「薩長vs会津」論を語る上でこれだけは押さえとけ2

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357日本@名無史さん
容保も切腹して謝罪し、降伏していればよいものを
会津の国土は焦土と化し、多くの藩士が戦死。藩士はまた、
家族が後顧の憂いを絶つという悲惨な自刃で失ってしまった。
かつ、戦費調達の贋金を蔓延さた。 戦い終わるや旬日。
農民の怨念は激しく爆発、会津全域にわたって数万にのぼる民衆は、
「ヤーヤー」と叫んで打ちこわしを行った世直し一揆(1868.10.03)は、
会津藩の圧政を厳しく批判して会津の山野に燎原の火のごとくひろがった。 
よって、残存会津藩士一統墳墓の地に身の置き所さえなくなった。
そして、自らの選択の青森斗南への移住は薩長が仕組んだと声高に叫び、今日に至っている。