まれた。
ならば、その後の歴史編纂において、 その姓を裏付ける必然が生じる。

日本国を名乗り姓(位)を制定した支配者が、歴史を編纂する上での必然。
これこそが、継体帝記述のなぞである
623日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:13:22
なりゆるw
624日本@名無史さん:2007/11/14(水) 02:40:11
>>622
脳内妄想乙
また変なヤツが湧いてきたな
625日本@名無史さん:2007/11/14(水) 04:35:51
なぜ継体のゆかりが 真人なのか? 
逆に言えば 継体にゆかり薄い皇族は 地位を落とされたということだ。l
つまり、継体以前の皇族と縁の深い皇族が地位を落とされたのだ。

そして、記紀編纂である。 その記述は継体ゆかりの正当性であり、
武烈に連なる貴族の卑しめである

双方とも、目的が一致してるではないか! 血筋の選定である
626日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:48:43
歴史は後で造られるので、その当時にいてた政界の重鎮に聞かないとね、
大友金村を呼び出して
627日本@名無史さん:2007/11/14(水) 18:22:01
金村は確か雄略か清寧朝には出てきて武烈〜欽明の五朝につかえてるからな
リアルキングメイカー
森なんて目じゃない
628日本@名無史さん:2007/11/14(水) 23:22:30
記紀捏造の可能性を探る上で欠かせないのが、八色の姓という事か。

 位下げを食らった 豪族の痕跡はどの程度残っているのだろう。
 誰が、政界を追われる事となったのだろう
629日本@名無史さん:2007/11/15(木) 04:29:51
タリシヒコの一族だった小野氏は孝安天皇の子孫にされた類か
630日本@名無史さん:2007/11/15(木) 06:11:38
小野氏は渡来系だっていう話もあるなあ
近江だし外交に関わってるし可能性もなきにしもあらずだが
631日本@名無史さん:2007/11/15(木) 13:26:33
アフォか。そんなこと言ったら、和邇系氏族殆どそうだ。
外交に関わってるから外来氏族てか。単純すぎて話にならん。
632日本@名無史さん:2007/11/16(金) 05:10:24
毛野氏族に渡来系が混じってるのはガチ
633日本@名無史さん:2007/11/16(金) 16:07:14
継体天皇前後でも
当時の中央貴族の
権力伸長には全く変化がないんだよな。
634日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:45:59
だから大和の勢力の反対で大和入りに20年かかったってのも当たらないな
ちょうど淀川水運を利用しての云々とか
昔はころころ宮が変わってるし大和河内摂津近江山城とみんな近場だし
635age:2007/11/21(水) 16:13:02
「その時歴史が動いた」第306回
継体天皇 ヤマトを救う
平成19年11月21日 (水) 22:20〜23:03 総合
636日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:20:23
はじまった
637日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:38:10
継体はですね そういう思いがですね あったと思うのですね
638日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:56:53
解説:青木豊明
639日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:07:52
NHKはゴミだなw
スタジオに電波を連れて来るなよww
640日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:08:06
NHKはヒドイな!

いつもは権威あるゲストなのに今日は田舎の博物館の館長とかインタビューはバカサヨ自治体の小役人とかw

任那日本府は無かったことになってるしwww

もうメチャクチャwwwww
641日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:10:51

あれだろうな。

朝鮮半島から何もかも教えられた立場にしたいから、任那日本府のような大和朝廷の植民地が朝鮮半島にあると辻褄があわないんだろうなw

「日本書紀に記されています」って日本書紀を引用するなら任那も引用しろよw

都合の悪い部分は見ないことにしてるのかw

642日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:10:59
NHKに嘘番組流すなとメールしよう
643日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:12:32
>>640
ネトウヨは握手会行くときチンカス拭いていけよw
644日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:13:51
史実に基づいた大変参考になる構成でした。
◎です。
645太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/11/21(水) 23:14:59
相手の解説家は両手を握り、上下に動かして大きいポーズで話の吐露をしていた。
力満々の感じか〜?w
646日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:25:08
しかし思い出すねぇ。

小学校の時に授業で好太王碑の話になった時に同級生が「野蛮で文化の低い日本がどうして高句麗と戦えて百済や新羅を従えてたんですか?」って質問してたのを。

先生は苦しそうに「野蛮人が戦争に強い時もあるんだよ」って答えてたwww

無理やり日本の方は文化が低くて百済・新羅は文明が進んでるとか決め付けるから矛盾が出てくるんだよねw

647日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:27:52

しかしこの番組は相当デンパが作ってるみたいだから他のテーマでも鵜呑みにしたら恥をかくねwww

気をつけないと。

648日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:31:53
>>646
いやヨーロッパでもエジプトでも野蛮人は戦争強いだろ
649日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:40:47
>>648
古今東西強い民族は何かしらの利器を持ってるか、相手国が弱体化してボロボロになってるか。

説明のつく原因があるよね。

中国大陸の統一国家である隋でさえ滅ぼせなかった高句麗とサシの勝負ができる説明はつかないよ。
650日本@名無史さん:2007/11/22(木) 00:25:33
つか、あそこまで圧力団体の顔色気にしながら製作しなきゃいけないのだったら
テーマに持ってこなきゃいいのにね・・・・・
石見銀山の時もそうだけど、何そんなに気ぃ使っちゃってんのかって思う・・・

651日本@名無史さん:2007/11/22(木) 09:26:27
スポンサーの問題だろう
652日本@名無史さん:2007/11/22(木) 09:50:29
NHKのスポンサーってどこですか?
653日本@名無史さん:2007/11/22(木) 11:48:10
継体天皇は15代応神天皇の5世孫あると言う不鮮明な記述から、「実は
皇族では無いのでは」という説を良く聞くが、反対に彼が皇族ではないと
言う証拠もまた存在しないのも事実である。

また継体天皇の祖先は実は皇族とも深く関わっている。実際継体天皇の
祖父までは皇族扱いであり、継体天皇の家系は彼の曽々祖父から、
代々現代の宰相クラスの重職を任されていた。

しかも継体天皇の曽祖父(応神の孫)の姉は、允恭天皇の皇后であり
安康天皇と雄略天皇を生んでいる。つまりその2天皇は継体天皇の祖父の
従兄弟に当たる。さらに雄略天皇の皇女の子が武烈天皇なので、女系で
見れば、継体天皇は武烈天皇とハトコの子同士に当たるのである。

「応神天皇の5世孫」と聞けば相当離れており、皇統とは無関係に思えるが、
実は女系で見れば武烈天皇と継体天皇は意外と近い関係である。
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/thistory/1621000/20060326114338078520203000.jpg
継体天皇の系図↑
654日本@名無史さん:2007/11/22(木) 16:38:14
http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm
倭=日本列島は錯覚ではないか?
655日本@名無史さん:2007/11/22(木) 16:58:28
>>653
つか、その系図で見る限り、5世孫というと大分離れてる印象があるけど、
3世前の意富富矛王とは普通に縁戚関係にあるみたいだし、
そんなに血縁や関係が薄いとも言えないのでは?
656日本@名無史さん:2007/11/22(木) 16:59:04
昨日「その時歴史が動いた/継体天皇」で
青木豊昭さんが「ですね」って言った回数は
前半2:50秒で43回
後半2:12秒で43回
の合計5:02秒で86回でした。
657日本@名無史さん:2007/11/22(木) 22:50:42
>>635
継体の時点では日本は国家統一がされていなかったという考えを
繰り返し強調していたあたりが、年代物の左翼史観ではあった。
658日本@名無史さん:2007/11/22(木) 23:39:30
日本の実質的な国父・英雄、それが継体天皇です
659日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:32:47
血のつながりにこだわる理由が分からん。
660日本@名無史さん:2007/11/23(金) 01:16:03
ですね
661日本@名無史さん:2007/11/23(金) 01:45:11
天照の子孫だからじゃね
662日本@名無史さん:2007/11/23(金) 02:44:17
人類みな兄弟だろ
663日本@名無史さん:2007/11/23(金) 08:42:22
携帯ぐらいみな持ってるだろw
664日本@名無史さん:2007/11/23(金) 15:44:13
ですね
これはキャラ立てに使えるな(笑)

五行博士が教えてくれた物が「中国のこと」ばかりでちょっと笑えた。
665日本@名無史さん:2007/11/23(金) 16:26:12
>>649
4世紀の広開土王即位より前の高句麗は大して強い国ではなかったし、
新羅、百済は規模が小さい国。
その時期に半島進出して早急に技術を吸収する。
以後は出土する武具を見る限り、少なくとも軍事技術に関して遜色があるとは思えない。
666日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:57:39
やはり日本人のルーツは周→呉→日本列島かな?
667日本@名無史さん:2007/12/02(日) 03:59:06
普通に、弥生式埴輪の装束からルーツを辿った方が早い気がするが・・・
668日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:00:20
南越の神話では
始祖神の孫が山神の娘を娶って火徳の御子が生まれて
その子が龍神の娘を娶って生まれたのが始祖王、らしい
なんか似てないか?
669日本@名無史さん:2007/12/04(火) 13:56:14
古代中国の沿海の中国人の血は当然入ってるだろ
思ったよりずっと半島経由より、大陸からダイレクトに日本に来てたみたいだし
670日本@名無史さん:2007/12/04(火) 13:58:45
でも継体の時代じゃ全国統一はできてなかっただろ?
東北にまで勢力が及んでないし。
別に左巻きじゃなくても常識だとオモウが?
671日本@名無史さん:2007/12/04(火) 19:15:14
それはそうかもしれんがただそれをいってしまったら統一が桓武朝になってしまうぞ
672日本@名無史さん:2007/12/05(水) 02:35:24
琉球を沖縄として組み込んだのは明治時代だから、日本統一は明治時代になってからだな
673日本@名無史さん:2007/12/06(木) 01:22:59
てか、 半島って、
漢の直轄地の楽浪郡が崩壊して、半島に漢人が分散したわけだろ。
楽浪郡を崩壊させたのは、さらに北の高句麗だろ。
半島人なんてのは4世紀くらいまで独自に存在したのか?
ましてや、漢人文化でも倭人文化でもない文化が半島に存在したのか?
674日本@名無史さん:2007/12/06(木) 14:39:52
まあ、冷静に考えて大和王権の来歴は、三韓(特に弁韓?)小国の内の一国だろうな。
675日本@名無史さん:2007/12/06(木) 18:49:37
>>674
それは絶対にない(アホか)

当時東アジアでもっとも人口密度が多かった、縄文弥生を経た
倭人文明圏に侵入するには、文明開化を持って侵入しなければならない。
武力侵入は(元のような大軍でも海を越えると無理)まして、半島の小国では無理。
で、倭人が侵入を許す勢力は、漢の大将軍位が倭王だったように、漢民族系の文明民族。
半島のような文化もない国出身豪族じゃ、渡来人すらまとまらない 
676唐松山:2007/12/06(木) 19:05:55
迷想中
古事記の干支が 本物であったら
西暦273年 癸巳 神功元年,日蝕
西暦293年 癸丑 仁徳 誕生
西暦296年 丙辰 應神元年
西暦300年 庚申 新羅 倭国と国使を交換
西暦312年 壬申 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
同年       百済 獻七枝刀一口
西暦315年 乙亥 百濟肖古王薨
西暦326年 丙戌 神功 六十六年 【是年 晋武帝泰初二年 (西暦266 丙戌)
西暦329年 己丑 神功崩御
西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支
西暦367年 丁卯 仁徳崩御
西暦429年 己巳 雄略 崩御
西暦527年 丁未 継体天皇

継体の 時代が 1世代繰り上がってしまった。 でも継体治世27年位とすると
西暦501年 面白いかも。

677唐松山:2007/12/06(木) 19:07:43
迷想中
古事記の干支が 本物であったら
西暦273年 癸巳 神功元年,日蝕
西暦293年 癸丑 仁徳 誕生
西暦296年 丙辰 應神元年
西暦300年 庚申 新羅 倭国と国使を交換
西暦312年 壬申 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
同年       百済 獻七枝刀一口
西暦315年 乙亥 百濟肖古王薨
西暦326年 丙戌 神功 六十六年 【是年 晋武帝泰初二年 (西暦266 丙戌)
西暦329年 己丑 神功崩御
西暦334年 甲午 応神崩御 ここから古事記の干支
西暦367年 丁卯 仁徳崩御
西暦429年 己巳 雄略 崩御
西暦527年 丁未 継体天皇

継体の 時代が 1世代繰り上がってしまった。 でも継体治世27年位とすると
西暦501年 面白いかも。

678日本@名無史さん:2007/12/07(金) 19:22:46
解説かけよ
679唐松山:2007/12/07(金) 21:01:30
質問 して下さい。

とりあえず 書紀でも読めるし 古事記でも読める
新羅本記と百済本記 の ずれを 60年で調整

書紀の 読み方は 増し  
例えば 神功69年=実56年,増し13年

仁徳を解説すると 書紀応神13年髪長姫と恋=西暦308年
神功69年を 応神即位前に圧縮すると 仁徳の初恋?15歳が 再現できません。
当然 西暦329年 己丑 神功崩御 の後に 応神治世41年を 持って来ても 仁徳の初恋? 不可

古事記の 応神、仁徳の年齢は 応神130歳=応神実年齢+69年(神功治世)
仁徳83歳=仁徳実年齢+(仁徳即位−神功崩御{空白を含む応神治世})
 仁徳即位=西暦336年
書紀を 増しで 読んだ 記年は 過去ログ等にあり
680日本@名無史さん:2007/12/07(金) 21:13:28
訂正
×=仁徳即位=西暦336年   ○=仁徳即位=西暦337年
681日本@名無史さん:2007/12/07(金) 21:17:26
同じ名前の当主が何代もいてた
682日本@名無史さん:2007/12/07(金) 21:36:22
自殺、売春、ホームレス、集団いじめ、虐待、女性差別は農耕社会から始まります。

天皇はA型で朝鮮の出身です。A型は2000年前に日本きたから帰ればいいのに。
A型は100%農耕民族とはいえないがO型かB型にぜんぜん好かれないAは
農耕民度が高すぎるから2000年前に日本の先住民族を大量に殺してきた
遺伝子、多そうだね。

遊牧民族は厳しい自然の中を小さい家族で移動しながら生活してきたので家族と他人の線引きをはっきりさせたと思う。
これをクールと感じる。だから、そのぶん身内にはあつくなるのか。

B型は遊牧民族、O型は狩猟採取民族。
A型は農耕民族。農耕民族は2千年前(つい最近)に、中国から日本に来た。A型は2万5千年ごろ誕生して農耕社会を
作ってきた。農耕民族社会になってから狩猟採取民族が大量に殺され滅び吸収され、ホームレス、虐待、売春、
女性差別 が始まり、強制的に横並び結婚し横並び子作りしないと女が生きていけない社会になる。
横並びの群れ社会(農耕民族社会)は無理やり敵を作り差別しないと作れない。これが、いじめ。
ブサイクで、もてない農耕民族はとくに性欲として横並びの群れ社会を作りたがる。

農耕民族社会はA女も不幸になります。

683唐松山:2007/12/07(金) 21:59:21
同じ名前の当主が何代もいてた  とはどういうことですか?
同じ名前の当主が何代もいてた に 該当するのは ウジノワキイラッツコ

応神38年? イラッツコが 高句麗の 書を破り捨てているのに
応神崩御の時 書紀には 小人(子供)と書かれている。

684日本@名無史さん:2007/12/07(金) 22:18:16
天皇家には≪尊厳ある朝鮮王朝≫から姫を戴いた王朝外交の歴史があります
よくいいました。平成天皇陛下は偉い。朝鮮人民から氏名を取り上げた時代
も天皇家にあやかる日本名は許されなかった占領時代。日本歴史が改ざんさ
れた明治時代に今の天皇家は再構築されたので、歴史の事実はでたらめにな
っていなすが。真実はひとつ、天皇家・大和朝廷の由来は日本民族ではない
という事実。日本民族そのものが、実はDNA的に南方と北方の混血なのは
解明されています(つまり征服された民族).真の日本文化は徳川300年
ぐらいで、あとは全て外来依存民族で、主体性がない。それは今も、軍隊(
国の本質)を米国に任せていられる殖民地的民族性に現れている。
685太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/07(金) 22:28:54
皇統は「卜事」が関わるもので、生物学的のDNAとか血液型とかは全く
関係外です。
686日本@名無しさん:2007/12/08(土) 17:39:05
 雄略天皇の後宮には百済の姫がいましたが、雄略に焼き殺されてしまいました。
また韓姫という名の御妃もおりました。その息子は天皇になっているよ。
687日本@名無史さん:2007/12/08(土) 21:02:12
天皇家なんて、実は偽装してて、
中身は全然違う家系。
688太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/08(土) 22:34:18
>>686
そういうことがあるから、君がアリランとの考えを想うのは分からんでも
ないが、血液とかDNAとかの体質とかとは皇統は関係はないです。
689日本@名無史さん:2007/12/09(日) 02:07:49
またフトクニか
あなたが出てくると同類が湧き出す
議論をしてないところを見ると・・・
まあそれは良しとしよう
俺から見ると傍証すらない結論だけの書き込みwww
690太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 07:17:49
お前は古神道の卜事(ウラゴト)は盲目同然だからな。
それを恥じるんだな。
691日本@名無史さん:2007/12/09(日) 20:06:25
>>690
こちらへどうぞ、さようなら。

占術理論実践板
http://hobby10.2ch.net/uranai/
692太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 21:39:09
あそこの先述理論というのは建前であり、真から隔たりが激しい。
あれと一緒にはできない。
693日本@名無史さん:2007/12/09(日) 21:48:57
古神道???
フトクニ以外で賛同するヤツ日本史板にいるのか?
694太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/09(日) 21:55:01
あんな先述理論であいつや臥海の連中をおとなしくすることは
できっこない。連中らをいやでも黙らせるのが真の卜事(ウラゴト)
だ。あんなので、初心らしいあいつだって納得すまいが。
あの先述とかといっしょにされてはこっちが迷惑だ。
695日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:32:26
今の日本政府でも重要な法律や条約を決めるときは占い師呼ぶんだよな
よくある政治家の不可解行動は占い師の支持だから
696日本@名無史さん:2007/12/10(月) 19:22:25
700年の時代に
完全文盲時代の500年以前の事を歴史書にまとめる事は不可能。

・漢の大将軍位の○×が、倭の地を平定し倭王となり、
以後、異民族にやられて衰退する大陸に代わって、漢文明を継承したのが日本だろ
697日本@名無史さん:2007/12/10(月) 19:28:26
倭奴国王や卑弥呼の時代、日本はすでに中国に遣使し、
中国人官僚に中国語で国王の意思を伝え、中国から漢字入りの金印や旗を受け取っていた。
日本で発掘された三角縁神獣鏡には、中国に存在しない景初四年の年号が合って、
年号の意味を理解していた人によって日本国内で作られたとする説が有力。
弥生人がすでに文字をもっていたのに、記録は何もなかったとするのは無理。



698日本@名無史さん:2007/12/10(月) 19:32:09
記録があったのなら
卑弥呼の名が(難升米や都市牛利も)
古事記日本書紀に一切出てこないのは何故よ
699日本@名無史さん:2007/12/10(月) 19:42:44
古事記や日本書紀をまとめたのちの大和朝廷が
邪馬台国の継承国ではないからだろ。
700日本@名無史さん:2007/12/10(月) 20:19:34
卑弥呼時代の魏志ですら、 周の太夫ゆかりつまり元は中国人だと
名乗ったわけだよ。 
宋に表をあげた5世紀だって、3代にわたって漢の大将軍 が 倭王だったわけだ。

冷静に考えれば、 漢代からの東方の権力者の子孫が倭王で
今も漢の継承国なわけだよ。
征夷大将軍に蝦夷が征伐されたが田村も東漢氏で呉系の漢人

2−7世紀にかけて大陸の漢人に倭は制覇されて日本が生まれたわけだ
701日本@名無史さん:2007/12/10(月) 20:37:42
百済だって文字を習い、記録を始めたとあるのが4c末か5cくらいなんだから
>>696のいうことは当たってる部分はあるな
702日本@名無史さん:2007/12/10(月) 21:02:39
百済本紀か
しかしその前から文字はあっただろう
日本だって日本書紀や古事記が成立する
奈良時代にはじめて文字を使ったわけではない
703唐松山:2007/12/11(火) 18:53:21
日本に 漢字の入ってきたのは 応神時代
応神十五年秋八月壬戌朔丁卯 阿直岐亦能讀經典 即太子菟道稚 郎子師焉...仍徴王仁也
廿八年秋九月 高麗王遣使朝貢 因以上表 其表曰 高麗王ヘ日本國也 時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使
以表状無禮 則破其表

応神28年 高麗王がヘえてやるぞ 日本國の為に とでも書かれていたであろう 表を 太子菟道稚郎子は
「ばかにするな」と 破り捨てる。
漢字が読めました 
当然 暦も入ってくるわけで 古事記の干支は 最低 百済の干支である。
其の前は文字が無かった かというとそんなことは無い 
書紀の干支と 歴史は 口伝では余りにも 大きすぎる 
有ったと するのが妥当。
704唐松山:2007/12/11(火) 19:07:04
現在 百済本紀と新羅本紀の 編年を比べても あまり合わない
そこで 百済本紀を 60年繰り上げて 新羅本紀と対比させると 良く合う

これが 前回 纏めた 神功から仁徳の歴年です。
705日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:01:26
4cの渡来人は漢字しらなかったの?
706唐松山:2007/12/11(火) 21:23:06
百済本紀より
375 高句麗侵入
(注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)
60年 繰り上げて 4世紀初頃の出来事です。

707日本@名無史さん:2007/12/12(水) 02:05:48
>>703
馬鹿だなー

漢人自身に文盲率が高い時代だ。 倭を平定してる過程の漢人が、「馬鹿にするな」と
破り捨てただけの記録だろう。
それにk記紀の神話は特に 倭の中で起こった事を書く必要はない。
シルクロード沿いの神話、東南アジア系の神話 神話は色々ある。
それを当時の 倭を平定した漢人の子孫が7世紀にまとめただけ。
708太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/12(水) 07:27:52
>>707
高千穂っていうのは、シルクロード沿い東南アジアあたりにあったというのか?
709日本@名無史さん:2007/12/12(水) 07:52:06
神武が長髄彦を討つ場面は
禹が三苗を討つシーンに酷似
710日本@名無史さん:2007/12/12(水) 13:27:07
シルクロード沿いの東南アジア という 場所は存在しないがな。

  古い日本の地名の当て字の多くは、中国の地名に倣ってる。
   
711太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/12(水) 15:09:31
細かいね。沿いと東南の間に「 、」 を入れて読んでくれ。
712唐松山:2007/12/12(水) 17:39:00
707さんへ
時太子 菟道稚郎子 讀(よむ) 其表 怒之責 高麗之使
それじゃあ 菟道稚郎子は 漢人になってしまう。

書紀 ひとつ 真っ直ぐ 読めないのは仕方ないが 何故 此処に 漢人が
出てくるのですか?

713日本@名無史さん:2007/12/12(水) 18:34:03
卑弥呼は欠史八代の間に生きた人ゆえ詳細は不明なのだ
714日本@名無史さん:2007/12/12(水) 20:26:23
卑弥呼は田油津媛
715太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/12(水) 20:31:00
神功皇后は卑弥呼の時代よりも後代だから、田油津姫も卑弥呼ではないだろう。
716日本@名無史さん:2007/12/13(木) 03:02:04
>>712
秦の始皇帝が大軍を動かしていたころ
倭側の都合でどのような離合集散劇で倭の国家ができようが、
検討するだけ無駄なのだ

ひとたび、大陸系の漢人戦力が倭に来たら滅ぼされてしまうだろう。
そして大陸系の漢人が倭にこない理由はない。
717日本@名無史さん:2007/12/13(木) 08:13:09
郭務悰にも滅ぼされたよね
718唐松山:2007/12/14(金) 18:55:01
西暦250年頃 魏の衰退と高句麗の南下 
半島を治める国がなくなる= 百済、新羅 の発生 任那には 未だ分裂小国家群
神功は 西暦273年より あと50年遅いと 半島に足がかりを作れないのではないか。
百済にはまだ 文字は無い,新羅は初から 文字を使えた。
神功の度重なる 出兵により 新羅は 西暦300年倭国と国交を結ぶ。
719日本@名無史さん:2007/12/14(金) 20:36:46
滋賀県の余呉はやはり呉の国からきたのでしょうか
720日本@名無史さん:2007/12/14(金) 22:24:37
>>719
余呉・余湖は藤原系です
721日本@名無史さん:2007/12/15(土) 12:20:06
>>718
倭 百済 新羅 の中で 新羅が漢文明から一番遠い存在。

倭の五重塔 は倭人と百済人で作り
新羅の九重の塔は わざわざ百済人を呼んで作らせた。
新羅には漢南様式の高度な建築を建てる技術は無かった事は明白
百済と倭はともに、4、5Cに漢南朝から見て大将軍位を与える自陣国

文字を使うかどうかは、漢人が進出してるかどうかによる。
百済は、中国人や高麗人が多数いたと魏志にある。
百済に文字がない事はありえない


722唐松山:2007/12/15(土) 18:02:38
新羅本記の記録はは百済の記録より 信頼できる。
この事が 新羅には 文字が有った。 と考える所以です。
百済のように同名の 王が何組もいる。 では 口伝でしょう(口伝では,この程度の記録)
書紀や古事記の情報量は 文字による記録
723日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:24:49
はいはい 新羅ほんき ね

『三国史記』は新羅が百済、高句麗を滅してから統一新羅になる。
統一新羅が高麗に滅ぼされて統一高麗になる。
その時作られた本なんです。
だから資料は新羅系の資料である。新羅の資料は豊富です。
しかし百済や高句麗は滅ぼされたのです。
新羅に資料を全部渡して滅亡していくなんてことはないですから、
百済や高句麗の資料は捨てられ散逸させられ焼かれたものが
少くなかったわけです。
だから百済、高句麗については資料は非常に乏しいわけです。
724日本@名無史さん:2007/12/18(火) 08:25:22
新羅本紀を重視する人って一回も史記とか読んだことないでしょ
725日本@名無史さん:2007/12/18(火) 19:55:11
新羅本記がええ加減なもののであるということですね、なるほど
726雲黒齋:2007/12/18(火) 21:19:21
ウヂのワキのイラツコは太子ではなく宇治地方の部族長。
当時はヤマトのオオにはオオササギがいた。
ワキのイラツコの勢力が衰えるまではオオササギは対外的には勢力は大したもんじゃなかったろう。
727雲黒齋:2007/12/18(火) 21:32:16
たとえば応神は
ホムダワケ
イザサワケ
オオトモワケ
に大別される名前がある。
イザサワケはイザホワケやアナホ、イオキイリヒコ…イソキイリヒコに共通する名前だ!
例えばイザサワケからイザホワケ、アナホと続くシキの王家を予想させる。
一方、オオビコ、オオササギ、オオハツセワカタケルと続く王家も存在した。
この二つの王家が交互に王を出した。
まるでスパルタや商王朝のように。
728雲黒齋:2007/12/18(火) 21:36:37
また,オオトモワケはスミノエのオオナカツヒコを関連つけてオオトモ族を連想させる。
だから、いろんな部族の系譜にある祖先の逸話を
天皇という存在により集約したのが記紀とも考えられる。
729日本@名無史さん:2007/12/19(水) 02:39:26
>>728
オオトモワケ?
ソースきぼん
730日本@名無史さん:2007/12/19(水) 03:20:14
>>726->>728
なんでコテハンを使う人はこんなデタラメを書くのか?
典拠になるものが乏しい古代にしてもそれをいいこととに言いたい放題
いいがげんにしてくれ
731雲黒齋:2007/12/19(水) 12:40:23
にちゃんは妄想OKだから妄想書くんだよね!
にちゃんだからね!
マジ切れする方がダメダメね!
732日本@名無史さん:2007/12/19(水) 13:00:31
>>731
>にちゃんは妄想OK
そんなことはない。
妄想を書いても罰せられることはないが、つまらん妄想だと相手にされなくなるし、
つまらん妄想をしつこく書けば、ウザいといわれるだけ。

なお、盗作はダメだよ。
コテハンの「ウンコ臭い」なんて、クレヨンしんちゃんの盗作。
これは盗人行為だぞ。
733霰黒齋:2007/12/19(水) 13:47:50
じゃあこれは?
734唐松山:2007/12/19(水) 18:59:46
迷想続き
もし 「書紀の干支が正しければ」の巻
誕生年は,旧事記の 治世と聖寿より 割り出し 聖寿は 古事記より 

西暦  干支 天皇    誕生年 没年齢 聖寿  誤差
291年 辛亥 仁徳誕生
334年 甲午 応神没        62才 130歳 –68 古事記干支
337年 丁酉 仁徳元年 
367年 丁卯 仁徳没 治世30年  76才  83歳 –7  古事記干支
398年 戊戌 仁徳没 治世61年  107才 83歳 ???  以下 書紀干支
400年 庚子 履中元年 仁徳16年 53才 64歳  -11  
406年 丙午 反正元年 仁徳39年 36才 60歳  -24
412年 壬子 允恭元年 仁徳63年 54才 78歳  -24
454年 甲午 安康元年 履中1年 56才 56歳   0
457年 丁酉 雄略元年 允恭7年 61才 124歳  -63 白河本旧事記の聖寿61歳
489年 己巳  古事記干支
480年 庚申 清寧元年
485年 乙丑 顕宗元年 允恭38年 40才
488年 戊辰 仁賢元年 允恭34年 53才

西暦400年庚子 履中元年 以降 暦の圧縮,伸長は 在りません。
仁徳83年間(空白を含む ?本旧事紀)が必要。実際は83−19=64年間 をどうするか?
太子菟道稚郎子の年齢と共に? 
あと干支(日々の干支も含む)の 切り替えと。
倭の5王を 差し込むには 更に 考察が 必要。
735唐松山:2007/12/19(水) 19:21:25
新羅本記がええ加減な物 に見えるのは、
日本の歴史、及び 百済の歴史が 合っていない為です。
736日本@名無史さん:2007/12/19(水) 19:23:59
マルチ禁止だろ御前
737霰黒齋:2007/12/19(水) 19:56:12
記紀の年代そのものがいい加減なんだから、
もっと自由な妄想で大いに楽しもうではないか。
738日本@名無史さん:2007/12/19(水) 20:45:38
ここはあくまでも学問板
妄想は他でやってくれ
739唐松山:2007/12/19(水) 21:15:38
崇神=卑弥呼
もう 80年以上 是でやってる 
未だに何も判らないのは,何故?
740太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/19(水) 21:19:11
卑弥呼の時代は崇神世のころです。このころ九州にその女王国が存在
したのです。畿内のマキムクには女王国はありません。そこは景行の
支配地です。237年の景初元年が崇神即位元年です。
741日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:47:12
唐松野郎は、もっとマシな日本語使えよ
翻訳エンジンでも通してんのか御前
742日本@名無史さん:2007/12/19(水) 23:43:25
崇神はもっと後代になる
しいていえば弟が崇神に当たるかもと考えられる程度
743日本@名無史さん:2007/12/20(木) 08:50:21
記紀の年代そのものがいい加減なのは、後世に想像もいれて造った、新羅本気とおなじでしょうか
744日本@名無史さん:2007/12/20(木) 08:57:22
新羅本紀で年代が信頼できる記録は四世紀後半の築城に関するものだけ

崇神は東征以前の大和の王を天皇化した創作人物
745太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 09:35:32
創作ではない。稲荷山鉄剣の銘文の大彦の記載が創作説を減刷している。
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 09:37:12
訂正
× 減刷      ○ 減殺
747太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 09:43:14
>>742
倭の大乱があったのは孝靈の時代あたりですよ。そのころ卑弥呼は誕生直前か
生まれたばかりのころ。そして開化あたりで勢力がつき、崇神の時代で大陸に
名がとどろく状況。倍暦計算で

崇神即位元年=景初元年=237年
洞 崩御=259年

このことは記の記載が1年違いで正確であったことを意味している。
748太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 09:44:52
すまん誤字がまただ。「洞」は「同」に訂正だ。
749日本@名無史さん:2007/12/20(木) 14:13:26

クソジャップ天皇ガンガン死ね癌増えろ癌増えろJAPS天皇癌で死ね

クソジャップ天皇ガンガン死ね癌増えろ癌増えろJAPS天皇癌で死ね

クソジャップ天皇ガンガン死ね癌増えろ癌増えろJAPS天皇癌で死ね
750日本@名無史さん:2007/12/20(木) 16:09:09
フトクニの年代論はよそでやってくれ。脱線しすぎ。
751日本@名無史さん:2007/12/20(木) 22:11:25
最初の方のレス読めばいかにフトクニがズッコケてるか分かる
過疎になってくると複数のコテハンを駆使して書き込む
また論破されて仲間スレに戻る
まあ熱心なのは認めるけど・・・
752日本@名無史さん:2007/12/20(木) 22:18:04
age
753日本@名無史さん:2007/12/20(木) 22:52:50
自殺、売春、虐待、大量殺戮、女性差別、は農耕社会になってから始まりました

天皇はA型で朝鮮の出身です。A型は2000年前に日本に来たから帰ればいいのに。
A型は100%農耕民族とはいえないがO型かB型にぜんぜん好かれないA型は
農耕民度が高すぎるから2000年前に日本の先住民族を大量に殺してきた
遺伝子、多そうだね。

遊牧民族は厳しい自然の中を小さい家族で移動しながら生活してきたので家族と他人の線引きをはっきりさせたと思う。
これをクールと感じる。だから、そのぶん身内にはあつくなるのか。

B型は遊牧民族、O型は狩猟採取民族。
A型は農耕民族。農耕民族は2千年前(つい最近)に、中国から日本に来た。A型は2万5千年ごろ誕生して農耕社会を
作ってきた。農耕民族社会になってから狩猟採取民族が大量に殺され滅び吸収され、ホームレス、虐待、売春、
女性差別 が始まり、強制的に横並び結婚し横並び子作りしないと女が生きていけない社会になる。
横並びの群れ社会(農耕民族社会)は無理やり敵を作り差別しないと作れない。これが、いじめ。
ブサイクで、もてない農耕民族はとくに性欲として横並びの群れ社会を作りたがる。

農耕民族社会はA型女も不幸になります。
754日本@名無史さん:2007/12/21(金) 05:09:25
>>753
結論だけを書くのはいいけど
それだけではお前の脳内妄想と言わざるを得ない
学問板には不向き
755日本@名無史さん:2007/12/21(金) 08:43:03
コピペにレスすんな
756霰黒齋:2007/12/21(金) 08:44:54
とかなんとか言っちゃって〜
パクったりするんでしょうが?
757日本@名無史さん:2007/12/21(金) 09:05:08
あなたのモデルは誰さんですかw
758唐松山:2007/12/21(金) 18:40:49

193 崇神六年,百姓流離,或有背叛.其勢難以コ治之
193 新羅 倭人が大飢饉となり避難民到来
272 神功 渡海
273 神功元年 日食
287 新羅 倭人が侵入
292 新羅 倭人が侵入
293 新羅 倭人が侵入
294 新羅 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
300 新羅 倭国と国使を交換
309 応神十五年秋八月 阿直岐亦能讀經典,及太子菟道稚郎子師焉
312 新羅 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
315  百済 375 高句麗侵入 (注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)
345 新羅 倭王が国書を送り国交断絶

新羅本記の 何処がおかしい?

759日本@名無史さん:2007/12/21(金) 19:04:44
おかしくないよ
ただし 高句麗や百済 などは、
被征服国家の記述なので資料を含め間違いが多いだろう。
760太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 19:53:14
あれは日蝕でないよ。
761唐松山:2007/12/21(金) 20:01:00
問題は あると思う
しかし 私の 編年は 「書紀を西暦に直した」 のが先
その 西暦に 新羅の記年が 合っていた。
762太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 20:08:25
新羅本紀っていうのは信用おけないとか無コテが云ってましたが?
173年の卑弥乎遣使が勝手な挿入の旨書きこまれておりましたが?
それ、繼體と直接関係があるんでしょうか?
763唐松山:2007/12/21(金) 20:38:09
173年の遣使が卑弥乎の使いだとすると 西暦248年卑弥呼死亡 とすると
卑弥呼の没年齢90歳近くなる。 無理がある。
そうすると 卑弥呼の国でも暦が伸延されていた とは考えられないか?

265年 魏滅亡
272年 神功渡海
この様に見ると 島宿禰とは 漢人であり 倭に派遣されていた その派遣中に魏滅亡
神功に渡海を強く勧めた。
764太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 20:46:39
女王国でも倍暦使用の可能性はありますが、そうでないかも知れ
ません。まだはっきりはしないです。しかし七、八十までの命は
あったとの記載があれば九十もありうるでしょう? 半島にも長寿王
の王号の方がおられましたし・・・。
卑弥呼のほうのスレに書きこんだほうがいいでしょう。又すれ違い
だとの苦情が出ますから・・・。
765唐松山:2007/12/21(金) 21:00:48
妄想 の方へ移動
766日本@名無史さん:2007/12/21(金) 21:30:16
継体の話をしようぜ
コテハン共は出て行け
767日本@名無史さん:2007/12/22(土) 11:44:53
日本の神話で国津神と天津神が出てきて国譲りをするわけだけど、日本は出雲系と大和系の2大勢力があって大和系が勝ったと見れるよね。
で、大和系は太陽信仰で出雲系は蛇神信仰(そこまで単純じゃないけど)。
太陽信仰は朝鮮半島と深くかかわりがあり、蛇神は中国と深いかかわりが。
で、継体天皇の出身地は太陽信仰ではない。継体以前は鏡を祀って祭祀をしていたが勾玉中心にに変わっていく。
もう一つ三種の神器のスサノオの剣を考えると、三種の神器とは歴史的に3つの勢力を支配して来た象徴なのではないでしょうか?
つまり、それまで勢力を誇っていた出雲の国を大和朝廷が支配した。そこの王(あるいは神)をアマテラスの弟として遇し、その象徴として剣を奉った。
継体天皇のときにクーデターが起こって大和朝廷に入り込んだ。継体天皇の地の勾玉を神器として奉った。
そして大和朝廷の鏡を持って三種の神器として、之を持つということが支配の象徴になったのでは?
768霰黒齋:2007/12/22(土) 13:16:47
上下エジプトを統一した王の王冠が両方の王のトーテム
タカとヘビの合体した形をとったのと同じだね…
769日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:51:01
継体天皇の墓は大阪府高槻市にある
越前から出てきた継体は、ヤマト王権の本拠地磐余を目指したが
結局よそ者大王であるとして磐余に葬られなかった
前政権の血統を継ぐ大后の手白香皇女とその子欽明天皇は
都の近くに葬られた
770日本@名無史さん:2007/12/22(土) 20:33:40
>>769
先祖ゆかりの地に葬られたのでは?
771日本@名無史さん:2007/12/22(土) 21:04:27
継体天皇じゃなくて朝鮮の継体王だったら、
継体とは体を継ぐこと、
つまりフランケンシュタインの怪物の元祖にだ。
って言う学者がきっと出てくるな。
772日本@名無史さん:2007/12/22(土) 21:11:16
あの近くには大田の地とニセ継体良があるだけで、小型古墳はいっぱいあるけども
他にはなにもない、近くに福井の地名はある
773日本@名無史さん:2007/12/22(土) 21:13:02
まるでのけものみたいに、異境の地にナゼ墓は造られたのか
774唐松山:2007/12/23(日) 12:49:31
平成(へなり)は 昔から墓地
775日本@名無史さん:2007/12/23(日) 22:18:53
>>771~>>774
学問板の話じゃねえな
776日本@名無史さん:2007/12/23(日) 22:23:50
age
777唐松山:2007/12/23(日) 23:35:09
国譲りは 崇神6年秋。
778日本@名無史さん:2007/12/23(日) 23:39:21
mmm
779日本@名無史さん:2007/12/24(月) 01:14:48
>>767
>太陽信仰は朝鮮半島と深くかかわりがあり、蛇神は中国と深いかかわりが。

太陽信仰 中国西南部の少数民族
蛇信仰   縄文・土着
780サガミハラハラ:2007/12/24(月) 08:37:05
国譲りは西暦40年か41年のころです。
日本書紀の年代はこれを基に構築されています。
781日本@名無史さん:2007/12/24(月) 08:44:40
コテハン年代論はよそでやれ。ここは継体大王の業績を語るスレ。
782日本@名無史さん:2007/12/24(月) 10:26:20
これからは中国人が大量に日本にやってきて多民族国家になりますので
これを第3の波と言います、第一が西暦まいなす300年頃で
783日本@名無史さん:2007/12/24(月) 10:46:29
779
蛇信仰が縄文土着というのは恐らく正しいですが、
最近遺跡の炭化した米のDNAを調べたところその原産地は長江流域であることがわかりました。
この地域から柱に蛇をくくりつけた遺跡がたくさんあり、これが伝わった、あるいはもともとの蛇信仰と結びついた。と考えることもでき、出雲など蛇信仰の盛んな土地は大陸に近いです。
太陽信仰は中国よりも朝鮮に盛んで、一部の地域で蛇信仰があります。
784霰黒齊:2007/12/24(月) 12:48:42
オホドなのか?
オホホドなのか?
オオの名を持つ者が何故北陸出身なんだろう?
785日本@名無史さん:2007/12/24(月) 13:43:10
河内王国は、応神由来の渡来人(漢南朝)の国
越から応神由来の継体帝20年かけてくるのだから、それは
中国の越を指すだろ。なぜなら継体帝の時代は、
宋の順帝に表を送って鎮東大将軍の位をもらってわずか30年後
呉越の地名を当時の渡来書記官が北陸を指して記載する事などありえない。
間違いなく当時は中華体制に入っていたんだから。

記紀成立の時代には既に勘違いがあったかもしれん。
786霰黒齊:2007/12/24(月) 15:21:05
なかなか興味深い考察だ。
もっと知りたい!
787日本@名無史さん:2007/12/24(月) 20:32:32
継体在位25(28)年は信頼性のない数値だ
大和に20年入れなかったというのも信憑性が薄い
788太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 20:37:27
>>787
ならば後世昭和64年は長すぎる、おかしいという論が出てくるのと
大同小異だ。君は昭和年代はおあkしいというのか?w 安本先生
のように平均10年にせねばならんのか?

繼體の在位は2倍暦のため20年ではなく13年だ。
789日本@名無史さん:2007/12/24(月) 22:28:06
王朝交代説ですか?
越が中国はなかなか面白いとは思いますが、今の福島のあたりで異論はないと思ってました
790日本@名無史さん:2007/12/25(火) 09:43:18
今の政府は福祉切り捨てで自国の老人が苦しんでるのに、外国に金と油をばらまくための
法案成立に必死になってるのは吉害だ
791日本@名無史さん:2007/12/25(火) 11:13:36
フトクニの年代論はよそでやれ。ウゼエ。
792日本@名無史さん:2007/12/25(火) 15:19:46
意外と地理的状況を把握してない人が多いので一言。

  漢南朝の首都は、現在の上海から南京にかけての 建康
     呉越蘇=漢南朝そのもの。

     蘇我と越とか、6世紀に当て字化された地名や人名は中華体制当時の
     首都圏の地名である。 急速に漢化した6世紀の日本列島において、
     越から来た継体帝登場し、蘇我氏が大陸文明を伝える。
     こんな偶然はありえない。
      
793日本@名無史さん:2007/12/25(火) 16:19:16
近淡海国はどこですか?
794日本@名無史さん:2007/12/25(火) 20:59:57
琵琶湖国です
795日本@名無しさん:2007/12/26(水) 19:43:30
 >>784
琉球タイムスに乗っていた琉球語による解釈ですが
   オフド(ヲフド)→ヲ(大きい)フド(体)
つまり、大きいからだの王様となるそうです。
796日本@名無史さん:2007/12/27(木) 02:04:06
しかし例えば女性差別、児童虐待は農耕社会になってからはじまったんですが。
上野千鶴子も女性差別は農耕社会になってからはじまったといってるし。
797日本@名無史さん:2007/12/27(木) 02:57:11
差別や虐待を止めればその国は歴史時間的に一瞬で消滅する
798日本@名無史さん:2007/12/27(木) 09:44:29
795 新羅系の大柄の男と女の見本みたいなもので、現在でも小柄な女が好まれるように
大柄の女は味がよくなく、おとこまさりとして戦争に使える
799日本@名無史さん:2007/12/27(木) 16:12:53
継体天皇の皇子麻呂古皇子は継体の故郷越の国(越前)に帰り、
三国氏の祖となった。
800日本@名無史さん:2007/12/27(木) 23:22:20
>>795
岩波解説だと
ヲホド→ヲ=小さい ホド=塊
で曽祖父のオホホド→大きい塊に対応するみたいだが
801日本@名無史さん:2007/12/28(金) 09:15:12
799 そこは新羅系ですか
802日本@名無史さん:2007/12/28(金) 09:55:42
>> 上野千鶴子も女性差別は農耕社会になってからはじまったといってるし

古〜〜〜〜 (pupupu)
いつまでも屁理屈婆ァに騙されてるんじゃねえよ。
例えば、ttp://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/050216/01.html

ジェンダーなんぞ、Bや在と同様の、卑しいタカリ利権に成り下がりつつある。
嘘だと思うならどこの市町村でもやらされてる「男女共同参画センター」とやらの活動を見てごらん。
いかがわしいPKOや市民団体(?)に、どんだけの税金が吸い取られていることやら。
803日本@名無史さん:2007/12/28(金) 09:57:02
>>796 上野千鶴子も女性差別は農耕社会になってからはじまったといってるし

古〜〜〜〜 (pupupu)
いつまでも屁理屈婆ァに騙されてるんじゃねえよ。
例えば、ttp://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/050216/01.html

ジェンダーなんぞ、Bや在と同様の、卑しいタカリ利権に成り下がりつつある。
嘘だと思うならどこの市町村でもやらされてる「男女共同参画センター」とやらの活動を見てごらん。
いかがわしいPKOや市民団体(?)に、どんだけの税金が吸い取られていることやら。
804日本@名無史さん:2007/12/28(金) 18:51:21
継体のはなしをしてくださいよ
805日本@名無史さん:2007/12/28(金) 18:52:04
きょうの晩ご飯はおでんです、関東炊きと言います
806日本@名無史さん:2007/12/29(土) 06:04:18
ゴピペすいません

強権で関東から北部九州、半島南部までをまとめてたワカタケル大王の死後
後継者難のため遠隔地の豪族の自立性が高まり一種の大王空位時代が出現した
これは20年ほど続き、さすがにこれではダメだと畿内の有力豪族の間の妥協がなって
傍系ではあるが有力な王族だった継体を大王に推戴した
継体は時間かけて関門海峡以東を固めいよいよ懸案の半島南部の権益の回復の為に
新羅攻略軍を編成します
でも第一義は北部九州を支配している筑紫君磐井に対する挑発で戦闘に持ち込み勝利すること
狙いどおり北部九州の支配権は旧に復しますが半島権益の回復には失敗します

私の独断にすぎません
議論しませんか?
自分では自信ありますがそれに固執する気はありません
専門知識のある人に教えて頂きたいのです
807日本@名無史さん:2007/12/29(土) 10:02:28
四国の一部には葬式も神道でやってるとこがあって、仏教は伝わってないみたいなんですが
808唐松山:2007/12/29(土) 14:58:11
強権で関東から北部九州、半島南部までをまとめようとしたワカタケル大王
強権だけで 纏めようとした 恐怖政治の失敗。
死んだら 元の木阿弥
継体を大王に推戴したのは 経済建て直しのため。
大和は政治の中心に成れても,経済の中心地には成れません。
海外は 百済と新羅の 2本立てを1本に纏め 交易の利権による利益確保

そもそも 経済疲弊の原因は、応神、仁徳稜の建設にある。

809日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:36:24
こいずみ改革はインチキやったのかな経済的痛みが続いてるしこれからも痛みがドンドコ大きくなるみたいなんですよ
810日本@名無史さん:2007/12/30(日) 00:10:36
よく高天原はどこなのか?という論争があるが、
日本の古代史研究で重要な「延喜式」では、
高天原は奈良県御所市の高天台付近とされているのを知っているだろうか?

つまり、延喜式が編纂された西暦10世紀の時点では、
京都朝廷の公式見解では、高天原は大和国の一地域とされていたのである。

このへんには、それゆかりの神社や地名が多く存在している。
こういう地域は、日本の他の地域にもあるが、
それらは後世にそのような伝承が出来上がった可能性がある。
九州を高天原とする伝承などは、神武東征が何なのか?という伝承によって、
後世の人たちが独自解釈した可能性が強い。

が、奈良県御所市付近は、少なくとも西暦10世紀の時点では、
京都朝廷からそのような見解を持たれていたというのは大きな事実だ。

で、奈良県御所市にある高天原伝承ゆかりの地名や神社はというと

高天彦神社
http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/takamagahiko.htm
天安川神社
http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/amenoyasukawa.htm
天香山神社
http://www.norichan.jp/jinja/renai/amenokaguyama.htm

また、天安川神社の祭神は天尾羽張神で、この神様は古事記の
天安河の話に登場する。この尾羽張は、尾張氏・尾張国の名称の元に
なったと思われ、皇室と兄弟の家系である尾張氏の以前に拠点であったと思われる。

古事記・日本神話の伝承地〜高天原史跡ガイド
http://takama.sakura.ne.jp/index.html
811唐松山:2007/12/30(日) 09:46:07
高天原は 特別な原っぱ
特別でなくなった時点で ただの原っぱ
そこには 何も無い。
812日本@名無史さん:2007/12/30(日) 11:34:18
古語拾遺 という 天皇家とともに祭事を司っていた齋部氏の807年の史書がある。
主旨は、日本の祭事の正当性を故事にならって、
故事祭事の権威として朝廷に意見したものである。

ここに驚くべき一文がある。 
照堯暉於八洲.寶?惟新,蕩舜波於四海
つまり、 堯舜(漢民族の神)を故事として共有しているのだ。

他の氏なら習ったで済む。 忌部氏が祭事について故事を紐解いた古書に
堯舜を注釈なく引用しているところに、大和倭人の祖の正体をみるのである
813霰黒齊:2007/12/30(日) 12:10:15
高尾張だな。
これは賀茂氏に伝承されていた説話が記紀に編入されたんだろう。
葛城と賀茂の関係がイマイチ記紀には出て来ないんだが、何でだろう?
814日本@名無史さん:2007/12/30(日) 14:35:08
堯、舜は神じゃなくて帝。
そもそも跋文の修辞だし。
尭風舜雨ってことだな
815日本@名無史さん:2007/12/30(日) 18:48:24
堯舜禹
816日本@名無史さん:2007/12/30(日) 22:23:47
忌部氏が、日本の天皇あてに、天皇の祭事の正当性を訴える文書に、

堯、舜 という漢民族にとっての、神話上の皇帝(紀元前1500年レベル)の祝辞を
記述される事は 堯、舜 という中国の故事は、日本にとっても共有すべき故事だったという
事実を表している。 天皇祭事の正当性を天皇に直訴する書面であり
 修辞などで流せる書の性質ではない。
817日本@名無史さん:2008/01/01(火) 19:56:33
応神をまつる八幡神社のすぐとなりの樟葉に宮をかまえるのはありえることだよな
818日本@名無史さん:2008/01/01(火) 20:28:48
八幡神社はあとから建てた
819日本@名無史さん:2008/01/02(水) 17:02:37
近江の息長氏の根拠地から、淀川水系へは航行可能なのかな?
106 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/02/27(火) 03:19
>>105
樟葉宮と弟国宮はじつはかなり近い。
というよりも桂川/宇治川/木津川をはさんで向かい側。
ここは京都府からの桂川と、滋賀県(琵琶湖)からの宇治川と、
三重・奈良県からの木津川という関西の三川が合流して淀川となる地。
http://www.mapion.co.jp/cgi/m?no=3091617500188000032
この地図で左上が弟国宮、左中が天王山、左下が樟葉宮。
それぞれには長岡天神と岩清水八幡宮という後に要地となる。
継体天皇は
http://mentai.2ch.net/history/kako/980/980907202.html
820日本@名無史さん:2008/01/03(木) 09:03:09
でも継体帝が新羅系の土地を転々として百済系の奈良に入れなかった理由が分からないよな
821唐松山:2008/01/03(木) 14:20:23
継体帝が立てられた理由が 経済再建なら
淀川の津を都として活躍する。
神功に滅ぼされた 大和に 経済再建の何がある?

せいぜい 弱体化した 栄光の亡がら
822日本@名無史さん:2008/01/03(木) 14:54:14
■第25代=武烈天皇についての間違ったイメージを正す

 実は、武烈天皇が暴君であったという説は、日本書紀編纂者グループによる創作である。つまり、捏造である。
日本書紀の編纂者たちは、武烈天皇の時代の歴史が、2倍年暦(半年を1年間と数える古代の暦法。したがって、通常暦の1年が2年になる)で
記録されていることを知らなかった。
 そのため、武烈天皇は18歳で崩御したとか、武烈天皇は暴虐行為を行った天皇であったとか、間違ったことを記しているのだ。
武烈天皇が亡くなった年齢は18歳ではない。実際はその半分、9歳であった。したがって、武烈天皇に日嗣(皇太子)がいなかったのは当然なのだ。
 また、上記の「妊婦の腹を割いて胎児を見た」だの、「人の生爪を剥して山芋を掘らせた」だの、「女を馬とつるませた」だのといった話は、全て捏造である。
9歳未満の子供がそのような行為をするわけがないではないか。
 武烈天皇は、9歳で生涯を終えた『悲劇の天皇』なのである。『武烈』という諡号も、この天皇には相応しくないのである。
小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと[武烈天皇の本名])に諡号を贈るとすれば、幼哀天皇とするのが適切である。

 小泊瀬稚鷦鷯天皇の名誉のためにも、ここで暴君説を否定しておく。
823日本@名無史さん:2008/01/03(木) 23:34:04
記紀編纂者の創作 というのは同意。

 ようは、何故武烈を落として 継体を上げたのかだ。

記紀の時代
誰の権力を消して、誰の権力を上げたかったのか。  それにつきる
824日本@名無史さん:2008/01/04(金) 00:44:13
武烈名君説↓
825唐松山:2008/01/04(金) 09:51:31
2倍年暦は 有りません
どうしても 短くしたいなら
各天皇治世−19*n回

理由
書紀は 19年7閏法で書かれている、19年7閏は当時の暦法に合致する 19年7閏を崩さないためには これしかありません。
さらに 武烈天皇は 普通暦
826日本@名無史さん:2008/01/04(金) 10:00:30
中国に行って2倍歴を使ってますと言うと殺されるはずなので使ってないと思う
827太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/04(金) 11:04:17
>>825
2倍暦がないというなら>>88の表の月の右半分がないのを合理的に説明して
下さいな。
828日本@名無史さん:2008/01/04(金) 11:20:45
漢書天文志に月日の吉兆について載っているから参考にするとよいでしょう
829日本@名無史さん:2008/01/04(金) 13:33:42
俺流の年代論はよそでやれ。
830汽笛一声:2008/01/04(金) 14:11:33
>>825日本書紀の一部は2倍年暦であることは常識化しています。
831日本@名無史さん:2008/01/04(金) 18:48:19
コテハンは継体天皇の話題より、年代論を語るのが目的で来てるとしか思えない。
古代史スレはいくらでもあるのだから、継体専用スレで自説の開陳はやめてほしいね。

スレジャックはやめましょう。
832日本@名無史さん:2008/01/04(金) 18:51:57
全くだな
833霰黒齊:2008/01/04(金) 21:32:51
大伴氏は継体以前からのヤマトの氏族なのか?
何故だか疑問に感じる。
本拠地は河内だし…
継体擁立に深くかかわっているし、
アベやカシワデみたいに越からの繋がりはなさそうだけどな、
そう言えばヤマトでの本拠地はアベ、カシワデ、大伴と東から西に並んでいるなぁ…
磐余を囲んでいるよな。
834サガミハラハラ:2008/01/04(金) 23:36:57
継体天皇の謎のひとつに崩御年があります。
よって、年代論は避けてとおれないのです。
835日本@名無史さん:2008/01/04(金) 23:55:01
>>833
室屋が大連になった雄略即位時が転機、
それ以前は倭建や仲哀の従軍記事があることから想像すると…
836日本@名無史さん:2008/01/05(土) 04:00:31
>>834
まず清寧〜宣化の期間を開化の在位期間60年に合わせる目的があった
ゆえに日本書紀の継体の在位期間や初期設定の崩御の年は信頼性がない
百済資料の引用は継体の死と同一性が低く同一人物ではない可能性がある
じつは古事記の崩年干支と宝歳は527年から43年後の敏達即位前年570年までの期間を表し
顕宗の宝歳数38が雄略崩御の489年から継体崩御の527年までの期間を表している
以上のことからこれらの数値は実際の年齢とは考えられない
837サガミハラハラ:2008/01/05(土) 08:33:37
とりあえずこのあたりの年代論については、「畿内王権生成史の謎」の296からお読みください。
>>836につきましては、のちほどお答いたします。
838日本@名無史さん:2008/01/05(土) 20:44:15
>>833
>大伴氏は継体以前からのヤマトの氏族なのか?
>・・・本拠地は河内だし…
その名の通り王家の直属家臣団の首領だったのでは。連姓の両雄たる
大伴氏も物部氏も本拠地が河内からして、応神王家以来の家臣か?
839霰黒齊:2008/01/05(土) 21:35:28
大伴も物部も単なる一氏族ではないのかも?
ワカタケルに付き従った大伴と
オホド擁立に尽力した大伴は別の氏族かもしれない。
かりに同一氏族だとしたら…
オホドはワカタケルとの血縁があると考えるべきなのかも?
ホムダワケは河内のみの王権だったのだろう。
その間にもオオの地域には王権はあったはず。
例えばオオササギだ。
そして、その系譜のワカタケルはオオの地域の王であり
畿内から吉備、そして関東まで覇権を確立した大王。
その血縁にオホドがつらなっていても何の不思議もない。
840日本@名無史さん:2008/01/06(日) 02:41:19
>>839
>オホドはワカタケルとの血縁....
なのは、ありえないだろ。親族なり姻族ならそれを主張するだろ。
応神5世孫などという他人同然の血縁を名乗る必要もなくなる。
841日本@名無史さん:2008/01/06(日) 04:11:53
だから大連になった時期が重要なんであって
それを軽視すると素人のようにミスリードする
842霰黒齊:2008/01/06(日) 16:06:38
オホドとワカタケルはオサカオオナカツヒメ繋がりだからなぁ…
オサカオオナカツヒメは何人もの人間が名前とオサカの武器庫の管理を受け継いでいたんだろう?
キングメーカーだな。
843日本@名無史さん:2008/01/06(日) 21:13:40
だから 中国の越だろ。
蘇我氏も 蘇州の蘇。 みんな 呉越のことだ

継体とは、劉宋なきあと、
漢皇帝を継体するって意味だろ
だから劉宋の後は南朝に行ってない。
844日本@名無史さん:2008/01/07(月) 09:35:32
難波吉志とかの吉志と同じ職業の名前が吉志で、大友で、蘇我ですよね
一族は別にある
845日本@名無史さん:2008/01/08(火) 02:16:32
・なぜ?継体なのか?福井越王が?
・蘇我は継体以前にヤマトに本当にいてたか?
・欽明は、本当に継体の子供か?
・継体→欽明は、神道か?
・継体→欽明王家に神道は受け継がれてはいないのでは?
・聖徳太子にも神道はないのでは?
・大化のクーデターは、神道サイドからの巻き返しでは?結果は?

846日本@名無史さん:2008/01/08(火) 02:23:11
そして
・欽明から始まる、あのあまりにおぞましい〈近親相関の繰り返し〉は、何を意味するか?

・欽明に隠された血とは、何か?
847日本@名無史さん:2008/01/08(火) 09:53:12
近親相関するしかない、外国の王族との付き合いがないので、平民と結婚するようになったのは
つい最近からですよね
848日本@名無史さん:2008/01/08(火) 11:31:10
甘いな!

欽明以前と〈欽明以後の近親相関〉は意味が違う!
しかも、〈欽明以後の数代の近親相関〉は、おぞましい過ぎる!
以前は、地方の豪族との血のつながりをもとめていたが、明らかに〈王家による血の支配〉に入る!許されているのは、蘇我のみ!
849日本@名無史さん:2008/01/08(火) 13:02:51
たぶん!

継体は、代打起用であって、欽明は継体とは、血の繋がりはないのでは?
継体の実息子のお粗末な事は何を意味しているか?
また、継体も嫁さんも歳をとりすぎてもいる!
欽明は、誰の子供か?

850日本@名無史さん:2008/01/08(火) 14:16:05
宮  
A飛鳥  男朝津間若子
B石上  穴穂
C初瀬  稚武
D磐余  白髪武広国押
a飛鳥  ヲケ
b石上  オケ
c初瀬  若雀
d磐余  ヲホド
E勾   広国押武金日
F檜隈  武小広国押楯
G磯城嶋 天国押排広庭

a〜dは不自然な流れだ、代数を増やす目的で複製した宮名だろう。
大文字が実在したと考えると、継体などがつくられた時期の推定は近江に宮をおいた頃、か…?
851日本@名無史さん:2008/01/08(火) 16:01:30
>850
清寧天皇の後が安閑?
継体天皇を否定するなら
安閑、宣化も否定せんとならんだろう。
欽明の母は仁賢皇女だが、
手白香皇女の出自も直さないとならん。
852日本@名無史さん:2008/01/08(火) 21:03:53
誤伝か異伝か知らんが播磨国風土記に手白髪命がオケ・ヲケの母として
記紀の清寧や飯豊の代わりに兄弟を迎える役で登場している
手白髪命の親を別に求めると類似の名を持つ清寧の姉あたりに考えるといいか?
飯豊は系図が市辺の妹なのか娘なのか混乱している不確かな存在
仁賢と欽明は類似した妃と子女を持つ理由は本来同一人物だったから
清寧の次が安閑なら安閑紀に廬城部連キコユが再登場しても不思議ない
853日本@名無史さん:2008/01/08(火) 22:12:12
自作自演をする必要がないのに何故やるの?
854日本@名無史さん:2008/01/08(火) 23:49:34
冬厨かな?
何れにせよモンスター性人格障害の疑いがある
スルーすべし
855唐松山:2008/01/10(木) 20:01:44
オケ オが付くから 長男
ヲケ ヲが付くから 次男
双子です、 でも 年齢を調べると 2才違い。

ホ38019 フタゴうむ ヱのナモチヒト オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ 
其 大碓皇子、と小碓尊の 生まれた当時の名前です。
856日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:33:47
そーゆー考え方もあるが実際の年齢は本来どうでもいい
857唐松山:2008/01/10(木) 21:16:35
おかしいのは 応神の太子菟道稚郎子から
応神崩御の時には、太子菟道稚郎子は成人であり、子供がいてもおかしくない筈
二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢の時 応神の代理で対応しているのに 即位を拒む、
仁徳崩御後 稜墓を作ったとして 広開土王碑より 早くないと 経済的に築造不可能
そうすると 履仲即位西暦400年 これ以降暦の不当な所は無い 
○○天皇は居なかった としたら 其の分他の天皇の治世を延ばさねば成らない。
余り無茶は出来ないが 可能性は有る。
858日本@名無史さん:2008/01/11(金) 14:45:37
菟道稚郎子は兄の仁徳天皇に殺害されたんだよ。
帝位を譲り合って自害なんて、
仁徳天皇の経歴に傷をつけたくなかっただけ。
仁徳天皇は皇太子だった弟を殺して即位した。
子供は成人していようがいないこともあるから
どちらでもよい。
だいたい、仁徳以前はかなりの割合創作&架空が含まれる。
仁徳が存在したことがほぼ「確実」である最初の大王。
859太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 15:00:57
安康殺害とか崇峻殺害とかあるから、殺害ならそれはそう書かれてあるはずだ。
君の考えすぎ。もっと古い綏の場合は綏が手研耳命を殺したとはっきり紀
に書かれてあるから、仁徳のときのみ隠すことは考えにくい。
860日本@名無史さん:2008/01/11(金) 15:15:13
雄略天皇の場合は意図的だよ。
「大悪天皇」なんて平気で書いてある。
雄略天皇紀には大伴氏の家伝によったと見られる
箇所もあるから(大伴を「吾が君」と呼んでいる)
他氏の伝承から引っ張った箇所が多いからじゃないかな。
仁徳が直接手を下さなくとも、弟を追い詰める何かがあった気がする。
そもそも、仁徳は菟道の前に別の弟一人を殺したことは明記されてある。
皇位継承争いにより兄弟を殺すのは美談として書き記すが、
応神のれっきとした後継者であった菟道を殺すのは美談になりようが無かったので、
創作したとか。
まあ、史料があるわけではないのでこの辺にしておくが。
861太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 15:29:34
>>860
君がそう創作したわけさ。大山守命は殺したあるのになぜワキイラツコのほうは
殺害したのを隠さねばならぬのか?? 大山守命も皇位の候補者じゃないか?
結局君の考えすぎである。隼別皇子も殺せと仁徳が命を出したのに、何故
ワキイラツコの殺害のみを隠す必要があるのか?
出かけるから書き込んでおけよ。
862日本@名無史さん:2008/01/11(金) 15:38:21
>>861
応神のれっきとした後継者であった菟道を殺すのは美談になりようが無かったから
だと書いたが?
文盲君だなw
君の日本書紀崇拝にも困ったもんだ。
菟道はなぜ大王にならなかったんだい?
父から帝王教育を施され、兄の仁徳にも勧められているのに。
863日本@名無史さん:2008/01/11(金) 18:09:54
だからー 記紀の5世紀ころなんて 嘘だって。

今、1800年から1900年の先祖の歴史を書けって言われて
おまえら書けるか? 書けるはずないのに、
継体を立てて、武烈を悪者にしたんだから、
単純に、皇統の豪族の争いが天武の時代にあったというだけ事。
応神の扱いは、単純に書記官(帰化漢人の子孫)の先祖との繋がりで持ち上げただけ。

 そもそも、縄文1万年の歴史がある日本人のなかで、
 皇紀2600年前の神武を祖としてるストーリーの時点で無意味。
 記紀の皇紀が1万年分つづいていたら、虚構でもどんなにすばらしかった事か
864日本@名無史さん:2008/01/11(金) 18:17:00
>>863
5世紀はかなり史実がまざっているよ。
何より、この頃日本にはすでに文字があった。
何の知識もない人が100年前の出来事を書くのは無理だろうね。
だけど、大王家、諸々の豪族、
さらには中国や朝鮮の史料まで集めて書かれたのが記紀だよ?
神話の部分は嘘だが、
5世紀の部分は中国の史書と照らし合わせても信憑性が高い。
865日本@名無史さん:2008/01/11(金) 18:28:38
>>864
倭の五王の話もないじゃない。
100年前じゃないよ。200年から300年前が5世紀だよ

武烈の残酷な記事なんて、劉宋の記録じゃない。 
倭の五王の記述もない。 表を上げた記述もない。
記録があったとは思えないねー 記録がないなら創作しかない。
866太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 18:28:49
>>862
そんじゃぁ、大山守命を殺すほうは美談なのかい? 隼別皇子のほうも美談か?
しっかりしてくれよ。w どうしてそっちは殺して隠してないのにワキイラツコ
のほうはヒタ隠しをしなければならんのか? その合理的説明がないんじゃぁ
お前の創作としか言えないだろうが? 崇拝とか崇拝でないとかでなく、そう
いう説明はしっかりやりなよ。それがなければお前の空想じゃないか?
別にワキイラツコのほうを、大山守命を殺してれば隠すこともあるまいに、書く
だろうがね。w
867日本@名無史さん:2008/01/11(金) 18:35:07
>>865
倭の五王の話>
あるじゃない?
原文読んだことない人?
何年に中国へ使者を送ったとちゃんと書いてありますよ。
まったく記録が無いのに、これだけのことを300年後に書けるわけですか?
当時の遺物からも、5世紀の人が文字を使っていたことは
わかっているんですよ?
坊や、大丈夫かな〜?
868日本@名無史さん:2008/01/11(金) 18:37:01
>>866
862ではないが、大山守殺害は明らかな美談。
弟のウジを殺して帝位を乗っ取ろうとしたので、
弟思いの仁徳が殺してやった、と言う話になっている。
それで、なぜウジは即位しない?
なぜ自殺する必要があるのか?
869唐松山:2008/01/11(金) 20:08:31
西暦273年 神功元年 治世18年間
西暦294年 応神元年 治世41年間 
西暦334年甲午 応神崩御 聖寿63歳
西暦337年 仁徳元年 治世68年間?
西暦367年丁丑 古事記による 仁徳崩御 聖寿75歳
西暦400年 履中元年 治世6年間 ここから西暦の干支と朔の干支が合う

今 この辺で どの様な 状態なら 読めるか? 考慮中
仁徳元年 仁徳45才 即位する年齢は とっくに過ぎている。
仁徳が 自分から進んで天皇に成る事は無い。
菟道稚郎子40才 やはり即位する年齢を 過ぎている。
菟道稚郎子に子が居れば 20才くらい 即位する年齢と思われる。
新羅 345 倭王が国書を送り国交断絶  
364 倭兵が大挙して侵入  仁徳稜建設の為の 人足集めか?

870太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/11(金) 20:20:09
>>868
即位しない理由はいろいろ考えられるだろう? ワキイラツコの
性格もあるだろう? それに精神病だったかも知れないし、天皇に
なるより他のことをしたいという場合だってあるだろうが? それ
を無理やり先帝の強制的に言われれば気が弱ければ苦にして自殺も
あるだろう? そういうことを君はひとつひとつ検討していずれでも
ないとし、なにやらの文献記録の具体的行動を調べ上げて殺害され
たなら、どういう点でそうなのか解説しなければまだ殺害というのは
早計だろう。君は空想力捜査官か? こちらを紀の崇拝ばかりして
いる旨を強調しているが、君は探偵小説の崇拝ばかりやってるでは
ないか? 推理小説の読みすぎなんだよ。w
殺害とは明らかな美談ではない。殺害はスキャンダルであり、美化
にはほど遠い。
871日本@名無史さん:2008/01/11(金) 20:47:32
倭珍こと宇治天皇が消された理由は陰陽五行説による単なる数合わせ、
火徳の応神から水徳の仁徳の順にするためでしょう
872唐松山:2008/01/11(金) 20:49:05
追加
新羅  344 倭国が花嫁を求めたが辞退 誰の花嫁か?
履中の 誕生は 仁徳16年 西暦352年でまだ生まれていない。
菟道稚郎子に 孫が居れば 西暦333年生まれとして 12才 そろそろ 考えておくか?
ちなみに 菟道稚郎子の嫁さんは、 312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず では無いか?
873唐松山:2008/01/11(金) 20:59:48
訂正
孫=×
子=○

874日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:43:03
>>867
>何年に中国へ使者を送ったとちゃんと書いてありますよ
どこに?
あったら倭王○は何天皇なんてはっきりするはずだろ
875日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:49:35
>>865
天皇が中国王朝にペコペコした不名誉な歴史は書かない。

倭の五王の遣使記事などは当然削除の対象になるし、
僅か120年前、600年の遣隋使記事がない理由も同じ。
神功皇后は天皇じゃないから、かろうじて魏志が引用された。
876日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:17:17
>>870
そこまで天皇に向かない皇子を応神が後継者にすることは
ありえないだろうね。
即位せずに死んだ皇子としてはだいぶ後に草壁皇子があるが、
こちらは母親の持統天皇が政治の実権をもっていたわけで。
ウジの母親は皇族でも尊母でもない、即位すれば
ウジが政治をするしかなかった。

太国君は他スレでは無茶苦茶な推理ばかりを投稿しているのに、
ここではやたらと史料に書かれてあることは絶対だと言うんですね。
ほかのスレでも、もっと史料に忠実になったら?ぷっ。
877日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:46:47
コテハンは、いい加減に継体スレにまで押しかけて、我流の年代論を
ダラダラ書くのをやめてほしいものだ。

スレタイに即して、継体大王の人物・業績について語れ。
継体スレをコテハンの我流年代論を展開するスレの植民地にするな。
878太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/12(土) 15:16:39
>>876
お前、日本書紀のスレのほうに書け。ウジノワキイラツコ関係でなく繼體のスレ
だからちっとは関係あるだろうが文句を言われる。なぜ大山守命とか隼別皇子
とかは殺害しようとなってるのにワキイラツコはお前はヒタ隠しにして美談に
しているという合理的理由をな? お前の論法なら、紀は大山守命のほうも自殺
に書いとけばよかったではないのか?ww あっちで説明してくれ。さらに
お前の論法だと、繼體が武烈を殺したんだということにもなってくるぞ? ww
879日本@名無史さん:2008/01/12(土) 15:34:07
>>878
いいから、太国は出て行け。
お前こそ場違い。
880唐松山:2008/01/12(土) 17:22:48
続き 
西暦294年 応神元年 治世41年間 
西暦297年 菟道稚郎子 誕生
西暦308年 応神15年 菟道稚郎子 百済人より文字を習い始める。
新羅 312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず 太子菟道稚郎子の妃
二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢
西暦334年甲午 応神崩御 聖寿63歳
西暦337年 仁徳元年 治世68年間?
新羅 344 倭国が花嫁を求めたが辞退
新羅 345 倭王が国書を送り国交断絶
西暦352年 履中 誕生
364 倭兵が大挙して侵入  仁徳稜建設の為の 人足集めか?
西暦367年丁丑 古事記による 仁徳崩御 聖寿75歳

この年号で見ると 皇室、菟道稚郎子 の周りに 百済と新羅が居る
当然この2国は 仲がよくない 文字を押さえた百済と 妃を提供した新羅
百済としては 新羅に文字を提供して欲しくない これが応神28年の記事
その後 皇室の文字による記録は この時の百済人グループが担当

後は推して知るべし。 いろいろ考えられる。
 
881日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:31:13
唐松も出て行け。
スレ違いを指摘されて逆ギレしていやがらせか?
882日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:34:13
唐松山
君の話も継体天皇から激しくずれている。
太国君と一緒に話がしたいならスレへどうぞ。
883日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:34:40
>「応神五世孫」系譜と出身地、息長氏などの後背氏族、任那割譲、
>相次ぐ遷都、磐井の反乱、崩年・年齢、陵墓、継体・欽明朝の内乱 etc..
>まだまだ謎の尽きない継体天皇について、心ゆくまで語りましょう。

あんたらの自己流の年代論はよそで存分にやればよい。ここは継体を語るスレ。
884唐松山:2008/01/12(土) 19:31:08
追い出す前に
応神5世孫 の 文字を消すべきだと思うが ?
885日本@名無史さん:2008/01/12(土) 19:37:05
                                                 
 古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
 シラキとは、知城(知らす城)の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉である。
シラキとは金城(現在の慶州)の古名なのである。金城とその周辺地方をシラキと呼んでいた。
 なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領、真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
 実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
 日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
 大和朝廷が半島南部を支配するために置いてた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。

 興味深いのは、漢朝が半島に四郡を置いて支配していた紀元前1世紀の時代においても、
漢朝は韓(カラ=シラキ)を漢領土に組み込むことなく、その独立を認めていたことである。
 この事実は、紀元前1世紀の時代に、すでに倭人と半島漢人の間には友好的関係が確立されていたことを
暗示している。

886日本@名無史さん:2008/01/12(土) 19:38:49

応神天皇が西暦294年に即位したというプロパガンダをしている
工作員がいるスレはここでつか?




887日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:29:03
継体と近江毛野は同一人物
888唐松山:2008/01/13(日) 11:16:07
ここの 住民にとって 5世孫は 解決済み らしい
889日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:27:49
応神と継体帝と記紀の 繋がりの肝は、

     渡来人

1・記紀を編纂したのは、渡来人の子孫
2・継体帝の子孫が突如、渡来人の村に母屋を持つ
3・応神帝が渡来人を招き、文字を伝える→ ここが味噌

記紀として重要ではない事が、嘘と一緒に書かれている。
応神帝の時、東漢氏の先祖が千文字と論語を伝えたとあるが、
千文字が成立したのは470年頃。

応神と継体と絡みは、東漢氏の見栄とハッタリが色濃く、
千文字の話からみて、5世紀以前の伝承など無かった。と見てよい

渡来と縁の深い応神が祭られると渡来の地位も上がるという図式。
渡来人の村に縁の深い豪族だった継体系を持ち上げ、
渡来人の村に縁の薄い豪族だった武烈系は、
南朝の皇室の悪行を記述される。
書記官に歴史がすっかりグダグダにされたって事だ。
890唐松山:2008/01/13(日) 15:43:16
応神時代に 百済人に拠って 漢字が伝えられた、
この百済グループが 皇記(天皇記)を漢字で記録する(伝世)
伝世するに従い 漢字の実力の劣化 
書紀編纂時には 誤字、脱字ばかりで 資料として 使えなかった。
891唐松山:2008/01/13(日) 15:53:13
つまり この百済人グループは 文字を独占する事により
その後の半島と同じ様な 支配体制を布ことした。


892日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:33:00
地名も漢字が使える渡来百濟陣によって着けられたので、ともろぎとかわけわかめな名前がある
893日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:28:45
>>545 :皇統が続かなかった天皇って、負のイメージを背負った人が多いよね。
崇峻、孝徳、称徳、平城、陽成、冷泉、花山、崇徳、称光なんかがそう。
欠点があったから後が続かなかったのか、続かなかったからあまり良く評されないのか……。

気のせいだろ
現皇室の直接の先祖じゃないからと言えないこともないが...
894日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:42:00
>>893
現在、北朝の天皇が退けられて
南朝の天皇が歴代天皇の代数に数えられているが
元皇室の直接の先祖は北朝であって
南朝じゃないしね
895日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:45:54
東山天皇10代の孫である華園さんや徳大寺さんの
お子さんあたりが皇室の補欠で何も問題ないのではないですかね?
896日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:50:06
>>895
旧皇族(伏見宮系)意外の男系皇族候補を探るスレ3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1185171341/
897日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:31:27
そろそろみなさんスレタイとおり
継体天皇の話題に戻りましょう
898日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:32:00
女系では悠仁親王のはとこ半にあたる東久邇家の男児は
男系では崇光天皇の22世の孫にあたる
899日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:48:49
オオト王って、本当は応神大王とはアカの他人の渡来系豪族なんだろ。
900日本@名無史さん:2008/01/14(月) 15:43:04
継体天皇の父方は近江国坂田の豪族
継体天皇の母方は越前国坂井の豪族

どこから渡来系豪族が出てくるのか
901日本@名無史さん:2008/01/14(月) 16:08:44
応神 河内王国
継体の子供たちは渡来人村の母屋で育ってるね
902唐松山:2008/01/14(月) 16:56:26
継体は新羅の王女から 数えて6代目
応神から数えて 7代目
903日本@名無史さん:2008/01/14(月) 22:54:44
唐松山くん

 渡来人の指摘はいいが、 それ百済人じゃなくて呉越の漢人だから。
東漢氏も秦氏も、自称 漢の霊帝の子孫とか 始皇帝の子孫とかあくまでも漢人ね
朝鮮系だなんて一言も言ってない。 9世紀まで百済皇族の子孫はそれなりに地位もあり
もし百済子孫ならそう自称するだろ。
904日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:03:32

できれば、「継体と欽明は、本当に親子なのか?」とい事にも触れて解明いただきたいです。
また、「欽明と蘇我一族の関係」にもお願いします。

905サガミハラハラ:2008/01/16(水) 23:24:00
>>904さん、このサイトの畿内王権生成史の謎のレス296からお読みになるのがよろしいでしょう。
上げておきました。
906日本@名無史さん:2008/01/17(木) 02:10:57
有難うございます。296から読んでいきます。
疑問点が出ましたら質問させて貰いますので、よろしくお願いします。なるべく1000までは少し時間下さい。
907日本@名無史さん:2008/01/19(土) 09:19:13
百済皇族は高句麗から分かれたので
908唐松山:2008/01/19(土) 13:26:20
百済国の自出は
梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷 東夷 百濟  に拠ると

馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戸,百濟即其一也。後漸強大,兼諸小國。
晉平二郡地矣,自置百濟郡。晉太元中,王須
西暦251年(呉太元1年)頃 王須が 百濟郡を置く。
と書かれています。
魏の滅亡(西暦265年)を以って独立?
神功渡海が 西暦272年
倭と通好を結ぶ。 
任那は倭が治める。
新羅は 其言語名物有似中國人,
と書かれており 「建国始めから漢字を使えた。」と思います。
其の分 国の経営はしっかりしており、倭の提案を受け容れない。

新羅 287 倭人が侵入
295 倭人討伐を議するも水上戦闘不慣れにより中止
300 倭国と国使を交換
312 倭国が王子(ウジノワキイラッコか?)の花嫁を求めこれに応ず 

百済本記 は 歴史に 合わせられない。


909日本@名無史さん:2008/01/26(土) 05:50:03
>>899
【継体大王】 「なぜ天皇は越前から皇位に即くことができたか?」など、鯖江郷土史懇談会が「継体」研究1冊に
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1201240977/
910日本@名無史さん:2008/02/16(土) 01:43:05
継体は雄略崩御後の政治的混乱を収拾した(結果的にだが)名君という事でどうだろ?
911日本@名無史さん:2008/02/16(土) 11:50:07

隠密
忍者の起源を継体にみますが
いかがでしょう
912日本@名無史さん:2008/02/16(土) 14:21:01
手裏剣でも投げたっけ?
913日本@名無史さん:2008/02/16(土) 18:16:30
継体と欽明は親子?
914日本@名無史さん:2008/02/17(日) 11:27:46
うん。

親子。

爺孫みたいな年齢差だけど。
915日本@名無史さん:2008/02/17(日) 16:30:59
いや、そうじゃなくて・・・
欽明が継体の子なら、なぜ異母兄安閑、宣化が退位しなくちゃならなかったのかってこと。
安閑・宣化は次々死んだことになっているけど、
宣化天皇には親子ほど年の離れた異母弟欽明天皇でなくても
実の皇子があったにもかかわらず(安閑天皇には娘のみだった)、
以後宣化の系統は即位することができず
欽明の系統にとって代わられている。
欽明の系統にとってかわられた理由が継体の嫡子だったからというのならば、
安閑・宣化を即位させずに継体の次は欽明が継ぐはずだし、
継体が死ぬとすぐその皇太子だった安閑・宣化兄弟が没し、
以降この系統からの天皇が出ることがなかったのは
何らかの力が働いたとみるべきなのでは?
916日本@名無史さん:2008/02/17(日) 17:48:50
系図からの想像でしかないが濃い血の御子を作りたかったんじゃないかな?
それが箭田皇子であり敏達天皇。最終的には竹田皇子だが…
917日本@名無史さん:2008/02/17(日) 18:03:01
宣化は欽明母手白香皇女の同母妹橘仲皇女との間に
皇子を儲けている。
充分な皇位資格者だったはず。
918日本@名無史さん:2008/02/17(日) 19:49:36
恵波王(上殖葉皇子)は古事記では大河内若子の子
丹比神社(だったか)の祭神を調べたら納得できると思う
ちなみに妃に巨勢臣の娘を娶ってたので皇位継承者には縁遠かったようだ
919日本@名無史さん:2008/02/17(日) 20:55:27
上殖葉皇子=恵波王は必ずしも一致しないのでは?
古事記には大河内若子の子として火焔王、恵波王の
2人があげられてあり、上殖葉皇子と同一人物だと
する積極的な根拠もない。
丹比神社の祭神の一人に上殖葉皇子があり、
多治比氏の祖先だとされているが、
それと恵波王を結びつけるものがない。
920日本@名無史さん:2008/02/17(日) 21:12:03
どうしてそう考えるか分からないけど
↓これで納得できませんか?

> ▲『三代実録』巻十二貞観八年(八六六)二月廿一日丁夘◆廿一日丁夘。
> 左中弁正五位下丹眞人貞峯等賜姓多治眞人。先是。貞峯等上表曰。因土命氏。
> 百王之彜規。分姓成親。千古之茂典。姓乖其本。何記皇流。氏失其初。誰知天應。
> 私古記。桧隈廬入野宮御宇宣化天皇「惠波」皇子。惠波皇子生十市王。
> 十市王生多治比古王。此王生産之夕。忽多治比花飛浮湯沐釜。以斯冥感。
> 名多治比古王。成長之後。固執謙退。奏請求姓。因賜姓多治比公。便以名爲姓。
> 存其舊意。飛鳥淨御原天皇十三年十一月一日定八姓十三氏〈天武〉。
> 是時多治比古男左大臣正二位志摩公賜姓眞人。志摩眞人。是貞峯之高祖也
921日本@名無史さん:2008/03/01(土) 18:55:32
『新撰姓氏録』にも「多治真人 宣化天皇皇子賀美恵波王之後也」

恵波皇子=賀美恵波王=上殖葉皇子
922日本@名無史さん:2008/03/07(金) 11:20:22
911 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2008/02/16(土) 11:50:07

隠密
忍者の起源を継体にみますが
いかがでしょう



忍者というかミニ情報機関やミニ特殊部隊を持っていたような感じはする。
923日本@名無史さん:2008/03/08(土) 02:29:10
史書に現れる間者は二流
924日本@名無史さん:2008/03/09(日) 09:37:34
百済は支配層が高句麗で民衆が倭人、だから日本に来た百済も高句麗系が奈良と京都の中間に
位置して高麗の国、狛の国を設定した
925日本@名無史さん:2008/03/15(土) 00:07:43
保守
926日本@名無史さん:2008/03/18(火) 02:11:46
継体天皇以前は、全部架空かよ!参ったぜ。

大和朝廷が全国統一したのは、大化の改新の直前。
927日本@名無史さん:2008/03/18(火) 04:45:29
それについては蘇我宗家の功績が大きいかもね
928日本@名無史さん:2008/05/04(日) 00:24:58
やはり、解らない!

継体は何もの?
欽明は子供?
神道と仏教?
蘇我との関係?

929日本@名無史さん:2008/06/20(金) 00:53:42
上宮記逸文の系図ってのは信用できるの?
930日本@名無史さん:2008/06/20(金) 01:47:01
原田晶光堂
931サガミハラハラ:2008/06/20(金) 09:03:04
>>915この問題は二つの面があります。
古事記の編纂のとき天皇は、世に様々な異本や伝承があるので正しいものをまとめよといっています。
つまり、編纂当時天皇についても様々な系譜があったということです。
記紀に天皇として最終的にみとめられたほかに、以外にも天皇として即位した人物がいたわけです。カゴ坂王や飯豊皇女などです。また逆の場合もあります。
安閑宣化についても、記紀では天皇として認めているが、福井生まれの二人を天皇と認めず、血統の良い欽明を継体の次としている系譜があったということです。
たしか天智天皇の御子息の大友皇子も、天皇としてみとめられなかったが、明治になって即位したとみとめられたようです。
932日本@名無史さん:2008/06/24(火) 12:54:46
て言うか継体天皇が応神天皇の五世孫とかではなく、
単なる北陸の馬の骨だという可能性が高いんじゃないの?
系図なんていくらでも詐称できるし。
933日本@名無史さん:2008/06/24(火) 21:06:42
応神から継体の系譜は新羅の奈勿王から智証王までの系譜に似ている
両者は同一人物
934日本@名無史さん:2008/06/30(月) 12:45:47
>て言うか継体天皇が応神天皇の五世孫とかではなく、
単なる北陸の馬の骨だという可能性が高いんじゃないの?


でも当時だと血統がものをいうだろ。
935日本@名無史さん:2008/07/01(火) 20:19:44
>当時だと血統がものをいう

そうでもない
936日本@名無史さん:2008/07/06(日) 10:05:31
北陸と半島との交流を考えたら、普通にオホト王は在日のオヤジじゃないのか?
937日本@名無史さん:2008/07/06(日) 10:31:30
黒岩重吾さんは継体に新羅人の血が混じっていると推測している。

母方は半島系か?
938日本@名無史さん:2008/07/07(月) 22:42:09
書紀の曖昧な記述と僅かな二次資料しか残ってない現在で継体朝の真実知るなんてムリムリ。ダメ元で今城塚掘り起こしてみっか?
939日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:01:18
五世代後だと、数千人は子孫居るんじゃね?
って事でかなり薄いし遠いけど、血族だろう。
だと俺は思う。
後の源氏とかも同じだろ?
940日本@名無史さん:2008/07/08(火) 13:05:57
継体の出自を伝える『上宮記』の成立が
推古朝に遡る可能性が指摘され(黛弘道「継体天皇の系譜について」
『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年)、
傍系王族説が再び支持を集めるようになった。
『上宮記』逸文が載せられている『釈日本紀』の記述内容は
「上宮記曰一伝」という文章があり、
『上宮記』の作者が別の史料を引用していることが判る。
ただ単に継体即位から1世紀後の推古朝の伝承を書いたものではなく、
さらに古い資料に基づき系譜を載せている。
941日本@名無史さん:2008/07/08(火) 20:25:01
薄いながらも大王家と血縁関係にはあったんだろうな。
942日本@名無史さん:2008/07/09(水) 04:17:33
継体(26代)は中継ぎだろ…
欽明(29代)が継体の子供と言うのはあやしい!
今の天皇家は欽明からだと思っているが…
943日本@名無史さん:2008/07/09(水) 08:43:16
欽明もなんとなく存在感が薄い人だよね。

欽明についての研究ってどうなっているんだろ?
944日本@名無史さん:2008/07/09(水) 13:47:45
その当たりから蘇我が出てくる。そして蘇我一族と天皇家との婚姻が頻繁化する。
しかし、実態は蘇我一族の近親婚だった…
945日本@名無史さん:2008/07/09(水) 18:02:54
黒岩重吾さんは

蘇我氏=百済の王族

説だったなあ。
946日本@名無史さん:2008/07/09(水) 23:51:06
欽明『天国押波流岐広庭天皇.アメクニオシハルキヒロニワノスメラミコト』この名に込められた意味は?書紀に記された業績とどうしても釣合わないと思うのは俺だけ?あと百済本記の辛亥年の「天皇及太子皇子倶崩薨」これに欽明はどう関わってるの?要は政変起こしたって事?誰かナイスな答ヨロシク。
947日本@名無史さん:2008/07/10(木) 07:53:21
>天皇及太子皇子倶崩薨


これが史実なのか伝聞に尾ひれがついたのかが判定できない。


欽明と蘇我の関係も詳細にはわかっていないと思う。
948日本@名無史さん:2008/07/10(木) 13:09:27
〜太子皇子倶崩薨、の後に続く「後勘校者知之也」こんな文章で結ぶなんて…書紀編者も相当引っ掛かってたというのは伝わる。
949日本@名無史さん:2008/07/10(木) 13:37:51
欽明朝に入り急に百済との通交が活性化し仏教が伝来し蘇我氏が急浮上するね。書紀編纂時には既に抹消された何かが継体崩御前後にあったのは間違いないが、これ以上は「後に考察した者が知るだろう」って言われてもねぇ
950日本@名無史さん:2008/07/10(木) 22:27:24
欽明の出自そのものがあやしいのかもしれないが、
今となってはわからないだろ。
951日本@名無史さん:2008/07/11(金) 03:14:31
>>946
「天皇及太子皇子倶崩薨」
やはり、継体・安閑・宣化の三人が同時に亡くなったと考えるのが落ちつくな。
そして欽明が擁立される。蘇我を後ろ盾として…
継体は息子2人と共に其処で途絶えたと見るのが自然かと…福井から樟葉、ヤマトに出向いて結局中継ぎの役割で終わったのではないかな。
952日本@名無史さん:2008/07/11(金) 03:34:52
>>947
>天皇及太子皇子倶崩薨
何故、継体親子を其処で途絶えさせたか?継体には王家の血統では無いという認識がやはりあったのでは(応神から引っ張るには無理が…)
欽明にその血統を意味付けさせたのが蘇我(深読み)
953日本@名無史さん:2008/07/11(金) 04:15:53
>>948
>「後勘校者知之也」
〜欽明が誰の子供か(手白香皇女が母だとしても)〜この秘密を永遠に隠す為には645年が必要だった。
954日本@名無史さん:2008/07/11(金) 04:32:17
ゆえに継体!
955日本@名無史さん:2008/07/11(金) 09:43:10
「元興寺伽藍縁起」「上宮聖徳法王帝説」で記されてる欽明の即位年って、書紀では継体崩御の翌年なんだよね。但し二書も何らかの作意を見る事も可能だが…
956日本@名無史さん:2008/07/12(土) 18:51:13
渡来人なのか
957唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/07/12(土) 19:06:42
墓標 袁本杼命/継体天皇 辛亥年2月7日82

西暦531 辛亥年継体は52才(82−30)位で死亡 
958日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:01:34
「手白香皇女」がこの場合は、王家の血統の鍵を握っていた事になるよな。
女系にて繋がっている貴重な事例ですね!
959日本@名無史さん:2008/07/28(月) 16:21:53
継体天皇は古事記の日本神話が全く関係ない事になるわけか!
桓武天皇5世の平将門みたいなものだな。
960日本@名無史さん:2008/07/30(水) 02:19:00
稲目と欽明は兄弟だとしたら面白いな!
稲目(506生)、
欽明(509生)。
継体の息子としても欽明は手白香皇女の子供、稲目は葛城一族との子供であれば尚面白い!
しかも稲目は欽明に2人の娘を妃にする。聖徳太子もそこからでてくるし、もち馬子も!
蘇我の系図は後作りだろし、あのタイミングで蘇我が欽明と一体になって、何故かそれは…継体の腹違いの息子説(遊び心です)

961日本@名無史さん:2008/07/30(水) 02:57:29
継体の即位が507年だから合わない。しかし当時はいつ生まれたかいい加減だから…
一層の事506年に18で亡くなった武烈の隠し子が稲目だった(公式には後継ぎは居なかった事になっているが)
〜蘇我は皇統より分かれたり〜
継体も宣化も無視できなかったので大臣に起用…
962日本@名無史さん:2008/07/30(水) 18:25:32
〜蘇我は皇統より出でたり〜
継体→欽明より蘇我の方が倭の五王の系統に近かったかもね!だから大伴や物部に対する怨みも尚更。
963日本@名無史さん:2008/07/30(水) 18:50:10
出でたりは推古の言葉だったね!〜朕は蘇何より出でたり〜
蘇我は皇統より分かれたりが本当がどうか!難しいな。
964日本@名無史さん:2008/08/01(金) 01:28:54
継体→欽明の謎は蘇我の謎!
それは日本史の謎。
965日本@名無史さん:2008/08/01(金) 13:32:04
>>948
百済本記が書紀の注釈でしか遺らぬ今では真相は霧の中‥
いや、書紀編纂時に既に霧の中だった様だな‥
966日本@名無史さん:2008/08/01(金) 14:05:49
注目しなければいけないのは

継体天皇の即位前後でも
大和王朝内部の権力構造は全く変わってないこと。
あいかわらず、大伴氏と物部氏が権力を保持している。

継体天皇から新王朝が誕生したのなら
こんなことは有り得ない。

つまり、継体天皇は、前天皇の傍系のものが継承したと
考えるべき。
967日本@名無史さん:2008/08/01(金) 15:06:44
>>966
解釈の問題だが
雄略時代に勢力を拡大した大王の直属の伴造系豪族(大伴、物部)が
それを維持するために大王にふさわしそうな豪族を旧大王家の女婿に
迎えたともできなくはない。
あの時代の大王の有資格者は記紀の系譜記事を信ずるか倭の五王系譜を
信ずるかで、そもそも畿内だけでも複数あったと考えられなくもないし。
武烈紀の平群粛清なんかは王位をめぐるどさくさでのものかもよ。
968日本@名無史さん:2008/08/01(金) 18:07:46
>>960
もう少し発展させて
「欽明=稲目同一人物説」
というのはどうだろう?
つまり「継体の直系」こそが蘇我氏(中大兄皇子なんかは傍流)で
大化の改新のクーデターを正統化するために蘇我氏を
歴史の片隅においやったと考えてみる。
969日本@名無史さん:2008/08/01(金) 22:31:05
なんか久しぶりにきたら
根拠らしきものさえ示せない妄想だらけになったか
970日本@名無史さん:2008/08/08(金) 02:40:30
羅生門(藪の中)
971日本@名無史さん:2008/08/14(木) 21:08:30
ここ進歩ないなー

 478年に、倭王武が南朝に漢の大将軍として表を送って
その宋が翌年崩壊したんだろ。 つまり、ここではじめて
呉越の帝のいない王国 倭が 生まれたわけだよ。
大変な混乱のなかで、 継体帝が出たんだな。
で、 越出身の王が 倭王として迎えられてまとまった。

こういうこっちゃな
972日本@名無史さん:2008/08/16(土) 02:02:16
甘いな!
973日本@名無史さん:2008/08/18(月) 19:21:32
継体の前の武烈って暴君と呼ばれているが10歳で即位して
18歳で崩御した子供に対して暴君呼ばわりはちょっとカワイソス。
むしろ周りの大人達のせいじゃないか?
974日本@名無史さん:2008/08/21(木) 03:01:24
武烈は消された!
〜死人に口無し〜
975日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:07:13
武烈が暴君とされたのは
継体の即位を必然化する方便ではないの?
976日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:02:29
本を読んで勉強したいのですが、
今の時点で最も信頼できる本はどれでしょう?
とりあえず、文春新書のやつを読んでみようと思うのですが、他にありますか?
977日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:45:27
>>976
基礎知識を得たい初心者にはおすすめだよ。>文春新書のやつ

上宮記系譜に関する部分はあまり鵜呑みにしないほうがいいと思うけど。
978日本@名無史さん:2008/09/02(火) 18:42:10
そろそろ次スレを。
979日本@名無史さん:2008/09/04(木) 11:09:32
次スレ

【珍説開陳】継体天皇に関する真実【定説打破】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1220494008/
980日本@名無史さん:2008/09/05(金) 08:54:56
じゃぁ、こっちは埋めよう
981日本@名無史さん:2008/09/05(金) 10:03:56
>>967
そりゃ、桓武の時代でさえ、あの有り様ですからねえ。
継体の頃はもっと直接的なゴタゴタがあっても不思議はないでしょう。
982日本@名無史さん:2008/09/05(金) 10:26:57
どの有り様?
983日本@名無史さん
>>981
井上内親王と他戸親王の死去に伴う天武系の断絶。
光仁天皇を呪詛の嫌疑→廃后&廃太子→幽閉→死去。
その後山部王(桓武; 天智系)の立太子。